2009年あゆみちゃん遍歴賦 |
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中津川 | 相模川 | 大井川 | 狩野川 | その他 | |||
3月〜5月 | 3月1日 2日 5日 4月26日 4月27日 |
遡上状況1 遡上状況2 |
5月23日 | ||||
6月 | 1日 2日 7日 10日 13日 15日 |
3日 25日 26日 | 19日 20日 | ||||
7月 | 10日 | 1日 3日 9日 12日 15日 16日 19日 22日 23日 25日 27日 29日 |
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8月 | 3日 7日 8日 12日 13日 15日 16日 18日 19日 21日 23日 29日 | 8月26日 8月27日 | 大芦川:5日 | ||||
9月 | 1日 2日 4日 9日 10日 13日 14日 17日 18日 19日 21日 22日 23日 24日 26日 27日 |
16日 | 那珂川:6日 | ||||
10月 | 1日 3日 4日 7日 10日 11日 14日 | 10月21日 10月22日 さようなら大井川 |
28日=海のザガニ 故松沢さん最後のチラシ 狩野川のゴリ 31日 |
さようなら大井川2 長島ダムができる前の大井川 原則放流アユがいない 珪藻が優占種 さようなら大井川3 長島ダムができる前の大井川 珪藻と香り 真山先生からの返事 |
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11月 | 6日 10日 21日 |
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まとめ等 |
さようなら大井川:4 | 長島ダムができる前の大井川 4 馬力の強さ |
遡上アユでのなぜ馬力に差が出るのか | ||
さようなら大井川:5 | 長島ダムができる前の大井川 5 石の埋没 |
物置小屋のような石 いかい石 岩盤底 石の詰まったトロ、淵 | ||
さようなら大井川:6 | 長島ダム後の石の変化はなぜ? 6 斎藤邦明 「川漁師 神々しき奥義」 |
(1) なぜ、「斎藤教信者」か 「環境に優しい水力発電」の偽り (2)教義1:根本教義 @ 教祖への道:原体験 川漁師=最後の川守 |
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A 布教活動をせざるを得ない事情の一端 |
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川は排水溝へ 色コイは「自然豊かな川」の証し?=川の生態系の無視 「川を大切に」の欺瞞 継代人工の尺アユ 本来の川の姿 「バカヤロー経済学」への共感 |
さようなら大井川:6 | 斎藤邦明「川漁師 神々しき奥義」 | (3)教義2 自然神の予言者:川漁師の黙示録 A 味音痴は救済できる? @ドジョウ 原田佑助 ドジョウの味を求めて 「本物」の川料理の味を知らない出演者 本物の食べ方 川魚のナメロウ=生臭さも味覚の1つ ドジョウの旬 救済不要の時代 |
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Aサクラマス 緒方清一 三面川の居くり網漁 サクラマスとは 味の違い:山女魚、沖取りサクラマス 嘘つき学者先生の話:矢田輝彦「シジミ掻き漁 徳島県吉野川 浅草海苔の全滅 ヘドロの堆積他 味の話 貴重品→儲けすぎの料亭 サクラマスが貴重品でなかったころ |
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Bサツキマス 大橋亮一 長良川のトロ流し漁 最高級の霜降り牛肉の味 浮き世の荒波 : 食えぬ高度成長期の魚 サツキマスのいる川とは : 長良川の疲弊 絶滅危惧種同様に |
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Cアマゴ 恩田俊雄 アマゴの郡上釣り 川魚がタンパク源 郡上ブランド 捕る場所と品質の違い 目利き不要に |
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D鮎 天野勝則 江の川の刺し網漁 天然鮎に執着することの意味 浜原ダムの影響 夜網と質 焼き鮎 サビアユ漁 |
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斎藤邦明「川漁師 神々しき奥義」 | Eザザ虫 中村和美 天竜川のざざ虫漁 トビゲラ、ヘビトンボ、カワゲラ 冬のタンパク源 キロ5千円 食習慣 舌と料理 |
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Fヤツメウナギ 鈴木春男 ヤツメウナギ漁 最上川 うな重感覚 関東人の舌はおかしい 最良の漁場と味 アブラののり加減 ヤズメの産卵時期、生活史 ヤズメは瀬につく 最上川1の激流=清川=観光パンフの嘘 |
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Gモクズガニ 平川重治 モクズガニのモジリ漁 河津川 下りの情景 10月1日解禁 エサを食うとき、食わぬとき 味 カニ汁 味の違い 時期と味の違い 自家消費 カニ捕りは子供の仕事 捕り方 雨と下り 海でのツガニの生活史 丼大王の観察 |
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さようなら大井川:6 | 斎藤邦明 「川漁師 神々しき神々」 B 知恵くらべ |
(1) 恩田俊雄 アマゴの郡上釣り @ 商売人の釣り 遊漁者=魚なら何でもよい 郡上釣りとは A 警戒心の強い天然魚 アタリとは B 何を見て合わせるか 目印、手感ではない 空中イトの動き C アマゴのエサの捕り方 あま嚼み ホバリング 自然な流れ D 人工放流もの 警戒心なし E 郡上竿と技の関係 胴ブレのない竿 F 取り込み方の技 カツオの一本釣り 抜きの瞬間 G 場を荒らさないこと バラシは警戒警報発令 |
(2)だましのテクニック @網漁 ア サクラマスの居ぐり網漁 緒方清一 三面川 二艘の舟、4人組 さい縄にアタリ サケ=バカ サクラマス=利口 |
B 知恵くらべ | イ サツキマストロ流し漁 大橋亮一 長良川 舟 高い船縁 マキの木 網 ウキとオモリ 二重の網 尻尾で安全確認 網の工夫 網イトの太さの限界 サツキちゃん百態 網を見破り、考えるサツキ 猪突猛進型 |
さようなら大井川:6 | B 知恵くらべ ウ アユの刺し網漁 江の川 天野勝俊 |
一人で操船、網出し 二重網の使用 夜の漁 (1)小西翁が語る網漁 @ 置き網 A 張り網 B 巻き網 C 立て網 D 火入れ漁 (2)弥太さんの火振り漁 弥太さんの網 一重網と二重網の使い分け 火振り漁と瀬張り漁 アユは海へ帰る=下流への追い込み 越知と伊野町での追い込み方の違い 目のよいアユ=瀬張り漁 夜眼が利かないアユ=火振り漁 (3)天野さんの「アユ刺し網漁」とは 呼称と漁法は川で異にする 火振り網漁の小西翁と弥太さんの違いは? 二重網の太い糸の網はどちらに? (4)知恵くらべ:天野さんの話 川見 「時の運」は天野さんの辞書になし 大漁のときは反省のとき (5)その他 消化時間 人、川による消化時間の違いはなぜ? (6)海産畜養と湖産の放流ものの容姿、習性の違い:小西翁の話 香り 下りをしない海産畜養の産卵=放流地点での産卵 紀の川での放流状況 |
さようなら大井川:6 | C 川の荒廃 :疲弊する川 1 川那部先生とは |
(1)「きわ」と、「岸辺」 岸辺の大切さ 岸辺=陸と湖との推移帯、移行帯 工事は「岸辺」を無くし「きわ」にする = 生物を棲めなくする 水質浄化を不可能にする マニュアル工事が元凶 多様性の必要 (2) 長良川河口堰のこと 野田さんの河口堰 地元は賛成、反対は外部の跳ね返り評価への批判 「地元は馬鹿」?発現の改ざん 木曽三川に住むものが悪い? 遺伝子多様性の維持が大事 放流の問題 不採用となった事例=魚道について 事前調査 魚道の機能は登り口から湛水域上端までの変化を見るべし 堰の角度 止水域と流下仔魚の生存の関係は検討されたのか 「河川環境行政の課題」 自然環境保全の計画目標なし 科学技術の限界を知ること 相互関連は不得手な科学 自然を作るのは自然自身 人間はその手伝いをするだけ 全員賛成、一枚岩はフィクション お役人の仕事は「計画」を「理解して戴く」こと |
2 四万十川 (1)残照の清流 野田知佑 「川へふたたび」 |
昭和60年秋 @川原のサボリーマンたち 土佐昭和からの下り 川原で原稿書き 子供になったおっさんたち A「ウィスキーの“四万十割り” 200〜300mおきのカーブ 上達した瀬の読み方 山の木の味がする水 Bトッチャンボウヤに変身 カヌーを壊す 昭和61年秋 C「良い川と良い女は同じ魅力がある」 江川崎から出発 酔っぱらい製造船 D汚れは一時的? 川を作るのは山 ビールを飲んで笑って E浮き世の生臭い風 男の孤独感に離婚の陰? 黒尊川に魚はおらず けばけばしいバンガロー F宴は真っ盛り Gカヌーと釣り人のバトル アユは逃げるか H最後の宴会 砂浜での宴会 I口屋内の淵に潜る:そして文明の利器の威力 水深17mの淵 コイらを捕まえる エア・ポンプの威力 |
さようなら大井川:6 | (2)清流の消滅は疾風怒濤のごとくに | @「自然とブルと」 「快適な」キャンプ場と自然破壊 「快適さ」の基準の違い A「カヌーイストよ失せろ」 事故と管理者責任→責任逃れ→看板の乱立→竹林の伐採 カヌー館は不要の長物 ブルはヨキを破壊しまくる B俗化 汚い水 騒音 それから? 窪川町の汚水 ガクを繋げ、と村内放送 増水は川再生条件 ブルと木の伐採事業は生活の糧? 泥の川へ? 雑木林は残った、その理由 「自然に出て都会の静けさを知る」 自然をぶっ壊すことが善 10年で絶望の川に変身 C「湯水のごとく」水を使う文化からの脱却 川那部先生から 日本の文化様式 「使えるものは残さず使う」は美徳? 「川に余分の水を流す必要はない」? 洪水支配の幻想 汚い水を捨てない文化の喪失 |
(3)川那部先生の四万十川 | ア 「独立」?河川としての四万十川 @「昔々の魚の起源」 A「数万年前」=氷河期 B「四万十川だけの特徴」 イ 孤立した川の魚への影響 @魚類の少なさ 生粋の淡水魚は16種 A進化?変化?の違い フナの事例 B環境等変化への対応の素材になる C海からの魚 魚類の多さ、遡上距離の長さ D80キロも海の魚が遡上する E降りウナギ 山崎さんのウナギの生活史 3種のウナギ 婚姻色、抱卵したウナギ ヨーロッパウナギ 「土用降り」 11月まで汽水域に 弥太さんの降りウナギ 稲穂が垂れる頃のサデ網漁 婚姻色と抱卵したウナギ Fアユ ワカサギからの分家 ウ 「これほどきれいな大河は今どきめずらしい」 @川那部先生の水質基準 十川は二番目のランク A流域による水質の違い 十川附近から上流は貧腐水水 中村では赤潮発生 B四万十川の「清流」とは:マイナーな「清流」争い 他の川が汚れたから、「清流」に見える エ 「生物にとっての変化とは」 人為による川の生物への影響 人為選択の判断基準 オ 「川の守り手」 漁協? 地元住民? それとも? |
さようなら大井川:6 | 3 江の川 黒田明憲「江の川物語 川漁師聞書」 (みずわ出版) |
(1)黒田さんとは @生まれ、育ち 西城川支流の比和川 A川漁師との出会いのきっかけ いかだ下り B漁具の収集 重要有形民俗文化財の指定 川漁師もまんざらじゃあない C川漁師の話 ラジカセ100本超 D天野勝則さんとの出会い 小学生とのいかだ下りの手伝い いかだ下り宣言 |
(2)ウルカの作り方 中山辰巳のウルカづくり 身も使う。 骨も使う 水アユは使えない 旬は下りアユ 身、骨、腸、塩を混ぜ、こねる |
(3)モクズガニ 江の川のカニ漁元祖=竹内喜一 漁の日誌 浜原ダムによる分断前の生物 厄介もののモクズガニ 飯塚へ出荷 昭和47年集中豪雨による河川改修 |
さようなら大井川:6 | 黒田明憲「江の川物語 川漁師聞書」 | (4)ギギュウ(ギギ) @中山さんとは Aツケバリ 一本漬けとハエナワ ギギュウ様々 Bツケバリの道具 Cツケバリの餌 鉄砲ミミズとヤマミミズ:泥抜き イシヒイル シマドジョウ タクチとセムシ ゴマムシ ハエ D「江の川特産 ギギュウ」:ギギュウの料理法 ギギュウの加工 E「タクチがおらん」 大水の功罪 灰塚ダムの影響 虫と生物は回復する? |
(5)江の川の荒廃 「江の川物語」 2010年1月 |
A 発電用ダムの影響 ア 崎川さん @崎川さんとは 一人漁 A「永生さんの由来」から 「船頭から川漁師へ」から 高瀬舟の船頭 三次―作木間の舟運消滅 B講演会の続き 「アユがなる」 振る舞い「アユ」 C義理堅さ 解禁日のアユは贈りもの 子供会でもアユを振る舞う イ 「船頭原田文九郎」 舟ダンス 兄の事故死 作木―江津の船頭 ニコシの瀬 ウ 「高瀬舟女船頭の思い出話」 ハマビキが切れる エ 「禁漁区での漁」 「アユがなる」漁 テキサ漁 =アユテキサ ハエテキサ カジコと網手 徒歩でのテキサ漁=ツボサデ ニゴリカキ |
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B 支流八戸川のダム 天野勝俊:石の色でつく魚が違う 昭和32年ダムは小規模 昭和51年ダムは水の滞留時間が長い ダム上下での水質の違い |
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さようなら大井川:6 | C 浜原ダム 昭和28年完成 |
ア サケ @中山辰巳さん ヤス漁 野菜洗い時の川からの贈りもの A発電用ダムの影響 堰堤下での大漁 B作木の崎川功さん イクラ弁当 C現在のサケの遡上 濁川での産卵の光景 D何が遡上していたのか 人も交流 山女魚、サクラマスの漁はなぜない? イ 「子どものころのツケバリ漁」:中山さん クダヅケ 「ワタ」での「ヤナ(穴)」探し ウナギは鳴瀬堰を上る 舟のツケバリ 遊びからカジコへ ハエナワ式 大人顔負けの技、餌の選択 大ウナギ回想 ウ 浜原ダムの魚道 ダムでなくしたもの 魚道の効果=下りはできるか 「登り落ち」漁の準用魚道 魚道の効果評価の誤り 「改善率」と「達成率」 「達成率」評価が必要 下水、水道水は「除去率」ではなく「排出量」が重要 |
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D 昭和47年豪雨による河川復旧工事 | ア ションベン川 「暴れ江の川」 平野のない江の川 「悪い川」の価値観 洪水と川の恵み 流木拾い イ 「ニキ」の破壊 竹藪の効用 魚と樹木 ウ 河川管理の罪 凹凸のない川へ 淵や瀞の消滅 「エンコウ岩」とは 川獺はいた? エ 河川工事等の結果は? @コンクリートの要塞 川との親類づきあいの消滅 Aいずこの川も同じアユの量 B天野さんとドベ 夜12時半出漁の理由 Cドベの水 D浄化作用 伏流水の消滅 ヘドロと砂と石の川原 E人工鮎生産 遡上アユ激減はダムのせい? 「湖産」ブランド放流→交雑種の大量発生→海で死滅→遡上量激減では? F「川と水路と田んぼ」 田んぼは魚の産卵場 G川那部先生は 「自然との対話こそ」 「水無くして生命(いのち)無く、水無くして文化無し」 「人間がその中に生かされてきた自然」 「生命文化共同体」 |
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4長良川の荒廃 斎藤邦明 「川漁師 神々しき奥義」 |
(1)老化した川 大橋亮一 オーバーユース 河口堰でご臨終 自然の力より自分たちの力が強いという自惚れ (2)「三白公害」 恩田俊雄 大根の白=農薬 雪の白=スキー場開発 コンクリートの白=護岸・堰堤工事 「自然制圧」思想の害 排水溝へ 「川ガキ」 |
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(3)川那部先生の長良川 | ア 川那部先生の観察の仕方 時と場所で実情は異なる=出発点 一般性 漁師の話を聞くこと イ 汚い長良川 濁った眼の人 ヘドロ 製紙排水 鮎の大量死 ウ 川のかたちの変化 吉田川と本流の濁りの差 増水時の濁り 開発による土砂流入と河川「改修」工事 |
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エ 増水と濁り 本流は濁り、吉田川ささ濁り粥川は清澄 忘れられた「濁らぬ川」 オ荒廃と産卵場の「遷移」 砂防、水制の破壊 産卵場の上流移動の元凶=砂利採取と河川「改修」 |
カ 「改修」とは | 「改修」=溝化する工事方式 「流される水」 水制の否定 河積縮小 キ 「改修」と生物 河川の形変化→早瀬現象→アユ等の生息場所減 ク 河口堰建設目的は? 「長良川は病んでますな」から、「ご臨終」へ 科学知識の限界 予測可能な影響の過小評価 約束違反の運用法 治水とは ケ 開発の川のかたち 三白公害の状態 蛭ヶ野高原の破壊と川 まっすぐな川は存在しない 高い堤防と「治水」の限界 「自然を尊重する念」 |
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5 「ほんものの川を求めて」 大熊孝 「川がつくった川、人がつくった川 川をよみがえらせるためには」 |
(1) 「洪水の制圧」思想と大熊先生 A 「河川技術の三分類」 時間的、地域的、場所的に激しく変動する川 空間軸、時間軸へ対応できる河川技術とは 御勅使川(みだいがわ)での技術 信玄堤 「水でもって水を制す」 @思想的段階 大局的把握と川の特性理解 A普遍的段階 洪水現象の的確な把握 流れ現象の認識 B手段的段階 分派の石組み 牛枠類 水害防備林 霞堤 C生物の没却 明治以降の進歩は「手段的段階」だけ? B 「川のコンクリートはなぜ悪い?」 @植物が生えない→植物連鎖の破壊 施工が容易なコンクリート 草が生えず管理がしやすい 生物が棲めない 生物の自浄作用破壊 A物質循環と共生(川那部先生:「曖昧の生態学」) 栄養塩の循環 倒木の分解生物 子孫の数量的均衡 オラの疑問=遡上量変動は「単年度」主義ではなく、4年等「周期」? 相模川での遡上量変動 |
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C 「川は地球の物質循環の担い手」 桃太郎の話と物質循環 食物連鎖と水の浄化 「1寸の虫にも5分の魂」と物質循環 水害防備林 越流は当然のこと D 「発電所は水を奪う」 信濃川の宮中ダムと西大滝ダム 水無川 浄化機能のないトンネル E 「川とは」 「水循環」だけを教えていた河川工学 大熊先生の「川とは」の定義 「ゆっくりと時間をかけた」〜 文化と文明 文明が文化を支配 「母なる川」から「乳も出ないやせ細った母」へ 「水5則」 「新水5則」 |
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再び、「川漁師 神々しき奥義」へ 教義のまとめ |
(2)教祖斎藤さんの教義 A ナマズ・ウナギの網ウケ漁 蓮見由次 溜め池でも相模川より透明だった ア 蓮見さんの職場 利根川、谷田川、枝川は一連の流れ イ 道具と漁法 網ウケ すべて自作 ウ 道具の製作 仕掛け 地獄ウケ ソデのない普通のウケ タガの重要性 汚染は魚を滅ぼす エ 地獄ウケ 遡上、下り用対応の網ソデ張り クチボソは冬が旬 オ むかし、むかし、あったとさ @ 川魚の恵み 田に不適な土地 兼業農家 川魚問屋二軒 水路は続くどこまでも A「洪水」と恵み 利根川を目指すナマズとウナギの大漁 カ いまは @ 利根大堰 川漁師の減少へ Aコンクリート護岸 洪水の「制圧」 魚の生命と引き替えにキュウリ畑へ B キュウリ畑 埋め立てでキュウリの一大産地に 下水溝みてえの川へ C さかな 減少した魚 産卵場の葦原の消滅 D 稼ぎ ナマズその他 E 魚の用途の移ろい 釣り堀が得意先に フナ、ライギョ、ブラックバス ドジョウの末路 川那部先生の「魚々食紀」から 鮒鮨は1尾3万円に = ニゴロブナの減少 = 琵琶湖の「内湖」埋め立て 内湖復活祈願 フナの種類ごとの食材、味 「江戸のフナ料理」 イカナゴの佃煮 「フルセ」から「新仔」への食材の変化 旬の変化 蓮見さんの予言 |
B ゴリのガラ引き漁 一藤貞男 |
ア 漁具 なぜ貝殻? 光と音 イ 漁場 底石小さく、川底平らなところ ウ 騙しのテクニック 貝殻を底にはわす ロープを引く技 エ 稼ぎ 昔は3キロ、4キロ、今は? 川をネブった→川の温度調節機能破壊 昔は二月から、今は? 10匹じゃあな オ 一藤さんの箴言 @温度調整機能の喪失 伏流水の効用 漁の場所 川を直線化、平らにて遊歩道、親水公園に 生存場所剥奪の河川工事 水辺はきれいに? A「自然に逆らわずに」 箱コロバシ漁の箱のヌル ヌルのある箱は快適レストラン B池やワンドの消滅 「川をよくする」河川工事=池、ワンドの破壊 Cコンクリート張りはきれい? 都会人の美意識は産卵場の破壊 川端の傾斜を残して、広葉樹を植えて D生き物のおらん川 温度調節機能の喪失→食物連鎖の切断 E死んだ「清流」 生き物がいて「清流」 川でなくなりつつある F「清流」を壊す人の事例 「清流保護」=生物空間の破壊 G何もない砂浜は無駄なもの? 砂浜は何もないからきれい H汽水域の重要性 汽水域は自然界の生き物の通り道 塩分濃度調整の場所 工事→魚の激減 野田さんの1990年の予言 =「四万十川は本当に日本一か あと10年は大丈夫?」 →10年はもたなかった |
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(3)川那部先生の「神学」 | Aはじめに 川那部先生の教典集 B 「生物の多様性を促進させる」 「曖昧の生態学」から ア 自然の中の生物の相互関係 多様性は精神的・芸術的な糧 生物の相互関係の総体=関係の多様性 自然の中での生物の相互関係の重要性 生態複合の重要性 イ 「一地域個体群の中での多様性 ―それを失った個体群は永続し得ない サルも個体差がある 単一集団ではない 環境は変動する 環境変動に対する適応と遺伝子変異の多様性 種、個体群の一部を人間が管理=遺伝子の多様性の喪失 海産畜養も産卵行動としての下りをしない? |
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C 「人間的自然」 川那部先生の「神学」 |
ア 「人間的自然」の誕生 生物的自然 超越的生物としてのヒト 斎藤さんも、間違った自然観をもつ人間に危機感を イ 「人間的自然」の崩壊 50年ほどのあいだに 「人間的自然」回復が課題に ウ 生物と非生物環境の相互作用 相互作用 バランスの崩壊と再生 エ 「善意が仇になることも」 脆弱な自然のバランス 生物と非生物環境との間の歴史性 自覚の必要 シカの出産率遺伝子は飢えへ オ 養殖は遺伝子の多様性の破壊 環境変化への安全弁=遺伝子の多様性 養殖サツキマス放流と河口堰問題 怪我の功名=湖産放流=増殖に「失敗」 共倒れ現象 |
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D 「自然は多様な複合連鎖系である」 川那部先生の「神学」 |
ア 「地球は閉鎖系である」 汚染物質の稀釈拡散の時代 「濃度」の時代から質的量的循環の中へ 「もの」を東京へ、しかし「もと」へは返せない イ 「自然は多様な複合連鎖系である」 「競争排除原則」 @ 競争相手との同居 A 捕食寄生するものとの同居 三者共存へ 「生物学的三体問題」 三つの関係 多対多の関係は一対一の関係の足し算ではない 阿部さんへのいちゃもん再々 多様な複合連鎖系としての自然の実態は? |
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E 「閑話休題:『沈黙の春』」の衝撃 | 「当該」害虫の駆除→他者殺傷→自然の均衡の破壊 →食物連鎖を通って拡散 当時の評価 今や古典 |
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F 「自然の総体を扱う技術」はこれから | 連鎖複合系操作技術の不完全性 個々の最適解の集合は最悪解? 総合技術の発想 |
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G 「自然は歴史系である」 | 歴史的な時間の問題 時間概念捨象が科学の王道=微分の世界 歴史的関連性で形成された地球 棲み分け 相互作用の結果 アマゴとイワナ 食い分け イブレフさんの実験 異質他者がいると餌を変える ヤマメ、イワナ、オショロコマの3種の場合 落下昆虫と水生昆虫の食い分け 歴史の話:見知らぬ関係のニジマスとアマゴ アマゴとニジマスでは食い分けは起こらない 歴史の話:歴史的時間 食い分けの遺伝子情報あり? 確認方法あり? 歴史とは共有された時間 |
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H 「やってみたいが絶対にやらない、とんでもない大実験」 | 他地域の動植物に置換=歴史を消し去る実験 新しい「関係」の創出→失敗の筈 種の成立の時間:アユモドキの事例 未だ新種にならず |
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I 「神学」からの逃走 | 「生活の変異を捉え直そう―改めて知る生物の複雑さ」 アユとボウズハゼとの種間なわばりについて 底生性の魚と浮き魚の関係 個体群ごとの生活 個体群の生活様式と異質他者 欲求の抑制 場所による生活様式の相違にかかる認識問題 遺伝子、平均と偏差? エルトンさんの重み 一般法則重視=複雑なものの単純化 特殊法則 比較の方法 |
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J おわりに | ア 非生物的環境との関係 生物間の関係及び生物と非生物環境との関係の総体 非生物環境の多様性 一様な環境ではアマゴも生存不可能 イ 「多自然型河川」 傲慢さの現れ=「多自然型河川」 「近自然」の勧め ウ 人類はいつまで? 人口爆発 共生系の中のヒト エネルギー大量消費 2世代で食いつくす状態 ヒトの責任 次世代に遺産を残せる? 人間のあり方は? ヒトはもっとも短期に絶滅した種に? 地球共生系の破壊者:ヒト |
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3月1日中津川
2月26日から放流されて、ニジマスが2,100匹、山女が2000匹あまり、あるいは4000匹ほど、とのことであるが。
田代から早々と若者チャンプが釣れずに移ってきて、宴会の準備を始めた。角田大橋でも少しニジマスの釣れている人がいるだけ。馬渡橋は大入り満員ではあるが、僅かに釣れているだけとのこと。
去年のニジマスは放流地点から下ることもなく、そのままとどまっていたため、放流地点に入った人だけが大漁。
放流地点でない海底に行く。誰も居ない。足慣らしのため歩くが。
根掛かりしたかな、と思うと動いた。直ぐにばれたが、ニジマスや山女ではあるまい。
又瀬落ちできた。鈍重ではあるが強い引き。1300円もするミノーを食い逃げされたくないため、フロロの4ポンドではあるが、ドラッグを少し緩くする。
2本目の煙草を吸っているときにばれた。コイコクは消えた。
鯉のいたところは、人工鮎がつきやすい場所であったが、石が埋まったため、瀬落ちに鯉がいてもまあいいか。2匹はいる。
コイ敵にいじめられる1年か、大井川のあゆみちゃんにバレバレのいじめにあい、河原に泣き伏す年になるのか、不吉な初釣り。
ニジマスが下るとすれば、角田大橋下流の瀞にいるはず。釣り人も減っているはず。
橋下流の瀬肩の左右の人がたまに釣れていた。瀬落ち下流の瀞はだあれもいない。瀬落ちへと釣りのぼって、ニジマス1匹、バレ1.
釣れたときに餌釣りの人が来て、ルアーでは迷惑になるから下流へと動いたが釣れず。
若者チャンプが2本、というから、飲んでも釣ったとはさすが、というと、「酒を2本飲んだ」とのこと。
日向橋上流の浄水場前付近以外は殆ど釣れていないのではないか。
ということで、釣り残しはいる。ただ、山女の放流量が漁協の発表のとおりか、疑問がある。漁協の管理釣り場で使うとか、追加放流に廻すとか、の操作をされてないのかなあ。ホームページどおりの放流量であろうか。
26日午前のニジマス放流は見ていたが、山女放流は午後のため見なかった。とはいえ、放流された山女の殆どが残っているであろう。
県の原当麻にある稚魚養殖場で30代目くらいになる県産継代人工が全滅した、との話があった。そこには2棟の建物があり、2棟とも全滅したのか、あるいは、中にある水質の悪い池のいくつかが全滅したのかは、わからないが、他県の人工の買い付けをしているとのこと。
言葉どおりの全滅で、2度と生産されないことを期待している。歌舞伎襲名では代数を重ねることに意義はあるが、継代人工になんの意味があるのか。県は漁連に販売し、その後川に放流して死んでも、県は痛くもかゆくもない、という状況が改まることを願う。
3月2日中津川
殆ど、釣れていないということは、釣り残りがいるはず。
それらがどのような条件の時、場所で釣れるか、確かめたかった。幸いなことにアッシー君が見つかった。
角田大橋下流瀬落ち附近へ。ルアー2人、餌1人とも釣れず。昨日は数少ない釣れる人になれた場所である瀬肩に入った人も釣れず。
田代に移り、漁協前等に行くも変化なし。餌釣り君は、左岸護岸前の落ち込みに行くが魚の影さえ見えず、と。そこでは魚がいるときはきらめく姿が見える、とのこと。
やって来る人は様子見の人ばかり。
その中に、昨日馬渡橋上流で7匹を釣った山女天敵さんが竿をたたんだ。
天敵さんは、6月にはチビ鮎を餌にヤマメをたぶらかせ、中津川の山女を釣りきってから、あゆみちゃんに宗旨替えをしてしている。天敵さんでさえ釣れなかったのであるから、オラに釣れなくても当然。
昨日、天敵さんは山女を1匹釣ったが、ルアーとのこと。餌では釣れないから、とルアーに変更しての成果。そして、馬渡橋から観察していたとき、橋上流に2,30ほどの群れが見えたが、左岸の崖にも人が立つと、瀬に入っていったとのこと。それほどの警戒心があるということかなあ。
やってきた人達は放流量が漁協発表よりも少ないのではないか、と疑っていた。オラも山女についてはそのように感じている。ニジマスについては、数が少ないとしても、なんで、例年とは行動が異なるのか、わからない。
日向橋附近から上流は放流量が多く、釣れた人が多い、と、今日やってきていた人達も話していた。
3月5日中津川
いつ、どこで食事をするのか、釣り残しが多いことは間違いない。
天気良し、馬渡橋へ。餌の人釣れず。橋から魚は見えず。
漁協前の瀬落ち附近へ。その下流の瀞の人が、夕方には釣れるが、昼間はどこに行っているのか、と話していた。1日も夕方には釣れていた、との話があった。養魚場では、夕方に餌をやっていたのかなあ。そうであるとしても、もう腹が減っているであろうから、時間に関係なく食っても良いのでは。
水温は8度であるから、去年よりも1度高い。
あんまり冷たくされると、又来るしかない。今年の放流もんは、キャバレーのねえちゃんのように商売上手なんかなあ。
2009年相模川の遡上状況
今年は、3月に沖取り海産が獲れなかったから、相模川の遡上量は少ないと推測していた。4月20日までの、相模大堰右岸、左岸副魚道の遡上量調査は次の通りである。
単位:万
2004年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | |
3月20日から31日 | 294 | 計測なし | 計測なし | 計測なし |
4月1日から10日 | 831 | 27 | 188 | 20 |
4月11日から20日 | 113 | 24 | 219 | 54 |
4月21日から30日 | 450 | 275 | 229 | |
4月計 | 1,443 | 326 | 636 | |
5月1日から10日 | 56 | 69 | 70 | |
5月11日から20日 | 137 | 14 | 32 | |
5月21日から28日 | 45 | 3 | 36 | |
5月計 | 238 | 86 | 138 | |
合 計 | 1,975 | 412 | 774 |
ということで、副魚道での遡上量は、4月20日時点で、70万。今後の遡上を含めて、100万から200万くらいではないかなあ。主魚道が副魚道の7割ほどあるとしても200あるいは300万の遡上量ではないかなあ。
今年の特徴として、2008年は右岸側の副魚道が少し左岸側の副魚道よりも多く遡上していたが(右岸400万、左岸360万)、今年は、右岸側の副魚道は6万に過ぎず、左岸側副魚道69万の1割にしかならない。
どのような理由かなあ。
4月1日の最低水温は13度であるから、3月中の遡上が少しはあるかも。
なお、県産継代人工は、漁連の池に移した後、全滅したとの話がある。
川に放流してから、川の雑菌にさえ、感染して、死んでしまうと思っているが、その30代目くらいの継代人工が、川に放流される前に死んだとは有り難いことである。まさか、県はそれでも種苗代を取ることはあるまい。ということで、他県の稚アユを買うとのことであるが、どのような人工が入ってくるのかなあ。2005年の解禁日でさえ、釣り人がいなかった相模川にはならないであろうが、遡上アユが釣りの主役にはなれないかもしれない。そして、宮城産の養魚場のように、3,4代目で継代を止める人工ならば、アユの本性をまだ残しているが、群れる習性の静岡2Kはすかんなあ。
駿河湾は、稚アユが多いとの話があるが、今年は狩野川の年券を買うことになるのかなあ。アッシー君がほしいなあ。
4月26日
24日にヤマメの追加放流が行われた。25日に抜け駆けをしょうとしたものの、雨ではなあ。
ということで、混んでいるかも、と、思いながらも、馬渡橋へ。少ししか釣れていない。人は増える。
漁協前は追加放流カ所ではないと思いながらも、ルアーを振るが返事なし。
田代への瀬で1人がルアーで1匹釣っていた。サボリーマン君は6匹だったか。そのほかの人でも相当数釣った人がいたよう。角田大橋でも釣れていたとのこと。
田代では、伊藤さんの講習会が行われていて、実釣で、すぐに釣り上げたが、その後は風で合わせがうまくいかないようであった。
解禁日よりも釣れている人が多かったから、どの程度釣り残しはあるのか、わからないが、明日、あんよの練習をかねて、試してみよう。
4月27日
伊藤さんが釣られていた放流地点には、8時前だというのにルアー1人、餌釣り2人がはいっている。全国的に今日はお仕事の日と違うのかなあ。
国道横に入り、釣り下る。放流地点よりも下流では釣れるはずはないか。放流地点の人が、1人は右岸へ渡り、他は休んでいたので、伊藤さんが釣っていた白泡の附近にはいる。
白泡の横、6月でも山女魚釣りをされているNさんが狙う石横の筋で当たり。白泡のすぐ下流でも。
とはいえ、ここは石で流れが複雑になっているため、オラの腕ではミノーをヤマメがその気になるようには引けない。
昨日、アユ業界ではちっとは知られているKさんが、管理釣り場の大会に参加して、はじめてルアーを振ったとのこと。友達が貸してくれたルーの中にメタルジグがあったので、それを使い、1位になった、とのこと。メタルジグが底に着く寸前に食いついてきたとのこと。なにか、スプーンにマスが飛びつくのをみて、スプーンが釣りの道具になった、との伝説を想起させるお話。
和歌山から、アユ放流車がやってきた。
海産畜養とのこと。
10cmほどの鮎は、水に入るとすぐに、瀬に入っていった。県産継代人工と違い、放流地点にとどまることもなく、また、流れのないところにたむろすることもなく、瀬に入り、放流地点のすぐ上流で釣っていた人の針に引っ掛かった。
オラもその放流前に、瀬で2匹を引っかけた。昨日、馬渡橋下流の瀬で釣っていた餌釣りの人が、山女魚は釣れないが、アユは何匹か釣れた、と。
中津川漁協のホームページをみると、4月14日人工、4月19日海産、4月23日人工海産と書かれている。
その「海産」は、浜名湖産とのこと。
和歌山産を運んできた養魚場の人が、3月に3,4cmの大きさで海産を放流しても育たない、水温が低いから、といわれていた。
オラは、海の動物性プランクトンを食べていた稚アユが川に放流されても、流水では動物性プランクトンが繁殖し難いから、食料が少ないこと、また、3月では、水棲昆虫の繁殖がまだ少ないであろうから、食料にできるる昆虫も少なく、エサ不足であるから、と想像している。養魚場の人が、「水温」が低いからを育たない、といわれたことには、このような、理由によるのではないかなあ。
人工については、群馬県産、栃木に導入された静岡2k等の話があるが、どっちにしても群れるアユであろう。群馬県産とすれば、神奈川県よりも継代を重ねているはずであるから、ひ弱で、どの程度生存できるのかなあ。秩父の荒川で放流されたときも、他の放流ものと区別するため、上流側に放流されたが、病気持ちが少し釣れただけ、という話が今世紀の初め頃にあったが。
県産継代人工が、漁連の池に入れてから死んでよかった。川に入れてから死んだのであれば、その継代人工も、漁連の義務放流量にカウントされることになっていたが。
ということで、今後どのような人工等の放流がされるのか、わからないが、浜名湖産と和歌山県産の海産畜養は瀬での釣りの対象となるのではないかなあ。
そして、放流量は、流域面積ではなく、流域延長で配分されるという話があるから、中津川の瀬で釣りの対象となる数量は、相模川よりも多くないかなあ。
なお、妻田の堰の魚道の水が、まっすぐに下流へと流れておらず、反転して、堰からの落水と合わさっているために、魚道への侵入が困難な状況になっている。そのため、去年も中津川への遡上が少なかったが、今年は水が多いため大丈夫との話もあった。ただ、状況を見ていないためにわからない。
2009年:平成21年遡上状況2
単位:万
調査方法
表が乱れている人は、「オラ達の鮎釣りその2」(グーグルで検索可能)の「あゆみちゃん遍歴賦」→2009年を見て
2004年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | |
3月20日から31日 | 294 | 計測なし | 計測なし | 計測なし |
4月1日から10日 | 831 | 27 | 188 | 20 |
4月11日から20日 | 113 | 24 | 219 | 54 |
4月21日から30日 | 450 | 275 | 229 | 40 |
4月計 | 1,443 | 326 | 636 | 114 |
5月1日から10日 | 56 | 69 | 70 | 2 |
5月11日から20日 | 137 | 14 | 32 | |
5月21日から28日 | 45 | 3 | 36 | |
5月計 | 238 | 86 | 138 | |
合 計 | 1,975 | 412 | 774 |
2009年の相模川大堰副魚道の遡上状況から見る限りでは、5月10日までの遡上量116万で、これは2008年の同期間の遡上量706万の16%。
漁協関係者の語る5月に一杯遡上する、という評価を信じるならば別であるが、海に稚アユが少ない故、去年の遡上量の2割近く、150万くらいということであろう。
これに主魚道を加算しても250万以下ではないかなあ。
2003年は5月の遡上量が多かったが。
なお、5月11日から調査終了の遡上量については、副魚道で100萬以上の調査結果のあった年の状況(次表)を見てカンピュータをはじいてください。
単位:萬
5月の遡上量 | 5月中下旬の比率 | 4,5月遡上量(A) | Aに対する5月中下旬の比率 | |
平成12年 | 14 | 68% | 101 | 9% |
平成13年 | 178 | 28% | 550 | 9% |
平成14年 2002年 | 171 | 34% | 2,199 | 3% |
平成15年 2003年 | 182 | 82% | 706 | 21% |
平成16年 2004年 | 238 | 76% | 1,975 | 9% |
平成19年 2007年 | 86 | 20% | 412 | 4% |
平成20年 2008年 | 138 | 49% | 774 | 9% |
調査は相模大堰の副魚道で行われたものであり、主魚道分を副魚道の7割ほど加算すると、相模川にいる遡上鮎量を100万単位くらいでは、推測できるかも。
また、磯部の堰をどの程度のアユが遡上できたか、は不明。中津川の妻田の堰は、魚道を下った水が、上流に反転して堰からの落水と合流している状態が改善されていなければ、2008年、2007年同様、遡上アユは少ないのではないか。
小沢の堰の魚道が新しくなったが、少しこの魚道の利用者がいるとの話はあるが、それが浜名湖産、和歌山県産の沖取り海産の畜養ものか、遡上アユかは不明。
5月8日、ダム放流で、1メートルほど高田橋では増水している。この増水で、小沢の堰の工事での泥が流されたとは考えにくいが、瀬には泥の付着が少ないようにみえたから、瀬での食糧不足は少ないかも。
とはいえ、瀬での生活者は、遡上アユと、浜名湖、和歌山の海産畜養に限られるから、絶対量は去年の3,4割ぐらいかなあ。ただ、去年の漁連義務放流量のうち、県産継代人工が放流されなかったこと、3月上旬の沖取り海産は、畜養されることなく放流されたから、チビのままであったが、それに対応する2009年の放流ものに海産畜養が置き換わっている分、放流もので瀬に付く率は今年の方が高いといえよう。
8日のダム放流で、あっちこっちの継代人工は水温の変化、濁りで、死んだものがいるであろうし、瀬の住人になることはなかろうし。
5月23日狩野川城山下
遡上アユが多いとの話があったから、11月の豊満美女に期待して、年券を買う。
混雑を避けるため、城山下へ。
青木の瀬には瀬肩よりも上流に人がはいっているもののそれほどの混雑ではない。コマドリの瀬は10人ほど。城山下はオラ達4人組以外は1人。
混雑のない場所の選択は的中した。そして、釣れない予想も。
昼前には、青木の瀬の瀬肩より上流には2人ほど。コマドリの瀬は消える。城山下にやってきた人は1本瀬で1匹は釣っていたが、石コロガシにやってきた人は釣れず。松下の瀬は、分流にも左右から人が入っていたとのこと。
オラ達では、オラの2寸が唯一の鮎。1人のアッシー君は、普段のサボリーマンからは想像もできないほど、真面目に働いていたが。
梅雨明け以降、丼大王が乙女や豊満美女を堪能した去年以上に、石コロガシの瀬で、今年も楽しめるのではないかなあ。なにしろ、遡上アユがいて、釣り人は少なく、育つ時間を与えられているから。
それにしても、なんで、人工放流が青木の瀬でも釣れなかったのかなあ。何処に消えたのかなあ。生きているのかなあ。
遡上アユの一番手、二番手が、城山下で途中下車したくなる場所でなくなったのはオラでも想像できるが、狩野川大橋上下でも、それほど混雑をしていなかったということは、その瀬でも途中下車の魅力がなくなったのかなあ、それとも、16歳くらいに育っているはずの一番手、二番手の数が少なかったのかなあ。
6月1日中津川海底
遡上は少ない、頼りになるのは浜名湖と和歌山の海産畜養。
あちこちの人工は死んでいるのがあるから、どのくらい生き残っているのかなあ。県産継代人工が川に放流される前に死んだことは幸運であるとはいえ、川にいるアユは少なかろう。
7時過ぎのバスから見る相模川の高田橋上流は10人以下、弁天は4,5人。
中津の仙台堰下流、田代は混んでいるであろうから、海底へ。途中の石は泥かぶり。チビもみえない。
玉引きをしたがすぐに諦めた。人はそれなりに入っているが。
瀬尻でオトリ並の大きさの山女魚。釣れている人がみえないから、10時前であるが、ビールタイム。
橋上流の瀬もすぐに止めた。又、ビール。
田代で25センチほどの山女魚と10数匹を釣った人も人工で汚い鮎、と。2,30釣った人が何人かはいるようであるが、人工が固まっているところに入った人ではないかなあ。
海産畜養は何処にいるのかなあ。
2時過ぎの高田橋から、分流との合流点付近に10人足らず。弁天の右岸瀬肩上に3人の釣り人。
2005年の解禁日よりは人は多いが。
6月2日中津川壊れ橋上流
ネエちゃんがいないと判りながらも、海産畜養の行方が気になる。
相模川を7時過ぎに渡るとき、弁天は釣り人なし、昨日大漁の人もいたという高田橋上流の分流との合流点付近に数人。
田代や、角田大橋付近で、30,40の人もいたが、高田橋分流付近と同様、人工が溜まっているところのよう。その人工の溜まっているところがなかった仙台堰下流はすいているから、海産畜養の状況を見るにはよい場所、と思って入った。ところが割り込むのに苦労する状態。
しかし、非常にうまい人が、手前から沖へ、沖では玉引きをし、下流の人がいなくなると下り、と、抜群の操作をしている人ですら釣れない。
10時頃にはがらがら。
昨日トンネル横で釣った人は、下顎側線孔数4対左右対象、きれいな鮎だった、と。ただ中学1年くらいの大きさとのこと。
ということは、海産畜養はまだ、縄張りを形成するほどの大きさに成長していないということかなあ。
明日、成魚放流がされるとの話があったが、オラの趣味に合わないから、しばらくは、ボウズの修行をさぼって、眺めるだけ、ということになりそう。
10時過ぎにはビールを飲み、囮は元気はつらつ、どうしょうかなあ、と悩んでいると、「オラ達の鮎釣り」を見ておられたという人と話すこととなった。その方のお父さんは、只見川の上流?の支流で鮎釣りをされていて、子供の頃、昼に迎えに行くと、川面からシャネル5番の香りが立ちこめていた、と。
その方に、昔の鮎、川を知っている人は少ししか残っていないので、お父さんらに、古の鮎、川等のことを聞いてくださるように、お願いした。
お父さんが90歳の時、その川で釣った鮎を食べさせてあげたとのこと。お父さんは、料理屋で出る養殖は食べないから喜ばれたとのこと。
その時は、お父さんに友釣りをさせるつもりであったが、川への下りで転んで釣りはできず、川原で見ておられたとのこと。
6月3日道志川、このま沢、青根
昨日、高田橋上流で様子を見たルアーの師匠が、1匹しか釣れず、、又、成魚放流がされるという中津も行きたくなし、といううことで、このま沢を見に行く。
水温14度。まだ冷水病原菌が増殖する水温16度以上になる時間は少ないのではないかなあ。
とはいえ、釣れず。アッシー君が1匹、弁天近くに住んでいるのに、相模川を見捨ててやってきた人が3匹。うろちょろして、チビ2匹。アッシー君はアユの気配がしない中でのボウズ修行がいかに厳しいか、実感し、オラが10時頃にはビールを飲まざるを得ないストレスが判ってくれた。
アユがいる気配の感じられないところでのボウズ修行は、耐えがたいということで、午後は、青野原に移る。
師匠にとっては、冷水病のアユしか釣れなかった何年か前以来の青野原。
ひらを打つのがみえる。
先客は手ごろな大きさの人工が何匹か釣れていたが、オラと師匠はアユがみえるのに釣れず。
津久井湖産が豊漁とのことであるから、それが汲み上げ放流されたものも川にいるのかなあ。
オラと師匠は釣れなかったが、先客が釣れていたこと、下流の瀬の人も。そして、アユがいることが目でみえたこと、これらのことから、海産が育つ7月頃までの師匠の釣り場は青野原ときまりました。
6月7日中津川 角田大橋下流
橋と堰との中間の弱い流れのところで、跳ねがみえた。
すぐに中学生。5人の中学生がすぐに釣れた。これで、ボウズの難行苦行の修行も終わりか、とほくそ笑んだが、はい、それまでよお。少し流れが強くなる上流へと進んでも変化なし。
角田大橋すぐのところで、成魚放流の汚い人工等を40台の人も楽しそうではない。田代グランドの20台も馬力のあるアユでなく、しかも、固まっているのしか釣れず。
6月10日中津川角田
角田大橋から、右岸寄りに見えていたアユが見えない。移動したのか、それとも?
群馬県からやってきた人たちが、仙台堰下で200,そして昨日も大漁であった、と。振り子抜きをしていた、とのことであるから相当の腕であろう。
仙台堰下は魚道が上れない海産畜養等、遡上性を失っていない人工を含めて、溜まっているはずとは思っていたが、右岸ヘチから釣るときは糸を木に引っかける虞があり、又、左岸に渡るには10トンの水量では、オラのあんよでは心もとない。ということで、大漁を指をくわえて見ておらざるを得なかった。
田代の国道横の、大石の右岸側で、ぬめぬめのきれいなあゆみちゃんが釣れている、とのこと。海産畜養か、それともきれいな人工であったという「浜北」産?かなあ。
そこまで歩くのはしんどいなあ。
ということで、楽をするため、角田大橋と堰の中間附近の人工しか釣れる可能性のないところに入る。
中学生が5匹釣れた。
午後は、角田大橋直下を釣るも、橋からアユが見えなかった、ということは釣れない徴候であったのかなあ。まあ、朝帰りではなく、3時近くまで、オトリが過労死することもなく、時間つぶしができたことに感謝しょう。
駿河湾に行くアッシー君はいないかなあ。
6月13日中津川
仙台堰下大石附近で、群馬の4人組が2日で4百は釣ったであろう。そして、昨日は地元の人が90、それ以外にも大漁の人がいるであろうから、3日間で千近くは釣れているのではないかなあ。
京大の先生が1平方メートルに1匹が縄張りに適切な密度との実験結果を発表して何年かなあ。それが適正な放流放流基準とされているが、仙台堰下流の海産畜養と遡上性のある宮城産等の人工が、仙台堰の魚道を上れないため、溜まり、日々釣れているとなると、京大の先生の研究報告が信頼性に欠けるのではないか、と疑わざるを得ない。
その一角に辛うじて入ったが、竿操作もままならず、逃げ出した。今日、目の前で釣っていた人で、うまい人はいなかった。
弛みでぽつぽつ釣れていたが、瀬では釣れなかったから、1番鮎、2番鮎は品切れか、と思いながら、壊れ橋へ。壊れ橋下流の瀬ははすいている。3人。
ヘドロのこびりついた石も少ない。しかしアカ付きも悪い。試し釣りの頃、瀬の芯のアカ付きは悪かったが、その頃から3週間たっている。水温、日照で、特別、垢の成長を阻害する条件があるとはいえない。なんで、アカ付きが悪いのかなあ。こんなにアカ付きが悪ければ、海産畜養が中産階級に育ち、オラでも釣れるようになるのは梅雨明けからかなあ。
しかも、右岸近くにあった溝がなくなっている。石は詰まっているが川見のできないオラには何処にあゆみちゃんがいるのか見当がつかない。囮屋さんには朝帰りをしない、といった手前、困ったなあ。
まともな瀬で3匹釣って朝帰りはしなくて済んだ。ビールを気持ちよく飲んで午後は、壊れ橋上流で。おなじみさんは壊れ橋上流で5匹とのこと。
朝帰りをした人で、少しはすいた。
なんと、今年はじめて、午後に釣れた。しかも3匹も。3時半まだ働いた。
計6匹のうち、17歳、16歳を含む下顎側線孔数4対左右対象4.17歳から13歳。
帰り、堰下流の大漁エリアに入れず、その少し下流の人が数匹。しかし、大漁エリアの大石附近の人は60,オトリを交換して放つと、囮を舟に入れる前に釣れていた、と。この人は、月曜には早く来るでしょう。いや、明日、早く来るかも。
大漁エリアのあゆみちゃんが下流の瀬に散らばってくれたら、少しは楽になるのになあ。壊れ橋下流の石の詰まった瀬で、なんで途中下車をしてくれなかったのかなあ。
高田橋上流の分流、分流合流点付近には今日も釣り人が入っていた。どんな種別の鮎が釣れているのかなあ。
弁天は閑散。しかし、風が強く瀬の人は休んでいたのかも。これまでは、瀬肩上流の人工釣りしかできなかったようであるが、瀬で、海産畜養や、遡上アユが釣りの対象となるほどの大きさに育ってきたよう。馬力のある鮎が釣れて愉しかったとのこと。釣り人もそれなりに入っていたとのこと。
6月15日中津川
仙台堰下の大漁フィーバーが、持続していることを期待したが、釣れず。トイ面の瀬の中の弛みの人もたまに小学生。
ということでフィーバーエリアを逃げ出した。なんで、土、日に豪雨、暴風にならなかったのかなあ。なんと不幸なオラやろう。大漁フィーバーの恩恵にあずかれなかったとは。
それにしても、仙台堰で遡上を妨げられた海産畜養と遡上性の習性を失っていない継代を重ねていない一部の放流人工が、仙台堰で遡上を妨げられて、溜まったことは理解できる。しかし、出アユになって、空腹を見たしていたはず。出鮎の時に、なんで出張先に居座らなかったのかなあ。堰下が、アカ付きがよく、美味の垢がついていたとはとうてい考えられない。単に、遡上性向が強い年頃ということかなあ。
又、仙台堰下が、人工の成魚放流の塊のところをのぞいて、他のところに比べて、釣れていたことは判っているが、なんで、先週の群馬県の4人組が入った頃から大漁フィーバーになったのかなあ。
あゆみちゃんの心は判らんけど、仮に判ったとしても、甘い言葉をかけるテクにクックがないと、あゆみちゃんは相手にしてくれないのかなあ。
「祭り」は、必ず終わりがある。
しかし、土、日曜に、なんで雷、豪雨にならなかったのかなあ。もし、天が味方をしていてくれたら、オラも大漁フィーバーのお裾分けにあずかることができたのになあ。
今年には、仙台堰魚道の改修工事があるとのことであるから、例え、遡上アユが多くても、2度とはあり得ない大漁フィーバーであろうに。もっとも、魚道が改修されて遡上可能な形状になったとしても、妻田の堰の魚道のように、維持管理をしなければ、魚道への登り口がわかりにくい水の流れになり、又、溜まることになるかも知れないが。
角田大橋下流のトロ、仙台堰と壊れ橋の中間、等、あっちこっち彷徨って、人工3匹。
昼前にビールを飲み、米さんに,、さらにビール2本と胡瓜を御馳走になる、米さんは8匹。
明日、和歌山県産の海産畜養が放流されるとのことであるが、オラには成魚放流は海産畜養といえども、すぐには釣りたくないので、当分は、遡上、海産畜養が釣りの対象となるほどに成長したものがいるという弁天の瀬で時間をつぶすこととなるのかなあ。
6月19日大井川
梅雨明け前に、しかも6月に大井川に行くことは、20世紀でもなかったのではないかなあ。
ただ、今回はテク2からのお誘いには感謝している。
1 20世紀には、アユ放流は、ダム上流と支流であり、ダム下流には行われておらず、21世紀にになっても、たまに人工が釣れるが、捨てられた養殖等例外であった。
したがって、遡上状況に左右される有り難い川であった。その川に人工が放流された、との話がある。
2 塩郷堰堤の魚道を上れないアユが女子高生も混じって、真っ黒になっていた、とのこと。それらがどうなったのか。
「面食いで、大物食いの若者」が、10月下旬頃、千頭で釣った27歳級を囮屋さんの水槽に入れていたが、容姿は海産で、人工ではないように見えた。「海産馴致」を放流している、とのことであるが、遡上が少ない時は、「海産」の採捕ができず人工を放流せざるを得ない、とは想像していた。
又、08年11月、千頭にはじめていったときに、テク2やタマちゃんに釣れていたアユは海産であった。
それに、大量に遡上したというあゆみちゃんの成長具合も気になる。
地名から久野脇にはいる。ダンプ道を降りたところに先客が3人見えたが、その人が上流に動いて、テク2が入り瀬肩附近ですっぐに釣る。いつもながら手の早いこと。しかし、ヘチの泥垢のはみ跡が少ない、まともな瀬で釣れない、ということで、昼からは久野脇の最下流に移動。
この場所は3回目。
一昨年の大量遡上のあった10月下旬アッシー君が入れ掛かりをし、オラも乙女を楽しんだ。
去年の11月は、タマちゃんが上流側の瀬からはじめて釣れず、下流側の瀬肩附近のオラがボウズにならなくてすんだところ。当然テク2は遡上の少ない中でも乙女をモノししていた。
川の流れは少し変わっていたが、テク2の見立ては的中。
上流側の瀬に入ったオラは釣れないのに、下流側の瀬のテク2は盛んに釣っている。しかも少し下りながら取り込んでいる。
オラも移動して、その瀬肩で、小学生、中学生、当然次は女子高生のはずが、乙女。
今の時期、遡上アユが乙女に育っているはずがない。いや、格差社会のあゆみちゃんの社会では、乙女がいても不思議ではないが、オラが囮を入れられるような場所に乙女がいるはずはない。
テク2に笑われながら、下り、へちによせ、やっと川原にたどりついて、キャッチミスがあっても逃げられない場所で取り込んだ。
体高のある、鱗がそれほど荒くなく、それなりに綺麗な人工。
下顎側線孔数は4対左右対称。
なにい?人工であるのに、下顎側線孔数が4対左右対称とは。
静岡2系との話があったが。
静岡2系?
1 初心者らしからぬおっさんが、狩野川宮田橋上流のトロで、成魚放流の人工。誰でも釣れる魚、ということで、瀬に移動。そこで釣れたアユを、静岡2系とまわりの人はいっていたとのこと。しかし、下顎側線孔数は4対左右対称。人工であるのに、なんで?容姿は普通の人工と異なり美しい。
2 ホトトギスさんが、美しい静岡2系を釣りたいと書かれている。
囮屋さんは静岡2系を放流した、とはなされている。
オラは釣ったことはないが、数年前、畳半畳ほどの空間で大量に釣ってきた狩野川の「静岡2系」の人工を見たが、とても、「容姿端麗」とは言い難い相模川でおなじみの容姿であった。
それが、「静岡2系」のイメージである。
習性も異なる。
久野脇下流の釣り場所は
1 放流地点ではないから、下ってきたか、遡上しているもの。
2 瀬、瀬肩で、弛みではない。
このような習性の人工は、相模川漁連ではなく、相模川第一漁協、中津川漁協の放流事業として、数年前から行われている「宮城産」といわれている阿仁川産を親とする3,4代目くらいで、継代をとめて、鮎の習性を保たせようとする人工生産に似ている。
今回放流された「静岡2系」は、従前の種苗とは異となり、新たに作られた種苗かなあ。
そして、継代を重ねていくが、たまたままだ継代を重ねていないということかなあ。それとも、今後も、継代を余り重ねない人工の生産をするということかなあ。
それと、「静岡2系」とすると、なんで、狩野川、藁科、興津では大量死したとの話があるのに、大井川では死んでいないのかなあ。大量死が、養魚場での冷水病原菌の感染ではなく、川での感染なのかなあ。もし、川での感染とすれば、人工放流は大井川だけでもして欲しくないなあ。
馬力は、遡上アユよりも劣るが、それでも並の人工よりは強い。ましてや、今年相模、中津に放流された図体がでっかいだけで、「重たい」だけで、「容姿端麗」の対極にあり、持ち帰りたくない、といわれているどっかの人工とは異なる。
テク2が0.15号で丼を食べた。
テク2はいいあたりだった、と。金持ちはなんと優雅、余裕、おおらかなことか。敵方の技倆をほめるとは。
差していく大量の鮎をみて、テク2は上流側の瀬に行ったが、釣れず。戻ってきて再び、竿を曲げて、少し下り、取り込んでいた。
オラは、青ノロが付くせいか、根掛かりが多く、瀬ではオトリを助けにいけないため、瀬肩に近い瀬と、瀬肩上流で釣る。
テク2はこの場所で28,丼がなければ、30.オラは15.テク2の半分もつれたとは、大井川のあゆみちゃんの優しいこと、敬老精神に溢れていること。感謝、感謝。
オラのあゆみちゃんは、遡上アユが12歳くらいから16歳、人工と半々くらい。小学生といえど、体型はできあがっているから、元気いっぱい働いてくれる。テク2は、人工の方が多かったのではないかなあ。
6月20日大井川
19日の夜、食堂に行くと、囮屋さんがいた。
塩郷堰堤魚道に溜まっていた遡上アユの行方を聞くと、中電のトンネル状の魚道内のビデオでは、大きいアユはのぼっているが、それ以外がどうなっているか、判らん、とのこと。
「面食いで、大物食いの若者」が、大物食いの場所をテク2に話していた。
下りの鮎がたまる場所について、「大食い若者」とテク2のかっての経験が一致しているように感じた。
ということで、遡上アユの大物食いに、テク2も染まりそう。
とはいえ、今回の目的は、場所ムラが大きく、又、変動も大きい大井川の状況を見ておくことが目的の一つ。朝は、テク2が駿遠橋付近を散歩して、遡上アユの馬力がまだ弱いから、右岸よりの分流が、ブロックの間が、橋と併行に流れる一部が、と、釣り場所を説明してくれた。
アッシー君が見つからんときはそれを参考にしょうっと。
土曜故、混むし、七曲がりを見ておきたい。
右岸駐車場から山道を降りる。
おびただしいアユがはね、見える。それに比べて、なんと少なくなった石か。
20世紀の七曲がりは豆腐状の石が詰まっており、又左岸崖に沿う流れは、石と岩盤があゆみちゃんの食糧を供給していたのに、今や、3カ所の小さな瀬と砂底。
そこから右岸崖への1キロほどの流れは、豆腐状の石が埋まった後、一時は砂利だけになったが、流れてきた頭大の石等が、増えてきた。とはいえ、右岸側、芯は砂利が入っている。
テク2は、右岸への崖の流れの、勾配のある瀬よりも上流にはいる。オラはそれよりも数百メートル上流へ。ほかには、右岸へ当たる手前の瀬に4人ほど。
オトリは昨日釣ったものを選別して10匹ほどあるから、不自由しない。しかし、あゆみちゃんの愛には不自由しっぱなし。
テク2も同じで、つまずいたときに生じたへんな竿操作で掛かるまでは0とのこと。
その後も芳しくなく、やっと、11.
そんな中でオラが釣れないのは当然。オトリ良し、あゆみちゃんたっぷり、その条件でもナンパ術の差も出ない状況。いや、出ているのかなあ。
砂混じりの流れの真ん中に立ち込んで、左岸ヘチ寄りでやっと1人。
その後は、テク2のところに下っていく途中、流れのない弛みで、ネエちゃんが、よってってよ、サービスするわよ、と、何十人も跳ねて、客引きをしている。そのキャバレーの前を素通りするのは、ジジーの沽券に関わる。
キャバレーのネエちゃんの甘い言葉どおり、サービスが良ければ、パチンコ屋とキャバレーが繁盛するわけがない。
言葉は実を伴わず。サービスが悪い、と文句を言うと、何をいうの、お金を持っていると思ったから誘ったのに、すかんぴんじゃあ、恥ずかしくないの?あたいの目利きも落ちたわね。
それでめげるオラではない。20歳級の人工を釣り上げた。遡上アユも一杯いるのになあ。
しかし、容姿はそれなりに端麗であるし、場所が場末であるから、しゃあないか。
右岸崖への瀬に行くと、ヘチは泥垢、ナメなし、芯は青ノロ。
昨日の場所と比べて、七曲がりは青ノロがはるかに少ないのになんで、瀬には青ノロが多いのかなあ。
その瀬に入った4人組はオトリも不自由している状況とのこと。昨日食堂で、囮屋さんが15ほど釣った人がいた、といっていたが。
午後、動くかと思ったが、山道を上るのがしんどいし、他は混んでいるであろう、ということで、恋の密室空間で過ごす。風が出てきた。テク2はそれを予想して、固い竿を使っていた。風の予想もできるとは。
オラは竿を折りたくないから、きらきらひらを打つ鮎の観察。喰んでいるでもなし、追っているでもなし、砂利のところにも同じ動作の乙女が見える。もし、その動作が、水面であれば、病気で死にいくあゆとわかるが、底での動作。
養魚場の人が、冷水病にかかると、かゆいから、そのために身をくねらすような動きをする、と話していたが。その養魚場の人が、病気にかかったかどうかを判断している動作とは異なると思うが。
風は収まらないが、テク2が竿を畳みそうに見えたから、キャバレーに囮を入れる。その下のまともな流れと大き目の石が所々に転がっているところでは釣れなかった。背後を通るテク2にもうちょっとまって、といって、朝よりは跳ねて客引きをするネエちゃんの減っているキャバレーに入る。
なんとすぐに釣れた。何処にも行かないで、ここで釣っていたら、つ抜けになっていたかも。
へんな場所、とんでもない場所が好物の、裏釣法小父さんには秘密にしておこう、ット。
釣り吉さん、囮屋さん、それに、「大食い若」から、青ノロの状況、遡上アユの成長状況、付き場所等を聞いて、又大井川にやってきたいなあ。
大満足の大井川でした。
6月25日 相模川弁天
昨日、小沢さんの講習会が開かれていて、雨のやんだ午後、それをカンニングしていたから、弁天瀬肩上流の予備知識はある。
瀬肩上流の柳では、友釣りはじめての女の人が、バラシはあったが、数匹。そのすぐ下の新人らしからぬおっさんはへたり込んで釣れていた。そのおっさんは、ヘチの数メートル先は小中学生が、さらに2,3メートル沖は人工が、と。
柳から100メートルほど上流に、瀬で釣れなかった初心者がやってきた。小沢さんは、この場所は広く泳がせないと釣れない、尻尾を振るように、と、そのための竿操作を教えていた。数匹釣れていた。
瀬はしんどいし、柳前は、柳のところまで立ち込んでいるし、瀬肩下にも入っている。
ということで、初心者が釣っていたところにはいる。
昨日、いっぱい跳ねていたから、そして、今日も跳ねているから、鮎はいる。
ヘチから釣り、中学生。しかし、鮎はいるのに釣れない。
右岸に渡る人を見ていて、水深が少しある位置に、囮を入れる。馬力がある。こんな馬力は予定していない。ハリは6.5号、糸は傷さえなければ、持つはずの0.07号金属。
丼はしたくない。時間をかけて引きよせで取り込む。
人工に見えない容姿。下顎側線孔数は、4対左右対称。今どきこんな大きい海産がいるはずがない。弁天の瀬で、綺麗な鮎が釣れた、22センチあった、との話があり、宮城産かなあ、と思っていたが、そうではなかったのかも知れない。23センチあった。
大井川で釣れたアユが、「静岡2系」ではなく、「海産馴致」であれば、オラの悩みはなくなるのに、新たな悩みが加わった。
23センチの容姿端麗、下顎側線孔数4対左右対称のこのアユの氏素性は何か。
海産畜養として放流されたアユは、成魚放流でも、高校生か中学生であった。それから、この大きさに育つには育つ時間が不足する。
午後には22センチの容姿端麗、下顎側線孔数4対左右対称も釣れた。
15匹のうち、下顎側線孔数4対左右対称は、このほか、中学生2,小学生1であった。
高田橋に放流された人工が、弁天に下ってきたため、高田橋のトロが釣れないということかなあ。
瀬では、海産が主役のようであるが、水が引いたら、様子を見てみよう。それまでは、瀬肩よりも上流で楽な釣りをしょうっと。
腕の差が大きく出ることは判っているが、楽よりも勝るものはなし。しかも、雑巾を釣ったような成魚放流の人工もいない。
瀬肩の少し上流のうまい人は、立ち込んで、人工とは思えない乙女を釣っていてた。気持ちよさそうにやりとりをしている姿が、数回見えた。オラと同じ氏素性のアユを釣ったのであろうか。最後は、キャッチミスで、糸を切って、帰って行った。
6月26日相模川弁天
柳の前はあいているが、そこで釣れないと、初めて友釣りをした人よりもヘボ、数が少ないと、初心者らしくないおっさんに年は食っても、腕は上がらず、と、いじめられそう。それにしても、弁天が初めての小沢さんが、なんで、どのような現象から、柳とヘチの間を友釣りはじめての人に勧めたのかなあ。どのような川見を、どのような条件の下に、その場所しかない、と判断されたのかなあ。
ということで、昨日と同じく、柳の上流100メートルほどにはいる。
つれんなあ。
1時間を過ぎてやっと中学生。はたらけど働けど、あゆみちゃんは跳ねるのみ。
小沢さんが初心者に教えていた、この場所は何処が一等地かわからんから、あっちこっちオトリを泳がせること。これは文句なしに実施している。
もう一つの条件の尻尾を振らすこと。これが足りないのかなあ。モンローちゃんがお尻を振るように、むしゃぶりつきたくなるセクシーには振れていないのかなあ。
朝から風は吹いてくるし、困ったなあ。又昼寝をしたが、起きてもまだ、風は吹いている。
結局、九匹。下顎側線孔数四対左右対称は一匹の女子高生。
昨日、オラの附近で釣れず、右岸のヘチでも芳しくなく、瀬肩附近で海産畜養等の歓迎を受け、風の中、25匹を釣った自称小沢『三』兄弟、存在するのかどうか判らないが「三」男と自称するお兄さんが、昨日と同じ筋を引いても掛からない、と、左岸に戻ってきた。
仕方ないよなあ、田園調布や、六本木であれば、空き家ができたらすぐにあゆみちゃんは移住するが、相模原では、空き家ができたからといって、即移住はしないよなあ。
右岸の瀬肩上流にあった溝と石組みもなくなり、瀬肩にあった石組等もなくなり、平坦になったからなあ。
「三」兄弟ですら釣れなかったから、9人の人工主体の小学生から高校生まで遊んでくれたから、感謝しょう。
7月1日 相模川弁天
大井川の千頭は、1メートルの増水による垢の状態が心配、雨も心配ということで、雨が降ろうが、すぐに帰ることのできる相模川へ。
前回よりも水量が減り、オラにとりありがたいが。
弁天のいつもの場所、柳の50メートルほど上流のチャラに毛の生えたところ。
右岸瀬肩附近を狙う初心者らしからぬおっさん、柳のところに立ち込んでいる同僚のおっさん。この布陣で釣れなかったら、何といわれるか、見当はつく。
午前、中学生が2匹。中学生といえども、馬力が出てきた。初心者らしからぬおっさんは、8匹。初心者らしからぬおっさんを真似て、瀬肩付近に移動したが、石は小さい、釣れるように見えなかった。
午後、朝と同様の場所に戻る。すぐに2匹。
結局計16匹。他方、初心者らしからぬおっさんは午後はオラの下流まで移動してきたが1匹。
終わってみれば、オラが16,初心者らしからぬおっさんが9.初心者らしからぬおっさん同様、瀬肩附近の右岸から左岸へ、さらにオラの下流にやってきたウッチャンが14,5匹。型は20歳前後が主体で、オラよりも大きい。
オラは20歳くらいが2匹。
初心者らしからぬおっさんとオラの合計で、海産は10匹、3分の1くらい。そのうち、20歳2,19歳3,18歳1,それ以下小学生まで4。
初心者らしくないおっさんに、今年、狩野川でこてんぱんにやっつけられた同僚のおっさんは、落ち込み、悩み、悶々としているが、オラはそのような被害者にならずにすんだ。しばらくは、初心者らしからぬおっさんにでっかい面ができるよ。
7月3日 相模川弁天
いつもの瀬肩上流のチャラに毛の生えたところ。水が少し減っているから、一抹の不安はあるが、瀬肩下流も必ずしも大漁の時ばかりではないようであるから、楽な方がよい。
楽あれば苦あり。つれんなあ。タバコが減っていくなあ。慰めは、いつも指をくわえて、恨めしく眺めている右岸瀬肩周辺も釣れていないこと。左岸の人がたまに釣るも、中学生くらいで、女子高生や乙女ではない。精神衛生上は、釣れなくても、悪くなし。
午前、中学生2匹。
握りをほおばりながら、瀬肩下流を眺めていたが、釣り人は多いものの釣れた人は見えず。
あえて、根掛かりをはずすに楽な瀬肩上流から移動することもなさそう。それに午後が勝負の場所。
すぐに乙女が、ついで、中学生が。
大会下見の中津からやってきたしあわせ男が、それを見ていた。中津はアユの気配を感じないが、オラの釣っているところは跳ねもある。
しあわせ男が瀬肩上流付近を釣っていたが、どのくらい釣れたのかなあ。
鉤素のすっぽ抜け、キャッチミス、最後は引き寄せをしていて、あゆみちゃんに体をかわされて、ウエーダーに針が掛かるという悲惨な結果。しかし、そのあゆみちゃんをだっこできたのは、年の功かなあ。その最後の情景をしあわせ男に冷やかされたが、0.2号のナイロンが切れることはないとは判っているが、糸への信頼性が確認できるほど獲っていないため、用心、用心。
結局8匹。
下顎側線孔数4対左右対称であるから、海産畜養と判断できる19歳2匹、20歳1匹、中学生1匹。中学生は遡上アユではないかなあ。
人工の乙女はいなかった。何でかなあ。海産畜養も流れの強くないところの方がよいのかなあ。
7月9日 相模川
大会 カンニングには絶好の機会。
とおちゃんに、釣り惚けていると勘当する、と、いつも脅かされているお百姓が、なんでか、今年は改心して農業に励んでいる。そのお百姓が高田橋上流の分流を広く使っている。3匹釣り、2匹ばれてから、堰下の本流へ。1匹釣るも、予選通過に届かず。
その堰下の深みでは、ひょうきんおっさんが20近くを。田名の主のお友達が、1匹目で丼をしたにも拘わらず、10を超える。田名の主は、貧弱な瀬となった高田橋で、初心者に教えることはあっても、自ら、竿を出すことはしないのに、釣れる場所をよく観察している。
弁天はまんべんなく竿が並んでいるが、どの程度の人が満足できるほど釣れたのかなあ。
石切場は、左岸瀬肩から釣っている人がよく釣れていたが、そのトイ面も、その人の下流側の人も、それほど釣れていなかったのではないかなあ。蛇籠前はどの程度釣れたのかなあ。
決定戦では、高田橋に行く人が数人いたが、堰下には左右から計4に人ほどが限度ではないかなあ。
そのせいか、あるいは、昼からは朝とは少し釣れる場所が変わったのか、ひょうきん小父さんはあんまり釣れず。
弁天瀬肩で釣る人がいなかったのは、釣れなかったからかなあ、それとも、午後はあまり釣れない、ということからかなあ。
石切場の左岸瀬肩の午前の人は、釣れなかったのではないかなあ。蛇籠前の人は?
石切場の柳前が、普通の人でも釣れるような環境になるにはどのような流れ、底石等の変化が生じたときかなあ。
大会の釣り人がいなくなった弁天瀬肩上流のいつもの場所にはいる。決定戦では誰も入っていなかったが、釣れないはずはないのになあ、と思いながら。
しかし釣れない。やっと、中学生。
田名の主が、5時からあゆみ、といわれてオラが3時頃には帰るのをもったいない、と毎年戒められているから、5時過ぎまで頑張る。
しかし、風が強くなることはあっても、おさまらない。5時半、乙女を釣り上げたところで、止めた。
5匹。下顎側線孔数4対左右対称は、女子高生1,中学生1. 2匹の乙女のうち、1匹は、綺麗な肌であったから、海産ではと期待したが。
7月10日 中津川
中津川の大会の参加者が少ない、竿を出す場所に不自由をしない、との思惑は美事にはずれた。
壊れ橋の下流はあいているはず、と、あいているところを捜しながら、とぼとぼと歩いていく。たしかにカジ淵への空間は空いていた。
しかし、2人が、流れの真ん中に立ち、左岸ヘチ寄りを釣っている。左岸へ渡ることができない。
1時間ほど、その附近で待っていたが、オラが入ると竿1本分の間隔はなくなるほどの混みよう。
そのうち、上流から移ってきた人もどっかのテスターさんが、左岸を釣っているため、渡れず。
右岸に沿って下ろうとする人もいたが、しばらく下ると、左岸から右岸を釣る人がいるため、それ以上は下れない。この場所では、左岸から右岸を釣るのが、移動する上でも有益であるのに、竿抜けポイントを求めてのことであろうが、迷惑なこと。
電線があり、上流側の人が、竿を出せない僅かな空間に囮を入れる。上流側の人は放流ものが溜まっているのか、よく釣れていた。
風は強い、7メートルの竿であるから、折れる心配はないものの、ハヤを釣ったところで止めた。
カジ淵までいった決定戦常連さんは釣れずに、とぼとぼと戻ってきた。常連さんでさえ、釣れないから、オラがボウズでも恥ずかしくない。
おなじみさんは、なぜかあいていた仙台堰下の1等地に入れた。悪運強いその若者は、決定戦でも、その附近に入り、広々した空間を動いて、2連覇。
そのお友達は、1回戦に角田大橋下流の瀬尻に入り、トロからの差しアユを期待したが、夢と消えたとのこと。そのトロにはいっぱい溜まっているとのことであるが、どんな条件の時に、何処で釣れるのかなあ。
7月12日 相模川
11日の大会では、高田橋上流、分流合流点近くで、髭さんが、大漁であったとのこと。髭さんは、9日の大会でもその場所に入り、予選を通過し、決定戦でも同じ場所に入ったが、少し動いた。その後に入った人が入れ掛かりであったとのこと。
ということで、11日の大会では、2回戦も同じ場所にはいるとのこと。右岸側は一般の人がいたため、左岸から釣って、1位に。
その場所に入ろうかなあ、とは思ったが、一点豪華主義はオラの趣味に合わない。ポイントをはずしていても、遊んでくれるあゆみちゃんがいるところの方が好み。
いつものよおに、弁天瀬肩上流にはいる。釣れんなあ。右岸瀬肩附近もいつもの勢いがない。大会の後遺症かなあ。
下流のザラ瀬に行く。中学生が遊んでくれたがそれだけ。オラの沖に立ち込んでいた人は、3人の女子高生を釣っていたが、それで打ち止め。上流の瀬まで釣りのぼったが、くたびれもうけの骨折り損。ケラレがあったのみ。
瀬肩上流のいつもの場所は、午後の場所。柳に近いところに入れた。すぐに女子高生が。乙女も。この調子ではツ抜けも可能、と喜んだものの、バレ、バレ。
海産畜養の乙女には、6.5号のハリでは小さいのかなあ。とはいえ、海産畜養の乙女に巡り会う機会は少ないし、困ったなあ。
5時過ぎまで働いて、合計6匹。
下顎側線孔数4対左右対称は、22歳1,20歳1,中学生1.
髭だるま君は、午前、瀬肩附近で10,午後はオラを真似てオラの下流に入ったが、我慢できずに右岸へ、そして瀬肩へと釣り下っていった。
ほかの瀬肩附近の人も同じであるが、今日は、午後も瀬肩附近が釣れていた。
柳上流で、オラの上流側の夫婦も相当釣ったのではないかなあ。
海産畜養の22歳位も釣ったのではないかなあ。その後に入ったが、ウンともスンとも言ってくれなかった。いや、ケラレはあったが。
11日、葉山に行ったテク2とタマちゃん。いつものよおに、玉引き。5匁のオモリでタマちゃんは26匹。テク2は丼をしたとのことであるが、どの程度釣ったのかなあ。今日もいっているのではないかなあ。
遡上量の多かった去年でも、葉山で玉引きをする人は少数であったから、今年、玉引きをした初めての人ではなかったのかなあ。更場に恵まれた結果ではないかなあ。
去年と違い、海産畜養と、少数の優等生の人工しかいないであろう葉山の玉引きの場所には、どの程度の補充ができるのかなあ。
7月15日 相模川弁天
講習会があるから、右岸に渡っても、昼に左岸へ戻ることができるはず。受講者が昼も釣りをしていることはないから。
ということで、いつもは指を加えて眺めている右岸瀬肩附近にはいる。オトリを付けて立ち上がる前に掛かった。タバコを吸う暇もなく、5人の女子高生。このペースであれば、時速10匹どころか20匹、夢の超特急になるかも。
そんなことはおまへんよなあ。それからは暇なこと、暇なこと。タバコがいっぱい吸える。受講生は左岸が主体であるから、それほど混まない。
昨日、21匹のWさんがやはり6時から竿を出したが、オラの方が快速であった。
なんで釣れたのかなあ。Wさんは立ち込んで釣り、オラが釣っていたのはヘチからで、女子高生がWさんの毒牙から免れていたということかなあ。
瀬に行く。Wさんは、新素材の0.125号で丼をしたが、23センチを新素材の0.125号で取り込んだ、と。
オラは丼。テク2のようにお金持ちは丼もバレも、なんぼでも食べても良いが、貧乏人の丼は死活問題である。
そう、死活問題になった。フロロの0.2号と新素材の0.125号のどっちが強いか判らないが、丼の後始末を終え、オトリをを舟から出したとき、まだパーキンソン病にはなっていないはずであるのに、ふたの開いた舟を手から離すことになった。何人かの女子高生に逃げられるわ、瀬肩に戻っても釣れないわ、いつものよおに さえないじいさんに戻りました。
午後、高橋さんと島さんが実釣をしているのを眺めながら、いつもの瀬肩上流にはいる。
釣れませんなあ。オラとおなじみさんも同じ。Wさんは瀬肩上流から瀬尻までなん往復をしたのかなあ。
突然、世界は変わった。
突然の入れ掛かり。とはいっても、少しずつ、場所を動きながらではあるが。そして、すぐに終わるが。
風の中、取り込みに苦労をする。バレも2度3度、ハリのすっぽ抜けも。6.5号のハリは止めようと7号で釣っていたが、釣れないから、と6.5号の在庫整理をしていたときの悲劇。
合計14匹になり、まあ良かった、良かった。
もっとも、釣れない時間の方が長かったなあ。
下顎側線孔数4対左右対称のうち、17歳1,18歳1,19歳3,20歳1,21歳3.
ただ、なんで海産畜養が多いのか判らん。又、肌がきめ細かいとはいえないのも混じっていた。人工であろうか、それとも海産畜養でも肌のきめ細かさがそこなわれることがあるのかなあ。
去年の講習会で、高橋さんが丼をした瀬も、流されながら、泳ぎながら、根掛かりをはずした瀬も、撮影をしていた上下瀬の中間附近の流れもなくなった状況では、さらに、遡上アユが少ない状況では、高橋さんが、去年と違い、今年、再び、相模川にやってくることはないやろうなあ。
7月16日 相模川弁天
左岸瀬肩から瀬へと、ヘチから釣るも、釣れない。
昨日、瀬を右岸から釣ったお百姓が、何十メートルを下って取り込んだ、と。26センチという大きさは信頼性に欠けるが、23,4センチはあったのではないかなあ。
Wさんが新素材の0.125号で丼をして、お百姓が取り込んだとは、なんで?
Wさんは、少し下りながら抜くタイミングを計ることは、あゆみちゃんをだっこする作法に適うが、どたばた駆け下ることは、礼儀作法に反する、との思いこみがあるからかなあ。
お百姓がよく下ったなあ。鍬で田畑を耕していないから、足腰を鍛えているとはいえないのになあ。
今年は真面目にお仕事をしているといっていたが、あやしいなあ。すでに瀬で丼をしているのではないかなあ。あるいは、オラの丼を見ていたのではないかなあ。それで0.6号の通しにしていたのではないかなあ。まあ、いじめられたときに反撃できるようにように、心の準備しておこう、ット。
又、昨日、高田橋上流、分流合流点付近から、瀬の芯を釣り下った初心者らしからぬおっさんが10匹余りの人工を含むが、型としては堪能できた、と。ただ、釣りのぼったが、品切れであった、と。
まだ、瀬肩上流の釣れる時間に早いが、10時頃に柳上流へ移る。
昼食の食堂街が店を開いた11時頃、やっとこさ、人工の乙女。人工の乙女をオトリにして、乙女が掛かると、重いなあ。そして、川で生活をはじめて1,2ヶ月たつのであろう。それなりに沖へ走り、抵抗する。風は今日も健在。
バレが2回も、ハリのすっぽ抜けも。またもや、釣れないからと、6.5号のハリの在庫処理をしていての出来事。
せっかく、元気な囮が、と思えど、吸盤ボウイが2匹いっぺんに掛かる。なんで2匹も?
その後も吸盤ボウイにはかわいがられ、吸盤ボウイ大会では、堂々の優勝、となろう。
こんな、しけたことを考えながら、午前は人工乙女5匹。
ついに女子高生は相手にしてくれなかった。午後も同じ。
3時頃からやっと、運が向いてきた。人工の乙女ではあるが、オトリに不自由しなくなった。
4時頃になると、もう、安心。5時頃からやっと、海産畜養が釣れた。
午前はあんなに気になったバレも、金持ちになった夕方にはばれたか、ですむゆとりある生活でした。
ということで、人工の24センチを頭に乙女、それに少数の女子高生、あるいは20歳台の海産畜養。
合計22匹としておこう。
人工でも乙女を主体に釣ると、疲れたなあ。もう、7号以上のハリにしょう。それにしても、なんで今日は人工の乙女が大歓迎をしてくれたのかなあ。
髭だるま君はオラのトイ面から瀬肩へと移るも、いつもの威勢の良さはなし。水に入っていても眠くなる、と、叫んでいる。その時、オラはウハウハ。
髭だるま君もやっと、オラのいつもの悩みが経験できたよう。だるまさんの風情を持ち合わせているにのに、修行がタリンなあ。
ということで、なんでか、オラが、皆さんの注目を浴びる裕福な日になりました。
7月19日 相模川弁天
右岸瀬肩附近をヘチから釣るも、前回と違って、あゆみちゃんは遊んでくれない。
昼からの食堂街である瀬肩上流を左岸から釣るも、事態は変化せず。
やっと乙女が。
オラの背後を、全国区に片足を突っ込んだ2人が、B級ポイントで釣れないと、といって、各1匹釣った。よかった。1匹であれば、オラのヘボが際だつこともなかろう。そのうち、消えてくれたから助かった。
上流側と下流側の瀬の中間、下流の分川等、それなりの数を稼いだ人は、昼からであった。
その昼からも、オラは、左岸から瀬肩上流を釣る人の幸せな顔を眺めるのみで、さっぱり。
髭だるま君とそのお仲間が夕飯の食堂街が開店するまで、お昼寝をしているから、オラが釣れなくてもやむを得ないか。
上流側と下流側の瀬の中間に行く。右岸ボサ附近で竿をが曲がっているのを、いつものよおに、指を加えてみていると、心優しい乙女が慰めてくれた。
Wさんもいつもの勢いがなかったから、オラが釣れなくても哀しむことはないか。
それにしても、あゆみちゃんのお遊びが変化したのかなあ。
7月22日 相模川弁天
石切場の下流の瀬肩附近で、人工が釣れだしたとの話はあるが、弁天の方が近いから弁天へ。
雨は朝にはやむとの予報ははずれ、朝に降った。結果的には釣り人が少なく、幸運であった。
普段立ち込んでいる附近とその少し沖が竿抜けポイントと思い、オトリを働かせる。
昨日、昭和橋上流でコロガシをした人が、竿頭で数匹しか釣れなかったとのこと。理由は分からない、と。ということはまともな場所ではダメか、と、竿抜けポイントであろう場所を狙ったが。
柳上流のチャラに毛の生えた場所は、朝食を求めるあゆみちゃんが少ない場所であるから、釣れなくても仕方がないか。
しばらくして、女子高生。そしてしばらくして乙女。
そのまま推移すれば、お金持ちになれるが、7号の鉤素切れ3回。釣れないだろうと、もはや買うことはないメーカーの在庫整理中の悲劇は、今日も発生した。その上、別のメーカーの7号のハリのすっぽ抜けまで。このハリは午後も3回のハリのすっぽ抜けがあった。
大井川で使えないハリの検証をしているような状態ではあったが、動くことができたため、昼までに8匹。
Wさんも、初心者らしからぬおっさんも瀬肩周辺で釣れず、オラがトップ。
初心者らしからぬおっさんは、3匹の差は、午後三すぐにつまる、と。
ビールを飲み、午後も同じ場所にはいる。ハリのすっぽ抜けの後、7.5号の太軸のハリにする。
沖に走る。河原に立ち、抜く。ばれる心配はない。乙女と対面。
その後もトラブルは発生するものの、少しずつ釣れる。
4時頃、お百姓や初心者らしからぬおっさんが、上流の瀬と下流の瀬の中間附近のボサ、その下流で釣れずに戻ってきた。
オラの下流側に入った初心者らしからぬおっさんにオラのカッコええ抜きを見せつける。いや、あんまりカッコええとはいえんなあ。川原に立っての抜きであるから。
合計18匹。
又、初心者らしからぬおっさんよりも釣れた。しかも3倍も。お百姓には4,5倍の差。
下顎側線孔数4対左右対称は9匹。そのうち、23歳1,22歳2,21歳1があった。大きな刀傷を2カ所ももった猛者もいた。
人工は20歳前後と女子高生。
鉤素を切ったり、ハリのすっぽ抜けをやらかしたのは、24,5歳かも知れない。
初心者らしからぬおっさんは、自家製の1号の鉤素が、ボサの附近で最初の一撃で3回切れていた、とのこと。
もう、7.5号を主体にするしかないのかなあ。それにしても、海産畜養か、人工か、はわからないが、25,6センチがいて、その馬力が遡上アユよりは劣るとしても、相当な瞬発力をもっているのかも知れない。
7月23日 相模川弁天
鉤素切れ、ハリのすっぽ抜けの主を確かめたくて、天気が悪いという予報をもろともせずに出漁。ハリは7.5号。糸は、ハリのトラブルがなくなり、丼というのでは、洒落にもならないから、ナイロン0.4号。
まずは、初心者らしからしからぬおっさんに、狩野川でこてんぱんにやっつけられて、意気消沈、なんで友釣り3年目にこてんぱんにやられるのか、もう、どうしたらよいか、わかんない、と、悩めるおっさんに、なんで、あんな初心者らしからぬおっさんに負けたんや。昨日、3倍の格差をつけたでええ。
気持ちよく、自慢話をして、優越感に浸りながら、いざ弁天へ。
なんと、天気悪し、といえども、左岸柳上流には、ずらっと並んでいる。
柳に近いところしかあいてない。もしかして、ここは昨日、初心者らしからぬおっさんが釣っていたところ?
ここで釣れたら、初心者らしからぬおっさんの鼻を、又、へし折ることができるが、釣れなかったら、腕やない、場所が良かっただけや、と、いじめられることになる。
釣れんなあ。やっぱり腕の差ではなかったのかなあ。
やっと女子高生が来て、一安心。
しかし、上流側の人はひょこひょことかけているのに、オラはタバコを吸うだけ。
午後、いきなり23歳乙女。
普段は23歳は箱入り娘にするが、オトリに不自由しているから、夕食時の食堂街にやってくるネエちゃんを誘惑するためには、少しでもオトリを温存しなければならないから、しばらく使う。
上流側の人は良く釣るよなあ。ヘチに寄せ、アユとの距離を詰めてから抜く。オラと同じやり方で取り込んでいる。オラと同年配かなあ。ヘチから釣っているが、オトリは竿先のはるか沖に泳いでいる。この人は、川にやってくると、いつも15,20は釣っているとのこと。
雨が本降りになると、ちょっぴり釣れた。右岸側のたったひとりの人は、串川からの濁りが右岸側に入ってくると、入れ掛かりになったが、その恩恵は、その人と、上流側の人だけで、オラは蚊帳の外。
今日は、右岸よりの跳ねが多かったから、右岸側のヘチや瀬脇の鮎が濁りを嫌い、真ん中付近に出てきたということであろうが。
雨の中を、どんな鮎がハリスを飛ばし、ハリを奪っていったのか正体を確かめようとの使命感で釣るも、その努力は報われず。
5時過ぎ、やっと、18歳くらいのオトリが。なんで、はじめに釣れてくれなかったんや。乙女をオトリにして、乙女が釣れると、細腕では持ち上げるのに大変なんですよ。
結局、9匹。上流側の人は30近くになったのではないかなあ。
下顎側線孔数4対左右対称は、4匹。そのうち、23歳1,22歳1,21歳1,18歳1.
人工は22歳ほか。
ということで、謎の物体を確認できず。ただ、上流側の人の取り込みを見ていると、大物仕掛けであるからトラブルはなく、時にはオラの近くまで下ってきていたから、24,5歳もいたのではないかなあ。
7月25日 相模川弁天
大井川で遡上アユを相手にしている予定が、3度目の中止。
やむを得ず、人工と海産畜養の調査をすることとなった。当然、ケラレがあっても、7号の針を使いたくなる誘惑を断ち切るため、ベストには7.5号の針しかない。
いつもの柳上流左岸は少しの空間しかない。しばらくして、根掛かりをはずしに入ったついでに、右岸側から竿を出す。水深は50センチほどであるから、オラでも安全に上下に動くことができる。広い空間を独り占めにしているから、その面積とあゆみちゃんのナンパ量が正比例をするのであれば、オラがトップのはずであるが…。
釣れているのは狭い空間を釣っているヘラとの両刀遣いの人。
もう1人は、右岸ヘチから釣っている人。その人は腕で釣っているのであろう。
天気予報では、白い矢印であったのに、朝から風が出る。立ち込んでいて、風があり、と、オラに釣れるあゆみちゃんも愛想を尽かすやろうなあ。
上流の瀬と下流側の瀬の中間附近に人は固まっているが、瀬肩附近の人は絶えず、去っていく。
そんな状況では釣れなくて当たり前か。
やっと女子高生。女子高生はすぐに乙女を。
吸盤ボウイがちょっかいを出してくることはあっても、午前は女子高生を2匹追加しただけで、昼食のために、食堂街にやってくるあゆみちゃんは釣れなかった。
この場所は邸宅を構えて、縄張りを主張するあゆみちゃんは少ないのであろう。外食で間に合わせる空間といえるのではないかなあ。その外食の時間に釣れないとなると、しんどいなあ、やめよかな。
午後も、夕食の時間まで、と竿を出したが、 風にも負け 貧乏にも負け 食堂街が賑わう前に、逃げ出しました。
ヘラとの両刀遣いさんは午前に10余りを釣っただけでなく、午後もすぐに2匹釣っていた。
7月27日 相模川弁天
初心者らしからぬおっさんがアッシー君であるから、神沢を見に行く。
去年の解禁日から、16,7歳の遡上アユがついていた瀬は、右岸を除いて埋まり、平坦になり、頭大よりも大きな石がゴロゴロしている瀬はなくなっていた。
瀬肩には、大島に放流された人工が流れた、死んではいない、というのであれば、弁天同様、人工が釣りの対象になるのでは、と思ったが、泥かぶりの石ばかり。
海産畜養もどの程度居付いているか判らないし、遡上アユは少ない上に、小沢の堰の魚道工事で、コンクリートのアクがアユに嫌われている可能性がある、ということで、見るだけ。
ついでに、大島を見て弁天へ。
柳上流のすぐ上に初心者らしからぬおっさん、その上にオラ。オラの上の人は釣れている。
珍しくオラにも女子高生が2匹遊んでくれた。
初心者らしからぬおっさんは我慢できなくなって、右岸へ渡り、瀬肩附近から、又、下流へと放浪の旅に出た。
オラは上流側の人が釣り上げるのを眺めていたが、それでも、午前中に乙女と女子高生が7匹。上流側の人は10匹を超えたであろう。
初心者らしからぬおっさんは、午前ボウズ。オラのオトリを借りないと、じっと、やせ我慢。
午後もすぐに2匹。こうなると、風にも負けず、夕食時の食堂街の賑わいを心待ちにできる。
そして、アメニモマケズ、ひたすら夕食時を待つ。初心者らしからぬおっさんは、オラと上流側の人が釣れているのを見て、ついに我慢の限界を超え、禁を破り、オラの囮を使う。
なにも、2匹のオトリで釣る腕を鍛錬すべし、との掟を墨守するほどの腕ではないのになあ。気持ちよし、カイカーン。
雨は本降りになる。午前の上流側の人のところに移り、お百姓が見に来たときに釣れた。これも気持ちよし。そして、初心者らしからぬおっさんが釣れてなあい、と告げ口する優越感。
とはいえ、オラの上流側の午前とは別の人がせっせと釣れている。右岸に渡った顔見知りの人も釣れているのに、オラと初心者らしからぬおっさんは釣れない。
そして、ゴロちゃんのお出まし。皆さん、釣りを止めた。
右岸に渡った人は、渡るときにアユが一杯見えたから、今日は大漁と思ったのに、と残念がっていた。
左岸から瀬肩附近を釣っていたWさんは丼。0.3号のつけ糸が切れたといって、0.4号に変えていた。今年、丼がツ抜けをしたとのこと。オラは1回丼を食うだけで破産するしかないのに、なんとも裕福な暮らしをしていること。
右岸瀬肩に渡った人が釣れているのを見た初心者らしからぬおっさんは、なんでその人に釣れて、おっさんが釣れなかったのか、と悩んでいた。
もっと、悩んで。そして、オラに優越感を味わせて。
12匹と初心者らしからぬおっさんが釣った1匹のうち、下顎側線孔数4対左右対称は7匹。
そのうち、19歳2,20歳1,21歳1,22歳2、女子高生1。
なんで、今日は海産の可能性があるアユが多かったのかなあ。人工は21歳1ほか。
7月29日 相模川弁天
風が強いなあ。とはいえ、増水で釣りのできないところが多い中、贅沢な悩みか。ここ2週間ほど、7mの竿しか使ってないのでは。
瀬肩上流の柳上で釣れないかなあ。釣れないよなあ。女子高生が、ついで、今年初めての小学1,2年生。
小学1,2年生は、健気に働き、キラッ。なんちゅう親孝行な娘よ、と喜んだのもつかの間、今年初めてのハヤ。
なんでか、今日は、常連さんもおらず、動ける。初心者らしからぬおっさんは、前回瀬肩附近から下流に動いて、危うくボウズになりそうであった学習効果のせいか、今日は柳上流から動かない。
おっさんが、名人から個人授業で習ったという川見も、オトリ操作も役に立たない。
この場所は縄張りを形成できる溝も、石組みもない。石組みの良いところがあるとしても、僅か。ということで、川見の能力を発揮できる環境ではなく、また、風がオトリ操作の上手下手を無能にしている。ということは、ヘボとの差別化は不可能ということでは。
おっさんは、午前4匹でオラの7匹に及ばないものの、追い越せる範囲、と、余裕。
阿武隈川の摺上川?に出かけたお百姓は8匹、とのことであるが、1匹あたりの単価はオラの方がはるかに安い。
午後、我慢できなくなったおっさんは、今日は右岸側が釣れている、ということで、立ち込んでいく。オラと同数か、と。最初は勢いがあった。しかし、キャッチミス等の粗相で、オラを追い抜くことはできず。
キャッチミスについては、風の影響ではない、とのこと。風が吹いていても適確に取り込める、尻尾等の変なところに掛かっていたため、その掛かりどころが気になって心が乱れた、と。
ということで、本物の追いでない掛かりもあった、と。
オラは、飲食街が繁盛する3時も、4時も、5時もその恩恵にあずかることなく、4匹しか釣れず。おっさんも午後に取り込んだのは4匹。1.2号の鉤素切れも経験していた。
おっさんの8匹?とオラの11匹のうち、下顎側線孔数4対左右対称は19歳3,20歳2,22歳4,その他3の12匹。
もう、24,5歳は少なくなっているのかなあ。せっかく、けられても、7.5号の針を使っているのになあ。
なんで、食事時にも釣れなかったのかなあ。水が減ったからかなあ。繁盛する食堂街が変わったからかなあ。
昨日、下流側の瀬肩附近で釣ったヘラとの両刀遣いさんは、大きいアユを20余りとのこと。オラが小さい、釣れない、というと、夕食時を狙って、下流側の瀬肩付近に飛んでいった。
前回の雷さんの時、昭和橋上流のコロガシさんたちは雨宿りをして休憩をし、ゴロちゃんが去ってから大漁であった、と。高田橋上流を玉引きしていた田名の主のお友達も入れ掛かりになったとのこと。
しばらく休んで釣れば良かった、と、後悔するオラとおっさん。
次回は、下流側の瀬に変わろうかなあ。もう一度、柳上流で釣ろうかなあ。悩ましいなあ。
8月3日 相模川弁天
昨日の雨で、水量が20センチほど増えている。
上流側の瀬肩上流が活性が高まるのか、下流側の瀬肩の上流の方がよいのか、困ったなあ。
昨日、髭だるま君は、下流側の瀬肩上流で、ヘチから釣り、本降りになるまでの2時間ほどで、12匹とのこと。そして、以前と違って、立ち込まずにヘチから釣っている人たちばかりであった。となると、下流側の瀬肩附近の方がナンパがしやすいはず。
しかし、いつものように、上流側の瀬肩上流に入った。転んでも流されない、ということもあるが、2,3百メートルほどを歩きたくなかっただけ。
結果は、食堂街の開店前とはいえ、女子高生、乙女が2匹。
これで、食堂街が活気づく時間のオトリは充分。ところが、動けなくなった。なんぼ、昼食、夕食時といえども、動けないのではナンパの機会も減少する。昼食時のナンパは、下流側の瀬肩上流にする。
乙女が掛かる。右岸ボサの上流、ボサの前では、1位のお局様ともうひとりが、せっせとナンパに成功している。少しは遠慮しろ、と叫べど、効果なし。
オラはやっと乙女が3人だけ。午前は計5匹。
午後、すぐに釣れたが、1位のお局様らはもっと釣っている。ザラ瀬を左岸ヘチから釣っている人も、ボサの下流側の人も、取り込むのに慎重な操作をしている。
うらやましいなあ。
ヘチから釣っていたザラ瀬の人は、初心者らしく、ザラ瀬であるが竿をのされて、ヘチに寄せて取り込んでいた。ということは、髭だるま君が言っていたように、この場所には、23歳以上は稀ということかなあ。そして、そのザラ瀬を立ち込んで釣っていた人は、たまにしか釣れたいなかった。
昼にやってきたテク2は、まともな場所では釣れず、変な場所しか釣れない、と嘆いていた。ということは、葉山でタマちゃんと玉引きをして大漁であったのは、更場であったということかなあ。そして、遡上アユの去年と違い、補充が効かないのかなあ。
そして、海産畜養も瀬につくのは、人工と同様、優等生だけ、ということかなあ。
髭だるま君ら、上流側瀬肩から瀬で、あゆみちゃんと楽しんでいた人たちも、7月も中旬を過ぎると、めっきり悦楽の時間は減った。髭だるま君は、瀬肩から瀬への釣りが、たまにしか釣れないから、面白くない、といって、宗旨替えをして、オラが釣るような場所に切り替えていた。
夕食時の食堂街でナンパしょうと、又、上流側の瀬肩上に行く。
柳とヘチの間を釣っている人がすぐに釣れていた。午前もそこは釣れていた。
あいているのは柳の近くだけ。乙女が1人釣れたから満足するしかないか。
4時、5時の夕食時も繁盛していた食堂街は1カ所だけ。もはや、昔の賑わいはないのかなあ。
ということで、合計9匹。
下顎側線孔数4対左右対称は、19歳1,20歳2,その他1の4.
人工は21歳ほか。
8月5日 大芦川
先週、阿武隈川の支流摺上川?で、お百姓が8,久さんが1、となり、高速道路を延々と走ることとなった大漁情報が、去年とは違い、遡上量が多いから、ではなく、放流鮎がたまった場所を釣ったから、人工であるから大鮎であった、と悟り、嘆きながら飯坂温泉?にはいる。300円。
芸者やコンパニオンと遊ぶ予定が、貧乏生活を余儀なくされたために予定を変更して、大芦川の道路脇の車でねんねをすることとなったお二人さん。
一寸先は闇、の大芦川で、透明度抜群、4,5メートルはあるのではないかなあ。透明度の高い川で、馬力のあるあゆみちゃんに歓待さたお百姓さんは、お仕事の久ちゃんをほったらかして、初心者らしからぬおっさんとオラを誘い、大芦川にやってきました。
栃木産を放流しているとの大芦川であるから、人工には興味のないオラではあるが、透明度抜群の大芦川は、珪藻が優占種であること、それを食する鮎にシャネル5番の香りがするのか、しないのか、を確かめたかった。
それに、関谷忠一さんがここに住みつき、「自然派おやじ関谷忠一の自然を遊ぼう!!」のホームページを開設されて、古の川の水質が残っている大芦川を舞台に、川とのつきあいを少しでも伝承されようとしている川を見たかったことによる。
水量は前回よりも減っているとのこと。塩沢橋のすぐ上流に、オラとおっさんが。第5地点にお百姓が。
おっさんは、今日はリバースターズのベストを着ているから負けるわけにはいかん、と意気軒昂。その成果はすぐに現れて、オトリを付ける前に枝を釣り、糸を切る羽目に。
水量は前回よりも減っているとのこと。釣れませんなあ。道路に出て上流の第2地点へ。やっとケラレ。そこに下流から釣りのぼってきたおっさんに、蹴られた、というと、おっさんはその瀬で釣りはじめて、3匹?。オラは又道に出て、第3地点へ。そこのチャラも、瀬も釣れません。その上流の、前回釣れたという第5地点に行ったお百姓も2匹しか釣れずに、橋下流の第4地点に移っていた。オラも移る。
お百姓は、2匹、と。そのうち、おっさんも移ってきて8匹、と。
このまま推移すれば、お百姓さんにいじめられることもなく、気持ちよくビールが飲めるのになあ。いや、昼ビールは気持ちよく飲めた。
おっさんからオトリを奪い、橋下の小石の中にある石附近のチャラでやっと小学生。遡上のある川であれば、12月生まれかなあ、と思うが。
先日の相模川で、おっさんにオトリを貸して、おっさんの信条、心情、プライドをズタズタに破壊したオラには、オトリはいっぱい下さい、派、であるから、なあんも後ろめたいことはない。
お百姓が、前回15匹であるのに、2匹とは。まあ、放流河川であるからやむをえんか。
西大芦漁協の放流量は15万、中津川漁協管内の、カジ淵から魚留めまでの放流量が20万。
死亡率や人工等の放流ものの質、数字の信頼性、等、単に「放流量」の比較をしても、有意の意味をくみ取ることができるとは考えないが、一応の感じを掴むことはできる。中津での死亡率が低い年の状況での数字の比較をすると、多分、河川延長が長いであろう大芦川の鮎の密度は低い、となるのかなあ。
午後、何処に行こうかなあ、と、オラとお百姓は悩み、おっさんは2回目の枝を釣ったにも拘わらず、余裕。もはや、トップ当選間違いなし、と。
オラは、ビールで足腰が一層頼りなくなったため、見かけよりも水深があり、流れが複雑で、強弱の変化が大きい瀬での釣りをさけて、おんなじ釣れないのであれば、楽をしょうと、第3地点にあるチャラへ。
大きい石のところに、何匹かの鮎が見えるものの釣れませんなあ。
塩沢橋に戻ると、お百姓は、橋付近で8匹釣り、計10に。オラとお百姓はお昼寝。そのあいだも釣っていたおっさんは計15。なんで歩かずに楽をした2人が釣れたんや。
久さんが、大芦川のアユについて、香りがしていた、といっていた。
しかし、香りはしない。いや、かすかにする。とても、シャネル5番の香りではない。単に量の違いであろうか。仮に、量の違いであるとしても、その違いはなんで生じたのであろうか。オラはおっさんのアユを嗅いだが、質の違いを感じた。
そう、香りがアユの食である珪藻とは関係ない、本然の性である、と主張する高橋先生ら学者先生は、今の釣り人同様、シャネル5番の香りを経験したことがないのに、学説を唱えているのではないかなあ。(「故松沢さんの思い出:補記その2」の最後の項)
そのように確信するようになったのは、今の鮎にも香りがある、養殖にも香りがする、と、Tさんが話したことによる。
20年ほど前、「準天然」なる鮎がデパートで800円、千円で販売されていた。スーパーの養殖は200円ほど。「準天然」は、香りがする、ぬめぬめの肌である、と。そうなるような餌を与えている、との話があった。
それを買った職場のおばさんは、ヌメリをとるために、せっせと洗ったとのこと。
本物の鮎を知っている人は、ぬめりを取る、なんて、作業をしないけど、本物をシラン人は、養殖と同様のかさかさ肌が鮎の肌と思っているのであろう。
その「準天然」のことを、Tさんはいっているのかなあ、と思ったが、今も「準天然」が販売されているか、気になって、もしかして、認識の違いがあるのでは、と思い、Tさんに確かめると、オトリとして販売している鮎とのこと。
そう、オラ以降にあゆみちゃんのナンパをはじめた人は、特別な環境にある人以外、「香魚」の「香」を経験していない、ということを前提にして、判断、評価すべきである、と。
ということで、珪藻が優占種であるから、シャネル5番の香りのする鮎が生育できる、ということは、一概には言えないのでは。
珪藻が優占種である、ということは、シャネル5番の鮎を生育する必要条件ではあるが、十分条件ではない。
珪藻の種類構成が古と同じであるのか、同じとすれば、その種類構成が含んでいる栄養価、栄養素が、同じであるのか、ということまで、分析し、比較しないと、シャネル5番の生成物質を特定できないであろう。(「昭和のあゆみちゃん」ほか)
そして、故松沢さんら、観察力の優れた川漁師が話されているように、山の腐葉土を通してしみ出した水の微量成分が古と現在では異なってしまったから、という話の方が、学者先生の説よりも適切な判断、評価である、と考えている。もちろん、学者先生の中には、村上先生等の例外もあるが。
千曲川や木曽川が、「清流」であり、珪藻が優占種となる川とされている阿部先生には、大芦川の水を飲ませたいなあ。
関谷さんとは、次の思い出がある。
平成8年、鬼怒川は柳田大橋でのジムニーカップのこと。4匹釣れた。1回戦通過。
ジムニーカップ鬼怒川大会:柳田大橋での平成4年(1992年)での1回戦は1匹釣ると、予選通過できていた。すでに、冷水病は滋賀県が県議会でも発生を隠蔽していたのに、蔓延していたことによる。
そして、養魚場は需要を賄うために、又、生存率を高める目的も含んでいたのかどうかはわからないが、「湖産」ブランドに「海産」だけではなく、継代人工も「ブレンド」していたのであろう.。そして、継代人工のブレンド率は、平成4年よりも平成8年の方が高くなったことで、トロでの釣れた数が増えた、ということではないかなあ。
ということで、水深があるトロが釣り場として適していた。その場所に入っての1回戦通過である。
2回戦のために受付へ歩いていて、関谷さんに出会ったから、話した。最後に、関谷さんが、その帽子は脱いだ方がいいよ、といわれた。それで、2回戦に出る、というと、急げ、といわれた。
2回戦は、その年のアユ雑誌に関谷さんが推奨されていた大石のところに入った。
すぐに2匹。それを見て、関谷さんがやってきた。オラが話しかけると、大会役員であるにも拘わらず、受け答えをしてくれた。関谷さんは、釣り方を見て、その他大勢である、と判断されたからではないかなあ。そして、オトリが、ある地点から上流には泳いでくれないとき、ガンバレ、ガンバレ、といってくれた。オトリへのエールか、オラへのエールか、判らんが。
オラの上流にやってきて、その大石上流から、大石横を釣った人は、全国大会に行ったのではないかなあ。
その関谷さんが、野田さんが嘆いている恐水病の子供を、大人(「故松沢さんの思い出:補記その2」の野田さんの項)をなくそうと活動されていることから、関谷さんの活動のフィールドを見ることができて、大満足です。
とはいえ、あゆみちゃんには相手にされず、おっさんや、お百姓には当分、いじめられることとなるため、車中でやけ酒を飲んで、蚤の心臓に活を入れました。おわり。
8月7日 相模川弁天
大芦川への夜行日帰りの、ジジーにとっては疲労困憊のボデーも回復して、弁天へ。
下流側瀬肩上流は、一昨日は大漁であったが、昨日は釣れなかったようで、今日は釣れる日になるはず。
上下とも立ち込む人。オラだけがヘチから釣り、乙女が。あと少し釣れたら、食事時の食堂街をうろちょろして、入れ掛かりにしてくれるオトリに不自由しなくなるが。
オラの願いが珍しく叶い、午前8匹。
立ち込んでいた人は少しは釣れたようであるが。右岸ボサ附近の人は、溝が何処にあるかも知らないようで、又、オトリを沈めるために玉引きが必要なことも知らないようで、やってきた人のほとんどが釣れてなかった。
午後、すぐに2匹。こうなると、いつでも上流側の瀬肩上流の食堂街へ移ることはできるが、問題は場所があるか、ということ。どうもなさそう。
相も変わらず、オラはヘチから、他の人は立ち込んで釣る。例外は、オラよりも下流の瀬肩よりで、ネエちゃんの調教をかねて釣っているうまそうな人たち。それなりに竿が曲がっていた。その人たちが、真面目に釣っていたら、相当数が釣れたのではないかなあ。
テク3が珍しく、オトリをもらいに来た。いや、初めてのこと。オラがもらうことがあっても、高利貸し業になるとは。それほど、瀬の周辺は悪いということかなあ。もっとも、昨日さんざん釣っていたから、1日では補充されないのは今年の相模川の常識でもあるからなあ。
左岸護岸に沿った分流で、昨日、ウン十匹の小中学生を釣り上げた名人は、その鮎は海産とのこと。
なんで海産が育っていないのかなあ。12月生まれ、食糧が少ない、ということは適切な理由ではないのではないかなあ。
夏至の頃に消化器官が成長していないと、大きく成長できない、との説がある。
多分、この説が妥当性を有しているのではないかなあ。
去年は、食糧不足を理由とできるほどの遡上量があったが、今年は食糧不足にはほど遠い状態である。にもかかわらず、遡上鮎の小中学生がウンジュ匹も釣れている。
それではなぜ、12月生まれを主体に、消化器器官の発育が遅れる鮎が出てくるのかなあ。
4時の食堂街の賑わいが、この場所でもあるかも、と期待したが。それどころか、ゴロちゃんが遠くで、もう帰れ、といいだした。
15匹。
こんなに裕福に、オトリを確保して食事時を迎えることが、又あるとは考えられない。ということで、5時の食堂街の賑わいを逃がさないため、上流側の瀬肩上流に行く。
満員。仕方ないから、いつも釣り人はいるが、いまだ入ったことはない鏡の場末にはいる。
徐々に立ち込んでいくと、石は泥かぶりではなく綺麗。
大鮎ダービーで優勝して、竿をよこせ、というために、人工の大鮎を狙う。
来た。7.5号の4本錨の1本が折れている。
しかし、すでに登録されている25歳ではなさそう。とはいえ、黒雲が気になる。今日は止めるしかない。明日、その附近はすいているであろうから、帰るとしょう。5時になったし。
下顎側線孔数4対左右対称のうち、24歳1,22歳2,20歳2,19歳1,高校生等3.
