昭和のあゆみちゃん序章

「故松沢さんのお思いで:補記 その2」を書いていて、弥太さんについて、「昭和のあゆみちゃん」に掲載されていないことに気がついた。
そこで、「オラ達の鮎釣り」のBBSの中で、「あゆみちゃん遍歴賦」2005年、2006年から、あゆみちゃんの人生、生き様等に係る部分を再掲することとした。
とはいえ、そろそろあゆみちゃんのお尻をっかける季節となるため、寒くなり、あゆみちゃんとの逢い引きが出来なくなる11月以降となろう。
とうことで予定していたが、素石さんの本が岩魚の鎮魂歌ではないか、と思って、明日はあゆみちゃんでは、と心配になり、いつもの行き当たりばったりのこととなりました。

   ップへ戻る             昭和のあゆみちゃんへ戻る       故松沢さんの思い出へ戻る

昭和のあゆみちゃん序章目次

1 岩魚への
  鎮魂歌
   

 山本素石編著
  「山釣り 
  遙かなる憧憬の谿
  から」
























1 岩魚への
  鎮魂歌
最初の犠牲者:岩魚? 人為と魚
(1)切通三郎さんの反省 @人工魚留め、岩魚放流 すでに岩魚は釣れず  
堰の増加  
人跡未踏と岩魚の生存

A魚の目線
 
なぜ、魚の目線?
渓は誰のもの?
釣り師の目線は?
(2)岩魚の生活史


根岸治美
「岩魚の四季」
@寡黙な眠りの時 冬籠もり
A雪解けと目覚め 雪代と下降
B雪解けと食事
Cブナ虫 ブナ虫を飽食  
大物食い
D 遡上 土用入りの頃から
E川虫と岩魚の共存 川虫の糞と水垢
F増水の予知 天候の急変対応
  川虫→岩魚→人間
G浅瀬へ、小滝の跳躍を 産卵期の準備へ 
カケアガリ
跳躍に見る情
H産卵 番の形成  
  
産卵順序  
  産卵時期

  やもめ
大型岩魚の産卵
 
「堀につく」  産卵数
あぶれた雌
黒い眸のいまは?
(3)道志川の岩魚

今西祐行
「岩魚わずらい」
@釣りは仕事の邪魔 津久井の新居
坪井先生の警告
A今西さんの運命は? 「釣り人出入り禁止」の崩壊
生徒が先生にサボレ、と
渓の恵みと岩魚のエサ
B今西さんは
 釣り上げられる
沢はきれいよ
C初体験の結果は? 殿様釣り
枝も、岩魚も
沢はわが家の庭に
(4)十津川災害と
 アマゴ放流状況

亀井巌夫「イヌワシの翔ぶ渓」
大峯参りの思い出
十津川水害とダム
明治22年の大水害
土砂の堆積
北海道移住
都の近くと秘境の渾然
アマゴの放流 本流は放流もの
天然物は稀に
天然アマゴの残っている所
=遭難と紙一重
  “鼻曲がりの媚態”   は夢に

原生林は?
  本流
  =白っぽい砂礫の     川

  クマタカ
(5)礼儀作法
  藤井淳重
    「オニサとイワナ」
@だましの作法

Aさげすまれた藤井さん
餌釣りはインケン
イワナの移植
ヤスで突く  
山屋の白い目  
イワナへの礼儀
10 (6)「奥越挽歌」
      
    山本素石

  
@アマゴの移殖 移植の経緯と交配
  
郡上アマゴの移殖
  ヤマメとの同化

交雑種の特徴
  
交雑種の魚格 尺級
11 A江の川のゴギ
 
ヒラメとゴギの減少
昭和24年、海との往来不可能に
環境破壊によるゴギ減少
12 B九頭竜川の
ダムができる前
支流の状況
  
木地師の里
雲川詣
 悪路  危険な僻地
 
尺アマゴ、2尺?の
 イワナ
 根尾の大河原の
 アマゴ移

雲川詣での終焉
=豪雨そしてダム建設

 
山津波  
 西谷村の消滅

13 C九頭竜川のダム 「送り人」の素石さん
建物のガラス割り
  例外=民家
      小学校
毒流しでも生産力豊かな川
哀悼の情

                       昭和のあゆみちゃん序章
1 イワナへの鎮魂歌

山本素石編「山釣り  遙かなる憧憬の谿から」(立風書房)
は、イワナへの鎮魂歌ではないかと思っている。
同じように、ヤマメにも、あゆみちゃんにも鎮魂歌が歌われなければならないのではないか。

「桜守」の佐野さんが、山桜とソメイヨシノとの違いについて、
ソメイヨシノはクローンの桜であるから、どこの土地でも、同じ花、容姿で咲いていて、地域による違いが現れない。それに対して、山桜は、それが育った場所により、花、容姿が異なるようになる、と。

山女魚が人工放流に頼って、辛うじて渓に生存している状態であるから、ソメイヨシノと同様、渓による、
地域による違いをもった在来種が生き残っているところは、ほんのわずかではないかなあ。
丹沢水系にも在来種の山女魚がいたが、すでに滅び去っているようである。神奈川県内水面試験場に、丹沢水系に生存していた山女魚の写真、特徴が掲示されていて、その山女を釣った人は連絡してほしい、とのことであった。

あゆみちゃんの容姿についても、遡上アユといえども、ぬめぬめの柔肌、シャネル5番の香りを振りまく容姿の鮎が生存している川は残りわずかであろう。ましてや、天竜川の紫鮎、大井川、藁科川の尻ビレにオレンジ色の鮮やかな蛍光色で縁取られ、その中に放射状にこれも鮮やかな青い線をもった容姿の鮎にはもう逢えないのではないかなあ。長良川の、継代人工の短頭とは異なるブルドックのように激流に押しつぶされた顔のアユはまだいるのかなあ。

イワナだけではなく、川の特性を持った山女魚、アマゴ、鮎についても、鎮魂歌が歌われる代になっているのであろう。
何で、イワナが
昭和59年発行の「山釣り 遙かなる憧憬の谿から」が、イワナの鎮魂歌となったのか、を顧みることはその後に続く山女魚、そして鮎の生き様、再生産の問題、人為による川の変化の影響がどのように魚の生活史に影響しているのか、を考える上で、無駄ではないと考えている。
鮎にとっては、数は減ったものの、あるいはシャネル5番の香りが稀有な現象とはなったものの、まだ遡上アユの生存の危機、絶滅には少し時間的な余裕があるとは思うが。

(1)切通三郎さんの反省
切通三郎「魚留の滝」から

@ 人工魚留め、岩魚放流

切通さんは、
山屋から「僕が山での釣りに手を初めたのは、すでに三十路の半ばを過ぎてからのことだったから、その頃には、近場の山ではもうすでに山女魚も岩魚もさっぱり釣れない時代になっていた。したがって、魚留の上であろうが下であろうが、片や〇匹、片や一,二匹といったあんばいで、本来の魚留などというものも、実質的にはその存在を失っていたのである。
 加えて、
堰堤という名の人工魚留が、それこそ魚の遡上能力などお構いなしに、所かまわず築かれていたものだから、その勝手を心得ぬままに、僕は魚留めと人工魚留めとを行きつ戻りつ、ウロウロと彷徨させられる破目になった。
 とりわけ、この人工魚留、つまり堰堤というやつは、のっぺりとただ高いばかりで、山女魚、岩魚のみならず、さすがの山屋もこればかりは攀る気すら起こらない無愛想さの上に、何時、何処に、新魚留あるいは新々魚留として突如出現しかねない神出鬼没さがあって、僕にとっては件の『ホンモノ魚留滝』以上にやっかいな相手ではあった。」
という頃に山釣り師に参入されている。

それでも、「実を言うと、昔の誼(よしみ)というものもあって、僕は、今もなお間違いなく岩魚の宝庫、天国、収容所、疎開先とでもいえるような地を、少なからず知る術がないわけではない。ただ、そこは、
一級の山屋たちが、せいぜい年に数パーティ入るか入らないかという、わが邦に残された数少ない領域か、あるいは、またこれも、ろくすっぽ拓かれていない残り少ない僻地猛烈藪山周辺のことであり、同じ山屋でも、『元』とか『新』とか言ったような、一文字程度の冠しか付かない連中には、とても歯が立つ相手ではない。」
と、いうことで、岩魚の住み家に人為が及んでいなかろう所は、切通さんでも近づくには一大決意が必要なところのよう。

それでも、「遅れて来た山釣り師」の切通さんは、
「新たなる修行の場を求めて、さらに東へ、さらに北へ、時にはやけくそ半分で西へ、またまたさまよい歩く身となった。
 しかも、その行きつく先々では、地図や遡行図の上でこれぞと目星をつけた滝下まで踏跡を巻いて辿りついたのはいいけれど、つい前年、その
下流部に新魚留の堰堤が築かれて、以来まったく釣りにならなくなっていた、だの、あるいはまた、事前に教えられた魚留から律儀に引き返した後で、実は何年か前に滝上に放された岩魚が繁殖し、今ではその上こそが岩魚の天国だと聞かされたりと、新旧ともの魚留に、いいように嬲(なぶ)られ、おちょくられての難行苦行。
 その昔、何度も傍を通りながら、こちらが無視しつづけてきた魚留の報いが、今になって廻ってきたとでもいうのだろうか。」

ということが、切通さんの反省の一つ。
昔はよかったという時代への回想はオラも同じ。ただ、オラは回想の対象となる本物の「清流」とか、シャネル五番が川面から漂っていたという経験にも恵まれたいないが。
最も、昔はよかったとしても、給料の何ヶ月、あるいは年収の一年とか二年分もする竹竿が買えたとは思えないから、昔のあゆみちゃんとの逢い引きは無理であったでしょうが。

A 魚の目線
切通さんが、「山屋」から「山釣り師」へ、と、華麗に変身できないのは、
「つまり、これまで、山や渓を見知ってきたつもりでいた僕のおもわくなど、こと岩魚を釣ることにおいては何の役にも立たなかった、言い換えれば、たかが一匹の岩魚を釣ることにすら無力であったということを、思い知らされたということだ。
 思えば僕は、これまで渓というものを、山というものを、
魚を基点として、なかんづく渓魚の眼でもって眺めることを怠ってきた。いやいや、鳥の眼で、獣の眼で、虫の眼で、草木の眼で、なに一つ山に住むもの達の眼で、山というものを見つめたことはないのである。つまるところ、僕は、山に対して旅人の眼で接してきたというだけだ。
 たとえば、岸辺に一株の草花があったとして、その株に咲いた一輪の花を、僕はこよなく愛(め)でたとする。その名を知り、可憐なる姿形を胸深く刻み込んだとでもするか。しかし、僕は、一度だって
その葉裏の世界というものを覗き込んでみたことはない。そこには一匹の虫が蠢いていて、それを見つめている岩魚の世界というものも、必ずやその裏側にはあるはずではなかったか。
 
