故松沢さんの思いで:補記4 2010年
オラが、シャネル5番の香りがしない、遡上鮎が少ないから釣れない、と、愚痴を言うと、故松沢さんは、鮎が悪いのではないよ、人間が悪いんよ、といわれていた。
そこで、人間がどんな悪いことをしたのか、を考えるために、古のあゆみちゃんを育んだ山、川等の環境、そして、そこに生活していたあゆみちゃんを見てきた。
そして、人間がどんな悪いことをしてきたのか、2009年は、川那部先生を導師として考えた。その結果は、弱いオラのおつむをぐちゃぐちゃにされる難行苦行を強いられることとなった。
それに懲りて、もう、人間の悪行を見たくない、と思った。
しかし、故松沢さんの思いを少しでも伝えるためには、村上先生の「河口堰」を読むしかない。
なお、村上先生らは、2010年に
谷田一三・村上哲夫「ダム湖・ダム河川の生態系と管理 日本における特性・動態・評価」(名古屋大学出版会)を発行されている。
この本にまで行き着きたいが、それは、かって時期限定ではあっても大井川に存在していた尻ビレに明るい蛍光色のオレンジ色、その中に放射線状に明るい蛍光色の青い筋が入った衣装をまとい、シャネル5番の香りを振りまいていたあゆみちゃんとの再会を願うほど、実現不可能な願望でしょう。
大井川のあゆみちゃんがシャネル5番の香りを振りまくには、長島ダムがなくなるか、長島ダムの下流にある寸股川のダムがなくなり、また、杉山が手入れされるか、落葉樹の山に変身するまで無理ではないかなあ。
ということで、村上先生の「河口堰」(講談社)は、ヘボの特権と考えている恣意的な換骨奪胎をして、人間が行った悪行の一端、および悪行がどのような現象、結果をもたらしたか、を書きたいとは思っています。
しかしですよ、オラの関心は生身のあゆみちゃんであって、あゆみちゃんを取り巻く環境、生活誌は「学者先生」のとんでもはっぷんな「学説」、調査報告が臆面もなくまかり通っているから、やむを得ず、つきあっている状態で気が乗らない面があります。
ということで、村上哲夫 西條八束 奥田節夫「河口堰」(講談社)を読む前に、「故松沢さんの思い出:補記」で、垢石翁を紹介しているときに疑問に思っていた利根川は前橋付近にいつ頃遡上鮎がやってきていたか、ということなど、垢石翁が観察された現象について、佐藤垢石「つり姿」(鶴書房)で、あるいは、「釣随筆」(河出書房 市民文庫)で読み、そして、いつもの通り、寄り道をして、どうにもごまかしができん、と諦めの境地になってから「河口堰」を書き始めることにします。
これくらいのさぼりは、オラの気質を少しは知っておられた故松沢さんは、また、手抜きをしている、といわれるだけでしょう。
とはいえ、これではあまりにも手抜き過ぎるようですから、川那部浩弥「アユの博物誌」(平凡社)の「X章 アユさまざま(座談会)」に出席されている東幹夫、岩井保、原田英司先生が書かれた本がないかなあ、と探していて、岩井保「魚の国の驚異」(朝日新聞社)が見つかりました。
原田先生は、2009年に亡くなられているようですが、海産アユの遅生まれと早生まれの集団が2つ存在するのか、どうかの研究を行われたのか、気になりますが。
東先生は、、有明海、諫早湾に係る環境と生物の関係、変化等の本は見つかったが、アユの本は新たに見つけることはできませんでした。
川漁師にさげすまれ、軽蔑されている「学者先生」の系統に属すると考えている本では、「アユ学」が去年発行されているというのに。
川那部先生の本を苦心惨憺読んだという証のために、「魚の国の驚異」の、「強く生き潔く消えるアユ」、「汚水には勝てぬ味覚」などを紹介していきます。
「強く生き 潔く消えるアユ」 岩井保 「魚の国の驚異」 |
1 水温と性成熟と 下りの行動と |
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2 産卵行動開始時期 | 西風の吹く頃か、10月始めか 上流の下り時期 トラックで運ばれてきた鮎は下りをしない 卵が腐る現象 遡上行動での産卵適地の記憶 「さびる」とは? |
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3 水温と性成熟 | (1)光周性要件 | 実験室での知見 光周性要件は十分条件ではない |
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(2)「積算日照時間」 | 解禁日の錆鮎 積算日照時間 =孵化日からの日数? |
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(3)狩野川の砂鉄川 | 水温と「積算日照時間」 晩熟型鮎は特異現象? |
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(4)狩野川の性成熟時期 | 「晩熟型」は狩野川の特異現象→なぜ「学者先生」の教義に? 生殖腺体重比 海産、湖産すべて8月から思春期? 調査対象鮎の種別に無頓着 |
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(5)ヒネアユ 越年鮎 | 狩野川に多い? | ||||||||||
(6)結び | 水温は十分条件ではない 積算日照時間が重要? |
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岩井保 「魚の国の驚異」 |
汚水には勝てぬ味覚 金の塊の苔と鉄くずの苔 |
金の塊の苔 =味が判る? |
良質の苔が判る? | ||||||||
味見の能力と味蕾 | コイの東西による味ごのみ | ||||||||||
二酸化炭素の認識 | |||||||||||
口ひげの味蕾 ヒメジ、ナマズ、 ゴンズイ |
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水質汚染と味の受容器 | 潜在による味蕾機能の破壊 重金属による破壊 |
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鮎の味蕾、味覚能力は? | |||||||||||
佐藤垢石 「つり姿」 |
養殖鮎の お味は? |
東京っ子の舌 | 九州、四国の走り物 淀川の餌釣りアユ |
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古の鮎はなぜ大きい? | 川那部先生も逃げる | ||||||||||
養殖物:湖産畜養 | 臭い煙 →背越し 膾 |
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川と鮎と垢石翁 :追加 |
1 相模川の遡上限界 |
谷村町、吉田町とは 明道先生の遡上限界と同じ? 相模大堰遡上量調査 2年周期、4年周期 相模湾の動物プランクトン量との関係? 味、香り、遡上量 |
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佐藤垢石 「つり姿」 |
2 鮫川 昭和14年7月下旬 |
1日目:支流 | 水量は酒匂川山北あたり 1厘柄の丼 |
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2日目:本流 澄み口の大漁 |
小さな長屋ほどのの石 取り込みに一町下る 40匁、45匁 2人で60匹 |
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3日目:引き抜きの漁師 | 下がれず、3分の1が丼 3厘のテグスに 解禁日、狩野川名手が、半日で3貫目 地元漁師の引き抜き 垢石翁も |
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鮫川の鮎の品位 | 水源は阿武隈古生層 中流は石炭の層も 透明度、肉質、香気に劣る |
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鮫川の経年変化 | 底石大きく育ち良好 昭和14年豊漁 昭和15年渇水、堰完成 昭和16年豊漁に近い 桃源郷はいつまで? |
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佐藤垢石 「釣り随筆」 |
3 魚野川 |
(1)娘さんと富士川 | 立ち込まない釣り 口うるさい親父 父に逆わらぬ娘 友釣りの心得の諭し 無心、傀儡の勧め 瀞の釣り、他の釣り人との差 大和撫子の消滅 私心、自由:「着がない」 |
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(2)魚野川の娘さん | 魚野川の水質 | 相模川以上の水量 小国川より清冽 現在の水量、非清流 山林荒廃が原因? |
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魚野川の鮎 | トラックでやってくる寺泊の鮎 「立秋」とはいつ? 旧暦では? 「土用」は旧暦のこと 荒瀬の大鮎、香気高い鮎 50万の放流 |
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娘さんの釣果 | 丼の多発 瀬でも、トロでも |
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「つり姿」 | (3)久慈川 | 20年前の久慈川への道 | 20年前より変化 巨岩蟠踞 梁小屋での夜 |
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濁り水と梁 | 朝夕立 →濁り →アユ移動 →4斗樽2杯のアユ →下りも、上りも、鰻も 梁の鰻穴 鮎の匂いと鰻の鼻 福島県まで遡上? |
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久慈川の鮎の質 | 袋田上流と下流の質の違い ぶくぶく鮎 鮎と鰻を賞味 |
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釣りの情景 | 澄み口の大漁 昭和14年〜16年の遡上状況 7月に35匁 井伏さん、息子さんも久慈川へ |
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久慈川の釣り技と値段 | 太糸、玉引き 数で売買 安値 公定相場 |
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むかしのひかり いま いずこ | 発電所計画 歴史的鮎へ? |
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(4)大見川 | 囮鮎の調達方法 | 宿が準備 馬瀬川での事例 |
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大きさ | 6寸、7寸以上25,6匁 細身の体型 |
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「浅黄の背」 | どんな色かなあ | ||||||||||
島村利正「囮鮎と風変わりな車掌」 | (5)囮アユの運搬 | 湯沢から浦佐へ囮運搬 氷水のしたたり 客車に鮎乗るべからず 「法」と「世間」のしきたり |
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(6)仁淀川は鎌井田と 雨村翁と 垢石翁と 森下雨村 「猿獺川に死す」(平凡社) |
ア 雨村翁の語る鎌井田とは | @鎌井田への道 |
越知町から二里のテク | ||||||||
A少ない釣り人、多い釣り場 | 二里の釣り場 漁師の舟で渡河 |
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イ 現在の情況は? 弥太さんの話 「仁淀川川漁師秘伝」 |
@復元力の喪失 | 名前の付いていた岩、瀬、淵 今は埋まる 昭和30年頃から変化 戦争から狂いだした復元力 |
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A大木の伐採 | 土砂崩れ 天然ダムの消滅 |
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Bダムの影響 | ダムのない時代のすばらしさ 桐見ダムと鮎の味 水害は減れど… 死に水が流れる サイの変化 |
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「はぜ釣り婆さん」 | 釣り場 | 須崎湾の池 | |||||||||
釣り場への道 | 多の郷駅からテク | ||||||||||
ハゼ釣り婆さんのこと | 80才婆さんが「お先へ」 6俵の炭担ぎ 夜這い男を投げた? 横波3里の眺望 |
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婆さんの釣り姿点描 | 氷の中を歩く 氷をくだく |
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ウ 川漁師の友釣り師 | 職業漁師の道義 | 素人衆を歓迎 | |||||||||
箱眼鏡での引っかけ釣り | 弥太さんの話 舟からの漁 将棋の駒のよう な舟 小西翁の話 紀の川の玉ジャ クリ漁 きれいな水での 漁 4間余りの透明 度 瀬付き鮎漁 |
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Kさんお勧めの場所で釣れず | Kさんの責任感 | ||||||||||
雨村「猿獺川に死す」 | エ 鎌井田村の人々 | 客人に親切を 明治村村長の教え 人情厚い、閑寂な釣り場 |
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佐藤垢石「釣り随筆」 | オ 垢石翁と宿賃 | 鎌井田の宿賃 | 1日40銭 宮川以来の40銭 |
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雨村の「過分な心付け」とは | なぜ10銭か 相手の気持ちの寒暖計配慮 |
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宮川の宿賃 | 初めての宮川は昭和元年? 宿賃「40銭」はいつのこと? オラの旅籠の想い出 |
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カ 垢石翁の鎌井田までの道のり昭和15年8月の旅 | 熊野川の印象 | 昭和15年6月 立派な鮎の邸宅の川 日足の釣り |
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大井川 | 家山 雷雨の濁り ウイスキーのみの若亭主 |
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土佐へ | 明治45年の船旅 趣を異にする船旅 雨村翁母子ので迎え |
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キ 鎌井田の釣り 森下雨村 「猿獺川に死す」 佐藤垢石 「釣随筆」 |
雨村翁の記述 | 越知から舟で Kさんの助言と囮 Kさんの釣り姿を賞める垢石翁 Kさんの友釣り 魚野川の印象 |
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Kさんと故松沢さんの類似 | 経験主義 聞かれれば答える 大多サの郡上八幡上り、下り 10月半ばの下り開始:郡上八幡 かくまさんらの質問力 「光周性」要件の呪縛 気配り |
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2日目、3日目 | 金突きの場荒れ 3日目:黒い濁り 垢石翁の吉野川願望 増水で夢破れ |
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垢石翁の鎌井田の瀬 | 大鮎を育む条件の仁淀川 追憶の作品か |
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ク 熊野川の垢石翁 佐藤垢石 「釣随筆」 |
十津川と北山川の違い | 水成岩と火成岩 鮎の質の違いは? 岩質? 山の状態? 稀少栄養塩? 水成岩のしたたり水? |
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頭を食す | 井伏「釣人」 頭だけを食べる通 垢石翁の食べ方 頭が旨い 強い香気 身は劣る 香気なき鮎でも、頭を食べる? |
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「遡上が遅い」 | 11月生まれが少ない 12月生まれが主体? |
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ケ 越中の国八尾町の室牧川への旅 「垢石釣游記」 |
魚野川 | 「立秋」は旧暦? 食糧不足の年 奥利根川は湖産放流 浦佐へ 汲み上げ放流25,6万 |
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九頭竜川 | 清麗な水 今年は小さい、少ない 例年は5,60匹 20匁30匹ほど 3時から濁り増水 2日目 入れ掛かり 12,3匹 10時から5尺増 水 釣り人救助の情 景 |
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室牧川 | 濁りを避けて八尾町へ 姿、香気抜群 40匁 俳人の細君 |
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宮川 | 30匁から50匁 杉原で泊まらず 下呂へ |
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飛騨川 | 湖産放流河川へ | ||||||||||
狩野川 | 稚児ヶ淵も釣り場 やせた7.5〜8寸の鮎 |
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4 遡上の情景と時期 | (1)利根川の遡上時期 「垢石釣游記」 |
初体験 | 4月上旬に前橋に遡上する? 小学1年生のこと ハヤを釣った 藻蝦の身で若鮎釣り 日本鱒が跳ねた 鱒、浜千鳥も鮎と共に |
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若鮎の登場時期 | 大漁のハヤ釣り 帰り道の雑木林 楢の芽の変化と遡上鮎 端午の節句過ぎ |
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(2) 紀の川の遡上時期 「紀の川の鮎師代々」 小西島二郎 |
産卵時期及び下りをしないで産卵する現象 | 産卵時期=九月中旬から一一月中旬 下りをしない産卵=放流鮎 湖産と海産の産卵時期の違い 一二月産卵は狩野川だけの現象? 海産畜養も下りをしない |
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産卵場所 | 砂礫層 複数回の産卵 水温二〇度の産卵は湖産? 水温と湖産、海産の違い 光周性要件と産卵水温 |
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遡上の情景 | 水温一二,三度 一寸から三寸の大きさ 井堰の遡上阻害 昭和三〇年ころの井堰 昭和三二年コンクリート井堰に 堰堤下に集まる 相模川では |
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下りをしない放流鮎の習性、湖産と沖取り海産の産卵時期の違い | 湖産=早熟 沖取り海産=遡上鮎と同じ性成熟 放流地点は母なる場所 |
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流された鮎について | 「流れる」のは濁り?流速? ハネ網漁 差し替えし? |
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(3)長良川 井伏ほか「鮎つりの記」から 亀井巌夫「長良川ノート」 |
大多サの話 | 3月下旬に美並村へ 4月に八幡へ 天然は10月半ば過ぎに下りへ |
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亀井さんの昭和51年 | 51年放流量 美並村に5月中旬 幻の天然鮎復活 |
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(4)四万十川 |
遡上の情景 | 遡上開始3月頃 5センチくらいの大きさ 前:大野見村まで遡上 |
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(5)江の川 | 遡上時期 | 上野:3月31日に一番子 天野: 浜原ダムができる前 2月背順から3月 今は1か月遅い どっちが適切? |
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(6)仁淀川 「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」 天野勝則 「アユと江の川」 |
産卵時期 | 11月に入ってから 瀬切れ場所での産卵とは? 11月に入ってから産卵 増水の時は? |
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遡上の情景 | 3月皿丈 片側通行 今は帯状祖遡上なし 3月の針子無し |
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遡上量と海水温 | 高い海水温→遡上量少 捕食者の増加? 食糧事情? |
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湖産アユの性格 | 「遡上湖産」と「畜養湖産」の違い? 「畜養湖産」が川の脇役、主役へ? |
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人工種苗の生産開始 江の川 |
江の川:昭和52年 遡上鮎より性成熟が遅い 種苗の親は? 性成熟の「光周性」要件よりも「累積日照時間」? 性成熟前の汽水域の鮎 |
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(7)紀ノ川上流の吉野川 亀井巌 「釣の風土記」 |
下りのしない鮎 | 11月、正月もいる 遡上鮎=遡上時に道順を憶えている |
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水色 | 砂利採り禁止、大迫ダム完成→水色蘇る 昭和48年 |
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上市の情景 | 妹山、背山の上流と下流の変化 雛流しの風習 上流は峡谷に 国栖の位置 新子の町と万才太夫 国栖、新子から「アマゴの国」 |
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「アマゴの国」のアマゴ | 樫尾発電所上流 奥赤グラ谷の壺の大物 伊勢湾台風後の護岸、砂防堰堤 |
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中奥部落の料理法 | アマゴめし 鮎めし 味噌炊き |
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中奥の鮎 | 鰭のピンク色 大井川、藁科川と同じ衣装? 「吉野の桜鮎」? |
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筏流しの情景 | 発電所導水孔の流し 筏落としは昭和20年頃も |
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ジャンボさんの釣り姿 | 取り込み方 タモなし背針使用 ハエ釣り=二股2本針 寒バヤは釣らぬ |
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ジャンボさんの父の腕 | 井伏鱒二が「吉野の名人」と 取り込み=撞木使用 袂に鮎を入れる すぐ死なぬ 友舟はいつ頃から? |
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前 實 「鮎に憑かれて60年」 |
袂の利用:前さんの話 | 片腕の人のオトリ取り替え 水掻きのような袋 吹き流しのヤナギ |
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前さんと逆針 | 昭和25年頃四国吉野川で初見 伊豆→四国→奈良? 「ヤナギ」と「チラシ」の呼称変化 |
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亀山素光 「釣の話」 |
吹き流し | 馬尾の綱 鮎減少→馬尾2本撚りは不適 長良川は3,4本撚り |
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鼻環 | 木綿針、木綿糸使用 鼻環、カンヌキよりも弱らない |
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前さんの解禁日:西城川 | 「もっと近くに川はないの!」 昭和58年大漁 昭和59年釣り人大量 |
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川開きとは | 神への挨拶の日 「解禁」は戦後 「心の川開き」を |
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吉野鮎 | 上市から30キロほど上流までが本場 現在は放流に頼る 苔悪くても大きさ変わらず |
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道路建設を推進して | 昭和48年以降騒音に | ||||||||||
(8) 井伏さんの吉野川 井伏鱒二 「釣師・釣場」 「胸の黄色い斑点」とは? 婚姻色? 古にも「追い星」はあった? 藍藻と黄色 |
木津川では | 笠置で降りるも 笠置山からの木津川 |
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吉野川への道 | 修学旅行の宿は? 広瀬淡窓の掛け軸 「草鞋」と「草履」と |
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宿からの情景 | 二上山、金剛山、谷川 | ||||||||||
樫尾へ | 上市と町長さん 古跡を辿り名人宅へ |
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平重郎さんの語る川と鮎情況 | 60年来の洪水 流れたアユ ヌラも乏しい ダムも? 胸の黄色い斑点は追い星? 婚姻色の「黄色い斑点」? 古は「追い星」ない? |
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平重郎さんの仕掛け | 狐型の切り屑 背針の機能 口開きと潜り |
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やっと釣り場へ | 黄色の斑点は藍藻? 「草履」と「草鞋」 |
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囮は弱らず | ハリスの鰓に巻く人 過労死せず |
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鮎釣りの後は | 子供とハヤ 灯籠流し |
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平重郎さんの話:湖産についても | 湖産:形が悪い 身が柔らかい ぬめ多い | ||||||||||
ハヤも釣れず | 子供でも釣れるのに 龍田川、飛鳥川、大和川の関係は? やっとハヤ1匹 古に追い星はあった? |
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(9) 前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
1 時代状況 | (1)「目利き」の人:前さん | 環境変化、放流鮎増加 「鮎」変化の時代? |
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(2)執筆当時長良川 まだ、「湖産」が再生産に寄与していないとは信じられていなかった時代 海産遡上鮎の容姿は不変? |
@萬サ翁との出合い 昭和44年頃? A長良川も放流河川に 大多サの話 亀井さんのモモノキ岩 天然鮎は絶滅した? 放流量 自然児の復活 海産畜養と遡上鮎の容姿の違い |
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B「三白公害」 |
水量の減少? | ||||||||||
(9) 前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
2 海産等の容姿 | (1)海産等の容姿 | 海産鮎の容姿の定義 昭和48年頃の萬サ翁の話 |
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@純天然の容姿 | 脂ビレから尻ビレまでが細長い 交雑で?消滅した純天然 遺伝子要因による減少か 遡上激減→海産畜養と放流増加か |
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A湖産と海産の顔 | 細面と丸顔 現在の50倍の遡上鮎 140匁の遡上鮎 8等親美人からちょっと寸詰まりへ |
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B交雑種?の容姿=池田湖産 | 容姿、習性が海産に近い 西城川での観察 ヌメリは海産 陸封か交雑種か |
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C湖産事情 | 琵琶湖産:人工河川 親は誰か 南郷堰と湖産 |
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D池田湖産の鮎 | 遡上鮎の陸封? 湖産の遡上距離は? 短い?長い? 湖産畜養か、遡上性湖産か |
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前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
3 鮎と黄色の衣装 | 黄色 | カテロイド系色素? 藍藻に含有? |
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@黄色い衣装 | 萬サ翁の話し 喰み刻→縄張り鮎 →真っ黄色の鮎へ 故松沢さんの話 黄色→保護色 →時合いで瀬へ |
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A追い星 | 婚姻色か 珪藻が優占種では? 福田平八郎画伯の鮎の絵 →淡い色の追い星 秋月先生の序文 「枯淡」さ 鶴見川も鮎釣り場 古は白い鮎? 黄色は「防衛力」? |
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前さんの見方 | 専守防衛の証 縄張り鮎ほど黄色い |
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萬サ翁の見方 | 喰刻の攻撃衝動 黄色は喰刻 |
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垢石翁の記述 | 解禁日の大見川の手紙 浅黄の背、銀色の肌、2つの黄金色の斑点 |
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黄色の意味は? | 婚姻色と記述の古本も | ||||||||||
「寸詰まり」鮎は遺伝子要因?放流もの? | |||||||||||
前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
4 (1)日高川人種苗と汽水域塩分濃度の問題 |
問題は? | 6月、7月のサビ鮎出現 電照鮎を生産していないという日高川種苗センター 10月末の性成熟鮎が日高川にいた 人工やバイオ鮎との交雑危惧 |
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種苗の採捕 | 木曽川で採捕 3種の鮎が親の筈 親は「落ち鮎」か |
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日高川で採捕しない理由 | 性成熟が遅い 遡上量が少ない |
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ウエーダーがなかった頃の草鞋 | 釣り人のいでたちの変化 ゴンズ草鞋の履き心地 ゴム製地下足袋の出現 |
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日高川種苗センターの塩分濃度 | 汽水域と似ている? 湖産、交雑種の仔稚魚生存可能? |
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汽水域での現象 | 「シオ鮎」 「海産」から「湖産」へのロマン 狩野川河口域から出て行かない稚魚 川の植物プランクトン |
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前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
(2) 産卵場は雄の天国? 雌のパラダイス? 三宅さんの産卵風景描写 |
雌雄の産卵の仕方の違い | 雌は一度に産卵 雄は何回も放精 雄が多い産卵場 雌の産卵数 |
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@現在の産卵場は? | 一夫多妻? 種の保存を疎外する人間 |
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A孵化 | 卵分裂? 孵化水温一五度 卵嚢 産卵場の推定 |
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B産卵場の記憶 | 産卵場までの距離計測コンピュータ 八月の「下り」 |
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C経験則に反する「下り」現象 | 旧盆前の「中落ち」の意味 吉野川の事例 池田ダム上流 時期的に早すぎる 真子あり 徳山村の事例 1mの増水 すぐ澄む 湖産?電照鮎? 井伏吉野川樫尾では 洪水→上市へ |
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D旧盆前の「中落ち」、「本落ち」の主は? | 海産、湖産、人工、電照養殖鮎 産卵期の異常現象 放流モノは「下り」をする? 高水温で孵化は可能? |
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三宅勇三「続鮎の二年子」 | 相模川磯部の堰上流 放流モノの集結、産卵場? 彼岸頃の「落ち鮎」 磯部の堰の遡上阻害 集結地は雌が多い |
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前さんの産卵から遡上まで そして容姿も |
(3)そして、中締めに 川読みの事例 石の見方 |
@前さんの心配事 | 遺伝子汚染、交雑種の危惧 東先生2峰ピーク 鼠ヶ関川のアイソザイム分析 足羽川の偽「湖産ブランド」 |
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A高速道路の入り口 | 土用溯り 場所の見方 居つきアユでない 小型が多い 老練の釣り師 |
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B苔と前さん | 石の条件 食べこぼしの苔 「水」と苔か、「石」と苔か 茶褐色の黒光りの石 洪水と大岩 角がとれる |
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洪水後の繁殖場所 | 瀬のカミのカガミ 大石が組み込まれた瀬 弱い光でも光合成 1日に「30センチの水深」 何十種類の珪藻 |
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前さんの呪縛?から解脱できず | @性成熟と「光周性」要件 実験環境と自然界の「短日化」 |
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A交雑種は海で生存できない 天然鮎はどうなる? 習性の変化? |
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B前さんを卒業できない理由 宮地「鮎の話」への反発 ゴーストライター?「川那部先生」 素石さんも亡くなられて |
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湖産も交雑種の再生産されていない 鼠ヶ関川におけるアイソザイム分析結果 「アユ種苗の放流と現状の課題」 |
@流下仔魚量調査 | 湖産アユ親魚由来の仔魚は海域に到達、暫く生存 仔魚識別の目印手法 |
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A海の仔魚 | 湖産由来の仔魚は1m以浅に集中 水温、塩分躍層以浅 |
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B遡上鮎のアイソザイム分析結果 | 海産、湖産アユの産卵時期重複 湖産アユ親由来仔魚の莫大な量 遡上鮎=海産アユ遺伝子頻度内 湖産アユ由来仔魚の斃死 交雑種も斃死 翌年の資源添加力の阻害 室内実験では湖産親魚由来の仔魚も生存 神奈川県と異なる調査姿勢 湖産放流の中止 山形県産人工アユ放流に転換 |
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山形県、「しまねのアユづくり宣言」は、前さんの危惧、悩みを軽減? 山形県の「1代目」方式の放流の懸念は |
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昔の香り 今いずこ | |||||||||||
1 序 | 鮎の品質変化はなぜ? | 村上哲夫 西條八策 奥田節夫 「河口堰」 |
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2 江の川の八戸川ダムでの事例 | 天野勝則さんの再々登場 | 天野勝則「川漁師の語り アユと江の川」 | |||||||||
(1)「川の水を飲料水に」 | 水汲みは中学生の役目 「はんどう」 木橋から見る水の中 |
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(2)「ダム完成で川は一変」 | 最初の八戸川ダム | 小規模 滞留時間短い ダム上下での水質の違い少 |
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新八戸川ダム | ダム下流の泥臭いアユ | ||||||||||
(3)「八戸川ダムよみがえる」 | 大干ばつで貯水できず 昔の八戸川が戻る 「名産八戸アユ」の復活 新八戸川ダムと長島ダムと共通? |
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(4)ダムとサイとアユの品質と | 弥太さんの話 | 桐見川のダムと質の低下 死んだ水 サイの質落ちる 香りで漁獲量が判った ダムと香気 |
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前さんは | 古座川の清冽な水の消滅 支流小川と本流の味の違い |
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(5)河口堰の見取り図 | 流水での浮遊植物プランクトンの発生から始まる? | ||||||||||
3 流水における植物プランクトン =ポタモプランクトン |
(1) 河口堰の位置関係 | 河口から6キロの堰 15キロの淡水域 |
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(2)「川では植物プランクトンが発生しない」ことが常識 | 「滝」のような川 流速だけの問題? | ||||||||||
(3)川のポタモプランクトン発生条件 | 流れ遅く、流路長ければ? 細胞分裂速度 @ポタモプランクトン(河川棲浮遊物) ポタモ=ゆるい流れ Aクロロフィル |
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(4)長良川下流域でのプランクとの発見 | 河口堰建設予定地付近 河川棲プランクトンか? 違うのでは? @ 植物プランクトンの種類 キクロテラ・メネギアーナ 珪藻類 単細胞生物はコスモポリタン(汎用種) A 調査用具の問題 河川棲プランクトンの大きさ プランクトンネットの網目の大きさ B 長良川でのポタモプランクトン発生の条件 地形=勾配 気象条件=渇水=滞留時間 |
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(5)ダム湖の滞留時間と影響 | 滞留時間=回転率 底層酸素不足 成層状態の生成と破壊 | ||||||||||
4 動物プランクトンの発生 | (1)植物プランクトンの状況 | @窒素、リンは余っている | 川では枯渇しない栄養塩 湖は栄養塩と発生量に相関関係 川では大量発生の可能性が |
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A植物プランクトン限定の止水域と流れる川の違い | 植物プランクトンの種類 湖と異なる種類 流れる川に適合種 旭川の事例 |
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B河口堰運用後は | 植物プランクトン発生量 クロロフィル量40マイクログラム 100マイクログラムも 発生頻度の長期化 |
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(2)動物プランクトンの発生 | 植物プランクトン発生量の抑制 ワムシの発生 河川水の1%から10%濾過 消費が追いつかないと80マイクロミリグラムに |
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(3)「植物プランクトンは水資源を育てる」 |
富栄養化はなぜ悪い? 清流の国の乙女がうらやましい 河口堰は鮎の再生産に寄与? |
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5 沈降による除去 | (1)なぜ、沈降する? | プランクトンの比重 攪拌作業の減少 滞留日数の増加と沈降作用 増殖と沈降速度の均衡とプランクトン量 流速条件での事例 長良川では、50〜100立方メートルでは 沈降減少は目立たず 沈降による川底の変化 |
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(2)「長良川の川底の変化」 | シジミの運命 「利根川河口堰調査で明らかになったこと」 砂の大きさによる区分 シルト、粘土層の分布帯 超音波による調査 柱状試料による検証 出水による底泥の変化無し 粒子の結合 |
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(3)「堰周辺の有機物はどこから来るか」 河口堰上流では | @有機物の分解 バクテリアによる分解→貧酸素状態に→メタン、硫化水素の発生 A有機物起源の調査方法 炭素と窒素の量の比率 陸上植物起源とプランクトンと藻類起源の違い |
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6 「河川の有機物動態」、「有機物動態から見た河川生態系」 「ダム湖」から |
(1)ダム湖の有機物の起源 | @他生性有機物(陸上生態系) A自生性有機物(河川) Bダム湖 |
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(2)川の、ダムの、連鎖、循環は? | @河川連続帯仮説 | ||||||||||
A有機物の大きさによる分類 溶存態有機物 細粒状有機物 粗粒状有機物 |
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B河川生態系における有機物の役割 1 水性動物の生息場の形成 2 下流域や海域への物資輸送 3 微生物へのエネルギーと栄養塩の供給 4 水性動物へのエネルギーと栄養塩の供給 |
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C有機物炭素濃度の範囲 微生物による分解→破砕食者 動物の餌資源 |
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D「プランクトンサイズ構造の応答」 栄養塩濃度と動物プランクトンの大きさ 貧栄養湖と富栄養湖の大きさ 捕食者の影響 超小型植物プランクトン 琵琶湖でのアユの大量死 |
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E「プランクトンの多様性の応答」 植物プランクトンの多様性 生活要求性の幅 共存可能性 アルカリ性ホスファターゼと有機体リンの分解 |
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6 「河川の有機物動態」、「有機物動態から見た河川生態系」 「ダム湖」から |
(3)ダム下流では |
ア ダム下流に流れている水 @弥太さんは 死に水 生きた水が流れていた昔 味、香りの劣化 A前さんは 古座川本流と小川のアユの違い B天野さんは 新八戸川ダムの貯水停止 →名産八戸アユの復活 |
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イ ダム下流の水 揖斐川の事例 溶存態有機物と細粒状有機物濃度が高い ダムに由来する有機物減少事例 輸送担体としての機能 細粒状有機物は金属等を運ぶ |
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(4)ダム下流で一般的に生じている現象 | @鮎と食料 ヒゲモの優先 球磨川、川辺川水系での食料の違い 摂食圧説は間違い 川辺川=ヒゲモ摂食少 市房ダム下流=ヒゲモ摂食大 人吉の富栄養化? 野田=筑後川の日田 昭和28年台風は、 清流も日田美人も流し去る |
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A流下中の植物プランクトンの変化 諏訪湖由来のプランクトン減少 渓流での減少状況 プランクトン、剥離藻類の流下と 阿賀野川水俣病 ダム下流の流下藻類の種類構成は? |
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Bトビケラ ダム下流で優占種に 石の間隙と生物 |
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7 川の水は同じからず 井伏さんの芦田川との違い |
(1)「河口堰」に登場している芦田川 | 河口堰による水質汚濁大の芦田川 河口堰下流での不快昆虫の異常発生、魚の斃死 建設省ー既存河口堰での水質変化無し 堰上流の流入水と堰湛水のBOD濃度 は同じ 建設省のフィクションの構成は? |
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(2)「BODでは役に立たない場合もある」 | @BOD:生物化学的酸素要求量は何を観測するのか | ||||||||||
ABODの数値は、堰運用後も水質基準内である なぜ? |
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B「BODの測り方」 細菌による分解時の酸素消費量を測定 酸素の消費量から有機物量を推定 |
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Cなぜ、間接の測定法か 酸素濃度測定の簡便性 汚水は細菌により分解されやすい |
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D浮遊藻類が対象となると? 5日間で分解されないと酸素消費量は0 |
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E「海や湖ではBODではなく、CODが使われる」 浮遊藻類の量はBODによる測定では不合理 長良川河口堰は貯水施設ではないという論理 酸素濃度変化もおかしい |
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(3)「統計処理のトリック」 | 75%値という値 藻類発生期間が3ヵ月以下なら「清流」? |
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(4)「植物プランクトンの発生量と流量との関係についての誤った理解」 | クロロフィル量と流量との関係の誤った理解 クロロフィル量は流量に比例しない 渇水時に河川プランクトンは増える |
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(5)大事な時期のデータが欠けている」 | 植物プランクトン大量発生時のデータなし | ||||||||||
(6)シルト、粘度、有機物の堆積 | 「ヘドロ」の表現と建設省の言い分 「ヘドロ」は厳密な定義でない 芦田川の堆積物は硫化水素臭 |
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(7)井伏さんの芦田川 | 芦田川と福塩線 鵜羽根村は芦田川? |
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魚のいる場所を捜す尾道の吉和浦 肥えた海 ゴカイ採集場の干潟 |
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井伏鱒二 「釣師・釣場」 |
美食家のチヌー鞆ノ津 | カキ撒き 「口音」 | |||||||||
カキは同じからず | 汚水のカキ、汐の流れの悪いところのカキ、 古いカキは不適 |
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岩井先生の魚の味蕾 | 人間の味覚は? | ||||||||||
尾道の益太郎さんの話 | 肥料の入っているところを捜す 青貝と植物連鎖と豊饒の海 鯛の容姿 |
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鞆ノ津の元一さんの話 | 毎日撒き餌をしてアジロを作る せかし釣り カカリ釣り まき釣り |
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「清流」の芦田川 | しゃくりで大ボラを釣った井伏さん 「のしま」の釣り方 芦田川横のクリークで蜆釣り |
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8 「香魚」はいずこに? |
(1)珪藻と香り成分 真山先生 |
真山先生が教えてくださったこと @珪藻に含まれている香り成分について 不飽和脂肪酸他 特定の不飽和脂肪酸が豊富な珪藻 A 不飽和脂肪酸の種別と香り成分 不飽和脂肪酸から香り成分であるエステル生成 B 珪藻の種類構成と不飽和脂肪酸の質、量 生育環境による違い 種類構成による違い |
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(2)ダム湖での植物プランクトンによる「香り成分」の消費? | なぜ、狩野川でも香魚がいない? @ 藍藻が優占種? 青ノロの発生 A 田毎では香魚の機会が B 流れの中の伏流水のところでは C 山の染み出し水の質は? 藁科川上流部での不純な香り成分は? |
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(3)ダム湖での鮎の再生産 前さんの観察 |
鮎の再生産 | ||||||||||
@ 渓に鮎がいた 入れ掛かりの大漁 A 前さんの渓の鮎存在の推測 B その後の数量変化 年々数が減少 貧栄養? 低水温? アルカリ性ホスファターゼとリン循環 C 湖産鮎であった ダム湖産稚鮎成長は一時的現象? D 水温とプランクトン発生問題 E ヘドロと水温 |
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終わりに | |||||||||||
川那部先生からのお手紙 | |||||||||||
はじめに | 子供用の「川の生態系」等川那部先生から送付していただいた資料の意図は? | ||||||||||
1 トラックで運ばれるアユの時代に | |||||||||||
(1)鮎の産卵時期 | ア 川那部先生の子供たちへのお話 鴨川の鮎は放流もの 養殖鮎誕生で安くなったアユ イ 「秋が近づく」とはいつ? ウ 東先生の観察と評価 二峰ピークの現象と評価 「アニマ」1984年 エ 「秋が近づいて」『水温が低くなる』「時期」とは? 新暦の「24節季」の立秋は8月8日 秋とは? 水温20度で産卵する? オ 東先生の2峰ピークの報告書はいずこに 「日本の淡水生物・侵略と攪乱の生態学ーコアユー一代限りの侵略者? |
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(2)「アユの香りの正体」:食料に由来しない | 岩井保「旬の魚はなぜうまい」から 滝井さんの香り描写 キュウリウオと鮎の共通性 共通する香り成分 生成過程 珪藻を食べないキュウリウオ オラの疑問 キュウリの香りとスイカの香りの選択区分条件は? ボウズハゼもキュウリウオと同じ? 養殖鮎はなぜ臭い? 「酵素」の生成が鮎、キュウリウオでは多い? |
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(3)四万十川の衰退と12月の鮎漁 「アニマ」から 山崎武 「アユの生態と漁法 四万十川に生きる |
@皿丈:旧暦での表現 1月の無色透明のアユは「遡上」行動のアユ? 「皿丈」の大きさは「新暦」の4月 |
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A11月16日再解禁の情景 産卵場が七重八重?に 胴長?の使用 コロガシは二本針 |
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B12月の鮎漁 雌主体は中上流域の話? 「温水」つきという漁 「越年アユ」とは? 前さんの観察との違い |
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(4)「アユを育てる水あかの驚異 釣り人の植物学」 (渡辺仁治) |
@「本物の味」と「違いのわかる男」の消滅 「十把一絡げ」の鮎理解と学者先生 |
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A鰹節とは? ビッグコミック「そばもん」から 冷凍技術の発達→香りはあるがイノシン酸のない 鰹節 鮮度の落ちた鰹、頭まで者熟する「鰹節」 「本枯節」は少数者に? 「本枯節」の出汁を知らない世代」 =出汁の違いがわからない? |
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B「釣りの植物学」 藻類と芳香 「水あか」の表現 水中ジャングル 「水中ジャングル」の構造 緑藻、ラン藻、ケイ藻 水中ジャングルの形成過程 細菌によるコーティング 藻類の侵入 鮎は森林の盗賊? 再生にかかる時間は? ケイ藻と香り 特有の油脂生産 緑藻 「清流」イメージの鮎だけでない 稚鮎が忌避する要因のなくなっただけの川も |
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(5)「藻をはむのに便利な鮎の柔らかい歯」 駒田格知 |
@稚鮎の歯 円錐歯 プランクトン逃亡防止の役割 体長50ミリ以上から脱落 |
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A成魚の歯 櫛状歯 衝撃吸収構造 |
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2 東先生 お前もかあ 「日本の淡水生物 侵略と攪乱の生態学」 |
長崎の海産アユは10月に産卵 | ||||||||||
(1)オラの「2峰ピーク」のイメージ =神奈川県内水面試験場での流下仔魚量調査 2峰曲線の構成者 =10月→湖産、継代人工親アユ由来仔魚 11月→海産親アユ由来仔魚 |
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(2)東先生の2峰ピーク 松浦川での流下仔魚量調査 海産と湖産の仔魚を区分 10月も海産親由来の仔魚が |
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(3)どうすれば東先生の調査結果を「放流もの」の影響といえる? @「湖産ブランド」に日本海側海産のブレンド 湖産採捕量と湖産出荷量の乖離 A松浦川の在来種は僅少では 日本海側海産の再生産? |
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(4)ヘボのカンピュータの見立ては? @1975年 放流に失敗した年 仔魚量は10月終わりにピーク A1976年 湖産は9月下旬から、海産は11月10日頃にピーク B1977年 湖産が11月になっても観察される 海産は10月中旬から11月中旬に複数のピーク 水温は20度くらい以上 |
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気になること @湖産は海で生存できない =浸透圧調節機能不全 鰓の塩細胞数 なぜ、学者先生間で伝播しない? A帰ってきたアユの氏素性 唐津湾の鮎に湖産はいる? 何故「日本海側海産」に思いを馳せない? 宇川での調査結果の拘束性? B下りをしない親アユの10月産着卵は腐る現象 水温ではなく、継代人工故? C狩野川に「特有」の「晩熟」の鮎 遡上鮎河川であったときの調査の幸運 今西博士らはトラックで運ばれる山女魚の代でも在来種の識別可? 「晩熟型」か、当たり前の性成熟時期か |
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3 川那部先生と子供たちのお話から | |||||||||||
(1)カッパのお話 (1)カッパのお話 (1)カッパのお話 |
@カッパのふるさと :住処 =激流と淵 |
牛久沼は例外 吉野川で体感した住処 「江の川物語」と住処 カブト岩 水量、漁場の判断基準 じい岩、ばあ岩 毎年米1粒ずつ近づく えぐれるのは上流側 エンコウ岩 エンコウ=妖怪、カッパ 耳デッチ 魚の住処 |
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Aカッパの容姿、特徴 | 川のわらわ 雌は新種 腕が伸びる カッパの絵7種 |
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Bカッパの呼称 | 関西から西:がたろ 江の川の「エンコウ」は? |
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Cカッパが棲めない川に 淵の消滅 | |||||||||||
Dカッパがいた頃の川:江の川 黒田明憲「江の川物語」 | |||||||||||
ア 船頭原田文九郎 舟箪笥の中身 兄の死 船頭への道 作木ー江津21里 荷越しの瀬 三江線の開通 |
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イ 「7日淵」の事故 天野勝則 9月中頃の産卵直前 場所守役に 舟でうたた寝 7日淵へ 九死に一生 水神祭り:エンコウ祭り 竹内喜一さんの一日 邑智から桜江町川戸まで往復 夜はツケバリ漁と建網漁 九月の建網漁見学 日本海側の海産産卵時期と湖産産卵時期の重複 =海産アユ資源の減耗要因 |
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Eカッパがいた頃の川:増水で流されない魚 「洪水が来るとどうするか」 |
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緩いところに避難可能 歴史的に決まっている生きものの反応 洪水からの回復の時はゆっくり戻る 急激な減水に対応不能 |
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Fカッパが棲めなくなった川:江の川 | |||||||||||
ア 天野さんの嘆き 七日淵も並みの淵に 丸太ん棒のような「百匁鮎」今昔 産卵場の仁万瀬の瀬 川の色が変わるほどの 量 現在は百グラム、二百グラム 産卵は十月末に終わる 「作木の舟自慢」 ステータスシンボルの舟 荷越しの瀬下りの腕 宴の終焉 浜原ダムで鮎減少 仁万瀬の瀬も消滅 |
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イ 「江の川物語 川漁師聞書」から マニュアル使用の「自然再生事業」 「現場に出て自然を学ぶ」ように |
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江の川サミットから 千代延好和さん 川底の凹凸、伏流水→ヘドロと砂と石に 草の繁茂の川原に ゴリの入る隙間なし 天野勝則さん 川の浄化装置の川原 ヘドロの害、隙間の消滅 辻駒健三さん 「行政の川」に 魚、水棲生物無視の改修 生活の便利さと引き換えにしたこと 魚が泣いている 管理の自然の修復力 蛍を考えた水路に 小さな川に関心を 自然は手入れを=人間生活の場に 自然との共生 自然に合わせながら生きるまちづくり 内藤順一さん 田んぼはナマズの産卵場 田んぼに十九種の稚魚 ダルマガエルの保護は餌も残さないと 「人と川の共存(辻駒啓三さんの総括)」から 怒らない川 「少しはわかろうよ」から 「護岸」から「護川」へ 「江の川宣言」 |
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(2)魚道の効果測定評価の誤り 改善率、達成率 | 山からちょろちょろ出るかけひの水が美味かった。 凄い子どもさんのお話です。 「最上川の魚道は100%魚が通れる? |
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信じられない子どもさん | |||||||||||
何に対して「100%」か 魚道下流マスに入った魚だけ? ダム湖通過に何日? 証明不能の「達成率」=事前調査無し 魚道利用者の限定 下りの利用不全 中津川の魚道維持管理 磯部の堰の「改善率」は? 「数字」表現のマジック |
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4 文化の創造は可能? 川那部浩哉 「生態学の大きな話」 |
(1)「『お天道様』に恥じぬ暮らし」 | ||||||||||
水は人間だけのものでない 生態系の機能を十分に発揮させるには 人間はその余分を『使わせて貰う』 人間は種の平気寿命最短記録者に? |
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「使いたいだけ水を使う」 →ダムと護岸で洪水が完全に支配できる幻想 →近代の治水対策にすべてを付託 →自然の悪化 →人間文化の破壊 =汚い水を捨てない生活 水を大切に使う暮らしの消滅 |
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4 文化の創造は可能? | (2)「ほんものの川を求めて」 | ||||||||||
@調査地の選択 昭和30年代のイワナ、山女魚は? 昭和44年のイワナは? 昭和30年代後半の長良川は? |
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A調査対象に宇川を選んだ理由 :「蛇行する瀬と淵」 瀬と淵は分離不可能 上流域の瀬と淵 中流域の瀬と淵 蛇行点と淵 |
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B「環境の環境ということ」 アユにとって「瀬と淵」の意味、生活条件の違い イワナの好む場所 生息場所の「周りの状態」が重要 |
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C「流れの連続性」 上下への生物の動き 水棲昆虫も同じ 遡上・流下の破壊は、生活の破壊 流況係数ではないダム下流のアンバランス |
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4 文化の創造は可能? | D「四万十川に遊ぶ」 | ||||||||||
四万十川の淡水魚の特性 回遊魚が主 80キロ上る 四万十川の水質とアカ 底泥 上質の硅藻無し 低い透明度 河川「改修」による平坦化 檮原ダム、家地川ダムの影響 用水路障害 |
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E長良川の状態 | |||||||||||
河口堰の生物への影響調査 不十分な調査 歪曲した内容 |
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「清流」音痴の学生 1958年岐阜の川が「清流」 |
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上流の開発と、影響と、下りの変化 吉田川は笹濁り 上流の大規模開発 降河の変化 淵容量の減少 土砂流入と「改修」 |
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「ほんものの川」みいつけたあ : 粥川はいにしえの川 濁り無し 「笹濁りになる」という思い込み 「ほんものの川」を忘れていた |
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長良川の鮎の容姿:野田知佑「日本の川を旅する」 長良川と他の川の容姿の違い 木曽三川で長良川を選ぶアユ すぐにチン:ブルドックの顔つき納得 亀尾島川 かっての長良川 淵は魚の天国 純粋のミネラルウオーター |
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4 文化の創造は可能? | (3)「ほんものの川」をなくした人間の営み :「洪水制圧」思想は永遠不滅? |
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日本人の生活様式:文化とは「空気」を読むこと | |||||||||||
内田樹「日本辺境論」 「『お前の気持ちはわかる』空気で戦争」 反対できない「空気」 「ああせざるをえなかった」ようにしたのは空気 場の空気がすべてを決める 「お前の気持ちはよくわかる」やりとり |
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@川那部先生の怒り?悲しみ? 1974年と19958年の岐阜長良川の変化 河川「改修」とは 曲流し瀬と淵を作ってきた川をなくすこと 水は流れる野のでなく流される形にすること 河積増大の「河口堰」の目標と異なる河積の縮小 開発のすさまじさ 四手井先生の水源地開発規制に反する開発のすさまじさ 治水とは 流域の保全 川の性質保全 水の涵養 河口堰では実現不可能 「利根川物語」 高橋裕 自然が作った川の道筋 洪水は遊ばず河口へ 洪水流量の増大 自然を尊重する念が出発点 「ほんもの川」を求める意義は |
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4 文化の創造は可能? | A野田さんの怒り | 暗い話になる日本の川 痴呆的川感覚 コンクリ護岸がきれい 「必要悪」ではなく「不必要悪」の「治水」事例 オショロコマのふるさとは三面張りに 数字のフィクション、マジック 「川へふたたび」から 愛唱歌 おどまぼんぎりぼんぎりでフラン100枚 小原庄助さんの気分 朝湯朝酒朝日の贅沢 胸ときめく釧路川 カガシラで大漁 殿様気分満喫 テレビ取材と悪友の悪知恵 熊本県人は悪人? 釧路湿原の建設省 ショートカット、3面張りのコンクリ護岸 偽りの写真 湿原の乾燥化 |
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「清浄な空気」が要らない人の誕生 | |||||||||||
建設省=日本の自然の最大の敵、破壊者 眼前の利益優先 抽象的、見えぬものを捨象する時代 価値基準の下方化 「濁らされた眼」の普遍化 「ほんものを知らない」世代の誕生 釧路川の改修 |
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B「公共事業」とは「土木工事」であることの信仰はなぜ? | |||||||||||
梯久美子 「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」 「水際作戦」の伝統 伝統の「廃棄」 「現状認識・変化」の認識とは サイパン玉砕で「常識」、「空気」は転換 「自然を尊重する念」への「空気」の変換はある? 梯さんの栗林中将の判断力について 現場の状況把握、大局ばかりを語らず 「大局観」の誤り =山本七平「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」 国力計算の日米の違い 「小利口者は大局観を見誤る」 外国技術の活用は得意 小松真一「虜人日記」の高い史料性 「現実」とは? 「生命としての人間を尊重しない」行動様式、思考様式は日本軍の専売特許得? |
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昭和のあゆみちゃん序章
故松沢さんの思いで:補記2 故松沢さんの思いで:補記3 川漁師:神々しき奥義
あゆみちゃん遍歴賦 意見感想
岩井保「魚の国の驚異」(朝日新聞社)
1 水温と性成熟と下りの行動と 「強く清く消えるアユ」の章から
(原文にない改行をしています。)
「『鵜の嘴(はし)をのがれのがれて鮎さびる』
秋のお彼岸を前に墓掃除に精を出しながら、老人が一茶の句を口ずさむ。そして、手伝いに来た孫の中学生にしんみりと語りかけた。
『一夏を生きのびたアユも、秋になって産卵がすめば、みな死んでしまう。はかない一生じゃ』
釣り好きでは祖父にひけをとらぬ孫は、釣りの成績がよほど気がかりらしく、
『今年はさっぱり釣れなかった。なぜアユはそんなに急いで卵を産むのだろう』
と、名残惜しそうな口振りだ。
『そりゃ、水が冷えるからだ。上流ほど秋の訪れは早い。アユは追われるように下流へ下り、冬が来ないうちに卵を産むのじゃ』
老人は自信に満ちた顔で答える。」
もし、川漁師に軽蔑され、さげすまれる観察力の「学者先生」がおらず、あるいは、海で採捕された耳石調査から、10月1日頃から相模川で海産アユが産卵をしている、との「調査結果」が経験則に合わない、おかしい、耳石調査技術の未熟によるのではないか、という感性をお持ちの研究者が神奈川県内水面試験場におられれば、このまま、岩井先生の文を続けても良いが、悲しいかな、「学者先生」は、継代人工も、湖産も、海産も識別しなければならない、との認識もなければ、アユの種別に係る識別能力もお持ちでないことがわかったから、ジジー心から注釈を入れます。
2 産卵行動開始時期
「昭和のあゆみちゃん」と「故松沢さんの思いで」の課題の1つが、海産アユはいつから産卵を開始するか、ということ。
1 相模川以西の太平洋岸の、鮭が遡上しない川の海産アユの産卵時期は、「西風が吹く頃:木枯らし一番が吹く頃」から始まり、「学者先生」らの主張する10月始めではない。10月下旬以降、月末くらいからであると確信している。
2 産卵行動の1つとしての下りは、上流から始まるが、垢石翁が書かれている寸股川で「8月下旬」には下る、という表現は間違っているのではないか。大井川で、笹間ダムがなかった頃、上流のアユが家山付近に下ってきていたのは、村祭りの頃:10月15日頃に大アユが釣れた、という家山の寿司屋さんの話から、10月頃から、上流のアユが下り始めたのではないかなあ。
「あきた阿仁川」のホームページから、阿仁川での下りが始まるのは9月中旬、下旬で、水温は15度くらいと想像している。
なお、垢石翁が神通川上流の宮川に行かれたのは、8月下旬であろう。
「八月とはいえ、山峡の夕べには秋の気が忍び寄っている。夕立に濡れた人々の肌に、冷涼が迫って中には歯の根の合わないものさえあった。」
という状況であるから、宮川よりも水温が高いと思われる寸股川で、八月下旬に下りが始まるとは考えにくい。
3 海産畜養、湖産、継代人工は、下りをしないで産卵する。放流地点を母なる場所と考えているとの、野村さんらの観察は適切と考えている。
また、10月始めに産卵された卵は腐る、という現象は、その親は継代人工であろうが、水温20度くらい以上である時、孵化できない、ということであろう。
なお、湖産については9月下旬頃から大量産卵をしていたのであろうが、腐っていたのか、孵化できていたのかわからない。たぶん、流下仔魚が観察されていたから孵化していたと考えている。
「トラックで運ばれてきたアユ」が下りの行動をしないで、近くの砂礫層で産卵を行う現象には、遡上鮎が産卵場所を適切に選択し、仔魚の卵嚢の栄養分がなくなる前に、海の動物プランクトンを食べることができる海からの距離にある砂礫層を選択できる理由を考える上で、有益ではないかなあ。
つまり、稚魚として、遡上してくるとき、その経験が記憶されていて、海からの適切な距離の砂礫層:産卵場を選択できる、ということではないかなあ。
これらのことを前提として、岩井先生の続きを読んでいく。
その前に、一茶の句における「鮎さびる」とは、いつの時期か。また、「さびる」とはどういう状態の鮎のことか。
1 時期については、一茶が信州で詠んだとすれば、9月下旬以降、江戸で詠んだとすれば、11月頃以降であろう。
2 「さびる」とは、雄が黒くなり、雌の下腹が赤みをさす段階を相模川周辺では表現している。
しかし、「はたいた鮎」を表現する場合もあるよう。一茶の句は、どちらの「サビ」を表現しているのかなあ。
相模川等で表現されている「サビ鮎」を、「下り鮎」と表現している川では、「はたいた鮎」のことを「サビ鮎」と表現しているのではないかなあ。
川那部先生は、「アユの博物誌」(平凡社)の「落ちアユ」に次のように書かれている。
和漢三才図会(わかんさんさいづえ)を引用されているが、その中の後半部分のアユの生態、容姿について
「『七八月に最も長く尺に近し。この時芥子(からし)の如きもの腹に満ち、その背に淡斑の文(あや)を生じて、刀刃(たうじん)のさびたるが如し。故に錆鮎(注:「錆」は、旧字で記載されている。また、「鮎」は、異なる字であるが、鮎では、と想像して誤記しました。)といふ。八九月に湍(たきつせ)の水草のあいだにおいて子を生む。しかるのち漂泊して流れに随ひて下り、死すなり。これを落鮎(注:「鮎」は、別の字であるが、手書きで出てこないため、「鮎」を代用しています。)といふ。』
一七一三年(聖徳三)刊行の寺島良安作『和漢三才図会(わかんさんさいづえ)』の記事である。
引用したところ、前半の(注:鮎の容姿、食べ物、食べ方等の記載)正確さに比して、後半には疑問の点なしとしない。だが、産卵を終えたアユの力尽き、川を下るものを落ちアユとするこの説は、戦後の歳時記にまでれんめんと生き、俳諧ならぬ俳句作りの宗匠連に広まっている俗説らしい。」
ということで、「錆鮎」との表現でも、何が錆鮎か、注意を払わないと、誤った現象の理解になるということです。
学者先生は、俳句作りの宗匠連と同じレベルの知識で、アユの観察をしているのでは、と想像している。
なお、上記の「月」は、旧暦で表現されていること。そして、この「旧暦」での表現を「新暦」に間違えて現象を理解しているのも学者先生ではないかなあ。
「鮎落ちていよいよ高き尾上(おのえ)かな (蕪村)
産卵場のあたり、アユは腹側に橙の婚姻色をあらわし、おすは強い黒みをも帯び、また追星を生じる。さびアユである。数さえ多くとれればとの似而非(えせ)釣師や、冬より翌春にかけて駅売りとなる季節を問わぬアユずし屋のためならば知らず、香り、味ともに昔日のおもかげはさらにない。」
と、川那部先生はおっしゃいますが。
オラは、産卵場に急ぐあゆみちゃんを軟派しています。
理由は、大きいアユが釣れる、腹子が食べたい、ということ、そして、あると思うな来年が、ですから。
そして、川那部先生は、「昔日の面影のない『香り』」と書かれていますが、今や、「香り」は死語です。「香魚」とは、養殖でも匂う臭いであると思う人すらいるご時世です。
また、川那部先生は、すべてを「似而非釣り師」と一括りにされているけど、あゆみちゃんの意思を尊重する友釣りでは、産卵行動としての下りの時と、産卵場での集結のときにおいても大量殺戮は生じない。
「食い気よりも色気」の季節のあゆみちゃんの中で、友釣りの対象となるのは、まだ、集結をしておらず、あるいは、下りの途中で、1宿一飯の宿を得て、瀬やトロ、チャラで食い気を優先しているものが主役。
四万十川で、再解禁日の11月1日に、産卵場で湯気が立つほどの釣り人にあふれる、という光景は、友釣りに関してはあり得ない。
したがって、下りの集結等の産卵行動が開始していても、産卵場を禁漁にすること、あゆみちゃんの意思を無視して行われるコロガシや投網の漁法を禁止すること、この2つが実施されたら、翌年の遡上鮎の親の大量殺戮や産着卵が踏みつけられたり流されて孵化できない卵の大量発生は生じないと考えています。
3 水温と性成熟
岩井先生に戻りましょう。
「確かに、日本各地のアユの産卵時期をみる限りでは、そのように感じられる(注:水温と性成熟、下りの行動との相当因果関係があること)。北の北海道では、九月になると産卵が始まり、南にいくほど産卵は遅れ、鹿児島県では十二月になっても成熟しない個体さえある。産卵後は死ぬのがふつうだが、暖かい地方では産卵しないで年を越すものもあるそうだ。また、同じ川でも上流に生活するアユほど成熟が早い。水温が下がり出すのは北方ほど早いだろうし、同じ川でも上流の方が早く冷えるだろうから、水温の低下がアユの成熟の原因だといわれれば、『なるほど』と、相づちを打ちたくなる。」
(1)光周性要件
「しかし、アユやニジマスの生殖巣の成熟には、水温より光の方が重要な要因として働くといわれている。水温が比較的安定している井戸水を使ってアユを飼育してみてもやはり秋が来れば、その付近の川のアユと同じように産卵する。こうなると、アユの成熟は水温だけでは説明がつかない。
この疑問を解く目的で行われた実験で、注目すべき事実が明らかになった。人工的に日照時間を短くしたり長くしたりして飼育すると、生殖巣の成熟が促進されたり、抑制されたりするのである。たとえば、自然のままの光を受ける池と、黒いビニール膜で覆ったり、夜間に蛍光灯をつけたりして、日照時間がそれぞれ、0,四,八,一二,一六,二〇時間になるように調節した池を用意して、夏のころからアユを飼育する。
すると自然の日照時間より短い〇,四,八時間区では、いずれも成熟が進み、二ヶ月で完熟するのに対し、自然の日照時間より長い一六,二〇時間区では、成熟が抑制され、四ヶ月を経た一二月末になっても成熟しない。とくに、成熟の促進には雌雄とも六〜八時間の日照時間が、抑制には雄では一八時間、雌では一六〜一八時間の日照時間が効果的であるという。
このような実験が繰り返された結果、夏の十三時間から秋の十一時間への日照時間の短縮が標準の変化で、それより日照時間が短いと成熟が進み、長いと遅れるので、産卵期は北方で早く、南方で遅くなるのだと説明されるようになった。同じ川でも上流ほど成熟が早く進む現象については、深い森に覆われた谷間の暗いところは、光の量が少ないので、短日環境となって早く成熟するのだという注釈がつく。」
成熟に日照時間の変化が影響している事例としてはイトヨがある。また、昼の長さの変化は目だけではなく、脳の背方に突出する松果体でも感知されているとのこと。
しかし、さすが、川那部先生のお友達?です。
光周性だけでは説明できない現象を無視していません。
他方、「学者先生」の根本教義は、次の通りと考えている。
「光周性」に基づく性成熟に例外を認め、あるいは、異なる現象が存在するという説(職漁師の観察)は全て異端の教えである。 湖産も、海産も、あるいは継代人工も、氏素性を問わず、 そして、「場所」を問わず、同一の性成熟現象を生じる。 |
氷河期を縄張り制の生き残り戦術で耐えたアユは、
「そのうえ氷河期には海退によって、海面が現在より一〇〇メートル以上も低くなった時期があった。河口部では川幅が狭くなり、傾斜がきつく、急流が海へ落ち込んでいたというから、卵から孵化して間もない子魚が海へ下るのも、若アユとなって川へ上るのも、命がけの仕事だったにちがいない。この過酷な環境を生き抜いてきた力を、川のせきをものともせずに飛び越えて躍動するアユの姿に見ることができる。
こうした想定のもとに、アユの生活を振り返ってみると、彼らがよく食べ、よく泳ぎ、つるべ落としの秋の日が来るのを正確に察知して、成熟しなければならない事情がわかるような気がする。それにしても一生を終える準備は本当に光だけで左右されるのか、疑問は残る。アユの産卵期が北で早く、南で遅いのは、日照時間の短縮だけでは説明できないともいわれるからだ。
夏から秋にかけて、日照時間が次第に短くなるといっても、北半球では、春分の日から秋分の日までは、緯度の高い地方ほど、一日の日照時間は長いはずである。だから、九月に産卵が始まる北方では、アユの成熟が進む時期の日照時間は南方よりも長いことになり、これでは早く日が短くなるほど成熟が進むという説明と食い違ってくる。
日照時間の違いによって成熟状態に差が生じることは、すでに実験的に証明されているのだから、間違いないだろう。しかし、果たして性成熟を左右する要因は昼の長さの変化だけなのか、もっと別の環境条件が関係しているのか、あるいはまた、各地方の集団ごとに、成熟に有効な臨界日照時間が決まっているのか、もう少し突っ込んで調べる必要がありそうだ。」
(2)「積算日照時間」
さて、前さんが「積算日照時間」が、性成熟にかかわっているのではないか、と考えられている。
オラは、この考えの効用の一部しかみていなかったかも。
1 1993年ころ、中津川で、解禁日から錆鮎が釣れた。
この現象は、湖産が冷水病で大量死したため、氷魚から畜養した「湖産」生産量が不足し、継代人工や海産等を解禁日までに、あるいは放流時点で、「湖産」並の大きさに仕上げるため、電照を用いて、せっせと餌を与えたため、と想像している。そして、川に放流されて1ヶ月、2ヶ月たった解禁日の頃、養魚場での環境に比し、「短日化」しているために、生殖腺が発達したのではないかなあ。
なお、この頃、他の川でも、解禁日からさびた鮎が観察されており、前さんも、「鮎に憑かれて六十年」(辻学園出版事業部)にも紹介されている。
この現象が、孵化からの「積算日照時間」によるのか、それとも、放流後の日照時間を養魚場での「日照時間」に比し、「短日」と認識したためであろうかわからないが。
前さんは、「積算日照時間」による現象で、短日化による現象とは考えられていないのではないかなあ。
2 養魚場での電照を考慮しないで、自然界で「積算日照時間」を考えると、孵化日からの日数と連動する現象といえるのではないか。
アユの一生が12ヶ月を標準と考えられるようであるから、性成熟には、12ヶ月が必要ということになる。したがって、北方では、9月に、相模川以西では11月に、産卵、孵化が行われるという現象を説明しやすい。
ただ、この説明で困ることが湖産。東先生は、湖産とは異なり、海産では、何で10ヶ月と14ヶ月の性成熟期間の変更が行われていない、と考えられているのかなあ。何で海産では安定した期間での性成熟が維持されていると考えられているのかなあ。
「湖産」における性成熟期間の「変動」がなければ、悩むことのない「積算日照時間」説であるが。
万一、湖産と同様の性成熟期間の「変動」が、海産でも行われているとすれば、わしゃ知らん、と逃げるしかないが。
もう一つの問題は、岩井先生は、日照時間の「変化」、短日化に性成熟の進行に大きな要因を求められているが、果たしてそうかなあ、と感じている。
ということで、オラは前さんの「積算日照時間」の方が性成熟の進行を考えるうえでは、実験結果にかかわらず、適切ではと考えているが。
いや、「実験室」では、短日化の状況を実現できても、自然界では、「積算日照時間」と、「短日化」とのあいだには、地域による小さな違いはあるとしても、相関関係があるから、問題にすることはないかなあ。
(4)狩野川のアユと砂鉄川 水温と「積算日照時間」
「鮎釣り’91」(つり人社)に、鈴木敬二「続狩野川の不思議」が掲載されている。この話は、どこかで紹介したが、見つからないから、リンクをするよりも書いた方が早いので、再度紹介します。
この中に、水温と性成熟とが一義的には相関関係を有しないことが書かれている。
「この晩熟型のアユ(注:狩野川の鮎のこと)をほかの河川に移植するとどうなるであろうか。狩野川同様に、12月でもアユ釣りができるであろうか。
その実例が、東北の小河川、砂鉄川にあった。北上川の支流の砂鉄川は、アユ釣りの名手として知られる伊藤稔さんの地元だ。この2年ほど、狩野川の海産稚アユを放流したところ、釣りシーズンが2ヶ月延びたとの話である。
9月になって、伊藤稔さんに、砂鉄川を案内してもらった。数は少なかったが、楽しい釣りができた。そのときのアユは、錆もなく、晩熟型のものであった。10月下旬まで東北でアユ釣りができるという……。」
鈴木先生がこの文を書かれた1年前に、伊藤さんだかが、「しばれる中での砂鉄川のアユ釣り」の報告をされているが、その雑誌はみつからない。
さて、上記の鈴木先生の「晩熟型」狩野川のアユ、という表現に「学者先生」の教祖の1人ではないかと想像している谷口順彦等「アユ学」(築地書館:2009年発行)にまで通じる「学者先生」の海産アユの産卵時期、性成熟に係る「教義」が連綿と続いていると考えている。
そして、「ここまでわかった アユの本」の著者:高橋勇雄さんから、鈴木先生の調査報告を奇異に感じた、と感想をいただいたが、これこそ、「学者先生」の「常識」に通じるのではないかと考えている。
これに対して、故松沢さんや弥太さんが、性成熟の完成、下り等の産卵行動の開始を「西風が吹くころ:木枯らし1番が吹くころ」と観察されていて、「川漁師の常識」と「学者先生の常識」は、相容れぬ関係にあることは、「目」にたこができるほど、くどく書いています。
(4)狩野川の性成熟の時期
「狩野川には、産卵時期の遅い特別はアユがいる。それも、10月になって思春期が始まる奥手のアユだ。1月になっても産卵しているアユ。これは狩野川だけに残っているのか、四国や九州にもいるのかもしれない」
なぜ、「狩野川」だけの「晩熟性」アユ、という教義が布教されたのかわからない。川那部先生は異端者、として、その教典が「学者先生」らには読まれることはなかったのかなあ。
あるいは、1990年ころには、川那部先生は、新興宗教の教祖として、だあれもご存じなかったのかなあ。
いや、そんなことはないでしょう。東先生が、湖産が再生産に寄与していないと気がつかれたのは、1984年。川那部先生は、「アユの博物誌」を1982年に発行されている。当然、その後も研究報告を「アニマ」などで行われているのではないかなあ。
とても、キリスト教がユダヤ教の一分派的に過ぎないとして無視されていた紀元頃、という状況ではないと思いますが。
高知大学の先生の1人でも、弥太さんの話を、山崎さんの話を聞いて、適切に理解されていれば、「湖産」と、海産の産卵行動、時期をごちゃ混ぜにして、「教義」を構築されることもなかったのではないかなあ。
いや、そのような人はいらっしゃったが、「異端」として、排除されたのかなあ。
生殖腺体重比
少しはまじめな話に戻りましょう。
人間と違い、「しかし、魚は1度に数万粒を生む。だから、腹の中の卵巣の大きさが急激に変わる。
生殖腺体重比というのは、人間で考えれば、思春期の胸のふくらみを数値化したものということになる。
アユは8月上旬から思春期にはいる。尾鰭での雄と雌の区別が明確になるのは、卵巣や精巣が発達して、雄のホルモン、雌のホルモンを分泌し始めるためだ。この思春期の開始は、東北の河川でも南の河川でも、また湖産でも、海産でもみな同一時期と考えられていた。」
鈴木先生は、生殖腺の発達状況を
@ 生殖腺の発達が遅いと考えられるオス
A 生殖腺の発達が早いと考えられているオス
B 生殖腺の発達が遅いと考えられるメス
C 生殖腺の発達が早いと考えられているメス
に区分し、生殖腺体重比の分布をグラフに表されている。
「魚の成熟状況を調べるのは、割合簡単だ。生殖腺の重量を体重で割ったもの、生殖腺体重比(GSI)で表すことができる。魚の卵巣も精巣も、体の割に大きい。産卵期の直前になると、♂で10%、♀で30%にまで発達する。腹の中が、卵巣だけになる。」
毎週1回、10匹づつ送られてくるアユを調査した結果、鈴木先生は次のように書かれている。
「残念ながら、狩野川の魚がすべてが晩熟魚になるのではない。第一図の黒印(注:生殖腺の発達が早いと考えられるオス、生殖腺の発達が遅いと考えられるメス)は、順調に発達して11月には産卵期を迎える。」
上記の文はわかりにくい。「11月には産卵期を迎える」との表現は適切であると考えている。しかし、「狩野川のアユがすべて『晩熟魚』になるのではない」とは、どのような現象をしてきされているのかなあ。
「狩野川に棲息するアユの生殖腺の発達状態(GIS)の変化」が、採捕日ごとに個体数の分布が表示されている。
8月に生殖腺が現れているアユがいるが、これは、「湖産」か継代人工であろう。9月上旬ににGISが5%程度のものが見えるが、これらも湖産、継代人工であろう。
ということで、鈴木先生も、湖産、継代人工を識別できる選別眼をお持ちでなかったようです。いや、鈴木先生が直接GIS調査を行われたのではないから、鈴木先生の鑑定能力の問題ではないといえるかも。しかし、氏素性の区別をすべし、と、指導されなかったことから、鈴木先生も、海産、湖産、継代人工を区別すべし、との認識はお持ちになっていなかったと考えて、間違いではなかろう。
「晩熟型」アユの存在理由
鈴木先生は、水温との関係等、環境条件に起因するでは、と推測されていた。しかし、結果はそのようにはなっていなかった。
そして、
「戦前の資料を見ると、台湾のアユの産卵期も12〜2月であった。アユの中に、晩熟のものがいて、これが台湾にいたのだが、絶滅してしまった。これと同じような晩熟型のアユが、狩野川には残っていた。」
この評価が適切かなあ。
また、
「環境条件に問題がないとすると、産卵期の遅い系群のアユと考えることが適切であろう。
アユが狩野川に住みついて、数万年になる。冬場の水温が高いために、12月、1月に産卵しても、ふ化子魚は海に入り、生存できる。
そして4月、5月に遡上してくる群れになる。」
とのことであるが、これを狩野川に限定せず、相模川以西の、多摩川以西の太平洋側の海産アユの産卵時期の話と考えれば、それなりに適切とはいえそうであるが。
原田先生は、海産アユに2つの個体群があるのでは、と考えられていたが、その個体群とは、種子島以北の鮭が上る川と、それ以外の川での産卵時期の違い、性成熟時期の違いのことかなあ。
いや、原田先生は、同じ川での海産アユの大きさ:育ちの違いを対象にされている。
ということは、鮭が上る川と、相模川以西の太平洋岸の川での性成熟時期、産卵時期が異なる現象は、当然のこと、と考えられていてのではないかなあ。
なお、鈴木先生は、狩野川の水温変化をグラフで表現されている。
それによると、産卵が始まると考えられる「西風が吹き荒れるころ」=11月1日ころは、上流部の田毎でも15度になっている。10月1日頃の「中流域」の八熊橋で、15度くらいになっているが、それほど下がっていたかなあ。
また、12月1日でも宮田橋で12,3度。宮田橋は「下流域」とされているが、むしろ「上流域」に該当するが。
なお、鈴木先生は、田毎:上流域、八熊橋:中流域、宮田橋:下流域と区分されているが、この間は5キロほどの距離にある。これらの地域は「上流域」に属するのではないかなあ。
中流域は、修善寺大橋付近から下流の松下の瀬、青木の瀬、城山下では。
下流域は三島の工場処理水等が流れ込む大滝付近、あるいは大滝よりも上流で、産卵場の1つがある伊豆長岡付近から下流ではないかなあ。
もう一つ、川那部先生の本を読んだものとしては、気になる箇所がある。
「この狩野川の晩熟型アユを大切にして、多くの河川に放流してほしい。10月、11月にアユ釣りが楽しめるとすれば、友釣り人口はますます増加し、仲間がぐんとふえることになる。」
湖産放流が、海産鮎の遺伝子汚染を生じなかったのは幸いなことです。湖産も交雑種も、仔魚が海で生存できなかったから。
同様に、狩野川のアユを砂鉄川に放流しても、生存限界である7,8度の水温よりも低いとか、ふ化に適する水温よりも低いとか、の原因で、再生産には寄与しないとは思うが、川那部先生の生態学に係る本が読まれていない事例ということかあ。
幸い、狩野川の遡上量は、1992,3年頃から減り始め、1995年には激減し、2000年くらいまでは、遡上鮎が釣りの主役となることはなかったから、「狩野川」のアユが砂鉄川に放流されることはないか。
いや、天竜川の仔魚が育つ浜名湖産が放流されることはあるか。
(6)ヒネアユ
「越年アユが、なぜ狩野川に多いのか?……」
この「越年アユ」は、ヒネアユのことではない。1月になっても産卵するアユのことのよう。
ヒネアユについては、前さんの観察が適切であり、今後はもう、調査対象になることはないのではないかなあ。ヒネアユが僅少であろうから。
ヒネアユの生殖腺が何で不全かなあ。生まれつきなのか、途中で生殖腺の成長が止まるのか。
生存限界である7,8度以上の水温が豊富な川の箇所・伏流水、流れの中等の湧き水がある場所が減り、かっての中津川のように、解禁日にヒネアユを対象とする釣りが行われることもあるまい。
(7)結び
水温が、性成熟と一義的な相関関係を有さない、ということは、砂鉄川の事例で十分であろう。
そして、孵化日からの日数、前さんの積算日照時間が性成熟の重要な要件になるのではないかなあ。
しかし、それでは解決できないことは、同じ川でも、上流ほど早く下るという現象。
弥太さんのザガニの下りが、上流ほど早いのは、みんなと同じ時期に海に到達するため、という説明が適切であり、かつ、アユも同じである、ということであれば、一件落着となるが。
トラックで運ばれた湖産、海産畜養、継代人工が、海からの距離に無関係に、仔魚の卵嚢の栄養がなくならない距離とは関係なしに、放流地点に近い砂礫層で産卵する現象を、万サ翁、故松沢さん、野村さん、初心者らしくないおっさんの師匠らが観察されている。
このことからすると、遡上鮎は、遡上してくるときに、海からの距離を認識し、適切な産卵場の位置を記憶しているということになるのかなあ。
もし、そうであれば、その場所に適切な時期に到達するには、上流ほど早く下りを開始することになるが。
岩井先生は
「『アユは暖かいところが好きだというじゃないか。光も大事か知らんが、寒くならないうちに産卵しょうと、急ぐのは当たり前じゃ』
老人はがんとして耳を貸そうとしない。
今は身を水に任す秋の鮎ー几菫
」
ということで終えられている。
「しかし、果たして性成熟を左右する要因は昼の長さの変化だけなのか、もっと別の環境条件が関係しているのか、あるいはまた、各地方の集団ごとに、成熟に有効な臨界日照時間が決まっているのか、もう少し突っ込んで調べる必要がありそうだ。」
という、実験室での結果が、自然界での現象と整合性を有さないことについて、どの程度、調べられたのでしょうか。
どの程度、「学者先生」以外の、川那部先生らのグループの研究が進んでいるのでしょうか。
オラは、前さんの孵化からの「積算日照時間」の仮説が出発点であると考えていますが。
そして、老人同様、水温が15度くらいに低下することが、下りへの動機付けになるのでは、と、想像していますが。
一つ、「積算日照時間」で困る現象があります。それは、11月1日頃、乙女だけではなく、小学生にもおっぱいがふくらんだあゆみちゃんがいることです。
湖産が、1年ごとに、ふ化後10ヶ月または11ヶ月ほどで産卵したり、14ヶ月または13ヶ月ほどで産卵したりする現象とは異なるでしょうが、海産にも、ふ化後11ヶ月ほどで、産卵したり、13ヶ月で産卵するあゆみちゃんもいるのかも。
それとも、産卵は、ふ化後12ヶ月で行われているが、たまたま成長・大きさに大小ができたということでしょうか。
故松沢さんは、鮎にも、早熟もおれば、奥手もいる、とはなされていたから、性成熟に必要となる「積算日照時間」にも、一定の幅があるでしょうが。
ということで、似而非釣り師は、今日も狩野川に行ってきます。
「汚水には勝てぬ味覚」 金の塊の苔と鉄くずの苔
故松沢さんは、オラが何でけんかっ早い鮎がいないの?、そのような鮎がいると、ヘボでも釣れるのに、と愚痴をこぼすと、昔の苔は金の塊であった。今の苔は鉄くずだ、ほしけりゃあ持って行け、という価値しかない、と。
もし、そうであれば、鮎に味がわかるということではないかなあ。
だって、川の流れの中で、最高級の苔が生産される場所、というところは、単に、縄張りを形成しやすい立地条件にある、生産量が多い、という条件だけではないように思えるから。
生産量でいえば、縄張り鮎が消費できる量の何倍もの食料生産が行われているのであるから、量よりも質を求めて、戦いが繰り広げられるのではないかなあ。それ故に、万サ翁がボウするようになるまでに30分、と前さんに話された現象が生じていたのではないかなあ。
岩井先生は、金魚すくいでの光景から、魚に味がわかるのか、について、筆を起こされている。
「水中に漂う異物がよほど気にかかるらしく、逃げ回りながら、手当たり次第に口でつつく。仲間のフンまで口に入れるものもいる。でも、ほをふくらませて、あわてて吐き捨てる。子供たちはこのこっけいな仕草に目を奪われて、金魚を追う手をしばらく休め、声をはずませる。
『あっ、食べた』
『出しちゃったよ』
『きっとおいしくないんだよ。味の素でもかけてやれば…』
追われる金魚には気の毒だが、はだの汗を忘れるひとときである。
金魚がフンをどのように感じて吐き出すのかはわからないが、味見の能力は確かなものである。『味蕾(みらい)』と呼ばれる味の受容器は、哺乳(ほにゅう)類のものによく似た構造をしている。ただ魚では、味蕾は舌の上だけでなく、くちびる、口の中の上側(口がい部)、えらにもあり、種類によっては口ひげや体表にまで広がっている。体全体で味を感じているわけだ。
このおかげで、魚は食物をはじめ、水中に溶けているいろんな物質の味がわかる。コイや金魚では、とくに口がい部に味蕾が密集しており、『口がい器官』と呼ばれる。」
洋の東西による味ごのみの違い
「コイの口がい器官に入る神経に電極を差し込み、味覚の働きを調べると、食塩、酢酸、キニーネ、ショ糖の薄い溶液によく応答するそうだ。つまり、辛味、酸味、苦味、甘味の四種の味を区別できるのだ。しかも、味の感覚にはお国がらがある。ヨーロッパのコイは甘味と酸味に敏感で、苦味には鈍いが、日本のコイは逆に苦味に敏感で、甘味には鈍いという。コイはまた、ヒトの唾液(だえき)、ミミズやサナギのエキス、ミルクなどの味にも強く引かれて興奮する。口がい器官が特殊な成分に刺激されるためらしい。これらの刺激に対しても、日本のコイの方がヨーロッパのものより鋭敏に反応する。
『えさのミミズにつばをつけるとコイがよく釣れる』という話も、あながちマユツバではなさそうだ。」
ヨーロッパ鯉を釣ったことがあったが、その鯉は、日本の鯉と同じ味覚になったのかなあ。それとも、「本然の性」を維持していて、「気質の性」が発達することはなかったのかなあ。
人間はどっちの方が優勢なのかなあ。生まれつきの味覚が維持されるのかなあ。それとも、子供の頃からの味に慣れしたむのかなあ。「お袋の味」という言葉は、「気質の性」の傾向を表しているのかなあ。
二酸化炭素の認識
「さらにコイには、水中に溶けている二酸化炭素の量の変化に敏感な味蕾がある。水質が不安定な淡水に住むコイは、こうした不都合な水を早く察知して、安全なところへ移動することができる。サケの子やドジョウなどにも、二酸化炭素の多い水を避ける習性があるという。淡水魚のえらには多数の味蕾が並んでいる。彼らがきれいな水を探すのに、味蕾が大役を果たしているのかもしれない。」
鮎にも、二酸化炭素の量の変化を察知する味蕾が存在し、また、退化していないのかなあ。
原則、瀬では二酸化炭素の量が増え、酸素が不足することを生じることはないと思うが。
ただ、故松沢さんは、狩野川の大滝?付近に、三島の生活排水や工場処理水が流れ込んでいるから、その水を避けるため、水路に入り、あたら命を捨てている、育つことができない鮎がいると話されていた。このような鮎の量はどのくらいかなあ。
とはいえ、まずい水の中でも遡上していく鮎もいるから、あゆみちゃんのお尻を追っかけることができるが。
口ひげの味蕾
ヒメジの下あごにある二本のひげは
「ひげによるえさの探知能力は抜群で、ゴカイを包んだ布袋と小石を包んだ布袋を水槽に入れてやると、袋をひげで触れてみて、ゴカイの袋には何度も食いつくが、小石の袋には見向きもしない。大事なひげを切り落とすと、とたんにヒメジは、砂の中に隠したゴカイを見つけることも、ゴカイの袋と小石を区別することもできなくなってしまう。」
「ゴンズイの口ひげも味の受容器として働くが、コイの口がい器官ほど敏感ではない。イトメのエキス、血清、ミルクには反応するが、糖類には見向きもしない。また、ひげを切り落としてもえさ探しにはそう不自由を感じないようだ。くちびるや頭の表面に散在する味蕾が、不十分ながらも口ひげの代役をするからである。」
ナマズのように、
「立派な口ひげは、足もとにあるえさの味ききはもちろんのこと、遠くにあるえさの探索にも利用される。」
そして、北米のナマズで行われた実験では、ナマズの好きな牛のエキスを流すと、
「ナマズは、おもむろに口の周りに並ぶ八本のひげを外側に向けて広げる。とくに上側の二対のひげは、角を出すように水面に伸ばし、エキスの流れてきた方向を探る。同時に、水の表面近くを漂うエキスの濃度を頼りに、水中に『8』の字を描きながら、次第にビニール管の口に近づき、苦心のすえ、ついにこれを突き止める。
このようなときには、頭の左右両側にある長いひげが、エキスの流れてくる方向を探すのにとても役立つ。片側のひげを切り落とすと、ひげの残った側へぐるぐる回るようになり、なかなかエキスの流出口までたどり着けない。ひげはえさを探すためのアンテナになっているのだ。」
「ホウボウの胸びれには三本の指のような遊離軟条がついている。彼らはこれで海の底を手探りしながらえさを探し、食べられるかどうかを調べる。この軟条には、触覚と味蕾を受け持つ器官があり、ここへ入る神経は、ある種のアミノ酸や、腐った貝のエキスによく応答する。しかし食塩、ショ糖、キニーネにはほとんど応答しない。」
そのほかにも、魚の味の受容器が紹介されている。
水質汚染と味の受容器
「このように魚の味の受容器は精巧だが、水質汚染には全く無防備である。だから、汚れた川に住む魚の悩みは深刻である。」
北米のナマズでは、
「北米のナマズの仲間を使った研究は、合成洗剤入りの水槽で飼育すると口ひげの味蕾が徐々に侵され、ついに崩れてしまうことを明らかにしている。口ひげに入る神経の活動電位を見ても、合成洗剤に侵された味蕾では働きが落ちて好きなシステインの溶液に対してほとんど応答しなくなってしまう。水に含まれる合成洗剤が〇.五ppmなら二〇日くらいで、一〇ppmになるとわずか三時間あまりで機能が麻痺する。
きれいな水槽にいるナマズは、ふつう水底にじっとしている。配合飼料を与えると、まもなく口ひげを広げて、えさを探し当てて食べる。ところが、合成洗剤にさらされると、ナマズは水槽の中でよたよた動くようになり、えさを落としてやっても、探すまでに時間がかかる。たまたまえさが口の前へ落ちたり、くちびるに触れたときしか食べることができない。こうして機能をいったん失った味蕾は、魚をきれいな水中に移して六週間たっても、まだ完全には回復しないというから恐ろしい。」
重金属についても同様で、
「いずれにしろ、重金属はたとえ致死量以下の濃度でも、魚の中の味蕾に浸透して感覚細胞を傷つけ、機能を阻害する。
コイ、フナ、金魚、ナマズなどの味覚はとびきり鋭いといわれる。その鋭い味覚を利用すれば、味見によって水に含まれる物質の鑑定をしてもらうこともできるだろう。」
「その魚も、さまざまな排水を飲み込んで流れる川では、合成洗剤の泡の帯や、川底の泥にたまった重金属などによって、知らず知らずのうちに味蕾をむしばまれ、苦しみだけを味わう羽目になりかねない。たとえ死を免れたとしても、生きるための食物探しが不自由になり、やっと捕らえた獲物の味がわからないのでは救われない。あげくのはては、水質の悪化に対してすら鈍感になりきってしまっては、生きがいもなくなるだろう。
川の浄化対策を講じたおかげで、魚たちが帰ってきたという頼りに接するのは喜ばしいが、魚の受難はまだつづいている。せめて魚が食物の味を楽しめるような川に早くなってほしいものだ。
味覚喪失の恐れがなければ、魚は、
『化学調味料をかけてくれ』
などと、おろそかなことはいわないだろう。」
岩井先生が、鮎の味覚、味蕾について、書かれていないことは残念です。
あゆみちゃんは、辛党かなあ、甘党かなあ、ごってり味かなあ、さっぱり味かなあ。昆布だしかなあ、鰹節のだしかなあ。みりんが必要かなあ。
「金の塊」はどんな味のする珪藻だったのかなあ。最早、藍藻が優占種となったご時世では検証することはできそうもないが。
また、あゆみちゃんの味蕾は、健全かなあ。「鉄の塊」の苔をおいしい、おいしい、といって食べているのかなあ。それとも、オラ達が戦後に、サッカリンやズルチンで甘くしたふすま?やぬかのパンをうまい、うまい、と食べていたように、生きていくにはまずい藍藻を嫌々食べているのかなあ。あるいは、味蕾が破壊されているから、まずいとも思わないのかなあ。
まあ、味音痴のオラ並みの食習慣を強いられていることは間違いなさそう。
さて、あゆみちゃんの嗜好はわからないが、鮎を食する人間の味蕾は大丈夫なかあ。
相模川の鮎が二年連続、利き鮎会で準グランプリになるご時世であるから、また、秋道先生が調査された女子大生が、鮎を臭いと思っているご時世であるから、「本物」の鮎を知らないことは当然のことでしょう。
しかし、戦前にも「養殖」鮎を江戸っ子が食べていたとは、垢石翁を読むまでは思いもしなかった。
ということで、今日の現象の走りともいえる状況を見ることにします。
佐藤垢石「つり姿」(鶴書房)の「諸国鮎自慢」から
養殖アユのお味は?
(旧字は、当用漢字で表記しています。また、原文にはない改行をしています。)
「諸国釣り自慢」に書かれている事柄の一部については、他の本からすでに引用しているところもありますが、重複することをいとわずに、できうる限り、引用して、戦前の川の状態が、鮎の状態が、どのようなものであったかを振り返りたい。
という、かっこいい理由ではなく、どこに書いたか、判らないため、リンクの設定ができないからですが。
「つり姿」は、昭和17年に発行されている。
しかし、この中に収録されている各文の書かれた時期は判らない。
多摩川の鮎が、「火成岩の転石ばかりを磧に持つお隣の相模川の鮎と比べると、姿も香気も水際だって勝れてゐた。」
その多摩川が、羽村の堰で、奥多摩の良き水が全て?取水された後では、
「なんで昔のやうに食味を誇るに足る上等の鮎を得られるだらう。それでもまだ東京の人々は、多摩川の鮎を日本一なりと主張して譲らない。」
香気も、味も、「生まれながらの性質」:本然の性ではなく、「気質の性」であるから、育った環境で異なる、との立ち位置は、垢石翁の揺るぎない姿勢である。
香気は、「本然の性」とされている高橋勇雄「ここまでわかった アユの本」等と、なんと異なる観察でしょう。
「鮎の姿を見、骨肉を味ふてその産地を知るやうになれば食通として一人前だが、それを萬人に望むのは無理だ。走り物や、生きのいゝものでさえあれば争って食ふ江戸ッ子だ。そこをいゝことにして商人が近年東京人にまことに眉唾物の鮎を食はせてゐる。毎年五月十日過ぎると、九州や四国辺から走りの鮎が飛使ひで入って来る。大きさは三四寸から五六寸十匁位から三十匁までのもので、これが銀座あたりの食品店の店頭へ並べられる。目玉が飛び出る程高い。見ると、鮎の体に立派に友釣で掛けた鈎の傷痕がついてゐる。五月中ならば、この傷痕はほんものとして食膳に賞味できるが、兎に角九州や四国から氷漬けになり長い旅をして来た鮎である。香気と脂肪が悉く氷に吸い取られて、肉は臘をかむやうな味になってゐる。鮮魚といふも愚かな次第である。」
川那部先生も、理由を解明できなかったようであるが、古の鮎が大きく育っていたこと。
現在でも、九州、四国では、東京っ子が、大枚をはたいて走りを食したような鮎が、育っているのかなあ。もちろん、継代人工、海産畜養ではなく、遡上鮎に限定しての話であるが。
川那部浩弥「アユの博物誌」(平凡社) 「X章 アユさまざま(座談会)」 | |||||||||||
桑波(注:由良川漁業協同組合) こないだの戦争中でも、一時間も行ったら大きなびくに一杯になって、そいで近所ではその魚はもらい手がなかったぐらいですわ(笑)。『こんなくさいもん、食えるか』ちゅ うんですから。香魚というくらいやさかい、確かに匂いありますわな(笑)。それがだんだんこういう珍重されるかたちになりまして。『あれ食わなんだら、夏が過ぎん』ちゅう のが祇園の舞妓さんあたりで出てきまして、妙なことになったもんですね。 |
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岩井 そんなにおった頃は、大きさは小さかったんですか。 |
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桑波 大きいなんて…。サバみたいなやつがとれよったんですね。組合の事務所にも残してま すけんな。だいたい四〇〇グラム、ちょうど土佐のアユみたいなもんですわ。あんなんがこの由良川にもうじゃうじゃおりよったわけです。 |
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岩井 そんなにおって大きくなっとたんじゃ、川那部さん、何か言わないかんのじゃないです か(笑)。 |
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川那部 どこでもそれが、ほんまらしいからね。それはまだちょっと逃げて(笑)、桑波さん。友 釣りというのはこのへんはいつ頃からあったんですか。 |
ということで、川那部先生も古の鮎が何で大きかったのか、の理由については、逃げられていました。
この座談会での大アユ、食習慣について、注意すべき事は、
1 継代人工、海産畜養が大アユの対象ではないこと。
したがって、栗栖健「アユと日本の川」(築地書店)に紹介されている一九六九年・昭和四四年七月中旬に釣れた三〇センチのアユは、継代人工であり、遡上鮎、海産アユではないと確信しているから、そのようなアユのお話ではない。
この栗栖さんの「尺アユ」評価は、「本物」を知らない人が、現象だけを見て判断すると、どうなるかの事例と考えている。
2 舞妓さんは、「走り」ではなく、夏の終わりを意識して、アユを食していたのであろうか。
盆を過ぎると、京都ではアユを食さなくなる、との話があったと思うが、「夏が過ぎん」ための行事として、昔からアユを食していたのかなあ。
それとも、淀川が遡上河川でなくなり、上桂川、保津川には湖産が放流されて、湖産が「サビル」から、八月下旬以降には、アユを食することがなくなったのかなあ。
もし、「湖産」が食の対象となってから発生した舞妓さんの意識、食習慣であるとすると、新しい食習慣ということになるが。
淀川の鮎
東京には、次のアユがやってくる。
「次いで、淀川からも若鮎が来る。これは淀川の漁人が寄餌を使うので、鮎の腹の中は米糠と蛹粉で一杯になって膨れてゐる。体色が茶色になって何の香気もない。鮎の形をしてゐるだけである。漁つた直ぐならば榛名湖の公魚の方が数等勝つている。これは安価な一品料理店で、走りものとして使ふ。」
淀川にも遡上があった頃、何で餌釣りの鮎が、はるばると東京に運ばれてきていたのかなあ。
宇治付近では、まだ友釣りでは釣れなかったのかなあ。あるいは、宇治付近で餌釣りをしていたということかなあ。
もし、大きさだけを求めるのであれば、遡上した湖産でも同じではないのかなあ。遡上した湖産アユであれば、蛹粉の臭さもないのでは、とは思うが。四国、九州とは違って、若鮎=小鮎ということで、淀川では、餌釣りしかできなかったのかなあ。
8月16日?に餌釣りが解禁になる仁科川で、小学生の女番長は、家来の男どもの何倍も釣っていたなあ。そのときの大きさが、淀川の走り物と同じくらいの大きさということかなあ。
「香気」がないとは、今では、川で育とうが、遡上鮎であろうが、当たり前のことで、多摩川は調布、あるいは2010年中津川田代では、時期限定ではあっても「臭い」鮎が釣れていましたが。何を食べているのかなあ。藍藻が優占種として、その中にどんな成分が取り込まれていて「匂い」成分となって、「臭い」匂いになっているのかなあ。
養殖物
九州、四国や淀川の鮎は
「これ等は、鮎本来の味と香気を失っているにしても清流で自然に育った魚である。何処かすて難いところがあるが、二三年前から商人は東京人にひどい鮎を食はせてゐる。割烹店の生簀の中へ、水道の水をざんざんおとして飼って置く鮎がそれだ。近年、鮎の養殖が盛んになって、各地の漁業組合や農家の副業にやってゐる。琵琶湖から春四月頃、一寸五分位の小鮎を取り寄せ、二〇坪か三〇坪位の清水の通う池へ入れ、蛹や豚の肝臓を与えておくと六月上旬には四五寸、大きいのは六寸くらいに育つ。なかなか立派な姿だ。
しかし食べてみると鰯よりひどい。素焼きにも塩焼きにもなつたものではないのである。串に差して火に焙ると、肉から脂肪が絞り出て秋刀魚を焼いた時のやうに黒い煙が部屋に立ちこめる。そして煙の臭ひがひどい。蚕の蛹と、豚の腸の臭みだ。何も知らない江戸ッ子でも、養殖鮎の焼いたものばかりは食へないだらう。
そこで割烹店では、生きてる儘の養殖鮎を店の生簀へ運んで来て、客が見えると臓物を去ってから背越しや、膾として皿に盛って出すのである。善良な客人は、この鮎を川で天然に育った魚と思ひ込んで 舌鼓をうつのである。
だが、鮎の身上と言われている香気が、ちつとも鼻に来ないから、少し舌の肥えた人なら直ぐ味ひ分ける。
銀座あたりで生鮎を食はせたら、これは蛹を餌に池で育ったものと解釈して間違ひない。五六寸に育った天然の鮎は、陸上の運搬に困難する。殊に鈎や網で取った鮎には必ず体の何処かに傷がつく。鮎程酸素の欠乏や、傷に弱い魚はないからこれを陸上運搬すれば直ぐ死んでしまふ。だから、完全に運搬ようとすれば莫大な費用を要するのだ。安い養殖鮎が天然鮎の代用となり、東京人を誤魔化す所以のものは茲にある。」
それでは、現在は?