計8匹
7.5号の針を折ったのは24歳海産畜養ということ。海産畜養が、人工よりも馬力があるということであろう。
7号の針ではトラブルを多発していたのも、人工ではなく、海産畜養が犯人ということかなあ。
下流側瀬肩上流には24,5歳はいない、とウーさん、髭だるま君がいっていたから、7号の針を使い、初心者らしからぬおっさん作成の針を含めて、3回の針のすっぽ抜けがあった。これも海産畜養が犯人ではないかなあ。
8月8日 相模川弁天
高田橋すぐ上流で釣れだし、26歳も出たとの話はあるが、何処が食堂か、何処が繁盛している食堂か、さっぱり見当のつかない弁天瀬肩上流の鏡の方が、意外性が期待できる。
下流瀬肩上流の昨日の場所の方が、時合いに左右される度合いが少なく、又、昨日は立ち込んでいた人が多く、そこは更場故、オトリの確保は楽なはず。とはいえ、そこまで、荷物を背負い、持っていくのはしんどい。
このずぼらがいかなる結果となるか。
午前、柳より50メートルほど上流にはいる。その上流の方が人が多く並んでいて、柳附近の方があいている。
柳にはいることを考えたが、目標は、大鮎ダービーに1位となり、竿をよこせ、ということであるから、まずは25歳を釣らないと、竿をよこせ、ということすらできない。
釣れませんなあ。午前、小学生が1のみ。
昼前にメシを食いにやってきた初心者らしからぬおっさんが、ヘチで跳ねている、ヘチを釣れ、と。向きを変えてヘチに囮を入れると、竿を立てろ、と。そんな元気な囮がいるの?
やっと、おっさんは消えて、オラがメシ。
握りをほおばりながら、ヘチの石を見ていると、はんでいる。跳ねだけではそれほどの誘惑にはならないが、はんでいる、となったら話は別。
川原から釣り、すぐに小学生。小学生から女子高生までが5匹。
おっさんに、このことを知らせたほうがええのかなあ。でっかい面をされるのはしゃくやし。まあ、秘密にしておこう。
柳上で、初心者に教えていた人たちがしばらく前に上がっている。
その人たちが立っていた附近に囮を入れる。またもやすぐに乙女。
乙女をオトリにして、すぐに乙女。偶然、通りかかった見物人の手前、粗相はできない。河原に立ち抜く。案の定、川原より少し上に飛んできた。
3人の乙女が入れ掛かり。もう少し釣りたかったが、その附近で釣っていた人たちが戻ってきたので止めた。
このことからも、海産畜養の習性の一端を垣間見た気がする。
1 幼い頃、人間に栄養の高い食事をたっぷりと与えられたことで、遡上鮎がまだツイギーのようにほっそりとしている時期でも、小百合ちゃんのようにふっくらと肩が盛り上がるほどに成長できて、しかも早く大きくなる。
2 遡上鮎と違って、縄張りを形成することにこだわらず、又、瀬での生活にこだわらないぬるま湯の生活を楽しむものがいる。ことに、今年の弁天のように、瀬の石が小さいと、そのぬるま湯の生活派が多いのではないかなあ。
3 ぬるま湯派は、縄張りを形成しているというよりも、食事時に、食事の邪魔をされることに怒る、という資質を持っているのではないかなあ。
そして、人が立ち込んでいるような、場所でも、その状態をあまり気にせず、その周辺にたむろしていて、人が去るとすぐに居心地の少し良いその場所に戻る、ということではないかなあ。
4 とはいえ、ぐるぐると回遊して、食事時には、食堂街をにぎわす一派もある、ということではないかなあ。
5 ということで、ぬるま湯の生活を享受している海産畜養は、軟弱もののオラにとっては、有り難い存在となる。
とはいえ、6月の大井川では、海産馴致が瀬についていたから、大井川では、遡上鮎と海産馴致という大きさを異にする二つの海産鮎を対称とすることとなるため、針の選択に悩むことになるのではないかなあ。
ということで、午前の貧乏人は、乙女を含み9匹で、いや、養殖を含めると12匹もいる。夕食の食堂街を裕福な環境で釣る幸運に恵まれました。
又、朝の鏡に移る。
3時のおやつは文明堂、と、4時前にも乙女が遊んでくれる。
しかし、4時を過ぎて、他の人が釣れだしているのに、オラは釣れない。おかしい。オトリを引きよせると、吸盤ボウイが着いている。ボーイを引きずってオトリはのぼっていた。
これでぷっつん。昨日はゴロちゃんが相模川をさけてくれたが、今日もその優しさがあるとは思えません。5時の食堂街を楽しむこともなく、引き上げました。
大鮎ダービーの候補者は又の機会に。なお、今日は太軸の7.5号で。蹴られてもじっと我慢の子になりました。
結局、15匹という午前の状況からは想像できない結果となりました。
下顎側線孔数4対左右対称のうち、女子高生1,19歳2,21歳4,23歳1.計8.
なお、人工は19歳他で、小中学生は人工。なんでかなあ。弁天左岸分流では、ウン十匹の小中学生が海産だったとのことであるのになあ。
8月12日相模川弁天
ダム放流はおわり、濁りも問題なし。
いつものように、弁天上流瀬肩の上流に行く。柳の周辺はすでに満員。流れの中にアシが生えている附近しかあいてない。
しばらくして女子高生。ありがたや、女子高生を貯めて、夕食の食堂街にやってくる乙女をナンパできる、と、夢は膨らむ。
気になるのは、跳ねる鮎は中高生で、乙女のいないこと。口、目、腹掛かりがあること。
それでも、午前に9匹。こんなに釣れたら、午後が本番であるから、20台は固い、と。
ビールを気持ちよく飲んでから、昼、柳の前があいたので、行くが釣れない。おかしい。立ち込んでいるヘラとの両刀遣いさんが、12,3匹とのこと。そして掛ける、抜く、タモの手前でぽっちゃん。7.5号の針が折れた、と。次は取り込む。右岸側のトイ面も同じペースで釣っている。
この時点であゆみちゃんの心変わりに気がつくべきであった。
又、上流に戻るが、2匹を追加しただけで、3時のおやつも4時からの夕食も客はなし。根掛かりを外しにはいると、なんじゃ、砂利が増えている。
髭だるま君が、昨日の夕方、瀬肩に近づくほど釣れた、と。仕事をさぼって、もっと早く教えてくれえ。
下流側の瀬の右岸側の強い瀬に入った、テク2が30ほど、しあわせ男やどらえもんおじさんらも上流側の瀬、瀬肩で楽しんでいるとのこと。
1メートルほどの増水でアカは飛んでいなかった。
しかも、ぬるま湯の生活を堪能していたあゆみちゃんが、モーレツ乙女に変心していた。
ということで、20台どころか、午後は2匹追加しただけの計11で終わりました。
ヘラとの両刀遣いさんは15,6,と。取り込みミスがなければ20を超えていたとのこと。
大島に行った人がシルバーシートで、23歳くらいの人工と海産畜養を含めて5匹で弁天にやってきた。その人は上流側の瀬と下流側の瀬の中間を釣り場にしていたのに、右岸瀬肩、瀬にはいる、と。誰があゆみちゃんの心変わりを教えたんや。
明日は、下流側の瀬、瀬肩に入るしかないが、根掛かりはずしにいけるかなあ。
今日は、下顎側線孔数4対左右対称のうち、19歳1,女子高生6,中学生1.
人工の比率が少ないが、人工は何処へいったのかなあ。死んだのかなあ。
久しぶりで、気持ちよく昼寝のできたお天道様に感謝します。
8月13日 相模川弁天
付場あ の 変わり目えを あゆみのこころでしるなんてえ
昨日の悲しみを歓喜へ、そのためには瀬で釣るしかないのかなあ。とはいえ、これまで、前日に大漁であったところは、翌日は釣れない、という状態であった。この状況が変わっていないと、またもや嘆き悲しむことになるが。
まず、柳下の瀬肩があいていたからできるだけヘチに近い筋に囮を入れる。とはいえ、養殖では安定しないからオモリを、さらに背針をつける。
やっと来た。口掛かりのぽっちゃん。髭だるま君も同じ。トイ面が少し釣れているが。昨日の勢いはない。
下流の瀬に行っても、楽園が待っているかどうかは、判らない。
楽をしょうっと。ということでいつもの鏡へ。
なんと釣れる。昨日と同じ泥かぶりの石のはずであるのに。しかも、乙女も。
午前8匹。
瀬、瀬肩で釣った髭だるま君は、丼2回、鉤素トラブルもあり、5匹ほど掛けても、増えた鮎は1匹だけ。細糸、小針は、海産畜養の重量と馬力には対応できない、といっているのに。
柳のヘチ寄り、その沖に立ち込んでいる人の後ろと立ち込んでいる上流のその人たちの延長上を釣っていた人が、乙女の入れ掛かり。昨日、オラがそれを狙ってもつれなかったのに。
状況はなあんも変わらんのに、またもやあゆみちゃんの心変わりか。
「業績は過去に傾斜する」の法則でしか動くことのできないヘボが、日々変心するあゆみちゃんの心に合わせて、ナンパ場所を選ぶことはできんよなあ。
昨日瀬肩でたっぷりと遊んだヘラとの両刀遣いさんが、下流側の瀬付近に行って釣れずににやってきた。午後右岸に渡り、瀬肩、瀬を釣るが釣れず。
あゆみちゃんの変心に苦労しているのは、オラだけではなさそう。
昼、柳のヘチ寄りで、すぐに1匹、、さらに1匹追加して、午前の場所の少し下流へ。
オラが釣っていたところの人は入れ掛かりもあった。その初心者らしい息子さんは、22,3歳を囮に使っていた。
一応、流れがあるように見え、泥かぶりの垢でない石もあるのではないか、と思える場所で釣る。
来た。7.5メートルの竿が満月になる。針は7.5号、保持力重視の針。
しかし、下流側の人との間隔が後1,2メートルあれば、ヘチへ、と誘導できるが、その間隔がとれないため、綱引きをせざるを得ない。ばれた、オトリが飛んできた。
オトリには不自由しないから、釣りを継続できる。
またもや来た。竿は満月。今度は少し下流側の人と空間がある。取り込めた。
ということで、計13匹。
しかし中身が昨日とは違う。
下顎側線孔数4対左右対称のうち、23歳1,21歳1,20歳3,19歳1,高校生2.
人工は、21歳1,20歳1,他。
なんで、泥かぶりの垢の状態が変わらないのに、今日は乙女が歓待してくれたのかなあ。
故松沢さんが、腐りアカの時、あゆは、石の底をはんでいる、といわれていたが、泥かぶりの石でも同じように石の底は泥がついておらずに、はんでいるのかなあ。それとも泥かぶりの垢でも、ぬるま湯の生活を満喫するために、我慢しているのかなあ。
もし、そうだとすると、なんで、昨日は、乙女が遊んでくれなかったのかなあ。
流れの中の芦の島よりも上流でも、昨日は人が消えたのに、今日はずらっと並んでいた。そこでも乙女らは、泥かぶりの垢を求めているよう。
明日は、瀬肩、瀬が繁盛するのか、それとも?
ボデーを休ませて、見学することとしょう。
23歳は何回目かであるが、馬力が一段とついている。大鮎ダービーの対象を釣るには、8号の針でないとダメかなあ。糸も0.3号のフロロから、0.4号にしないとダメかなあ。
8月15日 相模川弁天
早起きは三文の得、ということで、5時にはオトリを買う。
今日は、柳のすぐ上をヘチから釣り、オトリを確保して、その少し上流で、時合いで食堂街にやってくるあゆみちゃんを軟派すること。
狙いはあたり、女子高生に乙女3人。
しかし、これが不幸の始まりとは、知らぬ仏のおとみさん。
オラの上流側の同じような波立ちを釣っている人は、すぐにオラを追い越す。さらにその上の人はオラが狙っていて所で、時合いもなんのその、午前だけで20はいったのではないかなあ。その人は腕ではなく、場所で釣っていた。
つまり、オラはまだ釣れると思って見切りをしないうちに、大入り満員となってしまった、ということ。まだ、7時前であるのに。
芦の島のあたりしかあいてない。そこで釣るも、泥かぶりの垢では、気合いが入らない。蹴られただけでとぼとぼと、荷物を担いで、下流側の瀬肩上流に行く。
ビールを先に飲むか、稼いでからビールを飲むか、それが問題だ。いや、まずはビール。悩むことはない。
右岸ボサの少し上流の左岸があいていた。
すぐに釣れた。5人。このまま釣れていたら、余は満足であるのに、釣れているのは、ボサを中心とする上下、オラの下流側の人、オラの上流側2人目の瀬の人。
いつものよおに 指を加えてむなしく時間がたつだけ。
仕方ないか、それらの何人かは全国区の人であるから。
ということで、あゆみちゃんの心変わりが今日も判らずにくたびれもうけとなりました。
なんで、昼食前の食堂街の一角だけ釣れたのかなあ。
昨日釣れていないから、今日釣れてもよいが、食事時間以外に大漁とは、あゆみちゃんは何を考えているのかなあ。
下流側瀬肩の上流にしても、12日には、女たらしご一行様が、ねこそぎ女子高生や乙女をかっさらっていったはずである。2日くらいでは補充がされないことを熟知されている女たらしご一行様は、昨日は石切場でナンパをしていたというものの、まだ充分に傷が癒えていないにも拘わらず、なんで、腕の良い人は大漁であったのかなあ。
しかも、オラは乙女は残っていないと思い、ケラレをさけるため、6.5号の針を使うが、すぐに針のすっぽ抜け。次も7号の針ですっぽ抜け。
12日に弁天下流側の瀬尻、瀬で大漁であったテク2が、13日には、タマちゃん、テク3と語らい、葉山へ。2匹目のドジョウは翌日にはいない、ということでの葉山行き。
玉引きの所で、10台.20の数ではあったが、重量はたっぷり。
テク3はナイロン0.4号の丼も。海産畜養の26歳も。
更場であったのであろう。何日たつとその瀬に海産畜養がつくのかなあ。
その時、縄張り男がどけと行ってきたとのこと。素人衆にはつりにくい瀬であるため、縄張り男がその場所を独占していたのではないかなあ。
昭和の終わり頃、酒匂か狩野川か、忘れたが、オラよりもあとから来た縄狩り男が、そこはおれの場所だ、どけ、といって、どかされたことがあったが、21世紀になっても、縄張り男がいるとは。
縄張りあゆみちゃんは大歓迎やけどなあ。
明日のオトリをいけてあるから、ヒアルロン酸が欠乏しかかっているが、明日も弁天下流側の瀬肩附近でつろっと。
8匹のうち、下顎側線孔数4対左右対称は、21歳2,19歳2,女子高生2.
人工は20歳他
8月16日 相模川弁天
上流側の柳よりも上は当然混んでいるはず。下流側の瀬肩・瀬附近とその上流の方がすいているはず。それに、名人から貰った鮎を弁天に生かしている。
名人のあゆは、オラのあゆと違い、何処に逆針をうったのか、判らない。それが、1日ねんねして元気溌剌の女子高生に回復していた。
ザラ瀬に行くが、やっと1匹。そこで、名人から貰った鮎を2匹追加して、上流瀬と下流瀬の中間附近の右岸ボサに近いところの左岸へ。
昨日と違い、ボサの上下も、そのトイ面も、たまにしか釣れてませんなあ。オラが釣れなくて、当然。1匹釣れてありがたや。
みんなで釣れなければ、ノミの心臓も痛まない。ビールを飲んで昼寝。ただ、川原の石が熱すぎて、1時間足らずしか寝られなかった。
ザラ瀬に行く。お百姓さんの指導に従い、川原から、手前の筋を釣る。やっと1匹。お百姓さんは役割を果たして、帰る。
まだ、帰るには早すぎる。瀬肩上流に行く。1号の鼻環の中ハリスが切れる。そんな強いあたりではなかったのになあ。傷んでいたのかなあ。
5時前、初心者らしからぬおっさんがやってきた。
オラは怒濤の入れ掛かり、ではないが派手に竿を曲げる。そのたんびに、右岸に渡ったおっさんに見せつける。
昔取った杵柄、5時から男の本領発揮。
下流側瀬肩附近に、お百姓も、1位のお局さんもやってくる。
その結果は?
お百姓さんが2,しかし乙女はいない。
おっさんは、1匹。いや、もう1匹掛けたが、サラの1号の中ハリスが切れた。おかわいそうに。
1位のお局さんは、社長出勤してきて、片手で間に合うとのことであるから、オラと同じようなもの。
1位のお局さんも、5時から30分ほど遅れてオラの釣っているところにやってきて、4,5匹は釣った。海産畜養の乙女を1歩も下がらずに抜くとはさすがですなあ。
それに対して、5時から男は、7匹を追加して、憧れの10匹に。
地獄から天国へ。おまけに、おっさんには大芦川では大敗したが、相模川ではひょっとして、1回も負けてないのでは?
おっさんは先日の白川の狩野川で、7匹釣ったとのこと。まあ、何か口実を設けて、狩野川へ行かないようにして、優越感に浸ることにしょう。とはいえ、狩野川の年券があるから、年券代を消化しないと損をするし、困ったなあ。
今日は不漁の日、あゆみちゃんがお墓参りでいなかった、ということは、明日は大漁になる日かなあ。
オラは明日は休養日。休肝日は、どんなに可愛い看護婦さんに、「休肝日を作って、いつまでもお酒が飲めるのがよいか、肝硬変、肝臓ガンになってお酒が飲めなくなるのがよいか、よく考えなさい」と、怒られようが、実行不可能なこと。ここ数週間実行してきた昼休肝日も、お盆と共にやってきた太陽の季節で、ドッカニいっていしまった。
可愛い看護婦さん、もっとお酒の飲める薬に変えてえ。
下顎側線孔数4対左右対称は、22歳2,20歳2,日が暮れたため、19歳以下の計測はせず。計9匹。
人工は20歳1.
8月18日 相模川弁天
昨日も釣れていない、ということは、今日は釣れるのか、それとも?
下流側の瀬にはいる。オトリが出て行くときに釣れた。あゆみちゃんではなく、吸盤ボウイが。吸盤ボウイには横恋慕され、つ抜けするほどの勢い。
あゆみちゃんがやっと釣れた。それまでの幾星霜。しかし、これで、バラ色の人生、とはならず。初心者らしからぬおっさんからテストをするから、とかちあげた針。それを使うが、いただき、と感激するあたりがあるのに乗らない。それが3回。
ハンマー効果が軽い針であるから劣るのかなあ。とはいえ、何ミリグラムの差があるかどうか、で、ハンマー効果に違いがあるのかなあ。4本錨であるから、2本が干渉しあって、のらなかったのかなあ。それとも?
おっさんには他の針を巻かせて、テストしてやる、といっておこう。
午前は遡上鮎の中学生が追加できただけ。
昼ビールと握りを食べてから、上流側の瀬尻下流の水深1メートル近い所をできるだけヘチ寄りに囮を入れる。
なんと、6人もつれた。その場所が空いていたということは、午前は釣れなかったのかなあ。立ち込んでいたのかなあ。
3時のおやつがやってきたため、下流側瀬肩上流付近に移る。
結果は、5時から男にもなれず、5時半にはとぼとぼと帰ることとなった。
はじめて弁天にやってきた人は、下流側の瀬を歩きまわり、10とのこと。良く釣ったよなあ。
上流側瀬の上流、柳よりも上流は今日も釣れなかったとのこと。
水深のあるところ、瀬だけがあゆみちゃんのいるところかなあ。土用隠れが、性成熟の始まりとの話もあるが。故松沢さんは、どのような説明をされるのかなあ。あゆみちゃんの変心を逆手にとって、ネエちゃんを買いに行くほど稼ぐのかなあ。
下顎側線孔数4対左右対称は、21歳2,20歳3,女子高生1,中学生1.
ということで、今日は人工はなし。中学生もよく働いてくれが、その努力に報いることはできず。
明日はどうしょうかなあ。あゆみちゃんの変心につき合うか。浅瀬昼トロ夕のぼりを実践して、あゆみちゃんの変心を少しでも理解できるようにするか、お医者さんに行くか、朝起きてから考えよう。
8月19日 相模川弁天
「土用がくれ」とは、どのような現象か、は、一応の共通理解があるとは思う。しかし、その理由については、何が適切か、オラには判らない。
性成熟が始まるから、つわりの現象、という話は、男はどうなるのか、釣れるのは男が主体なのか。湖産や継代人工は、性成熟がピークになり、産卵を開始するのが9月下旬頃であるから、性成熟が始まるのも、海産よりは1ヶ月あまり早いはず。それらにもつわりは、土用隠れは、あったのかなあ。
水温が高いから、垢が腐るから、も事実である側面もある。
ことに藍藻は判らないが、珪藻は、太陽の照度が一定以上になると腐るとのこと。(故松沢さんの思い出:故松沢さんの思い出補記)
それらが今の相模川に現象として生じているとはいえない。
藍藻が優占種であり、アカぐされは弁天の瀬では生じていない。
水温についても、お盆の時の水温よりも昨日、今日の方が低い。
ということで、「土用隠れ」の現象を生じる理由は何が適切に説明しているのか、判らない。
そんな中で、あゆみちゃんに生じている心変わりを読んで、裏をかいて、あゆみちゃんのハーレムを形成したいと、日々、悶々としているオラは、初心者らしくないおっさんからお声が掛かると、お医者さんに行くことも忘れて、ほいほい、と。
浅瀬、昼トロ、夕のぼりが、あゆみちゃんの標準とされている行動である。
この行動パターンがどうなっているのか、を見ておきたい。
おっさんは、大芦川の時と同様、勝負ベストを着て、オラに勝たんと意欲満々。
今日もオラが勝ってしまうとどうなるのかなあ。
おっさんに前途洋々たる未来が、夢が待っているとは思わないが、アルツハイマ、寝たきりになる前に三途の川を渡ることを、唯一の夢、願いとしているオラとは違って、まだ夢もちぼうもあるおっさん。そのおっさんを、悩めるマレー熊の二代目にしてもいいのかなあ。
そんな可哀想なことをしては、お天道様に申し訳ないよなあ。ここで、おっさんを悩めるマレー熊にしなければ、その善行に対して、お釈迦様がナイロンの糸を垂らしてくれるかも。
弁天下流側の瀬肩、瀬、で釣るも、おっさんへの配慮からか釣れない。
髭だるま君がやってきて、オラと同じようにやるが釣れず、右岸の瀬肩よりも少し上流にいるヘラとの二刀流さんが釣れた、又、左岸の水深のある瀬肩の上流の人も釣れたのを見て、顔なじみの左岸水深のある人の下に入った。
髭だるま君は2匹釣った。オラもその附近に移動。ケラレ、ケラレの与三郎。吸盤ボウイまで逢い引きの邪魔をする。
おじゃま虫にも仁義があるぞう、貧乏人の逢い引きを邪魔するな、金持ちにちょっかいを出せ、と説教をしたが甲斐なく、その後も何回逢い引きを邪魔をされたことやら。
その上、7.5号4本錨の1本がまたもや折れた。前回は、2本が乗っていたため、24歳を取り込めたが、今回は、1本しか乗らず、瞬発力で折れたよう。鉤素のすっぽ抜けも。
これらを踏んだり蹴ったり、というんやろうなあ。
髭だるま君はさらに上流の、同じく水深のあるところで2匹釣り、お仕事に行った。
この調子では、「朝トロ、昼サロではなく昼トロ、夕のぼりなし」となるのかなあ。
おっさんは8匹釣ってはいるが、2匹は尺鮠と子供のハヤ。オラはやっと1匹。
オラは、上流瀬尻の下流へ。
ビールを飲み、握りを食べながらお昼の食堂街にやってくるあゆみちゃんに備える。掛かりはじめた。握りを1個残して、ヘチから釣る。3人釣れた。あゆみちゃんの昼食時を過ぎたから、残りの握りを食べて、午前の水深のあることろ等へ。釣れませんなあ。
3時のおやつの時間もオラは置いてけぼり。
4時にやっと1匹。
おっさんは、14匹。途中、水深のあるボサ前に立ち込んでいたため、足がつり、オラが漢方薬を2袋恵んだ。その粉薬は、おっさんにも即効性を発揮した。お釈迦様、敵に塩を送ったのは謙信だけではありませんよ。
オラは5匹であるから、おっさんは元気溌剌、はじめて相模でオラ以上に釣れて、勝負ベストの御利益を満喫されていました。オラも、おっさんが、悩めるマレー熊にならないように、功徳を施しました。
めでたし、めでたし。
下顎側線孔数4対左右対称は、21歳1,20歳2,19歳1.
人工は21歳1.
8月21日 相模川弁天
昨日は、ケラレ与三郎になったことから、魚乱さんが、「俺達の鮎釣り」の「針」で紹介されている1本針のチラシを、初心者らしくないおっさんに作らせた。
その針を使うも、昨日ケラレを多発した下流側瀬肩上流の水深のある流れのゆるいところで、なあんの反応もなし。いつものおじゃま虫だけ。
これでは、針の効能を検査できんぞお。今日は、勝負ベストのおっさんがいないから、なんの遠慮もなく、大漁になっても悩めるマレーグマになる悲劇の人はおらんよ。不幸になるおっさんはおらんよ。
何を勘違いしたのか、あゆみちゃんはどっかへ消えているよう。
またもや、あゆみちゃんの変心に気づかずに、涙にくれそう。
おっさんが、海産畜養の性質について、遡上鮎とは異なる変な場所を好んでいるが、8月の下旬になると、遡上鮎の好みと同じになる、と、高松さんがいっていた、といわれた。
ということは、変心した海産畜養のあゆみちゃんは、瀬にいるのかなあ。
右岸ボサ附近の人はよく釣れている。1人は、動き回り、川原から掛け、駈け、取り込み、又、川原を船の所まで走って戻っている。
そのような動作ができて、あゆみちゃんをナンパできる足腰の人が羨ましいなあ。
高松さんが、瀬につくといわれたことを信用して、瀬に移る。釣れた。しかし、口掛かりで、血まで出ている。
もう、この世はおわりや。
昨日、左岸護岸を流れる分流が本流と合流するところのえぐれで、背に3本の刀傷を負った24歳を釣ったお百姓さんが様子を見にやってきたので、竿を渡して、握りをほおばる。今日は昼休肝日にしたから、ビールはない。
お百姓さんから竿を受け取り、口掛かりの鮎が元気であったから、つけかえて、昼食時のあゆみちゃんを狙って、流れがゆるく、その回りでは水深のあるボサのトイ面に囮を入れる。
これで釣れなかったら、川原でふて寝しょおっと。
3匹が釣れた。
全てのあゆみちゃんが瀬に移動したのではなく、昔なじみの食堂に昼食を食べにやってきたのもいた。
オトリが確保されたから、又、上流の瀬に行く。
瀬で、玉引きもして、4匹。ありがたや。
夕食の食堂が開店する4時になったので、昼に釣れた場所に戻る。3匹。
最後は瀬でかっこよく決めよう。お百姓さんが又、様子を見に来ているから。
なかなか格好良くはきまらんなあ。
やっとかかった。エビか、いや浮かせても動く。お百姓さんは、大きいというが。
急に走り出して、大きいと判った。下り、取り込んだ。今日1番の大きさではないが。そのあと、根掛かりをして、普通の足腰の人ではなあんもないところを、おっかなびっくりではずしに行く。疲れた。やめた。
結局12匹。
下顎側線孔数4対左右対称のうち、24歳1,22歳2,21歳1,20歳3,19歳1,女子高生2.
人工は女子高生2.
あゆみちゃんの変心の激しさに悩まされた今週でした。
8月23日 相模川石切場
石切場の柳前にはいっぱい鮎がいる、釣れだしている、との話はあるが、柳前では溝がなく、何処を釣ればよいのか判らないこともあって、今年はじめて石切場にはいる。
瀬肩附近を釣るが、釣れませんなあ。とはいっても、何処に行けばよいか、わからんため、そのまま居座る。
オラの2人ほど下流の左岸瀬に入ったひょうきんな名人は景気よく掛けている。そのお友達は柳下流の流れがゆるいところで丼、針のトラブル等。003が今の相模で通用するはずがないよなあ。人工の成魚放流であれば別であるが。
橋梁工事付近に行った人も思わしくなく、オラのトイ面に移ってきたしあわせ男が、瀬を、うしろを向いて、ザラ瀬風の、あるいは流れのゆるい水深のないところを釣って楽しんでいる。
下流側瀬の上流の水深のある蛇籠前はあまり釣れていないとのこと。その上流の瀬が一番良いということかなあ。
その瀬で、テク2が、蛇籠に近いある一定の所よりも下流の瀬には、鮎が着かない、と、ひょうきんな名人に説明していたとのこと。しかし、ひょうきんな名人は、その下流側の限界点よりも下流、蛇籠の付近まで、左岸から瀬を釣る。釣れていた。
テク2は、鮎の付き場が変わった、と。ということは、海産畜養がより流れの強いところにも入るようになったということかなあ。高松さんが、海産畜養も8月下旬からは、遡上鮎と同じ生活環境を好むようになる、といわれたことと同じ現象が、石切場でも見られるようになった、ということかなあ。
3時のおやつの時間は、しあわせ男ら、一部がその恩恵にあずかったが、4時からの夕食の食堂開店には誰も、といっても、釣り人は数人であるが、その恩恵にあずかるものはいなかった。5時になれば、夕食の食堂街で繁盛したところがあったのかなあ。
しあわせ男などが20台、オラは10.まあ釣れた方かなあ。ひょうきんな名人はボサに振り子抜きの鮎が入る等のミスがなければ、25ほどになっていあのではないかなあ。
10匹のうち、オトリに提供したものを除いて、
下顎側線孔数4対左右対称は、高校生1,19歳2,20歳1、23歳1.
人工は、19歳2,22歳1
弁天に比し、人工の割合が高いのではないかなあ。しあわせ男も、泳がないから、引っ張っている、テク3が、弁天に比べて汚い=鱗が荒い、といった評価は、海産畜養よりも人工の混入率が高いからではないかなあ。
そして、柳前にいっぱい鮎が見えるが釣れない、との、解禁日以来の評価も、人工が多いからではないかなあ。
弁天と違い、石切場の柳前は、人工の放流地点ではないのかなあ。それにしても、大島では人工の大量死があったと思われるが、柳前ではなんで生存しているのかなあ。いろんな所の人工を買い集めた、との話もあるが、それらの生存率、友釣りの対象としての習性評価等を行い、今後の買い付けさきの参考にすることがあるのかなあ。
もし、海産畜養が放流されていなかったら、相模川での釣りは悲惨なものとなっていたのではないかなあ。
ことに、県産の30代目くらいの継代人工が、池ではなく、川に放流後死んでいたら、漁連の現在の義務放流量270万?の相当部分を県産継代人工が構成しているであろうから、遡上量が僅少であった2005年の相模川のように、解禁日にも釣り人なし、という状況になっていたかも。
8月26日 大井川駿遠橋下流
先週、地名、鍋島に行かれた釣り吉さんが、地名のアカ付きが悪いこと、鍋島では釣りになったことを、同じく、タマちゃんが、地名では、頭が多きく、やせた鮎しかいない、と。
しかし、あゆみちゃんのハーレムを形成するには、皆さんよりも先に、抜け駆けをすることがヘボに与えられた唯一の手段。それに、ダム放流でどのように川が変わったのか、知りたい。
ゼロサムゲームであることは、覚悟の上であるが、これをアッシー君に正直に話すと、アッシー君が釣れるはずがない。そこで、ごまかし、だましのテクニックで、そして、少しは、嘘つきといわれないように言い訳ができるように、お話をしておかねば。
釣れたアッシー君は、去年、大井川で、糸鳴りのするあゆみちゃんを釣る初体験をした初心者らしからぬおっさん。そんな馬力のあるあゆみちゃんを釣り、大井川に興味を持っているおっさんを、釣り上げることは、あゆみちゃんを釣るよりも簡単。
そうはいっても、アカ付きの悪い大井川で、本当にゼロであれば、あるいは、つまらんあゆみちゃんしか釣れなければ、2度とアッシー君にならない。そこで、6月に海産馴致が遊んでくれた久野脇を第1候補、葛籠を第2候補、鍋島を第3候補とした。
囮屋さんに行くと、互酬性のネットワークとのつながりを保っているテク2が中川根町?の泊まり先から、オラ達のことを心配してやってきた。
そして、昨日、あっちこっち川を見て、竿を出して、青ノロのある地名、鮎の気配のない久野脇、アカ付きの悪いどこそこ、と教えてくれた。
そこで、予定を変更して、ダム放流後も、残り垢が少しは期待できるためにアカが少しは早く着いているかも知れない駿遠橋に行く。
橋下流の2本の瀬、その合流後の平瀬状に、テク2とおっさんが、オラは左岸前山に沿って流れる場所へ。
20世紀の前山の流れは、崖に沿い流れ、大石が流れの中に転がり、頭大の石が詰まっていた水深1mほどから3mと、水深に変化のある場所であった。それが、大石は少し頭を水中に出し、頭大の石と共に埋まってしまった。とはいえ、残りアカを少しは保存できるはず。
舟を置く場所を決めて、かってにオトリを行かせる。下流側の小石、崖近くにアカの着いた石のあるチャラは小中学生。女子高生命のオラは、舟附近から上流へと釣りのぼる。
13か14匹の女子高生。体型は回復しているが、体力、馬力はまだ回復していない。
当然、条件が悪いであろう所を釣っている2人はオトリ交換ができていればよいが。
ところが、うっすらとしかアカが着いていない場所で、芯で、おっさんが10,テク2が数匹とのこと。なぜだあ。
おっさんの指示に従い立ち込み、波立ちの附近を釣ると、女子高生。立ち込んで抜くと、体力がないから取り込めたが、限界。それに、袋ダモが水圧をうけて粗相をしそう。
テク2は、オラから聞いた前山に行く。そして、20世紀には本流が左岸にぶち当たっていたところの大石を釣る。その途中、チャラで鮎が右往左往するのを見た。そこで、午後にはチャラに行った。
おっさんは午前と同じ場所、オラもその近くにはいる。
しかし、梅雨明けから9月の大井川では、暑くて、釣りとは関係なしに水に浸かるのに、今日は寒い。タイツでは我慢できない。左岸は、ヘチから釣りができそう。
左岸は、砂利、それが消える沖合からがあゆみちゃんの住居のよう。右岸の石ゴロゴロと違って歩きやすい。
7号の針で馬力の回復していないあゆみちゃんには充分、と、7.5号を使わないでいたが、1号の鉤素が切れた。20代の乙女がいるなんて、想定外。仮にいたとしても鉤素を切る馬力があるとは、お釈迦様でも知らないのでは。
チャラと溝のある付近に移ったおっさんは、おっさんの公約どおり、20匹に。
テク2は4時近く、青ノロがある右岸側の瀬でも先客が釣れてたことから、入り、右岸側の瀬と含めて5,6匹をポンポンと。いつものように、終わってみれば20匹に。
オラは午後、0.しかし、オラは女子高生であるのに対して、おっさんは、小学生まで動員しての数合わせ。しかも、その小学生は青物釣りの餌にする、と。なんちゅう非道なやつや。女子供を売ることを生業としていた山椒大夫と同じじゃあ。黄門さまあ、こんな極悪非道な釣り人:おっさんを懲らしめてください。
ということで、おっさんは大満足。しかも綺麗な鮎、と。
それにしても、なんで釣れたのかなあ。テク2も悩んでいた。
平瀬は、去年と違い、頭大の石が詰まり、非常に良くなった。アカが着くとどのようになるのかなあ。ただ、右岸ヘチが釣り場になると、川原と段差があるため、オラには釣りにくいなあ。
チャラにも溝のあることが判ったから、そこも女子高生が着くのではないかなあ。
8月27日 大井川
テク2は、竿を出さずに、青ノロがある、アカ付きが悪い、鮎の気配がない、といった外形で判断していたことが誤りであるかも、ということで、事前調査をしてくれた場所を検証する、と。
もう、充分堪能した余裕から、さんせい、と。
地名の長い瀬も、石が詰まり良くなった。しかも、アカ付きは駿遠橋よりも良い。
釣れんなあ。テク2は例によって、はるか彼方まで様子を見に行くがダメ、と。
川原のヘチには泥垢を食べたであろうはみ跡があるので、あゆみちゃんがいたはず。どこにいったのかなあ。なんで食料を食べるところに住んでいないのかなあ。どこにいるの?
気田川で釣った人が、気田川でも、アカ付きが悪い瀬の芯が釣りの対象となっていた、と、駿遠橋と同じ現象があったことを話されていた。
東京から来た人には、昨日の駿遠橋の結果を話した。
次は、久野脇下流へ。
6月よりも、流れの幅が広がり、瀬が貧弱になった。アカ付きは良好。
中学生が釣れた。元気溌剌中学生はどんどんのぼっていく。あんまりきばらんといてや。長い時間働いてもらうからな。
オラ達のすぐあとに来た人が、急いで、下流へと行く。テク2も下流の様子を見るために下流へ、と移っていく。
桃源郷はなかった、と。
先日、大物食い若が25センチを釣ったという千頭を見ておきたい、ということで、テク2に案内してもらう。
そこは、千頭の釣り場の1つではあるが、最高の場所ではないのかも知れない。おっさんが、藁科への分岐道を間違わないように、最適の場所を選んだのではないかなあ。
テク2はお友達との待ち合わせに行き、オラとおっさんが釣る。青ノロがあるものの、アカ付き良好、ヘチのアカは腐っている。
なんで、アカ付きに場所による違いが大きいのかなあ。
1時間、竿を出すことにする。
おっさんに続いて、オラもバレ。それだけ。
瀬落ちの淵状のところは砂底。
おっさんは、1匹釣り、屈辱のボウズを免れて喜んでいた。
作業中の人が、瀬ではなく流れの弱い瀬肩上で泳がせんとかからん、トロ、淵に入り、夕やみの迫る頃にハミに出る。増水すると瀬で入れ掛かりになる、等、海産馴致らしくない行動を話してくれた。
大物食い若は、複合金属0.125号で、トロ?淵?で四苦八苦して25センチを取り込んだ、とのことであるが、これは、相模川の海産畜養の馬力と共通している。
おっさんが釣った鮎は、相模川で見ることのできるババッチイ鮎とのこと。
そうすると、千頭には、塩郷堰堤の魚道を上った遡上鮎の優等生と、海産馴致と、人工がいる、ということかなあ。
おっさんは、師匠から教えられたキラッとひらを打つ鮎は、そのそばにオトリを誘導して、オトリをななめ横に向ける操作をすると掛かる、オバセの量を5センチ、10センチと変える操作をする、といった、操作をできて、狙いどおりの釣りができた、と大喜び。
しかも、ボウズを免れて。
これで、アッシー君が減ることもなし。めでたし、めでたし。
8月29日 相模川弁天
あゆみちゃんの心変わりが判らないと、ナンパがきびしいとは判っているが、台風が来そう。雨に当分、暇だなあ、ということにされるかも知れないから、やるしかない。
右岸ボサ上流の左岸瀬にはいる。
右岸瀬肩の人が珍しく釣れている。7月にお百姓さんが、瀬を駆け下り取り込んだ動作までしている。入れ掛かりが一段落すると、その人は、右岸ボサ下流へと動いた。
今日は、左岸側から釣っている人で立ち込んでいる人はなし。ということは、オラのあゆみちゃんが釣りきられるかも。
釣れませんなあ。いや、釣れる機会はあった。又しても7.5号の針折れ。4本錨にしていたのに、なんで2本が乗ってくれないのかなあ。
やっと1匹。午前は、はいこれまでえよお。今日はおじゃま虫にまで敬遠された。
12時の昼食時の食堂街を狙うため、11時前にビールを、握りを、かたづけたのに、釣れているのは右岸のボサ附近が少し。
あゆみちゃんは、下流の瀬に移っていて、留守かなあ。
下流の瀬の左岸側の流れにいく。掛かったのに空中バレ。背掛かりですよ。20歳くらいですよ。7.5号の4本錨ですよ。
又、午前のボサ上流のトイ面へ。
こりゃあ、24,5歳か。一撃をこらえ、ヘチへ、川原で抜こう、と。ばれた。
2回もだっこされる機会を奪われたこの針は絶対に買わんぞ。
3時のおやつ前、とっておきの乙女をオトリに。
やっと、あゆみちゃんがどんな姿か、どんな容姿か、眺めることができた。
4時の夕食で賑わう食堂街を最後まで釣りたかったが、遡上アユと思われる綺麗な女子高生をだっこして、満足しました。
下顎側線孔数4対左右対称は、 女子高生2,19歳2,20歳1、21歳2,22歳2,23歳1
計10匹 ということで、つ抜けで終えることができたとは、嬉しい限り。
しかも、人工はなし。
9月1日 相模川弁天
80センチほどの増水が一時的にあったようであるが、濁りなし、前々日よりも10,20センチ高。水色は今年一番かも。
上流と下流の瀬の中間、いつもの右岸ボサ上流の左岸へ。
右岸ボサ上流の人はよく釣れてますなあ。
針折れをさけるため、太軸7.5号、ハリス1.2号を使う。狙いは的中。針折れはなくなった。しかし…。茨の道は今日も続く。
右岸のトイ面さんを、オラの下流側の人を、羨ましげに、物欲しそうに眺めて、やっと1匹。それまでのケラレは何回?
ケラレ与三郎は、覚悟の上とはいえ、ノミの心臓にちくちくと。
午前、針折れのかわりに登場したのが、鉤素切れ。1.2号の鉤素切れが3回。結局2匹しかとりめず。
昼前、初心者らしからぬおっさんが様子を見に来た。そのおっさんの前でも鉤素切れ。おっさんは古いのでは、というから、そうであるなら、古いのを売ったおっさんの責任だあ、とわめいた。
おっさんはいたたまれなくなったのか、お仕事なのか、判らんが、去る。
今度は、こつん、ではなく、ガン。耐える、すぐに軽くなる。乙女のオトリしかいない。中ハリスに切れた針がついている。あゆみちゃんにどんな動きがあったのかなあ。
同じく、耐えていてばれた。針に先客の鉤素切れをした変形した3本錨がついてきた。どういうこっちゃ。オラは、山彦ではないぞお。あゆみちゃんの身体が欲しいんや。
チラシを使うも、ケラレはあるのに、その時に限って、鉤素を切るほどの乙女は寄りつかず、おじゃま虫の吸盤ボウイだけ。
やっと、午後1番が。しかし大きすぎる。囮に使うのはいやじゃ。
そこへ、初心者と、その師匠のYさんがやってきた。オトリをくれ、といわれても、貧乏生活で、いつ破産するのかわからん状態。
初心者は掛けるが取り込みができない。下る、転ぶ。水に首まで浸かる。それでも竿を放さず。Y
師匠の30万台の竿であるから、流れてきたら猫ばばしたかったのに。
Y師匠が手助けにやってくる。取り込んだのは、26歳海産畜養。
その価格は、タバコ、携帯の水濡れで、どれくらいになるのかなあ。
初心者を、時折、師匠が取り込みを手伝う。その結果、師匠の2倍ほどの12,3匹を釣る。取り込みに師匠の手を借りているので、川原に立って、川原に抜け、といった。可哀想な師匠は弟子に負けて、どんな気分かなあ。
初心者が、1号の鉤素、7号の針で、なんで26歳が取り込めて、オラは1.2号で、7回もの鉤素切れをしたのかなあ。
自動鉤素留めの性能の違い、鉤素の質の違い、高級な竿と最低価格の竿の違い、どれが当たっているのかなあ。
3時のおやつの時間が早まり、助かった。
午後は12匹。計14匹。
下顎側線孔数4対左右対称は、24歳1,23歳3,22歳2,21歳1,20歳1,19歳2,18歳1.
未成年者は、遡上鮎かなあ。
人工は3.
鉤素切れの時、コツンというあたりで、もう切れていた。ガツンで切れたときは少ない。どんな動きをしているから、コツンなのかなあ。
海産畜養は、瞬発力が遡上鮎よりも弱い、という判断を変えるべきなのかなあ。
もう、チラシと心中するしかないのかなあ。性能の良い鉤素を使った、又、自動鉤素留めを使った仕掛けをおっさんからかちあげるしかないのかなあ。
下流側瀬をあっちこっちと釣っていたテク2とテク3はどの程度釣ったのかなあ。
9月2日 相模川弁天
鉤素切れを回避するには、ケラレ与三郎を覚悟の上で、チラシを使うしかない。
大井川の遡上あゆみちゃんをナンパするときには、市販のチラシの糸が太いことが気に入らないが、今回は鉤素の太いほうが助かる。
雨模様のため、右岸ボサ上流の左岸は、あいていると思ったが、波立ちのあるところも、水深のあるところも並んでいる。
ボサトイ面の水深のあるところで少しオトリを働かせていると、上流の波立ちのところがあいた。そこに移る。瀬脇にいい石が入っているから、そこへ。すぐに釣れた。これほど、あゆみちゃんの心が読めたら、女誑しの名人になれるなあ、と。
しかし、いつもの夢、幻想。
ボサ下流側でも、オラの上流側でも、下流側でも、数は多くはないものの釣れているのになあ。ことに上流側の人は、瀬の芯に入れてオトリにできない大きさを釣っていた。
ケラレが覚悟の上とはいえ、逆針を差すところに不自由するほどになった鮎もいる。大井川では、身を切り裂くケラレによるが、相模川では、何回も蹴られたことによる。
結局、ケラレに耐えるも、4匹しか釣れず。
涼しいから、昼休肝日でもあり、3時のおやつの時間の結果を待たずに退散。
昨日、下流側の瀬を釣り歩いていたテク2は、30ほど。
型良し。ただ、1カ所で数匹釣ると、後が続かない、と。その点、オラの入っていた場所の方が、効率が良かったのかも。鉤素切れさえなければ、20を超え、初心者と合わせると30を超えていたから。
ケラレの時、しばらくすると、その鮎は釣りの対象となるとのことであるが、背に刀傷を負った鮎が、翌日には日常生活に復帰できるとは思えない。そうすると、引き水で多く釣り上げられているから、今日は補充が少なく、釣れない日かも。
テク2が、葉山で玉引きをして、26歳、28歳をだっこできた自動鉤素止めを使った鼻環仕掛け、チラシを持ってきてくれた。
今日は、あゆみちゃんのご機嫌が良くない日であろうから、ご機嫌の良いときに使ってみる。
テク2は、ボサ上流が釣れると判っていても、釣れると判っているところには入らない、と。
そのため、川見が適切にできるようになるのかなあ。
今日も、テク3,テク1と来ていたが、どのくらい釣れたのかなあ。下流側瀬尻等に入ったテク1はあまり釣れなかったようであるが。
9月4日 相模川弁天
股関節と膝に注射をしに行くべきか、否か、悩めど、明日から2日、那珂川での出家への難行苦行が待っているとなると、あゆみちゃんとのしばしの別れとなるため、注射は来週に回そうっと。
テク2が26歳乙女をだっこできた鼻環回りの仕掛けと、チラシをもらった。当然、オラにも糸切れはないはず。とはいえ、中ハリスが0.8号、細いなあ。
いつもの上流側の瀬と下流側の瀬の中間、右岸ボサ上流の左岸瀬へ。波立ちに囮を入れるとすぐに乙女が。
しかし、限界強度を試すには、ものタリンなあ。
3人の乙女をだっこしたものの、その後はいつもの暇な時間。その時間を破ったあたり。しかし、おかしい。おじゃま虫。しかも、仕掛けをくしゃくしゃにしよった。
こらあ、この仕掛けをなんと心得る。さる高貴なお方の御作になる仕掛けであるぞ。即刻打ち首じゃあ。とわめけど、効果なく、その後も恋路を邪魔された。
結局、午前は最初にすぐ釣れた3匹だけ。
昼、このところ、綱紀粛正がきびしいのか、日の出が遅くなったからか、早飯にやってくるあゆみちゃんがめっきり減った。
とはいえ、昼飯の食堂街はそれなりに賑わった。3匹。
大宮ナンバーの人がオラの入っていた瀬に入り、オラは、楽をするために、その下流の少し水深があり、立て竿でのんびりとできるところへ。
大宮人は初めてやってきたようで、3時のおやつも、4時の夕食時も楽しんだのではないかなあ。囮に使えないのも含んでいたから、なおさらのことと思うが。
それに対して、オラは4時の夕食時を含めて4匹。計10匹と、有り難いような、寂しいような。
4時過ぎにやってきた初心者らしからぬおっさんは、昨日、狩野川は雲金で、キャッチミスがなければ40になったという。とはいえ、チャラで小中学生の児童買春で稼いだ数。
オラの下流で、見釣りをしていたが、今回はオトリの逃げ足が速く、だっこできなかった。しかし、丼を釣り上げ、その後、下流側瀬肩上に行き、4時半頃には7匹とのこと。
左岸上流側の瀬で釣っていたWさんは、富士川の人工尺鮎を求めて、しばらく顔を見せていなかったが、Wさんとしては珍しく、瀬を下り、川原のボサ附近まで後退して取り込んでいた。
20は越えたのではないかなあ。
下流側の瀬肩、瀬に入ったテク2,3は、その周辺から動かなかったから、相当釣れていたのではないかなあ。
この2人は、先日は、1カ所で数匹しかつれないから、あっちこっちと動いて釣っていたが。
下顎側線孔数4対左右対称は、19歳1,20歳2,21歳3,22歳2,23歳1.
人工は20歳1.
ということで、25歳くらいの乙女で、テク2の仕掛けの効用を確かめることはできませんでした。
9月6日 那珂川
那珂川で放流された鮎の大量死と遡上が少ない、との話があった。
もし、今年、神奈川県の継代人工が、池ではなく、川に放流されたのちに川で死んでいたら、漁連の義務放流量の1/3か、それ以上の比率を構成する県産継代の放流鮎が、川から消えていても、海産畜養等が放流されることもなかったであろうから、閑古鳥の啼く相模川となっていたであろう。
その状況が那珂川でも生じているのでは、ということで、温泉とコンパニオンには興味はあるが、あゆみちゃんには会えることもなかろう、と。
5日は、まず町裏を見る。ついで、馬洗い、寒井へ。すいているなあ。
湯殿大橋へ。人が並んでいるなあ。橋から下流のチャラを見ると、多くの鮎が見える。これなら釣れそう、と。
水遊園の付近を見て、温泉へ。
温泉上がりの気持ちよい気分で釣りを、とはならず、再び寒井へ、他の人の釣りを見に行く。
全国区が、ヘチを釣っているがいつもの快進撃はない。アユがはねているが。鮎がチャラに見えるが。
ヤナの上流では、しあわせ男が。
まあ、これらの人がたいして釣れないということは、オトリの2匹を持ち帰れば、オラの任務は果たせたことになるなあ。
余笹川合流点下流で、10匹あまり釣ったり、水深のある鏡で、大鮎をかけて、瀬に走られてぷっつんした人もいるが、湯殿大橋の方が、あっちこっち動ける。
ということで湯殿大橋下流へ。
湯殿大橋で行われていたジムニーカップの時、故諏合さんの小屋のすぐ上流の左岸トロで釣っていたが、根掛かりをした木が流れ出して放流したため、やめた。
検量場に戻ってくると、故諏合さんが、おお戻ってきたか、とにこやかに迎えてくれた。
しかし、舟から10匹の鮎が出てくると、最後までガンばらなダメだ、と雷を落とされた。
1回戦通過は、故諏合さんの読みどおり、込みの12匹であった。
故諏合さんは、もう一度どなられた。故諏合さんの仲間が、2回戦の時、背後の人に考慮をはらわずに後退したとき。
陽気ではあるが、マナーにきびしい人であった。
3時頃、掛けると、ホッホッとかけ声をあげて、見物人のオラを喜ばせてくれた。
その時、タモは使わず、まずオトリをはずして舟に入れる、ついで、掛かり鮎に鼻環を通してから、掛かり鮎の針をはずす、という動作をされていたが、この一連の動作の鼻環を通す、というとき、先に掛かり針をはずしていたのか、鼻環を通してから針をはずしていたのか、テク1の話を聞いていて判らなくなっていることに気づいた。
故諏合さんが亡くなられる年に、妹さんか、に、痛む背中になにかの湿布状の貼り薬をはってもらっていた年に、故諏合さんから購入した年券は長らくベルトに挟んでいたが、今はない。
湯殿大橋にやってくると橋下流右岸には並んでいる。
そこが釣れているよう。
犬を散歩させるときは川沿いの道を歩くのに、釣りの時は、大した距離ではないのに車で出かける犬公方さんよう、あんよは犬の散歩のためについているんとちゃうでえ。
犬公方さんと、釣り人が並んでいるトイ面の平瀬状のところにはいる。犬公方さんの下流にはいるか、上流にはいるか。
下流側の方が流れがゆるい。根掛かりをはずしに行きやすそう。ぬるま湯の生活が好みの放流ものとオラの共通性から、下流側へ。
すぐに釣れた。綺麗、これはなんじゃ?
下顎側線孔数4対左右対称。海産畜養を放流しているということか。その後も下顎側線孔数は4対左右対称。
少し深くなる下流へと下がる。なんか変。エビではない、オトリの下に何かついているが引かない。石を釣ったか。いや、鮎じゃ。鼻環がついている。掛けバリが切れている。余笹川合流点下流の大鮎が、ここにもいるのかなあ。いたとしても、テク2御作の鼻環仕掛け。7.5号錨のハリスが飛ぶこともなかろう。
右岸では、コイ敵かニゴイを掛けている。竿操作をしている。糸は大鮎対応で太いのであろう。竿は高級であろう。折れることなく、大きく撓っている。しかし、しばらくして、のされる形にして、糸を切っていた。
8匹。目標は軽うく達成。
オラの属するチームは、久しぶりの真ん中附近の成績。
昼、町裏。100人も入れるのかなあ。
オラは上流へ。流れが少しあり、水深のあるところで、入れるところまで歩くしかない。すぐにあった。左岸護岸がシルバーシートになっているところのトイ面に入れる。
ヘチ寄りから釣るも釣れず、立ち込んでいく。流れが弱いから助かるが、あんよの短いオラにはこたえる水深。
立ち位置で取り込むと、タモから鮎が逃げ出す、というよりも、ベルトに差したタモが水没しているから、ヘチへ、と移動して取り込む。故諏合さんのように、タモを使わずに、オトリ交換ができたらなあ。
4匹。
村田さんが、4匹しか釣れなかったとの話があったが、もし、そうだとすると、オラと同じじゃあ。
ということは、最低価格の竿でも、高級竿でも結果が同じじゃあ。感度が、調子が、といった性能も関係ないんじゃあ。横に泳がす、動かすという操作も関係ないんじゃあ。
運がよいか、悪いかだけじゃあ。
ということになるのかなあ。
犬公方やテク1には申し訳ないが、腕ではなく、運で釣るオラの圧勝でした。
9月9日 相模川弁天
朝の天気は、曇り、狐の嫁入り。すいているやろうなあ。
今日は快晴と予報した天気予報同様、はずれた。上流側瀬の下流側には入る場所なし。右岸ボサ下流のトイ面にはいる。
いつもは指を加えて眺める右岸ボサ上下もあんまり釣れていませんなあ。オラの上下の人もたまには釣れているが。
もう、釣りきられたのかなあ。昭和橋のコロガシも、このところ、10以上は釣れない、と。
みんなが貧乏では恥ずかしくないか。
それにしても、オラだけ1匹も釣れませんなあ。
午前3匹。オラの上流側の人は10を超えたのではないかなあ。
上流側の人は、お昼時の食堂街に賑わいも満喫して、昼過ぎには帰って行った。
なんでオラにはあゆみちゃんが寄りつかんのかなあ。那珂川で浮気をしたからかなあ。
3時のおやつの時間が早まったが、3匹のみ。
寒さを感じながらの釣りをしているのに、これじゃあ可哀想ではございませんか、あゆみちゃん。
4時の食堂街は、かってほどの賑わいはないものの、オラの下流側の人は恩恵を受けていた。
昨日、ここで、50釣った、との話があったが、動くことができない状況で、50は考えられない。
50が事実ではないとしても、2,30はあり得る。
そうすると、今日は釣れない日かなあ。明日は、遊んでや、あゆみちゃん。
7.5号の針折れはないものの、鉤素切れ、針のすっぽ抜けは、数回。テク2御作の鼻環仕掛けは温存したいし、次は誰から奉納させようかなあ。
下顎側線孔数4対左右対称は24歳1,22歳1,21歳1,19歳2.
人工は、22歳。
9月10日 相模川弁天
昨日は、涼しすぎて、心にもなく、昼休肝日をしたが、今日は、暑くなるはず。釣れなくても、ビールを飲んで昼寝をしょう、ット。とはいっても、あゆみちゃんの食事時間が変化しているため、昼寝の時間を間違えると、亀に負けたウサギちゃんになってしまう。
昨日は混んでいて入れなかった上流側の瀬の下流側にはいる。オラの下流側の瀬落ち的なイメージの人は1,2匹は釣るが。
やっと掛かったのは、奇形。故松沢さんも、萬サ翁も、オトリに最適と話されている金魚形状。
たしかに良く泳ぎ、尻尾を懸命に振っているのであろう。
今日は、鉤素切れと決別して、25,6歳の乙女をだっこする、との固い決意のもと、初心者らしからぬおっさんから奪った鼻環仕掛けに、市販のチラシをつける。
ケラレが2回。それでも初心貫徹。
右岸ボサトイ面の下流側があいているから、そこに移る。
やっと1匹。
ビールを飲み、天下の情勢を眺めて、まだ昼食にやって来るであろうあゆみちゃんを狙う。
3匹の入れ掛かり。これで、3時のおやつも、4時の夕食時のオトリを確保できた。
3時のおやつの時間は、ここ数週間前から、2時過ぎと、早くなった。その恩恵を回りで受けているのを見ていると、もう、ケラレ与三郎が多い市販のチラシはやあめたあ。25,6歳の乙女をだっこすることを諦めれば、なんちゅうことはないのだ。
ということで、太軸の7.5号3本錨に変える。鉤素切れは2回あったが。
昼にやってきたトイ面のしあわせ男は、3時のおやつ前にも少しは釣り上げていたが、急に元気になった。しあわせ男が、オラと同じ流れでじっと我慢の子であったのは、そして、下流側の瀬でテク2が派手に下り、取り込んでいるのを見ていながら、釣れないのに流れのゆるいところで我慢していたのは、下流側の瀬が、なぜか今日は満員であったから。いつもはすいているのに。
オラも、3時のおやつの時間のお裾分けを得た。
そして、4時過ぎの夕食街の賑わいを何日ぶりかで味わうことができた。
その結果は、テク2やしあわせ男と同じ10台。いつもほどの大差はつかなかった。
なんで、25,6歳の乙女でも鉤素切れが起きない鼻環仕掛け、針を使うときは、その仕掛けの効果が発揮できないのかなあ。
あゆみちゃんは、鉤素切れを楽しんでいるのかなあ。今日、こんなに針を稼いだわよ。あのジジー、貧乏くさいったらありゃあしない。特売の鼻環仕掛けばっかり買うから、針のコレクションを集めるのは簡単よ。
たまに、うまい人の鼻環仕掛けや、チラシを使うことがあるから、その時だけ用心していたら、どんどん針を集めることができるわよお。
と、笑いものにされているのかなあ。
12匹のうち、
下顎側線孔数4対左右対称は、20歳2,21歳3,22歳4,23歳1,奇形1
人工は21歳1.
9月13日 相模川弁天
大会が終わるまで、入るところはない。上流の瀬と下流の瀬の中間で、立ち込んで釣っていてくれたら、有り難いのになあ。残念ながら、水深のあるところだけ、立ち込んでいる人はいるが。
下流側の瀬の最下流で、テク2が20ほど釣ったが。
下流側の瀬の流れが二つに分かれていて、その左岸よりの楽な釣りのできるところの人が、9時頃には、昨日興津で釣れた数と同じ5匹になっていた。
ビールを飲み、昼寝をして、大会の人がいなくなる時を待つ。
右岸ボサのトイ面の人は、6匹釣ったとのことであるから、そこに入っても、3時のおやつの時間までは釣れなかろう。立ち込んでいた人の所に入るも釣れず。そのうち、大会の人が戻ってきて、入る場所がなくなった。
上流側の瀬に行く。今年初めての根掛かり放流。
下流側瀬の瀬肩付近へ移動。やっと釣れた2匹。
又、3時のおやつを期待して、水深のあるところへ。2匹。しかし腹掛かりで、夕食時の賑わいを待たずにやめた。
7.5号の針折れ1。背掛かりなし。
下顎側線孔数4対左右対称は、22歳3,19歳1。
9月14日 相模川弁天
昨日は、混んでいて、釣れなかったというためには、今日、釣れないことには、単なる「ヘボ」となる。
那珂川ではけられもバレもなかったお百姓推薦の針を、昨日の大会で、弁天瀬肩上で使ったお百姓がケラレの多発、とのこと。ということは、初心者らしからぬおっさんが話した那珂川では適合性を持っていても、相模でも適合性をもっているとはいえないのではないか、との感想が当たっていたよう。
その針を使い、上流側の瀬の瀬落ち、瀬尻風の所にはいる。ここは、昨日立ち込んでいたから、更場のはずであるのに、吸盤ボウイすら相手にしてくれない。
右岸ボサ上流のトイ面へ。ここも、昨日立ち込んでいたから更場のはず。
お百姓推奨の7.5号を使うもケラレ。我慢できずにいつもの太軸7.5号に変える。
昼頃、やっと2匹。とりあえず3時のおやつまで囮に苦労をしなくてもすむかも。
お百姓には何といおうかなあ。仁王様のような顔でしかりつけるか、にこやかな顔で、狩野川や大井川でも試したいから、巻いた針をちょうだい、ついでに、鼻環仕掛けもちょうだい、といおうかなあ。
昨日の稼ぎが悪いため、今日は昼休肝日。
そこまでしてあゆみちゃあん、遊んでえ、と、声をかけるも、ボサ正面に移ったときに、やっと、心優しいあゆみちゃんに巡り会えただけ。
まだ、那珂川のあゆみちゃんと浮気をしたことを怒っているのかなあ。
次は、3時のおやつ。
しかし、その恩恵にあずかったのは、右岸ボサの背後から釣っているテク3だけ。
テク3が下り、引きよせで2匹を取り込んだ。テク3が抜かないなんて。
25歳くらい、とのことであるが、葉山の玉引きの所では、抜くしかないから、その時の仕掛けよりも細いものを使っているのかなあ。それにしても、テク3が抜かないことがあるとは、オラにとっては、有り難い光景でした。
もう4時の夕食時、だあれもやってきませんなあ。
やっと4時半、ボサ下流トイ面に移ったとき、キラッとヘチで。
待ちかねた、4匹。川越の人は3時のおやつも、夕食時の恩恵も受けることなく、次回に期待して帰って行った。
結局、何回目かの太軸7.5号の1.2号使用の鉤素切れで、やめました。
計10匹。
下顎側線孔数4対左右対称は、女子高生1,20歳2,21歳1,22歳3,23歳1.
計算が2匹合いませんなあ。
その理由は?
葉山で玉引きをしてきたテク2が、オトリを過労死させたんでえす。
そのため、オラがオトリの提供者になるという前代未聞の珍事、椿事となりました。そのあゆみちゃんは、テク2が大きい鮎は囮につかわんだろう、といって持っていったため、24歳では。もう1つは女子高生では。
初心者らしからぬおっさんにもオトリを貸して、囮は2匹しか使うな、との、師匠の言いつけを反古にさせたし、今年は、オトリ提供者になり、楽しんでいます。
そのおっさんとは、おっさんにこてんぱんにやられて、悩めるマレーグマとなってしまったおっさん共々、16日に、狩野川は、雲金で昼飯をかけて勝負。
雲金に行ったのは、20世紀の1995年、狩野川の遡上量が僅少で、相模川以上に腐ったコケが石にこびりついていた時の何年か前のことであるから、もう、20年近く前になるのかなあ。
オリンピック友釣り大学で、狩野川のアユの生活史を話された雲金釣りの家の大竹さんも、塩で鮎を絞めたらいかん、と教えてくれた大平ドライブインの鈴木さんも亡くなられた。
まあ、初心者らしからぬおっさんも、釣れるときも、釣れないときも、ケラレの多発もあり、そのたびに師匠に助言を請うているようであるから、オラが勝つ可能性もあろうが、おっさんらに自信を持たせることも、ジジーの役目と自覚しているから、負けても良いか。
9月16日 狩野川雲金
飯田囮前は、去年と違い、砂が入った、とのこと。その上流は、一時に比べると、瀬らしくなったが、吊り橋の上流は、ブルで平坦にした後遺症がまだ残っていて、流れに強弱がない、とのこと。テニスコート前にはいる。
すぐに釣れた。
初心者らしからぬおっさんにも、そのおっさんに悩めるマレーグマにされたおっさんにも勝る早さ。少しずつ棚を釣りのぼっていくが、それほどあゆみちゃんは親切ではない。
昼前には高松邸の前までのぼり、乙女らが歓声を上げているのを見ながら、どのネエちゃんがセクシイーかなあ、と、にたにたしながら抜くと、怒ったあゆみちゃんが空中バレ。女体に見とれて雲から落っこちた久米仙人?の気持ちがよおくわかる。
おっさんは7,悩めくんは12,3.オラは10.
約束では午前勝負のはずが、おっさんが、1日勝負にしょう、と。
「南京虐殺の前哨戦:100人斬り競争」がフィクションである、と、ベンダサンが指摘した1つの理由に、ゲームであるなら、時間か、数か、で、勝負の決着が定まっているが、100人斬り競争では、その到達点の数値がたえず変化している、と。
日本刀が1人を斬っても鍔が、刃が使い物にならなくなることを知らずに、100人も切れると、立川文庫の、講談の、刀でバッタ、バッタと斬り倒す、を信じている、と。これは、山本七平「私の中の日本軍」だったかな。
山本は、日本刀を武器として使用するには、突くと書かれていたと思うが。剣道をやっていたものに聞くと、失血死させる、と。ともに、日本刀は、骨を斬ると、2人目を斬る武器としては不向きであることの語っている。
にもかかわらず、いまだにこのことにすら気がつかないで、南京大虐殺の前哨戦として、100人斬り競争が行われたのは事実である、と書かれている本があったが。
その論証の仕方は、毎日新聞(現在の)に書かれているから、等。
この論証の仕方は、ベンダサンが「日本教について」で、書かれているように、「『語られたということ』は『事実』である」と、「『語られた事実』が『事実』である」ということが、別個の事柄である、と区別をしない日本の文化に由来する。
まあ、「文化」であるから、いつまでたっても、事実であるか否かの判断の誤りは繰り返されるのであろうが。そして、その記事を書いた記者、そのフィクションの筋書きを描いた記者が、責任を認めることも、筋書きを書いて2人の兵士に役者を演じさせたことを認めようとしなかったことも、「日本の文化」です。
まあ、あゆみちゃん争奪戦には、こんなお話は関係ないか。
ということで、何となく1日勝負になった。
吊り橋上流に行ったUさんは釣れない、と。
ということで、テニスコート前は、オラには根掛かりをはずしにいけそうもないから、その上流へ。
午前は、女子高生に中学生が混じる程度であったが、午後は、小学生が混じる。
しかし、小学生といえども背掛かりで、よく働いてくれる。
小学生は、追加放流の静岡2系との話もあるが、人工がこんなに働いてくれるとは思えない。下顎側線孔数は、まだ見ていないが。
ここ2,3回の弁天での海産畜養は、背掛かりが1,2匹あるか、という程度で、遡上鮎の掛かり方と大きく異なる。
夕方、高松邸の前の川に再び、ネエちゃんらがやってきた。よおく見ようと、にじり寄るも、午前と違って、あゆみちゃんは相手にしてくれない。
おっさんは、半日ほどで20台を釣ったお仲間に石頭を釣れ、と教えられたにも拘わらず、たいして釣れてないなあ。14.まあ、25,6歳の下顎側線孔数4対左右対称のあゆみちゃんを粗相もなく、取り込めたことをお喜び申し上げます。
悩めくんは、つまんだ糸が切れて丼をしたり、バレたり、と、釣れども、釣れども、数が増えなかったにも拘わらず、15.これで、悩めくんを卒業できました。
オラは、20.小学生は非力と思い、逃げられる心配はないと思い、舟に入れようとして逃げられなければ、21であったが。おっさんも同じように逃げげえたにょうぼが、いたとのこと。
ということで、半日でも、1日でも、狩野川は雲金を、ホームグランドとするおっさんは、ビリケツ。
おっさんの嘆き節を楽しみながら飲んだ冷酒のうまいこと、うまいこと。
おっさんは、雪辱戦をしょうと言うが、勝ち逃げをした方が賢明かなあ。
ということで、21世紀になって初めての狩野川での20匹。遡上あゆみちゃんにかわいがられた楽しい1日でした。ついでに、高松邸の川に前にやってきたネエちゃんたちの1人をナンパできたらいうことなし、極楽、極楽、になっていたのになあ。それは叶わぬ夢か。
Uさんからもらった鼻環仕掛けを早く海産畜養に試してみたいなあ。
9月17日 相模川弁天
昨日の狩野川の小中学生の一部で、下顎側線孔数を見たところ、4対左右対称であった。
昨日の相模川は、大会のように混んでいたとのこと。そうすると、今日は釣れない日かなあ。
Uさんからもらった鼻環仕掛けを試すため、やってきたが、上流側の瀬と下流側の瀬の間に入っている人は立ち込んでいる。
立ち込まない釣りに心がけているオラは、その人のうしろを釣るも釣れず。
やっと、釣れたが、大きくてオラには囮に使えない。Uさんの鼻環が小さいし、中ハリスも短い。
やっと囮サイズが1匹釣れて、握りを食いながら、天下の情勢を見ていると、上流側の右岸瀬肩に入っている人がいない。ということは、昨日釣れた場所かなあ。
右岸ボサの上流は人は入っているが、それほど釣れたないなあ。
下流の瀬の下流寄りは人がいないなあ。しかし、テク2ら、昼出勤組が入ったなあ。
立ち込み派がこんなにいると、明日の更場が楽しいなあ。
というのんきなことを行っておられんわ。
下流側の瀬肩付近に行って、立ち込んでいく。なんとか釣れた。やっと3匹。
そこへ登場したのが、昨日、勝負ベスト、高級な竿で、オラに勝つつもりであった初心者らしくないおっさん。
今日は、勝負ベストを着てないが、勝負、と。オラは勝ち逃げしたいなあ。
オラが釣り、すぐにおっさんも。おっさんは、囮にするか、悩んでいた。大きいからと箱入り娘にした。そして、すぐに囮サイズが。
この時点では、おっさんと同じか。
結局、おっさんは4かな、3かな。オラは7.
こんなマイナーな争いをしているというのに、裏釣法小父さんは、左岸分流で、大小いりまざり、ウン十匹。それを数え、明日の囮に使う鮎を仕分けしているのを見ていた人がびっくりしていた。おっさんも、明日は分流で釣る意欲がなくなっていた。
Uさんの鼻環仕掛けのおかげで、太軸7.5号の鉤素切れもなかった。おっさんは針のすっぽ抜けがあったが。
久しぶりにドブさんに会った。
ドブさんは、ヘラ餌に突いているボールのおまけが欲しくて餌を買いに来ていた。
高田橋にはドブ釣りのす姿なし。石切場と弁天の間には、少しのドブ釣りはいても、ドブさんを見かけることはなかった。
ドブさんでさえ、10匹も釣れないとのこと。そして、食べない相模川の鮎を釣っても仕方ないから、今年は、たまにしかドブ釣りをしない、と。手取川等、現在では全国に僅かしか残っていないほどの清流に育つぬめぬめヌルヌルで、シャネル5番の香りをぷんぷんさせているあゆみちゃんを食べていたドブさんが、相模川の鮎は食するに値しない、といわれるのも当然のことであろう。
下顎側線孔数4対左右対称は、25歳1、24歳1,23歳1、22歳1,他は20歳以下で、人工はなし。Uさんにもらった鼻環仕掛けは、美事に鉤素切れを防止してくれた。
なお、おっさんからの鮎が1匹入っているが、それが24歳か、23歳かは、不明。
9月18日 相模川弁天
釣れませんなあ。ボサトイ面もその上下も、下流側瀬肩も。下流側瀬の最下流の瀬も。
おまけに、25度という気温予報もはずれて、暖かかったのは朝のうちだけ。すぐに涼しい、というよりも寒く感じる。もちろん、梅雨寒よりも気温も水温もは高いが。水温の方が気温よりも高い。
おかげでビールが最適な環境で飲めず、天気予報に損害賠償をしたい気分。
初心者らしからぬおっさんも同じ。
しかし、おっさんは、昼にやってきて一番下流の瀬肩附近で釣っているテク2に俄弟子入り。
瀬の中の棚の見分け方、瀬の中のゆるい流れの見分け方、そこへの囮の誘導の仕方等を教わり、実践して3匹。これで、囮が過労死する悲劇から免れた。しかも、囮2匹の禁を破り、テク2らが昨日獲った囮を使いながら、大きすぎる、等の文句たらたら。
おっさんは、下流側瀬肩附近にやってきて、見釣りをして釣り、次も。もう、オラにたいして、得意満面。
そして、さらに釣った。しかし、ハヤ。わっはっはっは。
テク3がオラが釣っていた瀬肩下の瀬で掛けた。止めた。竿が撓る。しかし、なかなか抜けない。身切れのバレであろう。
取り込めなくて良かった。なんで、オラには釣れなかったのかなあ。あゆみちゃんを差別じゃあ、セクハラじゃあ、と訴えたい気分。
テク2は、20に届かない、おかしい、と。そして、バレを多発していた。
なんちゅう贅沢な。オラは、今年の相模川では初めてではないかと思う出家の難行苦行の修行中やというのに。
ということで、初心者らしからぬおっさんは、5匹釣って、オラに圧勝した、と、ホームページに書いとけ、と大喜び。
昼過ぎ、様子を見に来たお百姓さんに、いっぱい能書きを垂れられて、自信喪失となっていておっさんをテク2が生き返らせました。
右岸ボサ下流では、引き寄せでしか取り込めない人がせっせと釣り上げていた。
下流側瀬のボサで2つに分かれている流れの左岸側で釣っていた人は、大漁の人、ボウズの人に分かれた。
上流側の瀬肩上流、柳附近では釣れている人もいたとのこと。
とはいえ、弁天で、4時の食事時間まで残っていた人は少なかったなあ。
9月19日 相模川弁天
連休中は、動く余地もなかろうと、骨休め。膝等の注射をしなくても、来週の金曜まで、痛くならないように、と、家にいると、テク2から電話。鼻環仕掛けをやるから、おいで、と。
当然ヒョイヒョイと、アユバックを担いで川へ。あゆみちゃんもオラのように、尻軽女であれば、ヘボにも楽しい1日になるのになあ。
テク2らと同じ昼頃から釣り始めるも、釣り人は予想よりも少ない。
下流側の瀬肩上流に入るも釣れない。オラの上流の人は、昼食の食堂街の賑わいの恩恵を受けているというのに。
少し遅れて握りを食べて、その人の上流にはいる。
ゴミ入れに、吸い殻を入れても容器が溶けないように、水を入れていると、掛かっていた。よそ見をしていて、あゆみちゃんが警戒心を解いてくれるなら、いつもよそ見をするけど。
3匹釣って、空間が狭くなったため、瀬肩附近へ。
しあわせ男が、針がなくなっているのに気がつかず、笑ってやった。
昨日は、初心者らしくないおっさんが、鉤素切れ、針のすっぽ抜けに気がつかなかったから、コツンまたは目印の走りがあったら、針を調べろ、と、教えたやろう。ヘボが、といえたことの楽しさ。
ところが、オラも針がなくなっていることに気がつかなかった。吹き下ろしの風で、オバセが利いて、囮が走った、と思ったときかなあ。
まあ、初心者らしくないおっさんがいないから、黙っておれば、恥をかかなくてすむもんなあ。
テク2が早上がりをする時、鼻環仕掛けを持ってきてくれた。その時掛かった。テク2に抜いてもらう。テク2は、それを囮にしろ、というが、とても大きくて無理。
しあわせ男もあんまり釣れてませんなあ。
テク3は、やっと抜くも、囮がタモに入り、掛かりアユはタモの外、さようならあ。テク3が取り込みミスをしたのを初めて見た。
オラの6匹がトップかも。
明日の囮の確保のために、オラのアユの中から使えるものをはじいて、代わりに昨日テク2らが釣ったアユをもらったため、計測結果は、それらの数字です。
下顎側線孔数4対左右対称は、24歳1,22歳2,21歳2,20歳1.
県産の30代目くらいの継代人工が、川に放流する前に、漁連の池で死んだため、漁連の義務放流量を確保するために海産畜養を購入したのではないか、と想像している。
弁天では、上流側の瀬肩より下流では、その海産畜養が釣りの主役になっていて有り難いことである。
もし、いつものように、川に放流してから、県産継代人工が死んでおれば、海産畜養が購入されることもなかったのではないかなあ。
その海産畜養は、浜名湖産と、和歌山産との話である。
オラは、和歌山産を和歌山の海で採捕した稚アユを畜養したものと思っていたが、そうでないのではないかなあ。
@すでに、囮に使っているときや、絞めたとき、雌には腹に赤い線が出ている。雄もサビが出はじめている。
A大井川で6月に釣れた海産馴致よりも大きい
ということから、日本海で採捕された稚アユを和歌山の養魚場で畜養しているということではないかなあ。
浜名湖産については、駿河湾のちアユが豊富であったことから、駿河湾か浜名湖で採捕した稚アユを畜養したのではないかなあ。
どらえもんおじさんらが、大井川に行ったとのこと。
可哀想なあゆみちゃんたち。オラの方が先に行きたかったのに。
9月21日 相模川弁天
今日は、敬老の日。あゆみちゃんだけが優しくしてくれんことには、この世界にやさしくしてくれる生物は何処にもいない。あゆみちゃん、頼みますよ。
なんでか、いつもは昼出勤のしあわせ男が、下流側の瀬肩附近にいる。今度の日曜日には、朝から釣ることになるから、そのための事前調査かなあ。
オラにはあゆみちゃんがやさしくないのに、しあわせ男は、瀬肩附近を1往復すると、8人を。まだ8時。
今日は敬老の日ですよ、あゆみちゃん。その叫びも効果なく、午前2匹のみ。
しあわせ男の釣れている、との電話で、テク2,テク3も昼前出勤。
テク2は、まあ、敬老の日の御利益をうけても良いか。あっちこっちで釣れているなあ。
しあわせ男が浅いところ、ヘチ寄りがポイントといったとおりの釣り方をしている。
午後、オラも瀬肩下流のザラ瀬を流れに立ってヘチ寄りをやってみたが、釣れず。アユは見えるのに。テク2がオラの後をせっせと釣り上げていた。
オラの腕では、無理であるということのよう。いつものトロに移る。
最後は、5時のチャイムが聞こえる直前に釣れて、これがあゆみちゃんのオラへの思いやりかなあ。しあわせ男が、昨日はくもっていた瀬肩附近の石が綺麗、といっていたのに、なんで釣れんのかなあ。
計7匹。
下顎側線孔数左右対称は、22歳2,21歳3,20歳1,19歳1.
24,5歳はなかったが、バレの悲しみがなく、助かったのかも。
一昨日釣ったアユは、絞めると腹が赤くなった雌ではあるが、腹子はなかった。
黒く、叩いた後のような色の雄を開いたテク2は、まだ性成熟がそれほど進んでいなかった、と。人間の手が子供の時に加わった海産畜養は、トッチャンボウヤかなあ。
そうすると、和歌山産の海産畜養は、日本海の海産稚アユではない、ということになるが。
昨日は、すごい人出で、釣れず、しあわせ男らも一時、中津に避難し、昼には釣れなかったか、風が強いかで、すいた相模に戻り、夕方に稼いだとのこと。
中秋の月餅を買いにいってよかった。ついてたなあ。
どらえもんおじさんが、藁科、大井川で、各50ほど釣ったということであるあるから、テク2,3に、今週いこうよう、と、猫なで声を出したが、効果なし。藁科が18歳以下ということであるから、大井川は混んでいるであろうから、来週の方がよいか。
千頭の青ノロもなくなったということであるから、来週にはいけるのではないかなあ。
9月22日 相模川弁天
昨日、しあわせ男や、テク2が20くらい釣ったということは、今日は、鮎が釣れない日、補充が間に合わない日、となるはず。
それに、股関節と膝へのヒアルロン酸の注射が、25日までできないから、節制して、痛みが出るのを防ぐしかない。ということで見るだけにする。
今日も、しあわせ男は8時前に出勤している。そして、釣り人もそれほど多くはない。
昨日同様、下流側瀬肩附近を往復していたが、3匹で、掛かりどころが悪い、25歳くらいが釣れたが、本格的な追いはない、石が一昨日のようにくもっている、と、早くも8時過ぎにはふてくされて?車に戻ってきた。
テク2らも含めて、川原では歩くことを嫌い、釣り場のすぐそばまで車を入れないと我慢できないくせに、水に入ると、あっちこっちとあゆみちゃんを捜して歩くこと、歩くこと。
多分、今日の状況を把握したことであるから、昨日、オラのように場所守のいた瀬を、あるいは、時合いを狙うのではないかなあ。
テク2やしあわせ男は、釣った鮎を一夜干しにすることが多いが、腹をさくと、雌の赤い線、雄の肌が黒くなっているにも拘わらず、腹子はない、少ない、とのこと。性成熟が未熟であるのに、錆びるということから、海産畜養が、トッチャンボウヤになる可能性が否定できないと思う。
昨日、オラが釣っていた少し上流のトロの人が、10時頃には20釣っていた、と監視員がいっていたが、そんなに釣れていない、せいぜい5,6匹。
この情報を信じて、明日は、釣り人が多くなるか、どうか判らないが、鮎が補充される日の可能性があることから、あゆみちゃんのお尻を追っかけることにしょう、ット。
9月23日 相模川弁天
これまで、釣れない人がいるのか、すいているなあ。
しあわせ男が来ていないから、下流側瀬肩近くを釣りながら右岸へと、突っ込んでいく。右岸に釣り人が来たときに釣れた。その人はさらに下流に行かず、止まってしまった。もう少し右岸に近づきたいのになあ。
仕方がないので、釣れた鮎を囮にして、上飛ばしをするとすぐに掛かった。引き寄せて糸をつかむと切れた。
0.4号フロロといえども、中ハリス附近をしばらく手入れしてないからなあ。せっかくテク2からもらった鼻環仕掛けをなくしてしまった。
それからは、またもや出家の修行。
左岸に戻り、右岸ボサ前のトロに入ろうとしたら、2人が入った。その下流で釣るも釣れないのに、2人組は数匹釣り上げていた。そして、鉤素を何回も切られていた。
右岸が強い瀬になっている左岸側にはいる。根掛かりをしたら、糸を切ればよい。
上流側の人は、25歳位を囮にして、それくらいの鮎をかけていた。下流側の人も。太糸、大鮎仕掛けを使っているのであろう。
右岸瀬肩のすぐ下流で釣っていた人が、0.4号で丼をしたとき、0.6号にしないと無理、といわれていた。
それらを見ていても、オラには釣れず。Iさんは、右岸下流ボサで鉤素切れをしたものの、瀬肩を左岸から釣って、もうじきつ抜け、というところ。
オラは修行に疲れて、4時の夕食を待たずにやめた。
テク2が、昨日よりも今日の方がきびしい、といっていたから、まあ、ボウズでも良いか。
初心者らしからぬおっさんが、昨日は混んでいる狩野川・雲金で10あまりを釣ったのに、今日は1匹とのこと。
おっさんがいないから、ボウズでも恥ずかしくない。
9月24日 相模川弁天
今日は、あんよがいたくなるかも知れないし、釣れないからどうしょうかなあ、と悩んでいたら、初心者らしくないおっさんが、狩野川での不振を払拭したくて、オラを鴨に選んだ。
当然、お誘いを断るほど、オラは意思堅固ではないから、ほいほい出かける。
10時出勤では、上流側の瀬と下流側の瀬の中間のトロがあいているわけがないよなあ。
またしても、下流側瀬肩附近を右岸へと突っ込んでいく。
フロロ0.4号を張り替え、天井糸まで大サービスで張り替え、鼻環仕掛けはしあわせ男作の優れもの。これで、丼も、鉤素切れもあろうはずがない。
しかし、なんでか、この仕掛けをあゆみちゃんに密告するものがいて、ウンともスンとも音沙汰がない。
困ったなあ。中州状でできた弛みも、その右岸側の瀬も、歩いただけで、なあんも釣れない。吸盤ボウイすら見放している。
おっさんは、テク2から指導を受けた最下流の瀬で3匹。もう喜色満面。昨日の1匹から完全に立ち直っている。
午後、しあわせ男やテク2らが加わり、おっさんは最下流の瀬等に入った。
おっさんは、テク2やしあわせ男が釣った後の瀬で3匹釣れて、腕が上がった、と自信満々。
それにひきかえ、午後には人のいなくなった右岸ボサトイ面のトロに入ったオラは、囮と上流へ散歩するも出家の修行が続くのみ。
結局、オラは瀬肩にも入るも、しあわせ男が釣り上げるのを見、また、トロで頑張る人が3時のおやつ、4時の夕食時に少し釣り上げているのを眺めるのみで、美事、難行苦行の修行に耐えて出家できました。
しあわせ男やテク2らが20に届かなかったから、オラのボウズも当たり前か。
おっさんが、T師匠の話として、狩野川・雲金に集結していた海産畜養の一群が下った、と。
もし、T師匠ではなく、高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」の学者先生らがこの現象を見たら、海産が10月はじめから産卵することが実証されたと発表するのであろう。
T師匠は、海産が産卵行動である下りのための集結、下りを行うのは、西風が吹き荒れた頃=木枯らし一番が吹いた頃、あるいはその後であることを観察されていること、そして、今年の狩野川には海産畜養が放流されていること、という2要因の意味を適切に理解し、判断されているから、海産畜養の下りであっても、遡上鮎の下りではない、と、判断されたのであろう。
相模川弁天で釣りの主役となっている海産畜養が下りを始めたのであれば、昨今のオラのボウズ、テク2らの20に届かない数も一理ある。
そして、小沢の堰の魚道が障害にならなければ、葉山等に放流されて大島のダム放水口附近までのぼったであろう海産畜養が、下ってくる日もあろうが。
ただ、昭和橋付近のコロガシでも、数は増えていないとのことであるから、下りが始まったから釣れない、といえるのか、どうか。
海産畜養は、継代人工が下りをしない、という鮎の本能の一部を失っている状態ではなさそう。
とはいえ、性成熟が進んでいないのに、外形が錆びる現象等、遡上鮎との生活史、生態の違いがあるように思える。
おっさんは、最下流の瀬で、海産畜養よりも小さい20歳くらいの乙女を釣った。瀬落ちまで下って取り込んだ。そのやりとりは、オラが大井川のあゆみちゃんに味わっているむんずほぐれつと同じ。
馬力だけでも、海産畜養と遡上鮎ではこの差がある。
T師匠は、狩野川と大井川の遡上鮎の馬力の差について、遡上距離、河川の長さの違い、と説明されたとのこと。
故松沢さんが、晩秋に、服部名人?が、釣れない、くるな、というのに郡上八幡に出かけられたのも、この馬力の差に惚れていたのではないかなあ。(「故松沢さんの思い出」)
いずれにしても、7匹を釣ったおっさんは、鼻高々。舟に入れるときに鮎を逃がしたり、鉤素を切られていたことに気がつかなかったことは、秘密にしておいたろう、ット。
なお、T師匠が、後1週間だったか、10日だったか忘れたが、のちには、瀬に鮎は再び戻り、釣りやすくなるといわれたとのこと。
このことは、故大竹さんが第1回オリンピック友釣り大学で話された「稲刈りの頃、鮎は再び瀬に戻る」と、一致する。故松沢さんもその通り、といわれた。
ということは、大井川に出かけるのも10月過ぎてからの方がいいのかなあ。
9月26日 相模川弁天
楽な右岸ボサ前は満員。
下流の中州で仕切られた袋状に行くが釣れず。中州から本流を釣るも、他の人には釣れてもオラには釣れず。下流側瀬肩に行き、右岸へと突っ込んでいくも釣れず。
3日目の出家は濃厚に。
午後、オラのすぐ上の人は、昼時の賑わいを楽しんでいた。その後も釣れていたから、10を超えている。
強い当たり、ためた、川原まで距離があるが、引き寄せでの粗相が気になる。河原に立ち抜くが身切れ。
前回の丼以来の掛かりやのになあ。3時のおやつを待たずに退散。
チャーチルの回想録?に、スターリンがおしっこに来た時、チャーチルが隠すようにおしっこをしていた。スターリンが、なんで隠すのか、と尋ねた。チャーチルは、あんたの国では、大きいものはなんでも国有化するから、と答えた。
もう一つ。
スターリンがあんたらの国は、国民の財産をいつの間にか、かすめ取っている。サギだ、といった。チャーチルは、あんたの国では、人を殺して、財産を奪っている。強盗だ、と。
さらに、国民がダマされているという意識がなく、生活をできるということは、最良の統治だ、と。
どらえもんおじさんは、詐欺師だ。
かって、どらえもんおじさんにダマされて、さめざめと泣いていたあゆみちゃんに、あんなほっかぶりをしたおっさんが好み?と尋ねた。
あゆみちゃんは、違うわよ、と。
そして、やわらかい物腰や、あまあいささやきがヨン様そっくりで、ダイヤモンドの指輪をあげる、金のネックレスもあげる、といわれて、舞い上がってしまったの。気がついたら、だっこされていて、なんでえ?と、まだ、良くわかんないのよ。人間界では、詐欺師を取り締まらないの?
無理ですよ。だましのテクニックに優れた人は、腕の良い、名人といわれて尊敬されますよ。
だから、鮎王国の女王様に電話をして、ダマされないようにすること、オラのように純情な人と遊ぶこと、と、話しておいて。
といったのに、相も変わらず、詐欺師のテクニックにころっとダマされて、純情可憐なオラと遊んでくれるあゆみちゃんがいないとは、嘆かわしい世の中やなあ。
遡上の多かった相模川での大会の時、審査委員長の永井さんが、チラシの鉤素を長く出して、囮をオモリがわりに使うような釣り方をしていたから、2回戦ではその釣り方を禁止された。
その釣り方は、あゆみちゃんをだまして、たぶらかして、あゆみちゃんの意思で、なびかせるのではなく、強盗と同じく、あゆみちゃんに気がなくても釣るやり方である。それは、友釣りではなく、引っかけと同じである、と。
その後、その大会では、計量対象が10センチ以上、チラシの長さ、針数の制限が定められたのではないかなあ。
初心者らしくないおっさんよお、チラシの鉤素を長くして、あゆみちゃんにその気にさせる努力を捨てて、永井さんを哀しませることのないようにな。
そろそろ、相模川の海産畜養もおわりかなあ。遡上鮎と同じように、「稲刈りの頃再び瀬に戻る」ことがあるのかなあ。
遡上鮎であれば、稲刈りの頃、また瀬に戻るから、ヘボでも、釣れるが。
どらえもんおじさんらのだましのテクニックの10分の1でも、オラに備わっていたら、あゆみちゃんを売ってネエちゃんを買う、というオラの高邁な理想の実現は無理としても、あゆみちゃんとのデート代は稼げるのではないかなあ。
大井川や狩野川、安倍川へのアッシー君はいないかなあ。
9月27日 相模川弁天
昨日よりもすいている。
右岸ボサトイ面にはいる。出家の修行と決別したいが、釣れているのは、ボサの所とその上流の右岸、それに、珍しく瀬肩を左岸から釣っている人。
下流側の瀬の最下流のザラ瀬上では、釣れている人とそうでない人の貧富の差が大きいとのこと。
とはいえ、午前に22歳くらいが2匹釣れたから、まずは一安心。
10,20の人と比べれば、ささやかではあるが、何処が釣れるか、は、日によって異なるから、やむをえんこと。
大島の鵜止まりの淵に尺鮎を釣りに行った人たちは、ポット行って、囮を放したらすぐに30センチが掛かった幸運な人も、ボウズの人もあった。29歳も。
チャラとヘチと水深のあるところが、とりあえず無難な場所とのこと。
腹に札束を詰め込んだ社長が25歳を含めて10近く釣ったが、それらも下顎側線孔数は4対左右対称。
10月1日 相模川弁天
先日、昭和橋のすぐ上流の分流に、雄物川さんに連れていってもらった。そこで、夕方、中層というよりも、表層で乱舞する鮎がみられるから、と。そして、そこで友釣りをしている人は掛かるのに、コロガシでは、オモリを軽くしても掛からない、と。
オラは、その分流にいるのが海産畜養か、人工かに興味があった。
結果は、雄物川さんからもらった25,6歳が、下顎側線孔数4対左右対称、腹子はまだ少しの状態、ということ。
雄物川さんの話によると、夕方に、おかしな現象が生じたのは、最近のこと。ただ、オラが行った日にはその乱舞は見られなかった。
雄物川さんは、早朝やってきて、甘露煮にする鮎を獲り、朝食と昼寝のために帰り、午後やってきて、また急速冷凍庫に甘露煮の材料をためこむから、朝から働いているお仲間さんから、少しは遠慮しろ、と。なんか、オラの心情に、お仲間さんの心情は通じるなあ。
その雄物川さんが、一番大きい鮎が釣れるのは、ブロックの下にはいい石が入っていて、そこに仕掛けを入れて、オモリが石をトントンと叩くと、びっくりした大鮎が飛び出してきて、掛かる、と。その時、ブロックに潜り込まれないように操作をし、掛かり鮎が上流に走るようにすると取り込める、と。
雄物川さんに貰った鮎を食べたが、砂を咬んでいる。その場所から、泥かぶりのアカをはんでいるとは思っていたが。
なんで、海産畜養が、そのような場所を回遊しているのかなあ。水量の多い時は、本流からの出鮎もあったとのこと。
海産畜養であっても、放流地点から遡上する範囲が狭いものもいるということ。
もう一つ、その場所でも尺鮎が、あるいは尺に近い鮎が出ているとのこと。
最高の場所を求めない鮎がいるから、補充が利くということかなあ。それとも、故松沢さんがいわれていた金の塊のコケが生息しなくなって、ナマリのコケになったから、一等地を求めて、争わなくても良くなった、ということに通じる現象かなあ。
遡上量の多かった2008年は、弁天下流のトロでは、一回投網を打つと、200匹ほどが入り、舟に引き上げるのが大変だった、ということであるが、今年は10,20獲れれば大漁との話があった。そうすると、あゆみちゃんの格差社会は、補充者の、縄張り予備軍の膨大な数で成り立っているのかなあ。
高松さんが、遡上鮎と、海産畜養では、ちょっと違う、と話されたことがあったが、容姿、習性、生活態度で、どのように、「少し違う」のかなあ。
ということで、もはや二度とは経験できないであろう海産畜養とつき合いたくて、初心者らしくないおっさんの狩野川へのお誘いを断って、弁天へ。
下流側瀬肩上流は釣れませんなあ。その下流の大きな波立ちがある瀬の瀬脇よりも左岸側を釣る。
やっと2匹。
鼻環仕掛けは、しあわせ男からぶんどったもの。当然、自動鉤素止めは、性能がよいものを使っている。
中ハリスに、吸盤ボウイがからんだ時についたのであろうくしゃくしゃがあることは気にはなっていたが、使っていた。そして切れた。囮が走ったときに。
また、しあわせ男御作の鼻環仕掛けに替えて、7.5号太軸の針で針折れが。
なんと、市販の鼻環仕掛けでは鉤素切れをしていたが、自動鉤素止めの性能が良いため、針が折れた。コツン、と来ただけであるのに。
もう怒ったぞ。8号の針、1.5号の鉤素の市販品に代える。
しかし、敵もさるもの。あゆみ危うきに近づかず。
またしても完敗。
すごすごと、いつもの下流側瀬肩上流に移る。
夕食時の賑わいを狙って、テク2,テク3もやってきて、オラと上流側の人が左岸、テク2と3が右岸で4角形を形成している。オラ以外は釣れている。上流側の人は、夕食時の賑わいを満喫しているというのに。
やっと1匹。
テク2は、大島の鵜止まりの淵で、28.5センチを含む10近くの鮎を釣ってから弁天に来た。テク3はいつものように昼出勤で、10近くをあっちこっちで。
マムシをつかまえるおっさんも昼過ぎに来て、最下流の瀬から釣りのぼり10ほど。マムシさんは、最下流の瀬肩上で、先日尺鮎を釣ったから、満足している。
ということで、狩野川のお誘いを断ったにも拘わらず、25歳以上のあゆみちゃんをだっこできませんでした。ただ、弁天でも尺鮎がいる可能性があることは確認できたと思っています。
下顎側線孔数4対左右対称は、3匹とも。23歳1,22歳1,20歳1.
10月3日 相模川弁天
気予報ははずれ、お日様にこにこ。しかし、弁天に着くと、雨がぽたり、ぽたり。キャンプ場に避難。缶コーヒーを飲めど、やまず。朝ビールを飲んで時間をつぶす。
10時頃から最下流の瀬に行くと、テク2が右岸から釣っている。そのトイ面で釣れ、と。釣れません。上流へと犬の散歩。
前回、7.5号の太軸針折れ、中ハリスが切れたところまでのぼり、テク2御作のチラシに替える。掛かった。囮に手ごろ。
次に来たのはまたもや、吸盤ボウイ。何回いったらわかるんや。貧乏人の恋路を邪魔するな、地獄に堕ちるぞお。幸い中ハリスを、チラシをくしゃくしゃにされなかっただけ幸運。
久しぶりに箱入り娘にするのも釣れて、午前3.
立て竿で、強い吹き下ろしの風であるから、オバセがよく効く。そして、釣り人が変な天気で少なく、動ける。テク2のチラシは、細糸であるが、大鮎が掛かると伸びる。それで、衝撃を緩和しているのかなあ。
昨日の雨が小降りになった3時頃から、下流側の瀬肩附近を釣ったテク2としあわせ男はよく釣れたとのこと。共に丼もしたとのこと。
とはいえ、その瀬肩に行かずに、朝と同じ瀬脇よりも手前で釣る。
テク2御作のチラシ2本を大事に使い、2本ですました。
結果は、計9匹。あと1匹を求めて、瀬肩上流に移るが、夕食時の賑わいのご利益には預かれなかった。
下顎側線孔数4対左右対称は、26歳1,23歳2,22歳3,21歳2,20歳1.
テク2が鮎が変わった、と。瀬では遡上鮎のスリムな鮎が、そして、浅いところと水深のあるところでは、海産畜養の大鮎が釣れる、と。
今日釣れたところは水深のあるところ。右岸側の流れは強いが、その瀬脇から手前は流れが弱く、立て竿で釣ることのできるオラにとっては有り難いところ。
マムシさんは昼過ぎに来たが、10ほど、テク3は10を超えている。
10月4日 相模川弁天
今日は入る場所がないかも知れないが、そして、昨日、しあわせ男の鼻環仕掛けとテク2のチラシで26歳がだっこできたことから、テクニシャンらがいかに、最良の道具を見つけ、使用しているかも判ったから、休んでも良いが、台風がうろちょろしているから、出勤した。
最下流の瀬にタマちゃんは見えるが、テク2らは来てないよう。
昨日の場所の上流側があいていた。そこはケラレがあった場所。1日で補充がされないから、昨日釣れた場所でない方がよい。
しかし、ウンともスンとも言いませんなあ。食事時間、おやつの時間ではないからかなあ。それともテク2らがいうように下った海産畜養がいるということかなあ。オラはたっぷりと釣り残しているのになあ。
囮さんよお、今日は、すこおし働いて、長あく働いてな。
その上、右岸から釣っている人が、テク2らと違い、玉引きで、瀬を釣っているのではなく、瀬脇よりも沖、ということはオラが釣っているところと同じ所に囮を入れている。お祭りは嫌じゃ。
幸い、袋からの流れ出し附近が釣れずにあいたので、移る。
他の人が釣れないところに入ってオラに釣れるわけがないよなあ。
11時半になっても、昼食時の恩恵に浴しているのは、ほんの数人で、しかもそれらの少数の人も1匹だけ。
だあれも、早飯を食べにやって来ないから、オラが早ビールを飲み、握りを食い、あゆみちゃんの昼食と、場所が空くのを待つことにしょう。
左岸の最下流の瀬肩上流があいた。
強い当たり。午前、右岸の最下流の瀬に入ったタマちゃんが、強い当たりがあるも、蹴られて、すぐに同じ所に囮を入れたら、釣れた、とのことであるから、オラも同じ所に囮を入れた。しかし、変化なし。
その主が大鮎か、コイ敵かは判らない。
また、朝の袋からの流れ出しに立つ。その上流には髭さんがいる。髭さんの場所はオラが昨日舟を置いていたところ。
すぐに来た。川原がないため、抜くか、引き寄せるか、悩んだが、風がないから抜いた。
箱入り娘にしたいところであるが、囮に不自由しているから囮にした。
すぐに来た。そしてまたも。抜いたり、引き寄せたり、中ハリスの傷が気になったり、と、心配ばかり。
その一瞬の入れ掛かりが過ぎると、タバコを吸う時間だけ。
ここは3時のおやつもなかったのではないかなあ。
ところが、おやつの時間があった。髭さんが釣れずに移ったから、動く空間は広い。
3匹釣れて、1匹は箱入り娘に。
4時の夕食時間前に、午前6匹釣り、午後は中ハリスが引き寄せで取り込むときに切れて丼をしたタマちゃんに帰る、といって上がりました。タマちゃんは、あと1日しか、相模川で釣りをできないため、今日は最後まで働くとのこと。
そうすると、14日以降は、狩野川、大井川のアッシー君になってもらえるなあ。
下顎側線孔数4対左右対称は、26歳1, 23歳2, 22歳2, 21歳1.
