故松沢さんの思い出:補記 その2 |
「故松沢さんの思い出補記:その2」は、「オラ達の鮎釣り」の管理人「みずのようにさん」が、亡くなられて、「オラ達の鮎釣り」が閉鎖されて後に、古の山、川、あゆみちゃんを知りたくて読んだ本を素材として、故松沢さんがオラに何とか教えようとした事柄を追憶しょうと考えています。 みずのようにさんがご存命であれば、「昭和のあゆみちゃん」に対する意見をお聞きすることができましたが、それもかなわぬことです。 願わくは、故松沢さんが「学者先生はそういうが」と、学者先生のいわれたことが事実ではない、といわれた現象を少しでも適切に理解できるように、考えることができるように、との思いが伝われば、幸いです。 亡き師匠のように、本物のあゆみちゃん(湖産を含む)を追い求め、あゆみちゃんの品格、質を語られていた釣り人も後わずか。「釣れればよい」「大きければ成魚放流の人工でも良い」という代にならないように、と願っています。 |
故松沢さんの思い出:補記 その2 目次 |
1 | 第1章 瀧井孝作「釣りの楽しみ」 (釣魚名著シリーズ:二見書房):1 |
昭和の馬瀬川 | 馬瀬川の情景 馬瀬川の放流量 釣りの情景 湖産鮎の種別等 |
|||||||||
2 | 鮎の保存の仕方 | 干し鮎の作り方 保存食 | ||||||||||
3 | 馬瀬川と村岡老人 | 馬瀬川のアユの味 ウルカ 鮎鮨 |
||||||||||
4 | 狩野川漁師との出合い | (1)飛騨小阪駅でのこと 昭和八年の出逢い オトリ三〇匁一尾五〇銭 五〇匁、七〇匁の鮎と竿 石油缶二個の囮缶 (2)昭和三一年七月馬瀬川の解禁日 (3)「山下」とは 指南料五円 益田川も北山川もダム |
||||||||||
5 | 城鮎会の人の思いで | 丼大王の話 | まっちゃんとのつきあい 田植えと鮎の成長 |
|||||||||
6 | 第2章 山崎武 「四万十 川漁師ものがたり」 (同時代社) |
「うなぎのこと」の章から | (1)ウナギの品格 (2)悪いウナギ (3)食べ方 |
|||||||||
7 | (4)今、天然ウナギは 食べることが出来るのか |
シジミとタニシを売る 1本ハエ縄でウナギ釣り 白いダイヤのシラスウナギと欲望 |
||||||||||
8 | (5)ウナギの獲り方1 | シラスウナギ シラスウナギの乱獲 降りウナギ 穴釣り |
||||||||||
9 | (5)ウナギの捕り方2 | 金突き 小型地曳き網 ズズクリ 柴漬け・石漬け ハエ縄 コロバシ |
||||||||||
10 | 閑話休題 弥太さん自慢話 仁淀川 仁淀川 |
ウナギ:1 | ウナギの味 環境、容姿と味 調理は簡便、 老舗のタレ、串打ち不要? |
|||||||||
11 | ウナギ:2 | 売り物にならない鰻を食べウナギを獲る 1箱に15本も 1日1貫、2貫目 ミミズ ミミズの効用 ミミズの捕り方 =モグラへの恐怖心利用 |
||||||||||
12 | ウナギ:3 | モジの改良=箱モジ 重しの発見 ミミズの再利用 ウナギの生命力の差: 空腹と満腹 濁り水と清流の環境差 |
||||||||||
13 | ウナギ:4 | 素のうまさ 放流養殖ウナギの容姿と味 =鰻屋の蒲焼きと同じ味 フランス鰻と偽ブランド? |
||||||||||
14 | ウナギ:5 | 追記 ウナギ獲りのおもしろさ ウナギの漁期 ヒゴ釣り 穴 あわせと取り込み ハリ 成果 |
||||||||||
15 | ウナギ:6 | ズズクリ | ||||||||||
16 | 川漁師の資質 | 観察能力 魚より少し賢くなれ ウナギと低酸素 ナマズはノミの夫婦 オスはなぜ獲れない? 好物はでんでん虫 観察は可変性を有する |
||||||||||
17 | 「大事なんは仕掛ける場所。田んぼに店を開いても客はこんじゃろう」 | エサ場か、住処に近いか 水の巻き具合 ヤナギの下にドジョウはいる |
||||||||||
18 | ハヤ | 四万十川、仁淀川、道志川 | 四万十川はタチイダを、 仁淀川は寒バヤを食べる 小西翁と瀧井さんは保存食 故松沢さんと千曲川 |
|||||||||
19 | 鯉 | 四万十川の鯉獲り | 鯉料理:鯉のコッケ アラシキ 鯉追い |
|||||||||
20 ツガニ | 1 生態 | 小ガニの上り どこまで上るか 何年で下るか 成熟したカニの見分け方=脱皮、毛 下りの時期 下りと増水 |
||||||||||
2 漁 | 住み処 シヨセの例 瀬戸内の産卵時期は違う? エサ 仕掛け |
|||||||||||
3 料理 | オスとメスの味 カニ汁 旬 | |||||||||||
4 ツガニと丼大王と故松沢さん | エサと似鯉 ツガニと籠の盗難 シオセと昼間 柿とリンゴ 海のツガニ |
|||||||||||
22 | アオノリ | 四万十川のアオノリ 仁淀川のアオノリ |
四万十川 アオノリの稼ぎ 産地変遷 収穫時期、作業 アオサ 仁淀川 生態 収穫 製品化 |
|||||||||
23 | アオサ 2008年12月 |
四万十川のアオサ (ヒトエグサ)の養殖 |
養殖のあゆみ 海苔の佃煮 豊穣の戦後 |
|||||||||
24 | 川の変貌 2009年1月 |
四万十川の環境変化 | 防水林の消滅 雨村翁もびっくり 50匁のアユは? |
|||||||||
25 | 仁淀川の変貌 | メリハリのあった川相 川自体の復元力の喪失 ダムでまずくなった坂折川 サイの質がよかった昔 |
||||||||||
再び四万十川の変化 野村春松さんの話 | @川の浄化作用 水は借り物 生活排水は土中へ 瀬の減少=溶存酸素量の減少 A不健康な川とのつきあい Bええ川のもとはええ山や |
|||||||||||
26 | 四万十川の鮎 | 山崎さんの職場では | 鮎漁への参入 地曳き網 保存食 乱獲の時代へ 汽水域の鮎=潮呑み鮎 行動、行動の意味づけ、雌の比率、 シャネル5番、「シオアユ」と同じか |
|||||||||
27 |
アカメ | 野村さんと山崎さんが語るアカメ | スズキにアカメが 絶滅危惧種になりそう 昭和56年久々に釣れる 卵数1億以上 浮遊卵 放蕩息子になるな |
|||||||||
28 | 野村さんの川と鮎 そして魚も、 情景も 人も 四万十川 四万十川 野村さんの川と鮎 そして魚も、 情景も 人も |
1 西土佐村の環境 | 汚れたことも きれいな黒尊川 | |||||||||
2 鮎の香り | 「シオアユ」は香りがしないのか。 それとも「潮呑み鮎と同じか」 |
|||||||||||
3 湖産放流鮎の評価 | 車でやってくるアユ 柔いアイ | |||||||||||
29 | 4 アイニギリ | 若者のアイニギリ 夜ばい | ||||||||||
30 | 5 せんば(舟母) | 夫婦仲良く 川の水が飲めなくなり消えたもの |
||||||||||
31 | 6 放蕩息子の影響 | 1 産卵時期と自然現象の関係 抱卵と産卵時期 オスの下り 産卵場所 11月15日解禁の結果 2 例外現象 アイは瀬に棲む 養殖もん 3 自然を見よ カレンダーにあわせるな 自然に対する勘 |
||||||||||
32 | 7 鮎の漁 (1)水棲昆虫と四万十川のアユ |
遡上の開始時期 遡上期の食物 ドブ釣りのない四万十川 |
||||||||||
33 | (2)おとり掛け | いつ攻撃するのか 瀬のアイの血統保護 養殖もんと天然もん 潮呑み鮎 |
||||||||||
34 | (3)投げ網と小鷹網 | 同じ網漁か 投げ方の違い 投げ網の場所と時間 音と間隔 夜網 排泄時間 |
||||||||||
35 | (4) 自然現象観察力 | 音にも敏感 無風の時 足音 天気と魚 天気予知能力 水を読め |
||||||||||
36 | 8 洪水 | a 山の変貌 広葉樹の山 針葉樹の山 杉山へ 黒尊の山 シャネル5番と黒尊川 |
||||||||||
b 台風 昭和20年代 自然の中の一員 |
||||||||||||
c 黒尊川を見習え 少ない護岸工事 ヤマセミ |
||||||||||||
37 | 9 花鳥風魚 | a 春 ネコヤナギの花 アカメヤナギの新芽 アイとゴリの遡上 5月の自然の賑わい b テナガエビ 種類 産卵時期 産卵場所 値段 |
||||||||||
38 | c 弥太さんと テナガエビ |
蚤とDDT イザベラ・バードと蚤の大群 ネブタと蚤 雨村翁と蚤 沈黙の春 川獺の絶滅 川獺は2種? 続弥太さんとテナガエビ 餌 四万十川の影響 商品化→仔エビ採捕 エビモジ導入 |
||||||||||
39 | d 再び野村さんと テナガエビ |
脱皮 産卵場所と回数 「テナガエビ」か「ヤマトテナガエビ」か |
||||||||||
40 | e 野村さんの ウナギ |
ナガセとウナギ ウナギと川獺のケンカ |
||||||||||
f テナガエビの味 | ヤマトテナガエビ ポパイ | |||||||||||
g 道具の工夫 | 排水パイプの利用 青いコケ |
|||||||||||
h 疑問は解決せず | 山崎さんと野村さんの観察と違い エビの種別 |
|||||||||||
41 | 10 「川の旅人」から | @ 野田さんとカヌー 昭和54年の出逢い エビソーメンと宴会 春歌 |
||||||||||
A 宴会のついでに焼酎について 栗の花 栗焼酎 ダダバの火振り 無手無冠 |
||||||||||||
42 | B 若者の往来 | a まず、カヌーについて 江川崎より上流は急瀬、釣り師多い |
||||||||||
b 家出中学生 土産にイモリを持参 野田、椎名の本の読者 まず動け |
||||||||||||
c 熱を出した女の子 ハメ酒 しつけ |
||||||||||||
d 「100円宿、良心小屋」 世間にもまれろ ガクの冒険 |
||||||||||||
e 「居候が国王になりよった」 居候→自活→家造り→嫁取り→四万十川の端の住民→国王 |
||||||||||||
43 | C 僻村塾 | ナショナルトラストの夢 トンボ自然館 河畔林保存の夢 古を知り保護へ 家地川ダムの水利権更新 |
||||||||||
44 | 伊藤猛夫「四万十〈しぜん・いきもの〉 | 四万十川は藍藻、相模川は珪藻が優占種? | ほんまかいな | |||||||||
45 | カーソン「沈黙の春」 | 1 ヒアリの事例 | 不要な根絶と殺虫剤撒布 野生動物の絶滅 |
|||||||||
2 ブユの事例 | 水と生命 食物連鎖 他の生物との共存拒否 カイツブリの死 生物組織への毒の移動 |
|||||||||||
46 | 3 「土壌の世界」から | 土にかえる仕組み 無数の生物の営み 循環のプロセス 偉大なミミズ バクテリア、放射菌、藻類の働き |
||||||||||
47 | 4 均衡の破壊 | 土壌の新陳代謝 セーラブッシュの効用 均衡の破壊への禁欲 ミミズ ユーカリの毒素とコアラと |
||||||||||
48 |
宮川の垢石翁 宮川の垢石翁 宮川の垢石翁 |
1 宮川の情景 | @ 迫る山と川の情景 激流の連続 A 道から見た岩石 切石のような大岩石 B 流れの中の岩石 丸味を帯びた岩石 C 残り垢のある石組みと鮎の成長 白川と無縁の石組み 珪藻の水色 |
|||||||||
49 | 2 釣りの情景 | 40匁も囮 鉤素切れ 70匁のあゆみちゃん 丼まずい |
||||||||||
3 稼ぎ | 100匁90銭 500匁から1貫目の働き 山形は100匁30銭 狩野川衆が素通りした川 藁科川:安い 酒匂川:砂利混じりの腹 安い 山北の鮎酢の消滅 那珂川:遡上多くても酒匂川と同じ |
|||||||||||
50 | 4 狩野川衆と八幡衆 | 100匁近い大物 山下 1貫目、2貫目 飛騨川小坂から宮川へ 郡上八幡衆の登場 |
||||||||||
51 | 5 狩野川衆の足跡 | 利根川から長良川へ そして宮川、庄川へ 仕掛け、動作との伝播 |
||||||||||
52 | 6 不満足な結末 | 下痢 寸又川で8月終わりで下るか 動ける空間 |
||||||||||
53 | 7 技 | 重い錘使用 お国自慢 陋習改めず 石良好 放流始まる 腕格差 |
||||||||||
(1)魚野川でのこと | ||||||||||||
54 | (2)宮川の釣り技 | 6間竿の使用 ヘチの無視 ヘチにも大物が |
||||||||||
(3)利根川の釣り技 | 4間から7間の竿 狩野川からの出稼ぎ | |||||||||||
55 | (4)興津川の釣り技 | 釣りにくい川 瀞のつり ワープ釣法 |
||||||||||
56 | (5)狩野川衆が 素通りした川の技 |
@藁科川 大塚豊太郎という名人 宙抜き 鼻環と鼻環結び 逆針導入 針研ぎ A酒匂川 粗末な竿 逆針なし 撞木の使用 B相模川 女竹の一本棒 幼稚な仕掛け C那珂川 舟釣りをするな 歩け、立ち込め ぎこちない竿 太糸 煙管型錘 |
||||||||||
57 | 8 竿自慢 | (1)長良川衆の竿 400匁以上 (2)宙抜き竿 (3)東作の竿 山下さんの評価 宮川の大鮎に不向き (4)竿自慢 胴調子 5間1尺190匁 短い軽い竿の効用 |
||||||||||
58 | 9 遡上鮎は途中下車するのか | (1)天竜川での稚鮎調査 水温6度で遡上するか (2)利根川での遡上風景 4月下旬に沼田に上るか 流相明媚な利根の水滅ぶ |
||||||||||
59 | (3)途中下車 @利根川の大鮎 大鮎の住み家 A江川崎の上下での鮎の大きさ なぜ江川崎下流の鮎は小さいのか B 九頭竜川の勝山と温泉付近の大きさ 勝山の職漁師の情景 宮川ではなぜ上流の高山では ないのか |
|||||||||||
60 | 四方山話 | (1)垢石翁の九州の旅 | @ サボリーマンの鑑 A 五ヶ瀬川、坪谷川 古成層の露出 遡上少ない年 B 一つ瀬川、清武川、再び五ヶ瀬川 20匁の鮎 3本錨 ドブ釣り伝播 球磨川の鮎 |
|||||||||
61 | (2)垢石翁、長良川は郡上八幡 | チビ鮎 100匁1250円 |
||||||||||
62 | (3)相模湾での稚魚採捕 | 採捕方法と淡水馴致方法の確立 徳島県への販売 採捕量 昭和37年は900万 価格 用途別価格の設定 湖産、県産継代人工の価格 |
||||||||||
63 | (4)雨村翁の吉野川 |
@柳の瀬の思い出 秦さんの思い出 両岸の山が少し開けた柳の瀬 穴内川下流の山峡の渓谷 残り垢狙い 対岸へ100mの立ち込み 70歳初めての弱音 Kさんの思い出 心の痛手と釣り 日射病と気遣い 終戦直前のこと |
||||||||||
64 | ||||||||||||
65 | A八畳の滝の思い出 携帯のない代の彷徨 柳の瀬から「折角ここまで」で、 田井へ、舟戸の宿へ 夢か、幻か、地獄か、天国か 八畳の滝へ二里半の山道、囮の死 ア 八畳の滝の情景 太古さながらの淵 神秘の自然の黙示 イ 女神の少年 鮎が見える 囮をとって貰う ウ 忘我の昼下がりの情事 少年に仕掛けを 日暮れに気づく 過疎化へ 神官の出前 多くの位牌 奈路への移住 |
|||||||||||
65 | (4)雨村翁の吉野川 | B越裏門 越裏門の情景 辞職峠 トンネルを抜けると吉野川 急湍、急瀬なし 初めての「山女魚釣り」 へなへな竿の効用 装餌のむつかしさ 旨かった肴 夢よ再び? 雨と退屈 手箱山の仙人の話 三椏 少年の日の追憶 虎杖の林 遠い昔の味覚 なぜ滝上に魚がいるのか 難行苦行の崖上り 7寸の「山女魚」 鳥が卵を運ぶ 悠久な時の流れ 仙人との出逢い 仙人とそろばん 金はどこに? |
||||||||||
66 | (5)不易流行 | 不易流行とは 今ある不易の川は? 谷川岳は不易? その土は? 野田さんの香り 赤石川では? 村上先生の助言 サンマ風アユ |
||||||||||
67 | 野田さん「日本の川を旅する」 | 1 野田さんとは? =セクハラ大王? |
四万十川の川下りはいつ? (1)四万十川の観光開発:村おこし =ニキの破壊 口屋内での夕食 「日本一の清流」は見えなくなった ニキは消える? |
|||||||||
68 | (2) 家地川ダムがなかった頃の急流体験 | 野田さんは嘘つき? 炎天下水無川を歩く 「轟」の地名を下る 沈もした |
||||||||||
(3)野田さんの判断基準について | @良い川、悪い川 ABODと水 触れたくない水の多摩川 6PPM 生下水 200PPM 1PPMいかの水と付き合いたい 「清流吉井川」は看板に偽りあり 東京育ちの白痴的「清流」感 B急流の等級 |
|||||||||||
69 | (4)セクハラは何カ所ありますか | カントリーギャル 「秋田美人」カヌーに乗る 上玉だけ乗せたい 雄物川は美人を作る? |
||||||||||
70 | 2 その川危険につき近づくな | (1)子供は川を眺めるだけ @水はキケン 自然に親しむとは 恐水症 Aガキ大将のやり方 B熊野川の野田さん:キケンを楽しむ 安全な熊野川 自己責任 救助の段取り 無謀なキケンとは別のキケン |
||||||||||
71 | (2)マスコミ等の「危ない」「無謀」病観 | @警官はお暇?予防保全? 「キケン」を嫌う大学生 「キケン」は 安寧秩序違反か A増水の川はキケン?絶好の漁期? 濁り掬いはキケン? 沈して不動のカヌー選手 B危険と事故 死亡事故は馬鹿か カヌーは脱出困難なフネか 肥後の守の所持、使用禁止 Cゴムボートの事故 信濃川の舟運 ゴムボートの特性 野田さんでも舟を曳き |
||||||||||
72 | 野田さん「日本の川を旅する」 | (3)『汚い川』 多摩川 |
@ 3Kの多摩川でのお仕事 一番危険な川は? 山河滅び、人肥え太り A 多摩川は汚い、そして釣り人との東京風交流 水さえなければ美しい奥多摩川 なぜ、ツーリングをしない? 汚水の稀釈 |
|||||||||
73 | (4)北上川のユウウツと楽しみ | @鴨と急流下りを楽しむ 流域人工多ければドブ川 稀釈される北上川 釣り人は優し Aばあさんのナンパ術は健在 通訳する孫 川の水を使った 鯉と洪水 カヌーわらし 猿ヶ関川で魚掴み B「禁止」と悪臭 「禁止」のオンパレード パルプ工場の廃液 C快適と退屈 渡し舟 鴨はドジョウで釣れる イモ煮とねえちゃん エスキモーロール ネエちゃん幻想 アメニモマケル 狐禅寺の地峡部 変わらぬ風景 |
||||||||||
74 | 3 山と川と 十津川 北山川 |
(1)いい川:北山川 十津川濁り、北山川清流 100ミリの雨に耐える北山川 禿げ山は国有林? 玉置川の淵 |
||||||||||
(2)鵜飼い 鵜匠は野田さん 鵜は彩ちゃん |
||||||||||||
75 | (3)野田さんの 掴み技 | @犀川と千曲川=いい川と悪い川 千曲川の評価 犀川に潜る 「獲る」を好む 千曲川と犀川のアユの 香りと味の相違 A「魚はすべてぼくのものである」 江の川の濁川 100匹以上獲る B亀尾島川(きびしまがわ) 古の長良川が残る川 熊の出る川 透明 水割りにする 川マスを逃がす |
||||||||||
76 | 4 実力派のいる川=恐水病のなかった頃の日本 江の川 |
「春の岸辺は花々に彩られて―江の川」 (1)「実力派のいる川」とは 川に無力無知となる 転覆=溺死 ? 子供の瀬下り 適切な助言 (2)他の泥の匂いのする情景 @田植え 純日本的な田園風景 他の泥は良質なコケを育まない Aはあるのおがわは 人工の汚れなし 三次を過ぎると渓流相へ |
||||||||||
77 | (3)『村民皆泳の村』 ―羽須美村 江の川 |
本物の清流の村 @農薬の害 菊池川のアサリ大量死 ホリドール 沼の魚は復活 清流のゲンジホタル オニヤンマ A泳げる子供 ビニールハウスのプール 川内ガラッパの消滅 |
||||||||||
78 | B瀬の調査 江の川 |
自転車で調査 野外料理 C猿と猪 人の負け D「波立つ難所を行くときの 恍惚と不安」 不確定要素を楽しむ 河口のカモメで遡上状況を知る |
||||||||||
79 | 5 キケンと洪水 | (1)洪水とのつきあい=洪水ズレ 治水上のモデル=川内川 湯之尾温泉と洪水 (2) ダム放流ミスと洪水? 湯田温泉はダム放流で壊滅? |
||||||||||
(3) 野村さんと洪水 | 洪水で死なず 堤防から水を出すな =悪しき治水の考え方 水は溢れるもの 不安は必要 |
|||||||||||
(4) 野田さんの嘆き節 | 反証不能の政策目標 目前の利益追求時代 |
|||||||||||
80 | 野田さん「日本の川を旅する」 6 長良川 今西博士とシラメ マスの仔とは? シラメとは? 野田さん「日本の川を旅する」 6 長良川 野田さん「日本の川を旅する」 6 長良川 萬サ翁 |
(1)水害をなくそうとすれば | 日田の水・今昔 日田美人の流れる? |
|||||||||
81 |
(2)長良川序章 | @瀬と岩の見取り図 「山釣り 遙かなる憧憬の谿から」 A長良川でのアユ釣り 萬サ翁の引き抜きの写真 |
||||||||||
82 | Bアマゴと井戸さん | 竿幸作郡上竿 合わせ時と竿感度 正比例する腕と釣果 萬サ翁の語る居場所 喰い波開眼 やっとシラメをだっこする |
||||||||||
83 | (3)シラメとは何か | @ややこしい問題は避けたいが 今西博士とアユの学者先生の違い 素石さんの困惑 A今西博士は悩む ギンケヤマメ相似説 アマゴ・シラメ同一説 系統的変化:クライン Bシラメの現象と観察と推理と A (今西博士):「根尾川のシロ」 アマゴとシロの判定基準 ギンケと異なる |
||||||||||
84 | B(素石さん) =安曇川の「サツキ」 「アメノウオ」 |
サツキ=安曇川でのアメノウオの仔 ツユマス 土用マス アメノウオ =アメノウオの呼称 ビワマス 遡上と天気 アマゴの新仔とビワマスの稚魚の違い 体高、背鰭の黒条 |
||||||||||
85 | C海のシラメ? =萬サ翁に会う |
サツキ=ビワマスの仔? 湖にくだらないシラメも? 伊勢湾のマスはシラメでない? 萬サ翁の話:シラメ=マスの仔。アマゴでない 中間的なもの 降海しないマス? |
||||||||||
D素石さんと萬サ翁 | シラメ=伊勢湾型 シラメの漁期=11月末〜3月 長良川での呼称 シラメにもサボリーマン? |
|||||||||||
86 | E学者先生の アユ研究は適切か |
シャネル5番の香りはなぜ? 検体に香りはしていたのか 今昔での香りの移ろいと生活史 シャネル5番の香りが消滅しないうちに |
||||||||||
87 | F 堰堤による 生活史変更等 |
a 1年魚の降海仮説(今西博士) 何がマスになるのか マスのなり手は? 堰堤のある南川 高水温への対応は? 稚魚で降海? 亀尾島川でも同じ b アマゴ・シラメ同一説 アマゴとシラメの分離 シラメ化の段階 アマゴとシラメの変容要因 |
||||||||||
88 | G 素石さんのまとめ =シラメ幻想 |
a 徳山ダムとシラメの運命 種族的に不安定な鮭科の魚 b 御母衣ダムのシラメの先祖返り 海からのマスの補給なし ダムのマスはどこから? ダムとマス化作用 先祖返り c 陸封の序列 陸封は今も 新参者ほど先祖返り? シラメ標本の必要性 d 素石さんのシラメまとめ 河川型と海洋型の区分け 水温とシラメ化、アマゴ化 シラメの容姿 |
||||||||||
89 | H 萬サ翁と 素石さん再び |
a 渡世人の掟 | ||||||||||
90 | b萬サ翁のアマゴの稼ぎ 120貫目の収穫 個体識別の眼識 |
|||||||||||
91 | c萬サ翁の釣り姿 総調子の竿と「郡上どり」 乱流の強弱と食い波 d前処理、保存法 簀の子式棚 ヌメリ除去 当たり外れなし |
|||||||||||
92 | e腕の事例=調査協力 マスの稚魚獲り 萬サだけ獲る |
|||||||||||
93 | f名人と迷人? 「サツキ」の居場所 網では獲れぬ 「サツキ」か交雑種か 素石さんら釣れず |
|||||||||||
94 | g 今西博士待望 | |||||||||||
95 | 野田さん「日本の川を旅する」 6長良川 |
(4)野田さんの 長良川下り |
@長良川の洗礼 すぐに沈 激流と鮎の顔立ち、川舟 幅20mほどの地殻の割れ目 泡瀬 |
|||||||||
96 | A説教師野田さん ゴムボート転覆 逆流の虜になった男 訓練不足、知識不足 |
|||||||||||
97 | Bまたも沈した3日目 岩をよじ登る スイカの香り シャネル5番を嗅いだことのない学者 先生? 放流アユ1割 河口堰の一時開放 |
|||||||||||
98 | C「消えゆく最後の自然河川ー4日目(刈安ー美濃立花 アユに味噌汁 アユ飯 水のリサイクル=水フネ 冒険の日常化 |
|||||||||||
99 | Dファミリーコース 御漁場:「皇室専用区域」 夥しいアユ 改悛した?野田さん 学者先生はシャネル5番未経験? 空中、水中の香り成分を検査したの ? |
トップに戻る 故松沢さんの思い出に戻る |
第1章 瀧井孝作「釣の楽しみ」(釣魚名著シリーズ 二見書房) |
1 昭和の馬瀬川 |
(1)馬瀬川の情景
(主に、「上質の鮎 ー飛騨の馬瀬川の鮎ー」及び「馬瀬川のアユの味」の章より)
高井さんは、昭和30年8月に始めて馬瀬川に行かれている。
「馬瀬川といふのは、日本ラインの木曽川に合流する飛騨川の、その上流の枝川ですが、昔は天然鮎は、途中の飛騨川の方に険はしい滝があって、上流には上らなかったと云われますが、今は放流鮎がはいって、それがよく育つのです。」
瀧井さんが馬瀬川に行かれる動機づけとなったのは、「永年鮎釣りをしてゐますと、鮎の質の良し悪しも吟味するやうになって、やはり質のよいうまい、上等の鮎をほしくなります。鮎と云えば、どこの鮎もおなじかと云ふと、それは大きな間違ひで、その各各の川によって、質のよいのと、わるいのとが出来るのです。よい鮎は、水の透明な、川底の石の大きい、山川の激流に育つのです。良い鮎のたくさん群れている川は、水底の石も拭いて磨いたやうに美しいのです。大きい川の上流の山国の鮎が一番良いので、平野を流れるやうな川の鮎は、大体よくないのです。」
その馬瀬川の水の透明さについて、
「私は一昨年も(注:昭和31年であろう)この馬瀬川に、七月の解禁日に行って、面白い釣をしました。
昨年の解禁には、名古屋の中日新聞主催の鮎釣り大会に招かれて行って、馬瀬村の役場の前の川で釣りましたが、折柄ざんざん降りの雨に会って、川は平水の二三倍位の水かさがありましたが、その水かさのわりには濁りがなく、こんなに増水しても濁らないと云ふのは豪気な川だと見ました。山林がよく茂って、雨が降っても川が濁らない。それで、上質の鮎が育つのでした。」
「名古屋の釣師の村岡魚信といふ老人は、各河川の釣に練れた人ですが、馬瀬川と知ってからは、一夏中避暑かたがた馬瀬村に逗留して毎日釣をしていると云われ、私はこの村岡老人に招かれて、昭和三〇年八月に、始めていったわけでした。高山線の飛騨萩原駅に朝着いて、馬瀬村の大野の宿に電話かけて、そこから乗り合いバスで、日和田峠といふ峠を越えて、その高い峠でも八月の旱天に滝の音がして、なかなか水の涸れない良い山と見ましたが、また村落の方には、光った白い布をのべたやうに馬瀬川が美しく見えました。閑静な別天地の山家のけしきで、昔の武陵桃源といふのはこんな感じかと見ました。」
「私はすぐにオトリ鮎を泳がせて、川を見て、透明な水底に、一と抱へ程の大きい玉石が畳のやうに平らに見えて、よい釣場だが、水の中の石は赤味がかって日照りに焼けて、鮎は少ないとみましたが、村岡老人はともかくこの良い釣場を見せたかったやうでした。」
この日は良い鮎を10匹程掛けた。
(2)馬瀬川の放流量
(「今年の馬瀬川」の章より:昭和39年7月24日東京中日新聞掲載)
7月10日の午後、「途中の汽車の窓にうつる飛騨の益田川はすごい濁流だが、萩原駅からバスやタクシーで日和田峠を越えて、馬瀬村に入ると、馬瀬川は笹の葉色に青く、さすがに澄み口の早い名川と見えた。この澄み口の川でオトリ採りをして、明日は川を休ませて、解禁は七月十二日ときまった。」
「橋詰めの山際には、野草の白い穂花のアカショウマが沢山さいて居た。高山植物の白いショウマの花は私の好きな花で、昨年の馬瀬川の解禁は七月二十一日でこの花盛りも過ぎて見られなかったが、今年は去年より十日早いので、ちゃうどこの花盛りにも出会へたわけだ。私はこのアカショウマの鳥の足に似た細い茎、十本ほど手折って、宿に持ち帰って、花瓶に活けて部屋に置いた。」
花より団子のオラには「アカショウマ」がどんな花か、皆目見当もつかないが、琵琶湖畔の山野草の写真も掲載されて、季節の移ろいを表現されていた「湖畔の里」の管理人「みずのように」さんなら、すぐにどのような花か、教えてくださったであろう。
「今年(注:昭和三十九年)の馬瀬川は、三十五万の稚魚を放流して、そのあと一度も大水がなく、小アユが流されて死ぬことがなく、みんな育って魚が濃い。川床も、伊勢湾台風以来の泥砂を洗ひ流して、砂に埋もれた底石もまた大方出たやうだ。川が回復したので、これからまた上質の尺アユの大物が釣れるのだ。」
(3)釣りの状況
@ 昭和30年8月
村岡老人に誘われて初めての馬瀬川・初日の瀧井さんは、10匹ほど。
A 昭和39年7月12日の解禁日前日(11日)
「私どもの同行の元気な三人は、この日村の青年の案内で、馬瀬川下流地区の西村のダムの下の方に行ったが、朝の七時から午後の二時までに、二〇匁平均の型ぞろひを、尾崎裕治氏は三〇尾、佐藤菊三郎氏と谷田昇平氏は一六,七尾も釣れて、ダムの下手の川は水かさも少なく、ほかの釣り人も見えず、どこでも竿が出せるので面白かったと、三人は悦んで居た。
「この三人は、また十二日の解禁には、大夕立の濁水の最中にも休まずに釣って大釣りをした。尾崎氏は六十尾、佐藤氏と谷田氏も三十余尾。三十匁の大型まぢりで、場所にも当たったわけだ。それは、惣島の宮ノ前といふ放流場所で、宮ノ前に住む友づりの上手な青年が案内して、夜明かしして居て此の場所を釣らせたのだ。ーこの宮ノ前の青年は、前の日オトリを採ったとき、石油カンのオトリカンに余るほど一杯になって、四十尾も斃ちたと云って、私共の宿に持ってきたので、私共はそれで解禁の前の日からうまいアユを沢山たべたが。これで見ても此所の魚が濃いことがわかる。ー
オラにはわからないことがある。
オトリは、解禁前日に釣り等で確保し、その後は釣った鮎をオトリとして販売していたようである。前日にオトリを確保することは、誰にでも出来たことではないのであろうが、余所者も参加している。どのような基準で、前日のオトリ採りが認められていたのかなあ。
(4)湖産鮎
故松沢さんのテントに11月になっても出入りをしていた大宮人は、湖産の放流されていた飛騨川で、お父さんが吹き流しの仕掛けで釣っていた、といわれた。雪解け水がおさまったとき、湖産を運んできて、水合わせをして放流すると、元気に瀬に入っていった、と。
昭和39年の大釣りの場所が、放流地点ということは、氷魚からの畜養がすでに放流されていたということであろうか。それとも、まだ、琵琶湖の川に遡上する鮎等を採捕して運んできていたのであろうか。
大宮人のお父さんの頃は、遡上アユであると思われるが。大宮人に会うことが出来れば、確認できるが。
昭和32年は「天然アユは不作、あるいは遅れてゐるにしても、放流アユは、四月になって、近江の琵琶湖で採れる小アユは、例年にない豊漁のやうで、琵琶湖から移送される放流アユは、昨年に比べてよい調子だといはれました。この放流アユは、まず順調のやうでした。」
(「天然アユ・放流アユ」の章)
このことからも、昭和32年はまだ氷魚からの畜養は行われていなかった、あるいは主流ではなかった、といえよう。
解禁日が7月中旬以降ということは、湖産が十分に育ってから釣るためであろう。
放流量が35万ということは、相模川の義務放流量の10分の1ほど。(義務放流量が実際の放流量と一致するかどうか、は不明。)
故松沢さんは、湖産鮎を「線香花火」と表現されていたが、攻撃衝動の強さから、釣りきられるのも早い。そのため、成長するまで、禁漁にしていたのであろう。適切な方策と思う。
とはいえ、7月中旬で、30匁に育っているとは。110グラムくらいか。10月終わりの大井川の21才くらいの体重かなあ。その乙女は、妊婦であるが。どれほど体高があるのかなあ。
京都大学生態学研究センターニュースNo.83に「琵琶湖産アユの生活史とその固有性・融通性に関する研究会」の報告が掲載されている。
その中で、駒井順一(北船木漁業共同組合組合長)が、次のように語られている。
「琵琶湖では、毎年8月10日よりアユの産卵保護のために禁漁に入り、11月21日より解禁になる。この時期はエリ漁にて捕獲する。採れる小鮎は、背骨や内臓が透けて見える氷魚で、1kgで約1500匹余りいる。」
「昔から『10日倍』と言われるほどに琵琶湖での成長は良い。採れた鮎は徳島、和歌山県等での養殖用種苗として流通に乗り、資源管理型漁業の観点から流通に必要な量のみを採る。」
「3月頃、琵琶湖の水温が上がり始めると鮎が湖岸に寄り始め、安曇川の水温が10度Cを越えると川へ遡上し始め、カットリ梁漁が始まる。」
「以前は、全国の放流量の70%が琵琶湖産鮎だったが、冷水病が顕著になった最近は30%台に迄落ち込み、我々漁業者の生活も苦しく、1日でも早い冷水病の解決を望んでいる。」
また、大岡修二北船木漁業協同組合・安曇川組合長は、昭和36年に自分たちのエリを始めたが
そのほかにも「四つ手網漁」、「溜り捕り漁」「梁漁」がある。
「川が渇水になると、溜り採りという漁をした。昔の川は蛇行し曲がったところが深くなり、そこに鮎が留まった。」(採捕の方法は省略。)
「次は梁漁。昔は200名の組合員がいた。平成9年に梁組とし、以来40名前後で行っている。」
「昔は朝日が昇り始めると朝鮎が遡上を始め、夕方4時〜5時も鮎が必ず上って来たが、近年このような一日の変化が見られなくなった。」
ということで、湖産といっても畜養も、梁漁も、あるいは、3月のエリ漁もあり、それらが流通に乗るとき、どのような区分、等級、値段の違いになっていたのであろうか。
さらに「湖産」が放流量の「70%」という数値はどのような条件設定で供給量と需要量を算定されたいるのであろうか。
オラは湖産の構成比はもっと少ないと思っているが。前さんは、四万十川産稚魚も徳島ー滋賀県と移り、「湖産」になっているのでは、と、疑われているようだが。
「湖産」ブランドが尊ばれていた時代、「海産」、「人工」のブランドで放流用として流通していた量はどのくらいかなあ。そもそも、放流用として販売されていた中に、「人工」「海産」として、販売されていたものがあるのかなあ。あるとすれば、その量はどのくらいであろうか。
相模川でも県産継代人工を除くと、「湖産」放流であったが、その中身は亡き師匠が容姿等から、人工等が混入されている、と判断されていた。酒匂川に放流されていた「湖産」の等級よりも低いランクで、価格も安かったことから、「湖産」ブランドに混入されていた人工等の比率は高かったのではないかなあ。
注:昭和52年、53年には、相模湾でとれた海産が、徳島県に販売されている。ということは、日本海側の海産稚魚が徳島県に販売されていると考えることが常識に適うのではないか。そして、徳島県で「湖産」にブレンドされ、あるいは、琵琶湖へ移動して、「湖産」にブレンドされて全国に販売されていたと考えている。
ことに、湖産の採捕量が減少していった昭和40年代には、人工河川を使って、産卵、孵化をしなければならなくなっていたから、「資源管理型漁業の観点から流通に必要な量のみを採る」という採捕方針は、実現性のないスローガンとなり、需要を賄うためには、海産、そして時代を下るごとに人工のブレンド比が上昇していったのではないか。
高橋先生ら、研究者は、なぜ、偽物がブレンドされているかもしれない、と疑わないのかなあ。そのような状況であるから、故松沢さんに、学者先生はそういうが、と、観察に基づく経験則で学者先生の実験、観察等の結果を否定されることとなる。
なお、昭和39年頃には、一部の河川を除いて、オトリは現地の鮎を調達していたということであろう。
2 鮎の保存 |
氷が手に入らなかった頃は、鮎の保存に苦労されていた。氷が手に入りやすくなった現在でも、大井川の家山では、夕方の6時30分には閉まる食料品店で、かき氷に使っていた大きさの氷を買わないと、翌日のあゆみちゃんとのデート時間に支障を生じている。今は、駿遠橋を渡ると、コンビニがあるため、夜明け前の散歩で氷を手に入れることが出来るから、助かっている。
「櫻井さんは、小瓶入りの“食物保存剤ブレザバリン”といふ瓶も取り出して、私に一つくれた。私はその小瓶を手にとってみて、今から十数年も以前に、“生魚の防腐剤ハンザミン”という薬が売り出されて、私はそれを飛騨の山家へ山女魚つりに持って行って、これは『山女魚』といふ短編の中に書いた記憶があるが、その“ハンザミン”に似たものだらうと考えたりした。」(「つり友達」の章)
多くは、焼き鮎にしていたよう。そして、昭和30年代になると、宿にたのんで魚屋から氷を取り寄せるようになっていた模様。
テク2は、朝釣ったアマゴは、昼に川原でたき火をおこして焼き、最後に何とかという草でいぶしていたとのこと。午後に釣ったアマゴは、クマザサにおいて持ち帰った、と。
故松沢さんは、タケノコの皮が殺菌効果がある、といわれていたが、その土地で簡単に手に入るものを利用して、鮮度を保つようにしていたということであろうか。
川から持ち帰った鮎は、焼き鮎にする。小西翁は、その状態で、販売されていたようであるが、瀧井さんは、保存食にもされていた。
「釣ってきた鮎をすぐに腹をさいて、はらわたを別に取っておきます。鮎のはらわたは、オムレツにしたり、味噌汁にもなりますが、大方は塩をして、ウルカにして貯えておきます。」
「はらわたを抜いた鮎は、口の方から竹串を刺通して、この竹串は、腰の太いしっかりした、特別に造らせらもので、六七寸以上の大きい鮎は、竹串一本に一尾刺しに、五寸くらいの若鮎は二尾あるいは三尾刺し位に処理します。」
「それから、まるい大きい瀬戸物火鉢の真中に、強い炭火を熾して、その炭火のまわりに、竹串の鮎を並べ立て、竹串の根本は火に焦げないやうに火に隔てて灰に刺して、その鮎の竹串二十本も三十本も火鉢の灰に刺しますと、炭火を鮎の串でぐるっと囲むやうな形になりますが。数が多くなると、二重の鮎串の輪で、囲むやうなときもありますが。」
「さうして、その火鉢の上から新聞紙を、まるい先の尖った三角帽子の形にして、火鉢にかぶせて、覆ひをするのです。三角帽子の尖ったところは、風の通るやうに、少し孔を明けておきます。新聞紙の合せ目は、干し物ばさみで止めておけばよろしい。強い炭火の火鉢を新聞紙一枚で覆いをしますと、この紙に包まれて、火気は内にこもり、直接風が当たらないから、炭火の炎も立たず、炭火もやはらかく長持ちがします。」
「それでこの紙の帽子をかぶせた火鉢は、焙炉(ほいろ)のやうな形になり、火気が逃げずに、高い温度が保存されて、鮎は焦げるといふことなしに、火に向かない裏側の方まで、よく炙られて、やんわりと炮き上がるわけです。
一晩火に当てておいて「朝になってもまだ火鉢に火気がのこり、鮎の上皮はすっかり乾いて、成熟した七八寸の大鮎は、金色に黄金色に美しく、立派に干鮎になって居ります。中の肉はまだ水分は取れませんが、これは台所の天井から吊り下げてある、ベンケイといふ藁寸胴に、鮎の串を挿して、風乾きがするやうに刺しておくのです。ベンケイに挿す時に、竹串を拈って(ひねって)廻しておかないと、そのまま乾上がると、肉が堅く串にくっ付いて、あとで串が抜けなくなります。肉のやわらかい中に、竹串を一度廻しておく事は忘れんやうに。」
「ベンケイに挿して、何日かたって、すっかり水分が取れて、乾燥した干鮎は、竹串から抜いて、ブリキ罐に詰めて、蓋の所には目貼りをして貯へておきます。秋がすぎ、冬になり、翌年の春になっても、この干鮎は、煮浸しにしますと、頭まで柔らかくたべられます。」
オラは、干し鮎は、正月の雑煮の出汁くらいにしか使い道はない、と思っていたから、煮浸しに出来るとは知らなかった。ただ、干し鮎にするまでの焼き鮎を一晩もかけて誂える手間暇をかけないと、煮浸しに使える状態にはならないということかなあ。冷凍をすると臭くなるから、煮浸し用の食材には、瀧井さんのやり方となるのであろうが。
なお、鮎の焼き方は、フナ、ハゼでも行えて、この白焼きを乾燥させて貯蔵できるとのこと。
タマちゃんは、おばあさんが古座川の鮎を干物にして、送ってくれていた、といわれていたが、その作り方は、瀧井さんと同じであろうか。そのうち、聞いてみよう。
3 馬瀬川と村岡老人 |
(「上質の鮎」の章から)
昭和30年8月に瀧井さんは、7月に行われた「飛騨金山の鮎釣り大会の時に私共は初めて会って、その時は、飛騨小坂の益田川にも同行して、又、八月には馬瀬川で会ふことを約束したわけでしたが…。」
「村岡老人は、けふの鮎は何十尾、すぐに腹をさいて、腸は一升瓶にもう半分余りもウルカがたまった所に入れて、『今年はこの瓶もこれで二本目でナモ、この一升瓶の口元はせまいがナモ、このウルカを出すときは、瓶の首に紙撚りを巻きつけてキハツ油をつけてマッチをすれば燃えて、、ピインと音がして首が切れるがナモ』とうれしさうでした。」
「夕飯には、大きい皿に一杯の鮎の白焼が出されて、村岡老人は、白焼はわさび醤油でいくつもたべて、『谷にはこんな香気の強いワサビが生えるし、茲はええとこじゃナモ』とニコニコ顔。私は三〇匁鮎の塩焼き二つと白焼き二つとたべて、放流鮎でわりに肉はやわらかいが、実に香ばしい、こんなうまい鮎は初めてだと思ひました。」
「また大きい皿に、今朝とれたと云ふ鰻の照り焼が山盛りに出されて、この焼方も老人の注文のやうでした。」
「ビール一本あけて、鮎やうなぎや、いくつも食べて健啖家ですが、とにかく毎日これを続けて飽きないのは、よほどうまい上質の鮎と云えるのでした。」
「翌朝は、私が未だ起きないうちに、老人は昨日の鰻の置きばりを調べに行って、今朝は一つも掛からないと云って戻りました。」
「村岡老人は、腸綿をぬいた鮎は、白焼にして貯える方ではなく、大方皆んなで食べてしまふ例で、その日も夕飯の食卓に出され、それは普通の塩焼きでなく、白焼にして、ムシリ肴にして山葵醤油をつけて食べる。綿持の塩焼きは脂こくて、毎日はいやになるが、白焼のこれはサッパリして毎日たべても飽きがこないと云はれた。村岡老人は鮎好きで、鮎を味わふにも洗練された所があると見えた。それほど、馬瀬川の鮎は毎日たべてもあきない、うまいのだ。
宿のお内儀さんは、また鮎鮨をつくって出された。それは暖い飯に酢の味をつけて、青紫蘇をきざみこんで香味をつけて、鮎は白焼の熱いのをムシッて、交ぜ合わせてあった。
鮎の脂の味が香ばしいから、暖い飯がうまいのだ。これは即席に出来る鮎鮨だと見た。」
(「馬瀬川のアユの味」の章から:昭和三〇年八月一五日、東京新聞)
鰻は飛騨の滝を上っているということであろうか。
現在、ウルカを一升瓶に二本も作ることのできる人が何人いるのであろうか。量が減っただけでなく、その前に、ウルカに耐えうる腸を持った鮎がどの川で釣れるのであろうか。
阿部先生は、鮎がはんで、珪藻から藍藻に遷移する、と実験結果を発表され、今年のダイワフィッシングでも紹介されていた。阿部先生は、川の水が飲めた頃、あるいは昭和の馬瀬川で、藍藻が優占種になることがある、と考えられているのであろうか。
もし、そうであれれば、珪藻はきれい好きのコケ、とはいえなくなるが。
ダイワに異議申し立てをしたが、何の返事もない。阿部説反対の理由不十分とのメールはすぐに来たが。それに対して、「昭和のあゆみちゃん」「故松沢さんの思い出」の一部を別途郵送した、と回答したが。
藍藻が優占種の川の鮎から、ウルカを作る人がいるのかなあ。藍藻が優占種の川の鮎からウルカを作るのであれば、ドブさんが、手取り川の百万貫岩上流等で釣った鮎のはらわたをしごいて、珪藻の殻を出す作業をしなくてもすんだのに。
もっとも、ドブさんは、藍藻が優占種の相模川のアユからウルカを作ろうとは夢にも思っていないが。
4 狩野川漁師との出合い |
(1) 飛騨小阪駅前のこと (「鮎釣りと老人」の章)
「昭和8年8月に、飛騨高山に帰省したとき、私は、鮎つりはドブづりに凝って友つりは初年生であったが、飛騨の山川の友づりも見習ふ考へで、釣の用意もして行った。小阪駅前の橋の下に、一人赤裸の友釣りの男が見えて、私はその岸に下りていって、オトリをわけてくれとたのんだ。赤裸の男は伊豆の方から鮎つりの出稼ぎに来たと云って、オトリは三〇匁の一尾五〇銭。」
「私はつり支度して、岸の大石づたひに竿を出したが、素ッ裸の一糸もつけぬ漁師は、頭に玉網かぶり、長い竿持ち上げてオトリは泳がせながら、胸の丈けの深ンドを渡り、対岸に行って釣った。漁師は釣れるとオトリを替へて、対岸にも石油罐の生かしビクが浸かり、その中に入れた。対岸の上手にも下手にも行って釣り、一巡して釣ると、又、胸の丈けの深ンドを渡りこちらに戻った。私は二度ばかり掛けたが鮎は上がらず、オトリは弱り、またオトリを一尾買った。赤裸の漁師は私の竿も手に持って見た。」
菊池寛からもらった東作の竿を「赤裸の漁師がこの竿を批評して、東京出来の上等の竿だがその竿を持って行って宮川の下の山中の方で友づりをやられると竿はササラのやうに傷んでしまふ、鮎が五〇匁七〇匁の大物で水嵩のある激流の釣りだからその美しい竿では竿がたまらぬ、と批評した。」
「赤裸の漁師自身の竿は長いつぎ竿で継ぎ目はブリキ金具(注:「ブリキ」は漢字表記)の所謂印籠つぎの竿でウルシぬりもなく岩乗に見えた。元竿を抜いて四間五尺だと云ってこれに元竿を継ぐと六間の長竿になると云ひ、山中の方の川では五間六間も出る長い竿の丈夫なのでなくば十分な釣は出来ないと話した。赤裸の漁師は話のひまも惜しいやうに川に目をくばり、すぐにまた釣りはじめ、上手にも下手にも鮎のつく石の近所の岸には目印の積石が在った。」
「鮎のつく石の近所の岸には目印の積み石が在った」ということは、釣り返しができたということであろう。
このことからも、縄張りを作る鮎を釣るには、上下に広く動かなければならない、ということがわかる。
よって、〇八年遡上の多い相模川であったが、大島のシルバーシートで超満員の釣り人がいるにもかかわらず、二〇,二五センチが大漁であったのは、遡上鮎ではなく、継代人工の成魚放流であろう。
「赤裸の漁師は、鮎のつく石を心得て深ンドの両岸の広い区域あちこち拾ひづりをして居た。夕方、漁師は川からあがり、長竿は三本仕舞ひで袋にも入れず束ね、素肌に半てん縄帯しめて、背負籠背中にして、対岸にあった石油罐とこちら岸の石油罐と水抜いて、鮎が中でゴトゴトゴトゴト跳返る音の石油罐二個、三本仕舞ひの長竿の両端に吊り天秤棒にして担いで、帰り支度した。帰り支度の時、伊豆の出稼ぎ漁師は、この月末には山中の宮川筋に鮎の集金に行く、郡上の長良川筋にも鮎が沢山あづけてあるから来月には集金に行く、と語ったが。」
萬サ翁が町中の人は掛けるのはうまいが取り込みが出来ない、竿が柔いから、と。瀧井さんもそのような竿を使われていたよう。素人衆が職漁師の竿を使いこなせるどころか、持つことさえ大変であると思うが。
宮川には、大多サら郡上八幡の漁師も出かけられていたが、大鮎が目的であったのかなあ。
(2)昭和31年7月馬瀬川解禁日
「私はひとり雨で見合せて居たが、宿の裏手の川柳の前がよいつり場と聞いて、宿の近くだから雨の中でもよいと思って行ったら、つり人がひとり居て、ゴム引の長い雨外套に同じ被りをかぶった背の高い男で、川柳ごしに長い竿出して、鮎が掛るとグイと引抜いて、川柳の上を空中輸送して、足もとのバケツの水の中に入れて、手早くオトリを替へて、また竿を出して居た。川柳の前は立ち込めず川柳ごしにつる六ケしい場所で、つり人は誰も居なかったが、私は囮罐の中でオトリを付けて、雨外套の男の上手に並んで川柳ごしに竿を出したが、アユが掛かっても私のつり竿は弓になって高くは引き抜けず、掛り鮎は肉切れして逃がし、また、つり糸も川柳の枝にからんだりした。雨外套の男は無言で、傍の背負籠の中から山刀(ナタ)と鎌を出して、岸の川柳何本か伐り伏せ、長い枝は鎌で薙いで、つり場を造ったりした。私にも釣らせるつもりらしい。しかし、私の竿は弱くて弓になって私は下手の汀まで掛り鮎に引かれて行って、やっととりこむ始末。雨外套の男はバケツに鮎がたまると、下手の汀に浸けた石油罐の生かしビクの中に移したりした。」
「雨はまた激しく降って増水して急流になり、私のオトリは弱って沈まず、彼はグイグイつりあげて、次次新しいオトリと替り、けふは大釣らしかった。私は雨のさ中にオトリ分けてくれとたのむのもイヤで、どうやら十尾ほど釣れて宿に引き上げたが…。」
「私は、宿の老主人に、裏のつり場で長い雨外套の背の高い男がけふは大釣りらしい話をしたら、老主人は、彼の男一人なら山下やでナ、傍へは寄れんワナ。伊豆の漁師のわたり者でナ、山下の友掛には誰も叶はんサ、といわれた。」
「私は、雨外套の男の頑固に強い長い印籠継ぎの竿から、はからずも以前に飛騨小阪の駅前の益田川で逢った、伊豆ので稼ぎの漁師を思い出した。」
「私は雨にぬれた竿はタオルでよく拭いて、継ぎ目をさかさまにして宿の床ノ間にたてかけた。このつり竿は終戦後に佐藤垢石の世話で購つた前橋竿で、七本継ぎ四間一尺目方は百五十匁、中村邦夫の作銘付きの美しい竿だが、竿の調子は穂さきが垂れて腰が弱い。」
(3)「山下」とは
「私はこの原稿書き出して(注:『鮎つりと老人』昭和46年7月、潮)、はじめ小坂で逢った伊豆狩野川の出稼ぎ漁師と、馬瀬川の解禁の雨の日に偶然出逢った雨外套の山下は同一人物ではないか確かめたくて、私は馬瀬川ではその後逢はぬが、何か女出入りの刃傷沙汰のやうな噂もされていたと思ふが、山下のこと尚知りたくて、私は高崎武雄君に電話でたのんで、名古屋の釣りの世話役の砂場流吉老に、電話でたづねてもらふやうにした。」
「…砂場君は山下に友づりを習った方で、昭和初年のころ山下は指南料として一日五円づつ受取った由。小坂の益田川で逢われた赤裸の漁師は山下にまちがひない。」
「伊豆の出稼ぎの漁師は余りに釣りまくるので、土地の者は皆イヤがって、愛知県、岐阜県の各漁業組合は他国の漁師の入漁を断って閉め出したが、しかし、伊豆のプロの友づりの方法は、長良川筋にも馬瀬川筋にも土地の者が見習って残って居る。」
「山下は修善寺桂屋の湯番の息子で、本名勇吉、韮山中学校卒業、飛騨萩原では山下福太郎と云って、大方益田川で釣って居た。熊野の瀞八丁の上流の北山川に行って、しまひに谷川のアマゴ釣りなどして居て、北山川の山奥で自殺縊死して居た。」
「山下は、益田川も朝日ダムで濁りつづけ、北山川に行ってもダム工事で駄目になり、アマゴ釣り位にまぎらかしても仕方なく、一人山の奥にかくれて老いの身をすっぱりと片付けた、頑固ないつこく者らしい何かすがすがしい死に方、と私は思った。」
「私は、小坂で逢った時は四十位と見たが馬瀬川では精悍な五十男と十位若く見えて、山下はやはり七十以上の老人で亡くなったナ、と高崎君と電話で話した。」
故松沢さんが郡上八幡の名人・仮称服部名人のもとに通われた頃には、狩野川の漁師でも出入り禁止にはなっていなかった。それどころか、一升瓶をさげて、地元漁師が、故松沢さんの釣れる秘密を聞きに来ていた。
故松沢さんがへなへなの鉤素のチラシで釣っていると知り、郡上の漁師は何を学んだのかなあ。馬素を使った唐傘のような錨よりも、しなやかな鉤素を使った錨の方が絡みがよい、と、学んだのではないかなあ。平成のはじめ頃から、馬素の鉤素ではない錨の完成品が売り出されていたと思うが。平成に入り、しばらくすると、馬素の鉤素も消えていった。
亡き師匠らが、「永年鮎釣りをしてゐますと、鮎の質の良し悪しも吟味するやうになって、やはり質のよいうまい、上等の鮎をほしくなります。」 という考えであったから、益田川にも行っている。当時は、中央高速も山梨あたりまでではなかったのかなあ。朝日ダムは出来ていたが、湖産放流全盛時代のことであった。
数年前、益田川に行ったが、砂利の中に往時を偲ばせる大石が転がっていた。数日前から、冷水病が発生して、鮎は少なく、また、淀みで釣れる状態であった。そのような状態を瀧井さんが目にされたら、どのように感じられるかなあ。山下さんが益田川にやってくることもなかろうに。
注:「山下」さんは、宮川の垢石翁にも登場する。
城鮎会の人の思い出 | ||||
丼大王の思いで |
先週の水曜日かな、片岡さんに会い、その時『オラ達の鮎釣り』に松沢さんの思い出話がの書いてあるから見て、と言われたが実はそれより1週間前くらいに前に『松ちゃん』の部分は読みました。
後の部分は余り読んでない。
06年までの城山下に年間40〜45回は行った。
95年、96年頃は釣れた。いつからか鮎が大きくなり、数が出なくなった。
日記でも書いていれば解るけどね、
昨年は15。16回しか行ってないかな、
そして今年は俺が一番多くて12〜13回くらい、うちの山ちゃんは8回、高ちゃんは6回くらい。
『松ちゃん』がいる時は鮎が釣れても、釣れなくても、遊びに行ってた。
最近では毎年1匹目を釣るのは、解禁日から4・5回目くらいになる。
6月の10日過ぎ、田植えが終わり、一雨降って、少し水が出て、野ばらの白い花が散る頃になると釣れはじめる。
梅雨入りちょい前かな。
松ちゃんも良く言ってた。田植えの時に肥料を使うから、その肥料が川へ、そしてそいつを雨が流すと、鮎が元気になる。釣れ始める。
でもそれを待てずに足をはこんだ。
うちは、『カカアとムスメ』も良く遊びにいってた。
また会社連中も毎年河原でのBBQを楽しんだ。
富士市の連中は一人も来なくなった。
熱海市の連中も来ない。皆来なくなった。
何かポッカリ風穴開いた感じだ。
大宮人は大見川専門、今年は10月に1回だけ会った。
ただ彼らは元気だ、11月9日の日曜日朝7時前に電話があり,今『神島橋』にいる来ないか?
結構雨も降ってるし、風があって寒い。
俺は金曜日に熱を出し会社を休んでいる身、丁寧に断った。
おとり屋は『松ちゃん』の妹の旦那が、土日、祝日のみやっている。
今年我々の解禁は7月中旬、石ころがし、肌の綺麗な鮎がでた。17〜23センチがほとんどだった。
ここ数年のなかで川が今年が一番だった。水はきれいだった。
アカは相変わらず薄いが石の表面もツルツルしていた。
伊豆中央道の橋げた工事の後の流れの変化、砂の堆積、循環式の温泉が出来た頃からアカがつかなくなってた。
(注:3,4年前の11月、増水による白川から2週間ほどたっているのに、石コロガシの瀬のアカ付きがすごく悪かっ
た。左岸へ渡るその上流の石も同じ状態であった。その原因が新しくできた循環式温泉で使用している塩素の残留との話があり、それが影響しているのではないか、とオラも疑っている。)
アカが無いから遡上してきた鮎が神島、城山下に、居着ず上がって行ってしまう。
解禁日でも酒飲み以外は来ない、そして一年中釣れ無いと、酒飲みも来なくなった。
それでも我々は城山下に行った。
『松ちゃん』がいない今は、直接石ころがしの土手に車を止めて釣りをしている。
今年も多分後1回は行くかな?・・・
また川を挟んで釣りをしましょう。
いつだか忘れたけど、家に帰ればトロフィーがあるけど、城鮎会の大会で優勝したんだよ、
その時、数賞、大物賞、の3冠でしたよ。
(注:城鮎会の大会は、5匹の重量で行っているため、「三冠」になります。)
(注:「95年、96年頃は釣れた」は、丼大王の記憶違いで、95年は遡上がなくなり、解禁日でも閑古鳥が鳴いていた年。
夏に行ったときも、相模川同様の腐りアカが一杯。もっともその年は、相模川では珍しく、遡上の多い年で、箱根を越えて、相模川にやってくる人もいる珍現象が見られた年。
96年は、「狩野川復活」なる、鮎雑誌の記事にダマされたわけではないが、いつものように年券を買ったが、年券を使ったのは解禁日のみ。
91年頃から、遡上鮎だけなく、人工が大会の主役に混じりはじめ、93年、94年は、人工主役で、1位は500グラム、600グラム台となった。昭和の御代では、1位は350グラムくらいであった。=5匹重量。
第2章 山崎武「四万十 川漁師ものがたり」(同時代社) |
話の順序からすれば、四万十川の情景、山崎さんの川、魚との関わりから筆を起こすべきであろうが、瀧井さんが、鮎の味が環境で、食で、異なることを述べれれているから、山崎さんにも味について語っていただくことにする。
しかし、その対象は、鮎ではなく、鰻である。相模川の人工鮎が2年連続、利き鮎会で準グランプリになるご時世である。中国産等の鰻が国産と偽装されても、食べる人が違和感を持たないということも、当然の現象か。オラと同じ味音痴が国民病になっているということであろうか。
1 「うなぎのこと」の章から |
@ シラスウナギ |
降りウナギ等、ウナギの生態 |
閑話休題 |
(8)天然ウナギの味 |
かくまさんは、「昔話をうかがいながら、水揚げしたばかりの仁淀川のウナギをごちそうになる。ひとくち食べて、そのうまさに唸った。都会の鰻屋の蒲焼きとはひと味もふた味も違う。身の濃厚な魚の味、香りがある。養殖ウナギを、繊細な焼きの技やタレの秘伝で引き立てる本職の蒲焼きとは、まったく別次元の味。素のうまさといえばよいか(というより、これが本来のウナギの味なのだが)。」
「弥太さんは、よい機会だから比べてみなさいと、養殖ウナギも一緒に焼いてくれた。これも箱で獲れたもので、漁協が半年ほど前に放流した個体だそうである。そのウナギは仁淀川で自然のエサを摂るようになってずいぶんたつのに、背は青黒く腹も真っ白。天然ウナギが背や腹に黄色みを帯びているのとは明らかに違うばかりか、味もずいぶん違った。」
「どうかね。鰻屋の蒲焼きと同じ味がするろう。そうよ。養殖ウナギを川に放したところで、すぐに天然の味にはなりゃあせんのよ。そりゃあ1年、2年とたてば味も変わるじゃろうが、その前に、自然の中で生き残れるかどうかちゅう問題もあるわね。」
この放流ものの生存率に係る弥太さんの話はオラにもよくわかる。
08年の4月上旬、相模川に放流された県産継代人工は、5月中旬のダム放流による水温変化、濁り、その他の変化に対応できずに死んだはず。よって、釣りの対象となることはなかった。
6月以降に大島のシルバーシート等に放流された県産継代人工の成魚放流は大入り満員の釣り人を集めていたが、オラの興味の対象ではない。
ウナギの世界でも、弥太さんや山崎さんのように、養殖と本物の違いがわかる人が減ると、本物のウナギは亡び、ついでに、養殖ウナギも亡びるかも。
その兆候は、弥太さんも山崎さんも書かれている。
「養殖物といえば、仁淀ではたまにフランスウナギも獲れるぜ。ヨーロッパウナギちゅうがね。昔県が放流したことがあっての。しっぽの短いおかしな恰好のウナギじゃ。
わしらにいわせたら、ウナギの放流など、せんでいらんことよね。あれらは元は何かというたら、全部、天然のシラスウナギやき。海から遡上するのをすくって養殖業者に売る。池で太らせたものを、今度は県が買って資源維持のためちゅうて川へ放す。
こんな無駄な話はないわの。ほんとうに資源ちゅうものを維持したいんなら、まずシラス漁を規制することじゃろう。小学生でもわかる理屈よね。下で稚魚を獲り尽くして、形ばかり養殖ウナギを放して帳尻を合わせる。バカげたことよ。」
再生産に寄与しない、そして、川で生まれ育った魚と違い、濁り等の環境変化でいとも容易に川に生息している細菌にも感染して死ぬ継代人工鮎を放流、あるいは生産し続けている神奈川県のやり方をおかしい、と思っているオラには、弥太さんの気持ちは十分わかる。
かくまさんが再び天然鰻を食べることができることを願って、山崎さんが書かれている3種のウナギで弥太さんの話を終えることにする。
「この川には3種類のウナギが棲んでいる。一つはいままで述べてきた日本産ウナギ、一つは俗にいう大ウナギ、今ひとつは心ない人々によって最近放流せられたヨーロッパウナギである。」
大ウナギは「熱帯産ウナギの迷い子で、日本列島では紀伊半島あたりが北限のはずで、水温の低いところを嫌い、この川でも雪解けの水の影響するような本流を避けて、冬でも水の温かい支流の中筋川や後川に棲んでいる。」
「日本産ウナギでも秋の降りウナギの中には2キロ近いものがあるが、体長が長く体色も異なる。大ウナギには斑点が見られるが、一方にはない。ただしゴマウナギというのは全体に黒い斑点があるが、これは日本産ウナギと別種のものではなく、皮膚の色素の変化であろう。」
「他の一つのヨーロッパウナギは放流用種苗に混入されていたものらしい。
ことさらに悪意の業者があって、値段の安いヨーロッパ産を入れたと見るべきだが、これを受け入れる側の責任ある立場の県内水面漁連や県当局に、それを見分けるだけの素養がなかったのか、あるいは見て見ぬふりをしなければならないような事情があったのか、いずれにしても不可解な話である。
ひと頃は相当量の混獲もあり、婚姻色も出て、肉眼でも卵巣の識別のできる親ウナギも獲れて、将来の生態系の混乱を危惧したこともあった。これは下関水産大学校の多部田先生にも標本を送り、確認していただいているので間違いない事実である。」
ということは、養鰻場から購入して県か漁連が放流した養殖ウナギの中にヨーロッパ産が混入していたということであろうか。
シラスウナギの採捕制限をすれば、養殖ウナギの放流で「資源維持を図る」なんちゅう、無駄なことをしなくても、生態系の攪乱、遺伝子汚染を心配しなくてもすむのになあ。
ヨーロッパ産ウナギは、どのような表示・ブランドで、店頭で販売され、あるいは、ウナギ屋等で売られているのかなあ。偽表示、偽ブランドは「三河産」「中国産」の偽装だけではなかろうに。「ヨーロッパ産」鰻と表示された鰻を見たことのある人はいるのかなあ。
(9)追記 |
蒲焼きで、食後のデザートが出るとは思わないが、弥太さんの話でどうしても書いておきたいことがある。
弥太さんは、「川と生き物の話かね。それなら魚の種類だけあるぜよ。まずアユ…。わしらは“アイ”と発音するがね。それにツガニろう。ウナギろう。大体これがわしの仕事の三本柱。いちばん好きなんは何かいわれたら、ウナギよ。」
「この世でウナギ獲りほど面白いものはないぜ。これを覚えたら人間、年をとることなど怖ろしうない。毎年、新年を迎えたら、はよウナギが餌付く時期にならんかと、サギのように首を伸ばしちゅう(笑)。」
この首を伸ばしての辛抱がいつまで続くのか。
「仁淀のウナギは、昔から孟宗竹に青い枝が見えるころが餌食み(えばみ)始めじゃといわれておる。5月末から6月の頭。それまでもおることはおるが、箱にはあまり入らなね。
初期は河口の春野町あたりまで船を持っていって仕掛ける。塩気でミミズが溶けるんやないかと心配になるぐらい海の端じゃが、水温が高いき、ウナギの動き出しも早いんじゃ。水が温う(ぬるう)なるごとに漁場は上流になって、6月も半ば過ぎれば伊野町あたり、梅雨明けになれば上流の越知あたりでも入るようになる。
箱には10月の末から11月までもはいるが、ウナギは夏の季節もんじゃき、わしは遅うまではやらん。秋はカニ(モクズガニ)が忙しいきね。」
冬眠期間が終わったら、すぐに漁が始まると思っていたが…。また、下流に降り冬を越すとは。海までは降っていないと思うが。
故松沢さんは、まずアユ、そして10月ころにはザガニの籠も設置。なんで、ウナギの仕掛けを設置されていなかったのかなあ。弥太さんの自慢話を送付したが、テントの置かれていたから読まれていた。弥太さんの観察が鋭い、といわれていたが、具体的な話を聞きそびれた。
城山下では「リンズ」が棲息していないとしても、松原橋付近から下流では、「リンズ」がいたのではないかなあ。ただ、アユの時期と重なるから、二兎を追えなかったのかなあ。
シラスウナギが採捕されて、養殖ウナギを四季を問わず、食する時代となったが、まだ、天然鰻が当たり前、で、あったころの情景をもう少し弥太さんの自慢話から見ておきたい。
(10)ヒゴ釣り
@ 穴
「時期はうんと水が温うなった夏よ。夕方、橋の下の瀞場にカガミ(箱眼鏡)持って入ると、ウナギが穴からちょろっと顔を出しとるのが見えるがね。近寄ると引っ込みよるけんど、その穴へヒゴを差し込めば、まあ十中八,九は食いついてきよるのう。」
「魚が見えんときに、おる穴を見分ける方法かね?それはない。ヒゴを入れて食う穴はおる穴、食わん穴はおらん穴じゃ(笑)。ただ、一度釣れた穴は覚えておかんといけんぜ。そういう穴は、大水が出た後や翌夏には、また同じような大きさのウナギが、ちゃあんと入っとるき。昔はみんな自分だけのヒゴ釣り穴というものを持っておったものよ。」
A あわせと取り込み
「とにかく鰻は、穴にさえおれば、すぐにググッとくる。コツは最初に合わせんことよね。食い込ますように送ってやったら、もう1回引っ張りよるき、また送る。三回目のググッでヒゴを張れば、もう確実。胃袋の奥まで呑んじょるがね。」
「食わすのも面白いが、そこから先がヒゴ釣りの楽しみぜ。連中は体が長いき、穴の中で頑張りよる。それをズルリと綱引きのように引っ張り出すんが、この遊びの醍醐味じゃろうね。大きいやつは、それこそ石に足をかけて踏ん張るようにせんと出てこん。右手でヒゴを引っ張るろう。それで左手は手拭いばこくようにウナギに添えて肛門のあたりまで来たら、きゅっと握るのが秘訣よ。
そしたらあとは簡単。尻尾を手にからませながら、自分から抜けてきよる。ただ、力だけで引き出すと、出た瞬間クネリと暴れて、その拍子にハリがポンとこける(はずれる)け、手は必ず添えておかんといかん。」
雨村翁も、掛かった後のほうが大変であることを書かれている。
大コイを金突きに行く猿猴に誘われて、仁淀川の上流で国境に近い鷲の巣に行かれた。
「五人の河童が下の瀬にとびこんで、適当な間隔をとって逃げまどう鮎を追いつめていくのを眺めながら、わたしも褌一つになって義喜の後から瀬の中に立ちこんだ。丁度、川の中ほどのかなり大きい石の下に、うなぎの白い頸(うなじ)がちらりと見えた。三百匁もあるかどうかはわからないが、大ものであることはまちがいなかった。わたしは、餌をさしたひごを口にくわえ、眼鏡のくもりを拭いとって、じっくりと自分の足場から、釣り上げてからのことを考えた。胸へくる水深である。それも瀬肩の激流である。釣り上げた獲物を川原まで持ちつけることは容易でない。あきらめた方が賢明だぞと思った。まごまごしていれば獲物といっしょに荒瀬を押し流される醜態を演ずるかもしれないのだ。」
しかし、このような状況でも、あきらめる勇気、度量のある釣り人は少ないよなあ。雨村翁も同じ。
「石の右側に寄りそうて、上半身をもぐるようにして、ひごの餌を近づけた。文句はなかった。強い引きがぐっぐっと手にこたえる。止める。鈎はがっちりと掛かった。それまでは型のとおりあっという間に運んだが、さてそれからがどっちも悪戦苦闘である。相手はもちろん梃子でもとずくばる。こっちは相手の力が尽きるまで、じっくりと頑張りたいが、だんだんと呼吸が苦しくなってくる。遮二無二引き出そうとあせるが、尻尾をがっちりかけたであろう。びくとも動くものではない。この勝負、結局、わたしの敗北であった。」
「鷹巣の鯉汁とひごをとられたこの鰻釣りは、いつまでも横畠義喜と関連して忘れがたい思い出となった。もう廿年からの昔である。」
(森下雨村「猿猴川に死す」平凡社ライブラリー)(「故松沢さんの思い出:補記)
B ハリ
「ハリにモドリがないのは、釣ったウナギをはずしやすくする、つまり手返しをよくするためよ。はずれやすければ、ウナギも弱らんきね。腹の奥までハリを呑んでおっても、籠に入れ、ヒゴをツンツンと動かしてやれば簡単にはずれる。まあ、釣るというより手鉤の感覚に近いわね。」
C ヒゴの効用
かくまさんは、「ウナギの穴釣りといえば、短いハリスに結んだハリを、竹の棒の先に挟んで、離頭式銛のような状態のまま、ウナギのいる穴に差込むスタイルが一般的だ。」
これが、中津川の食堂の旦那が子供のころやっていたウナギ釣りの方法であろう。
「ヒゴ釣りは、その穴釣り仕掛けを一歩進化させたものといえる。ヒゴは穴へのエサを確実に誘導する支柱であると同時に、ハリスそのものである。ヒゴの支柱は棒と違ってたいへんしなやか。医療用カテーテルのように、曲がりくねった穴の奥の奥までエサを届けてくれるのだ。」
D 上流から釣り降る
「ヒゴ釣りのもう一つの秘訣は、上流の穴から順に探ることよ。穴は岸沿いにあるろう。すると上からエサの匂いが流れてくるき、下のウナギは、もう食い気満々で待っとるがね。いや、ほんとじゃ。それぐらいあれらはミミズが好物で、匂いちゅうもんに敏感な魚ぞね。」
E 成果
「一穴で、何匹もつれることもあるよ。昔、橋本金徳ちゅう男は、一晩に同じ穴で、24匹も釣ったことがあった。あれはこのへんの記録よのう。」
雨村翁と種田先生も寄りうなぎで大漁になったことがあったなあ。
(11)ズズクリ
「台風の後3〜4日後の楽しみというたらズズクリよ。水かさがまだ高いときは箱も浸けられん。ズズクリはそういうとき威力を発揮する漁じゃ。もうわしの時代には、この方法では商売するほどは獲れんようになったが、昔はよう揚がったがね。これはハリなしの釣りよ。凧糸にミミズを15匹ばあ刺して折りたたむわね。それを真ん中でくるくると輪になる。親指ほどの太さの竹に鉄筋を取り付けて、その先に輪をくくるがよ。
船を止め、このズズクリの仕掛けで、トントンと川底を小突く。ゴツゴツッと来ればウナギよ。水はまだ濁った、それも夜がよいわね。あれらはアゴの強い意地汚い魚で、エサにくらいついたら引っ張り上げてもなかなか放さん。ミミズの中には丈夫な凧糸が入っておるき、そのまま船の中に釣り上げられてしまうというわけよな。」
「この先に、藤崎イヨちゅう、ズズクリの上手なおじいさんがおった。戦前の話じゃが、ある台風後の明け方、このイヨさんがズズクリしちゅうところをうちの親父が見よったがよ。浸ければ釣れるの繰り返しで、後にも先にも、あんなにウナギが釣れるのは見たことないというとった。ふと底を見たら、真っ黒で船板が見えんかったというき。10貫、20貫ではきかん量やったそうじゃ。」
(12)川漁師の資質 |
「仕事は何でも努力じゃと思うが、素質も大事よ。川漁師でもそうじゃ。川を覗いた。魚が泳いどる。それを見て『ああおるな』ちゅうようでは、漁師の資格はないぜ。どれぐらいの早さで泳ぎよるんか。驚かしたらどこに逃げ込むか。何を食うとって、天敵はなんじゃろう。そして『どうやって獲っちゃろうか』。そういう注意力や工夫の考え、欲を子供のころから持っておる者だけが、漁師になれるということよのう。」
「とくに現在残っておるのは、漁が天職と思うちゅう者だけよ。ともかく、漁師はいろんな生き物の習性と絡みを知ることが第一。それさえわかったら強い。あとはココ(頭)の使いようだけよね。」
「素質」がないと駄目、ということは非常によくわかる。
08年10月の大井川・川根温泉下流のザラ瀬でも、そのことを味わい、いつものように、嘆き悲しむこととなった。
しあわせ男は、竿をたたんでオラのところにやってきた。そして、ザラ瀬を見ていて、気になるところがある、竿を貸せ、と無理矢理竿を奪い取ると、そこにオトリを入れた。すぐに女子高生か、乙女が釣れた。逆針のフックが少し開いていたから、20代の乙女であろう。
オラにはどこも同じにしか見えんのに、なんで、しあわせ男にはあゆみちゃんが住んでいる邸宅を見つけ出せるのかなあ。まわりとの違いがわかるのかなあ。
故松沢さんが、水草の表面に垢が繁殖すると教えてくれた。オラも、柿田川の梅花藻の上でシラスを流すと、サビのない美白の鮎が釣れたから、梅花藻に苔がはえているのでは、とは想像していたが、確認する術を知らない。故松沢さんは、白川の松原橋付近の水草の上に囮を泳がせて大漁であったが、どのようにして、水草の上をオトリ操作できたのかなあ。故松沢さんには、オトリ操作はなんも特別のことはいらん、ということであろう。取り込みの時だけ、水草に潜られんように注意する、といわれていた。
オラが目利きもできない仲買人を懲らしめたくても、囮を水草に引っかけて、はいそれまでえよ、ということが明白。
故松沢さんらはどのようにして、水草に藍藻等が繁茂できると観察されたのかなあ。
かくまさんは、弥太さんが話された筒を仕掛ける場所と、筒の流れの変化に対する設置方向を図で書かれ、「弥太さんにしてやられたウナギたち。『ウナギは魚の中でも賢い。だからこそ、もう少しだけ賢い人間にたやすくだまされる』と笑う。」と、ウナギたちの写真の説明に書かれている。
そして、仕掛け場所の図には「匂いさえ効率よく流れれば、意外な場所でもウナギは入る。障害物や柳の木などがあればなおよい。止水域はどんなにいい隠れ家があっても入らない。エサのミミズが死ぬのと、匂いが拡散しないからだが、ウナギ自身も低酸素に弱く、流れのない場所を嫌う。」
ウナギが低酸素に弱い、流れのないところを嫌う、とは、知らなかった。むしろ、流れのないところを好むと思っていた。ということは、オラが、餓鬼の頃、溜め池で獲ろうとしたウナギは、やむを得ず、止水域にいたということであろうか。
弥太さんは、ナマズについて「おひげ様ちゅうたらナマズよ。昔、このあたりでは畑に麦を作りよったもんじゃが、あの麦の青い穂が出るころ、雨が降ると田んぼの溝にナマズがよう上がってきよった。
今の暦でいうたら5月の末から7月いっぱい。雨上がりの後、それも決まって夜じゃわね。あれらは普段は川におるが、生まれ故郷は田んぼぜ。」
ナマズに見る弥太さんの観察力、学者先生の感性
「そうそう、あれらはノミの夫婦じゃちゅうことを知っちゅうかね。メスが大きゅうてオスが小さい。全長60cmもあるようなものは、みんなメスよ。少なくてもここいらでは。
オスはせいぜい1尺―30cmぐらいのもんよね。それから上の大きいオスは、わしは見たことがない。まずおらんといってかまわんと思うな。なぜ断言できるかというと、産卵にのぼる時期になると、60cmばあもあるメスのまわりに、小さいオスが4〜5匹から多いときには10匹も、ぞろぞろとひっついちょるわけ。
大きいナマズのケツを追い回しとるのは決まって小さいナマズで、大きいナマズどうしがひっついちょるところを見たことがない。ひとつ不思議なんは、産卵の時期にはオスの姿はよう見るのに、漁をするとあまりで出合わんことよ獲れるのはたいがいメス。オスは隠れ場所からの行動半径が狭いんじゃろうか。筒にもツケバリ(延縄)(はえなわ)にも、あまりかかってくることがないね。」
なぜ、弥太さんの語るナマズの話を唐突に、「漁師の資質」の項に掲載したのか、というと、この箇所に弥太さんや故松沢さんらの観察と、学者先生との観察度及びその評価にかかる能力の差か、感性の違いか、想像力の差か、何かよくわからないものの、違いがることが表現されているから。
田んぼがナマズの産卵に重要な環境ということは、学者先生でも適切に観察できる事柄であろう。しかし、ノミの夫婦についてはどうであろうか。
学者先生は、弥太さんのように「少なくてもここいらでは。」という疑問の余地を残すことができるのであろうか。
鱗数で、鮎を海産、人工、湖産と区別することし、分類、区分けをしながら、その基準に合わないから、というか、鱗数の変動が大きいから、改めて基準を作る。その作業をしなければならないのは、「湖産」しか放流していないから、「湖産」しか購入していないから、と、漁協がいうから、購入した鮎を「湖産」鮎と断定して、人工や海産が混入されていることに思い至らなかったからではないか。
鮎が食して、珪藻から藍藻に遷移する、という実験結果についても、普遍化する前に、実験環境、水質が、鮎の成長に伴い排泄物が多くなり富栄養化し、藍藻が優占種になる環境となった、つまり「遷移」ではなく、水質が「変化」したかも、となぜ思い浮かばないのかなあ。
まあ、弥太さんや故松沢さんらと違い、漁が「食」ではないから、魚との知恵比べをする能力、知見に欠けていても、質の高い魚を獲ることができなくても、「食」には困らないか。
故松沢さんは、積極的に自己の意見を述べることはされなかった。質問されれば答えられたが。
そのため、オラの質問に対しての答えの意味を、オラが間違って理解してしまうことも多々あった。その一つが、産卵行動の例外現象での答え。
10月始めの産卵が、下りをしないで産卵する、卵が腐る、という現象について、オラは海産と理解し、腐るとは、孵化率の問題、と思っていた。もし、オラが、それは海産?と聞けば、人工かも、と答えられたのではなかなあ。
故松沢さんは、オラの質問に答えられるとき、「鮎に聞いたことはないからわからないが」といわれる。
この口癖は、弥太さんの「少なくてもここいらでは」と同様、観察結果に絶対性を付与されない姿勢からではないか。
弥太さんは、ナマズのツケバリのエサについて「エサはウナギと同じでオイカワの筒切りがよいオイカワなら獲りよいし、ナマズの餌食みもよい。カワムツはオイカワが少ないときの餌で、イダ(ウグイ)は、ウナギの時もそうじゃが、まず使わん。」
「ナマズのツケバリはすることはするが、どちらかといえば遊びよね。どう頑張っても確率は2割いかな。そうじゃき、漁とは呼べん。少のうても5本に1本は掛っちょらんと、わしらは仕事にならんき。」
ということで、竹筒を使用されているが。=「筒ヅケ」が効率的にナマズを捕る方法とのこと。
そのように語られてはいるが、「エサといえば、ナマズのほんとうの大好物を知っちゅうかね。魚よりミミズより好きなものがあるぞね。意外なエサぜ。でんでん虫よ。あれを潰してハリに掛けると、ナマズはまっとよう釣れるがね。」
と、遊びとしてのツケバリには、でんでん虫が最良とのこと。このように多様なエサを考えることができるのも、観察結果とその評価に絶対性を付与されないで、たえず観察を繰り返されているからではないのかなあ。
(13)「大事なのは仕掛ける場所、田んぼに店を開いても客は来んじゃろう」 |
「箱を仕掛ける場所かね。やみくもに数放り込んでも、ウナギというのはまず入らん。そうバカな魚ではないぜよ。まず大切なことは、仕掛けの向きよ。匂いで寄せるがじゃき、前後逆さまにしたら入らん。」
闇雲にオトリをあっちこっちと、働かせている、いや、強制労働をさせて、オトリにもそっぽを向かれているオラには、これほどわかりやすい言葉はない。
故松沢さんが、白川の中、松原橋付近の水草の上で、大鮎を釣り、新規開業の買い取り人に持ち込んだことをすでに書いたが、その仲買人は、狩野川で獲れた、大きいから立派なアユ、という判断基準しか持ち合わせていない。あゆみちゃんの品位、品格に違いがることには思いも至らぬ。当然、容姿からその違いを見分ける能力がない。
そんな人がアユを商売として扱うことは、怪我をするだけ、まわりも迷惑、ということで、故松沢さんたちは廃業させることを意図して、料亭等に引き取りを断られる鮎にもかかわらず、代金をふんだくることをされたのではないかなあ。
同様に、故松沢さんが試し釣りをされていたとき、16センチ、18センチの大きいアユはこっそりと見物人に渡していたのも、試し釣りの結果を見てやってきた素人衆には、そのような一番アユを釣るだけの技倆はない、数も、大きさも素人衆に嘘をつくことになる、という配慮からではないかなあ。
故松沢さんが釣り方を書けば、誰でも同じになる、といわれたことがあったが、それだけでは釣りの腕が上達することにはならない、といいたかったのではないかなあ。
「そこがエサ場か住処の近くちゅうことも条件よね。店を開く場所を考えてみればわかることよ。人の暮らしには道というものがあって、賑やかな場所も決まっておるろう。田んぼの中に店を作っても、客はわざわざ来んぞね。」
いやあ、そんなことはないですよ。讃岐うどんの店は田んぼの中にあったし、越後荒川に行く山側の国道のそば屋も田んぼの中やしい。
すんません、ちゃちをいれて。もっとも、そのような例外があるから、あゆみちゃんのエサ場も、住処もわからないで、オトリをあっちこっちと動かしているオラがあゆみちゃんとデートができ、いつまでもあゆみちゃんのお尻を追っかけることになっているんですよね。
「エサ場に仕掛けた方が確率が高いのか、それとも住処をねらった方がいいのか。これは水況次第じゃ。
増水の時はエサ場狙いが基本よね。水かさが増えれば、それだけミミズじゃ、カエルじゃとエサが流れて来よる。ウナギはそれを知っておって、水が増えるととたんに食いが荒うなる。その食い気が刺激になって、行動範囲もうんと広がる。
ただ、増水時は箱を流される心配も多い。とくに土用丑の1週間ほどは、大水が出るから気を付けろと昔からいわれとるぐらいでね。実際、この時期はよう水が出よる。けど、ウナギ漁には、それこそ値はいい、量は獲れるという最高のチャンスよ。」
そう、瀬がよいか、ザラ瀬が、チャラが、それとも?。県産継代人工が大量放流されたであろう相模川大島のシルバーシート前や串川合流点付近では、継代人工の好む瀞瀬を釣ればよい、と単純である。しかし、遡上あゆみちゃんは気まぐれなところもある。季節、性成熟、水量等、オラでも少しは見当のつくこともあるが、それだけではない。
本物のあゆみちゃんの心がわからないのに、袖にされて泣き哀しんでいるのに、継代人工を毛嫌いするオラは少数者。シルバーシートの混みようは大変なものであった。これではいつまでも県は、継代人工の生産をやめず、漁協は成魚放流を繰り返し、山形県や島根県のような再生産を意識し、また、少しでも遡上アユの習性を持つ鮎を育てようとする意識すら芽生えないであろう。
故松沢さんも城山下には人工を放流させなかった。漁協にとっては願ったり叶ったり。とはいえ、増水で流されてきた人工が釣りの対象にはなったが。
「仕掛ける場所は、前にいゆうたように、基本的にはエサが流れて来たとき溜まりやすい場所よね。わしが注意しとるのは水の巻き具合。深くうなって、壁に当たった水がよれて巻いとるようなところが絶好よ。
それと岸の縁も見逃せん。大水のときは、明くる日になったらもう干上がるような浅場にも出てきて、どんどんエサをあさりゆうき。」
06年の遡上量の多かった大井川の葛籠での分流も「明くる日になったらもう干上がるような浅場にも出てきて」というイメージに合う。本流は白川あるいはアカ付きが悪い。干上がりそうな分流には垢がある。その次にそこに行ったときは、その分流は腐りアカになっていたが。
故松沢さんが、下りの始まっていた郡上八幡で大漁であったとき、流れが大石のまわりで巻いていた、といわれていたが、それとは意味が違うとは思うが。
「ウナギにしたら、水をかぶった田んぼや畑は食料品店よ。ミミズがいやがってみんな水の中に出てくる来、食べ放題じゃ。そんなわけで、わしの若いころは、大水が出ると水をかぶった畦道みたいなところにも仕掛けたもんじゃった。次の日、干上がった畦にモジがぽつんと取り残されておって、拾い上げると中でコトコト音がしとる。」
故松沢さんが、城山下のお墓で、大ウナギを見つけるも蒲焼きにされなかったこともあったが、このような状況でのウナギではないかなあ。左岸道路まで水が出て、山際のミミズを食べているうちに、急に道路に水がなくなり、水を求めて、湧き水が流れているお墓のほうに入り込んだ、ということではないかなあ。
「平水のときも、エサ場というのは基本よね。それが隠れ家に近ければなおよい。ことに水温が低かったり、渇水で水の動きが悪いときは、ウナギが潜んでおるすぐ近くに仕掛けんと、なかなか入りにくいわね。」
このような水温、水況変化には、あゆみちゃんも好みの場所を変えているんではないかなあ。あゆみもエサのみに生きるにあらず、ということもあるのではないかなあ。
「アシやヤナギの根っこの際も、おるところじゃ。こういう場所は隠れ家でもあるが、エサ場にもなっちゅう。覗いてみるとわかるが、いつもひげ根に虫やエビ、小魚がついちょる。『柳の下にいつもドジョウはおらん』というが、ここらの者はあの諺を笑うきね。『ヤナギの下には2匹でも3匹でも獲物がおるぞね。』とね。」
故松沢さんが、「金の塊」と表現されたエサ場は、何匹も鰻のいる柳の下と同様の霊験あらたかな空間であったのであろう。
ただ、ナマズでも同様であるが、
「エサ場に仕掛けた方が確率が高いのか、それとも住処をねらった方がいいのか。これは水況次第じゃ」
といわれてもなあ。あゆみちゃんの心は読めないし、気まぐれやし。まあ、あゆみちゃんを売って「食」にはできないから嘆くだけですむ境遇に感謝することとしょう。
阿久悠「瀬戸内少年野球団」の監督をされた篠田正浩さんが、語られているテレビを見た。
「瀬戸内少年野球団」は、阿久悠が書かれたことを知った。夏目雅子が主演であることは知っていたが。
昭和20年8月15日、篠田監督は中学3年生、阿久悠は小学3年生。
この年齢の差が、8月15日の意味合いを異にすることになる、と。
篠田監督は、戦争前に、チョコレートも、うまいものも経験されている。阿久さんはそれらのものを知らない。篠田監督は、切腹の仕方も教えられている。
8月15日の「空はどこまでも青かった」
阿久さんにとっては、昭和23年頃までの、子供の価値観、行動が全開できた貴重な体験のできることになった8月15日。
篠田監督にとっては、占領された時代。
篠田監督の話を聞きながら、人工のあゆみちゃんを釣って、大きい、いっぱい釣れた、とか、だけを感じざるをえない人達とオラの違いを重ね合わせていた。
オラがあゆみちゃんとつきあうようになった頃は、遡上鮎が主体の川も、珪藻が優占種の川も、時期的には限定されていたが、シャネル5番を振りまいていたあゆみちゃんもいた。
そして、本物の山、川、鮎について語る亡き師匠や故松沢さんに恵まれていた。
オラの後にあゆみちゃんとつきあうようになった人は、人工主役、藍藻が優占種、という川が当たり前、という状況になっていた。
当然、あゆみちゃんへの思い入れ、つきあいにも篠田監督と阿久さんとの8月15日の意味付与同様の違いが生じる。
いや、オラと同じ頃にあゆみちゃんとつきあうようになった人も、釣れれば品格、品位を問わない、という人もいる。
亡き師匠は、大会に参加するオラを戒められることは再三であった。
さらに、小西翁は鰻を「食」は「職」の対象とはされていないようである。鮎と鰻の漁期が重なるということだけが理由であろうか。
山崎さんは、青のりの採集、養殖も行われている。
川を職場としていても、三者に共通する面も違いもある。その理由は単に環境の違いで説明できるのであろうか。
ハヤ |
ハヤは重要な商品であったようである。
山崎さんは
「ウグイ(イダ)」も時期によっては、貰ってくれる人のないほどで、アユ採りの網にかかると、捨ててしまうくらいである。タチイダは別だ。タチイダとは産卵のために集まったものをいう。中流から上流にかけて、河床の小砂利が浮きあがるような感じのする場所が、その産卵場である。こういう場所に何百という大群が集まってくる。この時のイダの味はアユにも劣らない。この頃になると附近の漁師は総出で採捕する。」