秋道先生の受講生が、鮎は臭いから嫌い、とアンケートに答え、シャネル五番の香りを漂わせる鮎は、香気は、幻か、天然記念物並みに稀少となっている。
狩野川で、唯一、シャネル五番を振りまくあゆみちゃんに対面できる可能性があるのは、湯ヶ島の田毎とのこと。そこでも、釣れた鮎が全部シャネル五番の香りを振りまいているのではないとのこと。
「藁科川のアユ釣り」のよしよしさんは、藁科川にも、香気の鮎がいるところがあるとのこと。
「養殖」、しかも、継代人工でも塩焼きにし、秋刀魚の臭いも何のその。そのものの「養殖」ではなくても、成魚放流のぶくぶくの六月の鮎を、「天然アユ」とお店の人がいい、まあ大きい、いい香り、と、いいながら食べていらっしゃるグルメ、旅番組の女子アナウンサーさん、女優さん。
観光梁では、ホースで継代人工を流し、それを梁で捕って、食べて、「まあおいしい」と観光客が喜ぶご時世。
垢石翁は、これほどまで落ちぶれたあゆみちゃんの食に係る変貌を見ることがなかっただけ、幸せであった、と言うべきかなあ。
今や、秋刀魚の臭いがする鮎は当たり前。5月の連休に相模川の磧から、20センチほどの大きさの鮎から、その臭いが漂ってくる。
釣り人はどうか。
「空魚籠の嘆息」に、多摩川の解禁日の情景が書かれており、そして、釣り人は、「本物」を識別できると書かれているが。
「しかし、養殖鮎や渡り鮎に無知の賛辞を惜しまぬ者は、釣を知らぬ遊手ばかりだ。東京には、鮎は釣つて而して食ふべし、と信じてゐる敬愛すべき人が沢山ゐる。釣れる、釣れぬは自ら問題が違ふ。
試しに、六月一日の夜明け前、多摩河原へ行って見るとよくわかる。上流羽村の堰下から下流双子橋まで数里の間、あつちに一団、こつちに一団、何処の釣り場を見廻しても、五六百人宛の釣人が前夜から磧の玉石の上へ露営して暗い水面を睨みながら、一刻も早く東の空に白い雲の動くやうにと願ってゐる。それに、ひとり多摩川ばかりぢやない。関東地方何れの川でも、同じ風景だ。この幾千、萬かしれない釣人は、その大部分が東京から押出して行った、鮎は釣つて食ふべしの連中ばかりである。」
腰には履き替え用の草鞋までぶら下げて、
「颯爽たるいでたちとは言ひ度いが、ほんたうは乞食の引越しに似た姿である。それで、獲物はといふと、これが甚だ心細い。空の魚籠を提げてゐる人が大部分である。終日、長さ四五間もある重い竿の操作に憂身を窶して、上等の成績のもので田作(ごまめ)程の鮎が二三尾である。それに十尾も釣つたものがあれば釣場中の羨望の的となる。きれいにアブれて空魚籠を抱え、初夏の磧の烈日の下に嘆息これ久しうする釣人が大部分であるから、お互いに怨みつこは少ない。午後三時ともなれば、疲れた足を引きずりながら帰途につく。歩きながら、主人の獲物に大いなる期待をかけて、夕餉の支度にいそしんでゐる家族の姿と、餉臺の上に超然として起立してゐる徳利の風景が眼に浮かぶ。ふらふら(注:原文は記号を使用)と、土手に並ぶ土産屋の店へ飛び込んで、江州から来た小鮎の飴煮を買ってしまつた。
これは、多摩川でのみ見る悲しき釣り状況である。結局、鮎の数よりも釣人の数が多い勘定になるからであるが、一歩東京を離れるとなかなかそんなものではない。素晴らしく形のいゝ、香気の高い鮎がいくらでも釣れるのであるから、釣人は恵まれてゐる。」
多摩川での解禁日の釣果がそれほど貧弱とは、垢石翁が書かれている「鮎の数」よりも釣り人が多いからかなあ。
空気と水が一杯詰まった友船を抱えて、磧をうろちょろしている我が身には、空魚籠の心情はよおくわかるが。
その多摩川に「百万匹のアユが帰ってきた」とはいえ、調布付近は臭いアユ。野田さんがお仕事で嫌々川下りをされた3K:多摩川では、「臭い」アユが当然でしょうね。
羽村の堰付近まで上ることができるようになれば、「臭い」臭いは消えて、臭いのしないアユになるが。
「歴史認識が欠如している」とは、一昔前、いや四,五昔前までは、カウンターイデオロギーや、非同調者に対する攻撃用言葉として、はやり言葉であったが、高橋勇雄さんや、阿部さんは、その洗礼も受けなかったということかなあ。
珪藻が優占種である川は当たり前、香気のアユは当たり前、その中でも品格に、品質に優劣があった、と言うことが、「歴史」上の事実でしょうが。
垢石翁は、釣り人には味音痴がおらず、走りものや養殖などのまがい物のアユにだまされぬ気概をお持ちとのことであるが、現在では、成魚放流であろうとも、継代人工であろうとも、大きければよい、と言う釣り人が蔓延しているようです。
仮に、釣り人の「気概」を持っていても、「香気」のアユと出会うことは小百合ちゃんや百恵ちゃんと逢い引きをする程、不可能な状況になっています。
まあ、現在の味音痴の世界とは離れることにしましょう。年寄りの愚痴には、限りがないもんで。
あ、もうひとつだけ、ジジー心から。
垢石翁が書かれている「養殖」アユは、湖産畜養であり、継代人工ではないと言うこと。
故みずのようにさんは、人工種苗に成功したのは、昭和20年代の上田市?と、「湖畔の里 水のように 風のように 朝のように 琵琶湖畔の里山の四季や野の花に託して 自然と文化の香りを発信します」のホームページに紹介されていて、その子孫?の方の講演会の記録にリンクされていた。
故みずのようにさんは、1つの記事を1つのページで作成されていたようで、ホームページを全てコピーしたつもりになっていたが、わずかしかコピーできていなかったため、確認できません。
川とアユと垢石翁:追加
1 相模川の遡上限界
垢石翁は、水成岩が転石している川のアユが上質と書かれているが、サボリーマンの元祖、教祖であろう垢石翁といえども、いつも上質のアユを産する川には行けなかった。
ということで、相模川で、滝井さんらと会われているし、また、諏訪ノ森の友釣りをされていた川漁師とも懇意であった。
その相模川では、何処まで遡上していたのか。「豪快な釣り風景」から
「甲州財閥が南都留郡の山中へ無闇矢鱈に発電所を設ける前までは、甲斐絹の本場谷村町から吉田町付近まで鮎が溯つて一尺近い大物が盛んに釣れたものだが、近年は猿橋の下流付近から上流へは溯つて行かない。それでも多摩川などゝは比較にならない程夥しくゐる。昨年はちょつとまづかつたが一昨年まではたいしたものだった。鮎は一年おきといふから今年はいゝに違ひない。」
猿橋から上流の「谷村町」や「吉田町」とは、どの付近かなあ。
そして、そのあたりは、秋道先生の遡上限界を考える指標としての何次河川に当たるのかなあ。四次河川かなあ。三次河川かなあ。
それとも、飛騨の国とは異なる遡上限界河川の事例になるのかなあ。
垢石翁は、遡上量の増減を「一年おき」とされている。
遡上量は、神奈川県広域水道企業団により相模大堰魚道:左岸、右岸の副魚道で行われるまでは、神奈川県内水面試験場が行っていた推計値しかなかった。
相模大堰の遡上量調査は、リンクをしょうとしましたが、「ラベルへ」で表示されるファイルの「参照」から、ラベルに行き着くことが出来ないため、あきらめました。 遡上量調査結果は、あゆみちゃん遍歴賦→2008年、2009年、2010年の「5月以前」に書いています。 |
どうも、試験場の推計値の数値は少なすぎるのではないか、という気がしている。
その理由は、遡上が右岸、左岸の瀬脇からヘチ寄りを均等に分布して行われているのではなく、右岸、あるいは左岸に偏って遡上しているのではにかということ。
次に、日時による変動幅が大きいため、抽出遡上量調査では、統計処理を適切に行ったとしても、その変動を適切に表現できないのではないかなあ。
ということで、相模大堰での目視による調査方法が、少しは実態を反映しているのでは、と、想像している。
ただ、懸念材料としては、調査受託者が、年券等の販売額に関心が高く、遡上量の情報を独占し、漁協の情報操作を容易にしたい欲求をお持ちのところであること。もちろん、受託者は神奈川県内水面漁業組合連合会であり、相模川漁連が直接契約当事者になっているのではないが。
さて、相模川大堰での遡上量調査によると、二〇〇〇年、二〇〇四年、二〇〇八年に大量遡上が観察されている。
そして、大量遡上の翌年の遡上量は激減している。少なくとも、二〇〇五年、二〇〇九年には、沖取り海産の採捕がされていない。
垢石翁は、「二年周期」と書かれているが、少なくとも、二〇〇〇年からは、四年周期ではないかなあ。二〇一二年の結果が出れば、少しは推測できる状況にはなるが。
仮に四年周期で、大量遡上があり、その翌年の遡上量が激減する、という現象は、稚魚の食料である動物プランクトンの相模湾における生産量の総量と関係しているのかなあ。
つまり、大量遡上の親から孵化した仔魚が海に下り、稚魚になっていく過程で、全員の成長に必要となる食料の量が相模湾には存在しない。
そして、川那部先生が書かれている「全員が死ぬのは忍びない」ということで形成される縄張り制や順位制の社会制度が、稚魚段階では形成されていない、ということかなあ。
さて、相模川での釣り場については、
「甲州と武州と相州の国境近くにある与瀬が相模川の中心点だらう。ここへは實によく鮎が足を止める。是れから上流甲州へ入ると上野、四方津、鳥沢、猿橋など河の姿が全く峡谷をなしてゐて鮎が素敵に大きくなり、釣り場の環境も甚だいゝ。釣味も満点だ。下流には荒川橋、久保沢などの有名な釣場があり、磯部村から相州厚木町地元に到るまで至るところに釣場がある。この川の特色といふのは友釣、毛鈎釣共によろしい点であって川の調子が素人向けに出来てゐる。東京の釣人には人気のある所以だ。
だが、鮎の質はあまり上等ではない。腹に小石が入つて居り、香気も低く肉がやわらかい。それといふのは、磧が火成岩の転石に満たされてゐるため鮎にとって上質の餌である硅藻の発生が悪いからだ。鮎が泥垢をなめてゐる。しかし、鮎は鮎だ。それに数が沢山ゐる。何にしても東京付近随一の釣場である。六月一日の解禁日から、いくらでも釣れるのでファンが殺到する。」
相模川にも、垢石翁が厳しい評価を下すものの、香気のする鮎が、いっぱいいた時代があったということ。
そして、垢石翁は、「友釣、毛鈎釣共によろしい」と書かれているが、すでに当時行われていたコロガシについては触れられていない。
ということは、垢石翁もコロガシを嫌っていたということかなあ。どのような理由で、コロガシを嫌われていたのかなあ。オラ同様、あゆみちゃんの意思を無視する漁法からかなあ。
2 鮫川
「鮫川物語」から
「福島県の東海岸、つまり磐城国の太平洋へ注ぐ川には、いづれも鮎が多いのである。殊に、常磐線の植田駅で下車して、三里ばかり奥へ入った鮫川は、鮎の巣である。」
1日目:支流で
「私は、昭和一四年の七月下旬、一七才になる倅と共に、この川へ友釣を志して行つた。植田駅から乗合自動車で、三四十分ほど走ると上根岸へ着く。そこの、古い建物の商人宿へ泊まることにした。釣客は、私等親子の外に誰もゐないといふ話であつた。
午後から2人で竿を舁ぎだした。数日前の豪雨のために濁つて、それが澄み口に向かつてゐるが、まだ鮎が囮を追ふ水色になつていない。水嵩も高い。
川幅と、水量の点は、山北あたりの酒匂川ほどでもあらうか。子供連れの友釣には、手頃な川である。しかし、濁つていたのでは致し方がない、宿から五六町上流へ溯ると、左の方から清い支流が流れ込んでゐた。その橋の下で、漁師が投網を打つてゐる。その漁師から囮鮎を買つたところ、小さい鮎であるが五十銭で三尾くれた。
囮鮎をさげて、橋から支流に添ひ五六町上流へ行つた。磧へ下りたつて、荒い瀬へ囮鮎を放つと直ぐ掛かつた。割合に急流であつたので引く引く。その上に、両岸から川楊の枝が無数に出てゐるため、ともすれば道糸がそれに絡みさうだ。それでも、巧みに竿を操って瀬かげへ鮎を引寄せ、手網へ抜取つてみると、なかなか大きい。よく肥つてゐて二十五匁以上はあらうか。
こんな水量の少ない流れにしては、素晴しいと考へながら、さらに囮鮎を泳がせると、続いて二尾掛かった。いづれも、最初に釣つたのと、大きさは同じだ。倅の竿へも、大物がきた。
さらに、その上手の岩盤の下の落込へ、囮を引込むと、いきなりゴツンときた。素晴らしい引きである。私は岩盤の上へ立つてゐて、下手は深い淵であるから、足を移すわけにはゆかぬ。竿を撓めて、しばし頑張つてゐるうち、一厘柄の道糸がぷつんと切れた。囮鮎諸共持つて行かれたのだ。
支流でさへも、こんな素晴らしいのが棲んでゐる。鮫川の本流は、さぞかしと考へた。その日はそれだけでやめて宿へ帰り、翌日を楽しんだのである。」
夏井川は歩いたことがあるが、鮫川は、まだ見たことはない。
水量は、酒匂川の山北付近とのことであるが、酒匂川の現在の状況とは異なるから、相当の水量ではないかなあ。夏井川は、堰があったから、どの程度の遡上量があるか判らない。また、鬼の絵が描かれたダムがあったから、水量は少なくなっていると思うが。もし、ダムでの取水がなければ、ダムがなかった頃の酒匂川よりも水量は多かったのではないかなあ。
2日目:本流
「翌朝、本流を覗いてみた。まだ少し濁りが濃いと思った。しかし、竿を舁いで上流へ向かつた。百尺もあらうかと思ふ急な坂を下つて、磧へ立つた。汀の水色を見ると、鮎が囮を追ふには、まだまだ濁りが強い。一服喫つてゐるうちに、流れは次第に青味を帯びてくるやうに見える。そこで、私は汀の水中へ膝頭まで立込んだ。そして、水中の足の甲を透かして見たのである。はっきりはしないが、たしかに足の甲が笹濁りの水に透いて見える。
昔から、膝頭まで水に浸かつて、足の甲が透いて見えれば、鮎は囮を追ふものであるといはれているのである。そこで、私は囮に鼻環を通した。
瀬頭の浅い場所を引いた。直ぐ掛かった。大きくはない。笹濁りの水に、適応した藍色の背中を躍らせて掛かる鮎は、下手の石かげへ寄つてきた。二十匁に足りない。だが、細身の頑丈な鮎だ。
しばらくして、またきた。これは、二十匁以上のものであった。それから、その附近の瀬の真ん中や落ち込みや、淵などを丁寧に囮を操縦したが、一つも掛からない。随分辛抱したのだが駄目である。」
鮎は保護色、と故松沢さんも話されていた。
「藍色」の背中とは、どんな色かなあ。笹濁りでないときは、どんな色をしているのかなあ。
午前は、オラと同じ状況であったが、午後は引き水での効果が明確となった。
「昼を済ませて二人は、上手の大きな岩の角をまはり、上流の岩場へ出た。水は次第に澄んでくる。岩場から上流は、流れがせばまつて、瀧落しの瀬である。流れの中に、冠となつて飛沫をあげてゐる岩は、小さな長屋ほどの大きさはあるだらう。勿論水底の玉石も大きい。落込みから、平場へ続く川底にも立派な石が転積してゐるのである。岩場の下手は、岩壁をなしそれに激しく水が突当たつてゐる。」
現在も、「小さな長屋ほどの石」は転積しているのかなあ。それとも、垢石翁が物置小屋ほどの大きさの石と書かれた大井川は中川根町の石が埋まり、又、玉石も砂利、小石に変わったように、あるいは、只見川さんが、阿賀川と只見川が合流して阿賀野川となる近くの只見川の大石を庭師が持ち去った、と冗談を言われたように、埋まってしまったのかなあ。
「絶好の、友釣場所だ。私等は、先刻釣つた鮎を新しく囮につけた。倅が、荒瀬の瀧頭へ囮を引込むと、いきなり引つかゝつた。倅は、瀧頭から私のいるところまで約一町ほども走り下った。そして、鮎を汀へ引きつけた。手網へ抜き込んだのを見ると、四十匁近くもある大ものだ。
それから、二人は競ふて釣りはじめた。巨岩が冠になつて、その下手に泡が渦巻いてゐるところ、平場の玉石の間、岩壁についた水苔などを狙つて、休まず奮闘した。竿は私の持つのが四間半、倅のものが三間五尺。
小さいので二十匁。大きいものは四十五六匁はあつたらう。それを、夕方までに二人で六十尾近く釣つた。二人の囮箱が、いづれも一杯になるほどであつた。」
一町も下るとは、百メートルほど下ったということ。
今、そんなに下ることが出来るほど、すいている川はどのくらいあるかなあ。鮎がいないから、すいている川はあるが。
二十世紀の大井川で、十八センチ、二十センチ級を掛けて、川根温泉下流、当時は、笹間渡温泉下流をアグネスラムちゃんほどのぼいんちゃんらのお尻を見ながら、下ったことはあったが、それは、大井川の鮎の馬力になれていなかったから。それでも、数十メートルであったが。
四十五匁というと、百五十グラムくらいある。そのくらいの遡上鮎が釣れるのは、大井川では、十月に入って、たぶん、上流から下ってきた鮎が混じるようになってからのこと。
狩野川では、昭和の時代の上島橋下流、東洋醸造の工場排水処理水が流れ込む水路より下流、鮎の質が劣るから釣り人がたまにしか入らない場所で、九月頃から。あるいは、十一月頃の城山下で、西風が吹き荒れて後、下ってきた鮎の中に、たまに混じるだけ。
何で、古の鮎が大きかったか、は、川那部先生も逃げられているから、ヘボの推測できるところではないが。
越後荒川の八月の鮎では四十五匁の鮎が相当数いると思うが、七月下旬に、その大きさになっているのかなあ。
おっぱいがふくらんだ頃で、150グラムになっているのは、22,3センチくらい。スリムな体型の時は、24,5センチではないかなあ。
「近年、稀しい位、面白い釣りをやつたのである。濁りの澄み口は、鮎の活動がはげしいのであるけれど、この鮫川の鮎は特別であらうと思ったのだ。
その日のゑものを、宿へ持つて帰ると、宿の人達は驚いた。この宿へは、釣季になると毎年数多い釣師がやつてくるが、素人でこんなに沢山釣つた人は、はじめてゞあるといふのである。鮎の数は大したものではないけれど、形が割合に大きかったので、総体の目方は重かつたのである。」
さて、この文から、どのように想像できるかなあ。
垢石翁は、もっと多くの数を釣っていたことが珍しくない、川漁師はもっと釣り上げていた、それから?
3日目:引き抜きの漁師
「賞められて、気分を悪くするものはない。翌日も、二人は勢ひ込んで上流の方へ志して行つた。その日は、前日の場所から十町ばかり上流で、足場は甚だ悪かつた。三角石が汀に突きだしてゐるからだ。倅は、落ちこみの緩やかな場所を狙ひ、私は荒瀬と深い淵へ囮鮎を放つた。忙しいほど釣れた。一厘柄の道糸、一厘二柄の鈎素。鈎は、伊豆袖改良の一寸をチラシにつけた。どんな荒瀬でも、錘は二匁以上のものは、用ひない。
剃刀砥石で、鈎を鋭く研いだ。鮎のからだに触れゝば、吸ひつくやうに切れるほど充分に、手まめに研いだ。前日よりも、数多く釣れた。しかし、概して形は小さかつた。全体の目方は、前日よりも軽かつた。」
「寸針」なんて、どのくらいの人が使っているのかなあ。鱗の荒い継代人工、チビの遡上鮎対応から、又、故松沢さんが、「金の塊の苔ではなく、鉄くずの苔になり、ほしけりゃあ、もっていけ」という食料の質の低下で攻撃衝動が希薄になったと話されていた現在では、小針全盛。
アラカンサスでハリを研ぐことも、亡き師匠や大師匠は行っていて、オラが研ぐには適さない表面処理がされている、といっても、メーカーの宣伝にだまされている、といわれていた頃が、もうじき二昔前のことになる。
その頃、つまり平成の代が始まって、しばらくすると、カーボン含有量を増やした針等、現在の針の材質の走りが出始めた。その針を亡き大師匠が研いでくれて、爪に刺さったが、直ぐになまってしまった。
丼大王は、故松沢さんの砥石の使い方はうまく、針だけでなく、包丁もまっちゃんが研ぐと、すごい切れ味になった、と話されていた。
二匁の錘以上の錘を使わないとは、どういう意味かなあ。
テク二は、相模川は葉山で玉引きするときは、五匁の錘を使っていたが。
「三日目は、この川筋の状況を詳しく知っているといふ釣人に案内されて、上根岸から三里ばかり上流の、貝屋村地先へ遠征した。ところが、川の状況を知つているといふその釣り人は、実は土地不案内であつたのである。貝屋地先では、まるで釣りにならなかつた。私が一尾釣つたのみだ。
そこで、御齋所街道を下流へ下つて、オ鉢の瀬へ出た。流れを見ると、土地の職業人が数人、水深く立ちこんで盛んにやつてゐる。こゝは、七月十五日の解禁当日、狩野川の名人青羽根の福井老が、半日で三貫目あげたといふ場所に、話が似てゐる。流れの姿が、甚だよろしい。」
三里を歩いていったのかなあ。
雨村翁は、吉野川は八畳の瀧まで歩いたときは、三里どころの距離ではないし、四万十川でも三里以上歩いたのではないかなあ。
大井川の七曲がりに笹間渡から行くときでも、一,二キロ。しんどいなあ、と思うし、七曲がりから駿遠橋まで釣り下る五,六キロも楽ではなかったから、元気な垢石翁といえども、大変な距離。
しかも、囮を生かしていなければならないから、歩いたのではないのかも。
狩野川衆が、鮫川にも出没していたとは。半日で三貫目とは、五十グラム級として、何匹?
「流れの姿は、立派ではあるが、一体鮫川は両岸に川楊が密生して、鮎が掛かったとき下流へ足を送るのに邪魔になること甚だしい。殊にこゝは、一層川楊と蘆が濃い。土地の漁師は、引抜いて空中輸送で、掛り鮎を手網のなかへ入れてゐる。やむを得ないと思ふ。
私も、道糸を太くして、仕掛の全長を竿一杯に詰めて、引抜きをやることにした。ザラ場の水が、細い樋場に集まつて、吐き掛けるやうな荒瀬へ竿を入れたのである。囮を入れると直ぐ掛る。引く、引く、強引だ。幾尾釣つたらう。
しかし、掛けた三分の一は、鈎素を切られ、道糸を切られた。掛つたら居儘でこちらも強引に引抜くのであるから、一厘五毛柄の道糸では無理だ。三十匁以上五十匁近い大ものが掛つて、荒瀬のなかを逸走の姿で、下流へ向かつて駆けだすのであるから、一厘五毛の糸では、保つわけがない。
道糸を、一躍三厘のテグスに替へた。それでも鮎は、盛んに囮を追つた。三厘の糸では、百匁の鮎が掛かつても大丈夫だ。金輪際やるものではない。かうして、この日もまことに思ひがけない大漁に恵まれたのであった。
倅も、にこにこしてゐる。」
どんな川相かなあ。楊が迫っているということは、渓流相であろう。しかし、道志川でも、川面に枝が覆い被さっているが、少し気をつければ、何とかなるし、枝を気にしなくても良いところも多くある。また、古よりも水量が減っているから、一部の場所を除くと、荒瀬がないから、取り込みに苦労することはないが。鮎も小さいし。
引き抜きが、郡上八幡の万サ翁が大岩の桃の木で足を踏ん張り、ラケットのようにタモをもって行われていたという事例だけの極めて異例の取り込みではなかったのかも。
ただ、竹竿の重量を考えると、大変ですなあ。三百グラムに満たない竿でも大井川では両手で竿を持ち、磧に立って引き抜いている身には、竹竿による引き抜きのご苦労が普及を妨げたこと、カーボン竿が出来て、はやるようになったことが判る。それでも、昭和の終わり頃では、「品がない」とさげすまれた満さんでしたが。
そうすると、下流へ逸走する鮎を取り込む最良の方法は、故松沢さんが行われていた掛かり鮎を上流へ走らせる技となるのではないかなあ。
垢石翁が三分の一を取り込めなかったとは、大井川の乙女に身を切り裂いて、逃げられて泣いていたオラとしては、よおくわかります。
とはいえ、オラは荒瀬で釣っていたのではないし、そもそも大井川に荒瀬はないのでは。単に、テク2がいつも注意してくれている撓めて、撓めて、ある時鮎が浮く瞬間がある、そのときに抜け、という動作が、優男には出来ないだけですが。
まあ、荒瀬の鮎が取り込めなかったことが、二日目よりも目方が軽くなったといえるのかも。
鮫川の鮎の品位
「大漁であって嬉しい。しかし、鮫川の鮎は上等とは言へないのである。岩質が上等でないから、水質がよろしくないのである。水源方面には、阿武隈古生層が蟠踞しているために、想像した上では水質が上等であらうと思へるのであるが、中流の岩質は極めて若く殊に石炭の層があちこちに在り、水中へ粉炭を溶けこませるために、水は平時でも幾分は曇つてゐる。狩野川や小国川の上流のやうに、どんな深い淵でも底まで透いて見えるといふわけには行かぬのである。従って、水垢の質もよろしくない。鮎の肉がやはらかく、香気の薄いのは当然だ。」
今、垢石翁が問題とされる上等の水質、垢の質を検証できる川が残っているのか、あるのかどうか、わからないが、現在の川から得られる知見を基準として、鮫川を含めて古の川の水質、苔の種類構成、質を判断すべきでないということは、「絶対」に正しい、と断言できる。川那部先生に「絶対」をいう人は信用できない、といわれても。
小西翁が紀ノ川の妹背の淵を、前さんがその上流の吉野川の、野田さんが四万十川の黒尊川、長良川の亀尾島川、野村さんが四万十川の黒尊川等の水の状況を書かれているが、狩野川の上流でも、淵底が見えていたとは故松沢さんから聞いたことはなかったなあ。いや、オラが聞かなかっただけのことであるが。
同様に、「香気が薄い」との表現も、現在の状況を基準にすべきではない。オラが経験したシャネル5番よりももっと強い香気であったと、またもや「断言」できる。
「やわらかい肉」については、残念ながら、さっぱり見当がつかない。大井川の鮎の肉質が水っぽい、と話された人はいたが。
「粉炭を溶けこませる」とは、安倍川に白い石灰質?の粒子が漂っているのと、同じイメージかなあ。
鮫川の経年変化、変貌
「しかし、底石は大きい。鮎の育ちがよろしい所以であろう。
それでも上根岸から上流部の、峡谷になってゐる中流部は、まだまだ鮎の質は上等であるとされてゐるのであるさうだ。下根岸から、四時川との合流点までの間は、形も小さく味も劣等である。だが、数は驚くべきほど釣れるのである。
一四年は以上のやうに豊漁であったが、翌一五年は近年罕な渇水であつた上、上根岸に田用水の大堰堤が新しく出来上がり、そのために水が持去られ、川底が乾いて、鮎は上流へ遡上し得なかつた。従って、甚だしく不良であつた。
一六年は、水が豊富であつたので、前年の不漁を取り返した。だが、一四年には及ばなかつたのである。近年は、全国いづれの河川でも、水電事業や新しい工業、稲田に化学肥料を施すなどによつて、鮎は次第に減少して行きつゝあるのである。我ら釣人にとつては、悲しい事実であるけれど、これについて文句をいふわけにはゆかぬのだ。寧ろ文化の発達と国防の上から見て、鮎の繁殖が次第に減少して行くのを、喜ばねばならぬ時代となつてゐるのだ。
だが、たとへ鮎の質は上等でないにしたところで、この鮎の桃源郷鮫川だけは、昔の姿のまゝ遺して置きたい。木戸川も亡びた。夏井川も亡びた。嗚呼、思はず釣人の愚痴が出た。」
垢石翁の愚痴が、利根川の水力発電、興津川の水道水取水堰と取水だけでなく、鮫川にもでるとは。
福島の川も例外ではないか。
夏井川がすでに亡びているとはどういうことかなあ。まだダムは出来ていなかったのでは。取水堰かなあ。
阿武隈川の本流、支流の摺上川へ行っているはっちゃんは、摺上川の水はきれい、本流のダム下流であるから、遡上がある、大きい鮎が釣れる、とのことであるが、はっちゃんは、大きければ継代人工でもかまわない、という釣り人であるから、遡上が多いか、どうかにはあまり関心がない。
従って、はっちゃんの釣れた情報で出かけると、ひどい目に遭うことがあるよう。はっちゃんは、放流地点を知っているから。
鮫川の最後は、今は昔、という状況であろう山女魚で。
「最後に、耳よりなことを報告しておきたい。それは、鮫川に山女魚の多いことである。上根岸から上流の皿貝、オ鉢、貝屋方面には四月に入ると、盛んに大きな山女魚が鈎に掛かるのだ。それを、土地の釣人はあまり知ってゐない。
またオ鉢の対岸で。鮫川に注ぐ渓流には殊のほか山女魚が多い。上根岸から数町上流で鮫川に合流する渓流にも、山女魚が数多く棲んでいる。釣れるのは、四五月の候ばかりではない。八月の盛夏の頃になつても、釣れるのだ。友釣に飽いたら、山女魚釣をやつてみるのも面白い。
こゝの山女魚は、蚯蚓とイクラが大好物である。」
「蚯蚓」は、ミミズと読むのかなあ。
何で、山女魚釣りを土地の人はしないのかなあ。雄物川さん同様、百姓の倅が釣りをしていては、嫁のきてがないからかなあ。
3 魚の川
「釣随筆」(河出書房 市民文庫)に、魚野川が、これまでとは異なる視点で書かれている。その理由は、娘さんと同伴であるから。
マダムキラーさんが、魚野川から宮川へと、垢石翁と移動したように、娘さんは、富士川から魚野川へ。ただ、時間の連続性はないが。
ということで、娘さんを調教した富士川から、見ていきます。
(1)娘さんと富士川
「日ごろ娘は、友釣を教へてくれとせがんでやまないのである。そこで、昭和一八年の七月東海道岩淵地先の富士川へ伴つていつた。」
垢石翁は、六月中旬、富士川、興津川、富士川、と、豪雨を避けて釣り場をうろついて、暗闇のなか、無灯火の自転車に衝突された。
東京に帰り、治療をしていたが、全治するまで水に入るな、と。
「十日ばかり、東京に辛抱してゐたけれど、辛抱がならぬ。鮎の姿が、ちらちら(注:後の「ちら」は記号で表示されている)目の前を泳ぎまはつて、追つ手も払つても、敏捷な姿を現す。
娘を、看護婦代りにして、医者から貰つた膏薬や包帯を携へて、跛ひきひき(注:後の「ひき」は記号表示)富士川へ引き返したのである。」
垢石翁は、利根川での釣りから、
「若いときから長い間、私は足を水に浸けねば友釣をたんのうしたやうな気持ちになれないできた。」
「ところが、私の友釣は流れに立ち込まねば気が済まぬ。その場合に於ける必要、不必要などから離れて私は釣場へ行くと、流れに立ち込む癖がある。」
「好きな道楽には、医者の戒めを利用か悪用かして、理屈をつけ、自分の田に水を引き、老婆が引き止めるのも顧みないで、娘を供に痛む足を引きながら、またまた(注:後の「また」は記号表示)富士川へ繰りだしたのであつた。」
「専ら、足を濡らさぬ修練を積むことにした。東海道の汽車の鉄橋の下も手に、浅い瀞場がある。深い場所でも、浅い場所でも、瀞場で鮎を掛けるといふことは、一応の修行を経ぬと旨くは行かぬものだ。
私は、この場所の条件についてはよく心得てをり、すでに二三回友釣を試して成績をあげてゐるのである。そこで、娘とならんで足を濡らさぬやうに汀に近い石の上から、釣ることにした。」
今の富士川鉄橋下は、砂利、砂利。とても釣り場になりそうではないが、ところによって、石がある瀬があるようで、東名パーキングから時折釣り人が見える。
さて、娘さんにどのような訓辞をしたか、書こうか、書くまいか、悩みました。今時、釣りのテクニックには、興味がある人も、精神訓話となると、さいなら、となるはず。しかし、技:ハウツウもののお話ではないところから、指導が始まったということは、井伏さんが、植田先生から珪藻の見方を教わったことと同様、かっては普通に行われていた技の伝承法として意味のある現象ではないか、と思い、書くことにした。
「竿を持たせる前に、友釣についての心得を諭した。お前は、けふが入学日だ。鮎の習性や、囮鮎の泳がせ方、竿の長短に対する得失、糸の太さ細さ、錘の有る無し、囮鮎の強弱、流れの速さ、水の深さ、底石の大小、水垢の乗り塩梅、水の純度、天候、時間、季節、上流中流下流、他の釣人が既に釣つた後の釣場であるかどうか、石垢についた鮎の歯跡、気温、瀞か瀬か、瀬頭か引きの光か、落ち込み、白泡の渦巻、石かげ、ザラ場、岩盤、出水前、出水後、瀬脇の釣場流芯の釣場、囮鮎の活け方、風の日、雨の日など数へ上げれば際限がないほど数多い。さまざまの条件をよく消化総合して、それを渾然として頭に入れ、理屈にこだはらず、いろいろ(注:「いろ」の後の部分は、記号表示)場合に対する変化を身につけて、鮎と水とに向かはねばならぬのであるけれど、その手ほどきからはじめたのでは、全く釣りにならぬ。
お前は、自分を操り人形と心得てをれ。そして万事、父の指図した通りに竿を操り、からだを動かせ。そこに私心があつてはいけない。つまり、父の教へた方法に自分の工夫を交えてはならぬのだ。無心でをれ。
かう語ってから、私は竿と綸、鈎などの支度を整へてやつた。女の子に、長竿は禁物である。四間一尺五寸の竿から、元竿二本を抜き去つて三間の長さとした。道綸は、竿の長さよりも七八寸長くした。
この浅い瀞の釣り場は、私の目測によれば深さ三尺前後であらう。そこで、鼻環上方四尺の点に、白い鳥の羽根で作つた目印をつけたのである。」
やっと、囮に鼻環を通す寸前までたどり着いた。
今時、こんな説教をしていたのでは、だあれも釣りをしたいとはいわんでしょうなあ。
しかし、オラの亡き師匠らも、「釣り方」よりも、鮎の「質」を語ることが多かったなあ。幸い、その頃:昭和の終わり頃は、メーカーの友釣り講習会が多く開催され、また雑誌でも技;ハウツウものの紹介もあったから、亡き師匠を無視しても釣りをすることに不自由はなかったが。
もし、垢石翁の心得をじっと聞いてくれるねえちゃんが今の世におれば、男冥利に尽きる、ということになるが。何で、戦後、大和撫子は消滅したのかなあ。シャネル五番の香りを振りまくあゆみちゃんよりも先に。
まあ、竿操作のことは省略しましょう。
口うるさい点を除けば、垢石翁の指導は適切で、
「僅かに一時間ばかりの間に、立派な鮎を娘は七八尾掛けたのである。さきほどから、この瀞場で釣つてゐる三四人の釣師があつた。どうしたものか、その釣師等の鈎には一尾も掛らない。この瀞場には、数多い鮎がゐる、といふことは承知してゐるのであるけれど、瀞場の友釣りについて、あまり深い造詣を持たぬ人達かも知れない。
その人達は、私等父娘が、娘が忙しく釣り私が忙しく手網に入れる姿を注目してゐたが、たうとう三四人の人々は竿を磧に置いて私等の近くへ集まり砂の上へ腰を下ろして跼り、私等父娘の釣を観察しはじめた。
疲れたので一服してゐると、人々は私の傍らへきて、そのうちの一人が私に、あなたは垢石さんですかと問ふのである。さうであると答へると、さうですか流石になあ、娘さんでさへも―と、幾度も感嘆の声を発するのである。感嘆する一人は、どこかの釣場で一度か二度見かけた顔だ。」
これで終わっていれば、娘さんは、口うるさい親父、とは思わなかったのでは。
いや、戦後の女とは違う大和撫子であるから、親父にも、夫にも、男にも逆らわず、しずしずと従っていたであろうから、「口うるさい」とすら感じなかったのかも。
それにしても、昭和の終わり頃から、名人、達人の技を素人が容易に入手できるようになり、磧に集まった釣り人ほど、技の格差を意識しなくても釣りが出来るようになったのは幸せです。勿論、「知識」があっても、その知識を実行、実現できるかどうかは、素質等の問題で、別個の事柄ですが。
さて、親父に逆らうということを教育されていない娘さんの健気な姿をもう少し見ておきましょう。
「昼近くなったので、飯を食べに一旦宿へ引きあげることにした。そこで私は娘に、お前はもう十尾ほど掛けたかも知れない。しかし、けふはじめて釣つた鮎は、お前の経験や腕前で釣つたのではないのはお前も分かってゐよう。ところで、経験や腕前もないほんの初心者に何故瀞場の鮎が盛んに掛かるかといふことが問題だ。それはつまり、お前は傀儡であるからである。竿を持つた人形が、人形使ひの意の儘に動いて観衆を感動させたといふことは、人形に人形使ひの精神と技術とが乗り移つたからであるといへよう。この瀞場の鮎を釣るのに適した道具立を持ち、そして父が教へるそのまゝの技術を踏んで、少しの私心も交へず竿を操つたから鮎が掛つたのである。謂わばお前と父とは、個体こそ異へ、釣の意と技に伝る人格が一致したのだ。たとへば、父が自ら釣つたのと同じであったのである。」
職人の世界では、現在でも、垢石翁同様の指導、修行が行われているところもあるようであるが。
垢石翁の教えはこれでとどまらない。それを親父に「逆らう」という三文字を知らぬ娘は、当たり前のこととして聞いている。
そして、娘に話されたことは。垢石翁が井伏さんの初体験の時に、井伏さんに話されたことに通じる。
(井伏さんから見た初体験: 垢石翁が見た井伏さんの初体験)
「ところで、父の眼がお前の釣姿から離れると、不思議にも俄然川鮎は囮鮎に挑み掛かつて来ぬであらう。つまり、釣れぬのである。それは、父の眼が離れるとお前は、自らの心に帰り、自らの釣り姿に帰るためだ。自らの心、自らの釣姿といふのは、お前が友釣については真の初心者である正体を指すのだ。友釣りについて、真の初心者にはこの瀞場は一尾も釣れぬ。
だが、お前は将来常に父を指導者として、己の傍らに置くわけには行くまい。けふは竿の上げ下げにも、足一歩運ぶにも八釜しくお前の自由を束縛したけれど、これから後はけふの指導を基礎としてお前の工夫と才覚と思案とをめぐらして、自由に気儘に釣つてみるがよい。
そこでお前の感ずることは、己一人の工夫、才覚、思案といふものが、どんなに心を千々に砕かねばならぬ難しい業であるのかを知るであらう。そこで、この友釣は己の工夫を加へれば加へるほど釣れぬようになるのもなのだ。研究すればするほど、勉強すればするほど、釣の道の深さが身に応え、野球の選手が打球に苦心して行くうちに、一時スランプに陥ると同じやうに、友釣りの技もどうにもかうにも自分の力では行へ得ぬ日がくる。
そして、苦心に苦心を重ねたすえ、十年か二十年の修行の果てに、お前にめぐってくるものは、けふ父がお前の手を取り心を抑え、教へ導いた傀儡の釣姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
そこではじめて、友釣の技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。」
いやあ、古き良き時代、亭主関白は世の習い、の時代に通用した親子の関係そのものではないかなあ。
安直なハウツウものではなく、心構えを初心者の、しかも娘に語るとは。しかも、娘がその話を拒否しないとは、常日頃、女どもの圧政に苦しんでいるオラとしては、うあらやなしい、となる。
最早やってこぬであろう、イブセン「人形の家」のノラを「しょうがいお嫁さんね」と評価したおばさま達が世に満ちていた時代がうらやましい。
当然、垢石翁の心構えは、「人生の路、悉く同じことである。芸術でも宗教でも、学問でも商売でも……」と続くことになる。
友釣り処世訓は、
「父の友人、小説家井伏鱒二が、文章といふものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても、結局は松尾芭蕉の諷韻に帰るのだ。と、いつた事がある。釣も人生も、同じだ。お前は、けふ富士川の汀に立つた己の無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。」
ということで終わったようです。
「無心」という言葉と、「自由」という言葉が関係しているようです。
「自由」は、勝手気ままなど、好ましからざるイメージを持つ言葉であったが、唯一、積極的、肯定的価値としての用法があった。
一つは、禅の世界。もう一つは、宮本武蔵の世界。
禅の世界、武蔵での「自由」の積極的意味合いを思い出すと、「着がない」という事であったと思う。
「着がない」心の状態が、「自由」であり、その状態を得るために修行する、ということではなかったかなあ。
垢石翁の友釣りが、「無心」=「着がない」と結びついていたとは、ずぼら人間には思いもつかぬ事。
ということで、やっと、娘さんは魚野川で友釣りが出来るようになりました。
(2)魚野川の娘さん
「その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越後の魚野川の釣趣を味はせたいと思つたからである。
倅の方は、越後国南魚沼郡浦佐村地先の魚野川の釣場を克明に知り尽くしてゐるから、娘の方には北魚沼郡小出を中心とした地方の釣場に親しませたいと考へた。折柄、伊豆狩野川の釣聖中島伍作翁も来合はせてゐたので、私と娘と三人で、一週間ばかり楽しくあちこち釣り歩いた。
最後に魚野川が信濃川に合流する上手一里ばかりの越後川口町の勇山の簗場近くへ娘を連れて行つた。この日は、一切娘の釣に干渉するのをやめて、娘が思ふまゝに振る舞はせてやらう。」
魚野川の水量
「魚野川は、上越国境の茂倉嶽から西へ続く谷川嶽と萬太郎山の裏山の谷間に源を発してゐる。そして、南越後の峡谷を北へ向かって白く流れて二十里、この川口で大きな信濃川と合してゐる。一つの支流ではあるけれど、水量は相模川の厚木地先あたりに比べると、さらに豊かだ。清冽の流水は、最上の小国川に比べてよいと思ふ。」
二十世紀の終わり頃、魚野川で釣ったが、とても水量が多い川とは思えなかった。ダムがなかった頃の中津川並みか、それよりも少ないと感じた。
湯沢では、さらに水量が少なく、浦佐付近に行った。
津久井ダムがなかった頃の相模川は、小沢の堰付近から上流に、一の釜、二の釜、三の釜があり、一の釜に船が入るとくるくる回されていた、高田橋付近から右岸へと泳ぐと、弁天付近まで流されて右岸に流れ着いた、とのこと。その水量の川ではなかった。
恩田釣聖が、長良川の三白公害といわれた上流のスキー場等の開発、川那部先生が源流域を見に行かれてあまりにも見事な森林の消滅にびっくりされた状況と同様のことが、魚野川でも生じていたからかなあ。
それともダムがあって、どこか別のところに水が運ばれているからかなあ。
たぶん、水量の激減は、森林の消滅による保水力の低下ではないか、と思うが。
そうであるとすると、土樽、湯沢、浦佐、苗場のスキー場で遊んだ者としては、共犯者の一翼を担っていたことになり、心苦しくもあるが。
魚野川の鮎
「上流の土樽、中里あたりはまだ渓澗をなしてゐて、山女魚岩魚の釣ばかりであるが、湯沢温泉まで下ると、寺泊の堰の天然鮎を送つてきて放流してゐる。石打、塩沢と次第に中流に及ぶほど鮎の育ちは大きく、川の幅も広くなるのである。このあたりの景観は大きい。頭の上に、上越国境を遮る六千五百尺の中ヶ嶽が屏風のやうに乗りだしてゐて、それから北方へ八海山、越後駒ヶ嶽が雄偉の座を構へて続いてゐる。立秋を迎へれば山頂の気も、山村の気も澄んで、天はますます高いのである。表日本の初秋は天爽やかなりといつても、大空のどこかに靄を含んでゐる。しかし、越後の初秋の気には、微塵も塵の澱みを見ぬ。満州の初秋の気に相通ふ。」
さて、垢石翁がここで「立秋」という24節気を使われているが、これはいつのことか。新暦か旧暦か。
仮に、「立秋」を2010年で、新暦で見ると、「8月7日」である。この日を「立秋」と想定して、産卵現象、性成熟、成長を判断することが、適切でないことは、太平洋側はサケが遡上しない川で、川に浸かっている者には明らかではないかなあ。
旧暦で、「24節気」の「立秋」はいつになるのかなあ。「8月7日」が「初秋」とは、新暦のことか、旧暦のことか、に、思いをはせることすら、気がつかない、あるいは、気を回すことすらされない学者先生を除いては、「おかしい」と思うのではないかなあ。なお、2010年の秋分の日は、旧暦では8月16日とのこと。
光周性要件で、性成熟を考えるときは、新暦の方がわかりやすいと思うが、それ以外の現象については、新暦で表現されているのか、旧暦で表現されているのか、注意すべき事ではないのかなあ。
ことに、季語については。
赤穂浪士の討ち入りを、新暦で12月14日としているが、江戸の時代といえども、この頃に大雪が降ることはあるまい。2009年の旧暦で、「12月14日」に該当する日にちは1月28日。この日にちでも、まだ江戸の町に大雪が降るかどうか微妙ではないかなあ。ただ、新暦の「12月14日」よりは、大雪が降る確率は高くなるだろうが。
「垢石釣游記」(二見書房)の「新秋釣旅」に、
「鮎は立秋を迎えると、肥育ちの絶頂となる。そして首の付根に脂肪の塊を蓄えて、香気がいよいよ高くなる。腹に生殖腺が発達して、片子を見るのは程もない。これが鈎に掛かって、水中の中層を逸走の動作に移った強引は、竿も折れよとばかり手に応える。豪快な釣趣。ほんとうにこの刹那の趣味は、友釣を経験した人でなければ窺い得ない境地であろうと思う。」
この「立秋」を新暦であるとすると、八月上旬になるのではないかなあ。
垢石翁は、この年、「土用過ぎてからの大鮎を何処の川に探し求めようかと、あちこちから情報を集めていた。」
この「土用」は旧暦の「土用」であると確信している。
そして、八月下旬出発ではないかと思うが、魚野川、九頭竜川、八尾町の室牧川、宮川、下呂の飛騨川、そして東海道へ出て、濁りに妨げられて、天竜川、富士川を素通りして、狩野川へ。
狩野川でも、台風に邪魔されて半日の釣りを余儀なくされた年もある。
ということであるから、「立秋」は、旧暦のことであろう。
また、垢石翁は、日本海側と太平洋側の性成熟の時期の違いには、あまり意識されていないのではないかなあ。
「六日町の地先で三国川を合わせると、俄に良質の岩塊を交へ、水は豊富となり流れ流れて浦佐、小出町に及ぶと、もう大河の相を呈しはじめる。小出町地先で破間川を合わせると、河底の石もさらに大きく瀬の流れも一層速く、鮎は満点の条件を以て育つたのだ。
破間川と魚野川の合流点の、秋草に満ちた廣い河原から南東を眺めた山々のたゞずまひは、ほんたうに美しく荘厳である。八海山と駒ヶ嶽に奥会津に近い中の嶽が三角の顔をだして、山の涼しさを語ってゐる。銀山平や、六十里越、八十里越あたりの連山に眼を移せば、旅にゐてさらに旅心を唆られるのだ。
堀之内から、川口までの間の、二つ三つの荒い瀬に、魚野川筋随一と称してよろしい大きな鮎が棲んでゐる。姿は肥つて大きい。香気も高い。風味もよい。殊に魚野川の畔には上流下流通じて、産米が豊富である。私の大好物である醇酒にも恵まれてゐる。
今年は、気まぐれな戦争から解放されたはじめての鮎釣季節を迎えて、またこの魚野川に倅や娘を伴ひ、一夏を愉しく過ごしたいと、ひたすら希ふ。」
という魚野川ではあるが、今、どの程度、垢石翁が愛でた面影を偲ぶことが出来るのかなあ。八月終わりに三面川からの帰り、関越道のパーキングから見た魚野川は、水は清流にほど遠く、水量少なく…という状況であったが。
なお、娘さんとの友釣りが書かれた年は、昭和二十一年ということかなあ。また、この章が含まれている「瀞」の章全体が昭和二十一年に書かれたのかなあ。あるいは、その上位の章である「四季耽釣」全体が昭和二十一年に書かれたのかなあ。
どうも、それ以前に書かれたのではないかと思っているが。
さて、垢石翁が賞める魚野川ではあるが、何で海産の汲み上げ放流、あるいは湖産放流をしなければならなかったのかなあ。
「垢石釣游記」の「新秋釣旅」の章に、
「魚野川は、越後国で信濃川へ注ぐ一番大きな支流である。信濃川の下流に、分水の堰堤が出来る前までは随分数多い鮎が、直接日本海から遡ってきたのでだけれど、近年は天然鮎の群れは誠に少なくなった。そこで、昭和八年以来、新潟県の水産試験場では、初夏信濃川の堰堤の下に集まった若鮎を掬いあげ、これを魚野川へ放流してきた。今年は、浦佐町を中心として上下流へ五十万尾ほど放流したところ、水温が適当であったために随分立派に生育しているというのである。」
娘さんの釣果は?
娘さんが魚野川で釣りをされた年の放流量は分からない。
さて、肝心の娘さんの結果はいかに?
残念ながら、日々の状況は書かれておらず、最後の日の娘さんが「思ふがまゝに振舞はせてやらう」ときのことだけを書かれている。
しかも、意地悪親父の娘いじめ、いや、人生教育のために釣りを利用されているようです。
「然らば、どんなによく友釣の技がなまやさしいものではないといふことが分かるであらうと考へた。
中島翁にも、私にもちよいちよい(注:あとの「ちよい」は、記号表示)、数多く掛かる。しかし、指導の拘束から解放された娘には、朝から鈎に殆ど掛からぬといつてよいほどの不成績である。ときたま掛かることはあつても、ザラ場の勾配のある瀬では出足が供はぬ。掛かるたびに囮ぐるみ道綸を切られてしまふ。
そこは、川口町から十日町へ通ふ鉄道の橋の上手であつたから、午後は簗場の尻の瀞場へ案内してやつた。こゝは、富士川の鉄橋の下も手の瀞場の条件によく似てゐる釣場である。娘は、富士川のときと同じである竿と道綸と鈎と目印をつけた仕掛を用ゐて、釣場に対したが、やはり父の心が娘の持つ竿に通つてをらねば、川の鮎はこれを相手にせぬらしい。
でも、懸命に辛抱してゐるうちに、大物が娘の竿に掛かった。とたんにプッンと道綸が切れ囮鮎と供にどこかへ行ってしまつた。娘はべそを掻いている。」
ということで、最後の日はさんざんな結果であったようです。
「やはり父の心が娘の持つ竿に通つてをらねば、川の鮎はこれを相手にせぬらしい。」という箇所は、場所守ご苦労さん、といわれている身にはよく分かる。何で、あゆみちゃんは、だましのテクニックに優れた人には、ほいほいと反応するのに、ヘボの囮は無視するのかなあ。
もう一つ、富士川と魚野川での瀞場の鮎の馬力の違いは、一ヶ月という成長期での時間の経過によるのではないかなあ。
もし、そうであるとすれば、垢石翁は、何で糸を十分に太くしなかったのかなあ。3厘柄を使わなかったのかなあ。
大変な修行をされた娘さん、ご苦労様でした。これから釣りをされようと思われているむすめさん、釣り人は、垢石翁のような根性、ついてこい、とかの指導をされる人だけではなく、さぼり、気楽に、楽しみましょう、というヘボのいることお忘れなく。
(3)久慈川
垢石翁が、利根川が発電所の堰が出来て、つぶれた後、将来に残したい川とされた久慈川については、どのような川であるのか、気になっていた。
興津川については、既に紹介したが、「つり姿」の「梁の想ひ出」に、久慈川の情景が書かれている。
20年前の久慈川への路
「私が、常陸の国の久慈川をはじめて覗いたのは、二十年ばかりの昔になる。
茨城県久慈郡大子町に齋藤桃太郎さんと呼ぶ老人がゐて、この人は町から五六町上手の久慈川に簗場を経営してゐた。在る年、齋藤さんは、梁の鮎を試食がてら、友釣にやってこないか。といふたよりを私にくれた。
だがその頃は、まだ水郡線が山方宿まで開通しただけであつたので、それから先は小さな乗合自動車に乗つた。山方宿を十町ばかり離れた橋を渡ると、もう久慈川は渓谷の姿を示してゐた。水量は豊富であるし、この頃に比べると、水色も清澄であつた。
車の窓から、上小川村字頃藤の龍ヶ淵を眺めたときは、これは素敵であると思つた。袋田村の崖の上から望んだ水底には、巨岩が飛び飛びに蟠踞してゐて、鮎の姿を
発見し得るはずもなかつたが、この流相ならばと考へて、一人微笑んだのであつた。
七月の中旬である。齋藤さんの梁小屋へ泊まつた。峡流に添うた梁へは、夜の爽風が訪れて、真夏とは思へぬほどに涼しい。齋藤さんは、夕方梁へ落ちた大きな鮎を、榾火で焼いた。丸茄子を、塩と共に生紙に包んで濡らし、これを榾火の灰に埋めて、蒸焼きにした。そして、それを酒に添へて盆の上に載せた。山の酒が、おいしかつた。二十幾年過ぎたいまでも、その味を忘れられない。」
濁り水と梁
「梁小屋での一睡は、ほんたうに快かつた。翌朝起きると間もなく、雷雨が訪れた。朝夕立である。齋藤さんは、この夕立は八溝山からきたものであるといつた。上流の方、磐城国にも降つているらしいとつけ加えた。
私は、梁小屋で夏火に顔を焼きながら、友釣の仕掛作りをしてゐると、午近くになつて川は次第に濁つてきた。流れの笹濁りを見ると、齋藤さんは急いで町の方へ駈けて行き、屈強な人夫三四人を連れて帰つてきた。梁手に、濁水が溢れてくる。梁の簀に濁水が奔る頃になると、二三尾づゝ鮎が落ちてきた。
次第に増水してくる。落ちアユの数は増してきた。パラパラと、大きな鮎が落ちて、梁の簀の上を跳ねるのだ。三四人の人夫は、それを忙しく拾ふ。
私もお手伝ひに梁へ出て行つた。ひどく忙しい。鮎は、梁の咽から降るやうに落ちてきて、簀の上が真つ白になる。そのなかに、太い鰻も混じつて、あちこち這ひまはる。忽ち、鮎は四斗樽二杯へ山盛りとなつた。
雷雨は、二三時間前にやんでゐた。やがて濁水が澄み口を見せると、鮎は梁へ落ちやんだ。そこで齋藤さんは、語りはじめた。――真夏の鮎は、秋の鮎と異なつて、濁り水がきたからと言つて一里も二里も上流から下つてくるものではない。
せいぜい十町位上流の瀬に棲んでゐる鮎が、濁りを避けるために一瀬か二瀬下流へ下る気分となり、梁へ落ちこんでくるのであるから、まあこの鮎は福島県の方からきたものとはいへないのである。
ところで、梁から下流の鮎もこの梁へ落ちるのであるから妙だ。それは、夕方水が上流からくると、下流の鮎はその濁りに刺激されて、俄に活躍をはじめる。
そして、上流へ向かつて溯上の動作に移るのだ。ところが梁といふ障害物に出遭ふ。下流からきた鮎に、梁といふ大きな障害物を跳り越せないのは当然だ。
しかし、梁の咽下の両脇には、予め鰻穴と称する穴が開けてある。溯りに向かつた鮎は、この鰻穴めがけて、上流へ溯り込むのだが、鰻穴から上へ出ると、梁の咽上から猛烈な勢で流下してくる水に叩き返され、つひに梁の簀に流し落とされるといふ次第になるのである。
であるから、夏梁には下り鮎も、溯り鮎も落ちるものだ。がしかし、この季節の下り鮎は、水が澄み口に向かへば、直ちに上流へ向かつて帰つて行く動作をはじめるのである。と、こまごまと物語つた。
さらに言葉を続けて、鰻が梁へ落ちるのは上流から下つてきたものではない。梁から下手のまはりには、常に大きな鰻が数多く棲んでゐて、鮎が梁へ落ちてその匂ひが、下流へ伝わると、鰻は鼻をうごめかす。遂にたまらなくなって鰻穴から溯り込み、やはり溯り鮎と同じやうに、梁水にはたき落とされて、簀の上を這ひまわると説明するのである。鰻は、鮎の匂ひをかぐと、咽を鳴らすのである。それほど鮎は、鰻の御馳走であるといふ。」
濁り水が鮎を動かす、ということは理解できる。
しかし、上り、下りが、どのような条件で区分けされるのかなあ。梁の上流側の鮎が下り、梁の下流側の鮎が遡り、という現象ではあっても、それは、たまたま梁にかかった条件での鮎の状況を表していても、梁の上下の鮎の動きの全体像を表しているとは言えないのではないかなあ。
梁の上流側でも遡る鮎がおり、下流側にも下る鮎がいるのではないかなあ。
またもや困ったときの故松沢さん。故松沢さんらは、濁りによる鮎の動きを熟知されていたであろうから、その後の澄み口での鮎の移動がどのようになり、何処に長岡温泉での酒代、花代が準備されているのか、知っていて、濁り水を見ながら、にたにたされていたのではないかなあ。
もし、那珂川で梁を見ることがあったら、「鰻穴」とはどんなものか見てみよう。
鰻が鮎の匂いに鼻を鳴らすとのことであるが、香気がなくなった鮎でも、鼻を鳴らすのかなあ。養殖鮎では、付け針に使ってもあまり効果がないとの話があったと思うが。
遡り鮎が、濁り水の「夕方」に限定されるということかなあ。それとも?
久慈川の鮎は、福島県まで上っていたということのよう。
現在は、何処まで上ることが出来るのかなあ。それよりも、どのくらいの遡上量があるのかなあ。
久慈川の鮎の質
「久慈川は、袋田を中心として上流と下流では劃然と鮎の姿と味を異にするのである。袋田から大子、それから上流の鮎は細身で香気が高く、肉がしまつてゐる。そして、どんな場合でも腹に小石を持つことがない。それは、袋田から上流の川に転積する底石が、阿武隈古生層の影響を受け、従つて水質や水垢が上等であるがためであると思ふ。
ところが、袋田から上小川、西金、下小川かけては鮎のからだが徒らにでぶでぶして肉にしまりがなく、香気も薄い。大抵の場合、腹の中に砂を含んでゐた、鮎の身上とするところの腹が食べられないのだ。
これは上流とは岩質が違ふからである。下小川から下流、山方宿から大宮付近にかけての鮎は全く問題にならないのだ。」
もう何度も書いたから、やめておいた方が嫌われジジーにならない、とは分かっているが。
高橋勇雄さんは、この文に対して、なんとおっしゃるのかなあ。香気が生まれながらの性であり、苔の質によるのではない、とすると、垢石翁は嘘つきということかなあ。
「ぶくぶくの鮎」というのは相模川の遡上鮎にもその嫌いがあると思っている。継代人工だけでなく、遡上鮎も、あるいはかって放流量の構成比は分からないが、放流されていた湖産でも、宮が瀬ダムがなかった中津川の鮎よりも太めであったと思う。勿論、性成熟が進んだ段階での鮎の話ではなく、「夏」の鮎であるが。
たぶん、垢石翁が現在の相模川の遡上鮎を食べたら、袋田下流の鮎以上に厳しい評価をされるのではないかなあ。
とはいえ、その鮎が利き鮎会で2年連続準グランプリに輝いたのであるから、人間の舌はお魚に劣るかも。あるいは、「経験」がないと、味覚が磨かれることはない、ということかなあ。
「そんなわけで、この日梁へ落ちた鮎は、悉く上質のものであつた。その夕私は、とりたてのおいしい鮎と鰻を満喫した。塩焼きに、刺身に、素焼きの醤油つけに、味噌汁に。鰻は、榾火で気永に焼いて、それに山葵醤油をつけて食つた。淡泊の味が舌にとろける。山葵は、この近くの小渓に生へた天然産であつた。」
サボZが、相模川の鮎が準グランプリを取ったことについて、人々の嗜好が脂っこいものに、ふにゃふにゃのもの:とろけるような食感に変わったからでは、と推測されていたが、垢石翁の鰻に係る「淡泊の味」、あるいは「徒らにでぶでぶして肉にしまりがなく」の評価から連想すると、さもありなん、と思えるが、いかが。
釣りの情景
「翌朝は、久慈川の水に微かに濁りが残つて、絶好な友釣色を呈してゐる。私は、午前中梁手のなかを釣つて成績をあげた。夕方は、梁の尻の瀞場に集つた鮎を狙つて、囮を曳いたのである。銀色に光る横腹、胸に現した二つの黄金色の斑点が鮮やかである。鮎は、なんと気品豊かな魚であらう。」
「銀色に光る横腹」とは、どんな色かなあ。背中とどのように色が違うのかなあ。背中は青みがかっているということかなあ。
「その後、毎年私は久慈川へ遠征を試みた。昭和十四年には、七月上旬小倅を引きつれて西金を中心に、あちこちと釣歩いた。この年は、豊漁であつたのである。翌十五年は、期待はづれであった。しかし、八月に入つてからは相当釣れた。十六年は、夥しい遡上であったのである。やはり七月上旬に、小説家の井伏鱒二氏などと、西金や袋田方面を釣つた。七月へ入つたばかりだというのに、この年は三十五匁以上に育つたものが釣れた。
諸国の川は、あまり育ちがよろしくないといふのであつたが、久慈川だけは大物がゐたのである。」
また分からないことが。
何で、息子さんとは、鮎の質が悪いという西金に行かれたのかなあ。交通の便かなあ。息子さんの釣りの技術が影響しているのかなあ。
七月で三十五匁とは、百グラム以上。スリムな鮎で百グラム以上とは、二十センチ級、あるいはそれを超えているはず。
またしても、何で、古はそんなに大きく育つことが出来たのか、という疑問が。まあ、川那部先生ですら、この問題から逃げられているから、ヘボが詮索できなくても恥ずかしくはないが。
ただ、諸国の川の育ちが良くない、ということは、苔の生産量と関係していると考えて良いのかなあ。苔の質では諸国の川と変わりはないと思うから、少なくとも、アユの「質」ではなく、「大きさ」では。光合成と、水量ということかなあ。遡上量が大量であっても、それらを育てうる苔の生産量がある状況にあったということかなあ。
「育ち、大きさ」について | |||||||||
育ち、大きさについて、食糧事情だけで見て良いのかなあ、と思っている。 2008年、大量漁遡上のあった相模川では、3月20日以降、4月上旬に相模大堰を超えた鮎が大量であった。そのため、6月1日の解禁日でも、強い瀬で石が大きい神沢では、17センチが釣れた。 もちろん、遡上鮎であるから、継代人工のように、食っちゃあ寝、食っちゃあ寝、をして、攻撃衝動が希薄であるがために、尺にまで育つ時間を与えられることがなかったが、これは、釣り人の毒牙に掛かる河川環境によるものではないかなあ。 つまり、竿抜けポイントとなるような、激流、大岩がないということ。名人、テクニシャンが竿を入れられぬ場所がないということは、大きくなるほど次から次へと釣られてしまう河川環境であるから、尺鮎等大鮎には育ち得ないのではないかなあ。 |
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他方、2010年の駿河湾では、遡上時期が遅いといわれている。 その結果、狩野川でも、20センチ級は少なく、15センチくらいが、釣りの主役になっていた。 遡上量が多く、食糧が不足して、育ちが悪い、という現象ではないと思っている。 狩野川の遡上量では、2009年の方が多かった。 しかし、大きさは20センチ級が2010年よりも遙かに多く釣れ、また、12センチ、15センチが瀬で釣りの主役になることはなかった。 |
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オラは、2010年の鮎が「育ちが悪い」現象は、遡上時期が遅いことに因ると考えている。 そして、遡上時期が遅いということは、11月生まれが少なく、12月生まれが主役であると考えている。 谷口順彦ほか「アユ学」(築地書館)のように、学者先生が海産アユの産卵時期を「一〇月に始まり一一月下旬に終わる」という認識では、一二月生まれは例外現象に過ぎないということになろう。 しかし、「一〇月上旬、中旬」に産卵する鮎がいるのかなあ。最低水温は二〇度くらい。それ以上の水温が多く、最高水温は二〇度を超えることの方が多い季節ですよ。湖産、継代人工、サケが遡上する川以外には絶対いない、と確信している。川那部先生に、「絶対」をいう人は信用できない、といわれても、「絶対」といいたいです。 そして、「西風が吹き荒れた後」の最低水温は、一五度以下になる。その水温差を無視して、「一〇月」で一括りにしても良いのかなあ。 生活適応水温とか、孵化適応水温とかがあるのではないのかなあ。 勿論、これらの現象は、サケが遡上しない川、相模川以西の太平洋岸の川のことですよ。 ということで、「学者先生の常識」は「川漁師の非常識」であり、間違っちょる産卵時期の評価である、観察である、海で採捕された鮎の耳石調査から、一〇月中旬、あるいは、神奈川県内水面試験場のように、一〇月二日孵化という結果は、耳石調査が適切な研磨等の作業が行われなかったから、日齢の検査が適切に行われなかった、と確信している。 そして、学者先生の常識が形成された大きな要因は、実験室に於ける「光周性」要件による性成熟の進行ではないかと想像している。 川那部先生らのグループが、光周性要件だけが性成熟に関係している要因ではなさそう、との、認識を持たれているが、岩井先生も、学者先生の非常識な産卵時期をやっつける調査報告をまだ作ってくださっていないのではないかなあ。 東先生は、湖産の産卵時期については、調査されたのに、海産の産卵時期については、何で調査をしてくれなかったのなあ。 サケが遡上しない川での産卵開始時期は、最低水温が一二,三度からではないかと想像している。 終期は分からないが、産卵行動は年内続いていて、一月の上旬か中旬に終わるのではないかなあ。勿論、最低水温が一〇度くらいになると、孵化日数が長くなり、また孵化率も低下するのではないかと思うが。 |
久慈川の釣り技と値段
「久慈川の釣人の技術は、秀れているとはゐへない。このごろでも相変わらず太い道糸を用ひ、重い錘をつけて、囮鮎を引き摺りまわせてゐる。鈎の研ぎ方も完全ではないのである。
この川の鮎の取引は、妙なものであつた。漁師が川で釣ってゐると、そこへ鮎買ひが来るのである。昭和十三四年頃の相場は、十二三匁のものが一尾二銭五厘、二十匁ほどのものが四銭といふ馬鹿馬鹿しさである。一尾、いくらといふ取引だ。二十匁の鮎が一尾四銭だとすると、百匁で二十銭である。この川筋の人々は、それで満足してゐた。
ところが、十六年は公定相場ができたために、百匁一円二十銭近くで売れるやうになつた。そこで、漁師連中は驚いたり、喜んだりした。
時世は、ありがたいものである。」
技術については、狩野川衆もやってきていたから、少しは変わったのか、と思っていたが、そうでもないところもあるということかなあ。いや、安い取引価格で、狩野川衆がやってくるのかなあ。何か、特別な理由がないと久慈川にはやってこないのでは?
公定相場とは懐かしい言葉ですなあ。公定相場があれば、闇価格がある。鮎の相場ではどうなっていたのかなあ。久慈川筋では、鮎は生活必需品、重要な食材ではなかったようであるから、闇価格とは無縁であったかも知れないが、郡上八幡ではどうだったのかなあ。
相模川でも、戦後の情景ではあるが、鮎買いがやってきて、はかりで量って、価格を計算していたとのことである。
久慈川のような、取引方法は、ほかの川でも行われていたのかなあ。そして、それらの取引方法は、どのような地域状況で違いを生じていたのかなあ。
残念ながら、秋道智彌先生の「アユと日本人」(丸善ライブラリーにも、お金の話は書かれていない。お金を通して、アユが生活のなかでどのような意味を持っていたのか、食文化との関係が少しは分かるとは思うが。垢石翁や、大多サ等の書かれたこと、話されたことから整理するしかないのかなあ。
子供の頃、タラバガニをおやつとして食べていた北海道の人は、現在の高いタラバガニを食べる気がしない、と。
戦後、マツバガニも、松茸もそれほど高級な食べ物ではなかったと思う。一番高級な食べ物は、牛肉ではなかったかなあ。昭和37年頃でも、青森駅前の魚市場で、毛ガニが1匹100円くらいで買え、いや、もっと安かったかなあ。4,5匹買って、駅弁を買わず、酒を買い、夜汽車のなかで飲み食いして、腹一杯になったなあ。
そのような時代には、マツバガニを食べていたため、江の川のツガニが、地元では歓迎されなかった理由ではないかなあ。
むかしのひかり いま いずこ
「この一両年、久慈川は大体に於いて鮎に恵まれてゐる。それは、下流の辰の口堰堤の漁梯が完成したためと考へられる。だが、久慈川の鮎も永い命はあるまい。いま発電所計画があるからである。発電所が竣成すれば、遠からず大和国の吉野川や、越中庄川のやうに歴史的の鮎とならう。でも、国策に沿ふ発電所計画には、反対するわけにはゆかぬ。」
ということで、垢石翁が未来に残したい川、鮎とされていた久慈川も、興津川もなくなったとさ。
いや、なくなりそうになっていたとさ。
息子さんの調教 | |||||||||
「釣り随筆」の、「瀞」の章に次の記載がありました。 | |||||||||
「倅も、ちかごろ友釣のわざがなかなか(注:あとの「なか」は記号表示)巧くなった。熊野川では親に負けないほどの成績をあげたのであつた。 この子に、はじめて友釣りのわざを教へた場所は、常陸国久慈郡西金の地先を流れる久慈川の中流であつた。それから、磐城国植田駅から御斎所街道へ西に入つた鮫川の上流へも倅を伴つて行つた。駿河の富士川へも、遠州の奥の天龍川へも、伊豆の狩野川へも連れて行つて腕をみがかせたのである。越後の南北魚沼郡を流れる魚野川へは二三年続けて引つ張りだして六日町、五日町、浦佐、小出、堀之内あたりで竿の操作を仕込んだ。 そんなわけであるから、少しは上達するのが当然であらう。」 |
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ということですから、息子さんを調教するには、鮎の質が落ちるとはいえ、久慈川の西金の方が適切な場所であったということかも。 なお、この章には、雨村翁を尋ねて四国に行かれて、仁淀川で釣りをされたときの情景が、これまでに紹介したこととは違う視点でも書かれている。それについては後日に。 また、仁淀川での雨村翁と垢石翁の交流に係るリンク先を探していて、その記述が不十分であることに気がついた。 したがって、雨村翁の記述と、垢石翁の記述を1つにまとめて、再掲をいとわずに紹介するつもりです。 とはいえ、忘れなければ、の話ですが。 |
(4) 大見川
垢石翁が、狩野川について、書かれた文に出会っていない。長岡の稚児ヶ淵でも、垢石翁のお眼鏡の適う場所であったということは分かったが。
当面、「つり姿」の「若鮎通信」の章に書かれている事柄で満足をするしかない。
大見川が本流よりもきれいな水ではなかったのかなあ、と、故松沢さんの話から思っていた。その大見川が、青ノロ一杯との話もあるようで、現在ではそれほどきれいな水であるのかどうか、分からない。それに、湖産放流全盛時代は別にして、継代人工が放流されているとのことである。放流者の固まりの場所で、囮を底から浮かせて釣る、という鮎もどきには興味ないから、平成になってから大見川へ行くこともなし。
その大見川に遡上鮎が上れるようになった、との話もあるが、実情は分からなかった。
小川橋にある温泉に10月下旬から行くたびに釣り人がいることから、少なくとも、小川橋上流に見える堰までは遡上が出来るようになっていると思う。
そのような大見川に変貌する前の情景です。
「まだ、未明といふ時間のうちだらう。東の空は白んだらしいが、雨を含んだ黒い雲が低く山に垂れてゐるので、足許は暗い。雑草と小篠の藪でおほわれた小径の坂を、爪先探りに探つて大見川の磧へ降りた。
黒い大きな石で埋まった河原の真ン中を、ほの白く流れが泡を立てゝゐる。南東の風が、襟元に寒い。誰か、もう来てゐるらしい。黒い影が薄暗の汀に動くのが見える。我々ばかりぢやない、世間にはほんたうに熱心家もいるものだ。」
「囮鮎は、宿で用意しておいてくれた。明けるともなく次第に手許がはつきりして来たので、友箱をのぞいてゐると囮鮎の元気は素晴らしい。けふは、釣れるぞ。
だが、間違ふやうに願つた天気予報はぴったりと当たって糠のやうな細かい雨が密かに飛んで来た。大見川の水は冷たい、からりとした天気だつたら、と切に思ふ。」
大見川の宿とは、何処にあるのかなあ。今もあるのかなあ。
宿で囮鮎を準備するのが当時では常態であったのかなあ。川漁師から購入していたことは、滝井さん等が書かれているが、現地での購入のほかは、宿で準備してもらうしかなかったのかなあ。
雨村翁は、四万十川で、農家?の池?にいた鮎を入手されているが、現在と違って、囮の入手方法は場所的にも限られていたということのよう。
「鼻環を通して放つと、囮鮎は勢ひ込んで淵の開きが瀬頭になつて、瀧のやうに泡の砕くる岩の傍へ泳ぎ込んだ。と思ふと、ブルブル(注:後の「ブル」は記号表示)と綸の響きだ、来た、来た。静かに竿先を立てると、矢庭に下流の奔湍へ向かつて逸走の動作に移つた。水際の石には充分に水垢がつゐている。ともすれば辷りさうな足を踏み堪えながら、魚に引かれるまゝに下手へ下つて引寄せた。手網に入れてみると、6寸以上もある大物だ。」
故松沢さんが、解禁日でも18センチ級が釣れる、といわれていたが、遡上鮎で18センチ級が釣れるとは、信じられなかった。
しかし、水量が多く、石が大きく、そして、11月生まれであれば、18センチ級に育つことが出来るということであろう。いや、垢石翁が釣った鮎は、20センチ級である。
解禁日の囮はどのように調達していたのかなあ。当然、現在と違って、継代人工がおらず、また、海産畜養あるいは湖産の畜養が使われていたとは考えられないが。
戦後のことではあるが、セザクリやドブ釣りでの囮調達とは異なる記述が
瀧井孝作「釣の楽しみ」(二見書房:釣魚名著シリーズ)の「今年の馬瀬川」に載っている。
書かれたのは、昭和39年7月24日、東京中日新聞である。
「今年も例年のやうに、飛騨の馬瀬川の解禁に行つた。七月十日の午後天気は晴れて暑くなつた。途中の汽車の窓にうつる飛騨の益田川はすごい濁流だが、萩原駅からバスやタクシーで日和田峠を越えて、馬瀬村に入ると、馬瀬川は笹の葉色に青く、さすがに澄み口の早い名川と見えた。この澄み口の川でオトリ採りをして、明日は川を一日休ませて、解禁は七月十二日ときまつた。」
「―この宮ノ前の青年は、前の日オトリを採った時、石油缶のオトリカンに余るほど一杯になつて、四十尾も斃(お)ちたと言って、私共の宿に持ってきたので、私共はそれで解禁の前の日からうまいアユを沢山たべたが。これで見ても此所の魚の濃いことが分かる。―」
ということですから、解禁前にオトリ採りが行われていた所もある。
なお、滝井さんのこの文を探していて、井伏鱒二ほか「鮎つりの記」(朔風社)に、囮の移動も大変であったことが掲載されている。それを見つけたので、大見川のあとは、「囮アユと風変わりな車掌」を紹介します。
「次に来たのが大きい、奔流の真ン中へ囮鮎を放り込んで、水底へ達したかと思ふ途端に鈎を背負つて竿も折れよ、とばかり対岸目ざして引く、引く。僕は、口をかたくむすんで竿をこたへた。こ奴は、7寸以上二十五六匁はある。大見川の鮎は育ちが早い、解禁当初であるといふのにこの大きさだ。」
二十三,四センチ、八十グラムぐらい。
まず、大きさでは、大井川の十月以降の鮎。ただし、重さがその頃の大井川の鮎と比べると、軽い。六月の水鮎の成長段階では、それほど、細身の体型であるということ。
九月、十月以降になると、太めの体型になる。
そのような遡上鮎が、大見川で釣れていたとは、誰が信じることが出来るのかなあ。
現在では、継代人工の成魚放流しか、その大きさの鮎は川にいないと断言できる。継代人工の、成魚放流でも大きければよい、ぶくぶく肥っていても良い、という人には、あゆみちゃんの氏素性は、どうでも良いことであろうが。
解禁日に二十センチ台の大きさの鮎を求めるとすれば、継代人工の成魚放流、あるいは海産畜養の鮎しか川にいない世の中で、古の遡上鮎の大きさを理解できる人は、どのくらいご存命かなあ。
「兎に角、薄暗の頃ゐた職業漁人は、他に釣場を求めてどこかへ行つたので、僕とT君と二人で初川に囮鮎を泳がせるのだからよく釣れた。帰りぎはに、友箱から手網に移すと三十尾近い大鮎が、闇然としてゐる。
浅黄の背、銀色の肌、胸に飾つた二つの黄金の斑点。なんと鮎は楚麗な魚だらう、握れば我が手に高い香気が移る。
君は(注:病気で、大見川へ同行できなかった友)、薬餌をX(手書きで表示されてくれません。左側に「足」右側に「礎」の右側の字・旁の字です)んでしてはいかんぞ。病気が癒るころまでには鮎は八寸以上三四十匁の大きさに育つだらう。その時、君と裏飛騨宮川の峡流に、天下に聞こえた鮎を釣らうぢやないか。
僕はいま、宿の餉台に晩酌の銚子を眺めながらこの手紙を書いてゐる。やがて、けふ釣つた生き鮎が塩焼きになって運ばれてくる筈だ。明日は本流の天城に近い嵯峨沢の方へ行く。えものは、帰京第一に君の病X(またもや、手書きに出てきません。木偏に、「日」その下が「羽」です)へ持込むつもりだ。」
また、想像できないことが。「浅黄の背」とはどのような色? 銀色の肌は分かるが。
容姿についても、今では見ることのできない色彩に彩られた鮎が、川により異なって存在していたのではないかなあ。
長島ダムの出来る前の大井川にも、藁科川同様、尻ビレが明度の高い蛍光色のオレンジ色に縁取られ、そのなかに放射線状に、明度の高い青い線が入っていた鮎がいた。
(5)囮鮎の運搬
井伏鱒二ほか「鮎つりの記」(朔風社)の島村利正「囮鮎と風変わりな車掌」
島村さんは、天竜川は高遠の友釣りが始まったときの情景を書かれている。
松沢想い出の。14
久々の島村さんの登場であるが、釣りそのものではなく、自動車も、ブクもなかった頃の囮の移動が大変だった、という話です。
「これは昭和二十三年の夏のはなしである。上越線の湯沢から、下流の浦佐辺まで、新潟県の魚野川を釣ろうというので、そのときは、伊勢崎の釣り仲間と合流して、一緒にやることにした。わたしたちが、上野から湯沢の旅館に着いてみると、まだ陽の高い三時ごろであるのに、一日先着の伊勢崎組は、もう川から宿に引きあげていて、酒を飲んでいた。」
三人で三匹しか釣れず、翌朝、浦佐まで一時間あまり、生かせて持って行くことにした。
「汽車に乗りこむときに、囮アユのはいった囮箱の上に、大きな氷塊を載せ、その落ちる水滴で、一時間を持たせようと、誰かがいい出した。これはそのとき、はじめての試みで、一時間足らずではあるが、われわれは囮アユを生かしておく、いい経験になると思った。」
氷を使う方法は、故Eじいさんの戦友で、馬渡橋で囮屋をしていた故Tさんが、ブクのある時代になって、日本海に囮を持って行くとき、氷の固まりを、ビニール袋に入れて、氷水が漏れないようにしておくと、充分に持つと言われていた。
その氷は、酸素の供給ではないから、水温を高くしないための働きをしていたのかなあ。
車掌が箱に気がついて、
「『これは何ですか』
『アユですよ、囮アユですよ。実験的にやっているんです。』
『生きているんですか』
『……』
わたしたちはその瞬間、アッ、そうかと、すぐに気づいた。魚であっても、人間以外の生きものを、客車の中に持ちこんではいけないのである。中年の車掌は、ちょっときびしい顔になって、
『生きているんでしたら、客車の中に持ち込まれては困りますな』
『わたしたちは、浦佐までいって降りるんですが、その間、この囮アユが、氷の水滴で立派に生き通せるかどうか、それを実験しているんです。学術的なものなんです。こんな小さな箱で、それにアユは、わずか三尾なんです。なんとか見逃して下さいよ』
酒好きで、軽口の得意な伊勢崎のFさんが、六十の顔にちょっと貫禄をみせ、車内の視線をいっぱいに浴びながら、そんな風に、車掌に嘆願した。車内はシーンとなった。
『学術的でも困るんです。ここは、一般大衆の乗る客車なんですからね。とにかく、こういう状態で、ここにおかれては困りますよ』
敗戦後三年目のことであるから、この奇妙な、そしてのん気そうな釣り姿の五人連れに、車内の客もなんとなく反発を感じているように見えた。車掌の態度がだんだん厳しくなりそうである。二,三の押し問答ののち、
『それじゃ仕方がないや。せっかくの実験ですが止むを得ん。水をここにおんまけて、アユを殺(し)めてしまいましょうや。』
そういったのは、同じ伊勢崎組の若いK氏であった。三十ぐらいの年配だけに、すこしあかい顔になり、憤然とした調子であった。するとその時、急に、ゴボゴボッとアユのはねる水音が、囮箱のなかでした。周囲の人達は、その勢いのいい水音に、ちょっとびっくりしたような顔になった。
『ハハア、アユの奴、聞いているな、ここで殺(し)められちゃ、かなわないっていうわけなんだろう』
Fさんがそういうと、さらに囮箱の中で、ゴボゴボッとアユのはねる音がした。
『ホーラ、アユの奴、そうだそうだといっとるよ』
周囲の人達が、急にゲラゲラ笑い出した。しかし車掌は、ちょっと苦い顔になり、次に周囲の笑いにひきこまれたのか、ちょっと目尻に笑いを見せたが、すぐにまた、厳しい顔にもどって、こんどは命令口調でいった。
『とにかく、この氷の箱を持って、どなたか責任者が、わたしの部屋まで来て下さい』
「わたしたちはあの調子では多分氷も水も捨てられアユはオダブツになってしまうに違いないと、すっかり観念してしまった。」
浦佐に着くと、
「いちばん最後の車掌室から、Fさんがニコニコして出てきた。囮箱の上には、氷塊が載ったままで、アユはどうやら無事のように見えた。」
「そして最後部の箱が、わたしたちの前を通過するとき、車掌室から先刻の車掌が、ちょっと憤っているような顔を、ふいに突き出した。最後に、さらになにか、つよい叱言でも浴びせられるかと思っていると、その言葉は意外であった。
『今年は、この辺はいいようですよ。うんとたくさん釣って下さいよ』
Fさんは、重い囮箱を持ち直して、たちまち遠くなってゆく車掌室に、右手を大きく打ち振った。わたしたちはアッケにとられ、黙ってこの光景を眺めていた。
『あの車掌は変わっていますよ。おれを車掌室へ引っぱっていっても、それっきりで、文句もいわなければ、何もいわないのだ。浦佐へ着いたら、囮箱をちょっと覗いて、アユは立派に生きていますな、さあ降りて下さいっていうんだよ。そして最後の、あの科白はよかったね』
Fさんは改札口を出ると、みんなにそういった。するとそのころ、GHQに、毎日のように苛められていた、同行のお役人、Y氏が、
『演技力ですよ。満員の車内で、彼は演技力をふるっていたんですよ。わかりますよ。あの車掌氏、案外釣り好きかも知れませんな』
わたしたちはなんとなく、なるほどと思い、急に明るい気持ちになって、川へ向かって急ぎ足で歩き出していった。」
この情景を読むと、「世間」という概念が社会規範、秩序維持機能を担っていたお話を思い出すが、その話になると、ますますあゆみちゃんから離れていくからやめておきます。
(6)仁淀川は鎌井田の村と、人と、瀬と、雨村翁と、垢石翁と
森下雨村「猿獺川に死す」(平凡社ライブラリー)
時は、昭和15年8月中旬であろう。
そして、雨村翁が「鎌井田の瀬」を書かれたのは、それから「一昔」のちのことである。
雨村翁は、垢石翁が、吉野川の大アユを求めていることはご存知であったが、
「そのころ、わたしは右関節の神経痛に悩んで、出迎えにも家内と子供をやったことであったが、久々で垢石の顔をみると神経痛もふっとんで、到来二日目に仁淀川の中流鎌井田へ同行した。吉野川は情況がわからなかったばかりでなく、仮りにわかっていたとしてもびっこをひきひきあの激流に竿を出すことは、とうてい覚束なかったからであった。それと一つには垢石にわたしたちの好きな釣場鎌井田を紹介したかったということもあった。」
雨村翁の右膝の神経痛は、ヒアルロン酸の注射で痛みが治まるのかなあ。
仁淀川の水量も相当多いと思うが、吉野川は、それ以上の水量ということのよう。ただ、現在は、池田にダムが出来たとのことであるから、その影響がどの程度出ているのかなあ。山の荒廃も影響しているのかなあ。
ア 雨村翁が語る鎌井田とは
@鎌井田への道
「鎌井田は仁淀川の上、下流を通じて、わたしたち釣仲間の一番好きな釣場であった。今こそバスが走っているが、そのころは松山街道の越知町から下流へ二里の道を歩かねばならなかった。運動神経の極度ににぶいわたしは自転車修行に再度の失敗を繰り返して、爾来一切テクと肚をきめ、釣仲間から阻害されたもので、鎌井田行きの日は、仲間より一時間も早く家を出て、川沿いの二里の道をテクるか、越知町から山越えの近道を這い上がるかして、自転車の仲間よりはいつも一と足先に辿り着いたものであった。」
鎌井田は、弥太さんの越知町よりも、交通の便が悪いところ、ということ。
それにしても、二里の道を一時間もかからずに歩くとは、早いなあ。その雨村翁よりも、おばあさんの方が速く歩いていたのが、「はぜ釣り婆さん」
「はぜ釣りばあさん」は、既に紹介済みと思ったが、見つからない。 はしょって、紹介します。 |
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釣り場 「東に深く湾入した須崎湾にそうた大坊の池、国道をはさむ大間の池、町の北には周囲四キロもある糺(ただす)の池があり、西を流れる新荘川をわたると防波堤で三つに区切られた天王の池があった。それらの釣場のどこへいっても退屈しなかった。」 |
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釣り場への道 「一番の汽車を多の郷駅で降りた時には、あたりはまだまっ暗で、ホームや小さい構内を電灯が寂しそうに照らしていた。駅を出て押岡口へ向いて歩きながら、前後をいく黒い影をかぞえると十三人もいた。みんな竿をかついだハゼ釣りで、時刻から考えて、みんな横波三里を目指している釣り仲間に違いなかった。 『おい、お前もか。』 『よろしくお願います。』 これが一月二日のこと。 「この時もY君に誘われて正月の釣初めに、はるばる横波三里へ出かけた。家にくすぶって、酒の相手をするよりはというので、ハゼ釣りにはめずらしく一泊の予定だった。」 |
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ハゼ釣り婆さんのこと 「ハゼ釣りの小母さんで有名なTという婆さんのことは、久しい前から聞いていたし、時折、汽車の中で顔をあわして、こっちから話しかけたこともあるにはあるが、大体無口な婆さんでゆっくり話をかわしたことはなかった。」 「その時、ならんで歩いていたYとわたしの後から、 『足がおそいから、お先へいかせてもらいます。』 と声がして、三人の小母さんがすたすたと通りすぎた。先頭をいくのはT婆さんで、ほかの二人も時々顔を見かける婆さんの釣仲間であった。 『元気なものだね、』わたしがいうと、 『あれで、そろそろ八十というからね。腰はまがりかけたが、髪はくろいし、歯もいいし、めずらしい婆さんだよ。それというのも生まれ性(しょう)もいいが、一つは釣りの功徳だね。』 そういって、Yがぽつりぽつり話し出したところによると、婆さんの家はわたしたちの村から西へ入った山間(あい)の尾川村にあるが、その居村からT駅までの二里の道を毎日てくてくと歩いての往復である。おそらく朝は四時起き、晩は八時ごろのご帰還という毎日であろう。その日その日の獲物の始末は、若いものにたのむとしても、朝は自分で起き出してお茶もわかし弁当ごしらえもするであろうに、よくも根気のつづくもの、それというのも若いときからきたえあげた体力のおかげであろう。山間のことで、婆さんは百姓と炭焼きが生業であったが、若いころは山から六俵の炭をひとりでかつぎ出したほどの働き者であったそうだ。四貫俵としても、力自慢の男でもなかなかの重荷であるのに、それをかるがるとかついで山を下りたと今でも話のたねに残っているという。それがまた娘時代には鄙にはまれな別嬪で、ずいぶんと若い者にさわがれたものだそうだが、一度は夜這いの若い衆をとって投げたという武勇伝もあって、それからはだれも恐れをなして近づくものがなかったという伝説めいた話も伝わっているそうである。 いまは婆さんに似た働きものの息子があり、嫁ももののわかった女で、釣一式の結構な楽隠居のご身分であるが、お互いにあの年まで生きて、浮世を忘れた釣三昧の生涯を楽しみたいものだとYは羨ましそうにいうのだった。 単調な一本道がやっと爪先き上がりの山道にかかっていた。目の前の山の頂からまぶしい太陽の光線がのぞきはじめて、みんな坂道へかかった足を踏みしめた。その時、ふと見上げて前方を見ると、ぐんぐんとトップをきって道が左へ曲がろうとする山手へとりついていた三人の婆さんの一人が、つと立ちとまって、傍らの畑の方へぐいっと腰をつき出したと見ると、軽く着物の裾をめくって、どうやらじゃあじゃあをはじめたらしい。二,三百メートルの距離ではあったが、それがトップのトップをきっていたT婆さんであることは一目でわかった。 坂道を登りきると、絵のような横波三里の眺望が、目の前にパッとひらけた。宇佐湾から西へむけてえんえんと湾入した三里の入江は、右左から突き出た山鼻の間をぬうて、波一つない静けさであった。」 |
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婆さんの釣り姿点描 「それから十日余りもたった日曜日であった。寒い朝だったが打合わせてあったので、二番の汽車でYと大間の池へ出かけた。汽車を降りるとT婆さんが竿をかついで改札を出るのを見かけた。今日はめずらしくひとりであった。 婆さんは、例のちょこちょこ歩きで堤を左にとっていく。どうやら大間の池をねらっているらしい。後をおうて行くと、やっぱりそうであった。 Yは足場のわるい右側の池をきらって、堤防の上から左側の池を釣ろうといったが、わたしは右側の池をねらって、国道に沿うた人家の裏手から小さい溝をとんで田圃の畦(あぜ)に立った。うしろの田圃にも、池の岸近くにも薄い氷がはりつめ、釣りはまずその氷をわってからのことであった。そこらになにか竹の棒でもないものかと、あたりを見まわしていると、二,三十間も向こうの畦の上に、ちょこなんとすわりこんでいる婆さんの姿が目にはいった。そこには波に洗われた石垣のつなぎに大きな丸太を二本ならべわたしてあった。婆さんはそこの丸太の上に、きちんとすわって、目の前の二つの浮木を見つめている。 そこへは田圃の氷を踏みくだいてわたってきたのであろう。そして池の氷をわって二間にあまる二本の竿を入れたのであろう。いくら釣り好きとはいえ、八十の婆さんである。わたしは及びがたし、とうてい真似のできることではないと今更のように目をみはったものだった。 継いだ竿を逆手にもって、ゆっくりゆっくりこまめにくだいた氷を、向こうの方へ押しやって、わたしもやっと釣りにかかった。 ハゼはよく釣れた。くずれ落ちた石のあちこちで、ひっきりなしに小さいハゼがもつれあって二つの鈎にかかってきた。みんな青海苔の香のしそうなよく肥ったハゼであった。 わたしは釣り上げたハゼを鈎からはずしながら、時々婆さんの方に目をやった。婆さんもひまなしに二つの竿を上げているようであった。こんなに入れぐいの時は、竿を一本にしたほうが、能率があがるのではないか。それに婆さんの竿はこんなザラ場の池には、ちと長過ぎるのではあるまいか。そんな余計なおせっかいまで考えていた。 と、婆さんが、ふいに、やっこらさと起ち上がった。この入れ食いに、しびれでもきらした足をのばすのであろうと見ていると、じゃぶじゃぶと背後の田圃へ踏みこんで、曲がった腰を突き出して、着物の裾をまくし上げた。 これで二度目であった。それはわたしにはなにも珍しい風景ではなかった。子供のころは行きずりに道ばたで見かけた田舎の風景である。わたしは見てはならないものを見たとは思わなかった。しかし、見ずもがなといったほどの気持ちがして、つと竿先の浮木に目をうつした。 浮木は静かな水の上に、小さな波紋をのこしてぐいぐいと深りの方へひかれていた。 |
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A少ない釣り人、多い釣り場
「そうした交通の不便が一般の釣師をせきとめて、ほとんど外来の釣客はなく、いつ出かけても顔見知りの連中ばかりで心しずかに竿が出せた。それと鎌井田の瀬を中心に上下約一里もの間、いたるところに釣場があった。三つ石、赤石、上の瀬、かしらづき―、それらの釣場をつなぐ淵もよし、瀞もよかった。ただ川幅もあり、水量もあって自由に徒渉はできなかったが、向岸へわたりたいときは土地の職業漁師に声をかければ、こころよく舟を寄せてくれる。」
イ 現在の川の状況は?