渓は、山は、本来そこは、草や木や、鳥や魚や、獣や虫や、そこに生きることを許されたものたち自身の世界であり彼らに近づこうとするならば、まず彼らの作法で、彼らの眼で、そこを眺めることから始めなければならなかったはずである。
 僕が、もし、山での釣りというものに手を染めないできたならば、おそらく僕は、こうしたことを知る術もなく、今もって、山を、谷を、そこそこ知ったつもりでいただろう。
 ならば、もし、同じように、釣りを通して、渓を、山を、知ったつもりでいる山釣り師が今いるとすれば、彼もまたいつか、今の僕と同じことを考えるものなのか。それともまた、つい先頃まで僕の心を騒がせた、いやしくも山釣り師と呼ばれる人たちなら、そんなことは先刻ご承知で、それをわきまえたところから糸を垂らしているものなのか、僕にはそれを判ずる何もない。」

切通さんのこのカ所は、オラの思い、そして、亡き師匠や故松沢さんが何とかオラに伝え、教えようとした想いがすべて表現されていると思う。
「キケン」を全てなくす、堤防から一滴の水も外へ出したらいけない、との発想の
治水事業
欲望の赴くままに、それを実現することが公共の福祉の実現、進歩、近代化、科学の勝利、とかの風潮で自然と対峙する代。自然の「征服」が進歩であり、善である、という代。
それらのことに何らの
疑問も感じない「安全」の享受者
北京原人が道具を手にしたとき、兄弟殺しが多発したとの話があったと思う。便利で生活に役立つ道具ではあるが、反面、殺傷能力を高めることにもなる。その反面の事柄を、その有効な使い方を学習する前には、反面の効用が遺憾なく発揮されたために兄弟殺しが多発した、という話であったと思う。
人間が、自ら手に入れた
「科学」を人間の目線だけでなく、魚や獣の視点からその反作用を検証して、使用、利用を抑制、あるいは代替機能を袷使用するようになるのかなあ。
「環境に優しい水力発電」との横断幕が掛かる塩郷ダム(堰堤)ではあるが、長島ダムから何日も、ちんたらちんたらとダム底に溜まった泥水を放流しつづける中電が、「環境に優しい」とのスローガンを掲げていても、そのスローガンがあゆみちゃんや水棲昆虫の目線では一切見ていないことは明らかであろう。

切通さんの「魚の目線」視点での不満はさらに続く。
「ただ、近ごろ僕が見知ってきた釣りの世界、なかでも山釣り、渓流釣りといわれる世界での、あの混乱ぶりを見る限り、たとえば、餌師とフライマンとの奇怪なるいがみ合い、リリースをめぐるカンカンガクガク、はては釣り師のマナー、ゴミの持ち帰り、渓魚の放流、魚族保存、林道問題etc…。
今「釣り」が抱える諸々の難問、珍題すべての根も、ひょっとして釣り師が釣り師の眼でもって、渓魚を、渓を、山を見つづけてきたことにあるかもしれぬ…と思わぬでもない。
 そしてまた、同じ山なり渓なりというフィールドを、山屋は山屋の眼で、釣り師は釣り師の眼でもって眺めつづけている限り、もしかすると、われわれは、
永遠に渓というものを、山というものを知り得ぬままで過ぎてしまうのではないか―。そう思ったとき、僕は、限りなく山屋から離れつつ、同時に、山釣り師という名に浸りきることにいささか踏ん切りをつけかねている。日和見、二股膏薬の自分自身をまたまた見つけることになったのである。」

オラには切通さんのように悩むことがない。どっかに、ケセラセラの行動、思考様式が染みついているからであろうか。それとも、亡き師匠や故松沢さんの教えを何ら理解する素養がないからかなあ。
2009年の相模川の遡上量は、2008年の4分の1くらいではないかなあ。せめて、継代人工ではなく、遡上アユを相手にしたいから、駿河湾に流れこむ川に行くことが多くなるのかなあ。
オラの願望は、三途の川で釣り糸を垂れる前に、今一度、シャネル5番の香りを嗅ぎたいということ。ぬめぬめの柔肌をだっこしたいということ。

(2)岩魚の生活史
根岸治美「岩魚の四季」

根岸さんは、奥利根川を舞台に、岩魚の生活史の一端を書かれている。
@ 寡黙な眠りの時
「全山雪に覆われた奥利根の谷は静かだ。
緩やかに流れ続ける瀬下の淵や、大石の陰で、岩魚たちは冬籠もりをしている。
 渓の息づかいにひたと身を寄せている姿は、孤独で悲しい。冬の氷の透徹した重みをじっと支えながら、時折尾鰭(びれ)をつつましやかにゆるがせている。秋の産卵・放精で疲れはてた体を、まだいたわっているのだろうか。それとも、凍てつく水中では川虫も活動を止めているからだろうか。
 こうして、数百年、数千年にわたり生き継いできた岩魚の生き様を思うと、
なんときびしくも寡黙(かもく)な冬なのであろう。
 二月下旬、重い雪に凝集された谷間を、
カワガラスがピイッ、ピイッと啼きながらわたって行く。その頃になると、瀞の中をゆっくと泳ぎながら、時々浮き上がったりする岩魚の姿が見られる。おそらく雪虫でも補食しているのであろうか。
 昼の短かった冬から、再び太陽の威力が僅かではあるが甦り、新たな生命が再生されてくるのを岩魚たちは感じとっているのだろう。淡い冬の陽の射し込むトロ場で見るそうした彼らのしぐさは、いかにも平和で、惻隠の情さえ覚える。」

A 雪解けと目覚め
「三月に入ると、春の疾風(はやて)がいくたびか山をどよもして吹く。そのたびに木々の芽はいちだんと膨らんでくる。小鳥の声も冬の冴えた叫びではなくなり、明るく早口のさえずりに変わってくる。この頃になると、
岩魚たちは完全に冬籠もりから目ざめ、渓は雪代期にはいるのである。
 雪解け水が流れ始めると、日ごとに体の動きは軽くなり、餌も小さなものから食べ始め、
だんだん胃袋を食べ広げながら大きな餌も追うようになる
 居付いた場所が増水で変化すると、一瀬、二瀬と下流へ降って行く。
岩魚の下降する時期は、三月末から日増しに増水する四,五月が激しい。

B 雪解けと食事
「春は雪解け水と共に渓にやって来る。」
「その頃になると、山の天気も定まり、爽やかな太陽の光に溶けた雪水は、午前中から出はじめ、毎日増減を繰り返す。日頃は岩盤になっている水すべりの岩棚まで青白く染めた雪代水が溢れ、落ち葉や流木、ゴミなどをも流し、岩魚は餌を求めるのにかなり神経質になっている。
そうした流水の変化の中に、岩魚は川岸の淀みに身を寄せ、辛うじて採餌している。

C ブナ虫
「五月末から六月のはじめ、
山毛欅(ぶな)の花につくブナ虫がよく川に落ちるため、これを飽食している岩魚がいる。口いっぱい食いぼけしていて、ほかの餌には見向きもしない。この期間は十日ほどで終わるようだ。
 またこの頃は、よく
大物食いをする。蛙や山椒魚を飲み込んだり、共食いなどしている。もうすっかりサビも消え、自然と共に力強く息づき合っている岩魚に、はるかな時間を感じるときである。」

「山釣り  遙かなる憧憬の谿から」は、適宜脚注が付いている。
「ブナ虫」については、
「六月初旬、山毛欅の葉に大量に発生する
緑色の虫で、シジミチョウの幼虫。この時期には岩魚も集中的にブナ虫を採餌し、川虫すら食べないといわれている。
とのことである。そんなに岩魚にとっては美味ということかなあ。今も山毛欅の木が一杯生えていて、シイミチョウも大量に卵を産んでいるのかなあ。

D 遡上
「梅雨明けの山の夜空は澄み透り、星がいちだんと冴えて明るい。天の川が天心をしろく流れている。夜明け前の山路を歩いていると、石を打ち鳴らすような夜鷹の声がしきりに聞こえる。
 
七月土用入りの二十日頃から、岩魚たちの遡上がはじまる。奥利根では1・3といって、一日を瀬に三日を淵にといった具合に、餌を求めながら朝夕移動を開始する。水嵩(かさ)は減り、水温の上昇した谷に、冷水性の彼らは自らの宿命を感じとるのであろう。」

亡き大師匠が小河内ダム工事現場にいた頃、水温が上がると、多摩川から支流へと山女魚が上ってきて、その頃には大量にとれたといわれていた。
最上川は山形付近から流れてきた鯉仲間さんは、子供の頃、最上川でも水温が上がると、支流へと山女魚が移動するため、合流点付近に溜まることがあった、と。そのときは子供でも、ヤスで一杯とれた、と。
その状況が山女魚よりも冷水性であろう岩魚にも見られたということかなあ。

E 川虫と岩魚の共存
六月から七月にかけて、川虫の産卵期である。岩魚の主食であるカゲロウ類、カワゲラ類だ。
 川虫と岩魚の関係は、いわば、共同体である。川虫の棲まない谷に岩魚は棲まないし、岩魚の棲息しない沢に川虫もいない。
川虫は、魚の出す糞の付着する水垢を好んでつくから、岩魚の多い谷ほど川虫類もおおくいる訳である。同じ風雪に耐えて暮らしているもののみに許された、ごくしぜんの共存の形なのでああろう。」

岩魚の糞がどの程度、苔の生育あるいは、うまみ、栄養等に、と関係しているのかなあ。止水ではなく、流水であるから、量的に見れば、ほんの僅かしか、苔の生育には寄与していないと思うが、その微妙な均衡が川でのこけの営みに影響を与えているということかなあ。
微細な影響を虫が感知しているということかなあ。故松沢さんが、「金の苔」をあゆみちゃんが死守しているといわれたが、それと同じく、流水の中でのほんんおわずかな量がもたらす苔への糞の影響を虫も察知できるということかなあ。

F 増水の予知
「かって奥利根水系に若い情熱を傾けていた頃、土地の職漁師に興味ある川虫の話を聞いた。
洪水の直前に岩魚は小石を呑んで体重をつけ、流されないようにするとよく言われているが、それは違うというのである。
 小砂利で巣を作っている
トビゲラの類は、平水の折り、急瀬の真中で新鮮な水垢を食べているけれど、天候の急変を事前に知ると、岸辺や石陰にゾロゾロと移動をはじめるという。その時、動作の鈍いトビゲラたちが一番狙われやすく、虫の背負って歩く小石も呑むというのである。したがって天候の変化は、川虫、岩魚、人間の順序で知らされるという説だ。もっとも、これは視界の悪い谷間での話である。
 いくらか合理化された解釈だが、
古い時代の奥利根では、職漁師の暮らしと、岩魚、川虫の深いつながりは、思いもよらぬほど強かったのであろう。

増水前に、鮎も流されないように、石を喰むといわれているが、これも、食糧不足のやってくることを察知した鮎が、泥垢まで食べるから、あるいは増水後に泥垢まで食べるから、との解釈がある。魚の増水前後の食料不足への対応行動かも。

