「昭和のあゆみちゃん」は、亡き師匠や故松沢さんがオラに本物の川とあゆみちゃんについて語られていたにもかかわらず、あまり気にせず、数や大きさに満足していたことへの反省と自戒の意味をこめて、遅ればせながら先人の観察に学ぼうとしたものです。
その後に読んだ本については、平成十九年九月に松沢さんがこの世を旅立たれ、もはや、本物の川とあゆみちゃんの生態、姿の記述が適切であるか、を、故松沢さんに確認することもできないまま、「故松沢さんの思い出」として書いています。
「故松沢さんの思い出:補記その2」は、「オラ達の鮎釣り」の管理人「みずのように」さんが亡くなられたと、ご遺族からご連絡をいただき、「オラ達の鮎釣り」を閉鎖せざるを得ないとのことでした。「オラ達の鮎釣り」が閉鎖された後、古の鮎・生き物と苔と川にかかるかって存在していた姿を求めて書きました。
「水鮎」の言葉を知る人も、シャネル五番の香りを嗅いだことのある人も、珪藻と藍藻との違いを、あるいは珪藻を食しないと香りが生成しないことを、釣り人も専門家も知る人ぞ後わずか、という現在、本物の川とあゆみちゃんの生態等は、高度経済成長期以前の経験、観察を書かれた本でしか知ることはできなくなっていると思っています。
鮎が食することによって、「珪藻から藍藻に遷移する」との説が、ダイワフィッシングでも放映された。もし、この説が適切であるのであれば、いにしえよりも藍藻が優占種となっている川がほとんどである現在の方が、シャネル五番の香りが川面に漂っている、ということになるはず。
このレベルでの推察もない観察結果が適切とされている現在において、いにしえの状況が書かれた本は貴重であり、又、いにしえの状況を適切に観察されている方の話を聞き取り調査をすることは、何が本物の現象か、を判断する上でも、必要な作業であると思っています。
「昭和のあゆみちゃん」は、「オラ達のアユ釣り」のBBSに投稿したものをまとめました。
「オラ達のアユ釣り」の管理人をされていた「みずのように」さんが、入院をされていなければ、みずのようにさんのご意見、感想をお聞きできたと思いますが、残念なことです。
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昭和のあゆみちゃん序章
昭和のあゆみちゃん 目次 |
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1 | 1 本物のアユの描写 (1)遡上鮎について |
萬サ翁の遡上アユの容姿変化観察 容姿変化は遺伝子要因か、環境変化か |
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(2)湖産に係る記述 交雑種の再生産 |
琵琶湖産と南郷洗堰 池田湖産 | ||||||||
2 | 2 川の変化 (1)川獺が鮎を食べていたであろう頃の川について |
日置川とダム 古座川の変貌とダム ダムのない支流:小川 吉野川:川水の判断基準=飲んで美味い水からBODへ (2)高度経済成長の及んでいなかったときのあゆみちゃんの生活に適した漁法について=「だま漁法」 (3)「川が川であり、水が水であった頃の遡上量 郡上八幡の遡上量 アユの大きさ 吉田川への湖産放流 |
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3 | (4)四万十川の衰退 | 四万十川のダム、堰堤 稚アユ乱獲 「湖産」ブランドにブレンドされる海産稚アユ、人工? 天竜川も稚アユ減少 |
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4 | (5)「湖産鮎」の偽ブランドの指摘 | 「湖産」採捕量の減少 「湖産」需要の増加 海産稚アユ、人工の混入 川には、「湖産」しか購入していなくても海産も人工もいるよ =足羽川の事例 |
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5 | 3 人工鮎の現象 | (1)人工アユの現象 6月に抱卵アユ 「積算日照時間」と性成熟 (2)日高川アユ種苗センターの見学 木曽川のアユを親に =海産、湖産、人工の混合 (3)オラの感想 萬サ翁の観察=下りをしない人工 再生産に寄与しない人工、湖産、交雑種 |
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6 | 4 ヒネ鮎について | (1)ヒネアユへの興味 片腹ずつ成熟 チョコチョコ産卵 (2)前さんの関心 なぜヒネアユに? その生活は? (3)越年アユ捕獲記 その環境 放流のない川 毎年フルセンはいる (4)昭和62年1月25日の観察 オスとメスの違い 香り 生存水温6度以上? |
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7 | ヒネ鮎の観察 奇形鮎の出現 | (5)昭和62年5月16日、17日の観察 神経質、機敏性の復活 櫛歯状の歯へ (6)昭和63年2月末の観察 奇形アユの発生 その原因は? 「香りとコケの相関関係はない」説への疑問 |
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8 | 昭和のあゆみちゃん挽歌 その1 |
狩野川の人工放流は昭和52,3年頃から:少量 継代を重ねるとひどくなる |
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9 | 昭和のあゆみちゃん挽歌 その2 |
冷水病に強いアユ=海産 「高種苗種」湖産と冷水病 安曇川での冷水病の状況 |
第二章 「鮎釣りの記」(遡風社発行)から | ||
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第三章 初体験 |
11 | (1) 浅井鼎「夏日抄」から | 40匁の煮浸し 8寸の瀧井さん 相模川の神沢 1匹20匁平均で10円 |
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(2) 佐藤垢石「弟子自慢」 | |||||||||||||||||||||
12 |
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13 | |||||||||||||||||||||
14 | (3) 桜井均「懐旧」から | 那珂川の烏山 垢石翁と酒 師匠垢石翁は笑う=アユに引かれて善光寺参り? 業病のアユ釣り |
第四章 亀井巌夫「長良川ノート」から |
15 | (1) モモノキ岩 | グラス竿では水流負け:抜けず 名人の格闘の場所:モモノキ岩 |
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(2) 「大多サ覚え書」の章から その1 | 友釣りの黎明期 竿革命 伊豆衆の継ぎ竿、ゲロ等の仕掛け |
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16 | (3) 「大多サ覚え書」の章から その2 | 稼ぎ 1日に米1俵、2俵の稼ぎも 1.3キロの竿と大アユ 冬は炬燵 吉田川への湖産放流:1日で1ヶ月分の給料 宮川へも出張 |
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17 | (4) 「大多サ覚え書」の章から その3 | 鮎の遡上、下りの時季 長良川の黄昏の予兆・終焉 5月川に今の7月の大物も 10月半ば過ぎ落ち漁期 一水150貫 昭和35年頃から漁獲減少 昭和35年漁獲量=昭和30年以前の特別豊漁年の1日分 おもだか家展示のアユの絵に古のアユが |
第五章 むかしの光いまいずこ |
18 | (1) 「鮎釣りの記」から 熊谷栄三郎「名川」 |
美山川でのこと 妻のお骨を四川に 自然の礼節よりも物質的な欲望へ |
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19 | (2) 佐藤垢石「釣趣戲書」から その1 |
鮎の品質と岩質の深い関係 水温と鮎の質との関係 月夜野の鮎 利根川なきあとの名川は? その他の川のあゆみちゃん評価抜粋 美山川=栄誉はあれど、田の水入りメタボ |
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20 | (2) 佐藤垢石「釣趣戲書」から その2 |
大井川の評価 大岩の水成岩、火成岩 中川根町までは水成岩 サ流しの影響 寸又川へ 美事な珪藻の繁茂 寸又川の鉈鮎 若鮎視察記の章から 富士川:幅2尺、厚さ3尺のどの遡上量 解禁日30匁? |
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21 | (3) 嘆き節 | 垢石翁は人工でも仕事をさぼったかなあ 垢石翁の語る海外のアユ評価=品質劣る 環境変化、偽「湖産」ブランド横行 友釣り=職漁師の釣り 毛鉤=素人衆の釣り 5月中旬25匁も |
第六章 こけとあゆみ |
22 | 珪藻から藍藻への遷移説への疑問 | 中央水産研ニュース阿部信一郎「アユが自ら創る 生活空間ーアユと付着藻類の相互作用を通してーへの疑問 |
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23 | A なぜ、藍藻が優占種になるのか | 調査方法 調査結果 種構成変化のメカニズム |
24 | B 珪藻から藍藻への遷移説への疑問 |
C 珪藻と水質 | (1)栄養許容度 | |||||||||
(2)生態的重心(好み) | ||||||||||
(3)腐水許容度 | ||||||||||
(4)栄養体型と腐水体系 | ||||||||||
D 珪藻と藍藻のアユの大きさとの関係 巖佐先生と村上先生 |
(1)藍藻は大鮎を育てる:ほんまかいな | |||||||||
(2)珪藻が大鮎を育てる? | ||||||||||
(3)珪藻は栄養価が劣るのか | ||||||||||
E 「エサから見たアユ 藻類で分かる川の「健康度」 村上先生の観察 |
(1)川辺川とダム下流の球磨川のコケの違い | |||||||||
(2)鮎の成長度 |
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昭和のあゆみちゃん 1
第一章 前 實著「鮎に憑かれて六十年」から |
前 實著「鮎に憑かれて六十年」(ジャパンクッキングセンター発行)から、昭和のあゆみちゃんの気質、容姿をかいま見ることのできると考えている。
とはいえ、平成になって、遡上鮎が一層激減し、又、人工鮎放流が主流になって、本物のあゆみちゃんを釣り人ですら、知ることがない時代がくるとは、前さんの想定外であることから、昭和にいた本物のあゆみちゃんの記述はオラにとっては満足できないが。もっと昭和の本物のあゆみちゃんがいた頃のことを書いてくれていたらなあ、との思いが強い。
この本の中に気になる記述が何カ所もある。
その一つが、「岐阜・郡上の名手 古田萬吉翁と語る」の章である。
この章は、萬さとの昭和48年の出会い、昭和62年の面談を主にして書かれている。
1 本物のアユの描写
(1)遡上鮎について
「郡上へ初めて放流してから何十年、交配に交配を重ねて今は滅多に見られんが、脂ビレから下が細長くなって尾ビレが大きかった。これからはますます見られなくなるじゃろ。寂しいことじゃが仕方あるまい」
これが、前さんの放流鮎のいなかった昭和16年頃までの「純天然遡上の鮎は脂ビレから尾ビレまでが細長い」との記憶に対する萬さの返答である。(167ページ)
とすると、湖産と海産の交雑があり、「脂ビレから尾ビレまでが細長い」鮎が少なくなったということか。
オラにとっては、遡上鮎と海産馴致主体の大井川、10月下旬以降の狩野川の鮎は現在でもこのような容姿に見えるが。とはいえ、戦前のあゆみちゃんの容姿を見たことはないが。
又、交雑種は、海では生存できないと思っているが。そうすると、戦前と昭和50年頃との容姿の違いの現象はどのようなことを観察されたのであろうか。伊勢湾の汚染等の環境変化による育ちの変化であろうか。萬サ翁が、「学者先生」同様、「人工」「湖産」「遡上アユ」の区別をされないで、生態、容姿を語ることは考えられない。
萬サ翁が観察された容姿の変化が、遺伝子要因なのか、環境要因なのか、もはや、検証する術は存在しないのかも分からないが。
ただ、萬サ翁の遺伝子要因説には疑問が残る。
(2)前さんの琵琶湖産の記述
「琵琶湖産にはわずかながら海産と混血の問題がある。」
「瀬田川の『南郷洗堰』は明治40年に作られたものである。」「この『洗堰』ができるまでは当然大阪湾から毎年のように海産天然鮎が琵琶湖に遡っていたはず。しかし、その数は湖中で従来から生活する鮎たちに比べて微々たるものであったに違いない。そうでなければ琵琶湖産も『池田湖産』と同じ性質になっているはずである。」
池田湖産については、西城川:三次での釣りから「『海産そっくりの一発ガカリ』『背ビレが大きく海産と変わらない』『琵琶湖産よりぬめりが少なく皮が硬い』『尾ビレは琵琶湖産型で小さい』〜 である。」
「池田湖の鮎の発生を考えてみる。明治5年、灌漑用に溝を掘ったところ海から鮎が遡上して棲み着き、そして陸封されたものといわれる。とすれば湖の生活は約百年である。琵琶湖産とは比較できない淡水生活だから先祖の海産の『性』が抜けきらないのではないか、と類推するのである。」(19ページ)
なお、神奈川県内水面試験場から、池田湖産の遺伝子配列は、海産と湖産の交雑種とのことを教わった。湖産を池田湖に流れ込む川に放流したのであろうか。
(3)交雑種の再生産
「ほんとの海産はスマートなもんや。今頃は滅多に見んけど、脂ビレから後が特にスーと長うて尻尾があるんすよ。近頃はちーと寸がつまってきたのオ。琵琶湖は丸顔で海産は長い顔よ」
この形質変化が交雑の結果であのるか。それとも、環境変化等の要因によるのであろうか。
湖産との交雑種が海では生存できないとの結果が出ている。
オラにとっては、松沢さんに昭和の海産の容姿を聞くことである。
注: 萬サ翁の湖産にかかる容姿の記述については、「湖産」ブランドで放流されていた「湖産」に、海産畜養及び湖産を親とする、あるいは海産を親とする、あるいは交雑種の継代人工が、ブレンドされていたと考えることが、琵琶湖での氷魚採捕量等、「湖産」の生産量と、「湖産」鮎出荷量との乖離を説明する上で、合理的であると考えていることから、一義的に「湖産」の容姿を表現されていない事柄らが含まれているかもしれない。 |
このように前さんの本には現在の混迷を、あゆみちゃんの不遇、天然記念物化を予見するかの先見的な観察が載っている。
昭和のあゆみちゃん:2
2 川の変化
人間界の生活水準、生活様式の変化を見るには、戦前と戦後、戦後については、高度経済成長期の前と、後に区分することが便利であろう。
あゆみちゃんの生活水準、生活環境、生存数を考える上では、高度経済成長の影響を受ける前と、影響を受けた後で区分することが適切ではないか、と想像している。
前さんは、「鮎に憑かれて六十年」で、「『種の保存』に関して、高貴薬の限りをつくす人間を思えば『鮎の保存』についても日本人全体がもっと考えるべきで、山の皆伐、ダム、水質保全問題、産卵床確保など人間が自然を破壊して『魚』が被害を受けている。」(17ページ)と書かれている。
(1)カワウソが鮎を食べていたであろう頃の川について
@ 「和歌山の日置川は、日本中の鮎釣り師のメッカのようにいわれているが、ダムができて女性化してしまった。すぐ南にある古座川はその昔、清冽ともいわれる水であった。ここでもダム造りに賛成した人々が今では後悔をしている。支流の小川の鮎を1匹食べると、ダムの水が流れる本流の鮎はもういらない、と地元の人がいう。確実にダムが水を悪くし、鮎もまずくなってしまう。」(27ページ)
A 「私が若い頃の吉野川は中流域の下市町付近でも、きれいな流水で付近の皆はごく自然に川の水を飲んだものだ。現在、水の汚れは『BOD』などと舌を噛むような表現をするが、昔はその水がおいしく飲めるかどうかが目安であったと思う。」(110ページ)
なお、四万十川がシルト層の河床になり、伏流水、わき水が減った、と、「アユの本」に書かれていたと思う。
また、三面川が、ダムのなかった頃、今の小さい石の川ではなく、隣の荒川のように大きい石があったという話を聞いたことがある。
(2)高度経済成長の影響が及んでいなかったときのあゆみちゃんの生活に適合した漁法について
「昭和二十三年頃というと、もう四十年もの昔、私の郷里である奈良県・吉野川中流の下市町下流には、増水の時に遡上してきた鮎が一気に登り切れない落ち込み状の急瀬が三カ所もあった。この落ち込みで『ダマの漁法』は盛んに行われていたものである。しかし、その後は山林の乱伐や台風による土砂の流出で川床が上がり、急瀬も消え去り、下流の取水堰が鮎の遡上を止めてしまって『ダマ漁法』は絶えてしまった。」(101ページ)
