川那部先生 のアユ |
1 海産アユの産卵時期 | (1)「川漁師」の常識は 「学者先生」の「非」常識 |
太平洋側の産卵時期は「10月1日頃」開始か 「西風が吹く」頃が開始か オラと故松沢さんら川漁師の認識 二峰ピーク現象の意味 |
(2)東先生の観察と評価 | 二峰ピーク現象と「湖産」放流 交雑種、「湖産稚魚」の運命=再生産に寄与しない オラのいちゃもん同調者の「学者先生」発見 |
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(3)神奈川県内水面試験場の「産卵時期」 A 資料について B 調査結果数値がおかしい事例 |
調査資料 「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」等 調査数値の信頼性 調査事項 評価 推理方法 調査結果数値がおかしい事例 遡上量=少なすぎ 流下仔魚量と遡上量の相関関係 魚卵数調査 遡上アユの産卵場所はどこ? 海産畜養を含む放流アユは下りをしない 海産稚魚の耳石調査結果=10月1日頃孵化 =研磨作業の未熟? 経験則に反する結果 |
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C 海産稚魚の耳石調査結果の「信頼性」 | @日本海側の海産稚魚の混入? 相模湾の海産稚魚は豊漁 A耳石調査の誤り? 研磨作業の未熟? B相模川アユ調査 =放流アユも含む? C沖取り海産量の信頼性 1群15万、20万で出漁 遡上量は海産稚魚採捕量の5倍? D遡上時期 「4月下旬」以降は間違い? 「5月22日」最大遡上量は間違い? |
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1 海産アユの産卵時期 | D オラのカンピュータによる大局観 | @ 遡上は生存限界である水温7,8度を超えた以降に始まる A 朝霧が発生する頃 B 年々の水温変化小 C 遡上時期は稚アユの成長段階とそれらの生存率・数量と相関関係がある? D 成長段階を決める要因は孵化時期 11月生まれ=3月下旬、4月上旬 12月生まれ=4月中旬以降 E 11月生まれ少=遡上量少 |
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E 「二峰ピーク」の評価 | ア いちゃもんジジーへの変身のいきさつ 試験場の評価と経験則の不一致 イ 試験場の遡上と水温の関係について 遡上は水温の影響よりも日齢、成長との関係 ウ 仔魚降下量 遡上大のときの線形 放流アユ主体のときの線形 経験則に合わない産卵時期 エ オラの判断 海産産卵時期は西風が吹く頃から 海産稚魚採捕量の少ない年の流下仔魚量の線形 海産稚魚採捕量の多い年の流下仔魚量の線形 オ 光周性要因の無視 光周性と性成熟、産卵時期の関係 湖産、日本海側海産、相模川以西海産の産卵時期 の違い 東先生の調査報告が流布しない理由は? 2004年、2008年の流下仔魚量の状況は? |
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川那部先生 のアユ |
(4)高橋勇夫 「ここまで分かった アユの本」 の二峰ピーク |
ア 日本人の「文化」体現者としての高橋さん ベンダサンの語る「日本人の文化」 「湖産」礼賛真っ盛りのときの調査 「湖産」出荷量と「湖産採捕量の乖離 「湖産」ブランドに「海産」ブレンドの噂 @ 「湖産」ブランドに他の種苗ブレンドに気が付いた事例 生存率向上目的のでのブレンド 足羽川での測線上方横列鱗数のばらつき現象 神奈川県は「湖産」放流の「漁協」発言を疑わず A 下顎側線孔数による判別 下顎側線孔数4対左右対象による「天然アユ」 と人工等区分 目利きの観察眼=故松沢さんと今西博士 イ 四万十川河口域、海域稚鮎の孵化時期 二峰ピークの状況と出現年 「2月」孵化は事実? ウ 光周性 狩野川稚鮎の砂鉄川?での性成熟 エ 東先生の観察を換骨奪胎 「湖産」ブランドに「日本海側海産稚魚がブレンドされる」と変えれば? 「12月ピーク」は何故? 11月15日再解禁による産着卵破壊? |
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(5)シャネル5番の香り今いずこ | 金の塊と鉄くずの苔 | ||
(6)「学者先生」さようなら | 川那部先生の評価はいかに? | ||
多摩川の産卵時期 | 10月産卵行動なし 11月産卵行動 | ||
2 縄張りの解消 |
(1)アユに違いに目覚めて | 「天然アユ」とは 湖産畜養、海産畜養を含める? 継代人工は論外 川漁師と素人衆の「湖産」評価の違い 宇川の放流アユは |
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(2)有限の食糧 | ア 「餌」となるには 陣地から離れた昆虫 イ 費用対効果 摂食運動量と餌量 ウ 餓死による個体群絶滅回避のための社会構造 再生産確保への資源配分 縄張りと順位 群れと餌 |
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エ 食い分けと棲み分け 動物は2種以上の餌を食う 餌の競争ルール=棲み分けと食い分け 三角関係の事例 @カワムツ 動物性 Aオイカワ 藻食+昆虫 Bアユ 藻食 |
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オ コケの生産量 @なわばり なわばりの大きさ 中産階級の存在:単独放浪 単独定住 A照度と珪藻のアカ腐れ 2万ルクスでアカ腐れ 白波の中の照度は? |
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B 安定した個体群密度 | 平方メートルあたり 0.6尾=全員縄張り可能 0.6尾以上=縄張り鮎と群れアユ |
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川那部先生 のアユ |
C 縄張り範囲、行動は画一か | 3尾以上=原則群れアユ 成長良好 縄張り内の食糧生産量は3尾を賄う量 攻撃回数と摂餌回数の関係 湖産と海産の追いの違いについて 宇川の観察対象アユは湖産か 海産の攻撃について:前さん、萬サ翁の観察 エリートだけの、大衆不在の空間があるか 宮川の垢石翁、大多サ 滑り台と縄張り 1番アユと山下 縄張り破壊=オージーの例 |
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2 縄張りの解消 |
(3) 藻の純同化速度:「餌供給と摂食と成長と」 | ア コケの生産量 縄張りと資源の無駄遣い 縄張り内で12尾の餌生産 不経済な縄張り墨守の理由は? イ 「氷河期遺存習性」 危機的状況の餌生産量 湖産の光周性 |
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(4) 「川漁師の常識」は「学者先生の非常識」の起因根拠? |
川那部先生の表現が問題? 北海道は9月上旬から産卵開始 北ほど産卵時期が早い 狩野川だけが産卵時期が遅い? 増水の下りで産卵開始? 「湖産」が11月、12月でも産卵している神奈川県調査 →ウッソー 「10月」は「1日」と「31日では季節が異なる 測線上方横列鱗数が、「湖産」で異なる? |
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(5)群れアユの乱入とコケの生産量 | 食われて増える 純同化速度は増える 敵は恩人 (6)アユが少ないときは、全員が なわばりをもって、ヘボの天国へ? 数が少ない→全員良好な生長→サボリーマンアユへ 川に生成するコケの生産量について アユのすばらしい働き アユも絶滅へ? |
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川那部先生 のアユ |
3 「若気の至り」の川那部先生 | 「川と湖の魚たち」(中公新書) | 不安定状態の「なわばり社会」の考え方 ア 1955年の宇川 1平方メートルあたり15尾 不安定ななわばり 群れの優越社会 大きく育つ「平等社会」 イ 意気揚々 「なわばり社会」説はまちがっちょる ウ 茫然自失 意気消沈 いずこも同じなわばりばかり 密度の違い 流下仔魚量と遡上量の相関関係なし |
4 「間氷期のなわばり」 「アユの博物誌」 (平凡社) |
(1)英国土地貴族の風貌 | なわばりはステータスシンボル 「形態」変化と「環境」による容姿の違いは? 測線上方横列鱗数は変化する? |
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(2)小土地所有者への変身 | 1平方メートルに10〜15尾生存可能 1等地のみ土地貴族がいる密度 琉球アユと北海道のなわばりは違う? 「曖昧」こそ肝心 致命的事態に不適応→絶滅 通常状態での遺伝子の機能 不可知論からの脱却 |
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5 アユへの分化 | キュウリウオから コイ科の隙間で生きる術を |
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6 湖産 東先生の 「琵琶湖アユの多様性」 秋道智彌 「アユと日本人」(丸善) |
(1)湖産群の類別 @ A群 早期遡河群 大きくなるグループ A B群 晩期遡河群 七,八月も遡上する B C群 湖滞留型 産卵期のみ遡上 C D群 「ちょっと素性のわからんやつ」 岩礁地帯にすみ大きくなる。 (2)性成熟に要する時間が毎年変動する? A群の子はC群へ C群の子はA群へ? 各群の構成員は固定? 生活空間の違いで性成熟、産卵時期を変える? (3)選手交代 秋道智彌「アユと日本人」(丸善) 遡上のきっかけとなる要因 東先生のA群とC群との交代説 遺伝子、進化に係る事項とは何か (4)放流された「湖産群は? A群の放流 B群はあまり成長しない C群の実験はなし 大きさは孵化時期による? @飛騨川の激流に入ったアユ A群では A海産畜養との違い 沖取り海産稚魚の成長段階は? 大きな親と卵数、卵の大きさの関係 B湖産畜養の「群れ」の構成者は? 「育ち」より「氏素性」か、「氏より育ち」か (5)「氷期遺存習性」説とぶれる現象 C群の「高温適応性」の困ったこと 何故全部がC群にならなかったのか (6)移動距離 20キロメートル 何故短い? |
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川那部先生 のアユ |
7 友釣り | (1)友釣りの発祥と伝播 由良川の友釣り 「本朝食鑑」の記述 効率性と無縁? 感触、愉しみ、遊び? (2) 友釣り発祥の地 京都、愛媛県大洲の記述 馬の尻尾の毛の使用 蚊針 漁法=春の汲み鮎、秋の梁漁 (3)川那部先生の腕前 動物研究者二態 「落とすほうの名人」 アユカケに刺され 騙しの楽しさ (4)ボウズハゼを囮にできる? ボウズハゼと鮎の関係 吸盤除去→囮になる→種間追い合いの存在 「本来」と「特殊」 |
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8 宇川の荒廃 | 昭和45年頃から荒廃が 二キロ上流にはヒダサンショウウオ 宇川ウシが消えコンクリート堤防が 道路建設→崩落→土砂流入→淵消滅→アユ数千に 堰堤による生活誌変更 今西博士の観察評価 南川、北川のヤマメ 高水温とマスの稚魚の運命は |
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9 食物連鎖と阿賀野川の第二水俣病 「生物と環境」(人文書院) |
チッソの場合の「学者先生」の働き (1)「生物の流下と公害問題」 昭和電工排水説と「学者先生」 何故60キロ下流で患者発生? 魚による蓄積濃度の違い (2)「川の『生態学』の節から ア 原爆マグロと食物連鎖 食物連鎖と濃縮 イ 水から直接吸収できるか 魚類の体液の浸透圧の特性 ウ かわはながれる 水も、溶存物質も、粒子状の物質も、 藻類も、水生昆虫も 流下物の沈降、流下 上流から下流への有機物の移動 下流域の景観と沈下、感潮域 エ 「下流の患者発生は当然」 底生魚、肉食魚、遊泳魚と含有量 含有量の個体差発生はなぜ? 研究者は無視 |
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川那部先生 のアユ |
(3)シャネル5番の香りと食物連鎖 | コケと香りの関係 ア 時間軸での変化 香りと「潮呑みアユ」の漁期 イ 時期限定 大井川、中津川での現象 ウ 珪藻の成分 真山先生 珪藻の成分と不飽和脂肪酸 不飽和脂肪酸 =香り成分であるエステルの生成 代謝経路は未知も 学者先生の「習性」批判 アユはくさいと女子大生=秋道先生の調査 「こおばしい」香りのアユがいないから サンマの焼く臭いのアユへ 「香り」から「くさい」へ エ 他の珪藻消費者の香り ボウズハゼ、「ナナセ」の香り オ 海の稚アユの香りとは? どんなかおりかなあ、強さは? カ 川那部先生のコケ 「藻類の生活」 光合成の結果である同化物 珪藻は「ケイソ油」 アカぐされと光合成 川那部先生の間違いみいつけた 遡上期の水温 「シオクイアユ」の秋道先生の引用 放流ものの生き残り? 塚本さんは夜も観察した? 学者先生の産卵時期=谷口ほか「アユ学」 いつまでも変わらぬ 「一〇月に始まり一一月下旬に終わる」 という教義 多摩川の遡上アユはくさかった |
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(4)沈着冷静な川那部先生もびっくり仰天 |
コンビナート排水処理水で養殖事業 すばらしい事業展開の発見 昭和電工は阿賀野川で何を学んだ? 昭和電工の提灯持ちをして、排水利用を 称賛しておくべきだった |
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10 川那部先生と川の荒廃 | (1) 江川の砂防ダム 砂防ダムの「勇姿」 水は直線階段を流れる 砂防ダムは土石で満杯 この土木工事は正しい? 災害は防げる? 施行者は災害を受けないが カウンターイデオロギーは存在する? 「必要悪」と「不必要悪」 「自然」の制圧教義 オーガスタスの神話 「土木工事『依存』習性」 |
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川那部先生 のアユ |
(2) 白山国立公園の砂防ダム 「自然公園」という名前の欺瞞 「自然を守る」事業の欺瞞 →自然破壊=人間破壊 崩壊地のダム建設は連鎖の始まり 砂防ダムの意義 →土木工事費は永遠に不滅 責任回避策 「公害はいわゆる高度経済成長の結果 ではなく前提である」 寿命のあるダムを永久構造物とみなす 流域変更のコンビナート 「無公害コンビナート」のフィクション 漁協は「川守」か 「計画経済」の破綻 |
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(3)越後平野における「人間的自然」と土木工事 大熊孝 「洪水と治水の河川史」 (平凡社自然選書 |
(ア)「新川放水路の開削」 文政元年着工 逆サイフォン方式の採用 新川放水路の構想 三潟周辺の干拓計画 松ヶ崎放水路の影響 松ヶ崎放水路の本流化→新潟港の水深減少 砂丘の砂対策 (イ)「− 信濃川大河津分水」 享保六年から構想 明治三年着工 土木技術の限界 明治八年工事中止 大型機械力等の技術取得 大正11年通水 妖怪丁場の地すべり 水勢、水量の制御 自在堰の陥没、復旧 分水工事の効果 水害の軽減 排水改良 米の安定収量 土砂堆積場所の変化 統治と「不必要悪」の持続 |
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11 鮎は何処まで遡上するのか 秋道智彌 「鮎と日本人」 (丸善ライブラリー) |
(1)河川の分類 |
階層構造の川 支流を「次数」で表現 |
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(2)使用した史料 |
明治6年「斐太後風土記」 淡水魚の種類、分布 名称の特定作業 |
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(3)高度による分布 |
垂直分布 庄川800m 高原川400m 宮川650m 益田川300m |
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(4)鮎の遡上に係る記述 |
白川郷 上白川:4次河川 下白川5次河川 高山 3次河川 遡上限界は、4次河川と5次河川の分岐点 1番上り、2番上りの途中下車の条件は? さらに上るのはどの階層の鮎? |
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(5)佐藤垢石「垢石釣游記」 再び宮川の情景 |
「裏飛騨の鍋飯」から 魚野川 分水の堰堤 汲み上げ放流 平均30匁、17,8尾 宮川 大鮎の条件=水量豊富、水量安定 囮=50匁 まずは80匁 丼 マダムと中鯖 自在鍵の大鍋と追憶 榛名山の山鳥撃ち 猟師の家の大鍋と稗 狩野川の釣り場 長岡温泉、稚児ヶ淵でも「良質」の鮎 |
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(6)秋道先生が伝えたい「鮎文化から」 | ア 毒流し | 山本素石「山釣り 遙かなる憧憬」 「消えゆくゴギの故郷《江川源流》」 木地山川の毒流し マスの産卵場 高暮ダム 西城川のゴギ 河川改修と魚の死活問題 漁毒業とは 使用する植物 雨乞い儀礼 アユ漁の目的 小物成 自家消費への課税 |
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イ 漁猟複合 | 江人 供御人 生業複合 | ||
ウ 漁法の伝播 | 稲作と漁法伝播 山の民と海の民の接触 海域と淡水域の技術上の類似性 |
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エ 専業漁師に兆し | 専業漁業と免許 遊漁者の増加 農作業と釣り 山崎さんの暗いいやな思い出 山崎武「四万十 川漁師ものがたり」 シラスウナギ採捕と欲望 資源枯渇へ 川の秩序破壊 |
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オ 山住の人、非農業民のアユ | マタギの例 桧木内川 | ||
カ 漁撈複合における技術上の共通性 | 漁毒業の系譜 | ||
キ 移動と伝播 | 漁撈技術の同時併行現象、伝播、借用 海人の広域移動 |
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佐藤垢石 「垢石釣游記」 |
1 マダムキラー :垢石翁 |
(1)マダム釣りの準備段階 | 東京湾口の大鯛を見せる 夫人は興味、夫は反対 |
(2)ヤマメ釣りで釣楽・籠絡 | 娘が協力 片品川へ マダムと娘は渓流遍歴 |
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(3)鯛と上方、江戸 | 上方の鯛のみが鯛? 淡泊な肉嗜好の上方 関東の鯛と認識不足 流通量と料理と |
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(4)鯛の産卵 | 乗っ込み鯛の行動 | ||
(5)居付の鯛との違い | 容姿、瘤、肉質 関西人と関東人との舌の感覚の違い |
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(6)鯛釣りの四季 | 大灘鯛 浅場の岩礁へ 蝦と烏賊餌 | ||
(7)マダムと鯛 | 1貫目 烏賊餌で英太郎は二貫目 黒鯛、イサギ、イナダの小物釣りも |
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ブダイ、イズスミ釣り | 伊豆南端の長津呂 4,五百匁のブダイ フランスワイヤ切断 |
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2 鮎のナンパ場所は変わる | (1) 相模川の主 | 久保沢の「清公」 友釣りの川漁師 コロガシと友釣りの優劣は? 「名人の覘い所」 一里の間が漁場 「大切な川の研究」 腕ではない 弥太さんと同じ「大事なのは仕掛ける場所」 偶然とヘボと幸運 |
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(2)奥利根の名人 |
岩本の茂市 「綾戸の友釣り」 垢石翁ら釣れず 「茂市の怪腕} 垢石翁らが釣れぬ場所に入る 12,3尾を 「釣れる条件} 時間の問題 日陰 宮川の山下の釣り方 萬サの「ボウ」 |
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川那部先生のアユ
1 海産アユの産卵時期
(1)「川漁師」の常識は、「学者先生」の「非」常識
相模川以西の太平洋側:江の川の事例から見て、より適切にはサケが遡上しない川の奄美大島まで、という表現が好ましいのではないかと思うが、その地域での海産アユの産卵時期について、故松沢さんや弥太さんらは、「西風が吹く頃」以降、と。
学者先生は10月1日頃から、と。
等級が高く、単価が高く、したがって、海産、後には継代人工のブレンド率が少なかったであろう「湖産」が放流されていた酒匂川。9月25日頃には、1,2軒の囮屋さん以外は店を閉めていた酒匂川。そして、9月20日頃には叩いたアユと、そして少しのサビアユしかいなかった酒匂川。
遡上アユが満ちていた狩野川では、11月23日でも錆びていない、あるいは、サビの状態の少ないアユが釣れていた。
狩野川の稚アユを砂鉄川?に放流して、「しばれる」頃にも友釣りをしていたこと。
この違いを、現象を、ポアロさん、コロンボ刑事、杉下右京さんの101番目の弟子を自称するオラが、なんでかなあ、と推理せざるを得なくなったのが、神奈川県内水面試験場の調査報告における産卵時期に係る二峰ピークの意味理解である。二峰ピークにおける「10月15日頃」に形成されているピークの「親」は誰か、の、「評価」であった。
ところが、「学者先生」のなかにも、川漁師と同じ観察、オラの推理と同じ「評価」をされていることを知って、びっくりし、そして、喜び勇んだ。
神奈川県内水面試験場や、「ここまでわかった アユの本」の高橋さんらは、この結果にどんな対応をされるのかなあ。これまでどおり、無視されるのか、それとも、ヘボのオラの推理ではなく、川漁師の観察ではなく、同業者である「学者先生」の評価であるから、どうなるのか、楽しくて仕方がない。
(2)東先生の観察と評価 川那部浩哉「偏見の生態学」(農山漁村文化協会)の「アユの研究、その後」の章から
「さて、前の特集から七年半、アユの仕事はどれほど進歩したか。水産上の問題としては、人工種苗生産技術の発展が大きいようだが、この紹介は私の任ではあるまい。
『アニマ』の座談会に出てもらった長崎大学の東幹夫さんは、佐賀・長崎両県の川のアユについて調べて、奇妙な現象を見つけてている。琵琶湖からの種苗放流がうまくいった年には、秋の産卵期は二つの山に分かれ、産着された卵径や流下仔魚の大きさを見ると、早期のものは琵琶湖アユ、晩期のものは海アユ由来である。対して放流を止めた年ないし不成功の年には、早期産卵群は現れない。また、毎年続けて大量に琵琶湖アユを放流している川でも、海から遡上してくる稚アユの形質はすべて海産アユ型。湖産アユの形質を備えたものはもちろん、両者の中間型も全く見いだされない。つまり、琵琶湖産アユの放流はその年その世代限りのものであって、次世代の仔魚は海に下りはするが、翌年稚魚は川へ遡らない――再生産に寄与しないのではないか。この東さんの仮説、生物学的にも水産上も検討に値するものであろう。」
これこそ、オラの推理を、サケが遡上しない川の海産アユにおける産卵時期を見事に表現していると考えている。
@ 二峰ピークのうち、10月15日頃に形成されるピークの親は、「遡上アユ」ではない。十一月中旬に形成されるピークと、その前後の産卵時期の親が遡上アユである。
A 湖産も、交雑種も再生産に寄与しない。これは、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)の鼠ヶ関川でのアイソザイムによる分析がオラが知ることとなった最初であるが、その遙か前に、適切に観察されていた「学者先生」がいたということで、びっくりした。
いや、故松沢さんら川漁師は、あゆみちゃんの「容姿」をみて、「海産」「湖産」を区別できる「眼力」を持っていたから、東先生の説は当然のこと、と思われたであろう。
しかし、オラ同様、「目利き」の腕を持ち合わせていないであろう試験場等「学者先生」には、「識別」不可能であろう。しかも、試験場は、川にいるアユはすべて「遡上アユ」と一元的に評価されていて、その前提でしか、調査結果の評価をされていないと断言出来る。
B 川那部先生が、東先生の行われた観察を書かれたのは、「アニマ」1984年:昭和59年6月号である。この後、紹介する「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」(全国内水面漁業組合連合会)の発行は、平成9年3月:1997年である。
十年たっても、同業者の「学者先生」である東先生の観察が、流布していない、ということが、なんでかなあ、と、またもや推理の対象になる。