本能の退化した現代の釣り人は、釣りという目的にばかり心を奪われて、谷を遡りながら水を見ようとしない。やたらとがつがつと歩き、獲物を物色しているから、鉄砲水という自然の思いがけない復讐にあう。雨雲に白く包まれていく自然の貌を振り返ったり、谷をわたる風の冷たさや湿度などに気をくばるゆとりが欲しい。そうすることが谷行きの作法でもあろう。釣り人たちは内部に深く自然をはらんでいる存在であることを、認識しなければならないと思う。」

ルアーの師匠が、谷の水が減っていることに気づいて、崖をよじ登ったとのこと。雪庇が崩れてダムを造った現象と判断したとのこと。その水量の変化に気がつかなければ、どんなに多くの山女魚や岩魚の命が救われことやら。
いやいや、そんな評価は間違っています。水量の変化に気がつき、そして、その変化は雪庇が崩れてダムができたからであり、早晩、そのダムが崩壊して鉄砲水になると、適切な判断をされたからこそ、オラのアッシー君になってくれているのですから。ことに、2009年相模川の遡上量は、去年の2割ほどであろうし、他方、駿河湾の狩野川、大井川の遡上量は多いようであるから、アッシー君様々、今年はサボリーマンの本領を発揮して、余命幾ばくもないジジーのために働いてくださるよう、お願いいたします。

G 浅瀬へ、小滝の跳躍を、産卵期の準備へ
八月も下旬を過ぎると、炎暑の光もどこか澄んでくる。山谷をわたってくる風は、しなやかでゆたかだ。谷路を歩いていても、大文字草や丁字菊の花に心をうばわれ、渓谷の余情がかよう。
 七,八月と遡上を続け、疲れた体を瀬や淵、石陰などで癒した岩魚たちは、
日ごとに浅い川瀬の中心(カケアガリ)に出てくる。視界のよい餌場で待機の姿勢をとり、川虫や昆虫類を補食しょうとしているのである。一年中で最も浅瀬に出る時期で、産卵放精という大役にそなえ、体力を整えるために荒食いをする季節である。けれども、岩魚にとっては、心ない釣り人の犠牲になりやすい危険な時期だ。
 その頃、沢に入ると
小滝に真摯な跳躍を見せる岩魚の姿に出逢う。一日何十回となく跳躍に挑戦するが、渇水期のためになかなか登りきれず、餌など見向きもしないで一心不乱に跳ねている。無心に遡上する岩魚の沈黙の深さを思うと、神妙な気持になる。そうした悲壮ともいえる美しさに接すると、岩魚が真剣に生き、その終焉の意味のふかさを垣間(かいま)見る思いである。
 やがて降雨で増水すると、一気に滝を上る。
登りきった岩魚は安心したのだろうか、再び餌をとるようになる。
 何年も登れないような滝つぼに集まった岩魚たちも、水温の高い間はしきりに跳ねている。けれど
九月も末になり水温が下がると、安心してほかの仲間と産卵期が来るまで仲良く過ごしているようである。跳躍しているという意味は、上流に仲間がいるということで、それは彼らの情念の奥深く眠っている体臭や帰趨(きすう)本能でかぎ分けるのであろう。」

残念ながら、根岸さんが観察されたこの情景が、どんな意味を持っているのか、判らない。
岩魚が水温と食料、そして子孫繁栄を行動原理として移動したり、とどまったり、場所を選択しているのかなあ。
多分、あゆみちゃんも、成長段階、性成熟、食糧事情で、そのような選択をしているのであろうが、弥太さんではないが、その裏をかいて、だまくらかすことがあゆみちゃんとのハーレム形成に不可欠なテクニックであろう。

H 産卵
番の形成

「すすき穂が風に揺れる
十月はじめ、黄葉の遅い山毛欅や水楢(みずなら)の葉が熟(な)れてゆく山の時間は静かだ。秋霧もすでに終わり、すっかり澄みきった水底では、滝下にいた多くの岩魚たちが、各々一組の番(つがい)となってやや川下へ降り、浅瀬を捜している。今まで見知らぬ存在であったものたちが、歩み寄り、対話している姿は感動的である。」

「谷水が紅葉を運ぶ
十月半ば、番になった岩魚たちは、互いに横腹を接触したり、愛情の軽い噛み合いなどを繰り返しながら、浅瀬を選んで丸い穴を掘っている。腹部や尾鰭を敏捷にふるわせ、産卵場を作り始めたのである通説的に、小さい岩魚ほど産卵の時期は早いと言われている。
 やがて木枯らしが吹き荒れ、晩秋の枯れ葉を吹き飛ばす夜も近い。
 二,三日前、ここまで書いたが、どうにも気がかりで、岩魚の産卵の様子を観察に奥利根へ出かけてみた。すでに黄葉のはじまった
十月中旬であった。
 小穂口沢の支流中倉沢をつめて行くと、釣期をすぎた山中の寂けさが身に沁みる。
 その日まで、私の網膜に残っている産卵の光景は、かなり模糊(もこ)として古びている。岩魚の産卵という神聖で禁制(タブー)の季節に、小沢まで分け入ることは滅多になかったからである。ただ、番の岩魚たちが、秘儀のごとく、はなやかな情念の火を燃やす、といった、あまりにも貧しいいとなみを、概念として意識していた。
 ところがその日、目のあたりにした現実の姿は、改めて私の知識を根底から覆した。
産卵放精をはじめた岩魚たちの隙を盗んで、卵を食べに乱入する横暴な岩魚が現れたのである。私は茫然と眺めていた。
 当然、岩魚同士の闘争となった。犯人の岩魚は、かなり大型のところから、
相手が見つからずに産卵できない雌岩魚と察せられた。すさましい闘争は、しばらく続いた。そうした残酷な情景を見ながら、やみがたくこみ上げてくる声は『ガンバレよ、夫婦(めおと)岩魚!』という私の内面の声であった。
 必死な雄岩魚の防衛によって、侵略者は尾鰭を食いちぎられ、退散していった。
相手を得ることのできない無力なものは、この世界でも自信のなさを重たげにひきずっているように私には思われた。

この岩魚の産卵がはじまる木枯らしの吹く頃、というのは、海産アユの産卵開始時期と近似している。そして、小さい岩魚が先に産卵するということはどのように考えたらよいのかなあ。
海産鮎は大きいものから先に産卵する、とのことである。1年魚であるため、性成熟にいたる期間が短く、早生まれでないと、産卵適期:性成熟に到達していない、ということかなあ。
しかし、この説明では、琵琶湖での大鮎と小鮎の産卵時期の違いと、大鮎と小鮎の世代交代の現象が説明できない。
琵琶湖では、産卵時期が遅かったコアユが、湖で生活をしているが、産卵時期は川にのぼった大鮎よりも早いとのこと。そのため、翌年にはコアユの子孫が大鮎となって遡上していき、川で生活をしていた大鮎の子がコアユとなって湖で生活するとのこと。
琵琶湖での現象が海産でも見られるのであれば、岩魚の産卵に見られる成長度と産卵順位の関係として、共通性が見られる、と、学者先生はしてやったり、と喜ぶのかも。

根岸さんは、この文を書きながらも、気になったため、観察に行かれている。
アユ100万匹がかえってきた」の田辺さんが、学者先生が主張する10月始めから海産アユが産卵行動を行うという「説」を信じて、多摩川の産卵場所であろうと見当をつけていた川崎市の中の島団地付近の瀬に10月始めから潜った。
     注:「アユ100万匹がかえってきた」のリンク設定がうまくいっていません。「故松沢さんの思い出」目次にリンクされているので、その目次の[No.12  海産アユの産卵時期に係る学者先生批判と木枯らし一番の吹く頃という漁師の観察」を開いてください。

一般に関東平野の川でアユの産卵期は、9月末から11月初旬頃だ。2002年9月末、私と賢さん私との、アユ探しの日々がはじまった。」
そう、現象としての「産卵」の記述としては適切な面もある。
終期を「11月初旬」とする点は間違っているが。しかし、その「産卵行動」をする主体の評価がなされていない。
「賢さんは、漁協の許可を得て、産卵場調査のためにと網を打って歩いた。網に入ったアユの中には、体が黒く変色しているものも見つかった。」
という状況であるから、その附近の多摩川でも、少しは人工等が放流されているかも。
11月に入って、夥しい数の産卵行動。
田辺さんは、この結果、学者先生の10月初旬から海産アユが産卵行動をする「説」が間違っている、と確信されたのではないかなあ。
オラにとっては、海産アユの産卵情景は、学者先生の「説」と、故松沢さんや弥太さんら、観察眼に優れた職漁師の観察のどっちが適切か、という問題であるが、根岸さんにとっては、情念の世界でもあるよう。
学者先生が、根岸さんのように、「説」の適切性に少しでも気になる感性を持っていていて、さらに観察をしょうと思ってくれていたら、あゆみちゃんの生態、食料に係る誤解を流布させている結果生じている混乱を少しでも軽減できたのではないかなあ。

岩魚は一夫一婦制であるが、鮎はどうか。
オラは、乱交パーティと思っていたが、鮎も一夫一婦制との学者先生の話が載っていたと思う。学者先生はどのような現象を見て、一夫一婦制と評価されたのかなあ。
もし、一夫一婦制とすると、どのようにして番を形成し、また、群れを形成している中で、配偶者の特定と、他の男の排除を行っているのかなあ。

大型岩魚の産卵
十月二十日頃残りの紅葉にあられが降りはじめる。山に棲むものにとって、きびしい冬の告知である。その頃大型の産卵盛んにはじまっている
 土地では
『堀(ほり)につく』と言うが、交尾した雌雄が小砂利に穴を掘り、産卵・放精をし、外敵を警戒している大体一日に四十空五十粒の卵を、一週間から十日ほどかけて生み終えるという。その頃の彼らは、もう決して餌付こうとはしない。性欲と食欲は、動物の共通本能なのである。
 やがて産卵の終わった彼らは、雄が一足先にその場を離れるという。雌は数日間居付いて、卵を守っているといわれているが、やはり意識の深い部分で、母性特有の本能が働いているのであろう。」

一回の産卵量が鮎に比し少ないが。鮎は片腹ずつ産卵するといわれているが、どうであろうか。故松沢さんに聞き忘れた。

あぶれた雌
岩魚は、雌の方が少なく、男にとってはよりどりみどりという羨ましい社会のよう。そんな社会であれば、オラもモテモテであり、セクハラや、ウーマンリブといった雌どものいじめにもあわなくてすむのになあ。
雪代期は雄魚が長距離下降する性格のため、里の釣り人たちの鉤にどうしても多くかかってしまう。そのため秋の産卵期になると、雌魚が増え、岩魚の世界ではバランスが崩れて、晩秋、雌がひどく難渋しているのである。こうした関係で、秋季産卵できない雌も沢山現れ、翌春、流産のように糞と共に排卵する雌岩魚も多いと聞く。
 そのような岩魚は
産卵を一年休むが、二年後卵を持ったきは、普通の岩魚よりも大粒の卵を産み、その稚魚は大型岩魚に育つ素質をもつと言われている。
 このようなことを考えると、雪代時期の雄を乱獲したり、秋の産卵期前、雌岩魚を多獲することの反動は、自然に存在する岩魚たちのリズムを壊しているということである。」