久しぶりの弥太さんに登場していただく。「仁淀川川漁師秘伝 弥太さんの自慢話」(語り 宮崎弥太郎 聞き手 かくま つとむ 小学館)
@ 復元力喪失
「何年も船に乗っておると、川の様子の変わりようが細かにわかる。昔は岩や瀬、淵ごとにみな名前がついて地名のような役をしとった。たとえば長瀬という大きな瀬があったが、いつの間にか埋まってのうなった。長瀬のところというても、若い者は見当もつかん。鍋ヶ渕という鍋のようにまん丸な淵も河原になっちゅう。あこは昭和30年ごろに堤防を築いて川の流れを変えたら、あっという間に消えてしもうた。
思えばそのころからじゃねえ、川の様子がうんと変わりだしたのは。昔も、大雨が降ると、ウナギの箱をつけちょった淵がすっかり河原になってしまうようなことはあった。そうこうするうちにまた大雨が降る。そんなときは、昔の年寄りはこういうたわね。『今度は元に戻るぞ』と。
水が引いたら、たしかにまた箱の付け場になるような淵に戻っちょる。昔は川自体が復元力を持っとった。それが少しずつ狂いだしたのは戦争のあたりからよ。わしの家がある場所は越知の中心地より少し下がったところで、ともともと浸水の常習地帯じゃったが、戦争中、1年に6回も水が入る異常な年があった。」
A 大木の伐採
「お国のために船を作るというて、山に自然に生えておった太い木を片っ端から切った。それで山で土砂崩れが起きて河床が高うなり、ここらが水のあふれ場になってもうた。
山はスポンジじゃ、木は天然のダムじゃ、だから大切にせんといかんという理屈が、わしら田舎の者の間にも浸透しだしたのはこの5年ばあのことじゃが、経験的な感覚としてはみな昔から知っておったことよ。
最近で大きかった水害は、昭和38年と50年。38年のときは天井のほうまで水がきた。50年の水害では、あんたらがいま腰かけておるあたりまでは入ってきたのう。
この30年あまり、水害自体は確実に減ったと思う。というのも、河原で建築用の石や砂をたくさん採りよるろう。あれで、どんどんと川床が下がっていったがよ。」
B ダムの影響
「もちろんダムの影響も大きい。最初に越知に第三発電所ができた。そのまた奥に大渡(おおど)ダムができて、おおかた15年ばあになる。今も仁淀川はええ川じゃといわれるし、わしらも誇りに思うておるが、ダムのない時代の仁淀川のすばらしさというたら、今とは比較にならんぜ。
わしらは世代的に事情を知らんが、漁業補償も知れたもんじゃったし、ええようにあしらわれたがじゃないかね。工事で川が濁りだしてからコトに気づいて、支流の桐見(きりみ)川にダムができたときには、アユの味がだめになったとみんないいよったが、まあ後の祭りじゃったわね。ダムで水を止める。川底を掘って砂利を取り、流れをいじる。たしかに水害は減ったが、魚と漁にとってえいことは少しもなかった。
今、外見的には仁淀川の水は澄んでおるが、越知あたりの水は、いうたら死に水じゃけえね。ダムで淀んだ質の悪い水が順々に送られてきとる。ダムの終わったところで谷水と合流したり伏流水になって、いくらか生き返っとるという程度じゃ。
昔は源流からの生きた水がそのまま流れてきとって、サイ(水垢:こけ)の質もうんとよかった。伏流水の水も今よりかしっかりあったきねえ。」
という情況です。
山の荒廃は、スポンジ機能の喪失だけでなく、故松沢さんの口癖であった金の塊の苔を生産することもなくなり、鉄くずの苔にしてしまったよう。
桐見川の情況は、前さんが古座川と、ダムのない支流の小川とのアユの味の違いについて書かれている。
河床が下がった、ということは、相模川や大井川、狩野川での河床が上がっている情況から、理解に苦しむ現象です。もちろん、砂利取りが行われても、河床が上がっていく、という意味においてであるが。
弥太さんが、ダムからの水を「死に水」と表現されているように、大井川に長島ダムができてから、きれいに着飾った鮎が、また、時期限定ではあっても存在していた香気漂う鮎がいなくなったのも、故松沢さんが古には存在していた金の塊を育んだサイが消滅したことが原因であると想像している。故松沢さんが、例えば、といわれていた山の腐葉土を通してしみ出した水に含まれている「ミネラル」がダム湖で消滅したからではと、想像しているが、それを考える上でも、村上先生に移らねば、と思えど、ずぼら人間には、まだ時間がかかりそうです。
いつもは、変貌した現在の情景は、最後に持ってくるが、最初に持ってきた理由は、現在の仁淀川を知っていて、雨村翁は、嘘つきじゃあ、といわれると困るから。
何しろ、鮎が食して藍藻に遷移する、なんておっしゃる阿部さんがテレビに登場し、耳石調査結果から10月中旬に海産鮎が孵化しているとおっしゃる高橋さんや、10月2日に孵化しているとされる神奈川県内水面試験場の方々が、あゆみ界の生態を声高に宣伝されている世の中ですから。
ということで、現在の仁淀川は、古の仁淀川とは違う、といっておいたほうが、誤解を生じないから、とのジジー心から。
いや、学者先生への当てつけかなあ。
ということで、ダムがなく、大木が切り倒される前の、古き良き時代の、鎌井田の村、鎌井田の人、鎌井田の瀬、に戻りましょう。
ウ 川漁師の友釣り師
鎌井田の川漁師について、雨村翁は、
「どの川筋でも、その土地の職業漁師が、よそからの素人釣師を歓迎しないのは同じであり、無理からぬふしもあるが、鎌井田の漁師だけは、わたしたちを心からよろこんで迎えてくれた。友釣りの専業、眼鏡での引っかけ漁師が五人ばかりいたが、わたしたちを見ていやな顔をするのは一人もいなかった。それどころかいつでもよろこんで囮をわけてくれ、今日のよい釣場はどの瀬どの淵だと教えてまでくれた。別して川筋きっての友がけの名手だといわれたKさんは、舟の生簀にいる囮の中から、自分で選んで一番元気のいい囮を分けてくれた。そして昨日は下の瀬でだれが何尾、あの瀬肩で何尾揚げた。今日は上の瀬をねらってみるがよかろう。何尾くらいはたしかに釣れると、親切に釣場を教えてくれる。そればかりか、自分の教えた釣場はもとより、よその釣人が竿を出している釣場へは絶対に近づかないというのが、この土地の職業漁師の道義であった。」
二里の釣り場に、職業漁師五人に、素人衆が何人かなあ。
二〇世紀の大井川でも、その程度の、ときには、見渡す限り一人だけ、ということが多かったが、そういう混み具合かなあ。いや、混んでいませんね。
「箱眼鏡での引っかけ釣り」:弥太さんの話
箱眼鏡での引っかけ漁師」について、弥太さんは次のように話されている。
「仁淀本来の木の川船は、まあ、よその川のものと形にさほど変わりはないと思うが、アユの玉ジャクリに使う船だけは、ほかの土地にはまずない形じゃろう。玉ジャクリというのは前にもいうたかもしれんが、船の上からカガミ(箱眼鏡)で覗いてオモリのついたハリでアユを引っ掛ける猟り方よね。
これをやる船は仁淀川独特というより、越知(おち)にしかない。ちょうど将棋の駒のような丈の短いひとり乗りの船で、舳先(へさき)の左右にいくつもの刻み目がある。そこへ碇綱(いかりづな)を掛けると、水の当たり具合が変わって、船の位置が好きに動かせる。左右の移動は自由で、前後の位置も綱で調節できる。なかなかようできた船よ。
仁淀川の中でも越知ちゅうところの者は発明家ぞろいで、いろいろなものを考えるのが得意じゃわね。最近は川船にウインチを取り付けて綱の長さを楽に調整できるようにするのが流行(はや)っとるが、これも越知の者が考え出した方法じゃ。一種の土地柄というか、人間の気風というてもかまわんじゃろう。」
「越知」と「鎌井田」の職業漁師は、どのような関係にあったのかなあ。
弥太さんにとっては、「鎌井田」も、「越知」に含まれると考えられていたのかなあ。それとも、越知の玉ジャクリが、鎌井田まで進出していたのか、あるいは鎌井田に玉ジャクリの人がいたのかなあ。
戦前は、鎌井田は越知とは別の村であったようであるが、弥太さん(昭和八年生まれ)が、川漁師を生業とされるようになった頃は、合併していたのかなあ。
透明度が数メートルはないと、玉ジャクリ漁はできない。
森下郁子さんのように、透明度一メートルあるかなしかの川でも「清流」と定義される感性の人とは無縁の世界の話である。
四万十川では、水の中から、対岸を見ると、対岸のねえちゃんのおけけまで見えたとのこと。その距離が何メートルかは、わからないが。それほどの透明度は、弥太さんが話をされた頃:二〇世紀の終わり頃では期待できないとしても、数メートルの透明度があったといえよう。
前さんのお友達が、四万十川へはもういかん、水も仁淀川のほうがきれい、といわれたのが昭和六〇年頃のこと。
紀の川の玉ジャクリ漁
紀の川の小西翁も、「玉ジャクリ」漁について書かれている。
小西島二郎「紀の川の鮎師代々」
(小西島二郎 聞き手:佐藤清光 徳間書店)
「佐藤 ……
さて、紀の川は万葉の昔から和歌に詠み込まれた有名な川ですし、有吉佐和子さんの小説でもよく知られていますね。昭和三十九年でしたか、その有吉さんの小説『紀ノ川』が映画化され、この妹背の淵でロケーションが行われたときに、小西さんは船頭役として出演されたそうですね。映画の舞台では花嫁を船に乗せて川を下るシーンだったと聞いていますが、小西さんの子どもの時分と現在とでは、紀の川もだいぶ違ってきたのでしょうね。
小西 そりゃ、昔はきれいなもんじゃって。今は禁止漁業になって漁ができんようになっていますけれども、わしらの子どもの時分は箱めがねで鮎を引っかけたもんです。これはきれいな水やなかったらできんことですよ。それだけ現在は濁りがあるわけですね。子どものころは泳いだし、ここの水はけっこう飲めたもんですよ。飲んでなんの害もなかったわけですが、今はそんな、一口も飲めたもんじゃないです。『万葉集』に歌われた妹背の淵なんか、水深が四間あまり(約七.二メートル)もあるところがありますよ。それでも昔は底が完全に見えた。底の砂から小石の状態まで見えたんですが、今はそれどころか、二間ばかりの底がはっきりせんのです。それだけ不純物が混じっている。」
紀の川では、「玉ジャクリ」が何で禁止漁法になったのかなあ。また、川漁師の漁法の一つになっていたのかなあ。それとも、荒川のカジカ捕りと同様、子どもの船を使用しない遊びであったのかなあ。
いずれにしても、「水がきれい」でないと、できない漁であることは、理解できる。
あ、そうそう、荒川のカジか捕りは、子どもだけの漁ではなく、大人も捕っていて、カジカ料理の素材として、流通しているようです。
現在の紀ノ川の水のきれいさは、相模川並か、少しましな程度と想像しているが、現在の仁淀川はどうなっているのかなあ。
長島ダムがなかった二十世紀末ころの、大井川は七曲がりにあった淵では、透明度が三,四メートルではなかったかなあ。
「紀の川」をめくっていて、現在の情況はわからないが、瀬付き鮎の漁が行われていたとのこと。その漁の仕方も書かれているが、瀬付き鮎を大量に捕っても、再生産に影響がなかったということかなあ。
「紀の川の鮎師代々」が発行されたのは、1980年、昭和55年である。既に、タイツと鮎足袋はできていたが、ウエーダーはあったのかなあ。あったとしても高価であろう。
オラは、平成の初めでも、ドラえもんおじさんに座骨神経痛?になる、と厳重注意を受けるまでは、高価なウエーダーを使っていなかったから、西風が吹き荒れて後の水は冷たかったなあ。
ということであるから、瀬付きの大量虐殺をしょうという人が、水の冷たさに負けて少なかったということかなあ。
野田さんが、ウエットスーツを使用した潜りだけでも、魚に対して、人間が圧倒的に優位になるから、心せよ、と書かれているが、その矜恃と魚の生態への配慮、対応がないといけないのではないかなあ。
あゆみ遍歴2010年四万十川最後の残照
川漁師おすすめの場所で釣れず
また、雨村翁が語る鎌井田の漁師さんに戻ろう。
「一度Kさんに教えられて下の瀬を左岸川原から釣っていた。昨日はあの瀬が面白くなかった。今日は水色もいいし十尾はかかるであろうといってくれた。わたしは上み手から下も手へ、繰返し繰返し夕方近くまで引いてみたが、かけはずしも算用にいれてやっと七尾の釣果であった。下も手からKさんが帰りかかってきた。舟を瀬から押上げて、成績はどうかときくので手とり五尾、かけはずし二尾と報告すると、ちょっと小首をかしげて川底をのぞきながら、錨をいれてもよいかという。十尾は釣れるだろうといった手前がある。が、邪魔にはならないかというのである。さあ、どうぞとわたしが竿を傍へおくとKさんはぐっと上み手に錨を入れ、生簀の囮を泳がした。五分とたたないのに一尾あげた。囮をとりかえてまた一尾。するすると綱(注:「網」で表示されているが、「綱」ではないかと思う)をのばして、やや上手でさらに一尾。三十分そこそこで三尾をあげて竿をおいた。技(わざ)であり、腕であることはもとよりだが、わたしは、その腕よりもKさんの責任感といったようなものに、つくづく頭の下がる思いをしたことだった。」
場所守ご苦労さん、といわれて、オラの後で入れ掛かりをされること多々あるオラとしては、雨村翁の情景はおなじみのことである。
しかし、その後の心の持ちようが、雨村翁とオラでは月とすっぽんの違いに。
「水色」とは、苔の情況が石に現れている事柄である、とはわかっていても、では、どのような違いがあるのか、どのように見分けるのか、となると、「腕」ではなく、「運」次第に。
「水色」を中状況ぐらいでは、判別できることがあっても、小状況、ピンポイントでの識別、判別は不可能なこと。
しかし、ある年の十月の大井川で、しあわせ男が、竿を貸せ、気になるところがある、といって、囮を誘導するとすぐに釣り上げた。しあわせ男の気分は、同行していた心優しいかあちゃんが、温泉から出ているであろうから、と、竿をたたんでいたが、オラの釣っていた場所で、ピンポイントの変化を見つけて、我慢ができず、囮を誘導したということであろう。
掛かった鮎が、乙女であったため、自動ハリス止めのフックが開き気味になっていました。
それでは、雨村翁が垢石翁にも紹介したいと思われた鎌井田の川漁師の心情は、どのように育まれたのか。
エ 鎌井田村の人々
「そうした人柄の良さは漁師ばかりでなかった。戸数三十戸そこそこの部落の人々はみんなそろって純朴そのものであった。わたしは三,四年もの間、夏はたいがい鎌井田の瀬で釣り暮らしたので、土地の人とはたいてい顔なじみになっていたが、たまにあう人々でも必ずお辞儀をし挨拶をかわして通り過ぎた。
これは交通の便がわるく、土地の人が人ずれをしていないからでもあった。が、土地の漁師までが利害を忘れて、外来のわたしたちを親切に扱ってくれたのは、ほかに大きな原動力があったことを見逃してはなるまい。それは村長のFさんが朝に夕に、機会ある毎に土地の人々や、わけても職業漁師たちに、外来の釣り人を大切にするように、はるばるとこの土地を訪れてくれる遠来の客人である、一にも親切、二にも親切。それはやがてこの寒村の繁栄の一助となるであろうことを忘れるなと説きつづけたのが、皆の頭にしみこんでしまったというのである。
そのFさんは、鎌井田の部落と、下流片岡、その他の部落をいっしょにした明治村の村長を永年勤めていたが、やはり釣狂で、日曜日にはわが家の真下にある瀬に、いつも胸まで立ちこんで大物をねらった豪の者だったそうである。ところが二年前、片岡の役場からの帰りに自転車から落ちて、背や脚にひどい怪我をして再起覚束なく、今は病床から毎日川を眺めて牌肉を嘆じている。と聞いて、わたしは一度Fさんを見舞ったことであった。村人のみんなに慕われていた人格者で、気性も人一倍強い方であったが、足掛け三年の療養生活で、だんだんと衰弱もくわわり、このごろはめっきり気が弱くなって、だれかれが時折、鮎をとどけると、ボロボロ泪をこぼして嬉し泣きに泣かれるので困りいると、これはその後Kさんから聞いた話であった。
鎌井田はこういう土地である。わたしは人情の厚い、どちらかといえば、閑寂すぎる釣場を垢石に見せたかった。釣果はともかく、釣り人のごみごみした川筋よりも、だれにも邪魔されずのんびりと楽しめる方が、遠来の客にも心愉しかろうと思ったからである。前夜夕餉の膳をかこんで、今言ったような話をすると垢石は、腕をまくって盃をふくみながらおおいにわが意を得たりとよろこんだ。」
オ 垢石翁と宿賃
雨村翁は、鎌井田への舟による移動を書かれているが、その前に、垢石翁がどのように宿賃を感じられていたのか、を見ておきたい。
佐藤垢石「釣随筆」(河出書房:市民文庫)の「瀞」から
鎌井田の宿賃
「こゝの宿は、旅館を営業してゐるのではないが、毎年夏になると遠くからくる釣人を泊めるのを慣しとしてゐた。雨村は、この宿と古いなじみである。宿を去る朝、雨村は勘定してくれといつた。すると、宿の主人の六十五六歳になる律儀な婆あさんが、一日一人四十銭づつでよろしいと答へる。もちろん、朝夕二食に昼の弁当つき、布団つき間代まで含んでゐるのだ。
婆あさんの答えをきいて、雨村は当然であるといつたやうな顔してゐる。私は、婆あさんと雨村の二人の顔を見くらべて、心の中で驚いたのである。昭和十五年といへばもう支那事変が起こつてから五年目になる。世の中には、そろそろ(注:あとの「そろ」は記号表示)統制経済だとか、公定歩合だとかいふ言葉をきくやうになり、都会では生活物資が次第に少なくなり、物の価が高くなつて行くのに驚いてゐるときである。であるのに、こゝの宿料はどうしたことか。
剰へ、老婆は古い顔見知りの雨村のために、特に旅館料を安くして置くとかいふ含みが言葉にもなく、表情にもない。また雨村は、平然としてこれを感謝してゐる風もない。」
垢石翁は、宮川での宿賃を述べた後、次のように書かれている。なお、宮川のでの宿賃は、この後に紹介する。
「それから(注:宮川の宿賃)七八年過ぎて、再びこの鎌井田で金四十銭の旅館代にめぐり会つた。
君、婆あさんに充分な心附をやらないと、四十銭の旅館料では、まことに相済まんやうな気持ちするね。せめて、一人当たり一円位の勘定で払って置かうぢゃないか。
私は婆あさんが帳場の方へ受取に去ったあとで、雨村に囁いた。
よし分つた。だが、それは僕の手加減に任せて置いてくれ。
雨村はもう、万事承知してゐるかのやうである。」
「私等は婆あさんに、永らく厄介になった挨拶を厚く述べた。ところが婆あさんは私等に比べて何倍かの丁寧さで、過分の心附を頂戴し冥加至極でありますといふ意味を、繰り返へし唱へて、頭を下げるのだ。
表の路へ出で、山端の角を曲つてから、私は雨村に、婆あさんはひどく喜んでいたらしいが、一体いかほどの心附を置いたものかね。と問うたのである。雨村はこれに答へて大したことはない。一泊三食四十銭といふから、十銭だけ増してやつて、一人当り五十銭宛の勘定にして支払つてやつたのさ。
私は、また驚いたのである。
君、そんなに驚かんでもよろしいのだよ。君等東京人の気持からすれば、あまりに安いのに感激して一泊一円も二円も払ひたいところであらうが、それは却つて無意味なことになる。結果がよくない。一体、こゝらあたりの僻地では、茶代といふものは一人一泊で五銭か十銭に定まつているのだ。それだけで、貰ふ方は客の行為に対して充分に満足してゐる。
であるのに、旅籠料の三倍も四倍もの心附を置くのは、無計算といふことになる。相手の気持ちの寒暖計は、十銭だけで目盛りの頂点に達してゐるから、それ以上いかに多くの心附を置いたところで、目盛りが上るわけがない。却つて、この客は銭勘定を知らぬ人間、銭を粗末にする人間であるとして、卑下の気持を起こさせるだけだ。良薬にも、過量があるから、効くからといつて、無闇に量を多くのんだところで、却つて害になる。なにも、強ひて多くの金を払つて、相手の気持ちを不純にせんでもよからうぢゃないか。
雨村は、夏の陽に真黒にやけた顔の眼、口、鼻あたりの筋肉を揺すつて高く笑つた。
そんなものかなあ、雨村の説明するところをきいて、無情に感服したのである。」
昔、社会構造にかかるテンニースのゲゼルシャフト、ゲマインシャフトの概念構成が一世を風靡していた。そのころ、情の社会、共同体の秩序維持機能は、くそ食らえ、と思っていたが、その結果が、大和撫子の消滅になるとは気がつかなかった。何で、女どもが、男に従わなくなる、とゲゼルシャフトの社会にかかるマイナス面を教えてくれなかったのかなあ。言うことを聞かない囮で苦労し、男にたてつくことが当然のことという女どもに苛められると分かっていたら、決して、ゲマインシャフトの社会を非難しなかったのになあ。
垢石翁が、雨村の心付けにかかる額について、感心されていたということは、どうしてかなあ。垢石翁も雨村翁と同じ価値観の社会で生活されていたのに。垢石翁が都会風の価値観に染まってしまっていたと言うことかなあ。その都会でも、まだ、戦後の女どもの「勝手気まま」とは無縁の社会であり、「世間」の価値観、生活様式が生きていたと思うが。
まあ、雨村翁のように気を遣いながら、世間とのつきあいをすることはしんどいことであるから、女どもが強くなったことに我慢した方が気楽かなあ。
京都では現在でも、直接話法ではない表現方法で、「世間」とのつきあい方を伝授している社会かなあ。
宮川の宿賃
「私は、今から一五六年前、裏飛騨の吉城郡坂上村巣の内へ鮎釣りの旅に赴いたことがある。この村の地先は、越中国を流れる神通川の上流である宮川の奔湍が南から北へ向かつて走つてゐて、昔から一尺に余る大きな鮎を産するので有名である。
その頃は、まだ富山から高山へ汽車が全通してゐないので、巣の内は軌道敷地の工事最中であつた。こゝの宿では、大きな鍋を爐にかけて鍋飯を炊いていた。」
宮川の鮎については 宮川の垢石翁 宮川の情景 に紹介
垢石翁が、宮川ではじめて釣りをされたのは、昭和の初めか大正の終わりということになる。
「ある朝、私は宿の主人に試みに旅籠料はいかほどであるかと問うたのである。ところが主人は恐縮した顔で、なにかお気に召さぬことでもあったのでせうか。旅籠料は一泊三食金四十銭でありますけれど、それで御高いと思召すなれば、もっと安値にして置いても結構でありますと答へるのである。それをきいて、私の方が恐縮してしまつた。
いやそんなわけではない。四十銭ではあまりに安値すぎる。そこで、朝夕もう一二品御馳走を添へることにして、もつと充分な値段らしい値段を請求して貰ひたいといふと、主人は承知いたしましたと答へるのである。
期待の通り、その夜から小皿や汁物などが前夜までよりも一二品づつ多い。朝も生卵などが添へてある。おいしい。
二三日すぎてから私は、宿の主人を呼んで、今度は旅籠料をなんぼ値上げしたかを問うてみた。すると主人は、またも恐縮らしい顔をして、この辺にはこんな高い値段はないのですが、一泊三食四十五銭頂くことにいたしました。はやどうも、御気の毒さまにございますといふ。それから七八年過ぎて、再びこの鎌井田で金四十銭の旅籠料にめぐり会つた。」
もし、「七八年」が適切であるとすれば、最初の「一五六年前」とはどういう関係になるのかなあ。
また、数日は滞在しているから、鍋飯で下痢をした初めての宮川のことと、どのような関係になるのかなあ。
宿賃の会話は、鍋飯で下痢をしたはじめて宮川で釣りをされたときのことではあるまい。
宮川に、二回ではなく、もっと行かれているということかなあ。巣の内で、同じ旅籠に泊まっていたとすれば、「7、8年前:昭和七年ころ」に宿賃を聞くこともなかったであろうし…。わかりません。
「7,8年前」に、魚野川から宮川に行かれたことは分かるが、そして、そのときのことを記録で残されているようであるが、「昭和元年頃」が、事実であるのか、どうか、分からない。 「7,8年前」が、宮川に行かれた最初かも知れない。 |
鍋飯での下痢 「垢石釣り紀行」(つり人ノベルス)の「諸国友釣り自慢」から 「筆者らが着いた三日目の午後、金沢から坂井武比古氏が元気よくやってきた。 ところが惜しいことに我々一行は全く元気を失っていた。越後へ行くとき、上越線で徹夜のたび、着いてからも太陽の照りつく河原で活動を続ける、それに次いで越後から飛騨への不眠不休の急行、着いてからも休みなしの水浸り、伊豆の山下のような不死身でない限り、何で健康を損ねないでいようか。そこへ持ってきて、質の悪い富山米を鍋でたいた半煮え飯である。一回で下痢を起こしてしまった。殊に筆者はひどい大腸カタルにかかり三日目の夜から重患に陥ってしまった。いかに飛騨の山奥とはいいながら、明年は鉄道が開通して文化の恵みに浴そうというのに、宿屋で鍋飯をくれないでもよさそうなものだ、と怨んでみたが、嗚呼やんぬる哉である。」 この文と、同じ情景ではないかと思う鍋飯から青春時代を回顧されている文があり、さらに、鎌井田の宿と巣の内の宿を結びつけている文がある。 高山線の開通年が、全てを明らかにしてくれるのか、それとも? 下痢で苦しんでいたときに、鎌井田の宿に於ける心付けの話と同じような情景が巣の内の宿でも行われていたとは、違和感を覚えるが。 また、「一五六年前」とは、「釣随筆」を書かれたときからの年数かなあ。「釣随筆」の発行は、昭和二六年であり、その年からの計算では、昭和一〇年頃になり、昭和七,八年に近似しているが。 高山線が富山から杉原まで開通したのが昭和7年、全線開通が昭和8年のようである。 |
昭和35年ころから昭和39年まで、あるいはそれから数年続いていたかも分からないが、1泊2食付きの旅籠の宿賃は、500円か600円であった。その頃は、学割を使うと、1000キロメートル1000円。
交通公社のある箇所と異なる駅を出発地とする切符を買うと、通用期間は7日あった。通常は、二〇〇キロごとに通用日は一日加算されていくが、そのルールとは異なる通用期間が可能であった。
それに、鈍行の夜汽車がどこでも走っていたから、実質8日間の有効期間になった。
その旅籠のなかに、半世紀たっても覚えている箇所がある。
犬山城を見上げる美濃太田の旅籠
鮎をはじめて食べた。キスと同じ白身魚で、淡泊に感じた。大きさは18センチくらいのスリムな体型。木曽川の遡上鮎か、湖産放流か、分からないが。まだ遡上できたのではないかなあ。
その旅籠には芸者さんの名前が張ってあった。それが半世紀後でも覚えている理由かも。
大糸線の平岩?からバスで入ったところ
山間の土地を散歩して、戻るつもりで、バスの終点まで行くと、宿があった。
その街道は、後年塩街道であることを知った。とはいえ、それほど旅人がいるわけではなかろう。その宿は、下宿屋も兼ねていて、小学校の若い先生が利用していた。
能生
おひさんが日本海の上に浮かぶ親知らず、子不知の日本海を見て、能生で降りた。
路に面したところは普通の旅籠。しかし、玄関から奥へと、どんどん続いている。日本海の見える部屋についたが、こりゃあ千円コースかな、と、心配になった。しかし、通常料金であった。
宿のなかったところ
松江から三好に着くころ、夕方になった。眼下に江の川と家並みが見えた。汽車はまだ先まで行くから乗っていて、終点で降りた。駅前には街灯も、食堂も、宿もなし。暗闇の中を次の汽車が来るまで散歩をしていると、孫を連れたおじいさんが追っかけてきて、そっちに行くと山だ、と。
次の姫路行きか大阪行きの汽車に乗ったが、晩飯を食い損ねた。
もし、三好で下車をしていたら、荒廃する前の江の川を見ることができたかも。
残念なこと
篠ノ井線は数回乗ったが、麓まで一気に下る光景が気に入っていた。しかし、姨捨山に泊まらなかった。もし、泊まっておれば、半世紀後でも記憶に残っていたのではないかなあ。宿がなくても下車して、うろついていたら、と、悔やまれる。
三重連が走っていた田沢湖線では、トンネルができて、かっての場所までは列車が上らなくなっているようであるが、篠ノ井線は以前同様、山の上の方まで上っているのかなあ。
カ 垢石翁の鎌井田までの道のり
「実は、倅の暑中休暇を利用して、彼に熊野川の大きな鮎を釣らせたいと思つたからである。八月二日の朝、東京を出発した。」
昭和一五年のことである。
熊野川の印象
垢石翁が息子さんを連れて行きたいという熊野川には、昭和一五年六月にはじめて行かれている。
那智山に詣でたときのことを
「若芽と若葉の放つ、生きた色彩の輝きは、人間が作つた絵の具の趣はない。つまり如何に豊かな腕を持つて画人であつても、新緑が彩る活きた弾力は、到底描き得まいと思ふ。
瀞八丁の両岸の崖に、初夏の微風を喜び識れる北山川の嫩葉(注:わかば)も、吾が眼に沁み入るばかりの彩りであつた。それが鏡のやうに澄んで静かに明るい淵の面に、ひらひら(注:後の「ひら」は記号表示)と揺れながら映り動いてゐた。
木津呂あたりを流れる北山川の瀬には、激しいながら気品があって、プロペラ船の窓からこれを見て私は、この早瀬の底には、定めし立派な鮎が棲んでゐるであらうと想像したのである。底石は石理ある水成岩の転積である。流水は、水晶のやうに清冽である。右岸の崖にも、左岸の磧にも、峡澗とはいへ、人に険しく迫らぬ風情が、川瀬の気品に現れてくるのであるかも知れぬ。」
「日足の宿の二階から、熊野川の廣い磧が眼の下にある。私は、こゝで四五日の間、心ゆくばかり鮎の友釣を楽しんだ。六月はじめの解禁早々ではあるけれど、大きな姿の鮎がまことに数多く釣れたのである。」
大井川
垢石翁父子と、鈴木さんの三名は、
「先ず、東海道の金谷駅で支線に乗り替へ、家山町を志した。大井川の中流で友釣を試みるつもりであつたのだ。
ところが、大井川の上流地方つまり赤石山脈の南面に連日大雷雨が続いたため山崩れが起り、川は灰褐色に濁つて釣の条件がよろしくない。それでも、折角こゝまで訪ねてきたのであるからといふので、三人は流れへ竿を舁ぎだした。しかし、予想した通り釣れぬ。三人合せて僅かに十二三尾を釣つたのみで、二時間ばかり遊んだ末、宿へ引きあげた。
鈴木氏が旅の慰めに、上等のウイスキーを一本携へて行つた。夕食のとき、二人で差し向ひにその栓を抜くと、そのとき宿の若い亭主が訪ねてきて四方山ばなしをはじめ、あまりお世辞のよい男なのに、一杯さすと彼はこのウイスキーの質を賞めながら盛んにのむ。
私等は、亭主の口前に釣り込まれて亦一杯亦一杯とさしてやると、気がついたときには、四合瓶の大部分を彼にのまれてしまつてゐるのである。彼は私等の室を上機嫌になって辞し去るとき、後刻上等の日本酒を届けると約束したが、待てども待てども彼は約束を実行しなかつた。」
垢石翁が泊まられた宿はどこかなあ。
二十一世紀の初めころまでは、川沿いに二軒、町中に二軒の宿があった。そして、それ以前には、大井川の左岸身成にもあったとのこと。
多分、今は川沿いの二軒だけになっているが。
身成の宿は、渋柿の山を持っていて、干す時期になると、干し柿の簾が素晴らしかったとのこと。
井川ダムのなかったその頃、寿司屋さんのお父さんら、激流立ち込み大好きさんらは、盛んに釣りをされていたであろう。
垢石翁が飲み逃げされるとは、お魚さんに敵を討たれたということでしょうか。
土佐へ
垢石親子は、姪夫妻の家に泊まり、京都の賀茂川で放流鮎を釣ろうとしたが釣れず。
神戸から船に乗る。
「四国の土佐に釣友である探偵小説家森下雨村を訪ねることにしたのである。神戸から夜の船に乗り、室戸岬の鼻を船がまはる頃は、もう太陽が太平洋の波の上に昇つてゐた。私は、明治四十五年の初冬、悲しい運命の旅にこの船路を選び、同じ景色を同じ朝の時間に、この船の窓から眺めたが、陸の彩りも、眼に映るいろいろ(注:後の「いろ」は記号表示)が、心と共に暗かつた。
しかし今度は、既に中等学校の上級生になつた倅を伴うた楽しい旅である。観るもの、感ずるもの、悉くが明るい。船の窓から見る名勝室戸岬の風景も、三十数年前の昔とは、まるで趣が違ふ。殊に立秋後の澄んだ明るい空気を透かして、朝暾が岬の波打際に白く、またそして淡紅に輝き、南へ南へと続く漁村と松原が、旦(あした)の薄い靄にぬくもつてゐるではないか。
海雀の群れが、波間に隠見する。かもめが舞ふ。岬の突端を彩る深緑の樹林は、山稜を伝つて次第に高く行くに連れ、果ては黒く山の地肌を染めて、最後には峰の雲に溶け込んでゐる。遠い山腹に、金色に輝く一点がある。その一点から発する光線は、稲妻に似て強くまぶしく眼を射るのである。あれは、山村の物持の家の縁側の硝子障子に、朝日が反射するのであらうか。
なんと静かな、親しみ深い風景であらう。南国の眺めは、旅心に清麗の情を添へるのである。」
八月に「立秋」の言葉を使っていることから、垢石翁は、二十四節気を「新暦」の日にちで表現されているのかなあ。
「午すこしまはつた頃、汲江の奥の高知の港へ着いた。森下雨村は、数日来座骨神経痛に悩まされ、臥床してゐるといふので、美しい森下夫人は可愛い十歳ばかりになる坊やと共に、私等親子を波止場まで迎へにきてくれた。雨村が邸は、高知から西方六里の佐川町に在る。そこから、わざわざ夫の代り、親の代りとして私等を迎へてくれたのである。波止場の改札口に、佐藤垢石様と書いた半紙を、二尺ばかりの棒に吊して、十歳ばかりになる少年が、あまたの旅人を品定めしてゐるのを、私等は行列の後ろの方からながめた。」
キ 鎌井田の釣り
まず、雨村翁の記述から
「翌朝、越知町までバス。たのんであった舟の便をかりて川を下った。瀬あり、淵あり、両岸には山高く、仁淀川下りも観光の一つといわれるほどで、風光も満更ではない。舟は徒歩よりもはるかに速く、約一時間で三ツ岩の隘路をぬけると、その辺からもう鎌井田の領分である。
私は下の瀬の右岸よりをねらっていた。足場がよく、川底は遠浅だが石は荒くて大物が出る。それと山裾の榎の大木がかっこうな日陰をつくって、弁当をひろげるにいい。いまひとつ鎌井田の部落は目の前にあって、上み手には渡場もある。たいへん便利だと思ったからだったが、そこにはもう土地の漁師が四はいも舟をかけていた。二はいは瀬肩の引っかけ、二はいは友釣りで、その一人はKさんだった。
わたしは舟子にいって舟を瀬の右岸につけさせた。声をかけるまでもなかった。Kさんは竿の手をとめて、こっちを見たが見かけない客人の姿に、ちょっと意外そうな面持ちだった。わたしが遠方のお客様だが、どこへ案内したらいいかと訊くと、即座に、
『かしらつきまで下りなさい。ひとり下へいったが、あすこまではいっていまい。』
といって囮は、と聞いた。あんたを当てにしてきたのだというと、丁度かかりのいいのが二尾ある。一尾は腹がかりだが、どうにか使えるだろうといって、錨を上げて囮を三尾わけてくれた。
『おしわせよう!』Kさんの言葉を後に舟が浅瀬を下って深い淵へ出ると、垢石が後を振り返って、『なるほど姿勢がいい。竿の持ち方も立派だ。それにいい男前だ!』
といった。Kさんは体格は普通だが、体から風貌から、どこか常人と違う凛としたところがあった。目もとも口もとも引きしまって、いわば男らしい男前であった。口数も少なく、滅多に笑顔を見せなかったので、初対面の人にはぶあいそうな人間のような印象をあたえたかもしれないが、つきあっていると、なんとも言いようのない親近感をおぼえる肌合のよさがあった。
竿をもって舳につっ立ったKさんの釣姿にひと目で惚れこんだ垢石の眼識もさすがであった。Kさんは七,八つのころから友釣り一式で通してきたベテランである。釣仲間の誰かが引っかけに手を出すといやな顔をして、酒もいっしょに飲まなかったほどの友釣至上主義者だった。それだけに川筋のことも鎌井田の領域にかけては、過去何十年の河床の変遷からその変化にともなう魚のつき場所はもとより、年毎に変わる河底の石の一つ一つまで眼底にあったと思われるほどくわしかった。だから鎌井田のKさんといえば、川筋きっての漁師としてだれも異議をはさむものではなかった。
Kさんにはわたしも訓えられるところが多かった。聞けば何事でも自分の経験から惜しみなく教えてくれたが、その時はいかにもと感嘆しながら、たいがいは片っぱしから忘れてしまって、今更書きとめておけばよかったと悔やまれる。が、一つ二つは記憶の底にのこっている。瀬肩を釣って、白っぽい魚がかかったら、居つきの魚はいないと思え、だれかが釣った後である。秋口の魚は体をいとって辺地による、水きわの浅場を踏んではならぬ、といった類である。人柄はよかったが、きかぬ気、負けぬ気も強かった。不漁の日、仲間に釣られたと思うような日は、夕暮れが迫って鈎素が見えなくなってもまだ頑張りつづけてやめなかった。
そうした気性と長い間の経験が、自然とKさんの釣り姿や竿の操作に、これも一かどのベテランである垢石をして一目惚れさせたのであろうと、わたしは後から思ったことだった。
かしらづきはやや勾配をもった瀞とも瀬とも言いがたいが、下も手には中州をはさんで淵へ落ちこむ荒瀬もあり、緩急いずれでもという釣場で、上にも下にも釣人の影はなかった。三人は早速竿を出した。上み手から垢石二世、垢石、わたしは立ちこむのをきらって下も手にまわった。
垢石と釣りをともにするのは魚野川以来であった。あの時、わたしは次女を喪って傷心の極みであった。たまたま先行の垢石から後を追うてくるようにと勧説の手紙があり、心の痛手をまぎらわそうと、ふらふらと出かけていったわけであった。待ちわびていた彼は、まず酒をくんでわたしを励まし慰めてくれた。その親情はうれしかったが、翌日からの魚野川の釣りは、わたしには大した興味もなかった。釣りをたのしむ気分に心からなれなかったのはもとよりであったが、土佐の荒川に馴れていたわたしには、魚野川は川も小さく、流れもわるく、いわば物足りない感じが先に立った。川底の石も砂利のようで、放流魚はまだ型が小さく、その場で釣り上げて手網にとれた。印象に強くのこったのは、その前年、垢石がやられたというつつが虫の恐怖と、川を上って宿への帰途、田圃の中に黄金色にうれた見事な胡瓜を百姓に所望して、それを肴に飲みほした冷たいビールの味である。」
Kさんと故松沢さんの類似
Kさんが、経験されたことしか話されなかったということ、気むずかしい雰囲気があったこと、という描写は、故松沢さんにも共通するのではないかなあ。
オラが故松沢さんのテントに通うようになったのは、平成に入ってからであり、その頃は、遙か前に剃刀のまっちゃんから仏のまっちゃんに変わられていたから、オラのとんでもはっぷんの学者先生の説の評価を尋ねても、それほど嫌な顔をされなかったが、それでも、時折、吐き捨てるように否定されていた。
その時は、剃刀のまっちゃんに先祖返りをしなければならないほど、学者先生の説の受け売りをする人がいて嫌な思いをされた出来事があったのでは、と想像している。
故松沢さんが話してくれたあゆみちゃんの生活誌をおぼえておれば、学者先生の実験室や未熟な耳石調査の結果から正当化されている10月2日、あるいは17日孵化の海産鮎が事実とは違う、ということを、もう少しは説得力ある形で書くことができたであろうと、雨村翁同様、悔やまれます。
今ならば、故松沢さんに適切な質問を少しはできるようになっていると思っているが。
また、オラの記憶力がいかに貧弱かについては、大多サが、長良川郡上八幡での鮎の下りについて語られたことを「昭和のあゆみちゃん」に紹介していたにもかかわらず、すっかり忘れていた。
大多サは、
「長良川に遡上する天然鮎の群れは、例年三月下旬に美並村に達し、四月にはもう八幡に姿を見せていた。」
「七月に入れば解禁となり、天下晴れて稼ぐことができたが、当時の天然鮎は、“五月川”でも昨今の七月鮎に負けぬほどよく肥えた大物が釣れた。しかも放流鮎と違って天然鮎は九月十月まで川に滞っていたから、十月半ばまで友釣りをしたものだという。」
「十月なかばすぎようやく落ち鮎期となると、坪佐や神路、中野といったヤナ場では“一と水百五十貫”といわれるほど、多いときは一日で三百五十貫もの鮎が獲れたそうだ。」
と話されている。
「10月なかばすぎからようやく落ち鮎期となる」という観察は、郡上八幡であるから、「西風が吹き荒れる頃」よりも少し早く下りが開始するということであろう。
大井川では、村祭りの頃:10月15日頃に、それまでとは違う大鮎が、家山付近で釣れたというのも、上流から下ってきた鮎が家山にやって来たということではないかなあ。
故松沢さんが、服部?名人に鮎がいない、来るな、といわれたにもかかわらず、郡上八幡に出かけて、網打ちのおかげで、120匹の鮎を釣ったのは、10月終わり頃のこと。
当然、水温は15度以下であるから、ウエーダーがなければ、川にはいることはできない。
故松沢さんは、大岩の上で、渦巻く流れを釣られていた。したがって、水に浸かったのは大岩にのるまでであったから、10月末か11月はじめでも釣りができた。
大多サが、10月半ばまで釣りをした、と話されている意味は、鮎が下っていなくなったのではなく、水温が低下して、ウエーダーのない時代には水に入ることができなかったから、と考えている。
故松沢さんは、尋ねたことに対しては、「鮎に聞いたことはないからわからないが」と前置きをされてから、経験されたこと、見聞された現象を話された。しかし、自らお話をされることはなかった。ということは、聞き手であるオラの見聞、疑問が乏しければ、故松沢さんの知見を聞き出すこともできなかったことになる。
弥太さん達の話を聞き取りをされたかくまさんらの質問力に感心している。
学者先生に、故松沢さんや、弥太さん、小西翁、野村さんの観察力のほんの少しでもあれば、あゆみちゃんの生活誌が実験室に於ける「光周性」の呪縛から解放される人も出たのではないかなあ。
岩井先生が、性成熟が「光周性」要件だけでは、自然界では説明がつかないことを認識されていながら、何で、水温要件をおじいさんの話にとどめられているのかなあ。前さんの積算日照時間説が自然界での現象と思うが。なにが、「光周性」要件以外の性成熟要件を「説」とできない理由かなあ。
なお、故松沢さんは、晩秋の郡上八幡で大漁であったとき、網打ちが鮎を大岩の流れに集めてくれて、大岩でできた渦の中にいた一宿一飯の鮎や、居付きの鮎の攻撃衝動が解発されたから、と、分かっていたから、網打ちが大岩にやってきた時、昼飯の入った荷物をとって、と頼まれた。そして、二〇匹ほどの鮎を網打ちに渡された。
このやりとりにも、故松沢さんの気配りが働いていると感じている。単に鮎を渡すのではなく、網打ちに奉仕をしてもらうということで、網打ちの気分を配慮して、受け取りやすくされたのではないかなあ。
魚野川について、垢石翁は、津久井ダムがなかったころ、多分、相模ダムもなかった頃と思うが、その頃の相模川の水量以上の水量であると書かれている。その水量に対して、土佐の「荒川」とは比べようもない水量とは、土佐の川の水量はどんな水量かなあ。
ただ、垢石翁の魚野川の水量については、川幅から見て、そんなに多い水量かなあ、との疑問は持っているが。
もっとも昭和15年ころ以前の魚野川の川幅が、現在の川幅と同じであれば、という前提であるが。
また、雨村翁が魚野川の石が大きくないといい、垢石翁が大きい石が転積してるということも、釣り場で石の状況に大きな違いがあったということかなあ。20世紀終わり頃の魚野川は、他の川と同様、大きい石が転積しているという状況にはほど遠かったが。
「久々で竿をならべながら第一日の成績は両人とも大したこともなかった。しかしいい釣場だ、来てよかったと喜んでもらったほどの釣果はあった。浅瀬を左岸にわたって小一里の道を鎌井田に引返し、その夜はわたしの定宿にしている旅館に泊まった。夕暮れ近く、わたしはKさんの家を訪ねて囮の謝礼をしながら、垢石に土産話の一つにもなろうかと宿まで案内しようとしたが、Kさんは遠慮して、また明日、川でお目にかかろうと辞退しつづけた。」
2日目、3日目
二日目は宿の真下の上の瀬をねらったが、面白くなかった。通りがかった舟をよんで向う岸にわたってみたが、これも同様であった。やっぱありKさんに聞いてからにすべきであった。後で聞いたところによると、前の日、上流から来た金突きの一隊が、上の瀬まで荒して引上ていったということだった。」
金突き漁が行われると、どうして、その影響が翌日までのこるのかなあ。
「三日目はなんと尺余の増水で、水は黒にごりであった。上流にひどい驟(さだち)雨ががあったらしい。川原に集まった土地の漁師もこの濁りでは今日、明日は駄目だと嘆息をついて、舟や道具の手入れをしたり、中にはゴロ引きの準備にかかっているものもあった。残念ながらわたしたちも諦めをつけて、足の重い二里の道をとぼとぼと引き上げるほかなかった。」
また、分かりません。
ダムがなく、「尺余り」の増水で、何で黒にごりになるのかなあ。濁りが翌日まで何で残るのかなあ。仮に一メートルほどの増水でも、翌日には濁りはおさまるのではないかなあ。
「尺余り」とは、「一間ほどの量」を表現しているのかなあ。「尺余り」が、5,60センチのの増水であれば、丼大王が仕事を放りだしてでも、川に浸かるのではないかなあ。引き水の時に、三〇センチほどの増水になれば、大漁と、故松沢さんに教えられているし、瀬に立ちこむ足腰があり、強い瀬に囮をいれることのできる腕もあるから。
「新荘川や物部川へも案内したかった。が、垢石は一図に吉野川の大鮎をねらって、矢も楯もといったように気負い立っていた。昔、新聞社にいたころ徳島県出身のM社長に、吉野川の大鮎を釣らないでは鮎を口にする資格がないと頭ごなしにやられたのが癪でと、いかにも悔しそうにその時の無念さを述懐するのを一度ならず聞いていたわたしは、足さえ元気であれば柳の瀬から岩原へかけて吉野川のあの釣場、この釣場を案内してやりたかった。折角はるばると土佐路へ足を踏みこんだ彼に、と思ったことであるが、チクリチクリと痛むわたしの足では吉野川の急流激湍に立ち向う自信がなかった。
その翌日、垢石父子は土讃線で吉野川に向かった。四,五日もしてハガキが来た。『大歩危(ぼけ)、小歩危をねらったが、こちらも増水、駅長に無理だととめられ、恨みをのんで宇高連絡線で本州に渡る。』とあった。」
垢石翁は、徳島から神戸に渡らずに、高松まで行かれたのはどうしてかなあ。四国を旅したかったからかなあ。釣りよりも、四国の旅を選ばれたのかも。
雨村翁のゲマインシャフト、情の社会でのしきたりとその中での生き様を見ることができた鎌井田の釣りといえるのではないかなあ。
他方、垢石翁は、少しゲゼルシャフトの社会に足を突っ込んでいるけれど、まだゲマインシャフトの社会の生き様に拘束されているという情景を見るような気持ちになりました。
ただ、雨村翁のように、相手の「気持」を配慮してあれこれと適切な行為を行うという「気配り」の社会はしんどいなあ。オラには、ゲゼルシャフトの社会の方が、その社会が大和撫子に出会えない社会であるとしても、気楽ということかなあ。
さて、垢石翁は、鎌井田の瀬の釣りをどのように感じられたのか、を見よう。
垢石翁の鎌井田の瀬
「雨村の病気は、予想したよりも早く快方に赴いた。佐川町から六七里離れた仁淀川の中流にある鎌井田の部落へ、雨村と私と倅と三人で、竿を舁いで行つたのである。こゝは、仁淀川の中流といふけれど、左右から高い山と険しい崖が迫つた峡谷である。流水には、家ほども大きい岩が、あちこちに転石して、水は激しては崩れ、崩れては泡となり、奔湍に続く奔湍が、川の姿を現してゐる。
川底の玉石はなめらかに、水は清く、流れは速い。そしてところどころの崖かげには、泡寄りを泛(注:うか)べて緩やかに渦巻く青い淵が、清くよどんでゐる。この仁淀川は、鮎が大きく育ち、数多く棲まうに絶好の条件を備へてゐると思ふ。
鎌井田で、三人は五六日釣眈つた。はじめて仁淀川を見たときに、立派な流相を持っていゐと感じた通り、この川には大きな鮎が数多くゐた。三人は来る日も来る日も吾を忘れて汀を歩きまはつた。」
雨村翁の記述と、垢石翁の記述では、鎌井田の瀬で釣りをした日数、雨村翁の宅に引き上げてからの滞在日数(後述)に違いがある。
多分、雨村翁の記述が適切であろうと想像している。
垢石翁の文には、追憶に基づく文もあるのではないかなあ。
追憶に基づく文は、実際に行為をされた時から時間が経過していることから、同時性、場所性の要件を欠く記述であり、そのために日数等の信頼性に劣る記述もあるのではないかなあ。
その事例が、鎌井田の瀬での釣りの日数、雨村翁の家に滞在されていた日数の違いに現れているのではないかなあ。
ク 垢石翁の鎌井田後の旅
「その後、森下邸に八月中旬過ぎまで滞在してあちこちの川や海を釣り歩き、再び京都に戻つて、南紀州の熊野川行きを志した。この行には、姪夫妻も加つた。八月上旬に紀勢線が紀州東端の矢の川峠の入口の木の本まで通じたので、六月の旅の時とは違ひ楽々と大阪天王寺から一路車中の人になることができた。
「森下邸に八月中旬まで滞在して」とは、森下邸にずっと滞在していた、という意味ではないのかも。
鎌井田から森下邸に帰り、翌日には、吉野川へと出発したが、出発後の事柄も含めて、「8月中旬」と表現されているのでは?。単に、「八月中旬過ぎ」に川や海で釣りをした、ということではないかなあ。
熊野川の垢石翁
「日足の宿では一泊一円五十銭、随分と多く御馳走がある。毎夕おしきせに、麦酒が二本。これは勿論旅籠料のほかだが、今の相場から見れば、たヾに等しい。
この村の前の熊野川には、上流にも下流にも連続して立派な釣場がある。鮎の大きさは七八寸、一尾二十匁から三十五匁ほどに円々と肥ってゐるのである。
まことに盛んに、私の竿にも倅の竿にも、大きな鮎が掛つた。
熊野川の鮎は、日足から上流一里の河相まで溯つてくると、左へ志すのは十津川へ、右へ行くのは北山川へ分かれてしまふのであるが、十津川へ入つた鮎は残念ながら風味に乏しいのである。この川の岩質は、鮎の質を立派に育てない。それは、火山岩か火成岩が川に押しひろがつてゐるからである。火成岩を基盤とする山々を源とする川の水質は、水成岩の山々を源とする水に比べると、どういふものかその川に育つ鮎は香気が薄い。そして、円々とは肥えないのである。殊に、脂肪が薄い憾みが多い。
これは、火成岩や火山岩に発する水には、鮎が常食として好む良質の珪藻、ラン藻、緑藻などが生まれぬためであらうと思う。
それに引替へ、北山川の水を慕う鮎は、まことに立派な姿と香気とを持つているのである。河相の合流で見れば、明らかに区別されるやうに、十津川の川底の石は灰色に小形で、粗品であるのに、北山川の石は大きく滑らかに、青く白く淡紅に、この川の上流である吉野地方一帯に古成層の岩質が押しひろがってゐるのに気づくであらう。
また十津川の鮎の腹には小砂が入っているけれど、北山川の鮎の腹には砂がない。やはりこれも、岩質からくる関係であるかも知れぬ。
北山川は、木津呂、下瀞、上瀞を経て上流へ溯るほど、鮎の姿も味も香気も立派となるのである。さらに、三重県東牟婁郡七色方面まで溯れば、鮎は七八十匁の大きさに育ち七月の盛季には、背や頭の細かい脂肪がほどよく乗って、塩焼きにも、刺身にも天下の絶品のうちに数へられる。」
北山川と十津川の鮎に質の違い
さて、天の邪鬼のオラは、垢石翁が水と苔と鮎の味が、岩石の違いによって相関関係を有しているという話にいささか疑問を持つようになった。
その理由は
1 水成岩と火成岩は、表面の滑らかさに違いがあるとしても、転石するうちには、あるいは、砂利で、石でこすられるうちには滑らかな表面になるのではないかなあ。
そして、滑らかさは、鮎が食べやすいか、どうかには作用しても、珪藻の種類構成や、優占種とは関係ないであろう。
2 水成岩の山からしたたり落ちる水が、火成岩の山からしたたり落ちる水とは水質を異にする、とのことであるが、そうかなあ。山の問題ではないかなあ。
3 苔の質は、岩質の違いではなく、「水」に含まれている栄養素の違いではないかなあ。
野田さんが、十津川と北山川の山の違いを書かれているが、その違いが「水」に含まれる栄養素、その栄養素は、窒素、リン、カリ、という成分ではなく、故松沢さんが「ミネラル」と表現されていた微少な成分ではないかなあ。
奈良の吉野川における山の樹木の違いによる水の味の違いについては、杉本さんが話されたことが紹介されているが。その味の違いが、「ミネラル」等の栄養塩の違いを現していて、珪藻の中で生成されるであろう香り成分等に影響をしているのではないかなあ。
砂が腹にある、とは、岩質に起因するのではなく、山からの砂の供給量によるのではないかなあ。
これらの疑問が、村上先生の本を読むことで、どのくらい納得できるようになるのかは分からないが。
なお、相模川の小沢の堰の所にも、大岩があったが、堰を作るときに撤去したのでは、とのこと。神沢にあった大石も、只見川にあった大石も埋まったのではないかなあ。
そうすると、山からの砂礫の流入量が多いであろう十津川の大石も埋まったかも。
またもや、分かりません。
七月に七,八十匁の重量の鮎に育つこと。
背や頭に細かい脂肪が乗ること。
現在では、「香魚」すら、稀少存在となり、手のひらに乗り移ったシャネル五番の香りをうっとりとして嗅ぐことも最早あり得ないかも、という状況では、幸いにして?、垢石翁の記述が事実か、どうかの検証もできなせんが。
頭を食す
井伏鱒二「釣人」を立ち読みしていたら、養殖ではなく、本物の鮎を提供する割烹に、7月以降にやってくる常連さんが、1日に20匹ほどの鮎を食べるとのこと。井伏さんは、そんなに鮎を食べることが出来るのか、と不審に思われた。割烹の女将は、その人は、頭の所にかみついて、ちゅうちゅうと吸うような食べ方をする、と。井伏さんは、その説明を聞いて、20匹の数を食べることの出来る理由に納得された。
6月の鮎が水鮎で、鮎のうまみにかけるとは、亡き師匠の話であったが、井伏さんも7月以降の鮎の味が旬の味と書かれていた。
とはいえ、頭の部分だけの脂肪を賞味する食べ方とは、はじめて知った。
折角、頭が一番旨い、となると、垢石翁の頭自慢も見ておきましょう。
佐藤垢石「つり姿」(鶴書房)昭和一七年発行 : 「鮎の頭と骨」
「鮎の最もおいしいところは、どこかといふと頭と骨である。だから、頭と骨を皿の上へ食ひ残す人を見ると、アゝ勿体ない事をするものだと思ふ。
鮎の生命であるアノ香気は頭のてつぺんが一番強い。つぎに皮と骨である。肉は清淡な味が舌先に溶けこむが、山女魚や岩魚のやうなうま味はない。鮎から香気を除き去ればさまで珍重すべき魚でないだけに、頭と骨に執着する。七月中旬頃までの若鮎ならば塩焼きにしても味噌田楽にして、背越しにしても頭も骨も肉も一口にムシャムシャ(注:後の「ムシャムシャ」は記号表示)いけるが、七月下旬から八月下旬まで脂肪が乗りきつた最もおいしい季節になると、肉は円くついて来るし、頭も骨も幾分硬くなる。そこで、頭から骨ぐるみむしゃむしゃ(注:後の「むしゃ」は記号表示)やる訳には行かないから、肉は肉だけで食つて残つた頭と骨をさらに火に焙り直して酒の肴にすれば、素敵である。頭と骨と皮の持つ、味の風趣を鮎食ふ人に理解して貰ひ度い。」
とのことです。
垢石翁は、継代人工は論外として、現在の香りのしない鮎でも、頭と骨を食べようとおっしゃるのかなあ。
いや、香りのしない鮎は、「珍重すべき魚」ではなくなっているから、食べ方の蘊蓄をされることもないか。
秋道先生の受講生が、鮎を「臭い」魚であるから、嫌い、というご時世は、永遠に不滅ではないかなあ。少なくとも、オラが三途の川で釣りをするようになるまでに、改善されることは「絶対」にあるまい。
脂肪に関しては、質の変化を問題にしなければ、現在でも七月下旬以降の鮎には頭についているとは思うが。
香気は、死ぬと、だんだん弱くなっていく。多分、香気を生成しなくなり、他方、生成された香気は気化しているからであろうと、想像しているが。
そうすると、頭を2度焼きしても、まだ、香気が残っているのかなあ。2度焼きをしたときには、香気は漂わないのではないかなあ。
最早、香気漂う鮎が天然記念物的な存在となった現在では、確かめようはないが。
ただ、珪藻が優占種である川も、藍藻が優占種である川も、大きさには変わりがないということは、村上先生が、球磨川と川辺川の鮎の大きさを比較されている。
もっとも、それは珪藻が優占種である川での鮎の大きさ、成長を、珪藻の質で比較したものではないが。藍藻が優占種の川と珪藻が優占種の川における成長、大きさの比較であるが。
もう何遍か書いたから、省略してもよいが、川那部先生ですら、何で古の川の鮎の方が大きく育つことができたのか、分からない、とのことですから、古の大鮎と、食、環境等との因果関係を考えることはあきらめましょう。
ただ、2010年、継代人工ではあるが、相模川は弁天左岸テトラに棲んでいる20センチ台をテク1が、何日間は、大漁であったから、人間が毒牙にかけなければ、それなりの大きさに育つ時間が与えられているのでは、と想像しているが。
なお、2010年は、遡上鮎が相模大堰を超えたのは5月の連休が最大で、それ以前の遡上量は少なかった。11月生まれが少なく、12月生まれが主体であろう。そのため、10月頃に18センチほどに育ったものが成長のよい鮎であった。
「遡上が遅れている」との現象は、海や川の水温が低いからではなく、孵化時期が11月か、12月日によるものと考えている。勿論、雪代の影響を受ける日本海側や東北の川は除くが。そして、12月生まれが主力の時は、18センチくらいの鮎に育つのが限界ではないかなあ。
「八月末になつて、学校の始業に遅れぬやうに倅は親を残して、一足先に矢の川峠を越えて帰京した。私は、それからもゆるゆる(注:後の「ゆる」は記号表示)と熊野川の水に親しんでゐたのである。
東牟婁郡は三重県であるが、西牟婁郡は和歌山県である。その郡境を熊野川は、西方の深い山山の間から東に向かつて流れ、太平洋に注いでゐる。和歌山県側の日足の村から対岸の三重県側にある高い円い山々と、麓に眠る村々の風景は、まことに静かである。殊に、日の出前に、淡い朝霧が山の中腹から西へ流れる趣は、浮き世の姿とは思へない。
新宮へも一泊した。泊まつた熊野川の橋の袖鉱泉宿は構へが大きいだけで、まことに不親切であつたけれど、新宮の町は通が狭いとはいへ、落ちつきのある親しみ深い空気が流れていた。熊野神社の境内も、おごそかである。こゝの宮司も、友釣の大の愛好者で私の著書の愛読者でもあつた。
天竜川へ
朝夕の新涼を、肌に快く感ずる頃、日足の熊野川に別れ、遠州の奥西渡の天竜川を指して、新宮から木の本、矢の川峠、尾鷲を経て、伊勢の宮川に添ひつつ相可口に出でたのである。西渡の天竜川で釣つたのは僅かに半日で、翌日から台風に襲はれ、天竜の山鮎の大物に接する機会を得なかったのである。天竜の鮎は上等の質とはいへないけれど、形の大きいのと力の強いのでは、飛騨の宮川と並び称されるであらう。」
ということで、天竜川での釣りは、お天道様がサボリーマンの大御所に、またしても鉄槌を加えることとなりました。
日足で見られた淡い朝霧の情景は、大井川は家山の、古墳が出土した天王山から見る朝霧、あるいは、三面川近くの朝日村からみる三面川の朝霧の情景と異なるのかなあ。「浮き世の姿とは思えない」とは、単なる文学的な表現で、ほかの場所の朝霧が演出する情景と同じかなあ。
ケ 越中の国八尾町の室牧川への旅
佐藤垢石「垢石釣游記」(二見書房 : 釣魚名著シリーズ)の「新秋釣旅」が、何年の事柄か、分からなかった。高山線が全通した昭和8年のことかなあ、と思っていたが。
井伏さんの「釣人」を立ち読みした御利益がさらにあった。
井伏さんが、垢石翁が出版する本の序を書くためであったかで、垢石翁から送られてきた便りを整理されていた。
その時、「八尾」の消印のあるハガキを見つけられた。そのハガキは、「昭和一三年」に発送されていた。
ということで、垢石翁の魚野川から九頭竜川、室牧川、宮川、下呂、天竜川、狩野川への旅が、「昭和一三年」のことと考えてよかろう。いつの年の出来事か、わかりにくい垢石翁の文で、時間の特定ができた幸運を、立ち読みで得ることができました。
魚野川
「鮎は立秋を迎えると、肥立ちの絶頂となる。そして首の付け根に脂肪の塊を蓄えて、香気がいよいよ高くなる。腹に生殖腺が発達して、片子を見るのは程もない。これが鈎に掛かって水中の中層を逸走の動作に移った強引は、竿も折れよとばかり手に応える。豪快な釣趣。ほんとうにこの刹那の趣味は、友釣を経験した人でなければ窺い得ない境地であろうと思う。
けれど、今年は鮎の育ちが甚だよろしくなかった。それと言うのは、六月下旬から七月上旬、さらに八月上旬までの間に、幾度か洪水が諸国の川へ押し出して、水の底石に発生する水垢を洗い流したために、鮎は食餌を失って充分に肥り得なかったからである。だから私等は、土用過ぎてからの大鮎を何処の川に探し求めようかと、あちこちから情報を蒐めていた。」
さて、ここでの「立秋」とは、新暦であろうか、旧暦であろうか。
2010年の暦では、二十四節気の「立秋」は、新暦では「八月七日」にあたる。
垢石が、新暦の「八月七日」を「立秋」と考えられていたとは考えられない。戦前とはいえ、30度以上の気温が続いていたであろう8月が「立秋」ではなかろう。2010年の旧暦の「八月七日」は、新暦の「九月一四日」にあたるよう。
立秋が、「九月一四日」であれば、肥立ちの絶頂も、片子を見るのは程もない、との記述も、事実に合致するであろう。
なお、老婆心ながら、「学者先生」が海産鮎が「十月二日」あるいは「十月十七日」頃に孵化している、との耳石調査結果から、「事実である」とされているが、「片子を見る」のは、十月一日頃からであって、「片子を見るのは程ない」の、「程ない」が数日の単位、日数を現しているのではない。また、その現象は「走り」であって、「開始」であって、盛期ではない。
なお、垢石翁は、「片腹を持つ」時期について、サケが遡上する川と、相模川以西の太平洋側の川における性成熟時期の違い、産卵時期の違いは、意識されていないようである。
8月中旬になって、奥利根川に湖産が20万放流されたが、大きく育ち、2、30ずつ釣れだしたとのこと。それで、出発したが、前橋から乗ってきた人が、8月上旬、2,3日はよく釣れたが、5,6匹が精々である、と。
ということで奥利根川を断念して、前橋から乗り合わせた人達と魚野川へ。
前橋の人達は、五日町へ、垢石翁らはその先の浦佐へ。
魚野川には、昭和8年以来信濃川の堰堤で汲み上げた鮎を放流していて、この年(注:昭和13年)には浦佐を中心に50万ほどを放流したとのこと。
「簗場で囮鮎を求め、その近くの磧で竿を差しのべた。見ると、まことに立派な流相を持っている。底石もなかなか大きい。その底石に、褐色の水垢が充分について、鮎の大きな歯跡がそこにもここにも刻まれている。私等は、汽車中で前橋の釣人から聞いた話を回想して肯(うなず)いた。
瀬肌と、水戸(みと)との間へ囮鮎を引き入れると、だしぬけにグッときた。引く引く。ほんとうに強引である。静かになやしておき、汀へ引きつけて手網へ抜き込んだ。手に握ると、つるつると鮎の肌は滑らかである。魚の質は結構だ。小さい頭に続いた首の付根から胴に、むっくりと厚い肉が盛り上がって、豊麗な姿。痩せ細った相模川や、多摩川の今年の鮎とは比べものにならない。背の藍色と両胸に二つずつ並んだ小判型の金色の艶が美しい。
流れは速いが、まことに足場の楽な釣場であった。二人は夕方まで快釣に眈った。私は二五,六尾、友人は三十尾ほど釣った。二十匁前後から、三十匁ほどもある大鮎ばかりである。流れに漬けた生け箱で、ことことと跳躍の音がする。」
「二十匁前後から三十匁ほど」という大きさは、性成熟が始まる頃の鮎としては、十分に理解できる。この大きさが「大鮎」と表現されているのは、食料が不十分であった年のためかなあ。それとも、魚野川では、食料が豊富な時でも、この大きさが限界かなあ。
垢石翁の「大鮎」も、時と空間を無視した基準ではないのかも。現在では、「三〇匁」は、継代人工や海産畜養を除くと「大鮎」の部類にはいることが多いが。
「夜、魚野川で捕れた日本鱒の塩焼と鮎の味噌田楽を肴に飯を済ますと、浦佐の郵便局長関久治氏が、二,三の職漁師を伴って私等を訪ねてきた。関氏は魚野川筋では素人釣師中の名手である。そうして、関氏は私が先年世に出した拙著『鮎の友釣』を懐ろにしてきて、いろいろと鮎釣のことについて、私に尋ねるには、一方ならず心を動かされた。職漁師も関氏と共に、釣方、諸国の川のことについて私に質問するのであった。」
その後、恙虫の話になった。
九頭竜川
「魚野川の鮎の香味は、満喫した。そして、川の条件もよくのみ込めた。これからは予定の通り、一気に越前の九頭竜川へ行こう。
美濃と越前の国境の深い山から流れ出る九頭竜川の水は清麗であった。勝山の町から下流二里、小舟渡村へ夕方着いて宿をとった。粗末な商人宿である。二人は、磧へ出て鮎のようすを窺った。九頭竜川の川面を渡る風は、もう涼しい秋風であった。
沈床の鼻に一人の漁師が竿を操っていた。
その男から今年の鮎の模様を聴いた。それによると、今年は例年に比べると非常に少ない。そして形も小さい。いつもならば一日に五,六十尾、一貫目位も釣れるのであるが、この頃は一日に二,三十尾、達者な釣人でも四,五百匁釣るのが精々であるという。形は一尾十二,三匁から、二十五,六匁位であるそうだ。この川は、鮎の友釣には理想的の流相を持っているが、いまの話では大したことはあるまい、淋しくなった。」
素石さんは、九頭竜川にダムができて、滅びゆく川の送り人になられたが、ダムができる前は当然ながら「清麗」な水であった。
素石さんは、九頭竜川にダムができるとき、長良川から樵が移植したアマゴを九頭竜川の支流に釣りに行かれ、湖底に沈む村を歩かれている。それをどこに書いたか、探し回り、やっと、「昭和のあゆみちゃん序章」に見つけることができた。 「昭和のあゆみちゃん序章」は、ゴギ、岩魚、山女魚が鮎よりも先に、山、川の変貌を受けて、消滅していく様を紹介したが、すっかり忘れていて、リンクが不十分であることに気がつきました。 戦後、「おらあさんただ」の山また山奥の道志村の隣村、津久井に住んだ釣りをしたことのなかった今西祐行さんが、小学校の先生に教えられて、山女魚に目覚めることとなった程、多くの山女魚がいた道志川ではあったが、現在、丹沢水系の在来種は亡びたとの話がある。人間が、「人間的自然」を構築するために、あるいは破壊するために、人間以外の生物のことを考慮しなかった最初の犠牲者が山女魚や岩魚かも。 |
家山の寿司屋さんら、激流立ち込み大好きさん達が、九頭竜川の鳴鹿の堰上流でないと、流れが弱すぎる、と、そこを釣り場にされて、ぬるぬるの苔に辷って、手製の素晴らしいタモを流されたが、何で、宮が瀬ダムからの水が入っていなかった頃の相模川並の、ばばっちい苔になったのかなあ。
ダムの影響だけではなく、大野や勝山の生活排水、田畑の肥料の流れ込みの影響もあるのかなあ。
「もう涼しい秋風」の表現からも、垢石翁は、「立秋」を旧暦で表現されているといえよう。
「翌朝、早く川へ出た。朝の水は冷たい。岡石の上からそっと竿を操った。けれど囮鮎をいれると直ぐ掛かった。続いて四,5尾掛かったのである。一五匁から二十匁位で、あまり大きくはない。午後三時頃までに、二人は三十近くずつ掛けた。前日、漁師から今年の九頭竜川は大したことはないと聴いていたけれど、こんな調子では悲観したこともない。夕方までやれば、充分な結果を得られよう。それに、例年の半分位しか成績が得られない今年であるというのに、この成績であるところを見れば、例年はどんなに釣れることであろう、といろいろと釣趣を想像して見た。
三時過ぎたころから、流れは次第に薄濁りとなって増水してきた。夕方近くには、二尺ほども増水したと思える。我々は急いで磧から逃げた。この辺は、少しの雨模様もなく、初秋の空一碧となっているのに増水するというのは、美濃の山奥に大夕立があったのかも知れない。段々と水も冷えてくる。
翌朝、薄明の頃川を覗くと水は次第に澄み口に向かっているのである。鮎の友釣には、濁りの澄み口が絶好の条件である。朝食後直ちに川へ出た。果たせる哉、入れ掛りで形のいい鮎十二,三尾ずつ掛けた。ところが、午前十時頃になると川は再び増水をはじめた。一時間ばかりの間に五尺ほど増水してしまったのである。
この増水に気づかなかった島の漁師三,四人は、小舟渡橋から下流へ取り残された。これ以上増水すれば、島は水を冠って釣人の生命は危ない。村民多勢が堤防の上へ集まった。どんな方法で救助しょうとするのかと評議がはじまったのである。炊き出しの握飯もできたらしい。とうとう屈強の青年四,五人が、舟を島へ漕ぎつけた。島の釣人の生命はこれで救われた。
九頭竜川は、勝山から上流大野町付近の鮎が最も大きいのだそうであるいつも八月下旬になれば四,五十匁から七,八十匁の大きさに育つ。今年、この方面ならば快釣を擅(ほしいまま)にすることができたのである、と、小舟渡の磧に小屋を営んでいる職業漁師に話して聞かされたのであるが、こう増水したのでは当分見込みはあるまい。大野へ行くのは、次の機会にしよう。私等は、その日の午後小舟渡の宿を引きあげた。」
九頭竜川には、昭和7年、宮川で垢石翁と釣りをされた野村さんが行かれている。
何で、川漁師が、増水の兆候に気がつかなかったのかなあ。
那珂川で、ぴっかんの空の下、現在は水遊園付近にあった狭い橋付近で釣っていたときは、枯れ草等が流れてきた。一段高くなった磧で見ていると、豚も流れてきた。余笹川に雷雨があったとのこと。
朝の五時五十分の天気予報では、南アルプスに過去も、現在も、未来も降雨なし。にもかかわらず、ダム放流のサイレンが鳴り、中電のパトロール車がいつもとは違い、しつこくライトを点滅させている。しばらく様子を見ることにしたが、天気予報の大外れの事例でした。
「永平寺へ廻った。永平寺は、想像したよりも寂しい寺境であった。老檜と老杉と、空を掩って境内は森厳の趣はあるが、参詣の人もあまりに少ない。伽藍の数もまた少ない。鶴見の総持寺の豪華に比べれば、山の寺の閑寂を想わずには居られない。
参道の両側にならぶ商家も、汚く小さいものである。宿屋らしいものは、一つも見当たらなかった。この頃のように、交通機関が開けては人はただ参詣しただけで直ぐ永平寺を立ち去ってしまうためである。私等も、ここに二時間ばかりいただけで、直ぐ福井駅行きの電車に乗った。
軌道の傍を流れる渓流の岸に、穂の出た芒(すすき)が白く光っている。」
昭和三二,三年頃、永平寺を見たが、垢石翁とは違い、大伽藍のすばらしさよりも、木々の間を上へ上へと続く修行の空間が気に入った。
京都でも、参道を登るとぽつんと小さな建物があり、借景を愛でる相伝院?や、畑の中を通り庭木の手入れをするために開けられていた門から修学院離宮の上離宮に入り込んで眺める景色が気に入っていた。
昭和40年代、よく散歩をしていた総持寺は、戦災を受けたのか、コンクリート製の大きな伽藍はあったが、大きさには興味がわかなかった。既に、霞ヶ関ビルができて、大きさはなんぼでも実現可能な社会になっていたからかなあ。
永平寺へは、三国ー金津ー新丸岡ー永平寺口の経路で、電車を乗り替えていったのではないかなあ。現在は、永平寺に行くには、福井からの永平寺までの電車しかないようであるが。
丸岡から、勝山に近いあたりの九頭竜川を見たであろうが、全然おぼえていない。もし、その頃、川への関心があれば、ダムがなかった頃の九頭竜川を楽しんだかも知れないが。もっとも、半世紀後でも記憶に残る出来事に遭遇できたとは思えないが。
室 牧 川
「私等は、これから飛騨の高山の山奥から出て越中の国へ奔下し日本海へ注ぐ神通川の鮎を志して、旅する予定である。その夜、富山の駅前に一泊した。神通川も濁っていた。多分、九頭竜川の上流美濃地方に大雷雨があったためであろう。飛騨へ向かう車中で、職業漁師に『おわら節』で有名な、越中国八尾町の傍を流れる室牧川がよかろうと、聞いてそこへ向かった。室牧川の中流に、下ノ名温泉というのがある。そこの巌ノ湯というのに足を止めた。幸い、温泉宿で囮鮎を飼っていた。室牧川は水量は少ないが、越中の南端白木山の方から出てくる深い渓流である。四十匁にも余る大きな鮎がいた。私等は夕方までに十二,三尾ずつ掛けた。
釣った鮎をその夜塩焼きと、味噌汁に作らせた。この川の鮎は、越後の魚野川の鮎よりも越前の九頭竜川の鮎よりも姿が立派であった。香気も、まことに高い。関東にも随分自慢の鮎が棲んでいるが、何れの川でもこの室牧川の鮎には及ぶまい、と考えた。それほど風味と香気に満ちているのである。都会人は誰も知らないこの川の鮎に接したのは、この度の釣旅の一つの発見であった、と二人は喜んだ。
巌ノ湯の中老の細君は俳人であった。その夜、女中代わりに私等のところに給仕に出たが、数年前都落ちした俳人前田普羅を後援していま富山で排誌を発行している、と話した。宿へ着いたときは、もんぺをはいた中老の山の女と見たのが、夫君と共に越中で有名な俳人であると聞いて、窓を訪れる夜の爽風に一入(ひとしお)旅の情を深くさせたのであった。」
「下ノ名温泉」とは、「下ノ茗温泉」かなあ。もしそうであれば、現在は、宿はないようである。また、八尾町の宿に「巌ノ湯」の名称もみつからない。
当然のことながら、室牧川にはダムがある。したがって、堰が遡上を妨げていないとしても、垢石翁が愛でた鮎との出会いは不可能である。
八尾町の風の盆を見に行っていたら、ねえちゃんが釣れたのかなあ。
宮川
「翌朝、早く飛騨国境へ向かった。猪谷駅で囮鮎を求め、次の駅の杉原へ下車した。高山の方から出て、奔馬のように裏飛騨を走って日本海へ向かうのが宮川、北アルプスの笠ヶ岳から出て船津の町を過ぎて流れ来たるのが高原川、この二つが蟹寺で合して神通川となるのであるが、杉原は宮川に沿い、高山を過ぎ岐阜に通ずる飛越線の小駅である。駅から宮川まで二,三町であった。流れは激湍の連続で、変化に富んでいる。水は薄く濁っているが、釣れぬことはない。
鮎は大きかった。三十匁から五十匁ほどである。それを細いテグスの一厘柄で釣ってみた。その日は、鮎の生け箱が重くなるほど釣った。夕方早く引きあげて、表飛騨の下呂温泉の傍を流れる飛騨川を志して出発した。」
飛騨川から…
「下呂は、不夜城の温泉街である。この温泉の崖を洗う飛騨川は、豪宕(ごうとう)の趣を飛沫の色に漾(ただよ)わせている。その夜、宿に命じて宮川で釣った大鮎を膾と味噌田楽に調理させた。冷たい麦酒がおいしい。
鮎が育つには絶好な急流と岩とを持っている飛騨川であったが、この川は近年上流から下流までの間に五,六カ所の発電ができて、本流の木曽川からほんとうに天然鮎が遡らないようになった。そこで岐阜県では年々琵琶湖の稚鮎を放流するけれど、数の知れた放流鮎は数の知れない天然鮎に比べれば、全然問題にならないのである。今年も、下呂温泉の上下流へ四,五万尾放流したが、これはもう七月中に殆ど釣り上げてしまった。
そんなわけで、いま飛騨川には釣人の姿がほとんど罕(まれ)だ。確かに、二,三人の職業漁師が水に浸かっているのを見たけれど、その人々も一日頑張って四,五匹釣るのが精々である、と宿の番頭が話す。
だが、七月一日の解禁当初から一週間ばかりはよく釣れる。また五月中旬から六月下旬には山女魚が、一日に一貫目以上も釣れるからその頃、また遊びにきて下さい、と慰めて呉れた。
とうとう飛騨川へは竿を出さなかった。下呂温泉をたって一気に東海道へ向かい天竜川を試みようとしたけれど、これは連日の大雨で濁っている。富士川も同じ事であった。天竜の大鮎は、私の憧れの的であったが、濁水ではどうにもならぬ。富士川の釣も諦めねばならない。
伊豆の狩野川で、最後の友釣を試みることにした。沼津から長岡温泉へ向かった。その天城山の奥に雷雨があったらしく、翌朝狩野川は濁っていた。ところが、この川は澄み口が早いので正午頃には水の色が明るくなった。稚児ヶ淵の下手の堰下を選んで竿をいれた。午後から夕方まで、十二,三尾釣った。狩野川は、六月一日の解禁以来五日にあげず増水している。そのために鮎の餌である水垢が底石に充分つかない。鮎は餌の不足に悩まされて肥り得なかった。
この日釣った鮎も、丈ばかり長く背から見ると鰻のような形をしている。長さは七寸五分から八寸位はあったろう。けれども、腹は痩せ細って背の肉も薄い。これでは味のよかろう筈もなく、香りもついてはいない。
新聞の天気予報を見ると、また台風は日本へ近づいてきたという。狩野川の釣も僅かに半日で断念せずばなるまいか。」
宮川を早々と去ったのは、鍋飯(鍋飯1 鍋飯2)ではなく、御馳走を食べたかったかなあ。
下呂が不夜城とは、違和感を感じるが。昭和三十七,八年頃、趣味に合わない下呂で下車した。千円札が消えてもよいと思ったのか、どんな理由か、さっぱりおぼえていないが、旅籠ではなく、珍しく温泉宿に泊まった。夜、それほど、きらびやかな温泉街という記憶はないが。杉原と比べれば、不夜城ではあるが。
滝井さんや、狩野川からの出稼ぎ漁師山下さんが釣った飛騨川が、既に放流河川になっていたとは。数年での変化が大きいということかなあ。
解禁当初は釣れる、ということは、湖産が、「線香花火」であるからであろう。故松沢さんも萬サ翁も、湖産と海産の習性については的確に観察されていた。
稚児ヶ淵が釣り場でなくなったのは、あるいは、上島橋下流が質が悪い鮎が育つということで、大きい鮎が釣れて喜んでいたのはオラ位であるというようになったのは、東洋醸造が工場排水を流すようになってからかなあ。
東洋醸造の排水が鮎の大量死を招いたのは昭和二十八年ではなかったかなあ。
狩野川で、七,八寸の鮎が育っていたとは、現在では考えられないこと。
そして、伊豆長岡にある稚児ヶ淵ですら、垢石翁のお眼鏡に適う鮎が育つ水、石、流れであったということも。
香気が、食料とは無関係だとおっしゃる高橋さんは、垢石翁が釣られた香気のない狩野川の鮎をなんと説明されるのかなあ。返事を貰っていないため、わかりませえん。
4 遡上の情景と時期
(1)利根川の遡上時期
垢石翁が、利根川は上州への遡上時期を推測させる次の文が気になっていた。
理由は、
@ 鮎の生存限界は水温7,8度くらいのようである。
A 4月上旬は、あるいは中旬は、谷川岳の雪代が、湯桧曽川から、水上へと流れていたはず。したがって、水温は生存限界以下ではないかなあ。
垢石翁は遡上時期について
「鮭は、淡水へ入ると餌を口にしないけれど、鱒は盛んに餌を食う、その狙う餌は、主として若鮎の群れである。なにしろ、小さくても五,六百匁、大きいのは一貫七,八百匁もあるのであるから、随分若鮎の数を食うのであろう。であるから、必ず流れを遡る若鮎の群れには大きな鱒がつきまとい、瀬際の揉み合わせに鱒が跳躍するところには必ず若鮎の大群がいた。
この鱒は、次第に鮎とともに上流へ遡ってゆき、利根川の流れを水力電気の堰堤が中断せず、また上流地方の山林が乱伐の災いを受けないで、夏でも水量の多い時代は、沼田からさらに上流の支流薄根川、赤谷川まで遡り込み、本流は上越国境の雪橋、雪渓のあるあたりの渓間にまで遡り込んで、山や谷が錦繍(きんしゅう)の彩に飾られる十月中旬から産卵をはじめたのである。
そんな次第で、私の故郷の地元の利根川へは、遅くも四月下旬には鮎の群れと鱒の群れとが姿を波間に現した。」
4月下旬には、雪代はおさまりかけているであろうが、まだ上州の水は冷たいのではないかなあ。
初体験
「垢石釣游記」(二見書房)の「父の俤」の章に、
小学校へ入学して間もない頃、藻エビ採りで、「父のお供をして若鮎釣りに使う餌取りの相手をさせられた。」
「海から下総の銚子の利根の河口へ入って、長い旅を上州の前橋近くまで続けてくる若鮎の群れは、溯る途々、淡水に棲む小蝦を好んで餌にするのである。であるから、その頃未だ、加賀国や土佐国で巻く精巧な毛鈎が移入されなかった奥利根川の釣人は、播州鈎や京都鈎に藻蝦の肉を絞り出し、餌としてつけたのであった。
若鮎の群れは、鈎先につけた蝦の肉を見ると、競い寄って食った。鈎の種類など択ぶ必要はないほど、数多い鮎が下流から溯ってきたのである。竿は、藪から切り出したばかりの竹でもよく、場合によれば桑の棒でもことは足りた。近年のことを想えば嘘のように釣れた。
朝の飯を食べると、私はちょこちょこと父の後へ踉(したが)った。前橋から下流一里ばかりの、上新田の利根河原へ行ったのである。
父は、三十歳前後の、勘のいい盛りであったであろう。私は、河原の玉石の上へ腰をおろして、竿捌きあざやかな父を眺めた。いまから想い出しても、父は釣りが上手であったと考える。二間一尺の小鮎竿を片手に、肩から拳まで一直線に伸ばして、すいすいと水面から抜き上げる錘に絡んで、一度に二尾も三尾も若鮎が釣れてくる。その度に、幼い私は歓声をあげて、網魚籠の口を開けては、父の傍へ駆け寄った。
私は、父より先にお腹が減った。包から握り飯を出して頬張ったのを顧みて、父は、
『はじめたね』
と、言って竿の手を休めた。そして、竿を石の上へ倒して置いて、私と並んで礫の上へ胡座したのである。
五月の真昼は、なんとすがすがしいやわらかい風が吹くことであろう。小石原から立つ陽炎が、ゆらゆらと揺れる。砂原の杉菜の葉末に宿った露に、日光が光った。
目の前の、激流と淵の瀬脇で、ドブンと日本鱒が躍り上がった。一貫目以上もある大物らしい。
日本鱒も、河千鳥と同じように、若鮎が河口へ向かうと一緒に、遠い太平洋の親潮の方から、淡水を求めて溯ってくるのである。夷鮫が、鰹の群と共に太平洋を旅して廻るのは、鰹を餌食とするためであるが、日本鱒も若鮎を餌としながら大河を溯る。であるから、利根川筋では、昔から若鮎を餌に使って日本鱒を釣っていた。」
藻蝦が餌釣りの餌になるとは知らなかった。シラスを使ったことがあるが。
「日本鱒」と、断らなければならないのは、いつ頃からのことかなあ。ニジマスの放流が、芦ノ湖や中禅寺湖?に限られなくなってからのことであろうが。
国鱒が西湖で見つかったとのことであるが、これまで、ヒメマスの釣り人は、容姿も性成熟もヒメマスとは異なるのに、何で違いに興味を持たなかったのかなあ。
土佐の毛針は初めてのこと。どのように加賀針と違うのかなあ。
「『お父さんが、お弁当を食べている間、お前が釣って御覧』
私は、父がこう言ってくれる言葉を、朝から待っていたのであった。
軽いとは言っても、子供には力負けするような父の竿を握って、私は錘を瀬脇へ放り込んだ。父のするように、竿先を少しづつ次第に水面近くへあげてくると、ゴツンと当りがあった。びっくりするような強引の当りである。
はじめて釣竿を持った幼い私に、余裕も手加減もあろう筈がない。当りと一緒に、激しく竿先を抜きあげると、大きな魚が宙に躍った。私は夢中になって魚を陸へ振り落としたのである。そして、石の間を跳ね回る魚を双手で押えつけた。
それは、若鮎ではなかった。腹に一杯卵を持った紅色鮮やかな鰔(注:「うぐい」であろうが、「カレイ」とパソコンでは表示されています)であった。子供の私の眼に一尺以上もある大物に見えたのである。鼓動が鳴った。手が震えた。
父は、ただ手を拱いて顔も崩れそうに笑った。そして、
『逃がすな、逃がすな』と、声援して『よくもまア、こんな細い綸であがったものだ』こう言葉を続けて感嘆した声が、いまでも私の耳の底に残っている。」
オラは、垢石翁よりも一年早くマブナ、モロコ、大陸バラタナゴ?の釣りをしている。垢石翁は、数えで年を表現されているが、オラは小学校入学前である。家の前にあったため池で、近所のガキ大将に教わったのではないかなあ。幼稚園の演芸会も途中ですっぽかして釣っていた。当時は電話の連絡網なんてものは電話加入者がほとんどいなかったから存在せず、トンずらしても、釣りには差し支えなし。そして、垢石翁と違い、最初に釣ったマブナの感動もない。それほど、日々、釣り浸っていた。
若鮎の登場時期
さて、若鮎がいつ頃、前橋にやってくるのか。
「楢の若葉」の章を見る。
「いま、想い出してもその時のことがはっきりと頭にも泛(うか)び、眼にも描かれる。
三十五,六年前の、四月二十四日のひる前であった。私は十二,三歳の少年。父は三十七、八歳、溢れるような元気に満ちた壮者であったろうと思う。
鰔(はや)は、利根川の雪代水を下流から上流へ、上流へと溯ってきた。鰔という魚は、おいしいと賞めるほどでもないが、産卵期が近づくと、俄に活動が盛んになってきて、頭から横腹、尾の端まで紅殻を刷いたように薄紅の彩りが泛び美装を誇るかに似て麗艶(れいえん)ともなるのである。そして、腹の小粒の卵にある一種の風味を求めて、私の村の人々は毎年春になると、遠く下総国の方から溯ってくる鰔を、飛沫をあげて流れる利根川へ釣に行った。
その朝まだ薄暗いうちから、私等父子も田圃の畔まで母に送られて家を出で、利根川の崖下まで行ったのである。父は、二間半の竿を巧みに使った。私は、軽い二間半で道糸に水鳥の白羽を目標につけ、暁の色を映し行く瀬脇の水の面(おもて)を脈釣で流した。
少年の私でも、忙しいほど釣れたのを見ると、その頃の利根川には、随分多くの鰄がいたのであろう。二,三時間で、魚籠は一杯になった。魚籠の中で、バタバタと跳ねる魚の響きが、腰に結わえた紐から体に伝わってきて、何とも快い。
腹が空いてきた。
『もう、帰ろう』
父は、ニコニコしながら私を顧みて言った。もう、朝の陽は一尋ほども空へ昇っていた。晩春の朝の微風が、砂丘の小草の若葉を撫でながら渡ってきて綸(いと)の目標の羽毛をひらひらと動かす。汀の小石には、微かに糸遊(いとゆう)が揺れはじめた。
私は父の言葉に心で応えて、口では答え得なかった。それほど、魚の当たりが忙しい。いまの目標の動きは、魚の当たりか、風の煽りか、その判断に固唾を呑んでいる時に『帰ろう』と言う、父の言葉であったのだ。
僅かに竿先へ煽りを呉れて軽く鈎合せをすると、掛かった。魚は、水の中層を下流へ向かって、逸走の動作に移った。やはり、水鳥の白羽の動きは、鰔の当りであったのである。」
「私は、利根川の崖の坂道を登りながら、遙々と奥山の残雪を眺めた。そして、ぽつぽつと、父の後を踏んで歩いた。
雑木林へ差しかかった時、父は、
『これを御覧』
こう言って私に、楢の枝を指した。何のことであろうと思って私は、父の指す楢の小枝へ目をやったのである。楢の枝には、渋皮が綻びたばかりの若芽が、僅かに薄緑の嫩葉(わかば)を、のぞかせていた。
『この楢の芽を見な。この芽が樺色の渋皮を落として、天保銭くらいの大きさの葉に育つと、遠い海の方から若鮎が溯ってくるんだよ』
こう、父は思い出深そうに、私に説明するのであった。そして、それは毎年、五月の端午のお節句が過ぎたころである。その頃になると、磧の上に河千鳥の叫ぶ声を聞くであろうが、河千鳥は下総の海の方から、鮎の群れを追いながら、空を翔ってくるのだ。であるから、河千鳥が流れの上に、空住いして水面に、何ものかを狙うように羽摶きするのを見たら、若鮎の群れはもう、円い礫(こいし)のならぶ瀬際をひた遡りに、上流へ遡っていると思ってよろしい。と、細々と話して呉れた。
二人は、いつの間にか路傍の草に、腰をおろしていたのである。
『鮎がきたら、二人で精一杯釣ろうね』
私に諭すように言う。ほんとうに優しい父であった。」
この文を見つけて、前橋への遡上が、五月以降とわかり、ほっとした。
谷川岳の天神平スキー場は、昭和四〇年頃、四月上旬、一〇日頃まで営業をしていたはず。したがって、雪代の影響が消え、あるいは湧き水の水温を低下させる力が弱くなるのは、四月中旬以降の筈。
谷川岳の雪代が消えても、支流の片品川の雪代の影響があるか、気になるが。
片品川の上流付近には、尾瀬沼に水芭蕉が咲き始める五月下旬でも、雪がたっぷりと積もっている燧岳、至仏山がある。
しかし、至仏山、燧岳の雪解け水は、三条の瀧を経て、只見川に流れていて、片品川には流れ込んでいないと思う。至仏山を降りてから、バス停まで歩いたのは雪のない道。その道の尾瀬とは反対側に、片品川は流れていた。
ということで、谷川岳の雪代水が、湯桧曽川に流れ込むのは、四月中であろうから、5月には雪代が利根川に流れ込むことはなかったのではないかなあ。したがって、五月に、生存限界である七,八度よりも高い水温になっているから、前橋に若鮎が遡上していると考えている。
垢石翁は、明治二一年生まれ。
小学校に入学したのは、明治二七,八年であろう。一二,三歳の頃は、明治三三、四年頃。
その頃よりも、ハヤが減っているとはどういうことかなあ。現在では、鵜の食害もハヤの減少に一因としてあげることができるが。
また、ハヤは、どの程度の距離を上っていくのかなあ。
垢石翁は、「楢の若葉」の章を、
「鮎の姿が、眼に泛ぶ。釣った鮎を手に振ると、父の愛が蘇る。地下の父と、鮎とが渾然としてしまう。
竿を差しのべて、汀に佇む痩せ形の父の姿。家にあれば、何なりと村の人の言うことに、諾々とうなずいた好人物の父。
鏡に映る吾が白き鬢髪(びんぱつ)を見て、年毎に亡き父の俤に肖(に)てくる吾が姿を想って、感慨無量である。」
と締めくくられたいます。
なお、「垢石釣游記」には、「父の俤」、「母の匂い」、そして、酒匂川に移ったときの「想い出」が収められています。
ということで、これまでは、下りの時期について、学者先生と故松沢さんや弥太さんら川漁師との観察の違いを見てきたが、上りについて、川漁師がどのように話されていたか、見ておこう。
(2)紀の川の遡上時期
小西島二郎 佐藤清光「紀の川の鮎師代々」(徳間書店)
産卵時期及び下りをしないで産卵する現象
「小西 紀の川では、例年、鮎の産卵は適当な秋出水で水温が下がってくる九月中旬から始まり、遅いものは十一月の中旬ころまでです。産卵する場所としては紀の川の下流、岩出橋から下流になるのがふつうです。やはり水温の高いあいだはいつまでも落ちようとしないで、集団になって上流に残っておって、増水がなければそのまま水温が下がるにしたがい、上流で産卵するということがあるんです。」
この文を読むと、学者先生が教義としている九月から十一月末までに産卵を行っている、ということが、「事実である」となるが。
小西翁は、「九月中旬」からの産卵が湖産であることを認識されている。「紀の川の鮎師代々」は、一千九百八十年、昭和五十五年に発行されているから、まだ、継代人工が放流鮎の主役にはなっていない。したがって、川にいたのは、遡上鮎、汲み上げ放流、海産畜養、そして湖産畜養である。
そのうち、湖産の産卵時期が「九月中旬」である。
さて、次に、終期の「十一月中旬ころ」が事実であれば、「アユ学」の、十一月中に産卵が終わる、という記述が事実である、となる。
この点が一番困っている。産卵風景を観察できなかったから、「産卵が終了している」と、判断されたのではないかと想像しているが。
ウエーダーのない時代、水に入らないと産卵の情景が観察できなかったのではないかなあ。波立ちを生ずるほどの産卵現象であれば、磧からでも観察できるが。
また、このような記述が流布して、鈴木敬二先生らの狩野川だけ、性成熟の遅い鮎がいる、との話になっていったのではないかなあ。
相模川でも、遡上量の多いときには、12月1日の再解禁の時、高田橋でも、厚木でも、産卵を終えていないアユが釣れている。したがって、岩井先生が九州の川に限定されている?12月産卵の鮎が相模川にもいる。
「下りをしないで産卵する」現象について
故松沢さんが、十月上旬ころに産卵する鮎がいる、その鮎は下りをしないで産卵する、その卵は腐る、と話されたとき、その親は継代人工と思っていた。
しかし、湖産も、海産畜養も、野村さんがトラックで運ばれてきた鮎はすかん、と話されている放流鮎全てに共通する現象と考えている。
2009年相模川の相模大堰遡上量は100万ほど。したがって、遡上鮎が釣りに対象になることはない量であった。漁連義務放流量は、現在は270万ではないかと思うが(以前は320万?という話があったが)、このうち、キロ4500円?の県産継代人工種苗が放流されていたら、県産種苗が死んで100万の放流量が川から消えていたはず。
幸いなことに川に放流される前に、県の種苗センター(財団法人になっているようであるが)か、漁連のプールでかで、死んでしまい、義務放流量の1/3を構成することはなかった。
そこで、稚鮎の多かった駿河湾の浜名湖産の畜養鮎が購入できて、義務放流量を構成することになった。
釣りの主役となった海産畜養は、11月1日ころから、磯部の堰上流に移動するものが出てきた。昭和橋付近では、100,200羽の鵜の鳥山が、12月5日ころまで続いた。
ということで、海産畜養も、「下り」をしないで、産卵すると考えている。
勿論、小西翁が話されているように、増水で流されて、産卵場付近で産卵するものもいるが。
砂礫層で産卵することは、本能=「本然の性」に基づく行動であるが、孵化した仔魚が、七日くらいで海に到達できる距離の砂礫層をどのように、選択しているのか分からなかった。
山崎さんが潮呑み鮎が、産卵場所調査に関係しているのではないか、と書かれているが、上流からの鮎のほうが早く下ってきて産卵行動に入るはずであるから、適切な評価ではないとは思っていた。
海からの適切な距離に産卵場所を選択することは、「学習効果」ではないかなあ。
遡上してくるとき、海からの距離を認識していて、適切な海からの距離の産卵場所を選択できるのではないかなあ。
したがって、「気質の性」に属する事柄であるため、トラックで運ばれてきた放流鮎には、産卵場所を探す能力に欠けていて、「下り」をしないで産卵しているのではないかなあ。
産卵場所
「けれど、ふつうは下流です。産卵に適当な場所というのは急流の小砂利の川底がやわらかく、足を入れると沈みこむようなところを好むのが通常ですが、適当な条件のところがない場合には、川床がやや固いこところでも産卵します。九月中旬をすぎると、雄の鼻っ柱あたりが、次第に硬くなってくる。鼻っ柱が硬くなった数尾の雄が鼻でつついて、小砂利をやや掘ったところに雌がきて産卵するんです。雌一尾が数尾の雄に囲まれるような形で産卵が行われる。浅瀬であれば、相当の水音をたてる場合もあるし、そうでなく、我々にわからんような場所で産卵することもあります。
この卵の数は一定していません。これは魚体の大きさによるわけです。八万くらいのものもあれば、最高のもので十万以上あるものもあります。それを一気に産卵するということはないんですわ。二,三回、休んで、また産卵するというような状態です。
産卵は比較的流れのある場所で行われますが、これは流れのある小砂利には水アカがついていないので、卵がそれだけ石に付着しやすいからだと思いますな。卵には石に密着するだけの力を持って力を持っているわけです。そしてそこの石にからみついて孵化する。この孵化は水温に大いに関連するんです。摂氏二十度ぐらいの水温の高いおりには一週間から十日くらい、十五度ぐらいの低い状態だと二週間ぐらいかかって孵化する。孵化した稚魚は肉眼では見えにくいくらいですが、自然に下流へ流れていく。そして流れ落ちて、海水と真水との汽水帯(河口の、海水と淡水の中間濃度の塩分を含むところ)へ入って、そこで一服して海に入る。
一方、産卵を終えた雌鮎と雄鮎はだいたい死んでしまいます。これを一年魚というのですが、しかし、たまには水温の高い湧き水のある場所へ寄った鮎で越年するものもある。それが二年こ(二年魚)になるわけです。それはごく少数です。この二年鮎というのは一年鮎よりは鱗になめらかさがなく、各鰭ともやや厚く、一見した感じがいかめしいんですわ。色も黒ずみ、痩せ形で、川開きの頃には見分けのつかぬような二年こもたまにはありますが、水温が高くなるにつれ、しだいに痩せがひどくなって容易に見分けがつくようになってきます。」
孵化に適する水温が、「20度」という話は、湖産のことであろう。
神奈川県内水面試験場では、継代人工は水温19度で孵化している、と話されていたから、湖産、継代人工の一部は、水温20度くらいで孵化するのではないかなあ。
そして、太平洋側のサケが遡上しない川では、水温15度以下で孵化しているのではないかなあ。さらに、多くの孵化は、水温12度くらいで行われているのではないかなあ。
氷期の遺存習性を色濃く持っているようである湖産が、水温の高いときに産卵をし、海産の方が低い水温で産卵するようになっているのかなあ。
そのため、氷期の産卵に係る遺存習性が、湖産に強く残っていて、「光周性」要件が性成熟と強く関連性を有しているのではないかなあ。
他方、太平洋側、サケが遡上しない川では、温暖化と共に、光周性が性成熟と関連性を有している鮎は、滅んでいって、川、海の水温との関連性を持つ鮎だけが生き残ってきたのではないかなあ。
なお、水温による孵化日数、大きさによる卵数について、まだ信頼に足る読み物に出会っていないが、小西翁の片腹ずつ産卵しているのでは、と思わせる話と、大きさに係る卵数については、適切な観察ではないかなあ。卵数について2,3万との記述に出会うことがあるが、親鮎の大きさを考慮していないと思う。また、湖産親である可能性もあるのではないかなあ。
水温が低ければ、孵化日数が長くなるから、12月産卵の孵化率が低下する要因になるのかなあ。
小西翁のヒネアユの記述が、前さんのヒネアユ探訪と同じ観察か、どうか、気にはなるが、さぼりましょう。
遡上の情景
「小西 さて、海に行った鮎の稚魚が遡上しはじめるのは、この紀の川では三月の十日ぐらいです。ちょっと遅れると、二十日過ぎになります。そのころの水温はだいたい十二,三度くらいのもんで、稚鮎は水温の上がるのを待っておるわけですから、水温が上がりさえすれば寄ってくる。遡上する鮎は一寸(三.三センチ)から大きいものは三寸近くあり、肉眼でもよく見えますよ。紀の川の遡上期間は約二ヶ月あまりかかります。一番上(のぼ)り、二番上り、三番上りとあって、一番上りが大形のもので、最も早くやってくるわけです。
だいたい体長は一寸二,三分の鮎がスイスイと群れをなして、昔ではこの妹背の淵まできても一寸くらいのものはざらにあったわけですよ。いまでは井堰のために遅れて、遡上は川開き以降になってしまった。昔のことを思うと問題にならんくらいのことですけど、自然遡上の鮎は大したもんですよ。いまでも岩出から下流は全部、自然遡上の鮎で漁期中まかなえるわけです。そのためうちの漁は、いまでは重点を岩出から下流においておる。一年中うちがとるだけのものは、岩出から下流です。
遡上してきた稚鮎は難関である井堰にぶつかる。各井堰には遡上する鮎のために魚道がつくられていて、稚鮎はその魚道を上ってくるんです。大半は上るんやけど、かなり落差があるために、その年の鮎の生育かげんによっては魚道を上りかねて落伍するというものも出てくる。これらの稚鮎は魚道の裏で、一時、集団になって停滞しとるんですが、川開きの追い込みや増水などで、逐次、遡上していくわけです。」
コメントの項
「紀の川の稚鮎の遡上
昭和三十年ごろまでは、紀の川も昔のままの自然が保たれていた。紀の川全域に十カ所ほどの井堰があったが、いずれも落差の小さいものであった。上流の小田井堰(おだいせき)は岩石を積み上げた強固なつくりでも、出水ごとに流失して、『小田の井堰は蛙の小便で流れる』といわれ、稚鮎の遡上にはいずれの井堰も支障はなかったのである。
気温の関係で遅速はあるが、三月中旬、水温が十三度以上になれば、海域を離れて汽水域に入った稚鮎は、上流の淡水域へ遡上を始める。始めに遡上する稚鮎ほど大きく、体長五センチくらい、中には六センチ以上のものもある。この稚鮎の長い列が川岸伝いに浅場をよって午前九時ごろから午後三時ごろまで、一隊上って、また一隊と遡上していく。そして私の住む紀の川の川口から二十七,八キロの舟岡村付近には、四月のかかり(上旬)には遡上してきた。
ところが、それまで十カ所あった井堰が昭和三十二年十二月に四カ所に統合され、上流から、小田、藤崎(ふじさき)、岩出(いわで)、六十谷(むそた)に井堰がつくられた。どの井堰もコンクリートづくり、落差は五メートル内外もあり、魚道の勾配も急で、稚鮎の遡上はたいへんむずかしくなった。最下流の六十谷井堰は、堰下まで海水が押し寄せてくるようなところで、干潮時には魚道の落差がとくに大きくなるため、まったく遡上できない。稚鮎は満潮を待って魚道を乗り越えるのであるが、なかには落伍するものもできる。落伍する稚鮎はほとんど腹鰭(はらびれ)の付け根が充血し、井堰の漏れ水の落ちる場所に群れをなしてたまる。こういった稚鮎は紀の川漁業組合員が網ですくい、井堰の上手に放流する。
六十谷井堰を超えた稚鮎は、上流七,八キロ地点の岩出井堰へ遡上してくるが、ほとんどの稚鮎は堰下でたまって、五月二十六日の川開きのころまで停滞する。川開きにコロガシ釣りや網打ちに追われた鮎は一気に魚道を上り、逐次、追い上げられて、さらに上流へ分散して進む。そして舟岡山、妹背の淵まで遡上してくるのは六月中旬にもなる。完全な井堰のなかったころに比すれば、鮎の遡上も井堰のために大きく変化したものである。写真は遡上する稚鮎(三月二十日ごろ)」
オラは、遡上する鮎を3回しか見ていないため、小西翁の観察を適切に評価できないかも知れないが、堰があることが遡上阻害要因となり、遡上時期に影響している可能性はあるのでは、、と考えている。
20世紀末ころの大井川、笹間渡鉄橋の5月1日ころ、5センチ足らずの遊泳力の弱い稚鮎が、辺を上っていた。時期から見ても、大きさから見ても、1番上り、2番上りではなかろう。既に、一番上り、2番上りは、堰の遡上阻害要因がないか、小さい大井川では上っていったのであろう。
21世紀になった4月末、みなとみらい21の端を流れる大岡川に、10センチ近い稚鮎が、第2橋の汽水域であろうところを上っていた。多摩川産ではなかなあ。三浦半島を廻ってきた相模湾産ではないと思うが。
2004年、相模大堰を1600万遡上した年の4月29日、9時前の高田橋付近、1メートル近い帯が2筋になって、えんえんと上っていた。1時間ほど見ていて、次いで、弁天で全国区の人と見ていたが、末尾を見ることなく、帰った。
相模大堰は、調査開始の4月1日以前から遡上していたと考えているが、磯部の堰で、何らかの条件が発生するまで、たまっていたのではないかなあ。そのため、1番上りも2番上りも3番上りも同時に磯部の堰を超えたのではないかなあ。
磯部の堰の魚道は2段階となり、非常に上りにくい魚道であると思う。
先頭の遡上鮎は見なかったが、9時前には5センチ以上が、1時間ほど後には5センチか、それ以下の大きさであった。
このことから、紀の川でも、遡上鮎が、堰で滞留することがあるのではないかと考えている。
遡上開始の水温が、「13度」とは少し高いのではと思うが、低くても11,2度の水温になってからではないかなあ。
下りをしない放流鮎の習性、湖産と沖取り海産の産卵時期の違い
「ただ湖産鮎っていうのは早熟です。だいたい自然のものに比べて約1ヶ月早いですな。湖産鮎が腹へ子を持つのは1ヶ月くらい早いです。和歌山の海でとる海産鮎は遅れます。この海産鮎は自然に遡上する鮎とよけい変わらないんですな。放流したものは、放流した場所へ秋になったら戻る。これはふつうの増水のおりでも、チリジリ、チリジリに、放流した場所に戻ってくる。上流へ行っとってもね。放流場所はわが根拠地で、なるべくその付近で産卵したい気持ちもある。それからまた、水が出るというようなことがあったら、そりゃずっと下るわけですけど、水のでない場合は、その付近で産卵する。こりゃ、鮎の習性ですな。放流した場所、これは母親の場所へ戻ったという気持ちじゃないかしらと思う。」
流された鮎について
「それから洪水の時なんかはみな川下(かわしも)へ流されるんです。とくにひどい流され方をするっていうのは、干魃がつづいて減水がひどいとき、上流で夕立なんかがあって、きつい、濁りになるとき、鮎は一気に流れるんです。そして、いったん下流に流れた鮎は減水と同時にまた上がってきますやろ。次の夕立のときは全部は流されへん。それで今はそういう漁はないんやけど、昭和三十年ころまでは土嚢(どのう)とか石で積んだ状態に時分は、夕立で流された鮎が藤崎井堰にたまるわけです。そしたらその鮎を舟に仕掛けたハネ網てあったんや。杓字(しゃもじ)型の網ですね。柄の部分の長さが二間以上もある。それを舟のみよしからぐっと突っ込んで、舟の一番艫(とも)の場所でハネ上げるんです。この操作で鮎をすくうときには、舟が二十隻もあったわけですわ。そういう漁法で全部で何百貫という漁があったわけですよ。それだけ一気に流れるわけです。そのハネの漁があった時分は、鮎の引き返してくるのは早かったわけです。ところが、今はそのハネの漁がないせいか、遅れて上ってきます。ゆっくりと遊んどるわけです。それがぼちぼち水の濁りがややさめたっていうと、一気に上るんです。群れ鮎にはリーダー格のもんもあるんやろうと思えるくらいの集団でね。春の稚鮎の上った状態と同じように大きな成魚の群れが連れて上流へ上流へと上るわけですよ。」
きつい濁りを避けることが行動の動機付けではないかなあ。4メートル、5メートルの増水での話は違うと思うが。
流されるといっても、どのくらいの距離かなあ。放流ものとは異なると思っているが。
再び上ることの古との違いは、ハネ網漁が理由かなあ。二,三メートルまでの増水時に、どこに避難するのか、は、故松沢さんに尋ねたら、鮎に聞いたことはないから分からないが、との、枕詞のあと、どのような説明をされるのかなあ。
なお、放流ものは、流されたあと、以前の場所には戻らない、との記述が何処かにあったが。
(3)長良川
郡上八幡を始め、鮎釣り、鮎漁のメッカであり、故松沢さんも商売気抜きで長良川に行かれたこともあるのに、長良川の鮎について書かれた本に出会わない。
前さんが万サ翁について、そして、亀井さんが大多サについて紹介されているが、齋藤さんは、「川漁師 神々しき奥義」では、釣聖恩田さんにアマゴを語られていて鮎ではない。
しかし、紀の川の小西翁のように、あるいは、江の川の天野勝則さん「川漁師の語り アユの江の川」(中国新聞社)(この本は、村上先生の「河口堰}で紹介します。)のように、多くの記録が長良川筋には残されていると考えている。
それらの本が見つかるまでのつなぎとして、
井伏鱒二ほか「鮎つりの記」(朔風車)の亀井巌夫「長良川ノート」に書かれている大多サの遡上状況を紹介します。
大多サは、
「長良川に遡上する天然鮎の群れは、例年三月下旬に美並村に達し、四月にはもう八幡に姿を見せていた。」
「七月に入れば解禁となり、天下晴れて稼ぐことができたが、当時の天然鮎は、“五月川”でも昨今の七月鮎に負けぬほどよく肥えた大物が釣れた。しかも放流鮎と違って天然鮎は九月十月まで川に滞っていたから、十月半ばまで友釣りをしたものだという。」
「十月なかばすぎようやく落ち鮎期となると、坪佐や神路、中野といったヤナ場では“一と水百五十貫”といわれるほど、多いときは一日で三百五十貫もの鮎が獲れたそうだ。」
美並村は、郡上八幡の下流。
郡上八幡から、岐阜までの位置関係は、野田さんの長良川の川下りを見てください。
さて、遡上鮎の最後に、前さんに話された万サ翁を紹介することにしているが、その中で気になることを考える上で、亀井さんの「長良川ノート」の次の文を省略できないと考えている。
その文とは、
