故松沢さんの思い出 鮎への慈しみ |
故松沢さんの思い出:補記 故松沢さんの思い出:補記その2 さようなら大井川:「川漁師 神々しき奥義」 故松沢さんの思い出:補記その3 故松沢さんの思いで:補記4(2010年) 昭和のあゆみちゃん序章 故松沢さんの想い出:補記5 海産アユの産卵時期は「11月、12月」である。(東北、日本海側を除く) 故松沢さんの思い出:補記6 年甲斐もなく礼子ちゃんに釣られて、アマゴとサツキ、山女魚とさくらちゃんの二角関係関係に悩むことに 故松沢さんの想い出:補記7 竹内始萬さんの著作を通して「本物の川」と本物の川に生活していたあゆみちゃんを想像する 故松沢さんの思い出:補記8 藤田栄吉「鮎を釣るまでに」 その前に「気力」を得るために、 天保の代に筑前からお伊勢詣りから善光寺詣りへと旅をした姥桜ご一行のお話を 故松沢さんの思い出:補記9 長谷川櫂「『奥の細道』をよむ」で、「不易流行」と「かるみ」の境涯にたどり着けるかなあ 学者先生の観察眼のなさに疲れるなあ 故松沢さんの思い出:補記10 稚鮎の游泳力は? 人間社会の「縄張り」と資源保護と、そして… 故松沢さんの思い出:補記11 東伊豆の小川のあゆみちゃん生活史、水野先生の「魚にやさしい川のかたち」 開高健 山本素石編 「渓流魚づくし」 ゴギ、サクラマス、スギノコヤマメ、キリクチ ビワマスの純血種はいない? ビワマスとカワマスは同じ? 本莊さんの大島博士への挑戦 故松沢さんの思い出補記:12 故松沢さんの思い出:補記13 |
「故松沢さんの思い出」目 次 |
1 | 環境変化とあゆみちゃんの変化 | 河川環境の変貌とあゆみちゃんの変化 |
2 | 鮎がはんで、珪藻から藍藻に遷移するかー阿部説への批判 | 黄色いアユについて故松沢さんの経験 |
3 | 珪藻から藍藻に遷移するか | 香りはいつからするか |
4 | 苔の変化ー素石さん等の思い出 | 手取り川の変貌 比立内川のコケと鮎 |
5 | 今西博士のような研究者がなぜ、鮎の生態を観察する研究者に いないのかなあ |
今西錦司「イワナとヤマメ」 イワナの種別 イワナとヤマメの棲み分け |
6 | 村上先生の球磨川と川辺川の苔の優占種の違いと鮎について | ダムと水質悪化 ダムと藍藻 川辺川と球磨川との藻類の違い |
7 | 佐藤垢石の石と苔とあゆみちゃんの品位、品格の関連 | アユの味と、水成岩の川と 火成岩の川の違い |
8 | 本物の鮎と偽物の鮎の偽造ー前さん、萬サ翁の見方 |
萬サ翁の語る郡上八幡の大鮎 海産の容姿 |
9 | 晩秋の長良川と故松沢さん | 時合い、網打ちの影響、 取り込み方 |
10 | 照度とアカぐされ 鮎の香りの原因と苔の関係 | 巖佐先生と村上先生の 珪藻と鮎の関係 |
11 | 故松沢さんを長良川の漁師が訪ねてくる | なよなよのはりす 戎鮎 萬サ翁の蝶針評価 |
12 | 海産鮎の産卵時期に係る学者先生批判と木枯らし一番の 吹く頃という漁師の観察 |
多摩川での産卵時期 「湖産」ブランドは「ブレンド」 |
13 | 下りの時期に係る天竜川支流での観察等 | 上流での下りの開始時期 |
14 | 天竜川上流の支流での友釣りのはじめ等 | 三峯川での友釣り開始 垢石翁の多摩川の評価 |
15 | 垢石翁等の相模川の評価 | 火成岩で立派な珪藻は発生しない 堆積土の多い道志川 |
16 | 故松沢さんの職業漁師入門の頃 | 囮を操る心構え |
17 | 狩野川が人工放流河川に変身 | 淵と黄色い鮎 城鮎会の大会1位の変化 |
18 | 故松沢、垢石翁、今西博士と酒 | |
19 | 釣り人に見捨てられた狩野川で11月23日まで損をして 働く故松沢さん |
|
20 | 故松沢さんとの最後のこと | 目利きはあと何人? 本物とまがい物 |
「オラ達のアユ釣り」のBBSに投稿していた中で、「故松沢さんの思い出」をまとめました。 故松沢さんの憂い、すなわち、山、川が病んでいき、あゆみちゃんが美貌と香りを失いながらも、懸命に生きていることを温かく見守るしかできない気持ちを少しでも伝えることができれば、との思いをもっています。 |
故松沢さんの思いで |
狩野川城山下の松沢さんが亡くなられた、と、今年中津川にできたあゆみちゃんファンクラブの方から知らせていただいた。 故松沢さんに、本物のあゆみちゃんのこと、そのあゆみちゃんを育んでいた栄養素を含んだ山からの浸みだし水の大切さなどを話していただいて、20年ほどになる。 今年も、本物のあゆみちゃんが振りまいていたシャネル5番の香りがいつ頃していたのか、あるいは、いつ頃からその香りが始まり、薄れ、あるいは、変な香りになったのか、話を聞くため11月から、狩野川に通うことにしていた。 2007年暮れ |
鮎への慈しみ |
河川環境の変貌とあゆみちゃんの変化
故松沢さんは、現在の河川環境、その中で生活をしているあゆみちゃんと、古のあゆみちゃんが同じではない、とよく言われていた。
この意味を十分に理解できたとはいえないため、今も困っているが、少しでも、故松沢さんが言いたかったことを理解したいと思っている。
故松沢さんのあゆみちゃんとは、人工鮎は本物の鮎ではない、ということで対象外。湖産も線香花火、と表現されていたように、必ずしも鮎本来の性格、習性を持っていないといわれていた。
もちろん、本物の鮎とは、海産遡上鮎である。湖産を「線香花火」と表現されたのは、その攻撃衝動の強さで、オラのようなヘボの操作する囮にも攻撃してくること、その結果、釣りきられる速度が速いことによる。
狩野川の解禁日に18cm級が釣れた、との故松沢さんの話も、オラを悩ませている。6月に18cm級で釣れる遡上鮎とは、オラの経験にはない。
この現象を考える上で、オラは次のように考えた。
@ 川の水量が現在の倍ほどあり、食糧の量が現在の倍はあった。また、石の表面積も現在の埋まった石が多い状況よりも何倍も大きかった。
A 珪藻の種別・優占種が異なる、あるいは同じ珪藻であっても、その珪藻に含有されている栄養素が、現在よりも優れていた、量が多かった。
B 鮎は、格差社会で、大ききなるものはどんどん大きくなる。
継代人工は、大きさを揃える飼育が行いやすいとのことである。それでも、ある年の神奈川県内水面試験場の水槽に入っていた9月中旬採卵の継代人工は、2月始めは全員そろった大きさであったが、4月には、16cm級1匹と、その少し小さいのが数匹、そして、その他大勢、という構成になっていた。
今年(注:2007年)、相模湾で採補された海産稚魚は、相模川漁連への販売だけではなく、養魚場にも販売をされていた。オラは、海産稚魚は漁連にしか販売されないものと思っていたため、遡上量の推測量を間違えたが。
養魚場に販売された海産稚魚の飼育において、成長における大きさのばらつきが大きかった、とのこと。もし、均等な大きさに揃えるには、絶えず大きさの選別を行い、大きさ別に、別々の池に入れる飼育方法を必要とする、と、養魚場の人が話されたとのこと。
その飼育方法が行えないため、9月にその時期としては小さい16cm級の囮が囮屋さんに置かれることもあった。
このように、食糧たる珪藻の量と質、そして、鮎の土地貴族にならんとする習性が、5月下旬の解禁日でも、18cm級が釣れたのではないか、と想像している。
そして、故松沢さんらは、あゆみちゃんを売って生業としていたから、18cm級が釣れるところを、あゆみちゃんにとっての一等地を,釣っていたから、ということではないか。
「18cm級」のあゆみちゃんに関しても、現在では経験できないこと、検証できない現象であろう。(注:平年と違い、春から水量の多かった2008年の相模川では、大きい石が詰まった瀬の芯で、18cm級の遡上アユが釣れていた。)
そのような状況を考慮しないで、研究者、釣り人が、あゆみちゃんのことを誤解する、あるいは、人工鮎等の手段を用いて、古に存在した現象の一面を実現しょうとしていることには、故松沢さんは懐疑的であった、と思っている。殊に、現在狩野川漁協が行っている人工鮎に頼る釣り人を釣る営業の仕方には。
故松沢さんが、食糧の変化で語られていたことは、現在のコケはすかすかのおからのようなもの。昔のコケは金塊であった。命をかけて守る価値があった。今のコケは鉄くずで、ほしければ持って行け、という価値しかない、と。
おからについては、今の機械絞りになる前のおあからはおいしかったと思うが。
とはいえ、食糧の変化があゆみちゃんの行動等にも影響しているのでは、ということで、「コケとあゆみ」を書き始めたが、古のコケを語ることのできる人が一人、また、この世を去られ、オラの疑問が一層解決困難になった。
しかし、故松沢さんらに教わった、「違いのあること」に気がついているだけに、「ラン藻はケイ藻に比べてタンパク質の含有量が多く」とか、「アユがコケを食べ始めるとケイ藻が減少し、かわって糸状のラン藻(ビロウドランソウ)の群落へ変化する」とかの研究成果、試験結果の評価を読むと、ほんまかいな、と思ってしまう。
その研究者が、千曲川で実験の成果を検証した、となると、平成の千曲川のコケの状況を見たことのあるオラには、千曲川がラン藻が優占種の川であることは当然、他方、大井川でもケイ藻が優占種のはず、藁科川上流では、ケイ藻が優占種のはず、と、研究者の報告に異議を唱えたくなる。
故松沢さんの思いで:2
アユがはんで、珪藻から藍藻に遷移するかー阿部説への批判 |
中央水産研ニュースNo.28(平成14年3月発行)に、「アユが自ら創る生活空間ーアユと付着藻類の相互作用を通してー」に、アユを収容していない実験区では「実験期間中、常に珪藻が優先し、最終的にCocconeis placentula、Cymbella Turgidula、C.protrata,Melosira VariansおよびNitzschia yuraensis の優占する群落が形成された。」
「一方、アユを収容した実験区では、アユの摂食によって現存量が抑制され、かつ、対照区で優先していた珪藻類に変わって糸状ラン藻Homoethriz janthina の優先する群落が形成しされた。この糸状ラン藻優占群落の形成は、実験という特殊な環境でのみ認められるわけではない。木曽川で調査を行ったところ、アユの摂食圧が高い場所、いわゆるアユによって磨かれた石ではH.janthina 優占群落が形成されていることが観察されている。すなわち、アユは、藻類を摂食することによって、付着藻類群落の現存量を抑えるばかりでなく、珪藻優占群落から糸状ラン藻優占群落へと質的な変化を引き起こすことがわかった。」
もし、この阿部信一郎さんの研究報告が、適切な観察、あるいは、古の川の状態を示しているとすれば、亡き師匠らが、何で、水のきれいな川を求めていっていたのであろうか。
ラン藻を食べているのであれば、なぜ、珪藻ではなく、ラン藻が優占種である相模川と、宮が瀬ダムがなかった頃の珪藻が優占種であったであろう中津川とで、アユの香りの質に違いがあったのであろうか。ラン藻が優占種であるはずの相模川の方が強いシャネル5番の香りを振りまいているあゆみちゃんがいたはず。しかし、相模川のアユはシャネル5番ではなく、キュウリの香りであった。
ということで、珪藻の群落がラン藻の群落に変化することを普遍化する阿部先生の評価には経験上同意できない。とはいえ、あゆみちゃんの振りまいていたシャネル5番の香りについて、数人の釣り人に古の状態を聞いた結果、まだよくわからないことがわかったという状態。
アユが川に入ってきて、去るまで、川にはシャネル5番が漂っていた、川から離れたところにも漂っていた、等、の話もある。そのようなコケを育んでいる川がなくなったであろうから、検証することは困難。高度経済成長の影響が及ぶ前の川を知っている人から聞き取りをするしかない。
今年の「つり人」に、高橋勇夫「アユに優しい川床を取り戻す」の記事の中に、「ナワバリアユはなぜ黄色い?」のコラムがある。
「アユの体表の黄色はゼアキサンチンというカテノイド系の色素に由来していてる。」
「このゼアキサンチンはコケの中でもラン藻に含まれていて、アユの主食のようにいわれるケイ藻には全く含まれていない。ケイ藻ばかり食べているアユは黄色くならない。」
そして、阿部先生のケイ藻からラン藻優占種への遷移を引用されて、「ナワバリアユは一定の場所のコケを食べるので、ナワバリ内はラン藻の卓越したエサ場になりやすい。そのためラン藻に含まれるゼアキサンチンを多くとることになり、結果として体表の黄色みが強くなるのである。」
真っ黄色のアユがラン藻を主食としているからとすれば、相模川のアユはいつも真っ黄色、藁科川上流のアユはいつも真っ白、大井川も同じ、となろう。
しかし、真っ黄色の鮎が釣れるのは常時ではない。食糧が1つの要因としても、なぜ、真っ黄色に発色することも、しないこともあるのか。
故松沢さんの経験した話
狩野川城山下の淵は昭和の終わり頃でも石がつまっていた。今は砂底であるが。その淵に流れ込む一本瀬では、夕方の時合いになると真っ黄色の鮎が釣れる。
その時は、掛け針を尻尾よりも内側に打つ、と。そうすると、頭掛かりとなり、活き締めと同じになり、鮮度が保て、また、手返しが早くなる、と。
その時、囮はどうするの?と聞くと、錘をつけて沈めればよい、とのこと。もっとも、沈めるだけではなく、操作をしているのであろうが。
その時合いにやってくる真っ黄色のアユは、一本瀬に縄張りを作っている縄張りアユではなく、淵から差してくる鮎、とのこと。
故松沢さんは、淵の中の光線の加減ではないか、と想像されていたが、わからない、と。発色減少が食糧の中の栄養素とは直接の関係はなかろう。
オラの経験
今年の奥道志解禁日2日目からの水源の森
2日目は、真っ黄色のアユが主体。3日目は少し、その後は無し。
10月終わりの大井川では、真っ黄色の衣装をまとって、1回はたいた色欲丸出しのおっさん。この真っ黄色はなぜ?そして、他の鮎は追い星だけが黄色いのはなぜ?そして、囮に使用していくと、尻尾から黄色が消えていったのはなぜ?
もし、ラン藻と関係があるのであれば、ケイ藻がまだ優占種として、ラン藻群落に遷移することのない川では、どうなるのか。また、同じラン藻を摂食していて、発色するのと、しないアユとの違いが出るのはなぜ?
そして、故松沢さんが真っ黄色のアユの事例として話された現象は、ナワバリアユではなく、差しアユである。
松沢さんの思いで:3
珪藻から藍藻に遷移するか |
「アユが自ら創る生活空間ーアユと付着藻類の相互作用を通してー」におけるアユがコケを食することによって、ケイ藻からラン藻への優占種の遷移が行われている、との現象を普遍化する阿部先生の評価は間違っている、と考えている。
その理由は
@ もし、ケイ藻からラン藻に優占種の遷移が行われているのであれば、シャネル5番の香りはラン藻優占種の所でも、質の優れた香り、と、強さの現象が体験できるはずである。しかし、ラン藻が優占種となっている昨今の川でシャネル5番の素晴らしい香りをかぐことはなくなっている。
A ラン藻が優占種とはなり得ない水質での検証がなされていないと考えている。検証がなされた木曽川、千曲川の場所の記載がないため、どのような水質の所かは想像でしかないが、その場所がアユ釣り場であれば、千曲川では、相模川並の水質、コケであると、経験上、推定している。したがって、昔の川の水質、コケの状況を検証したことにはならない。
「3丁目の夕日」の舞台が用意されていた昭和30年代、能登から流れてきた1本針でドブ釣りをしているドブさんの話。
ドブさんは、手取川や犀川等でドブ釣りをしていた。町中でもアユはうじゃうじゃいたが、釣り場は、手取川では、土石流で流されてきた百万貫岩附近から上流とのこと。その附近の石の色は、ケイ藻の繁茂を表す黄色ともいえなかった、と。むしろ、石そのものの色に近かった、と。その色であっても、ツルツルにコケがついていた、といわれた。
そうすると、ケイ藻の種別によっては、黄色みが薄く見える種別もあったということか。そして、そこでは、錆び鮎になっても香りがあった、と。したがって、そこにアユがいるときは、四六時中、香りが川面から漂い、川から離れたところにもスイカの香りがしていた、と。
「アユの体表の黄色はゼアキサンチンというカテロイド系の色素に由来している。この色素はコケ(付着藻類)に含まれていて、アユが食べることで体内に取り込まれ、体表に黄色みが出る。」「このゼアキサンチンはコケの中でもラン藻に含まれていてアユの主食のようにいわれるケイ藻には全く含まれていない。」(今年の「つり人」から)
ドブさんに、手取川等で、シャネル5番のかぐわしい香りを振りまいていたあゆみちゃんの体色をきくと、追い星の黄色を除いて、白かった、と。
ドブさんの経験からも、ケイ藻が優占種で、ラン藻に遷移することのない川が昔は存在していて、今はなくなった、あるいはわずかに生き残っている、ということではないかと考えている。
高橋先生は、金アユを探しに、赤石川に行かれたが、赤石川の石の色、そして、コケはどのようであったのであろうか。ラン藻に遷移していたのであろうか。
故松沢さんは、昔の大見川の水はきれいであった、といわれていた。その大見川の水に繁茂するコケはケイ藻だけではなかったのか、聞きたかった。
また、長良川その他の川で、香りがぷんぷんする所の石の色、コケのことを聞きたかった。
道志川の水源の森に生活排水が流れ込んでいる、とテク1が気がついた。流入地点はすぐ上流のようであった。そのため、石の色は、増水後の水量の多いときを除いて黒かった。
しかし、上流側に本流の流れ込みがなく、伏流水の流れの中にある石の色は黄色、あるいは、薄い黄色で、石の色が勝っている、というように見えた。
このような川がなくなった状況で、「アユが摂食して、ケイ藻がラン藻に遷移する」ということを普遍化する評価は間違っていると考えている。
しかし、昔の川、水質、コケ、アユの姿態と習性等を知っている人があと何人生きておられるのであろうか。研究者の間違いに気がつく経験を持っている松沢さんが亡くなられて、オラの本物とは何か、目利きの練習をする機会は大きく減少することとなった。
故松沢さんの思いで:4
コケの変化ー素石さんの思い出 |
ドブさんが、3丁目の夕日の頃の能登近辺の川のあゆみちゃんの容姿、香りの事例としてあげられた手取川も、ダム建設で今も昔の珪素の種別が、栄養素が残っているか、不安である。
山本素石「遙かなる山釣り」(産経出版)の「ほろびゆく川」の章に、
「この手取渓谷だが、両岸の壁は渓谷の名にふさわしい見事なものだけど、肝腎の水がなけなしに細っている上にひどく濁っていた。工事のためである。渓谷と名のつくところに泥水が流れているのは何ともそぐわぬ景観で、いかにも情けない気がする。上流へ行けば何とかなると思って遡ってみたが、行けども行けども川らしくならない。憎らしくなるほどの導水管の連続である。水は谷よりも遙かに高いところをパイプで運ばれ、ところどころで川へ吐き出されるが、すぐまた堰堤に遮断されて次の送水管へと吸い込まれていく。
川底をさらけ出した水のない川というものは、畳を剥ぎ取って床板をむき出しにした座敷のような感じがする。この川は『手取川』というのだそうだが、実を伴わぬ名はよして『水取川』と改めるべきである。」
(1966年10月)=昭和41年
素石さんは、アマゴ、ヤマメ、シラメ、ビワマス、イワナの関係、あるいは、分布と容姿の地域的な変移等を釣りながら調べており、今西錦司博士の研究協力者の一人でもある。手取川にも何度も出かけており、ダム工事によるイワナ、ヤマメ、ビワマスの絶滅、あるいは生態系の変貌を危惧されている。
ダムができて、手取川の水質=故松沢さんがいつも言われていたBODやCODといった学者先生が問題とする水質ではなく、金の塊を生産していた水質・水に含まれていた栄養素が、ドブさんが闊歩していた頃のまま維持されているとは考えがたい。
ということは、ドブさんが高度経済成長の影響を受けない能登近辺の川で釣っていたシャネル5番を振りまくあゆみちゃんは、今は昔のお話になっているかも知れない。
故松沢さんには、今年の「つり人」に掲載されていた高橋勇夫「アユに優しい川床を取り戻す」と、村上哲生「エサから見たアユ 藻類で分かるアユ河川の健康度」の写し等を送ってあり、11月にその記事に係る意見を聞くことができると楽しみにしていたが。
故松沢さんは、自らは、昔の川、鮎状態を語ることはされないため、オラが具体的に、適切な質問をしないと、故松沢さんが経験された事例、現象を聞き出すこともできない。その点、コケについては、適切な経験を聞き出せたか、疑問ではあるが。
いまはなくなった金の塊を生産するコケがどんなものか、知りたいとは思うが、珪藻がアユに食べれらてラン藻が優占種になる、との現象が普遍的である、とする研究報告からは故松沢さんの口癖であった学者先生のいうことにどれほどの価値があるのか、と、言うことになる。
矢幅弘一「下手の横好き『鮎釣り』の上達法則」(講談社α新書)の「第3章 気合いと見きわめが勝負を分ける釣り場」の章に、阿仁川上流の比立内川でのことが書かれている。
「途中寄った比立内川の25センチクラスのの鮎、肌がぬるぬるでつかめない、強烈な香り。あれほど美しい鮎にはいまだかってお目にかかったことがありません。風の便りでは、平成17年も比立内川の美鮎は超人気だったそうです。熊が出没してもおかしくない山深い清流には8月半ばからはアブが襲来し、釣り人は近づけなくなります。」
宝くじが当たったら、比立内川に行ってみたい。そこには金塊を生産する水があるのではないかと思っている。
宮本常一「忘れられた日本人」には、今はもはや見たくてのみることのできない村落での生活が、人と人の関係が記録されている。
常民文化研究所にかかわった人たちの本は、速見融等「歴史の中の江戸時代」、網野良彦「無縁・公界・楽」あるいは直接の関係はないかも知れないが、「中世の罪と罰」が気に入っている。
「中世の罪と罰」には、泣く子と地頭には勝てぬ、の、地頭の横暴の例証として引用されているあで河荘百姓言問い状について、学校で教えていることとは異なる見方が書かれている。
@ 言問い状の宛名は、山林荘園領主あてで、地頭が女の子らの耳を切り鼻をそぎ、と脅して勧農を強制するので今年の山からの材木の切り出しはできない。=山年貢が払えない
A 百姓らは、山に逃散し、女の子らがムラに残り、食糧を運んでいた。
B 詐欺罪には肉刑もあるから、逃散の偽装を詐欺罪と見れば、地頭の脅しは合法である。
等、材木が儲かるか、農業が儲かるか、あるいはどっちの年貢を優先して収めるか、の領主間の争いを利用して、百姓が利益を得ようとしている文書、というような記述であったと思う。
なぜ、阿部先生は、今も、昔も、川の水に含まれる栄養素が同じという前提で、実験結果の川での検証をされたのであろうか。
そして、BODやCOD等の水質基準では判断できない水質の領域、コケとかかわる領域がある、と、故松沢さんのように考えることが適切ではないかと考えている。
ただ、それを検証できる川は、熊との出逢いもあり得る、という環境にしか残っていないかもしれない。
常民文化研究所は、社会現象の領域ではあるが、現在と昔の文化=the way of life が異なり、昔の文化は消えていくから、今のうちに記録しなければならない、との渋沢敬三、柳田国男らの考えに基づいて組織化された団体である。
コケにしても、アユの姿態、香りにしても、まだ、ダムができる前の状態を知っている残り少ない人から聞き取りをしないと、「利き鮎会」平成15年、16年の準グランプリに相模川の鮎が入っている、ということが不思議と感じる人もいなくなる。
「違いの分かる人」「目利き」がまだ残っているうちに。
故松沢さんの思いで:5
今西博士のような研究者がなぜ、鮎の生態を観察する研究者にはいないのかなあ |
今西錦司「イワナとヤマメ」(平凡社ライブラリー)を読んでいる。
今西博士が、おサルさんとマナスル登頂に関わっていることは知っていたが、ヤマメやイワナにも関わり、当時の常識を作り上げていた大家の説を間違っている、と、山を歩き、釣りをして検証されていたとは、素石さんの「遙かなる山釣り」を読むまでは知らなかった。
もちろん、オラの関心は、故松沢さんの言われていた「金塊」である珪藻に関わる記述がないのかなあ、ということであるが。この期待は、今西博士の観察が昆虫から始まっているため、夢となったが。
「渓流にいる水生昆虫の幼虫は、何もカゲロウの幼虫ばかりではないし、またカゲロウの幼虫がヒラタばかりでもない。」
「このヒラタと呼ばれるエペオラス(注:ローマ字での表記もされているが、全て省略します)の幼虫は、カゲロウの幼虫の中でも、特に急流に適応したものの一つであって、川底にころがった角のとれて表面のすべすべした大礫の上に棲んでいる。ところでイワナやヤマメも、渓流魚とはいうものの、渓流の中ならどんなところにでもいるというわけではない。」
「しかるにヒラタにもいろいろあって、その中でももっとも急流部の大礫に見いだされるものに、エスキュラスという種類とウエノイという種類があるが、おもしろいことにはこの二つがちょうどイワナとヤマメの棲み分けのように、一つの渓流を上下に棲み分けているのである。」
このヒラタの棲み分けは、「イワナとヤマメの分布境界線における水温としてあげた、最暖月の最高水温セ氏一三〜一五度というのは、またまさしく、エスキュラスとウエノイの分布境界線における水温にも当たるのである。」
「〜これを生態学では、イワナとエスキュラス、あるいはヤマメとウエノイは、それぞれ同じ共同体の構成要素であるという。」
この同じ共同体の構成要素には、「エスキュラスはイワナのいない渓流にもいる」、あるいは、激流の大礫の上には、他の幼虫もいる等の例外も記述されている。
そして、今西博士は、イワナの分類と分布にかかる大家である大島博士の説がまちがっちょる、と、昭和四〇年頃、渓流も歩く。そして、釣る。
今西博士の結論は
色彩変化について「同一種のイワナがその分布範囲内で、実に見事な、連続的な色調の変化を表している。」
「類型的には斑点のないのが北日本型、黄色の斑点があるのが中部日本型、柿色の斑点があるのが南日本型、というようにしておいた方が、それぞれのイワナにわずらわしい別名を冠するよりも利口であろう。」
「いつかの昔には、日本のイワナも全部海に下ってアメマスになっていた時代があったのだけれども、その時南の方から順次海に下らなくなって、陸封されたところに今見るような南日本型や中部日本型のイワナを生じた。そして今では、北日本の一部だけに、今も海に下ってアメマスになっているものがある、〜」
「これはやっぱり同一の種だ。同一の種類の地方差にすぎないのだ。そうすればせっかくではあるが、私は大島博士が別種として取り扱うために新しく造られた、ニッコウイワナとヤマトイワナという名前を、ここらで返上しょうと思う。」
このように、日光イワナとか、ヤマトイワナとかの名を冠して、四種のイワナがいるとの大島博士の説を否定されている。
なぜ、日本に複数のイワナの種がいるとの説になったのか。
「このビワアマゴとサクラアマゴの分布が、関西ではー九州をのぞきー太平洋流域と日本海流域というように、たいへんはっきりした棲みわけになっているため、これが悪くいえば先入観、よくいえば学者の作業仮説になって、こんどはイワナの方まで、太平洋流域に注ぐ川の上流にすむイワナにはあかい斑点があり、日本海流域に注ぐ川の上流にすむイワナにはあかい斑点がない、といわれるようになった。」
とのことである。
故松沢さんが、学者先生の説に必ずしも同意されないことがあったが、オラも同感で、経験主義者のオラは、「仁淀川川漁師 弥太さん自慢話」や「鮎に憑かれて60年」の方が適切な観察をされていると判断しているため、「湖産」として購入したから、早川に放流された鮎は「湖産」である、と判断して疑わない研究機関の見解にたてついている。
今西博士が渓流を歩いている頃(昭和40年代前半頃まで)、まだ、他の場所からのイワナ、ヤマメの人間が介した移住事例は少なく、さらに、移住の事実は特定できている。鮎のように放流が一般化されなかったのは、イワナ、ヤマメの養殖がニジマスと違って容易ではなかったこと、根尾川から尾根を越えて運ぶ等、自動車による輸送ができずに大変であったこと、まだ釣りきられていなかったこと等が、影響しているようである。
もし、鮎のように地域差等を考慮せず、人工の氏素性に関心を持たずに、そして自動車による運搬が可能な現在において、今西博士が渓流を歩いたとしても、大家の説を覆せる標本が手に入ったか、オラは疑問に思っている。
「鮎に憑かれて60年」の著者:前さんは、昭和41年頃今西さんに招かれている。その席には、珍客があると知らされていた素石さんも同席をされている。
「前氏はご商売の薬種を集めるため、実によく方々を歩いておられ、とくにお国元の大峰山脈については、その詳しいこと、全く掌をさすがごとしである。」
前さんが、「例えば、白川又谷のどの小谷の奥と、旭ノ川のどの谷にとには、間違いなしにイワナがいますよ、といわれてギョッとし、私と素石氏は顔を見合わせたまま、開いた口がふさがらなかったのである。このことを知らせてやったら、紀伊半島におけるイワナの分布を調査した、五条の御勢久右衛門氏はどんな顔をするであろるか。」
(注:御勢久右衛門氏は、「アユと日本の川」にも登場している)
「前氏はまた、揖斐川のシロについてもよくご存じで徳山村あたりでは、やはり十一月頃が盛期である、とのお話であった。」
今西博士のアマゴとサツキマス及び、それらと「シロ」、「シラメ」との関係については、「故松沢さんの思い出:補記その二」に、素石さんの萬サ翁とのシラメ調査とともに書いて書きました |
松沢さんの思いで:6
村上先生の球磨川と川辺川の苔の優占種の違いと鮎について |
故松沢さんが、あゆみちゃんが命をかけて守っていた金塊に値する珪藻がどのようなものであるのか。今西博士の本からは残念ながら、結論を得ることができなかった。
しかし、ヒントはある。ヒラタのうち、エスキュラスとウエノイの水温を契機とする棲み分けと同様、珪藻とラン藻が清浄な水と汚れた水で棲み分けをしている、別個に群落を形成している、ということ、及び、それぞれの種別によっては、共存している水質もあるのではないか、ということである。
川辺川に繁茂しているコケを調査して、ラン藻は4種類、珪藻は何十種類、川辺川と本流が合流する下流ではラン藻が何十種類、珪藻が何種類、と記載された本があった。この本のコピーをとらなかったので、図書館で探しているが、見つからない。コピーしなかったのは、この調査結果は、ラン藻、珪藻の繁茂量を表すものではない、との記述があったから。
しかし、清浄な水の所と、汚れた水の所のラン藻、珪藻の種別を突合すれば、清浄な水にしか繁茂しない珪藻、そこにも繁茂するラン藻、汚れた水にも繁茂できる珪藻、の仕分けができるのではないかと考えている。
その仕分けの結果、阿部先生の調査が、両者の共存できる種別であった、と分かれば、めでたし、めでたし、となるのであるが、それほど簡単であれば、イワナ、ヤマメを求めて今西博士が5万分の1の地図が2回も塗りつぶされるほど歩き、釣り回らなくても良かったはず。
とはいえ、ずぼら人間には、努力はしないで、成果だけを得たいもの。
今年の「つり人」に、村上哲生「エサから見たアユ 藻類で分かるアユ河川健康度」が掲載されている。
「付着藻類の種類構成は、河川の水質により著しく異なっている。塩分、PH、汚濁の程度などにより、それぞれ特徴ある群集が形成される。特に、河川の代表的な付着藻類であるケイ藻類は、水質変化に敏感に反応し、なれた藻類研究者ならば、付着藻類を見て、それが生息している環境を言い当てることができるほどだ。」
村上先生は、川辺川とその下流とのコケの種別の調査結果の記載を省略して、鮎の胃袋の内容物から、珪藻と藍藻の棲み分けを書かれている。
「すでにダムが運用されている球磨川本流と、いまだ大規模なダムがない川辺川で捕獲されたアユの消化管の内容物を比較してみたことがある。」
「両河川ではエサである付着藻類の種類構成が全く異なっていた。ダムのない川辺川では消化管の中は珪藻類の遺骸で満たされていたが、ダムのある球磨川では糸状のラン藻類でいっぱいであった。」
「ダム下流の川の付着藻類群集では、ケイ藻類よりもラン藻が卓越することは、きちんとした観測データは少ないものの、しばしば見られる現象である。ダム下流の水位や水温、水質の著しい変動がラン藻の生育に適した環境を作り出しているのかも知れない。」
この指摘は、宮が瀬ダムができてからの中津川の珪藻の衰退から、よく理解できる。そして、大井川では、長島ダムができてから、珪藻が優占種ではあるものの、その種別がかわって、明るいオレンジ色に縁取られた尻ビレ等に鮮やかな色彩の蛍光色の青い線の入った、きれいに着飾ったあゆみちゃんが見られなくなった、と想像している。藁科川でも、このように着飾ったあゆみちゃんは上流でしか見ることができない、との話もある。
村上先生は、中央水産研究所の阿部先生の研究報告を意識されているのか、
「一方、ラン藻類の優占は、ダムのためではなく、アユの過密な放流によるものであるとの観測例もある。一般にラン藻類はケイ藻類に比べて、増殖速度が速いと考えられており、アユによってしょっちゅう齧り取られる環境は、ラン藻類に有利に働くためだ。」
と書かれている。
大井川で、ラン藻が優占種にならないことは、過密になるほどアユがいないからであろうか。そんなことはない。06年は、名人たちは1日60以上が常識。今年は、アユは少ないが、その分、乙女が釣りの対象になっていた。数は少なくても1匹あたりのコケ消費量は多い。
「ダム下流の球磨川での糸状ラン藻類の優占については、毎年同じような傾向であり、また放流密度も球磨川だけで極めて高いわけではない。違いの原因は、未だ不明のままである。」
研究者としての村上先生は、阿部先生の研究報告を否定される現象をあげておられても、ラン藻優占の原因を「不明」とされている。
素人のオラは、珪藻の繁茂に適する水であるか、ないか、の違いであり、阿部先生の実験はたんに汚い水でも群落を造る珪藻の種別があり、その後、少し清浄な水に繁茂するラン藻の種別があり優占種になった、という、限られた環境での現象に過ぎない、あるいは、鮎が大きくなり、排泄物が多くなって、藍藻の適する水質に変わった、と考えている。とはいえ、今西博士が、大家の唱えるイワナ4種説に異議申し立てをして、その結果を得るまでにどれほどの労苦を費やしたことであろうか。
研究者の優れた感性と多様な環境の調査をされることを願うのみ。
なお、珪藻を摂取しているアユと、ラン藻を摂取しているアユの大きさについて
「体長や体重には大きな差はなく、肥満度【体長/(体重)3】で若干川辺川が高いとの結果を得た。」
対象となったアユが海産のくみ上げ放流か、人工かは分からないが。
今西博士は、昭和45,6年頃、「魚釣りの範囲をもう少し広げて、せめて鮎でも釣ったらどうかといってくれる友人もあるが鮎は中流魚であることが、山男の潔癖感に訴えて、なんだかその釣りの堕落を意味するようであり、それに放流した魚を釣るということになると、すでに釣りのための釣りという要素が入ってくるような気がして、いまだに鮎釣りを見合わせているのである。」
返信
今西博士は1940年に「山登りとスキー」の看板を「探検と魚釣り」という看板にかけかえられたとのことである。
この架け替えられた看板が、中流域の鮎も対象となるように、もう少し幅を広げられていたら、故松沢さんの口癖であった「金の塊」であるコケがどのようなものであるか、その生息できる環境はどのような条件があるところか、今西博士の素晴らしい感性が解き明かしていたかも知れない。
そうすると、オラは今西博士の本を読むだけですみ、また、村上先生も中央水産研究所の「権威」に気を遣わずに、珪藻の種別の分布条件と鮎の関係を語ることができたであろうに。
そして、珪藻の種別による鮎の香り、味について、故松沢さんの話されたことや垢石翁の記述に関して「科学的」?な見解を書きやすかったのではないか、と想像している。
なお、放流鮎がすでに対象となっているとの認識であるが、それは湖産であり、また、渓流に近い川を意識されているため、遡上鮎を対象とは想定されなかったのではないかなあ。
オラは、人工放流を対象とするとき、気が進まないから、狩野川が平成の世になり、放流河川に成り下がってからは、大井川に行くようになったが、大井川でも場所はダム上流や支流が主ではあるが、放流が行われるようになった。もし、放流鮎が、人工であれば、残念至極。海産畜養で、三島で育てられている、との話があったが。
松沢さんの思いで:7
佐藤垢石の石と苔とあゆみちゃんの品位、品格の関連 |
故松沢さんは、釣り人がオラだけのときでも、昼には味噌汁を用意していてくれた。そして、ちょっと煮詰めすぎたから、塩辛いかもしないよ、とか、(具の)何々はおいしくないかも知れないよ、ごめんね、といわれた。
しかし、オラは味音痴であるから、故松沢さんの言われたことを知ることができない。故松沢さんも、オラが掛け値無しの味音痴と認識されて、あゆみちゃんの味については、話されることはなかった。
その味音痴が味について、云々するのは筋違いと分かっているが、ラン藻と珪藻を食する鮎の味が異なるのは当然、と思っていた。
ところが、利き鮎会で、相模川の鮎が準グランプリになったと知りびっくりした。
最初は中津川か、と思ったが、相模川の鮎とのこと。しかも、準グランプリになった05年、06年は、遡上鮎が釣りの対象となることはなかった年で、人工放流アユが川にいただけ。
05年は、県産の継代人工が死んだようで、解禁日でも釣り人がいなかった相模川である。和歌山産、浜名湖産?といわれる人工と、宮城産といわれる人工が、その後、釣りの対象とはなったが。
06年は、愛知県産、富山県産、成魚放流の宮城県産がいて、県産の継代人工はどの程度生きていたのか。
ということは、あゆみちゃんの氏素性は、味には関係なく、氏よりも育ちということであろうか。その育ちもラン藻優占種の川であるが。
佐藤垢石「釣趣戲書」の「鮎の質と石の質」の章に、
「火成岩の層に源を発している川に育った鮎は、香気甚だ少なく、肉が軟らかであります。理由について断定的には申されませんが、水成岩から湧き出る水は、火成岩のそれに比して、一層清冽であります。それから水成岩の水に発生する珪藻は火成岩のそれより上質でかつ豊富であろうと、考えられるからであります。」
また水成岩の方が表面が滑らかで、なめやすい、と。
「そこで(水成岩の川で)育つ鮎は、香りがまことに高く、肉張りが実に豊かで、しかもしまって居ります。身丈は短いが、頭が小さく肩の付根から、むっくりと肉が盛り上がって腹が圓く膨れ、いかにも飽食したかのような形を備えておりますが、〜」
後段の記述だけを読むと、人工と間違える人も出るのではないか。海産鮎の水成岩と火成岩で育った鮎に見ることのできる違いの記述という視点をふまえることが適切な読み方であろう。
垢石翁は、当然、人工鮎のことは語らない。いや、垢石翁が生きておられた頃には人工鮎はいなかった。放流鮎は、湖産か、沖取り海産であった。
石の違いまで、味に関わっているという。今時、そのレベルで、味を、香りを講釈できる人が何人いるのかなあ。それどころか、珪藻が優占種である川を見つけることですら大変なこと。さらに、そこに遡上鮎が生活をしている川となると…。
前さんは、「水問題とダム」の章で
「和歌山の日置川は、日本中の鮎釣り師たちのメッカのようにいわれていますが、ダムができて女性化してしまった。すぐ東にある古座川はその昔、清冽ともいわれる水であった。ここでもダム造りに賛成した人々が今では後悔をしている。支流の小川の鮎を1匹食べると、ダムの水が流れる本流の鮎はもういらない、と地元の人がいう。確実にダムが水を悪くし、鮎もまずくなってしまう。」
とはいえ、いま、この味の違いを分かる人が何人にることやら。但馬牛の名を知っていても、その味を知らず、と同じことであろう。