ダマ漁法は、遡上中の鮎が一休みをするのに都合のよい渦巻き状の水流を造り、そこで休む鮎を三本、四本ハリで引っかけるとのこと。
(3)「川が川であり、水が水であった」頃のあゆみちゃんの数
=萬さ翁の話(166ページ)
「昔、といっても終戦までは天然遡上の鮎は放流も含めて現在の五〇倍くらいも八幡まで来たものだ。」
(「現在」とは、昭和48年頃であろうか。)
「大きいものは一四〇匁(五二五グラム)、一〇〇匁(三七五グラム)クラスはいくらでも釣れた。」
「その頃の鮎はどういうわけか、各支流へは余り遡らず本流に居ついた。そこで忘れもしない昭和九年、支流の吉田川へ琵琶湖産を試験放流したところ好成績であった。以後、各支流へも湖産を放流するようになった。」
天竜玉三郎釣行記の1月記載の米代川の項に、天竜川浜北で、さらばねらいで、200匹が釣れていた、と書かれている。
このように、あゆみちゃんにも天国の生活があった。
湖産の放流開始は仁淀川の1年後か。
あゆみちゃんの天国はなくなる。相模川の小沢の堰下が一の釜、堰上が二の釜、葉山島付近が三の釜、であったとのこと。去年なくなったEじーさんは、何艘かの船を持っていて、そこでどぶ釣りをさせていたとのこと。津久井ダムはなく、遡上を妨げる堰もなく、大量の鮎が昭和30年頃までは相模川にも上っていた。
長良川での高度経済成長の影響は伊勢湾にまず現れ、仔稚魚の生存に影響をもたらし、次いで、川、川の水に及んだのであろう。
尺アユとは、現在では大きくなる性質を持つ継代人工の話になっているが、本物のあゆみちゃんにも尺アユがおり、その重量が500グラムもあった、とは想像もつかない。
昭和のあゆみちゃん:3
(4)四万十川の衰退
前さんは「昭和六十年、NHKテレビ放送が『土佐・四万十川・清流と人』を放映した。一般には大好評で『前さん、見ましたかね。ええ川ですなあ』」といわれたことに対して、「日本に残された最後の清流」:「四万十川)には行きまへん」と答えていたという。
「四万十川の支流檮原川にはダムがあって、発電所が三カ所もあるんです。又、仁井田川の家地川(地名)では取水堰堤で全水量を佐賀町へ流し発電しとります。」
「その昔、私も四万十川へ出かけたことがある。鮎の放流事業を全くしていない時代だったから『海あがり』の鮎がよく釣れた。最上流の大野見村までの水を知っているが、NHKはどうも大げさと思えてならない。」
昭和60年頃まで、四万十川に通っていた人が「『前さん、もうアカン。昔は大正、昭和地区で一番仔が早う上ってきましたが全然!五月の中旬にはみ跡がない。地元の漁師の話やと一番、二番仔は高知や徳島の養殖業者が網でごっそり河口でとってしまうちゅうことですわ』」
「又、地元は川漁の盛んな土地柄、秋に産卵する親鮎も漁師が舟を出して乱獲するところもあって、激減の鮎事情なのである。」
そして、湖産が「琵琶湖に流入する河川以外に『人工河川の孵化事業』を行って増産されているのである。」
「海産鮎は『一発ガカリ』で温和。湖産鮎は『しつこく何度でもおう』激しい性質がある。従って『湖産鮎』は釣り人のハリによくカカるから好まれる、という図式。仔鮎の価格も人工鮎、海産、湖産の順で高くなり…」
この釣り人の湖産礼賛から、「海域業者が乱獲した仔鮎を、わざわざ滋賀県へ送りつけ、その足で『湖産』の名称をつけて各地に配給する、などという妙な噂が出たこともある」
ということで、海産あゆみちゃんは四万十川でさえ、激減していた。
天竜川での河口での稚魚採捕量は、1970年・昭和45年までは14トン前後であったが、それ以降は1982年・昭和57年の14トンをのぞいて、10トン以下、1986年・昭和61年では6トンになっている。1トンで約30万匹ほど。(「アユ種苗の放流の現状と課題」の第3章「海産遡上鮎の資源調査(静岡県)」)
前さんは「高知県が2月1日に『シラス鮎漁』を解禁することはどうも腑に落ちない。2月、3月は河口から仔鮎が上る時期である。これをごっそり獲ってしまっては種の保存ができないであろう、と思う。NHKが取材して全国に名高くなった『四万十川』に鮎がいない、というのもこんな理由が裏側にある。」
海産も、湖産も、高度経済成長の影響で生存数を減らしている中、人工が放流されるようになった。相模川では県試験場の継代人工が主体になっているが、「湖産」名称で、海産畜養が放流されていることがあったのかもしれない。
昭和のあゆみちゃん:4
(5)「湖産鮎」の偽ブランドの指摘
前さんは、湖産ブランドの偽物が出回っていることを昭和の時代にすでに指摘されている。
そして、「もし、仮に四万十川河口に集結した一番、二番仔が海域漁師にとられて畜養の後、『琵琶湖種』として再び四万十川に放流されでもすれば、それは悲劇を通り越して喜劇になる。」と。
前さんが喜劇の上演を想像されている状態はいつ頃から生じたのであろうか。
長浜、安曇川人工河川ができたのは1981年・昭和56年のようである。これより以前に琵琶湖での埋め立て、水位の低下、水質悪化等で湖産の生息数が減少し、他方、釣り人の湖産信仰も作用して湖産の需要量が増えて、需給バランスが崩れていたのであろう。
京都大学生態研究センターニュースNo.83「琵琶湖産アユの生活史とその固有性・融通性に関する研究会」に北船木漁業組合組合長駒井順一さんの報告が掲載されている。
「昭和36年に自分たちのエリを8名で始めた。岸から80mほどで水深2mと浅い場所だったので、伊吹からのきつい風が吹けばひっくり返り、又一からやり直した。でも、掻いても掻ききれん程の大漁も何回かあった。琵琶湖の水もだんだん汚染され現在水深15mの約500m沖までに出している。エリ漁の盛んな頃は最高15名いたが、高齢化と鮎の低価格で現在4名になった。」
ということで、昭和36年には琵琶湖に高度経済成長の影響は出ていなかった、と想像している。
そして、海産畜養だけではなく、人工の放流も昭和40年代には始まっていたのではないか。オラは昭和50年代と思っていたが、松沢さんは狩野川でも早くから放流されていたという。
川には、海産、湖産、人工が混在する以上、これらの峻別をして産卵時期、その他の生態を観察すべきである。
「アユ種苗の放流の現状と課題」「天然鮎を川にたくさん遡上させるための手引き」に、神奈川県内水面試験場の調査結果が掲載されている。
「アユ種苗の放流の現状と課題」の「種苗判定指標と種苗ごとの行動特性に関する調査」に、各種別の識別が「鱗数(=側線上方横列鱗数)が15〜16枚の場合は湖産鮎とした。鱗数が17〜19枚の場合は、さらに下顎側線孔数と下顎の異形、鱗の配列乱れについて検討した。側線孔数が左右とも4個で下顎の異形がなく、鱗の配列乱れのない鮎を海産鮎とし、側線孔数が左右4個でない場合や左右4個でも下顎の異形や鱗の配列乱れのある鮎は湖産とした。」
この種別識別指標を用いて、酒匂川、早川に11月にも10月と同数ほどの湖産がいる、と評価されている。
この評価が間違っている、というのもオラの考えである。湖産が10月と同じほどの個体数が11月でも川に残っていれば、酒匂川の釣り人が10月になるとオラともう一人、あるいはオラだけ、とはならず、9月下旬にほとんどの囮屋さんが店じまいをすることもなかっただろうに。
神奈川県と同様の鱗数による種別指標を採用しながら、疑問を持ったのが福井県である。
「アユ種苗の放流の現状と課題」に、「人工産種苗の河川内における生態調査(福井県)」で、足羽川の調査報告が掲載されている。
@ 「湖産種苗には、湖産種苗のほか、海産系の人工種苗が含まれているらしいと足羽川漁協から聞いており、湖産種苗のうち、側線上方横列鱗数が15〜27枚であったのは、人工産種苗の混入によるものと考えられた。そのため、鱗数からの由来判別を行うことは不可能であると判断されたのでどのような由来の種苗であるか第5章で後述する遺伝子分析を行うことにした。」
A 「2000年の結果を受けて2001年には滋賀県内から購入した種苗について、出荷前の飼育日数や親魚等、出荷前の経歴を考慮する必要があると考えて分類した。」
「琵琶湖からの周辺の河川に遡上した種苗(以下、「河川遡上群」という。)、採捕後1,2週間養成して出荷される短期養成種苗(以下、「短期養成群」という。)、長期間養成した種苗や人工産種苗を含む種苗(以下、「長期養成・人工群という。)の3種類に分け、2001年の側線上方横列鱗数の計数結果を表5−3−2に示した。」
B 「アイソザイム分析では海産系と湖産系の漁獲割合が約半数ずつであったが、外部形態による由来判別では湖産種苗が多くなり、やや異なった結果となった。」
C 「アイソザイム分析は集団構造を明らかにする分析手法であり、河川に放流した人工産または湖産種苗の追跡調査をすることは不可能であるが外部形態による由来判別と組み合わせることによって、追跡調査を実施することが可能であると考えられる。」
D 6月から9月までは湖産種苗が多く漁獲され、10月、11月になると人工種苗が多くなる傾向が見られた。11月には人工産種苗が83%を占めており、漁獲の最後まで降下せずにいたことが示唆された。」
研究者が前さんのように変化、違いを観察する感性を持っていたならば、あゆみちゃんの保護の視点も豊かになったのでは、と考えている。
「鱗数」を基準として設定しながら、観察結果がその数値に適合しないと、設定された数値の幅を変更するとは、いかがなものかなあ。
湖産の鱗数は、24くらい、海産の鱗数は22くらい、継代人工は15くらい、という識別の話があったが、肌の肌理も細やかさの感じから、この数値に意義はあると考えている。なんで、神奈川県内水面試験場は、数値の変更ではなく、「湖産」購入ブランドに人工や海産がブレンドされていると考えなかったのかなあ。この姿勢はその後も続いていて、川にいるアユの種別に関心を払うことなく、アユの生態に係る評価を下されている事例がある。
注:人工産種苗が「漁獲の最後まで降下せずにいた」との現象について、オラは性成熟との関係だけで考えていた。しかし、万サ翁や、故松沢さんらの観察から、「人工産」は、増水 等で流されることはあっても、「産卵行動」としての下り」を行わない、と考えるようになった。その理由は、「故松沢さんの思い出」、「故松沢さんの思い出:補記その2」に書いた。 |
昭和のあゆみちゃん:5
前さんは、昭和62年10月に、日高川鮎種苗センターを見学されているが、見学される前、人工鮎について、次のように書かれている。
(1)人工鮎の現象
@ 「昭和60年6月1日、奈良県吉野川吉野漁業区の解禁に出かけた知人が抱卵鮎を釣って驚いたという。…この漁区は数年 以前から養殖成魚も放流したいる。」
A 「鮎は日照時間によって生育するといわれ、これが学説にな っている。」
B 「鮎の脳の中には『光』を蓄積する『コンピュータ』があるようだ。ある一定の光量がこのコンピュータに蓄積されると抱卵を始める。私はこのことを『積算日照時間』とよんでいる。」
C 「養殖業者はこの学説を養殖鮎の飼育、長期畜養鮎に利用し、昼夜の別なく光を当てて『電照鮎』として育てると鮎の成長が早くなる。」
D 「昭和61年7月20日過ぎ、釣友から和歌山県・日高川の 龍神地区で釣ってきたと21cmほどの鮎を見せてもらった。 婚姻色が濃く『サビ』も少し出ている。大きい腹には真子が一杯つまって十月末の鮎を思わせる。」
(2)日高川鮎種苗センターの見学について
@ 遡上量の少ない日高川の鮎を親に使えないため、木曽川の鮎を購入し、木曽川漁協で採卵、受精をしてその日に持ち帰る。
A 「木曽川漁協は、各地の孵化場、養殖業者の依頼で、例年九月下旬から採卵、漁協自体でも孵化事業を行っている。」
なお、昭和62年の採卵は、10月3日雌74匹、10月10日雌189匹、10月22日雌不明 の3回の採捕、採卵をしている。
B 前さんは、「親鮎は木曽川で育ち落ちてきた、いわば『天然鮎』である。しかし、木曽川には天然遡上があり、湖産、人工も放流されているので、二−三種の混合した親鮎であろう。」 と推察をされている。
C 日高川漁協では電照をしていないとの説明を受けた。
D 海水を1/4ほどの量を入れてある期間飼育している。
(3)オラの感想
@ 昭和の50年頃の時代も、解禁にあわせて釣りの対象になるほどの大きさに育てるため、湖産の代替として、継代人工が養殖されているものと思っていた。しかし、まだ継代人工は群馬、神奈川等、少なく、2代目の電照方式が優位であったようである。
A 萬さ翁が昭和48年に語られた前年「去年の11月の中頃に 鮎がたくさん死んで流れた。その後に『ウグイ』を獲りに行ったら、吉田川(岐阜県)との出会いの浅いところで、魚が『バチャバチャ』やっとるで、よく見ると、鮎が産卵しとる。それも『ペシャンコの鮎』や。その時に『人工の鮎は、こんなところで瀬ずり(産卵)して、海に帰ることも忘れてしまったのか』と思ったんすよ。それで、参考になればと何匹か獲ってみたんやが、湖産などに比べて、卵がうんと少なかったのをよう 覚えとるんや。」
「本能まで忘れた鮎になってしまって雪の降る年末近くになっても、郡上あたりのこんな上流で産卵して、海に帰らん。卵もかえるわけがないじゃろに。… 湖産でも秋になると『マワシ鮎』(落ち鮎)と言ってね、玉(群れ)になって下るのやが、人工鮎だけが下らずに残とった」
05年、06年の相模川に放流され鮎は、11月、12月はじめになっても、弁天でぱくぱくしているのがいた。オラは下りのために集結している、と考えていたが、下りをしない鮎が放流された人工の中にはいるということか。
B 継代人工ではなく、2代目方式の海産人工が、あるいは日本海・東北の海産畜養が「湖産」の商標で出荷されていたことから、「アユの本」の10月15日頃の海で観察された仔稚魚の親が遡上鮎ではないのでは、と想像している。
高橋先生は、湖産は放流しているが、海水では、その仔魚は死ぬため、10月15日頃に四万十川の海域で観察された仔稚魚の親は遡上鮎と判断されている。しかし、2代目方式の多様な育て方をされた海産人工の一つが親である可能性があるのではないか。さらに、性成熟が相模川以西よりも早い日本海側の海産稚魚が採捕され、養魚場に販売されて、畜養後「湖産」ブランドにブレンドされていれば、仔魚が海に入ってもすぐには死なないはず。(後述)
C 92,3年頃の中津川でも、解禁日にサビ鮎が釣れた。電照方式の鮎が、人工として購入されたのか、湖産として購入されたのかわからないが。
酒匂川の方が相模川よりもきれいな鮎であったのは、湖産の等級があり、酒匂川が高い等級を、相模川が低い等級を購入していた、というだけでなく、低い等級には湖産でないのも入っていたのであろうか。
注:昭和52年、53年には相模湾の稚アユが徳島県に販売されている。その稚アユが、「海産」として販売されたであろうか。疑問である、というよりも、「湖産」ブランドに「ブレンド」されたものと推定している。(「故松沢さんの思い出:補記その2」)
D 前さんは、川での産卵と養魚場での産卵が異なる、と、観察されている。川では「約15度の水温、10日余りで発眼、14,5日で孵化する。」
「養魚場では、孵化が早い。池中は8〜10日、自然は15〜20日。」
又、「水温の差。朝夕の低水温の有無。地下水を利用するため水温の急激な変化がなく」と、自然と試験場での観察の違いの生じることに留意することが必要であることを認識されている。
よって、神奈川県内水面試験場が、孵化条件が自然界と同じ、と想定されていることには同意できない。
準天然等の養殖魚、人工の改良について、「この種の改良、改悪は『西洋医』からきたものだと思う。頭が痛いと言えば、『痛み止め薬』を飲ませる。その副作用で胃が悪くなると『胃薬』とくる。頭が痛いのは、何か理由があって痛むのであるから、根本の原因を取り除かない限りなおしたとはいえない。その西洋思考が『半養殖』を創り出してくるようだ。短絡に過ぎていけ好かない。
薬問屋の私は、立場上を離れても漢方薬の思考方法が好みである。『利』といって大小便の通じを重んじ、躰全体を正常にすれば頭痛は治る、という考え方で漢方には大局観がある。」
オラも、冷水病にはワクチン、ワクチンでも死ぬと、川の雑菌に耐える薬、となるのであろうが、そのような処方箋には同意できない。自然に産卵し、遡上するためにどのように人間が手助けを、環境整備をすべきか、を考えることと思っている。
昭和のあゆみちゃん:6
4 ヒネ鮎について
(1)ヒネ鮎への興味
飯田静岡県内水面漁連鮎種苗センター場長が「アユというものは片ハラずつ成熟していきます。片方のハラを産卵し終わってからもう一方のハラが成熟する。結局、毎日のようにチョコチョコ、少しずつ産卵するんです。生産する側としては大変なんです。
ですから、天然の海産からとったアユを翌年に親として使う。そうすることによってある程度、採卵の時期を集中することができます。」(「’98 鮎解禁号」の「今年は大丈夫か? 冷水病」)
このことから、ヒネ鮎は産卵を全うし得なかった、卵巣がまだ残っている雌と考えていた。しかし、松沢さんはオスという。そして、前さんのお友達もオスが何回も射精できるとは鮎がうらやましい、との感想を持たれていた。
ヒネ鮎の雌雄は?