幸いにして、テク2のチラシも、しあわせ男の鼻環仕掛けの取りかえもせずに、26歳をだっこできたという幸運に恵まれました。
大鮎の大会に出ていた一位のお局さんは釣れなかったよう。
オラと同じ頃に上がった同年配くらいの人は、7匹とのこと。
10月7日 相模川弁天
明日、明後日の台風によるダム放流で、2009年相模川の鮎は終わるはず。12月生まれであろう数少ない遡上鮎は、増水にもかかわらず、性成熟が進んでいないであろうから残り、海産畜養も全てが下ることはなかろうが、14日までにコケがつくとは、富栄養の相模川でもむつかしいのではないかなあ。
ということで、雨の降る中、昼ビールも、握りも持たずに出勤。
場所は、増水が始まっても逃げやすい弁天の上流側瀬肩上流、柳の上流へ。7,8月にはお世話になり、楽しませてもらったが、どうなっているのかなあ。人出はいつも多いが。
テク2御作のチラシで、初めてのケラレ。
どのあたりがあゆみちゃんのたまり場か、判らずに動くが、おじゃま虫まで、今日はお休み。
柳のところがあいているからそこに移る。
久しぶりの女子高生。遡上鮎かなあ。
女子高生を囮にすると、キラッ、目印は上流に走る。すぐに乙女を。その乙女は箱入り娘にしたいが、働いてもらうしかない。しあわせ男の鼻環仕掛けもまだ傷んでいないはず。
大きい鮎を囮にして取り込みが大変。
沖に出て行かないでえ、オラは詐欺師ではないよう。純情可憐なジジーよ。安心してえ、と叫べど、何回も沖に走る。
そのような楽しいあゆみちゃんとの出合いも、チラシから8号の錨に替えて、まずはバレ。ついで、8号の針折れ。出家修行中であれば、3時のおやつまで頑張るが、セーターを着込んでいるのに寒い、腹減った、のどか乾いた、ということで、右岸の串川の濁りが入り、左岸が入れ掛かりになるかも、とは思えど、寒さかな。
ということで、御神酒をおなかに入れて書いています。
下顎側線孔数4対左右対称は、25歳1,24歳1,23歳1,22歳1,女子高生1の5匹。
これで、今年の相模は終わるはずです。
これを書いていると、昼近くに柳にやってきた初心者らしくないおっさんから電話。
おっさんは、釣れず、左岸分流に行くと行っていたが、下流側瀬肩下流の袋に入っていた。本流の濁りを嫌って袋に入ってきた鮎で入れ掛かりとのこと。0.25のフロロで丼をしたが、0.6号通しにして、28歳くらいも釣れたとのこと。
天竜玉三郎が、濁りが入ると、濁りを嫌い、濁りの遅いところへ移るため、そこにいる先住者との争いから、攻撃衝動が解発されて、入れ掛かりになる、と書かれていたが、その状況を楽しんでいる。
オラも、アメニモマケズ、飲まず、食わずの生活ができる年頃であれば、玉三郎のご利益をうけていたであろうに。
ジジーはジジー並みに楽しめればよいか。
追伸
初心者らしからぬおっさんから、結果報告が。
あと1歩で10匹に届かなかった、と。
当然ですよ。お祭りは長くは続きませんよ。終わりがありますよ。袋にも濁りが入って、おわり、と。
お祭りの時に、丼コをして、0.6号に張り替え、1.5号の鉤素に替えているようじゃあ、まだまだ経験不足ですね。これまで、0.25号で丼子をしなかっただけでも感謝しなさいよ。太糸に替えていたのになあ。
さて、おっさんの疑問は、濁りが入り、袋に避難していたあゆみちゃんは何処へ行くのかなあ、何処にも、もう行かないのかなあ。故松沢さんならあゆみちゃんに聞いたことはないから判らんが、と前置きをして、観察されたことを話してもらえるが、それが叶わぬから、おっさんのその疑問は、おっさんの師匠に聞いて、教えて。
なお、場面は違うが、攻撃衝動が解発されて、入れ掛かりになるとき、故松沢さんは、針を尻尾よりも内側になるようにセットして、頭掛かりにして、活き絞めにされていたとのこと。
その時、囮は?
オバセ操作をせずに、オモリをつけて沈ませるとのこと。そうはいってもそれらしく、操作をされていたのであろうが。
10月10日 相模川弁天
台風で2メートルほど増水したが、ほぼ平水に。濁りはあるが、湖産放流全盛時代の酒匂で、真っ黄色の水でも釣れたから、可能性はある。ただ、酒匂の時は、増水から1週間ほどたっていたから、藍藻は付き始めていた。ということで、アカ付きが心配。残りアカがあるのかなあ。
また。今年、釣りの主役であった海産畜養が、どの程度下らずに残っているのかなあ。
海産の下りは、西風の吹く頃=木枯らし一番の吹く頃、というのが、学者先生の説とは異なり、故松沢さんや、弥太さんら、職漁師のの観察結果である。
しかし、弥太さんは、例外として、秋分の頃以降の増水の時は、一気に下る、と。
この「一気に下る」の意味は、性成熟がある程度の段階に達している鮎が対象であること、また、通常の下りが頭を上流に向けて、尻尾の方から下り、数日休みながら下る行動にたいして、頭を下流に向けて、下るということである。
したがって、残っている海産鮎もいるはず。
今日が最後の相模川になるから、長老がかってされていたように、御神酒を川に捧げて、感謝しないと。
ということで、出家修行もいとわず。
7,8月にお世話になった上流側瀬肩上流にはいる。
やっと、掛かった。大鮎かも。一番安い7メートルの竿は折れない。0.4号のフロロが切れた。今年初めてのニゴイが囮を誘拐していった。
この安もんの竿で尺鮎も取り込める可能性のあることを検証できた。
跳ねているのは、中高生とハヤ。海産畜養の乙女は下ったのかなあ。
目印が走る。ニゴイに追われたのかも。
3度目の目印が走る。あら、あゆみちゃんや。
ボサの小島付近で鮎が跳ねている。そこに移る。ヘチの泥かぶりの石頭が磨かれている。
掛かった。今度こそ成敗するぞ、とゆっくりとヘチに寄せる。なんじゃあ、ナマズじゃあ。
弥太さんが、ナマズは蚤の夫婦といわれているから、雌であろう。最後にばれた。
また、元の場所に戻る。
想定外のあゆみちゃんに満足し、また、囮を休ませるために、早めの御神酒の時間にする。
長老は、川にドブドブと御神酒をあげていたが、オラはそんなもったいないことはできない。ちょっぴり、御神酒を川に注いで、残りは胃袋へ。
長老が見たら、儀礼はもっと真面目にやれ、といわれるやろうなあ。
長老は、今年1回釣りに来られたのを見たが、引退されるとのこと。オラよりも足腰がしっかりしているのに、引退されるということは、オラの引退ももうじきかなあ。
瀬肩附近の人が瀬肩附近から動かない。釣れているのかなあ。釣れていないとオトリがもたないはず。
2匹目が釣れた。それが根掛かりをしたときに泥かぶりでない石をなでると、アカが残っている。瀬肩でも残っているのかなあ。
3時のおやつの前に満足してやめた。
初心者らしからぬおっさんが、昨日中津の角田大橋上流の瀬の芯等で、まともな鮎を含んで10ほど釣ったが、相模でもまだ海産畜養が釣れるのかも。
下顎側線孔数4対左右対称。18歳1,22歳1.
10月11日 中津川八菅上流
今年の中津川は、相性が悪かった。放流された鮎が、オラにとっては好きではない継代人工の、しかも、綺麗ではないものが多かったことから、7月上旬以来の中津川である。
鉄塔下からカジ淵まで見たが、竿抜けポイントには違いないが、鮎がいるのかどうか、判らない。それで、放流地点になったこともあり得るであろう左岸から右岸へ流れが変わるすぐ上流の流れのゆるい所に右岸側から竿を出す。
左岸側が深くなっていて、流れの真ん中よりも左岸側がポイントとのこと。
今回も、那珂川の湯殿大橋下流と同じく、犬公方さんがオラの上流に。
釣れないはずが釣れた。左岸からの1人には及ばないが、右岸側は動けるからそれなりに釣れて助かった。
瀬肩附近は、入れ替わり立ち替わり、人が入っていたが、昼には誰もいないため、そこに入って2匹釣れた。
1時でやめたが、多くの人が1ケタの中、12匹釣れた。
容姿は、6月の鮎と比べると、綺麗に見えた。下顎側線孔数は見なかった。
22,3歳が最大で、中学生は、遡上鮎かなあ。絞めるとサビが出たが、釣れたときは美肌であった。
10月14日 相模川弁天 中津川タイシンカン
すでに、相模川に御神酒を捧げたから、他の川に行きたいが、だあれも誘ってくれない。
また御神酒を持って弁天へ。下流側の瀬肩上流を見ると、こぶし大の石が頭大の石を埋めているよう。アカはないであろうということで、上流側の瀬肩の上流へと移動。
数人の釣り人はいるが、数匹が釣れているだけ。
水温17度。秋の水温になった。
故松沢さんが、水温が低くても、鮎は釣れる、と。西風が吹き荒れたのちは、高くても15度で、12,3度の水温になるが、鮎は釣れる。
しかし、水温が低下した直後はあまり釣れない、と。低くなった水温になれるまで、数日かかる、と。
そうすると、状況はあまり良くない。その上、海産畜養で、性成熟が一定程度進んだ鮎は下っているよう。アカも残りアカ狙い。釣れなくても当然か。
昼、歩くこと大嫌いな人に、中津へ、との電話が。
八菅橋下流のタイシンカン前へ。
石は綺麗であるが、鮎が磨いたものなのか、違うのか、判らない。6月、7月は、青い苔で、鮎の気配はなかったとのこと。
それから見ると、鮎の気配はあるが。
しあわせ男が、竿を早々と畳んでいるから、さぞかし釣ったと思っていたら、1匹釣ったから満足、と。鮎の気配が少ないところではこれで充分、と。
ご一行様は、数匹釣っているが、オラのみ、ボウズ。
テク2が川に御神酒を捧げて、少しオラが飲んで今年の相模、中津は終わりました。
さようなら大井川 |
10月21日 川根温泉から駿遠橋下流
残りアカ狙いであり、また、8日の台風によるダム放流で、性成熟が一定程度進んだ鮎は一気に下っているはずであるから、大鮎はおらず、対象は女子高生以下のはず。
それでも、川がどうなっているのか、鮎は?。 状況を知りたい。
新横浜6時発のひかりに乗り、7時30分頃に金谷を出る大井川鉄道に。
JR東海が小田原発6時40分頃の静岡行き鈍行に、特急を割り込ませたために、さらには、その前に、小田原発6時50分頃のこだまに、のぞみを割り込ませたために、8時30分、9時17分の大井川鉄道に乗るには、タクシー代を含めて片道1万円コースのひかりに乗るしかなくなった。
いつものように砂利ばかりの川を見ながら、笹間渡へ。
川根温泉の左岸にあった残りアカの期待できる石組みは、前回のダム放流で埋まっていたから、右岸へ。瀬は、前回のダム放流後のやせた瀬のまま。
右岸堰下の大石の回りが頭大の石が詰まっていれば、残りアカとアカのつき始めが期待できるが、大石の回りは砂利。
オトリは泳ぐが釣れず。
七曲がりが砂利で埋まってから、腰の曲がった方が、ここで竿を出しているのを数年前に見たが、その頃よりも石の状況は一層悪くなっている。
鉄橋上流右岸に大石が転がっていて、回りに頭大の石が詰まっていたときは、良かったなあ。
発電所廃屋下流の大石が流れの中にあったところも。そこは、袋状になっていて残りアカを求めて鮎がたまっていたが、流れが変わり今では川原に。
ということで、鉄橋上流では、残りアカは期待できない。
温泉下流左岸の大石が転がっているところへ。
釣れませんなあ。
やっと、オトリが走る。7号の針折れ。乙女はもういない、はずが。誰じゃ嘘をついたのは。なにいうてんねん、あんたじゃろう。
抜里に人が見える。網打ちであった。抜里は何処もかも石は埋まっている。
右岸瀬落ちの大石のところを狙いたいが、根掛かりがこわいし、養殖じゃあ、石が作る複雑な流れにうまく入ってくれそうもない。
萬サ翁が網打ちを怖れることはない、そんなこわいところでは寝ることができない、と、瀬に入ってくれるから、と話されている。
故松沢さんも、晩秋の郡上八幡の大石に座って、渦巻くそのところに網打ちがアユを追いこんでくれて120匹ほどの大漁となった。故松沢さんは、網打ちに感謝して20ほどのアユをあげていたが。(「故松沢さんの思い出」の「晩秋の長良川と故松沢さん」)
そのような事例がわかっていても、避けるしかない。
チャラにアカがついている。そこに釣り人1人。1匹釣れたとのこと。
水際から数メートル下がって釣っているが。
アカがついているのは100メートルもない区間だけ。なんでそこだけ、アカがついているのかなあ。
見るだけにして、左岸トンネル前の大石のところへ。
ここは、釣り吉さんも12日に竿を出されているのではないかなあ。そして、釣り吉さんは、大鮎がたまるところ、と書かれている。
しかし、困った。これまでは、川原からの釣りになり、安全、楽であったが、小石の瀬落ち手前で、立つと小石が流れる。そのまま瀬落ちにドボンすることはないが、あんまり気分は良くない。ことに、大鮎が掛かったときは、取り込みに苦労しそう。
とはいえ、竿を出すしかない。
長島ダムも、笹間ダムも、井川ダムもなかった昭和35年以前の少年の頃の家山の寿司屋さんらは、立ち込んで、右岸側の流れを釣れば、大鮎が釣れる、とわかっていても、水量が多く、流れが強いために、立ち込めなかった。
そこで、トンネル付近の崖を下り、右岸での釣りをしたとのこと。
その付近であろう場所の大石で掛かった。女子高生2匹。
蹴られたのを潮に、駿遠橋下流へ。
初心者らしからぬおっさんが午後に数を釣り、オラよりも多くなって喜んだ左岸への流れは砂利、小石で埋まっている。
目的地の左岸前山の大石は、上流側の僅かな区間を除いて、竿が届かない状況に変わった。
ということで、2時過ぎではあるが、とぼとぼと宿へと向かう。
釣れるときはいつも竿を出されている近所の人の姿が見えないから、釣れない、とはわかっているが、2つに別れている瀬のヘチにアカがついている。
囮を入れる。ヘチでよいのに、瀬へと出て行く。掛かった。なんでじゃ。食いもんはない、それでもやせていない女子高生。何処で、何を食っているのかなあ。
夜明け前ではなく、夕方になる前の家山を散歩するのは、久々のこと。
遊んでいる小学生は、初めて見たのではないかなあ。
水の中を歩くと、右往左往していた小中学生のあゆみちゃんたちはどうなったのかなあ。餓死したのかなあ、それとも?
10月22日 大井川抜里
夜明け前、宿の窓の真ん前にオリオンが見える。
双子座流星群の流れ星を見られるかも、と、駿遠橋を渡り、コンビニへ。氷もビールも酒も手に入れた。深夜勤務の可愛いネエちゃん、24,5歳のあゆみちゃんのように魅力たっぷりの姉ちゃんにも会えた。後はあゆみちゃんに会うだけ。
10月中旬、下旬頃以降、釣れ始める時間は9時頃から、と、故松沢さんはいわれていたが、網打ちよりも先に到着したいから、6時過ぎに出かける。
トンネル上のアカが付き始めているところへ。
石が作る流れが音をたてているところにするか、音はたててないが、波立ちの範囲が広いところにするか、テク2なら、どっちをとるかなあ。
流れ星同様、運でしか、偶然でしか、あゆみちゃんとの出合いを期待できないオラは、波立ちの範囲が広い方に竿を出す。
釣れませんなあ。音を出している波立ちの方も。
たまに跳ねがあるのは右岸側。
何キロもの川はオラが独り占めであるから、立ち込んでいく。芯にはアカがついていない。右岸側も。
左岸よりの瀬脇よりもヘチ寄りだけにアカがついている。ヘチのはみ跡の主は何処にいるのかなあ。
昨日、この場所の2人は3時でも釣りをされていたが、オトリ交換ができた、という程度の数かなあ。
針折れをした左岸大石のところへ。
テク2御作のチラシ。折れるものなら折ってみよ。
温存していた養殖君はよく働いてくれる。大石と大石の間にも、大石の左岸側にも。
上下2往復したが。
たまたま1人の乙女がいただけということかなあ。
やっと、トンネルのところを汽車が通った。
蒸気機関車も見納めかも、と思い、見送る。
笹間渡鉄橋、あるいは、七曲がりで崖の中腹から聞こえる汽笛が、電車に乗る時間、夕方には宿へたどりつくための下りの準備、心構えの目安になっていた。
サボリーマンの頃、汽車は2台走るものと思っていたのに、2台目が来ない。平日は1台しか走らないことを知らなかったため、下りの準備を怠り、慌てたことがあったが、その時、どのように対応したのか、忘れた。
朝帰りをしたこともあったが、釣れなくて、ではなく、ダム放流の濁りが入ったり、ゴロちゃんにいじめられたりしたことが原因であった。
お日様にこにこの天気予報ははずれて、秋風が身に沁みるものの、セーターを着込んでいたから、朝帰りをする理由が見つからない。やっと、早上がりの時間になった。朝帰りにならなくて、良かった、良かった。
昨日は、川根温泉から、駿遠橋が見えるところまで、2,3時間もかからず。
いかに釣り場所が減ったことか。
あっちこっちに釣り場所があり、あっちこっちのあゆみちゃんに声をかけて、振られ、ケラレ、張り倒されて涙に暮れ、そして、たまには運良く美女をだっこできて、時間のたつのを忘れて、駿遠橋が見える付近にやっとたどりつきほっとする、ということは、もうないのではないかなあ。それほど、砂利、小石が頭大の石、ひと抱えある石を埋め尽くしている。
1時30分の電車に乗り、ビールを飲み、と、いつもの通りの時間を過ごしました。
神座の下流寄りに釣り人は見えるが、丹原、鍋島には釣り人なし。神座の釣り人も、友釣りかどうか、わからない。
96年、その年のアユ雑誌に天竜玉三郎が大井川が水無川でなくなって、遡上アユが釣れる、と紹介された。
そして、亡き師匠らと丹原、抜里で釣りをしたことが、大井川での初体験。亡き師匠らはアカ付きの悪い中、10匹以上釣っているのに、オラは数匹。他の川と何か、勝手が違っていた。
阿仁川に帰って行ったラッパさんが、神座で丼をした。上流で釣っていたオラがそれを釣り上げた。丼をしたアユが、上流に泳いでいくとは、びっくりした。
アッシー君も、その年、何回丼をしたかなあ。馬力の強さにびっくりしたなあ。
シャネル5番の香りは、時期限定ではあったものの、うっとりとさせてくれた。
尻ビレが、鮮やかな蛍光色のオレンジ色に縁取られて、その中を放射状に鮮やかな、明るい蛍光色の青色が走っている衣装をまとっていた。
こんなあゆみちゃんを女好きのオラがほおっておくわけがない。
その年、1人で家山駅に降りた。
どうして、家山川の橋を渡り、桜並木にある囮屋さんを知ったのかわからない。そこから駿遠橋に釣りのぼり、宿に着いたが、行き当たりばったりのオラであるから、偶然としかいいようがないが。
笹間渡にもオトリを置いているところがあることを知り、七曲がりや笹間渡も釣り場になった。しかし、大井川のオトリは10月のはじめにはなくなるし、電話をしていっても、なくなった、といわれて途方にくれたこともあった。
昭和橋に始めていったときには、地名の駅から歩いていて、どらえもんおじさんらご一行に偶然遭遇した。ご一行は濁っているため、千頭へと行かれたのであろう。その時、もうじき澄んで釣れるようになるから、とどらえもんおじさんが言われた。
その通りになり、20数人のゆみちゃんをだっこできた。
寿司屋さんには、始めて家山に降り立った日に、晩飯を食べるところを捜していて、偶然はいった。
そして、それからのち、井川ダムがなかった頃の大井川、あゆみちゃんのことを聞くようになった。
笹間ダムが水無川にしてのち、水利権更新の時には、中電にバスで押しかけたとのこと。その成果があって、オラの大井川のあゆみちゃん狂いが始まった。
以下、続く
さようなら大井川:2
長島ダムがなかった頃
大井川の川と鮎の魅力を振り返っておく。
1 原則放流鮎はいない
2 珪藻が優占種である
3 時期限定であったが、シャネル5番の香りに酔いしれることができ、また、容姿端麗の美女であった
4 狩野川の遡上アユよりも大きく、また、馬力が強い
5 井川ダムによる掃流力の阻害が、少しは少なかったから、まだ石が流れのなかにあった。物置小屋のような石、いかい石はすでに多くは埋まっていたが。
1 原則放流鮎はいない
放流は、少なくとも、新大井川漁協管内では、ダム上流と支流にしか行われていなかった。
したがって、遡上量の多寡が、釣れる数、大きさに作用していた。
ある年の昭和橋下流の囮屋さんは、第2東名での橋脚工事補償として、その付近を管理する大井川漁協が人工を放流した、ということをうらやんで、こっちに放流してくれたらよいのに、と、いわれた。
しかし、オラは、放流ものにうんざりしていたから、放流がされていないことが大井川へ通勤する大きな要因でもあった。ことに、狩野川ですら、遡上量が激減して放流河川に成り下がり、しかも、冷水病によって湖産が放流の主役から転落して継代人工が釣りの主役となっていたから、なおさら、「本物」のあゆみちゃんに会いたくて、大井川詣でをすることとなった。
その頃の日釣り券は、500円、年券は3000円であった。
アマゴは、家山川での釣り大会等の他は、稚魚放流が支流で行われていたようであるが、本流にもいたよう。
亡き相模川の主が、遡上量が多かった年の昭和橋上流、今は流れが変わっているが、竹藪の前で釣っていると、良型のアマゴが目印に飛びついてきたから、アマゴも釣りたかった、と。
斎藤邦明「アユ釣り大全」の信者の一人として、継代人工が放流されていない川は、残しておいて欲しいと願っている。
そうはいっても、昨今の大井川の釣り人の多さから、放流河川になるかも。今年、海産畜養が放流されていたようであるが、継代人工が放流されるようにならないように願っている。
2 珪藻が優占種
森下郁子「川の健康診断 清冽な流れを求めて」(NHKブックス)に、相模川が、「清冽」な川に分類されている。1977年に発行されているから、中津川が「清冽な川」「貧腐水水の川」であることはわかる。
しかし、その頃は、宮が瀬ダムの水が流れこんでいる今の相模川よりも富栄養状態であったはず。ということで、森下さんの判断基準には疑問を持っている。
相模川、狩野川が貧腐水水の川とはいえないと思っているから、そして、宮が瀬ダムができて、中津川も珪藻が優占種である川でなくなったことから、貧腐水水、「清冽」な水の川への憧れは強い。
ということで、珪藻が優占種の大井川が有り難かった。
もっとも、川口発電所の排水が流れる神座等と、その上流では異なる水であることもわかった。
その大井川の水について、寿司屋さんにやってきた人は、昔と比べたら、汚い水や、と。それでも、ドブ川の狩野川よりはよいが、と。
おそらく、昔の水がどんなものか、見ることのできる支流があるのだろうが。寿司屋さんは、笹間ダム上流の笹間川が、現在では一番質のよい鮎を育んでいる、と話されていたが。
井川ダムや寸又ダムがあるのに、なんで珪藻が優占種となっていたのか。
考えられることは、
@ 井川ダムが、堆砂によって、貯水量が著しく減少している。
堆砂によるダム貯水量の減少が著しいダムの事例に井川ダムがあり、その貯水率の低下というか、堆砂量を書いていた文があったが、見つからない。
堆砂で貯水率が下がっていると、ダムでの滞留時間が短いために、山の栄養素を含んだ水が栄養素をダム滞留中に消失することなく、あるいは、損耗率が少ないうちに、川に流れ出ていることになる。
A 井川ダム下流で、山の栄養素を含んだ支流が流れこんでいる。
しかし、これはあまり考えられない。大きな支流は、寸又川であるが、その水がどの程度、寸又ダムによる富栄養の影響を受けていないのか、見当がつかないから。
とはいえ、井川ダムからの放流量が、それほどではなかったかも知れないから、寸又川や支流による山の栄養素を含んだ水の比重が高かったのかも知れない。
そして、それらの山の栄養素を含んだ水は、塩郷ダムが貯水機能をもっておらず、笹間ダムへの送水機能だけであるから、塩郷ダムでの損耗度は少ないのではないか。
B 井川ダムから塩郷ダム下流に流れる道中で、水が浄化された。
これによって、貧腐水水になることはあり得るとしても、シャネル5番の香りを生成する、あるいは、美しい容姿を彩る珪藻の種類構成を実現することになるのか、どうかわからない。
ということで、これらの要因が長島ダムによって、なくなり、あるいは低下すると、大井川で珪藻が優占種であり得ても、シャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんが消え去ることになるのではないかなあ。
学者先生が、アユが食することによって、珪藻から栄養価の高い藍藻に遷移する、とか、香りはアユが生まれつき持っているもので、食とは関係ない、といっているようでは、長島ダムができてからのあゆみちゃんの香りと容姿の変化を考えることも、想像することもできないが。
しかし、学者先生の中でも、村上先生や真山先生、あるいは、「鮎の博物誌」を書かれた川那部浩哉先生は、珪藻との関係があると考えられているようである。
とはいえ、「鮎の博物誌」は、古本で9500円もするし、ネットで買うためのクレジットカードも持っていないため、どっかの図書館で読むしかない。
なお、川那部先生が、どんな先生であるのか、高橋健「未来に残したい日本の自然 川の自然を残したい 川那部浩哉先生とアユ」(ポプラ社)の「なわばり氷河期遺存習性説」の章で見ておく。
「川那部さんは、アユのほとんどの『なわばり』が、なぜ一平方メートル内外の広さなのか、かねてから疑問をもっていた。瀬の石にできる藻の量は、一平方メートルで実際には十尾以上のアユを養うことができる。ある程度の余裕が必要だというには大きすぎる。その秘密は、琵琶湖のアユが閉じこめられた時代、つまり氷河期にあるのではないかと考えた。
地球が最後の氷河期をむかえていた一万年ほど前に、日本列島の大部分はこおりつくような寒い気候のなかにあった。川那部さんはアユの食べる藻の量を調べているうちに、藻の生産量を低い水温から計算してみると、一平方メートルという広さが当時の一尾のアユが必要とした藻の生産面積とかなり一致しているのに気づいた。そうだとすると、何度もあった寒い時代に、日本のアユは『なわばり』をもって餌を確保しなければならなかった。その習性が遺伝子に組みこまれていて、今もなおもちつづけているのではないか。
海と川を往復するアユは、氷河期には南の暖かい地方に移動できた。しかし琵琶湖に閉じこめられたアユは、そのまま北の寒いところにいたわけだから、なわばりを強く守って餌を確保しなければならなかった。また冬が来るまでに、急いで産卵してふ化させなければならなかった。そして一平方メートルという広さを、いわば人間の盲腸のように、必要がなくなった今ももちつづけているというわけだ。
もしそうなら、暖かかった南の方のアユは『なわばり』をつくらなくてもよかったはずだ。南にいるアユは、『なわばり』をしっかり守らなくてもよいはずだ。
この説が正しければ、南の沖縄や台湾のアユは、『なわばり』があったとしても、弱くてはっきりしていないに違いない。川那部さんはそう考えて、沖縄と台湾にアユを調べに出かけたのだった。 川那部さんが予測したように、沖縄のアユの『なわばり』は、内地の川に比べて弱くはっきりしていなかった。残念なことに、そのときすでに台湾のアユは絶滅していて確かめられなかったが、この調査で川那部さんは自分の考えが間違いでないことに自信を深めた。」
「『日本のアユの仲間は、日本列島を中心に朝鮮半島を一まわりして、北はロシアとの国境付近まで、中国大陸の海岸線を南にさがって福建省あたりまでの、いずれも山が海の近くまで迫る石の多い清流に棲んでいると思われます。また、中国の科学者からベトナム国境の川でとれたアユの標本が送られていましたが、まだ、その生態はよくわかっていません』」
(この本は、子供対象のため、ふりがなが振られているが、ルビの操作ができないこともあり、省略しています。)
この観察と仮説を見ると、川那部先生が、故松沢さんが「学者先生はそういうが」といわれていた「学者先生」とは異なることをご理解いただけるのではないかなあ。
珪藻から藍藻への遷移説を唱える阿部さんが、実験結果を検証するために、貧腐水水ではない千曲川や木曽川で、何を、どのように、検証されたのか、わからないが、「検証対象河川」すら、不適切な選択をしている事例(「故松沢さんの思い出:補記その2」の「野田さんの掴み技」)とは異質の感性をお持ちの「学者先生」と考えている。
(続く)
さようなら大井川:3
長島ダムがなかった頃
3 シャネル5番の香り
高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」(築地書館)に
「一般には釣りたてのアユが持つスイカのような独特の香りは、アユが食べた藻類(コケ)に由来すると信じられている。『この川はコケがいいからアユの香りが違う』といった自慢話もよく耳にする。
残念ながらこれは誤解で、海のプランクトンを食べているアユの稚魚もやはりアユの香りがする。アユの香りというのは、じつは食物とは直接的には関係なく、そのもとになっているのは不飽和脂肪酸が酵素によって分解された後にできる化合物であることも確かめられている。」
これが事実、適切な観察、評価であるのか、ということが、「昭和のあゆみちゃん」や、「故松沢さんの思い出」の主題の1つになってしまった。
そして、10月始めに大量現象として観察できるほど、海産鮎が産卵をしている、との高橋さんらの説が誤っていることの理由は、高橋さんからの手紙で、「湖産ブランド」といえども、海産や人工が混入されている、ブレンドされている「偽ブランド」に思いを馳せなかった、というレベルでの観察、評価から生じたものである、と確信している。
残念ながら、シャネル5番の香りの消滅、変遷の現象については、どのように理解しているのか、また、高橋さんら学者先生が、なんで、生まれながらの性質、本然の性であると、考えられたのか、その根拠、観察方法等はわからない。
しかし、オラは、海産アユの産卵時期同様、マチガッチョル、と、確信している。
そのもとになっているのが、宮が瀬ダムがなかった頃の中津川は愛川橋上流の7月頃のシャネル5番の香り、大井川での梅雨明け後の香りを経験しているからである。
ついでに、相模川の胡瓜の香りが昨今しないのも気になるが。
そして、狩野川で、シャネル5番の香りを楽しんだことがあるのか、どうか、記憶にない。
とはいえ、平成に入ってから、あゆみちゃんのお尻を追っかけ始めた人たちと違って、シャネル5番の香りを経験している。したがって、オトリとして販売している養殖鮎からも香りがする、というレベルでの誤解はしない自信はある。
ホームページ「真山研究室」の珪藻と不飽和脂肪酸の話から、珪藻に不飽和脂肪酸を生成する物質が含まれていることが確認できた。そして、真山先生から返事をいただいた。
ホームページには、珪藻について、
「油の成分はさまざまなものより成ります。種によって,またその生育環境によって組成は異なりますが,代表的な不飽和脂肪酸はC14(炭素を含む鎖長が14という意味)のミリスチン酸,C16のパルミチン酸やパルミトレイン酸, C18のオレイン酸,C20のEPA(イコサペンタエン酸)でしょう。C18のリノール酸やリノレン酸は多く含まず,またC22のDHA
(ドコサヘキサエン酸)を含む種はほんのわずかのようです。」
「珪藻は不飽和脂肪酸でC20のEPAが豊富なのが特徴です。EPAはヒトの体内で合成できない必須脂肪酸で、外部から食品として取り込まれるとリン脂質となって細胞膜に組み込まれ、アラキドン酸カスケードの基質となって生態調節機能を担います。また,血小板凝集能や白血球誘引能を緩和する作用があることがわかっており,血栓性の疾患,動脈硬化,リュウマチなどの成人病に効果があるといわれています。
現在,EPAはイワシ油から精製されているようですが,海産珪藻のフェオダクチルム・トリコルヌーツム (Phaeodactylum tricornutum) の珪藻油には,それを上回るパーセンテージの EPA が含まれています」
真山先生からの返事は
@ 珪藻の種類構成、あるいは、珪藻の種別が同じでも、環境によって、珪藻に含まれる栄養素が異なることが素人でも読める本がありますか。
残念ながら、そのような学術的出版物はないと思います。
A 不飽和脂肪酸の種別が、香り成分の生成、質、量に関係するといえますか。
不飽和脂肪酸から香りの成分であるエステルが生成されることについて、想定される代謝経路が考えられていますが、そのすべてが実験的に実証されているわけではありません。したがって、不飽和脂肪酸の種別がエステルの生成量に関係することを直接的に示した学術的データもありません。
B 珪藻の種類構成で、不飽和脂肪酸の生成、種別の量、質に違いが出ますか。
不飽和脂肪酸の種類や量は、同じ種類であっても、生育環境が異なると違いが出ることが知られています。また、種が異なれば、違いが出ることも知られています。
真山先生からの返事ですら、適切にできないオラが、珪藻とシャネル5番の相関関係を云々できないことは、百も承知している。
しかし、高橋さんら学者先生に欠けているもの、それは、歴史のなかでの変化を観察する姿勢が欠如している、というか、時間軸での比較を行わず、現在の状況を、実験室での観察を普遍化しょうとする習性ではないかなあ。
高橋さんは、昭和の代にも川に潜っていたであろうから、養殖鮎にも香りがする、というレベルでの「香り」に係る誤解はないであろうが。
もし、平成の代が10年以上たってからでも、シャネル5番を経験することができた大井川での香りの経験がなければ、オラのシャネル5番の記憶もなくなっていたかも知れない。
「故松沢さんの思い出:補記その3」で、どの程度、珪藻とシャネル5番の関係を読み解くことができるか、わからないが。
しかし、野田さんは、長良川筋で会った人に、わしらの子供や孫の代になると、アユの香りとは、サンマを焼いたときの匂い、ということになるだろうなあといわれている。そのような時代になっても、かっては、シャネル5番の香りを振りまく鮎がいて、その鮎は、珪藻を育む川の水が、山が変貌して消滅した、ということだけは、書いておきたいと思っている。
(「故松沢さんの思い出:補記その2」の野田さんの長良川での項)
なお、高橋さんには、「故松沢さんの思い出:補記その2」等の香りに係る部分のうち、ホームページ:真山研究室の写しについてのカ所を含めて、コピーして送付したが、返事がないため、なぜ、「本然の性」と、理解されているのか、わからない。
「海の鮎でも香りがする」という現象は、稚魚が餌としている動物性プランクトンが珪藻を食していることから生じているのかも。
山崎さんだったか、野村さんだったかが、アユと同じコケを食べるハゼからも香りがすると、書かれていたが。
高橋さんは、「不飽和脂肪酸が酵素によって分解された後にできる化合物である」から、香りは食物とは関係ないとされているが、不飽和脂肪酸は、どのようにしてアユに蓄積されると考えられているのかなあ。
アユは、単に、その不飽和脂肪酸を分解してエステルに変化させる機能が他の魚に比して、高いということかなあ。
それにしても、珪藻が優占種であることは、長島ダムができても変わらないのに、長島ダムができてから、あるいは、長島ダム工事の影響が大きくなった頃から、シャネル5番の香りが消滅したのはなんでかなあ。
(続く)
さようなら大井川:4
長島ダムがなかった頃
4 馬力の強さ
同じ遡上アユであるのに、狩野川と大井川では馬力の違いがなんであるのかなあ。
去年、駿遠橋で糸鳴りを初体験、狩野川とは馬力が違うことを初体験した初心者らしからぬおっさんが、師匠に、遡上アユであるのに、馬力が違う理由をたずねた。師匠は、遡上距離に関係しているのでは、といわれたとのこと。
どうも、そのことが一つの要因ではないかなあ。ただ、神座より下流での釣りをしたことはないから、大井川の上流、下流域でどのような違いがあるのか、ないのかはわからない。
もう一つの要因は、水量、流速ではないかなあ。
寿司屋さんらが釣り惚けていた頃の大井川では、今の馬力よりも一層強い馬力であったのではないかなあ。
その事例が郡上八幡ではないかなあ。
萬サ翁が、都会の人は掛けるのはうまいが、取り込みが下手、取り込むには郡上竿が必要、と語られているが、郡上八幡のあゆみちゃんの馬力には、長良川の遡上距離、水量、流速の要因が作用しているのではないかなあ。
うだつのある町並みと重文の井上家?がある美濃で、沖に走られるという初体験をして、丼をしたことがあったが、その美濃は、野田さんが「ファミリーコース」(「故松沢さんの思い出:補記その2」の「野田さん『日本の川を旅する』の「6長良川」の「4野田さんと長良川下り」の「ファミリーコース」。 ラベルをつけてもリンクしてくれません。ごめんね)と書かれているほどで、それほどの急流ではなかった。郡上八幡から何十キロか下流で、平野の川であるのに、狩野川の遡上アユとは馬力に違いがあったのではないかなあ。流量は当時の狩野川よりも多かったが。
故松沢さんが、晩秋に服部名人?がアユがいない、来るなというのに、郡上八幡に出かけたのも、馬力に惚れていたのではないかなあ。(「故松沢さんの思い出」)
垢石翁が寸又川の鉈アユと書かれているアユが、千頭育ちのアユが、八幡社の祭礼の頃(10月中旬)に、家山附近にやってきていて、寿司屋さんらがイカイアユが釣れた、と話されていたが、大きさだけではなく、馬力のすばらしさもあったのではないかなあ。(「昭和のあゆみちゃん」の「釣趣戲書その2」の大井川)
垢石翁が、神通川の上流、宮川に2回は行かれているようであるが、これも、大きさだけではなく、馬力の強さに惚れ込んだからでは。(「故松沢さんの思い出:補記その2」の「宮川の垢石翁」のなかの「宮川の情景」「宮川の釣り技」)
今も、大物食い若が、千頭での大アユを追っかけて、一攫千金を狙っているのも馬力の魅力からかなあ。オラなら、大物食い若の職場にいる可愛い、ふくよかなネエちゃんの方を選ぶけどなあ。
中流育ちと千頭育ちが入り混じる10月中旬、下旬は、24,5歳くらいの大きさに過ぎないのに、狩野川よりも馬力が強くて、だっこするまでに身切れをおこして逃げられることはしばしば。一気に抜け、といわれてもなあ。
さようなら大井川:5
長島ダムがなかった頃
5 石の埋没
大井川の石について、寿司屋さんは、いかい石、と、垢石翁は物置小屋のような石、と。
井川ダムができて、千頭下流のそのようないかい石の多くを埋めたようであるが、笹間ダムが水無川にし、あるいは、ダム放流量を減少させて、一層川底の攪乱、流れの変化をなくしたのであろう。
それでも、昭和橋下流には相模川で見るよりも多くのいかい石が詰まり、石風呂には岩盤底が流れのなかにあった。
七曲がりも石が詰まり、また、瀬落ちのトロ、淵は砂底ではなかった。
遡上アユが多かった20世紀末頃のある年、テク2や亡き相模川の主らが、七曲がりを釣り下った時、亡くなった人が、釣れたアユを全て舟に入れるから、亡き相模川の主がそんなに詰め込んだらアユが死ぬ、といってもいうことを聞かずに詰め込んでいたとのこと。
それほど多くののアユを育むほどの石があった。
この状況は、大和田付近でも変わらなかった。
神座でも今見るほど、小石、砂利ではなく、頭大の石が詰まっていた。
七曲がりの右岸側で、川原からシモ竿いっぱいの状態でヘチを釣り、掛かると、その2倍ほどの距離を歩いて下って、取り込み、また、もとの付近に戻って釣る腰の曲がった方がいた。
オラは右岸から、瀬の芯附近を釣っていたが、オラよりもはるかによく釣れていた。それで、ヘチの大切さを知った。
その七曲がりが全て砂で埋まってしまった。そう、長島ダムができてからすぐに。
今年、その状態が少し改善されて頭大の石が多くなっていたが、かっての豆腐状の石が顔を出して、そこに頭大の石が散らばっているのではない。砂利で埋まった状態の上に頭大の石が転がってきて、石が増えたに過ぎない。したがって、ダム放流の状況によって、再び、砂利まみれになろう。
瀬落等のトロ、淵であったところは砂利底のままであった。
駿遠橋下の護岸駐車場に水が出た、という話はここ数年聞いていない。
ということで、長島ダムができてから、一進一退を繰り返してはいるが、小石、砂利が増えているのではないかと思う。この状況は、井川ダムが、さらに笹間ダムができて、石が埋まっていくのを見ていた寿司屋さんらの寂しさに通じるのではないかなあ。
石風呂を教えてくれた鍋島のあゆみ会の方はどうされているのかなあ。その時に教えてもらった岩盤底が流れのなかに姿を見せることはあるのかなあ。
まだ、あゆみちゃんのお尻を追っかけているのかなあ。
寿司屋さんは、久野脇をよく推奨されていたが、アッシー君がいないといけなかった。始めていったのは長島ダムができてからであった。それでも、石はまだ詰まっていたところが多かった。
水質、とはいっても、BODやCODといったレベルではなく、シャネル5番に変化する物質を生成する珪藻を育む水の変化は、外形では見えないから、どのように種類構成等の変化を生じる水に変わったのか、わからないが、石の変化は観察できる。
ということで、なんで砂利が、小石が増え、淵、瀞が砂底になっていくのか、コンクリートで川をいじくることを推奨している学者先生や、お上らのやっていることへのプロテストをしておきたい。
(続く)
10月28日 狩野川青木の瀬
かって、「青木の瀬」といわれたところ、という表現が適切であろう。
10月8日の台風による白川が、どの程度回復したのか、そして、26日の5,60センチの増水で、新アカはどうなったのか、さらに、どの程度のアユが8日の増水で下りをしていないのか、を見ておきたい。
故松沢さんに聞きたいことは、弥太さんが、秋分頃以降の増水があると、アユは一気に下る、と話さているが、その下る対象のアユの性成熟の程度は?、下った後、すぐに産卵するとは考えられないが、その後の生活の場所、生活の仕方はどのようななるのか、ということである。
電車で、偶然、丼大王改め、サラリーマン大王にあった。
大王は、6月の石コロガシの瀬でボウズであったと思うが、台風の前にも行ったとのこと。10匹ほど、と。
大王にとっては、遡上アユの多いときの10匹という量は、不漁でしかない。それに小さかった、と。
1番のぼり、2番のぼりに途中下車させる魅力をなくしてしまった1本瀬、石コロガシの瀬では、当然の現象かなあ。
平成の初め頃までの1本瀬から石コロガシの瀬尻、いや神島橋までは、大石、ひと抱えもある石、頭大の石がびっしりと詰まり、砂利はなかった。
石コロガシの瀬肩と城山下の淵との間も石が詰まっていて、11月には、2本電線附近で、川原から釣ることができて有り難かった。その頃は、まだ、タイツしか持ってなかった時もあったから。
その1本瀬で、10数匹掛けて、数匹しか持ち帰らなかった、という大王の丼業績は、2度と実現することのない偉大な記録、いや、大王にとっての業績だけではなく、かっては、そのような瀬が城山下にはあった、という記念碑でもあるのに。
さて、大王のお話
1 ザガニが今も海で獲れる。
指よりも爪の部分が太いのもいる。ただ、卵は持っていない。味は、小さいザガニのほうがうまい、と。
そうすると、産卵のために、今年、川を下ってきたザガニではなさそう。
まだオキアミほどの大きさのザガニの稚魚?が川を上ることは、これを密漁していた現場を弥太さんが見ているから、産卵場所が海、その時期は晩秋以降、ということは適切な観察であろう。
その生活史で、1年中、ザガニが海で釣れ現象をどう考えればよいのかなあ。
海で一生を過ごしているとは考えにくいから、産卵後、ヒネアユのように、余生を送るものがいるということかなあ。
川漁師は海でのザガニをとることはないであろうから、これは海漁師を兼務されている大王に観察と記録を残す義務があるということですよ。
2 ゴリを食べた。
ごき、ごり、と、金沢で食べ、四万十川でのガラビキ?の対象となっているハゼのような魚をとって、故松沢さんらと食べたとのこと。捕り方は、ウケを使用していた、ハヤの子が入らないように、また、除く工夫をしていた、と。
甘露煮のようにした、とのこと。
3 チラシ
故松沢さんが作られた最後のチラシを2本もらった。
@ 矢島を使用しているが、その形状は初めてのような気がする。
A 郡上八幡の漁師が、あんまり多くの鮎を釣り上げる故松沢さんを1升ビンを下げて訪ねてきたときに見せたチラシは、なよなよの子供が使うような0.8号のナイロンを鉤素に使用したチラシであった。
そのチラシは、鼻環上の3カ所の中ハリスにつくられたコブについている誘導式のヒゲに接続される。
こうすることで、また、鉤素を長くすることで、鮎が掛かったときの衝撃を緩和し、鮎の馬力で鉤素切れが生じないようにしていた。
B しかし、大王は、自動鉤素止めを使う。自動鉤素止めに適合するように、しなやかではあるが、強度のある鉤素を使っている。その鉤素がなんの糸かはわからない、とのこと。0.8号くらいの太さかなあ。
故松沢さんのことであるから、1巻きにいっぱい巻かれていて、高価ではないが、性能は最高、という糸を使っているのではないか、と大王とオラは想像している。
C 2本針にしているが、下針は掛けバリよりも小さい。水切り糸同様に、チラシの安定性を目的にしているのかなあ。
D 接着剤は、かっての釣り人が行っていたように、マニキュアを使っている。
大王は、丼をたらふく食ったが、オラのように完成品の鼻環仕掛けを使い、自動鉤素止めの性能が悪いために、1.2号の鉤素で、海産畜養相手に鉤素切れを多発した、ということはない。
それほど、強度においても、性能が優れたものを造られていた。
ところで、なんで、背広から、針を入れた容器が出てくるの?
とても、「サラリーマン大王」の持ち物、お仕事の道具とはおもえんけど。「サボリーマン」大王ならわかるが。
大王さんのヒゲが白くなったなあ。オラだけが年を食っているということではなさそう。
大王に会えたことで、今日はボウズでも、充分に充実した日となる。
川に入ると、アカがほんの僅かについているところはあるものの、流れたところの方が多い。
台風後に新垢がついていても、19日の増水で、砂が巻いて、グラインダーでアカを削り取ったところが多いのであろう。
自動車道の上流、右岸ヘチであれば、増水の流速が緩和されているかも、と流れの中に立ち、右岸ヘチにオトリを泳がす。小学生の跳ねも、中学生くらいがひらを打つのも見える。
自動車道は、城山を通る予定であったが、城山は婆さんの山で、岩が脆く、トンネルが掘れないから、川を横断することになった、と故松沢さんが話されていた。
そして、その橋脚が、流れに影響して、青木の瀬をつぶしたのではないか、と想像している。
できるだけ、ヘチへ、そして、しわしわのあることろへ、と釣り上がる。
中学生が釣れた。なんと、午前で5匹も。
女子高生は釣れず。しかし、女子高生の一群が、水温16度の川に入りはしゃいでいる。あゆみちゃんの女子高生がだめなら、人間の女子高生がある。時は昼、女子高生がはしゃいでいるところが陸への登り口。先生さえいなければ、女子高生がナンパできたのになあ。
囮屋さんに戻ると、テク2がウェーダをはいている。1泊するとのこと。
残りアカのあるところがあるから、泊まろう、というが。
コマドリの瀬の右岸側の流れ、あるいは瀬肩上流かなあ。
午後、橋脚附近で釣っていた人が、橋すぐ上で見えるアユを釣ろうとだましのテクニックもないのに奮闘しているオラの上流、午前、オラが釣りはじめたところに入った。
橋脚さんは、午前、5匹であるが、バレが多かった、と。小針を使っているのかなあ。オラは、どらえもんおじさん御作の6.5号をもってくるつもりであったのに、忘れてきた。
見えるのに釣れない、ということはヘボということ。精神衛生上よくないから、橋脚さんの上流に移る。
橋脚さんは釣り下り、オラが釣っていたところへ。そこを目的地と考えられていたよう。
そして、橋脚さんはすぐに2匹釣っていた。そのまま釣れ続けたら、「ヘボ」の上塗りになるが、釣れ止まり、移っていったから、よかった、よかった。
少し流れがあるところまで釣り上がる。風が強いために、しっかりと竿を支えていて、腕がこわばってきた。やばい、筋肉が攣る予兆。筋肉をほぐす漢方薬を飲む。その時に掛かり下竿気味になる。女子高生なら大騒動であるが、中学生であるから、取り込めた。
一安心、と思っていると、今度は、足がこわばってきた。また漢方薬を飲み、足に負担がかからないように、流れのないチャラへと下る。
踊り子に乗るために上がる時間まであと30分、なんとか、その時間まではリタイアしたくない。
無事、時間到来。
それにしても、ウェーダーをはいていても、足が冷えて動作障害が出てくるとは。女子高生の体温発生エネルギーがうらやましい。だっこしたら、そのエネルギーが移ってくるのではないかなあ。ということで、午後は中学生に1匹の小学生が混じって4匹。
釣ったときにはサビが目立つのはいないが、絞めるとうっすららとサビが出た。腹子は少しだけ。
踊り子の車中で、腹に御神酒を入れた。
そろそろ、西風=木枯らし一番が3,4日吹き荒れる。そうすると、8日の増水、19日の増水で下りをしなかったあゆみちゃんも下りをしたくなり、ソワソワするはず。
8日の増水がなければ、「稲刈りの頃再び瀬につく」はずが、瀬に食糧がなければ、瀬につかないよなあ。
湯ヶ島にはいっぱいアユが見える、雲金ではアカが飛んでいない、とのこと。
ということで、御神酒を入れたが、再度、御神酒を入れることになるかも。
それにしても、大王から女子高生いまで、人間は大漁の1日でした。
さようなら大井川:6
長島ダム後の石の変化はなぜ?
斎藤邦明「アユ釣り大全」(文芸春秋社)以来の斎藤教信者の1人として、有り難い本が見つかった。
それは、斎藤邦明「川漁師 神々しき奥義」(講談社α新書)である。
斎藤さんは消えゆく川漁師の記録を残そうとされていた。そのことにより、古には存在した山、川、水、生物の姿を後世に少しでも伝えることができれば、との思いであろう。
「川漁師 神々しき奥義」は、昭和の終わり頃から平成の代の一桁終わりくらいまでに川漁師を訪ねて、聞き取りをされたのではないかなあ。
そして、この本は、まだ在庫があるのではないかなあ。
(1)なぜ「斎藤教信者」か
塩郷ダムには「環境に優しい水力発電?」の横断幕が掛けられていた。
この横断幕のスローガンこそ、中電だけではなく、ダム、砂防ダム、川の平坦化等を「進歩」「公共の福祉」等に貢献する施策である、と推進していった学者先生や公共団体、企業の「環境」「自然」の営み等に係る認識度合いを端的に示していると考えている。化石燃料を使用しないだけで、「環境に優しい」とは、いえないはずである。
このスローガンが物事の一面=化石燃料を使わないことは「環境に優しい」という側面しか見ていない、ということはオラにも理解できるが、そのマイナスの側面、あるいは、物事には多様な側面があり、それらの総合的な理解を前提に、どのように調和をとることが必要か、どのようにして、マイナスの側面を軽減することができるか、を考えることはできない。
しかし、斎藤さんはその視点での教義を提示されていると考えているから、斎藤教信者になった。
(2)教義1 :根本教義
@ 教祖への道:原体験(「はじめに」から)
「生家の近くに田川という名の鬼怒川水系の川が流れていました。海から百キロ以上も内陸にはいりこんでいたので、アユの天然遡上こそありませんでしたが、稚魚放流されたアユも山女魚も、清流にしか棲まないカジカも棲んでいました。小学校に入学する前からヤスでカジカを突き、三年生でアユの友釣りをはじめ、五年生でヤマメのテンカラ釣りをおぼえました。毎日毎日、釣りばかりしている子供でした。」
(斎藤さんは、ルビを振られているところもあるが、省略します。)
斎藤さんの子供の頃の川とのつきあいは、オラが溜池のフナやモロコ、大陸バラタナゴ?、用水用の溝のドジョウ、海のキスやテンコチやアブラメを相手に遊び呆けていたことと同じ情景であるから、何らの違和感もない。
前さんも、同じであり(故松沢さんの思い出)、故松沢さんも同じであったのではないかなあ。亡き師匠も、江の川の支流、西城川で同じように子供の頃を過ごされていたのであろう。
A 師匠の発見
「この川に一人の職漁師がいました。魚のことならなんでも知っている、ぼくにとってはスパーマンのような人でした。アユやウグイやカジカをまるで手品のように大量に捕るのを目にするたび、うらやましいと思うと同時に神様に見えました。」(「はじめに」から)
「川に寄り添って生きてきた川漁師は、私たちが無意識のうちに軽視してきた基本的な営みを今に伝える数少ない人たちであり、失われていく日本の自然や清流を見守ってきた。時にはダム建設や河川工事を阻み、最後の川守としての役割も担ってきた。
遊漁者とのちがいは、生活をかけているか否かだが、とうぜん豊富な経験と卓越した技術は遊漁者のそれとは比べものにならない。ゆえに遊漁者にとって川漁師は憧れの存在であると同時に、生きた教科書なのである。」(「第一章 シジミ掻き漁 徳島県吉野川 : 矢田輝彦(昭和三十一年生まれ)」
ということで、川漁師が斎藤さんの師匠であることを宣言されている。
オラも、故松沢さんに出会っていなければ、あゆみちゃんの古の容姿、生活、生涯、あるいは、食糧の変遷とアユへの影響、湖産、人工と海産とのちがいに関心を持ったとしても、それを考える糸口すら見つからなかったであろう。
学者先生が、斎藤さん同様の感性の僅かでも持ち合わせていたら、アユが食して珪藻から藍藻に遷移するすばらしい営み、あるいは、四万十川の海産アユ:遡上アユが十月一日頃から大量現象として産卵をしている、という「説」を述べる過ちを少しは軽減できたのではないかなあ。
B 布教活動をせざるを得ない事情の一端
川は排水溝へ
斎藤さんが育ったところの川である田川について、
「今、田川はありません。いや、あることはありますが、雨水を流し去るだけの排水溝に姿を変えています。そこにはもう、あのスーパーマンの姿もありません。
故郷の川がだめになって、仕方なく県内の他の川、そして隣県の川を釣り歩くようになり、ついには北海道から九州の屋久島にまで足をのばすようになって、排水溝や暗渠にされてしまった川はなにも田川ばかりではないことを知りました。そして、川沿いの住民はみな『昔は、こーんな大きなサケも上ってきたのに』『尺アマゴが背負子いっぱい釣れたこともある』アユがいすぎて川を歩くとよく踏んづけた』といいます。しかし、破壊されてしまえばそんな話はたわごとです。」(「はじめに」)
斎藤さんは「破壊されてしまえばそんな話はたわごとです」と書かれているが、その戯言の情景すら存在したことに思い及ばずに、「学説」を発表し、あるいはテレビが放映する御代になっている。
そのことが、斎藤さんに「昭和のあゆみちゃん」「故松沢さんの思い出」の一部をコピーして、もっと、戯言の情景を後世に残して、との思いを送った動機である。
「川は日本人にとって身近な存在でした。ところがどうしたことか、川の機能やそのあり方となるとどうも情緒的であやふやな認識しかありません。たとえば、温泉地や観光地を流れる川に黒や赤白のコイが放流されているのを見て、たいていの日本人は魚が棲むほどきれいな水、自然豊かな川だと思ってしまいがちです。しかし、それは破壊の痕跡を隠そうとする作為、川の生態系を無視した愚挙です。
土建行政の悪しき体質が今なお残る国や自治体は『川を大切に』『川は郷土の誇り』といいつつ、辛うじて自然度を保っている貴重な川をブルドーザとコンクリートで改変しょうと虎視眈々です。また、アユやオイカワなどの卵を大量に食べるコイ、在来魚種の増減に関与していると見られるブラックバスの違法放流、そしてせっかくの自然河川をわざわざ『釣り堀化』してしまう人工養殖のアユやヤマメの成魚放流など、不適切な放流によって河川破壊を多くの日本人が実感しにくくなっています。」(『おわりに』から)
この教義が、そのとおり、と感じる釣り人、普通の人はもはや、少数ではないかなあ。
今年(2009年)の相模川は大島のシルバーシートの情景=20センチ以上の継代人工が放流された。食っちゃあ寝、食っちゃあ寝、の生活をしていると、そして、土地貴族になる信条を捨て去っている継代人工であるから、尺アユになるよなあ。
それで、新聞にも尺アユがウン十本出た、と書かれていたとのこと。
そんな「尺アユ」を「アユ」であると認識して、県外からもやってきた人がいたとのこと。
ヘラとの両刀使いさんもシルバーシートへ釣りに行ったとのこと。釣れる時間帯:時合いは、夜明けから八時頃まで。引き寄せると、海産畜養の22,3センチほどの馬力もないだけでなく、沖に走ることもなく、重いだけ、と。
管理釣り場で、大きいニジマスを釣っても、感動がないのと同じように思えるが。
それでも、銀友師人さんが書かれているように、客寄せパンダとして成功しているご時世である。
なお、鵜止まりの淵で釣れた大アユには、海産畜養がいたようであるが。
「ここに登場する川漁師たちが生活している川でさえ、雨水を早く海へ流し去ろうと蛇行を直線化し、淵を埋め荒瀬をならして平坦な川底をつくり、天然の堤防だった川岸林を突き崩してコンクリートの護岸に変えたため、魚や水生昆虫、水辺の動植物や微生物が棲みづらくなっています。しかも、悪いことに自然のメカニズムに疎い人たちは、白くて平らなコンクリート溝を美しく整備された川、当たり前の水辺景観と勘違いしています。
もともと棲んでいなかった場所にホタルを飛ばして喜んでいる大人を見るにつけ、間違った自然感を持つ人間が増えていることに危機感をおぼえます。その水域の食物連鎖の頂点にあるようなコイを放せば、その水域はやがてコイばかりになってしまいます。アユばかり泳いでいる川などあるわけがないのです。日本の自然河川にはブラックバスやブルーギルなどの外来魚が棲む余地などもとよりありませんが、アユもウグイも、ホタルもブヨも、カワゲラもトビゲラも有害無害ひっくるめた多種多様な水生動植物が棲んでいてはじめて生きた川、川本来の姿といえるのではないでしょうか。」(「おわりに」から)
狩野川の殿淵からの流れ出しをブルが平坦化したのは、10年、いや、20年以上前のことかなあ。第1回マスターズ決勝の時に、本間さんが潜って根掛かりをはずした瀬はなくなったまま。
故松沢さんが、城山下の淵を埋める話が漁協からあったときに、淵に潜り、淵の埋め立てに反対されたこともあったよなあ。
神奈川県が、美しい相模川を未来に残そう、と放送をしながら、濁り水をちんたらちんたらダムから流し続けたり、宮が瀬ダムのヘドロを流して、今年の中津川のアカ付きが悪くなった原因をつくる等の行為、ダム管理をしているから、バカヤローといいたい。
竹内薫「知識ゼロから始める バカヤロー経済学」(晋遊舎)は、大変気に入っている。
中身もさることながら、この本は、「先生」役との共著になる予定であったのに、
「だが、発売直前になり、突然、先生はスキャンダルに巻き込まれた。先生は、本書に出てくる本間教授や中川昭一財務大臣のように、ある日突然、社会から消された。
マスコミ各社の報道は、判で押したように同じ文言だった。まさに、誰かが書いた事件の『台本』がそのまま日本中で報道されたのである。
先生との約束で、ぼくは、先生が巻き込まれた事件の真相を書くことはできない。」
「先生から経済と政治のからくりを教わった今では、『先生の事件』の背後にインセンティブをもった人々や組織がいたのではないかという疑いが捨てきれない。渡辺喜美元行革担当大臣が自民党を離党した理由は、官僚の天下りを禁止する法案が骨抜きにされたことが大きい。天下りは、最大かつ最強の利権であり、なおかつ、現状の公務員制度のもとでは、官僚にとって、老後を生き抜くための生命線でもある。先生は、その天下りの廃止に全力を傾注していた。
当然ながら、先生には敵が多かった。中川さんの後に財務大臣、金融担当大臣のイスに座った与謝野馨さんも先生の敵の一人であり、財務省全体も先生の敵だった。いや、天下りが必要な官僚全員が敵だったといっても過言ではなかろう。邪魔な先生が社会から消え去ることで、いったいどれくらいの人が利益を得るのだろう。」
スキャンダルを手段として社会から抹殺された「先生」は、数学のできない日銀総裁、理事や、エリート官僚の方々との政策の妥当性をめぐるやりとりや、速水元日銀総裁の業績が「バカヤロー」判断だと、面白いですよ。
それにしても、「スキャンダル」情報を手に入れることができる限り、そして、それをマスコミが報道する限り、そして、マスコミ報道に心情的に共感する受け手がいる限り、統治層は己の意図する政策を、制度を、いつまでも維持できるということでしょうね。
「コンクリートから人間へ」のスローガンも、スキャンダルの流布で葬られるかも。
スキャンダル情報保持をしている集団にしても、そのスキャンダルと同じ行動をしていると考えるのが常識であると思うが。
根本教義に分類する事柄がまだあると思っているが、自然神の啓示を受けられた川漁師さんらの言行録と重なるような気がしたから、とりあえず、終わりにし、個別の教義に移ることとします。
(3)教義2 自然神の予言者:川漁師の黙示録
A 味音痴の救済はできる?
味音痴のオラは、母に、今日の魚はいまいちやなあ、とか、いける、とかいわれても、さっぱり違いがわからなかった。
外形においても、こんな昨日獲った魚を掴まされて、といわれるから、動いているマダコを買っていた。鮮度抜群、文句の言われようがないから。
40年ほど前、昼網で上がったサバが、オラの目から見てもよさそうに思えた。買おうかな、と思ったが、7,8百円していた。2,3百円のもんが高すぎる、と、魚の棚を一回りをして戻ってくると、もう売り切れていた。
そんなオラが、故松沢さんも一目置く味音痴のオラが、味についてとやかく言いたくないが、相模川のアユが、2年連続で利き鮎会の準グランプリになったご時世であるから、本物のアユの味も幻となる前に、いや、もう幻となっているかも知れないが、教祖と予言者の語るところを見ておきたい。
@ ドジョウ
予言者:原口佑助(昭和11年生まれ)の「第三章 ドジョウの踏み網漁」に、教祖斎藤さんが、ドジョウの味について、語られている。
「ドジョウの柳川はぼくの好物である。」
「このところ、さっぱりあの味に出会わない。築地の市場で生きたドジョウを求めても料理屋で食べても、かってのドジョウの味がしない。土長(『本朝食鑑』)や泥生が転訛したとされるドジョウの独特の匂いも歯ごたえもなく、養殖モノや台湾、中国あたりからの輸入モノからは、あのドジョウの顔がまったく見えてこない。
だれか天然物を捕っている人がいないものかと探し歩いたら、群馬と埼玉の県境で原口がひっそり漁をしていた。おいしいドジョウも食べたかったから、いっそう原口に会ってみたかった。しかし、原口を取り巻く環境は厳しかった。
旅番組や料理番組などで一部タレントやグルメ評論家たちが川料理を評して『生臭さがなくて』とか、『まったくクセがない』放言する。本物の川魚を食ったことがないのだろう。本物の川魚、天然モノには自然の匂いと香り、そして独特のクセがある。クセはうま味のひとつだが、そのクセが嫌だったら黙って食わなければいい。クセのない魚が『上等』との誤解を招くだけだ。おかげで苦労して捕ってきた原口の天然ドジョウは、国産の養殖モノより値段が安いという。テレビの番組も罪作りだ。」
ドジョウは、溜め池から田んぼに送られる溝と、家の前の近所では最下流にあたる溜め池で捕っていた。
ある時、すくった泥を草の生えているところにあけて、泥のなかを探り、首根っこをつかんだ。泥から出したら、ヤマカガシの子供であった。その時から、ヘビはトラウマの対象になった。
捕ってきたドジョウは井戸水で泥を吐かせた後、唐揚げで食べていた。柳川は食べたことがない。卵が貴重で、病気の時とか、遠足や運動会の弁当箱にしか入らないモノであったからかなあ。2,3羽の鶏が産む卵の数も知れたモノであったから、ドジョウ如きの料理に使うのはもったいない、ということかなあ。
予言者原口さんの黙示録
「ほーら、なッ。いいのが入ってっぺ。でかいな、この川のドジョウは、十分に大クラスはあんな。見てみな、腹ンとこが赤みがかってっぺな、こういうのがうまいんだ。こういう色は養殖モンにはねぇかんね。食ったらうまかんべな。ン?自分でもよく食うよ、こういう太いやつはドジョウ汁にすっと絶品だかんね。はじめにナスとドジョウを油で炒めっちゃうんだ。それからお湯を注いで、次に味噌を入れて…コックリめがうまいね。ああでっかいドジョウほどいい。でかいほどうまいんだ。」
オラが食べていたドジョウも大きかった。それで、那珂川の寒井でドジョウの唐揚げをつまみにしたときは、小さいなあ、と思った。
多分、オラが食べていたドジョウの唐揚げは、骨が硬く、好き好んで食べていたのではないのではないかなあ。
ドジョウ汁の記憶はない。なんで、ドジョウ汁をつくらなかったのかなあ。味噌汁の具にされていたかも知れないが、油で炒めてはいなかったはず。
腹のところに赤みがあったように思う、それが全てのドジョウにあったか、どうかはわからないが。
斎藤さんが、
「旅番組や料理番組などで、一部タレントやグルメ評論家たちが川料理を評して『生臭さがなくて』とか、『まったくクセがない』と放言する。本物の川魚を食ったことがないのだろう。本物の川魚、天然モノには自然の匂いと香り、そして独特のクセがある。クセはうま味のひとつだが、そのクセが嫌だったら黙って食わなければいい。クセのない魚が『上等』との誤解を招くだけだ。おかげで苦労して捕ってきた原口の天然ドジョウは、国産の養殖モノより値段が安いという。テレビの番組も罪作りだ。」と、食を評価する人の姿勢を、味音痴を批評されていると思うが、同感である。
生臭い臭いは悪いこと?
雄物川さんは、寒ゴイや寒バヤではなく、生臭い臭いを漂わせている時期の鯉やハヤもナメロウにして食べていたという。
生臭い臭いとは、古い魚とのしつけを受けた者としては、理解できないこと。
雄物川さんは、生臭い臭いもうま味のひとつ、と。
フナ寿司の匂いを腐っている、と捨てた人がいたとのことであるが、「本物」が何か、を知らない人には、無味無臭、生臭くない、とろけるような食感がすばらしい味、味覚、食感ということかなあ。
なお、雄物川さんは、鶏をつぶしても、ガラは出汁のためには使わない、とのこと。骨を細かく砕いて、食べる、と。ザラザラしない?ごつごつしない?と聞くと、その食感がまたいいんだ、と。
そのために足腰が今でもしっかりしている、と。
「なに、クルマが臭う。ドジョウの臭いだっぺよ。クルマだけじゃねェよ、毎日こうしてドジョウ捕りをしてってから、からだまでドジョウ臭ぇぞ。
それにしても、こうやって苦労して天然モノを捕ってんのに、ここんとこ養殖と輸入モンにおされて、天然の値段がよくねぇんだ。捕れなくなっているうえに値段が下がってんだから、いい商売とはいえなくなった。天然は輸入モンよりは高いけんど、養殖モンよりは安いかんね。養殖ドジョウは注文どおりの数量と型がいつでもそろう。これこれの大きさのやつを何百キロくれっていえば、すぐ集まるんだから。
こっちはドジョウの大小をえり分けて捕ってくるっちゅうわけにはいかんべ、でっかいのも小っちぇえのもいっしょくただから料理屋は使いづらいんだべなぁ。そりゃあ、食ったら天然モノにはかなわあねぇさ。魚体がきれいで、腹のあたりが紅っぽいやつがいちばんうまいね。まぁ、そんなこといったところでお洒落して料理屋にくるお客さんにはドジョウの味のちがいなんてわかんめぇもんな。ドジョウの格好してりゃ、何でもいいんだんべ。
でもよ、ハウス栽培のナスやキュウリじゃねぇんだから旬ちゅうもんがあっぺな。天然どじょうには食いどきっていうのがあるんだよ。ドジョウの旬は夏つうことになってってけど、ほんとうは今ごろ、冬眠に備えて腹いっぱい食って丸々太ったドジョウが一番うまいんだかんね。ドジョウが冬眠すんのは自然の摂理だんべ、自然の摂理に沿ったドジョウが一番うまいの。人間がいくら研究したって“自然”までは養殖できねぇかんね。」
オラは、斎藤さんと違って、寒くなってからドジョウを捕ったことはなかった。
斎藤さんは、
「ドジョウの柳川はぼくの好物である。子供のころは、冬になるといつも手はあかぎれていた。霜柱が立っている田んぼの水口のぬかるみに、エイッと手を突っ込んでいたからだ。ドジョウはその湿った泥のなかで冬眠していた。」
まあ、オラの棲んでいたところは、ドジョウをそれほど食べておらず、オラが捕ってきたから、やむを得ず、調理をしていたのかなあ。
臭いといえば、冬、父に連れられて、小学生のオラが港の突堤にアイゴを釣りに行っていた。後に、アイゴは臭い、と知った。関西で食べて、関東で食べないものにベラが、逆のものにテンコチがあるが、アイゴもその1つのよう。
ベラはよく食べた。テンコチは食べなかった。始めて、テンコチを食べたのは神田の飲み屋さんであった。ガキが淡路島の海水浴場等で釣って帰ったテンコチは捨てることができないため、母が調理をして食べたが、いける、と。
キス同様白身魚であるから、ヌルヌルへの対応さえすれば、食えるということかなあ。
ビッグコミック「記事への批判
斎藤教信者のオラも、少しは布教活動をしてみたいと思った。それがビッグコミックに掲載された内容に対する次の事柄である。
「2009年9月10日号に掲載されている「太田和彦のイケイケ居酒屋」の「第三十五回『鮎の巻』」について、次の疑問があります。
1 「晩夏の落ち鮎」
相模川以西の太平洋側の川では、下りの時期は、弥太さんや、故松沢さんが語られたように、「西風が吹き荒れる頃」=木枯らし一番が吹く頃からです。
学者先生が、十月一日頃から産卵が始まる、との説を唱えられ、海での稚魚が十月十五日頃に観察されているから、事実である、との検証がなぜ間違っているか。
@ 湖産、人工、日本海側の、東北の川での海産の性成熟は、十月、あるいは九月下旬頃に生まれているため、10月1日頃にはピークに達し、大量現象として産卵が観察されます。したがって、「晩夏」に落ち鮎になるでしょう。もっとも、「晩夏」とは、九月下旬以降のことであれば。
多分、旧暦と新暦の人間の暦を鮎の生態に当てはめたことによる混乱が「晩夏」の表現になっているのでは、と想像していますが。
A 高橋勇夫「アユの本」に書かれている四万十川沖の海で観察された稚魚は、四万十川の遡上鮎を親とする、との判断は間違っています。
その理由は、高橋さんが、オラの批判の回答をくれましたが、その回答に、A 湖産、湖産と海産の交雑種の稚魚は海で死滅する、B 漁協が「湖産」しか、四万十川に放流していない、といっているから、とのことです。
湖産及び交雑種の稚魚が塩分の浸透圧調整機能に欠けるためか、海で死滅することは事実でしょう。そのために海産の遺伝子は、人間が意図せずして、守られているようですが。
しかし、「漁協が湖産しか放流していないというから、四万十川には湖産しか放流されていない」ということは間違いです。
:山本七兵が「日本教について」「私の中の日本軍」等において、日本人の文化特性について「『語られた』ということは事実である」ということと、「『語られた事実』は、事実である」は、まったく異なるのに、その区別をしない、と書かれているように、「漁協が語った」ことが事実であるかどうかに、何らの考慮もされていません。
「湖産」ブランドに、海産、のちには人工をブレンドしていたことは、「湖産」信仰による湖産の供給量と「湖産」需要のギャップから想像できることです。産地、種別偽装は、ミートホープがはじめてではありません。
なお、高橋さんにこのことを質問しましたが、これへの回答はありません。
B 釣り人でも、大きければよい、数が釣れればよい、というレベルの釣り人の観察眼は信用していませんが、職漁師の故松沢さん、弥太さん、小西翁、山崎さん、野村さんらの観察眼は信用しています。そして、遡上鮎が満ちていた昭和の狩野川での釣りからも「西風が吹く頃」から産卵行動=下りが始まることを経験しています。
2 揖保川の鮎とは
揖保川が山崎のことであれば、その鮎とは継代人工です。(堰があり、遡上鮎は、山崎まで上れません)
吉田川の鮎は、長良川河口堰がなかった頃でも、遡上鮎がなぜか、吉田川にのぼることが少なかったため、昭和八年に湖産を放流した、との話です。
したがって、湖産が冷水病で評価が落ちた(冷水病は、昭和の終わり頃から養魚場で観察され、平成四,五年には、釣り人にも異変を感じる状態になっていましたが、滋賀県議会での質問に対して、冷水病の発生を隠蔽していたとの話もあります。)平成十年頃以降、人工が放流の主役になっていたでしょう。
「天然鮎」とは、川で釣れた鮎のことで、その氏素性は関係ない、ということでしょうか。
それとも、「海産」遡上鮎のことか、湖産鮎のことでしょうか。
京都の鮎を東京に送ることは、溶存酸素要求量が非常に高い鮎では不可能です。空気を送る酸素ボンベがあれば、別ですが。
川辺川も、川辺ダム建設に伴う漁協への建設賛成派の大量入会作戦の結果、海産の汲み上げ放流が適切に行われなくなり、人工放流が主役になった、との話があります。
そうでなくても、遡上量の減少、変動が大きいため、人工等が放流されている可能性はあり得ると想像しています。
3 香りについて
香りが「本然の性」であり、食料によるものではない、との高橋さん等、学者先生の説は間違っていると考えています。
高津川はいまだ、シャネル五番の香りのする鮎がいるものと想像しています。
四万十川は、支流の黒尊川にいる可能性があるとしても、四万十川本流にはいないと想像しています。
なお、シャネル五番の香りのする鮎は、珪藻が優占種である川でも、非常に限られた川での現象になり、平成になってから釣り人となった人で、シャネル五番を経験した人は特別な条件下にある限られた人ではと思っています。
ことに、学者先生で、シャネル五番を経験されて、「本然の性」である、との説を唱えられている人が、いるのかなあ。
4 仁淀川の初物
その鮎は、どのような大きさ、長さではなく、太り具合でしたか。
6月の海産は、仁淀川といえども、小百合ちゃんのように肉付きがよい鮎にはまだ育っていないはずです。
「みずあゆ」といわれるように身は柔らかく、ほっそりとしています。
ということで、太っていれば、人工ではないかと想像しています。
又、「仁淀川」といっても、本流では、良質の鮎がどの程度育つ環境にあるのか、疑問です。
弥太さんが、うなぎは泥っぽい柳瀬川、鮎は坂折川と、語られているように、仁淀川本流は、大きく育つ鮎はいても、シャネル5番をぷんぷんさせる鮎の生育が可能な環境であるのか、ダム下流であることから疑問に思っています。
小西翁は、放流ものが、その川の鮎と同じ味になるには、2ヶ月掛かる、と語られていますが、その「放流もの」とは、湖産であり、人工ではない時代のことです。
人工でも同じかどうか、わかりません。
味については、「利き鮎会」で、相模川の鮎が2005年、2006年に準グランプリになっている状況です。
「川の健康診断」(森下郁子:NHKブックス)で、相模川の水が、貧腐水水と、清冽な清流である、とされていますが、ほんまかいな、と否定したくなります。
森下さんは、貧腐水水の透明度を水深1mとされているが、森下さんとは異なり、3mとされている人もいる。3mの透明度を貧腐水水の目安とすることが適切かどうか、判りませんが、小西翁は、紀の川は妹背の淵の透明度を6mと語られていたように記憶してるが。
ということで、貧腐水水の透明度が1mとされている森下さんの説には同意できない。当然、相模川が珪藻が優占種である川、清冽な水の清流であることも同意できません。
仁淀川本流が、どの程度の貧腐水水であるのか、否か、はわからないが、坂折川でしか、シャネル5番の香りは期待できないのではないかなあ。
なお、弥太さんが、かくまさんに、仁淀川でとれた「天然」ウナギと、放流されたうなぎの食べ比べをさせています。
「天然」、そして、垢石翁が評価されていた頃の鮎を育てた山、川、水がない以上、相模川の鮎が準グランプリになっても不思議ではないか。
太田さんが、人工を食べて、満足していれば、それで世の中の「常識」にしたがっていて、何ら文句を言うこともないか。
資料には、使用目的の目録を作成することが好ましいとは思えど、ダイワフィッシングで、阿部さんの「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」説が放映されたので、間違っている、と資料をつけて送付したものの、なんの反応もなし。
高橋さんも2回目からは回答なし。
ということで、無視されるのに無駄な労力を費やしたくない。もし、関心を持つ人がいれば、対応すれば良し。
日本の食文化が適切に後世に伝えられることもなし。」
以上のオラの愚痴は、原口さんの予言が、体現されている。
「ドジョウ捕りじゃあ、もう食ってけねェべ。養殖や輸入があったからドジョウ料理はなくなんねェべが、ドジョウがどんなとこに棲んでどんなふうにして捕らえられたんだか、だーれも知らんようになっちまうんだべなぁ」
ということで、味音痴の救済、ということすら不要な世の中になるようです。
雄物川さんは、生臭い臭いのする川魚のナメロウがまだ売られている、とのことですから、本物の味覚、食感、香り・臭いが、細々と生きながらえているようですが。
Aサクラマス
緒方清一(昭和6年生まれ)「第7章」 サクラマスの居ぐり網漁 新潟県三面川」
サクラマスとは
「ところで、サクラマスってのはヤマメの降海型ってのは知っちょるべ。晩秋に生まれて1年ほど川ですごしてよ、一七,八センチに育ったヤマメの一部ー陸封型と降海型がどこでどうやって分かれるかはナゾだがーそいつらが秋口、ちょうどアユが瀬づく(産卵する)ころに海に降りる。夜陰に乗じてさ。
そいつが海で一年半ほどすごして、桜の花が咲くころ、だからサクラマスっていうんだよ、産卵のためふたたび川に戻ってくる。ヤマメのままでいとったら、せいぜい体長三〇センチ、重さ一〇〇から一五〇グラムってところなのに、六〇センチ、ときには七〇センチ、三〜四キロにもなってさ、そりゃ立派な魚体だわさ。とても同じヤマメとは思えねぇ。
大体ヤマメなんかよりずっと美味しいわ。そりゃあ魚に聞いてみんことにはわかんねぇが、エサか何かの関係なんだろうよ。海での暮らしのなかで生臭さが消え、ヤマメとまったくちがった味になる。
あっ、そうそうこの一年半という期間もいろいろな説があってな、二年半説もありゃ、半年という説もあるんだ。どうもサクラマスってのはナゾの多いイヨ(注:魚のこと)なんだわ。
いろいろわからんことが多いもんで、だいぶ前から近在河川の内水面漁協の組合員や新潟沖を漁場にしちょる海の漁師らと協力しあってさ、今調査中なんだわ。
学者? 何だそれ、そういう人たちはおらんよ、必要ねぇもの。魚のことなら川を生活の場にしとるわしらのほうが、よっぽど知ってっかんね。顕微鏡で見んとわからんような細っかいことはおどうか知らんが、それ以外でわしらが知らんことを学者が知っちょうるとは思えんで。学者が本気になってサクラマスを研究したいと思うんなら、わしら漁師の話をちょこちょこっと聞いたぐらいじゃダメ。わしらみてぇにイヨと一緒に生活せな。机の上にガラス瓶(フラスコやビーカー)をならべてるだけじゃ、とてもとても自然界の生きものの生態なんてわかるもんじゃねぇ。
ンで、何の話だったっけ。あっ、そうそう、わしらの三面川鮭産漁協でもアブラびれ切ったり、胸bぎれの一部を切った印付のサクラマスの稚魚の放流をしてだな、海で捕れたものや、戻ってきたものについて調べてっとこさ。ほしたら、三面川で放したサクラマスは佐渡島あたりを回遊していることがわかったんだわ。冬場に多いらしいがよ。佐渡島の漁師が仕掛けた刺し網によくかかるんだと。
サケはオホーツクあたりまでいくってぇのに、サクラマスはあんがい近場をウロウロしとるちゅうことだわな。何本もの川が流れこむ(佐渡)島の周辺をまわっちゅうことは、川の水が運ぶ(山の)栄養分で育つプランクトンを食ってるんだべか。それともサケとちがって、いくぶんずんぐりした体型だから泳ぎがヘタなんだべか。
そうこうしているうち、三面川に戻ってきたサクラマスのなかに二年半前に放流したものが交ざっていた。だから、わしらはサクラマスは海でふた冬すごすといってんのさ。全部が全部、三年魚(生まれてから)というわけではないらしいが、とりあえず村上の漁師連たちの定説は、四年目に戻ってくるサケにたいして、サクラマスは三歳ということになってんの。」
嘘つき学者先生の話
学者先生が嘘つきであることは、「シジミ掻き漁 徳島県吉野川」に、矢田輝彦さん(昭和三一年生まれ)でも語られている。
「ダムをつくると、いいことは何もないね。昔はこのへんは浅草海苔の一大産地だったんですが、それが、今はぜーんぜん採れん。池田ダムのおかげで大水がちっともでんもんで、土砂が海に流れでずに河口の川床があがって潮が奥まで入りこまんようになったからね。真水と塩水がうまく混じりあわんのよ。
そうそう、池田ダムをつくるときにね例の学識経験者いうのがおるでしょう、かれらは『大丈夫』というとったんですよ。きょうぼくらがクルマを止めたとこよりもっとカミ、電車の鉄橋があったでしょう、あっこらは河口から七.八キロ上流になりますが、何を根拠にそういったのか知りませんけどね、あっこまで浅草海苔が採れるいうとったんですよ。
あの連中は、ほんまにいい加減じゃ。筑後川や利根川の大堰も長良川の河口堰のときもそうやったが、連中がいうたことでひとつでも当たってるコトありますか。ぜーんぶまちごうてる。アユは以前と変わらず遡ってくる、シジミは死なん、安全でうまい水を供給する、汽水域の問題、ヘドロ(シルト)の堆積、水質、なにひとつ当たっとらん。占い師だの競馬の予想屋ならいいかげんなことをいうても、だれも困らんけんど、ダム問題はぼくら川で暮らす人間には生きるか死ぬかの問題やで。そうやね、競馬のほうはたまーに当たるからこんなことをいうたら予想屋が怒るかもしれんね。
かれらにいいかげんなことをいわれると、反対の立場をとるぼくらはそれがいちばん困るんや。川の実情を知らん一般人は学者がいうんならって、それを信じるやろう。かれらで困るのは、机の上で勉強した『川』をどの川にもあてはめようとするんやね。たとえば吉野川には吉野川にしかない特質とか特徴ってもんがあるんやが、『そもそも川というものは』なんて十把ひとからげにしていわれてしまうと、もうあかん。
ぼくらも勉強会を開いて堰がつくられた筑後川、利根川、長良川のその後を調べてみたんじゃ。ほしたらね。学識経験者いうのは堰建設推進派のお先棒かつぎだけの役目しかやっとらんのやね。そんなんがまたでてきて常識はずれのことを平気でいいよるんやから、あきれて反論する気も起きん。池田ダムで一回だまされとるでね、もう信用せんよ。
おかしな話やわ、なんでそこで生活しとる人の意見を聞いてくれんのやろう。地元民が(池田ダム建設後は)洪水なんてきとらんのやから『つくらんでくれ』いうて反対しとるのにどうしてつくるんか。しもに住んでるぼくらだって、せっかくうまい水を飲んどるというのに、なんで(堰の溜め水を水源にする)まずい水飲まなあかんの。つくる必要があるなら、その根拠を示してくれいうの。pHやppbなんてなんやわからんからカネの話、水道料金や市場での魚の値段を基準にして話してくれ、それならすぐわかるでね。」
アユが食して珪藻から藍藻に遷移する、なんて、説を唱えても、ばっかじゃないの、ですむが、相模川以西の海産アユが一〇月一日頃から大量現象として観察できるほど産卵している、との説については、ばっかじゃないの、ではすまない。
相模川でも、漁期の延長を要望する動きがあるという。もし、学者先生の説が正しいとすれば、今までと同様、産卵への、仔魚への影響は少ない、ということになろう。
しかし、海産アユの産卵行動が、故松沢さんや弥太さんがいわれているように、西風が吹く頃=木枯らし一番が吹く頃から始まる、となれば、漁期の延長は、親の数を減らし、産卵場を荒らして、仔魚を、卵を喪失することになる。
友釣りだけが漁法であれば、「食い気よりも色気」になったあゆみちゃんが大漁になることは稀であるが、コロガシや、投網のように、あゆみちゃんの意思を無視する漁法が行われている相模川で、しかも産卵場は、コロガシの行われている場所にあることから、アユの再生産への影響は多大である。
神奈川県内水面試験場は、学者先生の説を正しい、と信じているから、漁期の延長が行われるかも知れない。
バカヤローといいたい。
川那部浩哉「アユの博物誌」(平凡社)には、「〜琵琶湖のアユはちょっと夜が長くなると、もうえらいこっちゃというんで産卵にかかるし、海のはまだしばらく大丈夫やと思うとるので、ずれる。同じ川へ放流しても、現在の産卵期は一か月ほど違いますね。その理由も、ほんとはちょっと矛盾があるけど、まずまずこれで説明がつけられる。」
高橋さんは、川那部先生の本を読んで「ここまでわかった アユの本」を書かれたのかなあ。
もし、読んでいても、十月一日ころから四万十川の遡上アユが産卵を大量現象として観察できるほど行っている、と判断されているとしたら、「ここまで」もわからずに「アユの本」を書いている、ということになるのではないかなあ。
今西博士とは、なんという違いであろう。(「昭和のあゆみちゃん」)
今西博士は、素石さんらだけではなく、萬サ翁の観察も、オラにとっては貴重な道しるべを提供してくださった前さんの話も聞かれて、「説」を立てられている。(「昭和のあゆみちゃん」「故松沢さんの思い出:補記その2」)
味の話
アッ、この章は、味の話でしたね。
とんだ寄り道をしてすんません。実は、斎藤さんがどんな味か、書かれていないんですよ。それもあって、学者先生のバカヤローの話のほうがオラの関心に合うんで。
「『よし、きた!まかせろや。あれあれ、色が何かヘンだべさ』
『なぁーんだ、マスはマスでもアメマス(イワナの降海型)かぁ』
『ダーメだこりゃ。なーんだ、ヌカ喜びさせやがって。うっちゃ(捨て)ちゃうぞ』
アメマスはダメだなぁ、アメマスは不味いで売れんで。しかもこんな六十センチくれぇの細っけぇのは、てんで話になんねぇ。アメマスなんてのはさ、でかいのになると一メートルくれぇになっかんね。
いやいや、きょうは大漁だ。解禁(三月十六日)以来はじめての大漁だ。三本だぞ。一日に三本も捕れたんはことしはじめてだ。今までほとんど捕れなかったんだからよ。」
「サケか、サケは去年わしらの組だけで、八百五十本ばかり水あげした。サクラマスは少なかった。百本もいかなかったんじゃねぇかな。それだけにサクラマスは貴重品なんだ。だから一部の料亭なんか、川に遡ってくる前に海の漁師が沖取りしたものを使っているようだ。ああ、すぐ(沖取りのものかどうか)わかるさ、そいつらコケラ(ウロコ)がボロボロ落ちてきったねぇ魚体だもの。ありゃ不味い。身がブヨブヨしてアブラっぽくてとてもじゃねぇが食えたもんじゃねぇ。それ食って『美味い』なんていってるようじゃ、サクラマス本来の味がわかってねぇ証拠。
サクラマスの産卵は、サケと同じ晩秋だかんね。サケは熟すまで海にいて産卵直前に遡ってくるが、春先に遡ってくるサクラマスは産卵まで半年も川で暮らさなくちゃなんねぇんだ。しかも、川じゃああんまりエサを食わねぇから、遡る前に身体に養分=アブラをいっぱい貯え解く必要がある。川に入っと、よけいなアブラがぬけて身がしまってくる。そう、アブラがのりすぎても美味しくないんだな、これが。だから、サクラマスってぇのはサケとは逆で、川の水を飲まんと美味しくは何ねぇのさ。
今の時期、わしらが捕ったサクラマスは一キロ当たり(の卸値)五千円から六千円てとこだ。きょう捕った二キロのもので、切り身十切れはとれるべ。それを街の料理屋じゃ塩焼き一切れ三千円だと。それも、薄っぺらいものをよ。ありゃ、いくらなんでも儲けすぎだよ。それでも客がくるんだから、ええ商売だわ。」
普通、アブラがのっているのが美味い、上等といわれているのに、さくらちゃんは違うよう。
サクラマスが貴重ではないほどいたころのこと
雄物川さんの村を、雄物川の支流が流れていて、サクラマスや山女魚が一杯いたとのこと。
しかし、釣りをしているのは、秋田等の街の人だけ、と。
ムラの若衆が釣りでもしていたら、あんなぐうたら息子には嫁をヤレン、といわれて、嫁のきてがなくなるから、とのこと。
この事情はよくわかる。
昭和三十年ころ、中学の同級生が、夕闇が迫るなか、牛に引かせた荷車に弟を乗せて帰って行った。その頃は、農家の「子供」といえど、牛と同様、貴重な労働力であった。したがって、農家の子供がオラ達と遊ぶようになったのは、オラと六歳ちがいの弟の世代ころからではないかなあ。
雄物川さんらが、さくらちゃんを獲ることもあった。
それは、村の行事の前に。しかし、釣るのではない。
二十メートルほどの網で、流れを囲み、その中に入ってさくらちゃんをつかまえる。さくらちゃんは、石に隠れている。隠れているさくらちゃんのえらと口に指を突っ込んで、つかまえる。
そのまま水面に出すと、暴れて逃げられるから、水中で頭に噛みつくとのこと。噛みついたまま、水面に顔を出す人もいたとのこと。
頭に噛みつくとは活き締めをしているのと同様であろう。指は怪我をしないのかなあ。まあ、歯で指をかみ切られることも、エラでスズキと違い、大けがをすることはないということかなあ。
それほどいたさくらちゃんではあるが、現在は、本流の近くに堰ができたからさくらちゃんは上れないとのこと。
当然、雄物川のさくらちゃんも三面川同様、貴重な魚になっているやろうなあ。
みずのようにさんの奥さんの実家は、三面川の近くとのこと。さくらちゃんを釣ったり、食べたことはあったのかなあ。
Bサツキマス
大橋亮一(昭和10年生まれ)「第10章 サツキマスのトロ流し網漁 岐阜県長良川」
さくらちゃんが居て、さつきちゃんが居る、そして、あゆみちゃんが居る、そして、海と川を生活史に基づいて往き来している、そんな情景が失われたが、残照をさつきちゃんで見よう。
「口に入れた途端にじわりとしみ出る極上の魚油が、口蓋をひとはけしてツルリと喉の奥に消えてゆく。この最高級の霜降り牛肉を思わせるサツキマスは、ダムや堰などの影響で今ではここ長良川で流通するだけの漁獲しかない。」
と、斎藤さんは書かれているが、オラには想像もつかない。比較対象の「霜降り肉」も食べたことがないのではないかなあ。食べたことがあったとしても、偽ブランド、他の産地等の肉がブレンドされたのもであろう。
大橋さんの漁場
「ボクんたの漁場は、河口から三十八キロメートル地点で、流程百六十キロもある長良川の漁場では最下流や。ほうや、この上下がちょうどアユの産卵場になっとる。ここらの水深は深くて四メートル、平均二メートルやから網の丈はせいぜい一メートル半から二メートルや。網のうえにはウキ、下には陶器でつくったオモリをつけてあるで、底が溝状に深くなっとる澪や、逆に山脈みてえにもりあがっとる馬の背、そういったデコボコの川底でも、うみゃーことなでくってくれるんや。」
アユの産卵場は、河口堰も上流、と思っている。大橋さんの漁場は、河口堰よりも上流。ただ、川那部先生は、産卵場が年々、上流に移転していると書かれているが。
浮き世の荒波
「ボクんたとこの収入はサツキマスが全体の六割がたやが、この割合は今も昔もたいして変っとらん。ある一時期をのぞいてはな―。
あれは高度成長期、昭和四十年前後から十年あまり、そりゃ、どえりゃあひでひぇもんやった。水質汚染と砂利採りで、魚が食えんようになってしまったんや。大型のジョレン船が三艘も四艘も入ってきてよ、名古屋あたりのビルや道路建設に使ったんだろう、このへん一帯の川底を浚って大量の砂利をもってってしもうた。そんで一メートルも二メートルも川底が下がってしもうたところへ、今みてぇに環境問題に関心がなかった時代やでな、廃油まじりの工場排水やし尿、生活雑排水をたれ流して、川の水はドロドロになってもうて、まったく漁ができんかったで。
いや、魚はおることはおったんや。ああ、河口堰がでけてまった今よりもおったで。サツキマスもアユもどうぞこうぞ(どうにかこうにか)捕れたんやが、売れんのよ。アブラ臭いっていうか、変な臭いが鼻について食えんのよ。かといって、漁はやめられん、うちは三代続く川漁師やでね。一族郎党が食ってかなならんで、やむをえず長良川を離れて弟とふたりで旅にでたんや。行き先は隣県の九頭竜川や日野川あたりやった。九頭竜川なんかにはナマズ捕りの漁師はおらんかったでね。ひとのテリトリーを侵さぬよう、漁師がやっとらんナマズ漁を選んだんじゃ。」
郡上八幡の大多サがアユ釣りをやめられていたのはその頃かなあ。
昭和32,3年ころ、三国港の魚屋で焼いたナマズが売られていたと思うが、九頭竜川では、仁淀川で食されているほどは、ナマズは一般的な食材ではなかったということかなあ。弥太さんは、ナマズ捕りの秘伝も語られているが。
サツキマスがいる川とは
「せやから、サツキマス漁は一時中止や。サツキマスは長良川にしかおらん魚やでね。ダムや河口堰に肯定的な学者ンなかには『他の川にもおる』いう人もいるが、一匹、二匹釣りあげられたくらいじゃ、『おる』うちにははいらんよ。漁師がサツキマスでママ食えるくらいになってはじめて、『おる』っていえるんでね。」
なんで、長良川以外の川では、さつきちゃんがママを食う対象にならなかったのかなあ。
今西博士や素石さんは、どのように答えられるのかなあ。いや、今西博士らの書かれたなかに、回答があるのかも知れない。
平成の初め頃、狩野川は城山下。故松沢さんのところに、友釣りで釣り上げた魚が、なんという魚?と持ち込まれたとのこと。故松沢さんはさつきちゃんであることを教えて、囮箱に入っている全部の鮎と交換したるよ、と、いうと、その釣り人は、貴重なさつきちゃんに感激して、喜んで持ち帰ったとのこと。
ということは、狩野川でも、遊漁の対象とはなっても、ママを食う対象ではなかったということかなあ。鮎とは違い、旅館に卸せるほどの数が釣れていなかったのかなあ。
「サツキ漁に戻ってきたのは、そうさなぁ二十五年くらい前だったろうか。だけんど、戻ってきたからってすぐに漁ができたわけやないで。一年でもゴミだらけになってしまうのに十年もほったらかしにしとったんじゃから川底はゴミの山や。ああ、二百メートルの川幅いっぱいに自転車だの洗濯機、タイヤ、空き缶、ガラス瓶、廃材、コンクリート塊、グジャグジャに丸まった鉄筋、何でもあった。
丸々一年間、毎日毎日、弟とふたりで、舟二艘使って、朝から晩まで実入りのないゴミ掃除よ。魚捕りより、ずっとえらい仕事やった。ああ、ゴミ掃除はトロ流し網漁には欠かせない仕事や。今でも、正月明けからサツキマスが遡ってくるまでの数カ月間は来る日も来る日もゴミ掃除や。これをやっとかんと、網を入れられんでな。」
他に、ゴミ掃除をやらないと、漁のできない漁があるのかなあ。
斎藤さんにとっては、河口堰に反対されて、建設省のお役人が肩を怒らせて文句をイイにやってこられた経験をされているから、消えてなくなるサツキマスの味よりも、
「高度経済成長期の工場排水や生活雑排水による水質汚染、上流部での観光開発の影響を受けての水量減、そして海と川とを行き来する魚たちを激減させた、あの河口堰建設などで長良川は少しずつ疲弊し、ついにアマゴの降海型であるサツキマスが絶滅危惧種同様の扱いを受けるにいたって、大橋は自分の代限りで川漁師を廃業することを心に決めた。川漁師のいる川ならではの旬の味だったが、大橋兄弟が漁をやめれば市場にサツキマスが並ぶことは恐らくなくなるだろう。そして大橋のような“川の番人”を失った長良川もまた、急速に川としての機能を失っていくにちがいない。」
との長良川の情景、行く末のほうが、そして、そこに棲んでいた魚等の生活史のほうが、さらに、その魚の生活史に合わせて、知恵くらべをされていた川漁師が消えていくことに、マチガッチョル、との思いでこの本を書かれているのではないかなあ。
C アマゴ
恩田俊雄(大正4年生まれ)「「第5章 アマゴの郡上釣り 岐阜県吉田川」
「郡上八幡(現・郡上市)には、山国ならではの食糧事情と豊かな川の恵みが相まって、数多くの専業川魚漁師が活躍していた。そして恩田もまた、そのひとりだった。二月からアマゴを、五月サツキが咲くころにはサツキマス、六月から九月にかけてはアユを釣って暮らしを立ててきたが、とくにアマゴの降海型、体長五十センチ以上にもなる大型のサツキマス釣りでは右に出るものがないといわれるほどの凄腕だった。」
「ちっさいころは、海の生魚なんて見たこともなかった。言葉や文化、焼きサバなどの食料や生活物資は京都を経由してくる船が運んできたんじゃろうろう。日本海側に辛うじて通じていた飛騨街道、通称サバ街道を通ってみーんなやってきた。川魚にタンパク源を求めて人口三千〜四千の小さな山間の町に、かっては川漁師が数十人もおったでな。
それが、わずか四,五十年前の話や。町なかに東海北陸自動車道なんていう高速道のインターができて、名古屋から一時間足らずで来られる今となっては京都の風はどこへやらで、食い物だって何がなんでも川魚っていうこともなくなった。」
「家業は材木商やったが、見習いのころから暇さえあれば家の前の吉田川で竿をだしとった。昭和のはじめ頃の話じゃが、アマゴは川のウジじゃいわれるくらいおったでのう。」
戦争で身体をこわして
「しまいにゃ余命一年なんていわれてまったもんで、事業をぜーんぶ清算して八幡町からひと山越えた益田郡小坂の湯谷温泉で転地療養しとった。
おまんも何度かアマゴ釣りに行ったことがあろうが、湯治場の前に小坂川いうのが流れとってな、そこを見れば大きなアマゴが泳いでる。竿をだせば幅広の尺モノがなんぼでも釣れる。これを期に本格的に釣りにのめり込んでいったんじゃ。くっちゃ寝の生活やったから、いつの間にか病気もどこかにとんでってしまって、なりゆきで川漁師の仲間入りさ。」
昭和三十七年ころ、湯谷温泉に泊まったはず。高山線のドッかで降りて、バスに乗り、辿りついたのが湯谷温泉。その宿の前に川が流れていたが。「湯谷」温泉の名は他にもあるようであるから、違っているかも知れない。
その頃、父がもっていた小継ぎの竹竿をもち出して、リュックに入れていて、小坂川で釣りをしていたら、オラの人生はもっと悲惨な、貧乏暮らしになっていたやろうなあ。
幸い、おぼえているのは、隣の宿の浴室にヌードのネエちゃんが幸運にもいたことくらいで、アマゴがいたかどうかさっぱりわからん。
「ここの魚は『郡上アマゴ』、『郡上アユ』というブランド名がついとって、二月のアマゴ解禁からアユの終わる十月まで、旅館や料理屋で出される塩焼きや刺身、唐揚げや飴炊き(甘露煮)など、川魚料理がいちばんの名物や。」
「『名物料理にうまい物なし』いわれるが、ここの名物料理は別や。よそとちごうて、アマゴやアユは百パーセント、長良川や吉田川で捕れた天然魚やでな。天然モノを使こうてるいうのが売り物やで、スパーで売られとるような養殖モノを使うわけにはいかんのよ。」
「いっとくが、郡上の川魚は長さやないで、重さで値段が決まるんや。」
「トビのアユは、百匁(三百五十グラム)以上、片手ではよう握れんビール瓶ほどの大きさやが、このところさっぱり見かけんようになってしまった。昔、多くの商売人が活躍しとったころは百二十匁なんていうサバのようなアユがおったが、今は夢も夢、大夢物語じゃ。」
「それとな、郡上の板前は自分でも釣りをするので、持ち込まれた魚を見ただけでどの場所で釣ってきたか瞬時に見抜いてしまうんや。水量がなく、水生動植物が育ちにくいような痩せた川で釣ってきたものは、いくら大きくてもパサパサしとって食えたもんやないし、逆に水温が高い川のものは一見太ってうまそうに見えるけんど、洋食モノのようにべたーっと悪いアブラがのって水っぽい。また、だれでも簡単に下り降りていけるような場所で釣ってきた魚もビリ級が多くていかん。
こうした厳しい条件を課せられとるで、漁師はその需要に応じてアユならどこそこ、アマゴならどこそこでって、釣り場を厳選しながら必死に釣ったもんよ。一にも魚、二にも魚でな、魚と向きあうときは家族の生活がかかっとるで、そりゃあ真剣やった。
死に物狂いで竿をだした時代があったが、今じゃ懐かしい思い出じゃ。わしが現役のころは背負子いっぱいのアマゴを一日で釣ったもんやが、今じゃあ腰にぶら下げとる小さなビクに半分も釣りゃいいほうや。しかも川がアカンようになったで、天然の魚がめっきり減りよった。」
なお、萬サ翁の稼ぎは「故松沢さんの思い出補記その2」
河口堰ができてから、流下仔魚が止水域で、海に下る前に餓死して、目利きが不要、人工放流の川となったよう。
天竜玉三郎は、それでも、郡上八幡で釣ったアユを売って滞在費を賄っていたようであるから、売れたんでしょうなあ。九頭竜川産をはねていたころとは雲泥の差。何を基準に値段をつけていたのか、玉三郎に聞きたいが…。松沢さんが亡くなられたから、お会いすることもないか。
二〇〇八年の「つり人」に、白滝さんが、流下仔魚の時期に河口堰をあけるようになり、釣れたアユのうち、七割が遡上アユ、と書かれていたと思う。相模川漁連の義務放流量は三四〇万であったが、大きいものを放流すると、数を減らすことができる、との話から、二七〇万に変わったよう。
その量よりも郡上八幡の放流量は少ないであろうから、郡上八幡の遡上量は一〇〇万あるのかなあ。
狩野川でも、大アユが釣れた松原橋とか、神島橋下流の東洋醸造の排水処理水が流れこんでいた水路の下流では、狩野川では珍しく大アユが釣れたが、目利きは大アユであっても、料理に使うことはなかった。(「故松沢さんの思い出」)
丼大王も下流で釣っていると、近所の人に何をしている?と馬鹿にされたとのこと。
今や、質、品位、品質を問題にする人は少数。
相模川大島の二〇センチ台で放流された継代人工が、尺アユ等大アユになり、客寄せパンダに貢献したとのことであるから、あゆみちゃんとの逢い引きでの感動もなくなっていくのではないかなあ。
釣聖恩田さんの箴言は、かって、そのように、きびしく品質、品位を見分けることのできる目利きがいた、そして、その目利きのお眼鏡に適う鮎が、サツキが、アマゴがいた、ということ。
背負子いっぱいの数が、ビクでも、オラのクーラー同様、空気が詰まっているほど、減少したように、味についても、同様の激しい変化を生じて、恩田さんの語る品質のアマゴは、鮎は、夢、幻となったのではないかなあ。
今では、鮎については、料理人でもある本間さんが「何が郡上ブランドだ。」と話されたことにつきる。
D 鮎
天野勝則(昭和14年生まれ) 「第十一章 アユ刺し網漁 島根県江の川」
「お盆の前後となれば『鮎の名所・護府の川=江の川』(『和漢三才図会』)のアユを求めて全国から注文が舞い込む。天野は日本屈指のアユ漁師である。」
「今やアユはスーパー・マーケットでも売っている。しかし、それは自然の掟に従った生きてきたアユではない。人が作り出した人造アユである。どちらでもいいじゃないか、という問題ではない。天然アユに執着することこそ、川あっての日本の自然を保全していくうえで最短で最良の策なのだ。」
これが斎藤教の「アユ釣り大全」以来の根本教義でもある。
天野さんは、
「いまはですね、今はアユ漁の真っさかりです。お中元やお盆用で、捕っても捕っても足りんくらいで。ま、私ら川漁師にとっては今が書き入れ時です。」
三次よりも、「しかし、アユの味はこちらの方がなんぼかええですよ。途中、何本かの支流が入りますけん、水量が豊富ですけに、それだけ大きい型のええアユが育ちます。江戸時代の『和漢三才図会』にある『護符の川のアユ』ももともとこのあたりのものものですけね。ええ、大昔からアユ漁のさかんだったようです。わたしが子供のころにも(漁師が)ようけおりましたがね、上流の浜原などにダムができたころから川漁はあかんようになりました。
この川はね、上流の町と川口を結ぶ、大事な交通路だったんです。昔はタタラによる鉄や大森銀山からの銀、繭や炭が川上から、川下からは米や塩、石炭が帆船で運ばれていたんです。川舟の行き来を確保するために、長いこと水量が落ちてしまうダムをつくらせなかったんですがねぇ…」
野田さんは、江の川を旅されている。
「〜アユの刺し網漁というんはふたり、ふつう夫婦でやりよるものなんですが、うちの家内があきませんのですわ。いや、漁がイヤやいうんやのうて、この仕事は深夜から明け方にかけてやるもんですからね、眠うてかなわんいいよりますのや。〜」
「えぇ、なぜ早う漁にでて、早いとこ切りあげて夜はゆっくり寝んのかって? そうしたいのは山々ですが、プロの捕ったアユがなぜ高いかということを考えてみてくださいな。それは一にも二にも質がええアユが獲れるからですよ。
夜も八時を過ぎれば真っ暗になりますが、なぜ十二時をすぎんと網をださんのかというとね、その頃になるとアユの腹は空っぽなんです。魚はみんな同じですが、とくに腹が痛みやすいのですけね。昼間食ったエサを全部消化しとらんと、それが腐って足が速くなりますし、だいいち食って不味いですよ。わたしはそう考えてますで、深夜から明け方に捕るようにしとるんです。ほかの漁師は、『食うのは客やで、わしじゃないからええ』いいよりますが、年に一回か二回しか食べられん都会の人にも美味しいアユを食ってもらいたいと思うとりますで。」
小西翁も、夜は胃の中が空になるから、夜網をする、と語られているが、小西翁は、夜七時?には空になっている、と話されていたのではなかったかなあ。食後一、二時間ではフンで出すには少し早いように思えたが。
天野さんが、十二時から漁を始められていたのは、消化時間以外にも、何か理由があるのかなあ。
亡き師匠、大師匠もアユを絞めた後、必ず、腹を押さえて、腸のなかのものを出されていた。
天野さんのうまい物を食べてもらいたい、という思いは、都会の客にどの程度通じているのかなあ。オラと同様の味音痴が増えているし、本物の味をシラン人がほとんどであろうし。ビッグコミックの書き手のように、言葉での表現は本などで仕入れた知識できるようであるが、人工と天然アユの区別をされていないように思えるしなあ。ましてや、藍藻を食するアユと、珪藻を食するアユの違いまで意識されていないかもわかんしなあ。
「漁師になりたてのころは最低でも日に二十キロはと捕っとりましたね。とくに秋にはようけ捕りよって、焼きアユに加工して東京にも出荷しとりましたよ。息子たちを食わせなならんで、夜は漁にでて昼間は夫婦してアユを焼いてね、寝るひまも惜しんで仕事をしとりましたわ。」
「焼きアユですか? 正月に食う雑煮の出汁用です。秋ですからもっぱら落ちアユを使うんですが、あまり漁期が遅くなりますとオスはサビて真っ黒やしメスも卵を産んでドジョウのようにやせとりますで、そんなアユを焼いたってええ出汁はでんです。ですから(漁期は)本来、六月十日から十二月三十一日までできるんですが、わたしは毎年十月二十日ごろまでしかやりません。アユ漁は実質四ヶ月ほどですね。サビてやせたアユを捕るより、そのアユが少しでも卵を多く産んで来年また川を遡ってきてくれれば…そう思うとります。」
滝井さんも釣り終えると、焼きアユをつくられていた。それは出汁用ではなく、氷、クーラーが身近になかったから、保存して持ち帰るための手段であった。
小西翁の焼きアユも、出汁ではなく、料理の素材・食材としての加工ではなかったかなあ。
狩野川でも、干して乾燥させると、雑煮やラーメンのいい出汁になるよ、といわれたことがあったが。
ということで、天野さんの焼きアユの利用法については、少し疑問が残る。江の川での利用法かなあ。それとも、錆びアユに限った焼きアユの利用法のことかなあ。
もう一つは、落ちアユについての記述である。
江の川の落ちアユが、十月一日ころから始まるのであろう、ということは学者先生の四万十川沖の稚魚観察が日本海側の海産が「湖産」にブレンドされている結果と疑っているオラにとっては、さもありなん、と理解できる。
問題は、「落ちアユ」「錆びアユ」「叩いたアユ」を区別されていないことである。
狩野川に西風が吹く頃の前後でのサビの状況、湖産放流全盛時代の平成はじめ頃までの酒匂川の状況を見ると、
狩野川=海産遡上アユ
@ 大井川の10月でも同じであるが、サビが強い鮎は中旬ころまでは稀である。下旬になると、サビが強い鮎も混じるが、絞めても美白のモノもある。
A 10月のサビの強弱は、瀬であるか、平瀬、トロ、チャラであるかによって異なる。瀬ではサビのある鮎は稀である。
B 10月下旬は、サビの強いモノも混じるが、まだ叩いたものはいない。
C 木枯らし一番の後は、錆びたもの、美白、サビが弱いモノが入り混じるが、叩いたモノは稀である。瀬では、美白、サビの弱いモノが多い。もちろん、船に入れておくと、夜のうちににゃんにゃんをする不届きモノもいるが。
酒匂川=「湖産」の等級が高いもの=高価=海産や人工のブレンド率が少ないか、ブレンドされていない等級の高い「湖産」が放流されていた頃のこと。
@ 9月になると、サビがまじり、下旬になると、錆びていないものはいない。
A 9月下旬、20日になると、多くの囮屋さんは店じまいをして、オトリがある富士道橋が釣り場になる。そこでも、叩いたアユが主役になる。
ということは、JR鉄橋付近に溜まっている、との話もあったが、湖産放流アユも下りをしないで、産卵するものがいたということかなあ。
なお、95年ころになると、湖産が冷水病で生存率が低くなり、継代人工も放流されるようになった。湖産よりも少し、継代人工の性成熟が遅いモノがあるようで、10月1日でも叩いていないモノが主役であった。
B 9月25日を過ぎると、オラと、囮屋さんの二人だけが、広い川原にいて、叩いたり、叩く直前になった強い錆びアユを釣っていた。狩野川の遡上があれば、酒匂川には天候等の条件の悪いときしか行かなかったが、92年ころから、狩野川の遡上量が激減していったため、やむをえず、錆びアユ、叩いたアユと遊ばざるを得なかった。
ということで、江の川でも、9月中旬、下旬ころから、産卵が始まり、10月20日ころには、叩いたアユ、サビの強いアユが主役となっていたのではないかなあ。
そして、天野さんの漁場が、産卵場に近いところであり、また、友釣りではなく、刺し網漁であるため、産卵直前のモノも、叩いた後のアユも入り混じって、同時に捕れていたのではないかなあ。
「昨日はですね、昨日(の漁)は八キロちょっと。〜。個人にはですね、今は中元やお盆の時期ですけ、昔からの付き合いでどうしても断り切れない人にこうして、一キロずつ小分けして、氷を入れて五千円で朝一番の冷凍宅急便で送っています。そうせんと、その日の夕方までに届かんでね。
大阪、京都はもちろん、北海道にも東京にも名古屋にも送ります。最近ではアユの本場といわれてる岐阜にさえ送っています。そうですか、どうりでこのところ岐阜からの注文が多いなぁと思うとりました。河口堰ですか、あの長良川がねぇ、あかんのですか。」
「漁師になりたてのころは、最低でも日に二十キロは捕っとりましたね。」とのことであるから、江の川といえども、遡上量が減少しているということであろう。
そのために「しまねの鮎づくり宣言」が、行われ、山形県に続いて、二代目方式の人工生産に転換したということであろう。
E ザザ虫
中村和美(昭和二年生まれ) 「第四章 ざざ虫漁 静岡県天竜川」
ざざ虫漁は、伊那で行われているから、「静岡県」ではなく「長野県」ではないのかなあ。
そして、みずのようにさんの故郷である。残念ながら、佐久間ダム等がアユの遡上を妨げていなかった頃のことを、その当時を知っている方に聞いておくとのことであったが、その話を聞かせてもらう前に旅立たれた。
「まァ、あんたら都会の連中から見りゃ感覚として食い物の対象にはならん、すすんで食うもんじゃないわな。ンでもな、虫を食うってのは特別めずらしいことじゃねぇよ。ハチの子、イナゴ、蚕のサナギなんてのを食うところは日本中あちこちあるわな。世界には、もっとヘンな虫を食ってるところだってあるっていうぞ。
しかしだ、このざざ虫にかぎってはここだけっていうな。ざざ虫はわしら天竜川沿いに住む伊那の人間にとっちゃあ、ずいぶんと古くから食われていた『うまいもん』のひとつなんさ。ざざ虫を食うのは日本、いや世界でも伊那だけなんだわ。
百聞は一見にしかずっていうだろう、ま、いっぺん食ってみとくれ。ほれ、これがわしが先日採ったもんの佃煮だ。こっちがヘビトンボで、そっちのがトビゲラの幼虫。
ここんとこ川がえらく汚れてよ、カワゲラがいなくなっちまったので、きょうのところはこの二種類だけんど―。」
四十年ほど前、新宿の飲み屋でざざ虫を食べた。
その時、伊那から流れてきた者も一緒であったか、は、忘れた。
ざざ虫、セミの幼虫、蚕のサナギ、ハチの子、イナゴを食べた。そのほか、何を食べたかも忘れた。
雄物川さんは、鮎が終わると、イナゴ捕りに精を出していた。自家用だけではなく、お裾分けをしているよう。
「さあ、遠慮せんと食べてみとくれ。そうイヤな顔をすんなって。甘辛くてちょっと苦みがあって、なかなかの珍味だぜ。まだ、陽が高いからそうもいかねぇが、ほんとうはよ、酒の肴にもってこいなんだわ。べつに強制はしねぇけどさ、ざざ虫を食うって話を聞きにきたんだろう、だからさ、食ってみろっつうの。じゃねぇと、話しづらいや。
おや、やけにむずかしい顔をしてんな。どうした。え、虫が喉につっかえてるって、ほれ、ちょっと冷えてしまったけど、そこにあるお茶で流しこめばいいさ。まだ動いているって?嘘つけ、アハハハハ。」
野田さんはおもろい人や、と思ったが、斎藤さんも、強面の建設省お役人を相手にした真面目人間ではない面ももたれているよう。
「どうしてこの伊那地方だけざざ虫をくうようになったかだがよ、みてのとおりここはまわりをぐるっと山に囲まれてんだろう。山国だもんで昔は当然、海の幸ってのが少なかった。日本海側から運ばれてきた塩サバぐらいしかなかったんじゃねぇかな。
しかもよ、冬ンなれば深(ふ)っけぇ雪に閉ざされちまって、よそから物資も入ってこねぇ。だもんで、冬を生き抜くためのタンパク源ってとこがまず第一だろうよ。」
このざざ虫を食する説明は、伊那からの流れモンの話と同じであった。
それにしても、冬に採るとは、冷たかろうに。早春、ハヤ、ニジマス釣りのために黒川虫を捕るときでも、冷たかったから、できるだけ浅く、足で石が転がせるところを選んでいたが。
「そこにたまたま、ざざ虫がいっぺぇ湧く川があったってとこが重なった。天竜川はよ、知ってるように水源が諏訪湖だ。だから大雨が降ったっからって鉄砲水のように急に水嵩が増えたりしねぇ。じょじょに増えて、じょじょに減っていく―どういうことかっていうと、ざざ虫ってのは石の表面にへばりついてるもんでな、底石が大水で流れたりして年中ゴロゴロ動いていると棲みづらいんよ。
そんなわけでこの川はよその川にくらべて水生昆虫の種類、量とも特別多いっていうな。余談だけどさ、川の虫をエサにしているこのあたりのハヤやヤマメってぇのは、豊富なエサのお陰でバカでかいのがいるって釣り人には評判なんだわ。
人間だって、貴重なタンパク源っていうんで、このざざ虫を専門にとって暮らす人々がでてきた。虫はたーんとおるもんで、収入は比較的安定しとったんだな。」
「ここ伊那ではよく知られてる、一茶の句に、
『冬ごもり 悪物食いを おぼえけり』
つてぇのがあるんだけど、北信濃出身の一茶がざざ虫を知らなかったわけがない。当時の『悪物』は四ツ足のケモノと解釈する説もあるようだが、わしは『ざざ虫』だと思っている。冬の食いモノってことだから、なおさらだ。ざざ虫漁ってぇのは、川水が一年のうちで一番きれいになる冬場の漁なんだから。
でも、伊那市には残念ながらこの食いモノに関する文献がないんだ。ただ、三峰川上流、そうさなここから八キロメートルほど東にいったとなりの高遠町に江戸時代の古い文献が残っとって、ざざ虫漁のことがのっているそうだ。だけんど、ちょこっと書かれているだけで、イナゴやハチの子と同様「採っていた」っていうだけで詳しいことはなにひとつわからんのだと。
そりゃ、採っていたんだから『食って』いたさ。カブトムシやクワガタとって喜んでいるほど、山国の人はノンキじゃねえや。」
ということで、中村さんは、ざざ虫を縄文時代や弥生時代から食べていたのでは、と想像されている。
「もう二月で漁期も終わりにちかいからしてたいした漁はないが、十二月下旬あたりの盛期だと、一回踏んだだけで五百グラムも入ることがあるな。トビゲラの幼虫は百グラムでだいたい二百五十匹だから、千二百匹以上だ。あんまりお金のことをいうのは好きじゃねぇんだが、ざざ虫の卸値はキロ当たり五千円てとこだ。十回も踏めば二万五千円ていう計算になる。」
「今日か?今日一日の漁でどれくらい採れるかってか。今の時期だと、そうさな、午前中の三時間くらいで一キロ五百から二キロ五百ってとこだろう。
わしはざざ虫を業者に売らんんで、自家用と近所にわけるだけだから、その程度で十分なんさ。ざざ虫は旬の食い物だから、近所の人がわしがもっていくのを首を長くして待っとるんよ。わしがぐずぐずして川にでんと、『いつ川にでるんだ』って催促されるくらいなんだから。」
ということで、「どこにいったってその地の食習慣ってのは一朝一夕にできあがるもんじゃねぇからな」の、食習慣は今も伊那に残っていると思うが。
伊那からの流れ人は、酒がちょっぴりしか飲めなかったから、あんまりざざ虫を好きでなかったのかも知れないなあ。むしろ、高遠出身のかあちゃんのほうがざざ虫を好んだのではないかなあ。
2009年11月15日朝日新聞に、千 宗守さん:武者小路千家14代家元 が、次のことを書かれている。
「今の料理店でも、店が客を選ぶ。誰と行くか、紹介状があるのかないのかで、出てくるものも味も違ってきます。時に『うちのもんなんか、あんさんが召し上がってもなーんもおいしいことおまへん』と入店を断ったりする。実に感じの悪い応対やと思いますが、これが文化。歴史やプロセスへの理解がないと、味わえない店があるのも事実なんです。
たとえば、精進料理で、禅宗の伝統を受け継ぐ名店『大徳寺一久』が、『ミシュラン』に出ていなかったのが印象的でした。砂糖や調味料に慣れきった舌では、あの『大根漬け』をおいしいとは思えないでしょう。材料の本質が全部出ている料理ですから。」
「京都は海から遠いですし、昔は保存の技術や流通が発達していなかったから、干したものや古くなったものも上手に調理して食べました。香のものも、魚と同じくらい重要な一皿だった。京都ぐらいでしょう、こんなに多くの漬け物専門店が成り立っているのは。
懐石の場合、最初に出すみそ汁は、二番だしで取ります。一番だしは後から出す煮物に使う。最初においしいものを味わってしまうと、格差がなくなってしまうからです。
ぜいたくに慣れた人たちは『なんちゅうしぶちんな料理や』となるでしょうが、文化というのは、そこの土地での生きざまといやおうなく結びついているもんなんです。」
若かりしころのオラなら、文化なんかすっ飛んでしまえ、となるが。ジジーになって、やっと「文化」が大切なものと考えられるようになった。
その時にはすでに遅し。本物の鮎も少なくなり、アユの味に、アマゴの味に、質の違いがあることも、目利きが、味の違いがわかる人も少なくなり、古の鮎、アマゴの味は夢幻となっている。
F ヤツメウナギ
鈴木春男(昭和15年生まれ) 「第八章 ヤツメウナギ漁 山形県最上川」
「関東の人はヤズメそのものを知らねのじゃねのすか。いやぁ、なして太平洋側にいねぇのか、おらにはわがんね。
はぁ、東京の上野とか浅草あだりにゃヤズメ屋があるらしいがの、ふつうの人はあんます買いにいがねべ。そっちの人は食い物っつうより、薬とか精力剤ぐれえの感覚でヤズメを見てんだべな。うん、恐らくそうだべさ。ンでも、たまぁに関東あたりからおらンとごさに『送ってくんねが』って注文がくるんだわさ。ンにゃ、料理屋からじゃねぇよ。個人だよ個人。底翳(そこひ)なんか患ってる人が、ヤズメはなまぐ(眼)がえぐなるって、たまーに電話よこすんだ。
ああ、捕れてりゃ宅急便で送ってやっさ。生ぎたものまるまる欲しいっていえば、ビニール袋さ酸素さ入れてよ、ほんで料理法がわがんねっつう人には裂いて白焼きにしたものを四本ひとパックにして送ってやる。一本五百円から六百円ってとこだ。」
「おらほか、おらは関東の人が『うな重』食う感覚でヤズメ食ってんだぁ。ま、関東の人がヘタにヤズメの美味を知らねぇほうがええかもな。なにせ関東は人口が多いべな、うんめぇなんつう噂でも広まったらここらへんのヤズメがいっぺんにいなくなりそうだわ。そうでなくても、ここんとこ漁獲量がめっきり減っているんだかんね。
ヤズメ食いつけたらウナギなんて食えねぇよ、いやほんどだよ。関東で食ってるウナギなんてみーんな養殖モンだべな、天然なら話は別だけんど、あんな水っぽいフニャフニャしたもん、よぐもまぁ口ンなかに入れられるもんだわ。舌がどうにかなってんじゃねぇのかのス。こっつにも天然のウナギはいるけんど、おらはヤズメウナギの方がなんぼか好きだな。
料理法か、そんなに多くはねぇ。さっきいったようにウナギと同じように蒲焼きにして食うことがいちばん多いわな。あと、生をブツ切りにしてみそ汁の具にしたり。あ、そうそう素焼きにしたもんだな、五〜六センチにぶつぶつ切って、生醤油につけて食うと酒の肴にもってこいなんだわ。焼酎、五本ぐれぇはアッという間だわ。」
最良の漁場と味
「ああ、おらの漁場は代々この場所だ。河口から二十八キロメートル地点になるが、下流に遡上途中のヤズメが一息つく長いトロ場があってよ、夜になるとそいつらが一気に遡ってくる。トロ場から急流に突っこんでくるときにヤズメは(体内の養分を消化して)身がしまってくるんさ。この場所は川幅、水量、流速、底石の状態どれをとってもええヤズメが捕れる条件が備わってる。ンだ、ここが最上川でも一級のヤズメ漁場さ。
ええヤズメはのう、アブラののりかげん。アブラがのりすぎていても、パサパサでも美味しくねぇ。ちょうどええ具合になるのが、このあたりで捕れるヤズメよ。ヤズメの産卵は五月半ばから六月にかけてだが、ふ化した稚魚は三年から四年ほど川におっての、そうさな十から十五センチに育って、それから海に降りていく。海ではよ、動物性プランクトンを食って成長すんだが、さぁいよいよ産卵すんべって大きさになるまでさらに三,四年もかかるんだ。おら達漁師は、秋と翌春の二回、産卵のために川を遡ってくる五十センチ前後のものを捕っているわけだが、どうだ、ヤズメがこんなに成長が遅いなんて知らなかったべ。だから美味いんさ。
で、なんでこの清川地区のヤズメがええ具合かっつうと、ヤズメはよ、川に入ってくるとまったくエサを食わなくなるんだ。海でたらふくプランクトン食ってよ、腹ンなかにアブラの帯さつくってんの。おら達はそれをアブラつぼって呼んでるがの、そうよ、栄養分よ。そのアブラつぼの養分だけで五月の産卵まで生きのびんだかんね。川さ遡りはじめのころははぁ、アブラつぼが親指くらいの太さでの、腹ンなかにびっしりつまってる。だから河口近くの酒田あたりで捕れたものは『アブラ臭い』といわれんだ。」
「おいコラ!こっちさ、きてろ。あんまり沖にいぐな。水に入るんなら膝下(の流れ)までにしとけ。流されたら一巻の終わりぞ。引っくり返ったら沖さ引っ張られて、川底に引き込まれっから浮かんでこねぇかんな。この間もプロの漁師が舟から振り落とされて、死にぐったんだかんな。やっこさん、三百メートルも流されたってよ。増水してねぇつったって、ここは日本三大急流のひとつぞ。それもこのあたりが最上川ンなかで一番(激しい流れ)なんだ。なんだと、このすぐカミの最上峡がいちばんだって?観光パンフレットにそう書いてあっただと。アハハハ、だから素人はダメだっつうの。あんなトロい流れがなして急流なもんか。
なんならためしに膝上まで入ってみろや、そうそう舟縁につかまっとればおん流されねぇから、ま、いっぺんはいってみろ。なぁ、押しがきついべ。この押しのきつい流れに、オラだってときどきおっかねぇ思いをすっときがあんだぞ。おめぇ、そんなこともわからんで漁師の話なんて書けんのか、おらぁ心配だわ。
昨日見てきたんだべ。このカミの芭蕉ラインとかなんとか、川下りの観光船をさ。あれはな、ほんとうはここまで下ってくる計画だったんだ。おらの家のすぐ近くに(陸羽西線の)清川駅ができたで、ここで観光客を下ろせば便利だっつうんでよ。ところがためしに下ってみたらの、流れが激しすぎて(川底の沈み)岩を避けられんねぇ。ほんでまぁ、でっかい観光船を三艘もボッこしたていう。観光会社もこんなに船をボッ壊すようじゃ採算合わねぇつうんでの、やむなくここから三キロメートル上流の草薙ってとこを下船場にしたっつういきさつがあるんだ。そんくれぇ流れの激しい場所なんだぞ。この立川町清川の流れは。
ああ、アユと同じで『ヤズメは瀬につく』っていってな、ええヤズメを捕ろうとすれば、底石がゴロゴロしとる激流に仕掛けを沈めねばなんねのさ。型のええ元気なやつほど激流を遡ってくっからな。そういう場所っつのは、でっかい底石に水があたって三角波が立っての、不安定な川舟が上下左右にふりまわされるんだ。水の力ってぇのは、まーんずすげぇもんだ。
きのうきょうはじめたばっかすのわけぇ漁師なんて流れに振り回される川舟に立ってらんねぇで、ずーっとネマっと(膝をついて座って)っと。ネマっとっれば、仕事になんねぇべよ。舟ンなかで立つことからはじめなくちゃなんねぇんだから、ヤズメ漁師っつうのは十年やってやっと一人前といわれるんじゃねぇのかス。ああ、こんただとごで仕事しとるんだからのう、そりゃおっかねぇ目にあったのは、一度や二度じゃねぇわ。」
ヤツメウナギとなれば、雄物川さんも獲っていたはず。
2009年11月15日、ダム放流で流されたカニ籠を探しに来た雄物川さんのいうには、すでに、支流に堰ができた後のこと、産卵のために遡上してきたヤズメが堰で上れなくなり、溜まっているところを、盆の頃、軍手をはめて捕まえていたとのこと。
堰のできる前のことは聞き忘れた。食べ方は、蒲焼きにする人もいたが、ブツ切りにして煮物にしていたとのこと。アブラはほどよくのっていたとのこと。
その時、最上川の上流の人もヤズメを捕っていたとのことであるが、聞く時間がなかった。
なお、見つかったかに籠には、5匹入っていたが、小さい二匹は逃がしていた。
さあてと、またまた困った。
産卵が5月半ばから6月、ということと、川ではエサを食わない、そして、秋と翌春の2回漁をする、ということをどのように考えればよいのか。
1年間、あるいは半年、エサを食べないものもいる、ということかなあ。
そして、雄物川さんが捕っていた盆のころに堰で上れなくなったヤズメは、秋に上ったものなのか、翌春に上ったものなのか。それとも?