このことは、余計なことではあるが、布教が、教義の良し悪しだけを要因として成功し、繁盛するのではなく、教団の組織力、宣伝上手も影響するとの話もあることから、高知大学、西日本科学研究所の教義が、教団の組織力の強いことから大きく影響しているのかなあ、と勘ぐっている。
この勘ぐりの証拠集めは、各調査報告等に記載されている文献を分類すれば可能であろうが、「サボリーマン期遺存習性」の塊であるオラは、めんどくさいことから、さようなら。
「前の特集」とは、「アユの博物誌」(平凡社)に掲載されている「アユさまざま」(座談会)のことであろう。この座談会は、1976年に行われている。
なお、この座談会に、東先生も参加されている。
(3)神奈川県内水面試験場の「産卵時期」
A 資料について
「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」(全国内水面漁業協同組合:平成9年3月発行)及び神奈川県内水面試験場「相模川水系魚類生息状況調査報告書」に書かれている二峰ピークに係る試験場の評価がまちがっちょる、と書けば、それで終了する、と考えていた。ところが、10年ぶりに、めくってみると、調査数値の信頼性が乏しい、ということに気が付いた。
調査事項の産着卵数と流下仔魚数は相関関係があり得ると考え得るが、その数値の相違が大きすぎる、海での稚魚の耳石調査による日齢からの推定孵化日がまちがっちょる、など。
それらのまちがっちょる、調査結果にいちゃもんをつける必要を感じた。
ということで、当初の甘い献立は消え去り、またもや苦行がはじまることとなった。
川那部先生は、「絶対」を口にする説は信頼されない、と書かれているが、「絶対」にまちがっちょる、と書かざるをえない事柄があると考えている。
川那部先生も、そうかなあ、と疑問を抱かれるほどに、自称、ポアロさんの101番目の弟子の推理が成功するかどうか、お楽しみに。
ア 利用する資料
「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」(全国内水面漁業組合連合会)
神奈川県内水面試験場「相模川水系魚類生息状況調査報告書」の平成6年から平成11年度まで
イ 調査事項
アユの遡上量、流下仔魚量、産着卵数、海域で採捕した稚魚の日齢調査と採捕時の大きさ等。
これらの調査が複数地点で行われている。
ウ 評価
それらの経年での数量変動、その変動に係る相関関係、沖取り海産と遡上量との相関関係等の評価が行われている。
エ 推理方法
調査結果の観察数量及び統計処理を施された数値には「沖取り海産数量」以外は、信頼性の高いものも、低いと考えるものも存在すると考えているため、定量分析的次元での推理は行わず、定性分析的次元でのオラの「推理」を、試験場が行った評価と対比することとする。
B 調査結果数値がおかしい事例
@遡上量
「漁連・現地調査」と、「ビデオ」での調査結果から、遡上量を推定されているのであるが、その数値が判らない。にもかかわらず、「降下量と翌年の遡上量(Y)には、
(【数式】が記載されているが省略)
と、指数的で正の相関が見られた(図3-2-17)」
この図で見ると、遡上量は最大700万くらい。次が300万、100万くらい。
オラが「信頼に足る水準の数値」と推理している沖取り海産数値:海産稚魚採捕量を見ると
単位万、10万のケタを四捨五入
1992年 1993年 1994年 1995年 1996年
290 410 60 270 250
これに対応する遡上量が少なすぎる。(後述)
相模大堰が出来てから、副魚道で、4月1日から5月31日まで調査した結果の「数値」と比較して少なすぎる。副魚道での目視による調査方法は単純で、1時間ごとに計測し、その数値を計測していない時間も同数の遡上があると想定するというもの。当然、夜は遡上時間には含めていない。
なお、遡上量がいくらかよく判らない。「海産アユ種苗採捕量と遡上量及びアユ仔魚降下量」の表には「ビデオ」とか、「現地調査」等の区分がある。そして「海産アユ種苗採捕量と遡上量の経年変化」のグラフには、「表」に表れていない数値と判断できる数値が描かれている。まあそんな状況ですから、あんまり真剣に数字を検討しないでください。「表」に、「推計値」を表示するなり、「ビデオ」計測値をどのように統計処理をしたかが、ヘボにも判るように書かれていれば、ミスリーディングはしないとは思いますが。
A流下仔魚量
オラは、再生産に寄与していない親=湖産、継代人工の子供と推理している11月1日以前の流下仔魚量は除外すべしと言っているが、試験場は調査期間の全流下仔魚量推計値を「流下仔魚量」として扱い、「遡上量」との相関関係に用いている。したがって、有意の相関関係が導き出せるとは思えない。
なお、「海産アユ種苗採捕量と遡上量及びアユ仔魚降下量」の表に、1994年、5、6年の
海産アユ種苗採捕量 | アユ仔魚降下量 | ||||||
1994年 | 59万 | 4億6千万 (10億8千万) | |||||
1995年 | 270万 | 5千万 (500万) | |||||
1996年 | 250万 | (7百万) |
注:流下仔魚量調査は、複数地点で行われているが、各箇所で、その地点での流下仔魚量を調査目的としているため、他の地区からの流入を除く操作をされているよう。
()内の数値は、「平成10年度相模川水系魚類生息状況調査報告書」の「相模川降下量調査の過去の実績」記載の数値を使用している。調査箇所は、産卵床の最下流と思われる寒川堰下流での流下仔魚量調査結果である。
とはいえ、信頼できませんなあ。海産種苗採捕量が59万に過ぎなかった平成6年:1994年でさえ、10.8億ですよ。
平成8年:1996年の海産種苗が250万採捕されたときの子供=平成7年の流下仔魚量が500万とはどういうこっちゃ。海産種苗採捕量が遡上量と同量と想定しても、生存率50%。いや、計算を間違いました。海産種苗も生存者に含めなければならないため、生存率100%ですよ。
確か、流下仔魚の遡上期までの生存率は0.x%ではなかったかなあ。
なお、上記の数値がミスリーディングしていないとの保証はありません。資料として利用した本:調査報告によって異なる説明、数値もありますから。
B相関関係不存在
流下仔魚量と遡上量との間には相関関係は存在しない。
あるいは、他の要因を考慮しないと、相関関係は導き出せない。
その理由は、大量遡上があった翌年の遡上量が激減していることである。もし、流下仔魚量と遡上量に相関関係があるとすれば、この関係をどのように説明されるのかなあ。
相模大堰副魚道での目視調査結果 単位万:10万の位を四捨五入
平成13年 平成14年 平成15年 平成16年 平成17年 平成18年
2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年
550 2,200 706 1、975 50 40
平成19年 平成20年 平成21年
2007年 2008年 2009年
410 770 120
この数値は、「遡上量」ではない。主魚道の数値が観測されていない?から含んでいない。試験場が担当している「主魚道」の調査数値は、ビデオで計測可能とのことであるが、1度もらった調査資料では、「平成12年」の数値がその後の年にもそのままコピーれていたため、使用していない。
平成21年は、5月10日までの数値である。なお、平成11年、12年を除外したのは、平成11年の数値があまりにも少ないことから、他の要因を考慮しないで数値だけで判断することは適切ではないから。平成12年は、主魚道ではじめて目視による調査を試験場がしていること、及び、3月20日から調査を始めていることから非常に有益な調査ではあるが、他の年との調査方法の違いを説明する必要があり、邪魔くさいから。
(「あゆみちゃん遍歴賦」の2007,8年、2009年を見てください。なお、エクセルの表をホームページビルダーに貼り付けることが出来るとのことですが、ヘボには無理な相談であることから、「旬」で区分してあります。)
遡上量の増減を流下仔魚量と直接関係づけることが出来るのかなあ。
2004年の流下仔魚量は大量であろう。 事実、12月の渚帯での稚魚調査では大量に稚魚が観察されて、2004年並の遡上が期待できる、と判断されたとのこと。しかし、2005年1月からは、稚魚が観察されない。海の色は非常に澄んでいたとのこと。単に稚魚の生活領域の変更では説明のつかない現象であったとのこと。
水道企業団が行っている相模大堰副魚道の遡上量調査は、試験場のように、難しい式を使うことはなく、単純である。それだけに信頼性を考えるうえでは有り難い。オラのおつむでもそうかいなあ、と判断できるから。
さらに、毎年同一の方法、期間で調査をしているということは、時間軸での変動を比較する上で非常に有益である。
願わくば、遡上がはじまっている3月20日(遡上が開始できる「生存限界を超える水温になっている、という意味であって、現実に遡上が開始しているという意味ではない。遡上の開始日は、11月生まれの生存率に依存しているのでは、と想像している。つまり、「成長段階」の要因が作用しているのでは、と。)からやっていただければなおさら有り難いのであるが。
もうひとついいですか。
流下仔魚量と翌年の遡上量に相関関係がある、とのことですが、流下仔魚量調査数値に信頼性が欠け、遡上量にも信頼性が欠けている数値を使用して得られた「相関関係がある」との評価が信頼できるのでしょうかねえ。
いや、2つの数値ともうまく間違っているから、相関関係の式に挿入すると、結果としては適切な結果が算定されるということですかねえ。
細かいことに気になるものでして。
あ、もうひとつよろしいですか。「流下仔魚量」と、「遡上量」の相関関係を考えるうえで、「3年」の調査結果を資料としただけで、適切な「学問的」な推計手法と言えるのでしょううかねえ。せめて、10年くらいの時間を必要とするのではないでしょうかねえ。
さらに、相模川では「4年周期説」がありますが。2004年の次は2008年、したがって、2012年には大量遡上が期待できますが。もちろん、過去と同一条件であれば。
C魚卵数調査
魚卵数調査は、複数地点で行われているが、その地点を誰が産卵場として利用しているかの評価がないと、意味を持たないのではないかなあ。
オラが考える前提条件として、
・再生産の観点から
湖産、交雑種は再生産に寄与しない。海産を親とする継代人工は、何代目くらいまで再生産に寄与するのか、判らないが。なお、神奈川県が生産している継代人工は、交雑種である。
・湖産、継代人工だけではなく、海産畜養も「下り」の行動をしないで産卵する。つまり、「放流」アユは、放流された場所を、地点を「母なる」場所と判断しているようである。
(萬サ翁や故松沢さんの「下りをしないで産卵する」現象の観察。小西翁の観察もある。)
なお、海産畜養は、遡上アユよりも産卵開始時期が遅いかもしれない。とはいえ、2009年相模川は弁天から昭和橋まで、海産畜養が釣りの主役になる量が放流されたのは、多くの「偶然」が重なったからであり、また、海産畜養の習性を観察できる機会があるかどうか不明。
ただ、海産畜養は、今どきのガキどもと同じで、子供の頃栄養のある食糧をたらふく食べているから、発育はよいが、性成熟は図体とは関係ない、ということであれば、12月生まれが多かった、ということになるが。
魚卵数調査結果が、場所別、調査年月日別に記載されているが、この結果から何を、どのように読み取ればよいのか、判らない。
仕方ないので、遡上アユの産卵場所はどこか、を、11月頃以降に産着卵が観察された場所である、と決め打ちをしてお茶を濁すことにする。
「東名床止」が、遡上量が多かった1995年には、11月15日調査日から産着卵が観察されていて、11月8日以前の調査日には観察されていない。そして12月25日最終の調査日にも観察されていて、11月21日調査日での観察量がピークである。
この年の沖取り海産採捕量は、270万、当然遡上量は一千万を超えているであろう。そして、狩野川はアユがいない川であったから、狩野川衆が箱根を超えて相模川にやってきた前代未聞の現象が生じた年である。
残念なことは、磯部の堰の魚道を遡上できるように改修されたのは、21世紀になってからのことで、20世紀には、条件のよい水量のときにだけ磯部の堰魚道を遡上できたに過ぎず、高田橋では遡上アユは釣りの対象としては僅少で、遡上量が多い=沖取り海産が多い年でも、沖取り海産の畜養されていないもの及び、県産継代人工が釣りの対象であったが。
「東名床止」は、沖取り海産が250万の1996年も同じ傾向を示しておれば、ここが海産産卵場の1つである、と推定できるが、そうはなっていない。1996年10月17日の調査日がピークである。「東名」では、両年とも、10月11日頃から12月25日頃までの期間、魚卵が観察されているから、継代人工も、遡上アユも産卵場に使っているということかなあ。
というように、魚卵調査結果がどのような意味を持っているのか判りませーん。
ただ言えることは、「産着卵は産卵後の経過時間が一定ではなく、発見卵数の多い時期が産卵盛期であるとは言えないが、おおむね10月中旬以降が産卵盛期と考えられる」
との評価には疑義がある。
すなわち、産着卵の親に思いを馳せていないこと。
10月中旬以降が産卵盛期である、ということは、それよりも数日後に流下仔魚量の1つのピークが現れるはず。
ということは、川にいた鮎は、湖産がおらず、海産遡上アユと沖取り海産と、県産継代人工ということ。(何故、1995年、6年には「湖産」ブランドがいないか、は後述)
したがって、「湖産」を放流しているときよりも流下仔魚量の1つ目のピークが少し遅れているのではないかなあ。
なお、95年頃は県産継代人工は15代目くらいであったから、まだ産卵時期は今ほど早くなかったのではないのかなあ。数年前は9月15日、9月末に採卵していたとのこと。
次に、1994年は沖取り海産が60万であるから、遡上量は200か300万位ではないかなあ。とても、遡上アユが釣りの主役とはなれまい。
漁連の義務放流量を320万?とすると、県産継代人工が100万、沖取り海産50万と想像すれば、どっかから購入したであろう「湖産」ブランド、継代人工、海産畜養が放流されて川にいたはず。したがって、産着卵の調査はもっと変化に飛んだ場所ごと、時期ごとの変動を見せているのであろうが、増水で10月15日以降4回行われただけで、調査地点も少ない。
D海での採捕アユに係る耳石調査
「また、採捕日から日齢を差し引くことによって求めた推定孵化日」は、文書形式で表現されている事柄を表にすると
1992年
11月5日 10月30日ー11月10日 9月30日ー11月16日
1994年
10月19日 10月20日ー10月30日 9月21日ー11月5日
1995年
10月28日 10月20日ー11月10日 10月5日ー11月19日
「で、1994年は早生まれで高齢であったが、3カ年を合わせると10月中旬〜11月上旬にピークが見られ、アユ仔魚の降下時期とほぼ一致していた。」
おつむの弱いオラには、上記の日にち区分で何を表現しょうとされているのか判りませーん。多分、海で採捕した日の耳石調査結果から孵化日を推定して、その孵化日が属する期間を表現したのではないかなあ。海で採捕した稚アユの耳石調査を行ったところ、三浦半島の小坪、江ノ島、あるいは大磯等の地区ごとでの孵化日をまとめると、その孵化日の分布が上記のようになる、と言うことではないかなあ。それにしても、数値を記載しないで、何を読み取れというのかなあ。
幸い、1996年については、「採捕されたアユの推定孵化日組成」のグラフがあるから、オラには少しは試験場の意図を想像できるが。
1996年のおけるそのグラフによると、孵化日は、
@ 10月1日頃から始まっており、これが例外現象とはいえず、各調査地区で観察されている(茅ヶ崎破砕帯だけは除く)。
A 96年1月18日の大磯での採捕では、孵化日の終期が10月20日頃である。
他方、10月30日が初出で、12月5日頃にピークを生じている3月18日の茅ヶ崎破砕帯での調査事例がある。
とはいえ、3月18日に行われた茅ヶ崎港では、10月20日頃が初出で、10月30日頃がピーク、12月1日頃が終期である。
B 流下仔魚量は「二峰ピーク」になっている年が多いが、耳石調査による孵化日組成は「一峰ピーク」である。11月にピークがある調査箇所は茅ヶ崎破砕帯だけである。
C 相模川での「遡上アユ調査」では、4月28日に行われ、10月1日頃が初出で、11月10日頃がピーク、12月1日頃が終期である。
なお、4月29日、5月26日にも調査が行われているが、同じ波形を示していない。
さて、もし、この海で採捕された稚魚の耳石調査が事実であれば、
@ 「学者先生の常識」は、川漁師の「非」常識と逆転する。
A 東先生の二峰ピークの意味づけが適切でなくなる、あるいは、「湖産」、「継代人工」の産卵時期と同じく、相模川以西の太平洋側「海産」の産卵は9月20日頃から始まっていることになる。
10月1日頃の水温は20度以上であるから、孵化日数は10日以内であろう。
B 相模川での禁漁期を12月末までに延長したとしても、遡上アユの産卵への影響は現在と何ら変りはない、という評価となる。
C 何よりも、遡上アユであふれていた狩野川に、平成6年まで11月23日まで通っていたオラの「経験」が「ヘボ」丸出しの「観察眼」0、との評価になる。
これには耐えられんなあ。
ヘボにもプライドがある。どらえもんおじさんやテク1,2,3、それにしあわせ男にウン倍のあゆみちゃんナンパ数の差をつけれれても痛くも痒くないが、初心者らしくないおっさんやお百姓に1匹でも負けると、こんにゃろう、となって、自棄ビールが多くなる。
ということで、「海産」稚魚の耳石調査のトリックを見破らないことには、故松沢さんに申し訳がたたない。
いや、9月20日頃から、太平洋側の海産が産卵していたとなると、川那部先生の海産の産卵は湖産よりも1カ月ほど遅い、との話もまちがっちょる、となりかねない。
川那部先生の1001人目以降の弟子であろうとするオラとしては、先生の汚名を避けなければならない。
もし、川那部先生の説が適切である、というためには、「湖産」の産卵時期が8月20日頃から始まっている、ということになる。
「湖産」ブランドの等級が高いもの=継代人工や海産畜養のブレンド率が低いもの=高価なものを放流していた酒匂川で、9月1日頃には、錆びたアユも、叩いたアユも釣れなかったとの経験すら観察眼が0であるから、ということになってしまう。
しかし、9月中旬には、錆びたアユは当たり前、というの経験はしており、9月下旬以降は叩いたアユは当たり前、錆びたアユは有り難い、との経験をしているが。いや、9月1日頃にはサビが少し出ていたアユは釣っていたかな。
注:「錆鮎」について、四万十川の田辺翁や江の川の天野さんは、「叩いた後の鮎」を表現されているが、オラは、多くの釣り人の例に従い、「錆が出た」とは、婚姻色がでている鮎としている。そして、産卵後の鮎は、「叩いたアユ」と表現している。 |
C 海産稚魚の耳石調査結果の「信頼性」
@日本海側の「海産稚魚の混入」?
高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」の四万十川海域での耳石調査に基づく「10月中旬」の孵化日ピークについては、「湖産」にブレンドされた日本海側の稚アユが親である、と推理しているが、1996年の相模湾で採捕されたアユについては、この推理を適用することは出来ない。
その理由は、1995年の沖取り海産採捕量は、270万である。
そうすると、県産継代人工が100万とすると、沖取り海産200万を放流すれば、漁連の義務放流量340万?を充足することが出来るから、他県からの購入が必要ではない。
もちろん、漁連は、相模湾での稚アユが少ないときのことを考慮して、他県からの買い付けを行い、取引関係の維持を図っているかもしれないから、他県からの購入量が0とは断定できないが。とはいえ、1995年に相模川にいた他県産購入アユの比率は小さいとはいえよう。
A 耳石調査の誤り
耳石調査は、木の年輪を観察するように、単に耳石を半分に割ればよいと思っていた。
しかし、それでは日齢を観察できないとのこと。
研磨作業が必要とのことである。
そうすると、研磨作業の良し悪しで、日齢を計測するときに正確な数値を得ることが出来ない、ということではないかなあ。
なお、2000年当時、自動研磨機を持っていたのは、国だけとの話であった。
B 相模川で採捕したアユの調査は、すでに放流が行われている時期であるから、必ずしも「遡上」アユとはいえないのではないかなあ。試験場の習性として、アユの種別には無関心なようであるから。
ということで、耳石調査における研磨作業等、熟練を要する技術の未熟性が原因である、としか推理できないが。
あのネエ、耳石の研磨作業が未熟といわれるのでしたら、「アユの本」の耳石調査の「二峰ピーク」も同じではありませんか。「未熟」という判断は、差別じゃあ。
いやあ、もっともな批判ですわ。すみません、といって頭を下げたいのですが、「アユの本」では、二峰ピークの年だけではないんですよ。11月になってから孵化日が始まっている年もあるんです。というよりも、10月15日頃にピークが出ている年が少ないんです。11月15日頃からのピークの年のほうが多いんです。したがって、「研磨作業の未熟」ではなく、「日本海側」海産稚魚が、「湖産」ブランドにブレンドされていた年の現象と評価しました。
それとですねえ、四万十川に「2月」生まれの鮎が存在して居るんですよ。2月の川の水温は、鮎の生存限界である8,7度を下まわっていますよねえ。このことからも、「研磨作業」の能力が、耳石調査の結果を左右されると断言できるのでは。
C 沖取り海産量の信頼性
沖取り海産が、海産稚アユの量の目安としての信頼性が、「流下仔魚量」、「産着卵量」や「遡上量」の調査、推計数値よりも高いと推理している理由は、次のとおり。
沖取り海産は、群れの大きさが15万、20万ほどでないと、採算上の理由から出漁しないとのこと。
そうすると、出漁回数は間違うことはあるまい。それに、15万とか20万とかの数値を乗算すれば、採捕量の幅が出てくる。
それを目安にすれば、推計値との乖離が大きすぎると間違いに気が付くはず。
その沖取り海産が1992年は290万、遡上量が360万。これは漁連調査。
「1987年、1995年、及び1996年は採捕量は多かったが、遡上量(注:「採捕量」と記載されたいるが「遡上量」の間違いであろう)は少なかった。」
そして、その理由を書かれているが、その遡上量がいくらであると推定されたのか、なんぼ探しても見つからない。「ビデオ調査」と表示されている数値が「遡上量」であるとすると、1995年採捕量270万に対して、遡上量は51万、1996年は採捕量247万に対して遡上量22万。
この数値を信頼した上で、採捕量と遡上量の関係を、遡上量が低い理由を説明されているとなると、何と貧弱な、推理力、総合判断力欠如、としかいいようがないが。
なお、ビデオ数値をそのまま「遡上量」として使用されているのではなさそうであるが。
理由
相模大堰副魚道での遡上量観察数値からも、一定量の沖取り海産が採捕されているとき、その年の遡上量は、釣りの対象となるほどの量であり、漁連の義務放流量の数値以上の遡上量があると推理しても間違いではなかろう。沖取り海産採捕量が、200万の水準であれば、遡上量は700万くらいは固い、いや、1千万以上と推理できる。
ということで、21世紀になって、相模大堰副魚道での神奈川県企業庁の遡上量調査が行われていることから、試験場の遡上量推定がどのように行われ、その数値にどのような数式を適用されているのか判らないが、遡上量に係る事実を反映していない、と断言できる。
川那部先生から「断定」する判断は信頼しない、といわれるであろうが。
あ、そうそう、信頼性に欠ける事例をもうひとつだけ。
遡上時期
寒川取水堰で、水温と遡上との関係を調査されている。
数値を辿るのは邪魔くさいので「評価」だけをつまみ食いする。
遡上日の日変化について
「大量遡上が数日確認され、日別変化が大きかったが、1993年〜1995年は4月が最盛期と思われた。しかし、1996年は5月22日に大量遡上が確認され(28,427尾)、遡上が遅れていた。」
96年5月22日の大量遡上の数値「28、427尾」は、試験場の数値が信頼性を欠くことを如実に示しているのではないかなあ。
相模大堰副魚道での、700万以上の遡上量を観測した年の遡上状況をちょこっと見ると(単位:万)
平成14年
4月1日 4月2日 4月3日 4月13日 4月14日
90 79 80 225 367
平成20年
4月4日 4月5日
57 66
1996年は、沖取り採捕量が、250万、したがって、遡上量は、1000万以上であろうと思いますよ。多分1500万くらいでは?
その全体遡上量を20万と推定さているとしたら、何とも信頼性に欠けた数値ではないでしょうかねえ。そのなかでの最大遡上日の数値が3万足らずですから、信頼出来ませんねえ。いえ、数値は信頼できたとしても、「最大遡上量」という「評価」は信頼できませんねえ。「調査結果における」中での「1日の」「最大遡上の日」ということでしょうがねえ。
なお、今後新聞記事の「相模川史上最大の遡上量」なる表現には気をつけてください。かっての遡上量推計値には、遡上量が適切に調査、観察されず、さらにそれを推計する式に問題があるかもしれませんから。
いや、すでに、2004年、2008年の遡上量の数量が出ているから、そのような表現での新聞記事が出たとしても、間違いにはならないか。
「遡上時期については、1981年の相模川においては4月末〜5月上旬、1986,1987年の相模川及び酒匂川では、4月20日以降から遡上がはじまり4月下旬〜5月上旬が盛期であり、近年は1カ月ほど時期が早くなってきた。」
さて、ここで使用されている年の沖取り海産採捕量を見ると、
1981年 1986年 1987年
200万 10万 130万
採捕量から遡上量を想像すると、1981年は、2008年の遡上量と同じくらいかなあ。2008年は、副魚道で700万、主魚道をその7割程度すると、合計1千万くらいの遡上量か。釣りの主役は遡上アユ。
1986年は、100万、200万の遡上量では?