弥太さんは
「近頃は食べんようになったが、昔は仁淀川支流の久万高原のほうらの人らがよう食べよった。」「久万は越知からまだ谷を入っていった山の奥になるき、昔は新鮮な海の魚は手に入らなんだ。そのかわり食べたのが川魚じゃ。夏はアユやウナギがあるが、冬の魚がない。それでイダを食べたわけよ。あの魚はそこそこ大きゅうて目方があるき。」
「わしの親父は昭和38年に死んだが、それより4〜5年前までは、よう久万からイダの注文を受けておったと記憶しちょる。寒イダというてね、なかなか人気のあるもんじゃった。」
「あんたら、イダが碁を打つのを知っちゅうかや。魚が碁を打つがぜ。いや、これはほんま(笑)。淵のまわりをよう見ると白うなっちゅうわ。これがイダの碁打ちよ。ヒラムシ(カゲロウの幼虫)などを、石をひっくり返して食うた跡じゃわね。」
「イダに限らず、ニゴイなども、よう川底で碁を打つ魚じゃわね。」
「獲った寒イダは、商売人に託して久万まで生きたまま送った。時期は12月から2月まで。ほかに漁のない時分じゃき、あのころはわしらも助かったのう。
向こうへ着くころはもう魚の息はないが、寒い盛りじゃき新鮮よ。炊いて食べるいう話じゃが、イダを食う習慣は越知から下流では余り聞かん。むしろ低うに見るわね。前にもいうたが、ウナギやナマズさえツケバリにイダを刺したらそっぽ向くというのがこのへんの常識やき。」
「昔の久万の人らは3月になって腹に赤い色が出てくると、桜イダというて、もう食わなんだ。かというと、よその県では卵をもったイダのほうが人気がある川もあるという。人の舌というのはわからんというか、面白いものよのう。」
小西翁は
「だから家内の役割は、とってきた鮎とか鮠の加工や処理をすることになるわけです。」
家内は「鮠の得意先回りを一人で全部やるということ。」
「このごろは年齢もとって足も痛むよって毎日とはいえんけど、ずっと山手まででも鮠を担いで持っていくわけですよ。そやけど、きょうび足の痛いときには遠方まで行かれん。そしたら山手の山の上の高いところに住んでいる人は困っとるわけやけど、よう行かんわけですわ。それでわざわざ向こうからきてもらわんならんということにもなって…。」
(小西島二郎・佐藤清光「紀の川の鮎師代々」 徳間書店)
なお、鮠を串にさしていること、毎朝鮠を焼いていることの写真が掲載されている。
そして、小西翁は昭和56年ころでも鮠を焼いておられた。
瀧井さんは
昭和31年6月1日に道志川の青野原に行かれた。
解禁前日「鮎はどうも少ないらしかった。そのかはりに、鮠の瀬付と云はれる産卵の場所を発見したので、、私とつれのTさんと二人は、そこで鮠釣りをした。」
瀬ザクリで大漁であった。
「鮠の方は囮箱の中に釣溜まると、鮎と異って生ぐさかった。『産卵鮠(すりつばや)は今は何もたべないから腸綿はさっぱりしてきれいだ。』とTさんは云った。『この卵すりつける香ひは下流に流れて行くから、下流の産卵鮠は香ひを伝って上ってくるので、この瀬付は、未だ二日も三日もつづく』とTさんは云った。」
注:昭和31年の相模湾の沖取り海産は、247万と、漁連50年誌に書かれている。
ということは、相当量の遡上鮎、少なくとも2008年の1千万ほどを上回る遡上量があったのではないかなあ
道志川への遡上を妨げる構造物がすでにできていたということかなあ
「宿屋では、二人して釣った鮠の始末も、塩まぶして、一括(くるみ)に重たい新聞紙包みにして、宿屋にあづけて置いた。」
「日の出前に、川に下りたが、例年のやうに解禁の心持ちに、弾みがなかった。川の中は何所も彼所も石がよごれて、鮎がすくないのだ。」
ということでまた瀬付き鮠を釣ることとなった。
弥太さんの言われるように、子持ちのときだけたべるところも、そうでないところもあるよう。
雄物川から流れてきた船からの投網さんは、鮎は獲らなかった。鮠を珍重していた、と。理由は、鮎を獲る道具に金がかかり、鮠なら安物の投網だけでよい、と。
オラの最後のヘラブナ釣りは昭和32年ころ。そして、それが最後のヘラブナを食べたときでもある。今、ヘラブナを食べる人がいないように、鮠を食べる人も少なかろう。千曲川等では鮠を焼いて売っているが。
鮠の最後は、丼大王からのメールで。
「他の川では、千曲川の話を聞いたが、これも千曲川のどこか忘れたが、鮎は超デカイ、良く釣れた。
しかし、それは、とても香魚、鮎とは言えない、すべて捨ててきたと、かなり昔の話では、
でも、松っちゃんは千曲川の川漁師との付き合のあった、(という)話を聞いた事もがある。
千曲川では今でも、ウグイを捕り、食べさす河小屋がある。
そのウグイが全然獲れないとき、狩野川のウグイを持って行ったと。山梨県の甲府で待ち合わせた。
初めは、何キロくれ、それじゃあ、と、超デカイウグイを持って甲府へ、受け取りに来た相手はビックリ、
それジャア串を打って焼けねえ、そこで喧嘩に、俺は何キロしか聞かなかった。
最初から、こうこう、しかじか、こうだからと言えと、
その当時(何年頃)は分からないが、狩野川にはウグイもグジャグジャ居た、
松ちゃんは、一本瀬の尻でウグイを捕るため、投網を打ったとき、魚が入りすぎて川へ引き込まれ、あわてて、左手首に巻いている紐ほどいて、網を放した、死ぬかと思ったと、」
このメールから想像すると、狩野川では鮠は食べていなかったのではないかなあ。
また、千曲川の鮎を捨てた、ということはあゆみちゃんの品位、品格にこだわる故松沢さんらしい。オラも千曲川は相模川並の水質と思っている。捨てた、といっても、持ち帰らなかっただけで、現地でだれかにあげたのではないかなあ。
アユがコケを食べて、珪藻から藍藻に遷移する、と、阿部さんが実験結果から判断し、そのことを検証したのが千曲川と木曽川とのことであるが、いったい千曲川で何を、どのように、検証されたのであろうか。
千曲川については、故松沢さんはよい印象を持っておられなかった。大鮎といっても、人工の大きい物を放流して、ぶくぶく育った物、との印象と、千曲川から狩野川にやってきた釣り人が、大鮎自慢をして、尺鮎がいっぱいとかいったことも影響しているのであろう。かりに、まともな鮎が放流されていたのであれば、千曲川の水量では、尺鮎に育つのは例外であろう。相模川の継代人工同様、攻撃衝動という最小限の鮎の資質も希薄な鮎が大きくなっただけ、ということではなかったのかなあ。
瀧井さんは、焼き鮎を作られるとき、一晩焼かれた後、干されていたが、小西翁は
「この備長炭を熾して、串刺しにした鮎を蒸し器のような形をした火床に入れて、そのうえに紙で貼ったおおいをかけて一時間ほど焼くわけです。その間に二,三回、裏返す。この焼き加減のコツというのはなかなか見てもわからんと思うけども、だいたいに匂いで中まで完全に水分が取れたか取れんかがわかるんです。その匂いによって、裏返して焼き、またちょっと変えるというような焼き方で、水分を完全に取ることが大事なんです。この匂いというものは、素人の人にはただ香ばしい匂いがするというだけかもしれませんが、やはりそれは年季ですな。年季を重ねんと、完全に火が通ったか完全でないかというのはわかりません。目で見て色が黄金色に上がってきますけど、それが上がったか上がらんかは匂いで完全にわかります。
さらにそれを二日ないし三日たってから、もういっぺんあぶるのです。そうしておけば一年でも持つ。先々代のころは石油罐みたいなものに入れて、目張りして保存したんです。こうして二回火を通しておけば、ちょっと心配のない干物ですな。そうしたら必要なときにいつでも使える。今は昔とれたようなとれ方はせんよってに、長期間保存するというようなものは一尾もできんようになった。」
小西翁は、「この蒸し焼き法は茜屋独特のやり方じゃないかしらんと思いますなあ。昔はどうだったかわからんけど、こんなことは現在、ほかでは全然やってなかろうと思います。」
と、語られている。
瀧井さんとの違いは、日干しをする代わりに二度焼きをしていることと、最初の焼きにかける時間の違い、ということのよう。
そこに、職漁師としての味を維持するこだわりがあるのであろうが、小西翁ですら、鮠は未だ焼かれていたが、鮎は焼かれていない。氷、冷蔵庫が利用できるようになっただけでなく、あるいは、焼き鮎が生ものの半分くらいの値になるということだけでなく、「今は昔とれたようなとれ方はせんよってに」が、主な理由であろう。保存食とするほどの量が獲れない、から焼き鮎にしない、と思っている。
これらの違いがることを意識せず、あるいは現在はなくなったことを意識できず、単に特殊な実験環境での結果を普遍化する学者先生の過ちを避けたいとは思っているが。
昭和50年ころ、オラも相模川で釣った尺鮠を焼いてたべたが、小骨が多くて。
フナは唐揚げにしていたから小骨は気にならなかったが。ヤマベは、2度揚げすると、小骨もたべることができた。もっとも15cmくらいの大きさであったが。
鯉 |
フナや鮠だけでなく、鯉も一部地方での食料になりつつある。山崎さんは四万十川での鯉事情について
「この地方ではあまり歓迎されない。一種の生臭さと小骨の多さ多いのがその原因と考えられるが、料理次第で結構おいしいものである。」
「産卵直前の熟卵を取り出す。それを醤油と砂糖と化学調味料と少量の酒を加えたもので、トロ火にかけて二,三時間も気長に煮しめる。これを細長く切ったコイの肉にまぶしつけると、コイのイトヒキ料理が出来上がる。この地方ではコイのコツケといって、ことのほか喜ばれる。
酢にもよく、アライにもよく、コイコクも乙なものである。すりつぶして天ぷらにしてもよい。それでもコイを買ってきてまでして食卓にのせる人は少なくなった。」
「昔は婚礼の席には活き造り(アラシキという)として欠かしてはならない魚であった。
恋がコイという発音と同じであるからである。これはアユが愛(アイ)に通じることと同じ意味である。
どこそこの誰の婚礼にはアラシキが何枚出されたなどささやかれ、コイのアラシキの皿鉢の数の多少が、豪華さを競う基準とさえなっていた。」
今や、「活き造りも大鯛一対で済ますようになり、ここでもまたコイは斜陽族となってしまった。
いつの日か、冷凍魚や輸入魚が手に入らないような逼迫した事態が起こらない限り、蛋白源として再び日の目を見ることはないかもしれない。」
山崎さんは「鯉追い」について書かれている。
「深みに棲む鯉の大群を、ここぞと思う浅い処に追い上げて捕る。毎年何回となく繰り返してやる方法なので、追い上げる場所などはだいたい決まっている。その場所まで長い誘導用の網を張り、コイを追い出すために数隻の小舟に大粒の栗石を満載して、それをコイの棲み家に投げ込む。水面に落下する音と、水底を打つ音に驚いたコイが逃げ始める。」
「こうして追い出すと、コイは必ず上流に向かって逃げるときは、群れを作って誘導網にそって移動する。誘導網の上流端には袋状の網が敷いてある。」
「魚見が頃合を計って合図をすると、そのために待機していた小舟が、別の網を使って袋の口を遮断する。
さあ、それからが大変である。重さ四キロもある大ヤス(カナツキ)を振るって一匹あて突いて獲るのである。二百尾以上の大群を追い込むと、一瞬の間はまるで戦場である。」
この捕り方は、猿猴らが、数人で泳いで鯉を追い、追いつめてカナツキをする漁法とは異なる。
四万十川では船が、網が、漁の主役ということかなあ。
雄物川さんは、鯉の洗いは骨抜きが大変であったから、食べることは少なかった、と。ウナギは獲れず、ヤツメウナギよりも、それより少し小さいスナメリ?の方が多くいて、また獲りやすかったから、スナメリ?を多く食べていたとのこと。
ニゴイについて、故松沢さんが、一度テントに来た人達に出したことがあった。骨に気をつけるように、といって、出したとのこと。結果は、まずい物ではなかった、とのこと。
雄物川さんは、ニゴイの調理の仕方について、頭側から三枚におろすと、骨切りができる。それを1日、酢に漬けておくと、骨が柔らかくなるから、骨を気にしないで食べることができるようになる、と。
また、鯉について、50cmくらいの大きさの鯉がおいしい、と。今の時期=12月頃の鯉は、マグロ以上に脂が乗っていておいしい、と。
ということで、雄物川さんらご一行は、今日も相模川弁天下流のトロで、吸い込みで釣っていました。
関西ではベラはよく食べる。唐揚げにして、三昧酢に漬けておくと、骨も食べることができるし、保存食にもなった。
関東ではベラを食べないが、生息域の限界地域、辺境に当たる箇所の魚はまずい、との話と関係があるのかなあ。
東京で始めて食べた天ぷらは、テンコチであった。関西では食べない。
ガキが突堤から釣ったが、キスは釣れず、テンコチばかり。捨てることもできず持って帰った。母は文句を言うが、孫の釣った物にけちを付けることもできない。頭を鯖折りにすると、皮がむけるとのことであるから、そのようにして揚げた。味にうるさい母がいける、と。
山崎さんが鯉が地方料理になっている、といわれているが、贅沢になったのかなあ、それとも、手間暇のかかる調理を敬遠するようになったからかなあ。
ツガニ・モクズガニ |
山崎さんは、ツガニ(モクズガニ)については、「私の職場のいきものたち」の章にカジカ、チヌ、スズキ、エバ、ヒイラギ等まで登場させておられるのに、なぜか、書かれていない。
「泰平の章」に、「幸いなことにこの頃になって運送の便が好転しかけていて、川の生産物がかなり短時日で遠隔の消費地に遅れるようになっていた。
ひと頃は麦の肥料にするほど獲れたツガニ(モクズガニ)を活きたまま大阪に送ることに成功し、面白いように金がとれた。
アユもウナギもいくらでも獲れた。それやこれやでその頃まだ珍しかった家の新築が、一銭の借金もせずに完工することができたのである。」と書かれているにすぎない。
ということで、弥太さんの語られたことを見ていくこととする。
1 生態 |
@ 子ガニの上り
「冬のかかり…そうじゃねえ、10月の末から11月にかけてじゃろうか、小指の爪ばあの足の長い子ガニが、下流の方で見えるようになるわね。」
「これがだんだんと上に移動する。昔はどっさりのぼってきよったき、これを獲る漁もあった。1月から2月にかけて、近の者がよう板を背負って川へ行き、登り込みで獲っておったわねえ。
冬にわざわざ、あんな小さいものを獲ったということは味がよいのじゃろう。わしらは大きなったカニしか相手にせんが。この登り込みは、一般には登り落ちという漁のことよ。」
A どこまでのぼるか
「川をの遡(さかのぼ)るというても、カニはアユやウナギのようには泳いではのぼれんけん。カメのように、ゴッチン、ゴッチン、それも横歩きじゃけね。そうやって川を歩いて、この越知町からまだ10kmばあ奥の谷まで旅をしよる。」
「四万十川でも大正町ぐらいまではのぼるという話を聞いたがね。あそこも河口からは相当距離がある。ただ、ちょいと先にお宮さんがあって、そこから上はおらんということじゃ。言い伝えがあって、神さんが通してくれんのじゃという(笑)。」
「仁淀川では、愛媛県に入った落出というあたりまで行くと、もうカニの姿はめったにみえん。ダムのでける前からそうじゃったのう。
それから考えると、カニの移動する距離はおおかた100kmにもなるがじゃないかね。」
「それを、あんな小さなカニが脚で横歩きしてくるじゃき、たいしたものよね。
しかも、まっすぐに歩いてくるわけではない。あれらは水の抵抗の少ないところ、緩いところを探してくるがやき、実際に歩く距離は昔の街道の比ではないわのう。」
B 何年で下るか
「あれらは足掛け3年したらまた海に帰っていく。」
「生き物じゃき一匹一匹の生長は違うが、同じ大きさでも、2年ものと、その秋に下る3年ものはすぐにわかる。メスじゃったら2年ものはまだ卵がないき。だから炊いても身が白いわね。オスにしても同じ。黄色いはらわたが少ないわ。
そのほかにもいろんな見分け方があるが、その違いはまた、あらためて実物で教えちゃろう。」
C 成熟したカニの見分け方
「ツガニは、わしら漁師から見れば商品じゃき、いつも気になるのはやはり一匹一匹の値打ちよね。カニの値打ちは何かというたら、まずは大きさじゃ。太いカニは食べごたえもあるし、やっぱりそれだけ身もよう詰まって味がよい。
こういう大きく立派なものは無条件で値がつく。けれど問題は、ちいと小振りなカニらよね。カニは3年で海に帰る生き物じゃという話は前にもしたが、わしらがもっぱら狙うのは、最終脱皮をすませた、海に帰る直前のカニよ。」
脱皮
「仕掛けには大きなカニも小さなカニも一緒に入る。それはその日や場所の運よ。」
「混じった小振りのカニも売り物じゃが、そのとき値打ちを左右するのが、2年ものか、それとも3年ものかという成熟度じゃわね。小そうても、成熟したものは旨い。けど脱皮の終わっとらんもんは、たいして味がせんので値打ちがないわね。その見分けのヒントが甲羅の色じゃ。」
最終脱皮をしとらんものは、棲んどる川によっても多少違ってくるが、おおむね色が赤い(茶色い)わ。最後の殻を脱いで完全に親になったカニは、だいたいにおいて青緑がかった色が強うなってくる。」
毛
「成熟度を見分けるもう一つの大きなポイントは、これは人の場合もそうじゃが、毛じゃわのう(笑)。
この赤いカニの脚を見いや、毛がだいぶ少ないろう。こっちの青いがは、ハサミのところも脚の爪もの先も、毛がもさもさしちょる。
オスとメスでは、オスの方が全体に毛が多いわね。メスどうしを比べると、成熟したもんと未成熟のもんとでは、やっぱり毛の濃さに差があって大人のほうが毛深い。これははっきりしちゅう。」
「それとメスの場合、このフンドシの形と毛の生え具合でも成熟度がわかる。2年ものはフンドシの形が長丸い。丸いことは丸いが、栗のような形というか、先が少しとがっちょるわね。毛もだいぶ少ない。最後の脱皮を終えた3年ものになると、フンドシはもっと幅広い丸になって、毛もたくさん生えちょる。」
「オスメスの比率は、全体ではメスが多い感じがするが、早いうちに捕れるのはわりかたオスが多いわね。」
アユは、産卵場での写真を見ると、オスが圧倒的に多く見えるが、ツガニは違うよう。ただ、下りはアユと同様、オスのほうが先に産卵場に到達するということのよう。
D 下りの時期
「わしの経験からいうと真っ先に移動を始めるのは、枝になった谷奥におる大きいものじゃわね。
産卵というのは、アユでもフナでもそうじゃが、いっせいじゃき。遠いところまでいったものは、早う戻ってこんかったら全体行事に間にあわんわね。それで、奥におる大きなカニほど早めに下るがじゃないかと思うがね。これらが連れ立つように順々に谷を降り出すと、わしらのカニの漁も最盛期よ。」
「下りのはじめの目安は(注:谷川での現象で、本流でのことではない。少なくても越知附近のことではないよう。)、イタドリとかシーレ(ヒガンバナ)の花じゃ。これが咲き出したら、それまではかからんかったような大きいカニが、谷の真ん中ぐらいのところへおいた仕掛けにも入るようになる。ごそごそ歩いてきよるところをつかまえて、『おまん、どっから来た』と問うたわけじゃあないが、今までよりもひと回りもふた回りも大きいカニが下の仕掛けで獲れゆうこと自体が、移動を示す証拠よ。
奥の谷から下ってきたカニは、外見でもわかるぜ。甲羅や関節の角のトゲが丸うなっとるというか、のうなっちょるき。ゴッチン、ゴッチンと下りよるうちに、すり減ってしもうとる。ほんの近くにおるカニはそんなことがないでね。このトゲがしっかり残っちょるわ。」
「海に向かう時期は、もちろん水の流れを利用して下るが、なるべく流芯を避け、流れの弱い場所から弱い場所に向かって泳ぎわたっとるわね。
途中に堰堤があると音でわかるのか、不思議なもので、すぐ上の淵から陸に上がって藪を巻いて降りとる。そういう場所では淵の縁に仕掛けを置くと必ず入る。共通の道じゃき。下が滝の場合も、流芯には入らんように注意して、岩の上を一歩ずつゴッチン、ゴッチンと降りよるわね。瀬の中では、もちろん水の流れに逆らうことはできんが、必ず水の緩(ゆる)いところを選んでおよぎよる。
結局、常に川の蛇行の内側を通る。前にもいうたが、下りウナギはこれとは逆で、流芯を一気に泳いで海へ行く。このへんの違いも面白いわね。」
「『おまん、どっから来た』と問うたわけじゃあないが、」と、弥太さんは自己の観察、仮説について、謙虚であるが、故松沢さんが「アユに聞いたことはないが」と前置きをされて、オラの質問に答えておられたことに通じる。
観察の鋭い人は、自己の観察結果に絶対性を付与されない、ということの見本ではないかと思っている。
下りが、谷と本流では時期、動機付けを異にするということのよう。弥太さんが観察されたことを故松沢さんに訊ねたら、どのような事例、現象を話されたであろうか。
餌食みに時間をかけているということは、アユの下りとどの程度の共通性と違いがあるのかなあ。
E 増水と下り
「大きなカニは、もう7月の末には上流を出発しよる。途中餌食(えば)みをしながら下の小さめのカニのところへ達するまでに、わしの見当では40日ばあかかっとる感じじゃのう。これは毎年変わらん。去年は何月何日頃からよう獲れるようになったとカレンダーに付けても、翌年あてになるとは限らんが、花を目安にすればだいたい間違いないわね。」
「ただ、秋になっても雨が少のうて、谷が瀬切れしたままじゃと、カニは絶対に下へは降りなね。雨が降って川の水がつながるのをひたすら待つほかはない。ほんまはもう下る時期やのに雨が来ん。そんなときは、主の川(本流)にはカニが入らん。
いよいよ降って瀬切れしとった川に水が戻ると、ちょっとの間―1週間から10日ばあの間に、あれらは次から次と団子になって、主の川まで下がってきよる。
主の川から海へ下るのは、秋も終わりの方じゃ。しばらく合流したあたりで一休みして、また一斉に動きはじめるときを待つ。こういうきっかけというか潮時のことを、わしらはシヨセと呼んじょるがね。」
「ところが、たまたま11月に大きな雨が降らんという年というのもあるわね。『今年は落ちアユも長いことおるのう』という年は、仕掛けを入れれば年明けの2月でも少しはカニが獲れる。」
「ただ、雨が降らんかったがために海へ行かれんということになったら、カニというのは種が絶えてしまうぞね。そこはようできたもので、そんな年はもう一つシヨセがあるわ。子を残さねばという強い本能が働くがじゃろう。ある日をきっかけに、あれらはまたゾロゾロ動きよる。
それが冬の風、今でいう木枯らし一番のような強風よ。杉の枯れた葉っぱとかイチョウの葉っぱが飛ぶような大風が吹くと、カニはそれを合図に水がのうても下る。」
「西風が吹く」これが、故松沢さんと弥太さんに共通する鮎の下りの動機付けとなる自然現象のひとつ。もう一つは、弥太さんは、秋分以降の増水を上げられているが。
そして、これらの自然現象と下り等の産卵行動との関係に思い及ばないのが多くの学者先生と神奈川県内水面試験場の研究者。釣り人も多くがこの部類に含まれるかも。
2 漁 |
住み処
弥太さんは、「上へ行くほど大きゅうなるのは、石の大きさが関係しとるがじゃないかね。谷は上流へ行くほど石が大きくなってゴロンゴロンしとる。カニはふだんこの隙間に入っておって、ここから餌食(えば)みに出よるがね。
この穴蔵が自分の体より細(こま)ければどうじゃ、隠れられんわのう。あれらは上流に行くほど大きな穴蔵があることを知っておるのか、それともころ合いの穴蔵を探しながら上へ上へと歩いていくのかようわからんが、実際の結果として、奥に置いた仕掛けほど大きなカニが入っちゅうわ。
カニの穴蔵は、まん丸でのうてもかまわん。水際をよう見ると、石の隙間を自分で掘り出して、ひしゃげた穴を作っちょるぞね。」
「主の川の場合も、アユがサイを食む大きな石のあるようなところが、カニにとっては棲みよい場所じゃ。とにかく基本は穴蔵があること。次に、水がきれいであまり淀んどらんところよ。下流の泥っぽい川にもおることはおるが、色が黒いし小さい。」
ということで、弥太さんは、下りの季節前は大きいカニを求めて谷にはいることが多い。
シヨセの例
「わしの若いときの話じゃがね、12月の初めごろ、モジを川にかけちょいてしばらく待ったことがある。もよかろうと1週間目の朝に1回上げにいったら、入っておったのはたった20から30匹のもんじゃった。
大風が吹いたのは、たしかその日の午後よ。」
「『弥太郎、これから仕掛けをもう一度見に行ってこいや』という。わしは逆ろうた。」
親父は「『いや、弥太郎、これはシヨセというものじゃ。つまり生き物のひとつの日和じゃ。間違いのうカニは入っとるき、すぐにいって来い』」
1週間で30しか入っておらず、しかも、今朝揚げた仕掛けにカニが入っているはずがない。
「見てびっくりしたよ。あれは忘れもせん、154匹。昔は竹のモジじゃったが、竹の隙間という隙間から毛の生えた脚が長々と出ちょって、モジ全体が茶黒う見えとったわね。
家に帰って報告した、親父はひとこと、『弥太郎、これをよう覚えちょれ』というたわね。それから何か自然のサインのあるごとに、親父は『今日はシヨセぞ』というて、わしを仕込みよった。」
「たとえば下りアユよね。あれも雨のほかに、木の葉や帽子が飛ぶぐらいの風が吹いたときがシヨセになる。昔の腕のいい川漁師はそれを知っちょって、瀬の浅い肩でアユが下ってくるのを待ち構えておったわね。」
瀬戸内は産卵時期が違う?
「カニは8月ごろから獲りはじめるが、獲り初めのころは、わしは買いに来た人に必ずこう確認することにしちょる。『おまん、今時期のカニの味を知っちゅうかよ』と。気の早い者は早うから食べたい。でもわしは、夏の間はうまいとはいわん。『カニの匂いさえすればええんじゃったら買(こ)うたらええ』という。」
「夏のカニがうもうないというのは、まだ身が入っておらんということじゃわね。カキやアサリも時期をはずしたら身が痩せとって味がせんわね。ミカンもそう。ハシリは値は張るが、味そのものはまだまだ。ただ珍しいだけが値打ちじゃき。」
松山の人はカニ好きで山越えで買いに来る。
「松山といえば、向こうのカニは春が旬じゃということを知っちゅうかね。太平洋に面した高知は、四万十川でも九,十,十一月の秋が旬。瀬戸内に面した松山あたりの川では春がうまいという。まっこと不思議よね。
ほんなら広島はどうかと思うて、こっちから広島に行った者に聞いたら、やっぱり春のほうがよう獲れて味もよいという。松山の人にそっちでは秋には獲れんがかよと聞いたら、いや、獲れるけんど味がようない、秋のカニは高知側が一番じゃという。ここらに負けんぐらいカニ食いの土地じゃき、話は確かじゃろう。
味がぜんぜん違うということは、産卵時期が違う、つまりここらでは年内に降りるカニが、瀬戸内では4月5月に海へ降りるということじゃあないかとわしは想像するが、どうじゃろう。このへんの謎は、いっぺん学者先生に聞いてみたいものじゃがね。」
もっとも、学者先生の中に、弥太さんの問いに適切に答えることのできる人がどのくらいいらっしゃるかなあ。
故松沢さんが、「学者先生はそういうが」と不機嫌になられることが再三あったということは、学者先生の浅薄な観察につきあわされて、辟易した経験があったのではないかなあ。
なんで、今の川が古の川とは異なる、ということですら、学者先生は思い及ばないのかなあ。
なんで、川には遡上アユのほか、海産、人工がブレンドされた「湖産」ブランドの鮎が放流されていると疑わないのかなあ。
エサ
「カニが入りよいエサは、川魚ではアユがいちばん。それからニゴイにアサガラ(カマツカ)、オイカワにカワムツ。アサガラは身が硬うて腐らんので、水の中じゃったら数日放っておいても長持ちするエサよね。
いかんのがイダ(ウグイ)。不思議なもんで、イダだけはウナギも食わん。」
「効果が高いのは、やっぱり海の魚よの。一番が小アジ。それからムロアジにカツオ、サバ。これらはアラを使う。身を使うと高いでね(笑)。」
「ただ、日照りに置いてすえた匂いのするようなアラはいかん。やっぱり血のしたたるような新鮮なものやないと。」
「ただ、海の魚で唯一、いかんエサがクマビキじゃ。この魚だけはどういう理由かさっぱりカニが入らん。クマビキというのはシイラよね。」
「弟とモジをかけにいった。弟には25匹も入っておったのにわしには入っちゃらんかったことがある。」
親父さんに怒られた弥太さんは、エサにしたクマビキのアラと、弟の鰹のアラの違いでは、と考えた。
「その後何度か漬け比べしてみたところ、たしかにクマビキのモジには入らんことがわかった。」
餌が原因では、と推測し、それが事実であるかどうかを検証されていたとは、さすが弥太さん。
ところで、故松沢さんはモジの中になんの餌を入れられていたのかなあ。丼大王に会うことができればわかるかも。
イダは食わんと弥太さんはいわれているが、鯉釣りをしながら、地獄カゴを沈めている雄物川さんたちは、ハヤを餌にしている。獲れる量が少ないのは、餌のせいか、それとも、生息数が少ないからか。
なお、川では川のサイなども食べているのではないか、と。
「というのは、夏に獲ってきたカニを家のイケスで活かしておくと、いくら魚のアラを食わせても、40日もしたら脚の毛がだんだん抜けて死んでしまうがよ。ところが、秋に獲ってきたものなら、40日どころか年が明けても生きちゅう。
どういうことかと最初は思うた。水温が極端に変わるわけではない。ということは、魚のアラだけでは栄養が足りんのじゃないか。人間でいうたら脚気のようなもんじゃないか。ある栄養素を含んだものを秋まで食べておれば、その後イケスで囲われても生きられる。それはサイじゃと素人考えで思うとるがね。」
仕掛け
「あれは昭和50年代に入った頃と記憶しとるが、ナイロンの地獄カゴちゅうものが出てきた。もともと海で使う道具じゃったと思うが、よう獲れると評判で川筋でも売られるようになってきてから、カニが途端に減りだした。いうたら乱獲よ。」
弥太さんは、モジではない道具を作られている。
シヨセ等の事柄について「そういう話も、若い頃は家だけの秘密で、人には内緒じゃった。川で漁をする商売敵がのうなった今じゃき、世間に公開できる秘訣よ。」
といわれて、秘訣を公開されているが、カニ獲りの道具については、
「いやいや、これだけはいくらあんたらの頼みでも、まだ見せるわけにはいかん。」
「自分でいうのはなんじゃが、これは市販のカゴよりもよう入る会心の作よ。廃物利用で金もひとつもかかっとりゃせん。わしひとりがこの道具でやる限りは乱獲もないと思うが、みんながマネをしだしたら絶滅してしまうき(笑)。」
この仕掛けがどのようなものであると、故松沢さんが推測されていたのか、聞きたかった。その思いをこめて、ツガニの章を長々と引用している。
ツガニにかかる弥太さんの観察眼もさることながら、弥太さんがどのような発想から、秘密の仕掛けを作られたか、その肝となる観点は何か、について、故松沢さんがどのように考えられていたのかなあ。もし、2人が会われていたら、肝胆相照らす仲になられたのではないかと思える2人の洞察、想像力が一致したら楽しかったのに。
なお、故松沢さんは、仮に弥太さんの仕掛けにたどりついても、従前のとおり、竹で作ったモジを使用されたであろう。資源保護のために。
3 料理 |
@ オスとメスの味
弥太さんは「海のカニではメスよりオスのほうがうまいとしたところが多いが、ツガニの値打ちは体の中に抱えた卵じゃき。生のうちは紫がかった調子じゃが、火を通すと赤というか濃いオレンジ色になって味が深い。10人中9人はツガニはメスがうまいという。もちろんオスも、卵がないだけで実の味はよいがね。」
A カニ汁
「世の中にはハモの汁、タイの汁、マツタケの汁と、うまい汁がたくさんあるが、仁淀川のカニの汁も負けんぜよ。」
B 調理法
「この汁はカニを潰して作る。石臼に生きたカニをそのまま入れて、木の杵で細こう細こうに突き砕く。これをザルにとって出てきた汁を絞る。この汁を流したらいかん。汁が味を持っとるじゃきに。
絞った身にはまだダシがようけ残っちょるき、同じ量の水を足してもう1回絞る。さらにもういっぺん絞る。」
「突くのは石臼がいちばんじゃろう。ミキサーでやると殻が細こうなりすぎるし、案外能率が悪い。カニの殻が硬うてミキサーの刃にもようない。ミキサーしかない場合は、甲羅をはずして包丁で刻んでから潰すことよ。丸のまま入れたらモーターが焼き付けよるきね。
ただ、臼は汁が飛んで一度ついたらなかなか落ちんのが欠点よね。茶色いシミがいつまでも残る。そうじゃき、わしはボムの手袋をして臼を段ボール箱で囲って潰しちょる。」
絞った汁を「鍋で炊く。味は醤油に砂糖を少し。ほかに入れるものは秋ナス。越知町でカニを好むものはだいたいこういう味付けじゃが、伊野町あたりはあまり砂糖を入れん。」
「ついたカニの汁は、炊いたらじき中身が豆腐のように固まって浮いてきよる。肉やら肝やら卵のたんぱく質が熱と塩分で固まるわけよね。身がしっかり入った、一番うまい時期ほど、このカニの豆腐は固うなる。」
C 旬
「秋というより、冬のかかりじゃね、ほんとうにうまいのは。脂がのって身も団子のように固うなって、味がよい。夏のかかりのカニは、こうは固まらんし、味にコクがまだない。カニの汁はうちでは最高のもてなし料理で、自分らも時期になると1週間にいっぺんは食べとるのう。」
このカニ汁も最近ではどこの家でも味わっていないため、弥太さんのところでカニ汁を食べた子供に作るようにいわれ、カニを砕いたまではよかったが、汁を捨ててしまい、残った殻等を食べる、という珍事もあった。
故松沢さんは、カニ汁での調理はされない、とのことであったが、狩野川では、ゆでる食べ方が一般的であったのかなあ。なぜ、カニ汁にしないのか、理由は聞き忘れた。
「四万十川のガネ・ガニ・カニの話」
田辺翁もツガニ、奥山の木こりガニ、その他のカニの分類で四万十川のカニについて書かれている。(永澤正好「四万十川V 川行き 田辺竹治翁聞書」法政大学出版局)
ガネの料理については、水から煮る、ガネ味噌の団子や餅を書かれているが、カニ汁のことは書かれていない。ガネ味噌が「甲羅をはずして割り、悪いとこをみな捨ててこんまい石臼に入れてタンタン、タンタンこなして搗いとう。」とのことであるから、カニ汁と調理の一部は同じであるが、「それにきれいにとうした(篩(ふるい))にかけた米糠を入れ、塩加減もようした。生姜も入れてこんがり焼いたらおいしかったぜ。」
ということで、団子にされている。四万十川と仁淀川では食べ方に違いがあるということかなあ。弥太さんと田辺翁との違いかなあ。
「ガネは春三月、四月の頃、川岸を列を作って上った。」
これは、弥太さんの記述よりも遅い時期になる。田辺翁は汽水域、干潮域に近い下流を仕事場とされていたから、弥太さんの越知よりも下流域になると思うが。
「上るときの子ガネは粗いもんやけん食べられん。皮がかとうて殻ばかりでガジャガジャしとう。」
ということで、食べられんとのことである。
イタドリの花が咲いたらガネの季節よ、とのことであるから、この点では弥太さんと同じ。そして、故松沢さんのように、「川原の石で川を逆さハの字にせいて、通り道にガネ籠を仕掛けとった。それをナガレコミというた。」
田辺翁は、聞き手の予備知識の不足か、田辺翁自身の観察に不足するところがあったからかわからないが、弥太さんほど緻密ではない。
「奥山の木こりガニ」が大きい、とのことであるが、それがツガニと同種であるのか、別であるのか、判然とはしない。ツガニで谷に入り大きいもののことであろうが。あるいは、谷から8月から下るガニと同一なのか。イタドリの花の咲く頃に大川に下ってきた大きいツガニと同じと見られているのか、別のものと見られているのか、どのように見られているのかなあ。
「ツガニの雄ガニで、髭があって足に厚い大爪をもっちょたがを、『奥山の木こりガニ』と言うと。」の記述からは、谷に入ったツガニの雄のこととわかるが、下りの現象、谷での生活年数については、厳密とは言い難い。
「秋になるとツガニと一緒に海まで下る。川ガニのボスで、山奥の方から始終出て来とう。」
「今ごろぢゃもう見たことがないけんど、昔はそんな谷々で木こりガニをとららったけん、谷で何年もおって太いがが、大川ぃ下ってきたけんねえ。そんで、雌と一緒に海へ出て産卵するがよ。」
ということで、弥太さんと違い、下りの条件、下りの対象となっているカニの氏素性が明確には意識されていないと思う。
下り以外でも始終山奥から出てくるのかなあ。弥太さんが住み処の条件を生息地の選択条件とされ、大石の転がっているところに大きいツガニがいる、という観察とは異なることになるのかなあ。
このことは、田辺翁の鮎の生態を読むときには、気をつけなければならないと考えている。
ツガニと丼大王と故松沢さん |
今年も終わりだね。
もう鮎が何時解禁になっても大丈夫です。
タモ枠、漆を3回塗りました。塗り終わりを見たら網をつけたくなり、結局編みも付け終わり完成さしちゃった。
これでいつ解禁してもいいです。
俺はかなり魚料理をします。あたり前、
でも包丁が問題、実は包丁が・・・・と思うと、松ちゃん研いで、
帰りには自分の顔が写る、大げさだけどネ、小出刃、刺身包丁の砥ぎを頼んでた。
今は自分で包丁を砥でます。
12月30日、毎年冷凍庫の整理、10月〜11月の鮎、特に子持ちの鮎を焼いて友達に上げる。
みんな待っている?と思う。
竹串は松ちゃんの手作り。自分でも作るけどね、ちょっと面倒なので松ちゃんからもらって帰る。
で明日12月29日まで仕事です。
カニことで松ちゃんの思い出をひとつ。
2、3年前から、狩野川漁協が発行する年券(全魚族)からズガニ漁がはずされた。
それ以前は自分もカニ篭を2ツ3ツ川に仕掛けた。
今日の鮎つりが終わり、良く働いた養殖魚さんに最後のお願いでカニの餌になってもらった。
かわいそうです。
川に放しても鵜の餌だし、また冷水病の元になるかも、本当は自分がカニが食べたかったからです。
次に鮎つりに来る(1週間後、または数日後)に篭を上げる。
鮎つりに来れない時は、大宮人達が篭をあげる。ただ全然知らない輩があける方が多いいけどね、
そのカニの餌で大変良く取れるのが、似鯉です、たまたま下りカニが多いい時期に当たったのか、
わからないけど、似鯉を入れると必ずとれる。
似鯉は骨が硬いから、我々持参のナイフではだめ、松ちゃんの所からスコップを持ち出し、
スコップでニゴイを輪切りにする、輪切りにした肉を立て骨に沿ってスコップでもう一度切る。
10センチくらいの塊を篭の中袋にいれる、
一度だけ驚いた、篭にセットするのを、松ちゃんも見ていた。篭を仕掛け、2日後に上げてびっくり、
1匹も入っていない、あのデカイ骨つき肉の餌も全然ない。
誰かが勝手に上げて、餌まで持っていった????考えられない。松ちゃんもびっくり。
松ちゃんは9月になるとカニ捕り用の竹篭を作りはじめ、解禁になると下り篭を一本瀬にかけていた、しかし
2006年の10月の終わり頃か、11月の初めか篭が盗まれた、
直径50,60センチくらい、長さが160センチくらいはあると思う、車で来て持っていたんだネ、ガッカリしていた。
カニはおとり小屋を片付ける(11月23日)の時の手伝い人に振舞うために捕っているのに残念がっていた。
また、ある時朝行くと今朝は3ついたよ。
鮎つりを終わり小屋に帰ると、松ちゃんが森ちゃん今日は昼間カニがかなり入っていた。ビックリした。
数は記憶の数でハッキリしない。でも結構の数いた。本当。
下りを急ぐ時は、夜、昼、雨、は関係無いのかな、そんな話をした記憶がある。松ちゃんにもめずらしかったかもしれない。
でも、昼間でも、篭にカニも鮎も入っていたことはある。落ち葉がいっぱい流れれば。
鮎つりは金属糸でビクビクしているが。
また、ある時は、鮎のイケスの横にカニ用のイケスを置いていた、朝になってみんな死んでいた。
これもビックリ、毒でも流れたと聞いたら、鮎は何でもない、
前の日に仏壇に上げてあった林檎をイケスのカニの餌にいれた。オバアが怒ったかなあ、
狩野川では昔から捕まえたカニの餌にミソが甘くなるって、カボチャ、や、柿をくれていた。
林檎じゃあ、だめかつて言って笑っていた。
魚を与えると、餌がなくなると共食いをするて、野菜、果物を餌にするていってた。
また、ある時カニは何時が旨いて話で、
松ちゃんも、昔は田植え作業が終わると、みんなでカニ食いながら一杯やっていた、なんていっていた。
俺は結構キスの投げ釣りをやる。
大潮の干潮のときは川尻でカニつかまえる。5月頃でも、ミソも卵もたっぷりはいっている。カニは一年中いる。
一年中卵が入っている。
カニは海に降りてきて、塩水と海砂に体を洗われてきれいだ、
赤っぽいのもいれば、青っぽいのもいる、もちろん茶色の色がそ様に見える、
ただし、甲羅の中まで砂が入っているので、一日中水道水で砂だしをする。真水から海水そして真水、最後に釜茹で。
実は12月24日夜、大潮だったので海にズガニを捕りに行ってきた。新月のときはカニの身の入りがいいと思う。
うまかった。
くだらない話終わり、
来年ね.
アオノリ |
山崎さんは、「私の職場のいきものたち」ということで、四万十川にいた生き物の観察結果を書かれている。
それらの生き物とつきあいがあれば、オラも読みこなすことができるが。ということで、馴染みのある生き物だけをとりあげたが、未だ、取り上げていない生き物がある。
たとえば、手長エビに3種あり、そのうちの1種は清冽な水での生存しかできないため、亡びたのではないか、と書かれている。
ということで、未だ取り上げていない生き物を置いてきぼりにして、漁師生活を決断されたころの食を支えていた鰻とともに重要であった青ノリのことに移る。
山崎さんが漁業に参入された頃の生活を支えた川の恵みは、鰻とアオノリであった。
「この川で有用藻類の王座を占めるものは、なんといってもアオノリであろう。
昭和五十五年度五万二千百六十一キロを参し、金額にして一億七千七百万円(下流漁協調べ、中央漁協分を除く。)であり、この地方の農閑期を潤す最大の収入源である。
採取が始まるのは例年十一月中旬であり、終わるのは年によって異なるが、三月から五月頃となる。いつものことだが二月頃に一応消えてしまい、その後春海苔と呼ばれるものが新しく発芽してくる。
晩秋から厳寒期にかけて生育するのはスジノリであり、春先から初夏に発芽成長するのはウスバアオノリである。」
ほかに数種あるが、「なんといっても味も香りもずば抜けてよいのは、スジアオノリである。」
「同じスジアオノリでも環境によって生育に差があり、味にも優劣が生じてくる。
戦前は和歌山県の簑島産が全国一の優良品であったが、川の開発に伴い絶滅した後は、徳島産が首位を占めたが、それも早明浦ダム建設により生産は皆無となり、現在は養殖により細々と露命をつないでいる。
県内では新荘川産のスジアオノリが最高級品であるが、海苔の葉体そのものが短く、その上量産できないのが玉にきずである。
それに比べるとここのスジアオノリは生育がよい。発芽して十日も採らずにおくと長さが数メートルにもなる。採取用具は鉄製のクマ手状のものだが、こんなに成長しきったものは引き寄せるにも、とりあげるにも骨が折れる。」
「こんなに長く成長するこの種のアオノリは、最生長期には一夜のうちに三十センチ以上も伸びることもある。
繊維も細く、味も香りも新荘川産に劣るが、それでも最近は列島全体の河川汚濁のため、他の水系のアオノリが壊滅したので稀少価値は高まる一方となり、大量生産されることも手伝って、今では全国の市場を制覇するほどになった。」
漁民1人あたりの漁獲量は
「港湾改修により河口が広く深くなり、それに拍車をかけるように砂利採取業者が根こそぎ砂利をさらっていったので、河口一帯が内湾状となり、」「アオノリの主漁場を上流へ押し上げた。今では河口から四,五キロ上流が漁場となったため、下流に比べて川幅も狭くなり、それだけ漁場面積も狭くなった。」
また、「価格も上がる一方で、最近はキロ当たり五千円近くになり、したがって採取者もふえた。昭和三十年代に二百人であった採取者は現在では五百人近くにもなった。」
ということで、「一人当たりでは昭和の初期に比べると約十分の一の水揚げしかできなくなった。」
昭和の初め、「不況の中でもアオノリは割合高値に取引されていた。一貫一円以上もしていて、熟練した人は一日七,八貫も水揚げすることもあって、晩酌の後で『今日も七円ヨイコラショ』と唄ったという逸話もあったくらいである。」
「もとより素人の私は初めの頃は二貫も採ればよい方であった。それも慣れない作業で変色したり腐ったりすることも多かったが、それでも冬から春にかけての仕事はこれでめどがついた。」
ということで、山崎さんは川漁師に入って行かれたが、アオノリ採取は大変な労働であったとのこと。
「前述したように四百人で二億円近い金を水揚げするというと、いかにも荒稼ぎのように聞こえるが、これほどの重労働は他に類がない。潮の加減が漁獲量を大きく左右するので、必ず干潮時を狙って出動する。そのため朝早くから夜遅くまでという生やさしいものではない。最干潮時が深夜になる時分でも起き出してゆく。」
「採ったアオノリが船の中でそのまま凍り付くようなことはふんだんである。夜が明けてみると舟の中一面に真っ白く、霜の降っているようなことも珍しいことではない。
さすがに吹雪のようなときは夜は休むが、昼は出かける。横なぐりの風と雪に耐えて、かじかんだ手に息を吹きかけながらの採取は、われながら人間の限りない物欲への執着に、おぞましさを感ずる時でもある。」
「干潮時にとったものを潮が満ち始めると家族総出で洗う。洗う人、洗ったものをしぼる人、さらにそれを収納小屋にかける人、人手は幾らあっても足りない。
いったん収納小屋に入れられたものを翌朝、日の出を待って干す。川岸一面に杭を立てて、それに藁縄やロープを張り、アオノリをかけて干すのだが、これがまた手間がかかる。干す時間帯と干潮時とが重なると一層大変である。こんな時は採る者と干す者に分かれる。干す者はもっぱら老人、子供である。」
「こうして干されたノリは目の届く限り緑のすだれとなり、ふくいくたる特有の香りを漂わす。
よく陽が照り、季節風がほどよく吹くと夕方には完全に乾く。乾いたアオノリはそのまま束ねて各採取者が一週間か十日くらい貯えておくと、漁協で入札が行われる。」
アオノリは「主として粉末に加工される。これは火入れされた後、粉砕機かまたは手もみで需要に応じて粗粉、細紛等に製造される。
お好み焼きに使われるもの、菓子の中に混ぜられるもの、ご飯にふりかけるものなど千態万様である。昔は正月用品としてカズノことともに欠くことのできないものであった。アオノリ粉を搗きこんだ餅は、その頃全国津々浦々で賞味されたものであった。」
お好み焼きにたっぷりとふりかけていた海苔が「アオノリ」とは知らなかった。
海の海苔=アサクサノリ等のクロノリと同じと思っていた。
お好み焼きについて、関東では、たたいて固めているチェーン店もあるが、神戸方面ではたたいてはいけない、と怒られたことがあった。
お好み焼きにも焼き方に違いがあるから、「アオノリ」にも、類似品があり、オラには区別がつかないのも当然のこと。
餅に入っていたノリが、アオノリであった、ということもはじめて知った。今も食べることができるのかなあ。戦後のこと、近所の家にマザーユニオン構成者が集まって餅をつき、一部はかき餅にしていたが、青い色のかき餅はアオノリを入れていたのであろう。
「アオサもこの川の重要な有用藻類の一つである。」
戦争末期になるまでは採取したままのバラ干しでは、需要がなかった。
「アオサはアオノリよりも付着層が上層となるので、干潮時に干潟となる場所が主漁場である。その干しあがった河原に自生したアオサを手で摘みとるのが初期の漁法であった。
干潟いっぱいに採捕者が群がっていると、よく空襲を受けた。まだその頃川岸に茂っていた藪陰に身をかくす間もないほど急襲され、河原に身を伏せて難を避けたこともある。」
「〜需要がふえるにつれて乱獲がはなはだしくなり、ついに天然アオサは姿を消してしまうようになった。」
組合長となった山崎さんは、アオノリの競争入札導入、養殖を実現しょうとされるが、妨害を受けることとなった。
アオノリの競争入札への切り換え
昭和四〇年代までつづいた「販売方法の改善が急務と考え、全国に手を回して業者の参加を求め、競争入札制度に踏みきった。」
「この制度切り換えには抵抗も多かった。責任者である私に対する中傷や誹謗はもとより、私のウナギの養殖池に農薬エンドリンを投げ込まれ、一匹残らず殺されて、廃棄したウナギの全量がトラック数台に及んだこともあった。いやがらせの電話は昼夜の別なく、それこそひっきりなしにかかってきて、家族の者は電話ノイローゼになるほどだった。」
協力してくれる理事の「千谷登氏と江口勝氏の援助を忘れることはできない。この両氏がいなかったらあの改革は断行できなかった、といまでも思う。
両氏の協力を得てまず二つの地区を選定し、この地区民により生産されたものをモデルケースとして競争入札に付した。結果は従来の三倍の値段で取引された。次の年には新たに五地区の組合員が参加してくれた。
三年目の通常総会で満場一致で入札制度が承認せられ、今では完全に定着している。」
仁淀川のアオノリ
アオノリが仁淀川ではどのように扱われていたか、弥太さんの話を聞こう。
「冬になると河口にアオノリが生えるのは知っちょった。それを採って売るというものがおるということも見ちょったがね。しかし、自分でノリを採って売るということは、漁師を始めてこのかたやってみたこともなかった。」
去年の冬(注:1998年?)「『商売になるかよ』と声をかけたら、『なるぜよ。こうしてきれいに洗って風に干すだけで、すぐに商品になるじゃき。市場に出せばなかなかの高級品ぞ。宮崎、お前もやってみい、やり方はわしが全部おしえちゃる』というので、どんなものかと思うて教わったのがやり始めよ。」
「わしが仕事にしだしてまだ2年目じゃが、去年1年観察したところでは、このアオノリというのはなかなか気のむつかしい生き物じゃのう。」
「ともかく、漁師はいろんな生き物の習性と絡みを知ることが第一。それさえわかったら強い。あとはココ(頭)の使いようだけよね。」といわれるだけあって、わずか1年で観察された事柄は素晴らしい内容であると思う。
@ 「まず、西風が吹き出さんといかん。つまり水温よね。水が冷とうにならんことには生長せんということじゃ。川底に見えはじめるのは12月の中旬すぎで、初めはシュロ箒の毛ぐらいの短いもんじゃわね。」
A 「それがだんだん女の髪の毛のように伸びてくる。採れるぐらいになるのは暮れ時分。最初は河口でも下の方。だんだんと上の方に着き出すと、まもなく河口全体が緑色に見えるほどふえるわね。」
B 春から秋には姿も形もない。ただの小砂利の河口よ。それが冬になると芝でも張ったような色になる。考えようによっては、たいへんなことぜ。川底全体にお金がひっついちゅうようなものよ(笑い)。ツガニやウナギを獲るより簡単で確実。なぜこのことに早う気がつかんかったんじゃろうと思うわ。
C 「条件のよいときじゃったら、アオノリは1日で1尺(30cm)ばあ伸びるというのう。実際一度採っても2日ほどたてば、また同じほどに伸びとる。タケノコ並のスピードじゃ。最盛期には、アオノリどうしがぬんじょって(絡みあって)縄のように上がってくるがじゃき。」
D 「敏感なのは塩分濃度よ。河口一面に生えるといっても、そうじゃねえ、距離にしたら2kmばあの間じゃろう。そこから上は生えんき。雨の影響も受けやすいわね。四国でも山の奥のほうにいくと雪が積んじょるわ。春になって降る雪が雨に変わり、積んだ雪を解かすようになって川に水が増えると、アオノリはおしまいじゃ。消えてしまう。」
E 大潮も影響するわね。海水が押してくると海の端のノリから先に傷む。白茶けてじきにぶよぶよに腐ってしまうわ。わしは塩分濃度のせいかと思うとったが、最近聞いた話では、胞子ができるらしいわね。顕微鏡をのぞくと白髪のノリには胞子ができちょって、これが大潮を利用して拡散するということじゃ。」
F 「水温の低いうちは潮が変わるとまた生えてきよるが、雨水が入ったり水がぬるんでくるとまた枯れて、そのうち時期が終わってしまうわね。」
という生態を観察されている。
ただ、ダムがあちこちにあることから、雪解け水の影響も直接的ではないと思うが。影響が及ぶまでに時間がかかるということでよいのかなあ。
次に良質のアオノリの収穫について、
@ 「アオノリ採りで大切なことは、まず品質じゃ。伸びたアオノリは、しばらくたつと老化して白髪になりよる。人間が年いくと白髪になるように、青い筋の中に白い筋が混じる。そうなると等級が下がってしまう。」
A 値がよいのは白髪が1本もないシーズン初めよね。そういう状態のよいときのアオノリは、食べ比べてみるとようわかるが、香りも味も全然違う。白髪は気を付けて取り除くようにしとるが、残ったものも色は青いが最高時期をすぎとるき、値もそれなりになってしまうわね。」
B 若いか年をとったかは、生えとる時期や場所でも違う。採るときは、なるべく質のよいノリが生えとるところを探すことじゃ。足元に質のよいものがどっさり生えとることもあるし、時期が過ぎたり取り尽くされると、少し深いところへ行って船の上から採らんならん。ただ、あまり深い場所には、光の加減か水温の加減か、アオノリは生えんわね。」
製品化
@ 「大事なのは振り洗いをしながら引き揚げるということ。アオノリは石の表面にくらいついて、それを足がかりに生長するがじゃきにね。そのまま引っ張り上げたら小砂利やら石も上がってきよる。ある程度振り落としておかんと、あとがめんどい。それと、振り洗いをすることで、古いアオノリと若いアオノリをある程度ふるい分けることができる。若いアオノリは手に残るが、古いアオノリはちぎれて落ちるき。」
A 「集めたアオノリは、大きなカゴに入れて棒でかき混ぜるように川の中で洗う。砂が入ったり泥をかぶっとるでね。かき混ぜると泡がたくさん出てきよるが、これは酸素の泡よ。あれらは光合成をして酸素を出しながら伸びるがじゃき。この泡の膜が、鍋のアクのように汚れをようひっつけてくれる。泡がでんようになるまでかき混ぜれば、汚れはきれいに落ちる。」
B 「洗ったアオノリは、ひとつかみほどに分けながら棹にかけ、しばらく水切をする。それから小屋に運び、一晩おいてもう少し水を切ってやる。
C 「水を切ったアオノリは、柱と柱に張った紐の上にかけて広げる。風のある日なら小半日もすればカラカラに乾きよるわね。」
D 「これが午前中から干したもんじゃが、色が違うろう。濡れておるときは黒っぽいが、乾燥すると鮮やかな緑色になる。」
E 「食べても全然違う。香ばしいじゃろう。この風味は乾燥せんと出んのよね。生のアオノリを口に入れても、もぞもぞするだけでさほどうまいもんではないが、ぱりぱりになると、まっことよい匂いがする。」
F 「ほんのり塩味もするろう。この塩味がアオノリでは大事なところよ。自然の塩分がアオノリの味を引き立てる。下流まできれいな仁淀川じゃき、それができる。川自体が汚かったら、持って帰って真水で洗わんと食われんが、そんなふうに塩気を抜いたアオノリは、ちっともうもうないわ。
潮回りによっては、干したノリの塩見が強すぎることもあるわね。そんなときは干す前に、船で少し上流の水を汲んできて洗う。こうすればほどよい加減になるろう。
アオノリが河口で採れていたとは知らなかった。
明石のお好み焼きと、関東のお好み焼きには違いがある。お好み焼きをたたいて焼く、アオノリの入れ物がテーブルに並べられてなく、店の人がのせるだけ、という関東のお好み焼き、そして、高い。
アオノリをたっぷりかけ、さらに、鰹節?の粉もいっぱい振りかけて、自分で焼く方が好き。
そのアオノリが、高いものであるとは知らなかった。
「そうそう、うちの雑貨屋ではたこ焼きも売っとるが、これに使うアオノリは全部自分が採って干した新物ぜよ。おそらく、たこ焼きの本場の大阪でも味わえん贅沢じゃ(笑)」
新物とそうでない物は何が違うかなあ。香りかなあ。
08年7月の大井川に青ノロがいっぱい繁茂していたが、青ノロとアオノリはどのような関係にあるのかなあ。青ノロも石に根を張っている、成長も早い。青ノロを干したら食べることができるのかなあ。09年の大井川に青ノロが繁茂していたら、塩水につけてから、川原の石で干して食べてみようかなあ。
胞子が飛んでも、育つための環境がないとだめ、とのことであるが、その条件である水温、塩分濃度等を欠くとき、胞子はどのようにして、水温が下がる時機到来を待っているのかなあ。
「まず、西風が吹き出さんといかん。つまり水温よね。」という条件がアオノリの生長に必要とのことであるが、「西風が吹く」とは、鮎が産卵に関わる行動=下り等を開始する動機づけでもある。
それほど「西風が吹く」という現象は、生物の行動等を規定している重要な自然現象かも。
季節の変わり目は、あなたの心をしるなんてえ、あるいは、ねえちゃんとの別れ、変心を知る指標だけではないかも。あゆみちゃんにとっても恋の季節の始まりとなる指標であり、湖産、海産、さらには人工で異なる、ということが、学者先生で常識化することがあるのかなあ。
アオサ(ヒトエグサ)の養殖 |
山崎さんは、アオサの養殖には昭和二十三年に手をつけられた。
「最初の五年間は値段の良いクロノリの養殖もあわせて試験することにしたが、この方は見事に失敗した。」
「アオサの方は試験場の指導を受ける傍ら、先進地の視察などを繰り返していて、いよいよ自信を深めていたので、クロノリの失敗には屈しなかった。昭和二十三年には当時の先進地である広島県の大竹町に出かけて視察した。」
「米のない頃なのでそれぞれ一人が五升くらいあて携えての旅であった。食べ物も乗り物も不自由なときで、それは苦しい旅であった。通りがかりに見た広島の市街が、まだ復興の緒にもついていない頃の話である。」
「ノリ養殖の技術も今から考えると幼稚なものでひび(注:漢字で書かれているが、表示できないため、仮名だけにします)は全部竹の枝で、今のようなネット養殖はどこも取り入れられていなかった。」
「こんな具合に当時の指導者がいろいろ苦心しているうちに、お隣の愛媛県御荘町の漁業協同組合がアオサ養殖をやっているのを偶然見かける機会に恵まれた。」
「そのとき、同漁協ではすでにコイルヤーンという椰子の繊維で編んだ網ひび(注:漢字で表記されている)を使用することに成功していた。」
同漁協から「よく種のついた網五十枚を分譲してもらい、持ち帰って河口に近い初崎の竜宮礁の上手に張り込んだ。
テストの結果は上々であった。気をよくしてその年の総会にアオサ養殖のことを諮ったが、誰も乗り気になってくれる者がない。」
昭和二十三年から何年後か、わからないが、ノリ養殖の必要性を痛感されていた山崎さんは伊勢湾漁連専務浜川氏を紹介される。
「当時三重県はアオサ養殖の先進地で、その生産額は全国第一位であった。
したがって、利用され得る漁場はことごとく利用し尽くして、県外の好漁場を物色中であった。」「向こう三年間漁場の一部を伊勢湾漁連に貸与し、その見返りとして技術指導を受けることに決まった。
この漁場の川底は泥で、そのままでは天然のアオノリもアオサも生産されることは少なく、この未利用の漁場を貸すことにより、先進地の栽培の実態をこちらの組合員にまのあたり見せようと決意したのである。」
「すべては順調に進み三千枚の養殖網は見はるかす限り漁場いっぱいに張りめぐらされ、処女漁場ということも手伝ってアオサの生長はめざましく、移植後一ヶ月も経つと水面は満目緑一色になった。
当時この漁場の貸借についてはいろいろ問題もあったので、あくまで共同経営の立場を堅持して、資本と技術の提供を受けてもそれに要する労力の全部は当方負担ということで、先方からは指導責任者一人が常駐することに決まった。」
「こうして毎日のように、大量のアオサが水揚げされるようになると、はやくも一部組合員はおさまらなくなった。『組合執行部は漁場を売った』とか、あるいは『多額の賄賂が動いている』とかの流言も飛び出した。」
「まのあたりにアオサ養殖の実態を見せつけられた漁民に『こんなに簡単に栽培できて、収益のあるものなら自分の手で栽培してみたい』という欲が芽生え始めたのである。
これは思う壺であり、始めから意図したことでもあった。」
しかし、欲望には限りがない。
「翌年の組合通常総会では、伊勢湾追い出しの強硬論者も出てきて、三年の契約であったのが二年に短縮された。伊勢湾漁連には若干の赤字を抱えながら、退陣していただくことになったのは、実に気の毒な結末であった。」
「その後は養殖を希望する組合員も多くなる一方なので、一人当たりの栽培枚数の制限などもしながら漁場の開発・拡張にも努力した。」
「昭和五十六年現在では栽培組合員は五十世帯を越え、その総生産高は約一万キロ、金額にして一千八百四十七万円となっている。」
「金額がアオノリに比較して低いのは、最近の米食離れにより、海苔佃煮の売れ行きが不振となり、キロ当たり単価が安くなったのが原因と考えられる。」
「アオサの用途はアオノリと比べると単一で、全部ノリ佃煮の原料である。
ひと頃はすし用としての青板ノリも作られ、アサクサノリなどと混ぜて二色ノリも作られたが、今では殆ど見ることはできない。
佃煮の原材料となるアオサは、醤油に砂糖と化学調味料を加えたタレの中で、もどされ煮込まれて、さらにカラメルによって着色され、瓶詰めなどにして市販される。
銘柄は製造元であるメーカーにより多種多様であり、乾燥椎茸を加えたもの、香辛料をきかせたもの等もあるが、味は似たりよったりであることを付け加えておく。」
海苔の佃煮は、湿気たクロノリを煮て佃煮にしていたから、海のノリが原料と思っていた。
尾道で昭和20年8月15日を迎えられた山崎さんは、その翌朝、住職から借りた黒染めの衣一着と網代笠などひと揃いの僧衣に着替えて、無断で部隊を離れた。
「食料は物々交換が主だった。近くの入野の浜で塩を焼く人がふえた。塩一升と米一合が交換された。甘味品も乏しく、甘藷で飴を製造すると飛ぶように売れた。」
昭和21年には南海大地震があり、
「私の両親や妹達夫婦は住む家がない。」
「幸い父は大工であったから、壊れた家の中から使えるものを取りだして、雨露をしのぐだけのものを造った。」
「国民の生活も少しずつではあるが好転しだした。金さえ出せば闇米も買えるようになった。川漁師の仕事も順調に伸びていった。戦時中の人手不足と空襲などによる出漁停止で、魚類はいやがうえにもふえていた。
コロバシ(餌筒)の百個も仕掛けると、一晩で二貫や三貫のウナギは獲れた。」
「アユの火光利用建網の許可も受けた。国の経済の高度成長に伴って私もトントン拍子であった。」
「ひと頃は麦の肥料にするほど獲れたツガニ(モクズガニ)を活きたまま大阪に送ることに成功し、面白いように金がとれた。
アユもウナギもいくらでも獲れた。それやこれやでその頃まだ珍しかった家の新築が、一銭の借金もせずに完工することができたのである。」
その状態が昭和40年代以降も続いておれば、めでたし、めでたし、となるのであるが。
四万十川の環境変化 |
山崎さんは、四万十川の環境変化について
「〜私がこの仕事を始めた頃には人間の手は殆ど加えられていなかった。堤防らしい堤防さえ少なかった。藩政時代に造られた水刎(みずばね)が処々にあるだけであった。それは千古斧鉞(ふえつ)を入れない深山幽谷と同じようにまったく神々しいほどの自然であった。
氾濫する洪水がいきなり人家や耕地を侵すことのないように、両岸には竹藪や松や杉の並木が茂っていた。榎(えのき)や椋(むく)の大木が至るところにあって川の上まで枝を張っていた。」
「柳も川岸一帯に茂り、五位鷺の巣があちこちの枝にかけられて、不心得な人間の子供達がその青いきれいな卵をとったこともあった。」
「その鬱蒼(うっそう)たる防水林はそのまま魚付保安林の役目も果たしていた。茂った木陰を求めていろいろな魚が集まるのである。まずエビや小魚が陽の光の届かない木陰に寄ってくる。次にはそれらをエサとするチヌやスズキが集まってくる。寒い冬は別として春先から秋にかけて、それぞれの獲物を求めて終日川で過ごす人も多かった。」
行き交う高瀬舟。高瀬舟にはセンバとセンビがあり「朝靄(あさもや)の中を櫓(ろ)の音だけが聞こえてくる風情も懐かしいが、霧の晴れた朝、舟の中で若い舟頭の妻が朝餉(あさげ)の煙をなびかせながら流してくるさまなどは今でも忘れることができない。
それもこれも昔語りとなってしまった。」
雨村翁は、昭和16年、「窪川からは森林鉄道の便をかりた。半時間そこそこでもう終点田野々につく。四万十川は目の前にある。揚子江の流れを初めて見た人達はなんと形容しているだろう。吉野川や仁淀川を相当の大河として見なれていた目には、まさしく想像を絶した大河であった。川幅は二百メートルからあろう。それが川岸いっぱいの漫漫たる水量をたたえて、悠然と流れている。案内知った土地の漁師ならいざ知らず、よそものが竿など出すべき川ではない。」
(森下雨村「猿猴川に死す」平凡社ライブラリー)
二百メートルもの漫漫たる流れを形成していた場所について、「やっと四万十川の中流、小奈路の宿に下りたった。中流とはいっても、河口からざっと四十里、人里離れた渓谷、大鮎は淵に瀬に、―と大きな夢を見てきたのに、なんと目の前に横たわる四万十川は川幅二百メートルの洋々の流れ、大河の様相、手も足も出せたものではないのである。」
(森下雨村「釣りは天国」小学館文庫)
「それからは陸地測量部の五万分の一の地図をたよりに、あたりの風景をめでながら、上流へ上流へと二日にわたる釣りハイキングである。」
「二日目は鯉のたまり場、上り鮎の難所で、遡上期には滝上りの鮎を、こっちも命がけで一日何貫もすくい上げるという『とどろの滝』の景観に驚異の目を見はり、やっと北川の支流にたどりついた。急に胸はおどる。五十匁の四万十川の大鮎は、その北川が本場だと、釣り好きらしい昨夜の宿の主人から聞かされていたからである。ところがいざ足を踏み入れてい見ると、千古斧鉞の、昼なお暗い官有林をぬって流れる滝また滝の渓谷。いかさま大鮎の本場とはうけとれるものの、うっかり近づけそうにもない深い渓間だ。指をくわえて、滝と滝の連接する足下の渓流に見とれつつ、苔のむした狭い林道を歩いていると、そのうちに流れはいくらかゆるくなって、足場にふさわしい、それも垢をはむ大鮎の群れていそうな転石や岩盤が、一面にちらかった長い瀬が見え出した。その瀬音が、いかにも遠来の客、ようこそと耳にひびく。」
(「釣りは天国」)
雨村翁が行かれた窪川上流とは、前さんのお友達が行かれた鮎のいなくなった大正町よりも上流のよう。大正町と窪川町間の川の名称は山崎さんの本の地図では「仁井田川」、窪川から上流は「松葉川」となっている。そして、大野見村がある。
このような位置関係はわかるものの、「河口からざっと四十里」というと、天竜川では天竜峡か佐久間ダム、大井川では川根本町近くということであろうか。川幅が二百メートルある、ということは今でも知見できるが、そこに水が洋々と流れている、とは豪雨の一時期しか見ることはできない。
注:なお、四万十川の位置関係はよくわからない。後述の野村さんの語る四万十川でやっと見当がついた状態である。
そのような四万十川。大井川や天竜川よりもダムの影響が少ない四万十川であるが、現在はどの程度の水量になっているのであろうか。官有林は保水力を保持しているのであろうか。
家地川ダムで、四万十川の水が他に流され、四万十川には帰ってこないとのことであるが、その家地川ダムはどこかなあ。もっとも、「ダム」には堰堤の高さにかかる規定があり、その高さ以下であるから、「ダム」ではないとのことでもあるが。かって、大井川の一部を水無川にした塩郷ダムと同様とのイメージで考え得るが、どのような状況になったかなあ。
山崎さんが鰻とアオノリで、新米漁師を継続できた四万十川の変貌について
「地域開発という美名のもとに始められた改修工事は、河口近くの両岸の林を跡形もなく切り取り、代わりに大きな堤防がえんえんと連なるようになった。寒々とした風景に加えて、年に二回、堤防も高水敷もきれいに草を払うので、魚たちの上に影を落としてやるようなものは何一つなくなった。
その上、堤防や護岸はコンクリートブロックで固めてしまうので、この川自体が、一本の大きなコンクリートの樋のようになってしまった。
魚たちもどんなにか棲みづらいことであろう。
五十年の歳月はこの川の様相をこんなにまで変えてしまった。」
仁淀川の変貌 |
弥太さんは、「何年も船に乗っておると、川の様子の変わりようが細かにわかる。昔は岩や瀬、淵ごとにみな名前がついて地名のような役をしとった。たとえば長瀬という大きな瀬があったが、いつの間にか埋まってのうなった。長瀬のところというても、若い者は見当もつかん。鍋ヶ渕という鍋のようにまん丸な淵も河原になっちゅう。あこは昭和30年ごろに堤防を築いて川の流れを変えたら、あっという間に消えた。
思えばそのころからじゃねえ、川の様子がうんと変わりだしたのは。昔も大雨が降ると、ウナギの箱をつけっちょった淵がすっかり河原になってしまうようなことはあった。そうこうするうちにまた大雨が降る。そんなときは、昔の年寄りはこういうたわね。『今度は元に戻るぞ』と。
水が引いたら、たしかにまた箱の付け場になるような淵に戻っちょる。昔は川自体が復元力を持っとった。それが少しずつ狂いだしたのは戦争のあたりからよ。わしの家がある場所は越知の中心地より少し下がったところで、もともと浸水の常習地帯じゃったが、戦時中、1年に6回も水が入る異常な年があった。
お国のために船を作るというて、山に自然に生えておった太い木を片っ端から切った。それで山で土砂崩れが起きて河床が高うなり、ここらが水のあふれ場になってしもうた。
山はスポンジじゃ、木は天然のダムじゃ、だから大事にせんといかんという理屈が、わしら田舎のものの間にも浸透しだしたのはこの5年ばあのことじゃが、経験的な感覚としてはみな昔から知っておったことよ。」
「この30年あまり、水害自体は確実に減ったと思う。
もちろんダムの影響も大きい。最初に越知第三発電所ができた。そのまた奥に大渡(おおど)ダムができておおかた15年ばあになる。今も仁淀川はええ川じゃといわれるし、わしらも誇りには思うておるが、ダムのない時代の仁淀川のすばらしさというたら、今とは比較にならんぜ。」
「工事で川が濁りだしてからことに気づいて、支流の桐見川にダムができたときには、アユの味がだめになったとみんながいいよったが、まあ後の祭りじゃわね。ダムで水を止める。川底を掘って砂利を取り、流れをいじる。たしかに水害は減ったが、魚と漁にとってえいことは少しもなかった。」
仁淀川には、「仁淀川―その自然と魚たち ―開発の中に生きるようす―」(伊藤猛夫編「西日本科学技術研究所」)が発行されているから、弥太さんが語られている場所を少しはイメージできる。
「越知第三発電所」とは越知の10キロほど上流の仁淀川本流にできた筏津ダム、「大渡ダム」は筏津ダム上流20キロほどの仁淀川本流のダム、「桐見川にダム」とは、越知で流れ込む坂折川にできた「桐見ダム」ではないのかなあ。桐見ダムは、仁淀川との合流点から5キロほど上流である。
弥太さんがウナギの味の項で、「ウナギの味ちゅうのは、棲む場所にも左右されるぞね。たとえば仁淀川には柳瀬川と坂折川という支流がある。柳瀬川はまわりが田んぼで、泥の多い濁り加減の川じゃ。もう一つの坂折川は、きれいな石ばかりの清流よ。」
「アユの場合、食うてうまいのはだんぜん水の澄んだ坂折よ。」
と、坂折りの水、石、アユの味について書かれている。ウナギとは逆で、アユの味に関しては、柳瀬川よりも坂折川の方がよい。
その坂折川の5キロほど上流にダムができたらどうなるか。中津川に宮が瀬ダムができて、珪藻が優占種ではなくなった、あるいは、藍藻と同じ水質でも棲息できる種類の珪藻だけになり、他の種別の珪藻は消えた、ということになろう。
仁淀川本流にダムができて、その水が悪くなっても、良質な珪藻も、アユも、漁師も好む坂折川の水が入り、本流の水の味も良質に保持されていたのが、坂折川のダムで、BOD,CODレベルでは変化がないとしても、「金の苔」を育てる水ではなくなり、桐見ダムができて、アユの味が悪くなった、ということではないのかなあ。
古座川の鮎の味がダムができてから、悪くなり、支流の小川だけが古の味を守っている、と前さんは書かれていたが、今も同じであろうか。
大井川に長島ダムができて、あゆみちゃんの香りと衣装に変化を生じたことは、井川ダム下流で、本流に流れ込んでいた支流の水が長島ダムができて、少なくなり、ダムの死に水、溜まり水が流れているからではないかなあ。
長島ダムの下流で大井川に流れ込んでいる寸又川のダムがなくなったら、少しは、珪藻の質、あるいは種類があゆみちゃんの香りと衣装を古にもどしてくれるのかなあ。
「今、外見的には仁淀川の水は澄んでおるが、越知たたりの水は、いうたら死に水じゃけえね。ダムで淀んだ質の悪い水が順々に送られてきとる。ダムの終わったところで谷水と合流したり伏流水になって、いくらか生き返っとるという程度じゃ。
昔は源流からの生きた水がそのまま流れきとって、サイ(水苔 こけ)の質もうんとよかった。伏流の水も今よかしっかりあったきねえ。
せっかく回復した水も、井野あたりにいくとまたやられてしまう。あそこらは昔から製紙が盛んで、これもなかなか頭の痛い問題よ。排水対策はしとるということになっとるらしいが、漁をしていると、細い支流から本流に、白いもやっとしたもんが流れ出てそこにたまっとるのが見える。紙の繊維屑よ。ヘドロというほどではないが、水にとっても魚にとってもえいことはないわね。」
「仁淀川―その自然と魚たち―」に、条件を異にする仁淀川の地点ごとの栄養塩の種類ごとの含有量、あるいは、DODとか、SS(浮遊微粒子)の調査も掲載されているが、オラには評価すべき基礎がないから、引用しないこととする。
再び四万十川の環境変化 |
野村春松「四万十 川がたり」(聞き手:蟹江節子 「山と渓谷社」)
野村さんは、山仕事が主で、漁師をされていたが、販売目的ではなかったようである。そして、山崎さんや田辺翁が漁場とされていた下流域ではなく、中流域の「西土佐村口屋内で生まれ、「退職後は口屋内に戻り、川暮らしを続けている。『四万十川の自然を守る会』、『僻村塾』の最高齢メンバーとして、自然の川の復活を願って活躍中。」
「四万十川がたり」に書かれている地図を見ると、雨村翁が四万十川を歩かれたときの下車駅である窪川の下流、家地ダムの下流、前さんのお友達が通われていた大正村の下流に西土佐村は位置している。
@ 川の自浄作用
「じつは、この自然の川の自浄作用を昔のひとはちゃんと真似しよったんよ。
昔は、山から引いた水を使うたら土の中に流しよった。排水が手前の土で漉されてから、川へ流れ込むようにしちょったんやねえ。
そのころは『水を借りて、使わせてもろうちょる』という意識がみんなのなかにあったからじゃろう。そやけん、ちゃんときれいにして川に返さんといかん、というふうに思うちょった。そんで、こんなふうにしよったわけなんよ。
昔は、川岸の外側にはかならず谷があって河畔林もあった。うちで使うた水は谷の土を通ったあとに、木の根のからんだ林を通るけんねえ。この林は大水が出たときは逆に、こっちに土砂が流れんように堰き止めてもくれるし。まっことありがたいもんよ。」
ということで、自然浸透での浄化の効果を述べれれている。そして、土中におけるバクテリアの働きも語られている。
「それがコンクリートの排水路ができて、うちで使うた水が直接、川へ行くことになったじゃろ。川が汚れてきたんは生活排水も原因じゃというけんど、それより排水の仕方が問題や思うわ。
あんまりなんでも早うなるようにしたらいかんということよね。」
「四万十川は水量も昔よりはだいぶ減ったわなあ。
水が少ないということは、バラスにヨセ(ヨシ)が増えたことでもわかるんよ。昔はこのヨセがバラスにはほとんどなかった。なぜかいうたら、しょっちゅう水かさが増えるけん、バラスは水に浸かっちょる時間がいまよりずっと長い。水の中やとヨセは生えんのじゃけんねえ。」
中津川も水辺までアシが生えるようになった。宮が瀬ダムがなかった頃、桜並木下流の大石ごろごろのところは、河原を歩けた。いまは草むらを歩くしかない。まむしが怖い。
壊れ橋付近も同じ。ダムによる掃流力不足と思っていたが、ダムができて、あるいは地下水が減って、川が排水路のようになり、すぐに水が引くから、ということのよう。
建設省は、できるだけ速やかに雨水を海に流すことを目的として、河川管理を行っているようであるから、その目的は達成されいるということであろう。
しかし、その結果が失ったものには目を向けることはない。否、失ったものがある、という認識すらないのではないかなあ。
その結果は、08年、07年の馬渡橋下流、仙台堰下流の中州の砂礫の撤去であり、中州の樹木の伐採である。
「瀬も昔ほどきつうなくなったねえ。
早瀬が早うなくなるとどうなると思う。
水は早う流れるとその中にようけ酸素を取り込むんよ。それが流れが遅うなると、当然、酸素はあんまり水の中に入らんようになる。ただ、下へ水だけが流れるだけよね。
川の中の酸素が少なくなると、魚も困るけんど、バクテリアも困るということになるんよ。酸素がないと、有機物を無機物に分解してくれるバクテリアの働きも活発ではのうなる。」
「昔は『いらんもんはなんでも川に流したらええ』という考えがあって、ようなんでも川に捨てるということもあった。使うた水はきれいにして返さんといかんのに変な話やと思うけんど、まっことみなで、なんでも川に捨てよったんよ。
夫婦げんかなんかしよったら、癇癪起こして、つれあいのもんをなんでもかんでも川へ落としたひともおったわねえ。そんでも昔のほうが川がきれいかったんは、川の中に酸素がようけ含まれちょったからじゃじゃろう。バクテリアがなんでも分解しよって、川の自浄作用がものすごう強かったからじゃと思うわ。
こういう川の本来持っちょる力をこわしたらいかんねえ。
長良川にはごっつい堰ができたけんど、あこ(あそこ)から先は魚がのぼれんだけやない。用水路みたいになっちょるから、当然、川の力はないわな。早瀬なんてありゃせんじゃろ。」
夫婦げんかのとばっちりまでも、川の自浄作用で片付けられるとは思えないが、石油化学製品がなかったから、バクテリアが分解できたということか。そして、量も、年がら年中、夫婦げんかのとばっちりを川が受けていたのでもなかろうから、いまよりもはるかに少ないゴミであろう。
A 不健全な川とのつきあい
「まあ、まっことゴミは、ためよったら最後まで始末に悪い。もともと自浄作用のある健康な川をひとの勝手で、不健康にしたらいかんわ。
そんでも最近、ちゃんと自然をみるひとがいよって、排水設備は見直されちょる。
天然のろ過機能と同じようなもんを排水溝の終点につくっちょるらしい。四万十川方式いう名前みたいじゃけんど、なんとか自然に近いもんができたらええと思っちょるんよ。
川も生きてるもんじゃと思うて扱わないかん。若くて健康なら、多少の無理はしても病気にもかからんけど、弱い身体になっちょったら元気が出るようにしてやらんと。
かといって、予防やいうて、骨も折れちょらんのにギブスをはめたりしよったら、動けんじゃろ。コンクリートでびっしり固めたら動けんわね。しまいに寝たきりになってしもて、いよいよ体力は回復せん。永久に起きられん、いうことになってしまうということじゃろうと思うわねえ。」
九州の人が、洪水で浸水すると、こっちの新聞等は大騒ぎをしているが、当事者はそれへの対応を行っているから、年中行事のようなもの、と話されていたことがあった。家を流される、という事態ではなく、床上浸水くらいは、自然現象の範疇、ということであろうか。
狩野川も、修善寺橋が流木でダムを形成し、滞留した水勢に橋が耐えかねて倒壊し、多数の死者を出した狩野川台風の時の水害は別にして、年中行事としての溢水はあった、と、故松沢さんも話されていた。それをコンクリートで溢水を防ぐようにしたことも河床に砂礫が堆積するようになった原因のひとつではないか、といわれていた。
B 「ええ川のもとはええ山や」
「なんでも、人が住む以前、四万十川の流域はシイやカシ、タブノキなんかが威勢よく張り出した、昼なお暗い鬱蒼とした深い森じゃったと聞いたわ。常緑の広葉樹の森よねえ。そんな森がようけあって、明治の頃までは残っちょったそうよ。」
「山いうたらここいらは昔から『幡多ヒノキ』ちゅうてヒノキの産地じゃんけん。それにええマツやモミ、ツガなんかもようけ採れよった。それで私も戦後、ここに戻ってきたときは黒尊の山林へ伐採作業の手伝いに行きよったんよ。」
「黒尊にはええ天然林がありよったなあ。
ヒノキやスギの針葉樹だけやのうて、いろんな広葉樹が混ざっちょる。みな伐採されたり、炭にしよっていまはほとんどないけんど、シイノキなんかとくにたくさんありよったなあ。シイは根本にようけ水を溜めちょるけん、ええ木よねえ。
あんまりええ森やけん、立派な木と木の間にもカシの木なんかがようけ生えちょってねえ。大きな木を伐ったらばれるけんど、間の小さな木はときどき伐っても、そうそう気づかれんじゃろ。黒尊に営林省の営業所が置かれたんは大正時代の初めじゃけんど、伐採が始まる前から、裏からそうっと登ってきよって、炭にしよるもんもいたそうよ。
裏とは宇和島のほうよね。愛媛のひとはまっこと賢いけんねえ。こういうカシをよう盗み焼きして、炭にして持って帰っちょったそうよ。それほど黒尊の上にはええ森があったということじゃねえ。」
「雨は木をつとうてちゃんと地中に入っていくわ。それで根本やら土やらの間を抜けていきよる。これも天然のろ過装置というもんじゃろね。木の生えた山には、水を溜めちょく力があるけんね。降った雨が山の土にしみこむ。そうしよったら、それからだいぶたってから、きれいな水になって出てきよるんよ。
山でろ過された水がどこにでよるかいうたら、四万十川の中やな。川底のあっちこっちから、山の伏流水が湧き出ちょる。こんなふうに山が、汚れた川の水を薄めよるけん、下でもきれいな流れやったということもあると思うわ。」
四万十川の水量が減ったのは、川底がシルト層になっただけではなく、山が保水力を失い、また、川が排水路となったことが作用しているのであろう。
とはいえ、「蛇行を繰り返すうちに水は浄化され川はよみがえる。流程196キロを誇る四万十川だが、源流から河口までの直線距離は56キロにすぎない。」
というほど、蛇行をしているから、浄化もされているということであろう。それに生活排水の流入も少ない。
「大戦の時でも、中村は爆撃を受けて結構、被害におうたけんど、四万十川の流域は爆弾落とされたということがなかった。おそらく、空から眺めたら、山の緑だけしか見えんかったんじゃろう。こんな山奥に人が住んでるもんかよ、と思われたかもしれん。」
「ええ川のもとはええ山よ」との野村さんの言葉は、故松沢さんがいつも言われていた「金の苔」を育む川に必要な条件である、といえよう。狩野川の荒廃がいつ頃から始まったのであろうか。
故松沢さんが、狩野川であゆみちゃんを売って、食を得る女衒家業から、囮を売るように転業した頃であろうか。そして、その頃から、狩野川の水量が減っていったのであろうか。
こういう四万十川であるから、藍藻が優占種、と書かれた本の記述に出合ったときも、それほど富栄養化しているのかなあ、と思っただけ。前さんのお友達が四万十川は仁淀川よりも汚れている、といわれた、とのことであるから。
ところが、その本には、相模川が珪藻が優占種との調査結果も掲載されているからびっくらこいた。
その本は、伊藤猛夫編「四万十川〈しぜん・いきももの〉」(高知市民図書館発行)
ということで、四万十川のアユでも、アカでも、オラのおつむでは理解できないことが次次と出てくる。
四万十川は鬼門じゃ。
四万十川の鮎 |
1 山崎さんの職場では |
やっと、鮎にたどりついたが、山崎さんが残された川漁師物語は、もっと丁寧に読まねばならないとは思っている。
とはいえ、完璧を求めることはオラの趣味に合わないから、とうことは、その筋の能力がないから、鮎に移ることとする。
最初に鮎を対象としなかったのは、とんでもない現象が書かれているから。
鮎漁への参入
「それというのもわたしの家の地先は四万十川のうちでも、もともと海水の影響の強い、いわゆる汽水域で常時アユの棲めるようなところではない。少し上流に行けば初夏から晩秋にかけて鮎漁も行われていたが、まだ機動力のない頃で、自動車もなく、まして船外機などというものは見たこともない時代であったから、私の可能な行動半径では到底手の届かない距離であった。」
「友釣り(オトリガケ)をやろうにも近くには適当な流れもない。シャビキ、ヨコガケなどと呼ばれる比較的資本のかからない漁法もあるが、これも漁場の遠いことと、その上これは熟練したプロの漁師のすることで、かけだしの私など思いもかけない漁法であった。
また赤貧洗うような家計の中では、高度の技術を会得するまで食いつないでゆけるような余裕はとてもなかったのである。したがってアユは値段もよく、喉から手が出るような魚ではあったが、当時の私にとってはかなり縁遠いものであった。」
鮎を保存食の対象とされていなかった雄物川さんも、瀬付きのハヤであれば、高級ではない網で獲れたから、といわれていたことに通じる話と思っている。
故松沢さんが、すんなりと、あゆみちゃんを売って生業にすることができたのも、すでに相当の技を身につけられていたからでは、と想像している。山崎さんの「高度の技術を会得するまで」に、時間を要する必要がないほどであったからでは、と思っている。
山崎さんが鮎漁師の仲間入りができたのは、「忘れもしない昭和十二年八月、日中戦争に召集され、中支から北支にかけて転戦し満二年余りを大陸で暮らした。その時の兵隊の給料が月八円八十銭であったが、貧しい両親のことや二人の子供を抱えて苦労しておる妻のことなどを考えて慰安所通いもせず、せっせと野戦郵便局に預けた金が六十円余りになっていた。復員後その金をもとにしてアユ地曳き網一統とその操業許可を手に入れた。
これが今までの零細なウナギの原始的漁業からはい出して、いくらか近代的な網漁業者へと転向させてくれた一つの動機であった。
それからは各種の刺し網なども自分なりに工夫創案して製作し、それなりに漁獲ものびて、ひとかどの漁師として経済的にもどうにか安定し、好きな魚の研究や調査もできるだけの時間的なゆとりもでてきた。」
保存食
「氷もない。自動車もない。汽車もない。いくらアユがだぶついても、遠隔の大消費地に鮮魚のままで送れるような手段はなにもなかった。食べきれないアユを遠くの親類や縁者に送ってやるには塩漬けにするか、焼きアユにする以外に方法はなかった。塩漬けというのはアユと同量ほどの塩を使って樽に詰め込む方法で、焼きアユというのは遠火で焙ってから天火で乾かしたものである。」
焼きアユは、作り方の細部には違いはあるものの、瀧井さんも、弥太さんも、小西翁もつくられているが、塩アユは初出である。