このような岩魚たちが、堰、砂防堰堤があっちこっちにできて、移動空間が短くなったら、どのようにして、生活史を変えて生きていけるのかなあ。

「産卵場から、降りしきる木の葉を浮かべた流れを降る岩魚は、いよいよ
孤独な冬への旅の始まりである。かって、職漁師から、雄は百メートルから百五十メートル下降するのに対し、雌は二メートルから三十メートル位ずつ下降していく、という話を聞いた。その間隔の差は、うしろ髪をひかれる母親の思いを滲ませていてもの悲しくも心を打たれる。
 奥山の谷間で見た聖なる岩魚の産卵の光景は、秘儀というにはあまりにもはかない、きびしくも忍苦の試練の場であった。いま、あの晩秋の中倉沢を想うと、岩魚の美しいつぶら瞳(め)が甦ってくる。
産卵のとき、黒い眸の奥から、岩魚は泪をこぼしていたのだろうか。私たちに歴史があるように、岩魚たちにも気の遠くなるような永い歴史があるのをしきりに想う。」

「やがて音もなく執拗に降り積む雪の季節がやってくる。その頃、岩魚たちは再び寡黙な眠りにつくであろう。谷奥で太古のように横たわっている彼らの平安を想うと、釣り人としての私の生きざまに悔いが残る。はかりがたい情念によって動かされている釣り心を、むち打つ夜である。
 私が岩魚のように無心になって、自らの余生を送ることのできる日は、まだまだ遙かだ。」

根岸さんは、1929年生まれ。
岩魚のつぶらな瞳、黒い眸を何年頃まで見ることができたのかなあ。人工の放流ものでも、産卵し、その子孫が残っているのかなあ。それとも、鮎の継代人工のように降りをせずに産卵したり、海のプランクトンを食料とすることができずに死んでいる継代人工の末路と同様、再生産ができなくて死んでいる可能性が高いのかなあ。

(3)道志川の岩魚
今西祐行「岩魚わずらい」
@ 釣りは仕事の邪魔

「津久井の山里に移り住んで間もなくのことだった。一日坪田(譲治)先生と『びわの学校』同人数人の方々に来ていただいて新居を披露した。」
「『いいところだ』と友達は口々に言ってくれた。」
ところが先生は
1 「『ここでお風呂に入って昼寝をするといいでしょうね。ハハハ…』」
「事実私はこの新しい家に移ってから毎日昼間から風呂ばかりたてていた。
風呂から上がって昼寝こそしなかったが、峰を流れる雲ばかり眺めていたのである。雲は千変万化、大河小説を思わせるように去りまた来たるのである。もう何か大作をものにしたような気分であった。坪田先生はそんな私をちゃんと見ぬいて、ことばやさしく警告を発してくださったにちがいない。」

2 「『今西君も釣りをするんですか』
 『いいえ、一度も』
 『それならいいですね。釣りをする人はここに近づけないことですね。
釣りをはじめたらもう仕事ができませんね
『…?』
 『いいやね、ボクは昔、野尻湖で仕事していたときですがね。東京から行くでしょう。するとまず気分をととのえて傑作をものにするために、湖にヨットを出して釣るのです。ところがなかなか釣れません。つぎの朝になるともう一日釣ってから仕事に取りかかろうと思うわけです。つぎの日もまたそのつぎの日もそうなんです。大漁になったら何だか傑作が書けそうな気がしましてね。そんなことをしているうちに一月たってしまって、一枚も書かずに東京へ帰りました。東京に帰ったら、同時に出かけた壺井栄さんが、軽井沢の別荘でもうちゃんと長編を一つものにして帰っておられるんですよ。〜』

今西さんは、釣りをするために津久井に引っ越したのではないが、ルアーの師匠は?
東京の町中に住んでいたのに、どのようにかあちゃんをたぶらかしたのかは知らないが、「鹿や猿に気をつけて」の看板が立っている津久井に引っ越してきた。
師匠の魂胆は見え見え。休みのたんびに釣り惚けていたら、子供とかあちゃんに家から追い出されるから、子供が目の醒める前に釣りに行こう、遠出をしなくても釣りができるように、と。男の考えることは単純明快。

A 今西さんの運命は?
今西さんは『釣り人出入禁止』を実行していた
が、「ところが伏兵は思わぬ所にいたのである。
 家の近くに小さな小学校がある。全校生徒、今は三十六名、その頃も四十名くらいだった。」
「先生はときどき数人の生徒と一緒に、私の家の近くの草っぱらにやってくる。そんな先生の一人、野外授業が終わるといつもすばらしいテナーで『ステンカラージン』や『赤いサラファン』を歌いながら野道を教室に帰っていく若い先生がいた。それはなかなかすがすがしい風景であった。
 何がきっかけであったか、いつからかその先生と私は親しくなった。私の作品が国語の教科書にのっていたというので、若い先生たちの自発的な研修会にも招かれた。」

「ある日、それは渓流釣り解禁の三月一日が間近かな日、あるいはその前日であったかも知れない。いつものように生徒をつれて先生がやってきた。私はそばでジャガイモ畑の打ちお越しをやっていた。すると、生徒たちがしきりに先生にいっているのである。『
先生行ってこいよ。校長先生にも誰にも黙っていてやるから。そのかわりつぎの日は、おらあ弁当のおかず持っていかないよ。
 何の話か私には分からなかったがN先生はしきりにわたしの方を見て頭をかいていた。後で聞いたのだが、子供たちは釣り好きな先生に、解禁日だからこっそり学校を休んで行ってこいといってくれていたのだそうだ。」

何と優しい生徒さん、こんな生徒さんの大人になった人ががオラの職場にいてきてくれたら、あゆみちゃんとの逢い引きの機会も増えていたのに。それに、こんな生徒さんであれば、川で泳いでも親が怒鳴ることもあるまいに。(「故松沢さんの思い出:補記その二」の「野田さん日本の川を下る」)

「そのうちに月曜日の朝になると先生の車がよく私の家の前に停まるようになった。学校がはじまる前に、前日釣ってきた岩魚をおすそわけしてくださるのである。それもけっして魚だけをつき出されるのではない。
フキノトウだのタラの芽だの、ときには沢でつんできた珍しい花をいっぱい下さるときもある。そしておそえ物のように岩魚をくださるのだった。」

B 今西さんは釣り上げられる
「『釣りがお好きなんですね』
 というと、
釣りなんかどうでもいいのです。沢がきれいなもんですから…』
 と、渓流の美しさばかりを先生は強調するのである。
 たしか五月の連休明けのことだった。
こぶしほどもある真黄色なフキノトウをいっぱいいただいた。そして鮭か鱒のように大きな岩魚と一緒に
 『
奥只見へ行ってきました。雪の中にこんなフキノトウが群生していました。』
 そのフキノトウを手にして私は人跡のない雪をかぶった山深い沢を想像した。行ってみたいと思った。
 以前はよく山を歩いたのに、山の近くに住んでいながら山歩きからすっかり遠ざかっていた。足にも自信がなくなりかけている。このチャンスを逃したらもう山への復帰はおぼつかない。
『一度つれていってくれませんか』
 とうとうたのんでみた。N先生はにっこり笑って、仕事の邪魔になっては悪いと思い、喉までいつも出ていたのだが、口に出してさそわなかったのでとおっしゃっる。
 『
仕事なんかいいんです。ただ独りで楽しんでいらっしゃるのに私がついていったりするとそれこそ邪魔になるでしょう
釣らなくてもいいでしょう。道具は用意しておきますが。』」

N先生は釣りだけでなく、釣り人を釣るのもうまいなあ。
獲物を、それも、魚だけでなく谿の恵みも添えて、渓はいいですよ、釣りなんか邪道ですよ、渓の美しさだけでも見に行かれては、と、その気にさせている。オラのように、アッシー君ほしさに直接釣りをしょう、なんて誘い方をしていない。
これで、お魚が釣れたら、もう今西さんは、釣りがお仕事に支障となろうが、意に介さなくなるはず。

C 初体験の結果は?
「「私は見物するだけかと思っていたら『はい、どうぞ』と、餌までつけた竿を持たせてくださる。まさに
殿様の釣りである。
 おそるおそるしぶきをあげている流れに糸をたれてみる。『アッ、かかりました』。魚ではない。流れに入れたはずのハリは頭上の木の枝にひかかっているのである。しまったと思ってそれをはずしにかかると、足もとのぬれた岩がぐらり。パッシャン腰まで水につかる。
『そういうときは、糸を引っ張らずに枝の方を折るのです。』
『はい』といって私がさし出す竿に、先生はまたはじめから仕掛けのやり直し。いつになっても明るくならない。雨が降ってきた。
沢のしぶきかと思ったら雨ですね。』
『こういう日の方が、クイがいいのです』
『はい』。今度はN先生の仕掛けが終わるのを待って、その後について行く。ヒョイヒョイと岩を飛び越えていく後から、私はアッとかキャッとかいいながら又しても糸を枝にとられたり、水につかったり、竿にくもの巣をいっぱいからませて
沢登りの特訓約一時間、ようやく私も沢になれて歩けるようになる。
 やっとのことで先に行く先生に追いついてビクをのぞくと、もう三匹はいっている。
『生きた岩魚ってきれいですね』。ビクに手を入れて岩魚を手にとってみる。
黒い背、赤いヒレ、天然色あざやかな斑点もよう。なんとも美しい。
『アッ』岩魚は私の手から離れて流れに消えてしまった。

『すみません』

『いいえ、いいのです。あのくらいの小さいのはみな逃がしてやるのです。…あそこから入れてみませんか。その岩にかくれて、そっと…』
『はい先生』
 この時である。入れるなり電気がかよったように、ビリッ。
『あの、あげていいんですか』
『はい、どうぞ』
 ついに自分の手で釣り上げたその重み。私はしばらく魚をはずすのも忘れてぶら下げていた。
 
その日、三時間ほどの漁果はN先生七匹、私は二匹。」

N先生が、生徒からさぼって釣りに行っておいで、といわれるほど、生徒に慕われているわけが分かるような情景である。
釣りをしたこともない人に、沢での釣りを教え、しかも岩魚を釣り上げさせるとは。もちろん、道志川に岩魚がいないと、あるいは少ないと、初体験の今西さんに釣り上げさせることは、N先生がいかに教え上手でも無理であろうが。
昭和五〇年頃には、道志川の沢に岩魚がいたということでもある。オラのルアーの師匠は、道志川で、放流ものではない岩魚を釣ったことがあるのかなあ。話を聞いたことはあるだろうが、忘れてしまった。
今では、ヤマメも在来種は絶滅して、放流ものの人工しかいないとのことであるから、岩魚の生存はないのではないかなあ。それとも、まだどこかの沢でひっそりと余命を保っているのかなあ。
なお、中津川は、2007年から、ニジマスに変えて、ヤマメの放流量を増やした。又岩魚も放流している。そのため、角田大橋でも岩魚が釣れていて、それが囮屋さんの水槽で泳いでいる(2009年5月)。道志川も、本流は人工主体であろうが、沢ではどのようになっているのかなあ。