最上川さんは、餓鬼の頃から、最上川の水温が上がると、支流、沢へと上ってくる山女魚を捕っていたということであるから、ヤズメについても捕っていたのであろう。鯉釣りにやってきたときにヤズメのことを聞くことにする。その結果は、後ほど書きます。
G モクズガニ
平川重治(昭和10年生まれ) 「第二章 モクズガニのモジリ漁 静岡県河津川」
「夏になると近所の子供らが集まってですよ、この大岩から飛びこんで、よーく遊んだもんです。
岩の真下は砂で埋まって浅くなってしまいましたが、昔は青々として大人でも背が立たんくらい深かったですから、肝試しっていうんですか、度胸のあるなしはこの岩から飛びこめるかどうかでしたねぇ。ええ、岩はずっとこの場所です。
昭和三十三年の狩野川台風でも昭和五十三年の伊豆沖地震(伊豆大島近海地震)のときでもピクリともしやせんでした。」
下りの情景
「この大淵は上流の枝川から産卵のために降りてきたズガニ(モクズガニ)の一時休息所にもなっているんです。そう、ズガニは休み休みしながら海にでるでね、こうした流れのゆるい淵で一休みするんです。もうずいぶん前になりますが、自分が小っさいころにはびっしりカニが溜まって川底の色が変色していたこともあったんだが…。今はだいぶ少なくなったねぇ。
川底の砂地に小さな穴があいているでしょ、穴のまわりに洗ったようなきれいな砂が積もっているわね、あれがカニの穴。出入りするたんびに砂を掻きだすもんで、水アカのついてない新しい砂がああして穴のまわりに積もるんさ。
ズガニっていうのは穴のなかに潜ってですよ、日が落ちるとエサを食いにでてくる。だから、ああした穴を目安に籠、このへんじゃあモジリいいますが、竹や針金で編んだカニ籠を仕掛けるんです。そう、カニが動くのは夜ですから、モジリは夕方に仕掛けて朝捕りにいくってぇのが基本です。」
弥太さんは、ザガニの住まいは、石の隙間であり、石の隙間を自分で掘り出し、ひしゃげた穴をつくる、とのこと。とすると、「水アカのついてない新しい砂がああして穴のまわりに積もる」とはいっても、砂地に穴があいている、貝を捕るときの目安となるような砂のなかの穴とはちがうのでは。
味
「ありゃ雑食性だからね、いかいハサミで引きちぎって何でも食っちゃうの。ふつうは甲羅の大きさが七,八センチだけんど、なかにはいかいものもいるよ。オスなんか脚をのばすと三十センチもあるやつがいる。そんなのに(ハサミで)はさまれたら指なんかちょん切られちまう、すごい力ですから。
力が強いっていうことは筋肉がしまってうまいつうこと。だから、このへんの人はズガニに目がないの。海のカニとちがって小ぶりだから楊枝なんかで突っつきながら食わなくっちゃなんないけど、味はいいんだよ。とくにミソがうまい。ズガニ好きはこのミソの味がたまんないっつうね。」
九十五年、遡上鮎がいなかった狩野川を見ただけで、河津川へ。結局、狩野川の年券は持っていたが、解禁日に竿をだしただけの年になった。
河津川は鮎が釣れたが、熱帯魚の水槽のガラスにつくコケを除去するために使われている小さい貝が繁殖していて、あんまり条件のよい石の状態ではなかった。
昼、ズガニを食べたが、美味いとは感じなかった。漁期ではないため、冷凍したモノを食べたのではないかなあ。
味の違い
「モジリ漁には籠のなかにエサを入れるのと入れないのと二種類があってですよ、十月一日の解禁直後ならエサを入れた仕掛けのほうがだんぜん分がいい。そのころのカニはまださかんにエサを食うでね、エサにつられてあっちこっちのほうからノコノコ入ってくる。
エサかね、カツオだのハマチだののアタマとかアラ、生臭ぁーい臭いがすれば何でもいいんさ。」
「ズガニは(産卵間近の)晩秋から冬にかけてだんだんエサを食わんようになるから、そのころになると海へ急ぐカニを受ける、いわゆる『下り落ち漁』になる。」
「そうだね、エサを食わなくなったころのほうがうまいわね。解禁当初のズガニはさっきいったように雑食性、腐った魚の腸まで食っちまうんだから、ちょっとクセがある。そこにいくと気温がぐんと下がってエサを食わなくなると、カニ本来の甘味がきわだつと同時にミソにもコクがでてくる。それに産卵間近のメスは腹に内子をもっていますから、こいつがまたうまい。」
弥太さんは、8月ころからカニを取り始めるが、夏のカニはうもうないというのは身が入っておらんということじゃわ。カニの匂いさえすればいいんじゃったら買うたらええ、と、いって売っていたという。
ただ、仁淀川は夏でも捕っていたが、河津川では10月解禁であるから、夏のカニと、秋のカニの味の違いがあって当然ということから、その理由についての説明もちがっているが。(「故松沢さんの思い出補記その2」の ツガニ、モクズガニの弥太さん 「ラベルへ」がうまくリンクできないので、すんません)
「栗の実が落ちるでしょう、そうすると間もなく軒先の柿が赤く色づいてくる。そのころになると伊豆の湯の町とはいえ、このへんも朝夕はめっきり寒くなってですよ、腹の底から冷えてきます。そんなときはちかくの温泉にいくのもいいんだけんど、やっぱりあったかいカニ汁が飲みたいなぁって思うの。このへんの人は子供も大人もみーんなそう、秋になるとみーんな同じことを考えてる。
ええ、あの黄金色のズガニのミソがプカーっと浮いたカニ汁なんてぇのは、ほんとに身体があったまります。
自分ら小さいころはね、親に『カニ汁すっから、捕ってこいや』ってね、よくいいつけられたもんですわ。買い物や薪割りは嫌だったけんど、うまいもんが食えるっつうんでカニ捕りだけは喜んでいきましたよ。夕方んなるとちょっとした仕掛けをもって川に下りてくんです。するととなりの子も捕ってるんだね、そんで『お前んちもか』って。
そう、ズガニはちょっと前まではぜーんぶ自家消費でした。売ってないんだから、食いたけりゃ自分で捕ってくる。
子供のころは河津川にはいっぺぇいましたからね、子供でもすぐに捕れたんです。秋になるとそういうズガニ捕りの子供が、下流にも上流にもあちこちいましたわ。たぶんそういう光景は、この地に人が住み着いたころからずーっとあったと思うんですわ。ここいらの人にとっちゃあ、ズガニは昔っから馴染んできたうまいモンなんです。」
弥太さんは、最終脱皮が終わっていないと味がせん、ということで、性成熟度のすすんだ海への下りをはじめたカニを目標に漁をされる。それまでは、はしりのカニでもよいというお客さん相手の漁をするが。
そのため、下りが谷川からはじまることから、漁場は、谷川から始まる。その時期は、シーレ(ヒガンバナ)の咲き出すころ、と。
そうすると、湯ヶ野に下りのカニが現れるのは、栗の実が落ちるころ、ということになるのかなあ。
「ヒガンバナ」を「シーレ」ということは知らなかった。てくさりとはいっていてが。
故松沢さんも、テントを畳む11月23日には、手伝いに来られた人たちに、ズガニ汁を用意されていたようであるが、ズガニを楊枝で突っつく食べ方もされていたのかなあ。丼大王は、酒の肴として食べているとのことであるから、楊枝使用であろうが。
平川さんは、昭和42年、観光ブームで、宿からあぶれた人を頼まれて泊めていたことから、篭屋から民宿もされるようになった。
「みんな旬の物ですからね、竹の子、アユ、ズガニと、その季節になるとかならず何組かのお客が『また、食べにきたよ』って寄ってくれるんです。
やっぱりこういう田舎で商売するには季節の食い物が大切だと思うんですよ。たーだ泊まって温泉に入るだけじゃ、今どきのお客さんは満足しません。その上、何度もいうようですが、ここ(湯ヶ野温泉)には見るべきものが何もないんだからね。
『伊豆の踊子』にしたって小説のうえだけの話でしょう、舞台になった旅館の福田屋さんにしたって、わざわざ旅館の建物だけ見たってしょうがないもの。だいたい、今の若い人は本なんて読まないから『伊豆の踊子』ったって知らないよ。」
観光客ブームも去り、
「観光では将来性がないっつうんで後を継ぐ者がいないから、ここらへんの旅館や民宿は一軒一軒つぶれ、また一軒と店をたたんじゃっね、そうねぇ、当時の四分の三,いや三分の二に減ったんじゃないかなあ。景気がよかったのは昭和五十年ころまでで、今じゃあこの湯ヶ野温泉は下田街道の単なる通過点でしかなくなりました。」
「そんなのにくらべればたかだか三十年の歴史しかありませんけど、自分とこがだす竹の子とズガニの料理のほうが知名度は高いと思いますよ。旬の物は捕れたてをその産地で食べるのがいちばんなんですから。
それにしてもですよ、川の生き物が減りましたわ。山の奥が荒れて、自然のふところが浅くなったんですね。」
観光ブームのさなかの昭和四十三年ころ、二回、湯ヶ野に泊まった。
とはいえ、二回ともがらんとしていた。観光シーズンではなかったからでしょう。
一回は、七滝から天城トンネル、湯ヶ島温泉への雪道を。
その時、久我山の高校生二人に出会ったが、残念ながらオスであった。もし、メスであれば、おらの人生はバラ色になっていたであろうに。
もう一回は、季節も忘れた。泊まった宿が同じ名字であったことだけをおぼえている。
残念なことに、二回とも、となりの宿の温泉に、小百合ちゃん、百恵ちゃんのヌードを見ることができなかった。それが、ズガニを食べることができなかった?コトよりも残念です。
捕り方
エサ使用のときは
「エサを入れたモジリ漁のポイントは臭いがさっと流れちまうような急流じゃなくて、臭いがモァっと漂うような流れのゆるやかな淀みや淵。休息所だもんで、一所に何十匹も溜まって休んでいれば、一籠に二十も三十も入ることがあるけんどまぁ、そんなことはめったにないね。たいてい二つか三つ、入っていて五,六匹がいいとこだわ。」
下りのときは
「ズガニは(産卵間近の)晩秋から冬にかけてだんだんエサを食わんようになるから、そのころになると海へと急ぐカニを受ける、いわゆる『下り落ち漁』になる。ええ、流れを利用するんですわ。比較的浅い岸よりの流れに小石を積んで、(川上に向かって扇状に広げた)カニ道をつくってですよ、下ってきたズガニを入り口の広いモジリ(竹で編んだ大型の筌:うけ)に流しこむ捕り方に変わるんです。
その時期になると土地の人間はカニが通る(流れの)筋をよく知っていますから、ハイッ! 絶対見逃しません。そういう場所にはかならずだれかがモジリを仕掛けてます。
ズガニの産卵場所ですか、河口部というより、完全に海に出ちゃってから産卵するようですよ。時期は年明けごろと思うんですが、何せ自分は見たことがないのではっきりしたことは…。」
「ただ、エサを食う時期なら生臭いエサの匂いにつられてあっちこっちから歩いてきてくれますが、下り落ち漁は川中にカニ道をつくってそこにモジリを置く一種の定置網漁法でしょう、寄り道してるカニじゃなくって一目散に海に下るカニを対象にしていますから、海に向かって動いてくれんと捕れんのですよ。とくに天気が何日も続くと、からっきしダメだ。
川の水が落ち着きすぎて、カニが動かんのですよ。いえね、モジリが流されちまうほどの出水じゃあ困るんですが、適度に雨が降ってくれんと一匹も入らん。カニは夜、それも闇夜(新月)がいちばん動くんですが、そこに雨でも降って川がいくらか増水すると一気に下ります。水がでんとうまくいかない、産卵のため河口や海に下るアユやウナギ、カニはみんな流れに乗って下ってくるんですから、とにかく雨が降らんことには…。」
平川さんは、雨による増水を下りの動機付けにされているが、弥太さんは、鮎も、ツガニも、増水だけが下りの動機付けではないと話されている。鮎については故松沢さんも同じであるが。
弥太さんは、雨が降らないときは「シヨセ」を観察せよ、と。
そして、「シヨセ」とは、生き物のひとつの日和じゃ、と。鮎とツガニについては、木枯らし一番のころが「シヨセ」になる、と。
平川さんは、どうして、降雨だけを下りの動機付けにされたのかなあ。河津川と仁淀川の違いかなあ。
海でのツガニの生活史
ということで、ツガニが終えることができれば、ツガニは海で産卵し、子供が川にのぼり、また性成熟がすすむと海に下り産卵し、一生を終える、鮎とおなじだ、となり、めでたし、めでたし、となるはず。
しかし、丼大王が海でツガニが捕り、それを食している、川のツガニは故松沢さんに勧められて最近食べたに過ぎない、海のツガニは産卵時期だけ、捕れるのではない、と。
じゃあ、産卵後また、海でまたエサを食い身を太らせる、となると、いったいどのくらいの時間、年数を生きるのか、また川に上るのか、の問題が出てくる。
弥太さんが、上り落とし込み漁が行われていて、そこに子供のツガニがいっぱいはいっていた、ということを観察されている。もし、ふたたび親が川に上るのであれば、その中に親も入っている可能性もあろう。あるいは、弥太さんは、二年目、三年目のツガニとは異なるツガニを観察されているはずであるが、その観察記録はない。
ということで、産卵後、ふたたび川に上ることは考えられないとしても、丼大王の酒のツマミに貢献する海での生活史がツガニにあると考えるべきではないかなあ。
あたかも、ヒネアユのように。しかも内子をもって。
さらに、産卵しても死なない、死ぬのは例外だ、ということかなあ。(また、「ラベルへ」がうまく設定できません。「意見・感想」の「八月四日:丼大王」を見てください)
もう一つ、ツガニの食べ方で、弥太さんが推奨されているすりつぶして、ガーゼのような布で漉して、ガラ等を捨てて、汁を炊く、という食べ方は、仁淀川だけの食べ方かなあ。
平川さんは、さらに、気になることを話されている。
「それで、夏は夏で自分の趣味なんですが河津川でアユを釣ってね、そんな地のモノを宿の売りにしたんですよ。
河津川のアユっていえば、ほら、この本。井伏鱒二の『釣人』って本だけど、えーっと、えー何ページだったけな、あっ、ここ、ここ。
『東伊豆河津川の谷津でわたしの釣りの師匠になってくれたカワセミの親爺という老人はーそっと後ろにやって来て、わたしの耳元で【もそっとお前さん、川に食らいつかなくっちゃいけねぇ】と云ってた』ってね。
昔はけっこうアユ釣り師には知られた川なんですよ。ここ数年は天然遡上が少なくて不漁が続いているいますが、この川にはダムもないし水もきれいだから、型は小さいけど真っ黄色の追い星のある、いいアユが釣れるんです。どっかの川みたいに養殖アユの成魚なんか放流しませんから、食ってはうまいと思うんです。」
95年に河津川で釣れたアユは、人工の成魚放流ではなかったと思う。しかし、入漁料を取られているから、漁協が放流もしているはず。それが、稚魚放流か、成魚放流か、というだけの違いなのか、どうか。すでに湖産は放流の主役ではなくなっているころであろうから、どんな氏素性のアユが放流がされていたのかなあ。。
そして、水については、温泉排水の処理が気になるが、狩野川沿いと違い、観光客が素通りしているという世の中に、循環式の温泉施設をつくることもなかろうから、塩素を大量に入れた温泉排水が川に流れこんでいることもなかろう。そうすると、水が生物に、植物に悪い影響を増幅していることもなかろう。
湯ヶ野でツガニを食い、アユを釣り、そして、となりの宿の浴室にヌードのネエちゃんがいることを期待して、宝くじが当たったら、いってみようかなあ。
故松沢さんは、あるいは、弥太さんは、海でツガニが生存していて、丼大王が酒のツマミに重宝していることについて、どのような話をしてくれるのかなあ。
「ツガニに聞いたことはないからわからんが…」といわれるだけなのか、あるいは、わしは郡上の漁師のように、冬は炬燵にあたってすごすほど、優雅な生活はできない。おまんや丼大王が、たいして釣れんこともあるとわかっていてもやってきて、オトリがないと騒ぐやろう。学者先生とは違って、海産鮎の性成熟の時期を知っているあゆみ命の人が、寒いなか、やって来てオトリがないと困るやろう。
そやから、冬は大工でオトリの仕入れ代を稼がなぁならんでぇ。海のツガニをとりに行くほどの余裕はないわ。海のツガニのことは、海の漁師でもある丼大王に聞け、といわれるのかなあ。
でもお、松沢さん、2003年11月3日だったと思うが、丼大王が城山下一本瀬で10数匹掛けて、持ち帰ったのは数匹という、金字塔を建てた一本瀬もなくなったよ。石コロガシも痩せ細ったよ。石底の淵が砂底になっただけでなく、淵から石コロガシの平瀬が砂利になっただけでなく、石コロガシの瀬もほんのわずかしか瀬らしくないよ。
平成の代が始まってすぐに、藪下が、オールドファンの郷愁の場に過ぎない、といわれるほど、石が埋まり、流れが貧弱になったように、一本瀬も、石コロガシの瀬も、あゆみちゃんが好んで着く環境ではなくなったよ。
2009年は、20年前ほどの遡上量があったけど、石コロガシにも、一本瀬にも、一番上り、二番上りが途中下車することもなく、丼大王ですら解禁日に釣れず、夏でもチビしか釣れなかったとのこと。もう、おらも、丼大王も来ないよ。オトリを仕入れなくてもいいよ。海の漁師に転職したら?
という会話になるのかなあ。
最上川さんの話 ・ヤズメは、田んぼに水を引くために堰が設定された後、その堰下に溜まり、吸盤でくっついているものを手袋をはめて掴んで捕っていた。 ・さくらちゃんは、夜、舟からカンテラで、川を照らして、川漁師であるお父さんがモリで突いていた。最上川さんは、舟の操船をしていた。 保存は、塩漬けにする、あるいは、塩をまぶしてから日干しにする、とのこと。食べ方は原則焼いて食べるとのこと。 ・ズガニは、下りのとき、金網にエサを入れて捕っていた。ということは、海までの道のりが長いため、下りをはじめてもエサをとっていたズガニが相手ということ。 竹でできたウケを使い、平川さんや故松沢さんのようにウケに誘導する流れをつくる捕り方もあるが、エサを使う方が良くとれていたとのことであるから、平川さんが話されている休憩するズガニが漁の対象ということのよう。 食べ方は、弥太さん同様、砕いて、漉して、その汁を食べることもあるが、その汁に粉を少し入れて、団子にしてから調理をしていたとのこと。団子にする点で弥太さんと違いがあるのかも知れない。 ズガニが産卵後、海で生活をしていることは知っていた。ということは、最上川河口域の海岸では、丼大王と同じく、海のズガニを食べる習慣があったのかなあ。 |
B 知恵くらべ
(1)恩田俊雄(大正4年生まれ) アマゴの郡上釣り
@商売人の釣り
「アユやアマゴは川で泳いどるときはただの川魚やが、漁師のビクに納められた瞬間から商品やでね。それを注文に応じて数と大きさをきちっとそろえて、時間どおりに納めてはじめて収入になる。そういうモロモロの条件を確実にこなすための釣り方が、おまんが『教えろ、教えろ』いうてうるさい『郡上釣り』なんや。」
斎藤さんは、アユだけでなく、アマゴ釣りでも、名人に弟子入りをされようとしていたよう。
「アユ釣り大全」に、斎藤さんは、狩野川で、4,50匹を釣っていたが、故大竹さんに弟子入りされたことが書かれている。
故大竹さんは、せわしい釣りやなあ、といわれて、一カ所で釣る修行を命じられた。その修行中、岩のうえで寝てしまい水に落っこちることもあったとのこと。
この話を初心者らしからぬおっさんにしたら、おっさんも師匠から、同じく1カ所で釣る修行をせよ、と命じられているとのこと。
その理由は、「すっ飛び」=一番アユは誰でも釣れる、2番アユ、3番アユを釣る技を身につけよ、とのこと。
しかし、おっさんは、オラと釣るときは、師匠の言いつけを破って、あっちこっち動き回って、何とか、オラよりも多く釣れるように、と懸命である。このことを師匠に告げ口をしょうかなあ。
「多くの仲間を差し置いて、安定した収入を得るために商売人によって編みだされたこの地独特のこの釣り方は、遊漁者から見るとなんぼか格好がよく見えるらしいな。ここんとこ、よう郡上釣りの真似事をなさる外来の釣り人を見かけるで。だけんどもわしら商売人と、魚ならなんでも釣れりゃええという遊漁者とでは釣りをする思い、姿勢が根本的に違うんや。わしら、釣りを楽しんどる余裕などあらせんがな。」
このことは、何回か、書いたように、狩野川で大きいアユが釣れたら、それがどんな水のところにいるアユで、そのアユの品位、品格が劣っていようと、意に介さなかったオラと、故松沢さんの違いからよーくわかる。たぶん、故松沢さんが、あゆみちゃんを売って生業とする女衒家業から引退されたのは、狩野川が目利きの目に耐えうるアユが育たない川になったからでは、と想像しているが。
「郡上釣りはのう、竿一本で暮らしをたててきた郡上の漁師たちが何代もかかって工夫と改良を重ねたものに、おのれの(生活をかけた)実釣で得た経験をすり合わせてはじめてその人のモノになるうんや。たまーに釣りにでかける連中が釣り雑誌を手本にしたり、テレビ見たくらいじゃぁ、漁師の釣りをマスターすることはまーんず不可能よ。
わしも駆けだしのころは先輩漁師の後ろにくっついて、よく物陰からそっとのぞいては技を盗んだもんよ。漁師は、どうしたら釣れるかなんて他人には教えんでな。
あの場合はああして魚を掛け、こうして取り込む。減水した川では、あんな場所に魚が集まっとるんやな。風の強い日にはこうした場所で風除けしながら釣るんかー魚にたどり着くまで身につけならん知識がいくらでもあった。こういうとこが遊漁者とは違うんや。」
初心者らしからぬおっさんは、おっさんの師匠が、遡上量が久々に多い09年狩野川の11月15日ころ、ちょこっと来て2,30のあゆみちゃんを釣ったのを見て、びっくらしたといっていたが、それほどの腕の差でびっくらしていては、身体がもちませんよ。
唯一、腕の差に哀しまずにすむのは、アユがいない、少ない川で名人達と釣るときのみ。その時は「技」ではなく「運」で釣ることができるから。09年那珂川のチーム対抗や、アユの習性をなくしてしまった質の悪い人工が少しいた中津川のように。
A「警戒心に満ちた天然魚」
「一般の釣り人は魚がエサを食ったときに出るアタリ(魚信)を何で見とる?毛糸かなんかの目印を頼りにしとるんやね。目印が水中に引きこまれたり、止まったり横に走ったりする変化、もしくは手元にコツコツきてはじめて『ああっ、アタリだ』ってアワセ(竿をあおってハリ掛かりさせる)が、そんなトロくせぇやり方やと郡上の魚はよう釣れんの。ここの魚は商売人のハリで毎日毎日いじめられとるでな、魚がすれてしまっとるんよ。」
故松沢さんも、鮎が掛かった時を感知するのは、感度良好の竿ではない。故松沢さんの場合は、目印の変化である。その点、アマゴ釣りよりは一瞬遅いタイミングである。その瞬間に、手のひらを返すような動作をすると、掛かり鮎は上流に走る。したがって、引き抜きをしなくても、簡単に手もとに引きよせて取り込むことができる、と。
ある時、城山下一本瀬で、おなじみさんが故松沢さんにカーボンの竿をもたせた。目印で掛かりを察知するため、使ったことのないカーボン竿でも問題なし。
おなじみさんは、故松沢さんの動作を見て何をしているのか、と。掛かり鮎が偶然上流にすっ飛ぶことはあっても、必ず上流にすっ飛ぶ操作をする釣り人はまずいないだろう。
目印で掛かりを察知する故松沢さんにとって、竿は感度ではなく、竹竿のもっている調子が重要であったのでは、と、想像している。
いずれにしても、素人衆よりも早い段階で掛かりを察知することが、釣聖恩田さんのアマゴ釣りと共通している。
B何を見て合わせるか
「目印を頼りにアワセるとな、たいていは飲みこまれとるか食い逃げされとるかのどっちかや。
なら、どの段階でアワせるかっちゅうとだな、郡上釣りではアタリを『イトふけ』(イトのたるみ)でとるんじゃ。目印の変化でも手感でもない、水中でトロトロ流れてたり、水面から出ている空中イトの微妙な動きでアタリを見分けるんや。空中イトは川面をなでていく風でもユラユラ動くが、エサをくわえて自分のテリトリーに戻ろうとする魚の動きは風のときとは明らかに違うとるでな。
このテリトリーに戻るときのわずかな動きを、わしらはアタリとして見とるんや。目印を一心不乱に見つめるなんてことは商売人はようせん。そんな悠長なことしとったら、食い逃げされるのがオチやで。
故松沢さんは、目印で、掛かりを察知する、といわれたが、この表現は、オラにもわかるように、ということ、あるいは、感度良好のカーボン竿よりも竹竿の調子のほうが鮎竿としてはすぐれている、という意味合いで、話されたのかも知れない。したがって、正確には、恩田さん同様、空中イトの動きを判断の材料とされていたのかも知れない。
故松沢さん同様、掛かり鮎が上流にすっ飛ぶ釣り方をされている人がいれば、確かめることができるが。
Cアマゴのエサの捕り方
「アマゴがエサをくわえるとき、はじめエサの端ををあま嚼みするんやね。そんときのアマゴは流れのなかでヘリコプターのホバリング状態になっとるでね、ほとんど変化が見られない。わしらでもアタリをようとらんが、魚がテリトリーに戻りかけるときの一瞬の変化を見逃さず、竿をチョンとあおってアワセをくれるんじゃ。だが、そのアタリだってほんのわずかや。
で、だ。アマゴがあま嚼みからハリに違和感を感じてハリをはきだすまでの時間は、わずか〇.四秒だといわれとるのは、おまんも知っとるな。ほやから目印にアタリがでたときには、もう遅いんや。その前のアタリを察知せんと、釣果は思うようにのびんのよ。
ええかな、毛糸なんかの目印を頼りに釣りをしていると、アタリを見逃すまいといつも仕掛けをピンと張っとるわな。目印の動きが魚のアタリなのか底掛かりしたものか判然とでけんから、イトを張っとらんと不安で仕方がないんやね。でも、そうすると都合の悪いことがおこる。イトを張るには水流に負けまいとしてオモリを重くせなならん。重くすればエサはオモリに引きずられて、不自然な流れ方になる。すると、魚は警戒してよう食いつかん。エサはたえずフラフラと流れにのって自然に流れんといかんの。
釣り堀や人工養殖魚ばかりを放流している河川ならどうか知らんが、天然アマゴは水中にできる引き込み波や吹きあげる波、そういうたえず上下に変化している波にごく自然にのって流れてきたエサしか食わんよ。」
脈釣りをしたのは、ハヤが最初。ついで、三月に中津川に成魚放流されるニジマス。
したがって、「天然」は、ハヤだけ。ハヤでも、目印にアタリがでる前に察知できたら、多く釣れるようになるのかなあ。オモリを重くしないと、流れに入らないから、重いオモリを使っていたが、軽いオモリで試してみようかなあ。
斎藤さんは、どの程度、腕を上げられたのかなあ。
故松沢さんは、恩田さんのこの話にどのような話をされるのかなあ。
とはいえ、長良川も人工放流ものが釣りの主体となった、という話もある。そうすると、恩田さんの技が伝承されることもないということかなあ。
D人工放流もの
「人工池で乳母日傘で育てられた養殖アマゴなんて警戒心がないで、いきなりエサをひったくっていくけんど、釣り人をはじめ多くの天敵に狙われている天然魚いうのはいつもビクビクしとるで、エサをとるときだっておそるおそるなんや。」
「最近は人の手でつくった養殖アマゴを沢山放流するようになったけんど、あれをいくら釣ったって『上手』といえんよ。なにせ、警戒心もへったくれもないアホな魚やでな。遊漁者とはいえ、自然界で知恵をつけた賢い魚、天然魚を釣らにゃあ本当の釣りの醍醐味を味わえんとちゃうか。
魚釣りというのは、もともと『自然を釣る』遊びや。魚を釣る前に、天候や水温水量を考え、川の様子を注意深く観察し、周囲の景色を愛でながら自然と一体になるからこそ楽しいんやろう。そこに人工という要素はひとつもいらん。
ましてや天然アマゴしか商品にならん郡上では、人間も道具も釣り方も、より自然体が求められる。せやからこの土地にあった釣り方が考え出され、それに応じた道具も考案・進化してきたっちゅうわけ。その代表が郡上竿なんや。」
恩田さんのこの言葉を「鮎」に置き換えるとオラにもよおくわかる。
しかし、鮎も継代人工放流全盛時代。アマゴも郡上八幡といえどもそのようになっているのではないかなあ。
恩田さんのいわれている自然との一体は、心の内ではそうですね、と思えど、体は、腕は、知識は伴わず。
周囲の景色を少しは愛でるものの、女子高生や乙女が現れると、そっちのほうが気になる有様。
E郡上竿と技の関係
「今はひ弱な釣り人が多いらしく、軽くてペラペラのスマートな竿が全盛だ。なのに、郡上竿は太くて重くてゴツイ。郡上竿は同じ長さなら日本一重いだろうよ。時代に逆行するようやが、これも天然魚を確実に掛け、取りこむために郡上の商売人には欠かせん道具のひとつや。ペラペラしとって軽い竿は胴がブレるで、扱いにくいんやわ。
長良川や吉田川のような水量のある流れでは小さな沢を釣り歩くような短竿ではとうていポイントにとどかんし、広く探れんで三間半とか四間(約七.二メートル)といった長竿が昔っから使われとった。ほやなぁ、それ以上長い竿はなかったな。昔の漁師は竹の延べ竿だったでな、それより長くてまっすぐな竹はなかったで。
物干竿しみてぇにゴツイ郡上竿は、やがて三本継ぎや五本継ぎといった継ぎ竿が売り出され、グラスファイバーやカーボンの竿がでまわるようになっても、竹の特徴は失われなかった。どうしてかというと、竿の重さ、手持ちや穂先の太さ、バネの強さ、胴の調子、どれをとっても竹、自然のものがもつバランスが一番よかったからや。」
恩田さんの竹竿に関する特性評価は、故松沢さんの鮎竿に係る竹竿の評価と一致すると思う。しかし、故松沢さんは、カーボン竿にはその竹の特性が表現されていない、といわれていた。恩田さんと故松沢さんのカーボン竿に係る評価の違いは、どうして生じるのかなあ。もっとも、故松沢さんがカーボン竿を手にすることは、初期のカーボン竿であり、また、それほど多くの機会はなかったようであるが。
とはいっても、竹竿がたえず、塗り直し、焼き直し?の手入れを必要とし、そのたびにウン万円か、ウン十万円かを必要としていたとのことであるから、もし、カーボン竿に、竹と同様の特性が付与されていたならば、費用対効果を道具、仕掛け作成、選択の側面でいつも考えられていたことから、カーボン竿にも手を染められていたのではないかなあ。
「ン? 竿がブレるとどうして具合が悪いのかって。
それはな、アマゴを引き抜くと同時に腰に差したタモ網に飛ばしてこんならんやろ、竿がブレてしまうと手元が狂って明後日のほうに魚が飛んでしまうからや。後ろのヤブに飛んでいった魚をガサガサ捜すのは、どえりゃあ格好悪いでよ。ここの川には硬くて胴ブレのしない、太くて重い郡上竿がいちばん使いやすいんよ。」
F取り込み方の技
シュッとアワセてパッと抜き上げ、腰に差したタモにポンと入れる。タモは腰に差したまんまやで、いちいちタモを片手にもって魚を受けとめるなんてことはせんよ。わしの場合、このときハリはすでにアマゴかの口からはずれとるでね。だいたいタモに入る寸前にははずれとることが多い。ハリをはずす手間を省いとるんや。魚をなま温かい手でもてば傷みが早うなるしな。ほうや、ハリに『返し』をつけとらんのや。
引き抜いてタモの方向に飛ばしてくるときに、竿のバネを上手に利用してはずれるよう微妙な操作をするんや。カツオの一本釣りに似とるかなぁ。はたから見てもちょっとわからん、そういう技術が郡上釣りには随所にある。」
萬サ翁が満さんよりも先に、引き抜きをされていたとのことであるが、アマゴ釣りの引き抜きの技を鮎に応用したということかなあ。
故松沢さんは、タモを抜くことなく、上流にすっ飛んだ掛かり鮎を手もとに引きよせて、水中糸をたぐり寄せて、タモに落とし込んでいたとのことであるが、岩の上に座って?晩秋の郡上八幡で束釣りをされたときは、通常の取り込み動作では、タモを水に浸けることもできないことから不可能で、別の取り込み方をしたのではないかなあ。つまり、故須合さんがされていたように、まず、オトリを鼻環からはずしてオトリ缶等に納め、次いで、掛かり鮎をはずして鼻環を通されていたのかなあ。
硬調の竿を使っても遡上鮎の乙女を抜けずにもたもたしているオラには想像できない取り込み方です。
「微妙な操作」は、故松沢さんが、掛かり鮎を上流にすっ飛んで行かすときにも行われていた。それも、故松沢さんが小柄で、激流に立ち込めないために、手尻を長くすることで、沖にオトリを送り出すためには必要な技であり、また、狩野川においても、場を荒らさず、手際よく取りこむために適していた技ということではないかなあ。
G場を荒らさないこと
「また、ここの川のように谷が深い川では流れを横切ったり川通しもでけん。足場も悪いでね、魚を掛けた場所からあっちこっち動けんの。魚に引っ張られて下ることなんかでけんから、確実に捕るためにはアワセた瞬間に腰の強い竿で一気に水面から引き抜いてしまう必要があるんじゃ。郡上竿なら掛けた瞬間に強引にアマゴの顔を上に向かせ、いち早く水面に引きずりだせる。
これが柔らかく軽い市販の竿やと、せっかく大きいのを掛けても魚に走られているうちに竿がしも竿(竿の弾力がゼロになってイト切れしてしまう)になるか、のされてバラしてしまうのがオチや。
掛けてからモタモタしとると魚があっちこっち水中を走りまわるし、バラシの原因にもなる。アッアッアなんて魚とやりとりしているうちにハリをはずされたり、糸を切られたりするとな、そのポイントはもういかん。ハリから逃れた魚は、一気に深場に逃げこむんやが、そのとき超音波か何か知らんがな、危険信号みてぇなものを発するようや。するとその後、ほかの魚までピタッとエサを食わなくなる。ほんまに不思議やで。どや、こういう経験はおまんにもあるやろう。
掛けたら、魚は遊ばせない。腰の強い竿やないと具合が悪いんや。腰が強いということは竿の素材が厚いということやで、必然的に竿は重くなったんやね。見てみい、郡上竿にしろ郡上ビクにしろ、強、剛、重で、繊細やといわれとる渓流釣りの道具にしては全体的にゴツイやろう。格好よりも実益優先や。これも“漁師町”の伝統じゃよ。」
「一気に水面から引き抜く」ようにせよ、とは、テク2からいつもいわれている。
大井川の9月、10月のあゆみちゃんだけでなく、今年(2009年)は、相模川に放流された海産畜養の9月ころからの馬力にも翻弄されたからよくわかる。「一気に抜く」真似事ができるのは、大井川の川原に立ってどこにとんでいってもよい、という条件のときだけ。それでも、ときには走りまわられて、身を切り裂いた乙女に逃げられて、川原で嘆き悲しむのはいつものこと。
バラシが「危険信号」みたいな超音波を発している、という現象は、鮎でも同じではないかなあ。
故松沢さんが、一番アユの動向を、2番鮎、3番鮎が注意深く見ていて、一番アユがいなくなると、2番鮎がその場所を確保する、だから釣り返しが利く、そのような金の塊を育む水があった、といわれていた。
故松沢さんは、そのような金の塊を育む水がなくなったから、欲しかったら、かってに持って行け、という鉄くずのコケになり、攻撃衝動が稀薄になって、釣り返しが利かないようになった、掛かりが遅くなった、と説明されていたが、それだけではないのではないかなあ。
つまり、遡上鮎の世界では、金の塊のコケが生育しなくなった川が原因である、としても、もう一つ、遡上鮎が釣りの主役ではなくなった、ということも関係しているのではないかなあ。
群れていて、ガンをつけた、と突っかかってくる静岡2系や群馬産継代人工の、土地貴族とは無縁の継代人工の存在に代表される継代人工が遡上鮎とは異なる現象を生じさせている側面もあるのではないかなあ。
もちろん、故松沢さんは、継代人工が鮎である、とは認められていなかったから、「金の塊」のコケの消滅原因だけの説明で十分ではあるが、大井川(大井川では、支流と塩郷堰堤上流以外では放流はなかった。なお、今年:2009年は、塩郷堰堤下流でも海産畜養が放流されたのかも知れない)以外では、継代人工が主役となっている川で釣りをせざるを得ないオラにとっては、継代人工も意識せざるを得ない。
恩田さんが、超音波のような信号と表現されているが、暴れ回るアマゴを他のアマゴが観察していて、異変を察知しているということではないかなあ。
鮎でも同じであるとすると、場を荒らさないためには、故松沢さんのように、掛かり鮎を上流にすっ飛ばす釣り方では、釣り下がりが、オラのように、掛かった場所の下流側で抜くときは、釣り上がりが基本になるということかなあ。
とはいえ、人なつっこいといわれる継代人工では、どうでもよいことか。ことに静岡2系や野島さんが推奨されていた群馬県産継代人工が放流された川では、群れを捜すだけで品切れになるまで釣れるということであるから、超音波での危険信号とか、場を荒らすなどということは、どうでもよいことか。アマゴの人工放流でも同様ではないかなあ。管理釣り場のように。
(2)だましのテクニック
@ 網漁
ア サクラマスの居ぐり網漁 緒方清一 三面川
「居ぐり網漁っちゅうのは、わかりやすく説明すっと、両端に竹棒がくっついたかすみ網みてぇな格好の網を逆さまにして、二艘に分乗した網もちが一本ずつ竹棒もってよ、網を川ンなかさ突っこんでサクラマスをすくい捕る漁なんだわ。
もっともかすみ網は上下四隅を棒に固定してあっけど、居ぐり網はちょっと違うよ。川底をはうほう、かすみ網だと上のほうの網端は竹棒で固定してあっけど、水面からでている網端のほうは固定しとらんの。さい縄つってよ、アタリをとるイトなんだねど、この横糸の両端は双方の網もちが手でもってんさ。」
「それによ、わしら毎日川にでるわけじゃねぇんだ。出漁は天気や水量に左右されんのは当たり前だけんど、何しろ最低でも四人そろわなぇと居ぐり網は漁にでようにもでられんのさ。」
「この漁(の時合い)は、朝の五時からせいぜい二時間くらいなモンなんだ。お天道様があがったらダメさ。イヨ(魚)は目がいいもんで、舟や人影におびえて散っちまうし、とくにサクラマスはアタマがいいで水中の網をかんたんに見破って網の下や上をチャッチャッと、上手にすり抜けよる。」
滝井さんも、瀬ザクリで、相模川神沢でオトリ捕りをしていたとき、日が昇ると、鮎が糸、ハリを見破り、掛からなくなると書かれている。
目のよい魚を相手にして、仕掛けを見破られないようにしなければならない多くの漁に共通する時合いということかなあ。もっとも、弥太さんは、その目のよいことを逆手にとって鮎をだましていたが。
「網を引く二艘を『ハの字形』にしてな。一艘に船頭と網もち、一人ずつ乗っている計四人だ。居ぐり網漁はよ、二艘の舟が川シモから見るとハの字に見える。そういう位置関係を保ちながら、流速よりちょいと早いくれぇの速さで下らねばなんねぇ。みよしに立つ船頭役の舵取りがむずかしんだわ。それと風の影響をえらく受ける。」
「で、マスが入って網にさわると手持ちのイトにアタリがでっから、その瞬間にイトをゆるめて網を袋状にするわけ。ああ、そんときは二艘がちかよって平行にならんで二の字になる。それがシモ風(注:河口、海のほうから吹き上がってくる風)だと水の抵抗にくわえてさい縄にたえず風があたっとるもんで、コツンとくるマス独特のアタリがよくわかんねぇんだ。」
「ともかくよ、マスが網にさわった瞬間が大事じゃ。双方の網もちと船頭の四人の息が合わんとぜーんぜんダメ。うまいこと網が袋状になんねぇし、もたもたしとればサクラマスはアッという間に逃げちまう。そりゃあ、うまいこと逃げっと、スルって感じで網からすり抜ける。そんときはほんとうに悔しい。一日に何匹も捕れるもんじゃねぇかんね、せっかく出会ったのにって、しばらく四人が四人とも惚けて動けんもん。
だから、昔から気の合う連中が集まって組をつくってるんだよ。」
「これから流す筋は雪代がでて、いつもより一尺五寸ほど水が高いで、そうさな水深二メートル前後ってとこだ。このくらい水が高ければいい。サクラマスってぇのはこの出水を利用して産卵場のある上流を目指すんだかんな。
この流れに(サクラマスが)きっと入ってるはずじゃ。芯をはずさず、うまくポイントを流せば捕れると思うんだが…。」
「『おおっと!さわったでぇ』
『おぅ、よぉし、舟をもっとちかづけろ。入ったかぁ、そうだそうだ、そんでそっちの舟にとりこんどくれ。おーし、捕ったぁ、よーしよし、ええ型だ。うまくいったでぇ』
『コツッて感じであんまり大きなあたりじゃなかったけんど、これくれぇ(の大きさ)なら、上等じゃろ』
今日は幸先がいいぞ。二キロちょいってところかな。あんまりでかくねぇほうがいいんだ。二キロから三キロ、こんぐれぇがほんとうは食っていちばん美味しいんだよ。
居ぐり網漁は、見てのとおり網を使っての漁だが、このさい縄に伝わってくるアタリを見当にして網の操作をしてっから、釣りと同じおもしろさがあんだ。
釣りってぇのはアタリがあったら、竿をあおってハリ合わせすんべ、それと同じようにこのさい縄にアタリがでたらサッと網をすぼめる。それも四人が息を合わせてよ。魚捕りっつうより魚釣りっつう感じだわな。海でやってる巻き網だの底引き網だのっつのはよ、ダラダラ網を引いてころあいを見計らって機械で引きあげんべな、何か感動っつうか緊張感がねぇような気がすんだ。そこにいくと、川の網漁は一匹一匹、手に感触を感じながら網あげするもんで海よりずっと感動があっておもしれぇ。
よう、その(水中の)杭、気ぃつけろや。網、破っちまうぞ。」
居ぐり網漁のイメージがよくわからない。下りながら網を流す速度、さい縄で網に触れた桜ちゃんを感知する、その瞬間、網を袋状にするように舟を操作する、ということのよう。
しかし、何でこんな効率の悪そうな捕り方をしているのかなあ。
この漁法は、四万十川の山崎さんが、汽水域に行く潮呑み鮎を、そして、その帰りの鮎を、川面に漂ってくるシャネル五番の香りをひとつの目安として、疾風の如く網で取り囲んだ漁法と似ているということかなあ。その対象魚の違いが漁法の差に表れているということかなあ。鮎地曳き網漁では、片側一五人ほどの人数を必要としている。
「ン?サケとサクラマスの違いか。そうだな、バカと利口の違いかな、アハハハ。たとえばよ、今の時期の若いサクラマスはコケラが弱いんで、コケラが剥がれるのを極端にいやがるんだよ。
川岸のヤナギ根の下のウロなんかで休んでいるときも、尻尾をさげてあたまのほうをたえず沖に向けてるもの。イヨ(注;魚)は必ず沖に向かって逃げるもんで、これが逆だと危険がせまったとき急にUターンせねばなんねぇべ。すっと川岸のウロっつうとこには植物の根がでてたりゴミが引っかかってから、そんなのに背中や脇腹をこすってキズをつくっちまうんだ。キズがあると、雑菌が入り込んで魚病になることが多いかんな。いったん病気にかかった魚は、まーんず生きのびられねぇ。コケラは人間でいうと服だろう。障害物の少ない海とちがって川は杭だの岩だの障害物だらけだ。若いサクラマスは半年後の産卵まで丈夫な身体でいたいもんだから、からだにキズつけねぇようコケラをものすごく大事にしている。
そこにいくと、サケは反対。あたまかくして尻かくさずだ。サケはよ、ここ村上じゃ魚の王様ってぇ意味でイヨボヤつうんだけんど、これがバカな王様なんよ。あたまをさげて背中丸出しで泳いでいてよ、警戒心がまるっきしねぇ。少しぐらいからだにキズをつくったって平気。もっともサケの皮は丈夫だから、ぶったたいてもへっちゃらなんだけど。
解禁になれば川のどの場所を流したってそこそこ捕れるんだから、きょうみたいに川底の地形をよんだり、流れの筋を変えたりなんてことをせんでもええんさ。漁のおもしろさの点からいえばサクラマスにてんでおよばねぇよ。」
最上川上流部に近いところを漁場にしていた最上川さんの川漁師であったお父さんは、夜、カンテラの明かりで、川面を照らして、モリでさくらちゃんを突いていたとここと。
雄物川さんは、流れをふさいだ網のなかに潜り、石に隠れているさくらちゃんのエラと口に手を入れてから頭にかじりついていたとのこと。
ということは、さくらちゃんは、どの漁法を用いたとしても、1匹1匹捕まえていたということかなあ。一度に大量に捕ることはできない魚ということかなあ。
イ サツキマスのトロ流し網漁 大橋亮一 長良川
舟
「あっあっ、気ィつけてちょ、長靴の泥をよーく洗い流してから乗っとくれやっしゃ。
おみゃあ、舟は漁師の大切な道具やでな、汚さんように頼むわ。トロ流し網漁に使う舟は1艘つくるのに百五十万円もかかるんやでぇ。舟材は、マキの木を使うんやが、材料も船大工も少のうなってるし、注文してもなかなかできてこん。だから大事に乗らなならんの。
大丈夫だって、あんたがいくら大男だからってちょっとやそっとでは沈まんよ。この舟はな、ふつうの川舟とちがって長さ百二,三十メートルもの大きな網を扱うで、船縁を一段高うして簡単にひっくりかえらんようにしてあるんや。大人十人が乗って、どんちゃん騒ぎしたって平気やよ。」
網
「網の上にはウキ、下には陶器でつくったオモリをつけてあるで、底が溝状に深くなっとる澪や、逆に山脈みてえにもりあがっとる馬の瀬、そういったデコボコの川底でもうみゃーことなでくってくれるんや。
ウキか、編目にして四つか五つごとに一個ずつ付けてあるウキはな、発泡スチロールを固めたようなやつ。プラスチックというかのか、セルロイドというのかのう。とにかく石油製品や。真んなかに穴のあいた長さ十センチ、直径三センチ弱の円筒形のもんでよ、プカプカ浮かぶほど軽くはにゃあ。そうかといってウキというくらいだから、どぶんと沈んでしまうようなもんでもにゃあ。オモリとの按配で、網が水ンなかでまっすぐ立つていどの浮力だな。だから、網丈が足りない深い場所やと、ウキはその分だけ沈んどる。
網は二重にしてあっての、一枚は目の荒いやつで、もう一枚が細いやつ。それを二枚重ねして、袋状になるようにつくってあるでの。そうさな粗い方の編目は四寸、細いほうは一.八から二寸てとこや。
サクラマスはシモから遡ってくる魚やで下流側に網目の粗いやつ、それを通り抜けるともう後戻りできんで。いくら網目が粗いといっても魚は尻尾に網イトがさわるとさえが、怖くてバックできんのよ。まっすぐ上流に向けて突進するしかないで、上流側の細まい網にあたまを突っこんで掛かってしまうというわけやな。
夜とか薄濁りの水とかよ、網が見えん条件がええときやとマスはまっすぐに網に向かって突進してくる。トン! とサツキマスが網にあたるがね、すっとグリッ、グリャグリャってよ、魚体を反転させて逃げようとする。そりゃあものすげえ勢いで暴れるでよ。網を引きちぎろうと力任せに体をひねるわ、網背負ってジャンプするわ。するってぇと水面にウロコがポンポン、ポンポン飛ぶんだわ。」
「賢いサツキマスを捕る網のつくりかたは、そう単純じゃにゃーでよ。
それにトロ流し網ってのは、ウキのある上部よりオモリをつける底部のほうが長くつくってあって、上が百二十メートルなら下は百四十メートルって具合になっとる。オナゴのスカートみてぇなもんやな。さらに、二重になっとる網の目の粗いほうの丈を短く、細かなほうを長くして袋を大きくとったりもする。この加減も一子相伝とはいかんまでも、内緒や。漁師の仲間うちじゃ、こんな情報は面と向かっては絶対に教えんよ。お互い、生活がかかっとるもんでのう。」
ひとりで舟を操り、百メートルあまりの長さの網を流していくという作業がうまくイメージできない。
この一人で網を操る、網を二重にするという形の網漁は、江の川の天野さんが行われている「鮎刺し網漁」と共通する。
二艘の舟で、魚を囲む三面川の「居ぐり網漁」や、四万十川の山崎さんが行われていた「鮎地曳き網漁」なら、イメージしやすいのであるが。
網を二重にする、粗い網でも、そのイトを怖がる、ということは、故松沢さんが話されていた下りの鮎に見られる現象から十分、理解できる。
昭和の終わりころまで、十一月に青木の瀬肩附近に下りの鮎を通せんぼして、採捕する場所に誘導するヤナ:通せんぼうの網が張られていた。平成になると、青木の瀬のところで、自動車道の橋脚工事が行われ、ヤナの設置場所が、狩野川大橋下流、コマドリの瀬上流に移った。
そのヤナの設置方法を見て、あの張り方:流れに対するヤナの角度では鮎はびっくりして、上流に逃げるため、下り鮎が獲れないといわれた。
事実、ヤナにびっくりした鮎は、修善寺大橋まですっ飛んでいったとのこと。
二十一世紀になり、遡上鮎が釣りの対象となるほど、少しは増えたとき、神島橋の架け替え工事が行われていて、ヒューム管で、水を下流に流していた。
その時、ヒューム管にびっくりして、ヒューム管を下らずに、城山下をいっさんに上っていく鮎が観察された。
それほど、鮎は警戒心が強いとのこと。
下りのとき、増水で一気に下るときは別にして、一瀬一瀬を下るときは、頭を上流に向け、尻尾で、安全を確かめながら下るとのこと。そのときに尻尾に触れるものがあると、びっくりして上流にすっ飛んでいくとのこと。(「故松沢さんの思い出」のどこか)
ということで、さつきちゃんも、粗い目の網にはいったのであるから、Uターンして粗い目の網をくぐり抜け、下ればよいのに、そうはできない、という現象はよくわかる。
ところで、大橋さんは、アユ漁でも、トロ流し網漁をされていたのかなあ。網の目は異なるが、天野さんの「鮎刺し網漁」のような漁をされていたのかなあ。
もしそうだとすると、山崎さんのような「鮎地曳き網漁」が長良川で行われなかったのは、どうしてかなあ。長良川では、多くの人が共同で漁をするということが行われなかったからかなあ。
狩野川で下り鮎を採捕していたころ、その鮎は、F1:二代目方式の人工生産に使われたとの話を聞いたようにも思うが、定かではない。
当時、すでに神奈川県や群馬県では継代人工の生産も行われていたが、狩野川では、また、静岡県では、静岡2系の生産にうつつを抜かすこともなく、二代目方式での人工生産を信条とされていたのかなあ。
さつきちゃん百態
「それがふつうなんやが(注:網に掛かってから暴れること)、なかには網の前で急ブレーキをかけるもんがおる。そりゃ、賢いもんやでぇ。網がサァーっと流れていくとさえが、網の一メートル手前でピタっと止まりよる。、で、そのまま網との距離を一メートルに保ったまんまズルズル、ズルズル、バックしてくんや。ヘリコプターが空中で止まっとるやろ、ああ、そうそう、ホバリングってやつ、あれとそっくりや。
網を見破っとるんやな。バックしながら、どうやって逃げるか考えとるんや。舟の上から見とるとよ、網目の一点をジィーっと見つめて、一生懸命考えとるわ。横に逃げるか、ウキの上を飛び越すかってよ。網の下は潜れんよ。オモリが河底を引きずっとるで。網はベッタリ底についとるでの。
こんなことがあったわ。五,六匹の群れで遡ってきたマスの先頭の一匹が網を見つけての、それ以上いけんで網の手前でめーめー、めーめーしとったがや。めーめー?このへんの方言で、ぐるぐるまわるってことや。当然、群れは流れ下る網と一緒にバックしていきよった。そのうち、一匹がサァーっとウキの上を越していきよったんや。そしたら、残りのマスも同じ場所からいっせいに上を越えてカミに逃げよった。
網の上を越すような賢い一匹にであうと漁師はお手上げじゃが、逆に猪突猛進型が先頭にいると思わぬ大漁にであうこともある。先頭の一匹がものすごいスピードでダァーっと網に突っこんできて網にからまると、残りのマス全部が造作なく捕れるんや。それも、先頭がガシャガシャ、グリャグリャ網にひっからまって大騒ぎしとる同じところにみんな突っこんでくる。ウキ二つか三つくらいの間にみんなからまっとるよ。
この猪突猛進型だってまったくのアホやないで。サツキマスは力が強いで、なかには網を破れると思っとるやつがいるんや。どこにでもおるやろう、無鉄砲なやつ。実際、ダァーっときたやつに馬ンこ通ったようなでかい穴をポッコリあけられたことが何度もあるで。なにせ、網イトは太くてナイロンの二号や。ああ、二号が限度や。それ以上太いイトやと、遠くからでも網を見破られてしまうでな。
わんぱく坊主っていうか、勇気があるっていうのか、そういうのがたまーにおるんや。その一匹が動くとほかのやつらも、後をついていくんやな。目配せしたり、しゃべくったりしとるわけやにゃーのに、みんなゾロゾロついていく。不思議やでぇ。しかもこういう行動パターンはサツキマスにかぎったことじゃにゃーんだ。アユもコイもオイカワもみーんな同じ。これは、どーんな魚でもいえるやつらの習性や。」
リーダー?が群れに団体行動を促すのはアユも同様、とはわかるが、そうでない場合もあるのかも知れない。
神島橋架け替え工事のとき、ヒューム管に異常を感じて上流にすっ飛んでいった下りアユがほとんどであったが、なぜか、ヒューム管上流にとどまったアユも居た。そのため、数は少ないとはいっても、他の場所よりはアユの密度は濃いから、そこを釣り場にしてオラ達以上に釣ってくる人もいた。はぐれアユもいるということかなあ。
「それにしてもサツキマスってぇのは、ほかの魚に比べて異常なくらい網に神経質や。こいつは晩秋、川の上流でふ化して翌年の春と夏を川ですごしたアマゴの一部が、秋に降海して翌年サツキの咲く頃に川に戻ってくるんやが、川ではわしら漁師の網が初体験のはずや。なのに、極端に網を恐れる。網の怖さを知らなんだら、あそこまで敏感にはならんと思うで。おそらく、海にいるときに海漁師の網でも見たんとちゃうやろか。
網の手前でどうやって逃げようかと考えとるサツキマスってのはよ、ときに網にばっかり気を取られて漁師の存在を忘れてしまうやつもおるんやわ。おっ、きたきたって舟の上から見とるやろ、すっとよあんのじょう網の手前で考えこんどる。こっちは『(網に)入れ、早う入れ』思うて期待しとるがや、ンでもあんまり時間がたってしまうと『えい、やッ』って網の上を越されるでな。そんときはよ、ソーっとタモ網をもってっての、やつの後ろからシャッとすくってしまうんや。ああ、タモ網に入ってまっても、まんだポカンとしとるで。舟ンなかに放り投げられたとたん、われに返ってバタン、バタン大騒ぎじゃ。」
「賢いっていえば、こんなものもいた。トン! と網にあたるわな、ふつうなら目の細かな網のほうにからまってグリグリッ、ガシャガシャってことになるんやが、トン! っていったきり静かなんよ。そぉっと網をたぐりよせてみたらよ、そいつは口の先に粗いほうの網の網イト一本引っかけてソロソロ、トロトロ網と一緒に流れ下っとるんよ。口をパクパクさせて、死んだような格好をしながら網について流れとるんや。動いたら網にからまってしまうことを知っとるんやな。まったく、賢いやっちゃ。よくいうんや、トロ流し網漁いうのはサツキマスと漁師の知恵くらべやってな。
せやから、漁師は長い経験から使う網にそれぞれ独自の工夫を凝らしとるんや。」
さて、何で、長良川にはサツキマスが、網漁で複数捕れるのかなあ、という問題になると、今西博士や素石さんがシラメ、ギンケヤマメ、アマゴのフッタテ等の関係で悩んだ問題と結びついているのかなあ。
故松沢さんの思い出補記:その2野田さん長良川を下るのなかの「シラメとはなにか」の章でのお二人の観察と推理:仮説を見ていただくしかない。
「シラメ」の棲息量がさつきちゃんの漁獲量の多さに関係しているのかなあ。
なお、今西博士の観察と推理、いや、洞察力について
川那部浩哉「偏見の生態学」(農山漁村文化協会)の「イワナとヤマメのシンポ」の章に
「今西錦司さんの『うろくず集』が大阪の淡水魚保護協会から出版された。イワナとヤマメの棲み分けを記し、イワナ類の分布と分類を論じた既発表の論文二編に、雑録十編を加えたものである。前二著は『根拠薄弱、理屈に隙間多し』と評されたものだが、結論自体はその後の研究成果を見事に先取りして余す所がない。こういうものこそ奇書と言うのだろう。」
と書かれているが、この評価をどのように読まれるか、はご自由に。
網を恐れる、警戒する、という現象は、鮎でも同じではないのかなあ。小西翁も紀の川での網漁で鮎の目の良さとと共に、触れられていたと思うが。
大橋さんが、アユ漁のときと、サツキ漁のときで、区別されるのはなんでかなあ。サツキ漁では、一匹一匹観察できる、ということと関係しているのかなあ。
また、大将格の行動を見ているとき、舟と網はどのような位置関係にあるのかなあ。たまたま、舟に近いカ所で生じた現象を観察されたということかなあ。
網漁の結果
「その前に、市場(岐阜中央市場)に魚を下ろしてくるでぇ、お茶でもすすって、少しばかり待っててちょ。ああ、弟(修・六十六歳)が、今朝がた捕ってきたやつをゼゼコに替えにいくんや。六匹しかおらんよ。ことしはサツキがさーっぱり遡ってこんで、少にゃーんだわ。
修かいな、徹夜で漁にでとったでいまは寝てしまっとる。ボクんた(ボクたち)専業漁師やでな、シーズン中は弟が夜、わしが昼の担当で二十四時間体制で網を入れ通すんや。サツキマスのシーズンは四月から六月まで。」
「ン! サツキマスの値かの、きょうは一キログラム当たり五千五百円、ここんとこ入荷量が変わらんからずっとこの値段だ。」
「それにしてもバカに水が少くにゃあのぉ。山に保水力がのうなったところにもってきて、ここんところ雨が降らんで渇水してしまって、これじゃあまるで水溜まりや。ぜーんぜん流れがにゃあでよう。このへんの川幅は二百メートルはゆうにあるが、サツキマスのトロ流し網漁いうのはその六割がたに網を入れて流れにまかせながら五,六百メートルほど下っていくんやが、こない緩い流れやといくらトロ流し網漁いうたって、ふつうなら一流しせいぜい十分か十五分そこいらでいってしまうところを一時間の上はかかるでぇ。
あかんな、こんな状態やとサツキマスはよう掛からん。いや、おることはおるんや。おるんやが、こないノッタリ、ノッタリ流れとったらよ、サツキマスは目がよう利くで、いくら上等なイトで編んであっても網の目がわかってしまう。せいぜい青のりだの水草しか、掛からんわ。
ま、川底のゴミ掃除やと思って、いっぺん(網を)入れてみっか。ちぃーと、どいとくれ、艫に移るで。昔は対岸までヨイショ、ヨイショって棹で越していったがよ、今はこの船外機でチャーといってしまう。」
ということで、この日、斎藤さんは大将格のサツキマスとの知恵くらべを見ることはできませんでした。
ウ アユ刺し網漁 江の川
「この刺し網をですね、こうしてアームにかけて、舟をまわしながら(注:舟まわし=操船)順に網を張っていくわけですが、そやね、見ようによっては、カーテン・レールの一方を開放したときのようなもんやね。舟に引きずられて、網はひとりでにスルスルでてきよります。
刺し網は上部が八十五メートル、底部が百二十メートルの台形をしとりまして、丈はわたしの場合、浅いとこも深いとこも同じ一メートルです。外目(小さな網目)と裏目(イトも太く、網目も外目より三倍大きい)の二重網(袋網)になっとってどうして二重網かというと、なにやらややこしい話になりますけど、こういうことです。まず、裏目は太いイトで編んであって大きな網目ですで、こちらから鮎が入り込みますわね、すると目の前に外目がある。瞬時にUターンしょうとするんですが、裏目の太い網イトが怖くてバックでけんのです。で、結局、まっすぐ進まざるを得なくなって、細いイトで編んだ小さな網目に頭をつっこうんで抜けなくなるということですわ。
さて、きょうは手前の平瀬を攻めてから、次に対岸の深場に逃げこんだアユを狙いますでね、舟に乗ってください。その前に何か質問はありません? 漁をはじめると話はあんまりでけんよ、話し声でアユが逃げますで。」
「ハイッ、これで(網張りは)終わり。もうガタガタ音をたててもええですよ。写真を撮るんならフラッシュたいてもかまわんです。
火振り用の回転灯をつけて、これからアユを網に追いこんでいきますけね。ほいで、このステンレス製の舟棹でもって舟を動かしながら、網をあげていくわけですわ。ステンレス製ですから棹先が川底の石にあたってシャリシャリ音をたてよりますで、アユを脅かして追いこむ役目もしてるんです。」
裏目の網イトを怖がり、バック、Uターンができないことは、サツキもアユも同じ、とわかるが、それ以外の網のことはわからない。
ということで、茜流小鷹網の他、網漁をされていた小西翁の話(「紀の川の鮎師代々」:徳間書店)を見ることとする。
(1) 小西翁が語る網漁
@置き網
「置き網というのは、大きな淵から下の浅瀬に出てくる魚を食み出の魚というんですが、その食み出た魚を上手に網を張り渡しておいて、下手から石で追い上げてとるんです。
網に首を突っ込ませたり、多くは裾の袋にもぐり込ませてつかまえるわけです。この袋はやはりわしの考案したもので、昔の茜屋では袋なしやった。袋なしだと、一重の網ですから損です。石の上に網を張っていくんですから、一重だと網の裾がどうしても空いてしまう。それで漁は半分もできんという状態だったわけです。そこを考えて袋にした。それと現在はほとんどくさり型のオモリを使用しています。だいぶまえから置き網というのはやっていますけどね。今のような袋つき置き網に改良してからは三十年になりますな。現在の置き網の丈は鯨尺で二尺ぐらいですが、それまで茜屋でやっておったのは、小鷹網ぐらいの、網丈一尺五,六寸のものを使っていたんです。そのやり方は今とはまた変わっておって、大仕掛けに下手から追い上げるのではなくて、川半分くらいに張って追い上げた。昔は川幅全部に張ったんじゃなかったんです。網を張らないあとの半分から鮎が逃げていく、それでもよかったんです。魚が多いもんよってに。今は少ないよってに、それだけの大仕掛けなことをせにゃ、とれんということになった。」
A張り網
「これ(注:置き網)にたいして張り網というのは、食み上りと言うて、淵なりよどみから、時間によって上の荒瀬のほうに鮎が食み上がる。それを下手に張った網で受ける漁法です。だから上から鮎を追い下げる。言うたら置き網の逆なやり方です。張り網、つまり張るわけですから、これは一人でもやれる。けどこれには袋はわりかた効果がないんです。素人考えでは、袋があればなおさら魚が入るように思いますけど、そうではない。流れがあるから網全部が受ける袋の状態になるわけです。それで肝心の袋は効果がないわけです。
佐藤 置き網は裾袋があったほうが鮎をとりやすいし、張り網は袋がなくてもよいという。置き網と張り網の使い分けは何で決めるんですか。
小西 それは魚の動きで決める。この場合は置き網の方がいいか、張り網の方がいいか、その場へ行って鮎の動きの状態をよく見てやる。こいつは一般にはわからんですよ。結局、鮎の動きを直感できるだけのものがなかったら。
佐藤 川にも深い川と浅い川とありますね。網というものは大きければ大きいほど、それも川底から表面に出るくらい大きいほうがいいと思うんですけれども、川の流れとの関係はどうなんですか。
小西 網は人間の体力に合わせて考えていかないかん。張り網の場合、丈は欲しいわけですけども、扱いにくいようなそんな丈の長いものを入れておったのでは、さきに鮎に逃(い)かれてしまう。逃げられた後へ張らならん。それで無理のない丈で、ある程度、長いものが必要になってくる。置き網の場合は長さはあまり関係がない。わしらは中張(ちゅうは)といっている、丈は二尺四寸くらいで長さが十間の網でいいんです。場所によって、この中張を繋ぎ合わせる。それで長さを調整するわけです。」
B巻き網
「そして巻き網というのはだいたい中流のところで、岸辺からへりを巻いて、そのなかの鮎をとる漁法です。これにたいして、張り網のポイントはよどみにやや流れがあるというくらいの程度のところ。そういう場所でなければ張れんし、また張っても効果ない。置き網は流れが相当きつうても結構。この巻き網は中間か、やや緩いくらいの流れがいい。
この巻き網を川上から下ろすか、川下から巻き上げるかは場所によって使い分けます。上から張る場合と下から受ける場合とあるわけです。下からきている鮎の場合には巻き上げ、上からの鮎の場合には巻下げる。つまり川の状態を見て鮎の逃げる方向をさきにふさぐわけですわ。
巻き網、置き網、張り網、いずれにしてもなるべく早いことやらんと鮎にさきへ逃(い)かれる。実際は自分の棲み場と違う、出ておる鮎をとるわけで、食みに出たいという気持の鮎やってに、音を敏感に感じるわけで、少しでも音をたてれば、あっ、敵がやってきたとすぐ帰ってしまう。網の場合、そういうことを頭においてやらんといかん。」
C立て網
「小西 これはだいたい夜の仕事で舟の操作を伴います。大きな淵で流れが少なく深いところ、紀の川では妹背の淵のような各所の淵とか井堰の表が漁場です。だから大仕掛けにやるわけです。大きな淵をぐるっと取り巻くんですよ。妹背の淵でやるとなれば、淵を四,五回くらいに分けて巻く。一カ所やって、そこでとれるものはとって、つぎにまた巻くということで、四回から五回くらいで一つの淵を終え、その晩は仕舞いということです。
この立て網の特徴は夜の仕事ですが、光というものを全然使わんのです。かりに使うとしても乾電池六箇以上は使わんという組合の規定があるんです。光というやつは禁止に近いんです。この立て網は大がかりのものですが、いちばん効率がよいとは一口に言えません。水の増減で、やれる場合とやれん場合がある。それと、かりに旱魃で減水しても、鮎がはたしてとれるのかとれんのかということもあるわけです。相当たまらんといかん。やや濁りがあるような場合には、えてして夏のあいだは漁獲は少ないです。それと水温というものが大いに関係していて、やたらに多くとれる夜と、少ない晩とがある。そいつを見分けてやらないかん。
立て網の場合、今、一艘の舟にうちの若い者四人が乗ってやっているんです。巻き網、置き網、張り網というのは二人でもできるし、一人でもやる人はあるんですよ。けども立て網は無理ですわ。一人でこれをやって、三人前も四人前も鮎をとるということはなかなかできんことです。」
D火入れ漁
「佐藤 最後に禁漁といわれる火入れ漁なんですけれども、これも茜屋独特の漁法で、先年その型を見せてもらいましたが、遠くから眺めていると水面にかがり火が映えて、美しいんですが、近くで見ると恐ろしい感じがしましたね。
小西 これは茜屋のみのもので、ほかで容易にできんくらい資本を入れな、できんかった漁です。だいたい紀州の殿様に納める鮎いうたら、それより他はなかったわけですからな。友釣りでも小鷹網でも、そんな大漁はできんわけですわ。そやよってに、ぎょうさんの網というものがなけりゃいかんし、その網を作るのには大きな苦労があったということがうかがえるわけですな。
だから昔は紀州公の力添えでやっていたのではないかと思います。この漁法で使うておる舟とか網とかは、そりゃ、膨大なもんですよ。一つの網が一年でできかねるような時代に、一回の漁のために網を四十も五十も作ったんですから。その背景には相当の材料や多くの網の結き手を集め、かり立ててやらんことにはやれん。資材の乏しい昔のことですから、かなりの苦心があったやろう、殿様のためにやむを得ずやったのではないかしらんと思います。一つの網でできることやったらだれでもやる。網が四十も五十もということになったら、とてもできん漁法やし、たとえ禁じられんでも巨額な金がなければできんということです。松明作りでも、松の根を山で掘ってきて、細かに割らんといかんのですわ。
とにかく大したものですよ。網一つに一人前の結び手が一年もかかった。網の材料全てを想像するときに、一年で、はたして一つの網が一人でできたかどうか。おそらく当時、一つの網は二年くらいはもつかもしれんけど、三年はもたんですわ。その網をつぎからつぎへとこしらえないかん。ふつう一般の資力ではできんと思います。それを続けてやったということは、やはり大名というバックがあったということですな。茜屋もたしかにそれは誇りとしておったに違いないと思います。
この火入れ漁はとれるんですわ。もちろん、その当時は鮎をとって売れる可能性はなかろうけれども、もしも金に換えることができたら、この漁法やったら茜屋一統が楽々と生活できるくらいです。
佐藤 この火入れ漁をやれば、三日三晩で紀の川の鮎をとり尽くすとか。
小西 そんなこともないけども、それくらいとれた。一回やって三十貫くらいは楽にとれたわけです。明治になって、うちの父親(てておや)の代になると、年に十回くらいはやったんじゃなかろうかと思っていますな。
火入れ漁は川の水加減ひとつやよってに、よけいやれる年はよけいやって、やれん年でも一回か二回じゃないわ。
これが禁止になったのは明治四十五年ごろで、それまでは明治時代を通して和歌山県知事の許可を得てやったもんです。それで、茜屋一統は生活したわけです。そういうことから想像しても、昔の鮎のようけおった時代には相当の量を殿様に献上できたに違いない。文字どおり網攻め、火攻めですな、火攻めに遭って、やむを得ず網に跳びつかせるというやり方です。なにしろ四十枚の網を横、横へと大淵につぎつぎと張っていくんです。そして火というのは鮎には大敵なんですわ。今でも夜間の燈りの利用は電池の光にかぎるというくらいに制限されておる。かがり火を焚くなんていうことにすれば、少ない鮎がなおさら乱獲で、のうなってまうんで、県から厳重に禁止されたわけです。かりに今のような鮎の少ないときにやってもようとれます。とれますけど後がとれんですな。」
「まあ、火入れ漁はものすごいもんです。ようけいおるおりは、跳び上がるは、無数に網にかかるわ、両岸に跳ね上がるわ、それこそむごいもんですよ。こんな漁法を殺生というんやろうとわしは思いますな。技術じゃないんですよ。道具にまかせてやることですから、可哀想です。これは別名、往生させる『往生とり』ともいうんです。」
(2) 弥太さんの火振り漁
弥太さんも火振り漁について話されている。
火振り漁は、遊漁者対応の他、マナーの問題から権利者を減らすようになった。現在の火振り網漁の権利を持っている人が亡くなると、権利譲渡ができないために、火振り網漁は消えていく。
弥太さんの網
「わしの場合、どんな網も自分でこしらえる。ナイロンの網とアバ(ウキ)と紐(ひも)、岩とよぶオモリをバラで買うてそれを自分で網にするがよね。出来合いの網を買うたら五万円もするが、自作なら7000円で上がる。わしの漁は道楽でなしに仕事じゃき、常に費用対効果ちゅうもんを考えねばならん。
ただ、ひとつ仕上げるまでに45時間から50時間ばかかる。時間も経費のなかに入れたら、とてもではないが割りにあわんのう。けれど、自作のよいところは、なんといっても工夫のできるところよね。自分でいうのも何じゃが、わしの網は市販の網より何倍も優秀ながぜ(笑)。売っておる網は、普通の刺し網で一重(ひとえ)よ。平網と呼んどるわね。わしのは二重構造になっちょる。
一重の網は、流れに押されて目がピンと張ってしもうて、せっかくアユが頭を入れてもはじいてしまうことがある。目の大きさとアユの大きさがうまく合わんと、掛からんことが多いわね。そこにもう一枚、アユがすり抜けるぐらいの目の大きな網をかけて二重にするがよ。目の大きい方の網は、丈が少しだけ短い。その状態で上下と、真ん中あたりを結ぶと、ちょうど蒲鉾を横にしてふたつ重ねたような袋状になるだろう。
手前の目の粗い網は糸が張っておるが、向こうのこまい網は、そのおかげで糸が弛んでおるき、アユのエラ蓋やヒレに絡みやすいわね。糸がすぐに絡まんでも、Uターンするときには粗い目の網が横につかえて、ほたえ(暴れる)よる。そうすると、今度はほぼ確実に絡むがよ。ただ川によっては規則でこの手の袋網が使えんところもある。新荘川がそうよ。」
「もう一つ、自分で作る理由は、市販の網のアバは大きすぎて使いにくいことがあるのう。火振りでは、浮力の大きなアバは漁がやりにくい。よう浮くのはよいが水の抵抗も大きいき、押しの強い流れに入れるとかえって網が寝てしまう。とにかく、いつも納得のいく漁をしたいき、わしは自分で網を作るがよ。」
火振り漁の方法と瀬張り漁
「入れる手間、揚げる手間、それに魚を外して網を直す手間を考えると、そうそう一夜に何度も網入れができるわけではないのう。そうよねえ、1回終わると8時か9時。もうひと網入れようかとなると、11時ぐらいになるきね。川を全部網で仕切ってもならん。川の幅は3分の1ばあ空けとかんといかんという決まりがある。ひとつの網と網の間は25m以上空けるということになっとるわねえ。網の丈は1m以内というのが決まりじゃ。
火振りは、日がとっぷり暮れてからの漁じゃね。それも新月回りの闇夜がよい。淵に網を仕掛けたら、船から電気の明かりを照らしたり、棹で水を叩く。昔はカーバイトを炊いた。そのまた昔は、松明(たいまつ)やったがじゃろう。それで名前が火振りながじゃろう。
今の火振りは光は強い、船のエンジン音もするで、昔の火振りよりもだいぶ強力じゃ。岩陰で寝ておったアユは、相当あわてるわね(笑)。
ポイントはたいてい淵じゃ。まあ、多少流れのあるところにも網は入れるが、友掛けをやるような場所では流れで網が寝てしまうき。網さえ寝なければ、なんぼ深いところでもかけられる。わしはダムでも掛けたことがある。
わしら越知の者は、上から下へ追いこむように光の焚き方や音の立て方を調整するが、伊野町の人らの火振りは、下から上へ追い上げるようにするわね。下から火をつけよるき。わしらは網の目のこともあるし、上から下へ追うほうがよいと思うてやっておるが、同じ流域でも微妙な流儀の違いがあるわね。
アユはほんまに鈍な魚じゃ。明かりを当てるとそれこそパニックを起こして、下に張った刺し網に簡単にかかってしまう。網にかかった仲間がきりきりと白く舞うとるじゃき、反対(上流)向いて逃げればよかろうものを、それによけい驚いて、わざわざ自分から網に飛びこむような魚よ。
ところで、昼間のアユは怖(お)じたときにまず下流に向かうことを知っちゅうかね。とくに水面の方から危ないもんがきたと思うたら、あれらはきっと下へ走ろうとする。
昼、瀬におるアユは、上から追われたときだけやなしに下から追いたてられてもUターンする。河口から遡ってきちょる魚じゃき、いざというときは故郷に帰らにゃならんちゅう本能があるじゃないいろうか。気持はいつも海に向いとるわね。
昼のアユ漁に瀬張りちゅうのがある。鵜縄(うなわ)ともいう。これも減っておる漁法で、今、仁淀川には10統ばあしかない。この瀬張り漁が、アユが下に逃げる習性を利用した漁よね。わしはやらんが、見ておると、まっこと面白い方法よ。
まず川底に鉄筋を打ち込んで、そこに100m近い網をかける。というても、この漁は、網にアユを絡めて獲るがではないがぜ。糸は太うて、網の目もその気になればアユがすり抜けられるほど大きい。この網目の役目は、じつは通せんぼをするための網よ。その底には、竹で編んだ細い筒を何本も沈めておく。
用意ができたらいよいよアユを追い込む。二手にわかれて太さひと握り、長さ1間(1.8m)ばあの、竹を縄暖簾(なわのれん)のように結んだ網を持って、上流に向かって瀬を歩く。ある程度上がったら下り、また上がる。竹は中が空洞じゃき、流れに逆らわせると水面で白泡と音を立てて跳ねよる。これにアユが怖じるというわけよ。鵜縄(うなわ)ちゅうぐらいじゃき、昔はウの羽でも使うたがかね。
アユはまず下流に逃げよるわね。ところが行き先には網が通せんぼをしとる。アユは、脳味噌はどうちゅうことはないが、目だけはよい魚じゃき、昼はどんな細い糸でも見破る。まして太い糸でこしらえた網よ。すぐに気がついて逃げ場を探すわね。
そしたら川の底に、なにやら穴があるじゃあないか。とりあえずそこへ逃げこんじゃろうと思うわ、わが身の安全のために。それがつまり竹で編んだ筒よ。ひとつの筒に、多いときは20匹も30匹も入るぞね。
わしの親父は、その筒も、人間の鼻の穴のようにただ真っ直ぐ下流に向けておいては入りが悪いというとった。アユは鈍な魚ちゅうても、何度も同じ漁をすれば学習しゆうき、瀬張りの仕掛けも覚えよる。
そんなときのために、筒の入り口手前に大きめの石をぽつんと置いて、アユから筒の口が見えんようにするがよね。あれらは必ず石の向こうに回ろうとするが、迂回したり乗り越えたら、そこはいつもの怖ろしい仕掛けの入り口で、勢い余って頭から飛びこむという寸法じゃがね。
そんなふうに、瀬張りは目がよいというアユの自信を逆手にとって裏を掻く方法じゃが、火振りはその逆で、アユは夜目が利かんちゅうことを利用する漁じゃな。
夜は昼と違うて、必ずしも下流へと走るとは限らん。眼がチカチカ痛いき、パニックを起こしてあちこち走りゆう。それをなるべく下、網の張ってある方へ追い込むがが、火振りにおける、まあ一種の技術よね。
瀬張りは一度に100kgも200kgも捕れるが、準備も人手もかかる。火振りの漁獲はせいぜい一晩20kg、30kgばあもんじゃが、操船する者とおどす者、最低これだけおれば十分よ。それが利点じゃろう。
網をはずすのは、女子供に手伝うてもらえばはかどるわね。うちでは一族や友人を集めてワイワイガヤガヤとやっとる。気分は半分納涼よ。
夜のアユは不思議なもんで、光を当てるとよう飛び跳ねよるね。暗がりで変なもんに当たりそうになったら、とりあえず上へ飛べちゅうような本能があるじゃろうか。」
(3) 天野さんの「アユ刺し網漁」とは?