前さんは、別の章で「私が若い頃の吉野川は中流域の下市町付近でも、きれいな流水で附近の皆は、ごく自然に川の水を飲んだものだ。現在、水の汚れは『BOD』などと舌を噛むような表現をするが、昔は、その水がおいしく飲めるかどうかがその目安であったと思う。」
昭和30年頃、芦屋のロックガーデンから、六甲、布引の滝に通じるトゥエンティクロスを下った。のどが渇くと、その流れの水を飲んだ。行き交う人もいない時代であったが。
故松沢さんも、水質をBOD等でだけ評価することに疑問を表明されていた。腐葉土をとおり、ミネラルその他の栄養分を含んだ水に今と昔では違いがある、と。いまの水は下水と同じで、金のコケを育む水ではない、と。
故松沢さんは、長良川の集荷場に持ち込まれた鮎を選別するとき、九頭竜川産の鮎をはねていた、といわれた。容姿に、九頭竜川と長良川の鮎に違いがあるということ。当然、味にも違いがあったのであろう。
いまは人工放流の長良川。何を基準に選別をしているのであろうか。本間さんが、長良川には友達がいるからいまでも行っているが、何が郡上ブランドだ、といわれていたことを覚えている。容姿だけではなく、味についても料理人としての本間さんには耐えられなかったのではないかなあ。
故松沢さんらは、白川であるが、富栄養状態で、水草の生えている狩野川下流域の松原橋では、釣れる、ということで出かけ、大鮎を釣り、目利きでない仲買人に持って行った。仲買人は、オラと一緒で、大きい、素晴らしい、どこで釣った?と問うので、狩野川と答えた、と。
翌日、金を取りに行くと、旅館から返された、売れない、引き取って、と。皆で有無をいわさず、代金を回収したとのこと。
当時は、味の分かる、違いの分かる料理人が一杯いたということ。
利き鮎会で、相模川の鮎が準グランプリに、しかも、人工鮎で、ということは、垢石翁の想像を超える現象であろう。
故松沢さんは、あきらめの境地であったが。鮎が悪いのではない、山の保水力をなくすことをした人間が悪い、といわれていた。
故松沢さんの思いで:8
本物の鮎と偽物の鮎の偽造ー前さん、萬サ翁の見方 |
故松沢さんは、狩野川でのしのぎをさぼって、長良川にも出かけていた。何が故松沢さんを長良川が引き寄せていたのであろうか。いや、長良川でも稼ぎをされているが。
前さんは、「鮎に憑かれて60年」に「岐阜・郡上の名手 古田萬吉翁と語る」の章で、萬サ翁が語られたことを記録されている。
その前に、香りについては、垢石翁の「釣趣戲書」を読むと、ドブさんが手取川等の川で昭和30年代までに経験されていたように、コケをハミ始めてから、錆びるまでシャネル5番の香りを漂わせていたのではないか、と推測できるのでは?。そして、珪藻の種別によって、香りの薄い川もあった、ということではないか。いまや、長島ダムができた大井川、宮が瀬ダムができた中津川でも、シャネル5番の鮎が一時期といえども釣れることはなくなった。
米代川から安倍川に流れた人が、米代川の本流で、香りのするのは一時期、といわれていた。米代川でも、香りを育む種別の珪藻が繁殖する時期は、一部の支流をのぞいて限られた時期になった、ということであろうか。
「香魚」の「香」も、言葉は残れど、今はその香りの鮎はなし、ということ。故松沢さんが最後にシャネル5番の香りを味わったのは、2,3年前の藪下で釣られた鮎がテント小屋に持ち込まれたとき。
藪下は、昭和の時代には大入り満員であったが、いまやたまに釣り人がいるだけ。故松沢さんは、藪下が鮎に嫌われるようになったのは、一本瀬の上で、河床が盛り上がり、流れが溜まり水のような形状になったからではないか、と語られたことがある。
その藪下の左岸のお墓下附近に、山からのわき水が流れの中に湧いているところがあるとのこと。水温が30度近くになったとき、そのわき水の流れの筋で釣った人の鮎が、昔ながらの香りをテント小屋一杯に漂わせていた、と。
味については、前さんが「一部の悪徳観光業者は『梁で取りました』といって養殖鮎をお客様に供したりするらしい。鮎をだまし、そしてお客様をもだますのである。」
「素人衆の多くは疑いもなく『さすがに天然鮎は旨いナー』と味わっておられると聞けば、ずいぶんと腹立たしい話である。」との意見で十分であろう。比内鶏の燻製がブロイラーの廃鶏を利用していても、気づかれない、わからない、という状態が鮎の食世界でも当たり前になっている、ということが利き鮎会で相模川の鮎がが準グランプリになった一因ではなかろうか。それとも、日本の川のコケが相模川並のラン藻優占種になった、ということであろうか。
萬サ翁は、「天然は広い海で育ったで、性質が『ゆったり』しとるのか、喰み刻のほかはあんまりボワん。しかし、いきなり体当たりをしてきてカカる時もあるで、荒瀬では油断ができん。それに躰も『イカイ』(大きい)し、特に尾ビレがイカイで、引きが強い。」
「ー天然は顔が長く、湖産は丸顔ー」
「昔、といっても終戦までは、天然遡上の鮎は放流も含めて現在(注:昭和48年頃のことか)の50倍くらいも八幡まで来たものだ。大きいのものは140匁(525グラム)、100匁(375グラム)クラスは幾らでも釣れた。その頃の鮎はどういうわけか、各支流へは余り溯らず本流に居ついた。そこで忘れもしない昭和九年、支流の吉田川へ琵琶湖産を試験放流したところ好成績であった。以後、各支流へも湖産を放流するようになった。そのとき『萬さ』は鮎の顔を見て、こんな表現を用いたのである。」
このことからも、垢石翁の「身丈は短いが、頭が小さく肩の付根から、むっくりと肉が盛り上がって腹が圓く膨れ、」という水成岩の川で育つ鮎の表現も、人工の短頭とは否ものである。
湖産と海産の顔はオラには区別がつかない。故松沢さんは、オラが持ち込んだ鮎の人工との識別に、顔の長さをまず判断基準とされていた。ところが、容姿は全く遡上鮎と同じというアユがいた、と。その鮎の背びれを持つと、帆掛け船であったから、人工と判断されたこともあったといわれていた。継代を重ねていない人工の生産技術が向上したことから、オラには識別困難な人工が増えるであろうか。ドラちゃんは、今年の大井川に放流されていた海産馴致まで識別されていたが。
「脂ビレから下が細長くなって尾ビレが大きかった。これからはますます見られなくなるじゃろ。寂しい事じゃが仕方あるまい。」
故松沢さんが郡上八幡の集荷場に鮎を持ち込むと、尺か、と居合わせた人たちが騒ぐ。故松沢さんは29cm止まりと推定していた。計測結果は泣き尺。
故松沢さんが郡上八幡の名人兼雑貨屋兼釣り宿(仮に、服部さんとしておく。多分、間違っていないとは思うが、記憶違いは毎度のこと故、「仮称」としておく)の所にわらじを脱いでいた頃は、すでに、100匁の鮎が釣れることは少なくなっていたということであろうか。
そして、珪藻が大鮎を育てない、ラン藻が大鮎を育てる、というオラの先入観も間違っていたということになる。醸造工場の廃液処理水が流れ込む狩野川の上島橋下流で、その上流よりも大きい鮎が釣れたのは、釣り人が少なく(松原橋も同様)大きく育つ時間を与えられていただけ、ということであろう。相模川の人工が大きいのも、人工が縄張りを持つ土地貴族ではないため、育つ時間が長くなる、ということではないか。成魚放流で大きい鮎が放流されていることも作用しているが。
松沢さんの思いで:9
晩秋の長良川と故松沢さん |
前さんは、「『萬さ』と語る」の章に、
「トロの群れ鮎は、『喰み刻』 になると瀬に出てくるんや。そんでトロの鮎を夜網で不意討ちしても『ここは恐いから寝れん』と、鮎はなかなか利口なんすよ。そんで次の日は瀬に出てってしまうんよ。そうしたら瀬の鮎の数が急に増えたもんで、他の鮎の地盤を荒らすことになって物凄く友釣りにカカるんすよ。網がボッて(追って)友釣りにカカるわけや。漁師が網で獲ってまったと心配することはいらん。淵やトロの群れ鮎は『ゴチャゴチャ』とね、遡ったり下ったりして喰んどるだけでボア(追わ)ないんすよ。」
と書かれている。
故松沢さんは、仮称服部さんに、明日行くから、と電話をした。仮称服部さんは、釣れない、来るな、という。故松沢さんは、鮎のような形のものを用意しておいて、といって、出かけた。
流れが巻いている大石に腰掛けて釣るも、午前は釣れず。
昼頃、網打ちが下流から上ってきて、上流にいった。それから、120匹余りの大漁となった。その場所は、水が巻いているため、鮎がかかると、流れを1周して、故松沢さんの前に糸が来るから、それをつまんで取り込めたとのこと。
故松沢さんは、網打ちが戻ってきたとき、岩の上に置かれている弁当を取って、と頼んだ。網打ちがとってくれると、鮎を20匹ほど渡した、と。網打ちは、こんなに釣れるのなら、明日ここで釣る、というから、故松沢さんは明日はもう鮎はいないよ、と。
宿に戻ってくると、仮称服部さんが、まっちゃん、鮎を持ってないか。急に注文が来て納めなあかんようになった、と。
故松沢さんが、鮎はそこにあるよ、というと、素早く選別していたとのこと。
仮称服部さんは、故松沢さんに、10万円余りのお金を渡した。故松沢さんは、仮称服部さんの気質を熟知されていて、そのまま受け取った。そして、仮称服部さんの1階雑貨店で、のし袋を購入して、2年前に亡くなられたおばあさんのご仏前や、子供さんの小遣いを包まれた、とのこと。
このときは、商売で郡上八幡にいったのではなさそう。仏のまっちゃんにはほど遠い、ケンカぱっやい、血の気の多い年頃の松沢さんであったから、オラのように、あゆみちゃんとの郷愁に浸るために晩秋の長良川に行ったのではあるまい。とはいえ、釣れない、との名人の忠告を無視して出かけていたということは、長良川に、生業とは離れた何らかの思いがあったのではなかろうか。
萬サ翁は、
「長い間やっとっても雨の日、曇りの日いろいろの日があるが、それでもその場所の喰み刻はかわらん」
「それから夕立があっても 〜 こん時は目の前の浅いところに鮎はおる、鮎は足もとからおるんすよ。濁っとるもんやで人の姿も見えんから浅い所で安心して喰んどる。」
故松沢さんは、仲間達と一緒に郡上八幡にいったときも大漁であったのこと。
分流の沖にある大岩に乗り、よく釣れていた。仲間は、増水してきたので釣りをやめてその河原にやってきた。故松沢さんは、ぎりぎりまで釣り、仲間に道具を投げて拾ってもらった。そして、泳いで河原に流れた、と。
濁りが萬サのいわれるほどになっている前の状態ではないかと想像している。このときは、稼ぎに来ていたから、危険と隣り合わせの釣りをしていたのではなかろうか。
「町から来る仁でも上手な人はたくさんおる。おるが、その仁らはカケることはうまいが、取り込むのが下手くそじゃ。やわい(柔い)竿で無茶に糸を長くするもんで、引き抜くことができん。なんぼでも引っ張られるもんで〜」
「この辺の漁師は『郡上竿』の強いので釣るんすよ。〜なんぼじょうぶい『郡上竿』でもカケた瞬間に鮎を浮かせてまわんと駄目すよ。〜」
故松沢さんの竿の調子は分からないが、手尻は一尋とっている。理由は、長良川の囮は瀬をものともせず、沖に泳いでいく。故松沢さんは、急流に立ち込むには、体格が伴わない。ということで、沖を釣るには手尻を長くすることになる、と。
取り込むときはどうするか。故松沢さんも、萬サ翁と同じく、釣り方の技術はみな同じ、ということであまり語らないが、取り込みについては語ってくれた。
当然、引き抜きはできない。しかし、掛かりを手ではなく、目印で察知して、その瞬間、手の甲を返す、とでもいうような動作をすると、鮎は上流に走る、と。そこで、下流に引き戻して糸をつまめばよい、と。
手に掛かりの感度を感じてからでは遅い、と。ほんの一瞬の出来事を察知し、動作をする、とのこと。
萬サとは取り込み方は違うが、オラのようによたよたと下って取り込むことはしない。
なお、「カケた瞬間に鮎を浮かせよ」とは、オラが大井川でいつもテク2らにいつもいわれたいること。そうはいっても、乙女の馬力は強いからなあ。したがって、身切れをおこして、バラして、河原で泣き濡れることに。
松沢さんの思いで:10
照度とアカぐされ 鮎の香りの原因と苔の関係 |
故松沢さんは、金の塊のコケが川に繁茂していた頃、1番鮎が占拠していた場所を虎視眈々と、2番鮎、3番鮎が狙っていて、1番鮎の動静を絶えず監視していた、といわれた。
前さんは、「『萬さ』と語る」の章で
「空き家になったら、すぐに引っ越して来る。『あそこがええ、あそこがええ』とねずらって(狙って)たのが『今度は自分が行く』とやって来るわけや。30分か1時間たたねばボウようにならんがだいたい1時間やな。」
注:瀧井さんは、狩野川から飛騨に出稼ぎに来ていた「山下」さんが、河原に石を置いて、ポイントの目印にされていたと、書かれている。 「故松沢さんの思い出:補記 その2」 |
そのような、金塊のコケはなくなり、鉄くずのコケになり、ほしければ持って行け、という価値しかないコケになっては、鮎らしい鮎が育つわけはなかろう、と、故松沢さんはよくいわれていた。
さらに、遡上鮎が減り、人工が主役になれば、昭和40年頃の長良川の大多サのように、竿を出さなくなろう。(井伏鱒二編「鮎釣りの記」の亀井巌夫「長良川ノート」)
金の塊のコケがどのようなものか、オラには分からない。
しかし、珪藻と藍藻の違いは、相模川の石の色と大井川の石の色の違いで、区別がつく。宮が瀬ダムのなかった頃の中津川の愛川橋上流も大井川の石と同じ色であった。
巖佐耕三「珪藻の生物学」の、「「藻類とビタミン要求性」に、「ビタミンB12とビタミンB1の両方または一方を要求する」ものに珪藻が、「ビタミンB12を要求する」ものにラン藻が含まれている。
このように、要求される物質が異なることにより、珪藻の種別にどのような変化が生じるか、分かれば、とは、思うが。
故松沢さんは、遡上鮎が満ちていた狩野川でも、垢ぐされがあった、といわれていた。オラは鮎が一杯居れば、垢ぐされはないと思っていた。
「珪藻の生物学」に「光合成の活性が光の強さに依存することはよく知られている。珪藻の種類によって程度は異なるが、1万ルクス程度までは光の強さにほぼ比例して光合成は大きくなる。しかし、それ以上の光は光合成を阻害する。このような光合成の光阻害は緑色系列以外の全ての藻類に見られる現象で、2万ルクスの光では光合成がまったくできないばかりか、短い時間でも死滅することがある。(ちなみに、快晴の海岸の日照は5〜10万ルクスである)」
水と珪藻の関係については「珪藻は最後の強腐水性には生活できない。その次のα・中腐水性に大量発生するものに、ある種のニッチア(Nitzschia palea)が知られている。しかし、ほとんどの種はβ中腐水性か貧腐水性の水、及び井戸水などの有機化合物を含まない清水によく増殖する。珪藻はきれい好きの藻類であるといえる。」
現在の狩野川の水は、貧腐水性の水、あるいはβ中腐水性に水ともいえないのではないか。
村上先生は、川辺川の鮎の胃袋から、珪藻の殻が出てきた、と書かれている。オラは、その殻が、ラン藻よりも珪藻の摂取効率が悪くなる要因となり、ラン藻の川よりも、珪藻の川の鮎が小さい、と思っていた。
しかし、巖佐先生は、
「『肉はすべて草から(all flesh is grass)』は陸地の、『魚はすべて珪藻から(all fish is diatoms)』は水界のエネルギーの流れを端的に示している。珪藻は植物連鎖の出発点として優れているのは生産量が大きいだけではない。
(1) 動物の消化器官内で分解されやすい。被殻が消化を邪魔するようにも見えるが、この殻の微細な孔は消化液の侵入に都合が良く、2つの被殻は容易に割れるし、中間帯や環帯もこわれやすい。
(2) 動物の栄養としてバランスが保たれている。タンパク質、糖類、脂肪の比は、おおよそ100:50:15である。」
(以下略)
そして、村上先生は、川辺川とダムが運用され、ラン藻が優占種になっている球磨川本流との鮎の大きさについて体長や体重に大差がない、と、書かれている。
村上先生は「アユ独特のスイカやキュウリに似た香りは、アユの皮膚にある酵素が、脂肪酸を分解して、揮発性のあるアルコール類を作り出すことにより生じると考えられている。エサの付着藻類の香りが直ちにアユに移るわけではないのだが、脂肪酸の種類組成や酵素の活性は、当然エサにも影響されるもので、エサの違いにより、間接的に鮎の香りに差が出てくる可能性は否定できない。」
アユが摂食することで、珪藻からラン藻にコケの優占種がかわる、と研究報告をされている阿部先生は、シャネル5番の香りを経験されたことがあるのであろうか。とはいえ、今も、アユが川にいる間はずうっと川面に香りを漂わせている川があるのかどうか、分からない。
そして、一時期に香りのする鮎が釣れていた大井川、中津川でも、香りをする鮎が釣れなくなった。かすかに香りのするアユはいるが。
村上先生は味について
「アユの味との関連になると、もっと問題は複雑になる。若アユが旨いか、脂の乗った真夏のアユを好むかは、人によって異なる。魚肉の中のアミノ酸や脂肪の量を規定できても、美味しさを客観化した指標として示すことはできない。やはり『官能試験』という標準化した味見、つまり、保存や焼き方などを統一して利きアユをする方法に頼らざるを得ない。
不完全な標準化ではあるが、矢作川(愛知県)、高津川(島根県)両河川のいくつかの場所で獲れたアユの味を比較したことがある。結果は、水質汚濁が進んだ水域で採集されたアユは、明らかに低い点数であった。先に述べたように付着藻類の種類組成は、水質により著しく変化する。水が変われば、付着藻類の種類も変化し、それを食うアユの味も異なるようだ。」
故松沢さんが相模川に来たことはないが、相模川の人工アユが2年連続で、利き鮎会で準グランプリになった、と聞かれたら、どんな反応をしたことであろうか。残念ながら、今年は解禁日しか狩野川に行かなかったから、分からない。
「本物の味を知らない人がどんなアユを旨い、と判断できるの?、狩野川と相模川と似たようなもの、ということは、日本中同じではないの?」とは、いわれないやろうなあ。
故松沢さんは、金塊のコケをはむ鮎が戻ってくることには、悲観されていた。
村上先生は「エサから見たアユ 藻類で分かるアユ河川の健康度」を
「付着藻類の知識が増えたことで釣果に影響することことはないだろううが、アユの味を守るため、ひいては川の自然環境を維持していくためにはぜひ知っておいてもらいたいことだ。いままで、川の研究者と釣り人は、同じ川に入っても、違うものを見てきたように思える。そろそろお互いの知識を交換し、一緒に議論する場があってもいいのではないだろうか。」
と締めくくられている。
オラも同感ではあるが、現在の川ではなく、現在の鮎ではなく、金塊のコケが繁殖していた頃のことを知る人がいない状態で、適切なあるべき状態、あるいは存在していた状態をを再構築できるのか、不安である。
その一つが、阿部先生のアユの摂食による珪藻からラン藻への遷移説である。シャネル5番の香りを経験されていれば、おかしい、あるいは普遍化できる現象ではないと気づくことができるであろうが。
古の川と鮎を経験し、観察されていた松沢さんに頼ることはできなくなった。困った。
故松沢さんの思いで:11
故松沢さんを地元の漁師が訪ねてくる |
長良川に稼ぎに行った故松沢さんのことろに、地元の漁師が1升瓶を下げてやってきた。故松沢さんが一杯釣っていたため、話を聞きに。
故松沢さんは、その人達が使っていた針について、馬素をハリスに使った碇で、ハリスが硬いため、唐傘のようであった、と。オラがチラシを使っていた遙か前に碇針があった。
他方、故松沢さんは、子供が使うくしゃくしゃのナイロンをハリスに使ったチラシ。
狩野川衆が継ぎ竿を郡上八幡に伝えて、郡上八幡衆が自転車で宮川等に出かけたと、大多サは語られているが、 お互いに情報を交換することは、その後も行われていたのであろう。とはいえ、郡上衆にとってはもはや過去の仕掛けとなった長い手尻に、なよなよのハリスを使用したチラシの主が大漁であると知って、びっくりしたのではないか。
故松沢さんは、囮取りをするときは0.3号、そのあとは0.8号を使った、と。絡みの良さを考えてのこと。
この仕掛けでもハリスが飛ばされなかったのは、鼻管上の中ハリスに3箇所の結び目を造って、囮の大きさに合わせてその中の1つのこぶの所にハリスをチチワで結わえたこと、さらに、掛かりアユが上流にすっ飛んでいくから、最初の大きな負荷がハリスに掛からない、ということであろうか。
ハリスの長さは、鼻管上の結び目の位置で調節できるとして、囮の尻尾から出すハリスの長さはどのように調節していたのであろうか。亡き師匠は、逆針の固定に接着剤を使用していなかった。マニキュア?を使用していた。そうすると、逆針の位置を調整できる。故松沢さんもマニキュア?を使用されていたのではないか。このことは聞き忘れた。
注:丼大王から、故松沢さんもマニキュアを使用されていたとのメールをいただいた。
故松沢さんは、チラシの針先が下に向くようにするには、逆針の向きをいじらなくても、右から刺して針先が下に向かなければ、反対側の左から刺せば下向きになる、と。これはオラが試すとうまくいかない。逆針を刺すときの角度が作用するのであろうか。それとも?
丼大王に聞きたいが、これからはいつ会えるのか分からない。去年までは、休みの日に行けば、11月23日まで逢える機会はいっぱいあったが。
馬素は、平成の初期までは売っていたが、今は見ることはない。もし、硬いハリスが適切であるのであれば、馬素使用者も存在していて、今でも販売されているであろうから、故松沢さんのしなやかな、柔らかいハリスの方が絡みがよい、ということは理にかなっていたのではないか。
萬サ翁は、
「『今年は(昭和62年)遊びで鮎カケをしてはじめて判ったんじゃが、友釣りのカケ鉤は“蝶鉤”が好いようじゃ。オトリの下を横切った野鮎にぴったり吸い付く感じでカカってくるんすよ。吸い付くから間違いなくカカる。遊びで釣りをすると気持ちに余裕があるから、いろんなことを試してみるんすよ。遊びの釣りは楽しいもんじゃ。そんで蝶鉤の好いことが判った。渡世で漁をしているうちは、やっぱりゆとりがないんすなあ。』
『萬さ』からシカケばなしが出たのは後にも先にもこのことだけで、あるいは最初で最後かも知れない。漁を仕事にしていたときと、この日では『萬さ』の表情も違っており、川魚への『慈しみ』ともいえる温かさが滲みでていた。」(前實著「鮎に憑かれて六十年」)
故松沢さんが、血気盛んなまっちゃんから、仏のまっちゃんに変わったのも、漁をやめて、囮屋さんになってからであろうか。
また、「川魚への慈しみ」の情は、故松沢さんにも強かった。
なお、萬サ翁は、エビス鮎についても語られている。
故松沢さんは、エビス鮎が釣れると、翌日のオトリ取りが、そして大漁が約束されている、と。その前祝いに飲みに出かけたかどうかは聞き忘れたが。
萬サ翁は、
「『肛門から尾ビレにカケて急に凹んでいるのは、戎鮎でなく、ペッシャンコ鮎じゃ。戎鮎は躰全体がフナのように丸くて、それぞれのヒレの間隔もバランスのとれた鮎じゃ』」
前さんは、昭和62年、江川で釣った戎鮎の泳ぎっぷりを確かめるため、
「水勢の強い瀬に戎鮎をオトリとして放してみると、なるほどよく潜ってゆく。普通の鮎はオモリを必要とするのにグングンと泳いですぐに野鮎がカカった。戎鮎は強い。もう一度行け!と出してやるとクックッと押しの強い水を掻き分けるように潜った。そのとたんにグンと手応えがあった。迂闊にも竿をためる余裕がなく対岸に走られて0.6号の糸が高切れをした。もったいないことをしてしまった。逃がした魚は大きい、とはいうが、かけがえのない標本を失って、しばらく茫然としたものである。」
故松沢さんは、戎鮎がオトリに最適といわれたとき、尻尾を激しく振るから、と説明をされていた。泳ぎが達者なことについては語られなかったのではないか。とはいえ、健忘症甚だしいオラが忘れただけ、ということかも。
故松沢さんは、戎鮎が役目を終えると、神棚にまつったとのこと。
今年の大井川で釣れた奇形は戎鮎であろうか、それとも、人工に多いペシャンコ鮎であろうか。前さんは、戎鮎とペシャンコ鮎の絵を描いて素人にも判別できるように表現されておられるのに、オラは戎鮎かどうかの観察をしなかった。そして、そのとき、丼でもしていたら、前さんとは違って、逃がした魚を残念に思っていたであろう。
注:垢石翁は、錨、蝶針ではないかと思える針が、昭和の初め頃にはあり、それが、「時代遅れ」と書かれている。 その意味はわからない。「故松沢さんの思い出:補記その2」垢石翁と宮川 |
海産鮎の産卵時期に係る学者先生批判と 木枯らし一番の吹く頃という漁師の観察 |
海産鮎の産卵時期については、神奈川県内水面試験場が、「海産アユをたくさん遡上させるための手引き」「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業協同組合連合会発行)に、10月1日頃から産卵をして、15日頃に流下仔魚の1つのピークを形成する現象を海産鮎によると評価され、あるいは、11月以降に早川、酒匂川で観察された鮎を湖産と評価されていることは、間違っている、と判断している。
海産鮎の産卵時期は、故松沢さんは、西風:木枯らし一番が吹くと鮎はそわそわし始める、と。弥太さんは下りが始まると。
この原則に対して、どのような例外現象があるのか、故松沢さんに聞いたことがある。
@ 10月上、中旬頃に産卵する。その鮎は下りをしないこと、また、卵は腐る。
A 1月の雪の降る湯ヶ島で、蟹籠に美白のアユが獲れたことがある。
このうち、10月上、中旬産卵の鮎の存在が気になっていた。例外現象であるから、数は多くない。
ヒネ鮎かとも思ったが、前さんのヒネ鮎観察で、雌雄ともいるとのことであるから、授精の可能性はある。
萬サは
「去年の十一月の中頃(注:昭和48年の前年)に鮎がたくさん死んで流れた。その後に『ウグイ』を獲りに行ったら、吉田川(岐阜県)との出合いの浅いところで、魚が『バチャバチャ』やっとるで、よく見ると、鮎が産卵しとる。それも『ペシャンコ』の鮎や、その時に『人工の鮎は、こんな所で瀬ずり(産卵)して、海に帰ることも忘れてしまったのか』と思ったんすよ。それで、参考になればと何匹か獲ってみたんやが、湖産などと比べて、卵がうんと少なかったのでよう覚えとるんや。
せっかく苦労して育てて、放流した鮎が、どうしてこんな鮎になってしまったのか?」
「そんで本能まで忘れた鮎になってしまって雪の降る年末近くになっても郡上辺りのこんな上流で産卵して、海へも帰らん。卵もかえるわけがないじゃろに。ほんにかわいそうなことやと思うとるんすよ。」
と、前さんに語られている。
オラの思いこみは
@ 昭和の狩野川は、鮎タビを突っつくほど遡上があったから、湖産放流はしていても、人工の放流はしていない。
A 人工は、6月の解禁日に釣りの対象となる大きさに育っている必要があるから、また、「湖産」ブランドとして販売されているから、湖産並の大きさになるように稚魚は育てられている。
B 海産は、その川の漁協にしか販売されていない。
しかし、静岡県で人工の生産が始まったのが昭和45年頃。当然、一部は放流されていたのではないか。
萬サ翁が観察された人工の産卵で、下りをしない、という現象は、故松沢さんが語られた例外現象と同じ。しかし、産卵時期が異なる。故松沢さんに、下りをしないアユの産卵を観察されたのが何年頃か、聞こうと思っていたが。
卵が腐る、とは、なぜか。人工でも孵化する。萬サは低水温で孵化しない、と。狩野川では低水温が原因とはいえない。むしろ、20度以上、あるいは20度を境に変動している頃。内水面試験場では19度でも海産は孵化するといわれていることから、水温、というよりも、1日の水温変化、あるいは孵化期間中の水温変化を想定することになるのであろうか。
注: | オラは、故松沢さんが語られた「卵が腐る」ということに重点を置いて、孵化率の問題では、と、理解していた。 しかし、故松沢さんは、孵化率が主題ではなく、その卵の親が、人工ではないか、と推測されていて、そのことに主眼があったのではないか、と、今では想像している。 故松沢さんは、観察された現象を語ることがあっても、その現象の相当因果関係あるいは理由を説明をされるときは、プロとしての検証を行いえたときに限られていた。 腐る卵の親が人工である、とは、その親を産卵行動の時に釣り上げないと、しかも、相当数を釣り上げないと、検証できない現象といえる。 ということで、オラが適切な質問を発しなかったから、腐る卵の親は「人工」である、とはいわれなかったものと現在では思っている。 なお、「二峰ピーク」の意味、海産畜養でも下りをしない、現象については、「神々しき川漁師」の川那部先生の章や「故松沢さんの思い出補記:3」に、その後読んだ本から記載しています。 |
田辺陽一郎「アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館)に、
「一般に関東平野でのアユの産卵は、9月末から11月初旬頃だ。2002年の9月末、私と賢さんと私との(原文のまま)、アユ探しの日々が始まった。」
「鮎が産卵するのは、川の中流にある瀬の中だ。小砂利の間にこぶし大の石が混じるぐらいの川底がよい。賢さんの見立てでは、多摩川で鮎が産卵しそうなのは、二子玉川駅付近から調布市の染地附近まで、7キロの範囲にある瀬だという。」
「産卵場の調査のために投網を打って歩いた。網に入ったアユの中には、体が黒く変色しているものが見つかった。軽く腹を押さえると、白い精液も出てくる。繁殖期に入ったオスの特徴だ。ここまで調べがつけば、さあいよいよ撮影にチャレンジだ。」
「ところが、実際に潜ってみると、産卵の様子はおろか、アユの姿を見ることすらできない。」
「1週間経ち、2週間経ち、10月も中旬になると、だんだん心配になってきた。状況に大きな変化はない。」
産卵中は、人が入っても逃げなかった、と長良川での産卵を撮影した経験のあるカメラマンは教えてくれたが、驚いて逃げているのでは、と、無人撮影も試みる。
「とうとうそのまま11月の声を聞いた。その日は、賢さんが名古屋で仕事だったため、私は一人で産卵場を探していた。ずいぶん気温が下がり水も冷たくなっていた。」
川崎市の中の島住宅団地脇の瀬で、期待もせずに潜る。
「と、目の前に広がったのは、信じられない光景だった。
アユ、アユ、アユ…! 見渡す限り、辺り一面がアユだらけだったのだ。いったい、昨日までどこにいたというのか。黒く染まった体が水中に入り乱れ、うごめいている。間違いなくアユの産卵群だ。
瀬の中一面に広がる群れは、ほとんどがオス。そこに銀色の体をしたメスが入ってくると、産卵が始まる。頭を川底につっこむようにして、腹を砂利に押しつけ、雌雄ぐちゃぐちゃになって体を震わせる。こうなると動きが速すぎてどれがオスだかメスだか肉眼で追うことはできなくなる。」
田辺さんは、学者先生のいわれる産卵時期を信頼して、1ヶ月、無駄な観察をしていた。いや、「〜をした」という現象だけでなく、「〜をしない」ということも観察し、記録することが「プロ」の観察であるから、その意味では、有意義な1ヶ月であったが。
湖産、人工、海産の性成熟、産卵時期の違いを意識せず、あるいは、意識をしても、「湖産」を購入したから、「湖産」であり、人工も、海産畜養も含まれていない、との前提で、現象、観察結果を評価をされる学者先生には、今年の一文字「偽」を煎じて飲ませたいなあ。
魚沼産コシヒカリの「ブランド」での他の米の混入、比内鶏の看板でのブロイラーの製品、この現象は、アユ稚魚の販売では昭和40年頃から常識であったはず。
1千万ほど遡上のあった相模川では、12月2日高田橋上流の分流で、群れアユ崩しの人が60ほど釣った。美白とサビの比率は不明。瀬の人は20cm級も。大鮎は釣れなかった、と。
カモメが10羽ほど来ているということは、弁天より上流にも産卵場があるのであるのであろうか。それとも、下りのための集結をしていると、カモメらは知っているのであろうか。15日も10羽ほどの鵜の群れと数羽の鵜が、そしてカモメもいたから、まだアユが残っているのではないか。
「アユの本」に記載されている10月中旬に海で観察されていた大量現象に近い稚魚の現象がなぜか、分からなかった。
海での観察であるから湖産、交雑種は死んでいる。海産しかいない。その点では高橋先生と同じ判断。
しかし、その稚魚の存在は、弥太さんと故松沢さんが観察されていた海産鮎の降り現象の時期とは異なる。弥太さんの経験に適合するには、秋の彼岸の頃以降に増水したことが10月中旬での稚魚存在の条件になる。とはいえ、これは下りをする条件ではあっても、下ったあと、急に性成熟が進行し、どれくらいの期間で産卵行動をするのか、わからないが。
注: | また、上流に差すこともあるのでは(山崎武「四万十 川漁師物語」同時代社) これについては、「故松沢さんの思い出:補記 その2」でふれることとする。 |
そして、秋分の日頃以降の増水がなければ、西風が吹く頃=木枯らし一晩の頃から、産卵行動が始まる。それが下りのための集結か、産卵場での産卵行動か、については弥太さんは区別されていないが。
相模湾の小坪等で採捕された稚魚は、漁連だけに売られると思っていた。しかし、養魚場へも、さらに他の川からも買いに来ていた、との話があった。そうすると、日本海の稚魚が四国に売られて、湖産として出荷されていたこともあり得るのではないか。
故松沢さんが、長良川の鵜飼いのため、たえず、徳島からアユが運ばれてきた、といわれた。オラも、毎夜火振りをし、いつもアユが獲れるのはおかしいと思っていた。そのアユの素性は、鵜にとっても、見物人にとっても、食べる人にとっても、我関せず、ということであろうか。
故松沢さんの思いで:13
下りの時季に関する天竜川支流での観測 |
「アユの本」に掲載されている10月中旬に海で観察された稚魚が、産卵時期の早い日本海の海産が「湖産」として販売されていたであろう親の子供と推測できるが、戦前、大正の頃のこととなると、見当がつかない。当然、その頃は人工はいない。湖産放流が始まったのは昭和8年頃から。
(1)島村利正「銀流香魚」
「 春先の3,4月、浜松近くの天竜川の河口から、無数の群れをなしてのぼってくる小アユは、やがて静岡県の県境を越えて信州南部に入り、多くの支流にも群れを分かちながら、本流を目指す群れは、五月頃すでに天竜峡を越えて伊那谷にはいり、七月から八月にかけて、天竜川水源地の諏訪湖にまで到達する。以前はどこにも本流を完全に堰止めるような本格的なダムがなかったから、アユののぼりも自由だったのである。延々一八〇キロの激流をのぼってきたアユはすでにたくましく、体長は二〇センチをこえ、体重も一五〇グラム級になっている。河川遡上を本能とするアユは、さらに諏訪湖を横切り、八ヶ岳山麓から湖に流れ込む、宮川という小さな川にまで差しのぼったという。」
高遠を流れる三峯川は「水は青く冷たく、八月の中頃にはもう泳ぐものは一人もいない。そのころから川を堰止めて仕掛けられるヤナでアユをはじめて見たのである。もう腹に赤味を帯びていて、町の人はそれを錆アユといっていた。大きいのは三〇〇グラム級のものもいたが、水のあたたかい本流の天竜では、化物のような一〇〇匁(四〇〇グラム)アユも見られたという。」
「アユが錆色になって、腹にオスは白っ子、メスは卵をもちはじめると、アユはすでに下りに向いて、三峯川では、九月の末にはもう姿を見ることはまれであった。」
(伊藤桂一編「釣りの歳時記」TBSブリタニカ)
(2)垢石翁「釣趣戲書」の「アユの質と石の質」の章
「寸又川の石は、浅い黄色の垢がついていて、純粋な珪藻ばかりであることが分かります。その上水温の関係上、例年秋の半ばにならねば、垢が腐るということがありません。
そんなわけで寸又川の鮎は充分に食い、十分に育って、既に八月下旬から九月上旬になりますと、下りに向かいます。同地方ではこれを寸又川の『鉈鮎』と称しているのであります。幅が廣く肉が厚く、頭が小さいので非常に姿が宜しい。香気も高い。」
(3)大井川:家山の寿司屋さんは、笹間ダムがなかった頃、八幡様の祭りの頃=10月15日頃に、腹がぱんぱんに張った大鮎が釣れていた、といわれていた。
これらの現象は、西風が吹いたあとの11月1日頃から始まる海産の産卵行動との関係で、どのように考えれば適切であろうか。
狩野川では、雲金釣りの家の故大竹さんが、講習会で、稲刈りの頃=10月10日頃に、鮎は再び瀬に戻るといわれていた。このことは、故松沢さんも、瀬で活発に釣れ出すと認められていた。ということは、下りの集結前の現象である。
そして、故松沢さんは、西風が吹いた後は、釣れる場所が日替わりメニューで、日々変わる、といわれていた。下りのための集結、下りの途中、そして、まだ瀬についているあゆみちゃん、と、ポイントの変化が激しいことを表現されているのであろう。
故松沢さんは、鮎が下りをするときは、頭を上流に向けて、尻尾で安全を確かめながら下っていく、といわれていた。障害物があると、下りを中断する。それどころか、上流にすっ飛んでいく、と。妊婦が坂道を下りることが大変なように、下りの鮎にとっても、下りは大変な注意力と、慎重な行動を要求されているとのこと。
21世紀になって、上島橋の橋梁掛け替え工事の時、水がヒューム管で下流に流されていた。その時、上島橋上流に下りを中断したアユが溜まっていたため、釣り人がはいっていた。さらに、ある日、故松沢さんは、早朝、上流に向かって泳いでいく大群を城山下の淵で観察されていた。その群れがどの辺りまで戻ったか、分からない、とのこと。
青木の瀬の上流側に、11月1日頃(3日か、毎年特定の日)に、梁が掛けられ、採補される場所に鮎を誘導していた。観光ヤナとは形状が異なり、たんに通せんぼうをするだけ。
高速道路建設の時、そのヤナが狩野川大橋下流に設置場所が変わった。そのヤナの流れに対する角度を見て、あれでは、採捕場所にアユを誘導できない、と、故松沢さんはいわれた。また、そのヤナにびっくりしたアユは、修善寺まですっ飛んでいった、と。
この頃の採捕量がどの程度であったのか、また再度下ってくるとき、左岸側の梁のない流れを選択したのであろうか。気になるが、もはや、訊ねることはできない。
増水で一気に下ることのない時、1日に下る距離はどの程度であろうか。
寿司屋さんが大鮎を観察されていた頃は、寸又ダムはある。笹間川の渓谷から下ってきたものであろうか。井川ダムあるいはセッソダム(当時既に建設されていたのか分からないが)の下流から下ってきたのであろうか。
(注:井川ダムが建設されたのは、オラの認識とは違い、遅くて、昭和35年頃とのこと。寿司屋さんは、大人になっても、大井川で、釣りをされていた。)
とはいえ、8月下旬に下りが始まる、との指摘はオラの想像を超える。下りは、増水等の状況がなければ、ゆっくりと、休み休み、行われるから、産卵場までたどりつくには日数が掛かるが。9月中旬頃であれば、理解しやすいが。まだ、天竜川最上流の支流で水温が低い三峯川の状況は理解しやすいが。
とはいえ、垢石翁の指摘を根拠に、即、海産産卵時期に関して、何らの評価を行わずに適用することは、適切ではあるまい。
さらに、湖産ブランドに人工、海産畜養も混入していた昭和45年頃以降においては、親の種別を異にするアユが川にいたのであるから、遡上アユの産卵行動とは峻別する作業が必要なはず。
気温が高くなり、現在は産卵時期が早くなった、あるいは、遅くなった、という高橋先生の説明は適切であろうか。戦前、あるいは、昭和30年以前との比較ならば、水温の変化が産卵行動開始時期と少しは関連性を有すると考えても妥当性があろうが。
「鮎の本」に掲載されている海での稚魚調査が行われた昭和62年と平成を比較して、水温変化で産卵時期が変化したとの説明は、妥当性の乏しい説明であると考えている。
注:垢石翁は、神通川上流の宮川で釣りをされている。その時期は8月終わりである。 このことからも、寸又川では8月下旬から9月上旬には下りに向かう、との現象は、垢石翁が観察されたのではなく、土地の人からの伝聞に基づくのではないかなあ。「故松沢さんの思い出:補記 その2」 |
故松沢さんの思いで:14
天竜川上流の支流での友釣りのはじめ等 |
島村さんは、高遠を流れている天竜川の支流、三峯川で友釣りが始まったときのことを次のように書かれている。(「釣りの歳時記の「銀流香魚」の章)