今西さんのその後は、言わずもがなである。
N先生は二度とこの沢にやって来ない。この沢は私にくれた積もりらしい。私ときたら、三日にあげず朝暗いうちに家を出て、三時間沢をのぼり、釣れない日が多いのだが、釣れたときには三匹から五匹。岩がどのようになっていて流木がどこにかかっていてと、もうすっかりわが家の庭。わが家の庭にはあのカスリを着たようなきれいなまだらをつけたヤマセミもいる。夏にはフシグロセンノウが咲きみだれる。
 不思議なことにうす暗くてもあの細い糸もハリもよく見えるようになった。澄んだ淵にひそむ岩魚の姿もこの眼で見えるようになった。
竿を入れる前に岩魚の目と視線が合うこともある。そんなときにはまるで恋人に会ったときのようにドキドキする。そして竿を入れずに先へ進む。
 今年もあと一週間で解禁である。半年ぶりに会う彼女は、どんな顔をして私を待っていてくれるだろうか。私の恋は今年もまだつづきそうである。
 しかし、私はまだ大作をものにしていない。
このことは坪田先生には絶対内緒である。」

(4)十津川の災害と山女魚の放流状況
亀井巖夫「イヌワシの翔ぶ渓〈十津川源流〉」


亀井さんは、「昭和のあゆみちゃん」No.15の「長良川ノートを書かれている。
「イヌワシの翔ぶ渓」には、野田さんが書かれている十津川と北山川の山の状況の違いが、増水時の濁りの違いとなっていること、及びその山の違いについて、十津川流域での大規模な山の荒廃と崩落を理由とされている。
その山の崩壊の状況について、亀井さんは記述されている。
また、アマゴの放流状況についても書かれている。ということは、昭和55年頃には、アマゴ、ヤマメの人工生産が行われていたということであろう。亀井さんが「イヌワシの飛ぶ渓」を書かれたのは昭和59年か58年であるが、それよりも前に人工生産が行われている。

大峯参りの思い出
亀井さんは小学生のとき、大峯参りをされていた。
「幼い私には、峰から峰を天狗のように飛翔し、念力でもって雲を呼び、風雨を起こすという超能力の行者への言いしれぬ怖れがあたうえに、実際に鎖一つを支えにして、断崖に突き出した巨岩をひと回りする“
蟻のとわたり”とか、数百メートルの絶壁の上から身を乗り出さねばならぬ“東の覗き”や“西の覗き”といった数々の行場の恐怖が想い出されて、訓示を聞く以前から、七月七日の大峯参りが近づいてくると、魂の内側から震えがあるような深い戦慄に襲われたのを覚えている。」

「いま竿を手に、十津川に
天然アマゴ(アメノウオ)を探ろうとするとき、きまって秘やかな昂ぶりと戦慄に似たものを感じるのは、こうした幽冥の境が放射する霊気とでも呼ぶようなものに打たれるからだろう。」

十津川水害とダム
「大峯山の源流から天ノ川となった十津川本流は〜」と、十津川にできたダムと支流との関係を書かれれているが、かっての大井川のダム同様、ダムが流れを堰き止め、水をなくしているよう。

「日本一の吊り橋(二九七メートル)が架かる
谷瀬の辺りですら、吊り橋からのぞき込んでも、よほどの豪雨のあとでもない限り、砂礫(されき)の川原と化した広大な岩底の所々に、水溜まりのような淀みが見られるばかりである。
 川幅二〇〇メートル以上のこの広大なU字溝の底に埋まるおびただしい砂礫は、
百年近い昔、明治二十二年八月の大水害の跡である。天川、大塔、十津川の三村で死者二一三人、流失家屋三二七,壊れた家約四〇〇をを数え、山崩れなど数知れず、一夜のうちに土砂や流木は土によって五〇以上の天然ダムが出現したという。水深八二メートル、周囲二四キロという巨大なものも上野地周辺に生まれ、それが次々と決壊して流域の地形は一変した。
 それ以前の十津川は、
現在よりも数十メートル下方を、岩石を刻みながら、文字通りの“峡谷”をなす急湍(きゅうたん)と深淵の連続で、風屋の滝、小原の滝など著名な瀑布も数多くかかっていた。
 この時生じた両岸の崩壊と、堆積した土砂の海が、百年後の今日もこの流域に明々と残っているわけである。
 川底が浅くなったために発明されたのが
プロペラ船で、大正十年、折立(十津川温泉)と新宮を結んで就航したが、奈良から新宮までバスが通う国道一六八号線の開通(昭和三十四年)や風屋ダム(三十五年)、二津野ダム(昭和三十七年)の完成で消滅した。猿谷も合わせたこの三つのダム工事のコンクリート骨材として、堆積した砂礫が利用されたのも皮肉な成り行きではあった。
 災害による郷里の荒廃のため、
二五〇〇人以上が北海道石狩平野に移住した。開拓村・新十津川村(現在は町)がそれである。災害以前の人口の、これは二〇パーセント近い減少だったという。昭和三十四年には十津川村の人口は一万三千を超えて、ようやく旧に復したが、その後再び減少の一途をたどりだした。」

「東西の山脈から十津川に注ぐ支流は、北から数えて、舟ノ川、旭ノ川、滝川、芦廼瀬(あしのせ)川が左岸に、中原川、川原樋(かわらび)川、西ノ川、上湯川が右岸に入り、和歌山県に入って、北山川(注:十津川と合流する「北山川」とは異なる)、相野谷川が左岸から、大塔川、赤木川、高田川が右岸に注ぐ。
 いずれも二〇キロ前後の流程を持つ大支流であり、
それらの源流域は、地理的にも奈良や京都の都に近く、高野山、大峯山などの霊場にも接して、古代から比較的ひらけていた十津川北部の北部の源流地帯とは異なり、“秘境”の名にふさわしい独特の雰囲気を残している。
 それは、遠く神代の昔、十津川郷民の先祖ともいわれているヤタガラスに始まり、役行者の奥駆けの伝承や、南朝の頃には大塔宮が隠れ忍び、また天誅組が旗を揚げた、という歴史が物語る
隠れ里的な人文と、かってはオオカミの群れがばっこし、いまだにワシやタカが飛び、クマもカモシカも棲む原生林に囲まれた野生の世界が、渾然と醸し出す一種幽冥の境とでもいうべきものなのである。」

亀井さんは、山の崩落が、伐採によるとは書かれていないが、当然のことと考えられていたのかなあ、
人口が急増して、氾濫地域であろうと、崖崩れが起こる土地であろうが、家を建て、土地利用をして、災害に遭うという昨今の土地利用とは異なり、長い年月の間、災害が回避されていたところに家を建てていた代のことであるから、明治になって大災害が生じたということは、山の木の伐採による土砂災害と考えるべきではないかなあ。

アマゴの放流
「さて、この十津川水系、アマゴは全ての支流に生息している。
砂礫とザラ瀬が連続する本流にもアマゴはいる。もっとも、本流アマゴは一〇〇パーセント放流されものと考えていい。各支流の人家集落の見えるあたりのものも放流ものが多い。
 最近、私は十津川温泉のある蕨尾(わらびお)から西ノ川を上ぼって、重里にある十津川漁協事務所を訪ねた。事務所の前の川っぷちにかまぼこ型のビニールハウスが建てられ、ハウスの中では、アマゴとアユの稚魚がプールで育てられていた。組合の専務理事の大畠伴也さんの話では、十津川に放流すべき稚魚を自給自足しているのである。またプランクトンを食べているメダカより小さいアユと、三センチ程度になったアマゴと。アユは新宮河口から運んだ卵をフ化させたもので、アマゴは地元産の親魚から採卵した約一八万匹、組合の栃谷勇さんが静岡県へ出かけて技術を学び、一人で採卵からフ化、養殖の仕事を引きうけている。放流もこの栃谷さんが専門にかかっているのだ。
 
毎年四月、数センチに育ったアマゴを袋に入れ、谷から谷へ、それを担いでゆく。十津川村内から共同区域の大塔村舟ノ川へも放流にゆく。上湯川、西ノ川、芦廼瀬川、滝川、神納川…その他の支流、枝谷へも彼の軽四輪は入ってゆく。林道のある限り、通行可能な限り、彼は源流へ、奥谷へ、ビニール袋に入れた丹精のアマゴを放流しにゆく。その彼の手も及ばない最源流、そこには、本来の天然アマゴが厳として存在するのだ。
 彼がもらしてくれた天然アマゴの生息する所は、下流からいえば、芦廼瀬川の奥、白谷、滝川の廃村となった花瀬から上流(宗教団体の所有域で、一般入山者は入山を拒否されるようだ)、旭ノ川の宇無ノ川峡、舟ノ川源流の七面谷、右岸の大支流・神納川源流地帯である。大塔村内の川原樋川やその源流の野迫川村内それから天川村の川迫(こうせい)川なども、かっては天然アマゴの宝庫として知られたが、
活発な放流事業の影響で、天然ものは極めて稀になっている。

亀井さんは、控え目ながらも、人工の放流を好ましくない、と思われているのではないかなあ。放流するにしても、天然アマゴの生存に適さない、あるいは、影響を及ぼさないところで、釣り人を満足させることだけを考慮すればよい所だけにすべきである、と考えられているのではないかなあ。
根尾川や長良川のアマゴが、九頭竜川の山女魚生息域に放流されたのは、軽四輪ではなく、山道を歩いて行われていたから、その頃の人為による魚の移動は限定的であったが、林道と車を利用すれば、人為による魚の移動の影響は非常に大きくなることからも、好ましくないと考えられているのではないかなあ。