なお、佐藤さんは、「ヤナ漁と瀬張り網漁」の説明で、「ヤナ漁と瀬張り網漁の漁法は同一の仕掛けである。瀬張り網漁は鮎漁の初期から八月末までの日没から日の出までの作業で、紀の川では一夜サヤともいう。」と書かれている。
そして、「瀬張り網漁」といっても、紀の川では夜に、仁淀川では昼に行われており、呼称が同じであっても、どの川でも同じ漁法であることを意味しない、ということに注意をしないといけない事例ではないかなあ。
そうしないと、高橋さんのように四万十川の遡上アユの産卵時期を誤り、継代人工、湖産等の産卵時期の違い、習性を考慮しないために、流下仔魚調査と翌年度の遡上鮎量との相関関係について、神奈川県内水面試験場の専門家同様誤った評価をすることとなろう。
という心構えは持っていても、網漁はわからないことばかり。
@ 火振り網漁における小西翁と弥太さんの漁獲量の違いはどうしてか。
小西翁では、流れの上下に対して網を何重にも設置している。この違いだけであろうか。
船と火振り網漁に要する人数の問題ならば、大がかりな仕掛けを行う小西翁と、二人でもできる弥太さんということでわからないでもないが、「三晩でとりつく禁じ手の火入れ漁」といわれる小西翁の火入れ漁と、せいぜい一晩で2,30キロの漁獲量では違いがありすぎるのではないかなあ。
また、弥太さんは、「瀬張り網漁」のほうが、火振り網漁よりも漁獲量が多い、と話されているが。
A 二重網の太い糸の網は、細い糸の網の上流側にあるのか、下流側にあるのか。
大橋さんのサツキマストロ流し網漁では、下流側に太い糸の網があった。弥太さんの火振り網漁では、上流側にあり、網の上流側から、下流へとアユを追い込んでいる。
しかし、伊野町の火振り網漁では、下流側からアユを追い込んでいるとのことであるから、もし、二重網を使っているとすれば、下流側に太い糸の網があるようになるのでは。
ということで、天野さんのアユ刺し網漁において、粗い網目の網がこまい網目の網の下流側にあるのか、上流側にあるのか、それとも、流れ、あるいはアユを上流側から追い込むときと、下流側から追い込むときとで、アユが怖がって逃げ出さないよう、粗い網目の上流側、下流側を操作されているのか、ということすらわからない。
したがって、天野さんのアユ刺し網漁の漁法については、小西翁や弥太さんの網漁から、皆さんに考えていただくしかない。
ただ、弥太さんが、「網にかかった仲間がきりきりと白く舞うとるじゃき、反対(上流)向いて逃げればよかろうものを、それによけい驚いて、わざわざ自分から網に飛びこむような魚よ。」とおっしゃていますが、サツキマスも、下流側の太い網目の網イトに尻尾が触れることを怖がって、バックして、あるいはUターンして、逃げようとはしないんですよ。
あゆみちゃんだけ、鈍な魚というのは、間違っていますよ、弥太さん。
太宰治「御伽草子」の「かちかち山」に登場する処女の残忍さをもち、たぬきをいたぶりつけるウサギのようなあゆみちゃん。そのあゆみちゃんをたぶらかすテクニックに長けているから、弥太さんらが仕掛けるその罠に、騙しのテクニックにはまりこんでしまう可哀想なあゆみちゃんです。おらは、泥舟で沈められたたぬき同様、あゆみちゃんの狡猾さ、面食いにほとほと手を焼いてますよ。
(4) 知恵くらべ:天野さんの話
「長年この場所で仕事をしていますから、水量や気候、それにほかの漁師がいつ、どの場所でどういう網の流し方をしたか、そんなことからだいたい魚の付き場はわかります。(ほかの漁師の網で)よそを追われて、こちらに逃げこむことも多いですけ。ええ、テリトリーというものは一応ありますよ。自分が昔から漁をやっとるところからは、はみだしませんよね。そうでないと、あいつがきたこいつがきた、いいよりますけんね。
ほかの漁師の動きを知ることが大事です。漁にでる前に川見をしてですな、だれがどんな網を使ってどの場所に網を入れて、どこを流してどのくらい捕ったか、それを知らな思ったような漁はでけません。ほかの漁師のやり方や特徴を見て、自分がどう動くか決めるんですよ。ああ、あういう流し方ならあっこに魚は逃げこむけん、それならここに網を張ればこんぐらい捕れるなって、予測するわけですよ。
捕れる捕れないは『時の運』いうんじゃいけんのですわ。プロの漁師ですから。数も大きさもそろえて確実に捕らな生活していけませんで。せやから、自分の漁場は休ませ休ませ大切にしとります。もっとも、前の日に網を入れた場所は、つぎの日はまったくあかんです。一日置かんと魚は戻ってきませんし、漁場を荒らすだけです。そうそう月夜もうまくない、そのための闇夜の漁ですけに。」
「いや、どこのアユも一緒ですよ。二,三回網を張れば、もうどこに逃げたらええかってことを学習してしまいます。テトラポットなんかがあるところでは、コトッと音がしただけで、スゥーとそのなかに入りよります。アユだって死にたくないですけに学習しますでな。そういうアユの習性を知って、なおかつ毎日適度の稼ぎがないと漁師では食ってはいけません。ですから、竿で一匹一匹釣っとったら話になりませんわ。
「わたしも以前は五〇キロ、六〇キロ捕っとったこともありました。もっとも、アユはなんぼでもおりましたけん。捕っても捕っても、わいてくるほどおりましたけん。そのころは舟のつくり方も知りませんし、買えませんでしたから身ひとつで泳ぎながら網を張ったもんです。ウェットスーツ着てね、潜って網を張っとったんですよ。それでも捕れすぎて、網が重うてあげられんほどでした。ええ、まだ専業漁師ではありませんでした。江津市のスーパーに勤めとったころでしたから、あれはたしか三十五年ほど前になりますか。」
いつも、新昭和橋上流で釣りをなさり、ときには、客寄せパンダに惑わされて20センチ台の継代人工がくっちゃあ寝、くっちゃあ寝して尺アユに育ち、大アユが釣れている、と評判になった大島に行かれたサボリーマンさんたち、それでは、川見の腕は上がりませんよ、管理釣り場で50センチのニジマスが釣れても感動が湧いてこないのと同じですよ。
おらのアッシー君になって、本物のアユ、あるいは、海産畜養のいる川へ行くことがだましのテクニックの腕を上げる上で必要ではないかと思いますが。
「反省ですか?工夫してようけ捕れたときこそ反省するんです。漁師というのは、失敗したときに反省しても意味がないんですよ。失敗したことは、もうやらなええんやから。どうして捕れたのか、振り返って確実にその方法を自分のものにしていかんと、毎日ちょっとずつ変化しとって同一というものがない川や気象の状況に対処していけんのですわ。自然界での経験というのは、そうしてつくりあげられると思うとりますで。」
天野さんの「反省」をするときの条件から、オラが永遠にヘボは不滅です、の状況から脱却できない理由がわかった。反省したくても、「大漁」はなし。あるのは、テクニシャンや名人があゆみちゃんとの逢い引きを楽しんでいるのを眺めているだけ。サルでもできる反省の機会がないから、ビールを、酒を飲んで、心の傷を癒すしかない。
(5) その他
コケの消化時間、珪藻が優占種である川での珪藻の殻が体内からなくなる時間について、小西翁の話を引用していましたが、間違っていました。
正確には
「で、鮎の一日の食いおさめは日没ですな。だいたい夏場で日没が七時頃とすれば、八時半ごろで消化してしまうんじゃないですか。秋の、子をはらんできた時分には、夜も食むんですよ。ただし月夜の晩。秋じゃのうても満月のおりには、腹のすいたときは食んでおるかもしれん。」
浅瀬で食む月夜の食みはあるものの、日没後、一時間半ほどで、腸はきれいになっているとのことであるが、腸に溜まっているのは、珪藻の殻とは話されていない。
「また、鮎の胃袋の中には砂みたいのがかすかにあるわけです。それは食んだとき一緒に飲みこんだ川の砂やろうと思うんです。ちょうど鶏が砕いて細かくした貝殻や小石を食べるように、砂を胃袋に蓄えて消化を助けるのやろうと、わしは思っています。」
と話されている。
砂が食まれるときは、泥かぶりのアカを食べたとき、というのはわかる。しかし、たえず石が磨かれていて、貧腐水水の水のときにも、砂を咬んでいるとは考えにくい。砂ではなく、珪藻の殻ではないのかなあ。
なお、野村さんは、腸が空になるのは朝の二時と語られている。
これらの評価に違いは、どのような理由によるのかなあ。珪藻が優占種であれば、珪藻の殻が腸に多くある、ということから、排泄されるまでに時間がかかるということかなあ。あるいは逆に、珪藻の殻であれば、排出までの時間が短く、ドベであれば時間がかかる、ということかなあ。
何で、腸が空になるまでの時間に川漁師によって異なった時間を観察されていたのか、珪藻が優占種の川が稀少となった現在では、調査しようがないのかも知れない。
(6) 海産畜養と湖産の放流ものの容姿、習性:小西翁の話
もう一つ、小西翁が語られていたことで、見落としていたことがあった。
それは、下りの行動をしないで、産卵する鮎のことである。
「佐藤 さてもう一つ、養殖鮎と天然鮎ということについてうかがいたいんですが、最近はハマチをはじめとして養殖漁業というものがさかんになってきましたね。全国でも鮎の養殖は各地で行っているようですが、この紀の川周辺でも結構さかんなようですね。
小西 ええ、多いんですよ。海でとった稚鮎を県からの配給を受けて自分の池へ入れる。そいつに飼料を与えて大きくして市場へ出すというのが養殖家のやることです。鮎の育ち方は、やっぱり養殖の方が早いです。結局、栄養が十分ということですな。だから形なんかも太めです。それにくらべると天然の鮎はスマートです。養殖の鮎はちょっと胸のほうが張っていて、色もややドス黒いような感じです。
佐藤 鮎というのは保護色だというお話でしたけれども、養殖鮎が黒いのは池が土色といいますか、そういった関係からなんでしょうか。
小西 そうかもしれません。それとつねに多くの魚が小さな池の中で育つという、その関係かもわかりませんね。そして、養殖鮎の場合でも、鮎がもっている特性の縄張りをもつものがありますな。天然鮎のような、とくにはげしいということもないですけども、そのなかの縄張りの取り合いというものがやっぱりあります。この天然鮎と養殖鮎とは、わしらはパッと一目見ただけで分かります。色と形が違いますな。やはり、天然鮎の形とは違います。天然鮎は痩せ型の感じで、養殖鮎はちょっと太った形です。それに天然鮎というのは相当、香りが強い。たしかに香りということになったら天然鮎のほうが強いんじゃないですか。この香りというのは川藻の香りじゃないんですよ。最前からいうとる鮎の持って生まれた匂いですよ。ただ、わしらは味の点ではわからんですな。養殖鮎は食べたことないですよってに(笑)。
佐藤 すると、まえにもうかがった放流鮎ですね、湖産鮎とか海産鮎、これらは広い意味ではまったく自然のままの状態というのではなく、人間の手を加えているわけだから、ある意味では養殖鮎といってもいいとは思いますが、稚鮎から食膳にのぼるまで飼われる純粋な養殖鮎ではない、つまり天然鮎と養殖鮎の中間にある鮎だと思うんですが、これはどちらに近いものですか。
小西 成魚になれば、天然物とかわらんです。けども畜養したものを放流すると、もう鮎の習性を変えておるんです。畜養した場合には、人工の餌を毎日、一定の時間に三度か四度与えられるわけです。その時間以外はもう餌はこん。自分であさって食べるんじゃない。餌のくるのを待つ。それの繰り返しで、ある程度まで大きゅうして、そのときの川の水温などを考え合わせて放流しますね。放った鮎は放流場所から急にバラけるようなことがないんです。同じ池の中におるみたいな感じでね。餌は天から降ってくるもんと思っとるしか考えられん動きをしますな。時間になると、放流した場所の近辺を集団になって浮き上がって寄ってくる。もう餌がくるか、もう餌がくるかと待っているわけです。いくら待ってもいっこうに餌がこんよってに腹がすいてきます。遅いときは十日間くらいも集団の解けないこともあるんですが、逐次、水アカに食いついて上流へ上流へと食みつつ、遡上するようになる。完全に自然の餌である藻に移ってしまうまでには一ヶ月ほどもかかりますな。そうなれば、あとは自然遡上の鮎と同じことになる。鮎本来の生活に戻るわけです。ただ、一度しつけられた、安易に餌を与えられるという癖は直りにくいもので、直すのに一ヶ月ほどかかります。けれどもそれ以後は天然の鮎とほとんど変わりません。
ただ、湖産鮎っていうのは早熟です。だいたい自然のものにくらべて約一ヶ月早いですな。湖産鮎が腹へ子を持つのは一ヶ月くらい早いです。和歌山の海でとれる海産鮎は自然に遡上する鮎とよけいかわらんですな。放流したものは、放流した場所へ秋になったら戻る。これはふつうの増水のおりでも、チリヂリ、チリヂリに、放流した場所へ戻ってくる。上流へ行っとってもね。放流場所はわが本拠地で、なるべくはその付近で産卵したい気持もある。それからまた、水が出るようなことがあったら、そりゃずっと下るわけですけど、水のでない場合は、その付近で産卵する。こりゃ、鮎の習性ですな。放流した場所、これは母親の場所へ戻ったという気持やないかしらと思う。それで産卵すれば海へ落ちるわけですよ。そのあと一週間ないし二週間のあいだに孵化したものが下るわけですな。
あとは放流鮎は、味とか香りなど天然の鮎と少しも変わるものではありません。
この鮎の味といえば、紀の川の鮎がいちばん喜ばれるのは、暑いさかりのころの土用鮎です。脂がのって、肉も十分ついてくるのが土用のころです。そうはいっても鮎は川魚で淡泊な味ですから、見た目の美しさとともに、食の細くなる夏に喜ばれるんでしょうな。けれども最高の味は何といっても秋の子持ち鮎になりかけたころでしょう。一般には土用鮎、土用鮎というけれども、本当の最高の味というのは、秋の卵をはらむ、はらみかけた時分がやはりよろしいわな。」
小西翁のこのカ所をが記憶になかったのは、「放流もの」というのは、継代人工主体に、「湖産」ブランドにブレンドされた雑多な人工等の畜養ものであり、沖取り海産が直放流されることはあっても、海産稚魚が畜養されてから放流されることが相模川では例外であることが影響していたと思う。
ところが、二千九年の相模川は、遡上量が少ない=沖取り海産の放流はない、例年、川に放流されてから大量死しているであろう三十代目くらいになる県産継代人工が漁連の池で死んだということで、漁連の義務放流量を賄うためにあっちこっちの継代人工の購入の他、浜名湖産と和歌山産の海産畜養も放流された。
海産畜養は、中津川では和歌山産が三万ほどのようであるが、相模川では漁連の池に入っていた浜名湖産を全部もってきたようである。中津川漁協を除いて、漁連、漁協が、放流種別を公表していないから伝聞に頼るしかないが。
ということで、弁天では、海産畜養が釣りの主体となった。いや、場所によっては、継代人工が混じらず、海産畜養だけが釣れた。それで、海産畜養とはどんな鮎の習性、容姿であるか、ということを少しは観察することができた。
大井川でも、これまで塩郷ダム下流の本流には、放流されることがなかったが、今年は、なぜか、海産畜養が放流されて、六月下旬に楽しむことができた。小西翁の話されているように、太め、そして、下顎側線孔数は4対左右対象。
故松沢さんや、萬サ翁が話されていた「下りをしないで産卵するアユ」とは、継代人工と判断していたが、継代人工だけではなく、湖産も、海産畜養も同じである、と考えるべきでは、と思うようになった。
10月はじめ頃の産卵アユは、湖産、継代人工が親であり、萬サ翁が寒い頃に観察された産卵アユの親は海産畜養ではないかなあ。ただ、萬サ翁は、人工と観察されていたようであるが。
海産畜養の習性等
小西翁が語る「放流もの」とは、湖産であり、海産畜養であって、「継代人工」ではない、ということを忘れてはならない。
昭和五十年ころには、継代人工の生産は例外的に行われていたに過ぎないのではないかなあ。前さんが、人工種苗の生産に危機感を抱かれたからであろう、和歌山県の種苗生産を見学に行かれたのは、昭和六十年ころのこと。もっとも、静岡県では、昭和五十年ころから、人工の生産は始まっていたようであるが、「放流もの」の主役どころか、脇役にもなっていなかったであろう。神奈川県、群馬県産継代人工の生産が始まっていた頃である。
その状況を前提として、小西翁が語る海産畜養で気になることはつぎのことである。
(1)下りをしないで産卵する
放流地点附近を産卵場所に選ぶ、ということは、増水で流されることがないとき、海のプランクトンを食べることができる前に餓死する仔魚が多くいるということになる。
もし、海産畜養が放流地点を「母親の場所」として、大きな意味を持っているとすれば、二代目方式でも同様であろうから、再生産に寄与する比率が低くなるかも知れない。
故松沢さんが、下りをしない鮎がいることを話されたことについて、「継代人工」に特有の現象と理解し、書いてきたが、海産畜養も含まれていたのかもしれない。「何年頃」に観察されていたか、を聞いておけば、継代人工特有の現象か、海産畜養も含まれるのか、がわかる可能性があったが。
二千九年十二月一日、弁天の下流側トロにアユがいっぱい跳ねている。鯉釣りとツガニ捕りに来ている雄物川さんらとそれを見ていたが、相当の群れであろう。二十五センチ以上はいないと思うが。
雄物川さんの話では、十一月終わりにもその現象は見られたが、そのときは鵜の大群が居た、と。
二日は、跳ねは前日よりも少なかったが、また、少し上流側で見られた。四日は跳ねを見ることはできなかった。
十二月一日頃の前、、昭和橋は鵜が百羽以上、二百はいたとのこと。その始期はわからないが、終期は12月5日頃である。
弁天は海産畜養の放流地点ではない。トラックが入れないから。石切場か、昭和橋付近が放流地点であろう。あるいは両方ともが。
石切場が放流地点としても、産卵に適する砂礫層の流れがないから、昭和橋付近に溜まるのではないかなあ。
石切場から弁天には、みさごが漁をする写真を撮るために、平日でも十人近くが、休日にはウン十人が大きな望遠鏡つきカメラを設置していた。
漁をするのであれば、海産畜養が溜まっている昭和橋付近のほうがよいのではと思うが、みさごと鵜は「食い分け:棲み分け」の関係にあるのかなあ。(川那部浩哉「偏見の生態学」:農産漁村文化協会)
(2)香り
小西翁が、「養殖でも香りがする」、「香り」が本然の性による、と語られている。
小西翁は、高橋さんら学者先生とは違って、シャネル五番の「香り」を経験されている。
にもかかわらず、生まれながらのものと考えられたのはどうしてかなあ。
そして、川で生活をすると、香りについても天然と変わらなくなるということは、なぜ、その香りの変化が生じると考えられていたのかなあ。食糧の変化に基づくと考えるのが適切であると思うが。
コケを食べるも似にボウズハゼもいる。野村さんは、ボウズハゼも香りがする、と話されているが、そのことと関係するのかなあ。つまり、ボウズハゼの香り生成能力はそれほど高くないが、アユの香り生成能力は非常に高いから、シャネル5番の香りがぷんぷん漂ってくる、ということかなあ。
村上先生や真山先生でも、珪藻の香り成分と、水の栄養塩の関係を書いた素人わかりのする本はないとのことであるから、諦めるしかないか。
それどころか、大井川でもシャネル5番の香りを経験できなくなったから、だあれも「香り」を知らない、学者先生がどんなことを言っても「まちがっちょる」と感じる経験すら出来ないから、学者先生の説は普遍化され、その説の裏付けに小西翁の語られたことが引用される、という代がやってくるよう。囮用に販売されている人工鮎でも香りがする、という人がいるから。「臭い」が「香り」と同じである、「香魚」とは「臭い」がすることという代になっているかも。
小西翁は、鮎に母川回帰性があると考えられている。そして嗅覚の鋭さが、それを可能にしている、と考えられているようである。しかし、サケの稚魚と違い、仔魚で海に下る鮎には母川回帰性が稀薄ということであろう。もちろん、川の水に違いがることから、木曽三川のように多く遡上する川:長良川とそれよりも少ない川の違いが出ているとのことであるが、それはサケが母川のもっているアミノ酸?の違いを識別して川を選択している、ということとは、異なる要因:水の甘い、からい?によるものと考えている。
ということで、小西翁は嗅覚の鋭さと、香りを関連づけて考えられているようであるが、何で、コケを食べるようになった海産畜養には香りがするようになるのか、については、どのように考えられているのか、わかりません。
なお、紀の川での鮎放流について、小西翁は、
「琵琶湖の鮎と、海産鮎といって、和歌山県海域で採捕したものとを放流するんです。今年(昭和五十三)は海産鮎で百六万尾湖産鮎で四十二万尾、合計で百四十八万尾放流しましたな。この海産鮎というのは南紀の温暖な海域で採捕した稚鮎を、畜養所という養殖池で体長が四,五センチになるくらいまで畜養するんです。紀の川の水温が十三度以上になるのを待って、四月から五月くらいにそれを放流するんですが、遅いものは川開き直前までかかることもある。
海産鮎をなぜ畜養するかというと、シラス鮎といって、まだガラスみたいに透明に見えるくらいの稚鮎を採補するわけですから、これをすぐ川へ入れても生存・生育の率が、水温などの関係でうんと落ちるわけです。それでいったん畜養する。
湖産鮎は畜養しないでも魚体はいくぶん大きく、採捕された場所で二,三日くらいはおかれるで、ちょっと痩せ型になりますが、かえってそのほうが強いです。それで湖産鮎には畜養ということはほとんどいらないわけです。琵琶湖と紀の川とでは、水温に大差がないためでしょう。畜養するのはシラス鮎の抵抗力のないときと、水温差が大きいときに限るわけです。」
この説明についての疑問は、
@ 相模湾での海産稚魚の採捕は、三月を過ぎてから行われているため、すでに色素の沈殿が生じている。ただ、コケを食むことのできる櫛歯状の歯にどの程度の比率で生え替わっているか、わからない。
しかし、南紀では三月よりも前に稚鮎の採捕をしているということであろうか。
なお、相模湾では現在は小坪付近の湾を主として採捕しているが、その稚鮎も畜養すべきである。海水から淡水に一週間ほど馴致して放流すると、チビのままで成長できない鮎が多くなるはず。生存率も高くはないのではないかなあ。
A 昭和四十年頃には、湖産の需要を賄うために、氷魚の採捕が行われて、畜養されていたはず。昭和五十年頃には琵琶湖総合開発事業?の影響で、湖産稚魚の減少は著しく、産卵用の人工河川も作られている。そして、ヤナ?は沖合へ、沖合へ、と伸びていき、五百メートル沖までのばさないと、稚鮎が獲れない状況になっていたのではないかなあ。
そのような状況で、畜養しない湖産が、入手できていたのかなあ。
この章を書いていて、郡上八幡では、網から竿釣りへと、移行していった現象もあるのに、何で、他の川では、網漁が主流のまま、職漁師の生活を支えていたのかなあ、という疑問が出てきた。
郡上八幡での網漁から友釣りへの移行は、大多サ等が語られているが、その他の川では網漁が主流のよう。
この鮎の質に関わるかも知れない漁法の違いを生じたことが、食文化によるものなのか、それ以外の要因によるものなのか、斎藤さんはどのように考えられているのかなあ。
そして、「網漁」の漁法とはいっても、どの網漁の漁法を使うか、使い分けるか、という違いはどうして生じたのかなあ。
また、同じような漁法であっても、川によって違いがあるような気がする。どうしてかなあ。
わからんことがさらに増えただけでも、「川漁師 神々しき奥義」を読んだ意義があるということである。
C 川の荒廃 : 疲弊する川
1 川那部先生とは
平成の代になって、素人目から荒廃した川、疲弊した川が、四万十川と長良川が筆頭ではないか、と考えている。
その原因は、四万十川が観光開発事業、長良川が河口堰の建設、と原因を異にするものの、その両者に共通する要因があるのではないかなあ。
(原文では、「改行」をされていませんが、読みやすくするために改行しました。)
(1)「岸辺」の大切さ
川那部浩哉「大きな生態学の話」(農産漁村文化協会)の、「2 長良川、琵琶湖、そして生態学者」の章に、
「川那部 琵琶湖の場合で言うと、陸と湖との推移帯、移行帯とも言いますが、もともとはそれがあって、陸と湖との間は線ではなくて面だったわけですね。だから『岸辺』などと言うのです。『べ』すなわち『あたり』ですよ。ところが工事の結果は必ず、『あたり』を無くして『きわ』にしてしまう。そして生き物を棲めなくするし、水質浄化もできない状態にしてきたのです。
宮田 あの時は流域下水道に反対している人がずいぶんいましたけど。
川那部 そうでしたね。流域下水道も、つねに悪いわけではありませんが、一括せずに処理したほうがむしろ良いような場所もあるようですね。大きくすればするほど、全部一緒になるし、見え難くもなりますから。一般的に言えば、どこでも同じことをするのがいちばんつまらないし、問題を起こす元凶ですね。それぞれの場所ごとに、条件ごとに違ったやり方を考えて実行する、そこにいちばん適したことをやる。それこそ多様性が重要です。
宮田 それがきょうの大きな結論ですね。
川那部 『にほんのかわ』でも、同じようなことが議論されました。『ただ一つのマニュアルに従ってどこもここも同じ、川は全部こう作るべきだという考え方が強過ぎたんではないか。個々の川のことをよく知っている〈大家〉は、本当にいなくなってきた』と。
私はそのとき、また憎まれ口をたたきまして、『高橋さんが、御自分のお弟子さんを皆、各々の川に全部張り付けて、その人たちをいっさい東京大学へは戻さない。〈各々の川において具体的に、他のところとは違った、その川のその場所に良い河川工学、河川工事をやった人がいちばん偉い〉と、それだけを表彰する方法を作ればいいんです。』と、よけいなことを言いました。
宮田 確保するわけですね。(笑)これは建設省の河川行政に対する一つの大きな批判になる。
川那部 しかしこれはもう今、建設省も公団も、総論としては良く判っておられることです。
最後に言えば、全てを通して言える最大の課題は、『過ちを改たむるに憚る事勿れ』なる東洋古来の諺を、拳々服膺(けんけんふくよう)することだと思います。『始まれば停まらない』状態から直ちに脱却して、全てを根本的に見直すことですね。これ以外に公共事業としての河川行政を進めることはもはや不可能だと、私は建設省河川局のファンとして、そう思っています。(笑)」
(注:1999年7月のインタビュー)
この川那部先生のインタビューの中にも、川の荒廃がなぜ生じたのか、を考えるヒントが語られていると考えている。
そして、「きわ」「岸辺」の「大切さ」は、野村さんの「大事なものはニキにある」に通じると考えている。
野村さんは、「ニキにある宝をこわしたらいかん」のところで、
「四万十川の川岸もこうゆうふうにして、自然にできたヤナギや竹が生えちょる河畔林を開発から守ろういうことやね。こうしたら、魚だけやのうて、カワセミやカワチドリみたいな鳥も守れるけんね。
こういう保護をみんなでしていくためには、昔の川がどんなやったかということも知らんといかんし、どういう理由で川が汚れたり、魚が少なくなったかも考えないかん。それに何より大切なんは、四万十川が好きになることよ。」
と、語られているが、野田さんは破壊されていくニキを経験されている。そして、四万十川を都会と同じして、観光客をに受け入れることが「観光開発」事業である、という考えが、「ニキ」を破壊していったひとつの理由ではないのかなあ。そのニキが破壊されていく情景は、野田さんが「川へふたたび」に書かれている。
とはいえ、ネエちゃんの「性体」学には興味津々であっても「生態学」との付き合いのないものが、川那部先生を導き手として、川漁師の遺言を、黙示録を読んでも適切な理解ができるとは思えない。
もし、それなりに、川の荒廃理由が理解できたとすれば、 ぱちぱちぱち となるが。
(2)長良川河口堰でのこと
@野田さんと河口堰
この文を読まれて、前後の文脈を知らない人は、「私は建設省河川局のファン」、「建設省も公団も、総論としては良く判っておられる」とのカ所をミスリーディングされる虞がある。
その誤解を避けるために、野田知佑「川へふたたび」(小学館:1993年・平成5年発行)を見ておく。
「川へふたたび」の、「この川の持つ意味を語ろう」(90年秋)の章に
「これまで河口堰推進派の決まり文句は、『反対しているのは外部の何も判らんはねかえりばかりで、地元の人はみんな賛成だ。』というものだった。」
「建設省は勘違いしているのだ。川は建設省のものではない。国民が金を出して川の管理をちょっと任せているにすぎない。川の所有権はわれわれ国民にある。建設省は川を私有化し、自分たちのために色々な不要な工事を行って膨大な金を動かし、自分たちの権益を増大させ、それを維持するために、また不要なダム、ショートカット、三面張り、砂防ダムを作っている。」
「一九九〇年一一月の北川長官が視察の時の岐阜県町村会長が各町村長にあてた『文章』がある。こうだ。
『―県外にあって、その実態を知らず、たんに《自然を守ろう》の美名にかくれて反対運動をする人たちの行為が最近とくに活発になっております。―』
地元の町長が長官に渡したものの中にこんな文章があった。
『長良川河口堰推進派を“ばか”呼ばわりする』『反対派の正体見えた“差別”なり』『俺たちゃ都会でやり放題、君たちゃ田舎で耐えて死ね!』
これは『ビーパル』誌九〇年九月号の『マザーアース・トーク』のインタビュー記事で、河口堰問題専門委員長の川那部教授の言葉尻をとらえて書いた、とても程度の低いものである。バックナンバーをそろえている人は読んでほしいが、この中で『水資源開発公団の人は川の魚よりも人間の財産や命を守ることが重要だといっています。これについて、どう考えますか?』という質問がある。建設省側が治水を主張する余り、反対派の言い分を『治水に反対』のように“すり替えて”人の命や財産を何とも思っていない、と的はずれなことをいっている点でまず話にならない。反対派のいい分をよくきいてごらん。『河口堰は堤防を壊す恐れがある。だから反対』といっているのだ。反対派もまた『人命と財産を守れ』といっているのだ。
その質問に対して教授が『本当にそう思っているのなら、真の意味で馬鹿やということに過ぎんでしょう』と答えている。」
この文書ではそのことで、『ばか呼ばわりした』と大騒ぎしている。
ぼくの田舎の選挙でもよくこの手の怪文書が出まわる。諸君、河口堰推進派はこの程度の連中なのだ。反対派の人間を『個人攻撃』した文書も『反対派の連中はこんな人間です』といって町長から長官に手渡されたそうだ。」
この間のいきさつはよく判らないが、川那部先生のつぎの文は、この間のいきさつの一端を表現しているのではないかなあ。
A川那部浩哉「生態学の『大きな』話」(農産漁村文化協会)の「2 長良川、琵琶湖、そして生態学者」の章の中の
「専門家としてのスタンスへの誤解」の節に
「宮田 そうですか、両方から誤解されてしまったということなんですね。
川那部 ええ。とくに建設に賛成の側からは、長良川河口堰『反対』者と見做なされ続けて来たらしいですね。一昨年でしたか、『にほんのかわ』と言う雑誌に載った座談会では、この三月まで芝浦工大におられた高橋裕さんが『川那部さんには、固定した評価がありまして、最近の例ですと長良川河口堰の問題で、川那部さんは〈ああいうところに住んでいるからいかん〉と言った人として知られています』、と紹介して下さっています。
それから、建設省の高官と私とのテレビ対談が、いくつかの局で企画にのぼったようですが、『川那部との対談だけは絶対に嫌だ』と向こうに断れて成立しなかったと、テレビ局の担当者から連絡を受けたことが何度かありました。」
「またその後文部省かどこかへ、『川那部を国立大学から罷免せよ』という要求が提出されたのも、どうも事実のようです。
しかし実際に私の言ったことは、建設側などが『この点については大丈夫である』とか、『影響は軽微である』などと言い書きした場合に、『その証拠はあるのか』、『論理的には成立しないではないか』などと、相手側の論拠を突き崩し、あるいはそういえる証拠を出すようにと、専門家として迫っただけです。書いたものをきちんと読んでもらえば、それはすぐにわかることですが…。
宮田 先生は、よく遺伝子の多様性を維持することが大事だということを非常に強調していらっしゃいますよね。
川那部 確かに、そのことも書きましたね。
宮田 そういう意味で、例えばサツキマスを放流すれば済む問題ではないというようなことをちょっとおっしゃっていますね。増殖放流というのは、極めて少数の個体の子孫だけを入れることになると。
川那部 ええ。これも先ほどの『にほんのかわ』にあるのをひけば、『一般に稚魚放流は、遺伝子多様性をうんと低める結果に、必然的になるのですからね。どんどんどんどん放流しますと、最後はどこもここも、例えばXXさんの子ばっかりになる。(笑)(中略)XXさんは幸せかも知れないけど、いや、何よりも人間が滅びかねない』などと言うことになります。放流し続けるととんでもないことになるのは、判りきったことでして、先の雑誌にも載っていますが、例えば台湾島のタイワンマスは、絶滅しかけたときに一度だけ緊急避難として放流したけど、その後は遺伝子の多様性を保全するために、放流は完全に止めているのです。」
「遺伝子の多様性」の言葉は、神奈川県内水面試験場の専門家も当然知っておられると思う。にもか関わらず、30代目くらいになる継代人工の生産を続けている。その川での生存率に考慮をはらうことなく。いや、川中での生存率すら低いから、再生産に注意を払いことは不要な事柄かなあ。
しかし、2009年は、幸いにして、県種苗センターから漁連のプールに移されて、そこで死んだ。漁連は、欠陥商品に今年はじめて代金を支払わずに済んだのではないかなあ。
また、川那部先生が、心配されていた継代人工アユの再生産が、自然界では非常に稀な現象としては存在しても、あるいはダム湖では存在しても、海産アユとの交雑種?としての再生産が海を媒介とする限り生じていなかったことは、遺伝子汚染の上では幸いである。このことは川那部先生も書かれている。
調査手段、金を持つもつ行政の有利性
「川那部 建設に反対の立場の人の中には、『生態学の研究者は河口堰などには、反対するのが義務ではないか』と詰め寄った人も、ある時期にはありましたね。私はそのとき逆に、『反対側が理屈に合わない議論を持ち出したら、〈その根拠はどこか〉と尋ねますよ』と言って、いっそう顰蹙を買ったのもでした。
ただ一般的に言いますとね。反対運動の人々には調べる手段のない場合が多いし、逆に建設行政の関係者は調査をすることが容易です。つまり、把握している科学的情報量には、あまりにも大きいハンディキャップがあるわけです。このように考えて客観的に論じようとすれば、建設側のほうにいささか強くもの申すのは、当然のことだと思います。」
「宮田 建設省はかなり被害者意識を持っているようですけれども。
川那部 どうなんでしょうかね。反対運動のほうは、例えばその機関誌で反対の意見を表明するでしょう。しかし建設側もまた、たくさんのパンフレットを作ったりして、河口堰建設に賛成の意見というか、都合の良い事実を書いて、それを大量に配布しましたものね。
そして建設側の配布したパンフレットや、口頭で流した情報の中には、どういう根拠から言ったのかわからない、理屈のつながらないものがたくさんあったのは事実で、先にも申したように、私ですら指摘せざるを得なかったわけです。」
不採用の調査事例=魚道について、事前調査
「不採用のものの例を一つ挙げますとね。例えばアユが『魚道を遡上する』というのは、魚道の最下段から最上流へ上がるまでの、そのあいだのことだけではありません。まずはアユが、魚道の最下端をどうやって見つけるかの問題があります。『木曽三川河口資源調査団』の中で信州大学の小山長雄さんなどが苦心した結果、『呼び水式魚道』を考えたりしてある程度の成功を収めたのですが、これはもちろん一〇〇%というわけには参りません。また、魚道を遡上した上には長い湛水域があるわけで、これは川ではなくてどちらかと言うと湖でから、この湛水域の上端を越えるところまでが、従来の川とは変化したところになるわけです。遡上条件の変化を問題にするなら、そこまでのことを考えなければいけない。つまり、堰のずっと下流の魚道を見つけてそこへ入る流れのところから、湛水域の上端までのあいだが、広い意味の『魚道』になるわけでして、そのあいだの変化に対してアユがどう反応するのかをはっきりさせなければなりません。そういう測定のしかたをして、『変化はこの程度ある』と言えば、誰もが納得できます。
宮田 それが学問ですね。
川那部 そこで、例えば堰を閉める前には、少なくとも数年間、どれくらいの比率のアユがどれくらいの時間をかけてそのあいだを通過し、どの程度に成長するかを詳しく調べる必要があります。堰を閉める『試行』ないし『試験運用』をすると言うのなら、その後の状態と比較するために、いま言ったような事前調査が必要です。それをしないでおいて、『魚道』自体を見て、どれくらいのアユがどれくらいの時間で遡上したかを調べても何の意味もないとまでは言いませんが、『変化がない』とか『どの程度の変化がある』とか言った、意味のあることは全く言えないわけです。
『全く変化がない』、すなわち『一〇〇%が同じ時間で遡って、成長も同じだ』などと言うことは、先ず絶対にあり得ませんから、当然『何%しか遡らない』とか、『上へ着くのが何日ぐらい遅れる』とか、さらには『成長がそのあいだにどう変わる』とか、そういう数字が出ます。そうすれば、賛成か反対かの意見の根拠になる事実の幅は、少なくなりますから、意見調整はかなり簡単になるはずです。しかしこれは採用されないままに、『せめてそれをするまで数年間、時期を遅らせるべきだ』と申したのですが、閉めきりの『試験運用』も行われてしまい、そしてすぐに本格的な閉めきりになったのです。このような調査もせずにしめ切られたことにはかなり不満でして、九八年に環境庁から要請されて、『第五回長良川河口堰問題ヒアリング』に応じたときも、建設省や水資源公団の関係者も居られた席でそう話して、質問にも答えました。今でも事前調査をやられた方が、本当は良かったと思っています。
宮田 やった方がいいんですね。
川那部 もちろん、調査をせずに閉めきるというのも一つの『判断』です。しかしそれならそれで、『調査をせずにでも閉めきりをすぐにしなければならない』と言う、判断根拠は公示して欲しかったですね。せめてそれがあって、それを巡って議論が行われていれば、建設省なり水資源公団の株はうんと上がったのではないかと、これもいまだ思い続けています。
宮田 本当に、アユがどうやって魚道を見つけられるかというのは、僕も前から不思議に思ってましたね。
川那部 それから、これも『にほんのかわ』にも出ていますが、湛水域のことはともかく、魚道を見つけてさっそくそれを遡上するようにするだけなら、詳しい調査などしなくても、まずは解決する方法がないわけではないのです。ダムの堤体そのものを、水の流れに対してかなりの程度に斜めに作ってやれば、遡上時期のアユは堰堤に突っかけているあいだに、必ずその斜めの堰堤の上端に集まって来ます。そこに下へ突き出しているのではなくて、逆に、下端が堰堤のところにあるような魚道作れば、ほとんど自動的にアユは上がって行くのです。実は、『登り落ち』と言う漁法はこれそのものなのです。
カナダやノルウェーでは、サケ・マスのたぐいのために、そうした魚道を作っています。もちろんこのようにしても、遡上は少し遅れますけども、それはかなり短い時間になります。
宮田 じゃ河口堰も九〇度としないで、斜めの形にしてればよかったですね、もしかしたら。
川那部 ええ、そういうのも一つのやり方だったと思います。」
これで、少しは川那部先生が、阿部さんや、高橋さんら、「学者先生」とは少し違うんではないか、と、雰囲気だけでも感じていただけたのでは?
さて、魚道への登り口が見つからない、と言うことは、中津川の妻田の魚道からもよく判る。
妻田の魚道は、二〇〇四年の大量遡上のあったときは機能していた。しかし、その後のダム放流で、魚道を下り落ちた水は、そのまま、真っ直ぐに下流へ流れずに、反転して、堰からの落水と合流している。当然、魚道への登り口がわからない形になっている。
ということで、二〇〇八年の遡上量が多かった年でも、中津川での遡上アユが釣りの対象となることは、相模川に比し、少なかった。
なお、相模川の高田橋上流、小沢の堰の魚道は、作り直して二〇〇九年四月中旬に水を通したが、秋のダム放流で、最下端が崩れた。どのように修復するのか、わからないが、今のままであれば、二〇一〇年に遡上量が多くても、葉山や神沢で遡上アユが釣れることは期待できない。
注:2009年末?から小沢の堰の「災害復旧工事」が始まった。2メートルほどのダム放流で下段が陥没するとは、日本の「土木工事」の技術水準はたいしたことがないなあ(精一杯の厭味です)。設計の問題か、施工の問題か、はわからないが。 「災害復旧」工事として、工事代が払われるのかなあ。それとも瑕疵担保責任が問われたのかなあ。工事看板からは窺うことが出来ない。 なお、仮に2010年の遡上量が多くても、コンクリートのアクが流れているであろうから、小沢の堰を遡上するアユは僅少であろう。 |
中津川の角田の堰の魚道を改修するという話があるが、その前に、妻田の魚道の水を真っ直ぐに下流へ流れる工事のほうが先である。ウン十万円でできる工事である。神奈川県か、建設省か、わからないが、この工事をしないで、角田の仙台堰魚道のウン億円?の工事にご執心であるのはなんでかなあ。
ある年の鮎釣り雑誌に、河口堰ができて、どのように、流下仔魚が取水口に吸い込まれないようにするか、という記事が出ていた。
流下仔魚の游泳力から考えると、流れに対してキロメートル単位の長さの取水口になる、という話であったと思う。
しかし、川那部先生の話でも、流下仔魚が、止水帯があっても、一定の時間で、日数で海に下り、動物性プランクトンが摂取できるようになるのか、否かの事項を書かれていない。
ふ化後、七日ほどで海に下れなければ、仔魚は死ぬ。もちろん、止水帯で、動物性プランクトンが繁殖していて、それを摂取して生き残る可能性はゼロではない。しかし、その可能性があっても、冬の川の水温は生存限界の八度以下になるから、湧き水や温排水があるという条件がないと生存できなかろう。
天竜川の二月の遡上稚魚調査のように。
なお、神奈川県内水面試験場の研究者は、「川にいるアユ」が、どのような種別であるか、は、調査結果が前提として設定した指標と異なると、基準とした指標の数値を変更している。=鱗数による湖産、海産、交雑種区分。なぜ、当初設定した指標と異なる調査結果が出たか、を考えることをされない。(「アユ種苗の放流の現状と課題」、「天然アユをたくさん川に遡上させるための手引き」(全国内水面漁業組合連合会発行。その他研究報告書等。)
どのように、流下仔魚のことを考えられていたのか、川那部先生にお聞きしたいと思っている。
「河川行政の課題」
「川那部 そうです。一つは、治水・利水のほかに自然環境保全が入ったこと、二つ目は、事業に関する住民の意見を反映させるための措置が入ったことでしょう。
私はだいたい、褒めるだけのにすることは嫌いなので、問題点を言いますと、例えば治水や利水の場合には、『何年確率の洪水に対処する』とか、『何年後に必要な水量を確保する』とか、計画目標がとにかく立てられるのが普通です。問題はいろいろありますがけれども、とにかく計画があります。それに対して自然環境の保全に関しては、計画目標はまだ立てられていないのではないでしょうか。寡聞にして知りません。
だから、自然環境の保全のための計画がなければ、『自然環境の保全に考慮しつつ』という程度の、『河川法』改正の直前と同じ状態に納まる可能性があります。『昔に戻せ』というわけではありませんが、判ってもらいやすいために言えば、例えば『ここは一九九五年の状態に戻す』というような計画目標を立てるとか、あるいは、『この範囲においては、一切の人為的変更を行わず、一切の治水、利水事業はその下流で行う』、『この範囲は自然堤防に変える』とか…。つまり『何年確率洪水』とか、『何年度需要』とかと同じように、自然環境保全のための川ごとの計画目標を、並べて立てなければおかしいわけです。
これはもちろんすぐに出来る話ではないでしょうし、また生態学なりをやって来た私どものほうも一生懸命に考えて、一緒になって早急に計画目標を作り上げなければならないわけです。
宮田 なるほど
川那部 次に重要なことは、科学技術の限界を知ることですね。
地球環境問題が私たちの考えを変更するように突きつけたものの中に先ず、自然というものは我々が思っている以上に互いに連なっている。つながって関連しあっているのだと言うことがあります。ところが従来の科学技術という、そのようなことを解析するのがもっとも下手なのです。」
このあと、川那部先生は、具体的に科学が不得手とする事柄を説明されている。
そして、さらに、
「自然は自然自身が作り上げてきたものであるし、自然を作るのは自然自身なのです。今まで私たちのやってきたことは、それと正反対で、自然が自分で自分を作れない方向に、一生懸命変えて来たのが現実です。だからこれからやるべきことは、少し手を加えて、それによって自然がみずから自然を、時間をかけて作り上げやすいように、そのようにするることですね。」
「〜報告書の中に、『自然に自然を作らせる』とか、人間はそれの『お手伝いをする』のであって、従って、『おずおずと手を貸す』のだとか、書いてもらったわけです。
そもそも、『自分の立っている基盤が、あるいは根本的に間違っているのではないか』と考えるところからしか、本当の科学や技術は成立しないのですから。」
川那部先生が話されている「科学」が利用者側=お役人や学者先生でのなかでも変化するのかなあ。
河川工事が変わるのかなあ。大熊先生が話されていたコンクリート護岸からシダ沈床?護岸へと変化するのかなあ。
「コンクリート護岸」が美しく、「土手」は汚いと思う都会人が増えているからなあ。「ニキ」の構成要素の一部であった竹藪をブルが平にしているしなあ。
住民の意見を反映させる、とは言っても、町長の意見、あるいは町長と利害を、考えを、同じにするものの意見かも知れないし。
住民参加の「計画」立案ではなく、住民は「理解していただくもの」に過ぎないかも知れないしなあ。
川那部先生には、これからも登場していただくし、「故松沢さんの思い出補記:その3」では、先生の「アユの博物誌」を主として、あゆみちゃんのことを考えたいと思っている。
全員賛成、一枚岩はフィクション
「宮田 (注:建設推進派からも川那部先生に集会の案内状が来ることについて)おもしろいですね。海津町でしたか、町長さんのお話では、地元は一枚岩的に長良川河口堰を支持しているんだというふうに聞きましたが、行政の長とは反対に、今度は世論調査をしてみると、意外に地元でも反対の人が多いんですね。あれはどうしてなんでしょうかね。
川那部 そうなんですか。しかし、一枚岩などと言うことは基本的にあり得ないですね。半々ぐらいなのか、九対一ぐらいなのか、そういう差はあるでしょうが…。どちらかだけなどと言うのはあり得ないことだし、いや、あっては絶対にいけないことでしょう。」
臭い物には蓋、長いものには巻かれろ、の文化が、秩序維持機能として果たしていた側面を否定できないが、法令違反の団体に、社長らに刃向かう内部告発に対して、「事件」として、報道され、責任者が法令を遵守します、と謝罪会見をする現象が現れたことは、少しは堅固な「文化」に風穴が開き始めたのかなあ。
海津町長のいる町で、役場で、河口堰建設反対、と言ったら、どのような制裁が合法、非合法で加えられたことやら。
野田さんが、「川へふたたび」の「あとがき」に、
「昨年(注:1993年の前年)のブラジルで開かれた『地球環境会議』の時、日本の建設省の役人がNGOの会議の席で、こういった。
『われわれ日本政府は市民との話し合いはしないのです。ただ、理解して戴く(いただく)』
これを聞いていた外国のジャーナリストたちに『日本は何と民主的な国であることか』と皮肉をいわれたものである。」
この文章を読んで、「皮肉」の理由を理解できるお役人はどの程度いらっしゃるのかなあ。
川那部先生のように、なぜ必要か、イエスか、ノウでない方法は?とか、おっしゃる学者、専門家は煙たがられ、あるいははじめから排除され、、「計画」ありきで、「市民を説得」する、理解を得ることだけをお仕事と理解し、行動する学者先生だけが、建設省と仲良くされる、という構図は、間違いといえるのかなあ。
やっと、「荒廃する川」、いや、正確には「荒廃した川」にたどりついた。
しかし、「斎藤教」の予言者である川漁師の箴言に入る前に、野田知佑「川へ ふたたび」(小学館ライブラリー)で、四万十川、長良川が、そして、川沿いの住民がどう変貌したか、を見ることとする。
2 四万十川
野田さんは、1980年(昭和昭和55年)秋に、「桃源郷に若者は住めない」を書かれてる。野村さんが、野田さんと出会ったのは、その前年の昭和54年11月頃である。
そのとき以来、野田さんは四万十川に通われている。したがって、四万十川の清流が消え去っていく状況を観察されている。
「四万十川の美しさは日本随一であろう。
水質、魚の多さ、川をとりまく自然、川から見た眺めの美しさ、いずれも日本の川では最高だ。
日本人が汚しはじめる前の自然が、川がどんなものであったかを知りたければ、四万十川を見に来るといい。
部落の人はいう。
『山や川が好きな人にゃここは天国じゃ』
しかし、天国には若者は住めないだろう。彼らをより強く惹きつけるのは美しい自然より、ゴミゴミした都会の汚濁の巷だ。」
その桃源郷は今や消え去った。
どのように消え去っていったか、野田知佑「川へふたたび」(小学館)で見ていく。
(1)残照の清流
「知的川下りの方法」85年秋 (昭和60年)から
@河原のサボリーマンたち
(原文では、改行されていないところも、読みやすくするために改行しました。)
「四万十川は普通の状態だと、出発点の土佐昭和から下は三級の瀬が二つか三つ、あとは二級の瀬という快適な流れである。しかし、これだけ減水するといたる所に川床の岩が突き出て難航しそうだった。」
「沢野がテントの横の折りたたみ椅子の上でイラストの絵を描き始めた。彼は二,三の雑誌の締め切りをすっぽかして来ているのだ。多分、担当の編集者は彼の居所がつかめず発狂しそうになっているのであろう、と偉そうに他人のことをいえないのであって、僕もとっくに締め切りを過ぎた原稿をもっていたので焚き火の側に座って原稿を書いた。すると椎名もそれにつられて川原で原稿用紙を広げ、異様なキャンプ風景となった。川原に散歩に来た村の人が、
『わっ。これはナンダ、ドウシタンダ』
とびっくりして帰って行った。
どうしてこんなことになるかといえば、椎名の場合は仕事量が多過ぎてどうしても遅れるため。沢野はサボり癖と逃避癖のため。ぼくは普段はボー然と暮らしていて、川に来ると初めて目が醒めて、切迫した事態に驚いて書き始めるためである。
『凄いね。これぞ知的川下りの方法』
『この次は〈原稿書きカヌーツアー〉というのをやろう』
『すると、編集者たちの〈原稿取りカヌーツアー〉というのができて、追っかけてくると面白いな』」
しあわせいっぱい、こうふんいっぱい
「一行のうち元木は去年、球磨川の増水時に下ったのでどんな川を見ても軽い軽い、という。三島はすでに五,六回三,四級の川を経験がある。
問題は全く初めての沢野だったが、出発前一〇分ほど手ほどきをすると、すぐに漕げるようになった。川を下り始めると、沢野は少年のように喜びを表に出した。
『きれいだなあ』
『いいねえ。川ってほんとうにいいねえ』
『このパドルのポチャポチャという音がいいよね』
沢野の興奮が素直にぼくに伝わってきた。そう、川下りを始めた当初のぼくもあんな風に全てに驚き、喜んでいた。それが今では水商売の女が(カヌー業なんだからおれだって水商売だが)男を見るように川に馴れ過ぎているところがあるのではないか。ぼくはこの時から川を沢野の『眼』で見ることにした。すると四万十川が雨後の草原のように新鮮に映るのである。
例によってウィスキーのボトルが回され、ビールの缶が配られる
沢野が少しフネになれると、何でもないところで沈。。
三島も沈。二人共山男で、そして山男というのは川に落ちても屁とも思わないのが多く、いや逆に喜ぶのが多く、水の中でケロリとしているのが面白い。
浅く、岩場の多い急流が続いた。」
上陸して、食事中に、野村さんが「国王になった」と話された野田さんとは顔見知りの横浜から流れてきた青年が、野村さんに頼まれて様子を見に自転車でやって来た。
「『そうだな。爺さんのところまで行くにはあと四日かかるだろう。川の水がなくてなかなか進めないんだ。ところで四万十川の暮らしはどう?』
『爺さんの世話で農家の空いたのを一軒タダで借りてます。川の魚がたくさん獲れるから食費はほとんどかからない。畑も少し作っているし、水は裏の谷川から引いているし、マキは山で拾うからお金がかかるのは電気だけですね。月に一万円あれば充分食っていけます。カヌーを家の下につなぎっぱなしにして毎日漕いでいます。ここは天国ですよ』
憧れの四万十川のほとりに住んで彼は満ち足りているようだった。」
A「ウィスキー“四万十割り”」
「四万十川は蛇行の激しい川だ。二〇〇〜三〇〇mおきにカーブしたところはほとんど浅瀬になっていてその都度フネを降りてロープを曳いてやり過ごした。
このくり返しなのでなかなか距離が稼げない。一日目は七kmで上陸、テントを張った。車で野村の爺さんの家まで行って『いけす』にあった川ガニと手長エビを袋にいっぱいもらって来た。篠竹の先にエビを刺して火にあぶり、口に入れると少し甘味のある肉がとろりとして美味い。カニをゆでてしゃぶる。これもいい味だ。
二日目の浅い急流続き。きのうから何十という荒瀬を漕ぎ抜けたので、みんな瀬の読み方がいっぺんにうまくなってしまった。こんなことは滅多にないことだ。普通、一つの川を下ると多くて一〇カ所ぐらいの浅瀬を体験する。急流を行くとき流れの中で一番深く、障害物のないコースを瞬時のうちに判断決定してそこを漕ぎ抜ける。これは体験を積んで慣れるしか方法がない。
思いがけず、一日で十数本の川を下ったくらいの浅い急流の訓練をしてしまった。椎名などはもう三〇年もやっているようなパドルさばきで荒瀬を漕いでいる。川底の小石まではっきりと透き通って見える川の上を漕ぐとわれわれは空中を飛んでいるようだった。
音のしない飛行機に乗って谷の上を飛んでいるのである。コップをもつ手をのばして川の水をすくい、それにウィスキーをゴボリと入れて、水割りを作る。四万十川の水割りは“山の木”の味がした。川はV字型になった山あいをずっと流れていた。川沿いにまばらに点在する家とこの深い山から湧き出てくる清水の割合から考えると、川の水はそのまま飲める。川の水は下流に行くほど澄んで美しくなり青くなった。
四万十川は休業期間中なのでわれわれ以外には誰もいなかった。」
(注:四万十川のアユ禁漁は、10月15日から11月14日までである。したがって、「学者先生」が主張するように、海産アユの産卵時期が、「10月1日頃」からであり、大量現象ととして観察されるほどの産卵行動が始まっていなければ、そして、弥太さん、野村さん、故松沢さんらのいわれる木枯らし一番の吹く頃から産卵行動としての下り等の行動が行われているのであれば、産卵行動が最盛期の初期を構成している期間である11月中旬から、親の大量捕獲、産卵床の破壊=卵を踏みつけ、流す行為が行われていることになる。その状況は、「川面から湯気が立つほど」、とのこと。なお、現在は、禁漁期間の延長が行われたとの話もある。また、この「禁漁期間」の不適切な設定が、「食い気よりも色気」の親アユの大量捕獲によって減少し、四万十川の遡上量激減の原因との話もある。)
(注:「下流に行くほど、澄んで美しかった」というのは、窪川町二万人の生活排水の影響が、稀釈され、あるいは、流れているうちに、浄化をされているということであろうか。そして、この時の川下りは、支流の畜産団地の汚水が入る江川崎よりも上流である。)
Bトッチャンボウヤに変身
「川から両端に四五度の角度で天に広がって延びた山肌の緑をじっと椎名と沢野が見とれている。
『おれ、川がこんなにいいものとは思わなかったな』
『色がいいね』
二人がカヌーを並べてパドルで水掛ごっこを始めた。
『おれ、川がこんなにいいものとは思わなかったな』
『色がいいね』
『ヒャーッ冷てえ、やったなこの野郎』
『あっ、あっ。本気でやったな、よしそんならこっちも。そーれ、そーれ』
『ほーれ、ほーれい』
二人とも頭からずぶ濡れになっている。
この二人があの有名な作家とイラストレーターだとは誰も信じまい。
急流で、岩に乗り上げてもがいている沢野艇の横を椎名が、
『下手くそ。バーカ』
といいつつ漕ぎ抜けようとして、よそ見をしたため、隠れ岩にひっかかって沈。川の中に落ちた椎名の横を今度は沢野がスイと漕ぎ抜けながら、
『キミは何をしておるのかね。バーロ』
とホクホク喜んでいる。
この二人が妻子ある四〇男だといっても誰も信じまい。
この日三島は夕食後、
『漕ぎ足りない』
と暗くなった川を上流に向かって漕いで行った。
山男にカヌーをやらせると例外なく夢中になる。山登りと川下りカヌーには共通したところが多いのだろう。
『あのね、沈したときは普通の人たちのようにモチット騒いでくれよ。そんなに嬉しそうに笑って川の中を流されていかないで、もちっとワーッとかキャーとか死ぬ死ぬとかいってくれよ。そうしないと川下りが盛り上がらん。』
次の日、厭らしくSの字に曲がった五級の瀬の前で一同フネを降りる。もっと水量があれば別のコースを通れるのだが、と考えていると三島が、
『ぼくがやってみます』
と果敢に挑戦した。しかしそこは難しすぎた。あえなく沈。
流されたカヌーは下の岩に巻きついてかんたんに押し潰されてしまった。それを引き上げて使える部分だけ回収して折りたたみ、椎名の乗っていた二人艇の後部デッキに縛りつけ、三島とぼくがそれに、椎名は一人艇に乗り移って、川下りを続行。
こういう波乱もいいな。何だか大冒険川下りみたいじゃないか。
弟子たちを見ると、全員顔が輝いている。
〔ぼ、ぼ、ぼくらはあやしい探検隊
という歌が聞こえるようだった。」
「ウーム。なかなか。とぼくは感心して、今回の四万十川下りは九八点、と点をつけた。四泊五日の漕行距離はわずか二七kmであった。
一日先に帰る椎名を江川崎の駅で送り、カヌーを川原に置いたまま残りの五人で口屋内の野村の爺さんの所へ行った。」
「川ガニ、手長エビ、アユ、トロロ汁などがテーブルにびっしりと並べられ、宴が始まった。四万十川の女性は男と同じように飲む。
野村の婆さんはたちまちでき上がってしまった。隣の家の婆さんもやってきて豪快に飲む。」
野田さんが、家地川ダム(堰堤)下から、ダムがなかった頃の水量に増水している川を下ったときと、今回の違いがよく判らないことがある。
水量が非常に少ないのに、五級の瀬があるのはどうしてかなあ。岩で流れが狭められている、ということ、増水しているときは、その岩が水中にあって、下りに支障がない、ということかなあ。
それにしても、楽しそうな下りですなあ。
川原でお仕事をする情景に、サボリーマン釣り師の大御所である垢石翁はどのような評価をされるのかなあ。あっぱれ、サボリーマン大王の免許を授与する、といわれるのかなあ。それとも、神聖な川に仕事を持ち込むな、といわれるのかなあ。
C「良い川と良い女は同じ魅力がある」 86年秋 昭和61年
「恒例の秋の四万十川ツアー。
椎名誠、沢野ひとし、水中カメラマンの中村征夫、ローリー・イネステイラー、三島悟など一〇名である。去年は河口まで行け着けなかったので、今年は海まで行こう。
海に出て、海が静かだったら少し海岸に沿って漕いでみよう。運がよければ、クジラに出会えるかも知れない。その時はそっと近づいてクジラに触ろうじゃないか、とみんなにいった。 以前、四万十川沖を漕いでいたとき、遠くにクジラの潮吹きを見たことがあるのだ。マッケンジー川を漕いで北極海に出た時は二匹のクジラと並んで漕いだことがある。」
「今回は去年下った時の最終地点だった江川崎を出発点にした。」
「カナディアンに大型のクーラーを積み、その中にビールをぎっしり詰めこむ。何よりも大切な荷物なので他人に任せてはおけずこれをぼくが漕ぐ。ビールは椎名がコマーシャルに出ている某社の提供のものだ。有名人の友人を持つとこういう余録がある。このツアーの総務取締役の元木が何とも嬉しいことをいった。
『ビールはいくらでもあるからじゃんじゃん飲んでよろしい。その他ウィスキー、バーボン、焼酎もあるからどんどん酔っぱらって川に落ちてよろしい。』」
去年の急流下りと何という違いであろう。
一行は、スリルよりも飲んべえの道を進んでいく。
D汚れは一時的?
「一年ぶりの四万十川はやはり美しかった。今年も高知には台風が来なかった。これで三年続けて台風がなく、それに伴う大増水がない。三年間も大水で洗い流されなかった川底の石には古い黒い苔がついて汚かった。これまでの四万十川には見られなかったものだ。川の水量は半分以下である。
しかし、良い女が、どんなにやつれて汚れていても美しいように、四万十川は美しい川であった。
原因はこの川をとりまく山が良いからだ。四万十川は海に出るまですべて山の中にある。川を作るのは山だ。豊かな山は美しい川を作り、貧弱な山は貧しい川を作る。
両岸から空に向かって雄大なV字型を作っている山の斜面は紅葉が始まっていた。山の緑と空のブルーと川のルリ色。眼に入るのはそれだけだ。去年の秋と同じ風景だが、何度見ても感心してしまう。」
しかし、山だけでは荒廃する川を救うことは出来ない。
腐り苔が、台風の増水がないと、洗われない、ということであろうか。
それとも、「黒い汚い苔」は、珪藻が優占種ではなく、藍藻が優占種であることを表現されているのであろうか。そして、台風による増水があると、一時的に栄養塩の状況に変化を生じて、珪藻が優占種になるということであろうか。
この問題については、川那部先生が四万十川について話されている章で考えることにする。
「燃料補給線のぼくのフネを真ん中にして一行は下った。みんなぼくのカナディアンに接舷しては良く冷えたビールを持っていく。三級の瀬が次々に現れた。それを一つ一つ漕ぎ抜ける。
初参加の岡田昇は戦闘的な山岳カメラマンである。山をやる男が、オカダ・ノボルという名前はいい。そのうち、川田下(くだる)、または下らないというカメラマンを見つけて、川をやってもらうつもりだ。」
「椎名が岩に乗り上げた先行のフネにぶつかり、ゆっくりと横転。水から顔を出すと『いや』といった。
そこで、フネが横転しそうになったときはパドルで水面を叩いたり、押さえたりして沈を防ぐ、という練習をしつつ、下った。
三島が、『こうやるとひっくり返るんだよね』といいつつ、こうやると本当にひっくり返ってしまった。岡田が水面を叩くとパドルがポキリと折れそのまま沈。それ以後、この怪力のカメラマンは力を出すのが怖くなって、女学生のような手つきでソーッと漕いだ。
気の合った仲間と川を下るのは楽しかった。だれかがヘマをし、沈する度に笑い声が上がった。一人が喜ぶとそれを見て全員が愉快になる。一〇人いるから面白いことはすべて一〇倍に増幅されるのだ。仲間が水に落ちれば落ちるほど陽気なムードになっていく。
これが単独行だと、沈しても一人でムッツリとフネを岸に着け、沈々黙々と水を出す。一人者の放屁と同じで面白くもおかしくもない。
われわれは賑やかに沈をくり返しながら、川を下った。」
「日本の川を下る」では、野田さんは例外的に仲間と一緒であったが、「川へふたたび」の四万十川では、単独行が主題ではない。
何か、意味があるのかなあ。初心者も入っていることから、年々カヌーリストを釣り上げていったのかなあ。それとも?
E浮き世の生臭い風
ヒルメシは、参加者のひとりが「本物の料理人が手ナベ下げてやって来たのだ。今回はどうも酒池肉林、食いだおれのツアーになりそうな予感がしたが、果たしてその通りになった。
この日一五km漕いで、夕方口屋内に着く。沈下橋の下に単独行のツーリングらしいカヤックとテントが見えた。一人の青年が水際に座っている。
子供の遠足のように騒がしく川を下っている『いやはや隊』の眼から見ると、それは男の孤独感を絵にしたようで、まことにカッコ良かった。挨拶を交わして話をしてみると、ぼくの知っている女性のご主人であることが判った。何だ、そうですか。奥さんは元気ですか、ときくと、それが先月別れましたという。ウーム、ますますカッコいい。しかし、色々辛いんだろうな。秘境、四万十川も人気がでて有名になると、結構人間臭い、ナマグサイ風が吹くようになった。川沿いの道路にはしゃれた喫茶店がいくつか出来ていたし、ある川原にはけばけばしい色をしたバンガローがいくつも並んでいた。
その前の看板には「貸しボート一時間五〇〇円、バンガロー二〇〇〇円。テント一張り五〇〇円」とあった。そこから、モーターをつけた屋形船の遊覧船もでていた。
翌日、支流の黒尊川を少し遡り、そこの川原にテントを張った。数年前、この川原で何日か過ごしたことがある。本流よりも更に澄んだ碧い水で、潜るとアユが乱舞し、岩の下や水草の陰には大きな手長エビや川ガニがたくさんいた。
野田流カヌーでは支流での遊び、魚の手掴みは重要な科目だ。それをみんなに伝授しょうともくろんだ。しかし、潜ってみると魚はいなかった。夏が終わり、アユやアマゴは川を下って本流に入ってしまったのだ。」
黒尊川に魚がいなかったのはどうしてかなあ。
野田さんがいわれている「夏が終わり、アユやアマゴは川を下って本流に入ってしまったのだ」との評価は間違っていると確信している。
時期は秋である。しかも、西風:木枯らし一番が吹く前である。そして、台風がなく大規模な出水はなかったようである。小さな増水が、秋分の頃以降にあったとしても、遡上量の多かった二〇〇九年狩野川の一〇月中旬以降、一一月二〇日までのように、五,六〇センチの増水が何回かあっても、雲金でも、青木の瀬でも、鮎が全部下るということはなかった。
アマゴにしても、本流に戻るほどの水温にはまだなっていないのではないかなあ。
ということで、鮎については、遡上量が非常に少ない、放流に頼っていた、放流もんには人工が混じるようになっていて、生存率が低かった、等の理由があるのではないかなあ。
湖産については当然「湖産」ブランドで放流されていたであろうから、どの程度の比率か、判らないが、放流されたであろう。まだ冷水病は蔓延していなかったから、生存率の問題ではなかろう。たんに、湖産は九月には産卵開始する、ということによる数量の減少ではないかなあ。ことに黒尊川に潜ったのが一〇月であれば。
ということで、遡上量が激減していて、海産鮎が黒尊川にいなかった、ということが理由であって、「下った」からではないと確信している。
なお、前さんのお友達が四万十川に釣りに行って、飛行機に乗って水を見ただけ、鮎がいない、もう二度と四万十川には行かん、水も仁淀川の方がきれい、といったのは昭和六〇年頃の話。
F宴は真っ盛り
「川原で酒を飲みながら日光浴をする。」
リンさんが手早く美味いものを作ってくれるので、われわれは一日中何かを食っていた。立てばビール、座れば宴会、歩く姿は千鳥足。頭上の山がざわざわと鳴り、木の枝から枝へ猿の群れが渡って行くのが見えた。
この夜は改めて野村の爺さんの家で酒宴。村の人も何人か来て、一緒に飲む。爺さん夫婦は去年よりも元気のようであった。自分で獲ったアユ、エビ、カニを食べ、自分で掘った山イモを食べ、自分の畑で作った朝鮮人参の酒を飲んでいるせいだろう。爺さんは今でも毎朝夜明け前に川に出てエビとカニの仕掛けを見て回る。」
Gカヌーと釣り師バトル
野田さんは、3Kの多摩川下りをお仕事でやらざるを得なかった時に、多摩川名物のカヌー族と釣り師の交歓?風景を書かれているが、多摩川の風景は、四万十川にも感染していた。
「酒井さんがカツオのたたきを持ってきた。」
「彼は耳に心地いい土佐弁で次のようなことをいった。
四万十川を夏下ると瀬の所にアユ師がいる。瀬の手前でバック漕ぎしながら待ち、釣り師が竿を上げたときにさっと前を通り抜けるようにしている。
そんな時、地元の人なら、気持ちよくさあ通ってくれ、といってくれる。それが都会(まち)から来た釣り師だと、こっちに来るな、と怒る。アユを釣っているくせにアユの習性を知らない釣り師が多くなった。アユは頭上をフネが通ったからといって逃げるようなことはない―。
偏狭な情けない釣り師が増えたと思う。彼らがいうことは決まっている。『おれたちは金を払っているんだからな』というのだ。金はアユや他の魚を釣ることに対して払っているのであって、川の水面権に対してではない。川はみんなのもので、特に川の交通権は道路と同じで誰にでも平等にある。以前、長良川を下っている時に沈してしばらく流され、フラフラになって岸にたどりついたことがある。すると、そこに居た釣り師が『コラ、こっちに来るな』といった。その釣り師を川に放りこむと、そいつはアップアップと流れていき、今度は下流(しも)にいた別の釣り師から『あっちへ行け』と怒鳴られていた。こういう馬鹿な釣り師は大抵、都会(まち)から来た人である。地元民と余所者(よそもの)の見分け方は、服装だ。土地の人は地味な作業衣で、都会の人は全身『ビーパル』のカタログにあるもので身を固めているのですぐ判る。一方、カヌーやる者にもひどいのがいて、釣り師のウキのそばを平気な顔をしてパドルの音を殺さず、バシャバシャと音をたてて漕ぎ抜けていくやつがいる。『カヌーを漕ぐこと』だけが好きで、自然に無関心の『単純カヌー無趣味派』の連中だ。釣りや水面下のことに全く関心がないから、釣り師の神経を逆なでしても気がつかないのだ。
こんな無神経なパドラーは大石を投げつけて撃沈してもかなわない。」
H最後の宴会
「四日目。一日をフルに使える最後の日だ。これまで判ったのは『いやはや隊』の一日の漕行能力は一五km、頑張ってせいぜい二〇kmだということ。
ベテランのグループだと一日に四,五〇kmは行くから、いかにわれわれがだらしなく下っているか判る。」
海を見たいから、途中をスキップして、「中村市内の鉄橋の下から出発。河口まで六キロの地点だ。海に近づくと流れがなくなった。景色はよいのだが少し退屈である。海から逆風が吹いてフネを押し戻し、難行した。
日がかげると川の上は寒かった。食事のために上陸する。こんな時は熱いラーメンでも食いたいな、といっているとチャルメラの音がした。土手の上から『ラーメン』と書いた幌をつけた軽トラックが下りてきて、口を開けて馬鹿のように立っているわれわれの側に止まった。余りにできすぎているので実におかしい。四万十川の『川地図』を作る時は『風光明媚の清流、ラーメンの出前あり』と忘れずに書き入れよう。投網と同(おんな)じじゃ、人が群れちょる所を狙(ねろ)うてやれば必ず売れるきに、とラーメン屋は漁師のようなことをいった。」
「テトラポットで保護された狭い河口からのぞくと海は大荒れに荒れていた。」
「日没後、三島とローリーが到着。この二人はキセルを潔しとせず、口屋内から三六kmをずっと漕いできたのだ。
連日の宴会続きで一同は疲れていたが、最後の力を振り絞ってこの夜最後の酒宴。どこから聞きつけたのか、椎名、沢野、中村のファンだという人たちが、大勢食べ物や酒を持ってきた。われわれはそれをも美味しい美味しいといって食べ、飲まねばならず、更に疲労するのである。」
I口屋内の淵、そして文明の利器の威力
「五日目。この日帰京する椎名ら五人と別れ、残りの五人でふたたび口屋内へ。
地元のダイバー岡田さんにウェットスーツとエア・タンクを借りた。口屋内の淵に潜ろうというのである。タンクを使うのは初めてなので、岡田さんに教えて貰った。淵の最深部に潜ると深度計の針は一七mを指した。薄暗い。川底にはゴミがほとんど無いので感心した。さすがに四万十川である。
中村征夫がカメラを構えて岩穴に頭を入れると、数十匹のコイが飛び出して来た。ぼくは水底に両膝をついて坐りこみ、頭上を舞うコイに見とれた。
沈木の陰にナマズが数匹。小さな眼でぼくを見ている。頭をなでるとするとスルリと逃げた。岩の間に大きなフナがいたので押さえこんで獲る。ぼくはおとなしくフィッシュ・ウォッチングができない。手がひとりでに出て、つい捕まえてしまうのだ。岩ノ下のコイを押さえこむ。魚を入れるものを持ってなかったので、ウェットスーツのジッパーを開け、腹の中に入れた。フナとコイを五匹も入れると妊婦のようになってしまった。川に限っていえば、タンクを使う時はこちらは素手でないと魚がかわいそうだという気がする。フェアでないと思う。それにしても『川の自然』というのは何と脆弱なことか。こんな日本第一二位の大河でも、エア・タンクの如き小さな『機械』一つの使用で魚は簡単に獲り尽くすことが可能だ。」
ウェーダーを使うため、一一月一五日の水温一五度以下でも、12度以下でも、老弱男女誰でも、産卵のために群れている親アユを大漁に捕獲できるようになった。
友釣りだけが漁法であれば、「食い気よりも色気」のアユを釣り上げても、資源枯渇にはいたるまい。
しかし、絹網ではなく、ナイロン等化学製品の性能が良く、耐久性のある網、自ら編むのではなく、お金で買える網を使い、あるいは、あゆみちゃんの意思を尊重せずとも、捕獲できるコロガシを万人が行えば、四万十川の遡上量が激減する理由のひとつを構成していることになることは、ヘボのオラでも予測できる事柄である。
相模川でも、禁漁期間の短縮の話があるが、漁期の変更許可をする神奈川県が、海産の産卵時期を一〇月一日頃から始まっている、と信じていることから、実現されてしまうかも知れない。
さて、昭和61年の宴は盛大に終わった。
そして、この宴が四万十川の「清流」最後の残照のようである。
「良い川と良い女は同じ魅力がある」。そして、「しかし、良い女が、どんなにやつれて汚れていても美しいように、四万十川は美しい川であった。」というように、過去形に変わることとなる。
(2)清流の消滅は疾風怒濤の如くに
@「自然とブルと」
「良い川と良い女は同じ魅力がある」の章に「遊びカヌー教室」の項が書かれている。
この教室が何年に行われたことか、わからないが、
「一日目は午後からテントの前で軽く練習、川の水は暖かく、もう泳げる水温である。参加した青年の一人はここまで来る途中の汽車の中で地元の人と意気投合してウィスキーをしこたま飲んでいた。まあ、この水温なら落ちてもよかろうと、フネに乗せた。酔っぱらうとバランス感覚がゼロになる、ということがこの青年の実験でよく判った。
彼は何度か川に落ち、四万十川の美しい水をたくさん飲んだので酔いがさめてしまった。それで、その夜、またお酒を飲み直し、一日に二度も酔っぱらうことが出来て幸福そうであった。」
と、初夏のことではないかなあ。そうすると、昭和六二、三年ではないか、と思うが。
さて、昭和六一年にも、昭和六〇年にも野田さんは、江川崎に行かれているが、その時すでに作られていたのか、どうか、判らないが、キャンプ場が作られている。
カヌー教室は
「交通の便がとても悪い僻地だから余り人は集まらないだろうと思っていたが、予想以上の人が来た。
一日目は江川崎でキャンプ。
『地元で作ったキャンプ場がありますかがどうですか?』
といわれて、見に行った。川岸をブルドーザーでならして、芝生を植え、キャンプ用のグリルを何カ所か作ってある。役所とか観光協会というのは自然を自然のままに放っておけない人種が集まるところである。せっかくの自然をぶちこわして、そこにいかにも『遊び場ですよ。さあ、皆さん、楽しく遊びましょう』といった安っぽい子供だましの施設を作る。ほとんど例外なくそうだ。それにこの種の人間は愚かしい教育癖があって草木の一本一本に【〇〇の木】とか【〇〇草】といった札を下げたり、立てたりするのが好きだ。いつか北海道、大雪山の黒岳に登ったら目にはいる木にはすべて名前を書いた札が下がり、もっとも大きな看板には『木の名前をよく覚えてください。帰りに試験します』と書いてあった。
日本で気持ちよくキャンプしょうと思ったら、『キャンプ場』を避けてキャンプするのがコツだ。」
とのこと。
ということで、昭和六〇年、六一年は、キャンプ場が目にはいらなかった、あるいは、まだなかった、ということではないのかなあ。
キャンプ場が、バンガローが、整備されたことがどういう事態を生じてたか、ついでに見ておこう。
九〇年:平成二年春の「カヌーイストよ失せろ」の章に、
「二年前にこの川を下ったとき、近くの川原で(注:江川崎に出来た『カヌー館』の附近ではないかなあ)キャンプをしていたら『今度新しく作ったキャンプ場に行ってくれないか』と地元の人にいわれ、断ったことがある。
われわれは『自由』に生活したいから川原にテントを張る。安楽や快適さを犠牲にしてまで不便なキャンプ生活をするのは『束縛』されたくないからだ。俗世間の決まりや約束事、ルールに縛られたくないからだ。
せっかくの広い川原に箱庭のように作り上げられた、色つきのレンガを敷きつめた遊園地の中でキャンプをするのは嫌だ。
といっても田舎の役人どもには判らんだろうなあ、と溜め息をつきながら江川崎をあとにした。」
いや、田舎の役人どもだけではありません。
「快適さ」を犠牲にするとはいっても、何が「快適さ」なのか、野田さんの基準は、異端者の基準でしかありませんよ。
「遊園地のようなキャンプ場」に整備しないと、あんなところへは二度と行くもんか、との不平不満、怒濤の苦情が役場に押し寄せますよ。
亡き師匠らと、大井川で川原乞食をしたことがあった。明かりをつけても、草むらからウン百メートルも石ころの川原があるために虫もやってこず、満天の星の下、艶めかしい姉ちゃんの夢を見ることができた(はず)が、いまは、宿のほうが有り難いとつくづく思っています。
口屋内にあった「良心小屋」の閉鎖について、野村さんは、余所者がうろちょろすることを理由とされているが、そうではあるまい。
バンガロー等の経営者が、営業妨害を排除しょうと目論んだことが理由ではないかなあ。その本音では、閉鎖させる理由とはなりがたいから、また、格好悪い理由であるから、治安に類する誰も反対できんような口実を唱えたのではないかなあ。
それにしても、カヌーには、酔っぱらい運転取締法がなくてよかったですね。
いや、酔っぱらい運転で取り締まられるようになるかも知れませんよ。「危険」は「悪」との高邁な理想に燃えている世の中の「選ばれし者」たちの世直し運動で。
A「カヌーイストよ失せろ」 90年春 平成二年 から
ということで、野田さんの「快適さ」は、どんどん消え去り、憤懣だけが増殖する。
「江川崎に『カヌー館』の大きな建物があった。一億数千万円をかけて建てたのだという。カヌーのお客には来て欲しいのだ。」
にもかかわらず、
「四万十川に行くと、まっさきに目についたのは川沿いを走る道路に『カヌー川下り危険』『カヌー川下り注意』と大書きしたいくつもの看板だった。ほら、四万十川にも『幼稚園化』の波はやってきている。
こんな看板を見て川下りをする者が注意深く、気をつけてやる、とでも思っているのか。
いっそうのこと『川下り禁止』『カヌーイストよ失せろ』と書いたらどうだ。」
カヌー館を建てたことから見ると、
「カヌーのお客には来て欲しいのだ。それで死なれると『管理者責任』を問われるからあんな看板を立てたのだ。
次の日、川を下って気がついたが、川の中の岩に『注意』という立て札が何カ所か立っていた。もうここまでやるなら、急流の一つ一つの岩に信号機をつけ、『右を漕げ』とか、『左を行け』とか、ええいおまけだ『今日の水温〇度』とか、『腹が減ったら〇〇ラーメン』などの広告、ネオンを川の上にチカチカさせたらどうだろう。
そして、誰かが『四万十川ボイコット運動』を起こすと面白い。
ダムのない川には『河口堰』を、ダムも河口堰もない川には立て看板をずらりと並べる。何か救いのない話だ。」
カヌー館については、90年夏:「四万十川は本当に日本一か」に書かれている。
「江川崎を出発。すぐ下の橋のたもとに大きな四階建てのコンクリート作りの建物が見えた。噂に聞く『カヌー館だ』上陸してみる。一階がカヌーの艇庫、二階がバルコニー、三階がトイレとシャワー室。道に面した四階には『カヌー資料館』がある。入場料一〇〇円を払って入ってみた。七,八隻のカヌーが並べてあり、十数冊のカヌーの本、カヌー・メーカーの作ったカヌーのビデオとそれを映すセット。それだけである。
この『カヌー館』(ふれあいの家)は村の観光協会が一億円をかけて作ったものだ。これほど馬鹿馬鹿しい、無駄な建物はなかろう。建物の回りの川原は整地されて、夜間照明つきのテニスコート、ゲートボール場がある。『四万十ひろば』という看板の下にログハウス、バーベギュー用の『あずま屋』や『カヌー待合所』(二時間百円)もある。シャワー室は午後五時までだという。係員は役場の人間なので五時になると帰ってしまうからだ。」
野田さん、「危険病」撲滅運動を「正義」と考えている方々、川の空間はゴルフ場に変えるべし、それが「快適さ」である、という感性の方々等、「危険病」撲滅運動推進者の方々の実力を軽視されますと、立て看板、信号機だけでは満足できずに、カヌーイストの川への「立ち入り禁止」にまで発展しますよ。
北上川で、工場の汚水排水には何らの関心を示さないものの、川で「快適さ」を満喫されている野田さんに対して、そこの者即刻川から立ち去れ、と、建設省のお役人に怒られましたね。その時のことをお忘れではないでしょうね。
しかも、今や、建設省のお役人だけではなく、その背後には、「恐水病」「危険病」「汚い病」をこの世から抹殺せよとの教義、考え、行動を支持する多数の、人口の過半数を遙かに超える選民が控えていますよ。
ということで、カヌー族が「四万十川ボイコット運動」をおこすと、カヌー族ではない多くの選民が賛同して、危ないことをしているカヌー下りの人を川への立ち入り禁止にしてくれるのではないかなあ。
コンクリートは盛況、ニキの破壊は「文明化」の証し?
「カヌー館」の話は、まだ続く
「川岸はまだ工事中で、ここから川にカヌーを出し入れするためにコンクリートの階段を作っている。」
そう、野村さんは、ニキを大切にせよ、と話されたことが、ほかでもニキは破壊されている。
江川崎を出発した。
「川は広い砂地を作り、蛇行しつつ、ゆったりと流れた。川の岩の上に何か立っているので近寄ると『注意 西土佐村』と書いた立て札だった。
川べりにバンガローやログ・キャビンが並んでいる。道に面した所に『あずま屋』風の建物があった。『川見台』というもので、そこから、四万十川を眺めろというのだ。川に下りる道が作られ、『気くばりの小路』とか『ふれあいの広場』と書いた看板があちこちにある。『川見台』の下の雑木林は切り払われていた。木があっては川がよく見えない、というもである。別の『川見台』の横にはフェニックスの木が数本植えてあった。あとで役場の人に聞くと『何か土佐にないものを』と思って、ということだ。」
野田さんは、カヌー教室においても、アマゾンと違って、ワニに食らいつかれ、ピラニアにかじられる心配がなく、酔っぱらい漕行で、沈しても安全ですから、
「ぼくは二人艇に飲み物をどっさり積み込んでみんなの間を漕いで回った。
『エー、ビールにジュース、ウィスキー』
少しずつ、沈する者が出てきた。酒のせいではなく、フネに慣れたためだ。」
というのどかなカヌー遊びも出来なくなりますよ。
四万十川が「よい川と良い女は同じ魅力がある」とはいっておられない事態が進行していますから、美しくない女と美しくない川でも満足しているオラと違い、面食いの野田さんは、四万十川で遊ぶこともなくなるか。
B 俗化 汚い水 騒音 それから?
「四万十川は本当に日本一か」 九〇年春 平成二年
俗化と汚水
「四万十川に行くんだというと、周囲の人は羨望の言葉を口にした。
いま、この川は『日本で一番きれいな清流』として人気が高い。カヌーをやる人間にとって、この川は『メッカ』になった。カヌーをしない人までこの川のことは知っている。
しかしぼくは四万十川に行くのは気が重かった。二年前にこの川に来て、川が『俗化』しているので失望していた。
一〇年前のルポ『日本の川を旅する』(新潮文庫版)では窪川から出発している。あの時は大雨のあとで、増水していたのだ。
いま、窪川で川をのぞくと川底には一面に岩が露出し、わずかな水がちょろちょろと流れていた。それにしても川の水が汚いのに驚く。これが『日本一の清流』の上流なのだろうか。夏の渇水期にここに川下りに来た人が『まるで多摩川のように汚れ、臭かった』とこぼしていた。原因は人口一万七千の窪川町の下水だ。
この多摩川なみに汚れた水が山間を縫って流れる間に浄化され、その間周囲の山々から湧き水、支流で稀釈され、過疎の村々を流れて三〇km下流の土佐大正あたりでは再びきれいになっている。
四万十川が美しいのは単純に『人が少ない』からだ。特に流域の人々が努力しているからではない。流域の町村ではそのまま下水を川に流している。しかし、人口が少ないことと周囲からの湧き水が多いので、中流域は『清流』と威張れるくらいに美しくなっているのだ。」
教育ママへの、言い訳の看板乱立
「出発点は土佐大正の鉄橋下からにした。この下に難所『轟きの瀬』がある。川に下りる入り口に大きな看板が立っていた。
『この下に激流あり』
川原の鉄橋のコンクリートには『死亡事故発生地点』と白いペンキで大書きしてある。この川沿いの道路には『カヌー川下り注意』『カヌー下り危険』と書いた看板がたくさん立てられている。この川が有名になる前にはなかったものだ。」
「前回この荒瀬を下ったのは五年前だろうか」
その時、沈して、
「水没したフネ(注:回転性能のないファルト・ボートに乗る。今回も同じ)を掴み、岸に着けようとしていると、またすぐ下に大きな瀬があって、白く泡立つ流れの中に突入した。波にもまれて流されていると、大粒の雨が沛然(はいぜん)と降り始めたのである。そんな時、人は自分が小さなゴミになったような卑小感にうちのめされる。惨めさをかみしめつつ、ぼくは雨が叩きつける流れの中を孤独にプカプカと流されていったのだった。」
「すぐ荒瀬にはいる。今回は重い二人艇に荷物と犬を乗せているので、少々の波にもびくともしない。大きな波をフネは二つに切り裂くように突きすすんだ。
前部座席のガクは前足をデッキにかけているので、立って前方を見張るような形になる。なかなかの勇姿だ。初めのうちはフネに酔ったり、急流に突入すると頭をデッキの下にかくして波を見ないようにしていたが、最近は慣れて平気になった。
川岸にはついこの間まであった『川原ツツジ』の花が落ち、かわりに白いバラ科の花が咲いている。
吃水の深い二人艇は時々ゴリゴリと底を岩にこすった。注意して最深部を探し、その上を通る。
三カ所でフネを止め、岩の上に登ってフネを漕ぐコースを偵察した。
柳瀬の沈下橋に着く。ここから先はたいした難所はない。のんびりとした川旅が待っているだけだ。ビールを飲みながら流れを下っていけばいい。」
注:犬のガクは、「ガクの冒険」の主役の犬で、野村さんら、口屋内の人たちが出演している。野村さんもこのときのことを語られているが、「川へふたたび」にも、「孤独な二枚目の名沈芸」の章にその撮影の情景が書かれている。
窪川の下水の多くは、家地川ダムで取水されて、四万十川には流れていないはずであるが、それでも、家地川ダムで取水されていない水が四万十川を汚しているということであろう。
これでは、平成十四年?の水利権更改時に2トン?の義務放流が決まった、との話があるが、流れているのは、相模川並の汚い水ということではないかなあ。
もっとも、相模川の水を「清冽な清流」と評価する森下郁子さんのような人の評価では「清流」が、四万十川に戻った、ということになるのであろうが。
増水は、川の再生の条件
「川が増水してテントのすぐ近くまで水が来た。この川暴れたら怖いぜよ、と土地の人の言葉が想い出された。しかし、ぼくは増水を喜んでいた。
時々暴れるのが自然の川だ。一年に何回か暴れるのを計算に入れて四万十川の『収支決算』『一年のサイクル』は成り立っている。暴れてくれないと困るのだ。増水時に川の石、砂利は転がり流され、表面の古い苔を洗い落とす。川全体がゴミ、アカ、汚れを一掃してピカピカにきれいになる。そして川は甦るのだ。
以前来た時、四万十川流域の人々は『蒼く』なっていた。『三年も台風が来ん』といって。台風とそれに伴う大雨、洪水が三年間もない。川の水は減りに減り、川底の石には前の年の苔がついたままで腐っていて、それを食べるアユの味が落ちた。『第一、こんなに川の水が減ってはアユそのものが上がって来ん』とこぼしていた。
だから川は増水した方がいいのだ。うんと増水して洪水になった方がいいのだ。いま、この時期にこれだけ増水すれば川はきれいに洗われて、大切なアユのシーズン前に一新してとてもよろしいのではないか。それにカヌーで川を下るにも増水している方が有り難い。」
さて、洪水になるほどの増水は歓迎する。そうすれば、川原が葦原になることもない。
狩野川の青木の瀬で、今年は何回か釣ったが、川原は一面の葦原。昭和の青木の瀬は、オラには囮を入れられない流れが多かったのに、石ころだらけであったのになあ。
宮が瀬ダムが一〇〇トンを上限としたダム放流をしているため、葦だけでなく、木も繁茂して、その伐採や中州の砂利をブルで除去している。
長島ダムが出来た大井川でも砂利の堆積はどんどん進んでいるし、駿遠橋上流では河畔林だけでなく、水も近くに葦まで生えだした。
掃流力を高めることが必要であると、ダム管理者が認識する代がくるのかなあ。
さて、水が少ないから遡上がない、との話は間違っている。
これと類する話は、遡上量が僅少であった2009年の相模川でもいわれていた。すなわち、海にはいっぱい稚アユがいる、川の水が少ないから河口に近づかないだけだ、と。
もし、海に稚アユがいるのであれば、沖取り海産が獲れたはず。
また、遡上期になると、アユは渚帯を移動するはず。そうすると、川の水が少なくても川が見つからないということはない。
四万十川の遡上量激減は、水量のせいではない。
そして、遡上量の激減は、四万十川の俗化、荒廃よりも前の昭和六〇年頃には顕著になっていたようである。(前さんのお友達の話)
「増水した川はのっぺりとしていて、多くの岩石、障害物を飲みこみ、あっけないほど簡単に流れ下る。信じられないことだが、以前、友人たちを連れて二日かけて下ったコースを二時間で下ってしまった。
江川崎に上陸。キャンプ。ここで広見川と合流し、四万十川はゆったりとした流れになる。ここまではカヌーの初心者にはかなりスリルのある『冒険コース』だ。初心者が安心して下れるのは江川崎から下流である。」
「遊びカヌー教室」に、
「カヌーに一度でも乗ってみた人ははかるだろうが、カヌーというのは、難しいテクニックを知ってなくても、楽しめるものだ。」
「カヌーは何といっても『川を下る』のが一番面白い。『沈』するだろうが、一度沈した人は『何だこんなものか』と気が楽になる。一度も沈しない人は沈を怖れて、沈しないようにとそればかり考えて漕ぐので楽しみ方が少ない。『二級プラス』の瀬がいくつもあったが、沈する人はいなかった。」
江川崎から下流は、カヌー教室参加の初心者でも、沈しなかったが、数年前、その上流では、初心者だけでなく、達人も沈をしていたのは、減水している時のこと。増水時よりも減水時のほうが沈しやすい、とは、なんでか、まだわかりません。
なお、江川崎上流にカヌー教室の人がいったら、野田さんはどうされるかなあ。長良川で、未熟者が激流で沈して流された時は、説教されていたが。
「役場の人に会った。
川沿いに立てた『カヌー下り危険』とか『注意』の看板のことで抗議すると、その役人はいった。
『しかし、実際にカヌーで死んだ人の家族が泣いているのを見るとねえ…』
要するに、これは毎日『起きろ』とか『寝ろ』とか、がなり立てているあの『村内放送』と同じ次元の『おせっかい』なのだろう。
ぼくは羊のような哀しい目をしたその役人を見ているうちに、何もいう気がしなくなった。
こういう人に何をいっても仕方ない。こんな役人の無知、幼稚さにつけこんで地元の土建業者が『仕事作り』をするのである。四万十川にカヌーで来る人が増えれば当然事故も起こる。それは確率の問題だ。
昨年、一人の男が口屋内の上流の曲がり角で岸から倒れ込んでいた竹にひっかかって沈。自分も竹にからまって死んだ。その竹林はぼくがフネで通ったとき、ブルドーザーが入ってとり払い、コンクリートの護岸にしている最中だった。四万十川流域には『土建業者』が異常に多い。その建設会社の大半は、昭和五十年から二年連続して川が暴れた時にできたものだ。
ブルと木の伐採事業は生活の糧?