「小学校の三,四年ごろ、ヤナのアユの次に、アユの友釣りというものをはじめて見た。関東大震災のあった大正十二年より二,三年前のことであるからずいぶん古い。静岡県安倍川育ちのKという筏師が、三峯川に仕事に来ていて、激流をのぼるアユの群れに気づいたのである。注意してみると、どの瀬にも大きなアユがいっぱいついている。この土地のアユ漁はヤナと投網の方法だけで、アユを釣る術を知らなかった。Kは安倍川で覚えた友釣りの心得があったので、投網の漁師に頼んで、種アユを一匹捕ってもらい、それを囮に使ってはじめて友釣りを試みたのである。」
「私がこの友釣りを見たのは、Kがその異様な釣りをはじめて四,五日たってからであった。」
「流れの中に弁天岩という巨岩があって、それに向かってぶつかるように流れる荒瀬で釣っていた。町の人が珍し気に四,五人見ていた。料亭の主人もいたが釣りにはまったく関係のないような人もいた。Kは半纏に素脚であったが、一五分に一匹ぐらいの割でアユを釣り上げていた。
みんな固唾を飲んで見まもっていた。囮アユの鼻に通す鼻環は、今のような丸い針金製でなく、縫い針を短く切った撞木形ではなかったろうか。」
なお、島村さんが鮎釣りを覚えたのは、昭和13年の夏で、多摩川。
そのころの多摩川の水は、
「いまの奥多摩川の水の色と同じであるが、さらに武蔵野の伏流水が加わっているためか、練ったようなやわらかさがあった。(昔から多摩の遁げ水といって、広大な雑木林や草原、野菜畑ににわか雨が降ると、あたり一面はたちまち洪水のようになり、小径を歩くこともできなくなる。しかし、雨がやむとあふれるような雨水はどこかへ流れ去るのではなく、短時間のうちに地表から土のなかに吸いとられてアッという間に消えてしまう…この遁げ水が地下の伏流水になり、立川辺から下流の多摩川に湧水となったといわれていたが、いまは舗装地表が多くなり、また下水工事や野川が完備して、伏流水はほとんどなくなってしまったようだ。)」
この伏流水が豊富であった多摩川の鮎について
「当時の多摩川のアユの香りはまたすばらしかった。水の質がよく、水成岩の石につく水垢も良質だったのである。」
「味はお世辞でなく、どこの河川にも負けないくらいによかった。」
「狛江を流れる多摩川のアユはちょっと小ぶりであった。しかし、秋になっての下りは大きかった。」
(注:これが奥多摩育ちではなかろうか)
魚道の落ち込みに汚れた波の花のように、風で飛ぶ汚水の分身は、公共下水道の整備によって、生活排水等の川への流入がなくなり、消えていく。そして、貧腐水水の水質になり、ラン藻から珪藻への優占種の変化も期待できる。
しかし、山の保水力が減り、伏流水が減少したことによって、金の塊のコケを育む何らかの栄養素を含んだ浸みだし水が川に戻ってくることはない。それが、故松沢さんが狩野川、ひいては日本の多くの川に、古の鮎が戻ることがない、といわれたことの理由であった。今後、多摩川でも、「香魚」を育む珪藻が生育することがあるとしても、特殊な条件に恵まれたときのまれな現象ではないか。
なお、垢石翁は、多摩川のアユについて
「多摩川は優れた水質と岩質を持っていたから」「武州の多摩川で漁る香魚が絶品なりとして、信ぜられてきた江戸から東京へ、であった。」
「〜の花崗岩の割れ目から滴り落ちた多摩川の源は、軈(やがて)下って香魚の餌として最も上質な水垢を発生する武州の古成層地帯へ入る。」
「御嶽あたりでこの上等の餌を飽食した香魚は、味品の絶頂に達したのである。」
「ところが、近年多摩川の鮎は亡びてしまった。それというのは東京上水道が完成したからである。」
「現在多摩川の下流にせせらぐ水は、奥多摩川の清麗な水とは全く縁を絶った田甫の落ち水や、泥垢の多い枝川の集まりである。何で上質の香魚が得られよう。」
羽村の堰上流については
「今では、琵琶湖や江戸川から稚い香魚を掬い来たって放流してゐるが、これは天然の香魚の味に比べれば極端に劣る。香気薄く、徒らに脂肪ばかり豊富に乗って、串にさして火に焙れば、鰯を焼くに異ならぬ。」
垢石翁には、湖産であるだけで、海産畜養あるいはくみ上げ放流であるだけで、あゆみちゃんの品位を下げるものとされている。こんな贅沢な評価された垢石翁は、相模川の人工鮎が利き鮎会で準グランプリとなる現象を見ても、鮎釣りを、鮎を礼賛されたであろうか。鰯を焼く臭いは、5月連休に相模川で行われている内水面祭りの18cm級の人工鮎から漂ってくるが。人工は脂肪が多いと思うが、脂肪の多い、ぶくぶくの鮎が旨い鮎に評価されるのであろうか。
高橋先生は、早く産卵行動を行うアユは大きい、と。この観察は適切であろう。しかし、相模川では、継代人工が10月1日頃から産卵行動を行っているであろうから、遡上鮎か、人工か、湖産か、あるいは日本海の海産か、の峻別を行わないと、現象は同じであっても、評価を誤ることとなろう。
故松沢さんの思いで:15
垢石翁の相模川の評価 |
なお、島村さんは、「私がアユの友釣りを覚えたのは、昭和十七年の夏である。」
「瀧井さんに伴われて最初に行った川は相模川で、津久井渓谷下流の大島という場所であった。」とも書かれているから、昭和十三年の多摩川でのアユ釣りはドブ釣りかコロガシかであろう。
「私は瀧井さんに友釣りを教えられて、すぐ夢中になった。近くの多摩川は石が小さく、友釣りのできないのが残念に思われた。」
島村さんが素晴らしい味とたたえた多摩川の鮎も、羽村の堰により、下流では水質が悪くなり、垢石翁は評価されていない。その垢石翁は、島村さんが通うことになった相模川の鮎については、どのように評価をされているのであろうか。
延長44里に
「全く立派な石の露出を見せません。火成岩に終止してゐるのであります。試みに、平塚町東方の馬入川砂利採集場へいってご覧なさい。悉くが、質の脆い、比重の軽い火成岩であります。この川の鮎が、いかに貧しき食物に苦しみ来たってゐるかを知り得ませう。」
「殊に山中湖の湖畔に浮く軽石は豪雨があると、桂川に流れ出します。鮎は軽石を非常に嫌ふ。その軽石が相模川の磧に散在するのを見るのでありませう。立派な珪藻の発生を見る理由を持ちません。」
そして、猿橋の下流に桂川水電発電所ができたため、
「水量の関係によって猿橋まで溯る鮎は、全く稀となったのであります。殊に馬入村から厚木町迄の間は、砂利採取船が四季を通じて、川底を掻き廻して居りますからあれでは鮎も溯れません。溯った鮎は辛うじて貧弱な珪藻を食って育ったが、産卵場所を砂利掬ひで捏ねられるのですから、繁殖のいとまがないといえましょう。」
ということで、相模川が垢石翁の興味の対象となる動機付けは何もない。もっとも、ドブ釣りには垢が悪く、また砂がまいているから好適であるが、と。
今、垢石翁の評価基準にたえうる川がどこにあるのか、の問題はさておいても、砂利採集で産卵場が荒らされていた頃の方が今よりも遡上量が多い、あるいは安定していたのであろう。
そして、垢石翁には「水質」を問題にするのは、多摩川の羽村の堰下流の泥垢の水、という程度であって、それも、貧腐水水は当たり前、その中でも善し悪しがある、ということが前提となり、質のよい珪藻の繁殖と鮎にとり食べやすい石の質が評価の基準となっている。
「砂の流れる川は、元来良質の珪藻がない上に、砂のため絶えず珪藻が洗はれるのです。」
「相模川は輝石安山岩と、白雲母花崗岩の、小石も満たされておりますから、良質の硅藻を得ることができず」毛針で釣れる。
「水中にある岩を検して見る時、岩の肩即ち上流に向ひて流れを受ける面ばかりをナメて、岩陰即ち下流に向ひて流れに淀みを作る面をナメてゐない岩がありますが、これは大部分火成岩に限られています。これと反対に岩の陰も肩も綺麗に、真っ黒にナメ尽くしている岩を見ますが、これは大部分水成岩であります。水成岩は火成岩に比べて、泥垢まじりの硅藻が付かないといふ事と、岩の面が概して滑らかでナメ易くなってゐる為、残す処なく食ひ尽くして終うのではないかと思われるのです。だから水成岩の層を上流に持つ鮎は、良質の硅藻が発生する点といひ、岩が滑らかである点といひ、まことに恵まれてゐるのです。」
また、道志川については「石は矢張り火成岩と白雲母花崗岩とで、火成岩でも比較的質が硬いのであります。硅藻は相模川ほど泥垢は混じってゐません。それは、上流の水源林が長年月保護されてきた関係上、堆積土が多い為めで、上流に洪積土を多量に持つ川の様に、洪水時に泥土の流れを見ないからであります。
この川は鮎の育ちもよく香りも高い。しかし水量の関係で数は多くありません。
この川の鮎も、遠からず発電所の新設と、水道工事の為、昔の俤はなくなるでありませう。」
(釣趣戲書)(「珪藻」には「硅藻」の字が使われている。その他、当用漢字に書き換えている。)
石裏、石裏の筋は砂が巻いているから、石裏から1,2m下流を釣れ、と狩野川等、砂の巻いている川ではいわれているが、砂の巻いていない川がある、ということ。オラには想像も付かないが。
しかし、水成岩であっても、腐葉土、垢石翁は「堆積土」と表現されているが、保水力をなくした山から雨水が奔流となって流れ落ちる川では、相模川と同じ環境といえよう。
ということは、どこに行けば垢石翁のお眼鏡にかなう川を経験できるか、心細い。道志川に公共下水道が整備されれば、少しは古の川に近付くのかも知れないが。その時、下水処理水はどうするのかなあ。コミュニティプラントで、やはり汚水処理水をあちこちの道志川に流すことになるのかなあ。
遡上鮎がいるだけで、また、ラン藻ではなく、硅藻が優占種である川というだけで、幸せな気分になるオラと違って、古の川を知り、経験をされている故松沢さんには、昭和後半・平成の川とあゆみちゃんの状況は、あきらめの境地にしかなり得なかったのであろう。
故松沢さんは、狩野川の名人(故松沢さんの師匠ではないかと想像しているが)から譲り受けた竹竿を持って旅立たれたが、古の金の塊である垢が繁茂し、遡上鮎が満ちている川で釣りをされているのであろうか。
狩野川に少しは遡上鮎が戻ってきた2000年以降ではあるが、04年の解禁日、故松沢さんは、茶か盛りや酒盛りをしていて釣りに行かない丼大王らを追い出されたとのこと。にもかかわらず、天竜玉三郎は、オラがテントに着いた9時前でもまだ居座っていた。
玉三郎は、オラのために三途の川で囮をとってくれるといわれたが、翌年からは人工が放流されている雲金に釣り場を移されたから、その後、解禁日に会うことはなし。オラへの囮取りの約束を忘れていることであろう。
なお、故松沢さんは、城山下に人工を放流させなかった。当然、玉三郎も丼大王もボウズ。みんなで頭を剃れば恥ずかしくはない。
垢石翁は、今の相模川を見て、こんな汚い垢は「泥『垢』」とはいわない。「泥垢」は、既に亡びた、これは「泥垢」ではなく、「泥」じゃ、といって、一升瓶を抱えこんだまま、竿を出すこともなく、虚ろな、悲しげな眼で流れを眺めるだけであろうか。
故松沢さんの思いで:16
故松沢さんの職漁師入門の頃 |
故松沢さんが鮎釣りを始めたのは、17才の時(昭和32,3年頃であろうか)といわれていた。
この「始めたとき」という意味は、友釣り初体験ではなく、あゆみちゃんを売って生業とする女衒家業のために、名人の所に弟子入りをしたときであろう。その修行生活がどのくらいの期間であったか、厳しかったか、は聞き忘れた。
といゆうよりも、囮を買う人がない年でも、西風が3,4日吹き荒れていてテント小屋が飛ぶのでは、と、木枯らしが小屋をきしませる音に首をすくめられていた日も、11月23日まで、休むこともなくテント小屋に出勤されていたから、いつでも話を聞けると思い、訊ねていなかっただけ。
故松沢さんは、青木の瀬の付近の板を渡しただけの橋にたたずむ着物姿のねえちゃんの写真を持っておられた。そのねえちゃんとの関係も聞き忘れたが、当時、今の大仁橋のたもとの水晶岩付近にあった廓のねえちゃんとのこと。
その廓は昭和33年の狩野川台風で流されたとのこと。
もし、その廓と故松沢さんが馴染みであったとすれば、修行前、あるいは修行開始後すぐに、稼ぎを得ていたのではないだろうか。もちろん、大工仕事でも稼いでいたから、必ずしも、あゆみちゃんからの収入とはいえないが。
田辺聖子「姥ざかり 花の旅笠 ー 小田宅子(注:いえこ)の『東路日記』(注:あずまじにっき)」に、和歌をたしなむ筑前の50代おばさん4人組が、天保の代に伊勢、善光寺、日光、江戸、そして、箱根関と新居関を避けるため、鎌倉から諏訪湖、秋葉神社を経て、京、大坂で遊んだことが書かれている。(往来手形を所持していない)
京で、博多独楽を見物している。田辺さんは、慶応には欧米にまで出かけた芸人もいた博多独楽の芸について書かれた珠楽さんの「博多独楽の手練」の一節を紹介されている。
「独楽(注:こま)を演ずる以上、技倆の優秀さは、必要であるが、それよりも先に、演ずるものの心の真剣さ、純粋さ、豊かさを教えている。
木台に鉄心を通しただけの独楽に、生命の息吹をおくり、躍々として空間に舞わせるのは、独楽師の気魄である。独楽師の心がゆるめば、独楽もおとろえてくる。裂帛の気合に独楽も勇むというものである。声には出さないが、一芸を無事に終えて、舞いおりてくる独楽に与える、労いの言葉が、物心一如となって、独楽に光彩を与えることにもなる。」
この文を読んで、故松沢さんもこのような心境ではなかったか、と想像している。
故松沢さんは、技倆のことは誰が語っても同じ、といわれて多くを語られなかった。そして、精神の領域に鈍感なオラが心の持ち方に関して聞くこともなかった。しかし、故松沢さんは、次のことを話されていた。
祖霊に対して、日々感謝し、まつりごとをされていた。また、戎鮎が働きを終えると、神棚にまつり、感謝をされていた。
狩野川の左岸藪下の上にあるお墓に、左岸道路まで冠水した後にいったときのこと。お墓の処でぶっといものが動いている。大ウナギが湧き水をのぼっていたとのこと。お墓でなければ蒲焼きにするが、お墓では、といわれた。オラなら、仏心よりも食い気、大ウナギを下げて帰ったであろうが。
昭和の終わり頃、青木の瀬に片腕のない人が釣りをされていた。オラはどのようにして囮をつけるのか、興味はあったが、分からなかった。
故松沢さんは、タモに入れた鮎を石の上に置き、優しく足裏で押さえて鼻環を通していた、といわれた。そして、夕方に帰るとき、翌日の囮を残して、「ありがとうよ」といって、逃がしていた、とのこと。この人の話をされていたとき、故松沢さんはその心境に強い共鳴を感じられていると思った。
故松沢さんは、もし鮎と出会っていなければ、どのような人生になっていたか、分からない、鮎に感謝している、とよく言われていた。たんに釣れた、釣れない、の感情を越えている。
これらの鮎への感情、思い入れは、釣りの場面でのことではない。しかし、釣りの場面でも同じであったのではないかと想像している。
「声には出さないが、一芸を無事終えて、舞いおりてくる独楽に与える、労りの言葉が、物心一如となって、独楽に光彩を与えることになる。」の、「独楽」を「囮」に代えれば故松沢さんの心境になるのではなかろうか。
永井さんは、講習会で、囮は健気に石の間を泳ぎます、囮をいたわってください、というようなことをいわれていた。このことからも、囮をいたわる点だけでも、オラの想像はかすかに故松沢さんの思いを伝えているのではなかろうか。
もし、故松沢さんが平成の世に女衒の修行を始められておれば、あゆみちゃんに人生を左右されることもなく、別の道を歩まれたのではないか、と思っている。
補記
田辺さんの「姥ざかり 花の旅笠」は、高倉健さんの5代前の小田宅子さんが書かれた紀行文を、田辺さん自身が道草をしつつ4人のおばさんと一緒に旅をされている趣がある、とのこと。
「東路日記」は、健さんが、「うちの先祖の人が、こういう手記をものにしているがこれをわかりやすく読めるようにならないものだろうか、面白そうだけれど」と、「イラストレーター・福山小夜さんに示され」、巡り巡って田辺さんの知るところとなった旅行記である。
あと何時間、あゆみちゃんのお尻を追っかけることができるか、分からないが、姥桜4人組が、お伊勢詣りをしょうと決断をし、お伊勢詣りを果たすと、善光寺まで脚を伸ばし、さらに日光も、江戸も、京も、大阪も、と道草をする活力にびっくりした。
同時に日本史の教科書で植え付けられた江戸期のイメージとは異なる庶民の存在を又知ることとなった。
発展史観や、明治政府の正当性、業績誇示のために貶められていた江戸期の評価が、相当、改まっている世になっていると思うが、楽しく読めた。
故松沢さんの思いで:17
狩野川が人工放流河川に変身 |
平成2、3年頃までの城山下は、砂とは無縁であった。
ある年、漁協から城山下の淵を埋めたい、との話があったとのこと。故松沢さんは、時合いになると真っ黄色の衣装をまとった鮎が一本瀬に差してきて、手返しの良さを図るため、針を囮の尻尾よりも内側にして、手返しを重視し、頭掛かりにする釣り方をされていたから、淵が鮎の補給源であることは知っていた。
それでも、待てよ、と急いで帰り、淵に潜った。夥しいアユがいた。また漁協に行って、淵を埋めることに反対された、とのこと。
オラなら、差しアユが釣れることから、淵は重要な補給源や、というだけであるが、何事にも実際はどうなのか、を観察しなければ納得されない故松沢さんは、淵に潜って、鮎の補給源であることを観察された。
この観察眼がオラと故松沢さんの釣果の違いになっているのかも。いや、技倆も、心構えも、違うよ、何々も違うよ、と丼大王ら、城鮎会の面々はいわれるやろうなあ。
その淵も平成に入って砂底になっていった。そして、砂の範囲は、石コロガシの瀬肩まで達した。07年11月3日、前年まで渡っていた石コロガシの上流で渡ろうとしたら、砂、砂、砂。石が埋まってしまった。にもかかわらず水深は以前よりも深くなり、ダウンジャケットのポケットにある煙草が濡れそうになり、渡ることをやめた。河床がどんどん上がっているのであろう。
平成10年頃までは、テントは淵の前の河原に設置されていた。平成6年頃まではまわりは石ころだらけ(平成9年から11年までは、平成7年に遡上のなくなった狩野川、その後も遡上が回復しなかったため、年券を買うことも、行くこともなかったから、いつ河原に砂の堆積が始まったか、分からない。)。
石ころの河原の中に1箇所、狭い面積で砂の処があった。そこを少し掘ると水が湧きだしていた。その水がお茶に、味噌汁に使われていた。今は2,3m以上、石の上に砂が堆積している。
藪下も砂の中に大石の一部が頭を出している、という場所が多くなった。石コロガシの瀬肩上流、2本電線、柳のあったところは、流れは弱く、石がつまっており、河原からも釣りができるため、平成の代に変わった前後、オラにとっては一番楽な釣り場所であった。
殊に、西風が吹いた後の、水温が12,3度になった10月下旬以降はありがたかった。その場所が砂で埋まり、さらに石コロガシの瀬肩まで砂まみれになっている。
なぜ、平成の代になって、急激に砂の堆積が始まったのであろうか。同様の現象は、ダムのある相模川、中津川、大井川でも生じている。
故松沢さんの河原のテントは、オラが狩野川に再び行くこととなった平成12年までのある年に流された。
その日、故松沢さんは増水の様子を見に行き、雨量からもテントを撤去しなくても大丈夫、と判断された。しかし、狩野川放水路の水門を開くのが遅かったため、テントを流す水位となった。
河川管理者は謝りに来たとのことであるが、テントに置いてあった城鮎会が主体となって開催されていた大会の記録を流されたことが残念でならない、といわれた。
その大会には昭和の終わり頃から参加していた。平成4年までは9月15日、それからは8月最終日曜日が開催日であった。
5匹重量で順位を決めていた。
昭和の代では、350グラム前後が1位の成績であった。
昭和64年=平成元年、9時前にテントに着くと、第x回の記念大会とかで、高松さんと井川さんが居られた。井川、高松さんは、淵のすぐ下流トロに入った。オラはその下流に入り、2人の釣りをのぞき見していた。1時間ほどたった10時頃、高松さんは1匹しか釣れず、石コロガシの方へと移動した。オラも移動した。
昼に戻ってくると、井川さんが20匹釣って帰って行った、と。故松沢さんは出鮎の時合いにまとめて釣ったのであろう、といわれた。
平成の代になって、1位の重量は、400グラム台、平成4年には600グラム、平成6年には670グラムになり、釣果の1位は9匹に過ぎなくなった。
遡上量が減少して、遡上鮎が大きくなったことから、中学生ではなく女子高生が釣りの主体となったこと、さらに、人工が主体となったことによる。オラでも人工と分かるアユが主体となっていった。
遡上量の減少は、釣れる鮎の大きさだけでなく、石が曇る日が早くなってきた事からも推測できた。
昭和の代では、11月23日でも綺麗に磨かれていた石が、22日には綺麗であったのに23日には曇り、さらに11月には汚れた石が目立つように、と、変化していった。
そして、1995年:平成7年、遡上量が僅少で、解禁日から相模川で見慣れたババッチイ石のまま。ドラちゃんは、冬の川、と、スポーツ新聞の取材に対して表現されていた。
平成7年は相模川の遡上が多かった年。平成16年も相模川は、古はいざ知らず、2000万ともいわれているほどの大量遡上があった年。その両年とも、狩野川の遡上量が僅少であったとは、相模湾と駿河湾とで何が異なり、また、なぜ反対の現象になるのであろうか。
故松沢さんは、大会の為にアユのいない川に来てもらうのは忍びない、と、ある年から大会を中止されたとのこと。95,6年は年券を買っていたが、解禁日しか狩野川に行かず、その後は行くこともなかったから、何年に中止にされたのか、分からない。
ある年、オラは5位くらいになって、銀で作られたように見えるオードブル等を入れる大きな台座付き皿をもらった。そこに盛る品物がないため、その器はいつの間にか消えた。
故松沢さんが用意された料理を食べ、飲み、しゃべることが大会の主目的であったが、もはや遡上鮎が回復しても、たまり場がなくなり、そのころの人に会うことは難しくなった。
故松沢さんの思いで:18
故松沢、垢石翁、今西博士と酒 |
故松沢さんは、女衒家業の頃、見栄えのよい、高価な囮缶に翌日の囮を入れて川に活かしていたとのこと。しかし、よく盗まれた。そこで、実利を求めていろいろな入れ物を試された。
その結果、たどり着いたのが茶筒とのこと。
茶筒に穴を開けて、水がとおるようにして鮎を入れておけば、翌日はよく働いてくれるとのこと。友缶で休めた鮎よりもよく働く、と。その理由について、推測されたことを説明されたが、忘れた。
さらに、茶筒に入れる鮎に鼻環をつけておくと、翌日、実によく釣り手のいう事を聞いて泳いでくれる、とのこと。
また、網でとったアユを囮にすると、恐怖ですくんでしまい、石の間に入って、動かない、と。
しかし、前さんは
「ある好天の夏の日、私は『萬さ』を訪ねた。彼は吉田川出合いの船繋場に腰を降ろして、『躰の燃料(日本酒)』を、チビリ、チビリと補給の最中であった。私の顔を見るなり『ン、来たか。今から一網打つから手伝え』という。」
「酔っぱらいの『萬さ』が相手であれば、いわれるとおり手伝うことにした。」
「ウム、と彼はよろけるように舟に乗り込んだ。頑丈な竿を手に一突きくれて舟を出すとたんに顔は別人になる。
『酒など一滴も飲んだことはない。酒とはどんな味か?』とでも言いたげな涼しい顔になったのである。」
「彼は長い小鷹網を両端が鍵の手に見事な手捌きで打つ。」
「普通、網にカカった鮎が、そう簡単に外れないのは周知の事実なのだが、彼はアッと驚く間もあらばこそ、バケツに十一尾の鮎を入れてしまう。見事に手際がよい。そして、『お前さんのタネができた』と笑いかけるのだ。バケツの中の十一尾すべてが元気な鮎。」
前さんも投網の経験者であるから萬さ翁が、網から鮎を外す手際の良さにはびっくりされた。
「奈良の吉野川で覚えた杵柄、手頃な石を一五,六個も舟に積む。」等の手伝いをされた。(「鮎に憑かれて六十年」の「萬さのこと」の章)
前さんがその鮎を囮に使った結果が書かれていないから、萬さ翁が手際よく網から外した鮎は、石の間にすくむことなく泳いだのか、どうかはわからない。しかし、萬さ翁は網で獲った鮎を囮に使うことに違和感をもたれていなかっということであろう。
故松沢さん、萬さ、垢石翁、今西博士、素石さんと、よく酒を飲んでいる。その点ではオラも量は少ないものの仲間入りはできる。
故松沢さんは酒で転んで脚を骨折された。オラも骨折をしたが、オラはがっぽりと稼げて、そのお陰であゆみちゃんのお尻の追っかけが、後数年できる。ボデーさえ持てば、の話であるが。故松沢さんの後遺症は、あぐらをかけることからオラよりも軽かった。
とはいえ、故松沢さんもオラも、肝臓の負荷を気にせざるを得ない。故松沢さんは、ウコンを飲んで、ドクターストップを回避されていた。そのウコンには、春ウコン、秋ウコン、紫ウコン?等の種類があって、何とかウコンだけが霊験あらたかなり、とのこと。オラも酒をさらに飲めるように、処方箋で求めている薬の他に、ウコンを飲もうと思った。薬局に行くと、量の少ないウコンの値段が非常に高い。それで、ウコンの購入はやめた。ということで、霊験あらたかなウコンの名前も忘れた。
故松沢さんは、囮をつかんだとき、囮が暴れるのは、強く握りすぎるから、といわれた。赤ん坊を男親が抱くと、赤ん坊が泣くのと同じ。男親は赤ん坊を落としはないかと強く抱きしめるから、泣く。囮も強くつかまなければ暴れない、と。
そうはいわれても、釣りたてであれば、鮎が弱っているから、優しくつかめるが、1日休養した後では逃げられないか、心配で、大井川の河原で鮎の出し入れをすることになる。また、故松沢さんは、囮をつかむとき、眼を指で押さえることはしない、ともいわれた。
故松沢さんの思いで:19
釣り人に見捨てられた狩野川で 11月23日まで損をして働く故松沢さん |
故松沢さんは、平成の代になって、殊に、平成7年以降の遡上鮎が釣りの対象となることがなくなり、あるいは、ほんの1,2年遡上鮎が多かった年があったに過ぎない状況の中で、どの程度の損失があったのであろうか。
釣り人が一杯いても、10月下旬以降、養魚場から囮箱に入れられた養殖鮎は、翌日には半分が使い物にならないほど黒くさび、販売の対象とはならなくなった、とのこと。養魚場での電照がなくなり、日照時間が急に短くなった状態になったからではないかと思っている。
そして、夏でも、初秋でも、たまに釣り人がやってくるだけ、という状態が、平成7年以降の状態であったはず。
故松沢さんの囮家業は、鮎を愛し、鮎に惚れ込んで、魅せられて、その結果、真っ当な生き様を歩むことのできたことへの感謝の気持ちからの奉仕であった、と、思っている。他の店が11月には、あるいは10月下旬に閉める中、誰も来ないことが分かっていても出勤されていた。
熱があるから、悪いけど、今日は昼に上がらせてもらうよ、ごめんね、といわれたことも何度かあった。
ある年のこと、長良川に出張された故松沢さんは、竹竿3本の腰を抜かせてしまった、といわれていた。
丁寧に作られた、調子も、強さも1級の竹竿の腰を抜かすとは、どれくらいの大きさの鮎を、どのくらいの数を釣ったのであろうか。また、何日間でのことであろうか。
この頃の狩野川や長良川での稼ぎを蓄えていたから、平成の代になって、仕入れてから3,4日たっても売れなかった囮をつぶすことの方が多かったにもかかわらず、夜逃げをしないで、アメニモマケズ、風にも負けず、釣り人の来ない寂しさにも負けずに、毎日、11月23日までテントに通われる資金になっていてのではなかろうか。
家を出るときは風はないのに、相模湾はウサギが跳んでいる。狩野川に着くと風に飛ばされそうになり土手を歩けず、家屋の間の道を歩いて城山下に行く。松沢さんはそれでも出勤されていた。
そして、ばあさんは、西風は3,4日吹き荒れる、といっていた、と、オラの楽観的、恣意的天気予報を戒められたことも再三。
大宮人、練馬人、丼大王等、11月になっても釣りをするおなじみさんに会うことはあっても、見知らぬ人に会うことはまれになった平成の代であった。
07年に中津川にできたあゆみちゃんファンクラブの会員である相模人:・オラに松沢さんが亡くなられたことを知らせてくださった方 に、06年に会ったことが久しぶりの初対面の人であった。
ある年の11月、石コロガシの右岸瀬からテントに戻ってくると、2人の釣り人がオラに声を掛けてこられた。それがtomさんとヒデVさんであった。美白を8匹ほど釣っていたからオラは朝帰えりをした。翌日、魚卵さんがやってこられてtomさん、ヒデVさんと一緒に釣りをされたのではないかと思っている。
故松沢さんは、tomさんは、子供の頃から狩野川に親しんでいると思うから、以前の狩野川のことを知っているのではないか、川の見方はよく知っている、といわれた。tomさんが昭和の川を知っているとしても、お若いから昭和50年頃のことではないか、と思っているが、もはやお会いすることもないかも知れない。
現在の狩野川漁協組合長の前の、その前の組合長は、自ら竿を出して、鮎が薄いから、どこそこには鮎を入れておけ、と指示されていたとのこと。
ということは、遡上鮎が多くても、釣りの対象となるほどの大きさの鮎が少ないときは、人工を、あるいは海産畜養を放流していたということであろうか。
商売にならなくても、古のアユがいないと分かっていても、毎日出勤されて、蟹籠を見てザカニを取り、時には料理をしてくれた。
平成7年:1995年の夏、たまにアッシー君になってくれる人と、解禁日以来の城山下にいった。ババッチイ苔のついた石。アッシー君は移ろう、と。途中、湯ヶ島で椎茸を買う等、ドライブ気分で河津川にいった。
河津川の石には、熱帯魚の水槽に着く苔を除去するために使用されている小さな貝が川に捨てられて大量繁殖していた。それでも竿を出して、何匹かを釣った。当然、楽しい釣りではなかった。昼、ザカニを食べたが殻だけが気になった。身は少なかった。
旬ではないから?(冷凍?)、また弥太さんの自慢話に出てくる蟹を砕いて、漉した後の殻等を捨てて、水の部分だけを煮る、という料理の仕方でななかった事を覚えている。
故松沢さんの思いで:20
故松沢さんとの最後のこと |
故松沢さんが経験されていた「金の塊」の価値を持つ珪藻を経験していないことは、オラにとっては幸せであった。また、湖産ブランドに、人工や海産が混入されていても気がつかなかったことも、そして、亡き師匠らの熱心な教えにもかかわらず鮎の質・氏素性による容姿や味や習性の違いに関心を持つことが少なかったことが、本物の鮎がいなくなった、あるいは僅少になった平成の世にもあゆみちゃんのお尻をおかっけられた条件と思っている。
とはいえ、古に生存していた本物の鮎がどのようなものであったか、その鮎はどのような川で、どのような食料を得て、どのような生活していたのか、気になる。村上先生は、研究者と釣り人の連携が生態等の観察上必要と書かれているが、本物の川、、苔、鮎の観察ができる人が、また1人この世を去られた。
今西博士が、「イワナとヤマメ」を書かれる前に、素石さんらと渓流を釣り歩いて観察されたことと同じ次元で、鮎の氏素性、環境等の要因を考慮しながら、適切な観察を何人の鮎釣り人ができるのであろうか。湖産を放流したというから、湖産である、と、湖産ブランドに「偽」が横行していたことに何らの疑問を持たれなかった研究者と同じレベルの釣り人が多いのではないかと危惧している。
多くの人は、釣る技倆はある。しかし、人工、海産畜養、湖産あるいは湖産の人工が放流されている中で、遡上鮎の生態を観察できる、目利きである釣り人は、あと、何人この世に生きておられるのであろうか。
人工鮎の長良川になって、郡上ブランドの鮎に関して、目利きはどのような基準を採用さているのか、分からない。
目利きを不要とする世は、本物とまがい物の区別を不要とする世のはず。
だからこそ、釣れるだけで、また、大きいのが釣れた、と、人工でも何の違和感を持たない釣り人が楽しく、釣りをしている。オラのように。
しかし、目利きのいない世には適切な観察と、本物の再生産を講じる対策が適切に行われることもなかろう。
故松沢さんは、湖産を「線香花火」と表現されていた。すぐに釣りきられる、と。湖産放流全盛時代、そのようにならない川もあったのは「湖産」ブランドに、海産畜養、人工が販売時の値段によって比率を異にしながら混入されていたからであろう。
ブレンドされた湖産は、昔は湖産の値段がが高く、海産、人工が安かったために。今は、湖産の冷水病による病死で生じる川のいない状態を軽減し、川での生存率を高めるために。それは湖産を売るために必要なごまかしではないか、と疑っている。
07年の解禁日、故松沢さんの腰がくの字に曲がっていた。椎間板ヘルニアが悪くなった、と思った。それでも、杖をついて出勤されていたとのこと。
オラは40年以上の椎間板ヘルニアとのつきあい。30年ほど前、正月に動けなくなりブロック注射をしてもらおうとタクシーに寝転がり、初めての整形外科に行った。そこで、針麻酔をされた。仰向けに寝て腰を上げ下する運動をせよ、と。できるわけないよ。
ところが、針麻酔をすると、それまでは便器に座ることも、寝ていてもしびれ、時折走る痛みに耐えかねていたのに、腰を動かせた。そして、牽引、ブロック注射をした帰りは、歩ける、バスで帰れた。そのような幸運に故松沢さんは、恵まれなかったのではないか。
行きつけの整形外科の先生は、なぜか、症状が安定することがあるといわれていた。そろそろ、動けなくなることもあろうと、時折、整形外科巡りをしているが、かかりつけの先生がされていたように、動作を見、触診をして症状を見ることなく、レントゲンを見るだけの医師にしか出会わない。針麻酔で、動作を可能とされた先生は亡くなられた。
以前、故松沢さんが生死を彷徨うことがあった、と。その時、華麗に飾りをした船がやってきて、乙女らが乗りなさい、と招く。乗ろうとすると、ばあさんが、その船に乗るな、といわれた、と。そして、三途の川を渡らずにすんだといわれていた。
今回は、ばあさんの忠告も間に合わなかったのであろうか。
故松沢さんは、骨折で入院されていたとき、他人に下の世話をしてもらうのが耐えられないといわれていた。他人の面倒は見るが、己の面倒を見てもらうことには潔しとしない、という気質の人であったと思っている。
故松沢さんが、ウコンを飲まずにお酒を飲んで、垢石翁や萬さ、仮称服部名人らと、狩野川の名人から譲られた竹竿で釣りをされていることを願います。
ゆく秋や 松枯れ鮎の 目は涙
( 行 春 や
鳥 啼 魚 の 目 は 泪 芭蕉 )
トップへ戻る |
故松沢さんの思い出:補記 古の川と鮎の姿を求めて |
故松沢さんの思い出:補記 目次 |
21 | 補記1 | 鮎への慈しみ | 「姥ざかり 旅の花笠」 庶民時代裂(ぎれ)研究会 継ぎ接ぎの着物 |
22 | 補記2 | 沖取り海産の「湖産ブランド」偽装 前實「鮎に憑かれて六〇年」 小西島二郎「紀の川の鮎師代々」 宮崎弥太郎「仁淀川漁師 秘伝 弥太さん自慢ばなし」 |
前さんの四万十川の変化 「海あがり」は大見村まで 昭和地区に1番仔なし 四万十川の鮎激減の原因 昔の透明度 河口での採捕→養殖→「湖産」ブランドへ? 紀の川の小西翁 人工、海産畜養は下りをしない? 放流鮎は放流場所で産卵 前さんの観察と「湖産」ブランドの「ブレンド」 |
23 | 補記3 | 真っ黄色の鮎と攻撃衝動 | 珪藻はゼアサンチンを含まないか 真っ黄色の鮎の事例 小西翁の見釣り 淵の仕掛け、操作 絹糸の製作 挑発行動 真っ黄色の鮎は縄張り鮎? 保護色? |
24 | 補記4 | 鮎は鈍な魚か=漁法その1 | 弥太さんと小西翁の見方 黄色は威嚇のため? 鮎の五感を逆手に取った事例 弥太さん 漁法の多様性→習性が単純で騙されやすい 小西翁 頭、眼、鼻、耳良し 小鷹網 @ 火振り漁 小西翁 技術なしの漁 むごい 弥太さん パニックで自殺行為 A 夜網(小西翁) B 瀬張り漁(弥太さん) 鮎は下流へ逃げる 頭は悪いが眼はよい 鮎の裏を掻く漁法 |
25 | 補記5 | 鮎は鈍な魚か=漁法その2 | C子供の鮎獲り 子供の遊びと鮎獲り:弥太さんの話 暗闇の光→上へ飛ぶ 松明のメラメラに恐怖する→河原へ→女子供が手づかみ 「つかみ」、「握り」→夜目が利かないから タモすくい→下流へ逃げる習性の利用 瀬張りの応用 |
26 | 補記6 | 鮎は鈍な魚か=漁法その3 | Dドブ釣り:小西翁の話 保護色 透明度とドブ釣りの関係 きれいな水での漁 鮎は光、色に敏感 色合わせと毛鉤合わせ 高価な針 都会人の愉しみ 昭和初期から 昭和二〇年から釣れず=透明度の低下? 透明度の低い相模川でもドブさんは一束、二束も 昭和二〇年=毒流し |
27 | 補記7 | 水質と透明度 | 箱眼鏡で鮎を引っかける 小西翁、前さんの話 川の水が飲めた頃 前さんも飲んだ吉野川下町 妹背の淵の透明度=四間余り 村上先生「鮎の餌から環境影響を考える」 川辺川は珪藻 球磨川では? ドブさんの相模川、手取川のあたり針 |
28 | 補記8 | 森下雨村の語る仁淀川:1 森下雨村「猿猴川に死す」 |
探偵小説の草分け:雨村 仁淀川の佐川で生活 猿猴との交流 仁淀川上流・鷲の巣の鯉、鮎 大ウナギにヒゴを取られる 金突き漁の猿猴一統 子供を助けようとして 伊藤猛夫「仁淀川ーその自然と魚たちー」 日本有数の開発利水の歴史と古さ=仁淀川 |
29 | 補記9 | 森下雨村の語る仁淀川:2 アユ放流 | 仁淀川の鮎放流量 種別、種苗の入手難 八田堰 |
30 | 補記10 | 森下雨村の語る仁淀川:3 放流鮎の量、種類構成、大きさの変化 |
1960年代の放流量約70万ほど 八田堰での汲み上げ放流、湖産、海産、人工 八田堰での種苗調達はなくなる 放流鮎の大きさの変化 |
31 | 補記11 | 森下雨村の語る仁淀川:4 | 漁獲量 鮎は増え、他は減る ハヤは大切な魚 上八川でのこと 手足の不自由な釣り人 |
32 | 補記12 | 森下雨村の語る新荘川 ドブ釣りから友釣りへ 餌釣り |
ドブ釣りから友釣りへ 餌釣りの頃の話 四万十川の鮎が新荘川へ シラスで大鮎を 50匁、70匁の四万十川の鮎 仁科川での女番長の餌釣り |
33 | 補記13 | 森下雨村の語る四万十川:1 歩けど 歩けど 楽に成らず |
昭和16年、窪川から北川へ 大河の四万十川 忠告無視の影地からさらに先へ 吊り橋の恐怖 松原の宿へ 轟の滝の鮎掬い 囮の2頭立て ダム建設中 影之地へ 川幅10メートルの浅瀬 囮を求めて 老人はバラシ多発 職漁師から求めてやっと釣りを |
34 | 補記14 | 森下雨村の語る四万十川:2 あまり釣れず、釣れた、 そして暴風雨の前兆 |
やっと釣れた 二時間後に 何で? 地酒で熟睡 老釣り師の場所で天国 2,3日は釣りたい 煙草屋までは? 無情の暴風雨 檮原街道へ急ぐ 谷川に大量のアユ 痩せた囮を入れる 雨が |
35 | 補記15 | 雨村翁の子供のころと魚:1 小学生の頃の川の生き物との付き合い |
(1)ドジョウ 東京のどじょう鍋、下等なドジョウ 馬の尻尾抜き 馬と知恵くらべ 尻尾を罠にドジョウ捕り (2)蟹釣り 9月10月の濁り水 蛙をヌードに ヌードにカニが (3)カゴづけ 頭脳的な楽しみへ 行き先はウナギに聞いて 子供には不確実、職漁師は予見と成果が 善福寺でのカゴづけ |
36 | 補記16 | 雨村翁と子供のころと魚:2 ヒゴ釣りは大人になっても |
(4)ウナギ釣り:ヒゴ釣り 相手との直接取引の技 ヒゴ作りと技 ミミズの通しやすさ 小学校の先生を師匠に 1本のヒゴへ15,6匹のみみずを 寄りうなぎ 大物釣り師 大ウナギの取り込み方 師匠のヒゴの作り方 |
37 | 補記17 | 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:1 自然と人の出会い 生き物の消えた風景 |
少年時代の体験、感動と再現 雨村翁について 心から釣りを楽しむ 自然と人との出会いを求めて 少年の心の持続 生き物の消えた田圃、水路 |