天然アマゴの残っているところ
「山で出会う人たちは別して人なつこく、素朴に応対してくれる。車を止めて、谷への降り口を聞くのも一苦労である。獸道のような踏み跡をたどって降りるのだが、特に神納川、芦廼瀬川、旭ノ川の源流は
昔のままの荒々しい峡谷部が多く、二〇〇メートル〜三〇〇メートルも降るのはザラである。ザイルの必要な断崖に出くわして後戻りしたり、なんとか降りついたとしても、ものの二〇〜三〇メートルと前進できないような難所に行き当たったりする。
 登山者が遭難するのもそんな所で、舟ノ川の奥、カラバツソウには
『わが子ここに眠る』と刻んだ銅板が崖に打ちつけてある。谷をたどっていて滝に転落し、深くえぐられた滝壺からは、ついに遺体は上がらなかったという。
 旭ノ川の宇無ノ川も危険極まりない。最近は旭貯水池の奥まで林道が付けられたが、急峻な山腹を削って、路肩は弱く、転落事故も起こる。さきの栃谷さんの話では、大阪の釣り人で、暗いうちに奥に入ったのはいいが帰途、あまりの
急峻さと狭隘な道に怖れをなし、車を捨て『こわくてハンドルを持てなくなった』と、下流の中谷まで歩いて帰ってきたものがあるということだ。
 神納川の奥も小井谷辺りまではいいが、それから先は、よほどの度胸と運転技術がなければとても進めない。芦廼瀬川も行仙岳の山腹をトンネルで抜け、下北山に通じる林道が開けたが、
天然アマゴの棲む白谷の奥へは、土砂崩れや断崖続きで車行は困難である。
 しかし、安全な場所に車を止め、二時間程度の歩行を続けることのできる健脚の釣り人たちには、
こうした山奥の天然アマゴが美事な肢体を投げ出してくれるのだ。
 旭ノ川の奥、宇無ノ川の入口付近で、私は五〇〇メートル余りの谷底に降りたことがある。それも工事の人に、一か所しかないという降り口を教えてもらい、ようやく階段状の杣道をたどって、巨岩が立ち並ぶすり鉢の底に降りた。
巨岩の根をすさまじい奔流がしぶきをあげていたが、その激流から拾ったアマゴは、朱点も鮮やかな三〇センチ近い“鼻曲り”であった。それ一匹を魚籠に入れ、また五〇〇メートルを直登したが、二度と再び谷に降りようとは思わなかった。

原生林は?
「国道が走り、ダムが完成し、山林は次々と伐採され、
本流筋は白っぽい砂礫の川となったが、東西から流れこむ支流の奥は、千古斧を知らぬ原生林がまだ眠っている。舟ノ川源流や旭ノ川奥の国有林、神納川、滝川、芦廼瀬川の白谷など、これらの原生林は百年計画とか五十年計画とかで伐採にかかるというから、まだまだこの秘境は失われない。それほど山はふところが深いのである。
 シラベ、トウヒといった
亜寒帯の常緑針葉樹林からブナ、ミズナラを主とした温帯落葉樹林などがうっそうと茂るこの秘境には、クマが棲みカモシカがばっこし、空にはワシやタカも飛翔している。いまだにオオカミの遠吠えを聞いたという村人が、あちこちにいるくらいだし、『サルに憑かれた』という子供を、私の知り合いで神道の行者が月ごとに祈祷に通っている例もある。家庭か身の上に変事があると、“山の神”に祈り、女神であるその“山の神”に男性自身をちらりと見せて、呪いをするという風習も流域のそこかしこに残っている。」

「今年の冬、私は所用で大峯山の東に接する川上村の中学校を訪ねた。野鳥を観察する生徒グループがあって、数人の中学生が川上村から大峯山系にかけての猛禽類を追跡していた。それによれば、
翼長一メートル二,三十センチのクマタカが数羽確認されている。彼らが撮影に成功したクマタカを見て、私は四十年前にこの目で見た大峯山のワシを思いだした。あれは、ワシではなく、クマタカだったのかも知れない。そのことを指導していた先生に話すと、
『いや、ひょっとすると、それはクマタカよりも大きい
イヌワシかも知れませんよ。ぼくもこの眼で大峯山を越えてゆくイヌワシを見ました。威風堂々というか、まるで爆撃機が飛んでゆくみたいでしたよ。』
 と答えたものだ。
 
この大峯山を源流とする十津川の奥には、いまなお、こうした野生が脈々と息づいているのである。

という原生林は、どの程度生き残っているのかなあ。
また、原生林を切り出すために、あるいは観光のために建設されているスーパー林道あるいは林道が、その工事のために発生した土砂を谿に落とした結果、本流のように「白っぽい砂礫の川」に谿を変貌させているのではないかなあ。
原生林を伐採する方針は、もうなくなっているとは思うが、林道建設、道路建設での発生残土を谿に落とすことはいまも続いているのではないかなあ。
原生林に守られていた、そして、深くきびしいために守られていた谿は本流のように「白っぽい砂礫の川」に変貌せずに残っているのかなあ。もし、残っていれば、「天然アマゴ」の生き残りも期待できるが。

(5)礼儀作法
藤井淳重「オニサとイワナ」

「例年のことだが、夏山シ−ズンの始まる前に三俣山荘の鬼窪氏と『春になって初めてだから、ちょっと黒部の岩魚に、あいさつに行かねば義理が通らぬ。』ということになって、
七月のある昼下がり小屋を出たのである。
 『さて、どの辺まで行ってくるかね?』と鬼窪氏にたずねて、私は目をむいた。『そりゃあ、薬師沢の出合いからさ』当たり前だ! といわんばかりに答えるのである。
 私は遠い道程を思いやりながら、それでもごく平静にひかえめに『まあ、今年初めてだし、赤木沢(あかぎさわ)ってもんだね』と、道程を縮めることを暗示したが、『ダメ、ダメ、
今どきデケエのは上にゃいねえし、下の方の魚にも顔見せしなきゃあさむしがる』とこの人は意にも介さない。
 この鬼窪氏、通称オニサは『黒部の山賊』の数少ない生き残り、とものの本に書かれている。五八歳の根っからの岳(やま)猟師である。私とは、親子ほども齢は違うが、二〇年来同じカマのメシを食ってきた仲である。なかなかどうして、北アを自分の家の庭のような心算(つもり)でいるのだからたまらない。ひらりひらりと河原の大きな石を越えて行く様は五八歳には見えないし、私には今もって理解しがたい人物の一人である。」

「高天原(たかまがはら)の下の立石(たていし)のトロとまではゆかないが、赤木沢の出合いのトロや、そのちょっと下の滝の辺りは、最近めっきり数は少なくなったが、『
尺物』が当たるところである。
 一〇年ほど前には、
虫の多い昼下がりなど、何十匹とも知れない岩魚が、上流に向かって、つばさを広げたように体型を整えて並んでいる姿がよく見られたものだった。」

「オニサとイワナ」が書かれたのは、昭和五七年七月であるから、この時の釣りは昭和五六年ではないかなあ。

@だましの作法
「山屋たちは、平場でよくやる生き餌に針を仕込む、いわゆる『餌釣り』さえ、かたくなに拒否する。理由は単純明快だ。『
同じだますにも、本当のエサを仕込むのはインケンだ』というのである。
 本当のところ、
岩魚はきびしい自然の中で、限られたエサを限られた短い期間に食い込まねばならないことや、流れの早い渓流に生きているため、エサらしいと見るやおどりかかって、つかまえて咬んで確かめなければ間に合わない。食えないものはパッと吐き出すが、食えるものならそのまま呑み込んでしまうのだから、ちょっとウデに覚えのある人なら『餌釣り』だとたちまち上げてしまう。
 事実
、山屋が生きた流れを愛する心を失ったら、そして『餌釣り』を始めたら、北アの小さな源流は数年にして魚のいない川となろう。

あゆみちゃんが、産卵期に投網、コロガシ等の、あゆみちゃんの意思を無視して釣り上げるやり方が、どれほど、子孫の減少要因になっていると、何時になったら気がつくのかなあ。学者先生の説によると、四国で11月に再解禁されても、奥手の産卵が阻害されるだけ、ということになろうが、弥太さんらの観察では、産卵開始の真っ盛りから、大量殺戮が行われていることとなる。
四万十川が、再解禁を11月15日からだったかに遅らせたとのことであるが、まだ不十分であろう。
「生きた流れを愛する心」同様、あゆみちゃんの子孫繁栄を願う心がアユ釣りをする人に芽生えることがあるのかなあ。

「生きた流れを大事にする山屋たちは、釣り上げた魚が幼ければ流れに戻すし、
死んだ流れを生き返らせるために、息せき切りながら岩魚を尾根越えで移植する。モミ沢や、岩苔小谷の魚はそうして増やしたものだという。」

亡き大師匠は、狩野川で釣ったアマゴを、支流に放ち、自分のつり場を造ろうとしていたが、横取りされてしまっていたとのこと。何里も山を歩く必要のない狩野川の支流、沢では、秘密の場所を作ることは無理であったよう。
雨村翁が、生物の先生から、滝上にいる魚は鳥の運んできた藻についていた卵の子孫との説明を受けられていたが、それだけではなく、人が運んだ事例もあったのかも知れないなあ。

Aさげすまれた藤井さん
「ただ一回だけ、あれは、
昭和四十四年に集中豪雨が北ア一帯を襲い、沢筋も尾根も登山道が寸断され、人っ子一人山に来なくなったことがあった。長野県の常駐隊員だった私は、やることがなくなって、完全に形の変わってしまった源流の偵察におりて来た。これだけすさまじく荒れてしまったら、まず魚もねこそぎ流されたろう、などと考えながら、祖父沢に入ってびっくりした。いるわいるわ、トロになった所はどこもかしこも岩魚だらけ、背をすり合わすようにひしめいているではないか。ところがどっこい、まさか魚が生き残っているとは思わなかったから、竿も針も持っていないのだ。
 さんざん考えた末、五徳ナイフのフォークをヤスにすることを思いついた。我ながら頭の良さにこおどりしながら、手ごろなモチの木を切って、柄をこさえ、ザックのヒモでナイフをくくりつけて、
やたらに突いたら、たちまち三〇匹ほどつき上げた
 
しかし、しばらくして興奮がさめたら、ソクソクと慚愧(ざんき)の念がこみ上げてきた。
 これは岩魚の虐殺だ!!
 と…。」

「案の定、背中に穴のあいた岩魚を三俣山荘に持ち返ったところ、山屋(やまや)たちは、
さげすんだ白い目つきで、岩魚と私を見較べるだけで、だれも食べてくれなかった。ちょうど来ていた双六小屋の主人の小池氏がソッとつぶやいた。『難をさけている、逃げられねえ魚を背中からとはなあ…
 それ以来、私は毛針以外使わない。それも、
古くから山屋伝統の、竿の先に竿丈とほぼ同じぐらいの長さのテグスと毛針をつけただけの、ごく原始的なものである。原始鳥みたいな雷鳥が歩き、千古の流れが息づく北アの谷では、これで充分だし、またふさわしい。」

というように、岩魚への礼儀を守っていた源流に、欲望のまま突っ走る人間が入り込んでいる。
「けれども、最近はまったくひどい連中がいる。電気ショックだの、毒を流す奴だの…。いわば死刑に値するヤカラが往々にして徘徊(はいかい)する。これをやられると、
もともと流れの小さい源流は、一気に死んでしまう。

この文が書かれたのは、昭和53年である。その後、死刑に値するヤカラが増え、さらに、林道の整備は、入っていける沢、源流を増やしていったから、岩魚の棲息しない渓が増えたのではないかなあ。