現在、四万十川はおだやかでこともなく、われわれ一般の人間は「いいことじゃないか」と思うが、それら業者は『死活問題だ』と騒いでる。災害復旧事業がなくて、県の土木予算はあの昭和五十年度の六分の一の約五十億円くらいしかない、という。
この土建業者のために今年から、窪川町を中心に大規模な『国営農地開発事業』が始まった。保安林を含む山地を削り、平らにして、十年計画で五百haの田畑を造成するのだ。この計画で地元の田畑は五割増になる。田畑の「かんがい」用に四万十川の支流にダムも作る。現在、農家は「三割減反」の最中である。田畑があり余っているのになぜ「農地開発」なのか、という声がある。当然のことだ。」
「山を皆伐し、地表の凸凹をならして作った畑は、雨が降れば当然、表土が流出する。そして四万十川に流れこむ。この川はいつか、泥の川になるのだろうか。農薬の問題もある。
一軒の農家が、除草剤に頼らずに雑草を押さえ込めるのは三十aが限度だといわれている。つまり、この広い造成地に多量の除草剤や田の農薬がまかれ、それが四万十川に入る。
例によってそれらの『環境アセスメント』は県がお茶を濁してごまかし、御用学者に『絶対に害はありません』といわせるのだろう。ぼくは四万十川に来て溜め息ばかりつていいた。」
これが【平成二年】の野田さんの溜め息のひとつである。
大井川は、針葉樹がいっぱい植林されている沢が多い。
四万十川は何で針葉樹の植林が少ないのかなあ。
「アウトドア・ライターの天野礼子さんがこの雑木の多い山を見て、土地の老人に会い、『山に雑木林を残しているのは大したものだ。えらい。見識がある』
とほめると、
『実をいうと、このあたりの連中は山の雑木を切り払って杉を植え直す金がなかった。だから、たまたま雑木林が残ったのだ。そうほめられると恥ずかしい』
と頭をかいた、という話がある。
この土地の山師たちはよそで山の仕事をする。奈良の吉野杉や京都の北山杉は、四万十川あたりの山師がでかけていって手入れをしたものだ。」
野村さんも中国山地で山仕事をされたことがある。
それにしても、人間の「叡智」が何と浅はかなものかなあ。川那部先生が「科学は万能ではない、ことに相互の連関性とか、相互関係には弱い」と、「生態学の大きな話」だったか、「偏見の生態学」に書かれていたが、野田さんの溜め息と、天野さんが聞かれた雑木の山の話から、よく理解できる。
ついでにいえば、湖産継代人工等が大量に放流されたにも拘わらず、海産アユの遺伝子汚染が海においては、生じなかった、仮に生じていたとしても、汽水域等の限定された現象に済んだ、ということは、人間の叡智の浅はかさを全知全能の神が修復していた、ということかなあ。
また、四万十川の「清流」が一応保全されていたことも、四万十川の貧しさが寄与していたのかも。
国がスギの植林を増やすために、安価で苗を提供していたのに、その苗を買えなかったとは。
食うに困らなくなるということは、ブルとコンクリートがのさばるということかなあ。
「自然に出て、都会の静かさを知る」
もう、だいぶん、野田さんの憤懣から、四万十川の荒廃を見てきたから、最後の桃源郷の消滅は、騒音とするか。
何と皮肉なタイトルかなあ。
「四万十川流域の町村では、この川の自然をぶっ壊すことに『全力をあげている』ようであった。
田舎に住む人は『自然の静けさ』なんて糞食らえと思っているようだ。ここでは『音のない状態』は悪、音はどんな種類でも『善』である。
テントで寝ていると朝六時にサイレンが鳴り響き、チャイムが鳴って、起きろ、今日もさっさと仕事しろ、元気でやれ、という意味のことを村の至るところに設置されていたスピーカーが怒鳴る。日本中の田舎に同じようなものがあるが、四万十川流域の者はとても性能がよく『山のてっぺんで仕事をしている人にも聞こえるように』声を大きくしてある。
これを初めて聞いた時、ぼくは天変地異が起きたのかと思い、テントから裸で飛び出したものだ。」
「魚のいそうなポイントにカヌーをとめて釣りをしていたら、すさましい爆音をたてて十数台のジェット・スキーが隊列を組んでやってきて、魚を追っぱらったてしまった。この川にも『暴走族』が横行するのだろうか。」
スピーカーは、「今日は『犬の放し飼いをやめましょう。ちゃんと鎖につないで飼いましょう』とやった。ガクのことをいっているのだ。ガクが婆さんや爺さんの家に遊びに行っているのを村人が見て、通報したのであろう。」(平成二年夏)
ガクは、この年の春?「椎名監督」がメガホンを取り、撮影した「ガクの冒険」の主演犬ですぞ。それを恐れ多くも、鎖で繋げってえ。何で、その時は「鎖につなげ」とがなり立てず、今はがなり立てるんじゃ。
それにしても、土佐犬が走りまわっているのではないんですよ。
ということもあり、今でも野田さんが四万十川に行かれているのか、判りません。
あとがきに、
「ここに書かれている昔の(といってもわずか十年ほど前だ)の川下りを読み直してみると隔世の感がある。
これほど早く、日本の川がだめになるとは夢にも思わなかった。
あの頃は川を下ると、この世の中もまんざら悪くないではないか、と思うことができた。何かを信じる気になれた。
現在、日本の川を下ると、わが同胞たちの欠点ばかりが目につき『悲憤慷慨』から『絶望』にいたるさまざまな感情をを味わう。
川も変わったが、川をとりまく人々も変わったのではないか。
土手を汚いという人が増えた。泥や砂を汚いという人たちだ。この人たちにとってコンクリートの護岸は限りなく美しい、善である。
コンクリをうっとりとして眺めるのは何も建設業者だけではないのだ。
これはとても恐ろしいことだ。
川のコンクリの護岸はとり壊して元に戻すことも可能だが、建設業者的発想、土建業者的美的感覚を持つ人間を変えるのは難しい。
『護岸』は政府や行政機関と同じく『必要悪』なのであって、少なければ少ないほど、小さければ小さい程いいのである。」
野田さんは、お仕事で、3Kの多摩川下りを再度命じられたくないからかどうか、判りませんが、都会を離れて、鹿児島は、球磨川まで一時間半の距離の所に転居されたとのことです。
あとがきに「球磨川が川として存在できているのはこの支流の川辺川のおかげである。だが、本流より倍の水量を持つ川辺川に現在、ダムが出来つつあるのだ。」
川辺川ダムが建設中止になるようですから、
「『この川はあと数年したらなくなるんだ。もう球磨川の川下りなんてできなくなるぞ』
そういうと、みんな急にしんみりした顔になって、それなら下ってみたい、という。」
幸い、ダムによって、球磨川下りを嫌になることはなくなりそうですが、川筋の人を含めた人間の感性、意識が、四万十川同様、ヨキをブルでつぶし、コンクリートで堅め、雑木林を悪と考えている方々の行動、活動は旺盛ですよ。
野村さんのように、汚水を川に流さない、水を、川の恵みを分けて貰っている、と考える人は、奇人変人クラブの会員にしかいませんよ。
C「湯水のごとく」水を使う文化からの脱却
川那部先生のつぎの文で、野田さんの四万十川の嘆き節と別れよう。
「地表水は川を流れ、湖に溜まり、また川を流れる。『そこから〈おすそ分けしてもらう〉』との考えこそ、日本列島の豊富な水を使ううえで、先住民たるアイヌ人を含め、日本の伝統的な文化様式だった。何によらず、『短期的な欲望のままに限界まで使うやり方を、これから転換できるかどうか』が、地球環境問題の解決にもっとも大切なことだが、少なくとも水に関しては、その先鞭を取り得るのは、このような文化を育んできた私たちでありたい。」(生態学の大きな話の「3 水問題の解決のための一策 ー『生き物としての私』の視点からー」 :農産漁村文化協会)
そして、また
「飛騨山脈に、古い発電ダムの並ぶ川を見たことがある。各堰堤で水は完全に取り込まれ、発電所から出る水は川に一切戻らず、次の導水路に入る。しかし、『洪水時には水は川を下ってしまい、年間全水量の半分ほどしか発電に利用できていない。まことに残念』と聞いた。」
これほど、、経済合理性、経済効率追求に邁進することが善であり、シンポである、公共の福祉に叶う、という考えを如実に表現した言葉はないのではないかなあ。
「現在の水需要は、利水者や自治体の予測量を積み上げて計算され、その不足量は水資源開発施設の建設で確保するのが、従来の原則と聞く。川に流すべき最低量の決められているところもあるが、それは漁業や船運などのためのもの。『河川維持流量』は、概念的にも実際にも、判然としていないらしい。
すなわち、『使えるものは全部、残さず使う』のが、この二つの場合の原則のように見える。家庭の食事などの場合は、見上げた心がけだ。
ところで、『使いたいだけ使う」ためには、『供給が需要を上回っている』ことが必要だ。日本には昔から、『湯水のように使う』との表現があった。近松さんの浄瑠璃に見えるから、遅くとも一八世紀初めにはできていたものだろう。確かにこの列島は地球上で、質量ともに、水に極めて恵まれたところだ。
最初は、『これに甘える』ことから始まったのだろうか、ここ五〇年ほどの間に、日本列島各地で水利用の極端な増加が起こった。その理由の一つは、『大量消費・大量廃棄』をむしろ『美徳』と思うに至ったことだが、その議論は別に譲ろう。
川の場合、そもそも『需要』とは何か。もっとも大切なものは、川がそれぞれに、水を流して川らしくあること、その『生態系の機能』を充分に発揮するためのものだ。人間はその『利子』にあたる量を利用できるだけだ。『川の水は全部使う』、『川に〈余分〉の水を流す必要はない』とは、本末転倒の極みである。こんな判りきったことは議論せずにすむ日がそろそろ来るに違いない。」
(上記の章の「『湯水のごとく使う』とは」の項)
「『使いたいだけ水を使う』、そこに何が生じたか。『ダムと護岸とで洪水が完全に支配できる』かのように幻想し、近代の治水対策ににすべてを委ねてきたこととあいまって、そこに生じたもっとも重要な問題の一つは、もちろん『自然環境の悪化』だ。しかし、これはもう言い飽きたし、また、多くの具体的事例が周囲にもあることは、すでにほとんどの方々にとって自明である。
そこで付け加える。もたらしたもう一つの大きな問題は、『人間文化の破壊だ』と。先年の『世界湖沼会議』における、住民自身による住民からの聞き込みによれば、『汚い水を捨てない生活、水を大切に使う暮らしのあり方は、次第にまことに見事に失われていった』。」
野村さんが話された汚い水を川に流さないという生活習慣、郡上八幡の水フネについて、
「『古い文化の破壊は、ある意味で当然で、それを云々するのは単なる〈懐古趣味〉だ』。こう言われるかも知れない。しかし、『新しい水文化が形成されてきた』といえないことは、残念ながら事実のようだ。
子どもの時分、『お天道様に申し訳ない』とか『今日(こんにち)様に恥じることのないように』とかの、言い草があった。数十年程度ならともかくも数百年・数千年『人間が生き延びるための自然環境保全』のためにだけでも、現状からの改良ではなく、根本からの改革が必要なことは、みんなが実はよく知っている。誰やらの言葉を借りれば、『やる気がないだけのこと』なのである。」
(上記の章の「『おてんとうさま』に恥じぬ暮らし」の項)
さて、荒廃した四万十川の最後は、川那部先生に登場していただくことする。
(3)川那部先生の四万十川
川那部浩哉「偏見の生態学」(農産漁村文化協会)
川那部先生は、1979年、昭和54年 に、「全国水問題協議会シンポジウム『ほこからに語れこの四万十川を』」でお話をされている。
その時の講演記録が、「四万十川の清流と魚」 ―四万十川中流十和田村公民館での講演―」として、掲載されている。
「偏見の生態学」は、現在でも入手できるため、「説明」のカ所は、できうる限り省略することにします。
ア 「独立」?河川としての四万十川
@「昔々の魚の起源」
・北海道は別として、本州から西の魚は、全部、中国大陸ないし朝鮮半島が起源
・朝鮮半島経由のほかに、琵琶湖の辺から川が真西に流れて瀬戸内海の真ん中を通り、九州、有明海から東シナ海の真ん中を流れる。
・そのため、中国大陸と近縁の川魚が琵琶湖・淀川から西、瀬戸内海・九州の川には多い。
・四国の南はこの流れとつながっていなかった。
A「数万年前」=氷河期
・海面が100メートルほど下がった。
・岡山県の東半分の川、香川県の川は、淀川とくっついて、紀伊水道のところで海に入った。
・瀬戸内海の西側は、岡山県の高梁川から西、愛媛県、大分県の大分川、大野川のへんが全部川でつながり豊後水道で海に出た。
・そのため、高梁川の魚は肱川、大野川、太田川へも上ることができた。
・しかし、淀川と九州の大分川の魚は、紀伊水道と豊後水道で全く別れていた。
B「四万十川だけの特徴」
・高知県の川は氷河期の二つの流れの真ん中で太平洋に出ている。
・土佐湾は深いから、100メートルくらい水位が下がっても他の川と余りくっつかない。
・「特に四万十川というのは、すくなとも七〇〜八〇万年以前まではいっぺんもくっついたことはなく孤立していたわけです。つまり淡水魚がよそから移ってく来るということができなかった。」
イ 孤立した川の魚への影響
@ 魚種の少なさ
「〜先程、東部漁協の組合長さんが、ここには七九種位の魚がいて、中村の下流のほうを調べると、一〇〇種位いる大変豊富な地域だとおっしゃったのですが、生粋の淡水魚、つまり海と往復しない連中というのは実に少なくて、わずか一六種類位です。もちろんこの一六種には人間の運んだものは入っておりません。たとえばオイカワ、ここらへんではハエあるいはギンマスといいますが、これは人間がもって来たもので、そういうものを別にすると数は割りに少ないんです。
たとえば、底魚では、カマツカ・モロコ・ニゴイとかは九州・中国・近畿の大抵の川にいるが、ここには全然いない。ナマズの仲間のギギもここにはいない。そういう点では本当の淡水魚は非常に少ないといってよい。」
淡水魚は、海を介して移動できない、ということは、雨村翁が、吉野川の越裏門で、子供の頃、生物の先生から、滝上の魚が、鳥の運んだ水草に付着していた卵の子孫、といわれたことも、根拠が薄いのかなあ。
人間が運んだか、地殻変動の前に棲息してた子孫ということかなあ。
いずれにしても、雨村翁が子供の頃の出来事を追憶できて、幸せな気分になれたことは事実でしょう。
A進化?変化?の違い
「ところが少ないものの中に、たとえばフナがおります。このへんでは今三種類いることになっている。一つはゲンゴロウブナで、これは琵琶湖から持ってきたものです。在来のフナは二種類、キンブナとギンブナで、この名前のものは四国にも本州にも大抵のところに全部いるわけですが、四万十川のフナは二種類とも他の川のどのキンブナ・ギンブナとも違う。身体の高さが皆高い。エラの前側のところに骨があり、そこでエサをこして食うわけですが、それの数が多い。背ビレの付け根の長さが長い。腸が長くて変な巻き方をしている。キンブナを例にすると、九州・本州、同じ高知県でも仁淀川や鏡川や物部川のキンブナ、その他日本のキンブナの二倍位長い。血液を採って血の中のたんぱく質の組成を調べてみるとこれまた全く違う。こういうことは高知大学の谷口順彦さんたちが調べたことですが、とにかくここ四万十だけは、よそのフナと比べてかなり違ったフナである。それではその性質がどういう意味を持っているか、どうして変わってきたのかという話になると何もわかっておりません。」
B環境等変化への対応をする生物の素材になる
「そうすると、生物が昔からどういう風に変わって来たかを考えるためには、また今後いろいろな環境の問題が起こるときに生物がどの程度に変わり得るものかを考える場合には、ここの場所のフナは非常に大事な、他のところ別のものですからどうしてもここのフナを調べなければならない大事なものになる。他のコイや、タカハヤやその他の魚も同じように違っているのかもしれない。ただそれらはまだ調べられていないわけです。そういう点でここの淡水魚は非常に大きな特徴を持っている。いわばたいへんに大事な淡水魚であると申し上げるとができます。」
C海からの魚
「そのような生粋の淡水魚が一六種類しかいないのに八〇あるいは一〇〇種いるというのはどういうことかといいますと、それは海と川を往復して過ごす魚がたいへん多いということで、たとえばアユ、ウナギとかは全部これに属します。その他にはハゼの仲間は非常に沢山おり、今ここに愛媛大学のハゼがもっとも専門の水野信彦さんがいらっさいますが、とにかく海から上ってくる魚の多い点でも非常に有名な川です。アユは本来一五〇キロ以上もここの川には上ったらしいので、従来の記録によると、檮原町の親が淵、東津野村の新田・船戸あたりまでは昔は上ったらしい。残念ながら前の二つの方は檮原川にダムができているから今はもうこれを上ることはできない。しかし船戸の方はまだ時々来るということです。」
船戸は、家地川ダム上流、窪川で別れる松葉川にある。今もアユが遡上しているとことがあるとは、どういうことかなあ。信頼性の高い話とは思えないが。
雨村翁は、昭和一六年に窪川から、檮原川上流、ダムの建設工事を見ながらその流れと別れる北川川の東津野村に行かれている。タバコを切らして買いに行こうとすると、四里先の新田まで行かないと煙草屋がない、といわれたことから、新田の上流か下流に行かれているのであろう。
当時は、東津野村へも当たり前に遡上しており、職漁師もいた。(松沢補記一三,四万十川)
前さんは、大野見村にも行かれているが、家地川ダムがなかった昭和八年以前ということかなあ。
D「八〇キロメートルも海の魚が遡上する川」
「ここ十川と同じ十和村に三島瀬がありますが、この河口から大体八〇キロメートル位も上流まで海の魚がのぼって来ます。ボラ・スズキ・シマイサキ―これはこの辺でいうスミヤキですが―それにナガエバ等がこのあたりまでのぼって来るわけです。日本でこれだけ上流の方までのぼって来ている川はここだけの筈です。一般に海の魚は南のあったかいところへ行くと川へのぼりたがる。川へ上っても平気だという習性があり、琉球列島とくに西表島・石垣島の川はほとんどの海の魚がじゃんじゃんとのぼるところですが、いかんせん、山は急峻で島自身も非常に小さく、滝があると上ることはできないわけですから、のぼる範囲は狭いし、しかも全体として収容できる数は知れているわけです。
ここ四万十は水温の高さ、勾配がかなりゆるいために、八〇キロのところまで海の魚が上ってきます。もちろん宮崎県の大淀川、・広渡川あたりにもこの仲間は上りますが。上る距離と数では四万十がやはりいちばんです。もちろんこの場所に住んでいらっしゃる方にとっては、四万十川はかけがえのない川であるのはごく当たり前ですが、このように日本中の川の中でも非常に特徴のあるところですから少なくとも生物の研究者にとって、あるいはいろいろな環境問題を考えるうえで今後生物の性質がどの程度変わり得るものであり、どのように変わるものか調べる場合には、四万十川というのは大変重要な、その点で他の川にはかえられない川であることは確かなことです。」
永井さんらが、琉球鮎が棲息している奄美大島だったかに行かれて、フグも釣っていたと、鮎雑誌に載っていてが、その情景が、水温の高い海にいる魚にとっては、常態であるということのよう。
E「下りウナギ」
「中村の下流竹島に山崎武さんという五〇年以上漁師をしていらっしゃる方がおられますが、その方の調べられたところでは、ウナギには卵が見つからないというのがたとえば近畿に住んでいる人間にとっては原則のようになっておりますが、肉眼で充分に見られる位大きい卵をもったウナギがここの川下ではかなり沢山採れております。お断りしておかねばいけないのは、日本のウナギが本当に産卵場所に戻ることができるかどうかは本当にはまだわかっていないんです。日本へ来たウナギはもう戻れないんだという説もあります。しかしもしも戻ることができるとすると、日本のウナギの、戻るウナギの主要な産地はこの四万十川です。ウナギが次々と次の子どもをふやしていくことに対してこの四万十川の下りウナギが非常に大きな役割を果たしている可能性があります。その意味でもここは重要な場所であると思います。」
山崎さんは、「四万十 川漁師物語」に、(注:読みやすくするために、原文にはない改行をしています)
「書き遅れましたが、この川には三種類のウナギが棲んでいる。一つは今まで述べてきた日本産ウナギ、一つは俗にいう大ウナギ。今一つは心ない人々によって最近放流せられたヨーロッパウナギである。
日本産ウナギは水系全域に分布しているが、大ウナギはそうはいかない。なぜかというと、これは熱帯産のウナギの迷い子で、日本列島では紀伊半島あたりが北限のはずで、水温の低い処を嫌い、この川でも雪解けの水の影響するような本流を避けて、冬でも水の温かい支流の中筋川や後川に棲んでいる。
しかし、数も少なく味も悪いので、これを目当てに漁をする人はいない。
日本産ウナギの大型のものを大ウナギと見誤る向きもあるようだが、これはひと目で識別がつく。日本産ウナギでも秋の降りウナギの中には二キロ近いものがあるが、体長が長く体色も異なる。大ウナギには斑点が見られるが、一方にはない。ただしゴマウナギというのは全体に黒い斑点があるが、これは日本産ウナギと別種のものではなく、皮膚の色素の変化であろう。
他の一つのヨーロッパウナギは放流用種苗に混入されていたものらしい。
ことさらに悪意の業者があって、値段の安いヨーロッパ産を入れたと見るべきだが、これを受け入れる側の責任ある立場の県内水面漁連や県当局に、それを見分けるだけの素養がなかったのか、あるいは見て見ぬ振りをしなければならないような事情でもあったのか、いずれにしても不可解な話である。」
ヨーロッパウナギについて
「ひと頃は相当量の混獲もあり、また婚姻色も出て、肉眼でも卵巣の識別できる親ウナギも獲れて、将来の生態系の混乱を危惧したこともあった。これは下関水産大学校の多部田先生にも標本を送り、確認を戴いているので間違いない事実である。」
また、山崎さんは、日本ウナギの生活史について
「これとは逆に(注:シラスの遡上)親ウナギが発情して婚姻色を帯びるようになり、産卵のために汽水域へ下ってくるのは年にもよるが、早くても七月の下旬か八月の上旬頃となろう。これは洪水に乗って降ってくるので、洪水が九月までないときは九月にならなければ下りウナギは見ることができないわけである。年にもよるといったのは、この台風による洪水の早いか遅いかに影響されるからである。
夏の土用の中頃に洪水があって下ってくるウナギを特に『土用降り』と呼ぶ。この土用降りはエサで釣るのにもっともよい。婚姻色がでてくるとエサを食わなくなるという学説もあるようだが、絶対にそんなことはない。ドジョウやミミズをエサにして面白いように釣れる。私ども川漁師にとって笑いの止まらぬ時である。ただ、秋が深まるにつれてエサにつかなくなり、初冬の頃となると完全にエサにつかない。
これは一般に冬眠に入る時期である。
ともあれこのようにして早い時期に降ってきた親ウナギも、直ちに外海の産卵場に向かうものではない。十一月頃まで汽水域にとどまって、海水への順応訓練を続けるのである。私の実験による調査結果であるが、昭和三十八年八月に稀有の大洪水があり、大量の降りウナギが捕獲されたので、そのうちの百匹に標識をつけて海岸線に最も近い河口付近に放流した。その後そのうちの七尾が再捕獲されたが、これは九月に二個体、十月に二個体、十一月になって川が濁るほどの雨の後で三個体が獲れた。場所はそれぞれ放流地点から二キロ、四キロ、七キロメートル上流地点であった。私だけが採捕したのではなく、同業の漁師たちにも連絡してあったので、採捕のたびに報告を受けて集計したものである。この十一月の増水以後、降りウナギはこの川から姿を消した。この事実から推測して、数カ月間、海水への順応訓練を続けていた親ウナギは、水温の低下や日照時間等の影響を受けて、一挙に遠い海の彼方の産卵場に向かったものと考えられる。この試験結果により、親ウナギとシラスウナギそれぞれの浸透圧に対する順応訓練を続ける場所は、同一の汽水域であり、時期的に春と秋の違いはあるが、その期間は大体同じくらいであり、親ウナギとシラスウナギは入れ違いに、一方は川から海へ、一方は海から川へと移動するものであるとの確信を深めた。」
もし、学者先生が、川でうなぎが卵をもっている、その現象は四万十川だけのことである、とでもいわれていたのであれば、ほんまかいな、と疑うであろう。うなぎの種類を識別しているのか、卵をもっている時期は?とか、鮎について性成熟の湖産、継代人工、日本海側の海産と相模川以西の海産とを識別されていない学者先生らの習性を、うなぎの性成熟の現象報告についても適用していたであろう。
しかし、「日本ウナギ」と「ヨーロッパウナギ」の違いを識別できる山崎さんが、また、南洋の大ウナギと日本のウナギ・大ウナギの識別ができる山崎さんの観察であるから、おらは信用する。
川で卵をもっている、という現象でも、学者先生の観察であれば、それは日本ウナギか、南洋の大ウナギか、はたまたヨーロッパウナギか、と疑うが。
産卵場所について、赤道近くのマリアナ付近で見つかった、とかのニュースが時折あるが、その親は、南洋の大ウナギであるのか、日本ウナギであるのか、識別されているのかなあ。
それにしても、関西の降りうなぎが川にいるときは卵をもっていない、四万十川の降りウナギは卵をもっている、ということの意味だけでなく、関西の降りウナギは婚姻色をしているのか、とか、考えたとしても、川那部先生ですら判らんことの多いうなぎの生活史のことであるから、ヘボの考え、休むに似たり、ということでやめておこうっと。
さて、うなぎとなると、弥太さんに登場して貰わないと。
「箱には10月の末から11月までも入るが、ウナギは夏の季節もんじゃき、わしは遅うまではやらん。秋はカニ(モクズガニ)が忙しいきね。」
と、おっしゃいますが、「台風の後は『ズズクリ』。昔は船いっぱいに獲れたもんじゃ」の章に、
「雨の後にも面白い漁があるぞね。昔、稲の穂が垂れる頃に大雨が降ると、このへんの細い谷で親父とやったんがウナギ受けよ。当時の稲は、確か今のように早稲(わせ)やなしに晩稲(おくて)じゃき、10月時分の大雨よね。
これは簡単で、黒濁りのいちばん流れが早いところに、三角の叉手網(さであみ)を構えるだけ。ただ立っとれば、次から次に型のよいウナギが入る。親父が田んぼを見ながら『弥太郎、今度雨が降ったら行こうぜよ』と、ようわしを誘うたがね。
このウナギは産卵に向かうがよ。この雨を逃したらもう下られん。そう感じて移動するがじゃろうが、そのときはきまって流れの早いところに乗る。多いときは1時間に20や30匹は入った。中には口や尾ビレの端が黒いのがおって、そういうのは腹を割くと、まだ熟してはおらんけれど、ちゃあんと卵が入っとるわね。
台風の後3〜4日後の楽しみというたらズズクリよ」
仁淀川でも、稲が穂を垂れる頃の降りウナギには卵が入っている。
川那部さんは、仁淀川の降りウナギと四万十川の降りウナギの性成熟が同じ時期と知っておられるのかなあ。
婚姻色とは、「口や尾ビレの端が黒い」ということかなあ。
なお、「違い」「変化」に何らの考慮、注意も払わず、「現在」の状態が古からそのまま持続している、と、判断して、物事を見る習性の学者先生のために、老ジジー心から一言。
「稲の穂が垂れる」とはいっても、現在、多く見ることのできる早稲のことではありませんよ。従って、時期を間違えないように。
雲金釣りの家の故大竹さんや、故松沢さんが、「稲刈りの頃鮎は再び瀬に戻る」といわれた「稲刈り」も、早稲ではなく、「晩稲」の稲のことである。くれぐれも、今の「早稲」が多い現在の状況から判断されないように。
Fアユ
ワカサギの変わり者出現
「アユというのは本来ワカサギの仲間で、秋に生まれたこどもは海へ下り、一年中海でプランクトン動物を食って大きくなり、産卵のためにだけ川へ上ってくるのが本来の姿だったわけです。ところが、大体二〇万年か三〇万年前にワカサギのなかに変わり者が出てきて、春になって川の水温が高くなったときに一つ川へ上ってやれというのが出てきたわけです。どう思って上ってやれということになったのかそれはわかりませんが、上った川にはオイカワやウグイといったコイの仲間がたくさんいたわけです。コイの仲間は一〇〇万年以上も昔からすんでいた先住者なので、アユがワカサギから変わってやってきた時、コイの仲間を押しのけることはできなかった。しかし、コイの仲間は赤ん坊の時以外にあごに歯がないので、困ることがある。たとえば、物を食いちぎるのは非常に不得意です。ハスはいっぺん歯を失ったのでアゴの骨を変形させたのですが、一番困るのは石の上の藻を食うことができないことです。歯が何もなしで石の上の藻を食うとなると、こそげることができないもんですから、そこへアユが入ってきて、ワッサワッサと藻を食って、短い間にものすごく成長することをはじめたのです。」
縄張りについて
「つまりワカサギの仲間が暖かい時期に春の川へ上って藻を食うように変わった。藻を食うためには唇に歯を作り、舌の格好を変え、腸や消化器の構造も変えなきゃいけないというわけで変わったのがアユですが、今度は寒い時期になると藻が減るので、何とかそれを確保しょうとして作ったのが縄張りであるというのがアユのなわばりであるというのが私の説です。」
川那部先生は、アユの東アジアでの分布状況を書かれていて、台湾のアユが水質汚濁で絶滅し、現在、台湾で食べているアユは日本の湖産、人工等が運ばれたものとのこと。
ウ 「これほどきれいな大河は今どきめずらしい」
@川那部先生の水質基準
「次に四万十川は日本中でどれくらい汚い、あるいはきれいな川かについての話をさせていただきます。」
「〜いい加減なもののいい方をすると、私にとっては、その水を飲む気がする川が一番きれいな川で、二番目はもぐる気がする川、三番目は網を打ったりして採集する気は起こるがもぐる気はどうしてもしない川で、最後は網を打つ気も起こらない汚い川と、四つに分けています。
昨年は広見川へ行ってもぐらされたわけです。しかし、西土佐村の村長さんもいわれたように、あの川は採集する気ぐらいは起こってももぐる気の全く起こらない川で、かなり汚れている。実際にアユ漁も昨年はほとんどなかったということです。
この十川あたりは私のいう二番目のランクにあると思います。つまり、ここの水を飲むという気はあまり起こりません。私は割合野蛮なので、たとえば琵琶湖へ船で出ると採水器を三〇メートルか四〇メートルの深さのところまで降ろして夏でも摂氏七度くらいの冷たい水を飲んだりしますし、二五年程前大学を卒業してすぐに川へもぐりはじめた頃は、川の水を京都市の近くでも飲んでおりましたが、この十川の水は口の中に入れれば飲まないこともないが、のどがかわいていても自分で飲む気は起こらない。つまり私のランクでいうと、もぐる気にはなるが川という程度です。」
A流域による水質の違い
「水生昆虫とか藻などで水質判定をやって高知大学の岡村収さんが書かれた本によると、十川から江川崎あたりを境にして上のほうは貧腐水水で、きれいだということになっております。それから下は中位に汚れた川ということになっておりますが、かなり汚いところにしかないものが上流でも出ていることがわかっています。中村の市街を離れた南に流れこんでいる後川のすぐ下手のところは数日前赤潮が発生しはじめたようで、今年は非常に早いということです。ただ、幸いなことに、現在までのところはそれほど魚族の被害はないようですが、とにかくプランクトンが大発生するという状況がこの四万十川下流に起こっている。そういう点からいうと、私、二五年位前に川を調べはじめた頃もし今のような四万十川を見たとすれば、決してきれいな川だとは申し上げなかったと思いますが。しかし現在一九七八年という時点で、これほど大きい川で、これほどきれいなところは西南日本には確かにめずらしいと思います。」
前さんの頃は、川の水は飲めることが当たり前、川の水の良し悪しは、その水が美味いか、不味いか、が、「水質」判定基準であった。
しかし、川那部先生の世代では、川の水が飲める、という環境の川が、稀少価値の存在となっている。
川那部先生の四万十川の汚れの判断と、一九七八年の少し後に放映されて、「四万十川は清流の川」と、オラも含めて信じることとなった者との何という認識の落差があることであろうか。
野田さんが四万十割りのウィスキーを飲んだのは、それから一〇年ほど後のこと。そして、四万十川が愚痴を、鬱積をもたらす川と変貌したのは、更に一〇年も経たない後のこと。
そうすると、前さんらが、四万十川が最後の清流、というNHKテレビの虚像に気がついていたとしても、少数の例外者でしかいないのではないかなあ。そのことを確認できる川那部先生のお話である。
なお、四万十川でも、流域による水質、苔の違いがあるのではないか、とは、オラも思っていた。
したがって、「四万十川」の苔が藍藻が優占種である、との伊藤猛夫「四万十川〈しぜん・いきもの〉」の調査は限定的な話ではないか、とは思っていた。
伊藤さんは、調査地点を書かれていなかったのではないかなあ。書かれていたとしても、その場所が、川那部先生が区分されたどの場所に該当するか、を、述べて、限定的な評価をすべきではないのかなあ。学者先生の十把一絡げで川の水質その他を評価する習性は何とかならないのかあ。
四万十川が一九七八年:昭和五三年時点で判断して、「きれいな川」にすぎない、ということはそれ以前であれば、当時の四万十川並の川は当たり前、ということである。
阿部さんや、高橋さんは、「現在」ではなく、あるいは川那部さんのように「むかしむかし」または数万年前までの状況にまでにはおつむを巡らさないとしても、三〇年、五〇年前の川の状況にすら、思いを及ばさないのはなんでかなあ。不思議やなあ。「現在」は、絶対である、永遠不滅です、との信仰の持ち主かなあ。
B四万十川の「清流」とは:マイナーな「清流」争い
「『きれいな川ですね』というと、ここにお住まいの方は『嘘をつけ』といわれるに違いないと思うんです。
というのは、昔は竹の五〜六メートル先に針をつけてそれで引っかけてアユを採るようなことがあったそうですが、現在は底を見るのでなく、横に水面を見るやり方でも、二メートル先を見るのがせいぜいではないかと、この十川あたりで昨日もぐった感じでは思います。つまりかなり汚くなっていることは確かではなかろうか。先に私たちが清流四万十といったのは、日本の川が汚くなっているからであって、もしも他の川も二五年前からあまり変わっていなかったら、四万十川はきっと汚い川であるということになっていたに違いない。つまり、町から来た人間がこの川を見てきれいだと思うのは、実は町の人間の目がすでに汚れているからだと思います。
その理由は、広見川の場合(注:江川崎で四万十川に合流している支流)は畜産団地があると承っており、松葉川の支流の仁井田川もかなり上流に位置するけどもかなり汚い川だと聞いておりますし、檮原川を見たところでも、ダムの上と下とでは濁りが非常に違っています。この十川のへんをもぐってみてもお腹を石につけるとザラザラします。本当にヌルヌルした砂のまじらない上質の硅藻がぴったりとついている感じではありません。いろいろな濁りがすでに実際に起きているのが事実です。」
木曽川や千曲川が珪藻が優占種となる「清流」であると評価されている阿部さんは、川那部先生の本を一度も読まれたことがないのかなあ。
四万十川か仁淀川か、忘れたが、透明度について、向こう岸で泳いでいるネエちゃんのおけけも見えた、ということを引用したが、そのような透明度を「清流」の基準とはできないとしても、相模川や木曽川、千曲川が「清流」とは、学者先生の感性を疑います。
野田さんが東京人の「吉井川」は清流である、との評価を信用して、隅田川、多摩川並に汚れた川の吉井川で悲哀を味わうこととなったが、阿部さんの「清流」観もその程度のものかも。
窪川上流の大野見村を流れているのであろう松葉川や仁井田川ですら、汚い川、とはどうしてかなあ。
エ 「生物にとって変化とは」
「それは、川にどんなものであれ構築するとか、汚水を流すとか、何かをした場合、生物の生活に変化が起こらないことは絶対にありえないのが原則である、と言うことです。つまり、必ず変化はある。哀しいかな、生物というのは非常に長い時間をかけて自分の性質を決めてきたもので、従来あまり起こらなかったような事象に対して前もって適応しておくことは非常に下手なのです。」
この例外としては、蛾のなかに、稀に黒い色の羽を持つものが出てくる。黒い羽の蛾は木にとまると目立ち、鳥に食われていた。しかし、産業革命の頃、マンチェスターで、木が黒くなったために、黒が保護色となり、生存に有利となったが、このような時代の先取りに対応する変化は例外であるから有名な事例とされているに過ぎない、とのことです。
「ふつうは過去にあったいろいろな変化に対して何とか生き延びてきたものが現在存在しているわけで、その時うまく適応できなかったのは死んでいるのですから、今までに出会ったことのないものに対する抵抗力は一般には持っておりません。」
「したがって、いろいろな変化をとにかく人間がしてしまった場合、その変化が生物の生活にとって良い変化であるということは非常に稀で、大抵の場合、悪い影響を与えるということが確実です。問題は、その程度に生物の生活が悪くなっても、他の方法がどうしても大事だからそれには目をつぶろうと考えるか考えないかということです。つまり、こういう変化を起こしたって全部ちゃんと守れますよ、ということは生物学上あり得ないことです。何かの変化を起こせば必ず悪いことが起こるに決まっていると考えなければならない。そして、そういう悪いことが起きても他の得があるからそれを進めるのか、他の得はあってもこの悪いことは起こすべきはでないかは、実際に地元に住んでらっしゃる方がご判断なさることです。しかし悪い変化の起こるのは当たり前だとお考えになることから始められるべきでしょう。」
「しかしとにかく予測という形で物をいう時は、何かが起これば生物の生活に対しては、必ず何かが起こるんだということを充分覚悟しなければならない。四万十川のここに住んで、二〇年前と今と比べれば、人間が起こしたいろいろな変化が川の魚や虫の生活にとって一般的にって必ず悪い影響を起こして来たということは、皆さんは実感を持って知っていらっしゃるに違いない。問題は、その変化に比べて自分たちの生活が長い目で見て本当によいか悪いかが判断の基準です。」
オ 「川の守り手」
「それでは、川をとにかくこの程度でも守ってきたのは誰で、今後守るのは誰であろうか、というのが恐らく議論になるだろうと思います。
現在まで、川というものは、とにかく何らかの具体的な権利を持っている者がこの権利の侵害を受けない限り、その変化がどうであっても良いということになってきたようで、少なくとも現在までいろいろな変化に対して規制することができた主体は、明らかに漁業組合であったと思います。しかしながら、環境権の問題その他がいろいろな議論になって来た現段階において、漁業組合だけがこれから川を守っていくということではとてもやっていけるものではない。そういう変化がよいか悪いかということはやっぱり漁業組合だけでなく、そのへんに住んでいる人たち全部で決めなければならない。
ただ、すくなくともよその川では、その付近に住んでいる人間が川に対してだんだん関心を持たなくなってきています。とくに街では、自分が子供が時には川へ行って遊んでいたのが、親になると、川へ行くと危ないから行くなということになったり、全ての川の周りに柵をしようかというところまで来ているという情けない状態がみられますが、そういう風になってしまうと、一般の人達の川に対する関心が少なくなるから、川がどういう風になっているか、なっていくかに対して何も考えなくなります。幸いにもこの附近は、漁業組合だけでなくて一般の方が川に対して大変大きな関心を持っていらっしゃるようです。したがって、この川、この川に住んでいる生物の将来がどのようになるべきかについては、的確な判断がおできになろうと思います。」
残念ながら、四万十川においてすら、漁協、地元住民の川と生き物に対する関心は、川那部先生の願いもむなしく、外交辞令に過ぎない、ということが、この講演会の10年ほど後には野田さんによって証明されることとなったようです。
ということは、川の守り手は、不在である、ということでしょう。
ただ、川那部先生は、長良川河口堰問題において、守り手の出現を予感させる変化もちょっぴり生じているのではないかなあ、と感じることのできる現象を「生態学の大きな話」に書かれてはいるが。
川那部先生の守り手への期待は、オラがアルツハイマーになる前に、寝たきりになる前に、あの世に行きたいというレベルでの、願望に過ぎないようです。
2 江の川
行きつけの町田にある古本やさんに
黒田明憲「江の川物語 川漁師聞書」(みずのわ出版)があった。
黒田さんがどのような人であるのか、「プロローグ 江の川との出会い―漁具を求めて」と、「エピローグ 川と人とのかかわりのなかで」でみておきたい。
(原文にない改行をしています。)
(1)黒田さんとは
@生まれと育ち
「江の川は三次盆地で可愛川(えのかわ)・馬洗川(ばせんがわ)・西城川(さいじょうがわ)・神野瀬川(かんのせがわ)を合わせ、中国地方一の大河、江の川となる。私の生まれは、支流西城川のまた支流の比和川沿いのムラであるが、この地の民話『越原話(おつはらはなし)』のふるさとでもある。越原話の主人公は越原左衛門(おつはらざえもん)で、山奥育ちの田舎者・世間知らずの代表者である。
越原左衛門、初めて三次へ旅したそうな。まちの中を流れる江の川をみて、
『はー、これが海ちゅうもんかいのう』
と思わず声を上げたと。
そこへ通りかかった三次の者(もん)が言うことにゃあ、
『お前、田舎者よのう。これは江の川じゃ。海いうもんは、この五倍ぐらはある』
と教えたそうな。
ゴギやヤマメの棲息する小さな谷川しか知らない私の先祖の越原左衛門。知らなくても知ったかぶりをしたがる、ちょっと都会の三次の者とのやりとりは、知識万能の近代社会への風刺を込めながら、面白おかしく語られる。
私も十三歳の歳まで海を見たことはなく、もっぱら山が遊びの舞台だった。小学校の一,二年のころまでは、祖母に連れられて、ふき・わらび・ぜんまい・きのこを採りに行き、それを過ぎると、友達とあけび・くり・山ぶどうなどを宝探しのように探し歩いた。
教職に就き、二十代後半に神野瀬川で友釣りを知った。アユの味覚もさることながら、川魚のなかでも最も素早いといわれるアユを獲ることの方が、動かない山の幸を採るより私の性分に合ったのであろう。清流にかかる橋の上から、岩に残る食み跡を見てはアユの大きさを想像し、岩しぶきのなかで腹をかえすたびに、きらりと光るアユの姿に心をおどらせた。すっかり川に魅せられた私は夏休みになると、生徒たちと一緒になって川遊びに夢中になっていた。」
黒田さんは、1934年生まれである。神野瀬川で友釣りをされた20代後半ということは、1960年頃、昭和35年頃である。同世代である川那部先生が、まだ京都付近でも川の水が飲めていた、といわれていた頃ではないかなあ。
江の川を荒廃させることとなった1つである島根県邑智町(注:おおちちょう)にある浜原ダムは1953年完成であるから、すでに、江の川は海とのつながりが制約さていた。浜原ダムには魚道があるが、どの程度遡上できたのかなあ。
ということで、黒田さんが神野瀬川で見ていた鮎は、釣っていたアユは、逆ヤナで採捕した湖産アユが主体かもしれない。
「可愛川=えのかわ」と読むことと、「江の川:えのかわ?」と名前の由来に関係があるのかなあ。
A川漁師との出会いのきっかけ
「こうした川との縁で(注:江の川での筏下りの行事・後述)学校を退職後(注:1993年:平成5年三次市立八次小学校長を退職)広島県立歴史民俗資料館から、
『江の川流域の漁撈用具を収集して、国の重要有形民俗文化財指定を受けたいので調査協力を』
という依頼を受けた。
やがて、川漁関係者を中心にした江の川水系漁撈文化研究会がつくられ、資料館の学芸員や研究会の会員と一緒に、ひたすら漁具を求めて流域を歩いた。
漁具を自分でつくり、使った人たちの多くは七〇歳代以上である。十年一昔というのなら、三昔も四昔も前の時代の漁具であるが、漁具を前に川漁にまつわる苦労話や川への郷愁が語られた。ほぼ同じ年代を生きた私には、『ほんのひと昔まえ』のことのように聞くことができた。漁具と一緒に生きざまもいただいたのであるが、語りが昔に向かえば向かうほど心に響いた。
『小学校もろくろく行けなかったが…』
と前置きをしながら、貧しかった暮らしが何のてらいもなく、淡々と語られるのを聞きながら、『貧乏や苦労をこえて生きる』とはこういうことなんだと思った。語りの節々には、苦労をこえて生きてきた人々が持つ人間的な温かさと優しさがあった。興が乗ると、その時々の漁の思い出が、面白おかしく身振り手振りを交えてユーモアたっぷりに語られた。」
B漁具の収集
重文の指定条件は
「『江の川の本流・支流、源流から河口まで、全ての川にまたがること、一つの漁法が再現できるように、製作に使う関連用具等全て収集すること』だったので、足りないものがあると何度も漁師さんの家へ走った。漁具はもともと消耗品であるから、破れたり使わなくなると処分されるが、専業川漁師の何人かは親の代からの漁具を大切に保管していた。
とくに中山辰巳さんの家には、漁具の展示をするたびに、資料館の若い学芸員が何度も何度も借用に行き、その都度話を聞いた。私も何十回となく訪ね自慢の漁具を見せてもらった。
『こりゃー、おやじの形見じゃけえ大事にしとったんじゃが、会長がくれといいんさるんなら仕方がない』
といいながら、訪ねる度に一点ずつ渡してもらった。こうして集まった江の川流域の漁具一千八百六十点のうち一千二百五十三点が一九九九(平成十一年)十二月に国の重要有形民俗文化財として指定を受けたのである。
漁具を作った人、使った人のほとんどは高齢者で、すでに亡くなられた人も多い。一刻も早く重文指定の朗報をと、師走から翌春にかけて報告かたがたお礼に行った。
『おじいさんの作られたものが国の重要有形民俗文化財になったんよ』
『なんじゃ言うての、そりゃ、どのくらい値打ちがあるもんでしゃあ』
説明に困った私は、
『国が一番ええ値打ちがある思うたら、国宝にするよね。その次に値打ちのあるもんを国の重要文化財と言うんじゃけぇ、おじいさんが梳(す)いた網は国が二番目に値打ちのある文化じゃ言うて認めたんよ』
重文の説明として適切かどうかはわからない。おそらく専門家からは一笑にふされる説明だと思うが、私の知識ではこれ以上の説明はできなかった。
『ほんまにわしのつくった網を国が文化じゃ言うたんですかいのう。死んだ親父も喜ぶでしょう』『新聞で見て知っとります。ええことしちゃいんさった。わたす(私)らも鼻が高うなりましたでなあ―』
流域の川筋のそれぞれの言葉で喜んでもらったが、とりわけ、別れの挨拶をする私たちを見送りながら、
『川漁師もまんざらじゃあないんですのう』
とつぶやいたお婆さんの言葉に涙がこぼれた。」
渋沢敬三が、生活様式の急激な変化で消えていく民具や古文書の収集、分類等をしなければ、日本人の日常生活は記録に残らなくなる、との危機感から「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」の活動を始められたが、その活動のなかで、どの程度、川漁師の生業(なりわい)を保存できたのかなあ。
江の川流域以外にも、重要有形民俗文化財の指定を受けるほど、あるいは、それに匹敵するほどの記録を保存できているのかなあ。
もし、江の川での漁撈等の用具収集がもう少し遅れていたら、消滅していた漁撈等の用具は、はかりしれないのではないかなあ。
C川漁師の話
「ここ十年間、川漁師の話を聞いて歩いた。二時間のラジカセのテープがゆうに百本を超した。どの川漁師もきびしい生活のなかで『生きる術』としての川漁の話から始めたが、最後は労働の厳しさを嘆きの中に閉じこめるのではなく、それをこえて生きた技自慢や人情話がユーモアたっぷりに語られた。中山辰巳さんだけでも数十時間分のテープがある。彼が面白おかしく語る漁自慢の話の節々には、川漁で生きてきたという自負があふれている。この自負と不屈の精神が漁撈文化を生み出す根源なのである。
おかげで私の川の見方も変わった。川をただ風景として見るのではなく、その風景に人がどのようにかかわりあってきたのかを無意識に思うようになった。岸辺の柳や竹藪に、川の中の岩や石に、人々はどんなかかわりをもってきたのだろうか。この淵に漁師はどう網を下ろすのであろうか。そんなことを考えながら川を見つめているといつの間にか時間が過ぎてしまう。」
「私はこの本をお世話になった方々への礼状にしたいと思っている。プロローグでもふれたが、一九九九年(平成十一年)十二月、国の重要有形民俗文化財の指定を受けた報告で訪ねたとき、お婆さんに、
『川漁師の女房もまんざらじゃあないんですのう』
と喜んでいただいたことが忘れなれない。
もう一度、この本を持って、お世話になった方々を訪ねたい。そして、川で生きてこられたすべての人々に、
『わしの人生もまんざらじゃあないのう』
と、これからを生きる活力にしていただければと思っている」
このようないきさつで、「江の川物語 川漁師聞書」は、書かれて、二千二年十二月に発行された。
なお、広島県立歴史民俗資料館・江の川水系漁撈文化研究会編から図録が三編、報告書が三編、江の川水系漁撈文化研究会編で、「聞書き 江の川物語」二編、そして、天野勝則さんが、「アユと江の川」を一千九百九十六年(平成八年)に中国新聞社から出版されているようである。
D天野勝則さんとの出会い
「一九七二年(昭和四十七年)七月、江の川流域は集中豪雨による大きな被害を受けた。家屋や田畑が押し流され人命も失った。これを契機に大規模な河川改修が始まり、江の川の様変わりは大きかった。
私の江の川へのこだわりは、この江の川の変貌とともに始まった。変わりゆく江の川をこの目で確かめようと、同僚といかだを組み『江清丸(こうせいまる)』の旗をかかげて、三次―江津間、約百三十キロの江の川下りを行ったのをきっかけに、子供たちといかだを組んで二〜三泊しながら何度か日本海まで下った。」
「島根県邑智郡(おおちぐん)桜江町の天野勝俊さんとの出会いは、漁具収集以前である。まだ、学校に勤めていた一千九百九十年八月、六年生の子供たち七十名ばかりを連れて二泊三日で江の川の川下りをしたとき、波の高い日本海の河口で万一の事故があってはというので、救助用の船外機をつけた川舟を探していたところ、まったく面識のなかった天野さんが引きうけてくださった。こうした縁で、漁具の収集を始めた当時は、島根県でただ一人の知り合いの川漁師さんとして大変お世話になった。」
平成の世になっても、「危険病」「恐水病」が蔓延している中で、小学生といかだ下りを行ったとは、野田さんにとっては嬉しい限りであろう。
いかだ下りの写真が掲載されているが、その説明に「いかだ下り宣言(1982年8月8日)」と書かれている。
「いかだ下り宣言(1982年8月9日)
私たちの祖先は江の川に挑み、そして学び、鍛えられ、感謝しながら、生きてきた。だけど今は、川はあっても、泳げない。遊べない。
魚のいないプールで遊ぶのはもういやだ。ウナギやナマズやアユを追いかける楽しさを知らない。
川は私たちのもの。今日、私たちは江の川にいどむ。
江の川よ教えてくれ。川で遊ぶことの楽しさと厳しさを。
私たちは負けない。どんなことがあっても負けない。
江の川50キロ、いかだでいどむ。
最後の最後まで、いかだでいどむ。
―マストに掲げた旗はボロボロ、櫂を持つ手はマメだらけ。『やったぞ日本海だ』『お―い、水が塩辛いで』」
この「いかだ下り宣言」は、1982年である。そうすると、天野さんと出会ったのは「1990年」でよいのかなあ。
あるいは、いかだ下りの初めの頃、天野さんらの助力がなかったということかなあ。
竹で作ったと思われるいかだに各10人ほど乗っている。
この子供たちであれば、大人になっても、川那部先生が期待する流域に住む「川守」になってくれる可能性はあろうが。
いかだは、竹だけで作られているのかなあ。竹だけで、浮力は十分にあるのかなあ。竹の下に、丸太の横木が組まれているのかなあ。
黒田さんの紹介が終わったところで、荒廃していった江の川の話になり、川漁師の奥義は、「故松沢さんの思い出:補記その3」に、川那部先生の「アユの博物誌」を素材としてあゆみちゃんをみた後に紹介するが、その前に紹介したいことがある。
それは、ウルカの作り方と、モクズガニと、ギギである。
(2)ウルカの作り方
「マル秘 中山辰巳のウルカづくり」
ウルカの作り方について、腸だけを利用するやり方も、腸だけでなく腹子も用いるやり方も、10年ほど寝かすやり方もあるということは、人により、あるいは、流域で異なる作り方をしているのでは、と思っていた。
ウルカの基本は、滝井さんが紹介されている村岡老人の作り方であり、腸を使用する作り方であろう。そのときでも、1升瓶を使われていて、亡き師匠の竹筒を使うやり方と異なっていた。
中山さんは、身も、骨も使用されている。これが江の川流域でのウルカの作り方か、どうかはわからないが、中山さんの仲間:三次付近ではふつうに行われている方法かも知れない。
「うちのウルカを食うた人はみんな言いんさる。
『なんと旨い。こがあに、旨いウルカは食うたことがない』と。」
「今年の分も去年のうちから予約でいっぱいじゃけえ。
さてと、ウルカの作り方じゃが、わしも生活がかかっとるけえ、そう簡単に誰彼教えるわけにいかんのじゃが、まあ、さきも短うなってきたけえ…教えてあげますで。
ええウルカを作ろうと思やあ、なんじゃいうても、材料のアユがいちばん。解禁当初のアユは切っても、とけて水のようになるけえ駄目。一番ええ時期は、脂がのる八月の末から九月のアユ。このへんでは、落ちアユ漁の始まる九月から、本格的にウルカに切るよね。」
解禁当初のアユが、「みずあゆ」といわれていたが、継代人工が釣りの主役となって、この言葉も放流河川では「死語」となったのではないかなあ。
「水アユ」について、亡き師匠が教えてくれたのは、まだ旨くない、ということと、小針では身切れするから、小さいアユであっても、大きい針を使うこと、ということであった。
味のことはわからないが、中山さんもまだ旨くないと言われている。
針については、鎧を着たようなウロコが粗く、身の硬い継代人工が狩野川でも平成の代には釣りの主役となり、身切れが起こりようもないために、解禁日から小針の使用が常識となった。今年:二〇〇九年は、遡上量がやっと昭和の平年並みに多かったから、二〇年ぶりに多かったから、解禁初期でも小針を使わなかった人もいたのではないかなあ。
日本海側のアユでも、初期はまだ「水アユ」ということは、苔を食する時間が「水アユ」から、脂ののったアユに変わることに影響しているのかなあ。
川那部先生は、アユ雑誌に、珪藻に脂肪分が多く含まれている、とアユ雑誌で話されていたが。
「昔の人は『三ツ一』言うて、アユを十キロ切ればウルカの身の山を、五キロずつ二つ、塩の山を一つが常識じゃったが、今ごろは塩分控え目が流行じゃけえ、そがに塩辛いものは売れん。今は『六ツ一』から『七ツ一』じゃけんね。
「ウルカの身を切る」という表現からも、また、五キロ、十キロが作る時の単位のようであることからも、三次では、アユを丸ごと使う形態のウルカを作っていたということではないかなあ。
島根県邑智郡桜江町の天野さんは、どのようなウルカを作られていたのかなあ。
「作り方
事前準備 新鮮なアユを良く水洗いして、ハラをしぼり、水分を切る。まな板もきれいに洗ってよく乾かす。清潔がいちばん。
1 ヒレをハサミでつみとる。
2 ムナ(胸)ビレのところから包丁を入れて頭を落とす。
3 三枚におろす
@ 骨にそって背割りして、骨と身に分ける
A ハラ(内臓)をとりだす(腸・胃袋・シラコは取り除く)。
B ヒバラ(腹骨)をすく(切りとる)。
C オ(尾)ビレを落とす。
D 三枚におろした身を五ミリから一センチの厚さに切る。
E ハラ(内臓)を包丁でたたいて刻む。
F 背骨・ヒバラ(腹骨)をミンチにかける。
『食べるときに骨が口に当たるので、入れない人もおるが、骨が入るから味が出る、骨がとけて身と一体になったときに本当のウルカの味になる。』
G 身とミンチにかけた背骨、ヒバラ(腹骨)と塩を混ぜる。塩の量はムツイチ(六分の一)
H しっかり混ぜて粘りを出す。よく混ぜ、よくこねること。ここがウルカづくりの最大のポイント。
『グタグタになるまでこねるんよ、そしたら餅をついたようになるんじゃけえ。アユの肉に塩が染み込んでね、そのネバリがね、団子になるんじゃけえね。まんべんなく混ぜんと、ダーッとアユの身から水分が出て、ええウルカにならんの。とにかく、混ぜること混ぜること。どんどんどんどん手で混ぜること。手の温もりでウマミが広がっていくんじゃけえ。』
I 保存用のカメに入れ、約十日間は毎日混ぜる。
J 塩分がひかえてあるので冷蔵庫で保存する。」
毎日混ぜるとは、亡き師匠や村岡老人のウルカ作りでは想像もできないやり方である。
また、腸をしごかないで包丁でたたいて刻む、というのも、手取川等のアユからウルカを作っていたドブさんの作り方とも少し違うのかなあ。ただ、ドブさんが、腸をしごいて珪藻の殻を出されていたと話されたが、中山さんが包丁で刻む、ということと同じことかも知れない。
ハラをしぼり、糞は出すが、珪藻の殻は骨も入っているから、気にしない、ということよのよう。
亡き師匠は、塩焼きにするアユでも、絞めた後に必ず、ハラをしぼって糞を出していた。その作業を面倒くさいから行わないおらは、亡き師匠や大師匠よりも先にビールを飲んでいた不遜な弟子でした。
骨からうま味が出るから、骨を砕いてウルカの素材とするという話は、雄物川さんの鶏を絞めたとき、骨を出汁にするのではなく、砕いて団子にしていた、という話に通じる食べ方ということかなあ。
身も一緒にウルカにするということは、保存食を作る上で、焼き鮎にしたり、日干しにすることをしなかった、ということかなあ。
そして、保存食とするために身も、腸も一緒に塩漬けにしていた、ということかなあ。
とすれば、多くに見ることのできる腸だけのウルカが流行らなかったのは、なんでかなあ。
なお、川那部先生は、ウルカの味について
「私自身の趣味からいうと、腸だけの塩からである苦うるかが群を抜くのだが、値段からみると、精巣をまぜた白ウルカや、卵巣を混じた真子うるかのほうが、ちまたでは高く評価されているらしい。干しアユははらわたを抜いて作るのが原則だから、落ちアユは肉もワタも別々に利用されて、昔から漁家の経済をうるおしてきたのである。
江戸期の食物の本には、他にもうるかの話を載せるものがあるが、(注:この文は、「本朝食鑑」のウルカが、腹痛等の病に効く、あるいは汗をかかず化粧落ちをしないから、祇園の芸妓も食べている、との話を紹介しているカ所のため、「他にも」となる。)安芸の国の産が最も優れているとするものが多い。一度太田川あたりの苦うるかを、心ゆくまで賞味したいと思っている。」(アユの博物誌:平凡社)
ということで、身とはらわたは別々に利用することが原則ではなかったのかなあ。
そして、旬は落ちアユ頃の季節、腹子を持つ頃ということのよう。
(3)モクズガニ
「江の川のカニ漁元祖」
「島根県邑智(おおち)郡邑智町の川漁師、竹内喜一さん、八十九歳。出会いは八年前の一九九四(平成六)年で、ずいぶん足繁く通った。そのたびに『今日の土産』といって古くなった漁具を納屋の二階から降ろして渡してくれた。、三,四カ月も訪問の期間があくと、『漁具を寄贈したいので取りに来い』という葉書がきた。ありがたいことである。
収集日誌を調べると一九九四年から九九年までの五年間で一九回訪ねている。その度に数点の漁具を貰っている。漁に使った軽古舟から網を梳く目板・川漁日誌まで百点をこえ、そのほとんどは国の重要有形民俗文化財になっている。」
日記は、
「一九七二(昭和四七)年江の川一帯を襲った大豪雨で二階まで浸水したとき、日記帳も流れたため、それ以前のものはないが、それ以降の二十年分が博文館の日記帳に書きこまれていた。漁の記録、獲れた場所(川の位置)と時間、販売価格と実に詳細な記録、江の川の民俗誌としてこの上ない資料である。」
「収集した漁撈資料のなかに、通称エブと呼ばれる細い針金のついた荷札が二十枚ばかりある。どの荷札にも筑豊線飯塚駅止めと書かれている。提供したのは喜一である。
『何を送る荷札ですか』
『江の川のカニをゼニにしたのは、わしが最初でなぁ。モクズガニを九州に送りょった時の荷札でな。』
と言う。」
「江の川が浜原ダムで分断されるまでは、山と海を行き来する魚たちがいっぱいいた。サケ・アユ・サクラマス・アユカケゴッポ・ウナギ・ボラ・モクズガニ等々。こうした魚たちのなかで、サケやアユは昔も今も川の花形であるが、モクズガニは食べる習慣がなかったために、近年までは誰も見向きもしなかった。それどころか、
『モクズガニは建網にかかったアユにさばりついて網をぼろぼろにする』
『ウナギを釣りに行ったら、カニが先にエサをさばるけえ釣れん』
と川の嫌われもの、厄介ものであったが、喜一は結婚して間もない時期、旅の男からおもしろい話を耳にした。
『わしは筑豊の炭坑にもぐったが、カニをよう食べた』
『そりゃあ、海のカニじゃろう?』
『海のカニもじゃが、足に毛のある川のカニも食べた。落盤事故の多いところじゃけえ、縁起をかつぐ。朝の味噌汁にカニを入れて食べると、【穴から無事に出られる】いうて人気がある』
あれこれ調べてみると、益田に出る高津川の漁師がすでにモクズガニを湯掻いて九州に出荷してた。喜一も生きたまま出荷した方がはるかに値段も高いので、ブリキカンに穴をあけて詰め、三日に一度は五,六十キロ送った。
『へえじゃけぇ、わしは江の川のカニ元祖よ』
と笑う。」
江の川、あるいは高津川でも、モクズガニを食べる習慣がなかったということであれば、島根では同じかなあ。鳥取では?
そして、なんでモクズガニを食べる習慣がなかったのかなあ。
マツバガニをたらふく食えた、ということは理由にはなるまいが。三次まで、マツバガニが運ばれれば、運送費だけでも相当の値段になるのではないかなあ。いや、飯塚まで送る運賃と変わらない、あるいはそれよりも安いのかなあ。
日本海側で、モクズガニを食べる習慣がないとはいえないだろう。最上川さんは、一日に百五十匹くらいは獲れていて、売っていたとのこと。一匹百グラムとすれば、十五キロくらいか。
「このように『掃いて捨てるほどいた』モクズガニであるが、一九五二(昭和二十七)年に浜原ダムが出来て遡上が減り、さらに一九七二(昭和四七)年の集中豪雨による大災害のあとの大掛かりな河川改修で川の環境が変わり激減した。
『世の中は皮肉なもんで、おらんようになると人が欲しがる。』
と彼は嘆く。」
また、わからない。
浜原ダムは、竹内さんが住んでいた邑智町の上流にある。竹内さんが生まれたのは、浜原ダム上流の広島県作木村であるから、作木村が漁場であれば、ダムの影響はわかるが。
江の川のモクズガニの絶対量は減少したとしても、ダム下流の生息密度は変わらないか、減ったとしても、激減にはならないのではないかなあ。
「寄贈を受けた日記には克明に前夜の漁獲が記録されている。一九九四年の日記によると、八月一日から始まるカニカゴ漁は、初日が十一匹(一.五キロ)、二日が九匹、三日が十九匹とある。その後は0匹、二〜三匹が続き、二日に一度しかカゴを上げていない。最盛期の九月、十月になると七十匹前後の数字もみられるが、飯塚への出荷は九月に二回、十月に一回しかない。十一月になるとゼロの日が続く。
『川の工事がすすんで、土手がコンクリの堤防に変わるたびに、カニの道が違(ち)ごうてくる。カゴに入らん。川の石を動かしてもらわんように、明日の漁協の理事会で言おう。川の石はわしのシロじゃけえ、勝手にめえで(壊して)もろうちゃあこまる』
と日記に書いている。」
堤防がコンクリに変わり、そのとき、竹藪や雑木林を消滅させていったであろうから、生物の生活環境は悪化したであろうが、それが、どの程度ザガニの生活を脅かしたのかなあ。
川那部先生は、人為が河川環境の悪化を、そして、それば生物に悪影響をもたらす、と書かれているが、定量的な影響が、どのような要因で、どの程度、モクズガニに及んでいるのかなあ。
「石を動かす」ということは、たんに、カニの道が違うようになる、ということだけかなあ。生息場所がなくなる、減少するという意味かなあ。河津川のように砂利が石を埋めて、カニ穴を減少させたように。
「会うたびに、彼は往時の川を懐かしみ、昔の豊漁話に花を咲かせた。昨年の十二月、老人ホームを訪ねたとき、
『もう一度、かあちゃんを川原まで連れて出て、わしが刺し網を下ろしたり、カニカゴをつけるのを見せてやりたいが、そがことをする力がのこっとるかのう』
と喜一はつぶやいた。
『ああ、長年やったことじゃけぇ、できるよの』
私はそうはいいながらも、もう彼には網もカゴも下げられないだろうと思った。」
先日、雄物川さんが釣ったズガニを食べた。
十二月一日頃までは、五匹ほど入っている日もあったが、ここ数日は空の方が多い。ハヤや、ニゴイしか使わないから、カニがもっと美味いものをよこせ、といってるんや。寒ブリを入れたら、大漁やで、と説教しているが。
獲れているザガニは、下りのカニではないよう。食べた五匹は、腹子を持っていなかった。そのため、雄物川さんは一週間ほど活かしておいて、臭み?をとり、身をきれいにしていた。
そして、塩ゆでにした。九五年八月に、河津川で食べたばさばさのザガニとはまったく違った味と食感であった。
河津川で食べたザガニは、禁漁期間中のために、冷凍されたもので、たんに「ザガニ」を食べた、というだけの代物であったということ。
川那部先生が、「養殖アユ」といっても「継代人工」ではなく、湖産畜養や、海産畜養のことであるが、「しかし、養殖アユちゅうのは、どこがうまいんやろ。名まえの食ってる感じやね。サバかアジのほうがよっぽどうまい。」(「アユの博物誌」)
ということで、「名前」を食べるのではなく、本物のモクズガニが簡単に入手できたのに、江の川ではなんでモクズガニを食べる習慣がなかったのか、モクズガニが激減したのは、浜原ダムがどのように作用したのか、河川工事がなんで、何が、ザガニの生活史に悪影響をもたらしたのか、また、新たな疑問が出来ました。
昭和42,3年頃、青森駅前の魚市場で、3,4匹の毛ガニを買い、酒を買い、夜行列車のなかで飲み食いをした。毛ガニ1匹100円もしなかったか、100円くらいであった。
そのころであれば、毛ガニを食べる方が、モクズガニを食べるよりも食いでがあり、値段も手ごろ、といえるかも知れないが、そうであるとしても、川筋では地産地消が原則ではないのかなあ。にもかかわらず、いっぱいいたモクズガニが食べられなかったのはなんでかなあ。河津川のように、子供は、モクズガニを獲り、味噌汁の具に使っていたのかなあ。たんに商品にしていなかったということかなあ。
それにも拘わらず、ギギュウは食べているが。
(4)ギギュウ(ギギ)
「第二章 江の川 漁語り―中山辰巳の川漁講座」の「川漁の技とこころ」から
@中山さんとは? ほんの一部の紹介
中山辰巳さんの住む三次市落岩(おちいわ)には、日本でも最大規模の川漁師集団『落岩建組(たてぐみ)』がある。建て組というのは夜のタタキ漁を共同で行う漁業集団で、最盛期には十二艘の川船で三十数人が共同で漁を行っていた。現在もその共同体は維持され、アユ漁の時期には七,八艘の舟で漁を行っているが、これだけの規模と技でアユ漁を行う漁業集団は全国的にも例をみないといわれている。今年で八十歳になる中山さんはこの落岩建組のリーダーでもある。」
四万十川の山崎さんや、紀の川の小西翁の組は今でも共同で網漁をされているのかなあ。もちろん、紀の川では、一番大規模に行われる火入れ漁は禁止されているから、それ以外の共同で行う刺し網漁や置き網漁であるが。
落岩建組は、まだ健在かなあ。
Aツケバリ
「ツケバリはいのちの綱」
「わしら川漁で食うとるものにとっては、ツケバリは生活をかけた漁で命綱よの。アユが銭になるいうても、網代がかかるし、漁期は六月から十月はじめまで四カ月あるいうても、実際に建網でタタキ漁にでられる日はせいぜい五十日。雨で増水すれば一週間近く休まなければいけない。やっと平水になっても、一度タタイたら元にかえるのに十日はかかる。
それに比べてツケバリは一年中できるし、元手がかからん。餌獲りや、加工に、ものすごう手間暇がかかるが、漁獲もアユより確実性があるけえね。わが家はツケバリで生きてきたいうてもええ。ツケバリには『一本漬け』と『ハエナワ』があるが、わしら本職はツケバリいうたらハエナワよね。
昔はウナギ・ナマズ・ギギュウ・スッポン・コイ・ムギワラゴイと釣れた魚はなんでも商売になったが、今はギギュウしか商品にならん。ウナギはダムができてからぐっと減ったので、ウナギ専門の漁で食うていくいうことにはならん。それに養殖物や輸入物が出まわっているし。スッポンも最近ではだいぶ増えたが、天然ものはそんなにぽかすか釣れん。
それに比べて、ギギュウはほぼ一年中釣れる。商品にするのに手はかかるが、江の川の特産じゃけえ、飛ぶように売れる。わしらにとっちゃあ、キギュウ様々よの。これほどありがたい魚は他におらんよの。へえじゃが、冬のツケバリぐらい、きつい漁はありませんで。」
Bツケバリの道具
ツケバリの道具に、オヤイト、ネツケイト、クリコミ(「結んだオヤイトとネツケイトを入れる竹カゴ」、「準備したツケバリのイトを、よじれないようにくりこんで舟につみこみ、舟の中でオモリ石〈川石〉を括る」)、サグリ(「ツケたイトを舟の上から探して引き上げるのに使う」)、スマル(「海のハエナワ漁でスバルと呼ばれるものと同じで、針金を曲げたイカリ形のものに紐をつけて川底のイトを探す。」)
があるとのこと。その道具の写真、図が掲載されている。
オヤイトの長さは川幅によって繋ぎ合わせて長さ調整を行い、ネツケイトは漁の対象魚で撚り合わせて作るイトの太さを変えている。
Cツケバリの餌
「何を狙うかによって餌は違うが、ミミズ・イシヒイル・タクチ(ヘビトンボ)・アザミ・ドジョウ・ハエ・ゴマムシなんかを餌にしとったよね。
ウナギはミミズが大好物じゃけえ、ウナギカゴはミミズに限るよね。ハエやアユを入れる者もおるが、わしはカゴにはミミズしか使わん。ミミズのなかでも掃きだめに木切れを突っ込むとゾロゾロと出るのがワキミミズ、このワキミミズがウナギには特によい。
畑の土を鍬で掘って出るのが鉄砲ミミズでワキミミズより太い。薬局で熱冷ましに売っているのはこのミミズ。鍬で掘った時に土に潜り込もうとするので、手で引っ張り出す時にズボッと音がするので、わしらはズボンドウともいう。
ヤマミミズはテカテカ紫色に光っとる。大きさはワキミミズと鉄砲ミミズの中間ぐらい。子どもの頃に畑や田んぼのあぜで立ち小便をしていると草むらから鉄砲ミミズが出てくるんよね。
『ミミズに小便をかけるとチンチンが腫れる』
いうて親父から教えられとったので、あくる朝、そっと出してほっとしたもんよの。
ミミズのおるような、黒ふくの畑でないと野菜もようできん。百姓にとっても、川漁師にとってもミミズは有り難い生き物じゃけえ、粗末にしたらいけんようね。」
ウナギの大好物がミミズであることは、弥太さんと同じ。
餓鬼の頃、掃きだめでも、場所によって、「ワキミミズ」がいっぱい採れるところと、「鉄砲ミミズ」や「ヤマミミズ」が混在しているところがあった。当然、ワキミミズの採りやすいところが、餓鬼どもの餌採集場所になっていた。
ヤマミミズほか、どんな名前で区別されていたのか、忘れた。「ミミズ」と、「ションベンミミズ」とか、「ババミミズ?」の区別があっただけ。オラ達が「ミミズ」といっていたミミズが、「キジ」と呼ばれていると知ったのは大人になってからの話。
チンチンが腫れる、との話は、共通している。多分、畑に小便をするな、ということではないか、と想像している。そして、今では、ワキミミズは養鶏場の水が溜まっているところでしか採れなくなったし、鉄砲ミミズがいる畑は、家庭菜園でも少なく、本職の畑からは例外を除いて、消滅したのではないかなあ。
弥太さんの願いもむなしく、人間はミミズをさえ、毛嫌いをしている。
「ツケバリに使うミミズは鉄砲ミミズとヤマミミズ。竹ベラで抑えて中の泥を抜いて、ホースのようにして砂をまぶし、三,4センチの長さに切って使う。百匹はおらんと三百のハリに餌がつけられんのじゃけえ、捕るのも大ごとじゃが、それだけの数の泥を抜かにゃかにゃあいけんので、これがまた大ごと。ミミズのねばねばが手にこびりついて洗ってもなかなか落ちん。においもするしね、昔の人はミミズで五百から六百本の鉤(つりばり)をツケとったが、ほんまにようしょうったと思うよの。」
ヤマミミズは切れやすいのではないかなあ。泥を抜くという作業は、ツケバリではなんで必要になるのかなあ。
ワキミミズなら、切らなくてもそのままハリにつけることのできる大きさではないかと思うが、なんで使われなかったのかなあ。
イシヒイル(蛭)
「イシヒイル(蛭)」を使い出したのは戦後だと思う。これまた、捕るのが大ごと。生活排水の出る溝や水路におるんじゃが、人家の裏の溝をごそごそせんやいけん。人の目につくところでの仕事じゃけえ、生活のためとはいえ、辛かったよね。
下流の島根県にツケバリに行った時、ヒイルの餌を見て、
『どがして捕るんか』
と聞きんさるので冗談に、
『田んぼや沼地に入ってじっとしてたら吸いついてくる』
と冗談に言うたらびっくりしとりんさったが、イシヒイルは身体には吸いつかん。石の裏にへばりついとるのを取る。
ギギュウにはもってこいの餌でね。」
吸いつかない蛭は、かすかに記憶にある。餓鬼の頃、赤い色をしたボウフラが赤虫の代用にならないか、と、生活排水の流れこむ溝に入ったとき、いつもはすぐに足に吸いついてくるのに、その気配が全然見られない蛭がいたように記憶している。
相模川でハヤ釣りを始めた頃、蛭がよい、といわれたことがあったが、その蛭とは「イシヒイル」ではなかったのかなあ。
それにしても、イシヒイルが餌として使える、と、どうしてわかったのかなあ。
ドジョウ
「ドジョウは昔は田んぼの溝にいきゃあ、うじゃうじゃするほど川から上がってきとったが、今頃は餌にするどころか滅多に見んようになってしもうて。種類はクロドジョウとシマドジョウよね。
ウナギやナマズが特に好くのはシマドジョウ。普段は水のきれいな小石のある砂地のようなところにおって、産卵の時にはフナやナマズと同じように田んぼで生むんじゃが、生んだらすぐにきれいなところへ帰って、いつまでも田んぼにゃ残らんよね。」
餓鬼の頃に取っていたのは、クロドジョウであろう。シマドジョウは、相模川で取ったのが始めてのこと。そのシマドジョウも今では、相模川でも、望地の田んぼの配水路でも、殆ど見ることがなくなった。
タクチとセムシ
「タクチは赤茶色をしておってムカデによう似とるんでカワムカデともいうが、ウナギ・ギギュウにいい。特にギギュウは百発百中釣れる。乾燥させれば『孫太郎虫』いうて子どもの癇の薬、大人が飲めば滋養強壮の特効薬。わしは飲んだことはないが。ハッハハ…(注:中山さんは『生涯現役』とのことであるからかなあ)。セムシも『ざざむし』いうて信州じゃ佃煮にして売っとるでしょうが。」
タクチは、解禁日からしばらくたってから、放流ニジマスを釣るときに、川虫に混じって採れるから、使うことはあるが。
雄物川さんらが、カニカゴに入れるためにニゴイ、ハヤの餌として黒川虫を捕っているが、今年はさっぱり採れない、と嘆いていた。二〇〇九年はせいぜい二メートルくらいのダム放流が数回あった程度で、多くの石を転がす四メートルほどの増水はなかったのになあ。頭大の石がそれほど転がらなかったであろうに、なんで少ないのかなあ。黒川虫がついていた石が埋まったのかなあ。
ゴマムシ
ゴマムシは水面から一〇センチぐらい上に鉤(つりばり)に刺して下げておくと、ゴマムシの出す液に誘われてナマズが飛びついて喰う。ナマズの大好物よね。」
ゴマムシとはどんな虫かなあ。
先日、最上川さんが、鯉釣りをしていて、弱ったナマズを見つけて、蒲焼きにする、といって捕まえていた。
ナマズは、夕方、小沢の堰上の止水域の左岸側の浅瀬に出てくるから、ルアーでも釣れるとのこと。一回、食べてみようかなあ。
ハエ
ハエを餌にすると雑魚がつつかんから大物が釣れる。特にスッポンが良いよね。ハエは以前はタライヅケで獲っていたが、今はホーロクやカガシラ。ハエの頭をはねて五つ、六つに切って鉤に刺すんじゃが、いっぺん骨を抜いて使うたらよけい釣れたことがあったので、それからは骨を抜いている。
ハエの捕り方でわかるのは、カガシラだけ。その他はさっぱり見当がつかない。こっちでも行われている捕り方もあるのではないか、とは思うが。
「どの鉤にも同じ餌を使うこともあるが、ハエとタクチ、ヒイルとタクチというように混ぜて使うことが多い。どの餌を使うにしても、昔の本職は四百〜六百を一晩にツケる。今でも最低三百はツケる。元手はいらんいうても、きつい仕事よの。」
D「江の川特産 ギギュウ」:ギギュウの料理法
ギギは、「本州西部の湖や河川に棲むナマズに似た魚でウロコはない。」
初めてギギを見たのは、平成のはじめ頃の千種川は上郡。「湖産」放流全盛時代の終わり頃で、旧盆の頃の千種川には、たまに釣り人がいるだけ。初めの頃は日釣り券を買っていたが、2500円か3000円するし、監視員が回ってきた年は1回だけであったから、薩摩の守で釣っていた。
子ども連れできていた人に、これいる?と聞くと、ギギだ、という。トゲに毒がある、と。ギギの名前は知っていたが、毒があるとは知らなかった。どのようにオトリから外したか、覚えていない。刺されて、傷みでのたうち回ることにならなかったのは幸運であった。
湖にもいるということであるが、餓鬼の頃釣り惚けていた溜め池に放流されることがなかったのはなんでかなあ。
「食用には一四,五センチのものが好まれる。
昔は背割りをして、生で売っていたが、戦後まもなく、加工して売られるようになった。いつの間にか、『ギギュウを食べると精がつく』『肺や肋膜に効く』とかいわれるようになり、よく売れ出したという。現在は珍味として酒の肴で出されたり、土産物として全国に発送されている。」
さすがの弥太さんにも、野村さん、山崎さんにも、ギギの漁の話は出ていないのではないかなあ。
江の川以外でも、ギギを売るほどの漁をしているところがあるのかなあ。
オラが釣ったギギは二〇センチ以上あった。千種川で釣れるアユは、一八センチクラスであったから、大物を釣ったとぬか喜びをしたが。
「ギギュウの加工」
さばく 頭から背割りにして、はらわたを取り除く。
洗う 汚れや血を取り除くために水洗いをする。トゲで刺されないように棒などの道具を使う。
串を打つ きれいに開いた形に仕上げるために、十字に竹串をうつ。
乾燥させる 一日から二日、風通しの良いところで天日乾燥させる。
あぶる 乾燥させたものを炭火であぶる。
食べる 食べる前にもう一度軽くあぶるか、から揚げにして、醤油と砂糖(みりん)でタレを作ってつけると美味しい。」
ヤズメウナギとは違い、ギギの棲息している産地でも食べる習慣は少ない魚ということかなあ。
E「タクチがおらん」
「川漁師にとっては大水というのは二つの意味を持つ。一つは危険・水害というマイナス面である。もう一つは汚れた川底を洗い流し、魚や水棲生物たちを甦らせるというプラス面である。梅雨明けの頃の出水では、二,三〇センチ程度の底石がゴロゴロ転がり、表面を覆っていたドベが落ち、新鮮なコケがつく。小石の下で棲息するトビゲラたちは糊状に固まったドベから解放される。
最近の中山辰巳さんの悩みはツケバリの餌がいなくなったことである。特にギギュウにもウナギにもこれ以上のエサはないといわれるタクチ(スジヘビトンボの幼虫)がまったく採れなくなった。タクチに限らず、チョロ(カゲロウの幼虫)・セムシ(トビゲラの幼虫)なども姿を消した。
こうした水棲生物は上下川・馬洗川が宝庫で、川漁師たちのエサ場だったのであるが、現在、周知のように灰塚ダムが建設されるために、急ピッチで工事が進められている。ある程度の環境破壊は予測していた中山さんであるが、ここまでいなくなるとは思いもよらなかった。
『ここへタクチを掘りにくりゃあ、一時間ちょっとで三百や四百は捕られたのに、三時間掘って五匹。わしのツケバリには生活がかかっとる』
と漁協を通して、国土交通省の江の川総合開発工事事務所に調査を申し入れ、同行したが、同じような結果であった。タクチだけでなく、セムシも激減していた。
エサのいないところに魚は棲めない。特にそうした生き物をエサにしている底魚のギギュウやナマズの姿が上下川から消える日はそう遠くないと漁師たちは予言する。シラハエも随分少なくなった。毎年開かれていた寒バエ釣り大会も、漁獲がなくて中止してしまったところも多い。タクチの棲む川にかえるのに二十年はかかるだろうと中山さんはいう。なぜなら、土師ダムの場合がそうだったから。
川の恵みで生活するものは、川の環境に敏感でなければ生きてはいけないのである。」
馬洗川は、三次の上流。上下川はその支流のようで、世羅に近い。
相模川でも、寒バエ釣りの人がいなくなって、十年、二十年経つかなあ。餌のせい?冷水病?それとも?
中山さんは、ダムができても、また虫が、魚が回復すると予言されているが、どの程度回復できるのかなあ。ダム放流量管理が、たんに、流入量と放流量の均衡を保つこと、治水、利水だけに目が向いていることから、長島ダムができた後の大井川のように、砂まみれの川になり、あるいは、山のしみ出し水が含んでいた栄養塩がなくなった、もしくは種類構成の変わった水、いつまでも濁り水が流れている状態になるのではないかなあ。
注 | 土師ダム 「可愛川(えのかわ)上流域にある多目的ダムで、1974年(昭和49年)に完成。」 野田さんは、可愛川の甲立から江の川下りをされていて、可愛川の水量が少ないと書かれているが、田んぼに引きこんでいただけではなく、ダムでの放流量が少ないことも影響していたのではないかなあ。 なお、中山さんは、 「『わしの仕事場は日本一広い。三次に集まる四つの川はみんなわしの仕事場じゃけえ。今でこそそこの周囲でしか漁をせんが、昔は島根県の浜原ダムまで約五十キロ、可愛川は土師ダムまで三十五キロ、馬洗川・西城川・神野瀬川もそれぞれ十キロは漁をしとった。漁場にした瀬や淵は百以上ある』」 |
(5)江の川の荒廃
江の川の荒廃は、
@昭和のはじめに建設された発電用のダム。
A次が浜原ダム
Bそして、川と海を行き来する生物の往来を妨げることはないが、生物が棲み、育ち、繁殖できる空間を消滅させることとなった一九七二年:昭和四七年豪雨による河川復旧工事である。
そして、支流に建設されているダムである。その他にも、素石さんが書かれている戦後の毒流しによるゴギの激減があるが、もし、生物が移動できる川の環境であれば、毒流しによる激減も回復できる可能性があったのではないのかなあ。
これらの要因による江の川の荒廃を黒田さんが書かれた記録でたどることとする。
A 発電用のダムの影響
ア 崎川さん
@崎川永生さんとは
「たった一度の川漁話」から
「一九九一年(平成三年)十月、『魚をとることにかけたら誰にも負けない』と自負していた、川漁師崎川永生(さきかわながゆき)さんが五十五歳の若さでなくなった。生前に使っていた漁具数十点が妻洋子さんから寄贈され、国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。」
「彼が身体の不調を訴えだしたのは三月の終わり頃からである。普通ならこの時期、日中は餌のぬか団子を作って川に投げ、ハエを寄せて投網を打って獲る『ダンゴヅケ』をしたり、夕方からはツケバリにいったりするのであるが、五月に入っても、横になっている日が多く、川で見かけることは少なかった。家族が病院で診てもらうようにすすめたが、医者嫌いの彼は応じなかった。それでも六月に入ってアユの解禁になると、
『家の中でへごへごしようるよりも、アユの顔を見りゃあ元気になる』
と舟に建網を積んで馬洗川に出た。
馬洗川べりにはいつも何隻かの川舟が浮かんでいたが、彼の舟はひと目でわかった。彼は右手で舟を漕ぎながら、左手で網を下ろすという一人漁だったので、一人で漕ぐことができるように、特別に短い舟をつくり、防水用に黄色のペンキを塗っていたからである。
『永生さん元気になっとるけえ、講演のほうも大丈夫じゃろう』
と読書会の者は安心した。」
A「永生さんの由来」から
「福知山のみなさんこんにちは。川漁師の崎川永生いうもんです。わしは他人様(ひとさま)から『話をせえ』というてもろうたのは初めてです。小学校にもろくに行っておりませんけえ、字を読んだり、書いたりするなあ苦手です。話をするのも苦手です。へえじゃが嬉しかったです。それで、何でわしに『話せえ』言いんさたのか考えとるうちに謎が解けました。
『こりゃあ、江の川のアユが食いたい。ただで腹いっぱい食わせということに違いない』(爆笑)『それなら』と思って、二晩かけてアユを獲りました。昼にご馳走しますけえ、しっかり食べてつかあさい。話を聞いてもらうお礼です。(爆笑と拍手)」
「船頭から川漁師へ」から
「私は高宮町川根の竹貞という集落で育ちました。四十軒ぐらいの家があったでしょうか。三キロばかり上流に、昭和の初めに発電用の堰堤ができたので廃業したんですが、それまで親父は高瀬舟の船頭で生活していたわけです。」
「三次から江津まで舟で荷を運んでいたんです。途中に作木(さくぎ)の港、そして邑智(おうち)の都賀(つが)の港といったように、三カ所ぐらい中問屋があって、荷を積んでは降ろしながら行ったそうです。」
竹内さんのお父さんも船頭をされていた。
「父親は若い頃は三次―江津を通う高瀬舟の腕利きの船頭だったが、喜一が小学校を終えた頃、三次の四キロ下流の鳴瀬に発電用のダムができて三次―作木間の往来が止まった。そのため収入が半分以下になった。さらに追い撃ちをかけるように昭和の農村不況が始まった。」
B講演会の続き
「最後になりましたが、これ(建網にアユがたくさんかかっている写真)をみてつかあさい。えっとかかっとるでしょうが、これが『アユがなる』いうことです。へえじゃが、毎日こんなに獲れるんじゃありません。こんなに毎日獲れたら、蔵を三つも、四つも建てて、国会議員に出とりますよ(爆笑)。こんなに獲れるのは、年に一回か二回ですよ。
まあ、これから江の川のアユをしっかり食うてつかあさい。ようつまらん話を辛抱して聞いてつかあさったのう。有り難うございました。(拍手)」
「彼がこれだけの時間、みんなを惹きつけて話ができるとは、誰にも想像できなかった。何の飾り気もない話の中にも、川に生きたものの自信を感じたのは私だけではないだろう。
『貧乏でした』と語りながら、苦労を売りものにしょうとする根性はひとかけらも感じさせない。彼は苦労をユーモアで見事に吹き飛ばしたのである。
昼食には二〇センチをゆうに越すアユが一匹ずつ竹串に刺され、川原石を並べて作った急ごしらえの焼き場に並べられた。焼きながら食べるという最高のもてなし方である。しかし、彼はここでは裏方に徹した。町長にどうしても一言といわれて、
『わしが獲ったアユですけえ、食べてつかあさい』
といったきり、テントの中でみんなにふるまうアユの味噌汁をつくっていた。」
C義理堅さ
「律儀で義理堅いといえばまだある。解禁初日のアユは決して売らなかった。普段世話になっている方に真っ先に食べてもらいたいからである。私などたまたま彼の子どもを中学生の時に教えたというだけであるが、
『今年のアユは大きいですで。初物を食えば長生きをしますけえ』
と毎年いただいた。初物のアユは子どもが卒業しても、学校を転勤しても届けられた。初日はご祝儀相場で値がはずむのであるが、彼は生涯このしきたりを守った。
子供会でキャンプをした時、
『子供らに食べさせてやってくれ』
と二百匹以上のアユを二〇キロも離れた山のキャンプ地に単車で運んできて振舞った。
『アユは川の神様の贈りものじゃけえ、礼を言うて食えよ』
子供たちが歓声をあげて食べ始めると、
『自分は食わんでも、人には食うてもらいたい性分でして』
とさりげなく彼はつぶやいた。私が失ったものを彼は失わずにいると思った。」
崎川さんは、講演会の後、すぐに亡くなられた。55歳
「義理堅さ」では、故松沢さんも同じではなかったかなあ。そして、漁師ではないが、どらえもんおじさんにも共通している性分と思っている。
イ 「船頭原田文九郎」
「高瀬舟に積まれていた『舟だんす』が最近になって寄贈された。このたんすの中に高瀬舟の帆・滑車・ハマビキ・帆柱をくくる綱など一式を納めていたそうである。使っていた人は作木村の出身で、若いときは高瀬舟の船頭として活躍した故原田文九郎さんである。舟の往来がとまってからは川漁師として活躍し、晩年はまちから来る釣り人や川の研究者たちに江の川を語り、『江の川の案内人』として親しまれた。一九九八(平成十)年故人となり、江の川を見下ろす墓地に眠っている。」
「原田文九郎は一九〇七(明治四十)年に五人兄弟の四男として作木村に生まれた。父親についてアユ漁を始めたのは十二歳の時であったが、兄たちは高瀬舟で江津まで荷を運んでいた。風を受け、はち切れんばかりに帆を張った舟が、かけ声も勇ましく下っていくさまを、まだ夜も明けきらない岸に立って見送る時、舟に乗れる日の来るのが待ち遠しかった。
文九郎が川漁に加わるようになった年の春に、三つ違いのすぐ上の兄が舟の事故で死んだ。荒瀬で舟の曳き綱が切れてバランスを崩し、あっという間に流れに巻き込まれたのである。死体が一週間後に七曲がりの淵で見つかった。知らせを聞いた彼は、母と一緒に現場へ泣きながら駆けつけた。兄はサンパチをかぶり、蓑(みの)をつけ、出かける前と同じいでたちであったが、事故から一週間も経っていたので、死体は腫れ上がり痛ましい姿になっていた。」
「やがて文九郎も舟に乗ることとなる。サンパチをかぶり紺屋で染めた襦袢(じゅばん)、股引の身支度を整えてもらった。厳格な父磯右衛門は足をきれいに洗い清めないと舟に乗せなかった。
『舟板の底は地獄だ』
と、父は厳しく文九郎を仕込んだ。
積み荷は米の運搬が主で、米俵を背負うわけだが、毎日のことで背中の皮がはげて汗が沁みた。
愉しみもあった。担げなかった俵が1俵、二俵と一度に背負えるようになり、
『大きになったもんよのう』
と声をかけられる嬉しさは、また格別であった。
『よし、この次からは!』
と力が湧いた。
朝霧が山ひだをはい上がる頃、舟の上でうぐいすの声を耳にするのも、つらさを忘れるひと時であり、瀞や淵にかかると父親が舟歌でいいのどを聞かせてくれた。こんな時は舟に乗る幸せすら感じたものだった。」
「作木から江津までの二十一里(約八〇キロ)の間には何十という瀬があり、そこには大小の岩が舟の行く手を阻んだ。しかし、船頭は竿で迫りくる岩を次々とよけながら三十六尺(一〇.八メートル)の舟を巧みに操り下った。最大の難所は島根県の大和村にある『荷越の瀬』である。あまりにも急流で事故が多いため、川底には石畳がしかれていたが、それでも多くの船頭が命を落とした。積み荷のままでは到底越えることができない。上りも下りもすべて荷を下ろし、背負ったり、大八車に乗せて越したところからニコシの名前がつけられたのであろう。
『荷越の瀬を下るときは、すり鉢の底に吸い込まれるような気がした』
と思い出を辿る。」
発電用のダムができてからも、ダム下流の作木から江津までの舟運はあったということかなあ。
三江線が開通してから、高瀬舟は姿を消した。
ウ 「高瀬舟女船頭の思い出話」
「大野ツイが船乗りを始めたのは、関東大震災から間もない、一九二四(大正十三)年だった。夫は子どものときからの船頭で、都賀から江津へ荷を積んで下るのを家業としていたが、二年間の兵役をすませて帰ってきて、舟に乗ろうとすると、
『二年も舟から離れておった者と一緒に乗るのは恐ろしい』
と一緒に働いていた身内の者がよい顔をしなかったが、それでも頭を下げて夫は暫く乗っていた。
『戦争に行っていたときに女遊びを覚えたんでしょう。乗り賃をもろうても、江津の遊郭で散財して、家には一銭も銭をいれんようになってしもうたんで、私が一緒に乗る以外にないと決心したんです。』
と、ツイは舟に乗った動機を語る。
高瀬舟に夫婦で乗る者は粕淵から下流には沢山いたが、浜原から上流には急瀬が多いため、ツイたちのほかはいなかった。
特に難儀だったのは、ハマビキ(曳き綱)を曳いて舟道を上るときだった。中でも浜原の上のアオイシの瀬はむずかしく、ほとんど瀬を上がり切ったところで、川が曲がっていたので、急いで横へ走って次の川原に行き、そこから舟を曳かなければならなかった。この瀬を曳くときばかりは、
『もう二度と舟に乗りたくない』
とツイは思った。
上りの時は朝暗いうちから、夜は夜であたりが見えなくなるまで、一瀬でもと帰りを急いだ。月夜のときなど夜通し舟を曳いて、一睡もしなかったことも度々あった。」
「都賀」が、「江の川流域図」に記載されていない。
「粕淵」は、野田さんの「日本の川を旅する」に記載されているが、川の曲がり具合で、二つの地図を重ねると、大和村付近のよう。
それよりも上流、三次までのどこかということであろう。
なお、「アオイシの瀬」は、「中山さんが漁に出た範囲と漁場名」の図によると、「もっとも遠方は、島根県邑智町浜原の青石の瀬まで行ってツケバリ漁をした」と書かれているから、「粕淵」よりも下流であろう。
「邑智の都賀」と、崎川さんが話されているから、大和村よりも下流になるが、それでは、都賀は下流過ぎるように思えるが。
「ツイが舟に乗り始めて六年目の春、生まれた間もない長女を連れて乗ったときのことである。子どもは舟の中で寝かせて川沿いの川原から舟を曳いていた。もう少しで都賀という最後の瀬、オオウラの瀬にかかった時、夫が棹の先に舟をからませたので、舟から下りて舟を押し出していた。やむなく、ツイは一人の力で舟をじりじりと瀬を引き上げていたとき、突然ハマビキが切れて前へ倒れた。倒れながら、舟が瀬に落ちていって岩壁に突き当たって砕ける瞬間が頭の中を走った。
『舟に子どもがいる』
ツイは思わず川原に膝まづいて、
『コンピラサマ、コンピラサマ』
と大声で叫び唱えた。
ハッと気が付いて後を振り向くと、夫は切れた縄の端を持ったまま真っ青な顔で気が抜けたようにその場に立っていた。
『早く』
とツイが舟の方を指さしたのと、夫が流れる舟を追って走り出したのとが、ほとんど同時だった。夫が舟へ飛び移って流れる舟を立て直したのは、渦の巻いている淵の岩に突き当たる一瞬前だった。
それからというものは、わが子を舟に置いたまま舟を曳く気になれず、わが身から離すまいと決心した。普通、ハマビキは藁で作ったニカオに結び、肩から少し下へ、横一文字に胸の上へ掛けて曳くが、子どもを背負って曳くようになってからは、片だすきにして、半分這うようにしながら曳いた。」
このように、江の川が舟運に利用されたのは、明治以降とのこと。広島藩が島根との往来を禁止していたから、とのことであるが、禁令があったとしても、どの程度の実効性があったのかなあ。
さて、舟運よりも気になるのは、生き物の往来がどの程度阻害されたのか、ということである。
発電用ダムは、野田さんが江の川下りをした時にも存在していて、三次から一時間ほど、急流を気持ちよく下り「流れが緩やかになり小さなダム湖に入る」とのことであるから、当時も健在であったということであろう。
発電用ダムができて、どの程度、生き物の往来が阻害されるようになったのか。可愛川、馬洗川、西城川はダム上流にあるから、堰堤の影響を強く受けたのではないかなあ。
神野瀬川はどうだったのかなあ。
エ 「禁漁区での漁」
崎川永生さんの話
「堰堤ができてから下流四キロが禁漁区になりました。そこは堰堤をよう遡らない魚がうようよしとるんです。そこへこっそり網を入れると、そりゃあかかります。網にもぐれつくようにかかるんです。わしらはそれを『アユがなる』言うとりました。柿が木にもぐれついてなるように、アユがなるんです。
明るい時には行けませんから、夜こっそりとみんなで舟で行くんです。水音もさせんように。私はまだ子どもだったんですが親父の『かじこ』で連れて行かれるんですが、そこが禁漁区というようなことはわかりませんから、暗くなるのを待つのがしんどいので、
『早うあそこへ行って獲ろう』
と言うんですが、誰も知らん顔でじっとしていて舟を動かさないんです。だんだんに、
『人に見られたらいけんことをしょうる』
ということが、子ども心にわかるようになりました。
暗くなって人が寝る時間になると網を入れるわけです。火をつけたらバレルので火はつけません。それでも、時には見つかって警察に追いかけられるんです。見つかっても、川で捕まるようなことはないんですが、陸に上がったところを待ち伏せされて捕まるわけです。
当時は漁業権は県が持っていたので、取り締まりは村の駐在所の巡査の仕事だったんです。現場で捕まれば漁具を没収された上、何日間か留置場にいれられて百円以下の罰金という決まりだったんです。」
仮に、浜原ダムがなかっても、現在ではそんなに多くの遡上量はないが。
「親父に聞いたことですが、舟を三ばいだして、列を組んでテサキ網で鮎を獲って下っていると、巡査が川毛の橋げたのところで見張っていて、『舟を止めい』と大声を上げたので、船頭の一人がテサキ網を巡査の頭に引っかけて、思いきりひっぱたから、巡査は暗闇の川へどぼんと落ちたんです。
あくる日から犯人探しが始まりまして、しばらくは『知らぬ存ぜぬ』で通していたそうですが、一カ月近くたってとうとう見つかり、高瀬舟の補償金のほとんどを罰金でとりあげられたということもあったそうです。」
テサキ漁
中山さんは、テサキ漁について
「増水して建網が下ろせんときでも、わしら川漁師は生活がかかっとるんで、いつまでも漁を休むわけにはいかん。その濁り水の時に、流されまいとして川岸の淀みや、草むらによってくる魚を網で掬って獲るのがテサキ漁じゃが、川岸から徒歩(かち)で掬うのは、ツボサデとかニゴリカキとかいう。」
「テサキ網にはハエ用とアユ用の二種類あるが、ハエテサキはアユテサキに比べて網目が小さいけえ、梳くのがおおごとよね。
資料館にあげたのがハエテサキ。ありゃあ、親父が大正時代に梳(す)いた網じゃが、よう魚が入る網でね。水が出るたびに、あの網でハエ獲りに行ったんじゃけえ、相当なゼニを稼いだ網ですで。ああいう網はもうどこにもないんじゃけえ。」
アユテサキについての説明はないが、ハエテサキについての説明と、舟での作業の挿絵が描かれている。
「ハエテサキというのは、カジコと網手で漁をするんじゃが、網手は舟の中で膝をついて、増水した川に網をいれる。カジコは上から下に向けて、流れよりも少し早く舟を漕ぐ。この加減がむつかしいんよね。網を入れると抵抗があるから舟がおそくなるから、一,二回ぐいっ、ぐいっと漕ぐ。それでないと網が広がらん。それからは、ゆっくり、ゆっくり漕ぐ。早すぎると網手が網を持ちきれん。とにかく、網手とカジコの呼吸が合わんとテサキは漁にならん。棹は音を立てて魚を散らすので使わん。」
中山さんは、テサキ漁を増水の時との漁とされているが、なんでかなあ。
他の川でも行われているのかなあ。そのときは江の川と同じ漁のやり方かなあ。
「網手は川に網を入れると、手元の網に人差し指をかけるんよね。すると、コツ、コツと網に魚があたるのが、指の感触でわかるんで、ころあいを見計らって網を上げるやり方じゃが、網上げも腕力だけではとても上がらん。網の柄のところを、舟底につけてテコの理屈で上げんとね。とにかく熟練がいる漁じゃけえ。」
ということですが、サツキマスのトロ流し網漁と、舟の速さ加減(とはいっても、速さの操作はしていないとは思うが)、指にかかった感触が次の動作の信号になる、等の類似点があるのでは、と思う。しかし、巡査にどのようにして網を投げつけたのか、見当もつかない。
「それから、禁漁区でたくさん獲って帰っても、当時は保存することができないので、朝になると生(なま)で売りに行かなくてはいけないんです。作木の港というところに鮎を専門に商っている家があったんですが、今のように自動車があるわけではありませんから、親父が自転車に積んでいくわけですよ。アイスボックスのようなものもないんで、桶に氷を入れて…、すると途中で捕まるんです。
『禁漁区で獲った鮎じゃあない』
『嘘言うな。こりゃあ禁漁区のアユじゃ』
と問答になるんですが、戦前のことなので、結局、没収されるんです。
『まあ、しょうがない』
と泣く泣く帰るわけですよ。
それで、親父も考えたわけです。
『自転車を買うてやるから、今度はお前が売りに行け』
と、私が持っていくようになったんです。当分はうまくいってたんです。子どもだから捕まらなかったんですが、そうこうするうちに私も捕まりました。そんなことを繰り返し、繰り返しやっていたわけです。
禁漁区に行って獲らなければいいんでしょうが、他の場所は漁にならないんですよ。建網の舟というのは、三〜四はいですが、テキサなどの舟は二十ぱい以上はおったんです。要するに漁をする人が多くなったんで、川一本で生活しとるものは、どうしても禁漁区へ行って漁をしなければ食べていけなかったんです。
結局、駐在所の巡査を恨みながら、
『川漁では食べていけない』
ということで、山仕事に行ったり、土建の下請けをするようになったりしました。考えてみりゃあ、もともとは自由に魚を獲っていたものを、堰堤ができたばっかりに、目の前の川が禁漁区になって魚を獲られんようになったのですから、巡査を恨むよりダムを恨まにゃあいけなかったです。」
それにしても、巡査は大量のアユをどのように処分したのかなあ。腐らせたとは考えにくいが。
堰堤で、アユが拡散できなくなった、という障害が出ていたことはわかるが、まだ、三次近くまで生物が行き来できていた。
B 支流の八戸川(やとがわ)のダム
邑智郡桜江町天野勝則さんの家の近くに、八戸川が流れている。
「恐ろしい江の川に比べ、支流の八戸川は川幅は狭く、流れも緩やかで水は透きとおっていた。
『今はドベがついて石の顔が見えんが、あの頃は川底の石に色や模様があってな、青みがかった石はゴッポの入る石、群青(ぐんじょう)色の石はアユがつく石、縞(しま)模様のはウナギの宿と見分けがついとりましたでな。夏休みになると朝から晩まで八戸川でした。このあたりの家の飲み水はみんな川の水で、中学生ぐらいになると、男も女もはんどう(みずがめ)へ水くみをするのが仕事でした。春には群れをなして遡上するアユを、夏には縄張りを争うアユを、秋には産卵する落ちアユを、日なが一日、ながめて大きくなりましたでな。』
この郷愁こそが出戻りの最大の理由かも知れない。」
「水のきれいな思い出の八戸川に一九五七(昭和三十二)年にダムができた。この時のダムは現在のものより規模も小さく、堰堤も低いものだったから水の入れ替わりも早く、上流部と下流部の水質に大きな差はなかったが、一九七六(昭和五一)年に旧ダムを呑み込む形で新八戸川ダムができると、ダムの下流は水量が極端に減り、夏の渇水期になるとアユは泥臭くて食べられなくなった。
『八戸川は死んだ』
と勝則はつぶやく。」
八戸川のダムの影響は、大井川での井川ダムと長島ダムの関係にそっくりと思っていた。
井川ダムが堆砂で、どの程度有効貯水率が落ちたか、何に書かれていたのか、忘れたために、わからない。大熊先生の本では、と思っていたが、そうではないようである。
井川ダムでは、堆砂がすすんで貯水能力の機能が低下したために、「水の入れ替わり」が、ダムの規模の割りには早くなっていた。
したがって、山の栄養素を含んだ水が少しは流れてくることもできたのではないかなあ。
さらに、井川ダム下流には二つの支流があり、その水が、シャネル五番の香りを生成できる珪藻を育んでいたと考えている。
長島ダムは、せっかく井川ダムが水の入れ替わりを阻害する程度を減じているのに、その効果を根絶し、その上、ダムでの水の滞留時間をいっそう大きくしている。
さらに、支流をダム湖に抱え込んでいるため、もはや良質の珪藻が繁茂する水が流れることはないのではないか、と思っている。
シャネル五番の香りを生成する物質を含んだ珪藻が繁茂できる唯一の可能性は、長島ダム下流で大井川に合流している寸又川の堰堤、取水等がなくなることであろうが。
ダムの上流と下流の水質が異なることは、村上先生もダムのある球磨川とダムのない川辺川で違いがることを報告されているが、その違いにすら阿部さんは気が付いてないのではないかなあ。
石の色で、好む魚が異なるとは知らなかった。
アユが、花崗岩よりも水成岩を好むとは、垢石翁もいわれていることであるから、そうかなあ、とは思っていたが。
ただ、故松沢さんは、石の色についても注意を払っていたのかも知れない。狩野川の試し釣りで、何で、湯ヶ島地区がいつも他の地区に比して多く釣れているのか、と尋ねたとき、石を知り尽くしている者が試し釣りをしているから、と話されていた。おらは、石組みや石が作る流れ、流れの変化のことを知り尽くしていることであると思っていたが、どんな色をしている石か、も、考えているのかも知れない。
故松沢さんは、鮎に聞いたことはないからわからないが、と、前置きをされて、あゆみちゃんが好む石の色の事例としてどのような現象を話されるかなあ。
とはいえ、現在、こんなぜいたくな、石の色まで気にして、魚の好む住み家を探すことのできる川がどのくらい残っているのかなあ。
ウナギが潜り込める石ですらほとんどなくなっている。
「ゴッポ」とは何かなあ。
中津川が珪藻を育んでいた川から、藍藻の川へ、と、変わったことを経験している者にとっては、支流における水量に比して大きな構造物が本流よりも大きな変化、つまりダムが水を滞留させて、BODとかCODとかの視点での水質ではない水質、栄養塩、栄養価に重大な影響をもたらすことは、理解しやすい現象である。
C 浜原ダム:一千九百五十三年 昭和二十八年完成
浜原ダムがなかった頃の情景が「江の川物語」に書かれている。
ア サケ
@中山辰巳さん:三次市粟屋町落合
「わしらの若い頃までは、サケはえっと(沢山)上って来とった。ここの地先のとこだけでも百や二百じゃあない、ぐらぐらするほど上って来とった。この周りの川は小砂利でしょうが、じゃけえサケが産卵するのに都合がよかったんじゃろう。浅瀬のあちこちにホリ(カマ)を作っとったよ。
おおそうじゃ、若い頃サケを獲った道具がまだあったはずじゃ。持ってくるけえ、ちょっと待っとりんさい。
ほれ、これこれ。このヤスでサケを突いて獲ったんよ。膝ぐらいまで川に入っての。じーっと待っとってサケが上ってきたらばっと突くわけ。
ヤスの歯が大きいじゃろ。やっぱり他の魚とちごうてサケぐらい大きゅうなったらこれぐらいないと逃げられるんよ。それとこのヤスはサケを突いた後、ヤスと棒がとれるようになっとる。ほいで、ヤスについとる紐を持っときゃあ、サケがいくら暴れても、紐がぐにゃんぐにゃんするから逃げられん。で、最後に弱ったところを獲るいうわけ。
女の人も捕りょうたよ。それ言うんが、サケが上ってくる時期が、ちょうど、川岸で漬け物にする白菜や大根を洗う時期と一緒なんよね。そこへ卵を産んで弱ったサケが、ゆらゆらゆらゆら流れてくるんで、手でひょいと獲って、タライの中に入れて、洗い終わった白菜やら大根やらと一緒に持って帰るわけ。中にゃあ、二匹も三匹も獲って帰る人がおったよ。」
A発電用堰堤の影響
「昭和のはじめ、江の川の発電用ダムができた鳴瀬堰堤のサケの思い出を語る川漁師は、
『堰堤の下には、よう遡上せんサケで川底が見えんほどじゃった。寄贈したヤス・ヒッカケ・サケ網はみんなその頃のもんですで。よけい獲った時は、ハラを抜いて、漬け物桶に塩漬けにしたり、囲炉裏の上の火床やホテで乾かして、冬に食べたりしよった。これが証拠じゃけえ』
と言って古い新聞の切り抜きを出した。
見れば一九二四(大正十三)年十月の新聞記事で『作木で鮭大豊漁』の見出しがあった。
江の川が暮らしと結びついていた、よき時代の鮭の思い出話は尽きない。」
この二つの話から、百キロほど上流の三次まで、鮭が遡上していたと言うことであろう。
そして、「鳴瀬堰堤」の遡上への影響は、堰堤が完成する昭和の初めではなく、工事中ではないかと思える大正十三年に出現していたと言うことではないのかなあ。
思い出話を続けよう
B作木の崎川功さん
「『三次のサケどころじゃあない。わしらあ子どもの頃じゃあ、学校へ行きしなに(行く途中で)川で顔を洗うようったが、サケがウジャウジャ寄っとるんで、両手でサケをかき分けて洗ようった。弁当のおかずは毎日イクラじゃった。』」
功さんは、 永生さんの弟さんで、黒田さんは、功さんの話を「作木の崎川功さんも負けてはいないが、彼はまだ五十代。親からの口伝かも知れない。」と疑問符。
永生さんは、一千九百九十一年に五十五歳で亡くなられているから、一千九百三十六年頃の生まれであろう。
そうすると、功さんは、オラと同世代の昭和十五年くらいの生まれではないかなあ。浜原ダムの完成が、一千九百五十三年であるから、ぎりぎりイクラ弁当を堪能できた世代ではないかなあ。
小学校は給食があった。脱脂粉乳?とコッペパン。おかずに何があったのか、全然覚えていないが、脱脂粉乳のまずさは、回虫を退治するために飲んだマクニン?と同じく覚えている。
中学生になって嬉しかったことは、脱脂粉乳を飲まなくてもよくなったこと。
C現在のサケの遡上
鳴瀬堰堤がなかった頃は、どこまでサケは上ったのかなあ。
現在は、「江の川にも浜原ダムの下まで毎年サケが遡上して産卵する。支流の濁川(島根県川本町)はサケの産卵が目のあたりにできるというので、十一月三日の文化の日前後になると、道脇に車が止まる。ほとんどが広島ナンバーである。
私も(注:黒田さん)数年前から毎年サケに会いに濁川へ行く。生来、不精者の私は観察記録をとるわけでも、写真を撮るわけでもない。『ああ、今年もまた来たか』とサケの姿を見ればそれで満足なのであるが、運良く感動の一瞬に一度だけ出会うことができた。
川原に腰を降ろして三時間、やっとのことでペアができた。やがて、メスが身体を横にして大きな尾ビレを動かしては小石を払いのけ川底を掘り始めた。カマを掘るというのだそうだ。長さがほぼ一メートル、幅も深さも三十センチぐらい。この間、オスはメスを守るように周囲をぐるぐる回り続ける。時折、他のオスがちょっかいを出して侵入しょうとすると、敢然とたちむかう。一時間ばかりたったとき、寄り添っていたオスが口を大きく開いて体を震わせながら白い液体をふりだした。休む間もなく、メスが痛んだ尾びれで砂礫をかぶせだした。
全精力を傾けて産卵を終えたサケの夫婦は、カマの周囲を回りつづけていた。ずいぶんと弱っていたので、明日の朝は岸辺に横たわっているのだろう。まもなく七十になる私であるが、すっかり興奮して会う人々に話したところ、みんな、しっかりとサケの思い出を持っておられた。」
D何が遡上していた?
さて、邑智町桜江の天野さんは
「彼の家から江の川本流を二十数キロ上がったところ江の川を全面的に堰き止める浜原ダムがある。
このダムができるまでは、サケ・モクズガニ・アユカケが三次盆地の中心部まで、サクラマスにいたっては中国山脈の谷々まで遡上していた。
魚だけではなく、人もまた行き交っていた。特に九月下旬からの落ちアユのシーズンになると、上流の作木や高宮の川漁師は鮎の群れを追って下り、一カ月近く家を離れた。泊めてもらった下流の川漁師の家の娘と恋仲になり、祝言となることもさして珍しいことではなかった。」
オラが学者先生の主張している「四万十川、相模川の海産鮎が十月一日頃から産卵を開始している」との説がまちがっちょる、という根拠がここにも観察されていると考えている。高橋さんが、「ここまでわかった アユの本」で学者先生らの、海産鮎が10月1日頃から産卵を開始する、と言う説の正当性根拠とされている四万十川海域で観察された稚魚の親は、「湖産ブランド」にブレンドされた江の川等の日本海側の海産稚魚が親であると推測している。
江の川の下りアユ状況は、四万十川海域で観察された稚魚の産卵時期と一致する。この話は、「故松沢さんの思い出:補記その三」で、川那部先生が紹介されている興味ある話と一緒に再度、後日に書く。
いや、本当はすぐに紹介したいところであるが。
神奈川県内水面試験場の調査報告における流下仔魚の親が誰であるのか、の評価がまちがっちょる、学者先生の評価がまちがっちょる、観察眼に優れた川漁師の観察が適切である、との妥当性の傍証であるから。
お急ぎの方は、川那部先生の「偏見の生態学」の「アユの研究、その後」103ページを読んでください。「偏見の生態学」は、現在でも新刊書で購入できます。ホームページ「鮎三郎」に、投稿して以来、オラが学者先生に楯突いていることが荒唐無稽の、ヘボの与太話ではないことが、書かれています。
もう一つ、非常に気になることがある。
天野さんだけでなく、中山さんらの話の中に、さくらちゃんも山女魚ちゃんも登場していないことである。ゴギは、生息場所が山奥に近いため、これらの人たちの漁場から離れている、ということになるかも知れないが、さくらちゃんや山女魚ちゃんは、漁場の位置からだけを見ると、漁の対象魚であるはず。
にもかかわらず、漁の対象として登場していない。
ツケバリにかかることはあっても、専用に漁をされなかったのはなんでかなあ。数が少ないという視点からの効率性の問題かなあ。それとも?
網漁ではさくらちゃんしかとれないかも知れないが、ヤマメは釣りの対象になるのになあ。中山さんらも友釣りをされているのになあ。
イ 「子どものころのツケバリ漁」:中山さん
クダヅケ
「まあ、こがな調子じゃけえ(注:ケンカ相手は上級生、朝礼でほめられた唯一の出来事も。線路に腹ばいになり、汽車が来るぎりぎりまで逃げず、汽車を止めたことも。『中山辰は喧嘩大将』『前川久はワル大将』)、勉強は苦手で遊び専門。遊び場は一にも川、二にも川よの。小学校の一,二年頃になると、五,六人ぐらいでクダヅケへ行きよったよね。
昔はジャカゴいうて川岸に玉石を積んで八番線のような太い針金で囲うてあった。馬洗川と可愛川の合流点の十日市側は、今は土手になっとるが、昔はあそこのところはジャカゴでね。わしらは『ワタ』言うとったが、今で言やあテトラポット。この『ワタ』がウナギのええ棲みかよね。
学校から帰るとミミズを掘って、シノダケで二尺から二尺五寸の『ナブリ』を十本ぐらいこしらえる。それでウナギのかくれている『ヤナ(穴)さがし』を競争するんよね。
みんながヤナを見つけ終わると、ハリにミミズを刺して一斉にツケる。ツケたイトは川端の柳の木や、川流れの棒の木切れに結わえ、それを目印にする。中へ引っ張り込まれないように、そこへ石を持たせたりしてね。
夜は大きなウナギが釣れた夢をよう見てね。みんなで上げに行くんじゃが、何匹ウナギが喰いついておるか、そりゃあ楽しみでね。獲物は袋に入れるんじゃが、みんなに見せびらかすために、袋はあってもハリにつけたままブラーンとさげたり、柳の枝にさしたりして帰るんよね。
土曜日の昼から日曜日の子どもの遊びいやあ、これが一番じゃったね。」
また困った。
中山さんは、大正十二年生まれ。当然、小学生の頃には、発電用の堰堤はできていたはず。
そうすると、堰堤は、生き物の往来を完全に阻害していたのではない、ということかなあ。アユが、鮭が遡上するには重大な障害になっていても、ウナギが上るには、それほどの障害になっていなかった、ということかなあ。
中山さんは、近所の魚取りではない家の子ども(義幸君のこと)に「親父のハリをこっそり持ち出しちゃあ、十本ぐらい」やっていた。
また、大人に仕掛けをみんな盗まれて、その大人のところに取り返しに行ったが、凄まれたことも。
舟のツケバリ
「家の横のガンザキが渡し場だったんで、そこから舟を出して競争するんよね。前舟張りのところへ膝を立てて中腰になって櫂(かい)を掻(か)くんじゃが、それを見て大人たちが叱るどころか、手をたたいて応援してくれる。
『おう、あの子はようやる』
『あの子は力がある。ええ、カジコになるで(舟の艫について櫂や竿で操船し、後竿とも呼ばれる)』
『あれに負けたらつまらん』
わしらの競争を見て親が喜んだり、悔しがったり。まあ、勉強はさっぱりじゃったが、小学校の三年生頃には舟を思うままに動かしとったよね。時にはいつもの四,五人で、
『舟を出してツケバリに行こう』
行く場所は、家から三,四キロばかり上流のホンセ。ここはツケバリにもってこいのええ川でね。三,四年生の子どもたちだけで舟を引っ張ったり、竿をさして行ってたんじゃけえ。今ごろの子どもには想像もつかんことよね。瀬にかかると舟から下りて引っ張る。だれもシワイ(三次方言で、しんどい、つらいの意)とは言わん。
舟を使うてツケるということになると、クダズケのように一本一本、ツケるんじゃあのうて、ハエナワ式でオヤイトとシツケイトを使う本格的なツケバリじゃけえ、大人顔負けようね。道具がないのは義幸君だけじゃが、それでも必ず一緒に行った。悪ったあ(三次方言で、『悪さ』の意)をするぐらいじゃあけえ、団結も固かったよね。
餌はドジョウ。舟に積んで持って行って、三つか四つに切って針に刺すんよね。子どもでも親がするのを見とるけえ上手に刺しょったよね。餌をつけ終わると、
『おい、わしはここへツケる』
『お前はここへツケえ』
とてんでにツケるんじゃが、最後には一番年上の者が大声で叫ぶ。
『おーい、みんなツケた場所をよう見て覚えとけよ』
しっかり覚えておかんと、あくる朝、上げに行った時に喧嘩になる。学校の勉強の覚えは悪くても、ツケた場所は絶対に忘れんかったよね。別に目印をつけるわけじゃあのうて、『磯のここに柳がある』『ここに岩がある』というように、川の周りの状況を頭に入れるんよね。学校の勉強はすぐ忘れても、魚獲りいうことになると絶対に忘れん。学校で習うたことを覚える頭と、魚獲りのことを覚える頭は、同じ頭でも違うんじゃけえ。今ごろは年のせいでよう忘れるんじゃが。ハッハハ。」
漁場である「ホンセ」は、中山さんが出歩いていた漁場の地図に載っていて、発電用の堰堤よりも上流である。
「子どもの頃にツケる針の数は大体五十。大人になれば、三百はツケんと生活ができん。ツケバリ糸(オヤイト)は五本で、一本の長さは十ピロ(ヒロ《尋》 一ヒロは両手を広げた長さ)一本のオヤイトにシツケイトを十本ツケるから、ツケバリ糸五本で五十本になるということよね。
ツケる順番も大人のやり方を見てクジで決めとったが、小さい子も大きい子も決まりはきちんと守っとったよね。それを守らんと仲間に入れてもらえんからね。
ある朝のこと、上げにいってみるとわしのイトがない。サグリで探してもない。
『人が盗るようなところじゃあないし?』
と探していると、三十メートル以上も離れた下流の淵でイトをつけたまま、ウナギがぐるーっと川底でまわっている。一メートル以上もあり、腕よりも太いウナギじゃけえ嬉しかったんじゃが、今と違ってあの頃の川はきれいなんで、川底まで見えたからわかったんじゃが、今の川じゃあとてもじゃあないが見えんよね。
大きなうなぎを釣ったいうても、家で食べることはまずない。みんな売り物にしとった。
ツケバリに友達二人を連れていったことがある。ちょうど梅をもぐ時期じゃった。ごみだめをつっついてぞろぞろ出てくるミミズをワキミミズいうんじゃが、あれを餌にする。どの時期に何を餌に使うかは、親がするのを見とるんじゃけえ、子どものときから知っとったよね。
上げるときは、わしが舟の後ろで竿を使いながら、
『おい、サグリを下ろせ』
『この糸は義幸君ので』
と、年は少なうても、このときはわしが先生じゃけえ。二人に指図をしながらイトを上げさせとったら、なんと一本のオヤイトにウナギが三匹も喰いついて、川底でクルクル回りょる。義幸君が手元まで寄せて、
『辰ちゃん、ええウナギよのう』
と舟に入れた。すぐに、ウナギカゴへ入れればよいのに、嬉しまぎれに口から鉤(つりばり)をはずして、
『見てみい。大きいで』
とウナギを握って見せようとしたら、つるんとすべって川へチャポン。
帰るまで、
『しもうた。大きかったのに』
ともかく川で遊ぶのはおもしろかったよね。今の子どもにも川や川原でしっかり遊ばせてやりたいよね。」
雨村少年も、大量のうなぎが捕れて嬉しくなり、あぜでウナギとおっかけっこをしたことがあったなあ。
ウ 浜原ダムの魚道
天野さんの話では、上流域の漁師と中流域、下流域の漁師たちとの交流があったが、
「ところが、ダムができると上流の広島県は江の川漁協、下流の島根県は江川漁協となり対立が続くようになった。
『電気の恩恵を否定する気は毛頭ないが、ダムは川の敵。山と海をつないでこそ川なのに。魚の行き来できない川は川ではないですよ。ダムは川を分断し、漁場を分断し、川に暮らす人間の心をも分断したんです』
と彼は語気を強める。
ここまで問題を深刻にした原因は遡上アユの減少である。浜原ダムには折り返し型の魚道がつくられている。最近、ダムの放水量を増やしたため、遡上アユが多くなった。稚アユの絶対数が少ないため、遡上すると下流にアユがいなくなる。さらに浜原ダムの魚道はアユを遡上させても下らせることができないという構造的な欠陥がある。そこで下流の川漁師は、
『アユはどんどん上るが、下りてこない。親が少ないから子が少ない』
と上流の漁協をうらみ、利害が絡んで対立が続く。
しかし、最近は鮭の放流を通して川の環境を考える『江の川鮭の会』も誕生し、彼も上流の江の川漁協と一緒になって『上り下りする魚道』の改修運動に情熱を燃やしている。」
「江の川物語」には、浜原ダムの魚道の写真と模式図が掲載されている。
オラの感想を言うと、
@魚道への上りがどの程度、あゆみちゃんに認識されるのかなあ、ということ
左岸に設置されていて右岸には設置されていないから、単純に見ると遡上量の半分。
そして、魚道の上り口はダムサイトから少し下流に設置されているため、ダムサイトに行って、反転して、上流側に向いて設けられている魚道の上り口に到達できるのはさらに少ないのではないかなあ。
もし、魚道の登り口が、左岸に沿って、下流まで直線で伸びておれば、まだ登り口に到達しやすいのではないかなあ。
ダムからの落水と、魚道から流れ落ちる水との位置関係がわからないが、中津川の妻田にある魚道のように、魚道を下った水が真っ直ぐ下流に流れておらず、反転して上流へ向かい、堰からの落水と合流している構造と同じとすれば、魚道を上るアユは限定的になるのではないかなあ。
A下りについては、ダムからの取水口が左岸に設置されている。その下流側に魚道の下り口・上り詰めたところがある。
親アユであるから、仔魚と違い、游泳力があるため、取水口に引きこまれることは回避可能であろう。
しかし、下りアユが取水口を下流への移動できる空間と判断したら、魚道の下り口に到達できる下りアユは非常に限定的になるのではないかなあ。
B 「登り落ち」漁法のまね 「生態学の大きな話」
川那部先生は、「湛水域のことはともかく、魚道を見つけて早速それに遡上するようにするだけなら、詳しい調査などしなくても、まずは解決する方法がないわけではないのです。ダムの堤体そのものを、水の流れに対してかなりの程度に斜めに作ってやれば、遡上時期のアユは堰堤に突っかけているあいだに、必ずその斜めの堰堤の上端に集まってきます。そこに下へ突き出しているのではなくて、逆に、下端が堰堤のところにあるような魚道をつくれば、ほとんど自動的にアユは上っていくのです。実は、『登り落ち』と言う漁法はこれそのものなのです。」
浜原ダムの魚道の「上り口」は、登り落ち漁の考えに基づいてつくられているのかなあ。上り口が堰堤側に向いていることは同じであるが。
しかし、堰堤が流れに対して、斜めになっているということは河川管理者の意向に沿うこととはならないから、流れに対して直角になっているはずである。
その場合でも、魚道への上り口に到達できるアユは、多いのかなあ。
「登り落ち漁」の手法を堰堤に取り入れるためには、河川管理者が、堰堤等の構造物は、流れに対して直角に設置すべし、との考えを変えないと不可能ではないかなあ。
C 魚道の効果測定評価の誤り 「生態学の大きな話」
また、川那部先生は、
「ダムの魚道について、『従来の五倍遡上する』などと誇った見解の、発表された時代があった。それ自身は進歩だが、これは、『ダムのないときに比べてどうか』の指標にはならない。前者は『改善率』であり、重要なのは『達成率』だからだ。」
この「達成率」から、判断して、浜原ダムの魚道はどの程度の効果を持っているのかなあ。そして、下りのときの効果はほとんどないということかなあ。
おらは、ダムへの遡上量が多いことと下流域の鮎の減少とは関連性がないのでは、また、親アユの減少も、ダムからの下りが阻害していることが事実であろうが、遡上量が激減していることが、主要な原因と想像しているが。
なお、川那部先生は、「魚道」の評価測定を主眼とされているのではない。
「達成率」評価が重要であることの主題は、水道水であり、下水処理場の処理数値に関してである。
「下水道浄化について、例えば『全窒素の九九.五%を除去した』といい、その数値がいかに多くなっても、それは、その処理場から外に出される『全窒素』が、ゼロになることを意味しない。前者は『除去率』で、真に問題にすべきは『排出量』であること、先のものと同様だ。
滋賀県の上水道は、一九八〇年代までに、一〇%からほとんど一〇〇%になったと聞く。また下水道も、最近までの三〇年間に、一〇%未満から、五〇%を超えるようになり、『ますます整備を進めている』らしい。
子どもの頃のある家で、山からちょろちょろと出るかけひの水は、ほんとうにおいしかった。同じところで今飲む水道水は、はっきり言ってまずい。そこで、かけひこそないが、今も湧き出す水を直接飲んでみた。『旨い』。まさに『感動』した。
私たちはここ五〇年、『汚いものは目に触れない』方向に心を注いできた。そしてそれこそが逆に、地球環境問題を起こし、それをここまで深刻なものにしてしまった、元凶の一つではあるまいか。
日本は島から成り立っている。したがって字義通りの『国際河川』はない。だからこそ上流の排水溝(下水処理場)の下流に、下流域の取水口(浄水処理施設)が、大きい『紛争』を伴わずに存在し得ている。そして、『排出量』そのものではなく『除去率』程度で、お茶を濁すことが許容されている。
各地域は、排水溝を自分の取水口のすぐ上に配置すべきではないか。下流で取水した水をポンプアップして導くことは、他の巨大公共事業に比べれば、たいしたことはない。水の大切さを知り、水を汚すことの危険性を身をもって知るには、もっとも手っ取り早い近道ではないか。」
川那部先生は、「除去率」を基準としていて、「排出量」を基準としないことに異議を唱えられているが、その考え実施のための処方箋は、琵琶湖ではすでに実現している、と言うことではないのかなあ。
その結果は、フナ寿司の材料である「ニゴロブナ」や、一番旨いモロコである「ホンモロコ」が、琵琶湖総合開発で産卵場、揺籃場、食堂が破壊されたことと相まって、幻の魚となりかけているが、琵琶湖を水瓶としている人間はしぶとく生きている。しかも、タバコを吸うな、とか、いらんお節介に大手を振って税金をつぎ込んでいることから、いっそう寿命を延ばして、アルツハイマーや寝たきり予備軍を増殖させているのではないでしょうかねえ。
浜原ダムが江の川のアユの遡上量に重大な影響を与えたとしても、それだけではないのではないかなあ。生物の生存、成長、繁殖阻害には、江の川の「排水路」化も大きく作用しているのではないのかなあ。
遡上鮎の産卵行動としての下りや産卵場での共住生活のときの親鮎の大量捕獲もあるのではないかなあ。
さらに、「湖産」ブランドや継代人工の放流による交雑種の大量発生も。
D 昭和47年豪雨による河川復旧工事
ア ションベン川 「暴れる江の川」
黒田さんが、江の川の情景と洪水を上手にまとめてくださっているから、そのまま引用します。なお、読みやすくするために改行だけ、行いました。
「小説『荷車の歌』(山代巴著)の書き出しに『三次は茗荷の子で皮(川)ばかり』とある。中国山地から山陽側に流れ出した川が、三次に集まって江の川となるところから生まれた言葉であろう。江の川は再び中国山地に向かい、ほぼ中央を横切る形で山陰側に出て日本海に注ぐという珍しい川である。水は高きから低きにではなく、低きから高きへということになる。
その理由は、太古の昔、中国山地が隆起する以前から流れていたから、山地が盛り上がってきても、方向を変えることなく、深い谷を削りながら流れ続けているそうである。だから、まったくといってほど平野をもたない川である。流域で一番広いところは三次盆地で、河口にも平野のない『ひょうたん型』の川であるから、大雨が降るとひょうたん底にあたる三次盆地には水があふれ、峡谷のように狭い江の川関門に流れこむから、川筋の水位は一気に上がり、三次盆地に集まる川の水位が二メートルも上がれば、下流域の水位は七,八メートル以上の洪水になる。」
「そのため、人間の暮らしに役立つ要素を備えた川が、『いい川』という観点から評価する人たちは、江の川を『能なし川』『ションベン川』と呼ぶが、それは自然への冒涜(注:『涜』の旧字?がでてきません)である。満たされざることを知らず、豊かな生活を求め続ける人間の一方的な価値観でしかない。」
「一九七二(昭和四七)年の江の川流域を襲った大豪雨では、三次市街地の水位は一〇メートルを超し、確かに大きな被害を受けたが、川に生きる人々は川に対して、おおむね寛容である。
昔は床上浸水が年中行事だったという島根県桜江町の天野さんは、
『今年もお客さんが来んさったか』
と、タタミとタンスを二階に上げると、水加減を見ては濁りで岸辺に避難してくる魚を掬ったりしたという。前述の中山辰巳さんの『流木拾い』もその例である。
『確かに被害も受けたが、それ以上に江の川からは恵みを受けた。』
と川漁師たちは口をそろえる。まずはそうした川漁師の川語りを聞こう。」
下流では三次の4倍の水量なるということは、三次で8メートルの水位であれば、30メートルの水位になるということかなあ。
とても想像できないが。
丸太拾いとは、コンクリートの橋でなかったから、大水で橋が流されたときにその材木を拾う。とはいっても、
「流木を舟に着けようと思うと、どうしても大波を乗り切って行かにゃあいけん。すると舟がバシャーと波をかぶる。舟から離れたら命取りじゃけえ、とにかく前へ舟を漕ぐ。舟いうものは前へ進んだら浮くようになっとる。真横にせんかぎり舟はひっくり返るもんじゃあない。もし返っても絶対舟から離れちゃあいけん。
とにかく必死で舟を漕いで流木につけ、流れのゆるい淀みになったところで舳先(へさき)を流木に乗り上げる。そしたら木と舟は一緒に流れ出すんで、舟張りに結わいてあるロープをもって、流木に抱きついて素早く括って磯へ舟を寄せる。ぼやぼやしとると、濁流の中へ引っ張り込まれるんで、そりゃあ、命がけの仕事よの。舟を流した者や、沈めた者を何人も見てきた。
向こう岸の土手には見物人が出とった。祝橋が架かってからは黒山のような人が、橋の真上から見るんじゃけえ、腕の見せどころよね。うまいこと岸に着けると、もうその場で商い。戦後すぐのころ、一カ月の給料が三千円ばかりの時に、二本も拾うと楽に給料より多いじゃけえ、危のうてもやめられんよね。」
昭和二五年ころ、二回ほど、明石海峡に紀州から多くの丸太が流れてきた。それを拾う情景は見たことがなかった。中学生はその丸太の一群を利用して舞子まで泳ぎ、潮の流れが変わると、その一群とともに戻ってきていた。
漁師が夜、漁を終えた後で拾っていたのかなあ。もし、値がよいのであれば、オラ達が泳いでいる時間でも浜辺に寄せていたと思うが。
イ 「ニキ」の破壊
「竹藪は漁撈の舞台装置」
「暴れる江の川の守りをしてきたのは竹藪である。全国どこの河川にも水害対策として川岸に竹が植えられていたが、江の川ほど竹藪に囲まれていた川は例を見ないといわれている。山が川岸まで迫っているところは別として、わずかな田畑と人家のあるところには必ず竹藪があった。近年のコンクリート堤防化の中で竹藪や川端柳の多くは取り払われたが、今も川本町から桜江町に続く川筋には見事な竹藪がその名残をとどめている。
竹藪の効用は水害対策だけではない。春は筍取りに始まって、サカナビク・ウナギカゴなどの材料を提供する。夏場になるとエサにするミミズは暑さを避けるために地中深くもぐるが、竹藪は涼しいためミミズが得やすいので、子どもたちは藪蚊とたたかいながらミミズ取りに夢中になった。竹藪の内側にある桑畑では口もとを紫色に染めながら桑イチゴをむさぶった。
『スッポンのええ漁場いうのは、瀞の砂地で岸に竹藪があるところよ。昼でも暗うなるぐらいの竹藪がありゃあ、必ず大物がおる。竹藪は漁撈の舞台装置よ。とにかく、岸に木か竹が生えとらにゃあ、魚はよう安心せんじゃけえ』
中山辰巳さんのいう川の条件の一つは、川岸に竹や木が茂っていることなのだ。」
ウ 河川管理の罪
「川のことは川漁師に」
「河川を人工化し人間が管理する。これは人々が豊かな暮らしを求める以上、やむを得ない手段、方法に違いない。たびたび洪水に見舞われていた三次盆地も、七二年災害以後、大きな被害が出ないのは河川改修と堤防の強化のためである。だからといって、自然破壊がすすみ、魚や水棲生物が棲めない川になってよいというものではない。人々の暮らしを守るために、集落を万里の長城のような護岸が取り巻いている江の川を眺めるにつけ、こうしたジレンマがつきまとう。
自然の川岸は流れが長い時間をかけて形成したものであるから、形も複雑で立体的である。でこぼこと入り組み、浸食の結果、岩盤が露出しているところ、大小の石に土砂が堆積したところ、川に好んで自生するネコヤナギ・カワラツツジ・ヤナギ・オニグルミ・ヨモギなどの木や草の根がしっかりと張っている。川で漁をする人たちは実に川のことをよく知っている。複雑な凹凸は増水時の抵抗になり、水流を和らげ、魚たちの避難場所になる。
コンクリート護岸の場合はどうであろう。表面はなだらかなため、水流は逆に早くなり、川底の大きな石までも下流へ押し流す。川底に大きな石や岩がなくなれば、さらに流れは加速し砂利を敷きつめたように平坦化する。川底が平坦化すれば水生昆虫は棲めなくなり、石の下で暮らし産卵するゴリやカジカなどの魚も姿を消す。
『淵や瀞が年々浅くなる』と川漁師は言う。六、七メートルもあった淵が今では底が見えるほど浅くなり、エンコウ岩の穴もすっかり埋まってしまった。
水中に頭を出している岩だけではない。水中に沈む岩もある。こうした河底の岩を『沈石』というが、それは流れの抵抗となり、その裏側は魚たちの絶好の棲みかになっている。
そうした川の状況を誰よりも知っているのは、そこを漁場にしている川漁師たちである。川底にどんな石があって、その石の下にはどういう種類の魚と水棲生物がいて、そこのコイやフナやウナギのそれぞれの好みの石、食べる餌にいたるまで知っている。
『この辺の川のことについちゃあ、誰にも負けん。国や県は河川改修をするのに、川の学者や専門家に意見を聞いて工事をやって来たんじゃろうが、わしら川漁師の意見もよう聞いてから、工事に取り組んでもらいたい。わしらも魚に代わって、ものを言わんやあいけん時代じゃけえ。へーじゃが、人が川をかまえばかまうほど、川はいけんようになってきたよの』
川漁師崎川功さんの話であるが、コンクリート護岸への恨みが込められているように聞こえた。」
川底、流れの平坦化、埋まる淵等の現象の説明として、どの程度適切か、疑問が残るが。
大熊先生の本から、安直な回答を探したいところではるが、後日の話としょう。
なお、故松沢さんは、狩野川の堤防がまだ高くなかったころ、大雨の時に溢水していたから、溢水した水が砂礫を田畑に堆積していっていた、と。その後片付けはお百姓がやっていたとのこと。
その溢水に伴って堤防から流失?していた砂礫は、堤防が嵩上げされて、溢水しなくなったとき、どうなるのかなあ。海まで流れるのかなあ。
さらに、山の荒廃で、山からの土砂の流失はいっそう増えていると思うが。大井川では長島ダムが、狩野川では狩野川放水路が、山の荒廃で増え続ける土砂をいっそう川原に堆積させていくのではないかなあ。
「エンコウの岩」とは
「エンコウの岩という岩の呼び名は各地にあるが、作木村だけでも三,四カ所にある。エンコウは川の妖怪であるが、流域の人は親しみを込めながらエンコウ話を語る。
『むかし、むかし、イワブチのエンコウの棲みかの入り口に、肥え担桶(たご)が流れてきて、【くそうて子どもが死にそうなんで、取ってくれないか】と頼みにきたそうな。それでひっかかっていた肥え担桶を取ってやると、あくる朝、耳デッチ(髪型)をした三つ四つぐらいの子どもがアユをようけい持ってきたそうな』
エンコウ岩の共通性は岩ノ下が掘れこんで穴ができており、魚の絶好の棲みかとなっていることである。魚を獲ろうとその穴に潜りこむと出られなくなる恐れもあるため、『近寄ると引っ張り込まれる』『キモを抜かれる』などといって戒めにした。
エンコウ岩もまた漁の目印であった。」
江の川には川獺はいたのかなあ。いたとすれば、いつ頃まで、どのようなところにいたのかなあ。
四万十川の山崎さんは川獺を見られている。黒田さんらが聞き取りをされた人たちと同世代であろう。
日本海に川獺はいなかったのかなあ。それで、身近な生き物でないことから「妖怪」となったのかなあ。
エ 河川工事等の結果は?