38 | 補記18 | 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:2 永澤正好「田辺竹治翁聞書 四万十川T 山行き」 |
新荘川も荒廃 淵も瀬も消える 山林の乱伐 保水力を失った川 水量の減少 鬱蒼と茂る木の消滅 安曇川にブルが 現金収入とブル 昔の四万十川=自然の恵みは無尽蔵 四万十川の水量変化、透明度、 杉、檜と水 捕っても捕っても湧いてくる猪 |
39 | 補記19 | 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:3 アームチェアーフィッシングへ |
安曇川支流に生き残ったアマゴ、岩魚 アームチェアーフィッシングへの逃避 幸田露伴 数だけが目的? 釣れなくてもよい 景色を愛でよ 木村さんの夢は復活する? |
40 | 補記20 | 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その1 天然鮎の再生産 |
鮎放流のあり方 スイカの香りの立ちこめる川=豊かな川=島根の宝 放流量の増加=漁獲量の減少 「回収」から、再生産のための種苗放流へ 産卵及び仔稚魚の保護 川の豊かさ=再生産力 シラスの混獲 |
41 | 補記21 | 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その2 | 海産鮎の産卵時期を知らない?神奈川県の研究者 なぜ、川にいる鮎の種別を「海産」と疑わないの? 放流鮎の再生産の可能性と適応力 |
42 | 補記22 | 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その3 神奈川県は、何で、「海産」か、否か、 の種類構成に無関心なんかなあ |
「効率性」目的だけの神奈川県産継代人工 神奈川県としまねの考え方の違い 交雑種、継代人工、湖産と海 浸透圧調節機能の欠如 狩野川河口域から出て行かない稚魚 交雑種、人工鮎子孫の生存域 両則回遊性を捨てた鮎は、交雑種、湖産、継代人工 神奈川県には遺伝子調査機能なし? |
43 | 補記23 | 「四万十川 川行き」その1 永澤正好 「田辺竹治翁聞書 四万十川U 川行き」 |
いにしえの鮎の品格 カナツキ漁と鮎の付き場:カナツキ漁の禁止 ヒネ鮎漁 湧き水と魚と川獺 スズキは江川崎まで上る 川スズキはうまい |
44 | 補記24 | 「四万十川 川行き」その2 「昔鮎」消滅はなぜ? |
太い鮎 「黄色」い鮎の「黄色」とは? 1つで腹いっぱいに 「昔鮎」 18匹で1貫目 落ち鮎のうるか 淵巻き鮎 伏流水の減少 稚魚採捕・出荷 |
45 | 補記25 | 「四万十川 川行き」その3 下りの時季と下り方 |
遡上行動 太いヤツから上る 淵で休み休み 夜も食事? 「潮呑み鮎」の評価は間違い 下りの順序 ガニ→鮎→スズキ→鰻→ボラ→アイリキ 下りの方法 ナナセ=コケが餌→「かざ」がする |
46 | 補記26 | ウルカの味:1 ダムがなかった頃の 仁淀川のサイ、味、香り |
田辺翁のウルカ=卵巣と白子と苦腸のウルカ 弥太さんとウルカ 面倒+酒を呑まん+麦飯にかけるのはぞっとする ダムがなかった頃の仁淀川 ウルカの質落ちる=サイの質が違う 西瓜の香りで網の漁獲量が判る 水が冷やっこかった ダムが出来てから 鮎の味も香りも落ちた 死んだ水 ドブさんのウルカ しごくとは? 相模川の内臓は臭い、汚い、食えん |
47 | 補記27 | ウルカの味:2 小西翁のウルカ、焼き方 |
ドブさんのウルカ 手取川等金沢では卵や白子を使わぬ 卵や白子は醤油漬けにする 小西翁のウルカ みそだきウルカ=七色の味 塩ウルカ 焼き鮎分しか作れぬ 小西翁の焼き鮎 夜8時以降は腸は空っぽ=腹を割かない 子持ち鮎は蒸し焼きに 焼き方=バベガシの炭 1時間程焼く 保存食=2回焼く |
48 | 補記28 | 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分 その1 村上先生の観察 珪藻に香り生成成分あり、藍藻にはなし |
鮎の食料 ダムのある球磨川=糸状の藍藻類 川辺川=珪藻 香り生成のプロセス 人工鮎でも「郡上ブランド」? 氷打ちと鮮度保持 |
49 | 補記29 | 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分 その2 闇夜、夏の香りが強い 香りの代謝経路、餌の影響 |
小西翁の話 闇夜の方が香りは強い 夏の最盛期の香りが一番高い 遡上稚鮎から香りが 嗅覚による他者認識機能? 村上先生 香り生成の代謝経路 餌の影響 |
50 | 補記30 | 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分 その3 小西翁の天然と人工 翌年のことを考えて |
天然鮎の容姿、香り 天然鮎の香りは強い 遡上稚鮎からかおる 紀の川の放流量、種別 海での採歩は問題 茜屋一統の漁獲制限 川でアユの容姿、色が違う 川を汚されることの苦痛 本物を知らずして語る学者先生? |
51 | 補記31 | 栗栖健「アユと日本の川」:その1 いにしえの吉野川 鮎を案内役として |
童の前さんでも鮎カケができた吉野川 埋まった源流の谷 消えたカジカガエル 川の変化と生物 昭和32年小田の井堰がコンクリートに 昭和48年大迫ダム 昭和45年頃泳げない支流も 井堰と堆砂、平坦化 雛子の瀬の消滅 吉野川の昆虫の多様性、豊かさ カゲロウ200種ほど 早瀬の浄化力 浮き石 |
52 | 補記32 | 「アユと日本の川」:その2 汚れゆく吉野川 ダムと 水生昆虫、鮎、河原の植物群落 |
底生動物の餌 昆虫の棲息空間、条件=隙間のある石底 早瀬、平瀬、淵の生物生産量 泥に弱いトビゲラ ダムで昆虫量は64〜81%に ダムは昆虫の棲息環境、条件を悪化 ダムと味の変化 北俣川の鮎の質はよい 渓流のみいい鮎が 河原に植物が繁茂 |
53 | 補記33 | 「アユと日本の川」:その3 子供と吉野川 支流が子供の遊び場 子供も生き物も消えた |
支流が子供の遊び場 遊び相手=ゴリ、シマドジョウ、蝦、カワムツ 憧れは鰻 秋の川の淵 魚の値打ち=ジャコよりもコイ、フナが格上 =フナは清流に住めず 水の味と落葉樹林、人工林 水と魚 カジカガエルは昭和35年頃まで合唱 浮き石と石河原がなくなりカジカガエル、 アカニャン、アカネコが消える |
54 | 補記34 | 「アユと日本の川」:その4 人工等放流河川の吉野川 |
人工と本物の区別なし 人工の影響=大鮎 桜の咲く頃煙草より大きかった 田に水を引く頃4、5寸 下りと出鮎の区別なし |
55 | 補記35 | 「アユと日本の川」:その5 森林の再生 伐採と出水、減水変化 桜鮎はもどる? |
伐採と出水、水枯れ 都会っ子は人工林をつくろう 治水、利水の川でよいか 「河川対策」は後世への相続財産になる? 建設省は「流量」変化なし →年間の「1日平均」流量の話? コンクリート井堰のできる前 小田井堰にシバの階段をつくる 三頭首工の魚道改善 →遡上可能に 数が問題 下りの大変さ 桜鮎は戻るか |
ホームへ戻る 補記1:鮎への慈しみ |
「姥ざかり 花の旅笠」に、姥桜がどのようないでたちで旅をされたか、田辺聖子さんは「〈庶民時代裂(注:ぎれ)研究会〉の堀切辰一先生にお目にかかってお話をうかがったのだが、「〈まあまず、木綿の縞物でしょうか〉ということだった。」
そして、水呑み百姓は、「〈あたらしい反物が手にはいることはまずありません。多分、古布を継ぎ合わせ、縫い足して、大切に、大切にいたわって、着たでしょうな。〜〉」
宅子さん、久子さんは商家のお内儀、あとの2人に高持ち百姓のお内儀はいたのであろうか。商家のお内儀であるから、継ぎ接ぎの着物ではなかろう。
堀切先生は、「かねて心を惹かれていた庶民の、古い時代の裂の蒐集、そしてそこにひそむこころを、調査研究されているよしである。」
「さて堀切コレクションの真骨頂は祝い着もさりながら、庶民の日用衣服、裂にある。
〈これは腰巻です。〉
といわれて拡げられたのは、ちょっと見れば襤褸のかたまりか、雑巾をつくねたものにみえた。」
「堀切先生は物静かで、何のけれん味もない淡々たる方である。しかしその〈継ぎ接ぎ腰巻〉に見入られる先生の慈眼は、さながら、癒しようのない苦患に苦しむ病人に対し、医術の無力に忸怩たる名医…というふうにも見える。あまりに大きな情念におしひしがれ、先生は深いものを抱えたまま、平静、淡々としてしまわれたようにもみえる。」
そして、
「貧乏も農民であることも、その人の責任ではないのですけどね。」と。
ここに描写されている情景は、故松沢さんがオラの繰り言に対して説明されるときに、
「鮎は何も悪いことをしていないよ。すべて、人間が悪い。山から雨水がいきなり川に流れ込むようにしたのは人間よ。」と、付け加えられたときのことに通じると思っている。
自ら子孫を再生産して釣り人を楽しませることもあたわず、人間が作り出し、放流する人工を釣らざるを得ない状況、環境に対して、あるいは、その環境に生きる健気な遡上鮎に対して、故松沢さんのまなざしは「慈眼は、さながら、癒しようのない苦患に苦しむ病人に対し、医術の無力に忸怩たる名医…というふうにも見える。」に通じると感じていた。
補記2:沖取り海産の「湖産ブランド」偽装 |
「鮎に憑かれて六十年」に四万十川の変化が書かれている。
四万十川がダムのない、最後の清流、と、昭和60年、昭和62年にNHK,朝日テレビで放映されて、
「『四万十川人気』が一般にあがるばかりである。」という状況の時に、前さんはもう四万十川に行かない、と。(四万十川にもダムはある。)
「その昔、私も四万十川へ出かけたことがある。鮎の放流事業を全くしていない時代だったから『海あがり』の鮎がよく釣れた。最上流の大見村までの水も知っているが、NHKはどうも大袈裟と思えてならない。
近年この方五,六年も四万十川に通っている友人がある。」
その友人は、
「『前さん、もうアカン。昔は大正、昭和地区で一番仔が早う溯っとりましたが全然!五月の中旬に喰み跡がない。地元の漁師の話やと一番、二番仔は高知や徳島の養殖業者が網でごっそり河口で獲ってしまうちゅうことですわ。飛行機代払うて川を見に行くだけになってしもうた。川も仁淀川の方がきれい』と嘆くのである。また、地元は川漁が盛んな土地柄、秋に産卵する親鮎も漁師が舟を出して乱獲するところもあって、激減の鮎事情なのである。」
「『昔はなあ、川のこっちに潜ってアッチを見たら向こう岸で水遊びをしとる女の子の黒いところも見えたもんよ。放流?そや、放流事業もせんならんようになってしもうた』とは、上中下流の漁協を統合する組合長、土井さんの話。」
「もし、仮に四万十川河口に集結した一番、二番仔が海域漁師に獲られて畜養の後、『琵琶湖種』として再び四万十川に放流されでもすれば、それは悲劇を通り越して喜劇になる。私がこんな想像をするのは海域業者が乱獲した仔鮎を、わざわざ滋賀県へ送りつけ、その足で『湖産』の名称をつけて各地に配給する、などという妙な噂が出たこともあるからである。つまり、それだけ、釣り人に『湖産』の人気は高いということである。」
前さんも、故松沢さんと同じで、自ら検証されたことを語ることはあっても、オラのように想像たくましく、先走りをされることはない。
湖産ブランドで販売された量が、湖産氷魚等の採捕量の何倍にもなると、統計資料を使用して書かれた記事が平成の7,8年頃の鮎雑誌に記載されていたが、まだ、その記事が見つからない。
オラは、『湖産』ブランドで売られていた増量剤=稚魚、幼魚は人工鮎と思っていたが、相当量の海産畜養も含まれていたと考えることが適切ではないか、と変わった。
ミートホープの牛を含まない牛合い挽きのように、人工、あるいは海産だけの「湖産」ブランドはないとは思うが。養魚場が事実を書かれない限り、目利きのできた釣り師だけが、オラの亡き師匠らだけが、その事実を感知されていたということで、事実は解明されることはなかろう。
故松沢さんは、狩野川の産卵場に近い淵で行われている投網の方法を話されたことがある。今では、エンジンをつけた船で、投網を打ち、網から鮎を外さずに持ち帰り、待ち受ける人にその網を渡してまた網打ちに行く、と。こうして、8帖の網を使い、効率性を実現した投網が行われているのであるから、産卵に携わる親鮎がどのくらいの減少になっているのであろうか。
1人の生活のために、仔魚量が何千万と、減少させられている。
それを補うために放流された、畳半畳ほどの処に群れ、縄張りを持たずに生活をし、ガンをつけた、と突っかかる人工鮎を釣っている釣り人。その土地貴族とはかけ離れた人工鮎で、数を釣ってもオラには楽しくない。最も、オラはそのような場所に行き当たることもないが。
沖取り海産、「海域業者が乱獲した仔鮎」の産地は、産卵時期が湖産と同時期の10月1日頃を中心とするプラスマイナス1ヶ月ほどであろう日本海、東北の河口域であろうと思っていたが、06年に中津川に放流された富山県産、愛知県産の人工鮎が、6cm、4cm、と中津川漁協のホームページに書かれていたことから、6月の解禁に中学生の大きさに育っていない大きさでも、「湖産」にブレンドされていたのかも知れないと想像するようになった。そうすると、四万十川生まれが「湖産」として、販売されていたこともあろう。
中津川漁協が行った人工の種別、大きさの公表すら、異例のことで、ましてや、「湖産」と養魚場がいえば、「湖産」であるということになり、漁協、研究者でその発言を疑う人は少数。この状況は現在でも変わっていないのではないか。もっとも、湖産の方が人工や海産稚魚よりも安くなっているため、湖産を隠して人工として販売されているのかも知れないが。
研究者に、早川に放流された鮎が「湖産」と漁協が語っているから、「湖産」である、と判断することは間違っている、との感性を持って、と期待することは無理な要求かなあ。早川に放流された鮎の鱗数が、人工の鱗数から、湖産の鱗数まで幅広い、という事実から、「湖産」ブランドとして販売されていても、人工も、海産畜養も含まれている、と、想像することがなぜできないのかなあ。
返信
「故松沢さんの思いで:12」に、狩野川のアユの産卵時期の例外現象として、「10月上中旬に下りをしないで産卵する」と書いたが、「10月初め頃」の間違いです。ただ、故松沢さんが「10月初め頃」と表現されていたか、「10月上旬」と表現されていたか、は忘れました。
おらは、この例外現象としての下りをしないアユの産卵現象が、萬さ翁が語られた長良川での下りをしない鮎の産卵と同様、すっきりとはしていない。
理由
@ 相模川では、県内水面試験場の流下仔魚量調査で、厚木の三川合流点より上流での流下仔魚観察量は僅少で、下流の門沢橋や神川橋での観察量に比しわずかである。ということは人工でも下りをして産卵している、と考えていた。
A さらに、紀の川について
「ただ、湖産鮎ってのは早熟です。だいたい自然のものに比べて約1ヶ月早いですな。湖産鮎が腹へ子を持つのは1ヶ月くらい早いです。和歌山の海でとる海産鮎は遅れます。この海産鮎は自然に遡上する鮎とよけい変わらんですな。放流したものは、放流場所へ秋になったら戻る。これは増水のおりでも、チリジリ、チリジリに、放流した場所に戻ってくる。上流にいっとてもね。放流場所はわが根拠地で、なるべくはその付近で産卵したい気持ちもある。それからまた、水が出るというようなことがあったら、そりゃずっと下るわけですけど、水のでない場合は、その付近で産卵する。こりゃ、鮎の習性ですな。放流した場所、これは母親の場所へ戻ったという気持ちちゃないかしらと思う。それで産卵すれば海へ落ちるわけですよ。そのあと一週間ないし二週間のあいだに孵化したものが下るわけですな。」
(小西島二郎 佐藤清光「紀の川の鮎師代々」徳間書店)
「紀の川の鮎師代々」は、NHKが昭和52年に制作した「紀の川・鮎師」のディレクタ?であった佐藤さんが、小西島二郎翁から、放映後の機会に聞き取りをされたことを書かれている。
小西翁は、「紀州徳川家の御用鮎師を先祖に持つ」人で、「小西家には伝わる茜屋流と呼ばれる独特の漁法が伝わっている。」その伝承者である。
人工鮎が下りをしないで産卵するだけでなく、海産畜養も下りをしないで産卵をする、となると、オラの空想力も機能できない。
これらの鮎の氏素性と下りの関係、流下仔魚の観察結果をどのように考えればよいのか。小西翁ももう、ご存命ではなかろうから、その知識を頼ることはできない。
小西翁の海産畜養も下りをしない、ということに関しては、まだ「紀の川の鮎師代々」を読み始めたところであるから、故松沢さんに尋ねる項目には入っていなかった。
故松沢さんが下りをしないアユの産卵と例外現象であげられた鮎は人工と思っていた。産卵時期が10月始めであることから海産畜養ではなかろう。(日本海の稚魚でなければ)
故松沢さんの観察力が凄いと思ったのは、産卵現象を観察することはオラでも運がよければできる。しかし、その卵がどうなるかまではオラは気がつかない。当然孵化すると思ってしまう。
故松沢さんは、例外現象としての産卵結果がどうなったか、まで観察されていた。
「例外は原則を検証する」ほど、重要な現象である。しかし、この検証も、何が原則で、何が例外現象か、の知識がないと、神奈川県内水面試験場のように、湖産も、継代人工も、海産も誤った判断基準=漁協が「湖産」を放流したといっているから「湖産」である、ということが事実であるか否か、に疑問を持たないで、産卵時期を判断する結果となる。
小西翁が海産畜養も増水で下がらない限り、下りをしないで産卵する、との現象が普遍化できるのであれば、山形県が行っている2代目方式の人工鮎が親としての子孫を残す役目も限定的になるのであろうか。
「海産畜養」も、下りをしないで産卵をする、という現象は、偶然によって、海産畜養が釣りの主役になるほど放流された2009年相模川は弁天から昭和橋で観察できた。 「故松沢さんの思い出補記:その3」 |
補記3:真っ黄色の鮎と攻撃衝動 |
紀の川の、江戸時代から続いていたという川漁師の小西翁の語らいを読むと、故松沢さんや仁淀川川漁師の弥太さんと異なる現象の記述とか、評価も語られている。
これらの違いについて、どのように考えればよいのか、もはや故松沢さんに尋ねることができないため、小西翁はこう語っている、ということで満足せざるを得ない。残念なことである。
(1)紀州のお殿様も見学したのではないかという、淵の岩場での「背刺しについて」の記述から
(「紀の川の鮎師代々」第2章「伝統の釣り技と網漁のはなし」)
「故松沢さんの思いで:2」に、真っ黄色の鮎について書いた。
「アユの体表の黄色はゼアキサンチンというカテノイド系の色素に由来していてる。」
「このゼアキサンチンはコケの中でもラン藻に含まれていて、アユの主食のようにいわれるケイ藻には全く含まれていない。ケイ藻ばかり食べているアユは黄色くならない。」
そして、阿部先生のケイ藻からラン藻優占種への遷移を引用されて、「ナワバリアユは一定の場所のコケを食べるので、ナワバリ内はラン藻の卓越したエサ場になりやすい。そのためラン藻に含まれるゼアキサンチンを多くとることになり、結果として体表の黄色みが強くなるのである。」
上記の研究報告について、オラはおかしい、と疑問を持っていることと、故松沢さんが話された狩野川城山下の一本瀬に差してくる真っ黄色になった時合いの鮎の現象を書いた。
その中で、真っ黄色の鮎が縄張り鮎ではない、との松沢さんの話に触れたが、小西翁の観察では、真っ黄色の鮎が縄張り鮎である、という事例である。
@ 釣り方と観察場所
「淵の岩場では荒瀬の友釣りのように鼻かんをつけてもほとんど釣れんのです。おとりが沈まないし、自由に動かんですから。それで背中に針をつける。これも茜屋の考えた独自の方法です。とにかく鼻へつけたんでは釣れやんのです。岩場の全然流れのない場所ではね。」
「この上からのぞき見ながら釣る見掛け釣りは本当におもしろいですよ。縄張り鮎が岩についていて見えておる。こいつを釣らんならんと思って、すぐさまおとりを相手に気づかれぬくらい下流の地点へ入れるんです。すぐ近くに持っていくようなことじゃだめなんです。まず下流におとりを持っていく。そして沈ませたおとりを引き上げるようにして縄張り鮎の注意を引いていく。追いかけてくればおとりが逃げ出すように竿で操作して、相手の闘争心をあおり立ててやるんです。」
A 挑発行動の結果
「おれの場所に相手が取りにかかったというような気分が、おとりの動きによって強く働くわけですな。そうしたらおとりを下手から上手へと操作して近くにやる。これを繰り返す。縄張り鮎はますます怒るわけです。鮎が怒り出すのは、その動作によってよくわかりますよ。体の黄の色も濃さを加えてくる。いよいよおとりを接近させると、極度に怒りの様相をあらわにします。だんだん怒りがきつうなるほど色が濃くなって、尾鰭まで真っ黄色になる。だいたい鮎というのは、ふつうでも尾鰭までやや黄色みを持っていますが、いよいよおとりを追い立てるとかみつかんばかりに巻きついてくる。」
小西翁の観察と松沢さんの観察を合わせると、真っ黄色の鮎は、縄張り鮎も、淵にいた群れ鮎も攻撃衝動が著しく解発された状態の時に黄色く発色するということになるのであろうか。故松沢さんも、小西翁と同様、見釣りはよくされていたであろうから、小西翁の観察事例についても、事実である、といわれたかも知れない。
なお、小西翁が見掛け釣りをされた水深のある淵である。ナイロンの水中糸であれば1号以上、絹糸で小西翁のお父さんが作られていた糸であればそれ以上の太さであった時代のことであるから、水深のある淵では囮をそこに潜らせることが困難で、背環の仕掛けにした、ということであろう。したがって、透明度は3m以上であるから、貧腐水水と推定できる。
そこで繁殖している苔は、ラン藻ではなく、珪藻が優占種のはず。藍藻が優占種となる富栄養状態の川では3m以上の透明度はなかろう。3メートルどころか、1メートルの透明度もなかろう。
とすると、珪藻には「ゼアサンチンが含まれていない」との研究報告の評価が適切であるとはいえない。それとも珪藻には、ゼアサンチン以外の物質で、攻撃衝動が異常に高まる状態が持続すると黄色く発色する物質があるということであろうか。それとも、珪藻が優占種ではあっても、藍藻もそれなりの率で混じっているということかなあ。
オラは、亡き大師匠が長良川の名人からもらった背環仕掛けをお守りのようにベストに入れている。マッスル背針とオモリで間に合わないような流れの処で釣ることもないから、また、大井川の2,3m余りの水深があるところで見釣りをするときも、金属糸では囮が潜るため、背環仕掛けを使うことはないが。
小西翁のお父さんが作られていた絹糸は、
「今のテグスのような感じのものを絹糸で作ったんですからね。それを糸車で作るんです。そしてそいつを煮るわけですな。その糸を撚ったものを『煮枠』っていう枠があってね、その枠へ巻きつけて煮るんですよ。そのたきかげんもあったと思いますな。そりゃ特殊な、我我の真似のできん技術やったわけです。そやよってに他の人も全然できなんだんで、みなに譲ったわけですね。本当に喜んで使われたわけですよ。」
だれもが、細い、強い糸を容易に手に入れることができない時代が、昭和の30年頃まで、あるいは50年頃まで続いていたはず。ましてや金属糸が素人衆が安心して使えるようになったのは、編み付けの手法が公開された平成も10年頃のはず。
ということで、強い細糸を素人衆が操れる状況になってまだ10年ほどしかたっていない。昭和の終わり頃、0.6号、1号のナイロン糸も素人衆が使っていたが、亡き師匠は半日で張り替えよ、といわれていた。
補記4:鮎は鈍な魚か=漁法その1 |
弥太さんは、鮎は川魚の中で一番「鈍」な魚といわれている。
その理由は
「『火振り』に『瀬張り』ろう。大水が出れば『濁り掬い』というものがある。とにかく網だけでもいろんな種類の漁ができる。わしらが子供のころはタモ(手網)でもすくいよった。」
釣りにも、友釣り、毛針の鮎釣り、ドブ釣りがある。
「ニセのエサに騙されるかと思うたら本物のエサにも釣られる。」
「子供のころは、よう『金突き』(ヤス)でも獲りよった。」
「昔、金突きができたときは、夜にやりよった。光で川底を照らしながらアユを探すんじゃが、光の真ん中を見ておったらいかん。動かしていくと光の縁の、ぼうっとしたところにアユが見えるとき、そこを突く。アユの真上からまともに照らすと、あれらはたいてい光の外側に逃げてしまう。ウナギらは割合平気で、明るう照らしても穫れるがね。」
「ぼーっと薄暗いところで一発で捕まえんと、アユはぴゅーっと走って逃げる。」
「しかし、漁の種類が多いということは、それだけ習性が単純で騙されやすいということじゃろう。本当の意味で頭のよい、警戒心の強い魚じゃったらこんなにたくさんの方法では穫れんはずではないかね。エサ。好んで付く場所。怖じたときに逃げる方向。夜に休むところ。好みの水流。産卵場所。あの魚は、習性をみんな人間に見抜かれとるから、いろんな方法で穫られるぞね。
だからわしは、アユは川魚の中で一番鈍な魚というがよ。」
(「仁淀川川漁師秘伝 弥太さんの自慢ばなし」)
これに対して、小西翁は、同じ現象についても弥太さんとは異なる評価をされている嫌いがないでもない。
見掛け釣りで、大きな岩場に2尾の縄張り鮎がいるとき
「今釣ったばかりの鮎をおとりにして、隣にいる縄張り鮎を釣ることは不可能に近い。ほかで釣ってきたばかりの鮎をおとりにしなければ、よく追い立ててこんのです。それがまた戻ってきたとなると警戒する。まあ、その鮎が逃げる場合もあるけども、全然追ってこんのですよ。警戒しておって。同じ状態におとりを操作してもなかなか追わんです。そんなことで、鮎というのは頭がいいんですよ。鼻もよければ目もいいし、耳も近いし、それは敏感です。それを相手にするところに、釣りのおもしろさがあるわけですな。」
「だいたい鮎はすべて濃い色は嫌いますが、特に黄の濃いものがいやなようですよ。縄張り鮎の腹部の黄点や各鰭が黄色になってくるものを見ても明らかなように、黄色によって相手を威嚇するものと考えられるからです。」
視覚だけではなく、「それと耳、音感も鋭いわな。腹の両脇にある側線が耳らしいですな。相当敏感です。とにかく嗅覚、視力、音感、どれをとっても驚くべき相手であることを忘れてはあかんと思いますな。」
と、小西翁は鮎の五感能力をほめる。しかし、そのあとは、弥太さんと同じで、その五感能力を逆手にとって、鮎をたぶらかす方法を習得すべし、となる。
小西翁は、小鷹網を主にする網漁で、予約数量を確保したり、1番電車に乗って売りに行かれていた。
五感を逆手にとった事例 |
@ 火振り漁
小西翁
「昔、茜屋で行っていた火入れ漁に使ったかがり火も濃い黄色です。めらめら動く明かりが鮎には一番嫌な色で、その嫌な色が川面一面に揺れ動くため、うろたえさせて鮎を網に掛ける、これも鮎の嫌いな色をたくみに利用した漁法といえるんじゃないですか。」
「水面のあちこちに火が熾りますね。すると鮎が自分の影におびえてパーッと狂ったように動く。」
「かがり火のためにうろたえた鮎の多くは網に跳びつくけれども、網をさけてどこかへ逃げんならんという鮎は、最後には川原へ跳び上がりよる。」
「それを拾い子といって、子どもたちと女の人が手づかみで拾うたもんです。」
「ようけいおるおりは、飛び跳ねるわ、無数に網にかかるわ、両岸に跳ね上がるわ、それこそむごいもんですよ。こんな漁法を殺生というんやろうとわしは思いますな。技術じゃないんですよ。道具にまかせることですから、かわいそうです。」
弥太さん
「アユはほんまに鈍な魚じゃ。明かりを当てるとそれこそパニックを起こして、下に張った刺し網に簡単にかかってしまう。網にかかった仲間がきりきりと白く舞うとるがじゃき、反対(上流)向いて逃げればよかろうものを、それをよけい驚いて、わざわざ自分から網に飛び込むような魚よ。」
A 夜網(小西翁)
「魚が寝ているというても注意は怠らん。他の魚でも同じことですが、夜はやはり動かんですよ。なるべく川べりに近づいて、鰭もなるべく休めておるわけです。夜は目が見えんので、安全な流れ、余り急やない場所で鰭もよけい使わんところで休んどるわけです。」
「外敵がやってきても、すぐ逃げられるところ」にいる鮎を狙って「足音を立てずに静かに行ってもそいつはちゃんと知っとるわけですよ。それで砂地の音のしないところから接近していくわけです。これは接近の仕方によっては漁になるかならんかてことですよ。」
B 瀬張り漁(弥太さん)
「この瀬張りが、アユがした下に逃げる習性を利用した漁よね。」
「この漁の場合は、網にアユを絡めて獲るがではないがぜ。糸は太うて、編の目もその気になればアユがすり抜けられるほど大きい。この網の役目は、じつは通せんぼをするための網よ。」
「竹を縄暖簾のように結んだ網を持って」アユを追い込む。
「アユはまず下流に逃げよるわね。ところが行き先には網が通せんぼをしとる。アユは、脳味噌はどうちゅうことはないが、目だけはよい魚じゃき、昼はどんな細い糸でも見破る。まして太い糸でこしらえた網よ。すぐに気がついて逃げ場を探すわね。
そしたら川の底に、なにやら穴があるじゃあないか。とりあえずそこに逃げ込んじゃろうと思うわ。わが身の安全のために。それがつまり竹で編んだ筒よ。ひとつの筒に、多いときは20匹も30匹も入るぞね。」
「そんなふうに、瀬張りは目がよいというアユの自信を逆手にとって裏を掻く方法じゃが、火振りはその逆で、アユは夜目が利かんちゅうことを利用する漁じゃな。」
補記5:鮎は鈍な魚か=漁法その2 |
C 子どもの鮎獲り
(弥太さん)
「夜のアユは不思議なもんで、光を当てると飛び跳ねよるね。暗がりで変なもんに当たりそうになったら、とりあえず上へ飛べちゅうような本能があるがじゃろうか。
街灯の明かりのように、いつもじっと動かん光には、アユは神経質じゃないんだが、例えば道路を車が走って、淵にライトの光がかかると、アユは怖じけるわねえ。」
小西翁は、火振りを松明のメラメラの状態にアユの恐怖心を説明されているが、弥太さんは必ずしも松明の明かりに限定されていない。
弥太さんは、「瀬張りは一度に100kgも200kgも獲れるが、準備も人手もかかる。火振りの漁獲はせいぜい一晩に20kg、30kgばあのもんじゃが、操船する者とおどす者、最低これだけおれば十分よ。それが利点じゃろう。
網をはずすのは女子供に手伝うてもらえばはかどるわね。うちでは一族や友人を集めてワイワイガヤガヤとやっている。気分の半分は納涼よ。」
小西翁は、火振りについて「最後には川原へ跳び上がりよる。」「それを拾い子といって、子どもたちと女の人が手づかみで拾うたもんです。」と、弥太さんと同じ状況の記述をされている。
ただ、火振り漁の漁獲について、小西翁の記述は弥太さんよりもアユにとっては過酷な漁法とされているが、この違いはどのような理由によるのであろうか。
子供の遊びについて、弥太さんは
「ひとつが手づかみよ。つまみとか、握りともいうたわね。これは細い谷に限った方法じゃが、まあ、これほど簡単なアユの獲り方ちゅうたら、そうはなかろう。
アユは夜、深場でじっとしておるという話はしたが、浅い谷におるアユの場合は、瀬の中の、なるべく流れの緩やかなところで休んどる。そういう場所にそっと入って、下に向いてしゃがむがよね。それで手のひらを、野球のボールを受けるように構えて水に沈める。
ただそれだけよ。静かに待っておると、じきにアユが入いってくるき、これをパッとつかむ。いや、ほんまじゃ。それだけで獲れよる。
なぜかとゆうたら流れじゃ。上にしゃがんで手を開ければ、真下の流れは緩うなるろう。近くに休んでおるアユは、少しでも緩いほうが体に楽じゃき、次第次第に手のひらのほうへ近寄ってくるちゅうのが種明かしよ。
もちろん昼にはとてもじゃないが通用せん。鮎の眼が利かん夜じゃからできることじゃ。」
アユが、夜に休む場所を選択する習性と夜目が利かないことを利用した子供のアユ取りであるが、10匹、20匹をつかめたとのこと。今は「アユが小さな谷間まで真っ黒になってのぼった時代とは違うきね。」まず、獲れないのではないか、と。
注:この鮎つかみは、野村さんが「アイニギリ」と、語られている漁と同じであろうか。 「故松沢さんの思い出:補記 その2」 |
昼間の谷でのアユ獲りについて=タモすくい
「これは昼の遊びじゃね。サカキの枝を輪にした枠に、目の細かい網を付けて、アユがおりそうな場所へそっと近付く。
もう片方の手には2mばあの棒を持って、それを川に入れてアユを追うがよね。」
「昼のアユは危険を感じるとまず下流に走るちゅう習性がある。そうやって構えておったタモへ追い込むわけじゃが、あれらは何しろ眼がええきに、ただ下流で構えて追うだけでは絶対に入らん。
オイカワやカワムツは、わりかた鈍ながやけどアユはちょっとでも怖いもの、つまりタモが見えると川底とタモの隙間をすり抜けて逃げてしまう。タモで追いかけても、とても追いつくものではないぜよ。
ではどうやって追い込むかというと、大きめの石をタモの前に並べて、アユから見えんようにしてしまうわけよね。棒に追われて下に走る。石がある。それを乗り越えて逃げようと思ったら、もう目の前にタモがある。気がついたときには体が半分ほど入っているというわけじゃ。
瀬張りの時にね。筒へアユを誘い込むのに、手前にひとつ石を置いて筒の口を隠すのと同じ理屈じゃ。」
これらの子供の遊びを含めて、釣り人、研究者の中に、経験し、あるいは理解できる人はどのくらいの数であろうか。
鮎が食することで珪藻から栄養分の多い藍藻に優占種を遷移させる素晴らしい自然の営み、との評価を行い、あるいは、「湖産」ブランドといわれたから、湖産が放流されている、と疑わない研究者は、古のアユの営みとの違いを少しでも知ろうと、あるいはBODとかCODとかいった汚染度とは異なる次元での水質の違いが川の水には存在していたかも知れない、と、想像することをなぜされないのであろうか。
オラは、亡き師匠や故松沢さんから、川の水等の今昔の変化、それによる鮎の質等の変化、湖産ブランドのブレンド化: 偽ブランド について、説明を受けていたから、理解できなくても、違いがわからなくても、現在とは異なる世界があったことは知ることができた。とはいえ、どのような世界であったかを聞くことはもはやできなくなった。
子供がアユとどのように戯れていたか、一度でも故松沢さんに尋ねておけば、と、悔やまれる。
城山下右岸の護岸に土が張られたとき、故松沢さんは、子供がその法面を滑って遊ぶように、テレビゲームをして家に閉じこもっていないように、との町長の思惑で行われた事業である、と。しかし、故松沢さんはその説明された効果を否定されておられた。
昭和の終わりころから見ている狩野川で子供が釣りをしたり水遊びをしている風景を見たことがない。否、1,2回は淵にルアーを、練り餌を投げているのを見たが。
何で子供の来ない狩野川か、わからない。故松沢さんが子供のころ、狩野川でどのような遊びをし、魚とつきあっていたのか、聞いておくべきであった。
中津川の食堂の人は、子供のころ、厚木の堰が鮎の遡上を妨げていなかった中津川で、拾ったコロガシの針に、網で獲った小鮎を付けて、ウナギのいる穴、石のあいだに入れて、日々、ウナギを捕っていた、と。それは日々の食卓に上ったため、蒲焼きが大嫌いになった、と。
そのような情景も狩野川にはあったのであろう。
補記6: 鮎は鈍な魚か=漁法その3 |
D ドブ釣り(小西翁)
「ドブ釣り、毛針釣りというのは、結局ヨーヨー釣りともいって、子どもが遊ぶヨーヨーの要領でやる方法です。毛針の流し釣りは鮠の釣り方と同じこと。紀の川では二つとも昔はかかったんですけども、現在、鮎はかからない。これはよほど水のきれいなときでなければだめですな。
現在のように、いくぶん濁りがあると毛針はきかんわけです。」
「鮎というやつは、天候とか時刻とかによって、刻々変わる光や色というものに対して非常に敏感やよって、水の色と藻から出る餌の色とが合致せんと食わん。」
「それで毛針は試しに使い分けして、天候、時刻、場所などの条件を考慮して、きちっとあわせていかんと鮎はかからん。」
「とにかく鮎は保護色で敏感ですからね。場所によってすぐ周りの色に変化するわけですから。
そういう相手やってに、色にはことに敏感です。岩場の深い場所に棲むと黒になる。黒いところにやや青さを含んだ、ちょうど淵の色です。ところが砂場に棲めば茶褐色。川床の色と同じになる。保護色ですからそうなるわけです。」
故松沢さんに真っ黄色の鮎について尋ねたとき、光線の届きにくい淵に棲んでいることと関係あるかも、といわれたことはあるが、小西翁ほど、色の違いを説明されたことは記憶にない。ただ、保護色といわれた記憶がかすかにはあるが。
ドブ釣りは、漁具が高価のため地元の人はやらず、都会からやってきた上流階級の楽しみで、昭和の初期から流行した、と。
「川開きの前日など、私の家でも大勢のドブ釣り連がつめかけてきて夜通し騒ぎ立て、寝ることもできぬほどであった。よいポイントに当たれば二十キロも釣れるのだから、漁場の取り合いに騒ぐのも無理からぬこと。」
「ポイントに当たったときで、上手なプロ級やったら5貫くらい釣ることもあるわけです。アホみたいにかかるんですよ。大きな二十センチ以上ある鮎でも。針さえ合えばそれだけ釣れるわけです。」
「昭和二十年ごろからぴたりと釣れなくなってしまった。それまでは毛針の流し釣りもよく釣れて、よいポイントなら夕方に一キロくらい釣れて愉しいものであったがこれも釣り止んで、現在までいずれも釣れぬ状態である。」(「現在」とは、昭和53年ころのこと)
小西翁は釣れなくなった理由を「鮎はおそろしいくらいの鋭い色彩感覚と視力を持っているだけに、絶対に餌に違いないと思う毛針しか食わぬのではないか。透明度の高い水でなくては毛針の色彩がぼやける、ぼやけたものには鮎が食いつかないと考えられるからである。紀の川の水も昔に比べれば透明度が数段落ちている。この透明度が原因でドブ釣りが利かなくなったのではないか。」
小西翁も金持ちの道楽であるというドブ釣りをされたことはないとのこと。
小西翁は、透明度の低下をドブ釣りで釣れなくなった理由にされているが、オラは鮎の密度が薄くなったからではないかと思っている。
06年の遡上の僅少であった相模川・高田橋の右岸にはいつものドブ釣りメンバーが解禁日にたむろして、束釣りの人もいた。そのトイ面の友釣りでは余り釣れたいなかったが。ただ、釣れていたのは、県産継代人工等の人工鮎であった。
07年は遡上鮎が釣りの対象となるほどいたが、解禁日にはまだ縄張りを形成するほど成長しているのはわずかであるため、宮城産人工が友釣りの対象。遡上量が多いため、高田橋上流の分流では、中学、高校生のねえちゃんが毛針の流し釣りで、お前は唐揚げになるのよ、毛針マスターズはないの?といいながらせっせと釣っていた。多分、高田橋右岸のドブ釣りの人よりも多く釣ったのではないかと思っている。
ドブさんは、毛針の選択だけでなく、流れの状態が重要、といわれていた。誤解を承知で表現すると、流れの上下方向のかけ上がりがポイント、という言い方であったと思う。
また、小西翁の書かれているように、束釣りが珍しいことではなかった、と。
手取川等の上流に遡上してきた鮎を釣っていて、相模川の人工等の放流ものを釣ると、馬力がない、質が悪い、釣りたくはないが、仕方がない、と贅沢を言って、せっせと釣り上げるから、すぐに上下から挟まれることになる。それで、詰め寄ってきた人の釣っていた処に移っても、あるいは狭い空間の中でも釣るから、ねたまれる。
昭和20年とか、特定の年の紀の川で、ドブ釣りが振るわないというのでないため、なぜか、その理由について、想像すらできない。もし、水の濁りが原因であれば、相模川でドブで釣れることはなかろう。
昭和20年には毒が流され「淵の底が真っ白になるくらいに鮎が死んだんですよ。」
「魚の数が前のようにまた戻ってくるには、その翌年は相当の打撃で少なかったけども、やっぱり鮎の産卵数というものはおびただしいですから二,三年もすりゃね、戦争のあげくのことやよってに悔やまれますが、もとの川に返るのはわりかた早かった。」