なんで山崎さんは塩鮎を作られていたのかなあ。そして、どのように料理に使われていたのかなあ。塩抜きをしない調理をされていたのか、棒鱈のように水でもどしてから、調理に用いられていたのか。
塩煮
山崎さんは、「塩煮」についても書かれている。
「これはもっぱら産卵の終わった痩せたアユ(サビアユという)をおいしくいただく方法であるが、大鍋いっぱいに煮込むのはまた豪勢である。」
山崎さんは、「サビアユ」を産卵後のアユとされている。産卵後のアユに限定されているのか、それとも、黒くなったり、雌のように下腹に赤みを帯びた産卵前の性成熟が進んだアユも含まれているのであろうか。
オラは、産卵後のアユは「叩いたアユ」と、サビアユとは区別しているが。
これらの用語の使い分け、概念については、故松沢さんに訊ねることさえできたら、すぐに解決できる事柄であるのに。
乱獲の時代へ
「戦後になって漁業法が改正され、内水面(河川、湖沼)にも漁業権が免許されるようになり、雨後の筍のように漁業協同組合が誕生することになる。」
漁業共同組合設立の機運において
「大正町から下流河口に至るまでを区域として、針掛派は四万十川流域漁業協同組合と称し、他方魚族保護派は四万十川漁業協同組合として双方組合員の獲得に全力を挙げた。」
針掛派は、歯科医や元小学校長等の「遊漁的色彩が強く」、他方は「専業漁民の集団であった。」
その混乱は昭和29年までつづいたとのこと。そして、現在の「大正町から下流に四つの単協が組織される」こととなり、「四単協で四万十川漁業協同組合連合会を組織」されることとなった。
これに類する事は、事情を異にするものの相模川でも生じていたのではないかなあ。ましてや、津久井ダム補償の分配、処理のからむことが昭和30年代には発生していたから、利害対立はより先鋭になっていたのではないかなあ。
川辺川ダム建設に係る対立において、漁協組合員の大量入会の現象があったとのことであるが、あゆみちゃんにとっても、ウナギにとっても、自らの生存権、生活の向上とは無縁の、人間さんの世界の出来事ということではないのかなあ。それとも、その結果があゆみちゃんらの生活に大きく影響するようになるのかなあ。
乱獲の状況
「四万十川にも漁業権が免許され、漁業権者が認可したアユ漁業は、昭和五十六年九月現在でアユ地曳き網六件、アユ火光利用建て網四三五件、鮎瀬張り網四五件、アユ巻き刺し網三件である。実際には地曳き網は、半観光的に操業している一統のほかは、全部休業している。これは砂利の乱掘が地曳き網の漁場を奪ったことが主原因だが、操業に人手のかかる割に漁獲の少なくなったこともその要因の一つである。
地曳き網の単位漁獲高は、昭和三十年代までは、他の漁法を抜いていた。私の網もその頃には一網で二百キロも採ったこともあった。一網とは魚群を見つけて網を入れてから引きあげるまでの操作をいうので、この間約三,四十分かかる。」
「火光利用アユ建網というのが許可件数も一番多いが、密猟者もまたこの漁法に多い。遊漁者の使う類似の漁具は浮子側の長さ二十五メートル以下のなげ網と規制されているが、そんなことはどうでもよい。十一月の再解禁の夜など許可を受けた人の何倍もの無許可者で賑わうのである。
この漁法は厳密にいえば刺し網であるが、この地方では海でも川でも、刺し網を建て網と呼んでいる。北幡地方ではこれを火振り漁という。松の根株の樹脂の多い部分を手斧で細く割り、それを長い柄についた火籠に入れて燃やしながら、前後左右に打ち振り、魚を網においかけるのである。火の粉がよく飛び散るほど効果があるといわれた。
私がこの漁を始めた頃には、中流から下流方面ではもうアセチレンガスを使うようになっていた。」
「絹網の時代はおそらく数百年も続いたであろう。それが戦後、化学繊維の発達に伴って、漁網も急激に改善せられ、アミランからモノフィラメントへ移行し、今では百パーセントこれである。」
網の素材だけではない。網が手網であった頃と違い、「みな漁網会社から機械編みを購入して使用した。」
「沈子(イワ)や浮子(アパ)に使用するロープも腐植しないものが開発されて、いまでは網を干す手間は全然かからなくなった。」
「糸の太さは最近随分細くなって0.四号ぐらいを好んで使うようになった。
化繊の発達は月明かりの夜というに及ばず、昼間でも刺し網が使えるようになった。まだ絹糸を使っていた頃には刺し網は闇夜に限られた漁法であった。」
友釣りでも、金属糸ができ、一部の名人達が熟練と経験から身につけていた技と道具が、オラ達素人衆でもマネをできるようになり、ありがたいことである。
しかし、ヘボには気まぐれなあゆみちゃんをたぶらかす技は身につかない。
友釣りと違い、あゆみちゃんの心を問題にせず、意思を無視して、漁を行える網漁等の漁法で、産卵行動時の共住生活を行っているあゆみちゃんを大量捕獲をしていたら、あゆみちゃんは子孫を再生産できることが困難となることは自明のことであろう。
道具の発達を無視して、伝統漁法であるから、と、使用されていては、四万十川のアユが放流に頼らざるをえなくなったのも当然のことか。
さらに、学者先生の説である十月はじめから産卵するのであれば、十一月の再解禁前にもまだ仔魚が海に下る量もそれなりにあることとなるが、弥太さんや故松沢さんのように、西風が吹き荒れる頃=木枯らし一番の頃から産卵行動としての集結や下りを始めるのであれば、産卵行動の開始時から集結した親を大量殺戮することとなり、遡上アユが激減することとなる。
しかも産卵行動として、集結している鮎を、あゆみちゃんの意思、本能を無視して獲る漁法であるから、子孫繁栄とはなるまい。コロガシでさえ、産卵行動のために集結しているときでは、一振りで数匹の鮎がかかっているのであるから、束釣りは当たり前、となっていた。もちろん、相模川の禁漁である10月14日前の現象であるから、対象は継代人工が主体であったが。
汽水域の鮎=「潮呑みアユ」
「四万十 川漁師物語」で、アユのことを最後に持ってこざるを得なかったのは、汽水域での山崎さんの観察がどのように理解すればよいか、わからなかったから。その状況は変わらないが、いつまでも先送りすることもできない。
「古来、私の地方ではアユは潮を呑まないと卵が熟してこないという伝承がある」
田辺翁も「鮎は潮境で潮を飲んだら産卵しやすいがやけん、三崎辺りまで下っていっぺん潮水を飲んで上がって来らあ。」と語られている。
「八月頃から降雨増水のたびにくだってきたアユは、そのまま産卵場にとどまるのではなく、そこから汽水域の中間くらいまでを往復し、毎日この行動を反復しながら、川の水が平水になり、あるいはそれ以下になって、塩分濃度が高まるにつれてその行動半径を縮小し、ついに産卵場近くまで塩分が影響するようになると再び中流域から上流へと移動するのである。ただ、産卵場が近づくにつれて、この再移動の傾向は少なくなってくる。」
この反復行動について山崎さんは、「すなわち産卵場から汽水中間くらいまでの降下、遡上ともに必ず群れをもって行動するということである。日の出とともに始まる降下の行動は、一つ一つの塊状の群れを構成する。大群の時もあれば小群の場合もある。」
「こうしたくだりの行動はだいたい午前中に終わる。のぼりが始まるのは午後三時である。のぼりの場合は群れの構成が塊状から帯状に移る。」
「この特殊な行動区域内での雌雄の対比を参考までに書いてみると、これは雌の方が断然多く、約七十パーセントを占めている。産卵場での対比が雌一に対して雄が十以上にもなることとあまりに対照的であり、この行動に加わらない雄が別にどうしているのか、私には解明することのできないなぞである。」
産卵行動としてのくだりではなく、それとは異なる下りがあることを知った。
また、「シオアユ」というものがいる、それは汽水域で一生を過ごしている、との話が鮎雑誌に掲載されていたことがあったが、「シオアユ」が、山崎さんが書かれている「潮を呑む鮎」と同じなのか、異なるのか、もわからない。
「シオアユ」といわれているものは、産卵行動としてではない下りをした鮎、「潮呑み鮎」が、汽水域に一時的にいる時間帯、期間に観察された現象であろうか。
また、潮呑み鮎は、何を食べているのであろうか。汽水域の石等に繁茂しているアカであろうか。
故松沢さんに訊ねると、「あゆに聞いたことがないからわからんが」と、前置きをされて、どのようにこの現象を説明されるのかなあ。
産卵行動としての下りが、雄が先に集結し、先に産卵場に到達して、雌を待っていると、どらえもんおじさんもいわれていたが、適切な観察ではないかなあ。野村さんも雄が先に下る、と語られている。(後述)
10月にはいると、下りのための集結をしている群れではなく、瀬でまだ生活している鮎では、雌の方が雄よりも多く釣れるように思う。もちろん、人工の放流が例外である大井川でのことだが。
そして、産卵風景では、雄の方が圧倒的に多い映像を見るから、山崎さんが「潮呑み鮎」と観察された鮎は、下りとは区別されるべき現象であろう。
山崎さんはこの行動の意味について
「それは年魚という宿命を持って生まれたアユ、つまり産卵経験を持たないアユが、本能的に産卵適所を探し求める行動ではないだろうかと。産卵経験のないアユが教えられることもないのに、毎年のように同じ場所で産卵を繰り返すことは、この行動によって産卵場から外洋までの距離測定をやっているのではないか。孵化直後のほとんど遊泳力のない稚魚が、無事に海にたどりつける適当な場所を探すには最良の方法ではないか。
四万十川という一つの職場での体験が、全国的にみて果たしてどうだろうか。平野部を流れる干潮域の長い川では、この私の推論が当てはまらないのではあるまいか。」
山崎さんの観察された現象については、どのように理解すればよいのかわからない。
ただ、潮呑みの行動をする鮎の量、あるいは、その川に棲んでいる鮎の量に対する比率はどのくらいであろうか。
また、どのくらい上流のものがその行動に参加していたのであろうか。
少なくても、汽水域近くでなくても、釣りの対象となるほどの鮎が遊んでくれている。したがって、潮呑みの鮎の比率が産卵行動としての下りの開始時期の参加者よりも相当低い、といえるのではないかなあ。
なお、野村さんは、西土佐村での漁であることから、潮呑み鮎については一言しか言及されていない。
潮呑み鮎の漁
「群れがくだる時はピシャピシャと水の表面に音を立てて、はねながらやってくる。風が上流から吹いてくる時は、目で群れを発見するよりも少し早く鮎の匂いが伝わってくる。慣れた漁師はまるで猟犬のごとく、このアユの匂いでいちはやく群れの接近の予測する。
やがて群れが近づくと、待機していた網船は櫓と櫂を使って矢のように魚群を取り巻くのである。アユ地曳きの操法はいつの場合でも上手から漕ぎ出して下手に向かい半円形に岸につけ、片側に十五人ぐらいずつの舟子(かこ:曳き子とも呼ぶ)を配し、岸に引き寄せるのである。このくだりの群れを巻く時は群れの中心部を突き切るようにして網を入れていかないと、群れの半分を下方に逸することになる。それほどくだりのスピードは速いのである。」
この現象が出アユ、差しアユとどのように違うのであろうか。もっとも、汽水域に出アユでやって来ることは、通常の出アユとは意味が違うかも。
この漁を行う時は、雨が降っている増水中ではなく、増水が落ち着いた頃ではないのかなあ。
下るスピードが速い、ということも、尻尾を下流に向けて用心深く下る産卵行動としての下りとは、行動の態様を異にする。
オラにはどうしても気になることがある。
「慣れた漁師はまるで猟犬のごとく、このアユの匂いでいちはやく群れの接近の予測する。」
つまり、シャネル5番の香りである。
高橋先生の「ここまでわかったアユの本」59ページに
「一般には釣りたてのアユが持つ西瓜のような独特の香りは、アユが食べた藻類(コケ)に由来すると信じられている。『この川はコケがいいからアユの香りが違う。』といった自慢話もよく耳にする。
残念ながらこれは誤解で、海で動物プランクトンを食べているアユの稚魚もやはりアユの香りがする。アユの香りというのは、じつは食物とは直接的には関係なく、そのもとになっているのは不飽和脂肪酸が酵素によって分解された後にできる化合物であることもたしかめられている。」
オラは「アユの本」が高橋先生が川に潜られているということもあって、適切な観察がされているとは思っているが、相模川以西の海産鮎産卵時期が10月1日頃から始まる、という評価と、シャネル5番とコケが無関係である、という説には納得できない。
産卵時期については「湖産」ブランドで購入された放流鮎に人工も、海産も含まれている、日本海、東北の海産稚魚も含まれている、ということを考慮すべし。
これに対する高橋先生の回答は、四万十川漁協が「湖産」しか放流していないといっているから、日本海側の海産が放流されていない、と。
前さんと同様、オラは「湖産」ブランドに人工も、海産もブレンドされている、と確信している。根拠はすでに書いた。
市内の図書館に水産統計があれば、湖産採捕量と出荷量とのある程度の検証はできるのであるが。
もちろん、偽造の世界での数値であるから、事実を読み取るには何らかの感性を有すると思うが。
目安になるのは、昭和30年代の湖産出荷量の数字。そして、湖産採捕量。
その二つが昭和40年代にどのように変化しているか。多分、出荷量が急激に伸びているのではないかと想像している。
それに対応する採捕量も伸びているであろうが、昭和35年頃からは「湖産」の主流は氷魚の畜養へとシフトしていっているのではないか、と想像している。
その氷魚の採捕量も、網を沖へ沖へ、と伸ばしていかなければならない状態に昭和40年代にはなっているようであるから、当然、採捕量にも限界が生じている状態になっていたのではないか。これらの点に留意して、水産統計を見ていけば、定性的レベルでの「湖産ブランド」の偽装を確認できるのではないかと考えている。
さて、シャネル5番が、コケに由来するのではなく、あゆみちゃんの本然の性に基づく作用の一例であるとすると、なぜ、現在は手のひらに残り香がつくほどの香りがしないのか。
なぜ、今は香りがしないのか。味音痴で、鼻の機能も悪いであろうオラでも、シャネル5番を嗅ぐことのできた時もあった。
大井川に長島ダムの影響が及びだしてから久しく嗅いでいない。中津川の宮が瀬ダムができる前の愛川橋上流でも湖産か人工かはわからないが、放流された海産かもしれないが、短期間ではあるがシャネル5番の香りがしていた。
高橋先生は、このような現象の移ろいをどのように説明されるのであろうか。
高橋先生は、どのような香りを「西瓜のような独特の香り」と表現されているのであろうか。
そして、その香りを現在、何所の川で、いつ頃嗅いでおられるのであろうか。
「アユの本」には、赤石川の金アユ探しが掲載されているが、赤石川のアユはシャネル5番の香りがしたのであろうか。
ということで村上先生の観察、仮説に親近感を覚える。
四万十川で、地曳き網等の漁の目安となる香りがいまも漂ってくるとは思っていない。
香りを漂わせるほどのアユの量がないということと、山崎さんが漁をされていた下流は、珪藻ではなく、藍藻が優占種となっているようであるから。
なお、四万十川の数カ所の調査地点全てで、珪藻ではなく藍藻が優占種となっているという調査結果にはびっくりしたが、その話は後日に。
なお、高橋先生は「三重県の小さな川に『シオアユ』と呼ばれる、生涯、感潮域で生活して上流に遡上しないアユがいるという。これは産卵時期になってようやく川に遡上する琵琶湖のコアユに似ているらしい。この『シオアユ』の生きざまは、遡上する気のないアユの究極の姿ののだろうか。」と、井口敬一郎さんの調査を掲載されている。
山崎さんの観察からは、「潮呑み鮎」は、夕方には遡上期と同じように、帯状になって、上流に戻っていく。
「シオアユ」が、「生涯、干潮域で生活して上流に遡上しない」鮎というのであれば、井口さんは、どのように検証をされたのであろうか。夜も調査をされたのであろうか。
夜の調査をされていないのではないか、と想像している。
夜には観察できない、という現象であれば、「潮呑み鮎」で、生涯を干潮域で過ごす鮎とはいえないのではないか。
井口さんは、「シオアユ」の現象を湖産の大鮎とコアユの生活史に思いを巡らせ、神奈川県内水面試験場は、海産鮎から湖産の誕生を連想する現象との評価をされているが、山崎さんが観察された「潮呑み鮎」と「シオアユ」が同じものであるとすれば、オラのあゆみちゃんとの逢い引きへの思い同様、白昼夢にすぎないのでは。
海川だったか、能生川だったか、汽水域が短く、すぐに海につながっている川での8月、時合いになると、海から差してくる、との話を読んだことがあるが。
山崎さんが観察された潮呑みの現象と、シオアユの現象がどのように関連し、あるいは無関係なのかなあ。あっちの漁師、こっちの漁師、と、相手の観察眼がたしかで、あるいは、尋ねてくる人への教えを断らなかった故松沢さんは、このような例外現象をどのように話されるのかなあ。
さて、「潮呑みアユ」の漁は、
「こうしたくだりの行動はだいたい午前中に終わる。のぼりが始まるのは午後3時である。のぼりの場合は群れの構成が塊状から帯状に移る。
これは水深七メートルから十メートルもある漁場での観測であるから、目で確認することはできない。この場合漁具である地曳き網を一歩も移動させないで連動的に操業することによって立証できると思う。
大体地曳き網一回の操業単位時間は三,四十分である。午後三時から始まるのぼりの漁獲は、帯状の群れの先頭から始まり、四時から五時をピークとして日の暮れとともにピタリと停止する。この間は寸秒の油断もなく網を置いては揚げ、揚げては置くのであるが、ピークまでは一網ごとに漁獲量が増え、それから夕立にかけては逐次減量してゆく。この状態は毎日変わらないのである。」
この差しアユの状態は、城山下の一本瀬での淵からの差しアユと同じ現象ではないのかなあ。午前中に観察されていた淵への下りが、城山下でもみることができたのか、どうかは、故松沢さんに訊ねるとすぐにわかる現象なのになあ。つまり、寝場は淵ではないかどうか。
淵からの差し鮎は、潮呑みアユと同じ行動パターンなのか、違うのか。淵からの差しアユはその日のうちに淵に下るのか、翌日の午前中に下るのか。
あるいは、八月という珪藻が死滅するほどの日照と関係があるのか、ないのか。
山崎さんは「私は素人なりに一つの推論をたててみた。それは年魚という宿命を持って生まれたアユ、つまり産卵経験のないアユが教えられることもないのに、毎年のように同じ場所で産卵を繰り返すことは、この行動によって産卵場から外洋までの距離測定をやっているのではないか。孵化直後のほとんど遊泳力のない稚魚が、無事海にたどりつける適当な場所を探すには最良の方法ではあるまいか。」
もし、産卵場所の事前調査をしている、ということになれば、相当量の鮎が、中流域から減少し、あるいは、中流域では雄が主体の釣りとなるはずであるが、そのようになっているのであろうか。
あるいは、潮呑み鮎は、下りの時期には産卵場への御師の役割を果たしているのであろうか。
「四万十川という一つの職場での体験が、全国的にみて果たしてどうであおるか。平野部を流れる干潮域の長い川では、この私の推論が当てはまらないのではあるまいか。」
山崎さんも、自己の観察された現象の普遍化には慎重である。ただ、四万十川の干潮域ほど長い干潮域の川は稀だと思うが。
「仁淀川ーその自然と魚たち」に、「河口から海抜100mまでの距離とその平均勾配」の表が掲載されている。
仁淀川は63km、1.59の勾配。四万十川は85km1.18の勾配。
四万十川よりも長い川は、信濃川、最上川、北上川、利根川が掲載されている。
四万十川よりも勾配が緩い川も上記と同じである。
上記の距離、勾配が干潮域の長さとどの程度の相関関係があるのか、わからないが、イメージとしては相関関係があるのでは。そうすると、四万十川よりも干潮域の長い川は、例外ということにならないのかなあ。
なお、田辺翁は
「鮎が盛り目を抜けて下り目になったことを落ち鮎という。
鮎盛りが終わって落ち鮎になる。鮎は八月下旬から十月へかけて一番下る。おおむね、丸い輪になって集団で下る。ポンポン、ポンポン水しぶきを上げて跳ねて行く。そいとを各地区の地曳き網で引いて袋網に入れ、一回何貫いうてとりよった。」
田辺翁は、山崎さんと違って、「産卵行動としての下り」と、「潮呑み」鮎としての行動を区別されていない。むしろ、「潮呑み鮎」の行動そのものを「産卵行動としての下り」と評価されているのではないか。
学者先生が、十月一日頃から海産鮎の産卵が始まる、ということの古の経験事例として採用するつもりであれば、恰好の事例となろう。
野村さんとアカメ |
四万十川といえば、アカメが紹介されることが多い。それほど、四万十川と縁も、ゆかりも、知名度も高いアカメであるから、当然山崎さんらもその生態等についても述べておられる。
とはいえ、7,80センチの魚といえば、鯉しか知らないオラがアカメを紹介するには、焦点すらわからない。
とはいえ、頭出しは必要と思っていたところ、野村さんが釣ったことがあった。それを紹介し、アカメも忘れていないことを表現したい。
「ウグイは針に掛かるとすぐに竿のほうに向かって泳いでくるけんど、スズキは掛かるとカジキマグロのように大きく跳ねる。
そんであるとき竿をもっちょったら、ただでさえ重い竿がまっこと重くなりよった。ひとりではとても引けん。父に手伝てもろうて、ようやく岸に上げたら、なんとこれにアカメが掛かっちょった。アカメの方は体長が一メートル以上はあるから、子供が引けんのは当たり前じゃね。けどよう見よったら、アカメのほうには針が刺さっちょらんで、口の奥のほうへ糸が入いちょった。
なんとスズキを食うたばかりのアカメじゃったんよね。スズキとアカメがいっぺんに釣れたということになった。太い魚が二匹やけん、重いのも無理ないわなあ。」
「『どうしたことやろか、スズキと一緒にミノウオが釣れたで』と父に言うたら、父は『ミノウオは昔から寝ぼすけの魚や。潮が引いても気づかんで寝とるくらいじゃけん、自分が食うた魚と一緒に釣られよっても不思議はないなあ』といいよったわ。
けんど、これは魚も釣り人ものんきは時代の話じゃけん。ミノウオのほうはいまはほとんどいんようになりよって、絶滅危惧種になりそうらしい。そんでも、ほかの川に比べたら、いまも天然の魚の種類も量も多いのが四万十川じゃけん、まだまだありがたい。」
ついでに、山崎さんから一部を引用する。
「いま鑑賞魚としても静かなブームを呼びつつあるものにアカメがある。アカメというのは成魚も含めた一般の和名で、この地方ではこの魚の幼魚名である。せいぜい四キロ未満のものをアカメと呼び、それ以上になるとミノウオという。私の若い頃には五十キロ、六十キロという大ものもよく獲れたが、最近は数も少なく、形も小さいものばかりになった。
ところが、今年(昭和五十六年)はどうした風の吹き回しか大物が久しぶりに獲れた。
形も大きく、しかも大群で入っていることが七月の終わり頃にはわかっていた。それはある朝チヌの延縄をあげるために後川との合流点に行くと、水面のあちこちでボラを追うアカメの群れを発見した。スズキによく似たエサのあさり方をするが、スズキの場合はバタバタと小刻みにイナ(ボラの幼魚)を追うが、アカメはたいてい一回限り大きくバターンという音を立てるだけである。その上イナよりも大型のボラを追うことが多いので、玄人ならすぐ見分けがつく。だが、私はミノウオを狙わない。超大物ではあるが確率が不安定なのと、魚価がよくないので専業漁家は手を出さないのである。」
ということで、遊漁者に情報を提供した。
「早稲の取り入れ間近で忙しい人達であったが、趣味とはおそろしいもので、早速その夜から十数人の釣り天狗どもが出勤した。
一晩に十キロ級のものを四,五尾もあげた人もあり、また二十五キロという近頃の大物を釣った人もある。」
十二キロ級の卵巣を観察した結果、
「左右の卵巣を合わせて丁度五百グラムもあり、まだ熟卵にはほど遠いように思われたが、肉眼で十分識別できた。卵一粒の大きさはアユのそれの十分の一もない小粒であるのに、卵巣全体の大きさは百倍以上もあるので卵数は一億以上と考えられた。
こんなぼう大な卵数から推して、この卵は粘着卵ではなく浮遊卵であろうと思われた。」
昭和56年でさえ、久々の大漁とのこと。今は?
アカメに比べると、まだあゆみちゃんの方が天然記念物になる危険が少しは少ないか。
とはいえ、継代人工ではなく、遡上アユが釣りの対象となるほどの川は限られ、しかも、シャネル5番の香りを振りまいて、オラを誘惑してくれる川はいずこに、という状態である。
村上先生を例外ととして、高橋先生ら、学者先生が語られるように、シャネル5番があゆみちゃんの本然の性に基づくのであれば、珪藻が消え、藍藻が優占種となる川でも、シャネル5番が川面に漂っているはずではないのかなあ。
さて、四万十川のアユのトリに野村さんを配置したのは、次のように語られているからである。
「でも、ミノウオのことを考えたら、川の端に住んじょるもんには、川をいつでもノウのええ状態にしちょく義務もあるということじゃろと思うんよ。自分の家で使わせてもろうた水をなるべくきれいにして川にもどすのも大切はことやし、必要以上に魚を獲らん意識も持っちょらんといかん。
ここいらでは昔、川漁師かて自分の家で食べる分しか獲らんかった。販売するための交通手段も氷もなかったこともあるけんど、みんなが四万十川を冷蔵庫の代わりにして、いる分だけ獲ってきよった。だから、そのころは川の端へ行くだけで、スイカを切ったときのようなアイの匂いがぷんぷんしよったんよ。
どんなにようけ財産がある家に生まれよっても、放蕩息子がおったらなんにも残らのやけん。川かて、これと一緒で、財産を使いすぎたらいかんと思うてほしいわね。」
四万十川の中流域であるから、ダムではなく、「川の端に住んじょるもん」が水をええ状態にしておく義務を語られているが、中電が、神奈川県が、ダムで事業活動を行っているにもかかわらず、水をええ状態で管理するどころか、有機物が沈殿し腐敗した泥を、泥水を長時間放流していても、なあんも感じない、ということが改まる日が来るのかなあ。
泥水、ダムに溜まった汚泥は事業活動に伴う産業廃棄物ではないのかなあ。なんで、ダムの貯水率が下がるほど、短期に泥水を放流して、そのあと上水放流にしないのかなあ。流入量の計算くらい簡単にできるであろうに。そうすれば、泥の水や濁り水をいつまでも放流しなくてすむし、また、掃流力も少しは強くなり、砂礫を流れから押し出してくれるのではないかなあ。
もっとも、津久井ダムでは底水放流をどの程度制限し、上水放流が可能かわからないが、大井川の長島ダムでは簡単な放流管理であろうに。
山崎さんたち下流域と違い、中流域では、専業漁師にはなれなかったようである。
同じ中流域であろうと思われる仁淀川や紀ノ川との山奥、山を絶えず迂回する地形、等の地政学上の違いを現しているのであろうか。河口からの直線距離はそれほどでもなかろうに、「平野」の川とは趣を異にしているのであろうか。
寄り道をしたが、野村さんの語る鮎を見よう。
とはいえ、再び、寄り道をすることとなるが。
野村さんの川と鮎 |
野村春松「四万十 川がたり」(聞き手:蟹江節子「山と渓谷社」発行)
1 西土佐村の環境
野村さんは、西土佐村で漁をされていたこと、専業漁師ではなかったこと、山仕事、センバでの輸送をされていたこと、等の違いから、山崎さんとは異なる側面での四万十川とあゆみちゃんについて語られている。
四万十川が、「蛇行を繰り返すうちに水は浄化され川はよみがえる。流程196キロを誇る四万十川だが、源流から河口までの直線距離は56キロにすぎない。」との川でも、「四万十川でも、昔、ゴミがあんまりたまりよってなかなか分解せんと、メタンガスが発生したんよ。」とのことであるが、例外的にもメタンガスの発生することがあったとは意外である。
大井川での笹間ダムが水を堰き止めたため、笹間川はダム下流の湧き水しか流れなくなり、大井川の河原で水は消えてしまうが、その手前の淀み水は泥底である。生活排水は入っていないであろうから、落ち葉が有機物で、メタンガスを発生させているのかなあ。そのイメージと合うのかなあ。
四万十川の各地点の位置関係はさっぱり見当がつかない。
雨村翁が昭和16年に四万十川の大鮎を釣ろうと土讃線の終点窪川に降り立ち、半時間ほど森林鉄道に乗り、終点の田野々から歩かれている。
目指すは「北川」である。
オラは上流に歩いた、と思っていたが、下流に歩いているよう。大正町の下流側で、川は2つに分かれ、その1つが檮原川のようで、それがまた「北川川」に分かれている。北川川との分岐点のすぐ上流には、「都賀ダム」があるから、雨村翁はこのダム工事を見ながら、「北川川」へと入られたのかなあ。
野村さんが漁をされていた大正町から下流の西土佐村までの四万十川は曲がりくねっている。その曲がりくねった川が少しまっすぐに流れるようになったところが西土佐村、というように見える。
「私が住んじょる西土佐村は、四万十川が再び南へ向かうあたり。流域でいえば、中流から下流域。蛇行する川がいよいよ大河の風情を見せちょるようなところよね。
西土佐村の中でも一番下、中村市のすぐ上にあるのが、口屋内なんよ。
四万十川の支流は二〇〇とも三〇〇ともいわれちょるけんど、口屋内にはちょうど黒尊川が流れこんじょる。黒尊はいまでも川底まで見えるような澄んどる川よ。支流の中でも一番きれいな流れ、土佐の名水やともいわれちょる。そやけん、川がここらでまた元気になって、下の方でもそれほど汚れていらんこともあるんじゃろ。」
黒尊川合流点の上流、窪川等では、生活排水等が流れ込んで、水質が富栄養化いているということであろうか。
もちろん、窪川付近での汚水負荷は、相模川とは、狩野川とは、比べものにならないほど小さく、また、くねくねと曲がっている川の浄化力もはるかに大きいであろうが。
2 鮎の香り
食べる分しか獲らなかった「その頃は川の端へ行くだけで、スイカを切ったときのようなアイの匂いがぷんぷんしよったんよ。」とのことであるから、山崎さんが、「潮呑み鮎」漁をされるとき、下ってくる鮎の兆候を、匂いで察知した、という状況とは異なる。
汽水域には「潮呑み鮎」が下ってくるまでは、鮎がいないということなのかなあ。それとも、汽水域に鮎がいたとしても香りがしない、あるいは香りがするほどの量がいなかったのかなあ。
それとも、井口さんが「シオアユ」という汽水域で一生を過ごす鮎がいる、とされている観察結果が、夜の調査をされておらず、「潮呑み鮎」の昼間の状態を誤って、汽水域に常駐している鮎がいると評価をされて「シオアユ」という生活形態の鮎が存在すると考えられたのかなあ。
いずれにしろ、ドブさんが能登の川や手取川の上流で、経験された川面からシャネル5番の香りが立ち込めていた、という現象は、四万十川でも存在していたといえよう。
それほど、1匹の香りが強く、また、量が多かったから、川面にも香りが立ちこめていたということであろう。
その香りは、昭和30年代にいつ頃かまでは、相模川でもしていたとのこと。
昭和30年代初めに雄物川から流れてきた舟からの網打ちは、弁天の土手を上ると、香りが漂ってきた、と。
中津川でも、宮が瀬ダムのない頃、人工か、湖産畜養か、沖取り海産か、いかなる種別かわからないが、囮を交換するときに釣れた鮎の残り香が手についていた。妻田の堰が遡上を妨げる前には、愛川橋には川面からシャネル5番が漂っていたとのこと。
3 湖産放流の評価
一科一属一種の鮎について、「いうたら、親戚や仲間がおらん、1匹狼みたいなもんや。そんなんで世間の波にもまれて一人前になるじゃろう。そういうところがええんよ。
また、世間にもまれたアイほど食べたらうまいもんじゃけん。」
と、海産遡上鮎が素晴らしい、と。故松沢さんもその気があった。まだ、放流鮎は例外の存在、気にするほどの量ではない、と、狩野川でも、長良川でも、四万十川でも評価されていた御代の評判であろうとおもうが。
「けんど、近頃は親戚がおらんはずが、ちょっと見が、よう似とるヤツがやって来よる。自分で泳いでこんで、車に乗ってくるヤツよ。琵琶湖あたりから越してくる。海を知らんようなヤワいアイやな。アイはアイでも、こっちの方はあんまり好きやないなあ。」
野村さんの漁場は、堰もダムもなく、鮎の遡上を妨げる河川構造物がなかったから、遡上さえあれば、湖産を毛嫌いできた。しかし、亡き師匠や、大師匠は、珪藻が優占種の川に行くしかなく、そこは、湖産放流しかいない。いや、昭和50年頃、あるいは45年頃から、人工も「湖産」ブランドにブレンドされて放流されていたであろうから、単価の高い「湖産」を放流している川をあちこちの漁協で確かめ、あるいは釣ったアユの容姿から「湖産」が多い川かを判断して、釣りに行く川を探し求めていたのではないかなあ。
湖産についても、昭和30年代終わり頃からは、氷魚からの畜養が主流になったのではないかと想像しているが、畜養湖産と、逆ヤナで採捕した湖産では、馬力に大きな差があったのではないかなあ。
大宮人のお父さんが、雪代のとれた飛騨川に放流された湖産を吹き流しで釣っていたころは、湖産畜養ではなく、遡上してきた湖産を逆ヤナで採捕下ものであろう。水あわせをしただけで、放流し、その稚魚は瀬に入っていった、と大宮人は話されていたから、湖産畜養とは考えにくい。放流地点にたむろし、それからのそのそと泳いでいく人工等の放流ものの動きとは異なるから。
なお、オラも野村さんの湖産評価に親近感を持つが、その対象は、「湖産畜養」である。
遡上の「湖産」は,平成10年、野洲川で釣った経験しかない。その年は、遡上期に水量が多く、瀬切れにならなかったため、多くの湖産が遡上できて、三雲で80釣った、と、大西さんだったかが、紹介されていたため、盆に出かけた。残念ながら、中津川よりも水量の少ない野洲川は、すでに網漁が始まっていて、10ほどしか釣れなかった。そんな水量ではあったが、馬力は強かったと、メモ書きされている。
故松沢さんが、湖産を線香花火と例えられて、興味の対象とはされなかったのは、オラのようなヘボでも、攻撃衝動が強く、そこそこ釣れるような鮎であるから、ということではないのかなあ。
だましのテクニックもなく、川見が、川読みができなくても、そこそこ釣れたから、プロの腕で釣る対象としては恥ずかしい、ということであったのではないかなあ。
4 アイニギリの浪漫 |
「『夫婦げんかをしちょっても、火振りの日には仲直りせよ』いわれよる。」
これは、「舟に乗るのはふたり一組やけど、この漁もだいたい夫婦でやるんよね。だんなのほうが竿や櫓を握って、かあちゃんのほうが網入れ役や。これもやっぱり息が合わんと行かんから」
「火振りも夜の漁やけど、昔の漁には艶っぽい漁もあったなあ。
アイを素手で握ってつかむ、アイニギリという漁よね。
これも暗い静かな川でやる漁なんよ。『アイニギリ行こうか』というたら、おとこが若いおなごを誘ってデ−トしよ、いうことじゃった。」
弥太さんは、アイニギリではないかと思える鮎の捕り方を語られているが、それは子供の漁のようである。同じ捕り方なのか、違うのか、あるいは、仁淀川でも、逢い引き手段でもあったのかなあ。弥太さんが夜に手のひらで流れを緩やかにして鮎を捕まえるとされたやり方と「アイニギリ」は同じかなあ。
野村さんは「これも暗い静かな川でやる漁なんよ」とのことであるから、同じではないかなあ。
野村さんは、遠距離夜ばいをするために自転車が普及したのでは、とも語られている。
夜ばいも、アイニギリも理由は異なるものの、昔々の物語となった。
夜ばいは、宮本常一の「忘れられた日本人」にも登場し、また、山本七兵は「私の中の日本軍」で、フィリッピンにおいて、日本軍が非難された理由のひとつに、夜ばいの文化のないところで夜ばいを行ったこと、及び、大切な食を支えていた椰子の木が枯れるような採取、使用を行ったからと書かれていたと思う。
それほど意味のあった夜ばいが消えたように、アイニギリも消えたようである。赤線の恩恵を受けることのできなかった最後の世代としては、残念でならない。現在では、男女同権というフェミニストさんたちの目的が達成されて、「浮気をするのも甲斐性のうち」との男の世界が崩されて、女も浮気に精を出ているよう。
さらに、フリーセックスは当たり前、との状況となり、夜ばいが昼間から行われているという状況になっているのかも。
雨村少年も、三貫何百匁かの鰻を釣ったことのある楠さんらと「四,五日の予定で土崎から新荘へ釣りに出かけ」ことがあった。
夜、雨村少年は、楠さんらに誘われたが「二〇戸足らずの寂しい部落を散歩する気持ちにもなれず、やぶれ布団にもぐりこんだ。」
夜半に酔っぱらった大人達は帰ってきたが、その理由は、翌日の「佐多さんは、釣りよりも山へいきたいだろう。」との会話等から、「連中の評議を聞いていて彼らがこの土地に未練をもつのは、うなぎではなく、部落の背後の山の中であった。連中は、夜が来るのを待ちかねて、山の饗宴に歓をつくしているのであった。」
これに姉ちゃんがいたかどうかは書かれていないが、ただ山の中で酒盛りをしていたのではなかろう。蚊に刺されてかゆいでろうから。肴もないから。
そして、野村さんは、後家について、とおちゃんが仕事で家を長く留守にしているときのかあちゃんも含まれている、と、語られている。その後家を楽しませるのは、かあちゃんがとおちゃんを大切にする重要な機能を持っている大切な事柄であるとも。
楠さんらが通われた山には、そのような後家さんがいたのかなあ。
アイニギリの消えた今では、「やっぱり、四万十川には派手な鉄橋より沈下橋のほうが似合うと違うやろか。」
「カヌーに乗りよるひとかて、うまいこと沈下橋をくぐっていきよるけんねえ。
カヌーしか通れんぐらいに増水しちょるとき見よったら、沈下橋の手前でわざとひっくり返って、橋を通り抜けたらまたポコっと起きよった。ほんまにうまいこと通っていきよる。ほんで沈下橋に座っちょったら、ようけカヌーが流れてきよるけん。顔かてだいたいわかるじゃろ。そやけん、ここに遊びに来る若い人によういうちょるんよ。
彼女や彼氏が欲しかったら、一日沈下橋に座ってちょれと。そしたら、よりどりみどり、いろんなんが流れてきよるから。と」
というように、アイではなく、カヌーがデートのお膳立てしてくれるご時世である。
「私が子供やった頃四万十川はやっぱり、今より水がきれいかった。
アイもようけおったわ。夜中に川へ行って、のぞきよったら、川はアイで黒々しちょった。そこを竹ぼうきで掃いただけでぎっちり(たくさん)獲れよったけん。」
5 せんば |
綾小路きみまろの世界にどっぷり浸かっているオラにとっては、夫婦の幸せなつきあいには経験不可能なことではあるが、火振り漁だけでなく、せんば(舟母)のしのぎも夫婦げんかをやっておられん仕事とのこと。
「一艘に積んじょったのは木炭一三〇俵。一俵は八貫の重さやったから、全部でおよそ四トン近くになった。これを二人で動かしよったんよ。」
「下るときは櫓をこいで、上りは綱つけて一人が岸から引き、もうひとりが岸から棹をさすんよ。だいたい岸に上がって綱を引くのが奥さんで、棹はだんなのほうや。
『棹は三年櫓は八年』いうて、そう簡単にはうまいこといかん。こういうとき夫婦げんかでもしちょったらえらいことよ。息があわんじゃろ。下から戻るときも空身やなかったけん。軽いわけやない。息が合わんままやったら、よけいたいねんよ。」
ということで、下から風が吹いているときは帆で上れるが、その風のない時は、夫婦げんかは飢えにつながるよう。
「当時。黒尊川の上でとれる木炭は質がええことで評判やったそうよ。生産量も多くて、日本で二番目と聞いたわ。」
その木炭を「年間九万トンくらい運んだんやないかいわれちょる。」
帰りは、米や食料品等を載せていた。
口屋内には天王という川の港があった。ここから下田まで「この仕事は往復でだいたい二日から三日くらいかかる。」
「舟は一艘やのうて、だいたい一〇艘くらいで一緒に天王港を出発しよる。出るのは朝五時くらいやったかなあ。」
「向きを変えよと思うても、腕や勘がなかったらだめよ。今は大きな瀬もだいぶなくなったけん、ここいらでもゆるやかじゃけんど、昔はごっつい瀬がなんぼでもあったけん骨も折れたわ。」
中村付近で、「ようやっと流れも落ち着いて櫓で漕げるようになる。」ということで、また、上りの時にもこの付近で一泊したから、山崎さんがセンバで朝餉をする夫婦を見られたよう。
夫婦げんかもできないセンバは不自由ではなかった。
「下田で積み荷を降ろして賃金をもろうたら、中村まで戻って、映画や芝居を見たり、酒飲んだりして帰るもんもおって、なんの娯楽もないところやけん、ちょっと気晴らしにもなる仕事やったわ。
姑や舅に子供らと一緒に暮らしちょる夫婦にとったら、ええ息抜きにもなる。煩わしいもんがおらんけん、夫婦ふたりでゆっくりできる。ふたりっきりで舟に揺られて、夜を過ごすんやけん、最高よ。」
そう、この舟に揺られて最高よ、の夜も消えていく。さらに消えたものには、
「そんで、川遊びしちょると喉が渇くじゃろ。そんとき、川の水を飲んだんよ。
それほど四万十川の水はきれかったんよ。何となく甘い水じゃってね。川で泳ぐときは『目を開けちょったらええ。その方が目がきれいになる』いわれたぐらいやったわ。
四万十川の水を飲んどったのは、昭和三十年頃までじゃろ。」
そして「そういえば、水を飲まんようになったころ、きれいな流れと一緒に四万十川から消えていきよったもんがあったなあ。」
その消えていきよったもんが、センバであり、いずれの時点からかアイニギリである。
6 放蕩息子の影響
1 産卵時期と自然現象の関係 |
「ほんまのアイは、九月下旬から十月にかけて母の腹に宿る。そんで、十月中旬から十一月の中旬の産卵期になると、オン(オス)の方が先に河口へ下り始める。オンのほうが先に下るのは、メン(メス)のために産卵場所をこしらえてやるためよね。大きいオンから順番にいきよる。力の強いオンのほうがええ場所をとれるということになるんよ。」
この産卵時期、行動の記述が、故松沢さんや弥太さんの「西風が吹く頃」から、産卵行動としての集結、下りが始まる、との観察に合致している。
当然、これが産卵行動に合致した記述であれば、1987年10月15日頃に四万十川河口付近の海域で観察された稚魚が四万十川の遡上鮎を親とする鮎の子供である、との高橋先生の評価は間違っている、と考えざるをえない。
野村さんは、人間の暦どおりにあゆみちゃんら、自然界の生物が行動しないことを十分に理解されている。
「カレンダーを頼りにせんで、自然のことは自然を見たら一番ええということは今でも多いわ。最近でもそんな例は実際にあったんよ。
クズバの花が咲いてツガニが下ると、四万十川もいよいよ秋や。」
「ようよう涼しい風が吹くようになったら、バラスのヨセ(ヨシ)原の上をアキアカネが飛ぶ姿が目につくようになる。」
「柿もええ色に染まってくると、ここいらの山もだんだん鮮やかな紅葉に染まる。とくに黒尊川のほうは広葉樹が多いけん、秋が一番ええかもしれん。
川の中ではアイが産卵のために、河口へ下りはじめよる。」
「アイ達が目指すんは中村の赤鉄橋の上、昔の蛇越(じゃこえ)よねえ。」
ということで、禁漁は10月15日から11月15日とのこと。
「そうして、やっと禁漁が明ける朝、赤鉄橋のあたりはもう一面の人だかりや。煙火の合図とともに、舟も人間も入り乱れて、川の中に入っていく。川は人いきれなんか、靄でいっぱいになるわ。」
「投げ網に投網、刺し網、釣り竿。いろんな漁が入り混じっちょる。」
11月15日は、初期に産卵した卵がまだ孵化していないものも大量にある時期であろう。産卵場が荒らされて、それらの卵は踏みつけられ、石から離れて流れ、死卵となろう。
その上、まだ産卵時期真っ最中であるのに、親を大量殺戮している。
これでは、四万十川の遡上鮎が僅少となるのは当然のことではないのか。
友釣りであれば、あゆみちゃんが合コンと乱交にうつつを抜かしているときは、メスを囮にしない限り、大漁とはなるまい。群れ鮎崩しの釣り方では話は違うとは思うが。ということで、メスを囮にできる限りという限界が共住生活をしているあゆみちゃんの殺戮に対する歯止めになる。
それでも、産卵場を荒らすことにはなるが。
あゆみちゃんに手を染める人がまだ、道楽者と見られていた頃なら、11月15日の解禁でも、11月15日から川に入る人間が今よりは少ないであろうから、まだ生き残り、あるいは孵化を終えることのできる鮎、仔魚は多かったであろう。
それに、ウェーダのない時代、河原から、舟からの漁に限られていたであろうから、産卵場が荒らされて、孵化を、孵化卵を、阻害・死滅させることも少なかったのではないか。
狩野川の11月1日前後の西風が吹いた後の水温は、15度以下、13度前後ではなかったか。当時、遡上鮎が多かった城山下、淵下流は今と違って、石がいっぱい詰まっていた。石コロガシの瀬肩への吐き出し、その上の2本電線の附近には柳の木があった。柳の木が邪魔になることがあっても、まだ、タイツに鮎足袋であったから、できるだけ河原からの釣りに徹していた。それでも、水に入ることは必要で、タイツでも冷たかった。どらえもんおじさんにウェーダをはかないと、座骨神経つになるぞ、と脅かされたのは、10月の相模川でのこと。その時の水温は17度前後ではなかったかと思っている。
アシカで、木綿のズボンでは、西風が吹いた後の川にはいること、11月15日に川の水にはいることは、寒中水泳並の覚悟が必要であったのではないか。
どらえもんおじさんに注意されてから、ウェーダを買ったが、高かったなあ。しかも、摩耗が激しく、フェルトの張り替えがやっかいで。また、縫いつけている糸が切れて履き替えを2,3年以内にせざるを得ず、飯代、飲み代すらなくなった。
10月中旬にひとつのピークを形成するほどの産卵を遡上鮎がしている=10月1日頃に産卵をしている、との学者先生の説が正しいとすれば、多くの遡上鮎を親とする多くの稚魚が、海で春まで生活できて、また遡上してくる率が高いと思うが。
数年前に再解禁が12月になったとの話もあったが。
2 例外現象 |
野村さんも、故松沢さんと同様、例外現象についても注意を払われている。
@ 「『アイは瀬に棲む』いうのもわかるわな。瀬のような、たえず水が勢いよく流れちょるとこのほうが新鮮な藻がつく。淵や瀞のように深くて流れがゆるいと、どんどん藻が厚くなって古くなる。ええ藻がないけん、アイも居着かんということよね。」
「養殖もんのアイじゃとこうはいかん。
流れのない淵のようなところで、餌もおるて大きくなるじゃろ。自分の力で苦労して食うちょらんけん、体は太うなっちょっても瀬のような流れの早いところにおられん。脂はあるけんど、放流されよってからは自力でええ餌を食うことができんから、ダイエット中の太ったおばはんみたいなもんや。うまいことない。」
「苦労せんで、栄養のあるもんばかり食うちょるから、体が成熟するのは早い。天然のアイは腹に卵を抱くのが九月下旬から十月やのに、放流したものには八月になると抱卵するようなものがおる。」
野村さんは、養殖もんが遡上鮎よりも早く産卵行動を行うのは、飼育の仕方によると考えられているが、継代人工は産卵時期を早めている。
そうすると、孵化から性成熟までの期間は天然と変わらないかもしれない。もちろん、継代人工の性成熟は年々早くなる傾向があるとのことであるから、徐々に性成熟に要する期間を人為的に短くしているのであろう。あるいは、環境、遺伝的要因から、徐々に短縮されているのであろうか。神奈川県内水面試験場の30代ほどになる継代人工の05年頃の採卵時期は、9月15日頃と30日とのことであったが。
また、湖産は、八月に抱卵するから、放流ものには湖産畜養も入っている。さらに、日本海等、湖産と同時期に孵化したものが養魚場で育てられてるから、必ずしも、飼育の仕方によるとはいえないのでは。
前さんは、養魚場での電照を使用した育て方から、性成熟に累積日照時間数が関係しているのではと推察されているが。
A 故松沢さんは、性成熟について、早稲、早熟も奥手もあるから、幅はある、と。しかし、10月上旬に産卵行動を行うのは例外、と。例外が大量現象として観察されることはない。
野村さんは、この幅を自然の移ろいと、暦とのずれでの事例をあげられている。
その意味では、「例外現象」とは言えず、季節の移ろいを自然現象で観察せよ、ということを語られているのではあるが、暦により成熟等の成長を固定的に判断する世の嫌いもなきにしもあらずであるから、「例外現象」としておく。
なお、故松沢さんが、「例外現象」として、オラに説明された事柄も、暦を基準としているのではなく、「カレンダーを頼りにせんで、自然のことは自然を見たら一番ええ」ということを、当然の前提とされていて、オラが学者先生の調査結果、説と比較するために「カレンダー」に置き直しているにすぎない。
3 自然を見よ |
「やっぱり、昔のひとのように自然をよう見て、その声を聞くということが大切なんじゃろ。」
「夏に長雨になったり、冷夏のときもある。空梅雨というのもあるわな。自然のもんはみんな気候という自然に合わせて動くし、アイかて早熟なもんがおったり晩熟なもんがおるわねえ。
卵を持ったまんまのアイが解禁のあとにようけ獲れてしもうて、つぎの年にはまっことアイが少のうて困るということは、カレンダーに合わせちょったら、当然あるということになる。とくに去年は、そういう影響でアイがまっこと少なかったんよ。」
オラは単に、気候の影響ではなく、鮎の産卵時期真っ盛りに再解禁をしていること、その鮎を獲るひとが昭和30年代までと比べて多くなりすぎていること、網が手編みではなく、最高の手編みよりも性能がよいものを購入できること、等の人間の欲望による側面が大きいと思っている。
そして、産卵時期に係る学者先生の研究報告が、11月15日再解禁を正当化する暦上の根拠付けにされているのではと思っている。
故松沢さんも、自然現象を気候の基準にされていたが、その上での例外現象を話されていた。その点で、学者先生が観察、実験で得られた知見と評価に厳しかったのではないかなあ。
野村さんは、自然現象からの観察について
「半農半漁やったり、自然から糧をもらう暮らしやけん、自然をよう見るということが大事なことやったんじゃろ。それにカレンダーと時計ばっかり見よって、自然に対する勘が働かんと危険なことがあるわね。」
といわれるだけあって、自然現象と季節、生き物の行動等に関して、多くを語られている。
故松沢さんも「自然から糧をもらう暮らし」やけん、学者先生とは違い、観察の適切さを検証して、適切であるかどうかを的確に判断しないと、「食」にありつけないから、学者先生の「食」に結びつかない観察、結果、評価に信頼性の欠如を見つけられていたのではないかなあ。
7 鮎の漁 |
(1)水棲昆虫と四万十川のアユ
野村さんが語っている「自然を見よ」として、例示されている現象については興味津々たるものがあるが、後に見ることとして、鮎の漁についてみることとする。
「川の水が温(ぬる)んだ春、三月ごろになると川を上り始める。こんときのアイの子は体長はだいたい五センチくらいじゃろ。
これから世間の波にもまれ始めるわけやな。
けんど、上流まで行きよる間は、藻を食うて縄張りを持つというアイ本来の生活にはまだ入らんよ。」
この語りは理解できる。
しかし「急流や激流を遡上せないかんし、なかには百数十キロも遡上するもんもおるけん、食うもんもそのような植物やない。」
食べ物が「流れてくる水生昆虫なんかよ。動物性たんぱく質でも取らんと、力が出んねえ。」
これはどのような観察からの知見であろうか。
中津川に遡上鮎の多いとき、沖取り海産が一週間ほどの海水から真水への馴致が行われた後、畜養されることなく、放流されると、遡上鮎のようには大きくなることなく、育ちの悪い状態で夏を、秋を迎えている鮎が多い。
沖取り海産の稚魚放流の育ちが悪いのは、海で動物性プランクトンを食べていた稚魚を、動物性プランクトンが淀み等でしか繁殖しない川に放流されたからであろうか。水生昆虫が少ないからであろうか。
沖取り海産が、苔をハムに適する櫛歯状の歯に生え替わっている割合は高くないのではないかなあ。そのため、川に放流されると、棲息量の少ない動物性プランクトンか水棲昆虫を餌とするしかないのではないかなあ。
また、もし、昆虫のほうが栄養価が高いとしたら、苔をハムような時期になぜ、急速に大きくなるのであろうか。
水生昆虫の棲息量、食糧よりも、苔のほうが食糧は多いのではないかなあ。そして、遡上する頃には、苔をはむに適する櫛歯状の歯に生え替わっているとのこと。
山崎さんにもつぎの記述がある。
「特にこの川ではアユの餌釣りや擬餌(ぎじ)釣りは、当時はもとより今もって行われていない。理由は簡単である。水のきれいなこの川では全水系にアユのエサとなる藍藻や珪藻が、あり余るほど成長しており、ここに棲むアユは小魚や水棲昆虫には目をくれないからである。
しかしただひとつの例外がないでもない。今は故人となられた人で高知県の県会議員や内水面漁場管理委員長もされたことのある畠中源太郎さんが上流にある支流のツヅラ川で擬餌で三十匹ほど釣り上げたことがあるが、その後同氏も二度と訪れていない。」
野村さんは、幼魚期の食糧を水棲昆虫とされ、山崎さんは、成魚の餌が有り余っているから、擬餌針では釣れない、と。
一見、成長期を異にする現象のように思えるが、何か四万十川特有の現象と考える要因があるのであろうか。
伊藤猛夫「四万十川〈しぜん・いきもの〉」(高知市民図書館)には、相模川、四万十川等の一ミリ平方での石に付着している苔の数が出ているが、四万十川では調査地点を平均すると、八千ほど、相模川は二万ほど。
ということは、味、質を問わなければ、相模川の方が苔の食糧に不自由しないはずでは。それでも、相模川ではドブ釣りで釣れている。もちろん、その対象が人工か、海産か、の区別は必要であろうが。
ということで、ドブ釣りが四万十川では行われていない理由については山崎さんの説明では十分とは言えないのではないかなあ。
同様に、野村さんが遡上期のアユは水棲昆虫を食べて、体力増進を図っている、ということについてもどのような現象を観察されたからかなあ。遡上アユが多い年の相模川では、遡上アユがやってくると、石がきれいに磨かれていくが。
なお、「アユ種苗の養殖の現状と課題」には、2月の天竜川で採捕された稚魚が、神奈川県水産試験場では、2月に汽水域で観察された稚魚の話があるが、それらは「海産遡上アユ」の子孫とは評価されていないことを願う。とはいえ、神奈川県では断定的な表現ではないが、海産アユの子孫との評価をされているよ。
寒川の堰がなかった頃、あるいは、瀧井さんが解禁日に田名の盛田屋に八王子から自転車でやってきて、仲間と泊まり、翌日、葉山島の渡し船で、右岸に渡り、葉山、神沢で釣ったころ、朝靄が立ち込めるようになると、遡上がはじまった、との話がある。
野村さんが語られているように、水が温む3月にならないと、遡上は始まらないのではないか。
(2)おとり掛け
「瀬におるアイのなかでも、急流に居着いちょるようなアイほど攻撃的や。闘争心も強いけん、縄張り争いにも絶対負けん。動きも敏いけんど、頭の回転も早いな。
おとりアイがただ上流を向いてちょろちょろ泳いじょるようなときは、かかっていかんで、気づきよらんふりをしよる。でも、ちゃんと視界に入れちょって、冷静にやっつける絶好のチャンスをねらっちょるんよ。
ねらうのはおとりが逃げる瞬間やな。相手がかまえちょうようなときに、真正面からぶつかるより、ひるんだ隙にやったほうが形勢は有利じゃけん。こんときに相手が見せる腹や尻を攻撃しよるんよね。隙を見て、相手に体をぶつけた瞬間、おとりのアイについた針に引っ掛かるというわけよ。」
そう、ヘボのオラにはこのことはようわかる。
なんで、同じような瀬で釣っていて、どらえもんおじさんやテクニシャンらがせっせと釣れるのにオラは蚊帳の外。挙げ句の果ては、オラが場所が悪い、と移動すると、「場所守をありがとう」と、感謝される有様。
どのようにして、あゆみちゃんのいるであろうところに囮を誘導し、おとりを怒らせるように操作できるのかなあ。どのようにして、あゆみちゃんがいるであろうところ、怒りそうな距離を判断して、おとりの操作を適切に行えるのかなあ。水の中が見えんのはみな同じ、のはずやろうに。
「おとり掛けはアイの性格をよう知っちょらんとできん漁やけん、それだけでもおもしろい」
そのとおりです。
どらえもんおじさんからの2009年の年賀状に
大井川 美女にけられて 泣く一郎
はい、そのとおりです。
毎年毎年、大井川のあゆみちゃんに振られても、けられても、貢いでいる哀れなジジーです。
故松沢さんやどらえもんおじさんが、ケラレて、ばれて、泣き濡れたことがあったのかなあ。
「けんど、一対一の勝負やけん、獲れる量はほかの漁よりは少ない。釣れた成果より、途中の駆け引きを楽しむ人にはええ釣りやと思うわね。」
野村さんは、そのようにいわれるが、故松沢さんや萬サ翁等、友釣りで釣ったあゆみちゃんを売っぱらって、ときにはねえちゃんをだっこしに遊郭に行ったであろう優雅な生活ができたこともあったんですよ。
「アユ釣りの記」には、大多サが優雅に暮らせた御代のお話が書かれている。友釣りのアユのほうが単価も高かったよう。
野村さんはおとり掛けをされないようになった。
「なんでかいうたら、さっきもいうたように、最近はほんまのアイが少なくなってきたじゃろ。おとりを最後まで追うような果敢なアイかて減ってきた。
おとりに襲いかかってくるようなアイは貴重や。こういうアイの血統は大事に残したほうがええじゃろ思うからよ。」
アイの習性を百も承知されている野村さんの言われることであるから、しごくもっとも、といいたいところであるが、そうであろうか。
大井川の10月中旬以降、狩野川の10月下旬以降、友釣りで、大量に釣れるとは言い難い。
大井川の遡上量が多かった2006年の10月下旬、下りの集結等のアユも見ることができる頃、どらえもんおじさんやH名人ほか1名が釣った量も、各人60あまり。オラの10台とは比べものにならない数ではあっても、網漁、コロガシで産卵行動としての下り、産卵のために集結している鮎が採捕される量と比べると、問題にならないほど少ないのではないか。
大井川での10月の闇夜、河原に車の進路に布を草や河畔林の枝につけてライトをつけずにやってきて、刺し網を行い、根こそぎさらえる漁と比べると、はるかに少ない。
なぜ、野村さんは、大量殺戮の漁のことを問題にされないのかなあ。あゆみちゃんの意思を重視する友釣りでは、食い気よりも色気のときに、大量殺戮は不可能であるが。いや、野村さんも、暦の基準で行われている11月15日解禁には異議を唱えられているが。
野村さんが、瀬肩で獲られていた鮎は、人工等の放流ものであろうか。放流ものであるから、獲り切ってもよく、他方、瀬につく「おとりに襲いかかってくるようなアイは貴重や。こういうアイの血統は大事に残したほうがええじゃろ思うからよ。」といわれて、天然の鮎を少しでも保護するために友釣りをされなくなったのであろうか。
養殖もん
養殖もんのアイは「自分で苦労して食うちょらんけん、体は太うなっちょっても瀬のような流れの早いとこにはおられん。脂はあるけんど、放流されよってからは自力ではええ餌を食うことができんから、、ダイエット中の太ったおばはんみたいなもんや。」
「海へ出て育っちょらんけん、産卵期に入っちょっても海へ下りるという意識もよう働かん。海が恋しいいうことがないからやね。」
「体が太うても、色ツヤが悪い。ぬめりが少なくて、香りもせんほうが養殖もん。図体ばかりでかくても全体に鋭さがないな。」
この養殖もんの評価はオラにも十分に理解できる。
そして、野村さんも養殖もんが、下りをしないで、産卵をすると観察されているのであろうか。
また、野村さんは、天然もんには香りがする、と語られているが、四万十川では今でも香りがするのであろうか。蟹江さんが、野村さんを訪ねられた最初は、平成7年とのことであるが、その当時でも香りがしていたのであろうか。
小西翁は二ヶ月川で生活すると、その川の鮎と同じ味になるといわれているが、野村さんは、味についても、養殖もんはいつまでたっても、養殖もんの味と習性、と。「湖産」ブランドの放流と、人工の放流との放流種別の違いであろうか。
天然もん
「天然もんのほうは養殖にくらべたら、体はひと回り以上も小さい。けんど健康そうなええ体色や。体全体に神経が働いちょるように、ぴんとした鋭い体型よね。
そんで、しばらく餌をやらんでおいちょくと、天然もんのほうは細るのが早い。なぜいうたら、アイは一日に自分の体重の四割も藻を食うちょるからよ。それにくらべて、養殖もんのほうは餌を食わんでもなかなかやせてこん。人工的に食わしてもろうちょった餌がよっぽど栄養があるということよ。それで体に脂肪をだいぶ貯めちょるからよね。」
「生け簀は養殖もんが育ったとこに似とるけんね、昔を思い出すんじゃろ。こんなかで泳ぐんでも、ほかのもんの後をついていきたがる。自分で動く方向も決めよらん。天然もんの後を追うように泳いじょるのが養殖もんなんよ。」
野村さんは、この養殖もんの体と、行動特性を人間のことに思いを馳せられている。
とはいえ、オラの関心は、
「反対に、ほんまのアイは放流もんより身が小そうても、丈夫や。海で育っちょった記憶もある。産卵期にならんでも、上流から河口まで二回、三回行ったり来たりすることもある。これがアイの自然の習性いうもんよ。」
「ピンとした鋭い体型よね」との表現は、故松沢さんが鮭科特有の鋭い顔立ち、とかの表現で天然もんをオラに説明されていた故松沢さんと同じ。
野村さんは、この潮呑み鮎をどのような現象として、観察されたのであろうか。野村さんの漁場の口屋内から中村まで二五キロほどあるとのこと。その距離は、相模川の汽水域と大島までの距離よりも長いのではないかなあ。
山崎さんは潮呑み鮎を観察しやすい場所におられたが、野村さんはどのような現象を見られたのかなあ。それとも、中村の人達の観察を聞かれたということかなあ。
「行ったり来たりすることもある」とのことであるから、増水等の条件があるときの現象かなあ。
(3) 投げ網と小鷹網 |
@ 同じ網漁か
野村さんは
「私がアイを獲るのは、ほとんど投げ網じゃね。
投げ網いうんは、投網とは違うんよ。どこが違うちょるいうたら、投網のように投げたとき、パラシュートのようにまるく広がらん。長さが一〇メートル、幅が六〇センチくらいの長方形の網が投げ網なんよ。」
投げ網は、紀の川の小西翁が語る茜流小鷹網と違うのであろうか、同じであろうか。
小西翁は「そうですなあ、小鷹網で完全になるというのは十五年ぐらいはかかる。そら自信はないが、どうにか打てるというのは五年か七年ぐらいでできるけど、完全な、ねろうた鮎を絶対逃さんということになりゃ、十五年ぐらいはかかりますよ。
また、友釣りは一人前の友鮎(おとり)の動かし方をして、一人前に釣るということには、利口な者で六,七年はかかる。それから投網は、徒歩打ちで三年ぐらい。大きな舟打ちで五年。それで一人前になる者は、よっぽど利口なほうです。この投網の徒歩打ちは、技術の面では一番易しいんですけど、目標たがわず多くの魚をうちとるには、かなりの苦労はありますな。」
ということで、投げ網も小鷹網も投網ではない、という点では間違いなさそう。そして、前さんが萬サ翁に囮をとってもらうときに手助けしたのは舟打ちの投網であろうか。
小鷹網は「丈が一尺六寸五分、長さが四.五間の一重の網に、アバ木(ウキ、桐製がよい)とユワ(オモリ)をつけ、その時期の鮎の大きさに合わせて編んだ目合いのものを使って鮎を捕まえていた。」
とのことであるから、長さ、丈は投げ網に類似している。
なお、小西翁は、打ち方で、川下から上流に投げる、川上から下流に投げる、右岸から打つ、左岸から打つ、の四とおりに名前があると語られている。
小西翁は、小鷹網の投げ方について、川下から上流に投げるのを「上し投げ」といい、川上から下流に向かって投げるのを「落し投げ」と区別され、さらに、右岸から打つのを「マナゲ」、左岸から打つのを「ヌキナゲ」と区別されている。
したがって、右岸からは「ヌキナゲ落し投げ」と「マナゲ(上し投げ)」、左岸からは「マナゲ落し投げ」と「ヌキナゲ」(上し投げ)というように区別されている。
この区別の仕方はよくわからない。「右岸に立つ」「左岸に立つ」ということで、「マナゲ」「ヌキナゲ」の区別をされているのではなさそう。
「右岸の川沿いの川の下流から上流に向かって打ち手の右から投げるのをマナゲというんです。」
とのことであるから、打ち手との投げる位置関係が区別の基準のよう。
「マナゲに対してヌキナゲは、動作を起こしてから網が着水するまでに一〜二秒遅れる。マナゲのほうがその点で効率的だが、ポイントによってはどうしてもヌキナゲでなければならぬ地点がある。」
なんで、マナゲのほうがヌキナゲよりも時間が遅れるのか、オラには理解不可能。
野村さんは、小西翁のように、打ち方、動作方向の区別をされていないが、上から下への投げ方がないのは何でかなあ。小西翁のように、投げ方の種類を語られなかったのはなぜかなあ。そのような区別がなかったからか、打ち方が一つであったからかなあ。
A 網漁の場所と時間
野村さんがやっていた投げ網も夜に行われる網打ちのひとつであるよう。
ただ、小西翁が4とおりの投げ方を説明されているが、野村さんは、「いまの投げ網漁ではバラスの上から網を投げるわな。下の方から上のほうに向かって、弧をかくようにしてアイを囲むように投げる。一度網を投げたら、つぎは二〇メートルくらい上へ移動する。アイは音に敏感やからね。一度投げたら逃げてしまいよるけん、このくらい離れんといかんのよ。間もあけんといかんし。」と、「下の方から上のほうへ向かって」とのことであるから、二とおりの投げ方になる。
次の投げ網を打つとき、「二〇メートル」をあけるとのこと。同じことを小西翁も語られていたと思うが見つからない。投げ網、小鷹網を打って、鮎に感づかれない距離は二〇メートル必要、ということが、紀ノ川、四万十川で同じとなると、水量、川の大きさは影響しないということかなあ。
「獲るとこは、瀬肩いうて、瀬に入る前の浅いとこ。深さでいうたらスネのあたりやね。五月頃から夏にかけて、アイは、夜にはこういう瀬の肩の浅いとこに集まっちょるんよ。」
野村さんが瀬肩での投げ網を何月頃までされているか、については書かれていないが、下りのための集結をする頃はもう漁をやめていたのかなあ。それとも産卵場に集結する鮎も対象にしていた小西翁と同様、最後まで打たれていたのかなあ。
また、成長、季節、川の状況にかかわらず、瀬肩を漁場とされていたのかなあ。
「そんでも、私が網を投げるんは闇の晩だけよ。時間はだいたい夜中の二時頃から。月が早く沈んだ朝闇の晩や、雨がブシュブシュ降るような真っ暗い晩よ。
なぜいうたら、夜行性やないアイは夜は鈍や。それに雨が降っちょるときは、アイが川の縁へよってきちょるけん。」
小西翁も
「今は昼の漁が多くなったが、昔は夜の漁がほとんど、八割方を占めますね。鮎漁は、じつは夜の漁やなけりゃ本当じゃないですよ。」
「わしが五十歳ぐらいになるまでのだいたい三十年間はもうほとんど我が家で寝やんと川に出る状態でね。」
「だいたいわしは瀬張り漁というものを重点にやったわけです。夜の六時から朝の六時まで十二時間やるわけです。」
「瀬張り漁で鮎がとれんおりには別の漁法でまたやるんですよ。」
なお、野村さんは、「おとり掛けのときはこの時がねらいめやな。敵を追うのは就餌のときじゃけん。けんど、朝の二時くらいになると、アイの腹には昼に食うたもがなくなる。だいたい全部、糞にして出してしもうちょるから、腸と一緒に食べてもうまい。
最近はええ藻を食っちょるアイが少なくなってきちょったけん、なおのこと、こんな時間帯に獲るほうがええじゃろ。藻と一緒に食いよったダムからの土砂も一緒に排泄しよる。深夜になったほうが、体にたまった汚れを全部出したうまいアイが獲れるということじゃねえ。」と。
小西翁は、夜七時頃には珪藻の殻を排出している、と、書かれていたと思うが、オラは、少し早いのでは、と思っていた。野村さんのいわれる朝二時まではかからないかもしれないが。なぜなら、時合いの回数が三,四時間ごとかもしれないから、就餌後、三時間ごとに腸は空になっているのでは、と想像している。その時、珪藻の殻も排出されているから、ウルカにしてもざらざら感がなくなるのではないかなあ。
野村さんは、四万十川でさえ、泥をはんだ腸といわれているが、四万十川よ、お前もか、と。泥をはんだ腸が相模川の専売特許ではなくなった。
なお、野村さんは、網漁で獲った鮎は、「すぐに頸のあたりの骨を折って、コトっと殺す。中指でさっと骨を折ってからビクに入れるんよ。急に死んだほうが鮮度がええからやね。」
故松沢さんが、時合いのときに、淵から差してくる黄色の衣装をまとった鮎を一本瀬で、尻尾よりも内側に針をセットして、頭掛かりにして、活け締めにされていたのに通じるのかなあ。
(4)自然現象観察力
@ 音にも敏感な鮎
野村さんは、「投網をするひとも、風がやんだときは網を投げんいうね。風がないと舟の影を感じてアイが逃げるからや。それくらいアイは敏感なんよ。」
そのため、小西翁は、ほかの釣りのときでも「それは静かに下がる。われわれは河原を歩くのは上手やけど、とくに音がせんように静かに静かに下るわけです。そうしたら新しい釣り場になる。いままでやってなかった、針の味を知らん魚のおるところへ替わるわけです。そしてそこで釣れるだけ釣る。この魚はかかるかかからんかくらいまでわかりますよ。だいたい食い付き方を見ておったらわかるんです。二回も三回もくるやつは必ずかかる。それを釣ってもて、これでおしまい、ここはあかんということになったら、またハリスの長さだけ下る。この繰り返しです。」
故松沢さんが、剣道の先生は遠くで釣っていても歩き方から、見分けがつく、見事な足運び、といわれていた。それほど、音を立てずに歩くことは重要なよう。
小西翁は、「追えば追うほど向こうは早うなる。漁は引き寄せが肝要ですよ。魚を引きつけるという考え方がなかったら、漁の成績はあがらんです。ジーッとやりさえすれば、相手は寄ってくる。」
A 天気と魚
小西翁は、自然のひとつの現象である天気と魚の予知能力関して、よいポイントがあるとして、どの漁法を選択するか、という質問に対して、
「それは天候から季節、風向き…と、何もかもにらみ合わせて、きょうは友釣りがいいか、コロガシがいいか、毛針でドブ釣りにしょうか―と、その時のいくつかの条件を考え合わせて使い分けていかにゃいかん。一般に長いあいだ天気つづきで雨に変わるかもわからんというような状態のときは、すべていいわけです。これはどんな漁でもそうです。魚というやつは天候には人間より以上に敏感です。天候はどうもないのに、いつもより食みがあるなと思っていると、必ず天候が変わってくる。それほど敏感です。人間だったら雲とか風向きなど、見に見えるようなものの変化でないとわからんけれども、蜷貝(にながい)は天気がちょっと変わっても移動するように、それだけの天気を予知する何かを備えているんでしょう。」
「天候と水の動きかげんで、魚の食み方とか、夜の休み場とかが変わるわけです。漁というものは水ひとつです。その変わった状態を知り抜いておらなんだらできんものです。」
野村さんは「〜長年、漁をしちょると、水に自分の足をはめたら水温でアイがいそうなとこがわかる。夏やったら冷(ひ)やいとこやし、冬は暖かいとこ。アイも人間と同じで、自分に都合のええ温度のところへ行きたがるけん、これがわからんとアイは獲れん。自分がアイになりきらんと獲れんいうことじゃろね。」
平成8年8月千種川上郡。水温は高く、ぬるま湯に入っている状態。おとりは2,3回引き寄せると、過労死寸前に。
橋上流の左岸に水路の流れ込みがあり、そこは少し水が冷たかった。草むらの下流に囮を入れて、草むらのすぐ脇を水路状のところへ。竿を草むらの上に置いておくとオラが操作するよりも早く釣れた。伏流水が出ているところ、冷たい水が流れ込んでいるところがポイント、といわれていることを味わえた。
狩野川城山下のオールドファンの郷愁の場にすぎない、といわれて閑古鳥の鳴く藪下に水温が30度近くになったときのこと。藪下の墓の附近には、川の中に湧き水がでているとのこと。
そこに入ったひとが釣ってきた鮎が、テントにシャネル5番の香りを振りまいていた、とのこと。
多分、故松沢さんがシャネル5番の香りを嗅ぐことのできた久々のことであり、また最後ではなかったと思っている。
水温がこれらのようにはっきりと違うことがわかれば、オラでもその場所を認識できて、その場所を釣るが、そんな易しい課題の場所はないよなあ。
8 洪水
a 山の変貌
「黒尊にはええ天然林がありよったなあ。
ヒノキやスギの針葉樹だけやのうて、いろんな広葉樹がまじっちょる。みな伐採されたり炭にしよって今はほとんどないけんど、シイノキなんかとくにたくさんありよったなあ。しいは根元にようけ水を溜めちょるけん、ええ木よね。
あんまりええ森やけん、りっぱな木と木の間にもカシの木なんかがようはえちょってねえ。」
そのカシの木を宇和島のほうからやってきて「よう盗み焼きして、炭にしてもって帰ちょったそうよ。」
「針葉樹は根が浅いけん、土を流れんようにとめとく力が弱い。」
「広葉樹は葉っぱかてえらい。のちにたい肥になって、それからだんだん土になりよる。」
広島県の誰も住んでおらん山奥に仕事で行った時のこと。
「そこへ行ってみたら、なにやら土の小山がありよる。地形的に見たら不自然な小山じゃ。
そんでだんだん土を除けちょったら、墓石が出てきよった。」
「そいで、じっと周りを見たら、大きな広葉樹が何本も植わっちょる。」
「地球は月の表面みたいなところに何年も何年もかかって、枯れ葉やら木やら植物やら虫やらがたまって土ができた。そういう話よね。」
「それ思い出したら、いっぺんに小山の謎が解けた。まっこと広葉樹ちゅもんはえらいもんじゃ思うたね。」
「山かてただ木がありゃええいうもんやない。
中身が問題やいうことなんよ。」
「木を伐採したあと、針葉樹ばっかり植えるようになったじゃろ。これではせっかくの山も力を発揮できんじゃろう。同じような木ばっかり、長いこと植えよったら、同じ養分ばっかり吸収しよるけんね。山かてたまらんいうことになる。」
「日本中どこでもこの時代は山がにぎやかじゃった時代よね。山奥の分校にも生徒がようけおった時代やったと思うわ。
そのにぎわいが去るころ、国がスギの苗ばっかり安値でわけたけんね。伐られた山はみなスギばっかり植えられることになったじゃろ。国が経済だけを優先することに走った結果よ。天然林はほとんどスギの人工林に変わったわけよ。」
「そんでも、黒尊流域は四万十川やほかの川より、いまでも原生林が多い。山が深いいうことが幸いしたんじゃろ。黒尊大黒山にもええブナの原生林が残っちょるわ。」
「本流よりええアメゴやアイがようけおる。スイカを切ったときのような匂いのするアイが獲りたかったら、黒尊川よね。」
黒尊川には、野村さんの家のすぐ近くのバス停を通るバスで行けるよう。奥口屋内には泊まるところがるかどうかわからないが、早く宝くじが当たってえ。今生の思い出に今一度のシャネル5番を振りまく、ぬめぬめのあゆみちゃんをだっこさせてえ。
「黒尊の木材景気は昭和三十年代まで続いたけんねえ。営林省の下請けせんで、個人で炭焼きや松煙焚きに山に入る家族もおった。」
「まあ、木を伐採して食うちょるひともおるからしかたないけんど、伐採して売るいう目先のことよりも、木や山を育てるいう先のことも考えんと。
山や木は私らより寿命のあるもんやけん。それを自分が生きちょる間に、金に換えよう、思うんは土台、無理な話よ。」
b 台風
「この家に住んでから、大水が出た最初は昭和十六年じゃっとやろか。
けど、これは川が増水するいうんと違うちょって、山津波やったんよ。」
「そのあと昭和二十年代は台風の時代やったなあ。四万十川も一番暴れた時期やと思う。四万十川周辺の伐採が始まったころやけん、山が一番活気があった時代よね。口屋内から見える山は伐採が終わって、植林したてやった。木がまだこまいけん、よう鉄砲水にもなったんじゃろ。」
「昭和二十年代には二階まで荷物を上げたことが何度もあって、家が水に浸かったことも多かったわ。」
「それから以後では、昭和三十八年の台風九号がえらかった。」「昭和四十六年、昭和五十七年と大きな台風が来よったなあ。
最近では平成九年が増水したけんど、川のいちばんニキにあった畑だけが流れたくらいじゃろか。」
「そんでも、こまいときから川の端で育ったもんはどんな大水が出よっても、自分が流されるいうことはないわ。どのくらいの水でどのくらいの早さなら、どこまで来るいうことをやっぱり体で知っちょうからじゃろか。不思議とみな水には強いわ。」
九州男児が、こっちのテレビでは、浸水した、と大騒ぎし、大変や、と報道しているが、その浸水しているところでは、浸水するのは当たり前、との生活をしているから、なあんも問題ない、といわれていた。備えはある。後片付けが必要なだけ。
大変や、と報道する感覚は、野村さんが言われている「都会のひとの発想」ということと同じであった。
「それでもときどき大雨が降ると、中村のひとは不安になるいうねえ。街はだいぶ低いとこにあるし、堤防もそう高くない。堤防が切れたらしまいや、いうて、どきどきするということがいまでもあるという。
けんど、このどきどきするということをなくしたらいかんと思うんよ。私らは自然の中に暮らしちょるんじゃけん、こういう不安はあって当たり前よ。それを技術で万全にしたけん、大丈夫や思うからいかんのよ。」
「川は直線にされよって、堤防は高う築かれて、岸はコンクリートで固められちょる。水は堤防から一滴もこぼさんようにして、とにかく早う川へ流し早う海へ送ればええ、いうんが明治時代からの日本の治水の考え方よね。」
「けど、雨を貯める森は伐られるし、降った雨は川しか行きよるところがなかったら、ちょっとの雨でも洪水になる確率は高うなるじゃろ。増水した水がいまある堤防を越えたら、ダムを造るか堤防を高くする。それではいつまでたっても問題は解決はせんわ。
こういうのは川の端で暮らしたことがない都会の人の発想や。水はあふれるもんやいうことを前提に考えんから、ダム造ったかて結局、効果がないいうことにもなるんよ。
水は一滴もこぼさんで海へ送ったらええんやない。途中でじこじこ流れてもええような余裕を残しちょく。そういうことをせんから、堤防もどんどん高くせなならん。ちょっとはこぼさんと、下へいくほど堤防の負担も大きくなるだけよ。
被害もあるけど、大水出るいうことは自然にとったら必要なことなんよ。」
故松沢さんも、狩野川が溢水していた頃、溢水を危険とは誰も認識していなかった、と。ただ、浸水した畑、田をもつ農家は、流れ込んだ砂を除かなければならなかったから、大変であったが。
溢水しないほどの護岸にして、失ったものに目を向けるひとが、河川管理者に、川の「ニキ」(川端の近く)で生活するひとのなかに、思いを巡らせる世が来ることはあるのかなあ。
「なんでも技術で固めて、暮らしの不安がなくなるようにしたら、死ぬまで安全やいうこともないし。技術にすっかり頼って、安心してしまうから、災害が来よったときにも大あわてなんじゃろ。パニックしよるんがいちばん被害を大きくする元やけんねえ。
河原のヤナギがどんな大水でもいっこも長されんのは、いつでもかまえちょうからよ。大水に備えてじこじこ根を張るように、いつでもしよるからじゃと思うわ。
いつでも、自然の中に自分があることを忘れんことよ。」
「それに、いま残っちょる堤防はどんな大水でもこわれんかったもんじゃろ。それをわざわざこわして、みなに都合の悪いもんにするいうんはどういう考えなんやろな。」
江戸時代の初めのころに、土佐藩で土木工事を指揮しよった野中兼山いうひとがおった。」
「いまの護岸工事のお手本や思うのは、こんひとの用水池よね。」
「〜周りの土手を粘土のような土にしよる。それでその土手にノナカグサいう草を植えよった。この草は生長すると土が流れんようにしっかり止める作用をするらしいね。それで土手が強うなるらしい。」
大熊先生もコンクリート護岸ではなく、機能はコンクリート並みの、そして、廃棄物としての土への還元も容易であるシダ沈床?を提案されていた。
c 黒尊川を見習え
「『工事をしよるなら、黒尊を見習え』と私はよういうんやけど、護岸工事も少なかったけんねえ。上へ行くほど、川は昔のまんまで、岸の緑が水面に落ちそうなほど豊よ。紅葉のときなんか最高よね。
ムカシトンボやハグロトンボ、あんまり見たことのないようなトンボやシオカラみたいな太いトンボもようけおるわ。静かな渓流でじいっと釣り糸垂れちょって、視線を感じたら、そおっとふり向いたらええ。すぐそばの枝のヤマセミが『どや、釣れたんかいな』いうみたいに見張っちょる。鋭い声で『ケケケー』いうて鳴くくせに、この鳥は枝に止まるとぴくりとも動かんけん、驚かされるじゃろう。
とにかく、川でも山でもひとの手が入らんほうがええ。つまり、そういうことになってしまうわね。けんど、ひとも営みせんと暮らせんけん。よう先を読んで、欲をかかんで、なんでも大事にしていきたいと思うんよねえ。」
里山は、人の手が入らないと、荒れる、との話があったと思うが。
昭和30年前、台風の後、紀州から大量の材木が明石海峡に流れてきて、しばらく、潮の流れに身を任せていた。その材木につかまり、潮の流れに乗って、舞子へ、流れの向きが変わると、元の場所へ、と帰ってくる少年もいた。
材木の上には、蛇や狸のような生き物がいることもあった。材木は針葉樹ではなかったのかなあ。
野村さんは、黒尊で、古の面影を残す山と川をまだ見ることができたが、故松沢さんは、狩野川でそのような感慨にふけることはできなかった。それほど、山は荒れていたとのこと。川も流れにブルを入れてまで平坦化させ、さらに、土砂の流入量が掃流力を上回るためか、どんどん平坦化し、流れが弱くなり、あるいは石が埋まっていっている。
9 花鳥風魚
野村さんは、鳥と花と魚とカヌー等の自然と魚とひとの営みを観察されている。
花については、「みずのように」さんであれば、どのような花であるか、すぐに分かるであろうが、オラにはさっぱりわからない。鳥についても、先日、相模川の望地の河岸段丘の雑木林にいた胸回りが黄色いきれいな鳥も、河原の草むらにいた羽を広げると黄色い衣装を着た鳥もなんちゅう名前か、さっぱりわからない。
ということで、野村さんが伝えたい自然を観察せよ、との命題に答えることはできないから、野村さんが語られている一部を紹介することで満足せざるを得ない。
a 春
佐田の沈下橋あたりが「護岸工事もなくて、川砂利も取らんかった昔の四万十川は、どこでもこんなええ景色やったんよ。」という、昔の姿を残している。
その四万十川らしい佐田の春らしい風景とは、
「鳥のさえずりが聞こえて、風の音と川の音が静かに流れてくる。朝早うに川霧に包まれた沈下橋のたもとには、菜の花が広がっちょる。黄いな花の色が川にも映って、絵のように美しいいうのはこういうもんじゃろと思うわ。」
「ヤナギで一番先に花が咲くんがネコヤナギよ。このヤナギのやわらかい穂が出て、アカメヤナギの赤い新芽が出ると、私はいつも春やなあと思うんよ。
こんころになると、川ではアイやゴリ(チチブ)が集団で遡上し始める。この遡上を待ちかねたように、コサギが群れよる。そろそろシジョウゲが淡いピンクの花を咲かせるころや。」
「アオバズクが『ホーホ、 ホーホッ』いうて鳴き始めたら、だんだんに暑い日があるようになって、カワセミが柳の林から川に飛び込んで、こまい魚を獲ったりしよるわ。」
「そうして、五月の連休になると、四万十川は急にひとでもいっぱいになる。鳥やら魚やら虫がだんだんにぎやかになるより早く、こっちのほうは一斉ににぎやかじゃねえ。」
連休がすぎると「人の声で隠れてたんか、自然のほうがにぎやかさも日ごとに増しちょったことにあらためて気づく。このころから夏に向かって、自然の大合唱が始まるんよ。」
ツバメのヒナが「『メシくれや、はよくれや』」と鳴き、一人前に鳴けるようになったウグイスのオンが「『わしと一緒に子つくろうや』」と、また、セキレイも恋の歌ばかりうとうとう。
「河原の近くにはクリの木も多いけんど、その花も満開や。」
「まあ、そういうわけで、河原はヤナギやしいやエノキの緑の匂いとクリの花の匂いにあふれちょる。川へ行けば、南からやってきよったオオヨシキリは、夜が明けて朝になったかならんうちから、バラスのヨセ原で『朝やぞー、朝や。ギョギョシケケシ』いうて、大口開けよる。さえずるときはとくに高いとこへ行くけん、この鳥はまっことやかましいわ。ヨセではセッカも忙しく飛び回っちょる。」
黒尊川近くでは「目が覚めるほど青い色をしたオオルリのオンが」「『ピュリュリー、ピュリピューリーボー』いうて、気が長いようにゆっくり鳴くようになる。」
「『シーシーホイホイ』いうサンコウチョウも鳴いちょうよ。」
夜はツチガエル等の合唱が。
昌子ちゃんの「ひゅるるーひゅるりー」はオオルリかなあ。そんなことはないよなあ。季節があわんもんなあ。いや、風の音も鳥の鳴き声も区別のつかんもんが、雑音をいれてすんません。
「六月に入ったら、そういう虫の声とともに、河原のヤナギでかえったホタルが飛ぶんよ。
ここらは平家の伝説はあるけんど、飛ぶのはゲンジのホタルや。」
「ホタルが出よるころは、陽気でいうたら、そろそろ梅雨の季節や。
私は、自然が一気に活気づいたようなこのころが一年でいちばん好きなときなんよ。テナガエビも夏前のこのころがいちばんうまいわねえ。」
b テナガエビ
テナガエビがうまいとなれば、食べるしかない。
山崎さんは、「いま全国の河川からエビの絶滅が伝えられており、とりわけヤマトテナガエビは最も清冽な水を好むので、一番早く絶滅の危機に瀕していて、鹿児島県の一部とこの四万十川が最後の棲息地になりかけている。幻のエビといわれるほどで早急な保護対策が望まれる。
それでもまだこの川にはテナガエビの仲間は豊富である。梅雨明け頃がテナガエビ仲間の産卵期で、婚姻色がでて真っ黒になった親エビが卵をいっぱい抱えて汽水域をめざして下ってくる。だいたい汽水域まで下ってきて孵化が行われるのは、テナガエビとミナミテナガエビの二種に限るようで、ヤマトテナガエビは汽水域よりやや上流、あるいは中流域あたりで孵化すると考えられる。
この頃になると味も上々で、その上煮ても焼いても紅で染めたように真っ赤になるので、料理店などでも喜ばれ、値段もよい。今年(昭和五十六年)の七月中旬頃にはキロ三千円もで取引された。」
野村さんは、「テナガエビには、ヤマトテナガエビというんとミナミテナガエビという二種類がおる。両方とも手が長いから見分けがつかんけど、手の長さがちょっと違うわ。
そんで太いほうのミナミテナガエビをここいらではポパイと呼ぶ。力がようけありそうな腕をしとるほうがポパイちゅうわけよ。」
野村さんは、山崎さんと違い、「テナガエビ」という名前での区別をされておらず、「二種」とされている。そして、山崎さんが保護対策が必要とされる「ヤマトテナガエビ」をポパイ同様、食にするほどの量が獲れる対象とされているのであろうか。それとも?