@コンクリートの要塞
「一九七二(昭和四七)年の七月、江の川は未曾有の大洪水に見舞われ、彼(注:天野さん)の家はもちろんのこと、桜江町の大半が水に浸かった。
流域の街も川も一変した。中心地は嵩上げされ、町全体がコンクリート堤防で巻かれた。
『江の川が変わったのは七二年災害の後ですよ。町全体が万里の長城のようなコンクリート堤防に巻かれて、川と親類づきあいができんようになってしもうて。岸の竹藪やネコヤナギが取り払われ、曲がりくねっていた流れは真っすぐになり、寸胴(ずんどう)に流れるようになってしまいましてな。』
「誰もが口にする言葉であるが、歩くたびに川と人との隔たりの大きいことを思った。野菜洗い・洗濯・風呂水のくみ上げ・水浴びと、四季を通じて生活の場であった江の川にほとんど人影がなかった。人の姿のないところに文化が育つはずがない。水辺まで行こうと思えば、消防道か階段でも見つけない限り、一〇メートルを超すコンクリート堤防の上り下りは難しい。たとえ下りたとしても、そこから草藪を掻き分けながら、進まなければ水辺にたどり着けない。魚の棲める川・人が近づける川の甦りを願ってやまない。」
Aいずこの川も同じアユの量
「川漁師だけではない。腰を曲げ杖を突いたお婆さんが、
『子どものころ、着物の裾をまくって川に足をつけると、アユがもぐりこんできとりましたで。夏休みの日課は川から風呂水を汲み上げることでしてなあ。』
と六十年前の江の川を語る。今の子どもたちが、五十年後にどんな川語りをするのだろうか。」
B天野さんとドベ
天野さんが、夜12時半の出勤にこだわる理由について、「珪藻の殻」の排出との関係で理解していたため、小西翁の夜8時以降との違いが気になっていた。
しかし、「珪藻の殻」の排出ではなさそう。
「なぜ彼が『十二時半』にこだわるのかであるが、最近のように川が汚れてくると、夕暮れまでコケを食んだアユの腹にはドベが残る。排泄してきれいになるのがこの時間である。夏の朝は早い。四時を少し周りしらじら明けになると、アユは再び瀬に出てコケを食むから、四時半には漁をやめる。」
黒田さんは、通時的に表現されている嫌いもある。冷水病とアユの関係も書かれているが、冷水病が一般に知られるようになったのは、平成五年頃以降のこと。その数年前までも放流アユの生存率の低下は感覚的には観察されていたが、滋賀県議会での質問においても、湖産における病気の発生が隠蔽されていたようであるから、大量現象として観察されるほどの生存率低下の原因が「冷水病」である、と表沙汰になったのは平成五年ころからであろう。
なお、故松沢さんは、「冷水病」の名前について、たまたま冷夏の夏に病気が顕在化した、認識されたから、と話されていた。
冷水病原菌のキャリアーであっても、水温が十六度から二十二度の間でないと、大量現象としての菌の増殖、発症はしないから、「冷水病」の命名が発症する水温について誤解を招いている側面もある。
腹にある残存物が、「珪藻の殻」であれば、食感として少しざらつくだけである。巖佐先生が、戦後に「珪素煎餅」を食べて、ザラザラしていたと書かれているが、それだけのことであろう。
しかし、「ドベ」となるとあんまり気持ちよいものではない。
オラでさえ、相模川のアユのはらわたを食べようかな、どうしょうかな、と悩みながら食べ、あるいは食べていないから。大井川のアユでははらわたを食べていたが。
小西翁は、紀の川が汚れてからはどのようにされたのかなあ。出勤時間を遅らせたのかなあ。
Cドベの水
邑智町の上野謙次郎さん
「私ら三十年以上、夫婦で漁に出ています。家内が『昔は川で身体を洗ったのに、今じゃあ、川で身体じゅうがドベだらけになる』いうとります。」
「昔は秋口になると上流から『高暮(こうぼ)の鼻曲がり』『山形(やまがた)の鼻曲がり』いう尺をこすアユが下ってきておりました。今は高暮にも、山形にも、ダムができてしもうて。山と海を魚が行き来してこそ川ですけえなあ。これからは、上流の江の川漁協(広島県)とわしらの江川漁協(島根県)が一緒になって、川漁で生活できる江の川にせにゃあいけません。」
寸又川の鉈アユが、家山の八幡様の祭りころ=十月十五日ころに、大井川は家山付近で釣りの対象となっていたのかなあ。寸又川にダムができた後に、寿司屋さんは友釣りをされていたのではないかなあ。オラと同世代であり、小学生のころから友釣りをされていたから、井川ダムができる前の大井川での釣りはされていたが、寸又川のダムができる前に釣りをしていたのか、聞き忘れた。
井川ダムができた後も、千頭のアユ、笹間川の渓流相を上ったアユが、尺アユほどに「いかい」か、どうかはわからないが、寿司屋さんらを愉しませていた。井川ダムができて、どの程度水量が減ったのかなあ。
笹間ダムができるまでは、まだ、寿司屋さんも大井川で釣りをされていたが。
二〇〇八年、千頭で、大物食い若が二六センチくらいを一〇月下旬に釣っていたが、海産畜養か、遡上アユかは分からない。現在の水量と、釣り人から逃れる淵、激流がないことから、遡上アユで大きく育っても、二五センチくらいが限界である。
二〇〇九年相模川は大島のように、継代人工の二〇センチ台を放流して、「尺アユ」がいっぱい釣れている、という客寄せは、大井川ではしていないから、当然のこと。
D浄化作用
「河川の三面張りには反対である。川底に凹凸があること、そこが魚の棲む場所にもなり、伏流水になって水がきれいになるが、コンクリートで固めたのでは川の浄化作用がなくなってしまう。
川原は砂と石でできていたのが、現在はヘドロと砂と石になっているので、草がやたらと生える。砂と石ではそんなに草は生えないし、水中でも砂と石が重なり合うところに隙間ができてて、魚や生物の棲み家になっているが、現在はヘドロが石にこびりついて、ゴリのはいる隙間もない。川の汚れをどう解決するか最大の課題である。」
なんか、相模川や、宮が瀬ダムができてからの中津川、平成の代になってからの狩野川・城山下の情景が描写されているのではないか、と錯覚してしまう。
多分、相模川よりも汚れてはいないのであろうが、「清流」を経験されているから、今昔の川の汚れの違いに気が付くのではないかなあ。
「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する」なんて、おっしゃっている阿部先生には、透明度ウンメートル、どんなに大量の遡上アユがいても、珪藻が優占種であった川、というのは、彼岸の話、いや思いつくことすらない話と言うことであろう。
E人工鮎生産
「一九七〇(昭和四十五)年に江川組合長になった。どうせやるなら、日本一の漁協にしたいと思って五百万尾の人工孵化場をつくった。もともと江の川には、アユ放流などしなくても、たくさん上っていたが、一九五〇年に邑智町浜原にダムができてからは、江の川は二つに分断され、河川形態が壊れてしまった。魚道がつくられてはいるが、あの魚道ではだめだ。アユは遡上してもサケやサクラマスは上らない。
もっと問題なのは親アユが下らないことである。上流の親アユが下らないから、下流の親アユだけでしか産卵しない。この状態を繰り返していれば、天然アユは幻の魚になってしまう。」
江の川の人は、ダムが遡上アユの減少の一大要因とされているが、適切な評価かなあ。
もし、遡上できる河川延長が問題だとすれば、相模川はほとんど遡上がないことになるのではないかなあ。
また、ダム魚道の下り阻害構造が親アユを産卵場に到達させているのは事実であろうが、それだけで、産卵親の極端な減少になっているのかなあ。
相模川の磯部の堰や、相模大堰がどの程度、産卵場への下りを阻害しているのか、わからないが、少なくとも、三,四年周期で、遡上アユが釣りの対象となるほどの遡上量がある。
なぜ遡上アユが激減したか=「湖産」ブランドの放流?
江の川には「湖産」ブランドの放流はされていたのかなあ。当然、行われていたはずである。漁協が漁業権設定の義務として、一定の放流量を義務づけられているから。
もし、「湖産」が放流されていて、そして、どのような人工種苗の生産をしていたのか、わからないが、それらの産卵時期が、江の川の遡上アユと重なっておれば、「交雑種」が、相模川等、太平洋側の川(サケが遡上しない川)と違って、大量発生することとなる。
「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)では、
@ 交雑種が翌年の遡上アユになることはなく、海で死滅している。
A 「遺伝的に異質な湖産アユが天然集団(注:海産アユ)の遺伝子組成を変化させないとすれば、放流魚由来の遺伝子(交雑魚を含む)が海域で全滅することを意味する。すなわち、交雑の程度に応じて天然魚の子孫は湖産アユの遺伝子と共倒れすることになる(内田印刷中)。」
B 「したがって、湖産アユと海産アユの産卵時期が重複する場所で、海産アユ天然魚の降河仔魚を増やしたいときには遺伝的に異質な湖産アユの放流は控えることが望ましい。」
サケの産卵が一一月一日ころであるから、江の川での遡上アユの産卵は、一〇月の中旬には終了しているのではないかなあ。
そして、産卵の始期は、湖産同様、九月中、下旬ではないかなあ。
とすれば、「湖産」と「海産」の交雑種が大量発生することになるから、翌年の遡上量は少ない、ということになると考えている。
これが遡上アユ激減の原因であり、放流アユに頼ることになったのではないかと考えている。
そして、遡上アユの減少を補うために、一〇月一日前後+−二〇日ほどに産卵盛期をむかえる湖産、継代人工の放流量を増やすほど、交雑種を増やし、遡上量の激減に拍車を掛けていたのではないかなあ。
「しまねの鮎づくり宣言」の結果、この状況がどのように変化したのかなあ。改善されたのかなあ。
江の川の人工種苗生産は、おらの想定よりも凄く早い。
神奈川県の三〇代目くらいになる継代人工は、一九九〇年ころに、狩野川では一九七〇年代に人工種苗の生産が行われるようになったようであるが、それよりも早い。群馬県産の継代人工よりも早い。
神奈川県内水面試験場の話では、継代人工の種苗生産は、群馬、次いで、神奈川が古い、との話であったが、江の川では何代めくらいで継代を中止していたのかなあ。
F「川と水路と田んぼ」(内藤順一さん)
「私は三良坂の灰塚ダムの環境調査を五年間やって来た。調査を始めて二年目の年、同行した先生が田んぼをのぞきこんで、
『ここのオタマジャクシにはヒゲがある』
というので言ってみるとナマズの子だった。
そういえば、六月ごろになるとナマズが小溝に産卵に上がるという話を思いだした。その次の年も、その田んぼにはナマズが産卵していた。聞けば毎年、産卵するということだった。そのとき、私は田んぼというのは、魚にとっても大きな役割をするものなんだということを知った。
次の年、田んぼで稚魚調査をしたら、実に一九種もいた。魚の多くは田んぼで産卵することを皆さんは知ってほしい。
先程、辻駒さんが支流が集まって大川になるという話をされたが、残念ながら今日の水路はヒューム管で大川へ排水されている。あれでは魚は上がれない。本流と水路と田んぼが続かないと魚は増えない。
大川を守るためには、田んぼと水路を守らなければいけない。ダルマガエルだけを残そうとしても駄目で、その餌などを含めて環境を丸ごと残すことが大切である。」
相模川のナマズはどこで産卵をし、稚魚はどこでしばらくの間、餌を食べているのかなあ。
望地の田んぼはコンクリートの用水路であり、水が流れる機能はあっても、ナマズが上ることは不可能。用水路に水を流さない冬には、かってはシマドジョウの死骸が多く見えたが、現在はたまに死骸を見つけるだけ。
野村さんが、生活排水を川に流さない生活をしていた、と話されていたが、その文化=生活様式は滅び、四万十川の汚れの一端を形成しているのではないかなあ。
G川那部先生は
江の川の荒廃の最後は、格好良く、川那部先生の「偏見の生態学」における「何が〈自然の学〉か―〈生態学〉的自然像を問う」で締めくくりかったが、おつむが追いつかないから、一般的な話にする。
「生態学大きな話」の「(4) 現状からの改良ではなく、根本からの解決が必要」から
「自然との対話をこそ」
「ドイツの陸水学者であるアウグスト=ティーネマンさんは、『水無くして生命(いのち)無く、水無くして文化無し』と書いています。水はこのように、単に人間にとっての天然資源であるだけではなく、それ以上のものでもあります。
二一世紀における私どもの暮らしは、『自然との対話』を基本にするものでなければならないと存じます。それも『自然一般』ではなく、それぞれの場所の自然、敢えて言えば、『人間がその中に生かされてきた自然』を、暮らしの中心に置かなければならないものです。それはある意味で、いわゆる『グローバリズム』とは正反対のものであるようにも、私には思えてなりません。
水質のところで私は、最近琵琶湖の底のほうがおかしくなっていることに触れました。私たち人間は、何と言っても陸上に棲(住)む生きものです。水中で起きていることを肌で感じるには、大きい限界があることを否めません。したがって、私たちは、『魚など水中に棲む生きものたちに尋ねかけ、その訴えている話をもっともっと聞くべきだ』と存じます。
いや、日本列島に生まれた仏教の先達は、例えば、一三世紀に次のように申しました。『諸有(しょう)の人民(にんみん)、娟飛(けんび)・蠕動(ねんどう)の類(たぐい)(空を飛んだり地上をうねうねとしているような連中)、阿弥陀仏(あみだぶつ)の光明(こうみょう)を見ざることなきなり』、また『山水草木(さんすいそうもく)、悉く(ことごとく)仏性(ぶっしょう)有り』、と。
人間は生物進化の産物であり、生きものは自然の中で、それに育まれて成立してきたものです。私たちの湖沼は、まさに『生命文化複合体』として、地球上でもっとも判りやすい、まとまった自然であります。」
「『ホモ=サピエンス』、『知恵あるヒト』と呼ばれる一種の動物である人間だけではなくて、地球上のすべての生きもの、いや、すべての自然が、この『第九回世界湖沼会議』の成り行きに、いま耳をすませている気さえするのです。」
川那部先生は、江の川漁師の思いを伝えておられるのではないかなあ。
そして、故松沢さんのオラへの説明の時の枕詞、「アユに聞いたことはないから判らないが」も、自己の自然観察眼を信頼はしているが、「絶対」とは思われていない。その謙虚さというか、まだ観察が十分とはいえない、限定的に過ぎない、という想いを込められていたのかも知れない。
もう一つ、オラが河川環境が美女で香しいあゆみちゃんを幻にしている、というと、故松沢さんは、アユが悪いんじゃあない、人間が悪い、といわれていたこと。
その人間にどの程度、期待できるのかなあ。まあ、おらはあの世から風の便りで、たしかめようっと。
なお、山本素石さんが、ゴギを求めて、神野瀬川で釣りをされたのは1971年か、その前であるから、まだ、豪雨による河川復旧工事の影響が出ていない。にもかかわらず、「ゴギの保護区」で、やっと手ごろな標本を数体得ることができたに過ぎない。毒流し以外にも、ゴギ等を激減させる人為があったのかなあ。
4 長良川の荒廃
「長良川の荒廃」といっても、河口堰のことではない。
河口堰ができる前の、遡上アユがいて、郡上八幡で目利きがアユの選別をしていた頃の話である。
(1)「老化した川」
やっと、「神々しき川漁師」に戻ってきた。
しかし、人間が利用価値がない、と軽蔑されていたという江の川でも「ドベ」の川になり、生き物が棲めなくなる河川工事が行われているのであるから、遙か昔から人間にとって住みやすい平野を流れる長良川、大都会近傍の長良川が荒廃していたことは十分に想像できる。にもかかわらず、昭和30年代後半から公害三法ができた昭和四六年?のころまでの一時期を除いて、川漁師が生活できたのはなぜか、不思議である。
「サツキマスのトロ流し網漁」の大橋亮一(昭和一〇年生まれ)さんは、
「うちの息子が生まれたんは昭和三十八年、長良川が駄目になってわしが一番苦しいときやった。砂利採り船が入ってきて、川を引っかけまわし、汚水で川がドロドロになってしまってよその川に出稼ぎにいかなならん時代やった。ほんで、漁師はわしの代でお終いにするって決めたんよ。だから、わしは一度も息子を漁に連れていかなんだ。連れていけば、殺生は子どもにとって面白いもんやで、跡継ぎてぇっていうに決まっとるで。
その後、少しはサツキマスが戻るようになってきたがよ、すでに長良川は流域の人間に利用しつくされて老化の一途だ。だゃーぶトシをとってまった。学者センセイにいわせっと、オーバー・ユースっていうんだってな。川筋をまっすぐにして、土手をコンクリートで固めて、一本の排水溝にしてしまったで、稚魚が棲めんの。親魚ばかりで子供がおらんで、どうして魚がふえんのかいのう。あちこちで観光開発やら宅地造成、工場誘致が進められて、そのたんびに川沿いの道を広げたり河川改修工事が行われとるんや。ほんでしまいにぁ、あの河口堰建設やでね。これでこの川はご臨終や。」
オラの関心は、ご臨終になる前の長良川である。
故松沢さんが名人が釣れない、来るな、というのに出かけた郡上八幡、オラが沖に走られるという初体験をして丼を食べた美濃市役所近くの長良川。萬サ翁を慕って行かれた前さん、あるいは、萬サ翁が用意していてくれた標本だけでは満足できずに、「シラメ」を釣りたくて、萬サ翁の教えどおりの場所、釣り方をしても坊主であった素石さんご一行。
野田さんが急流を愉しみ、御漁場に潜ってシャネル五番を全身にまとうことができた長良川。
「じつはここだけの話、河口堰つくるにあたってわしら組合員は補償金として一律百八十万円もろうとんのや。百八十万円なんて、ぼくんたの年収の何分の一やで。今後何年漁ができるかわからんがよ、堰を開けてくれればアユもサツキマスもカニも遡ってくるんやから、どうぞ開けてくださいいうてるんや。堰を開けてくれれば(川は)少しは生きのびれんのやから、補償金なんていつでも利子をつけて返しますよっていうてんの。
聞く耳なんかもっとらんよ、やつらは川の機能を知らんもの。自然の力より自分たちの力のほうが強いと思うとるで。そういう連中のおかげで、長良川は蘇生(そせい)するチャンスももらえず殺されるんだおるね。今はほんま、息子に後継ぐがさんでよかったとつくづく思うてる。」
河口堰上流の富栄養化、あるいは水が流れているところでは繁茂しない浮遊性植物プランクトンの大量発生、堰下流での河床のシルト化、汚濁の進行等、いろいろあり、村上先生も調査にたずさわれておられるようであるが。
宇津木早苗「河川事業は海をどう変えたか」(生物研究社)は、そのことが書かれているものの、将来読むことにしょう。
(2)「三白公害」
天然の魚が減ったことに係る原因として、恩田俊雄(大正14年生まれ)さんは「三白公害」を上げられている。
「郡上の川には“三白公害”いう言葉があるんや。ダイコンの白、雪の白、コンクリートの白や。上流にできた大規模なダイコン畑からは農薬が流れ込み、山を削ってのスキー場開発で水量が減り、コンクリートの護岸・堰堤工事で川はズタズタになってしもうた。
そして、致命傷だったのが、あの河口堰じゃ。海との道を断ち切られてしまったので、海と川を行き来するアユやサツキマス、アヤカケやチチコ(ヨシノボリ)なんていう魚が生きていけんようになった。
十数年前に与一マ(注:菱田与一)が死んでからというもの郡上八幡から川漁師が消え、漁師町もだいぶ色あせてしもうたわい。
自然の厳しさや奔放さを押さえこんで、上っ面だけとりつくろって汚れたもんはみーんな川に流してしまう風潮がはびこっとるようやが、川に商品としてのアマゴやアユがおらなんだらただの排水溝や。吉田川には『川ガキ』いう水遊びの好きな子供たちがおるが、川ガキが遊べんような川になってしまったら、水の町が泣くわい。川は水が流れていればそれでええいうわけやないでな。魚が棲み、子供が安心して遊べる川の恵み、川のもつ力というか、そういうものがなくては魅力がないやろう。おまん、そうは思わんか。」
二人の長良川漁師が語ることで、河口堰ができる前の長良川の荒廃の状況、河口堰が息の根を止めたことが適切に表現されていると考えている。
それでも、いまだすばらしき長良川が残っているところもあった、ということであるから、なぜか、を川那部先生で見ることにする。
(3)川那部先生の長良川
大橋さんと恩田さんの長良川の観察と評価には、すべての原因・見立てと処方箋への道筋が表現されているものと考えている。
それをもう少し考える意味で、川那部先生が見られた長良川を見ておきたい。
川那部先生は、1974年(昭和49年)11月に、長良川に行かれていて、そのときのことを含めて1975年3月号の「川吠え」に書かれている。
「偏見の生態学」には、その文章が「長良川は病んでますな」に掲載されている。
ア 川那部先生の観察の仕方
「『一番悪い時期に来られましたね』。統計研究会主催の『環境国内診断・河川』の長良川調査に同行することになり、漁協をたずね漁師の人々から話を聞くたびに、つねに最初に出てくる言葉はこれであった。一一月に河川生物全般を調べるという不都合――つとにそれを知らぬ私ではない。一九七四年夏に川潜りをするつもりがどうしても日程をとれず、翌年夏にはと思っていた矢先の勧誘に乗ったのは、その準備の準備程度のつもり――とても『調査』の『提言』のといった話ではない。」
「科学というのはなんでもそうだと思うが、時と所により実情は甚だしく異なるというのが最初の出発点なのであって、一般性はそれを前提として初めて求めうるのだ。川の生物、特にアユの川での生態に関し二〇年ばかり仕事をしてきた私だが、こと長良川に関しては、一九五八年に一回と七四年に二回の計三回のみ。それもいずれも潜って姿を眺め得る夏を含まない。川の生物の調査は、まずその場所で生物を対象になりわいを営んでいる人たちの話を聞くところからしか始まり得ないし、また、その人たちと絶え間なく、忌憚(きたん)のない討論を通じてしか進行し得ない。
そういうわけで、ともかく一一月一四日から一八日までの間、話を聞き、生物を若干採集し、あとは川を『視察』して廻った。」
アユが食して藍藻に遷移する、すばらしい営み、との阿部さんは、「時」:歴史の観念が欠如している典型であろう。
そして、千曲川や、木曽川で実験結果を検証されたから、「実験結果」は適切である、との発想は、「清流」=藍藻ではなく、珪藻が優占種になる「場所」の知識、経験も持ち合わせていない「都会っ子」ということかなあ。
そして、おらが、神奈川県内水面試験場の流下仔魚の親に係る評価をおかしい、間違っちょる、と考えて、あゆみちゃんを売って伊豆長岡温泉のネエちゃんと懇ろになっていたこともあったと想像している故松沢さんに、聞いていたことも、川那部先生の調査手法と異なってはいなかった、ということで、小なりに自己満足をしている。
もっとも、川漁師全員が観察眼が優れている、推察に長けている、ということではなかろうが。
イ 汚い長良川
「長良川はきれいな川だと言われる。隅田川や多摩川さらに淀川と比べれば、あるいはそうでもあろう。だが、排水溝ではなく川としてそれを見るとき、現長良川を美しいと感じる人ありとすれば、その目はすでに濁って、いや濁らされている。岐阜市内より出る荒田川・境川・逆川は古くから問題であった。一九五八年(注:昭和三三年)岐阜大学教授小泉清明さんは、これらの支流は水生昆虫も生存せず、汚水の排水溝にすぎぬとし、合流点より下流少なくとも左岸側もこの影響を著しく受けていると指摘。この点は現在も同様、いやいっそう悪化している。合流点付近は車中でも悪臭強く、調査はおろか降りてみるのも御免蒙ったほど。名神高速道橋あたりですら、川底には黒色の腐泥と砂粒が相互に積み重なり、表面には汚水菌を含むいわゆるヘドロがただよう。漁協の好意による地曳き網においても、とれるは臭いのするフナ類・タモロコ・タイワンドジョウなどのみ。」
「中流美濃市附近は、一九六〇年代に製紙排水問題を生じた所。たとえば片知川からでた白土と繊屑からなる泥状の廃液は、板取川から本流の底を埋め、六九年(注:昭和四四年)夏には毎日のごとく魚の浮上あり。ついに翌七〇年六月二日アユ大量死事件をひき起こした。これを機会に漁協の強い抗議が起こり、排水処理が若干なされ、少なくとも七一年は片知川にも白泥はなかったという。しかし、今回は、少なくも片知川河床は白泥が完全に覆い、水また青味を帯びた白濁。製紙排水の量と魚との関係については、関市在住の教員後藤正・宮子さん夫妻の研究にも明らか。再び汚水状況の悪化明白なる現在、魚もまた明瞭に減少している。」
オラが美濃市に行ったのは、平成になってからであるから、昭和四五年ころの水質は改善されていた。もちろん、公害三法における水質基準で、規制対象とされている項目に限定された意味での「水質」であるが。
その頃、根尾川の木知原にも一回行ったが、根尾川の方が水はきれいと感じていた。石も茶色に見えたから、珪藻が優占種ではなかったのかなあ。
それにしても、長良川に多摩川や相模川並の汚れた場所があるとは…。四万十川でも中村付近では赤潮が発生しているともあるとのことであるから、不思議ではないよなあ。なにせ、人間が扇状地等、川が暴れ回ってつくった平野を占拠している濃尾平野であるから。
ウ 川のかたちの悪化
「汚水問題への関心は、地域住民さらには都市に住む者共にも今やいくらか広がった。しかし、川のかたちの悪化に対する危惧はまだ極めて弱い。源流蛭ヶ野高原付近の状況は、四手井さんの『提言』にもある通り。同様の関係は、郡上八幡で合流する吉田川(上流に乱開発少)と本流においても、濁度・水量ともに明白に見た。郡上漁協員いわく。『昔は支流のアユがまず降河し、それが本流のアユとともにしばらく生活。そのあとともに降河した。最近は本流のアユが先に降河し、その後支流のアユが本流に滞在することなく直接に降河する。』と。吉田川より本流の、増水時の濁り甚だしく、また増水流量に比して淵の容量の著しく小さくなったこと、以上二つからくる現象を的確に表現するものである。砂の堆積はカマツカなどの数の増加においても明白。これらはすべて、開発等による土砂の流入と、河川『改修』工事が原因なのである。このまま事態が進行すれば、アユを仮に放流しても、それの棲めぬあるいは成長せぬ川となり行くこと必然である。」
増水時の下りの行動が、一気に下る、現象であるとはいわれているが、「一気に下る」という事実はどういうことなのか、故松沢さんに聞き忘れていた。
「一気」に下るといっても、性成熟がまだピークに達していない者もいるであろうから、それらが産卵場に大量に集結すると、餌不足になるのでは、と心配している。どこかで、休むものもあるのでは、と想像している。
二〇〇九年は、平成二,三年以降初めて、昭和の代と同じくらいの遡上量があった狩野川。一一月二一日までに、「秋分の日」以降、数回の五,六〇センチの増水があったが、途中で下りを休んでいるのがいるのではないかと思えた。また、雲金にはまだ下りをしないものもいた。
一メートル以上の増水ではどうか、わからないが。また、産卵場に到着したら、急に性成熟が進むのか、どうかも判らないが。
そして、「一気に下る」の意味は、下りの時の動作の一形態を表現しているのではないのかなあ。増水でないときの「下りの時の動作」とは、頭を上流に向け、一瀬、一瀬と下っていくやり方である。増水の時は、頭を下流側に向けて下る、という動作と鈍行ではなく、急行での下り=一瀬一瀬ごとの下りではない、ということをいうだけではないのかなあ。そうすると、下りのための集結をしない段階の、つまり、性成熟があまり進んでいない鮎は、雲金に残るものが多い、ということではないのかなあ。
濁りが、吉田川の降下行動の変化を起こしている、あるいは、本流よりも支流の方が下りが遅くなった、とのことであるが、なんでかなあ。
淵の容量が小さくなった、ということであるが、淵はどのような役目をしていたのかなあ。城山下の淵がアユが好まない場所になったのは、砂底になったことが原因であろうが。
恩田さんが「三白公害」と表現されているスキー場は、蛭ヶ野の大日スキー場であろう。
故松沢さんは、増水による下りではなく、一瀬、一瀬を下るときも、老いも若きも、ではなく、「大も小も」入り混じって群れをつくっている、とのことであるが、これが性成熟の度合いと一致していないとすれば、産卵場に到達するまで行動をともにするのか、それとも途中下車をするのか、それとも、産卵場に到達すると、性成熟の度合いは一定の水準に高まるのか、今となっては、「アユに聞いたことはないから判らないが」の枕詞で始まる観察結果、経験を聞くことはできない。
増水の時の「一気の下り」とはいっても、弥太さんがウナギについて話されているウナギの下りイメージとは異なると思っている。
エ 増水と濁り
川那部先生は、「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会)の「ほんものの川を求めて」の章に長良川の荒廃のことを書かれている。
「曖昧の生態学」は、「在庫切れ」の表示がされていたが、2010年1月にはネットで購入可能となった。
長良川について、「偏見の生態学」に引用されていることのほか、昭和49年に「調査」ではなく「視察」されたときのことを書かれている。
「『その二,三日後、郡上八幡で目覚めた朝、夜来の雨に本流は濁っていた。いっぽう支流吉田川はささ濁り程度。前日に〈視察〉した本流源流部分の、スキー場・ゴルフ場・レジャー施設・集約農場などの大規模開発のすさまじさを思い起こし、また二つの川の濁度・水量の明らかなちがいに、いささかならず呆れ、かつ吉田川の状態にほんものの川を見る思いであった。』」
「『しかしその昼、天然記念物のウナギの産地―粥川に立ち寄ったところ、自分の目を疑った。この川、藻類の付着状況から見るに、水量は前日の二倍をはるかに超えていること明白であるにもかかわらず、水はあくまでも清澄。深さ二メートル以上の淵の底まではっきりと見えた。思えば、アユの調査に京都府下の川を初めて周ったころは、かなりの雨が降り続いた後も、降り止んで一晩もたてば、潜ってアユの行動を調べるにさしたる支障のない川がまだあったのである。雨が降り増水すれば、水は少なくともささ濁り程度にはなるもの―こういう思い込みはじつは、もはや濁らされた眼での判断であったのだ。』すなわち、先の東京の学生氏と全く同じ。言いかえれば、ほんものの川のすがたをすでに忘れていたのである。」
「東京の学生氏」のこととは、
「ところで一九七四年この下流(注:荒田川、境川等の支流の影響を受けている下流)で、『公害に関心を持っている東京の学生氏が、腐泥の上に藻の僅かに淀む岸にたたずんで、〈下流でもきれいな川だ〉とつぶやくのを聞いた。水は半透明。深さ一五センチぐらいのところなら、底がまだ確かに見透せぬこともない。隅田川・多摩川よりはまだまだましな川なのだろうと、私は妙な関心のしかたをした。すなわち寒心にたえなかった。』」
いや、相模川も千曲川も、それよりは透明度が高いから、珪藻が優占種になることもある、ということか。
しかし、おらは、相模川も千曲川も藍藻が優占種の川である、との考えを変えるつもりはない。阿部さんや、神奈川県内水面試験場の研究者の調査報告及びその評価には「寒心にたえない」と思っている。
もちろん、巖佐先生が「きれい好き」と表現されている珪藻にも汚い、あるいは富栄養の水でも生活できるある種のニッチア属?がいるとのことであるが。
粥川は、板取川の上流、亀尾島川の下流にあるそれほど大きくはない支流のようである。
野田さんは、見過ごしたのかなあ。それとも、三級、四級の瀬を下る快感に酔いしれていたのかなあ。
亀尾島川上流でも道路工事が行われたとの話があったと思う。今も「清流」かなあ。土砂が石を、淵を埋めていないかなあ。
「天然記念物」のうなぎとはどういうことかなあ。
オ 荒廃と産卵場所の「遷移」
「岐阜市域のやや下流においては、河床の低下とそれによる砂防・水制の破壊が著しい。下流漁協員の舟に同乗したが、他所者の私にも明々白々である。アユの産卵場所は従来は東海道線鉄橋のはるか下流であったが、『年々瀬一つずつ上流に移り』現在は忠節橋下流から菅生にかけてであると聞く。一方やや上流長良橋付近の底質は、現在ひと抱えの石殆どなく、したがってアユ生息場として一等地ではない。話を聞いて一九五八年(注:昭和33年)の野帳記録を帰洛後見たところ、この付近アユ生息地として良好とあった。これらの変化は何のせいか?原因にはいろいろのものがあるが、それをこうまで大きく続かせた元凶の砂利採取といわゆる河川『改修』にあること、これもまずまず確実である。」
一九五八年から一九七四年まで、一〇年あまりで生じた底質の変化。
石が埋まる変化は、大井川では長島ダムができた二〇〇四年あるいはその前のダム建設工事の影響が出ていたであろう頃から生じていた。瀬が、淵が、石から砂利に変わり、アユが生息する一等地がどんどん消滅している状況と現象は同じである。ただ、大井川はダム建設と運用が要因である点で長良川とは違いがある。
むしろ、長良川での石が消滅した要因は、狩野川城山下の一等地の消滅と共通する要因が多いのではないかなあ。
カ 「改修」とは
「『改修』とは立派な言葉だ。しかしその『改修』とは、水を可及的に早く海へ流すことのみを目的としている。曲流し蛇行しながら瀬と淵をつくってきた川を、直線化しだらだらと流れる同じ傾斜の続く川に、いや溝にせしめようとのこの最近の工事方式。水の流れをなだめるための水制なんぞという工事は『古い』として捨てられ、水は流れるのではなく流されるかたちとなったのだ。長良川はこの点でも隅田川、多摩川、淀川よりはまだましに違いない。しかしこうした『改修』工事は方々で進行中。また二重に堤防があり、中間が洪水時の遊水池となっていた場所は、内側堤のかさ上げを理由にすでに宅地化され始めている。洪水時の河積増大を第一の名目にされている『長良川河口堰』の『目標』とは全く逆に、河積はわざわざ縮小されて行く。しかもその下流に、前回の大洪水の最大の溢流点のある場所においてさえもなのだ。」
この川那部先生の文が、的確に理解できる事例がオラにとっては、狩野川である。
狩野川がまだ、溢水するほどの堤防高であった最後の頃を、そして、瀬と淵があった頃を知っているから。
狩野川の雲金、左岸殿淵から右岸への流れが右岸側になると瀬になっていた。その中間のザラ瀬では、昭和の終わり頃、オリンピック友釣り大学で、講師をしていたどらえもんおじさんが、くたばりオトリのついたオラの安物の竿を貸せ、といって操作をした。
ザラ瀬を斜め上流に引く。
なんで、オトリは嫌々をしないんじゃあ。なんでそんなに素直に斜め上流に引かれ、オラが引くときとは違って文句一ついわんのじゃあ。
差別じゃあ、ヘボの人権無視じゃあ、と叫びたいです。
右岸寄りの瀬では、第1回マスターズ優勝の本間さんが、根掛かりを外しに潜り、そのまま対岸側から釣った、という由緒ある場所、史跡である。そこにブルが入り、吊り橋下流まで平坦なチャラ状にしてしまったのは平成の初め頃。
いまだ、川らしい瀬、流れと深さに変化のある瀬、淵は回復していない。
故松沢さんが、城山下の淵を埋めるとの話があったとき、漁協で反対を表明していなければ、殿淵下流同様になっていたであろう。
そうそう、故松沢さんは、淵上流、藪下に薪能をやるために砂利を積んだ舞台をつくること、一本瀬の左岸が大きな石を入れたときも反対されていたなあ。
今や、能舞台の砂利だけでなく川原全部が、石から砂利の堆積に変わり、流れの中でも一本瀬、石コロガシの石はどこかに消えたようで。さらに、一本瀬すら痩せ細り消え去るのでは。
キ 「改修」と生き物
「かくのごとき河川のかたちの変化によって、生物は失われていく。アユやアジメドジョウなど、本来流れの速い瀬にすみ石の上の藻を食う連中は、早瀬の減少とともにその生息場所を奪われて行く。だらだらの溝川をむしろ好むのはオイカワばかりだが、この魚も工場排水、とくに製紙排水には弱い。条件が重なれば残る魚は皆無に近い。」
相模川は高田橋から、寒バヤ釣りの風景が消えて20年近くになる。このハヤ、ヤマベの減少はなんでかなあ。冷水病?鵜の食害?それとも?
ク 河口堰建設目的は?
川那部先生が、河口堰について書かれていることを理解するには、オラのおつむではしんどいことと、学者先生が相模川や四万十川での海産鮎の産卵が10月1日頃から大量現象として観察されるほど行われている、ということに対するおらのいちゃもんが荒唐無稽ではないことを証明する「証拠」を、川那部先生の本に見つけて、うずうず、わくわくしていて早く「故松沢さんの思い出補記その3」に移りたい、という下心もあって避けたかった。
サケが遡上しない太平洋岸の海産アユの産卵時期が、西風が吹く頃=木枯らし一番頃以降、10月下旬以降であることを、「ヘボ」の歯ぎしりではなく、「アユの本」の高橋さんや神奈川県内水面試験場の方々と同じ土俵に立っている「学者先生」の調査報告であるから、高橋さんら、オラのいちゃもんを無視された「学者先生」も、なんでかなあ、と考えざるを得ないと思っているから。
しかし、大橋亮一さんが、「これでこの川はご臨終や」と、見立てた河口堰に触れざるを得ない。
とはいえ、「長良川は病んでますな」の章に書かれていることだけにどどめます。
「ところでここに、河口堰をつくって『治水』と『利水』を行う計画が水資源開発公団によって進められ、一方これに対して工事差し止め請求裁判が進められている。この場合最初に問わるべきは河口堰の必要性である。『治水』のためにこれはどうしても必要なのか、それ以外の方法はないのか、『利水』は誰が利するのか、水供給の増大によって地域のひずみは解消するのかどうか、などなどである。推進派の現在の説明では、この点いくら控え目に言っても疑問なしとしない。
次に影響である。科学の知識は発達したとはいえまだ自然の法則全体に比べれば、ごく小部分に過ぎないことはいうまでもない。現在予測可能な影響は、実際に生起するものに比して常に過小評価になることはほぼ確実である。また工事中工事後の操作において前提となるとされる条件は、経済的政治的配慮によってたやすく変えられてしまうことを、私自身過去にいやというほど苦汁に満ちて知っている。それらはいま言わず、前提をすべて認めたとしても、魚類など生物に対する影響は計り知れない。予定されている『優れた魚道』は過去に存在する魚道に比して優れているということであっても、障害物のない川と同様などという魚道は、これは最初から不可能である。淡水域の汚濁化も、利根川の例からも判るように著しくなる可能性は高い。」
「治水とは何よりも、川の上流から下流まで川の性質を保ちながら水を流れさせ、水を涵養することにある。片々たる河口堰によって治水を代行させようとの考えは、公団がそれを真実信じていようと、単にカムフラージュのためにいうのであろうと、長良川本来の治水からことをそらせる結果になるように思えてならない。
長良川は『日本中央部には珍しい良い川』だという。しかし、誤解を恐れずに言えば、長良川は今や虚弱ないし病気にかかった川で、決して健康な川ではない。五日間の結論を感覚的に言えば、極めて奇妙な川で、健康な部分と病気の部分がモザイク状に入り混じっている。言いかえるならば、長良川にとって現時点は、これを川に戻すか溝にするかの分岐点にあると見て良いのではなかろうか。どちらが望ましいと考え、それへの第一歩に力を貸すかどうか――それは第一義的には、長良川に住み、生活している人の判断で決めるべきである。」
この長良川河口堰の文章には、故松沢さんでも、「学者先生はそういうが」の、吐き捨てるような口ぶりの枕詞を口走ることはないのではないかなあ。
この文章を故松沢さんに読んで、といって渡して後、あゆみちゃんに愛想を尽かされて心ならずも故松沢さんの観察された経験を聞く時間ができたときには、「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」の時と同じく、「よく観察している」といわれるのではないかなあ。そして、「学者先生」の中にも、「まともな観察をする人もいるなあ」と言われるのではないかなあ。
この文章が書かれたのは、一九七五年(昭和五〇年)のことである。
それから二〇年後には、川那部先生の願いもむなしく、長良川はご臨終を迎えた。
ケ 開発と川のかたち
恩田さんが話された「三白公害」は、長良川だけの話ではなく、四万十川でも江の川でも、そのうちの二つか三つかの違い、多寡、大小に違いはあるとしてもいずこの川も秋の夕暮れ、を通り越して、冬景色になっていることは想像できる。
長良川の最後は、開発が川に及ぼしている文章で終えます。
川那部先生の「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会)の「ほんものの川を求めて」の章から
「一九七五年(注:昭和五〇年)の〈視察〉は、当時一橋大学学長であった都留重人さんを代表とする環境・国内診断調査団について行ったものだが、この団員で源流域まで同行してくださった四手井綱英さん(当時京都大学)は、『植生伐採・地表流増加・地表土流失・洪水量増加・河道上昇・渇水時異常減水の悪循環を引き起こす、水源地帯開発行為の規制強化』を提言している。白鳥町あたりまでは私もその後も何回か行っていたが、蛭ヶ野高原までは一九九〇年一月、日本自然保護協会河川問題特別委員会の面々とともに、一五年ぶりで上がってみた。雪が積もっていたのはもちろんながら、当日は快晴で全体が見渡せ、規制など薬にしたくもないその開発のすさまじさに、委員一同〈感嘆〉の声を上げた。」
という状況であった。スキー場その他開発によって山の木が皆伐されていたということを想像できる。
川那部先生はこの後に、
「治水とは何よりも、川の上流から下流まで川の性質を保ちながら水を流れさせ、水を涵養することにある。片々たる河口堰によって治水を代行させようとの考えは、公団がそれを真実信じていようと、単にカムフラージュのためにいうのであろうと、長良川本来の治水からことをそらせる結果になるように思えてならない。」
の文章を引用されて、
「以前の雑文を引用しているあいだに、意見めいたことを再録してしまった。だんだん興奮して来て、何を書き出すか判らなくなりそうである。ここらで筆を措こう。」
と。
川那部先生でも沈着冷静な感情を保持できなくなるということは、新鮮な驚きであり、また、その状態を招来する環境になっていることが、恩田さんの三白公害のひどさを証明しているのではないかなあ。
この章の「おわりに」は、
「高橋裕さんは、その著『利根川物語』に次のように書いている。『自然がつくった川の道は、自然勾配にそってもっとも無理のない川筋を選んで流れている。曲がりくねった流路をまっすぐにしたり、本流をつけかえたり、われわれは洪水からまぬがれようとして、いろいろな技術手段を行ってきたが、大洪水の時には、旧河道を復元させつつ、氾濫することがしばしば見られる。この約一世紀のあいだに、私たちはせっせと頑丈な高い堤防をきずき、けんめいに治水にはげんで来た。おかげで洪水は今までのようには遊ばず、いっきに河道へ走り、雨どいのようにまっすぐになった河道を、ひた走り河口めがけてつきすすむようになった。こうして、治水工事を熱心におこなった川ほど、洪水流量が増大するという結果になった。明治以来の治水方針によって、豪雨の量は同じ程度であっても、洪水流量ははるかに大きくなって来たことはまちがいない。』
二年前私はある雑文の中に、以上のように引用しておいた。この著名な河川工学者のこの本での主張を素直に延長していくと、長良川河口堰などは要らないことになる筈と思うのだが、これは僻目(ひがめ)であろうか。それはともかく、私はこの雑文の最後を次のように締めくくっておいた。今回もそれを再録しておこう。
「〈わたしは史料を調べて見て、其中に窺われる自然を尊重する念を発した〉とは、誰もが知るとおり、森鴎外(注:「鴎」は、旧字?を使用されています)さんの『歴史其儘と歴史離れ』の一説である。河川のあるべき姿を考えるのに、この〈自然を尊重する念〉を離れては成り立ち得ない。この念はわれわれの目から恣意の雲をはらうであろう。もっともこの念さえあれば、必ずもっとも近似的な〈自然〉を考えることができるだろうなどと、御方便的な約束は与えられていない。ただこれなくしては、川について考え、その上に立って行った物事の全体は空虚な、少なくとも脆弱なものでしかあるまい。いやこれなくしては、われわれ自身を破壊する以外のもにはならない。」
「ほんものの川を求めることは、私たちの物質生活と精神生活とを正しく進めるための、必要不可欠な作業の一つなのである。」
5 「ほんものの川を求めて」
(1)「洪水の制圧」思想と大熊先生
大熊孝「川がつくった川、人がつくった川 川がよみがえるためには」(ポプラ社)
この本は、子供のために書かれており、ふりがなが振られていますが、省略します。
A 「河川技術の三分類」
「今まで学んできたことを要約すると、川は、地球における水循環・物質循環をつかさどっていますが、流量変動が大きく、場所ごと地域ごとに形態の変化が激しいということです。いいかえれば、川の現象は、時間的・地域的・場所的に激しく変動するということです。
こうした川を相手に、人間はどうかかわるかが面白いところで、そこに川に関するさまざまな技術が生まれてきます。
たとえば、自然の力が圧倒的に優勢で人間の側が自然の変動に従属しなければならない場合は、『自然に対する受け身』の技術になります。自然の変動と人間の知恵がうまく合致する場合は『自然と共存』する技術となります。そして、自然の変動を克服してしまう場合は『自然を征服』する技術となってしまうわけです。いずれにせよ、河川技術は、川の地域的・場所的変動(空間軸)や時間的変動(時間軸)への対応が重要になります。
このさまざまな河川技術は三段階に分類すると理解しやすくなります。そこで、武田信玄が、甲府の釜無川とそれに直角に合流する支流・御勅使川(みだいがわ)にほどこしたと伝えられる河川技術でその三段階をみていくことにしましょう」
御勅使川(みだいがわ)での技術
「御勅使川の洪水は急流で釜無川の堤防に直角に激突するため、破堤が頻発しておりました。そこで、信玄は、御勅使川を図15のように二派に分けて釜無川に合流させ、上流側で合流させた洪水を釜無川左岸の高岩にぶつけ、そこで反転した流れを下流側のもとの合流点に向かわせ、御勅使川のもう一派の洪水にぶつけることによって、洪水の勢いを殺(そ)いだといわれています。すなわち、『水でもって水を制し』、破堤を防いだというわけです。」
亡き師匠らと、釜無川に釣りに行ったとき、信玄堤の説明はしてもたったが、「水で水を制す」まで、説明をしてくれたかなあ。オラは単に堤を強くした、流れを二つに分けたというくらいにしか思っていなかった。
そのときは、笛吹川にまず行った。なんとも泥の多い川、と思った。後日、石和温泉付近では、石がある、との話を聞いたが。
釜無川は、平成の初め頃であったから、石は大きく、水は相模川とは比べものにはならないほど、きれいではあったが、「湖産」ブランド、あるいは人工鮎に、滋賀県が隠していたものの、冷水病が発生していた頃であるから、アユは殆ど釣れなかった。
@ 思想的段階
「まず、この技術全体の発想は、戦国時代という社会条件を背景として、地形・地質等を大局的に把握し、川の特性を正確に理解していない限り出てくるものではありません。その意味で、この発想そのものが重要な技術であるといえます。この発想の段階は、河川をどう開発・保全するかという大局的な観点に立っており、計画的段階といえます。ただ、自然観や社会観などあらゆるものの見方が基礎となって発想されるわけですから、思想的段階といっても良いでしょう。」
A普遍的段階
「次に、高台にぶつけ反転してきた洪水を下流の合流点にちょうどぶつけたという技術ですが、そういうことを予期して川の形を決めたとすると、信玄は洪水現象を空間的にも時間的にも的確に把握していたことになります。この技術は、川の流水現象を科学的、普遍的に認識しておかなければ達成できません。そこで、この段階を普遍的段階とよぶことにしておきましょう。」
B手段的段階
「さらに、信玄は、御勅使川を二派に分ける分岐点に将棋頭という石組を置き、洪水をうまく分流しています。流水を分派させる技術は、現代でも大変難しく、後で述べますが、分岐点に堰とか水門をつくらねばなりません。信玄はそうした堰、水門をつくらずに分派に成功したというわけです。そのほか、信玄は、木材を組んだ牛枠類という、流水の勢いを弱めるための水制(図16参照 図は省略。牛枠、聖牛等、6種が描かれている。)や、前述した雁行(がんこう)する霞堤、さらに後述する堤防を保護し洪水の越流を抑制する水害防備林などをあみだしたと伝えられています。すなわち、信玄は川を制御する具体的な技術にも優れていたことになるわけです。この技術は、思想的段階で発想され、普遍的段階で認識されたことを具体的に実行する手段であり、手段的段階とよぶにふさわしいでしょう。」
C生物の没却
「このように河川技術を三段階に分け(表2 :省略)、それぞれの時代になにがすぐれ、なにが不足していたかを考えると、技術の発展状況が整理され、複雑な川の技術が理解しやすくなります。
たとえば、江戸時代と明治時代以降の河川技術を比較すると、鋼やコンクリートといった材料、土工機械力、ポンプなどの手段的段階で明治時代以降は大きな発展がありますが、信玄の事例や、最初の方で紹介した新川の飛砂をおさえてからの掘り割りなどでみたように、第一段階の思想的なところや普遍的段階では意外と優劣つけがたいところがあります。むろん、普遍的段階は、明治時代以降、科学の導入によって大いに進んだのですが、川の生物に関する生態的な認識の重要性は最近になってやっと意識され始めたにすぎず、日常生活と深い関係にあることなどは、昔の方がすぐれていた点も多々あるのです。」
「表2 河川技術の分類」には、第一類として、思想的段階、普遍的段階、手段的段階のまとめのほか、「第2類」として担い手での分類もされている。
「 私的段階 …個人的対応
(水屋、避難用の舟:自然に受け身)
共同体的段階…連帯的対応
(水防・地域間対立の発生:自然との共存)
公共的段階 …大局的対応
(治水・地域間対立の解消:自然の克服)」
とのこと。
しかし、「自然の克服」は、できたのであろうか、あるは、「自然の克服」が可能であるという考え方はなにを失ったのであろうか。
B 「川のコンクリート化はなぜ悪い?」
@植物が生えない→食物連鎖の破壊
「洪水の流れで川岸が壊されないように保護することを護岸といいますが、石や杭でおさえたり、樹木を生やしたり、いろいろな方法があります。それがコンクリート護岸ばかりになってしまったのは、工事がしやすく、安く、丈夫なことや、洪水を流すときの川の断面積を大きくできることなどから、工事をする側からみて都合がよかったからです。また、コンクリート護岸にすると雑草が生えず、管理がしやすくなるので住民からも大歓迎されました。
しかし、悪いこともあるのです。あまりに洪水をスムーズに流すので、下流に洪水が集まりやすくなり、大きな水害を出すようになってしまいました。そして、その水害の出たところをコンクリートにするという悪循環に陥ってしまいました。だれもが近くの川から水害を受けたくないということで目先をコンクリート化しているうちに上流から下流まで全部がコンクリートでおおわれてしまうような川になってしまったのです。
さらに悪いことに、コンクリート護岸にすると生物がすめなくなります。まず、コンクリートの表面は、夏に直射日光にあたると六〇℃から七〇℃と高温になり、植物が育たなくなります。だから草が生えず管理がしやすくなるのですが、植物が育たなければ、バクテリアから昆虫まで小さな生物は隠れる場所もなくなり生きられなくなります。そして、小さな生物がいなくなると、それを食べていた魚などが生きられなくなり、さらに魚を食べていた鳥たちが生きられなくなるという悪循環に陥り、生物が川からいなくなってしまうのです。こうした生物間の食べ・食べられる関係を食物連鎖といいます。」
「川に生物がいるということは、水に含まれている汚れが生物の体内にとりこまれ、水質がよくなることも意味します。昔から『三尺(約九〇センチメートル)流れて水清し』ということわざがありますが、こういう生物の働きで水がきれいになる自浄作用を表現したものです。」
A物質循環と共生
川那部先生は、人間が川に自らの生活物資を流すと、物質循環にどのような変化をもたらすか、あるいは、「他者の存在」を前提として、物質循環の均衡が保持されてことを書かれている。
(「曖昧の生態学」:農産漁村文化協会)
「他者の存在を前提として」の節から
(原文には改行はないが、読みやすくするために改行をしています。)
「この琵琶湖、ここでの生物生産の基礎となっている主なものは、いうまでもなくプランクトン植物、すなわち、水のまにまにただよう顕微鏡的微生物です。これが増加していくためには、炭素や窒素や燐や、その他のいろいろな物質、すなわち栄養塩類が必要です。
もう四〇年近くも前の話ですが(注:この文は、一九九三年の講演会での原稿)、名古屋大学の坂本充さんが、この植物プランクトン、プランクトン植物の群集は全体として、一日どれくらいの物質を必要とするものなのかを調べました。そうすると、当時の夏の状態では、たとえば水の中の燐は、一週間ほどで完全に、植物プランクトンに取り入れられてしまうことがわかりました。すなわちプランクトン植物は、一週間たつとそれ以上は増殖を続けられないわけです。しかし実際にはそこで止まらずに、増殖を続けます。なぜかというと、プランクトンに取り入れられた燐は、それを食うプランクトン動物へうつり、それがバクテリアなどによって分解され、こうしてもう一度、水の中に戻ってくるからです。いいかえれば、自分を食いあるいは分解する生物がいなければ、プランクトン植物は増殖し続けてはいけないわけで、それが定量的にあきらかになったのが、四十年前の話です。
それでは今、仮にその燐を、どんどんほうりこんでやったとしましょう。そうすれば動物などに食われなくても、植物はつぎつぎに永遠に増え続けるのかどうか。先ほど申した『持ち出し』の話、すなわち汚染問題などは、ひとまず横へおいておいて、なにが起こるかを考えてみましょう。場所のほうも、今度は湖から離れて、陸上の森林を想定します。
樹木が、生きているにせよ死んでいるにせよ、ずっと立ったままであったとしますと、いや、樹木が倒れて地面の上に丸太のままで横たわっているとしても、地面はそれらに埋めつくされて、土は表面には現れないことになります。したがってそこには、芽も出ず木が育つことはありません。つまり、かりに栄養塩類が無尽蔵であっても、そもそも空間が必要なわけです。したがって樹木は、自分のからだを分解して始末してくれる生物を前提として、初めて生き続けることができるのです。
もっと違うことも、考えてみましょう。ほとんどの動物は、一生のあいだにかなり多くの数の子どもを生みます。しかし、一般に動物の数は、増えたり減ったりしながらも、まずまずあまり違わない数を保っています。平均しておおざっぱにいえば、産んだ数全体から二を引いた数の個体は、途中で死んでしまうことを意味します。すなわち、動物は、長い進化の歴史のうえで、たとえば食われる数を勘定に入れて、産む子どもの数を決めてきたわけです。いや、もう少し正確にいえば、その勘定のうまくあった遺伝子をもつものだけが、子孫を多く残すのに成功したのです。
それが、突如として自分を食う敵がいなくなったとしたら――。その種はどんどん増え続けていきますから、そのうち餌そのものが完全になくなり、全滅してしまう可能性が大きい。実際に、小さい島に閉じ込められた動物などでは、例えば鹿のように、このようなことが現実に起こっているのです。
ある動物にとって、それを食い殺す敵の存在は、もちろん『悪』に違いありません。しかし、長い進化の歴史の中で、それぞれの動物は、食われることを前提にして子どもの数を決めてきたのですから、この出生数を変えないかぎり、敵が存在しなくなることは新たな、しかも時にはいっそう大きい、問題を生じてしまうことになるのです。
短い時間で考えれば『良い』ことも、長い時間で考えれば『悪い』ことになり、逆に短時間での『悪』も、長時間を見れば『善』になること。これはこの問題にかぎることではないようです。
それはともかく、地球上の生物は、ともに生きていくことを前提にして、自分を作りあげてきたのであり、少し長い時間、広い場所を考えれば、今やそれなしにはうまく行かない状態にある。この意味で、地球は共生的な存在であることは間違いないのです。」
相模川の遡上量は4年くらいの周期で大量と僅少が繰り返されているという。2004年の大量遡上、2008年の大量遡上。
大量遡上の翌年の2005年は、解禁日でもコロガシまで姿がなかった相模川。もちろん、遡上が僅少であるだけでなく、放流された県産30代目くらいの継代人工が川に入ってから大量死したのであろうと推測している。そして、和歌山産人工?が7月頃から少しは釣れるようになったが。
2009年は遡上量が100万くらいで、3月中旬から4月中旬までの遡上量は、2008年の大量と異なり、僅少のために、7月以降に少し釣りの対象となったに過ぎないのではないかなあ。
ただ、県産継代人工が、例年と異なり、川に放流されてからではなく、漁連の池で死んだため、義務放流量を賄うために、浜名湖産、和歌山産の海産畜養が一部の場所では多く放流された。
あちこちの継代人工も放流されたが。その継代人工の放流量が多かった中津川では、まともなアユを相手にした釣りはできなかった。
相模川の昭和橋上流、望地には高い比率で海産畜養が放流されたようで、弁天では、あるいはコロガシの昭和橋では、海産畜養が人工とは比べものにならない馬力で愉しませてくれた。下顎側線孔数は4対左右対称。
なお、弁天は放流地点でない(トラックが入れない)ため、望地、昭和橋に放流されたのが上ってきたのではないかなあ。
大島のシルバーシートは閑古鳥が啼いていたが、どっかの20センチ台の継代人工を放流されて、くっちゃあ寝、くっちゃあ寝の生活で、土地貴族とは縁遠いぬるま湯の生活をしていたがために、9月以降、「尺アユ」となり、「尺アユ」フィーバーとなったが、あゆみちゃんの「品位」を尊重し、面食いのオラには興味の対象外。鮫肌で、雑巾を引っかけたような、力のない継代人工には興味がわかんからなあ。それでも、継代人工でもなんでも、氏素性を問わず、大きければよい、という釣り人が多いことから、客寄せパンダとしては成功したようであるが。
さて、相模川での遡上量の変動状況を見ると、アユは単年度ではなく、4年周期くらいで、適正数量を保持しているのかなあ、と感じている。
戦前でも、長良川郡上八幡の大多サら職漁師が神通川の宮川は蟹江等へ、自転車に乗って出稼ぎに行っていたから、長良川でも、一定周期での遡上量の多寡があったのかなあ。
故松沢さんが生きていれば、狩野川での遡上量変動の周期に何らかの法則的な傾向が生じていたか、聞くことができるが。
孵化率、親の数、海での動物性プランクトンの多寡、といった要因の変動だけでは、遡上量の変動を説明できないものがあるのではないかなあ。
なお、その変動を「水温」で説明する向きもあるが、アユの生存限界の水温が7℃、あるいは8℃くらいであるから、海でも、川でも、生存限界を下回る水温は日本海やサケが遡上する川以外では考えられない。
もっとも、「稚魚」が海で、海水で、生存できる最高水温が、成魚とは異なり、20度等、ある水温以下、ということがあるのかなあ。
継代人工や湖産の稚魚が、汽水域や川で稀に生存していることがあり、神奈川県内水面試験場は、それらの現象を、「海産」が「湖産」へと、変化したロマンを想像されているが、「海産」の稚魚ではない、と、おらは判断している。
(参考:天竜川での二月の稚魚調査:二月中旬に行われた調査の結果、他と異なり、水温の高い地点で、稚魚が採捕されたが、河口からその地点まで、生存限界の7度以下の水温であることから、おらは遡上アユではない、と書いたが、どこに書いたのか、判りません。見つかれば、リンクをします。)
遡上量調査が、相模大堰の左岸、右岸の副魚道で4月1日から5月末まで行われている。左右岸の主魚道は、県内水面試験場の担当であるが、1回しか行われていない。お金がないとのこと。冷水病の薬を開発研究するよりも大切と思うが。
なお、その1回の調査では、主魚道は、副魚道の7割くらいの遡上量の結果であった。
副魚道の遡上量調査 調査期間:4月1日から5月末まで 単位:万
1999年 | 2000年 | 2001年 | 2002年 | 2003年 | 2004年 | 2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | |||||||||||||||||||||||
2 | 101 | 550 | 2,199 | 706 | 1975 | 49 | 43 | 412 | 774 | 116 |
1999年は、魚道ができて時間がたっていないため、コンクリートのアクが消えていなかったのかも知れない。
なお、相模大堰ができる前の大量遡上は、1995年である。
この年は、狩野川の遡上量が僅少で、その後、2000年まで僅少の状態が続いていた。21世紀に入って、少しづつ遡上量が増えたようで、2009年には、昭和の代ほどの遡上量があった。
相模川漁連の義務放流量は、320万?であったが、2,3年前から270万に変更されている。
県内水面試験場の人が、大アユを釣るために、大きいアユを放流すると考えを変えれば、義務放流数量を少なくできる、と話されていたが、その考えと関係があるのかなあ。
相模大堰魚道での調査方法は、「あゆみちゃん遍歴賦」の2008年、2009年に書いているが、この調査方法での「精度」を云々するつもりはない。50万、100万単位での経年変化を比較するうえでは十分であると考えている。
なお、2008年は、史上最大の遡上量、と4月上旬の調査数量から、新聞に報道されたが、結果は、4月中旬以降の遡上量が少なく、700万ほどであった。
この新聞報道となった遡上量の推計方法は、08年4月上旬の遡上量÷大量遡上があった年の4月上旬の遡上量=A倍 A倍×大量遡上年の遡上量 とのこと。
このことから、3月20頃から、4月上旬の遡上量がどのくらいか、また、その頃の遡上量が少ないと、6月1日の解禁日には遡上アユが釣りの対象となることはない、等を予測するうえで、、重要な指標であることを経験したと思っている。
また、海に入った流下仔魚が、初期のものは生存率が高く、12月頃の仔魚は低い、という現象は、、あるいは逆に、11月中旬に海に入った仔魚の生存率は高いが、12月に海に入った仔魚の生存率が低い、とは、どのような要因で生じるのかなあ。高い海水温が原因、とする説では、11月の仔魚の生存率の低さを説明できても、12月に海に入った仔魚の生存率が、11月に海に入った仔魚の生存率よりも低いことは説明できないことが多いのではないかなあ。
アユには、どのような遺伝子が数量調整機能として組みこまれているのか、あるいは、組みこまれていないのか、川那部先生や東先生の感想を聞きたいなあ。
C 「川は地球の物質循環の重要な担い手」
大熊先生は、
「水循環の途中の一部に川が存在しているわけですが、川は水だけ流しているのでしょうか?。
あなたは、お伽噺の桃太郎を知っていますね。お婆さんが川に洗濯にいったところ、桃太郎の入った桃が流れてきたわけです。この話は川の特徴をうまく表現していると思います。お婆さんが川で洗濯をすることは、川が汚れ(けがれ)を清めるところであるとともに、汚いものが捨てられるところであることも意味します。現在の日本人の川に対する態度も、この二通りがあるように思われますが、今は、上流より桃太郎が流れてきたことの意味を考えてみましょう。『川に赤ん坊が流れてくる』なんてあり得ないと、あなたは考えるかも知れませんね。しかし、昔は生活が苦しくて生まれた子どもを、だれかがひろって育ててくれることを期待して、川に流すことだってあったのです。旧約聖書に出てくるモーゼにしても、ナイル川に流されて、エジプトの王様にひろわれ、育てられたのです。
それはさておき、川の上流から赤ん坊が流れてきたということは、上流の山から新しい生命が流れてきたことを意味します。『上流から生命が流れてくる』というのはおかしな表現かもしれませんが、川は山から水だけではなく、土砂や木の葉などさまざまな物質を重力の法則にしたがって流し、それらが川の途中や海でさまざまな生き物のすみかやエサとなり、その食物連鎖によって生命が育まれているわけで、そのことを考えると、この表現も川の本質をついているといってよいのではないでしょうか。
さらに川は物質を流すだけでなく、流下した物質を、もう一度魚の形に変えて、上流に運びあげているのです。」
「新潟の信濃川には、今でも秋になると大きなサケが上ってきます。それを見ていると本当に豊かな気持になりますが、昔は川が真っ黒になるほどたくさんのサケが上ってきたそうです。江戸時代までなら、おそらく人間だけではとりきれず、山にすむ熊などのエサにもなったことでしょう。その熊がフンをして、それがブナ林などの栄養になるとしたら、川に流れた木の葉がもう一度木の葉に戻るというわけなのです。そこに生物を通した物質循環があるわけで、川はその物質循環をつかさどっていることになります。すなわち、川は山と海とを生物で結ぶ回廊であるとともに、地球における物質循環の一端をつかさどっているのです。」
「お釈迦さまが、『一寸の虫にも五分の魂』といって、むやみに虫を殺してはならないと説いていますが、お釈迦様はこうした地球上の生物による物質循環を見透していたのではないでしょうか?
こういう地球の物質循環に思いをはせるとなんと地球は巧妙にできているのか、ただただ驚嘆せざるを得ません。川は、そうした物質循環の重要な担い手なのです。」
とはいえっても、カーソンがDDT等の殺虫剤、除草剤等が自然界の均衡を破壊している、と述べてから五〇年、毒性は低下しているとはいえ、みみずが生存できない畑が当たり前、の農業が営まれているようで。
カーソンの警告は、人間が急激な農薬等の中毒で生存の危機に遭うことを回避することまでは効果をもたらせたが、人間が微生物やミミズと共生できる状態にまで、農薬等の使用を制限するには至らなかったよう。
だれが、どのように、微生物やミミズとの共生ができるように、あるいは、「落ち葉」が「ゴミ」ではないとの考えを普遍化されるのかなあ。
それとも、そんな時代は永遠に地球上にやってこないのかなあ。
大熊先生は、水害防備林について
「江戸時代では、手段的段階の技術が低かったので、堤防は今よりずっと小さく、しょっちゅうあふれていました。しかし、多くの川で堤防の両岸に、前にもふれた水害防備林という林をつくり、洪水があふれても堤防が破堤しないような工夫がとられていました(写真15.16参照 注:省略)。林がないと越流した水は流速が速く堤防の土を浸食し破堤にいたりますが、林があると流速が落ち浸食がおさえられ、破堤が防げます(図17参照 注:省略)。破堤さえなければ、洪水ピークの継続時間は日本の場合それほど長くありませんから、堤防を乗り越えあふれる水量にはかぎりがあり、水害をかなり軽減できます。また、この林の中を洪水が通過する間に流速が落ち土砂を落としていきます。したがってはんらんする水には細かい肥料となる成分しか含まれず、お百姓さんたちは一〇年に一度ぐらいのはんらんなら歓迎していたほどです。」
「わたしは、江戸時代のようにもう一度水害防備林をつくり、両岸が緑でおおわれた川が再現されることを夢みています。川の両岸が樹木でおおわれていることは、川自身の自然を豊かにし、山と海をつなぐ自然の回廊として重要な意義をもつわけで、究極の近自然河川工法こそ、まさにこの水害防備林にあると考えているからです。
このような水害防備林を復活することは不可能のように思われるかもしれませんが、現在の川幅は江戸時代から見ればずっと広いものであり、工夫すれば可能になるのではないかと考えています。また、そのための用地が必要なら、減反政策で放棄されている水田の面積を川沿いに集めることも一つの方法ではないかと考えています。少なくとも、現在残されている水害防備林は積極的に保全していくべきと考えています。」
物質循環が機能する川を再生することは、その小さな手段かも知れない水害防備林の保全、復活ですら、大熊先生でも「夢」かもしれないほど、大変なことのよう。
D 「発電所は川の水を奪う」
大熊先生は、
「ダムが土砂をためこんでしまうことで、どんな問題がおこるかをみましたが、次は水力発電によって川がどうなるかをみておきましょう。
ダムや堰から取水して水力発電を行う場合、その場所で発電してすぐ下流に放水することもあるのですが、多くの場合、トンネルでしばらく導水して、地形的に高い落差がとれるところで水を落下させ発電します。その場合、ダムや堰から発電する地点までの間の川には、洪水時以外はほとんど水が流れないことになっています。
その極端な例を、また信濃川でみることにしましょう。信濃川は長野県を流れる間は千曲川といい、新潟県に入ると信濃川とよばれます。その県境付近に図23のようにたくさんの発電所があります。とくに大きな発電所として、東京電力の信濃川発電所とJRの千手(せんじゅ)発電所及び小千谷(おじや)発電所(二か所)があります。」
大きいダムの取水量と、放流量を、文章から表に変えると
JR | 東電 | ||||||||||
ダム名 | 宮中ダム | 西大滝ダム | |||||||||
発電所名 | 先手発電所 | 小千谷発電所 ほか1 |
信濃川発電所 | ||||||||
年平均流量 | 250立方メートル/秒 | 225立方メートル/秒 | |||||||||
取水量 | 317立方メートル/秒 | 171立方メートル/秒 | |||||||||
発生電力量 | 3カ所計17億キロワットアワー/年 | 13億キロワットアワー/年 | |||||||||
放水先 | 40キロ下流の小千谷で信濃川へ | 30キロ下流/清津川合流点の鹿渡 | |||||||||
発電量は、佐久間ダムに次いで全国二位 (1995年現在) |
宮中ダムは、西大滝ダムの水が川に戻ったすぐ下流にある。宮中ダムから二本のトンネルで発電所に導水している。
「信濃川の年平均流量は、西大滝ダム地点で毎秒約二二五立方メートル、宮中ダム地点で毎秒約二五〇立方メートルですからいかに多く取水されているかおわかりでしょう。とくに宮中ダムの場合、取水量は平均流量より多いわけで、計画どおり取水できる日数は年間平均約七〇日程度と少ないのですが、可能な限り毎秒三一七立方メートルの取水を行い、発電しています。
このようにほとんど取水してしまうと信濃川には流水がなくなってしまいますので、ダムから最低限下流に放流する流量が決められています(これを維持流量といいます)。
西大滝ダムでは年間七カ月半の間だけ毎秒〇.三立方メートルが、宮中ダムでは年間を通じて毎秒七立方メートルが、いずれも魚を通すためにつくられた魚道を通じて、放流されています(魚道についてはつぎにみることにします)。すなわち、信濃川中流部の約七〇キロの区間は、広い川幅の中をちょろちょろとしか水が流れず、川の生物がほとんど生息できない状況にあるのです(写真24参照)。(注:『写真24』は、西大滝ダム下流の写真であるが、ちょろちょろどころか、川原だけといってよい。)」
大井川が塩郷ダム(堰堤)から川口発電所下流まで、水無川になり、その後、5トンほどの義務放流量が水利権に設定されてから、20年ほど。
寿司屋さんらが、中電本社へバスで押しかけた結果が5トンほどの義務放流量。近年の水利権更改時に10トンの義務放流量を要求すると話されていたが、実現しなかったようである。
川那部先生は、飛騨の中での水無川のことを、そして、洪水時に利用されずに川を流れていく水を無駄であるからなんとか利用したいとの熱意にもえている人を、さらに、水が一時でも川からなくなれば、魚等の水棲生物が生きていけないことを認識していないダム管理者、利水者のことを書かれているが、信濃川でも同様の状況ということであろう。
(C湯水のごとく水を使う文化からの脱却:清流の消滅は疾風怒濤の如し)
0.3立方メートル/秒の義務放流量がどんな意味を持つのかなあ。中津川で3、4トン、大井川で5トンくらい。それでもやっと水棲生物が生きているという状態ではないのかなあ。水温変化も大きいから、生物が急激な水温変化、高水温、低水温に適合できない時期もあろう。宮が瀬ダムは選択放流ができるが、その機能は備えていても、上水放流?をして、3月解禁に合わせて放流されたニジマスを死なせたことがあった。08年から人工山女魚の放流に切り換えているが、山女魚はニジマスよりも高い水温で生存できるのかなあ。淵が浅く、小さくなり、湧き水のカ所も減っている中、夏の高水温でも生存できるのかなあ。
さらに、信濃川のダムでは、2009年、取水量?維持水量?データーの改ざんが発覚して、2010年1月現在、JRは、水利権を行使できない状況である。
川那部先生が書かれているように、発電のために最大限、無駄なく川の水を利用することが、「善」であると信じて疑わない利水者にとっては、発電に使用しない水は「無駄」でしかない。
効率性のみの観点でしか、水を、利水を考えることのできない人が「有能な人」、そのためにおつむを使う人が最も「優秀、有能な人」という構図が改まるのかなあ。
「湖産」ブランドに、海産稚魚を畜養したアユが「ブレンド」されている、との疑問すら持たない高橋さんや高知大学?の学者先生の頃とは違って、「偽」が世上を騒がせた年から1,2年たっているのに、JRさんは、まだ「偽装」をなさっていたということのよう。
「仮に、この区間に発電所がつくられる前の豊かな流れがあるならば、さまざまな生物が生息し、その食物連鎖によって水質も浄化されるはずです。トンネルを流れている水は太陽光線を浴びることもなく、生物を育むことはほとんどありません。
したがって長野県下の排水で汚れた信濃川の水は、この七〇キロメートルの間ほとんど浄化されることなく、そのままの水質で、流路を短縮された形で新潟県に流下してきます。大河津分水(おおこうづぶんすい)のところで信濃川の流路長が洪水時に短縮されることをみましたが、ふだんのときも、川の生物や水質の観点からみれば、信濃川の流路長は三六七キロメートルから三〇〇キロメートル程度に短縮されていることになるのです。」
大熊先生も、千曲川が清流でない、と判断されているのではないかなあ。
そうすると、オラも、野田さんも、千曲川はババッチイ川、きれい好きの珪藻が優占種となる川ではない、ということの応援団がまた一人増えて、阿部さんが千曲川が珪藻が優占種の川であると判断されたことが、まちがっちょる、と一層いえるのではないかなあ。
E 「川とは」
大熊先生は、
「わたしが学んだ『河川工学』の教科書では、『地表に降下する雨、雪などを集めて流下する流水と水路を河川という』と定義されておりました。すなわち、水循環の一部に川があることは認識されていましたが、川そのものはたんに水を流すだけの排水路としか考えていなかったということです。だから、三面張りコンクリート護岸で川の生物の命を根絶やしにしても、ダムで物質循環を遮断しても、あまり反省する必要がなかったのかもしれません。最近の河川工学の教科書は、文化・文明を視野に入れてもう少し幅広い川の定義をするようになってきていますが、物質循環の一過程にあることを明確に意識した定義はまだなされていないようです。」
大熊先生も、「生物」を考慮されていない「河川工事」を語られている。
そして、オラにも理解できるやさしい表現で、そのことを説明されている。
その文は、改行をされていないが、読みやすくするために改行をしました。
「そこで、わたしはつぎのように考えることにしました。
『川とは、地球における水循環と物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然であり、ゆっくりと時間をかけた人間との交流のなかに、地域の文化を育んできた存在である。』
この中の水循環や物質循環についてのわたしの見方はすでに述べてきたとおりですが、ここでのキーワードは『ゆっくりと時間をかけた』という言葉であると考えています。
まず、ゆっくりと時間がかかっているものに自然そのものがあるでしょう。自然は、何十億年という時間のなかで、生命の誕生〜成長〜消滅の循環を無限に繰り返し、それが場所ごとに違う形で集積されてきているわけです。こうした自然に対して、自然の何億年という時間の長さからみれば一〇〇万年単位とかなり短い時間ですが、今のわれわれの時間感覚からすればとてつもなく長い時間をかけて、人間と自然がゆっくりと交流をかさね、さらに、その中に人間同士の交流もうまれてきたわけです。その交流のなかでゆっくり醸成された関係やものが、『文化』といわれるものではないかと考えます。
「人類は、大局的にみればむろん自然の一部に過ぎませんが、文化をつくったことではほかの生物とは異なる独自の道を歩んできたことになります。ただ、自然も文化もゆっくりと時間がかけられているところに共通点があります。したがって、自然と文化は、敵対することもありますが、基本的には共存関係にあるといっていいと思います。
さて、この文化が発展して、ある地域一帯あるいは世界中に普遍的に広がったものが文明といえるでしょう。ヘレニズム文明、中国文明、現在のヨーロッパ文明などの伝播の仕方を考えて、文化と文明の違いを考察してみてください。ただ、文化が文明に昇華してしまうと、文明というものは文化とははなれた独自の運動を展開するようになります。すなわち、ゆっくりと日々の生活を送ってきた生活者としてのわれわれとは無関係に、文明は急に立ちあらわれ、時間を経ないままわれわれの生活を便利にするとともに、支配するものに転化していきます。このことは、日本の歴史を考えたときによく理解できるのではないでしょうか。とくに明治維新以後、近代文明が流入してからは、われわれ日本人はいつも、『急がなければ豊かになれない』『急がなければ幸せになれない』と、この文明を追い求めてきました。
その文明への追求が急であればあるほど、時間軸の違いから文化と文明は敵対する関係に陥ることになります。その事例の典型が本書でも述べた、治水だけを考慮した三面張りコンクリートや、川の水を収奪した発電などにあるといっていいでしょう。前述したように、信濃川の発電所群は、信濃川の水を収奪して、東京の文明をささえる一方で、サケを中心として縄文時代からつちかわれてきた沿川の文化に大打撃をあたえてきました。
文明を発展させるために文化を滅ぼす行為は、国内だけではなく、発展途上国への援助の仕方にもよく見られるところです。文明を発展させるために文化を滅ぼすようでは、これは野蛮な行為というしかないでしょう。少なくとも文明と文化が両立するような配慮をしてこそ、本当の文明といえるのではないでしょうか。たとえば、信濃川の事例でいけば、発電のためだけに流水を収奪するのではなく、地域の文化と自然を最低限維持できる程度の流水を信濃川に返してやるべきなのです(その具体的流量がいくらであるかは、地域住民と関係者が大いに議論して決めていくべきことだと思います。その議論のすすめ方自体が文化そのものだからです)。
川は地域の文化を育んできたからこそ、『母なる川』とよばれてきました。今の川は、ほとんどが『乳も出ないやせ細った母』になっているように思えてなりません。母なる川をとり戻すためには、文明だけを追い求めるのではなく、ゆっくりと時間をかけてもう一度文化を再生していかなければならないと思います。」
文化=the way of life 生活様式が軽んじられて、1世紀。
どこまで、大熊先生の願いは実現していくのかなあ。
「文化」は、岡義達「政治」(岩波新書)に、状況化、制度化、伝統化との政治局面で表現されている「伝統化」の段階での現象であったと思う。
「状況化」は、戦国時代のように、旧来の統治構造が崩れて、新たな統治体制が未成熟の時代での状況。
「制度化」は、徳川幕藩体制のように、新たな統治構造が確立された段階。
「伝統化」は、「制度化」された統治構造が、「そんなもんじゃ」と、空気のように受け入れられて、正当性を、行動、価値基準を法令に頼らなくても機能する段階。
そういう意味合いであったとは思うが。
いずれにしても、「湯水のように」水を使う文化が、「利水」が川の水を使う唯一の「有効」な使用法である、と、「制度化」「伝統化」された状態が、まちがっちょる、と認識されて、新たな「文化」にまで根付くには、何十年、何百年とかかるかも。
大熊先生の最後に、「水は不思議な物質」の章に書かれている「水五則」及び「新水五則」を紹介しておこう。
「地球の太陽からの位置関係や公転・自転などと、この水の奇妙な性質の絶妙のバランスのなかに、生命が誕生し、人間が存在しているわけです。水と人間の関係を考えるうえで、このことをまず心にきざんでおくべきでしょう。
そうするためにはかんたんな標語があるとおぼえやすいので、わたしがいっしょにやっている市民の集まりの『新潟の水辺を考える会』で相談し、『新水五則』というものをつくり、わたしはこれを壁にかけて毎日ながめています。実は、中国から伝わった『水五則』という名文が古くからあり、それを模範につくったのですが、古い『水五則』にはつぎに述べる水循環の観点はあるものの、水が生命を育むといった観点がないので、『新水五則』をつくってみたわけです。
水五則 (如水昨)
一,自ら活動して他を動かしむるは水なり。
一,常の己の進路を求めて止まざるは水なり。
一,障碍に遭いてその勢力を百倍にするは水なり。
一,自ら潔(きよ)くして他の汚れを洗い清濁併せて容るるの量あるは水なり。
一,洋として大海を充(みた)し、発しては蒸気となり雲となり雪に変し霞と化し疑(こう)りては玲瓏たる鏡となり而(しか)もその性を失わざるは水なり。
新水五則 (新潟の水を考える会作)
一,水は地球のみ大量に存在するものにして、物質として奇にして妙なり。
一,水は循環・運動して地球環境を創造・維持するものなり。
一,水は生命の循環をつかさどるものなり。
一,水は人を害しあるいは利し、矛盾するものにして、文化・文明のもとなり。
一,水は人を育み、人間性を豊かにする根源なり。
(2)教祖斎藤さんの教義
斎藤邦明「川漁師 神々しき奥義」は、斎藤さんの「おわりに」を全文引用して、締めくくる予定であったが、故松沢さんに釣りの時の手抜きは大目に見るが、川の物質循環が人間によって妨げられている状況まで「手抜きをする」とは、とんでもない、あゆみちゃんの苦しみを理解しょうとしとらん、少しは修行しろ、と、怒られるから、予定を変更します。
素材は、「第一二章 ナマズ・ウナギの網ウケ漁 群馬県谷田川」と、「第六章 ゴリのガラ引き漁 高知県四万十川」です。
A ナマズ・ウナギの網ウケ漁 蓮見由次(大正一二年生まれ)
蓮見さんを取り上げるのは、「清流」でなくても、生物が満ちあふれていた空間があったということを紹介したいから。
とはいっても、相模川や千曲川が清冽な「清流」である、と評価されている「学者先生」や、吉井川をきれいな川と評価されている都会っ子が多数派であることから、老ジイ心から一言。
昭和30年頃の溜め池でも、生活排水が流れこむ溜め池を除けば、現在の相模川よりも透明度は高かった。
15歳の春分の頃、1ヘクタール以上の広さのある溜め池で、近所の大人たちを含めて2,30人がヘラ釣りをしていた。そのなかで、オラがいっぱい釣れて、大人たちをうらやませていた。
理由は簡単。オラの釣っていたところは、丘へと続くところにイ草の田んぼがあって、それらからの湧き水が湧きだしていたところの1つであったから。もっとも、この時がフナ釣りの最後。じっとした釣りが、エネルギー満ちあふれていた年頃と合わなかったんではないかなあ。
そのように、「清流」でなくても、今の学者先生らが評価する「清流」よりもはるかにきれいな水が溜め池にもあった。決して、「ドブ」並の水ではない。その溜め池から少し離れた溜め池では、高校水泳部の生徒が練習していた。
「まあ、きれいなエメラルドグリーンの水」と、ダム湖が植物性プランクトンの大量発生で透明度0の状態になっている水を、「きれいな水」と感嘆する女優やアナウンサーの如き「水」音痴はいませんでした。
ア 蓮見さんの職場
蓮見さんの職場は、
「ここか、谷田川っつってな、利根川の分流だよ。昔の利根川はよ、年中あふれたもんで本流筋の堤防が切れねぇようにってこうした枝川を何本か掘ってな、大水が出たときに水を逃がしたんさ。だもんではぁ、水量の多い夏場はこうして葦原のほとんどがくぐんで(水没して)っけど、秋になって水が干上がったとはぁ、あっちこっちが陸になっちまっていろんなものが顔を出すんだわ。上流から流れてきて葦原にブン投がってる太(ふ)っとい朽木(くちぎ)なんかもあっぺな、そういう倒木が乾くとそのうちにヒラタケなんつうキノコまででちゃうんだ。ヒラタケ?食えっさ、美味しいよ。それをみんな知ってから、このへんじゃあ秋になっと葦原かきわけてキノコ採りしてる人がいっぱいいっと。」
「この谷田川はここから七,八キロ上流にある利根大堰のちかく、そうそう、ぶんぶく茶釜の茂林寺のあたりから四,五キロ下流の渡瀬遊水池(谷中湖)までのびてんだけんど、このあたりは利根川と渡良瀬川とを結ぶ何本かの枝川、それにいくつかの沼とをつなげる細い水路が網の目みてぇになってんだ。だから、谷田川もふくめて水路でつながってるとこは、みーんなおらの漁場だよ。」
イ 道具と漁法
「魚っつうのは、どういうわけか狭いところに入りたがるんだ、おらが使ってる網ウケっていう道具が魚にとっちゃあ隠れ家に見えるかどうか知んねぇけど、筒状の狭い入り口にわざわざ潜りこんででられんなくなっちゃうんだから、おもしれぇ習性だよな。ンだ、おらの漁はぜーんぶ網ウケっつうもんで捕ってんだ。」
「ああ、順繰りに見てまわってから、ひとつの仕掛けは四日に一回あげるっつうことだわな。そんだけ置いとかねぇと仕掛けが川底になじまねぇんだ。ナマズやウナギ、コイ、フナのウケ(筌)漁はエサを使わねぇもんだから、仕掛けが水になじんでねぇと隠れ家にしてくんねぇんさ。」
ウ 道具の製作
「投網(とあみ)や刺し網に使うようなナイロン網を、ほだよ、ぜーんぶ自分で編むんさ。それを竹の輪っぱでもって丸い筒状のウケにして、太いのやら細いのやら、短いのやら長いのやらをこさえてな、魚の種類ごとに使い分けてんの。もちろん、水量なんかでも長さや筒の太さは変わるよ。ああ、すべてに対応できるよう何十種類もこさえてもってさ。」
「地獄ウケは、今十組ぐらい(仕掛けてある)かな。あとは、ソデのない普通の網ウケだ。網ウケの種類でも多いのがウナギとナマズ用だな、それからフナとコイ用、エビガニ用、そしてライギョ用の順で、ぜーんぶ合わせて二百だ。
道具をどのくれぇもってんのか、ちょっとのぞいてみっかい、おらの道具小屋。玄関でて、右、そう庭を突っ切って、突き当たりの小屋だよ。
棚の上のは網かけのナイロン網、ええーと、その網はナマズ用だな。ほんで、はしっこにあんのがさっきいってたドジョウ捕りに使ってた竹ウケ。ああ、その竹ウケも昔おらがこさえたもんだ。あとはタガなんかの材料にする篠竹(しのたけ)や淡竹(はちく)、それに孟宗(もうそう)竹とか男(お)竹とか、いろいろだ。用途によってそれぞれ使いみちがちがうんさ。さぁ、どのくらいあっぺかな、十年も前に刈ったのから去年刈ったばかりのやつまで、そうさな六,七千本はあんじゃねぇか。
竹は冬場に刈って枯らしとくんだ。そうすっことで竹に粘りがでて、丈夫になんだわ。とくにタガは丈夫じゃねぇと、ウケはすぐにぶっこわれちまうかんね。タガはな、一個の網ウケに三本ないし四本入れて丸く筒状に保ってる役目なんだけど、ま、網ウケがきれいな円筒形になるかならんかは、タガの嵌め具合ひとつ。網ウケはタガを入れねぇときはペシャンコで漁具の役しねぇんだかんね、だからおらの漁でタガがいちばん大事なんよ。
ことしも竹を刈りにいくかって?いかねぇよ。竹はもう刈りにいかねぇ。トシだかんね、子供もいねぇしこの漁を継ぐ者もおらんから、生きている間はここにあるだけで十分だっぺ。もっとも、こんなに汚れた漁場じゃまもなく魚はいなくなるだろうから、たとえ子供がおっても後を継がせねぇだろうがよ…。」
エ 地獄ウケ
「ほら、これがそうだ。地獄ウケっていうんだけんど、これも網ウケの一種でな、ウケの両側に腕をのばしたみてぇに網ソデをつけて川幅いっぱいに張ってあっぺや。狭い川だと一枚だけだが、ここみてぇに川幅があっと二枚張って、しかもそれを互い違いに二組仕掛けて『行って来い』にしてある。一個の仕掛けの方は主に下ってくる魚。もう一個は遡ってくる魚を捕ろうってなもんだわ。これは何でも入る万能ウケだ。ナマズ、ウナギはもちろん、フナだろうがコイだろうが、ドジョウ、エビガニ、食用ガエル、何でも入っちゃうかんね。
ンでよ、こういう深いとこに仕掛けてあっペ、ンだから冬場でもいけるんだ。冬か、冬はとくにクチボソがいっぱい入んな。クチボソねぇ、今の時期は苦くて食えねぇなあ、冬に何ねぇと、ありゃダメだ。冬になれば、甘露煮なんかにすっとワカサギだのモロコだのと変わんねぇぐらい美味しいもんだよ。
関東で、「クチボソ」といわれているものが、関西の溜め池で、池ごとに形状、容姿、大きさを異にして生息していた「モロコ」の一つではいかと思っていたが、「モロコ」といわれてていたものとは異なるのかも。
餓鬼の頃、モロコが食材となったことはなかったのではないかなあ。「旬」に捕ったり、釣ったりしていなかったからかなあ。もし、食材になっていたら、本モロコとか、タモロコとか、という識別をする名前で「モロコ」を呼んでいたと思うが、「モロコ」での呼び方しかなかったと思う。
釣りの対象となっていたのが本モロコかなあ。
オ むかし、むかし、あったとさ
@ 川魚の恵み
「そりゃあ家にも少しは(田んぼ)はあったよ、あったけんど水の多い少ないが極端なんだわ。台風なんかくっとはぁ、利根川があふれて屋根まで水がきたかんね。牛が流れてきたり、家が流れてきたり、人が流れてきたりで一面水浸し、せっかく黄色く実った稲穂が十日も十五日も水の下にくぐんでんから。そんなの刈り取ったって、臭くて食えたもんじゃねぇよ。ほんで水害をさけて耕地を高台にもってくってぇと、こんどは土用の時期の渇水だ。
雨が降んねぇときはとことん降んねぇかんね、ここは。沼地の水はずっと低いとこにあっから高台の田んぼに水を引こうにも引けねぇし、どうしょうもねぇんだ。」
「結局、ここいらへんで取れたんは陸稲(おかぼ)だけだった。ありゃボソボソでほんとにまずいもんだ。そんなこんなで農作物なんて、てんでできなかった。土地が悪かったんだねぇ
おらちも百姓だったんだけんど、作物が乏しいもんではぁ、オトさんはちかくの川や沼で川魚を捕って生活の足しにしてたの。ああ、毎日のように漁に出てたな。おらも後ろさくっついてってよ、利根川や今見てきた谷田川、多々良沼、雷電沼、板倉沼、それから栃木県の谷中湖にまででばって、コイやフナ、ナマズやウナギ、クチボソ、ドジョウなんてのを捕ったもんだよ。おらっちの地区には五十戸ほどあるがよ、そのうちの四十戸がそういう生活だった。ンで、このせまい地区に川魚問屋が二軒もあったんだから、どんだけ川魚漁がさかんだったか、わかっぺや。」
「あんころは食糧難の時代だったし、はぁ、問屋や料理屋からは引っ張りだこで、魚は捕れば捕っただけ売れた。寒中でもフナやナマズは捕れっけど、百姓はそうはいかねぇべ。冬なんかせいぜい女どもに機織りさせて、食いつなぐだけだったんだかんね。そんな生活を見て育ったもんでね、だんだん百姓がやんなっちまったのよ。」
「ま、好きなんだべなぁ、魚捕りがよ。朝の四時にきっかり起きて舟を出してよ、真冬なんか真っ暗だかんね、それでもおもしれぇんだ、何が捕れてっぺかなぁってさ。だからあきもしねぇで六十年以上も毎日毎日、同じ漁場ンなかをいったりきたり、昔っから変わりばえしねぇ道具使って魚捕ってな、きょうまでやってきたんだわ。」
「今は埋め立てられちゃってキュウリ畑になってるけんど、家の前はヘヌマ(稗沼)っていう沼でね、そこから川舟で利根川にでて、茨城県の古川市から境町を経て、そこから江戸川に入れば東京にだっていけねぇこともなかったんだかんね。」
A 「洪水」と恵み
「ああ、一年中何かしら捕れたな。とくに百姓にとっちゃありがたくねぇ台風のときなんか、オトさん、百姓のくせして笑いをかみ殺してたもの。台風の後は大漁なんだわ。沼のナマズやウナギが(利根川めざして)下るもんでよ、一日に三十キロ、五十キロって捕れたかんね。大水で農作物はダメになっちゃうが、もともとたいしたものが取れるわけじゃねぇんだから川漁の稼ぎのほうがよっぽどえがったんだ。」
大水で、ナマズが利根川に下るとはどういうことかなあ。ウナギが下るとは、十月頃の増水時における産卵のための下りかなあ。
うなぎは両則回遊性の生物であるから、下りの行動と洪水の時期があえば利根川に向かうことのあることは判るが、ナマズはなんでかなあ。
カ いまは
@利根大堰
「あちこちから反対運動が起きた行田市の(利根)大堰の建設が漁師には一番痛かった。堰で水を調節するもんで下流の水量がガクンと減っちまったかんな。板東太郎名物のアユも堰を超えられんねぇし、下流の魚だって水がなけりゃぁ、棲めねぇんだから。そうだな、堰をつくったのはかれこれ三,四十年前になるかな。」
「昔は漁師なんて板倉町のほかにも館林市なんかにもいっぱいいたんだよ。それが大堰ができたころから櫛の歯がポロポロ抜けるようにいなくなって、今では群馬県の川漁師はもうおらひとりになっちまったってよ。」
Aコンクリート護岸
「もっとも、キティ台風だのキャスリン台風のときみてぇに牛だの人だのが流れてこなくなったし、川岸をコンクリートでガッチリ固めてくれたから集中豪雨んときでも屋根まで水がくるなんてこともなくなった。それと、ありゃ公共事業っつうんかな、カネがあまったんかどうかしらんが堤防だの橋だのをやけに立派にしてくれたわ。年中、堤防が切れてたところからすれば、流域の住民にはよかったんだべ。魚の命とひきかえにな。」
Bキュウリ畑
「土地が冠水しなくなったんで、だんだん沼が埋め立てられ畑になってね、キュウリがたーんとできるようになった。今じゃあ、キュウリの一大産地だかんね。おかげで、このへんの農家はキュウリでフトコロがあったけぇんだと。その一方で、万が一の大水に備えて雨水をドォっと一気に海に流しちまおうってんで、蛇行していた川の流れをまっすぐにしちまったんで、急に増水したり急に水が退いたりするもんだから、魚が途中で溜まることができねぇの。おらの漁場は、全く下水溝見てぇだわ。」
Cさかな
「魚は百分の一,いや千分の一に減ったんべな。利根大堰が魚止めになっちゃったもんだから、海と川をいききするウナギなんてさっぱり捕れんようになった。次から次へと川や沼を埋め立てたもんで葦原が消えてな、葦の根に産卵するフナやコイもだいぶ減ったんだ。」
D稼ぎ
「魚が減ったけんど、女房とふたり食ってくぐらいの魚はまんだ残ってるわ。捕れっさ、今でもそこそこ捕れっかんね。ナマズとウナギは夏から秋の台風時期にかけて、フナとコイは春が漁期だな。収入かい? 値のええのは一キロあたりにすっと千三百から千五百円のナマズと三千円のウナギだけんど、ナマズは捕れる量が多いもんで、年間にならすとナマズが収入源ってことになるかな。多いときで日に二,三十キロ、年に四,五百キロは捕ってんな。
ほかにはフナだっぺ、コイだっぺ、冬場の甘露煮用でクチボソ、あとは食用ガエルなんてぇのもある。フナやコイなんか、日に百キロ、二百キロ捕るのはわけねぇよ。」
E魚の用途の移ろい
「ところが、甘露煮にするフナはあんまりでかくちゃ具合が悪いんだと。だから小いせえのしか(食用として)買ってもらえねぇんだ。小いせえのは一キロ、二百五十円で業者が買い取ってくれっけど、一匹で七百も八百グラムもあるようなやつは一箱いくらで、釣り堀がもっていくんだ。二十五キロ入って、たったの一千五百円。やすいんだ、ンでも、多少なりともゼニになりゃええんだ、捕んのがおもしれぇんだから。」
「それにしても、昔はでかいフナやコイが喜ばれたもんだがなぁ。でかけりゃ、でかいほど値がよかったんだ。群馬県は海がなかっぺよ、ンだからこのあたりじゃ結婚式の引き出物にはタイの代わりに必ずコイをだしたもんだから、祝言があっと大量に注文が入ったもんさ。ご馳走だったんだかね。
フナだって、シジミや納豆売りみてぇえに自転車の行商が何人もいて、よく売れたもんだよ。まぁ、食いもののねぇ時代だったからかもしんねぇが、頭から骨までナタでもってカタカタ、カタカタたたいて、みーんな食っちまったんだかんね。あのころは養殖モノなんてねぇもの、川魚は天然しかなかったんだから、それがよ、養殖モノがでてきて天然モノが粗末にされるっつうんだから、おっかしな時代だわ。
それにひきかえ最近バカに売れるようになったのが、釣り堀用のライギョとブラックバス。ライギョは食用として中国大陸からも輸入されて、このへんじゃ終戦後しばらくは『ライギョ丼』なんつって名物料理になってたが、今はあんまり食われてねぇようだな。なんぼでも捕れっけど、まずいもんで売れねぇんだわ。そのうえ両方とも小魚なんか食っちまう害魚だから、どうしょうもないクソみてぇな魚だったんだよ。
そんなクソ魚が売れるようになったんだから、時代が変わっと何がゼニになっかわかんねぇな。それも食うんじゃなくって遊びの道具として魚が売れっとはなぁ。ンだよ、池に放ってルアーっつうんかい、今の若い人に人気だってな、あれで釣らせるんだと。ほんの少し前までタダだったライギョが今じゃあ一キロ二百五十円で喜んで買ってってくれる。こいつらは一匹で一キロ以上あっかんね。釣り堀の客はそういうのを一日千円だして釣ってんの。釣り堀にもおらにとってもええ客にはちがいねぇが、何だかねぇ。」
「たとえばよ、ええ値で売れたドジョウもオトさんがいるころはだいぶ捕ったけんど、数と型がそろわねぇんで今じゃ商売には捕ってねぇ。ドジョウなんて、沼と沼とを結ぶ狭い水路に地獄を仕掛けとけばおもしれぇように入ったんだが、沼を埋め立てられちまったもんだから売るほど捕れなくなったの。」
利根大堰は、谷田川の利根川との合流点より上流であるのに、何でうなぎの遡上が減ったのかなあ。
ドジョウの捕り方が、原口さんの「踏み網漁」と異なるのはなんでかなあ。原口さんの漁場であった行田附近とはそれほど離れていないが。ドジョウを「専業」に捕るか、「兼業」で捕るか、の違いかなあ。
ライギョが不味くて、食材になっていたのが限定的である、ということは、おらの餓鬼の頃と一致している。ただ、一,二回は食べたかも知れないが、「丼」にはされてなかろう。
鮒鮨の食材であるニゴロブナが、多くは中国からの輸入に頼っているとの話があった。
川那部先生の「魚々食紀」(平凡社新書)に、
「京都に生まれ育った私は、鮒鮨は子どもの頃には、毎年幾桶も購入して、よく食べていた。それが今は、ニゴロブナの鮒鮨は、一尾あたり三万円ほどもすると聞く。先年までいた京大生態学研究センターや、今の博物館で漬ける鮒鮨も、その材料はニゴロブナからゲンゴロウブナに変わり、味は格段に落ちた。
理由は単純明快だ。今は亡き平井賢一さんが詳しく調べたとおり、孵ったばかりの仔魚のエサとなる、水草にくっついたり離れたりする小型のマルミミジンコの多い場所、そう、海でいえば内湾にあたる内湖、それも湾口の極めて狭い内湖が、ここ五十年ばかりの間に、埋め立てられあるいは干拓されて、ほとんどなくなってしまったからである。一九六二〜六五年の琵琶湖総合調査のとき、北東部にある面積百ヘクタールにも満たない早崎内湖で漁獲されるフナの量は、琵琶湖全体の一割以上に達していた。他の内湖がなくなり、産卵場は殆どここだけという状態だったからだ。そしてこの内湖もまた、六四年から干陸化が開始されたのである。」
「魚々食紀」の「第1章 フナいろいろ」の「蕪村は鮒鮨が好物だった」の節には、蕪村さんの句、一五首が掲載されているが、ふたつだけで我慢してください。
鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
鮓桶(すしおけ)をこれへと樹下に床几(しょうぎ)哉)
「蕪村さんの句の(注: 鮒ずしや彦根の城に雲かゝる)の彦根城の周りにも、私の生まれた一九三二年の地図には、松原内湖その他が厳然と記されている。十六世紀後半の織田信長さんの安土城も、内湖のあいだに突き出た半島に作られたものだ。一九二八年の地図には、まだその面影が残っているが、五〇年の地図では城址に近い部分は田圃の記号に変わっており、その北にあった大中の湖の干陸化が完成するのは六四年のことである。内湖を復活させたい。この頃、真剣にそう思っている。ニゴロブナの鮒鮨を、子どものときのように、そして蕪村さんのように、たくさん食べるためにも。
ささ波やしがからし酢でくふ時は だれが口にもあふみ鮒哉 正継
眺めやるえり挿す舟とわかるまで たけし」
(注:「えり」は漢字で表現されていますが、ホームページビルダーでは、その漢字表示が「?」に変わってしまい、仮名表示だけにしています。)
川那部先生が、鮒鮨の食材となる鮒の種別が変わった、まぼろしの食糧となった、と嘆かれているから、ついでに、鮒の種別による用途の違いについて引用しておく。
「さて、琵琶湖のフナについては、『本草綱目啓蒙』に、
ゲンゴロウブナはさしみ・なますに良く、ニゴロブナは、鮨にするほか煮て食うに良く、ヒラワ(ギンブナ)は味が悪い
などがある。
だがそんなことはどうでも良いのだ。何故かと言うと、ゲンゴロウブナは昔から、マブナのほかに『なますぶな』の名で呼ばれていたし、ニゴロブナは古くから『すしぶな』と、また漁師さんは『すしいお(魚)』とも、呼んで来ていたからである。
そして鮒鮨となれば……。これは十世紀前半の法令である『延喜式』の頃からの、いや、私は調べたことがないのだが、八世紀前半、すなわち奈良朝の法律たる『賦役令(ふえきりょう)』にもあると聞く、古くからの重要な食品である。『東ないし東南アジアで、雨期に水田が冠水し、魚が集まってそこで産卵をするとき、魚と米とのセットから熟(な)れ鮨が生まれた』との石毛直道さんたちの説があるが、琵琶湖の周囲で最後まで残り、いや、もっとも発達してきたのは、琵琶湖とその周辺の水田との結合が、ずっとあったためであろう。」
一方、「江戸のフナ料理」については
「フナを刺身(作り)にしてそれで酒を呑もう、と詠んだのはせいぜい十八世紀後半のことだが、十七世紀中葉、すなわち江戸初期の書の『料理物語』には、フナ料理として次のものが挙がっている。
汁は味噌仕立てで、酒しおをさし、山椒の粉を入れる。なます(膾)は、薄作りにしてその卵を混ぜ、からし酢で和える。さしみには、煎り酒(古酒・鰹節・梅干に溜まりを入れて煮詰め、漉した調味料。後には梅干の代わりに酢を用いた)を加える。白焼きにして出汁(だし)溜まりに漬ける、煮浸し(白焼きを出汁で煮ふくめる)も良い。 |
ただしこの本には、どの種がどれに相応しいかは述べられていない。それもそのはずで、この本は今の埼玉県狭山市で書かれたものなのだ。ゲンゴロウブナが関東に委殖された記録の最初は、この本の『あとがき』の書かれた十五年後のことだから、ここに書かれた料理の材料は残りの二種、すなわちキンブナかギンブナかのどちらかには相違ない。
赤松宗旦さんの『利根川図志』は、これから二百年も後のもので、もちろんゲンゴロウブナも招来された後のことだが、印旛沼畔に近い箇所において、『吉高鮒』なる項目をわざわざ挙げ、
名物。金色で骨が硬く、肉はしまっていて美味(なますにするのがとくに良い)。この鮒を獲るのには特別の漁法がある(冬に限る)。まず一人が小舟に乗って、水の浅いところを棹さしながら、舷(ふなばた)を踏んで舟を左右に揺り動かす。この波音に驚いて、鮒は藻の根に隠れる。その動きで水中が濁るから、それを見て手で掴みとる。そこで『手取り鮒』と呼ばれるが、これは『万葉集』にある『もぶしつかぶな』のことである |
と書く。これはキンブナのことだ。」
鮒なんて、食材としては、バカにされていて、ひもじかったから食うていた、というにすぎなかったオラ達。その鮒が、膾にもなり、煮浸しにもなっていたとは。
そして、今や、かっての鮎の「湖産」ブランドに海産畜養や継代人工がブレンドされていたように、ニゴロブナの減少とともに、他の種別の鮒が食材に使われ、あるいは、中国からの輸入物が使われるようになったということのよう。
川那部先生と違って、「鮒鮨」を食べたこともないから、「鮒鮨」への愛着も郷愁もない。そのため、鮒鮨の食材が変化してもなあんともないが。あゆみちゃんの氏素性に関しては鮒とは違い、文句たらたらを言いますが。
それにしても、鮒鮨が、何で関東では流布しなかったのかなあ。
食材がない?臭いがいや?げてもの感?