その後も砂利採取、さらに食品加工会社の汚水公害等があり、鮎の量を減らしていた、と。
平成の初め頃までは狩野川城山下淵の左岸には、10月、11月にドブ釣りの一団がやってきていた。平成5,6年以降、その姿を見ることはきわめて稀になった。遡上量が少なくなった時期と一致しているから、ドブ釣りは遡上量と関係があるのでは、と思っている。その上、淵が砂底になったから、21世紀にその淵でドブ釣りをする人を見ることが数年にあるかなしか、という状態になった。
昭和の終わりころの昼時、トイ面のドブ釣りをオラと眺めながら、故松沢さんがどのようなことを話されたか、記憶にない。オラのことであるから、どのくらい釣れているか、等を河原のテントからドブ釣りを観察されていた故松沢さんに尋ねたと思うが。
補記7: 水質と透明度 |
小西翁は、ドブ釣りの不調を透明度の下がった川の水の変化に求めておられるが、透明度が下がってできなくなった釣りについて
「わしらの子どもの時分は箱めがねで鮎を引っかけたもんです。これはきれいな水やなかったらできんことですよ。それだけ現在は濁りがあるわけですね。子どものころは泳いだし、ここの水はけっこう飲めたんですよ。飲んでもなんの害もなかったわけですが、今はそんな、一口も飲めたもんじゃないです。」
小西翁が小鷹網を打ち、あるいはそのほかの漁法で鮎等を獲っていた紀ノ川の上流で子供のころを過ごしていた前さんは、
「私が若い頃の吉野川中流域の下町附近でも、きれいな流水で附近の皆は、ごく自然に川の水を飲んだものだ。現在、水の汚れは『BOD』などと舌を噛むような表現をするが、昔は、その水がおいしいかどうかがその目安であったと思う。川に潜って水中で眼を開いていても、眼病にかかる人は皆無であったと思う。」と。
それでは、これらの水の透明度はどのようなものであったのであろうか。
小西翁は「『万葉集』に歌われた妹背の淵なんか、水深が四間あまり(約七.二メートル)もあるところがありますよ。それでも昔は底が完全に見えた。底の砂から小石の状態まで見えたんですが、今は(注:昭和50年頃)それどころか、二間ばかりの底がはっきりせんのです。それだけ不純物が混じっている。」
去年の10月下旬、大井川駿遠橋すぐ上流のトロで見釣りをして豊満美女との情事を楽しんだ。そのトロの水深は3mほど。底の砂まではっきりと見た。しかし、昭和橋上流左岸の淵は3,4mほどの処までしか立て岩盤が見えない。
ということは、大井川の透明度は、昭和50年頃の紀の川の状況ということであろうか。
相模川の高田橋上流、小沢の堰付近には、昭和40年の津久井ダム完成以前、あるいは、工事の影響の出る前には、一の釜、二の釜があり、亡きEじいさんは、そこでドブ釣りをする釣り人を相手に数隻の船を持っていた。Eじいさんは自らも釣りをしに川に行くときは水を持って行かなかったとのこと。
川の水を飲んでいたとは考えにくいが、故松沢さんのように、砂を掘るとすぐに湧き水が出て、それを飲んでいたのではないか、と想像している。
そのように飲むことのできる川の水のあったことは、オラの記憶にもある。昭和30年頃、芦屋ロックガーデンから六甲山、トゥエンティクロスを経て、布引の滝へ、あるいは、六甲山から北上して、鳳来峡、鎌倉峡を経て道場へと歩いたとき、沢水を、川の水を飲んで渇きを癒していた。
昭和50年頃の相模川・弁天から望地の石切場付近には、石がごろごろしている河原の中に、砂地の処があり、湧き水が出ていた。そこにはシジミ、シマドジョウがいた。ダム放流後、水が引くと、フナ、ブラックバスやウナギの幼魚、あるいはスナモグリがいた。その場所は小さく、浅かったから、ガキどもが網でそれらを獲ることに適した遊び場所であった。
今や、そのような湧き水の場所はなくなった。河床があがった、伏流水が生成しないシルト層に覆われるようになったからからであろうか。
公共下水道が整備されて、どの程度水質が改善されるか、分からないが、湧き水、伏流水が回復することは期待できない。「アユの本」に、四万十川でも、シルト層が川底に堆積し、伏流水が減った、と書かれていたと思う。
BOD,COD等のレベルでの水質が改善されても、故松沢さんの口癖であった「金の塊」としての価値をあゆみちゃんが持っていた苔:、珪藻の種別が優占種になることはない、というのが、故松沢さんのあきらめの境地の源であった。「金の塊」の苔を育む水は、山の腐葉土から浸みだしてくると。
「尺鮎トラスト」のホームページに、「ダムができると鮎はどうなる?」に、村上先生が「アユの餌からダムの環境影響を考える」を書かれている。ここに書かれている事柄は、ダムのある川だけではなく、ダムがなくても、同様の水、川の環境に置かれた川では通用するのではないか、と想像している。
また、別の項に、川辺川の鮎とダムのある球磨川の鮎の品格と味の違いについても書かれている。
村上先生は、珪藻も植物であることから、生存に「太陽の光、窒素や燐などの栄養分、生える場所などが必要です。このような条件が満たされている川辺川では、早瀬の礫の上に、茶色の、ほとんど珪藻だけからなる藻類の皮膜が発達します。」
ダムがある球磨川では、白く細かい濁りがとれにくいが、「ダムに溜まった濁りが、少しずつ長い間下流に流れ出すためです。」
この濁りで太陽光が減り、成長が阻害される、とのこと。また、「川上から流れてくる窒素や燐などの栄養分はダムのプランクトンに使われたり、沈殿したりして、今までどおりの量が下流には流れなくなります。」
この説明での疑問は、なぜ、珪藻だけが濁り、及び、栄養分の影響を受けることになるのか、ということ。そして、同じ条件下で、なぜラン藻は繁茂できるのか。
ことに、窒素や燐等の栄養分の問題であれば、富栄養状態の相模川の方が珪藻の生存、繁茂に適していることになるが。
ドブ釣りと濁り No.[450] [返信]
投稿者:片岡相模原 投稿時間:2008/02/21 [木曜日] 19:10:15
久しぶりに、弁天のフナ釣り場にドブさんがやってきた。もっとも、ドブさんは、いつもきているというが。
07年の相模川は遡上量が多かったため、束釣りは当たり前、とのこと。昔は加賀毛針を使っていた。加賀毛針でも、10匹ほど釣ると、バケる?と。毛針の色が変わるとのこと。しかし、加賀毛針の凄いところは、バケても乾かすと、本来の色に戻る、と。
今は、安物の毛針を使っているが、それをすぐに使うと何匹も釣らないうちに色がおち、毛が抜ける。したがって、3年はおいておくとのこと。
漆、膠が十分に乾燥しないうちに出荷しているから、とのこと。速乾性ではなさそう。
ドブさんは、透明度の高かった手取川等では赤っぽい毛針が、足もとも見えない相模川では黒っぽい毛針が有効、と。ただ、相模川でも、昼の時合いでは、赤っぽい毛針が有効になり、放流ものの大きい鮎が釣れる、と。
相模川で釣れる7月1日頃の遡上鮎の大きさは手取川等の鮎よりも小さい、と。これは日本海側での海産の産卵が相模川以西の太平洋側の産卵よりも1ヶ月以上早く、湖産並の大きさに成長できる時間を経過していることと関係しているのであろう。
故松沢さんは、子どものころは、ドブ釣りもされていたであろうが、ドブ釣りについて話されたという記憶がない。何でかなあ。
ドブさんは、3,4回流すと、その時のあたりバリがわかるとのこと。
透明度 No.[463] [返信]
投稿者:片岡相模原 投稿時間:2008/02/24 [日曜日] 06:51:32
「識別珪藻群法」のホームページでは、貧腐水水での珪藻の分布は書かれておらず、β中腐水以下の「割合きれい」な水以下の珪藻群を書かれている。
今の代ではこの分類が実用的ではあろうが、故松沢さんが「金の塊」と表現されていた古の飲めるほどの水質に棲息していた珪藻を考える上では、十分のデーターとは言い難いと思う。
ということで、森下雨村「猿猴川に死す」を読んで、古の川のことを見ることとする。
補記8: 森下雨村の語る仁淀川:1 |
森下雨村「猿猴川に死す」(平凡社ライブラリ)の序を、釣りに縁のある井伏さんだけでなく、松本清張や横溝正史が書かれているため、奇異に思ったが、雨村が探偵小説の草分けであり、江戸川乱歩や横溝正史を発掘し、育てたことから、と知った。
雨村は60才を前にして仁淀川に近いところの実家に戻られた。そして、仁淀川、新荘川、物部川、吉野川、四万十川で、ウナギや鮎や、はたまた正月に海でハゼ釣りをされている。
弥太さんとはまた趣を異にする古の川、鮎の側面が書かれていると思っている。
とはいえ、これがとんでもない状況になるとは。
雨村は、仁淀川流域でウナギ釣りもできた佐川で子どものころを過ごし、博文館で探偵小説に関わられていた頃も帰省のたびに、あちこちを釣り歩かれていた。昭和15年に仕事を辞めて、足の不自由な父親と暮らすため、佐川に戻り、昭和40年に亡くなるまで「晴釣雨読」の暮らしをされていたらしい。
その中で、知り合うこととなった人々との交流、思い出を書かれている。あとがきに、山岡操さんが3回忌に佐川を訪れ、
「その夜、寢所にあてがわれた仏間の蒲団の中で夜の更けるまで御遺稿を一気に読んだ。ペンの滴りすべてに人間に温かい思いをかけるイゴッソウの性がにじんでいる。釣りに託しての庶民への愛隣の文字である。釣りに親しむ庶民と、そして底辺の人々に寄せる秀れた釣り人の厚い心情が刻まれている。釣り人はもとより、広く世人へ贈るゆえんである。」
雨村翁と、「猿猴川に死す」の「猿猴」とは、
「物部川へ出かけたときは、いつも彼の家に泊めてもらったほど…」の仲であり、ある夏、仁淀川上流の国境に近い大きな淵の鷲の巣へ「その鯉をとって御馳走するから、出かけてこないか」と誘われた。
「『まだ二,三匹いるが、なにしろ淵が深いのでどこへ隠れたか見つからない。やっとのこと二匹追い詰めたが―、』と義喜が言うと、(注:猿猴のことで、横畠義喜 土佐では河童のことを猿猴というとのこと)
『その二ひきとも、おやじが突いたんだ。やっぱりおやじは猿猴だよ。』」
ということで、鯉汁を御馳走になった。
雨村翁は、「五人の河童が下の瀬に飛び込んで、適当な間隔をとって逃げまどう鮎を追いつめていくのを眺めながら、わたしも褌一つになって義喜の後から瀬の中に立ちこんだ。ちょうど、川の中ほどのかなり大きな石の下に、うなぎの白い頸がちらと見えた。三〇〇文あるかどうかはわからないが大物であることは間違いなかった。わたしは、餌をさしたひごを口にくわえ、眼鏡のくもりを拭いとって、じっくりと自分の足場から、釣り上げてからのことを考えた。」
結局、「まごまごしていれば獲物と一緒に荒瀬に押し流される」事態を避けることはできたものの、ひごをとられてしまった。」
猿猴が亡くなられた昭和28年の20年からの昔のことである。
猿猴は「漁好きといっても、そのころの彼は(注:昭和20年以前の頃ではないか)文字通りの猿猴であった。竿釣りはもとより後年、物部川筋でその妙技をうたわれた投げ網などには目もくれず、仁淀川の淵瀬をもぐり荒らす河童の大将であった。すらっとした細形の体躯と精悍な気性は、見るからに人間の中の川獺といった感じがして国境の落出附近から下流黒瀬のあたりまで、えんえん二十余里の仁淀の流れで、かれの一党が金突きを入れなかった淵や浅瀬はどこにもなかったであろう。まったく川に生まれ、川に育った猿猴であった。」
雨村翁はさらに、猿猴の優れた人となりを書かれている。
その猿猴が川で亡くなられた。
「いつものように早暁の網打ちに出かけて、田村堰の付近で一と網投げたとき、堰の上を渡っていた二人連れの子供の一人が、もう河原ぎわというところまできて、足を踏みすべらしてころげ落ちた。それを見て投げた網はそのまま、堰の上をいっさんに、泡立つ水の中に飛び込んだものらしい。が、その拍子に運悪くかれも足をふみすべらして、泡立つ水中の岩角にしたたか頭を打ちあてて、それっきりになったらしい。ころげ落ちた子供は、押し流されて、河原にとりつき無事であったが、」
雨村翁が釣り歩かれた足跡から、鮎の遡上がどのくらいの渓谷まで行われていたのか、遡上があるということは、日照時間の短い渓谷でも光合成で珪藻が生育し、あゆみちゃんの胃袋を満たしていた、ということになるはず、と、いつもの著者の意図に違う邪な目的で雨村翁を読む。
ところが、オラが前提としていた昭和40年代以前には川の生き物の往来を妨げる人工構造物は例外現象、ということが、仁淀川では通用しない、とのこと。
ということで、放流鮎をも考慮に入れなければ一部の研究者と同じ判断ミスを犯すことがわかった。
伊藤猛夫「仁淀川―その自然と魚たち ―開発の中に生きるようす―」 (西日本科学技術研究所)
(西日本科学技術研究所は、「アユの本」の著者・高橋先生がおられた研究所)
伊藤先生は「はじめに」に、「仁淀川はみじかくいえば『水のきれいな川、河口に近い下流まで小石河原がつづく川、鮎量では中・四国で四万十川につぐ川』となるが、もうひとこと付けたせば『開発利水の歴史の古さと徹底ぶりでは日本有数の川』でもある。
この川の大きい開発の始まりは三三〇年余りの昔、藩政時代の八田堰建設にさかのぼる。アユの遡上、住みつき、産卵、それに漁場にも目抜きといえる川すじを二つに割るこの八田堰は今も変わらず取水の役目を果たしているが、魚たちの移動にも昔と変わらぬ難所のようだ。
明治、大正、昭和とつづくその後の三時代には、川すじのいたる所に開発の手が伸び、発電用取水ダムなどの数は二〇カ所をこえるほどとなった。」
補記9: 森下雨村の語るに淀川:2 |
「仁淀川―その自然と魚たち―」には、酒匂川等漁協の地図にも、また、一般の地図にも表示されていない堰も表示されている地図が掲載されている。その堰、ダムの構造物の建設と、雨村翁記述の釣り時期との前後関係を検証する能力はオラには無理とあきらめている。
そして、仮に魚道が設置されていても、遡上量が1000万ほどあったのではないかと想像している08年の相模川ではあるが、中津川は、厚木の妻田の魚道を流れ落ちた水がまっすぐ下流に流れておらず、反転して上流に流れているため、魚道ののぼり口がわかりにくい流れになっている。これが相模川に比し、中津川への遡上量が僅少であった原因と推定している。
また、遡上量の観察を行うようになってからは最大の遡上量ともいわれていた04年のときは、大島にも遡上鮎が上ったのに、07年には小沢の堰がのぼれなかった。なぜか、わからない。
このように、物理的に魚道が設置されていても、その魚道をアユが遡上できるか否かは、流れ方や魚道下流側の段差が増水後に変化する。よって、年によって異なる遡上阻害度はどうか、等の要因は仁淀川を見たこともないオラには想像できる事柄ではない。
「仁淀川―その自然と魚たち―」には、仁淀川における鮎の放流カ所と、種別ごとの量が掲載されている。
「1952から1957年には、全川に約一六万〜四五万尾、平均三二万尾が例年四月に放流されている。
このうち二〇万尾が上流の面河川とその支流割石川、久万川、黒川など愛媛県内に、残りがそのしも仁淀川の支流長者川、坂折川、上八川川など高知県内に放流され、種苗は主に琵琶湖産と四万十川産である。
愛媛県内が高知県内のおよそ二倍に近い放流をしているのは、多くの取水ダムのための自然遡上が妨げられる上流域にあることを、また、高知県内の放流数が年によって特に少ないのは、種苗の入手難を、それぞれ反映している。」
上記の放流実績から、仁淀川では、遡上に頼ることが可能である、という側面もあるということか。相模川漁連は340万?の義務放流量を定められており、その量でも遡上のない時、あるいは少ないときは名人とオラとの業績格差も大した数字にはならない。もちろん、放流量が、すべて生存している、と仮定しての話であり、生存率が低ければ、川にいる継代人工はグンと少なく、当然、オラと名人らの格差も少なくなる。
仁淀川での昭和50年頃の放流量は相模川の1割ほどであるから、放流アユの生存率が仁淀川が格段によかったとしても、もし、遡上量が少なければ、昭和50年代には職漁師は生活できなかったのではないか。
ということは、八田堰が「川すじを二つに割るこの八田堰は今も変わらず取水の役目を果たしているが、魚たちの移動にも昔と変わらぬ難所のようだ。」ではあっても、遡上アユにとっては、不便を強いられている、というレベルであろうか。
「種苗の入手難」とは、どのような意味を持つのであろうか。放流アユ種苗は、湖産と海産に限定されていた時代、人工アユがまだ放流の例外に近い量の頃であったことを表現しているのであろうか。まだ、湖産ブランドの偽装が大々的には行われていなかったことを表しているのであろうか。
返信
八田堰が魚の上下の移動に不便は与えていたであろうが、阻害はしていなかった。その遠からずかも知れないところに、雨村翁の住まわれていた佐川が位置する。
佐川付近からバスで行くことのできた越知に弥太さんが住まわれていた。その二里ほど下流に、雨村翁が垢石父子を案内して友釣りをされた鎌井田の瀬がある。その時は、越知から漁師の舟を利用して下られている。
越知の上流にある筏津ダムが魚道はあるものの魚の移動妨げているのではないか。ダム下流では瀬切れを起こしている写真も掲載されている。
仁淀川は、愛媛県にはいると、面河川と名を変える。
「仁淀川の上流も、もう国境に近い大きな淵」が猿猴らといった鷲の巣になる。ここにもアユはのぼってきていた。
補記10: 森下雨村の語る仁淀川:3 |
「仁淀川―その自然と魚たち―」には、1960年代以降の放流量も記載されている。
「一九六〇年代の一九六五または六六年〜六九年または七〇年には、全川放流数は、約五八万〜七九万尾、平均約七二万尾と一九五〇年代の二倍以上に増加している。この増加は高知県内の平均約四三万尾、約三.七倍、愛媛県内の約二九万尾、約一.五倍によるもので、高知県内の寄与が目立っている。」
「六〇年代に高知県内に放流した種苗のほとんどは、仁淀川に自然遡上した稚アユを八田堰下流で採捕したもので(一〇五ページにカラー写真)、放流先は長者川から下流の主要七支流すべてにわたっている。
愛媛県内への種苗は主として琵琶湖産で、その入手難の時は、愛媛県内水面漁連による海産または河口産(津島町)、四万十川産(中村市)、那賀川産(阿南市)などを当て、その放流先は面河分水が行われるようになり割石川への放流を除いたほかは五〇年代と大差がない。」
「一九七九または八〇年から一九八三年または八四年までの最近の数年間には、全川の放流数は、約一〇三万〜一六三万尾、平均約一二三万尾と六〇年代に比べてさらに約一.七倍に増加し、そのうち愛媛県内は約四〇万尾で前の一.四倍、高知県内が約八二万で一.九倍と伸びが大きい。
愛媛県内への種苗は、琵琶湖産が平均約五割、愛媛県種苗センターによる人工産が約三割、高知県内水面漁連による海産が約二割で、一年だけ鹿児島県下の海産が人工に変わっている。高知県分は、一九六〇年代に行っていた八田堰下流でのアユ種苗の自川調達はなくなり、五カ年のうち前二カ年はすべて琵琶湖産、後三カ年は琵琶湖産が約六割、高知県内水面漁連による海産が約四割となっている。放流先は両県とも六〇年代と大差がない。」
放流量が増えたことは、遡上量が減ったことであろうか。それとも、遡上阻害カ所が増えて、放流に頼らざるを得なくなったからであろうか。
八田堰下流での採捕が行われなくなったことは、遡上量が減ったことを、そして、放流量が増えたことは、遡上を阻害する人工構造物が増えたことを表しているのであろうか。
それにしても、相模川の放流量よりも少ないなあ。
「アユ種苗の大きさは、一九五〇,六〇両年代にはほとんど一尾あたり二グラム前後の小型であったが、近年は放流効率をよくするため採捕後すぐに放流せずにしばらく畜養し、四〜五グラム程度として放流する場合が多くなっている。」
四万十川産が放流されていたということは、海産畜養であろうか。もし、そうであれば、前さんが「もし、仮に四万十川河口に集結した一番、二番仔が海域漁師にとられて畜養の後、『琵琶湖産』として再び四万十川に放流されでもすれば、それは悲劇を通り越して喜劇になる。」という現象が、仁淀川漁協のように、種苗の峻別をするところをのぞいて、「湖産」という養魚場の付けたブレンドで、海産が、そしてだんだん人工がブレンドされていった、と推測している。
否、仁淀川でも、「湖産」として購入された中に、海産、人工がブレンドされたいると推定している。理由は、昭和35年頃でも、湖産入手が困難であったのに、仁淀川だけでなく、全国的に「湖産」放流量が何倍にも増えているにもかかわらず、「湖産」が各漁協で調達できていることは、琵琶湖での氷魚採捕量が増えていなければ実現不可能といえる現象である。
しかし、琵琶湖での稚魚採捕量は、資源の減少から、網がどんどん沖合に設置されざるを得なくなり、また、人工河川を作り産卵量を増やさざるを得ないようになっていたことからも、減少していた。
よって、「湖産」に海産等がブレンドされていなかったのは、昭和35年あるいは昭和40年以前のことと推測している。仁淀川漁協が1960、あるいは1965年代以降に購入した「湖産」に、海産や人工が混じっていると考えることが、需要と湖産採捕量との関係から適切である、と。
昭和40年頃から「湖産」ブランドへの海産をブレンドする偽装が養魚場では公然と行われていたであろうから、「アユの本」に掲載されている1987年四万十川河口海域での稚魚について、「湖産」しか放流していないから、「四万十川に遡上したアユを親とする」稚魚である、よって、海産の産卵は10月始めから大量現象として行われている、との高橋先生の説明には同意できないことになる。
湖産と同時期に性成熟を迎える日本海側の海産稚魚が、四万十川の海産稚魚同様、琵琶湖畔、徳島等の養魚場に送られて、「湖産」として出荷されていた、それが四万十川にも放流されていて産卵し、仔魚となったから、海でも稚魚は死ななかった、と考えている。
もっとも、その後も日本海側由来の稚魚が生存できたかどうかはわからないが。餌である動物性プランクトンがその後も生存に必要な量の生産が行われていたのか、の問題はあるが。
追加
雨村翁は、正月のハゼ釣りの釣り場に向かうとき、80才が先頭に立つばあさんらに追い抜かれたが、その雨村翁も歩いて、歩いて、釣りをされている。
垢石翁が、藁科川から、大井川の中川根町へと移ったとき、車を利用したのでは、と思っていた。亡き師匠らと、垢石翁とは逆に、笹間渡から、藁科川に抜けたとき、車でもたっぷりと時間がかかった。
その道を歩いていたとは、渓流釣りの素石さんら、「遙かなる山釣り」の渓流釣り師だけではなく、鮎釣り師も歩いて、歩いて、の、釣りをされていたのであろう。
故松沢さんらが、湯ヶ島を漁場としていた同業者が鮎が下った、ということで、中流域に下ってくると、いそいそと更場状態の湯ヶ島に出かけて、束釣りをされていたが、その時、バス、車ではなく、自転車を使われていたのではないか、と思うようになった。
注:垢石翁が、藁科川から、中川根町へと歩かれた道は、亡き師匠らと笹間渡から藁科川へと車で移動した道ではなく、北側の道のようである。 |
補記11: 森下雨村の語る仁淀川:4 |
「仁淀川―その自然と魚たち―」には、仁淀川のの漁獲量も記載されている。例えば、1950年代5カ年の平均は「四五〇トン、うちアユが一四七トン」、1960年代の5カ年の平均は、「三五〇トン、うちアユが二〇三トンであった。」
「この二つの年代の漁獲の移りゆきをみると、総漁獲は一九五〇年代から六〇年代へと二割余りも減少したが、鮎の漁獲は逆に四割近くも大幅に増加している。
六〇年代に、漁獲の対象がアユに集中してきた傾向が見られるのは、網漁具が後に触れるように著しく改良され漁獲能率が上がってきたこと、アユの放流量が増加したこと、組合員が二分の一足らずに整理され質が向上したことなどによるもののようだ。」
1950年代の漁獲量の12%をウグイが占めている。
小骨の多い、また、夏は匂いのするウグイがなぜ商品になっていたのかわからなかった。
雄物川から流れてきた人が、アユは道具が高くつく等、誰でも獲れる魚ではなかったこと、また、保存食としてウグイの方が適していた、と。
ウグイは、集まってくるように石を積んで流れを作れば、投網で一杯獲れる。しかし、鮎を獲るには、細い糸の網を使わなければならい、と。これは小西翁の話とも一致する。
また、骨が気にならなかった、ということは、垢石翁が水の冷たいところで育つ魚の骨は柔らかい、と書かれていることと関係しているのであろうか。
ということで、川筋の保存食として、蛋白源として、ウグイの方が重宝された、と雄物川からのお流れさんは話されていた。そして、相模川にやってきてからも、ハヤをちょうだい、といわれることが多々あったとのこと。
相模川が国内有数の鮎の漁獲高とのことであるが、オラは信頼性が低い推計値であると考えている。多分、(放流量+遡上推計量)×一定値の1匹の重量×採捕率×他の要因?ということで、あろうが、採捕率は時折脂ビレを切断する等の方法で調査をした結果を使用しているのではないか。そのため、05年のように、解禁日に釣り人の姿がコロガシ区でも見あたらない、という、放流された県産継代人工が解禁日以前に多くが死んだと推定できるときでも、これらの死んだ人工も「採捕率」の構成要素とされるのであろう。
ということで、仁淀川の漁獲量がどのようなレベルのものか、イメージできない。
雨村翁は、「仁淀川の支流上八川の渓谷を奥へ奥へとわけ入って、人影もない渓流でただひとり友釣りを楽しんだことがあった。〜。それも人里離れた渓谷で谷川のせせらぎや河鹿の声を聞きながら、釣り三昧の境地にいっさいを忘れることができるならば、それこそ釣人の天国というべきであろう。」
「もうかなりの上流へきたと思うころ、流れが山裾を右へ大きくカーヴして、上手にはちょっとした川原をひかえた瀬があり、下手はその瀬が川いっぱいの荒石をぬうて流れていた。相当の水量もあり、それら荒石にはいつきの鮎が垢をはんでいそうだった。」
2匹を釣ったところで根掛かりをして、ハリスを切りやっと囮を回収して河原に戻ったとき、上流に1人いることに気づいた。
その人が囮の付け替えに苦労していることに気づいた。
「じっと目をとめると、なんと左の手の手頸から先がないではないか。囮のつけ替えに手間どるのも当たり前だ。気の毒ー。わたしは玉網をよじって、囮の逃げないように石をのせてその男の傍へ近づいていった。」
その方は、左腕の先で囮を押さえて鼻環を通しているとのことであるが、今、石を伝っていて、滑り落ち「白い手棒の先が血がにじんだようにあかくなっている〜」から、普段と違い、囮に鼻環を通せなくなっていた。
昭和の終わり、狩野川の青木の瀬で出会った片腕のない方の囮の付け方について、故松沢さんはタモに入れた囮を足で優しく踏んで鼻環を通していた、といわれていた。
雨村翁は、
「足や手の不自由な釣人は、どの川筋にも一人二人はいるものである。わたしの村のTさんも戦傷でやはり右の手頸から切断しているが、釣り好きで、それも友釣り一式であるが、Tさんは義手をはめていて、不自由ながらも本当の手棒ではなく、竿の扱いも達者で、たいていの場合、両手そろった仲間よりも釣果をあげているのをみると、釣りの急所、秘訣といったようなものは、竿の操作などよりもどこか別の所にあるのかも知れない。」
ワンタッチ鼻環のなかったころである。故松沢さんは、鼻環を閉めるには、フック式の方が片手で操作しやすい、といわれていた。
Tさんが義手をされていたとしても、囮に鼻環を通し、鼻環を閉める動作は容易ではなかったであろう。
雨村翁は、足の不自由な方の釣りも紹介されている。
補記12: 森下雨村の語る新荘川 |
雨村翁は、吉野川等にもいかれているが、昭和10年ころ、帰省時に新荘川の遅越の淵にドブ釣りに出かけたが、いっぱいいる大鮎が見向きもしてくれないため、「見よう見まねの友釣りを試み、幸運にも四,五匹を釣ったのが、そもそもの病みつきであった。」
「その当時、新荘川で友釣りをたのしむのは、ほんの二,三人に過ぎず、その時も同行の仲間はおとり掛けは鮎釣りの外道だと、わたしをたしなめたものであった。どぶ釣りにそろそろいや気がさしかかっていたわたしは、いまに見ろ、君達も友釣り等に転向するにきまっていると言葉を返したことだったが、それから二,三年して帰省したときには、果たして、その仲間が一人残らず友釣り党にかわっていた。」
餌釣りのころの話
「大正も初めのころ、九州から四国の西を吹き荒れた210日前後の大暴風、氾濫した四万十川の上流大正村の民家が十幾戸も押し流されたときのことである。洪水に押し流されて海に出た四万十川の大鮎が沿岸伝いに新荘川へ入ったというので、地元はもとより高知市の釣天狗まで、わんさとばかり押しかけたものである。わたしも一週間あまり日参したことだったが、高知からであろう毎日三,四台のハイヤーが川岸に止まり、県道に沿うた堤防下の釣場には、何百という釣人の竿が文字通りに林立していた。」
「大物の出る下手の深りは、地元の先客にしめられて、汽車通いの遠来の客にはいい釣場はのこされていなかった。」
「まず用意してきた竹の棒に、魚籠のひもをむすび、餌のしらすを入れた餌たごを胸にぶらさげ、さておもむろに、隣の竿を見ながら、上み手に向いてポンと鈎をいれる。」
「〜流れていた錘がぴたりととまる。一瞬、底石にでもひっかかった感じである。ハッとなって竿を立てる。とたんに糸がきゅっと張って、鈎をくわえた魚が上手へむいて突っ走る。たわんだ穂先と糸が上み手へむいて一直線に伸びるもいっしょ、魚はさっと急旋回して下も手へ向かう。
『ごめんよ!』
大きい声で叫びつづけて、竿を上み手にたてながら蛇籠の上を下へ下へと引かれていく。」
「約二〇〇メートル、獲物もさすがに疲れが見える。〜」
「水ぎわをすべるようにそろと川原へ漁体があがる。竿をすてていっさんに駆けよって掬網へとりこむ。」
「これが鮎であろうかと思われるほどの、まるで鯖のような巨大な入り鮎に、しばらくは見惚れていたものである。」
「家へ帰って量ってみると五十匁から最大七十五匁の大物ぞろいで、大型の皿鉢にいっぱいであった。中に一ぴき地鮎がいた。ふだんなら大物といえる三十匁級のその鮎がかあいそうなほど小さく見えた。」
この日、雨村翁は得意満面であったが、上手がいた。
「〜だれかれがわたしの魚籠をのぞいて、大して驚いた顔も見せず、あのWの魚籠を見てくれと水ぎわにならんだ魚籠の一つを指さした。
これはまた見事な漁であった。わたしの釣った最大級の大鮎がたしかに十匹以上、重なり合ってあふれていた。わたしも思わず驚嘆の声を上げたほどの大漁である。」
下手の横好きのWは、
「その日の夕方、魚籠にもりあがった獲物をさげて、須崎の町内を東へ、西へ二度も往き帰りつしたそうである。」
おらも、そのWの心境、そして、雨村翁の自慢話に誰も相手にしてくれない不運な巡り合わせはよく理解できる。
洪水で、新荘川のふだんの大きさ三十匁に対して、五十匁から七十五匁の大きさの鮎が入ってきたということは、仁淀川や、四万十川の川と鮎の大きさを示すことになるのであろう。
洪水で、狩野川の鮎が早く水が澄んだ伊豆松崎の土肥川?那賀川?に入り、家族サービスでやってきていた亡き師匠が、家族を放りだして、竿を出した。橋の上から、外野が、もう少し、右、左、とうるさい中、大漁だったとのこと。洪水ほどの増水の時は遡上鮎といえども流されるものもいるということであろうか。
亡き師匠が車に竿を積んでいたということは、家族サービスにかこつけて、下心があったということであろうか。
昭和の終わりの8月20日ころ、亡き師匠らと仁科川にいったとき、餌釣りの解禁になった川に、小学生の女番長?が男どもを引き連れてやってきた。女番長は、腕はたしかで、短時間に50ほど釣って子分を引き連れて昼飯前に帰って行った。
釣れていたのはオラ達が釣った鮎よりも小さいが、昼食、夕飯の唐揚げに余るほどの漁であった。
既に、餌にはアミも使われていたが、その小学生たちがシラスを使ったのか、アミを使ったのか、見なかった。
補記13: 森下雨村の語る四万十川:1 |
昭和16年、雨村翁は、「大鮎の本場といわれる大正村から上流は、どんな川態をしているか、まるで見当もつかなかった」から、「製紙原料の楮の買入れで度々その地方を歩いたという人に、おおよその話を聞い」て、出かけた。
土讃線窪川から森林軌道に乗って、田野々につく。
「四万十川は目の前にある。揚子江の流れを初めて見た人達はなんと形容しているであろう。吉野川や仁淀川を相当の大河として見慣れていた目には、まさしく想像を絶した大河であった。川幅は二百メートルからあろう。それが川岸いっぱいの漫々たる水量をたたえて、悠然と流れている。案内知った土地の漁師ならいざ知らず、よそものが竿を出すべき川ではない。
支流北川へはいるまでは、四万十川見物と肚をきめ、右岸にわたって平坦な往還道を上へ上へと歩く。次第に人家は点々となり、両岸の山々もだんだんと迫ってはくるが、川は依然として大河の姿を失わず、どこまでいっても川岸に竿を出す釣り人なんか見えない。」
夕方、影地についた。近道はあるが、道が悪い、といわれたのに、日没まで三十分ある、「二里半もの道を迂回していては次の宿にたどり着くのは夜に入ってからになる。」と、地元の人の忠告を無視して近道を急ぐ。
「山峡の落日は速かった。それに上りの道は足もとも明るく、たいしたこともなかったが、峠を越してからの夕暗の下り坂にさしかかると、一歩一歩と大変なことになってしまった。松の根っこがある。石ころや岩角がある。それも急坂の下りである。まともに歩くよりも、うしろを向いて這いくだる方が、安全でもあり、速くはないかとさえ考え出した。急ぐ道はまわれ、人の親切、耳にとめよである。」
雨村翁が書かれている地名を追って、地図をスクロールしていると、川は何度も、大井川も顔負けの蛇行をしている。近道があるとわかればその道を行きたくなる雨村の気持ちがわかる川の蛇行である。
その結果は「あたりはまっくらになってしまった。道がどっちへ曲がっているかさえも見当がつかない。」
「そのうちにごろごろと凄ましい川の瀬音が聞こえだし、対岸であろう、ぽっつりと灯りが見えた。
やれやれ、もう間近いぞとホッとした気持ちも一瞬の気休めにすぎないことがすぐわかった。
あわてるな、危ないぞ、――一歩ごとに言いきかして、ねせるようにやっとこのこと川岸にたどりついた。正面に灯が見える。まったくやれやれといった気持ちになって、無造作に一歩踏み出した途端、足もとが、膝が、全身がぐらぐらとゆれた。ハッとなって立ちすくんだ。おそらく言いようのない恐怖感が全神経を氷のように凝結させてしまったであろう。それが影地を松原をつなぐ吊り橋だとわかってからも、わたしは身動きもできず、欄干につかまったまま立ちつくしていた。」
松原の宿には、神経痛を病んで二年越し寝込んでいる友掛け一式の釣狂がいた。その釣り狂の主の話は
「この宿のすぐ上手にとどろ(轟)の滝がある。鮎の遡上がはじまると、その滝を上る鮎を網ですくうが、調子のいい日には二貫三貫とすくうという話。」
「荒瀬での友掛けは囮を二尾使う。つまり馬車の二頭立てといった恰好で、そのくくり方はこうだという話。荒瀬では相手が鈎にきたと感じた瞬間にずばと上手にぬかなくてはならぬといった話等々。」
囮の二頭立てが他の地区でも行われていたのであろうか。故松沢さんは、荒瀬でも、目印であたりを感じた瞬間、手のひらを返すような動作をすると、掛かり鮎は上流にすっ飛んでいくから、それを引き戻すときに糸をつまんで吊しこむ、との釣り方をされていたから、取り込みの苦労はなかったのであろう。
「翌早朝に松原を出て、とどろの壮観を眺めながら、中平の部落にはいった。四万十川の本流ともいうべき檮原川と支流北川の合流点で、支流の方でダム建設中〜」(注:ダムは檮原川にあるが、なぜ「支流の方」と書かれたのか、わからない)
「道程三里の間、ついど太陽の目を見ないですんだ」官有林を歩き、影之地を目指す。
谷川の木の間から竿が見え、降り口も見つかる。
「わたしは木の根や蔦につかまって、ようやっと渓流に降り立った。川幅は十メートルそこそこ、黒っぽい水成岩の岩盤にばらまいたようなゴロ石をぬうて、瀬はさらさらと流れている。どの川筋でも、かって見かけたことのない理想的な浅瀬の釣り場である。あの石に、あの瀬に、友を追う鮎の姿が目に見えるような気がする。」
「囮を乞うべきあの竿の主は」と近づいていくと、ナマリのない「目鼻立ちのひきしまったこぢんまりしした顔であったが、どこか面やつれのした相(すがた)」の婦人がいた。
婦人は
「魚はいるらしいが、どうしたことか、今日はまんがわるくて、掛かっても掛かっても外してしまう。日がわるいんでしょう。」と唇にひそやかな笑いを浮かべていった。」
そして、婦人の主人に掛かった。
「強引な下も手への引きである。三間、四間、竿をためながらついて走った。が、そこには滝壺の奔湍が待ちかまえていた。瀬は速い、二尾の鮎はそのまま滝壺に落ちて、へなへなになった囮だけが助かった。」
ということで、囮をわけてもらえず。
老釣り師は
「それでは囮をわけて進ぜたいがごらんのとおりで、これから五,六町も上へ行けば職業漁師が五,六人もいるから、かれらに分けてもらう方が早いだろう。」
影之地部落の入り口にある小舎に昼、2人の職業釣り師が帰ってきた。丸木橋の上から淵に泳いでいる型のよい鮎をみていることから、どうしても釣りたい。囮を分けて貰う。
「田野々からざっと十里、四万十川の川岸を二日も歩きつづけてやっと待望の釣りになった。」
補記14: 森下雨村の語る四万十川:2 |
「ほどよい川幅、緩急度をえた浅瀬、わたしには好もしい渓流であった。中流の石根、瀬脇のざら場、鮎は群を反して(注:原文のまま)囮に飛びつきそうであった。
が、問屋はそうはおろさなかった。瀬から淵へ、ここはこそとねらった浅瀬で、囮はもうへなへになりかけたが、まだ1尾の獲物も釣り上げていなかった。やっと囮をついだのは、竿を出して二時間もたってであった。」
結果は、やっと囮をつぐといった不漁であった。その原因についての雨村翁の推理は、オラと似たり寄ったりというところか。
「陽の目もろくにはささない谷間である。時間の関係もあるかもしれない。あるいは前日釣り荒らしたあとだからでもあろう。さっきの老人も職業漁師が釣り荒らしているとは言っていた。それにしてもこの渓流である。魚がいないはずはない。」
「わたしはなおも根気よく釣りつづけた。が、結局、夕方まで釣って、やっと囮を継ぐといった不漁であった。」
帰りに囮をわけてもらった二人にあったが、その二人も不漁であった。
「この分では面白い漁はのぞみがたいと思った。結局、釣り荒らした後なのだ。水量からしても、川幅からしても、たかのしれた渓流である。五,六人の釣り人が三,四日も釣れば、それこそ一応掃除をしているはずである。流れにも魚にもせめて一日か二日の憩いをあたえなければと思った。しかし、釣れても釣れなくても、人里離れた閑寂な環境がよかった。わたしは店屋の主人に乞うて地酒の一杯に陶然となり、塩からい乾魚を菜に腹を満たして、そのままぐっすりと眠りについた。」
06年の遡上量の多かった大井川の昭和橋上流、ウンともスンともあゆみちゃんは答えてくれない。
相模ナンバーと栃木ナンバーの車。不吉な予感は的中した。どらえもんおじさんに、H名人らが、荒らした後。前日に各人60ほど、その日も20ほどのあゆみちゃんをたぶらかした後に、オラと遊んでくれるあゆみちゃんが残っているはずはないよなあ。
翌日、下流に向かい、昨日囮を分けて貰い損ねた老釣り師が釣っていたあたりを釣る。
「前の日に比べて、今日は調子よく掛かった。午前中に十匹余り、缶このなかは型のいい鮎でもたついていた。午後になってからも退屈しないほどに釣れた。魚はやはりいるのだった。昨日はなんかの関係で追いが悪かったにちがいない。とにかく環境はいいし、これだけの獲物があるなら、いま二,三日も釣っていこう。やすやすとまた来られる土地ではないのだから、とわたしは明日を楽しみに、その夜もどぶろくの力をかりてぐっすりと眠った。」
翌朝、目覚めて、煙草を、と。しかし、1,2本しかない。主人に煙草屋を聞くと、4里先の新田、と。