「この四メートル余りの荒瀬(注:モモノキ岩で出来ている荒瀬 故松沢さんが、晩秋の郡上八幡で束釣りをされたときに乗っていた可能性がある岩ではと想像しています。丼大王らが、2011年に郡上八幡に行くかも、と話されていたから、何か、分かるかも。)に居を構える大物は、きっと猛々しい天然鮎に違いない。四月上旬から始まった五十一年の放流は六月下旬で一〇〇%完了した。約一万キロ、数にして凡そ四五〇万尾という。一方、天然鮎は五月中旬美並村の下田橋に姿を現し、六月上旬には大和村に達したといわれる。もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たちである。
彼らは池や湖育ちの放流鮎を追い払い、荒瀬に、深淵に傲岸の鰭を逆立てる。遙かな海上から六十キロ、八十キロと奔流を溯り、激端(げきたん)を超えてきた荒くれたちは、すでに体力において放流鮎をしのぎ、勇猛心においても抜きんでているだろう。モモノキの底でも、彼らは雄叫びを上げ、歯を剥き出して壮大な肉弾戦をくりひろげる。激流の底の岩盤には勇者たちのVサインのように、記念のハミ跡が翻々と刻み込まれていることだろう。」
この文章が、萬サ翁が前さんに話された郡上八幡の鮎の容姿等の変化の意味を解く鍵になっていると考えている。そのお話はもう少し後で。
なお、「五十一年」とは、一千九百五十一年であろうか、昭和五十一年であろうか。
「一千九百五十一年」とすると。昭和二十六年である。まだ放流鮎に頼らなくても、遡上鮎が一杯いたであろう。
ということで、昭和五十一年であろう。
亀井さんの「長良川ノート}は、「釣の風土記」(1978年 昭和53年 二見書房発行)に掲載されているから、「昭和51年」の放流状況と考えてよかろう。
さらに、「天然鮎」は「もはや途絶えたとさえ噂されていた」との表現から、昭和30年代半ばころから昭和46年ころまで、あるいは昭和50年頃まで、伊勢湾が稚魚を育て得ない海になり、また、長良川が病んでいた後のことを書かれていると考えてよかろう。
大多サが、美並村に稚鮎が姿を見せた時期を「3月下旬」とされていることに対して、亀井さんが、昭和51年?は「5月中旬」と書かれている意味は、水温が低いことが原因ではなく、11月生まれが少なく、12月生まれが主役であるからと考えている。
当然、大きく育つ鮎は少ないと思っている。
さて、長良川が放流に頼る川になったのはいつ頃かなあ。
齋藤邦明「川漁師 神々しき奥義」(講談社α文庫)の発行は、2005年である。
齋藤さんが、「サツキマスのトロ流し網漁」をされていた大橋亮一さんに会われた年はその何年か前ではあろうが。
大橋さんは、昭和40年前後から10年余り、九頭竜川のナマズを捕りの出稼ぎを余儀なくされている。出稼ぎの頃は、サツキマスが臭い、というだけではなく、遡上鮎も激減していたのではないかなあ。それが亀井さんの「天然鮎」は「もはや途絶えたとさえ噂されていた」との表現になっているのではないかなあ。
(4)四万十川
語り:野村春松 聞き手:蟹江節子「四万十 川がたり」(山と渓谷社)
遡上の情景
野村さんは
「川の水が温(ぬる)んだ春、三月ごろになると川を上り始める。こんときのアイの子は体長はだいたい五センチくらいじゃろ。
これから世間の波にもまれ始めるわけやな。
けんど、上流まで行きよる間は、藻を食うて縄張りを持つというアイ本来の生活にはまだ入らんよ。」
前さんは、
「鮎の放流事業を全くしていない時代だったから『海あがり』の鮎がよく釣れた。最上流の大野見村までの水を知っているが」
ということで、家地川ダム(堰堤)がなかったころ、大野見村まで上っていたようである。
雨村翁は、檮原川のダム工事中に北川へ釣りに行かれている。
(5)江の川
黒田明憲「江の川物語 川漁師聞書」(みずのわ出版)
遡上時期
邑智町上野謙次郎さんは、
「『ここはダムより下流なんですが、影響は大きいですよ。浜原ダムができるまで、毎年、三月三十一日になると、【一番子】が上がりだし、五月中旬まで【二番子】【三番子】と上がったものです。群れになって、瀬波をたてて石を飛び越えて上っていました。四月の桜の咲く頃になると、畳二枚から三枚ぐらいの黒い塊で帯のように細長うなりましてなあ、川の色が変わるほど次から次へと上ったもんです。冬が寒けりゃ、ようけい上りましたでな。橋のうえから眺めて【今年は豊漁、不漁】と占うたもんです。』」
さて、天野勝則さんは、「川漁師語り アユと江の川」(中国新聞社)に、
「稚鮎の遡上は浜原ダムができる前に比べて、一か月くらい遅くなっています。それは大きなダムに冷たい雪解け水が流れ込み、それを溜(た)め、徐々に放流するため川の水温が上がらず、稚鮎も遡上をためらっているものと思われます。ダムができるまでは二月の下旬から三月にかけて上ってきたものが、現在はこの時間になっても上がってくる気配もありません。
私が子どものころ、三月も中頃になると稚鮎が群れをなして遡上していました。その鮎を追い回して遊ぶのが、春先の私たちの恒例の行事のようになっていました。現在は人々の目に留(と)まるのは四月半ばを過ぎた頃です。」
浜原ダムは、津久井ダムとは異なり、底水放流ではないから、雪代水がいつまでも川の水温を下げているとはいえないのではないかなあ。
そして、子どもの頃、「三月も中頃」に、稚鮎を追いかけていた、ということも記憶の間違いであろう。水温が一二,三度以下の水温では、子どもが遊ぶには十一月の狩野川の水温と同じように、冷たいのでは。
したがって、遡上時期については、上野さんの観察の方が適切であろう。
天野さんの記述には、気になる箇所がほかにもあるが、「河口堰」にたどり着けなくなるため、ほかの箇所は、必要に応じてみることとしょう。
(6)仁淀川
語り:宮崎弥太郎 聞き書き:かくま つとむ「仁淀川漁師 秘伝 弥太さんの自慢話」(小学館)
弥太さんは、故松沢さん同様、西風が吹く頃から、産卵行動としての下りを始める、と。
したがって、学者先生の耳石調査結果から、「10月2日」に、あるいは「10月17日」頃に、海産鮎が孵化している、つまり、9月下旬、10月上旬に産卵をしていることは間違っちょる、というオラの信念を形成してくださった。
産卵時期
「産卵が始まるのは11月に入ってからよね。彼岸を過ぎて大水が出たら、アユはだいたいその水に乗って下っていきゆう。このへんじゃと、伊野(いの)町あたりから下の浅い瀬がその場所よね。秋に大きな水がでん年は、11月に入って木の葉が舞うほどの大風が吹いたときに一斉に下る下るわね。木枯らし一番というか、ああいう風じゃ。まあ、今度あんたらがその時分にきて、その風に遭遇すればわかるけども、アユはまるで合図をしたようにみごとに下っていきよるぜ。」
勿論、「一斉に下る」といっても、まだ下りをしない鮎もいる。したがって、故松沢さんらは、湯ヶ島の漁師が鮎が下っていなくなったと、松下の瀬や城山下にやってくると、いそいそと湯ヶ島へと出かけられていた。
結果は、サラ場であるから、大漁に。
そして、オラの疑問は、大水、とはいっても、狩野川では1メートルくらいの増水では、「大水」とはいえないとは思っているが、一気に下った鮎には、性成熟がまだ充分に進んでいない鮎もいるはず。それらの鮎はどうするのか、ということ。下ったあと、また、差してくるということが書かれている本もあるが、どのくらいの距離を上るのかなあ。
弥太さんは、瀬切れの場所での産卵も話されているが、瀬戸内に流れ込む中小河川では、瀬切れも分かるが、仁淀川で瀬切れとはどういうかなあ。
ザガニが下りの時期における瀬切れにどう対応しているか、の話は、渓谷相の場所まで上ったザガニのことであるから、分かるが。
放流ものの産卵場所の話かなあ。
遡上の情景
11月に孵化した鮎は、
「昔は『3月皿丈(さらだき)』というてね、3月の中旬になると、小皿の直径ぐらいのもんが、このへん(越知(おち))町に上がってきよった。ちょっとしたおかずを入れて出すような豆皿じゃき、まあ3寸ばあのもんじゃろう。それぐらいのアユが、真っ黒な…そうよね、両手を広げたほどの幅の帯になって、ひとつも途切れずに向こう岸を泳いで行きゆう。そらみごとなもんじゃった。」
「向こう岸」を遡上していたとはどういうことかなあ。相模川でも、右側通行、左側通行、の話はあるが、上る道の選択に偏りがあるのかなあ。
そして、遡上する道、及び、日、時間による変動が大きいから、寒川の堰で、常時観察ではない遡上量調査を行い、統計処理をして、遡上量の推計値を出していた神奈川県内水面試験場の数量が、相模大堰での目視による左岸、右岸の副魚道(副魚道は主魚道よりもヘチ側にある)での一時間おきの調査数値よりも非常に少なかったということかなあ。勿論、調査年を異にするが、三,四年周期での遡上量の変動は共通しているから、調査方法の問題ではと思っているが。
そして、その数量の著しい違いの要因が、統計処理では吸収できないばらつきにあるのではないかなあ。
「今は、帯になって上るゆうようなことはまずないし、三月にもうアユの針子が見られるということもなくなったがね。温暖化やら何やらの影響で、アユの性質自体が変わってしもうたがじゃないろうか。本来、アユという魚は、まあ空中を飛ぶ蠅(はえ)とまではいわんが、毎年いくらでも川から湧いたもんじゃがね。」
遡上量と海水温
「温暖化」、「海水温の上昇」という現象が、海での稚魚の生存率に影響しているのか、していないのか。
また、影響しているとしても、西日本科学研究所や弥太さんらのように稚魚の捕食者の増加のためとみるのか。それとも、動物プランクトンの量が有限であり、全滅するには忍びない、として形成される順位制とか、縄張り制の社会組織が、稚魚では形成されていないためかなあ。
オラが、海水温の上昇→捕食者の増加→遡上量の減少
の説に疑問を持っているのは、相模川は相模大堰での遡上量調査における3,4年周期での大量遡上のあとで生じる遡上量の激減の現象です。
親が大量にいるのに何で、大量遡上の翌年に、遡上量激減の現象が生ずるのか、ということです。
3,4年周期で、海水温の上昇も生じているとは考えにくいからです。したがって、捕食者よりも稚魚の有限の食糧事情の方が、大きく稚魚の生存率に作用しているのではないか、ということです。
とはいえ、21世紀からのデータであり、それまでの3,4年周期説が、少しだけ検証されたにすぎないため、まだ、確証はありませんが。
あ、そうそう、ついでに、今じゃあ、蠅がうるさく飛び回ることもありませんよね。殺虫剤の威力、ゴミ捨て場、ゴミ箱がなくなったことは蠅の繁殖場所を奪い去り、蠅もたいへんですねえ。
天野さんも、「アユと江の川」に、
「これは私のカンですが、暖冬で連日海のおだやかな年には遡上鮎は少ないように思います。というのは、河口に近い海の波打ち際に寄っている稚アユが魚食性の魚に食べられてしまうからです。逆に冬が適当に寒くて、西風が吹くような時には魚食性の魚が波打ち際に近寄りませんので、食べられることも少なく遡上鮎は多いようです。二、三月に雪解け水が大量に流れ込む雪の多い年も多く上がってきます。」
と書かれている。
湖産アユの性格
弥太さんは、湖産の性格について、
「わしの見たところ、湖産は、海から自然に上がってくる海産アユとは性質がだいぶ違うぜ。湖産は、怖(お)じるとじきに石の穴に潜り込んでじいっとする。ところが海産は、ゴソゴソと石の間を縫うように逃げていくわね。漁のしやすさでは湖産じゃろう。追いつめればじっとしちゅうき、突く、掛ける、追い込む、と好きなようにできる。海産はそうはいかんぞね。
あと、湖産と海産の違いは移動距離よね。湖産はかなり大きな水の変化がない限りは、放流地点から500m前後の間におることが多い。放流からひと月ほどたってもアユの姿が見えん。これはどうしたことよといわれて漁協が調べてみたら、放した場所の近くにどっさりおったというようなことはよくある話じゃ。
それと湖産は、大水が出て流されたら、わりあい元の場所まで戻ろうという習性が薄いわね。」
弥太さんの話されている「湖産」評価は、事実です。
移動距離が少ない、流された場所に定位する、その通りですが、「湖産」の名誉のために一言。
川那部先生の「アユの博物誌」で、東先生が、湖産の移動距離が20キロ、と話されています。
飛騨川に放流された湖産を、激流で、吹き流しの仕掛けで、大宮人のお父さんは釣っていました。
そうなんです。「湖産」といっても、昭和30年代には、川に上ってきた稚アユを逆梁等で捕って、放流していました。
弥太さんに軽蔑されていた「湖産」は、氷魚からの畜養です。したがって、継代人工の習性と湖産の習性が重なってきたと思います。
昭和四〇年代は、昭和三〇年頃から始まっていたアユの受難史がピークに達していた頃ではないかなあ。
そのため、遡上量の減少から、それまでは、日陰者にすぎなかった「湖産」が、川のなかで存在感を高めて、脇役に上り詰め、あるいは、主役になり、しかも氷魚からの「畜養湖産」であることから、弥太さんの目に留まるようになったのではないかなあ。
その湖産畜養も不足して、昭和五五年頃から、人工種苗が生産されるようになったのではないかなあ。そして、昭和六〇年頃には、堂々と、大量に、湖産にブレンドされたり、あるいは、「人工アユ」として流通するようになったのではないかなあ。
人工種苗の生産開始
天野さんは、
「ここで簡単に江の川の人工ふ化の歴史に触れてみます。江川(ごうがわ)漁協によるふ化事業が始まったのは一九七七年(注:昭和五二年)、上流の広島県高田郡八千代(やちよ)町に土師(はじ)ダムが完成した頃です。その補償金を元手にし、国の補助を受けて江津市敬川(うたかわ)地区の海岸に近いところに建設したものです。当初は百万匹のふ化能力でスタートしました。
一方、浜原ダム建設の時、邑智郡口羽村(現羽須美村)にコイの養殖池が出来ました。これは中国電力の支援によって運営されていましたが、毎年赤字続きのため、一九七六年(注:昭和五一年)当時の組合長の発案でこの養魚池を閉鎖し、敬川でふ化した稚アユの中間育成池にしました。
その結果、四百万匹の養魚能力を持つようになり、現在は県内の他の河川にもここで育った稚アユを供給できるまでになっております。本流、支流をあわせた江の川には二百三十万匹を放流しているほか、友釣り用の種アユの生産もしています。」
とのこと。
羽須美村は、野田さんにも登場していたから、名前だけは覚えているが。
江の川で生産されていた「人工種苗」の親は何かなあ。湖産かなあ、海産かなあ、海産としても、日本海側の海産かなあ、太平洋側の海産かなあ。
「島根のアユづくり宣言」が後年出されたことから、日本海側の海産鮎が親ではないのではないかなあ。
前さんは、日高川での人工種苗生産について、木曽川のアユを親としているが、遡上鮎が親ではない可能性が高いことを指摘されている。
人工種苗生産、放流によって、天野さんは、
「真っ先に産むのは湖産アユ(琵琶湖産)です。少し遅れた天然鮎が産卵します。人工ふ化のアユはかなり遅れ、湖産アユとは一か月ほどずれがあります。
しかし、この一か月のずれは、私たち川漁師にとっては大変ありがたい一か月なのです。なぜならこの間も産卵時期の遅い人工ふ化アユは成長を続け、網を張ると、大きくて形のよいアユが捕れ、商品として市場に出せるからです。ただ、どうして人工ふ化アユが湖産アユに比べ産卵時期が遅れるのか私には分かりません。」
とのことであるから、人工種苗の親に、太平洋側の海産アユが使われていたのではないかなあ。あるいは、太平洋側の海産アユを親とした継代人工を使っていたのではないかなあ。
そして、人工種苗とはいっても、「光周性」要件で性成熟が進行するのではなく、前さんの仮説である「累積日照時間」が性成熟の進行に関わっているということではないのかなあ。
なお、天野さんは、この箇所に
「産卵するために一度汽水域まで下ってきたアユは、川の状態が悪いと産卵場所を求めて上り下りしながら、卵の成熟を待っています。」
と書かれている。
汽水域まで下ってきたアユが上り下りする、とは、山崎さんが観察されていた「潮呑みアユ」と共通性、類似性を持つのかなあ。
性成熟が完成していない時期の話であることは、共通するようであるが。
(7)紀ノ川上流の「吉野川」
亀井巌夫「釣の風土記」(釣魚名著シリーズ 二見書房)
「鮎釣りの記」に掲載されている亀井さんの「長良川ノート」が、「釣の風土記」から再録されているとのことで、「釣の風土記」を探していたが、町田の古本屋さんで見つかった。
おもろうて、おもろうて、全部を紹介したいところであるが、それでは「河口堰」にいつまでたっても辿り着けない。
泣く泣く、そのうちのほんの一部「放流鮎が下りをしないで産卵する」カ所が掲載されている「吉野の人」だけを紹介します。
「吉野の人」の章から
下りをしないアユ
「ある晩秋、樫尾の高岩の崖で休んでいて、足下の浅瀬をよろめくように遡っている鮎に遭った。背に大きな傷痕を負った鮎で、懸命に浅瀬を超えようとしていた。浅くて緩い流れなのだが、力弱った鮎には相当な負担らしく、左右に揺れて、時には一尺ほども後ずさりしながら、また気力を振り起こすように全身のひれを動かして少しずつ、少しずつ上手へ遡っていった。
下手の淵では部落の子供たちが集まって岩の上から大きな錘を付けた掛鉤を、どぼん、どぼんと放り込んで底をかき回している。」
亀井さんは、辛うじて泳ぐことの出来る鮎と共にゆっくりと歩いて、終の棲家と思われる淵までついていった。
「平重郎さんにこの鮎の話をしたら、近頃は正月でも鮎を見掛けることがあると言った。数年前には十一月の狩猟解禁の日に橋の下の瀬でたくさんの鮎を見つけたので、面白半分に散乱銃をぶっ放したこともある、もっとも鮎は一つも浮いてこなかったがねと、笑ったりした。
天然鮎は時期が来ると一斉に、しかも確実に下流にくだる。吉野川も紀ノ川と名を改めた岩出(いわで)や田井(たい)ノ瀬あたりからぐっと河口に近いあたりまでくだってそこで産卵する。しかし放流鮎は吉野川も川上地区の大滝付近で産卵をしたりする。どういうつもりか判らないが、こんな所に生み落とされた卵は、せいぜいアマゴやウグイやカジカたちの餌になるのがいいところだろう。
『天然鮎ちゅうもんは、自分でぐっと苦労して遡ってきよるから、その道順なんかもちゃんと憶えてて、秋の雨で去(い)ぬのやが、放流の鮎はよう去(い)ねしませんなあ。これは不思議やなあ。自動車できたとこはよう去(い)なんらしいな。そいで、いつまでも川でうろうろしとんねやなあ。』
平重郎さんの言葉であった。」
これだけの文で、「下りをしない鮎」が放流鮎である、と判断していたら、1つの現象、証言だけを見て判断したことになり、学者先生同様、あたることもあるが、間違っちょることもある、という事例になってしまいますね。
証言者が観察眼に優れて、信頼できる人か、確認する必要がありますよね。
折角、プロバイダーであるCATVのホームページの無料のデータ量が十メガから百メガになり、やっとこさ、増量の設定変更が出来たことですから、十メガの制約を気にせず、平重郎さんの観察が適切であることの状況証拠を見てみましょう。
そして、そのことが亀井さんを知る上にも有益な作業ですから。
水色
「砂利採りが八年前に禁止され、上流の大迫(おおさこ)ダムが完成してから、吉野川にはようやく往年の水色が蘇ってきたようだ。
亭々と茂る杉林は、くろぐろと立ちはだかる苔むした巨岩、四季折々の周辺の影はそのまま水色に溶けて、鮮洌の水は、時にはゆるやかに、時には激しく、流れ、澱み、たぎり、弾ける。
鮎もアマゴもウグイも、また奥山を渡るシカやサルも、空をよぎるキジやバンドリ(ムササビ)も、その姿を水に映して、流れは悠々と息づいている。」
大迫ダムは、
「ダムサイトからバックウォーターまでは約四キロ、アマゴたちは四十八年に誕生したこの人工の湖に早くも馴染んだようで、春先の釣師たちは、この湖畔の周辺をまず目指す。」
ということで、昭和四十八年に完成している。
水色は元に戻っても、ダム下流の苔の栄養素は変化しているはず。どのように変化するのか、を「河口堰」を導き手として考えたいとは思えど…。
上市の情景
「花の吉野を対岸にした上市(かみいち)の橋に立つと、上流の方、つい目の先に、左岸から三角錐の姿もくっきりとした背山が、右岸からは稜線を背後にぼかしながらゆるやかに妹山(いもやま)が川に迫って、その両岸の狭ったあたりから、川上の水は一気に平地へと押し出されてくる。
歌舞伎で名高い『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の舞台がここ。作者近松半二は、雛流しの風習をストーリーに組み入れて、悲恋の効果をたかめたが、その風習はいまでも残っている。
上市の少し下流の下市(しもいち)から南阿田(みなみあだ)附近で、毎年四月になると、昔ながらの素朴な雛流しが続けられている。
色紙で折った男女の人形(ひとがた)を竹の皮の舟に乗せ、同じ色紙を切った菱餅と一緒に川に流すのだが、人形の頭には竹ヒゴを刺した大豆を使う。」
そして、雛流しの意味について、民族写真を撮り歩いている三村幸一さんの話を紹介されている。
妹背山上流の情景
「妹背山を過ぎると、吉野川はたちまち峡谷の姿となり、楢井(ならい)、宮滝(みやたき)、菜摘(なつみ)と続く。赤人、人麻呂……万葉人が数々の名歌を詠いあげた由縁の地だ。宮滝の離宮の跡は、学校の側の川べりに残り、橋からは“激(たぎつ)瀬”が岩を噛んでいる。瀬の収まるあたりには蒼く深い淵が淀んで、左岸からの緩やかなスロープを受けとめている。この丘陵は喜佐谷(きさだに)の山々、“象潟”と歌にあるのがこのあたりである。
川は、宮滝から菜摘、矢治(やじ)、樫尾(かしお)、新子(あらこ)、国栖(くず)、東(う)ノ川と大きく蛇行をはじめる。
この吉野川の中流域には、かって国栖族と称された人々が棲みつき、鮎を捕り、ウグイやカニを獲り、木ノ実から赤蛙までかき集め、朝廷に献上した。東吉野地域を流れる高見川との合流点・国栖の地名は、こうした先住民の名をとどめたものだろう。彼らは魚捕りの技術ばかりでなく、紙すきの業にも優れていて、今もこの地に和紙作りが伝えられている。
国栖で本流と分かれて、高見川に沿って東へ向かうのが伊勢街道だ。天誅組の吉村寅太郎以下が全滅した鷲家口(わしかぐち)を通って高見峠を越すと伊勢の国に入る。もちろんずいぶん古い街道で、記紀の時代から拓けていたといわれる。現代の鮎釣り、アマゴ釣りも、桜井か榛原(はいばら)か、また吉野川沿いからこの高見川に入ったり、時には急坂の高見峠を越えて、三重県側の櫛田(くしだ)川源流へ出かけたりしている。三重県側からは峠を越えて吉野へ入る人は少ないようだが、かっては徒で峠を越えてくる万才の太夫や代神楽(だいかぐら)の面々もあった。」
亀井さんは、二月十一日の雪がみぞれに変わる寒い日に、吉野川のあっちこっちをさまよい釣るも釣れず、新子の町の食堂に飛び込んで、万才の太夫に逢われた。
「大神宮のお札を持ってやってくる代神楽や、三人一組で季節になると現れる桑名の太夫たちに、私も子どもの頃はよく馴染んだものだったが、長い間忘れていたその太夫に、この吉野川川畔で出会おうとは思わなかった。
『戎さんの頃はいつもこうでありますな』
太夫は、まだしぐれが残っている空を見やりながら『さようなら』と、叮嚀(ていねい)な言葉を残して出て行った。紫の袂が風にあおられて街道にひるがえってゆくのが、まるで遠い世界の光景そのものであった。」
「吉野川の本流筋では、アマゴはこの新子、国栖を過ぎるあたりから姿を見せ始め、大滝、白川渡(しらかわと)、柏木、入之波(しおのは)と登って、いよいよ“アマゴの国”に入る。
入之波の奥で、吉野川は本沢川と北股川に分かれる。」
分かれた後の川の情景は、省略します。いくつにも分かれた谷を登って行くには、あんよが持たないので。
本沢川と北俣川に分かれていた二つの川が「やがて一つに合して入之波から大迫間に湛水する。」
という位置関係です。
伊勢街道は、天保の世に、筑前のうば桜4人組が、伊勢へと歩いた道かなあ。
アマゴの国のアマゴ
亀井さんは、「アマゴの国」よりも下流で、本来アマゴがいないはずの場所でも、アマゴが釣れたとの話を聞き、何カ所か確かめに行かれて坊主。放流ものが流されたのでは、とのこと。
「実際に私が吉野川の本流筋で釣ったアマゴのうち、最も下流だったのは、樫尾の発電所からはまだ十キロ以上も上流へ行った白川渡(しらかわと)の宿の下であった。宿は川べりに建っていて、表側は道路に面した平屋風だが、内に入ると部屋は二階、三階と崖にそって下へ降りていく。窓の下はすぐ流れになっていて、その水の音が高くてなかなか寝つかれなかった。月夜に白む窓をかすめて不意に黒い影が飛び、軒下のケヤキの枝に止まった。バンドリ(ムササビ)だった。そっと起きて、フラッシュガンを取り出し、窓を開けようとする間に、バンドリは音もなく枝から消えてしまった。
その翌朝早く、崖を伝って降り、バンドリの消えたあたりを探ってみたが何の気配もなくて、試しに瀬脇を流してみたら小さなアマゴが釣れた。朱点の鮮やかな、くりくりとした瞳の綺麗なアマゴだった。水につけた掌をそっとほぐすと、アマゴは指と指の間に小さな頭を必死になってこじ入れ、やがて、つるりとぬけると、小さなしっぽを振り乱して逃げて行った。
この白川渡で本流に入る中奥川は、当時出合のあたりからもうアマゴが姿を見せ、中奥、瀬戸周辺が一番人気があった。宿を暗いうちに抜けだし三里ばかり歩く。瀬戸から奥赤グラ谷では壺という壺に大物が泳いでいて、岩陰からそっと眺めては胸を躍らせ、大難儀をしながら雑木の覆った岩場を越えてみると、大物たちはとうに跡形もなく消えていた。こういう壺ではかえって釣れなくて、カエデの若葉がしたたるような緑を広げている浅場で、ものおじしないアマゴだけが猛烈な強引さで餌をくわえて走り回ったりした。
この中奥川の源流にはサルやシカやカモシカが多くて、密漁も盛んだったようだ。
赤グラの奥の丈屋(じょうや)の滝近くで、大岩の根元に、ヒズメと頭骨を白々と漂した遺骸を見たことがある。谷を吹き抜けてゆく風に、足首に残った剛毛がさらさらと揺れていた。シカかカモシカか見分けがつかなかったが、五月の木洩れ日に映えてそれは鮮やかな印象だった。
伊勢湾台風で、この川もひどく荒れて、修復の護岸工事が施され、砂防堰堤もたくさんできた。そのために、、一時は殆ど釣りにならなかったが、近頃はようやく水も納まり、少しずつ往年の面影を取り戻してきたようだ。アマゴは本流に放したのが遡るのか、春先には下流の枌尾(そぎお)あたりでも姿を見るようになったし、鮎も水温が低いのでそう大きくはならないが、身のよくしまった“中奥鮎”の評判が高い。ウグイも相変わらず健在で、三,四月頃土地では『ウグイつき』と呼ぶ産卵風景がよく見られる。背ビレを水面になびかせながら、渦を巻いて狂奔する雌雄のウグイ、すさましく、おぞましい性の祭典は、山桜の開く中奥川の春の風物詩ということもできる。」
中奥部落の料理法
「中奥部落は急斜面を拓いた、日当たりのよい山腹にこじんまりとかたまっていてほとんどが山林業者である。この中奥にある丸さん宅は吉野ではよく知られた名家で、一夜厄介になった時、奥さんから川魚の料理をいろいろと教えてもらった。
アマゴめしは吉野付近では一番普通の食べ方で、アマゴをご飯に炊き込む。釣ってきたアマゴを軽く素焼きにして身をほぐし、一升に一合の割で醤油と加えて炊きあげるのだそうだ。
鮎も、鮎めしにする。これはきれいに洗って糞だけ出し、腹はそのままご飯と一緒に炊く。炊けたら頭と骨を抜きご飯にまぶす。晩秋の落ち鮎は、からからに焼いて藁づとに挿して置いておき、マッタケと一緒に炊く。味噌炊きにすることもある。鮎を味醂と手造りの白味噌と水とを入れた鍋で、ことこと丸ごと煮詰まらせる。味醂でなくお酒を使うときは砂糖を少し加える。」
鮎の炊き込みご飯を作るときは、家山のお寿司屋さんが教えてくれた方法を使っている。ご飯を炊くときに用いる水の半分の量を酒に置き換えて、鮎を米の上に載せて炊き込む。
鮎は淡泊な味であるから、使用する鮎の量が多くても差し支えないこと、ガスで20センチ以上の10月頃以降の鮎を焼くと全体に火を通すことが面倒であるから、炊き込みご飯の方が簡単。
中奥の鮎
「奥さんは、この中奥とは山をへだてて表裏の位置にある東吉野村から大八車に荷を積んで嫁入りしてきた。鷲家口を通り、国栖に出、本流を川上へ上って来て、白川渡から、やっと荷車が通れるくらいに拓かれた崖っぷちをそろりそろりと辿って中奥へ来た。伊勢街道に面した在所から、行き止まりの辺ぴな寒村へ『なんと恐ろし気な所か』と心細さに震えたものだ、というのだが、いまでは『そりゃ中奥の鮎は本流のものに比べて小そうございますが、ヒレのところがちょっとピンク色をしておりまして、身も締まって、やはりおいしゅうございますね』と誇らし気に語ったりした。」
ヒレが「ピンク色」とは、長島ダムの影響を受ける前にいた綺麗な衣装をまとった鮎、永浜さんが藁科川の鮎の特徴、と書かれていた鮎と同じかなあ。
そして、その色合いの衣装を着ていることが「吉野の桜鮎」と、かっては言われていたことと関係しているのかなあ。
筏流しの情景
中奥での筏流しのやり方は省略して、
「中奥以外でも、川上地区では本沢川、北股川などから筏を出していたが、樫尾や楢井に発電所が出来て、これに大滝から本流を取り入れる導水孔が隧道を掘って造られると、筏は大滝からは本流を通らず、この隧道をくぐって行った。幅は一間半余りの大きなもので、大滝から樫尾までの約三キロの直線コースである。
樫尾に出ると、筏は先に私たちが見学したプール(注:「樫尾の発電所へ水を落とす導水孔ののプールに、アマゴやウグイがうじゃうじゃ居るというのだ。」ということで、亀井さんが職権?を利用して関電に交渉して『見学』名目で潜入したが、プールは清掃のために水がなく、釣れなかった。)に入ったあと、動力に入る水とは分かれて本流に落ちる流れに乗って、逆落としに崖を駆け下る。筏師は巧みに棹を操って筏と共にものすごい飛瀑となって本流に突っ込んでゆく。それはこの附近一番の見物であったそうで、小学生たちが喊声をあげてこの光景に見入ったという。
『そりゃあ、子供心に、すごいなあ、おっとろしいなあ、と目をみはったもんです』
まだ三十代のジャンボ・二朗さんがそう言うのだから、この“筏落し”は、終戦頃もまだ続いていたようだ。
ジャンボさんとはハム仲間の呼び名で本名は竹田二朗さん、樫尾の出身で釣りの名手でもある。小柄な体つきだが、顔は浅黒く引き締まって、全身に精カンの気がみなぎっている。普段は小さな目が優しいが、釣り場に立つと、射るような光がさす。」
ジャンボ・二朗さんの釣り姿
「彼の釣姿を初めて見たのは、紀州の日置川(ひきがわ)へ鮎釣りに出かけたときで、出水の後さらに雨が降り出したりして、水かさの増える流心へ、彼は何のためらいもなく、ずかずかと踏みこんで私を驚かせた。もちろん小さい体だから、奔流によろめいたり滑りそうになったりしていたが、危うく踏み止まって、川の中央から竿をあおって、対岸の苔の残ったあたりへ囮を入れた。
私などとうてい入って行けそうもないすごい水勢なのだが、ジャンボさんは極めて活発に、苔を求め、石を捜して、川の中を跋渉した。その姿は、“川に挑む”勇猛さと、喰いついたら離れぬという執念がみなぎっていた。」
ジャンボさんの取り込み方
「囮罐の紐をたすきにして、ランドセルのように背に負い、手玉を持たないのが不思議だった。囮に鼻環を通すときは、罐の中に手を入れて鮎を取り出し、そのまま器用にじかに通したし、背鈎を打って、空中輸送で目指すあたりへ直接囮を放り入れた。
いったい鮎が掛かったらどうするのか、手玉がないと掬えないのではないか、と聞いたらジャンボさんは、ハエ釣りのように空中でつかむのだと答えた。まず野鮎をつかんで鉤をはずし、普通は腰に魚藍をくくりつけていて一旦これに入れ、次に囮も素早くはずして魚藍に入れ、先に入れた野鮎をつかんで鼻環を通してやる。これを全て中で片付ける。大きな鮎が掛かったら胸に当てて受けとめたりする。手玉を使うと鉤が引っ掛かるので、よく釣れるときは能率が悪いのではないか、といった。素手でつかむなど、鮎が滑って落ちそうなものだが『こういう具合に、拇指と人差指の腹で鮎の両目を軽く押さえて、胴の所を少し曲げ加減にして、軟らかく掴むのです。こうすると、鮎は温和しくしていて、滑ったりしませんよ』と囮をつかんで見せてくれた。この日は水況が悪すぎて鮎は釣れなかったが、その後一緒に樫尾でやったハエ釣りで彼の腕は確かなのもだと思った。」
那珂川の故須合さん以外にも、タモを使わないで取り込む人がいた。
故須合さんとの違いは、故須合さんが先に囮をはずして舟に入れ、その後で掛かり鮎をはずし、鼻環を通すこと。
故松沢さんは、鮎をつかむとき、両目を押さえることはしない、と話されていたが、優しくつかむことは同じ。そして、胴の所を少し曲げ加減にすることも同じではないかなあ。
ジャンボさんのハエ釣り
「私は最初少し深みの澱場を狙ってみたのだが、ジャンボさんは膝くらいの浅場で、一間半ほどの短い竿に二本鉤をフナ釣りのように二股にして、極小の仁丹シズを一個つけただけで浮木を寝かせたままで流している。ハエが喰いつくと、浮木は底掛かりしたようにすっと沈んだり、流れているのが立止まったりした。
あんな足許ばかり流して釣れるのだろうかと見ていると、三度に一度くらい、二尾ずつ喰いついて釣れるのには感心した。私が狙った深場でも釣れることは釣れたのだが、とても彼の数に及ばなかった。
『僕らこの仕掛けしか知りません。吉野川ではハエジャコは大人も子供も、これでやるんです。寒くなって、魚が深みへ入ってしまったら、ジャコ釣りはしません。京都や大阪の人がよく釣る寒バエ釣りは、深みばかりやるそうですが、あれは僕らやったことがないし、きっと、よう釣らんですわ。』
と、ジャンボさんは笑った。」
ジャンボさんの父の腕
「ジャンボさんの腕は、父君の竹田平重郎さんの仕込みである。かって作家の井伏鱒二さんが、わざわざ訪ねてきた“吉野の名人”がこの平重郎さんである。
井伏さんは坂本町長(故人)に案内されてやってきた。まず仕掛け、囮の操作などをあれこれ聞いたあと川へ出る。
『私は暫く同じ場所でねばったが釣れなかった。水の中の小石を拾って見ると、ヌラがちっともつゐていない。ところが川下にゐる平重郎さんは、橋脚の基礎になっている岩石の上に立ってゐて釣りあげた。先刻の話の通り、宙に釣りあげて、ハヤをはづすように宙ではづし、竿を肩に立てかけて囮をつけかえた。』(釣師・釣場)と、名人の釣姿を描いている。
いまは体が不自由で、杖にすがって歩くのがやっとだが、ジャンボさんを一回り大型にしたがっしりした体格で、精カンさと、釣りの話をするとき身を乗り出すようにしながら、生き生きと目が光るのがよく似ている。」
父・平重郎さんの取り込み
「平重郎さんの特技はそっくり長男の隆一さんと次男のジャンボさんに伝わっている訳だが、ジャンボさんのように鼻環は使わない。替りに、七分五厘の掛鉤を狐型に切って撞木にして使っていた。手玉はもちろん持たないし、時には魚籃も身につけずに川に入ったりする。野鮎の取り込みや囮のつけかえなど全て宙で済ませてしまうのはジャンボさんと同じだが、囮をつけかえるときは袂に鮎を放り込んだりしたそうだ。釣れたのを宙で受けとめて、鉤をはずし、まず袂に入れる。次に囮をはずして、また袂に入れる。手で探って、よく“しこった”鮎を取り出して素早く鼻を通す。三本錨で背鉤を打つことは息子さんと同じ。これをみんな流れに立ちこんだまま片付けてしまう。“しこる”というのは、鮎のはね方、元気さのことで、手探りで鮎のしこり度を確かめて新しい元気な鮎を取り出すのだ。
『しこり方で、鮎が新しいか古いかすぐ判るわな。それに釣った一気の鮎は冷(ひや)っこいな』
ともいう。袂に入れると袂くそが付くので鮎が掴みやすい。二つ、三つ釣ったら沈めてある囮罐の所へ運んでゆく。すぐ死んでしまいそうに思えるのだが、案外そうでもないらしい。
『この頃の人、布のタモを腰につらくって歩いとるけど、あんな重たいもん、よう持って歩くわよ』と笑った。
こうした道具立てで平重郎さんは元気な頃他所の川へどんどん遠征した。岡山の高梁(たかはし)川、京都の由良川、紀州の日高川、有田川……とくに高梁川へは釣り大会の度に、毎年出かけていったそうだが、宙で囮を付け替える姿に、
『あんたの手には、何かついてますのんか』などと、不思議がられたりしたという。」
狐型の針を切って、撞木にするとは、どのような形状で、どのように使うのかなあ。
そして、それらの仕掛けはどの地域で使われ、あるいは、平重郎さんの仲間内だけで使われていたのかなあ。
撞木は、球磨川の目通しの方法に似ている面もある。鼻に通すことになるが、鼻環よりも広く普及していたようではあるが。
昭和の終わり頃は、友舟はなかったのではないかなあ。いや、あったであろうが、一般には普及しておらず、一部の発明家が使っていただけではないかなあ。
前さんは、ハンダづけ名人に胴の部分をを作ってもらい、それに桐の板を切り抜いて、一体化することになるが、
「吃水(きっすい)の調整がこれまた大変。桐の板にはそれぞれ違った自重があるから、ビス止めのビスも実際に所定の位置に並べ、舟一つ一つの吃水調整が必要。」
という作業等を行って、やっと曳き舟が完成していた。前さん引退時の譲渡予約盛況。
オラは、木だけで出来上がった舟を買っていたが。
鮎バックはあった。それが、平重郎さんの「袂」の役割を果たしていたが、「袂」の「袋」はどのくらいの大きさかなあ。
何で、「すぐ死んでしまいそう」に思えるのに、死なないのかなあ。どんな扱いをしていたら、死なないのかなあ。袋に入っている時間だけを考えたら、死ぬのではと思えるが。
裾の事例 … 前さんの囮の付け方から
さて、裾の袋を利用して、鮎を入れておくやり方は、前さんも紹介されている。
前實「鮎に憑かれて六十年」(ジャパンクッキングセンター)
前さんは、「技術」を語りたくなさそうであるが、浮き世の義理から丁寧に歴史を含めて書かれている。そのなかに、囮の付け方が書かれている。
「二十余年も前のことになる(注:昭和四十年頃か)。ある川で片腕の人が鮎カケをしているのを見たことがある。
野鮎がカカる。彼は竿を持つ右手でいきなり撥(は)ねあげた。そしてオトリとカカリ鮎は左脇にスッと消えるのである。彼が河原に竿を置き、どのようにオトリを交換するかと見る間もあらばこそ、ほんの短時間で道糸をつまみオトリをポンと川へ投げ入れる。カカった鮎であろう一尾を箱型の生かし缶に入れた。
『気の毒に、何度も同じオトリを使って…』と私は思った。
『オトリを交換しましょう』と、おずおずと近寄って私が遠慮しながら申し出た。
『エサは替えたよ』と、彼は怒る風もなく淡々と答えた。
この時はほんとうに参った。五体満足な私よりも早いのである。今度は遠慮なく近くの下流側から見せて貰うと、彼の左脇に工夫があって、脇から袖への内側に『水掻(か)き』のような袋がつけられていて、オトリとカカリ鮎はその袋に吸い込まれるのである。鼻環は木綿針を利用した鼻木(はなぎ)、浅い川底に網をつけて左肘(ひじ)先を使って鮎を押し付けるようにしてさっと鼻木を交換してしまう。シカケはサカサ鉤なしの吹流し『ヤナギ』である。
彼は、私を見てニコっと笑う。このときは正に大きな感動を味わい、私自身の不器用さと努力不足も思い知らされたのである。この隻腕(せきわん)の名手も、鼻木の着脱が先決で、時間が経つと困るのです、と話しておられたことをいまもはっきり憶えている。」
狩野川におられた隻腕の方は、鮎を足で軽く踏んでオトリを付けていたと、故松沢さんは話されていたが、前さんが見られた方は、腕で押さえられていたとのことである。切断された腕の長さによる対応の違いかなあ。
「袖の袋」に取り込むとは、どのような情景かなあ。
オトリは地方によって、呼び名が異なるとのこと。それで、「エサ」と呼ぶ地方が何処か、を、探したくて、前さん、亀井さん、果ては、前さんが敬愛されていた亀山素光さんの「釣の話」(昭和十五年 弘文堂)まで見たが見つからない。ぼけ症候群を自覚しているから、またか、ということで、場所の特定は出来ませんでした。
前さんとサカサ針
吹き流しについて、前さんは次のように書かれている。
「『友釣り』を長らく経験されている人はご存知と思うが、昔は『サカサ鉤』を使うことがなかった。少なくとも私の育った奈良県の吉野川筋では『サカサ鉤』を使っている人を見たことはなかった。それは昭和の十年頃で、今から五十年以上も前のことである。
ナイロンの糸はない。ハリスの殆どは『本テグス』で、太さも0.六号から三号ほどまでだった。このハリスで最もオーソドックスだったのが『ヤナギシカケ』『チラシ(松葉)』で、職漁者は『三本イカリ』を使っていた。
『本テグス』は比較的硬質だから『サカサ鉤(はり)』を使わなくとも、鉤の吹き流しで結構釣れた。しかし、ハリスが道糸に絡(から)んだり、ときにはオトリに鉤がササったりすることがあった。なんとかこんなトラブルを防ぐ方法がないものかと、人造テグスや馬素(ばす)(生き馬の尻尾の毛)の二本撚り、三本撚りなどを作って工夫を凝(こ)らしたものだ。」
前さんは、絡みを防ぐため、ハリスを「荷札用の針金」にしたり、あるいは輪ゴムを尾鰭付近に着け、試行錯誤をされていた。
「『サカサ鉤』の発祥(はっしょう)は『狩野川』だといわれている。しかし、私の習ったのは四国の吉野川が最初で昭和二十五年頃だった。
私の感じる『サカサ鉤伝播(でんぱ)』は伊豆から四国、そして奈良への図式である。関東から四国へ行き、それから関西に戻(もど)る形で合点が行かぬが、モノの伝播はこうしたもので順にはゆかないらしい。往時、私は『吹き流し』で馴れていたものだから、『サカサ鉤』を使ったり、使わなかったりで何年かが過ぎた。
この二十年来『サカサ鉤』は常用しているが、ハリスに『鉤』がついている限り絡むのは仕方がないか。こう思いつつ『サカサ鉤』に代用できる何かないか、と思案、模索の種はつきない。」
さて、いつ頃から、サカサ針が使われていたのか、垢石翁や滝井さん、雨村翁を読むときに気をつけておこう。
昭和三十年代、大宮人のお父さんが飛騨川で、湖産の畜養ではなく、琵琶湖に流れ込む川に遡上した湖産鮎を吹き流しで釣っていたとのこと。
したがって、「遡上」鮎が、釣りの対象であれば、吹き流しでも「カカリ」には余り影響がないということかなあ。
とはいえ、放流ものが、しかも人間が育てた鮎が主役になり、やわい?鮎を対象にするようになっては、逆針は必需品であろう。釣り人も多いし。
吹き流し
前さんが敬愛されていた亀山素光さんの「釣の話」(昭和15年発行 弘文堂)に、仕掛けの説明が書かれている。
その説明図では、逆針を使っていない吹き流しである。
そして「囮綱」について
「囮綱は(第一図参照 注:図は省略。「図」は旧字使用、以下、旧字は当用漢字で表記しています。)馬尾にて作る。この囮綱を馬尾二本撚りにしたものを使用してゐる人があるが往時鮎の数が多いとき、すなわち楽々と釣れて時代の遺物で推奨の価値がない。馬尾の囮綱の特徴は鉤素を結び解きするに取り扱ひ易い点にあるが反面軽快味を欠くので現今のように鮎の繁殖率が少なく、従って釣り難い場合には感心しない。」
中鉤素についての、この記述が持っている意味が分からない。
昭和の一五年近くでも、鮎の繁殖率が少ないとは、それ以前ではどういう状態かなあ、と気になるが。
馬尾の2本撚りを好ましくないとされているが、前さんのように吹き流しの宿命である針が絡み、あるいは、囮に掛かることはやむを得ないことで、
絡み重視ということかなあ。
亀井さんは、「長良川ノート」(「鮎釣りの記」 「釣の風土記」)に、大多サが話された狩野川衆が伝えた継ぎ竿のほか、仕掛け糸について次のように欠かれている。
「仕掛け糸は“伊豆の太糸”といわれるくらい、一厘五毛(一.五号)から二厘という“綱みたいな太いもの”を使っていた。そのかわり、一週間も十日間も、そのまま使っていた。
『掛かった鮎はみんな取り込んでやろうということやで。しかし囮を泳がせることには不得手じゃった。』
大多サは本テグスの六毛か八毛を使った。“八月川”の水枯れには専ら四毛を使い、掛け鉤は馬の毛を三,四本撚りにしたヤナギの二本鉤が主であった。囮を泳がせる方が大事だと考えて、細い糸を使い、鉤は鉤先さえ下を向いていれば一本でもいいということも知った。」
鉤素の太さを、素光さんとは異なり、大多サが太くされていたのは、長良川の鮎の馬力がモウレツであるからかなあ。初心者らしくないおっさんが、狩野川とは違って、大井川で糸鳴りをする鮎を経験して、師匠に尋ねたところ、遡上距離による馬力の違いでは、と教えてくれたとのこと。
ということで、馬力が強い郡上八幡の鮎に、あるいは宮川の鮎に特化した鉤素の太さということかなあ。
なお、「チラシ」と「ヤナギ」の違いについて、イカリ全盛時代があったためか、素光さんや前さんたちの頃とは表現が異なっている。
亡き師匠や大師匠は、現在「チラシ」と表現されている仕掛けを「ヤナギ」と表現されていた。
故松沢さんは、オラが「ヤナギ」のことを「チラシ」と表現されても訂正をされなかった。世の趨勢に逆らい、注意をすることが面倒くさかったからであろう。
現在「チラシ」と表現されることの多い仕掛けは、前さんが書かれている「ヤナギ(松葉)」である。
なお、素光さんの図には、逆針が描かれている図もある。
鼻環
素光さんは、
「囮をつけるに縫い針に木綿糸を通し鮎の鼻孔を括り囮綱の上部の輪に木綿糸の一方を通して括るのは最も古くよりの仕掛で、時間的に煩はしい様に思はれるので、現今では余り使用してゐる人は少ない。老年の人にまま見受けることがあるが鼻環やカンヌキを使用した場合よりも囮は弱らないのでその其の点効果的である。数の釣れない日で一尾の囮を大切に長時間使用せねばならない時には非常に重宝な仕掛である。故に普通は鼻環なりカンヌキを使用し、道具入れに木綿糸と縫い針を用意して置くことも決して無駄ではないと思ふ。その他鼻を通して尚別に囮の脊部に糸を通して括るか単に脊部だけを糸で括って放囮するとよく沈む。」
最後の所は、背環と同じかなあとは思うが、それ以外は見当もつかない。囮を長持ちさせる方法は大歓迎であるが。
亀井さんは、大多サが話された狩野川衆の仕掛けが長良川に導入された時のことを書かれているが、素光さんの話に係ることも含まれていたかなあ。
木綿糸と木綿針を入れておく、とは、オラがマッスル背針をベストに入れているのと同じ意味合いかも。
前さんの解禁日:西城川
逆針なしでは釣り難くなったのは、遡上量の減少、放流のもの増加だけではなく、釣り人の増加が関係しているのかも。
その釣り人の増加がどのような状況であったか、事例を見ておく。
「広島県・西城川の解禁に釣友のお供をした。
大阪を前日の夕方に出発し、ゆっくり休憩をしながら西城川へは午前一時前に到着した。釣友の案内のままだから場所名は分からない。ともかく仮寝しょうと、附近の農家の納屋の軒下を無断借用し、用意の寝袋に潜(もぐ)り込んでウトウトしていた。そのとき、別棟の母屋から、おばあさんがトイレに出てこられた。トボトボ歩きながら、ふっと人の気配を感じられたのであろう。目敏く私たち二人を見つけて電灯をつけられた。一瞬、『西城狸』を決め込もうか、と思ったものの、そうもならず、軒下無断拝借で驚かしたことを詫(わ)びた。おばあさんは無言のダンマリでソソクサと母屋(おもや)に入ってしまう。ああ、不作法なことをしたものだ、とは思いながら暫(しばら)くまどろんだ。
『夜が明けたよ』車中仮眠の釣友に起こされ、川への準備が終えたとき、『さっきはビックリしたょ』と先ほどの婆様がこられていう。改めて二度、三度の詫びを入れた。
『どこからきんさったのかの?』
『大阪から』
婆様は怪訝(けげん)そうな顔をして、しばし無言。そしていう。
『もっと近くの川はないのけ!』
婆様には、正しく我々の行動が腑(ふ)に落ちなかったからこんな言葉が出たのであろう。私は一瞬、目前に閃光(せんこう)が走り目が眩(くら)んだ。
強烈極まりない必殺のストレートパンチを食らったような気持ちがした。大阪から広島の間にいくらでも解禁済みの川があるではないか、なにを好きこのんで『ご先祖様の禁』を破ってまで西城川まできたのか、との思いが脳裏に浮かび『ああ、はしたないお神輿担ぎをした』という反省から、思わず腰が砕け敢(あ)えなく『KO』されたようだ。
おかげで、その日は納竿(のうかん)まで腰に力が入らなかった。
『近くの川はないのけ!』の言葉が、釣っても釣れても頭を離れずに、苦笑いを何度も噛み殺したものだった。
この解禁日は大勢の人出がなく、当然よく釣れた。この好釣果のせいで、翌五十九年にも西城川の解禁に行くという釣友に強引に誘われて、つい連れ立ってしまった。
五十九年の解禁は凄(すご)いものだった。大阪から大型バス七台、遙(はる)か遠くの静岡ナンバーのマイクロバスが数台、前日からの場所取り組も含めて大変な『お祭り』になった。あの婆様はなんと思われたことか―。地元の釣り人に聞くと、私どもが行かなかった五十七年までの解禁を、文字通り『川開き』としてゆっくり『お祭り』を楽しめたと嘆いておられた。」
「五十八年」とは、1958年ではなく、「:昭和58年」ではないかなあ。1958年とすると、昭和33年であるから、まだ西城川まで行かなくても、都会の近くでも少しは釣り場があったと思うが。
そして、昭和33年頃に、バスで釣りに行くほどの経済的、時間的余裕はなかったはず。まだ、働くことに精一杯の最後のころであろう。
西城川にいた鮎は、浜原ダムは完成していたから、放流ものであろう。そして湖産を逆梁で採補したものではなく、湖産畜養や、「湖産」ブランドに、海産や人工がブレンドされていたのではないかなあ。それでも、西城川へと、解禁日には釣りをしないという「ご先祖様の禁」を破ってまで、出かけたくなるほど、都会に近い川は、あゆみちゃんには生活し難くなっており、また、「川らしい川 水らしい水」の流れていない川になっているところが多数であったというとではないかなあ。
そのような状況であったから、「翌年」には、かっての地元民だけの「川開き」とはいえないほどの混雑、都会近郊並みの釣り人が川にいた。
この釣り人の多さが、成長したあゆみちゃんを次から次へとあの世に送ることになり、大きく育ついとまをあたえることがなくなり、大鮎を減らすことになった一因かも。
西城川に放流されていたのは、池田湖産と前さんは書かれていることが分かった。 ただ、すでに江川漁協の人工生産が始まっているから、池田湖産だけなのか、また、「湖産」ブランドの放流はなかったのか、前さんの節で忘れていなければ考えましょう。 |
川開きとは
前さんは、「解禁日」と「川開き」が異なる風景であったことを書かれている。
「今はもう『解禁』という名に馴(な)れてしまったが、昔は鮎の解禁日を『川開き』と表現した。登山の『山開き』や海水浴の『海開き』と同じ感慨(かんがい)が込められていたのである。
『少々早うございますが、山や海の神様を祀(まつ)ってボツボツこれから入れて頂きます』という自然への畏(おそ)れも表現した言葉だったように思う。その意味から、私の郷里の吉野では名物の『柿の葉鮨(ずし)』を作り、家族揃(そろ)って河原に出ては『川開き』を祝ったものである。いわば川筋に住む人々の『お祭り日』で、『川の龍神さま、本日以降は川の鮎を獲(と)らせて頂きますのでよろしく願います』などという挨拶(あいさつ)日だったのである。
勿論、漁を嫌う人々は河原にでないのだから、今日のような賑(にぎ)わいはなく、静かな『川開き』がそれぞれの川で行われていたようだ。
『解禁』という表現が主流になったのは、昭和二十年の終戦が境であったように思う。冬の鴨猟、山の猪(いのしし)猟と同じような語彙の『解禁』で、現代の川は大賑わいである。『ヨーイ、ドン』の合図で漁をはじめる思考から“水神さま”などは縁のない存在になってしまった。『解禁日』は手つかずの川。従ってたくさん釣れるのは当然である。しかし、釣り人各位の初釣りを祝い、また、今年一夏の好漁と健康を願って、漁はそこそことして、少なく釣ってそれぞれが『心の川開き』をして頂き、大きく育てて後の楽しみとしたいものである。
と、こうお願いをしても、現代の川事情は誠に世知辛(せちがら)い。」
「解禁日」なるものが、古から存在してはいなかったとは思えど、古では、祝祭の、儀礼のひとつであったとは。
吉野鮎
亀井さんは、
「いわゆる“吉野鮎”の本場は、上市付近から上流の柏木あたりにかけて、三十キロ近くも続いている。以前は天然鮎が盛んに遡ってきたが、発電所があちこちに出来てからは、鮎も放流に頼るようになった。度々の出水で石も変わったし、魚質も昔ほどではなくなったと言う人も多いが、幽邃な杉木立を背に吉野の清流は、大きく肥えた見事な鮎を育て続けている。」
亀井さんが、この文を書かれたのは、大迫ダムができた昭和四十八年よりも後、「釣の風土記」発行の昭和五十三年より前である。
したがって、放流鮎は、まだ、湖産であり、海産畜養で、人工種苗ではなかろう。
しかし、数年後には人工種苗が主役になり、七月に「尺」が釣れ、解禁日にサビ鮎が釣れるという状況になった。
その時代であれば、川が荒廃しているであろうにもかかわらず、「大きく肥えた見事な鮎」との表現には、人工でしょう、といいたくなるが。
しかし、人工ではない。相模川でも、大井川でも、つまり、藍藻が優占種の川でも、珪藻が優占種の川でも、大きさに関しては、それなりの大きさに育つということかなあ。村上先生の球磨川と、ダムのない川辺川で大きさに目立つ差がない、との調査からも、大きさは、海産であれば、十一月生まれか、十二月生まれか、によるだけかなあ。
品位、容姿の綺麗さには違いが出るのであろうが。
道路建設を推進して…
平重郎さんの家は、
「以前は対岸の矢治から橋を渡ってきて、胸突上りの坂の上に石垣をめぐらし、生垣で囲った広壮な住いが目をひいたが、四十八年の暮に、宮滝から大滝まで五社峠をくり抜くトンネルのバイパスが完成して、邸の玄関先をハイスピードで車が横切ってゆくようになり、見事だったイブキの生垣もなくなった。
『夏場はなあ、大台へ登りよる車がうるそうて、ろくに眠れまへんのや。こんなことやったら、作れ、作れて運動するのやなかったわい。』
と平重郎さんはこぼした。土地の有力者で先頭を切るようにして道路の建設運動を進めてきたのだ。悪いことに、家の前から三百メートルほど上手に峠のトンネルができて、下ってきた車はトンネルを出ると見通しの良い一直線の道だから、一斉に速度をあげて家の前を通り過ぎてゆく。シーズンには警察も心得たもので同家の玄関先の石垣の陰から目を光らせていて、スピード違反車を見つけては飛び出してゆく。それやこれやで、『とにかく、夜も昼もうるそうでかなわん』のだそうだ。」
その道路が出来てからも、アマゴの国は、健在かなあ。
まだ、在来種は残っているのかなあ。
(8)井伏さんと吉野川
井伏鱒二「釣師・釣場」(新潮社)
井伏さんは、あゆみちゃんや川の情景よりも、それらと関わりのあった、出会われた「人」に強い関心を抱かれていてと思い、12月に「釣人」を見つけたときも買わなかった。
しかし、亀井さんが「釣師・釣場」を引用されているとなると買わざるを得ない。
「釣師・釣場」は、井伏鱒二全集にも収録されているから、コピーをすることも出来るが、資料目録を作成する習慣を欠いているため、後日、コピーを探し出すことが煩わしい作業になることがわかっているから、購入した。
「釣師・釣場」は、「釣人」とは違って、吉野川以外にもおもろい話が掲載されている。例えば、「最上川」に、サクラマスは雌、産卵するときは山女魚の雄が精液をかける、等、素石さんや、今西博士、萬サ翁はどのように反応されるか、楽しみな話も書かれている。それらを紹介することは、「河口堰」のノルマを果たしてから、ということにして、「笠置・吉野」の章だけを紹介します。
(いつものように、旧字は、当用漢字で表記しています。また、原文にはない改行をしています。)
木津川では
「待望の木津川と吉野川行きを実行しようといふことで丸山君同道で出かけたが、木津川の方は前もつて釣場の問ひあはせをして置かなかったので見込み違ひになった。人の話や想像から木津川を買いかぶつてゐたのである。朝の八時、伊賀上野駅に着いて汽車を乗替へるとき、改札の職員に聞くと、大河原の川下に行けばアユでもハヤでもコヒでも釣れると云った。地図を見ると大河原の次が笠置である。大河原と笠置の間には、水源を山辺山地から発する枝川と、添上山地から発する枝川と、この二本の川が木津川本流に流れ込んでゐる。おそらく水深も加はつているゐるだらうとと思つた。
『では、笠置まで行つて、笠置山を正面に見ながら釣らうぢやないか。後醍醐天皇の行在所のあつた笠置山だ。役(えん)ノ行者もゐたことがある山だらう。』
丸山君に私はさう提案した。
私たちは笠置で降りて、駅前にある美登利屋といふ食堂に寄つて朝飯の註文をした。土間の硝子戸に『田舎で稀なコーヒーの店』『味本位和洋食』と書いた紙が貼りつけてある。土間の中にはアイスキャンデイーの製造器が置いてある。入口に水のあふれ出てゐるコンクリートづくりの水槽がある。その水で顔を洗つて川向うを見ると、お誂へむきに笠置山が目近く聳えてゐた。
丸山君が食堂のおかみさんに朝飯の支度を急がせて、
『おかみさん、笠置山の後醍醐天皇の行在所は、お宮かお寺のやうなものになつてゐるのかね。』
さう云つて聞くと、
『玉垣があつて、土台の石が残ってゐるだけどす。』
と傍から中年の姐さんが云つた。
『姐さん、後醍醐天皇は、ときには山をくだつて川遊びなんかされたらうか。それと違ふかね。つまり川釣なんかされたらうかね。さういふ云ひ伝えか何かないのかね』
私がさう聞くと、
『そんな話聞かしまへん。山へ籠つてゐやはつたから。』
と云つた。」
「この川へ釣りに来る外来者は主に奈良や大阪の釣師だが、笠置では釣れないのでみんな大河原まで釣りに行くさうだ。大河原でなら大きなコヒが釣れ、先日も奈良の人が一貫八百目のコヒを釣つて、そのとき釣竿を折られて大変に難儀した。
おかみさんがさう云ふので、私たちもここは素通りして、もう一つ待望の吉野川へ直行することにした。私は笠置山へ登るのも割愛しようと思ったが、おかみさんが夏場だから観光客は少ないし眺望絶佳だからと勧めるので、では登らうといふことにした。
『田舎では稀なコーヒーの店か。姐さん、ここのコーヒーはうまいかね。』
と丸山君が聞くと、
『そりや、ほんまに美味しゆおます』
と云つた。
私たちはコーヒーを飲んでから出かけて行つた。昔、笠置山は天武天皇の大海皇子時代の遊猟の地で、後に大塔を築き仏寺を建てられた霊山だと云ひ伝へられてゐるさうだ。海抜四百何十メートルといふのだから大して高くないにしても、台地が花崗岩の甚だ急峻な山になつてゐる。登つて行く新道の左手に絶壁をつくつてゐる台地の大路頭が見えた。要害の山である。六合目ぐらいまで登つて、一ノ木戸の紅葉屋といふ茶店の所から、木津川を見おろすと、全体に流れが浅くて川底は白い砂ばかりだといふことがわかつた。これではハヤだつて釣れないだらう。さうだ、吉野川へ急いでいかう。もうここはこれきりにして引き返すことにしょう。私たちがそんな打ちあわせをしてゐると、茶店のおかみさんが出て来て、いきなり私たちに観光案内の説明をやり始めた。」
吉野への道
汽車は、
「木津川と殆ど並行に進んでいくのだが、川の流れが次第に浅くなつて、釣をしてゐる人の姿は一人も見かけなかつた。流れが次第に干上がつて砂川になつて行く。汽車は木津といふところから、その砂川を嫌つたやうに急に左に迂回する。やがて奈良、大和郡山、法隆寺、王寺、王寺で乗替へて吉野口、吉野口から電車で吉野といふ駅順である。
私は吉野には一度、中学生のころ修学旅行で行つたきりである。四十何年前のことになる。そのときには六田の渡しを川船で渡り、ちやうど尋常六年の国語教科書第一課『吉野山』に書いてあつた通りの順序で見物した。『六田の渡しを渡り、登り行く坂道の左右、すでに桜多し。何とか何とか、云々。村上義満の墓を弔ふ。眺望いよいよ開けて、満目すべて桜なり。』この順序で、銅の鳥居、蔵王堂、皇居の跡を見て、銅の鳥居近くにある『花のなか宿』といふ旅館に荷物をあづけて見物してまはつた。見物がすんでからもその宿に泊まつた。
今度、私はその宿に泊まらうかと思つたが、吉野山のケーブルカー降車口でハイヤーの運転手に聞くと、『花のなか宿』といふ旅館は吉野山にはないのだと云つた。
私の記憶ちがひであつたのであろうか。私の泊まつたその宿には、襖をはづした部屋の床の間に、広瀬淡窓の七言絶句の半折が掛けてあつたのを憶えてゐる。この詩は私たちの漢文の教科書にもあつたので、誰かがそれを大きな声で朗吟すると、宿の主人か番頭がやつて来て、『この詩は、昔、手前どものこの家のこの部屋で、淡窓先生がお書きになつたものです。淡窓先生の御傑作です。』といふやうなことを云つた。みんな瞬間しんとした。修学旅行はいつまでも思ひ出になるものだ。」
ぼけ症候群が、「本然の性」・生まれつきでは、と、ひがんでいるオラは、小学生の修学旅行が伊勢かも、中学生は高松かなあ、と思うが、自信はなし。高校生は、メリケン波止場から船に乗って、別府で降りたかも。阿蘇に行ったのでは。憶えているのは、長崎で食べたチャンポンの量が非常に多かったこと、関門トンネルを汽車が通ったことだけ。
「翌日、宿を出発のとき玄関で草鞋を履いてゐると、女中が私たち一人づつの肩を後ろからたたいて『新婚旅行のときは是非ともおこし下さい。』と愛想を云つた。(当時、私たちの中学では旅行のとき生徒は草鞋をはいてゐた。…… 高野山大学の学生との野球試合では、投手が片足をあげて投球の構へをすると草鞋の裏が見えるので、高野山側の応援団の坊さんのうちには笑ひ出すものがゐた。高野山側の選手はみんな黒染めの衣に襷をかけ、白足袋に白い鼻緒の草履をはいてゐた。)」
宿からの情景
修学旅行の宿は見つからなかったが、案内された宿からも、
「ここの裏座敷からも深い谷が見え、谷向こうの山の向こうに遠く二子山が見え、その左手にどつしりとした大きな山が見えた。宿の人に聞くと、二子山は近江の国の二上山である。どっしりとした方の山は金剛山で、その山の左手の裾に楠公さんの根城であつた千早の赤坂村があるさうだ。
『でつかい山だ。来るとき、奈良盆地から近く見たときよりずつと大きい。山は仰いで見るより、かうして見る方が大きく見えるのかしら。』
と丸山君が今さらのやうに云つた。
大体において吉野の町では、尾根づたひになつてゐる一本道の両側に寺や神社と共に家が並んでゐる。だから、どの家の裏座敷からも谷間を一望に出来るわけである。丸山君と連れだって、群芳園の筋向こうの家の裏手に出て見ると、私の記憶にある花のなか宿から見た谷川は、あるか無しかの小さな流れであつた。私はがつかりした。四十何年前に見た谷川は、私の記憶のなかで十倍もその上にも大きく膨らんでゐた。群芳園の主人に聞くと、この谷川ではニヨーラクといふ小さな魚が釣れるだけださうである。ハヤに似たやうな極めてつまらぬ雑魚であるさうだ。」
谷川は、四十年前と同じ水量かなあ。
井伏さんは、一千八百九十八年生まれであるから、吉野に行かれた四十年後も戦前のことであるから、「川が川であり 水が水であった」状況を大きく変えるダムも砂防堰堤もなかろう。
単に、記憶の増幅かなあ。
飯田線の湯谷で降りて、山道を登り鳳来寺山に泊まったことがあった。仏法僧を聞くために。
朝、散歩をして、門前町からは立派な階段があることを知った。帰りも湯谷で出たが、駅前の宇蓮川は大石がいっぱい水中に転石していて、そこに綺麗な水が流れ、ええ川やなあ、と見たことがある。
しかし、「釣り吉君の日記」の釣り吉さんは、ダムができて、微かに水が流れているだけで、アマゴの放流も中止になったと書いてくださった。
湯谷に降りたのは、昭和三十七,八年ころ。ダムができたのはいつ頃かなあ。
樫尾へ
「翌朝、竹林院の本堂で山伏たちの吹き鳴らす法螺の音で目をさまし、吉野川本流沿ひの上市といふ町に向けて山を降りた。この町には坂本昇三さんといふ町長がゐる。丸山君がこの人に前もつて連絡して置いてくれたので、私たちが町役場に行くと、よく来たと云つて同じ町の樫尾といふところの釣の名人のところへ案内してくれた。同じ町と云つても、町村合併で生まれた町だから樫尾まで相当は道程で、うねうねと吉野川に沿うて川上に向かつて行く。悪くないやうな淵や瀬が至るところに見えた。
車のなかには助手台に町長さんのボンボンが乗つてゐた。これがことば少なく沿道の古跡の説明をしてくれた。川の左と右に妹山背山と分かれて見える妹背山。その少し川上にある天武・持統両天子のよく御幸されたという吉野離宮の跡。町長さんから貰った『観光よしののしおり』には『記紀万葉をひもとくまでもなく、往時の大宮人の川あそびのありさまを偲びおこさせる水と山との静かな美しいところである。』と記されてゐる。『吉野宮に幸でませるとき柿本朝臣人麻呂の作れる歌。見れど飽かぬ吉野の川の常滑の、云々。』といふ一首も抜粋されてゐる。大海人皇子挙兵による壬申の乱と関係の深い土地である。その辺りには川の向こう岸に断崖が続き、近代的な大橋も架かつてゐる。岸が高くて川幅が広いのだ。その大きな川が細長い谷を縦に両分し、向側とこちら側を別個の領地にしてゐるやうな感じである。
『町長さん、この谷の人は、川向の人とこちら側の人と、仲が悪いやうなことはありませんか。』
『決してそんなことはありません。その必要がないですから。』
次に、また一つ大きな橋がある。その橋を渡つて坂を登つたところに釣の名人の住宅がある。ちゃんと石崖をめぐらして、垣は青々としたイブキの生垣になつてゐる。庭の入口にウバメガシの木を植ゑてある。離座敷の内庭には、石灯籠のところに程よく刈込んだヤマモモの木が植ゑてある。その他、コウヤマキ、細葉のツゲの木など植ゑてある。ツゲの木は、植木屋たちの云ふ謂はゆる和州大台ヶ原のコメツゲであつた。」
やっと、竹田平重郎さん宅に到着した。
平重郎さんの語る川と鮎状況
「町長さんの紹介でこの家の主人は私に名刺をくれ、今朝から釣つていたが、さつぱり駄目だから川から上がつてきたところだ、と町長さんに云つた。名刺を見ると、竹田平重郎さんといふ名前で、材木を扱つてゐる人だとわかった。背が高くどつしりとして、夏の釣師の顔だから陽にやけて目がきついが、風貌から受ける感じは悪くない。何となく、すかつとしたところがあるやうだ。私はその話しぶりから見て、この町長さんと中学時代からの仲よしではないだろうかと思つた。
平重郎さんは町長さんを相手に(町長さんは釣は全然やらないと云ふのだが)川の情況を話した。先日六十年来の洪水があったので、アユは殆どみんな川下に押し流され、しかも産卵時期が近づいたから今年はもうこんな川上には遡らない。雌のアユはもう胸に黄色い斑点をつけてゐる。川石のヌラも、あと三日か四日たたないと発生が覚束ない。今日は午前中に五尾しか釣れなかつた。今日は釣は止した方がいいだらう。最近、この村に(町内とは云わなかつた。)ダムが二つできたので、川の水も減つて釣り難い。以前は盛期には百尾は釣れたものだ。」
ダムが二つ出来た、とはどういう意味かなあ。
戦前もしくは、戦後すぐのころであろうから、堰のことかなあ。いずれにしても、大迫ダムのような大きなダムではなかろう。
「雌のアユはもう胸に黄色い斑点をつけている」とはどういうことかなあ。
婚姻色としての「追い星」のことかなあ。見当がつかない。婚姻色として、雌の下腹に朱線が見えるようになるのであれば、わかるが。
「六〇年来」の洪水ということであるから、遡上鮎といえども流されたということかなあ。そして、性成熟にはまだ時間があるものの、再び差してくる力が七月までよりも弱い、ということかなあ。
平重郎さんの仕掛け
「『しかし、実演して見せてもらひたいな。人から聞いた話だが、あんたの発明したといふのは、その釣方はどうやるのかな。』
町長さんがさう云うと、平重郎さんは素直に受けて町長さんを相手に説明した。それは、いつぷう変わつたやりかたである。囮に鼻環をつけないで、その代りに七分五厘の掛鉤を狐型になるやうに切つて使ふ。すでに掛鉤でなくて狐型の針金の切屑である。その切屑はまんなかをハリスで縛つておく。それをアユの鼻に通し、鼻の上でハリスに引つかけておく。一方、もう一つのハリスで背鉤(せばり)を立てる。アユの背首のところは脂身だから、鉤を立てても大して痛痒を感じない。
掛鉤を背首に立て、それを結んだハリスでアユを引張るやうにするために、鼻に通したハリスには長さに少しゆとりをつけておく。つまり在来のやりかたのトロ場で背環を使うのと違ひアユを静かな流れに游がすやうにするのではなく、激流のなかに深く沈めるのである。アユは鼻で引張られているのではなくて、さほど痛さを覚えない背首で引張られているやうになるわけだ。従ってアユは顎を出さないでもすむことになる。
『その場合、鼻につける方の鉤は、鼻環にしてもいいでせうか。』
私がそう云うと、
『鼻環は曲げるのに面倒ですから。忙しく釣れるときには、どんどん忙しく釣りたいですから。』
と平重郎さんが云った。
そこで背鉤を立てて、それでもまだ囮が沈まないやうな浅くてきつい瀬の場合なら、はづれぬ程度に囮の口にマッチの棒で突つかひをするのださうだ。口を開けさせれば、水の抵抗を余計に受けて囮が沈むことになる。
『このくらゐの長さにして。』
と平重郎さんは、マッチ棒を三分の一ほどの長さに折つた。
『これで突つかひ棒をして、いつたん口をあけさせたアユは、棒をはづしても口をあけたまんまです。昔、この辺の釣師は、鼻環をつけて、更にハリスを首に巻きつけてゐたものです。』
奔流だからさういふ釣方が工夫されたのだらう。この辺の釣師は、オモリは岩に引つかかるから使はないさうだ。平重郎さん自身は、タモ網も囮箱も使はないのだと云った。釣れた鮎は囮と共に宙ではづして腰の魚籃に入れ、元気よく跳ねてゐる方を手で探り取つて、宙で囮につけかへるのだと云ふ。それが出来れば仕事が早いに違ひないが、手から滑り落ちるおそれはないものか。
『まるで曲芸みたいですね。つるりと滑つて逃げませんか。』
『かういふ具合に握ります。』
平重郎さんは箸包みの紙でアユを握る仕方をやつて見せた。アユを手掴みにして、親指でそれの片方の目を軽く抑へ、反対側にまはした指で少しアユの首を手前に曲げるのである。
『うんと大きなアユのときは、かうして胸に当てます。』
と仕草をして見せた。
やっと釣り場へ
「この旦那が釣の支度をしに座を立つと、町長さんが独りごとのやうに云った。
『あの人、釣の話をすれば、釣に出かけなゐぢやいられないだらう。ながい間のつきあひだが、あの人が釣の話をしたのは今日が初めてだ。』
平重郎さんは草鞋ばきで魚籃を下げ、二組の竿を持つて私たちは河原に案内してくれた。私は河原で草履にはきかへて、持つて行つたヤマメ竿に蚊鉤釣の仕掛をつけた。その間に平重郎さんは橋の下で囮をつけて来て、
『これでやつてご覧なさい。ここらがいいでせう。』
と、その竿を私に持たしたので、私は自分のヤマメ竿を丸山君の持たした。
私の借りた囮は元気がよくて、産卵期の囮はこれに限るしるしの黄色い斑点を胸に持つてゐた。竿も軽くて素晴らしい調子である。仕掛は先刻の話の通り、鼻環の代りが狐型に切った針金である。背鰭と頭の間に鉤が立ててある。掛鉤は一つで、枝にして結んだ子が一つ、そのハリスが鼻に通した糸につないである。道糸は竿よりも三尺ばかり短いので、囮の位置を変へるとき、水に流されないで水面すれすれに宙で放るのに都合がいい。その代わり、もし釣れたら手元を抜いて、タモ網を誰かに借りる必要がある。囮はオモリがないのに激流に沈んだ。平重郎さんは二十間ばかり川下で竿を構へてゐた。」
井伏さんも「黄色い斑点」を産卵期のアユの特徴として書かれている。
「追い星」が、当時は体に出ていなかったのかなあ。婚姻色としてのみ、現在表現されている「追い星」が、現れるのかなあ。
ドブさんは、昭和三十年ころの手取川の鮎には、追い星はなかった、と話されていたが。
黄色は、藍藻に含まれている物質のようであるから、珪藻が優占種の川では、「追い星」が発色することはなかったということかなあ。
そうであるとしても、婚姻色として何で黄色が発色できるのかなあ。
現在とは違って、「追い星」の記述が見当たらないか、存在しているとしても、稀ではないかなあ。
鼻環の代わりの狐型の針金と撞木が同じなのか、違うものか、分かりません。背針については、極楽背針と同様の効果を生じる仕掛けでは、と思うが。
「草鞋(わらじ)」と「草履(ぞうり)」が異なるとは、戦前生まれにもかかわらず、気がつかなかった、忘れていた、とは。というか、「草履」は家にもあったが、「草鞋」はもう日用品ではなかった。下駄は日用品であったが。
さて、フェルトが使用される前、「草鞋」の半か?は、滑り止めの機能を有する有用な履き物であった。井伏さんは、「草履」をはかれたようであるが、滑らないように、どのような対応をされていたのかなあ。
囮は弱らず
「私は暫く同じ場所でねばつたが釣れなかった。水の中の小石を拾つて見ると、ヌラがちつともついてゐない。ところが川下にゐる平重郎さんは、橋脚の基礎になつている岩石の上に立つていて釣りあげた。先刻の話の通り、宙に釣りあげて、ハヤをはづやうに宙ではずし、竿を肩に立てかけて囮をつけかへた。
私のそばに見識らぬ釣師が一人ゐた。この人は私たちが河原に来る前から釣つてゐたが、この人の釣の仕掛は平重郎さんのとは違つてゐた。背鉤はつけないで、鼻環の狐型に切つたのを囮の鼻に通し、そのハリスを囮の鰓に巻きつけてゐる。現在のこの辺の釣師のやり方だと思はれる。後でわかったが、この人は吉野町の大北喜三郎さんといふ釣師である。見てゐて竿の扱ひかたは大したものだと思はれたが、川下の平重郎さんは釣りあげているのに、喜三郎さんは私と同じやうに釣りあぐんでゐた。
『僕は囮を休養させます。』
私は河原にしみ出てゐる清水のたまりに囮を入れて休ませた。かれこれ二時間ちかく引きまはした囮だが、口のはたに少し疵をつけてゐるだけで色も大して変つてゐなかつた。普通、この川ほどの激流なら、私は三十分もたたない間に囮を半死半生の目に遭はしてしまふ。仕掛が違つてゐるためにしても、上手と下手がある筈だ。私は狐型の切屑をはづして見て、それを囮の鼻の穴に入れようとすると囮があばれてハリスから抜け落ちた。幾度やつても同じことであつた。喜重郎さんは私が手を焼いてゐるのを見て、
『抜けましたか。つけてあげませう。』
といって、器用につけてくれた。囮は喜三郎さんに握られても、ちつともあばれないで
『でも、お手やわらかに。』と云つているやうな感じであつた。
平重郎さんは私の囮を調べに来て、新しい囮につけかえてやらうと云った。
『いえ、大丈夫です。』
と辞退すると、川下へ行つたが暫くするとまた引返してきて、
『型のいいのが釣れましたから。』
といつて、大型の勢ひのいいやつにつけかへてくれた。それでも釣れなかつた。」
鮎釣りの後は
「私が竿をしまつたとき、丸山君は河原の平たい大きな岩の上に腰をかけてゐた。町長さんのぼんぼんは、丸山君から持たされた私のヤマメ竿で小さなハヤを釣り、それを草の茎に刺し並べたのを持つて河原に立つてゐた。ヤマメ釣の太い蚊鉤でも小さいハヤが来るものらしい。この蚊鉤は、函館の釣師である中島渓風さんの製作で、本州のヤマメをこの鉤で試してみろと云って贈られたものである。
帰りは、また町長さんの自家運転で、今度は川の左岸沿ひの道を上市まで帰つてきて、橋のたもとの平宗といふ旅館に投宿した。川がすぐ窓の外に見える部屋に通された。窓の下で子供のハヤ釣をしてゐるのが見えた。流れがゆるやかで、浮木が殆ど静止してゐるやうに見えた。その浮木に微かな動きがあるたびに、子供はうまく釣りあげてバケツに入れてゐた。小学三年生か四年生ぐらゐの子供である。
『坊や。餌は何だね。』と聞くと、
『団子。』と振向いて答へた。
子供は餌をつけかへるとき、その練餌をズボンのポケットから小出しにしながらつけてゐた。その慎重な手つきが余計にあどけなく見えた。
「その晩は、灯籠流しがあるといふことで夕方まで川向こうで太鼓を叩いてゐた。日が暮れると、何艘かの施餓鬼船が川上に向つて行き、暫くすると川上からたくさんの灯籠がゆつくり流れて来た。みんな一箇づつ火影を水にうつし、岸近く片寄つてゐるものほどゆつくり流れてゐた。私は窓のところに行つて、一ばん後から流れていく灯籠に『びりつかす、しつかり』と声援した。」
灯籠流しは、8月15日の盆に行われているよう。
とすると、下りの時期ではないため、増水の時でも、川にヘチがあり、あるいは、大石、淵等の避難場所があれば、遡上鮎は流されないはず。しかし、洪水の規模が大きくて、流された遡上鮎が多かったということではないかなあ。
そのうえ、アカ付きがまだ悪いことが釣れなかった理由ではないかなあ。
平重郎さんの話:湖産についても
「平重郎さんはアユを鉤からはづすときの要領について、昔の人はタモトクソを手につけてはづしたもんだと云つてゐた。昔の人は着物の裾をまくり上げて釣をしていたさうだ。それから、放流のアユと自然のアユの区別について、琵琶湖のアユは形も悪く、囮に使ふと早く赤くなり、鼻を早くいためると云ってゐた。身が柔いので、背鉤を立てると切れ易くて傷だらけになると云ってゐた。ぬらぬらも多すぎると云ってゐた。平重郎さんの話では、この辺には『ピン』と称する珍しい釣方もあるさうだ。」
この「琵琶湖のアユ」は、戦前の話であるから、氷魚からの畜養ではなかろう。
「形が悪い」とはどういう意味かなあ。ぬめぬめぬるぬるの柔肌は、海産遡上鮎も同じであり、当たり前のことではなかったのかなあ。現在では、苔、水の変化からか、継代人工だけでなく、遡上鮎でも、ぬめぬめぬるぬるのあゆみちゃんには出会うことはないが。
ハヤも釣れず
5時に起きて、釣具屋を探した。
「教はつた通りにたづねて行くと、釣具屋では、おかみさんが朝刊を取りに土間へ降りてゐた。それが硝子戸の外から見えた。声をかけると、ゆつくり戸をあけて、羊羹に似た練餌を睡さうな顔で売つてくれた。釣場を聞くと、すぐこの路地を下つたところで釣れると云つて、『ハエならどこでも釣れます。』と云ひ足した。
ところが、路地を入つたところの洗濯場では一ぴきも釣れなかつた。そこからちよつと川上の、大きな屋敷の石垣の下でも釣れなかつた。ここの流れは練餌には早すぎるかもしれないと思はれたので、平宗旅館の前に引返し、昨日の子供が盛んに釣つていた場所で試したが駄目であつた。幾ら釣れないと云つてもあまりにもひどすぎる。団子の撒餌をしてみたが効力がない。
『いや、こんなこともあるもんだ。もう止しませう。お待ち遠さま。』
私は竿をたたんで袋にしまつた。」
「ハヤ」は、「ハエ・オイカワ」のことのよう。
子供に釣れても井伏さんに釣れなかったのは何でかなあ。
井伏さんは、釣れなくてもオラとは違って、不平不満をまき散らすことはしません。
町長さんが訪ねてきて挨拶をされ、同行の人に駅まで送ってもらった。
「汽車を王寺駅で乗替へるとき、ちよつと時間があるので最寄の川でハヤ釣をすることにした。魚籃のなかに練餌の使い残しを入れていたのが道草をくふ元であつた。せつかく大和の国にやつて来て、ハヤ一ぴきも釣れないのは後口が悪からうといふ思いもあつた。」
ということで川に出かけた。
居合わせたハンチングの釣り人は練り餌で釣れるのは「フナ、ハエ}と返事をしたものの、素っ気なくあしらわれた。
そして、ハンチングは、川の名前について、龍田川か、の問いに、大和川と答えた。
汽車の中で地図を見ると、龍田川とか飛鳥川はこの大和川の支流になっていた。帰宅後、調べてみると、昔は大和川を龍田川といっていたという説もあったとのこと。
釣りの結果は、小さなハヤ一匹。
逃がしてあげた唯一の釣果であるハヤについて、
「『あのハヤは、今に川の水面から顔を出すぞ。その瞬間、俺のことを、へたくそ、馬鹿野郎と云ふにきまつてゐる。』
私はさう思った。しかし丸山君が釣を止すまでには、そのハヤは顔を出さなかつた。一説によると、釣つて半殺しにした魚を誤つて逃がした場合には、その魚は瞬間的に水面から顔をのぞかせることがあるさうだ。私の釣友達であつた竹村書房の主人も、もと都新聞にゐた上泉秀信さんも、そんなのを目撃した経験があると云つてゐた。ナマヅならそんな習性を持つてゐるやうな気持もする。
大和川の王寺のその釣場から法隆寺まで、乗物でなら六分か七分の距離である。バスも通じてゐる。私たちはついでに法隆寺を見物して帰つて来た。」
井伏さんと違い、俗人丸出しのオラには、遙か彼方まで出かけて、釣れなかった、子供でさえ釣れていたハヤも釣れなかった、となれば、あゆみ国女王様のいけずを非難しまくることになりますが。
そう言えば、井伏さんは、ヤマメ釣りでも釣れてなかったことがあったのではないかなあ。
色欲の、欲望の固まりの凡人には、釣れなくても満足、という悟りの境地には永遠に到達できないでしょう。
そして、現在、「攻撃衝動が解発されている兆候」と評価されている「追い星」が、「川が川として 水が水として」存在していたころにも、あゆみちゃんの肌を彩っていたのか、それとも、藍藻が優占種となった結果で生じた現象であるのか、またもや、悩みが増えることになった井伏さんの「笠置・吉野」でした。
状況証拠としては、戦前のあゆみちゃんに係る記述には、現在ほど「追い星」に係る記述がないのではないか、ということです。現象が存在しなかったから、「記述がない」と考えられないか、ということです。
「アユの体表の黄色はゼアキサンチンというカテロイド系の色素に由来している。この色素はコケ(付着藻類)に含まれていて、アユが食べることで体内に取り込まれ、体表に黄色みが出る。」「このゼアキサンチンはコケの中でもラン藻に含まれていてアユの主食のようにいわれるケイ藻には全く含まれていない。」(今年の「つり人」から) (「故松沢さんの想い出」3) |
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なお、村上先生は、食料と香り等が関係していることを川辺川とダムのある球磨川を調査され、比較されている。 |
(8)前さんの産卵から遡上まで そして容姿も
前 實「鮎に憑かれて六十年」(ジャパンクッキングセンター)
1 時代状況
(1)「目利き」の人・前さん
前さんが、「学者先生」とは異なり、また、天竜川に湖産を放流したから、天竜川の特徴を持っていた紫鮎が数年で消滅した、と、算数にも思い及ばない鮎釣り名人とは違い、優れた観察力、洞察力の持ち主であると確信している。
この確信は、前さんが、今西博士のご自宅に呼ばれて素石さんらと話をされたことが分かり、一層強くなった。
その前さんが、書かれたことで、あるいは、前さんが判断を留保されていることで、理解しがたい事例が多々あった。
そこで、「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」の方が、オラにはわかりやすいから、弥太さんを導き手として、前さんを読み解こうと思っていた。
弥太さんの本を故松沢さんに送った。解禁日に「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」がテント小屋に置かれていたから、故松沢さんは読まれていた。
とはいえ、解禁日では、いくら遡上鮎が減り、釣り人が減った狩野川といえども、「まっちゃん」を独り占めすることはできない。弥太さんの観察が信用できるか、とだけを尋ねて、解禁日の質問は終わった。10月中旬以降11月20日頃まで、仕入れたオトリの殆どをつぶさざるを得ないほど、お暇になる「まっちゃん」に質問をして、あれこれと話を聞けば、前さんに係る理解も少しは進むのではと考えていたが、「まっちゃん」が亡くなられて、その目論見は実現せず。
ということで、「前さんに憑かれて」10年ほど。どの程度、前さんの理解が出来たか、中間試験の気持ちです。
前さんが、浮き世の義理で、釣りの「技術」に言及せざるを得なかったことが、ちょっぴり残念。勿論、単に「技術」を書かれているのではなく、あゆみちゃんの成長、生活誌、川の状況等の変化に対応して、どのように対処するか、という視点で書かれているから、腕の向上を求める方には、良き指南書となるでしょうが。
とはいえ、オラの関心である産卵時期、下りの行動はどのようなものであったのか、香気等「品位、品格」の変化がどのように、そして、何を原因として生じたのか。海産アユの容姿は変わったのか、変わっていないのか、河川環境、食料の変化が、鮎の形質のうち、何を変化させ、何を変化させていないのか、といった事柄についてもっと多く書いてくれていたらなあ、との思いがある。
そして、産卵時期等は、萬サ翁をして語らせていて、その多くはすでに「昭和のあゆみちゃん」等で紹介しているため、何で、前さんが、判断を留保されたり、事例の紹介だけにとどめられたのか、に係る「状況証拠」の視点で鮎と川と海の変動の時代を見ていきます。
前さんは、学者先生とは異なり、鮎の容姿による違いを判断できる「目利き」の能力を持っておられる。従って、湖産、海産、池田湖の交雑種?の違いを見分けることが出来る。
また、川那部先生の「アユの博物誌」を読まれていて、東先生の湖産の「4群」を前さん風に脚色されて紹介されている。
にもかかわらず、萬サ翁共々、海産の交雑種が海で生活できない、ということへの確信がなかったことが、新たに生じたと思われる現象への評価のためらいの一因ではないかと想像している。
(2)執筆当時の長良川
「鮎に憑かれて六十年」は、1989年:平成元年に発行されている。この本を書くために、メモを整理しはじめたのが昭和58年ころ。
従って、湖産(交雑種も同じであるが)の仔稚魚が海では生存できない、ということに係る研究報告は、東先生の湖産放流と流下仔魚量の変化に係る二峰ピークの研究報告しか存在していなかった時期であるから、湖産が、交雑種が、海では死滅している、再生産に寄与していない、という可能性があることは推測できても、可能性でしかなかった時期である。
東先生が、湖産の仔魚が海では生存できない、との観察を書かれたのが1984年、昭和59年である。まだ、東先生の調査報告は、交雑種の仔魚の話ではないが、交雑種の仔魚が海での生存が可能であれば、「容姿」に「海産」とは異なる兆候が見られるはず。故松沢さんは、海産遡上鮎の容姿に変化は生じていない、と話されていた。
前さんは、海産鮎の容姿の「違い、変化」が生じていることを、萬サ翁共々観察されて、「交雑種」であるが故の違い、変化とされているが、オラは、「海産畜養」の放流によるものと想像している。
なお、前さんは、東先生の二峰ピークに係る研究報告は研究報告を読まれていないかも。
さて、前さんが観察されていた「疑問は持てども、確証は無し」の現象、事例に対して故松沢さんの「アユに聞いたことはないからわからないが」との枕詞で話される回答を聞くことが適わぬ情況ではあるが、「交雑種」の稚魚も湖産同様、海では生存できないことが、ほぼ確実になった知見がある現在の段階で、古のあゆみちゃんの生活にどの程度、近づけるか、が今回の課題です。
@ 萬サ翁との出合い
「水のきれいな鮎釣りの本場、長良川(岐阜県)―。郡上八幡附近は瀬、淵と微妙な変化を見せ、鮎の絶好の棲み家になっている。川漁一筋に打ち込んできた古田萬吉さん(当時六四歳)の生活の場である。」
萬サ翁は、明治四一年生まれであるから、六四歳の時は、昭和四四年ころであろう。
前さんが、この時以前にも出会われていたのか、どうかは分からない。昭和50年頃?には、萬サ翁が前さんのタネを捕るために船からの網漁をされたとき、石を投げるお手伝いをされている。
A 長良川も放流河川に
伊勢湾で生存できた稚魚は、昭和三〇年代から昭和四〇年代終わり頃までは、数が少なかったのでは。
そして、川の汚染も影響して、長良川といえども、遡上量が激減していたのではないかなあ。長良川における大橋さんの「サツキマストロ流し網漁」ができなかった頃のこと。
それが亀井さんに話された大多サの
「長良川に遡上する天然鮎の群れは、例年三月下旬に美並村に達し、四月にはもう八幡に姿を見せていた。」
「七月に入れば解禁となり、天下晴れて稼ぐことができたが、当時の天然鮎は、“五月川”でも昨今の七月鮎に負けぬほどよく肥えた大物が釣れた。しかも放流鮎と違って天然鮎は九月十月まで川に滞っていたから、十月半ばまで友釣りをしたものだという。」
「十月なかばすぎようやく落ち鮎期となると、坪佐や神路、中野といったヤナ場では“一と水百五十貫”といわれるほど、多いときは一日で三百五十貫もの鮎が獲れたそうだ。」
美並村は、郡上八幡の下流。
亀井さんは、
「この四メートル余りの荒瀬(注:モモノキ岩で出来ている荒瀬 故松沢さんが、晩秋の郡上八幡で束釣りをされたときに乗っていた可能性がある岩ではと想像しています。丼大王らが、2011年に郡上八幡に行くかも、と話されていたから、何か、分かるかも。)に居を構える大物は、きっと猛々しい天然鮎に違いない。四月上旬から始まった五十一年の放流は六月下旬で一〇〇%完了した。約一万キロ、数にして凡そ四五〇万尾という。一方、天然鮎は五月中旬美並村の下田橋に姿を現し、六月上旬には大和村に達したといわれる。もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たちである。」
「彼らは池や湖育ちの放流鮎を追い払い、荒瀬に、深淵に傲岸の鰭を逆立てる。遙かな海上から六十キロ、八十キロと奔流を溯り、激端(げきたん)を超えてきた荒くれたちは、すでに体力において放流鮎をしのぎ、勇猛心においても抜きんでているだろう。モモノキの底でも、彼らは雄叫びを上げ、歯を剥き出して壮大な肉弾戦をくりひろげる。激流の底の岩盤には勇者たちのVサインのように、記念のハミ跡が翻々と刻み込まれていることだろう。」
と書かれている。
「もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たちである。」と、書かれることになったのは、昭和30年代後半から、昭和40年代後半まで、遡上量は激減していたということではないかなあ。
つまり、長良川も、放流鮎の川になっていた時期があったということ。
放流鮎の構成者は、湖産畜養、海産畜養、そして、昭和50年代には「継代人工」ではなく、F1・一代目?二代目?の人工が加わり、三種類となっていたのであろう。
そして、「遡上鮎」は、数の少ない存在、僅かな構成比を占めるに過ぎなくなっていた。
昭和30年代の半ばころまでは、湖産等の放流物は、「日陰者」で、目立たなかったが、遡上鮎が減ったことで、脇役、あるいは主役になって、萬サ翁も容姿の違いを意識せざるを得ない情況、大量現象になっていたと考えている。
萬サ翁の遡上鮎の容姿が変わった、との話で問題となるのは、「放流物」のうち、「海産畜養」であると考えている。人工は、論外としても、海産畜養は、容姿が遡上鮎に近いから、萬サ翁は、遺伝子の問題と考えられたのではないかなあ。
初心者らしくないおっさんの師匠は、海産畜養が、遡上鮎と比較して習性だけでなく、容姿もちょっと違いがある、と。
その違いは、微妙なよう。
故松沢さんが話されたことが、その「微妙な違い」と合致しているのかどうか、わからないが、背鰭の形状、あるいは発達の仕方が一つの指標になるのかも。
頭側も、尻尾側も背鰭の長さが変わらず、「帆掛け船」のような背鰭が海産畜養で、頭側が尻尾側よりも長くなっているのが、遡上鮎ではないかなあ、と想像しているが。
遡上量激減の情況が、前さんが萬サ翁と逢われた昭和四四年にはまだ終了しておらず、昭和五〇年ころに「もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たち」が帰ってきたのではないかなあ。
海産畜養も、「下りをしない」で、産卵しているようであるから、遡上鮎との「交雑」(海産畜養と遡上鮎の間にも「交雑」なる概念があるとは思えないが)の現象が生じる可能性があったということではないのではないかなあ。
B三白公害
すでに、「三白公害」が、昭和四〇年代には顕著になっていたであろうから、水源の皆伐による水量の減少も生じていたのではないかなあ。
とはいえ、その影響は大井川に比較すると、取るに足らず、また、遡上距離に変化が生じているわけではないから、これが、「容姿」の変化に影響を与えているとは考えにくいが。「大きさ」、「品質・品格」への影響はあるとは思うが。
ということで、萬サ翁が観察された下りをしない鮎に、「F1・一代目?二代目?人工」だけではなく、海産畜養も含めまれており、また、「交雑種」の仔稚魚が海で生存できない、との確証をもてかったことが、前さんの不確実、曖昧なな記述になったのではないかなあ。
2 海産等の容姿
(1)海産と湖産の容姿
海産鮎容姿の定義
純天然遡上の鮎は脂ビレから尾ビレ迄が細長い
天然は顔が長く、湖産は丸顔
さて、「川が川であり 水が水であり 海が海であり 鮎が鮎であり」という情況がおかしくなった時代情況にあって、その影響から無縁ではなかった萬サ翁と思っているが、まずは萬サ翁のあゆみちゃんの容姿解説を見ましょう。
昭和48年ころ、前さんは萬サ翁の話を聞きに行かれた。
「前述の話(注:下りをしないで産卵している風景)を伺(うかが)った昭和四八年頃、『萬さ』は“医者いらず”の言葉どおり、来る日も来る日も川へ出た。
その多忙な『萬さ』を宿の一室に招(しょう)じ入れた私は、昼過ぎから夜の更けるまで鮎について無限の知識を取材した。彼は例によってチビリチビリと盃を傾けながら機嫌よく話してくれた。
録音もしながら、私は『萬さばなし』に引き込まれてしまって、『テープ』の切れるのも気付かなかったこともあった。そして、同じことを二度もいって貰う失態も演じた。日本一の名人の話と、はじめて手にした『テープ』とが、写真を撮(と)ることも忘れさせ、後日の撮影となったりもした。
新聞記事に載せ得なかった『萬さ語録』ともいえる名言をここに記述しておきたい。」
@ 純天然の容姿
「『純天然遡上の鮎は脂ビレから尾ビレ迄が細長い』
戦前の昭和十六年頃迄、放流鮎がいなかった当時の記憶を『萬さ』に質(ただ)したところ、
『その通り。郡上へ初めて放流してから何十年、交配に交配を重ねて今は滅多に見られんが、脂ビレから下が細長くなって、尾ビレが大きかった。これからはますます見られなくなるじゃろ。寂しいことじゃが仕方あるまい』」
これが、遡上鮎の、「純天然鮎」の容姿に係る定義です。
湖産及び湖産との交雑種が、再生産に寄与していない。そうすると、「遺伝子要因」による容姿の変化をもたらす可能性があるのは、遡上鮎と「海産畜養」の「交雑」です。遺伝子は同じで、「容姿」に違いがあるだけであるから、「交雑」とはいわないとは思うが。
その「海産畜養」と、「遡上鮎」の「交雑」が、萬サ翁を寂しくさせたのか、それとも、遡上鮎が主役ではなくなり、放流もの、その一角を構成していた海産畜養が、主役になったからか、これが問題であると思っている。
A 湖産と海産の顔
「―天然は顔が長く、湖産は丸顔―
昔、といっても終戦までは天然溯上(そじょう)の鮎は放流も含めて現在の五〇倍くらいも八幡まで来たものだ。大きいものは一四〇匁(五二五グラム)、一〇〇匁(三七五グラム)クラスは幾らでも釣れた。そのころの鮎はどういうわけか、各支流へはあまり溯(のぼ)らず本流に居ついた。そこで忘れもしない昭和九年、支流の吉田川へ琵琶湖産を試験放流したところ好成績であった。以後、各支流へも湖産を放流するようになった。そのとき『萬さ』は鮎の顔を見て、こんな表現を用いたのである。」
「『ほんとの海産はスマートなもんや。今頃は滅多に見んけど、脂ビレから後が特にスーと長うて尻尾があるんすよ。近頃はちーと寸がつまってきたのオ。琵琶湖は丸顔で海産は長い顔よ。』」
「釣って釣り続けて七十年間、釣った鮎を手にして眺めてきた実感がこういわせるのだろう。湖産に鼻環を通すとき、釣り人は上から鮎を見ることになる。鼻先がへらべったく、丸くてすぐに『琵琶湖モン』とベテランの釣り師は当ててしまう。ルーペでシゲシゲと眺めなければ判らぬ鱗の形などで見分けはしない。」
海産が「スマート」であることは判るが、オラは、継代人工との比較で判るに過ぎず、湖産との比較では判別できない。
側線上方横列鱗数が、湖産が二十四だったか、海産が二十二枚だったか、継代人工が二十枚以下であったと思うが、その指標を、「湖産」を放流していると漁協が話しているから「湖産」しかいない、と判断して、「湖産」の鱗数を十枚台に変更して、11月、12月に産卵している鮎を「湖産」と判断した神奈川県内水面試験場の手法が、何で不適切、と指摘されることがなかったのかなあ。
なお、「人工鮎」には、神奈川県の30ウン代目になる継代人工のように、産卵時期が10月上中旬が盛期になる「人工」だけでなく、萬サ翁が観察された産卵時期の遅いものもあるよう。
故松沢さんが、「容姿」で、海産か人工かを見分けていて時、オラは下顎側線孔数が四対左右対称かどうかで判断して、故松沢さんに「目利き」修行をしていたが。
萬サ翁が、「近頃は滅多に見んけど」と話されているが、その原因は、いろんな意味での=「海産畜養」を含む「交雑」ではなく、遡上鮎が激減して、海産畜養等の放流物が増えたから、と、想像している。
つまり、郡上八幡に於いても、「目にする」確率が高いのは、海産畜養を含む放流ものである、と。
そのことが、遡上鮎と少し容姿を異にする海産畜養の「ちーと寸がつまってきたのオ」という表現になっているのではないかなあ。
そして、海産畜養の容姿が遡上鮎と比較して、やっぱりちょっと違う、と話されていた初心者らしくないおっさんの師匠の観察の1つではないかなあ。背ビレの形状だけでなく。
昭和48年は、亀井さんが、「もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たちである」の自然児は、まだ長良川に復活していなかったのではないかなあ。
公害3法が制定されてから2,3年では、、水が少しきれいになってきたかもしれないが、まだ、稚鮎等の生存率を高めるほど、海の水も川の水もきれいなっていないのではないかなあ。
B 交雑種の容姿?=池田湖産
「今、『湖産』と述べたのは、琵琶湖産である。鹿児島県の池田湖の鮎も当然同じように『湖産』と呼ばなければならないが、私の釣った経験と観察では池田湖産は海産に近いように思う。
というのは、昭和五十八年、九年の両年に六度に亘って広島県の西城(さいじょう)川に遊び、三次(みよし)地区で放流されたという池田湖産の特徴が次のようだったからである。
『海産そっくりの一発ガカリ』『背ビレが大きく海産と変わらない』『琵琶湖産よりヌメリが少なく皮が硬い』『尾ビレは琵琶湖産型で小さい』――である。僅か六度という少ない観察であるから断定はできないが、どうも池田湖産は海産の性が残っているように思う。」
湖産のヌメリについては、平重郎さんらが話されていたように、吉野川樫尾での「湖産」同様、海産よりも多いと、前さんも観察されている。
「池田湖産」が、海産陸封ものであるのか、池田湖に流れ込む川に湖産が放流されたから、「交雑種」になって、「純天然」と容姿に違いが生じたのか、それが問題です。「交雑種」の記述がなにかに書かれていたと思うが。そして、すでに紹介しているかも。
C 湖産事情
横道にそれるが、ついでに、前さんの「湖産」、「交雑種」の説明を見ておきます。
琵琶湖産:人工河川
東先生が調査報告されている事柄は省略します。(「アユの博物誌」の「湖産」 その後の「湖産」研究報告で、東先生は湖産を4群から2群に変更されているが、リンク先が見つかりません。)
というか、そのことを前提とした上で、
「さて、湖産の誕生は現在『特殊な環境下』にある。というのは、琵琶湖に流入する河川以外に『人工河川の孵化(ふか)事業』を行って増産をされているのである。人工河川とはいっても孵化した幼魚は琵琶湖へ流下して、自然に育つので『天然モノ』である。ただし、親鮎が琵琶湖モノか、海産か、人工孵化かはまったく判らない から戸籍は定かではない。」
安曇川人工河川図が掲載されているが、
「近年は異常気象が多いので、この施設に対する依存度は極めて大きい。」
「また、琵琶湖産には僅かながら海産との混血の問題がある。
瀬田川の『南郷洗堰(なんごうあらいぜき)』は明治四十年に造られたものである。今から八十年前のことになる。この『洗堰』ができるまでは当然大阪湾から毎年のように海産天然鮎が琵琶湖に溯っていた筈。しかし、その数は湖中で従来から生活する生活する鮎たちに比べて微々たるものであったに違いない。そうでなければ琵琶湖産も『池田湖産』と同じ性質になっているはずである。」
琵琶湖産の稚鮎は、供給は著しく増加しているのに、採捕量は激減していた。その結果、昭和三十年代のある時期から、氷魚かららの畜養が始まったよう。そして、昭和四十年代になると、琵琶湖総合開発による「ヨキ」、「キワ」の埋め立てが影響している可能性が高い稚鮎の一層の激減となって、人工河川が誕生した。
その「人工河川」に放流されている「親」の素性が何か、と推測されている前さんは、さすが、と感心する。この自然観察と人間の営みに係る感性を持っておられるから、木曽川で採捕した「親鮎」であるから、「海産」であるという日高川養魚場の判断に異議を唱えられたのではないかなあ。
なお、湖産量の変化については、滝井さんの馬瀬川に)
D 池田湖産の鮎
「池田湖の鮎の発生を考えてみる。明治五年、灌漑用に溝を掘ったところ海から鮎が遡上して棲みつき、そして陸封されたものといわれている。とすれば『湖』の生活は約百年である。琵琶湖産とは比較にならない淡水生活だから先祖の海産の『性』が抜けきらないのではないか、と類推するのである。」
もし、前さんの指摘どおり、「陸封」されただけであれば、「交雑種」にはなるまい。
池田湖に流れ込む川に湖産が放流されて、海上がりの鮎との交雑種になったとの話が何処かにあった。
もちろん、海産と湖産の産卵時期が重なる部分は少ないことから、交雑種の比率は長い年月をかけて少しずつ増えていったのであろう。とはいえ、その年月が短いから、海産の容姿、性格、習性を持っている鮎が主体ということではないかなあ。
「湖産」が最も早く放流されても、昭和8年以降であろう。そうすると、せいぜい50年くらいの年月に過ぎない。
南郷洗堰を上り、琵琶湖に入った来た「海産」は、「湖産」に比し、量が少ないだけでなく、「遡上鮎」は、淀川の産卵場に下って、産卵をしていたものが殆どであろうから、産卵場を異にすることからも、「交雑」現象は稀な、例外減少ではないかなあ。
同様に、池田湖産の陸封「海産」鮎の交雑も稀な「例外現象」としてしか生じていなかったのではないかなあ。
「湖産」放流全盛時代、池田湖産の稚魚は高くなかったよう。
神奈川県内の養魚場で、その稚魚を養殖しているところがあった。その養魚が販売されているところが、中津川に2軒、相模川に1軒あった。
他の県産継代人工等を養殖していた養魚場の囮に比し、小さく、スリムで、よく泳いでくれた。鱗が小さいことは憶えているが、そのほかのことは判らない。
今では、九州ダム湖産の稚鮎が冷水病になっていないからか、値段が高くなり、その影響を受けたのか、20世紀終わり頃から、他の養魚場と同じ県産継代人工等の種苗の養殖になった。
湖産の遡上距離について、東先生は、「アユの博物誌」で、20キロメートルと話され、前さんは、
「ついでに申せば、湖産には溯上性がない、という研究発表があるが、そんなことはない。海産が溯り得ないダムから上に湖産を普通に放流して、とても考えられぬ山中の渓(たに)にまで湖産鮎が溯った実例を幾度となく私は確認している。」
と、書かれているが、氷魚から育てた湖産ではなく、川に上ってきたり、上るために接岸したものを採捕した湖産の話ではないかなあ。そして、昭和30年代までは、その遡上途上の鮎が放流の主体であろうが、昭和40年代以降は、氷魚からの畜養鮎が「湖産鮎」の主流になっているから、遡上性のある「湖産」は例外現象となったのではないかなあ。
3 鮎と黄色の衣装
「アユの体表の黄色はゼアキサンチンというカテノイド系の色素に由来していてる。」
「このゼアキサンチンはコケの中でもラン藻に含まれていて、アユの主食のようにいわれるケイ藻には全く含まれていない。ケイ藻ばかり食べているアユは黄色くならない。」
この文が「学者先生」ではなく、真山先生や村上先生が書かれていれば、「そのとおり」、と賛同することになるが。
藍藻が優占種になって、追い星や、時合いの「黄色み」を帯びた鮎が見られるようになった、と前さんが書かれているのであれば、残る課題は、平重郎さんが、「婚姻色」と話され、井伏さんもそのことに同意をされていることだけが、課題となり、あんまり悩まなくてもすむ。
しかし、それほど単純な現象ではないようで、気になります。
@ 黄色い衣装
萬サ翁は、
「盛期の天然鮎は一番流れのきついところにしかおらん。湖産でも特に大きいものは天然と同じようなところに棲んどる。
――自分の地盤へ入ってきた敵には体当たりでボウするよ。特に喰み刻には死にもの狂いでボイたてる。喰み刻の縄張り鮎は躰(からだ)の色が真っ黄色に変わってくるんや。カケた鮎の色で喰み刻やちゅうことも解るくらいや。」
と、話されている。
これが、「川が川として 水が水として」流れていた戦前のことではなく、昭和30年代以降のことである、というのであれば、「アキサンチン」が、珪藻には含まれていない、ということと一元的な整合性を現す現象として、ヘボにもわかりやすいが。
勿論、珪藻が優占種であっても、藍藻も生育しているであろうから、黄色の衣装を纏うことがあっても、単に黄色の衣装の多寡、量の問題になるが。
なお、故松沢さんは、萬サ翁とは異なり、「攻撃衝動が解発された」状態が黄色い鮎とは、考えられていなかった。
時合いに、淵から瀬に入り込んだ鮎が黄色い衣装を纏っている、と。その侵入者は、保護色を持つ鮎の特性から、黄色みを帯びていたのではないか、と。
この前提には、淵にいる鮎が、瀬の鮎と大きさでは遜色がない、ということが前提となる。多分、大きさでは瀬の鮎と遜色がないと思う。短い時間にいっぱい食べるか、それとも、四六時中食事をするか、の違いはあっても、苔の摂取量には変わりがないのでは。川那部先生のなかにその記述があったように思うが、見つかれば、リンクをします。
A 追い星
平重郎さんが「婚姻色」と表現された黄色が、「追い星」と同じかどうか、判らない情況で、「追い星」と判断しても見当違いになることは覚悟の上で、考えてみる。
まず、戦前のあゆみちゃんナンパの文書には、現在とは異なり「追い星」くっきりの鮎という記述がまだ少ししか見つからない。
「黄色い」衣装が存在しなかったからか、それとも?