(6)「奥越挽歌」
山本素石「奥越挽歌」

@アマゴの移殖
移殖の経緯と交配

「私が行き始めたのは
昭和三十七年からで、延長十二キロの人造湖が村を呑んでしまうまで続いた。行き始めた頃は、十尾のうち九尾までがアマゴで、ヤマメらしいやつもいるにはいたけど、淡い朱斑を側腹に滲ませて、なかばアマゴになりかけていた。
 その原種は、古老の話によると、
昭和三年頃、峠の東を流れる長良川から移したものだそうである。九頭竜川の本谷を東へ詰めて油坂峠を越えると、峠の下に、長良川の上流が帯を投げたように光っている。山道を下りきったところが美濃白鳥(しらとり)の町である。一帯は郡上郡であり、長良川上流に棲むアマゴを、土地の人々は『郡上アマゴ』と呼んでいる。誇らかにそう呼ぶほど、すぐれて魚品が佳いのである。
 誰が移したものか判らないが、一つは
油坂峠から、もう一つは北の桧峠から、相前後して持ち込んだ者だという。やった人は福井県人に相違ない。それも、奥越の住人で、よほど足腰と肩のしっかりした、樵夫(きこり)家業の釣り好きだったろうと私は想像する。今なら、車で走ればわけないし、酸素ボンベを積んでいれば成功疑いなしというところだが、道も悪いうえ、担いで歩くしかなかったその頃に、どうしてあの山を越えたのであろう。想像するだけでも溜息が出る。
 滅多に千も二千も運んだわけではなかろうに、その僅かなたね魚が年々蕃殖して、この川の上流域をすっかりアマゴの世界に変えてしまったのである。
 先住者であるヤマメが次第に影をひそめたのはどういうわけであろうか。ヤマメの上流にいるイワナは影響を受けなかったが、
アマゴと生活条件の酷似したヤマメは、それから三十数年、私どもが行き始めた頃にはほとんど姿を見せなくなっていた。
 思うに、それはヤマメが駆逐されたのではなく、
アマゴと同化したのであろう。もともとアマゴとヤマメとは、生態が大層よく似ていて、同一種の中の亜種、という風に考えられている。私も同感である。だから交配しても不思議ではない。唯、アマゴの朱点の遺伝子が強いため、ヤマメの混血にもそれが顕在化する―と単純に考える方が素人にはわかりやすい。専門家の分析によると、あの朱点はカロチノイド系の色素だそうである。」

今西博士が、日本海に注ぐ九頭竜川上流の「ヤマメ」を、「在来種」と判断することなく、アマゴの移植による「
交雑種」であると判断されたことがすごいと思った。
「昭和のあゆみちゃん」と「故松沢さんの思い出」におけるオラのキーワードは、古には存在していたが、現在においては人為によって生じた環境変化等の影響を受けて、存在しなくなったもの、変化したものは何か、ということである。
そして、鮎や珪藻に関わっている学者先生が、「本物」を知らずして、「人為」のもたらす現象、変異に無頓着ではないか、ということである。
そのために、適切である産卵期間の設定が行われずに四万十川の遡上激減や、鮎が食して珪藻が藍藻に遷移する、といった類の研究がのさばっていると考えている。
村上先生は、釣り人と研究者の交流により、その類の問題をなくそうと考えられているのではないかと思うが、釣り人といえども、珪藻が優占種である川で釣りをした経験を持っている人はもう少なくなっているであろう。シャネル五番の香りを嗅いだことのある釣り人はどのくらいいるのかなあ。
「清流」と「本物」とはどのようなものか、という視点がない鮎に関わっている学者先生の対極として、今西博士と素石さんらを、そして、野田さんの「日本の川を下る」を読むこととなった。

なお、山女魚とアマゴの遺伝子特性では、アマゴの遺伝子特性の方が山女魚の遺伝子特性よりも強いため、アマゴ化する、と、ルアーの師匠が言われていたが、その現象を素石さんも語られている。
中津川に放流されている山女魚は、本来の山女魚かなあ、それとも、交雑種かなあ。「本物」を知らないオラには判断しようがない。

「移殖された郡上アマゴを最初に発見したのは、桧峠の近くへ山仕事に行った石徹白(いとしろ)の若い樵夫で、夕方の帰り途、通りすがりにとある淵をのぞいて見たところ、八寸級のアマゴの大群が、姿も露わに悠々と列をなして泳ぎ回っているのが眼についた。そこは、峠道についたり離れたりしながら流れ下る前川谷の上流であった。
もともとイワナしかいないはずの谷川であったが、どう見てもイワナとは様子が違うので翌朝、胸をときめかせて竿を入れてみた。釣れたのは、朱点も鮮やかなアマゴだったので、びっくり仰天したという話が残っている。
 
爾来、油坂峠を越えてきた同族と呼応するように、九頭竜川の上流は広範囲にわたって、アマゴで占められるようになった。

ということは、イワナの生息域でも山女魚、アマゴが移植されれば、蕃殖できる可能性があるということかなあ。食糧の昆虫の違いは、イワナとヤマメの棲み分けの絶対条件とはならない可能性もあるということかなあ。
もし、そうであれば、今西博士らのように、「本物」の目利きができて、「本物」の生息域とは異なる現象の生じていることが観察されたときには、より一層の人的影響であるか否か、等の検証が必要ということなのかなあ。

交雑種の特徴
「ま、そういう七むつかしい詮索はさておいて、面白いことは、
越前側のヤマメと縁組みして出来たアマゴの方が、本場の郡上アマゴを凌ぐほど立派な魚格になったのである。限られた一本の川で代々近親婚を重ねているよりもどうやら他国のものと雑婚する方が子孫のためにも好いような気がする。とはいえ、混血したから魚格が上がったとは言い切れないので、川の岩質、水質、水量、餌など、衣食住…でなく、食と住との条件がもたらす影響の方がもっと大きいのだろう。
 人工稀薄、交通不便という事情も魚に荷担して、
本流にも支流にも、形質、品格ともにすぐれた尺級の大型が景気よく糸を鳴らしてくれた。一度味をしめたら、遠いとか不便だとか、仕事がつかえているだとか、こちらの都合などホザいていられなくなったものである。私どもの仲間であるノータリンクラブの木野漫渓が、細君に愛想尽かしされて逃げられたのもその頃で、九頭竜川のアマゴに惚れた報いであった。この一事は、渓流師である彼にとって、汚点であるよりも勲章だと思っている。」

素石さんが九頭竜川のアマゴに接しておられたのは、人工が主流となる前、むしろ、例外現象である頃であったから、車で運ばれて、在来種を滅ぼしているかも知れない人工が放流される時代のマイナスを意識しなくてもよかったのかも知れない。とはいえ、山女魚、岩魚の生存、再生産が危機に瀕しているとの危機感は強く持たれていた。
その危機を救うために、効率性や、釣り人の欲望に応える手法ではなく、在来種の保護、再生産を考慮した手法が採用されていたならば、丹沢のヤマメが絶滅することもなかったであろうに。
鮎の世界でも、山形県、島根県を除けば、人工の生産にその地域の在来種の遺伝子を考慮し、再生産への寄与を考えた人工種苗を生産している県はないのではないかなあ。
現在はまだ、「大きければよい、川に放流されてから死んでも気にしない、品格も気にしない」という状況ではないかなあ。

A江の川のゴギ
素石さんは、「消えゆくゴギの故郷」《江川源流》に、
昔はヒラメ(ヤマメの方言)もゴギ(イワナの方言)もたくさんいたのだが、近年はほとんど姿を見せなくなった。おそらく最も早く魚影の減った地域ではあるまいか。標本を得ることさえ困難である。どこもかしこも減った減ったと書くのにうんざりする昨今だが、減ったのは魚ばかりでなく江川流域の町村は人も減っている。
 二十年ほど前、比婆山から西へ流れる
神野瀬川へヤマメ釣りに行って、上流の高野町で泊まったとき、この奥の俵原という在所まで行けばゴギがいる、と聞いた。宿屋から一五キロばかり山道を上ると、人家が見えるあたりで少しは釣れるだろうということであった。当時、すでにゴギは稀少魚だったし、神野瀬川ではヤマメが一ぴきも釣れなかったのでその入れ合わせによほど釣りたかったのだが、日程の都合で俵原まで行けなかった。」

素石さんは翌年五月にも行かれている。三時間ほどで五尾。
「『わしらの若い頃は、
ビール瓶位のやつがたくさんおったがのう。土地のもんは忙しいから魚釣りなんかやらんけども、近頃は広島の方からチョイチョイ釣りにきよるけえ、もうじきおらんようになるじゃろ』」

「この
木地山川は、昔はヤマメの宝庫であったという。江川からのぼってくる日本海のマスがこの辺りを産卵場にして、型の好いヤマメがひしめいていたそうだ。林道から流れに目を移すと、大淵やゆるやかな瀬に群遊する様が手にとるように見えるほど、『それはそれはたくさんいた』そうだが、戦後、食糧が極度に欠乏したとき、大規模な毒流しをする者がいて、全滅した。見渡す限り、川底はヤマメの亡骸で真っ白になったという。
 これに追い撃ちをかけるように、
昭和二十四年、下流の高暮(三次との中間)にダムができて、マスの回帰も途絶え、この川のヤマメは復活できないままである。」

「ここで書き添えておかねばならないのは、
ゴギの減少は捕りすぎよりも、むしろ環境破壊が強い拍車をかけてきたということである。具体例をあげれば、際限なくひろがってしまうが、上流にダムや砂防堰堤を乱造する一方、中流域沿岸の竹藪や雑木林を皆伐して、セメントで堤防を固め、川を貯水タンクと排水路に見立てるようなことを平気でやっている。そんなところに魚は増えるどころか、生き残ることさえ危うくなっている。ゴギやヤマメはおろか、淡水魚族全般の死活問題である。」


素石さんが、減った減った、と書くことにウンザリされているので、九頭竜川の状況を見てイワナの末期の現象を見ることを終えることとしょう。
九頭竜川でのオラの関心は、なんで相模川並の汚いコケの川か、ということ。そして、なんで、郡上八幡の集荷場に持ち込まれた九頭竜産のアユがはねられていたのか、ということ。
勝山から流れてきた鯉さんは、アユが勝山に入ってくると、川面からシャネル五番の香りが漂っていた、といわれている。そのようなアユを育んだ九頭竜川が、どのように変わったのか、ということである。

素石さんが、「ゴギの減少は捕りすぎよりも、むしろ環境破壊が強い拍車をかけてきたということである」という状態に危機感を抱かれて、今西博士らは、イワナ、ヤマメの在来種の標本を採取し、保存されることに全力を挙げられていたのではないかなあ。
素石さんらは、江の川のゴギ等の「標本を得ることさえ困難である」状況で、標本を得ることができたのかなあ。

B九頭竜川のダムができる前
「九頭竜ダムが着工し始めて、長野地区に高さ百二十八メートルの堰堤が城塞のような姿を現した」九頭竜川本流と、支流にもダムがあるが、それらのダムがない頃の支流がどのようであったのか、素石さんの思い出を見ておこう。