山崎さんが言われる「テナガエビ」と野村さんが言われる「ヤマトテナガエビ」が同じであろうか。それとも、「ヤマトテナガエビ」を、野村さんは食糧にするほど獲っているということであろうか。
それとも、山崎さんが「テナガエビ」と分類されているエビは、野村さんの「ヤマトテナガエビ」と同じであろうか。
野村さんは「どちらも唐揚げにしたら、酒の肴にぴったしやし、ソーメンのつけ汁にしたらこたえられんわ。」
四万十川にカヌーを呼び寄せることとなった野田知佑さんがやってくると、
「それから、来るたんび、うちに寄っていきよるようになって。うちの生け簀をのぞいちょって、『おーいるいる』いうてうれしそうにしちょって。テナガエビのソーメンが好物やからね。エビが入っちょると野田さんの腹の虫が喜ぶんじゃろね。
野田さんが来よったいうと、うちのばあさんはソーメンやらなにやら御馳走をこしらえる。そいでカヌーで下ってきちょったところを迎えに行って、うちで食べてもらうんよ。
そしたら、『これはいいなあ』いうてようけ食べるわ。エビソーメンやと、まっこと腹いっぱい以上に食べよるけん。本人も『ここは、しまんと川じゃなくて、肥満と川だ』とよういうちょるんよ。」
弥太さんにはテナガエビをダシにすることが書かれていたかなあ。四万十川と仁淀川では食べ方が違うのかなあ。
山崎さんは、ダシにすることを書かれていないが、ダシにすることもあったのかなあ。
漁は、山崎さんが柴漬け、野村さんがエビ筒。野村さんの餌は、2等米を精米して出るぬか等。2等米でも、精米したてはうまい、とのこと。
山崎さんは「八月頃河口近くでプランクネットをひくと、水平に引いても垂直に引いても至る処で大量の幼生がかかる。」と。
c 弥太さんとテナガエビ
弥太さんはテナガエビをなんといっているのかなあ。
「テナガエビのことは、わしらは昔から普通にエビと呼んどるのう。」
「戦前はどこでもおったものが」「昭和20年代じゃろう。それこそ農薬の出始めで、DDTとかBHCなんぞをどんどん使いよったころ」には、「ガクンと減ったわね。」
「いまは多いぜ、エビは回復したというか、かなり増えちょらあ。昔自分らが獲って遊びよった頃より、まっとおりゃせんかね。」
「なぜ戦前よりも多いかはわからんが、たぶん川のバランスというものが変わって、エビの住みよいような水質や環境になったがじゃろう。」
ノミとDDT
宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」(平凡ライブラリー)
「まず粕壁(埼玉県春日部市)で泊まるのですが、
蚤の大群が来襲したために、私は携帯用の寝台に退却しなければならなかった。(第六信)
と、他の場所にも出てくるのですが、当時の日本にはものすごいほど蚤がいたことがわかるのです。蚤は家の中だけでなく鈴木牧之(ぼくしゅう)の『秋山記行(あきやまきこう)』を読んでいますと、秋山から草津の奥へ川魚をとって歩く途中、川原へ小屋を建てて野宿するのですが、寝るとすごく蚤が飛びついてくるというのです。すると家のない、人の住まない山中にもいたわけです。」
「そして彼女が旅に出て最初にぶつかった問題は蚤だったわけで、外国人としてはおそらく驚いたことだろうと思うのです。日本人にとっては蚤に食われるのは当たり前のことだったけれども、やはりこのくらいいやなものはなかったと思います。いま、青森、弘前に“ねぶた”という行事があります。いろんな伝説がついていますが、これは“ねぶたい”ということで津軽では“ねぶた流し”といい、富山県あたりまでこの言葉が見られます。つまり、夏になると蚤に悩まされてみなねむいので、そのねむ気を流してしまおうということです。(以下省略)」
雨村翁は「そのがらんとした青木さんの家は、新荘川の中流、遅越(おそこし)というよりも、郷社加茂さま(加茂八幡宮)で知られている宿場の中央にあった。」に何年か定宿にされていた。
「わたしは浮き世にくったくのない、飄々乎とした老人の風格がどことなく好きで、川開きに新荘川へ出かけるのも釣り七分に、久々で老人の顔を見たい気持ちが三分は手伝っていた。
だから畳のへりも大方とれたあの薄汚い部屋で、煎餅布団にくるまって寝ることも平気だったが、ただ蚤の襲来だけはおそれいった。おそらく掃除というものは、その昔、博労たちが集まって酒をのみ賭博をうったその当時から一度もしたことがないのであろう。初めて同宿した某が一夜まんじりともせず、畳も躰ももちあげる蚤の大群だとこぼしたことがあった。」
「〜わたしはいつも蚤とり粉を二かんくらい用意して出かけていったものである。」
もう、戦後のことかなあ。
昭和21年、女の子は頭にDDTを撒かれていた。男は丸坊主のため、シラミはいないから、とその対象にはならなかった。
赤痢や疫痢が出ると、その家の便所の汲み取り口や溝に水に溶かしてDDTが撒かれた。その頃は、DDTは公共財であった。
昭和25年ころになると、大掃除の時、屋外に畳を干している間に、床にDDTが撒かれた。
DDTが民間でも使われるようになると、蚤も減っていき、ついにはいなくなり、指につばをつけて、逃げられないうちに爪に蚤を移し素早く反対側の指の爪で潰す、というオラの秘伝の技も無用の長物となっていった。
もし、蚤を潰すのではなく、前少年や故松沢さんのように、少年の頃からゆみちゃんのお尻を追っかけておれば、オラのおんなたらしの腕も上がったのではないかなあ。
それから幾星霜、カーソンが「沈黙の春」で、DDTが地球上の生命を滅ぼすと警告した。
しかし、すでに、ドジョウや蛙や魚を食糧にしていたトキやコウノトリや川獺は子孫を残すことができなくなり絶滅した。
川獺の絶滅については、野村さんは、「カワウソの毛皮は襟巻きやハンドバックなどに使われて高価やった。カワウソの肝臓は強精剤や肺結核の薬として高値で取引されたということもあったわ。日本中どこでも密漁が多くて、それが急激に減った原因のひとつやいう。それに川が汚れたことが拍車をかけたんじゃろ。けど、ここいらのカワウソがいなくなり始めたのは、チェーンソーの音がしてからじゃろと私は思うちょる。人の気配を感じたら逃げるいうのがカワウソの性分やし、ひとのおらんいつでも安心しておられるようなとこが住みかじゃけん。大きな音が響くから、よけ、カワウソは私らの前から見えんようになったんじゃろ思うんよ。」
山崎さんは、
「私は少年のころ、時折カワウソが水に飛び込む音を聞いた。夜、舟に乗ろうと思い、持ち舟に近づくと、いきなりドボンと飛び込む犬のような物体を見て驚いたことがある。」
「そのうちカワウソらしい物を見かけなくなり、飛び込む音も聞けなくなった。いまにして思えば河川改修が進み、両岸の茂みがなくなり、棲み家を失ったためかもしれないが、カワウソに関する情報は一時期、それも数年の長期に亘り途絶えていた。」
犬にかみ殺された標本を見て「昔私の若いころに棲んでいたカワウソと違うのではないかということである。以前ここに棲んでいたものは尻っ尾の先が比較的短く、しかもその先端が一部の猫に見られるようにカギ状に曲がっていたはずだ。」
それは明治の末頃まで、ここに住んでいたカワウソ捕りの名人の使っていた『ユミハゴ』というワナが尻尾の先のカギ状の部分にかかるようになっていたから、と。
「この一事からみても、以前ここにいたものと、現在棲んでいるカワウソは形態的にも相違がある。いまみるカワウソは、標本をみても、水面遊泳中の写真を見ても、尾は狐のように真っ直ぐで長い。」
野村さんは「平成四年には佐賀町で体毛が見つかったという新聞記事もあったけんど、きれいな川の象徴みたいなカワウソにはどこかで生きてて欲しいと思うわなあ。カワウソはエンコウかも知れんし、四万十川の昔からの住人やけんねえ。」
山崎さんが「いまここにいるものは昔からの生き残りではなく、北海道あたりから南下してきた一群が繁殖しつつあるのであって、古い主はすでに絶滅したのではないかとさえ考える。」
とのことであるが、古い種か、南下してきた種であるか、もはや調べようがない。カワウソがいなくなったから。野村さんの願いもむなしく。
弥太さんのテナガエビの続き
「わしが住んでおる越知町のほうにもおることはおるが、圧倒的に多いのは伊野町から下の主(おも)の川(本流)よ。」
「さあ、上流はどこまでおるろうか。大きな堰堤さえなかったら、かなり奥までのぼりゆうと思うがね。カニを獲りに小さい独立河川へいくと、支流の支流のほうまでけっこうおるき。カニの仕掛けをつばけたら(漬けたら)エサの匂いを嗅ぎつけて、ハサミを振り上げるようにして、待ってましたとばかり出てきゆう。」
「下流のテトラが入ったところへ行ってみいや。それこそなんぼでもおる。上手に掬うたらやね、子供でも50や100は軽い。あれらは普段、それこそなんでも食うちょるがじゃないかね。カニと同じで川の掃除やじゃき、藻でも、人の残飯でも、死んだ魚でも。」
「わしらが子供のころは、煎った糠がいちばんよいとしたもので、親父に教わったとおりボロきれに糠を入れ、石をオモリがわりに包んで、紐で縛って放り込んだもんじゃ。しばらくすると、エビが匂いに気づいて布のまわりに寄ってくる。それをエビ玉(タモ)で伏せたもんじゃった。
もっと、早う寄せようと思うたら、やっぱり魚を使うほうがえいわね。刺身のアラでも、オイカワやカマカツでもかまわん。棒に結わえて、エビの隠れておりそうな障害物の際(きわ)に差しておけば、ものの3分もせんうちにゾロゾロと出てきゆう。」
カナツキもあったが、鮎での使用禁止で使えないものの、子供が使っても、文句を言う大人は川筋にはいなかろう、と。
「仁淀川では、商売でエビを獲る者は、前はおらなんだと思う。下流の方で捕ったエビを売る者が出てきたのはつい最近のことよ。たぶん四万十川の影響じゃろう。あそこは料理屋でエビを出しゆうき。これを『そんならこっちでも売れるがじゃないか』と高知市内の料理屋もやり出して、場所の近い仁淀川から取り寄せるようになったんじゃおろうと思う。
いや、食うことは食うちょったぜ、昔から。子供が獲ってきたものを、どこの家でも食うちょった。」
天ぷらで。「あとは塩焼きぐらいのもんよね。」
「大きいものも食べでがするが、細いのもまた味がよい。
高知市内の料理屋では、あんまり大きなものは好まんらしいね。そうね、1kgで50〜60匹ばあというあたりが、好んで使われるサイズじゃないかね。」
このように四万十川の影響が及ぶと、「下流の土佐市あたりでは、どう料理するのか知らんが、エビの仔を獲るゆう者がおるね。」
「カニの登り落ちでカニの仔を獲ってしまったら、資源がのうなってしまうぜと口を酸っぱくしてゆうとったもんじゃが、その現場を見つけたわけじゃ。これはもちろん違反ぜ。」
そのカニの仔を獲る登り落ち漁とは異なり、糠を使い、金網の目の細かいものを使って、登り落ち漁をしているのが見つかった。その筒には「丈が2mmもあろうかね。そんな仔エビが1万や2万匹ではきかんほどはいっとる。」
弥太さんでもどのように料理するのか、なんのためか、わからんという仔エビの採捕目的を想像すると、シラスウナギの養殖、カニの養殖と関係あるのかなあ。
山崎さんは「最近東京水産大学の小笠原先生が、このヤマトテナガエビと、マレーシアやメキシコに棲むオオテナガエビとを交配する研究を手がけられ、研究室ではすでに成功したと報告されている。早晩新種のエビがお目見えすることもあるであろう。」
なんで、ヤマトテナガエビと外国のテナガエビとの交配をして、交雑種を作るのかなあ。湖産鮎の需給関係が崩れて、人工等を混入する偽「湖産ブランド」の一翼を担った「人工」アユ等と同じように、テナガエビでさえ、需給関係が崩れているのであろうか。
もし、そうであれば、仁淀川の仔エビはどこかで養殖されて「四万十川」産として、販売されるのかなあ。
2mmの仔エビを食べないとは思うが。
「養殖」テナガエビになったときでも、野村さんはソーメンのダシにされるのかなあ。
野田さんは、養殖テナガエビのソーメンを食べて「『ここは、しまんと川じゃなくて、肥満と川だ』」と満足されるのかなあ。
弥太さんにとっては、子供の遊びであったテナガエビが四万十川の影響が及んで商品となり、さらに「その網は、伊野町あたりの紙会社が紙すきに使う特殊な金網よ」という道具を使い仔エビを大量に捕獲して、せっかく増えたテナガエビが仁淀川から再び減ることがないように願うのみ。
「高知あたりの市場では、キロ3000円から4500円ばあするじゃないかね。ただ、わしは仕事としてエビ獲りはやらん。エビのよう獲れる6月末から9月という時期は、ウナギとアユとカニにかち合うので、とてもではないが手が回らん。」
「エビモジというのは、わしの記憶では昔は仁淀にはなかったと思う。カニ用の丸いモジにはたくさん入りよったがね。遊びでエビを獲る者は、いまもカニと両刀で、黒いプラスチックの地獄カゴを沈めよるわね。」
そのようなエビの仔エビにまで、手を出すようになったとは、商品になるということは、困ったもの。サドが性欲の領域での欲望のまま突っ走る時代を予言したとのことであるが、人間が川の生き物に物欲、金銭欲の欲望のままつきあえば、川の生き物にとってはたまったもんではないよなあ。
d 再び野村さんとテナガエビ
テナガエビを食べている本場の野村さんは、弥太さんよりも多くを語っている。
「エビは三月頃から十一月ころまで獲れるけど、いちばんうまいのは五月、六月やね。けど、一月から五月は禁漁やけん、六月ということになる。
八月になったら、あんまりうまいことないなあ。ここいらは冬寒くても夏はえらい暑いとこじゃろ。暑いと人間かて夏やせするように、エビかてやせちょるき、うまいことない。冷夏のほうがエビはうまいね。」
脱 皮
「そんでも年に三回も脱皮しよるけんね。脱皮したてのやわらかいのもまた、うまい。」
産 卵
「メンは小さいもんでも、身からはみ出すほどようけ卵をつけちょるけんど、産卵も年に三回もしよるのがおるんよ。あんまりはっきり決まっちょらんで、四月から七月、九月から十月ころに産卵するらしいね。
メンは上流に行きよるほど多い。少々の水が出ても卵がながれんような石があるからじゃろ。そういう石の下に産卵しよるけんねえ。卵を持っちょるメンがうまいいうひともおるわね。」
この野村さんの観察は、山崎さんの「梅雨明け頃がテナガエビ仲間の産卵時期で、婚姻色がでて真っ黒になった親エビが卵をいっぱい抱えて汽水域をめざしてくだってくる。だいたい汽水域までくだってきて孵化が行われるのは、テナガエビとミナミテナガエビの二種に限るようで、ヤマトテナガエビは汽水域よりやや上流、あるいは中流域あたりで孵化すると考えられている。」と、異なるのであろうか、それとも、二人とも適切に観察をされているのであろうか。
山崎さんは、「八月頃河口近くでプランクネットをひくと、水平にひいても垂直にひいてもいたるところで大量の幼生がかかる。」とのこと。
したがって、汽水域付近を産卵場所とするエビが大量にいるということであろう。
しかし、もし、七月頃が産卵時期とすると、六月に野村さんが卵を抱いたエビを大量に獲ることが困難ではないかなあ。
ただ、山崎さんは、「ヤマトテナガエビ」は、汽水域のやや上流、あるいは中流域と推定されていることから、野村さんが増水でも流されない石に産卵する、という現象も事実ではないか。
そうすると、野村さんは「ヤマトテナガエビ」を獲っているということであろうか。もしそうであれば、山崎さんが「ヤマトテナガエビ」を絶滅の危機にある、といわれていることは、どのような現象を観察されて判断されているのかなあ。
弥太さんが違法な仔エビ採捕を取り締まられたのも下流域でのこと。したがって山崎さんが分類されている「テナガエビ」と「ミナミテナガエビ」の仔エビということであろうか。
さらに、野村さんは、「産卵も年に三回もしよるのがおるんよ。」と、語られているが、どのような現象から複数の産卵を推測されたのかなあ。
もし、複数回の産卵をしているとすると、産卵場所が汽水域付近の「テナガエビ」「ミナミテナガエビ」ではないとなるのでは?
あるいは、「ヤマトテナガエビ」が複数回の産卵をするということかなあ。
相模川で、ナマズのエサをとっていたときに、テナガエビが混じることがあっても、数多くの顔を見てはいないし、ましてや、どんな生活をしているか、わからない。ということで、野村さんの観察されたことがどのような意味を持つかも、見当がつかない。
故松沢さんがテナガエビをとって食にされた子供のころがあったのかなあ。狩野川でもテナガエビが食にされていたのかなあ。
e 野村さんのうなぎ
「雨のふらんナガセ(注:梅雨時のこと)の朝は、朝霧の向こうから陽が透けるように光ってくる。
虫の声もカエルの声もおさまって、川はまた静かになっちょる。ナガセの終わりの時期よ。だんだん晴れる日が多くなって、差し込む陽も朝から、すでに暑いわねえ。
バラスにあるヨセ原では、そのなかで最も高いヨセの先に止まったもんが、一番鳥や。天に向かって、大きくクチバシを開けたオオヨシキリが『ギョッ、グワッ、グルルルー』いうて鳴く。その声が響いたら、あとはもう、ヨセ原中がオオヨシキリの大合唱になる。
朝からこの大合唱が聞こえたら、ここいらも本格的な夏なんよ。」
その夏の前、「昔から、口屋内ではコロバシに一番ウナギ(注:のぼりうなぎ)が入るんが、ナガセ(梅雨)のころやったけんねえ。上りウナギでも水温が上がるころが入りがええ。それで『カジカのコイコイいう声がしたら、ハエナワでも獲れる』いうたり、『ナガセのウナギは棒の先でも食いつく』いう言葉があったんじゃろ。」
「あと、よう獲るんは、最近はシラス(ウナギの稚魚)漁が盛んになったせいもあって、あんまり獲れんようになったけどウナギやったね。
土用の丑の日ごろに獲れるんは、うまいといったらない。もちろん天然ウナギじゃけん、養殖もんのようにウワウワやわいのと違う。ええ具合に弾力がある。奥行きがある味いうんじゃろか。しみじみと腹に染みる味やけん、天然もんを一度食べたら養殖もんは食えんようになるんよ。」
「昔は太いウナギがようけおった。カニクイいうてふつうのウナギと違うけんど、重さが一〇キロを超えるようなオオウナギガおるじゃろう。あんなんに近いような太いウナギがぎっちり(たくさん)いたんよ。こういうウナギが、川暮らしが五年も一〇年にもなっっちょろうというやつや。体長が六〇センチにもなっちょる。
川の中で、この太いウナギとカワウソがケンカしよるのを見たいう友だちもおって。水中で格闘しよるうちに、カワウソがウナギを抱えたまま岸に上がって、とうとうウナギを頭から飲み込むとこを見たいうちょったわ。」
野村さんがウナギについて、語られていることは、このくらいである。なんでかなあ。ウナギについて、山崎さん、弥太さん、雨村翁は多くを語られているのに。シラスウナギ漁の大量捕獲によって、ウナギが少なくなったからかなあ。
体長が六〇センチというのは、短すぎないかなあ。
ウナギに比して、テナガエビはさらに語られている。
f テナガエビの味
「ポパイとほかのテナガとどっちがうまいいうたら、テナガのほうよね。少し足が細いじゃろ。それにやわらかいから足も殻ごと食える。身全体も透明感があってうまいんよねえ。けど、ポパイのほうがゆでると、よけい赤いきれいな色になるわ。」
「海のエビを食うときは頭をとって身を食べるじゃろ。けんど、このポパイやテナガは頭に内臓があるけん、頭のほうがうまいんよ。だからまるごとゆでたら、ソーメンのええダシになる。」
海のエビも頭に内臓があると思うが、何が違うのかなあ。次のこともわからんなあ。
「エビの脂がまたええね。
この脂は食器についても、洗剤を使わんでも落ちるけん。植物性の脂みたいに体にええもんやないかと思う。揚げてもええ、焼いてもええ、汁に入れたら、ええダシのとれる具になるけんね。だから、たくさん獲りたいもんいうことよね。」
まあ、味音痴で、故松沢さんと違って料理をすることもないオラにわからなくて当然ということであるが。
g 道具の工夫
「私はやっぱり獲ることが一番好きよね。そうして獲るために工夫しちょるんが一番楽しい。」
「それで、とうとう一三年ぐらい前に新しいしかけができた。」
「排水パイプがあるじゃろ。あれを竹の代わりに使うんよ。入り口にはエビが入れるくらいの穴をあけた網を内側に向けてつけちょく。そんで反対側には、パイプにちょうどあうような植木鉢の受け皿をはめるんよ。水が通るようにドリルで穴を何カ所か開けちょってね。
餌はどうするかいうたら、ゴルフバッグの中にクラブを一本ずつ立てちょく、プラスチック製のネットがあるじゃろ。あれを六,七センチに切って袋にしたものに、酒カスと少しの水でよう練ったヌカを入れて、下げちょく。そうすると二〇匹くらいはエビが獲れる。」
「昔の人はなんでも、あるもんで工夫したじゃろ。同じように、ひとがいらんいうもんをもろうてきて、私も工夫するんが好きなんよ。」
まったく、弥太さんと同じである。
野村さんが工夫されたエビ筒は、高知のひとに貸したところ、大漁で、みなに自慢したため、雑貨屋で販売されるまでになっている。
ワンタッチ鼻環は、名人達が工夫して使っていたのに、だれかさんが実用新案特許?申請をして承認されたとの噂があった。その人が最初の考案者ではなかろうに。野村さんはそんな私欲を求めることはされていない。
なぜなら、道具を独占しなくてもエビが獲れるから。
このエビ筒を使うには「実際に川で使う前に、一週間くらいは水に漬けちょく。こうやると、プラスチックの匂いがおさまるけん。そうせんと、賢いエビは不審な匂いや思うて近づいてこんもんよ。」
さらに漬ける方向にも腕が関与する。
「漬けるときは入り口を川下に向ける。そんでも、なんでもかんでも下向けたらええいうことでもない。川の流れは微妙やから、周りの流れの影響やらで上に向かって流れちょるとこもある。そやけん、よう見んといかん。そういうとこでは、上のほうに入り口を向けるいうことになるんよ。」
そうなんです。瀬の中でも全て流れが強いのではないよう。石裏でなくても、底の流れがゆるくなっているところがあるようです。なんで、そんな箇所、変化を判断できるのかなあ。だからこそ、故松沢さんが、長良川の漁師にとっては、時代遅れのハリス、針を使っていても大漁となり、一升瓶のお酒を漁師さんたちと飲むことになったんです。
底の流れの変化さえ、感知し、そこにオトリを誘導できる技を持ち合わせていたならば、オラも場所守ではなく、あゆみちゃんをいっぱい侍らせて、酒池肉林の美酒に酔うことができるんです。
道具を名人と同じにしても、ナンパ術の十分条件とはならない厳しい現実。あな、かなし。
夜行性のエビを獲るとき、仕掛ける場所は
「青いコケがついちょる石がようけあるとこへ行きよると、コケが食われてきれいになっちょるとこがあるけんね。これはエビが食いよった証拠よ。そういうとこをねらうんよね。
ポパイ(ミナミテナガエビ)のほうが深いほうで、そやないほうは河原近くにおるようやねえ。そんで、エビもやっぱり人間と一緒で都合のええほう、夏は上流におって冬は下流のほうに行くらしい。」
またもや難題が。「青いコケ」とは緑藻であろうか。珪藻であれば茶色、藍藻であれば黒色が目安になるが。
「青い苔」となれば、大嫌いな、厄介者の緑藻しか思い浮かばないが。ただ、手取川の百万貫岩附近より上流を釣り場にしていたドブさんが、「大岩に青い苔がついていた」といわれていた。それは鮎もつくから、憎まれっ子の緑藻ではないとのこと。
ということで、苔ですら見当がつかない。いまの四万十川でも、憎まれっ子ではない「青い苔」がついているのかなあ。「緑藻」と青ノロは別のものと考えるのかも。
エビが水温にあわせて、上流、下流に移動していることも、どの程度の距離を移動するのか、産卵行動とどのように区別できるのか、年齢、婚姻色による区別か、等、わからんことばかり。
野村さんのテナガエビの捕り方の説明には、入り口の敷居を低くする、ヌカの流れダシをゆっくりにする、といったことも書かれている。
「魚の知恵くらべをするにも、こういう自然のもんをよう見ることがえらい役立っちょうけんねえ。」ということであるから、その観察は鋭いものがあると思う。ただ、おらにはそれをマネできないだけ。故松沢さんも、あゆみちゃんをたぶらかせるだましのテクニックをしゃべっても、みんな同じになる、ただ、それを聞いても、使いこなせる、身につくようにできる、とは思えんが、と。
h 疑問は解決せず
テナガエビの最後は、野田さんが獲っていたエビが、ヤマトテナガエビかどうか、を見ておく。
オラは、野田さんのテナガエビの普段の漁場は、黒尊川か、と想像していた。黒尊川であれば、ヤマトテナガエビが日々の食料になるほど獲れていたかも、と。
しかし、想像ははずれた。
朝5時頃から「前の日に浸けっちょったツガニやテナガエビの仕掛けを上げに行く。ツガニはだいたい黒尊川が多いね。車で行って、歩いて川の中からとってくる。テナガエビのほうは口屋内の沈下橋近くか、鉄橋の下に浸けちょるから、自分の川舟で行くんよ。」
とのこと。
ということで、野村さんが獲っていたエビは「ヤマトテナガエビ」ではなく、山崎さんが「テナガエビ」と分類されているエビかも。そうすると、産卵場所、時期、回数の違い、疑問はなあんも解決できないことになる。逆に、野村さんが「ヤマトテナガエビ」を獲っていたとすると、産卵場所、産卵時期については山崎さんの語られたこととは矛盾しないものの、山崎さんが絶滅危惧種とされた状況とは矛盾するのではないかなあ。また、山崎さんが「テナガエビ」と分類されているエビが、野村さんが「ヤマトテナガエビ」と分類されているエビに含まれている、混合している、ということはないのかなあ。
ということで、田辺翁が適切な観察をされていれば、判断材料が増えることとなるが、田辺翁は「テナガエビ」と藻エビの仲間と思える「桜エビ」の区分しかされていない。
田辺翁が区分をされていなかったのか、それとも、聞き手の資質によるのかわからないが。
野村さんの聞き手の蟹江節子さんは、巨木を訪ねたり、ネイチャー関係のことを書かれている。
弥太さんの自慢話の聞き手のカクマツトムさんは、「遊び・自然環境・手工業分野で、独自の文体を確立しているフリーライター。」「竿をかついで日本を歩く」という著書もあるとのこと。
他方、田辺翁の聞き手は民俗学を嗜まれた方で、釣りとか川には親しむことがなかったのではないかなあ。
故松沢さんも、オラが聞かない限り、川についてもあゆみちゃんの品位、品格、習性について、話されることはなかった。そうすると、聞き手の資質が、専門家の経験と知恵を聞き出すには大切なことではないかと思っている。
「イタドリの花が咲くとツガニが下る」「クズカヅラが咲いたら下る」
「イタドリいうんは川岸によう生えちょる多年草よね。春にはこの若い茎を採って、皮をむいて塩漬けにして食べる。私らにしたら山菜みたいなもんじゃろ。夏から初秋に、川岸で茎いっぱいに白い花をつけるけん、よう目立つわ。」
そのイタドリですら、また、紫色のくずの花でさえわからない。
みずのようにさんが開設されていた「湖畔の里」のホームページには四季を彩る琵琶湖畔、里山の山野草の写真がいっぱい載っていたから、それを見ることができれば、これか、と気がつくかもしれないが。
10 「川の旅人」から
野村さんは、冬の花鳥も語られているが、寒ゴイ、寒バヤを食にされていたことにふれるにとどめて、「川の旅人」の章に移ることとする。
@ 野田さんとカヌー
野田知佑さんに始めて会(お)うたんは昭和54年じゃった。」
「山師が使うような背負子(しょいこ)に荷物を担いで、ここいらをうろうろしよった。あとで聞いたら雑誌の取材で、いろんな人の話を聞いて歩いちょったいうことやったね。
そんなことは知らんし、妙なカッコしちょるじゃろ。そんで、『あんた今日はどこに寝るんよ。』と聞きよったんよ。そしたら、河原やというじゃろ。まっこと、びっくりしたわ。」
「〜河原で寝るいうたら、お遍路さんかものもらいしかおらん。こりゃまっことかわいそうなことじゃと思うたわ。そんときはガクも連れちょらんかったわ。
そんで十一月ころやったんで、川にウグイを捕りに行って、アライにして、その夜ふるもうてやった。」
野田さんは仲間のカヌーで下り、そのあと、取材のために下から歩いていたとのこと。
十一月であれば、まだ鮎が獲れるはずであるが、なんでハヤかなあ。ハヤのアライとは、寄生虫の心配はないのかなあ。小骨は邪魔にならないのかなあ。
野田さんが聞き回ったこの日のことを、このあたりのひとは覚えている。「まあ、取材にも誰も来よらんころじゃけん、よそから訪ねてくるひとも珍しかったんやと思うわ。」
「いちばん覚えちょるのは、野田さんが『この川は水もきれいだし、カヌーに向いている。きっとたくさんひとが来るようになる』いうちょったよ。そんときは、こんひとは姿も変わっちょるけど、いうことも変わっちょる思うたねえ。」
その後野田さんがやってくると、エビソーメンの昼だけでなく、夜は「近所のばあさんやら集まって、焼酎飲んで大宴会や。」
「〜うちのばあさんがええ気分になるといつも決まって、同じ歌をうとうてほしい、いいよる。
『峨眉山月』いう李白の詩吟なんじゃけんど、『秋の半月がきよらかな川面に映って流れていく。川を下りながらずっと眺めていたい』いうような文句やけん、カヌーが好きな人にはぴったりなんよ。野田さんはこの歌が一番好きらしいわ。」
ばあさんの詩吟仲間の後家さんに、もうひとりの「後家さんが加わったら、もう歌は詩吟より春歌よねえ。
「口屋内の沈下橋に吹く風に、スカート取られて手で隠しー。なんでこの手が離さりょか。離しゃオソソが風をひくー」
「あかりを消しましょ四畳半。お乳をもみましょやわらかにー。パンティもブラジャーもはずしましょう。今日は楽しいボボ(ひな)祭り」
これを唄うとセクハラになり大騒動となろう。そやけんど、ばあさんが唄うとどうなるのかなあ。セクハラになるのかなあ。
野村さんは、「やっぱり、昔のひとのように自然をようみて、その声を聞くいうことが大切じゃろ。それは川のことだけやのうて、身の回り全般にもいえることかもわからん。
『朝の雨降りとおなごの腕まくりは恐いことない』いうのも、そうじゃね。朝、雨がふっちょうようなときは、だいたい昼になると晴れる。そんなんでことわざみたいにいうとったんじゃろ。ちかごろは、おなごの腕まくりも恐いけんね。そろそろ、この言葉も変えんといかんじゃろなあ。」
野村さんもおなごの変化を意識せざるを得ないこともあるよう。
A 宴会のついでに焼酎について
「セキレイも恋の歌ばかりうとうとう」季節は、「河原の近くにはクリの木も多いけんど、その花も満開や。」ということで、栗の木が多くある。
「大正町に行ったら、『ダバダの火振』いうてクリ焼酎をつくっちょる酒蔵があるけんど、それほどクリの木はようけあるんよ。」
「ダバダいうんは、ここらでいう『駄場』から取ったいうは。駄場いうんは、ひとが集まる小高い丘のようなとこを昔そういったんよ。この焼酎の周りにもひとが集まってほしいなあ、いう意味でつけた名前じゃろ。駄場いうんは、いまでも土地の名前として残っちょるらしいわ。
つくっちょる会社の名も変わっちょって、無手無冠(むてむかん)いう酒造メーカーやけんど、無農薬で何も手を加えず、冠をつけておごらんようにといういみじゃそうよ。」
B 若者の往来
「野田さんのおかげで、四万十川へ遊びに来るひとがようけ増えたいうことがやっぱり一番ありがたいことやけど、遊びに来て、ここが気に入って住民になるひとが出てきたんはまっことありがたいことよ。そのうえ、四万十川のことを全国に向けていい出した本人がここに住むようになったら、これほどうれしいことはないなあ。私も野田さんがきっかけつくってくれて、ここがにぎやかになっていくんを、まっと見ていたいと思うわ。」
野村さんの願う野田さんの移住はまだ実現していないが、カヌーのひとが、その他のひとが訪れてくるようになった。
「人生をちょこっと休みたいな、思うたら、ここへ来たらええよ。自然のもんのいろんな姿が見える。」
ということで、訪問者をみてみよう。
a まず、カヌーについて
「野田さんがカヌーに向いちょるいうたけんど、四万十川でもカヌーに向いちょるのは西土佐村の江川崎から河口までよ。江川崎いうたら、口屋内より十数キロ上じゃね。実際カヌーの人もだいたいこのあたりから乗り始めるらしいわ。江川崎から上には急な瀬もあるから、のんびり下るカヌーには、ここよりも下がええらしい。
それにここから上では、五月十五日のアイ釣り解禁日や六月十五日のアイの網漁解禁日には、アイがようけおるけんねえ。禁漁を待って、川へ出たばかりの川漁師も多い。それで、そういう時期にはカヌーが下りよったら、邪魔や思われたりするけんねえ。そういう時期は、江川崎より上は行かんほうがええ。江川崎より下の方にはまだアイが下りよらんけん、そういう時期でもあまりアイ釣り師がオランのよね。」
またまた困った。
なんで江川崎よりも下がアイ釣り師が少ないのか。下りの時期でなくてもアイは江川崎よりも上と同じようにいるのではないか。大きさも遡上の途中で、途中下車したアイが、江川崎よりも上と同じくらいに成長しているのが瀬にいるのではないか。
狩野川で、松原橋や、大門橋あたりに初期に釣りに行くひとが少ないのは、水質が悪いことによるのであって、質さえよければ、釣り場になるのではないかなあ。
「西土佐村の中でも一番下、中村市のすぐ上にあるのが、口屋内なんよ。」とのこと、そして、その十数キロ上流が江川崎であるから、釣り人が満ちていても、とは思うが。
b 家出中学生
「十二月も半ばのことじゃった。東京から来たいう中学生の男の子やったけんど、寝袋やテントを詰めたリュックをしょっちょった。
『ぼくはここで魚を獲って暮らしたいと思って、東京から来ました。』という。それで、『おみやげにめずらしいものを持ってきました。』いうて、水槽に入れたイモリをくれようとするんよ。」そのイモリはデパートで購入したもの。
「『イモリやったら、隣の田んぼになんぼでもおるわ』」
その晩は泊めて話を聞いた。不登校で、「その間に野田さんや椎名さんの本をだいぶ読んじょったようよ。」
「その頃は冬で寒い頃じゃろ。魚かてよう獲れんわね。テントに寝るいうても寒すぎるし、この子が希望するようにはとても暮らしていけんじゃろ。それでこの子に『ここでは寒くて暮らせんから、沖縄か九州へ行ったらええ』いうたんよ。
次の日になって、ツガニや鍋や米を持たせて中村駅まで車で乗せていってやった。」
戻ってくると、西土佐村に電話があった、と。
「親にはいわんかったけど、何人かの友だちには『四万十川で釣りをして暮らす』いうちょったらしいけんねえ。それで、出て行ったあと、親御さんが残していった本を見よったら、私の名前が載っちょったけん、〜」
「働いて、金を貯めて、四万十川に別荘を建てられるようになったらまた来なさい、いうて送り出してやった後やし。」
「そやけど、この子は自分で自分の将来を考える頭をもっちょる子やった。それなりに芯の強い子やったし、行動力もある。このあとしゃんと、父親の実家のある鹿児島で中学を出て、それからは捕鯨船の賄(まかな)いをやった。」
「この子が九州に行ってからは、親御さんのほうがうちへ遊びに来るようになった。ようやっと安心したんじゃろね。子のほうは、その後四万十川やなくて、北極やアラスカへ行って、イヌイットと暮らすいうて、働いて金貯めちょったらしいわ。」
「一時は家出をしよっても、人間はだんだん成長しよる。不満があってもなんにもせんでいるより、人生の壁を越えるにはとにかく動くことよ。そうやりよるうちにジコジコ(しだいに)成長するし、壁も知らん間に低くなるもんじゃけん。
最近ではこの子から『ひとはひとに支えられて生きている。そういうことがわかりました』いう、手紙が来ちょったなあ。」
c 熱を出した女の子
「友だちとカヌーに来よって、沈して熱を出して、うちのハメ酒(マムシ酒)を飲まして治った女の子もいたわね。その子も何年かずっと遊びに来よったし、年賀状も毎年くれる。」
「この子がええ子や思うたんは、自分の親を大事にしよっちょったからよね。」
「この子の親はいっぺんもうちへ来よったことないけんど、『うちの子が世話になりますから』いうて、毎年米を送ってよこしちょった。」
「最初はみんなキャンプ場に一泊するつもりで来よっても、学生やら日にちの都合のつくもんは予定を延ばして何日もここにおるようになる。それで、ここが気に入って、何べんも来るようになりよる。過疎の村いうて、じいさんやらばあさんやらばっかりおるようなとこやけんど、それを気に入ってくれるじゃけん、うれしい話よね。
知り合いになった若い人が『また、来たよ』いうて、顔を見せるんはじいさんやばあさんにしても、張り合いのあることよ。毎年、決まった時期に来よるようになった子の中には、荷物を先にうち宛に宅急便で送りつけちょってから来よるひともおる。そしたら、こっちも、ああ、また来てくれよる、思うてまっことうれしいもんよ。
うちのばあさんかて、今度は何を食べさそか思うから、やっぱり元気でおられるんじゃろ。宴会したら、また焼酎も飲まないかんし、飲んだら詩吟も唸らんといかんけん、気合いも入るんじゃろう。」
d 「一〇〇円宿、良心小屋」
「もうそんころはカヌーやキャンプにようけひとが来よったけんね。せっかく来ても、川が増水しよって、河原にテントが張れんときもあった。カヌーはできんし、泊まるところもないいうたら、遠くから来よったのにかわいそうじゃろ。」
それで、漁の合間に一年かかって小屋を造った。以前に泊まったひと、近所のひとが蒲団や冷蔵庫等を置いていき、十分暮らせる小屋になった。
「そのうちに泊まりに来よったひとが『旅人、良心小屋』いう看板もこしらえて、さげるようになった。どんな人でも勝手に来て、泊まれる無人の自炊小屋よね。利用料はいらん、電気代だけカンパとして、一泊一〇〇円を備え付けの缶に入れよったらええ、いうことになっちゃたんよ。」
「若いうちは金はないと思うけど、時間はあるけんね。そういうときにあんまり金をかけんで、旅に行くいうことはええと思う。アイも世間にもまれんと丈夫やないいうたけんど、若いときは、強い人間、優しい人間になるために、世間にもまれることがまっこと必要な時期やと思うからよ。」
「最初はこれは得や思うて泊まっておっても、逗留するうちに、よう挨拶をしよらん子でもだんだんできるようになりよった。トイレかて、タダで使わせてもろうてありがたいと自然に気づくんじゃろ。黙って、自分でちゃんときれいにしよって、しまいに毎日、良心小屋の布団を干したり、掃除をして帰っていきよるようになる。」
「ちょっとひねた子でも、『ここは竹内さんの土地やから、ここに泊まるんやったら、買い物のついでにちょっと挨拶をしてきなさい』いうたら、たいがい素直に挨拶に行きよった。」
その良心小屋も、閉鎖しろというひとがいて、閉鎖されることとなった。
「たしかに、ええ子ばかりとは限らんし、挨拶をしよらんこともあったじゃろ。けど、都会に住んでたら、隣の部屋のひとかて知らん。すれ違っても挨拶せんいうのがふつういう生活の子が多いんやから、これは大目に見てやらんといかんと思うわ。」
また、長期滞在者も苦情の元とのこと。しかし、ここが気に入って、口屋内の住民になったひともいる、と。
ということで「まあ、いまは閉鎖になっちょっても、いつかまたなんとか復活させたい、思うちょる。」
「でも、やっぱり口屋内には気軽に避難できる小屋が必要じゃろと思うわねえ。」
避難とは、川の増水時だけでなく、「人生をちょこっと休みたいな」という若者も。
「〜ここに来て、四万十川の良さを知った人が増えるだけでも、川の将来は明るいと思う。」
野村さんを訪れたひとのノートは、四冊になり、一〇二五人が「ここへ来て感じたことや、名前や住所を思い思いに残していきよる。」
その中には「〜おなごひとりでヨットで世界一周したという今給黎(いまきれい)教子さんもおる。この人は絵も上手やけんど、何度来ても、メシの支度から何から一緒に来よったひとの面倒を全部見よるね。そんで海の上で耐えられるようにと、雨が降るときにわざわざ濡れて鍛えているらしい。そのために四万十川に来た、いうちょった。」
「最近は外国のひとたちもようけ増えてきたわねえ。
アメリカやらカナダやら、フランスから来よったひとでも、気軽に河原でキャンプしちょるし、チベットから留学しよるひとも向こうの言葉で書き残しちょうるよ。」
「それから口屋内の沈下橋あたりで映画『ガクの冒険』を撮影しに、椎名誠さんやら仲間の人をたくさん連れて来よったこともあった。
あの映画はみんなが本職やのうて、仲間ばっかり出ちょるじゃろ。それで口屋内の野田さんの飲み朋輩(ほうばい)も出演させられた。飲み朋輩いうんは、ここらでいう酒飲み仲間のことよ。」
「ここいらのひとで野田さんと飲んだことのあるもんは、みなあの映画に出ちょるじゃろ。私らにしたら、ガクの大冒険よりも『飲み朋輩の大冒険』見たいやったなあ。」
e 「居候が国王になりよった」
「カヌーしに来よってここに居着いた若いひとの第一号は、良心小屋ができるよりだいぶ前じゃったね。埼玉で理科の先生やっちょったいう青年よ。
いまはここに家も建てよったし、結婚して子供もおるけんど、私と一緒に野田さんの本にも書かれよったけん、ああ、あの青年か思うひといるかもしれんねえ。」
「大水で河原にテントが張れず、国道端でテントを張ろうとしていて、廃材の釘を踏んだ。」
お灸をすえてた。
「こんときに、ここに来よった若者にいつもいうように『今度は住民票を持って遊びに来なさい。』いうて、帰してやった。そしたらほんまに翌年、東京を引きはろうてうちに来よったんよね。」
居候をし、次いで、空き家に移り、自給自足のような生活を始めた。
「ただ、米のほうはサルやイノシシが来よって、食われたり、ぐちゃぐちゃに踏まれて往生しよったわ。そんでも、ひとりで長いことがんばった思うよ。」
「何から何まで自分でやる。そういう暮らしがしたかったいうたねえ。
そういう生活ではごまかしなんかしよったら、たちまち食えんようになるけんね。そやけん、カヌーで遊んじょっても、管理せないかんとこはちゃんと自分で管理しながら暮らしちょった思うね。
そうするうちに、こういう若者は田舎でもめずらしいじゃろ。若いおなごもものめずらしがって、遊びに来るようになりよった。」
嫁にしてから、土地を借りて丸太小屋を建てた。
「まっと驚いたんは、レンタルカヌーを始めよってそのチラシを見たら、国王という欄に平塚いう名前が書いちょった。カヌーやテントを貸すとこが『シマムタ共遊国』いうて、そこの国王がこんひとなんよね。えらい出世したことじゃ、思うたんよね。
まあ、国民になっても割引してもらえるくらいやから、たいした国王やないと思うけど、居候からの出世やし、家も建てて嫁さんもろうて子供もできよったけん、りっぱなもんや。」
カヌーは何艘か野田さんが寄付され、順調で、「いまは言葉も口屋内弁になって、すっかり四万十川の端(はた)の住民よね。そんで川のことをよう見ちょるけん、開発に対してもしっかりした意見をもっちょう。こういうひとがどんどん増えたら、川の未来はやっぱり明るいと違うじゃろか。そやけん、『住民票を持って遊びに来なさい』いうのも、なかなかええ殺し文句やったと思うわ。」
C僻村塾
「僻村塾いうんは、四万十川から学んでこいいう集まりよね。地元の宝は、一度ここを離れたもんや遠くから見よるひとのほうがようわかる。そやけん、この宝の意味を都会のひとから教えてもろうて、みんなの財産として学んでいこううとこよ。僻地にあるこころの原点を見直そういうことが目的なんじゃと思うわ。」
「都会のひとに『川はうちの冷蔵庫よ』いうて、アイのことやら、魚のことを話すとみなよう聞いてくれる。いまでもそんなに魚がおるのかいうて驚く。一緒に川へ行きたいいうひともおるねえ。私のほうもいろんなとこで、違うとこに目を向けて一生懸命やっちゅうひとの話を聞くんはよう勉強になる。
僻村塾では、ゆくゆくはひとりひとりが川岸を少しづつ買うて、川の開発をやめよういう目標をもっちょる。中村市の具同(ぐどう)いうとこにある『トンボ自然館』のようなやり方よね。」
「〜トンボがおられるような湿地が少なくなりよった。それで、少しずつ土地を買うたり、借りたりして、トンボがおられる公園をつくったというわけよ。」
「公園いうたち、なかはただの広い田んぼよ。昔のようなあぜ道もちゃんとある。そんなかをマイコアアカネやハグロトンボが舞っちょる。」
「四万十川の川岸もこういうふうにして、自然にできたヤナギや竹が生えちょる河畔林を開発から守ろうということよね。こうしたら、魚だけやのうてカワセミやカワチドリみたいな鳥も守れるけんね。
こういう保護をみんなでしていくためには、昔の川がどんなやったかいうことも知らんといかんし、どういう理由で川が汚れたり、魚が少なくなったかも考えないかん。それに何より大切なんは、四万十川が好きになることよ。」
「昔の川がどんなやったか」を、昔の鮎はいつ産卵していて、その産卵時期と異なる現象はなんで生じたのか、ということをなんで、学者先生は思いを巡らされないのかなあ。
シャネル5番の香りが、鮎の本然の性である、と高橋先生も主張されているが、それでは、なんで、古には川面に漂うほどに、あるいは山崎さんが潮呑み鮎の下りを察知される前兆と判断されていたのに、いまは特定に川でしか、あるいは特定の川の短期間だけでしかシャネル5番の香りに酔いしれることができなくなったのか、その説明が必要なはず。
高橋先生には村上先生の見解等もつけて質問をしたが。
そして、いまや、鮎がシャネル5番の香りを振りまいていたことを経験したことのある釣り人でさえ、少数になっているのではないか。
その人達だけが鮎と遊ぶ時代となると、高橋先生ら学者先生の多数派の判断である「アユの香りは、食料となっているコケによるのではなく、鮎の本然の性に基づく」という説を「間違っちょる」、という人すら、存在しないようになる。
前さんがテレビで、ダムのない、最後の清流とNHKが放送したことについて、ダムがある、と。NHKが間違っていることを指摘されていた。
そのダムだけでなく、「家地川堰堤」もある。
「四万十川のど真ん中、源流点から約八〇キロのところにある。大正町から窪川町に入ったとこの予土線の家地川駅よ。」
「それにここは正式にはダムやいわんで、『家地川堰堤』と呼ばれるけんねえ。四万十川にはダムがないから最後の清流いうんじゃろうとよけい思いこむもんがおると思うわ。」
「ダムというのは堤の高さが一五メートル以上やけん、たしかに、堰堤が八メートルの家地川はダムとはいえんわ。けど、そう考えたら、役人の思うつぼや。」
野村さんは、昭和六年につくられた家地川ダムの水利権が「平成十三年に家地川ダムの水利権が切れるけんね。今度こそ、更新されんようにせんといかん。」
オラは、家地川ダムが、大井川を水無川にした塩郷ダム(正しくは塩郷「堰堤」であろうか)同様の働きをして、四万十川を水無川にしているとは夢想だにしていなかった。
ダムが数個ある檮原川の水が入ってくるまで、堰堤付近だけではなく、そのヘドロで汚れたダム湖の水が入ってくるまで、ほとんど水がないのではないかなあ。
平成十三年の水利権更改の結果は、野村さんの願いもむなしく、大井川の塩郷ダム下流と同様、2トンの義務放流が行われることで更改されたようである。
というこことで、水無川ではなくなったが、大井川の5トンほどよりも少ない水量。大井川では、義務放流量を10トンにする要望もあるよう。
このようなダムと瀬切れの状況で、しかも、伏流水がシルト層等の目詰まりで減少しているとなると、江川崎や黒尊川合流点より上流の水質は、宮が瀬ダムがなかった頃の中津川と同じか、それよりも悪かったのではないかなあ。
川獺がまだ生存しているとしても、檮原川沿いか、檮原川との合流点から、口屋内までの間でしか生存できない環境になっていてのではないかなあ。
雨村翁が汽車が通っていた下車駅の窪川で釣らずに、檮原川へ、と向かい、檮原川でのダム工事を見ながらその支流へと入って行かれたのも、家地川ダムで遡上のない川になっていたから、と、納得できた。
おらも、NHKのテレビに惑わされていた1人ということであったよう。
事実を検証する経験も知識もないひとの語る事柄がいかにフィクションにすぎないか、との事例であろう。
野村さんが語られたことの一端でも見たいと思うが、宝くじが当たらないと、叶わぬ夢。
ということで、とりあえず、野村さんとはお別れしょう。
四万十川は藍藻、相模川は珪藻が優占種? |
伊藤猛夫編「四万十川〈しぜん・いきもの〉」(高知市民図書館発行)に、四万十川が珪藻ではなく、藍藻が優占種であるとの調査結果が記載されている。
これだけであれば、四万十川よ、お前もか、ですむ。
ところが、相模川、千曲川が珪藻が優占種である、との調査結果が引用されている。そうなると、なぜだあ、と叫ばざるを得ない。
コケの生産量の調査には複数の手法があり、それぞれ、長所短所があるとのことである。
そのような違いを理解できる知識も経験もないため、「河床の石礫1平方ミリでの付着藻類の個数」でみる。
本では、文書で表現されている数値を表に置き換えて比較する。
四万十川 | 相模川 | 松田川 | 日本の河川 | |||
1975年10月 | 10〜8,645 | 6,522〜10,688 | ||||
平均 | 2,491 | 8,882 | ||||
夏季平均 | 9,095 | |||||
秋季平均 | 21,894 | |||||
2,000〜5,000 |
「平均」とは、複数の調査地点での数値の平均
四万十川は7地点、相模川は9地点
なお、「付着藻類の門別構成」を含めて、文書で表現されているものを表にしたが、精確に描き写している保証はない。気分で調査結果を感じていただければ十分である。
また、「表」に「罫線」を表現する手法がわからないため、見にくいままです。
付着藻類の個数について、「相模川のこのような大きい値は富栄養化の進行と、すぐ上流にダム湖が二つあって、大きい洪水のカットに起因しているものと推定できる。」との推測はオラも同感である。
付着藻類の門別組成
四万十川 | 相模川 | 松田川 | 鏡川 | |||
1975年春 | 藍藻 | 76% | 82% | |||
珪藻 | 24% | 14% | ||||
1975年夏 | 藍藻 | 43% | ||||
珪藻 | 56% | 55% | ||||
1975年秋 | 藍藻 | 56% | ||||
珪藻 | ||||||
1974年夏 | 藍藻 | 83% | ||||
珪藻 | 11% | |||||
1974年秋 | 藍藻 | 58% | ||||
珪藻 | 41% | |||||
1986年冬 | 藍藻 | 5% | ||||
珪藻 | 89% | |||||
1986年春 | 藍藻 | 4% | ||||
珪藻 | 64% | |||||
1985年夏 | 藍藻 | 43% | ||||
珪藻 | 53% | |||||
1985年秋 | 藍藻 | 18% | ||||
珪藻 | 82% |
なお、緑藻も少し繁茂しているが、省略した。
「出現率」とは、どういう意味であろうか。
「四万十川と鏡川はランソウの優先度の高い川といえる」とのことであるが、「付着藻類の門別構成」のほかに、「優占種」という概念もあるようである。これが、藍藻、珪藻のなかでの個々の種別での事柄を表現するのであろうか。
相模川が珪藻のほうが藍藻よりも生息数が多い、という意味であれば、なぜだあ、と叫ばざるを得ない。
1986年は、宮が瀬ダムの水が流れ込んでいるいまよりも富栄養化をしていたはず。BOD,CODといった概念で測定される水質はいまよりも悪かったはず。
その水が四万十川よりもきれい、とはどういうことか。巖佐先生が「珪藻はきれい好き」と書かれていることは、間違っていないと確信している。
珪藻のニッチアの仲間には汚れに強い種もあるようであるが、それでも、藍藻よりも多く繁殖できるとは想像だにできない。
たしかに、昭和の終わり頃、相模川ではキュウリの香りが、中津川愛川橋上流ではスイカの香りのする鮎が、6月20日頃しばらくの間釣れていた。相模川では磯部の堰で、中津川では妻田の堰で遡上が妨げられていたから、川にいる鮎は、漁連が放流していた「湖産」ブランドで、人工も含めてブレンドされていた放流鮎しかいなかった。沖取り海産が放流された年もあったであろうが。
水質がその頃よりもよくなった相模川で遡上鮎がいた年でも、キュウリの香りをかぐことのできた人はいたかなあ。
とすると、昭和の終わり頃、珪藻のなかの香りを生成する物質を含んだ種類が生育していたかも知れない。もっとも、村上先生ら少数の人を除くと、香りは鮎の「本然の性」に基づくから、食糧の種別、質の変化は意味をなさない、となろうが。
「四万十川」には、鮎のことも書かれている。
しかし、「8月中旬になると下りが始まる」「窪川がもっとも成長がよい」など、「湖産」ブランドでの放流鮎かどうか、鮎の種別には何らの考慮も払われていないから、野村さんらの観察と違い、信頼性に欠けるものと考えている。
なお、窪川での鮎が大きい、ということは、遡上鮎の話ではない。なぜなら、家地川ダムが遡上を完全に阻害しているから。
2008年、1千万ほどの遡上量のあった相模川の大島:シルバーシート前が大鮎の釣れる最高のポイントであった。連日立錐の余地がないとも表現したいくらい、釣り人が入っていた。それでも、5匁のオモリを使う他の場所の急瀬で釣れるよりも大きい鮎が釣れていた。それは、県産継代人工の成魚放流であると確信している。
ということで、「四万十川〈しぜん・いきもの〉」から得るところはなかった。故松沢さんの口癖であった「学者先生はそういうが」を確認しただけ。
カーソン「沈黙の春」 |
カーソンの「沈黙の春」は、手ごろな解説書で読みたかったが、まだ見つからない。
仕方がないので、新潮文庫で、DDTが米国でどのような使い方をされていて、その結果どのような事態が生物に生じていたか、を見ることにする。
レイチェル・カーソン「沈黙の春」(青樹簗一訳・新潮文庫)
1 ヒアリの事例
農務省が予算獲得のための資料を作成した結果、「ヒアリ駆除計画が始まったのは、1958年のことである。ある商業雑誌は諸手をあげて歓迎した。」
「ヒアリは合衆国南部の農業に深刻な脅威を与える。作物をいため、地表に巣を作る鳥をおそうから自然をも破壊する。人間でも刺されれば、害になる―こんな言葉をならべたてて、議会の承認を得たが、誤りであることがあとでわかった。」
「ヒアリに一番苦労してきた」アラバマ州の農事試験所は「〈過去5年間、植物がヒアリの害を受けたという報告は一度もない。…家畜の害も別に見受けられない〉。ヒアリは、いろんな昆虫、それも人間に害を与えると思われる昆虫を主に食べる。これが実際に野外や実験室で観察している人達の意見なのである。」
「芝生や遊び場に土まんじゅうのような巣があれば、子どもたちはそばへ行ってみたくなり、それで刺されることがあるかも知れない。だが、たったそれだけの理由で、何百万エーカーに毒をまきちらすことは許されない。土まんじゅうを見つけたら、めいめいが始末をすれば、何も問題が起こるはずはない。」
「このときの化学薬品は、かなり新しいもので、ディルドリンとヘプタクロール、どちらの薬品も、それまで実際に使用した経験はなく、大量に撒布(スプレー)すれば、野鳥、魚、哺乳動物がどういう目にあうか知っているものは、だれもいなかった。でも、DDTの何倍も有毒だということはわかっていた。」
「計画が実行に移されるにつれて、」「場所によっては、スプレーをあびて野生動物が全滅してしまったことが明らかになり、家禽も家畜も、犬や猫もみな死んだ。ところが、農務省は、これらの損害はみんな大げさで、人を惑わすものだといってもみ消したのである。」
2 ブユの事例
「水は、生命の輪と切り離しては考えられない。水は生命をあらしめているのだ。水中にただよう植物性プランクトンの緑の細胞(それはまるでほこりのように微少)にはじまり、小さなミジンコや、さらにプランクトンを水からこして食べる魚、そしてその魚はまたほかの魚や鳥の餌となり、これらはまたミンクやアライグマに食べられてしまうー 一つの生命から一つの生命へと、物質はいつ果てるともなく循環している。水中の有用な無機物は食物連鎖の輪から輪へと渡り動いていく。水中に毒が入れば、その毒も同じように、自然の連鎖の輪から輪へと移り動いていかないと、だれが断言できようか。」
「カリフォルニア州のクリア湖の事例を見るといい。おどろくべきことが起こっている。」
「ここは小さなブユ(注:英語名省略)がいて、釣りにくる人や、湖畔の別荘地の人達を悩ませていたのだった。なやませた、といっても、このブユは蚊によく似ているが、血を吸わず、ことに成虫は何もたべないと思われている。だが、人間は、同じ世界に住みながらほかの生物との共存をいやがり、この無害のブユをただ数が多すぎるという理由で邪魔扱いにしだしたた。」
「一九五〇年近くになって、塩化炭化水素の殺虫剤が登場。DDTによく似たDDDという薬品を撒布(スプレー)。DDTにくらべれば、魚に害が少ないという理由から…」
「湖水を測量し水量を計算し、殺虫剤はうんとうすめて、それぞれの化学薬品についての割合が水の七千万分の一となるようにした。ブユは、はじめのうちは姿を消したが、一九五四年にまた殺虫剤を撒布する羽目になる。今度の割合は五千万分の一.ブユはほとんど全滅した、と思われた。」
「やがて冬が来た。殺虫剤の副作用がはじめてあらわれてきた。湖水のカイツブリが死に始めたのだ。」
「あいかわらずブユは抵抗をやめないので、第三回目の攻撃がはじまる。一九五七年だった。まえにもまして、おびただしいカイツブリが死んだ。死んだ鳥を調べても、一九五四年のときと同じように水鳥のあいだに伝染病がはやった痕跡は見られなかった。だが、カイツブリの脂肪組織を分析してみると、一六〇〇ppmという異常に濃縮したDDDの蓄積が検出された。
水に入れた濃度は、五〇分の一ppmだった。」
「プランクトンの有機体からも、殺虫剤五ppmが検出された。」
「ナマズ類では、二五〇〇ppmという、おどろくべき濃度。まさに因果はめぐる―プランクトンが自ら毒を吸収する。そのプランクトンを草食類が食べる。すると、その草食類を小さな肉食類が餌食にする、そうすると、その小さな肉食類を大きな肉食類が食べてしまう。」
さらに、DDDは、跡形もなくなったが、湖からは消えなかった。「湖水にいる生物の組織に、毒が移っただけのことだった。」
かくて、千つがい以上いたカイツブリは三〇つがいあまりになり、釣った魚は人間が食べる。
「ミシガン州のコマツグミ、ミラミッチ州のサケと同じように、これは私たちすべてにとって生物学的問題である。相関関係とか、相互依存関係の問題なのである。川のなかのトビゲラを殺そうと毒をまく。すると川を上ってくるサケは数が減り、やがて死滅してしまう。湖水のヌカカヤブユを殺そうと毒をまく。すると、食物連鎖のために、やがて湖畔の鳥が犠牲になる。ニレの木に殺虫剤を撒布(スプレー)する。また春がめぐってきてもコマツグミの鳴き声はしない。私たちがじかに毒をふりかけたのではなく、ニレの葉―ミミズ―コマツグミと、毒が一つの輪から一つの輪へと広がっていったのだ。どれもはっきりとこの目で観察できることだ。それこそまさに、生命(むしろ死か)のおりなす複雑な織物にほかならず、生態学の領域はここにある。」
3 「土壌の世界」から
溶岩が流れれて、「水が押し出し、裸の岩を洗い、かたい花崗岩までもすり減らし、霜や氷の鑿が、岩をうちくだいた。すると、生物は魔法に等しい力を発揮し、生命のない物質を少しずつ、ほんの少しずつ土に変えていった。はじめ地衣類が岩をおおって、酸を分泌しては岩石をぐずぐずにし、ほかの生物が宿れる場所を作った。地衣類のぼろぼろになったかす、ちっぽけな昆虫の皮、海から陸上にあがりはじめたファイナ(動物相)の残骸でできた土壌の小さな穴に、蘚類(せんるい)が生えた。
生物が土壌を形成したばかりでなく、信じられないくらいのさまざまな生物が、住みついている。もしも、そうでなければ、土は不毛となり死にはててしまう。無数の生物がうごめいていればこそ、大地はいつも緑の衣でおおわれている。
土は、たえず変化してとどまるところを知らない。土もまた始めも終わりもない循環のプロセスの一部となっている。有機物が腐食する。空からは窒素、そのほかは気体が雨といっしょに落ちてくる。こうして、新しい物質が出てきては、たえず岩石を崩壊させている。かと思うと一時だけ生物に利用されては、消滅していく物質もある。元素を空気や水の中から摂取して、植物が使えるような形にする、不思議な、しかもなくてはならない化学変化がたえず行われている。生物自身も、みずからうつろいながら、このたえざる変化の輪を廻している。」
土壌の生物は、「バクテリア、放線菌類、藻類―この三つは、たえずものを腐敗させ、植物、動物の残骸を、そのもとの無機物に還元する。もしも、こうした微小植物がなければ、土壌、空気、生物組織のあいだで行われている炭素、窒素のような化学元素の大きな循環運動は起こらないだろう。たとえば、窒素をとらえるバクテリアがないとしょう。そうすれば、いくら空気中に窒素があっても、草木は窒素がとれず枯れてしまう。そのほかの有機物は二酸化炭素を生み出し、炭酸となって、岩をくだく。また、そのほかの微生物も、さまざまな酸化、還元を行い、鉄、マンガン、硫黄のような無機物を植物の使えるような形態に変える。」
「また、そのほか無数にいるのは、微小なダニやトビムシという名の翅(はね)のない小さな昆虫だ。すごく小さいくせに、植物の残骸を細かくくだいて、森林の下のくずやゴミを土に変えていくこの小さな昆虫がどんなによく仕事をするかは信じられないくらいである。たとえば、ある種のダニ類は、トウヒの落ち葉がないと育たない。そのかげに巣食いながら、針葉の内部の組織を咀嚼する。そして、成長すると、針葉細胞の外皮だけが残る。秋がくると、おびただしい葉が落ちるが、それを一手に引き受けておどろくべき仕事をするのは、土壌や森林の下の土にすむ小さな昆虫たちなのだ。かれらは、葉っぱをやわらかくし、細かくし、腐敗したものを表土とまぜる役割を果たす。」
「小さいが、休むことなく、あくせくと働いている生物のほかにも、もちろんもっと大きな動物たちがいる。」
「土壌のなかにはたくさんの生物がうごめいているが、なかでも大切なのは、ミミズだろう。」
「岩石の表面は、だんだん細かな土でおおわれてくるが、それは虫たちが下から運びあげてくるのだ。その量は多いときには一年で一エーカーあたり何トンにもなる。また、葉っぱや草にはたくさんの有機物が入っている。それが穴ぐらのなかへひきこまれ、土壌となっていく。」
「ダーウィンの計算によれば、ミミズの力で地表につもる土の量は、十年間で一インチ(訳注 一インチ=二.五センチ)から二インチぐらいの厚さになるという。だが、それだけではない。穴ぐらは、土壌を風化し、水はけをよくし、植物の根がよく通るようにする。ミミズがいればこそ、土壌バクテリアの硝化作用はまし、土壌の腐敗をくいとめるのだ。ミミズの消化器官を通るうちに有機物は解体し、排泄物によって土壌は豊かになっていく。
このように土壌の世界は、さまざまな生物が織りなす糸によって、それぞれたがいにもちつもたれつしている。生物は土壌がなければ育たないし、また逆に土は、生物の社会が栄えてこそ、生きものとなれる。」
「土壌のうちにあってきわめて重要な役割を果たしている、信じがたいほど数多い生物の運命はどうなるだろうか。」
「〜有機物の解体という大切な役割を果たしている〈益虫〉も被害を被ることは十分考えられる。」「非選択性の殺菌剤を使ってみよう。木の根にくっついて、木が土壌から栄養をとれるようにしている菌類もいっしょに死滅してしまうのではないのだろうか。」
4 均衡の破壊
「個体数の微妙な均衡(バランス)―この均衡があればこそ自然の遠大なあゆみということがありうる―がこわれるおそれもある。殺虫剤のためにある種の土壌生物の個体数が減り、捕食者と被捕食者の均衡が破れ、ある特定の種類が突然大発生する。こうしたことになれば、土壌の新陳代謝の活動もたちまち変化し、もはや実り豊かな土とはならないかも知れない。そして、それまで自然の均衡のために押さえられていた有害な生物が、暴れ出すことになりかねない。」
「植物は、錯綜した生命の網の目の一つで、草木と土、草木同士、草木と動物とのあいだには、それぞれ切っても切りはなせないつながりがある。もちろん私たち人間が、この世界をふみにじらなければならないようなことがある。だけど、よく考えたうえで、手を下さなければ〜」
「だが、いまこのような謙虚さなど、どこをさがしても見あたらない。いたるところ、〈除草〉〈殺虫剤〉のブームだ。除草化学薬品の生産高、使用量は、大きくのびるばかりだ。」
このカーソンの思いは、みずのようにさんの「自然に対する節度を源流として」の思いを十分に表現されていると考えている。
そして、カーソンは「私たちがどんなに勝手気儘に自然を痛めつけているか、その悲劇は、セ−ジブラッシュとよばれるヨモギ属の自生するアメリカ西部の不毛地の風景を力ずくで変えようとした企てにみられる。この雑草を根絶して、牧草地にしょうと、大がかりな運動がくりひろげられた。人間がなにかしょうと企てる場合、歴史や風土をどんなに深く考えなければならないものか、これはその一つのいい例と言っていい。なぜならば、風土をつくっているさまざまな力の相互作用が、この風土にそのままあらわれている。なぜここの自然はこういう姿をしているのか、なぜこのままにしておかなければならないのか、それは風土そのものに書き記されているのだ。」
深い雪に埋まり、雨がほとんど降らず、「いままで、いろんな植物がここにすみつこうとしては失敗したにちがいない。そして、とうとう、この吹きさらしの高地でも生き残れる性質をそなえた植物だけが、繁茂していったのだ。」
動物も同じく、「〜セージブラッシュのように適応力のある二種類だけが残った。」
その動物と植物はたがいに持ちつ持たれつの関係があるとのこと。
この自然そのままの完全な均衡を保っている「この自然の均衡を人間が『改良しょう』」と。
牧畜業者は「みどりはみどりでもセージブラッシュのみどりはご免だという。」
セージブラッシュの茂みに毎年セージブラッシュ駆除の薬が撒かれた。
「この地方の事情をよく知っている人達の考えによれば、水分をたくわえているセージブラッシュがなくなれば、草は、生えなくなってしまうだろう。セージブラッシュがあってこそ、草はそのかげ、そのあいだによく育つのだから。」
「セージブラッシュが消滅するとともに、カモシカや、キジオライチョウは姿を消すだろう。シカも追いたてられ、野生の動物がいなくなった土地は、やせほそっていくばかりだろう。」
カーソンが「沈黙の春」を出版されたのが、1962年、それから、殺虫剤、除草剤使用の規制がされるまでに、どれほどの生物を地球上から絶滅し、あるいは数を減らしたことか。
親が生き残り、生殖活動を行っても、胎児の死亡率は高くなり、孵化率は低下して目に見える生物の数をさらに減らすこととなっていった。
昔は「カールソン」と発音していたのではなかったのではないかなあ。
それよりも前に、弥太さんはみみずが畑を耕さなくなった、ドジョウが田んぼにいなくなった、と。
野村さんも山での広葉樹の伐採後にスギばっかりを植樹していくことが山の健康を損なっている、広葉樹がお墓を埋めてもっこりと土を盛るほど、素晴らしい働きをしている、と。
故松沢さんが、いまの水は栄養素を含んでいない、雨がそのまま川に流れ込んでいる、したがって、昔の金のコケを育むミネラル等の栄養素は川の水には含まれていない、といわれていた。
それらの人が山と川と生きものの相関関係に気づかれていたのに、なんで、阿部先生は実験室での結果で「珪藻が藍藻に遷移する」といわれたのか、学者先生の観察、推察力に疑問を持っている。せめて、弥太さんらの爪の垢を煎じて飲んで欲しいもの。もっともそのような観察眼を持たれていた人達がまだ生きておられるとは考えにくいが。
水俣病が発生した昭和三十一,二年頃、中央公論や世界にそのことが書かれていた。
学者先生は、チッソが使用しているのは無機水銀であって、水俣病の原因とされる有機水銀ではない、とか、工場排水溝が設置されている海域とは異なるところで発生している、とかの理由を挙げて、水俣病とチッソの工場排水原因説を否定されていたと思う。
無機水銀から有機水銀への、それこそ阿部先生が立証したとされる珪藻から藍藻への遷移と同様、「遷移」が行われていた。
排水溝のことに関しては、チッソが、排水溝の設置位置をこっそりと変えていた、ということであったと思う。
現地での調査を一切行わず、机上の空論と、観察力の乏しさと、チッソの語ることをそのまま信じていた、という構図は、四万十川の十月中旬に海で観察された稚魚の親が四万十川の遡上鮎である、と推測される学者先生に通じると思っているが。
もっとも、水俣病にかかる熊本大学の疫学的な方法によるチッソ排水原因説に対する学者先生の反論に関して、オラが適切に表現しているかどうか、については、当時の紅顔の美少年であった頃から白髪のジジーまでの年月が一層正確性を欠如させていること確実であるが。
有吉佐和子が「複合汚染」を書かれて、農薬等の環境、人間への影響を書かれたのが、昭和四十六年頃。
その中に、京の柴漬けが、一軒の老舗を除いて、着色料を使い、鮮やかな色で染め上げている、ということが書かれていたと思う。
消費者が美しい色合いの柴漬けを求めるが故に、本来の色合いを知らないが故に、見た目の艶やかさで判断し、それに生産者が迎合する。何か、大鮎を育む環境が消えたのに、大鮎を求める釣り人に迎合して、継代人工の放流をする構図と似ていないかなあ。
ユーカリの葉には2種類があるとのこと。
一つは、捕食者から葉を守るために多くの毒素を含んでいるのも、もう一つは、その毒素が少ないもの。
ユーカリの捕食者であるコアラは、ユーカリの葉を食べると、毒素を肝臓で分解する必要がある。そのためには、動かずに寝ている、休息する時間に、殆どの時間を費やしなければならない。そのため、コアラが活発に動いている姿の映像を見ることは少ないとのこと。
しかし、毒の少ない葉を食べているコアラは活発に動いている。解毒のための睡眠、休息時間が短くてすむから。
そのユーカリの葉の毒素の強弱に作用するのは何か。土壌とのこと。
土壌の成分構成が、ユーカリの葉っぱの毒素の多寡に影響し、それがコアラの行動の活発性に作用しているとのこと。
このような微妙なバランスに、均衡に、珪藻の種別や栄養素等に関わり、その結果があゆみちゃんのシャネル5番の香りに影響しているかも、と、阿部さんらの学者先生は思いを馳せることが出来ないのかなあ。
学者先生仲間では例外の村上先生が、ぬめぬめの柔肌で、香りぷんぷんんのあゆみちゃんがいるという米代川支流の比立内川の珪藻を調査してくれないかなあ。
あ、そうそう、昭和32年頃、日本で公害が問題になり始めていた頃のこと、世界か中央公論に、中国では、有害な排水、排煙等に含まれている「三廃」?を資源として有効利用している、すばらしいこと、との記事が載っていた。大躍進のとき、米を食べる「害鳥」である雀を退治するために、いっぱいの人間が雀を追いたて、とまって休むことが出来ないようにして、捕獲している写真が新聞に載っていた。
そのような状態のときに、どの程度の「公害」が発生していたのかなあ。
昨今の事件を見れば、雑誌の記事は、事実を何らの検証もせず、中国の人、政府機関の人の発言を、「事実」として報道したフィクションに過ぎない、と多くの人が判断できるであろう。しかし、当時は、この報道から、中国はすばらしい、と判断した人がいたかも。
「沈黙の春」は、単に殺虫剤や除草剤の撒布が引き起こした現象を羅列しているだけではないと考えている。そのような現象を制約するためには、人間がどのように自然と向き合い、つきあい、生きていかなければならないか、という視点での問題提起と解決の糸口を提示されていると考えている。
しかし、オラがそれを理解できないとしても、考えるには水先案内人が不可欠である。ということで、カーソンには申し訳ないが、「沈黙の春」とは別れて、垢石翁へと進むこととする。
宮川の垢石翁 |
垢石翁が多くの文を発表されているが、なかなか手に入らない。
やっと、「垢石釣り紀行」(釣りびとノベルス)が手に入った。この中の「諸国友釣自慢」を中心にして、「釣り旅千里」等を見ていく。
垢石翁は、昭和8年11月から「水の趣味誌」に「諸国友釣自慢」を掲載されたとのことであるから、宮川に行かれたのは、昭和8年の8月下旬であろう。
垢石翁は、魚野川で釣っていたが、奥利根の職漁師池田さんを瀬踏みとして宮川に先発をさせていた。
「越後小出町の宿へ、先発の池田君から『到着した日に竿を入れたら、五十匁五本、三十匁前後の鮎は無数に釣れた。土地の漁師は七十匁、八十匁という素晴らしい奴を、盛んに掛けている。自分も川になれたら負けないつもりだ』というたいした報告がきた。坂井翁の手紙に裏書きしたようなものだ。」
「八月二十三日夜一行四人は小出駅を出発して長岡で北陸線の大阪行き急行に乗り換えた。富山に着いたのが朝の五時何分、直ぐ飛越線に乗り換えて終点杉原駅へ着いたのが九時である。そこから目的地まで三,四里はある。宮川に沿った道を、自動車で走った。」
1 宮川の情景
オラは、昭和35年以降、高山線に春と夏に乗ったが、杉原駅がどういうところか、さっぱり見当がつかない。その一つ富山寄りの猪谷では、接続の汽車を待つ間、宮川を見ていて、吊り橋か橋ががあったが、どんな川か、覚えていない。しかも、高山を流れている川が飛騨川の支流と思っていたくらいで、垢石翁が杉原駅から上流に向かったのやら、下流に向かったのやら見当がつかない。神通川が高山にも流れていたとは。
地図をスクロールしてやっとたどりついた杉原駅付近に、地名の文字はわずかで、垢石翁が泊まり、釣りをされた「飛騨国吉城郡坂上村大字巣の内」の地名は出てこない。やっと、紙の地図で見つけることが出来た。杉原駅からみて、高山寄りの「上流」が巣の内、その巣の内の上流側が大瀬。
「富山から二十里、高山へ七里という奥まで来てしまっているのである。」
あちこち釣り歩いている垢石翁でも、「山奥」と表現するとは、意外である。
@ 迫る山と川の情景
「川の両岸は、直ちに截り立ったような、何百メートルとも知れない峰に続いていて、猫の額ほどの平地さえない。たまさか一里おき位に、僅かに平地があれば、数戸の人家があり、学校があり、消防器具の置き場があり、煙草売る店があり、そして稗と粟とが繁茂していたが、米のなる木は薬にしたくてもないようだった。」
「水量は非常に豊富であって、ことに今年は平水量が多いのだそうである。四千個は下るまいと目測したが大した間違いはなかろうと考える。それが上流から坂落としにやってくる。激流の連続である。滝である。淵と平場に乏しい。
淵は巣の内、大瀬間一里強の間に僅かに三カ所、そのうちドブ釣りができそうなところは一カ所である。平場は四,五カ所あった。その他は大きな底石が白泡を被り物凄い音を立てて瀬の中にがんばっている所ばかりである。川の屈曲も頻繁である。」
「四千個」とはどういう意味かなあ。
A 道から見た岩石
垢石翁であるから、当然、珪藻の品位に係ると考えられている岩質についても観察をされている。「底石も陸石(おかいし)も立派なものである。ただ惜しいことには、珪素の発生には最優等とはいうことのできない火成岩質で、川底の点石が被われていることである。この山は悉く石英の結晶体から出来あがったもので、その間、所々に花崗岩質の噴出を見せている。石英が単独で結晶した非常に硬い大岩石が切石のようになって河原と河床を埋めているのであるから、激流に足を浚われて倒れでもしようものなら、直ぐ向こう脛を割ってしまわないかと思われる位である。実に危険な川である。馴れないうちに無理をすると、生命問題が必ず起きる。」
このような状況に対して、「激流奥利根で長年身体を鍛えた連中も、崖の上の道からこの川を遠望したときには、驚きの声を上げた。川幅は狭い場所で三十間、広い場所で一町というところであろう。昔から利根川筋では、激流の梁かけ作業、洪水時の屍体捜索、激流中の架橋作業に舟を操るものは飛騨国出身の舟夫でなければ不可能とされていたものである。はじめて飛騨の山奥の川へ来てみれば、果たしてこの激流で鍛えたるが故に飛騨の舟夫は腕が違っているのだ、とまことに合点がいったのであった。」
いまでは、どこかで水が取られ、あるいは貯えられて、あるいは山の保水力が減って、垢石翁をすら感嘆せしめ、恐怖を抱かせた激流が残っているとは思えないが。
B 流れの中の岩石
「流れの中の岩は不断流下する砂礫と、洪水時に流転する岩石のために、稷角(しょっかく)が削磨されて、丸味を帯びていた。河原も洪水時に、水をかぶる線までは、転石相互の削磨の力によって角のとれた大きな玉石であった。元来石英は水成岩や硬質の深造岩のように、組織が緻密でなく、石の面が粗く鮎がなめるのに最も不便に出来ているのであるが、多年砂礫の削磨によって角がとれ、面がなめらかになってきているから、珪藻の付着もよく、又鮎がなめるのに、さまで口先を痛めるとは思えない。」
ということで、「角のある真っ白な石英の大きな切石」は、「山から崩れ落ちて、水平線までで止まった岩ばかりであった。
C 残り垢のある石組みと鮎の成長
「その上、河床の組み立ちが切り石で積み上げた石垣の裏面を見るようになっていて、いかなる洪水が出ても、底石が動いたり、流れたりしないように出来ている。即ち石の根が川の底深く張って、底石相互の力で、ガッチリと組み込まれているから、一度一定の場所へ落ち着いた石は何十年、何百年でも不動のままである。だから他の川のように、少し出水があっても、底石がザラザラと動いて、珪藻を悉く洗い去り、白川と化すことがない。岩の根の周りや、石陰には珪藻が残るように出来ている。
いずれの川でも一水出ると、食糧不足のために鮎は一時痩せ細るのであるが、この川の鮎はその心配がない。鮎は育たないではないではいない。ムクムク大きくなる。百匁にもそれ以上にも達するのだろう。黄色い底石の色が、流れの面へ反映して、水は常に薄い橙色を帯びているのである。
坂井翁が、鳴り物入りで囃し立てたのも故あるかなと思ったのである。」
中央東線の巴御前の墓がある宮の越?や上松付近で、汽車の窓から見ていた岩が多く転がっていた飛騨川の記憶はかすかにあるが、宮川の大石についてはさっぱり覚えていない。猪谷から川を見たときも大石ごろごろの記憶はないし、激流が流れていた記憶もない。なんでかなあ。
飯田線の湯谷から鳳来寺山へと、山道を登ったことがあるが、その湯谷を流れている寒狭川?には岩石が川のなかに散らばっていることを覚えているのに。
宮が瀬ダムがなかった頃、ダムサイト付近の石小屋、その下流の牛渕には岩石が散らばっていたが、その情景で、水量を多くして、激流にしたイメージかなあ。
妻田の堰がなかった頃の石小屋附近、牛渕を釣ってみたかったなあ。どんな大きさに育ったゆみちゃんが歓待してくれたかなあ。
いや、その頃は、2号、3号くらいの太糸を使うこととなっていたであろうから、オラの腕では囮を沈めることも無理か。
増水後でも、残り垢がある、という宮川の情景はまだ見ることが出来るのかなあ。
「黄色い底石の色が、流れの面へ反映して、水は常に薄い橙色を帯びているのである」という珪藻の輝きが水面に反映している情景はいまでも残っているのかなあ。この情景は山からのしみ出し水が減り、あるいは、富栄養化していれば、期待できないが。とはいえ、上流にあたる高山の生活排水が入っても、7里の間に浄化されるかも。
2 釣りの情景
垢石翁は「釣趣戲書」では、自らがあゆみちゃんと戯れた情景については書かれていない。井伏さんらの釣り姿は書かれているが。
当然、一分の隙もない釣り方をされていて、オラのようにあゆみちゃんにケラレ、あるいは激しいもだえに力負けをして、身を切り裂いて逃げられて悲しみに涙す、ということもなかったのであろう。
昼寝をするつもりが、昼食がすむと釣り支度。「そこへ先発隊の池田君がにこにこしながら川から上がってきて、素晴らしい囮鮎が、いり用だけある、昨日皆さんが来るという電報を手にしたから、今日は馬力をかけて釣ったのだ、というのである。一同うれしくなってしまう。」
「筆者は約四十匁ばかりの囮鮎をつけ、錘は十四匁にした。道糸は一厘五毛のヘチマの通し、鉤素(はりす)は二厘柄にした。川幅のせばまった奔湍が引き落としになろうとする荒瀬の中へ引き込んだ。引き込んで囮が底石になじんだかと思う途端に、ゴツンときた。『ヤッ……きた』と思うと同時に軽くなってしまった。囮を引き寄せてみると、鉤素の逆鉤の付け根からプツリ切れてしまっている。」
オラは、感激。人の不幸は蜜の味、ではなく、垢石翁でも粗相をする、とわかったから。あゆみちゃんにいじめられっぱなし、いけずばっかりされているオラにとってはうれしい限りの、よくやってくれた、と、あゆみちゃんへの礼賛。
しかし、この後がいけない。オラと違い、あゆみちゃんに負けた原因への対応を的確に行う。
「二本鉤のチラシにして、逆鉤を付けておいたから、二厘柄のテグスであったにもかかわらず、そこに力学的の関係が起こって逆鉤の結び目からやられたのであった。
これに鑑みて今度は鉤素を一厘五毛の細いのにし、逆鉤を除いて、二本鉤の蛙股とした。同じ所へ引き込んだ。直ぐきた。今度はがっちりと鉤が刺し込まれたらしい、引く引く、落ち込みの中へ引き込んで出てくればこそ、ようやくヘチへ引き寄せて手網の中へ抜き込んだ。あまりにも大きいので驚いた。七十匁近くはあろう。ママヨ切られたらそれまでだと思って釣ったばかりの大鮎を囮につけ替え、それよりも三間ばかり上手へ引き込むと、また直ぐきた。続いて大物を六尾釣りあげた。四十匁から七十匁近いものばかりである。最後に、さらに丈夫な囮を選んで、落ち込みの白泡の中へ入れ、開きの肩にある白泡かぶりの大石の外側へ持ってゆくと掛かった。しばらく囮を上流へ引き上げてゆく掛かり鮎の力、これは容易なものでないと思って糸を張っていると今度は対岸目がけて斜めに逸走をはじめた途端、プツンと囮ぐるみ持っていかれ道糸がダランとしてしまった。呆気にとられた。切れる前、波間で囮ともつれながら、ちょっと姿を見たが、大物だった。尺近い奴だったかも知れない。」
垢石翁が、逆針の付け根でハリス切れをし、その後に丼を食べたとは、うれしいなあ。
オラは、貧乏人は丼を食うな、との総理大臣にもなった方の大蔵大臣のときの指示を忠実に守り、大井川では金属の0.2号を使っているから、丼は食わないが。
大蔵大臣さんの語られたことは、貧乏人は麦飯を食え、であったが。「貧乏人は」とはいわないで、麦飯は健康によい、と表現を変えれば舌禍問題を犯すこともなかったのに。帝国陸軍軍医の森鴎外は、銀シャりを食べさせることが陸軍の任務、と。海軍は脚気にならないようにするためには、麦飯がよい、と。結果は、日清戦争だったか、日露戦争だったかの戦死者数以上に脚気の患者だったか、死者だったかの数を出した陸軍の完敗であった。
「厘」を「号」に置き換えれば、糸の太さの感覚がつかめるという話があったのではないかなあ。対岸に走られて丼を食べたのは、平成の初め頃の長良川は美濃、決して激流の所ではなかった。その頃はまだ今よりは足腰が正常であったから、下っていけば取り込める、と、にんまりしていたのに。
いずれにしても、あゆみちゃんに翻弄されて、逃げられる垢石翁を見て、翁といえども、人間であった、と安心した。
この日は、ゴロちゃんがきたこともあり、1時間ほどで竿をたたんだ。1時間ほどの間に繰り広げられたあゆみちゃんとの出会いと別れが、これほど豊かであったということは、あゆみちゃんがしかるべき場所にはやる気満々で、一杯いたということかなあ。2番鮎、3番鮎の補充もすぐに行われていたということかなあ。
「蛙股」とか、「ヘチマ通し」とかは、どのような仕掛けかなあ。逆針の結び目への一点集中の負荷を分散する手法に、故松沢さんが行われていた鼻環上のつまみ糸にチチワにした鉤素を結わえるやり方と異なる方法があるということやろうなあ。
3 稼ぎ
「宮川の釣り師は達者である。ここへ来る途中、飛越線工事の現場に行こうという長岡建設事務所の一技術員の話に、宮川沿岸の人夫は、鮎釣りがはじまると、現場へ出てこない。鉄道の方では日当を七十銭しか払わないのであるが、友釣りをやれば、百匁九十銭もする鮎が一日に五百匁から一貫目も釣れるのだから、皆その方へ出てしまう。まことに困っております。というのである。その通り裸一貫で、真っ裸の釣り師で川は非常に賑やかである。それが殆ど全部六間竿を使っている。」
一貫目とは、一尾百グラム台として、三,四十匹というところか。一日九円稼げるとは、漁期が、釣りの出来る日が、三十日としても、二,三百円ということかなあ。
これらはどこで消費されていたのかなあ。高山に持っていくとしても、鉄道は工事中のため、人力、自転車での運搬になろうし。富山へは、二十里。汽車はあるが。
なお、この頃の「山形県の海外地方は鮎の値が安い、高いときで百匁三十銭、安いときで十五銭位である。それでも鮎が毎年豊富に遡上するから職業者も食っていけるのだ、いうのであった。」
「海外地方」どのあたりのことかなあ。最上川では小国川、寒河江川の支流も入るのかなあ。新荘川は、小吉川は。大川、鼠ヶ関川等の小さい川は入らないであろうが、月光川、日向川はどうかなあ。
最上川、赤川の瀬を釣るには、錘を使わないと、釣りにならないと思うが、錘使いの技倆はあったのかなあ。網漁ではなく、コロガシではなく、友釣りが普及していたのかなあ。
大漁であったから、安価を補えた、ということは、友釣りではないのではないかなあ。
狩野川衆が素通りをした川
藁科川
「駿河の藁科川は同じ県でありながら、狩野川の影響を受けることが遅かった。
それは川が小さいため、毎年魚は濃いといいながらも、たかが知れていたこと、鮎の育ちも川に相当したものであるという関係と、伊豆の人達が藁科や安倍川に来なかったという最大の理由は、静岡県というところが、滅法鮎を高値で仕切らなかったからである。大正八,九年頃の物価の最も高い時代に、川揚げが、腹(わた)抜き六寸の鮎が五銭であったから、遠国へ出て旅籠(はたご)飯を食って釣ろうという連中には土地柄が当てはまらなかった。」
酒匂川
「山北の鮎酢が盛んであった時代には、ここも友釣りは盛んであり又上手であったが、今では殆ど釣り師がいないといっていいくらい、山北付近は全く水電事業のために荒らされて釣り場も釣り師も全く昔日の俤がない。元来が全川を通じて友釣りは盛んではなかったのである。」
「従って上流から河口に至るまで、河床にゴロゴロする転石は、花崗岩質の面の荒い石や火成岩ばかりであるから、良質の水、良質の珪藻に恵まれるわけがない。従って鮎の質がよくない。腹へ砂が入っていてジャリジャリするから、腹抜きでなければ、魚屋が手をつけなかった。」
「箱根温泉という贅沢な消化機関を持っているにも拘わらず酒匂川の鮎は安かった。腹抜き十五匁が一尾安いときで四銭、高い時で八銭というのであるから、旅かけて酒匂川へ釣りに来たのでは、故郷へ着け馬で帰らねばならないことになる。」
「それでも鮎が豊富な時代はよかったが、上流へ数カ所の発電所が出来、殊に山北の釣り師が宝庫のようにしていた、町はずれの曲ッ滝の上下に、発電所と次の発電所の取水口が並んで出来たのには、土地の漁師は全く悲鳴をあげ、転業のほか生活の途を失ってしまったのである。従って山北の鮎酢も次第に名声を失ってきた。」
さらに震災により大地滑りと山崩れで濁水が流れていた。
亡き師匠らは、それでも山北、谷峨は水がきれい、「湖産」の構成比が高い「湖産」ブレンドの放流が行われていたということで通っていた。オラは松田より下流でありがたや、と釣っていた。その頃でも垢石翁が食指を動かされない砂混じりの腸は一層砂を増やし、昨今では、石のあるところを見つけることが大変なほどの砂で埋まっている。
酒匂は栢山上流の囮屋さんにウエーだを置いていた米さんもあきらめて、中津への出勤が多くなり、半原行きのバスで会うことが多くなった。
相模川も当然、狩野川衆が素通りした川である。
那珂川
「那珂川は例年漁不漁の少ない川である。太平洋へ注ぐ各川のうち、最も豊富に鮎が遡上する川と解して間違いはない。それは栃木県内に開けた耕地の関係と、水源地方の山岳に雪が少ない関係で、早春すでに水温が上昇するためであろうが、例年五月中旬には茨城県の石塚から長倉附近で友釣りがはじまる。引き続き上流へ及んでいくのであるが、いつもよく鉤にかかり豊漁である。だが鮎の質は思川と同じに極めて劣る。酒匂川の鮎と兄たり難し弟たり難しで、腹がジャリジャリである。
相場も安い。腹持ち十五匁の鮎一尾が中値五銭の水揚げ相場と思えば大した間違いはない。六月一日解禁直後、安い鮎が東京の市場へ出回ることがあれば、烏山を中心とした下流茂木、上流上小川、黒羽付近の那珂川の鮎と思ってよい。」
鮎の質の評価はさておき、オラにとっての疑問は、なんで、那珂川は一番手、二番手が途中下車をし、四万十川では途中下車をしないのか。
又、谷川岳近くまで遡上できた利根川の鮎は、垢石翁の住まいよりも上流では大きくなっているのに、住まいの附近では大きくならないのか。
そして、雪代のはいる利根川では、さくらちゃんが鮎と食べるために雪代の水が入っている利根川を上っているのに、那珂川では雪代の影響が少ないにも拘わらず、茨城県の方が栃木県よりも先に解禁できるほどの大きさなのか、垢石翁さん、説明してえ。
4 狩野川衆と八幡衆
「宮川の釣り師も狩野川の影響を受けている。筆者が行った当時、巣の内から、大瀬の間一里ばかりの範囲で二,三十人の伊豆の漁師が釣りまくっていた。山下という性の男が大将で、一日にいかに少なくとも一貫目、普通一貫五百匁から二貫目を釣っていた。宮川の人達は山下という男を指して彼は日本一であるといっている。、二,三年前に長良川で全国の友釣り競技会があったときに、山下は抜群の成績をもって優勝したのだという。宮川へは毎年くるが、彼の傍らへは寄ってもつけないと驚いている。もと海の漁師であったが、途中で川の漁師となったのだという。水中に潜っていること五分間(まさか)、荒瀬を立ち泳ぎしながら釣っているのだという。ビール瓶で頭をたたいても痛みを感じない、従って水中へ潜り、岩に衝突しようが、なにしょうが痛くはないのだそうである。まことに不死身とはこの男のことをいうのであろうと驚いている。筆者らが帰るとき、自動車の上から見たら、彼日本一山下は、だんだら巻きの長竿で大瀬曲川滝で、奔流のかぶり石に突っ立って盛んに釣っていた。」
瀧井さんは、垢石翁よりも何日か早く、山下に会われている。
「昭和8年8月に、飛騨高山に帰省したとき、私は、鮎つりはドブづりに凝って友つりは初年生であったが、飛騨の山川の友づりも見習ふ考へで、釣の用意もして行った。小阪駅前の橋の下に、一人赤裸の友釣りの男が見えて、私はその岸に下りていって、オトリをわけてくれとたのんだ。赤裸の男は伊豆の方から鮎つりの出稼ぎに来たと云って、オトリは三〇匁の一尾五〇銭。」
地元の人が近づきがたい山下に瀧井さんは、昭和三十一年七月の馬瀬川解禁日にも山下さんに会われている。
ということは、昭和三十一年には、すでに宮川までの遡上が出来なくなっていて、湖産放流の馬瀬川に山下さんといえども行かざるを得なくなっていたのであろうか。それとも、たまたま、宮川の遡上流が少なくなっていたということであろうか。
(瀧井四:狩野川漁師との出逢い)
オラは、瀧井さんが山下さんと出合ったのは、小坂が高山の名古屋寄りであるから、「宮川」の上流であると思っていた。ところが、「小坂」では飛騨川が流れていて、その少し上流で高山線はトンネルをくぐり抜けて宮川にそって高山へと向かっている。
ということは、山下さんは、8月の初めには、飛騨川の小坂付近で釣り、下旬には宮川の杉原駅:巣の内付近に移っていたということになる。
山下さんが川を替えて釣り場を移動されていたのは、どのような判断基準に基づくのかなあ。
「それから今年初めてのことであるので、宮川の連中が驚いているのは、美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)、武儀群(もぎぐん)の釣り師が多数巣の内から大瀬附近へ入り込んできていることである。筆者らの宿にも武儀群の吉田君と他の一人が泊まっていたし、附近の民家にも五人、六人宛、部屋借りをして自炊していた。
今年美濃国の各川、殊に長良川筋は本流をはじめとして各支流が全然遡上がなかった、といってもいいくらい不漁であって、多少放流鮎はいたにしても間もなく釣りきってしまう。毎年の夏を鮎漁で過ごす漁師は、宮川が豊漁だと風の便りに聞き、止むを得ず国越えをして飛騨の裏山まできたのだという。しかも美濃の武儀群東村からここまで四十余里、友釣り道具一切から身の周りのものまで積んで、高山街道の山坂を自転車を押し来たのだというから驚いた。それから毎日、四人,五人宛、自転車を押して美濃国から押しかけてきた。
長良川の奔流も支流も今年こそあきれた。全然釣れないといってもいいくらいである。八月中旬鮎一尾の水揚げ相場が一円だから、一日に二,三尾もつれれば上等なのであるが、二,三日釣ると種(囮鮎)をなくしてしまって全然釣りにならない。ところで、はるばるここまできたのであるが、ここも話に聞いたほどもない、と吉田君はこぼしている。」
昭和八年といえば、弥太さんが仁淀川に湖産放流が始まった年とされている。萬サ翁は吉田川の湖産が放流された、と。(萬サ翁は昭和9年と語られているが。)
大多サも宮川にきた一団の中にいたのかなあ。生活のために、来ていたはず。萬サ翁は?