「婚姻色」であれば、時期限定の現象であるし、藍藻の生産量が少なければ、現在のように、色鮮やかな「三重追い星」なんていう現象も生じていなかったかもしれない。
昭和一五年発行の亀山素光「釣の話」(弘文堂)に、
「巻頭を飾る為に御多忙中にもかかはらず旧友であり、釣友である福田平八郎画伯が麗筆を揮つて下さつた友情に心から感謝の意を表しまた拙著の上梓を慫慂(注:「しょうよう」と読むのかなあ)せられ、且つは序文まで頂いた秋月博士に心より御礼申し上げる次第である。」
(旧字は当用漢字で表現しています。)
ということで、福田画伯の鮎が描かれている。
その容姿はスリムであり、尻ビレから尾ビレにかけてスーと伸びている。
そして、脇役の一匹を除いた二匹に「追い星」が描かれている。ただ、「追い星」の位置は、少し頭から遠い感じがするが、形状は「追い星」である。
胸びれの尻尾側の付け根に接する位置で、淡い色で追い星が描かれている。淡い色が、絵画の美しさを表現する上での問題なのか、「写生」と考えてよいのか、判らない。
なお、「第三高等学校に於いて 秋月康夫」先生が書かれた序文も紹介します。
その理由は、今西博士や、川那部先生につながる「現場重視」、「観察力」養成の伝統がすでに形成されているのではないか、と思うから。
秋月先生の序文の抜粋
(旧字は、当用漢字で表現をしています。原文にない改行をしています。)
「雲雀を霞の彼方にきき菜の花の香りにひたつて湖岸に綸を垂れても、自然生えの藤の花に、真赤に燃える山つつじに、或ひは群生する石楠花を高峰に仰ぎつつ山女魚を追うても、また河鹿に、蜩(注:ひぐらし)に慰められつつ奔湍に釣れない鮎掛の竿を取つても、斑雪の峠を前に陽炎仄(注:かげろうほの)かにたつ川辺に降り立つてみても釣している間は識らず識らず自分までこの美しい自然の中の一景物になりきつてゐるかのように感じられる。
人と魚との対立ではなくて、互に競争する一環の自然現象になつてゐいるやうに思はれる。かくて四季の移り変わりにつれて微妙に移ろひ行く釣り味も非常に親しみのこもつたこの国土の恩寵に思はれてならない。釣はしみじみと味ふべきものであり、また味へるものだと思ふ。決して『倦き』の来ないものである。
若い私などはそれでも余り釣れないと腹立たしくなつたり、また次回こそと変な発奮心を抱いて投げ出したりするのであるが、二十年も三十年もこの道を楽しんでこられた故老は技の暢達は勿論のことながらいつも釣果には超脱して釣れなくても平然と色々と工風されては釣つて居られ、尚ほ釣れなくても平然たるものがある。私はこの『枯淡さ』を讃仰する。釣は段々と『枯れた』味を持つて行くかに思はれる。釣する者の風格がここに偲ばれる。山峡の一景物に識らず識らずに融け入つてゆく釣の当然の行手ではあるまいか。」
まあ、かくの如き「枯淡」、「着がない」名人の境地とはほど遠い色欲丸出しのオラは、「青年」かなあ。といえば、サボリーマンらいじめっ子は、ゲラゲラ大笑いをするでしょうね。
なお、戦時体制の中での出版であるから、垢石翁が「釣趣戯書」に、釣りを壮健な身体と造るためとの一文を挿入されていたのと同様の感じでの文であろうと思われる釣りと「教養」のつながりも書かれている。
「釣の話」には、「全国鮎釣り主要河川」が紹介されている。
この中に、関東には、鶴見川が入っている。戦前は鶴見川が鮎釣りのできる川であったよう。
他方、中部には、狩野川、富士川と大井川が入っていない。また、日本海側では阿賀川や信濃川、大聖寺川や手取川は入っているが、三面川も荒川も入っていない。
この川の選択にどのような意味が内在しているのかなあ。
さて、本題に戻りましょう。
とはいっても、「黄色」の現象が古にも存在していたのか、婚姻色なのか、今昔で色彩の濃さに差があるのか、発色している鮎の数、量の問題に過ぎないのか、判らないままです。
ただ、長島ダムがなかった二十世紀の大井川のあゆみちゃんは、追い星が希薄で、ドブさんの話されていた昭和30年頃の手取川の鮎同様、白っぽい感じの鮎でした。
そのころは、家山から昭和橋までの囮屋さんが十月一日頃には店じまいをしていたので、「婚姻色」としての「追い星」を見る機会はなかった。雌の下腹に、絞めるとうっすらと赤い線が出ていたものもいたが。
なお、丼大王に、麦酒を飲む本数を一,二本減らして、「黄色」に係る故松沢さんの話をなにか思い出して、と頼んでいる。
黄色は、「防衛力」?
前さんは、「追う」動作について
「もう一つ重要なことは、縄張り鮎の追い方がオトリの下腹部に背で体当たりをして『攻撃』するということである。シッ!コラァ!と一直線にオトリの下腹部を通過して体当たり攻撃をする。そして反転して自分の縄張りへ戻(もど)って縄張りを自衛するのである。
いわば専守防衛型で、日本の自衛隊に似ている。縄張り鮎は決して他国には攻め入らない。ところが鮎の防衛力はすこぶる付きの強烈なもので、小といえども大を怖(おそ)れず敢然(かんぜん)と立ち向かう。武器は強い意志力だけなのである。その意志強固を表す色は『黄色』で、縄張りは吾がものだ!と強く主張する奴ほど黄色味をおびる。いい直すと、防衛力は『黄色』ともいえる。賢いオトリになると、いくら釣り手が縄張り鮎のテリトリーへ誘導しても、スゥーと避けて泳ぐのである。オトリは一目で縄張り鮎の強固な攻撃力を察知して近づきたがらない聡明さを示すときがある。自衛隊もかく立派で実践しないで敵が避けてくれるとよいのだが―。」
と、箱眼鏡での観察もふまえて「黄色」の効果を書かれている。
そうすると、「黄色」は、藍藻が優占種となる遙か前から存在していた可能性も出てくるが。そして縄張り鮎の象徴を示すことにもなるが。
その「黄色」には、「追い星」の黄色と、萬サ翁が「躰の色が真っ黄色」といっている2つの鮎の衣装がある。
萬サ翁は、縄張り鮎が「躰の色が真っ黄色」の鮎に変身すると話されているが。
萬サ翁が、
「―自分の地盤へ入ってきた敵には体当たりでボウんすよ。特に喰み刻には死にもの狂いでボイたてる。喰み刻の縄張り鮎は躰の色が真っ黄色の変わってくるんや。カケた鮎の色で『喰み刻や』ちゅうことも解るくらいや。」
と、話されている「真っ黄色」の鮎と、「黄色い追い星」は、矛盾しないのかなあ。
専守防衛の象徴が、「黄色い追い星」であるとすると、なんで、『喰み刻』に、皆さんが黄色くなるのかなあ。
故松沢さんの、鮎は保護色の性質を持っている魚であり、淵等にいた保護色の黄色い鮎が、「喰み刻」に瀬に侵入してきて、攻撃衝動が解発された状態になっている、という説明はできないのかなあ。「真っ黄色の鮎」は、単に侵入者であることを表している、と、いうことにはならないのかなあ。つまり、「喰み刻」には、追い星くっきりの縄張り鮎と、侵入者である「真っ黄色」の鮎の2つの群れが釣れるとはいえないのかなあ。
藍藻が優占種である川になっているから、この観察は現在でも可能かも。はみ時に2種類の衣装を纏った鮎が釣れたらよいのであろうから。ついでに、どのような場所ーテク2が5匁のオモリを使う場所か、オラのように流れが強烈でない場所か。そして、黄色い衣装、追い星の出現に時期があるのか、ないのか。
最も、侵入者の力、量が多すぎると、縄張り鮎は縄張りを放棄すると、川那部先生が観察されているから、どうなるのでしょう。とはいえ、すぐには「追い星」は消えないのでは。
という、見取り図を描けるのか否か。
前さんは、
「よほど注意していないと見落とすのがトロ場の遊び鮎。トロ場で遊んでいた鮎たちが、ふと見えなくなったときは『喰み刻』で、鮎は瀬の喰み場に出払ったと判断して間違いない。
この現象は後述するが、ダムの水を放流したとき同様の喰み刻となる。
さて、その二である。
カカリ鮎の『色』を観察願いたい。『喰み刻』の鮎は黄色味を増している。釣った鮎を一尾一尾よく見ていると自然に判ってくる。鮎の体色が特に濃黄であるとき、この鮎は三〜四日は縄張りに定着していた筈である。縄張り意識が特に強い鮎は、『喰み刻』とは無関係によく追う。こんな鮎が釣れるということは、暫く誰も竿を入れていなかった好場である。前後、左右を静かにじっくり釣ると大釣りができる。」
またもや、「黄色味」とは、追い星のことか、体色のことか、わかりません。
『喰み刻』のことであれば体色であろう。しかし、「縄張り鮎」となれば、追い星とは異なる体色ということになるが…。
さて、垢石翁は、「黄色い鮎」、「追い星」について、どのような書かれているのかなあ。
1つ見つけました。
佐藤垢石「つり姿」の「若鮎通信」(鶴書房 昭和17年発行)
「浅黄の背、銀色の肌、胸に飾つた二つの黄金の斑点。なんと鮎は楚麗な魚だらう、握れば我が手に高い香気が移る。
君は(注:病気で、大見川へ同行できなかった友)、薬餌をX(注:手書きで表示されてくれません。左側に「足」右側に「礎」の右側の字・旁の字です)んでしてはいかんぞ。病気が癒るころまでには鮎は八寸以上三四十匁の大きさに育つだらう。その時、君と裏飛騨宮川の峡流に、天下に聞こえた鮎を釣らうぢやないか。」
昭和17年の発行であるから「川が川として」流れていた頃の話で、そのときに追い星のあることを記述していると思う。
珪藻が優占種であるときでも、藍藻も繁殖していたから、「黄色」が現れていても不思議ではない。
そして、「浅黄の背」と二重「追い星」の現象となる2つの「黄色」があった。時期は、解禁日で、婚姻色とはほど遠い成長段階でのこと。
ということで、追い星も、黄色い鮎も存在していた、となれば、平重郎さんの「婚姻色」としての黄色だけが問題になるが。
ただ、垢石翁は、文に修辞をされることもあるようであるから、解禁日に大見川で釣った現実の鮎を対象として表現されているのか、それとも?という疑問が残りますが。
古本屋さんで立ち読みをしていて、黄色い衣装と追い星の黄色が「婚姻色」と書かれた本が2冊あった。しかし、どのような理由で、黄色い衣装、追い星が婚姻色であると考えるのか、書かれていない。
ということで、前さんの黄色い追い星が専守防衛の証という意味づけに興味はあるものの、「黄色」を発色させる原因物質と苔の関係、そして、古と現在で、黄色の持つ意味合いが変化したのか、していないのか、ということはこれからの課題とします。
故松沢さんの「鮎に聞いたことがないから判らないが」の枕詞がない限り、「黄色味の鮎」「追い星のある鮎」というあゆみちゃんの容姿の現象について、どのように考えればよいのか、さっぱり判りませんから。
ただ、昭和20年以前には、「追い星」という言葉はなかったかも。あるいは、あっても、現在ほど「攻撃衝動が解発された状態」という意味での使用例はなかった、あるいは多用されている情況ではなかったのではないかなあ。
昭和30年頃まで、最上川にいた最上川さんは、夏、夜に船から網を打っていた。最上川さんのお父さんは、絹に柿渋を染みこませた投網であったが、最上川さんはナイロンの一番目の荒いと網を使っていたとのこと。
投網を打つ場所は、鮎が休む流れが緩やかになったところ。
1網で大きい鮎が数匹掛かったとのこと。それらの大きい鮎にも追い星はあったが、現在、相模川で見かけるほど、色鮮やかであったか、どうかは分からないとのこと。
そうすると、縄張り鮎といえないかも。また、日本海側であるから、性成熟による黄色か、ともいえるが。
ついでに、最上川さんのサクラマスの捕り方は、夏、水温が上がり、沢水が流れ込むところに避難してきたサクラマスを、夜、船からカンテラで川底を照らし、ヤスで突いていた。釣ることはしなかったとのこと。
川鱒はサクラマスよりも大きかった。
そして、冬、黒川虫を捕り、ニゴイを釣って刺身で食べた。尻尾側から3枚におろして、1日酢に漬けて骨を軟らかくする。そして、ニンニクやネギや何とかやらを刻んで味噌に入れ、それを刺身に載せて食べた。中学生の頃から自家製どぶろくや焼酎を呑んでいたが、酒に合ううまい肴であった、と。
最上川さんの職場は、鈴木春男さんがヤズメウナギを捕っていた清川地区よりも上流とのこと。
しかし、清川地区に流れ込んでいる支流で、田圃に水を入れるために設置されたブロックが上れないヤズメウナギを軍手をはいて捕まえていた、と。ぶっとくて、ぶつ切りでも、蒲焼きでもそれはうまいモンだ、と。
ついでに、雄物川産の地域では、匂いも味のうち、ということで、匂いを気にしないが、最上川さんは、生臭い匂いのある魚は商品にならない、と。相模川のコイも、匂いが消える12月中旬以降でないと食べないとのこと。2011年は、何でか皆さん不漁のようで、まだ2,3匹しか上がっていないとのこと。食べ頃は5,60センチの大きさとのこと。最上川で釣ったメーターものは、食材にはならず、沢水を引き入れた池で飼っていたとのこと。
前さんは、昭和60年代でも萬サ翁に何度も逢われていて、釣り人の技量の評定をされたり、萬サ翁の前で、腕を見せろといわれて実演をされて、まあまあ、といわれて、喜んだり?されている。
昭和50年代から河口堰ができるまでの15年ほどは、「海からの自然児」が相当量回復していたはず。そのときでも、少し「寸詰まり」の鮎を遡上鮎と判断されていたのか、識りたいですねえ。
「海からの自然児」が、トラックに乗ってやって来たものとは容姿が異なっていた、「寸詰まり」ではなかった、となると、「寸詰まり」の容姿は遺伝子要因に起因するのではない、と確信を持つことができて、東先生や、鼠ヶ関川でのアイソザイム分析による検証をされた山形県同様、萬差翁も「交雑種」は海では生存できていなかった、海産鮎の遺伝子汚染はなかった、という観察でした、となって、めでたし、めでたし、となりますが。
前さんは、メモを残されているから、「海からの自然児」に係る昭和50年代から平成5、6年頃までの萬サ語録にオラの望んでいる記録はないのかなあ。
4 日高川人工種苗と汽水域:塩分濃度の問題
産卵場は雄の天国?雌のパラダイス?
そして、中締めに
(1)日高川人工種苗と汽水域:塩分濃度の問題
前さんは、昭和62年に日高川鮎種苗センターの見学をされている。
その動機付けとなったのは、昭和61年頃から顕著になっていた6月、7月のサビ鮎の出現である。
「六十一年七月二十日過ぎ、釣友から日高(ひだか)川の龍神地区で釣ってきたという二十一センチほどの鮎を見せてもらった。婚姻色が濃く『サビ』も少し出ている。大きい腹には真子が一杯詰まって十月末の鮎を思わせる。六十二年十月に日高川孵化場を訪ねるまでは電照鮎なら当然のことと余り驚きもしなかったが、絶対に電照はしないということからますます難(むずか)しくなった。」
「さらにこのうえ『バイオ鮎』が川で本来の野鮎と同居すればどんなことが起こってくるのあろうか。」
ということで、越年鮎探訪と同様、放流鮎に多様な種苗利用、育成の仕方の人工鮎が、「遺伝子汚染」あるいは、容姿に、習性に、生活誌にいかなる影響をもたらすのか、が関心事であったようです。
オラが、電照による性成熟を早められた鮎に遭遇したのは、平成3,4年頃の中津川の解禁日であったが、大木さは中高生で、乙女の大きさではなかった。サビは立派に出ていた。
種苗の採捕
「木曽川漁協は各地の孵化場、養殖業者の依頼で、例年九月下旬から採卵、漁協自体でも孵化事業を行っている。
親鮎は木曽川で育ち落ちてきた、いわば『天然鮎』である。しかし、木曽川には天然遡上があり、湖産、人工と放流されているので二~三種の混合した親鮎であろう、と私には推察される。」
「昭和六十二年の第一回採卵は、十月三日雌七十四尾、雄二十尾から約二十八萬七千五百粒、十月十日の第二回採卵は、雌百八十九尾、雄五十五尾から約七百七十一萬二銭五百粒をそれぞれ採卵受精している。そして同月二十二日にも第三回採卵をしている。」
前さんは、「落ちてきた」鮎と、書かれているが、「落ち鮎」ではないと考えている。
少なくとも、遡上鮎に関しては。いや、トラックで運ばれてきた鮎も、その近くで放流されたものではないかなあ。増水で流されてきた放流ものは別にして。
次の章で、「産卵場は雄の天国?…」で紹介するが、産卵場の雌雄の構成は著しく不均衡で、雌の比率が圧倒的に小さい。
第一回採卵の雌雄構成から、とても、落ちアユを採捕しているとは思えない。仮に性成熟が進んだ状態の鮎としても、放流もので、「下りをしない」鮎が構成者であろう。放流もので、上流に放流されたものが混じっているとしても、自発的意思で「下り」を行った鮎ではなく、流されてきた鮎であろう。
第二回目採卵のための捕獲でも同じと考えている。第三回捕獲の雌雄は判らないが、十月二十二日では、放流ものの雄が増えているとしても、遡上鮎の親はまだ産卵場には「下って」来ていないと思う。
なお、採捕の仕方は、コロガシである。
日高川で採捕しない理由
「日高川は源流部の龍神地区から河口まで水温が高く十一月中旬でも友釣りができる。従って産卵も遅い。昨年に続いて今年も溯上が遅くて少なく、孵化場としてはこの川の産卵を待っておれない。
そこで愛知県一宮市の『木曽川漁協』で親鮎を購入し、その場で施設を借りて日高川センター職員の手で採卵受精したものを日高川まで持ち帰ることになるのである。」
まず、「十一月中旬まで友釣りができる」ことの意味を見ておく。
決して、「十一月中旬」には、川から遡上鮎がいなくなる、ということではない。
ウエーダーがなかった時代の「釣り人」側の制約に起因する「漁期終了」であるということではないかなあ。
西風:木枯らし一番が吹いてからは、水温は15度以下、12,3度になる。この頃は河原からの釣りをしないと冷たい。ウエーダーは、その冷たさから解放してくれる。
前さんは、9月中旬に竿納めをされていたが、そのころの水温は20度くらいの筈。湖産でなければ、サビは出ていない。座骨神経痛?になることを避けるためかなあ。
前さんは、萬サ翁と同様の肺気腫と診断されたとき、薬はいらん、と、断られてご自分で漢方薬を調合されているから、水に入ることの影響もご存知であったのではないかなあ。
ウエーダーがなかった頃の草鞋(注:わらじ)
ウエーダーが出回りはじめたのは、昭和六十年近くからであろう。それ以前の様子について、
「草鞋(わらじ)・釣り靴(地下足袋の裏)」の章を見ましょう。
「戦前まで鮎釣り師の『トレードマーク』は、半纏(はんてん)、法被(はっぴ)を着けて下半身は裸、そして素足に草鞋(わらじ)ばきであった。こうした服装で職漁師が釣っているところにアマチュア釣り師は近づかなかったものだ。
昭和五十年頃から竿、釣り具、衣服の改良が進んで、服装だけでは職漁師と素人との見分けがつかなくなった。しかし、威風堂々(いふうどうどう)で、さぞ凄腕(すごうで)だろうと思われる釣り師でも竿を持つと釣技やキャリアがすぐ判断できるのがこの釣りである。特に釣技の優れた人は全ての動作が『一幅(いっぷく)の絵』になるようだ。
私は亡父から草鞋の作り方を習った。藁(わら)の打ち方、芯の細縄の綯(な)い方も教わった。草鞋の爪先近くに藁と古布を交互に入れて作ることも、踵(かかと)が横にならぬように履(は)く技術も教えられて、いつも素足に草履ばきで走り廻っていた。川の中も、岸の草木の中も、草履で平気で歩いたものだ。カカリ鮎に夢中でついて走って、細い竹の切株を踏み抜いて痛い目をした経験も思い出深い。
草履、これは日本全国の川で、自生する草木を見て歩く私の職業柄各地のものを履いてみたが、最も履心地(はきごこち)よく、長持ちしたのは『ゴンズ草鞋』であった。岐阜県・徳山村の産である。普通の『乳草鞋』といわれるものとは異なり紐が短く見栄えもしないが無駄がない品であった。
ゴンズ草鞋ばきの身ごしらえをして、揖斐川(いびがわ)の清流に立てば、しっくりした草鞋ばきの足を通して水の冷たさが身に伝わってくる。足もとが固められて不安がないから、『よし、釣るぞ』と気を引き立てられたものである。雪の多い地方では新しい草鞋を戸外に出して雪に晒(さら)すと長持ちするといわれているが、この日本一の『ゴンズ草鞋』も、ダムの底に沈む徳山村と共に消える運命にある。」
徳山ダムは、着工一千九百七十一年・昭和四十六年、竣工は二千八年とのこと。にもかかわらず早くからダム工事の影響が揖斐川には出ていたのかなあ。
次に、「ゴム製地下足袋」が出て来た。この「ゴム製地下足袋」は、「鮎足袋」と同じかなあ。材質が、「ゴム」と今風の「鮎足袋」の材質の違いということかなあ。昭和六十年頃の鮎足袋は、フェルトが数日ではがれてしまう当時の超有名メーカーの製品もあったが。
「近年はフェルト底のゴム製地下足袋(じかたび)を愛用するようになって、草鞋との縁がなくなってしまった。私には思い出深い『ゴンズ草鞋』だから今も二,三足を残して昔の揖斐川を偲ぶよすがとしている。」
「フェルト底のゴム製地下足袋が市販されだしたのも、昭和五十年頃からである。私たちは普段は踵のついた靴を履いているから、この地下足袋は反(そ)り身になるようで歩きにくい。そこで、厚さ一センチ内外の『踵』をつけて履くと具合がよい。川の石は丸みのあるものが多く、丸い上へ土踏まずのあたりで着地すると踵がひっかりになって『滑(すべ)り止め』の役割もする。新たに地下足袋を買うときは、別にフェルト底を一対買い求めて新品の上に『重ね貼り』をして二重底にする。このとき、踵の近くで二分して貼りつける。これがコツである。
それから更に踵を貼りつけると少し重いが足の裏は非常に楽になる。」
貼り付けからは省略します。
前さんが、履きやすいとされていた踵を高くする方法が普及しなかったのは何でかなあ。
日高川鮎種苗センターの塩分濃度
「全部孵化すると、一日目は海水を、淡水三五トン、海水5トン計四〇トンに、一日目以降、翌年一月中旬まで淡水三〇トン、海水一〇トンの計四〇トンで育てる。そして二日目から『ワムシ』を与え、以後成長具合を見て配合飼料に切り換える。」
オラが注目したのは、淡水の方が、海水よりも多いということ。
海水の数分の一の塩分濃度であるから、「湖産」「人工」「交雑種」の仔稚魚も生存できたのではないか、というとである。
汽水域での現象
@ 学者先生 「潮呑み鮎」とは異なり汽水域で一生を生活する「シオ鮎」がいる。
A 学者先生 相模川の神川橋下流で採補された「海産」から「湖産」への進化?を連想させる鮎が採捕された。
神川橋が感潮域かどうかは判らないが、感潮域から神川橋までの間には瀬がないため、汽水域にいたかもしれない人工鮎等の稚魚でも移動可能であろう。 「湖産」への「進化」のロマンを連想するのではなく、仔稚魚の「親」が誰かに関心を持ち、遺伝子かアイソザイム分析をして「親」が誰かを特定して貰いたいのもです。 |
B 故松沢さん 狩野川河口域から出て行かない稚魚の観察
これらの現象は、海産遡上鮎が親ではなく、人工、湖産、交雑種を親とする稚魚の生き残りではないかなあ。
海産畜養で、卵嚢が消耗される前に動物プランクトンを摂取できる環境に到達できた仔魚は、川、汽水域だけでなく、海でも生存できるのではないかなあ。よって、放流された地点から、感潮域までしか下れなかった仔魚は、神川橋で稚魚になったのではないかなあ。
勿論、湧き水や温排水の存在による生存限界以上の水温の存在することが条件となるが。汽水域の海水は、生存限界以上の水温であるが、川水との混合が制約されるようであるから、塩分濃度の問題があるよう。
なお、「河口堰」で、川にも植物プランクトンが生成されていること、それを補食する動物プランクトンが繁殖できるとを紹介します。
なお、神奈川県産の三〇ウン代になる人工鮎の種苗は交雑種である。淡水だけで飼育されている。
2010年、中津川角田大橋の左岸支流に、下流側に網を張り、県産継代人工を放流して生存調査が行われた。
結果は、数日で5キロも死骸が出た時もあり、1か月ほどの調査期間中の生存率は1割とか、2割、ではないかなあ。内水面試験場は結果を把握しているとは思うが、調査実施主体が、かっては県の組織であった種苗センターが、現在は「財団法人」に組織変更されているため、教えてもらえなかった。公文書開示請求をすれば、結果がわかるが、乳母日傘で辛うじて種苗センター、漁連のプールで生存しているであろうと想像している継代人工が、川の増水、水温変化、濁りで生存できないこと、極めて生存率が低いことは、神奈川県以外の多くの釣り人では常識であるから、じゃまくさいなあ。
かっては県の、現在は財団の継代人工種苗の安定需要家である漁連、その漁連の義務放流量の半分近くを担っている県産継代人工が「欠陥商品」ということはないのではないのかなあ。
(2)産卵場は雄の天国?雌のパラダイス?
雌雄の産卵の仕方の違い
「さて、鮎の雌は一度に全ての産卵を終えるといわれている。そして、雄は何度でも放精することができるらしい。生きモノの創造の神は『流れる水中の行事』をお考えになって、こうした計らいをされたのであろう。
天恵の理由は今一つある。釣り人である読者は、釣れる鮎が雄十尾に対して雌一尾ではないことを識っている。一対一の割合がその殆(ほとん)どである。とすれば産卵場で雌一尾に対して雄鮎が十,二十では計算が合わない。
おそらく雄の何度でも放精できる、という数字はこのことに起因しているのではあるまいか。雌一尾に二十尾の雄鮎とすれば、雄鮎の放精は二十回ほどもできると解釈すれば合点がゆくのである。ただし、これは推論である。
三宅勇三さんが昭和三十五年に『鮎の二年子』という本を春秋社から出版されている。その『鮎』の項に、オランダ東インド会社の軍医シーボルトによって鮎がSalmoという名で世界の学会に発表され、サケ、マスの仲間と分類。その後に相違点がいろいろと出てサケ科から離してアユ科。アユは一科一属一種の魚類になった――とある。これは皆さんの知るところだが、産卵についても詳しい記述がある。漁師と同道されてつぶさに調べられた結果を書かれている。鮎の産卵を具体的に、そして細部に観察し、躍動感ある文章にされている。
そう、そうだった、と感心しながら拝読した。三宅さんも、アユの性比問題を取り上げておられるが、結論はなかった。実学、経験、観察によって書かれているので実に面白い著書である。この誠実さに対して私が推論を以て鮎の性比解決を著すのは気が咎(とが)める。といっても『雄鮎の放精二十回論』を推考しないと前へ進めないのである。仮説を立てて何れは実証してみる心算(つもり)だが、それまで生きられるかどうかと思っている。
雌鮎の卵の数は、大きな鮎で二十万粒。小さなものは三万粒といわれる。ということは弱い魚の部類で自然淘汰(とうた)が多い魚なのだろう。」
日高川種苗センターで採補された親の卵数は、三万ほど。これをどう考えるかなあ。海産鮎の性成熟がまだ充分でなかった、小さい鮎であった、それから?
雌が片腹ずつ産卵するという話があったが…。
「『ヘェ、鮎の雄は何回でもねェ。羨(うらや)ましいですなあ』丁度訪ねてきていた友人がいう。『私ら、アレコレ薬を飲んでもきかんがなぁ。一層のこと鮎の雄を一ヵ月ほど食べ続けたらどうかと思いますゎ』
『何で一ヵ月の数字が出ます』と聞けば以下の理由である。
この人が過日、中国を訪問したらしい。中国はご存知の“医食同源”の国。食べ物の全てが『精力』や『長寿』に関連づけてある。
『種の保存、子孫繁栄作業』が趣味の男だから、この種の食べものを要求したそうな。その中でも秀逸(しゅういつ)だったのは『虎の脊髄(せきずい)』『オットセイのペニス』だという。たらふく食べた翌日、どうも効いた様子がない。御馳走になった方に厚顔にも文句をいった。
『昨夕、あれだけ食べたのに効かんわ。あんたらの理屈は疑わしいでェ』といったら、こんな返事があったという。
『一回や二回では効果はないよ。十日も食べると必ず効いてきますね』実に中国人らしい返答である。 グッと詰まった友人が逆襲をした。
『これが躰にええ。これも長命の食べもん。全てがええなら中国人は百歳以上生き続ける筈やないか』と。
中国の人、すまして即座に答えた。
『人間には定められた寿命というものがあります』
ああいえばこう、こういえばああで掴(つか)み所がない。しかし、よく考えてみると、中国の考え方は『元気で長命』を願うことにある。
日本では『病気でも長生き』『植物人間でも生かす』その結果が長寿世界一になっても、生き甲斐がない。まして男の趣味を楽しめないで生かされては迷惑や、と考えて中国流に『鮎の雄』を一ヵ月も食べ続けてみる気になったらしい。」
いやあ、オラ同様、男の趣味に忠実な御仁を見つけて、ついつい、長居をしてしまいました。この後も少し続くが、はしょって、「鮎の種の保存」に進みましょう。
鮎の種の保存情景
@ 現在の産卵場は?
一妻多夫?
「『種の保存』に関して、高貴薬の限りをつくす人間を思えば『種の保存』についても日本人全体がもっと考えるべきで、山の皆伐、ダム、水質保全の問題、産卵床の確保など人間が自然を破壊して『魚』が被害を受けている。この問題は別に著したい。
『何度でも放精できる鮎を羨ましいと言われても、鮎は“一妻多夫”の社会ですわ。それに儀式が終わるとすぐに死ぬ。それでもよろしいか。』
『いや。それはかなわん。一夫多妻がええ』と、友人はあくまで己(おの)が欲に忠実である。その正直さはかえってこちらが羨ましいくらいだ。」
A 孵化
「昭和三十年代、当時は京都大学の学生であった古屋義男さんの研究によると、受精した卵は石や砂に吸着し、三~四時間で二個に分かれ、更に五~六時間でまた二個に分かれる。つまり最初の一個が四個になるのである。大鮎の卵数が二十万粒あるとすると、その四倍になればなんと八十万粒になる勘定で、この数は膨大なものになる。しかし、確実に発眼卵となるのはそのうちの何%なのか。」
この記述は、現在でも適切とされているのかなあ。
学者先生が得意とする領分であろうから、特別な観察者を捜さなくても適切な文献を捜すことが可能とは思うが…。
「約一五度の水温、十日余りで発眼、十四,五日で孵化(ふか)する。幼魚の誕生である。幼魚は海へ降(くだ)って生活するのだが、発眼前に海水に入れると孵化しなかったり、孵化はしても奇形魚になるらしい。孵化は主に夕暮れどきに起こり、水中に浮かび出て下流の海に流れだす。自然はうまくできていて、天敵の少ない夜に海へ流れ降りるようだ。幼魚には遊泳力がないから、勿論のこと流れのままに川を降りるのである。」
前さんが、「鮎孵化場見学記」に、「明るさが増すほど稚魚の死亡率が高くなることは小山長雄先生の『鮎の生態』に詳しく、受精卵にも同じ配慮がされている。」と、小山先生の文を引用されているが、小山先生は、仔魚にも遊泳力が少しではあるが存在すると書かれていたのではないかなあ。
「約十五度の水温」が日本海側でも、相模川以西でも、産卵行動が開始する水温の目安になるのではないかなあ。湖産は除外せざるを得ないが。
発眼、孵化日数については、水温が高いと短くなる、との記述があったようには思うが、それが、自然界での話であるのか、人工環境であるのか憶えていない。というよりも、学者先生の観察であれば、人為的環境下での話ではないかなあ。
「神様は幼魚たちにも粋(いき)な弁当を持たされた。幼魚に付着している卵嚢(らんのう)は、おおむね五日分の食料といわれ、幼魚はプランクトンの多い汽水域(きすいいき)まで五~六日のうちに降らないと死ぬ。または衰弱しきって生育が悪くなれば他魚の餌になってしまうのである。鮎は生まれたそのときから過酷な自然の中で、誰の助けもなく五日分の弁当を便りに生きていくのだ。
こうした条件を勘案(かんあん)すると、鮎の産卵場の推定がつく。大きい川、小さな川、河口までの流れの緩い川、海の影響を受けない川、汽水域の流速と卵嚢の栄養分(五日分)とで逆算すれば類推できるのではないかと思う。」
前さんは、バイオテクノロジーの分野で生産された「越年鮎」のテレビを見られて、ますます人為による「天然鮎」の消滅、交雑による「自然児」の危機を危惧されている。
B 産卵場の記憶
「上、中流の山間部で、朝夕の気温が下がりはじめると、成熟した鮎は、自分自身の熟度と産卵場までの距離を本能的に悟(さと)るようだ。人間は文明に侵されて、自然と会話するコンピュータが殆ど働かないのに、実に素晴らしい鮎の機能である。
そのようなとき、大きな夕立でもあって急に水位が上昇したりすると、上流にいた鮎は一気に中流域まで降(くだ)ってゆく。水位が上がる、ということは水温が下がる、ことであり、これが鮎の『落ち』を促進させるのであろう。水量が比較的多い中流域は抱卵の身にとって、一応の『安全地帯』と鮎コンピューターに神様が覚えさせたようである。
一方、大きな川では何十キロメートルと中流域まで落ちる場合もある。鮎は身を守る水量と温度を的確に測っているようだ。」
さて、「夕立」のイメージは、八月である。
しかし、八月に海産鮎が下りの行動をしない。それではなぜ? 前さんが、海産鮎でも、8月頃に下りをしていると記述されたのはなぜ? 水温が「15度」くらいが産卵時期の開始と観察されている前さんが、学者先生の大御所かもしれない谷口順彦等「アユ学」(築地書館)の産卵時期とされている10月、11月を正当化する虞のある記述をされているのはなぜ?
キーワードは、「中落ち」と「本落ち」、そして、放流鮎。
C 経験則に反する現象事例
「旧盆前なのに『中落ち』と、訝(いぶかる)る人もおられるに違いないが、確実に『中落ち』をするのである。私には忘れられない経験が何度もあるから、これは絶対といってよい事実である。
具体的に述べる。」
吉野川の事例
「昭和四十七年八月十二日、私は四国・吉野川の中流、小歩危(こぼけ)駅下で釣った。通称『六ツ石』で朝から特大の鮎が七〜八尾もカカった。商用の途中だったから、宿で食べるだけあれば充分と川をすぐに上がった。
商用を済ませて旧知の漁師の家に立ち寄り、鮎釣りばなしを聞くうちに大きな夕立がきた。上流域で大きな雨が降ったようで川は『赤濁り』になって、水位はたちまち三十センチの増水となった。
『この水で、今朝あんたがカケよったような大物は、みな降ってしもうたぜよ。のこっとるのは小物だけじゃ』と、即座に漁師がいうたのである。
『中落ち』にしては時期的には如何にも早い。その上、吉野川は、大歩危(おおぼけ)、岩原、豊永と、大鮎の棲む上流域が広い。“まさか、そんなことはあるまい”と、半信半疑で聞いたものだった。翌朝に川を覗いてみると漁師の予言は的中で小型はいるものの、大物は一尾も姿が見えなくなっていた。
思い返せば、昨夜に食べた大鮎の腹には小さいながら『真子』があった。
『ん? そうじゃろ。あんたのことやから川を見に行くと思うとった。この辺りから上の大物はな、腹に卵を持ちはじめたら夕立なんかを利用して一気に池田町の下まで降りよるんよ。』と、確認した私に漁師は念を押して教えてくれたものである。」
徳山村の事例
「岐阜県の徳山村でも同じ経験がある。
五四年の八月、日も吉野川と同じ十二日であった。揖斐川の源流部に仕事があり、川を覗くとたくさんの鮎がいる。鮎を見ると矢も楯(たて)もかなわず釣りたくなった。
翌日に釣ればよいのだが、揖斐川の上流は例年八月十三日から『火振り漁』の解禁。こんな渓流(けいりゅう)ともいえる小さな川で火振りをすると文字通り『一網打尽(いちもうだじん)』で、鮎は獲りつくされるに違いない。地元で気の早い人は、明夜に備えて川幅一杯にロープを張り、ゴムボートの代わりに自動車のチューブをふくらませて準備を整えている。
私の見た鮎は『今日を限りの生命』と思えばなおのこと釣りたい。
『夕方の喰(は)み刻(どき)を釣ろう』と、大急ぎで仕事にかかった。
ところが昼過ぎから夕立がきた。私は商売ものの『薬草』を濡らすまいと、必死に倉庫に運び込んだ途端(とたん)、もの凄い土砂降(どしゃぶ)りになった。大粒の雨一粒一粒が身に痛いほどの勢いで降った。
徳山村はダム建設で一村全部が水没する。部落の奥になる県境の分水嶺(れい)までは、先年の皆伐跡の若木ばかり。丸坊主同然の山に激しい雨が叩(たた)きつけて暫(しばら)くすると、濁流が岩を噛(か)み、みるみる一メートル近くも水位があがった。そして雨も止み、夕闇が迫る頃には、あの濁流が嘘(うそ)のように澄み、朝の揖斐川に戻った。
釣り心を夕立で折られた私は早々に宿に入った。
『鮎は一尾も残らんね。今年の鮎は今日で終わりです』夕食のときに宿の主人が川を見ずにこう言うのである。
翌朝、顔を洗いに降りた川はすっかり白川になっていて、あれほどいた鮎は影も形も見えなかった。宿の主人は、さすがに地元の人である。おそらく、鮎料理を通じて抱卵の事実を知っていて『落ち』をいい当てたのではないかと思う。
揖斐川では別の年に両三度も、旧盆前の『落ち』を経験しているから、偶然とはいえない。徳山村のあたりは下流から、西平、津汲(つくみ)、横山と三つのダムの上流で、放流は湖産鮎。源流域であるから『中落ち』よりは、むしろ『本落ち』と呼ぶ方が妥当(だとう)かもしれない。悲しいことに、この鮎たちは発電所のタービンに身を砕かれる運命にあって産卵はできず憐れである。」
徳山ダムができる前に、すでに下流にダムができていたとは知らなかった。
吉野川の池田ダムは、昭和四十三年着工、昭和五十年竣工のよう。従って、前さんが釣りに行かれたときは、まだダムサイト等の工事中。とはいえ、すでにトンネル等で、水のない河原を作りダムサイトの工事をしていたはずであるから、遡上鮎はいないはず。
湖産畜養か、人工の放流ものであろう。
湖産畜養が、八月十五日前にも少しとはいえ、腹子を持っていたのか、記憶にない。等級の高い、従って、「湖産ブランド」に「ブレンド」される海産や人工の比率が少ないであろう価格の高い「湖産」を放流していた酒匂川で、八月下旬には腹子ができはじめていた記憶はあるが。
前さんの観察にしたがって、八月の旧盆前に「降った」鮎は、「湖産」としておきましょう。
前さんの書かれている旧盆前の下りは、前さん自身が気がつかれているように、海産遡上鮎の「下り」とは異なる。
井伏さんが、吉野川の樫尾で経験された「下り」類似の現象とは意味を異にする。
平重郎さんは、
「平重郎さんは町長さんを相手に(町長さんは釣は全然やらないと云ふのだが)川の情況を話した。先日六十年来の洪水があったので、アユは殆どみんな川下に押し流され、しかも産卵時期が近づいたから今年はもうこんな川上には遡らない。雌のアユはもう胸に黄色い斑点をつけてゐる。川石のヌラも、あと三日か四日たたないと発生が覚束ない。今日は午前中に五尾しか釣れなかつた。」
という洪水による「下り」は、亀井さんが渓谷相から中流域らしい河相に変わると書かれている
「花の吉野を対岸にした上市(かみいち)の橋に立つと、上流の方、つい目の先に、左岸から三角錐の姿もくっきりとした背山が、右岸からは稜線を背後にぼかしながらゆるやかに妹山(いもやま)が川に迫って、その両岸の狭ったあたりから、川上の水は一気に平地へと押し出されてくる。」
という「平地」の上市あたりでとどまっているのではないかなあ。
揖斐川にいったことがない。
根尾川は1996年8月、樽見線の木知原に行った。すでに湖産の冷水病が蔓延してから数年、釣れた11匹は、鮫肌人工。石は大きく、水はきれいで、珪藻が優占種。釣り人は1人いたが、その人は場所を熟知されていたからか、よく釣っていた。
揖斐川も、ダムがなかった頃は、根尾川並か、それよりもきれいな水ではないかなあ。根尾川にも堰堤があるとのことで、木知原には遡上できないとのこと。
D 旧盆前の「中落ち」、「本落ち」の主は?
「近年は人工孵化(ふか)鮎が放流されるようになって、従来の海産、湖産鮎と輻輳(ふくそう)し、鮎の『落ち』は実にややこしくなった。私の推論『積算日照時間』で考えると、電照によって育てられた養殖鮎は六月、人工孵化鮎は七月末に充分成熟して落ちるものもある事実から勘案して、土用の『本落ち』も当然といえる。
『旬の食べものは旨い』といって、春のタケノコ、夏のキュウリ、秋ナスを昔は食べたものだが、今は年中スーパーの野菜コーナーにある。人工温室栽培のモノである。この伝が鮎の社会に及んで、食味の不味さ以外に産卵期の異変現象を来しているのである。
『鮎の本落ちが真夏』とは、余りにも時期が早すぎて、われわれ年寄りは大きな抵抗感を覚えざるを得ない。しかし、現実に起きつつあるのだ。この尚早鮎たちが各地で放流されはじめて五〜六年と日が浅く、この事実を知らない人は多い。さすがに釣り人は敏感で『ン? この鮎は何じゃ。六月で卵を持つ鮎か?』と、疑念を持つ人が出始め、その姿、形を見ておおよその予測は各自がしておられる。」
電照による養殖は、少しは未だに行われているかもしれないが、放流モノに関しては、稀になっているのではないかなあ。五月の連休の内水面祭りに、相模川の河原に漂っている二〇センチくらいの鮎の生臭い匂いを漂わせる焼き鮎の主は、電照で育てられたモノかもしれないが。
「私も養殖モノの抱卵鮎を見ていたので『もしや?』の推論は立ててはいたが、川で釣った鮎を見るまで確信はできなかった。この期の『落ち』は、秋のように徐々に降るのではなく、出水を利用して一気に降ってしまうので、『落ち』とは気付かなかっただけなのである。」
前さんは放流モノ、その親は明言されていないから、海産、湖産、交雑種、何れも同じ、と考えておこう。
要は育て方、電照による育て方の養殖鮎に生じた現象、と想定しておこう。
その「電照鮎」が、「下り」をしているのかなあ。
とても、「下り」をしているとは思えない。トラックで運ばれてきた放流モノは、その氏素性を問わず、産卵場への距離コンピュータが働かず、「下り」の行動をしないのではないかなあ。
ただ、増水、出水によって、「流される」ということが遡上鮎に比し、格段に高いために、「降った」と見まごう現象が生じているのではないかなあ。
次に、前さんは「電照養殖モノ」の親の氏素性を問題にされていないが、「流される」現象には、氏素性が影響しているのではないかなあ。
ただ、前さんが吉野川で経験された「昭和四七年」は、まだ「人工」鮎が放流モノの主役にはなっていなかったと思う。仮に人工鮎であっても、継代人工ではないはず。日高川種苗センターのように、毎年親を川で捕まえて、卵を絞り出す方法をとっていたであろう。
そうすると、F1:二代目?一代目?の人工となる。この人工は、まだ下りの本能を持っているのかも。
しかし、自発的に「降る」習性は希薄になっているのか、あるは、「産卵場」がどこにあるのか、「コンピュータ」が機能せず、わからないため、増水、出水のときだけ、「下り」類似の現象が演出されているのではないかなあ。
海産畜養ですら、産卵場への自発的下りをしないようであるから。
2010年、静岡2系?が放流されていたと思われる雲金は松ヶ瀬の一画。そこにいた人工が、九月のある日以降に見えなくなったとのこと。その下流の宮田橋下流のトロ附近がその後の人工釣り場になったよう。トロに近接した「砂礫層」には「降る」よう。それらが抱卵した後の現象であるのかどうか、オラは、人工の好む場所を避けていたためにわからない。ただ、松ヶ瀬の人工のたまり場を釣ることのあった初心者らしくないおっさんの話では、九月はじめでもサビが目立たなかったとのこと。
前さんは、人為の影響が顕著に表れていた情況を次のように総括されている。
「これらの人工たちが、どのあたりまで降って産卵をするのか、あるいはすぐには産卵をしないで水温の低下を待つのか、多分これはないであろう。などとこれまた興味の種はつきない。産卵を確認した、という情報は今のところはないので何ともいえないが、多分、産卵はできまいと思う。夏の高水温の中で万一にも産卵ができても孵化はどうか。孵化したとして無事に海へ降れるのだろうか。」
万サ翁が観察されたように、トラックで運ばれてきた鮎が、「産卵場」への旅を自発的に行うことは、ないと考えてよいのではないかなあ。偶然、産卵場に流れ着くモノが居るかもしれないが。
次に水温であるが、「湖産」あるいは、湖産系人工を除外すると、前さんが書かれているように孵化しないであろう。産卵はするが、水温二〇度くらいでは、孵化せずに死ぬのでは。
故松沢さんや初心者らしくないおっさんの師匠が観察されていた10月1日前後数週間の産着卵が腐る、という現象は水温20度くらい以上では孵化できないことを示しているのではないかなあ。勿論、相模川以西の太平洋側の海産鮎を親とする人工、交雑種の話であるが。多分、日本海側の海産も、時期は別にして、水温20度くらいに産卵してもその卵は「腐る」のではないかなあ。
いや、西風が吹く頃以降に産卵行動を開始する親を使用した人工、継代人工という表現の方が適切かなあ。
なお、神奈川県内水面試験場では、水温19度で孵化しているとのこと。これは最高水温であり、実験環境での話であるから、自然界にこの水温を当てはめても不適切ではないかなあ。ただ、水温二〇度で孵化させている日高川種苗センターの例もあるから、自然界においても水温19度でも孵化する適合性を有する親は何か、の問題は難しそうであるが。日高川種苗センターのように、人為的にいろんな手当を施しての孵化事例とも考えられるが。また、「湖産」が親かもしれないし。
また、「継代人工」が親となると、年々性成熟の時期を早める傾向があるとの話があったから、少し孵化できる水温にかかる表現を変えないといけないかも。
この章を
「『自然にさからっては無理、ムリ!』と考えているが、無視することができない『鮎』がいる。」
ということで、越年鮎探訪記つながるものの、それは一部を紹介済みということで省略し、産卵場は一夫多妻ではなく、多夫一妻である、と書いて取り敢えずお仕舞いにしょうと。
しかし、好事魔多し。
前さんは、三宅勇三「鮎の二年子」(春秋社)を引用されているが、「続鮎の二年子」(春秋社)に、相模川を舞台とした気になる記述があった。
その紹介だけをしておきます。
雌が多数とは?
三宅勇三「続鮎の二年子」(春秋社)
磯部の堰上流への集結
「年によって多少の相違はあるが、この川では、厚木附近で中津川が本流に流れ込むあたりのザラ瀬が鮎の産卵場所になる。この産卵場の上流二里ばかりの磯部の堰堤の上には、湖のような広い淵があるが、秋の彼岸のころになるとここに落ち鮎が集団している。この落ち鮎の集団をめがけて、水面に描く波紋をめじるしに網の舟打ちをやるのだが、集団を探しあてるのはむつかしい。この淵は水の流れはゆるやかだが、ところどころに浅いところがあって、そこがザラ場になっている。落鮎はここに集団するのである。」
磯部の堰の魚道が遡上阻害になっていて、二〇世紀には遡上できなかったのではないかなあ。それとも、堰ができたころの魚道は遡上阻害が少なかったのかなあ。
その点からも、磯部の堰上流の落ち鮎が、遡上鮎であるのか、たまたま上流に放流された鮎が流され、あるいは降ってきたのか、疑問は残る。
そして、「彼岸ころ」の落ち鮎は、津久井ダムがなかったころの、相模湖がなかった頃の、与瀬とか、更にその上流の猿橋付近の鮎であれば、さもありなん、と思うが、三宅さんが磯部の堰の情況を書かれたのは、津久井ダムができてから、あるいは、工事中の話ではないかと思うから、「遡上鮎」にしては早すぎる「落ち鮎」と思う。
21世紀になって、磯部の魚道を遡上できるようになり、200年、2004年等、遡上鮎が釣りの主役であった年、磯部の堰から10キロほど上流の弁天では、10月1日頃に遡上鮎のサビ鮎が釣れることはなかった。
2009年、相模湾での稚魚採捕ができなかったほど、海産稚鮎、遡上量は少なかった。
幸運にも、いつもは放流後に死んでいたであろう神奈川県種苗センター(現在は財団法人になっているよう)の継代人工が放流前に死に、漁連は義務放流量をまかなうためにあちこちから稚鮎を購入することになった。
更に、幸運にも、駿河湾は稚鮎が多く、浜名湖産稚鮎が購入され、それが相模川に放流された。弁天の瀬では、海産畜養が釣りの主役になっていた。
その海産畜養の多くが、産卵場所に選んだのが、磯部の堰上流ではないかなあ。
10月下旬頃からであろうが、磯部の堰上流には、100羽、200羽の「鵜山」ができていた。「鵜山」の終期は12月5日頃。
このことからも、三宅さんが「彼岸」頃に「落ち鮎」と表現されているのは、海産鮎ではなく、湖産「ブランド」の放流鮎と考えている。
「鮎の二年子」及び「続鮎の二年子」は、鮎の生活誌にかかる記述は僅かであり、また、三宅さんは、前さんとは異なり鮎の氏素性には関心を持たれていなかったのではないかなあ。
なお、遡上鮎の産卵場については、中津川、小鮎川の三川合流点よりも少し下流に変更されているのではないかなあ。相模大堰ができて、止水域ができたことで、三宅さんの観察された場所よりも少し下流側に産卵場所が移動したかも。
「一網にかぶる鮎の数は早瀬で多い場合でもせいぜい三,四尾、それも形が不揃いであるが、落鮎の集団になると形の揃った大物の鮎ばかり一網に二十数尾もかぶることがある。こんなときには手縄にぴんぴんあたりがあって楽しいものである。この感触は釣りのそれに似通うものがあるが、そんな繊細なものでなく、一網打尽という言葉に表現された線の太い網師ならでは味わえぬ境地である。鯉もボラも鰻もあたりがあるが、そのあたりは魚の種類によってみんな違う。それがわかるようになると、投網も一人前である。
落鮎の集団の性比はメスが断然多い。鮎の性別は尻ビレの大小でする。尻ビレの大きいのがメス、小さいのがオスであるが、産卵前になると橙色が濃くなり体色で雌雄がすぐ判別できる。」
困りましたねえ。
「橙色」の表現もそうですが、「メスが断然多い」ということです。
ただ、2010年、それなりの遡上鮎がいた狩野川は、12月生まれが主役だったようで、人工を除けば、乙女は僅少で、女子高生も主役ではなかった。
10月の終わりの狩野川大橋の瀬でのこと。五〇センチ以上の増水はあったが、白川ではない。テク2が瀬で47匹の女子高生に乙女混じり。テク3も、しあわせ男も遡上鮎を満喫していた。テク2が釣った鮎は雌が多かったとのこと。下りの集結を瀬で行っていて、その集団はメスであったよう。
そうすると、産卵場でのメス、オスの性比と、下りの途中での性比の違いは何で?
オスが先に産卵場に集結しているから?
もし、そうであれば、下りの集結には、行動には、男女7歳にして席を同じくせず、の風習が鮎の世界にもあるということかなあ。故松沢さんはこの現象についてどのような話をされるのかなあ。丼大王さん、教えて。
性比の不均衡は、四万十川の山崎産が観察され、漁の「時合い」とされていた「潮呑み鮎」も、雌が多かったなあ。
三宅さんの産卵風景描写
三宅勇三「鮎の二年子」(春秋社) (原文にない改行をしています)
「鮎を年魚という。このことについては、すでに、書いたように前年十月中旬から十一月末までの間に、川口から七,八里上流のさらさらと水の流れる浅い小砂利の砂のまじったざら場で産卵する。産卵場では雄が雌に近寄ると、雌は体を真直ぐにして、胸びれと腹びれを大きく拡げてそれをふるわせる。そのとき雄も胸びれを拡げて、それを雌の胸びれの後方から腹の下のほうに入れ、自分の体を雌の胸びれの上にのせてぴったりと体を接触する。
雄は体を接触すると共に、体をゆるくふるわせながら時には、雌を川の底へ沈めるような格好に行動することもある。そのうちに他の雄が雌の一方の側に寄って来て同様に体を接触し、さらに、何尾かの雄が寄って来て、雌の上にのっかったり、体を接している雄と雌との間に割り込んだりして数尾から十数尾の雄雌が一つのかたまりになる。このかたまりが急速に前進して頭のほうから全身を砂の中へ突っ込み体を弓なりに曲げて再び頭を砂の上に出す。こうして砂の中に埋まった下半身を大きくふるわせるときがこの産卵行動の絶頂である。このとき砂けむりと共にはげしい水しぶきが上がる。
間もなくかたまりは解散して雄と雌とは離れ去ってしまう。このような行動が行われるのは日暮れと明け方に多いが、この行動に要する時間はせいぜい二分ぐらいだそうである。産卵魚群の性比は一対九とか一対十五とかいった値になり、雄のほうが断然多い。しかし、夏の瀬の鮎の性比は一対一だから、産卵期にこのような性比になることについては、いろいろ調査が行われ、いろいろ説があるようである。一尾の雌の卵の数は約五万、雌五尾分の卵が雄一尾の受精で賄えるというから、雄は産卵期の最初から最後まで成熟していて引き続いて産卵群に参加しているという勘定になる。卵は砂や小石に埋もれて二週間あまりで孵化する。」
(3)そして、中締めに
@ 前さんの心配事
前さんが、鮎の生活誌で悩まれた多くは、海産、湖産以外の鮎が川にいるようになったこと及び、それらの鮎を含めて海産鮎の遺伝子汚染、交雑種の再生産の懸念ではないかなあ。
そのうち、湖産の再生産が行われていない、ということは、東先生の「二峰ピーク」の疫学的?レベルでの観察で可能性のないことの推定がされることになったのではないかなあ。
次いで、オラが、故松沢さんの遡上鮎の顔つきも容姿も変わっていない、との話から、産卵時期に係る学者先生や、「ここまでわかった アユの本」の耳石調査が事実を反映していないと疑問を持ちながらも、もやもやしていた事態が解消されたのは、全国内水面漁業組合連合会「鮎種苗の放流の現状と課題」における山形県鼠ヶ関川におけるアイソザイム分析による調査結果ではないかなあ。
山形県が行った鼠ヶ関川での遡上鮎の氏素性の調査は、すでに紹介済みと思っていましたが、見つかりません。 できるだけ早く紹介することにします。 |
そして、福井県の足羽川における「湖産」ブランドに、人工等がブレンドされていることを認識された上での調査結果ではないかなあ。
これらの調査結果が今でも有効性を有しているのか、どうかは分からないが。
しかし、その結果得られた鮎の生活誌は、故松沢さんの話を含めた経験則に合致していると思っている。
前さんが、東先生の「二峰ピーク」の現象を読まれていたら、少しは、悩みを軽減することとなったのではないかなあ。
そして、山が山であり、川が川であり、アユがアユであった頃の情景にもう少し多くのページに割いてくれていたのではないかなあ、と残念に思っています。
すでに、古座川のダムのある本流とダムのない小川では、香りにも違いが生じていたのではないかと想像しているが、「香」魚ではないアユが当たり前であるのはなぜか、なぜそうなったのか、ヘボにもわかりやすい記録を書かれていたのでは、と思っています。
いや、前さんは、四万十川だけではなく、山も、川も、水も、アユも、人間の行為によって変質している事例を充分に書かれていて、その多くは川那部先生の「生態学」とつながっている。
ただ、オラが読みこなすことができないだけ。
さて、前さんは、「はみ時」の説明で、時期、時間によるはみ場所の違いも書かれているが、その中の1つである「高速道路の料金所」の箇所だけを紹介して、中間試験の締めとします。
A 高速道路の入り口
「出水のある六月から七月中旬にかけて鮎はまだ少し溯上(そじょう)をする。昔の釣り師たちは『土用溯り』などという言葉も使った。この『溯り』をうまく掴(つか)めば、実に効率のよい釣りができるのである。鮎の溯り道はだいたい決まっていて、川幅一杯に溯るものではない。いわば我々が高速道路を利用するがごとくの道筋がある。高速道路の入り口には料金所があり、車があちこちから集まって混雑するのが常。この『高速道路の入り口』を狙(ねら)う釣りをしたいのである。
ご理解いただきやすいように、中以下の川でその例をあげる。
下流に大きい淵やトロのある瀬で、その流れが左右どちらかの岸沿いに片寄り、その岸が岩盤か玉石、底も玉石で細長く下流へ続いているような場所を見つけたい。
このポイントは淵やトロの鮎が瀬の『特等席』の空くのを待っており、空き家になるとすぐ入ってくる場所である。即(すなわ)ち『あがり鮎のメインストリート』になる。
『高速道路の入り口』を見つけるには、河原を歩いていては無理で、やはり川を見通せる高場の道路からがよい。川底の色や諸条件をゆっくり確認することである。他の連れが一目散に川へ走り降りてもあわてず、一時間でも二時間でも川を読むことが大切である。尤(もっと)も、近年のように川全体が釣り人で埋まっているような状況ではどうにもならない。しかし、オトリを売っていないような川、人気のない川、遠い田舎の川、平日に釣行して空(す)いた川などでは『川読み』がモノをいう。」
「読み切った釣り師は『ここ』と決めた場所、そこに座り込んで周囲の景色に溶け込んでしまう。オトリを送り込むポイントはただ一点である『高速道路の入り口』に集中し、『カカリ鮎』の取り込みにも全く動かない。動けば即座にポイントが『ポイント』でなくなってしまうからである。
鮎が溯ってくる流心側から姿が見えないよう、その反対側に腰を据(す)えて動かず、膝(ひざ)の前に『生かし缶』を沈めて、糸の手尻は短く、カカリ鮎は揆(は 注:旧字で表示されている)ねあげて取り込む。ポイントは一つでも『遡り鮎の道』だから、次から次へと面白いように釣れる。下手に声をかけようものなら、叱(しか)られるか、『オトリならあるよ』と憎いことをいうのもこうしたベテラン釣り師である。
目立たぬ着衣、古びた麦わら帽子、カビでも生えていそうな短い竹竿、小さな手網(たも)。子供の頃から何十年もこの道を歩き続けてきた釣り師にこの手の人が多い。
小さな川では、このポイントの弱点もある。先に述べたチャラ瀬と同様で誰かがこの釣り場の近くを歩くと『万事休す』となってしまう。このポイントの鮎は縄張りをもつ『居つき』ではないからである。そして、ここで釣れる鮎は比較的小型が多い。つまり『表裏一体』『利点は欠点』なのである。数を求めると型は小さく、型を求めると数は少なくなる。」
「縄張りをもつ鮎が大きく、移動して溯る鮎にたまたま大型もいたが平均してこんな場所は小型が多かった。今も昔も変わらぬ鮎の生態である。」
この釣り師と似ているところは麦わら帽子だけ。
かっての麦わら帽子は、濃い飴色の「古びた麦わら帽子」になるまで使うことができた。しかし、外国産は色が変わる前に何処かが破れる。
仕方がないから、春日部に買いに行った。
帽子屋さんは、日本では機械で麦を刈り取っているから、麦藁が手に入らない。中国から仕入れているが、中国の麦藁には華北と華南で異なる、とのこと。どっちの麦藁がよいのか、忘れた。
とはいえ、かってのように五,六年以上も使えて、くすんだ色になるほどはもたない。今年、新しく註文することになるが、これが最後の麦わら帽子になるのかなあ。
「表裏一体」「利点は欠点」とはならない時もあるから、あゆみちゃんに翻弄されても、人間のねえちゃん相手とは異なって、懲りもせずにお尻を追っかけている始末。
それでは、どのような時が、「利点は利点」になるのか、「はみ時」の事例にそのヒントは隠されているようであるが。ヘボの解釈は1文の価値も無し、学者先生の観察、説同様、役に立たないため考えないことにしましょう。「ヘボの考え休みに似たり」ですから。
「大きい川では『高速道路の入り口』と、はっきりと解る場所は少ないが、よく調べると条件の合っているところがあちらこちらに点在しているものだ。初心者の方はジッと動かずに釣る老練の釣り師の技術を見学するとよい。そして、自分も『喰(は)み刻(どき)』に合わせて試されると面白い釣りができる。
『田舎のプロより都会の名手のほうがうまい』などと自慢げにいう人もある。確かに都会の釣り人の技術は向上してよく釣るようになった。が、地の利、喰み刻を知る川筋の釣り師は、のべつ一日中釣りはしないし、必要なだけ釣ればサッサと川をあがるのである。数釣りの競争など思いもしない『狂気の沙汰(さた)』だから『うまい へた』の理屈が噛み合わない。そんな偏頗(へんぱ)な自慢をしないで謙虚に教えを乞うことだ。」
垢石翁が、相模川の「久保沢の『清公』」、利根川の「岩本の『茂市』」に抱かれた評価は、前さんの「老練の釣り師」にも通じるのではないかなあ。
垢石翁ですら、茂市さんがひょこひょことやってきて、垢石翁らが釣れずに囮同様、疲労困憊して、河原にへたり込んでいるときに、入れ掛かりをしているのを見て、石を投げてたなあ。
「場所守ご苦労さん、ありがとう」と感謝されることが多々あるオラには、石を投げて憂さ晴らしをされた垢石翁の気持ちがよおくわかりますよ。
2010年相模川弁天で、テク2らがオトリ捕りをし、また、ある時間帯には入ることの多かった弁天右岸の瀬落ちから瀬尻の場所は、「高速道路の入り口」に類似する環境ではないのかなあ。
先日、テク2は、下調べにやってきて、流れが悪くなったなあ、と、左岸土手から見て話していたが。その場所にあった甲羅はまだ残っているのかなあ。
B 苔と前さん
前さんは、「硅藻」ではなく、「珪藻」が適切であるものの、通例に従い「硅藻」で表示されているが、手書きをしなければならないため、「珪藻」と表示します。
「よい珪藻のつく石は、丸石である。角の尖(とが)った角石にも珪藻はつくが、鮎の餌場にはならない。というのは鮎の歯の形が側面に櫛(くし)型に生えているから、鮎は正面の口つまり、口吻で石の垢(あか)を食べられず、口の横で珪藻を削り取って食餌をするからである。
上図(注:省略)で、川シモから上流に向かって餌をこそげとる。従って、普通は石の頂上から水当たりのする上流面の垢が最初に削り取られる。川底でギラッと光る鮎がよく見えるのもそのためである。水流の圧力を利用して、垢を見事に削ってゆく力は大したものだと思う。
もちろん、石裏の垢も喰(は)むが、下流へ向かっての摂餌(せつじ)行動だから鮎も食べにくいらしい。剥(は)ぎ取られた垢全部が口には入らぬときもあろう。人間なら『お行儀よく食べなさい』と叱られる場合である。
鮎が大挙して川を溯(のぼ)ってきて石垢を喰みだすと、水の色がうっすらと濁るようになる、とは岐阜・郡上八幡(ぐじょうはちまん))の古田萬吉翁(おう)の言葉である。口元からこぼれた垢が水を濁らせるらしい。私も、大昔奈良県・吉野川で知っているが、今はもうこんな風景は見られはしない。
さて、垢のついた石を試みに足でこそげてみると、なかなか落ちるものではなく、足がだるくなることもあるくらいだから、鮎の歯は強靱(きょうじん)な櫛歯である。」
「岩石が一般に水成岩、火成岩、変成岩の三種に大別されるのを諸兄が知り、私も知識として承知している。そして、鮎釣りの川の石としては水成岩がよいといわれている。というのは、水成岩は硬質で、長い年月の間に岩や石の表面が磨(みが)かれて、その石についた垢が鮎には喰みやすいからである。つまり、鮎には口当たりがよいのである。また、比重の大きい水成岩は、少々の水が出ても川底が変わらず、鮎にとって棲み心地がよい、といわれている。しかし、地質学者以外に、河原の石を見て『これは花崗岩』なんてたちどころに判断できないし、できたとしても釣りにあまり関係がない。
この本は『実学』を述べるのが趣旨だから、岩石について改めて書くより、むしろ色、形、表面の状態について私の経験を記してみたい。」
垢石翁は、水成岩の川の水が火成岩の川の水よりも良質の苔を生成していると書かれているが、そうかなあ、という気がしている。水質は山の問題だけでは、と。
吉野川の支流に係る杉本さんの水の比較、違いは、その事例ではないかなあ。
「川の中の石を見ると、鮎が垢喰みをした跡は『櫛歯形』に歯形がついている。一つ一つ単独にある歯形は遊び鮎か、移動する鮎が『つまみ食い』をしたものである。
本格的に縄張りをもって『垢喰み』をしたものは茶褐色に黒光りをした状態になっていて、馴れてくるとすぐに判別ができる。しかし、川に馴れない初心者には簡単な喰み跡も、黒光りの石も『ホレ、そこにある』と指されても判らないことが多いものだ。私などは幼児の時から川で育ったものだから、いつとは知れずに覚えてしまっていても、初心者の方をご案内する都度わかりにくい顔をされる。」
「おそらく、喰み跡も偏光グラスを傾けて懸命に見る初心者には、松茸と同じく(注:松茸山で、案内人とは違い、松茸のありかに気づかない前さん)見つけにくくて歯がゆいものに違いない。が、鮎を釣るにはこの石が見えないでは釣れても、釣ったことにはならない。そして、喰み跡が全くないところで釣る徒労を避けられる。
後に述べる『川の観察』をしておけば、鮎のつく石は自(おの)ずと理解がゆく。つまり、白い石、赤茶色の石はダメ。茶褐色に黒く光る石がよい。人間の頭大から拳(こぶし)大の玉石底などがピカピカに光っている処では入れガカリ間違いなしとなる。」
今、石の色を見て、釣りができる川はどのくらいあるのかなあ。相模川でも水深五〇センチくらいまでなら、石の色を見て、テク3が鮎がついている、と、期待できる場所かどうかの判断をしているが。
石の見やすかった大井川は、一抱えの石の周辺が頭大から拳大の石がびっしりと詰まっていたときは、石の色を見ての釣りも可能性があったが。砂利まみれになった今では、大石に付いている鮎しか食料を得る機会はまれになっているようである。
「深山の渓(たに)深く草木を採取するために山ごもりを幾度も重ねたことがある。当然のこと晴天、雨天が繰り返す。大雨というより洪水も経験した。十畳一間もあろうかという大岩が水に流されると、たちまちのうちに砕(くだ)かれる。アッと思う間に砂礫(されき)にされた大岩もある。怒り狂う泥流は形のあるもの、重量のある石を取り込み、必ず先頭に立てる。この先頭の岩石が渓を削り、木々をなぎ倒して砕けながら流れ進み、自らが小さく礫(こいし)に滅びてくると次の大岩をまた先頭に立てて降(くだ)って行く。こうして飛び散り、砕かれた石が、自らも転んで角を取り、他からぶつかられ、突起物が取れてくる。
人間も同じようなものだ。幼児から青年期には角があって丸味がない。もちろん人付き合いのアカなどはつきはしない。壮年になると、仕事はできるがアカがつく。砕き、砕かれて最終の『礫』の状態は『窓ぎわ族』というところである。
『窓ぎわ族』の年齢以上の私が、角や突起を多く残して対人関係のアカがつかぬままなのは、時代と共に変転のない『薬種商』のせいかもしれない。どの世界にも好きずきと変種もあって、猫好き、犬好きが混在するのだろう。」
藁科川の支流で、砂防ダムのないところの出合いには、大石が転がっている、との話があった。富厚里橋から見た藁科川は、長島ダムができて後の大井川並の砂利まみれであった。それで、赤沢?の大石が目立つ瀬との違いを尋ねたときの話であった。
まだ、支流、沢との出合いに大石がごろごろとしているところは見ていないが。
増水後の珪藻の繁殖場所は、
「湿土から流れだしたものや、大石の根元に止まった垢がすぐに繁殖をはじめる。減水して水温があがり太陽の光と酸素のある場所ほど早い。
珪藻が繁殖をはじめる場所の第一は『瀬のカミ手のカガミ』である。そして大石が組み込まれた瀬である。水当たりが平素から強いところに出水があると余計に石が洗われて『垢が飛んでしまう』と解釈される方が多い。しかし、水勢に負けない大石があって、そこの珪藻は残り、また、流されてきた珪藻類が、緩流の石面に付着して水が落ち着くと直ちに増殖し始めるのである。
これは、珪藻は弱い光でも『光合成』をいとなんで、体内にエネルギー(澱粉や脂質など)を蓄積し、さかんに分裂して増殖できることになる。垢が繁殖するためには、日光、二酸化炭素(炭酸ガス)、酸素のほかに、水温、水深、流速も大いに関わってくる。」
ダムの濁りだけでも早くおさまらないかなあ。大井川ではダム放流後、二,三週間は濁り水のために光合成に支障を生じている。貯水率を大きく下げて、濁り水を一気に流し、その後澄んでいる上水を流すようにすれば、2,3週間も飢餓状態が続くこともないのになあ。
そして、やっと苔が付き始めた頃に、再度ダム放流があれば、さすがのあゆみちゃんも一ヵ月以上の飢餓に耐えきれずに流されるのか、どうなるのか、判らないが消えていく。
二〇一〇年は何年ぶりかで、そのような年になり、再度のダム放流後の垢が付き始めた頃に大井川に行った「釣り吉さん」でも少ししか釣れなかった。
砂利が多いということは、グラインダーの役割をしているから、残り垢も少くなる。二〇世紀には、笹間渡鉄橋付近でも頭大の石がつまり、一抱えある石があったから現在よりはアカ付きが早かった。その上流の発電所廃屋付近では、流れの「イン」「アウト」の関係から大石が転がっているところが、残り垢の存在しやすい場所であり、水が澄みさえすれば、他の場所よりも早く垢が付いていた。今や、河原になってしまっているが。
「さて、石垢の生長の目安は日光の及ぼすところだから、一日に『三十センチの水深』と、どなたかの説を読んだことがある。浅場では酸素量が多く、よい石のある場所から垢ができるのはこれで説明がつく。ところが、深い淵やトロ場で日当たりが悪いところでは『三十センチ説』を『十センチ説』に変更しなければならない。しかし、水深二メートルのトロ場に大水から十日を経ても垢のつかない場所もあるので、釣り師として目で見分けられる技術がどうしても必要なのである。」
「浅学の私がこんな理屈を書けるのは、国立・奈良女子大学の清水 晃先生からお教え頂いたからである。
『前さん、石の垢には珪藻、藍藻の外に緑藻などもありましてね。鮎はこれらを選り分けて食べられません。一緒に食べていると考えた方が自然でしょう。だからいい垢を食べられるかどうかは、鮎がどこに住むかによります。珪藻の体中にはおそらく揮発性の成分があって、これが鮎の香りの因かもしれませんね。その珪藻も普通の垢の中なら何十種類か住んでいて、勉強してゆくと底の深いものです』と、釣り師の私にやさしく語って下さったものである。」
古の川では、どのような珪藻の種類構成であり、その構成比が水の変化、栄養塩の変化でどのように変化しているのかなあ。もはや、調査可能な珪藻が優占種である空間は極めて少なくなっているから、「香」魚が絶滅しないうちに、「香気」と珪藻の関係だけでも何とかならないかなあ。
真山先生は、香りの代謝経路はまだ解明されていない、と、ご返事を下さったが、せめて、疫学的なレベルでも、珪藻と「香り」の関係、つまり種類構成なのか、珪藻に含まれている栄養素に拠るのか、だけでも、知りたいなあ。
そうすれば、香りが「本然の性:生まれながらのもの」で、食料とは関係がない、「鮎が食して藍藻に遷移する」なんちゅう、学者先生の説がまちがっちょる、ということになるが。
さて、前さんの苔に到達すれば、当然、村上先生らの「河口堰」に移るしかないですよね。
ただ、生物学の基礎知識もないものが、「河口堰」を適切に紹介できない、ということは承知しているから、気が重いですねえ。
本物の川を、鮎を知らず、また目利きもできない「学者先生」同様、とんでもはっぷんな誤解をしても、生業としていないヘボであることを免罪符に、口実に、心の支えにして、前さんと暫しの別れとします。
その前に、前さんを卒業できない理由を、前さんの「あとがき」を素材にして紹介します。
前さんの呪縛?から解脱できず
@ 性成熟が「光周性」要件で促進されること
オラは、実験環境での知見としての「光周性」要件を自然界に適用するときは、それなりの修正、あるいは補正が行われるものと思っていた。
従って、「短日化」といっても、そのまま自然界に適用されることはない、と思っていた。
秋の「彼岸」が、短日化の1つの指標であるとしても、日本海側も相模川以西、多摩川以西の太平洋側も「彼岸」をそのまま「短日化」の指標として適用するはずはない、と思っていた。
しかし、岩井先生の「魚の国の驚異」を読んで、とんでもない誤解をしていることに気がついた。
水温条件に適合して産卵行動の時期を積み重ねてきた海産鮎の歴史的な生活誌に考慮を払はずに、実験室環境での知見を、普遍化している、ということである。
ひょっとすると、学者先生に連綿と続く「10月、11月」に海産が産卵しているという教義は、このことと関連があるのかも、と、想像しているが。
また、何で、岩井先生が「学者先生」の産卵時期に係る説と異なる現象を承知されているのに、悩まれているのかなあ、と気になっている。
「短日化」といっても、生活誌に係る歴史を考慮すると、場所によって、異なるはず。
そのため、故松沢さんや弥太さんの「西風が吹く頃・木枯らし一番」が、下りを含めた産卵行動の開始時になる、また、前さんの「積算日照時間」の性成熟に影響している、との推察が妥当性を有していると考えている。
A 交雑種は海では生存できない
この本の目的は、
「今一つは(注:一つめは、鮎の習性を知り、「上手に少なく釣って大きく楽しむこと」)、楽しく六十年も釣らせて頂いた鮎問題を著した。ここ数年、鮎の形や習性は人間によって変化してゆきそうである。汚水、ダム、養殖、人工孵化(ふか)鮎、そして奇形鮎が多くなって、いったいこれからの天然鮎はどうなるのだろうか。鮎の友釣りを成り立たせるのは『縄張り意識』である。この『意識』が変わってしまえば子孫の釣りはない。楽しみもない。翻(ひるがえ)っていえばこの本など一文の価値もないものになってしまう。近い将来お迎えの来る私はよいとしても、若い人が鮎に取り憑かれる至福もない。後継者がなくなるのである。」
幸い、交雑種は海では生存できない。辛うじて河口域で生存しているものはあるようであるが。
F1・一代目?、二代目?がどの程度再生産に寄与しているのか判らないが、「産卵場」への距離コンピュータが機能していないようであるから、産卵場への到達は「偶然」に作用されていて、再生産への寄与は海産畜養共々少ないのではないかなあ。
「縄張り」の習性については、故松沢さんが、命をかけて守るほど価値のある生活場所、食料がなくなったから、と。金の塊の苔ではなく、鉄屑の苔になり、欲しけりゃあもっていけ、という苔しかなくなったから、という話にオラは納得している。
ということで、「習性」の変化ではないのかも。水の変化で良質の苔が繁殖できず、美食家の鮎を満足させる苔が生成しないからかも。
B 前さんを卒業できない理由
「シラメの話を聞きに来られた山本素石さん。釣り人に物議をかもした『鮎の話』の宮地伝三郎(みやじでんざぶろう)先生も亡くなられた。実は、私のメモの発端は、宮地先生への反発からであった。」
「宮地先生への反発」が、どのような意味か、ということが前さんを卒業できない理由です。
「アユの話」のゴーストライター的役割を果たされていたのが、川那部先生であるようであるから、艶めかしい、いや、悩ましい問題です。
前さんが、「アユの話」のどの部分に反発をされていたのか、それを「鮎に憑かれて六十年」で、どのように反論されているのか、それが、オラの新たな課題です。多分、それに係る知識を手に入れることはできないとは思いますが。
「アユの話」と川那部先生
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農村文化協会)
「学会誌以外に何かを書くのはマイナス点の付いた当時、それを薦めたのも宮地先生であった。ただし、一般誌に先に書くことだけは厳に戒められた。『自然』に載った『アユの縄張り』は、私の雑文第一作である。広く知られているところだからもう書いてもよいと思うが、岩波新書『アユの話』のお手伝いもした。このとき分けて貰った印税でステレオ装置を買ったのだが、私の音楽狂復活のきっかけとなった。」
とのことで、川那部先生が「アユの話」に関与されていると思っています。
素石さんがすでに亡くなられていることを知りました。
今西博士宅に、前さんが呼ばれたとき、素石さんも同席をされているが、サケを好むお二人と、下戸の前さんの組み合わせでは、お酒は出なかったのかなあ。
そして、その後も前さんと素石さんの交際が続いていたということであろう。
前さんの最大の心配であったのではないかと思う、海から遡上してくる亀井さんの「自然児」が、幸いにして、遺伝子汚染もなく、健在ではあるが、山女魚、岩魚はすでに人工の放流ものしかいない川が殆どではないかなあ。
江の川のゴギだけではなく、丹沢水系の山女魚の在来種も滅びたか、絶滅危惧種の状況では。
前さんが、「鮎に憑かれて六十年」で触れられていない事柄に、「香り」の消滅がある。昭和の終わり頃は、相模川のキュウリの香り、中津川のスイカの香りが、時期限定ではあっても存在していた。
今や、時期限定ですら、「香魚」に出会える川は、僅かしか存在しないのではないかなあ。
そのような変化が生じている「香り」の「変化」について、書かれていないのはどうしてかなあ。「自然児」の消滅のほうが大きな課題であったということかなあ。
前さんは、大正12年生まれ。ご存命であれば、お話をお聞きしたいと願うが。
湖産も交雑種も再生産がされていない。
鼠ヶ関川におけるアイソザイム分析結果
「アユ種苗の放流と現状の課題」(全国内水面漁業組合連合会 平成14年:2002年発行)
@流下仔魚調査
産卵場にいた湖産、人工産アユ、海産アユの調査をした。
また、湖産及び最上川水系で採捕したアユを親として生産した人工の発眼卵を鼠ヶ関川の産卵場に沈めて、孵化量、孵化仔魚を調べた。
その結果、
「湖産親魚由来の仔魚は少なくとも海域までは到達していたと考えられる」調査結果を得た。
(調査年:1997〜1999年)
さて、どうして、仔魚の親を見分けることができるのか。
卵の段階で目印をつける技術があるようですが、調査方法を理解することはできず、さっぱり判りません。
書かれていることは
「耳石標本は湖産アユ発眼卵にたいしてはアリザリンコンプレクトン(以後、ALC)、海産アユ発眼卵にはテトラサイクリン塩酸塩(以後、ALC)を用い浸漬法により標識した。」
この箇所が親の種別識別法の記述として適切な箇所であるかどうかすら、保証の限りでなし。
11月には海産アユについても、標識発眼卵を同様に産卵場に設置した。
A海の仔魚
「2000年度の海域調査(船曳調査)の結果からは充分なサンプル数が得られなかったが、湖産アユ仔魚は河口域まで降下していること、また湾内にも分散していることが明らかにされ、このことは少なくとも数日間は海域において湖産アユ仔魚が生存していることが証明された。なお、湾内で採集された仔魚の殆どは5〜7mmの体サイズが中心で1m以浅の水温・塩分躍層以浅に集中しており、2〜3m層附近では殆ど採捕されることはなかった。この傾向については2001年度の調査においても同様である。」
なお、サイズの年による変化、渚域への移動、水温との関係も調査をされている。また、仔魚の採捕は、場所を特定して、時間軸での移動状況も調査できる手法で行われており、歩いて行われている場所もある。
B遡上鮎のアイソザイム分析結果
「日本海側の各河川に放流され続けてきた湖産アユは莫大な数量に及び、それらの産卵時期が海産アユのそれと重複し、しかも同じ産卵場において産卵することから、日本海に降下した湖産アユ親魚由来の仔魚も莫大な数量になることが容易に想像される。
しかし、遡上稚魚によるアイソザイム分析の結果からは、湖産アユの遺伝子頻度とは異なり、海産アユの遺伝子頻度から逸脱しない結果が得られている。このことは遡上稚魚個体群には湖産アユ親由来の稚魚は殆どいないことを示している。そして、その理由は海域まで到達した湖産親魚由来の仔魚は遡上期までに何らかの理由で斃死していく運命にあることが考えられる。
また、毎年遺伝子頻度に変化が認められないことは、湖産アユ雌雄の交配による仔魚のみならず、湖産アユと海産アユの正逆交雑による仔魚も翌年の遡上稚魚の中に含まれる可能性が非常に低いことも示している。
これは海産アユ雌親卵が無駄になることになり、湖産アユ由来の仔魚が翌年の資源添加に結びつかないどころか、その河川の海産アユ資源の減耗要因にもなりかねないことが推察される。
室内実験においては湖産アユ仔魚及び海産アユと湖産アユとの正逆交雑魚ともに海水と同じ条件下での生存が観察されている。しかし、海域における湖産アユの血を受け継ぐ仔魚だけでなく、海産アユの降下仔魚そのものの生態に関する知見も少なく、未知の領域が多い。」
さて、当然のことながら、アイソザイム分析とは、いかなるものか、判りません。
「海産と湖産アユの間で対立遺伝子頻度に有意な差が認められている2酵素云々」と書かれていますが。
「標識遺伝子」なんて、単語もあります。
神奈川県では、川にいるアユの親が何か、ということにすら思いを及ばせることなく、川にいる「アユはみな兄弟」の信念で現象を理解され、少し、「親」に思いを馳せたと思ったら、「漁協が『湖産』を放流しているといっているから、湖産しかいない」、と調査結果を判断している姿勢とは大変違う、ということだけは判ります。
なお、「アユ種苗の放流の現状と課題」の検討委員会には、石田力三さんが入っているが、上方横列鱗数で、湖産、海産、人工種苗の区別が有効と石田さんも書かれたのではないかなあ。その石田さんが、神奈川県が湖産ですら20枚以下の鱗数とする、と区分されたことに何にもいわれなかったのは不思議ですねえ。
「鼠ヶ関湾に降海したアユ仔魚は湾内全域の表層及び湾外に広く分散した後、生長に伴い渚に集まり、再び、水温の低下に応じて徐々に離岸して沖合に移動すると推定される。」
「山形県では1999年より調査目的以外の湖産アユの放流は取り止めることになった。これは組合の中には根強い湖産アユ信望もあるものの河川の冷水病による汚染防止、海産アユ資源の保護・増殖目的のため県全体の合意の上で山形県内水面漁業協同組合連合会によって決断された。現在では放流種苗の85%を山形県産の人工アユが占めるようになっている。
山形県では冷水病の問題もさることながら、海産アユ資源の減少をくい止め、遡上量を高い水準へシフトさせる方策が最も望まれている中で、全国的には早い段階での湖産放流取り止め、海産アユを親にした県産人工アユ放流への転換を図った。」
山形県内水面試験場では、遺伝子レベルでの調査等の研究報告を、調査期間中、季報、年報等で発表されていると思います。
生物学の知識のある方は、それらを読まれて、適切な理解をされて、ヘボにも判るように説明していただければ幸いです。
日本海側では、湖産との交雑種による遡上鮎激減の影響を相模川以西の太平洋側よりも大きな影響を受けていた、ということだけは容易に想像がつく。
学者先生らの10月はじめから、あるいは神奈川県のように9月下旬から海産アユが産卵をはじめている、との、耳石調査結果が「事実である」と理解されている方々にとっては、交雑種による海産アユ資源の損耗は太平洋側でも変わらない、あるいは少し日本海側よりも弱い影響を受けているだけ、ということになるが。
山形県、次いで、交雑種の海産アユ資源への影響を認識されたと思われる「しまねのあゆづくり宣言」の考え方が、神奈川県にも普及することは三途の川に行ってから知ることになるのではないかなあ。
山形県としまねのあゆづくり宣言の考え方で、人工種苗の生産が行われていたら、そして、電照を用いた飼育が行われていなかったら、人工種苗に係る前さんの悩み、危惧の多くは解消されたのではないかなあ。
そのとき、前さんが危惧されるとしたら、次の事柄ではないかなあ。
@ 親アユを最上川水系で採捕したとき、そのなかには構成比率は不明ではあるが、海産親のF1:1代目(山形県では「1代目」種苗と表現されています。)が含まれる可能性がある。
A その「1代目」と遡上鮎との「交雑種」(交雑種の表現は適切ではないと、思っているが「用語」を知らないために使います)とが、鮎の習性、容姿を変えていく「遺伝子」作用をもたらすのかどうか。
萬サ翁が「寸づまり」のアユと表現されたアユが、「遡上鮎」「海からやってきた『自然児』」ではないと考えているが、そのような容姿になるのかどうか。
そして、その構成比率が、海産アユの全体を、遺伝子レベルで変化させるほどの量になるのかどうか。
量の問題で考えると、遡上量が放流アユのどのくらいの比率になっているのか、遡上量の年による変動が大きいことを考慮すると、高い比率になる可能性もあるが。
(日本海側では、太平洋側ほどの遡上量変動が、「地域的」な変動がないという話があったと思う。しかし、年による「変動」は、日本海側全体では生じているから、産卵場における「1代目」放流アユの比率が高くなる可能性は存在すると思う。)
ただ、「トラックで運ばれていた」アユには、「遡上鮎の産卵場」への距離コンピュータが機能しないようであるから、自発的意思による「下り」ではなく、「偶然」のもたらした結果、産卵場への到達ができたようであるから、放流鮎の多くが「産卵場」に到達する可能性は低くなるが。
昔の香り今いずこ
村上哲夫 西條八則 奥田節夫「河口堰」(講談社 2000年発行)
1 序
「河口堰」から、故松沢さんや亡き師匠がこだわっておられた「鮎の品質」が、山、水、川、そして石、流れによって変わる、それらが変化したことによって、もはや、古の鮎が消え去った、ということの意味を考えたい、と、いつもの適わぬ高邁な理想を持ってはいるが。
故松沢さんの古の鮎が消えたのは、鮎が悪いんではないよ、人間が悪いんよ、と話されていた意味を食料の面から少しでも理解したいとは思ってはいるが。
ヘボの特権である演繹法、帰納法に基づく理路整然とした論理ではなく、現象だけは適切に観察し、その意味を故松沢さんや、「神々しき川漁師の奥義」や、川那部先生ら信頼できる調査結果と観察を「恣意的」に使用して、「学者先生」の珍説に惑わされることなく、人間がなにをして、どうなったのか、を考えたい。とは思えど、ミスリーディーリング、重要な視点の見落としは当たり前、と、自覚はしているため、「河口堰」そして、生物学の基礎知識のある方は、
谷田一三 村上哲夫「ダム湖・ダム河川の生態系と管理 日本における特性・動態・評価」(名古屋大学出版会 2010年発行)を読まれるようお願いします。
なお、「ダム湖・ダム河川の生態系と管理 日本における特性・動態・評価」は、ヘボにはとても対応不可能な内容ですから、時には引用することがあっても、適切な引用となっていることは、全く期待できませんから、あしからず。
そのときは「ダム湖」と表示します。また、()書きで記載されている典拠、学術名、図番号等は、省略します。
2 江の川の八戸川ダムでの事例
さて、最初から、「理路整然」とは無縁の展開をしていきます。
それは、ダムができたことによって、失われた栄養塩があるのではないか、逆に新たにできたあるいは増えた栄養塩、あるいは物質があるのではないか、ということです。
そして、その結果が、シャネル5番のアユの消滅その他の現在のアユの品格に影響を及ぼしているのではないか、ということです。
この問題を「河口堰」や「ダム湖」で考える前に、「江の川物語 川漁師聞書」(黒田明憲著 みずのわ出版)に登場している天野勝則さんの「川漁師の語り アユと江の川」(中国新聞社)が観察された現象を用いて、オラの「結論」を見ておきます。
「江の川物語」に、天野さんが本を出版されたことが書かれているため、その本を探していた。「日本の古本屋」で見つかった。
この本に書かれている事柄は、天野さんが、子どもの頃は川に入り浸っていたものの、出戻り漁師であることから、江の川の変貌を連続して肌で感じておられない時間のあること、漁をされていた場所、漁法が限定的であること等の制約があるものの、齋藤邦明さんが「川漁師 神々しき奥義」(講談社+α新書)で、「第十一章 アユの刺し網漁 島根県江の川」に天野さんを登場させておられるように、「学者先生」や、釣った、釣れたということだけの技は持ち合わせていても、鮎、川の観察、思考に無縁の一部名人とは異なるため、信頼性の高い記述であると、確信しています。
故松沢さんに、天野さんの観察されたことの評価を聞きたいとの思いはありますが。
(原文にない改行をしています。)
(1)「川の水を飲料水に」
「かって江の川や八戸川が、いかにきれいだったか二,三話してみます。それは川の流れを飲み水として多くの家で使っていたことで証明できます。それほどきれいな水でした。
そうした家では中学生くらいになると男女を問わず、川から水を汲み上げるのが役目です。二個のバケツを一箇ずつ棒の両端につるし、その棒を担ぎ上げ、流しのそばに置いてある『はんどう』(約一五〇リットル入り)と呼ばれる水瓶にいっぱいに満たすのが日課でした。この『はんどう』は『石見瓦』で有名な江津市近辺が産地で、瓦と同じ感じの焼き方でした。
当時、八戸川と江の川の合流点近くに、地域の人たちが架けた幅一メートル、高さ二メートルほどの小さな木橋がありました。その橋のうえから見下ろすと、川面は鏡のように澄んでいました。春には遡上するアユを、夏には縄張り争いをするアユを、秋には産卵するアユを、それこそウロコの一枚一枚が見える近さで、日なが一日、あかずながめることができました。
その頃は川底の石や砂もそれぞれ固有の色や形をしており、石そのものが自分を主張し合っていました。このため石の一箇一箇の見分けがついたものです。それに比べ、今はだめです。みんな泥にまみれて、どれを見てもみな一緒、石本来の色はありません。ですからいい藻が石につくわけもなく、薄汚れた藻を食べるのですからアユも芳しい香気からは程遠いのです。」
(2)「ダムの完成で川は一変」
「水のきれいなこの思い出の八戸川に、一九五七年(注:昭和三二年)ダムができました。このときのダムは現在のものより規模も小さく、堰堤(えんてい)も低いものでしたから、ダムの中の水が入れ代わるのも早くて、上流部と下流部の水質にはそんなに大きな差はありませんでした。
しかし一九七六年(注:昭和五一年)に旧ダムを呑(の)み込む形で新八戸ダムが完成してからは、全く川が変わりました。ダムの下流では、雨が少なく、水量が少ない時など、アユは泥臭くて食べるのに不快を感じるようになりました。
以前ですと、いったん大水になって濁っても翌日にはきれいになっていた川が、現在ではダムに溜(た)めた濁り水を十日も一五日も流すため、川の底にヘドロが溜まってしまうのです。文字どおり渇水期には死の川になってしまいました。」
(3)「八戸川よみがえる」
「しかし、最近、こんな面白いことがありました。ダム建設以来、泥臭いアユしか捕れなかった八戸川に、昔の香気漂う、身の引き締まった自慢のアユが戻ってきたことがありました。一九九四年(注:平成六年)のあの大干ばつの時です。あまりの日照り続きに空になったダムは、もうダムの機能を果たすことができません。仕方なく上流から流れてきた水をのそのまま流しました。ダムは水を溜めることをやめ流れが通過するだけになりました。すると昔の八戸川が戻ってきたのです。
山や野に降った雨が土に吸われ、そこで浄化され、徐々にしみ出たきれいな水がそのまま流れ降るのですから、ほどなく下流の石には生きのよい藻がつき、川の匂(にお)いまで変わってきました。つかの間ですが『名産八戸アユ』がよみがえったのです。日照りと香気漂うアユ。皮肉な取り合わせですが、干天が『名産八戸アユ』を呼び戻した事実に間違いはありません。
しかし、翌年、ダムは元の機能を取り戻し、また以前の泥臭い八戸アユに逆戻りしてしまいました。ダムは川に暮らす全ての生きもの、そして川で暮らす全ての人にとって、実に大きな影響を及ぼすのです。ダムについてはいろいろな思い出がありますが、また項を改めて記します。」
オラが、大井川に長島ダムができる前、時期限定ではあっても、シャネル五番の香りを振りまくあゆみちゃんがいた、ということが、ヘボの戯言ではなく、「事実である」と、証明してくれたものと嬉しくなりました。
井川ダムは土砂の堆積が非常に進んで、有効貯水率が著しく落ちているとの話。なにかにその有効貯水率がなん%である、と書かれていたが。日本有数の土砂の堆積するダムであるとのこと。
そして、井川ダムの下流には二つの支流からの流れ込みもあるとのこと。
それらの条件がなくなり、長島ダムで、何ヶ月か、何年かは判らないが、貯水、滞留されるようになり、たまり水となり、ダム湖で香気を珪藻に供給している物質が消費されて下流に流れていかなくなったから、シャネル5番の香りが長島ダムと共に消え去ったと、想像している。
(4)ダムとサイとアユの品質と
弥太さんの話
「わしらは世代的に事情は知らんが、漁業補償も知れたもんじゃったし、ええようにあしらわれたがじゃないかね。工事で川が濁りだしてからコトに気づいて、支流の桐見(きり)川にダムができたときには、アユの味がだめになりよったとみんないいよったが、まあ後の祭りじゃったわね。ダムで水を止める。川底を掘って砂利を取り、流れをいじる。たしかに水害は減ったが、魚と漁にとってえいことは少しもなかった。
今、外見的には仁淀川の水は澄んでおるが、越知あたりの水は、いうたら死に水じゃけえね。ダムで淀んだ質の悪い水が順々に送られてきとる。ダムの終わったところで谷水と合流したり伏流水になって、いくらか生き返っとるという程度じゃ。
昔は源流からの生きた水がそのまま流れてきとって、サイ(水垢 こけ)の質もうんとよかった。伏流水の水も今よりかしっかりあったきねえ。」
「今のウルカは昔より質がだいぶ劣るろう。食うちょるサイの質が違うきね。昔ちゅうのは川にダムがなかった50年ばあ以前のことじゃが、あのころの仁淀は水量も多うて、水も今よかだいぶ冷やこかった。
その違いじゃろう。アユの味は今より抜群によかったし、香りも高かった。アユの多い淵では、船で網を入れておると上げよらんうちから西瓜(すいか)の匂いがしよったもの。その匂いでどれほど掛かかっとるか想像がついたもんよ。今の仁淀は、ほかのアユの川に比べればかなりきれいなほうじゃと思うが、昔から見ると天と地ほども違うのう。流れは見た目澄んでおるが、ダムで何カ所も止められた、極端にいうたら死んだ水よ。」
弥太さんも、香りで漁獲量の予想をされている。
四万十川の山崎さんが、香りを利用して「潮呑みアユ」の漁に対応されていたことと同様、香りが満ちあふれていた時代があった。
ついでに、弥太さんは、
「産卵が始まるのは十一月に入ってからよね。彼岸を過ぎて大水が出たら、アユはだいたいその水に乗ってくだっていきゆう。このへんじゃと、伊野町あたりから下の浅い瀬がその場所よね。秋に大きな水の出ん年は、十一月に入って木の葉が舞うほどの大風が吹いたときに一斉に下るわね。木枯らし一番というか、ああいう風じゃ。」
「網はアユの産卵のためいったん10月15日で終わって、次に11月16日から1ヵ月、落ち鮎の解禁になる。」
禁漁期間は、県の規則で定められていると思うが、高知県の禁漁期間はいつかなあ。
11月16日の再解禁は、学者先生らの10月1日頃から、神奈川県内水面試験場では9月20日頃から始まっている、との説が適切であれば、11月16日再解禁の時には、一番仔、2番仔で遡上する卵は孵化しているであろうから、少なくともその限りでは問題がない。
しかし、「木枯らし一番」の吹く頃から産卵行動が始まるとすれば、1番仔、2番仔になるであろう産着卵を踏みつけ、また、11月生まれの仔魚になるであろう親の大量虐殺をすることになる。
産卵場を禁漁にしているのかなあ。
相模川でも、禁漁期間短縮の動きがあるが、産卵時期を県内水面試験場や学者先生の説で理解されているであろうから、心配ですねえ。
弥太さんは、彼岸頃以降の出水による下りを話されているが、前さんの「中落ち」のことであろう。
「中落ち」であれば、どの程度再度上るのか、わからないがが、生殖腺体重比がピークにはなっていないから、産卵はしないはず。どのような生活をするのかなあ。食糧不足への対応はどうするのかなあ。
前さんの
「和歌山の日置(ひき)川は、日本中の鮎(あゆ)釣り師たちのメッカのようにいわれているが、ダムができて女性化してしまった。すぐ東にある古座(こざ)川はその昔、清冽ともいわれる水であった。ここでもダム造りに賛成した人々が今では後悔している。支流の小川(こがわ)の鮎一匹を食べると、ダムの水が流れる本流の鮎はもういらない、と地元の人がいう。確実にダムが水を悪くし、鮎もまずくなってしまう。」
さて、弥太さんや前さんの鮎の質の変化には、「香気」も含まれているであろう。宮が瀬ダムがなかった頃の中津川の、半原の下水が流れ込む量が少なかった愛川橋上流では、「香気」は当たり前であったが、宮が瀬ダム後は、藍藻が優占種に。そして一〇〇トンにダム放流量を制限しているため、大石を転がすほどの出水はなく、どんどん瀬が、石が埋まっている。
まあ、これで、ダムが「香気」を消滅されている、といえるから、「香気は生まれながらの性で、食料とは関係ない」あるいは、「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」なんて、ヘボから見てもとんでもはっぷんな説を唱えられている学者先生が、まちがっちょる、といえますよねえ。
八戸川で、鮎が大量に糞をしても、珪藻から藍藻に「遷移」しませんよ。実験環境での水量が、鮎の大きさに伴わなかっただけではないのかなあ。その結果、水質が富栄養状態となり、きれい好きの珪藻が消えて、藍藻が優占種になったのであろうと想像しているが。
ということで、ダムのお話を終えて、天野さんの気になるところ、あるいは井伏さんで紹介したいところへと移りたい思いはすれど、その誘惑に負けず、初志貫徹、「河口堰」を紹介します。天野さんや井伏さんの記述で、気になる事柄は、来年に回します。
(5)「河口堰」の見取り図
流水における植物プランクトンの発生=ポタモプランクトン
→動物プランクトンの発生→鮎稚魚生存可能性?