支流の状況
勝山のすぐ上流で、
真名川が岐阜県境の山へと登っていく。西谷村の役場がある中島地区で、雲川と笹生(さそう)川に分かれる。その分岐点の附近から下流の真名川にはダムがある。「麻那姫湖」と書かれている。笹生川には笹生川ダムがある。雲川にはダムはなさそう。真名川のダムと、笹生ダムがいつ出来たのか、判然とはしないが、笹生川ダムが昭和32年ではないかなあ。
雲川は雲川本流と支流の熊河(くまこ)谷が「やせ尾根を隔てて、二つの川が併行しているのである。小峠の西側に
熊河(くまこ)があり、東側の本谷をさらに四キロほどのぼると、温見(ぬくみ)があった。どちらも木地師の里で、累代姻戚の縁をかさねてきたところである。
 
熊河は昭和四十年、全戸が離村して廃屋となり、数年のうちに全て倒壊した。私どもが西谷村へはいるようになってから、一番早く廃滅した地区である。」

雲川詣
「垂直に削り取った峡谷沿いの山道は、車がエンジンをふかすたびにジャラジャラと屋根を鳴らした。空気の振動で、砂利や砂粒が車上に落下するのである。時折り拳大の石コロがドスン、と音をたてる。
 
改修以前の真名峡沿いの地道は、首をすくめる思いでこわごわ走らねばならなかった。中生代の地質からできた急峻な壮年期の山肌に無理矢理つけたような荒々しい悪路である。荒島岳(一五二四メートル)の西麓に始まるこの峡谷は、西谷村の役場のある中島地区まで、蜿蜒と続いた。今は真名川ダムに水没して、左岸に立派な車道が出来たので、昔の面影は何処にもない。

昭和初年頃、雲川のヤマメがアマゴに変わったのは、九頭竜川上流域と軌を一にしているが、こちらの方は根尾の大河原から移殖したものである。越前の温見と、美濃の大河原を介する温見峠の道は、九頭竜川の上流と長良川を隔てる油坂峠や桧峠とちがって、名うての悪路だ。温見も大河原も遙かな僻遠の地で、今もって交通の便はわるい。いや、人が住んでいたころでも交通機関のなかったところである。それだけに、九頭竜川のアマゴよりも、雲川の方が倍ほども魚が多い感じであった。四十年代以前の和泉村は、かって巡り歩いたどこの川よりも大型の魚影が濃いと思ったけれど、真名川の上流はそれを一層上回っていた。

という交通不便なところのよう。
「ひと頃、われわれの仲間内に『雲川詣』という合言葉が交わされたほど、家と職を忘れてこの川に熱中した時期があった。
三十センチ級のアマゴは珍しくなかったし、それを二本つないだほどのイワナもいた。そこへ行くだけでも決断と根気を必要とした頃の真名川上流は、危なっかしい僻地だったが、行けば行ったでそれだけのことはあったわけである。
 魚も多くて大きかったけれど、ヘビもたくさんいて、しかも大型であった。ヘビ捕りの業者もここまで入らなかったのか、雪消えのおそいこの辺りは、六月になっても日陰や渓の奥に残雪をみることがあって、表層は落葉を被っているが、その上に子供の腕ほどもある
太いヤマカガシが乗っていたことがある。」

雲川詣の終焉=豪雨そしてダム建設
「温見を流れる雲川は、熊河から小さい峠をひと跨ぎした眼下にあって、峠に立つと、能郷白山(一六一七メートル)のずっしりとした山容が眉に迫ってくる。温見の集落まで、割合しっかりした道路が通じていて、川はおおむね直流の平瀬続きだが、
低い堰堤が幾十となく設置され、その下の落ち込みでは尺アマゴがよく釣れた。ラインを思いきり長くして毛鉤をとばすと、水面一尺ほどの高さにしぶきを散らして大型のアマゴが跳び上がる。したたかな合わせをくれると、空中で鉤がかりして、飛びあがった弾みで二メートルほど糸に引かれてこちらへ飛んでくるのだが、魚体の重量で再び水中に落下する。二十センチ以下だったら一気に川原まで飛んでくるのだが、大型になるとそうはいかない。ただ、川幅が広いから、格闘の足場にもゆとりがある。魚が逸走するにまかせて、竿をたわめながらついて走ることが度たびあった。“雲川詣”の魅力の一つであったが、四十年秋の豪雨で川底がえぐられて以来、雲川の釣りはダメになった。
 四十年九月十四日、台風の接近で秋雨前線が急に動きはじめ、能郷白山から荒島岳にかけて、
二日間で一〇〇〇ミリを超えるこの地方未曾有の集中豪雨となった。雲川の数多い砂防堰も、片端から壊された。この地方は、西日本よりも渓魚の産卵時期が早い。できたばかりの卵床も、疲弊した親魚も、土砂をまじえた激しい濁流に押し叩かれて、どうなってしまったことだろう。
 いや、魚の話どころではない。村の中心である
中島地区では山津波が起きて、二十数棟の人家が泥流に呑まれ、一キロ下流の上笹又でも二十一個が流失する惨禍を被った。当時の役場の報告では、流失七十九世帯、埋没百二世帯となっていた。
 それを待っていたようにダムの話が持ち込まれ、水没地区以外の奥地集落にもダム補償が出ることになって、
四十五年六月三十日、西谷村は多難な歴史を閉じた。水害の前に一足早く村を離れていった熊川の人たちは、なんの補償ももらわなかったのであろうか。よそごとながら気にかかるのである。」

C九頭竜川のダム
素石さんは、手取川がダム建設で、「
水取川」の状況になっていたときにも、手取川に行かれている。
ダム建設が行われているから、当然、そのような川の状況になっていることは判っていたと思う。
にもかかわらず、出かけられたのは、
ほろびゆく川、渓を、ヤマメを、イワナを、慈しむが故に、その末期を看取りたかったからではないのかなあ。

水没地区にある建物がそのまま残されていた。
「『いえ、建物は、特に移築の申し入れのない限り、残すことになります。漁業組合の人らと相談しまして、このままで魚のアパートにしょうという考えです。それで、魚が出入りしやすいように、ということで、窓ガラスを破っておけと若い者にいってるのですが、なかなかそこまで手が回らないのですよ。上役に叱られたとき、ウサ晴らしにやるぐらいのものでしてねえ』
 と、歯切れのよい答えが返ってきた。
『へえー、そら、ええことですなア。私どもがお手伝いしても誰も怒りませんか。』
『ええー、結構ですとも―。ご遠慮なくやってください。助かります。』
 物わかりのいいおっさんだ。
平素からダムが癪に障っている連中ばかり四人いたので、さっそくウサ晴らしをすることにした。ただし、民家はそっとしておこう。ご先祖様の霊が祟るかも知れない。窓ガラスの多い役場、郵便局、小学校の三カ所がよかろう。四人はまず役場から先に、競争で石を投げた。天下晴れてこんな悪戯(いたずら)ができるのはこの時しかないとばかり、窓枠も残さぬところまで投げまくった。」

「郵便局も襲撃した。しかし、結局、
木造の古い小学校には手をつけなかった。いくつになっても、一番なつかしいのは小学校である。住家とは別のいたわしさが皆の心にあった。それ以上に、母校に哀別して、この土地を離れて行った児童たちのことが思いやられた。
 監督さんとみえたあの人は、湛水後、魚のアパートにするといったけれど、後で考えてみると、
湖底百メートルの深部である。そんなところまで、川の魚が居付くのであろうか。日光も届くまいし、水圧にも耐えられまい。そこへ数年もたてば、湖底に発生する硫化水素が災いして、とても棲めたものではなくなるだろう―そんな素人考えが浮かんできて、無駄な骨折りをしたと思っている。」

「昔から、九頭竜川の上流は“
毒流し”のさかんなところだと聞いていたが、どうやら本当らしい。その実例はいくつか聞いたし、直後の惨状に出くわしたこともある。それでもなおかつ、魚が減ったという実感はわれわれになかった。それほど生産力の豊かな川だったのである。
 核心部にダムができてしまうと、もう面白くない。奥地の住人は、故郷を去るにのぞんで、大規模な“毒流し”を敢行した。その直後へ私どもは行って、
『村』と共に滅び去った川の無惨な様子に、したたかな衝撃を受けたものだが、それまで見聞した他村の流毒事件と違って、不思議に腹は立たなかった。ダムの恩恵を受けるのは、下流沿岸の企業と都会の住人であって、そのために故郷を奪われて出て行く人々は、強いられた犠牲者でしかない。村と共に川の魚も滅びよと、怨念をこめて、もう使うこともなくなった農薬をありったけ川に流したとしても、村を滅ぼした行政の恣意に比べれば、責めるに足らぬささやかな所業ではないか。
 絶えた魚は、いくらでも放養できるが、湖底に葬られた村は永久に戻らない。水没する以前の村の風景や、そこに住んでいた人々のくらしぶりを目に刻んできた者には、
その亡骸が沈んでいる湖面にボートを浮かべて釣りをする気がどうしても起こらないのである。」

九頭竜川の終焉は、素石さんのほろびゆくものへの哀悼の情が満ちていると感じている。
そして、今現在、「おくり人」として、この世から去りゆくものへの末期を看取る必要のある山、川、水、生きものが、どの程度残っているのかなあ。
シャネル5番の香りも、珪藻が優占種である川も、飲める水が人間の生活しているそばにあったことを知らない学者先生が、「鮎が食して、藍藻から珪藻に遷移する」とか、鮎の香りは、食とは関係なく、本然の性に基づく、あるいは、相模川以西(鮭が遡上する川よりも温暖なところでは)の海産の産卵が10月1日頃から開始する、との説を主張されているのではないか、と想像している。
素石さんが、昭和の後半にすでに、江の川のゴギの標本を得ることが困難となっていたのであるから、現在は滅び去っていて、仮に、もしいるとすれば、人工の放流ものかも知れない。

丹沢水系の山女魚は、ずぶの素人であった今西祐行さんが小学校の先生の指導よろしく釣ることができたが、いまや、県内水面試験場が指名手配して、なんとか、生存の確認をしょうとしている代である。
シャネル5番の香りすら、今や、天然記念物的な稀少価値のものとなっている。
そして、
記録が適切に残されていないと、あゆみちゃんが、川が、苔が、どのようなものであったか、永久に伝えることのできない代になっていると思っている。
すでに、古の山、川、水、苔、生きものの生活を語ることのできる人は90歳くらいになっている。それよりも若い人は、子供の頃に本物を経験しできる環境に育った一部の人に過ぎない。
野田知佑さんが、東京の人が語り、そして、イメージする「清流」が、本物の「清流」とはほど遠いことを吉井川をカヌーで下る羽目になったときにいやというほど経験されていいる。
(「故松沢さんの思い出:補記その2」の「野田さん日本の川を旅する」)
そのような都会人同様、今の人で、「本物」を知る人は後わずか。
合掌

ップへ戻る             昭和のあゆみちゃんへ戻る       故松沢さんの思い出へ戻る