1987年は、遡上アユが釣りの主役ではあるが、1981年よりは放流ものの混じる率が高くなるのでは。
そういう年の遡上時期から、1996年までに遡上時期を異にするどんな要因が出てきたのかなあ。なあんも変わっていないと思いますがねえ。
相模大堰での遡上時期については、「あゆみちゃん遍歴賦」の2007年、2008年、2009年の「遡上量」を見てください。
「4月20日以降」とかの遡上時期が、五ヶ瀬川等の調査研究事例を引用されて適正であると証明されたいるようですが、妥当性を有するとは思えません。
「近年は1カ月ほど時期が早くなった」とも思えません。
単に、調査の不備に過ぎない結果を水温とか、川の水量、流量とかの現象と結びつけてあたかも相関関係があるが如き文章を作っているにすぎないと、勘ぐっています。
D オラのカンピュータによる大局観
@ 遡上は生存限界であろう水温7,8度を超えた頃以降に始まる。
汽水域の水温は、海の水温の影響をうけるであろうから、川の水温よりも高めではないかなあ。
なお、2010年3月1日、3日の中津川角田の水温は8度。これが、観潮帯上流までにどのくらい気温の影響を受けて上昇するか、判らないが、10度くらいになるのは3月15日頃からではないかなあ。少なくとも、2010年3月5日までに気温が水温を上昇させる条件にはない。ときには20度ほどの気温になったときもあるが、水温8度以上の持続可能性を保証するほどの気温上昇は続いていない。
A 相模川での遡上開始は、「川霧が発生する頃」との話がある。下流域での川霧がいつ頃発生するか判らないが、肱川や三次での川霧の発生条件とは、発生条件が異なるのではないかなあ。
水温が10度くらい、気温が20度くらい、風がなく、夜の気温と朝の気温の差が大きいとき等の条件かなあ。
B 津久井ダム、宮が瀬ダムがある相模川では、年々の水温変化は小さく、雪代が流れこむ米代川等とは異なり、「水温」の低いことが、年による遡上時期の変動要因となることはないと推理している。
C 遡上時期とその時々の遡上量を決める要因は、稚鮎の成長段階とそれら段階ごとの生存率・数量ではないかなあ。
遡上アユがすべて、櫛歯状の歯に生え替わっているのかどうか判らないが、川での生活が出来る段階に成長していることが条件ではないかなあ。
D 成長段階を決める要因は孵化時期であろう。
11月生まれが多く生き残っておれば、3月20日頃から4月上、中旬の遡上量が多くあって、6月1日には17センチくらいに成長したスリムなあゆみちゃんが大きい石のある瀬で釣れる。2008年:平成20年神沢のように。
しかし、その年は、12月生まれの生存率が低かったために、4月中旬以降の遡上量が少なかったのではないかなあ。
つまり、相模川の食糧事情から考えると、1千万ほどの遡上量では、磯部の堰の遡上阻害もあることが影響しているのかも判らないが、食糧事情による縄張り解消は生じないといえる。
2000万でも同様であるが、この量になると、磯部の堰の遡上阻害が影響しているのかもしれない。磯部の堰がなければ、食糧事情悪化から縄張り解消をしているかも。堰をなくして実験してみたいなあ。
E 4月上、中旬までの遡上量が少ないとき、つまり11月生まれの生存率が少ないときの遡上量は少ない。
ということで、オラの推理の多くは語りましたが、99人目までのポアロさんらのお弟子さんである皆様の推理はいかがですか。
いずれにしても、試験場の数値を検証する作業をしてみて、大局観を持たずに調査を行うと、調査結果の数値の異常さにも、相互の現象の相違の意味にも気が付かない、ということに気が付いたので、あゆみちゃんをナンパするときには、少しでも、「大局観」をもって、原宿や道頓堀のナンパ橋がどこか、真剣に川見して探すことを心がけます。
ついでにもう一つ
昭和52年と53年に相模湾の子供のあゆみちゃんが徳島に売られていったが、そのときの海産アユ種苗採捕量は、52年が470万、53年が285万です。
その頃、日本海側の稚アユはどの程度徳島に送られて、「湖産」ブランドにブレンドされたのでしょうかねえ。
E 「二峰ピーク」の評価
ア いちゃもんジジーへの変身のいきさつ
調査結果の数値から、いろんな意味を読み取らなければならないのであろうが、なにしろ自称ポアロさんの101人目の弟子であるから、早々と、「評価」に移ることとする。
流下仔魚に係る「二峰ピーク」の調査資料の存在を知ることとなったのは、試験場のホームページの研究報告であった。
それが、狩野川に11月23日まで、あるいは釣り人のいなくなった9月20日以降の酒匂川に通っていたオラの経験則と一致しない。
そこで、20世紀末に試験場を訪ねた。そのとき、同年配の方が対応してくださった。オラに質問に的確に答えられていたが、「二峰ピーク」の意味合いについてのオラのいちゃもんには沈黙を守られていた。
オラの「二峰ピーク」の評価は、10月15日頃に形成されるピークへの上昇曲線は、湖産を主体に継代人工を親とする流下仔魚である。そのピークから11月1日頃への下降曲線は、継代人工を主体に湖産を親とする流下仔魚である。11月1日頃から15日頃にかけての上昇曲線と、それ以降の下降曲線の親が海産である、ということであった。
その方は、オラの経験則に基づく評価に沈黙を守られたのは、「組織」として、「二峰ピーク」の意味、及び、「10月1日頃から孵化している」稚魚が遡上している、との評価をされていたこと。
そして、さらに、その方は、東先生の調査報告をご存じであったか、狩野川に11月23日まで釣りに行かれていた経験を持たれていたから、と、想像している。
そのため、オラのいちゃもんが適切かも、と思われても、「個人」としての回答をされなかったのではないかなあ。
なお、当時、オラは、交雑種、湖産が再生産に寄与していないとは知らなかった。故松沢さんから、「海産」アユの容姿の話を聞いて、湖産、交雑種は再生産に寄与していないかも、との感じをちょっぴりと持つようにはなったが。
当然、故松沢さんは、容姿から見て、湖産と海産の違いは判別できる目利きであったから、東先生同様、湖産放流後も遡上アユには容姿の変化が生じていないことは単に習性の違いだけでなく、感じておられた。
湖産、交雑種が再生産に寄与していないことを文書で知ることになったのは、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業協同組合)の鼠ヶ関川での調査報告であった。
そうなると、オラの正当性を検証するには、故松沢さんに訊ねるしかない。
結果として、試験場の調査報告及び評価は、オラにとって「学者先生」の調査と評価がまちがっちょる、と考えざるを得ない最良の機会となった。
もし、試験場の「二峰ピーク」の調査結果、評価を知らなければ、故松沢さんにあゆみちゃんの生活誌、生態を聞く機会を失することになったから。
狩野川の遡上量が少しは回復しだしたということで、21世紀から10月15日以降、狩野川に通うことになった。
故松沢さんは、毎日出勤されてはいたが、かっての11月と違い、釣り人は僅か。石もきれいに磨かれていないものが多い。
ということで、オラは幸運にも故松沢さんを一人占めすることが出来た。そのために、「学者先生」の調査報告が適切な観察かどうか、尋ねる時間がたっぷりとあった。とはいえ、テント小屋に入り浸っていると、川へ行けと追い出されることもあったが。
故松沢さんが、「学者先生」の調査結果と評価をオラが質問したとき、吐き捨てるように「学者先生はそういうが」との前置きをされて、それがまちがっちょる、ということを示す現象を話されていた。
「学者先生」への反感の理由がわからなかったが、漁協内部に「学者先生」の説に基づいて、おしゃべりをされる方が、あるいは放流等の方針を語られる方がいたのではないかと想像している。
イ 遡上と水温の関係について
試験場は、「遡上量は日ごとに大きく変動するが、1983年の調査では、水温の上昇(14〜15℃)と河川流量の増加が重なった時期に遡上が見られた。五ヶ瀬川では14℃以下では少なく、15〜20℃(日平均水温)で多く、20℃を超えると減少すると報告されている。しかし、各年最多の遡上が確認された日の水温は1993年では12.2℃(日平均水温)、1994年では13.3℃(日平均水温)、1995年では12.8℃(9時)、15.0(15時)であった。また、10度以下でも遡上が確認され、水温と遡上量の関係(図3-2-8)を見ても一定の関係は見られなかったことから、水温は時期的に変動するので、遡上は水温の影響より、遡上アユの日齢や成長に左右されていると考えられる。」
この評価はそのとおりであると考えている。遡上を開始する頃の最低水温は、生存限界を超えて、10℃くらいであれば十分なようで、「成長段階」が、遡上開始の動機付けになるのではないかなあ。
一方、水温との関係で産卵時期の目安とするには、相模川以西の海産が、秋の水温から冬の水温に変わる頃、最低水温が15、6度以下、湖産が夏の水温から秋の水温に変わる頃、最低水温が20度くらいということではないかなあ。
なお、1983年の海産稚魚採捕量は、260万であるから、遡上量は、2千万、3千万ではないかなあ。
ウ 仔魚降下量
「仔魚降下量の日別変化を、降下密度(尾/t)で見ると1992年〜1994年は10月下旬〜11月上旬にピークが見られ、1995年は11月中下旬と若干遅れていた。1985年〜1987年では、ピークが11月中下旬〜12月であり、約1カ月遅かった。この要因は不明であるが、降下時期、遡上魚の孵化日、遡上時期ともに今回と過去の調査では1カ月のずれが見られれた。」
この評価は適切ではない事項も含まれていると考えている。
降下密度の1つが「10月下旬」との表現が気になるが、グラフでの日にちの読み取りにおいて、オラが10月17日頃と見たのもが20日頃であるのかもしれない。ただ、そのグラフのもっとも判りやすいものは、「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」以外の資料のようで、確認できない。
さて、この文の中にでてくる年の海産稚魚採捕量を見ておく。
1992年 1993年 1994年 1995年 1985年 1986年 1987年
290万 410万 59万 270万 5万 12万 128万
「10月下旬〜11月上旬」にピークが観察された「1992年〜1994年」は、1994年を除いて、遡上量は2千万、3千万あったのではないかなあ。そうすると、遡上アユ+海産稚魚放流が川にいるアユの主役で、それに100万くらいの県産継代人工がいた、ということではないかなあ。そして、漁連の義務放流量を上回る海産稚魚は販売されたということではないかなあ。
にもかかわらず、1992年、93年の流下仔魚量のピークが「11月中下旬」ではなく、「10月下旬〜11月上旬」に形成されたのかなあ。おかしいなあ。
1995年同様、「11月中下旬から12月」にピークが形成されたのではないかなあ。「調査」数値、あるいは推計式での前提条件設定が適切であるのか、非常に気になりますねえ。「湖産」ブランドの購入は行われていないか、僅少ではないかと思うが。
同様に、1985年〜1987年のピークが「11月中下旬から12月」も。
「11月中下旬から12月」の孵化日ピークは海産アユ、遡上アユが川に満ちているときの現象であると確信している。しかし、1987年は川に海産アユが多いとしても、1985年、1986年はその条件を欠いている。
遡上量が500万を超えていたのではないかと思う1987年は仮に10月中下旬にピークが形成されても、その頂は低く、11月中下旬のピークは高い、というグラフになろうから、納得出来るが。
そして、遡上量も海産稚魚の放流も少なかったであろう1985年、1986年は、もし「湖産」ブランドに「海産稚魚」のブレンド率が低ければ、典型的な二峰ピークを形成しているのではないかなあ。
ということで、海産稚魚のそれなりに多かった1987年に10月中下旬のピークがなかったことは、理解できるとしても、海産アユが少なく、遡上量も100万以下ではないかと想像している1985年、86年になんで、「10月中下旬」にピークが形成されなかったのか、判りませーん。
とはいっても、この頃には、「湖産」ブランドに「ブレンド」される海産畜養のブレンドの比率が高くなっている、その影響が出ているということは考えられないが。
ただ、1986年の四万十川での事例とは異なり(「アユの本」の二峰ピークで書く)、日本海側の海産稚魚のブレンドではなく、昭和の終わり頃は、まだ、狩野川は遡上アユが充ち満ちていたから、駿河湾、あるいは浜名湖の海産稚魚がブレンドされたのかなあ。それにしても、少し産卵時期、流下仔魚観察時期が早いなあ。
エ オラの判断
オラの判断は、海産アユは、「西風が吹く頃=木枯らし一番が吹く頃」から、産卵のための下りの集結、産卵現象が始まり、その頃の最高水温が15,6度以下になるから、孵化期間は2週間ほどということで、11月15日頃以降に流下仔魚量のピークが形成されると考えている。
もちろん、早熟もいるから、11月上旬前にも産卵行動をするものもいて、11月上旬から、流下仔魚が観察されるのではないか、と考えている。
ということで「1985年〜1987年」の孵化日から、「1992年〜1995年」の孵化日が「1カ月遅かった。」との評価の前提となる各年の日ごとの流下仔魚量の数値に疑義があるのか、それとも、「放流」されていた「湖産」ブランドにおける海産稚魚のブレンド率の変化か、わからないが、「遡上アユ」に関しては、「1カ月遅い要因」が「不明」であるということは考えられない。
なんで、試験場は「不明」と判断されたのか、わからない。しかし、東先生の調査報告を読まれていないことは事実である、あるいは無視されていることは事実である、ということは「絶対」にまちがっちょらん、といいたい。川那部先生は、「絶対」と書いてあるから、信用出来ん、といわれるのかなあ。
もう何度も書いているから、「目」にタコで申し訳ございません。
オ 光周性要件の無視
それにしても、試験場は、川にいるアユの種類構成がどのようになっているのか、なんで一顧だにされなかったのかなあ。
「光周性」が性成熟、産卵時期と密接な関係があると考えられなかったのかなあ。
湖産と海産では、いや、「海産」と一括りにすると、「海産は10月、11月に産卵する」から、10月1日孵化でも不思議ではないとの評価をされることになる。
そこで、「日本海側」と「太平洋側」、より適切な区分としては、「サケが遡上する川」と「遡上しない川」の屋久島までの区分で、光周性を異にする、ということになんで関心を払われなかったのかなあ。
1985年頃と1995年頃で、「光周性」の変化がアユにも(遺伝子)、天体(日の出、日の入りの時間の変化)にも生じていない以上、「海産」親の産卵時期、流下仔魚観察時期は、1週間程度の変動はあっても、1カ月も遅れるということは「絶対」にないと信じている。
なお、前さんが性成熟に「光周性」よりも「累積日照時間」の方が適切ではないか、と書かれているのは、6月でもサビアユが釣れることがあったから。
中津川でも、まだ、冷水病の発生が秘密にされていた平成5年頃の解禁日に錆びたアユが釣れた。多分、養魚場での「湖産」、「継代人工」の大量死で、6月に一定の大きさになるように、出荷時の「大きさ」だけを「湖産」並にしょうとした努力の賜ではないかなあ。
したがって、「電照」の使用が行われていた養魚場での現象を説明するため、といえるのではないかなあ。
ついでにもう一つ、「目」にタコを。
川漁師は、「西風が吹く頃」から産卵行動が始まる、及び、湖産放流後も顔つきの変わらなかった海産アユから、東先生と同じ評価をされていた。その川漁師の観察と一致する観察、評価をされていた東先生の二峰ピークの意味、一峰ピークである理由が、調査報告発表後10年たっても何で流布しなかったのかなあ。
仮に神奈川県内水面試験場の人が読まれていたとしても、海で捕れた稚魚の耳石調査の結果から、「10月1日」頃から「海産」?も孵化している、との調査結果は事実である、と、信じられていたならば、東先生の調査報告を一笑にふされたということかなあ。
現在でも、試験場は、2004年、2008年の遡上量が多かった年の流下仔魚量の状況は、かっての状況と変化が見られない、海で捕れた稚魚の耳石調査結果から、海産アユも10月上旬から孵化していることを証明している、という自信に満ちているのかなあ。
2004年、2008年は、県産継代人工も100万ほど放流されていたであろうが、その生存率は低いと想像しているから、川にいたアユは、海産が主役で、継代人工は僅少ではなかったかと想像している。したがって、11月中下旬のピークは高く、仮に、10月20日頃にピークが形成されていたとしても低い頂ではないのかなあ。いや、10月の流下仔魚量は、非常に少なかったのではないのかなあ。
ここ数年、試験場に行っていないが、どのような調査研究をされているのかなあ。
試験場のホームページは「組織」ではなく、「個人」で運営されていて、その「個人」が異動されてからは、研究報告の一部が、「トピック」として、紹介されるに過ぎなくなったから、どのような調査研究がされているのか判らない。
「下りをしないで産卵する」アユについて、湖産、継代人工だけでなく、海産畜養を含めた放流アユ全部に共通する現象である、といえそうであるが、もはや松沢さんに訊ねることは出来ない。いや、継代人工については故松沢さんの話を聞いているが、「湖産」、「海産畜養」にまではオラのおつむが働かず、聞きそびれた。
ということで、試験場の調査報告は、オラにとっては、「反面教師」として有益でした。
(4)高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」(築地書店)
「二峰ピーク」に関して、高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」での「10月1日」頃から孵化している調査と評価をまちがっちょる理由を推理しなければ完結できない。
幸い、神奈川県の調査報告と違い、1ページだけを見れば解決することであるから、楽が出来ます。
ア 日本人の「文化」体現者としての高橋さん
ベンダサンは、「日本教について」で、松川事件や、本多勝一が朝日新聞に連載していた「中国の旅」?に書いていた「100人斬り競争」がフィクションであると書かれている。
その理由として、日本人は「『語られたということ』は『事実』である」ことと、「『語られた事実』は『事実』である」ということを区別しないから、と。
そして、ある日の朝日新聞1面に唐突として「100人斬り競争」は事実ではないとの謝罪記事が掲載された。その理由がわからなかったが、マイナー?な雑誌「諸君」で、ベンダサンと本多が論争をしていたとのこと。その結果が謝罪記事で表現されたということ。(山本七平「私の中の日本軍」:文芸春秋社)
高橋さんは、四万十川海域で採捕された稚魚の耳石調査の結果から、「二峰ピーク」を形成している稚魚の親は四万十川に遡上したアユである、と。
その理由は、
@ 湖産、交雑種は海では生存できないこと。
A 漁協が「湖産」しか放流しないといっている。
@については、オラも同感である。
Aについては適切な評価かどうか、オラの推理を述べる義務がある。
「漁協が『湖産』を放流していると語っているから、四万十川には遡上アユと『湖産』しかいない」ということを事実ではないと疎明しなければならない。
その疎明材料に最適な、「湖産」ブランドに「海産稚魚」がブレンドされていることを推理できる記事が載っている1996年頃のアユ雑誌が見つからない。したがって、記憶で書くことになる。
水産統計を見ることができれば、「湖産」出荷量と、「湖産」氷魚採捕量及び湖産遡上稚魚採捕量の合計数量との差を確認できるのであろうが。県立図書館に水産統計はあるようだが、どのように調べればよいのか、分からなかった。
ときは、1986年、冷水病も発生しておらず、「湖産」礼賛真っ盛りの頃のことである。湖産の採捕量は人工河川を作り産卵量を増やす方策をとっていたが、「湖産」需要を賄いきれるほどの量には遙かに及ばない状況であったと想像している。
したがって、昭和52,53年には相模湾の稚アユが徳島に運ばれていたということであろう。
雑誌では4倍とか5倍とかの湖産採捕量と湖産出荷量との乖離を書かれていたのではないかなあ。
前さんも「湖産」ブランドに海産が「ブレンド」されている噂があることを書かれている。
相模川の稚アユが徳島まで運ばれて、湖産よりも単価の安い「海産」ブランドで出荷されていたのであろうか。オラは、前さんと同じく、単価の高い「湖産」ブランドにブレンドされていたと推理している。
当時、「湖産」に「海産」がブレンドされていたとしても、「偽」のはびこっていることが顕在化し、批判の対象となる変化を生じた近年とは違い、なあんも問題にされなかったのではないかなあ。
いや、すばらしい経営努力、利益を上げる手法と称賛されていた経営方針であったと思います。そのために、「湖産」に等級が存在していて、酒匂川が高い等級:高い価格の湖産を購入していたのではないかなあ。
その「湖産」ブランドに日本海側の海産稚魚が「ブレンド」されていた結果が四万十川海域で採捕された耳石調査による10月終わり頃に形成されていたピークではないでしょうかねえ。
@ 「湖産」ブランドに他の種苗がブレンドされていることに気が付いた事例
「漁協」は、「湖産」を購入したにもかかわらず、「湖産」種苗以外の種苗がブレンドされていることのではないか、と疑いをもち、学者先生がその疑いを検証された事例が、「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)における福井県が行った足羽川での調査報告である。
「湖産種苗には、湖産種苗のほか、海産系の人工種苗が含まれていたらしいと足羽川漁協から聞いており、湖産種苗のうち、側線上方横列鱗数が15〜27枚であったのは、人工産種苗の混入によるものと考えられた。そのため、鱗数からの由来判別を行うことは不可能であると判断されたので、どのような由来の種苗であるか、第5節で後述する遺伝子分析を行うことにした。」
この調査が行われたのは、1999年、平成11年からである。
すでに、「湖産」礼賛は地に落ち、放流された川にアユはいない、という事態まで生じていたほど、湖産生存率が低下していた頃の話である。
したがって、平成5年頃までとは「ブレンド」の意味合いは変化しており、偽造の目的は、高収益ではなく、「生存率」の向上であった。
なお、この「アユ種苗の放流の現状と課題」には、神奈川県も調査報告をされている。
そして、早川や酒匂川での調査で、「漁協」が湖産を放流しているから、「湖産」である、と区分し、そのために当初設定していた側線上方横列鱗数の区分を変更している。
その調査結果で、「湖産」が11月に採捕されていたから、なぜじゃあ、と悩んだ。
早川については、箱根温泉街の「電照効果」により、夜が短くなったことを察知できなかったのか、と。しかし、酒匂川でも同じ現象があるとなると、「電照」効果はあり得ない。
ということで、福井県とは違い、神奈川県は、「漁協」が「湖産」を放流しているといっているから、ということに調査結果の異変にも気が付かず、「湖産」が11月にも早川、酒匂川に生存している、とされている。
神奈川県が「調査結果」の意味、評価に何らの疑問ももたれなかったのは、「大局観」としての湖産、海産の産卵時期を考慮されていない結果であり、酒匂川、早川での11月1日頃での「湖産」の観察は、「事実」を「絶対」に誤って評価していると確信している。
また、川那部先生に「絶対」に信用できない、といわれそうですね。
A 下顎側線孔数による判別
福井県は、下顎側線孔数による種別簡易測定の有効性調査も行われている。
「すなわち下顎側線孔は、海産種苗及び琵琶湖から河川に遡上した、いわゆる天然アユでは側線孔が4個であるが、人工産あるいは養成した湖産種苗では、側線孔が4個とは限らないと言える。そのため下顎側線孔が左右4個でない個体は、人工種苗と、湖産種苗の短期養成群および長期養成・人工群の可能性が高いと考えられた。」
オラは故松沢さんと違って、「容姿」による種別判断が出来ないヘボであるから、下顎側線孔数と、その配列が左右対称になっているか、で判断している。
もちろん、下顎側線孔数が「4対左右対称」であり、それが「乱れる」ものが「人工」とはいえ、この場合の「乱れる」には、「乱れない」現象を含むから、「絶対」基準にはならないものの、判断基準としての確率は高い。しかも、人工には、かってのように、短頭、鮫肌でないものも存在するようであるから、短頭、鮫肌よりはヘボには判断基準の精度は高いのではと思っている。
なお、2009年、偶然が偶然を呼んで、相模川は弁天から昭和橋にかけて、「海産畜養」が多く放流されて、他の地区とは違って、強い馬力で愉しませてくれた。
その海産畜養の下顎側線孔数は、4対左右対象であった。「湖産」の「養成した湖産種苗」は、なんで4対左右対象ではなくなるのかなあ。
故松沢さんが、テントに持ち込まれたアユの種別の識別を頼まれたことがあった。
どう見ても、海産である。しかし、背ビレを見ると、帆掛け船である。それで、「人工」と判断されたとのこと。
この情景は、素石さんが今西博士に持ち込んだ「シラメ」の品定めの情景に通じる「目利き」の事例に共通すると嬉しくなった。
素石さんと今西博士とのシラメの品定めの情景は
素石さんは、「帰途、下鴨の今西博士を訪ねて、二通りの稚魚を見てもらった。博士は一行の労をねぎらった上、まずサツキの方をつまみ上げると、口をへの字に結んで、私の請売りの話にうなずいておられたが、小さな背鰭(びれ)をつまんで広げると、黙って眼の前に突き出された。黒条がはしっている。―たった今まで、私はそこに気がつかなかった。頭や胴にばかり目を奪われて、背鰭の特徴に思い及ばなかったのは、重要な目こぼしであった。アマゴの背鰭は透き通っているが、サツキのそれは尖端が黒く染まっている。これは川をくだろうとする降海性(降湖性)の特徴である。八センチにも足らぬチビのうちから、親直伝の素質をもっていて、早くも湖水へ下る徴候を現していた。」
イ 四万十川河口域、海域稚アユの孵化時期
「四万十川河口域(グレー部分)とその周辺の海(黒線)で採集したアユの孵化日の分布」の表(94ページ)の見間違いをしていることに気が付きました。
流下仔魚量の二峰ピークにおける10月15日頃に形成されているピークと同じ頃の日にちで、1つ目のピークが形成されていると安易に考えて、「日にち」の中身を見ていませんでした。
定規で、孵化日を見ると、試験場の二峰ピークよりも少し遅くに1つ目のピークが形成されていること、孵化日の初出が試験場の調査結果よりも遅いことが判りました。そのため、これまでと違い、「10月終わり頃」と、1つ目のピークの時期を変更しました。すみません。