もう一つ、遡上を妨げていた厚木の堰がなく、中津川が遡上鮎に満ちていた昭和30年頃、どぶ釣りとコロガシでの中、解禁日にはそろいの法被を着て、友釣りでヒネ鮎を釣っていた、と、タクシーの運転手さんが言われていた。
その人とは再会できない。もう退職されたのであろうか。
確かめたかったのは、釣りの対象となるほど、ヒネ鮎がいたのか、ということである。
(2)前さんの関心
前さんの「越年鮎捕獲紀行」は、オラと違い、高邁、高尚な動機付けで行われている。
「春に川を上り、秋に下って産卵をする鮎本来の習性に逆らって、川に居残りを決め込み『二生分も生きる』変わり種の鮎」が、「どんな条件のところに居残るのだろうか。川を上る時期が遅く、産卵をする時機を失した鮎たちだろうか。どんな様子で、水温は何度、食べ物は何か。珪藻や藍藻を喰んではいまい。動物食なら口吻の形は変化しているに違いない。」等の想像をされている。
昭和10年、20年、30年代に、前さんは友釣りでヒネ鮎を釣られている。
(3)越年鮎捕獲紀行の環境
@ 尾鷲付近の河口から1km程上流のダム放流がないときは、水深6,70cmの川。
A 人工、湖産の放流は行われていない。
B 「フルセンのことかね。年によって違うが、まあ毎年のようにいるなあ。数の多い年と少ない年はあるが今年のはちょっと小さいのう。数の多い年にはもっと大きいものがいるがなあ。」と、地元の前さんの作業見学者が言われたとのこと。
(4)昭和62年1月25日の観察
@ 摂氏8度。「琵琶湖の水温が厳冬期で摂氏6度を下らないから湖産鮎は生きられる、という説からすれば摂氏7〜8度は越年する鮎たちにとっては上等、上等といったところか。」
A 「17〜18cmの錆び鮎が30尾ほど群れになって、ゆらゆらと川底にたゆとうている。ソッと近寄ってみると全く反応がない。それではと身を乗り出してみても逃げようともしない。」
B 8匹をとって観察した結果
ア 「オスは例外なく黒く錆び、やせこけて細長く、胸びれから腹にかけてわずかに淡紅色がある。秋口に濃く出たのが消えかけているのか、もともと淡くしか出なかったのかわからない。雌はサビが出ているものの鮎本来の形をしている。淡紅色ははっきりと見え、中には抱卵しているような鮎もいる。」
イ 「歯の形が退化して、例のヤスリ状の歯並びが平板化しつつあることである。明らかに石の垢を喰む口から雑食性になった形と認めたい。」
ウ 「あの夏の『メロン』『西瓜』のような芳香はない。オイカワ、ウグイと同様の生臭い臭いが鼻についてがっかりした。水垢食から雑食性に変わったため、ということならば、あの香しい臭いの素は『水垢』ということになるのであろうか。」
エ 2匹の雌に「胸ビレ直下に、小指の先大の薄い『白子状』をした脂肪の塊がそれぞれ2個ずつある」
オ 「胃の内容物は2匹とも『ドロドロ状』で、ルーペで見る限り水生昆虫などの幼虫は見つからなかったので、雑食かどうか確かめられなかった。」
なお、2匹の状態は、他の6匹にも同様の現象が見られた。
カ 「雌は卵塊がなく、オスも白子なし。
注:鮎の生存最低水温が「6度」なのか、「8度」なのか、判らない。また、「水温」と食糧である「昆虫」の多寡との組み合わせで考えなければならないのかも判らない。
同様に、海での稚鮎の生存限界の水温についても、水温が一義的に作用しているのか、それとも、水温と食糧である動物性プランクトン蕃殖との関係も作用しているのか、判らない。
昭和のあゆみちゃん:7
(5)昭和62年5月16,17日の観察
@ 1月の時よりも、群れが小さい。「2,3のグループがそれぞれ団体行動をとり、人の頭大の石を5,6尾でピラピラと忙しく喰む。喰んだかと思えばユラユラとグループは移動する。」
A 「私が姿勢を高くしたり、移動するとパッと散ってしまう。丁度、初秋に群れ鮎が小石の垢を喰みながら泳ぎ、釣り人の近くまで来ると急に驚いてパッと散る、あの状態である。」
「神経質なことと機敏さは秋口の鮎を思わせるに十分である。」
B 「17cmのフルセは1月末に比べて少しヌメリが増し、あの鮎独特の芳香も少々匂ってくる。鮎の藻食が香りの源だとすると、フルセの食性が、『雑食から二生目の藻食』に変わったに違いない。」
C 「藻食の確証は櫛歯である。冬期はツルツルと平板化していたが、今はヤスリ状を取り戻している。」
D 「鱗は一月と同じような感じだが、黒ずんでいた体色は薄くなり、追い星も少しくっきりしている。」
(6)昭和63年2月末の観察
17cmから20cmの鮎を6匹標本にできた。
「採集現場でホルマリン8倍液に鮎たちをつけたとき、鼻の先が短い奇形鮎が1匹いることは確認していた。ところが、17.5cmと17.7cmの2尾もそうなのである。」
「その猫鮎2尾に加えて、下唇(顎)の短い17.5cmの鮎が混ざっているではないか。」
「昨年の捕獲鮎は10尾で奇形は1尾もいなかったのにいったい何としたことか。」
「6尾捕獲したうちの5割が奇形で、確実に天然モノだから私にとってはまさに、驚天動地ともいえる大事件となったのである。」
ということで、前さんの推測が始まる。
@ 「『奇形鮎』の因として釣り師たちの考えは、養殖による反自然の飼育と人工孵化鮎をその対象と断定しかけている。しかし、私が採取した川は養殖、人工孵化鮎が絶対にいない地域なのである。」
A 小雨で、ダム放流がなく、「家庭排水等の汚水が奇形の原因ではあるまいか、という疑問が出る。」「放水があり、水が絶えず流れて入れ替わる条件がないと鮎は正常に育たない、といえはしないだろうか。」
前さんですら、正常でない鮎の出現に悩むことになった。
オラはその悩みから、一抜けた、としょう。
注:「オラ達の鮎釣り:補記その2」で、カーソンの「沈黙の春」から、DDT等の薬剤が、止水域では魚に影響を及ぼしていることから、奇形鮎とその関連性を疑っている |
とはいえ、前さんのヒネ鮎の観察から、雌もヒネ鮎になる、釣りの対象となるほどの量がヒネ鮎として生存していた可能性もある、といえよう。
高度成長期の影響が、山に、川に、水に、海に及び、あゆみちゃんの生活、生存に影響を生じているのに、その対応が十分ではない、と考えている。
小国川、山形県が行っているF1:2代目方式が効率性、親の生殖能力の一部の利用しかできない、等の観点から、神奈川県が採用する見込みはなさそう。
やっと、相模川漁連が放流鮎の種別を検討することになったが、その結果は湖産放流や、29代目の継代人工の放流、そして、遡上性も瀬につく習性もないどこかの人工の購入で終わるのかもしれない。
せめて、大井川だけは、以前のように人工の放流をやめてくれたら、と思っている。
高橋先生の香りとコケの相関関係がない、との「アユの本」の記述に関して、疑義は深まることとなった。
また、「アユの本」の1986年四万十川河口域付近での稚魚の観察結果について、海産遡上鮎を親とする、との高橋先生の判断への疑問が増すことになった。高橋先生は、漁協が「湖産しか放流していない」といっているから、人工も海産畜養も四万十川にはいなかった、と。つまり「湖産」ブランドで購入したから、湖産しか放流されていない、人工は放流されていない、との判断が事実ではない、つまり、湖産ブランドには、海産の畜養、あるいは海産親の人工が含まれている可能性がある、と。
そうすると、山形県が行っている人工方式を変形したF1:2代目方式になり、その仔稚魚は海で生存できるのではないか、と。
あゆみちゃんが喜々として生きていた頃のあゆみちゃんを知る人はどんどんいなくなっている。本物のあゆみちゃんとはいかなる生活をし、容姿であったか、習性:文化を持っていたか、その頃を知る人が記録を残されるよう、切望する。
まがい物が氾濫し、本物がなくならないうちに。
昭和のあゆみちゃん:8
昭和のあゆみちゃん挽歌 その1
「鮎に憑かれて六十年」は、1989年:平成元年に発行されている。書かれたのはその2年ほど前。
したがって、この本では、平成のあゆみちゃん残酷物語については、初期現象しか記述されていない。
もし、発行がもう少し遅れていたら、前さんの著述意欲がなくなっていたのかもしれない。その点でオラにとっては幸運であった。
(1)「’98 鮎解禁号」の緊急対談「今年の鮎は大丈夫か? 冷水病」から
@ 人工産アユの歴史について、飯田泰静岡県内水面漁連鮎種苗センター場長は「試験的に始めたのは30年以上になりますよね。ここでも20年以上経ちますから…。狩野川に最初に放流したのも20年くらい前になりますから…。」
A 20年前くらいに放流されていたのに、当時は騒がれなかったが、その理由は、
飯田「その頃は天然遡上も豊富だったし、湖産も問題なかったから、その谷間にちょっと人工産を入れるぐらいでしたから…。最初に吉川さんから初期の人工はひどかったという話がありましたが、はじめの頃はきれいなアユでしたよ。むしろ継代を何代も重ねていくとだんだんひどくなってしまう。狩野川なんかでも最初はおそらく海産と見分けが付かなかったんじゃないかと思う。」
B 冷水病にかかった鮎の卵について
飯田「それはまだはっきりしないんです。保菌者、キャリアーだ、という人もいるんですが…。となると川でとった天然の鮎はほとんどキャリアーなんです。」
C 飯田「冷水病に強いアユがいます。海産です。冷水病が出ても被害が少なくて済みます。たとえば琵琶湖、人工、海産を100尾ずつ池に入れて冷水病に感染させますよね。湖産で残るのは2割か3割。人工産も2〜3割ですが、海産は8割くらい残ります。」
(2) 「鮎釣り2003」の浦壮一郎「拡大する冷水病被害と責任問題」から
@ 「1987年(昭和62年)に冷水病が確認されていたにもかかわらず、全国の漁協は“追いのよいアユ”として知られていた琵琶湖産アユを、滋賀県内の種苗販売業者から購入を続けてきた。それはなぜか…。」
その理由は、浦さんの記事を見てもらうことにする。「オレ達の鮎釣り」で、魚乱さんが成魚放流の鮎釣りイベントを批判して、名誉毀損騒ぎに巻き込まれたが、オラ達の鮎釣りの開設者:みずのようにさんに迷惑ををかけたくないから。
A「アユから在来種に感染していると断定されていない」ことから福島県水産課は「『ほかの生態系への影響は考えにくい』」と。
B 「『アユが持っている菌と、在来魚種の菌とが、必ずしも、遺伝子レベルで同じものかどうかわかっていません。県の方でも試験的に調査はしていますが、うまく移る(感染する)場合と、また移った場合でも、それがアユの冷水病菌によるものか判明していないんです。』」
C 浦さんは、「すでに21魚種に冷水病菌が確認されている今となって、琵琶湖産アユの冷水病菌が河川水または底泥に残るなどした後に、在来魚種に感染したという指摘が有力ではないか。」
と、水産庁、福島県等の見解に疑問を持たれている。
(3)「鮎釣り’98」の「数万円でも売れる人工産、3000円でも売れない湖産」から
「戦後の鮎釣りは、稚鮎の放流によって維持されてきた。釣り人は海産や人工産よりも、追いのよい湖産を好み、各漁協は競って湖産鮎の放流量を増やした。いわば、鮎釣りを、湖産稚鮎とそれを中間育成した養成種苗に依存してきたのである。」
その構造が崩れたのが平成のあゆみちゃん社会である。しかも、遡上鮎もまれにしか、また、限られた川でしか、釣りの対象となるほどの量に恵まれることはなくなった。
(4)近年の湖産状況
@ 「鮎釣り’04年」の吉川賞冶「湖産高種苗性稚鮎は冷水病の決め手になるか?」
吉川さんは、天竜川支流の松川に、無菌の湖産だけを放流された。結果は「保菌したアユのいないところで冷水病が発生したのです。」
その原因について「無から有が生じることはありません。どこかに菌があったのです。冷水菌が川で翌年まで生存することがないのなら、考えられるのは、保菌していない、とされる琵琶湖産の『高種苗性』も、人工産も保菌していた、と考えるのが自然です。」
「冷水病菌の陽性か陰性かは、ある一定数を基準として判定されます。培養した菌がごく少量の場合は陰性と判定されるのです。」
A 琵琶湖の状況について「鮎2006」の「シゲタの鮎釣り日記:走行1万5千キロ」の、湖産を釣りたくて行った安曇川でのこと
「川面をアユが流れていく。それも凄い量のアユが流れている。この川にも冷水病が出ているのだ。漁協のSさんは水温が23度になれば冷水病は治まるという。アユはいくらでもいるのでこのくらい流れてちょうどいいとか。」
さて、ワクチンの開発で湖産放流全盛時代の夢は戻るのか。
浦さんは「劇的に冷水病が改善されるワクチンなどが開発されたとしても、人為的な放流に頼っているままでは、いずれはまた別の弊害に見舞われるのではないか。現在好調だとされるのが天然遡上の多い河川である以上、永続的に鮎釣りを楽しむためにはやはり、河川環境を再生してゆくことこそ抜本的な対策といえるはずである。」
高橋先生等一部に、浦さんの考え方が実践されているものの、昭和のあゆみちゃんが挽歌から脱却できるのは難しそう。
昭和のあゆみちゃん:9
昭和のあゆみちゃん挽歌 その2
「鮎釣り河川に変化が起きている。以前は、全国的に有名な河川というのは放流量の多い河川だった。川が大きく、釣り場も広い。釣り人が集まり、その入漁料で放流稚魚数を増やしてきた。この循環が狂ってきたのである。放流量を増やしても、稚魚は解禁までに死んでしまい、釣り人は集まらない。組合の経営は苦しくなり、放流量は減少していく。この悪循環が始まったのだ。」
(「鮎釣り ’98」の「20世紀の終わりはアユ釣りの終わりなのか?!」)
悪循環の主犯と目される冷水病については、浦壮一郎「拡大する冷水病被害と責任問題」(「鮎釣り2003」)や、吉川さんが、現象は生じているのに、そのメカニズム等の研究機関の成果に疑問を持たれている。
オラも同様である。
そこで、神奈川県内水面試験場に久しぶりに出かけた。
去年全国レベルの研究会で、感染メカニズム等の発表が行われ、その内容の1つは論文で発表されている、とのこと。その論文のコピーをお願いしたが、研究員の予見通り、英文であった。日本語で書かれていても、理解不可能であるオラに、英文は読めやしない。
ということで、研究員の説明のメモで、現段階での冷水病に関する知見を表現するしかない。当然正確性、適切性には欠ける。
魚の皮膚は、表皮と真皮で構成されている。その下に筋肉がある。筋肉は繊維であるから、隙間がある。筋肉の下に血管がとおっている。
表皮には粘液が付いている。粘液は菌をブロックする働きがある。正常なアユでは、菌が粘液についても、皮膚に浸透しない。ミクロの傷とは、程度の差があっても、表皮がはがれることであり、粘液が多ければ、表皮ははがれにくい。
濁り水が出た大量遡上のあった相模川の7月、9月に継代人工が流れてきたのも、濁り水で表皮が傷つき、また、海産よりも粘液の少ない継代人工の表皮が傷つきやすかったから、であろうか。
どのように菌は皮膚に浸透するのか。
表皮にミクロの傷が付いているとき、そこから浸透する。表皮は薄いので、傷は目にはわからないがそこにつく。その傷から侵入した菌は真皮層でいったん増殖する。
増えた菌が皮下組織をとおって筋肉にはいることはない。=筋隔壁に沿って筋肉には侵入しない。
血管にはいる(どのように血管にはいるか、は聞き忘れた)。血管から体内各所に運ばれ、免疫力が強ければ、菌は駆逐される。
感染したアユは失血死をしている。真皮、筋肉層から血管までの傷がふさがりにくい。したがって、貧血を起こす。失血によって貧血を起こすと、赤血球が減り、酸素の運搬が減り、水中の酸欠状態と同様になる。
このことは、05年の湖産が放流されていた道志川で、瀬では鮎が釣れず、トロしか釣れなかったことと関係するのであろう。なお、06年は瀬で釣れた。
傷の大きさの大小、抵抗力が個体で異なるから、菌は徐々に広がり、死ぬまでには感染してから時間がかかる。
菌が増え、穴が開いた部分から血液が流れ出す等で、菌が水中に存在する。
菌の条件
培地=他の菌の影響を受けずに見ると、15度で菌が増殖を始める。
病原性の高い株、低い株がある。これらを同じ濃度で感染させたとき、高い病原性の株がアユを死に至らす。低い病原性の株では冷水病にならない。
このことから、発病には水温と病原性の株の強弱が関係している。
アユの条件=免疫力の問題
@ 冷水病にかかったことはないアユでも、その個体の免疫力が強ければかかりにくい。
A 感染履歴があり、免疫を獲得しているアユ=抗体を持つアユは、かかりにくくはないが。
B 感染履歴でも強度感染アユは強くなる。軽く感染したアユは、死ぬものと、生きる鮎に分かれる。
この免疫力による生存率は素人が常識で想像する範囲と同じ、ということであろうか。
環境
環境要因に、水温以外に、濁り水がある。濁り水で、粘液がはがれる、また、表皮にミクロの傷が付きやすくなる。
そのほか、免疫力を低めること(水温変化の増大、過剰飼育、運搬等のストレスの増大か)があると、菌の力が強くなる。
上記の要因に関して、どのようにアユの個体、環境が冷水病の発生、死等に作用しているか、の定量化、定性化はできないとのこと。
垂直感染
琵琶湖ではどのように年々歳々冷水病に感染しているのか。底泥、水草等を解した感染の確率、可能性が低い、他魚からの感染の可能性も低い、となると、何で琵琶湖では冷水病キャリアが再生産されているのか。
卵巣、精巣に菌があることがある。よって、菌が卵に付着することがある。しかし、菌は卵の内部に入らない。
ということで、垂直感染・親から子への感染はない。
子が保菌アユである親から菌を外界を介して移されている、となる。接触感染だけではなく、水中に菌がいるとのことであるから、それが付着することもあろう。
それならば、菌が増殖する温度があるように、菌が死滅する低温側の温度もあるのであろうか。
06年の道志川の湖産は、少なくとも05年と違い、解禁10日目には元気はつらつであった。
前年に水中に散布されていたであろう菌が翌年にはアユに感染していない。キャリアではない鮎が放流されると、冷水病に感染しない、というのも、現象としては観察できる。
にもかかわらず、琵琶湖では、垂直感染をしていないにもかかわらず、親の因果は子に報い、となっている。
冷水病対策協議会もいかに冷水病を発症させないで、川に放流するか、の、つまり、川に入ってしまえば生存率が上がれば上々の成果、という方向の研究になっていないか。
05年、道志川で流れてきて底に沈んだアユは、白かった。えら付近の赤化、ただれはなかった。冷水病保菌アユになり、川の雑菌が病原菌となり、合併症を起こしたのであろう。典型的な冷水病での死のほかに、合併症による死がある。04年の相模川での継代人工の死についても合併症による、との説明がかってあった。