ライギョについても、日本風調理、味付けが、たまたま食材に合わないから「不味い」となったのかなあ。それとも、「日本」のエサが、環境が、食材としてのライギョを「不味く」したのかなあ。
食と文化の関係、むつかしいなあ。
「ベラ」は、阪神地方では、貴重な食材であった。から揚げにして、三昧酢?に漬けて保存食になっていた。関東では食材としては見向きもされない。味が違う、との話、つまり、生息域の辺境域では味が悪く、生息域の中間附近では味がよい、との一般原則による、と。この話の妥当性の有無は?
あ、そうそう、いかなごの佃煮も変わった。
餓鬼の頃は、「フルセ」が食材であった。しかし、昭和三十年代のいつ頃か、ではないかと思うが、フルセの利用は限定的となっていた。
阪神淡路大震災の野島断層が保存されている豊島の仮設店舗で、こっちではウン千円は取られるであろうアブラメをさしみ、から揚げ、煮物、で食べ、呑んでいたとき、漁師がいたから、フルセではなく、新仔を佃煮にするようになったのはいつか、と聞いた。その漁師は、子持ちのフルセを佃煮にするとは聞いたこともない、と。
資源保護をせざるを得ない状況になり、三月まで禁漁にしたのが昭和30年代後半ではないかと想像している。
四月を過ぎると、フルセはハマチ等の養殖魚の餌にしかならないほど、味が悪くなるから、今では、三月しか、フルセの佃煮は製造できない。それで、「新仔」も食材として利用するようになったのではないかなあ。
ということで、食材の変化は琵琶湖だけではなかった。昔、「釘煮」なる呼称はあったかなあ。
イカナゴは、「佃煮」を意味していたのではないかなあ。買った日は、イカナゴをあぶって醤油につけて食べたり、から揚げにするが、保存食の食材であったから、「釘煮」とあえて言わなくても「イカナゴ」の語彙には「佃煮」の意味を包含していたのではないかなあ。
そして、旬は、腹子を持つ冬。新仔は佃煮にしなかったという食べ方が、昭和30年頃までの食べ方ではなかったのかなあ。
イカナゴが解禁になる3月のはじめは、佃煮屋さんはまだフルセの仕入れをしない。多分、初物で高いのではないかと想像している。
ということで、佃煮屋さんに注文するのは、10日頃。下旬になると手に入らない。しかし、ネットで5月にも売っているのを見つけて注文したが、醤油や塩、砂糖をいっぱい使って味をごまかしている、素材の悪さをわからんようにしている、としか思えん佃煮であった。旬を遙かに過ぎて、養魚場のエサになるものを食材に使ったのではないかなあ。
鮒鮨と違い、ゲンゴロウブナを使うという、食材の種別変更とは異なるが、旬を過ぎたイカナゴを使い、調味料をたっぷり使って、味のわからんものに「釘煮」として、売る商売ということではないかなあ。
3月1日になったら、いつから、フルセの佃煮を売るのか、佃煮屋さんに忘れずに聞くことにしょう。鮒鮨と違って3万円はしないから。
2010年3月2日、母が亡くなってからイカナゴのフルセの佃煮を買っているところに電話をした。 今年は1日に船は出たが、すぐにフルセの漁が禁止になったから今年はつくれないとのこと。 近年、妹がフルセの入手に価格も含めて苦労しているとの話は聞いていたが、まさか、禁漁になるとは。 「今私は、一定の餌量のもとでは、数が限度以上に多くなればすべて飢えて死んでしまう、といった。しかし自然界の動物では、ふつうは餌がなくなって全滅する以前に、何らかのかたちであらかじめ数を制限してしまう機構を、進化の歴史の中で獲得してきたものが多い。そのもっとも典型的な機構が、実はなわばりとか順位といったものである。」 「なわばりと順位の違いは、この面からも考えられる。(注:「この面」とは餌の量から途中で死んでしまうことが判っているときに、その生き残り集団からはみ出した集団に対して、〈全滅するには忍びない〉という理屈をつけて死んでもらうために作られる動物界での社会構造ではないかと思う。)なわばりは、今もいったように、餌などの資源を先取りするやりかたである。資源が比較的安定的な状態のもとでは、このやり方はなかなかよい。しかし資源がたとえば年によって著しく変化するものの場合は、よほど多くを先取りしておかないと失敗することがあるし、そうするとこんどは余ってむだになる率も高い。つまり、その変化を見通す能力がないと、この方法はうまくいかないのである。これに対して順位のほうは、こうした見通す能力を必要としない。餌の少ないときは順位の上のものだけが食い、多いときには下のものにも食わせればよいからである。つまり、いつでも切り捨てられる付録を連れて歩いていると思えばよい。」 川那部浩哉「川と湖の生態学」(講談社学術文庫:「生態学への招待」の章) さて、イカナゴが禁漁になるほど、資源が枯渇しているということは、このなわばり、順位が餌の多寡を媒介にして関係あるのかなあ。 関係ないでしょうなあ。ヒトが捕りすぎたということではないのかなあ。餌の量が減少していて、再生産に必要となるイカナゴの量も減少している、ということも要因かもしれないが。 フルセの禁漁にもかかわらず、新仔は禁漁にはならないとのこと。 ハタハタは、親を禁漁にすれば、仔稚魚を食べる習慣がないために、資源は回復したようであるが、イカナゴの新仔を禁漁にしなくて、親だけを禁漁にして、資源が回復し、再生産の適正量を上回る部分、利子に相当する部分をヒトがおすそ分けに授かることが出来るようになるのかなあ。 ということで、ニゴロブナの鮒鮨を食べられなくなった川那部先生をざまあみろ、いえ、可哀想に、と思って優越感に浸っていたオラでしたが、イカナゴのフルセの佃煮が食べられないこととなってしまいました。 そのうち、あゆみちゃんについても、香りや珪素を食するほうがうまい、なんてぜいたくをいっていては、垢石翁の時代の話をするんじゃあネエ、と怒鳴られる時代になるのかなあ。いや、すでに、そんなレベルの味には無頓着なようです。 川那部先生は、「アユの博物誌」に掲載されている座談会でおっかないことを話されている。 「川那部 しかし、養殖アユちゅうのは、どこがうまいんやろう。名前を食ってる感じやね。サバかアジのほうがよっぽどうまい。」 (省略) 「川那部 そんなことを言えば、海の魚も同じことや。原田みたいな広島の人間は、生のサケを食べたかったけど、メバルを食っとるだけのこと。そうではなくて、養殖のアユは、自分の味ではなくて、名まえと天然アユの味によって食われているんだから、両方がちゃんと多数の人間に食べられるようになれば、早晩つぶれるということよ。 原田 それはまたちょっと話がおかしいところへ行った。そういうことをいうと、いわゆる畜産業が成り立たなくなる。野生のウシがいちばんうまいといわんならんようになるよ(笑)。 川那部 それ食べたことない。いちばんうまいかどうか判断の基準がない。 原田 ウシの話になってはギュウと言わざるを得ん。まあ、アユのウルカはうまいという話ぐらいにしとこうよ(笑)」 いや、ここでの美味とは何か、は、現実化しているはず。 珪藻が優占種ではなく、藍藻が優占種の川のアユが、しかも、継代人工か海産畜養かが、利き鮎会で2年連続準グランプリになったのであるから。 そして、今や絶滅危惧種並の価値のあるぬめぬめヌルヌルの、シャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんを食べた経験のある人は、絶滅寸前になっているから。 そして、継代人工真っ盛りの御代であるから、遡上アユが野生のウシなみに評価されるようになるかも。 イカナゴのフルセの佃煮が食べられないことが判って、「故松沢さんの思い出:補記その3」に書く部分をつまみ食いすることになりました。 来年は食べることが出来ますように。 |
2010年は、もうイカナゴの佃煮を食べることが出来ない、と諦めていたら、佃煮屋さんから、3月10日にフルセの漁が再開された、との連絡があり、早速注文をした。 このような状況では、後何年フルセの佃煮を食べるkとができることやら、取り敢えずはめでたしめでたし。 |
蓮見さんは、自転車に積まれた鮒が売り歩かれていた、と話されているが、オラのいたところでは、「あじでっせえ、さばでっせえ」と、その日に海で捕れた魚が自転車に積まれ、売りにきていた。朝、昼網と、一日に二回、海の魚が店頭に並ぶところであったから、池の魚が相手にされなかったのも当然かなあ。そして、食糧難の時はやむを得ず食材にされていた、ということのよう。琵琶湖から二時間ほどしか離れていないのに。いや、新快速とか、何とかいう電車なら、一時間ちょっとの距離かなあ。なんで、鮒鮨、鮒の膾とは、無限の距離になったのかなあ。
「さっき見たっぺ、地獄ウケ。あの場所でも日に十や二十匹のドジョウは入るんだが、十や二十じゃ商売になんえぇべ。ンだから売り物じゃねぇんで、欲しい人がいればやっちゃうんだ。何ぃ、あんた週末にウナギ釣りに行くんか、そんじゃあドジョウがええよ。ウナギは生きたエサじゃねぇと、うまかねぇんだ。地のもんだからよーく食らいつくぞ、何匹か生け簀にいっから帰りにもってけ。」
蓮見さんの予言
「漁場か、そりゃあ昔と比べようもねぇくれぇ悪くなったねぇ。どこも同じだろうが、利根川もその支流もほとんど瀕死(ひんし)の状態だ。ガンも末期といったとこだな。」
「後継者がいねぇんだ。魚が減っちゃったもんで川漁だけじゃ食ってけねぇから、四十戸あったこの地区だってだれも漁師やってねぇもの。それでもおらがバカのひとつ覚えみてぇに川にでつづけたんは、魚捕りがおもしろくってやめられんなかったこともあったけど、今にして思えば『よし、それならおらひとりでも』っていう意地みてぇのもあったんかもしんねぇな。自然あっての魚も、その自然のお恵みをもらって生きる漁師も、世のなかのすみっこで目立たずひっそりとしとってドブの水といっしょに捨てられて、そのうち忘れられちゃうんだべなぁ。」
B ゴリのガラ引き漁 一藤貞男(昭和17年生まれ)
一藤さんは、野村さん、弥太さんら川漁師、野田さんや、川那部先生、大熊先生らの思いの多くを適切に語られているから、「つまみ食い」ではなく、全文を引用したいところであるが、スキャナーで読み通り、ホームページビルダーに張り付ける腕がないから、つまみ食いの方式で紹介します。
(原文に改行はありませんが、読みやすくするために改行をしています。)
ア 漁具
「ガラ引き(漁)いうんは、三千個からの貝殻がついちょうロープで川底引いて、貝殻がだす光と音で脅しながらゴリを上流から下流(の四つ手網)に追い込んで捕る漁ですが、おそらくこの四万十川でしかやっちょらんでしょう。さぁね、わたしの爺さんはもうやっとっから、どのくらい昔からやられちょったか見当もつきません。まぁ、あんたの目論見どおり四万十川を代表する漁法のひとつであることには間違いないですけ。
貝殻ですか、わたしはなかなかよう集めんでね、ボタンにするとかアクセサリーにするとかで貝殻を輸入している貿易会社からわざわざ買(こ)うちょります。
なぜゴリがサザエの貝殻に怯(おび)えるかというとですね、稚魚の時にサザエに食われそうになったことを覚えちょるからやないかと思うがですよ。たーんだガラガラいう音だけに追われるんなら、別に貝殻やのうても金属でも陶器でも多少の重さがあって水中で音をさせればえいわけやで、苦労して買い集めんでもすむことやでね。
先人がどうしてもサザエだのアワビの貝殻でのうてはいけん、貝殻がいちばんやいう考えにいきついたんは、ゴリという魚をとことん観察したあげくのことやったと思うちょります。」
貝殻を使用することと、幼児期での捕食者との関係が結びつくのかなあ。
鶏が、イタチに食われないように、アワビの殻を鶏小屋にぶら下げていたように、光る物、ということに何か、捕食者への効果を期待できる共通性があるのかなあ。
逆に、光る物がエサのありかを知らせるのか、食欲をそそる効果を期待しているのか、あるいは、ルアーの衝動食いの効果を狙っているのか、理由はわからないが、光ることが効果をもたらしている、という発想から、光り物が釣りの仕掛けに利用されており、「逃げる」動作とは異なる反応もあるようで。
「四万十川でゴリというのはカワヨシノボリやヌマチチブのことやでね、ここではアユとならんでうまいもんや。水がぬるむ春、稚魚が三〜四センチくらいの幼魚になってですよ、海から川に遡上してきたものをガラ引きやのぼり落とし漁、そやね、のぼり落とし漁いうのは中部地方から北陸にかけての川でもやっちゅうが、ゴリはふつうこの二つの方法で捕りよります。
ゴリという呼び方ですか?小っさい魚ですから、一生懸命がんばってもせいぜい五里(二十キロメートル)ほどしか遡れんから、ゴリというんやね。何か語呂合わせみたいでウソかマコトかわからんが、まぁ、このへんではそういわれちゅう。」
イ 漁場
「ゴリは泳力の弱い魚じゃけ、穏やかな流れでもさらに流芯をさけてですよ、浅瀬のゆるいところを選び、選びしながら遡上していきます。しかも、底石をはうようにして遡ってくるもんで、貝殻をつけたロープもピタッと川底をはわせんとゴリはうまく追えんです。
ほら、ずっと向こうまで浅瀬じゃろう。こういうところを普通平瀬やチャラ瀬いいよりますが、ガラ引き漁はこうした場所でしかできんのですわ。上流の十和(とおわ)村や西土佐村のような絞りこみ(川幅が狭まり深く急な流れ)はないし、底石が小さいから川底が平ら。淵や荒瀬が連続するような場所は、底石が大きいでそれだけ川底がデコボコしとるってことでしょう。何より流速がありすぎてロープが水中で躍ってしまうぜよ。」
ウ 騙しのテクニック
「だからといって、滅多やたらにロープを引けばえいってわけやない。今さっきいいましたがゴリは底石づたいに遡ってきよるで、砂や泥地はいけん。あそこ、三十メートルほどカミに右岸からの流れが左に落ちこむチャラ瀬があるわね、そうそう、左側が広い川原になっちゅう。ああいう小石が全体に敷きつめられているような場所がえいわね。ロープについた貝殻が川底をまんべんなく転がっていきますき、ゴリは網の仕掛けてある下流にしか逃げられません。
ああしたポイントが下流域には連続してますでね、ガラ引き漁は下流域でこその漁やといえますわな。」
「さて、どうするかというとやね、まず、わたしが舟で沖に向かって流れと直角にロープを張っていくんです。ロープの長さですか、そうやねぇ、五十メートルほどですか。ロープは一本が七メートル、それを五本つなげてあって、そのうえ舟上のわたしと川原にいる家内がもって引く手綱がそれぞれ七メートルですけ、全体でそれくらいになるでしょう。
そりゃあ重いですよ、三千個もの貝殻とその太いロープだけで五.六十キロはありますから。それを水の中で引くんですよ、貝殻ンなかに水が入るし、ロープも水を吸ってよけい重とうなる。流れの抵抗もとうぜん受けるでね、そりゃ重労働じゃき。
重いで、手先だけではとてももちこたえられんでね。ロープの一方の端は川原におる家内が、ああしてたすき掛けにしてもちゆう。で、ロープを張り終えたらわたしはそのまま舟でゆっくりゆっくり下りますから、家内も川ンなかに引きずりこまれんよう両足で踏ん張りながら、舟と歩調を合わせてロープを川底から離さぬよう、川原を歩き下ってくるんですよ。
ロープを引いて下る距離は場所によってちがいますが、だいたい三十メートルから四十メートルといたところです。」
「この漁はね、ふたりの息が合わんとできんのですよ。たーんだ力任せにロープを引いちょればえいいうもんじゃないきに。
広い範囲に散らばっているゴリを上流に逃がさんよう、ふたりで力を加減しながらロープを張ったりゆるめたり、少しずつ少しずつシモに向かってロープを縮めるながらゴリをかこいこむように追っていく。川シモに間口一間半ちょっと、奥行き一間強(横約三メートル縦約二メートル)の四ツ手網を張ってますから、ジワジワとその網のなかに誘いこんでいくわけです。ゴリというのは短い距離をチョ、チョと逃げますき。ロープはゆっくり少しずつ引いていくんですが、ふたりの息が合わんで片方の引き方が早すぎたり、逆にもたもたしちゅうとロープは斜めになったり浮いたりしよるけ、底をちゃんとはわです。すると、ゴリはロープを超えたり下を潜ったりしてカミに逃げるでね、追った数だけ入りません。」
エ 稼ぎ
「そうねぇ、えらい仕事のわりには収入にはならんねぇ。今も昔もゴリの卸値は一キログラム当たり四千円〜四千五百円と変わらんのに、昔は一日に三キロも四キロも捕れたが、ここんとこよくて日に二キロ、そういう日だってシーズンに何回もないわね。ほとんど捕れん日もあるぜよ。しかも、期間が年々短うなってきちゅう。
いや、だれかがそう決めたわけじゃない、自然がそうさせたがや。川をさんざんネブったもんで、川本来のもつ温度調節機能が働かなくなってきたということです。」
「昔は早いときだと二月に(漁に)でよりましたが、今は春が来にくくなったいうか、なかなか暖こうならんでね、去年なんか漁にでたんは四月に入ってからですよ。それも、川の状態がなかなかようならんでね、四月下旬でもうやめよりました。
ことしも全然捕れんのですわ。一回の漁で三〜四センチのゴリが十匹なんていう日もあるくらいですから。十匹じゃダラしで(馬鹿馬鹿しくて)やっとれんで、一回か二回ロープを引いただけで川からあがる日がずっとつづいちゅう。こんな量じゃ、商売にならんですき。
ゴリのガラ引き漁いうたら四万十川の春の風物詩じゃいわれちゅうが、何代も続いてきた伝統漁も終わりじゃけ。このままやとだーれもやらんようになるとちがいますか。」
鮎やウナギだけでなく、ゴリも受難の状況ということは、野村さんが野田さんに振る舞われていた三種類のテナガエビの運命もどうなったことやら。
オ 一藤さんの箴言
@ 温度調節機能喪失
あのね、昔のほうが今よりずーっと寒かったですよ。寒かったけんども、川のなかには暖こう場所が点々とあったんです。岸ちかくの浅瀬のあちこちに伏流水が湧きでてましたから。そういうところは一年中水温が一五,六度と安定しとって、魚にとっちゃあかっこうの避難場所になっていました。
夏は夏で涼しい場所があってですよ、山おろしいうて夕方になると涼しい風が吹き下りてきて、ちょっとしたワンドの柳の木の下あたりにひんやりと涼しい場所をつくってたもんです。
ああ、魚だって夏は暑いき、夕涼みしるんよ。漁師はそれを知ってますから、夕方になればそういった場所にいって漁をしたもんやが、今はそういう場所を遊歩道とか親水公園とか何とかいうてみーんな突き飛ばし(平らにしたり、直線にしてたりし)てしもうて、自然界の生きものが生きていくうえで必要な場所を奪ってしまったんじゃ。おかしな河川行政で、魚も漁師も生きづらくなったっちゅことです。」
「それより、じつはもっと大事なことが失われていることを(工事を発注している国土交通省などの)係の人は気づいておらんのやね。『(水辺の景観が)きれいになった、きれいになった』いうて自己満足しているようじゃが、わたしから見れば醜くなっただけ。水辺を平らにならしてしまうとやね、水辺周辺の温度調節機能が失われてしまうんです。
前にもいったように川沿いには冬でも暖こう場所があったり、夏は涼しいところがあったもんじゃが、そういう場所がのうなって川がもたらしてくれた冬暖かく、夏涼しいという利点がのうなってしまった。これじゃぁ、川の流域に住んどる意味がないわね。昔は暖房もクーラーもいらんかったのに、最近ではどの家にも冷暖房の設備がありますろう。」
A「自然に逆らわずに」
(原文にない改行をしています。)
「ウナギは『箱ころばし漁』いう、縦五センチ、横七センチ、長さ七十センチくらいの箱に生きた川エビやドジョウを入れてひと晩、河底に浸け置く漁法です。
わたしが箱ころばし漁でこだわっているのは、人間が作った仕掛けをいかに自然界にとけこまして魚の違和感を取り除くかっていうことです。だから、漁に使う前にこの箱に下処理をしておくんですよ。蛇行でできた川岸の池やワンドに、つくったばかりの箱を長い時間沈めておくとドロドロしたヌルがつくでしょう。これは植物性プランクトンとか動物性プランクトンの死骸ですが、こういった微生物を箱の内外にびっしり付着させてからでないと使わんき。
そうじゃない(関係ない)いう漁師もなかにはいますが、木の香りのするようなつくったばかりの白木の箱にはウナギは入らん、そうわたしは考えてます。人だったら白木の木の香りがする真新しい家のほうがえいいうでしょうが、そもそも人間とウナギの価値観は違いますけね。人がいくらきれいな住処をつくってやっても、ウナギが気に入るとはかぎりません。
川ンなかの食物連鎖いいますか、植物性プランクトンを動物性プランクトンが食べ、動物性プランクトンを水生昆虫や小魚が食べ、それを大型の魚が食べにくる。ウナギは肉食魚ですき、そういった自然界の食物連鎖の上のほうにおりますでね…。微生物がついちょうような箱なら食物連鎖が自然のままにあるということでしょう。そのなかにエビやドジョウが棲んどったって何の不思議もない。人間には気色悪いヌルがついとっても、ウナギにとっては自然界と少しも変わらん快適なレストランなんじゃないですか。
漁師の仲間うちじゃ特殊かもしれんが、そういう自然界の掟に沿ってわたしは漁をしちゅう。魚といっしょの世界に自分を置いてはじめて乱獲が防げるし、資源の保護も考えられるんでね、それが漁師を続けていくための最善の方法やと思ってます。
天候や気温によってちがうんやけんど、新しい箱に微生物が付着するまで最低でも一カ月はかかります。ときどき底石に詰まった(引っ掛かった)りして壊れるもんで、どうしても予備の箱が必要になりますから、漁にでられんときには(道具小屋のなかで)こうして箱をつくりよるんですわ。
わたしの漁法は、なるべく自然に、自然に、自然に逆らんようにしとるんやが…。」
河川管理者その他、川をネブる方々が、「自然に、自然に逆らわんように」との意識をほんのちょっぴりでも持ち合わせておれば、川の生き物も少しは、「快適なレストラン」で、お食事をすることができるようになると思うが。
一藤さんは、弥太さんと違い、箱にミミズを入れないのはなんでかなあ。弥太さんは、梅雨時の増水時等で、大トロの味を、マツバガニの味を覚えてしまったウナギであるから、ミミズが最高のご馳走と考えられているが。
B池やワンドの消滅
「あんた時間まだええのかい、ほんじゃぁ話すがよ、批判めいたことなんで、まぁ、ここだけの話やが、四万十川沿いに住む人間の恥じゃきあまりいいとうないが、わかってくれんにに。
河川を管理する県や市が『川をよくする』いうて、どんどん突き飛ばしてしまうもんやから、微生物をつけるためには箱を浸けるために箱を浸しておく川岸の池やワンドが消えていくのはほとほと困ってる。昔は川岸のそこここにようけ池があったがね、そこにつくったばかりの箱を漬けよったけんど、そこを管理している人(県)が水辺の高い低い、陸や池を全部平坦(平坦)にならしてしまうので、それも(注:箱を漬けてヌルをつけること)できんようになった。今じゃあ道具小屋の前に置いてある水槽をわざと雨ざらしにして、そこで微生物をつけるけん手間がかかるんです。」
Cコンクリート張りはきれい?
「どうしてわたしらの気持ちを汲んでくれんね。『最後の清流』で舟遊びをする観光客も大切じゃろう、土建業者もおるで公共事業も必要じゃろう、でもよ、わたしらのような漁師もおるんじゃきね、魚のいない清流・四万十川じゃ困るんよ。
屋形船から見る川岸の景色は整然としたコンクリート張り――都会の人はそういうのが美しいと思うてるようじゃが、あれじゃあ魚は産卵も棲むこともできん。周りの景観を“きれい”にするのは勝手じゃが、川岸の傾斜はそのまま残しておいてください。大水でも危険でないところは削らんでください、山に木を植えるにしても杉やヒノキばかりじゃなく山肌に光が射し込むような広葉樹を植えてください、そういうても聞く耳をもってくれんのよなぁ。
川には川の、山には山の温度いうものがあるんです。ぜーんぶ均一に考えて工事しとったら、四国の端っこを流れているにもかかわらず四万十川の流域も東京のようにエアコンなしでは住めんような気温になってしまうがよ。」
D生き物のおらん川
「温度調節機能を失うと、たとえば水辺の植生が変わったり、微生物の発生が妨げられたりしてですよ、結果的に食物連鎖がプツンプツン断ち切られて生きもの全体が少なくなっていくんです。」
E死んだ「清流」
「生きものがいっぱいいるから『清流』いわれてたんでね、生きもののおらん川は、いくら景色がきれいでも川とはいえません。『清流・四万十川』なんていう宣伝しよるんは詐欺(さぎ)みたいなもんですき。
毎日その魚を捕って生活してきたわたしたち漁師は四万十川が『清流』どころか、川でなくなりつつある、それを痛いように感じてるんですよ。」
F「清流」を壊す人々の事例
「学識経験者とかいって、どんなえらい人の意見を参考にしているんか知らんが、清流を保護しよう、しょうと言いながら逆に壊してですよ、自然の生きものが生きていく場所を何の疑問ももたず奪ってる。いえね、かれらは何も壊そう思うてやっているわけやないと思うがやき、じっさい工事が終わってみれば生きものの姿が消えてるんだから、これじゃあ一所懸命仕事をしよっても給料もらえんのと同じじゃ。
工事を指示した人は、工事した場所がどう変わったかを後日調査してはじめて仕事を終えたことになるんじゃないですか。やりっ放しじゃ、子どもと同じよ。」
やりっ放しは、中津川の妻田の堰の魚道の維持管理も同じ。魚道を下った水がまっすぐに下流へと流れず、反転して堰からの落水と合流しているため、遡上アユには、魚道への上り口がわからない。県は、底生動物でも上れるすばらしい魚道、と新聞発表していたが、「やりっ放し」です。
「公共事業」概念では、「影響」を受けるものを考慮すべし、アセスメントをすべし、となっているが、その対象には「生きもの」は包含してはいけない、したがって、「生きものへの影響」を意識することは、公共事業施行者には禁忌に触れる行為で、河川管理、工事に係る背信行為である、ということは、日本全国普遍の公理でしょう。その「公共事業」命・イノチ教団の教義は、アセスメントにおける生きものの調査、影響評価に関しては、教団の意に沿う「学者先生」を動員し、「公共工事」を阻害する調査結果を招来しないように、細心の注意と技を駆使すべし、ということではないかなあ。
まあ、四万十川だけの現象ではないから、予言者一藤さんにも、諦めてもらうしかないか。
いや、国土交通省だけではないです。水利権を得て、利水をして水力発電を行っているから、「公共の福祉」さらには、「地球環境の保全」に寄与していると、塩郷ダムに横断幕をはっている中電も、かっては、大井川を水無川にし、最近は長島ダムでの掃流力の低下から砂利まみれの河床にし、また、栄養塩等水の変化から、シャネル五番のあゆみちゃんを育む珪藻の種類構成を変え、あるいは、種類構成が変っていないとすれば、シャネル五番を生成する成分を含む珪藻の栄養素の構成を変え、その結果、オラを失意のどん底に陥れていますから(高橋さんら、学者先生は、21世紀になってアユ釣りをはじめたおっさんの1人同様、「シャネル5番」の香りは、「本然の性」であるから、珪藻、藍藻の優占種の違いは無関係、とおっしゃっているが)。
G何もない砂浜は無駄なもの?
「砂浜美術館なんていうようやが、首をひねりたくなるようなような施設も建てちゅう。河口近くにそりゃあきれいな砂浜があったんです。松原がずっと続いとって白砂青松そのものでね、土地のもんの憩いの場所じゃった。砂浜っちゅうとこは、何もないからきれいなんじゃき。そういうところをわざわざ切り壊して、いかにも人がつくりましたっていうような建物を建ててしまった。さぁ、観光客が入ってるっていう話はあまり聞かんなぁ。」
H汽水域の重要性
「河口、そしてこのあたりもそうですが、潮が入ってくる汽水域いうところも大事です。汽水域は川の首根っこ、自然界の生きものの大事な通り道ですき。とくに海と川を行き来する魚にとって河口は大事、そこを壊されたら首を絞められたのと同じよね。
水が汚れてても、河口堰などをつくられて流れが分断されてても、嫌やなぁ思いながらも魚はどうしてもそこを通らなならんの。魚たちは空を飛べんきに。それに汽水域いうのは遡河降河する魚が淡水、海水に順応するためになくてはならない場所よね。高い山に急に登ると高山病を起こすでしょう、ほんじゃきに途中で高度順応しながら登る。魚もあれといっしょ。浸透膜で体内の塩分濃度を調節してからでないと海から川、川から海に出入りできんのですよ。
こういった河口付近や汽水域の環境が壊されると魚は一気に減るんです。長良川に河口堰がでけたでしょう、どうですか長良川の漁師さんたち、困ってるんじゃないですか。魚にも漁師にも大事な場所なんですが、どういうわけか(工事をする)かれらはそういうところをネブるんやね。ネブりやすいんじゃろうか。
四万十川は専業漁師の数が全国一いわれちゅうが、(漁師として)生活していくのは容易じゃないき。三代つづいた漁師の家もわたしかぎりでお終(しま)いです。ほんまに、これ以上(国や県に)四万十川をネブってもらいたくないんですわ。」
「そうじゃね、四万十川が『最後の清流』なんていわれるようになったころからよね、何やわからん工事がようけ増えたのは。同時にアユやウナギ、川エビ、ゴリ、漁師がたよりにしちゅう魚もいっぺんに減りましたわ。
ええ、ゴリが終わると次はうなぎ、そしてアユになります。そのうなぎもだいぶ減りましたわ。」
これが、四国の片隅で、家地川ダム(堰堤)で水無川の区間はあっても、檮原川にダムはあっても野村さんや野田さんが付き合いを重ねる魅力を保持していた四万十川の「清流」までも、昭和の終わり頃から「普通の」現在日本に見ることのできる川に成り下がったようです。もちろん、相模川よりはきれいでしょうが。
その相模川が、どんな状況での調査か判りませんが、神奈川県内水面試験場の調査では、「珪素が優占種」なる調査報告があるんですよ。オラは信用していない、あるいは、「珪素」といっても、貧腐水水ではなく、中腐水水でも生存、繁殖できる種類構成があるとのことですから、その類の「珪藻」かも。
テレビで繰り返し放映される「清流」、魚の豊富な四万十川、そこが藍藻が優占種の川であるとの調査結果を見てびっくりしたが、川那部先生の文を、野田さんの「川へふたたび」に、野田さんですら逃げ出さざるを得ないほどの荒廃した川、都会風の人間、町へと変身した四万十川沿川ということで納得しました。
「川へふたたび」の目次に「四万十川は本当に日本一か あと一〇年は大丈夫じゃろか」と。
これが書かれたのは、一九九〇年夏:平成二年のこと。
一藤さんが話されたときは、二〇〇一年頃であろう。
そうすると、野田さんが「あと一〇年もつじゃろか」の「一〇年」はもたなかったといえるのかなあ。
もちろん、「清流」を知らずして、「清流」を語っていることに気が付かない「学者先生」や都会っ子にとっては、ゴリが数匹しか捕れなくても、「豊穣な生物を育む清流」となり、テレビはそれを宣伝するでしょうが。
一藤さんの箴言は、四万十川の状況が日本の山、水、川、ヨキ、生物等が変質していった普遍的状況について、非常に適切に斎藤教の「奥義」を表現されていると思っています。
(3)川那部先生の「神学」
A はじめに
川那部先生が書かれているなかから、「ほんものの川を求めて」に係るカ所をつまみ食いしょうとして困った。
それは、すでに多くが引用済みであることに気がついたから。
とはいえ、「ほんものの川を求めて」の表題は川那部先生の「曖昧の生態学」から引用したものである。表題を引用をしておきながら、中身がない、となると、締まらない話であることはオラでも理解できる。
ということで、重複引用もいとわず、「神学」を紹介します。
なお、川那部先生の本で、「農山漁村文化協会」出版に係るものは、ネットで購入できます。
「偏見」に基づくつまみ食いとミスリーディングは当たり前、のオラの文に失望することなく、川那部先生の本を読まれるようにお願いします。
高橋健「未来へ残したい日本の自然 川の自然を残したい 川那部先生とアユ 」(ポプラ社)の子ども向けの本が目につかなかったら、川那部先生を知ることもなかった。
その二〇〇九年秋から手に入れた川那部先生の本は、発行年で並べると、つぎのようになる。
書 名 | 発 行 年 | 出 版 社 | ||||||
川と湖の魚たち | 昭和44年・1969年 | 中公新書 | ||||||
川と湖の生態学 | 昭和60年・1985年 | 講談社学術文庫 | ||||||
アユの博物誌 | 昭和57年・1982年 | 平凡社 | ||||||
偏見の生態学 | 昭和62年・1987年 | 農山漁村文化協会 | ||||||
曖昧の生態学 | 平成8年・1996年 | 農山漁村文化協会 | ||||||
魚々食紀 | 平成12年・2000年 | 平凡社新書 | ||||||
生態学の大きな話 | 平成19年・2007年 | 農山漁村文化協会 |
このほか、「アユの話」も、著者は「宮地傳三郎さん」ではあるが、川那部先生が関与されているとのこと。ただ、オラはこの本が、漁協の義務放流量を決めるときに1平方メートルに1匹の縄張りアユとのことが「基準」作成に採用されているとの話や、産卵時期が10月1日頃に盛期を迎えている、等の記憶があり、読み返す気にはなっていなかった。
なお、「故松沢さんの思い出補記その3」を書いているとき、「生物と環境 川魚の生態を中心に」(人文書院)入手できた。当然、この本も利用させていただいた。
川那部先生の本に強く引かれたのは、1996年発行の「曖昧の生態学」に書かれている1節である。
これこそ、相模川以西の海産アユの産卵時期について、「川漁師の常識」は、「学者先生の非常識」であることの軍配が、「川漁師」にあがること、さらにオラが神奈川県内水面試験場や、「ここまでわかった アユの本」の高橋さんへのいちゃもんが荒唐無稽でないことを「学者先生」のなかにも立証してくれている人がいた、と歓喜した文である。
この話に速く移りたいが、(「故松沢さんの思い出:補記その3」に書きます)今は「ほんものの川を求めて」を完成させることが先決ですよね。
オラが川那部先生の引用で目論んでいる高邁な理想は、川漁師の予言を教え、広めようとされている斎藤教が、川那部先生を神学者として、たとえば、ユダヤ教の一宗派であったキリスト教を普遍宗教に変換する教義を提示したパウロ、そして、神学者が、矛盾もある教義を体系化したグラチニアヌス教皇令集等を編纂したように、「人間唯我独尊」教、「水害撲滅」教に対するカウンターイデオロギーを体系化、集大成できればなあ、と。
そうすれば、「自然を保護する」ための公共工事で、「自然を破壊している」行為が罪である、罪を悔い改めなさい、といえる教典ができないかなあ、と。
まあ、夢は夢で終えましょう。ほかの斎藤教信者が、その他の宗派の信者が、一藤さんらの願いを実現可能とする教義を体系化し、学者先生や、都会っ子の自然観、価値観を変えてくれるでしょうから。
B 「生物多様性を促進させる」 「曖昧の生態学」から
(原文にはない改行をしています)
ア 自然の中の生物の相互関係
「遺伝子から生態学までに見られる生物多様性は、自然の基本的な姿勢である。そしてわれわれ人間は、この多様性を資源としてはもとより、精神的・芸術的な糧としても享受してきた。それが大量に失われつつある今、いかにこれを保存し、未来に残していくかが緊急の問題なのである。
この多様性は、何がどのようにして生み出してきたのか、地質的な時間単位で見た『近い』過去における、生物の相互関係の総体、すなわち関係の多様性が作ってきたものだ。難病の特効薬一つを例にとってみても、それは例えば、特定の昆虫に食われないようにと、一生懸命作りあげてきた忌避物質である。この昆虫との関係がなければ作られなかったものだし、それがなくなれば今後『あまり長くない間』に、失われることも間違いない。
『人間と地球の近い未来のためには、今ある多様性を例えば【遺伝子銀行】の中で存続させるのではだめだ。自然の中で生物の相互関係がいっそう複合的になるのを助け、それによって、生物多様性を自ら促進するように自然を仕向けること、これが何よりも必要だ』。私どもが提案した『生物多様性を促進する生態複合』の研究計画は、幸い昨年、国際生物連合やユネスコによって認められた。」
そのような動きがあるのに、神奈川県内水面試験場は三〇ウン代になる継代人工種苗の生産をやめないのではないかなあ。二〇〇九年は幸いにも、漁連のプールに移されている間に稚魚は死んだから、欠陥商品を漁連が買うことも、オラ達がアユのいない相模川でふてくされなくてすんだが。
いつもは、川に放流されてから大量死、あるいはダム放流後に死んでいるから、欠陥商品であることが一部の人にしか露見しがたいが。
イ 「一地域個体群の中での多様性―それを失った個体群は永続しない」
「さて、出会い頭に他人とぶつかって、ひょいと相手の顔を見たら、それが自分と同じ顔だったという怪談を読んだことがあります。確かに『のっぺらぼう』よりも一層怖ろしいことでしょう。さらにいえば、ある場所に住んでいる人間の顔が、もしすべて同じだったとしたら、どういう感じを持つでしょうか。
チンパンジーやゴリラやオランウータンはもちろんのこと、一つの群れの中のニホンザルの個体も、それぞれ異なった顔をし、少しずつ違った性質を持っていること、いや、獣や鳥の個体も、互いにいくらかは違いそうなこと、これは多くの方々が、漠然とにせよご存じのとおりです。だが、同じところに住む魚にもまた、そういう個体差のあることは、最近でも一般には、あまり知られていないのではないでしょうか。いや、わたし自身三〇年前には、今西錦司さんの主催するシンポジウムで話した折り、なわばりの位置や大きさなどは個体が入れ代わっても同じだということを根拠に、『アユには個体性がないといって良かろう』と、『やや早急に言い切っ』たことがあります。
しかしその後、魚を含めて多くの動物の個体のあいだには、行動や生態にさまざまの差のあることが知られるようになってきました。」
「動物はどれも同じ顔をしており、同様の行動をするいわば単一の集団だというのは、明らかに事実ではないことが、すでに明らかになっていいるわけです。」
種が絶滅する時の個体群、劣性遺伝子の関係は省略します。(判らないことは隠せば恥ずかしくない、という心から)
「また、環境は、決して一定ではなく、ある範囲でいろいろに変動してきました。この環境変動に対する適応の一部は、これまた遺伝子変異の多様性にあるのです。いや、そもそも雄と雌という性なるものがあって、わざわざ減数分裂をやって配偶子を作り、その二つが合一してそれから新しい個体をつくるなどと言う面倒なことをなぜするに至ったのか。いろいろな説はあるものの、突然変異を含む遺伝物質ないし遺伝子を、これによって新しく組み合わせ、そのことによってさまざまな環境変動に対処するための適応であるとする解釈が、今のところ有力のようです。
したがって、生物の種あるいは個体群の一部を人間の管理下におき、そのことによってその種ないし個体群を保護しょうとするのは、じつは遺伝子の多様性を失うという点で大きな問題なのです。さらに言えば、こうした人間の管理下に作られた子孫を大量に自然界に戻してやるということも、特定の遺伝子だけを増加させる結果になるわけでありまして、緊急避難的に行う場合はともかく、これまた一般的にいって問題のあること、直ちに理解して頂けると思います。
すなわち種の保護とは、一般的の種の保護やどれかの地域個体群の保護ではなく、その一つ一つの地域個体群の保護なのであり、さらに、地域個体群の保護とは、特定の個体の子孫すなわち特定の遺伝子の保護ではなくて、その中にさまざまな遺伝子を含んだ、その個体群全体の保護なのです。」
遺伝の話なんてちんぷんかんぷんのオラが、「生物の多様性」を引用したことの下心は、神奈川県内水面試験場が三〇ウン代目の交雑種の継代人工種苗生産を継続しているから、それにいちゃもんをつける正当性根拠のために。
継代人工及び交雑種、湖産が再生産に寄与していないことは、ダム湖を除けば、事実のようである。神の見えざる手によって、遺伝子汚染も、生物の多様性阻害も回避できたことは、幸運でしかない。
また、県産継代人工が、釣り人に釣られるよりも前に川の中で死んでいることも推測できる。
@2004年、2008年の遡上量が多かった相模川では、継代人工放流地点の一部を除き、継代人工が釣りの対象の主役となることはなかった。
Aダム放流後、成魚が死にそうになって流れてきて、それを検査した県試験場は、冷水病のキャリアーではあるが、冷水病で死んだのではなく、川に生息している雑菌で死んだ、と、話されていた。
つまり、冷水病病原菌も「日和見主義」の習性を保持しているから、濁り水等の環境変化で、水温16だから22度くらいで増殖し、発症するようであるが、「冷水病」ではなく、増水、水温変化、濁りのストレスが条件となって、川に生息していて、他の生物、遡上アユでは死の病原菌にはならない雑菌に感染しても死ぬほど、柔な魚ということであろう。
2009年大島はシルバーシート、20センチ台のどっかの継代人工を放流して尺アユになり、あゆみちゃんの氏素性、品位、品格、容姿、馬力に無頓着な釣り人を集めていたが、そのフィーバー以前は、釣り人がいなかった。
4月に放流されたどっかの継代人工は、5月中旬のダム放流で消えたから。もし、流されていたのであれば、下流の神沢や葉山で釣りの対象となっていたはず。
故松沢さんや、萬サ翁は、人工アユは下りをしないで産卵する現象を観察されているが、海産畜養も、増水で流されたものは別にして、下りをしないで産卵するのかもしれない。
県産継代人工が漁連の池で死んだ、そのため?に、09年は駿河湾には海産が多く、浜名湖産?海産稚畜養を購入して、その多くが放流されたであろう望地、昭和橋の上流、弁天では海産畜養が釣りの主役であった。
12月1日前後、昭和橋付近では100、200羽の鵜で鳥山ができいていた。始期は判らない。終期は12月5日頃。
海産畜養が釣りの主役になる状況は初めてであろうから、この12月近くでの産卵のための集結が、特異な現象なのか、ある程度普遍化できる現象なのか、わからないが、海産畜養も産卵のための下りの行動をしないのかも、と想像している。
ただ、昭和橋下流にはあまり出来がよいとはいえない磯部の堰の魚道がある。その魚道を登った経験がない海産畜養が、下りに躊躇した、そして、止水域の上流にある産卵ができそうな瀬に戻ってきた、ということも考え得るが。
四万十川の山崎さんが、「潮呑みアユ」の現象を産卵場偵察ではないか、と推測されているが、産卵場の位置は、遡上してくるときに稚魚が記憶しているのではないか、と想像している。
サケの母川回帰性が、稚魚、幼魚の段階まで育ってから川を離れるために、その川特有のアミノ酸?を記憶しているから、との話があったと思うが。
そうであるとすれば、稚魚、幼魚の時の遡上行動の中で、海からの距離を考慮した産卵適地の記憶があり得るのでは、と。
もし、海産畜養が継代人工同様に、放流地点を「母なる場所」と認識せざるを得ないとすれば、2代目方式・F1方式による人工生産、海産畜養の再生産寄与率は低下するのではないかなあ。
なお、沖取り海産を親として、採卵し、あるいは自然産卵させて、仔魚から稚魚まで育てた「人工」を、二代目・F1と呼ぶのか、一代目・F1と呼ぶのか判らないが、伊藤稔さんの呼び方に従っておきます。
C 「人間的自然」 「曖昧の生態学」の「『自然』の何を守るのか」
ア 「人間的自然」の誕生
「河川の堤防を緑色に塗って安心するのは論外にしても、高山にチューリップを植えたり、ユーカリの木を植林して緑化運動だと思ったりする人は、まだまだあるらしいですね。
やはり『自然とは何か』を、もう少し深く考えないといけないでしょう。
いま問題にすべきは、『人間的自然』なのです。生命の出現によって、それまであった自然は生命体の環境になった。つまり、自然は『生物的自然』になったのです。今から三十億年ほど前のことだそうです。時がたって、超優越生物としてヒトが誕生し、自然は『人間的自然』になりました。これは今から三百万年ほど前のことだと言います。この時以来、人間はいろいろな関係を自然とのあいだで結び、いやその一員として、それを少しずつ変えて来たのです。したがって、人間成立以前の『自然』を問題にすることは、理屈にあいません。」
斎藤さんも「川漁師 神々しき奥義」の「おわりに」に、
「もともと棲んでいなかった場所にホタルを飛ばして喜んでいる大人を見るにつけ、間違った自然観をもつ人間が増えていることに危機感をおぼえます。その水域の食物連鎖の頂点にあるようなコイを放せば、その水域はやがてコイばかりになってしまいます。アユばかり泳いでいる川などあるわけがないのです。日本の自然河川にはブラックバスやブルーギルなどの外来種が棲む余地などもとよりありませんが、アユもウグイも、ホタルもブヨも、カワゲラもトビゲラも有害無害ひっくるめた多種多様な水生動植物が棲んでいてはじめて生きた川、川本来の姿といえるのはないでしょうか。」
と、「自然」を知らない、あるいは経験したことのない、あるいは、観察力・感性が劣る大人たちの「自然観」で生じている「自然観」の荒廃を嘆かれている。
イ 「人間的自然」の崩壊
「しかし最近の極めて短い年代に、そうです、僅かこの五十年ほどのあいだに、『人間的自然』自体がなくなり始めている。次に『何とか的自然』に入るのであればまだ良いのですが、それが考えられない状態の入ってしまうのではないか。問題はそこです。誤解を受ける可能性のあることを惧れずに、敢えて二十年前に書いた文章を繰り返させてもらえば、『地球的規模での、同時に地域的なかたちでの〈人間的自然〉の回復が課題とな』っているのです。」
ウ 生物と非生物環境の相互作用
「人間を含めて生物というものは、いま申したように、長い地球の歴史の中で、他の生物や非生物的環境との相互作用によって、徐々に徐々に作り替えられてきたものです。酸素や二酸化炭素の現在の量が、数十億年の生物の働きによって決められ、それが地表の温度をも決めてきたこと、多くのかたがたがご存じのとおりです。しかも、自然はつねにある程度変化しています。いわゆる自然のバランスは、一定のものではなく、崩れては作り、作っては崩れて来たものです。さらに言えば、時には極めて大きな崩壊・変化も起こったわけで、例えば白亜紀の終わりには、当時の超優越生物であった恐竜が絶滅したことは、小さい子供さんでもご存じでしょう。」
エ 「善意が仇となることも」
「自然のバランスは、極めて強固かつ安定的なものではありません。手を加えて動かせば、必ず少しは変動し、そしてそれがある限度を超えれば、いや、最初はそれが小さくてもその変動が内部で波及して大きいものになれば、そのバランスは完全に壊れてしまいます。しかもそのありかたには生物間相互の、また生物と非生物環境とのあいだの歴史性が、幸か不幸か介在しているのです。
善意ではあってもしかし軽はずみな行為が、相手の人間や人間社会に悪い影響を与えることは、残念ながら皆無ではありませんが、自然に対する場合は、こういう危険はいかにも大きい。自然の心情とでもいったものを忖度することは、なかなか困難だからです。しかし、自然に対して何かを起こすときに、こうした大きい問題の起こる可能性を自覚し、それなりの覚悟をしてからやっているのかどうか。
単純な例を出しましょう。小さい島に住んでいるニホンジカは、多くのところで増えすぎて問題になっています。これは当然のことで、かれらは進化のなかで、例えば自分たち、とくにそのこどもを食う動物の存在を前提にして来た。つまり食われる数、あるいは他の要因で死ぬ数を勘定に入れてこどもを出産するように、遺伝的に決められたのです。それがなくなり、あるいは少なくなって、子供はほとんど育つ。その結果、植物をほとんど食いつくしてしまった。こうして今ではいわば飢えの状態にまでなり、このままではその集団は絶滅の危機にあるところが多いのです。産児制限をする意識はシカにはないし、出生率の低い個体を選択する自然淘汰が起こったとしても、数十年、いや数百年ではとても目に見えた変化は生まれないでしょう。」
シカの事例はよく判る。
09年か08年の大井川鉄道に、リュック姿の若者が乗ってきた。南アルプスの登山者は、静岡から井川にバスで行き、大井川鉄道を利用しない。そのときは井川の近くで土砂崩れがあって、バスが不通になったとのこと。
その若者は登山者ではなく、お仕事で南アルプスに行く、と。
お仕事は、シカが山の稜線まで進出して、食害を起こしているので、その調査に行くとのこと。里に出てくるシカも、山を登るシカもいるよう。
オ 養殖は遺伝子多様性の破壊
「それはとにかく、遺伝子の多様性は時間的空間的変化に対応する、大きい安全弁でもあることは確かなのです。
そういう点では、例えば長良川のサツキマスなどについての河口堰建設側の意見は、やはり問題がありますね。養殖して放流するから大丈夫などと、今でもまだ言っているのは困りものです。増殖放流というのはそもそも、極めて少数の個体の子孫だけを大量に入れることなのだから、遺伝子多様性が著しく減少するのは、理屈からも当然なのです。この問題についての重要性の認識があるのかないのか。私は、長良川河口堰建設に頭から反対するものではありませんが、例えば『サツキマスの遺伝子多様性はこれだけ下がるし、その影響は世界的に見てこの程度大きいけれども、それを覚悟しても、河口堰はこういう理由で必要だ』と、生物多様性の保護に関する評価をも提示してそのうえで論議を始めるべきでしょう。」
「そうそう、アユの放流は怪我の功名でしてね。琵琶湖のアユをあんなに日本各地に放流して問題を起こさなかったのは、最近はっきりして来たことですが、放流アユが一代限りで子孫を残さなかったからなのです。本来の意味での増殖に『失敗』したから良かったというのが本当のところです。」
交雑種が再生産されなかった、ということについては、「故松沢さんの思い出:補記その3」に書くが、「曖昧の生態学」が発行されたのが1996年、平成8年。狩野川の遡上アユが川から消えたのが1995年。
オラが、交雑種が再生産に寄与していないことを、故松沢さんの話からではなく、活字で知ったのは、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)の鼠ヶ関川での調査結果で、2002年、平成14年である。
平成14年においてさえ、神奈川県内水面試験場は、流下仔魚量調査等において、川にいるアユの種別には無頓着に調査結果に対する評価をされていたとは、不思議な現象ですね。この話はもう少し先に何度目かの繰り返しをします。
海産アユとの交雑種は回避できたものの、湖産と海産の産卵時期が重なるであろう日本海側、相模川以東のサケが上る太平洋側では、遡上アユの減少の一要因になったこともあるのではないかなあ。「共倒れ現象」で。
D 「自然は多様な複合連鎖系である」
この説をつまみ食いすることで、川那部先生の「根本教義」の一端を紹介できると思ったのが運の尽き。
「自然は多様な複合連鎖系である」の説だけでは意味不明になる恐れがあり、前後の説のつまみ食いから文脈を理解するしかない、と判ったから。
とはいえ、現象に係る事項に関しては、経験から類推できて理解可能な事柄もあるが、抽象的な次元でのお話はややこしくて、「『難しいことに』蓋」の信条から、つき合いたくない。
その前提でのつまみ食いですから、原文を読まれるよう、お願いします。
「自然は多様な複合連鎖系である」は、「6 生態学に関する『大きな話』 ―地球環境問題が変える生態学―」の一部です。
この章の構成は、
はじめに
地球環境問題が変える哲学1―地球は閉鎖系である
地球環境問題が変える哲学2―自然は多様な複合連鎖系である
閑話休題:「沈黙の春」の衝撃
地球環境問題が変える哲学3―自然の総体を扱う技術はこれから
地球環境問題が変える哲学4―自然は歴史系である
やってはみたいが、絶対にやらない、とんでもない大実験
おわりに
となっています。
「哲学」なんて超抽象次元の話にオラがついていけないのは、明白なこと。
ア 「地球は閉鎖系である」
「ところで地球環境問題の場合、私は四つほどの変化が起こっていると判断しています。
一番目の変化は、すでに広く知られていることですが、地球を開放系であると見做すことが、もはや不可能になってきたと言うことです。
地球が、したがって各々の地域が、開放系であると見倣すことのできた時代には、例えば、『汚染物質は薄めて放り出せば宜しい』という考え方が、まだ可能でありました。例えば、新居浜で住友が非常に大きな煙突を作って、汚染物質を薄めて拡散させたこと、あれは一つの、悪いというのではなくて、あの時代としては見事なやり方だったわけです。薄めてしまえば、どこかへ行ってしまえば、無くなるに等しいはずだという、そのような考え方で、ひとまずは済んでいたわけです。けれどもそれが、地球環境問題になってしまった。フロンなどは、北半球の中緯度地域の一部で作ったものが、地球全体に拡がり、いや特に局地ないし高緯度地帯に拡がって、オゾン層を破壊して大変な問題になっているわけです。いっぽう他の多くの地球環境問題は、それがある一地域で起こっているだけでは、その周辺はともかくとして、地球全体としては判らなかったわけですが、同じことが地球上のありとあらゆるところで起こりますと、それは地球全体としてみてどうにもならないわけですね。そういう意味で、開放系と見倣すことが全く不可能となったこと、これはよくご存じのとおりです。
開放系であると見倣せなくなれば、問題はどうなるのでしょうか。例えば汚染について言えば、濃度で考える、つまり薄めて放出するというやり方はもう駄目なのだと言うことが、非常にはっきりしてきたわけです。つまり、生物が自然の中でそれを処理してくれる、すなわち、質的にも量的にも循環の中へはいる範囲内に、総量をどうにか留めなければならないわけです。『〈もの〉は何にせよ、元のままのかたちに戻して、しかもそれを持ってきた場所に返す』こと、それ以外には方法のないことが、極めてはっきりしてきたのです。
差し障りはいっぱいあるのですが、どうせ私は舌禍事件を何回か起こした人間ですから、差し障りのあることも含めて申しますと、例えば、東京近辺、あるいは広く関東平野の中に、あれだけ多くの人がすむなんていうのは、これは異常なわけですね。〈もの〉を持ってくるほうは、まだ成り立つ可能性があって、だからまだ『成立している』ことになっているわけです。例えば、いっぱいダムを造って分水して、東京近辺に持って来る、いや日本海側に流れている水すらそこへ持って来る、というようなことまでやっているわけです。しかし今度はその水なら水は、そのあとどう返すのか。東京湾へ流しているわけですが、それは本来はおかしいことです。使ったあとの水は、必ず元のきれいな水にまで戻して、しかも向う側へ戻さなければいけないわけですが、そんなことは誰も議論せずに済ませているわけです。他の廃棄物も、もちろん同じことです。
それが本当に不可能だということになるとどうすべきでしょうか。関東地方、すなわち関東平野に住んでいる人間はどこかへ移り住むべきなのです。本当は住むべきでないところに住んでいることを、大いに自覚しなければなりません。かなりの不自由があっても、それは『甘んじて受ける』必要があるわけです。」
「それはともかく、『もはや開放系と見倣すことができない』ということは、今はかなりの皆さんがよくご存じのことです。そうして、私たちの〈暮らしかた〉まで含めて、早急に考え、転換しなければいけないことだと、私は悩んでいるわけです。」
イ 「自然は多様な複合連鎖系である」
「地球環境問題によって、大きく判ったと言える二番目のことは、いや逆に、『判らないことが判った』と言うほうが良いかと思いますが、それは、どうも地球上に存在している物事と物事との間の関係は、予想以上に複雑らしいと言うことです。」
「競争排除原則」
@実験方法の事例:競争相手との同居
シャーレの中に小豆と二種類のアズキゾウムシを入れる。
小豆やら糞やらは一定期間ごとに替える。
どちらの種ともに、最初は増加するが、ある時期からはいっぽうの種の個体数が減り、やがては1種だけが残る結果になる。
どちらの種が残るかは、条件によって異なり、小豆を替える期間によって結果が逆転することがある。
例外現象
共存する場合は、例えば、深いシャーレに小豆を何層にも重ねて入れると、上層と下層とで環境が違うから、双方がいわば「棲み分け」て共存する場合がある。
A実験方法の事例:捕食寄生するものの同居
「ところで、このアズキゾウムシの両種にともに捕食寄生するハチを放り込んでやりますと、この三つは全部共存するというデータを出した人があります。」
「その方(注:内田俊郎さん)には、二種のアズキゾウムシの競争に関する実験的研究のほか、一種のアズキゾウムシとその捕食寄生者との関係について、捕食者が増えるとアズキゾウムシが減り、アズキゾウムシが減ると捕食者が減り、こうしてその後アズキゾウムシが回復してくると言うように、非常にきれいな振動を起こしながら、永続的に共存させるのに成功した有名なお仕事がありまして、アメリカの生態学会誌などでも大変有名でした。この二つの実験を組み合わせて、繰り返しになりますが、小豆を食うアズキゾウムシ二種とそれに捕食寄生するハチとの組み合わせでは、三種全部が共存するとの結果を見事に示したものです。」
「生物学的三体問題」
=三つの関係、多対多との関係は、一対一の関係の足し算ではない。
(導入部となるエルトンさんの講演は省略)
「実は生物学・生態学に限らず、一般に自然科学というものは、多くの事象のうちから、まず二つのものを取り出してくる。そしてそのあいだの関係、つまり一対一の関係を解析する。また別の二つを取り出して、そのあいだの関係を解析する。そして、それらを総合して、あけすけに言えばそれらを足し算して、多くの事象の成り立ちを考える。このようなやり方を基本的には採用してきたわけです。しかし二つのもの、あるいはそのあいだの一つの関係は、そこにもう一つのものが介在して、合計三つの関係ができるとたんに、全く変わってしまうことがあると言うこと、ありとあらゆるところとは申しませんが、多くのところでは実はそうなっていると言うことが、非常にはっきり判ってきたのです。このようなことを最近では、『間接作用』とか『間接効果』とか呼んでいます。
私どもはこのようなものを、『生態的三体問題』と称したのですが、質点系の力学のような単純な系においても、三体問題は数学的な一般解はないことが明らかなのだそうですね。」
「実験」の意味もわからんちんのオラが、川那部先生のこの箇所をつまみ食いせざるを得ない理由=もう何回書いたか、判らないが、阿部さんの、「アユが食して、珪藻から藍藻に遷移するすばらしい営み」とのオラの神経を逆なでする「学説」がアユ雑誌に掲載され、さらにダイワフィッシングで放映された現象がどんな結果を招来するか、懸念しているから。
「目」にタコではあるが再度書く。
阿部さんの実験方法で書かれていないことは、「糞」の処理、変化である。実験環境での水量、水流は如何?。
アユの成長に伴う大きさの変化にかかわらず、水量、水流は変化させていないのではないかなあ。
そうであれば、貧腐水水から、中腐水水に水が変化して、珪藻から藍藻優占種に「遷移」することは当然のこと。
もちろん、この現象も「鮎が食して」という結果であるから、阿部さんの「学説」も間違っていない、と言えそう。
しかし、それは珪藻が優占種であった川の状態を説明していないはず。単に阿部さんが行った実験環境で生じた一事例に過ぎないはず。とても、普遍化、一般化できる代物ではなかろう。
さらに、実験結果を検証した、とされているが、とても珪藻が優占種とは思えない千曲川、木曽川であり、また、何を、どのような方法で「検証」されたのか、不思議でならない。
もっとも、相模川ですら、「珪素が優占種」との調査報告が、神奈川県内水面試験場で行われ、伊藤猛夫編「四万十川〈しぜん、いきもの〉」(高知市民図書館)に引用されているから、「木曽川や千曲川」が、「珪素が優占種」となる河川環境である、と評価しても、「学者先生」の世界では「常識」の部類に属する話であるから、不思議でも何でもないということかなあ。
とはいえ、テレビの影響は出ていて、オトリとして販売している養殖アユでも「香りがしている」と言う人がでてきている。
珪藻の種類構成が、栄養塩でどのように変わるのか、あるいは、珪藻の種類構成は変わらないが、栄養塩の変化で、それら珪藻に含まれる香り物質の質あるいは量に変化を生じるのか、という次元での「シャネル五番」を考える人を生み出さない効果、そして、「養殖アユ」の臭いを「香魚」の「香り」と信じる人を生成する効果は十分にある「阿部学説」のよう。
残念なことは、村上先生も、真山先生も、栄養塩の変化と、珪藻の種類構成の変化、あるいは、珪藻に含まれる香り物質の量的変化が、素人でも理解可能な調査報告は発表されていない、と。
もし、真山先生や村上先生が、栄養塩と珪藻の種類構成の関係、あるいは、栄養塩と珪素が生成している香り成分の質、量の関係を素人が判るように書いてくだされば、放映したことに対しての「苦情」を無視しているダイワフィッシング、あるいは、アユの香りは「本然の性」によるものであって、食糧とは無関係と書かれている「ここまでわかった アユの本」の高橋さんへの決定的な批判根拠になるのになあ。
オラが怒っていても、珪藻の種類構成または成分の変化とシャネル五番の香りを振りまくあゆみちゃんがいた大井川ですら、長島ダムができて以降消滅した原因をつきとめ、ダム管理をどうすれば美女がよみがえるのか、という高邁な事柄に役に立つことはなかろう。
珪藻が優占種であった頃、シャネル五番が立ち込める川面が日本中、至るところにあった、山崎さんらは「潮呑み鮎」の移動をシャネル五番で察知して漁を行っていた、という事実だけは忘れられないようにしたいなあ。
それがせめてもの「斎藤教」信者の一人としてのオラにできること。
いや、脱線はやめて、川那部先生の「神学」に戻りましょう。
「いずれにせよ、多対多との関係は、一対一の関係の足し算で解決できる問題でないことが、極めて明らかになって来ているわけです。
このようなことが明らかになってきますと、そのような効果が次々と波及して行って、一見思いがけないところに結果が現れることも、理解していただくことが容易になるでしょう。ダーウィンさんが、『ネコが非常に少なくなればネズミが増え、ネズミによってその三分の一が殺されているマルハナバチが減り、その結果クローバーの受粉がうまく行かなくなって絶滅する』話を書いているのはご存じですね。こちらには、『風が吹けば桶屋が儲かる』話がありますが、あれが可笑しいのはすべてが直列でのみつながっているからで、直列と並列が併用されれば、そのような関係が十分に成立することは、お判り下さっていることでしょう。
すなわち、このような自然と言うもの、多様な複合連鎖系としての自然の実態は、やっと解明の緒についたばかりなのです。」
E 「閑話休題:『沈黙の春』の衝撃」
「実は、今までにあげた二つのこと、すなわち、地球は閉鎖系であり、自然は多様な複合連鎖系であると言うことを、衝撃的に最初に示したのは、そう、レイチェル=L=カーソンさんでした。一九六二年に書いたその著書、有機塩素系殺虫剤の環境中への残留と、それによる生命の脅威の実態を書いた、『沈黙の春』がそれです。」
「この作品は、当該の害虫だけを殺すのではなくて、他の動物をも殺して自然の均衡を破壊すること、それが次々と食物連鎖を通って拡がっていくこと、その問題を膨大な資料によって書いた、もはや古典といって良い作品であること、改めて言うまでもないでしょう。しかし彼女がこれを書いた直後のこの本に対する評価は、決して高いものではありませんでした。『偏りが多すぎる』とか、『大袈裟に騒ぎすぎる』とかはまだしも、『全くの嘘』との評価もあったやに聞き及んでいます。『科学者が書くものではない』、『ジャーナリストだからいい加減なことが書ける』、これが当時の評価だったそうです。翻訳が出た直後の日本人の評価も、おおむね同様でした。一度当時の書評を見られると面白いでしょう。その後の評価と比較すると、思い半ばに過ぎるものがあります。いや私自身も、書きはしませんでしたが、最初に読んだときには、あまり高い評価をしなかったことを白状しておきます。」
「沈黙の春」が、古典との評価を受けるまでには30年近くかかったのではないかなあ。そして、「古典」が、政策に反映されたのは、1990年頃が最初ではなかったのかなあ。たぶん、DDTの使用禁止ではなかったかと思うが。
DDTは、戦後から昭和25年頃までは、貴重な公共財であったから、使用量も限定的であったが、誰でも手にすることができるようになり、他の農薬、除草剤の使用も相まって、川獺も、朱鷺も、コウノトリも滅びてしまった。その間、10年もかからなかったのではないかなあ。
川那部先生や、大熊先生の「神学」が、政策に採用されるまでに、どのくらいの時間がかかるのかなあ。まあ、その頃にはオラは三途の川で、天の川で、故松沢さんらにオトリをもらい、ぬめぬめヌルヌルの柔肌からシャネル5番の香りを漂わせているあゆみちゃんと弁天様を軟派しょうと励んでいるなあ。
F 「自然の総体を扱う技術はこれから」
「さて三番目の変化ですが、実はこれは二番目のものの、系とでも言うべきかもしれません。『多様な複合連鎖系としての自然の実態は、やっと解明の緒についたばかりだ』と、先ほど申しました。その系とはすなわち、科学は、技術は、あるいは科学技術は、この多様な複合連鎖系を操作するために、当然ながら、まだ十分ではないと言うことです。」
個々の公害対策については、日本は比較的良くやった方であるが、
「しかし、それを仮に全面的に認めたとしましても、それらの複合に対してはどう解決したのか、いや、今後解決できるのか。これは先ほどの科学技術の現状から見れば、かなりの困難が予想されます。すなわち、個々のことに対する最適解・最適技術は判っているとしても、それの複合に関して、各々のものを足し算すると、常に最適解を得られるかどうか、そんな保証はどこにもないと言うことです。いや、個々のことに関する最適解の集合は、実は最悪解になるかもしれないのです。従って、工学系における今いちばん大きな問題は、複合して起こってくる問題に対して、全体としての最適解とまでは行かなくても、ある程度適当な解をどうしたら見つけられるかにある。このように心ある研究者は考え、それを『総合技術』という名で呼んで、これから動かして行こうとしているのです。いや、それがなければ、地球環境問題には対応できないのだと、真剣に考えているのです。個々の技術については、いわば各々の企業にまかせておけば良い、しかし、この『複合技術』については、大学と企業との研究者・技術者がともに、進めて行かなければならない、こういうことと聞いております。工学系の連中が、このように言い出すということは、明白に哲学の変化なのです。」
G 「自然は歴史系である」 (原文にはない改行をしています)
歴史的時間の問題
「さて最後の四番目ですが、それは従来の通常科学にとっては一番嫌いなもの、ずっと避けて通ってきたものが、どうやら避けがたいものだと判明してきたことです。すなわち、時間の問題、それも歴史的時間なのです。
ご承知のように、これまでほとんどすべての自然科学は、可能な限り時間概念を入れないで済むように、一生懸命努力をしてきました。つまり時間tがゼロに限りなく近いという状態のもとで、何が起こっているかを考え、できるだけ議論をすべく努力を重ねてきたわけですね。つまり微分の世界です。そして、時間を考えなければならないときでも、こういう瞬間瞬間の積分値で考えるように努めてきました。これが取り敢えず、大きな成功を生み出したのは事実ですが、どうもその行き着く先が見えてきたわけです。
現在の地球上の酸素の量は、過去三五億年にわたる生物の働きによって、営々と造られてきたものであることは、もちろんよく知られていますけども、もっといろいろの意味で地球の現在の姿は、歴史的にお互いに関連をもって過ごして来た、そのあり方の結果であるということが、明白になってきたということです。
そしてこれは、生物のみならず、地球物理的・地球化学的なものを含め、すべての自然について、少なくともおよそ進化に関連するもののすべてに、当てはまるようです。」
棲み分け
「卑近な一例を一つ挙げましょう。私の先生のひとりに今西錦司さん(注:「昭和のあゆみちゃん」での今西博士の紹介だけではなく、「故松沢さんの思い出補記:その2で、今西博士の「シラメ」の紹介もしています)という人がいます。最後は『自分のは、科学ではなくて自然学だ』とか、『変わるべきして変わるのが進化だ』とか、いろいろ言っておられましたが、この人が友人の可児(かに)藤吉さんとともに、戦前のことですが、『棲み分け』という言葉を作りました。今西さんは後になってこの言葉を拡張し、いや、むしろ違う意味で使うことが多かったのですが、最初に定義した棲み分けは、『相互作用の結果として棲み分ける』というものでした。
例えばイワナとアマゴあるいはヤマメという二種の魚がいます。京都の近くでは上流というか、源流域に住んでいて、夏の水温が一二度程度のところをおよその境にして、上流の冷たい方にはイワナがいて、下流の暖かい方にアマゴがいる。しかし、これは原則、いやそういうところが多い、あるいは、平均するとそうなっているというだけのことです。アマゴがいない川では、イワナはもうちょっと下流まで、つまりもう少し暖かいところでも棲みます。逆にイワナがいない川では、アマゴがもっと冷たい上流まで分布します。つまりこの二種の魚は、今横軸に温度をとって、縦軸が好きな程度だとしますと、本当はそれは互いに重なっているのですが、同じ川に一緒に棲んでいるときには、重なりの部分を狭めて、言わば分ける方向に向かう。それが徹底して、同じ流程の場所には棲まなくなると、これが典型的な棲み分けになるわけです。いずれにせよこれは、相互作用すなわち競争の結果なのです。」
食い分け
「私は、基本的に食い意地が張っていますので、棲み分けではなくて、食い分けを一九五〇年代後半に見つけました。似たようなことはだいたい同じころに見つかるのが通性ですが、この場合も世界の数か所でほぼ同時に、淡水魚の食い分けが見つかりました。ここでは自分のものは止めて、ロシアの実験生態の研究者であるヴィクター=S=イヴレフさんの見事な例を紹介しましょう。」
イヴレフさんの実験
「餌は、ミジンコ・キビ粒・ユスリカの幼虫・牛肉片で、それを一種または二種の魚に食わせる実験です。そうすると、例えばコイとフナの場合は、一種だけを入れるとどちらもユスリカを第一位に選ぶわけですが、二種を混ぜると、コイはそのままですが、フナはキビ粒を第一位に選択するように変わる。また、マナマズとカワスズキの場合は、これも一種だけの場合はどちらもユスリカを選びますが、二種を一緒にすると、マナマズは変えないのに対して、カワスズキはミジンコを第一位に選択するように変化する。他の組み合わせでも同じようなこと、すなわち、どちらかが第一位に選ぶ餌を変える結果になっているのです。」
ヤマメ、イワナ、オショロコマの三種の場合
「これはしばらく後の話ですが、北大の石城謙吉さんが、ヤマメすなわちサクラマスと、イワナすなわちアメマスと、それにオショロコマとの三種について、それらが互いに棲み分けているときは、水面上から落下する昆虫も底にいる水棲昆虫も、どれでも食べますが、例外的に同じところに棲むと、いまの三種のうちで前のほうのものが水面から落下する昆虫を、そして後のもののほうが底にいる水棲昆虫を食います。つまり後のもののほうのほうが餌を変えるわけですね。さらに繰り返せばイワナは、オショロコマと共存するときには自分だけのときと同じ餌を食うけれども、ヤマメと共存するときは餌を変える、そういう結果になるわけです。最近ではこれに、大きさの問題が介在することがさらに判ってきていますが、それはここでは止めておきましょう。」
歴史の話:見知らぬ関係のニジマスとアマゴ
「棲み分けでも食い分けでも、この相互作用によるものの場合、『〈相手に譲って共存する〉といおうが、〈競争の結果として本来の要求をねじ曲げさせられている〉といおうが、事実は全く同じだ』と言うと、可笑しいでしょうか。
すみません。以上は、単なる『まえおき』でした。これからがやっと歴史の話になります。
ニジマスという魚がいます。これは比較的暖かいところに棲むサケマスの類ですから、適温を考えるとアマゴないしヤマメと似ています。ところでこの種は、アマゴともヤマメとも棲み分けも食い分けもしません。
サケマスの類は近年養殖が盛んでして、方々で何代か独立に飼い続けています。ところが、そのアマゴとイワナをあるとき一緒にすると、池の中などでも食い分けが起こるのだそうです、それに対して、アマゴとニジマスとの間では、食い分けが起こらないと聞きます。
アマゴすなわちサツキマスの分布は、日本列島西部の太平洋側だけです。ヤマメすなわちサクラマスは、日本列島を南限にカムチャッカあたりまで、つまり太平洋のアジア地域だけに分布します。これに対してニジマスは、北アメリカ大陸の太平洋側とカムチャッカ半島が、天然の分布域です。つまり、カムチャッカ半島を除いて、人間が移植するまで、出会ったことがない筈の種どうしです。そして、日本へ移入されているのはアメリカ大陸からのものであり、さらにごく最近まで、カムチャッカのニジマスとアメリカ大陸のニジマスとは、種が違うとされていました。」
歴史の話:歴史的時間
「まだ数年前の話ですが、私どもはロッキー山脈のニジマスの原産地でその行動を調査しましたが、そこではニジマスは、在来の他のサケマス類との間で、棲み分けないし食い分けの現象を示していました。
まだ証拠は何もありませんが、地質時代から長いあいだ、共存してきた種の間には、会えば棲み分けたり食い分けたりするという情報が、遺伝子の中に組みこまれているけれども、過去に会ったことのない種のあいだには、そういう情報が存在しない、いや存在する理由すらないと考えては、いけないものでしょうか。これは三〇年以上前から考え続けていることですが、おそらく視覚を通じての認識情報であるこれを、確かめる手段を、私はまだ考えついていません。
この例一つからでも、私がただ『時間』とは言わずに、『歴史的時間』と申した意味は判って頂けたかと思います。すなわち、誰やらのせりふではありませんが、ここでも『歴史とは共有された時間』のことです。
H 「やってはみたいが、絶対にやらない、とんでもない大実験」
他地域の動植物に置換して、歴史を消し去る実験
「それはですね、このあたりの植物を全部オーストラリアの木にする。例えば、ところどころですでに起こっていますが、例えばユーカリだけにする。そして植物を食う昆虫は、日本在来のものはすべて駆逐して、例えばアフリカからもってくる。その虫を食う動物は、鳥でも何でも全部、同じく在来種は全部駆逐して、今度は北アメリカから持ってくる。獣はどこにしましょう、南アメリカにしましょうか。とにかくこのようにしまして、日本国内産のものは微生物だけ、などという、そういう生物群集を作ってみたくてしょうがないのです。
私の予想では、これは成功しません。歴史的に関係のないものを集めて、そこから突然に新しい『関係』を作らせようというわけですから、成功はしない筈です。
生物はもちろん、性質を変えていきます。しかしそれには通常、どれぐらいの時間がかかっているのでしょうか。微生物は別としまして、そして植物は私自身がよく知りませんからこれも置いておきまして、動物だけに限れば、種が変わったと断言できる場合に知られている最低年月はおよそ数千年のようです。例えばバイカルアザラシは、北極海のアザラシから、だいたい四〇〇〇年ぐらいで変わったと聞きます。」
種の成立の時間:アユモドキの事例
「逆に、例えばアユモドキ。これは琵琶湖・淀川水系と岡山県の旭川・吉井川水系に分布しています。この魚はコイ科のドジョう亜科に属する生粋の淡水魚ですから、海を通って混じり合うことは出来ません。従って、この両者が互いに行き来することが可能だったのは、八〇〇〇年以上前のことで、すなわち、この二つの水系が川としてつながっていて、紀伊水道あたりで海に注いでいた時期、最終氷期の終わりまでのことです。そして現在ですが、その性質はもちろんいくらか変わっていて、遺伝子的にも変異があります。しかし、一緒に飼えば交雑しますし、種の区別をする段階には全く達していません。八〇〇〇年ではまだ、大きくは変わらないのです。
先の『やりたくて仕方がない』実験に戻りますが、関係を作りあげるにはこの程度の時間がかかる筈です。従って私は、『成功はしない筈』と予想しています。しかし、万が一、いや億が一、兆が一、と言うことがあります。『絶対に大丈夫』などという発言は、なんの場合にせよ、全く信じることは出来ません。この場合は、自分で言うことですから、なおさらのことです。従って、このような実験は絶対に出来ない実験であること、言うまでもありません。
しかし、平気でこれに近いことをやる人がいるのには、本当に困りますね。『自然保護のため』だと称して、する人までいるのですから、なにをか言わんやですが、それはここでの話ではありますまい。」
俳優?さんで、バス釣りの人が、ブラックバス放流禁止、駆除に声高に反対されていますが、この川那部先生の「他者との関係」を考えられていない典型といえるのかなあ。
「湖産」に猛威をふるっている冷水病源菌に関しても、海産アユへの感染は、なんでか判らないが少ないようであるし、そもそも、冷水病原菌の毒性はそれほど強いものではない、との話がある。にもかかわらず、猛威をふるっているのは、病原菌にしても宿主の命を奪うことは得策ではないが、宿主との付き合いが短いために、適切な関係を宿主と結ぶまでには至っていないから、との話があったと思う。
このような認識は、川那部先生の「相互関係」を取り結んでいるのが自然である、と言う理解が適切である、と言うことになるのやら、それとも、お前がいちゃもんをつけまわっている「学者先生」と同次元の自然理解に過ぎない、と言うことかなあ。
I 「神学」からの逃走
川那部先生の「神学」を、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、直列的なつまみ食いであっても、「適切」に理解しているとは言えないが、「間違っている」ともいえない、と言う次元に限定してつまみ食いをしてきた。
当然、直列的な理解では不適切であり、横糸の理解がないと、「適切」ではない、という事柄を捨象してきたが、そろそろ限界となってきた。
そこで、横からの、色目での、見方が自然界の観察には不可欠である、と思われる箇所のつまみ食いで、川那部先生の神学の紹介を終えることとする。
「生活の変異を捉え直そう―改めて知る生物の複雑さ」
アユとボウズハゼとの種間なわばりについて
沖縄でのアユのなわばりが不安定であることを調査いていて、なわばりの不安定性を確認できて、
「それはよかったのだがこの調査の途中、アユとボウズハゼの種間なわばりを『心ならずも』見つけてしまい、あわてて宮崎・高知を調査したところ、東北へ進むにつれてあいまいになっていくことを認めた。和歌山と千葉は未見だが、高知なみないしいっそう弱い状態と予想される。
ところがこの現象の説明をうまくなしえないうちに、また別の現象が出てきた。アユのいない場所でのボウズハゼの行動を見ていたところ、ヨシノボリなるハゼの摂食行動が、沖縄島各河川にある滝の上下でかなり異なっていることに気づいたのだ。この方は早わかり的に答えだけを言うと、底生性のこの魚、浮き魚のいない場所ではそれに『気兼ねせず』に水面上の昆虫にまで飛びついて食う。浮き魚がおらず、ただ底魚のみといった場所の存在しない京都付近で仕事を続けてきた私にとっては、沖縄島の滝上のヨシノボリは特異な行動をすると見えるが、ヨシノボリ自身にとってはどっちが特異なのか。これはにわかに断定できない。」
川那部先生は、異なった現象に出会うと、、それが普遍か、特異か、はたまた現象の観察が適切であるのか、と検証されるために、どれほど多くの比較対象を歩きまわられているのかなあ。
個体群ごとの生活
「だが、説明の可能不可能はともかく、こんなことに今さら驚くのがそもそもおかしいのだ。生物の種なるものは、分布範囲全体にだらだら生息しているのではなく、もちろん相互に深く関連しながらも、多少ともまとまったいくつかの集団として、実際には生活しているのである。この集団のことを『ごく最近の』生態学では個体群と呼ぶのだが、種の生活様式はじつは、個体群ごとに多少でも違ったやり方で発現しているのである。
京都付近の魚だって、少なくとも川ごとに一つずつ異なっている。たとえば丹後半島の川というのは、流程が短いためか地質的に新しいためか、おそらくは双方と思うのだが、タナゴ亜科・カマツカ亜科などの魚を欠いている。そこでハゼやドジョウといった小型の底生魚が、水生昆虫をおもに食べている。
淀川・由良川の両水系では、水生昆虫を大型に『譲って』、藻類を食べているのであって、これは魚どうしの相互関係による食い分けの結果なのだ。」
個体群の生活様式と異質他者
「種の生活様式は個体群ごとに多少とも違ったやり方で発現する――私は今このようにいった。その理由は何であろうか。一つは個体群ごとに、遺伝的性質の変異が多少とも違うことであろう。それと同時に、動物は常に他の生物と共存して生活している。多くの種は、自分のすみたいところだけにしかもその全部にすんでいるわけではなく、食いたいものだけをしかも全部食っているわけでもない。他の生物との相互関係によって、その要求を曲げて生活しているのである。そうしてこの二つの理由は、相互に関係しあっており、ある個体群が示している生活様式というのは、こうした過程の結果なのだ。」
場所による生活様式の相違にかかる認識問題
「アユが生息密度によって社会構造を変え、それに伴って成長の様式の変化することも、先程述べた川魚の食い分けも、あるいはまた、海から遡上するアユと琵琶湖からの放流アユとにみられる性質の違いも、知悉していたといってよい。それにもかかわらず、琉球列島と京都付近を比較してみて、川魚の行動の相違に今さらのように驚くのは何故か。遺伝的なものとそうでないものとを過度に判然と区別しょうとしたことにも一半の理由があり、また、個々の事実よりもそれらの平均とその偏差だけに重点を置く考えに、知らず知らず陥っていたことも、その一半であろう。京都付近で認められた変異を単純に延長していくだけでも、遺伝的にも相互関係の上でも互いに離れた琉球列島と京都付近とでは、行動の大きく違うことが予想されるはずである。」
エルトンさんの重み
川那部先生は、「曖昧の生態学」に、「エルトン『侵略の生態学』『動物の生態学』『動物群集の様式』 訳者あとがき」を再掲されている。
その一部を、「偏見の生態学」の「生活の変異を捉え直そう――改めて知る生物の複雑さ」に引用されている。
「生態学に現代を告知したチャールズ=S=エルトンさん」は、川那部先生と共鳴し、また、川那部先生の先達でもあろうと思うが、エルトン「侵略の生態学」の訳者あとがきに、川那部先生は次のように書かれている。
「『アメリカやヨーロッパ(大陸のこと)の研究者は、一般法則を見つけようと急ぎすぎる。そのために複雑なものを単純にとらえようとし、種がちがっても場所がちがっても変化しない現象だけに注目する。イギリスの研究者は、いや少なくとも私はちがう。複雑なものは複雑なものとして捉えようとする。さらにいえば、複雑というのはどういうことなのかを問いかけたいと思う。種がちがい場所が違うとどうしてこのようにちがうのか。そのおのおので成り立っている“特殊”法則が重要だと考える。一般法則はその特殊法則の根底にあるのだ。』」
川那部先生は、そのエルトンさんを批判したいと、不遜な願望を抱くものの、
「自分で感心して書き留めておきながら、まだ真意を軽く見すぎていたようだ。
要約すると、種はけっして一様ではない。ある時期ある場所でとらえた種の生活様式なるものは、真のもののごく一部でしかない。生活の変異とその法則を知るには、比較をおいて方法はあるまい。そうして、多かれ少なかれそこにすむ生物の相互関係の総体――群集を考慮に入れなければならない。ところで私たちは、物ごとをありのままに受け取る能力をあまり持っていない。したがって、後で訂正するはめになることは覚悟の上で、仮説つまり『偏見』をもって、個体群ごとの、さらに言えば、一つ一つの個体の示す生活様式を、見つめなければならないのである。」
シャネル五番の香りの素、仕組みを理解するには、現在の川を観察していては得る物は少ないと思っている。いや、「なになにをしない、何々の現象はない」という、つまり「ゴリラはあくびをしない」という現象を観察し、記録することも、原則を検証する上で有益であろうが、そのためには、シャネル五番の香りを振りまくアユがいたこと、川面からシャネル五番が立ち込めていたことを経験していないと、あるいは知っていないと、阿部さんのように、「アユが食して珪藻から藍藻に遷移する」、あるいは高橋さんのように香りは「本然の性であり、食物とは関係ない」との説を唱え、普遍化することになるが。
川那部先生が語るアユの密度と生活史の関係については、「故松沢さんの思い出補記:その三」に書きます。
「曖昧の生態学」の「エルトン『侵略の生態学』『動物の生態学』『動物群集の様式』 訳者あとがき」については、あゆみちゃんのお尻を追っかけるウデだけでは、理解困難であるため、逃走します。
J おわりに
教祖斎藤さんが予言者:「川漁師」の箴言をこの世に残されて、運良くその作品に出会うことが出来た。
そして、大熊先生や川那部先生の神学を読んできたが、何とか、締めくくりたい。もう、ヘボの考え休みに似たり、であるから、格好良くなんて、考えはさらさらない。
では、何をつまみ食いをするか、対象に悩んだ。
その結果は、ノストロダムスの予言、あるいは、終末思想が適切であろう、と。
救済の事例は、今後機会があればのことに。いや、救済については、長島ダムが出来る前には、大井川のあゆみちゃんにはまだ存在していた時期限定に過ぎなかったが、シャネル5番の香りがあった。その香りを復活させることすら、困難であろうから、諦めていますが。
ア 非生物的環境との関係 「曖昧の生態学」の「地球共生系と生物多様性」の章から
(原文にはない改行を行っています)
「先程の繰り返しになりますが、未来の多様性を保ち、いやむしろ発展させるためにこんどは、現在の生物間の関係及び生物と非生物環境との関係の総体を、どのようにして行うべきかを、考えかつ調査する必要があるわけでございます。
非生物環境の多様性について、申し上げる時間がなくなりましたが、これについては、今年五月一日に九一歳で亡くなりましたチャールズ=エルトンさんの書いた『侵略の生態学』『動物群集の様式』でもあらためてお読み下されば、私がここでくだくだ申すよりは、遙かに良くお判り頂けると存じております。
ただ一つ、どのような小さい生物であっても、各一個体はそれなりにいくつかの異なった環境をいつも使い分けているものであること、一様な環境が続くところでは、一日たりとも生きていけないほど環境多様性は重要であることを、ここで付け加えておきたいと思います。簡単な例を一つ挙げると致しますと、渓流魚のアマゴは水中を流れる昆虫などに跳びつきますが、その場所は流れの早い流芯の表層部です。しかし餌を待っているときもそれでは、エネルギー消費がたまりませんから、当然ながら流れの緩い、先よりは深くて石のかげなどが好都合です。こういう二つの場所が近接して存在しなければ、アマゴは食うに困るわけであります。一様な環境に川を変えれば、他の条件は仮に同じでも、彼らがいなくなるのは当然です。」
この箇所は、オラでも川漁師の嘆きを読んでいるから、また、狩野川城山下の淵を埋める話のあったときに、故松沢さんが反対された理由を聞いているから、理解できる。
イ 「多自然型河川」 「生態学の大きな話」の「U 応用工学とは何か」から
「『この〈多自然型河川〉なる日本語は、ドイツ語の訳から来たのだと思いますが、もしそうだとすれば、もとの語は〈自然に近い(Naturnahe)〉に違いありません。それではどうして、〈近自然〉ではなく〈多自然〉とわざわざ〈誤訳〉したのでしょうか。ひょっとすると、〈少しではなく、多くの自然の方向へ近づける〉ということだったのでしょうか。しかし私には、先日発刊されました『にほんのかわ』なる雑誌でも話しておきましたように、〈自然よりもいっそう自然性を多くするように、人間が作りあげること〉との考え、言わば人間の、もっとはっきり限定していえば土木工学関係者の、自然に対する傲慢さを如実に示す、まさに象徴的な用語であると思います。はっきり言えば、この用語が用いられている間私は、〈このような工法を一切信じないでおこう〉と、心に決めているぐらいなのです。』
このことは、環境に手をつけるなという意味では全くない。いや、すでにあまりにもひどくしてしまったことへの反省として、自然に手を貸すことは、残念ながら今やどうしても必要である。ただ、先ほどの『歴史』のところからも明らかだと思うが、人間は自然を作りあげることなぞ、金輪際出来ない。そうではなくて、『自然を作りあげることの出来るのは自然だけである。』ことに深く思いを致し、かつ哲学の革命の第三で述べたことを強く考えることによって、もっと自然に謙虚に、すなわち、今まで自分たちはあまりにも自然を粗末にしてきたから、自然が自然を作りあげやすいように、僅かにお手伝いをするのだと言うことを、痛切に考えて実行すべきだというに過ぎない。しかもこの作業こそが、すなわち、自然あるいは自然に近いものを、これから遠い方向へ動かすことではなくて、自然から遠くなってしまったもの、正しく言えば、自分たちがそのように変えて来てしまったものを、自然に近い方向へ自然が自分で動いていくために、いかなる助力をなすのが可能かを考え、それを実際に行うために、議論を進め、また事実として試みることが、もっとも具体的な作業になるのではないか。こういう意味である。」
「哲学の革命のその三」とは、「自然の総体を扱う技術はこれから」のこと。
「多自然型自然」なる河川等工事が多くなるのかなあ。川那部先生の嘆きは尽きないのかなあ。全国一律の工事内容で。仮に、個別性を考慮する工事としても、誰が、どのように「個別性」の妥当性を判断するのかなあ。学者先生かなあ、神奈川県内水面試験場かなあ。
ウ 人類はいつまで? 「曖昧の生態学」の「地球共生系と生物多様性」の章から
人口爆発
「地球の上に棲んでいるいろいろの生物は、共に生きていくことを前提にして、それらとの関係のなかで、自分を作りあげてきたものであり、今やそれなしにはうまくいかない状態にある。まずい話のしかたでしたが、このことはご理解いただけたかと思います。人間も含め、非生物的な環境をも含めて、地球は明らかに一つの『共生系』であり、一つの『共生圏』なのです。
ヒトの人口は、一万年以上前から一千年ぐらい前まで、徐々に増えつづけてきましたが、それは一億ないし三億人程度に過ぎませんでした。それがこの一千年ばかりの間に急激に増加し、一九八九年には五〇億人をこえ、二〇三〇年には八〇億人に達すると想定されています。
じつは地球はじまって以来、一つの種が重量で計算してこんなに大きい値に達したのは、もちろんはじめてのことなのです。すなわちヒトは、一般的な地球上の生物種としては、あまりにも多くなりすぎた存在なのです。さらに現在、重量で二番目に位置する種は、あるシロアリか、それとも牛らしいといわれていますが、この牛はまた、ほとんどがヒトのために飼われているもの、すなわち家畜なわけです。」
エネルギー大量消費
「そのうえに、ヒトのたとえばエネルギー消費量は、その他の動物とは比べものになりません。いやヒトのなかでも、いわゆる先進国のそれは特に大きいわけで、一九八七年の統計では、一人あたりの消費量は、たとえばバングラディシュのヒトに比べて、アメリカ合衆国に棲むヒトは二百八十倍、日本列島に棲むヒトは百十倍に達しているのです。地球が数十億年かけて貯蔵してきた化石燃料でさえ、ほぼ一世代、せいぜい二世代で消費しつくすといった状態は、それだけでも大変なことです。
共に生きていくことを前提として進化してきたこの地球共生系に対して、ヒトは今やこれだけ大きな責任を持っているわけです。」
次世代に遺産を残せる?
「今かりに、極端に利己主義の立場にたって、他の生物のことなどは全く考えず、ヒトという種だけのことを考えても、その将来の世代のひとびとが、さまざまな行きかたを選択できる余地を残さなければなりません。私たちの世代だけが、地球の歴史を変えてしまい、将来の世代はそれを利用することも不可能な状態に地球をしてしまうのは、あまりにも不遜なことのように思います。」
人間のあり方は?
「今日の私の話には、『自然と人間のありかたを考える』と言う副題がついていました。しかし今までの話題のなかには、人間のあり方そのもののほうは出てこなかった。いやむしろ、出さないようにお話をしてきたと申し上げたほうがよいのかもしれません。それはむしろ聞いてくださった方々が、各自で、それぞれ考えていただくことだと思ったからです。ただ、人間自体もさまざまな面で極めて多様な存在であること、そして多様な存在であるからこそ意味があると、私は思っているとことだけ申し上げておわりにさせて頂きます。
ご静聴、ありがとうございました。」
餓鬼の頃、溜め池で釣った鮒が、食用ガエルが食糧になっていた時代の者からは、今日の時代、状況の変化には思い及ばないといえよう。
最後は、川那部先生を読むきっかけを作ってくれた子供向けの高橋健「未来に残したい日本の自然 川の自然を残したい 川那部浩哉先生とアユ」(ポプラ社)
の、「地球共生系と人間の責任」をつまみ食いをして、「大きな生態学」の話から逃走して、あゆみちゃんナンパ術向上のために、川那部先生のアユを読むことにしたい。
(ふりがなは省略してます。)
「川那部さんは、共に生きていくことで進化してきた地球共存系にたいして、ヒトは今や大きな責任を握っているという。
『人間はそろそろ、自分たちの生き方を変えなければならない時期がきている。人類が誕生してから、まだ数十万年しかたっていない。せいぜいあと数百万年は生きのびてもらわないことには、地球上でヒトはもっとも早く絶滅した種になってしまう。人類はほかの生物と共存していかなければ、ごく近い将来、必ず滅びてしまうことになるだろう。』
そして、今まで自然科学者は、目の前の現象ばかりを解決しょうとしてきたが、地球共生系の立場からは、大昔から関わってきたほかの生物との関係を考えなければならないという。」
そして、ヤマメの生活圏に放流されたニジマスとの間で、棲み分けや食い分けが出来ない事例に続いている。
「生物の性質というものは、地球の歴史のなかで、その土地やほかの生物との関係のなかから生まれてきたものだ。このことを忘れて人間生活の都合ですぐに環境をかえようとすれば、地球の共生系は壊れてしまうのである。」
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10月31日 狩野川雲金
やっと、初心者らしからぬおっさんからお誘いがあった。
おっさんは、26日前に大きいアユが釣れていた大見川、嵯峨沢がお勧め。
嵯峨沢を見に行くが、アカ付き充分、しかし、他でオトリを買った人は、駐車するな、ということで、雲金に移動。
なんで、雲金が26日の5,60センチ増水の影響を受けず、大仁は白川に近いのかなあ。砂の多寡か、それとも?
テニスコート上で、どらえもんおじさん御作の6.5号の針ですぐに中学生。どらえもんおじさんの御威光のすごさを実感する。
とはいえ、腕の悪さを御威光で補うことは、限界がある。午前、中学生5匹。
瀬を釣っていたおっさんも5匹。おっさんは、女子高生であるから、大きさでは勝った、と。しかも、雄は1匹だけとのこと。
大見川は、26日の増水で多きいいアユは下ったようで、チビが少し、とのこと。それに風が強い、と。
午後は、28日の青木の瀬で風が吹いてきたことから、7mの竿にする。糸は、0.4号フロロのまま使う。
おっさんが釣っていた瀬は、根掛かりをはずしにいけないから、女子高生は魅力ではあるが、上流へ。高松邸のところがあいている。
すぐに、小学生。中学生のオトリにもう一度働いて、同級生を連れてこい、といったのにまた小学生。仕方がないから、小学生をオトリにする。小学生は、女子高生を連れてきた。こんな展開は気分爽快。惜しむらくは、オスの女子高生であること。もう1匹女子高生が釣れたが、オス。
オラの上流側の人が慎重に取り込んでいたから、ここは、小学生から女子高生まで、小中高一貫制の学校のよう。
3時前からさっぱり釣れない。ハヤが3匹。
午前釣ってたスコート前に移るが同じ。おっさんは4時頃、2度続けて慎重に取り込んでいる。しかし、最後の大物は、ハヤの背掛かりとのこと。
結果は、計13,おっさんは14.
おっさんの喜ぶこと、喜ぶこと。おっさんのホームグランド狩野川で2連敗をしたら、もうメジナ釣りに精を出して、狩野川には来ない、というほどの落ち込みになっていたはず。
おっさんが囮を入れたのは瀬の中の棚、石でできた落ち込みが主とのこと。
1匹の差が、おっさんの勝ち越しへの意欲に火をつけ、また、勝ち越しを確信して、もう一度、狩野川にやってくることができそう。
11月6日 狩野川青木の瀬
暖かいなあ。木枯らし一番が吹いたようであるから、増水による下りだけでなく、性成熟が一定程度進んだ鮎も、一瀬ごとに下っているのかなあ。
アカ付きは良好、前回のように、残りアカを捜す必要はない。
タマちゃんは、左岸側の流れと真ん中の流れが合流する附近にはいった。
オラは、前回同様、自動車道上流チャラの右岸ヘチにオトリを入れる。すぐに中学生、釣りのぼり、3匹。
さらに、見てくれのよい流れが少し強くなることろへと釣り上がるが、釣れず。
タマちゃんの上流の真ん中の流れで1匹。
タマちゃんは、10匹ほどとのこと。
午後、狩野川大橋下流を見に行くと、流れも石もよいが、鮎がいるのか、どうかわからないため、真ん中の流れへ。
タマちゃんは、橋のすぐ上流に入りたかったとのことであるが、そこは先客が居た。
中学生が釣れて釣りのぼる。強い引き、乙女か、と抜くとオトリと同じ女子高生。
棚を上っていくと、またもや強い引き。また女子高生か、と思った。幸い風がやんで取り込んだ。狩野川で初めての乙女、22歳。残念ながらオスであったが、サビはそれほど目立たない。
二時を過ぎるとさっぱり。3時頃タマちゃんが釣り上げているのを見ながら、なんで釣れなくなったのかなあ、と、いつものぼやき。
結果は、計13匹。
22歳1,中学生を主体に小学生と女子高生まじり。雌は4.
オスのほうが先に下るということであるから、雌がもっと釣れてもよいのでは、と思うが。オスは下ってきて、明日は去っていくのかなあ。
タマちゃんは午後は釣れず、計14.卵を持っているから、塩水に5分ほどつけた後、開きではなく、丸干しにするとのこと。
なお、塩水に酒を加えてつける、との話も書かれていた。
11月10日 狩野川青木の瀬
今晩から雨で、場合によっては白川になる。その前にいくしかない。
囮屋さんに着くと、テク2が昨日泊まり、さっき出かけたという。テク2が昨日釣ったところは釣れるはずはない、どうするか。左岸流れと真ん中の流れが合流する附近、狩野川大橋すぐ上流はとりあえず避けた方がよい。
ということで、自動車道すぐ上のチャラへ。
跳ねている小学生、ひらを打つ中高生が見える。
しかし、つれませんなあ。やっと小学生。小学生はよく働いたけどなあ。中学生が1匹の4匹で、テク2が真ん中の瀬に移ったのを見て、その下流へ。前回、乙女や女子高生が釣れた棚が思わしくない。テク2の仕業か。やっと中学生。しかし、幼児まで含めて午前9.
まあ、大きさには不満は残るが満足するか。
午後、瀬では女子高生が釣れると思っていたのに、小中学生で、ただ、サビに強弱の違いがあるだけ。それなら、チャラの方が楽。
二匹のニゴイを気にしながら、最後は、美白の中学生が二匹釣れて満足し、囮屋さんに戻る。合計14。
なにい、テク2は昨日の27匹に、今日は20あまり、合計50ほどの多くが女子高生と乙女。なんでじゃあ。
数で劣るのは我慢できるが、大きさでも差をつけられるとは、がまんできん。
そう憤っていると、狩野川大橋すぐ上流の瀬に入ったオラと同じ電車でやってきた相模原の人が、20匹、しかも、女子高生と乙女。
もう、おこったぞお。オラだけが児童買春とは納得でけんぞう。
雨よあんまりふるな、白川にするなあ、オラだけ女子高生、乙女に相手にされないまま、残り少ない人生を終わらせたくなあい。
11月21日 狩野川青木の瀬
19日に予定していたが、コロンボさんを見ていて5時まで寝てしまったためにやめた。
しかし、天気予報ははずれ、朝から氷雨であったから幸運。
寒い氷雨の中、テク2らは1時頃まで釣り、20近くとのこと。よく釣るよなあ。
狩野川大橋すぐ上を見るが、養殖が弱いため、短時間に釣れないと、過労死になる水量。瀬脇より手前の石はよごれている。
平成2,3年ころまでは、11月23日でも、城山下の石が曇ることはなかったのになあ。今年は、その当時並みの遡上量があったのではないかと思うが、秋分の日以降、下りを促す増水が数回あったから、一瀬一瀬と下るよりも、一気に下る鮎が多かったから、石が曇ったのかなあ。
ということで、いつもの自動車道上流のチャラへ。
えぇ、小中学校に右岸から釣っている人がいる。やむをえず、その下の幼稚園にはいるが、今日は跳ねもヒラも見えない。
その人の上流に行くも、釣れない。テク2が、右岸側を流れる水量の少ない流れにいいハミが見えたとのことであるからそこへ。
幼児が。幼児をオトリにして乙女が。とはいっても、サビが強くないオスであるが。乙女をオトリにすると幼児が。幼児とはいえ、養殖よりもよく泳ぐ。ここは、幼児趣味の場所かなあ。
まあ、釣れたからよいか。
午後、狩野川大橋すぐ上にはいるが、左岸の二人、おらの下流側の人共に、大きな波立ちの芯を釣っている。3人が同時に釣り上げる。おらは瀬脇よりも手前しか釣りたくないから、真ん中の瀬へ移る。
女子高生が1匹釣れたから、この瀬で遊ぶつもりでいたのに、その後さっぱり。また右岸側の瀬へ。ここの鮎は。午前同様、幼児趣味。というよりも幼児が多いということかなあ。乙女や女子高生が口掛かりであるのに、幼児の背掛かりもある。
踊り子の時間にやっとなり今年の最後を終える。14匹。幼児と小学生に、中学生から乙女が混じる。
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