グラフに記載されている孵化日は、1986年、87年、92年、95年、96年、99年、2000年です。
このうち、二峰ピークが生じているのは、1986年、92年です。2000年は少し意味合いを異にする二峰ピークです。
さて、波形がもっとも神奈川県内水面試験場の二峰ピークに似ている1986年の孵化日分布を見る。
孵化日の初出は10月10日、最初のピークが11月1日頃、2つ目のピークが11月20日か25日頃。終期が12月20日か25日頃。
ということで、11月1日頃のピークさえなければ、オラのカンピュータによる相模川以西の海産アユの孵化時期、産卵時期とぴったしかんこんとなるが。
1つ目のピークは、試験場での流下仔魚量調査では、10月15日頃であるから、半月近く遅い。日本海側の稚アユの産卵時期が10月10日から15日頃がピークということかなあ。
10月15日以降の最低水温は、20度くらい以下、15度以上であろうから孵化日数は12,3日くらいではないかなあ。もっとも、10月下旬に西風=木枯らし一晩が吹けば、もう少し水温は下がるが、すでに孵化までの水温を気にしなくてもよいほど卵は成熟しているのではないかなあ。
そうすると、10月15日頃が産卵時期の盛期ということかなあ。
なお、12月14日頃小さなピークが生じているが、どのような産卵行動を、あるいは孵化率を反映しているのかなあ。
1992年の二峰ピークは、1つ目の二峰ピークのほうが大きい。そのピークが出現しているのは、11月1日頃である。
ということは、1986年と同様の種類構成で放流が行われたのではないかなあ。そして、遡上量は非常に少なかったということかなあ。
なお、この年の1つ目のピークの下降曲線終了時点は、11月15日で、2つ目のピークは12月1日頃である。
1987年は、孵化日の初出が10月15日頃で、ピークは11月15日頃の一峰ピークで、11月25日頃以降の孵化は僅少である。
12月20日以降にピークを形成しているのが、1996年、1999年です。両年とも、孵化の初出は11月1日頃からで、増えることなく、11月20日頃まで推移している。
2000年は、11月1日頃から孵化して12月10日から15日頃まで、なだらかな高原を形成している。そして翌年の1月10日くらいが終期である。ところとが2001年2月15日頃に再び孵化日が現れている。
天竜川での2月調査であれば、湖産、継代人工の稚魚が温水域、温排水のところで生き残った、神奈川県の調査であれば、その年に放流されたものを遡上アユと見間違えた(ちょっと早すぎるか、4月中旬以降ならば、ということ)になるが、海である。耳石調査を間違えた、ということ以外にどのような推理を働かせればよいのか、見当がつきませーん。
2月15日頃の孵化ということは、水温が低いときは孵化期間が長くなるとのことであるから、孵化期間が2週間としょう。そうすると、産卵時期は、2月1日頃となる。そんな頃に川にいる鮎は、湧き水の多いところで生存限界以上の水温を享受しているであろうヒネアユだけではないでしょうかねえ。
いや、天竜川のように、継代人工か湖産の生き残りもいるか。ただ、「海」ですから、湖産も継代人工も生存できないので、状況を異にしますね。
仔魚が生存限界附近の水温の川を海まで流れ着くことが出来るのでしょうかねえ。2月の川の水温は8度以下、一番冷えているでしょうに。
天竜川の事例からも、まちがっちょるとしかいいようがないですね。
もちろん、例外現象として、故松沢さんが雪の降る湯ヶ島で、美白が捕れた、といわれていたが、産卵が成功し、孵化し、仔魚が海まで下れるとは、ヘボの辞書にはないんですが。
ウ 光周性
高橋さんは、平成3年頃、狩野川の稚アユを砂鉄川?に放流されたとき、しばれる頃でも叩いてないアユが釣れていたことについて、違和感を感じた、とのことであるが、オラは当然のこと思っている。
湖産をどこの川に放流しても、湖産本来の産卵時期を守っているのと同様、狩野川の鮎が北国に放流されても、寒かろうが、遺伝子に組みこまれている光周性を守っていると考えることが適切ではないですかなあ。
エ 東先生の観察を換骨奪胎
東先生は、「琵琶湖からの種苗放流がうまくいった年には、秋の産卵期は二つの山に分かれ、産着された卵径や流下仔魚の大きさを見ると、早期のものは琵琶湖アユ、晩期のものは海アユ由来である。対して放流を止めた年ないし不成功の年には、早期産卵群は現れない。」との観察をされている、
この中で、
「琵琶湖からの種苗放流がうまくいった年」を、「『湖産ブランド』に日本海側の稚魚がブレンドされている種苗放流がうまくいった年」と、改変すれば、四万十川での2峰ピークの現象をうまく説明できるのではないかなあ。そうすると、取り敢えず、1つ目のピークの構成要素=親が誰か、が推理できるたのではないかなあ。
そして、次の課題の12月以降に形成されるようになった孵化日のピークの推理が残ることとなる。これについては「水温」のせいではなく、11月15日再解禁が影響しているのではないかなあ。
@ つまり、再解禁頃の人出
A そして、「食い気より色気」のあゆみちゃんは、友釣りではたいして釣れなくても、コロガシや投網のように集団生活をしているあゆみちゃんを、あゆみちゃんの意思を無視して捕獲する漁法を、
B 老いも若きも、熱気で川面に湯気が立ち込めるほどの大勢の人が産卵場に集結して行っておれば、
C 11月1日頃から産卵されている産着卵が踏みつけられたり流されたり、
D また、親を大量虐殺することになるから、産卵場に集結している親の数が減り、さらにおちおちと愛の語らいも出来ない、という状況が影響しているのではないかなあ。
E その人間さんのらんちき騒ぎが納まってから、やっと産卵し、産着卵が孵化できるようになる、ということではないかなあ。
ということで、東先生がいてくれたおかげで、学者先生の調査、観察にいちゃもんをつけていたオラは気分爽快です。
それにしても、何で、東先生の調査報告が「学者先生」に読まれることがなく、高知大学や西日本科学研究所の調査報告が、海産アユの産卵時期についていつまでも王道の地位を確保しているのかなあ。1983年頃(1976年+7年)を経過した頃には、東先生の調査報告が発表されていたのに。
いや、川那部先生にも責任があるのかなあ。海産の産卵時期は、湖産よりも1カ月以上遅い、10月11月に産卵する、とは書かずに、「太平洋側の、サケが遡上しない川では、10月下旬、11月、12月に産卵する、」と書かれていたら、「学者先生」と川漁師の観察の違いが生じなかったということかなあ。
10月に産卵するといっても、西風が吹いて以降であるから、10月末頃から産卵が開始している。11月から産卵を開始しているという表現のほうがヘボには誤解されない表現ではないかなあ。
もちろん、故松沢さんの話から、早熟も晩熟もいるから、例外現象としては、西風が吹く前に産卵する少数もいるのであろうが。
そして、10月1日頃の最低水温は20℃ほど、10月31日頃の最低水温は15℃か、それ以下。この水温差は、産卵時期に違いを生じないのかなあ。江の川では、11月1日頃には、サケが産卵をはじめているようであるが。
やっと、相模川以西の海産産卵時期について、故松沢さんが教えてくれた現象を適切に咀嚼できたものと思っています。
昭和のあゆみちゃんや故松沢さんの思い出で、学者先生がまちがっちょる、といういちゃもんの正当性確保のために、前さんや弥太さんらを読んできたが、少しは適切なあゆみちゃんの生活史の理解が出来たものと思っています。
(5)シャネル5番の香り今いずこ
残るは、「金の塊」の苔。
故松沢さんが現在の苔は、鉄くずと一緒。欲しければ勝手に持って行け、というレベルのコケに成り下がり、身体を張って守る価値がない苔になっている、といわれていたこと。
オラにとってはシャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんが恋しくて、珪素の種類構成が栄養塩・水の変化でどう変わったのか、あるいは種類構成が変わらないとしても、珪藻に含まれている香り成分としての栄養素の質量が変わるのかどうか、ということが知りたい。
しかし、村上先生も、真山先生(注:村上先生と真山先生についてはほかにも書いていますが、どこに書いたか覚えていません)もそれらを理解できる素人向けの資料は出ていないとのこと。
まあ、宝くじが当たったら、黒尊川、亀尾島川、阿仁川の支流の比立内川にいって、ぬめぬめヌルヌルの、シャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんに会いにいけるかも。
いや、毎年、北陸ロードに参加されているYさんが、北陸の小河川にもシャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんのいる川があるとのことで、北陸の川なら、アッシー君を確保できたらいけるかな。月光川も調べたいなあ。
シャネル5番の香りが「本然の性」であるとの高橋さんらへのいちゃもんの決着は当分先になります。決着できないかも。
「アユが食して珪藻から藍藻に遷移する」阿部さんの説、テレビでも放映されたこの説は、、「清流」を知らずして、「清流」を生活の場とする「きれい好きの」珪藻(巖佐先生)を語り、また、古の川でのアユと珪藻との関係にも一顧だにされない「学者先生」、歴史の中の現在を見ない「学者先生」、「偏見、色眼鏡」で自然を見る習性がないといった「鶏型思考遺存習性」の典型ということでウサ晴らしをすれば充分であろう。
あそうそう、「鶏型」とは、鶏に餌をやるとき、餌の前に金網の障害物を鶏がついばむことが出来ない距離に置くと、鶏は一生懸命、金網越しに餌をついばもうと努力をしています。ぐるうっと、廻ればエサを食べることが出来きるのに。
(6)「学者先生」さようなら
海産あゆみちゃんの出産時期について、これで決着したこととします。
東先生の調査報告が手に入れば追加しますが。
そして、オラの海産アユの産卵時期に係る「学者先生」へのいちゃもんについて、川那部先生が、「絶対」を口にする判断は信用するに値しない、ということの事例である、と考えられるのか、それとも、この考えも捨てないでおきましょう、と、オリエント急行殺人事件でポアロさんが語られたように語られるのか、気になりますが。
そもそも、オラのあゆみちゃん生活史への関心は、ナンパ術の向上心に発するものであるから、「学者先生」が、川漁師の観察結果にほんの少しでも関心を払われて、「調査」結果の検証、評価に利用されていたならば、無駄な作業をしなくてすんだ。
当然、その無駄に過ごした時間を有効活用して、あゆみちゃんの口説き上手への知恵を磨き、騙しのテクニックの腕を磨いておれば、ヘボではなく、平成の浮き世夢の介と噂されるほどの女誑しになっていたかもしれんなあ。
なにい、そんなことは「絶対」にありえないだとお?。お前にはいわれたくないよ、初心者らしくないおっさんよお。去年、負けたのはおまんのほうが多かったんとちゃうか。
やっと、川那部先生のアユを見ていくことで、口説き上手への大局観を掴むための虎の巻に挑戦できることとなりました。
あそうそう、もう一つだけ、
弥太さんが秋分の頃以降の増水で、アユは一気に下ると話されているが、「一気に下る」とはどういう現象なのか、どうも釣り人の多くに誤解があるようです。
「一気に下る」という意味は、川の遡上アユが全員産卵場に殺到するということではないと思います。これについては、故松沢さんが、あゆみちゃんを売って生業とする女衒家業から足を洗って、囮屋さんに転業した頃からつき合っている丼大王の話を聞いてから、少しでも適切な表現で書きたいと思っています。
「100万匹のアユが戻ってきた」多摩川の産卵時期
多摩川での産卵時期観察結果を引用するkとを忘れていました。追加します。
田辺陽一郎「アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館)に、
「一般に関東平野でのアユの産卵は、9月末から11月初旬頃だ。2002年の9月末、私と賢さんと私との(原文のまま)、アユ探しの日々が始まった。」
「鮎が産卵するのは、川の中流にある瀬の中だ。小砂利の間にこぶし大の石が混じるぐらいの川底がよい。賢さんの見立てでは、多摩川で鮎が産卵しそうなのは、二子玉川駅付近から調布市の染地附近まで、7キロの範囲にある瀬だという。」
「産卵場の調査のために投網を打って歩いた。網に入ったアユの中には、体が黒く変色しているものが見つかった。軽く腹を押さえると、白い精液も出てくる。繁殖期に入ったオスの特徴だ。ここまで調べがつけば、さあいよいよ撮影にチャレンジだ。」
「ところが、実際に潜ってみると、産卵の様子はおろか、アユの姿を見ることすらできない。」
「1週間経ち、2週間経ち、10月も中旬になると、だんだん心配になってきた。状況に大きな変化はない。」
産卵中は、人が入っても逃げなかった、と長良川での産卵を撮影した経験のあるカメラマンは教えてくれたが、驚いて逃げているのでは、と、無人撮影も試みる。
「とうとうそのまま11月の声を聞いた。その日は、賢さんが名古屋で仕事だったため、私は一人で産卵場を探していた。ずいぶん気温が下がり水も冷たくなっていた。」
川崎市の中の島住宅団地脇の瀬で、期待もせずに潜る。
「と、目の前に広がったのは、信じられない光景だった。
アユ、アユ、アユ…! 見渡す限り、辺り一面がアユだらけだったのだ。いったい、昨日までどこにいたというのか。黒く染まった体が水中に入り乱れ、うごめいている。間違いなくアユの産卵群だ。
瀬の中一面に広がる群れは、ほとんどがオス。そこに銀色の体をしたメスが入ってくると、産卵が始まる。頭を川底につっこむようにして、腹を砂利に押しつけ、雌雄ぐちゃぐちゃになって体を震わせる。こうなると動きが速すぎてどれがオスだかメスだか肉眼で追うことはできなくなる。」
田辺さんは、学者先生のいわれる産卵時期を信頼して、1ヶ月、無駄な観察をしていた。いや、「〜をした」という現象だけでなく、「〜をしない」ということも観察し、記録することが「プロ」の観察であるから、その意味では、有意義な1ヶ月であったが。
湖産、人工、海産の性成熟、産卵時期の違いを意識せず、あるいは、意識をしても、「湖産」を購入したから、「湖産」であり、人工も、海産畜養も含まれていない、との前提で、現象、観察結果を評価をされる学者先生には、今年の一文字「偽」を煎じて飲ませたいなあ。
(「故松沢さんの思い出」からの引用)
2 縄張りの解消
(1)「アユ」の違いに目覚めて
ここで対象とする鮎は、小西翁が「天然アユ」と表現されている鮎であって、継代人工は当然除外している。したがって、生まれも育ちも人間様のお世話になっちゃあいないアユだけが「天然アユ」である。
小西翁の「天然アユ」の区分でどうしょうかな、と困っているのが、海産畜養と「湖産」の扱いである。
海産畜養は、2009年相模川は弁天から昭和橋で釣りの主役になった。これは、県産30ウン代目の、例年は、放流後に死んでいたであろうものが漁連のプールで死んだ幸運と、その他の偶然が重なって、それらの場所に釣りの主役となるほど放流されたから。
そのため、海産畜養がどんな習性を保持し、あるいは持たなくなったか、ヘボとしてははじめて観察できた、ということである。その他の年には、他の種別と混在しているから、「海産畜養」等、アユの種類構成を識別できる目利きがないと、観察不可能である。
それに、ヘボには海産畜養だけを、継代人工だけを、遡上アユだけを選んで釣り上げるという、初心者らしくないおっさんの師匠の腕はないし、何よりも、数をそろえることも不可能である。
容姿については、09年大井川で、6月下旬で釣れた海産馴致のアユのように、スリムな遡上アユよりも若い頃から肩が盛り上がるというか、太めに成長できるのではないかなあ。
湖産については、琵琶湖に注ぐ川へ遡上してきた稚アユを逆ヤナ?で採捕したものと、氷魚から畜養したものでは、生活習慣、行動習性に違いが出ているのかも。
飛騨川の雪解けがおさまってから、水合わせだけをして放流された「湖産」・逆ヤナ?で採捕された「湖産」は、放流されると、瀬に入っていき、大宮人のお父さんが吹き流しの仕掛けで釣っていたアユであるから、流れの強さを気にしないようである。
この遡上アユが放流されていたのは、昭和30年代前半くらいまでであろう。
ということで、氷魚からの畜養と、遡上してきた「湖産」の違いを無視して云々してもよいのかなあ、という気がしている。とはいえ、遡上湖産が放流河川で観察できることもなかろうし、安曇川に行くことも出来ない。「遡上」湖産は、平成の初め頃、春に雨が多く、遡上量が多かったとの話のあった野洲川の南雲で、盆の頃網打ちがいる中、1回しか釣ったことのない者としては、遡上湖産と湖産畜養の違いを知ることは無理な相談です。
ただ、故松沢さんは、湖産を線香花火と表現し、野村さんは、
「けんど、近頃は親戚がおらんはずが、ちょっと見が、よう似とるヤツがやって来よる。自分で泳いでこんで、車に乗ってやってくるヤツよ。琵琶湖あたりから越してくる、海を知らんようなヤワなアイやな。アイはアイでも、こっちのほうはあんまり好きやないなあ。」
野村さんが好きでないアユが「湖産畜養」か、湖産遡上アユか判らないが、双方を含んでいて、攻撃衝動が異様に強いものを対象とされているのではないかなあ。
素人衆は、攻撃衝動が異常に解発されて釣りやすい「湖産」を礼賛していたが、川漁師は、必ずしも歓迎されていなかったということであろう。
川那部先生が調査対象の川とされていた若狭湾に流れこむ宇川に漁協がなければ「放流」事業は行われていないであろうから、そして、禁漁期間は、京都府の条例、規則で定められているであろうから、「天然」アユだけが川にいるアユと考えて間違いはないと思っている。
しかし、宇川に漁協があるようで。
そうすると、どんな種類構成のアユが宇川にいたのか、、ということに注意をしなければならないということのよう。
川那部先生は、南へ行くほど、つまり琉球アユは縄張り根性が稀薄ではないか、と推理されて、台湾へ調査に行かれたとき、台湾の在来種が絶滅してしまったことに着目されているから、仮に、台湾の川に飛行機に乗ってやってきたアユが生活をしていたとしても、そのアユを放流ものか否かを区別されたであろう。そうであれば、宇川で生活していたアユに、「遡上アユ」・「天然」アユ以外のアユがいたならば、気が付かれたのではないかと思っている。
ということで、両則回遊性の遺伝子と生活を享受しているアユを対象とし、その反面教師として湖産、海産の「放流」ものを見ることがあっても、「継代人工」は故松沢さん同様「アユ」の対象外とする。
その意味での「縄張り解消」とはどういうことか、である。
断じて、2009年に相模川は大島に20センチくらいで放流されて、くっちゃあ寝、くっちゃあ寝の生活から尺アユになり、尺アユフィーバーの主になって、客寄せパンダとして貢献していた「継代人工」は対象ではない。
(2)有限の食糧
食糧が有限である、ということは、戦後にマブナ、ヘラブナ、食用ガエルを食べ、ふすま?ぬか?にサッカリンかズルチンであまーくされていたパンをうまい、うまいと食べていたものにはよーく判る。
その状況が自然界の生き物には当たり前、ということであれば、どのような社会構造が出来上がるのか、川那部先生の「川と湖の生態学」(講談社学術文庫)でみる。
(原文にはない改行をしています)
ア 「餌」となるには
「川の魚を捕まえてその餌を調べ、金網で作ったちりとりで水生昆虫を採集してみると、昆虫の量がかなり多いので、魚にとって餌を捕るのは簡単だろうと思ってしまう。しかし、ヤマメ・アマゴといったサケ・マスの仲間も、オイカワ・カワムツのようなコイ科の浮き魚も、石の裏面などにいる昆虫はほとんど食えない。虫が石から離れて水中を流れるとき、はじめてそれにとびつく。餌を食うためには、当然ながらその餌が食いうる状態にならなければならぬ。自然界にはいたちごっこの『陣地(じんち)』にあたるものがあって、利用可能な餌の量とは、この陣地を離れているものだけに限られるのだ。」
山女魚天敵Nさんは、梅雨頃に、鮎を餌として大物釣りに精を出すが、瀬のどんなところにも、餌を流すのではない。
「陣地」から飛び出してくるものを待ち構えている動作に適したところを狙う。そこを3,4方向で流したら終わり。また遙か離れたところに移っていく。放流ものでたいした数はいないから、反応がないところで何回も餌を流しても、また、その附近で流しても無駄ということではないかなあ。
イ 費用対効果
「餌が少ないともっと異なった問題も起こる。餌を探して走りまわる時間が長くなる。運動をしているときには呼吸量は当然に多くなるから、それを補うために一層たくさんの餌を摂らなければならない。すなわち餌のすくないひもじいときほど、多くの餌が必要になる――これではいたちごっこだ。腹いっぱい食べて寝るのと、ちょうど正反対である。」
ということで、ヤマメ天敵さんは、大ヤマメが多く餌の獲れそうな場所にひそんでいるところをねらい打ちしている。
石裏ならオラでも判断できるが、必ずしも石裏の場所を狙っているのではない。したがって、捕食者側にも、「陣地」があるのでは。
ウ 餓死による個体群絶滅回避のため社会構造
「個体についてだけでなく、個体群として考えれば、さらに別の問題が起こる。すこししか食えぬばあい、多くの個体は親になるまでにに死亡し、つぎの世代を作り出しうるものはわずかだ。途中で死んだものも、それまでは餌を食っている。逆にいえば、すくない餌をいっそう減少させたあげく、途中で死んで行く。すなわち、餌のすくないときほど餌は無駄に使われ、いっそうその量は少なくなる――これは二重苦だ。極端なばあいには、個体群の全滅をも引き起こす。
この危険性を回避する手段として登場したのが、動物の社会構造である――いやこれはすこしいいすぎかもしれない。社会構造の持つ機能のうち重要なものの一つは、この危険性の回避だ――これが正確な発言であろう。
いまある範囲に存在する餌量(じりょう)が、一個体が一生のうちに食うに必要かつ十分な餌量の、たとえば一〇倍であったとする。一〇個体だけがその範囲にすみ、他の個体は餌をまったく食わないで死んでもらう――いやせめてこの範囲外へ移動してもらう。これが餌をもっとも効果的に使う方途だ。――こうした『立場』が実はなわばりである。したがってなわばりの大きさは適正でなければならない。小さすぎれば危険が回避できないし、大きすぎれば餌が余ってもったいないし、別のいい方をすれば、その範囲の餌量が安定かそれとも予測可能なばあいにのみ、なわばりは成立しうる(V一章参照)。
あまり安定でなくかつ予測性も大きくないときはどうするか。一つのやりかたは、いつでも捨てられる付録を順序づけて決めておくことである。餌の多いときは全部が食うが、すくないときは一定の個体だけが食い、あとは食わずにすませ、のたれ死にをするものはそれにまかせるという手段だ。これが順位の持つ初歩的かつ典型的な姿である。
もちろん、なわばりのような地域的分散は餌の均等な分布と、逆に順位をもつような群れの成立は餌の局所的な集中さらにはその時間的変動と、密接に対応している。また群れを作ると、捕食者を早く発見できるし、四散することによって、相手の目をくらませることが出来、さらに一個体が食われても他は逃げられるなど、食われるものにとって有利だということも、最近のぼつぼつ実証されてきている。
それはともかく、すべての動物にとって、餌を食い尽くして自分が全滅するのは明らかに不利である。そこでなわばりや順位ほど判然とはしていないが、何らかの方法で自分の密度を感知し、餌を過剰に食わないように――もう少し広くいえば、資源が過剰に開発されないように、自己調節するはずだとの考え方も出てくる。たとえば、カエルが産卵期に大合唱をするのは、密度を判断して、多ければ産卵数を減らしたり移動を起こしたりするためにちがいない、というわけだ。この説に従えば、なわばりや順位はこうした顕示行動のもっとも進歩したかたちだということになる。非生物的な環境による死亡率が、比較的低いかそれとも安定なもののばあいに、自己調節の必要性が大きいのはたしかであり、いわゆる社会構造がそういう種で発達しているのは、いずれにせよ事実である。」
ということで、コケは均等な分布といえるであろうから、「なわばり」が形成されるということのよう。
しかし、なわばりが形成されていても、出鮎、差しアユのときは、先住者が釣れるのかなあ、それとも、侵入者が釣れるのかなあ。
城山下の淵に流れこむ一本瀬では、時合いのときには故松沢さんが、掛けバリを尻尾よりも内側になるようにセットして、釣れたアユを活き締めの状態にして手返しを優先されていたとのこと。
囮は交換せずに、オモリをつけて沈ませればよかった、と。
そのとき、真黄色の鮎について、攻撃衝動が解発された鮎との通説に対して、保護色では、と推定されていた。淵にいた鮎の保護色が、あるいは太陽光線が弱まる水深にいた鮎ではないか、ということではないかなあ。
時合いでの入れ掛かりのときは、先住者も、侵入者も寄らば切るぞ、という状態ではないのかなあ。
さて、オージーが終了して、秩序が再生するとき、侵入者が全員移動して、先住者が従前通り、なわばりを形成するのかなあ。それとも、新たななわばり形成者になる侵入者もいるのかなあ。あたかも戦国大名が割拠したときと同じになるのかなあ。
もし、新たななわばり秩序形成者に侵入者もなるとすれば、アユの大きさによる土地貴族と、群れ生活者との区分の有効性はどの程度なんかなあ。
このような現象は、あゆみちゃんを売って生業とされてた故松沢さんに聞くのが一番。オラのように、時合いが終わった、釣れなくなった、では、おまんまの食い上げですから。
秩序再生が行われるときには、どこで、どのようにして、あゆみちゃんをたぶらかせばよいのか、故松沢さんと長い付き合いの丼大王ならば、秘儀を盗んでいるはず。そうでないと、いつもいつもオラの何倍もあゆみちゃんナンパに成功することは不可能であろう。
エ 食い分けと棲み分け
「さてすべての動物には餌の好みがある。したがって食物連鎖ができるのだ。したがってたいていの動物は二種以上の餌を食う。その食い方はなにで決まるのか。
一番好きな餌というものがある。それでも良いというものがある。双方では足らぬときに限って食う非常食めいたものもある。餌の量全体の多少により、空腹の状況により、選択制は変化する。同じ程度に好むもののばあいは、その場で多いものをときにたくさん食う。食い始めると『習い性となる』傾向があるのだ。