冷水病の根絶ではなく、遡上鮎の再生産の環境育成が常識になることがあるのかなあ。
昭和のあゆみちゃん:10
第二章 「鮎釣りの記」(朔風社発行)から
(漢字、仮名使いは、現在風に表示しました。辞書検索がじゃまくさいので。)
1 相模川の情景
瀧井孝作「子供と魚釣」(1948年初出)から
先日、相模川の大島にある県内水面試験場に行った後、ビールを飲むために清流の里に行った。ロビーで写真展が行われていて、その中に釣れた鮎の写真が展示されていた。それを見ているとき、上品な老婦人が来られた。オラは、その写真の鮎を人工鮎で本物の鮎ではない、といった。婦人は「もっとほっそりとしていたわねえ。」「亡くなった主人は、八王子からここによく釣りに来ていたの」といわれた。
7月30日、瀧井さんは、自転車に12才の娘さんを乗せて、八王子からごてん峠を越えて、大島の下流側にある神沢についた。
「新子も黒の毛の水着きて、これは姉が女学生の頃用いたもので、いま妹の新子の身丈に間に合うようになったが、この水着きて、ゆいつけの草履はいて、新子はにっこりとしていた。」
「『あすこが渡船場だヨ』と、川上の向こう岸の渡し舟を指さし、『川下のこちらがわの岸につないである三つ四つの舟は、漁師の舟だヨ』と指さした。」
「私は、鮎の川の風景は、何所の川のけしきでも好きで、ここの風景は毎年見ていて、十数年も目馴染みだが、在所の木立や竹藪や家屋や、十数年すこしも変わらないが、見飽きもしなかった。」
そして、「芭蕉の十八楼記は鮎の川の描写で…(注:その描写が引用がされている)、この風景もこれに似通っていた…」
と、相模川の神沢の風景が、芭蕉の描く鮎の川の風景にたとえられている。それほどすばらしい川の環境であったようである。
囮獲り
「川瀬の明るくならぬ朝のうちなら、瀬ザクリでオトリの種鮎がとれるが、日が差して水が明るくなると鮎はつり針みて逃げてしまう例で。」
「いつも釣れる石の並ぶザブザブの白泡めがけて、瀬ザクリをはじめた。長いハリスを瀬のながれにまっすぐに流し込み、オモリが底の石にコツリとさわると、竿先を上流に向けて一尺くらいあげる。すぐにグッと手ごたえがして、次いで魚のつよい引きで、背がかりで、よいオトリ鮎がつれた。」
「しも手にいる新子に向かって『とれたゾ、オトリ箱持って来うい』と呼んだ。」
5匹が釣れた。
この釣り方は、石が大きく、コロガシのできない中津川で行われていたしゃくりと同じ釣り方であろうか。
新子ちゃんは川虫を捕り、まず、四寸鮠1匹。3つ目で針をとられる。
「おどろいたという面持ちで『針をとられたワ、二つ釣ったけど、三つ目に重たいのできつく引っ張ったら、プツと糸が切れて大きいのがもぐりこんでにげて行ったのヨ』と云った。」
「瀬の落ち込みでの川幅が一五間ぐらいにせばまっている樋で、深い急流で、うねりも高い。道糸のオモリも五六匁にして、オトリを底に入れた。と、グイツと竿先が下流に曳ぱられ、すぐ軽くなった。一と引きで道糸を切られてオトリも仕掛けもなかった。ナイロン糸がフワリと上がった。」
「私はまた、瀬ガシラの方に移ったり、大石の前に戻ったりして、相当につれた。…かずは分からなんだが、もう二十以上にはなった。」
午後は、8匁のオモリをつけて激流に沈めて、コロガシハリの沈んだのに絡まり道糸を切り、あるいはコロガシにいい場所をとられて釣れず。
新子ちゃんは8匹釣ってから、舟からの友釣りにやってきた親戚の人の舟に乗ったり、泳いでいた。
30年ほど前、神沢で鮠を釣ったが、すでに大石はなかった。津久井ダムができて、水量も減り、また、家庭雑廃水等の増量で水が汚くなり、昭和30年代後半には相模川で友釣りをする人は希有となり、狩野川がよいが始まったのであろう。
瀧井さんが新子ちゃんを連れて相模川で釣りをしたのは昭和22,23年であろうか。戦前であろうか。
「ナイロン」糸を使ったとの記述から、昭和22,3年ではないか、と想像している。
清流の里であった老婦人が、「主人は」ではなく、「父は」相模川によく釣りに来ていた、といわれていたのであれば、その夫人は新子ちゃんの可能性があるが。「主人」では、昭和30年代後半の話になり、相模川ではなく、狩野川通いの頃になろうから、オラの聞き間違い、記憶間違いかもしれない。
いずれにせよ、昭和30年代前半までは、コロガシや網だけでなく、どぶ釣りや友釣りを楽しみに、相模川にやってくる人がいた。
この日、八王子の釣具屋さんは橋本駅から歩いてやってきていた。
新子ちゃんは、何十キロも砂利道を走る自転車の荷台でお尻が痛かったことであろう。
昭和のあゆみちゃん:11
2 初体験
(1)浅見淵「夏日抄」から
昭和22年8月17日、駒込の染井能楽堂で、うだる暑さの中、能を観た後、八王子の瀧井さん宅に行き、「瀧井さんがこの夏釣られた中で一ばんの大物だという、40匁もある太った鮎の煮びたしで僕だけ酒を御馳走になって」翌朝3時半に起きる。
橋本駅で電車を降り、1里半ばかりを歩いて、神沢に行く。「大粒の砂利石が一面に露出した磧は広く、半町近くも歩かねば水の流れているところに出なかった。」
「やっと水際に出ると、川瀬の流れは速いらしく、鋭利な刃物で傷つけたような皺を絶えず青黝い水面に漂わせていた。」
「瀧井さんは大きなごろた石の上に背負籠を置くと、早速白襯衣(注:読み方わからず)と猿股一枚になって、地下足袋を脱いで素足に草履を穿きかえられた。そして、僕にも草履を渡された。」
瀧井さんは鉤ごしらえ等されながら、上がってきた印半纏の人に尋ねると、「『今年はからきし駄目ヨ。去年の半分ヨ。去年はこの瀬で、毎日夜のしらじら明けに遣ってきて欠かさず一貫目は揚げたものだがね。』 と、笑った。」
「『しかし、今年は舟で四万円ばかり儲けたヨ』」。釣り船の値段は「『 七千円だね。去年は四千円だったがね。釘がどんどん昂がっていくからね。』」
瀧井さんが瀬ザクリで五,六寸の鮎を五匹釣ってから、友釣りを始めた。瀬釣りでは鮠釣りの経験しかない浅見さんは「瀧井さんの釣り振りを観ていると却々の荒修行らしかった」ので、怖じ気づいて見学していた。
「今度は瀬ザクリの時より深く這入って行かれ、臍の辺まで流れに浸って竿を差し出された。軈て(注:やがて)竿先がつよく引き込まれたかと思うと、瀧井さんは竿を立てながら水際に近付くようにして、その儘下モ手の方へとっとと小走りに走って行かれた。十間近くも走って行かれたかと思うと、漸っと立止まられた。〜八寸もある太った大きい鮎だった。」
瀧井さんから2間の継ぎ竿を受け取って、つよい水勢に耐え、オトリを何回か引き戻していると、「 いきなりグイと強い当たりがあり、その儘引張っても糸は動かなくなってしまった。友釣りが初めての僕は当たりがわからず、針が石にでも引掛かったのではないかとちょっとどぎまぎしたが、取り敢えず竿を立て岸に近付くようにして覚束ない足取りで下モ手へさがっていった。すると、下へ下へと引張って行かれ、どうやら鮎がかかっているらしかった。 が却々岸に近づけず、その一方、どんどん下へ引っ張って行かれ、どうかすると足の方が遅れ、のみならず、石に躓いたりして水の中でよろめきそうになるので、僕はだんだん当惑してきた。」
瀧井さんは、「磧は先にも書いたように大小不揃いの砂利石がごろごろしていて、素人には却々走れぬものである。」が、韋駄天走りで近付いてきて瀬の中に入り、「『どれ、貸してごらん』といって、僕の竿を手にされた。」
5,6寸の鮎だった。
昼、「…僕の為別に用意したものらしいビスケットの1包みと、進駐軍の麦酒の空き缶に詰められた茶を渡された。このビスケットは先日の能見物の時にも御馳走になったが、却々うまく焼けていた。瀧井さんの女学校を出た長女の方が焼かれたものらしかった。」
午後は瀧井さんが親子丼を食べ、1匹釣っただけであった。
「青年のように敏捷で軽快できびきびした動作、器用で丁寧で慎重な鉤揃え、いささかも手抜かりのない釣り支度、そればかりではない、その日は夕方の5時半頃陸に上がって帰り支度をしたが、瀧井さんはそれまで殆ど竿を離されたことがなかった。しかも少しも倦怠の色を見せず熱心に釣っておられた。道楽とはいいながら、これが15年ばかりも続いているのである。」
浅見さんが疲れはてて磧に腰を下ろしたまま煙草を吹かしていると「小さな米櫃のような長方形のブリキ缶を担ぎ、麻裏草履を引掛けた、小柄な20代の若者がひょっこり現れて、向かいの釣り船の漁師になれなれしく声を掛けた。漁師は直ぐにその男に応じ、早速竿を片付けたり錨を上げたりして、まもなくこちらの磧に舟を着けた。そして、舟板を開けて生洲から木製の囮箱に鮎を移すと、その囮箱を持って磧に下りてきた。と、若い男はブリキ鑵の蓋を開けて、中から網袋と秤を取り出し、網袋の中へ囮箱の鮎を数を数えながら開けるとその口を閉じ、それを秤で計り、再び網袋の口を開けて中の鮎を今度は自分のブリキ鑵の中に移した。」
「『360匁だったね。』と漁師の顔を見て念を押し、『じゃア180円だね』といって、カアキ色ズボンのポケットから大きな財布を取り出し、10円札を8枚漁師に渡した。漁師は『この間の借りは、これですっかりなくなったわけだね』そういって、受取った金を無造作に腹巻きにねじ込んだ。」
「17匹あった。1匹が10円ちょっとになる訳である。後で、瀧井さんにこの話をすると、『1匹20匁平均だろうが、素人なら囮として分けて貰っても20円はするね。東京へ持って行くとこれが又30円以上になるだろうがね。』といわれた。」
「取引が済むと、漁師が若い仲買の男に『他はどんな具合かね』と訊ねていた。『今日はどこも駄目ヨ。あんたが一番成績がいいぐらいヨ』」
午後は、今日も網打ちとコロガシが鮎の群れを散らしてしまった、とのこと。
プラットフォームで瀧井さんが話をしていた鮎釣りの季節になると商売を休んでいる瀧井さんの家の近くの釣具屋は、「さいきん新しい釣り場を発見して、今日もいい型の鮎を20匹ばかりも釣って来ていたとのことだった。」
相模川で商売ができていた。又、去年なくなったEじいさんも高田橋上で、どぶ釣り客用に舟を7,8隻持っていた。そのような時代はもはや来ない。あゆみちゃんを売ってねえちゃんを買う、というオラの高邁な理想が実現しないのは、腕の悪さだけではなく、世の中が、川の中が、悪くなったから、ということにしておこう。
昭和のあゆみちゃん:12
2 初体験
(2)佐藤垢石「弟子自慢」(初出:1977年) 井伏鱒二について1
九月のはじめ、井伏鱒二さんは、「釣道具屋の親爺が、あなたの鮎釣りにはこの鮒竿で結構であるというから、その言葉にしたがって」鮒竿と、釣りがうまくいかなかったときに使う投網を持って、東京駅から夜行列車に乗った。
この釣行の年はわからない。昭和十年前ではないかと想像している。
「明け方、身延線の十島駅に着いた。」富士川の中流であるが、激流である。釜無川と笛吹川が「鰍沢の地先で合流すると流れは俄然大河の姿を現して、岩を噛む激湍に妖魅さえも感じる。」
「富士川の鮎は大きい。」 いつの年でも真夏の頃には上流で、秋の落ち鮎の頃には下流の岩淵等で、「一尺に近い力強い鮎が釣れるのである。その中間にあるのが、この十島だ。毎年、九月始めには竿を折るほどの大物が鈎にかかる。 殊に、この年は鮎の育ちがいい。もう七月の頃から上流の方で五,六十匁のものが釣れていたから、いまでは七,八十匁から百匁以上の大物が我々を驚かすかも知れないと言って私がこまごまと川の模様を話すと、井伏君は眼鏡の底から円い小さな目を訝(注:この字でないが出てこない:いぶかる?)るのだ。」
「井伏君は例のへなへなの鮒竿を持って、汀の石の上に立った。はじめての友釣り姿としては、なかなか身のこなしがいい。師匠の教えをよく守っているためだろう。すると、まもなくである。竿の先が風の日の枯桑の枝のように二,三度動いたかとみると、竿全体が円く曲がった。引く、引く。井伏君は、ずんぐりしたからだをよちよちと下流の方へ引かれていく足もとが危ない。」
「でも、とうとう岸近くへ引き寄せた。及び腰の、屁っぴり腰で危なかしい手つきで手網を操って、掬った鮎をみると井伏君も私もおどろいたのである。まず、六十匁はあろうという大物だ。」
「井伏君の、手先の顫えはなかなかやまないのだ。」
「騒ぐ鼓動を漸く鎮めて井伏君が言うに、僕はこのまま竿を持って荒瀬のなかへ、引っ張り込まれるのじゃないかと思った。いままで、鮎の毛針釣や投網を何十回となくやったが、こんな調子の興趣ははじめてだ、と笑うと、円い顔が一層円くなる。」
オラがはじめて自前の竿を買ったのは、カーボン何十パーセント入り、6.3m、400グラム以上の鯉竿であった。半額以下ではあったが1万円もした。2,3千円の竿しか買ったことのないオラは、釣具店の手先のごとき、先日亡くなられた師匠を恨めしく思った。
しかも、狩野川で、20cmほどの鮎に振り回されて下流側のうまい人に迷惑をかけて、鮠とは馬力が違う、と実感できたのは狩野川に何回も連れていかれてからのことで、井伏さんのように最初からあゆみちゃんにかわいがられる幸運には恵まれなかった。
井伏さんは、40匁を釣った後、7尺ほどの深さのところで根掛かりをした。
「富士川の流れは、緩やかに見えても水に力がある。潜った途中で、必ずからだが流される。だから、からだに重みをつける必要がある。それには、二貫目ばかりの石を抱くことだ。右手に石を抱いて、目的のところへ頭を下にして潜るんだ。やれるかな。」
「石の重みで沈んで行くのが澄んだ水に透いて見える。河馬の潜水に彷彿としている。」
そして、囮を回収した。
「何にしても私は、将来甚だ見込みのある弟子を得たものだ。命知らずというほどの勇猛心はいらないが、水を怖れるようであっては、友釣は上達しない。入門第一日から、石を抱いて水に潜るような釣り友達は、私も多年鮎釣をやっているが甚だ珍しい。」
井伏さんは「大鮎を七尾かけて五尾鮎箱のなかへ収めた。二尾は逃げられたのである。」
流れの怖いオラは、とても垢石さんの弟子にはしてもらえない。上達しないのもそこに原因があるのかなあ。
昭和のあゆみちゃん:13
2 初体験
(2)佐藤垢石「弟子自慢」(初出:1977年) 井伏鱒二について2
親父が持っていた佐藤垢石「釣趣戲書」(昭和17年三省堂発行)に、井伏さんが序を書かれているが、「その文章が、釣り人としての垢石の人柄を、一番よく語ってゐる。」ということで、数年前に雑誌に発表された文章を引用されている。その中に富士川での初体験のことが書かれている。
「垢石老に連れられて富士川の見延の川しもに行き、垢石指導のもとに9寸のアユを數ひき友釣りで釣り上げた。垢石は私のことを大いに見込みがあると云っておだて上げ、そんなことから私は他愛なく釣りが好きになってしまった。」
「垢石老は先ず釣竿の持ちかたから川に向かう姿勢、足の運びかたやアユを釣り上げるメソッドなどについて私に教授した。富士川の滔々と流れる岸邊に立ち、お手本を示しながら教授してくれたのである。次に垢石は左のごとき説法をしてくれた。」
説法の内容
「『友釣りの方法はいろいろある。しかし俺のいま云った方法は、俺の四十年間の釣りの経験からすると、一ばんすぐれたものだといへるやうだ。お前もいまこの釣りかたで、苦もなく一ぴき釣り上げた。ところが來年あたりになってすこし経驗を積んで來ると、お前は自分に工夫を加えて釣りかたを變へてみたくなる。それからまた次の年になると、また自分の工夫を加えたくなる。三年目か四年目ぐらゐにはまるでへたくそみたいになる。スランプだ。まアるで駄目だ。それでまた自分で工夫しながら釣ってゐると、十年目ころには自分のその十年間の経験で、いま俺が教えたとおりの方法で釣りたくなるやうに逆戻りして來る。つまり初め習った原則に歸って來て、結局は自分でその原則を發見したほどの自信が生まれて來る』」
「私は垢石のその説法をききながら、富士川のながれを目の前にひかえ、ただ、感慨無量になるばかりであった。」
「垢石は私が一ぴき釣る間に三ぴき釣り上げて、しかも板についた姿で五間の釣竿を輕々と扱ってゐた。その恰好を私は眞似ようとしたが、釣竿を持つ私の姿は自分ながら不恰好であると認めなくてはならなかった。私はそれを自分の釣竿が安物で重いためだと考へたが、垢石の云うには釣りそのものに対する私の魂魄が高邁でないためだと批評した。」
「『釣竿を持つには、先ず邪念があってはいけない。自分は山川草木の一部分であれと念じなくてはいけない』」
井伏さんは、同行の水産講習所の先生である殖田さんから、珪藻について、また、珪藻の花が散って枯れると水垢が腐っている、と教わる。殖田さんは、「小石を一つ拾ひとって、水垢がこんな色をしているのはもう花が散っているのだと云った。」
今年の鮎雑誌に、垢石翁の云われた十年で一人前、ということが、情報化時代では通用せず、二,三年で名人にもなる、と書かれていた。そのとおりであると思う。極楽背針にしろ、金属糸の編み付け結束にしろ、マッスル背針にしろ、一大発明工夫が容易に一般化する。川を見る目、あゆみちゃんの習性を熟知しておれば、であるが。
その鮎雑誌には、人工が主役になり、鮎本来の習性を持つ鮎が釣りの対象とならなくなたことにも言及しているが。
オラは邪念の塊で、竿を持っている。あゆみちゃんとの昼下がりの激しい情事を楽しみたあい、あゆみちゃんを売って、女子高生との援助交際をしたあい、と。
垢石翁がこの邪念の塊を知ったら、不純な動機の塊の凡人に釣りをする資格なし、というのであろうか、それとも、ヘボであるから許そう、と大目にみてくれるのであろうか。
昭和のあゆみちゃん:14
(3)桜井均「懐旧」(初出:1978年)
「私は弟子入りのしるしに、その頃すでに入手難だった灘の生一本を手に入れ、おかんをしてアユ釣用の魔法瓶に入れて持って行った。垢石老喜ぶまいことか。あの酒焼けしたエビス顔を子どものようにほころばせ、魔法瓶を膝の中に抱えこみ、小さな手びしゃくで汲んでは飲み、汲んでは飲み、上野駅から宇都宮駅までの間に、たったひとりであらかた平らげてしまった。それでもまだけろりとしていたが、烏山行きに乗りかえ、残り酒をすっかり飲み干した頃には、さすがにへべれけで、宿に着いたときには酒仙もすっかりへたばっていた。」
「師匠がここぞと選んだゆるい瀬の中へオトリアユをおくりこんでもらって、指図どおりに竿を構え、胸をときめかせながら、今やおそしと身構えているとやがてきた。ガクンという強いアタリを手元へ感じると同時に、竿先がぐーんと大きく曲がって急に重くなり、掛かったアユの激しい動きが竿を通して全身に伝わってくる。しびれるような感動の一瞬だ。すわこそと、竿をあげようとすると、『引っ張られるままに下れ、竿を寝かせて岸へ寄せろ』」