吉田さんが、なんで、話ほどのことはないといわれたのかなあ。すでに狩野川衆の影響を受けて、技倆、道具は進歩しており、また、山下さんは日々何円も稼いでいるというのに。
宮川にも稼ぎに出かけていた大多サがどのようにして自転車をこいでいたのか、語られていない。地図で見ると、郡上八幡から高山へ、郡上街道が通っている。この道を利用して高山に出て、宮川沿いに富山方向へ行かれたのではないかなあ。
それにしても、高山が巣の内よりも上流に位置から、もし、1番手2番手が遡上中に途中下車をしないのであれば、高山から上流の方が、大鮎がいることとなり、又、郡上八幡からは、巣の内よりも近いことになるが。遡上鮎が途中下車をするのではないか。そうすると、どのような条件があるときに途中下車をしたくなるのかなあ。
なお、垢石翁の同行者の1日目午後の状況は
「川原の石に腰を降ろして仕掛けを作っていると、先ほどからの雷鳴は、ついに大雨を降らせてきた。釣りはじめてから僅かに一時間、もう引きあげなければならないのかと、竿をたたんでいると、下手で釣っていた野中氏が引きあげてきて、
『この川の鮎の大きいには驚いた…』と囮箱の中から両手でつかみ出して見せたが、やはり七〇匁もある奴。上手から都丸氏も、
『怪物を釣った、怪物を釣った』と呼ばわりながらやって来る。闘釣苦戦の様子を、身振りを交えて話した後、引き筒から引っ張り出したのが百匁に近い怪物、腕ほどもあろうという奴であった。
初日はそれで止めた。いい気持ちで、夕立に打たれながら宿へ引き揚げた。」
利根川衆が、宮川の鮎の大きさにびっくりした、ということは、すでに垢石翁に天下一品、と言わしめた激流を、沼田やその上流まで遡上してくる鮎が利根川からいなくなったということであろう。
そして、狩野川衆も利根川を見捨てて、長良川や宮川へと移っていたということのようである。さらに、長良川衆まで宮川にやってきている。
そんな中で、郡上八幡からやってきた吉田さんが、たいしたことはない、というのはどういう意味かなあ。
5 狩野川衆の足跡
「利根川へ伊豆の職漁師が遠征するようになってから、もう三十年以上経過するであろう。いろいろのことを利根川の漁師に教えた。一体狩野川は川幅があまり広くないから、あまり長竿を必要としないのであるが、利根川へ来てみると、そうはいかなかった。そこで川幅に適応するような竿を使い始めた。土地の漁師もこれに習った。」
「竿の長短の使い分け、鉤付けの改良、錘の使い分け、逆鉤の使用など、各国各川へ行って土地の釣り師に教えたものである。殊に逆鉤は狩野川の職業者の発明したもので、これが始まってからは、友釣りの能率に非常に変化が起こったのである。特に狩野川の漁師の得意としたものは、鉤の研ぎである。伊豆型の仕掛け鉤の尖端を最初に鑢で三稷形におろして置いて、それからその面々に髪剃砥(かみそりど)を当てて研ぎつけるのである。鉤は、髪剃のような切れ味を持ってくる。近年こそ舶来の油紙金剛砂で出来た砥石で鉤を研ぐようになったが、二,三十年前までは、鉤を研ぐ道具は鑢(やすり)に限られていたものであった。それが伊豆の漁師が各地を歩くようになってからは、髪剃砥で研ぎつけた鉤の切れ味でなければ、友釣りは出来ないものと心得るようになった。」
大宮人のお父さんは、逆針のない吹き流しで、逆ヤナで獲った湖産が放流されていた飛騨川で釣られていたから、昭和三十年代でも逆針を使わない人もいたということであろうか。
「舶来の油紙金剛砂で出来た砥石」とは、アルカンサスのことかなあ。
平成の世になって、「カーボン百」等の硬い針が出回るようになり、又、表面加工もされるようになって、使い捨ての針になっていったと思う。
その頃でも、亡き大師匠や師匠は針を研いでいて、オラはメーカーの販売戦略にだまされている、といわれていた。亡き大師匠に研いでもらったカーボン含有量の多い針は、爪にも突き刺さるほどの鋭さになったが、すぐに鋭さはなくなった。
ある時の鬼怒川か那珂川かで、大会等で顔見知りの人の連れが大工さんで、針を研いでいた。その針のことを顔なじみさんは、駄菓子屋で一山なんぼで売っているサビの出た針やからトゲるんや、と、いったら、大工さんも笑っていたが。
故松沢さんも、丼大王が包丁を研いでもらっていたように、研ぐことには当然のこと、長けていたのであろう。
「伊豆の漁師は最初から直接宮川へ入り込んできたのではない。伊豆の人達は、よほど前から長良川の上流吉田川、上の保川、さらに板取川方面へ年に二百人あまりも遠征していたのであるが、美濃国や表飛騨の諸川が昔のように釣れなくなったので、そのうち少数の漁師は高山の分水嶺を越えて裏日本へ出で、神通川の上流宮川や、射水川(いずみがわ)の上流庄川を釣るようになったのである。」
吉田川で釣っていたとは、どういう事かなあ。萬サ翁は吉田川にはなぜか、あまり遡上しない支流、と前さんに語られ、湖産放流が行われて釣れるようになったというが。
「上の保川」とは、どの支流をいうのかなあ。白鳥付近の本流のことかなあ。吉田川合流点よりも上流にはめぼしい支流はなさそうであるが。郡上よりも下流では板取川があるが。
「射水川」の上流「庄川」とは?。庄川でも、砺波等の平野部のことかなあ。それとも、小牧ダム上流のことかなあ。
昭和37年頃、庄川ダムにある大牧温泉に泊まったことがある。ダムサイトから舟で大牧温泉に行ったが、途中で庄川左岸の山道があるところで下りる人がいた。雪の上り道を相当高いところまで上っていくと、人家があったという事であろう。現在は砺波付近から五箇山への自動車の通れる道が出来ているようであるが。
2食付き5,6百円で、湯治の人が数人だけ。唯一の例外は、高岡だったかからやってきたバスガイド3人娘。残念ながら1泊で帰って行ってしまったため、釣り上げる機会はなかったが。今は建て替えられて、秘湯ブームとかで、高い宿賃になっているようであるが。
利賀村、平村の合掌造りの建物を見に行く人も少なかったのでは。舟の終点である利賀村だったか、下梨村、平村だったか、から、白川郷を経て、高山へ出ようとしたら、雪が残っているため、バスがまだ動いていない、といわれて、城端線の駅に戻ったはず。間違った記憶かも知れないが。
宮川の例を見ると、狩野川衆が庄川で釣りをされていたのは、小牧ダムサイトよりも上流ではないかなあ。
「彼ら(注:狩野川衆)が宮川へ現れたのは、さまで古いことではない。しかし伊豆の漁師の感化はあまねく宮川の漁師に及んで、竿の捌きといい、掛かり鮎の手取り方といい、足の運びといい尋常のものではなかった。殊に仕掛けも合理的に細いテグスを使って、逆鉤も適当の場合に用い、鉤の結びつけも一本鉤針乃至二本結びのチラシ、または枝鉤乃至蛙股で、二本錨や三本錨の時代遅れのしたものを使っていなかった。」
「逆鉤も適当の場合に用い」とは、どういう意味かなあ。必ず逆針を使っていたであろうから、逆針から出る鉤素の長さのことかなあ。
二本錨や三本錨がなんで、時代遅れとなったのかなあ。針の形状、結び方等が適切でなかったということかなあ。故松沢さんが郡上八幡で一升壜をさげた漁師と会われたとき、漁師は馬素を使った唐傘のように見える錨を使っていたとのことであるが。
6 不満足な結末
「筆者ら着いた3日目の午後、金沢から坂井比古翁が元気よくやってきた。」
「翁は到着早々四,五尾釣ってきて、快活な気炎をあげていた。」
これに対して、垢石翁はというと、「越後へ行くとき、上越線で徹夜の旅、着いてからも太陽の照りつく河原に活動を続ける、それに次いで越後から飛騨への不眠不休の急行、着いてからも休みなしの水浸り、伊豆の山下のような不死身でない限り、なんで健康を損ねないでいようか。そこへ持ってきて、質の悪い富山米を鍋でたいた半煮え飯である一回で下痢を起こしてしまった。殊に筆者はひどい大腸カタルにかかり三日目の夜から重患に陥ってしまった。」
「〜宿屋で鍋飯をくれないでもよさそうなものだ、と怨んでみたが、嗚呼やんぬる哉である。」
こんな状況を見ると、天下の垢石翁も人間やなあ、とうれしくなる。
それにしても「鍋飯」とは、お釜で炊いていない飯ということかなあ。お釜が使用されていなかった宿でさえあった、ということかなあ。
垢石翁と同宿の長良川筋の人は、どないもないということは、都会っ子と田舎っ子との胃袋の強度の違いかなあ。それとも、垢石翁が一升壜では足りずに、何本も酒瓶を抱え込んだからかなあ。
鍋でも半炊きになはならにであろうし、ちょっぴり翁の腸カタルの原因には疑問は残るが。
まあ、疲れてはいたであろうしい、、大臣さんが酔っぱらったような状態で記者会見をされて、世界に報道されたこともあるしい、普段とは体調が異なっていたのかも。
ということで二日目の結果も書かれていないし、一日目の一時間ほどの結果で満足せざるを得ない。
とはいえ、これだけでも垢石翁が、寸又川の鉈鮎は八月終わりには下る、あるいは、下りはじめるとの釣趣戲書での記述は間違っている、のではないかと思う。少なくても、その下りの現象が自らの観察結果ではなく、地元の人からの伝聞ではないか、と思っている。
宮川での九月中旬頃までの釣りの情景が書かれていれば、鮎の状況を観察されて、宮川での下りがどのように始まったか、適切に観察されているであろうから助かったのに。鉄人アトム君ではなかったということか。あきらめるしかない。
垢石翁らの宮川2日目はどのような状況であろうか。尺鮎は釣れたのかなあ。
故松沢さんが郡上八幡の集荷場に持ち込んだ鮎が尺ではないか、と、人だかりがしたということであるから、昭和の30年半ば頃以降では長良川といえども、尺鮎はきわめて稀な存在となっていたということであろう。
垢石翁が宮川で釣られた昭和8年はまだ尺鮎が天然記念物的存在ではなかったはず。萬サ翁も釣られていたはず。それほど、大騒ぎをするほどの存在ではなかったから、2日目に尺が釣れても書かれなかったのか、それとも、尺は釣れず、しゃくだ、しゃくだ、ということで、無念さから書かれなかったのかなあ。
ただ、70匁に満足されているようにも感じられるから、尺は垢石翁ら、その時代人にとっても、ねらって釣れるものとはいえない存在だったのかなあ。そうすると、山崎さんや野村さんが語られている大鮎についてもきわめて稀な例外現象と考えるべきかなあ。殊に、簗での捕獲と考えるべきかなあ。
「賑わっている」状態ではあるが、70匁を囮にして「それより三間ばかり上手へ引き込むと、又直ぐきた。」と。
そうすると、大土地貴族である大鮎の縄張り範囲を次から次へと空間的に移動できるということであろう。
〇八年大島のシルバーシート前の成魚放流であろう継代人工対象の混雑きわまる釣り人の情景とは異なる。大井川では時折、釣り人で混雑するときもあるが、多くのときは広々している。もちろん、垢石翁の時代と比べると、混んではいるのであろうが。
そのような釣り人の状態であり、さらに水量が多いため、大鮎を育むことができたということであろう。
その大鮎がいるとわかっていながら、その後垢石翁は宮川で釣られたことはあるのかなあ。釣られたことがないとすれば、何でかなあ。とんでもない山奥に来たとの感想であるが、満州よりも近いけど。 注:宮川でも釣られているが、まだその記述が見つからない。
7 技
(1)魚野川でのこと
「筆者らがこの川へはじめて遠征したのは大正十五年の八月下旬であったろうと思う。それからしばしば行った。今年も(注:昭和八年、宮川に行った年)八月下旬に遠征して、小出町から十町ばかり上流の瀬で、大きな奴を入れては掛け、入れては掛けして職業漁師を驚かした。」
地元の人は、「錘は、二匁ないし三匁で十分であろうと思う瀬へ、十匁くらいのものを、鼻環から上方三,四尺のところへ付けておくのである。だから錘は川底へ沈んだまま、流れないでいる。囮は錘下三,四尺の範囲を、泳いでいるだけで、活動が非常に局限されるのである。追ってきた鮎が鉤に掛かってはじめて錘が下流へ流れはじめるのである。鮎がかかると、下流へ歩を移しながら、糸を捉まえて、その長い馬鹿糸(注:二尋約一丈ほど出す人もいる)をたぐり、寄せ、手網の中へ抜き込むという段取りでやっている。」
当然、垢石翁は自らの仕掛けを説明する。
「筆者らから考えると、理由なしに重い錘を付けて、囮鮎の活動を制限するから、おそろしく能率が上がらない。そこで筆者らが仕掛けや、竿の改良を進めると、案外にも『君達も越後の仕掛けに替えた方がいい。この釣り方は昔から日本一だと言い伝えられているのだから…』
錘を川底に着けていて、石に噛まないのかなあ。上流に引っ張っていれば大丈夫かなあ。
垢石翁は「友釣りもお国自慢である。どこの川へ行っても、その川の釣り師が日本一上手である、と自慢している。どの川にも飛び抜けて上手な釣り師がいるものである。
『奴くらいの腕の釣り師は広い日本に二人とはあるまい、それに続くわれわれもだ…』。その川の友釣り仲間は、名人を日本一に祭り上げ、そして自分たちの腕の標準を勝手につくってしまう。まことに無邪気なものである。井中の蛙、大海を知らず、などいう悪口はいうものでない。天下泰平に仲間同士で腕を競いながら釣っているのである。」
その魚野川の鮎について「殊に嬉しいのは河原の転石の大部分が、石理ある古成層の片岩で、さらに破間川は一層岩質がよろしいので、鮎の香気も高く、姿も大きい。ただ惜しいのは、河床にある転石の型が小さいことである。だからこの川は、水源に近い所から合流点に至るまで、急な流速を持っているにも拘わらず、瀬の中心に巨岩磊々(らいらい)として、水勢岸をかむ、などという友釣りにお誂え向きの景色を持っていない。これは水源における岩質の受ける、風雨削磨の関係によるものであるが、鮎はなかなか大きくなる。八月上旬から、九月半ばになると、四,五〇匁から七,八〇匁も出ることがある。」
この魚野川の記述からも、大井川は寸又川での八月下旬からの下りの記述の信頼性は低いと考えている。
「信濃川は鮎の少ない水系である。近年殊に甚だしい。」
「上流の犀川は昔から全然鮎が遡上しないのであるし、近年千曲川も天然遡上鮎は姿を見せない。流れ鮎で満足しなければならない気の毒な状態となった。
魚野川ばかりが、天然鮎が豊富であると、羨望の的となっていたのであるが、一昨年頃からどうやら遡上が悪くなったようである。そこで県の水産試験場で昨年から鮎の放流を試みるようになった。だいぶん成績が良好だった。今年もやった。素晴らしい発育で八月十七日頃から友を追い始め連日大漁が続いた。殊に小出地先から、破間川との合流点、堀の内、新道島、川口などは毎日すばらしい漁があった。筆者らも情報を受けたので遠征して大いに面白い目を見た。その盛況を聞いたのであろう、八月下旬から九月上旬(筆者らはその時神通川の上流飛騨国宮川へ遠征していたのですでに魚野川にはおらなかった)へかけて、利根川の上流岩本方面から職漁師の中でも達者といわれている連中が多数押しかけて、腕ッコキ釣ったから、越後の釣り人達はあがったり、になってしまった。小出町の警察署へ訴えて出た。他県から来たものに放流鮎を釣りきってしまわれては、越後の釣り人が商ばいにならない、至急何とかしてください。」
魚野川への湖産放流は仁淀川への放流よりも一年早いということか。それにしてもなんで、八月頃までは釣れなかったのかなあ。湖産とはいえ、遡上してきた鮎を逆ヤナ等で採捕したのもで、氷魚からの畜養ではないから、攻撃衝動は、一層はつらつであろうが。
なお、相模湾での海産稚魚採捕が始まったのは、昭和8年で、最初は輸送距離が相模川付近までしかできなかったとのこと(後述)。
腕の差は「利根川の職漁師が十尾釣るうちに、魚野川の漁師は一尾という割合くらいに当たる。それでも日本一の仕掛けと錘を信じて替えようとしない。」
魚野川といえば、垢石翁が「たぬき汁」だったか「新たぬき汁」に、魚野川でツツガムシに食われたか、あるいは、食われているかを調べる方法とその作業を宿に戻ると行っていた、ということが書かれていたと思う。
餓鬼の頃に親父の持っていた本を読んだだけであるから、ツツガムシのことだけでも覚えていたとは、アルツハイマー常習者のオラとしては上出来の記憶力といえる。
鮎の大きさについても、7,80匁止まりということから、宮川ではこの程度ではありがたくない、ということであろうか。
(2)宮川の釣り技
「六間竿を使わねばならない理由がある。水量が豊富で川幅が広いこと、辺地(へち)から身丈を没するような深みで、しかも激流であるため、よほど場所を選ばねば立ち込みが出来ないこと。ザラ瀬が少ないこと、流速が急で飛び石へ渡れないこと。等々いろいろあるが、要するに長竿でなければ思うところへ囮が出ない、ということから六間、またはそれ以上の竿を使うようになったのであろう。」
「その長竿に六尺あまり馬鹿を出して、友釣りの初期から川の真ん中を釣るのだそうである。初期の珪藻の乗り初めには、短い竿で辺地からじわじわと攻めていく釣り方をとらないそうである。
それでは友釣りの本筋を無視している。辺地から次第に、川の中心へと進んでいくのが定法としたら、この川の釣り師は、徒に長竿の効能ばかり捉われ過ぎているといわねばならない。なるほど大物ばかり揃えるには瀬の中心のみを釣るのが、頸捷(けいしょう)かも知れないが、大物は瀬の中心のみにいるとは限っていない。案外激流を避けた辺地の石陰に珪藻を食べているものである。友釣りは長竿と短い竿とを使い分けるところに妙味がある。長竿の長所ばかりを活用しているのが、ここの釣り師の特徴であると観察した。
それがこの川の釣り師の誇りとするところでもあった。宿の主人はこの附近の一流の選手である。いかに不漁の日でも四,五百匁は釣っている。毎夜食後部屋に遊びに来ては、釣談に花を咲かせたが、得意になって長竿の効を述べた。日本一とはいくまいが、まず宮川の釣り師位達者なものは一寸他に類があるまいという口吻で、我々遠来の客を眼下に見下した。」
(3)利根川の釣り技
「利根川も長い竿を使う川だ。四間位から普通四間半から五間、六間は珍しくない。六間四尺から七間という恐ろしく長い竿を使う人もある。それはやはり水量が豊富な上に、瀬が荒く、川幅が広いためであるからである。だが長い竿を短くして使う妙味も知っている。
それは伊豆の狩野川の影響を受けているからである。狩野川は鮎は豊富であるが、川が小さいので六月一杯釣れば殆ど釣りきってしまう。それは一面、職漁者が非常に上手であるということを物語っている。だから七月に入ると職漁者は互いに商ばいが休みになってしまうのであった。未だ全国の交通機関が開けない時代には県内の富士川、興津川位へ商売に出かけたものであるが、交通機関が便利になってからというものは、五十人、百人と隊をなして武州の荒川、上州の利根川、美濃の長良川というように、鮎では有名な大河へ遠征するようになった。全国の友釣り技術は、狩野川の漁師が遠征するようになってから、その影響と指導を受けて非常な発達をきたしたのであって、狩野川の漁師の影響の及んでいない、東北地方、関西、中国、四国、九州などは未だ大した発達を示していないのである。」
ここでもわからない。七月以降、なんで、狩野川で二番手、三番手が成長していない、ということになっているのかなあ。
とはいえ、交通が不便な頃には、「〜県内の富士川、興津川位へ商ばいに出たものであるが、」とのことであるから、当時の富士川は大河ではあっても、垢石翁が利根川なきあとに残したい川の一つに挙げられた興津川は、狩野川以上に小さい川である。ということで、2番手3番手が育たない、ということでは、狩野川職漁師の出稼ぎは説明できないのではないかなあ。
長竿に引き抜き、これを全国大会に使った村田さんが、主催者から品がないとか、鮎釣り界の振興に役立たないとかのの理由で、一位の成績を上げながら、三位だったか、四位だったかにされて、悔し泣きをされたとのことが書かれている本がある。
なんで、長竿が,引き抜きが、品がない、村田さんが友釣りの振興に貢献しない、と、評価されたのかなあ。六間竿であれば、村田さんの竿の長さと同じようなものであり、引き抜きにしても、萬サ翁がモモノキ岩に踏ん張って行っていたかも知れないのに。そして、藁科川等で、大塚豊田郎さんが引き抜きをされていたのに。
品がなければ、競技の結果に基づかない順位を付けても許されるのかなあ。
なんか、朝青龍の土俵上のガッツポーズを品がない、伝統に反する、と非難することに似てないかなあ。伝統、文化を異質他者に強制すべきものではない。必要があるときは、異質他者であることを認識した上で、契約で、また、教育で、違いのある事柄を教えるべき事のはず。それを十分には行わず、「伝統に反する」と非難するのは、「人間みな同じ」と述べた江戸期初期の儒者・藤原セイカと同じ過ちをす、あるいは異質他者の存在を自覚できない日本人の「文化」がしからしめるところであろう。
格闘技であれば、ガッツポーズも問題ないのでは。野球でもサッカーでもはしゃぐことが許されるようになったのに。
浅草三社祭の御輿に乗っかる事が神への冒涜であることを知らない「江戸っ子」がいるようで、紛議を醸していることにくらべれば、ガッツポーズは小さい問題であろうが。日本の文化にどっぷり浸かっている人ですら、神のまします御輿に乗ってはいけないことを知らないのであるから。
いや、「御輿」が神様のおられる場所であることすら知らないのでは。そして、山車との区別もつかないのでは?
坂本の日吉神社で、建物と建物の間をうろちょろしていると、神様にお尻を向けることになるなるら、その方向から建物を見てはいけない、と注意されたことがある。鎌倉八幡宮であれば、回廊を巡る形で歩くから、神殿にお尻を向けることはないのであろうが、日吉社には回廊がない。それにどれが神殿かもわからなかった。信長に焼かれたとはいえ(たぶん、そうであったと思うが自信はない)、どの建物にも趣があって楽しかったから、神様のいらっしゃることには気がつかなかった。
4)興津川の釣り技
「興津川は昔からよく発達していた。それは川が小さいにも拘わらず、釣りにくい川だったからでもあろうが、興津の海岸が避暑、避寒地として又遊覧地として古くから発展して、鮎の需要が多く、従って相当の値段で取引されたためでもあったろう鮎の形も安倍、藁科に比べれば、一頭地を抜き、食味の上からも県下第一とさえいわれていた。それらの関係から、狩野川の漁師が古くから入り込んで土地の漁師を腕比べをした。
興津川は地質が、川瀬の反動を複雑にしているため、屈曲が多く淵が豊富である。玉石底の瀬棚が割合に少なく、淵と瀞が連続していて友釣りは勢い、その底に盤踞(ばんきょ)する岩の周りを釣らねばならない。そこに大した技倆を要したのであった。竿は穂先一尺五寸か二尺ばかりがヘナヘナと曲がり、やはり胴に調子を持った三間前後の女竹の一本竿。馬鹿糸は僅かに一尺ばかりで囮を宙で握ったまま鼻環を通し、囮を握った左手を放すと、囮が道糸の尖端にブラ下がった途端、竿先へ一寸調子をくれると、囮は宙を飛んで釣る者の好む水面へ尻尾の方から落ち込ませるのである。そして囮の操作には最もむずかしい瀞の底に、かすかな姿を見せる岩のまわりを自由自在に囮を泳がせるのが、興津川の釣り師の得意とするところである。だから、あらゆる場合に錘なしで逆鉤を用いている。
竿先を微妙に活用して意のように囮鮎を操縦する技術は、まことに興津川ならでは見られぬ友釣り風景である。近年この川の漁師も伊豆の人々を駆逐してしまった程、上達した。」
「そうして興津川の釣り師は、興津川の友釣りが日本一なりと固く信じ、それを誇りとしているのである。」
興津川ではワープがすでに行われていたということであるが、なんで、足元から泳がせなかったのかなあ。瀞での釣りということ、瀞の岩のまわりに囮を誘導するには、最適な方法ということかなあ。
小西翁は、妹背の淵でも目標とする野鮎の下流から、囮を上流に誘導されていたが。
瀞での釣りであるから、錘を使わない、ということはわかるが、「あらゆる場合に」「逆鉤を用いている」とは、逆針を用いない釣りをすることがあるということかなあ。
瀞がポイントであるとしても、そこに乙女が育ったのは、水深があり、素人衆では糸が太く、底にオトリを沈めることが出来なかったからかなあ。小西翁が妹背の淵で語られているように水深6メートルほどで底まで見える、という水深があったのかなあ。
今は砂が多く、又堰がいっぱいできていて取水されているから、古の縁を思い浮かべることも出来ないが。
竿先を活用する、とは、どのような操作かなあ。故松沢さんも、流れと糸の角度での調整だけではなく、竿先を利かせることもされていたのではないかなあ。
(5)狩野川衆が素通りをした川の技
@ 藁科川
「静岡市二番町(?)に大塚豊太郎さんという在郷軍人がいた。加賀鉤とテグスの商いをするので、大正四,五年頃から、毎年狩野川を訪れていた。そこで狩野川の友釣りを学んできた。竿は女竹の延べ三間くらい、穂先二尺位が軟らかに出来ていて鮎が掛かれば胴まで撓んで、宙抜きが出来るという調子のもの、道糸は細い人造を使い、一厘二毛柄のミガキテグス一本に直接鎧型の鼻環を木綿糸で緩くなく、固くなく結んでおく。土師清二氏が武庫川で用いた仕掛けと同様に、木綿糸で結んだ鼻環を、結んだ木綿糸の締め加減一つで上下し、鉤素の長短を調整していく。従って鉤素は鼻環上のテグスと共素であって、すこぶる器用に出来ている。
それにいろいろと自分の工夫も加え、共素の尖端に伊豆小型の太身の鉤を、二本のチラシ付けにしていた。まず鉤の糸止めを克明に鑢で落としておいて細い木綿糸でテグスへ結びつけるのであるが、テグスと鉤との接合点が最も底石に当たって摺れやすいので、そこを保護しながら巻いていく手先はなかなか器用なものであった。鉤を髪剃りとで研ぐことも、傍らで見てかくもと思うほど頻繁であった。
だから鉤はよくきれた。大塚さんが囮を泳がせて、上流へ一歩、二歩、三歩と、後足を運んでいくポーズは、型にはまって、立派なものだった。三足から四足、四足から五足といった頃、必ず鮎が掛かっていた。宙抜きで掛かり鮎を手網に受け、囮を替えておいて古い囮を竹釘でしめ、腰の魚籠へ放り込んでは川の上手、上手へ釣って行った姿は、いつも筆者の話の種になる。
珪藻から底石の見分け方まで手に入ったものだった。川へ出て、人に聞かれれば、仕掛けの説明はするが、自分の釣技を誇るようなことは決してなかった。
筆者も随分国々を釣り歩いたが、大塚さんほどの名人型の友釣りを見たことがない。一度話し込めば案外親切な、穏やかな釣り師であった。藁科へ逆鉤を輸入したのも大塚さんだった。
近年、藁科も安倍川も友釣り愛好者が激増した。技術も上達したが、それも川が小さいだけの悲しみはある。他国の大きな川の釣り師から見れば、食い足らないところのあるのは、やむを得ないであろう。」
藁科に狩野川衆がやってきたのが遅かったとしても、藁科から狩野川に出かけていた人が、狩野川衆の技倆を持ち帰ってきた。
垢石翁の仕掛けの説明で、理解できることも出来ないこともある。
「鎧型鼻環」とは、どのような形状であろうか。ワンタッチ鼻環が出回る前には、鼻環の形状も多かったと思うが。オラは銅で出来て、ふやけた爪でも開閉が容易であった「藁科」鼻環を使っていた。変形は覚悟の上で、優男には、他の開閉がやりにくい硬い素材、形状の鼻環は敬遠していた。その「藁科」という鼻環は「鎧型鼻環」と関係あるのかなあ。
鼻環は誘導式になっていたということであろう。しかし、逆針は誘導式になっていたのかなあ。
大塚さんも引き抜きをされていた。なんで、村田さんが引き抜きをして一位の成績を取りながらも優勝者にされなかったのか、ますます当時のその大会を、鮎釣り界を牛耳っていた人々の感性と技と考え方に疑問が湧く。
ついでに、大塚さんが、訊ねられたことについては教えられるが、自慢話はされない、との描写は故松沢さんにも共通する。従って、オラが適切な問いをしないと、故松沢さんが観察、経験されたことを話してもらえることは出来なかった。下りが始まっていた長良川での束釣りも、自慢話として語られたことではなかった。オラがたまたま何かの質問をして答えられたもの。その点では故松沢さんに「自慢話」に類することを話していただいた数少ない「自慢話」であった。
なお、故松沢さんのテントに村田さんがやってきたとき、村田さんはいつものとおり、わしの腕やったら、なんぼ釣れる、と。故松沢さんは皮肉をこめて、そうでしょう、と答えられたとのこと。
しかし、遡上量が少ないこと、群れに当たれば大漁となる継代人工も放流されていない城山下、石コロガシでは不可能な数字。もちろん、上流に放流されて流れて来た継代人工が少しはいるであろうが。
ということで、故松沢さんは大風呂敷も性に合わなかった。オラのように、自慢話をしたくても出来ないから、ヘボに付き合ってくれたのではないかなあ。ヘボ冥利に尽きる稀有な事例である。
なお、そのとき、村田さんは竿を出すことなく、テントの中でしゃべっていたとのこと。
今では針の糸止めがない針が常識であるが、昭和8年頃は、その糸止めを削り落とすことが、珍しかったとうことかなあ。錨と違い、チラシでは、糸止めが着いていても支障にならないのではないかと思うが、どのような効果をねらって、削り落とされていたのかなあ。
「珪藻の見分け方」とは、どのような意味かなあ。輝き、磨かれ方の意味かなあ。それとも、珪藻の種別等によって、色彩等の違いがあり、金の塊が繁茂している場所を見つける、という意味かなあ。
垢石翁が大塚さんに対するほど、絶賛を惜しまない釣り人がほかにもおられたのかなあ。垢石翁の評価は非常に厳しいものと考えているが。
「垢石釣り紀行」のように、垢石翁らの文章を復刻してくれたら、助かるが。
瀧井さんの「釣りの楽しみ」も復刻された文章であるが、この「釣魚名著シリーズ」でさえ、手に入りにくい状況になっている。
「四万十 川がたり」のように、古の山、川、鮎等の生物を適切に観察された人々で、生存されておられる方は後わずかであろう。「四万十 川がたり」の出版社にはぜひ、そのかたがたの話を聞き取られるようにお願いしたが。
A 酒匂川
「相模国酒匂川の友釣りは滅茶である。何十年一日の如し、とはこの川の友釣りをいうのであろう。竿は手製の、まことに粗末なものである。胡瓜(きゅうり)の手竹を、適当に切って三本つぎにし、二間半か三間にこしらえて味も調子もあったものではない。もちろん、継ぎ手や巻き糸に漆など使ってはいない。小田原在足柄村に一軒の竿師がいるが、こんな具合だから振るわないこと甚だしい。道糸の人造テグスも太いもの、テグスももちろんである。錘は割り玉の噛み付けで、鉤はどこで製造するのであろう、モドリ付きの狐型掛け鉤という珍しいもの。それを太いテグスの鉤へ麻糸を結びつけるのである。逆鉤の活用など、全然知らない。鼻環は木綿針を長さ五分に折って、中央を麻糸でくくった撞木(しゅもく)式という時代ものが、主として行われているのである。
元来釣り師も少ない。小田原市中にある友釣り愛好者はホンの数えるくらいなものである。」
モドリ付きの掛けバリがすでに時代遅れ、他方、逆針はまだ先端技術、という時代で、友釣り師が少なく、県が湖産か、海産の放流を行う酒匂川が、昭和の四,五〇年頃から、満員御礼、場所の移動もままならぬほどの釣り人であふれかえる様を見たら、垢石翁はなんといわれるかなあ。
しかも、川の状況は、垢石翁が見られた頃以上に砂利混じり。
この状況を見るだけで、昭和の終わりの川の変貌、貧弱な川の環境への変化にも拘わらず、釣り人が押し寄せる中で行われている釣り人の評価、感情等の営みが、古の川、鮎の環境とは異次元の対象を語っていることに、どのくらいの釣り人が認識しているのかなあ。ましてや研究者においておや。
B 相模川
「相模川の職漁者は、まことに原始的な、知恵のない道具を使っている。竿は女竹の一本棒に一尺五寸ほどの穂先を差し込んで、全長二間半か三間半にして使う。ゴロ引きと兼用になるので、捨て難いのであろうが、あれでは友釣りのほんとうの味、ほんとうの調子というものが現れない。
道糸もテグスも概して太い柄を好んで使う。錘の付け方も不器用であり、鼻環と道糸との結び具合も感服できない。鉤を結ぶにも共素でくくっているが、絹糸の鉤付けがいかに有利であるかも知らないらしい。すべて時代から一歩遅れている。ここも酒匂川と同じに、何十年一日の如しというのである。」
「それは兎に角として相模川の友釣りは、全国各川の友釣りを見学したらどうかということをお勧めしたい。」
垢石翁に相手にされないほどの技倆も今や、名人もその後継者も出てくるという状態になっている。技倆は向上すれど、川は古の川に戻らず。遡上鮎もいつも充ち満ちている、という状態とはほど遠い。
それでも、遡上鮎が期待できるだけでも幸せと考えるべきかなあ。
C 那珂川
「『舟でやれる川の友釣りは上手にならない』という言葉が昔からあるが、相模川と那珂川もその組に入る方らしい。
一体舟でやれる川の釣り師は、楽をしすぎている。身体を使わなければ苦心もしていない。五間から六間の竿でなければ届かない瀬や瀞へ、すいすいと舟を漕いでいって、二間か長くて二間半の短竿で、自由自在に思う場所へ囮を入れられる。ところが反対に、胸まで立ち込んで、長い竿で思う場所の鮎を釣り出そうとするには、なかなかの苦心と、体力を使わねばならない。舟の使える川の釣り師は、何かにつけて物臭い。その結果、進歩発達が遅れてしまうのは、免れないところであろう。」
垢石翁は、友釣りについて「実際やってみれば、我田の水を引くわけではないが、ドブ釣りよりも技巧的にも、又、川を観察する興味からも、一層深みがあって面白いものであるが、何十万という東京の釣り人の中、相模川という絶好な友釣り場を持ちながら、これを志す人の極めて僅少なのは、どうしたことであろう。」
と書かれているが、相模川での友釣りは、瀧井さんら少数がされていただけのよう。そのため、友釣り区を設置しょうと、あるいは広げようとすると、相模川の「伝統漁法」をなくすな、との反対が多かった。高田橋に友区が出来たのは、平成の初めではなかったかなあ。あるいは昭和の最後の頃。
友釣りが「川を観察する興味」を持ちあわせているのに、大島のシルバーシートに毎日同じように並んで釣っていてては、川見はできなかろう。せっかく遡上鮎が釣りの対象となっているのに、継代人工が好む、群れているところを釣っているとは、もったいないこと。
もっとも、「もったいない」と感じるのは、遡上あゆみちゃんと継代人工とは品格が違うと感じ、相手にしたくない継代人工を避けようとするオラ達少数のよう。
嗚呼、川見ができれば、あゆみちゃんの気まぐれを見抜いて、弥太さんではないが、あゆみちゃんの裏をかいて、あるいはあゆみちゃんの意に沿う場所に入り、酒池肉林の歓楽を味わえるのに。
「友釣りを舟でやるのは魚釣りでなく、魚捕りである。アマチュアはすべからく足で釣るべしである。足で苦闘するところに友釣り道の本筋がある。」
あきずに新昭和橋付近の、多くは継代人工ではないかと思う鮎を釣っているアッシー君候補さん、「足で苦闘する」を信条として、あゆみちゃんと戯れる楽しみを悟ってえ。大井川では前回の釣り場が、今回も、次回も良き釣り場、悪しき釣り場、とは限りませんよ。
大きく動くにはアッシー君の効用も非常に大きいからよろしくね。
そして、一キロ、二キロは歩くのは当たり前、そして四キロ、五キロも。
「那珂川も相模川と変わらない。下流常陸国の石塚、阿波山、野口、長倉、下野国へ入って藤木附近、烏山、上小川、黒羽付近まで至るところ、舟を浮かべてやっている。ギコチない竿に太い道糸を張り、煙管(きせる)型の錘を付けてやっている図は、幾年たっても進歩の跡が見えない。」
とのこと。
今日とは様変わりの情景である。
8 竿自慢
垢石翁らは「筆者らが着いた3日目の午後、金沢から坂井武比古翁が元気よくやってきた」が、夏のウワバミの体で、しょげかえっていた。釣りの出来ない垢石翁はどんな心境であったのかなあ。
夜、竿の見せ合いが始まった。
その前に、当時の竿の描写を見ておく。
(1)長良川衆の竿
垢石翁は、「長良の連中も長竿であった。物干し竿の印籠継ぎで重量四百匁以上というのであった。我々のように、腕に力のない者には、到底支えきれるものじゃない。足場の悪い所で鮎が掛かれば、糸を切るか怪我をするかの二途あるのみである。」
「匁」を「グラム」にい置き換えても、オラには操れる代物ではない。昭和の終わり頃には、三百グラム四百グラムのグラスあるいはカーボンのはしりの竿がでていたが。
継ぎ竿と長良川
その長良川衆が、狩野川衆が持っていた竿を見たときのことを大多サは「みな継ぎ竿を持っとりましたで。今から思うと竹を三つに切って、ふたとこブリキで継いだだけの幼稚なものじゃったが、わしらの藪から切ってきたまんまの竿と違いますで、とにかく長い。その長い竿で、そりゃあ、どえろう釣りよりました。役者が一枚も二枚も上でしたで」
(2)引き抜き竿
藁科川の大塚豊太郎さんの竿は「竿は女竹の延べ三間くらい、穂先二尺位が軟らかに出来ていて鮎が掛かれば胴まで撓んで、宙抜きが出来るという調子のもの」とのこと。
(3)東作の竿
瀧井さんの竿は、「この釣り竿は、私が鮎つりを初めた昭和六年に菊池寛からもらった、稲荷町の東作のドブヅリ竿、四間半七本つぎの各さし込みに銀の口金付き目方は二百三十匁。二本仕舞の竿袋はズック布に皮革のバンド付き。」
「昭和八年八月に」「小阪駅前の橋のたもと」の「素ッ裸の一糸もつけぬ漁師は、頭に玉網をかぶり、長い竿持上げてオトリは泳がせながら、胸の丈けの深ンドを渉り、対岸に行って釣った。漁師は釣れるとオトリを替へて、対岸にも石油罐の生かしビクが浸かり、その中に入れた。対岸の上手にも下手にも行って釣り、一巡して釣ると、又、胸の丈けの深ンドを渉りこちらに戻った。私は二度ばかり掛けたが鮎は上がらず、オトリは弱り、またオトリを一尾買った。」
「赤裸の漁師がこの竿を批評して、東京出来の上等の竿だがその竿を持って行って宮川の下の山中の方で友づりをやられると竿はササラのやうに傷んでしまふ、鮎が五〇匁七〇匁の大物で水嵩のある激流の釣りだからその美しい竿では竿がたまらぬ、と批評した。」
「赤裸の漁師自身の竿は長いつぎ竿で継ぎ目はブリキ金具(注:「ブリキ」は漢字表記)の所謂印籠つぎの竿でウルシぬりもなく素朴岩乗に見えた。元竿を抜いて四間五尺だと云ってこれに元竿を継ぐと六間の長竿になると云ひ、山中の方の川では五間から六間も出る長い竿の丈夫なのでなくば十分な釣は出来ない」
と、山下さんが話された。
これが昭和8年頃までの竿の状態で、酒匂川や相模川のように、この水準に到達していない川が殆どであった、ということのよう。
このような中で、垢石翁ら最高水準にある人々の竿を見ておく。
(4)竿自慢
「坂井翁は例の得意の手製竿を袋からとりだした。三年竹で作った八本継ぎ五間というのである。重量五〇〇匁以上。継いでみて、さらに驚いた、余りにも重いので、どこに調子があるのか判らない。腕力では一行中での都丸氏が持ってみて全く悲鳴をあげてしまった。『私でさえ十分間は持ちきれません』と兜を脱いだ。これに比べて、坂井翁がこの竿を終日使いこなす体力と腕力とに一同驚嘆の声を放ったのである。」
ということは五百匁以上を操れる人は限られているということかなあ。
故松沢さんに、よく竹竿で釣ることができるねえ、と訊ねたことがあった。故松沢さんの体格はオラと変わらない。
故松沢さんは、手だけで竿を持つのではない、腹に竿尻を当てて操作をするから、見た目、あるいは手で持ったときほどの重さを感じない、といわれたのではなかったかなあ。
それに、取り込むときは、掛かり鮎が上流にすっ飛んでいく操作をされていたから、手だけで竿を支えるのは、掛かり鮎が上流にすっ飛んでいく間だけということになるから、束釣りをしても腱鞘炎にも四十肩にもならなかったということかなあ。
「次に野中氏が竿を出した。細身の五間一尺、百九十匁、都丸氏も同じく細身の五間一尺二百匁、筆者の竿は四間四尺の百六十匁、四尺の元竿を抜けば四間にも使えるのである。坂井翁はまず野中氏の竿を手にしてみて驚いた。竿を持っているようじゃないと、片手でクルクル調子を取ってみる。胴に調子を持たせ、竿先を軽く――手元の一本を比較的重くして、全体の力を竿尻に集め、しかもスッキリと穂先まで一分の狂いもない。『ウーン…』、翁はうなりを発してしまった。」
九メートル百九十グラムという竿と、五間一尺百九十匁の竿の対比は、今の代と古の代の移ろいをよく現している。
数字に置き換えると同じようなものであるが、重量の単位が異なる。
あたかも水が流れている川は今も昔も同じであっても、そこに繁茂している苔は藍藻と珪藻との違いがあるが如し。
「今度は筆者の竿を翁と吉田君と交代で持ってみた。この腕力逞しい二人が片手で、筆者の竿を持ったさまは、我々が二間半の鮒竿を操るにも等しい。軽々と自由自在である。
『どこの竿師に作らせたのです?』
『この名人が…』、野中氏は都丸氏を指さした。
『ほんとうですか?』
『ほんとうですよ。都丸さんは天才というのでしょうね、熱心も熱心ですが…』
『差し込みといい、漆の塗り方といい、玄人(くろうと)はだしですね。第一この調子に仕上げるには竹を選ぶのに、ずば抜けた眼識がなければ出来ませんよ。細身で軽く、それでしっかりしているのだもの二百匁の鮎が掛かってもビクともしない。』
竹竿でも、超高級品を作ることが出来る時代になっているようである。無骨で重い竿の時代が、進化をしているということであろう。
故松沢さんも「調子」については語られたことがあったが、忘れた。ただ、竹竿が持っている調子をカーボンは持っていない、といわれていた。最も、カーボン竿は、時折、お客さんから持ってみて、といわれたときしかさわっていないから、最新技術を駆使した竿との比較とはいえないかも知れないが。
まあ、ヘボには味わうことの出来ない竿の調子の世界のこと。それにしても五割引になる竿が出回らない時代になったなあ。いっぱい売れ残っているはず、と思いきや、生産も受注生産に近づけて、需給ギャップを僅少化しているとのこと。とんでもないこっちゃ。どんどん作って、五割引、八割引は当たり前、と、期待してるでえ。
「(坂井)翁は今一度自分の竿を手にして、
『竹全体の重量はわずかに三百匁ばかりの差であるが、こうして継いで比較してみると二貫目も三貫目も違うような気がする…都丸さん、あなたはすごい腕を持っているのですね』」
「『どうでしょう、ご無心があるのだが、私に五間半、二百匁以内というのを一本作ってくれませんか、そんなのができますか? 来年から使いたいと思うのですが…。金沢式の重い竿は今年限りで馘首(くび)だ、若い者と違って私らは軽いものでなければ駄目だ。』」
さらに「『若い者でも軽いしっかりしたのに限る』と、吉田君も膝を進めてきて、とうとう都丸君に六間三百匁以内という奴を約束させてしまった。
この間、奥利根の職業漁師池田君は、四間半から五間の前橋式の短い軽竿を操縦することは、六間から六間半の重い竿を使って手足の活動を制限させるよりも効率の上に、どれくらい得をしているか分からないと、繰り返し、繰り返して説くのであった。」
村田さんが長竿を宣伝し、その後、それよりも短い竿を宣伝された推移も、吉田さんの語られた操作性の重視を現しているのではないかなあ。
9 遡上鮎は途中下車をするのか
(1)天竜川での稚鮎調査
「鮎種苗の放流のと現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会発行)に、天竜川の2月27日の稚鮎調査が掲載されている。
調査地点としては最上流に当たる掛塚橋で、他の3地点よりも最も多い145匹の稚鮎が採捕されている。
河口部の水温は6.3度、6.5度、6.6度、そして、遠州大橋下流では7.3度、掛塚橋下流では8.0度、上流側で8.7度である。
オラの疑問は、
@ なんで掛塚橋付近の水温よりも、河口付近の水温が低いのか。
A 掛塚橋の水温7,8度は、今年の中津川角田大橋、田代での3月1日の水温から推測が出来る。
B 水温6度といえば、温帯性の生物である鮎にとっては生存限界あるいは生存限界以下の水温ではないか。
C その生存限界の水温のときに、遡上を開始するのか。
D 掛塚橋付近で採捕された稚鮎は遡上鮎であろうか。人工あるいは湖産の生き残りではないのか。
ということである。
水温が6度で川に稚鮎が入ってくることは考えられない。日本海で、稚鮎が多く生存できる水温は8度以上との話が、つまり、遡上量が少ない原因として、海水温が8度以下であったから、と書かれていた新聞記事があったと思う。
稚鮎が観察された掛塚橋付近だけ、河口よりもなんで水温が高いのか。湧き水が豊富なのか、それとも、温排水が流れ込んでいて、その影響があるということか。たぶん、温排水が排出されているのではないかと想像しているが。
学者先生の調査報告だけであれば、又か、ですますことができるが、垢石翁があたかも、天竜川の稚魚調査が事実である、遡上鮎である、と解することのできる可能性もある記述をされていて、困った、困った、という状況である。
困ったときの神頼みの松沢さん亡き後、オラの疑問だけを述べるしかない。
(2)利根川での遡上風景
垢石翁は
「鮭は、淡水へ入ると餌を口にしないけれど、鱒は盛んに餌を食う、その狙う餌は、主として若鮎の群れである。なにしろ、小さくても五,六百匁、大きいのは一貫七,八百匁もあるのであるから、随分若鮎の数を食うのであろう。であるから、必ず流れを遡る若鮎の群れには大きな鱒がつきまとい、瀬際の揉み合わせに鱒が跳躍するところには必ず若鮎の大群がいた。
この鱒は、次第に鮎とともに上流へ遡ってゆき、利根川の流れを水力電気の堰堤が中断せず、また上流地方の山林が乱伐の災いを受けないで、夏でも水量の多い時代は、沼田からさらに上流の支流薄根川、赤谷川まで遡り込み、本流は上越国境の雪橋、雪渓のあるあたりの渓間にまで遡り込んで、山や谷が錦繍(きんしゅう)の彩に飾られる十月中旬から産卵をはじめたのである。
そんな次第で、私の故郷の地元の利根川へは、遅くも四月下旬には鮎の群れと鱒の群れとが姿を波間に現した。」
この文章は、昭和二十三年に「つり人」に掲載された「利根川の鮎」による。
「遅くも四月下旬」に鮎が上越地方まで上ったのかなあ。もし、そうだとすると、一日の遡上の速度はそうと早いとなるが。
オラが垢石翁の記述で疑問の思うのは、水温である。
@ 昭和40年頃、谷川岳天神平スキー場は4月1日頃でもスキーが出来て、田尻沢?をスキーで土合まで下ることが出来た。土合の駅からバスで水上に行き、50円くらいの温泉に入って1週間ほどの垢を流してから汽車に乗った。1度は雪が少なく、土合までは下れないことがあったが。
A 阿仁川に鮎が遡上してくるのは5月下旬以降のようである。
B 赤川等で、凍ったガイドを水につけて溶かしてルアーを振り回しているのは3月1日頃から。従って、その頃にはさくらちゃんは川に入ってきている。
もちろん、阿仁川と利根川では雪代の影響が及ぶ終期は異なる。
谷川岳の天神平スキー場では、5月の連休の頃にはブッシュがでるようになり、天神平よりも少し高度のある峠スキー場ではブッシュを気にせずにスキーができるということであった。
八幡平では、5月の連休でも、地面の見えるところはなかった。蒸けの湯から花輪線の駅へのバスが、はじめて運転されたときに出くわし、幸運であった。
ということで、利根川は沼田とか、後閑とかの水温が4月下旬に8度以上になっているのか、疑問に思っている。
また、さくらちゃんが鮎を食しながら遡上をするという現象は、利根川での、あるいは利根川付近から以西の現象ではないかなあ。
「相模や伊豆の暖かい地方では四月下旬といえば、水が温(ぬる)んで流れは冷たくないが、利根川の水源地方の山々は七月下旬まで雪に埋もれているために、四月上旬から六月下旬までは毎朝上流から雪代水が流れてくる。」
とのことであるから、四月下旬に遡上鮎がいるとは考えられないが。
日本海の川でも、積雪の多い年は、海からの遡上が七月頃になることもあるよう。その点からも、川に入っても水温が低ければ、遡上の速度は落ちるのではないかなあ。
「五月の利根川の若鮎は、私が食べた鮎のうち最もおいしい一つであるというのは、それはお国自慢であろう。」
ということで、垢石翁は、子供のころの思い出を語られているようであるから、「四月下旬」の遡上鮎の姿は信頼性に欠けるのではないかなあ。もはや確かめる環境が失われているから、どうしょうもないが。
「奥上州水上温泉の下流小松に、東京電灯の発電所が設けられたのが、そもそも河床荒廃のはじめである。
ついで大正十五年に上越線岩本駅前に、浅野総一郎の関東水電取入口の大堰堤が築造され、それと前後として支流片品川上久屋に、大川平三郎の上毛水電の堰堤が設けられてからは、流相明媚な利根の水が、決定的に滅亡した。流れの変壊は、その川に棲む魚類の運命も支配する。この結果は、特に鮎と鱒とに災いしたと思う。
ああ、利根の清流は今はもう想い出の川となった。鮎と鱒が盛んに漁(と)れたのは昔の話である。けれど、水源地方に聳える山々の姿は、私の少年のときと変わりはない。」
(3)途中下車
@ 利根川の大鮎
「私の故郷は上州の中央にあり、利根川の激しく流れる崖の上の村である。私の六,七歳のころであったとおもう。平野から遙かに仰ぐ、遠い上州と越後の国境に聳える雪の山脈に源を発する利根川は、流れをなして幾十里、流れ流れて谿と峡を私の村まで流れてきて、それからは次第次第に流れを緩め、東南の方、下総の国をめざして、悠々と流れ去るのである。そのころの利根川には、いま思いだしても、うそではないかと思えるほど、夥しい群れの若鮎が下流の方から遡ってきた。
それというのは、今から五十余年もの昔は、水源地方の原生林が乱伐されないこと、水力電気の堰堤が流れを遮(さえぎ)らぬこと、現在と比べて白根火山から流れてくる毒水が希薄であったために天然のままに保存された水流を慕って、いろいろな魚が、遠い遠い銚子の海口の方から遡ってきたのであろうと思う。」
この文章だけであれば、昭和二十二年頃の五十年前の利根川の情景として、そうであったか、と、満足すればよい。
ところが次の文章が困った。
「盛夏の候になっても、私の村の地先で釣れる鮎は、驚くほど大きくは育たない。七寸五分、三十匁ほどが最大であった。長さ一尺、百匁以上に育つのは私の村から上流五里、渋川町地先からさらに上流の激湍(げきたん)であって、下流の釣り人は渋川町の方まで遠征したのである。」
現在では、継代人工を除くと、「七寸五分、三十匁ほど」 の鮎といえども、大鮎である。その「大鮎」との激しい昼下がりの情事を期待して、大井川に通っている。新人らしからぬおっさんも08年10月に糸鳴りのする本物の鮎の馬力に惚れ込んで、今年もアッシー君になってくれそうである。
そのような状況で、「長さ一尺、百匁以上」の鮎が大鮎である、という時代は、想像を絶する現象である。
ということとは別に、オラが気になるのは、なんで、垢石翁の村の鮎の大きさが、五里ほど上流以上の鮎よりも小さいのか、ということである。
遡上の一番手、二番手が途中下車をしない、ということであろうか。それ以外の条件があるのであろうか。食料の質、量の問題ではないのではないかなあ。
A江川崎の上下での鮎の大きさ
野村さんは、「〜四万十川の中でカヌーに向いちょるのは西土佐村の江川崎から河口までよ。江川崎いうたら、口屋内より十数キロ上じゃね。」
「江川崎から上には急な瀬もあるから、のんびり下るカヌーにはここより下がええらしい。」
「それにここ(注:江川崎)から上では、五月十五日のアイの解禁日や六月十五日のアイの網漁解禁日には、アイがようけおるけんねえ。禁漁を待って、川へ出たばかりの川漁師も多い。それで、そういう時期にはカヌーが下りよったら、邪魔や思われたりするけんねえ。そういう時期には、江川崎より上は行かんほうがええ。江川崎より下の方にはまだアイが下りよらんけん、そういう時期でもあまりアイ釣り師がおらんのよね。」
野村さんが江川崎より下流にはアイが「まだ下りよらん」から、「いない」と語られているが、その「アイがいない」という意味は、その時期での大きい鮎がいない、という意味であろう。とすると、大きい鮎は上流へとどんどん上った鮎ということになるのであろうか。
B九頭竜川の勝山と温泉付近の大きさの違い
垢石翁は、宮川に同行された野村さんが話された昭和七年であろう九頭竜川のことを書かれている。
「昨年八月上旬、越前の九頭竜川の中流、勝山町付近を釣ったそうである。他に用事があったのでホンの四十分ばかり…川の規定があるので入川料九円六十銭を納めて…竿を出したが実に面白いように釣れた。その日は南東の風が激しく、竿を水面に叩きつけられそうになるので、友釣りには随分不向きの日ではあったが、囮を入れさえすれば釣れた。
九頭竜川沿岸の漁師は、一つの釣り場に見込みをみつければ、その河原に小屋を建て、一つの瀬で一夏を過ごし、決して他の川の釣り師のように、あっちこっちと歩きまわりをしないで、充分商ばいになるのだそうである。なるほど天然鮎の遡上が豊富であり、県の水産当局が多量の放流鮎を持ってくるのだそうである。野中氏が行った勝山付近の九頭竜川の河原にも、あっちこっちと河原に小屋が建ててあって、漁師の数も夥しいものであったという。
竿はやはり長いものを使っていて、それが馬鹿に重い延べ竿で、痩せ腕ではもてない。それを持ってのっけから胸まで立ち込み、流れの中の岩へ上がって釣りはじめ、辺地は全く顧みない。野中氏は四間半の竿を持って行ったのであるが、あまり風が強いので、元竿一本を抜き三間半にして陸(おか)からジワジワと岸近くを引いたら、入れがかり八尾を掛けた。ただの八尾というが、三十匁からの鮎を、四十分間に八尾掛ければかなりの大汗である。そこへ土地の漁師が来て、こんな短い竿でどこを釣ったのだ、と聞くから、この岸近くをやって八尾掛け、もう帰るのだというと、『こんな岸寄りに鮎がいるのかなア…』と感服したそうである。
その夜、野中氏は下流にある温泉へ一泊したら夕食の膳に鮎の塩焼きが出た。
『姐さん、この鮎はどこでとれたのだい?』
『この近所の漁師が持ってくるのです。』
『随分小さいね、これを板場で焼いてもらってくれないか…』といいながら、魔法瓶へ詰めてきた今日釣った鮎を出してやると、
『これは勝山の鮎でございましょう、宿でもこの鮎を使うと立派なのですが、あまり高いから引き合いませんので…』といいながら、大鮎を盆にのせて行ったそうである。」
「温泉」とは、芦原温泉のことかなあ。北陸本線の金津で下りて、京福電鉄?の三国港行きに乗ると、田んぼの中にぽっかりと芦原温泉があった。今では「金津」駅は「芦原温泉」駅となっているよう。京福電鉄の三国港行きもなくなったのではないかなあ。
そのような勾配のまだ少ない平野部の九頭竜川の鮎が小さい、そこよりも流れがきつい勝山では利根川の垢石翁の村付近の大きさの鮎、ということのよう。
とすると、一番手、二番手が芦原温泉付近では途中下車をしていない、ということかなあ。
それでも、なんで、勝山では下車するのか、の疑問は残る。勝山も平野部で、勾配がそれほどある地形ではない。標高は大井川の神座か、高いとしても家山付近と同じくらいではないのかなあ。
そうすると、激湍(げきたん)の利根川は渋川付近とか、巣の内の川相とは似てもにつかない川相であるのに、なんで、勝山では途中下車をして、大鮎になるのかなあ。
一番手、二番手の遡上鮎が勝山に居を定めるのはどのような条件があるのかなあ。激湍の地まで行って、戻ってくるとは考えられない。旅をしていて、金の塊のコケが見つかると、そこを住まいと定めるということかなあ。その時、山のあなたのそら遠く、幸い住むと鮎のいう、とは考えないのかなあ。下流よりも少しでも条件がよいと途中下車をするということかなあ。
家山の寿司屋さんらが、ここ数年九頭竜川に通っているが、井川ダムが出来る前の水量が多かった大井川での体験が膏肓病となっていて、オン年も考えずに立ち込んでいく。今の九頭竜川の苔は、かっての相模川のようにぬるぬるで、滑りやすいとのこと。すっころんで、風情のあるタモを流してしまったとのこと。鳴鹿の堰よりも下流で釣ればよいものを、水量が少ない、小さい、と文句を言って堰上流に入っている。
もし、どんどん上流をめざして遡上していく鮎が大鮎に成長するのであれば、、宮川では、巣の内よりも高山の方が上流になる。また、巣の内よりも下流にあたる蟹寺に大多サらが稼ぎに行かれていることもある。
そうすると、上流へと向かっていても、なんらかの条件があると、途中下車をするということかなあ。
故松沢さんはこの途中下車をする条件について、どのように話してくれるかなあ。丼大王ならば、イタコの役割を果たして口寄せをしてくれるのではないかなあ。
入漁料「九円六十銭」とは、月給に相当するのではないかなあ。
魚野川でも利根川衆が遡上鮎だけでなく、放流鮎をかっさらっていくため、お巡りさんに言いつけられる騒ぎになり、その後、入漁料が誕生したとのことであるが。
千種川、揖保川の入漁料は日釣りで二千五百円か三千円であった。高い。年券はそれに比べると安かった。
大井川は日釣り券五百円、年券三千円であった。今でも千円と五千円で、一番安いのではないかなあ。
ああそうそう、雄物川さんらと鯉釣りに精を出してている人が、勝山から流れてきたとのことであるが、その人も河原にシャネル5番の香りが漂っていた、と。
それから、遡上量が多いのに、なんで放流をしているのかなあ。当然、人工ではない。海産畜養か、あるいは、故松沢さんらが狩野川河口近くの海で採捕して運んだ稚鮎と同じか。可能性としては、すでに湖産放流が始まっている年であるから、湖産であろうが。
なお、相模湾の沖取り海産は、昭和8年から始まったが、始めは海水のまま運んでいて、その後、淡水に変えて輸送上の生存率を高めることが出来たとのこと。そうすると、故松沢さんらが運んだ「稚鮎」が放流すると、元気よく?(事実は苦しくて)川をはね回り、放流先の漁協の人は大喜びをし、他方、故松沢さんらは宴会を断り、一目散に逃げ出した、とのことであるから、海の魚が放流するまで生きていた故、海水で運んだ、ということであろう。
海水での運送距離は長くできないということであるから、静岡県のダムで遡上できなくなった川に運んだということであろう。
四方山話 |
(1)垢石翁の九州の旅 (「垢石釣り紀行」の「釣り旅千里」から)
@ サボリーマンの鑑
垢石翁は、昭和23年7月1日に日向の国に向かった。今日の東国丸知事の先例ともいえる観光調査がお仕事である。
「大正の終わり頃から昭和のはじめ頃まで、私は報知新聞の前橋支局に主任として、働いていたことがある。働いていたといえば、なかなか体裁はいいが、実は模範的ななまけ主任であった。現在、『つり人社』の専務の役を担当している東明行彦君、読売新聞の整理部長を勤めている木村幹枝君、日本窒素株式会社の常務取締役である上野次郎男君など、当時大学を卒(お)えたばかりで、東京から前橋の支局へ支局員として赴任してきた。それはもう二十年以上の昔になろう。
私は、この人々に随分そのころ迷惑をかけたものである。というのは、この若いそして新聞記者という経験の浅い人達に仕事を任せ放しで、外を遊び歩いた。指導もしない、面倒も見ない。そのために、若いこの人達は一人で主任の役も、助手の役も勤めなければならないのである。不眠不休で働かなければ仕事ができて行かなかった。若い記者は涙を流したらしい。」
オラの近くにいるサボリーマン達の大先輩、教祖としての面目躍如たる仕事ぶりである。
しかし、天は、そのようなサボリーマンの垢石翁の本心を見抜いて、雨、雨、雨。
オラは昨今の若者のように、選別され、そして、持続する仕事にありつくことが非常に困難な時代に働くことがなくて幸運であった。仕事が出来なくても首にならず、生活できた幸運な代に感謝したい。とはいえ、垢石翁ほどはサボリーマンではなかった点では不幸であったが。お前にサボリーマンと言われたくない、ってか?。自慢じゃないが、年休が足りなくなったのは骨折で入院した年だけや。見直したか。
A 五ヶ瀬川、坪谷川
「下流は平凡な流相を示していた五ヶ瀬川も次第に変化を現してきて、川水流(かわずる)村まで達した頃は川原の石も大きくなってきた。八峡(やつかい)あたりから峡流の姿となって岸に巨巌が突出し、流水の底石もすばらしく大きくなった。」
「八戸では、峡谷の底に五ヶ瀬川は急流となって走っていた。諸所に、古成層の露出を見かけるのである。ここに第一の発電所の堰堤があった。これから上流は、両岸絶壁をなしている。途中、右岸から数本の大きな渓流の注ぐのを見たが、これは悉く澄んで青い水が流れていた。それからは山高く、谷深く凄い渓谷となった。素晴らしく大きな鮎が棲んでいるのではないかと思う。」
「夜、町の有志十二人が集まって釣りの座談会を開いた。人々の話を総合すると、例年高千穂渓谷では、一尾七,八十匁から百匁近いアユが釣れる。まことに豪快な釣趣を味わうことが出来るのであるが、今年は日向灘の稚鮎捕獲が絶無であったため、放流が出来ないので、従って今年は鮎釣りは望みないという。しかし、ここ二,三日来小さな天然鮎が、、三,四カ所の水電の堰堤の魚道を遡ってきたらしく、投網で取った鮎があるという話であるから、七月下旬から八月に入ったならば、幾分は友釣りを楽しむことが出来るのではないかと語るのである。」
坪谷川
五ヶ瀬川は眺めるだけであったが、七月七日「ちょうど議長の令息が、囮鮎を二,三尾取って置いてくれたので、朝めしがすむと私らは直ぐに邸前の坪谷川の河原へ降り立った。河床の大きい玉石に、立派な水苔がついていた。食みあとも豊富に眼についた。
前日、この村の職漁師が荒らした後であるというけれど、ぼつぼつ釣れた。十二,三匁から十六,七匁ほどの鮎が十一時頃までに、十二,三尾釣れた。」
五ヶ瀬川
「それにしても忘れかねるのは、五ヶ瀬川の流れである。なんとしても、一度、あの急流へ竿を入れてみたい。」
「延岡から五,六里上流の川水流(かわずる)へ向かった。」
「川は平水には帰っていないが、ささ濁りで条件はよろしい。〜一つの釣り船を呼び止めて、舟の魚槽を覗いた。二十匁以上の鮎が、五,六尾泳いでいる。昨日の夕方あたりから、釣れはじめたのであるという。
漁師から鮎を貰って、河原の石に火床(ほど)を作って、塩焼きにして食べた。素敵な鮎である。」
「二十匁ばかりの囮鮎をつけ、私は深さ四,五尺の瀞場を選んで竿を入れた。直ぐ一尾掛かった。なかなか引きが強い。道糸に傷があったと見えて、囮ぐるみ切って逃げた。囮鮎をつけかえて入れると、また掛かった。二十五,六匁の鮎である。背の色が黒く、肥って胴が丸く立派な姿である。
それから二時間ばかりの間に、二十匁から三十匁近いものを十尾あまり釣った。この調子で終日釣れば、三,四十尾は間違いあるまいと思われたのであるが、次の旅程が迫っているので午後三時に惜しくも切り上げた。」
ということで、八日に念願の五ヶ瀬川での釣りが出来た。
五ヶ瀬川の鮎の評価が優れているのに、「釣趣戲書」には登場しないということは、さすがのサボリ−マンさんも戦前には九州での釣りをしたくても、出来なかったのではないかなあ。
そして、戦前には四国での鮎も釣られなかったのではないかなあ。
雨村翁が亡くなられたのは昭和40年である。昭和16年に次女が亡くなられている。
垢石翁は、昭和27年から入院されている。
雨村翁は、「猿猴川に死す」の「鎌井田の瀬」の章に「垢石父子がはるばるやってきたのは、もう一昔から前である。土佐の鮎を釣ってみたい、それも吉野川の大鮎をぜひ釣ってみたいと私の顔を見るたびに口癖のようにいっていたのが、紀州熊野川を訪ねた足をのばして、ついに多年の宿望を遂げたわけである。」
そして、越知町から舟で、仁淀川の鎌井田に案内された。
「垢石と釣りをともにするのは魚野川以来であった。あの時、わたしは次女を喪って傷心の極であった。たまたま先行の垢石から後を追うて来るようにと勧説の手紙があり、心の痛手をまぎらわそうと、ふらふらと出かけていったわけである。待ちわびていた彼は、まず酒をくんでわたしを励まし、慰めてくれた。その親情はうれしかったが、翌日からの魚野川の釣りは、わたしには大した興味もなかった。釣りを楽しむ気分に心からなれなかったのはもとよりであったが、土佐の荒川に馴れていたわたしには、魚野川は小さく、流れもわるく、いわば物足りない感じが先に立った。川底の石も砂利のようで、放流魚はまだ型も小さく、その場で釣り上げて手網にとれた。」
ということは昭和16年よりも後のこと。そして、雨村翁は、右関節の神経痛に悩んでおられたから、昭和25年頃ではないかなあ。
垢石翁は、「昔、新聞社にいたころ徳島県出身のM社長に、吉野川の大鮎を釣らないでは鮎を口にする資格がないと頭ごなしにやられたのが癪でと、いかにも悔しそうにその時の無念さを述懐するのを一度ならず聞いていたわたしは、足さえ元気であれば柳の瀬から岩原へかけてのあの釣り場、この釣り場を案内してやりたかった。せっかくはるばると土佐路へ足を踏み込んだ彼に、と思ったことであるが、チクリチクリと痛むわたしの足では吉野川の急流激湍に立ち向かう自信がなかった。」
ということで仁淀川の3日目は増水で引き揚げ、垢石父子は目的である吉野川の大鮎へと出発した。
「『大歩危、小歩危をねらったが、こちらも増水、駅長に無理だととめられ、恨をのんで宇高連絡船で本州に渡る。』」
垢石翁が四国での鮎を釣ったのは戦後のこと、そして、吉野川での釣りをされたことはなかったのかも知れない。
B一つ瀬川、清武川、再び五ヶ瀬川
「この川の、巨鮎を探る予定である。一つ瀬川は、深い峡底を流れていた。なかなかの急流である。
ところが、水は澄んでいたけど、数日前に大きな増水があったらしく、底石の水垢がすべて流れ洗われ、白川と化していた。釣れる見込みが殆どない。辛うじて死にかけている囮鮎を手に入れて、杉安堰の下流に残り垢を発見して、そこで数尾釣った。二十匁前後の鮎である。また雨がきた。」
清武川でも釣るが、酒匂川ほどの水量もなく、十匁足らずの小さい鮎のため気持ちは役場の御馳走と酒に向いていたと思う。
仕掛けについて「五ヶ瀬川や美々川の川漁師と同じに三本錨の掛け鉤。鉤素を縫い糸で囮鮎の尾筒の上へ縫い通すのである。この方法は、囮鮎にとって実に痛々しい。」
「日向国の多くの釣り人は、鮎の友釣りは職業漁師の領分で、素人の近寄るものではないと考えているらしい。五ヶ瀬川でも美々川でも、一つ瀬川でも、素人の釣り人が玄人の仲にまじって友釣りを楽しんでいる姿を、まれに見ただけであった。
延岡で、甲斐倉一氏に聞いた話であるが、五ヶ瀬川に鮎の毛鉤の沈め釣り、つまりドブ釣りが流行しはじめたのは、つい最近のことであるという。」
「毛鉤で鮎が釣れるのを知らなかった土地の人々は、毛鉤の奇効に肝を冷やした。それからというもの、五ヶ瀬川を毛鉤の沈め釣りが風靡したのである。」
「昭和二十三年六月一日の解禁日(宮崎県では従来五月一日が解禁日であったが、同年から六月一日と改めた)に、甲斐氏は五ヶ瀬川の下流で、若鮎一貫五百匁を釣ったそうである。今年は、例年に比べると海から遡ってきた鮎の数は極めて少なかったというのに、毛鉤で一貫五百匁も釣れるというのであるから、魚の当たり年にはどんなに釣れるものかと考えて、ほんとうに羨ましく思う。
私も、五ヶ瀬川の中流川水流(かわずる)で想ったのであるが、今年は鮎が少ないというのに、友釣りでよく釣れるところを見ると、五ヶ瀬川のはずれ年は関東方面の川の当たり年にも匹敵するのであろう。」
油津郊外で金丸さんと出会う。
「私と親しい釣友で、東京で狩野川の友釣りの方法に修行を積んだのでは、この人などは最も早いほうである。金丸君と私は、かって越後の魚野川から越中の九頭竜川へ、さらに引き返して飛騨の宮川へ、下呂温泉の益田川へ、それから伊豆の狩野川へ十数日の長い鮎の友釣りの旅を試みた懐かしい友である。
金丸君は、昭和十九年東京に爆撃が始まる前、郷里の日向国細田村へ帰農疎開したのである。」
ということは、戦前に、宮川に再度行かれているということになる。
垢石翁のことであるから、その時の記録も残されているのではないかなあ。その記録を見たい。
七月十六日夕方、人吉に着いた。鍋屋旅館では、「〜わざわざ下流の八代から鮎を取り寄せたのであると説明した。頸が小さく胴が丸く、香気の高い立派な鮎である。球磨川の川底は、古生層の大きな玉石で埋まっている。質のよい大きな鮎が棲んでいるのは当然であると思う。」
しかし、垢石翁の願いもむなしく、「今は球磨川の水は濁りそして溢れ、当分釣りになるまいから、ぜひ来夏は再び人吉へ旅して、狩野川式の友釣りについて実地に指導して貰いたいというのである。」
「7月上旬以来の豪雨は、九州一円の豪雨である。大分県の大野川も大分川も筑後川の上流も、耶馬溪あたりも駅舘川もどれもこれも濁水が溢れているにちがいない。それではとうてい友釣りはやれまい。」
と、サボリーマン教祖の垢石翁もお天道様には勝てずに、7月22日博多駅から九州に別れを告げることとなった。
(2)垢石翁、長良川は郡上八幡
とはいえ、九州が駄目でも木曽三川がある。
「二十七日午後から、吉田川の流れは澄み口をみせ、笹濁りとなってきた。だが平水に比べれば二,三尺は水嵩が高い。
私は部屋の窓の欄干にあごをのせ、朝から吉田川の流れを眺めながら暮らした。夕方近くにになると友釣りの姿が二,三見えた。私も身支度をして河原へ出た。長良川と吉田川との合流点の近くへ行って、囮鮎一尾を百円で求め、笹濁りの吉田川へ囮を泳がせた。一時間半ばかりで、二尾釣った。それは一尾十二,三匁の小さい鮎であった。最近放流したものらしい。
七月一日の解禁日、郡上八幡における鮎の取引相場は一千二百五十円であったという。私はそれは一貫目の相場であるかと宿の主人に問うた。ところが、いやそれは百匁の相場であると答える。そして、そのため七月一日には一人で三万円近くも釣った漁師があったというのである。岐阜県は、日本一鮎の取引価格の高い土地であろう。」
囮が百円とは高いなあ。
少しは食べ物が出回りはじめた昭和二十三年、サッカリンやズルチンで甘くした糠が主体のパンは十円くらい、アイスキャンデーも5円か十円であったと思う。
百円もあれば、アジでっせー、サバでっせー、と自転車で売りに来る魚屋さんから、何日分のアジ、サバを買えることやら。最も冷蔵庫は、氷は、贅沢品であったからその日に必要な分しか買わなかったであろうが。
百匁といえば、アジの三匹くらいになるかならないか、サバであれば一匹くらいそれがアユであれば千円以上もするとは。どんな人が買えたのかなあ。
往生際の悪い垢石翁は根尾川へと向かうが、釣りをしたのか否かは書かれていない。
「名古屋駅発夜半の汽車に乗って、三十日朝六時に東京駅へ着いた。九州一周、京都あちこち、岐阜県の平野から山へ川へ、それから名古屋へ、これは千里の旅であった。しかし私はこの老躯にも拘わらず三十日間に一度も病まず、少しの疲労も覚えず、よく食い、よく飲み、よく歩き、私の身体は不死身であるとしみじみ思う。」
根尾川の木知原で釣ったことがある。湖産全盛時代の最後に近い頃。水はきれい。石も大きい。砂利はない。しかし、どこがあゆみちゃんの住み家か、さっぱり見当がつかなかった。薄墨桜を移植することとなったダムのため、水量が少なく、オラにとってはありがたかったが。
根尾川には、濃尾地震のときに出来た根尾断層?のあることを淡路島の野島断層を見に行ったときに知った。
「不死身である」と語られる垢石翁が、宮川で夏のウワバミになるとは。そして、5年後には入院することとなる。
(3)相模湾での稚魚採捕
「相模川漁業組合連合会創立35周年記念誌」に、「相模湾産稚鮎の歴史」が掲載されている。
「昭和5年には国立試験場(現在の東海区水研の前身)の中野宗治技師が、この辺にもアユがいるのではないかと長井町を訪れ、当時、地引網漁をしていた原田角左右エ門氏とともに調査の結果、小田湾に回遊してくる小魚(漁業者がそれまでイカナゴと称していたもの)が、実は稚アユであったということを確認した。」
「中野技師はこの稚アユを採捕して種苗化する研究を進めた。その協力者として原田角右エ門氏が選ばれた。
まず、原田氏の地曳網を利用し昼間採捕したが、この方法では稚アユが砂地にもぐってしまい、どうしても採補することが出来なかった。また、採捕した稚アユも袋網の部分で魚がすれてしまい種苗とするまでには至らなかった。
次に、採捕は稚アユが岸よりに集まってくる夜間行うことにした。袋網部分も横に2分し、上半分を取り除いた独特の網をつくり行った。
その結果、以前とは比べものにならないほどの好成績を収めた。」
その網は琵琶湖で使われていたエリ漁での網に、稚アユを集合させるところは似ているのではないかなあ。
稚アユ採捕の次の問題は、淡水への馴致である。川の水の利用は、増水等で稚アユに逃げられ、井戸水を使うようになったようである。現在は大磯にあるプールで馴致が行われていて、遡上量が多いときは、畜養せずに稚魚のまま放流されている。従って、コケを食することの櫛歯状の歯に生え替わっていないものもあり、育たないアユも相当量いるものと想像している。
採穂場所は江ノ島へと近づいていく。
なお、「砂地にもぐる」とは、どのような意味、現象のことであろうか。実際にキス?のように砂地にもぐることは考えにくいが。
徳島県養魚場への販売
なお。「昭和52年、53年に徳島県にも出荷している。」との記述がある。
湖産の一大養殖地であった徳島で育てられた養魚は、「海産」として、出荷されたのであろうか。前さんと同様、オラも「湖産」ブランドで、「湖産」にブレンドされて出荷されたと考えている。
海産稚魚の採捕が始まったときの価格について、湖産の放流が行われはじめた頃である昭和8年頃で、「出荷がはじめられた頃の生産者価格は1尾5厘であった。その当時のビワ産稚アユが1尾1銭であったという。
今から考えると比較のしようもないが、当時の漁業者にしてみれば、いくらでも採れる小魚が1尾5厘で売れるとあって、これならみんな倉が建つというほど喜んだという話も伝えられている。」
採捕量
昭和8年から昭和62年間の採捕量が掲載されている。
戦争で中断される18年までは、13年までが100万以下、14年130万、15年320万、16年300万となっている。(10万以下切り捨て。以下同じ)
初期の数値が低いのは需要が少ないこと、流通に乗せる技術上、設備上の手法が充分でなかったことに基づき、昭和40年代以降のように、海に稚アユがいない、という状況とは異なると考えている。
戦後の採捕が本格化するのは、昭和27年の240万で、33年までは200から400万台で推移し、昭和34年は580万、37年は900万である。
08年の遡上アユが釣りの対象となっていた、大島のシルバーシート等一部の県産継代人工成魚放流されたところを除き、県産継代人工を釣ることもなく、あゆみちゃんと遊べた年での遡上流が1千万ほどであおるから、昭和30年代までの遡上量がいかほどのものか、想像できない。
稚アユ採捕量だけで、今日の遡上量に匹敵していたのであるから。例外は、04年、08年であるが。
また、昭和30年代は400万、500万と採捕していたが、これらがどこに、どのように、放流されていたのか、そして、この量を引き受けるだけの需要がすでに発生していた、ということも示している。
昭和38年は70万、39年、40年が100万台になり、昭和41年に700万台と回復したようになるが、その後は80万以下、0も3年ある。
昭和51年280万、52年460万、53年280万と回復が鮮明になったように見えるが、54年には80万、55年には50万になる。
その後は、昭和59年の300万が突出した採捕量であり、100万を超える年ですら、数年おきとなっている。
価格
昭和48年からの海産稚アユ、湖産の種苗価格推移が掲載されている。
昭和48年海産の販売価格は、県内放流用4.9円、県外放流用6.5円、他方、湖産12.66円。このほかに県内、県外養殖用価格が設定されている。
昭和51年県内放流用は8.3円、県外放流用10.5円、湖産15.21円。
昭和57年になると、県内放流用は10.2円、県外放流用は12.3円、湖産は21.52円となっている。
ここでの「湖産」価格は、漁連が購入している価格であるのか、それ以外の価格であるのかは分からない。また、湖産の大きさ=成長具合が不明であるから、一概に単価の比較は出来ないものの、「湖産」単価の雰囲気は感じることが出来るのではないかなあ。
かりに、漁連が購入した価格であるとすると、もし、酒匂川漁協の「湖産」購入価格との比較が出来れば、なぜ、その湖産価格が2つの漁協で異なるのか、面白いのであるが。
漁協関係者が話されたことによれば、酒匂川の「湖産」価格は相模川のウン割高、あるいはウン倍、とのこと。それがどのような価格差であるのか、比較できるのであるが。
「湖産」ブランドにどのような種別の種苗が、どの程度ブレンドされているか、は不明である。「ブレンド」があると、想像だにされない学者先生もいっぱいおられるようであるが、相模湾の沖取り海産が徳島の養魚場に運ばれていたということは、四万十川渚帯で観察されて、学者先生のバイブルとなっていると思われる1987年の調査対象となった稚魚に、「湖産」ブランドで購入されていても、日本海等の海産稚魚がブレンドされていると考えることが常識に適うのではないかなあ。
なお、県産継代人工は、2.5グラムで漁連は購入しているようで、その価格は、昭和52年で12円、昭和56年から15円である。ちなみに昭和52年の湖産価格は、14.1円、昭和56年は14.1円である。「湖産」以外のブレンド割合は不明である、あるいは意識されていないが。)
ええ商売をしているなあ。08年のように、4月上旬に放流された県産継代人工の稚魚は育つことなく、5月中旬頃のダム放流による濁り、水温変化等で殆どが死んで釣りの対象となることがないような、薬漬けで生存してると想像している鮫肌人工が、漁連に卸すだけで県は収入を得ることができるのであるから。稚魚を販売してしまえば、後は野となれ、山となれ。生存も、再生産に寄与しないことも川の中のあゆみちゃんの勝手でしょう、と。
09年3月1日、その県産継代人工の稚魚が県の種苗センターで死んで、県外の人工の買い付けをしている、との話があった。
県の種苗センターは、2棟の建物に各各、どれほどのプールがあるのか分からない。どの程度の死亡率か、も分からないが、全滅との表現を使われていたから、相当量が死んだのではないかなあ。
冷水病原菌の保菌者ではあっても、死因は川の中に棲息している雑菌、ということで、ダム放流後に流れてくるヤワな、大きい人工鮎が相模川に放流されることのないように願う。
これを機に、山形県や島根県のように、鮎の本性をまだ残している2代目方式の人工に切り替えてくれないかなあ。
(4)雨村翁の吉野川
雨村翁は、吉野川で釣りをされたことも書かれているが、あえて無視をしてきた。理由は、地図を見て、場所の特定をすることがじゃまくさかったから。
しかし、雨村翁をして、足さえ達者ならば垢石翁父子を「柳の瀬から岩原へかけて吉野川のあの釣り場、この釣り場を案内してやりたかった。せっかくはるばると土佐路へ踏み込んだ彼に、と思ったことであるが、チクリチクリと痛むわたしの足では吉野川の急流激湍に立ち向う自信がなかった。」(「猿猴川に死す」平凡社ライブラリー)という、今では消えてしまった吉野川を見ておきたくなった。
雨村翁の無念さを垣間見るためにも雨村翁と吉野川の記録を見るしかない。
雨村翁は、吉野川の鮎釣りについて、「柳の瀬」の章と、「八畳の滝」の章で、書かれている。そして、「手箱山の仙人」で、八畳の滝よりも上流の「吉野川のどんづめといってもいい越裏門(えりもん)へ秦さんに誘われて、二年越し「山女魚」釣りに出かけた。いま一足のばせば、寺村という戸数数十戸に充たない小さい部落があり、後二キロで伊予境である。」と、越裏門に行かれている。
行かれた順序は、柳の瀬が最初で、そのいつ頃のことが「柳の瀬」に書かれているのか、分からない。ただ、「Kさんの思い出」は「戦争の始まった年」と、書かれているから、昭和16年のことではないか。
次に八畳の滝に行かれていて、ラジオから「わたしの耳にも不拡大方針だの、廬溝橋だのという言葉が断片的に聞こえてきた。」とのことであるから、昭和12年のことであろう。
越裏門は「が、釣りはともかく初めて見る吉野川の上流、いつか鮎をたずねてはるばると出かけていった八畳の滝からさらに幾十キロも上流の渓谷へ足を印してみたい好奇心から、やっと肚をきめたわけだった。」とのことであるから、八畳の滝は昭和12年の一度だけ、その後に越裏門は二度ということではないかなあ。
そして、柳の瀬は何度か出かけられていて、そのうちの二回の釣行について「柳の瀬」の章に書かれているようである。
@ 柳の瀬
「柳の瀬にはいつまでも忘れられない二つの想い出がある。土讃線に乗って穴内駅を通過する時、わたしはいつも柳の瀬を振り返ってその想い出にふけることである。」
雨村父子を案内したかった柳の瀬は、池田ダムよりも、小歩危、大歩危よりも上流である。時は戦前であるから、ダムが遡上を妨げることもなかった。大歩危、小歩危の水量は、ダムでの取水がなく、山の保水力も旺盛であったであろうから、元気はつらつのあゆみちゃんといえども、厳しい遡上ではなかったのかなあ。
秦さんの思い出
思いでの一つは
「秦さんがまだ元気いっぱいだったから、かれこれ十年からにもなるであろう。国境に近い越裏門へ山女魚釣りに誘われた前後のことである。吉野川が減水しはじめた。明後日ごろは水加減も丁度であろうから、一番の汽車で出かけようという案内が秦さんからとどいた。
当時、どの川も増水で、手持ち無沙汰の折柄であった。吉野川では先年の大増水で支流穴内川で大漁がつづいた思い出もある。」
「汽車の窓から穴内川を見ていくと、ほとんど平水で、どこにも釣り人の姿は見えない。支流へ魚が入るほどの大水ではなかったことが分かる。穴内駅で汽車を降りた。目の下に見える吉野川の本流も、まずまずの平水と見た。水色も満点である。」