禁煙を決意して、出かけようとすると、職業釣り師の1人が「『お客さん、ぐずぐずしちゃいられんよ。空の雲を見てごらん。ちっとでも早く出かけないと足止めをくう―、』
と大きな声で呼びかけた。
寝耳に水とはこれであった。へえといったきり、空を仰ぐと、なるほど不気味な雲足が断続して飛ぶように北へ向いて走っている。
『こりゃ、暴風雨模様だ―。』」声を聞いて顔を出した主人も、「釣師のいうとおり、一刻も早く帰るがいい。というのは増水すると、この谷川沿いの道には橋がないのでどうにもならない。〜」
「不案内な土地で、それもタバコを買うさえ四里も歩かなければならないような不便な山の中で、雨に降りこめられては惨めである。」
影之地部落をすぎ、土砂降りになるまでに「檮原街道へ駆け上らなくてはと気が急いだ。」
「もう街道までは間近いと、いくらか気持ちがゆるんだとき、わたしは足もとの谷川に吸い付けられた。
鮎がいる!狭い谷川の淵から出口へかけて、かぞえきれないほどの鮎が見える。それも淵で、浅場で入りみだれてといいたいほど友を追っているのである。みすみすこの魚を見逃してはと思った。バスの街道へは程近い。時間は正午である。よし、仮にずぶ濡れになろうとも、この魚を釣らないで素通りはできまい。」
そうとなると、囮の調達。農家の池の生け簀にいるやせ細った魚を1匹缶にいれる。しかし、「竿の手もとがさだまらず、泳いでいく囮の姿が見」えず、また、「大粒の雨が不気味な風に乗って、パラパラと通り過ぎた。」
「それをしおにわたしはいきなり竿を立てて解きはなった囮にさようなら、ご苦労様をいって、街道へ向けて急傾斜の道をいっさんに駆け上った。その後を追うように土砂降りの雨が風といっしょに吹き降ってきた。」
雨村翁の釣り2日目の無念さには経験がある。
明け方、大井川のダム放流のサイレンが鳴っても、ブロックの間に置いた舟を見に行くぐらいであるが、05年、5時50分の天気予報でも何の雨情報もなく、ピッカンのあゆみちゃんとの逢い引き日より。
久々に駿遠橋下流、前山に行く。元気はつらつ、前日釣ったあゆみちゃんの働きよく、女衒気分を満喫させてくれる。そこにサイレン。なんでや?とはいえ、あゆみちゃんのご機嫌のよいときに去りたくはない。それに、天気予報では南アルプスの雷情報は過去も未来もなし。
しかし、いつもとは違い鳴りやまない。万一、増水しても、100ミリ、200ミリの雨量であろうから、川原いっぱいの水量にはなるまい。これが七曲がりであれば、崖に遮られて下界に戻ることは不可能になるが。
左岸川原にやってきた中電の車が盛んにライトの点滅をしている。様子を見ることにする。濁り水の増水。川原を埋めるほどの水量にはほど遠いが釣りにはならない。
泣き泣き、電車に乗って、朝帰り。
後日、その中、家山川では束釣りであった、と聞いて、しまった、と。久しく駿遠橋下流での釣りをしていなかったため、家山川と、大井川の流れが直角に交わる状態に、大井川が右岸護岸沿いに流れを変えているとは知らなかったことも幸運の女神を取り逃がした理由。
10分あまり、右岸を歩いていけば、家山川に着いたのに。濁りを嫌って、家山川にわんさか差してきていたあゆみちゃんが男なら誰でもいいわ、と歓迎してくれたのに。
故松沢さんが長良川で、増水してくる中、分流の沖にある大岩の上で、まだ、濁りがない中、大漁になり、仲間がその川原に集結するまで釣られていたときも、増水等の水量、流れの強弱等の変化の時、大漁となる条件、と熟知されていたからであろうか。
故松沢さんが長良川での予定を切り上げたのか、聞き忘れた。
雨村翁が大河の俤を味わった四万十川に、今はどのくらいの水量、水質、石が残っていることやら。
注:四万十川の場所の位置関係、川、鮎、漁については、「故松沢さんの思い出:補記その2」の 山崎さんや野村さんの話に掲載。 |
補記15: 雨村翁の子供の頃と魚:1 |
故松沢さんが子供のころ、狩野川でどのような魚取りをされていたか、聞き忘れた。
雨村翁は、子供のころの思い出を書かれているが、故松沢さんも、川でいろいろな遊びをしながら、魚と戯れていたのであろう。そして、狩野川の「猿猴」と呼ばれるほど、泳ぎも達者であったのではなかろうか。
その川での遊びがあったから、魚のことも、川見のことも卓越していて、あゆみちゃんを売って生業とする生活にすんなりと転進できたのではないかなあ。子供のころのことは、故松沢さんの遊び仲間にあったときに聞くことはできるが。
(1)どじょう
「わたしが東京へ出たのは、明治の末であったが、初めて駒形のどじょう鍋へ連れられていって、鍋の中のどじょうを見ただけで、いっぺんに食欲がふっとんだことを覚えている。どじょうの稚魚はごぼう汁にたいて食ったこともあるが、それは父が好物であったので、いやいやお相伴をしただけで、わたしの田舎ではよほどの物好きでも、どじょうだけはというほど下等な魚として扱われていた。」
近所の馬から
「飼い主の目をかすめては、その尻尾をぬきにいった。はじめのうちは、そうと厩に近づき、奥の方へ芋や青草を投げ込んで馬が向こうへむくのを待って、素早く尻尾をぬくのであるが、馬の方でもだんだんと心得てきて、尻を横に向けたり、手がさわると後足をあげてかんぬきをけったりして、手こずらせた。そのうちに家人に見つかっていっさんに逃げ出したことも再々だった。」
「尻尾を罠にして、手ごろの竹竿の先きにしっかりと栓で止める。そして田圃道を、ぬき足さし足で、稲草のなかをうかがいながら、なるたけ大きなどじょうをねらって、そうと竿を近づける。時によると餌と間違えて、どじょうの方から罠の中に頭をつっこんでくる場合もある。間髪の呼吸で、ひらひらと大きなどじょうが宙に跳ぶ。釣り上げるよりもぬき足さし足から相手を罠にかけるまでが子供には息づまるようなスリルだった。」
オラはこのどじょうの取り方を知らない。タモで泥といっしょに掬い、土手の草むらに投げて、どじょうの頭をつかむ。蛇をつまんでしまったこともあったが。増水時は、池に流れ込む溝の所に寄ってくるからとりやすかった。それを泥を吐かせた後、どのようにして食べていたか、記憶にない。どじょう鍋ではなく、唐揚げではなかったかと想像している。
(2)蟹釣り
「九月から十月にかけて、大雨が降って、川の水が濁ると、待ちかねたようにわたし達は、竹ん棒を手に手に蛙を探して田圃のへりや畑の草むらを歩きまわる。蛙がとび出すと、追っかけ追っかけ竹ん棒でなぐりつけ、半死半生の蛙を後肢の指からつるりと一気に剥いでしまう。全裸の肢体はぐったりとなっても、まだ目玉のぎらぎらと光っている幾匹かの蛙を長い竹ん棒の先にしっかりと結え付ける。」
「むき身の餌をつけた三,四本の竹ん棒が奔流する濁水の河岸に沿うて、底石の間にしっかりと突き立てられる。待つ間もなく竹の棒がよじるようにしずかに動きはじめる。穴を出た蟹が、あるいは川を下る蟹が餌を見つけてとりついたのだ。手網を片手に重くなった竹の棒をそうと持ち上げる。大きな蟹がひげむくじゃらのいかついはさみで餌をがっしりつかんでいる。濁りの水際、ましてかれらは夢中で餌にとっついている。わけもなく手網の中に入ってからも、容易に餌を手放そうとはしない。そのままバケツの中に投げ入れられる。」
オラが、蛙、どじょうを餌にして釣ったのは、朝鮮どじょう。あるいは台湾どじょう。どっちの呼称が正しかったのか、わからない。トンボを餌にして釣ったのは、食用蛙。食用蛙は、フクロウとオラ達との恰好の食糧であった。手足しか食べなかったが、もっと食べる部分があったのかも知れない。ネズミ取りの籠がいっぱいになるまでには、それほど時間は掛からない。
いぼ蛙の身をはいたことはないが、空洞になった草をいぼがえるの尻に差し込み、腹をふくらませることは、小学校への行き帰りも含めて日常的な遊びであった。
注:ザカニについては、「故松沢さんの思い出補記:その2」に、山崎さん、弥太さん、野村さんの語らいを掲載している。 四国の瀬戸内側が春、太平洋側が秋が下り、産卵時期ということについて、伊豆、関東ではどうなっているのか、秋で適切であるのか、まだ確証はない。 |
(3)カゴづけ
「どじょうや蟹釣りからカゴづけにはいっていく。小学三,四年ごろからである。蟹釣りなどと比べて、はるかに頭脳的で、また心をときめかす愉しみもある。」
「まだカゴづけをはじめて間もないころのことだった。古橋の淵の肩につけたカゴが水を切るときから、がさごその音が高い。胸をおどらして堤の上へ急いだ。」
早く見てみたい誘惑から
「わたしはカゴをいくらか斜めにして、尻の栓を抜いた。と、いきなり一尾が飛び出した。すぐ栓を戻して、その一尾を捕まえればいいのに、そのまま片方の手で捕まえにかかった間に、二尾、三尾と飛び出して、草むらの土手の上で、うなぎとやっさもっさの組打を演じたことがあった。水加減も上々だっただろう。つけ場もよかったにちがいない。家へ帰ってカゴを開けると十二尾のうなぎがはいっていた。」
「うなぎのカゴずけだけは、入るか、入らないかアンサーティンだといったが、それは少年のカゴづけの場合で、職業人のカゴづけは決していい加減な冒険ではない。かれらは二十,三十とつけるカゴの数も多いが、それでりっぱに生活の足しを稼いでいるのだから、カゴづけにも素人と玄人はあるわけである。」
昭和九年、井の頭、善福寺付近に移り、散歩の時に見つけた井荻の細流にカゴづけをした。獲れなかったので、
「三,四日たって、ある会合の席で、カゴづけの失敗の一席を弁じると、先輩のB氏が、『君、善福寺の水は江戸川に流れているんじゃないかね。一と昔前ならだが、いまの江戸川では鯉も釣れんよ。』と言った。
わたしは答える言葉も知らなかった。善福寺、井荻の清流があの工場地帯をとおって、江戸川から飯田橋へ通じているなどは思いもかけなかった。」
雨村翁が東京に出てきたころはまだ、「飯田橋からあの土橋の下で大きな鮒が釣れ、江戸川の石垣の穴でうなぎが釣れ、〜、それは夢のような昔話である。」
故松沢さんも、「竹筒」ではなく、竹の皮で作った「カゴ」を使用されたことがあったのかなあ。故松沢さんがザカニを獲るのに使われていたのは、竹筒であった。その制作者はきまっていたようで、何年かごとに、新しい竹筒がテントに持ち込まれていた。
昭和9年で、江戸川が汚れていたとは。郊外はまだ、きれいな水であるのに。
補記16: 雨村翁の子供のころと魚:2 |
(4)うなぎ釣り
「うなぎ釣りは道具や仕掛が簡単なだけに、そこに言いしれぬ妙味があるといいたいのである。それは長い竿や道糸をいっさい省略して、相手との直接取引であるだけに、神経にも指さきにも目に見えぬ微妙な心づかいがいることは、釣りの心得のあるほどの人にはわかってもらえるはずである。」
「道具や仕掛はところかわればで、その土地土地でちがっているが、わたし達は竹を針金のように細くけずったヒゴの先端へ鈎をつけただけの、子供にでもつくれるような、いわばいとも原始的な仕掛であった。」
「それほども手軽にできる道具ではあるが、さて使いぐあいのいい本式のヒゴとなると、その作り方がちょっと面倒でしろうとには手にはおえない。その道のくろうとに勝手な註文をつけさせると、まず、材料の竹からして吟味する。三年生から五年生までの孟宗竹。それも竹藪の外側、できれば南面して太陽をうけ、しかもすくすくとよく伸びて、節が低くて、節間の遠い、となるとなかなかに註文がむつかしい。」
せっかくの選ばれし竹でもその使用場所は限られる。
「ヒゴの材料にとる部分は、地上から三,四尺から約一丈の間で、陽光に面した側がいくらかわん曲している幅三,四寸の部分に限るというのである。
わん曲しているということは、つまり竹が陽の当たる方へ向いてそっているということでヒゴにけずった場合、身の方へ曲がりやすいのが、その反りがあればピンと真直ぐに保たれるというわけである。」
「その選ばれた三寸幅の竹を細かく割って、約三尺の長さに、先端へ向いてだんだんと細目に皮の部分をいくらかのこして餌のみみずがするするととおるように円くけずるということは、とてもとても根気のいる仕事で、性急なわたしなんどにでけることではなかった。手元のあたりはどうにか円くけずれても、すぐに節がやってくる。その節を円くすべすべとけずることは、根気ばかりではなく、相当の熟練を要する仕事で、わたしなど自分で気に入ったヒゴをけずったことは、ついぞ一度もなかった。」
雨村翁の小学生の先生は、翁が中学二,三年ころにうなぎ釣りに師匠となった。
峠を越えて四里ほどのA村に行く。小物10尾足らずしか釣れず、とぼとぼと帰途につく。
種田先生は
「今朝釣りはじめた瀬肩を今一度釣ってみよう、たしかに5,6尾はいるはずだと、急に元気を出して歩き出した。」
「再び川原に下りて、石垣の穴にヒゴを入れた。文句はない、たちまち1尾。ついでまたである。
『おる!これは寄りうなぎかもしれん。日の暮れんうちに、ヒゴいっぱいに餌をさしとかなくちゃ!』
先生がとん狂な声を上げて、ヒゴ筒からきれいに赤黒に塗りわけたヒゴを三本ほどぬき出したと思うと、これも漆塗りのひょうたんの餌入れからみみずをつかみだして片っ端から刺しては通し刺しては通し、一本のヒゴへ一五,六匹のみみずを手元近くまで、とうとう三本のヒゴへ刺してしまった。わたしも真似をしてやっと二本だけみみずを紐ざしに通した。漆で塗った先生のヒゴのように、わたしのあらけずりのヒゴへは、みみずがスルスルと通ってくれなかったのだ。」
「たしかに寄りうなぎであった。日照りつづきで川の水が涸れると、うなぎが清冽な水や泉を求めて集まってくることは聞いていたし、一,二度そんな場所へ出くわした経験もあった。が、たいてい五,六尾、多くて十尾くらいの集団であったが、この時の集団は十や二十ではなく、ほとんど穴ごとに、というよりも一つの穴で引きつぎ引きつぎいくらでも釣れた。餌の匂いを嗅いで内部の栗石をぬうて集まって来たのであろう。」
なぜ朝は釣れなかったのか、はわからず。
「帰りの足はかるかった。曲がりくねった国道を一気に斗賀野峠にはい上がって、例によって峠の茶店で焼酎の乾杯である。種田先生は酒好きで、晩年はあぶらぎった顔にでんとかまえた平ぺったい大きな鼻が、てらてらと赤く光っていたほどで、先生が好んで峠ごしの遠征したのも、一つは帰りにこの峠の茶店の一杯がたのしみではなかったかと思うことがある。」
種田先生のヒゴ作りについて
「やっと一本のヒゴができあがるまでには、ゆっくり一日はかかったであろう。今度は、それを炭火にあてて撓め、とくさで磨いて鈎をつける。その鈎つけがまた各人の好みでカッツケにしたり、ブラにしたりするが、鈎元(ちもと)さえつければ大体作業はそれで完了である。ところが凝り性の先生は鈎元から二,三寸を上質のにかわで塗りかためる。鈎素を巻いた糸が石などに擦れてほぐれないためである。」
さらに漆を塗る。
「節を塗るのは餌のとおりをよくするためで、だんだらに塗るのは(注:へら浮子のように色を塗りわける)餌をくわえたうなぎの引きが水の中でよくわかるからである。」
「いつか某氏の宅で、錦襴の袋に納めた先代東作の鮎竿を拝見して、なるほどこれは床の間に飾るべきだ。釣天狗など軽々しく手にすべき竿ではないと思ったことだが、種田先生の丹精こめたヒゴも、せめて二,三本ゆずりうけておいたらよい記念になったにと残念である。」
中津川で、子供のころ、コロガシの針を拾って竹につけ、捕まえた鮎を餌にして、うなぎを釣り、それが日々食卓に上ったため、蒲焼き嫌いになったという食堂の主人の少年時代は、戦後のことである。妻田の堰がなかったころ、海との行き来をする魚が豊富であったということであろう。
07年秋、角田大橋下流に太いうなぎを網に入れた人がやってきた。瀬肩附近の大きい石をのぞいて去っていった。その人の竿はヒゴではなく竹であった。エサは見なかった。ただ、相模川で、紐に結わえた針に餌をつけ、朝引き上げにいく人は、餌に鮎を使っている。
なお、「三貫何百匁で、高知の納涼会へ見物に出し、意外な金儲けをした」大物釣り専門の楠さんの道具は「ヒゴの長さが五尺から六尺あった。鈎は真鍮の針金で堅牢そのものだった。」
餌は、十匁、二十匁の大きなどじょうや鮎。
「釣は仁淀川の堰堤や、大きな落石がごろごろしている空谷の渓谷に限られ、相手にするうなぎも普通のうなぎではなく、大うなぎ(赤うなぎ)呼ばれる斑入りのどう猛なうなぎで、百匁二百匁の小物でも、うっかり手を出すとひどい目にあうと言われていた。楠さんの話だと、そんな大うなぎを引っかけた時には、穴から出てくるところを待ちうけて、あわてず、騒がず左の小脇にかかえこむのだそうである。するとうなぎは大きな尻尾を楠さんの肩から胸へぶちかけて、案外始末がいいということだった。」
「が、楠さんがねらうような大うなぎは、そうざらにはいなかった。二年、三年と経つうちに楠さんもとうとう根負けがして普通の職業漁師になった。」「大物釣りをやめて普通の釣師に転じてからは、ぐっと収入もふえたらしい。」
雨村翁はなぜ、大うなぎが減ったのか、あるいは減っていないのか、は書かれていない。
補記17: 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:1 |
「猿猴川に死す」に、木村榮一「解説―少年雨村 山河を駆ける」が掲載されている。
木村さんとオラとは3才の年の差があるが、木村さんが「解説」に書かれている情景はオラにも十分に共感できる事柄である。ということで、木村さんの文で、雨村翁が川、魚と遊び、人との交流を重ねられたことを偲ぼうと思っている。同時に、故松沢さんが経験されていたこと、観察されていたことをもっと聞いておけば、と悔やまれる。
木村さんは、
「自分の作った毛鉤ではじめてアマゴを釣った時の感動はいまも忘れることができない。きっと、その瞬間に、ぼくの心の中に眠っていた一人の少年が目覚めたのだろう。それからはアマゴ釣りに行くことが何よりの楽しみになった。あのときにかって近くの小川でフナやナマズ、ザリガニ、小エビ、ドジョウ、メダカを獲った少年時代のきらめくような喜びや感動がよみがえってきたのだ。そういえばこのエッセイ集に収められている『とおい昔』や『少年の日』を読むと、幼い頃にウナギやカニを獲ったときの心躍る瞬間が描かれているが、雨村にとっても釣りと魚獲りの原点は少年時代に体験したあの炸裂する一瞬にあり、それをもう一度取り戻そうとしてさまざまに工夫を凝らして魚を獲り、釣りをしたのだろう。」
木村さんが小川で遊んだのに対して、オラのフィールドは池と海であった。木村さんがあげている対象で、オラが見ることのなかったのは、ザリガニである。何でいなかったのか、はわからない。
食用蛙は食べるには不自由しないほどいたが、その餌として輸入されたザリガニがいなかったのは何でかなあ。食用蛙の養魚場がなかったからかなあ。
他方、オラにとって特定のため池での小物釣りの対象であったキュウセン?朝鮮バラタナゴ?と言われていたきれいな色彩のタナゴがいる。ナマズと小エビも記憶にない。
メダカは大きいものと小さいもの、モロコも同じく大きいものと小さいものがあり、それぞれ池で棲み分けられていた。池は大雨の時、溝で高いところの池と3つの池がむすばれるが、それぞれの種?の違いが変わることも、交雑種が見られることもなかったと思う。大きいタイプは小さいタイプよりも鱗が荒かったとの記憶があるが、種?の違いがあっても、鱗数は同じということであろうか。
雨村翁について、
「また、毛鉤で鮎のどぶ釣りをして大釣りをしたり、友釣りで思わぬ釣果をあげた話などは、多少とも釣りをするものにとっては心騒ぐ。羨ましくもまた楽しい話ではあるが、そうした箇所をよく読んでみると、心から釣りを楽しんではいるが、自慢げなところがまったく感じられない。」
故松沢さんも釣果の自慢をされたことは一度もない。長良川での晩秋近くの束釣りにしても、また、晩秋での湯ヶ島での束釣りにしても、オラが海産鮎の性成熟の時期に関する質問をしたとき、あるいは、習性について気のついたこと、等の質問をしたときに「事例」として語られたものである。釣り方についても、誰が書いても同じになる、と言われて語られることはなかったが、目印であたりを察知して、その瞬間に手のひらを返すような動作をすると、掛かり鮎は上流に走る、ということが竿操作に関して話された数少ない事例の1つであろう。
「彼はまた山女を釣るために、川の源流地域や支流まで足を伸ばすことがある。険阻な山をよじ登り、急な谷を下り、岩を這い登り、身をかがめながらブッシュの下の沢に竿を出す。そんな釣りを語るときも、決して大物を何匹釣ったとか、どれほどの釣果をあげたかについて自慢げに語ることはない。雨村少年にとって何よりも大切なのは、そっと川に立ちこみ、険しい山で息をあえがせ、滝を這い登り、渓にもぐりこむ中で、どのような自然、どんな人と出会うかが何よりも大切だったのだ。」
上記の文は、花より団子、小さなつづらよりも大きなつづらを好むオラとは無縁の心境ではあるが、故松沢さんは、囮屋さんでの接客に関して、雨村翁に通じる一面を楽しんでいたのかも知れない。丼大王等、故松沢さんに親しんでいた人達に会うことがあれば、故松沢さんのあゆみちゃんを通した人とのふれあいを聞くことはできるが…。
「そんな雨村のエッセイを通して浮かび上がってくるのは、少年の心を保ち続けた彼のさわやかな生き方、温かく優しいまなざしである。少年雨村は夢中になってウナギを獲り、カニを追い、鮎をかけ、アマゴを釣る。そんな中で出会う自然と人は、彼の心をそのまま映し出しているようにさわやかでみずみずしい印象を与える。」
「ここに描かれている人達は誰もがこの上もなく純朴で心優しい。時に牙をむくこともあるが、ふだんは穏やかな自然もまた少年雨村にとってかけがえのないものであった。」
上記の表現は、オラが故松沢さんから感じ取った印象を適切に表現されたいる。
「ただ、『少年の日』のなかに少し気がかりな一文が出てくる。『このごろは田圃に石灰やら農薬をつかうので、いなごや田にしまで見られなくなったが、いまから五,六十年前には、田圃の中はどじょうでいっぱいだったといってもいいくらいだった。』というのがそれだが、あのエッセイが書かれてからさらに六,七十年たった今では近くにある田圃をのぞいてみても、ドジョウどころか、生き物の影さえ見えないことに驚かされる。かって水田や近くの水路をにぎわしていたドジョウをはじめ、メダカ、タナゴ、モツゴ、小ブナはもちろん、ゲンゴロウ、ミズスマシ、ミズカマキリ、クサガメ、ザリガニなどはことごとく姿を消してしまったし、近頃はあの愛嬌もののカエルやオタマジャクシでさえ姿を見せることはない。考えてみれば、ぼくたちは生き物が死に絶えた水田で育った米を食べているわけで、背筋が寒くなる話ではある。」
昭和30年に近づくと、食える鮒を釣ってこい、といわれる池が生活排水の流れ込まない池に限られることとなった。マブナのすむ池での釣りから、ヘラブナの池にかわった。赤虫を掘り、みみずを捕りにいくことがなくなり、寒梅粉を練るか、白玉粉を炊いて、サナギ粉をつける餌にかわった。さらに、昭和30年代半ば、久しぶりに鮒を釣ろうと、生活排水とは無縁のひら池にいくと、魚はいない、と。蚕糸試験場が廃止された後、県の自動車運転試験場拡張で土地利用がかわり、廃油等が流れこんできたとのこと。ほかの池は宅地になっていた。さらに餓鬼の頃、午前、午後の2回泳ぎに行っていた海は埋め立て工事が行われていた。
この変化が水は流れているものの、川でも生じ、行われていた。
補記18: 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:2 |
木村さんは、
「荒廃し、死につつあるのは何も田圃だけではない。新荘川で雨村と一緒に竿を出した青木老人の言葉によれば、あの川も昔は水量が多く、両岸の山も鬱蒼と木々が茂っていて、今見るような山崩れや土砂の崩壊は見られなかった、深い淵も姿を消し、淵らしい淵も瀬らしい瀬も見られず、鮎はチビ助になってしまった。『それというのも、山林の乱伐からで、山へいっても小鳥の影も少なくなり、川のたのしみもなくなってしまった。』とのことだが、今では状況がさらに悪化していることは言うまでもない。一本の木の根が何トンもの水を抱え込む大木の茂る水源涵養林が伐採されて山が保水力を失ったために、水が一気に流れだし、水害が起こり、川は息も絶え絶えの状態にある。」
この保水力を失った川、という記述は、故松沢さんが今のあゆみちゃん気質を語る根幹をなしている。保水力を失い、下水道にかわった川は、水量だけでなく、金のコケを育む腐葉土からの栄養素の供給も阻害している、と。
木村さんは、さらに、ダム、砂防ダムが川を荒らしているが、
「しかし、春先に滋賀県の安曇川水系の渓流沿いの道を走っている時に、川の中に異様なものが動いているのが目に入った。何だろうと思って近づいてみると、一台のブルドーザーが川底をならしていたのだ。こんなことをしたら魚の居付き場所はなくなるし、川虫も死に絶えるではないかと衝撃を受けた。近くの村で入漁券を求めたが、その時に販売所にいた老人に、ブルドーザが入ったりしたら、川がだめになるんじゃないですかとたずねたところ、『それはわかっているんですが、現金収入の少ないこのような村では、ああして護岸工事をしてもらうと、多少潤うもんでね』という返事が返ってきた。」
狩野川殿淵から右岸へのザラ瀬と、その先の右岸に沿っての瀬は、流れに変化がある場所であった。
本間さんがその瀬で、根掛かりをもぐってはずし、そのまま対岸に渡り、釣り、村田さんに勝った場所。
昭和の終わり頃、メーカーの講習会で、オラともう一人の講師にドラえもんおじさんがなった。ザラ瀬で釣れない。ドラちゃんが、竿を貸せ、と。オラは囮が弱っている、というと、かまわない、と。そのくたばり囮をザラ瀬で斜め上流に引く。なんでひけるんや。
安物の竿、くたばり囮でも、ドラちゃんの思うまま操作ができるということは、弘法は筆を選ばず。メーカー宣伝の感度、操作性等に優れた高い竿でなくてもよいということかなあ。
という脱線は木村さんの意図ではない。その殿淵から右岸への流れが、平坦にならされたのは平成何年であったか。狩野川でも洪水をなくすためか、ブルが活動していた。河床を平坦にすることで何で洪水が防げるのかわからないが。
故松沢さんは、以前の狩野川は城山下で6mほどの増水になり、左岸道路が水没するくらいになると、堤防を越えた水が田圃に入り、砂を置いていった、といわれていた。
堤防を高くして溢水をなくすようにしたことが、城山下、石コロガシの流れの中、そして、河原を砂まみれにした一因であろうか。
高松さんは、渓流釣りをするとわかるが、山の荒廃はひどい。大量の土砂が川に流れ込んでいる。その土砂で、下流からどんどん砂まみれになっている、と。今は城山下までであるが、10年後には大仁も砂の中の石を釣ることになろう、と。また、掃流力の不足が海に土砂を押し流していないが、その作用に、狩野川放水路による流量の分散も関与している、と。
永澤正好「田辺竹治翁聞書 四万十川T 山行き」(法政大学出版局)に、四万十川の水量の変化が書かれている。
「昔の四万十川は水が豊富やっとう。きれいな水ですいすいしちょった。どんな深い淵でも下の河原まで見えちょっと。だいいち魚が多かった。
昔の川はきらきらやっと。その水をなんぼ飲んでもよかった。ひよう(寒く)なって川からほのけ(霧)が上がりだしたら、きれいに澄んで下の川石までくっきり見えるようになっと。
仕事もふとかった(大きかった)。筏に乗ったり、木炭を運んだりして銭が取れとう。ところが今は水の恩典がない。ひとつももうけることがない。 家地川ダムが出来て水が少のうなった。杉や檜の植林でも水質は特に変わらんけんど、水が少のうなることはあるねえ。杉や檜はうんと水を吸う、特に杉は水がいるがよ。
昔は、山でちいと地を掘ったら水が湧きよったけんど、今りゃそういうことはない。山の谷にもやっぱり(いつも)水があったが、今りゃ水がはようなしになる。山にも谷にも水が少のうなりやすい。水が引きよいがよ。そんで、川に水がはよう出る。」
「山行き」は、イノシシ等の猟のことが書かれている。「四万十川1」となっているから、「四万十川2」は「川行き」である。田辺翁は、川でも漁をされていた。
「魚でも鳥でも、いつでもいくらでも捕ってきた。子猪でも孕み猪でも何でも捕らえてよかった。捕っても捕っても、後から後からいくらでも出来た。鳥獣類は食生活に使われて多少減ったが、種の尽きることはない。魚類は五十品おろうが、百品おろうが順に出来ていくもので、減ってしまうことはない。鰻らは減ったが、蟹もえびもおってなくなることはない、川を止めて産卵させんといかんのは鮎だけだよ、という。自分の経験した世界に立って、自然の恵みは無尽蔵の世界だったと考えている。」
注:四万十川の変化は、「故松沢さんの思い出:補記 その2」に、山崎さんや野村さんが語られている。 |
補記19: 「猿猴川に死す」・木村さんのあとがき:3 |
木村さんは、工事の行われていた安曇川本流ではなく、その老人がこっそりと教えてくれた沢にはいる。
「幅二,三メートルの細流で、プールもほんの一抱えほどしかない小さな沢だったが、魚はそこそこいた。しかし、アマゴ、イワナを何匹か釣って、ふと本流をブルドーザーでかき回され、行き場を失った渓流魚たちが餌も満足にないこんな沢でひっそりと生きのびている。そんな彼らを釣っていいのだろうかという気持ちになり、以来渓流に足が向かなくなった。」
木村さんは、以来渓流に足が向かず、
「山が荒廃し、平野が荒れ果てた今、釣り人は部屋に閉じこもり、かって訪れたあの川、この渓を思い浮かべながら、瞑想に浸る。すると、足元を川が流れはじめる。目の前にあるあの淀み、この落ち込み、淵や瀬が浮かんでくる。ここぞと思うところに毛鉤を落とすと、尺物のアマゴ、イワナが一瞬銀鱗をきらめかせる。合わせをくれる。竿が大きくしなる。激しく抵抗する魚をいなし、なだめながら、あわてず騒がず竿を立てる…」と。
そして、「アームチェア・フィッシャーマンの釣りは永遠に終わることがない。」
オラはそのような境地にはなれない。本物のあゆみちゃんを育んだ川を知らないし、海産遡上鮎が釣りの対象となることも稀な世の中になってから、あゆみちゃんにつきあい始めた幸運?のために。
故松沢さんが、城山下一本瀬で竹竿を出していたことに1回だけ出くわしたことがあった。昭和の終わり、いつもは9時前にテントに着くが、なぜか10前についたとき、テントは空っぽ。勝手に囮をとり、二本電線付近に行く。その時、故松沢さんは、一本瀬でオラに見つからんように、隠れながら釣っていたとのこと。
その時は、故松沢さんにもアームチェアフィッシャーマンの掟を破りたくなる何かがあったのであろう。
故松沢さんは、馴染みの人からカーボン竿を渡されて一本瀬で釣ることがあった。竿を貸した人は何をしてるのか?と訝った、と。通常の掛かり鮎の動き、取り込み方と違って、掛かり鮎が上流にすっ飛んでいくため、何が起こっているか、理解できないから、とのこと。
木村さんは、幸田露伴の「釣魚通」の
「〜只多く釣らうといふのを唯一の目的としてゐる人は大概獲物が少ないと悄げかへってゐますが、之は釣魚(つり)の眞の趣味を度外視したもので私は好みませぬ。その眞の趣味ですか、其は寧ろ釣り以外の四邊(あたり)の光景に在るのですよ、其趣は元より四季に依て違いますが何れにしても山川草木、野山の美しい自然の裡、心静かに絲を垂れて居るのですもの、心地のよい事は此上もなく自然の美と溶け合うような感じがします。是が即ち釣魚の趣味の第二番で私は其が目的なのです。」で、締めくくられている。
故松沢さんが、血の気の多い若者から、仏のまっちゃんに変わられた事は、あゆみちゃんを売って生業としながらも、露伴の心情に通じるものを持ち合わせていたからではないか、と想像している。
木村さんの「彼はあの川、この渓、その細流、あちこちの田圃が一日も早くよみがえる事を夢見ながら、今日も夢の川で雨村とともに釣りをする。」との記述は、古の狩野川が二度と戻ってくる事はない、と悲観されていた故松沢さんの心境の一端を表現されているかも知れない。そして、そのことが仏のまっちゃんへの変心に関わっているのかも知れない。
即物主義者で、少しでも多くのあゆみちゃんをたぶらかせる事にうつつを抜かせているオラには、到達不可能な心境。故松沢さんが鮎に寄せる慈しみの心情は、非常に強く感じられた。
駿河湾の富士川以西は、去年と違って、海に稚鮎が多くいるという話があった。そろそろ生身のあゆみちゃんを思い描く時期に近づいている。
補記20: 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その1 |
ホームページ「友釣酔狂夢譚」の「気になる話」に「しまねの鮎づくり宣言」が掲載されている。
「島根県においては、かって昭和51年に県内各河川合計で700トンの鮎を水揚げし」、「アユ独特のスイカの匂いが立ちこめていたかっての島根の川は間違いなく『豊かな川』であり、川そのものがまさに島根の宝だった。」
昭和50年頃の放流量は200万尾ほど、平成14年は600万尾。しかし、放流を増やしても、漁獲量は700トンから100トンに減る。
「これまで私たちは『とにかく、たくさんのアユを放流すれば、その年の漁獲資源が維持される。当然、放流したアユは、翌年に海から遡ってくる天然遡上アユの種も残してくれる』と考え、アユ種苗の放流数を年々増やしてきた。」
「しかし、果たして、今までの種苗放流は、翌年以降の天然遡上アユ資源の維持に効果があったのだろうか。」
湖産及び湖産交雑種が沿岸環境に適応性を有さないことは、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業行動組合発行)に報告されている。
そこで「しまねの鮎づくり宣言」は、
「まず、私たちが考えなくてはならないのは、『全国各地の河川に昔から遡上していた天然アユは、何万年もの歳月の中で、それぞれ固有の水域環境での適応力や繁殖能力を高く維持するために、特有の形質を獲得してきた』ということである。」
(独)養殖研究所は「『遺伝的多様性から見たアユ種苗放流指針』を著し、『種苗性を考慮しない現状の放流は、天然遡上を阻害し、かえって資源状態を悪化させる』と警鐘を鳴らした。」ことから再生産のための種苗放流に方針を変える。
「アユ種苗の放流の現状と課題」の発行が平成14年。
この報告書で、「放流すれば回収できるが故に、アユの資源維持・増殖対策は回収を期待した種苗放流に頼りすぎ、天然アユ再生産への配慮が不足している。」
そして、海産アユが遡上し、産卵が行われている川では、「〜遡上稚アユの上流への汲み上げ放流、その河川の産卵親魚(親魚数が十分に多いことが条件)からの人工産種苗の放流にとどめ親魚・卵の放流、産卵場の造成、禁漁期間の適切な設定、漁具・漁法の制限、産卵用人工河川、魚道の設置、沿岸域の環境保全などにより、一層、産卵及び仔稚魚の保護をめざし、資源を維持増殖していくことが肝要である。」と、提言している。
再生産につながる人工種苗の生産が、山形県だけでなく、島根県でも行われるようになったことはうれしい。
宣言の一つに
「川の豊かさ(アユ資源)の基礎は天然水系における再生産力にあると認識し、県内河川における天然遡上アユ増大に向けた活動を積極的に展開します。」
「しまねの鮎」とは「しまねで産まれ しまねで育ち やがてしまねの資(もと)になる 鮎」と定義されている。
故松沢さんは、「釣り人を釣るため」に、狩野川で現在行われている「逆算式放流計画」に強く反対され、しまねの鮎づくり宣言の考え方で放流、河川管理をすべきといわれていた。
田辺翁が、四万十川の恵みについて、「自然の恵みは無尽蔵の世界だったと考えている。」と語られた川は、いまやどこにも存在しないであろう。神奈川県は、交雑種の30代目ほどになる継代人工の生産をいつやめるのであろうか。島根県の宣言がいつ神奈川県でも実現可能性を持つようになるのであろうか。
故松沢さんは、狩野川の大滝付近に三島の工場処理水が流れ込むため、その水を嫌った鮎が水路に入り込みあたら命を無駄にしているから、逆ヤナによる汲み上げも必要、と。
故松沢さんらが、放流河川に狩野川沖で採補された稚鮎を運んだ。放流された稚鮎は水面を飛び跳ねる。漁協の人は、海産は元気がいい、と喜ぶ。故松沢さんたちは、おかしい、海の魚、と判断した。漁協の人が食事を用意しているから、というのを振り切って逃げ出した、と。
沖取り海産には1/3のしらす混獲がある、ということで、採捕量の1/3はしらすと想定して、放流量を算定している、という話があった。
海水から真水にならすのに1週間ほどかけているのに、何で、川に入れるまで、しらすが生きているのであろうか。逆に、しらす漁における稚鮎の混確率の調査報告もなにかに書かれていた。
沖取り海産が、解禁日に釣りの対象となるほどの大きさの鮎に畜養することが目的でないのであれば、翌年の人工鮎のための親を育てる目的に採捕を限定すべきではないか。漁連の義務放流量を確保する目的での沖取り海産は、どのような再生産、当年の鮎資源量に意味があるのであろうか。
海のプランクトンを食べていた稚鮎が主体であるなか、川の昆虫を食べることが出来る成長段階になった稚鮎はどの程度の比率であろうか。
2010年、相模川に沖取り海産が放流されたよう。 その生存率は3割との話があった。動物性プランクトンを食べていた大きさ、成長段階の3,4センチの針金のような稚鮎を、放流しても、コケどころか、水生昆虫を食べることも出来ないのではないか。 1回の網でとれた15万ほどの沖取り海産の、稚鮎の成長度、大きさ別の構成比はどのようになっているのかなあ。 沖取り海産を1カ月ほど畜養されものが中津川に4月中旬頃に放流されたが、10センチ足らずの大きさであるが、体型はできあがっていた。 |
故松沢さんが、湖産親の子孫が翌年に遡上してこないこと、海産と湖産の交雑種が翌年に遡上してこないこと、海産系の継代人工が再生産に寄与していないことをどのような現象から、推測されていたのかは聞き忘れた。
今では、湖産、湖産との交雑種が再生産に寄与していないことは研究者も認めているが。ただ、その認識が、研究調査における判断基準、評価に適切に用いていないことも多々見受けられるが。それらの研究者は「本物」の鮎をみたことも、つきあったこともないから適切な判断基準、「標準」基準を知らないのであろう。
多分、故松沢さんは、海産の鮭科特有の顔つきと容姿から、もし、湖産、湖産との交雑種、海産系の短頭、鮫肌の継代人工が再生産されているのであれば、遡上アユの顔つきと容姿に変化が出る、と、推測されていたのではなかろうか。
補記21: 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その2 |
「しまねの鮎づくり宣言」は、漁協関係者から見た放流事業の効果、期待が書かれていて、非常に参考になる。
天竜川の紫アユの特徴のひとつが湖産との交雑によって、湖産放流の1年目に消滅し、特徴の2が数年で消滅した、という釣り名人の記載レベルでの交雑種の理解は、少なくとも、研究者間では間違っている、との共通認識に至っていると考えている。
とはいえ、海産系継代人工、湖産が、遡上アユとの交雑によって、仔稚魚の生存率を下げただけ、という再生産のマイナス要因だけであったのか、という疑問は残る。
「しまねの鮎づくり宣言」でも、「他地域の海産アユに由来する種苗(仕立もの、人工種苗)」の島根県での再生産の可能性については「再生産の可能性はあるが、適応力に疑問」との評価をされている。
湖産及び湖産との交雑種の仔稚魚が、池田湖や津久井湖等の淡水では生存できる。しかし、海域では生存が制限され、再生産には結びつかない、ということは、一部の、否、まだ多数かな、の釣り人をのぞいて共通認識なったであろう。
しかし、しまねの宣言の指摘どおり、海産系人工の何代目から再生産に寄与していない、といいきれるのか、まだ信頼性に足る調査報告はないのではないかと考えている。
これらのことについて、故松沢さんが、湖産も、海産系継代人工の子孫も、湖産との交雑種も再生産に寄与していないのではないか、と、顔つきと容姿で判断されていた頃、気になる現象を話されたことがあった。
それは、狩野川河口付近から沖へ、遠くへ、泳いでいかない稚魚が増えた、ということである。