「竿を立てっぱなしだったからたまらない。引っ張られているうちに、強い流れに乗ってしまった。さあことだ。どこまでも、どこまでも流されていく。もうかけ足でないと間に合わない。『どこまで行くつもりだア』と師匠が遠くで怒鳴っているのが聞こえた。なおも追いかけると、すぐ下手でだれかが釣っているのが眼の中へ飛び込んだ。あツと思って横っ飛びにひきさがり、夢中で竿を強引にひっぱたら、それが運よく下手のつり人の眼の前に引き寄った。」
「それからがまた一騒動で、背掛かりのアユだったので、そっちへ、こっちへと跳ねまわる。もしや切られやしないかと不安におびえながら、やっとのことで取り押え、思わずほーっとため息をついた。眼の前であわてているようすがよほどおかしかったとみえ、『えらい格闘ですな』と年配のつり人が笑った。遠くで垢石老が手をたたきながら笑っているのが見えた。まさに初陣の功名だった。」
「あのガクンというアタリの瞬間の恍惚感は、ある生理的な快感に似ているな、とその時ふと思った。」
今、これらの初体験を経験できる人がどれほどいるのであろうか。管理釣り場のニジマスを釣っても、恍惚感を得ることはできないのと同様、人工アユを釣っても、あら 釣れた、というだけであろう。ましてや、成魚放流の人工では、あゆみちゃんに魂を奪われる悲惨な人生、失楽園の情事に身を滅ぼすことにもならず、平穏無事な人生を全うできるが。
前さんは、アマゴ釣りの水沢さんから鮎釣りを習いたい、といわれたとき「止めときなはれ。あれはあまり感心したもんやもまへん。それとも“エイズ”に感染したいのなら無理に止めません。」
「エイズを含めて難病といわれるもんは大抵“合併症”を引き起こすもんです。鮎釣り病も例外なくたくさんの合併症が出てきます。考え方によったらエイズよりずっと怖ろしい業病かもしれませんぞ」
「まずこの業病は解禁前からわいわいとやかましい騒病、釣りに夢中で食事をしない拒食症、他人に感染させたい狂気、つまり精神病。まじめなところで神経痛。…まだまだ数え切れないほどの合併症がある。半世紀も前からこの病気で苦しみ治療もままならん私がいうのやから、万に一つの間違いもおません。」
「二昔も以前、ある人にこの釣りの面白さを話した結果が大の鮎狂いになられて奥さんに愚痴られたことがあるんです。以来鮎釣り師にアマゴ釣りは奨めても、その逆は絶対にしないことにしとります。」
前さんの心配は、人工、成魚放流が釣りの対象となった今となっては、杞憂に終わるであろう。
「『鮎釣り』に一度手を染めると、濡れた手はまず乾くことはない事例が多いためである。」(「鮎に憑かれて60年」)のコケティッシュな、小悪魔な、妖艶でかつ強力のあゆみちゃんが日本にどれほど残っているのであろう。
前さんは『釣り狂症候群』の『鮎釣り症候群』について、
「実際の釣りでますます重病になる一方、釣期でない冬に釣り具と遊ぶ。鉤を結んだりほどいたりして夢遊の世界に入る症状の者もいる。
医師であっても例外ではない。この病は悪くなっても快くなることはない。知人は医師である奥さんと息子に『特効薬』もないと、匙を投げられてしまった重病人である。その上因果なことに、近年この病原菌が息子さんにとりつき、親子仲良く入院されている始末。
『親子入院』となると、親の方がうれしいらしく入院の心得を教えたり、何かと世話をやいているのが微笑ましい。」
オラはこの症候群にかかる機会のあった、最後の入門者のようである。
なお、桜井さんは、富士川における職業漁師あがりで、友釣りの達人である中島さんの釣り方について「ひとつところで釣っていて終日ほとんど動かなかった。それでいて、いつも成績は百尾を下らなかった。ある時その秘密をひそかに聞くと、場所を選んだら、まず竿を入れていみて、釣れたら少し下ってそこでまた竿を入れる。それを繰り返して釣れなくなったところを境に、おもむろにその間で釣るのだといった。」
この釣り方は、人工アユが群れる習性があることから、畳一畳以下の空間で大釣りになることとは異にする。つまり、海産の釣り返しのきく習性を利用したものではないか。
また、「ひとつところ」といっても、「ひとつの瀬」の意味ではないかなあ。
金のコケが繁茂する場所では、一番アユの動静を絶えず二番アユ、三番アユが狙っており、一番アユがいなくなると、その一等地にすぐ二番アユが入ってくる、との松沢さんの話の、本物の鮎の習性を熟知された釣り方ではないか、と思っている。
06年の大井川の抜く里で、名人ら並の数を釣っていた地元の人が、流れに対して上下に余り大きく移動しなかったのは、中島さんの釣り方の有効性を熟知されていたのではないか。
昭和のあゆみちゃん:15
3 亀井巌夫「長良川ノート」(初出:1978年・昭和53年)から
(1)激流:モモノキ岩
「北濃、白鳥と奥長良の水を集めた本流は八幡で吉田川を合わせて膨れ上がると、渦を巻いてデアイ、フトナ、シンブチを一なめするように流れ下り、イワモンの尖り岩にぶつかりながら流芯を右岸に振り、タテカベをかすめたあと、地鳴りのような号音をあげてモモノキの足許に押し寄せてくる。」
亀井さんは、弁天のオチコミとか相生のホウデン淵、モモノキ等の難しいところを好むためか、長良川ではここ2,3年15匹以上釣ったことがない。
「とりわけモモノキは、これまでどうしても歯が立たない。柔らかい竹竿を捨て、堅めの穂先をつけたグラス竿で挑んでみても、この水勢ではとても抜きあげられない。二度耐え切れなくてバラしたことがある。―私の竿を使ってみたら―と青地さんは自家製の郡上竿をすすめてくれるのだが、とても重いし、名品であるから傷つけるのが恐ろしくて手にしたことはない。」
名人級、竿師等が「幾度かモモノキに上がり、ある時は秘術を尽くして会心の戦果をあげ、ある時は切磋扼腕不漁をかこったことだろう。」「彼らは一様に、白泡立ち、噴き上げ、巻き返すこの淵の底へ叱咤激励のオトリを送り込んだ。そのたびに、満悦や焦立ちや放心が、この岩の周りの渦のように湧き、あふれたはずである。」
「―その時、大多サはこの岩角に足を踏ん張ったろうか、まさとサは身動きもせず岩の窪に腰を落としていたろうか。古田萬サは畏友・山本素石が語るように、受玉をラケットのように構えたろうか―
一人一人が手をつかえ、足を踏んばり、腰を降ろした岩角や窪みがその時の高鳴る鼓動をそのまま伝えているかのように思える。それはまた奔流に立ちはだかり、青筋たてて耐えているモモノキ岩そのものの胴震いでもあるようだ。岩肌にそっと耳を当てると、どぶっ、どぶっと脈打つような響きで、岩がなっていた。」
「そんなモモノキだが、八幡に来るたびに一度は竿を出さずにはいられぬ魅力を覚える。それは決して難関に挑もうというような気負いからではなくて、この岩に立つとき、たちまち長良川そのもの、八幡の釣りそのものにふれたような想いに駆られるからなのだろうと思う。」
オラは、うだつのある家並みと重文の井上家がある美濃から歩いていけるところで4,5回釣ったことがある。掛かったとたん、沖に走られる、という、未知との遭遇で丼を食べたことがある。
松沢さんは、長手尻で、郡上漁師の長竿に対抗していたとのことであるが、その仕掛けで長良川の漁師に太刀打ちできたのは、オトリが沖へ沖へと泳いでいったから、といわれたことがあったと思う。
河口堰ができて遡上鮎がいなくなってから、郡上では、中津川のような安全なところと吉田川でオトリを泳がせたことがあるが。人工が主役になってからのことであるが。
(2)「大多サ覚え書」の章から その1
@ 友釣りの黎明期
「網漁に替わって竿釣りが少しずつ盛んになりだすのは明治末期から大正の初め頃である。大多サも小学校六年生になっていた。」
「大正も中頃になると、鮎はもう竿釣りでなければならなくなっていた。網で傷ついた鮎は値も安く、大物も少なかったのだ。そして決定的な竿釣り革命が郡上で起こった。その導因は伊豆の漁師たちの出現であった。」
A 竿革命
「角館という宿に伊豆が泊っとりました。三人、五人と一緒に来た」
「みな継ぎ竿を持っとりましたで。今から思うと竹を三つに切って、ふたとこブリキで継いだだけの幼稚なものじゃったが、わしらの藪から切ってきたまんまの竿と違いますで、とにかく長い。その長い竿で、そりゃあ、どえろう釣りよりました。役者が一枚も二枚も上でしたで」
「伊豆の漁師が八幡町に伝えた技術は継ぎ竿作りのほかに、錘の付け方やゲロ(鼻環のこと)など仕掛けの細部にもわたっていた。
伊豆式はゲロの替わりにシュモクを使っていた。これは、オトリの泳ぎ方に癖が出るというので、八幡の人たちは銅線の環を主に使った。しかし、錘の付け方は大いに学ぶところがあった。伊豆式は現代風な、糸に鉛を噛ませるやり方だったが、八幡ではそれまで鮎に直接ナマリをつけるアゴ玉を使っていた。…(アゴ玉の説明略)」
「仕掛け糸は“伊豆の太糸”といわれたくらい、一厘五毛(一.五号)から二厘という“綱みたいに太いもの”を使っていた。そのかわり、一週間も十日も、そのまま使っていた。
『かかった鮎はみんな取り込んでやろうということやで。しかしオトリを泳がすことには不得手じゃった。』」
「大多サは本テグスの六毛か八毛を使った。“八月川”の水枯れには専ら四毛を使い、掛け鉤は馬ノ毛を三,四本撚りにしたヤナギの二本鉤が主であった。オトリを泳がす方が大事だと考えて、細い糸を使い、鉤は鉤先が常に下を向いていれば一本でもいいということを知った。」
昭和のあゆみちゃん:16
亀井巌夫「長良川ノート」(初出:1978年・昭和53年)から
(2)「大多サ覚え書」の章から その2
B 稼ぎ
昭和十年米一升(上)が二十九銭、オトリ一匹二十銭。
「漁師の中には一日に一俵や二俵の米代を稼ぐ人もざらにあった。」
大多サは父親の病気をシオに竿一本で稼ぐ決心をした。
「昭和の初め頃、漁師となった大多サは毎日三百五十匁(約一.三キロ)六尋という、重くて長い竿を振って大鮎を追った。」
その釣り場での生活もこの章には書かれている。
「『言いにくい話やが、私の若い盛りの頃は雪が積もってひと冬商売にならんようなときがあっても、夏の鮎の稼ぎで、炬燵に当たってぶらぶらしとられましたで。』」
昭和12,3年頃のこと=「記憶は定かではないが8月の釣り難い時期で、大川で粘っても、一人前の漁師でさえ2,3匹しかあがらないという条件の悪いときであった。」「その年は吉田川の市島へ試験的に鮎を放流したときだったと思う。…大川の天然鮎ほどではないがなかなかよう肥えた鮎でした。…大川のように釣りかえしが効かんのですで。」
「その鮎を組合へ持って行った。計算してくれたのが、二入りが二枚、三入りが二枚、四入り、五入り、六入り、八入り、十入り各二枚にビリがいくつかという釣果だった。
二入りというのは百匁の鮎が二匹入るコウリのこと、三入りは同じ大きさのコウリに鮎が三匹入るもの、四入り以下同じで、七入り九入りはない。ビリは小型の鮎のことである。十入りまで数えると、この日大多サが釣った鮎は七十六匹、ビリを入れると八十か九十になっていたはずである。」
「『これでもらったのが四十九円といくらかで、その前の伝票と合わせると百円になりました。』という。当時の相場からみると一日で月給に近い稼ぎをやってのけた話になる。」
吉田川への湖産の放流年は、萬サの話と少しずれているが、大多サの話が湖産放流開始年のことか、どうかはわからない。
吉田川でも、400グラムほどの鮎が釣れていたとは、珪藻の生産力、栄養価、水量が今とは比べものにならないほど、豊かであったということか。
継ぎ竿になったため、
「大多サら漁師たちは毎日三人、五人と気のあった、腕達者揃いが集まっては一団となって川筋を走り回った。めいめいが造りあげたカン継ぎ竿を自転車に積み、長良川が調子が悪くなると和良川へも行き、馬瀬川へも行った。
特に高山の宮川と神通川もぐっと下流の富山県に近い蟹寺付近にはよく出かけた。遠征に出るときはいつも新品流行の自転車だった。古いのは修理工場がないので途中での故障が怖ろしかったし、新しいのが働き者たちの心意気でもあった。」
注:宮川については、「故松沢さん思い出:補記その2」で、垢石翁が釣りをされたときのことを書いている
「漁師たちはこうした遠征には十日から長いときは一ヶ月もかけていた。旅籠に泊まっては近所の魚屋や旅館に鮎をおろし、帰りは竿も手玉も現地の人に請われるまま譲ることが多く、手ぶらで自転車を押して戻った。ただし懐中には百円、二百円という大金が入っていたはずである。
この銀輪部隊は、だから郡上釣法の伝播者たちともいえた。」
昭和のあゆみちゃん:17
(2)「大多サ覚え書」の章から その3
C 鮎の遡上、下り時期
「長良川に遡上する天然鮎の群れは、例年三月下旬に美並村に達し、四月にはもう八幡に姿を見せていた。」
「七月に入れば解禁となり、天下晴れて稼ぐことができたが、当時の天然鮎は、“五月川”でも昨今の七月鮎に負けぬほどよく肥えた大物が釣れた。しかも放流鮎と違って天然鮎は九月十月まで川に滞っていたから、十月半ばまで友釣りをしたものだという。」
「十月なかばすぎようやく落ち鮎期となると、坪佐や神路、中野といったヤナ場では“一と水百五十貫”といわれるほど、多いときは一日で三百五十貫もの鮎が獲れたそうだ。」
三百五十貫とは、1トン以上ではないか。
三百グラム、四百グラムの鮎が釣れていたこと、五月でも今の七月、いや、昭和の後半ではなく、平成の世では八月の鮎の大きさに育つほど、栄養のある珪藻が育っていたのであろう。
栄養豊富な珪藻の育つ環境の違いを無視して、「大きさ」だけに着目して、釣り人が大鮎を望めば、ずんぐりむっくりの、激流を泳ぐ体型とはほど遠い、脂肪に満ちた人工鮎がありがたがられることになる。
オラは、「鮎釣り大全」の斉藤さん信者であるから、そのような鮎もどきはまっぴらである。
相模川漁連の人が、津久井ダムがなかった頃、3月に遡上していた、といわれた。その頃の川の水温は、今よりも高く、川面には朝霧が立ちこめていた、と。川の水温が10度以上で、また、11月1日頃産卵の早生まれが海水温20度以下の条件があって、社会死をしなかった、から、ということか。
D 長良川の黄昏の予兆
「昭和34年の八幡町での鮎の漁獲高はヤナで千五百キロ、釣りで三万七千五百キロに上り、この釣りには千百四十人が従事したと〈町史〉にある。また〈漁業従事者としての戸数は七戸であり、その他の多くは夏季の副業としている〉とある。現在では釣り一本で生計を立てている人はなくなったようだ。」
「戦後になっても天然遡上は昭和三十年頃までは昔と変わらぬくらい盛んだった。
『(昭和)二十五年頃かしらん、深戸から木尾の間を帯になって遡る鮎の行列をみたですで。そりゃ見事なもんで、道路から一時間見とろうが全然行列は途切れんで続きよりました。その年の凄かったこと。釣りに出て川を向こうへ渡ろうとする間に、五つも六つの鮎が足に当たりよったもんで』
しかし、大多サの記憶では、それ以後は年ごとに遡上は減った。「(昭和)三十年頃からここ四,五年前までは、天然鮎が遡ったということはわしは言えんと思う、と彼は言う。」
「昨年あたりから(注:「長良川ノート」が掲載されている「釣りの風土記」の発行が1978年・昭和53年である。ということは、昭和50年頃のことか)今年にかけて、再び長良川に天然鮎が遡り始めたのだ。不景気になったせいで、川の汚れが少しましになったのだろうという。」
昭和の終わりに近い狩野川でも、鮎足袋を鮎が突っついていた。川の大きさが異なるから、長良川での遡上量は凄い数であったのであろう。
それが、家庭雑排水の流入による河川の富栄養化、産卵床の荒廃による孵化率の低下なのか、あるいは伊勢湾の汚染により仔稚魚の生存率が著しく低下したのか、わからないが、長良川でも、昭和三十年代から放流鮎河川の趣を呈するようになったということか。
昭和34年のヤナでの漁獲量が、1500キロということは、昭和30年以前にみられた特別豊漁の年の1日分に過ぎない。
そして、昭和40年代後半、水質汚濁防止法の効果が現れて、伊勢湾で仔稚魚の生存ができるようになったということであろうか。
河口堰さえなければ、長良川に遡上鮎が増えて、オラも美濃に行くことになったであろうが。うだつのある家並みはどの程度残っているのであろうか。
E 終焉
もし、亀井さんが、長良川河口堰を知らないで亡くなられていたのであれば、幸せであったかもしれない。
八幡の目利きが集荷場に持ち込まれれる鮎の中から、九頭竜産の鮎と長良川産の鮎を峻別していた、とのことであるが、今や人工鮎が主役である。
目利きはまだいるのであろうか。今は何を基準にして、鮎の質を判定しているのであろうか。それとも、質を問わない、単に重量だけが判定基準なのであろうか。
「天然鮎の消長とともに人生の軌跡を描いてきた老漁師、〈昔の漁師は士族じゃった〉と眉をあげて語った大多サ、小柄な老人の後ろ姿に、私は颯爽とした心意気のようなものを感じたのを忘れることができない。」
今、古に長良川に生息して、人間と対峙していた鮎は、絵の中:水野柳人の絵の中でしか、みることができない。
「おもだか家の土蔵を改良した展示場には今も百点余りの鮎があるが印象に深いのは代表作といわれる簗場に跳ねる鮎の姿である。六尺×三尺という大作で、竹の簀の子の上に数匹の鮎が跳ねている。背びれを逆立てて怒り狂う鮎、大きく口を開き、目を光らせている鮎、驚きととまどいに身を震わせている鮎…一尾一尾が生々しく、簀の子の上の阿鼻叫喚が描かれている。何ともすばらしい迫力である。
中野の簗場をモデルにしたものということだが、ここに表現されているのは、まさしく長良川の奔流に棲む猛々しい天然鮎そのものである。
製作年代は昭和三年頃であるから、八幡の町でようやく友釣りが本格化し、幾多の名人・上手が豪快に郡上竿をしなわせて天然の大鮎を追っていた頃の作品だ。」
昭和のあゆみちゃん:18
第5章 むかしの光 いまいずこ
(1)「鮎釣りの記」から
熊谷栄三郎「名川」(初出:不明・「鮎釣りの記」出版年の1984年・昭和59年の頃であろうか)
「アユの友釣りは、他人サマとの接触を避けることが本来的に不可能なように仕組まれているような気がする。なんとなれば、オトリアユ購入の時からして、オトリ屋の主人と会話を交わさねば用を足せないのである。同時に、どの瀬で、どんな型のアユが、どれくらい釣れているかの最新情報もそこで得なければならない。それが何年も続くと、いきおい互いに親愛の情も湧いてきて、ときには土産を持って行ったり、逆にもらって帰ったりということにもなるのだ。」