→死骸の沈殿 →「ヘドロ」の構成要因 →メタンガス発生
→低層の貧酸素化 →嫌気性菌の活動 →窒素の生成
この見取り図は最後に修正することとして、流水における植物プランクトン=ポタモプランクトンの存在からはじめることにします。
3 流水における植物プランクトン=ポタモプランクトンの発生
(原文にない改行をしています。)
()書きの部分を省略しています。
(1)河口堰の位置関係
「もともとの川というものは、塩分を含まない『淡水域』を流下し、下流で海水が混じる『汽水域』となり、しだいに塩分濃度が高まって海に入るものである。
それが、河口から約六キロメートル上流に建設された河口堰で川はしゃ断されてしまった。堰のゲートが全開されるのは流量が異常に多い、出水状態となったときだけである。それは年に1〜2回、多いときで十数回にすぎない。
河口堰の上流は長さが15キロメートル以上にもわたる淡水域となり、下流の汽水域とは、はっきりと二分されてしまった。魚道の放流水や通船により、上下流のわずかな連絡は保たれているが、河口堰により分断された上流域と下流域では、これまでとはまったく異なった環境と生物の世界ができあがりつつある。」
この「15キロメートル」の止水域が、「5日分」の弁当をもった流下仔魚が海の動物プランクトンを食べる前に、餓死している要因であろう。
(2)「川では植物プランクトンが発生しない」ことが常識
「プランクトンは、普通、海や湖のような流れのない場所で生活している。川という水が流れている環境、特に日本の川のように流れが速く、川の長さが短いところではプランクトンは、増殖して目立つようになるまでに海へ流し出されてしまう。明治の頃、日本の川を見て歩いたオランダの治水技術者であるヨハネス・デ・レーケの、日本の川は大陸の河川と比べると『滝』だといった話は有名である。滝ではプランクトンが増殖するひまがない。
日本の川では、『通常の状態では』プランクトンは棲めない。長良川河口堰を建設を始めた頃の建設省の水質汚濁に関する見解は、そのような常識に沿ったものであった。堰とダムの違いで述べたように、本来の堰には水をためる機能は備わっていない。したがって、大規模な貯水池ができるわけではないから、河口堰では流れが阻害されず、プランクトンも発生することはないという論理である。堰という言葉の範囲に従来の小規模な固定堰も大型の可動堰も含めるのは少し無理がある。
さらに、日本の川にはプランクトンが棲めないことを、流れがあるからプランクトンの発生がないと、流速だけの問題をすり替えたところも問題がある。しかし、『川のプランクトン』の存在について、科学的な事実を示す必要があると感じられた。」
(3)川のプランクトン発生条件
「水中で浮遊生活をする藻類は、条件がよければ、1日に1回は細胞が分裂して2倍に増える。2日で4倍、1週間で計算上128倍に増殖する。なにも入っていないような透明な長良川の水を瓶に詰めて、光がよく当たる場所においておくと、5日目頃から緑色の濁りが肉眼でも見られるようになる。分裂の速度がもっと遅くても、流れが遅く流路が長ければ、川の中でプランクトンが十分に増殖することができる。」
さて、ここで、簡単にテクニカルタームについて、紹介しておきます。
@ ポタモプランクトン(河川棲浮遊生物)
「川のプランクトンの研究は、19世紀末に、ドイツのツァハリスが、そのような川の中の微生物をポタモプランクトン(河川棲浮遊生物)と名付けたことが始まりであった。『ポタモ』とはゆるい流れを意味するラテン語が語源である。ヒルムシロのような水草や水生昆虫のキイロカワゲロウなどにも学名に『ポタモ』が使われている。いずれも、流れのゆるい川に生息している特徴を示している。」
A クロロフィル
「クロロフィルは、どんな植物プランクトンにも含まれているから、その量を示す指標となる。ある係数をかければ、大ざっぱではあるがプランクトンの重量や有機物量に換算することができる。さらに都合のよいことには、これは光合成を行う色素であるために、クロロフィル量がわかれば有機物や酸素の生産の速度も推定することができる。」
(4)長良川下流域でのプランクトン発見
1990年8月のこと。
「岐阜市内から河口堰建設予定地である伊勢大橋付近にかけて、4カ所の調査地点を設定していた。上流の3地点では、前月と比べてあまり目立つ変化はなかった。
異変を感じたのは河口に近い伊勢大橋であった。いつもよりも水が心持ち黄緑色がかっているように思われた。」
ph(水素イオン濃度)の測定等、植物プランクトンの発生によって生じる濃度変化等の調査は省略します。
「長良川の下流部でプランクトンが見つかったといっても、これを直ちに河川棲プランクトンであると断定することはできない。自分たちでできる限り意地悪に河川棲プランクトンではない可能性を並べ立て、さらにそれを新たな調査や先人の経験に基づき否定する作業が必要になる。私たちは、長良川で見つかったプランクトンについて、次のような疑いを晴らすことが必要であると考えた。」
ということで、河川棲プランクトンではないはず、と、4項目の仮説を設定されている。
例えば、「(4)」では、
「川の中で増えたのではなく、水の動きの少ない両岸のヨシ帯で発生し、それが川の真ん中に流れ出たのではないか」
これが可能性としては一番高いのかなあ、と、ヘボには思えるが。
オラがいいたいことは、そのような次元のことではなく、「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」とか、海の稚鮎の耳石調査結果から、海産アユが相模湾に流れ込む川では9月下旬から、四万十川では10月上旬から、産卵している、ということが、「事実」でないかも、と疑うことのない「学者先生」との違いです。
実験環境の問題ではないか、木曽川や千曲川が「清流」であるのか、あるいは、「耳石調査」が間違っているのではないか、という疑いすら持ち合わせていない「学者先生」らとの違いです。
神奈川県内水面試験場は、鮎に係る漁期変更の動きに対して、「専門家」として、意見を出すのでは、と想像しているから、海産アユの「産卵時期」がいつか、ということの適切な理解を欠如していることは、四国の川のように、釣り人、漁をする人の行為が遡上量の激減をもたらすのではないかなあ。
まあ、どのようにして、河川棲プランクトンではない「可能性」をつぶしていく調査、検証をされたのかのお話は省略します。
@ 植物プランクトンの種類
「学名をキクロテラ・メネギニアーナという。単細胞の微生物には、ほとんど日本語の名前はついていない。この種類は、諏訪湖や町中の溜池などの汚濁が進んだ水域で、プランクトンとして普通に見られる。キクロテラ・メネギニアーナの発生記録を調べてみると、付着生活をするという証拠はなく、プランクトンと考えるのが妥当であると結論できた。」
キクロテラ・メネギニアーナは、珪藻類で、また、
「しかし、(注:魚等とは異なり)植物プランクトンのような単細胞の生物は、同じような環境にはコスモポリタン(汎用種)と呼ばれる世界に共通の種類が発生する。テムズ、ドナウ、ライン、ムーズなど、欧州各地の川の夏の植物プランクトンの種類を調べると、長良川で発生したキクロテラ・メネギニアーナが必ず発生していた。日本の川も特殊な例外ではない。」
A 調査用具の問題
「日本で今までポタモプランクトンが見つからなかった理由の一つに、川のプランクトンの大きさの問題がある。湖や溜池で採集されるキクロテラ・メネギアーナは、直径30マイクロメートル(1マイクロメートルは、1000分の1ミリメートル)に達する大きさの細胞もあるが、長良川では、せいぜい10マイクロメートルの大きさであった。それ以後、多くの川で調査を行ったが、いずれも大きなサイズになるプランクトンは、川では非常にまれであった。
普通プランクトンはプランクトンネットで水を濾過して採集される。獲物が小さいため、ネットの網目は細かい。しかし、10マイクロメートルのプランクトンは市販のネット生地の最も細かい規格のものさえ、通り抜けてしまう。
私たちが遠賀川で調査を行ったとき、河口堰附近は、濃い茶色に見えるほどたくさんのプランクトンが発生していた。しかし、持参したNXXX25と呼ばれる規格のプランクトンネット(40マイクロメートルの網目)でも、ほとんど捕らえることができなかった。私たちは、1マイクロメートルの穴の開いた濾紙で濾すか、川の水を沈殿させてプランクトンを集めた。」
B 長良川でのポタモプランクトン発生の条件
「次に私たちは、なぜ長良川の下流域でポタモプランクトンが発生するのかを考えた。一つは地形であり、もう一つは気象条件が重要なことがわかった。
日本の川は滝のようだといわれるが、長良川も例外ではない。海抜高度1700メートルの大日岳から流れ出した長良川は、わずか150キロメートル足らずを流れると、もう伊勢湾に入る。平均の傾斜は、1キロメートル当たり10メートルを超える。100メートルの高低差を1000キロメートル以上をかけて流れるアマゾン川、ナイル川やメコン川などとは比べものにならない。
しかし、急傾斜の長良川でも、源から河口まで一様な傾斜であるわけではない。岐阜市を通り抜けた長良川は、河口から40キロメートル上流付近から傾斜は急にゆるくなり、河口との高度差は数メートルになる。」
「滞留日数に関係する要因としては、流量も重要である。平水時毎秒80立方メートルの流量のとき、長良川の下流では約30キロメートルの距離を河川水は1.9日かけて流れるが、渇水時毎秒30立方メートルの流量では、4.6日もかかる。
ポタモプランクトンを見つけることができたのは、梅雨と台風の季節の間の渇水期であった。」
C 滞留時間とポタモプランクトン
「日本の川にも植物プランクトンが発生することが明らかになった。」
「建設省の説明どおり、堰は水をためる施設ではないとしょう。しかし、流れは維持されるにしろ、堰ができる前よりも河川の断面積が大きくなるため、流量は同じであっても、さらに流速は遅くなる。」
「長良川の水の培養実験により、1週間足らずで、水が着色するほどプランクトンが多量に発生することが確かめられた。5.1日から13.4日(注:堰ができてからの渇水時の滞留日数予想)もかけて流れる長良川では、流速から判断して、以前よりも藻類が発生する条件が整う期間がより長くなることが予想された。
止水域、つまり水の流れが止まった水域ができることからプランクトンが発生するわけではない。問題は流速そのものではない。河川水がどれだけの時間、川にとどまっているかによって河川水中でプランクトンが増殖できる時間が決まり、プランクトンの発生量が支配されるのである。
河川水が川にとどまる時間を滞留時間と呼ぶ。これは、一般的にはある区間の川の容量を流入水量で割って求めた値をいう。いいかえれば、何時間で川の水が入れ替わるかという目安である。実は、長良川での流下にかかる時間もこの方式で計算されたものである。滞留時間は、大型のダムでは、数十日から百日以上に及ぶことがある。他の条件が同じであれば、滞留時間が長いほど、プランクトンの発生による水質障害の危険性は大きくなる。」
(5)ダム湖の滞留時間とその影響
天野さんが観察された新八戸ダムでの現象の意味を考える上でのダム湖に係る滞留時間の概念を紹介します。
「ダム湖」から引用
「『滞留時間』とは貯水容量を単位時間(多くは1日)当たりの流入量で除した値であり、ダム湖に流れ込んだ水が平均何日間、長い場合には何年間、湖に留まるかを示す数値である。その逆数の『回転率』、つまり計算上、単位時間内に何回水が入れ替わるかを示す値も使われることがある。
3)に示した水温成層が発達するか否かは、水質や生物の分布に大きな影響を及ぼす。例えば、ダム湖底の貧酸素は、水温成層が発達し、水の鉛直循環が阻害され、底層に酸素が供給されないダム湖に特有の現象である。日本のダム湖では、回転率が10回/年以下のダム湖では、水温成層が発達しやすいといわれている。夏に発達した成層は、冬に向かい湖の表層の水温が低下するに従い、次第に鉛直方向の水温差がなくなり、成層は解消され、湖水全体が循環するようになる。
また、洪水により、大量の水が一時にダム湖に流れ込むと、成層状態が弱まったり全く破壊されたりする。」
天野さんが八戸川で観察された現象は、成層状態の破壊により生じたものではない。
長島ダムができる前の大井川に、時期限定で、シャネル5番の香りを振りまき、きれいに着飾ったあゆみちゃんが釣れていた。
その時期は、梅雨明けの7月下旬であった。梅雨の大雨の濁りが消えて、数日、つまり、ダム放流から2,3週間後の新垢がついた頃である。8月のいつ頃まで「香気」があったのかなあ。
この現象も、成層の破壊によって生じたものではなく、ダム湖で、何らかの栄養塩が植物プランクトンに消費されることなく、下流に流れたことに起因していたのではないかなあ。
長島ダムができて、ちょっとやそっとの大雨では、滞留時間を著しく短縮するほどのダム放流が生じていない、山からのしみ出し水を下流に流すことは少ない、ということではないかなあ。
津久井ダムのように、底水放流のダム湖では、水温成層はどうなるのかなあ。底層の貧酸素状態になるのかなあ。
4 動物プランクトンの発生
(1)植物プランクトンの状況
@ 窒素、リンは余っている
「窒素、リンの栄養塩に関して、多量のプランクトンが発生している場合でも、窒素やリンが枯渇するまで減っていないことは注目すべきである。普通の湖では、多量のプランクトンが発生している時期には、使える栄養塩がほとんど検出されない程度の濃度まで、低下していることが少なくない。湖のリンの濃度とクロロフィルの濃度の関係を見ると、きれいな直線で示される正の相関関係が認められる。しかし、川の場合はリンの濃度から見て可能な限界までプランクトンが発生していることは稀である。これは、栄養塩以外の要因が変化すれば、例えば滞留日数がもっと長引けば、私たちが観測した以上の量までプランクトン発生量が増える可能性があることを示している。」
A 植物プランクトン限定の止水域と流れる川の違い
「しかし、(注:信濃川や最上川等の)河口堰の上流で発生する植物プランクトンは、ごく限られた種類のものしか出現することはなった。
藍藻類のアオコが見られるような汚染した河川でも、それほどプランクトンの量が多くない川でも、夏には珪藻類のキクロテラ・メネギニアーナ、冬は同じ珪藻類のステファノディスカスの仲間がめだった。」
「川の水をためた大型のダム湖のプランクトンの種類組成についての記録と比較してみると、河口堰に発生する種類が特殊なものであることがわかる。
天然の湖や貯水池に普通に見られるアステリオネラやステファノディスカスも河川棲プランクトンであることを考えれば、やはり河口域は、流れる川の性質を残しながら、浮遊藻類の発生を促進する施設であると考えなければならない。」
「ダム湖のプランクトンと河口堰のプランクトンの種類組成の違いを目の当たりにした例を紹介しておこう。岡山市を流れる旭川には農業用の取水堰がある。ここで、初夏にプランクトンの調査をしたところ、例によってキクロテラ・メネギニアーナが発生していた。それに混じって、アステリオネラの殻がキクロテラ以上にたくさん見られた。珪藻は、ガラス質の殻を持ち、細胞が死んでも殻だけは壊れずに残る。アステリオネラは中身のない殻だけのものであった。
アステリオネラは旭川の上流のダムに発生して川下へ流れてきたものであろう。流れの中では、止まった水で専ら生活しているアステリオネラはおそらく川では増殖できないと思われる。新しいゆるい流れの環境では、それに適した性質を持つキクロテラ・メネギアーナがそれにとって代わって発生したのである。」
B 長良川河口堰運用後は
「河口堰によりプランクトン発生が促進される水域を、当初、私たちはせいぜい堰から15キロメートル上流までと考えていた。これは後にもっと広範囲に及ぶことがわかったのであるが、私たちが設定した最上流部の観測地点でも、河口堰の運用後、多量のプランクトンの発生が記録されるようになってきた。
1994年の試験湛水が開始された夏に、堰上流15キロメートル地点の東海大橋で、クロロフィル量として40マイクログラム/リットルの藻類発生が記録された。」
「例年下流域で発生しているキクロテラ・メネギニアーナの細胞がたくさん見られた。1990年から観測を始めた私たちにも、この地点での多量のプランクトン発生は初めての経験であった。」
「特に1996年の発生量は、クロロフィルで100マイクログラム/リットルにも達した。」
霞ヶ浦よりも倍多く、諏訪湖の2/3といったところかなあ。相模川の磯部の堰上流の止水域よりも富栄養状態ということかなあ。
そして、発生頻度も
「河口堰運用以前は、この附近(注:堰直上流)の水域では、例年、夏の渇水の一時期だけにプランクトンの発生が認められていた。しかし、運用開始後は春から夏にかけて何度も顕著な藻類の発生が見られるようになった。
春先から秋にかけて、何度も大規模なプランクトン発生が繰り返される長良川は、生態ピラミットを支える生産者のあり方からみて、もはや川ではなく湖のそれを思わせた。」
(2) 動物プランクトンの発生
「河口堰の直上流の伊勢大橋での植物プランクトン発生の期間は、春から秋にかけて長期化したものの、発生量は、以前に比べて飛躍的に大きくなることはなかった。これには二つの理由がある。
一つは、植物プランクトンの発生が常態化したことによりこれを食うものが発生したためである。池や湖では、春に発生した植物プランクトンを追うように、それを食う動物プランクトンの発生が続く。植物連鎖のピラミッドの底辺が大きくなれば、その上の階段もまた大きくなる。ミジンコのような小さな動物プランクトンが食う量も、多量に発生すればわずかなものではない。食う動物プランクトンと、限りある植物プランクトンの量的な均衡はやがて壊れてしまう。小さな池では、植物プランクトンで緑に濁っていたのが、数日の内に、澄み切った水に変わる現象が見られることもある。
長良川の堰の直上流部でも、夏の植物プランクトンの発生の条件が最適の時期に、動物プランクトンが発生していたのである。長良川で発生した動物プランクトンは、ワムシと呼ばれる10分の1ミリメートルほどの微少な動物であった。この仲間は、水を濾過することによって水中の懸濁物を食べる。長良川でみられた種類の濾過速度を調べた文献を見ると、1日に約1ミリリットルの水を濾過している。
この速度と、長良川での動物プランクトンの密度から計算すると、河川水の1%から10%が、毎日濾過されていることになる。植物プランクトンの増殖速度との兼ね合いが問題であるが、食われることによる減少は無視できないほどの量である。
1996年の夏の間、動物プランクトンの密度はずっと高いレベルに維持されていた。その時期、植物プランクトンの量はクロロフィルで30マイクログラム/リットル程度であった。夏の終わりの増水により動植物プランクトンがすべて流れ去った後、再び植物プランクトンの増殖が始まった。この増殖速度に動物プランクトンはついていけなかった。動物プランクトンから食われることを免れた植物プランクトンは、この時始めて80マイクログラム/リットルを超える測定値を示した。」
なお、もう一つの理由は
「堰の直上流で、植物プランクトンの量が低く抑えられるもう一つの理由は、沈降による除去である。」
(3) 「植物プランクトンは水資源を育てる」
「一方、生態ピラミッドについて述べたように、植物プランクトンは、水域に生活する大小の動物に、直接または他の動物を介して間接的に餌として利用される。その意味では必要不可欠は生物である。多量の植物プランクトンが発生する、いわゆる富栄養化の現象について、『なぜ、生物の生産が増えて悪いのか』という質問をしばしば受けるが、その説明は簡単ではない。
ある学会で、長良川に多量の植物プランクトンが発生するとの発表を行った。1970年代から顕著になった湖のアオコや海の赤潮の問題に携わった研究者同士ならば、それは大変だということが理解され、議論が発展していくのだが、水産学専攻の留学生のお嬢さんの反応は違っていた。
『うらやましい。魚がたくさん飼えるじゃありませんか』。
彼女の国は水産資源確保が急務である。長良川で発生している種類の藻類は毒性もなく、魚のよい餌となる。
これに類した話題であるが、河口堰での植物プランクトンとそれを食うワムシの発生の話をしたところ、『海へ降りる途中のアユの稚魚の餌としてワムシは最適である。河口堰は鮎の再生産に寄与するところもあるのではないか』との意見が出た。もっとも、アユの稚魚が必要とするワムシを確保するためには、さまざまな障害を引きおこす夏場なみの植物プランクトン発生がアユの降下時期である晩秋まで続かなければならないが。」
磯部の堰上流にも、ワムシが冬でも発生しているのではないかなあ。
そして、生存限界の水温よりも高い湧き水の箇所があるのではないかなあ。
その結果、2009年の海産畜養の親から生まれた稚魚の中には、六倉のへら釣り場で、3月終わり頃、へら釣りの仕掛けに「じゃみ」同様の動作をしていたのではないかなあ。
右岸六倉のへら釣り場には、本流からわずかの流入があり、その本流からの水が入るすぐ上流側に、湧き水の吹き出しているたまりがある。その湧き水が、へら釣り場を通り、石切場の瀬附近で本流に合流しているが、その湧き水の水温はどの附近まで影響しているのかなあ。本流の右岸側ヘチを流れながら、昭和橋付近まで本流よりも高い水温になっているのかなあ。この間1キロほど。
長良川でも、河口堰で育った鮎がいる、との話が時折されているが、それも磯部の堰上流に類する現象ではないかなあ。
当然、それらの稚魚の量は、釣りの主役になるには程遠いほどの生存率であり、「トピック」の次元に過ぎないと思うが。
そのような富栄養化した水の川ではなく、留学生のお嬢さんの川で釣りたいなあ。もし鮎がいるならば。
5 沈降による除去
(1)なぜ、沈降する?
「堰の上流部で、植物プランクトンの量が低く抑えられるもう1つの理由は、沈降による除去である。河口堰は川の流れを緩やかにする。特に堰の直上流部では、流れはほとんど止まる。そのような場所では、川の水に懸濁していた細かい粒子は川底に沈殿する。水中に浮かんでいるプランクトンもたいていの種類は水よりも比重が重く、やはりこれも沈んでしまう。ガラスのコップに泥水を入れて静かにしておけば、泥はコップの底に沈み水は澄むが、かき回せば、いつまでも濁りは沈まないのと同じである。
私たちは、プランクトンは流れがあっても増殖できるどころか、ポタモプランクトンにとって流れはその生活に不可欠であることを述べた。水より重いプランクトンは、光の条件のよい水の表面附近に止まっているためには、これを支える攪拌作用を作り出す水の働きが必要なのである。
河口堰は、水の流れをゆるやかにし滞留日数を長期化することにより、プランクトンの増殖を促進する。一方、水の流れが、ゆるやかになれば、沈降作用による水中のプランクトンの除去速度もまた大きくなる。つまり、川の中のプランクトン量は増殖と沈降の速度との均衡で決まる。増殖速度も沈降速度も、川の流れの様子やプランクトンの種類などさまざまな要因によって変わる。流れとプランクトンの量との関係を、すっきりした数式により示す段階には至っていないが、流量によって決まる流速が大きな意味を持つことは間違いないであろう。」
流速条件での事例
「長良川では、毎秒50立方メートルの流量条件を境として、増殖と沈降の重要性が逆転するようである。それ以下の流量であれば、長良川河口堰の上流のゆるい流れに発生したポタモプランクトンは、流れが堰に近づいてさらにゆるくなるにつれてその量は沈降によって減少する。一方、毎秒50から100立方メートル程度の流量であれば、沈降による減少はさほどめだたず、プランクトンの量は堰に近づくにつれて増殖する。もちろん、それ以上の流量の時期には、プランクトンは十分に増殖することができないまま海に流されてしまう。」
「沈降の問題も、もう一つの重要な環境問題に結びついていった。沈降によって、懸濁している有機物は水の中から取り除かれる。しかし、それはなくなってしまうのではない。川底にたまった有機物に富むプランクトンの遺骸は川底の環境を変え、新たな問題を引きおこすのである。」
(2)「長良川の川底の泥の変化」
「当時(注:調査開始の1992年から)の長良川にはシジミがたくさんいた。シジミや小石などを挟むエックマン・バージ式の採泥器の底はうまく閉まらない。シジミをかんだ採泥器の底から、明るい茶色の粗い砂粒がバラバラとこぼれ出し、川底の堆積物の試料を得るのに苦労したことを、いまでも思い出す。
堰が運用を始めた1995年、私たちは再び同じ場所に採泥器を下ろした。川底は、以前のように粗い砂ではなく、細かい砂や泥に変わっていた。泥の色も黒くなっていた。生きているシジミはほとんどとれず、泥の中にみられる貝は、口を開いて空っぽであった。」
「堰の上流に泥が堆積する心配があることは、」「ダムの上流に砂がたまる『堆砂(たいしゃ)』の問題から判断して、堰でも同様な現象が生じる可能性は否定できるのもではなかった。」
ということも一つの理由となって、プランクトンよりは関心が低い状態とのこと。
「利根川河口堰の調査で明らかになったこと」
1979年の調査
「まず、川床の材料となっている砂粒の大きさの組成を調べた。」
砂の分類を表にすると
名称 | 大きさ | ||||||||||
砂・鉱物粒子 | 直径2ミリ〜0.05ミリ | ||||||||||
礫 | 「砂」よりも大きい粒 | ||||||||||
シルト | 直径0.05ミリ〜0.02ミリ | ||||||||||
粘土 | シルトよりも細かいもの |
「川が上流から下流に流れる(注:「に」?)つれて川底を作っている材料は、礫から砂さらにシルトや粘土に代わる。」
「利根川河口堰の上流と下流、約10キロメートルの範囲の8ヵ所の川底の堆積物を調べたところ、面白い傾向が認められた。(注:図は省略)堰の上流の堆積物は、極細流砂と呼ばれる直径0.1ミリメートルから0.05ミリメートルの砂とシルト・粘土から構成されていたが、堰に近づくにつれ、より細かいシルト・粘土の比率が高くなっていた。堰の下流でも、堰の直下流ではシルト・粘土は、50%を超える比率であったが、堰から離れるに従い、再び細砂の比率が高くなっていた。
つまり、堰を中心として、その直上下だけに限ってシルト・粘土が堆積している分布の様子が明らかになった。さらに、堆積物の有機物の含量も、堰の直下上下流で特に大きくなることがわかった。」
堆積物調査は、橋の上から水を汲み上げることで試料を得ることが出来るプランクトン調査とは異なり、船の調達にもお金がかかる。
そして、調査結果が、
「いくつかの地点で堆積物の異常が認められたとしても、それはあくまでも、点にすぎないとの反論が予想されたので、面的な広がりも知りたかったからである。」
そうなんです。
「学者先生」が採集されたアユの氏素性も考えることなく、ヘボに反論されるような、1現象だけを見て、あるいは耳石調査の間違いに思いを巡らせることもなく、産卵時期を書かれていることと、なんちゅう違いか、と、つくづく感心しているヵ所の1つです。
「私たちは、関東地区の川の研究者と利根川調査のための研究グループを作っていたが、その中の一人、法政大学の小寺浩二さんが超音波を使って軟らかい泥の厚さを調べる調査を提案した(さらに幸運なことに、彼の口利きでかなり安い値段でそれができることになった)
超音波を使った堆積物の厚さの調査の原理は次の通りである。船の底につけた発信器から、200キロヘルツ(ヘルツは、音の振動を示す単位、1ヘルツは1秒に1回の振動)と50キロヘルツの超音波を出す。200キロヘルツの超音波は、川底の表面で反射されて再び船の受信機に捕らえられる。一方、50キロヘルツの超音波は、軟らかい表面の堆積物を通り抜けその下の固く締まった砂層で反射される。したがって、二つの波長の超音波の反射される面の深さの差が軟らかい堆積物の厚さということになる。
船を走らせながらこの反射深度を記録すれば、軟らかい堆積物の厚さの分布図が作れる。堆積物の厚さを測定した場所では、同時に人工衛星を使った位置決定の仕掛け(GPS、カーナビゲーションシステムと同じ原理)で船の位置の緯度と経度が自動的に記録される。この方法を使い、私たちは利根川河口堰の上下流では軟らかい泥が川の横断面に沿って一様に分布している状況を知ることができた。」
「河口堰が、その上下流に粒子が細かく有機物に富む軟らかい泥を堆積させる証拠が利根川で見つかった。」
そして、他の川での調査においても同じ結果が得られた。
「すでに堰が運用を開始して三年目を迎える長良川では、岐阜大学の山内克典さん、粕屋志郎さんらのグループが、堰の下流で、軟らかい泥が一メートルもたまっていることを報告していた。」
「また、下流では、堰直下で高い比率であったシルト・粘土は堰を離れるとともに減少していった。」
そのほか、河口堰反対運動推進者が、潜水により、川底の堆積物の柱状試料の採集をし、また、コーン・ペネトロメータという測器を用いて貫入深度を調べて、超音波探査により推定された泥の厚さ、砂の大きさ等の検証も行った。
「長良川ではもう一度、大規模な出水の後にも超音波探査を行い、軟らかい泥の分布を確かめた。その時期、毎秒500立方メートルにも達する、豊水量の約4倍の出水の直後であったにもかかわらず、泥の厚みは以前の渇水時期のそれとほとんど変化はなかった。
河口堰の周辺には、シルト・粘土の細かい粒子からなる有機物に富む軟らかい堆積物が必ずたまる。そしてそれは、ちょっとやそっとの出水では流れていかないことを、私たちは確信した。」
河口堰の下流側でも、懸濁物が堆積して、出水でも流されないほどの状況になるが、それには潮の動きや、塩分躍層も関係しているとのこと。
そして、ちょっとやそっとの出水では懸濁物の堆積が流れないことは、、
「これは、堆積直後の粒子と、堆積後しばらく時間が経過した粒子とでは、水の流れに対する抵抗力が異なってくるからである。堆積直後の粒子が動き出すほどの水の流れでは、堆積後時間が経過した粒子は動かない。シルトや粘土の粒子が川底に堆積すると、水中をただよっていたときのようなバラバラの状態ではなくなる。川底の微生物の出す物質の働きなどにより互いに固く結ばれたようになる。時間の経過とともに川底の粒子は次第に動きにくくなってくるのである。
微生物だけではなく、川底の貝にも泥の動きを妨げる働きがある。吉野川の調査をしたときの経験では、重い測定器具さえも、流されるほどの早い潮流があるにもかかわらず、ホトトギスガイ(地元ではオフクロと呼んでいる)が生息しているところでは、細かい粘土粒子の川底であった。この貝が出す糸により軽い粒子でも流されにくくなるからである。」
という現象があるとのことです。
「川底が粗い砂から細かいシルト・粘土に代われば、そこに生息している生物にも当然影響は現れる。長良川名産のシジミはあまり細かい粒子でできた川底には棲めない。微細な粒子が呼吸器官を詰まらせるためであろう。」
しかし、「むかしの香り いまいずこ」が、青い鳥症候群の漂泊ですから、堰上流での現象が、ダム湖の現象と通じるものがあり、そのことが「香気」を失った鮎誕生の一因ではないかと思っているので、河口堰上流の現象を見ます。
(3)「堰周辺の有機物はどこからくるのか」 河口堰上流では
「上流」と限定していますが、堰下流と共通する現象が多々あります。そのことを無視した記述にしています。理由は簡単。川の水が温み始めて、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、と山女魚ちゃんらに誘惑される時期になり、手抜きをしたいからです。
@ 有機物の分解
「川底の構成材料が細かい粒子に代わるのと同様に、もう一つ重要なことは、底泥に含まれる有機物の量の問題である。有機物は川底のバクテリアにより分解される。その際、水中の酸素が消費される。ある限度を超えて有機物が供給されると、川底の酸素はほとんどなくなってしまう。こうなると、酸素があるときとは違う仕方で有機物が分解されるようになる。メタンや硫化水素はこのような状態で発生する。」
A 有機物起源の調査方法
「有機物の起源を調べる方法はさまざまである。よく使われるのは、炭素の量と窒素の量の比率を見ることである。川底の泥の有機物が落ち葉などの陸上植物を起源としているならば、炭素/窒素比は10から20ほどの高い価となる。一方、プランクトンなどの藻類に由来するのであれば、10前後に落ち着く。
私たちは、利根川や長良川での炭素/窒素比の測定の経験に基づき、プランクトン起源であると考えた。堰の上流部でのプランクトンの発生量が大きいことや、それが堰のすぐ上流部で沈降することは、本書でくりかえし述べた。底泥の変化もプランクトンの発生とは無関係ではないのである。」
6 「河川の有機物動態」 「有機体動態から見た河川生態系」
「ダム湖」から
この章で書かれていることを、概念的に表現しますが、正確性だけではなく、適正に表現できているとはいえません。あしからず。
(1)ダム湖の有機物の起源
@他生性有機物(陸上生態系)
「河川の有機物の中でも、倒流木や落葉は陸上植生由来であり、河川外から来ているという意味で他生性有機物と呼ばれる。」
A自生性有機物(河川)
「それに対して、河川内で生産された有機物、例えば藻類、水生植物、水生動物などに起因するのは自生性有機物と呼ばれる。」
Bダム湖
これは、別の章に登場しているが、説明はされていない。ダム湖で、二次的に生成される物質ではないかと想像しているが。
このほか、下水由来の有機物等、人工的有機物がある。
「これらの有機物動態は河川の規模や河岸の土地被覆の影響を受けることが推測できる。」
(2)川の、ダムの、連鎖、循環は?
「流速スケールで考えると、上流域ではおもに落葉、そして落枝、果実、小動物、土壌などに由来する有機物が多い。中・下流になると付着藻類や水生植物などの河川内での生産が卓越してくる状況が多い。」
@河川連続帯仮説
「環境要因や有機物・エネルギーの流れが上流から下流へと連続的に変化する一つのシステムとして河川を理解する。」
A有機物の大きさによる分類
溶存態有機物 | DOM | 水中に溶解している有機分子 | ||||||||
一般に孔径1μm程度の濾紙を通過するもの | ||||||||||
微生物であるウイルスや細菌と同程度 | ||||||||||
細粒状有機物 | FPOM | 粒径1μm−1mm | ||||||||
菌類胞子や藻類の細胞 | ||||||||||
粒子状や糸状の多様な有機物が混在 | ||||||||||
ヨコエビの糞、排泄物も、動植物の死骸も粒状有機物を構成している | ||||||||||
粗粒状有機物 | CPOM | 1mm以上 | ||||||||
無脊椎動物である昆虫、脊椎動物である魚類、水生植物と同程度のサイズ |
このほかに、倒流木がある。
「よって、ダム湖内で植物プランクトンが増殖するとFPOMに対応する有機物が増加し、下流河川を流下することになる。」
ただ、沈降、堆積をするものもあるのではないかなあ。
B河川生態系における有機物の役割
1 水性動物の生息場の形成 | 「例えば図12.3にあるように倒流木が流れを変化させて淵を形成するような作用であり、生息場所条件が変化する。堆積した落葉などのCPOMは、携巣型トビゲラ、エグリトビゲラが素材としても利用する。」 | |||||||||
2 下流域や海域への物資輸送 | 「また、有機物は有機炭素だけでなく、そこに含まれる栄養塩や微粒元素などの生元素とともに下流域や沿岸域に輸送されている。そして、輸送された場において、有機物が微生物や水性動物により基質や餌資源として利用される。」 | |||||||||
3 微生物へのエネルギーと栄養塩の供給 | ||||||||||
4 水性動物へのエネルギーと栄養塩の供給 |
C「有機汚染のない日本の河川において、流量が安定している状態での一般的な」有機炭素濃度の範囲
DOM | 3mgC/L以下 | |||||||||
FPOM | 0.05ー1mgC/L | |||||||||
CPOM | 0.001ー3mgC/L以下 | 落葉期の明確な季節変化を示す |
有機炭素濃度が、どのような状態の水、意味を持っているのかわからない。
また、「河床水生生物への有機物(餌資源)の供給」及び「河川生態系における有機物の変換過程と生物との関係」を示す図が掲載されているから、その図で、まず、どのような連環作用が生じているのかを見ることから始めることができればよいが、作図能力もOCR利用能力もないため、説明ヵ所だけを紹介します。
「CPOMは微生物による分解がある程度進んだ後、底生動物の破砕食者(シュレッダー、カクツツトビゲラやガガンボなど)に利用される。落葉を餌として利用できる種はトビゲラやカワゲラに多いことが知られている。
このような動物の餌資源となり、CPOMは破砕、消化、排泄されてより小さなFPOMやDOMへ変化する。その過程で、CPOMの一部が破砕食者や収集食者の個体の構成物質となり、一部は微生物などに完全に分解されて二酸化炭素に変換され、再び藻類や植物の生産に利用されるという形で循環する。また、細菌や真菌類などの微生物がCPOMやFPOMを直接分解することも知られており、それ以外にも河床微生物膜への付着やその剥離も河川の有機物動態を決める重要なプロセスである。」
D「プランクトンサイズ構造の応答」
プランクトンの大きさと量の変化
「プランクトンのサイズは、個体(あるいは細胞や群体)の生理生態を判断する上で重要な形質のひとつである。プランクトン群種のサイズ構造には、以下に示すように種の生理生態特性と食物網を通じた生物相互作用の双方が大きく働く。
植物プランクトン群衆のサイズは、栄養塩濃度と甲殻類動物プランクトン(おもに枝角類とCalanoia)の平均サイズ双方の影響を受ける。栄養塩濃度が増加すると植物プランクトンのサイズは大きくなり、大型サイズの現存量が増加する。
一方、甲殻類動物プランクトンの平均サイズが増加すると、小型植物プランクトン量が減少するため、大型植物プランクトン種の現存量が増え、結果的に植物プランクトンのサイズは増加する。
具体的な湖では、湖の栄養レベルが上昇すると大型の植物プランクトン種の現存量は増加するが、それ以下の『食べられやすい』植物プランクトンの量はほとんど変化しないことが示されている。
貧栄養湖ほど植物プランクトン群衆は小型種で構成されるが、富栄養化とともに増えるのは大型種ということになる。
植物プランクトン種の個体群動態は、増加や減少に係わる分裂速度、栄養塩吸収速度、運動能力、沈降速度、被食速度などに左右されるが、こうした『速度』はすべて、細胞や群体の『サイズと形』と深く関係する。
例えば、小型で球状の細胞は体積当たりの表面積が大きいため貧栄養水域に適応し、植物プランクトン食者が多い富栄養湖では、大型でゆっくり生長する食べられにくい種が優先する方に選択圧が働くことが想定される。」
魚の側では?
「一方、魚は視覚で大型の餌を選択的に捕らえるため、動物プランクトン群集はサイズ選択的捕食の影響を大きく受け、一方プランクトン食魚の捕食圧が高いと動物プランクトン群集は小型化する。フカサやアミ類など無脊椎動物の捕食の影響が強いと、ワムシやカイアシ類の幼生(ナウプリス)などの小型の動物プランクトンが選択的に食べられ、大型ミジンコが優先する。動物プランクトン群集の体サイズ構成は、まず、このような捕食によるトップダウンの影響を受ける。
一方、捕食者の影響が極めて低い状態では、大型のミジンコは富栄養湖より貧栄養湖で卓越するようになる。この現象についてはGliwiczが、サイズの異なる8種のダフニアについて餌濃度と成長速度の関係を調べ、成長がゼロになる(呼吸量=同化量)餌濃度はサイズが大きいほど低くなることを示した。すなわち、餌をめぐる競争の結果として、大型種ほど餌が不足している状態で優位になる。
80年代初にその存在が認識されるようになった細菌サイズの超小型植物プランクトンも、貧栄養湖や中栄養湖では、全植物プランクトン現存量の20−60%を占めるが、富栄養湖では1−2%に留まる。琵琶湖では1989年に超小型のシアノバクテリアが大発生し、同時にアユの斃死が起こり大きな環境問題になったが、発生原因もアユの斃死との因果関係も未解明である。」
1989年頃は、冷水病原菌による徳島?の養魚場での大量死が発生していた頃ではないかなあ。そして、琵琶湖での冷水病の発生はもう少し遅れるのではないかなあ。
とすると、琵琶湖でのアユの大量死は、超小型プランクトンの発生の側面も考慮しなければならない、ということかなあ。
もし、湖産が超小型植物プランクトンの発生による大量死だけであれば、放流された湖産鮎が死ぬことはないが。
E「プランクトンの多様性の応答」
「沖のような一見ニッチ(ある生物のニッチは、それが生存し成長し繁殖できる環境条件の総体である)分化の余地がほとんどない均一な環境に、多種類の植物プランクトンが共存している理由について、Hutchinsonはプランクトンの逆説として、『湖では季節的な変化が著しく、平衡状態に達する前に環境が規則的に変化するために、それに対応するように競争している種間の釣り合いは何度でも変わりうる』と説明した。
植物プランクトン種の多様さを合理的に説明するには、資源分割の可能性や捕食者の影響を考えるだけでは難しく、物理・化学的要因が時間単位、日単位で変化し、競争排除の過程が頻繁に妨害されることを考えざるを得ない。ただ、現在では、Hutchinsonの頃に考えられていたよりも、植物プランクトン種の生活要求性は、かなり多様性に富んでいることがわかってきている。
例えば、光合成には、分類群ごとに多様な光合成色素を有して微妙に異なる波長の光を利用できることや、必ずしも独立栄養に頼らず混合栄養などをする種も含まれること、多様な形態・サイズに起因して浮遊沈降メカニズム・被食の影響も種ごとにかなり異なることなど、植物プランクトン群集が全く異なる系統の生物の集合で、生活要求性が少しずつ異なっていることが多種類のプランクトン種の共存を可能にしている面もある。」
この後に続く記述は、とても手に負えないため、省略し、次の文がどういう意味を持つのか、気になったので引用しておきます。
「生産量が増すと種数が増えるのは、利用できる餌資源が増え食物網が複雑になるためと説明できる。さらに増加すると種数が減るのは、動物プランクトンに関しては、藍藻が増え餌の質を下げる、pHが高くなるため自身の生育環境が劣化する、農薬や重金属などの汚染物質が増えるなどの説明がなされている。」
気になるのは「藍藻が増え餌の質を下げる」のヵ所ですが、部分の記述を見て、何かを考え、判断すべきことではないため、単に紹介だけをしておきます。
なお、この後に、「機能多様度(FD)」概念に係る文の中に
餌の総量が増えても、「藻類の中身(具体的な餌資源)、すなわち、(珪藻+黄金色藻):(藍藻)の現存量比が減少する」との記述もありますが。
さて、ここまでの捕食者、あるいは植物プランクトンの種相互間が、わかりませーん、と答えるしかない状態で、動的な現象、変化、連環を理解することはとてもできません。
リン、窒素といっても、まとめて一括りにしていては、意味のないことの例?を示すことで、ダムの堰堤上流あるいはダムの影響を受けない川の物質循環から逃げ出すこととします。
事例:「アルカリ性ホスファターゼ」
「アルカリ性ホスファターゼ活性」は「APA」と表現されています。
@「湖沼の有機態リンの分解にホスファターゼが関与する」
A「リン制限下の湖沼で、有機物に含有するリンを利用するため、微生物は有機物からリン酸を遊離させるホスファターゼを産出すると考えられている。」
B「水圏の微生物にも酸性またはアルカリ性ホスファターゼおよびその両方を産出するものが知られている。」
C「環境中のAPAが水圏の微生物に由来する以上、その変動はリン濃度以外にもさまざまな環境要因に左右されるだろう。」
ということで、「ダム湖」で生じていることが何か、はわからないということが判りました。
(3)ダム下流では
ダム湖で、香りを生成する何らかの物質が消費され、あるいは消滅しているのか、あるいは、その物質がどのように川に運搬されてきているのか、を、考える足がかりをダム湖の物質循環等の現象から得ることあたわず、ということを認識できたので、ダム下流の水を見て、「河口堰」の中締めとしておきます。
ア ダム下流に流れている水
@弥太さんは、
「工事で川が濁りだしてからコトに気づいて、支流の桐見(きり)川にダムができたときには、アユの味がだめになりよったとみんないいよったが、まあ後の祭りじゃったわね。ダムで水を止める。川底を掘って砂利を取り、流れをいじる。たしかに水害は減ったが、魚と漁にとってえいことは少しもなかった。
今、外見的には仁淀川の水は澄んでおるが、越知あたりの水は、いうたら死に水じゃけえね。ダムで淀んだ質の悪い水が順々に送られてきとる。ダムの終わったところで谷水と合流したり伏流水になって、いくらか生き返っとるという程度じゃ。
昔は源流からの生きた水がそのまま流れてきとって、サイ(水垢 こけ)の質もうんとよかった。伏流水の水も今よりかしっかりあったきねえ。」
「今のウルカは昔より質がだいぶ劣るろう。食うちょるサイの質が違うきね。昔ちゅうのは川にダムがなかった50年ばあ以前のことじゃが、あのころの仁淀は水量も多うて、水も今よかだいぶ冷やこかった。
その違いじゃろう。アユの味は今より抜群によかったし、香りも高かった。アユの多い淵では、船で網を入れておると上げよらんうちから西瓜(すいか)の匂いがしよったもの。その匂いでどれほど掛かかっとるか想像がついたもんよ。今の仁淀は、ほかのアユの川に比べればかなりきれいなほうじゃと思うが、昔から見ると天と地ほども違うのう。流れは見た目澄んでおるが、ダムで何カ所も止められた、極端にいうたら死んだ水よ。」
A前さんは、
「和歌山の日置(ひき)川は、日本中の鮎(あゆ)釣り師たちのメッカのようにいわれているが、ダムができて女性化してしまった。すぐ東にある古座(こざ)川はその昔、清冽ともいわれる水であった。ここでもダム造りに賛成した人々が今では後悔している。支流の小川(こがわ)の鮎一匹を食べると、ダムの水が流れる本流の鮎はもういらない、と地元の人がいう。確実にダムが水を悪くし、鮎もまずくなってしまう。」
B天野さんは、
「しかし、最近、こんな面白いことがありました。ダム建設以来、泥臭いアユしか捕れなかった八戸川に、昔の香気漂う、身の引き締まった自慢のアユが戻ってきたことがありました。一九九四年(注:平成六年)のあの大干ばつの時です。あまりの日照り続きに空になったダムは、もうダムの機能を果たすことができません。仕方なく上流から流れてきた水をのそのまま流しました。ダムは水を溜めることをやめ流れが通過するだけになりました。すると昔の八戸川が戻ってきたのです。
山や野に降った雨が土に吸われ、そこで浄化され、徐々にしみ出たきれいな水がそのまま流れ降るのですから、ほどなく下流の石には生きのよい藻がつき、川の匂(にお)いまで変わってきました。つかの間ですが『名産八戸アユ』がよみがえったのです。日照りと香気漂うアユ。皮肉な取り合わせですが、干天が『名産八戸アユ』を呼び戻した事実に間違いはありません。」
これらの現象は、ダムの水が汚い、何か、悪い水になっている、ということを示していると考えている。
ということで、「ダム湖」に書かれているダムから流れ出した水の記述を見ておきます。
イ ダム下流の水
「ダムが有機物動態に与える影響 ー揖斐川における事例ー」から
「河川の有機物動態は前述したように有機物の供給源によって変化する。よって、ダムは下流河川の流量や土砂などと同様に有機物動態にも何らかの影響を与えると考えられる。」
浮遊性および堆積性有機物と、底生成物群集を調査されているが、最初から「徳山ダム上下流での浮遊性有機炭素濃度の変化」の調査結果の記述の意味が理解できません。仕方がないから、なんとなくイメージのつかめる事柄だけを紹介します。
まず、粒径、大きさについて少し表現が異なっている。
DOM | 3mgC/L以下 | 溶存態有機物 | ||||||||
FPOM | 0.05ー1mgC/L | 細粒状有機物 | ||||||||
CPOM | 1-16mm | 粗粒状有機物 落葉は16mm以上 | ||||||||
リター | 16mm以上 | この章では、CPOMを細分化している |
この粒径が、徳山ダム上下においては、
「CPOMをメッシュ16mmのふるいで分けており、16mm以上をリター、16mm以下をCPOMと記した。粒径16mm以上はそのほとんどが落ち葉であり、陸上由来である。」
落ち葉はわかるが、それ以外の事柄はとても無理。
調査結果の表が理解できない状態で、何が問題化すらわからない状態で、紹介できる事柄はわずかしかない。
リターがダム下流250m地点で流入河川よりも少ないこと、「1mm以下の小さい区画では、FPOMとDOMの両者でダム下流河川での濃度が高かった。」
FPOMとDOMの濃度が高いことについて
「これらの分画はダム湖内でも高い値を示したことから、ダム湖内で貯留されたCPOMの分解、また湖内における動植物プランクトンの増加などが下流河川の濃度変化をもたらした原因であることが推測できる。」
「ただし、ダム直下の河川水は貯水池由来の植物プランクトンなどにより濁度が高くなることが多いため、徳山ダム周辺における変化は他のダムでも生じている可能性は高い。また、ここでの事例は栄養塩濃度の比較的低い徳山ダムでの事例であり、富栄養化が生じているダム湖下流では、有機物の粒径分布はより顕著な変化が生じているだろう。」
定性分析的レベルでの理解もできない状態で、定量分析的レベルでの調査結果を理解できないことは当然のことですから、数値に係る調査結果は省略します。
さて、弥太さんが、ダム湖から流れ出した水が流れているうちに少しは浄化されている、と話されている事例ではないか、と思われる調査結果があります。
ダム堤体からの距離 km | 0.3 | 1.5 | 2.7 | |||||||
他生性有機物 % | 11 | 14 | 24 | |||||||
自生性有機物 % | 12 | 27 | 27 | |||||||
ダム由来の有機物 % | 77 | 59 | 49 |
「ダムに由来する有機物の減少率は1kmあたり数%という報告が多い。徳山ダム下流での1kmあたりの減少率は約2割と推定でき、有機物の流下距離が比較的短いものと思われる。FPOMのトラップは主に河床で生じることから、この流下距離には河川の瀬ー淵構造や水深などが関係すると考えられる。
「流域スケールでの有機物動態への影響」から
「長良川ではDOM濃度は下流の都市域までは安定して0.2mgC/Lであったが、前述したように徳山ダム下流で高く、最下流に位置する西平ダムでも若干増加していた。」
C/Nとは?
「C/N」比とは、「炭素/窒素」比ではないかなあ。
「河口堰」に、次の記述がある。
「有機物の起源を調べる方法はさまざまである。よく使われるのは、炭素の量と窒素の量の比率を見ることである。川底の泥の有機物が落葉などの陸上植物を起源としているのならば、炭素/窒素比は10から20ほどの高い値となる。一方、プランクトンなどの藻類に由来するのであれば、10前後に落ち着く。」
とのことです。
徳山ダム下流では、
「FPOM濃度に関しては、徳山ダム前後で増加していたが、その増分は長良川における変動範囲内にあり、流域スケールではFPOM濃度にダムの影響は認められなかった。しかし、その組成を炭素安定同位対比とC/N比で調べたところ明確な差が見られた。」
「炭素の安定同位体比」は、記号表示されていますが、その表示操作がわからないため、文字表示にします。「河口堰」に、「炭素の安定同位体比」の説明が記述されていると思われますが、まだ見つかりません。
「もっとも影響が強かったのは徳山ダムであり、その下流において炭素の安定同位体比が−30‰、C/N比が30程度に減少していた。両者が減少する原因としては、ダム湖で増殖した植物プランクトンの流下、もしくはダム湖で生じた他生性有機物の分解生成物の流下が考えられる。」
「炭素の安定同位体比が落葉や土壌有機物の値に近いこと、また植物プランクトンのC/N比は一般に10以下であるがダム直下でも30程度であったことから判断すると、他生性有機物の分解生成物の貢献が強いと推測できる。いずれにしても両河川(注:揖斐川と長良川)で炭素の安定同位体比の値が下流域まで異なっていたことから、ダム群の影響が下流域まで伝わっていることがわかる。ダムからの放流水は濁度が高いため、付着藻類などの自生性有機物が供給されないことも一因と考えられる。」
輸送担体としての機能
「FPOMは微細な粒子であるため、その表面にさまざまな物質を結合したり、微生物を付着した状態で流下する。また、土壌に由来する場合は、鉱物との混合体であることも考えられる。よって、FPOMは有機物であるだけでなく、他の物質や微生物の輸送担体としての機能を、金属輸送の観点から上記調査に合わせて評価した。」
阿賀野川水俣病における水銀排出地点よりも相当下流で、患者が発生した一因とも関連するのかなあ。
金属がどのように、付着藻類、珪藻の質に関係するのかわからないため、ここも省略します。
そして「FPOMの輸送担体としての役割がダムを通過するほどに強くなっていたことを意味する。」
「〜分解が進行した他生性有機物、つまりフミン物質と同様の化学特性を有する物質がダムから供給されており、各ダム貯水池の湖内や湖底で金属成分が供給されて、金属含有量が増加したと考えられる。」
とのことです。
(4)ダム下流で一般的に生じている現象
「ダム湖」の「一次生産者の変化と魚類、水生昆虫」から
目に見えず、あるいは掴むことができない領域のことはわからないため、オラの目でも見える現象に移ります。
@ 鮎と食料
「ダム下流河川では」「ヒゲモ(藍藻類)が優先することが多く、従って、アユの消化管も珪藻類に代わり、同種が詰まっていることが多い。」
「〜天竜川・船明ダム(静岡県)の上流と下流のアユの消化管の内容物を示したものである。」
この写真の説明に、
「ダム上流では珪藻類の被殻、下流では糸状の藍藻類が認められる。消化管内容物の有機物含量(強熱減量)は、砂粒を多く含む前者が21%後者は45%であった。」
この説明の意味もわかりません。
「ヒゲモ」とは、青ノロと関係があるのかなあ。
「夏に捕獲されたアユがヒゲモを専食することは、矢作川(愛知県)でも観察されているが、餌の違いにより、成長に差が生じるには至らないようである。」
もし、ヒゲモが、「青ノロ」だとすると、「ヒゲモを専食する」ことがどういうことかなあ。
矢作川は、6月に青ノロが大量発生して、釣りにならないとのこと。7月に入り釣り人がちらほら見えるようになると、青ノロが減ってきた証拠との話があった。これは、青ノロを食べていない、ということではなく、青ノロをやむを得ず食しているが、釣り人としては、青ノロがあると釣りに支障を生じるから、釣りたくない、という事情を表しているのかなあ。
なお、矢作川について、「カワシオグサ」が優先とする調査結果も紹介されている。カワシモグサも、ヒゲモもどのような藻類か、どのように違うのか、わからない。ただ、珪藻が優占種ではない、ということだけはわかる。
長島ダムの影響が生じた数年前の夏、大井川は青ノロだらけ。その痕跡が数年間友船の蝶番附近に残っていた。
中津川に宮が瀬ダムができて何年か後から、ダムサイトに近い半原の日向橋上流は青ノロだらけの川になっている。それが、ダム湖の水に起因するのか、それとも?
宮が瀬ダムがなかった頃、半原から上流は、生活排水の流れ込みも数軒。数キロ上流には小さな集落はあったが。
珪藻が優占種で、水もきれい、湧き水の流入も多かったが。
「(船明ダムと)同様な結果を程木ほかは、球磨川・川辺川水系で報告している。Abeほかは、ヒゲモの優先を、過剰な摂食圧によるものとしているが、球磨川での鮎の放流密度は0.1匹/uにすぎず、成魚の摂食速度と図13.7に示した一次生産速度とを比較すれば、摂食圧だけでは説明できない。」
この「Abe」さんは、「アユが食して珪藻から藍藻に遷移する」との説を述べ、ダイワフィッシングにも登場した阿部さんと同一人物かなあ。
もし、そうだとすると、オラにとっては「学者先生」の見本、典型であり、故松沢さんを始め、齋藤さんの「川漁師 神々しき奥義」に登場する川漁師に蔑まれている「学者先生」の有力者の1人となるが。
テレビの影響は凄いなあ。
オラはダイワ精工に、阿部さんの説がまちがっちょうる、とのいちゃもんを送ったが、なしのつぶて。テレビの影響力だけが一部の人に蔓延しているよう。
まあ、そのようなことは重要ではないですよね。
重要なのは、「球磨川・川辺川水系でのアユ消化管内容物の藻類組成」の図です。
ヒゲモ・Homeothrix janthina:藍藻類 が「充満、存在、無し」の区分で、市房ダムのある球磨川、ダムのない川辺川における複数地点での、そして、各地点とも10数匹の鮎検体調査結果です。
この図を紹介したいが、ヘボには表現力がないから無理ですね。
川辺川ダム予定地上流の野々脇では、14検体全部が「無し」。建設予定地が12検体で、「充満」が25%。その下流、球磨川合流点に近いと思われるヵ所が、「存在」が9%。
市房ダム下流では、「充満」が45%とか55%。それに「存在」が加算される。
川辺川合流点下流の人吉は、「充満」が80%、「無し」は10%。
なお、人吉から下流、大坂間では、「充満」が18%、「存在」が27%、「無し」が35%に変化している。
人吉の水が汚いのは、ダムの影響+生活排水が関係しているのかなあ。
野田さんが、筑後川の日田について
「古都日田を徹底的に変えたのは『昭和二十八年の水害だ。』とこの町の人はいう。あれを境にして何もかも変わった。日田の名物だったアユの簗場が流された(これはそのまま復旧されずに今日に至っている)。水害の翌年、この下流に夜明けダムが完成。川はそこで分断され、それまで海から遡上していた天然アユが来なくなった。このダムのためにこれも名物だった川下り遊船がなくなった。日本三大美林の一つに数えられる日田の杉山から伐り出した材木を河口の家具の町、大川市まで流れに乗せて送っていた『筏(いかだ)流し』もできなくなった。
水害のために源流の下筌、松原連続ダムの建設が促進され、二つの巨大なダム湖ができた。その湖水に流域の家庭雑排水、家畜の屎尿(しにょう)が流れこむ。動きのない湖水は川のような自然浄化作用をもたないから、たちまちドブ溜めのようになり、山奥の湖水が水道水にも使えないというひどいことになってきた。一九八一(昭和五十六)年十月の地元の新聞発表では、日本の人造湖の汚染のはげしいワースト三,四位にこの下筌、松原ダムが上げられている。
筑後川流域には一四の温泉街があり、そのほとんどは上流に集中している。そこに大きなホテルが建ち並び、下水を垂れ流し、川の汚濁に拍車をかけた。
日田の人達がなによりも誇りに思い、愛したのは自分の町を流れる三隅川の水の美しさであった。昔は澄みきった川の上にフネを浮かべると川底の魚が手にとるようにはっきりと見えた。
しかし、いまの三隅川は雨の濁りのない日でも、川に手をひじの所まで入れると指先が見えない。
一九五三(昭和二十八)年の水害後、小京都『水郷日田』はありふれた山間の町になってしまったのである。
昼間の三隅川を見るのは辛かです。夜になって汚れた川が見えんごとなって、川に町の灯が映ると、昔の日田に戻ったようでホッとするとですよ。川っぷちの居酒屋で隣に座った男がそんなことをいった。
『角の井』という地酒を飲む。カウンタのノレンに『清流と美人の日田の酒』とある。
『あのね。みんな日田美人、日田美人というけど、ほんとにいるの?今日一日町をキョロ眼で歩いたけど、一人も見なかったぞ。それとも今日は美人の運動会か何かあって、全員そっちに行ったのかね』
それまでにこやかに酒をついでいた女将(おかみ)がプイと向こうに行き、側の男は酒を喉につまらせたのか、ムムッと苦悶の表情をした。
多分、日田の美人も二十八年の水害でみんな流されちまったのである。」
との情景が、人吉でも生じているのかなあ。
幸い、川辺川ダムは建設されないかも。不幸中の幸いということかなあ。
ついでに、阿部さんは、実験環境での結果を千曲川と木曽川で検証されたとのことであるが、千曲川や木曽川が珪藻が優占種となる「清流」と判断されているとは、水害で流されてしまった「日田の美人」に逢ったことも、見たこともないということでしょうね。
2010年、狩野川の青ノロは、前年よりも多く繁殖していた。
狩野川大橋上流の青木の瀬は、松下の瀬よりも多かった。
宮田橋上流の雲金・松ヶ瀬は、一時非常に繁殖量が多かったとのこと。
水温が高くなる、あるいは、低くなると青ノロが消滅するという人もいるが、1mほどの増水が何回かあったが、11月中旬でも青木の瀬の青ノロは健在であった。松下の瀬はそれほど目立ちはしなかったが、場所によっては十分に釣りの邪魔になった。
しかし、矢作川同様、消えることが多いが、どうしてかなあ。
A 流下中の植物プランクトンの変化
「止水域由来のプランクトンの河川での挙動研究は、〜河川に流失したプランクトンは、急速に河川水中での密度が減少することが知られている。」
「〜ダム湖ではないが、諏訪湖(長野県)から流出する植物プランクトンが天竜川での流下に従い、減少する過程を観測している。
天竜川での諏訪湖由来の珪藻類を主とする密度減少率:クロロフィルα量
30キロ | 50% | |||||||||
60キロ | 90% |
愛知県の渓流での溜め池で発生した渦巻鞭毛藻類
0.6キロで80%消滅
「流下する藻類のサイズ、河川の形状、流路での水草や水性昆虫の生息密度などが関係しているものと思われる。減少速度は、河川ごとに一様ではないことが予想される。
ダムが連続する河川で、上流から流下する剥離した付着藻類や植物プランクトンが下流のダムで沈殿除去されるのか、異なる栄養条件下で他の種と交代するのか、またはさらに同様の種が増殖を続けるのかは、興味深い問題である。阿賀野川水銀中毒事件(いわゆる新潟水俣病事件)裁判に際して、水銀を取り込んだ付着藻類や浮遊藻類の、ダムを介した流下が争点となったこともある。」
「村上ほかは、旭川(岡山県)のダム放流水と下流の河口堰湛水の顕微鏡観察の結果から、上流のダムで発生した羽状珪藻類(ホシガタケイソウ)が下流域では、中心珪藻類(ヒメマルケイソウ)と交代する現象を観察しているが、一方、野崎は、ダムが連続する矢作川(愛知県)で、ホシガタケイソウの河川での密度が下流に向かい増加することを明らかにし、ダム湖やダム間の流水中で同種が増加する可能性のあることを示した。」
Bトビケラ
「ダム下流で造網型トビケラが優先することについては、御勢(注:そのほかの人名等は省略)などが、すでに詳述している。また、中井は、天竜川支川の三峯川にダムが運用されて以来、天竜川本川に加え、三峯川でもザザムシ(ヒゲナガカワラトビゲラ)漁が行えるようになったことを紹介し、ダムと造網型トビゲラとの因果関係が無視できないことを示している。
上流に止水域を持つ河川で採集された造網型トビケラの消化管内に止水域由来のプランクトンが充満していることから、餌となる懸濁態有機物の供給量の増加がトビケラ優先の一因と考えられるが、大型のヒゲナガカワトビケラについては、ダム下流で砂などの河床材料が流出することにより、造巣の為の礫間隙が新たに創られることや、著しい水位変化による河床の干出への耐性なども、有利に働いている可能性もある。」
御勢さんは、今西博士を訪ねられたときの前さんの話に関して、素石さんが紀伊半島の岩魚研究者として、書かれていたと思う。また、栗栖健「アユと日本の川」にも登場している。
黒川虫が、「造網型トビケラ」であることはわかるが、「ヒゲナガトビケラ」か、「ヒゲナガカワトビケラ」であるのか、は判らない。
2010年12月から恒例の鯉釣りに励む最上川さんらは、例年と異なり、あまりの釣れなさに我慢ができず、ニゴイでもいい、と、黒川虫も吸い込みの針の1つにつけている。
大島中之島上流の工事、小沢の堰の下部床工事による濁りの影響もあろうが、あまりにも釣れる数が少ない。
その黒川虫が弁天分流付近では少ししか取れずに、四苦八苦している。ここ数年、4メートルほど増水するダム放流がないことから、どんどん石が小さくなっていることが影響しているのかなあ。
「日本のアユと川」には、石が形成する間隙がなくなり、カジカガエルがいなくなった、と書かれているが、中津川でも、相模川でも、ここ数年、河鹿の鳴き声はめっきり減ったと思う。大井川でも同様。
鯉釣り族によると、泥が堆積すると、吸い込みの団子が割れず、鯉を寄せることも、食い込ませることもできないとのこと。
ということで、ダム下流が必ずしも、黒川虫の営巣に適する玉石がごろごろするということにもならないのではないかなあ。山の荒廃で、土砂の流れ込みが増えすぎているからかなあ。
7 川の水は同じからず
さて、「河口堰」には、福山を流れる芦田川が登場している。
井伏さんの「釣師・釣場」の「尾道の釣・鞆ノ津の釣」にも、芦田川に沿って流れるクリークが登場している。
阿部さんらの「清流音痴」に贈る言葉として、芦田川の今昔を紹介します。
もちろん、それだけではなく、別の下心もありありですが。
(1)「河口堰」に登場している芦田川
「河口堰研究の当初、私たちは河口堰による水質汚濁が最もはなはだしいといわれていた芦田川を訪れた(注:図省略)。堰上流の水質を調査したり、魚の病気や附近の井戸の水質悪化の話を聞いた後、河口堰下流、海側に行ってみた。そこで偶然であった漁師さんからいろいろな話を聞くことができた。
プランクトンやユスリカなどの不快昆虫の異常発生、魚のへい死事件や奇形魚の話とともに、河口堰の海側でおきた底泥の急速な堆積によるハマグリやアサリなどの被害を耳にした。河口堰の上流に泥がたまるのは当然のことと思っていたが、河口堰の下流、海側でも同じようなことがおきていることには驚いた。その後、芦田川では予備的に川底の堆積物調査を行い、堰の下流に泥が堆積していることを確かめたが、この問題に本格的に取り組んだのはずっと後になってからであった。」
ところが、建設省は芦田川などの既存河口堰では水質の変化がないという資料を作成している。建設省は、阿部さんら、「清流音痴」の学者先生とは違い、目的意識的に、あたかも「科学的根拠」があると意識して「資料」を作成されたのではないかなあ。
「建設省河川局・水質資源公団は、既存の河口堰では、堰による水質変化が起こっていないことを証明する資料として、図5・4のようなグラフ(注:省略)を示した。
グラフの縦軸は、利根川や芦田川、遠賀川の河口堰のすぐ上流の淡水域への流入をする河川水のBOD濃度である。各河口堰で測定された流入水と堰湛水のBOD濃度値に従い点がグラフ上に記されている。
堰湛水でプランクトン発生が起こらず水質変化がないならば、流入水と堰湛水のBOD値はほぼ等しくなり、各測定値を組み合わせて記した点は原点から45度の角度で引いた直線に沿って分布するはずである。有機物が増えるのならばこの直線の下に点が集まり、逆に、沈殿などの作用により減るのならば直線の上に集中することになる。」
45度線とは、懐かしい言葉です。どんな意味があったのか、いろんな事例は覚えたはずであるが、可愛いねえちゃんたちの顔と同様、いや、それ以上になあんも覚えていません。
グラフは、遠賀川、芦田川、利根川の区分で、横軸に「堰上流水域水質測定地点」、縦軸に流入水質測定地点、そこに、「BOD(ミリグラム/リットル)75%値」を落とし込んでいる。
芦田川では、原則45度線よりも少し下方に分布している。
「建設省河川局・水質資源開発公団が示すグラフでは、各河口堰で測定されたデータは、線のやや下側に沿って分布し、堰での有機物の増加はごくわずかであると結論づけられた。
この結論は、調査対象とされた既存の河口堰を実際に見てきた私たちには、奇妙なものであった。芦田川での藍藻類の発生や珪藻類により濃い茶色に染まった遠賀川の実態と程遠い結論である。藻類の発生規模をBODで測ることの不都合については、前節で述べたとおりだが、それにしても流入水と湛水のBODがほとんど変わらないとは信じられなかった。」
「学問音痴」のオラが、目的実現のためには素晴らしい手法を編み出す能力に長けた建設省に楯突くことは学者先生と同じ轍を踏む、と自覚しているため、「河口堰」に書かれているそれに類するヵ所は避けるようにしてきたが、避けきれない事柄もあるようで、適切に紹介できていないことを前提にして、紹介します。
(2)「DODでは役に立たない場合もある」
@ BOD 生物化学的酸素要求量は、何を観測するのか
「河川において監視される水質項目は、有機物による汚染の指標となる生物化学的酸素要求量(BOD)、魚介類の生きていく上で重要な溶存酸素、糞便による汚染があるかどうかを知るための大腸菌群数などさまざまである。」
「私たちは、河口堰の上流でプランクトンが発生することを、新たな有機物が川に付け加わることから、一種の水質汚濁と見なしてきた。さらに、藻類が堆積し、分解するときに、川底の酸素濃度が減少することも見てきた。有機物量はBODとして水質監視項目に挙げられている。溶存酸素も同様である。」
A BODの数値は、堰運用後も水質基準値内である。なぜ?
「堰運用開始後も環境基準が守られていることについては、二つの異なった解釈が成り立つ。一つは、これで水質問題はおこっていないと考える立場である。たしかに法規的に見ると問題はない。しかし、長良川での藻類の発生量や川底の貧酸素化は、他の水域での経験からは、とても『問題がない』ですまされる規模のものではない。問題がないと判定する根拠になった環境基本法による水質監視のあり方自体に問題があるのではないか。」
B 「BODの測り方」
「環境基本法に定められた河川の有機物汚染の指標であるBODは次のようにして測る。水中の有機物は、細菌により分解される。餌として食われるといった方がわかりやすいかもしれない。分解の際には、有機物量に応じて、酸素が消費される。私たちが、食物を食べ、それを利用する際、呼吸により取り入れた酸素を使い、有機物を燃やすのと同じである。
したがって、一定量の水を瓶に封じ込め、ある日数を経過した後、水中の酸素の量を測ればその減り具合が有機物量の目安となる。有機物の量が多い水ほど、酸素は少なくなっているはずである。つまり、BODは、有機物の指標であるといっても有機物そのものの量を測っているのではない。酸素の消費量から有機物の量を推定しているのである。」
C なぜ、間接の測定法か
「このようなまわりくどい試験法が採用された理由は次のようなものである。河川の水質監視が本格化した1970年代には、有機物の量そのものを簡単に測る装置は、高価で取り扱いもむずかしく、まだ一般に普及していなかったからである。しかしBODにも便利な点はある。測定するのは酸素濃度だけである。酸素濃度の測定自体は、100年も前から使われている、精密で、しかも高価な装置を必要としない方法であり、だれでも簡単な器具さえあれば測ることができる。
また、今までの川の有機物汚染の原因は、人の活動に伴う排水が主であった。これらの排水中に含まれる有機物の多くは細菌により分解されやすいので、実用的な有機物指標としてはBODでもさしつかえなかったのである。」
D 浮遊藻類が対象となると?
「ところが、川の汚染源が外から入ってくる排水ではなく、川の中で生産される浮遊藻類となると、BODでは不都合なことがおきてくる。一般に、BODは5日間の酸素の消費量で示される。この期間内に有機物が分解されなければ、酸素の消費はない。
ところが、バルブかすのような植物の繊維は、5日間ではほとんど分解されない。したがって、BODもほぼ0ということになる。
藻類も、条件にもよるが、5日間では分解しないことが多い。場合によれば何ヶ月も生き延び、細胞の中の有機物は分解を免れる。
湖では春になると藻類の一種の珪藻が短期間に大量に発生することがある。これは、湖底で一冬生き延びた珪藻が生息条件のよくなった水中で一斉に増殖を始めるからである。長良川河口堰で発生した浮遊藻類もこの珪藻類の一種である。藻類が大量に発生した長良川の水には、藻類の細胞がたくさん浮遊している。しかし、この有機物の塊は、5日間では細菌によりあまり分解されない。BODを測定しただけでは、有機物の量は、過小に見積もられるのである。」
E 「海や湖ではBODではなくCODが使われる」
「浮遊藻類のような有機物の量をBODによって測定することの不合理さは、以前からよく知られていた。したがって、浮遊藻類が有機物汚染の源となる湖や海では、BODの代わりに化学的酸素要求量(COD)が有機物の多少を知るために使われてきた。
この方法は、有機物を細菌ではなく、強力な酸化剤で分解し、その際に消費された酸素の量を有機物の指標にする。この方法ならば、細菌が分解できない有機物も分解され、その量に応じた酸素消費量を有機物量の目安とすることができる。
長良川河口堰上流の水域は、水中の有機物の生産の面から見ると、もはや川ではなく、湖である。汚濁の原因も海や湖と同じである。にもかかわらず、ここでも、堰はダムのような貯水施設ではないという論理が適用されている。現在の水質監視の制度から見ると、長良川は依然として川であり、有機物量は、湖に使用されているCODではなくBODとして測定されている。」
「川の有機物の測定法であるBODの問題点を述べたのは、機械的な水質基準のあてはめが、川の環境を守るのにあまり役に立たないことをいいたかったためである。水中の酸素濃度の変化についても、川の中の酸素がどのように生産・消費されるのか、その仕組みを理解しなければほんとうの姿は読み取れない。
河口堰では、発生する浮遊藻類は光の届く場所や時間帯には、光合成により、酸素を水中に供給している。
一般に、法に基づく河川の水質観測は、昼間に川の表層水について行われることが多い。このような場合、たいてい川の水の酸素濃度は高い値である。日本中の河川について、年度ごとに発表される水質監視の結果は、この昼間の条件のよい時だけのものであることが少なくない。
実際、酸素濃度の低下が問題となる場所は、光の届かない川底、また時間的にも日没から夜明けまでである。
長良川では、建設省により、水深別に連続的な溶存酸素の観測が行われており、堰の上下流で貧酸素水塊が発達することは先に述べた。このような情報は、目に触れにくいが、酸素不足の発生する仕組みが理解されていれば、表に現れた情報から何が欠落しているかが直ちに判るはずである。」
とのことです。
建設省は、BODが河口堰での測定手法としては、不適切であることは百も承知しているのではないかなあ。
承知の上で、「鮎釣り大全」や「川漁師 神々しき奥義」を書かれた齋藤邦明さんら河口堰反対者の中の一部の人たちを誤魔化し、あるいは、批判精神、思考能力を欠く学者先生の賛同を得るには非常に優れた測定法である、ということで、BODを使用されているのではないかなあ。
(3) 「統計処理のトリック」
さて、BODだけが建設省のトリックではなかった。
「この理由は、使われたデータが測定値そのものでなく、年間12回の測定値を統計処理した代表値で、流入水と湛水を比較したことにある。
使われたデータは、法による水質監視により得られたものである。ある川が、先に述べた環境基準を満たしているかどうかは、年度ごとに判断される。川の水質は、流量により大きく変化する。したがって、一度や二度の異常値が出ても、それが直ちに環境基準に不適合とされるわけではない。よく使われる平均値でも不都合なことがある。異常値は桁違いに平常の値と異なるため、少数の異常値が全体に大きく影響してくるためである。
そこで環境基準値を満足しているかどうかの判断には、75%値と呼ばれる値がその年度の代表値として使われる。75%値とは、その年に得られたデータの値を低い方から並べて、全データの75%がそれ以下の範囲に収まる値である。12回の測定ならば、低い方から9番目の値が75%値となる。(注:図省略)つまり、年間12回の測定値の内、4分の3が基準値を超えていなければ、環境基準を達成していると判断するわけである。環境基準の達成についての判断は、この考え方では問題はない。
建設省河川局・水質開発公団の示したグラフの縦軸と横軸の値は、実際の観測値そのものではなく、このような処理をされた75%値であった。
これは、実は奇妙な比較をしていることになる。流入水と湛水のBOD値の75%値は、流入水と湛水では異なる地点ごとに出される。下から9番目の値は、流入水と湛水では異なった月にとられたものになることが多い。このような比較に意味があるだろうか。また、藻類の発生期間が、3ヵ月以下であれば、藻類発生時のデータは、全く隠れてしまう。
私たちは、芦田川や遠賀川の75%値の計算の基になった資料を使い、同じ月に測定されたデータごとにグラフに点を書き入れてみた。その結果、45度線の直線の下にもたくさんの点が分布している図が描けた(注:図省略)。やはり、堰湛水では藻類が発生しBODが高くなるのである。
この例で示されたように、流入水と湛水を比較するという考え方も、データそのものが正しくても、誤った手法でデータを処理すれば、誤った結論が導かれる。具体的な環境論争の際、データを提供する側と読む側の双方とも常に注意すべき問題であろう。」
紀ノ川上流、吉野川の水量が減っていない、との建設省の説明は、年間平均水量の年度比較の話であろう。
この説によれば、吉野川に流れ込む水系の山の雨量が変動しなければ、変わらない、となろう。しかし、問題は、「年間平均」水量ではなく、水量の日々の分布状況の変化、違いではないのかなあ。
「河口堰」は、「低い方から」の75%値の取り方も容認?されているようにも見えるが、富栄養が生じるのか、生じないのか、ということが問題である故、高い方から並べて、75%値を採用する方が好ましいのではないかなあ。
いや、「河口堰」は、そのことを百も承知の上で、建設省と同じ土俵に乗ったとしても、建設省の結論はまちがっちょる、ということができる、ということではないかなあ。
(4) 「植物プランクトンの発生と流量との関係についての誤った理解」
「しかし、基本的な仮定の誤りがやがて明らかになった。」
この「基本的な問題」の前段を紹介しないと、「しかし」の意味が通じないことは判っているけど、「シミュレーション予測の問題点」を読みこなせないため、我慢してください。
「モデル」には苦い思い出のみあるので、逃げろ、逃げろ、とおつむが命令していますから。
半世紀近く前のこと。財政の計画経済論の試験で、問題を見て、しめた、あたった、と喜んだ。その瞬間、モデル消えてしまった。
モデルとは もう 心と心がかよあわなあいー
論理は判っていたから言葉で書き、それに記号をつけてモデルの復旧を図るも無駄な抵抗でした。
幸い、心優しい先生で、Cをくれてありがたや。どんなモデルの問題であったかはすぐに忘れたが、アルツハイマー症候群の予兆の場面だけは今でも覚えている。そんな記憶よりも、サマーキャンプで同じグループになったねえちゃんと白駒池で何を話したのか、どんな表情であったか、を覚えていることの方が、嬉しいのになあ。
あ、およびではなですね。
本題に戻りましょう。
「一番重要なクロロフィルと流量との関連についての考え方が全く間違っており、その原因は特定の季節のデータが欠落しているためであるということがわかった。
川の中に溶け込んだりただよったりしている物質の量を考える場合、流量の変動とどのような関係があるかを明らかにしておく必要がある。流量が増えるに従い、濃度が高くなる物質もあれば、逆の関係になるものもある。このシミュレーションモデルでは、クロロフィル量として示される藻類の負荷(濃度×流量)は、流量に比例するという前提で作られていた。
これは、渇水時に河川プランクトンが増えるという私たちの観測の結果とは全く矛盾するものである。渇水時のプランクトン藻類の増加については、その後のことであるが、建設省の運用後のモニタリングでも確認されている。」
クロロフィル量の意味は
「クロロフィルは、どんな植物プランクトンにも含まれているから、その量を示す指標となる。ある係数をかければ、大ざっぱではあるが、プランクトンの重量や有機物量に換算することができる。さらに都合のよいことには、これは光合成を行う色素であるために、クロロフィル量がわかれば有機物や酸素の生産速度も推定することができる(注:図省略)。」
(5)「大事な時期のデータが欠けている」
「この現実とは逆の前提の根拠となる流量と負荷のグラフを見ると、確かに比例関係は認められる。しかし、基となるクロムフィル量が測定された日付を調べることにより、その原因が明らかになった。1年間のデータを使ったとされているものの、プランクトンが多量に発生する8月の渇水期の時期のデータが抜け落ちているのである(注:図省略)。この欠けたデータを私たちの観測資料で補って、先の負荷と流量の相関関係を示すグラフに書き入れると、比例関係があるとの前提は、全く成り立たなくなる(注:図省略)。
なぜこのような重要な時期のデータがとられていないかについては、私たちの研究グループの雑談としてさまざまな説が出た。故意の欠落という意見もあったが、渇水期がちょうどお盆休みと重なりデータがとれなかったのではないかという説が有力であった。意識的なデータ選別はもちろん論外だが、大事な時期のデータが欠けていたことは、川のプランクトンの発生の仕組みについての理解を欠いているためにおきたと考えられる。
河口堰問題に限らず、環境影響を科学的に議論しようとする場合、膨大なデータと、数式やグラフを含む大量の文書と直面することになる。面倒なことではあるが、それを敬遠していてはまともな議論はできない。事業者側がわかりやすい文書を出すように心がけ、市民もそれを要求すべきであるのは当然であるが、残念ながら現状では市民側も奇妙な論理に騙されないように警戒する必要があるというのが私たちの得た教訓であった。」
「河口堰」は、「予測の問題」へと進んでいくが、それはサボり、最後に芦田川の記述に戻り、井伏さんにいきます。
(6)シルト、粘土、有機物の堆積
「河口堰が、その上下流に粒子が細かく有機物に富む軟らかい泥を堆積させる証拠が利根川で見つかった。次の作業としては、他の河口堰でもそのような現象が起きているかどうかを確かめる必要がある。」
「何れの川でも、上流では河口堰に近づくにつれシルト・粘土の比率が大きくなり、有機物含量も増加の傾向を示した。また、下流では、堰直下で高い比率であったシルト・粘土は堰を離れるとともに減少していった。有機物含量も同じ傾向であった(注:図省略)。
以前、予備的に採集し、凍結保存していた芦田川の堆積物の試料を分析しても同じ結果が得られた。 利根川、長良川、今切川、芦田川では、川の規模や調査した時期はそれぞれ異なっている。しかし、河口堰の周辺には有機物に富む細かい粒子からなる堆積物がたまっていたのは共通していた。今切川、芦田川では、特にシルト・粘土の比率や有機物含量が大きく、堆積物は黒く変わり硫化水素臭がした。これは川底の酸素が非常に低い濃度であることを示している。」
ヘドロという言葉
これで、「元元ネエ」になっている芦田川を終えてもよいが、「ヘドロという言葉」を紹介しておきます。
「少し話はそれるが、私たちが堰周辺の泥を『シルト・粘土などの細かい粒子からなり、有機物に富む堆積物』という言い方をなぜしてきたのかを説明しよう。特に、今切川、芦田川で見られたような黒変し、悪臭がするようなものについては、『ヘドロ』という便利な言葉があるではないか。
河口堰の環境影響などの議論を行う場合、一番困るのは私たちがなにげなく使う言葉の問題である。ヘドロという言葉でどのような状態の泥を思い浮かべるか各人各様である。ある研究者の『長良川の河口堰には、ヘドロがたまっている』との発言に対して、『あれはヘドロではなくシルトである』との建設省の反論があったという。むろんこのようなつまらない話が、文書的な記録として残っているはずはないので真偽を確かめる術もないが、複数の証言からすると確かなことらしい。
この話の問題点は、片方は、ヘドロという言葉の意味が必ずしも厳密に定義されていないのにそれを使って議論を挑み、さらに、もう片方は、多義的なヘドロという言葉の意味するものについて語るのを避け、意識的に砂粒の大きさについてのみの議論にすり替えて反論しているところにある。もちろん後者の方がまともな議論を逃げているのであるが、これでは話がかみ合わない。このような答えで逃げられないように、もう少し言葉を選び客観的な数値での議論に持っていく必要がある。
しかし、難しい学術用語を使えといっているのではない。ヘドロという言葉で複雑な堆積物の状態の変化を一口にいう点が問題なのだ。具体的に議論するためには、砂粒の大きさの分布、有機物の含量、その泥が置かれている場の酸素の状態等、客観的な比較が可能な要素に分けて説明する必要がある。」
(7)井伏さんの芦田川
井伏鱒二「釣師・釣場」(新潮社)の「尾道の釣・鞆ノ津の釣」から
(旧字は、当用漢字で表記しています。原文にない改行をしています。)
始めに断っておきますが、井伏さんが芦田川で釣りをされた話ではありません。
いや、井伏さんは芦田川で鮎釣りを何回かされていると思うが、その場所が判らない。
「鮎つりの記」(朔風社)の井伏鱒二「橋本屋」に
「福山から山陰寄りの塩町まで、福塩線といふ国鉄電車が通じてゐる。その沿線に鵜羽根村といふところがある。一見、何の奇もない村だが、夏になると鮎の釣師がよく集まるので、たいていの川沿ひの農家では『鮎ノ囮アリマス』と書いた張紙を出してゐる。なかには『釣宿ノオハナシニ応ジマス』と書いた木の札を軒に吊りさげて、釣師のために何日間でも宿を引受けてくれる農家がある。私は去年に一度、今年の夏には二度、いずれも一週間あまりの泊まりがけで鵜羽根村へ友釣に行つた。そのつど私は、鉄橋のたもとのところにある橋本屋といふ農家に泊めてもらつた。」
福塩線は、芦田川に沿って走っているが、地図をスクロールしていくも鵜羽根村が見つからない。
ということで、井伏さんが芦田川で釣りをしているのでは、とは思うが、確証がない。
仮に芦田川で釣りをされていても、井伏さんの関心は、「人」であることから、橋本屋の戦死したとされていた息子さんが戻ってきて、昼寝をしている子供さんに添い寝をした後、井伏さんが盛りつけたご飯をあわただしく食べてから飛び出して行かれたとか、じいさんがどのような行動をしたか、という人々の動きを通して人間を見つめることが主で、釣りの話は少しだけ。
そのようなことも理由ですが、「芦田川」の紹介が羊頭狗肉であることをお断りをしておきます。
井伏さんで紹介する「芦田川」は、オラの「清流音痴」への贈る言葉としてちょこっと登場するだけです。
また、「尾道の釣・鞆ノ津の釣」には、尾道から福山までの2人の漁師さんの話が書かれていて、それぞれの釣り方が、海の状況で異なることに興味があるものの、井伏さんのほかの本共々、後日、地域によって異なる釣り方の理由を考えたいなあ、とは思っていますが。
魚のいる場所を捜す尾道の吉和浦
まず登場するのは、尾道の吉和浦の新田益太郎さん。
「この辺の海の底が肥えてゐて、流れのところと流れのないところと入り交じつてゐる。魚が餌をあさつて遊びまはるには都合がいい、その上に、すぐ隣の松永湾は魚の養殖場のやうなもので、引汐の時には漁師たちがゴカイを掘りに行く大きな干潟が現はれる。ここから出るゴカイは尾道の問屋に集荷され、広く瀬戸内沿ひの港に送られる。
『こんなに釣れるところは、ほかにはどこにもありません。』」
正面の向島、松浦湾、燧灘(ひうちなだ)これらの位置関係で流れる潮流。その環境での魚と餌と釣り方の話を井伏さんは聞かれている。
今では、干潟はなくなり、ゴカイが生活していたから形成されていたかも知れない「養魚場」もなくなっているのではないかなあ。
次は、鞆の津の渡辺元一さんの登場である。
そして、オラの「下心」の話の主である。
美食家のチヌ:鞆ノ津
「チヌ釣にカキを撒餌にする方法は、はじめ鞆ノ津の漁師が発明したといふ説がある。それで私は鞆ノ津の渡辺元一さんといふ漁師に逢つて聞いてみたが、元一さんはこの方法を『カキ撒』と云つた。次のような方法である。
カキを臼に入れて木の槌で叩き、ぐちゃぐちゃにならない程度に軽くつぶす。身と殻が、くつついてゐるやうにする。これを自分のアジロ(釣場)に持つて行き、船を定着させて少しづつ流すのだ。カキは篠になつて汐下に流れ、大きな殻は船の真下に沈み、小さいのが汐下に流れていく。
チヌやスズキは、目が横よりも上にある魚だから、上がよく見えるので、撒餌をするとすぐに寄つて来る。魚の数が多いときには、大きい撒餌を食ひ勝ちに汐上にのぼつて来る。魚が少ないときには、汐下にゐる。だから、少ないときには釣餌は汐下に流し、多いときには真下に沈めるやうに手加減する。釣餌は殻のついたままのカキである。しかし、片側の殻だけは取除いてある。
『昔は、カキの身だけ餌にしたんですが、戦争中から私らが真先にやりました。最近、よその人も真似るやうになったんです。』
と元一さんは云った。
鞆ノ津の漁師は、原、石井、平、江ノ浦の四部落に分かれてゐて、江ノ浦の漁師は釣を専門にやつてゐる。他の三部落の漁師は網専門で、旅の釣師を乗せる遊覧船は石井部落の漁師が片手間にやつてゐる。
元一さんは江ノ浦の釣専門の漁師である。魚が餌に来たときの手応へを『口音』といふ言葉で云つた。
『チヌは、ぐち、ぐち、ぐち……と来ます。口音のいいのはスズキです。食ふと、いい音をさせます。』
スズキは上唇より下唇が前に出て受口である。餌を丸呑にするので口音が素敵である。どんなに群れが多くても、ぐいぐい引張つて逃げようとする。チヌは唇が揃つてゐるから噛んで食ふ習性がある。音が、ぐち、ぐち、ぐち……と来るのはそのためだ。餌によつて違ふけれども大して変わらない。アコウは受口だからスズキに似て、こつんと来る。タヒは、ごつ、ごつ、ごつ……と来て『ぢくりが、激しいです。』と元一さんは云つた。」
カキは同じからず
「カキ撒について元一さんはまたかう云つた。
チヌは嗅覚、聴覚、視覚、味覚の発達した魚だから、撒餌のカキは上等のものを使ふ必要がある。汚水の流れこむ場所のカキ、汐の流れの悪いところのカキ、味の悪いカキは、それをチヌ釣の餌にすると最初の一日は来る。二日目にはもう来ない。そのときには釣場を変へるよりほかはない。
同じカキでも、人間が食べころの二年子のカキを餌にするのがいい。いいカキでも古くなつたものは見向かない。カキを餌にするときは、瞬間に合せなくてはいけないのだ。はじめ、がぶつと来たとき合わせてやる。怪しいと思ふと吐き出すが、吐き出したときにはもうカキの身を取つてゐる。取れやすいやうにしておいた方が食ひがいい。」
故松沢さんが、むかしの苔は、金の塊だ、だから命をかけて守ろうとした。今の苔は鉄くずだ、欲しけりゃあ、持って行け、という価値しかない、と。
岩井先生が、
「このおかげで、魚は食物をはじめ、水中に溶けているいろんな物質の味がわかる。コイや金魚では、とくに口がい部に味蕾が密集しており、『口がい器官』と呼ばれる。」
「このように魚の味の受容器は精巧だが、水質汚染には全く無防備である。だから、汚れた川に住む魚の悩みは深刻である。」
「コイ、フナ、金魚、ナマズなどの味覚はとびきり鋭いといわれる。その鋭い味覚を利用すれば、味見によって水に含まれる物質の鑑定をしてもらうこともできるだろう。」
「その魚も、さまざまな排水を飲み込んで流れる川では、合成洗剤の泡の帯や、川底の泥にたまった重金属などによって、知らず知らずのうちに味蕾をむしばまれ、苦しみだけを味わう羽目になりかねない。たとえ死を免れたとしても、生きるための食物探しが不自由になり、やっと捕らえた獲物の味がわからないのでは救われない。あげくのはては、水質の悪化に対してすら鈍感になりきってしまっては、生きがいもなくなるだろう。」
さて、戦中、戦後の食料のない時代を経験した者としては、藍藻が優占種となった川でも生きていくには、まずい食料でも食べなければならない、ということはよく理解できる。
サッカリンやズルチンで甘くしたフスマや糠が入ったパンでもうまかったからなあ。
マーガリンなんて、現在のマーガリンとは全く違う。臭い匂いがする、味はまずい、固い、といったものでも、給食があるから食べることができたようなもの。
現在のマーガリンと、かってのマーガリンを並べて食べ比べをすれば、味音痴のオラでも、現在のマーガリンを区別できる。
チヌの味蕾に比べて、人間の味覚はどうかなあ。
人間の舌は、マーガリンの今昔は区別できても、鮎の味の今昔は区別できないのではないかなあ。
「利き鮎会」において、藍藻が優占種で、透明度が一メートル以下の相模川の鮎、それも、継代人工を含む放流鮎が、二年連続で準グランプリに選ばれている。
まあ、全国の川が相模川並の水質、苔の状態といってしまえば、それまでであるが。
明道先生 の学生が「鮎は臭い」と答えられていたことからも、「本物を知らない」「本物の味を知らない」ということも一因かなあ。
故松沢さんも、養殖でも焼き方で味をある程度ごまかせる、と話されていたが、「ある程度」ごまかしがきけば、鮎は全部兄弟、味の差なんて、ございません、となるのかなあ。
それとも、「利き鮎会」の手法での味の違い、官能テストが、不適切ということかなあ。
2010年、何処かの人工がたむろしていた弁天の瀬落ち、左岸ブロックのところで、テク1がよく釣っていた。
人工であろうと、大きいのが釣れるから、近所に配ると、見栄えがよく、喜んでいるから、と。
長良川の鮎に紛れ込まされた九頭竜川の鮎でさえ、はねていた目利きのいた郡上八幡。河口堰ができてからは、人工等の放流ものが主役となった長良川では、目利きが不要となり、失業したのではないかなあ。
官能テストをするときでも、味音痴の参加を排除する仕組みがいるのかなあ。
地域による釣り方の違いの事例
具体的な釣り方の違いは、後日の話として、環境による漁場への対応の仕方の違いのヵ所だけを紹介します。
尾道の益太郎さんの話
「鞆ノ津と尾道はほんの少し離れてゐるにすぎないが、アジロ(注:釣り場)の立てかたも釣の仕方も違つてゐる。吉和浦の益太郎さんも云つていたが、尾道の漁師は釣場を自分で設定しないで一ばん釣れる場所を捜してまはる。
『年によつて、釣れる場所が違ひます。同じ場所でも、肥料が入つていたり入らなかつたりするのです。それを捜します。』
と益太郎さんは云つた。
海の底に藤の花のやうな貝が一めんにつくと、そこに小魚が寄つて来て、それを食ふ大きな魚が集まつて来る。その貝は鶉豆くらゐの大きさで青貝と云ふ。これに餌が湧くからエビやイソメが湧く。かういふ場所を見つけるのださうだ。
尾道の海には非常に流れのきつい場所や、貝類のさかんに発生する場所があるわけだ。大ダヒを釣つて腹の中を見ると、殻の厚いカキをねじ切つて食つてゐることがある。流れのきついところのカキは特に殻が厚い。岩かげにゐるコブダヒを釣つて腹の中を見ると、カキ、セト貝、ジヨロ貝、マテ貝など、殻ごと食つてゐる。槌で叩いても破れないやうな、堅い貝殻を呑み込んでゐる。海底には、おそろしく流れのきつい場所があるに違ひない。
それと静かな流れが入り交じつてゐるのだらう。一見、この辺の海は鏡のやうに静かだが、底の方は台風のときの雲行きのやうに複雑になつてゐるに違ひない。大ダヒなども尻尾のところのくびれ目が、外界のタヒよりも太くなつてゐる。激流を泳ぎまはつている証拠である。
『ここの海では、夏から秋にかけて一ばんよく釣れます。』と益太郎さんは云つた。『ニベなんか、大きいのは底ニベと云つて、一四,五貫のが揚がります。』
他に、キス、コチ、ギザイ(ベラ)タヒ、チヌ(クロダヒ)スズキ、アコウ、メバル、カレヒ、ハゼ、グチ(イシモチ)などが釣れる。
益太郎さんは遊覧の釣客を案内することがあるさうで、よく釣れるときには釣客にキスを三百から四百は釣らせるのだと云った。私は眉唾だらうと思つたが、後で旅館の姐さんに聞くと嘘ではないさうだ。この姐さんたちは、たびたびお客のお供で益太郎さんの船に乗るから実際のことを知つてゐる。
『益太郎さんは、自分の釣糸を二本持つて、それから艪を漕ぎもつてお客の世話をしてゐます。お客の餌を切つてくれ、餌をくつつけてくれ、それが五人乗りの釣船です。碇を入れない釣ですよつて、流されないやうに漕いでます。ときによつたら、艪を脇の下に持つて漕いでます。』
姐さんの一人がさう云った。
もう一人の姐さんは、はじめお茶を持つて部屋に入つたとき、
『ありやりや、をッさん。』と益太郎さんを見て、親しげに云つた。『今日は洋服を着とるんなあ。あたしや、誰かと思うたで。』
『わしだつて、人に会ふときには洋服を着るがな。』
と益太郎さんは平然として云つた。」
鞆ノ津の元一さんのアジロ
「鞆ノ津の漁師は季節になると、アジロ(注:釣り場)をつくるため各自に好みの場所に毎日のやうに撒餌をする。湯呑を逆さにしたやうな布袋にエビを入れ、それを釣糸に吊して三十匁から四十匁のオモリで海の底に沈ませる。エビは水の圧力で逃げないが、海の底から二尋ぐらゐのところで急に引きあげるとエビが袋の外に出る。生きてゐる藻エビや白エビである。この撒餌を毎日のやうに繰り返しながら、チヌ、スズキ、小ダヒなどを一箇所に集めておく。魚の方はよく知つてゐて、夜は附近の岩かげに行き、昼は出て来て遊んでゐる。ちょつと撒餌をするとすぐ寄つて来る。場所は、汐の流れのいいところである。流れのいいところには、岩が出てゐて魚の食ひもいい。
これが自分のアジロであり、自分の財産みたいなものである。他の漁師はその場所で釣ることを許されない規則だが、夜、網の人に荒されることがある。無論、網を入れられると魚に逃げられる。
『お得意先を荒らされるやうなものですから、いよいよたまらんときは夜番に出ます。』
元一さんが云った。
釣魚法も繊細を通り越して夜番を必要とするのである。」
「この釣(注:「鞆ノ津では、碇を入れて釣るせかし釣も、五,六年前から糠団子(ぬかだんご)のオモリで釣るやうになってゐる。」)では、ボラ、チヌ、スズキ、小ダヒが来る。船は碇を三つ入れて固定させ、海底の岩から三間乃至五間ぐらい離れたところをアジロの中心とする。場所は毎年ほぼ決まつていて、江ノ浦の漁師はお互いに他人の場所を知つてゐる。かかり釣、まき釣とも云ひ、このアジロを他人に横取りされることを、『飯をひつくり返された』と云うさうだ。
『取られたと云つては、一人前の漁師として体裁が悪いですから。』
と元一さんが真顔で云った。」
益太郎さんや元一さんの話されたことが、現在でもどの程度残っているのかなあ。
そもそも、そのような「場所」が、まだ、海として残っているのかなあ。魚がいるのかなあ。
素人衆が、キス三百匹を釣るとは、戦後それほどの時間が経っていない頃に、井伏さんでさえ疑っていたよう。現在では、三百匹を釣った、と話しても、信用する人は存在しないのではないかなあ。ハゼなら少しは信用する人もいるであろうが。
云いたいことは、現在において存在していないから、過去においても存在していなかった、と即断している傾向があると思われる学者先生の感性がくるっちょる、ということです。
鯛について、「大ダヒなども尻尾のところのくびれ目が、外界のタヒよりも太くなつてゐる。激流を泳ぎまはつている証拠である。」との話は、長良川の鮎の容姿に通じる、また、戦前、宮川で丼をしたこともある垢石翁が釣っていた大鮎と同様、激流に育った鮎の容姿に通じているのではないかなあ。
「清流」の芦田川
「私は三十何年前、ここの鞆ノ津で、しやくりといふやりかたでもつて大きなボラを釣つたことがある。一握りくらひの糠団子に小石を入れ、五本の短いハリスを鉤ごとそれにねりこんで、三十尋ばかりの海の底に沈めておく。さうして、道糸に手応へがあると同時に、強くしやくり上げる。鉤はボラの腹か頭か目にかかつている。目にかかつたのは割合おとなしく揚がって来るが、下半身にかかると大あばれにあばれ、魚と人間と格闘するやうなことになる。
『あれはもうやりません。今では、のしまといふのをやります。』
と元一さんが云った。
最近では糠と蛹の粉を丸亀の粘土に混ぜ、大きなどっしりした栗石に塗りつけて、それに練りこんだ五本の鉤のある箇所だけ、団子を瘤のやうに高くつまみ上げておく。ボラはその瘤に食らひつく。石が小さいと魚の方に寄って行くが、どつしりしている石だから動かない。向こう合わせに魚が鉤を呑む。」
「私は益太郎さんの話を聞きながら、自分で海釣をしてゐるやうな気持ちになつていた。益太郎さんは、スズキが漁師に対して作戦を持っている話もしてくれた。」
「尾道に一泊して、翌日、松永湾のほとりを通り山越えで鞆ノ津に行った。」
「ここでも私は一泊して、翌日、山陽線の福山に出ると、郊外の草戸といふところのクリークを見に行つた。鞆ノ津でも尾道でもさんざん釣の話を聞くだけで、二日とも寒くて海に行けなかつたので、クリークのシジミ釣をするつもりであつた。
そのクリークは芦田川と平行に並んでゐる。堤上から見ると、浅い流れが澄んで絶好の状況であつた。釣道具は、堤に枯れ残つてゐいるのを折りとつた蓬の茎である。枝をすつかりもぎ取つて、その細い茎の先を、流れの底に見える小さな穴に差し込んでゆつくり引きあげる。すると蜆が一箇くつついてゐる。私はそれを繰り返し、十箇あまりの蜆をハンカチに入れて福山の町に引返した。これは釣りといえるかどうか、おそらく寒中にクチボソやタナゴを釣る気分はこの程度ぼそぼそしたものだらう。私はまだクチボソやタナゴを釣つた経験がない。」
蜆が釣れるとは知らなかった。相模川の昭和五十年頃は、湧き水が吹き出している砂地があり、蜆がいたから取ったことがある。しかし、釣りの対象とは知らなかった。
今、試してみたいものの、そのような砂地の湧き水の箇所はほとんどなくなっている。
ということで、芦田川にも清純な乙女の時代があったということです。福山にコンビナートができて、芦田川が変貌したということでしょうかねえ。
昔から、「河口堰」で調査対象となるばばっちい川ではなかった、ということです。
8 「香魚」はいずこに?