「川の形態は地勢によっていろいろと変わっていく。吉野川も上流本山のあたりから吉野川橋の架かったこのあたりまでは、いくらか両岸の山がひらけ、水田や畑地も見られるほどで山峡といった趣はなく、川幅もひろく、流れもわりと緩やかで、柳の瀬はその広い川幅と緩流の結びとでも言おうか、瀬の深い落ちこみから、川幅は次第に狭くなり、吉野川橋の下も手で支流穴内川を合してからは、急流激喘、にわかに様相を変えて山峡の渓谷に一転する。だから下流をねらうのは、土地の職漁師が多く、わたしたちはたいがい足場がよくて流れのゆるい柳の瀬から釣りはじめて上み手へ釣っていくのだった。」
垢石父子は、柳の瀬の遙か下流、大歩危付近で釣りをあきらめられたが、増水をしていなければ、柳の瀬の下流の激喘で釣りをされたのか、それとも、雨村翁と同じ所を釣られたのか、気になる。
渓谷相を好まれたようであるから、職漁師同様、下流ではないか、と思うが。
残り垢狙いとなった。
「しかし、川原の水ぎわからそこまでは百メートルはたっぷりあろうと思われる距離である。平水に近いとはいっても、水流の中心は乳首まではくるであろうし、水勢も相当なものである。それはまだしも柳の下の垢つきはせいぜい五.六メートルの間で、いくら魚がついているといっても高々しれたものだろう。そのわずかな魚をねらって、百メートルの瀬を渉ってゆくねうちがあろうとは、わたしには考えられなかった。」
しかし、「(注:秦さんは)そろそろ70に手のとどく年輩であることはまちがいなかった。当人の口から直々ではないが、旅順陥落の時、砲兵大尉か少佐で収容所に入れられたステッセル将軍の監視役かなんかをしたこともあると聞いているくらいだから、もしかしたらもう七十の坂は越えているかもしれなかった。」
「そうした気性の秦さんだから(注:仁淀川の鎌井田の瀬で、借り舟ということで、にわかの増水、濁水滔々になっても越知まで舟を漕ぎあげようとしていた)、百メートルの柳の瀬など、むろん眼中になしであったであろう。わたしにしても、いざとなれば竿を投げ出して泳ぐことは知っているし、さして危険だとも思わなかったが、この瀬を渉って幾尾かの鮎を釣り上げる、―それが決して愉快な釣りでないことだけは確かであった。だが、自分よりも十歳も年長の秦さんが、先頭に立って後につづけというのである。後へはひけないことになった。」
「秦さんがふみこんだ。二,三メートルもいかないのにべりべりと音がして秦さんの薄い猿股が大きな口を開けた。裂け目から睾丸がのぞいた。あまり見っともいい眺めではなかった。押し流されながら、秦さんはねらった場所まで漕ぎつけた。竿を出した。間髪をいれずであった。」
それを見て、「水の中を走るような流されるような気持ちで、わたしも向こう岸近くにたどりついた。両足をしっかりと底石にささえて、竿を出す。待つ間はなかった。竿を立てて下も手の右岸への斜行である。二尾の鮎はぐんぐんと下も手へ向いて落ちたがる。落ち込みまでは十メートルそこそこである。無理をしては獲物がバレる。ついつい下も手へ下も手へとひかれていく。いま一息というところまできて、魚はとうとう川原寄りの渦巻きに落ちた。が、結局それが無難であった。四十匁近い鮎が囮といっしょに手網の中にあった。」
また釣れたが「第一回との格段の相違は最初は夢中だったが、今度は全身の疲労がはっきり感ぜられた。水勢に抗して往復二百メートルの荒行はまず肢足(あし)にこたえた。息切れをおぼえる。一服やりながら一と休みしたいところである。
が、秦さんは、もう三回目の出陣にかかっているのである。なんとえらい老爺(おやじ)だろう、わたしはほとほと感服、というよりも、いささか驚きいりながら、
『どうです、一服やったら、』
と声をかけたが、秦さんは、『ついでに、もう一尾―』と言ったきり、また上み手へ囮をひいていった。」
ともに三度目の歓声を上げて、「川原へ上がった時、わたしはほんとうにやれやれと思った。
『どうです。まだやりますか?』
わたしが獲物を缶に入れながら、からかうように言うと、川原にどっかとあぐらをかいて、タオルで襟元を拭いていた秦さんが、
『うん、さすがに呼吸(いき)が切れる―』
肩で大きい息をしながら吐き出すように言った。わたしが秦さんの口から聞いたたった一度の弱音であった。」
残り垢のあるところが、見えた、という透明度。そして、百メートルもある流れ。強い足腰。
その川の状況が、いまはどうなっているのか、想像が出来る。
Kさんの思い出
「Kさんと近づきになったのは仁淀川鎌井田の瀬であった。」
初めての釣り場で、Kさんが頼りたい様子であり、「薄汚い旅籠だが、おかまいなければとわたしは快く承知して、その夜は旅籠の二階で一つ蚊帳に寝ることとなった。」
「年齢は五十五,六でもあろうか。でも面長の顔に深い皺がきざまれているようなところや、どことなくわびしそうに見えるその様子がなにか心に大きな痛手をもった人のように感じられたが、その夜は蚤に責められながら、うとうとと眠りにおちた。」
翌日、弁当を開いていたとき、「たったひとりの息子が京大を卒業間際に病死した。それも中学から高校を、ずっと主席でぬけえきた秀才であったそうだ。Kさん夫妻は希望も何もいっぺんにふっとんでしまって生きている気持もないほどだった。ところが鬱々としていた妻君が、ひきつづいて病気で、それがまた一年とたたないまに子供の後を追った。それが去年の暮れ、つい半年前のことであった。
Kさんは、自分も死んでしまいたかった。たったひとりのこされて、この世になんの望みもたのしみもなくなったいま、生きていることに、なんの意味もないような気がせられた。いろいろと考えた揚句、一度は仏門に入って二人の冥福を祈ろうと心をきめて、郷里の家屋敷も始末したが、いよいよとなるとその決心がにぶった、というよりも頭をまるめて仏に帰依したとしても心の痛手は容易にぬぐい去られようとも思えず、それよりもむしろ一時でも気のまぎれるように身を処して、月日の経つのを待つ方がよくないか、それには好きな釣りに一切を忘れるに越す方法はないと思いなおして、あちらこちらの川筋を釣り歩いているが、それにしてもたったひとりではやはり心さみしく、お邪魔になると思いながらお近づきをねがったわけだとしんみりと語った。」
「わたしたちは、その次の日もいっしょに釣りくらした。大した獲物もなかったが、わたしはKさんをのこして釣場を変える気にもなれず、いま一日おつきあいをしょうと思ったが、その翌日は夜来の雨で水も増してきそうな模様だったので、午前中に雨の小やみを見て引き上げることとした。後からのハガキによると、Kさんはわたしとは反対に高知へ帰る途中、支流下八川の橋の下で、刻々増水する中州で面白い漁をした。近々また鎌井田へ出かけたいと思う。その節はお知らせするからとあった。」
その後、物部川からの誘いもあり、出かけ、また帰りはKさん宅でビールを御馳走になった。
「そうした交際がつづいて、あの戦争の始まった年の夏、二人で吉野川へ出かけた。Kさんは吉野川筋は初めてのことで、わたしが案内役に立って本流よりも支流の方がと、穴内川へ入ったが、さっぱりの不漁で、本流へ引き返すこととなった。
わたしはKさんの囮缶と自分のと二つを肩にかついで、かんかん照りつける真夏の道を二里余りも下流へ向いて走るように急いだ。おそろしいほどの暑熱で、まごまごしていると大切な囮がまいってしまうからであった。」
「吉野川橋の袂から山の斜面を駆け上がって、やっと柳の瀬に下りついた。灼けつくような広い川原を水際に急いで囮缶を水に浸しやれやれと思ったとたんに、急に気持が悪くなり、何だか吐き気をもよおしてきた。」
七転八倒の日射業の苦しみの間、Kさんは、「穴内の部落へとって返し吉野川橋を南へ北へ、医師と薬をと探し回って、やっと正露丸を手にいれるまでの気のもめ方はどんなであったろうと、ほんとうに友はもつべきものだと心から有難く思ったことだった。折角、Kさんを案内してきたのに、その日は釣りにはならなかった。一晩泊まって釣りなおしをしょうと思ったが、Kさんはわたしのために、日をかえてつぎの機会にしょうと言って、穴内駅へとぼとぼと歩いた。」
「あの戦争が峠を越して、敵の飛行機が仁淀川の上空を北へ飛び出したころ」に、一時間かけてやってきて、Kさんは、
「『初めから無理な戦争だと分かっていたが、いよいよ大詰めへきたようだ。市民に避難準備をしろという内命が二,三日前にきたが、県庁の役人はもう四,五日も前からどんどんと逃げ支度にかかっている。それはいいが、自動車もトラックも、みんな役人が徴発してしまって、一般市民はおいてけぼりだ。こんなことで―、』
とあの君子人のKさんが、くもった眼鏡をぬぐいながら、
『奥州第一次大戦の時、わたしは桑港にいて、日本人の労働者百五十人をつれて、ネバダの大森林へ木材の伐採に出かけたものだ。約一ヶ月も働いて、シスコへ引き上げてくると、おどろいたことにネバダから搬び出された木材が、もうすっかり木造の輸送船になってシスコの港をうずめていたのだ。アメリカという国の偉大な工業力には、今更肝をつぶしたが、さて、それよりも、ネバダから搬ばれてくる木材がシスコの駅についた時、その木材をまっ先に肩にかついでトラックに移したのはシスコの市長だったと聞いて、なあるほどとうなずいたことだった。日本にもそんな市長の一人二人はあってもよさそうなものだが―。』
としんみりと語ったことが、つい昨日のように思い出される。」
この「柳の瀬」は、雨村翁の釣り姿が、よく表現されていると思う。単に、釣れた、ということが喜びではなく、人とのつきあい、交流を楽しまれている情景が雨村翁、そして、垢石翁らに共通する釣り姿ではないのかなあ。
A 八畳の滝の思い出
携帯のない代の彷徨い
昭和12年頃のこと。
「いずくも同じ旱天渇水、新荘、仁淀の行きなれた川筋では、全然魚影が見えず、かかるときこそ吉野川の激流が面白かろうと、四日間の予定ではるばると土讃線を穴内駅に下車したのは昨日の正午。
釣友M君をたずねると、このところ全然不漁、悪い時をよりによって来たものだ。でも、一尾、二尾は当たるかもしれない、囮は飼ってあるからと、痩せ気味ながらピチピチした囮を一尾わけてくれた。去年、面白い漁をした吉野川橋の下も手、深淵に落ち込む荒瀬を二時間余りも丹念にひいてみたが、コツンとも便りがない。いくら用心してかかっても荒瀬では大切な囮をいじめるばかりである。もういい加減くたくたになった囮を生け簀にうつして、今度は流れのゆるい上み手の柳の瀬に移動する。そこへM君が応援にきてくれて、二人で夕方近くまで長い瀬を根気よく上へ下へと引いてみたが、結局M君がやっと一尾あげたきり。そこでM君が
『いよいよ望みなしだ。あきらめよう。が、折角ここまで来たからには、ついでの餅だ。田井まで上って見たまえ。あそこは釣り人も少ないし、もっと魚も濃いだろう―、』
それが『折角ここまで』の第一声。」
ということで田井の久米川老人を訪ねると
「『折角ここまで来たついでじゃ、舟戸まで足をのばしなされ。舟戸のAさん所へいって、田井の久米川から聞いたといえば、囮の心配も、宿の世話もしてくれる。』
久米川老人にそういわれて、いささか二の足を踏む思いをしながら、まだ見ぬ山峡に心もひかれて、田井の町はずれを吉野川の右岸ぞいに、それでも元気よく踏み出したのは、もう午下がりの一時ごろ。それからの四里近い上り道がえらかった。
太陽はかんかんと照りつける。額から襟元から、全身汗でぐしょぐしょになりながら、咽喉をいやす一滴の水もない上り坂を、それも眼下はるかに吉野川の奔流激湍を見下ろしながら喘ぎ喘ぎの一人旅である。リュックがだんだん重くなり、肩の竿まで荷厄介になってくる。」
道半分で、追いついてきた祖谷の人と一緒に歩く。
「ほんとうに喘ぎ喘ぎで、もう山峡の景観も渓谷の眺めも目に映らなくなった頃、やっと舟戸の宿(しゅく)に飛び込んだ。午後の四時過ぎであったろうか。日の長い絶頂ではあったが、太陽はまだ見上げるような高い山の上にあった。四里の路を三時間そこそこで突っ走ったわけだ。
思わぬ珍客を迎えたAさんは、手拭をしぼりお茶をくんでよろこんでくれたが、さて釣りの話となると、いかにも困惑した顔をして、この日照りつづきで、鮎は淵へもぐってしまい、一日やっても二,三尾がむつかしい。折角、ここまで来なさったからには、今夜はこの上の宿屋に泊まって、明日、八畳の滝へのしてごらんなされ。昨日のこと、この近所の若い者が出かけていって、なかなかよい漁をしてきました。三十匁から四〇匁の粒そろいで見事なものでございました。自分も用さえなければお伴をしたいが、折悪しく約束事があって、―その代わり、これから出かけて囮だけはとってあげる、―という。
これで『折角ここまで来たからには』の三度目である。」
「そのAさんが、文字通り苦心惨憺でとってくれた一尾の囮を抱えて、半里ばかり上み手の本川村川崎在の和田屋に草履をぬいだ。山峡の旅籠とは思えない二階建ての手広い宿で、五十近い主人の親切なもてなしと、二階の便所の壁に『わが妻は三国一のまだ一の――、』と後の文句は忘れたが半紙いっぱいに書いて貼り付けてあったのが、愛妻家らしい主人の気心を語っているようで、微笑ましくも嬉しかった。」
夢か、幻か、地獄か、天国か
「翌朝は四時起床、囮缶を手にまだ明けきらぬ薄暗い山道を八畳の滝を目指して急いだ。Aさんからも宿の主人からも、道は左岸にそうた一本の山道、時折川原へさしかかると道は消える。人の足跡をさがしてはまた山道へよじ上る。滝壺まで約二里半。その間人家は一軒もない。目標は山道の左下に石工の細工場だった杉皮ぶきの小舎が見える。小舎にそって下れば、淵があり、八段になった滝が上み手に見える。八畳は八段、吉野川の大鮎もさすがに八段の滝は遡上しかねて、そこが魚どめの終点となっているときかされていた。
五百メートルもいかないのに往還はきえて川原となった。夜明けの白みに、どうやら人の足跡をひらって、向こうの山道へ辿りついたはいいが、深淵と激流を足下に、木の間を縫うて曲がりくねるその山道が木の根岩角、一歩つまずきよろめいたら、それっきりである。用心しろ、あわてるな、―夜が明けはなれても、繰り返し繰り返し自分で自分にいって聞かしたほど、足もとが危険だった。」
「でも、心はせく。ただ一尾の囮が気にかかってならないのだ。この調子では、二里半の路に三時間はゆっくりかかる。かけがえのない囮が大丈夫元気でいてくれるかどうか。水をかえてやりたい。が、いくら行っても谷川がない。足の下には渦巻く奔流がどうどうと音を立てているが、そこまで下りていける足がかりがない。缶のなかの囮をのぞく。どうやら呼吸が苦しいらしく、ぐったりとなっている様子である。
缶をゆさぶり元気をつけてやりながら、ひとりでに足は木の根を飛んで小走りとなる。
やっとのこと小さい谷川が目の前にあった。駆けるように近づいて、せせらぎの石をかきわけながら缶をひたした。まだどうにか尾鰭が動いているのを見てホッと胸をなでおろした気持ちであった。」
「後半分の道は駆足であった。杉皮葺きの小舎があった。ころげるように淵に下りた。囮缶を流れにひたして、白い腹を見せた囮を見つめたまま、滝の音も眼前に開けたひろい淵も目にはいる余裕はなかった。
十分、二十分。ついに元気回復の望みはなかった。痛嘆胸をえぐるの思いである。午前四時起床、二里半の難行も徒労に帰した。いや、二里半の山道ではない。穴内から、森村、舟戸と三日がかりの行程が一切徒労に帰したのだ。ああ、やんぬる哉と大きな声で、空に向いて叫びたいほどのやるせない気持ちであった。」
右岸に渡り十匁の錘をつけて囮を滝壺に投げるも
「がこれもやはり徒労でしかなかった。十匁の錘も落下する激湍の泡(あぶく)の中に翻弄されるだけの試みにすぎなかったのだ。
空の囮缶をおいたもとの左岸に帰って、茫然自失の幾時かが過ぎた。今朝、宿を出てから忘れていた煙草の幾本かが味もなく煙となって口もとに消えていた。」
ア 八畳の滝の情景
「心頭滅却すれば、である。そのうちに是非もない諦めが、心をかすめて、心機一転とまではいかないが、目の前に広がる八畳の滝の異様なる景観がはじめてしっかりとわたしの目をとらえた。
七つだか八つだか、はっきりと見きわめもつかぬ数段の瀑布がどうどうの音と霧雨の泡沫(しぶき)を立てながら、いかにも大河のどんづめらしい威容を見せて落ちている。が、その滝壺を迎える下も手の淵はどうだ。この山峡にこんなひろびろとした淵が隠れていたかと疑われるほど下流へむいてひろがっている。すぐ下も手に淵へ突き出た大きな岩角があって、ひろびろとした淵の全貌は望めないが、百メートル近い川幅をして、まるで山峡の中に隠れた太古ながらの湖といった感じである。数段の飛沫を上げて落下する上み手の滝壺にくらべて、それはまたなんと静寂そのものであろう。しかも、そこはまるで、多島海の島々のように、幾十とない大小の岩々が、思い思いの姿を浮かべて、両岸にそそり立つ山の峡間に深閑として眠るように横たわっていた。
吉野川の渓谷美は大歩危、小歩危につきるとは土讃線開通と同時にうたわれた唄い文句である。トンネルづくしの車窓から垣間見る大歩危、小歩危の眺めも満更ではないが、いかにもせせっこましい箱庭式の感じがしないでもない。そこに渓谷美があるといえばそれまでだが、同じく箱庭式の渓谷美なら昨日汗だくで這い上がった森村から舟戸への途中にも、いくらも足をとめるほどの眺めはあった。が、いま目の前に見るひろびろとした淵の景観は、その趣がまるっきり型をやぶって、大歩危、小歩危のせせっこましさや、とげとげしさとは反対に、おおらかな落ちつきと、寛容さを見せて、そこにはなにか神秘な自然の黙示がただよっているような感じさえせられるのだ。」
イ 女神の少年
この淵へ駆け下りてから、三時間茫然としていた。九時を回っていて、とぼとぼと帰路につこうとしたとき、
「すると、ふいに下も手の岩角の陰から姿をあらわした素っ裸の少年の姿が目にうつった。」
「箱ビンと引っかけの道具を手に、獲物の鮎を腰の褌にぶら下げた十五,六歳の少年であった。
『君、引っかけをもってるね。囮を一尾とってくれないか!』
わたしは救いの神にめぐりあった気持でせっかちに声をかけた。
『囮が死んで困っているんだ。頼むよ、君。』
見も知らぬ男に突然声をかけられて、少年はあきらかに面くらった面持ちだった。
『今日は調子が悪くて掛からないよ。』
少年は腰の獲物に目をやりながら面目なげに答えた。獲物は二尾だった。
『このへん、魚はいないかね?』
『おるよ、いっぱいおるが、調子がわるくて掛からないよ。』
少年はそういって、しずかに箱ビンを水にあてて、のぞいたと思うと、
『おるよ、三つも四つも、そこの岩についておるよ。大きいやつが―、』
と、わたしの方に箱ビンを差しだして、のぞいてみよというのだった。箱ビンに眼をあてると、なるほど、すぐ目の前の小さな岩に垢をはみながら友を追う大きい鮎がちらちら見える。
『君、あれを引っかけてくれよ。』
『小父さん、やってみ。ぼくは調子がわるいんだもん。』
「人の好さそうな少年は頼むといわれた責任感に一層固くなったらしい。あっちへ行き、こっちへもどり二時間近くもかかって、それでも背がかりの三十匁からの一尾の囮をやっとものにしてくれた。
少年の嬉しそうな喜びの顔が、わたしにはまたとなく美しく映った。感謝と歓喜にわたしの心はおどるようであった。」
ウ 忘我の昼下がりの情事
「鼻環をとおす指先がふるえた。囮がいく。綸がはる。追う気配。タッチの感触。げに五秒とはまたない一瞬であった。からみあい、もつれあう二尾の鮎の強引な引きが、五間竿の穂先を弓のようにたわめて、ゆっくりと獲物を手網に取りこむまでの刻々はいっさいこれ忘我、友釣りならではの釣り三昧の境地であった。
垢はべっとりとついていたが、それにしては追いがよかった。水温の関係からであったろうか、それとも吉野川の終点の大淵とあって川底いっぱいの鮎ででもあったのであろうか。囮を取りかえるのももどかしいほど後から後からと、よくかかった。あるいは正午近く、垢食みの時が来ていたためだったかもしれない。
缶の中に大きな鮎が十尾近くもたまった時、わたしは空腹をおぼえて竿をおいた。するとその時まで、わたしから閑却されていた少年がおずおずと傍へ来て、
『小父さん、ぼくに仕掛をかしておくれんか。』
と、いかにも言いにくそうにおずおずといった。
『ほう、君も囮掛けをやるのかね?』
わたしは、ちょっと意外な思いでききかえした。
『うん、やるけんど、小父さんのとは仕掛けがちがうよ。』
『そう、お安いご用だ。竿をもっておいで、仕掛けはこしらえて上げるから。』
少年が嬉しそうに背後の山道を駆け上がった。弁当を使って一服していると、少年が竿をもって戻ってきた。自分で伐り立てて枝をはらっただけの、まだ青味の残ったぼくしょうな竿には、四厘柄のねり糸に寸近い横がけ用の鈎が三本バラに結えてあった。それでも鼻環だけは型は古いがどうにか間にあう代物だった。
わたしが道糸から掛鈎一切の仕掛けをあたえて、元気な囮を出してやると、少年はわたしの邪魔をしないようにとの心づかいであろう。岩角をまわって下も手のほうへと消えていった。」
山峡の驟雨でも、あゆみちゃんとの逢い引きにうつつを抜かせていて、
「いつの間にか、淵の中ほどに近い大きな岩の上に立っていた少年が、岩をおりてこっちへ近づいてきた時は、もうあたりは夕靄につつまれて、どこかで河鹿の鳴く声がした。滝の音に消されていたでもあろう、釣りに夢中になっていたせいでもあろう。わたしはその時初めて河鹿の声を聞いたのだった。いやに疳高い澄みきった声であった。
と同時に、わたしはハッとなった。山峡の淵に釣り暮れてしまったことに気がついたのだ。本川の旅籠まで二里半の山道は危険そのものである。どこかこの近くに一夜の宿を乞うところはないであろうか。わたしは途方にくれて少年にたずねた。
『うちの父(ちゃん)は、人がええから話してみな。とめてくれるよ。』」
「網の目も盛り上がるほどにふくれた缶こを川岸に半ば埋めて、わたしは少年の後から山道を上りはじめた。夕暗につつまれた傾斜の急な小径は、ともすれば足を踏みすべらすほど嶮しかった。少年の後に寄りそうようにして、五.六百メートルも這い上がると、よくも、こんなところにと思われるほど急な斜面に、仄暗いランプのともった一軒の建物があった。」
過疎化へ
「大きないろりをかこんで、少年のお母さんと小さい二人の弟が、もの珍しげに遠来の客を見まもっていた。そのお母さんも見るからに人の好さそうな女だった。雨にぬれたわたしの上衣を、とって脱ぐようにして、いろりの上にぶら下がった自在鍵にかけてくれたりもした。いろりには榾火がもえて、大きな薬罐の湯がたぎっていた。」
「ふと気がつくと、次の表の間に、小さい皿鉢ともり鉢が三つほど列んで、どうやら酒宴でもするらしい模様だった。が、事情はすぐ分かった。折も折、今日はこのあたりの神祭りで、いまに神官さんが見えるから、しばらく待ってほしい、ひもじゅうもあろうがと主人夫妻の口上があったからである。
白い衣をつけた、まだ若々しい神官が、提灯の火を消して、表の間へとおったのは、それから間もなくであった。紙垂(しで)をかざった榊を中に床の間にかかった天照皇大神宮の掛軸の前にうやうやしく祝詞を捧げる声がしばらくつづいて、やがて酒宴がはじまったが、小衣一枚のわたしは、神官さんの手前、しつこい遠慮をつづけとおした。」
明治の廃仏毀釈で、仏だけでなく、天照につながる神以外の神々も毀釈される前には、どのような神がまつられていたのかなあ。天照等の天皇家につながる神々であったのかなあ。山伏系統の神であったのかなあ。いまでは、「天照らす」と変換してくれても、「天照」とは変換してくれないご時世になっているが。
「『お宅はずいぶん旧家とお見うけしますが、―あのお位牌を見ても―』
この部屋へ入った時から、天照皇大神宮の軸物のかかった床の間に、ずらりと並んだ位牌が、みょうにわたしの気にかかっていた。かぞえてはみなかったが三十基以上はあろう、それが煤けた釜屋の天井同様、漆のように黒光りがしている。わたしは、それを見た瞬間、昨日道づれになった祖谷(いや)の男から平家の落人部落を連想し、もしかするとこの家も、あの煤けた位牌からみて、由緒ある落人の家柄ではないだろうかと、それが気にかかっていたのだった。
『曽父(じじい)、曾祖父(ひじじい)のことは話にきいておりますが、それから前のことはわかりません。しかし先祖代々ここで生まれて、ここで死んだことはまちがいなく、上の墓場には位牌の数だけの碑(いし)がならんでおります。お前さん方から見れば、よくもまあこんな山奥で先祖代々何百年も暮らしてきたとお考えになりましょうが、山で生まれたものは、やっぱり山におる方がまちがいがのうて―』
福島さんは大きな徳利をとってすすめながら、
『わたしが子供の時分には、この谷間にも三十軒からの家があったもので、寄りや、祭りの日には、谷から谷へ呼びかけて、今日、釣りをなさった八畳の滝の社へみんなが集まって賑やかなものでございました。それがだんだんとみんな奈路(平坦地)へ出たがりまして、一人へり二人へって、いまはたった七軒になってしまいました。それで神祭りといっても、もう寂しいもので、神社へ集まることもなく、お気の毒だが神官さんに来ていただくことになりました。わずか四,五十年の間に、変われば変わるものでございます。―それで奈路へ出た連中は、その当座こそ便りもあり、こちらから出かけてみると、きれいな生活(くらし)をしておりますが、二年、三年とたつうちに、次第に便りも遠くなり、今度たずねていきますと、もうどこへ去(い)ったか近所の人にきいても、行き先も分かりません。山のものは、やっぱり山におる方が間違いはないようでございます―。』」
ラジオから廬溝橋の言葉も聞こえてきた。
「『また戦がはじまりましたが、火ぶたをきったからには、どうせこのままではおさまりますまい。長男はいまあちらへまいっておりますが、この様子ではいずれあの友明にもお召しがあるでございましょう。あの子もその覚悟で、週三日、青訓へまいって訓練をうけております。』」
少年は無事に終戦の日を迎えることが出来たのであろうか。
いつ頃まで、先祖代々のお墓に祀られることが出来たのであろうか。
B越裏門
越裏門の情景
「吉野川のどんづめといってもいい越裏門(えりもん)へ秦さんに誘われて、二年越しの山女魚釣りに出かけた。いま一足のばせば、寺村という戸数数十戸に充たない小さい部落がある。後二キロで伊予国境である。」
4月下旬に秦さんの車で、「仁淀の支流にそった山道を、のろのろと匍い上がった。峠へたどりつくまでにたっぷり二時間はかかった。振り返ると、だいたいが灌木林の赤茶けた山肌にいま通ってきた山道が、えんえんと糸をひいたようにつづいている。はるけくも、といった感じ、と同時に、明治の初め職を奉じてこの山道をはい上がった若い先生たちが、ここに辞職峠の名を残したのも無理ではないと思われたことだった。
峠には百メートルからのトンネルがあった。水の滴りで、あちこち泥濘(ぬかるみ)ができたトンネルを抜けると、急に吉野川が目の下を流れて、両岸にせまった翠の山が目もさめるように美しかった。その翠の中に季節おくれの山桜が点々とばらまいたように咲いていたのも目をひいた。」
いまはスパー林道とか、高速道路ができて車が疾走できるようになっているのではないかなあ。昭和四十年頃には狩野川上流、天城峠には、水のしたたるトンネルがあったが、昭和五十五年頃には、立派なトンネルになり、また、ループ状の橋もできて、昔の道のイメージはなくなっていた。
郵便局のある川岸の宿場から、越裏門まで二里半の路は、徒歩になるが、「吉野川上流としては水量も少なく、目を引くほどの急湍も激流もなく、なんとも物足りない平凡さで、ただ両岸に迫った見上げるような山々とその山々を両翼にして、はるかの彼方に屹立する手箱山の威容が、どうやら国境近くきたことを感じさせるだけだった。」
十五,六軒の「家並みのはずれに校舎一棟の学校があった。これも後できいたことだが、先生は若い女教員と男の先生が二人、生徒は三十人足らずのいわば代表的な辺地小学校であるが、それでも先生方はもう三年も勤めているそうである。放課の鐘はとうに鳴ったはずだのに、狭くるしい校庭では、小学生服の子供もまじって、ボールを投げたり、シーソーをしたりして無心に遊びに興じていた。ほかに遊び場所がないからであろう。
しばらく上手へ往還を歩いてみたが、吉野川もこのあたりまでくると、どこにでも見られるような谷川であった。川幅もせまり、水量もおちて、どこからでも対岸へ徒渉のできそうな浅瀬がつづき、岸辺の石を踏んで、足もとも楽々と竿をふれそうだった。」
「部屋に中には、そろそろ五月も近い―というのに、火鉢の炭火がかんかんともえて、肌寒い山峡の春がしんみりと身近に感じられた。」
初めての「山女魚釣り」
翌朝、青年黒川君が案内役になってくれた。エサも前日に当面の分をとってくれていた。
「わたしは竿をついで、ゆっくりと支度をしながら、もう釣りにかかっている黒川君の様子をしばらくじっと眺めていた。上み手へ打込み、糸の張り加減、流しきっての軽いこづき、だいたいヤマベや鮎の餌釣りとおなじ要領であるらしい。ただ、最初から気がついたことだが、黒川君の二間そこそこの一本竿のなんと軽いへなへなしたことか。あの軟いへなへな竿で、はたして打込みが思うように利くであろうかと思われたことだったが、見ていると、そのへなへなの軟い竿が自由自在に空をきって、餌は瀬脇のポイントへねらいたがわず、落ちているのだ。そのうちに手ごたえがあったか、ぐいとひねって竿がぐんとたわんで、小ものながらひらひらと獲物が手許にとんだ。」
「わたしも装餌にかかった。が、小さいひらむしをつかんで、教えられたように、羽と肢を張って、流れの中を泳いでいるままの姿勢に刺すことは容易でなかった。鉤までこないうちに羽がとれ、肢が落ちて、どうにもパッと羽を広げた姿にはなってくれないのである。別して小さい虫を二つならべて刺す場合は、虫のかっこうがまるでぐしょぐしょにつぶれてしまうことが多かった。まだ朝も早く、山峡の冷気にいくらか指先がかじかんでいた性もあろうが、それよりも装餌のこつがわからなかったというのが本当であった。」
「ポイントをねらって打込みにかかってから、黒川君の軟い一本竿が、胴調子の継ぎ竿よりも具合のいいことがはじめてわかった。わたしの竿は投げても、引いても、餌への当たりが強すぎるのである。なれない未熟さもあろうが、柳の虫やカジカの卵とは違って、カゲロウの幼虫は打込みの場合も、流れの中でもちょっとの手ごたえではずれてしまう。」
ゼロ釣法では、糸の細さだけでなく、柔い竿の効用が影響しているのかなあ。
「山峡の初漁を肴にその夜の秦さんとの食卓は楽しかった。新鮮な山の魚は煮て佳し、焼いて佳し、生のつくりも舌鼓をうつに足りた。ましてほどよい空腹に山の酒はしみわたっていった。
「翌日はおなじコースをひとりで釣っていった。3日目は手の空いた秦さんと二人で下流へむいて一里ほど釣り下った。やはり釣り人の少ない上流が面白いようだったので、四日目はぐっと上み手へととんでみたがだんだんと狭まってゆく両岸から枝をのばして覆いかかる樹々のために竿が自由にふれなかった。
それでも四日間の釣果は相当なものであった。宿の主人が串ざしにして、手をかけて焼いてくれた獲物を土産に帰路についたのは五日目の朝であった。」
山女魚釣りはじめての雨村翁が、満足するほど釣れたということは、山女魚が多いということであろう。また、雨村翁が他の魚の釣りにも精通されていて、他の魚との釣り方の違いにすぐに気がつかれたからであろう。
なお、雨村翁が「山女魚」と表現されているのは、「アマゴ」であろう。この表現の違いに気をつけないと、誤った生態知識を語ることとなろう。
夢よ再び?
「渓谷の釣趣忘れがたしで、その翌年も四月にはいると問合せの手紙を出して心待ちにしていたところへ秦さんから電報があったのは、前年よりは三,四日おくれていたが、やはり四月の下旬であった。
山峡の眺めは変わりなかったが、運の悪いことに越裏門の宿に着いた夜からの雨であった。翌日も降りつづいた雨は、くろ濁りの増水となり、天を仰いで籠城を二日も続けなければならなかった。所在なさに、火鉢にかじりついて欠伸をかみころすわたしを見かねて、宿の女主人が手箱山の仙人をたずねてみてはと言った。むろん冗談半分の口のきき方であったが、わたしは仙人ときいて耳を立てた。
手箱山の中腹に掘立小舎をたててもう四十年近く住みついている仙人がいる。もとは営林省の役人として、この地区に赴任してきたものだそうだが、いつごろからか役人をやめて、山に入り仙人となってしまったという。」
「年に一度、塩を買いに山を下りるが、味噌や醤油はもとよりマッチや石油のような日用の品にはいっさい目もくれないところを見ると、食味のほうは塩でこと足りるとしても、煮焚きの火はどうしていることであろう。」
「『それでいて、欲はどうして深いんですよ。毎年々々、新しく土地をひらいて三椏(みつまた)をつくっているそうですが、いまでは三椏畑が三町歩にもひろがって、それからあがる収入(みいり)は大したもので、それがいまいうとおり塩以外にはビタ一文使うでなく、貯まりたまって、この川一番のお金持ちだという話で―。』
『それじゃ、仙人か俗物かわからないじゃないか?』
『そうなんですよ。でも、当節ですもの、お金持ちの仙人がいてもおかしくありませんよ。羨ましいくらいで―。』
『しかし、もういい年だろうに、貯めた金をどうするつもりだろうね?』
『聞きたいのはそれですよ。もう七十からですもの。そのお金をどこへかくしているか知らないけど、いつ何時ぽっかり死ぬかもしれないのに―そこがやっぱり仙人なんでしょうよ。たいくつしのぎに山へいってみなさったらどう?』
『わざわざいっても、仙人じゃ下界の人間とは話が通じまいよ。魚釣りなら山へも上がるが、仙人訪問は遠慮しておこう。』」
ということで、雨村翁の興味をひくものの仙人訪問はされなかった。
いまでは、「三椏」、「楮」が、中学だったか、小学だったかの教科書に載っていることもないやろうなあ。
だいたい、今ではどの程度、紙の原料等として利用されているのかなあ。それにしても、なんで物忘れ激しいオラが、三椏、楮の言葉をまだ覚えているのかなあ。不思議なことである。それよりも、いっしょに遊んだり、指をくわえて眺めていたねえちゃんの顔と名前を覚えている方が、よっぽど有り難いけどなあ。
「渓谷は増水も早い替わりに、減水も早い。三日目の朝はもう平水にかえって、水も澄み切っていた。」
黒川青年が、水が冷たいといって、餌取りをしてくれたが
「『こりゃいかん。先客があるらしい―。』
つぶやきながらじっと流れを見ていたと思うと、
『たしかに誰か釣り上がっていますよ。やられましたな。仕方がない、ここで餌をとって手箱へはいりましょう。』」
「黒川君はいい加減餌をとると、川岸の柳をわけて山裾の杉の木立の中をどんどんと上み手へ向いて急いだ。本流が右に折れた曲角までくると、小さな谷川が目の前にあった。
『この谷です。谷だから竿を短くしてくださいよ。いっしょには釣れないから、ぼくは上み手へまわって滝壺の辺から釣り上がります。ちょいとした小場をねらってくださいよ。』」
少年の日の追憶
「虎杖(いたどり)!それもすばらしいいたどりの林が、狭い谷川の右岸に上み手へ向いて、どこまでもどこまでもつづいているのだ。やわらかい土をわって萌え出したアスパラガスに紅い斑点をいっぱいにつけたような、いやどんなアスパラガスよりも何倍も丈の高い見事ないたどりがすくすくと競りっこをして、まるでいたどりの煙幕とでもいいたいように林立しているのだ。
少年の日の夢がパッとわたしの心によみがえった。郷里や隣村の山間の谷々が一時に目の前に浮かんで、いたどりをあさりまわった昔が、まざまざと昨日のように思い出された。
目白おとしや罠(わな)かけに冬が暮れて、野や山に春の息吹が吹きそめると、蕨狩りにいく大人にまじって、わたしたち少年は谷間のいたどりを探して歩きまわった。去年のから(枯れた茎)をめあてに、藪をくぐり、岩をよじのけて、からの根元から黙々と土をわって抜け出したたくましいいたどりを発見したときのうれしさ。土をかきわけて、なるべく根元からポキンと折りとった時の歓び。それはわたしたち山の少年に恵まれたこの上もないたのしい冒険の歓びであった。
わたしは手をのばして一本の虎杖を折りとった。ポキンとこころよい音がした。うすい皮をむきながら口に入れた。心持ち酸っぱいいたどりの味が、遠い昔の味覚をそのままに呼びおこしてくれた。
ほんとうに、うっとりとして我を忘れた時であった。山女魚も釣りも、そこが国境に近い手箱山の麓であることさえも忘れて、うっとりとさても見事ないたどりの林に見とれていた。」
いたどりの味、ぽっきんと折れる状態は、「スイスイ」に似ている。「すいすい」は、いたどりとおなじかなあ。
狐が歩いていた里山にはさして時間がかからなくてもいけたが、なんでか、里山を遊び場としたことは少なかった。ガキ大将の好みによったのかなあ。
山桃の実については、オラの弟の年代にもおなじ場所が引きつがれていたが、弟の話では切り倒されてしまったとのこと。木から落ちて怪我をしたものがいて、危ない、ということで切り倒されたのかなあ。いまでは、山桃の実を食べる子もおらず、いつ頃食べることができるか、も、知らないやろうなあ。
なぜ、滝上に魚がいるのか
釣りのほうは滝壺まで行って一尾釣れただけで、「〜黒川君も本流の増水で昨日あたり誰かここを釣ったらしい。さっぱり当たりがないから滝の上を釣ろうという。灌木の木立にさえぎられて一切展望はきかないが、なるほど頭上から水の落ちる音が聞こえてくる。水量は乏しいようだが、とにかくかなりの懸崖らしい水の音である。」
「茨の藪を掻きわけ掻きわけの登攀である。それも石垣をよじ上るような急峻である。」
「〜わたしはからみつく茨に刺され傷つき、咽喉はかわいて死物狂いの強行軍であった。五,六メートルも突きすすむと、もう引き返したい気持ちだった。が、弱音を吐きたくなかった。あえぎあえぎ、とうとう百メートルからの崖を、遮二無二、黒川青年に追いすがって、やっとのことで這い上がった。
そこは案外平坦な小径が、深い木立をぬうて、渓流にそうてつづいていた。まわり道をしても、こんな径があったのにと黒川青年がうらめしかった。」
「けやきやぶなの幾抱えもありそうな大木がうっそうと立ちならび、朽ち倒れた大きな枯れ木が目の前の谷川に桟道(かけはし)のように横たわっていた。山道の行手は森閑として、夕暮のように不気味だった。
わたしは目の前を流れる谷川に、ほんとうに山の魚がいるだろうかと半信半疑の気持ちであった。なぜといって、たった今、生命がけでよじ上った崖とならんで、そこには高い高い懸崖があるではないか。その懸崖―滝はおそらく千万年の昔、地殻の大きな変動でできたものにちがいない。もし、この谷川に魚がいるとすれば、その大変動の昔から棲みついていたものと考えなければならないが、はたしてそんな太古から、あのきれいな斑点をもった美しい山の魚がこの懸崖の上にいたのであろうか。わたしが、ぼんやりそんなことを考えていると、黒川君はこんどは自分は上み手へまわる、足許に気をつけてゆっくり釣り上がるようにといって、暗い木立のなかへ消えていった。」
「淵の一つで、忽ち、グイグイと魚信があった。七寸近い大ものが、底にもぐり横にそれて、やっと手もとに引きよせられた。」
「〜『おる!たしかにおる!』とわれにもあらずつぶやいた。と同時に、まだ中学生のころ、疑問をいだいて動物の先生にただした時、先生がいとも明快に回答をあたえてくれたその時のことが、急に記憶の底から飛び出してきた。
夏の休みに、五,六人の友達と隣村にある大樽の滝へ遊んだ時、三十メートルからある滝の上にうなぎやヤマベ(ハエ)がいるという土地の人の話から、みんなで頭を悩ました揚句、うなぎは滝壺をよじのぼるとしても、ヤマベには絶対にそうした離れ業はできっこないと片づけてしまったものだったが、それがいつまでも気にかかって、動物の先生にうかがいをたてると、藻やなんかに産みつけた魚の卵を鳥がはこぶということを考えてみなかったかとずばり明快の回答だった。なお山しょう魚は大きな川の上流にはどこにもいるのだが、これは大川の源はたいがい一つだからだと附けくわえての説明だった。
手箱山の渓谷が、どこから流れだしているのか、それはわからないが、この上流にも山しょう魚は棲んでいるだろう。いま釣り上げた山女魚も多分鳥がはこんだ卵から繁殖したものの子孫であろうと、やっと納得はしかけたものの、それにしても遠い昔、悠久なときの流れをしみじみと思い考えさせられることであった。」
雨村翁に説明された鳥が魚の卵を運んだ、との説明は、今も妥当性を有しているのであろうか。
「悠久」の自然の営みではなく、人間の営み=湖産、海産、人工の放流がいかなる現象をもたらしているのか、ということに、なんで学者先生は思いを巡らさないのかなあ。「漁協が湖産を放流したといっているから四万十川には湖産しか放流されていない」との前提でのみ、現象を解釈される学者先生は、かかる「悠久」の自然を視野においた観察をする先生とはめぐりあわなかったということかなあ。
今西博士の本でも読まれていたら、少しは、人為の影響をどのように排除する観察が必要か、を、学ぶことができたのではないかなあ。
「山女魚はたしかにいた。それもわりと型のいい大物がいた。しかし、釣り場としては千万条件がわるかった。だんだんと大きな岩が多くなり、倒木が道をはばみ、竿をふる時間よりも渡渉と岸壁をよじる時間に手間がとりだした。それに行手は次第に木立が繁く、ひっそりとして、上み手に同伴者があるとはいっても、なんだか心寂しい気分になって、はては黒川君はわたしのくるのを待ちわびて、もう山を下ったのではないかとも案ぜられだした。
わたしは二時間近くも釣り上がって、とうとう谷川から山の小径へ這いあがった。」
仙人との出逢い
「灌木林を出はずれて、ひろい三椏畑のつづくあたりまで、かなり歩いてきた時、わたしは右手の畑に鍬を手に、わたしの方を見ながら突っ立ている老人の姿を目にとめた。」
老人に声をかけた。
「『お元気ですね、なかなか。』
何を考える余裕(ひま)もない二の句であった。
『年をとって、もういきません。手も足もいうことをきいてくれませんでな。』
『でも、毎日、畑へ出られて、おえらいじゃありませんか。』
『出てくるだけで、一向仕事にはなりませんでな―。』
継ぎはぎだらけのボロ着の上に、縄の帯をしめ、よごれた手拭を首にまいた老人の顔は深い皺にきざまれ、頭は半白の髪が長くのびて、それがまたひょろ高く痩せ型ときて、どうひいき目に見ても霞をくい、雲に乗る仙人の相(すがた)ではなかった。
『開墾なさった畑はずいぶんおひろいようですが、どれくらいありますか?』
『どうこう四町歩はあるかと思いますが―、』
『それをすっかり三椏をやっていられますか?』
『こんな山の上では、ほかになんにもできませんでな。』
『そうでしょうね。しかし三椏だけにしても、四町歩をいえば大した収益じゃありませんか。』
『それが当節は昔のようにいきませんでな。仲買がずるうなって、文句ばかりいいおって、手落ちはへるばかりで―』
仙人がそういったきり、つと顔をそむけた。かくべつご機嫌をそこねるわけもないはずだのに、なにか自分で不快な思いでもおこしたのであろうか。わたしは山の生活について、まだいろいろ聞いてみたいことがあった。できれば、老人の小舎をたずねて、ゆっくり膝をまじえ、山へ入る前の老人の過去や四十年にわたる孤独の生活について、ありのままの話を聞いても見たかった。が、老人がそっぽを向いて黙りこんでしまうと、反撥といおうか、もうたってそんな話まで聞かなくてもよいといった気持ちがむくむくとわいてきて、短い別れの言葉をのこして、わたしはそのまま山を下りた。」
その晩、秦さんと宿の主人と盃を交わしながらながら、手箱山の仙人にあったことを話した。
主人は
「『それは珍しい人を見てきなさった。とにかく変わった人ですよ。会って話して、どう思いなさった?』
と聞くので、
『仙人は仙人だろうが、そろばんもはじくようだね。』
というと、主人は大きな口を開けて笑いながら、
『さすが目が高い。仙人、あれでなかなかそろばんをはじきましてね。それが山の上にいて新聞は読まず、人にはあわず、下界のことはかいもくわからないでいて欲ばかりふかいのだからどうにも始末がわるいんですよ。それもこっちじゃ、もうとっくにあきらめて、寄附だのいっさい相談にはいきませんが、三椏の刈取りがはじまると人をやとわねばならん。その労銀がだんだん高くなっていることがわからない。三椏の値はご承知のとおり、年々安くなっていくのに、その事情がいくら話してもわからない。結局、半分ばかり刈って雨ざらしにしたこともありましたがね。とうとう仙人が折れて、いまでは泣き寝入りになっていますが、欲の深い意地っぱりだから肚の中ではずいぶんくさくさしているでしょうよ。とにかく変わっていますからね。』」
「『はじめの十年、十五年は開墾時代としても、それからの二十年で、ずいぶん金はできたろうね。嬶も猫もいないんだから。』
秦さんが盃をふくみながら、じょうだん顔で軽く聞いた。
『ええ、そりゃもう大したもんでしょうよ。景気のよいころは、五万、十万とはいったんだから―。』
『どこへあずけてあるのかね、その金を?』
『だれも知ったものはありません。金は受取っても、自分で預けに行くでなし、それにここには銀行の支店も郵便局もないんだから―。』
『じゃ、結局、自分でもっていることになるかね?』
『まあ、そんなことでしょうかね。掘立小舎の床下でも掘って、かくしているかもしれません。』
『どこへかくそうと勝手だが、さて、七十歳にもなって、その金をこれからどうしょうというのだろう。聞いてみたいものだね。仙人の意見(かんがえ)を―、』
そういって、秦さんは酒でほてったあぶらぎった顔をほころばせて、からからと笑った。」
三椏の値段が下がっている、ということであるから、雨村翁が越裏門で「山女魚」を初めて釣られたのは、戦後ではないかなあ。
それにしても、あっちこっちと、よく歩くなあ。車で釣り場に乗り付けて大して歩くこともなく、釣りをしている現在の釣り姿からは想像できないこと。もちろん、現在でも、谿を歩きまわっている人も少数はいるであろうが。
2009年の中津川漁協の山女魚放流量は、漁協ホームページ記載の放流量よりも相当少ないと疑っている。そのため、寒いから、ということで、ウエーダをはかない日々を過ごしているが、4月からは足慣らしのために歩こうっと。雨村翁も、いつもいつも釣れていたのではないから。
(5)不易流行
長谷川櫂「『奥の細道』をよむ」(ちくま新書)
芭蕉は、俳句論として、不易流行を述べている。
「不易流行の不易は永遠に変わらないもの、流行は時とともに変わるもの。芭蕉は元禄二年(一六八九年九月、『おくのほそ道』の旅を終えるが、その年の十二月、京の去来に初めて不易流行の教えを説いた。」
「不易」と「流行」が、別個のものであれば「ならば、流行は軽薄であるから不易の句を詠まなくてはならないとか、不易は活気に乏しいから流行の句の方がいいとか、まるで不易の句、流行の句というものがあるかのように。」なるが、そうではなく「『其元は一つ也』という。」
「しかし、芭蕉が考えた不易流行はなによりもまず一つの宇宙観であり、人生観だった。人は生まれ、大きくなり、子供を産んで、やがて死ぬ。時の流れに浮かんでは消えてゆく人というものの姿を人としてとらえれば、この宇宙は変転きわまりない流行の世界である。
ところが、変転する宇宙を原子や分子のような塵の次元でとらえなおすと、人の生死は塵の集合と離散に過ぎない。ある時、塵が集まって人が現れ、またあるとき、塵が散らばって人が消える。これは一見、流行の世界のようだが、この塵自体は減りもしなければ消えることもない。まさに流行にして不易の世界である。芭蕉のいうとおり『其元は一つ』なのだ。
人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世界に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転きわまりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行だった。」
オラには二律背反の概念を止揚して、統一的に理解することは不可能であるから、古のあゆみちゃんを育んだ山、川、苔は流行であり、もはや古の環境を知ることは時間軸では不可能、唯一経験できる可能性があるとすれば、空間軸であろうと思う。ただ、其の空間軸があるところは、四万十川の支流である黒尊川、米代川の支流である比立内川、あるいは、長良川の支流・亀尾島川(きびしまがわ)くらいしかないのかも知れない。
いや、時間軸でも、数少ない古の山、川、コケ、鮎に関して書かれたもので、観察が適切であることから、信頼性の高い記録を探し求めることでは可能性は残されている。
亀尾島川については、野田さんの「日本の川を旅する」に、地元の人が古の長良川を知るには亀尾島川を見よ、という川として書かれている。
そう、野田さんが語る「流行」の川を見るしかなくなった。
垢石翁は、「ああ、利根の清流は今はもう想い出の川となった。鮎と鱒が盛んに漁(と)れたのは、昔の話である。けれど、水源地方に聳える山々の姿は、私の少年のときと変わりはない。」と、「利根川の鮎」に書かれている。
山の姿は「不易」の想いで述べられているが、其の地表、土の周辺では、微生物が織りなす栄養素を育む環境ではなくなり、地下水が育てていた金の塊たる苔の生育が出来なくなっているのではないかなあ。
外見は「不易」であっても、生物の循環系、営みで見れば、「流行」ではないのかなあ。
学者先生が、鮎が食して珪藻から藍藻が優占種になる、なんと素晴らしい営みだ、と感心する前に、なんで、その現象が「不易」であるのか、否かを時間軸で考える感性すら持っておられないのかなあ。もし、その感性が少しでもあれば、実験結果が鮎の成長による富栄養化かも、と、疑うことが出来て、実験結果の普遍化をされないのではないかなあ。
空間軸で実験結果を検証されたという千曲川、木曽川で、どのように検証されたのか、分からないが、そもそも、千曲川や木曽川が、古の珪藻を育んでいた環境にあるところはほんの一部の支流等ではないかなあ。
野田さんは、長良川での出来事で、
「川原を吹く風向きが変わると、時々『スイカ』によく似た匂いが強く鼻をうった。好きな人は釣り上げたアユを手や顔になすりつけ、この匂いを移して喜ぶ。
長良川で釣れるアユは九割が天然遡上したもの、後の一割が琵琶湖産の放流鮎だ。」
これはいつ頃のこと?当然河口堰ができる前。昭和五十七年か、その数年前のこと。
「左手の上空に城が見えた。金華山山頂の岐阜城である。大きな橋をくぐり抜け、忠節橋の下の左岸に上陸。ここから先の長良川は濁るのでここで切り上げる。フネをたたみ、タクシーに乗せて岐阜駅に向かった。
タクシーの運転手は鼻をくんくんさせ、笑っていった。
『お客さん。アユを沢山とったでしょう』
体に染みついたアユの匂いは家に帰っても二,三日消えなかった。」
野田さんはアユ釣りをしたのではない。長良川にもぐっただけ。
そう、シャネル五番の香りが水の中に充ち満ちていた。
(野田さんについては次の章で紹介する)
蛇足ながら、2009年3月中旬、名神を走る高速バスから見た木曽三川は、青い色。この青をきれい、とテレビで表現していた人がいたが、アオコがきれい、とは、野田さんの嘆きがよくわかる映像であった。透明度は、当然ゼロであろう。
「アユの本」の高橋先生は遡上アユが充ち満ちている赤石川に一千九百九十九年にもぐられている。その時、野田さんとおなじように、体にシャネル五番にまみれたのであろうか。
もし、もしも、川から上がった高橋先生が、シャネル五番をまわりの人に振りまいていたのであれば、アユの香りを知っているはず。それにも拘わらず、その香りが海で生活している稚魚にもしていて、「食」に由来するのではない、といわれるのであるから、なんで、香りの質と量に違いがあるかを、今風の政治の世界に当てはめると「説明責任がある」ということにならないのかなあ。
シャネル5番の香りは、「本然の性」として、説明できる現象ではないと考えている。
高橋先生に質問を送付したが、返事はあるまい。1987年の四万十川河口付近の渚帯での10月中旬における稚魚観察については、先生から返事をいただいて、四万十川の遡上鮎を親とする稚魚であると判断された理由が、「四万十川には湖産しか放流されいないこと、交雑種も、湖産親からの稚魚も海では生存できないから」ということであったから、「湖産」ブランドに、日本海側の海産等がブレンドされていない、ということを検証しなければ成立しない解釈、判断であることが分かった。
汽水域で一生を送るとされている「シオアユ」については、「潮呑み鮎」であるかも知れない。
「シオアユ」が、「潮呑み鮎」でないと説明するためには、汽水域での夜の観察が必要でる。そして、その結果が、昼間と量的に大きな差異がない、あるいは差異があるとしても、合理的に説明可能である、ということが必要であろう。そして、その時、せめて下顎側線孔数だけは見て欲しい。もっとも、湖産は下顎側線孔数では海産との識別が出来ないため、アイソザイム調査をしてもらえれば現象を理解する上での精度は上がることになるが。
村上先生に、巖佐先生の「珪素の生物学」に係る章等、「食」と香りにかかる部分を送ったところ、返事をいただいた。
珪藻と糸状ラン藻のどちらがアユの成長に寄与しているか、についても、餌となる藻類の種類、量=現存量、生産速度の三尺度で考えなければならないとのこと。
また、天竜川、球磨川でのダム下流と上流での珪藻と藍藻との優占種の違いが見られるが、阿部先生が原因とされている「食圧」による分布の違いとは考えにくいとのこと。
そして、同封していただいた「名古屋市内の珪藻植生」調査報告書から、富栄養状態でも棲息できる珪藻のあることがわかった。もちろん、優占種であるか、どうかの調査ではない。
富栄養状態で適合性を有する珪藻の顔、容姿の写真も載っているが、節子ちゃんや、小百合ちゃん、昌子ちゃんくらいの識別はつくが、なみえちゃんやあゆみちゃんになると、さっぱりわからんのと同様、珪藻の顔、容姿とはいってもさっぱり見当もつかない。
ということで、シャネル五番と「食」の関係についても、「食」と大きさの関係についても、「科学的」に相当因果関係を説明することは困難な現象であることはわかった。
多分、阿部先生は、シャネル五番の香りを嗅いだことはないのではないかなあ。今はなくなったそのような代が、川が、あったことを振り返る作業を続けることにする。
その代とは、シャネル5番が水の中に充ち満ちていて、それがすぐに気化して川面に漂い、しかも、それほど大量に、ひっきりなしに拡散しているにも拘わらず、一向につきないほどに、たえず放出し続けていても減少することがないほどに、シャネル5番を生成していた鮎が、苔が、川が、山があったころのことである。
野田さんが長良川でのこと、
「一人の漁師がいった。
『結局、わしらの子供の代になったら、アユちゅうもんは焼くとサンマのような煙が出る、脂(あぶら)ぶとりの魚だ、というようになるのでしょうね。』」
その代になった今、少しでもあゆみちゃんの容姿を、育ちを、人為に害されていなかったころの状態で記憶にとどめておきたい。
テレビや雑誌に「人為」に害された状態が「本然の性」のあゆみちゃんである、と「科学的」に宣伝されて、あゆみちゃんの品位、品格を損なっている中で、一人でも多くのあゆみちゃんファンを増やしたいと願っている。
野田さん「日本の川を旅する」 |
1 野田さんとは?=セクハラ大王?
野田知佑「日本の川を旅する」(講談社)は、昭和57年に日本交通公社出版事業局から発行され、平成元年に新装版として講談社から発行されれている。その時に野田さんが「新装版前書き」を書かれている。
「故松沢さんの思い出補記:その2」は、「不易流行」で、2008年度を終えるつもりであったが、運悪く?野田さんの本が数冊ならんだ棚に出合ってしまった。野村さんが野田さんを語られているから、野田さんのことは記憶にはあるが、カヌーなんて、とあまり気にしないで立ち読みをはじめると、おもろい、となってしまった。
なにがおもろい、かってえ?、セクハラのオンパレード。
いや、昭和57年ころは、ウーマンリブが、オスがでっかい顔をしていることは「女は、原始は太陽だった」との大いなる偉功を損なうもの、人類はじまって以来の屈辱であるう、とオスを、亭主関白を追放し、かかあ天下を世にしろしめした頃であろうから、まだセクハラは登場しておらず、発禁を免れたのではないかなあ。
浮気をするのも甲斐性のうち、と、亭主関白が独占していた浮気を、女もするようになり、フリーセックスへ、そして、ウーマンリブの勝利品はこの世に満ちあふれ、オスは小さくなっていった昭和40年、50年代。
いや、野田さんの本領はセクハラだけではないですよ。川を、人を、教育の誤りを観察していますよ。どぶ川でも「清流」と、命名するという時代、「清流」と名をつければ、「自然」がある、自然と親しんでいる、との変な方々への痛烈な批判もされれいますよ。
なお「日本の川を旅する」の文庫版が新潮社から出版されているとのこと。
(1)四万十川の観光開発:村おこし=ニキの破壊
野村さんが四万十川の口屋内で野田さんに会われたのは、昭和54年のこと。
「日本の川を旅する」の四万十川については昭和56年のことではないかなあ。その間2,3年のこと。
注:四万十川の川下りはいつのことか
野田さんの四万十川の川下りが「昭和56年」頃とすると、野田さんは、口屋内に泊まっているから、ばあさんらのアイドルである野田さんがやってきているのに宴会が始まらないことはなかろう。
しかし、野田さんは、その日、元教師の家で
「ツガニのゆでたもの。アユの塩焼き。エビのショウユ味のスープ。一緒に煮たキュウりとのとり合わせがなんとも美味(うま)い。そして、ウグイの『水たき』。清流に育ったウグイは生臭さ、泥臭さが皆無でいい味だった。」と、夕食を御馳走になっている。
元教師は、野田さんに、
「『終戦直後、このあたりも他所(よそ)と同じく引き揚げ者や疎開者で人間が増えましてね。あのころは雑草まで奪い合って食べたものです。
その時に比べると、村の人口は何分の一かになっていますが、今の人口が自然とのバランスが一番良くとれた状態ではないでしょうか。
山も川も豊かです。イノシシもアユもたっぷり獲れる。今度、アユ釣りにきてごらんなさい。日本の川はこんなに良かったのか、と思いますよ。』
確かにこれだけ大きな、水量の多い川で流域の人口が約一五万しか居なければ、川は美しいはずである。これよりも小さな多摩川の流域人口が三〇〇万人、という数字を挙げれば、少しは想像がつくであろう。
老人は『あと少しだけ、若い人が残ってくれれば何もいうことはないのだが』と述懐した。」
ということで、野田さんが野村さんと会われた昭和五四年のことか、その前のように思える。
野村さんが野田さんに初めてあったときも11月。
しかし、その時は、
「仲間五,六人と四万十川にカヌーに来よったいうことじゃった。そんで仲間が帰った後、自分はもう一度、取材のために下(しも)から歩いちょるというとったわ。」
よって、野村さんと会われたときは、一人旅ではなかった。
結局、野田さんの「桃源郷に若者は住めない―四万十川」が、何年に行われた川下りか、判然としない。昭和五六年よりも前であるが。
なお、「薩摩隼人(さつまはやと)は死んだかー川内(せんだい)川」に、
「川はひどく汚れていた。家庭排水と家畜屎尿の汚れである。鹿児島は畜産県で(牛は全国第一位、豚は二位)川っぷちに畜舎が多いのだ。
この川に来る直前に取材した四万十(しまんと)川が余りに美しく、その感動がまだ体に残っているので、いつも出発の時に感じる気持の高揚がない。目玉の飛び出るようなハクイ女と会った後で、並の女を見るとこんな感じがするのであろう。」
とのことであるから、ばあさんらとの宴会はなかったか、あっても書かれていない、ということで、「昭和五六年」に、家地川ダムがなかった頃の急流を経験されたのではないかなあ。
昭和五六年頃としても、新装版が発行された平成元年までには10年近く経っている。いや、10年も経っていない、というべきかなあ。
ところが、平成元年の新装版序には次のように書かれている。
「『日本一の清流』とほめた四万十川はその後清流を売り物にして『村起こし』をはじめた。テレビがこの川の特集をやり、小説が書かれ、写真集ができ、川をCMにしたものがテレビでも登場した。西土佐村の役場では全国から来るカヌーイストのために、宅急便でカヌーを送れるように宛先を役場にしてもよろしい、というおふれを出した。
今、四万十川に沿って車を走らせると、道路わきに『日本最後の清流四万十川』と大書きした立て看板がずらりと並んでいて、肝心の四万十川が見えないほどだ。
『日本一の清流』を見ようという観光客が増えて、それを目当ての『カフェ・テラス』、『スナック・バー』、の店が川べりの通りにできはじめた。役場の観光課では川原にコンクリートを流して『キャンプ場』を作った。中流では原色のペンキで塗りたくったニワトリ小屋のようなお粗末なバンガローがずらりと川原に並んだ。この調子でいけばモーテルができる日も近い。
日本人の観光開発なんてこんなもんだろう。政府のいう『民活』、『ふるさと創生』とは要するにこういうことかもしれない。」
野村さんが、「ニキ」を大切にせよ、「ニキ」にある宝をこわしたらいかん、大事なものは「ニキ」にある、と熱く語られていた「ニキ」が、見えなくなり、あるいは壊され、コンクリートで固められ、醜悪な建物で景観を損なわれていようとは。「ニキ」とは、川のそば、「端」の意味。
100円宿・良心宿の閉鎖もバンガローやキャンプ場設置者の動きと関係があったのかなあ。
野田さんの嘆き節は四万十川にとどまらない。しかし、野田さんはめげることなく、あっちこっちとカヌーを漕いでいる。
(2)家地川ダムがなかった頃の急流体験
なお、新装版序に、もう一つ、四万十川に係る記述がある。
「この本を『川地図』として使い川を下る人もいると聞く。この中の『四万十川』では窪川から下った、と書いてあるので、あるグループは窪川から出発しょうとしたら水がなく、炎天下の数十キロをカヌーを引っ張って川を歩き死にそうになったそうだ。ぼくが下った時は秋の大雨の後で水量がとても多かったのだ。」
オラも、野村さんの章で、家地川ダム:建設省の表現では堰の下流は水無川、平成十三年の水利権更改で2トンの義務放流が行われる、と書いた手前、「桃源郷に若者は住めない―四万十川」の
「波に叩かれ、半日漕いで、二〇km地点の家地川ダム。落差七m、幅二〇mの小さいものだ。フネを岸に上げ、担いでダム下へ。
この下から『轟崎(とどろきさき)』『轟の上』『轟』といった地名が続く。地名から想像できるように上級者向きの難易度の高い瀬が連続する。
川は白く泡立(あわだ)ち、奔走しはじめた。
波が頭上からドッと落ちてくると、二,三秒何も見えなくなる。
三級〜五級の瀬である。
大岩にぶつかった流れが大きく割れて左右に分かれていた。そこを通る時、強い横波を二つ続けてくらって転覆。
カヌーが沈すると、裏返しになったフネに少し斜めに人間がぶら下がる形になる。
エスキモーロールで起き上がろうとしたら、水中の岩に頭をぶっつけて目から星が飛び散った。諦(あきら)めて艇から体を抜き、下の淀(よど)みまでフネに掴(つか)まって流される。
淀みでフネからこぼれ落ちた水筒(水に浮くように半分空にしておく)など、二,三の物を拾い集めて、岸に着ける。
フネの水を出していると、釣り竿を手にしてじいさんがやってきた。
『ハハハ。やったな。ここは昔から、よく船が転覆するところじゃきに』
アユの解禁日まではイダ(ウグイ)を釣っているという。
『この川のウナギは食べたか?養殖もんと違(ちご)うて、ここの天然もんはまっこと美味(うま)いぜよ。』
ウナギは水さえあれば、どんな高いところにも上って行く。この前、木を切りに入った山のてっぺんの水溜(みずたま)りで、ウナギを一貫目獲った、と話す。
この川は日本一の川である。と彼は四万十川をひとしきり礼賛(らいさん)して、ホッホッホッホと笑った。
檮原川の合流点で泊まる。川の水はコバルトブルーである。」
このカ所を読んだ時はびっくりした。
その後、序を読んで、この四万十川が、家地川ダムがない時の状態が、たまたま増水で実現されていたに過ぎなかった、とわかりホッとした。
「この本を書いたのが8年前だ。それから川もずいぶん変わった。当時、なんの障害物もなかった釧路川はコンクリートの護岸工事、直線化が進み、川が短くなり、二カ所に小さな滝ができて、そこでフネを陸に上げて迂回していかねばならなくなった。これが『国立公園』の中を流れる川だというのだから、笑わせる。」
このように、野田さんは、セクハラ大王だけの人ではないのだ。
(3)野田さんの判断基準について
@ 良い川、悪い川
「佐藤さんにもぼくにも、川は眺めるものではなくて、飛びこむもの、泳ぐもの、潜って魚をふん掴まえるものである。という確固たる思想がある。そういう気持ちが起こらない川は『ダメな川』『汚い川』、その気になる川は『イイ川』『きれいな川』という単純な判定法をもっている。」
「『良い川』とは良い魚のいる川のことだ。良い魚とはアユ、ヤマメ(アマゴ)、マスなどの清流にすむきれいな魚のことだ。断じて、ヘラブナや似鯉ではない。」
前さんの川水を飲んで美味い、という川が良い川という判定法に通じるのかなあ。
それにしても、「清流」にすむ魚の判定法は通用しないよなあ。人工を中津川でも、酒匂川でも放流しているし、奥多摩川でも。奥多摩川が「清流」とは言い難いことは、後述の予定。アユに至っては、「清流」でなくても遡上までしているからなあ。品位、品格をを条件にしないと、「良い川」の判定はできないと思う。
A BODと水
「山河滅び人肥え太り―多摩川」に、
「去年の夏、仲間が一人がここを下って、川に浸(つ)けた足の皮がペロリとむけたことがあった。
気のせいか水に濡れた手がむずかゆい。
何億というバイキンが自分の体に浸透していく図を想像する。
普通、川を下るとき、ぼくは陸(りく)にいる人に対して優越感を持っている。彼らには決して見られない、触れられない川の穴場や一番良いところを独占できるからである。
しかし、多摩川ではこれが逆になった。陸の上からは見えない『汚れ』を見、触れていかなければならないのである。
感情的に『汚い』とか『きれい』というより、少し科学的な数字を並べてみよう。
環境庁発表による一九八〇(昭和五十五)年度の全国の汚染河川は次の通り。」
「5位 多摩川(東京) BOD6ppm
BODとは、『生物学的酸素要求量で、水中の有機物質の量をあらわし、川の汚染の指標の一つである。BODをもっと具体的、感覚的に説明すると、われわれが『とてもきれい、清冽な』と感じるのがBOD一ppmまでの川。健康な衝動をもった人なら、夏、こんな川に行くと飛びこみたくなる。BOD一から二までの水はまあまあ。二以上になると、はっきり濁りが眼につき、泳ぐときは少し考える。三以上になると、夏は腐敗臭がして、泳ぐことは考えられない。
汚れた川というテーマではぼくは少し発言する資格があると思う。隅田川が最も汚れていた昭和三十年代の四年間、そこでボートを漕いでいた。
そのころ(一九六三年―昭和三十八年)の隅田川のBODは五〇ppmである。普通の生下水がだいたいBOD二〇〇だから、どんな川だったかわかる(現在は排水規制や利根川の水を導入して薄めたりしているので、BOD四〜五)。
家庭排水や流域の工場から垂れ流された化学汚水で、どんなバイキンも隅田川にはいると死ぬ、といわれていた。実際、川から発生する「硫化水素」で川に近い建物の金属はボロボロに腐食し、人々は喘息(ぜんそく)に悩まされた。
夏になると、川に浮かぶ生ゴミの一つ一つにウジが湧く。下手な奴と一緒に漕ぐと、盛大なスプラッシュをあげるので、ウジの雨が降ってユウウツだった。
『コラ、七番ッ。ちゃんとキャッチしろ』
などと怒鳴ると、開いた口にウジ虫が飛びこむから、うかつに物をいえなかった。」
野田さんは、BOD一ppm以下をまともな川と判定されているが、この基準は全国的に認知されていない。そのため、「清流」といわれて、その気になってやってきたのが運の尽き、と、なった。
「水の上で水に渇く―吉井川」
「津山市内を流れる吉井川の川原に車を乗り入れる。川をのぞきこんだ佐藤さんとぼくはチキショーと叫んだ。
細々と流れる川の表面には川底から浮き上がった褐色の苔が漂い、汚水菌でヌルヌルした川底の石、その横から真っ黒い下水の小川が流れ込んでいる。
東京を発つ前、津山に行ったことのある人物に吉井川のことをたずねてみたのだ。
『すごくきれいな川だった。』という返事で、我々はそのつもりできたのだった。
考えてみれば、そいつは東京育ちの人間だ。東京者(もん)はいつも多摩川や隅田川を見て生活しているから、こと川に関しては白痴的な判断力しか持てず、どんなひどい川を見ても馬鹿の一つ覚えで『すっごくきれい』としかいえないのである。
『こんな川ダメだな。』
『ひどいね。駅の看板には〈人情と清流の町、津山〉と書いてあったぞ。おれは帰りたくなった』」
ということになる。
この野田さんの気持ちはオラにはよおくわかる。
もちろん、川の汚れに関してではない。川の汚れに対する感受性は、亡き師匠から小言を言われていたように、鈍感で、大井川ですら、オラにとっては、「きれいな川」に見えてしまう。
オラが野田さんに共感できるのは、遡上アユと継代人工を区別しないで大きさ等を比較する人、継代人工を釣っても喜んでいる人に対してである。
とはいえ、これらの識別についても、亡き師匠や故松沢さんに指摘されて、やっと最近になってから、気をつけはじめたに過ぎないが。
「本物」を知らない人の評価には気をつけろ、ということであろう。
なお、吉井川でのトピックは後述の予定であるが、忘れてしまう可能性もあり得る。
B 急流の等級
「カヌーでは流れの難易度を級数であらわす。一級から六級に分けられ、次の通りになる。
一級=ほとんど静水
二級=少し波が立つが、危険なし
三級=波高く、水中の障害物多し、かなり危険。初心者は良く偵察していくこと
四級=上級者向き。危険
五級=波高一m以上で、水中の障害物多く、フネの漕行の限界
六級以上=漕行不可能
(4) セクハラは何カ所ありますか
「老婆は一日にしてならず―雄物川」
「田舎を行く時は、土地の言葉を話さないとなかなか本音をききにくいものである。」
ガムテープで船底を修理していると
「一人の娘がのっそりと現れた。カントリーギャルというイメージにぴったりで、それでぼくはひそかに練習した秋田弁でいった。
『ネエちゃん、カックいいフネだんべ。カヌーつうずら。たいした面白えもんずらよ。乗っけてやっか。ホレ、乗ってみれ』
すると娘は豹変(ひょうへん)して六本木調でいった。
『ドヒャー。カヌーか、ナウイじゃん。冴(さ)えてるーッ。ドーン。今日は学校休みだもんね。遊びまくるもんねーッ。カヌー教えてーッ。ガガーン。カックいいーッ。』
ぼくは驚愕(きょうがく)と衝撃の余り、ひっくり返りそうになったが、しかし考えてみれば、当然のことながら、日本国中みな東京なのである。
彼女は連れの一行を呼び寄せた。近くの短大の学生たちで、なるほどこうして一〇人ほど並べてみると、確かに『秋田美人』といってもいい『上玉』が二,三人いる。
お年寄りとばかり会ってきた後ではまぶしい思いである。秋田は老人ばかりで若い人は一人もいないのではないか、と心配していたのだが、良かった良かった。
今日は疲れているので、美人だけとしか付き合いたくない心境だけど、ブスほどこういう差別に敏感だからね。シブシブ全員乗せてやった。
一人艇は背もたれをはずして、スプレーカバーを取ると、コックピットの中に二人が充分に入れる。体を適度に密着させて座れるのがカヌーの長所だ。ぼくがものをいうと、前の女の子のうじなのあたりに息がかかるのもよろしい。思わず荒い息になってハッハッと息を吹きかけると、身をよじる娘もいて、とても可愛いのだ。美しき人を乗せるとフネは羽根のように軽々と動き向こうの山のてっぺんまで登れそうな気がするのに対して、美しからざる人を乗せると、ズシッと吃水が下がり、フネが不気味にきしみ、いまにも沈みそうで、腕も心も耐えがたく重く、ちょっと川を一周するだけでぐったりと疲れた。男がいかに精神的な生きものであるかという証拠であろう。
秋田は『米コに酒コにオバコ』を誇る。雄物川の水が秋田美人を生むのだ、とこの川であった人達はテレもせず真面目な顔でいった。この川の水で洗うと肌がしっとりとして白くなるのだそうだ。
『何でもPH(ペーハー)つうのが高いんだ、雄物川の水は。天然のアストリンゼンだすべ』
秋田のもう一つの大河、米代川流域と較べると、その差ははっきりするという。そんな自慢をする人の顔をまじまじと見つめて、
『すると、あなたはきっと米代川流域の出なんですね』
といいたくなっても、そこはぐっとこらえなければいけない。」
野田さんはたのしい人でしょう。いつになったらセクハラなんて、言葉狩りなんて、なくなるのかなあ。
ネエちゃんに、技術屋さん?と聞いたら、セクハラよ、といわれてしまった。なんでかようわからんが、ドヒャッ、びっくらこいたもなす。オラは京大の土木やさんは、四年の時にダム工事現場等に実習に行くが、女は免除されるときいとったから、そのネエちゃんの学校ではどうだったんかいなあ、と聞きたいと思っただけやのに。
江戸川柳や都々逸は、セクハラとともに去りぬ、という代になってしまうのかなあ、それとも、野田さんや四万十川口屋内のばあちゃんたちが、マチガッチョル、オンとメスの生物学的差異、セックスによる役割分担は、永遠に不滅です、ということになるのかなあ。
2 その川危険につき、近づくな
(1)子供は水を眺めるだけ
@ 水はキケン
「昨年の夏、友人やその子供たちを連れて信州の湖に行った。山の中の小さな川をせきとめて作ったダム湖で、遠くに雪を戴(いただ)いた山が見え、ちょっと遊ぶには絶好の場所である。
近くの町内会の人達もピクニックにきていたが、驚いたことに、ハンドスピーカーをもった男が、五分おきに『水から一〇m以内に近寄ってはいけません』とがなった。その男は、水際でフネを組み立てているわれわれの所にやってきていった。
『水に近寄らないでください』
『馬鹿いうな。ぼくたちは水遊びにきたんだぞ』
『しかし、キケンですから』
『キケンかキケンでないかは自分で判断するよ。要らんお世話だ。』
カヌーを漕いだり、泳いだり、魚を釣っているわれわれを、面目をつぶされた町内会の大人たちは憎悪の目でにらみつけ、彼らの連れてきた子供たちは、水から一〇mの所にずらりと横に並んで、それは羨(うらや)ましそうにこちらを見ていた。
この頃、このような馬鹿な大人が増えている。そして、こんな奴に限って、オチョボ口をして、気味の悪いネコナデ声でいうものだ。
『現代人はもっと自然に親しまなければいけません』
日本は『女性文化』の国だ。この国の主流を作っている価値観、自然観は百パーセント女性的である。カヌーの話をすると『水に落ちたらどうするのか』といった低次元の、カヌー以前の質問が多くて、とても川旅の話までは行きつかない。この人たちは、人間は濡れたら死ぬと思っているかのようである。張り子のトラなのであろう。日本人の『川離れ』、『恐水病』はかなり重症である。
欧米でよく見かけたのは、日本と逆に、怖がる子をぶん殴ったり、けっ飛ばしたりしてカヌーに乗せる親たちであった。かれらはカヌーが転覆して子供が川に落ちても、決してすぐには助けない。じっと見ている。子供は一人で頑張らざるを得ない。男性文化の国である。」
A ガキ大将のやり方
その水キケンである、近づくな、といったおっさんが今風のガキのなれの果て、かと、安心して、とんでもない親がいる、とほくそ笑んでいたが、「昭和五十六年」の話とわかると、オラとおなじ世代やないか。
なんでや?
その人は遊んだこともなく子供のころを過ごしたお坊ちゃまか?
そんなことはない。オラ達の世代であれば、お坊ちゃまも海で泳ぎ、魚を釣っていた。
オラ達との違いは、オラ達が四六時中、遊び呆けていたのに対して、お坊ちゃまは、お勉強の合間に遊んでいたこと。それでも、泳ぎの達者なものも、釣りの上手い子供もいた。
突堤と突堤との間は、10mか20m。
苦しい、おぼれる、という情景であるのに、7,8歳の泳ぎの達者なガキ大将は助けてくれへん。やっとこさ、突堤にたどり着けた。
このことからも、野田さんが日本を「女性文化」とひとくくりにすることも、「恐水病」ということで、問題の所在を片づけることが充分ではないのではと思っている。今様の問題ではないかなあ。
小学校で先生をしていた義弟に、町内会のおっさんの話をすると、当然や、と。
事故が起こったら、マスコミ、父兄、教育委員会からどれほどの非難、攻撃があるか、その大変さを考えたら、川で遊べ、なんて、口が裂けてもいわれへん、とのこと。
義弟は、西城川で5mほどの高さから飛びこんで泳いでいたが。
いまの西城川はそんな水量はないとのこと。さらに、オラにとって残念なことは、亡き師匠と違い、西城川での釣りをしていないこと。いぼがえるとカジカの区別もつかず、田んぼで獲ったということであるから、いぼがえるの皮を剥いで、ツケバリにしてナマズやうなぎを釣っただけ、とのこと。ああ、もったいない。釣りをしない子供がいたなんて、おらの辞書、ではなく、近所にはいなかったのに。
近所のガキどもを従えて、まだ砂利の所から伏流水が湧きだしていた場所があった相模川弁天に行っていた。ガキも八歳くらいになると、本流で遊ばせても大丈夫、と、高田橋下流の瀞で遊ばせていた。ちょっと目を離した隙に、ガキどもは対岸近くまでいっている。流れは弱いから、流される心配はないものの、深みへの対応ができるか、不明であったから怒鳴ってしまった。オラにも、町内会のおっさんの片鱗があるということ。
B熊野川の野田さん:キケンを楽しむ
「カヌーに関していえば、熊野川は女子供連れで安心して下れる川だ。
これだけ流れの速い川で、ジェット船は別にして、岩や障害物にぶつかるという心配がない。遊覧船が無事に通れるように、常に川を掘り下げて、水路を作っているからである。
ジェット船は客を満載すると吃水(きっすい)が七〇cmになる。その水深を確保するために、ブルドーザーを乗せた作業船が川を上下し、雨などの後、浅くなった水路の砂利をかき上げている。だから、熊野川は日本一安全な川なのである。」
「やがて十津川との合流点。十津川の泥水と合流して、北山川はたちまち白濁する。」
「ぼくの前の漕ぎ手は時々交代して、一人艇に乗った。二人艇は安定していて、転覆の心配はまずないが、コースの選択や波の判断、方向転換は後部漕者がやる。だから、前に乗ると何も考えないでただ漕ぐだけだ。これがつまらない。
自分の判断と責任で漕ぎ、自分の責任でひっくり返ってみたい、というのだ。
しばらく行くと、川は濁りが減り、流れが荒くなってきた。
一人艇上の女性は顔面蒼白(そうはく)。二人艇の方は重量があるので、横から波が当たってもびくともしないが、一人艇の方はキリキリ舞いをする。
先行して、時々後ろを見ると、二人艇が直線に突っ切った荒瀬で、一人艇は船首を左や右に振り回され、ぐるりと回転したりしている。
彼女が沈したら、あそこの岩の下で拾い上げて、―と計算しつつ漕ぐ。
佐藤さんの乗ったスラローム艇は直進性が皆無なので、彼も苦労していた。ちょっと力を入れて漕ぐと、くるくるとタライのように回転するのだ。まっすぐに進まない。
直径三,四cmの塩ビのパイプを三〇cmの長さに切って、船尾の底にガムテープで貼り付けておくと、かなり直進性を増すのだが、その用意を忘れたのだ。
三級の瀬を二つほど乗り切ると、後は静かになった。といっても流れは速い。
彩ちゃんが川に飛びこんで、カヌーと並んで泳いで下った。
高田川の流れこみに上陸。
佐藤さん一家はこれまで湖や川のごく短い距離を漕いだことはあったが、ツーリングは初めてである。
今日は三五kmを漕いだので、疲れているはずだが、みんな顔が輝いている。
『ご苦労さん。疲れたでしょう』
『全然。まだ興奮がさめないわよ。素晴らしい。これまで湖なんかで漕いだときはまた出発点にもどらなきゃならなかったでしょう。川は行きっぱなし、という点がいいわね。』
『そう。旅行になるのがいいな』
『急流に入ったときは夢中で何だか判らなかった』
『あれはよくしのいだね。てっきりひっくり返るかと思って、救助の段取りを考えてた』
彩ちゃんは食事を終えるや、『ああ面白かった』と叫び、バッタリ倒れて寝てしまった。
焚き火を前にして、夜遅くまでカヌー談義が弾む。」
野田さんは、佐藤さんのかあちゃんが沈するかも、と、その時の対応を考えられていた。その前には、熊野川が佐藤家の腕から見て、「キケン」ではない、との判断をされていた。
決して「無謀」な状況での「キケン」ではない。長良川では「無謀」な「キケン」をしていたゴムボートを注意されている。
ガキ大将がオラを助けなかったのも、おぼれる状態になっていない、と判断されていたからであろう。そして、ガキ大将も先輩のガキ大将からオラの時と同様のやり方をされて泳げるようになったのではないかなあ。
「無謀」ということが、マスコミや、町内会のおっさんや、PTAの想定するレベルのものではないことはオラも野田さんに共感する。
あゆみちゃんとのデートでの能力、事前知識、腕が伴わなくとも、単に「釣れん」というだけに過ぎないが、カヌーも泳ぎも「キケン」は伴う。しかし、「キケン」への対応能力がなくなることはもっと「キケン」ということであろう。このことについては、台風の章で述べる。
(2)マスコミ等の「危ない」「無謀」病観
@ 警官はお暇?予防保全?