同じ餌をめぐって二種以上がいわば競争するばあい、一方の種はその餌を他方の種にゆずり、つぎに好む餌を食うのが動物界の原則である。これを食い分けという。別の解決方法もあって、それは生息場所を変えることだ。これはふつう棲み分けと呼ばれる。そして理屈上からも予想されるように、食い分ければ棲み分ける必要はなく、棲み分ければ食い分ける必要はないわけで、実際どちらかの分かれ方をしている。一つの例を出せば、北海道の三種のマスは、上下流へ棲み分けている状態では、水面から水底まで餌をすべてともに食う。しかし共存域では、一種は水中の、一種は底近くの餌だけを食い分ける。」
湖産に混じって住み着くようになったオイカワと、昔からの住人であるカワムツ、そして、アユの三角関係を、川那部先生の「川と湖の魚たち」(中公新書)で見ていよう。
@ カワムツ
「これは一つの場所に休むように静止している傾向が強い。〜その行動範囲はせいぜい五平方メートルぐらいのものである。その場所へ何か餌が流れてくると、サッと泳いでいってとる。水面すれすれにユスリカが飛んでくると、パッと飛びつく。そういうときの速さは決して遅いものではない。休んでいるように見えたのは、いわばあたりに眼をくばって、餌のくるのを待ち受けていたのである。」
A オイカワ
「オイカワのほうは、むしろ泳ぎまわって、浅い川底の石をつつきながら藻類を食っている。三〇分間の行動範囲も、平均二〇平方メートル程度で、私どもの観察した最大のものでは一〇〇平方メートルに及んでいる。もっとも、時々は水面を流れる昆虫を食ったり、水の上まで飛び跳ねたりもする。」
B アユ
「初夏になって、川にアユがのぼってくると、瀬の中央にも出ていたオイカワは、その場をアユにあけ渡して、岸寄りの部分や淵頭に集まる。アユの数がたいへん多い年にはそれが極端になって、岸よりのギリギリの部分だとか、岩盤のない淵の中央に追いやられるようになる。そのあたりには藻類は少ないし、逆に陸上性の昆虫などは、岸よりのほうが上に植物がかぶさっていたりして落下しやすく、また淵の中央などでは、瀬からたくさん流れてくることになるのでオイカワの腸を調べると、陸上性の昆虫が大変多くなってくる。
ところで、このオイカワの移ってきた場所は、そもそもはカワムツのすみ場所である。この同じ属に入り、同様に雑食の魚は、やはり同じ場所には生活しにくいらしく、今度はカワムツが追い出されることになる。しかし、それ以上は岸へは寄れず、淵にもいるところがないので、カワムツは逆に瀬の中央へ出て行く。
ここにはもちろんアユがいるのだが、アユは完全な藻食であり、カワムツは昆虫食の傾向が強いので、矛盾は大きくない。瀬には大きな石がごろごろしていて、その下手側の流れのゆるいところなら、身を入れるだけの空間はある。こういうわけで、アユとカワムツが共存し、アユとオイカワ、カワムツとオイカワがすみわけることになるのである。」
野村さんは藻食であるボウズハゼも香りはすると話されているが、オイカワにも香りがする、とは話されていない。この違いはなんでかなあ。
香りは「本然の性」ではなく、「気質の性」であるから、苔の状況、藍藻か珪素か、どっちが優占種であるか、ということ、及び、珪藻であっても種類構成がどうなっているのか、あるいは同じ種類構成であっても、香り成分の生成量が栄養塩等水によって変化するのか、わからないが、香りが「気質の性」によるとしても、体内で香り成分を生成する機能は「本然の性」によるということかなあ。
オイカワを囮にして、アユが釣れるのかなあ。釣れるとすれば、どういう条件が必要なのかなあ。
いや、そもそもオイカワが釣れるところにはアユがいない、ということでしょう。
宇川の淵が砂底とはどういうことかなあ。
狩野川城山下の淵が砂底に変わっていったのは平成四,五年頃から。大井川の淵が砂底に変わっていったのは、長島ダムの工事の影響を受け出した平成一〇年頃から。
井川ダムができてからも、淵は石底で、増水時のアユの避難場所としての機能を果たしているところがあったとのこと。遡上アユがいったん休息場所に使っていたという金谷にあった大淵はなくなったとのことであるが。
オ コケの生産量
@ なわばり
川那部先生は、棲み分け、食い分けについて、他の事例を紹介されているが、アユにとっては、コケが一応無尽蔵、均等に分布しており、危機管理としては縄張りを形成する手段を選択している、ということを前提としておれば、釣り人としては十分であるから、また、「川と湖の生態学」に戻ります。
「アユは定着期には縄張り行動を示す。ただしこの行動を示すのは一般に川の瀬のみで、淵や瀬の岸寄り――藻の成長が魚の要求に追いつかぬ場所ではふつう群れを作る。なわばりの大きさはまず一平方メートル(図9)、個体群密度や藻の生態量の変動には一切かかわりがない。各個体はそのなわばりを一夏の間保ち続ける。もちろん洪水が起こり、あるいは人間が釣り上げれば、それは別の話だ。」
さて、「1メートル」の普遍性がどの程度あるのかなあ。また、「一夏保ち続ける」のかなあ。
球磨川では2,3メートル離れたところからすっ飛んでくる、との話があるが。
大井川で、釣れるときは、石組みで囲まれたような空間が形成されているところで、遡上アユが多ければ、1メートルの距離によるというよりも、石組みで形成された空間ごと、という感じがしているが。
遡上量が20年ぶりくらいの水準のあった、狩野川の雲金では、石組みと流れの状況で、小さい範囲のなわばりもあったように感じたが。
なお、川那部先生は、エリートの土地貴族と大衆の間に、中産階級の存在を観察されている。
「なわばりと群れ以外の行動も、夏に観察できる。一尾で動き回り、時に群れに合一する単独放浪、行動圏を決めてそこに留まるが、侵入者を攻撃せず、すなわちなわばり行動を示さない単独定住、複数個体がある範囲に集まっているものの、統一行動をとらない群がりがそれだ。この最後のものはアユにおいては、休息ないし睡眠状態においてのみ見られる。また先の二行動型は、いずれも安定でなく、持続性もすくない。群れとなわばりの中間形態と見なすべきであろう(図10)。」
単独放浪、単独定住のあゆみちゃんの話は、よおくわかる。
故大竹さんに弟子入りした斎藤さんが、せわしない釣りですなあ、といわれて、一箇所での釣り修行を命ぜられた。岩の上で居眠りをして川に落っこちたことも。
初心者らしからぬおっさんが、オラに負けまいとして、その師匠の命令に逆らい、あっちこっちと動き回り、すっ飛びアユ=1番アユを釣り廻ったことも、いかに中産階級を、あるいは2番鮎、3番鮎をだまくらかす能力が、ナンパ術には必要であるかをよく示しているから。
どらえもんおじさんらが、なんでオラのウン倍のあゆみちゃんをナンパできるのか。決して顔、美貌、男前の違いではない。あまあい、あまあい、ささやきである。その殺し文句さえ、身につけることができたならば、オラの高邁な理想であるあゆみちゃんを売って、ネエちゃんを買うことが実現するが。
A 照度と珪藻のアカ腐れ
次の観察は、気になりますねえ。
「各個体はそのなわばりを一夏保ち続ける」という箇所です。
藍藻はどうか判らないが、珪藻は、二万ルクスを超えると、光合成しない、アカぐされになる、ということです。
この巖佐先生が「珪藻の生物学」に書かれていることに関して故松沢さんに訊ねたことがあった。
オラは、アユが満ちていた狩野川では、たえずコケが磨かれているから、アカ腐れはない、と思っていた。しかし、故松沢さんは真夏にアカ腐れをする、と。
それが二万ルクスの照度ということのよう。
そうすると、一万ルクスで旺盛にコケを生産していた一等地から避難せざるを得なくなるのではないかなあ。淵とか日陰になる木が生えているところとかへ。時には人間が腐りアカを削り取っているチャラへ。
ということで、一夏同じ場所でなわばりを維持しているのかなあ。
もちろん、学者先生が「清流」と区分されている相模川では、透明度が5,60センチ、条件の良いときでも1メートル以下であるから、底石が二万ルクスになるとは考えにくい。したがって、仮に相模川に「きれい好き」の珪藻が優占種であるとしても、相模川でのアカ腐れは、苔をはむ鮎が少ないから、ということで間違っていないと思うが。
昭和の終わりの狩野川は、すでに、透明度が落ちて、あるいは藍藻が優占種となっていて、照度によるアカ腐ればすでに生じていなかった、ということかなあ。もっとも、巖佐先生は、光障害は、緑藻以外の藻類に発生すると書かれているから、藍藻でもアカ腐れが生じることになるが。
また、狩野川で、照度によるアカ腐れが生じていたのは、旧盆の頃かなあ。もしそうであるとすれば、「土用隠れ」は、つわり説ではなく、アカ腐れによる縄張り鮎の逃避現象ということになるが。旧盆の頃は水温は一番高くなるようでも、照度が一番高い時期といえるのかなあ。わかりません。
20世紀の大井川で、照度によるアカ腐れをみていたかもしれない。気をつけて観察しておらず、珪藻の茶色と、アカ腐れによる茶色を区別できなかったのかも。
白波の立っている瀬では、底石の照度が二万ルクスにならず、アカ腐れは生じないかもしれないが、そのような場所は、眼で鮎を観察できないのではないかなあ。
井伏鱒二さんが、友釣り初体験の時、垢石翁と一緒に行かれた殖田先生が、井伏さんに、珪藻と珪藻の腐ったものを説明されている。現在の富士川は、珪藻が優占種とは考えられないが、富士川でも珪藻が優占種であるところが残っているのかなあ。
植田先生が井伏さんに説明された腐りアカは、照度によるものかなあ、それとも?
B 安定した個体群密度
「ところで群れ・なわばりの両行動は、アユ自身の個体群密度によって安定性がまるで異なる。川全体の平均密度が〇.六尾/平方メートル以下、つまり持とうと思えばすべての個体がなわばりを持ちうるばあいは、双方とも社会的に安定で、藻も充分に食える。成長は良く、いずれのものも平均一五センチメートル、五〇グラム以上に達する(図11)。
平均密度が〇.六尾/平方メートルを超えれば、話はがぜん変わる。なわばり個体が一等地を全部占領し、この連中はすべて五〇グラム以上に成長する。群れ個体は、何度もこれに侵入しょうとするが果たさず、小礫や砂の地帯――餌条件の劣悪な場所で藻を食わざるを得ない。すなわち彼らの成長は悪く、夏の終わりにも五〇グラムをはるかに下まわる始末だ(図11)。」
C 縄張り範囲、行動は画一か?
「平均密度が三尾/平方メートルを超えるとき、異変はまた起こる。群れは続々と侵入し、なわばり個体はこれを追うべく努力するが追いつかず、断念して群れの一員となる。追うのに精一杯で、そもそも食うひまがないのだ(図10)。こうして高密度下ではなわばり生活は不安定、群れ生活が安定となる。なわばりの持つのはどの個体にも可能だが、群れの侵入によってすぐさま破壊される。両行動をとるものの成長に差がないのもまた当然である(図11)。
意外なのはその成長の絶対値だ。この高密度にもかかわらず、なわばり個体・群れ個体はともに五〇グラムに達する。すなわち、全個体の平均体重が、それより低密度の時のなわばり個体の平均体重に、まったくひけをとらないのだ。これは直ちにつぎの仮説を導く。なわばり一個のなかで生産される藻の量は、三匹以上の鮎を養うに充分なのではないか、そしてこの魚の成長は、藻の生産量によって直接にではなく、それ自身の社会構造によって制限されているのではないか、との仮説である。」
図には、鮎の密度で、どのような現象が生じているのか、を判りやすく描かれている。
そのなかで、縦軸に摂食回数を、横軸に攻撃回数をとった図がある。時間は一分間あたりである。
攻撃回数が五回くらいまでは、一五回以上の摂食回数になっている。一〇回以上の攻撃回数になると、摂食回数は一〇回以下になる。
攻撃回数がないときは、二五回から三五回くらいの摂食回数になっている。
一分間で生じているこの行動に対して、故松沢さんは、どのような話をしてくれるかなあ。
一日を通しての行動ではない、といわれるのかなあ。
また、そんなに攻撃していては、身体が持たん、といわれるのかなあ。
あるいは、海産はそんなに攻撃をしない、といわれるのかなあ。
あるいは、海産は、そんなに攻撃をしなければならないような石組みのところ、流れのところではエリートは縄張りを形成しない、安定的ななわばりを形成する場所としては、不適切である、といわれるのかなあ。
湖産と海産の追いの違いについて
故大竹さんは、1分間に何回も攻撃しているアユを見ると、せわしないアユどすなあ、といわれるのではないかなあ。いや、故大竹さんは、横浜の釣具店を畳んで、あゆみちゃんと同棲をしたいがために、狩野川は雲金に引っ越されたから、京都弁はしゃべれないか。
前さんは、「海産鮎は『一発ガカリ』で温和。湖産鮎は『しつこく何度でもおう』激しい性質がある。従って『湖産鮎』は釣り人のハリによくカカるから好まれる、という図式。仔鮎の価格も人工鮎、海産、湖産の順で高くなり…」
萬サ翁は、「天然は広い海で育ったで、性質が『ゆったり』しとるのか、喰み刻のほかはあんまりボワん。しかし、いきなり体当たりをしてきてカカる時もあるで、荒瀬では油断ができん。それに躰も『イカイ』(大きい)し、特に尾ビレがイカイで、引きが強い。」と、前さんに話されている。
「ー天然は顔が長く、湖産は丸顔ー」
前さんや萬サ翁の攻撃の仕方における湖産と海産の違いをどのように評価するのかなあ。
また、土地貴族といっても、英国の大土地所有者・貴族と、日本の小土地所有者では行動様式を異にするように、どのような場所で縄張りを形成しているのか、ということも攻撃の仕方、頻度に影響しているのではないかなあ。土地がステータスのシンボル、土地貴族の生活様式にふさわしい土地利用が習い性となって身につけている英国貴族と、そうではなく、土地を経済財としか意識しない日本では、土地利用の仕方、規範が異なるように、あゆみ界においても、激流を住処にするあゆみちゃんと、オラのような軟弱ものが対象とする場所に棲んでいるあゆみちゃんでは、生活態度・攻撃手法を異にするのではないかなあ。
江戸期の土地所有者は誰ですか。
大名?、百姓?、商人?
そもそも、西洋風の「所有」概念が日本に存在していた?
まず、大名は、「鉢植え大名」といわれるように、土地から切り離されていた存在で、土地の「使用、収益、処分」のうちどの権利を保持していたのでしょう?。あるいは持っていなかったのでは?。
百姓は、田畑永代売買禁止の法度があるから、土地「所有者」ではない、というのは事実でしょうか。
町家では土地の売買が行われていたから、商人は土地「所有者」である、といえるのでしょうか。
百姓は、土地売買が出来なくても、流質契約で、土地の使用収益を行う権利を移動していた、それを禁じた享保改革で制定された禁令は3年?で廃止されたほど、実効性を伴わないお触れであったと思います。そうすると、百姓も「土地所有者」に類似する行為が出来た、広く行われていた、ということになります。
あ、すみません、所有権、所持、という日本とアングロサクソンとの「所有」概念の違いの話ではなかったですね。
「湖産」と「海産」が、同じ性格、行動様式を持つ土地貴族であるかどうかでしたね。
少なくても、前さんら釣り人にとっても、萬サ翁ら川漁師にとっても、行動様式を異にすると経験されていたと思います。
次に、「土地貴族」、「土地所有」といっても、英国の大土地所有も、日本の小土地所有もあり得るのでは、ということを感じています。
その違いは、文化、遺伝子に組みこまれた社会構造ではなく、川の、水量の、流れの強さ等「外的な生活条件」、「生活の全面的な分析を行わないで、環境要因と生理を直結する」という、川那部先生が批判されている「クレメンツ・シェルフォードとその生理主義」に起因するのでは、としか思いつきませんが。
故松沢さんならば、狩野川と長良川での違う現象をあげられて、「アユに聞いたことはないからわからないが」と前置きをされて、オラが納得出来る話をされるでしょうが。
ということで、川那部先生が宇川で観察された事例のアユが「湖産」なのか、「海産」なのか、も気になるし、また、眼で「観察」出来る場所であるということは、垢石翁が二年続けて行くことになった神通川上流の宮川とは、異なる状況であったのではないかなあ、という感じも持っています。
故松沢さんは、なわばりアユ周辺には、なわばりアユが確保している「金の塊」のコケを狙って、2番アユ、3番アユが虎視眈々と1番アユの動静を窺っていると、話されていた。
つまり、2番アユ、3番アユはたえず攻撃をしているのではない、ということではないかなあ。なわばり+「順位・序列」が、「金の塊」をめぐって形成されているのではないかなあ。
そのような1等地における縄張り争いには、大衆は参加できず、限られたエリートだけが参加できるのではないかなあ。
とはいっても、大衆である群れ鮎が1等地に侵入してくるオージーは、狩野川では生じていたし、そのオージーのあとの秩序の再生がどのように行われていたのか、それが判らない。またもや、故松沢さんの話を聞きたい。
エリートだけの、大衆不在の空間があるか
また、大衆がオージーをしたくても、エリートの土地貴族しか占拠できない強い流れのなかの1等地であるとき、つまり垢石翁が丼を食べた宮川ではどうなるのかなあ。垢石翁が丼を食べた宮川の巣の内は、大多サら郡上衆が時代最先端の輸送手段である新品の自転車に乗り、狩野川衆が伝播した継ぎ竿を背負い、出稼ぎに行くこともあった蟹寺よりも上流である。巣の内にどの程度の大衆がいたのか判らないが、狩野川よりも少ないのではないかなあ。
そうすると、時合いによるオージーに悩まされることもなく、夏のあいだずっと1等地を占拠できたかもしれないが。
また、白波が照度を下げているとすれば、照度によるアカ腐れはなく、増水でも大石がゴロゴロしているから残りアカがあり、夏のあいだ、いつまでも縄張りを維持できたかも。
その場所は、当然、「食糧」の質、量の良し悪しだけではなく、守りやすさとしての「陣地」機能も備わっているのではないかなあ。当然、休息できる場所でもある。
故松沢さんは、「滑り台」ではどんなに「金の塊」のコケが生成していても、なわばりアユはつかない、と。休むところもある石組みのところが一等地ということではないかなあ。
アユの家計簿から見ても、四六時中、急流に身をまかせていたのでは、エネルギー消費量のほうが多くなるのではないかなあ。
「順位・序列」でいえば、1番アユの外側に2番アユ、3番アユがいて、その2番アユ、3番アユのいる場所を狙うアユには攻撃をして追い払って、その場所を確保しているのではないかなあ。
ただ、2番アユ、3番アユの攻撃衝動は、彼女らにとっては、腰掛けの職場、仮の住居であることから強くはない。そこで、彼女らをなびかせるには、騙しのテクニックが必要となり、テクニシャンしか釣れないということではないかなあ。あるいは新土地貴族が誕生するまで30分、1時間待つ、その場所を休めることになる。
狩野川から流れ者となって、飛騨川や宮川で稼いでいた山下さんと出会った滝井さんは、山下さんが、河原に石を置いて、1番アユが釣れたところを記しておいて、しばらくしてまたその場所を釣っていた、と書かれているが、山下さんは、1番アユ狙いであったのかなあ。
当時は釣り人が少なく、すっとびの1番アユを拾い釣りが出来る条件にあり、また、1番アユが好む空間が多く、さらに職漁師と素人衆の腕の差が大きかったから、そのような激流で形成されている1等地は素人衆では歯が立たず、更場であった
ということではないかなあ。
そして、このような「場所」でのなわばり形成は、川那部先生でも眼で見ることができず、川漁師の専管事項ではないかなあ。また、宇川では、観察する機会が少ない現象ではないかなあ。
「滑り台」
あ、ついでにもう一つ。
「滑り台」には、アユがつかない、とのことであったが、「滑り台」であるのか、エリートにとっては、休息所つきの「金の苔」が生成している一等地であるのか、ヘボと丼大王のようなテクニシャンとでは見方が大きく異なっている。
平成四,五年頃まで存在していた狩野川城山下の一本瀬や、石コロガシの絞り込まれた瀬は、オラにとっては「滑り台」でしかなかった。しかし、丼大王にとっては、淑女が、土地貴族の令嬢がすんでいる田園調布であり、自由が丘であった。
底石で出来る流れが互いに干渉しあって?、表面を見れば滑り台ではあっても、川底は決して滑り台ではなかったということ。
そして、その邸宅に囮を侵入させる操作も、単にオモリを重くすれば可能になるのではなく、どの流れに囮を入れ、そして誘導すればよいか、腕が必要であるよう。
その技術をテク2から弁天の瀬で教えて貰った初心者らしからぬおっさんは大喜びをしていた。
なお、縄張りが侵害されて、オージーが発生する要因には、濁りが入ってくるときも。
濁りが入ってくるとき、濁りの遅い場所に先住民がいて、そこに濁りを嫌って移動してくるアユがいると、オージーになる。
09年の海産畜養が釣りの主役であった相模川は、弁天で、右岸に串川や小沢の濁りが入ってきたとき、初心者らしくないおっさんは、入れ掛かりを愉しんだ。オラは、分流がダム放流がない限り、渡れないほどの増水にはならないとは思っていたが、ちょっぴり増水しても川原に取り残された無謀な釣り人になる可能性もあるから、引き上げたが。おっさんは全面の濁りになるまでのしばしの間愉しんでいた。
故松沢さんが、晩秋の長良川で、束釣りをされたのも、先住民のいるところに、網打ちにびっくりして逃げてきたアユがいたからであろう。
これらの現象から、縄張りを身体を張って守る行為がまず発生する。その後、どうなるのか、故松沢さんに聞きたいなあ。
縄張りアユがどのように秩序を回復していくのかなあ。大衆が去っていけばそれで終わり、ということなのかなあ。
(3) 藻の純同化速度:「餌供給と摂食と成長と」
ア コケの生産量
「藻の純同化速度は、日本列島中部の川のばあい、早瀬で夏に一〇〇カロリー/平方メートル/日以上――これが、アユが縄張りを作る場所の値である。悪い場所では〇.三〜二七カロリー/平方メートル/日に過ぎない。私どもがもっとも詳しく調査してきた京都府北端の宇川中流域の値は、一般の年の川全体の平均値で四〇カロリー/平方メートル・日。対するにアユの摂食速度は、体重五〇グラムの固体でもおよそ一一カロリー/日程度である(表1)。」
アユ以外で藻を食う動物もいるからそれを考慮しなければならないが、
「一般に〇.三〜一.三カロリー/平方メートル・日、最高値は一二.〇カロリー/平方メートル・日程度という。ただし後者は石からはがれて流下する藻が主対象である。」
「ところでアユは、川魚の中で社会的に最優占種だ。」
オイカワを追い出すことはあっても、
「だが逆に他の魚がアユの摂食行動に影響をおよぼし、あるいは縄張りの確立や群れの形成に邪魔をする例は、現在までまったく認められない。
したがって、アユの摂食速度と藻の純化速度とを直接対比することも、あながち不自然ではあるまい。そうだとすると藻の量は、早瀬一平方メートルあたりアユ九〜十二尾、川の全平均では五.四尾のアユを養いうることになる。ただし良い場所に完全に縄張りが確立すれば、早瀬でもアユは当然に一尾/平方メートル。他の場所では藻の供給量の限界まで食っても、充分の大きさに達するアユは、川全体で0.六尾/平方メートルをやや上まわる程度に留まるのである。」
ということで、アユの食糧は、潤沢に生産されており、食糧危機はあり得ないはず。
「個体群の大きさは、川へ遡上する以前にまず決まっており、成長は究極的には、川の藻の生産速度で決まる。一平方メートル内の藻の純同化速度がアユ一尾の摂食速度を上まわるときには(自然河川では、上まわらぬ事例を見たことがない)、なわばり制territorialityがアユの生産量を制御する。藻の純同化速度が三尾以上の魚を養いうる値であり(このように川の荒廃した状況下でもこのような年の方が多いし、一九五〇年代までは例外を見つけるのは困難であった)、かつ三尾/平方メートル以上の密度に実際になれば、なわばり制は破壊され、アユは藻の量が直接に制限するまで成長を続け得る、と。」
イ 氷河期遺存習性
このことをオラのおつむでも判るように表現されているのが「曖昧の生態学」の「『自然』の何を守るのか」の章の「環境激変に対応できる条件」の節である。(原文にはない改行をしています。)
「氷河期遺存習性説」は、
「実はアユのなわばりはほとんどの場合、労多くして功少ないものなのです。それにもかかわらず川の瀬では、必要な餌の量の十倍以上もある一平方メートル程度のなわばりを持って、大変なエネルギーを費やして自分の餌場を守っている。アユの身の引きしまっていて味の良いのは、いくらかそのためなので、人間にとってはありがたいことだけれども、アユにとってはどうなのか。なぜこういう言わば損な性質を持っているのか。
それは過去にあった危機的な状況を乗り切るための手段だった、というのがこの説です。ほぼ一万年前まで続いた最後の氷河期には、餌となる石のうえの藻類の量は今よりもうんと少なくて、このなわばりの大きさはちょうど必要な餌の量をまかなう程度であった。すなわち、この時はなわばりが必要不可欠だった。じつはアユは、その前の何回もの氷河期と間氷期を過ごしています。したがって、危機的な氷河期には必要で、間氷期にはいくらか損になるが致命的ではないなわばりは、ずっと持ち続けられてきたと考えても当然である。そういうことだったのです。
この考えは、別のこともうまく説明してくれます。琵琶湖のアユは、なわばりを持つ性質が特に強い。それから産卵期が、どこへ放流してもその川に海から上がってくるものに比べて1カ月早い。光の長さに対する反応すなわち光周性が、海からのアユは北海道から九州の南まで同じなのに、琵琶湖のものだけは違うのです。
この二つはともに、氷河期に重要であった性質が今も残っているものだとするとよくわかる。その頃には、海と川を往復するアユはもっと南に分布していて、琵琶湖のアユがとびはなれて寒い条件に棲んでいたのです。なわばりは、したがって最も強く守られなければいけない。また、秋遅くに産卵したのでは、冬までに孵化して海へ下れない。海からのアユに比べてうんと早く産卵する必要があるわけで、さてこそ、その刺激になる光周性は異なったに違いない。
これは、非生物的環境との関係だけのきわめて単純な例ですが、一般的な理屈として、次のことは明らかではないでしょうか。過去のある時期に、非生物的な環境との関係においてにせよ生物相互の関係においてにせよ、何か致命的な事態が起こった場合、これに対処できなかったものは、そのときに絶滅した。逆に言えば、現在生存している生物は、過去に起こったさまざまな事態に対処し適応できたものの子孫だから、そのときからの時間が極めて長い場合を除けば、それに適応し得た性質を今も遺伝的に残している。そして、このような事態が何度か起こった場合には、その性質はいっそう強くまた確実に、今も遺伝子の中に組みこまれている、というわけです。
しかもこういったことがらは、いろいろな方向について起こったはずですから、それぞれに応じて多様な遺伝子が残ってきているはずです。すなわち、過去の複雑な関係の総体こそが、この遺伝子多様性をを育ててきたのです。」
(4) 「川漁師の常識」は「学者先生の非常識」の起因根拠?