もし、塩分濃度に対する浸透圧調節機能不全が、交雑種等の生存を許容していないのであれば、逆に、交雑種や、海産系継代人工の仔稚魚は、塩分濃度が低い汽水域や、真水の影響が及ぶ河口近くで生存している可能性もあるということにならないのか。
神奈川県の試験場は、「相模川の淡水域で成長する仔アユ」(漁連だより第15号 平成18年4月1日発行)では、河口から7キロほどある神川橋下流で1.4cm〜2.5cm、例外として、4cm、3cmの仔アユも採補されている。孵化日は9月中旬から10月下旬。
この仔アユについて、アイソゾム分析をされていれば、湖産か、湖産交雑種、継代人工である、と、「本物」の海産アユの生態を知らない県試験場の研究者であろうとも判断できるはずであるが、海産も10月はじめ前後から産卵を開始している、と信じて疑われていない県試験場では、海産であることを当然の前提とされている。
他の河川でも大型仔アユが確認されるのは、取水堰の下流で、相模川の
「神川橋の上流には、寒川取水堰があることから、当堰の淡水域で仔鮎が成長している可能性が高いと考えられます。」
そして、この文の中にも、オラが県試験場の理解が間違っているとたてつく文章がある。
「今回紹介した仔アユの生態は(注:川で大型仔魚が生存していること)、相模川のアユにとってごく稀な例かも知れません。しかし、海産アユの赤ちゃんも淡水で成長できるという潜在能力は、川と海を行き来していたアユが陸封され、完全に淡水に適応した琵琶湖産アユが誕生したという進化の過程を垣間見ているようです。」
相模川以西で、10月はじめに海産が産卵することはない。当然、湖産、継代人工、交雑種を親と想像すべきであるのに、「海産」が親と決めつけている。
さて、皆さんは、この評価をどのように考えられますか。
オラは、この仔魚の親は、県試験場とは異なり、海産とは考えていない。このように、県試験場は、海産の産卵時期ですら、島根県漁連とは異なる理解をされている。当然、遡上アユを増やそう、との方針が採用されても、その方策が適切なものとなることはなかろう。
なお、同じ「漁連だより」の別の記事では、海産の産卵時期が11月以降と推定可能となる記述が記載されているにもかかわらず。
それは、
「漁連だより」第15号には、「長期継代アユの利点」も、県試験場が書かれている。
その記事には、平成16年の採卵時期は
@ 27代目 8月29日からはじまり10月4日まで
A 平成16年に相模湾で採捕した海産(1代目) 11月15日にはじまり12月20日に終了
平成17年の採卵時期は
@ 28代目 8月29日からはじまり、10月3日に終了 9月中旬がピーク
A 海産人工2代目 10月21日からはじまり12月20日に終了
このように、海産アユの産卵時期がいつか、について、試験場内にも知ることの出来る素材があるのに、なぜ、1代目の1ヶ月以上も前の10月1日前後から海産が産卵を開始する、と、思いこむのであろうか。「漁協が『湖産』を放流した、と話しているから、『湖産』しかいない」との判断をした早川、酒匂川との調査における理解と同様、不思議でならない。
故松沢さんは、海域でも塩分濃度の少ないところでは湖産、湖産交雑種、海産系等の継代人工が一時期でも生存できるかも、と、想像を巡らせていた感性の一部でも、県試験場の研究者が持ち合わせてくれていたらなあ。
なお、寒川取水堰下流で採補された大型仔魚は、冬の水温4,5度では生存できないから、湧き水のある、そして、プランクトンが成育できる止水域に近い場所でのみ、稚魚に成長できるにすぎまい、とも考えている。何かに、稚魚の生存は8度くらいが最低温、との記載があったと思うが。この最低水温が日本海側の稚魚生存率に影響しているのではないか、との文であったかも。
補記22: 放流種苗と再生産:「しまねの鮎づくり宣言」その3 |
「相模川の淡水域で成長する仔アユ」が掲載されている「漁連だより第15号」(平成18年4月1日発行)に、「長期継代アユの利点」も掲載されている。
「長期継代アユの利点」では、1代目、2代目の欠点を
@ 採卵期が不安定で、しかも少量の親魚からしか採卵できない。同一日にまとまった量の卵は確保できない。
A 発眼卵の比率が、28代目が53.5%、2代目が38%
B 雌親のうち、採卵した雌親の比率は 28代目が84%、2代目が43.6%
「種苗生産に用いる親魚の性質として、同一日に採取した大量の種卵が計画的に確保できることが求められますが、長期継代系の親魚では、大量に卵を採取できる日の予想が立てやすく、計画的な作業が実施できます。」また、継代人工は、親魚が無駄にならない、親魚の数から種卵の量が予想できる、と。
その結果、「現時点では、短期継代系の親魚に切り替えることは困難であると考えられました。」
「しまねの鮎づくり」宣言とは何という放流目的の認識の違いであろうか。
「しまねの鮎づくり宣言」では、「種苗放流量に偏重したアユ資源管理策は、決して川を豊かにはしない。むしろ、『再生産がまったく期待できない湖産アユ』や『天然遡上アユに対して、遺伝的な悪影響の怖れのある他地域の海産アユ』〜の放流は、天然遡上の可能性を低減させ、アユの遡れぬ貧しい川への道(=滅びの道)に繋がっているかもしれない。」
ドンキホーテのように効果がないとわかっていても、オラが神奈川県内水面試験場にたてつくのは、事実認識が間違っている、あるいは、海産アユの生態にかかる基本の認識がなく、習性、産卵時期、成長を異にする種苗を区別できないこと、あるいは区別しても「本物」とのつきあいがないための経験不足が、海産アユの基本となる習性、成長段階を知らず、誤った評価を下しているから。
そして、県産継代人工と和歌山産人工しか「漁連」が放流しなかった2005年、解禁日にかかわらず、人っ子一人いなかった相模川。「漁協」が単独で、「漁連」とすったもんだのやりとりを行った上、「漁協」の費用で宮城産を放流した中津には少し釣り人はいたが。
宮城産人工として、05年から「漁連」ではなく、「漁協」が放流しているのは、3,4代目くらいの人工で、宮城県の養魚場が生産をしている。
川の中に棲息する雑菌にも感染して死ぬ、瀬につかないで群れる、というアユらしくない習性の継代人工をオラ達から金を取って生産しているのが、神奈川県の現状であり、その悪しき質の種苗から、1,2代目方式への転換もしないとのことである。
神奈川県には、「しまねの鮎づくり宣言」とは異なり、「アユ種苗放流自体に内在する新たな問題点が浮き彫りになってきた。特に、放流アユの種苗性に注目した研究により、川における放流アユの再生産の状況が明らかになりつつある。」の認識がない。
さて、故松沢さんが、仔稚魚が海に乗りだしていかない、といわれたことが問題。つまり、海産系継代人工や、湖産交雑種が塩分濃度の低い海域で、汽水域で、生存している可能性があるのではないか、ということである。
もちろん、生存できたとしても、限定的であろうし、遡上時期まで生存したかどうか、未定のようであるが。
ということで、安価に、義務放流量が確保できればよい、という漁連の運営に神奈川県の種苗生産は合致しているため、放流後病死しても何ら問題はない、というレベルが相模川の状況である。
幸い、今年も沖取り海産で、漁連の義務放流量が県産継代人工分の数量を除いて、まかなえたようである。去年のように、養魚場にも海産稚魚が販売されれば、去年と同様の遡上量になろう。中津は、妻田の魚道を下った水が真っ直ぐに下流に流れているか、どうか、で、去年のように遡上量が少ないか否か、影響を受けるが。
新聞に今年の遡上量が去年よりも遙かに多い、との記事が掲載されたとのこと。今年も遡上アユが釣りの対象となろう。ただし、友釣りで釣りの対象となるほどの大きさに成長するのは、6月下旬頃から。それまでは、県産の20代目くらいの継代人工と、そして、漁協が単独で放流するかもしれないどこかの人工かも。
故松沢さんは、継代人工の子孫については語ることはなかったが、海産系継代人工は何代目くらいまで、再生産に寄与できるのであろうか。
山形県の調査では、2代目は再生産に寄与している、とのことであるが。
それにしても、島根の川まで、自然の中での営みでは、あゆみちゃんの再生産力が乏しい、とは思ってもいなかった。
注:2008年の相模川の遡上量は1千万ほど。7月半ば近くまでは、弁天、高田橋でも、玉引きで18歳前後が釣れていたが、その後は、葉山、神沢、大島の鵜止まりのすぐ上の瀬でしか、遡上鮎が育った乙女は釣れなかった。なんで、葉山から下流では、遡上鮎の成長が悪かったのかなあ。 なお、大島のシルバーシート前で連日大量の釣り人が大鮎を釣った、といっていた鮎の氏素性は、県産の30代目くらいの成魚放流であって、遡上鮎ではないと確信している。 4月はじめに放流された県産継代人工は、育つこともなく、釣りの対象となる前に死滅したのであろう。県産継代人工の成魚放流をしていない、あるいは僅少の高田橋上の人工が好むトロではほとんど釣れていなかったから、4月はじめ放流の継代人工の幼魚は死んだと推測している。 |
補記23:「四万十川 川行き」その1 いにしえの鮎の品格 |
永澤正好「〈田辺竹治翁聞書〉 四万十川U 川行き」(法政大学出版局)
田辺翁のあゆみちゃんの生態に係る話にも、オラには理解不能の事柄が出てくる。故松沢さんに訊ねれば、適切な事例を語られて、オラが理解できるように手助けをしていただけるであろうが。ということで、もはや考えることはあり得ないオラに理解することが困難な現象を取り上げることとする。
田辺翁は、
「友掛けはまどろこしいけにせらった。」ので、カナツキ漁、火振り漁、しめ縄漁、綿糸での大網引き=地引き網、、等をされていた。
カナツキ漁は、
「昭和二十二,三年頃か、三十年以降だったかはっきりしませんが、カナツキ漁は禁止されたと。鮎突きが通ったら鵜が通ったが同じと言われて、嫌われちょったがよ。カナツキ漁で浅瀬をすんだあくる日は、鮎が瀬に遊ばんようになる。カナツキが入ると鮎が開いて(散って)、集団で餌を食まんようになる。そうして鮎がみな、トロにはいる。」
「ほんで、毛針を使う鮎釣りや友掛け(友釣り)の人らが、漁がのうて困った。その上、カナツキで突き外して鮎を傷めることも多かったけん、鮎を商売としちょうるおとり掛け(友釣り)の人らが嫌うて、漁業組合からさし止めを受けたがよ。」
「二人ずつ向きおうた十人くらいが横に並んで瀬を進む〜」「鮎突きの十人の列は弧を描いて流れとう。」「ひとつの瀬をすんで流れたら、十匹から十五匹の鮎が突けとう。」
カナツキ漁で、鮎が瀬につかなくなるとは、なんでか。
「産卵のすんだ鮎を『鮎が錆びた』とも言う。黄色に熟れたような鮎盛りの色をうしのうて、背中が高うて腹がやせてとんぎる(尖る)鮎をここじゃ、『鮎の剃刀じゃ』というた。」
錆び鮎とは、産卵後の鮎に限定するのは四万十川だけであろうか。
「ひよう(寒く)なったら、鮎やイダ(注:ハヤ)のしびたれが川原の温かい水の出るところに寄ってきた。ひやいけんやせて、しびたれいうて夏の鮎でない形になっと。そんで冬でも鮎がとれたけん、張り網を張ってわしらうんととったね。そんな所でとりゃあ、鮎は一年中とれた。ぬく水のとこぃ寄ってきたけん。」
「※しびたれあいー寒さに凍えた半死半生の鮎」
「鮎はやせちょるがもおった。また肥えちょるがもおった。網にはボラも掛かる。鮎も掛かる。イダがうんと掛かる。正月時分になったらイダはうんと肥えちょるけんね。焼いてまわりよったら、体に脂がまわって裂けとう。」
ヒネ鮎が、遡上アユの構成比ではわずかであるが、漁の対象となるほどいるということのよう。その居場所が湧き水の所ということはわかる。冬の川の水温は、4,5度になるから、生存限界を下回る。
「山から谷へ、谷から川原へ水の落ちたとこの川原の先に必ずぬく水があっと。山の端は砂があって、そのおき(川に面する所)は川原があって、水がその川原の底を渡って主の川のところへ注いぢょるがよ。そういうとこは窪う(入江に)なって水が入り込うぢょる。」
「そういうとこでは、川原が広うても狭うても温かい水が出よる。川の端が入江のように回ったえごは特に温かいけん。そんなとこに魚が寄らあ。昔は、そこぃは獺がおった。やっぱ、そこへ餌を求めて来とうね。」
妻田の堰、ダムのなかった中津川で、解禁日に遡上アユは友釣りにはまだ小さいため、揃いの法被を着て、ヒネ鮎を釣っていた、といわれた人がいた。そんなに多くのヒネ鮎がいたのか、と思っていたが、伏流水、湧き水が豊富であれば、生殖腺の発達が遅れ、あるいは中断し、あるいは萎縮する等の状態になり、ヒネ鮎となり、釣りの対象となるほど、生存していた、ということであろうか。
「スズキは鮎を食べるけん、鮎の上るとこまで行く。春になって鮎が遡上するのと一緒に大川を上って、西土佐の江川崎くらいまで行く。昔は鮎がうんと上ってきたけん。スズキもようけ上って来とう。」
「その先の窪川町(現、四万十町)までは上らん。」
注:窪川町には、昭和6年に家地川ダムができているから、遡上できない。ダム(堰堤)下流では瀬切れもおこしている。
オラはスズキが上るのは汽水域くらいと思っていた。しかし、河口から何十キロも上っている。「四万十川U」に記載されている地図に、縮尺があり、話に出てくる地名が記入されていたら、相模の住人でも、距離感等の見当がつくが。
「川で育ったスズキの方が鮎を食べちょったけんかのう、皮も肉も白うてうまい。海のスズキは肉に赤みがかかっちょる。」
スズキにも、両側回遊性を有する現象の生活を送るものもいる、ということのよう。
野村さんや、川那部先生も、川スズキにふれられている。 |
補記24:「四万十川 川行き」その2 |
田辺翁は、
「黄色になった太った鮎はうまい。昔のような鮎がおるかえ。昔は一つ食べたら腹いっぱいになるような、サバみたいな太い鮎がおった。時季物よ。その季節には鮎を食べん日はなかったと。」
この「黄色になった鮎」とは、ラン藻に含まれる黄色の衣装になることもある物質を含んだコケで発色する「黄色」とは異なるのであろうか。珪藻が優占種であった時代のことであるから。
また人工の太っちょとも異なるのであろう。どのような「黄色」であるか、今年の鮎雑誌の写真の一つに同じか。
「太い、サバみたいな太い鮎はね、ここらじゃ『昔鮎』と言うた。昔はあんな太い鮎ばっかしじゃったけん、カナツキ(魚を突き刺す漁具)で突いたらゆるぐ(揺れ動く)ような鮎じゃった。西土佐へ行てとったに、太かったぜ。一八匹で目方にして一貫(三.七五キロ)あったけん。
わしらそこで一年とったんね。」
サバのような遡上アユは、10月の大井川で遡上量の少ない年は釣れる。1匹200グラム。それよりは少し小さいが。
相模川で釣れる太いアユは、県産継代人工と思ってよい。四万十川でも、「昔鮎」とよばれるようになった環境変化は理解できる。
「ここまでわかった アユの本」138ページにも、伏流水の重要さが書かれている。
「このように川にとっては大切な伏流水であるが、この一〇年ほどの間にわき出る場所がずいぶん少なくなってきたように思う。四万十市勝間(注:田辺翁が住んでおられたところ)附近の四万十川では、三年前までは川岸から大量の伏流水がわき出る場所があったが、二〇〇四年はそれがなくなっていた。
四万十川で長年川漁をされている一藤貞男さんや船大工の加用克之さんにお話を伺うと、四万十川が一番変わったことについて、伏流水がわき出る場所が少なくなったことを一番にあげられる。川とともに暮らす人にとって、伏流水の減少は気がかりなことのようだ。」
「ところで、どうして伏流水が減少しているのだろうか?
はっきりしたことはわからないが、私は河床の砂利が砂や泥で目詰まりを起こして、水の通りが悪くなったことが一因と考えている。」
コケが汚くなったことは、
「落ち鮎のうるか(内蔵の塩漬け)は卵と白子と苦わた(はらわた)でうまいがやけん。」
「淵巻きの鮎はとろでとれるけん産卵前の鮎よ。そんでうるかがとれると。」
「今はとれんね。少々とれても、ゴミがついちょるけん、じゃらじゃらしてうもうない。」
で表現されているのではないか。
昭和の終わり頃、萩?産の瓶詰めにされたうるかを食べた。じゃらじゃらしていたから、うるかとはそういう物で、あんまりうまくないなあ、と思っていた。しかし、そのザラザラは、砂、泥ではなく、珪藻の殻であることを知った。
中津川で、子供のころ、コロガシの針を拾い、捕まえた鮎を餌にして、鰻を釣り、日々蒲焼きを食べていたため、蒲焼き大嫌いになった人が、うるかを作っている。
そのうるかは10年ほど寝かせてありドロドロになっていた。じゃらじゃらはしていなかった。昔はうるかは、腹痛等の薬としても使われていたとのこと。
田辺翁は、「昔鮎」となった理由について「今年(二〇〇四年秋)止め川(禁漁)しても来年もとれんのう。あの太い鮎の種は切れちょるもん。種切れて七,八年になるのう。
ここでも窪川の方へおるぜ。あんな太い鮎ははよ上る。えらい(強い)がでないとよう上らんけん。」
「※鮎の漁獲高の統計によると、一九七六年には一四〇〇トンであったが、二〇〇四年はその二〜三%となってしまったという。そのため、二〇〇四年は一二月からの落ち鮎漁を禁止し〜」
田辺翁は、サバのような鮎がいなくなったのは種が切れた、といわれている。この意味が放流鮎に頼ることで、四万十川で遡上アユを保護せず、僅少となっている、という意味なら同意できるが、「昔鮎」の子孫が絶えた、という意味であれば、違うと思う。なぜなら、故松沢さんの口癖の鮎が悪いんではないよ、人間が悪いんよ。山を荒廃させた人間が、を思いだす。
「四万十川の太い鮎が少のうなったがは、家地ダムのせいで水量が少のうなったことも関係しちょるかもしれんけんど、ここ(四万十川)は鮎の質がええけん、漁協が稚魚をとって方々へ出しよっておらんようになったせいもある。太い鮎は四万十川と九州にしかおらんがやけん。九州ぢゃ熊本あたりから宮崎の辺へ出したのじゃろう。わしはそれには漁連の会で反対したがよ。」
「また、逆に、どこの稚魚が安うてええか決めて放流しよった。」
「琵琶湖の稚鮎を放流するけに赤みも薄いし、ふとうならん。」
これからも、漁協が「湖産」ブランドとはいえ、安く買うとなると、いろんな種別の鮎がブレンドされていた、ということは、想像できる。湖産放流全盛時代には、「湖産」の等級が低いほど、安く、そして、いろんな種別の稚鮎が高い比率でブレンドされていたであろう。
湖産の方が海産よりも大きくならないのは、攻撃衝動が湖産の方が大きいため、大きく育ついとまを与えられないからであろうか。
田辺翁は、家地ダムの取水だけが水量の減少であるかのように語られているが、ダムのない狩野川でも昔の半分ほどの水量となっていることから、山の荒廃も一因ではないか、と想像している。
そして、富士川、天竜川等の人工ではなく、海産鮎の大鮎を育てた川が今では、人工の「大鮎」は釣れても、「海産」の大鮎が釣れない、という現象は、竿抜けポイントがなくなり、大きく育ついとまを与えられないこと、そして、珪藻の種別、質が昔と変化したこと、が想像できるが。
大井川の遡上アユは、26cmどまりであるが、5トン/秒のダム放流量では、オラの腕でも竿抜けポイントは稀である。
湖産放流全盛時代の酒匂川で大きめの鮎が釣れるのは、ブロックの間、というのも育ついとまを与えられている場所がブロックという障害物しかない、ということではないかなあ。
補記25:「四万十川 川行き」その3 |
田辺翁は、湖産と海産の産卵時期等の違いには関心を払われていないように感じた。とはいえ、海産鮎の習性も語れている。
「早うかやって早う太った奴からのぼって来る。人間も一緒よ。最初から順調に太ったがが成長も早いということよ。海でも早かったがが、奥へ奥へと先に上がってくる。」
「ようけ上るときは、一日に五キロも十キロも上るけんね。上り疲れたら土地、土地で休んでまた上りよった。」
「休むときは集団で淵におるけん分かる。鮎には夜も昼もあるかえ。昼間でも夜でもさいを食べよる。そこで餌を食べちゃあ一日か二日おってまた上った。途中で油断せんづくに(しないで)真っ直ぐ上るということよ。」
故松沢さんに、試し釣りの時、湯ヶ島地区の釣果が多い理由を訊ねた。
答えは、流れ、石を知り尽くした釣り人が釣っているから、と。昨今の特定の場所で人工が多く放流されている、という噂のない頃の話である。
故松沢さんが城山下で、試し釣りに参加されていた頃、16、18cmくらいの大きい鮎は、見学している人にこっそりとやった、と。
その理由は聞き忘れたが、釣果を信じて中流域に釣りに来ても、試し釣りのような大きさ、数が望めることはない、との配慮であろうか。
田辺翁が、夜でもさいを食べると言われているが、小西翁は月明かりのあるときにコケを食べる、とされている。オラも月夜に限ると思うが、故松沢さんはなんと言われるであろうか。
また、一番上りが途中下車をせずに上る、と語られているが、例外はないのであろうか。故松沢さんが試し釣りで16、18cm級を釣られたと言うことは、途中下車をする鮎もいたのではないか、と想像しているが。
「鮎は潮境で潮を飲んだら産卵しやすいがやけん、三崎辺りまで下っていっぺん潮水を飲んで上って来らあ。沖(海)まではあんまり下らん。鮎は上へ上るにはえらい(強い)魚やったけんど、海へ出たらおおけな魚に食われる弱い魚やっと。」
潮を飲むとはどういうことであろうか。四万十川だけの現象であろうか。増水で一気に下った鮎だけでなく、後ろ向きで尻尾で危険を探りながら下る鮎も、潮を飲むのであろうか。
注:「潮呑み鮎」については、山崎さんがその漁における特質について、また、野村さんも語られている。 「故松沢さんの思い出:補記 その2」の四万十川 |
「アイリキゴソウとボラは遅うに大川を下っとう。最初はガニが下って鮎が下りよる。次にスズキ、その次が鰻、そしてボラが下った。アイリキは後の端じゃ。氷が張ったり霜の降りたりする季節になったら大川へ下ってくる。雪が降り出してから、鮎の群れみたいに川を集団で下ったね。海で産卵するがよ。」
アイリキとは「縞がきれいに分かれちょっと。頭が太うて左右のえぎ(魚のえら)に獣の爪のような針が付いちょる。」
アユカケのことであろうか。アユカケであれば、川の石等の隙間に産卵するのではなかったかなあ。ただ、四万十川では汽水域が大きいから、海と同様に考えてもよいのかも。
鮎はガニの後で下る、ということは、海産の下りが10月はじめではあり得ない。故松沢さんがザガニの誘導用水路を造り、籠を設置するのは10月にはいってからであったから。
「魚が下るいうても自動車が抜けきる(走り去る)ようなもんぢゃない。今日は口屋内(旧西土佐村。黒尊川の合流点)から勝間へ、明日は川登へと一日ずつ、休み休み下る。その土地土地で宿を取って、餌をほう(食ん)だりして下って行く。そこのとろ(淵)では、いろんな魚が二,三日餌を食みよっと。瀬によって餌を食みよって、夜はぬま(とろも同じ)のとこで固まっておる。」
そのため、西風が吹き荒れた以降は、故松沢さんは釣れる場所が日替わりメニューになるといわれていた。もちろん、下りに参加をしていない鮎もいるから、オラのように10匹も釣れたら大漁、というレベルでは、日替わりメニューは関係ないが。あゆみちゃんに食わせてもらい、長岡温泉で酒盛りを楽しんでいたであろう故松沢さんらにとっては、どこの瀬であゆみちゃんの宴会が行われているのか、を知ることは、死活、否、酒宴問題であったであろう。
その日替わりポイントを適切に探し出す能力に長けていた故松沢さんらであったから、時にはテントに「昔ネエ」2人がやってきたのではないかなあ。故松沢さんは、勝手に来た、といわれていたが。昔のおなじみさんの相方ではないのかなあ。そのうちの1人は、美人であったやろうなあ。
「ナナセは鮎のるいをしたもんじゃ(親類だった)。瀬におって石の苔を食うけん、鮎と一緒のかざ(匂い)がして焼いて食べたらおいしい。」
ナナセとは吸盤のある吸盤ボウイのような魚のよう。苔を食べるから、香りがするとのことであるから、苔には香りの素となる物質を含んだ珪藻の種類があり、その珪藻の群落の有無が匂いに影響しているのであろう。故松沢さんはこれらの観察には鋭かったから、適切な説明をしてくれたであろうが。
補記26: ウルカの味:1 |
田辺翁が、「落ち鮎のうるか(内臓の塩漬け)は卵と白子と苦わた(はらわた)でうまいもんやけん。塩して酢で腐らんように調合して瓶詰にして正月らあの酒の肴にした。淵巻きの鮎はとろでとれるがやけん産卵前の鮎よ。そんでうるかがとれと。今はとれんね。少々とれても、ゴミがついちょるけん、じゃらじゃらしてうもうない。」
弥太さんは、
「昔の人はウルカ(腸や卵の塩辛)もよう作りよったが、あれは、はらわたばかり集めるのがうるさい(面倒)もんじゃけえね。それに、わしは酒を飲まんき、うちではまず作らん。ほんまに好きな者はカツオの塩辛のように麦飯の椀に乗せて食うたそうじゃが、わしはぞっとするぞね(笑)。
今のウルカは昔より質がだいぶ劣るろう。食うちょるサイの質が違うきね。昔ちゅうのは川にダムがなかった50年ばあ前のことじゃが、あのころの仁淀は水量も多うて、水もいまよかだいぶ冷やこかった。」
弥太さんは、水量、水質、水温の違いから
「アユの味は今より抜群によかったし香りも高かった。アユの多い淵では、船で網を入れると上げよらんうちから西瓜の匂いがしよったもの。その匂いでどれほど掛かっとるか想像がついたもんよ。今の仁淀は、ほかのアユの川に比べればかなりきれいなほうじゃと思うが、昔から見ると天と地ほども違うのう。流れは見た目澄んでおるが、ダムで何か所も止められた、極端に言うたら死んだ水よ。」
ウルカを2回しか食べたことのない味音痴が古のウルカの味がどのようで、どのようにかわったか、語ることは出来ない。飲んべえで、骨折したときに、第三者障害を疑われたとき、酒が犯人、と語られた故松沢さんは、ウルカの作り方、味、そして味の変遷を聞くにふさわしい人であったと思う。
萩産?ウルカを食べたのは、盆の頃の瓶詰め。昭和45年の数年前。したがって、ざらざらの食感は珪素の殻であろう。巖佐先生は、「珪素の話」で、戦後珪素せんべいを食べて、ざらざらしていた、と書かれているから、珪素の殻はざらざらした食感をしているのであろう。
中津川の鮎の10年ほど寝かせたウルカはドロドロであったが、寝かせているうちに殻が溶けたのであろうか。それとも、食べたときが平成15年頃であったから、ウルカをとった鮎は、宮が瀬ダムが出来ていたか、ダム工事の影響を受けていた頃の鮎を使用しているから、藍藻が優占種である可能性はある。
何かに、人工養殖のはらわたは硬いかたまり、川で生活した鮎のはらわたは、ぐしゃぐしゃ、と書かれていたと思う。中津のウルカは人工か、それとも?。妻田の堰の魚道が出来ていなかったから、遡上アユではない。
ドブさんに、能登で釣っていたころのウルカについて聞くと、オラの想像に反して、ウルカを作るときは、尻から糞を絞り出すだけでなく、内臓を取り出して、包丁の背でしごくとのこと。ということは、内臓の中身を食べていない。
腸はピンク色できれいな色していて、長くても6ヶ月以上寝かせることはなかった、と。そして、卵巣、白子のはいったウルカについて聞いたが、へら釣りの棚取りに忙しく、後日に回された。ドブさんは相模川の内臓は臭く、汚くて食べられない、ともいわれた。
内臓をしごく、とは、ナマコの腸から作るコノワタと同じ。ドブさんはそうだ、といわれた。コノワタであれば、昭和20年代、母が魚ん棚の馴染みの魚屋に朝行って、捨てられるナマコの腸をもらってきた。そして、しごいてコノワタにしていた。時季は冬から早春ではなかったかと思うが記憶にない。ということで、餓鬼の頃、コノワタはよく食べた。兄弟の中でコノワタをうまい、と食べていたのはオラだけであろう。飲んべえは栴檀より芳し。昭和40年頃になると、もうナマコの腸は貴重品になっていて、母には買えなかった。
ウルカがどのようにして作られていたのか、も、地域で違いがあったのであろうか。弥太さんや田辺翁が語られているウルカの味が今は昔、であろうことは想像できる。ドブさんが腸をしごいた、というが、今の鮎で腸をしごくことは出来ないほど、ドロドロ。人工をしごけば腸の皮がしっかりしているからしごけるかも。というよりも、腸をしごいて、内容物を出してから、塩をする、ということがどういうものか、想像できない。コノワタであればしごいている作業を見ていたからわかるが。
このようなご時世であるから、人工で、藍藻優占種である相模川のアユが「利き鮎会」で、準グランプリに2年連続選ばれる一因かも。
ということで、ウルカについても、古がどのようなものであったか、知る人は少数になっている。
アユの味についても、当然同じ現象を生じている、ということが相模川のアユが準グランプリの栄誉に輝いたということであろう。味も、鮎の姿、習性も知らない、あるいは、関知しない釣り人がいる限り、県産継代人工も平穏無事に、効率性だけに正当性根拠を与えられて存続することであろう。継代を5年ほど重ねたならば、鮎の習性が希薄、喪失すると一部の養魚場でも気がついているのに。今年の鮎雑誌に、狩野川、那珂川で、九州ダム湖産を親とする8代目くらいの継代人工の生産をやめ、また交雑種であろう九州ダム湖産を親とする人工の生産に切り替えた、と書かれていたと思うが。
ウルカのざらざらの食感についても、それが珪素を食していたことによる珪素の殻なのか、それともシルト等の土粒子が付着している苔を食べているものか、区別が必要であろう。
仕事を悪用して、苔と水質、あるいは阿部先生の珪素から藍藻に鮎が石を磨くことによって変移する、ということが事実かと訊ねたサボリーマンが「自然共生研究センター」のホームページを教えてくれた。
ここで、シルト等の土粒子の付きやすい苔とそうでない苔があること、掃流力と苔の関係等が掲載されているが。
なお、この報告の中にも、「糸状体性の藍藻であるHomoeothrix janthina」が「はみ跡のある石に優先してみられること、高い生産力があること、栄養価が高いこと等、アユとの関連性が明らかにされています。」と、阿部先生の研究報告が適切である、と紹介されている。
中央水産研究所の権威に逆らっているのは、村上先生だけであろうか。珪素学会があるにもかかわらず、珪素に関して素人が読むことが出来るのは巖佐先生の本くらい、というのは寂しい限り。なぜ、阿部先生らは、珪素がいたる川で優占種であった頃に大鮎が育っていた、という事実に着目されることがないのであろうか。県内水面試験場で今年対応してくれた人も阿部先生の報告を事実と信じられていたので、村上先生の文を送った。
補記27: ウルカの味:2 |
ドブさんは、ウルカを作るとき、腸を軽くしごくのであって、コノワタを作るときのように強くしごかない、とのこと。そして、苦みはある、と。その苦みは腸の皮に因るのか、それとも内容物等に因るのか。また、卵や白子はウルカには使わない、醤油漬けをしていた、とのこと。それでは大して量がとれないのでは、というと、少しで十分酒の肴になった、と。中津川さんも耳かきのようなもので食べるものといわれていた。オラは萩産?ウルカの瓶詰めを2,3日で空にしたがそのような食べ方をしない食べ物のよう。
小西翁はウルカについて、2種類の作り方を語られている。
@ みそだきうるか
「まずはらわたをとり出して、そいつを火にかけて、ようかきまわして、いくぶん砂気があるよって、そいつをこす。何回もこして、砂気がなくなった時分に、味噌と砂糖もちょっと入れて、ショウガなんかをきざみ込めばいいんですけども、そいつをようグツグツ、グツグツ水分がなくなるまで煮るわけです。味噌っていうやつは、かきまわさんと焦げつくよってに、かきまわし、かきまわしして煮しめる。それでいいわけです。このうるかの味は七色の味があるというんやでね。香ばしいし、苦味もあるし、そりゃなんとも言えん味ですよ。ただ西瓜のような、あの独特の匂いはないんですよ。ですけど、七色の味がありますな。酒のあてにはもってこいです。」
A 塩うるか
「このへんであれの好きな人は塩うるかもやるんですよ。塩辛にして、これを酒の肴にする人もずいぶんあります。」
「それは貴重なもので、欲しがって頼まれるけども、そうそうはできんのです。まあ、だいたい料亭のお客さんというたら腹を喜ぶんで、この腹が貴重なものになるわけです。結局、うちが出すのはほとんど腹持ちですから、それは焼くだけのものしかできません。それで、そうそうたくさんはできんわけです。」
「このうるかというのは、精力剤といますか身体に精がつくっていうこともあるし、とりわけ目によろしいんや。視力が強うなるんだ。わしら、うるかで視力が相当助けられとるわけですな。川行きにとっては本当にもってこいで、膳から離すことができんということですな。」
うるかには、塩うるかだけではなく、みそだきがあるとは知らなかった。「七色の味」とはどのようなものであろうか。「砂気」とは、珪素の殻のことであろうか。
小西翁は
「これは最高の珍味ですな。わしはもう鮎自体よりか、うるかがいいです。もう鮎がとれだしたら、それを絶対に膳から離さん。つぎつぎと作っていくわけですよ。」
亡き師匠はきれいな川でとれた湖産の腸を糞だけ出して、塩と一緒に竹筒に入れていたが。中津川のうるかを作っている人も子供のころ、うるかは薬でもあった、といわれていた。
うるかの原料は、保存食として作っていた焼き鮎から取る。
「夏場の鮎はだいたい夜八時頃には全部食み尽くして、内臓はからっぽになってすっかりきれいになっておるわけですよ。だからただ胸だけついて焼けば、それでもういいんです。けれども食み始めの午前四時以降にとったものや、日中とったものには藻が入っているから全部はらわたを取ってしまわんとね。だからいつとったかによって、腹をさくか、さかないかも考えに入れておくことが必要です。」
ドブさんがウルカを作るときに腸をしごくこととと同じく、泥ではなく、珪素の殻のザラザラの食感を避けるための配慮の結果として、内臓の中身を取っていたということであろうか。
なお「秋の子持ち鮎の場合は腹をさかないで蒸し焼きにする」とのこと。したがって、田辺翁とは違って、卵や白子はうるかには使われてなかったのではないか。
江の川の中山さんは、身も腸と一緒につけこむウルカの作り方を話されている。 |
焼き方
特注のバベカシを炭にしたものを使う。
「この炭は重い。ミカンのような堅い木でね。火力が強いうえに火持ちがいいんです。」
「串刺しにした鮎を蒸し器のような形をした火床に入れて、そのうえに紙で貼ったおおいをかけて一時間ほど焼くわけです。その間に二,三回裏返す。」。
焼き加減のコツは
「だいたい匂いで中まで完全に水分が取れたか取れんかわかるんです。その匂いによって、裏返して焼き、またちょっと変えるというような焼き方で、水分を完全に取ることが大切なんです。この匂いというものは、素人の人にはただ香ばしい匂いがするというだけかもしれませんが、やはりそれは年季ですな。年季を重ねんと、完全に火が通ったか完全ではないかというのはわかりません。目で見て色が黄金色に上がってきますけど、それが上がったか、上がらんかは匂いで完全にわかります。
さらにそれから二日ないし三日たってから、もういっぺんあぶるんです。そうしておけば一年でももつ。」「こうして二回、火を通しておけば、ちょっとした干物ですな。」
「今は昔とれたようなとれ方はせんよってに、長期間保存するというようなものは一尾もできんようになった。」。
焼くと、大きさは半分になった。
保存にしても、白焼きをしてから、弁慶に刺して、乾燥させるやり方とは異なる。小西翁は昔のことはわからないが、今では茜屋独特の方法といわれている。
味噌だきは、紀の川以外でも行われているのであろうか。
相模川で行われる内水面祭りで、焼いている養殖が生臭い臭いを漂わせる季節になった。故松沢さんは、囮として使えなくなった養殖をつぶして、焼いて道行く人にふるまわれることも。匂い、脂があるのでは、というと、焼き方でごまかせる、といわれた。完全にごまかせるか、どうかは聞き忘れたが。故松沢さんがつぶす養殖は95年以降、仕入れた養殖の半分以上になったのではなかろうか。オラが10月中旬、下旬以降、狩野川に釣れないとわかっていても96年から99年までをのぞいて通っていたのは、故松沢さんが夜逃げをしていないか、確認することも目的のひとつであった。
注 瀧井孝作「釣りの楽しみ」 釣魚名著シリーズ 二見書房 瀧井さんも、保存食としての焼き鮎の作り方を書かれている。 そのやり方は、小西翁とは異なる。あゆみちゃんとの逢い引きができなくなったら、 「故松沢さんの思い出:補記その2」として紹介する予定。 |
補記28: 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分 その1 |
村上先生は、球磨川の鮎は糸状の藍藻類を、川辺川の鮎は珪藻を食べている比率が高いこと、また、「珪藻と異なり、藍藻には、アユ独特の香気の素となる物質は含まれていません。」
ここまではオラも同感である。しかし、珪藻にも香りを発散させるアルコール分を生成する種別と、それが希薄な種別があるのではないか、ということがオラの疑問である。
そして、シャネル5番の香りではなく、キュウリのような香り、あるいは、07年6月始めの藁科川の上流部:赤沢?の放流鮎のシャネル5番に不純物が混じったような香りが、何によるのか。特定の物質だけが香りを精製している物質であるのか、あるいは複数あるのか、という点もオラの疑問である。
香りを発散させる物質を含んでいた大井川の珪藻を食べていたアユ。それが、長島ダムができて水質に何らかの影響を与え、そのために珪藻の種別等に影響を及ぼしたのでは?。そして、香気をかぐことがなくなった。その変化が、珪藻にも香気の素となる物質を含む種別とそうではない種別があるのではないか。あるいは、同じ種別でも栄養素の、栄養塩の違いで、珪藻に香気の素が生成されないことがあるということか。
村上先生が07年「つり人」の「エサから見たアユ 藻類で分かるアユ河川の健康度」に
「では、香りについてはどうか。以前は、アユの香りは、ケイ藻類の細胞の中に含まれている油滴に由来すると思われていたようだ。しかし、現在では、アユ独特のスイカの香りやキュウリに似た香りは、アユの皮膚にある酵素が、脂肪酸を分解して、揮発性のあるアルコール類を作り出すことにより生じると考えられている。エサの付着藻類の香りが直ちにアユに移るわけではないのだが、脂肪酸の種類組成や酵素の活性は、当然エサにも影響されるので、エサの違いにより、間接的に、アユの香りに差が出てくる可能性は否定できない。」
村上先生のこの記述はオラを満足させてくれる。とはいえ、珪藻を食べていても香りすらしないアユはどんな珪藻を食べているのか、あるいはその他の要因によるのか、については、分からないままである。願わくは、テレビの料理番組、紀行番組でアユの香りが素晴らしい、という女子アナの語りが事実ではないことを気づき、それでは古のあゆみちゃんとは、苔とは、川とは、山とは、に思いを巡らせて、本物の鮎を知ろうとする人の現れることを。
「川辺ダムが造られることにより、その下流の水温や水質が変化し、珪藻などの微小な生物の世界を変えてしまい、さらにそれを餌とするアユの大きさや、味に影響を及ぼすのではないかというのが私たちの心配しているところです。
川や川の中の生き物の世界の仕組みについての私たちの知識は、まだ貧弱なものです。『川辺川にダムを造るとどうなるか?』という質問に責任を持って答えられる研究者はどこにもいないと思います。」
村上先生の上記記事が掲載されている鮎トラ通信のホームページには川辺川の鮎と球磨川の鮎との違いが書かれている項もある。
川辺川の鮎と球磨川の鮎の価格差の質問に対して、双方の鮎の違いを述べられている。
@ 川辺の鮎は青く、球磨川の鮎は黄色い。
A 川辺の鮎は身が厚いけれど、球磨川の鮎はスラッとしている。
B 川辺の鮎は香りが高く、球磨川の鮎は薄い。
C 川辺川上流の野の脇から、坂本の堰等は非常にきれいな鮎が獲れるが、あまりおいしくない。それは、流れが穏やかで急流がないから。