釣り場所も「数人がある程度の間隔で並んでも十分に釣れるから、やがては何人かと顔なじみにもなって、あいさつを交わすようになる。そこで、毎年のようにその場で顔を合わせていた常連が、ある年のシーズンが始まっても一向に姿を見せないと、つい、あの男、病気にでもなって苦しんでいるんじゃなかろうかと、気をもんだりするのである。」
「つまり友釣りという釣りは、なるほどアユや清流といった自然物を相手にしてはいるのだが、その背景として人間の存在が相当に大きい比重を占めているように思われる。ついつい他人の生活というものに接触することが多く、したがってそのつど人生に関する何がしかの感慨を抱くことにもなるというものだ。」
熊谷さんは、今シーズンは真っ先に由良川の最上流である美山川に行った。例年のごとく、囮屋さんでもらったスモモをかじりながら川原に下りた。
7,8匹釣ったところで本降りになった。漁協事務所にいると、50年配の人が「いえ、実はね、女房が三ヶ月前に死にまして。それで遺言で、骨の一部を美山川に流してくれといってましたので。」と。
その小山さんは「特にアユの友釣りが大好きで、そこへ持ってきて大の愛妻家でもあったから、十二,三年前からは」奥さんを川に連れ出すことになった。奥さんの腕も上がった。
そして、長良川や馬瀬川、狩野川等に出かけていた。この春先に乳ガンでなくなる前、その四川にも骨を流してほしい、と。
「『そうですねん。特に女房はこの川に知り合いが多おしてな。オトリをつけたままの竿を放り出して、いったいどこへ行ってしもたんかいなと探したら、川っぷちのお百姓のばあちゃんと話し込んでいたり、袋にいっぱいスモモをもろてきたり、そんなことがようおしたなア』」
熊谷さんが、「『そういう呑気な、そして地元の人と話し込んだりするような釣りこそ、本当の釣りのように思いますね』」というと、「『そう、ほんまにそうや。田舎の人とあれこれ話すのが本当に楽しい釣りなんや。ちゅうことは、女房もあれでけっこう一人前の釣り師になっておったんやなア』」
その名川が、そして、美しく、コケティッシュな小悪魔の魅力をふりまくアユが、忘却の彼方に。
高度経済成長で、人間が自然に対する礼節よりも利便性、物質的な欲望を優先させたことを悔やんでも始まらないか。三途の川ではどんなあゆみちゃんと遊べるのであろうか。
先日亡くなったオラの師匠は、道志川、酒匂川の谷峨・山北地区には釣りに行っても、中津川にすら釣りに行かなかった。相模川は水が汚いから当然としても、中津川を毛嫌いした理由はわからなかった。
相模川漁連は、1980年(昭和55年)頃から県の継代人工種苗と「湖産」を放流していた。さらに、「湖産」として購入された鮎であっても、人工あるいは海産畜養が混じっていたと想像している。
なにかで、湖産出荷量と、湖産の氷魚等の採捕量が異なり、出荷量がはるかに多い、とのことが書かれていたと思う。95年頃のアユ雑誌であるが、何回探しても見つからない。
相模川漁連が購入していた「湖産」に、まがい物が含まれていることは、伊南川、益田川、福士川、滝谷川等の湖産を釣りに出歩いていた師匠や、去年亡くなった師匠の師匠:大師匠にとっては、姿、形から自明のことであったのであろうか。
それが、本物の湖産鮎を放流していた奥道志や、酒匂川にいっていた理由であったのか。
大師匠の足が酒匂川から遠のいたのは90年代初めのこと。湖産とはいえない姿の鮎であった。腹を割くとナイフにべっとりと脂が付く。囮屋さんが、鮎が薄くなったから、まいてもらおう、といっていたとのこと。
湖産が、冷水病の蔓延で生存率が下がり、一級品の湖産を放流していた酒匂川でも、数が減り、人工成魚を放流することで、客寄せをせざるを得なかった、ということではないか。
オラは、師匠や大師匠が何で、湖産、海産、人工の違いを口うるさくいうのか、理解できなかった。去年、群馬県の川で行われた釣りのイベントで、魚乱さんが成魚放流を釣ってもおもしろくない、と、釣りを止めたことに対して、若者が釣れるのに何で止めるの、といった、と書かれていた。オラは若くはなかったが、その若者と同様の感性であった。
今やっと、本物のあゆみちゃんと、まがい物のあゆみちゃんの違いを意識すべきである、と考えるようになった。
師匠と大師匠は、未熟者め、と笑っていることであろう。
小山さんの奥さんがお骨を流してほしい、と頼まれた長良川、馬瀬川、狩野川、美山川に、昭和の釣り人が今もうつつを抜かして通う川とあゆみちゃんが住んでいるとは思えない。
昭和のあゆみちゃん:19
(2)佐藤垢石「釣趣戲書」(昭和17年三省堂出版)から その1
(漢字は当用漢字に置き換えています。仮名も今様に変えています。)
@ 鮎の品質と岩質の深い関係(142ページ)
「鮎の育った川の石の質によって、味と香気とに確然とした差が生じて来るといふのである。」
「水源地方に、古成層つまり水成岩の層を持った川の鮎は品質が上等である。これに引きかへ、水源地方の山塊が火成岩である川に育った鮎は味も劣り、香気も薄い。殊に、磧に火山岩が磊々としている川の鮎は、まことに品質がよくないのである。これは、古成層の岩の間から滴り落ちる水は、清冽な質を持ちそれから発生する水垢は、少しの泥垢も交えないので純粋であるからよく鮎の嗜好に適している。ところが、火成岩の山塊を水源とする川の水は、水成岩のそれのやうに清冽ではない。したがって、発生する水垢の質は上等とはいえない。」
「そればかりではない。河底にある水成岩の石の面は滑らかであるから、鮎が石の面の垢をなめるに都合よくできている。これと反対に火成岩の石の面は甚だ粗荒である。鮎の口を損ないやすいことが知れよう。良質の水垢を豊かに食った鮎は香気が高く肉が締まり、泥垢を食った鮎は匂いが薄く、肉がやわらかである。」
今は亡きEじいさんが高田橋等に花崗岩を入れたとき、あんな石は鮎に役立たない、道志の山にある水成岩を入れるべきである、といわれていたが、垢石翁の書かれていることに通じる。
注:高橋先生は「ここまでわかったアユの本」で、シャネル5番の香りがコケに由来するのではなく、生まれつきのもの、「本然の性」によると書かれている。 これについては、「故松沢さんの思い出補記」「故松沢さんの思い出:補記その2」でも、何回かふれることとなる。 |
A 水温と鮎の質との関係(145ページ)
「食品の特質に興味を持つ人は、水温と魚の骨の硬軟に微妙な関係のあること」を知るべし。
「鮎は好んで水温の高い川に棲むというが、水温の低い川に棲んでいる鮎の方が肉も締まり、香気も高い。そして、骨がやわらかいのである。
焼いても煮ても、頭も骨も歯を労することが少なく、却って骨を味わうために一種の風趣を感じるのである。であるから、骨の硬い鮎を箸にした時は、下流の水温の高い緩やかな流れに泥垢を食って育ったものと知っておく必要がある。」
「利根川は中部日本では、四季を通じて最も水温の低い川の一つである。五月下旬から六月上旬、若鮎の遡上最も盛んであるという頃に、水温は摂氏八度から十二度位を往復している。銚子河口や江戸川から冬中、海で育った小鮎が淡水に向かうのは三月下旬から四月中旬へかけて、雪解け水が出始めた頃であるが、人の肌を切るような冷たい水を小鮎は上流へ、上流へと溯っていく。
そして溯りつめたところは、死魔の棲むという谷川嶽に近い水上温泉の下流二里ばかりの奥利根川である。この辺は眞夏でも日中二十度を超えることが少ない。」
「それでも鮎は大きく育つ。五六十匁から八十匁の姿となるが、胴が圓く肉が締まり骨はやわらかである。水が冷えるほど、頭と骨が柔らかくなる。」
そして、このことは、ヤマメでもハヤ、鰍でも共通するとのことである。
B 月夜野の鮎(322ページ)
「月夜野橋近くまで辿り着いた香魚は、鼻曲がり、姿は細身に変わって、長途の奮闘を嘸かしと思う。食ってしまうのは惜しい位である。背に青藍色の澤を泛べ、胴の肉張り圓くなって眼の輝きは、どんな長瀞をも貫き溯ろうとする意気を面魂に示している。この辺の水垢は、香魚の香気をほんとうに高くさせる。であるから月夜野橋下流の利根本流と、三国峠の東側に源を持った赤谷川との合流点近くで釣れた香魚は、大利根百里のうち、随一の称がある。」
「関東水電の大堰堤が上越線岩本駅前の利根本流を遮った大正十五年以後というものは、そこの魚梯を溯る鮎は甚だ罕となったのである。余程体力のある香魚でなければ、この長い魚梯は溯破し得ない。しかし、一度この魚梯を登り越えれば香魚の味は俄に違う。また、釣鉤を背負って水の中層を逸走の動作にも、その強引と闘争力のほどが窺い知れるのである。」
C 利根川なきあとは
「函嶺から東で、全国に誇るに足るという立派な鮎が、昔も今も変わらず棲んでいるというのは常陸国の久慈川である。川という川の香魚は、質が衰え、数が滅びていくとき、関東に残されたただ一つのこの川の香魚を、心から保護してやり度いと思う。」
「久慈川は、常陸国の南部に広がる阿武隈古成層に源を発していて、久慈郡の大子、袋田、頃藤、西金等の河底には水成岩の転石が白泡を揚げて激流を遮っている。その岩の水垢に、肥育絶頂に達した大きな香魚がメスの光るように身を翻しているのが、崖上の奥州裏街道から眺めることができる。」
D その他の川のあゆみちゃん評価:抜粋
東海道では、興津川の鮎、北陸では神通川の鮎を第一とされている。
そして、小山さんが奥さんの骨を流された美山川については、「大正天皇御即位御儀の時、大嘗祭庭積机代物に用いた香魚は、丹波の三国嶽から源を発した由良川で漁れたものである。」、そして、「今上天皇御即位式の時にも同じくご用命があった」「まことに名誉ある香魚である」が、「釣魚家からみると、あまり上等の質の香魚であるという訳にはいかぬ。」とのこと。
その理由は、
「昔から京都府内は稲作が発達していてどんな山の中腹へも水田を拓いたのでこの川へ落ちる水質はあまりよろしくないのである。したがって、香魚は圓々太っていて甚だ見ごとであるけど、肉がぶくぶくである。」
何という贅沢なあゆみちゃんの品比べであることか。
このような評価基準でみると、昭和の御代でも天下に名をとどろかす美女のあゆみちゃんのいるところはどんどん狭まっていたようである。
そのような、美食家、面食いで、女の違いのわかる垢石翁からみると、平成の川、あゆみちゃんを、たとえ遡上鮎といえども、誘惑しょう、と、触手を動かされることはなかろう、と想像している。
昭和のあゆみちゃん:20
(2)佐藤垢石「釣趣戲書」(昭和17年三省堂出版)から その2
E 大井川の評価 (295ページ)
オラが、ダム放流が1ヶ月ほどの間に2回続くことがなければ、飲まず食わずの生活をして貢いでいる大井川のあゆみちゃんについて、垢石翁は次のように評価をされている。
「中川根へ出て、大井川を望むと驚かされる。石の立派なので半ば水成岩、半ば火成岩で、物置小屋程あろう岩が水中に没して、瀬をなしている。ちょっと見は嘸ぞかし大物が沢山棲むでいるらしく感ぜられるが、どうも大井の本流には鮎が尠い。それは上流の一部に露出している火成岩が多量の硫黄を含むで居り、且つ鉄分が流れすぎるものではないかと思われるのである。」
「前述の様に白根三山は、古成層の山塊であるから、下流中川根付近までは石が非常に宜しいが、その附近から岩層が悪くなって下流に及んでいる。殊にこの川は、サ流し(木材流し)の為に、毎年魚族を損傷させることは大したもので、本流には鮎の棲み様がない。」
「大井川のサ流しも他川と同様に杉、松、檜、椹等の針葉樹を伐採して何萬本となく上川根の上流から流し込み、川底を滑り、南岸を磨つて下流島田の町迄下すのであるから、比較的石は好条件を備えているのであるが、悲しい哉、鮎が棲み得ません。」
「その結果太平洋から遙かに溯ってきた僅かばかりの鮎は中川根の対岸にある寸又川へ指して終います。」
「寸又川は大井川の支流でも有数の方で、却々激流であります。」
「岩石は水成、火成の混淆でありますが、火成岩の方も余程質が硬いのであります。したがって、硅藻の発生も美事でありまして、本流の如く悪水の流れる様子もありません。」
「そんな関係で、寸又川の鮎は充分に食い、育って、すでに八月下旬から九月上旬になりますと、悉く片子を持って、下りに向かいます。同地方ではこれを『寸又川の鉈鮎』と称しているのであります。幅が広く肉が厚く、頭が小さいので非常に姿が宜しい。香気も高い。」
「しかし、大井川の上流と、その支流の鮎はもう亡びてしまった、」
井川ダムが着工されたのは、1952年:昭和27年であるが、その前に、大井川ダムが1936年:昭和11年に完成している。このとき、寸又ダムもできたのではないか。
井川ダム、そして、大井川を水無川にした笹間ダム、平成14年に完成した長島ダムに比べると、小さなダムに過ぎない大井川ダムの完成で、垢石翁は「大井川上流と、その支流の鮎は、もう亡びてしまった。」と書かれている。
注:井川ダムの竣工は、オラの想像よりもはるかに遅く、昭和45年頃であった。
垢石翁は、藁科から峠を越えて、中川根町に出られたのであろうか。
その道中にある笹間ダムができるまでは、笹間川に東京の釣り人を案内していたという旅館が笹間渡にある。家山の寿司屋さんも笹間川の渓流相で育つ鮎の思い出を語ってくれた。その笹間川よりも寸又川の方がすばらしいあゆみちゃんを育てていたとのことである。
オラは、亡き師匠と大師匠に連れられて、大井川で川原乞食をした後、垢石翁とは逆に、藁科へ、と車で行った。
大井川の川原は広く、草の生えているところまで100m以上もあるため、火をともしても、虫はよってこなかった。
笹間ダム上流の笹間川では、放流鮎を釣っている人がいた。途中の沢で囮缶の水を入れ替え、狸の交通事故を見て藁科川に着いた。その時も藁科川では、鮎が見えるのに釣れなかった。
注:藁科川上流から中川根町に行く道は2本あり、垢石翁が辿られた道と、亡き師匠らと通った道は異なるようである。
今、オラがすばらしいあゆみちゃん、珪藻の育つ川として入れ込んでいる大井川に、垢石翁が触手を動かされることはないとしても、オラにとっては、美女と逢い引きのできる貴重な空間である。
その意味で、クレオパトラも、楊貴妃も、小野小町も知らないオラは、今の大井川のあゆみちゃんを天下一品の美女と有頂天になることができるから幸せ者といえよう。
ルカの福音書に、祝宴には貧しい人等を招きなさい、「その人たちはお返しをできないので、あなたは幸いです。」とあるが、高度経済成長の影響を受ける前の美女を知らないオラも、古の本物の美女を知らないことは「幸いです」。
寸又川の鮎が、片腹に子を持った段階で下るとのこと。まだ性成熟がピークに達していない段階で、増水がなくても下りをするということをはじめて知った。
寸又川から、家山の寿司屋さんが10月15日頃の八幡様の祭りの頃に大鮎を釣っていた家山付近まで下るのに、1月ほどをかけるということであろうか。もっとも、大井川ダムができる前の祭りの頃のあゆみちゃんと出会うことができたのは、寿司屋さんのお父さんであるから、もはや確かめることはできないが。
渓流相の支流である寸又川や、笹間川では、日照時間の短縮を平野を流れる川よりもあゆみちゃんが早く感知して、性成熟が促されたのであろうか。
注:垢石翁が8月25日頃、神通川上流・宮川で、大アユとむんずほぐれつされているから、「8月下旬」に下りを始めるとは考えられない。
垢石翁の観察ではなく、伝聞に基づく記述ではないか。「故松沢さんの思い出:補記その2」に記載。
F 「若鮎視察記」の章から(339ページ)
「釣趣戲書」の発行が、昭和17年であるから、昭和15,6年のことであろうか。
狩野川、興津川、相模川、富士川のことが書かれている。
相模川については、「今年の相模川は、3月上旬来夥しい若鮎の遡上振りであった。下流の厚木から磯部方面も中流の久保沢から中野方面も、上流の与瀬付近も随分活況を伝えてきた。その大群が、甲州地内の桂川へも溯り込んできたのである。」「水底の石に印した歯跡は素晴らしい。
だが、伊豆の狩野川と同様に、相模川から桂川にかけての今年の鮎の発育は随分遅れているようである。これが何に原因するかはよくわからないが、相模川今年のねらい場所は磯部から久保沢方面の中下流の方がよろしいと思う。
堰堤で道路工事がはじまっている。上中流の方は分が悪いのではあるまいか。」
富士川について
「今年は早春以来、水温が高く水量が豊富であった上に、激しい増水がなかったから、若鮎は夥しく海から溯った。」
「3月上旬、静岡県駿東郡芝川村の上手の釜ヶ淵と称する難所に、五六日間続けて、幅二尺ばかり、厚さ三尺ほどの若鮎の大群が、真っ黒になって溯ったそうである。その数は、到底想像も及ぶまい。」
「この若鮎が富士川四〇里を次第に上流へ上流へと、溯り行って育つのだ。さらに中流の山梨県西八代郡富里村大字波高島地先では、三月中旬に四五日間続けて若鮎の大群が黒になって、帯のように毎日上流へ遡ったという。」
「流れの中心には三〇匁近い大物が遊んでいるに違いない。解禁は六月一日であるから、それまでに三〇匁以上に育つであろう。」
「昨年解禁当初の釣り場は、身延が中心であったが、本年はそれより二里上流の波高島が中心となるであろう。」
「富士川では、今二カ所の発電所工事中である。この二カ所の堰堤が竣工すれば、富士川の水は海と縁を絶つから、来年の遡上は絶望だ。」
「何にしても、富士川の鮎は今年限りで終焉を告げる予定である。」
昭和のあゆみちゃん:21
(3)嘆き節
斉藤さんが「鮎釣り大全」で長良川河口堰に反対され、他方、建設省が遡上鮎がいなくなれば人工鮎を放流すればよい、と考えていた環境にまで、川が、鮎が変貌した平成において、垢石翁は、まだ、鮎を釣ろうとするのであろうか。
大多サも長良川に遡上鮎がいなくなり、放流鮎の川になった昭和三十年代半ば頃からであろうと想像しているが、その時期には、長良川での鮎釣りを止めたとのことである。
小山さんが奥さんから、お骨を流してくれと頼まれた川も今や本物の鮎が釣れない。
06年、遡上鮎が釣りの主体になっていた狩野川であるが、あゆみちゃんを育む垢はすでになし。大井川の人からはあんなどぶ川では釣りたくない、といわれていたが、流域下水道が整備されたから、水質は改善しているであろうが。
馬瀬川も、群れていてガンをつけた、と、突っかかる土地貴族とは無縁な人工が放流されているとの話である。
なお、垢石翁は、海外の鮎について、次のように書かれている。
「台湾新竹州の頭前渓、台北州の武老坑渓などには、尺に余る大きな香魚がたくさん棲んでいるという。けれど、亜熱帯にある台湾の諸川は、水温が高すぎるので香魚は徒らに大きくなり、肉はやわらかい上に香気に乏しく内地の香魚の味を知っているものには、賞味できないのである。」