どうも、学者先生と川漁師とのサケが上らない相模川以西の太平洋側の海産アユの産卵時期の認識の違いは、川那部先生の「表現」に起因するかも、と勘ぐっています。
@ 湖産鮎の産卵期は「どこへ放流してもその川に海から上がってきたものに比べて1カ月早い」
A 「〜光周性が、海からのアユは北海道から九州の南まで同じなのに、琵琶湖のものだけは違うのです」
「1カ月」の表現は、他の本では「1カ月以上」と表現されているものもあり、適切でしょう。
問題は、「北海道から九州」まで、海産の産卵時期が同じという表現です。
川那部先生が「『自然』の何を守るのか」のなかで、上記の表現を使われているが、この話を書かれたのは、「海洋と生物 六七」一九九〇年四月号です。そして、「曖昧の生態学」が発行されたのは一九九六年です。
したがって、それ以降に発行されてオラが持っている本は、「生態学の『大きな』話」だけです。たぶん、「生態学の『大きな』話」には、「北海道から九州」までとは異なる表現は記載されていないのではないかと思いますが。
いえ、「偏見の生態学」の「U偏見の生態学」の章の「伸びた北限のアユ」の節に、
「八月中旬、〜まず増毛・留萌間の新信砂川に入る。」
「琵琶湖のアユを例外としてアユの産卵時期は北ほど早く、北海道では九月上旬に始まる筈だから、朝夕はともかく昼はもう淵に入っているだろうと深みに潜る。ウグイやヤマメに混じって一六〜七センチのアユが一〇尾近く群れている。なわばりの状況を検する時期が遅く、他年の再会をアユと約す。ちなみにこの川の管理人町田啓之輔さんによれば、以前は友釣りに来る人もあったが、ここ暫くはアユの姿を見ず、今年は数年ぶりと言う。」(「北海道新聞」一九八一年九月七日)
琉球アユの産卵時期が遅いことを観察され、書かれている川那部先生ですから、当然、北のアユの産卵時期が太平洋側のアユよりも早いことを失念されることはありません。ただ、オラ同様、川那部先生の本を読まれている「学者先生」がいたとしても、見落としているだけでしょう。
昭和の終わりから四年間?、「オリンピック友釣り大学」が行われていた。
その第一回に故大竹さんが講師で参加されていて、狩野川のアユの生活史と特徴を話された。その資料が貴重なものとは、そのときは意識していなかったため、保存しておらず、残念です。
そのとき、初期、彼岸花が咲く頃までの盛期、その後の晩期との区分をされていた。晩期のうち、「稲刈りの頃」アユは再び瀬に戻ると話されていた。「稲刈りの頃」とは、今の早稲ではないため、一〇月一〇日頃のことである。湖産は産卵を終えている頃である。
もちろん、大量現象としての観察・話であるから、彼岸花の咲く頃にも瀬についている鮎はいる。初心者らしくないおっさんが、その師匠に確かめたところ、「再び瀬に戻る」現象が生じるためには増水の要件も必要と話されていたとのこと。
平成のオリンピックとも釣り大学で講師をされていた狩野川の名人は、産卵時期が遅いのは狩野川特有の現象で、狩野川が太平洋側では、唯一、南から北へ流れているから、等の理由を挙げられていた。
しかし、満さんが11月の紀伊半島でアユを釣っていたこと等が、アユ雑誌に書かれるようになって、狩野川特有の現象ではない、と確信した。
故松沢さんが話された「西風」が吹くとアユはソワソワする、との現象は、仁淀川の弥太さんに共通する。
長良川郡上の大多サが「十月なかばすぎようやく落ち鮎期となると、坪佐や神路、中野といったヤナ場では“一と水百五十貫”といわれるほど、多いときは一日で三百五十貫もの鮎が獲れたそうだ。」(昭和のあゆみ1,大多サ)と話されているように早くても10月なかばすぎに下りが始まる。
大井川に井川ダムや、笹間ダムがなかった頃、家山の八幡さんの祭り頃:10月15日頃、いかいアユが釣れたとの話同様、中流域とはいえ、上流から、一瀬一瀬と降ってきて、家山に上流からの先陣が着くのが10月15日頃ということであろう。
長良川の坪佐等がどのあたりか、産卵場から何十キロ離れているのか、判らないが。そして、大多サが話されている現象は増水による下りのようであるが。
これらの現象は、「はしり」ではあっても、「終期」ではない。「盛期」でもなかろう。
そして、オラが故松沢さんに聞きそびれて、非常に困っていることは、増水で一気に産卵場に到達した群れ・個体群は、すぐに産卵をはじめるのか、それとも、「西風が吹く頃」以降まで、最高水温が15℃位になるまで、産卵を開始しないのかということである。
10月中旬の海産アユは、雄のサビもまだ薄く、雌の下腹の赤味を帯びた線が出ているのも少ない。サビの度合いと生殖腺重量比がピークに達していることとが連動しているのかどうか、あるいは生殖腺重量比がピークに達していなくても産卵をするのかどうか、判らないが。
故松沢さんと長い付き合いをされていた丼大王さん、教えて。
狩野川の2009年、平成の初め頃の遡上量があった狩野川、秋分の日以降、何回かの5,60センチくらいの増水はあったが、多くが下ったとはいえない。
昭和の終わり頃、城山下左岸道路が水没するほどの増水・5,6メートルの増水後も、アユはオラでも釣れるほどいた。ただ、その増水が秋分の日以降であったかどうか忘れた。
ということで、川那部先生が、なんで、海産アユの産卵時期を日本海側と太平洋側で区別されて、書かれなかったのか、わかりませんが、「学者先生」の常識と「川漁師」の常識が異なる一因になった雰囲気を伝えているのかも。
そして、「学者先生」の説を適切であると信じている「釣り名人」もその影響を受けているのかも。
とはいえ、川那部先生の関心事は、
「生物がいま示している性質は、現在という時点だけのためにあるのではなく、過去の歴史に基づいているものであり、また、だからこそ、未来に向かって発展する契機となっていることは、いくら強調しても強調し足りないことです。そして、群集の持っている多様性は、そのような性質をもつ生物の現在の関係だけで成立しているものではなく、過去の関係にも一部分は依存し、したがって逆に現在の生物群集自体が未来の生物と生物群集に大きな影響を及ぼすのです。
生物が、影響を受けながら、それを逆に変えていること、すなわち環境と生物とは、一方向的な関係ではなくて、両方向的な関係であることもまた、もっともっと強調したいことですね。」
ということが主題であるから、「海産」と「湖産」の違いに着目されても、「海産」の日本海と相模川以西の太平洋側の川での産卵時期の違いは、脇道のことでしょう。
とはいえ、琉球鮎と屋久島以北の海産アユの違いに着目されているのであるから、宇川ではなく、紀伊半島、四国の川を調査対象とされていたならば、「学者先生」の常識は「川漁師」の非常識ともならず、また、学者先生が川漁師からさげすまれ、オラのようなヘボにもいちゃもんをつけられることもなかった、あるいは減少していたかも。
オラの日本海側の海産アユの産卵時期については、「秋田阿仁川」のホームページによるところが大きいが、阿仁川でも継代人工が放流されているようであるから、その影響を考慮する必要はありそう。
なお、海産アユと湖産アユの「光周性」の違いにすら、なあんも考えられていない「学者先生」の例を1つ。
「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)に、湖産と海産アユの交雑種が共倒れとなっている現象に関連して
「しかし、湖産アユは、酒匂川と早川では海産アユの産卵期である10月以降にも湖産アユが多数残っていることが確認され、海産アユと交雑する可能性が懸念されたことから、放流場所や数量について、海産アユの再生産に配慮する必要がある。」と。
この文章を素直に読めば、いちゃもんをつけることがまちがっちょる、ということになる。
しかし、まちがっちょると言わざるを得ない。
理由
@ 神奈川県調査結果を適切に表現していない。隠蔽している。
A 「10月」といっても、「10月」は、季節の変わり目で、「きいせつのかわりめをあゆみの心でしるなんてえ」という月であり、「10月」という表現で一括すると、「季節の変わり目」を抹殺することとなる。
神奈川県調査結果
神奈川県の調査結果で、1999年、2000年、2001年に酒匂川でおこなわれた川にいるアユの再捕結果のグラフのうち、11月の調査結果が記載されている(調査が11月にも行われた年)である2000年、2001年には、人工のほか、「湖産」も11月に再捕されている。早川では2000年と2001年に行われ、12月にも調査をしていて、両年とも「11月」、「12月」にも「湖産」が再捕されている。
にもかかわらず、「アユ種苗の放流と現状の課題」に、参集されている「学者先生は「10月」と表現されている。
さすがに「学者先生」といえども、「11月」、「12月」に「湖産」が再捕されたとなると、恥ずかしく思われるだけの見識はお持ちということかなあ。
なお、この本の「委員」には、東先生は参加をされていない。川那部先生が建設省から座談会対象者から排除されたのと同じような事情が存在しているのかなあ。
季節の変わり目としての「10月」
10月1日頃は水温20℃くらいの筈。水が冷たくはないから計ったことはないが。
それに対して、10月31日頃は、西風=木枯らし1番が吹いた後では、最高水温が15度以下、西風がまだ吹いていなくても15度くらい。
気温は、西風が吹いた後では、秋風が身に沁みる。ことに、船にあゆみちゃんが満ちておれば、ハートの情熱が、身に沁みる秋風を吹き飛ばしてくれるが。
そして、熱燗娘が唯一の暖房である。
城山の岩壁には真っ赤に色づいたなんとかという木が秋の終わりがやってきたよ、と有終の美を誇っている。
そのような「季節の移ろい」を考慮しないで、「10月」と十把一絡げにして、表現することは、「学者先生」の常識ではあっても、川漁師どころか、ヘボのオラにとっても、「非常識」である、と言わざるを得ない。
ということで、またもや、「学者先生」の推理能力を疑うことになり、「耳に」タコで申し訳ございません。
なお、老ジー心から付け加えると、「湖産」を購入したと漁協が言っているから、調査対象としての選別を行った試験魚は「湖産」である、という、高橋さん同様「日本文化」の体現者ということが調査結果がまちがっちょる原因であるということに尽きます。
次いでのもう一つだけ。よろしいですか。
「これらの各種苗の表現型のいくつかは遺伝的要因に支配されている。しかし、いずれの表現形質も生育環境の履歴やその時点での環境条件、成長及び発育段階によって、変化する可能性がある。たとえば、本事業でも、神奈川県は琵琶湖産アユの測線上方横列鱗数が再捕時期(飼育期間)によって異なることを明らかにしている。」
「湖産」を氷魚から畜養すると、側線上方横列鱗数が変化するのでしょうかねえ。
もし、変化するとすると、鱗数が減少する方向への変化であるから、「きめ細かさ」が阻害されて、県産の30ウン代目の継代人工のように、鮫肌になるということではないでしょうかねえ。
「湖産」放流全盛時代の酒匂川には、そんな鮫肌「湖産」はいませんでしたが。
「測線上方横列鱗数」24枚だったかが「湖産」、22枚だったかが「海産」、10数枚でばらつきが大きいのが「人工」と区分されたのは「学者先生」ではなかったのでは。
その「基準」を、調査結果と適合していないから、と、「基準」を変更することが適切な調査、評価といえるのでしょうかねえ。
あ、そうそう、「11月」まで、あるいは「10月末」まで、「湖産」が酒匂川や早川にいたことは事実である、調査結果は適切である、と信じられている「学者先生」は、「光周性」に係る「湖産」の性質をどのようにお考えでしょうかねえ。
11月、12月に「湖産」が、早川や酒匂川にいたという神奈川県の調査結果を隠蔽し、「10月」と表現して、ミスリーディングさせようとお知恵を使われた「学者先生」ですから、「光周性」に係る川那部先生のお話を全部否定はされないのでしょうが。
(5) 群れアユの乱入とコケの生産量
土地貴族であるなわばり鮎にとって、時合いに侵入してくる大衆はおじゃま虫でしかないのであろうか。
「川と湖の魚たち」の「アユ」の章に、「食われて増えるということ」の節がある。
(原文にはない改行をしています)
「藻類の生産速度はアユがある程度食ったときの方が増加するらしいのである。アユのいる川といない川で、石についている藻の現存量を調べてみると、明らかにいない川のほうが大きい。歯ブラシでこそぎ落とそうとすると、ひどいときには数ミリメートルの厚さではがれてくる。しかし純同化速度になると話は逆で、こういった場合には、現存量あたりはもちろん、石面あたりにしてもいちじるしく小さい。細胞自身が老化したもの、石面への付着などに関する競争の結果構造的に老化したものは、純同化速度が小さくなっているからで、それを食べて取り除いてやると、純同化速度は増えてくるのである。
こうした例は陸上植物にもある。ススキ草原の純同化速度は、適当に上部を刈りとって光条件をよくしてやると増加し、またウシをある程度多く放牧すると、ススキは食われてしまってシバの草原にかわり、現存量は著しく少なくなるが、純同化速度では逆に数倍になる。
この後の場合に、ウシが減ればススキ草原にもどるから、草原全体の生産速度は、ウシが食うことで増加している。もちろん資本そのものまで食えば純生産速度も大きくなれないから、食われれば食われるほど良いというわけではない。
食われることによってその生産速度が増えるという事実は、そのほかにもいろいろ見つかっている。底生動物と魚の関係や、ミジンコとヒドラの関係などは、草とウシの関係に似て、食われるものの年齢構成をかえたり、過密度のための抑制を取り除いたりすることによっておこる例である。このほかに植物の生産に必要な栄養塩類を生物体から環境へ、つまりいったん有機物になったものから無機物へ戻して、植物に使えるかたちにしてやる働きによっても、動物は影響を及ぼしている。
たとえば、名古屋大学理学部の坂本充さんによると、琵琶湖南部の植物プランクトン全体によるリンの吸収速度は、一日あたり、水中に存在している量の五分の一にも達する。つまりそのままなら、五日経てばリンはなくなってしまい、それ以上は植物プランクトンは増えられない。しかし実際にはその植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、リンを無機化して排出してくれるので、水中のリンはあまり減ることはない。植物プランクトンにとって動物プランクトンは、自分たちを食ってしまう憎い敵であると同時に、食糧を作ってくれる恩人でもあるのである。」
このように、大衆のなわばりへの侵入は、「金の塊」である1等地の食糧の「再生」にも役立っているようである。
そうすると、宮川のように、2番アユ、3番アユはいても、「大衆」はいなかったかもしれないときは、縄張り内の食糧が有効利用されないだけでなく、質の低下もあるのかなあ。それとも、珪藻が腐り剥離し、あるいは増水で再生される等の状況が生じていたのかなあ。
(6)鮎が少ないときは、全員がなわばりを持って、ヘボの天国に?
さて、「川と湖の魚たち」には、とっても興味のあるお話が書かれている。
「氷期遺存習性」が、飢餓からの生き残りの制度として有効ではあるが、その結果は、必ずしも資源の最有効使用とはならないことがあるということであった。
そして、
@ 縄張り鮎と群れ鮎が存在する。
A 摂餌行動が妨げられるほど、縄張りを維持するための行動が必要となると、縄張りを解消する。
ということであった。
それでは、みんなが仲良くなわばりを持つことができるほど、鮎が少ないときは、争いもなく、平和にみんなが大きく育つことができるから、幸せだなあ、となるはず。
川那部先生は、14年間の宇川調査では、「全部の鮎」が、縄張りを作ることができるほど、鮎の密度の小さい年が、半ば以上であり、アユがたらふく食えると思って手伝いにきた連中がうらめしそうな顔をする年が多かったが、逆にこうした年のおかげで、条件さえととのえばいつでも、すべての個体が縄張りを作るわけではないことが、あらためてはっきりしてきた。」
びっくりしたなあ、もう。
川那部先生にはどんでん返しというか、オラがやっと「原理・原則」ではないかと思うことを理解したつもりになると、その現象はかくかくの条件でのことであり云々、となって、どんだけオラの弱いおつむが混乱させられたことか。
まあ、多くはあゆみちゃん以外の動物が素材であるから、許せるが、あゆみちゃんよ、お前もか、ということでびっくらした。
密度の低い年が多かったおかげで
「〜条件さえととのえばいつでも、すべての個体がなわばりを作るわけではないことが、あらためてはっきりしてきた。そのような場合でも、半分以上の個体はつねになわばりを持たないし、どちらかといえば、密度が小さければ小さいほど、なわばりを持つものは、数としてはもちろん率としても少なくなっていく。
アユのなわばりは元来、自分の食べる餌を確保するためにあるのだから、その必要がなければ持つ意味がない。逆に他のアユに食い荒らされる条件があれば強固に持つ方が目的にかなっている。事実もたしかにそのようだというわけである。」
なんで、あゆみちゃんまでもサボリーマンの世界にどっぷりとつかってんねん。そんなサボリーマン根性では厳しい環境破壊の川を生き残れんぞお。
あゆみちゃんが、しょっちゅう理屈をつけてはさぼって川で法事やら看病をしているサボリーマン病に感染して、そいつらと同類であるか、どうかを確かめたくても、遡上アユだけがいる川がどのくらいあるのかなあ。もともとサボリーマン遺存習性の遺伝子しかない継代人工が放流されている川では、確かめようがないなあ。
大井川に長島ダムがなくて、砂利まみれで石が、瀬が、淵が埋まっていなければ、塩郷ダム下流の新大井川漁協管轄内では、継代人工も海産畜養も放流がされていなかったから、調べに行っても良いが。
そりゃあ、川那部先生が説明されているように、なわばりの効用はよおくわかりますよ。そして、なわばりを作らなくても、食っていける社会があることも判りますよ。
しかしですよ、せっかく友釣りを、あゆみちゃんの意思を尊重する釣りにうつつを抜かしてですよ、あゆみちゃんに冷たくあしらわれている者としましては、管理釣り場のニジマスの放流直後のように、密度が濃くなったときだけ働いて、後は優雅に遊んで暮らす、ということは、あゆみちゃんの性格の悪さ、怠慢としか思えないんですが。
どっかの名人が組合長をされている川の営業方針のひとつに、追加放流をしてアユの活性を高める、というのがありました。
継代人工がその対象であれば、なあんも文句はいいません。管理釣り場化に精を出してください、そんな川には行きませんから。
ということで、継代人工とは無縁の大井川に通っていたが、その大井川もあゆみちゃんの生活困難な川になり、困ったなあ。残るは三途の川か天の川か。
おまんは、なんと失礼なことをあゆみちゃんにいうんや。
故松沢さんが言うとったやろう。
アユは悪くない、人間が悪い、と。
おまんが釣れないからといって、アユの数が少ない、なわばりを作らんからヘボには釣れないから、というて、あゆみちゃんがサボリーマンの仲間やてえ、とんでもない言いがかりや。
川那部先生が「川と湖の魚たち」に書かれていることを読んだんか?それにやで、あゆみちゃんはおまんらサボリーマンとはひと味ちゃうでえ。
川に生成するコケの生産量について
「春に海から上ってきたときの現存量あたり、つまり、アユの体として川に投下された資本ないし労働力あたりでこの純同化量を見るとどうなるか。いわば『生産性』の問題である。春、海から上ってきたときの現存量を一とすれば、この値はそれぞれ一五,九,一五程度(注:この数字は、アユの密度が高いとき、中くらいのとき、低いとき の順である)となって、密度の特別に多いときとうんと少ないときでは値はおよそ一致し、途中の密度では低い値をとる。」
密度の違いと生長する大きさの違い及びそれぞれの場合のコケの生産量については、
「川のアユの密度が低い場合には、なわばりを持っていようといまいと、実際の生長には何らの抑制も受けず、どちらの場合も二〇センチメートル程度まで十分に生長するのはもちろんである。この場合、たとえば密度が一平方メートルあたり〇.三尾程度の年でいえば、一年間の純生産量は一平方メートルあたり二五グラム程度である。
海から遡上する数が増え、生息する数が増えるにしたがって、川の水面あたりのアユの純同化速度が増加すること――これは当然のことである。密度が〇.三尾から〇.九尾、五・四尾と増加するにしたがって、それは六〇グラム、四一〇グラム程度と増えていく。」
すばらしい純生産量生産者としてのアユ
「それにしても、アユはとんでもない生産速度を持っている。一年のうちわずかに五カ月を川ですごすだけで、最初の現存量のおよそ一五倍の、また、水面一平方メートルあたりでいうと最高四〇〇グラムの純同化速度をあげるという魚は、少なくとも温帯地方ではまずいない。」
判ったか、このようにあゆみちゃんは、おまんらサボリーマンと違って、物質循環、川の水をきれいにすることに日々働いているんや。
なにい、「純同化量」の四〇〇グラムとか、何とかの量が判らんと、?