「一昨年、関西の仲間と沖縄―鹿児島間、七八〇kmを島伝いに漕ごうという計画が持ち上がった。二人艇二隻で、一隻は関西の二人の青年(鳥羽、富樫氏)、もう一隻はぼくと誰かが漕ぐ、ということで、体力があって、若くて夏に二,三ヶ月休暇のとれる相棒を東京で探した。右の条件を満たすのは大学生しかいないので、いくつかの大学に行って声をかけた。
その時の学生たちの反応が興味深かった。
『カヌーって、濡れるんでしょう』『疲れるんじゃないですか?』『母と相談します』等々。
結局、関西組だけが、この日本最初の外洋カヌー航海に乗りだしたが、一,二の新聞を除いて、マスコミはこの二人に冷たかった。
海上保安庁が待ったをかけたからである。中止させる権限がないから、『中止を勧告する』という形をとる。余りにうるさいので、中止するフリをして二人は抜け出し、漕ぎ始めたが、『海上保安庁の目を盗んで無謀なボーケンをする二人』という論調で書き立てられた。あるテレビ局では、彼らの名を『さん』や『氏』をつけずに呼びすてにした。つまり、犯罪人扱いにした。二人がとある島に着くと、待ちかまえていた警官がこういったそうである。
『お前たちを逮捕したいところだが、六法全書をいくらひっくり返してみても、逮捕できる条項が見つからん』
日本は鎖国をしていた昔とあまり変わっていない。」
A増水の川はキケン?絶好の漁期?
「冒険は三日もすると日常になるー長良川」
「町の男たちは一日中、川の話をしているようであった。
『川の水少し退(ひ)いたようだの』
『○○岩が見えるようになったで』
『この前の月曜日な、朝、会社に行く前に二〇釣ってよ、夕方帰ってからまた一〇匹上げた。』
夜、バーで飲んでいると、隣に座った男が、突然『ヒッヒッヒッ』と笑った。
飲み屋でこの種の声を出すのはワイセツ行為をするときである、という一般法則に反して、彼はアユのカケバリを手にして、手近にあるおしぼりや、ふきんを引っかけて喜んでいるのであった。
『見てみい。このハリはようかかるでえ』
男の目の前にいるグラマーなホステスには見向きもせずに、ハリを振り回した。」
増水で、テントが水没したので、長良川で釣りの神様といわれている清水さんの民宿に移った。
「夕方のテレビのニュースで、増水した長良川が画面に映った。
漁師たちが大きな『サデ網』で『濁りすくい』をやっている。川の水位が上がり、流勢が強くなると、魚たちは流されないように流れの弱い淀(よど)みに集まって難を避ける。そこを岸から長い柄をつけた大きな網ですくい獲(と)るのである。
ところが、アナウンサーは、『濁流渦巻く川に近寄るとはとんでもない。大変危ないことをするものだ』という意味のことをいい、ほんとうに困ったもんです、と眉をひそめた。
『馬鹿なことをゆうちょる』
テレビを見ていた男たちは口をそろえて憤慨した。アナウンサーもニュースの原稿を書いた記者も都会生まれの都会育ちの人間なののであろう。何も知っちゃあいないのだ。
『濁り掬(すく)い』『濁り打ち』(投網)、『濁り釣り』などの増水時の漁は、日本中の川で昔からやっている大切な漁法である。
都会人は増水した川を見て『恐ろしい』としか感じないが、田舎の人間は『魚を獲る絶好のチャンス』と考える。その違いだ。
何を見ても『危ない。危ない』というPTAのママ的過保護の風潮はすでにスポーツの世界にも浸透している。いつか見た全日本のカヌー大会では、コースの両岸に一〇mおきに自衛隊のレインジャー隊員を配置していた。転覆して水に落ちた選手をすぐに『救出』するためである。
カヌーでは『沈』した場合流れの中でバドルを手放さず、自分の艇を確保して岸に着けるのは最初に覚えるべき基本技術だ。しかし、そのレースで見たのは、何もかも放棄して、薄ら笑いを浮かべて救出されるのをじっと待つ(ライフジャケットを着ているから何もしなくても浮く)赤ん坊の如き選手の姿であった。
これではまるで幼稚園児じゃないか、あれが果たして『スポーツ』と呼べるものだろうか。いやな時代になったものである。」
B 危険と事故
「老婆は一日にしてならずー雄物川
「皆瀬川の流れ込みを過ぎる。大きな支流だ。
去年の四月、東京のカヌークラブの一人が皆瀬川を単独漕行中に死んだ。抜群のテクニシャンで、他の人が大事をとってフネを担いで岸を歩くような難所を好んで漕ぐ人だった。
彼が遭難したのは堰堤の真下である。オーバーフロー式の堰では、傾斜したコンクリートを滑り落ちた水はちょうどカールした髪の先のようにくるりと一回転して流れる。
彼はその水の輪の中に入って脱出できずに死んだのだ。雪解けで増えた水流が予想以上に強かったのだと思われる。
それを全国紙のY新聞が、川の暴走族が馬鹿なことをして死んだ、という論調で報道した。多分、記者の誘導尋問にかかってそういったのであろうが、カヌーを扱っている東京のSデパートの販売部も、
『あれは転覆した場合、脱出困難なフネです。』
とコメントした。
波の高い川に行く時、カヌーにはスプレーカバーを着装して、艇と漕者の間をぴったりとおおう。これは軽く体を引くとすっぽりと、抜けるようになっている。
素人にはこれが人間がフネに縛りつけられているような印象を与えるのであろう。」
「事故」「死」はすべて悪である、という風潮の兆しには思い当たることがある。
昭和三〇年代、社会党の委員長がナイフで刺し殺された事件の後、ナイフは戦争の道具、とか、何とかで、子供の頃から「キケン」な物として教え、触れさせるな、となった。
ナイフの替わりに鉛筆削り器を学校に備え付けるように主張されていた。
かくて、肥後の守はガキの文化から消えていった。その後、ナイフを使った犯罪は減ったのであろうか。肥後の守で怪我をすることは多かった。しかし、それが「悪」「キケン」として排除されるべき道具を示すことになるのであろうか。ましてや殺人を減らすことになるのであろうか。
もし、当時の新聞や「識者」が声高にしゃべって、肥後の守をガキから取り上げた「政策」「手段」が適切であったのであれば、オラ達の一〇歳くらい以上年下の世代には、ナイフを使用した犯罪はない、あるいは、少なくなった、ということを証明しなければならないであろう。
馬鹿なマスコミ、識者の主張と思っている。
C ゴムボートの事故
野田さんは、もう一件、事故について書かれている。
「やっぱり日本は広い―信濃川」
「一九三六(昭和十一)年に完成した西大滝ダムは、千曲川を大きく変えることになった。
それまで海から遡上していたサケ、マス、アユ、ウナギがここで止まってしまった。もちろん魚道は作ってるが、お役所仕事の常として『魚が上れない』魚道である(全国のダム、堰堤の魚道のほとんどが同じように役に立たない)。」
「千曲川、信濃川の舟運は鉄道ができる大正年間まで隆盛をきわめた。雪で途絶(とぜつ)する陸上交通と異なり、川は冬の間でも利用できるので大切な輸送路だった。
この川の船頭たちは『下り大名、上り乞食』といった。下りは流れに任せて行くから楽だが、上りは岸や浅瀬を歩き、ロープで舟を曳くのだ。特に冬は雪の上や氷の浮かぶ川を歩くので難儀した。
舟運は西大滝から十日町までの二十kmは切れている。この間は大滝、小滝、平滝、足滝といった地名が続くことからも判るように、傾斜の強い急流が多く、川は大岩の散乱する谷底を奔走して、舟の航行は不可能だった。
西大滝のダム下は水が少なく、漕げないので、舟、荷物を持って、西大滝から汽車に乗った。七km下流の横倉で下車。駅前の川原で再び舟を組み立て、荷を積み込む。
川はやや、水量は増えたものの、川原いっぱいに拡散し、浅く流れていた。白い波の間から岩が無数につき出て、勾配(こうばい)が大きい。
昔の川舟がここを航行できなかった訳がよく判る。横倉から十日町までの十三kmの間に三級から四級の瀬が十五,六カ所、水量の多い時には五級になるだろうと思われる瀬が二カ所ある。ダムで水を取る前は、今の二,三倍の水量があったはずだから、カーブの多いこの渓谷を荷を積んで重くなった舟が行けなかったのは当然だと思われる。
冷や汗をかきながら、瀬を漕ぎ抜ける。谷は深いところでは高さ二百mもの岸壁が両側にあり、その上は山。紅葉時の眺めは絶景だろう。
『宮野原橋』を過ぎた。ここが長野と新潟の県境で、千曲川はここから名前が変わる。
―国境の長い瀬を漕ぎ抜けると、そこは信濃川であった。―
という名場面だ。
橋を振り返って感慨に耽(ふけ)っていると、フネが大きな白波の中に入って慌てた。
川は急傾斜を滑り落ち、正面の五十mほどの絶壁にぶつかって、その下をえぐって流れている。壁の少し手前でフネをグイと曲げ、すれすれに通り過ぎる。
この『逆巻(さかまき)の瀬』で三年前にゴムボートで下った三人組が転覆して死んでいる。崖下の穴に一度はいってしまうと、水圧で強く押しつけられて脱出するのは難しい。水底の岩にひっかっかって死体がしばらく上がらなかった、という話をあとで聞いた。日本の川のように水深がなく、障害物やカーブばかり多い、陰険な急流では、操縦性のほとんどないゴムボートは無理だ。
三カ所の難所でフネを降り、ロープを引いて通過した。一日中、前方の波に目をこらし、危険な瀬は力一杯漕いだので疲れた。急流を行くフネは、流れっぱなしだと方向転換の切れが悪い。流れより速いスピードで下ってないと舵がきかないので、急流が続くといつも漕ぐことになる。」
皆瀬川で亡くなられたカヌーイストと、ゴムボートの人の死とは、異質である、と、野田さんは考えられているのではないか。
ゴムボートの特性も考えずに、あるいは事前調査が不十分で、あるいは技倆が伴わずに、「キケン」に対処して「事故」となった場合と、それらをすべて承知の上での、条件を備えていた上での事故とは異質である、と。
熊野川での家族らとのツーリングでも、ゴムボートを使われているが、熊野川がゴムボートでも下ることの川である、という知識があり、流れへの対応能力もある、という前提での川下りであろう。
そういう野田さんも、長良川では沈をして、浮き上がれなくなる経験をされているが、その話は後ほど。
(3)『汚い川』
@3Kの多摩川でのお仕事
「『日本で一番危険な川はどれか?』
ときかれたら、迷わず『多摩川』の名を挙げる。
飛騨(ひだ)川もキケンだ。吉野川の小歩危(こぼけ)も難しい。黒部川の上流の激流などは見ているだけで足が震えてくる。しかし、それはこちらの腕を磨けばなんとかなる。
多摩川の釣り竿の林や投石や洗剤の泡や糞尿(ふんにょう)の流れに比べたら楽なもんだ。多摩川の下りは現代の冒険といえるかもしれない。」
「現在の処理技術では、BOD二〇〇のものが一〇分の一にしかならない。下水処理水の放水口に近い人々が『処理場ができて、川が臭くなった』というのはこのためだ。多摩川の流域人口三〇〇万人の下水を処理したBOD二〇の汚水を薄めるべき水が多摩川本流にはない。この川の汚染、死滅の一つは流量が少ないことにある。」
「『山河美しく、人貧し』というのが日本古来の姿であった。今は『山河滅び、人肥え太り』というところか。
結論をいってしまえば、多摩川は川ではなく、巨大な排水溝である。羽村から下は下水で流れている川だ。
流域の人は誰も川に尻を向け、目をそらして生きていた。田園調布の洒落た邸宅も川に汚物を流して、口を拭って、澄ましこんでいるのであって、川から見える恥部があからさまに見えて無惨なものである。
川から見る限り、東京には文明のブの字も感じとられなかった。
じゃあ、そこで釣りをしているおれたちは何だ、と釣り人たちはいうだろう。彼らにはあの釣りの定義がぴったり当てはまる。
『釣りとは、一本の竿の片方にミミズがぶら下がっており、竿のもう一方の端に馬鹿が座っていること』
青空からフワフワと雪が降ってきた。ハテ面妖(めんよう)な、と思ったらそれは泡であった。川下から洗剤の泡が風に乗って飛んでくるのだ。
『今日の多摩川地方の天気。罵詈讒謗の雨と洗剤のアワ雪、ところにより石のツブテ』と日記にはつけておこう。」
「友人が電話をかけてきた。」
『ほら、いつかパリで下水道から銀行まで穴を掘って、金を盗(と)った事件があっただろ。あれが【掘った、奪った、逃げた】という映画になったね。撮影は実際の下水道の中でやったんだが、スタッフは全員ひどい病気になったそうだ。多摩川の汚れはパリの下水道なんてもんじゃないからね、まあ、頑張って下さい。』
頑張るって、どうやってガンバレばよいのだ?」
A奥多摩川も汚い。そして釣り人との東京風交流
スラロームなどの競技が行われている御岳は「川の勾配や、流れの中にある岩の配置、水量、水勢、すべて競技に適した渓谷だ。しかし、谷底に降り、川をのぞきこむとウンザリした。多摩川はそこから『ドブ』であった。灰色に濁った水は表面に洗剤の泡(あわ)を浮かべ、川底には黒い汚水菌でヌルヌルすべる石と岩。その一つ一つから白い水ワタが長い尾を引いていた。この上流の人家の汚水が未処理のまますべて川に入っているのである。」
「川幅一五m。三〇mほどの断崖と中腹にに根を張った岩松。流れにつき出した岩の線が美しい。細い空を横切って揺れる吊り橋。
水さえなければ多摩川は素晴らしい川だ。」
「男は近くの基地の兵士で、急流に突入するたびにヤンキーらしく陽気に『イーッヤッホーッ』と歓声を上げた。
すると、そこにいる釣り人たちが、
『バカヤローッ』『石をぶっつけるぞ!』
と叫ぶのである。多摩川名物の釣り人との楽しき交流だ。これがまだ春先だからいいのだ。アユ釣りのしーずんに入ると、一つの瀬に何十人、何百人と入って、竿のトンネルができる。多摩川の釣り師がいつもイライラして、他人に噛(か)みつくのは、一つには獲物が少ないからである。一〇年前(その頃は二,三m先の魚が見えた)、このあたりで潜ったことがあるが、魚は少なかった。その原因の一つは川の水温が低すぎることにある。上流の小河内ダムは放水口が湖底についているので、一年中冷たい底の水を出す。夏でも一三度Cくらい。ウェットスーツがないと入れない。」
ヤンキー君は
「『日本で競技カヌーばかりやって、ツーリングをしないのを不思議に思っていたけど、その訳が判った川に釣り師が多いからだろう』」
『いや、釣り師とのいざこざがあるのは東京やその周辺の川だけだ。他の川に行ってごらん。日本の自然を満喫できるよ。東京は人が多すぎるのだ。こんな小さな場所に一二〇〇万もいるんだぜ。こんな混雑したところでカヌーとか釣りができるわけがない。もっと広々した自然でやるべきものだ。』」
「レジャーとしてカヌーを楽しむ広い大衆の底辺があって、その中から自然発生的に元気の良いのが競技をするようになった欧米のカヌー事情が全然違うのだ。それと川下りをするという発想ができない日本人が『川離れ』してしまったからだ。子供の頃から川で遊ぶのを禁止されているから、川に行っても遊び方を知らず、楽しめない。」
この多摩川の情景の一部が北上川にも主役を代えていらっしゃった、とは、知らぬが仏の野田さん。
屎尿が農業で利用されなくなった昭和三〇年頃、おわい船がうんちを積んで、房総半島の野島崎と伊豆半島の川奈を結ぶ線よりも沖に捨てにいっていた。その限りでは、川に屎尿が流れこむ量は少なく、海が処理をしていた。家畜の糞尿は流れこんでいたが。
下水処理場の浄化能力は現在も野田さんが書かれている頃とおなじかどうかはわからない。
ただ、合流式公共下水道では大雨の時は処理場の処理能力が追いつかないため、屎尿は処理されることなく川に流されている。「稀釈」が行われるから充分、ということであろう。
分流式の公共下水道であれば、大雨の時でも屎尿の処理を行ってから、原則、屎尿、生活排水を未処理のまま川に流すことにならないであろうが。サボリーマン氏の話では、分流式の公共下水道はわずかしかない、とのこと。
ということは、海よりも分解、処理能力の劣るダム湖へ合流式公共下水道の処理水、未処理水が流れこんでいたら、有機物の負荷が大きすぎて、アオコが繁茂することは当然のことか。閉鎖水系の東京湾でさえ、公共下水道が整備されても浄化能力の限界を超える負荷がかかっているようであるから。そのアオコの繁茂した湖水を見て、まあきれいなエメラルドグリーン、とテレビでおっしゃる方の感性はオラでも理解不能の現象。
(4)北上川のユウウツと楽しみ
「雨ニモ負ケル、風ニモ負ケル―北上川」
野田さんの嘆き節は、北上川でも完全には癒されることはなかった。
「本当はもっと上流の石川啄木(たくぼく)ゆかりの渋民(しぶたみ)村あたりから漕(こ)ぎたかったが、途中に四十四田(しじゅうしだ)ダムがあるので断念した。」ということで、盛岡の明治橋から河口まで190キロを下る。
「明治橋は昔、北上川の舟運が盛んだった頃、下流から来た舟の終着点で、当時は『新山河岸(しんざんがし)』と呼ばれ、大きな蔵が建ち並んでいた所だ。」
@鴨も急流下りを楽しむ
「北上川は鳥の多い川だ。バードウォッチングの好きな人なら、絶えず飛び出してくる鳥で一日に二,三キロしか進めまい。
ある長い瀬に入る前に、三羽の鴨が水面に舞い降りてきて、カヌーのすぐ横に並んだ。川が白く波立ち始め、流れが速くなると彼らはキャッキャッとはしゃぎ、瀬が終わると、ああ面白かった、といった風情で飛び立っていった。その様子は遊園地の乗物で遊ぶ子供とそっくりで、明らかにあの鴨たちは急流下りで『遊んだ』のだ。」
「日本で上位一〇位に入る大河の中では北上川は水が美しい川にはいる。東北に他に最上川や阿武隈川があるが、これらの川はドブ川である。流域の排水、下水をそのまま川に垂れ流しているためだ。北上川の水がきれいなのは、人口の少ない山間部や過疎地を流れる支流が数多く流れこんで本流の濁りを稀釈しているからだ。」
昭和四三年頃の五月連休の八甲田は酸ヶ湯温泉。硫黄岳?ヘスキーを担いで、上り、しばらく硫黄岳ですべり、スキーを担いでは上り、最後は気持ちよく、酸ヶ湯温泉まですべった。
酸ヶ湯温泉の大きな温泉でネエちゃんよ、早く入ってこい、との念力もむなしく、元ネエだけ。やっとネエちゃんや、と思えど、タオルで全身を囲い込んだ身も蓋もない姿。
酸ヶ湯温泉でうんちをすると、底を流れている水がきれいにどこかへ運んでくれる。素晴らしき「水洗」便所であった。
ということで、野田さんが廃水の垂れ流しの多寡が水の汚れに関係がある、ということはよくわかる。そして、その状況は公共下水道が整備されている現在でも基本的には変わらない。
鴨でも急流下りを楽しんでいるのに、人間様はキケン、といわれて禁止行為にされているとはなあ。
いい川の北上川1日目は鴨の急流下りに付き合い、鯉釣りの人たちと
「『どこまで行くの?』
『石巻まで』
『気をつけてな』
こんな挨拶が一日に何回となく繰り返された。関東の川では人心とげとげしく、釣り人とこんんな友好的な交流はない。お互いに無視か、
『こら、あっちへ行け』
といった荒っぽいものだ。」
A ばあさんのナンパ術は健在
二日目は、ばあさんに上がっておいで、といわれてソーダマンジュウとお茶を御馳走になる。
「裏庭がそのままだらだらと坂になって川に続いた家。その縁側に座ってばあさんがお茶を飲んでいた。マンジュウにパクリと噛みついたときにちょうど川の上のぼくと視線が合って娘のようにテレる。南部鉄瓶を叩いたようなカン高い声で、
『ちょっと上がっておいで』
と手招きした。」
「田舎で楽しいのは、都会では小さくなっている老人たちが、ここでは元気で威張っていることだ。このばあさんも大変威勢がいい。
彼女の使う土地の言葉をぼくが判らないでいると、孫の小学生に、
『ホレ、何だべ』
と通訳を促す。すると、その子が教科書を読むような調子で、
『…という意味です』
といちいち翻訳した。
こうしてみると、標準語というものがいかに気持ちのこもらない、情の薄い、機械のような言葉であるかを痛感させられる。
ばあさんは黒光りのする縁側に座って、毎日川を眺めて暮らしているのである。
『川の近くだといろいろ便利でしょう。眺めもいいですね』
『んだ。昔はみんな川の水を使ったんだ。井戸をもっていてのは金持ちだけさ。私ら子供の頃は朝起きて川の水を汲むのが仕事だった。朝の水は澄んでいるから、それを飲み水にした。だから、上流(かみ)で伝染病が流行(はやる)と、すぐに下流(しも)の者も病気になってな』
この前の洪水では田んぼが半分やられた。まあ、うちの息子が勤めに出ているから何とかなるけど。それより、あんた、田にはいっってきたこーんな大きい鯉をとったよ。一m以上あってな。近所の者を招(よ)んで食べたが、食いきれなかった―。
洪水にも楽しいことがあるのだ。兼業農家の気楽さである。
孫の男の子は上流からやってきた流れ者のぼくに強い関心を示し、質問攻めにする。
『おれか?ウーム、おれはな、カヌーわらしよ!』
『ヒェッー』
少年は胸を押さえてぶっ倒れるまねをし、ばあさんが歯の抜けた口を開けて、ワッハッハと笑った。」
三日目
「対岸の出口の静かな風景に心惹かれた。猿ヶ石川である。一〇〇mほどフネを入れてみると清冽(せいれつ)な水を通して玉砂利の川底が見え、川は魚で充満していた。魚群を蹴ちらしつつ、約三〇分川を遡(さかのぼ)り、草の上に荷物を下ろす。北上川で最良のキャンプ地だ。
藻草(もぐさ)の中に追い込んだウグイを手掴みにする。水中眼鏡をつけて潜り、岩の下にいたコイをモリで仕止めた。
コイはミソ汁の中に入れると生臭さが消えて美味(うま)い。コイコクにしてフキを採ってフキメシも作る。
食後、盛岡で買った『みちのく実話。夜這い物語』を読む。この本によると、北上川流域こそ夜這いの『本家』だとある。夜這いにもラーメンのように『本家』とか『元祖』とかいうものがあるらしい。夜這いの文化は何といっても家の造りに負うところが多い。『南部の曲がり家』は外から忍び込んだり、見つかって逃げ出したりするのに便利にできている、とある。」
夜這いに気をつけねば、と思っていると、たき火を見てじいさんがやってきて、「女房は死んだし、広い家に一人暮らしで寂しい」とかの愚痴をこぼす。
B「禁止」と悪臭
四日目、五日目
「出発前、川に入って泳いでいると、対岸にジープが来て、スピーカーで怒鳴った。
『そこで泳いでいる者、ただちに中止せよ。』
見ると『建設省、河川パトロール』と車の横原に書いてある。
全く要らぬお世話で、『ウルセイ!』としかいいようがない。近くにやってきたら川に放りこんでやろうと待っていたが、向こうに行ってしまった。
気をつけてみると北上川は『禁止』の立札だらけだ。『遊泳禁止、建設省』『焚火禁止、建設省』
後日、釣り師に向かって、河川パトロールの車が「そこの土手から下りろ」とマイクで怒鳴っているのを目撃した。何か、やたらと建設省の木ッ葉役人が威張っているのが北上川である。ぼくの友人でこの川を下っている時、おなじ手合いから『誰の許可を得て川を下っているのか』とやられた人がいる。
「自由使用」という言葉を建設省が知らない、ということはなかろう。
「二〇〇年にいっぺんの洪水」を防ぐことを行政目的に掲げて、川をせっせと「排水路」に変えようと努力をされている建設省様である。川で事故が起これば、河川管理者である「建設省」が悪い、と攻撃、非難する人がいるから、それへの防御をされているのかなあ。「注意」「立て看板」の行為をすれば、自己の免責になる、悪いのは事故者である、といいたいためのお仕事かなあ。
そんなことにお仕事の時間を使っても、だあれも、無駄なことをしている、「効率性」に反するとおっしゃる方が日本にはいないから、安心して日々「禁止」業務に励まれているのかなあ。
「午後出発。北上市下の和賀川の合流点あたりから、北上川は大河の様相を見せ始める。
川幅はますます広く、流れや波が強く複雑になる。岸につないだ川舟にモーター付きが目立つのも、川が人力では手に負えなくなっているからだ。
笹長根の付近で川はいきなり強烈な悪臭に包まれる。パルプ工場の廃液が流れこんでいるのである。川の水はどす黒くなり、白い泡が立ち息がつまる。この夜、金ヶ崎の岸にテントを張ったが、水が臭くて、炊事も水浴もできなかった。この廃液の悪臭は四〇km下流の一関あたりまで続く。
あの河川パトロールはこんな大がかりな川の汚染には何もいわないのだろうか。無力な市民の小さな楽しみにいちゃもんをつけ、弱い者いじめをしていると思われても仕方がなかろう。
こんな川にも竿を出している人がいた。人間はどんな劣悪な環境にも適応し得る、鈍感になれる、という好例だ。
『あのパルプ工場はここでは唯一の大企業でね。このあたりではそこで働いている人が多いんですよ。廃液で魚がひん曲がったのが多くなった、と釣り人はブツブツ言ってますがね』」
C 快適と退屈
「水沢を過ぎたところで船尾に屋根つきの囲いを持った渡し舟を見る。」
「渡し舟のおっさんが竿を手に釣ったアユを下げて戻って来た。
一日に客は一〇人前後、通学の子供と田に通う農夫を運ぶ。渡し賃はタダ。彼は市から月給を貰っている。
渡し舟の仕組みが面白かった。船首と船尾からロープを出して、川を渡したワイヤーに滑車でつないである。わたるときはロープの操作で川上に船首をななめに向ける。船の横腹に当たる水流の力が対岸に船を押し進める。船頭は接岸と離岸の時以外はないもしなくてもいいのである。 二〇年ほど前までは、渡しは各村の管理で、田畑などの財産を持たない者が渡し守になった。彼らは年二回、麦と米の収穫時に村の家を一軒一軒回って、現物給付を受け、それで生活をしていた。流域の農家では農耕馬が多かったので、『馬渡し』という普通の船よりずっと大型のものを使っていたという。
―この仕事は暇で一日中釣りができるし、誰にも気兼ねしなくていいから気に入っている。もう少しして、稲刈りのシーズンになると川ガニに身が入って美味しくなる。来年は近くに橋ができるのでこの渡しも廃止だ。新しい仕事を見つけなくちゃならない。」
六日目 水沢ー衣川21km
「川には相変わらず鴨が多い。今度来るときはネギを沢山持って来よう。鴨は害鳥だ、とこのあたりの農民はいう。田植えの時、カエルを追って田に入った鴨は、足が短いので腹を引きずって回り、植えたばかりの苗を押しつぶしてしまう。秋には稲の穂をしごいて食べる。
ドジョウを大きなハリと糸につけて、岸から流しておくと、よく鴨が釣れるそうだ。」
ドジョウで鴨が釣れるとは。ホトトギスさんの鉄砲打ちよりも効率がよいかも。相模川弁天は禁猟区になっているからか、鴨が鵜ほどではないが泳いでいる。鴨の羽をむしったり、さばいてくれる人がいたら、ドジョウで釣ってみない。
イモ煮とネエちゃん
かって約200隻の船が往復していた北上川であるが、水量、水深が減ったせいか、カヌーの底をこすっていた。
「どこからか、美味(うま)そうな匂いが漂って来た。
川の上のぼくに川原から声がかかる。
『おーい、こっちさ来(こ)!』」
「仲間に入って、一緒に食べた。良い気分でくつろいでいると、中の一人がつまらないことを想い出し、
『この間、テレビでカヌーが水の中をぐるぐると回るのを見た。』
といった。エスキモーロールのことをいっているのだ。
一飯の義理だ。少し水が冷たいが仕方がない。荷物をくくりつけたまま、ロールをして見せる。飯盒(はんごう)、カンテラ、靴などが『ガチャガチャザバーッ』と賑やかな音を立て、何とも生活感のあふれるエスキモーロールだ。
『面白え、面白え、もう一回』
水に入るのが他人だから気楽なものだ。ほれ、もう一回。ガチャン、ガチャン。
これに感銘を受けたのか、ぼくにえらく親切な娘がいた。イモを山のように皿にとってくれ、食え食えとしきりにすすめる。流し目でぼくを見て(なかなか色っぽかった)一緒に川を下ったら、どんなに楽しいでしょう、という意味のことをいった。こういう太めの女性に乗りこまれたりすると、ぼくの小さなフネはぶくぶくと沈んでしまうから、大変惜しかったが別れを告げた。『ネエさん、あっしのような流れもんに惚れちゃあいけません』といって聞かせると、女はハラハラと涙を流した、といったことは全然なかった。
酒を飲んだので、フネが直進せずくねくねと蛇行する。」
建設省の行為と廃水で多摩川の二の舞か、とはならなかった。よかった、よかった。
セクハラも絶好調。なお、老爺心から、いっておきますが、野田さんは決して、「いもねえちゃん」とは書かれていません。くれぐれも誤解のないように。
多摩川では、
「気は重く、陰々滅々と出発。
ぼくが川下りをするのは、単純にそれが面白いからである。健康のためでも、スタミナをつけるためでも、まして、自然の汚染を告発するためでもない。しかし、この川では楽しいこと、面白いことは何も期待できなかった。
逆に不愉快なことは山のようにふりかかってくるだろう。そのことは確信が持てた。
だから『多摩川の汚染は恐るべきもので、その川旅はとうてい筆舌に尽くし難いのである。』と書いて、ここで終わりにしたいところだ。」
オラにも1度だけ、ネエちゃんと楽しむ幸運に恵まれたことがあった。
時は長島ダムのなかった世紀末、大井川は川根温泉下流。当時、川根温泉のところには、「笹間渡温泉」というぼろっちい温泉があった。「町人」ではなく「町民」150円、余所者300円。「町人」であれば、オラは150円となるが、どのようにして「町民」と余所者を見分けていたのかなあ。亡き師匠はこのような薄汚れた温泉の趣味があったよう。大仁の温泉、すでになし。湯ヶ島の温泉、まだ残っているか、知らん。
その笹間渡温泉下流、瀬尻下が瀞になっていた。金髪のネエちゃんがいたか、忘れた。
瀬落ちで掛かった。アグネス・ラムちゃん並の立派なおっぱいやお尻のもりあがったネエちゃんを見ながら下る、下る。8月はじめ頃であるから、まだ20センチほどであろうが、下る。瀞で泳いでいるなまめかしいねえちゃんらに見とれていると、あゆみちゃんが、嫌らしい、といって、いっそ激しく逃げていく。ねえちゃんらは、あのおっさんなにしてんの?セクシーな美女に声もかけないとは。日本人とはますますわからなあい、と、思ったやろうなあ。オラはねえちゃんたちに見惚れていたかったのに。
ということで、カヌーは乗り手のいうことをきくが、あゆみちゃんは釣り人のいうことを聞いてくれず、ラムちゃん風のボインちゃんとの恋は実らなかった。ああ残念。
「雨が降り出した。雨の北上川も大変趣がある、といいたいが、これは負け惜しみであって、秋の北国の雨は気が滅入る。さらに強い風が出て、波頭のしぶきを顔に吹き付ける。雨にも風にも負けずにいたいが、意気上がらず。支流の衣川に逃げこむ。一km漕いで遡り、弁慶が立ち往生をしたという橋の下に着岸。雨の中でテントを張り、冷えた体をウイスキーで暖めすぐ寝た。
雨ニモ負ケル、風ニモ負ケル
アチラノ娘ガ来イトイエバ オロオロ行キ
コチラノ婆サンガ来(こ)トイエバ ヨロヨロ行キ
天気ガヨイト言ッテハ飲ミ
天気ガ悪イトイッテモ飲ミ
毎日 沢山ノオ酒ヲ飲ミ
ソシテ 今日モ酔ッパラッテ寝ル
君ハ コンナ人ニナッテハイケナイ」
野田さん、そうおっしゃいますが、「こんな人」になってしまったもんはどうすればいいんでしょうかねえ。
アルツハイマーにならないうちに、寝たっきりにならないうちに、「こんな人」を廃業しょうと、飲む打つ買うに精を出しているのに、煙草を吸うな、と、「キケン」ではなく、「健康」にお役人さんや政治家さんがしゃしゃりでて、禁止、禁止と騒ぎ、ついには罰金までお取りになるとのこと。
価格の六割も税金を取っていながら、何というひどい仕打ちや。タバコを吸って、肺ガンになるもならぬもジジイのかってでしょう。むしろ、平均余命の短縮にご協力さていることに感謝して、一定年齢以上の希望者には、酒もタバコもネエちゃんもただで差し上げます、という立派な政治家やお役人が出てこないかなあ。
北上夜曲のようにオラの心を癒してくれるあゆみちゃんがいる川に連れて行ってくれないかなあ。現役でお給料をたっぷり稼いでいらっしゃるサボリーまんさんよお。
七日目以降
七日目は衣川に泊まる。
「平泉を通り、」一関を過ぎて『狐禅寺(こぜんじ)の地峡部』に入る。」急に狭められた北上川はここで盛り上がり、溢(あふ)れるように流れだした。
川底から湧き上がる水が船底に無音の衝撃を与え、カヌーは身震いをする。大きな渦が船首をとらえ、ぐいと向きを変える。深い底の方で巻き返る川の様子が見えるようである。
両岸から押しかぶさるように山。時々、それが絶壁になる。
岩手県から、宮城県にはいると、川は再び広くなり、ゆったりとした流れになった。」
「川はますますゆっくりとした流れになった。北上川の中流から河口までの勾配は日本では利根川に次いで二番目に緩やかである。つまり、流れがないのだ。
風景は昨日と変わらず。
旅の快感が移動と風景の変化にあるとするなら、この川の中流以後は非常に退屈な旅だ。これから先の北上川は余り書くことがない。
アシの生えた両岸はさらに遠くなり、岸にいる人との交流がなくなる。関わり合いを持たない風景は生命を失い、無味乾燥な一枚の絵に過ぎない。
ぼくは舞台の書き割りのように実感のない大きな絵の中を、海を目指して黙々とこぎ続けた。」
ということで、ばあちゃんのナンパも、ねえちゃんの品定めもない、清い川下りであったとさ。
3 山と川と
(1)いい川:北山川
「われわれが下るのは北山川からである。
河口から二五km遡(さかのぼ)った地点で、十津川が合流していつのを見て通る。
前日は雨だったが、十津川は茶色に濁り、一方の北山川は普通の清流に近い水である。
北山川上流の住民はいう。
『この川は山がしっかりしているから一〇〇ミリぐらいの雨ではびくともせん。』
全国どこへ行っても、昔に比べるとちょっとの雨でも川が濁るようになった、という声を耳にする。
流域の山の乱伐のせいである。特に国有林はひどい。禿げ山を見たら国有林と思え、と山の人はいう。
北山川流域はほとんど民有林で、伐採されておらず、それがこの川を救っている。」
「出発点に近い支流、玉置川に荷を下ろして、テントを張る。
川から部落の家や生徒数六名の分校が見える。川幅五m、最深部で二mほどの細長い淵(ふち)のある川だ。
岩の多い山から湧き出た川の水はかすかに青味を帯びていた。
まっさきに川に入った佐藤さんが、声を出して高く手を上げた。その手にウグイが跳ねている。
『たくさん居るぞ―っ』
水中眼鏡をつけて飛びこむと、淵にはアユ、ウグイが右往左往していた。流れのあるところには小さなアマゴも見える。
川底が岩なので、かき回しても濁りが立たず、澄んだ水を通して、遠くまで水の中が見渡せ、気持ちが良かった。
ぼくはこのような淵を偏愛する。」
(2)鵜飼い
野田さんが「いい川」で、何をしたのか。
「この話が広まって、後日、ぼくに電話がかかってきた。
『何か鵜飼いのようなもんをやってるんだって?』」
そうです、セクハラではなく、鵜飼いをしました。いや、野田さんとしては、カントリーギャルを相手にしたかったんでしょうが、佐藤さん夫婦と11歳の彩ちゃん、それに野田さんの妹さんというパーティでは、それは叶わぬ状況で、品行方正に、鵜飼いをしました。
鵜匠は野田さん、鵜は彩ちゃん。
「彩ちゃんに手掴み漁を教えた。
『いいか、この穴の中に魚が隠れている。それを掴むんだ。大きいやつはまだ君には無理だから放っときなさい。両手にはいるような小さな魚だけを狙うんだ。手を穴の中に入れると魚がゴチャゴチャしているからね、その手を引っかき回すとみんな逃げちまう。力を入れないで、そっと手を動かして魚を選びなさい。君の手にはいるくらいのやつを一匹だけ選んでそいつの頭と尻尾(しっぽ)を押さえこむんだ。最初はそっと力を入れずに、完全に手のひらの中に入ったら力を入れてぎゅっとやる。魚がすべるようだったら爪を立ててごらん。ほら、こうして、こうだ。それから、こうっと。やってごらん』
自分の背丈以上の深さに潜って、魚を掴むのは、子供にとって至難の技だ。水中ではフワフワ体が浮くから、穴に入れた手に力を入れようがない。せっかく魚を掴んでも、体が浮き上がって逃がしてしまう。まだ、足びれをうまく使えないのだ。そこで、彼女の両足を握って体を固定し、岩に押しつけてやった。
そして、息が切れる頃を見はからって、ぐいと引っ張り出してやる。
何度もやった後で、
『捕った、捕った』
彼女の最初の一匹は五cmの小さなウグイだった。」
「人が近寄ると魚は近くの穴の中に隠れるので、そこに手を入れて掴む。水がきれいで魚の動きは全部見えるから、大きいやつだけ選んで獲った。
アユ、ウグイを約二〇匹獲って、塩焼きにする。魚のワタ出しは彩ちゃんの仕事だ。いつもキャンプにくるとやっているので手慣れたものであるハラワタはおろか、眼玉まできれいにくりぬかれた魚を見て、母親が心配する。
『この子はサディストじゃないかしら』
『大丈夫。子供は生まれつき残酷なものなんだ。生きものを殺さない子供なんて、去勢されたダメな子だよ。』
五人のキャンプは労働力が多いから楽だ。一人がなにか一つのことをやればいい。
焚き火を囲んで、魚のクシを立て、ジャガイモ、肉を焼き、酒を飲む。」
(3)野田さんの掴み技
@ 犀川と千曲川と=いい川と悪い川 「やっぱり日本は広い―信濃川」
「9月中旬。
東京から信州に向かう週末の夜行列車は大変な混みようだった。
なに、少しの辛抱だ。川に着けば、信濃の自然はぼく一人で独占できるのである。
早朝、信越本線の川中島に降り、タクシーで犀(さい)川の川原へ。信濃川の上流が千曲川で、千曲川の支流が犀川だ。
川下りをする仲間では千曲川は水が汚いということで人気がない。
信濃川水系ではこの犀川と、ずっと下流の方で合流する魚野(うおの)川が群を抜いて水が美しい。東京から夜行日帰りの日程でこれらの川を漕(こ)ぎ下るカヌーイストは多い。」
野田さんらカヌーイストの評価どおり、千曲川の水は、相模川の水同様に「いい水」とは言い難い。にもかかわらず、阿部さんが実験環境での結果得られた「珪藻から藍藻に遷移する」「素晴らしい営み」を千曲川でも検証された、と書かれているが、「悪い水」である千曲川、BOD2か、3以上という水の、どのような条件のところに、どのような種類構成の珪藻が優占種となっていると検証されたのかなあ。学者先生の知見、推理能力に疑問をいだくに充分な事例ではないか、と思っている。
「川は北アルプスの山から運ばれてきた白い玉砂利の上を勢いよく流れていた。流速六〜七km/h。水温一七度C。水は澄んでいて日本でもベストテンに入る銘川である。
出発。流れの中心に乗せると、フネは飛ぶように進んだ。
遠くに山々がかすみ、強い日差しの中で、風としぶきが心地良かった。何ものかに向かって『ザマァ見ろ!』と叫びたい気持である。
川の曲がり角によい淵(ふち)があったのでフネを止める。水中眼鏡をつけて、ゆっくりと大きな渦を巻いている淀(よど)みに潜った。
水深約三m。水はやや白っぽく、水中の視界は三mほど。川底に泥や砂がなく、拳大(こぶし)の丸石だけなのは水流が強いためだ。目の前でアユがしなやかな体をCの字にくねらせて反転を繰り返し、石についた苔(こけ)をかすめ取っている。この魚特有のギラリとした光が水底のあちこちで閃(ひらめ)く。
息をするために時々浮上するしてシュノーケルを使う以外は動かずにじっと水底の石に掴(つか)まっていると、魚はすぐにぼくに馴れ、警戒心を解く。中にはぼくの体をつつくやつもいる。
30cmくらいの大きなウグイが石にもたれるように体を寄せている。体側に目の醒(さ)めるような鮮やかなブルーのパーマークをつけたヤマメの稚魚(体長五,六cm)あ数匹群れを作って泳いでいる。護岸用にうちこまれた杭(くい)の列のうしろにコイが顔をのぞかせていた。
少し自慢話をすると、ぼくは魚獲(と)りの名人である。釣るよりも『獲る』方が好きで、素手で掴んだり、ヤスで突くのを得意とする。ぼくに見つかると、まず魚は助からない。ただし、ぼくぐらいの名人になると、魚が目の前にいてもやたらと手を出すことはしない。腹が減ったらその時に獲ればいいのだ。どうせ魚はぼくのものだから、それまで川に放しておくのである。
しばらく、フィッシング・ウォッチングを楽しんでフネに戻ると、釣り師がきていた。
腰まで水に浸かり、長いアユ竿(さお)を振ってコロガシをやっている。船玉の下にハリを六〜八本つけて、流れの底を曳(ひ)きずり、アユをひっかけるのだ。魚影の濃い川で、見ている間に次々とアユを釣り上げていた。たまにウグイも混じる。
ここからわずか五kmの距離を置いて千曲川がある。釣り師の話では、川の水がよいので犀川のアユは千曲川のものに比べて、匂いも味も段違いに良いという。
二〇cmのアユを五匹くれた。」
この犀川の情景は、九月中旬である。犀川にいるアユが、遡上アユであれば、垢石翁が八月終わりから寸又川の鉈鮎は下りはじめる、との記述が信頼性に乏しい、といえるが、残念なことに、人工か湖産の放流ものであろう。
水温が一七度ということは、下りをする水温ではないのではないかなあ。湖産は下りを始める水温ではあろうが。
犀川と千曲川のアユに匂いに差がある、とのことについて、アユの香りが「食」とは関係なく、生まれながらに持っている性質のものと主張される学者先は、どのように説明されるのかなあ。もちろん、放流鮎であるから、遡上アユに比べての、強弱はあるであろうが、千曲川と犀川では、おなじ種類の鮎が放流されているのではないかなあ。そのおなじ種苗のアユにおいて、匂いに差がある、ということであろう。
「やがて、川は千曲川に合流した。犀川の真白い玉砂利の川原と清冽(せいれつ)な水に対して、千曲川は黒い泥の多い川原と茶色に濁った水だ。
水量は犀川の方が倍近く多い。千曲川の濁り水が二,三kmほど犀川の水と馴染まず、はっきりした境目を見せて流れていた。」
四万十川は天然の冷蔵庫、と語られた野村さん同様、野田さんにとっても、「いい川」の魚は必要なときに必要な数だけ獲るもの、とはうらやましい。たった一人のあゆみちゃんにすら相手にされずに、囮を過労死させて、乙姫様にいつも訴えられているオラとしては「名人」と「ヘボ」がこの世にいることは、平等に反する、差別じゃあ、と、だれかに訴えたいなあ。
A 「魚はすべてぼくのものである」
「春の岸辺は花々に彩られてー江の川」
「因原の濁(ひごり)川の流れ込みに上陸。名前に似ず川の水は美しかった。」
日が傾くと、濁川に魚が跳ね始める。偏光グラスをかけると、浅瀬を上下するにごいやウグイなどがはっきり見えた。三〇〜四〇cmの魚が背ビレを水から出して、ぐいぐいと川を動き回るさまは何度見ても胸がときめく光景だ。
カガシラを振ると、一二,三cmのヤマベが入れ食いでかかった。時々大きなウグイが食いつき、糸をぶっちぎって逃げる。
このくらいの川(川幅六m、最深部で五〇cm)だと、魚はすべてぼくのものである。釣り竿をおいて魚を茂みや石の下に追いこむ。手で押さえ、人淵の魚をみんな獲ってしまった。ウグイ、ヤマベ、ニゴイ、アユ、ナマズなど一〇〇匹以上の獲物だ。今日は魚を食べるつもりはないので、川に逃がしてやった。『手掴み漁』の良い点は、万一、監視員にここは禁漁区で獲ってはいけない、といわれても『魚を獲っているのではない、魚を拾ってるだけだ』と強弁できることではなかろうか。まだ一度もその機会はないが。
直後に一人の男がやってきて、ぼくが荒らした場所で竿を振るが、少しも釣れず、しきりに頭をひねっている。あのね、ここの魚はさっきぼくが無理矢理触ったり、殴ったりしたので、人間不信に陥っているんです、というのも厭味であろう。
気の毒なのでなるべく彼の方を見ないようにして、早々にテントに引き上げた。」
B亀尾島川(きびしまがわ)
「本州随一の清流といわれるだけのことはある。長良川の水の美しさに触れるとき、地元の人が決まって言及する川がある。
テントのすぐ近くで流れこむ『亀尾島(きびしま)川』である。長良川に入る多くの支流の中でも最も美しい川だ、といった後で、こう付け加えるのであった。
『この間まで、長良川があのくらいきれいだったんです。』
この川を見に行くことにした。
フネをたたんで、橋のたもとの雑貨屋に預ける。バックパックを背負って、ヒッチハイクで川沿いの道を山に入った。
拾った車を運転している男は、この先の山奥は人がいなくなって、熊が出るようになった、と話した。
『去年、この川のずっと奥の淵にハエナワを仕掛けましてね。朝、暗いうちに上げにいったんですよ。すると、誰かがわたしのハエナワを引き上げているんですよ。そいつは泳ぎながらタバコをくわえてましてね。コラーッと怒鳴って行ったら何とそれがクマだったんですよ。タバコの火と思ったのは、クマの眼が赤く光っていたんですね』
車を降り、少し歩いて谷に下る。
この奥に二つの部落があったが過疎で数軒になり、残った家は強制疎開で町の方に移転させられた。ここは豪雪地帯で、冬期の生活道路の確保、通学児童のための除雪や郵便配達の困難、電気、電話線の維持など、小さな村の財政では手に余るようになったのである。
川の水は澄みすぎて、最初、川を見た時、一瞬水がない。と思ったくらいに透明であった。さっそく川に入る。水温は本流より三度低く、一五度C。
冷たいのでシャツを二枚着て潜った。エメラルドグリーン色の深い淵は直径一一五m、深さ約九m。底の岩や沈木のかげにスーッと逃げていく五〇cm大の川マスが三匹。腹にブルーの筋と赤い斑点のあるアマゴの群れが、頭をそろえ、上流に向かって泳いでいるのが美しい。岩の裂け目の中に身をひそめ、目だけ光らせているウグイ。閃(ひらめ)くように素早く動き、きらりと反転していくアユ。
川漁の好きな人間が日頃夢に見ているのはこんな川の、こんな淵である。
底の数カ所に湧水(わきみず)が吹き出していて、砂を巻き上げている。ちょうど真上に太陽が来て、水面に浮かんだぼくの大の字の影を底にくっきりと映した。まるで大きな青いガラス玉の中にいるようである。水底に降り、魚を追った。手モりでアユ、アマゴを数匹突く。マスも一匹突いたが、暴れて、自分の身をひきちぎって逃げる。石の上にとまったセミが『つくつく惜しい』と鳴いた。しばらく水に入っていると体が冷えてふるえがとまらない。この水温では一五分が限度である。魚を焼き、ウイスキーに川の水をすくって割る。この川の水はすべて純粋なミネラルウォーターである。
巨大なオニヤンマが目の前の水面をしきりに尻尾(しっぽ)で叩いている。
ぬめぬめの柔肌、シャネル五番を振りまいていたという米代川の支流、比立内川と同様、亀尾島川でも熊が出るとは。熊の出る川でないと、古にはあちこちにあったという「いい川」を経験することはできないということかなあ。とはいえ、熊が出ても「いい川」とはいえないかも。逆も真なりとはなるまい。イノシシや猿であれば、中津川でも出るが。
阿部さんは、水割りに使える川の水でも、食圧によって藍藻が優占種になると考えているのかなあ。それとも、そんなきれいな水の川をオラと同様、見たことがない、ということから、想像すらできない、ということかなあ。
村上先生には、フィールドワークをされるとき、亀尾島川、比立内川、黒尊川をメニューに加えてくださるよう、お願いをしたが。
どんな種類構成の珪藻が生育していて、その珪藻の栄養素がどんなものか、知りたいが。もっとも知っても、オラにはその意味を理解することはできないものの、村上先生らはシャネル5番と{食}との相当因果関係を明らかにしてくれるのではないかなあ。少なくとも、シャネル5番の香りが「本然の性」ではなく、「気質の性」であることを考える糸口を見つけ出してくれるのではないかなあ。
もはや、釣り人も、学者先生も、外野のテレビで鮎を食して「まあいい香り」と語る人も、シャネル5番の香りを嗅いだことのある人ですら、稀少な存在となっている現在、シャネル5番と「食」の関係を考える最後の機会かも。「シャネル5番」の香りすら、幻となりつつあるのであるから。
4 実力派のいる川=恐水病がなかった頃の日本
「春の岸辺は花々に彩られて―江の川」
(1)「実力派のいる川」とは
「郷里の熊本で、ぼくらが毎年楽しみにしていたのは台風シーズンで、増水して矢のように流れる川に飛びこんで遊ぶのはジェットコースターに乗るようで、なによりも面白かった。
日本人が川を危険だと叫び始めたのはいつ頃からだろう。そして、今や人々は川に関して赤子の如く無力で無知になってしまった。
この国ではみんな恐水病にかかっている。
適当な知識さえ持っておれば、川は少しも危なくないのだが。
『ワシは三回ひっくり返った。』
江の川の漁師と話をすると、そんな会話が気軽に出てくる。実力派のいる川というのは生き生きしていて、いいものだ。」
それではほかの川ではどうか。
「フネはひっくり返るものである。その時は水を出してまた乗りこめばいい。なにも大騒ぎすることはないのだ、という認識がここの漁師たちにはある。そこが有り難い。『危ない危ない』とべたべたお節介をやくのではなく、つき放して、一人前の男として扱ってくれるのがいい。
どこの川に行ってもイライラさせられるのは『フネが転覆したら大惨事、溺死(できし)を意味する』と考えている人が多いことだ。濡れたら大変、と考えている人が多いことだ。お前さんは張り子の虎かね。人間は濡れたら死ぬと思っていやがる。
ぼくの使っているカヌー(正確にいえばカヤック)は『転覆するのを前提にした』フネだ。急流で沈して、岩にぶつかったり、流されたりするのは毎度で当然のことであるそれもまた川下りの一部だと思っている。
後日、、下流(しも)の羽須美(はすみ)村で、子供の頃『瀬下り』といって激流を泳いで下るのは最高に面白い遊びであった、と聞いたが同感である。」
その実力派の行為について
「フネを出そうとすると、一隻の川舟が近寄ってきて、この先の瀬について注意を受けた。
江の川で嬉しいのは、川に出ている男たちが『プロ』であることだった。彼らは『アユ取り舟』と呼ぶ川舟でいつも急流を上下しているので、実に適切なアドバイスをしてくれるのだ。
『この川の下の瀬は右から入って左に抜けるとええ』
『○○○の瀬の曲がり角は振り回されて向こう岸にぶつかるけえ、早めにカジを右に切りさらんと…』」
野田さんは、自転車を借りて事前に川の状況を調査されているように、決して、無謀な行動をされているのではない。
阪神大震災の時の野島断層がある淡路島は豊島でのこと。四国側には突堤があり、沖にも突堤上に波消しが設置されている安全な海水浴場。
ある年、潮流が強く、立っている足許の砂が流されていく。危ない、と思ったが、なんでか、ガキどもは海に入っておらず、助かった。明石海峡の潮流が強く、沖に出ることを許された子供は限られていた。その知識はあったが、豊島でも潮流が強いときがあるとは知らなかった。地元の人は知っていたのであろうが。そして、いつ生じるかも。
(2)田の泥の匂いのする情景
@田植え
「四月下旬。川べりの田ではぼつぼつ田植えがはじまっていた。山間地帯では秋の冷害を避けるために、平地よりも一ヶ月ほど田植えの時期が早い。
田を起こし、水を入れ、土壌をかき回す。その水が川に入り、江(ごう)の川は田の泥の匂いがした。日本のもっとも根源的な、懐かしい匂いだ。田の中で働いている男たちの顔も、出稼ぎや兼業の土方をやっているときと違って、落ち着いた良い表情をしている。
土手の上を立派な乗用車が走る。中にいるのは野良着姿の中年夫妻で、一人が柄の長いレイキ(田の地ならしをするトンボ)を窓から手を出して握っていた。
低い土手の向こうに見える鎮守の森。小さな山の頂にある神社と長い石段。水を張った田で早々と鳴いているカエル、ワラ葺(ぶ)きの家の上にひるがえるコイノボリ―純日本的な田園風景である。」
江の川は、三次で可愛川と西城川、直進して馬洗川と別れているよう。
西城川を下ってくれていたら、亡き師匠が遊んだ川の情景がどんなものか、少しは判るから嬉しかったが、運悪く、可愛川を出発点にされている。
故松沢さんは、狩野川の解禁日の頃が、流域で田植えが行われて、泥水が入るから、その時期の解禁を避けるべきだ、と話されていた。オラの記憶は、丼大王からのメールでも確認できた。
垢石翁は、
美山川については、「大正天皇御即位御儀の時、大嘗祭庭積机代物に用いた香魚は、丹波の三国嶽から源を発した由良川で漁れたものである。」、そして、「今上天皇御即位式の時にも同じくご用命があった」「まことに名誉ある香魚である」が、「釣魚家からみると、あまり上等の質の香魚であるという訳にはいかぬ。」とのこと。
その理由は、
「昔から京都府内は稲作が発達していてどんな山の中腹へも水田を拓いたのでこの川へ落ちる水質はあまりよろしくないのである。したがって、香魚は圓々太っていて甚だ見ごとであるけど、肉がぶくぶくである。」(「昭和のあゆみちゃん」から)
と、釣趣戲書に書かれているが、田植え時でなくても、田の水が入ることで、アユの品質に差が出るとは、何とも贅沢な品定めのことか。
今や、田植え時だけではなく、四六時中生活排水や、下水処理水が流れこんでいる川では、田の水が良質の苔の生育を阻害する、なんて、誰も意識することはないか。
そして、そのような状況の川を前提にしていては、「アユが食して、珪藻から藍藻に遷移する」という学者先生の実験結果が発表されても、なあんも疑問を持つことはない、ということであろう。
A はあるのおがわは…
「芸備線の甲立駅の付近から出発。」
「春の小川を行く。」
スミレの群落が岸を彩り、フジの花が川の上に垂れている。春先にこのように小さい流れを漕ぐのはカヌーの楽しみの一つだ。フネの上から手をのばして花を摘み、ツクシを採りつつ下る。 土手の茂みから飛び出したヒバリが、そのまま空を駈け昇り、けたたましくさえずった。
川底は小石混じりの泥で、川の水は澄んではいないが、人工の汚れではなく、日本の川では上の部に入る水質だ。
出発からずっと車で追っかけてきた佐藤さん『いいなあ。おれも一緒に下りたいなあ』と口惜しがる。岸でコーヒーを飲んで別れた。」
「三時間ほどで、流域最大の都市三次。といっても川からはなにも見えないが。
『三次は茗荷の子と同じで、皮(川)ばかり』
といわれる。ちょうど市街地のあたりは気持ちの良い急流になっていて、ついそれに乗って通り過ぎてしまった。」
「このダムの下から江の川はがらりと様相を変える。これまでの泥の多かった川底は大きな石だけの渓流特有のものになり、数百メートルおきに二〜三級の瀬が現れる。
両側は岸壁で、川から八mほどの高さに道路と鉄道が走っている。
快晴。頭上の岩山にはツツジがいくつも根を張っていて、紫色の花をつけていた。土地の人はこれを『川原ツツジ』と呼ぶ。」
(3)「『村民皆泳』の村」―羽須美村
「フネに乗って出羽川を渡り、羽須美村を歩く。日本全国の市町村の『要覧』を見ると、まず大半が『緑と清流の町』と銘打っている。
ぼくのいる東京の江東区も『緑と水とやすらぎのある町』となっていてびっくりする。そこには『緑』とか『水』とか呼べるものは全然ないのだが。
羽須美村もまた同じ文句をキャッチフレーズにしていたが、ここは本物であった。
出羽川から引いた水が村の中を流れ、多くの家でその水を庭に導いて養魚池を作り、コイを飼っていた。
道端の溝で洗い物をしている主婦たち。学童が他所者(よそもの)のぼくにも『帰りました』と挨拶をして頭を下げる。
出羽川はゲンジボタルが棲息しているので、それを殺さないように農薬の使用は制限されている。川には太古の自然が濃厚に残されていた。この村に滞在中に一mくらいのオオサンショウウオ(これは誰かが仕掛けたオキバリに掛かっていた)や甲羅の直径が三〇cmもあるスッポンを何匹も見かけた。」
@ 農薬の害
農薬については「唖然、ふるさとの川はいま―菊池川」にも書かれている。
「今朝の新聞に菊池川河口のアサリ貝が大量に死んだ、という記事が出ていた。きのうの大雨で河口の海水が淡水化したせいだとある。
貝がそう雨の度にたやすく死ぬものではなかろう。
農家の人達は山野に撒(ま)いた農薬(除草剤や殺虫剤)が雨に洗われて川に流れこんだためだ、という。日頃、自分の手でたくさん撒布しているからよく判る。
一九五三(昭和二十八)年の夏のことを今でも悪夢のように想い出すことがある。菊池川から突然、魚が消えたのである。
その年、日本の農家では恐るべき農薬『ホリドール』を初めて田に使用した。効果は凄(すさ)まじく、害虫も益虫の魚も鳥も人間もバタバタ死んだ。あの夏、田舎の子供たちは川に行ってもなにもすることがなかった。魚は一匹もいないし、川に入ると頭痛がしてフラフラになるので恐ろしくて泳げなかったのである。
あれから三〇年近い年月が過ぎて、川の自然がまた甦(よみがえ)ってきた、と人はいう。
魚がまた増えた。白鷺が川に沢山くるようになった、という。ホタルとトンボがまた見られるようになった、と新聞は書く。
しかし、それは嘘だ。増えた魚というのはヘラブナやコイ、ナマズ、タイワンドジョウなどの汚染に強い、本来、沼に居るべき魚である。村の古老がいうには白鷺なんてものは、昔は田や沼にいたもので、川では見なかったそうである。
ホタルは清流に棲むゲンジボタルではなくヘイケボタルであろう。後者ならエサになるカワニナと幼虫からサナギになった時に身をひそめる土手さえあればかなり汚れた川でも発生する。
トンボも清流にしかいないオニヤンマなどの種類ではなく、溜まり水で生まれる種類のものばかりだ。
それに、虫や魚も農薬に慣れ、抗体ができているせいもある。
農薬は低毒性になったというが、効き目が少ないので、何回も撒くから、毒の量は同じだ。除草剤を撒布したあとの畑に、野ウサギの死体がゴロゴロ転がっている光景を見ると、日本の山野、川は、そしてその終着点である海はひどいことになっているのだ、ということが子供にでも判る。」
平のタダノリが討ち死にしたという馬入川?という名前がついてる延長1,2キロの水路にもゲンジボタルがいた。オニヤンマ=ドランマが清流ではなく、家の前の池にもいた。もっとも、昭和二五年を過ぎると、生活排水が流れこまない少し高いところにある池でしか、オニヤンマの抜け殻は見つからなくなっていったが。
そのような、人間の営みがどのようにトンボに影響をしているか、は、羽須美村を知らないと、適切な観察もできなかろう。千曲川が珪藻の生育に適した「清流」と理解して、そこでの珪藻から藍藻への遷移を観察し、食圧による珪藻から藍藻への遷移の「実験」結果が普遍性を有するという阿部さんの説には、千曲川で、珪藻が優占種になる、ということすら、疑問を抱かざるを得ないが。
野田さんは、農家の人は農薬の害を知っていると書かれているが、時は流れ、今では農家の人が、何坪農園かの素人衆が、土の消毒もしないで種まき、植え付けをしていると、私らはあんな恐ろしいことはできない、という時代となったよう。素人衆が農薬、除草剤を使用しないで、せっせと虫取りをし、スギナを、雑草をお手々で抜いている。
虫に食われた葉っぱが商品にならなくなったのは昭和三〇年代のいつ頃からかなあ。葉っぱに青虫がついていても当たり前、ということが、「欠陥商品」、苦情の対象に変化すれば、殺虫剤を振りまくか、昆虫を根絶するしかあるまい。
見てくれに最大の価値を付与する消費者は、鮫肌人工、鮎の習性をなくした継代人工でも大きければよい、という釣り人の信条と通じるものがあるのではないかなあ。
A 泳げる子供
羽須美村の畑の中にビニールハウスがある。
「たとえば、中学校の全生徒六〇人中、三〇人が水泳部員、人口三〇〇〇人の村に五〇mプール一つ、二五mプールが二つある。島根の国体の水泳選手は昔からこの村の出身と決まっていた。『ここは以前、タタミの縫い糸にする大麻の生産地でな。麻の木を川に浸けて皮をむくのが村人の仕事じゃった。その間、子供は目が届くように川に浸(つ)けて遊ばせる。それで、ここの子供はハイハイをする頃から泳いだもんだ。』
それでもトボケた婆さんがいて、ぼくにきいた。
『あのな。みんな睡眠クラブ、睡眠クラブといいよるが、ありゃ寝てなにかするとこかね?』
スイミングクラブを睡眠クラブと間違えているのである。」
野田さんはまだ水の冷たい頃に行かれているから、川で遊ぶガキッチョの姿は見ていない。
しかし、夏になっても川原からガキッチョが消えた例として、川内川を見る。
「『川内(せんだい)ガラッパ』という言葉が鹿児島にはある。ガラッパとは河童のことだ。
この流域から多くの優れた水泳選手が出ている。特に宮之城は水泳天国で、国体の鹿児島の水泳選手はほとんどこの町出身の者で占める。
大人たちは川についてみんな同じようなことをいった。昔は六月から一〇月まで、一日のほとんどを川内川に浸って通した。プールだと三〇分で飽きるが、川は一日中いても飽きない。
『今は子供を川で泳がせんごっなっしもたが、おいどんが小(こ)め頃は川内川が人生道場ンごちゃった。』
川を向こう岸まで泳ぎ渡ること。川に張りだした高い木から飛びこむこと。これができないと『弱虫』『卑怯者(ひきょうもの)』といわれた。それは薩摩の少年にとっては死ぬよりつらい侮蔑の言葉で、だから必死に飛びこんだものだ、と。」
長良川では、昭和の終わり頃
「長良川に注ぐ支流では、少年たちがかなり大きな激流を泳いで流されたり、向こう岸に渡ったりして遊んでいた。十メートル以上もある崖の上から淵に飛び込む者、手にヤスを持ち、水中眼鏡をかけて魚を追っかける少年―他の川ではもう見られなくなった昔ながらの『日本の川の風景』であった。」
その川内ガラッパはすでに滅びていた。汚染その他の原因で。
野田さんが訪れてからすでに三〇年、「キケン」病は、未だ羽須美村には蔓延していないのかなあ。長良川の情景が羽須美村でも繰り広げられていることを願うが。
B 瀬の調査
「一人のおばあさんが、両手を頭の上でぐるとぐるぶん回していった。
『この川にゃもーんのすっごい瀬があるよっ』
『そのもーんのっすごい瀬てのはどこにあるの?』
『あの瀬の下からずーと続いとるがね』
キャンプ地の向かいの家で自転車を借りて、下流の瀬の下見に行った。
江の川のハイライト、つまり、川下りとしてスリルがあるのは、下口羽の両国橋から松原駅前までの約一五km。三級の瀬が一〇カ所、四級の瀬が二カ所ある。
自転車がこれほど川の偵察に向いているとは新発見だった。車だと見落とすようなところも、これだと丹念に見ていける。通るべきコースを詳細に地図に書きこんだ。
夕方になると、テントの前の家からおばさんが出てきて、大声で叫ぶ。
『にいちゃん、お風呂がわいたよーっ』
そこでフネに乗って川を渡り、家の下に着ける。丸形ではなく楕円(だえん)型の五右衛門風呂が珍しかった。」
「魚、文房具、オモチャ、衣類、雑貨、牛の鼻輪(はなぐり)(一九〇円)まで何でも売っているよろず屋で食料を仕入れる。
焚火(たきび)を起こし、肉とコショーを振ってアルミフォイルに包んで火に放りこむ。ジャガイモやナスも同じようにして焼く。女竹を切ってきて、筒の中に日本酒を入れ、火にさしかけてカッポ酒にする。後かたづけの要らない最も簡単な野外料理だ。」
C 猿に猪
「羽須美村のはずれの部落ではサル、イノシシが多くなって農作物がやられる。
『サルやイノシシが食い残したものでやっと食いつないどる』『農作業から帰ってメシを食おうとしたら、サルに食われてしまっていた。』
こんな話がよく出る。イノシシは熟れる寸前の稲穂を好み、刈り入れ前にやってきて、口で穂をしごいて食べる。サルは女、子供が追ったくらいでは逃げず、逆にからかったりする。
村の青年団のアイデアで広島の都市居住者に『トウモロコシの貸し農園』を呼びかけた。昨年のことだ。一坪八〇〇円で畑を貸し、トウモロコシを植えさせて、秋に実がなったら収穫に来てもらう、というもので、多数の応募者があった。秋になって実が熟れたので、そろそろと思っていた矢先に、サルに襲われて全滅した。畑の周囲に電気を通した柵をしていたが、効果はなかった。
この調子だと、山の部落では人間が囲いの中で暮らさにゃならんぞ、と冗談をいっていたのが、その通りになってきた。部落の者が櫛の歯をひくように次々に里を降り、残りが四,五軒になると、もうサルの襲撃には耐えられない。役場では一匹につき一万円の賞金を出しているが、村人はサルには手を出さない。
銃を向けると、仔ザルをかばうしぐさや、撃たれて苦しむ様子が人間そっくりなので、誰もサルを撃とうとはしないのだ。」
厚木や愛川町でも、サルが出てきて農作物を食べているから、山里での被害は大変な状況になっているのであろう。鵜がオラ達釣り人の天敵である以上に深刻な状況ではないかなあ。
愛鳥家が、鵜を退治することに反対していたが、鵜があんまりにも魚を食べるようになり、カワセミのエサ不足になることが認識されるようになって、やっと、鵜退治反対の声が小さくなったよう。親が減れば、カワセミのエサとなる小魚の量も減ることは当然のことであろうに。
ハヤやヤマベの減少が鵜だけの影響かどうかはわからないが、鵜の食圧が一要因として影響しているとはいえよう。
D 「波立つ難所を行く時の恍惚と不安」
「二時間かけて、フネの整備と補強。戦いを前に武器の手入れをする兵士の心境だ。今日は一,二度波にふっ飛ばされて沈するだろう、と腹をくくる。昨日の雨で三〇cmほど水かさが増してたのが有難い。」
そう、オラも九月一〇月の大井川のあゆみちゃんに、今日こそは、力負けをして身を切り裂いて逃げらんようにするぞ、と勇ましく、川原を歩く心境から、野田さんの心情に共感できる。決して「沈」、いや、ばれ太郎にはならんぞ、と、決意だけは勇ましいものの、結果は、川原に泣き伏すこと多し。
「出発。地図に書きこんだ急流のルートをよく見て、一つ一つ漕ぎ抜ける。
白く波立つ難所を行く時の恍惚と不安。そして、漕ぎ抜けた後の高揚と虚脱。
川の水が一カ所に集まった強い波のところに入ると、船首が下から突き上げられて、天を向き、跳ね飛ばされる。だから、思い切り体重を前にかけて、波の中に突入する。数秒間水の壁で何も見えない。あらゆる型の急流があった。川下りの教練場のような川だ。
どんなに下見をしても、二,三割の不確定要素は残る。何回か川下りをやると、運命論者になるのはそのためだ。「沈」する時はするさ、仕方がない。
川との駆け引きを楽しむこと。相手の強いところはかわし、弱点をつくこと。
江の川で悪名高い「ニコセの瀬」を無事通過。通るコースさえ間違いなければ、非常にスリルのある瀬だ。波高一.五m、滑り落ちた流れがすぐに岩壁に突き当たるので要注意。
この壁に小さな祠(ほこら)があった。昔、荷舟の船頭がここを通る時に無事を祈ったところである。『ニコセ』は『荷越せ』だ。この難所を荷を積んだまま通過できなかったので、荷を下ろして、一旦、空舟にして通し、瀬の下でまた積み込んだのである。いくつも『棚』を連ねた長い筏(いかだ)は、短く切って瀬を通し、下でまたつないで河口に向かった。」
「不確定要素」が存在することを前提としての思考が必要と考えている。
もし、確実であることを求めるのであれば、あゆみちゃんとの逢い引きのおもしろさは消滅するのではないかなあ。ハエ釣りが「こうすればこうなる」というようにマニュアルに従った釣り方ができると、それなりの成果を得ることができるとのことであるが。
もっとも、オラのように、「不確定性:不確実性」の領分が多すぎるのは、「ヘボ」という別の範疇の話になるが。
日本の官僚機構には、「無謬性の神話」があった。現在は少しは揺らいでいるであろうが。無謬性の神話に支えられていると、過失もしないとなって、間違った政策を実施することも、損害を与えることすらあり得ない、という事態にもなる。そして、その神話を維持して行くには、守秘義務等で、情報隠し、情報の一元管理・独占を必要な手段とするようになろう。
野田さんは、「不確定性」を楽しまれているが、そのための準備、調査も充分にされていて、決して、「無謀」に「キケン」と対処しょうとはされていない。
野田さんは、そのような浮き世とは無縁に、「ダムから下は荒瀬がなくなり、家族連れでのんびりと川下りを楽しめるおとなしい川になる。
山の間を川はおだやかに流れる。うらうらとした陽光を浴びてポチャポチャと漕いでいくのは楽しいのもだ。」
「カモメが水中の獲物を狙って騒いでいる。」
海から川に入った稚アユを狙っているのだ。
江の川の漁師たちは、河口に集まるカモメの数を見て、アユの遡上状況を推測し、その年の鮎の解禁日を決める。今年はカモメの出現が遅く、解禁日が1週間延期された。」
野田さんは、ひねもすのとり、のたりと、カヌーでくつろぐ。
ところで、この頃は、江の川も遡上アユが釣りの対象であったと判る。
しかし、現在はどうか。遡上アユを回復するために、「しまねの鮎づくり宣言」を作成して、再生産が可能となる放流種苗の育成を意図せざるを得ないほど、放流鮎に頼る状態となっているようである。そうすると、解禁日をカモメに聞くこともなかろう。
5 キケンと洪水
(1)洪水とのつきあい=洪水ズレ
九州男児が、家が水に浸かったといって、こっちのマスコミは大騒ぎをしてるが、地元の人は日常的なもので、騒いでいない、といっていたことが、気になっていた。
「薩摩隼人は死んだかー川内(せんだい)川」
「川内川には合計五カ所川幅が狭くなっている場所があって、雨が降る度にそこで通水が阻害され、その上流は出水さわぎになる。昔は遊水池として使える土地が多かったので、そこに増水した水を放ち、被害を最小限に抑えていた。しかし、人口が増え、至る所に人が住みつき、氾濫させてもいい土地がなくなってくると問題がでてくる。
河川工学の専門家によると、川内川は日本の川を代表する川だという。川の勾配が大きいこと、狭窄部が多くてすぐに氾濫することなど日本の川の治水上の問題点を濃縮型を持っているのがした川内川だという。
下流の川内市あたりでは出水すると家の中にヤグラを組んで、その上に人間が避難した。尻が水に浸るので『尻洗水(しりあれみず)という言葉がまだ残っている。』」
狭窄部の上流で、
「二時間ほど漕ぐと川の両岸にずらりと旅館が建ち並び、湯気が盛んに立ち上っていた。『湯之尾温泉』である。
フネを岸につないで町を歩く。町営の共同湯に入って体を温めた。大人五〇円也。
湯之尾は温泉よりも洪水で有名だ。年に数回はやられる。去年は五回だった。通りに沿った家には柱に何十本も横に線を引いた印がつけてあり、年月日が書きこまれている。洪水の水位表示だ。
他所から来た人には『ええと、これは去年の梅雨の時のもので…』と誇らしげに説明してくれる。
これだけ頻繁に洪水に遭いながら、ここ数十年に一人の死者も出していないという。『洪水ズレ』しているのだ。洪水のあと、建物などについた汚れはなかなか落ちないものだが、ここの住民はいつものことだからその処理がうまい。出水後、二,三日もすると『どこに洪水があったんじゃろか』というくらいきれいになっている。水が退きはじめたらすぐに洗うのがコツだそうだ。」
(2)ダム放流ミスの洪水?
川内川には、もう一つ洪水の話が書かれている。
「鶴田第二ダムは堤高二五mほどの中型ダムで、第一ダムで放水した水をここで再調整する。崖(がけ)を苦労して下りダム下の川原に荷物を運ぶ。そこでフネを組み立て、再出発。
川内川はここから本格的な渓流になり荒れた。岩場の間を三〇分ほど漕ぐと、神子発電所のダム。落差七〜八mのダムの真ん中に突き出た岩にフネを着け、傾斜した岩場をフネを担いでそろそろと降りる。フネの荷の積み直しに一時間かかる。
川は再び細く、狭くなり、流速を増した。
やがて、前方に旅館群が見えてきた。宮之城温泉(旧湯田温泉)だ。
この温泉は一九七二(昭和四十七)年の洪水で一二〇軒の家が流され、壊滅(かいめつ)している。この上にある鶴田ダムが満水になり、放水した水が町を飲み込んでしまったのである。フネを漕いでいくと岸の岩盤に爆薬の炸裂(さくれつ)したあとが見られる。狭くなっていた川をダイナマイトで爆破して川幅をずっと広げ、水はけをよくしたのだ。災害後、川沿いの土地を一〇mほど嵩上げして再び町を作り直した。古い木造の情緒のある温泉旅館に替わって、現在はコンクリートのホテルが建ち並んでいる。」
宮之城温泉下流の轟の瀬でも、「広い岩盤の川原を川が二筋になって流れている。明らかに人の手で掘削した水路である。」
と、大雨の時の水の流れをよくしょうと水路を造っている。
宮之城温泉は何百年か、洪水で流されることもなく、過ごしていたのではないか。ダム放流の判断ミスで大量の水を流したのではないのかなあ。
(3)野村さんと洪水
野村さんが、戦後山の伐採の影響で生じた洪水について語られたことを再掲する。
「そのあと昭和二〇年代は台風の時代やったなあ。四万十川も一番暴れた時期やと思う。
四万十川周辺の伐採が始まったころやけん、山に一番活気があった時代よね。口屋内から見える山は伐採が終わって、植林したてやった。木がまだこまいけん、よう鉄砲水にもなったんじゃろ。」
「二〇年代には二階まで荷物を上げたことが何度もあって、家が水に浸かったことも多かったわ。
いま、うちの奥というか山のほうの高台に吉本さんいう家があるけんど、昭和二七年までは右岸の酒井商店の下に住んじょったんよ。何度も水に浸かるじゃろ。こりゃ、どうしたちかなわんいうて、うちの上へ越してきたんよ。川の端ではちょっとでも高かったら水に浸かる率が減るけんねえ。」
「そんでも、こまいときから川の端で育ったもんはどんな大水がでよっても、自分が流されるいうことはないわ。どのくらいの水でどのくらいの早さなら、どこまで来るいうことをやっぱり体で知っちょうからじゃろか。不思議とみな水に強いわ。」
「けんど、このどきどきするということをなくしたらいかんと思うんよ。私らは自然の中に暮らしちょるけん、こういう不安はあって当たり前よ。それを技術で万全にしたけん、大丈夫や思うからいかんのよ。」
「水は堤防から一滴もこぼさんようにして、とにかく早う川へ流し早う海へ送ればええ、いうんが明治時代からの日本の治水の考え方よね。
けど、雨を溜める森は伐られるし、降った水は川しか行きよるとこがなかったら、ちょっとの雨でも洪水になる確率は高うなるじゃろ。増水した水がいまある堤防を越えたら、ダムを造るか堤防を高くする。それではいつまで経っても問題解決はせんわ。
こういうのは川の端で暮らしたことのない都会の人の発想や。水はあふれるもんやいうことを前提に考えんから、ダム造ったかて結局、効果がないいうことにもなるんよ。
水は一滴もこぼさんで海へ送ったらええんやない。途中でじこじこ流れてもええような余裕をのこしちょく。そういうことをせんから、堤防もどんどん高うせなならん。ちょっとはこぼさんと、下へ行くほど堤防の負担も大きくなるだけよ。
被害もあるけど、大水出るいうことは自然にとったら必要なことなんよ。川はいっとき濁るけんど、そのあと必ず澄んできよる。そしたら、川の石には新しいコケがつく。これも大事なことよ。
何でも技術で固めて、暮らしの不安がなくなるようにしたら、死ぬまで安全やいうこともないし。技術にすっかり頼って、安心してしまうから、災害が来よったときにも大あわてなんじゃろ。パニックしよるんが一番被害を大きくする元やけんねえ。
河原のヤナギがどんな大水でもいっこも流されんのは、いつでもかまえちょうからよ。大水に備えてじこじこ根を張るように、いつでもしちょるからじゃと思うわ。
いつでも、自然の中に自分があることを忘れんことよ。こまいころから川の端で暮らすもんに川で死ぬもんがいないのは、意識のどこかにいつでもそういうことが置かれちょるからじゃろ。」
野村さんの観察は、大熊先生の「洪水と治水の河川史」等、大熊先生の主張に通じる。
ただ、最後の川の端に育ったから、といって、川で遊ばない、遊ぶなと禁止されているガキッチョが、どうなることやら。都会っ子と同じではないかなあ。
(4)野田さんの嘆き節
最後は、野田さんの嘆き節を見ておこう。
「全国の河川で不必要な護岸工事が目立つ。
こういうのはこちら側に科学的な資料、数字がないので困る。地元の人が『ここは百年も洪水のないところなのになぜ自然の川岸をつぶしてコンクリートで固めてしまうのか』と言っても、建設省側が『二百年に一度の洪水にも耐えうる護岸をした』と言えば反論のしようがない。『過剰護岸ではないか』と全国各所で地元の人々は自分の近くの川岸を指して言う。
政府側の独断専行をチェックする機関が民間にはない。少しずつ明確になってきたのは建設省が自己の権力増大、維持のために、不必要な土木工事を作り出しているということだ。深山に不要な巨大スーパー林道を作り、ハイウエイを通し、無駄なダムを造り、護岸をし、いまや建設省は日本の自然の最大の敵、破壊者となってしまった。
後世の人々はいまの時代を『自然破壊の時代、狂気の時代』だった、と言うだろう。眼の前の眼に見える『利益』だけを追求して、眼に見えないもの、抽象的なものを全く理解しなくなった、程度の低い、野蛮(やばん)な日本人の時代と呼ぶだろう。
清浄な空気、きれいな川を眺めて清々しい気分になること。美しい魚を釣る歓び、青く澄んだ川の上を春風に吹かれてゆったりと流れ下る楽しさ―そんな金銭に換算できない価値は文化のない国である。」
とはいえ、建設省が、「不必要悪」だけの存在であれば、その統治は継続性の維持には、多大な権力行使を必要とするであろう。
「必要悪」の側面もあり、価値観でも、「都会っこ」の価値観と合致する側面もあるために持続している側面もあろう。
田中長野県知事がダムではない治水の手法を行おうと主張したが、その手法の糸口すら見つけ出せないうちに退陣せざるを得なかった。
また、昨今の中国を見れば、この道はいつか来た道、で、日本だけの特異な行動ともいえまい。
とはいえ、野田さんの嘆き節に共感している。
6 長良川
野田さんは、「悪い川」の筑後川、野田さんが子供の頃遊んだ菊池川等の川下りをされているが、「悪い川」は、相模川で充分。
しかし、「美人も簗場も洪水が流した―筑後川」の日田が、余りにもオラのイメージとかけ離れた存在に変わっていることにびっくらこいた。「悪い川」誕生のいきさつを見てから、長良川で口直しをすることとしょう。
(1)水害をなくそうとすれば
「古都日田を徹底的に変えたのは『昭和二十八年の水害だ。』とこの町の人はいう。あれを境にして何もかも変わった。日田の名物だったアユの簗場が流された(これはそのまま復旧されずに今日に至っている)。水害の翌年、この下流に夜明けダムが完成。川はそこで分断され、それまで海から遡上していた天然アユが来なくなった。このダムのためにこれも名物だった川下り遊船がなくなった。日本三大美林の一つに数えられる日田の杉山から伐り出した材木を河口の家具の町、大川市まで流れに乗せて送っていた『筏(いかだ)流し』もできなくなった。
水害のために源流の下筌、松原連続ダムの建設が促進され、二つの巨大なダム湖ができた。その湖水に流域の家庭雑排水、家畜の屎尿(しにょう)が流れこむ。動きのない湖水は川のような自然浄化作用をもたないから、たちまちドブ溜めのようになり、山奥の湖水が水道水にも使えないというひどいことになってきた。一九八一(昭和五十六)年十月の地元の新聞発表では、日本の人造湖の汚染のはげしいワースト三,四位にこの下筌、松原ダムが上げられている。
筑後川流域には一四の温泉街があり、そのほとんどは上流に集中している。そこに大きなホテルが建ち並び、下水を垂れ流し、川の汚濁に拍車をかけた。
日田の人達がなによりも誇りに思い、愛したのは自分の町を流れる三隅川の水の美しさであった。昔は澄みきった川の上にフネを浮かべると川底の魚が手にとるようにはっきりと見えた。
しかし、いまの三隅川は雨の濁りのない日でも、川に手をひじの所まで入れると指先が見えない。
一九五三(昭和二十八)年の水害後、小京都『水郷日田』はありふれた山間の町になってしまったのである。
昼間の三隅川を見るのは辛かです。夜になって汚れた川が見えんごとなって、川に町の灯が映ると、昔の日田に戻ったようでホッとするとですよ。川っぷちの居酒屋で隣に座った男がそんなことをいった。
『角の井』という地酒を飲む。カウンタのノレンに『清流と美人の日田の酒』とある。
『あのね。みんな日田美人、日田美人というけど、ほんとにいるの?今日一日町をキョロ眼で歩いたけど、一人も見なかったぞ。それとも今日は美人の運動会か何かあって、全員そっちに行ったのかね』
それまでにこやかに酒をついでいた女将(おかみ)がプイと向こうに行き、側の男は酒を喉につまらせたのか、ムムッと苦悶の表情をした。
多分、日田の美人も二十八年の水害でみんな流されちまったのである。」
ダムを造っても、宮之城温泉のように、ダム放流の開始を遅らせると、洪水になろう。それを防ぐために下流の狭窄部を広げて、早く、大量に水を流せるようにする。
川の水を一滴も堤防から出さない、という発想が続く限り、河川工事を管轄する建設省のお仕事は永遠に不滅です。
宝くじが当たったら行く候補地であった、日田の水がそんなにババッチクなっているとはなあ。ひょっとすると、相模湖よりも汚いのかなあ。
村上先生が、天竜川のダムの上下で珪藻が優占種、藍藻が優占種、と分かれ、その上下でのアユの放流量に差異はないから、食圧には違いがない、と返事に書かれている。ということは、船明ダムであれば、遡上量が多ければ、ダム下の「食圧」は強くなるから、「藍藻」が優占種となり、阿部説が適切であるのか、それとも、ダム湖の富栄養化が原因であるのは、判然としなくなる可能性がある。
よって、村上先生がダムの上下で、天竜川の優占種が異なる、とされているのは、佐久間ダムの上下ではないかなあ。
阿部説の実験結果を検証された前提となる千曲川、相模川が珪藻が優占種である時期等が存在する、ということすらオラにとっては信頼性に欠ける調査だと思っているが。ある種の条件下では、汚染に強い種類構成の珪藻が繁茂するということがあるのかなあ。
(2)長良川序章
故松沢さんが、郡上八幡の長良川の瀬は、人によって、名前の異なるところがある、といわれていた。しかし、少しはどんな岩が、どんな瀬が、どのような位置関係であるか、を見ておきたい。
オラが郡上八幡に行ったときはすでに河口堰ができていて、冷水病が蔓延していてから、人工放流が主体となっていた。
吉田川合流点の上流、流れがひろがって、安全に釣りのできるところ。亡き相模川の主は、その下流に立派な瀬があることに気がつき、そこまで歩いていったのではないかなあ。そして、その結果を聞くこともしなかった。
@ 瀬と岩の見取り図
山本素石編著「山釣り 遙かなる憧憬の谿から」(立風書房)に、「喰い波 長良川本流:井戸蛙石」が掲載されていて、郡上の瀬と岩の状況が書かれている。
それによると、吉田川合流点の上流、多分、亡き相模川の主が目をつけた瀬であろうと思われる「ゴチョウの瀬」がある。
吉田川との合流点に「デアイの淵」→「フナト」「シンブチ」→「イワモン」→「モモノキ」
ここまでが「郡上八幡駅」の上流になるよう。その下流の稲荷橋からしばらくは、瀬も、岩の名前が書かれていない。鉄橋の上に「ベンテン」。
「ベンテン」から下は、瀬は書かれておらず、「伝法橋」のすぐ下流で「亀尾島川」が流れこんでいる。そこに「ホウデン淵」がある。
A 長良川でのアユ釣り
井戸さんは、山女魚釣りではあるが、吉田萬吉:萬サ翁が、まだ、「翁」にはほど遠い頃の写真を転載されている。
その写真は、フネからアユを釣り、引き抜きをしている。
亀井さんが「とりわけモモノキは、これまでどうしても歯が立たない。柔らかい竹竿を捨て、堅めの穂先をつけたグラス竿で挑んでみても、この水勢ではとても抜きあげられない。二度耐え切れなくてバラしたことがある。―私の竿を使ってみたら―と青地さんは自家製の郡上竿をすすめてくれるのだが、とても重いし、名品であるから傷つけるのが恐ろしくて手にしたことはない。」
名人級、竿師等が「幾度かモモノキに上がり、ある時は秘術を尽くして会心の戦果をあげ、ある時は切磋扼腕不漁をかこったことだろう。」「彼らは一様に、白泡立ち、噴き上げ、巻き返すこの淵の底へ叱咤激励のオトリを送り込んだ。そのたびに、満悦や焦立ちや放心が、この岩の周りの渦のように湧き、あふれたはずである。」
「―その時、大多サはこの岩角に足を踏ん張ったろうか、まさとサは身動きもせず岩の窪に腰を落としていたろうか。古田萬サは畏友・山本素石が語るように、受ダマをラケットのように構えたろうか―
一人一人が手をつかえ、足を踏んばり、腰を降ろした岩角や窪みがその時の高鳴る鼓動をそのまま伝えているかのように思える。それはまた奔流に立ちはだかり、青筋たてて耐えているモモノキ岩そのものの胴震いでもあるようだ。岩肌にそっと耳を当てると、どぶっ、どぶっと脈打つような響きで、岩がなっていた。」
「そんなモモノキだが、八幡に来るたびに一度は竿を出さずにはいられぬ魅力を覚える。それは決して難関に挑もうというような気負いからではなくて、この岩に立つとき、たちまち長良川そのもの、八幡の釣りそのものにふれたような想いに駆られるからなのだろうと思う。」
その萬サ「翁」(「翁」となるのは、あと何十年か後のこと)が、「受けダマ」をラケットのように構えている写真である。この写真は「釣りの友」に掲載されたとのこと。このことからも、何で、村田さんの引き抜きが下品、外道いや邪道、と非難されたのかなあ。
なお、その写真のアユの大きさは、100匁ではなく、20cmもないのではないかなあ。舟釣りの場所のため、大鮎の着く場所ではない、ということかなあ。継代人工ならば、好む流れがゆるく、水深のある場所であるが。
B アマゴと井戸さん
そんな俗世間での出来事はどうでもよいが、長良川を代表するアマゴにも敬意を払わないと。
井戸さんが郡上八幡のアマゴに振られても、振られても、オラと同様に通わざるを得なくなったのは次のようないきさつによるとのこと。
「同じ八幡町内の名竿師『竿幸』は、怖ろしい眼でわたしをにらみつけると、肩をふるわせて言った。
『竿というものは、いいか、穂先と穂持が命や。先のふにゃふにゃの竿で郡上のアマゴが釣れるものか』
『竿はここまで曲がらなあかんのや』
といって手元を指し、激しく上下に振った。郡上竿は手元から穂先まで均一な弧を描いて、驚くほどしなった。
郡上竿―穂先の太さが割箸ほどもある女竹で作った総調子の竿である。穂先の太さに較べて手元は意外に細く、寝かせたときは手元からジワーッとたわんで頼りない感じがするが、いったん立てると俄に豹変して、圧倒的な水勢と水量の長良川から、ひと息に獲物を抜き上げるパワーを秘めている。
節は抜かず、真鍮の板で継口を作り、ウルシを厚く塗って仕上げる。装飾に笛巻きを施した物もあるが、元来、機能に徹して一切の装飾を加えないのが郡上竿の特徴である。アユ竿四間半、アマゴ竿三間半アユ竿もアマゴ竿も調子は同じである。
竿幸のオヤジの怒りは、竿を見に店に入った私が、片手で竿を持って、『重いな……』と呟いたことに始まる。
ド素人がナニをほざくか―
『アマゴというのは両手で釣るもんや、こう、テンビンにかけるのや。片手で本流のアマゴが釣れるものか』
『郡上で郡上竿を使ってみれば、もう絶対にこの竿やないとあかんということがわかる。』
『この竿は鉤先がアマゴのアゴに触っただけで手元に伝わるようにできている。ええか、本流のアマゴは鉤先が、触った瞬間に合わせんと、もう遅いのや。』
『この間も東京からえらい高い竿を持ってきた素人が、一尾もよう釣らずに帰って行ったわ、あんなへなへな竿でナニがアマゴ釣りじゃ』
『グラスもカーボンも竿やないで。あんなもんなんにもや、東作もなんにもや』
よかった、あゆみちゃんは竿が悪くても、相手にしてくれるから。ましてや、合わせの技術まで要求されたら、オラと遊んでくれるあゆみちゃんに出会えることは永遠になし。
「節を抜かない」とはどうしてかなあ。また、竿を畳むとき、どんな状態になるんかなあ。
「総調子」という言葉も初めてのこと。して、鮎竿もアマゴ竿も同じ調子ということであるが、どうしてかなあ。針先にアマゴがかかったことがわからんと釣れない、というアマゴ竿と鮎竿には共通点を必要とするのかなあ。
「長良川本流のアマゴ釣りの難しさは、多少腕に覚えのある釣師なら身に滲みて知っている。」
「この川、ほんとにアマゴがおるのねねぇ」
「やっぱり本流はアユやでぇ」
「長良川の解禁は例年二月一日。真冬である。他府県の渓はまだ禁漁中だから、二月の長良は遠来の釣り客を交えて賑わう。
さて、BBBのオモリをつけてセオリー通りともかく底をねらっていみる。三十分やっても、一時間やっても、コツリともこない。たまに釣れるのはウグイかアブラハヤ。間違って釣れても黒錆(注:「さび」の字は今風にしています)のスリボケアマゴ。」
『やっぱり本流はウグイしか釣れん』
『亀尾島川がええらしい』
と、車でソワソワ右往左往して、一泊二日、二泊三日がたちまちすぎる。」
「私は初心のころ、源流へ分け入っては四十尾も五十尾ものアマゴを釣っていた。」
という井戸さんが、竿幸、萬サ翁に会ったが運の尽き、釣りやすい渓の釣り捨てて、本流での苦行を続けることとなった。
なお、萬サ翁の言葉は
「『匂うような』『あでやかな』と称賛される郡上アマゴは、では、一体どこにいるのか?