「また、朝鮮の何れの川にも棲んでいる。だが、内地のものに比べると香気にも食味にも格段の差があって、ただ形だけ香魚であると言うに止まっている。さらに、満州、直隷省、沿海州の一部にも産するが、これも半島の香魚の味に変わったところがない。たヾ、満州鳳凰山の下を流るる渓流は、黄塵の降り込むことがないので大陸には罕なほど清冽な水が流れている。そこで、この川には頭の小さい青銀色の香魚が棲んでいるというが、ほんとうのことはよく知られていない。」
高度経済成長が始まる前と後では、鮎を育む珪藻の栄養価、種類構成、海産仔稚魚の生存可能な時期、遡上を開始する時期等、あゆみちゃんの成長、大きさにかかわる環境に大きな違い、変化があるのかも知れない。
その違いを意識せず、又、湖産、継代人工等の人工鮎、海産の性成熟時期の違いを考慮することなく、昔の時間軸と同調させるて評価をすることは事実、生態を適切に理解することとはならないのではないか。
さらに、「湖産」ブランドに海産畜養、あるいは継代をあまり重ねていない海産人工が含まれていたことを考慮しないで、昭和の後半に放流されていたアユが「湖産」であると判断することは、適切ではない、と考えている。
垢石翁は、球磨川、長良川の一部、筑後川等と同様に、静岡県内の解禁日を早めることとなったことに関して、「全国に先立って鮎を東京、大阪地方へ搬出するため、独占的な相場により、漁師の利益は莫大であった。」
それで、静岡県でも解禁繰り上げ許可の運動をなした、とのこと。しかし、友釣りのみが5月にはできて、毛針釣りはできない、と。
また、友釣りは職業漁師の釣りで、毛針は素人釣り人の釣りである、とのこと。
アユは強いものはどんどん大きくなる。当然、格差社会であるから、大きく成長できる数は限られるはずである。今のように、友釣りに素人衆が参加していては、1人当たりの分け前は僅かであろう。職業漁師と数少ない腕達者の素人衆が一番のぼりの一番アユを、その周辺の2、3番アユを狙っていたから、成り立っていた5月解禁であろう。
さらに、10月下旬産卵の仔稚魚が海で社会死をすることなく育っていたこと、そして、ダムの影響がなく地下水が豊富で今よりも川の水温が高ったことから、3月上旬に遡上があったのであろう、と想像している。
長良川河口堰がなかった昭和の終わり頃でも、長良川下流の5月解禁の釣りの対象は放流もの主体であったという話が書かれていたと思う。
今の狩野川では解禁日の釣りの対象は当然放流もの、多くは人工である。湖産が主役の時もあったであろうが。
なお、若鮎観察記に「伊豆の狩野川は、昨年に比較すると、鮎の遡上が余ほど早かった。2月下旬には中流の大仁地方へ姿を現したのである。
「この頃は、一週間もたてば倍以上に育つのであるが、育ち盛りにこの有様であったから(注:四月中旬から五月に入ってからは水温が四月上旬並であった)昨年のきょうこの頃に比較して鮎はよほど小さい。去年五月中旬に試釣したときは、二五匁以上のものがいた。ところが、今年の試釣の最大は一七匁であったのである。」
遡上鮎が満ちていたのに、狩野川にも「放流鮎は、相州小田原湾産二五萬尾を数えたという。」。
この意味はどういうことであろうか。「アユの本」で、高橋先生が漁協の事業として放流事業が義務づけられていると法令に定められている、
そして、これが再生産のための事業実施の妨げとなっていると書かれているが、そのことを示しているのであろうか。
昭和15年頃は、海産稚魚の直放流をしても、その稚魚の生存率も、成長の行く末も考える必要性はなかったはず。遡上鮎が釣りの主体であったから。
しかし、放流鮎に頼らざるを得ない平成の世では、再生産に寄与する貴重な親ともなる海産稚魚の生存率、成長を考慮した放流の仕方、人間がどのように産卵、遡上、生存率の向上に手助けをするか、を考えるべきである。
07年相模川漁連が放流した130萬匹ほどの海産稚魚がどうなるか。川で生活する体型に変態していない稚魚、垢をはむ歯に生え替わっていない稚魚、それを放流してどの程度、生存できるのであろうか。又、それら放流された海産稚魚の成長度合いの構成比はどのようになっているのであろうか。
高度経済成長前の川は、3月の水温はダムができる前よりも高く、仔稚魚が海に入る10月末前後の海水温は現在よりも低い、ということが、3月上旬に遡上する鮎の「変態」時期、5,6月の成長度合いに関係していたのであろうか。
このような条件がなくなったなかで、相模川漁連が、放流アユの検討会を設置したとのことで期待をしていた。しかし、矢作川や小国川のように、遡上鮎を増やすための適切で、効果のある手法が採用されることはないようで、再生産に寄与することのない交雑種の継代人工が放流アユの主役、種苗育成の主体のままとのこと。
注:2009年、相模川には、浜名湖産と和歌山県産の海産畜養が放流された。 和歌山県産海産畜養を運んでこられた養魚場の方が、沖取り海産をいきなり川に放流しても水温が低いから育たない、畜養しなければダメだ、といわれていた。 オラも同感である。 ただ、「水温が低い」から、との説明には注釈が必要であると考えている。 それは、海で動物性プランクトンを食べていた稚アユを川に放流しても、食糧がない、あるいは少ないことによると考えている。 @ コケをハム上で最適の櫛歯状の歯に生え替わっている稚アユが少ない。 A 櫛歯状の歯に変態していないアユは、水棲昆虫を食することとなるが、3月の水温が低い時期にはまだ昆虫は少ない。 B 動物性プランクトンは、止水域では繁殖しているとのことであるが、流水では繁殖しないとのことである。 C 2008年、沖取り海産が多く放流された中津川で、夏になってもチビが多くいたのは、沖取り海産の真水へ1週間ほどかけて馴致されたのちに放流されたものであろう。 なお、中津川は、妻田の堰の魚道を下った水が、反転して上流に向かい、堰からの落水と合流しているため、魚道への登り口がわかりにくい状態になっていることから、遡上アユは少ない。 注:その海産畜養は、1ヶ月ほどの川での生活では、6月1日に、15センチ前後に成長できたのは僅かのよう。 ということで、09年の解禁日の相模、中津は、僅かに生き残った人工しか釣りの対象となっていないため、人工がたむろしたところの人以外は釣れず。 遡上アユが僅少で、県産継代人工が死んだと思われる2005年同様、7月頃までは、釣りの対象となるアユが不在、僅少、という状態が続くのではないかなあ。 |
注:09年、30代目ほどの県産継代人工は、川に放流される前に死んだ。 釣り人にとっては、幸運である。放流後に死んでも、その事実を検証することは困難であるから、放流前に死んだことで、「義務放流量」にカウントされず、もし、その分がまともな人工に置き換わってくれたならば、幸いです、ということになったが。 |
ふとっちょで、ぶよぶよのやわらかいあゆみちゃんは当たり前、香気のあるあゆみちゃんは得難い稀少な存在、さらに、それらの違いを意識する釣り人は伊藤稔さん等少数。
違いのわかる人は、コーヒーのコマーシャルには存在しても、釣り人では年々歳々滅んでいく。
あゆみちゃんが、釣れればよいというだけの存在では、あゆみちゃんが若者の恋の対象となることも、あゆみちゃんにうつつを抜かせて失楽園の壮烈な末期を味わう「不幸な」人も出てくることはない。
めでたし、めでたし
時は夏 日は朝 朝は7時 川面に朝霧みちて
あぶらせみなのりいで おとり川に這い
神そらに知ろしめす すべて世は事も無し
昭和のあゆみちゃん:22
第6章 コケとあゆみ |
珪藻からラン藻への遷移説への疑問
07年6月号「月刊 つり人」に、アユがはむと、珪藻からラン藻に優占種が変わる、とのことが書かれていた。
オラは、この見解に疑問を持った。
A なぜ、ラン藻が優占種になるのか
「友釣 酔狂夢譚」ホームページの「石垢の話」から、つり人に書かれている事項の根拠となったと思われる研究報告書にアクセスできる。
それは、中央水研ニュースNo.28(平成14年3月発行)掲載の、阿部信一郎「アユが自ら創る生活空間ーアユと付着藻類の相互作用を通してー」である。
(1)調査方法
実験方法は、「アユが付着藻類群落に及ぼす影響を明らかにするため、アユを収容した人工河川(実験区:2.2匹/u)とアユのいない人工河川(対照区)の底に発達した付着藻類群落の現存量及び種組成の時間変化を調査した。」
調査期間は、平成9年から12年である。
(2)調査結果
「その結果、対照区では、実験期間中、常に珪藻が優先し、最終的には…(注:珪藻の種別が5種書かれている)の優先する群落が形成された。
一方、実験区では、アユの摂食によって現存量の増加が抑制され、かつ、対照区で優先していた珪藻類に変わって糸状ラン藻 Homoeothrix janthina の優先する群落が形成された。」
「この糸状ラン藻優先群落の形成は、実験という特殊な環境下でのみ認められるわけではない。木曽川で調査を行ったところ、アユの摂食圧が高い場所、いわゆるアユによって磨かれた石ではH.janthina優先群落が形成されることが観察されている。すなわち、アユは、藻類を摂食することによって、付着藻類群落の現存量増加を抑えるばかりでなく、珪藻優先群落から、糸状ラン藻優先群落へと質的な変化を引き起こすことがわかった。摂食によるラン藻優先群落の形成は、他の草食性・雑食性の魚においても報告されており、普遍的に見られる現象と思われる。」
(3)種構成変化のメカニズム
「一般に動物の摂食による付着藻類群落の種構成変化の原因として2つのメカニズムが考えられている。」
@ 藻類の増殖力の違いによる
「全ての藻類が同じように摂食されるのであれば、旺盛な増殖力を持った藻類が動物に摂食された損失を直ちに補完し優先すると考えるもの」
「しかし、一般に付着藻類群落の遷移初期には珪藻が優先しており、また、魚の摂食圧が無いと糸状ラン藻は直ちに珪藻に覆い尽くされてしまうことが知られている。これらのことは、糸状ラン藻優先群落の形成において、増殖力の違いによるメカニズムは否定的であると思われる。」
A 動物の選択的な摂食に起因するもの
「動物の選択的摂食は、植物に対する食料としての嗜好性の違いによって生じる場合と、植物の形態的特性などによる食べられやすさの違いよって生ずる場合とがある。」
「アユが付着藻類のような微細な食料を積極的により分けて摂食しているとは考えがたい。むしろ、微細藻類の特性による食べやすさの違いによって選択的摂食が生じると考える方が妥当であろう。」
「すなわち種間競争において比較的劣勢な藻類でも、食べにくい特性を持っていれば、競争力が強く食べられ易い藻類が除去されることによって、優先できると考えられる。」
B H.janthinaの秘められた能力
しかし、千曲川で行った調査では、「胃内容物の90%以上がH.janthinaの糸状体で占められている個体も多数見られ、H.janthinaの糸状体はアユにとって特に食べられにくいわけではなさそうである。」
このことから、珪藻からラン藻への優占種の遷移には別個のメカニズムが考えられる。
「櫛状歯によって、削り取られた部分では、ほとんどの珪藻類が取り除かれていたが、基質に付着したH.janthinaの連鎖体は数多く残っていた。基質に付着した連鎖体は、小さく固着しているため、アユの摂食に対して強い抵抗性を持っているものと考えられる。H.janthinaの糸状体は、基質に付着した連鎖体が伸長することによって生長する。すなわち、伸長した糸状体は鮎に摂食されるが、基質に付着した連鎖体はアユに食べられにくいため、アユの強い摂食圧を受ける状態でもその旺盛な生長によって群落を維持できるものと考えられる。」
さらに「魚の摂食による群落上層部の藻類の除去が、群落下層への光・栄養塩供給を向上させ糸状ラン藻の増殖に有利に働く」
B オラの疑問
@ もし、珪藻からラン藻に優占種に遷移するのであれば、垢石翁は石の色から、珪藻が繁茂している川とは判断できなかったはずである。
A 実験区では、どのような水質を設定されたか書かれていないが、木曽川、千曲川については、どのような水質であるか、想像できる。ことに、古はいざ知らず、平成の千曲川は、濁り、ヘチには相模川のようにぬるぬるのコケが繁茂し、とても貧栄養の川とは思えない。
したがって、珪藻が優占種となる川の水とは異なる条件での話ではないか、と想像している。
昭和のあゆみちゃん:23
C 珪藻と水質
「鳥海山麓有用植物園」ホームページの「付着性藻類による水質評価の概要」に、水の栄養度と腐水度が珪藻の種別とどのように関係を有しているか、について書かれている。
栄養度と腐水度との概念については、「水質評価基準としての栄養度と腐水度」の項を見ていただくとして、「栄養許容性」の項のうち、オラにも読むことのできる箇所を抜粋する。
(1) 栄養許容性
「栄養許容性とは、付着藻類のそれぞれの種が、貧栄養と富栄養の間の、どの範囲の栄養度の湖沼に出現するかを示すもの」
そして、
@ 貧栄養型の種群
貧栄養にのみ生息し、中栄養と富栄養には耐えられない
A 貧栄養ーβ中栄養型の種群
貧栄養から弱い中栄養にまで生息し、強い中栄養と富栄養には耐えられない
B 貧栄養ーα中栄養型の種群
貧栄養から強い中栄養まで無制限に生息するが、富栄養には耐えられない
C α中栄養ー富栄養型の種群
強い中栄養から富栄養まで、富栄養化した環境にのみ生息する
D 富栄養型の種群
もっぱら富栄養に生息し、富栄養の指標となる
以上の「5つの許容種群にまとめられました。これらの種群が、栄養度の指標として用いられます。」
(2) 生態的重心(好み)
「付着珪藻の栄養度に対する許容性は種によって異なり、それぞれの種には一定の許容範囲がある。この許容範囲の中で、その種が最も高い頻度で出現する位置(その種がもっとも好む栄養度)が、その種の生態的重心であり、栄養指数によって表示されます。」
(3) 腐水許容性
「付着性珪藻の有機汚染に対する許容性は、種によって異なり、それぞれの種は、最高でどの段階の汚染(水質等級)にまで生息するかによって、7つの差別群にまとめられています。ここで重要なのは、差別種群は、腐水体系の指標種とは異なり、特定の汚染段階の指標ではない、ということです。なぜなら、例えば後述の“水質等級Wを差別する種群(ams/ps)”は、貧腐水からα中腐水と強腐水の境界までに生息し、明確な生態的重心を持たないからです。つまり、この限界を超えて汚染された環境には出現しないため、それぞれの限界を超えた汚染(水質等級)を“差別する”、つまりその可能性を排除する種群として、水質の評価に重要な役割を果たすのです。」
(「水質評価に用いられる7つの差別種群」のグループ分けは省略する。)
(4) 栄養体系と腐水体系
@ 貧栄養の水
「その水がごくわずかな無機栄養物と、より一層わずかな有機生産物(植物プランクトン)しか持たないということを意味します。それは、透明度が3メートル以上で、水面から水底まで一様に高い溶存酸素濃度が測定されるような、青く澄んだ水です。したがって、この貧栄養は、腐水体系にいう貧腐水と概念的に同じであり、同じ水質を示すことになります。」
A 中栄養と富栄養の水
「無機栄養物が次第に豊富になり、それに伴って植物性プランクトンがますます大量に発生するため、透明度は1メートル以下になります。そして、この段階で、栄養度と腐水度の間に平行関係がなくなり、富栄養化と腐水化は互いに独立に進行します。そのため、富栄養で強い有機負荷(α中腐水)を持つ水もあれば、同じ富栄養でありながら軽度の有機負荷(β中腐水)しか持たない水水もあることになります。」
「貧栄養型と貧栄養ー中栄養型の種群は、低い腐水段階の環境にしか出現しませんが、より富栄養化した環境への入植者たち(寛容型、中栄養ー富栄養型、そして富栄養型の種群)は、種特異的さまざまに異なる腐水許容性を持っているため、さまざまな腐水段階の環境に出現するのです。
したがって、栄養度と腐水度は、いずれも水質評価の基準として重要です。」
このように、「珪藻」といっても川の水質、環境で著しく異なる種別があり、そのことがラン藻との共存あるいは競争関係にも影響し得る場合がある、と考えるのが適切ではないか、と想像している。
実験で用いられた珪藻がどの栄養許容性に属し、あるいは、寛容型か否か、もわからない。しかし、珪藻だけがアユを育んでいる水質の川の話ではなさそう。ラン藻も生える川、水質での実験であると考えている。
D 珪藻と藍藻と鮎の大きさの関係
(1)ラン藻は大鮎を育てる ほんまかいな
阿部先生は、珪藻からH.janthinaへの優占種の交代の意義について、「アユの成長速度は珪藻優占群落に比べ、H.janthina優先群落を餌として飼育した場合に高くなっていた。」
その結果について、
@ 「珪藻優占群落はアユの摂食によって現存量が急激に減少し、それに伴い生産力も低下すること、それに対し、H.janthina優占群落は鮎に摂食されていても一定の現存量を保つため高い生産力を維持できることが示唆された。」
A H.janthina優占群落の窒素含有率やカロリー量は、珪藻優占群落に比べいずれも高いことがわかった。
B すなわち、H.janthina優占群落は、アユの摂食圧を受けても崩壊することなく、高い生産力を維持し、かつ、栄養的にもよい特性を持っているため、個体密度が高いときの鮎の成長を補償できたものと考えられる。
C そもそも、H.janthina優占群落はアユの摂食によって形成されるため、鮎は藻類を摂食することによって自らの餌環境を改善しているものと考えられる。」
オラもラン藻の方が大きな鮎を育てる、と考えていた。これは、昭和の終わり頃の狩野川での経験が作用している。
「友釣 酔狂夢譚」ホームページの浮世絵の下の方に、「伊豆狩野川から初めて他国に遠征した鈴木久吉、飯塚利八の記録」から、「釣り文化14 1985」にアクセスできる。この号に「伊豆狩野川の鮎の友釣り技法の伝播(四)=飯塚利八氏長良川に行くー」が掲載されており、この中に
「1954年(昭和29年)に起きた東洋醸造の廃液放流事件に狩野川の鮎と魚類を守るために奮闘し、今後、各河川各地域で起こるであろう類似の事故を防止するため水質汚濁と工業廃水の取締り強化を同年、滋賀県彦根で開かれた全漁連大会で提案し、大会は河川環境を守り公害を防止する立法化を要請する決議を満場一致で採択させている。」
狩野川に遡上鮎が満ちていた昭和60年頃、東洋醸造の廃液処理水が流れ込む水路下流では20cm台が釣れていた。上島橋より上流と比して、数センチメートル大きい。松沢さんも増水後の松原橋で、大アユを釣り上げ、目利きのできない仲買人に持ち込んだことがある。
(2) 珪藻が大鮎を育てる?