そんなことも判らんとあゆみちゃんのお尻を追っかけているのか。この馬鹿者。まあ、そのうち教え足るわ。(わいにも判るわけないよ)
「夏の餌条件の良い時期だけを選び、回転率の早い藻類を、しかも口の形まで変えて能率よく多量に摂取し、おまけにそのことによってさらに藻類の生産速度を増加させていくといった例外的な生活様式を持ち、しかも行動の上では他の魚の影響をあまり受けずにやっていけるアユ、社会行動も多彩で、味と香りもよく、日本を中心とする狭い範囲でしか分布していないこのアユは、しかし、川と海の人為的な変化によって、かなり早い速さで絶滅に向かって進んでいるのである。」
もはや、「香り」は、稀少となり、「藍藻」を食べても、珪藻を食べても「香り」は本然の性であるから変わりはない?と考えられているのではないかと思う「学者先生」が本を書かれているご時世。
あの世に行くまでに今一度、シャネル五番の香りを嗅いで、ぬめぬめヌルヌルの柔肌の美女をだっこしたいなあ。
3 「若気の至り」の川那部先生 「川と湖の魚たち」(中公新書)
川那部先生でも、ある年の現象を普遍化されようとしたことがあったことを知って、嬉しくなった。
川那部先生ですら、先走りをされ、あるいは、一定の条件下での現象を「普遍化」されたのであるから、ヘボが間違った判断をしても当然である、との免罪符を得た、いや、鬼の首を取った気持です。
もっとも、ヘボと川那部先生の違いは、川那部先生が間違った判断を修正される腕を持たれていたこと。
その物語がこの章のお話です。(原文にない改行をしています)
(1)不安定状態の「なわばり制社会」の考え
「その頃私は、アユのなわばり制社会説に疑問を抱いていた。調査について行って、なわばりを作らないアユが瀬のよい場所にもいるのを見たし、それに臨海実習で、いつも群れを作っているメジナの幼魚が、たまたま潮だまりにとじこめられるとなわばりを作るといった事実も観察した。平常は群れで生活するものが、水槽のような狭い空間に入れられると、とたんになわばりを作る例は、メダカやサンフィッシュなどでよく知られている。」
ア 1955年の宇川
「瀬といわず淵といわず、群れで泳ぎまわって底の石についた藻を喰(は)んでいる。多いところには、一平方メートルあたり一五尾もいる。
なわばりもあるにはあるがきわめて少なく、また不安定である。群れアユが押しよせると追い払いきれなくなるのか、一時難をのがれてその喰むのにまかせたり、群れの一員に入ったりする。群れに参加した場合は、たいてい群れの移動とともに一緒に立ち去る。こうしてなわばりアユは一つずつ減っていく。やや安定したものは、淵の岩盤の奥まったところ、周囲から強く隔絶されて、群れが侵入しにくいところに見られるだけなのである。逆に群れのほうは、なわばりアユによってほとんど影響を受けない。」
「なわばりアユのほうは、五時半ごろから一九時ころまで、一日中ほぼ一様に、一分間に二〇回近くはんで、〇.二五平方メートルほどの場所についた藻類をはみつくした。ところが群れアユのほうは、朝早くとか夕方おそくに、あるいは昼間にもときどき、一分間に三〇回以上も藻をはみ、結局一日を通じてみると、なわばりアユとあまり変わらないぐらいに餌をとったのである。
こうしてなわばりが安定せず、群れが川の全面を制約を受けずに泳ぎまわり、はむ回数から見ても二つの行動型に差がなく、そのうえ、なわばりと群れとの間にしょっちゅうメンバーの移行がある、ということになれば、当然この二つの行動型を示しているアユの間に、生長のうえで差はないだろうと思われる。実際、なわばりを持っているものもいないものも、ともにおよそ二〇センチメートル平均になっている。」
イ 意気揚々
「一九五五年の結果がこういうことになったから、大学院一年生の私にとっては鬼の首でもとったようなもので、さっそく宮地さんはじめ六人の名前で出した論文の中に、『アユの社会が全体としてなわばりによる社会であり、なわばりを持たないものが、それから追い出されたものだと考えてしまうのは、明らかに誤りであって、云々』と書いて発表した。」
ウ 茫然自失 意気消沈
翌年、川に石を入れて、藻の生産量を詳しく調べ、「なわばりが適正な人口密度を算定する基準にならないとなると、食物となるべき藻がどの程度のアユを支えられるかに、」取り組むこととされた。
「京都を朝六時半の汽車に乗ると、一四時少し前にバスが宇川へ着く。停留所から宿舎まで、調査用具の入った重いリュックサックを背負っていく途中、この宇川を渡る。アユどもはどうしているかと、挨拶程度のつもりで欄干に体をもたせかけ、下を見下ろして数秒、私は目を疑い、ぼう然と立ちつくした。橋の下にはズラッとなわばりが敷きつめられていたのである。
バスが通りすぎたのになかなかやって来ないと宿舎から見に来てくれたのは一足先に宇川へきていた水野信彦さん。」
「さっそく自転車を飛ばして上流へ向かう。橋ごとに降り、岸から見下ろしてみると、瀬の大部分にはなわばりがひしめいている。これはどういうことなのだろうか。
前年私は見誤ったのだろうか。『なわばりだけを見ようとするからそれが見えたのだ』と見得を切った結果、逆に昨年は群れだけに目をつけて、存在していたなわばりを見なかったのだろうか。論文はすでに印刷になって出ている。おまけにその年の主要な目的のために放り込んだ石は、梅雨の終わり時分の数回の増水でほとんどどこかへ消え失せてしまった。
前年の野帳を見直す。手伝いにきてくれた人の野帳のどこかに、なわばりの多い場所のことが少しでも書いてないかと探す。その人たちに前年の状態を思いだしてもらう。どれを見ても私の見込み違いではないという資料ばかりがでてくる。ノイローゼ気味だとはいっても、こちらを馬鹿にするようになわばりばかりを並べている宇川のアユも、毎週のように見に行かないわけにはいかない。そのうえ、『偏光メガネや水中メガネを使っても眼で見た数などというのは信用がおけない』という意見に対抗するため、とくにお願いしておいた淡水区水産研究所の小野寺好之さんといまは東海大海洋研におられる田中昌一さんとが、解禁日には漁獲量調査に来られる。その準備がある。その協力を求めるため漁業組合の人たちのところをも走り廻らねばならない。それにしてもどうしてこう違ったのであろうか。
七月一六日の第一回解禁日の直前には、前年と同じく、上流から下流まで、早瀬・平瀬・とろ・淵などと河床型別に区分し、また早瀬や淵はさらに細分して、その各々の場所を二人で潜って数をかぞえ、大きさを目測し、社会行動型を記載してみたところ、密度が前年とはいちじるしく違うことが歴然としてきた。これは川面を見たときから見当としてはついていたし、遡上数の調査からもわかっていたのだが、計算して数字が出、それが漁獲量調査でも裏付けられ、また解禁調査にきた多くの友人たちが『今年は少ない』と異口同音にいうにおよんで、この密度の違いをたねに、社会行動の違いを見てみようと、思いたったのである。」
ということで、遡上量が大量であり、餌をはむ回数が、追い払う回数・行動で阻害されることが著しいという状況のときに観察された現象を普遍化されたことによると気が付かれました。
産着卵数、あるいは流下仔魚量と遡上量の間に相関関係があるとされている神奈川県内水面試験場とはなんという観察眼と推理力の違いであろうか。
「目に」タコで申し訳ありませんが、県の間違いは
@ 流下仔魚量、産着卵数の推計値は、特定の年を除けば適切な調査・統計数値であろう。
A 遡上量は、調査方法にどのような問題があったのか、わからないが、相模大堰副魚道での目視調査の結果と比較して少なすぎる。
B そのような統計数値を比較して、相関関係を算定する式に導入しても、有意の関係を導き出せたとはいえない。
C 流下仔魚量には、再生産に寄与していない継代人工を親とする量が控除されていない。
D 三,四年周期で遡上量が激減し、あるいは増加している現象を説明していない。
多分、この現象を説明するには、海での動物性プランクトンの状況を考慮して、稚魚の生存率の変化を考えなければならないのではないか。
宇川の1955年の遡上量が多いことは事実である。したがって、流下仔魚量は大量であるはず。
しかし、1956年の遡上量は少ない、というか、縄張りを形成できるほどの密度であった。
ということは、流下仔魚量と遡上量の相関関係は存在しない、ということになるのではないかなあ。
ということで、流下仔魚量と遡上量に相関関係があるとの県の評価は絶対に間違っていると判断しています。
もちろん、下顎側線孔数四対左右対称が乱れているアユが、「継代人工」であるとの判断が、たまたま、「四対左右対称」になっていたとしても、「継代人工」がありうる、という意味での「乱れ」同様での意味で、偶然に、「流下仔魚量」と「遡上量」に相関関係が見られる現象も時折生じているのであろうが、それは、決して遡上量の三,四年周期での変動現象を説明できないものと確信している。
さらに、3年間の流下仔魚量と、遡上量を見ただけで、「相関関係」云々が出来るとは、試験場の常識を疑う。相関関係を云々するには10年ほどの時間軸での観察、評価が必要ではないのかなあ。
あ、また、川那部先生に「絶対」という評価、考え方は信用できない、と怒られますね。
4 「間氷期のなわばり」 「アユの博物誌」(平凡社)
あゆみちゃんの社会構造を特徴づけていて、オラがあゆみちゃんのお尻を追っかけ回すことができる「なわばり制」について、どのようなものか、オラの色眼鏡ではなく川那部先生の書かれたもので紹介しておくことが、誤解を避けることができるのではないかと思っている。(原文にない改行をしています)
(1)英国土地貴族の風貌
「しかし、間氷期にもなわばりを厳守するのは、アユにとって必ずしも有利ではない。一平方メートルを独占して、余裕がありすぎる餌を確保することは、『全滅をもたらすことが決してない』という点では致命的な欠陥ではなく、したがって短い時間に淘汰されてしまわなかったわけではあるが、もっと多くの仲間がすめるはずのところをすめない状況にすること、いささか大げさに言えば、資源を十分に利用せずに捨ててしまうことになる点で、もったいない限りである。だがそうかといって、なわばりを間氷期には捨て、氷期には持つということの数度のくりかえしは、またたいへんである。習性は形態とは異なるから、『進化にはあと戻りがない』という原則をそのままあてはめることができるとは限るまいが、やはりそういう傾向のあることは否めない。」
英国土地貴族は、土地を経済財として、最大利潤の追求に利用するのではない。英国貴族にとっての「土地」は、「貴族」としての生活様式を維持し、あるいは学び、そしてステータスシンボルとしての「土地」利用をしなければならない。
あゆみちゃんもその土地利用の習性を保持しているから、騙しのテクニックを持ち合わせていないヘボにも釣れることがある。
しかし、あゆみちゃんが土地貴族の生活様式を時折忘れて、日本の土地所有者のように、土地利用、経済財としての最大利用を試みることがある。このときは、ヘボとしあわせ男ら腕自慢との差が大きく開き、空気が、水が詰まった舟を抱えて、世も末じゃ、何で、神様は「平等」を実現されなかったのじゃあ、と嘆き悲しむことになる。
「習性は形態とは異なる」とはどういう意味かなあ。
「形態」は変化しないということかなあ。あるいは変化するということかなあ。
また、恩田さんが、長良川で釣れたアマゴといえども、釣れた場所、環境で容姿等が異なると話されているが、「形態」の違いとはそのような現象を含まないのかなあ。あるいは含むのかなあ。
萬サ翁が、頭を押し潰したブルドックのような顔つきと表現されているかっては存在していた郡上八幡のアユは、激流に生息するアユの顔立ちの変化で、「形態」変化になるのかなあ。それとも、「形態変化」とは異なる範疇、単に、「環境」による個体群の変化、容姿の違いということかなあ。
そのような「形態」の、容姿の違いは、目利きでしか判別できないから、「形態」が異なる、という現象とはいえないのであろうが。
萬サ翁らが話された郡上八幡のあゆみちゃんの容姿は、「形態」の違いではなく、小百合ちゃんと百恵ちゃんの違い、つまり「容姿」の違いと言うことであろうが。
また、「習性は、習い性となる」ということから、後戻りできると言うことかなあ。
いくら「形態」の違いとはいっても、側線上方横列鱗数が、湖産二四枚ほどが、一〇枚台に変化することは「絶対」にあり得まいと確信しているが。神奈川県の「飼育時間」によって、側線上方横列鱗数が変化する、という評価は間違っていると確信しているが。鱗数の違いは、「飼育時間」に起因しているのではなく、その親が、氏素性が「湖産」であるのか、「継代人工」によるのかによって変化するのであって、「海産畜養」であれば、二二枚くらいであると判断している。
そう、この「形態」の違いについては、故松沢さんの得意分野である。川、急流、激流、遡上距離の長さ、その他の環境で、どんな形態を異にする現象が生じているのか、と尋ねたら、「アユに聞いたことがないからわからんが」との前置きをして、どのような現象を話されるのかなあ。
もちろん、その形態の変化、違いが、「進化」に起因する変化、違いとは異なるのであろうが。
丼大王さん、教えて。
(2)小土地所有者への変身
「そこで、間氷期のアユは次のような変なことをしたらしい。つまり、一平方メートルのなわばりを守るという基本はずっと維持したままで、少しばかりごまかしをするというやりかたである。
まず第一は、川でのアユの数が増え密度が高くなってくると、なわばりを解消して群れになる。氷期には密度が高くなればますますなわばり防衛をしっかりしなければならないが、間氷期には、藻の増える量を水温から計算すると、良い場所では一平方メートルで一〇ないし一五尾のアユが成長できるから、それ以下の密度ならば、なわばりを解消してもすべてのアユが大きくなり得る。この値を超えた場合は、当然直接に餌の不足を来たし、成長が悪くなるが、大型のアユから生まれた卵と小型のアユから生まれた卵との、いわば生命力の違いといったものも、水温の低いときほどには大きく減少しないから、全滅の危険は少ない。
また、いかに高密度になっても、周囲から比較的侵入し難い場所、つまり、石で深く囲まれているような場所では、なわばりは維持される結果になるから、その点でも全滅は防げる。とにかくこういうやりかたである。
第二は――いや実は、これは第一のもののあらわれかたの一つなのだが、このようなごまかしは、一つの間氷期の中の後期になるほど、また分布域全体でいえば南の暖かい地域ほど、程度が強くなる筈である。
現代は、昔流の言葉でいえば『第四間氷期』だが、氷期が終わってから時間はまだわずか一万年ほどしか経っていない。
しかし、奄美大島や沖縄島のような暖かい地域にすむアユのなわばりは、九州島ないし屋久島から東方あるいは北方のものにくらべて、かなりあいまいな点を持っている。川の比較的良い場所でも、長時間同じ場所に維持されることが少ない。他のアユが入ってきても、何回かに一回は追わずに済ます。また、なわばりそのものの大きさも年によって変化する。
現在のところ、こういう弱くて不安定ななわばりというものは、分布南限の一つである琉球列島だけに見られ、それ以外には全くない――もっともシナ大陸沿岸のものはまだ調査できていないので知らないが――。氷期にも比較的暖く、氷期から間氷期に移る時期も早く、間氷期にも暖かい南の土地にすむものでだけ、こういう状況が見られるのだ。
それでは逆に、分布北限のアユのなわばりは、いっそう強固かどうか。理屈上から言えばそうなるのだが、『第四間氷期』の現代、アユの分布北限にあたる北海道、さらには朝鮮半島南部に関する限りは、そういう現象は見つかっていない。琉球列島でアユのすむ最北端の島は奄美大島、九州側でアユのすむ最南端の島は屋久島だが、この間は二〇〇キロメートル以上も離れていて、その間の交流は、『第四間氷期』に入ってからは極めて少なく、とくに北から南への移動はほぼ絶無といってよいと考えられるのに対して、屋久島から北海道まではいわば沿岸が続いており、したがって相互の交流が大きいといったことも、いくぶんかは関係しているであろう。
少し現代の話に深入りしすぎたかもしれないが、とにかく温暖期にアユがアユになったあと、なわばりは寒冷期の到来とともに成立し、それからあと何回かの温暖・寒冷の繰り返しの時期を、表現形態に程度の差こそあれ、ずっと持ち続けて来たのである。」
氷期に縄張りを形成することが有効な生き残り手段であるとして、侵入者への攻撃と摂餌行動の収支が償ったのかなあ。あるいはどの程度の量、比率で、土地貴族の生活を全うできていたのかなあ。
収支が釣り合ったからこそ、生き残っているのであろうが、現在の温暖期には、懸命になわばりを守ろうとはせずに、なわばりを解消して群れになるとは、軟弱になったのかなあ。
いや、食糧が満ち足りておれば、あゆみちゃんといえども、サボリーマンに変身するということかなあ。サボリ−マンのほうが、猛烈社員よりも楽な生活ができるからなあ。
「曖昧こそが肝心」 (「曖昧の生態学」から)
(原文にない改行をしています。)
「『過去のある時期に何か致命的は事態が起こったとき、それに対処し適応し得なかった個体あるいは種はそのときに絶滅してしまった筈。逆にいえば現在存続している生物は、過去に起こった様々な致命的事態に対処しし適応してきたものの子孫であり、したがってその性質を遺伝的に残していると考えなければならぬ。それが仮に現在の言わば〈通常〉状態で、その種の生活にとっていくらか不都合な面を持っていても、それが致命的でなくて〈いくらか〉という程度である限り、淘汰されて消えてしまっている可能性は少ない。すなわち、数十世代あるいは数百世代に一度でも、すでに起こったことのある様々な致命的事態に対処し適応する機構は、今でもそれぞれの生物の中に情報として存在している筈』である。いや『実際、十数年ないし数十年に一度起こる程度の、様々なかたちの〈妨害〉ないし〈動乱〉が、生物の性質や生物群集の様相全体を大きく決めていることは、いくつかの場所での継続的調査の中から少しずつ明らかになって』きている。
すなわち関係は、多くのときには真には働く筈がない。『曖昧な』ままである。そして、このような『曖昧さ』が許されない時期は、あるにはあるが、それはかなり長い時間のなかでの、別の言葉でいえば地質学的な意味での比較的短い時間内の、ある特定の時期に限られる。つまり現実の事態として、もっとも重要な関係を調査抽出できることは、かなり稀といわなければなるまい。
不可知論の極みだと言うか。ある意味でそのとおりだ。だがそれが現実とすれば、止むを得ないではないか。しかし、このまま何も言わないでおくと、ますます科学的でないと非難されるに違いないから、簡単に一つだけ、それを見つけ出す方法を書く。何のことはない。『通常状態における各生物や生物群集の性質を、いっそう深くかつ論理的に解析して、そこに起こっている一件説明不能な現象を見つける』ことだ。『その〈説明不能〉の現象にこそ、進化の歴史を示し、かつ現在の生物群集を本当に成り立たせているもの』があるに違いないのだから」
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川那部先生のどんでん返しにまたもやオラのおつむが混乱させられた。やっと「氷期遺存習性」とか、なわばりを解消する事例とか覚えたのに、なわばりのない状態が「通常状態」ともミスリーディングできるような文に出くわして、困った、困った。
ということにしておいて、次に進みましょう。
「第4間氷期」が、今では古い表現とはどういうことかなあ。やっと、覚えた言葉やったのに。
「アユがアユになって」とは、アユがキュウリウオ科の仲間であること、そのキュウリウオ科の仲間がコケを食糧に選んだことの意味ではないかなあ。
このことを「偏見の生態学」の「(対談〉 何が〈自然の学〉か――〈生態学〉的自然像を問う 川那部浩哉・小原秀雄」からつまみ食いをする。
5 アユへの分化
「川那部 アユというのは、石の上にはえた藻を食う魚です。くちびるや舌の形が実にそれに適したようになっている。これに近いのはサケの仲間、中でも一番下等だといわれる、キュウリウオの仲間です。ワカサギもそうです(図1)。これは川あるいは海岸で生まれて海に下り、そこではプランクトン動物を食べ、一年目ないし二年目の秋に川や沿岸へ来て産卵する。生まれたてのアユとワカサギとは、素人では区別がつかないほどそっくりです。
アユの子は冬の間、海か湖で同じようにプランクトン動物を食っていて、口もワカサギと同じかっこうをしている。春になると急に口の形が変わってくる。そうすると、アユは石のうえの藻を食うためにワカサギから分かれたんだ、と考えるよりしょうがない。」
「氷期遺存習性説」あるいは、アユの出自、類別には、反対意見もあって、川那部先生は、沖縄、台湾の調査をされることとなったのではないかなあ。このあたりの話は、「昔々」あったとさ、とのお話で、あゆみちゃんナンパ術向上のために川那部先生を読むという不純な動機とかけ離れるから、省略したいところであるが、少しだけつき合ってください。
「――海からやってきたアユがどうして、そこまでになれたんでしょうか。
(注:ワカサギ・キュウリウオの仲間のうち、『アジア側の中で一番南、つまり暖かいところにすむのがアユです。そこで水温が高い中流で、石のうえにはえた藻を食うようになったのがアユだ、というわけです。アユがやってくると他の魚がよける、というほど非常にいばった魚になっています。』)
川那部 東アジアでは、淡水だとコイ科の魚が全盛です。日本では、コイ・フナ・ウグイ・オイカワ・モロコ・タナゴなどみんなコイ科です。しかもコイ科が出てきたのは、ずっと昔のことで、アユが出てきたころには、コイ科がありとあらゆるところにすんでいたはずです。ところが、コイ科はあごに歯がないという一つの欠陥、といえるかどうかわからないが、そういう特徴がある。ヒマラヤのほうには例外がいますが、石の上の藻を食うのは非常に難しい。私の考えでは、コイ科がうまくやっていけなかった“穴”のようなものがあって、そこにアユがすぽんとはまりこんだということになる。」
川那部先生は、仮説を検証されるため?に、「アユ」以外の「藻食い」の魚調査を南半球等でも行われている。
あるいは、進化の展開をコイ科等を含めて検証されようとしているのでは?
成立、変化における時間、空間の要素を視野にいれて、あゆみちゃんの生活誌、習性を考えられていて、その調査、観察態度は三年ほどの「調査」結果から、「流下仔魚量と翌年の遡上量には相関関係が存在する」という評価をした神奈川県の調査、研究の態度とはまったく異なるものであると確信しているが。
皆さんも、たまにはあゆみちゃんのナンパを離れて、川那部先生の本にふれてください。
「偏見の生態学」「生態学の大きな話」「曖昧の生態学」は、新刊書で購入できますから。
6 湖 産
「アユの博物誌」の「X章 アユさまざま(座談会)」に、東先生の「琵琶湖アユの多様性」が図示されている。
「多様性」があるということは、「複雑」であるということ。「複雑」な事柄を理解するには、おつむがよくないからこんがらかってしまう。
それがわかっているから避けたい、ということになる。しかし、浮き世の義理からさわりだけでも書かざるを得ない。なにしろ、「湖産」が10月下旬、11月に採捕された事実について、「湖産ブランド」で放流された「海産」であると大見得を切ったから。
(1)湖産群の類別
湖産の類別は、東先生の説明によると、
@ A群 早期遡河群
「春早くに周りの川へ上って大きくなるグループ」
「早いやつは二月末から上りますね。」
この親の仔魚は、10月から観察されて、11月の下旬まで観察されているようである。
その時期による量的変動は書かれていない。
水温によって孵化期間が異なるとすると、10月初めのころは水温が20℃くらい以上であろうから10日以内に孵化しているであろう。そうすると、9月下旬ころから産卵をしているのでは。
そして、産卵終期の11月では、15日近くの孵化期間であるとすると、11月10日ころでも産卵をしていることになる。
A B群 晩期遡河群
「それから川へ遅く上る」群れがある。
「七月八月にも上る。」
この群れの孵化時期は、図示されていない。しかし、A群と湖では同一線上に表示されているから、A群と同じ産卵、孵化時期ということか。
B C群 湖滞留型 産卵期のみ遡上
「夏中ずっと湖にすんでいて大きくならんで、産卵期にはじめて川へ上る」
「九月になるとCが上る」
「『集団Cの遡河産卵群はもっとも早く産卵し、発生初期の仔魚はいっそう高温下で過ごす。そのため一般的傾向からすると、背ビレ尻ビレ条数とも、数が少ないという傾向が期待される』。(以下省略)
『高温適応型の集団Cにとっては、水温の低下は、低温適応型の集団Aが受ける以上に厳しい条件であろう初期段階での発育の遅滞と冬期における成長の低下が、とくに集団Cで顕著なのはその裏付けであろう』。」
C D群 「ちょっと素性のわからんやつ」
「湖の中にいるが、岩礁地帯にすんで、かなり大きくなるやつ」
「BとDはまだわからんところがあるけど、AとCははっきりしていますね。」
「いろいろの形質とか体型とか消化酵素の強さとか調べたんですけど、数的な形質でいうと、脊椎骨ではAが多くてCが少ない。」
「それから背ビレや尻ビレの軟条数で行くと、Aは両方とも多く、Bは両方とも少ない。ところがCは背ビレは多いが尻ビレは少ない。」
との違いがあるとのこと。
(2)性成熟に要する時間が毎年変動する?
湖産礼賛が陰りだした1990年代の鮎雑誌に、産卵時期の遅いA群の子供は、翌年にはB群になり、あるいはC群になり、とかの話があったと思うが。
つまり、D群を除いて、各群は、毎年世代交代?をしているとの話であったが。
この説が現在でも生き残っているのかどうかわからないが、この説が適切であるとすれば、湖産アユは、各群の産卵できるほどの性成熟期間が、年々、10カ月、12カ月、あるいは13カ月と変動することになる。
産卵までに、生殖腺重量比がピークになるには、12カ月ほど必要であるとすると、産卵時期が早いC群が翌年には早期遡河群になることは可能でも、C群の子が早期遡河をして10月過ぎまで産卵しないでいること、およびA群の子が、9月に産卵することには無理がありそうですね。
A群の子供は、10月中旬頃±α、βで孵化しているから、滞留型のC群の子として産卵する親になったとすると、C群の産卵時期は9月1日±α、βであるから、孵化後11カ月ほどで産卵していることになる。
C群の子供が早期遡河群になると、13カ月ほどたってから産卵していることになるはず。
生殖腺重量比がピークになるのに必要な時間が、生活環境が変わることで、毎年変化するとは考えられない。ということで、C群が、翌年の早期遡河群であるA群となり、A群の子供がC群になるという説は、遡河に必要な成長段階だけに着目した推理であり、生殖腺重量比がピークになる期間の毎年の変動を前提としなければ成り立たない説である。それ以外のことは、弱いおつむで考えてわからなくなります。
いいたいことは、生殖腺重量比がピークになるために必要な期間が一定であるとすると、遡河時期、あるいは、湖か川かの生活場所に関わらず、性成熟が進み、産卵時期が到来するまでの期間が毎年変化することはない、その結果、各群の産卵時期に変化は生じない、よって、各群の構成者は固定しているのではないか、という疑問です。
当然、生殖腺重量比がピークになる期間が、12カ月になったり、10カ月に、13カ月に変動している、というのであれば、雑誌に紹介された各群の「世代交代?」現象が生じるでしょうが。
これでめでたし、めでたし、となって、あゆみちゃんどころか、竹下通りや渋谷の何とか前にいって、女子高生がナンパできるはず。
しかし、それは、夢か、幻か、になってしまいました。
川那部先生の「生物と環境 川魚の生態を中心にして」(人文書院:1978年発行)を町田の古本屋さんにとりに行って、エルトン「侵略の生態学」があるにもかかわらず、川那部先生と親しいエルトンといえども、あゆみちゃんには手を出されていない、と思って、買わなかったことが運の尽きです。
もし、買っておれば、3冊目を探すことはないから、女子高生のナンパがうつつになっていたはず。
(3)選手交代
(原文にない改行をしています。)
諸悪の根源は、秋道智彌「アユと日本人」(丸善:1992年発行)です。
この中の「列島のアユ」の節に悪魔がいました。
「川を遡上するきっかけには、アユ自体の大きさだけでなく、甲状腺ホルモンや、水温、音、光といった自然条件など、さまざまな要因が関与しているということがわかってきた。アユの遡上時期を決める要因についての研究は、琵琶湖産のアユを対象としておおきく進展した。もともと琵琶湖のアユには、湖に流入する河川を遡上する群れ(遡上群)とともに、湖に残留する群れ(残留群)がいる。そして、河川をのぼって成長するアユはオオアユ、湖に残留するアユはコアユとよんで区別される。ただし、夏ごろに河川を遡上する群れや、秋に遡上する群れもある。
東幹夫氏の研究によると、湖に残留したコアユの産卵時期は春に川を遡上した群れの場合(九〜一一月)よりもはやく、だいたい八〜九月である。そして早生まれのものは、翌春にそれだけはやく川を遡上する。一方、河川を遡上したアユのほうの産卵時期はおそいので、つぎに生まれた子は湖に残留するという。」
もう湖産はいやじゃあ。野村さん同様、トラックに乗ってきたアユは好かん。
野村さんが好かんというアユは、昭和五〇年頃までならば「湖産」、昭和五〇年頃以降であれば「湖産ブランド」であるが。
生殖腺重量比がピークとなる期間に12カ月±1,2カ月の幅があるのか、また、12カ月±1カ月+αは大量現象としても、「湖産」では当たり前、ということかなあ。
そりゃあ、人間界でも婚姻年齢には大きな幅がありますよ。しかし、それは、生殖可能年齢での話ではなく、社会制度、文化としての婚姻年齢の幅ですよ。
カソリック教会が、婚姻年齢に係る教義を定めようとして、世界の婚姻可能年齢を調べたが、幼児婚から存在していて、教義の制定を諦めたという話がある。
ということで、「湖産」の産卵までの時間の変動とは別の話ですよ。
なんですってえ、孵化後、10が月、11カ月でも、13カ月、14カ月でも生活誌が変わると産卵できる、性成熟に必要となる時間が変化することも、湖産あゆみちゃん界では、「社会制度」ですよ、ってえ?