(1)珪藻と香り成分
真山先生が、香りに係る成分について、次のように教えてくださった。
補記3
@ 珪藻に含まれている成分について
「油の成分はさまざまなものより成ります。種によって,またその生育環境によって組成は異なりますが,代表的な不飽和脂肪酸はC14(炭素を含む鎖長が14という意味)のミリスチン酸,C16のパルミチン酸やパルミトレイン酸, C18のオレイン酸,C20のEPA(イコサペンタエン酸)でしょう。C18のリノール酸やリノレン酸は多く含まず,またC22のDHA (ドコサヘキサエン酸)を含む種はほんのわずかのようです。」
「珪藻は不飽和脂肪酸でC20のEPAが豊富なのが特徴です。EPAはヒトの体内で合成できない必須脂肪酸で、外部から食品として取り込まれるとリン脂質となって細胞膜に組み込まれ、アラキドン酸カスケードの基質となって生態調節機能を担います。また,血小板凝集能や白血球誘引能を緩和する作用があることがわかっており,血栓性の疾患,動脈硬化,リュウマチなどの成人病に効果があるといわれています。
現在,EPAはイワシ油から精製されているようですが,海産珪藻のフェオダクチルム・トリコルヌーツム (Phaeodactylum tricornutum) の珪藻油には,それを上回るパーセンテージの EPA が含まれています」
A 不飽和脂肪酸の種別が、香り成分の生成、質、量に関係するといえますか。
「不飽和脂肪酸から香りの成分であるエステルが生成されることについて、想定される代謝経路が考えられていますが、そのすべてが実験的に実証されているわけではありません。したがって、不飽和脂肪酸の種別がエステルの生成量に関係することを直接的に示した学術的データもありません。」
B 珪藻の種類構成で、不飽和脂肪酸の生成、種別の量、質に違いが出ますか。
「不飽和脂肪酸の種類や量は、同じ種類であっても、生育環境が異なると違いが出ることが知られています。また、種が異なれば、違いが出ることも知られています。」
折角、真山先生や、村上先生が教えてくださった事柄も、理解できていないのに、香りを訪ねることに無理があることは承知しています。
しかし、「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」素晴らしい営み、とおっしゃり、テレビに出演された阿部さんよりはバランス感覚が優れていると自負している。
その点では、亡き師匠や、故松沢さんが、「たくさん釣れることが幸いです」と、大漁を夢見ていただけのオラに、あゆみちゃんの品位、品格、質の違いを話してくださり、川の水も苔も「みんな兄弟」ではない、違いがあると、懲りもせずに説明してくださったことが、阿部さんら学者先生のとんでもはっぷんな説に惑わされることなく、あゆみちゃんの生活誌と山、水、川、苔のつながりを考える基礎を作ってくれました。
ということで、「河口堰」、「ダム湖」のページをめくる肉体労働を行ったけど、「香り」がいずこに消えたのか、解明できるはずはないですよね。
とはいえ、肉体労働の結果、判ったこと、判らないことを整理しておくことが必要ですよね。
(2)ダム湖での植物プランクトンによる「香り成分」の消費
ダム湖の植物プランクトンが、「香り成分」を消費している可能性は、天野さんの新八戸川ダムが、貯水ができなくなったとき、「名産八戸鮎」が復活した、との経験から、存在しているといえるのではないかなあ。
しかし、それでは、ダムのない狩野川でも、シャネル5番を振りまく鮎がいないのはどうしてかなあ。
@ 狩野川が、生活排水の流れ込みで、藍藻が優占種になっている。
流域下水道が整備されたら、生活排水の流れ込みがなくなり、珪藻が優占種の川になると思っていた。
しかし、湯ヶ島地区は、流域下水道の整備を行わず、コミュニティプラントで整備しているとのこと。
そうすると、屎尿のくみ取りを行っていたときよりも、富栄養水の負荷が高まる可能性が生じるかも。
ここ2,3年、青ノロの繁殖量が増えていることは、その現れかなあ。
湯ヶ島に近い雲金では、2010年のある時期に青ノロが大量発生したとの話もある。
A 湯ヶ島の上流部にある田毎では、香りのする鮎が釣れることがあるとのこと。
コミュニティプラントの処理水が流れこまないこと、あるいは流入量が少ないことが関係しているのかなあ。
ただ、この場所でも、石の河原ではなく、アシ等が元気はつらつ、密生しているため、流れを渡り左岸側からの釣りになる。左岸側へ渡ることは何とか出来ても、上下の移動も足腰が普通の人には何らの支障も生じないが、あんよの下手なオラには歩きにくい場所である。
そのため、アッシー君を釣りあげても、あまり行きたくない。右岸が石の河原なら、ひょこひょこと出かけるが。そうすれば、「香魚」の情況も判るが。
B 故松沢さんが、最後に香りを経験されたのは、21世紀になったある年、釣り人に見放された城山下は藪下の左岸溝を釣ってきた人の鮎。そこには、左岸崖からの地下水が、流れの中でわき出している箇所とのこと。
そうすると、山からのしみ出し水が、腐葉土の栄養分をくんだ状態で、珪藻を育んでいる場所ということになるのではないかなあ。
C 山からのしみ出し水の質が関係しているのではないかなあ。それとも?
藁科川の上流部の赤沢?では、匂いが強い鮎が6月に釣れたことがある。
その匂いは、不純な匂いを含んでいた。西瓜の香りでもなく、かって、相模川で時期限定で嗅ぐことのできたキュウリの香りでもない。
藁科川での鮎の香りに不純物と感じる匂いがしたのは、何でかなあ。生活排水の流れ込みは、大井川の笹間ダムへの道沿いに小さな集落があることから、ゼロではないが、珪藻が優占種になることを妨げるほどの量ではない。
継代人工の放流ものであるという「氏素性」の問題かなあ。「紀の川の鮎師代々」の小島さんは、「放流もの」でも、2ヵ月たつとその川の遡上鮎と同じ味になると話されているが、その2ヵ月前後ということからなあ。
あるいは、小島さんが「放流もの」と定義されていたのは、湖産と海産畜養であるから、「継代人工」は含まれていない。「継代人工」は、川の水の良き部分に染まらないのかなあ、あるいは、染まるまでに時間がかかるのかなあ。
故松沢さんは、山の腐葉土を通り、ミネラルをたっぷりと含んだ水が、よい苔を育てるといわれていた。四万十川の野村さんも、仁淀川の弥太さんも、江の川の天野さんも、同じことを話されている。
山が荒廃していることも、狩野川での「香魚」がいなくなったことと関係しているのかなあ。
まあ、人間がすべてを理解することには限界があるとしても、「香魚」は、珪藻が優占種である水であること、また、ダムでの滞留時間の長短が「香魚」の生成と消滅に関係している可能性があることが、確認できたのではないかと思っています。
それから、
「Abe他は、ヒゲモの優先を、過剰な摂食圧によるとしているが、球磨川でのアユの放流密度は0.1匹/uにすぎず、成魚の摂食速度と図13.5 に示した一次生産速度とを比較すれば、摂食圧だけでは説明できない。」
との「ダム湖」の文を見つけたときは、「Abe」が、「阿部」さんと同一人物であるかどうか、判らないが、「阿部」さんではないかと思い、嬉しくなった。
「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」との阿部説へのいちゃもんが、「へぼ」の勘ぐりではない可能性が出て来たから。
さて、最後は、前さんが観察されたダム湖での放流鮎の再生産で、「香魚」を捜す青い鳥症候群を終えることにします。
(3)ダム湖での鮎の再生産
前穣 「鮎に憑かれて六十年」(ジャパンクッキングセンター)
ダム湖である津久井湖、宮が瀬ダムでは湖産か、交雑種か、判らないが、再生産されている。産卵時期から、相模湾の海産ではない。とはいっても、20世紀まではそういえたが、現在も同じか、は判らない。
大井川の笹間ダムは、笹間川に放流されたアユが再生産に寄与していない。水深、植物プランクトン、から、稚魚が生存できる可能性があると思うが。
天竜川の船明ダムでは、再生産されているとの話があるが。
@ 渓に鮎がいた
さて、前さんの記述で気になることは次のことである。
「昭和四十三年の七月中旬にアマゴ釣りに出かけたところ、いる筈のない渓(川)に大きく育った鮎が盛んに追い合いをしている現場に出くわした。『まさか!』と眉に唾をつける思いでよくよく確認したところ間違いなく鮎である。アマゴ釣りにキツネ八号半から九号の鮎鉤を使用しているから、早速素ガケでオトリを獲って『友釣り』をした。誰もこの鮎を発見していなかったらしく、文字通りの『入れガカリ』になったことがある。この後にも同じような経験があって、ダムの鮎については次のように考えている。
川に初めてダムが完成すると、漁業補償などで鮎が放流される。秋口になると鮎がダムのバックウォーターのあたりで産卵し、孵化した仔鮎は冬期ダムで過ごして春には流入する各渓へ遡上する。放流した川へも溯るが、放流しなかった渓にも溯るので人里はなれた渓にも鮎がいたのである。
ここで問題なのは、ダムの水温と稚魚の餌になるプランクトンである。ダムを調べてみると、ダム完成後の三,四年は湖底に沈んだ種々のものから鮎の餌となるプランクトンが発生するらしい。その後は貧栄養になるため鮎の発生は消滅するようだ。」
気になることとは、
富栄養状態の消滅が、動物プランクトンの減少となり、鮎の再生産量の減少となったのか、ということです。
前さんの観察力が凄いところは、1回だけの観察でその現象を普遍化するような、学者先生の習性とは程遠いこと、また、1つの現象が他の事象、現象と関連づけて観察すると、どうなるのか、ということを考えられていることである。
それにおつきあいをしていると、オラのおつむは思考停止を余儀なくなれるが、できるだけ、紹介しておきます。
A 前さんの渓の鮎存在に係る推測
「最初に私が発見して釣ったのは2年目の鮎で、一年目は余り多くなかったらしい。一年目の鮎は放流された地点がダム湛水面を二十キロメートルばかり離れていたのと、人家もないため人目につかず大部分が無事産卵をした結果、二年目は急に増えたものだろうかと推察する。ダムの二年目にはプランクトンが前年に比べて特に多い、という学説もあって、こう考えると辻褄が合うようだ。」
B その後の数量
「その後、四年目、五年目と引き続いて箱眼鏡まで持参で出かけたが、鮎は年とともに数が減少した。秘かな私の観察も敏感な嗅覚を持つ部落の釣り人に知られ、釣りあげられたことも重なって、六年目はついに一尾も確認することができなかった。
漁業補償は毎年確実に行われたのであるから、ダムが『富栄養』で、プランクトンの発生がある限り次々と産卵があって増え続けたに違いない。自然消滅した理由は、ダムが『貧栄養』となってプランクトンの発生もなく、水温低下したためだと思われるのである。
常識で考えると、水温が高いために『富栄養の水』となり、水温が低下して『貧栄養』となるが、逆もまた真なり―の現象があるらしい。色即是空、空即是色である。」
水温が低下して、「貧栄養の水」になるのかなあ。
水温が低下したために、植物プランクトンの発生量が減少、抑制され、そのために動物プランクトンの発生量が少なくなり、餌が少ないことから、稚魚の生存率が低下した、ということではないのかなあ。
植物プランクトンの活動は、光合成が行える範囲の水深であること。
「ダム湖」では、
「アルカリ性ホスファターゼは、水環境中の藻類または細菌体表面に付着または分泌され、無機化されたリンは他の生物種にも利用される。そのため、ダム湖のリン循環を考える上では、アルカリ性ホスファターゼが主として藻類に由来すると考えられる表水層だけでなく、光が届かない水塊のAPA(注:アルカリ性ホスファターゼ)についても考慮が必要である。」
これを読んでオラに理解できるわけがないですよねえ。したがって、「アルカリ性ホスファターゼ」に係る説明、調査結果はすべて省略します。
藻類に取り込まれたリンは、どのように循環をしていくのか、というお話があるようで、そのお話は、光合成が行われる表水層だけを見ていては完結できない、ということのようです。
ということで、「水温低下」が貧腐水水と関係あるとは無理があるのではないかなあ。
いや、とても、「ということで」といえるレベルの説明義務を果たしていないと自覚していますが。
ただ、仔稚魚が、生存できた環境があった。その環境は、生存限界以上の水温であった。そして、食料である動物プランクトンが発生できる条件があった。
ということは判ります。
問題は、その環境条件が何で消滅したのか、あるいは、親が人工になったからか。人工鮎放流になったとしても二年目の子が親になっているはず。その2年子は、産卵場まで下るコンピュータを備えているであろうから、仔魚はダム湖まで生きて下れるのではないかなあ。
C 湖産鮎であった
「私が釣ったあの渓の鮎の姿、形、追い方のすべてが琵琶湖産そのものであった。近畿の冬期は冷え込みが厳しいが、運良く水温の高かった『ダム』で起きた一時的現象であったのであろう。貴重な体験を神から授かったと感謝いている。」
ダムが、流れダムであれば、ダム湖での生存は困難であろうと思う。津久井湖や宮が瀬ダムでは稚魚が生存しているが、相模湖で稚魚が生存しているとの話は聞かない。
近畿のダムの冬期の冷え込みが厳しいといっても、津久井湖、宮が瀬ダム並みではないのかなあ。
とはいえ、ダムの水温が生存限界を下回ることがないといっても、表層水の水温、光合成が行われる水深附近の水温が、毎年生存限界以上であるのか、どうか、気になるが。
ダムへの流入水に湧き水がいっぱいあれば、水温の高い湧き水が表層水になる条件があるとは思うが。
「さらにこれらダムでは、越年鮎が珍しくなく、宮崎県の一つ瀬ダム、奈良県十津川、風屋ダムその他でも毎年確認されている。」
とのことであるから、生存限界を越える水温の川水が、ダムに流れこんでいると考えられる。
そうすると、何で、稚魚の生存率が「低下」したのか、気になりますねえ。
D 水温とプランクトン発生問題
「さて、ダムの水温とプランクトン発生問題にこだわってみる。新しく水没したダムに一ー四年ほどの間はプランクトンが発生すると書いた。そして次第に「貧栄養」となって鮎の自然孵化はなくなると述べた。ところが別の理由でプランクトンが発生することもあるらしい。つまり、夏から秋にかけて晴天が続いてダムの水位が極端に下がると、平素は水没していた両サイドの岸壁が空気にふれ、日光に晒される。再び満水になって岸壁が水に浸されると『プランクトン』が発生するらしいのである。岸壁が日光や空気にふれる期間が二ヵ月か、三ヵ月がよいのか判然とはしないが、事実こうした条件下にあったダムに鮎が自然孵化をしているのである。もちろん、これらは西日本のダムで冬期の水温が比較的高かった、という条件もある。」
「岸壁が晒される」現象は普通にダム湖で生じている現象ではないかなあ。宮が瀬ダムでは、貯水を主目的にしているからか、貯水率八十%くらいが下限のようであるが。
「岸壁が晒される」現象がなくても、流入水から新規栄養塩の補給があり、また、植物プランクトンに取り込められたリン等も、そのまま消滅するのではなく、再び、物質循環の中で、植物プランクトンに利用されるようになっているようであるから、植物プランクトンがダム湖湛水後ある年数経過後から急速に減少するとは考えにくいが。
E ヘドロと水温
「水温が高くなる要因としては、ダムで溜まる『ヘドロ』や、土砂の流入によって『湛水面』が小さくなる。その結果?…とも考えられるが、定かではない。要するに『プランクトン』が発生する条件があってこそ孵化した鮎が育つのである。この推量を推し進めると、人為的にダムの水を『貧栄養』から『富栄養』にすれば、毎年のように恒久的な孵化成長と溯上が見込めるものではないだろうか。しかし『富栄養』は汚染に連なっていて、歓迎すべき水質ではない。痛し痒しである。」
「痛し痒し」のお話は、「河口堰」にも登場していましたよね。
前さんが、「河口堰」や、「ダム湖」を読まれたら、稚魚が生活できたダム湖が、稚魚の生存率を低下させるダム湖になんで変化をしたのか、「鮎に憑かれて六十年」とは異なった視点で、表現で、書かれたのではないかなあ。
ということで、前さんが、「鮎に憑かれて六十年」に書かれている観察と推量に、判らないことがまだまだあることが判りました。
そして、ダム湖の鮎の再生産の条件については、「河口堰」や「ダム湖」を適切に理解できさえすれば、少しは何でかなあ、を考える糸口、見取り図が構築できるかもとは、と、思いますが。
誰か、挑戦してくれないかなあ。
終わりに
さて、前さんは、「琵琶湖・池田湖・人工孵化・ダムの鮎」の章を次の言葉で締めくくられている。
「一般の河川でも、例年のように越年する鮎はいると思われるが、『ダム』上流では確認されやすいせいもあって目立つのこも知れない。こうした現象を今後とも調べてゆきたい。」
この意識と、1回だけ観察された汽水域に近い神川橋で採捕された鮎を根拠にして、海産から湖産への変身のロマンを描く県内水面試験場や、汽水域で一生を過ごす「汐鮎」(四万十川の山崎さんが漁の対象とされていた「汐呑み鮎」とは異なります。「汐呑み鮎」は、午前に、香りを漂わせながら、上流から汽水域に行き、午後に上流へと帰っていくアユです。)がいると書かれているが、夜も観察された結果であるのか、そして、何よりも、海産鮎、遡上鮎であるのか、湖産、交雑種、継代人工であるのか、の識別も行わず、それらの対象鮎が「海産遡上鮎」であると何らの疑問も持たれない学者先生とは何という違いであろうか。
内田樹「日本辺境論」(新潮新書)を楽しく読んでいる。
「漁協が湖産を放流したというから、湖産しかいない」との県内水面試験場の評価がまちがっちょる、「湖産ブランド」に雑多な氏素性の鮎がブレンドされている、といちゃもんをつけて、さらに、ベンダサン=山本七平「日本教について」の「『語られたということ』は『事実』であるということ、『語られた事実』は『事実』であるということは、別個の事柄である」のに、日本人はその区別をしないが、その典型事例だ、と、書いた者としては、内田先生が、山本七平の「場の空気に従う」日本人、女子高生だったかの空気が読めないとの価値基準はその直截な表現だと思っているが、その山本さんも、丸山先生の「場の親密性を優先させる態度」等を、論理展開していく上で、使われていることからも、面白くて。
とはいっても、「日本辺境論」を読みこなして、学者先生の説は、辺境日本人の古層を体現した手法の典型である、よって、かくまちがっちょる、いや、不適切な調査結果である、といいたいのは山々なれど、ヘボには無理ですね。
ただ、なんとなく、学者先生の説には、説明の仕方には、「辺境日本人」の匂いがするようには感じますが。
何を寝ぼけたこというとるんや、おまんの筋道、説明こそ、「辺境日本人」丸出しじゃあ。お粗末。
川那部先生からのお手紙
川那部先生からお手紙を頂いた。
そして、「お手持ちでないに違いないものだけを、恥ずかしながらお送り申し上げます。ご笑覧下さいますと、まことに幸いです。」のことで、
1 「子どもと川とまちのフォ−ラム ブックレット@『創刊号』 『川の生態系』」(子どもと川とまちのフォーラム 平成18年4月22日編集発行)
2 「河川」 2011年3月号 「特集・生物多様性と河川の役割」
巻頭言 川那部浩哉「川や湖の生物多様性保全を考える」(写し)
3 「あの日 あの時 琵琶湖博物館開館」の「@からD」(京都新聞)(写し)
さて、川那部先生が、何らの意図もなく、これらを選んで、送付してくださったとは考えにくい。
何しろ、川那部先生の「姿勢」は、
(原文にない改行をしています。)
(1)ブラックバスでの展示の試み
「外来魚についてはもう5年以上前に、あることを試したことがあります。それは、その水槽(すいそう)の横に、『〈ブラックバスはキャッチ=アンド=イーストつかまえたらたべる。キャッチ=アンド=リリースは琵琶湖の敵〉。この意見は博物館としてではなく、館長川那部の個人的意見です。皆さんのご意見を書いて箱に入れてください』という札を立てて、アンケート用紙と回収箱をおいてみた。多くの意見が寄せられて、大多数は賛成のものでしたが、その書いてある内容が、賛成・反対でかなり違っていたのです。
私の意見にどちらかというと賛成の人は、いろいろ詳しく書いてくださった。それに対して反対の方々のには、『ばか』などというだけのものが多くて、『ブラックバス釣りの〈放(はな)す文化〉を否定するのか』というのが、確か一番長いものだったと記憶しています。そこで、これではあまり意味がないと判断して、2週間ほどで中止しました。あとで考えてみると、私が『キャッチ=アンド=リリース』に賛成の意見を書き、誰か他の博物館員に反対の意見を出して貰(もら)って、並べれば良かったかもしれないのですが、もう後の祭りでした。」
内田樹「日本辺境論」(新潮新書)に、
(原文にない改行をしています)
@「『お前の気持ちがわかる』空気で戦争
日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の『空気』であると看破したのは山本七平でした。
私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委(ゆだ)ねる。仮に事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、『とても反対できる空気ではなかった』という言い訳が口を衝(つ)いて出るし、その言い訳は『それではしかたがない』と通ってしまう。
戦艦大和の沖縄出撃が軍事上無意味であることは、決定を下した当の軍人たちでさえ熟知していました。しかし、それが『議論の対象にならぬ空気の決定』となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いています。
『これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。【戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏(べんそ)しょうとは思わない。】であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したか明らかにしていない。それは当然であろう。彼が【ああせざるを得なかった】ようにしたのは【空気】であったから――。』
もちろん、私たちも何から何まで空気で決めているわけではありません。どういう空気を醸成するかについて、それぞれの立場から論理的な積み上げをそれなりに行ってはいるのです。でも、論証がどれほど整合的であり、説得力のある実証が示されても、最終的には場の空気がすべてを決める。場の空気と論理性が背馳する場合、私たちは空気に従う。
場を共にしている人たちの間で現にコミュニケーションが成り立っていることの確信さえあれば、『お前の気持ちはよくわかる』『わかってくれるか』『おお、わかる』という無言のやりとりが成立してさえいれば(しているという気分にさえなれれば、ほとんど合理性のない決定にも私たちは同意することができます。『自分のいいたいこと』が実現するよりも、それが『聞き届けられること(実現しなくてもいい)』の方が優先される。自分の主張が『まことにおっしゃるとおりです』と受け容れられるなら、それがいつまでたっても実現しなくても、さして不満に思わない。私自身がそうなのです。まことに不思議な心性と言うべきでしょう。」
A 丸山眞男
「『この空気に流される』傾向について、丸山眞男は『超国家主義の論理と心理』の中でみごとな分析を下しました。このようなマインドの構造的な考究として、以後これを越えるものは書かれていないと思います。丸山は先の戦争について、これを主導した『世界観的体系』や『公権的基礎づけ』がないことにとりわけ注目します。」
「空気が読めない」ということが、女子高生?ではやり言葉になっていたようであるが、それは、山本七平が書かれた日本文化=the way of life の1つの直裁的な表現であろう。
ブラックバスのキャッチアンドリリース派の反応は、「空気が読める」から、沈黙したことの現象では?
そして、食べることがリリース文化の否定であるということが唯一の「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」の試みではないかなあ。
そうすると、丸山真男の箇所も紹介しなければならない、となるが、いつもの通り、手抜きをします。
そして、川那部先生が、キャッチアンドリリース賛成論を書かれていたら、状況が変わっていたかも、との感想はさすがです。
(2)ホタルの復元の善し悪し
「もう一つの例を挙げると、『ホタルの復元』に関する解説があって、80人ぐらいの人々の顔と川の写真がコンピュータ画面に出ています。誰かの写真を押すと、その人の意見が音声で出てくるんです。当然ながら考えはいろいろですし、川のあり方によってそれが異なっているのもあたりまえです。ただ、どの方も『ホタルは素晴らしい、復活させよう』とおっしゃる。『あんな汚いムシ、全部殺してしまえ』という意見も載せるべきではないか、あるいは暴言かもしれませんが、こういった。残念ながらそういう人がどうしても見つからないらしくて、これはそのままになっています。
それはともかく、いろんな考えの人が現実にあるわけですから、それを出し合って、みんなに考えて貰いたい。私たちの暮らしの中で環境とどう付き合うかについて、今までのままではいけないということは、かなりはっきりしています。しかし、どうすればよいのか、これについてはいろいろな考え方があります。それを誰かが決めるものではなく、みんなで『ああでもない』『こうでもない』と考えて、それからやるべきことをそれぞれに進めて欲しい。そうでなくては、長続きする根本的なやり方は出て来ません」
さて、川那部先生のこの姿勢は、琵琶湖博物館の主題とも関連しているが、それは本題の中で紹介します。
そのような川那部先生の姿勢から、「故松沢さんの想い出:補記3」あるいは、「補記4」の岩井先生で紹介した川那部先生の中で、どこがまちがっちょる、あそこがミスリーリングをしており、あるいは論理展開に整合性がない、この資料が参考になる、なんて、「答え」を教えてくれるはずがないですよね。
素材の一端は提供したから、さあ考えよ、ですよね。
仕方がないから、少しは、考える「姿勢」だけは、「ポーズ」だけは、とることにします。「ポーズ」ほど害を生じる行為はないことは百も承知していますが。
「ご笑覧」どころか、またもや苦行の始まりです。
川那部先生の意図を考えることで時間をつぶしても、「ヘボ」の考え休むに似たり。
したがって、川見ができず、あゆみちゃんとは心と心が通わない「ヘボの特権」を利用して、川那部先生の意図が読めなくて当然、ということで、子供用の「川の生態系」を中心に紹介します。
1 トラックで運ばれるアユの時代に
「川の生態系」が子ども向けの本といって、軽んじてはいけませんよ。
オラが川那部先生の本のページをめくる肉体労働に四苦八苦することのきっかけになったのも、高橋健「未来へ残したい日本の自然 川の自然を残したい 川那部浩哉先生とアユ」(ポプラ社)であり、また、大熊孝「洪水と治水の河川史」(平凡社自然叢書)が難しいなあ、とおたおたしていたとき、大熊孝「川がつくった川、人がつくった川 川がよみがえるためには」(ポプラ社)が助けてくれましたから。
何で、「川の生態系」の記述順序を無視して、「アユの話」からはじめるの?
当然ですよ、オラにはあゆみちゃんの容姿、生活環境、習性なら少しはわかるからですよ。
それに、子どもたちを相手に川那部先生が話されている事柄ですから、東先生の湖産の性成熟に要する月数が年々変化する、というとんでもない現象に煩わされる虞もないでしょうから。
なお、「川の生態系」の原文に表記されている太字、赤字は、その状態で記載し、オラのつけた強調は、青で表示しています。また、原文にない改行をしています。
(1)鮎の産卵時期
ア 川那部先生の子供たちへのお話
「〜鴨川の、この清水寺から西に降りたあたりにも(注:アユは)棲んでいます。もっともそれは、人間がどこかから持ってきて、放流したものですけど。また、昔は値段の高い魚でしたが、最近は養殖がなかなか盛んなので、スーパー・マーケットなどでも売っています。
ほんとうのアユは、川の下流近くで、秋に川底に卵を産み付けます。孵(かえ)った仔魚は、泳ぐ能力がほとんどないので、そのまま川の水に流されて、海まで行く。海の中では、エビの小さい仲間のようなプランクトン動物を食べ、半年足らずで体長5〜6センチから7〜8センチくらいに成長する。そして春になりますと、海から川へそして上流の方へと溯(さかのぼ)ってきて、今度は石や岩の上についている藻を食べます。こういう珪藻(けいそう)や藍藻(らんそう)(これには核がないので、最近では藍細菌(らんさいきん)といいますが )は、夏には1日で2倍になるほど生長が早い。大食くらいのアユはそれをどんどん食って、2〜3か月のあいだに15〜20センチに達します。秋が近づいて水温が低くなると、川を下って行って、産卵し、親アユはおおむね死んでしまいます。そこで、アユのことを『年魚(としうお)』とも呼びます。」
イ 「秋が近づく」とはいつ?
さて、「秋が近づいて水温が低くなると」下る、という記述は、学者先生の10月はじめから『海産アユ』も産卵をはじめるという説と同じ、ということになる。
そして、川漁師の観察とは異なることになる。
なぜ?
川那部先生はその答えを書いてくださっていないが、東先生の流下仔魚量に関する「2峰ピーク」のうち、10月中旬に形成されるピークが放流もの:当時の1980年代では湖産が主体であろうことを紹介されていることからも、「秋が近づいて」の表現に該当するアユは、継代人工を除けば、湖産であり、また、宇川等日本海側、・サケが遡上する川での表現と考えて間違いないと確信している。
ウ 東先生の観察と評価
川那部浩哉「偏見の生態学」(農山漁村文化協会)の「アユの研究、その後」の章から
「さて、前の特集から七年半、アユの仕事はどれほど進歩したか。水産上の問題としては、人工種苗生産技術の発展が大きいようだが、この紹介は私の任ではあるまい。
『アニマ』の座談会に出てもらった長崎大学の東幹夫さんは、佐賀・長崎両県の川のアユについて調べて、奇妙な現象を見つけてている。琵琶湖からの種苗放流がうまくいった年には、秋の産卵期は二つの山に分かれ、産着された卵径や流下仔魚の大きさを見ると、早期のものは琵琶湖アユ、晩期のものは海アユ由来である。対して放流を止めた年ないし不成功の年には、早期産卵群は現れない。また、毎年続けて大量に琵琶湖アユを放流している川でも、海から遡上してくる稚アユの形質はすべて海産アユ型。湖産アユの形質を備えたものはもちろん、両者の中間型も全く見いだされない。つまり、琵琶湖産アユの放流はその年その世代限りのものであって、次世代の仔魚は海に下りはするが、翌年稚魚は川へ遡らない――再生産に寄与しないのではないか。この東さんの仮説、生物学的にも水産上も検討に値するものであろう。」
これこそ、オラの推理を、サケが遡上しない川の海産アユにおける産卵時期を見事に表現していると考えている。
@ 二峰ピークのうち、10月15日頃に形成されるピークの親は、「遡上アユ」ではない。十一月中旬に形成されるピークと、その前後の産卵時期の親が遡上アユである。
A 湖産も、交雑種も再生産に寄与しない。これは、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)の鼠ヶ関川でのアイソザイムによる分析がオラが知ることとなった最初であるが、その遙か前に、適切に観察されていた「学者先生」がいたということで、びっくりした。
いや、故松沢さんら川漁師は、あゆみちゃんの「容姿」をみて、「海産」「湖産」を区別できる「眼力」を持っていたから、東先生の説は当然のこと、と思われたであろう。
しかし、オラ同様、「目利き」の腕を持ち合わせていないであろう試験場等「学者先生」には、「識別」不可能であろう。しかも、試験場は、川にいるアユはすべて「遡上アユ」と一元的に評価されていて、その前提でしか、調査結果の評価をされていないと断言出来る。いや、ときには、漁協が湖産を放流しているから、「湖産」しかいないと判断されることもあるが。
B 川那部先生が、東先生の行われた観察を書かれたのは、「アニマ」1984年:昭和59年6月号である。神奈川県内水面試験場が、相模川での流下仔魚量調査における二峰ピークを遡上した親アユに由来する現象との評価を発表した「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」(全国内水面漁業組合連合会)の発行は、平成9年3月:1997年である。
さて、オラは、いつもの手抜きをして、「アニマ」の1984年6月号をまだ見ていない。
神奈川県立図書館、内水面試験場は所蔵していない。しかし、横浜市立図書館は所蔵している。
にもかかわらず、定期券を持っていないから、と、孫引きでお茶を濁していた。
孫引きは「事実」認識のの誤りの最たる原因ですよね。
エ 「秋が近づいて」『水温が低くなる』「時期」とは?
「秋」とは、9月から、10月、11月の暦をいうことが、世の習いのようである。
二十四節季の「立秋」は、2011年の暦では、8月8日である。
これは、なんぼなんでも、真夏の真っ盛りであり、「秋」のイメージとは合わない。
2011年の旧暦では、新暦の立秋である「8月8日」は、「9月5日」に該当する。新暦よりも、旧暦の方が歴史が古く、また、「二十四節季」は旧暦の時代に誕生したものであるから、旧暦の日にちで、判断することが妥当であろう。
したがって、2011年の「秋が始まり」は、暦上は9月5日以降のことであろう。
次に「水温が低くなる」とはいつのことか。
性成熟の時期を「光周性要件」と関連づけることとなった実験環境での「水温の低くなる」時期は、いつのことか、わからない。いや、「水温」要件は除外されているのかも。
阿仁川では、九月中旬頃のようで、その頃、増水等を契機として、米代川に下っているようである。増水がないときはいつ頃かなあ。
学者先生は、海産アユの産卵時期に適する水温には興味を示されないから、オラのカンピュータに頼るしかない。
前さんは、水温十五度を目安とされているようであるが、オラもその水温が産卵行動開始の目安となるように思っている。
九月どころか、十月上旬でも、最低水温が二十度以下になることはない。いや、稀である。
ただ、盆の頃には、千種川上郡では、ぬるま湯に浸かったような状態で、囮を数回往復させると、ヘボ、といってサボタージュをするだけなら可愛い方で、過労死してしまう水温と比較すると「水温が低くなっている」とはいえるが。
しかし、水温要件は、相対的な概念だけで判断して良いのであろうか。絶対的な水温条件を考えるべきであると考えている。そして、一日、あるいは、孵化期間中の水温の変化の範囲も。
ちょっぴり、水が冷たくなったなあ、と感じるのは、十月中旬頃からで、十月下旬、十一月上旬になり、西風が吹いたあとは、冷たいなあ、と、熱燗が恋しくなる。
その頃が、産卵行動としての下り、産卵が始まる頃である。
オ 東先生の二峰ピ−クの報告書はいずこに
もう、横浜まで行くのはしんどい、とはいっておれない。「アニマ」をコピーするしかない。
横浜市立図書館で、「アニマ」の1984年6月号を見る。
「偏見の生態学」に記述されている川那部先生の文が巻頭言に掲載されていた。
しかし、その東先生の調査報告書がどこに存在しているのか、書かれていない。困ったなあ。
なああ お前 天国いうとこは そんなにあまいもんやおまへん もっとまじめにやれえ
今年の正月頃、北山修先生の講演?講義?が放映されていた。
その番組で、帰ってきた酔っぱらいが、北山先生らの作品であること、お経の中でエリーゼのために、を弾いているのが、北山先生の妹さんであること、帰ってきた酔っぱらいが放送禁止になったこと、「イムジン河」が発禁?になったこと、「あのすばらしい愛をもう一度」も北山先生らの作品であること等を知った。
そして、加藤和彦さんが北山先生らのフォーク・クルセダーズの構成員であったことも。
帰ってきた酔っぱらいと、あのすばらしい愛をもう一度との何という異質な取り合わせかいなあ、と、感心もした。
その番組に出演されていた姜尚中先生が、「イムジン河」を「大人の子守歌」と表現されていたと思う。
「イムジン河」が、なぜ問題にされたのか、わからないが、ユーチューブには、悪意に満ちた書き込みもある。姜先生が、話された「大人の子守歌」?と表現された意味もわからないが、発禁?なんてことが日本に存在していたとはビックリした。
ということで、高邁な志は実現せず。
野毛のまちで、餃子かレバ炒めで麦酒を、と、歩く。半世紀あるいは一世紀は続いていると思う古ぼけた店に入り、中華のランチと麦酒を注文。餃子かレバ炒めをつまみにしょうかと思ったが、この店は量が多いから、食べ残したら困るなあ、と思案。
それらを注文されたお客さんをのぞき見をすると、量が多く註文しなくて良かった、と安心した。
麦酒で元気になり、帰宅後、東先生で検索していると、
「日本の淡水生物・侵略と攪乱の生態学ーコアユー一代限りの侵略者?」なる本が見つかった。
著者が東先生と明記されておれば、躊躇せず註文するが、その記述がない。
しかし、図書館でコピーするために電車賃と麦酒代を費消するよりも、購入する方が安い。
ということで、註文をしました。
本が届くまで、図書館で気になる記述を見つけたので、取り敢えず、それらで、時間稼ぎをします。
その一つは、岩井保「旬の魚はなぜうまい」(岩波新書)です。
新書の場所ではなく、「生物学」の棚にあったから、目につきました。
そして、「香り」が、「本然の性」であって、食物とは関係がないことの理由、分析結果が記述されています。
(2)「アユの香りの正体」:食料に由来しない
岩井保「旬の魚はなぜうまい」(岩波新書)
「瀧井孝作さんが随筆『釣りの楽しみ』で説くように、多くの人は、釣りたてのアユのスイカ、あるいはキュウリのような香りは、アユが食べた水あか、すなわち珪藻などの藻類に由来すると信じて疑わない。釣りの達人は口をそろえて、『アユの体にしみ込んだ水あかの芳香は、その川特有の香りで、においをかぐだけで、どこの川のアユか見当がつく』という。
また、どこへいっても、『この川のアユの香りと味は日本一』と聞かされる。
そして、誰もが認める決まり文句は、『旬のアユは香りがいのち』である。」
「旬のアユはもっぱら水あかを食べるので、その香りは食物に由来すると信じられてもおかしくない。ところが、アユと近縁のキュウリウオも、その名のとおり、キュウリのにおいがする。キュウリウオは北海道以北に分布する北方系の魚で、沿岸海域に生息し、おもに小型甲殻類などのプランクトンを摂食し、藻類は食べないのにアユに似たにおいがする。このにおいの正体を突き詰めた研究によると、食物の異なるアユとキュウリウオは体内で同じにおいのする成分を生成することがわかり、水あかそのものがアユの香りにはならないという意外な結果になっている。
すなわち、アユの香りの主成分は(E,Z)ー2,6−ノナディナール(キュウリのようなにおい成分)、3,6−ノナディンー1−オル(スイカのようなにおい成分)、(E)−2−ノネナール(キュウリのようなにおい成分)などであるという。キュウリの香りがさらに強いキュウリウオでも、ノナディナールとノネナールが深くかかわっているという。しかもこれらの化合物は食物から直接取り入れられて体内に蓄積されるのではなく、皮膚や鰓の中に多く含まれるリポキシゲナーゼという酵素の作用によって体内のエイコサペンタエン酸、アラキドン酸などの多価不飽和脂肪酸が分解された後、いくつかの中間体を経て、最終的にこれらの化合物になることが解明された。また、これらのにおいの化合物前駆物質といわれる過酸化脂質もアユの血漿から多量に検出され、特にアユの季節といわれる七〜八月に顕著に多くなることもわかってきた。
ノネナールといえば、あまり芳しくない中高年特有の体臭、『加齢臭』の代表的な化合物と聞いている。川魚の王といって賞美されるアユの香り成分の一部が加齢臭と同類とあっては、アユのイメージは損なわれるかもしれないが、そこは先入観にとらわれず、加齢臭の持ち主には自信をもって清楚なアユのような気分になっていただきたい。」
さて、真山先生や村上先生のご教示がなければ、なんでじゃあ、と、疲労困憊のいつか来た道、となるところである。
香りが「本然の性」であるとされる方々への、疑問はすでに書き飽きたが、視点を変える等を行い、できうる限り、重複しないようには努力をします。
@キュウリの香りと、スイカの香りの違いはなぜ生じるのか。
両方の成分が、「食物」に由来せずに生じるとすれば、一つの個体から、両方のにおいが、どこでも匂うのか、それとも、何らかの要因によって片方の匂いが選択されて匂うのか。
A調査に使われたアユは、どこの川で、藍藻が優占種の川か、珪藻が優占種の川か。その違いは不要な詮索ということはこの説の主張者には自明のことであることは百も承知しているが、それでは、何で、現在のアユからは、キュウリの香りもスイカの香りも、七〜八月においても生じないことをどのように説明されるのか。
Bキュウリ魚が、苔を食しないとしても、甲殻類は、苔:珪藻を食していて、その成分が甲殻類に残存していて、苔を直接食したことと同類の効果を生じているとは考えられないのか。
C四万十川の野村さんは、アユと同じ食物を摂取していた「ボウズハゼ」が、紀の川の田辺翁は「ナナセ」が、スイカの香りをさせていたと話されている。
キュウリウオの匂いはわからないが、もし、キュウリウオと同じ匂いを「ボウズハゼ」、「ナナセ」が発していたら、ボウズハゼも、酵素の作用によって、体内のエイコペンタエン酸、アラキドン酸等を分解していることになるのか。それとも?
オラは、梅雨明けのシャネル5番の香りをぷんぷんさせていたかっての大井川では、ボウズハゼを釣ったことがないから、香りがしていたのかどうか、わからない。ボウズハゼは、藍藻が優占種の相模川や狩野川等でしか釣ったことがにから、香りを経験していない。
また、ボウズハゼの香り検査を行ったのかなあ。
ボウズハゼは、キュウリウオとは縁もゆかりもない生物でしょうが。
もっとも、現在では、香り成分を生成するであろう物質を含んだ珪藻が優占種の川を捜すことが至難の業でしょうが。
E加齢臭は、匂い化合物の「前駆物質」とされているが、食するとき、その「前駆物質」の匂いはするのか。
F養殖鮎は、なぜ、臭い匂いがするのか。
垢石翁が、戦前、人工鮎ではなく、湖産の畜養アユが、餌とされていた蛹の匂いがすると書かれているが、もし、食物と匂いに因果関係がないであれば、何で、臭い匂いのする「養殖鮎」が存在するのか。
G井伏さんが、頭の部分、正確には、背環を打つ附近の肩の部分ではないかと思うが、その部分だけを食する食通?の話を書かれているが、その食通の人は、キュウリの香りをかいでいたのであろうか。それとも、スイカの香りか、あるいは、それらの複合的な香りか。
また、キュウリやスイカの香り生成の中間体とはいえ、加齢臭の匂い物質も存在しているとのことであるから、食通人は、加齢臭の匂いも嗅いでいたのかなあ。
カンピュータによる想像では、「酵素」の働きが、鮎、キュウリウオでは優れている、ということかなあ。
そして、ボウズハゼも、その酵素を持ち合わせている。ただ、その酵素の生成量は鮎、キュウリウオよりは少ない、ということかなあ。
そして、キュウリウオは、甲殻類が摂取した珪素に含まれている香り成分を食物連鎖で取り入れているのではないかなあ。
真山先生が、香りの代謝経路が解明されていない、と教えてくださったことからも、ヘボがカンピュータでの想像を行うことが、学者先生の説よりも信頼性があるかも。
相模川、多摩川以西の太平洋側の海産鮎の産卵時期が、学者先生の10月11月ではない、ということと同様に。
さて、学者先生の香りが「本然の性」と主張されていても、もはやお相手にしたくありません、ということですむが、岩井先生がその説に同意されているとなると、なんでじゃあ、となる。
岩井先生が、どのような方か、川那部先生が「アニマ」の「アユの研究、その後」にちょこっと書かれているので、それを紹介します。
「『アニマ』に先の『アユ』特集が組まれたのは一九七六年一〇月――七年あまりの前のことである。『いやだ、書かぬ』と駄々を捏ねていたのが、桜井淳史さんの見事な写真を眼前に並べられ、断る口実が無くなってしまって、遂に引き受けたのを今でも思い出す。石田力三さん・伊藤隆さん・山下善平さんから、それぞれ産卵生態・人工種苗生産・鵜飼いの原稿を貰い、進化に関する拙稿に、由良川漁業協同組合長の桑波吉太郎さんなど五人による座談会記録を加えたもの。もっともこの座談会、当日は地元のアユを賞味して皆々ご機嫌になってしまい、後日畏友岩井保さんをわずらわせて、そのとき上がらなかった話題をも挿入して完全に作り直し、編集部を驚倒させたものだった。」
由良川漁協組合長も入っている座談会は、「アユの博物誌」(平凡社)に掲載されているものと同じである。
桜井淳史さんは、「アユの博物誌」に写真を掲載されているが、その写真と「アニマ」の写真が同じかどうかはわからない。
川那部先生とお友達?の岩井先生が、無批判に香りが「本然の性」であるという説を受け容れるとは考えにくい。
ただ、「光周性要件」による性成熟の「短日化」現象が、日本中一律との学者先生の説とは異なる現象を承知されているにも関わらず、川漁師の常識、観察に依拠されないのは不思議であるが、それと同じような思考方法、判断基準があるのかなあ。
(3)四万十川の衰退と12月の鮎漁
「アニマ」1984年6月号には、四万十川の山崎武さんの「アユの生態と漁法 四万十川に生きる」が掲載されている。
山崎さんの「四万十 川漁師ものがたり」(同時代社)に記述されている事柄と重なるが、より理解しやすい事柄も書かれている。
@皿丈:旧暦での表現
「鮎の稚魚が上りはじめるのは、一月からです。その頃はだいたい三〜四センチで無色透明です。いつ上ってくるかは、やはり水温に関係しているようですね。今年はずいぶん遅かったのではないでしょうか。よく三月に出水があると鮎はだめだと言われていますが、今年は雨はなかったが、寒波がひどかったですから。」
この「一月から上る」とは、どういう意味かなあ。
山崎さんの漁場が汽水域であることから、汽水域に稚魚が移動してきた、ということではないかなあ。汽水域であれば、塩分躍層のところの底水の水温は、海水温に近く、10度くらい以上はあり、また、動物プランクトンも発生しているということではないかなあ。
「例年ならば、三月皿丈(サラダキ)と言って、旧暦の三月ですから新暦で言えば四月のちょうどいまごろですね。アユを皿に並べると頭と尻尾が皿のへりにかかるくらいの大きさになっているんです。それが今年はまだ数センチしかなくて、体色のできていない透き通ったやつもいると聞いています。」
オラは、「皿丈」が、旧暦における表現とは気がつかず、大きすぎる稚魚は何でかなあ、と感じていた。旧暦での表現であれば、十分、理解できる大きさである。
体色が変化していないのに、川に入っているアユは、遡上を目的としていない稚魚ではないかなあ。当然、まだ櫛歯状の歯に生え替わっていないであろうし。
A11月16日の再解禁の情景
「一〇月になると婚姻色がではじめて、一〇月一五日から一ヶ月間、産卵休漁となります。いわゆるさびアユが大群で下ってきて、一度河口まできます。産卵は河口から七キロから一〇キロくらいのところ。感潮域の少し上流で、ちょうど中村市の町のあたりです。アユが産卵場を通り越して、なぜ河口まで下ってくるのか、アユを見つづけてきていちばんの謎です。」
狩野川でも、河口まで下っているのかなあ。
また、狩野川の産卵場は、伊豆長岡付近と言われていたと思うが、そこは、河口から一〇キロよりも上流ではないかなあ。大仁で二〇キロくらいであったと思うが。
狩野川の産卵場といわれている伊豆長岡付近よりも下流に産卵場があるのかなあ。故松沢さんに尋ねれば、答え一発であるが。
「一一月一六日から翌年の一月三一日までが、またアユの漁期です。休漁のあいだに全部のアユが産卵して死んでしまうわけではありませんから、まだけっこうたくさん残っています。おそらく海から川に上ってきたときに育ちが悪く、春から夏にも上流のよい場所に定着できずに成長が遅れたやつだと思います。」
成長が遅れたアユではなく、「一二月生まれ」が主流ではないかと思っている。
また、一〇月下旬、一一月中旬までの狩野川では、決して小さい鮎だけが釣れるのではない。丼大王が、今は消滅して城山下の一本瀬で、丼をたらふく食べたのは一一月三日であったと思う。当然、放流ものは除外しての話である。
相模川でも、遡上鮎が釣りの主役のとき、一二月一日の再解禁のとき、それほどさびの出ていない乙女が釣れている。
「一一月一六日の再解禁日の賑わいは、それはもう筆舌に尽くしがたいですね。釣り人もたくさん出て、シャビキとかヨコガケとこの地方では言っていますが、針をたくさんつけて引っかける釣りです。よそでは針を五つも六つもつけるようですが、四万十川では二つくらいしか針をつけません。五つも針をつけたら、たくさんかかりすぎてアユを外すのが大変だからです。」
コロガシの針を二本にするのは、産卵のために集結しているアユを、あゆみちゃんの意思を無視して強姦するからであろう。産卵場に集結していないときには、五本、六本の針であっても、一本の針にしかかからないはず。もちろん、何らかの条件があって、溜まっている、あるいは固まっている状況では、一度に複数の鮎が掛かることもあろうが。それでも2匹が限度であろう。
また、遡上量が多いときの解禁日は、チビが鈴なりになるとの話もあるが、まだ、戸建て住宅住まいをする前の群れている成長段階のアユであろう。
問題は、再解禁日の情景である。
「アニマ」には、その写真が掲載されている。
流れの幅の狭いところでは、二重、八重ではなく、二重、三重に人が立ち並んでいる。
流れの幅の広いところでは、七重、八重には少し及ばないものの、びっしりと並んでいる。
これでは、産卵場に集結している親は根こそぎ取り尽くされ、また、産着卵は踏まれ、流されて、孵化できるものはわずかであろう。
この釣り人のいでたちを別の写真でみると、草鞋を履き、ズボン姿のいでたちではない。ウエーダーではないと思うが、胴長のようなものを履いている。したがって、一五度以下の水温でも冷たさを感じない道具立てになっている。したがって、草履、ズボン、ゲートルの頃と違い、11月16日でもたくさんの人がアユを獲る時代に変化している。
この再解禁の設定「日」が、学者先生の産卵時期説に基づいているのか、どうか、わからないが、四万十川の遡上鮎を激減させている重大な要因であろう。
もちろん、学者先生の産卵時期に係る教義である10月、11月に産卵行動を行っている、ということが事実であれば、すでに、産卵を終えて、孵化して、流下仔魚となり、海で生活をしている稚魚がその年の生産量の半分以上になっている、となるが。
B12月の鮎漁
「一二月になっても卵をもっているアユがいます。これがなかなか美味しいんですよ。それに、季節外れだから、市場に出すとなかなかいい値段で売れます。
私が不思議に思っているのは、この再解禁以降の鮎のほとんどが雌だということです。年を越して一月になってから獲れるアユを越年鮎と呼んでいますが、この越年鮎に雄を見たことがありません。雄のほうが短命ということなのでしょうか。」
「一二月や一月の寒い時期になると、温水(ぬくみず)つきという漁があります。これも下流ではやりません。上〜中流の漁です。太陽が照ると表面水が温くなりますね。その表面水を川岸にくぼみを作って引っぱってきて、そこに集まってきたアユを投網で獲るわけです。許可をとった漁師は交代で投網を投げます。」
さて、雌がなぜ多いのか、という話です。
温水つき漁が、中、上流域での漁である、ということで、この漁で獲れるアユが、雌が多いことはわかる。
西風が吹き荒れることから下りの行動を開始するものの、雄も雌も仲良く一緒に下りをしましょう、とはならない。
前さんの観察どおり、雄のほうが先に産卵場に到達し、何回も射精している。
したがって、一一月の、あるいは一〇月下旬の中、上流域では、雌の比率が多くなる。
そこで、気になるのは、「再解禁以降のアユのほとんどが雌だということです」の表現である。
もし、この表現の対象となる場所が、産卵場所ではなく、中上流域であれば、それなりに理解できる。しかし、産卵場も含んだ現象ということであれば、違うなあ、と思う。11月の伊豆長岡の大門橋付近では、はたいた、あるいは、はたいている途上の雄のほうが雌よりも多く釣れた。
次に、「越年鮎」の記述も気になる。
山崎さんは、「一月」の鮎をすべて、「越年鮎」と表現されているようであるが、まだ産卵行動を行う鮎が一月にもいるということであれば、その鮎は「越年鮎」とは区別して、普通の鮎として扱うべきではないかなあ。
また、前さんの越年鮎探訪記では、越年鮎が雌だけ、という結果ではない。この現象の観察の違いはどうしてかなあ。
いずれにしても、一月でも産卵場で、産卵行動をしている鮎がおり、また、雪の降る湯ヶ島でも、まだ下りをしない雌アユがいる、ということではないかなあ。もちろん、これらの現象は大量現象ではなく、例外現象であろうが。
あ、雪の降る湯ヶ島で獲れたアユは、カニ篭に入ったメス鮎たちであるから、下りをはじめた鮎ということになりますが。
ついでに、「アユ種苗の放流の現状と課題」における神奈川県内水面試験場の酒匂川、早川の調査で、漁協が「湖産しか放流していないから湖産しかない」とされながらも、また、12月に観察された鮎が存在するにもかかわらず、「総括」では、「12月アユの存在」が捨象されている現象も、学者先生の教義には、「12月産卵」の海産アユが存在しないことになっているからでしょうねえ。「湖産」放流に、海産畜養がブレンドされていると、気がつけば、また、海産アユが12月に堂々と、産卵をしている、と知っておれば、川漁師に蔑まれる結果にはならなかったでしょうに。何遍も同じことを繰り返してすんません。ジジーの習性と諦めてください。
でも、学者先生の習性の一端を渡辺先生が書かれているのでは、と、そして、ビッグコミックの「そばもん」が解説されているのでは、と。
(4)「アユを育てる水あかの驚異 釣りの植物学」(渡辺仁治)
学者先生の正体見たり?
「アニマ」1984年6月号
@「本物の味」と「違いがわかる男」の消滅
「アニマ」には、「アユを育てる水あかの驚異 釣りの植物学」を奈良女子大学渡辺仁治先生が書かれている。
この「アユを育てる水あかの驚異」が、貧腐水水が対象ではなく、中腐水水が対象であるように思えるが、そのなかに、
「私たちは長い間、放流アユ、養殖アユを天然鮎と一把一からげ(注:「十把一からげ」ではないかなあ。「一把」ということに何か意味付与をされているのかなあ)にして、一つのイメージでみる習慣に慣れきってしまったようである。アユの味にうるさい人でさえ、体型や色、肉のしまり方や舌触り、そして微妙な芳香については口やかましくても、彼らが育つ環境にまで立ち入る口うるさい輩となると、もう指折り数えるほど少なくなってしまう。」
そう、学者先生の習性、教義を語るとき、「一把一からげ」にして、現象を見、あるいは、区別されているときも「基準」となる「天然鮎」の知見をもたず、「目利き」ができないことが、自然界の生活誌とは異なる教義を確立している根源にあると考えている。
また、渡辺先生が、味等については区別されていると書かれているが、味音痴、ではなく、「本物の味」を知らないことが、アユのイメージを損なっているのかも、と考えている。
A鰹節とは?
ビッグコミックの「そばもん」は、ネットで集めた情報に基づいて、最良の鰹節を使っている、と自負していらっしゃる若者に対して何で間違っているかを教えている。
冷凍技術が進歩して、「新鮮」な鰹を煮熟することができる。しかし、それで作った鰹節は、香りがよくても、死後に体内で生じているイノシン酸への変化が行われていないため、うま味はない。
そのほか、鮮度が落ち、また頭まで煮熟して鰹節にし、削り節として販売されている「鰹節」。
「そこで、多少鮮度が悪かろうが何だろうが、かつおを丸ごと煮熟し乾燥もそこそこに削るってわけさ。
かつお節にならないのは目玉ぐらいだ。」
「こうやって歩留まりを上げ、その分値段を下げるんだが、当然質は落ちる。
そういうかつお節…もはやかつお節って言っていいのかわからない物がけっこう世の中に出回っている。」
「その結果、あのあまり出汁気のない生臭い香りがかつお出汁だと思ってる人も多い。」
削り節は「かつお削り節」と「かつお節削り節」に区分されて販売されている。
「俺が使っている『かつお節削り節』は『荒節』に何度もカビ付けをした『本枯節(ほんかれぶし)』を削ったものだ。」
「本枯節はカビ付けによってさらに水分を吸い上げて乾燥させたもので、脂肪分も分解されて、より上品でまろやかな風味となる。
手間ひまをかける分、値段も高いが、元々『かつお節』と言えば、これを指していたんだがな…」
「『荒節』のほうは『本枯節』より乾燥度が低いので魚っぽさの残るような出汁になる。」
「あんたはそういった違いを理解した上で、出汁を取ってたのかい?」
また、煮熟後の汁も利用されていて、カツオエキス、カツオエキスパウダーといったものに加工して、「鰹出汁」として使用されている。
詳しくは、2011年3月25日、4月10日発売のビッグコミックを見てください。
オラのいいたいことは、
「その結果、あのあまり出汁気のない生臭い香りがかつお出汁だと思っている人も多い。」
「あんたらの世代も、ほんとうのかつお出汁の味を知らないで育ったものが多いかもしれないな。」
「情報を集めて味見しても判断できない理由は、そのあたりにもあるのだろう。」
という箇所です。
学者先生が、せっせと実験環境や、川での調査を行って得ることができた知見を教義として布教されても、川漁師に蔑まれる現象は、「ほんとうのかつお出汁の味を知らないで育った」世代であり、その世代であることの自覚がないことに一因があるのではないかなあ。
山崎さんら、川漁師の観察が後世に伝えられることは稀となろう。そのような現象が川から、アユから消滅していくから。
そして、オラにとって悲しいことは、今後、弥太さんや山崎さんら川漁師の経験、観察が、新たに書き残されることがないこと。
そして、お女中に、関西では当たり前であった「鰹節」を削る作業を教えんがために、「本物」の鰹節をあてがったが、かつお節を削る道具は早々とどっかに消えてしまったなあ。今では関西でも、鰹節を毎日削るねえちゃんは滅びたでしょうねえ。
悲しんでいても仕方がないので、渡辺先生の「アユを育てる水あかの驚異」に移りましょう。
B「釣りの植物学」
渡辺仁治「アユを育てる水あかの驚異」
「アユは、気品の高い体型や体色もさることながら、その味においても淡水魚の王者として古くから親しまれてきた。アユが味の王者として賞味されるゆえんは、特有の芳香をもつ淡泊な味にもよろうが、優雅な姿と動き、それに、清冽な流れにすむ淡水魚のイメージが、その風味を一段と高い域へ押し上げてもいよう。しかし、アユが徹底した藻食魚ならば、あの特有の芳香を持つ風味は、アユが好んではむ水あかに由来しているはずである。」
水「あか」表現と森林
「水あかという語に対する私なりの偏見を許してもらうとすれば、川の生態への知識が乏しかった頃に、岩肌につくぬめりを人為的な言葉で不用意に代用させてしまった語と思えてならない。実はこの水あかは、顕微鏡で観察すると、それはれっきとした植物の集団であることが一目でわかる。しかも、微少な植物の集団でありながら、陸上の森林に似た群集構造をも備えている。したがって、この藻類群集はいわば水中のジャングルであり、岩肌をおおうジャングルの中には、それ相応の小型の動物もたくさん生息している。
森林や草原が陸上のすべての動物の生活を支えているように、川の中のジャングルもまた、アユを含めて、川の中のすべての動物の生活を支えているのである。この藻類群集をそれでもあかと呼ぶのならば、陸上の森林・草原そして田畑の作物さえ陸上のあかと呼ばなくてはなるまい。いささか言葉にこだわり過ぎたので、このあたりで本論に戻り、この水中ジャングルと呼んだ藻類群集の構造と生態を述べることにしたい。」
「水中のジャングルの構造」
「〜森林の喬木に相当するような緑の糸状藻がたくさん見える。その中のあるものはラン藻であり、枝分かれをしたものは緑藻である。これらの糸状藻の根元には、森林の下草にも似た、短い糸状藻と粒状の藍藻や緑藻がびっしり集合している。顕微鏡の倍率を上げると、糸状藻は細胞が一列に並んだ藻糸であり、小さな粒もまたそれぞれ一箇の細胞であることが容易に判別できる。それらの粒の中には華麗な姿をもったケイ藻も豊富である。
ケイ藻の中には、樹上の柄をもって藻糸とともに喬木の仲間入りをしているものもあれば、森林の着生植物のように藻糸へ固着しているものもある。」
これが、中腐水水での水中ジャングルではないかと思うが、貧腐水水では、どのようなジャングル、あるいは、草原を形成しているのかなあ。
「着生植物のように」の情景は、故松沢さんらが、白川の松原橋で、水草の上に囮をおいて、誰も釣りの対象とはしていなかったから大きく育った鮎を釣り、「目利き」ではないのに、仲買をはじめた人を排除するために利用したことがあった。
水草の上にもあかがつく、あかは、塩ビ管や水草からつきやすいと話されていたと思う。
喬木の仲間入りをしているケイ藻とは、どのようなイメージかなあ。
2010年、青ノロが大量発生をしたこともあった狩野川雲金で、青ノロを尻から出している鮎を釣った、と初心者らしからぬおっさんが話していた。
青ノロは消化しないのかなあ。
「水中ジャングルの形成過程」
「森林に似たこの藻類群集は、生物の集合体である以上、一朝一夕にできるものではない。ある時間をかけてつくられた構造体である。
その生成過程はまだ十分に解明されてはいないが、川床の群集を注意深く調べると、その過程の途中段階の群集を見ることもできる。」
「水中の物質はまず細菌によって薄くコーティングされ、その中へケイ藻や緑藻が侵入する。そのころまず第一回の部分剥離が起こることが、人工水路を用いた実験によって確かめられている。その後ラン藻や緑藻が着生し、生物量は急テンポで増大し群集の構造も複雑となる。群集の種類構成や構造、あるいは増大のスピードが、水質や流速の違いによって異なることはいうまでもない。」
鮎は森林の盗賊?
「陸上には上空から森林を根こそぎかすめとるような動物は存在しない。見方を変えれば、アユは貪欲な水中ジャングルの盗賊であり、ササの葉に似たはみあとは、盗賊によって破壊された痛ましい痕跡とも見えよう。
しかし、大変面白いことに、その傷あとは普通一週間を待たずして修復される。アユの旺盛な食欲をもってしても、水中ジャングルの決定的な破壊はあり得ないどころか、それは多種多様の膨大な数の水生昆虫や魚の糧を与えてなお余りあるほど膨大なエネルギー源ではある。」
故松沢さんが、白川状態の川に入ったオラに、石にぬめりはあったか、と聞かれたことがある。オラは何の意味かわからなかった。石は石本来の色のままで、らん藻の黒色になっていない。何で、ぬめりの話をされたのか、わからず、どのように答えたのか、覚えていない。
その後、白川であっても、石をさわるようにしているが、ぬるっとする状態がある。それが、細菌によるコーティングかなあ。
もし、そうだとすると、故松沢さんは、細菌によるコーティングがされると、あと何日であかが着き始める、と、判断できると考えられていたのかなあ。
森林の修復に1週間近くの時間を要するとは、どういうことかなあ。かっては、30分、1時間、2時間でボウするようになっていた、釣り返しが利くという現象は、「森林の修復」時間とは関係がない現象であろうが、釣りあげられて空き家となった大邸宅に次から次へと侵入してくる「盗賊」がいれば、1週間近くも修復の時間がかかっていれば、砂漠に近づくのではないかなあ。
ケイ藻と香り
「このケイ藻は光合成によって特有の油脂を生産し、細胞の一〇%以上が油脂で占められている。アユ特有の香りは、このケイ藻を好んではむがらだと聞くが、においが揮発性物質の刺激によることから、この結びつきの真偽はともかくとして、もっともらしい根拠はありそうである。」
渡辺先生は、食料と香りが無関係と考えられているのか、どうかわかりにくいが。
なお、渡辺先生は
「アユは、気品の高い体型や体色もさることながら、その味においても淡水魚の王者として古くから親しまれてきた。アユが味の王者として賞味されるゆえんは、特有の芳香をもつ淡泊な味にもよろうが、優雅な姿と動き、それに、清冽な流れにすむ淡水魚のイメージが、その風味を一段と高い域へ押し上げてもいよう。しかし、アユが徹底した藻食魚ならば、あの特有の芳香をもつ風味は、アユが好んではむ水あかに由来するはずである。」
と、記述されているから、シャネル5番の香りがするか、しないかは、苔の種類構成、質の違いによるということになるが。
「ケイ藻は、水中ジャングルのすき間を埋め、あるいは藻糸に着生して、その構造の肉付けをする仲間といえよう。」
ケイ藻が優占種であろう貧腐水水では、どのような表現になるのかなあ。
緑藻
「スティゲオクロニウムやクラドフォラと呼ばれる緑藻は、水中の岩や礫の所々に、あたかもススキの群叢を思わせるような集まり方をして、鮮明な緑の糸を流れにゆだねている。緑藻の種類数は、ラン藻やケイ藻と比べるとそれほど多くはない。また本来浮遊生活をするはずのものが、藻糸にまつわるようにして生育していることもある。
したがって、緑藻は水中ジャングルのアクセサリーとも見なされるが、時には、ラン藻やケイ藻をおさえて大増殖を遂げて、群集の骨組みになることもある。」
どのような条件の時に、大増殖を遂げるか、は説明されていない。そして、どのような条件があれば、大増殖が消滅するのかも。水温、富栄養化と何らかの関係があるのかなあ。
「清流」イメージの鮎だけでない
「ともあれ稚鮎の遡上復活は、その川の水から、稚鮎が忌避する要因がなくなったのみならず、その水の中にさわやかな水質要因を感じとったことを意味していよう。」
「日本の河川は確かに随分汚されて、アユにふさわしい水環境から程遠い水域にまでなり下がった川は多い。」
「河川の汚濁が軽減され、遡上鮎が青春の故郷を日本のどの川でももっと身近に感じるようになった時、淡水魚の王者としてのアユのイメージは、虚飾の落ちた、さらに深く身近な淡水魚のイメージへ昇華されるのであろう。」
田辺陽一郎「アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館)のアユは、調布の堰付近までは遡上できるよう。
そのアユの臭い匂いは、何で生成されているのかなあ。岩井先生はどのようにその現象を説明されるのかなあ。それとも、臭い匂いのするアユを経験されていないのかなあ。
(5)駒田核知「藻をはむのに便利なアユの柔らかい歯」
「アニマ」には、鮎の歯の変化が掲載されている。
歯の形状
「たとえば歯の形を見ても、稚魚の歯は円錐状であるのに対して、成魚の歯は板状であり、それが櫛(くし)状に並んでいる。」
@稚鮎の歯
「稚アユの円錐歯は、口の中の非常に広い範囲に分布している。すなわち、上顎では鋤肋骨、口蓋骨、中翼状骨、下顎では歯骨咽舌骨、基鰓骨、そしてもう少しのどの奥に入った上下二つの咽喉骨にも円錐歯が分布している。その数は総計一〇〇から一五〇本である。〜」
「これらの歯は、口のなかに取りこまれたプランクトンの逃亡を防ぐ役割をしているのである。
この稚魚の特徴である円錐状の歯は、アユが体長二〇ミリ以上に成長してから形成されはじめるが、体長が五〇ミリ以上に達するころから脱落しはじめる。そして河川に遡上して定着したころには、すべて完全に脱落してしまう。脱落の完了の時期は、海から遡上してきたアユのほうが、琵琶湖などに陸封されているものより早いようである。」
「体長五〇ミリ以上」が、一応の稚魚の歯が機能している成長段階としての上限の目安になるとすると、沖取り海産は、三月に入って採捕されているから、そのなかには、まだ稚魚段階の歯の稚アユも多く含まれているのではないかなあ。
その円形状の歯の稚アユが、大量遡上の年には畜養されずに、淡水への馴致をしてすぐに放流されている。この放流の仕方が、発育不良のアユが夏になっても、秋になっても存在していることの一つの要因ではないかなあ。
稚鮎の歯で、川の水棲昆虫をどの程度の量を食べることができるのかなあ。
動物プランクトンのいる止水域、溜まりでしか、生存できないのかなあ。
「遡上開始」とは、河口域に入ったときかなあ。汽水域に入った時かなあ。淡水域に入った時かなあ。
どの指標が適切な「遡上開始」時期となるのかなあ。
「いっぽう、円錐状の歯が形成されるのとほぼ同時期に上・下顎の前方外側部の組織中に成魚型歯系すなわち成魚の特徴である櫛状の歯の歯胚が形成されはじめる。そして、円錐状の脱落が進行すると同時に、これらの櫛状の一部が萠出しはじめる。」
A成魚の歯
櫛状歯は、上顎に一三−一五歯列が並び、それぞれの歯列は二〇−三〇本の小さな板状の歯から構成されている。この板状歯の大きさは、成魚の場合、歯長が約二.〇ミリ、最大幅約〇.四ミリであるが、萌出している部分の長さは約〇.二ミリである。板状歯は顎骨とは結合せず、顎骨上の結合組織中に埋まっているので、ある程度動く。また、エナメルロイド層(哺乳動物のエナメル質に相当する)を欠き、歯としては石灰化した程度が比較的低い。すなわち柔らかい歯である。
河川に定着したアユの成魚は、口を開いて上・下顎の外側面の前方を石にぶつけるようにして、着生藻類を削りとる。口を開くと、上・下顎の櫛状歯は結合組織に引っぱられる感じで起立し、また口腔内の底部にある舌唇も起立する。そして、藻類を削り終えて口が閉じられると同時に舌唇も咽の奥方向に倒れ、削りとられた藻類は食道のほうへ送りこまれる。
このようにしてアユは遊泳しながら着生藻類を削りとるわけだが、このときアユの口や歯を激しく石にぶつける。しかし歯の破損はきわめて少ない。それは、櫛状歯を構成する板状歯の石灰化が低くて弾力に富むからだけでなく、板状歯に可動性があり、また左右の顎骨も先端で結合していず、石にぶつかった時の衝撃を吸収するからである。」
2 東先生 お前もかあ
長崎の海産アユは、10月に産卵、ほんまかいなあ なんでや
川合禎次・川那部浩哉・水野信彦編「日本の淡水生物 侵略と攪乱の生態学」(東海大学出版会:1980年・昭和55年発行)
東先生の「二峰ピーク」の流下仔魚量調査で、学者先生の海産アユの産卵時期がまちがっちょる、と、トドメを刺すことができると、勇気凛々、心わくわく。
しかし、結果は、学者先生の教義が正しく、川漁師の観察がまちがっちょる、と。
なんでじゃあ。
天国は そんなにあまいもんやおまへん まじめにやれえ
ということで、学者先生の「常識」は、川漁師の「非常識」の難行苦行の空間に追い返されました。
まじめにやりますけど、東先生に逆らうことは、川那部先生に逆らうことになるから、ノミの心臓が痛むなあ。
とはいえ、東先生の調査結果のからくりを暴くことなくして、三途の川で、故松沢さんにあわす顔がない。
(1)オラの「二峰ピーク」のイメージ=神奈川県内水面試験場が行った相模川での流下仔魚量調査
神奈川県は、1994年ころから96年に、相模川の流下仔魚量調査を行っている。
その結果は、10月15日頃に2峰曲線の1つのピークがあり、下降曲線となり、11月1日頃にゼロに近づく。そして、11月20日頃に2つめのピークを形成し、下降していき、12月は、ある水準で安定している。その水準が0になることも。
この2峰曲線の10月15日から20日頃に形成される1つ目の峰及び、その前後の上昇曲線、下降曲線は、湖産、継代人工親に由来する流下仔魚と考えている。
11月1日以降からの上昇曲線と、11月15日過ぎに形成される2つ目の峰、及びその後の下降曲線の構成者は、海産親由来の流下仔魚と考えている。
したがって、狩野川同様、西風が吹き荒れて後、海産アユの産卵行動が始まっていると考えられる。
(2)東先生の「2峰」ピーク
調査概要
調査地点 佐賀県松浦川
調査時期 1975年:昭和50年から1977年:昭和52年
調査方法 流下仔魚を湖産由来と海産由来に区別して、流下仔魚量を調査
調査結果 10月15日頃から11月1日頃までに1つ、あるいは2つののピークが形成されている。
11月以降の流下仔魚量は、10月に比し、4分の1以下の量である。
12月から1月半ば頃まで、ゼロに近い水準の流下仔魚量が観察されていることもある。
10月10日頃からの水温は、20度くらい、20度を越える年もある。
11月、12月の水温は、10度附近であり、12月、1月に5,6度附近になっている年もあるよう。
(3)どうすれば東先生の調査結果を「放流もの」の影響といえる?
神奈川県とは違い、湖産と海産の区別はされている。また、昭和50年頃であるから、継代人工が放流ものの主役とはなっていない時期であるから、継代人工の影響は捨象できる。神奈川県の継代人工の生産は始まっている頃であるが。
故松沢さんは、この現象を見て、どのような事例を話してくれるかなあ。無い物ねだりは止めて、考えるしかないか。
@ 「湖産ブランド」に日本海側の海産が「ブレンド」されている。
間接証拠は、湖産採捕量と湖産出荷量とのウン倍の乖離。
1995年頃のアユ雑誌に浦壮一郎さん?が水産統計を使用して、偽ブランドを指摘されていた。
また、風評として、というか、当時の漁協関係者の話として、「湖産」ブランドに等級があり、酒匂川は1等級を、また、ダム補償として現物補償がされていた道志川も同じ。
相模川は低い等級:安価な「湖産」ブランドであったとのこと。
水産統計は、重量表示のようであるから、畜養による成長分の重量変化を考慮して、比較する必要があるようで、仮に水産統計資料を見ることができても、カンピュータがないと数字の比較、意味は適切に理解できないのではないかなあ。
なお、昭和52年、53年には、相模湾の稚魚が徳島に送られている。これが、単価の安い「海産」として、販売されたとは考えられません。「湖産」ブランドの増量剤に使われたのではないかなあ。
当然、相模湾よりも入手しやすかったであろう日本海側の海産稚魚が徳島に送られていたと考えることができるのではないですかねえ。
A松浦川の在来種は、僅少では
11月以降の流下仔魚量が、10月の流下仔魚量に比し、ウン分の1であることから松浦川の在来種は、僅少になる状況になっていたのではいかなあ。そして、放流河川になっていたのでは。
そして、「湖産」ブランドにブレンドされていたであろう日本海側の海産が、再生産されているのではないかなあ。
トラックで運ばれてきたアユは、海産畜養を含め、「下り」をしないで産卵するが、松浦川は流程が短く、下りをしないで産卵をしても、仔魚の弁当がなくなる前に海の動物プランクトンを食することが出来る条件にあり、「湖産」ブランドに「ブレンド」された日本海側の海産鮎の子孫が再生産をされているのではないか、と、推測している。「想像」ではなく、「推測」ですから、自信はあるが、証拠はなし。
(4)ヘボのカンピュータの見立ては?
流下仔魚量は、10の5乗表現をされているが、その部分を捨象した数字で表現します。
@ 1975年:昭和50年
「湖産」放流は死魚が多く、放流に失敗した年とのこと。
この年には、湖産親由来の流下仔魚は観測されていない。
「海産」仔魚は、10月30日頃にピークとなり、30ほど。
11月20日頃に20台に増えるがその後は減少し、12月25日頃に5くらいになった後は、ゼロまたはゼロに近い水準で2月1日頃まで推移している。水温は10度以下、5度以上。
A1976年:昭和51年
湖産流下仔魚は、9月25日頃から観察され、10近い量でピークを形成し、10月20日頃まで観察されているようである。
海産は、9月30日頃から観察され、11月10日頃に40台をピークとして、急激に減少し、11月20日頃に3くらいになり、1月10日頃まで調査をされている。
10月30日頃に20度くらいの水温になっている。
B1977年:昭和52年
相模湾の稚鮎が徳島に売られていった年である。
「湖産」の流下仔魚の量は、前年よりも低い水準であるが、11月20日頃まで観察されている。波形は小さな小山が2回出現している。その1つは11月15日頃である。
何で、「湖産」がこんなに遅くまで産卵しているのかなあ。東先生の琵琶湖での湖産生活誌では、11月はじめでも産卵している群れがあるようで、東先生には不思議ではないとは思うが。
量は5以下で、2くらいではないかなあ。
海産の波形は、10月15日頃に40,10月30日頃に30,11月15日頃に13ほどのピークを形成しながら下降している。
11月以降は、前2年とは違い、12月1日頃に5ほどのピークを形成している違いはあるが、他は、前2年と同様の水準である。
さて、このような現象をどう考えれば、故松沢さんに、ちょっとはおつむを使う川見が、いや、観察ができるようになったなあ、といわれるようになるのかなあ。
水温の関係もすっきりしない。1976年海産の11月10日頃のピークは、水温20度以下のよう。孵化日数が10日ほどとして、産卵時の10月30日の水温は、20度くらい。
1977年の海産親由来の1つのピークである10月15日頃の水温は、20度くらい、10日前では、20度以上。
岩井先生が、老人が水温の低下と性成熟に帰因する産卵行動を話されても、気にされなかった?理由は、東先生の調査結果に根拠があるのかなあ。
オラにとっても、水温が15度くらいになることが、海産の産卵行動と関連していると、前さんの記述を見方に、安心していたのになあ。
前さんは、日本海側で釣りをされたことはあるとは思うが、そのときの情景は書かれていない。唯一、江の川の支流、西城川で、池田湖産を釣られたときのことだけ。
海産親由来の流下仔魚の波形も、何度かの上昇曲線を描くことも、ピークが際だって高いこともあり、3年を比較してもあんまり似通っているようには見えないが、何らかの法則性があるのか、ないのか。
結局、ヘボの考え休むに似たり、ということでしょう。
故松沢さんは、携帯電話をももたない主義ですから、三途の川に電話をかけることができず、お知恵拝借とはならなず、休んでいる状態を継続するだけではあるが、休むことで川那部先生に楯突くことの出来る心臓になるかも。
ということで、東先生については、あゆみちゃんとの密会が終わった後、「故松沢さんの想い出補記:5」でまた紹介することにします。
その前に、気がついたことを2,3.
@湖産は海で生存できない=浸透圧調節機能不全
「京大水産学教室の岩井 保さんによれば、浸透圧調節に大切な鰓の塩細胞数が、コアユでは海産鮎よりはるかに少ないらしい。その違いが固定したものかどうかわからないが、鱗形成変異とも合わせて問題にすべきだろう。また、三重大の伊藤 隆さんのお話では、海産アユの子の淡水飼育例は多いが、コアユの海水飼育例はなんとまだ知られていないという。」
湖産アユ由来の仔稚魚が、海で生存できないということを、すでに、昭和50年頃に観察されている人がいたとは、びっくしりした。
故松沢さんが、海産アユの容姿が変わらないから、湖産も、湖産との交雑種も遡上していない、と話されて、それが事実である、と、確信するまでに何年かかったことやら。鼠ケ崎川での遡上鮎に係るアイソザイム分析の結果でやっと、「学者先生」お得意?の「定量分析的」知見が得られた、と思うことができた。
A帰ってきたアユの氏素性
東先生は、
「春に唐津湾からやってくるアユを、うかつにも今海産アユと呼んだが、そのなかには前年、いやその何年か前から代々伝えられてきたコアユの子孫が含まれていてもおかしくない。仮に前年生まれのコアユが海からきて川で育ち、産卵に参加したならば、そのコアユ放流効果が仮にゼロであっても、流下仔魚のなかにはコアユの特徴をもったものが含まれて然るべきだ。それが認められなかったのはなぜか。毎年のコアユ放流量が海産アユ溯上とくらべて微々たるものなら、あるいは目立たないかもしれないが、この川ではそれは考えにくい。そうとすれば、いったん海にでたコアユの子は死に絶えるか、海産アユに変身するか、そのいずれかということになる。ともあれ、翌年コアユとして川に帰ってきていないことだけは確かなようだ。」
この推理と評価には納得できる。
神奈川県が、1994年から96年に行った流下仔魚量調査で、東先生の流下仔魚の氏素性を区別されてから、10年以上もたっているのに、何で、「十把一絡げ」の流下仔魚量調査をされていたのかなあ。不思議ですね。学問の伝播は、釣り道具、釣り方の伝播と違い、「蛸壺」文化そのものということかなあ。
もうひとつ、東先生は、「コアユ」の子孫の有無にまで目配りをされているのであるから、日本海側の海産親鮎由来かも、と疑問をもってくれていたならば、学者先生の10月、11月海産アユの産卵時期説が、適切な教義ではない、と気がつく人もいたのではないかなあ。
多分、宇川での産卵時期、流下仔魚観察時期との齟齬が認められないから、疑問を持たれなかったのでは、と想像しているが。
ということで、何回目かの愚痴になるが、宇川ではなく、紀伊半島の川が川那部先生らのアユ生態調査対象になっておれば、学者先生の教義が猛威をふるうことにならなかったかも。
B下りをしない親アユの10月の産着卵は腐る現象
故松沢さんが、10月に産卵された卵は腐る、と話されていて、その原因を20度くらい以上の水温、あるいは、孵化期間中の水温変化では、と考えていた。
しかし、海産が20度くらいで孵化しているから、水温が腐る卵の犯人とはいえなくなった。
継代人工が親であることに起因する孵化率の問題かなあ。
この問題がいちばん困った。性成熟をする時期については、鈴木先生の「晩熟型」という格付けには同意できないが、継代人工の影響が稀少であった時期の生殖腺体重比の調査であることが幸運となって、川漁師の観察との齟齬を来していない。では、10月の水温20度くらい以上で、何で海産が産卵しても孵化できるのか。何で、継代人工は腐る卵が出現するのか。
C狩野川に「特有」の「晩熟」のアユ
鈴木先生の生殖腺体重比の調査が、もう2,3年遅かったら、「晩熟」の鮎は減り、学者先生の教義どおりの生殖腺重量体重比の分布曲線が観察されていたと確信している。
鈴木先生の生殖腺体重比の調査は、調査対象のアユを「十把一絡げ」で扱っていたから。
平成3,4年頃から、狩野川の遡上量は減少の一途を辿り、1995年:平成7年から、遡上量は僅少に。
放流ものの静岡2系?が主役となったよう。
昭和の御代には、静岡2系?も放流されていたが、鈴木先生の調査結果から見ても明らかなように、誤った評価を行うほどの大量現象にはなっていなかった。
大見川は、堰のためか、遡上ができずに「湖産」放流の川であったが、アユの品格にうるさかった亡き師匠が大見川では釣っていたから、「湖産」ブランドの上級が放流されていたのではないかなあ。
昭和の御代の狩野川の賑わいは、平成4,5年以降の狩野川からは想像できないほどであった。したがって、等級の高い「湖産」購入資金は潤沢であったと思う。
ということで、調査を行った「時」が調査結果に大きく影響をしていて、「天然」ものの評価を誤ることになるのではないかなあ。
今西博士や素石さんらが、山女魚の調査をもう10年、20年遅くはじめていて、トラックで運ばれる山女魚が当たり前、という時になっていたら、「本物」、「在来種」の容姿の識別ができなくなっていたのではないかなあ。
東先生の調査結果が「場所の文法」に適合しているというべきか、「場所の文法」を無視しているというべきか、それが問題だ。
トラックに運ばれてくる鮎がおらず、松浦川の住人だけが、年々歳々性の営みを繰り返していたのであれば、「場所の文法」に悩むことはない。
しかし、トラックで運ばれてきた鮎が、再生産に寄与している、となると、「水産や釣りを目的とした淡水魚の移植が各地の自然の淡水魚相に及ぼしつつある影響を考えると、〜」(「日本の淡水生物」)という状況になっているのではないかなあ。
その状況での「場所の文法」の基準は何になるのかなあ。
日本海側の鮎の性成熟、産卵時期と相模川以西の太平洋側の鮎の性成熟、産卵時期が同じであれば、本州の「場所の文法」は1つの基準しかなかろう。
しかし、鈴木先生が、狩野川の性成熟が「晩熟型」と評価する現象が存在していることは、否定できないであろう。もちろん、川漁師にとっては、「晩熟型」ではなく、当然の自然現象であり、学者先生の教義に照らせば、「晩熟型」と表現されることになるに過ぎないが。
「晩熟型」でない日本海側の鮎が松浦川で再生産をしているとき、「侵略者」になるのかなあ。それとも?
「場所の文法」に基づく評価も難しくなるようですね。
東先生への唯一のいちゃもんのよりどころは、水温と孵化障害の関係が消滅した状況となったから、性成熟の時期だけになってしまい、心細い限りです。
しかし、遡上鮎が満ちあふれていて、放流ものが僅少であった最後の時期に行われた鈴木先生の性成熟に係る生殖腺体重比の調査結果は、最後のよりどころになってくれるかも。
もちろん、生殖腺体重比が低い段階でも、産卵を行う、ということになると、お手上げですが。
あ、もうひとつ、故松沢さんに聞き忘れたことに、増水で下りをした鮎が、産卵場付近で食糧をどうするのか、ということです。
生殖腺体重比がピークに達していない段階で、産卵するとは考えにくい。ある時期以降に増水で産卵場に到達した鮎は縄張りを解消すれば、十分な食糧があったのかなあ。
弥太さんは、増水による下りが秋分の日以降に生じると話されているが、早すぎないかなあ。もし、そうであるとすると、性成熟まで1か月ほどの時間があるが。それとも、増水による下りといっても走りの現象に過ぎないのかなあ。
長良川で、増水による下りでヤナ漁が大量になっていたのは、10月中旬であるとの話を大多サはされているが、たまたまその時期に増水があった年だけの大漁現象なのか、それとも?