ラン藻が大鮎を育てることもある、という現象を否定することは無かろう。
しかし、珪藻はラン藻よりも栄養価が劣り、大鮎を育てない、鮎の成長にはラン藻よりも劣るのであろうか。
松沢さんの答えは、ノウ である。単に山から浸みだし水として川に流れてくる水の栄養価、あるいは成分が、山の荒廃、植生・樹種の変化等でかわり、栄養価の高いコケが生育できなくなっただけ、と。
長良川に遡上鮎がいっぱいいて、大多サや万サが大鮎を、松沢さんは泣き尺を釣っていたが、その大鮎が食していたコケがラン藻とは考えにくい。
水質変化等で、珪藻の種別がかわり、あるいは、珪藻に含まれる栄養素がかわり、あるいは生成量が変化したのであろうか。古の川に生育していた珪藻を再現しないと、珪藻がラン藻よりも鮎の成長に劣る、とはいえないと考える。
2月になくなったオラの師匠は、オラよりも若いため、高度経済成長の影響を受ける前の遡上鮎の友釣りはしていないであろう。しかし、生まれも育ちも中国山脈は庄原付近。当然、川で遊んでいたであろう。江の川の支流、西城川であろうか。
子供の頃の経験があって、遡上鮎はいなくなってはいるが、湖産が放流されていた昔ながらのコケが生育できる環境の川に出かけていたのであろう。
(3) 珪藻は栄養価に劣るか
珪藻の種別による栄養価については、素人にわかる書き物に出会わないため、巖佐耕三「珪藻の生物学」から、定性分析的レベルでの記述で満足をせざるを得ない。この本には、具体的にいかなる栄養素が珪藻に含まれているか、書かれているが、その意味を理解できるとは思っていないため、省略する。
「珪藻が植物連鎖の出発点として優れているのは、生産量が大きいだけではない。
(1) 動物の消化管内で分解されやすい。被殻が消化を邪魔するようにも見えるが、この殻の微細な孔は消化液の侵入に都合よく、2つの被殻は容易に割れるし、中間帯や環帯もこわれやすい。
(2) 動物の栄養としてバランスが保たれている。タンパク質、糖類、脂肪の比はおよそ100:50:15である。ビタミンAをはじめ多くの微量必須化合物含まれている。ただし、以前いわれたビタミンDはほとんどないことが明らかになった。
(3) 毒物がない。渦鞭毛藻や藍藻には、しばしば動物に対して毒性を持つ物質が含まれている。
(4) 爆発的な増殖が少ない。沿岸の海や湖沼では栄養塩類などの増加によって急激な増殖をすることがあるが、その場合でも、絶対密度は藍藻や緑藻が水の華(water bloom)を形成したり、渦鞭毛藻が赤潮を発生させたりするのに比べると大きくはない。(以下略)
(5) 単細胞性で小型である。遊泳性の節足動物、稚魚、各種の幼生をはじめ各種の大型動物や魚類、原生動物まで広い範囲のえさとして利用される。
E 「エサから見たアユ 藻類でわかるアユの河川健康度」
月刊つり人の07年7月号に村上哲生先生が上記の題で、阿部先生とは異なる観察を書かれている。
(1)川辺川とダム下流の球磨川のコケの違い
「川辺川では、消化管の中は珪藻類の遺骸で満たされていたが、ダムのある球磨川では糸状のラン藻類でいっぱいであった。」
「ダム下流の川の付着藻類群集では、ケイ藻類よりもラン藻類が卓越することは、きちんとした観測データは少ないものの、しばしば見られる現象である。ダム下流の水位や水温、水質の著しい変動がラン藻の生育に適した環境を作り出しているのかも知れない。」
この記事には、川辺川、球磨川のアユの消化器官内容物における珪藻、藍藻を食している鮎の出現率も掲載されている。川辺川の野々脇では、珪藻を食べているアユが100%、その下流の四浦では75%、さらに下流の柳瀬では91%である。
市房ダム下流の免田では46%、人吉では10%さらに下流の大阪間では55%である。
川辺川、球磨川とも、場所での珪藻の食された鮎の比率に差があるのは、家庭雑排水の流入地点の遠近に関係があるのであろうか。
もし、阿部先生の調査結果が普遍的な現象であるとすれば、なぜ川辺川とダム下流の球磨川で、消化管内容物に差が出るのであろうか。
現在では、珪藻が優占種として繁殖できる川水の状態が日本には少ない、ということであろう。千曲川は、α中栄養型か、β中栄養型か。
少なくとも、阿部先生が鮎が食することにより、珪藻から藍藻に遷移する、という現象が「普遍的」現象ではない、ということはいえると確信している。
「珪藻の生物学」は、「有機化合物量の増加によって河川や湖沼の水質が変えられたとき、それを腐水性が増したといい、その程度を貧腐水性、β・中腐水性、α・中腐水性、強腐水性などの段階に分けて示すことがある。珪藻は最後の強腐水性には生活できない。その次のα・β中腐水性に大量発生するものに、ある種のニッチア(Nitzschia palea)が知られている。しかし、ほとんどの種はβ・中腐水性か貧栄養腐水性の水、及び井戸水などの有機化合物を含まない清水によく増殖する。珪藻はきれい好きの藻類といえる。」
との表現で、締めくくっている。
このことからも、藍藻が優占種となっている川が当たり前、藍藻すら育たない川もあった、という高度経済成長の影響を受けた川が大半である中で、きれい好きの珪藻が気持ちよく生息できる川が平成の代では、実験室の結果を検証できる川が僅少であると考えている。そして、千曲川がきれい好きの珪藻の生活誌を検証する適切な水質環境の川ではないと考えている。
よって、阿部先生の研究報告は、「普遍的」現象ではなく、珪藻とラン藻が共生している水質環境のなかでの1つの条件下で生じた現象に過ぎない、と考えている。
(2)鮎の成長度
村上先生は、「球磨川と川辺川でアユのサイズを比べてみたところ、採補された季節により傾向は多少異なるものの、体長や体重には大きな差はなく、肥満度【体長/(体重)の3乗】で若干川辺川の方が高いとの結果を得た。」
この話は、松沢さんの説に一致する。
オラも、藍藻の方が栄養価が高く、珪藻では大鮎は育たない、と思っていたが、それは現在の珪藻が生活している川の環境を前提とした評価であって、昭和のあゆみちゃんが生きとし生きていた頃の珪藻の評価ではない、と考えるべきであろう。
注 | 実験室での観察では、珪藻の栄養価のほか、藍藻を食する鮎の種別も考慮すべきであろう。 鮎の習性である「土地貴族」の尊厳を守るための攻撃衝動が稀薄な、あるいはトロでのんびりと生活するメタボな人工。さらに大きくなってから放流される成魚放流の人工。 人工のこれらの特性がぶくぶくのアユを育てている。人工の生活史が、大きさの評価に及ぼすであろう影響を排除しないと、「食」の違いによる成長度、栄養価の適切な相関関係の評価はできないであろう。一部ではあるが、いや、一部の人であることを願望しているが、「大きい」からすばらしい、と評価する事例にはオラは疑問を感じている。09年の中津、相模に放流された人工成魚放流の、重たいだけ、容姿が汚い、持って帰りたくない、との評価がされるほどのどこかの人工がいた。この人工についても、「すばらしい大きさ」という人がいたとのこと。当然、情報としては20何センチが釣れた、と報じられ、その報道が遡上アユに係ることではない、と、6月に遡上アユがそんな大きさに育つはずがない、と、判断できる人も減っている。 実験対象に全て人工アユを使用しても、人工と遡上アユが同じ行動様式であるのか、も、考慮すべきであろう。海産畜養と養殖では、運動量が著しく違うと感じている。 時折、海産畜養が囮屋さんに入ってくるが、その行動力、運動量には感心している。 かって、池田湖産の稚魚(または2代目方式であろうか)を畜養していた養魚場があった。冷水病キャリアの多い琵琶湖産が嫌われて、「九州ダム湖産」等の評価が高くなり、池田湖産の価格も高くなったため、池田湖産の稚魚を畜養していた養魚場でも、人工、海産等を畜養せざるを得なくなった。池田湖産のオトリも良く働いてくれた。 「清流」ですら、貧腐水水の川を表現しているのか、「津山」を流れる「吉井川」を表現しているのか、区別しないと、川の綺麗さの評価を誤ることとなる代である。 学者先生は、川にいるアユは全て遡上アユである、あるいは、「湖産」として購入されたから「湖産」しか放流されていないということを、当然の前提とされて、アユの生活史で重要である産卵時期を評価されていると確信している。 このことが、「故松沢さんの思い出」「故松沢さんの思い出:補記」「故松沢さんの思い出:補記その2」を書いていく動機付けになっている。 (「清流」概念の違いについては、「故松沢さんの思い出:補記その2」の最後の章で、野田知佑「日本の川を旅する」に書いてます。) |
荻生徂徠は、聖人の道とは、その教えがよき政治、統治に役立つから今の世にも伝えられている、と考えた。
しかし、その聖人の教えは、宋の時代に、あるいは、その中国人が生きていた時代の人が考えた「聖人の道」、たとえば、朱子学ではい、と徂徠はいう。
その理由は、朱子学は、古の聖人の道ではなく、今の人(宋の時代の、その時代の中国人)が考えた、つまり、「今の人」がその時代の環境で考えた「聖人の道」であり、古の聖人の道とは異質のものである、と。
時空を越えて、時間、空間の制約を越えて、聖人の道を究めることが必要である、と。そのためには「古の聖人の道」を理解する上で、聖人の道を著した中国人とは異なり、異なる空間で生活しているから、空間の制約がない日本人の方が、中国人よりも本来の聖人の道を究めるには適する環境にあるという。
この思惟のもとに、古文辞学を構築した。
もはや、珪藻があゆみちゃんの主食であり、その結果があゆみちゃんの生活誌にどのような影響を及ぼしていたか、考えることのできる川は稀有となっている。
四万十川もシルト層で、伏流水、わき水の生成が阻害されているとのこと。
とすると、昭和の時代の書き物で、観察力に優れ、かつ、信頼性の高い文章を探すしかない。
「友釣 酔狂夢譚」の「酔狂オヤジ」さんは、「『雨の日の釣り師のために』(注:「友釣 酔狂夢譚」の中の1つの項目です。)は、平成に入ってから鮎釣りを始めた方に、『ありし日の本来の川の姿や鮎の様子などをわかってほしいなー』などという気持ちが半分、『あと60年ほど早く生まれて古老の話す鮎釣りをしたかった』というのが半分の感じで掲載しています。」と、メールに書かれている。
同感である。
現在の川、コケの状態を基準にして、コケの生育状況、鮎の品位、品格への作用を評価すべきではないと考えている。
「アユに憑かれて60年」を書かれた前さんも90才になられたのであろうか。万サ、大多サが亡くなられて10年以上、垢石翁になると、半世紀前となろう。
今、古の川と鮎の話ができるのは、「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」の弥太さんとか、松沢さんらわずかな人しかいない。オラの師匠の師匠:大師匠も去年亡くなられた。
残された時間は少ない。専門家は、まだ古の川と鮎を知っている人の経験を聞いて、研究対象の視野を広げられるように願っている。
村上先生は「エサから見たアユ」で、「今まで、川の研究者と釣り人は、同じ川に入っても、違うものを見てきたように思える。そろそろ互いの知識を交換し、一緒に議論する場があってもいいのではないだろうか。」と書かれている。
同感である。県内水面試験場の人が、湖産と海産の産卵時期がいかに異なるか、を釣りを通して経験しておれば、10月中旬前後に形成される流下仔魚のピークが湖産親に由来することに気がついたであろうが。もっとも、その調査が行われていた1995年前には、湖産が再生産につながらない、との評価もなかったのであろうが。
なお、村上先生は釣り人にも「付着藻類の知識が増えたことで、釣果に影響することはないだろうが、アユの味を守るため、ひいては川の自然環境を維持していくためには是非知っておいてもらいたいことだ。」
と、書かれている。継代人工を釣って喜ぶ、というレベル、何でも釣れればよい、という「違いのわかる」人とは無縁の釣り人にはなってほしくない、というのがオラの願いである。それが、2月になくなったオラの師匠が最初にオラに教えてくれたことでもある。
5 この章の補記(「故松沢さんの思い出」に気持ちを書いています。)
(1)黄色
(2)味比べ
補記 平成20年夏に、「ダイワフィッシング」で、阿部先生の珪藻から藍藻への遷移説が放送された。 なぜ、昔はどのような水質の川であり、あるいは、藍藻が優占種とならない川がいっぱいあったということに思い及ばないのかなあ。 貧腐水水が、透明度3m以上、ということは、小西翁の語る紀の川(「故松沢さんの思い出」に紹介)や、四万十川(「故松沢さんの思い出」に紹介)はも っと透明度が高かった。 そのような貧腐水水にラン藻が生育できるのかなあ。 この程度の観察、推察力を持ち合わせていないから、故松沢さんの口癖である「学者先生はそういうが」と、オラの質問を馬鹿なことと、腹立たしげに話 されることとなったのであろう。 |