古田萬吉によれば、
『本流におる。いっくらでもおる。ウグイの何倍とおる』
『よう釣らんだけや』
『長良は、てめえ、美濃からカミはどこでにでもアマゴがおるのやで』
ということになる。」
萬サ翁は「本流の『浅いとこ』におる。では、浅いとことは、表層なのか、浅瀬なのか。どちらにもいる。」
しかし、
「第一に、私のようなヤセ腕では、あの重い郡上竿は手に負えない。郡上竿は郡上アマゴのために作られた竿である。これがすんなり扱えないようでは話にならない。第二,したがって、鉤先がアマゴのアゴに触った瞬間がつかめない。第三は、喰い波が読めない。」
「先調子の竿から、思い切って軟調の竿に変えてみたのである。それはカーボンロッドの長尺の極軟ハエ竿で、この竿が描く弧は手元から穂先までほぼ均一である。この穂先を思い切って切り詰め、多少強引な引きにも耐えるように改造した。
そして昨年の早春、幸運に恵まれたが、どうやらヒントだけは掴んだ、と思う釣りができた。」
井戸さんが喰い波ではないか、と観察された現象は、「喰い波」の描写としてはわかりやすいため、長くなるが、引用することにする。ただ、この現象が長良川本流でしか見られないかもしれないが。
「そこはアマゴの集まる有名な淵で、幸い誰もいなかったが、圧倒的な流勢を見て私は途方に暮れていた。そのうち、渕尻手前の駈けあがりの水面が、時折、ふっと静止し、一瞬、平穏な鏡のようになって底まで透けて見えることがあった。その一瞬の余白の中に、夥しいアマゴの群泳があった。息を呑み、眼をこらして次の余白を待った。鏡は、水の運動に伴って、かなり長い間隔をおいて産まれ、完成する寸前に夢のように壊れた。鏡が産まれるときは、そこだけ―といってもかなり広い面積であるが―周囲の水面よりいくらか高くなるようで、サイダーの泡のように粉々に砕かれてパチパチと弾ける無数の気泡も、その一瞬は鏡の周辺へ移動するようであった。産まれてはたちまちかき消されてゆく鏡のサイクルは、まるで、長い、深い、吐息のようであった。 吐息の止み間に、アマゴの游泳を観察する。どうやら、アマゴは淵底から噴きあげてくる水流の筋に乗って、押し流され気味に表層へ浮上しながら採餌しているようであった。いわば後ずさりしながら採餌するようである。そうして渕尻の流れ出し直前まで移動すると、底を泳いで素速く元の場所にUターンしている。
―書けば長たらしいが、じっと見ていると、まるでリズミカルな踊りのようであった。そのうち淵に暖かな陽があたると、どういう具合にか、それまで必ず渕尻でUターンしていたアマゴの一部が、流れ出しを越えてすぐシモに続いている小石底のチャラ瀬へと移動し始めた。
岩陰に身を隠し、鏡が生じる範囲より幾分カミへエサを投げる。いったん深く沈め、噴きあげてくる水流の筋に乗せるようにして表層を流す。渕尻と流れ出しの境界まで流しきったとき、ピンク色のセルロイドの目印がサーッと横に走った。強引に引き抜くと、飛び込んできたのは二十センチの白銀色に輝くシラメであった。そうして噴きあげてくる水流の筋だけをねらってエサを流すことに専念し、渕尻とそれに続く流れ出し、シモのチャラ瀬で、十八尾の良型のシラメを揃えた。
―あれが喰い波にちがいない、と、額の前方三〇センチの空間でチラチラする水流の筋を反芻しながら、私は車を運転して帰路についた。
惜しむらくは、極軟のカーボン竿ではパワー不足が露呈し、どうしても一気に抜くことができず、場荒れを起こしがちだったことである。極細のラインを使うために軟調に切り替えたのは正解だったが、立てたときのパワーが郡上竿の足元にも及ばないのである。この課題をいかに克服するか。
腕か。竿か。」
(3)シラメとはなにか
@ややこしい問題は避けたいが
「シラメ」は、「故松沢さんの思い出」の素石さんの章でも、今西博士の章でも、敬遠した。しかし、長良川を考えるとき、避けることのできない現象である。
それに、学者先生が、アユの稚魚放流をされていることには留意していても、漁協が「湖産」を放流しているから「湖産」しか、四万十川には放流されておらず、日本海側の海産がブレンドされていて、それが親となり、10月15日頃に海で稚魚が大量に観察されている可能性がある、ということの考え及ばないこと。
また、珪藻をアユが食して藍藻に遷移する現象が、川の水が飲めた頃でも存在した現象か、ということに思いを馳せることなく、特殊な実験環境での結果を普遍化していること。
さらに、アユの香りが本然の性だとすると、何で、古には、川面にも香りが立ちこめ、山崎さんが「潮呑みアユ」の漁をされていた頃は、その香りが漂ってきたときを漁時としての指標にされていたにも関わらず、現在は、シャネル5番の香りを嗅ぐことが稀少な現象となったのか、について、どのように説明されるのか、高橋先生からの返事もない。
いや、そもそも、「海で動物性プランクトンを食べているアユの稚魚もやはりアユの香りがする。アユの香りというのは、じつは食物とは直接的には関係なく、そのもとになっているのは不飽和脂肪酸が酵素によって分解されたのちにできる化合物であることも確かめられている。」(「ここまでわかったアユの本」)というとき、川の中のアユには、シャネル五番の香りがぷんぷんする鮎を検体として使用されたのであろうか。
シャネル五番の香りがぷんぷんする鮎を使用されたのであれば、それはどこの川の鮎を使用されたのであろうか。
さらに、シャネル五番の香りは、死後、時間の経過とともに減少していくはずである。死後どのくらいの時間がたってから、「検査」をされたのであろうか。
「海の稚魚」と同じ香りであるということは、昨今の鮎と同様、シャネル五番の香りがしない鮎を検体として使用して、その結果で原因物質を比定したのではないか、という疑いも持っている。
死後の時間の経過とともに、シャネル五番の香りが薄れていくことは、香り成分の生成量が減少していくことであろうが、その成分と、「海での稚魚」の香り成分とが同じである、ということをどのように、検証されたのであろうか。
あるいは、シャネル五番の香りの成分が「不飽和脂肪酸の酵素」として、何で、生活史の中で、香りの質、量の違いが生じるのであろうか。
ということで、今西博士が「シラメ」の現象をどのように考えられていったのか、を辿ることは、人工のもたらす山、川への影響がアユの生活史にどのような影響を及ぼしているか、について、何を、どのような項目を、どのようにして、排除し、あるいは、考慮して考えるべきか、を、見ていくことに有益であると考えている。
しかし、素石さんが
「私がビワマスの稚魚を釣ったのは、一回きりではなく、三年ほど続けて、ほぼ同じ季節に何度も釣った。たまたまシラメの論議が煮え返った頃になって、何となくこの稚魚を頭の中に置き並べるようになり、その関係が気にかかりだしたのはここ数年来のことである。だが、へたにこの問題をいじくり出すと、書けば書くほどややこしくなり、読めば読むほどわからなくなりそうで、なるべく厄介な部分は素通りして、自分の思考力の範囲でビワマスというものを眺め直してみたいと思う。」(山本素石「遙かなる山釣り」産報出版)
と書かれているように、今西博士の観察と論理を辿ることは、素石さんでも大変なようである。山女を釣ったのは、管理釣り場か、放流された人工をほんのわずかしか釣ったことのないオラには、とても適切に今西博士を読みこなせるとは思えない。しかし、やるしかない。
そして、適切な理解は、今西錦司「イワナとヤマメ」(平凡社ライブラリー)を読んでください。この本は現在でも購入可能ではないかなあ。
A今西博士は悩む
「この一文を書き終わったのち、私は三年前に書いた『アマゴとマスのあいだ』を、読み返してみた。その時の私は長良川に、
普通のアマゴ \
@ →アマゴのフッタテ
大川でシラメ化したアマゴ /
A マスの子 →マスの降海型シラメ →マス
という二系統の存在を考えていた。まだギンケヤマメ相似説に、ひっかかっていたからである。今度もやはり二系統であることには変わりがないけれども、ギンケヤマメ・シラメ相似説をアマゴ・シラメ同一説に置き換えることによって、シラメにまつわる曖昧さを精算し、そのために生じてくる欠陥を、一年漁降海型説で埋めたのである。したがってその二系というのは、これを要約すれば、
@アマゴ=シラメ→アマゴのフッタテ
Aマスの子→マス
ということになるのだが、私の考えはこの三年間に、はたして前進したのであろうか、それとも後退したのであろうか。 (一九六八)」
「種すなわちスペシースspeciesというのは、生物界に認められる自然単位として、血縁的のみならず、地縁的にもまた、それと地つづきに分布した類縁的に近い他種にたいして、独立性を保持するものであり、この独立性を象徴するものとして、その成因はどこにあろうと、同一種に属する個体には、それと他種に属する個体とを区別しうるだけの、はっきりした形態的特徴がそなわっている、というのが私の生物学の出発点で、そこから同位種とか棲みわけとかいったこととともに、また種社会(specia)・同位社会(synusia)といったような概念も生まれてきたのである(今西1949;1958)。
だから、私としては、北海道の着色斑点のない白っぽいイワナと、関西の柿色の斑点のある黒っぽいイワナとを比較した場合に、いくら歴然とした色彩上の違いが認められようとも、その中間に黄色ないし橙黄色の斑点をもった中間型の存在が認められ、そのうえ、こうした斑点の色彩の違うイワナがお互いにはっきりと棲みわけているというなら、話は別だが、そうではなくて、混在しつつ次第に移行してゆくというのである以上、分類学者のやるように、個体が地方的にあらわす違いだけに着眼して、これを二種類なり、あるいは、中間型も入れて三種類なりの、別種と認めるわけにはいかない。ゆくゆくはこういうちがいがもとになって別種になるかもしれないけれども、いまだ、同一種内に認められる地方的差異であるにすぎない。
ハクスレー(1938;1940)が地理的位置づけのちがいに応じて同一種内の個体があらわす、こうした系列的な変異をクラインclineと名づけたのは、もう二〇年以上もまえのことであった。従来から哺乳類・鳥類・爬虫類、及び昆虫類などの陸生動物については、気候の乾燥―湿潤という系列的な変化に照応して、そこに棲む個体の色彩が淡色(乾燥)から濃色(湿潤)へと、系列的に変化する例が知られていた(Hessene,1924,pp.386〜387)。これらの色彩変化の上に認められるクラインであろう。
上記したイワナの色彩変化も、淡色から濃色につらなる、見事な系列的変化をあらわしている点で、やはりクラインに該当したものだといえる。ただ、水棲動物のことだから、気候の乾湿ということには関係がないけれども、大局的にみれば、このクラインは日本列島に沿うて南北につらなっているのだから、もしこれに照応するものがあるとすれば、やはり南北によってうける太陽輻射熱の量的なちがい、といったようなことを、一応考えてみたくなるのである。といっても、もちろんこうした変化を生じるにいたるまでの、ものすごく長期にわたった、その累積効果というものを考えているのである。そしてもしそういうことだとすると、日本海側で柿色の斑点をもったイワナの出てくるのが、福井県あたりからだとすれば、太平洋側でもそれが出てくるのは、やはり福井県と同緯度のあたりからでなくてはならないことになるが、私はまだこの方面を自分でくわしく調べていないし、それに水温ということを考えると、同緯度にあっても水温は川による違いが出てきてよいはずだから、このへんのことはもう少し資料が豊富になるまで論議をひかえ、ここではとりあえず問題提起ということにとどめておく。」
B「シラメ」の現象と観察と推理と
残念ながら、今西博士の仮説、論理展開が理解できたとはいえないが、わずかに雰囲気だけは感じている。
それほど、今西博士を悩ませる「シラメ」とはどのように観察されていたのであろうか。
A (今西博士):「根尾川のシロ」
「シラメというのは年中釣れる魚ではない。」
「安曇(あど)川中流の平附近で、11月ころにシラメが釣れている、」
「根尾川中流の樽見へアマゴを釣りに出かけた。これは九月ごろだったと思うが、釣れたアマゴを土地のものに見せたところ、これは『シロ』だ、これは『アマゴ』だといって区別したものだ。そして、彼らがシロといったものは、白っぽくて、これが長良川でいうシラメではなかろうか、と松岡氏は付け足した。」
「前氏はまた、揖斐(いび)川のシロについてもよくご存じで徳山村あたりでは、やはり十一月ころが盛期である、とのお話であった。」
「しかし、実物を見ておかねば話にならないというので、一九六五年三月及び一九六六年二月に、長良川へ出かけて、シラメの首実検に及んだところ、たしかにアマゴにくらべると、色が白っぽく、少しギラギラしており、鱗もはがれやすい。また背鰭や尾鰭の先が幾分か黒くなっている。こういう点はギンケヤマメと同様だが、体側にあるパーマークはまだ完全には消えていない。眼瞼にある黒点も、全部消えているものはまれで、半消えのものが多い。朱点もすっかりは消えていない。これはしかし、大切な種族的特徴で、マスになったものの中にも認められるから、気にすることはないであろう。
これらのシラメは、おおむね二年魚(満一年を経過したもの)のようだから、この点でもギンケヤマメとぴったり一致するのであるけれども、ただギンケヤマメの平均(一二センチぐらいか)よりもシラメの平均(一五センチぐらいか)のほうが、大きいようである。しかし、これは栄養状態とも関係することだから、これもあまり気にとめる必要はない。
それよりも一番気にかかることは、アマゴとシラメの区別が、どうもいっこうにはっきりしないことである。土地の玄人たちにたずねると、これはシラメだ、これはシラメでない(すなわちアマゴである)と、たちどころに答えはするものの、かれらがシラメでないと判定したものの中には、シラメにひじょうに近いものから、まだだれがみてもアマゴだといえるようなものまでの移りゆきがあり、しかもその移りゆきの幅がたいへんひろいのである。これは一体どうしたことであろうか。
ヤマメはある時期がくると、ギンケになるものは、ほぼいっせいにギンケ化すると、いわれているのである。アマゴとヤマメのこのちがいは、彼らの生活史のちがいから来ているのかもしれない。」
「そこでもう一度もとにもどって、アマゴとシラメは、はたして同じものであるのか、それともちがうものであるのか。同じとすれば、どういうものが、海や湖に下ってマスになるのか、ということを、もう少し考えてみたい。そして、それにはまず、アマゴはマスの陸封型であるということを、解決の手がかりにしてゆきたい。」
B (素石さん)=安曇川の「サツキ」・「アメノウオ」
サツキ
安曇川中流域の村井で「サツキと呼ばれる可愛い魚がいるということを、だいぶん前に聞いたことがある。」「アマゴとそっくりの小型の魚であるらしいことだけはほぼ確かめることができた。」「〜今西博士から安曇川のサツキの話を聞いたとき、私はかって野洲川で釣れたことのあるマスの稚魚のことを想い出した。そして、その稚魚とサツキを結びつけて考えたのである。」
「そうなると、この眼で何度も見たことのある野洲川のアメノウオの仔というやつは、なんで三雲くんだりをうろついていたのだろうか、という疑問がまず頭に浮かんだ。野洲川へやってきたマスは、どこまで遡上するのかつまびらかではないが、早春の頃までに上流で孵化したのが稚魚になって、湖へ下ろうとする途中のやつに違いない。釣れた時期から推しても、梅雨の出水に乗って琵琶湖へ藪入りする短い旅の道中、たまたま三雲あたりの遊び心地のよい瀬で道草を食っていたのであろう、と考えてみた。
サツキもアメノウオの仔も「大きさが人間の手の指ほどしかないというのも、私の経験に一致していた。サツキという呼称は古来のものに相違なく、旧暦の皐月(さつき)の頃に姿を見せるところから、土地の人達はこう呼んできたのであろう。アザミの虫(注:素石さんがアメノウオ釣りに使用していたエサ)が白っぽく肥えるのと同じ季節である。」
「今西博士は、サツキを見届ける前に、まず栃生の中家孝司氏を訪ねて意見を聞いてみるがよい、といわれた。」
中家さんは
「サツキとはどんな魚か、という問いに対して、ビワマスの稚魚である、と明言したうえ、中家さんは手にしていたマッチ箱とタバコを示しながら、『まあ、このマッチ箱ほどの長さから、大きいやつでタバコぐらいのものですかな』と即答したことである。」
そして「サツキは、ビワマスの遡上限界より上流ではまず見ることができない。貫井の堰堤が一応のマス止めになっていて、サツキはそれより下流でしか姿を見せないという。貫井の堰堤には、地元の漁業組合の強い要望で魚道が設けられているが、放水の状況がよくないので、マスは殆どこの堰堤を越えないそうである。魚道から落ちる水量はほんの一部分で流量の大部分は堰から垂直に落下している。マスは魚道からこぼれ落ちる貧弱な小流には寄りつかず、堰から落下する豊富な瀑布の下に集まって、そこの釜で遊ぶことになる。
朽木村ではこのマスの群れを、遡上の時期によって三通りに呼んでいる。梅雨の頃にのぼるのをツユマス、梅雨明けの後にのぼるのを土用マス、そして初秋の頃、産卵のためにのぼってくるのをアメノウオと呼ぶ。」
ビワマス
「この三つの群れは、魚相の違いがあるのかどうか、そこのところは明らかでないが、中家さんのこの話を聞いて、私はツユマスと土用マスは主として、オスで、アメノウオと呼ばれるのがおおむねメスではないだろうか、と思った。オスはメスよりも早熟であるのが通例になっているこの仲間では、オスがひと足早くのぼって来て、やがて抱卵したメスが帰って来るのを待ちわびる、と考えるのは穿ちすぎだろうか。」
「マスの遡上と天候とは、どうやら密接な関係があって、雨上がりの増水時の、しかも東風の吹く日に限るようである。これは安曇川筋の特異な現象かもしれないが、伊吹山の方から吹いてくる風、つまり湖上を渡ってくる東風の日は、昔、上流の久多方面から朽木市場の方へ流していた木材が、川の西岸へ吹き寄せられた。安曇川の主要部はほぼ直流に近い態様で、比良山系と丹波山地を深く割って北流しているので、東岸、西岸という呼び方がいかにもしっくりしている。
マスがのぼるのは、木材が川の西寄りを流れる日である、と言い伝えられてきた。暗示を含んだ面白い話である。」
アマゴの新仔とビワマスの稚魚
「では、時期を同じくして現れるアマゴの新仔と、ビワマスの稚魚とは、どこがどう違うのか、と尋ねてみた。これはちょっと意地悪い質問で、たいていの人が決め手をつかんでいないのである。そういう私自身、そんなものの見分けはしたことがない。この二通りの魚は、もともと同じ種なのだから、似ているのが当たり前で、うっかりしていると識別できない。しかし、片や河川定住型、片や湖水下降型であってみれば、型態や習性のどこかで違うところがなければならないはずだ。中家さんの答えは、いかにもと思えるほど明確であっさりしていた。別々に見ていたのでは容易に区別できないが、両方を並べて見較べるとわかる、というのである。アマゴの仔よりも、サツキの方が体高がやや高いということが、中家さんの経験がもたらす決め手であった。それに、数多くの個体に当たってみると、サツキの方が、アマゴに較べて朱点が少ないという傾向も中家さんが指摘した。(アマゴの中にも、朱点が片面に二つか三つという極端なやつもいるので、これは決め手としてはむしろ二次的と見てよいだろう)
もう一つ重要なことがある。アマゴの新仔は、水温の上昇期には上流へ向かうのに対して、サツキは反対に湖へ下る。その証拠には、サツキが獲れる場所は日を追って下流へ移り、六月の末頃には、川口付近でしか獲れなくなる。いまはまだ時期が早いけど、五月の下旬から六月にかけて、ハエ釣りの毛鉤を流していると、時たまとびつくことがある。」
「未成魚を呼ぶのには、通常どこの土地でも親魚の名を冠して『何々の仔』という風に、親と仔を組み合わせた二次語を使っているものだが、朽木村では単獨の『サツキ』という一次名で呼んでいる。これは珍しい例で、よほどこの小魚に親しみをかけてきたからに違いない。関心が深くなくては思いつかない呼び名である。」
後日、素石さんは、中家さんの案内で獲れた「〜きわ立って鮮麗な体色にかがやくその小魚は、これぞまさしくサツキであった。昼間、大彦谷で釣っておいたアマゴの稚魚と並べてみると、やはり微妙な相違が見られる。」
「帰途、下鴨の今西博士を訪ねて、二通りの稚魚を見てもらった。博士は一行の労をねぎらった上、まずサツキの方をつまみ上げると、口をへの字に結んで、私の請売りの話にうなずいておられたが、小さな背鰭(びれ)をつまんで広げると、黙って眼の前に突き出された。黒条がはしっている。―たった今まで、私はそこに気がつかなかった。頭や胴にばかり目を奪われて、背鰭の特徴に思い及ばなかったのは、重要な目こぼしであった。アマゴの背鰭は透き通っているが、サツキのそれは尖端が黒く染まっている。これは川をくだろうとする降海性(降湖性)の特徴である。八センチにも足らぬチビのうちから、親直伝の素質をもっていて、早くも湖水へ下る徴候を現していた。」
C 海のシラメ?=萬サ翁に会う
ということで終われば、安曇川の「サツキ」という稚魚は、ビワマスの仔である、ということで、一件落着、となる。そして、
「このサツキが、生まれ故郷の元の川へ帰って来るのは、ほぼ三年目といわれてるが、湖へくだってから大型のマスになるまでには、おそらくギンケのような変化を起こすに違いない。したがって、安曇川でシラメと呼ばれる魚は、アマゴが一時的に変化したものか、あるいはアマゴとマスが交配したものか、とにかくマスにならずに、終生を川ですごすことは明らかである。」
といえれば、「シラメ」の生活史もわかった、となるが。
そうはならない、というか、例外現象が多すぎる、というか、素石さんでさえ、「シラメ」に関わりたくない、と感じ、今西博士が、仮説の検証と仮説の変更に悩むこととなる。
まず、海へくだってからシラメになるやつ=終生川で生活しないやつを見よう。
「これは加藤文男氏(福井県立丹生高等学校教諭・生物学)が明らかにしたところで、今年の二月伊勢湾の沿岸で採捕した二尾の標本を見せてもらったし、その写真も貰っている。獲れた場所は、町屋川尻の沖合三kmの海域である。二尾とも二〇cmあまりで、極めて顕著なマス化の徴候を現していて、魚雷型の胴と尖った頭、背鰭の鮮明な黒状が特に印象的である。むろんパーマーク(幼魚紋)は殆どうしなわれている。三月末まで、郡上郡の相生や八幡で釣れるシラメとはかなり異なっているし、むろん安曇川のシラメともきわ立った相違を見せている。」
この観察は、オラのように、シラメもサツキマスもアマゴとも無縁のもんには、何が問題なのか、さっぱりわからん。
そこで、萬サ翁がどのように語られているかを見る。
今西博士は、三月一四日(一九六五年のことと思うが)に萬サ翁と会われている。シラメには会えなかったが、萬サ翁は
「まず同氏は、シラメはマスの子であって、アマゴとははっきり違うといった。そして、パーマークや紅点のないこと、背鰭の先の黒いことなどのほかに、もう一つ重要な両者の区別点として、シラメは顔が突き出しているけれども、アマゴは顔が丸い、といった。シラメが大きくなったマスと、アマゴのフッタテとの区別点も、この顔のちがいをまずとりあげ、それからアマゴの大きいものの方が、マスよりも体高が大きいことを注意した。
しかし、その日、本流で釣れていた魚をみると、話にきいていたように、顔を突き出し、背が青黒く、背鰭の先も黒いのに、一方ではまだパーマークや、紅点の認められるようなものがいた。私はこれをシラメではないと判定したが、岐阜市の市ノ瀬早太郎氏は、シラメにパーマークや紅点があるばかりか、遡上してくるマスにまで、これらが認められるといわれるから、そうなるとどこでアマゴと、シラメ及びマスの区別をつけておられるのか判断に苦しむ。
こうした中間的なものを、アマゴとマスとの交配種である、とみるのも一説で、それでもよいが、問題は交配種でもなんでも、マスというからには、とにかく紅点が消失してしまっていないと、困るのである。そもそも小谷にすむ魚と大川にすむ魚とでは、環境上のいろいろな差異から、形態の上にも違いが生じていることは、よく知られた事実である。すると、パーマークや、紅点のあるシラメというのは、単なる大川型のアマゴにすぎず、また三〇センチ以上になっても、なおパーマークや紅点の消えないマスというのは、中・下流にくらしている、こうした大川型のアマゴの一種のフッタテにすぎないのではなかろうか。わたしは、こうした中間的なもののほかに、ちゃんとしたシラメになって、海へ下るものも、またちゃんとしたマスになって、海からのぼってくるものも、やはり昔から、長良川にはいるのではないか、と考えている。
ついでにもう一つ、わたしの考えをのべさして貰うと、若いときいったんシラメになった魚は、マスになる以外に、もはや二度と再びアマゴに復帰するようなことはあるまい、と思うのだが、シラメがマスになるためには、必ずしも海まで下る必要はなく、途中に適当な環境があったならば、そこでマスになってもよいのである。われわれはすでにその例を琵琶湖に注ぐ川と琵琶湖との間に見ているのである。
だから、かりに琵琶湖のような格好の場所でなくても、海までの間に、下流のどこかでシラメがマス化するのに適当な環境が、見いだされるような川だったら、その川には陸封型のアマゴと、やはり一種の陸封されたシラメ―マスの二系統が併存していてよいことになるであろう。もしも長良川筋に、大川型のアマゴやそのフッタテのほかに、本物のシラメ―マス系がいて、それが市ノ瀬氏のいわれるように海まで下らないものとすれば、これはまことに興味深い。サケ・マス類にすれば、南方にすむもののみに見られる、特異な適応現象ということができるであろう。」
今西博士が、市ノ瀬氏の観察をどのように評価されているのか、さっぱり見当がつかない。単に、一般論として市ノ瀬氏の観察に対して、その現象を説明されているのではないか、とは思うが。萬サ翁が、まず、顔つきでシラメとアマゴを区別されているが、故松沢さんも、鮭科特有の顔つきで、人工と本物の鮎をまず区別されていた。それでも、たまに例外の人工がいると、容姿を見られていた。
D 素石さんと萬サ翁
素石さんも萬サ翁について書かれている。
「八幡町の有名な職漁家である古田萬吉さんがいうシラメは、前記の伊勢湾型を指すもので、実にハッキリしているのだが、シーズン中に三千尾のアマゴを一本の竿で釣り集めるほどの腕をもつこの人でさえ、本当のシラメ(マスになるやつ)は数年前に一尾釣っただけで、その後は絶えて姿を見ないという。してみれば、長良川の中流一帯で毎年釣れているシラメと呼ばれる魚は、伊勢湾のシラメほどには重要な意味を持っていないと思われるのである。
この魚が釣れ出すのは、秋が暮れかかる十一月頃からで、三月の声を聞くとめっきりと姿を見せなくなって、アマゴがこれに取ってかわるようになる。」
「前記の伊勢湾型」とは、
「長良川の中流域でシラメといわれている魚は、伊勢湾海域のシラメに較べると、かなりアマゴに近い姿をしているので、はたしてシラメと決めつけてよいのかどうか、わたしは今もって判断しかねるのだが、とにかく地元の人たちはシラメと呼んでいる。」
素石さんのサツキマス
ついでに、素石さんのサツキマスの一部を見ておこう。
「もう一つ、長良川の遡上マス(土地の人は昔からカワマスとかサツキマスと呼んでいる)は、初夏の頃、ミミズで釣れる。春に遡って来て、産卵の始まる秋まで川で遊んでいるのだから、その間には他の小魚などを食って腹ごしらえをしているに違いないのである。そこを上手な釣り師に狙われるわけだ。ここで春の遡上マスを、奇しくもサツキマスと呼ぶのは、やはり季節を冠したもので、たまたま稚魚のサツキがくだるのと、親のマスがのぼるのと、時期を同じくしていることになる。この親と仔は、川のどこかで、劇的なすれ違いを演じているのにちがいない。」
「〜今なお太平洋と交渉をもつ種族を原種(注:陸封されていることから別種とされているビワマスのことについて)と考える方が妥当ではないのか。そうだとすると、長良川のサツキマスは、一衣帯水で外洋とつながりをもち、また多様性に富んでいる点で琵琶湖の種族をしのぐものがある。」
海に行かないシラメも?
「〜型も体紋も異なっている。琵琶湖のマスほどすんなりと筋が通っていないのである。思うにこれは、伊勢湾まで正直にくだる刻苦精励派と、下流の墨俣あたりでごまかして戻ってくるカンニング派と、そのどちらにもくみせぬ中間派などがあって、そこへ川のアマゴが割り込んでくる。その各派閥は、今日の政党のようにいがみ合うことなく、時節が来ると相前後して郡上の方に集まってくるものと思われる。だからこれを捕まえる人間の方は、いつも困惑させられて、専門の漁師でさえその区分けには匙を投げることになる。
因みに、アマゴとマスの系列にのる魚について、長良川ほど呼び名の豊富なところは日本中にも例がないだろう。どうやらビワマスの本家は、琵琶湖よりも長良川の方に分があると思うのだが、この裁きはどうつけたものであろうか。」
E 学者先生の鮎の研究は適切か
と、素石さんの悩みもわかるが、まだ投げ出すことはできない。
しかし、この「シラメ」に係る現象の観察と推理の過程の少しでも、鮎の研究者が持ち合わせていてくれたなら、十月一日頃から太平洋岸の産卵が大量に始まる、食圧で珪藻から藍藻に遷移する、という実験や観察の妥当性を少しは適切に修正できるのではないかなあ。
そして、シャネル五番の香りの原因物質について、あるいはその香りが「食」とは関係ないという説について、一層疑問が強くなった。
1 不飽和脂肪酸の酵素を検出されたとき、シャネル五番の香りはしていたのか
なぜかというと、現在の川で、シャネル五番の香りを振りまいている鮎が生活をしているところはほんのわずかの川しか存在しないはず。したがって、どの川で検体を取ったのか、ということは重要な事項となるはずである。
また、シャネル五番の香りは、死後急速に減少していく。したがって、死後どのくらいの時間後に検査をされたのか、ということは、香りの物質がまだ存在しているのか、していないのか、を考える上では、重要な要素になるのではないか。
2 香りが揮発性の性質を有する成分であるから、川の中・水中にも、川面にも漂っていたはずである。その物質が生成されなくなったときでも、まだ香り成分は死後の体内に残っているのか。
あるいは、シャネル5番の香りを容器に入れて、その成分を特定する作業をされたのかなあ。そして、その香り成分と、死体に残っていた香り成分の同定をされたのかなあ。
本物の「清流」を知らない研究者が実験結果を普遍化されたように、本物のシャネル5番を知らない人が、たまたま死骸に残っていた香り成分とシャネル5番が同一物質である、と判断されたのではないかなあ。その結果が海の「稚魚」も香りがある、「食」とは関係のない「本然の性」に基づく香りである、と判断されたのではないかなあ。
3 そして、オラが一番不思議に思っているのは、なんで、古の川ではシャネル五番の香りがぷんぷんと漂っていたのに、現在ではしなくなったのか、という現象について、香りが「食」とは関係ないと主張される学者先生方はどのように説明されるのか、ということである。その説明があれば、素人なりに貧弱なおつむを巡らせることもできるかも。
それとも、学者先生はシャネル五番の香りを嗅いだ経験もないのかなあ。
もし、あるとすれば、時間軸での香りの質と量の違いをどのように考えられるのかなあ。
ということで、シラメに係る複雑で変化に富んだ「シラメ」の類型、生活史に、「学問」としての考察をされている今西博士の手法を採用される研究者が、シャネル五番の香りがこの世から消えてしまわないうちに出てくることを切望している。
オラは、村上先生が控え目に推察されているように、シャネル五番の香りは鮎の「食」を巡る生活史と密接に関係していると考えている。
なお、昭和五十二年、五十三年には、相模湾の稚魚が、湖産養殖の一大産地である徳島に送られている。その相模湾の海産稚鮎が幼魚等に育ったとき、「海産」として販売されていると考えるべきか、それとも、海産の何倍もの値がつく「湖産」として販売されていると考えるべきか、昨今の偽り、偽装の横行を考慮して判断すべきことであろう。オラは当然、前さんの推測通り「湖産」の増量剤として使用されていると確信している。
そして、相模湾から徳島に海産稚魚が送られているように、カモメが遡上を知らせていた江の川等の日本海側では、いっぱい海産稚魚が採補できたであろうから、相模湾よりも早く徳島に送ることができた、と考えるべきであろう。その海産稚魚が「湖産」として放流された河口等の海では、しばらくは育つことのできた仔稚魚が十月中旬に観察されたであろう。
一〇月一日頃の水温が孵化に適するか、どうかは気にはなるが、神奈川県内水面試験場が一九度でも孵化する、とのことであるから、その発言で満足しておこう。
この後、今西博士が、若狭湾の南川、北川で、堰堤にさえぎられて遡上できないアマゴ、あるいはマスの生活史を語られるが、そのときに観察され、推理された「1年で海に戻る」という説を、普遍化されれば、それは適切な観察と推理ではなかろう。あくまでも、人為が作用した結果での、生活史の変化と考えられている。同様に、あゆみちゃんを巡る生活史が、人為で乱された現象をふくんでいる、と、考えるべきではないのかなあ。その人為での影響とは何か、を絶えず意識しながら、現象を考察すべきではないのかなあ。
F 堰堤による生活史変更等
最後に、今西博士と素石さんの記述の中から、気に入ったカ所を拾い出すこととする。
a 一年魚の降海の仮説(今西博士)
「いったい長良川にすむ魚の中で、なにものが海に下ってマスになるのであるか。いいかえるならば、シラメがマスになることを否定してしまったら、もはやマスに成り手がないのではないか、という疑問に対して、答えを用意しておかねばならないのである。
まずマスとは類縁の近い、サケのことを考えてみよう。京都から近いところでサケの遡上する川といえば、小浜湾に注ぐ南川をあげることができるが、そこでは十月半ばごろからサケの遡上がはじまり、中流の久坂あたりまでのぼって産卵している。しかし地元で聞くと、だれもサケの子をみたり取ったりしたものはいないという。それも道理で、サケの子は卵から孵化した稚魚が、春の訪れとともに、いち早く海に下ってしまうから、だれもこれを知るものがいないのである。 南川にはサケばかりではなく、マス(サクラマス)も遡上する。南川のマスはいまでも、野鹿(のが)谷までのぼるといわれているけれども、北川のマスはいまでは、関の近くにできた堰堤にさえぎられて、そのほとんどがもはや天増川までのぼらなくなってしまった。それでもマスは、年々海から北川へのぼってくるのである。
わたしはここで、一つの問題に出くわした。この年々海からのぼってくるマスの補給源、あるいはその発生源は、いったいどこにあるのだろうか、ということである。これに対して二つの考えが浮かんだ。その一つは、マスはせっかくのぼってきても、堰堤にさえぎられるため、産卵もしないうちに死に絶え、それを補うために天増川のアマゴのある部分が、年々海へ下ってマスになっているのだ、という考えである。いま一つは、マスは堰堤にさえぎられても、堰堤以下で産卵し、何も上流にいるアマゴの助けなど借りなくても、マスはマス自身である程度まで自己完結的に、その種族維持を達成しているのだ、という考えである。どちらがはたして論理的に、筋の通る考えであろうか。
わたしは後者をとりたいと思った。しかし、ここでさらに問題となってくるのは、北川のアマゴはサクラマス系のいわゆるヤマメであり、ヤマメは北海道では生後まる一年を川でくらして、二度目の春に、二年魚として海にくだるといわれていうことである。もしどこのヤマメでも、これと全く同じ生活史を経なければならないものとしたら、北川の堰堤より下流で生まれたマスの子、すなわちヤマメは、どうして最初の夏の、水も少なく、水温も高い平地の川で、モツやドジョウと一緒の生活に耐えることができるのであろうか。それは、夏にはそんなところに、ヤマメが一尾もおらぬことから、すでに証明済みのことである。(ただし親魚であるマスの方は、産卵期が来るまで、どこかの淵の底にでも潜んで夏を越すものとしておかねばならない。)
そこで、さきにあげたサケの場合が、マスに援用されることになるのである。もしマスの子も、サケの子と同じようにまだ水温の高くならない春先きに、川を脱出して海へおりてしまうことができるならば、なにも問題はのこらないはずではないか。そのときはおそらく、まだ五センチに達するか達しないかの稚魚であるだろう。そして注意すべきことは、その稚魚の体側にはまだ歴然としたパーマークがついていて、へんなシラメ化などは、はじまっていないであろう、ということである。実際私は、北川や南川でギンケヤマメのことを聞いてみたのだが、まだもう一つ腑におちるような答えを、えていないのである。」
「長良川の大支流、亀尾島川にも、昔は源流近くまでマスがのぼったものらしく、仏峠に通じる仏谷のさらに上流に、マス洞という名前のついた小谷がある。しかしいまでは、田口にできた堰堤がマス止めになっていて、ここに遡上してきたマスが集まっている。
では、ここまでのぼってきたマスは、それからどうするのだろうか。マスがのぼってくるのは五月ごろだから、それから産卵期の十月までは、どこかの淵にひそんでいるとしても、産卵はやはり堰堤の下で行う以外に道はないであろう。そこで孵化した稚魚に堰堤下の大川で、はたして夏が越せるかという問題をだすとすれば、亀尾島川の場合だって、棲みにくい点ではさきにのべた北川の場合とそう著しい違いはなさそうに思われる。
すると、長良川にのぼってくるマスでも、マスの子はやはりシラメとは別にまだ五センチぐらいの一年魚のとき、だれにも見つからずに、海へくだってゆくのではなかろうか。」
「一年魚の降海、これが私のここに提唱する第二の仮説である。」
b アマゴ・シラメ同一説
なお、第一の仮説は
「いわば、アマゴ・シラメ同一説ともいうべきのもである。ではどうして同じ魚が大川にくだるとシラメになり、小谷にはいるとアマゴになるのか。それは栄養条件をふくんだ環境のちがいに由来するものであろうが、そいつは一つ、現役の生態学者に分析してもらうこととして、この仮説によるならば、そうでないよりも、すくなくとも説明の容易になる現象を、私はここにいたるまでにすでに二つもち出しているのである。」
その一つの要約は
「いま一つは、さきに私が長良川で、シラメ化したものにいろいろな段階のあることを、不審に思ったと書いておいたことに対する説明であって、それもこの仮説にしたがうならば、要するに早く大川にくだって、長く大川にすんでいるものほどシラメ化が進んでおり、その反対のものほど、まだアマゴ的であると考えたらよいのである。この反対に夏になると、早く小谷にはいったものほどアマゴ化が進んでおり、おくれてはいったものにはシラメ的なものもいるであろうということになる。」
アマゴでは、環境によって、顔つき、容姿が多くの人に判別可能なほど、多様な違いが出るということは、当然、環境・水質・苔の種類構成、栄養素等成分によって、アユにも、香りに質・量の違いが生じると考えたい。
香りが鮎の本然の性に基づくものであり、「食」とは関係ない、といわれる学者先生は、「ど素人が、時間軸での、あるいはまだ一部に観察できる空間軸でのシャネル五番の質・量による相違をどう説明するのか」と質問されたときに、今西博士のように「答えを用意しておかねばならないのである」とは考えられていないのかなあ。
G 素石さんのまとめ=シラメ幻想
a 徳山ダムとシラメの運命
「わたしの考えでは、揖斐川徳山村のシラメはいつかはいなくなると思っている。釣られていなくなるのではなく、放っておいても永久に姿を消す運命にある、と思う。サケ科の魚は、棲む環境による変移が著しいことはよく知られているが、それだけ種族的に不安定なのだから、マスがのぼらなくなった地域でシラメの発生が永続するとは思えない。」
b 御母衣ダムのシラメの先祖返り
滅びる運命とはいいながら、庄川の御母衣ダムでは、別の現象を観察されている。
「庄川の中下流域には御母衣ダムよりも古いダムが六つもあって、とっくの昔に日本海のマスはのぼらなくなっていることはさきに書いた。これが問題の前提である。マスの仔は海へくだってはじめてマスになるのであって、川にいるあいだはマスにならない。川に定住するいわゆる陸封型のアマゴやヤマメは、三年たっても四年たっても、ただ大きくなるだけで、マスにならないことは従来の常識である。それは昔の兵隊がいくら古参兵になって幅をきかせても、士官学校を出てなくては将官への道が開けなかったのと同じと思えばよい。そうした制約の中でマスが生じている事実をつきとめた以上、そのいきさつが気にかかるのは当然である。
手っ取り早くいうと、御母衣ダムが海の代用になって、陸封されたヤマメの中から、マス化の作用、マスへの回帰が始まったのである。始まったというよりも、再開されたというべきであろう。遺伝的な習性というものは、何代たってもそうあっさりと消滅するものではない。種は畑に蒔かれさえすれば、時を得て発芽するものである。因子と環境の双方が、ここでは一見驚異と思える現象を生み出した。」
c 陸封の序列
「マス属の陸封は、なにも氷河時代の後退期に限られたことではなく、その後も沿岸水域の海水温度の上昇や、下流域の水質の悪化とか、人為的な阻害物の構築などのために海へ降れなくなって、比較的近世に陸封された仲間もいるに違いない。言いかえると、陸封されたマス属にも、古参から新参へといくつもの年功序列があって、陸水に馴染んだ歴史にも新旧の差があると見ることができるわけである。陸封の先住者であるイワナの仲間に、地方別による個体差があったり、アマゴの仲間からイワナが出たりしていることからも容易に想像できる。」
「〜一層飛躍して、ビワマスの方がサクラマスよりも陸水への適応性が進んでいるのではあるまいか、というとっぴな考えも浮かんでくる。この推測に誤りがなければ、陸封の実績が新しいほど、陸封種がマス化する逆作用(先祖返りとでもいうか)が起こりやすいということになる。」
と、御母衣ダムを「海」とするサクラマスの存在を想像されている。
揖斐川にさらに「世界で第三位」の徳山ダムができると、
「この川の上流に毎年発生しつつあるシラメはどうなるのであろうか。庄川の御母衣ダムでサクラマスが天然発生している奇想天外な前例もあることだから、御母衣をしのぐ大人造湖の現出によって、このシラメどもが再びマスにならぬとは誰も断言できない。いや、その可能性は大いに考えられる。ことによると、無尽蔵のマスの宝庫にならぬとも限らないのである。それにつけても、今のうちに河川発生のシラメの標本を確保して、後年に備えたいという気持が私には強い。」
d 素石さんのシラメのまとめ
ということで、
「今西博士の斡旋で県知事の特別採捕許可をもらって、出現期の晩秋からその実態を観察しはじめた。
これまでにまとめた私の考えの基調を要約すると、大体次のようになる。
一,シラメには海洋型と河川型がある。河川型をシラメと呼び、海洋型をギンケアマゴと呼んではどうか。この呼び方はどちらでもよい。いずれにしろ区別する必要がある。
一,河川型は中流域に発生するといわれるが、実際はもっと上流で、下降するにつれてシラメ化が進む。それが中流辺で目立つようになるので、水温の下降と関係がある。春先には姿を消すといわれるが、それは銀白化現象が後退して、元のアマゴに戻るからである。
一,海洋型のギンケアマゴは、一部のシラメが川をくだるもので、背鰭ないし尾鰭の周縁に黒条が現れ(墨ではいたようになる)、体型は一層紡錘形に近くなる。
一,年齢は満一歳前後で、普通のアマゴよりも著しく成長が速い。いわば肥満児で、したがって性巣は未熟のままである。解剖すると、かすかに抱卵の徴候を見せている。」
河口堰ができて、シラメ、ギンケアマゴの生態、容姿、量、構成比、生活史等に変化を生じたのかなあ。
H 萬サ翁と素石さん再び
1971年3月に発表された「名人」の章で、萬サ翁のことを書かれている。5月の「サツキ」採捕のことであるから、1970年のことではないかなあ。
a 渡世人の釣り掟
「萬さんは、自ら“渡世人”という古風な言い方をする。それは一竿をもって渡世のよすがとする、という意味で、平たくいえば商売―、とはいっても、半期そこそこの仕事だから、冬の間はあそんでいなくてはならない。その遊ぶ間を、みんな出稼ぎや日雇い、自由業などで別途の収入を図るのだが、萬さんはそれをやらない。悠々と炬燵に当たり、好きな酒を飲んで冬ごもりしている。時に気が向くと、寒ウグイ(ハヤ)を釣りに出かけたりもするが、とにかく釣り以外の仕事は何もしょうとしないのである。家にいなければ川、川にいなければ家、この人にとって長良川は仕事場であり、同時にまた遊び場にもなっている。どう見ても、心からたのしんでやっている職業のように見える。
大多サも、大きな声では言えないが、冬は炬燵で過ごしている、と語られていたが。
井戸蛙石さんは「菓子屋の大多(だいた)、竿師安幸、弁天の青地、釣具屋田代…いまや伝説となりつつある郡上八幡の凄腕漁師たちの舞台、長良川とはどのような川なのか。」と、大多サは菓子屋(のち釣具屋を引き受けられているが)、あるいは故松沢さんがわらじを脱いでいた仮称服部さんは万屋を営まれたようであるが、それらの名人も3ちゃん家業で、とちゃんはお魚を相手にしていた。
「本流でしか釣らず、谷の細流へは決して入らない。第一、魚品が落ちるし、谷は魚の待避所だからである。餌は川虫かミミズに限られていて、イクラやカブ玉(鰍(かじか)の卵)の類は使わない。魚卵は釣餌に使うべきものではないというのである。魚卵で魚を釣ることは、共食いさせるのと同じで、魚族保護の趣旨と矛盾することになる。生産源を餌にして成魚を釣るのは、漁師自らの墓穴を掘ることと変わらないし、“渡世人”冥利に背くことである。だから魚卵は一切使わないのだ、というのが萬さんの一貫した主張である。この頑固ともみえる節操と、秀でた釣技とは一枚のものだと思われる。研鑽に根ざす深い自信から生まれた見識というべきだろう。」
「名人の称をかりそめに使わぬとして、多くの達人名手の中から一人だけ、最高の実力者として名指しするならば、私はためらうことなく古田萬吉を推すだろう。」
b 萬サ翁のアマゴの稼ぎ
「一シーズン中に釣るアマゴは百二十貫目(四五〇kg)、悪くても百貫匁をくだらないという。仮に一尾当たり百五十gのアマゴにすると、三千尾分に相当する。」
「アマゴ漁に続いてアユ漁が始まることになるが、アユにいたってはもっと数が増えるだろう。
“渡世人”ともなると、水揚げする型や数にムラがあってはならない。尺物はいらぬかわりに、ちっぽけなやつが混じっても困る。注文通りの型と数をそろえなくては商売にならないのである。
一本の竿に生活をかけるということになると、たのしかるべき釣りも、何となく重苦しいものになりはせぬかと思うのだが、それが不思議なことに、萬さんはいつでも余裕をもってたのしんでいるように見える。どだい川釣りが好きなのだ。風貌や言動から受ける印象は至って粗野で、長年、長良川の川風に吹き叩かれてきた強靱な野生と、古風とも思える土着的な風格がある。こういう型の釣り師は、いや、人間はもうこの後には現れないだろうとさえ私は思っている。
たださえややこしいアマゴの系列でも、とりわけ長良川の生態系は複雑だが、萬さんの経験からくる個体識別の眼識は一家をなすものがある。『わしは釣るのが仕事でわからんが、むつかしい仕分けはお前らがやれ』と謙遜しているけれど、どうして、その見識の鋭さと正確さは舌を巻くばかりである。
このカ所で、また、故松沢さんの、「鮎に聞いたことはないからわからんが」といって、オラに鮎の生態等を語られたことを想い出した。鋭い観察眼を持っている人に共通する謙虚さではないかなあ。
萬サ翁が、なんでサツキマスを釣られなかったのかなあ。シラメ、アマゴと付き場所が違っていたのかなあ。それとも、狙って釣れるものではないから、安定供給の視点からリスクが大きすぎて、ゲーム、遊びとしての釣りしかできない魚と思われていたのかなあ。
平成の始めか昭和の終わり頃、故松沢さんに、釣り上げたこの魚は何?と聞いた人がいたとのこと。
故松沢さんが説明して、囮箱の囮全部と交換してやるよ、といった。その釣り人は、そんなに高価で、貴重な外道が、いや、サツキマスが取り込めて感激していたとのこと。たしか、三,四万円で引き取り手があるといわれていたと思う。
その釣り人は流行に影響されず、よほどの太糸、大きいハリを使っていたということでもあろう。
そういえば、故松沢さんが、アマゴ、シラメを釣っていなかったとは考えにくいが、これらの釣りについて、一度も聞いたことがなかった。狩野川までアマゴ釣りに出かけていたら、聞いたであろうが、あゆみちゃんとのデート代を獲得するのでさえ、至難の技である状態では、2足のわらじを履くことは無理な相談。
二〇〇八年の相模川は弁天。瀬で囮を持っていかれた人がいた。白い魚がうろちょろしているのが時折みえていたから、注意をしていたが。コイ敵やニゴイと違って、鋭い引きであった、と。
その頃、弁天左岸分流のブロックのところで弱っている魚を捕まえた人がいた。Iさんは、喜んだ。それを見ていたもの達は、そいつを食べたら、死ぬぞ、とおどかした。サクラマスを食べる幸運に恵まれた人は、腹から、鮎針が出てきたといっていた。
ということは、弁天に二匹のさくらちゃんがいたということになる。津久井ダムは底水放流であるから、七月では二〇度近いの水温になることがなかったから生きのびていたのではないかなあ。
相模川で、さくらちゃんを狙うのは宝くじを夢見るほどのキケンな確率ではあるが、長良川でさつきちゃんをナンパするのは、安定して釣れる確率の危険度が高いのではないかなあ。遊びの対象ではあっても、商品にするには「渡世人」の流儀にあわない、ということかなあ。
c 萬サ翁の釣り姿
井戸さんがすでに郡上竿の効用を語られているが、素石さんも萬サ翁の釣り姿から、郡上竿の必要性を語られているので、それをみていみよう。
「この地方では、『郡上竿』といって、しなやかな総調子の長竿に極細な仕掛け、いまでいう〇.四号の通しでアマゴを釣るのだが、これがまた『郡上どり』といって、確実に合わせてすんなり抜き上げるという至極当たり前の理屈が、この郡上竿獨特の総調子で巧みにこなされている。素人が、この郡上竿をなんとか使いこなせるようになるためには、すぐれた職漁師のやり口をそれとなく盗み見しながら、長良の本流で相当の年期を入れなくてはならない。買ったばかりで、オイソレと間に合うほど使い勝手のいい代物ではない。
鉤合わせをくれたとたん、魚は一瞬、糸の張る方向へ頭を向けて動転する。崩れた姿勢を反転させるのはこれも瞬時の後なので、その余裕を与えてしまったのでは、場荒れする。ましてバラすようなことは、決してあってはならない。この無駄のない取込みの秘法が『郡上どり』で、郡上竿はこの釣法の工夫から生まれたものである。
そういうところへ、他所(よそ)者の素人が、腰の硬い先調子の竿に道糸〇.八号とハリス〇.六号という常識通りの仕掛けで挑んでも、場違いの嘆きをみるだけである。だから萬さんはいう。素人に先に行け、と―。」
「みんな先へ先へとやらせておいて、自分はその後から皆の何倍も釣って歩く。心憎いというようなものではなく、呆れてしまうほどの妙技である。
食い逃げはもとより、どんな渋いアタリでも見逃さない。竿がたったら必ず魚がかかっている。水を切った魚はおおむね一直線に手元へ取込まれて、鉤を外したときは、萬さんの眼はもう次のポイントに注がれている。魚を尾籠(注:「魚籠」の誤字か)へ納めるときも、新しい餌をつけ替えるときも、水流の動きを注視したままで眼をそらさない。次に釣られる予定の魚の居場所が、彼の眼中にはちゃんと決められているのである。素人目には一様に見える流水の動きにもリズムとアクセントがあって、その乱流の強弱に従って魚の採餌活動が左右される。これを“食い波”というそうだが、すぐれた漁師は、この“食い波”を適確に読んで餌を送り込むのだということである。」
d 前処理、保存法
クーラーのなかった頃、「萬さんは特別にこしらえた背負子(しょいこ)を使っていた。山伏の笈(おい)を大きくしたようなもので、内部は簀(す)の子式の棚に仕切ってある。釣れたアマゴが魚籠に満ちてくると、背負子をおろして棚に魚を並べる。また魚籠が重くなると格納して背負い込む。釣れた魚はすぐさま絞めて、タオルでていねいに拭いて表皮のヌメリを取り去っておく。この作業が大切で、濡れたまま突っ込んでおくと、下積みになったやつは色が変わったり、接触部に見苦しいムラが出たりして魚品が落ちる。そればかりではない。鮮度をなるべく落とさぬためにも、この“拭き掃除”は大切な仕事だそうである。
簀の子の棚にぎっしり魚が詰まって、背負うのに腰が曲がり出すと釣るのをやめる。それ以上欲張ると運べなくなるからである。まるで芝刈りか芋掘りみたいな話だが、事実、萬さんがアマゴやアユを釣りに行くのは、畑の大根か人蔘を抜きに行くほどの手間で、大した造作もかからぬ仕事のように見える。腕の確かさは、その日その日の天気に応じて狙い場と釣り方が選ばれて、当たり外れというものがない。」
e 腕の事例=調査協力
「長良川にのぼる天然マスの仔、仮にこれを(滋賀県の安曇川にならって)サツキと呼ぶことにしょう。体長五cmから七cm位の、いわゆるビワマスと呼ばれるわが国在来マスの稚魚のことである。岐阜県ではこの親魚を昔からカワマスと呼んできた。」
「研究の都合上、その実態を知りたいのと、若干の稚魚(サツキ)を手に入れたいのとで、今西錦司博士(当時岐阜大学長)に随行することになった。一昨年のことである。
しかし、あのだだっ広い長良川の、どこにそいつがいるのか、まるで見当のつけようがない。よし見当がついたとしても、どうすればその稚魚を捕まれることができるか、時季や方法についても何一つ手がかりがなかった。いずれは地元の漁業組合へ依頼するしかないのだが、マスの仔はまったく漁業の対象にはなっておらず、これを獲るためには県知事の特別許可がいる。私風情だったらコソコソともぐって行けるのだが、今西博士ほどの大物になると、そういう軽挙妄動はできないとみえて、正式の手続きを踏んで申し入れることになった。それと、一番手っ取り早くて、しかも確実な方法は、古田萬吉に出動してもらうに限るので、特別に依頼の手紙を出しておいた。いわば二段構えを講じたわけである。」
「時は五月三十日。地元の学長、今西御大のお出ましとあって、どの組合も誠実の限りを尽くして協力してくれ、危篤この上もないことだったが、肝腎のサツキに関して知見のある人が一人もいないのは意外であった。マスの消息にかなり詳しい人でも、そういうものがいるらしいことは、聞いて知ってはいても、実物を見たことがないというのである。手がかりもなく、所在もわからずに探しまわるほど心もとないことはない。八幡地区から美濃地区まで、各地区から網打ちの名人と、竿釣りの名人が、仕事を休んでサツキ取りにかかってくれた。しかし獲れるのは解禁前のアユばかりで、時に中型のアマゴも混じったりした。とうとう板取川の洞戸まで足をのばして、谷アマゴの稚魚までほじくり出して捜索したけれど、結局サツキの行方は不明のままで、手をむなしくして京都へ帰った。」
その翌晩、萬さんの弟さんから電話があり、
「その日の朝、萬さんは私の手紙でたのまれた通り、サツキ十二尾をそろえて、自宅で待っていた。一行が八幡へ着いてから待たせるのは気の毒だから、朝のうちに一時間ほど川へ降りて釣っておいたのだという。」
組合のサービスに振り回されて、洞戸で日が暮れて八幡の萬さんに会うことができなかった。
「これほどまでに組合の人材を動員して手を尽くしても一匹も獲ることができなかったのだから、いかに萬さんとはいえ、やはり無理な注文で迷惑だったに違いない、ぐらいに思っていたのである。
白鳥からの電話を聞いて、私はびっくりするやら恐縮するやらで、慌てふためいて萬さんに詫びの手紙を書いた。そして、もう一度頼むから何とかしてくれと、泣言まじりで懇願した。」
f 名人と迷人?
「次の約束は六月八日。こんどはクラブ員と四人。どこへも寄らず、まっしぐらに郡上八幡の萬吉宅へ走った。萬さんは手紙の趣旨を諒解して、機嫌を直して待っていてくれた。
『そんなものが、投網で獲れるもんかい。竿で釣らんけりゃ―』
さすがに萬さんは、サツキのいる場所をちゃんと知っていた。成長したアユが瀬につきだすと、ちっぽけなマスの仔は追い散らされて、流れの中層を右往左往している。そんなところへどんな達人が網を打っても、サツキのやつは真っ先に逃げ散ってしまう。獲れるのは逃げそこなったアユにきまっているじゃないか。こいつはミミズで一つ一つ拾い釣りしなくては獲れん。それも底を流していたのではだめだ。中層を狙わなくては―。胸にドサリとこたえるような明快な調子で、萬さんはそう言った。」
「大型の冷蔵庫から容器を取り出してきて目の前に置いた。中には目ざすまぼろしのサツキが十尾、行儀よく並んでいた。前回のやつはもう色が変わってしまったので処分した。今朝ひとっ走りしてちょいと釣ってきたのだという。一同は目をみはっておどろいた。
萬さんの話は重大な暗示を含んでいた。これは本当のマスの仔かどうか分からない。マスの仔は、もっと小さいうちに川を下ってしまうようだ。今ごろこんな大きさ(八cm〜一〇cm)で川の上流に残っているのは不確かなやつで、多分、アマゴと交配して川に居ついているのだ。どちらともつかぬ姿をしているだろう。だが、アマゴの稚魚でないことは見れば分かる。それを見分けるのはお前らの仕事だ。あとはいいように研究しろ。―ざっとこういうあら筋である。十尾はどれもが、普通にいうアマゴの稚魚と違って、背鰭が黒化したのや、朱点が殆どないのや、少しギンケづいたのや、いろいろなのが混じっていた。」
腕に覚えのある素石さんらが、標本を手にしたからといっていそいそと帰るわけがない。
「四人は見惚れているうちに欲が出てきた。どこでどうして釣ったらよいのか、と訊くと、今頃なら吉田川の畑佐の下まで行け。餌と仕掛はこれこれ、竿はどれ、そこは川原が広いから、水際に立って竿いっぱいに飛ばすとこういうことになる。だからこうしてこうすれば釣れるのだ。ここに十匹そろえてあるのだから、あとは無理をしなくてよいだろう。まあ、あそびのつもりでやってみろ、といわれて、四人は一目散に畑佐の下へ車をとばした。
名人に教えられた通りのことを、教えられた場所で、四人がかりで一生懸命やってみた。陽あしの長い初夏の半日を、陽が傾くまでねばってみたけれど、名人の言は迷人どもにはこなせず、二〇cmほどのアマゴが二尾釣れただけで、サツキはついにわれわれの手にはかからなかった。」
(一九七一年三月)
いやあ、素石さんの腕をもってしても「迷人」と恐れ入らざるを得ないとは。オラはいつも素石さんの苦痛を味わっているから、腕にもいろいろ、悩みもいろいろ、とにんまりできる余裕。
萬サ翁はどのようにして、「サツキ」の付き場を観察されていたのかなあ。おまんまの種ではなかろうに。
アマゴの北限?東限?の狩野川で、アマゴに手を出さなかったとは考えられない故松沢さんは、萬サ翁の話をどのように説明してくれるのかなあ。
それにしても、野洲川でアメノウオの稚魚・「サツキ」を釣っていた素石さんですら、釣れない、ということは何でかなあ。
「サツキ」の時季はすでに過ぎていて、いない、数が少ない、ということかなあ。
それとも、「サツキ」と、アマゴとの交雑種では、釣り方が違うということかなあ。
故松沢さんが子供の頃、「サツキ」あるいは交雑種にも手を出していたのではないか、と想像しているのは、ガキにとっては、少しでも変わった魚が釣ることが、勲章になる。従って、釣り馴れた魚も釣るが、変わった魚が釣れると判ると、その池にに行き、挑戦していたから。モロコにしても、池によって、大きさ、鱗等の容姿を異にしていた。朝鮮バラタナゴが釣れると判ると、ヘラブナを釣る大きな池でも釣れるのに、小さな溜め池をあっちこっち釣り歩き、棲息している小さな溜め池を見つけると、でっかい面ができた。
I 今西博士待望
アマゴとシラメにかかる人為の影響、生活史のありようによって生じる容姿等への影響については、以上のようであるが、オラには理解できない。
ただ、このレベルでの注意力、観察力を発揮して、人間の営みで自然界の秩序が乱され、あるいは、人為の影響が現象として存在している、そして、人為の影響があゆみちゃんの性生活の結果たる現象にも及んでいる、あるいは食卓にも及び、その結果が容姿や香りにも影響しているのではないか、その影響は何かなあ、と考えるだけの資質が鮎と苔に係る学者先生には乏しいのはなんでかなあ。「シオアユ」を学者先生は汽水域で一生生活する鮎として、観察されているが、山崎さんや野村さんが語られる「潮呑み鮎」とは異なる、というためには、夕方には汽水域周辺から離れる「潮呑み鮎」とは違って、夜も汽水域に滞在している、ということを調査されることが必要ではないかなあ。さらに、「シオアユ」が夜にも観察されたとすれば、それが、遡上アユであるか否か、最低でも、継代人工ではない、ということを分析される必要があるのではないかなあ。
そう、オラが、「シラメ」なる変化自在?ともいえる厄介なお魚を対象としたことの本音は、鮎研究者にも今西博士のような調査、観察、推理、検証を適切に行える感性の人が出てほしいから。今西博士といえども、ヤマメやアマゴが人工放流で充ち満ちている現在の川を対象としては、とても才能を発揮することはできなかったと考えているが。
シャネル五番の香りが化粧品には残っていても、日本中のあゆみちゃんのぬめぬめの美肌から消えゆく日も遠くなかろう。いまが調査、研究のために最後に残された稀有な機会かもしれない。
(4)野田さんの長良川下り
やっと、野田さんの長良川の下りにたどりついた。
道草がすぎたかもしれないが、天保の代に、筑前の姥桜4人組が、お伊勢詣りのあと、日光東照宮まで道草をしたことと較べれば、軽い軽い。
@長良川の洗礼
「―長良川の特徴は流れの強さ、激しさである。そんな書き出しを考えていると、フネは波にドンと叩かれてくるりと横転した。郡上八幡を出発して二分後のことである。ロールで起き上がるのにも失敗して、フネに掴(つか)まったまま、すぐ下の三級の大きな瀬の中をもみくちゃにされて通過する。
船首と船尾の空間にふくらましたビーチボールを二つずつ入れておいたので、フネは沈まずによく浮いた。着岸して水を出し、再び乗りこむ。この調子では先が思いやられる。
それにしてもきつい流れだ。
ここのアユが流れに押されてブルドッグのような顔になる訳が身に沁みて判った。岸につないだ川舟が重く、頑丈に作ってあるのもうなずける。
長良川の川舟はこれまで他の川で見たどの舟よりも丈夫で、重くできていた。槙(まき)の木の中心部の板を使い、板は九分(約三cm)の厚さ。水に下ろすのに四人の男の手が要るほど重い。これだと大波にもはね飛ばされることがない。宿の主人がいったものだ。
『長良川を下るときは古いフネは使えない。新しいのでないとバラバラにされる。』」
さて、野田さんが沈したのはどこかなあ。ゴチョウの瀬かなあ、イワモンとか、モモノ木の附近かなあ。
「長良川は中流の美濃市まで、大規模な渓谷である。川は岩盤を五〜一〇mの深さで浸食して流れ、左右は岩松を生やした垂直な岩壁。陸(おか)の上を行く不注意な旅行者は、すぐ近くを通っても、この幅二〇mほどの細長い近くの割れ目に気づかないかもしれない。
白く荒れるワイルドウォータが切れ目なく続いた。傾斜が大きくて、見通しのきかない所では、その都度、フネを岩の間に入れ、岩によじのぼって行くべき水路を検討した。三級と四級の瀬が交互にあり、フネはいつも波に洗われ、上半身は乾くことがない。郡上竿をのばした釣り人がちらほら。」
故松沢さんが、晩秋に束釣りをされた岩はこの附近かなあ。増水する中、岩の上で、ぎりぎりまで釣りをしていて、川原にやってきた仲間に道具を投げて泳いで川原に泳いで渡ったのもこの附近かなあ。故松沢さんから聞いた長良川での釣りは、岩の上からの釣りであったが、いつも岩の上からの釣りをされていたのではないやろうなあ。
丼大王の話では、故松沢さんと一緒に長良川に行ったことのある人がいる、とのことであるから、運がよければ、故松沢さんが長良川のどの附近の岩で釣っていたか、わかるかもしれない。
江の川と違って、自転車で川見をすることができない地形かなあ。
「『泡瀬(あわせ)』と呼ばれる瀬。滝のような急傾斜を落ちた水が深く潜り込み、川一面に白い泡をまき散らし、そこから数百メートルにわたってサイダーのように白い泡がプクプクと浮上していた。
相生橋の下に難所。カーブして岩壁にぶつかった流れの下に島のように大きな岩が三つ横に並び、複雑な水路を作っている。
そこを抜けてすぐ下の川原にキャンプ。」
A説教師野田さん
「朝、川に入って体を洗っていたら、上流からゴムボートがやってきた。ここをどうやって漕ぎ抜けるのか、お手並拝見だ。興味津々で眺める。他人がひっくり返るのを見るほど面白いものはない。
四人の漕手を乗せたゴムボートが波につき上げられて、乗り手の体がポンポンと弾んでいる。
水に落ちないようにフネにしがみつくのに精一杯で、漕ぐどころではないのだろう。ボートは流されっぱなしで、何の抵抗もせずに主流に乗ったまま崖にもろにぶつかった。
岡目八目で、少し高い岸の上からは水筋がよく見えるだけに歯がゆい。
『馬鹿。漕ぐんだ。流れに逆らわんか。漕げ、漕げ!』
声を出して応援するが漕手たちはちょっとパドルを動かしただけで諦(あきら)めている。彼らの間から声が少しも出ないのは川に圧倒されて、恐慌状態に陥っているのである。『キュルル』と岩に押しつけられたボートが音をたてて、四五度に傾く。ボートからバラバラと人が水に落ちる。
カヌーに飛び乗って下手(しもて)に回り、流れてくる荷物を拾ってやる。といっても、そこも三級の急流が続いているので、こちらも自分のフネを浮かべるのに精一杯だ。重い荷物を拾い上げるとカヌーがぐらぐらする。岸に戻ると一人足りない。はるか下の方で赤いヘルメットが浮き沈みしていた。カヌーを再び出して現場に急行する。小さな岩の上をのり越えて落ちた水が逆流して巻き返している中に入って男は出られなくなっていた。
『フネの尻につかまれしっかり掴め』
と声をかけて、男を波の中から引っ張り出す。彼は岸に上がると、少し水を吐いた。
『あんな返し波に入った時は、逆に底の方に思いきり潜るんだ。そうすればすっぽりと脱出できる』
彼らの身につけたライフジャケットがちゃちなのに驚く。
『そのライフジャケットは小さすぎるよ。三kgか四kgの浮力だろう。長良川クラスの川だったら一〇kg、せめて八kgの浮力がないと波に押さえつけられて浮かばないぞ。』
といっていると、また一隻のボートが現れた。この組はとっくに闘志をなくしていて、ボートが崖に向かってまっすぐに流されていくと、乗り手はさっさとフネを捨てて、水に飛びこんで泳ぎ始める。」
訓練不足の八人の青年に
「―このボートは確かに四人乗りと書いてあるが、四人乗りこむと浮くだけで、操縦がきかない。これには二人で乗るべきである。チームワークがバラバラで、一目見て『訓練不足』が判る。もう少し流れのゆるい川で始めた方がいい。長良川の上流は日本でも十本の指に入る急流だ。ここから下はヤナがいくつもあって、障害物がもっと多くなることが予想される。―」
彼らはここから帰ることになった。」
野田さんが説教をされている場面はここだけではないのかなあ。
事前調査がなされていない、という点では、オラも同類であるから、青年に説教できないが。
野田さんは、このあと、亀尾島川でテントを張る。
B またも沈した三日目
亀尾島川のある附近が相生というようで、3日目は相生が出発点になる。2日までは、下った距離が記載されていないから、激流でいろいろとあったものの、それほどの距離ではなかったのかなあ。
「フネを出して急流に体が馴れるまでの最初の三〇分は、恐ろしかった。
両岸の上にそびえる山を後ろに体をそらして見上げる。
相戸(あいど)に高さ一mの堰堤(えんてい)。二年前にカヌーで下っていた男が一人死んでいる。
ヤナ場を漕ぎ抜ける。或るヤナ場で、五mほど開いた水路の上に材木が突き出ていた。それに気をとられて岩にひっかかり、沈。ぐるぐると体が回転し、底の岩壁にはりつけられた。水流で岩に押しつけられて、浮力八kgのライフジャケットを着けているのだが、浮上できない。
目をあけて、両手で岩をさぐり、岩登りのかっこうでよじ登る。水面近くになると、体がするりと岩から離れ、ぽっかり浮き上がった。フネを捜しながらそのまま泳いで下る。フネはすぐ下の岸に打ち上げられていたが、パドルは流失。予備のパドルを出す。」
天竜玉三郎も、郡上八幡で浮き上がらず、岩を這いのぼって水面に出たが、したたか水を飲み、川原で苦しんでいた。しかし、仲間の連中は、日頃の玉三郎の腕への、あるいは、でっかい面への腹いせか、だあれも同情してくれず、笑っていたと、玉三郎釣行記に書かれていた。残念ながら、それが掲載されていたメーカーとの縁の切れ目か、玉三郎釣行記が削除されてしまい確認できない。
故松沢さんも、岩の上に座り釣っていて、掛かると、馬力が強いアユにも拘わらず、下流に疾走できず、ぐるっと回って、元の位置に戻ってくるから、そのときに糸をつかんで取り込んでいた、と話されたことがあった。
流れが下流へと向かわず、岩によって、底へ、あるいはぐるっと一周する動きの所があるよう。美濃市役所の付近ではそのような場所はなかったが。いや一カ所、岩が水の中にあって、そのまわりでは水が巻いていたのであろうが、そこまで立ち込めなかった。増水の時、鵜だけがその中に入り、20cm台の鮎を獲って飛んでいった。
「刈安に上陸。
川原を吹く風向きが変わると、時々『スイカ』によく似たアユの匂いが強く鼻をうった。好きな人は釣り上げたアユを手や顔になすりつけ、この匂いを移して喜ぶ。」
シャネル5番の香りを顔に塗りつけるとは始めて知った。手には当然着くから、囮操作が終わると、ネエちゃんの残り香をうっとりとして、嗅いでいたが。
そのシャネル5番の香りがするあゆみちゃんを育む川が今、どこに残っているのかなあ。「海にいるときから香りがする、香りは不飽和脂肪酸による。よって、食とは関係ない」との学者先生の説は、どこの川の鮎を検体に使われたのかなあ。それに、シャネル5番の香りは、死ぬと急速に減少する。死後どれくらいの時間が経過したときに検査されたのかなあ。
シャネル5番の香りのしないアユを検体に使い、その検体が体内にもっていた香り成分を「シャネル5番」の香りである、と判断したのではないか、と疑っている。そして、その研究者は、シャネル5番の香りを嗅いだことがないため、検査結果が妥当かどうかの疑問すら持っていないのではないかなあ。
そもそも、シャネル5番の香るアユを検体に使ったとして、空中に漂う香りを採集して、香り成分の分析を行い、その成分と、死骸に存在していた香り成分との比較をしたのかなあ。非常に疑問のある学者先生の説であると考えている。
なお、野田さんは「長良川で釣れるアユは九割が天然遡上したもの、あとの一割が琵琶湖産の放流鮎だ」
と書かれているが、遡上量が多ければ、放流鮎の量はほぼ固定されているから、放流鮎の比率は下がる。ということは昭和五〇年頃でも、古の遡上量までは回復していない、ということではないかなあ。
河口堰ができて、流下仔魚が海に到達する前に、体内の保存食が欠乏し、餓死している現在とは異なるものの、長良川の鮎にも人為の影響がなんらかの形で及んでいたということではないかなあ。
流下仔魚が下るとき、河口堰をあけるようになったとのことであるが、その期間は、またいつ開けているのか、その時期は適切なときなのか、関心はあるが。
白滝さんは河口堰を一定期間開けるようになって、郡上八幡で釣れたアユのうち、七割が遡上アユと書かれているが、釣り場が瀬であれば、遡上アユの比率が高くなるし、また、比率が高くても遡上アユの絶対量を示すことにもならないから、遡上アユが満ちあふれている、という川にはなっていないであろう。
相戸の堰について、
「相戸の堰は、両端が切れており、少し増水すると水没し、魚の遡上にはあまり関係ない」とのことである。
C 「消えゆく最後の自然河川―4日目(刈安―美濃立花)」
3日目の夕方、「焚火(たきび)を起し、ウイスキーを飲む。通りがかりの釣り師からアユの差し入れ。
ちょっと一杯どうです、とつき合ってもらった。夕暮れの川原で、火を前に坐りこみ、見知らぬ人と心を開いて酒をくみ交わすこと、これも川旅の楽しさの一つだ。
パチパチとはぜる火が老漁夫の大きな手と顔を赤く照らす。ぼくはこのような老人の身の上話、一代記を聴くのが好きである。」
と、満ち足りた夜を過ごして、気分よく起きたことであろう。
「アユをブツ切りにしてフキと一緒にミソ汁を作る。ご飯を炊き、吹き上がった飯盒(はんごう)の中に三匹のアユを頭を上にして突っ込む。蒸したあと、アユの頭を引っ張ると、身がとれて骨だけ抜ける。ショウユを入れてかき回し、アユ飯だ。
川原での夏のキャンプは朝七時までに食事その他の仕事を終えていなければならない。七時過ぎには陽が照りつけ、テントの中は蒸し風呂になるからだ。」
大井川の九月以降の豊満美女は、塩焼きにするには火が通りにくく、たっぷりと時間をかける暇人でないと、扱いにくい。
ということで、家山の寿司屋さんが教えてくれた簡単な、炊き込みご飯の作り方を食する人に伝えている。
米を炊くときに、水の半分の量を酒に置き換えること。それだけで淡泊なアユが、味付きの炊き込みご飯にできる。野田さんのやり方と違って、身をほぐす手間が少しかかるが、炊飯器を使うからやむを得ん。
寿司屋さんの話では、炊き込みご飯に冷凍のアユを使って出していた店が、臭い、との評判がたって、閉店したとのこと。それで、冷凍にしないで、翌日には食べるようにと伝えている。氷水で絞めているから、二,三日は冷蔵庫でもつとは思うが、三日目まで冷蔵庫に入れたことがなく、自信がないから。
「川沿いに点在する人家には美濃の昔からの風俗がまだ残っていた。
背後の山から水を引き、『水フネ』と呼ぶ水槽(すいそう)に溜(た)める。水フネの中は二つに分けて、一方は飲料水用、片方は野菜や茶ワンなどの洗い場になる。その水は捨てずに池に落とし、コイやマスを飼う。魚は野菜クズや残りものを食べて丸々と太る。池の水は(今は使われていないが)水車小屋に引き込んで米をつき、さらにその水は洗濯用の洗い場に流れる。この水のリサイクルは素晴らしい。
炎天下の畑にしゃがんでいる農夫にはタケノコの皮で編んだ傘を頭にのせ、背中にはミノという古式豊かなスタイルの人も見られた。確かに強い日ざしを防ぐにはこの格好が一番良い。アブや虫除けに、昔はボロに火をつけたもの(カビといった)を腰に下げたそうだが、今では携帯用の蚊取り線香に替わっている。」
水フネは今も活躍しているのかなあ。
北上川と同様に、川の水の利用から水道に代わり、洗濯機の利用が進むと、水フネが邪魔者にされてないかなあ。
アブが蚊取り線香で逃げてくれるのかなあ。幸い、中津川や相模川はアブにも嫌われる水のようで、有り難いが。大井川も草むらと水の間がたっぷりと距離があり、多くの所では、アブ等を気にしなくてすむが。
「昨日に引き続き、難所の多いコース」といいながらも、「甘えや感傷の入る余地のない、強烈な急流がどこまでも続く。男性的ないい川である。水量が多いので体に当たる波の衝撃が他の川に比べてけた違いに強い。」といいまがらも、なぜかのんびりとしているように思える。
その訳は、
「冒険は始めて三日もすると冒険ではなくなる。それが日常になるのだ。最もスリルに満ち、不安に苛(さいな)まれるのは家を出るまでだ。急流は実際に突入したり、転覆したときよりも、街の中や机の前で考えているときの方が恐ろしい。」
ということであるからのよう。
ということで、ネエちゃんを軟派することもなく、美濃立花の板取川の流れこみに上陸し、川で泳ぐ子供たちの歓声を懐かしい風景として眺めていた。
Dファミリーコース
五日目は、美濃立花から岐阜までの二八km。ファミリーコース。
そのファミリーコースとはいえ、美濃市役所に近いところで、沖に走られて丼をした、という長良川のあゆみちゃんの馬力の強さを初体験をしたのは、平成の何年頃かなあ。野田さんが河口堰で長良川がつぶれると嘆いているが、その長良川が滅びる少し前のこと。
御漁場:「皇室専用区域」に潜る。
「最深部八mほどのその一角はアユが密集していた。ぼくはこれまでこんなに多量の大きなアユが泳いでいるのを見たことがない。アユが重なり合ってひしめいており、底の岩がみえないほどであった。
この皇室御用達のアユを狙って密猟者が絶えない。この地域専用の監視員がいて、毎年一〇人から二〇人の逮捕者が出る。」
水深八メートルでも、光が届き、光合成ができる透明度ということかなあ。二〇〇九年の三月、名神高速道路の高速バスから見た木曽三川は、アオコで透明度0のようにみえたが。御漁場附近では水が流れているから、今でも透明度は高いのかなあ。
なお、鵜の害について
「『口ばしをヤスリで削られた鵜飼いのおとなしいやつと違って、野生の鵜はモーレツですよ。ちょうど放流したばかりのアマゴをずいぶんやられたですね。一匹九〇円もしたアマゴが目の前でどんどん食われてしもうた。』」
とのことで、鵜飼いの鵜のクチバシがヤスリで削られていることを知った。それでも、歯形がつくのかなあ。
そして、タクシーに乗ったとき、「お客さん。アユを沢山とったでしょう」といわれることとなった。
さて、野田さんが、長良川で、ばあさんのナンパもカントリーギャルへのセクハラもしていないとは、長良川は、野田さんでさえ、聖人君子に豹変させる魔力、救済のご利益、神通力も併せ持っていたのかなあ。
いえいえ、そんなことはありません。
1日目の泡瀬より上流ではないかと思うが、「若い女性の釣り師もいたが、フネを漕ぐのに必死なので、『ネエちゃんカッコいいね』と声をかける余裕がない。」
という事情があったからです。
オラがあゆみちゃんの怪力に翻弄されて、アグネスラムちゃん風のセクシーな美女のお尻を眺めながら、声をかけることなく、通り過ぎた状況と同じですよねえ。
今でも、御漁場にもぐると、野田さんの身体からシャネル5番の香りがするのかなあ。アユの数が減って移り香がしないのかなあ。それとも、「食」が悪くなって相模川等の川と同じコケになったから、香りがしなくなっているのかなあ。
何で、学者先生は、シャネル5番の香りが「海にいる稚魚」にもしている、そして、その香りと川にいるアユの香りが同じであると判断されたのかなあ。
「清流」をしらないのではないかと思う阿部先生同様、シャネル5番の香りを知らない学者先生が、検査されたのではないかなあ。
とはいえ、高橋先生は川に潜られているし、赤石川にも潜られているから、シャネル5番の香りを知らないとは考えにくいが。
山崎さんらが「潮呑み鮎」漁の開始時をシャネル5番の香りで察知されていたように、鮎から放出されたシャネル5番の香りは、すぐに水中に溶け出し、そして、すぐに気化して空中に拡散するもののようである。
そうすると、仮に検体にシャネル5番の香りのする川で採捕したアユを使っていたとしても、死後にはその香りの素となる物質は生成されていないから、シャネル5番の香りは急速に消えていくことになる。事実、鮎を絞めると急速に香りはしなくなっていく。
従って、シャネル5番の香り成分を特定するためには、空中に漂っている香りを検査しなければならないはずである。
その空中、あるいは水中の香り成分を採取し、検査をされたのであろうか。オラはこの作業手順を踏まれていないと考えている。
単に死骸を検査して、香り物質が検出できたから、その物質がシャネル5番の香り成分であり、「食」とは関係ない、との結論を出されたのではないかと疑っている。
野田さんのセクハラもナンパ術も長良川が改心させてはいなかったとわかり、野田さんの本を追加買いしょうと思った。
ところが、1週間後に行ったときには10冊以上あった本がなくなっていた。野田さんを愛読されていた人が処分して、棚に並んでいたが、すぐに買う人がいたということであろう。
野田さん恐るべし。
ということで、とりあえず、本物の「清流」についての野田さんの語りを終えて、2009年のあゆみちゃんとの逢い引きに胸をふくらませることとしょう。
そして、もはや二度とは逢えないかもしれないぬめぬめの柔肌からシャネル五番の香りを振りまいて、オラを誘惑するあゆみちゃんとの出逢いに淡い期待を寄せて、川原を彷徨い歩こう。三途の川での釣りの前に、今ひとたび清純、可憐、清楚な乙女に会いたいなあ。
「真山研究室」のホームページに、次のことが書かれていた。
この意味を理解することは不可能であるが、「不飽和脂肪酸」といっても、その成分あるいは要素は複数存在し、「その組成」が「生育環境で異なる」とのこと。
そうすると、「不飽和脂肪酸」が香り成分を醸し出す原因物質としても、「不飽和脂肪酸」といってだけでは、適切な説明にもならないのではないかなあ。
不飽和脂肪酸
油の成分はさまざまなものより成ります。種によって,またその生育環境によって組成は異なりますが,代表的な不飽和脂肪酸はC14(炭素を含む鎖長が14という意味)のミリスチン酸,C16のパルミチン酸やパルミトレイン酸, C18のオレイン酸,C20のEPA(イコサペンタエン酸)でしょう。C18のリノール酸やリノレン酸は多く含まず,またC22のDHA (ドコサヘキサエン酸)を含む種はほんのわずかのようです。
EPAに注目!
珪藻は不飽和脂肪酸でC20のEPAが豊富なのが特徴です。EPAはヒトの体内で合成できない必須脂肪酸で、外部から食品として取り込まれるとリン脂質となって細胞膜に組み込まれ、アラキドン酸カスケードの基質となって生態調節機能を担います。また,血小板凝集能や白血球誘引能を緩和する作用があることがわかっており,血栓性の疾患,動脈硬化,リュウマチなどの成人病に効果があるといわれています。
現在,EPAはイワシ油から精製されているようですが,海産珪藻のフェオダクチルム・トリコルヌーツム (Phaeodactylum tricornutum) の珪藻油には,それを上回るパーセンテージの EPA が含まれています