この違いは、Cを別にして、村上先生の珪藻と藍藻の植生の違いを理由とされている。おらも、この漁師さんの評価は適切であると思っている。ただ、「鮎は急流育ちが大事」との判断が適切であるか、どうか、わからない。人工でも、長良川で育てば、郡上八幡の目利きを満足させることになるのであろうか。おらは、河口堰ができた後の郡上八幡の鮎に関する本間さんの人工鮎に対する「何が郡上ブランドだ」との憤りに共感をするから。そして、この思いは故松沢さんが城山下に人工放流を断っていたことにも通じる。漁協としては、人工放流をしてくれるな、といわれて、断る理由はない。大歓迎。その分、他の釣れればありがたい、という釣り人のいるところに回せるから願ったりかなったり。
急流が旨い鮎を育てる、ということについては、故松沢さんに聞かなければ分からないこと。ただ、故松沢さんが長良川でもチャラではなく、強い瀬を釣り場とされていたから、たんに急流に土地貴族がいて、勝負が早い、というだけではなく、味にも違いがあったのかも知れない。
(萬サ翁は、激流が鮎の味に関係在ると話されている。)
故松沢さんが、チャラで釣れば、数が釣れる、とはいわれたことがなかった。チャラで数釣りができると分かっていても、味、品格で瀬釣りよりも劣るため、オラに奨めなかったのであろうか。
なお、上記の川辺川と球磨川との鮎の違いを説明された漁師さんは、
「捕獲場所、苔、急流、そして、捕獲後の扱いも産地を決定します。『川辺の鮎でも、ちょっと氷を打つのが遅かったり、網をあげるタイミングが悪かったりすると、鮎はすぐ黄色くなります。…するともう、川辺産として出荷ができないのです。』」
また、「鮎は1日に5キロ以上も移動する」ので、捕獲場所は「決定的な問題ではないのです。」と。
珪藻を食する鮎と藍藻を食する鮎の違い、つまり、川辺川と球磨川で観察される容姿の違いが他の川ではどうだったのか、故松沢さんに聞くことができない。同様に、1日に5キロの移動もある、ということが、遡上期、下りの時をのぞいて、どの程度妥当性を有するのか、差しアユ、出鮎で、5キロも移動するのか、それとも、他の要因、条件によるのか、も、訊ねかった。
那珂川寒井でのこと。50匹以上釣ってきた人が、氷を砕いていた。そして、それを発泡スチロールの箱に敷き、鮎を並べられていた。そして、東京の料理屋に送られた。
オラは、氷水で絞めているから、氷を打つことが遅れる、ということはないと思っている。ただ、氷を砕く作業はしんどいから、省略して、鮎を配ったところには、今日、明日中に食べること、冷凍をしないこと、と伝えている。
注:高橋先生らが、「珪藻が香りと関係がない」と書かれていることに関して、事実ではない、と考えているが、その時、「香り」とはどのような現象を指しているのか、を検証する必要があると思った。高橋先生は、香りは海にいる稚魚、幼魚でもしている、と。 つまり生まれながらの、「本然の性」に基づくもので、食料という条件にもとづく、「育ち」に基づく、「気質の性」に基づくものではない、と。 「本然の性」に基づくものであるとすれば、なんで、長島ダムができる前の大井川では、時期が限られていたにもかかわらず、シャネル5番が手に残り香としてついていたのか。なぜ、山崎さんが「潮呑み鮎」が下ってくることを「香り」で察知できたのか。このような香りがなぜなくなったのか、に係る説明が必要であろう。 そのことによって、適切な意味付与が、現象の解明が、できるものと考えている。 「故松沢さんの思い出:補記 その2」の終わりちかくに、高橋先生に質問をしているが。 10月中旬に観察された海での稚魚については、高橋先生から返事をいただけたので、その現象が「湖産」ブランドに、日本海側の「海産」稚魚がブレンドされていた偽「湖産」の可能性が高い、と推定している。 |
補記29: 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分 その2 |
小西翁は、
「鮎は香魚というんですが、それくらい香りが高いんですよ。ちょうど西瓜の香りに似かよった匂い。昼でもやや匂います。死んだ鮎にもその香りはありますよ。けれども夜になるほどその香りが高いんです。しかも闇夜の真夜中に一番高いんです。これは昼間とうんと違うんですよ。昼の倍以上も高い。その鮎の香りは、なぜ夜中が高いのか。それは面白い現象やなと思っておるんですが、鮎の眠るところというのは背鰭が見えかくれするぐらいの浅瀬が多いんです。それで自分の存在を相手に知らすための手段で、それも真夜中の闇夜が一番高いということは、おれの存在はここやということを、香りによって相手に知らすためやないかと思うています。
夜、投網を打ちに行きますやろ。それで投網を引き寄せて上げると同時に、空気中に発散する匂いで、鮎がいくつくらい網に入ったかというのがわかるくらい匂います。全然見えんでもな。そういうもんですよ。舟打ちなんかで、艫で舵子が舟をこいでいて、みよしで投網を打っておるんですが、網を引き上げたら、艫におってもいくつぐらい鮎が入っておるか、すぐわかるくらい香りが高いんです。1尾でも匂いますよ。十尾も入れば相当強い匂いがするわけです。この鮎の香りは、ちっちゃな遡上鮎のころから下り鮎までのどの過程でも、あまり変わらんですけどね。けども夏の最盛期の香りが一番高いんじゃないですか。この香りというやつは、鮎にとって非常に大事なもんであるとわしは思います。真夜中になったら、どの魚も自分というものがどうなっておるか、相手はどこにおるか、わからんです。別れ別れになったらいかんので、知らせ合うための匂いやないじゃないですか、だからよく眠り込むほど高い匂いやないかと思うんです。もちろん、鮎が水中にいるあいだの匂い、鮎が群れているときなどは、ほんの少ししかわかりませんよ。網にかけて引き上げてからほど強く匂う。最前は西瓜の香りというたけど、鮎を食べると独特の香りがありますな、匂いというより香りといいたいくらい、ええ香りですよ。紀の川にもたくさん魚がおりますが、ああいう独特の匂いを持った魚というのはほかにおりませんな。だから鮎には餌の水ゴケまたは外敵、水質などを察知する敏感な嗅覚の働きがあると思います。」
村上先生は香りについて
「以前は、アユの香りは、ケイ藻類の細胞の中に含まれている油滴に由来すると思われていたようだ。しかし、現在では、アユ独特のスイカの香りやキュウリに似た香りは、アユの皮膚にある酵素が、脂肪酸を分解して、揮発性のあるアルコール類を作り出すことにより生じると考えられている。エサの付着藻類の香りが直ちにアユに移るわけではないのだが、脂肪酸の種類組成や酵素の活性は、当然エサにも影響されるので、エサの違いにより、間接的に、アユの香りに差が出てくる可能性は否定できない。」
川面から、さらには川から離れたところでも、鮎が川にいる期間中香気が漂っていた、といわれていたドブさんは、昼と夜との香気の違いは気がつかなかった、と。
酵素の働きが夜には高くなるのであろうか。脂肪酸は珪素から取り入れられた物質によって形成され、あるいは生成され、それが酵素によって分解される動機づけがある、ということであろうか。
小西翁が嗅覚の鋭さを述べられているが、鮭科の母川回帰性は、嗅覚の鋭さによる、との記述がある。また、川の水に含まれているアミノ酸の違いを識別して、母川を判断している、との報告もあった。ただ、そのアミノ酸の違いが、川の水に含まれているアミノ酸の含有量によるのか、あるいはアミノ酸の種別によるのか、は、書かれていなかったと思う。
そのアミノ酸の含有量、あるいは種別の構成比が匂いに関係しているのであろうか。
小西翁が観察されていた夜のほうが香りが高かった、とのことについては、故松沢さんに聞けばすぐに事例を出されて話されたであろうが。
黄色い衣装が保護色によるとの話も、香りが他者から識別されるため、との小西翁の観察も故松沢さんの観察された事例からえるところは大きかったであろうが。
脂肪酸の種別と珪藻の種別あるいは珪藻に含まれている栄養素の関係、その脂肪酸が分解されるための酵素の活性化にはどのような要因が作用しているのであろうか。それらのことを、川で観察されることは稀有なこととなった。
小西翁が夜のほうが香りが強い、といわれているが、そのことを確かめることの出来る川がまだどれくらい残っているのであろうか。残っていれば、宝くじが当たったらいってみたいなあ。
阿部先生が鮎が食することで、珪藻から藍藻に変移するといわれたが、阿部先生が香気は珪藻を食することが条件であることを知っていて、、あるいは経験されていたら、実験結果がおかしい、何らかの特殊な要因が作用している、と思いを巡らせることが出来たであろうに。
神奈川県内水面試験場の人が小西翁の「ただ湖産鮎っていうのは早熟です。だいたい自然のものに比べて約一ヶ月早いですな。湖産鮎が腹へ子を持つのは一ヶ月くらい早いです。」の現象に注意を払っておれば、「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」及び「アユ種苗の放流と現状の課題」で、海産、継代人工、湖産の産卵時期の違いに考慮を払い、誤った判断を避けることが出来たであろうに。
研究者が、珪藻と香り、脂肪酸と酵素の関係を実験室で探求しょうとするとき、小西翁等の経験に基づく観察に注意を払われることを切望する。
注 中津川に宮が瀬ダムがなかった頃、あるいは、大井川に長島ダムがなかった頃、シャネル5番の香りは、湖産等放流の中津川で6月下旬、遡上鮎の大井川で7月下旬頃であった。この現象が小西翁が語られている「けども夏の最盛期の香りが一番高い」とい う現象と関係があったのかなあ。 一番香りの高いときにしか、オラは香りを嗅ぐことができなかった、ということかなあ。 |
補記30: 鮎の品格、香りと食糧の関係=香りの成分その3 |
なお、小西翁は
「天然鮎は痩せ型の感じで、養殖鮎はちょっと太った形です。それに天然鮎というのは相当、香りが強い。たしかに香りということになったら天然鮎の方が強いんじゃないですか。この香りというのは川藻の香りじゃないですよ。最前から言うとる鮎の持って生まれた匂いですよ。ただ、わしらは味の点ではわからんですな。養殖鮎は食べたことないよってに(笑)。」
昭和50年ころ、紀ノ川では、小西翁が焼き鮎を焼かれることもなくなっているほど、鮎の量は減っていたにもかかわらず、まだ、珪藻が優占種の川であったということであろう。
平成の代のように、遡上鮎であっても、香りのする鮎の棲む川が稀、という事態は夢想だにされなかったのであろう。だからこそ、「この香りというのは川藻の香りじゃないんですよ」、「鮎の持って生まれた匂いですよ」と、語られることになる。
珪藻が優占種でなければ香りがしない、ということに気づかず、「いい香り」としゃべって、人工鮎を食べているテレビの画面がほんまかいな、と、阿部先生の思い及ばなかったのはなぜかなあ。あるいは、当世の多くの川では、香りが知識としてだけのもの、スローガンにすぎない、ということになぜ阿部先生は思い至らなかったのかなあ。
阿部先生が藍藻にも香りを生成する物質が含まれていると判断されているのであれば、話は別であるが。そもそも、阿部先生は実験に使われた鮎の匂いを嗅いだのであろうか。嗅いで、西瓜の香りがしたのであろうか。西瓜の香りがしなかったのであれば、なんでかなあ、と思いを巡らすこともなかったのはなんでかあ。
小西翁は、
「今年(昭和五十三年)は海産鮎で百六万尾、湖産鮎で四十二万尾合計で百四十八万尾放流しましたな。この海産鮎というのは南紀の温暖な海域で採捕した稚鮎を、畜養所という養魚池で体長が四,五センチになるくらいまで畜養するんです。紀の川の水温が十三度以上になるのを待って、四月から五月くらいにそれを放流するんですが、遅いものは川開き直前までかかることもある。」
そのころは既に、湖産ブランドに人工や日本海側の海産稚鮎も含まれていたであろうが、まだ、人工は例外的な数量であろうか。そして、紀の川の遡上量が激減していたのではないか。
「うちの水揚げというのは、一年に一人一万尾。」
「それと、一万尾以上たくさんとらんというのは、漁場を荒さんということでね。乱獲の気持ちでやったら漁場は必ず荒れますよ。それを荒さんためには、やはり節度ある漁ということを心がけないといかんし、一万尾というのがちょうどいい目標ということになるわけですな。」
「今の養殖業者のやることは、自然のままであれば時期がくれば全部、川へ遡上してくるものを海でみなとってしまう。採捕した稚鮎を池に入れて、その池で育て上げたものを全部金にしたがる。来年のことは何も考えていない。」
08年、07年の相模湾での稚鮎採捕量は、200万、300万尾ほどではないかと想像しているが、その量よりもはるかに少ない稚鮎採捕量でも、小西翁が来年の再生産を意識せざるをえないほど、遡上量が激減していたのであろうか。それとも、紀の川に放流される量の何倍もの稚鮎が採補されていて、他の川に「湖産」に混入されて出荷されていたのであろうか。
「茜屋の一統で昔からいわれてきたことといえば、鮎をいくらでもとれる技術は持っているが、必要のない鮎はとるなということですわ。技におぼれて鮎をとっては紀の川に申し訳がたたんということですわな。細く長く、これが強いていえば茜屋流の心得でしょうな。」
とはいえ、「現在の鮎の棲み方では足らなくなる年もある。」(注:目標に達しないこと)ということでも、遡上鮎の減少が顕在化していたということであろうか。
「紀の川の鮎師代々」の著者の一人である佐藤清光さんは、「翁の人生哲学を表現するのには、伝統漁法と一年魚である鮎の生涯とを二重写しにする」表現上の技法を使用して、演出効果を上げるため、別の川の鮎のフィルムを使用しょうと考えて、
「翁の承諾を求めた。
『わしは嘘はすかん。素人の目はごまかせても、わしの目はごまかせん。鮎はその棲む川によって色も形も違う。紀の川の鮎は紀の川にしかいない…』
翁の口調は思いのほか厳しかった。」
川によって色も形も違うから、郡上八幡の目利きが集荷場に集まった鮎の中から、九頭竜産をはじいていたのであろう。
藍藻が優占種の相模川の人工鮎が利き鮎会で、2年連続準グランプリを獲得するご時世である。
食する藍藻からどのような味と匂いの鮎が育ち、珪藻を食する鮎とどのように香りと味が違うか、に無頓着な研究者が、実験室での特殊な環境、条件下であらわれたにすぎない現象、結果を普遍化しょうとしても不思議ではないのかなあ。
故松沢さんは、学者先生はそういうが、と、学者先生の研究結果を批判されることが多かったが、本物の川を、鮎を知らずして、鮎の生態、苔を語ることが当たり前というのもご時世、ということであろうか。
そして、本物を知る人がまた一人この世から旅立たれた。あと何人、この世に本物を知る人が残っておられるのであろうか。その人たちがいなくなると、本物を知らない人達の研究報告を事実ではない、間違っちょる、といえる人はいなくなるが。
本物のヤマメ、イワナの生態、生き様等を知ろうと谿を歩きまわられた今西博士のような研究者は、鮎に関しては何人おられるのかなあ。
小西翁は
「あの川は汚されても、汚されても、なんぼ汚されようが不平を言わない。どう壊されようが、なにも言わん。それと同じことです。なにも言わんよってにかまわんということで、汚したりするようなこと、せんといてほしいと願うんですよ。川を汚されるということが、わしにとって一番苦痛です。」
この小西翁の思いは、故松沢さんと同じである。さらに山の荒廃を嘆かれていたが。
補記31: 「アユと日本の川」その1 いにしえの吉野川 |
栗栖健「アユと日本の川」(築地書館発行)が発行された。
舞台は、小西翁が生活をされていた紀の川の上流、前さんが子供のころから名付け親である隣のうどん屋さんのアユ釣りについていって、
「一間ほどの穂先一本、底玉に二号テグス、鉤を五〜六本もつけて川を引く。吉野川では今では考えられない鮎の多さで、就学前の童でしかなかった私にも釣れて夢中にさせられた。」ところ。前さんはアユを釣ったが、その結果はお父さんにキセルでたたかれ、それでもアユ釣りをされていた吉野川である。
「素ガケの鉤に、ときには『ビワマス』もカカって、急いで持ち帰ったときなど、煙管の力はごく弱くなったりしていた。」
「鮎の季節には職漁者やセミプロもいた。大淀町の魚屋が川を廻って鮎を買い集める風景も懐かしい思い出である。
奥吉野からは、杉の長い筏が毎日のように降りてきて、下市の町にも、その筏師が幾人も住んでいた。
川の左岸『阿智賀(あちが)』の川原には、ウナギを獲る人達のテントが張られ、朝には獲物を売りにきた。」
と、書かれている前さんの吉野川がどのように変わったか、を、栗栖さんは、
「吉野川にも今、わが国の他の川の上・中流域が持つ問題がある。土砂で埋まった源流の谷、聞こえなくなったカジカガエルの声…。今では上水道のよい水とされている水でさえ、かってを知る人は『汚れた』と嘆く。母なる川は、いささか疲れているようだ。吉野川を見ても、我々は、川の当面の利用を優先させ、つけを後世に回しているのではないか、という思いを抑えられない。アユなどの生き物たちは、川の変化を敏感に反映している。彼らは、川が水源から河口まで一体であることも語っているのだ。川はそれぞれ個性的であるが、以上の事情は、アユが分布する川では共通するところが多いはずだ。本書では、アユを案内役に、吉野川の現状をたずね、それを土台に、次の世代に渡すべき川のあり方を考える手がかりを探そうと試みた。」
栗栖さんの思いはオラにも十分理解でき、共感する。そして、栗栖さんは、吉野川に関わりを持たれた方々の話を聞かれて記録された。
オラは、古の「本物」の山、川、苔、アユのことをもっと記録にとどめておいて、と願っている。もう記録することに残された時間は残り少なくなっている。ぜひ、栗栖さん、築地書館には、「アユと日本の川」の続編をお願いしたい。
そのうえで、記録を作成するとき、注意をしていただきたいことがある。それは、「悠久の自然」、「川」ではない、ということ。人間が川を、山を変えていることを考慮して、現象を理解しないと、誤った理解になるのではないか、ということである。
吉野川での人間の関与が川に与えた影響を見ると、
@ 小西翁が、「蛙の小便で崩れた小田の井堰」が昭和32年にコンクリートに変わった。この堰が遡上を阻害し、遡上量の激減をまねいて、その上流である吉野川が放流主体の川になったのではなかろうか。
A 昭和48年大迫ダムが出来て、水質の変化が一層進み、珪藻から藍藻へ優占種がかわり、あるいは珪藻が優占種であるとしても、その種別あるいは珪藻に含まれる栄養素あるいは栄養価が変化したのではないか。
B 昭和50年頃から、「湖産」に、海産だけでなく、人工も混入されるようになったのではないか。そして、人工の混入率は年々高まったのではないか。
C 水質の悪化は、川に出来た構造物だけでなく、生活排水等でも悪化し、昭和45年頃には泳ぐことが出来なくなった支流も出てきたとのこと。
昭和32年の井堰が出来てどのように川が変わったか、小西翁は次のように語られている。
暴れ川の紀の川が
「井堰の内側は土砂で全部埋まるわけですから、増水ごとに高うなるわけです。そうしたら、土砂が堰の表にたまるよってに、だんだん落差がなくなってくる。紀の川一といわれた雛子の瀬なんかも、今は昔とえらい違いですよ。あそこでちょっとの落差があるだけで、わずかです。昔はあれで一五〇メートルぐらいの長さの瀬で、その瀬肩と瀬尻とでは、高さにして三間以上違うたわけですから、雛子の瀬では友釣りなんか一年中かかったもんですよ。川開きから秋の子持ち鮎までかかったものが、今では友釣りで一尾もかからんようになりました。」
栗栖さんは、吉野川の昆虫の多様性、豊かさについて、
「吉野川は、わが国で、カゲロウ類など、幼虫が川底の石の間に住む水生昆虫(底生昆虫)の生態研究が始まったところだ。1951年、津田早苗・奈良女子大教授が調査を開始している。これに参加した御勢さんによると『津田さんによい川があると紹介した』のがきっかけだった。」
「御勢さん(生態学)は『カゲロウは吉野川に200種ほどおり、95%はきれいな流れに住む種類。彼らの生息は清流の証し』という。豊富な川底の虫たちを育てたのは、自慢のアユと同じように吉野川の瀬、それも白波立つ早瀬だ。」
「早瀬の浄化力はその構造に由来する。浮き石の川底は有機物を分解する微生物がいる石の表面積が大きく、白波は彼らに必要な酸素を溶かし込む。」
このような川が、また、幼児の前さんでさえ釣れた鮎が、どのようになっていったのであろうか。
補記32: 「アユと日本の川」 その2 汚れゆく吉野川 |
「底生動物の中で主なのが底生昆虫のカゲロウ、カワゲラ、トビケラ類。これらは成虫したときに、たたんだ羽の形で区別できる。カゲロウは羽を立て、カワゲラは重ねてたたむ。トビケラはテント型だ。餌も『カゲロウは大部分が藻、カワゲラは90%が肉食、トビケラはほとんどが藻』(御勢さん)と分かれる。」
トビケラたちが「生きるにはすき間があり安定した石の川底(硬底)、つまりそれらを形成する早瀬が必要である。早瀬は餌の藻の光合成が盛んだ。石の間を水が流れ、そこに住む虫たちに酸素を供給する。吉野川以外の日本の川もヨーロッパなど大陸の川に比べると底生昆虫が多いのは、アユの生活の場でもある瀬の存在が大きく寄与している、という指摘もある。」
「御勢さんによると、生物生産量は早瀬が10なら平瀬は5,淵1になる。」
「巣を作るトビケラは泥に弱い。1973年、川上村の上流部に大迫ダムが完成した。供用開始後、五條までの下流各地で、昆虫量は建設前の64〜81%になった。『ダム湖から出る濁りの影響は間違いない。』」
注:相模川小沢の堰の魚道改修工事が2008年10月下旬から行われているが、ザカニ餌を釣るために
川虫を捕ろうとした人が高田橋、弁天ではとれない、ということで、本流からの流れ込みのない弁天
支流等、泥の影響のないところで獲っていた。
御勢さんは「『それでもいいといわれる四万十川、長良川並で日本の川の平均より上。日本有数の量。』」と。
昭和48年頃、長良川でも、水質の低下が生じていたということであろうが、どの辺りのことをいわれているのであろうか。生活排水の影響が強い、そして、徳島から運ばれてくる人工?が「鮎」とされて鵜飼いが行われている岐阜、オラが沖に走られ丼を食ったこともあった美濃、故松沢さんが遠征にも出かけられた郡上八幡、その上流の白鳥地区では、生活排水等による水質の違いが著しいのではないか、と思っている。
大迫ダムができて、底生昆虫が多く棲息できる条件である
「@硬底であることAこれまであまり濁らなかったから、と(御勢さんは)整理した。その原因には、地質的に砂が少なく、また森林がきっちり保全されていたことを挙げた。」を、その下流の川を、少し痛めつけ、昆虫の生息環境、条件を悪くさせたのであろう。
そのことが味、香りに影響を与えているかもしれない。あるいは、放流鮎主体となったため、遡上アユが生活していた頃とは異なる味、香りに対する釣り人の評価、変化が生じたのかもしれない。
「川上村の北俣川は水源の支流。水は冷たく本来は鮎の生育に向かないが、同村柏木、辻谷達夫さん(1933年生まれ)は『北俣川のアユは香りがいい。(その下流の)大迫ダムから下の鮎は北俣川のとは全然違い、何か泥臭い。進んで食べようとは思わない。』と断言した。
柏木の下流の同村白川渡、山口梅次郎さんによると『アユは水がきれいな滝、瀬、淵がある支流がよい。村内では中奥、上多古の川や北俣川だ。上流ほど味がいい。ある程度水が温かいとよく肥えているが身が柔らかい。持つとわかる。川上村のはにおいが良い。上市(吉野町)では特に川上のアユを良いと喜び、…』」
「山口さんがここで『いいアユが育つ』と名を挙げた川も、アマゴを釣りにはいるような渓流だ。」
オラにとって残念なことは、大迫ダムが出来る前でも、支流と本流との差異があったのか、語ってほしかったことと、小田の井堰等が永久構造物になる前、支流にも釣りの対象となるほど遡上していたのか、といことである。
大迫ダムが出来る前で、また、遡上を妨げられていなかった頃は、本流と支流の差異はなかったのではないか、と想像しているが。ただ、「水がある程度温かいと身が柔らかい」については、わからない。放流主体になってからの現象を語られているから、人工、湖産等の種別による差異かも?
人間が遡上を妨げる構造物を作っていなかった頃、支流に上る鮎の量、大きさはどのようなものであったのかなあ。
「現在、吉野町から五條市にかけての吉野川の川原では、水際をイネ科のツルヨシが埋め、その陸側にヤナギ類やタデ類、セイタカアワダチソウ、クズ、ヨモギなどが群落を作っているところが多い。オギの大群落はほかでは見られない。」
「1952年、吉野川沿いに転居した」梅谷さんは「『当時、河原は石ばかりで草は生えていなかった。』」
「谷幸三・大阪産業大学講師は『(この)たまった砂、泥に水の汚れが付着して、植物を繁茂させた』 と分析する。植物は、石が掘られた河原で、上流から流れてきた砂、泥に根を張った。」
「水の汚れを示すBOD(生物化学的酸素要求量)は、市街地の家庭排水が流れ込む五條市・大川橋の測定地点では、1971年〜75年に急激に上昇している。電気洗濯機の普及と重なる。」
昭和46年から急激に水質が悪くなったようであるが、それ以前の昭和30年代後半から汚れはじめていたよう。しかし、川の水質浄化機能、水量の多さが生活排水の影響を減少させていたのではないかなあ。
石の河原が砂利、砂に埋まっていくの様、芦等の群落が形成されていく状況は、狩野川の平成5年頃から、中津川のダム完成後から、見慣れた光景であるから、理解しやすい。中津川田代では河原の砂利山をなくすため、去年ブルが入り、今年は、仙台堰下流左岸の樹木の一部を除去するため、川に重機搬入用の道を造っていた。
砂を流す掃流力もなくなった川の病を表している。
注:野村さんも、四万十川に蘆が生えるようになったと語られている。
「故松沢さんの思い出:補記 その2」
補記33: 「アユと日本の川」その3 子供と吉野川 |
前さんは、幼児の時から大川(本流)で釣られていたが、多くの子供は、支流で遊んでいた。
菊本さんが遊んだのは千股川。
「『幅は2メートルぐらいで、両側に牛の餌にする草が生えていた。そこで泳いだ』。遊び相手は、支流の環境に適合して生きる魚たちだった。
瀬の小石の底にはゴリ(ヨシノボリ類)がいた。体長3〜5センチメートルで、取ると卵とじにした。『流れがゆるやかな砂底をすくうとシマドジョウが出てきた。』流れにつかった岸辺の草の下にカゴを持っていき、そーっと持ち上げるとエビが入り佃煮にした。そこにはハヤ(オイカワ)に似て体側に紺色の帯があるカワムツもいた。あこがれたのはウナギだ。夜づけで取った。」
秋野川は
「『背丈ほど深さの淵もできていて飛び込んだ。今はヘドロがたまり、岸には草が生えているが、以前は砂利か砂のそこで、岸には湧き水も出ていた』。
小さな川には大型魚はいないが、流れの法則に従って瀬、淵ができ、底が石か砂かの差もある。場所によって住む魚の種類も異なった。」
「子どもたちには魚の値打ちのランクがあった。柳谷さんは『ジャコ(注:オイカワ)よりも小判形のフナやコイのほうが取れるとうれしかった。フナはなかなか取れず、釣るとジャコ30匹にフナ1匹ぐらいの割合だった。』」
「当時の秋野川では、きれいな水、砂や石底を好む魚たちより、ある程度濁りに耐えられ、泥底を好むフナのほうが珍しかったのだ。
瀬で泳ぎ、岸の草の下にひそむ、砂にもぐる、川底や岸の石の間に隠れる、など住み場所もさまざまな魚たちは、川は本来そんな環境の組み合わせであったことを、子どもたちに教えていた。」
秋野川について、
「大西一さんは『前は背が立たないところが何カ所もあった。今の水量は昔の5分の1。そのころ、川遊びは一番の楽しみで女の子も川に入った』」
辻本豊子さんは、「『兄たちは上流の立石(地区)まで上り、泳いで下っていた。そのころは、堰以外では腹を底にすらずに下れた』と言う。」
宇野恵教さん(1951年生まれ)は、「奈良市の中学に進学した後は、友達が大勢泳ぎに来たという。すでに奈良市内の川では泳げなくなっていた。『あのころが懐かしい。自分たちが小学校を卒業して10年ほどすると、子供が川に行かなくなった。』そうだ。」
北俣川は、「川遊び・怖く遠かった本流」「川遊び・怖かった“ガタロ”淵」の章には出てこない。子供が遊ぶ川というよりも、本流と同様の水量のある支流ということであろう。
「中学時代からアマゴ釣りをしてきた川上村武木出身の杉本充(注:1932年生まれ)さんは、行った先の渓流の水を飲んできた。『水があかんと魚もあかん。水の味が魚に残っている。人間の舌は敏感なもんですよ。雑木林(落葉広葉樹)から出た水はおいしい。本宮町(和歌山県田辺市本宮町)の大塔川と四村川は並んで流れているのに、大塔川のほうがおいしい。大塔川の上流は天然の落葉樹林だが、四村川はほとんどが人工林だ。また、古い林は地面が落ち着いている。伐採後は水が若い。』」
栗栖さんは、杉本さんが川上村内の4地点で汲んできた水の飲み比べをされた。
このようなレベルで、水質を、アカの質を云々できる時代は、故松沢さんの言いぐさではないが、もはやこないであろう。
どんどん埋まっていく、砂利まみれになる川を嘆くだけ、ということかなあ。
菊本和男さんは、カジカガエルの声が聞こえなくなったという。
「『昭和35(1960)年頃には聞いていた。瀬の中に並んだ大きな石の上に座り、夕方になると鳴いていた』という光景は吉野川中流域では普通だった。『(下市町の)千石橋を渡ると、瀬のあちこちから聞こえてきた。20代(1944年〜)のことだ。本流の瀬ではどこでも一面で鳴いていた』」
アカザ、この地方名はアカニャン、アカネコ、も、いなくなった。
「日本産カエル研究の第一人者とされる松井正文・京大教授にこの話をすると『カジカガエルは、瀬の浮き石の下のすき間に産卵する。アカザが生息しているのと同じような環境だ。2種ともいなくなったのなら、石のすき間がなくなるような川底の変化があったのだろう』と指摘した。」
「生存に瀬の浮き石の底が必要なカジカガエルとアカザが姿を消したのは、石河原が消えてヨシやオギの群落に移行したのと一体の現象だ。」
補記34: 「アユと日本の川」その4 人工等放流河川の吉野川 |
注釈がないと、「本物の」鮎と、人工を、湖産を同一視しかねない記述等、気になる箇所がある。
@ 1969年はアユが豊漁だった。今井さんは当時中学生だった長男が、段引きで釣った4匹のアユの写真を持っている。場所は下淵。『大きいのは30センチぐらいあるが、釣ったののは7月中旬だから、まだまだ大きくなったはず』という。」
その鮎の写真は、下腹が膨れた人工に見える。昭和44年にはもう人工が成魚放流されていたということであろうか。前さんの記述で人工の成魚放流が登場するのは、もう少し後であるが。
今井さんは、井堰が遡上を妨げる前からアユを釣られていたようであるが、なぜ、人工とは考えられなかったのかなあ。
なお、垢石翁が丼をされた神通川上流も宮川の8月下旬でも、尺アユは出ていない。
吉野町上市付近の遡上鮎について
「島田吾一さんは『カジカ(ガエル)が鳴き、田に水を引くころ。菜の花が咲くころからぼつぼつと。昔はずいぶんいた。大きいのは4,5寸(15センチ余り)くらいあった』と表現した。菊本和男さん(1924年生まれ)によると『桜の花が咲くころ。タバコより大きかった。』になる。」
このように、遡上鮎は、例外的な大土地貴族をのぞくと、6月下旬にはまだ15cm級、大きくても18センチ止まりのはず。7月末で18cm、20cmあまりというくらいが大きさの限界であろう。
A 「島田吾一さんが刺し網を川に張り、今でも忘れられない大漁をしたのも落ちアユの時季だ。『8,9年前の9月20日すぎ、上市の川で1網100匹取れたことがある。そろそろ群れが固まり始めた頃だ。もう重たくて1人では上げられなかった』。」
これは、湖産か継代人工であると、オラでも、今では断言できる。海産が9月に下りの行動はしないから。ただ、戦前のことに関して、垢石翁が寸又川について、あるいは、他の人が天竜川の支流の高遠の川について、8月終わりに下りを開始している、と書かれていることに関しては、どういうことか、まだわからないが。低水温が関係してるとしても、性成熟が前さんの仮説である稚魚からの総日照時間が関係している、ということでは説明できないが。水温が関係していて、下りの行動を行うが、20度、15度以上くらいのところでまた下りを中断する、という観察があれば、わかりやすいが。
おそらく、垢石翁は、土地の人の話を聞かれたものであり、自ら経験されたことではなかろう。
B 下りが尻尾を下流側に向けて行われるのではなく、頭から下っている説もあるとのこと。その説は「魚やカニを取る『筌(うけ)』」に入ったアユが頭を下流に向けているから、との現象に基づくとのこと。
2006年、遡上量が多かった10月終わりの大井川は昭和橋下流、石風呂との中間附近にあった瀬でのこと。テク3はその瀬の勾配があり、一番流れが強いところに、オラは瀬肩に。
10時頃、頭を下流に向けた中学生、女子高生の一団が、帯になって、下っていく。テク3にその旨を伝えた。しばらくして、セク3が幸せいっぱいの顔をしている。なんで、オラのはいっていた瀬肩でお食事をしてくれなかったのかなあ。
下りがはじまっている10月終わりでも、出アユがいるということ。出アユと、下りのアユとの違いの観察が必要であると考える。オラは故松沢さんの言われていた尻尾を下流に向けて下る、という観察を信じている。
したがって、「下り」ではなく、出鮎の現象と確信している。
「『筏は和歌山県内の井堰が完成(1957年)したころまであった。流すのは秋、冬と春。10月に木を切り、翌年流すのが一番多かった。2〜3月に切って秋に流すこともあった。夏はよほどのことがないと行かなかった』。夏を避けたのは、藤が腐りやすいのと和歌山平野の農業取水で水位が下がるためだ。」
針葉樹の筏流しが行われていた吉野川で上質の鮎が育っていたということであるのに、垢石翁はなんで大井川の鮎が筏流しによって上質の鮎に育たない、と書かれたのであろうか。もっとも、「釣趣戲書」には、吉野川の評価は書かれていないが。
吉野川の水量について、冬の水量が農業取水のあるときよりも多かった、とはびっくり。
補記35: 「アユと日本の川」その5 森林の再生 |
「川上村森林組合長、南本泰男さん(1940年生まれ)『1965年ごろ、川上村白屋で120〜130年の木15ヘクタールを伐採したら、えらいもんや、夕立の時は出水がすごく増え、雨が降らないと谷の水がなくなった。木は主に杉だった。杉、ヒノキも保水力がある。昔は菜種梅雨では、川は増水しなかった。今はする。人工林60%のこの村の山林も保水力があった。広葉樹、針葉樹の差は結論が出ていないのではないか』。」
故松沢さんが古の川、あゆみちゃんを狩野川で経験できる日はこない、といわれていた理由を南本さんが語られている。
「現在では、保水力が大きい森林は、中核となる大木があり、大きさと樹齢が異なるいろんな種類の広葉樹・針葉樹でなる林、というのが通説と言っていいようだ。」
「江戸時代の初め、わが国最古の人工林の一つと見られている」ところを、「川上村は1994年、伐採が計画されていた下多古地区の杉、ヒノキの民有林約3700平方メートルを村有化した。」
「近年、坂本さんのように『人工林は、植え、育て、伐採して利用し、循環させるものだということを、都市の人に認識してもらおう』という動きが、林業者の側から出ている。」
「これまでの河川対策は、降った雨を早く海まで流す。治水、利水のためにはダムを造り、増水は堤防で防ぐ、だったと言ってよかろう。」
「次の、さらに次の世代に残すべき川を考えると、ダム湖の堆砂の問題を取り上げても、これまでの考え方の射程はいかにも短い。」
「この急流・吉野川が(大雨による)『増水は出水までの時間が遅く、又減水までの時間の長いのが特性であった。』(青木滋一『奈良県気象災害史』1956年)のは、以前の水源地の森林の安定を語っているようにも思えるのだが。」
そのような山を求めて
「2003年8月、河口の和歌山市は村と『吉野川・紀の川水源地保護協定』を結び、村が借りた神之谷地区三之公の伐採跡で同市の『市民の森』1ヘクタールを開いた。2005年10月にも公募した市民20人らが森の手入れを体験。」と、少しは、故松沢さんのあきらめが杞憂となる動きもはじまったようである。とはいえ、樹木の持つ保水力ではなく、砂防ダムで、ダムで、水を、川を管理しょうとする流れが衰えることをオラが見ることはなかろう。
「人工林」とは、川那部先生の「人間的自然」と同じ意味ではないかなあ |
「国土交通省和歌山河川国道事務所では、『流量はデータでは30年前とそう変わっていない。緩やかに流れていたのが河川改修で速くなり、減ったように見えるのかもしれないが』という。」
30年前の流量とはどのような比較をされたのであろうか。年間流量の比較、それを365日で割った日量平均比較ではないか。
日にち別の、流量の分布がどうなっているか、が問題であろう。最低日量がどう変わったか、日量の分布がどう変わったか、が問題のはず。おつむの良い国土交通省は問題の所在は百も承知で、問題のすり替えを行っているのではないか。
そして、過去の日量分布データの公表を求めると、存在しない、というのではないかなあ。治水、利水でしか、川を見ていない国土交通省にとっては、異常な水量が観察対象ではあっても、年間総水量が問題ではあっても、何事もなく流れている川の水量は関心事とはならなかったのではないかなあ。
遡上を妨げるコンクリートの井堰ができる前、その堰を遡上できるように、今井清三郎さん(1927年生まれ)は
「22〜23才ごろの3月、元の和歌山・小田井堰をアユが上れるよう堰の下にシバを階段のように積みに行った。堰は高さ2.5メートルぐらい。シバは針金でくくってありトラックで運んだ。漁協の仕事だったと思う。効果は大きく、タバコくらいのアユが黒くなって上っていった。」
アユが上れない魚道は、1999年〜2004年に3頭首工で改善された。
「遡上を確かめるため和歌山県・岩出頭首工の上手で放したアユが約1ヶ月後の6月5日夕、57キロメートル上流の下市町新住で友釣りに掛かった。」
この結果、御勢さんは
「岩出頭首工までは海から天然アユが上っており、これで下市まで遡上できることが確認できた。後は数が問題と」話されていた。
魚道の改善は、さまざまさ手法で、効果を期待できるようである。しかし、魚道を設置した後の維持管理、効果の検証は中津川・妻田の堰では行われていないように、まだ、広く行われておらず、不十分ではないかと思っている。多摩川では進んでいるようであるが、支流の秋川では、最初の堰が障害になっているよう。
枡本さんは「『繁殖を期待するが、アユにとって産卵のため下るのは上りの5倍も10倍も大変』と言う。」
「『下るのが大変』なことは、井堰がからんでいる場合がある。井堰が、アユが下る障害になっているという指摘は、以前からあった。井堰の上流側は水が溜まるから、アユは流れの向きで上下流側の判断ができなくなる。さらに魚道の底が川底より高くなっている所では、底を下ってくるアユは魚道の入り口を見つけにくい、というのだ。」
故松沢さんは、下りのアユを妊婦が坂道を下るようなもの、と話されていた。そして、警戒心も強く、狩野川での11月頃にかけられていた下りアユを採補するためのヤナ=流れに張られた通せんぼうの杭と網でできたもの。取り網に誘導する の、流れに対する角度が適切でないと、網に入らず、修善寺まで戻った、あるいは、上島橋の橋梁掛け替えの時、流れをヒューム管で流していたが、それにびっくりして、城山下の戻っていった、と。
堰での下りの阻害については聞き忘れた。
吉野川に桜アユが戻る日はあるのであろうか。
栗栖健さんには、「アユと日本の川」の続編を発行されるようお願いしたい。故松沢さんがもはや見ることはできない、といわれていた本物のアユと、そのアユを育んでいた川、苔、山をせめても記録に残してほしい。
トップへ戻る | 故松沢さんの思い出に戻る |