さて、川那部先生は、子供たちに(太字は原文のまま)
「それでは、川の魚にとってどんな川がよいのか。それを知るためには、どうしたらよいか。それは、その魚、川に棲んでいる魚に聞いてみることです。あまりにあたりまえのことで、『なーんだ』と思うに違いないのですが、正解はこれで、それ以外にはありません。とくに人間、ヒトという種は、なんといっても陸上、それも地表面の生きものです。水の中のことはわからないことばかり。想像しようと思っても、想像の付かないことがいっぱいあります。ただ、水の中のことを一般よりは少し良く知っている人に、水の中の生きものと関係して暮らしを立てている、すなわち漁師さんがあります。琵琶湖などの場合は、こういう方が今もいらっしゃいますが、小さな川ではもう無理でしょう。」
素石さんも松沢さんも亡くなられた。素石さんは漁師ではないが。
釣り名人はいても、「十把一絡げ」でアユを考えずに、そして、氏素性で生活誌を異にすることに注意を払っている「釣り名人」は、どのくらいいらっしゃるのかなあ。
東先生は鬼門じゃあ。
岩井先生が、光周性要件を、短日化=秋分の日を基準とされていた理由が、東先生の松浦川の調査結果に起因している可能性があることはわかったが。
「故松沢さんの思い出補記:5」が、新たな証拠も、推理も見つからず、今回の所見で終わることになろうが、それはひとえに、川漁師の松沢さんに尋ねることができないからです。
故松沢さんは、「アユに聞いたことがないからわからないが」の枕詞で、東先生の調査結果に対して、どのような現象、事例を話してくれるのかなあ。
ということで、川那部先生から送っていただいた資料の探索に戻ります。
3 川那部先生と子どもたちのおはなしから
(1)カッパのお話
やっと、「川の生態系」(子どもと川とまちのフォーラム)に戻ってこられた。
戻ってくることができたのはよいが、棲み分けや食い分け、生物群集、生態系のお話となると、去年の難行苦行がよみがえり、気が滅入るので、まずは、カッパのお話からはじめます。
「故松沢さんの想い出:補記4」のなかで、「川の生態系」の紹介が終わるのか、それとも、補記:5になるのか、だんだんとあゆみちゃんのお尻を追っかける季節が近づき、気もそぞろになっているためにどうなることやらわかりませんが。
(太字は原文のとおりです。それに、気まぐれに青色で着色し、時にはフォントを大きくしています。原文にない改行をしています。オラの強調は赤で行っています。)
@カッパのふるさと:住処=激流と淵
「あの、私、まだ見たことないんです。残念ながら…。カッパは見たことはないんですが、『あそこにいる』という話は、ようけ聞いたことがあります。関東では牛久沼(うしくぬま)が有名やそうですが、あれは例外的で、たいていは川の深い淵、それも、そのすぐ上手に流れるものすごう速い瀬のある、そういう淵が多いんです。『いるとしたらきっとそんなとこやろなぁ』と、私も思います。
昔、40年以上前(注:一九六〇年頃?)かな、四国の吉野川でのことです。アユの数やら大きさやら、なわばりをもっている群れなのか、そういうことを調べるのには、ふつうは川の中を泳いで流れ下って数えるのです。しかし、吉野川の場合、大きすぎるし流れが速すぎて、数える間もなく通り過ぎてしまう。そこで、上流の樹にくくりつけた綱を腰に巻いて、ゴムボートに乗って、箱眼鏡を水の中に浸けて、見ながら下るんです。そして、その綱を少しずつ緩めて、ゴムボートを下流へ進めるわけです。
瀬のあいだは、なんぼ流れが速うても、ゴムボートは水面に浮いてる。ところが、淵のとこへ来ると下向け、つまり水の中のほう、底のほうというほうがええかな、に、ぎゅっと引っ張り込まれる。それであわてて綱を腰から外して、無事に淵の水面をゴムボートで流されたのですけど、『あっ、これが〈カッパが引き込む〉というやつやな』と思ったもんです。」
さて、カッパの住処と思われる場所を、黒田明憲「江の川物語 川漁師聞書」(みずのわ出版)で、中山さんの話された「瀬・淵・瀞・岩の名前」で見てみましょう。
「カブト岩
落合の対岸の尾関山のふもとから岩盤が川まで突き出した岩がある。戦国時代、毛利・尼子の戦場となったとき、尼子の武将が戦いに敗れカブトを脱いだという伝説にちなんでカブト岩という。落合の漁師はこのカブト岩の沈み具合、まわりを渦巻く渦の大きさで水量を計り、漁の場所を決める。」
「じい岩、ばあ岩
江の川をはさんで広島県側の作木村(さくぎそん)に『ばあ岩』、島根県側の羽須美村(はすみむら)に『じい岩』がある。その名のように、ばあ岩は少し小ぶりで丸く、じい岩は四角で大きい。
『川を挟んで向き合っているが、実はこの岩、毎年米一粒ずつ近寄っているそうな。
この大きな岩がくっついた時には、江の川変じて大海になるそうな。おそろしや、おそろしや』
江の川に伝わる民話の一つであるが、案内をしていただいた崎川功さんに、
『岩が動くというのは、大水で少しずつ下流に流されるということですかね』
と訊ねると、
『いんや、大きな岩は上に動く』
『そりゃ、どういうことですか』
『川に潜って大きな岩の下にいってみんさい、ようわかるけえ。岩にあたった水が下を掘って深こうになったり、洞窟のようになったりしとるけえ。掘れこんだところへ岩が落ち込むけえ、大きな岩は上に動くんよの。このことは親父も言うとった』
父子相伝の川の話である。」
岩が上流に動くとは、君が代の「さざれ石のいわおとなりて」と同じ表現ということであろう。事実かどうか、未だにわからないが。
羽須美村は、野田さんが、村民皆泳の村として紹介されている。
「エンコウ岩
エンコウ岩という岩の呼び名は各地にあるが、作木村だけでも三,四ヵ所にある。エンコウは妖怪であるが、流域の人々は親しみを込めながらエンコウ話を語る。
『むかし、むかし、イワキブチのエンコウの棲みかの入り口に、肥え担桶(たご)が流れてきて、【くそうて子どもが死にそうなんで、取ってくれないか】と頼みにきたそうな。それでひかかっていた肥え担桶を取ってやると、あくる朝、耳デッチ(髪型)をした三つ四つぐらいの子どもがアユをようけい持ってきたそうな』
エンコウ岩の共通性は岩の下が掘れこんで穴ができており、魚の絶好の棲み家となっていることである。魚を獲ろうとその穴に潜りこむと出られなくなる恐れもあるため、『近寄ると引っ張り込まれる』『キモを抜かれる』などといって戒めにした。
エンコウ岩もまた漁の目じるしであった。」
岩や瀞等は、漁の場所である、同時に目印である。
「一つひとつの漁場――瀬・淵・瀞――にはみんな名前がつけられていた。地域の人に親しまれた呼び名以外に、家の屋号、地名、漁師仲間の名前、漁にまつわる思い出などが名前としてつけられ、実に細かく区切られる。」
故松沢さんが、長良川郡上八幡での釣り場について、オラが雑誌で表現されている名前を挙げても、、呼び名はいろいろある、と、話されていたが。
「『なんで、あんな小さな石にまで名前がつけてあるんですか』
と聞くと、
『わしらによっては岩は水加減を測る物差しじゃけえ。どの岩が自ら頭をだしゃあ、どこまで網がおろせる。あのマタ岩のマタが見えんときは、まだ水が高いから舟がだせんとか』
いい漁場には必ず石や岩に名前がつけられている。大岩・亀岩・畳岩・兜岩とそれぞれにものの形や伝説などになぞらえて漁の目安にした。川漁師にとって石は水の物差しであり、警報装置なのである。」
「エンコウ」が登場したことで、江の川と暫しの間わかれることにし、川那部先生のお話に戻ります。
A カッパの容姿・特徴
「カッパってどんなかっこうしているか、皆さん知ってますか。カッパって、川のわらわ、つまり名前どおりの子どもなんですね、少なくとの格好は…。それで、女のカッパ、メスのカッパはいない。いや、そういうたらいけませんね、女のような格好をしたカッパは、昔はいなかった。女のカッパが生まれたのは、せいぜい50年ぐらい前のことでしょう。清水昆(こん)さんの漫画が最初やと思います。小川芋銭(うせん)さんのはどうやったかなあ。」
カッパの女の誕生、容姿の区分まで、気配りをされているとは、さすが、川那部先生。
清水昆さんはわかるが、小川さんはどんなカッパを書かれていたのかなあ。
「ところでカッパには、ものすごく不思議な性質があるの、知ってる? 知らん? 右腕でも左腕でも、たとえば手のひらをつかまえて引っぱったら、腕の長さが2倍まで伸びるんです。そのかわり逆の側のが引っ込む。私にはできないし、あなた方もできないでしょう。カッパやない証拠やね。つまり、右腕の先から左腕の先まで1本で繋がってる、骨でね。
こういう生きものは何かというと、これは難しい。脊椎(せきつい)動物、つまりサカナやカエルやワニやトリやケモノは、両腕は肩の骨を通じて脊椎につながっているので、こういうのは無理です。カッパの腕の骨は、背骨とは無関係やということです。だから、ものすごく変な生きものです。人形作って、胴体と手とをそれぞれ1本の竹ひごで作ると、カッパのようになります。そういうの大好きですから、ぜひほんとうにいたらええなと思ってるんです。」
カッパの生物学上の分類まで考えるとは、川那部先生はどんなおつむの構造、感性をされているのかなあ。
そして、「さまざまに描かれたカッパ」が、記載されている。
「日本山海名物図会の河太郎」
「北斎漫画のカッパ」
「和漢三才図会の川太郎図」
「耳袋巻」
「根奈志具佐」
「虚実雑談集」
「画図百鬼夜行のカッパ図」
の7種です。
遠野のカッパはその7種にはいるのかなあ。遠野物語に容姿まで書かれているのかなあ。
江の川の「エンコウ」は、どうかなあ。
「江の川物語」に、エンコウの挿絵が描かれているが、それは、伝承のエンコウと同じかなあ。
エンコウは、「耳デッチ」とのことで、「耳袋巻」と関係があるのかなあ。
江の川では、獺とカッパはどのような関係にあったのかなあ。
B カッパの呼称
「ついでにいうと、関西から西では『がたろ』っていう。『かわたろう』、『川の太郎ちゃん』の意味です。それに、カッパは大きな川の淵にいるんですけど、どういうわけか、京都には江戸時代からカッパが少なかった。京都市内はカッパ伝説がほとんどないとこです。しかし、いたらええですね。ぜひ探してください。ひょっとしたら、どこかにいるかも知れない。」
ということですが、江の川には、「がたろ」の呼称はないのかなあ。
また、「エンコウ」の呼称は江の川だけかなあ。あるいは、どの範囲で流布しているのかなあ。あるいは、カッパ伝説、意味付与に何か違いがあるのかなあ。
C カッパが棲めない川に
「さっきいうたように、脊椎動物らしいけど、そうやとすると、ものすごうへんやし…。それでも、カッパがいるような深い淵、アユやらなんやらもそこへ逃げ込めるし、水面近くから下をのぞくと、ウグイやらがようけいて、底が動くような淵は、もうほとんどありませんからね。やっぱり、カッパのいそうな淵は、何とか欲しいなあって、思います。」
D カッパがいた頃の川:江の川
ア 黒田明憲「江の川物語」(みずのわ出版)の「船頭 原田文九郎」から
「高瀬舟に積み込まれていた『舟だんす』が最近になって寄贈された。このたんすの中に高瀬舟の帆・滑車・ハマビキ・帆柱をくくる綱など一式を納めていたそうである。使っていた人は作木村の出身で、若い時は高瀬舟の船頭として活躍した故原田文九郎さんである。舟の往来がとまってからは川漁師として活躍し、晩年はまちから来る釣り人や川の研究者たちに江の川を語り、『江の川の案内人』と親しまれた。一九九八(平成十)年故人となり、江の川を見下ろす墓地に眠っている。」
「原田文九郎は一九〇七(明治四十年)年に五人兄弟の四男として作木村に生まれた。父親についてアユ漁を始めたのは十二才の時であったが、兄たちは高瀬舟で江津まで荷を運んでいた。風を受け、はち切れんばかりに帆を張った舟が、かけ声も勇ましく下っていくさまを、まだ夜も明け切らない岸に立って見送る時、舟に乗る日の来るのが待ち遠しかった。
文九郎が川漁に加わるようになった年の春に、三つ違いのすぐ上の兄が舟の事故で死んだ。荒瀬で舟の曳き綱が切れてバランスを崩し、あっという間に流れに巻き込まれたのである。死体が一週間後に七曲がりの淵で見つかった。知らせを聞いた彼は、母と一緒に現場へ泣きながら駆けつけた。兄はサンパチをかぶり、蓑(みの)をつけ、出かける前と同じいでたちであったが、事故から一週間も経っていたので、死体は膨れ上がり痛々しい姿になっていた。医者が検死のためはさみで股引(ももひき)を切り裂いていくのだが、とても正視することはできなかった。
やがて文九郎も舟に乗ることになる。サンパチをかぶり、紺屋で染めた襦袢(じゅばん)、股引の身支度を整えてもらった。厳格な父磯右衛門は足をきれいに洗い清めないと舟に乗せなかった。
『船板の底は地獄だ』
と、父は厳しく文九郎を仕込んだ。
積み荷は米の運搬が主で、米俵を背負うわけだが、毎日のことで背中の皮がはげて汗が沁みた。
愉しみもあった。担げなかった俵が一俵、二俵と一度に背負えるようになり、
『大きになったもんよのう』
と声をかけられる嬉しさは、また格別であった。
『よし、この次からは!』
と力が湧いた。
朝霧が山ひだをはい上がる頃、舟の上でうぐいすの声を耳にするのも、つらさを忘れるひとときであり、瀞や淵にかかると父親が舟歌でいいのどを聞かせてくれた。こんな時は舟に乗る幸せすら感じたものだった。
作木から江津までの二十一里(約八十キロ)の間には何十という瀬があり、そこには大小の岩が舟の行く手を阻んだ。しかし、船頭は竿で迫りくる岩を次々とよけながら三十尺(一〇.八メートル)の舟を巧みに操り下った。最大の難所は島根県の大和村にある『荷越の瀬』である。あまりにも急流で事故が多いため、川底には石畳が敷かれていたが、それでも多くの船頭が命を落とした。積み荷のままでは到底越えることはできない。上りも下りもすべて荷を降ろし、背負ったり、大八車に乗せて超したところから、ニコシの名前がつけられたのであろう。
『荷越の瀬を下る時は、すり鉢の底に吸い込まれるような気がした。』
と思い出を辿る。」
「三江線が開通し高瀬舟は姿を消し港の賑わいもなかった。仕事を失った文九郎は一家を連れて山口県宇部の炭坑にいったが、終戦と共に再び故郷に帰り、川漁で暮らしをたてた。
時は流れた。八十才になった文九郎は、村の衣料品店で白布を求め、『文』の字を入れてアユ漁に使う軽古舟に帆を張った。父親から受け継いだ舟だんすに帆を上げる滑車や曳き綱などこまごまとしたものは大事に保管していたので、さして準備に手間はとらなかった。小さな帆かけ船だったが、高瀬舟の再現である。村人が見守るなか、文九郎は川面に帆を光らせながら何度も上り下りした。舟上で文九郎は過ぎ来たし方を思い遣った。
『この年までよう生きてきたものだと思う。今こうして父を偲ぶかたがた舟に乗り、櫂を握っていると、時の流れを身に沁みて感じる。移り変わる時代の中を精一杯生きてきた。舟業の厳しさをくぐり抜けてきて、もう驚くことはなにもない。江の川の豊かさと厳しさを知りつくし、その中で生きた自分。お陰で全国から訪ねてくれる釣り人達もいる。季節季節に訪れる人のすべてを受け容れ、与えられる限りのものを与える。なんとありがたいことか――』
イ 「七日淵の事故」
天野勝則「川漁師の語り アユと江の川」(中国新聞社)
中学卒業の1954年のこと
「卒業した年の九月の中頃だったと思います。川は少し増水していました。落ちアユが産卵する直前で、水量が多いため夜でも活発に動きます。それを狙ってみんな漁に出かけます。舟のない私も、夕方、川の中に入り、ちゃぐり漁(ころがし)のアユ竿(ざお)を振り回しておりました。すると目の前で舟に乗り、ちゃぐり漁をしていた人から『舟を貸すで、この釣り場で朝までやらんか』と頼まれました。
江の川の習わしではどんないい釣り場でも、そこで最初に漁を始めた人に優先権があります。その人がそこを退かない限り、他の人は割り込めないという不文律です。その時、私も『これで型のそろった大きなアユが捕れる』と胸を躍らせ二つ返事で請け負いました。舟を貸してくれた人は翌日もこの釣り場を確保したいために私に話を持ちかけたのです。
期待どおり、型のそろった大きなアユがたくさん捕れました。しかし、年端(としは)も行かぬ十五才の少年のこと、明け方近くになると、疲れから、知らぬ間にうつらうつらとしてしまいました。その間、上流で降った雨で川は一段と増水していました。
異常に気付いたときにはすでに舟は真横になっていました。流れてきた木材が、錨(いかり)ロープを引っかけ、切ってしまったのです。水浸しの舟が濁流に翻弄(ほんろう)され、矢のように駆け下っていきます。闇を透かしてみると、目の前にはゴウゴウと渦(うず)を巻いている七日淵が横たわっていました。巻き込まれると七日間は出てこられないと伝わる地獄淵です。すでに舟は垂直に立ち、渦の中に吸い込まれようとしていました。『これはいけん』力いっぱい舟を蹴とばし水中に身を躍らせました。寒さよけにたくさん着込んでいたので、もがくばかりでなかなか渦から抜け出せません。
水をしこたま飲みました。呼吸もままなりません。しかし、『なあに、こんなことで死なれるものか』と呪文(じゅもん)のように唱えバタバタ手足を動かしているうちに、何とか岸にたどり着きました。どれほど時間がたったのか、長いような、短いような時でした。その時、朝の五時を告げるサイレンが聞こえました。『ああ助かった』
『天野は死んだろう』
その頃、川べりで漁をしていた人たちは『天野は流されて死んだろう』とひと騒動だったそうです。舟は七日淵より三キロばかり下流で引き揚げられましたが、舟を探すのを手伝ってもらった人への謝礼や舟の修理で物入りでした。その時、母が何もいわずにさっと払ってくれました。きっと私がせっせと母に渡したお金をためていてくれたのでしょう。
一寝入りしたあと、自転車で土手沿いに七日淵の上に行ってみました。見下すと直径一メートル以上もある巨大な渦が、大きく口を開けゴウゴウとうなり声を上げていました。その渦の中へ吸い込まれ、無事、生きて帰れたのが不思議でした。
『あの死の淵から帰ってきたのだ。これで江の川では、私は不死身だ』。そんな思いが体の内からフツフツと湧き上がってきました。それからは、夜、川へ出掛けるのも、増水の中で舟を操るのも、恐ろしいということがなくなり、そのためかどうかアユも以前より多く捕れるようになりました。しかし、それで少し生意気にもなったのでしょう、油断して舟竿に弾かれて川の中に投げ出されることも度々でした。
川舟は若く体の軟らかい時に慣れておかないと、なかなか上達しないものです。頭で覚えるものでなく体で覚えるものだからでしょう。『竿は三年、艪(ろ)は三月』と昔からいわれていますが、それくらい難しいものです。現在、川戸地区でも竿が差せる人は数えるほどになりました。
毎年五月になるとこの地区で水神祭り(猿獺〈えんこう〉祭り)をします。川舟に御輿(みこし)を載せて運ぶのですが、私と七十才ばかりのお年寄り二人が中心になって舟を操っています。『あと四,五年もすると水神祭りの前に、若手に集まってもらって船頭教育をするか、船外機をつけた舟を使わんと、祭りが成り立たんですのお』など冗談半分に話し合っております。」
天野さんが九死に一生を得た鮎漁の時期は九月中頃。
下りの為の集結か、産卵場に集結していたのかわからないが。
その頃の気温は、「着込んでいた」とのことであるから、相模川以西の九月中旬の気温とはくらべられないほど低いといえよう。
十月はじめの大井川で夜明け前の散歩をするときでも、長袖を着ていれば寒さを感じないから、九月中旬では、夜明け前でも、半袖で寒さを感じないで散歩ができる。
「江の川物語」の「川漁師の日記帳」で、「島根県邑智(おおち)郡邑智町の川漁師、竹内喜一さん、八十九才」の話されたことが書かれている。
「若い喜一は昼間は友釣りで瀬から瀬を掛けて渡った。当時、邑智(おおち)から桜江(さくえ)町の川戸(かわど)まで舟で友釣りに行って戻るという芸当ができる者は他にいなかったと自慢する。夕方になると、夜のツケバリの餌になるドジョウ・ゴリ・セムシを捕る。日が落ち始めるとツケバリを降ろして家に帰り、九時過ぎから明け方まで夫婦舟で建網を降ろした。シゲヨの仕事は夫婦舟以外に行商、網の修理だった。五十年間、二人はこうした生活を繰り返した。
六年前の夏の終り、私も一度、漁に連れて出てもらった。
九月にはいると江の川の夕暮れは早い。午後四時を少しまわり、川岸まで迫る山並みに太陽が姿を消し始めると、喜一とシゲヨは食事をとり、喜一は庭に干してあった網を降ろして舟に積み込み、川原に立ってじっと川を見る。二十分、三十分、時間がゆっくりと流れる。その間、ただじっと川を見ている。
『おじいさん、何を見ょうるんね』
と声をかけると、喜一は夕もやの川面に、魚が跳ねて広がり消えていく小さな水の輪を指した。あっちにもこっちにも無数の輪が広がり消える。
あたりが薄暗くなった。すると私たちが立っている水際、三、四メートルのところでバシャ、バシャとアユが跳ねる。浅瀬に寄ってきたのであろう。『この時期、アイが一匹跳べば、その下には千匹のアイがおる。今晩どこに網を降ろすか考えとるでな。このときが一番の楽しみでなあ』
やがて、夕やみが辺りをすっぽりと包み込み、空も山も川も黒一色になる。向こう岸を走る車のライトが、時折川面を照らす。喜一とシゲヨが音を立てないように舟に乗り込む。船外機の音がポンポンと響く。網を降ろすのはシゲヨである。
一人川原に残された私は、寝転んで夜空を見上げた。星が降るとはこの空をいうのだろう。
やがて、川面を竿でたたく水音が聞こえ、カーバイトの灯りが闇の中の二人の姿を照らし出す。その夜獲れたアユは七キロちょっと。初めてシゲヨが口を開いた。
『まあまあがだね。持って帰って、食べちゃいんさい』
尺アユとまでは行かないが、二十センチをこえる数匹のアユを貰った。川原に寝転んでみた星の降る夜空、あぶらの乗り切ったアユ、忘れられない思い出の一夜となった。」
そう、喜一さんをあえて、カッパのお話に登場させたのは、東先生の松浦川での調査で観察された十月の流下仔魚の親が日本海側の海産である、日本海側の産卵時期と一致する、という証拠集めのためです。
もっとも、すでに浜原ダムができているから、「湖産」ブランドが放流されているであろうから、「湖産」の可能性もゼロではないが。とはいえ、邑智町の浜原ダム下流で喜一さんが9月の下りのために集結した鮎を対象とした漁を行ったのであれば、遡上量が多ければ「放流物」の影響は少ないと思うが。
九月に入って、下りの集結をしているから「一跳ね千匹」の現象になっているのであろう。
なお、学者先生は琉球鮎をのぞく日本列島の海産鮎産卵が10月始めから盛期を迎えている、とおっしゃるから、10月1日頃から産卵をしている日本海側の産卵時期は、弥太さんら川漁師の「常識」を正当化する証拠にはならないが。
日本海側の海産産卵時期が、湖産と重なっていることについては、日本海側の海産と湖産の交雑の問題として、
山形県内水面試験場の調査報告 全国内水面漁業組合連合会「アユ種苗の放流の現状と課題」に、
「また、毎年遺伝子頻度に変化が認められないことは、湖産アユ雌雄の交配による仔魚のみならず、湖産アユと海産アユの正逆交雑による仔魚も翌年の遡上稚魚の中に含まれる可能性が非常に低いことも示している。これは海産アユ雌親魚卵が無駄になることになり、湖産由来の仔魚が翌年の資源添加に結びつかないどころか、その河川の海産アユ資源の減耗要因にもなりかねないことが推測される。」
と、資源の減耗の可能性にまで言及されている。
東先生の松浦川での流下仔魚調査が、「日本海側海産」由来の親でないとすれば、相模川以西の太平洋側の「海産アユ」についても、山形県と同様の「海産資源の減耗要因」が懸念されることになるが。
そのような結果を故松沢さんらは観察されていませんが。
鈴木先生が、狩野川での生殖腺重量体重比の調査を、昭和と平成の変わり目で行ってくれたことに感謝感激です。学者先生の土俵で、今のところ、唯一の、相模川以西での海産アユ産卵時期調査ですから。
もちろん、生殖腺重量体重比がピークになる前にも産卵をしている、という大量現象がある、といわれると、川漁師の「常識」を検証する証拠能力は低下することになりますが。
それにしても、平成の代になってから数年後に、稚魚の生存を妨げるどのような変化が駿河湾に生じたのかなあ。
山形県が、湖産放流に早い段階で決別し、「1代目」?人工アユの生産を早い段階で行ったのは、冷水病の問題もあるが、産卵時期が湖産と重なることによる海産資源の「減耗」も、1要因であろう。
それに対して、神奈川県の30ウン代目の川での生存率調査が、2010年中津川角田大橋左岸支流で行われたにもかかわらず、その時の死骸を調査された内水面試験場が依頼者?の神奈川県の財団法人種苗センター?への配慮か、それ以外の理由かわからないが、堂々と開示できないこととは大きな違いですね。
いや、数日で5キロの死骸になり、その後も死骸が下流側の通行止めとして設置された網に、あるいは、苦しくて?草むらに跳ね上がり死んでいった数量はある程度わかっている。その生存率がどのくらいか、については、巷間に噂されている生存率3割よりも低い数字ではないのかなあ。死んだ数量はだいたいわかるが、元数量がわからないため、「比率」がわからないだけ。
あ、また、カッパのお話とは関係ないですね。まあ、そういわずに、ジジーの愚痴も聞いてくださいよ。
E カッパがいた頃の川:増水で流されない魚 「洪水が来ると魚はどうするか?」
川那部先生は、子供たちに
「そうそう、出してもらった質問の中に、洪水が来るとアユはどうするのかっていう問題、いや、アユだけではない、一般に『魚はどうするのか』、『どう行動するのか』というのがありました。ここでちょっと考えてみましょう。これ、皆さんはどう思います?流れの速い早瀬のど真ん中にそのままいれば、もちろん流されてしまいますね。深くて淀んでいる大きい淵なら、少しぐらい水が増えても、底のほうは流れが少し緩(ゆる)いですね。また、川の真ん中は流れが速いけども、岸寄りのところは流れがある程度緩いですね。洪水になると水面は上昇します。岸がなだらかな傾斜であれば川幅が拡(ひろ)がって、その拡がった状態の岸は、またある程度流れが緩くなる。さらに、大きな石の下手側、とくにえぐれていたりすると、そこは流れが遅いから大丈夫です。なんということはない、川の中で緩いところを選んでそこへ逃げこめば良いわけです。
さあここで、私が先にいったことを思い出してください。いわゆる河川改修は、川をどう変える方向のものだったか。蛇行(だこう)しなくなって、直線になる。深い淵と流れの速い瀬がなくなって、だらだらっとした一様なものになる。岸は垂直に近い護岸(ごがん)におおわれて、水位が高くなっても横方向にはひろがらない。大きい石が川の中にごろごろしていることはない。ほとんど完全に『ないないづくし』です。洪水の時、魚には逃げ場がなくなったわけです。」
川那部先生は、洪水が収まるとき、元の住処に戻るが、ダム等の水門操作で、川原に取り残される魚が出てくる。
「そうなんです。人間もほんとうはそうなのですが、魚でも何でも生きものの反応は、歴史的に決まっているものがほとんどです。自分たちのお父さんやお母さん、おじいさんおばあさん、こういう先祖代々も、洪水が起こったりそれが回復したりするのに、何度も会ってきた。だから『洪水の来るときは急いで逃げないとだめだ』ということを、川に棲む魚たちは『知って』いる。そういう性質を持っていないものは死んでしまい、子孫が続いていかないからです。
しかし、『洪水からの回復のときも、急いで戻らなければならない』とは、魚たちは全く知っていません。先祖代々にわたって、そんなことは起こってこなかったんですから。いや、『比較的ゆっくりと戻る』ことのほうが、むしろ有利だったのです。」
F カッパが棲めなくなった川:江の川
さて、カッパが棲めなくなった川についての紹介は、気が重いことです。野田さんも野村さんも、たっぷりと話されているから。
ただ、浮き世の義理で、起承転結を踏まなければ、収まりが付かないため、「アユと江の川」と「江の川物語 川漁師聞書」からちょっぴり紹介します。
ア 天野さんの嘆き
天野勝則「川漁師の語り アユと江の川」(中国新聞社)
天野さんが九死に一生を経験した七日淵について
「私を呑み込もうとした魔の七日淵も、今は、河川改修で水の流れが変わったのと、ダムの影響で水量が減ったため、誰でも舟で近寄れる並の淵ななっています。」
「丸太ん棒のような『百匁アユ』」の今昔
「アユの産卵場所は、きれいな小砂利を敷き詰めた流れの速い、瀬です。私の家のすぐ前に(注:八戸川合流点すぐ下流、島根県邑智町桜江町)仁万瀬(にまんじょう)の瀬という絶好の産卵場がありました。そこには三百グラムから四百グラムもある大物が落ちアユ、いわゆる『百匁アユ』〈三百七十五グラム〉が群れをなして訪れ、辺り一面の川の色が変わるほどでした。この『百匁アユ』、体長は三十センチあまりで、脂が乗り、体が丸太棒のように丸々と太っていました。
澄み切った水がとうとうと流れ、川底の石には新鮮な藻が次々とつき、それをアユが腹一杯食べていたのですから、当然といえば当然です。現在は百グラムから大きくて二百グラム、昔のような三百グラムから四百グラムもある大物は、めっきり少なくなりました。
産卵が終わる十月末になると、川を下ってきた作木や口羽の漁師が古里へ帰って行きます。その時は舟では帰りません。乗って来た舟を地元の人に売り、お金を懐にして身軽になって帰って行ったということです。定評のある『作木の舟』のこと、下流域ではその舟に乗っていること自体がステータスシンボルだったため、引く手あまたで買い手はすぐついたということです。」
「『作木の舟』自慢」
「専業の川漁師の中には舟やつり竿に凝(こ)っている人が多く、漁そっちのけで舟を自慢話に花を咲かせていました。なかでも『作木(さくぎ)に買いに行った舟』は自慢の種でした。作木というのは江の川上流の広島県双三郡作木村のことで、『作木の舟』はそこでできた川舟のことです。その頃は今のように舟をトラックで運ぶことができません。買った舟に乗って江の川を下るしか手がなかったわけです。
しかし、川の途中に、岩があちこちに顔を出し、狭く、流れの速い『荷越(にごせ)の瀬』という江の川一の難所があります。一人がロープで引っぱり、一人が竿を握る。一つ間違うと岩にあたって舟は砕ける。それほどの難所を『新しく買(こ)うた舟で下った』となれば、船頭としてこれにまさる名誉はないのです。そのうえ『作木の舟』は優美で軽やかに水面を走りました。
それは図のように舟の底をえぐっているため、走り始めると後ろが浮き上がり、すいすいとミズスマシのように動き回るのです。そのデザインがスマートときているから憧(あこが)れの的。おまけに値段も高かったので所有すること自体が経済力を示すことにもなり、『作木の舟』に乗っているだけで、自慢の鼻がさらに高くなるというものです。」
作木の舟の平面図、断面図、側面図が描かれていて、そこに、「舟底のカーブがスタビライザー役をし舟首の浮き上がりを防ぐ」と説明されている。
宴の終焉
「そんな盛況も一九五四年に川本の上流に浜原ダムができ、終わりました。ダムに遮(さえぎ)られてアユの上り下りが困難になり、とくに下りアユが少なくなったからです。そして仁万瀬も、浜原ダムや支流の小さな河川に砂防ダムができ、砂や小石の供給がストップしたのと、河川改修で川が真っ直ぐになった二つの作用が影響し、瀬が消えてしまいました。もちろんアユの産卵は見られなくなりました。」
相模川、中津川、大井川、狩野川で共通しているのは、砂礫でどんどん河床が上がり、あるいは石が埋まっていくこと。掃流力が不足していることが根本にあるとは思うが、「砂や小石の供給がストップしている」との意味がわからない。天竜川では、佐久間ダム等からの土砂の供給がないから、中島砂丘?の痩せ細りが生じているとのことであるが。
イ 「江の川物語 川漁師聞書」から
江の川の荒廃については、「神々しき川漁師 その奥義」の中の「江の川の荒廃」で、少しは紹介していますが、川那部先生が子供たちに
「最近では『自然再生』などと称して、『瀬・淵・蛇行』を一つ覚えのようにした『川づくり』も始まっていますが、心意気はよいでしょうが、どこもここも同じマニュアルに従ったんでしょうね、一蛇行区間の長さを一定にし、淵の深さも一律なものができている。怒りを通り越して、苦笑しないわけにはいきません。とにかく基準にすべきなのは、その場に昔からあった川、一つひとつ性質が少しずつ違う自然の川です。皆さんのような若い人たちにはとくに、『現場に出て自然に学ぶ』ことを強くお願いしたいものです。」
と、話されているので、「現場の人」の声を紹介します。
「江の川物語 川漁師聞書」の「江の川川漁師サミット」から 一九九五年:平成七年
千代延好和さん
「河川の三面張りには反対である。川底に凹凸があること、そこが魚の棲む場所にもなり、伏流水になって水がきれいになるが、コンクリートで固めたのでは川の浄化作用はなくなってしまう。
川原は砂と石でできていたのが、現在はヘドロと砂と石になっているので、草がやたらと生える。砂と石ではそんなに草は生えないし、水中でも砂と石が重なり合うところに隙間ができて、魚や生物の棲みかになっていたが、現在はヘドロが石にこびりついて、ゴリの入る隙間もない。川の汚れをどう解決するかが最大の課題である。」
江の川の支流でも、コンクリートの三面張りが行われようとしていたのかなあ。
中津川の海底(おぞこ)付近では、猪の住処になっていたかも知れない川原の草むら、木が2011年に刈り取られた。しかし、その跡地は、砂と石ではなく、植物が生えたくなる土である。すぐにこれまでどおりの川原に復旧するでしょうね。
ヘドロがこびりついたとは、江の川よ、お前もか、といいたくなる情景です。
天野勝則さん
「川というものは昔から、三尺流れればきれいになると言われてきたが、川は流れれば流れるほどきれいになる。それは、川原事態がすばらしい浄化装置で、表面を流れる水が川原で伏流水になることによって、浄化される。したがって川原は軟らかいほどよいわけで、川原にヘドロがへばりついて、隙間をふさいだり、隙間をふさいだり、自動車を乗り入れて、堅くすることで浄化作用が失われてしまう。
だから、川原は保護しなければならない。昨年のように渇水が続くと、水温の低い伏流水の出るところに魚が集まってくるので、この場所が命の綱となる。小さな谷川の三面張りが進んでいるが、自然の流れには必ず伏流水があるので、いかに上手に本流に出してやるかということが、きれいな川を作る大切な条件である。」
昭和五〇年頃の相模川の高田橋付近から、弁天、石切場には、砂地の湧き水が出ている川原があった。今や、自動車が走りやすい平坦で硬い土になり、また、その他の要因で、湧き水の出ている砂地はなくなり、草の生える場所、駐車場になっているが。
川那部先生は、急にダム放流量を減らすと、魚は、急激な減水の経験をしていないため、避難場所に取り残される、と話されているが、今の相模川ではその心配はない。車に適する川原になっていて、川原に凹凸がないから、取り残されようがない。
昭和五〇年頃までは、砂地の湧き水のところに、スナモグリ、ブラックバスの子ども、シマドジョウ、鰻の小さいのが、取り残されていたから、魚捕りが楽しめたが。
中津川の田代球場前左岸には、現在の護岸はなく、右岸から流れてきた水がぶつかり、同時に、湧き水が出ている瀬落ちになっていたから、あゆみちゃんのナンパ場所であったが。
辻駒健二さん
「川は漁師にとっては生活の舞台であるから、なにものにも代え難い大切な財産であると思っている。しかし、気をつけていないと『自分らの大切な川』が、いつの間にか『行政の川』になってしまって、どんなに破壊されようと、気がつかなくなってしまう。常に危機感を持つ必要がある。
河川改修をみても、そこに棲む魚や水棲生物のことを考えたり、漁師の立場に立って改修が行われているかといえばそうではない。行政任せにしていると、『生活の川』でなくなってしまう。
(スライドで馬洗川の二つの河川工事を比較しながら説明)
行政は地域住民の声を生かし、環境を大切にする工事を進めてほしい。
今日は、鮭を遡上する江の川にしようということで集まっているが、鮭が遡らない川の状況は我々がつくったという認識が大切だと思う。
『昔は顔を洗うのに岸辺に群がる鮭をかきわけて洗っていた』
というような話を、年寄りが冗談まじりによくするが、それだけ江の川は豊かな恵みの川だったのである。それを我々はダムをつくり、生活の便利さと引き換えにしてしまったというふうに私は思っている。
現在、これだけ川が汚染されているのだから、漁師が黙っていたらいけないし、漁協も黙っていたらいけないと思う。流域に住む人も病める川を前にして、
『ここに自分たちの生活がある』
と立ち上がってほしいと思う。
冷蔵庫や自転車の使い古しが投げてある川に、漁師も泣いているが、一番泣いているのは魚ではないかと思う。自然環境というものは、うまく管理してやると自ら修復する力をもっている。圃場整備をするとき、ちょっと蛍のことを考えて、水路をコンクリから石にしてやれば、蛍は棲息できる。
次の世代に『わしらが頑張ったから、よそでは蛍が飛ばんのに、ここにはおるんよ』というような自慢話をたくさんの残したいと思っている。
『こんな小さな水路を』と馬鹿にするのでなく、小さな川が集まって江の川になるのだから、小さな川に関心を持たないようでは、江の川を論じる資格はないといってもいい。
川のことは漁師がいちばんよく知っている。漁師が川を語り、そこに住むものが『そうよのう』とうなずき、互いに自慢しながらふるさとを語っていきたい。」
なお、「高宮町川根町で川を生かしたまちづくりをすすめる辻駒健二さん」は、
「彼の住む集落を流れる長瀬川の改修にあたって、これからの河川改修や護岸工事は、人間や田畑だけでなく、河川環境の改善―川を甦らせるための手術―でなくてはいけないことを工事を担当する県土木の職員と議論を交わし、多自然型工法をふんだんに取り入れた改修に成功した。
私たちはよく『自然のままがいい』という言葉を口にするが、それは川土手の竹や木を放ったらかしにすることではない。マツタケ山の例を引くまでもないが、これまで山を人間の生活の場として管理していたから幸に恵まれたのであって、人間が放棄した山にマツタケは生えない。川原や土手も同じことで、季節、季節に人の姿があり、手を入れるから、筍・ふき・山いもが生えるのであって、ほったらかしにして、雑草を生い茂らせていたのでは荒れてしまう。
彼のすすめる川根の町づくりの根底には、環境問題―自然との共生―がある。山が人工林で保水力がなく、雨が降れば一気に増水し、干魃に見舞われるとたちまちにして水枯れとなるという状況では、重病人の治療を放棄するのと同じで、江の川は死んでしまう。
このことを彼は川漁師の勘としてとらえている。
『自分らの都合だけに合わせるんじゃあのうて、自然に合わせながら生きるまちづくりをしましょう。』と今日も地域に呼びかけている。」
内藤順一さん
「そういえば、六月頃になるとナマズが小溝に産卵にあがるという話を思い出した。その次の年も、その田んぼにはナマズが産卵していた。聞けば毎年、産卵するということだった。その時、私は田んぼというのは、魚にとって大きな役割をするものなんだということを知った。
次の次の年、田んぼで稚魚の調査をした。実に十九種もいた。魚の多くは田んぼで産卵することを皆さんも知ってほしい。
先ほど、辻駒さんが支流が集まって大川になるという話をされたが、残念ながら今日の水路はヒューム管で大川へ排水している。あれでは魚は上れない。本流と水路と田んぼが続いていないと魚は増えない。
大川を守るためには、田んぼと水路を守らなければいけない。ダルマガエルの保護が話題になっているが、ダルマガエルだけを残そうとしても駄目で、その餌などを含めて環境を丸ごと残すことが大切である。」
「人と川の共存(辻駒啓三さんの総括)」から
「このシンポで、何万年もの前から多くの幸や糧や文化を運び、私たちを育んでくれた江の川が病んでいることが明らかになった。よく『川は怒っている』というが、実は怒っていない。それほど川はおおらかで偉大である。
私たちがこれから始めようとする取り組みというのは、病んだ体を引きずりながら、怒りもせずに流れ続けるこの偉大さを、
『少しはわかろうよ』
という作業を始めるということである。
親から与えられた無条件の愛情に気づき感謝するように、江の川への感謝のしるしとして、江の川の流れを蘇らせようという気持ちでわれわれは『江の川鮭の会』をつくった。
今日のシンポで議論した内容とは、『護岸』という言葉が、川の外の人間生活を護る…すなわち、田畑や家を護るということなら、『護川』という、川そのものの人格を護る思想、あるいは川に棲むすべての生物を護るという思想を持たなければならない。ダムの問題を、ダムも守り、魚も護るという共存共栄の道を探りたいというのが、今日のシンポが投げかけた課題である。」
「江の川宣言」
「いま、ふるさとの川は病んでいる。
山々を裸にし、先人の知恵に逆らって川はコンクリートで固められ、川ばたのねこ柳も、竹やぶも根こそぎとりはらわれ、流れはダムによって堰きとめられた。魚たちが訴えている。“もう棲めない”……と。
魚の棲めない川には漁師も住めない。百人余りを数えた漁師たちの姿が消えて久しい。今日ここに、川の恵みによって生きてきた、われわれ川漁師が先頭にたって川を守ることを決意し『江の川川漁師サミット』を開催し、江の川復権への願いをこめて鮭を放流する。
四年後、むかしの姿そのままに鮭たちが帰ってきてくれるか、われわれにその確証はない。ただ、海からの苦難の旅を思い、彼らとの感激の再会を夢見ながら川の自然を守ることを鮭たちに約束しよう。
山から川へ、そして海へとつながる長い川の歴史を、かけがえのない宝物として、私たちは子や孫たちに誇らかに引き継いでやろうではないか。
一九九五年三月十二日 江の川鮭の会
(2)魚道の効果測定評価の誤り 改善率、達成率
川那部先生は、「生態学の『大きな』話」(農産漁村文化協会:人間選書268)に、
「ダムの魚道について、『従来の五倍遡上する』などと誇った見解の、発表された時代があった。それ自身は進歩だが、これは『ダムのないときに比べてどうか』の指標にはならない。前者は『改善率』であり、重要なのは『達成率』だからだ。
下水道浄化について、例えば『全窒素の九九.五%を除去した』といい、その数値がいかに多くなっても、それは処理場から外に出される『全窒素』が、ゼロになることを意味しない。前者は『除去率』で、真に問題にすべきは『排出量』であること、先のものと同様だ。
滋賀県の上水道は、一九八〇年代までの三〇年間に、一〇%からほとんど一〇〇%になったと聞く。また下水道も、最近までの三〇年間に、一〇%未満から五〇%を超えるようになり、『ますます整備を進めている』らしい。
子どもの頃ある家で、山からちょろちょろと出るかけひの水は、ほんとうに美味しかった。同じところで今飲む水道の水は、はっきり言ってまずい。そこで、かけひこそないが今もわき出す水を直接飲んでみた。『旨い』。まさに、『感動した』。
川那部先生の文はまだ続くが、「魚道」のお話ですから、中断することにします。
あゆみちゃんは、「山からちょろちょろ出るかけひの水」で育ったケイ藻を食べていたのに、今や、下水処理水、あるいはそれに類似した水で育った藍藻を食べざるを得なくなっている。
この変化がシャネル五番の香りを喪失したあゆみちゃんを生み出したと考えているが、学者先生の香気が「本然の性」に帰因するのであれば、藍藻を食しても、香気ぷんぷんのはずですがねえ。
さて、「魚道」の「達成率」に思い及ばない大人の説明に、子どもさんが疑問を持ったんですよ。オラは、去年、川那部先生の「達成率、改善率」のこの文を読んだときも、そんなんもんですなあ、としか思わなかったのにですよ。このような子どもがいっぱい学者先生になってくれたなら、川漁師に蔑まれることのない学者先生がいっぱい誕生するのになあ。
「2 最上川でみた魚道についての質問 100%魚が通れる魚道って?」
「三谷: えっと私は今年の5月にあゆちゃんと二人で最上川に行ってきたんですけど…。
川那部: 最上川ねえ、はい。
三谷: そこの堰…。
川那部: どの辺から? 新荘あたりかな? 大石田の辺りかな?
三谷: あ、五月雨大堰のところに行ってきたんですけど、そこの魚道とかのことについて詳しいおじさんに話を聞いて、『最上川の魚道は魚がどれくらい利用しているのですか?』って聞いたら『100%です』って答えられて…。『えっ?』って思って、『それほんとうですか?』って。もう1回『それって100%って絶対にいいきれますか?』って聞いたら、『はい、いいきれます』っていわれて…。でもそんなもん信じられなくて、ほんとに100%利用しているかってわかないのに、自信をもって答えられて、すごく戸惑ったんです。川那部先生はどのような意見をお持ちですか?
川那部: はっはっは。それはおもしろい。なんでもそうやけど、100%などというのは、なんに対してそうなのかが、たいへん重要なんです。魚道の話の場合も、例えば以前、長良川河口堰の魚道で、100%に近い値が公表されたことがあった。それは魚道の一番下の『ます』に入った魚の内、一番上の『ます』に入ったものはどれくらいの比率か、というものやった。魚道の途中で、夜を過ごす個体もいるかもしれんけど、途中でトリなんかに食われん限り、それほど長うない魚道やったらたいてい100%の比率になる。これはごく当たり前の数字です。あなたに答えたおじさんのいうことも、もしそういう意味やとしたら、『間違い』とか『嘘つき』と決めつけられません。
そやけども、川のままやったらほとんど問題の無いところにダムや堰をつくって、それだけでは魚がそこを通過して溯れんから、魚道をつくるわけですわね。つまり、ほんとうに魚道がどれぐらいそこを通過しているかを知りたいと思ったら、魚道のいちばん下の『ます』に入る比率が、まず必要です。それから、一番上の『ます』に着いてから、長い距離のダム湖をちゃんと登っていけけるかどうかも、もちろん問題になる。昔は川やったわけやから、その部分を突ききって溯ったのは何%か、それが考えられるべき数字ですね。そうでしょう?
それから、その区間全体を通過するのに、前とくらべて、かかる時間がどれぐらいかも問題になる。もちろんそのあいだに餌もある程度は食べんならん。こういうことを全部考えんと、ほんとうの意味はない。
そうなると私には、100%という数字は、とうてい信じられませんね。ただし、証拠はない。なぜかというと、ダムや堰のないときにどれぐらい時間がかかったのかが、まず調べられていない。だから、仮に魚道やダム湖ができてから調べても、それだけでは比較がでけんわけです。もっともあとでもね、ちゃんと調べた例は、私の知る限りはありませんが…。
繰り返すと、魚道の下の『ます』までたどりついた魚が、上の『ます』まで来る比率の意味やったら、100%という数字も間違いではない。しかし、魚道の役割を評価しょうとほんとうに思うんやったら、そんな数字はほとんど意味がない。それが、私の意見です。
それに、最近の魚道でもたいていのもんは、アユとかサケとかウナギとか、漁業上重要な種の川下から川上への移動しか、考えてあません。ほんとうはいろいろな魚も昇ったり降りたりしている。いや、川に棲む昆虫すらも、上下に移動して生活しています。それにいまいうたように、下から上へ上がるだけではなくて、上から下へも下りることも考えんといかんのです。そやけど、たとえば孵化したてのアユの子どもに対して、魚道は全くといってよいほど役に立ちません。ほとんど水のまにまに流されるアユの子が、魚道を探すことは無理ですし、魚道のないところを水と一緒にぴしゃんと落ちると、かなりのものが死んでしまいます。降りるほうについては、まさにお手上げなんです。
そやから、『信じられない』と思われたのは、この意味で私も全面的にあなたの意見に賛成します。こんなんでよろしいか?」
なんちゅういう感性を持っている子供さん、その子どもさんの爪のあかを煎じて学者先生に飲ませたいなあ。
いや、そんな人ごとではないですよ。三谷ちゃんの観察力、洞察力に少しでも近づけるように目指さないと、東先生の松浦川での流下仔魚調査のからくりを見破ることはできませんから。
東先生が、松浦川遡上鮎は海産アユであるとの比定対象に「コアユの全く放流されていない五島列島や対馬の『純粋な』海産アユと一致し、コアユの形質を備えたものはもちろん、両者の中間型も全く見いだされなかった。」
ということだけであれば、ひょっとして、対馬暖流(現在もこのような表現が使われているのか、いないのかわからないが)の影響範囲のアユの性成熟は、太平洋側とは異なるかも、と、想像をたくましくできるが、この文章は高梁川での調査におけるアユとの比較で行われているため、空振り三振です。
三谷ちゃん、松浦川での遡上アユが、「在来種」でない、と洞察できる何らかの事柄を教えて。
大井川の塩郷堰堤の魚道を上っているビデオを見せて、中電は、このように、遡上している、と。しかし、「達成率」の話ではないから、どの程度の遡上阻害があるのか、改善されているのか、を証明するものではない。
その上、数年前、遡上鮎が飛び跳ねても魚道に上ることができない稚アユがいたとのこと。魚道の下流側段差が大きくなったのかどうか、わからないが。
魚道も維持管理をしないと、「達成率」のいや、「改善率」の著しい低下を招来することになるはず。
中津川では2008年の相模大堰副魚道を700万が越えたであろうときでも、ほとんど遡上はなく、沖取り海産の稚鮎が畜養されずに放流されてチビのまま一生を終えたアユや、どっかの放流アユが釣りの主役。
妻田の堰の魚道を下った水が反転して、堰からの落水と合流しているため、魚道への上り口がわからないから、と思っていた。
しかし、第20号「漁連だより」(相模川漁連2011年4月1日発行)に、第一鮎津橋下、道万取水堰、才戸橋下魚道の改修をしたとのこと。
これらの場所でも遡上阻害が起こっていたということのようである。その「改修」効果かどうか、わからないが、4月29日、それらの上流にある坂本の堰で遡上鮎が目撃されたという話があった。量はわからないが。
4月中旬には、200万台の稚アユが相模大堰を越えているが、4月28日に磯部の堰を超えた気配無し。
磯部の堰は2段の魚道になっていた、
上流側の魚道は、流れに対して並行に設置されているが、下流側の魚道は、V字型で、下流側が上流に向いているため、妻田の堰の魚道同様、魚道の上り口を見つけにくいのではないかなあ。
ダム放流が増えて、堰からの落水の流れが強くなれば、魚道上り口附近は総体的に流れが緩く、そこに集まったアユは、魚道からの流れに気がつくかも。
なんで、こんな変な形にしたのかなあ。20世紀には磯部の堰を上れなかったが、21世紀には上れるようになったから「改善率」は達成したということかなあ。
その「改善率」は、かっては上ることができない状態から上ることもできる状態になったのであるから、「100%」という評価になるのかなあ。それでは、「達成率」は何パーセント?
原子力安全院の斑目さんが、原子力発電所の危険性を地震、津波から、アレコレ指摘することは、隕石が地球に衝突して、災害が生じることを云々することと同じで愚かなこと?とかいう発言をされていたとの新聞記事があったと思う。
地震、津波の規模、発生率と、隕石の地球衝突によって生じる災害の発生、確率を同一レベルで考えられていたとは、ビックリしたなあ。
この「十把一絡げ」の学者先生の発想の「危険性」にくらべれば、アユについて「十把一絡げ」で観察、調査を行い、その結果を定量分析的に表現されている方が、罪は軽いということかなあ。
2011年4月28日の朝日新聞に、「地震研究者が知る危険 社会変革に利用すべき 『原発震災』警告の神戸大名誉教授」に、石橋克彦先生が話されたことが掲載されていた。
「中央防災会議は科学を被害予測に使う。東海、東南海、南海という地震の震源域を決め、揺れの強さ、津波の高さ、死者数…、と推定を積み上げて被害想定をして防災対策を考える。数字が出ると、社会は、科学的な根拠が確立していると受けとめる。」
「大地震の揺れが原発をおそっても大丈夫というために、粋を尽くした揺れの予測計算が使われる。地震学が地震や津波のすべてを理解しているわけではないという根本的なことが忘れさられている。」
石橋先生のいいたいことは、上記の引用とは異なる。しかし、オラにとっては、定性分析的な観察で、事実を、鮎の生活誌を、川の変化を適切にとらえられている故松沢さんら川漁師の観察を無視して、教義を書かれている学者先生の定量分析的知見のほうが眉唾物である、といいたいから、換骨奪胎をした引用をしました。
さて、三谷ちゃんの観察力、洞察力に近づく自信もないため、「故松沢さんの想い出:補記4」を締めくくることにします。
トリは、川那部先生の「大きな生態学」の「魚道」の次の章が目に付いたので、それを紹介します。なんとも手抜きなことで、という故松沢さんのおしかりは十分認識していますが、手抜きであっても、「江の川宣言」への応援歌にもなりますよ。そして、野村さんが熱く話されていた事柄にも通じていますよ。
4 文化の創造は可能?
川那部浩哉「生態学の大きな話」(農山漁村文化協会)
文化=The way of life
(1)「『お天道様』に恥じぬ暮らし」
「水は、人間だけのものではない。生きとし生けるのも、生命をもっていない自然をも、あまねく潤すものである。繰り返せば、『生態系の機能を十分に発揮させる』ことができるようにまず確保し、人間はその余分を『使わせて貰う』ことが必要なのだ。そしてこれは、人間自身の未来の生存に不可欠のことである。
ヒトすなわち新人、『ホモ=サピエンス(賢いヒト)』がアフリカの地で誕生して、およそ数十万年と言う。ところで地球の誕生以来、あらゆる生きものの種としての平均寿命は、数千万年台らしい。つまり、この『万物の霊長』は、誕生してからの歴史の百倍ぐらいは生き続けないと、生きものの平均に達しない。生物学をやってきたものの一人として私は、ヒトは現在までとせめて同じぐらいの長さ、『あと数十万年ぐらいは生き続けて欲しい』と思う。
『使いたいだけ水を使う』、そこに何が生じたか。『ダムと護岸とで洪水が完全に支配できる』かのように幻想し、近代の治水対策にすべてを委ねてきたこととあいまって、そこに生じたもっとも重要な問題の一つは、もちろん『自然の悪化』だ。しかし、これはもう言い飽きたし、また、多くの具体的事例が周囲にもあることは、すでにほとんどの方々にとって自明である。
そこで付け加える。もたらしたもう一つの大問題は、『人間文化の破壊だ』と。先年の『世界湖沼会議』における、住民自身による住民からの聞き込みによれば、『汚い水を捨てない生活、水を大切に使う暮らしのありかたは、次第にまこと見事に失われていった』。
子どもの時分、『お天道(てんと)様に申しわけない』とか『今日(こんにち)様に恥じないように』とかの、言い草があった。数十年程度ならともかく少なくとも数百年・数千年間『人間が生き延びるための自然環境保全』のためだけでも、現状からの改良ではなく、根本からの改革が必要なことはみんな実はよく知っている。誰やらの言葉を借りれば、『やる気がないだけのこと』なのである。」
川那部先生とは違い、オラは「やる気がない」以前の事柄が多いと感じている。
大井川塩郷堰堤に掲げられている「環境に優しい水力発電」の横断幕が撤去されてやっと、「やる気がないだけ」の段階に移行したといえるのではないかなあ。
魚が悲しんでいる、ということに気がついたといえるのではないかなあ。
ということで、川那部先生から送っていただいた資料のわずかしか、紹介できませんでした。
しかし、三谷ちゃんのような子どもさんがいることがわかり、学者先生の教義がまちがっちょる、という時代が、川漁師が消滅した後でもやってくるかも、とちょっぴり希望がもてました。
さて、これで終えてもよいのですが、「曖昧の生態学」に治水とは、というお話が書かれている。このヵ所の一部は、「故松沢さんの想い出:補記3」に紹介をしていると思うが、リンク先を探すよりも再掲をします。ホームページの無料データ量が大幅に増えたので、安心して、書き込めますから。
(2)「ほんものの川を求めて」
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農山漁村文化協会)
故松沢さんが、「アユは悪くないよ、悪いのは人間よ」と、オラの愚痴に答えられていたその感傷の一部でも理解できれば、とは思っているが。
「銀が泣いている」ではなく、「魚が泣いている」情景になったのはなぜ?ダムの性だけにできれば、狩野川や長良川は「ほんものの川」であろうが。
亡き大師匠が狩野川本流で釣ったアマゴの小さいものを渓流に放し、成長したものを釣って楽しんでいたが、そのような渓流も水涸れをおこすほど、狩野川流域の山が荒れていると思われる。
@ 調査地の選択
川那部先生は、
「仕事の対象として、まともに川を考えようと思って歩いたのは、一九五五年春のことである。京都府の日本海側を、舞鶴市に流れ込む伊佐津川から初めて、西へ由良川・宮津川・野田川・世屋川・筒川・宇川・久美浜川と通り、兵庫県に入って円山川でとりあえず打ち止めにした。アユの『放流基準』を求める四年目の調査を引き継ぐことになりそれに適当な河川を決定するためであった。」
1955年・昭和30年、山女魚、岩魚の世界では、生存が脅かされる状況は、毒流しなど、限られた現象であろう。
しかし、昭和30年代にはいると、素石さんは山女魚の鎮魂のために川を巡ることになるが。
藤井淳重さんが、集中豪雨のあとで、トロに避難している北アルプスの岩魚を五徳ナイフのフォークをヤスにしていっぱい捕り、山小屋の人々に蔑まれたのが昭和44年。
その頃には、アユの世界では、「ほんものの川」はほんのわずかになり、また、「放流もの」しかいない川が多数、という状況になっているが、北アルプスには、岩魚の社会が残っていたということであろう。
山女魚の世界でも、トラックで運ばれた山女魚が増えていき、他方、砂防堰堤等が、山女魚の移動を阻害し、生存率僅少、あるいは滅亡という状況が蔓延していたでろう。
昭和30年代後半では、ダムのない長良川の川漁師大橋亮一さんが、九頭竜川に出稼ぎに行かざるを得ない状況になっていた。
A調査対象に宇川を選んだ理由:「蛇行する瀬と淵」
大学からの距離だけでなく、
「それはともかくこの川を選んだ理由は、アユがたくさん棲んでいる川だという以外にはないのだが、川のほうから言えばまず、瀬と淵がまともに存在すると言う必要条件を満たす川が、ここしかなかったからである。
『私どもの先輩に可児藤吉さんと言う人がいた。この人は水棲昆虫の分布を研究し、生活内容の解明を始めかけたところで戦死した人だが、分布を研究する多くの人が、一回の調査とか、せいぜい一年数回の調査で済ませていたところを、毎日のように川へ出掛け、〈川の石を全部ひっくりかえした〉と言われるほど徹底的な調査をした。しかも、環境条件のほうも、単に水温を測り流速を測ったのではなかった。』
『川をばらばらに解きほぐしたとき、それ以上に分けられない単位として、淵から瀬までと言う一つながりが取り出せる。瀬は淵あっての瀬、淵は瀬あっての淵で、これを分離するともう川とは言えなくなる。川の生物分布に働く主要な要因として、水流・水温・水質・水深・低質の五つの挙げられていることが多い。ところがこうした要因は互いに独立ではなく、関係しあっており、しかもどれもが同様の重要性をもっているのではなく、その中に根本的なものと副次的なものとがある。川の場合根本的なものとは、川の川らしいところ、すなわち〈水がまともに流れている〉ことであり、したがって流水を規定する川の形態だということは、誰にも異議はあるまい。』
以上は一九六二年に書いた雑文の一部だが、引き写しのお許しを乞う。可児さんはこうして一九四〇年代に、川の上流には一蛇行区間にいくつもの淵と瀬があり、瀬から淵へは水は落ち込む形で流れること。中流には一蛇行区間に一つの淵と瀬があるが、その境界は必ずしも明白ではないことなどを、まず示したのである。そして、いかなる形の淵がどのような条件下で成立するかは、特に中流について私どもが一九五〇年代にある傾向を見つけて分類してみた。
そもそも川は必ず蛇行する。その蛇行点には必ず淵が出来る。典型的な中流域を例にとれば、外側は多く岩盤からなって急傾斜で深く、内側は浅く傾斜は緩い。淵は浅くて砂底のとろに続き、それは次いで底に石が一面に存在する平瀬に移る。水の表面はまだ大きくは波立たない。これは次第に早瀬に変わって行く。ここでは底石は何重にも重なり、水は波立って速く流れ、ついに淵へと入り込む。水面も底も傾斜はこの蛇行の間、次第に大きくなって行く。
蛇行しない川、淵と瀬のない川は、実は川ではない。それは言わば、大きい溝なのである。」
B「環境の環境と言うこと」
「瀬と淵がまともに存在することがアユの棲息量に大きい意味をもつことは、一九五五年にすでに明らかになった。先に挙げた雑文に従えば、『瀬は餌となる藻類の点では条件が良いが、(特に平瀬は)隠れ場・休み場としては条件が良くない。逆に淵のほうは、休み場としてはたいへん優れているが、藻のほうは質量ともに悪い。そこで、立派な瀬があっても隣接する淵がお粗末だと、アユは瀬の悪い方の条件である隠れ場の問題で生活が制限される。同様に立派な淵と瀬が並び会うと、アユは昼間は瀬へ出て、夜間(あるいは逃げるときに)は淵へ帰るという生活をして、双方の欠点を補いあい、良いほうの条件をともに生かすかたちで、この場を利用することが出来る。』」
故松沢さんが、城山下は淵があり、その淵には上流側の一本瀬から藪下へと続く瀬あり、下流側には石コロガシの瀬があるから、優れた場所と話されていた。
その淵を埋める話があり、故松沢さんが反対して実現しなかったものの、藪下の瀬が平成の代には、「オールドファンの郷愁の場に過ぎない」といわれ、アユに嫌われる場所になっただけでなく、2010年には痩せ細っていた一本瀬が消えた。石コロガシの瀬も、大石ごろごろとはいえない瀬になってしまって何年かなあ。
オイカワとカワムツの生活の違いと、場所の選択の違い等を紹介されて、そのあとに、
「イワナは、流れの比較的緩い底近くあるいは物陰にいて、その上の流れの速いところを通過する流下物にとびつく。近傍に流れの速いところと遅いところが存在することが、生存のための必要条件であることについては、最近になって実証的な論文があらためて出ている。
生物にとっての環境というものは、現にその生物がいるその場所だけの環境ではなくて、その周りがどのような状態であるかによって、異なるものである。環境の意味は、その環境の環境、つまりどういう環境の中にその環境があるかによっているものであること、実は今さら言うまでもない。私達の生活を少々考えるだけでも、それは自明である。
一様に流れる川などというのは、実は川ではない。生態学現代史の幕を開いたエルトンさんの言うとおり、『秩序と無秩序とが見事に交錯しているとき、人はそこに美を感じる』のであって、それを失って恬然としているのは、まことに精神の退廃と言ってよいのではなかろうか。」
C「流れの連続性」
「アユが一生の間に、海と川の中流域とを往復することは、よく知られている。こういう生活史をもつ魚は意外に多く、日本列島ではコイ科以外の淡水魚は、かなりのものがこれだと言っても良い。それと同時に、川の中だけで生活している言わば生粋の淡水魚も、前節でみたオイカワの例のように、狭い場所にじっとしているのではなくて、川の中を上へ下へと動き回っている。
水棲昆虫も同様である。ヒゲナガカワトビケラというのは、川の石の間にルースな巣を作り、網を張って、上流から流れてくる動植物を受けて食う種である。ところが、同じ水系の川でもこの虫の量の多い川と、極端に少ない川とがある。いろいろ調べて見ても理由がわからなかった。
『兵庫県関宮中学校の先生をしている西村登さん(現在は退職)は、水棲昆虫と言うものは、幼虫の時期だけを水中で過ごすものだから、陸上ですむ成虫の時期も調べなければ、ほんとうのことは判らないと考えた。ヒゲナガカワトビゲラは、川の上を上流へと上流へと産卵飛行する。このときメスは、水面すれすれかせいぜい三〇センチぐらい上を、水面の反射をたよりに飛んで行く。ところで支流の合流点に、転石が積もっていて、水がその間や下を通っているところでは、水面が上から見えなくなることがある。そうするとこの虫のメスにとっては、その分流の存在は判らないわけで、従って分流の幼虫生息量は全くなくなってしまうのである。』
遡上・流下というのは、川に棲む生物にとって日常茶飯事であり、これを欠くことは生活の破壊を意味すること、実はあらためていうまでもないほどの事なのである。」
ダム下流の減水区間について、維持流量の問題は当然のことであるが、それはさておいて、
「いま言おうとしているのはもっと単純明快なことで、減水区間を見るとき誰もがすぐに気になる何かアンバランスな感じについてである。この『感じ』が流量と底質いや河相とでも言うべきものとの間の関係から受けるものであるのは、これまたすぐに判る事実で、川のたたずまいがもっと大きい流量にぴったりするにもかかわらず、実際に見られる流量が極めて少ないということと、とりあえずは関係がある。
日本列島の河川は、そもそも季節的な流量変化が、また最大流量と最小流量との違いが大きく、いわゆる流況係数の大きいのが特徴であり、それは直ちに、流量と低質との間の常なる一致をいささか欠く条件になっているのは確かである。しかし、先に書いた『何かアンバランスな感じ』というのは、これとはまた異なるのであって、それは例えば流況係数の極めて大きい姫川、あの日本アルプスと俗称される飛騨山脈北部の水を集めて糸魚川で日本海に注ぐ姫川と、ダム下流の減水区間とを思い浮かべて貰うならば、この相違は誰にも判るはずである。
だがこれを的確に表現することは、定量的にはもちろん、定性的にも当時たいへん難しく、『著しい不整合』と書くのがやっとであった。いや、今もわらず困難なことは、このもたもたした書きかたで既にお判りであろう。だがこれもまた、その川がどれほど『ほんもの』であるかを考える際には、避けて通れない大きい問題である。
ダム湖すなわち淡水域のことについては、水位変動が必然であり、沿岸帯が成立せず、水の濁度が下がらぬこと、などを含めて周知の事実であり、ここで改めて触れるまでもあるまい。」
残念ながら、「流況係数の極めて大きい姫川」と「ダム下流の減水区間」の違いがわからない。
大糸線は好きな路線であったから、何回かは乗っているし、姫川の流れる平岩?姫川?に泊まったこともある。そこの若いねえちゃんが、豪雨のあとで、姫川で拾った大きな翡翠を客たちに見せていたら、戻ってこなかった、という話は覚えているが。川より色気。
D「四万十川に遊ぶ」
「四万十川は、今では自然の残った河川として有名である。だが実は私には、ここについて話すほどのことがない。なぜなら、一九七九年(注:昭和五四年)に全国水問題協議会のシンポジウム『誇らかに語れこの四国四万十を』と言うのがあって先に名前を挙げた高橋裕さんや地元出身である島根大学の北川泉さんなどとともに、協議会事務局長の門馬淑子さんに引率されていったのが主な訪問で、それ以外には二回ばかり同じく数日間、川を見ただけだからである。」
四万十川の淡水魚の特性
「四万十川には、生粋の淡水魚は本来二〇種に満たなかった。そしていずれもその両側、すなわち仁淀川や新荘川と言った土佐湾奥に流れる川や伊予水道に流れる川に棲んでいるものとは、少しずつ性質が異なっているらしい。その代わり、海と往復して生活する通し回遊魚は八〇種以上にも上る。
アユは河口から一七〇キロは十分に上ったらしいが、今では檮原(ゆすはら)ダムが出来て、そこまでは上がれない。しかし、ボラ・スズキ・シマイサキ・ギンガメアジ・キチヌなどは、今も八〇キロは溯る。
一般に海の魚は、水の温かいところでは淡水への適応がよいのだが、この川は勾配が緩いせいもあって、日本列島ではもっとも長距離に海産魚の遡上する川として知られている。」
四万十川の水質とアカ、透明度
「一〇年あまり前、先に書いたシンポジウムに参加したときには、川を横断して鯉幟がずらっと並んでいた。『あれは鮎幟の間違えに相違ない』と話し合ったのを覚えているが、そのアユの観察に川へ入ったところでは、底石には泥がかなりたまっていたし、腹を石に付けるとざらざらした。さらりとした上質の硅藻がぴったりとついている肌触りでは全くなかったのである。
『五-六メートルの竹の先に針を付けてそれで引っ掛けてアユをとったものだ』との話も、何人かの方から聞いたが、この漁法、実際には見ることができなかったし、いや、底のほうを見るのではなく、水面近くを横に見るやり方でも、今では二.五メートル先を見るのが精一杯だと、私自身思った。上流へ上って、檮原川のダムの上と下では濁りが非常に違っていたし、本流にある家地川ダムではその下流にほとんど水の流れていないのに驚いた。またそれより下流の広見川は、潜る気などとても起こらぬ川であったし、川口に近い中村では、このシンポジウムの数日前から赤潮が出始めたと聞いた。
昨年一一月(1990年の1年前、1989年:平成元年)に出た『日本の淡水魚』の中の『四万十川の現状』の項によると、現在は状態がさらに悪くなっているらしい。河川『改修』による河床の平坦化、本流と支流ないし用水路との間の生物通過障害の存在、砂利の採取、出水の減少などは、汚濁とあいまって川自体にも、統計では日本で一〇番目の漁業にも、大きな影響を与えていると言う。だが同時にこの本によれば、積極的な環境改善に向けて住民運動が力強く始まっているようだ。以前にお目にかかった多くの方々の顔を思い浮かべながら、『子々孫々に誇りうる〈清流〉に徐々にでも近づいて行く』ことを期待したい。」
千曲川や木曽川が、珪藻が優占種の川、清流と判断されている阿部さんには想像も出来ない四万十川の汚染、水路化といえよう。
環境改善の動きがあるにしても、野田さんの嘆きがどの程度減少したのかなあ。
黒尊川は、まだ「清流」かなあ。
家地堰堤が水無川にしていた状況は、義務放流量が設定されたとの話もあるが。野田さんが古の家地堰堤下流の激流を楽しんだ増水時の水量とは、比較にならない水量であろうが。窪川の農業用地整備計画はつぶれたのかなあ。
E長良川の状態
川那部先生は、長良川で、「ほんものの川」に出会われている。
長良川河口堰の生物への影響調査
「一昨年秋(注:一九八八年、昭和六三年?)、計画以来三〇年以上停まっていた長良川河口堰が着工になった。私は極端な地方分権主義者だから、これ自体に賛成とか反対とか強く言う気はないが、生物に対する影響の調査が不十分なままで(いや、ひょっとするとあるのかもしれないと好意的に見ても、その調査資料が公表されていないままで)、驚くべき過小評価、いやただ一つのまとまった調査報告である『木曽三川生物資源調査団中間報告』(小泉清明編)の内容を著しく歪曲した結果をもととして、着工になったことだけには、とにかく納得しかねている。」
「清流」音痴の学生
「『一九五八年(注:昭和三三年)小泉清明さんは、岐阜市内より出る荒田川・境川・逆川などの支流には水棲昆虫も生存せず、汚水の排水溝に過ぎぬとし、合流点より下流少なくとも左岸側も、この影響を著しく受けていると指摘』した。ところで一九七四年(注:昭和四九年)この下流で、『公害問題に深い関心を持っている東京の学生氏が、腐泥の上に藻の僅かに淀む岸にたたずんで、〈下流でもきれいな川だ〉とつぶやくのを聞いた。水は半透明。深さ一五センチぐらいのところなら、底がまだ確かに見通せぬこともない。隅田川・多摩川よりはまだましな川だろうと、私は妙な感心の仕方をした。すなわち寒心にたえなかった』」
もう、「言い飽きた」ことですが、阿部さんら学者先生は、「清流」を見聞されたこともないのでしょうかねえ。東京の学生さんだったのでしょうかねえ。
上流の開発と、影響と、下りの変化
「『その二,三日後、郡上八幡で目覚めた朝、夜来の雨に本流は濁っていた。一方支流吉田川はささ濁り程度。前日に〈視察〉した本流源流部分の、スキー場・ゴルフ場・レジャー施設・集約農地など大規模開発のすさまじさを思い起こし、また二つの川の濁度・水量の明らかな違いに、いささかならず呆れ、かつ吉田川の状態にほんものの川を見る思いであった。』『郡上漁協員いわく、〈昔は支流のアユがまず降河し、それが本流のアユとともにしばらく生活し、そのあととも降河した。最近は本流のアユが先に降河し、そのあと支流のアユが本流に滞在することなく、直接降河する〉と。吉田川より本流の、増水時の濁り甚だしく、また増水流量に比して淵の容量の著しく小さくなったこと、以上二つから来る現象を的確に表現するものである。これらすべてが、本流上流の開発等による土砂の流入と、河川〈改修〉工事が原因』であることに間違えない。」
釣聖恩田さんも、三白公害について話されていて、スキー場の白、集約農地の大根の白が長良川を傷めていると。
「降河」の状況とその変化については、増水の時の事柄を表現されているのかなあ。それとも、平水でも同じ現象が生じているのかなあ。故松沢さんは、この現象にどんな事例、説明をしてくれるのかなあ。
淵の貧弱化、消滅は大井川で顕著に見ることができる。
笹間ダムがなかった頃、あるいは、井川ダムがなかった頃、東海道線鉄橋付近の金谷に大淵があり、遡上鮎はそこでしばらく滞在していたとのこと。南アルプスの雪解け水による水温低下の影響による現象かなあ。その大淵は今や川原。
七曲がりの上流側の淵も砂底になって幾星霜。昭和橋上流左岸側の淵は、流れが変わり、川原に。
「ほんものの川」みいつけたあ:粥川はいにしえの川
「『しかしその昼、天然記念物のウナギの産地―粥川に立ち寄ったところ私は自分の目を疑った。この川、藻類の付着状況から見るに、水量は前日の量の二倍を遙かに超えていること明白であるにもかかわらず、水はあくまでも清澄。深さ二メートル以上の淵の底まではっきり見えた。思えば、アユの調査に京都府下の川を初めて周ったころは、かなりの雨の降り続いたあとも、降り止んで一晩たてば、潜ってアユの行動を調べるにさしたる支障のない川がまだかなりあったのである。雨が降り増水すれば、水は少なくともささ濁りになるもの―こういう思い込みはじつは、もはや濁らされた目での判断であったのだ。』すなわち、さきの東京の学生氏と全く同じ。いいかえれば、ほんもの川の姿をすでに忘れていたのである。」
さて、川那部先生が長良川の支流で、「ほんものの川」に遭遇されたように、野田さんも「むかしの長良川を知りたかったら、亀尾島川を見よ」と言われて見て、潜られている。
粥川と亀尾島川がどのような位置関係にあるのか、地図を見たが、亀尾島川が見つからない。野田さんを紹介したときには見つかったのに。
粥川は、刈安で流れ込んでいる。亀尾島川はその上流の相生で流れ込んでいるはず。
相生で流れ込んでいる支流は、「那比川」となっていて、亀尾島川ではない。亀尾島川で検索して、「那比川」の支流が亀尾島川とのこと。
長良川の鮎の容姿:野田知佑「日本の川を旅する」(講談社)
折角ですから、野田さんが聞かれたアユの話を再掲しましょう。
「テントを張っていた川原が雨の増水のために水没したので、近くの民宿に移った。
主人の清水さんは長良川ではアユ釣りの神様といわれている人である。泊り客は大阪や名古屋からアユ釣りに来た人たちだ。
長良川で一度釣ると他の川は物足りないそうだ。この川は日本でもっとも豪快なアユ釣りの出来る川だ。
水量が多く、流れが強いこと。アユの数がケタ違いに多いこと、そして大きいこと――これが長良川の特徴である。
『ここのアユはな、いつも強い流れに向かって泳いどるで、頭は小せえし、顔は押し潰されたようになっとる。そんで体は太って大きい。』
近くの木曽川や、山を一つ越えた九頭竜(くずりゅう)川のアユは小さく、川が汚いので、臭い。アユで一番うまい腹のところを食べられないからつまらない、そんな声を聞いた。
『木曽三川』といわれる。木曽川、長良川、揖斐(いび)川のことだ。
河口でこの三つの川は一つになる。長良川の水の良さは魚にも判るらしく海から遡上(そじょう)するアユの数を調べたら、三つの川の中で長良川を選ぶアユが他の二つの川の二倍以上、という実験結果が出ている。」
故松沢さんが晩秋に、服部?名人の釣れない、来るな、の忠告を無視して出掛け、束釣りになり、楽しんだことも長良川の魅力に取り憑かれたからではないのかなあ。
長良川のアユは馬力が強く、おばせをくれると激流を沖に泳いでいく、と。そのため手尻を一尋にして、激流に立ちこめない体型、体力でも囮が芯に届くようにしていた、と話されていた。九頭竜川等の他の川のアユがブレンドされて集荷場に持ち込まれても、それらを選り分けていた、ということも書いてありますよね。
何度も注意書きをしていて気が引けますが、萬サ翁も長良川の鮎の容姿の特徴として話されていた「頭は小いせえし、顔は押し潰されたように」という、「短頭」にも似た容姿は、継代人工の容姿と決して同じではありませんから。
野田さんは、
「――長良川の特徴は流れの強さ、激しさである。そんな書き出しを考えていると、フネは波にドンと叩かれてくるりと横転した。郡上八幡を出発して二分後のことである。ロールで起き上がるのにも失敗して、フネに掴(つか)まったまま、すぐ下の三級の大きな瀬の中をもみくちゃにされて通過する。
船首と船尾の空間にふくらましたビーチボールを二つずつ入れておいたので、フネは沈まずによく浮いた。着岸して水を出し、再び乗りこむ。この調子では先が思いやられる。
それにしてもきつい流れだ。
ここのアユが流れに押されてブルドックのような顔になる訳が身に沁(し)みて判った。岸につないだ川舟が重く、頑丈に作ってあるのもうなずける。」
その川舟は、江の川は作木で造られていた川舟とどのように違い、あるいは同じで、そして、どっちが頑丈かなあ。もちろん、野田さんが江の川を下ったときは、浜原ダムだけでなく、高暮ダム等のダム河川であったが。そして、作木の舟も滅び去っていたかも。
亀尾島川
「雨の濁りがとれて、川の水が澄んできた。
本州随一の清流、といわれるだけのことはある。長良川の水の美しさに触れるとき、地元の人が決まって言及する川がある。
テントのすぐそばで流れ込む『亀尾島(きびしま)川』である。長良川に入る多くの支流の中で最も美しい川だ、と人々はいった後で、こうつけ加えるのであった。
『この間まで、長良川もあのくらいきれいだったんです。』
この川を見に行くことにした。」
「この奥に二つの部落があったが、過疎で数軒になり、残った家は強制疎開で町の方に移転させられた。ここは豪雪地帯で、冬期の生活道路の確保、通学児童のための除雪や郵便配達の困難、電気、電話線の維持など、小さな村の財政では手に余るようになったのである。
川の水は澄み過ぎて、最初、川を見た時、一瞬水がない、と思ったくらいに透明であった。さっそく川に入る。水温は本流より三度低く一五度C。
冷たいのでシャツ二枚着て潜った。エメラルドグリーン色の深い淵は直径一五m、深さ約九m。底の岩や沈木のかげにスーッと逃げていく五〇cm大の川マスが三匹。腹にブルーの筋と赤い斑点のあるアマゴの群れが、頭をそろえ、上流に向かって泳いでいるのが美しい。岩の裂け目の中に身をひそめ、目だけ光らせているウグイ。閃(ひらめ)くように素早く動き、きらりと反転していくアユ。
川漁の好きな人間が日頃夢に見ているのはこんな川の、こんな淵である。
底の数カ所に湧水(わきみず)が吹き出していて、砂を巻き上げている。ちょうど真上に太陽が来て、水面に浮かんだ僕の大の字の影を底にくっきりと写した。まるで大きな青いガラス玉の中にいるようである。水底に降り、魚を追った。手モリでアユ、アマゴを数匹突く。マスも一匹突いたが、暴れて、自分の身を引きちぎって逃げる。石の上にとまったセミが『つくづく惜しい』と鳴いた。しばらく水に入っていると体が冷えてふるえがとまらない。この水温では一五分が限度である。
魚を焼き、ウイスキーに川の水をすくって割る。この川の水はすべて純粋なミネラルウォーターである。
巨大なオニヤンマが眼の前の水面をしきりに尻尾(しっぽ)で叩いている。」
亀尾島川の上流では、道路工事が行われたとの話がある。今でも、粥川や亀尾島川は、川那部先生や野田さんを満足させ得る「ほんものの川」かなあ。それとも、今様の川になってしまったのかなあ。
野田さんは、四万十川が都会並みの川に変貌されたと書かれているが。
川那部先生は、長良川の岐阜市の下流の状況も書かれているが、また、アユの産卵場の変遷についても書かれているが、それは相模川でも見聞できる情景であるからこの章では省略しましょう。
「おわりに」で、高橋裕さんの「利根川物語」を借りて、川の営みを破壊している治水方針に係るヵ所もここでは省略し、最後にもっていきます。
「夢見る夢子ちゃん」は、年甲斐もなく、亀尾島川や黒尊川で、シャネル五番をぷんぷんと漂わせた遡上鮎との逢い引きが出来ることを夢見ることにしましょう。
(3)「ほんものの川」をなくした人間の営み
:「洪水制圧」思想は永遠不滅?
日本人の生活様式:文化は、「空気」を読むこと。
「空気」に従うことが、思考方法の基準、価値判断基準、行動規律基準・規範になっている。その日本人の文化の中で、四万十川と長良川が、「洪水制圧」思想と無縁で行動できるはずはないですよねえ。
川那部先生が、極端な地方分権論者といえども、日本列島を覆う「空気」の支配に逆らうことは出来ませんよねえ。
ということですが、「故松沢さんの想い出:補記4」を川那部先生の「曖昧の生態学」の「ほんものの川を求めて」の「長良川の状態」と、「おわりに」から引用します。
内田樹「日本辺境論」(新潮新書) 「『お前の気持ちがわかる』空気で戦争」 |
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「日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の『空気』であると看破したのは山本七平でした。 私たちはきわめて重大な決定でさえ、その採否を空気に委(ゆだ)ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことが判った場合にも、『とても反対できる空気ではなかった』という言い訳が口を衝(つ)いて出るし、その言い訳は『それではしかたがなかった』と通ってしまう。 |
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戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人たちでさえ熟知していました。しかし、それが『議論の対象にならぬ空気の決定』となると、もう誰も反論を口にすることは出来ない。山本七平はこう書いています。 | ||||||||||
『これに対する最高責任者、連合艦隊長官の言葉はどうか。【戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、わたしは当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏(べんそ)をしようとは思わない】であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が【ああせざるを得なかった】ようにしたのは【空気】であったから――。』 | ||||||||||
もちろん、私たちは何から何まで空気で決めているわけではありません。どういう空気を醸成するかについて、それぞれの立場から論理的な積み上げをそれなりに行ってはいるのです。でも、論証がどれほど整合的であり、説得力のある実証が示されても、最終的には場の空気がすべてを決める。場の空気と論理性が背馳する場合、私たちは空気に従う。 | ||||||||||
場を共にしている人たちの間で現にコミュニケーションが成り立っていることの確信さえあれば、『お前の気持ちはよくわかる』『わかってくれるか』『おお、わかる』という無言のやりとりが成立してさえいれば(しているという気分にさえなれれば)、ほとんど合理性のない決定にも私たちは同意することができます。『自分のいいたいこと』が実現することよりも、それが『聞き届けられること(実現しなくてもいい)』の方が優先される。自分の主張が『まことにおっしゃるとおりです』と受け容れられるなら、それがいつまでたっても実現しなくても、さして不満に思わない。わたし自身がそうなのです。まことに不思議な心性と言うべきでしょう。 この『空気に流される』傾向について、丸山眞男は『超国家主義の論理と心理』の中でみごとな分析を下しました。このようなマインドの構造的な考究として、以後これを越えるものは書かれていないと思います。 |
また、四万十川の「清流」も、「ヨキ」も、「水大切にする文化」も破壊していく様の怒りを野田さんの文から紹介します。
野田さんは、四万十川を隠すほどでっかい看板が目障り、と書かれているが、そうかなあ。
NHKなどの「最後の清流:四万十川」の宣伝によって、前さんら「ほんものの四万十川」、「清流」を知っている人以外の人々を「騙すこと」に成功した。その宣伝効果を維持し、「清流」を客寄せに利用するには、「清流」でなくなった四万十川を見えないようにすることも1方策、という、ひねくれた見方は出来ないかなあ。
前さんのお友達が、昭和60年頃既に、四万十川よりもダムが多い仁淀川の方が水はきれい、と話されているのですから、「最後の清流:四万十川」のミスリーディング、誤った紹介は、絶大な客寄せ効果がありますよねえ。
まあ、多摩川や相模川並の水を「清流」と評価する学者先生もいらっしゃるようであるが、その程度の「清流」であれば、飛行機代を使って見に行く人は酔狂な人、ということになるのではないかなあ。
あ、いや、清流音痴の学者先生といえども、多摩川を「清流」の仲間内にする人は、よほど、奇特な、酔狂な人かもしれないが。
いずれにせよ、「最後の清流:四万十川」は、すばらしい客寄せパンダの機能を発揮しているようですね。
@川那部先生の怒り?悲しみ?
「岐阜市のやや下流においては、河床の低下とそれによる砂防・水制の破壊が著しい。下流漁協員の船に便乗したが、他所者の私の眼にも明々白々である。アユの産卵場は従来は東海道線鉄橋のはるか下流であったが、〈年々瀬一つずつ上流に移り〉、一九七四年(注:昭和四九年)現在は忠節橋下流から菅生にかけてであると聞く。
一方、やや上流長良橋附近の底質は、現在一抱えの石は殆どなく、したがってアユ棲息場として一等地ではない。帰洛後一九五八年(注:昭和三三年)の野帖記録を見たところ、〈この附近アユ棲息地として良好〉とあった。これらの変化は何のせいか? 原因はいろいろのものがあるが、それをこうまで大きく続かせた元凶が砂利採取といわゆる河川〈改修〉にあること、これはまずまず確実である。」
狩野川では、「砂利採取」で、産卵場が上流に移動していないと思うが、「一抱えの石」の消滅と、その周りが小石、砂利に変わっている姿は、大井川、中津川を含めて、オラも見ている。
山の荒廃による土砂の流入が増えていること、掃流力不足によることは想像できるが、それだけであるのか、どうか。
河川「改修」とは
「『〈改修〉とは立派な言葉だ。しかしその〈改修〉とは、水を可急的に早く海へ流すことのみを目的としている。曲流し蛇行しながら瀬と淵を作ってきた川を、直線化しだらだらと流れる同じ傾斜の続く川に、いや溝にせしめようとのこの最近の工事方式。
水の流れをなだめるための水制なんぞという工法は〈古い〉として捨てられ、水は流れるものではなく流されるかたちとなったのだ。長良川はこの点でも隅田川・多摩川・淀川よりはまだましに違いない。しかしこうした〈改修〉工事は方々で進行中。
また二重に堤防があり、中間が洪水時の遊水池となっていた場所は、内側堤のかさ上げを理由にすでに宅地化されはじめている。洪水時の河積増大を第一の名目にされている長良川河口堰の〈目標〉とは全く逆に、河積はわざわざ縮小されて行く。』」
開発のすさまじさ
「一九七五年(注:昭和五〇年)の〈視察〉は、当時一橋大学長であった都留重人さんを代表とする環境・国内診断調査団についていったものだが、この団員で源流まで同行して下さった四手井綱英さん(当時京都大学)は、『植生伐採・地表流増加・地表土流失・洪水量増加・河道上昇・渇水時異常減水の悪循環を引き起こす、水源地帯開発行為の規制強化』を提言されている。
白鳥町あたりまでは私もその後も何回かいっていたが、蛭ヶ野高原までは一九九〇年(注:平成二年)一月、日本自然保護協会河川問題特別員会の面々とともに、一五年ぶりで上がってみた。雪が積もっていたのは勿論ながら、当日は快晴で全体が見渡せ、規制などは薬にしたくもないその開発のすさまじさに、委員一同〈感嘆〉の声を上げた。」
「治水」とは
「『治水とは何よりも、流域全体を保全し、上流から下流まで川の性質を保ちながら水を流させ、水を涵養することであろう。片々たる河口堰によって治水を代行させようとの考えは、水資源開発公団がそれを真実と信じていようと、単にカモフラージュのために言うのであろうと、長良川本来の治水からことをそらせる結果になるように思えてならない。』
以前の雑文を引用している間に、意見めいたことを再録してしまった。だんだん興奮して来て、何を書き出すか判らなくなりそうである。ここらあたりで今回は筆を措こう。」
「利根川物語」
「高橋裕さんは、その著『利根川物語』に次のように書いている。『自然が作った川の道は、自然の地形勾配にそって最も無理のない川筋を選んで流れている。曲がりくねった流路をまっすぐにしたり、本流をつけかえたり、われわれは洪水をまぬがれようとして、いろいろな技術手段をおこなってきたが、大洪水のときには、旧河道を復元させつつ、氾濫することがしばしばみられる。この一世紀のあいだに、私達はせっせと頑丈な高い堤防をきずき、懸命に治水にはげんできた。
おかげで洪水は今までのようには遊ばず、いっきに河道へ走り、雨どいのようにまっすぐになった河道をひた走り河口めがけてつきすすむようになった。こうして、治水工事を熱心におこなった川ほど、洪水流量が増大するという結果になった。明治以来の治水方針によって、豪雨の量は同じ程度であっても、洪水流量ははるかに大きくなって来たことはまちがいない。』
二年まえ私はある雑文の中に、以上のように引用しておいた。この著名な河川工学者のこの本での主張を素直に延長して行くと、長良川河口堰など要らないことになる筈と思うのだが、これは僻目(ひがめ)であろうか。それはともかく、私はこの雑文の最後に次のように締めくくっておいた。今回もそれを再録しておこう。
『〈わたしは史料を調べて見て、其中に窺はれる自然を尊重する念を発した〉とは、誰もが知るとおり、森鴎(注:旧字で表現されている)外さんの【歴史其儘と歴史離れ】の一節である。河川のあるべき姿を考えるのに、この【自然を尊重する念】を離れては成り立ち得ない。この念はわれわれの眼から恣意の雲をはらうであろう。もっともこの念さえあれば、かならずもっとも近似的な【自然】を考えることが出来るだろうなどと、御方便な約束は与えられていない。ただこれなくしては、川について考え、そのうえに立って行った物事の全体は空虚な、少なくとも脆弱なものでしかあるまい。いやこれなくしては、われわれ自身を破壊する以外のものにはならない。』
ほんものの川を求めることは、私たちの物質生活と精神生活を正しく進めるための、必要不可欠な作業のひとつなのである。」
A野田さんの怒り
さて、どのように紹介したらよいか、困っている。野田さんの「怒り」が強すぎて、野田さんの「全体」像を見失う虞があるかも、と懸念している。
まあ、困ったときのヘボの特権、ということで野田さんの品格を、名誉を傷つけても、ヘボのなせる技、と勘弁して貰うこととしましょう。
暗い話になる日本の川
「日本の川の話をすると、必ず『昔は良かった』式のものになるので厭(いや)だ。
人を奮い立たせるような、メシや酒がうまくなるような、眼の前がパッと明るくなるような話が日本の川の場合出てこない。
川の話をすると、日本人のダメな点がくっきりと浮き出しにされて、腹が立って仕方がない。怒りで体がふるえてくるほどだ。日本の川の話はとても体に悪いのだ。
際限なく作られるコンクリートの護岸、ダム。ダムのできない所は河口堰(かこうぜき)。川を建設省に売り渡して、その金で温泉旅行に行く漁協の幹部(川は決して漁協のものではないのだが)。」
「村会、町会から国会に至るまで土建屋が威をふるう政治。多摩川のようなどぶ川を見て『まあきれい』という痴呆的川感覚の人々。
コンクリートでびっしり固められた護岸を指差して『川がきれいになった』と言う土建屋感覚の市民が急激に増えている。」
「必要悪」ではなく、「不必要悪」の「治水」事例
「北海道の山奥にオショロコマ(エゾイワナ)を釣りに行ったら、前年大釣りをした淵はつぶされてコンクリートのブロックが川底まで敷きつめられていた。洪水になっても誰も危害を受けない無人の荒野を流れる川を『洪水防止』の名目で掘り返し、川底までコンクリートで固める『三面張り』の工事が至るところで行われていた。
全国の河川で不必要な護岸工事が目立つ。
こういうのはこちら側に科学的な資料、数字がないので困る。地元の人が『ここは百年も洪水のない所なのになぜ自然の川岸をつぶしコンクリートで固めてしまうのか』と言っていても、建設省が『二百年に一度の洪水にも耐え得る護岸をした』といえば反論のしようがない。『過剰護岸ではないか』と全国各地で地元の人々は自分の近くの川岸を指していう。」
「数字」のマジック、「信頼性」のフィクションは、学者先生が、故松沢さんら川漁師の観察されていた太平洋側の海産アユの産卵時期とは異なる教義を流布させている大きな要因であろう。目利きが出来ず、湖産も継代人工も十把一絡げに調査、分析して、「十月、十一月に産卵している」という教義の根深さに孤軍奮闘?している気分の身にはよおく判ります。
川漁師は、「数字のマジック」を使わない定性分析的レベルでの観察ですから、「数字のマジック」に気づいていない人々に、「悔い改めよ」というのは大変ですよねえ。
野田さんの怒りばかりを並べることも芸のない、大人げない、と思っています。
そこで、「川へふたたび」(小学館ライブラリー)に、釧路川での「大名」川下りの情景が書かれているので、それを紹介します。
「釧路川の喜怒哀楽」から
愛唱歌
「針葉樹の鳴る音はとても心がなごむ。雪がちらちら降ってきた。寒気の中での焚火は心地良かった。ジャガイモとマトンをアルミホイルに包んで火の中に投げこむ。
肉の焼ける良い匂(にお)いが広がった。ギターを取り出して、
〔おどま ぼんぎりぼんぎり
と歌った。
旅に出るとどうしてもこの歌になる。
昔、ギターをもってヨーロッパを放浪した時、ぼくはこの故郷の歌一つで食っていたことがある。パリのモンマルトルの道端で『五木の子守唄』を歌ったのだ。あたりにはアメリカ、イギリス、スペイン、イタリアなどから来た青年が素晴らしくうまい歌を歌っていたが、ぼくの前に一番人が集まった。多分、彼らには日本の哀しい曲が珍しかったのだろう。三時間ほどやると、ぼくの前に置いた帽子にはいつも一〇〇枚前後の一フラン硬貨が入っていた。当時の一フランは八〇円で、ぼくはここでかなりの旅費を稼いだものだ。」
モンマルトルの丘は、かってはお墓ではなかったかなあ。オスマンのパリ大改造計画で、そのお墓を郊外に移そうとして、争点の一つになっていたのではなかったかなあ。
オスマンのパリ大改造事業でのもう一つの争点は水道水。セーヌ川の水に愛着あるパリっ子に、数十キロだったか、離れた所の湧き水を飲ませようとして、オスマンは苦労していたと思うが。
小原庄助さんの気分
「早朝、テントを出て、タオルを肩に引っ掛け、カヌーを漕(こ)いで風呂に行く。ガクが岸伝いにぼくを追って走る。まだ夜明け前で、東の空がぼんやりと明るい。砂の岸に着け、服を脱いで裸になる。恐ろしく寒い。湯の中にとびこみ、日本酒をビンごと温めて飲んだ。酔いがまわり、陶然となった頃(ころ)、太陽が昇ってきた。
朝湯と朝酒と朝日を同時に味わうこのぜいたくさ。
湖の出口が釧路川の始まりだ。無数の沼沢を通り抜け、つないで川は流れる。この源から弟子屈(てしかが)までの約三〇kmは日本でもっとも人間臭くない野生地帯である。川の周囲はすべて湿地、沼、湖で人が入り込めないのだ。
この川を下るのは五回目だったが、毎回胸がときめく。左右の沼から、ツルやハクチョウが飛び立つのを眺める。大型の鳥が長い翼を広げて、悠然と空を飛ぶさまは何ともいえずいいものだ。
弟子屈の下の牧場でキャンプ。夏、この川を下る時は、カガシラを振ると五本バリに五匹ウグイが食いついてくる。そのうち一〇匹に一匹がヤマメだ。いつか、ここで一日にウグイを七〇〇匹、ヤマメ三〇匹を釣ったことがある。
テントに泊まっているとキタキツネや野生のミンクが出て来てうろうろした。これほど自然、野生を堪能(たんのう)できる川は日本にはない。」
殿様気分満喫
この後は、怒りの野田さんに変身するから、その前に五月一八日の川下りの情景を。
「この川下りは『北海道テレビ』がずっとついて来て撮影しており、スタッフ、スポンサー、総勢十数名の食事を世話する^奴隷^まで三名いる凄(すご)い大名旅行である。
藤門(注:余市の職能集団の代表である悪友)がぼくのこと及び川下りについて何も知らずに不安がっているディレクターたちにこんなことをいった。
『野田さんは酒が切れるといきなり殴りかかってくるから、いい酒をそろえておくように。何しろ、熊本の人だからね。食べ物は上等なものしか口にしないよ。ヘンなもの出したら、テーブルをひっくり返して、皿を投げつけるよ。何しろ、熊本人の血が流れる人だからな。気に入らないことがあると足払いをかけたり、山嵐でブン投げられるよ。ぼくは温厚でやさしいから何を出されても文句をいわないけど、あの人はムズカシイからなあ。朝食には必ずシジミの味噌汁を出しなさい。それから夕食にはワインとビフテキが食べたいなあ、といってたよ』
藤門は自分の好みをずらりと並べ、スタッフたちはそれを信じたので、朝からシジミ汁が出、夜はワインと上等のステーキを食べさせられている。普通、ぼくの川下りは一人で黙々とショーチューを飲み、ラーメンを作って食べ、といったものなのだが、まあ、たまにはこんな川旅もいいだろう。
昼食の時間になるとぼくと藤門が川岸にフネを着ける。上陸すると、そこは牧場で、なんとピカピカのテーブルと椅子(いす)が並んでいて、温かい食事ができ上がっているのだ。気持ちのいい陽光を浴びて二人が食事を始めると、スタッフは遠くからそれを指をくわえて見ている。
近寄るとぼくに噛(か)みつかれたり、投げ飛ばされると思っているのだ。熊本県人はいつも理解されない。
『なんだか、イギリスの貴族の旅行みたいだな』
『じゃあそれらしく、ドレイたちの言葉づかいから改めさせよう』
藤門はドレイとして雇った山岳部の後輩たちにいった。
『おい、山田、今後は貴族風にやれ。何かいったら、必ず【サー】をつけろ。【それでいいんでないかい】なんて地の言葉を口にしたら張り倒す』
『判(わか)りました。サー。このタクワン食べてください。サー』
『そうそう、その調子』
中に英語の出来ないドレイがいて、
『あのう藤門さんさあ、ぼくきのうビフテキ食べたらさあ、お腹がびっくりして下痢しちゃってさあー』
貴族風にやるのも大変なのだ。」
ということで、強面の野田さんだけを紹介すると、あらぬ評判を立てられるかもと、懸念しています。
いもねえちゃん?と高倉健?気取りの別れのシーンを妄想?したり、ばあちゃんのナンパに精を出す野田さんと、建設省批判の激しさとの落差が大きすぎて困っちゃうなあ。
釧路湿原の建設省
まあ、ここは、建設省批判で、釧路川の宴を終えることにしましょう。
「しかし、弟子屈あたりから、釧路川下りは怒りの旅になっていく。至るところで河川工事をやっているからだ。蛇行した川を直線にする。『ショートカット』。川の底までコンクリで固める『三面張り』。金ピカの鎖や鉄くいで囲った遊歩道付きのコンクリ護岸。
今年『釧路湿原』が国立公園に指定されて安心してしまった人が多い。しかしこの『湿原』をつくっている釧路川が年々、川の水量が減り、湿原全体が乾いている実情を知っている人は少ない。流域の山の木を切り、上流、中流の沼地湿地を乾燥させているからだ。『美しい釧路湿原』のポスター、写真、記録映画を見る度に、ぼくは腹が立つ。それは写真によるごまかしであって、決して、釧路川の実情ではないからだ。
近いうちに一度、環境庁長官やおえら方をカヌーに乗せてこの川を下ってみようと思っている。そして、もし、彼らの態度が悪かったら、川に放りこんで、湿原に置き去りにして帰ってくるつもりだ。」
野田さんの怒りの中に、川那部先生が書かれている「ほんものの川」を消滅させている人間の営みの項目から抜け落ちている項目があるのかなあ。
「不必要悪」の公共工事を行っていた「不必要悪」の統治の付けをどのように支払うことになるのかなあ。
まあ、「一割」本人負担という、とんでもない、しかし、ありがたあい健康保険制度の恩恵を受けているオラは、その当事者になることはないか、短期間の我慢ですむのではないか、と安心しているが。
諫早湾の水門開門でも、反対者がいるように、「公共工事」に係る何らかの「受益者」がいる。釧路湿原で、蛇行させる「公共工事」を行おうとしたら、畜産業者が反対したとの話があったと思うが。
諫早湾も釧路湿原も、「反対者」が、魚の悲しみを視野に入れていないこだけは明確である。「魚が泣いている」ことが、「公共工事」の判断基準になることは、困難なようですね。
「清浄な空気」が要らない人の誕生
また、野田さんの怒りを「日本の川を旅する」から紹介します。
「深山に巨大なスーパー林道を作り、ハイウエイを通し、無駄なダムをつくり、護岸をし、今や建設省は日本の自然の最大の敵、破壊者になってしまった。
後世の人々は今の時代を『自然破壊の時代、狂気の時代』だった、と言うだろう。眼の前に見える『利益』だけを追求して、眼に見えないもの、抽象的なものを全く理解しなかった、程度の低い、野蛮(やばん)な日本人の時代と呼ぶだろう。
清浄な空気、きれいな川を眺めて清々しい気分になること、美しい魚を釣る喜び、青く澄んだ川の上を春風に吹かれてゆっくりと流れ下る楽しさ――そんな金銭に換算できない価値は文化のない国では無視される。」
まあ、野田さんは、「文化」を桃源郷への道しるべと考えられているが、そうかなあ。
継代人工も、遡上鮎も、湖産アユも「十把一絡げ」に評価することに疑問すら感じない、いや、仮に疑問を感じても、「目利き」が出来ない、あるいは「目利き」を不要とする世の中も、一つの「文化」の表現状況なんでは。
「きれいな川を眺めて清々しい気分」になる人の消滅を憂えることはありませんよ。「清流」に相模川も、昭和四〇年頃の岐阜を流れていた長良川も対象になっているご時世ですから、清々しい気分になる人は「消滅」していないかも。
野田さんには耐え得ない川になってしまった四万十川も「日本最後の清流」として、人々を集めているようですよ。
「香気」を失い、ときには「臭い」アユでも、立派に「アユ」として評価され、そして、「香気」のないことに疑問すら感じないご時世ですから、「美しい魚」とは、コイやフナでなければ満足できるご時世になっていますよ。
つまり、「価値判断の基準」が、まがい物で間に合うように「人間」が変身しており、「ほんものの川」がなくても、「まあきれいな川」と満足できるようになっていますから。
観察眼に優れている川那部先生ですら、粥川を見て、
「『思えば、アユの調査に京都府下の川を初めて周ったころは、かなりの雨の降り続いたあとも、降り止んで一晩たてば、潜ってアユの行動を調べるにさしたる支障のない川がまだかなりあったのである。雨が降り増水すれば、水は少なくともささ濁りになるもの―こういう思い込みはじつは、もはや濁らされた目での判断であったのだ。』」
と、「濁らされた眼」の判断と書かれています。
いや、川那部先生は、「濁らされた眼」での観察はされていないが、世の中の人々が「濁らされた眼」でしか、「自然」を見ることができなくなっていることへの警鐘で、「自らも」その1人と、謙遜されて書かれた表現ではないかなあ。
なぜなら、「最後に残された清流・四万十川」でも、「清流」でない川であることを見抜かれていますから。
「ほんもの」を知らなければ、「アユのかたち」をしていれば、どのような容姿、匂いであろうが、「アユ」として立派に通用していますよ。
「ほんもの」を知らない人に、「ほんもの」を価値尺度、基準として採用せよ、といっても、無理かも。「まがい物」との違いを意識すら出来ないのかも。
その中で、野田さんの怒りを静める価値観が流布し、「公共工事」が行われるご時世に転換するのは、大変な摩擦、軋轢を生じるのではないかなあ。
そして、「転換」する時間まで、「不必要悪」の側面をもった統治が持続できるのかなあ。川那部先生の「最短で消滅した種」の発想まではとても考え及ばないが。
「不必要悪の統治」の側面のつけがどのようなかたちで、将来現実化するのか、その時、どのように犠牲を少なくする方策が行われて、新しい価値を持つ「必要悪の統治」に移行できるのか、そのことには興味はありますが、三途の川からでは見えないかも。
サイパンの玉砕戦法に逆らい、持続する抵抗を選択した硫黄島の栗林中将(梯久美子「散るぞ悲しき 硫黄島の総指揮官栗林忠道」:新潮社)、水、食糧も満足になく、糞尿を洞窟外に排出することも米軍に場所を知られることとなるために出来ず、その臭い匂いの中で、三食昼寝付き?、バストイレ付きの米軍と戦った一七才の硫黄島(秋草鶴次「一七歳の硫黄島」:文春文庫)。
米軍の果物の缶詰を拾い、皆さんで食べた一七才の通信兵の苦痛にまで生活状況が悪くならないうちに新しい価値観が教義になることを願っているが…
野田さんの怒りは、次の文で締めくくりましょう。
「この本(注:「日本の川を旅する」)を書いたのが八年前だ。それから川も随分変わった。当時、何一つ障害(しょうがい)物のなかった釧路川はコンクリートの護岸工事、直線化が進み、川が短くなり、二ヵ所に小さな滝が出来て、そこでフネを陸に上げて迂回していかねばならなくなった。これが『国立公園』の中を流れる川だというから、笑わせる。」
B「公共事業」とは「土木工事」である信仰はなぜ?
野田さんの怒りのルーツかもしれない一因を梯久美子「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)から、ひろってみます。
西洋技術をひたすら取り入れ、京大の学生がインクラインの建設にすぐに生かした黎明期から硫黄島・敗戦後までの状況が、「土木工事」唯我独尊の源流になっているのでは、と。そして、そこに人間普遍の「オーガスタスの神話・巨大モニュメント建設」の心情が作用している側面があるのではないかなあ、と想像している。
昭和30年代からは、硫黄島の頃の資源のない状態から、「土木工事」が人的にも物質的にも資金的にも無尽蔵の資源配分を享受できるようになったらどうなるか、の現象を検証する素材を提供している時代、といえるのではないかなあ。
「水際作戦」廃棄の攻防
栗林中将が硫黄島に向けて出発したのは、昭和19年6月8日。
「“水際作戦”とは、上陸してくる敵を水際で撃破するという戦法である。これは帝国陸軍70年の、まさに伝統的戦法だった。
船艇に乗って近づいてきた敵は、水上から陸上へと移る地点において、一時的に攻撃力が弱まる。このチャンスを狙って集中的に攻撃するのが水際作戦である。
この作戦には、それまで重宝されてきただけあって、たしかに利点がある。」
梯さんは、その利点を3つで書かれている。それは省略して、
「しかしこの水際作戦は、装備の劣る中国戦線の敵には通用しても、タラワ、マキン、そしてサイパンといった太平洋の島嶼(とうしょう)作戦においてはことごとく失敗していた。
なぜなら高いレベルの航空戦力を有する米軍は、上陸前に徹底的な爆撃を行い、陣地を破壊してしまうのである。水際の陣地は遮蔽物がないため発見されやすいという欠点があった。
もう一つ、米軍は上陸作戦の間じゅう、艦砲射撃や空爆によって徹底的な支援を行う。そのため米軍の相対的な攻撃力は、水際においてもそれほど弱まることはない。これに対し、硫黄島の日本軍は、海と空からの支援をほとんど期待できなかった。
制空権と制海権が米軍の手にあるかぎり、日本陸軍伝統の水際作戦は意味をなさない。このことを見抜き、ごく早い時期に水際作戦を捨て去る決断をしたのが栗林だった。
水際の陣地に人員と資材を注ぎ込み、武器を集中させたとすれば、そこで敵に甚大な被害を与えられなかった場合、日本軍はすぐに総崩れになってしまう。
しかし水際で華々しく戦い、負けてそれで終わりというわけには絶対にいかない。自分たちの任務は、この島に米軍を1日でも長く引き留め、最大の損害を与えることなのだから――。
そう考えた栗原は、軍の上陸をいったん許し、地下に作った陣地にモグラのように潜んで徹底抗戦に持ち込むことを決めたのである。
栗林が着任してきた6月8日の時点で、島ではすでに従来の水際作戦の方針にもとづいて、海岸近くでの陣地構築作業が進んでいた。しかし栗原は島の隅々まで自分の足で見て回り、地形や地質をつぶさに観察・検討した上で、早くも6月20日には水際作戦を捨て後退配備に転換する決断をしている。まだサイパンが陥落していない時期である。」
栗林中将の「常識」に反する方針に、反対、不服従の態度をとったのは、海岸近くの陣地を作っていた兵士だけではなかった。
しかし、2週間後には、「擂り鉢山、元山地区に強固な複郭(ふくかく)拠点を編成し持久を図ると共に強力な予備隊を保有し、敵来攻の場合、いったん上陸を許し、敵が第一飛行場に進出後出撃してこれを海正面に圧迫攻撃する」構想を立てた。
海軍の反対理由とそれへの対応
「『みすみす上陸を許し、大事な飛行場を敵の手に渡すなど、もってのほかである』
『上陸してくる敵は水際で撃滅するのが、島嶼作戦の常識である。』」
そして
「『硫黄島の陸上航空基地は不沈空母として絶対に確保しなければならない。そのためには、敵が水際に達する前に撃滅すべきである』
と、強く主張した。そして、千鳥飛行場の両側の水際に強固なトーチカ(コンクリート製の小型防御陣地)を何重にも作るよう進言した。
硫黄島ではこのときすでに、栗林の方針に基づいて後方陣地の構築が進められていた。しかし、浦部参謀(注:第三航空艦隊参謀)は、兵器資材はすべて海軍で提供するので、陸軍の兵力を提供するようにと迫った。
『これは中央の意向である』とする海軍側の主張は強固だったが、栗林は主たる陣地を水際ではなく後方に作る方針を変えることはなかった。不沈空母として確保するといっても、硫黄島の航空機の実働機数は、8月10日の段階で、零式戦闘機11機、艦上攻撃機2機、夜間戦闘機2機しかなかったのである。
しかし最終的に栗林は、水際のトーチカづくりに協力することを約束する。海軍が提供するという資材を陸軍の地下陣地づくりに役立てようと考えたからである。
硫黄島では当初の約束通りの資材が供給されず、セメントもダイナマイトも圧倒的に不足していた。栗林は、海軍提供の兵器資材の半分を水際のトーチカづくりに使用し、残りは陸軍で使うという条件を出したとされる。」
栗林の考えについて戦後、
「『兵団長の真意は後退配備に変わりはなく、水際に堅固なト−チカを作る資材を海軍が提供してくれるならば、一部兵力を配してこれを有効に利用しようという考慮があったようである。水際は偽陣地的に考え、敵の艦砲火力をこれに吸収しようという考えもあった』」
と記録されている。
このときの資材の要求は、(数字はアラビア数字に変えてます)
「セメント12,000トン、丸棒3,750トン、282,650立方米、鉄線20番(焼純鉄筋)15キロ、釘60トン、練鉄板200枚、砕石機小型20台」
この数量がどの程度のものか想像できないが。現在では、3面張りの護岸工事において、ささやかな規模に費消される量ではないかなあ。
その量でも
「しかし、海軍中央部から送られてきた兵器資材は、わずかセメント3000トンと、25ミリ機銃75丁のみであった。」
さて、このような「資源」が少ない状態であれば、「魚が泣く」「公共土木工事」をしたくてもできず、魚は毒流しがないかぎり、幸せに生活できる。
「それまで水際配置に固執していた大本営陸軍部がようやく考えを改め、後退配備の新方針を打ち出したのは、昭和19年8月19日のことだった。
大本営は、『絶対的国防圏』の要塞だったサイパンの防備に自信をもっていた。しかし、実際には、米軍が上陸作戦を開始するや、守備部隊はあっという間に崩壊してしまった。7月7日サイパンが玉砕したのに続き、8月3日にはテニアン、11日にはグアムも玉砕している。
これを重く見た大本営は、『敵を水際において撃退し、若しくは島嶼に敵の地歩を確立させるに先立ち果敢なる攻撃を行いその撃滅を期する』という従来の水際思想を改め、後退配備に転換させることにした。」
「大本営がついに方針を転換したのは、内部から『従来の考え方ではもう駄目なのではないか』という意見が噴出し、無視できなくなってきたからだった。つまり、水際作戦はもはや用をなさないという結論に達した者がいなかったわけではなかったのである。」
この文はわかりにくいが、オラは、「空気」に従うこと、その「空気」が変換した、という意味でとらえておくことにします。
多大な犠牲を伴って、始めて、「空気」は変換する、ということでしょう。
セメントの調達にすら四苦八苦していた戦中から事態は一変して、ブルもバックホーも、クレーンも含めて、「無尽蔵」と表現できるほどの相対的に豊富な資源を有する昭和30年代後半以降、「土木工事」に夢を追い求めても不思議はないのではないかなあ。
大型クレーン車が日本に登場したのは、昭和34年頃ではなかったかなあ。当然、初物であるから、評判になる性能を備えた「最新鋭」機械に過ぎなかったが、今や、当たり前の機械になっている。
それらの土木機械を、資源を、資金を駆使して築いてきた「公共事業」=「土木工事」の方程式は何によって崩壊するのかなあ。
原発の安全神話で封印されていた、原発の危険性、事故、事故対応が、やっと議論のできる状況になったが。
なお、フィリピンでは、「後退配備」の方針変更の結果、重兵器を始め、すべての物資を密林に「人力」で移動させる労苦を味わうことになった。伐開路の建設から、運搬まで、すべて、ブルもバックホーも、ショベルカーもなく、「人力」だけで行わざるを得なくなったため、大変でした。(山本七平「わたしの中の日本軍」(文春文庫:ほか)
しかも、そのフィリピンの「陣地」は、「後退配備」をしなければならない場所、戦術上の評価では問題があるようですが。「空気」が変われば、個別要因の評価はどこかに飛んでしまい「マニュアル」通りの河川改修、あるいは、「近自然河川」を目的とする「河川改修工事」が行われる現象と似ていないかなあ。
川那部先生は、
「ほんものの川を求めることは、私たちの物質生活と精神生活を正しく進めるための、必要不可欠な作業のひとつなのである。」
「河川のあるべき姿を考えるのに、この【自然を尊重する念】を離れては成り立ち得ない。この念はわれわれの眼から恣意の雲をはらうであろう。もっともこの念さえあれば、かならずもっとも近似的な【自然】を考えることが出来るだろうなどと、御方便な約束は与えられていない。ただこれなくしては、川について考え、そのうえに立って行った物事の全体は空虚な、少なくとも脆弱なものでしかあるまい。いやこれなくしては、われわれ自身を破壊する以外のものにはならない。」
この川那部先生の思いが、「土木工事」において考慮されるべき要因になることがいつの日にくるのかなあ。「空気」が変わり、野田さんが川を「暗い気持ち」で語ることのなくなる日はいつ来るのかなあ。
梯さんは、栗林中将の判断力について、
「栗林は現実を細かいところまで把握していたからこそ自分の判断に自信をもち、断固として実行することができたのであろう。上に立つものは細部にこだわらず大局を見るべきであるという考え方もある。しかし、大局ばかりを語り現実を見なかった当時の戦争指導者たちの楽観的な目論見はことごとく外れた。現場の状況の細部を無視して決められた方針は戦場の将兵たちを苦しめ、ついには敗北を招いたのである。
現実が厳しいほど、それを直視することが指揮官には必要である。前出のジェームズ・ブラッドリーは栗林を『あの戦争において、冷静に現実を直視し、それゆえ楽観的立場に立たなかった数少ない日本の指揮官』と評した。
先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである。」
と、書かれているが、「大局観」と「希望的観測」は異なる事柄ではないかなあ。
「現実」だけをみていても、その意味に係る判断、評価は「大局観」がなければ「効果」を発揮しないのではないかなあ。「希望的観測」だけは有害無益、ヘボの専売特許であることは、十分認識しているが。
問題は、「適切」な「大局観であったか、どうかではないかと思っている。
「大局観」の誤り
究極の「管理・マネージメント」ゲームである戦争で、なんで、「水際作戦」が後生大事に「空気」になっていたのか。
業績評価は過去に傾斜する、との一般原則で、過去の成功事例に拘束された判断であることは判る。
それだけでなく、「大局観」も間違っていた、「現実」を見ることも適切にしなかった、ということではないかなあ。
梯さんは、硫黄島の兵士を通して、栗林中将の「人間」を描くことが目的のようであるから、マネージメントゲームについては山本七平「日本はなぜ敗れるのか――敗因21カ条」(角川文庫)のカバーの裏に書かれていることを紹介します。
「敗因を知る」
「日本が敗者になる理由は…」
「▼非常識な前提を『常識』として行動する
▼生命としての人間を重視しない
▼『芸』を絶対化して合理性を怠る
▼『動員数』だけをそろえて実数がない
▼恐怖心に裏付けられた以外の秩序がない
▼自己を絶対化するあまり反日感情に鈍感である」
さて、「計算能力」の章から、「大局観」に係る記述をつまみ食いします。
「米人と日本人の個人の計算能力を比較してみると日本人の方がよいように思うと、前にも書いたが、この戦争で両国の最高首脳が敵国の国力、工業力を計算し合った。米国は日本の力を大ざっぱに大きめに計算し、日本は米国の力を少なめに計算しそれにストライキ、その他の天災まで希望的条件を容れて計算した。そしてその答えは現実に現れてきているが、日本のは計算が細かすぎて大局を逸しているようだ。
『小利口者は大局を見誤る』日本の戦後三十年は、残念ながら氏の言葉を立証してしまった。またこの比較は『といっても、日本の技術にも優秀なものがあったではないか。ゼロ戦などは世界一の折り紙をつけられていたではないか』といった反論への答えにもなっている。
たしかにわれわれは、外国の基本的な技術を導入して、それを巧みに活用するという点では、大きな能力をもっている。しかしこのことが逆作用して、常にそれですますことができるような錯覚をもちつづけてきた――戦前も、そして戦後も。そのため、全く新しい発想に基づく考え方を逆に軽視する傾向さえある。
以下は小松氏が、将来の日本はいかにあるべきかについて収容所で考えた一案だが、専門的なことは何も分からぬ私でも、あの暴力団支配の収容所で、こういうことを考えていた人にだけ、上記のような批判を下す資格があるように思われる。」
「氏の言葉」の「氏」、「小松氏」とは
小松真一氏は軍人ではなく、陸軍専任嘱託として徴用され、フィリピンでブタノールを粗糖から製造する技術者として派遣された。その結果は、無駄な派遣、技術者としての「能力」を発揮する何らの環境もなく、「員数」、ポーズだけの役割を演じただけであったが。他の「派遣者」が、能力がないにもかかわらず、肩書きを与えられて派遣され、仕事のできないことが「仕事」がないため、露呈することがない幸運を享受していたが。
そして、労働キャンプで、いろんな紙を利用して日記を書いた。その「虜人日記」について、山本七平は「現実性」と「同時性」を兼備していること、及び、軍人ではなかったから、対人関係・対社会関係への配慮等に基づく「時勢への配慮とそのための意識的無意識的迎合」が皆無であることから、「史料性」を非常に高く評価されている。「虜人日記」は、没収をされないように、骨壺に入れて持ち帰ってこられた
この話については、そのうち引用する機会があるのではと思っていますが。なお、「没収」を行う主体は、、「米軍」でなく「日本の捕虜送還業務」従事者です。
日米開戦のとき、NHKにいた叔父は、この戦争に負ける、と。それが何らかの形でソウルにいた父に伝達されたから、昭和17年には入手困難であった釜山からの乗船券を手に入れて早々と帰ってきた。
それで、敗戦後、漆工場を経営していた社長の子ども・おぼっちゃまであったドブさんら、多くの朝鮮からの引き上げ者の苦しみを味わうことはなかった。
オラ達の乗船券を釜山で、何日も並んで取得してくださった方は、徴兵され、松本連隊に入り、幸いにも済州島で軍務につかれた。敗戦後、釜山で夫の帰りを待たれていた奥さんは2人の幼児、乳飲み子を抱えて、最後の引き揚げ船に乗った。
門司港は満杯で入れず、山口県の漁港・先崎港?で下船された。
今と違い、駅弁もなく、超満員の汽車で、渥美半島に辿り着くまでの辛苦はどのようなものであったか。
済州島は釜山に近いが、軍司令部?は、平壌にあり、そこで解散式が行われたとのこと。「解散式」という言葉ではないが。
奥さんが発送された30近くの行李は、海の藻屑になったとのこと。その1つを拾われた方が送って下さり、塩水に浸かり、ばりばりになった服を着ていた、と、元幼女が話されていた。
「現実」についても、目の前に「見える」具体的な「もの」だけを意味しないようである。
「増水による濁り」が現代病の一つであるように、いつの時点での「現実」か、「現実」の時間性評価も必要では?
また、川那部先生の「自然を尊重する念」の精神に属する次元での感性も必要ではないかなあ。
まあ、ニーチェの神なき時代のお話も、サドの神なき時代、欲望のまま突っ走る時代についても、オラのおつむは逃げろ、と、わめいていますから、あゆみちゃんのお尻を「希望的観測」で追い回す生活を始めましょう。
ついでに、ヘボのマネージャーがドラッカーの「マネージメント」を読んだら、囮を意のままに操縦できて、地区大会で優勝できる、との夢見る夢子ちゃんになりましょう。
「故松沢さんの想い出:補記4」の最後に一言。
「生命としての人間を重視しない」ことを、日本軍の専売特許として評価をしてよいのか、それとも、普遍的要素をもった現象、行動様式、価値観なのか、わかりません。異質他者の「生命としての人間を重視しない」現象と、日本軍の行動、行為に係る現象の何が通時性、その他の共通性をもち、何が特殊なのか、どのような局面で「生命としての人間を重視しない」行動様式が採用されるのか、そこに、いかなる共通性・普遍性と特殊性があるのか、判らない。
したがって、「生命としての人間を重視しない」ことが、「魚が泣いている」土木工事繁盛の一因とすることが適切であるのか、どうか、判らないため、将来の課題とします。
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