そんじゃあ、遺伝子の機能はどうなってるのかなあ。
12カ月で産卵期を迎える、という1年魚でありながら、12カ月±2カ月もの時間変動があり得るという生物がどのくらい存在するのかなあ。
相模川以西の太平洋側の海産では、11月が孵化の最盛期で、12月孵化がいる、という状況が故松沢さんや、弥太さんらの話から適切な観察である、と確信している。しかも、それは産卵期間、「2カ月」におよぶ、ということであって、孵化から産卵開始までの期間が「12カ月」になったり、11カ月になったり、13カ月になる、ということを直ちに意味するものではない。
故松沢さんのいい方によると、早稲も晩稲もいる、ということであるから、孵化してから産卵までの時間「12カ月」を基準として、±1カ月ほどのブレを生じる個体群もいる、という事であり、生活環境が変わることによって、孵化後10カ月で産卵をし、あるいは14カ月で産卵する個体群に変身するということはないと思う。
「遺伝子」あるいは「進化」関わる事柄ではないかなあ、と思える事象が、生活場所の変化で、生活誌が変わることで変動しているのは、性成熟に要する時間だけではないですよ。A群、C群では、背ビレ、尻ビレ軟条数、脊椎骨数も違っていると東先生はおっしゃっていましたよねえ。これらは「遺伝子」に関わる事柄ではなく、「環境」に、育ちに関わることかなあ。「進化」に関わる「形態」に関する事項ではないということかなあ。「形質」と「形態」は、どのように違うのかなあ。そして、「形質」は環境要因のようであるが。
もう、さっぱりわかりません。
とはいえ、神奈川県内水面試験場が、「湖産」の畜養期間によって、上方側線横列鱗数が、「湖産」の特徴である24?枚から、10数枚に変化する、との観察、評価は絶対にまちがっちょると確信している。これは、単に、「湖産」ブランドにブレンドされている「継代人工」がいるとはゆめゆめ疑わなかった事が原因であるから。
もし、神奈川県の観察、評価が正しければ、湖産の氷魚から畜養されていた「湖産」が放流の主役であった酒匂川や道志川の「湖産」は、神奈川県産継代人工同様、鮫肌だったでしょうねえ。
「湖産ブランド」に存在している「湖産ブレンド」の影響を考慮することなく、観察、調査結果の評価する学者先生を出現させている一因は「湖産」あるいは「湖産ブランド」によるものとを区別していないから、と、ヘボにもかかわらずいちゃもんをつけてしんどいなあ、と思っている上に、湖産は、性成熟、産卵までの時間でさえ不安定、変動要因があるなんて、なんちゅう「進化」「変貌」「分化」をしてるんじゃあ。
オラのプチ青春の時間を返せ!!
(4)放流された湖産「群」は?
さて、「湖産」として、どの群れが放流されていたのか。
ここでの話は、「湖産ブランド」のことではなく、「湖産」のことですが。(「アユの博物誌」)
多摩川への石川千代松さんあるいは京都の川へ石川日出鶴松さんが放流されたのは、
「原田 どちらにせよ、運んだなのは東君のいうAグループだろう。
東 きっとそうに違いないです。
原田 つまり、放っておいても周りの川で大きくなるやつを持って行ったわけだ。BやCを持って行ったらどうなるのかなあ。
東 島根県の江川でちょっとやってみたことがあるけど、Bはあまり成長しないようでね。少なくともものすごくゆっくりしている。Cはやったことがない。
原田 ぼくは、アユをやっているというとウソだし、やったことがないといってもウソになるから、ちょっと遠慮してたけど…(笑)。
この話は昔からものすごく面白いと思っているのや。海アユでも、おそく海から上がったものは大きくならないらしいけど、時間が足りないのか、それとももう、どうやっても大きくなれないのか。誰もやらんのなら、そのうちぼくが手を出そう(笑)。」
このお話の中に、オラの疑問を考える糸口が何項目か、含まれている。
@ 飛騨川の激流に入ったアユ
大宮人のお父さんが、雪代のおさまった飛騨川に放流された湖産を吹き流しの仕掛けでを釣っていたとのことであるが、その「湖産」は、A群の「湖産」であり、氷魚からの畜養は少ないか、含まれていなかったのではないかなあ。
A群の湖産が、遡河したときに逆ヤナ等で採捕されて、「湖産」放流の主役であったのは、昭和三〇年代のいつ頃までかなあ。
A 海産畜養と成長の違い
2010年、昨年と違い沖取り海産が獲れて、3月20日前に相模川は高田橋にも放流された。これまで、放流された海産稚魚は、シラスのようで、川では育つはずがない、との話を聞いていた。
春分の日、高田橋で、弱った稚魚を見た。長さはシラスよりは長い四センチ。しかし、太さは針金のよう。これでは、水生昆虫を食べることはできないのではないか。動物性プランクトンが食糧ではないのか。水温は9℃であったから、生存限界水温を超えていた。
沖取り海産の「海産稚魚」について、成長度合いの違いによる構成比がどのようになっているのかわからないが、すべてが長さ4センチ、針金状の成長度合いであれば、全滅に近い状況になるのではないかなあ。
沖取り海産が獲れなかった2009年は、いつもは放流後に川で死んでいるのであろう30ウン代目の県産継代人工が漁連のプールで死んで(奇形が多く、放流に耐えないアユであったから、との話もある)、義務放流量を賄うため、いろんな稚魚が購入されていた。石切場等に、海産畜養が釣りの主役となるほどの量が放流された。それは浜名湖産であろうと思っているが、25,6センチに育ち、馬力は強かった。
沖取りの海産稚魚が200万ほど以上捕れたときは、養魚場にも出荷されているよう。
養魚場の話では、海産稚魚を育てているとき、大きさ、成長に大きな差が生じる、とのこと。
オラは、あゆみちゃん社会が格差社会であり、養魚場においても食糧摂取の多寡が原因となって、成長度合いに大きな差を生じていると思っていた。
しかし、孵化時期による成長への影響もあり得るのではないか、と考えを改めたいが。
海産の12月生まれは成長が遅い、あるいは成長できないのでは?。「湖産」の産卵時期が遅いものはコアユになるという話と異なる現象であるのかどうかわからないが。
故松沢さんは、12月生まれは大きくならない、大きな親から生まれる11月生まれを大切にしなければならない、といわれていたように思うが、正確には覚えていない。
ただ、相模川の12月再解禁でも、海産大鮎が釣れていることがあるから、この現象を例外現象と考えてよいのか、どうかはわからないし、「学者先生」にとっては、問題点すら理解できないのではないかなあ。
2004年、2000万以上の遡上量があったと思うが、そのとき、12月に産卵をしているのは小さいアユで、産卵場所は、砂利状の小さい石のところであった、と神奈川県内水面試験場の方が話されていた。
そうすると、沖取り海産の採捕時期(3月1日?から)には、もし、群れが、孵化時期の違いを超えて形成されているとすれば、産卵時期の違いによって、成長できるものと成長できないものが混在しているということになるのかなあ。
同様に、氷魚からの湖産畜養には、AからC群の稚鮎が混在していて、成長に、大きさにばらつきができるということかなあ。
B 湖産畜養の「群れ」の構成者は?
湖産畜養は、養魚場から出荷するとき、あるいは飼育中、たえず、大きさによる選別をして、少しでも均等な大きさになるように飼育されていたのかなあ。それとも、「湖産」ブランドに、海産や継代人工を「ブレンド」する比率で、「湖産」の等級、価格を定めていたように、等級、価格に「大きさ」による「成長」度合いの要素を反映させていたのかなあ。
氷魚が、特定の群れで構成されていて、その識別を採捕者ができるのであれば、「A群」だけの「氷魚」を採補することは可能であろうが。
「育ち」よりも「氏素性」が優先する、また、成長を異にすると、湖産を考えてもよいということかなあ。それとも「氏より育ち」なのかなあ。
故松沢さんが、産卵初期に産卵行動を開始する大鮎を大切にしないと、よい子孫は残っていかない、と話されていたが、親がどのようなものか、が成長に影響している現象が海産にも湖産にも生じているということかなあ。ただ、その「親」の規定の仕方には、「湖産」と「海産」に違いがあるのかもしれないが。
ヘボのオラが考えても無理ですよね。
なお、東先生は、「海産アユと湖産アユの体内卵数」の関係を図示するグラフを掲載されている。
これに、「卵数」だけではなく、「卵の大きさ」と親の大きさの関係も図示していてくれたら、大アユである親を大切にせよ、との故松沢さんの話も少しはわかるかもしれないのになあ。
「卵の数や大きさと、体の関係は全く違いますね。皆さんもよく知っておられるとおり、大きい魚は卵がうんと多いし(次頁図)、卵一つ一つの大きさもわずかだけど大きいわけですが、その関係が全くちがうといういうことですね。海のアユが体の大きさに従って一つの線の上にのる。琵琶湖のアユは全部全くちがう線の上にのる。生殖に関係したことはかなり保守的だという、一般的な説に従えば、たしかにちがっているとはいえます。」
「生殖に関係したことがかなり保守的である」ということは、海産アユは、産卵時期、生殖腺の発達時期に関して、「進化」して、画一化の方向に進んだということかなあ。
ますます、湖産はいやじゃあ。ただ、故松沢さんが話されていた「初期に産卵する大アユを大切にしなければいかん」ということが、事実ではないか、と、自信を持ちました。
(5)「氷期遺存習性」説とぶれる現象
「東 今のAが低温適応性、Cが高温適応性というのを、川那部さんの氷期説と関連させるとどうなりますかね。
川那部 なるほどね。氷期にできたCのほうが高温適応か。高温適応そのものは良いけど、それが低温の影響をむちゃくちゃ強く受けるというのは……。ちょっと困るかな。
岩井 それに、琵琶湖でどうして全部Cにならなかったのか。
川那部 それそれ。前にも岩井さんに言われたけど、お手上げ(笑)。そんなことになっていたら、日本のアユ産業は全滅してたから、ならなかったのが幸いやということに今日のところはしといて下さい(笑)。」
このお話の前提となっている事柄は、C群が高温適応型であり、小さいということ。
そして、「湖産」と一括りにして、「氷期遺存習性」説で説明しょうとすると、「困ったなあ」という現象と係ることとなるよう。
経験則でしか現象を判断できないオラが、「湖産」の群集と生活史、成長度合いの違いを云々できないことは当然のことです。網入れが解禁になっていた野洲川で、旧盆に1回しか釣ったことがなく、あるいは酒匂川や奥道志で、等級が高い「湖産ブランド」を釣ったことしかないので。
それにしても、湖産放流全盛時代、酒匂川では、九月下旬以降、ことに、二五日以降は、釣り人がオラひとり、たまにいても、富士道橋の囮屋さんだけ。釣れるアユは、叩いたアユか、サビの強いアユ、という状況はなんでかなあ。「氷魚」の畜養が「コアユ」主体に行われていたということかなあ。それとも、「線香花火」である湖産は、まともな大きさのもの:早期遡河群は、9月下旬前に釣りきられていたということかなあ。
(6)移動距離
この対談で、オラにとって唯一そうかなあ、と合点できる点は
「桑波 湖産のアユは、放流場所から移動する区間いうもんが、非常に狭隘ですね。あれは何のせいですか。
東 ぼくは岡山の川でやったのでも、せいぜいが二〇キロメートルですね。そういう定着性とか、なわばりの強さが強いとかいうのは、氷期に琵琶湖にとじこめられておったときの性質やというのが、川那部説やけど、移動距離のほうはどうなるんや。
川那部 それはよう説明せん。今のところは、やっぱり琵琶湖へ入ってくる川が短いからや、とかいって逃げなしょうがない(笑)。わからんです。」
この「二〇キロ」の遡上距離の対象は、氷魚からの畜養ではなく、A群の遡上してきた稚魚を逆ヤナ等で採捕したものではないかなあ。
「湖産」ブランド信仰が世の中を席巻していたころ、「湖産」の生活史を、産卵時期を異にするアユが琵琶湖で生活していると、どのくらいの釣り人が関心を持っていたのかなあ。同様に、海産遡上アユの産卵時期等、海産あゆみちゃんの生活誌をどの程度の釣り人が適切に理解しているのかなあ。
「学者先生」は論外として。
7 友釣り
(1)友釣りの発祥と伝播
「湖産」がとんでもない問題児である以上、それがもたらした人間の営みと、自然現象を区別しない学者先生の「説」、教義にヘボが悪銭苦労することも当然の帰結かなあ。
ちょっくらしんどなったから、友釣りについて、どのようなお話が行われているか、をみておきます。友釣りならば、オラの観察していた領域であるから、少しは気楽になれるでしょう。
友釣りについて
「桑波 (由良川では)明治の頃はそんなもん全然なし。五〇年あまり前に(注:座談会は一九七〇年に行われているから大正の中頃か)、京都から来た人に教えてもろたんですわ。スガケもそうです。『針はだんだんにつけて、こういうふうにするんじゃ』『針はどこに売っとりますんじゃいな』いうて、福知山あたりの店にはまだのうて、兵庫県の加古川まで買いに行ったこと、覚えとります。
岩井 川那部さん。友釣りの発祥っていうと、どのくらいまでさかのぼるんですか。
川那部 元禄の頃は珍しかったらしい。ぼくは発祥は京都やと思うけどね。その頃出た『本朝食鑑』という本に、京都比叡山のふもとの八瀬の住民が、馬の尻尾の毛にアユをつないで、他のアユを獲るのを、珍しそうに書いてあるんです。」
関東では、狩野川発祥説が流布しているようであるが。
天竜川の支流で、高遠を流れる三峯川で、島村さんが友釣りを見たのも、大正10年頃。この頃に友釣りが少しずつ、広まりはじめたということかなあ。
「岩井 初めてとも釣りをやった人は、どうやって考えたんですかね、あれ。あんなもんをぶら下げて釣れると思ったというのは、やっぱりふつうじゃない。
原田 桑波さんのお話で、ひょっと気になったけれど、友釣りというのは能率が良かったのかどうか。盛り上がるぐらいおって、棒で追いかけたら捕れたというときに、わざわざそんな妙なことせんでもええでしょ。漁具の発達史というような本を読むと、能率を求めて技術の改良をずっとやってきたというように書いてあるけど、友釣りの発達なんか、そんなもんじゃないような気がする。
東 楽しみみたいなもんですね。
原田 うん。能率やったら、皆で裸になって、わーっと追っかけたほうがはるかにとれたはずだ。
川那部 裸でわーっとやるのは浅いか、深くても流れの遅いところだけやね。川の流れのえらく速いところには、それではとれん大きいやつがおる。あいつをとらんとしゃくにさわる(笑)。
桑波 やっぱり友釣りちゅうのは、感触ですわな。相場や商売で一〇〇万もうけてもあんまりうれしい感じはしませんわな。ところがパチンコにいって一〇〇〇円か二〇〇〇円もとったら、面白うてしゃあないちゅうような(笑)。あれに通じるところがある。」
郡上八幡での友釣りは、流れの速いところの大きいやつを釣らんとしゃくや、ということ、しかも、高く売れるから。
狩野川出身の人が、三峯川で友釣りしていたとき、少年島村さんだけではなく、大人たちも見物していたということであるから、新しもの好きというだけではない魅力を感じていたのかなあ。
加古川にスガケや友釣りの針があったと言うことは、すでに西脇が釣り鉤の産地として、有名になっていて、それらの針を全国というか、スガケや友釣りを行う地域に出荷していたということかなあ。そのため、西脇のすぐ近くにある加古川には、それらの針が売られていたということかなあ。
「原田 最初はやっぱり、釣り上げる途中で、うっかりほかのなわばりへ入れてしまったらはいってしまったら、追いかけてきてひっかかって、二尾いっぺんにぶら下がっていたとか……。
川那部 友釣りよりもスガケが先なら、それも成り立つな。しかしまあ、川のうえに橋があって、のぞいておったら、アユがなにか一生懸命追っかけあいをしとるから、ああいうことやってみたのかなあ。
原田 そらそやね。スガケが先だというのは、あまりに常識的すぎるかもしれん。やっぱり、もうちょっと遊びじゃないかという……。たとえば一尾、ひもをつけて遊ばしとったとかね。、でないと面白くない。
東 トンボ釣りといっしょやな。」
今どき、トンボ釣りといっても何人がわかるのかなあ。
雌を糸につけて飛ばしていると、雄が飛びついてくる。オラ同様、トンボは色欲たっぷり。
何で、産卵時期でもないのに飛びついてきたのかなあ。それとも、トンボは羽化したときから、産卵時期かなあ。
そして、網やくもの巣で捕れるのに、何で、メスをひもに結びつけて捕ることもしていたのかなあ。
いろんな捕り方をすることが変化があって、楽しかったからかなあ。
しおくいは下等、ホンヤマは当たり前、ドランマは高級、というランク付けもあったなあ。
しおくいは、食用ガエルの餌になったなあ。
夕闇が迫ることには、二つの石に糸を結びつけて上空に投げて、トンボを捕まえようとしたこともあったが、効率の点では一番悪かったなあ。トンボではなく、コウモリのほうがその動くものに興味を持っていたように記憶にあるが。まあ、遊びの時間が終わる儀式みたいなものであったのかも。あそうそう、その頃はサマータイムがあったから、今の夕暮れ時と時間との関係とは異なっていた。
(2)川那部先生の友釣り発祥の地
「W章 アユの民俗誌」の「友釣り考」の節に、川那部先生が、友釣り発祥の地を京都ではないか、と考えられた典拠が書かれている。(原文にない改行をしています。)
「それではこのなわばりを持つ性質をうまく使って、私たちの先祖が友釣りを発明したのはいつの時代のことだろうか。今でこそ日本中のいたるところに拡まっているものの、京都近辺でいえば、丹後半島の宇川には第二次大戦直前まで知られず由良川でも大正時代にはじめて知ったと言う。文化の伝播が現在に比して著しく遅いのは当然ながら、この狭さは友釣りの発明の日のかなり新しいことを物語るのではないだろうか。
手元にある江戸期の随筆をしょうしょう検したこともないではないのだが、どうもあまり眼にとまらない。ただすでに何度も引用した『本朝食鑑』の次の記述は気になる。すなわち『洛(京都)の八瀬の里人、馬の毛の長きを以てこれを結び定め、澗水(かんすい)に投じ、岸畔草苔(がんばんそうたい)の間に臨んで鮎を繋ぐ。よくこれを捕ふる者は一日に五六十頭をう。余州大津(愛媛県大洲)の水辺にもまた細竹竿を以て鮎を繋ぐ。これもまた妙手なる者は少なきなり』というのだ。」
この文の直前は前節でも挙げたように静岡県大井川あたりの人が蚊鉤を馬の毛で作る話なので、『これを結び定め』の『これ』を何と見做すべきか自信のあるわけではないが、引用した後半の文と合わせみれば、友釣りのことを描くものとも見える。いや島田勇雄さんはその訳を『長い馬毛におとりの鮎をしっかり結んでおいて』としている。果たしてしからば、成長して後は専ら関東に居住した必大が、わざわざ京都・愛媛の状況を引用したことから見ても、当時はまだ珍しかったものと考えねばなるまい。」
大井川に係る「本朝食鑑」の記載とは次のとおり。
「『性常に砂および石垢を食う。餌なく釣る能(あた)はず。ただ蠅(はえ)を喜ぶ。故に遠州大井川のあたりの漁俗、馬の毛をもって蠅の頭を作り、綸(いと)をつけてしきりにこれを釣る。妙手にあらざれば釣る事能はず、その手熟するもの少なし。』」
「擬餌を用いて釣る方法は西洋では古かったようで、一六五三年刊行のウォルトンさんの『釣魚大全』にもヨーロッパのマス(ブラウントラウト)用に一二種の蚊柱が出ていて、広い流行を思わせる。対してこの『本朝食鑑』の記事は一六九七年。また一七八七年(天明七)にいちおう完成したという『譬喩尽(たとえつくし)』にも『鉤針の飴(ゑば)代りに近世の仕出蠅頭蚊頭と言ふあり』とあって、ともに当時は新しいものであったことを思わせる。だが、一九世紀初頭にには、少なくとも関東地方では蚊鉤はかなり盛んになっていたものらしい。」
「〜友釣り発明以前のその頃は、おもにどうして捉えたのか。すでに述べたとおり、春の『汲み鮎』秋の『梁漁(やなりょう)』が中心であったことは間違えがない。ともに、一年生かつ海と川を往復する習性に相応じた移動途中を捕る漁法である。夏のアユは、鵜の羽を縄につけて川の中を曳きまわし、アユを集めて捕る漁法以外は、あまり江戸以前の文学作品には現れぬようだが、ヤスで突き、棒で叩き、籠や箒ですくいとるというやり方でも、けっこう沢山とれたのではなかろうか。」
ということで、狩野川起源説とは趣を異にしているようです。
また、弥太さんや、紀の川の小西翁らの話は、友釣りが普及し始めた頃の状況を平成の代にまで伝えている事例ではないかなあ。
雨村翁も新荘川で見よう見まねで友釣りをされた昭和10年は、ドブ釣りが主であった。
補記12
あそうそう、雨村翁も馬の尻尾の毛を引き抜くため、馬と知恵くらべをされていたから、馬の毛は釣り糸として貴重な素材ということかなあ。「馬素」が「馬の尻尾の毛」そのものであるのかどうか、わからないが、平成の代のはじめ頃までは、鉤素として存在していた。故松沢さんが大漁になっていたのを見て、郡上八幡の漁師が酒をぶら下げてやって来たとき、すでに郡上八幡ではイカリを使っていて、その鉤素に馬素を使用していたため、唐傘のようであったとのことであるから、固い鉤素が郡上八幡では好まれていたということではないかなあ。すでにナイロンはあり、故松沢さんのチラシの鉤素は、なよなよのナイロンで、郡上衆とは異なり、絡みを重視されていた。
(3)川那部先生の腕前
川那部先生の腕前がオラよりも貧弱である、と書かれた箇所を見つけて喜んだ。その箇所は、1時間もしないうちにどこに書いてあったのかわからなくなってしまった。何とか見つけ出して、優越感に浸ろうと何回本をめくったことやら。
ついに見つけました。
「偏見の生態学」の「自然の生産力を生かさないアユの放流」の節です。
「『いつまで経っても一人前にはほど遠いですなあ』―昔、手ほどきをしてくれた名人が言った。一尾も釣り上げないでおとりばかり弱らせている私。これが『友釣り』の原理であるアユのなわばりを大きい研究テーマの一つとしてきた人間だから、あきれられるのも無理のない話である。
動物の生活の研究者には二つの型があると言われる。一つは動物そのものが好きで、見たり捕らえたりすると事態に情熱を燃やす人、もう一つは調査の結果だけ興味のある人である。私どもの教室にも、たとえばマス類の河川放流に適地選定に頼まれて行って、アマゴを片っ端から釣り上げ、『さすがは魚の研究家だ』とお褒めにあずかったような人もいる。こういう人物は顔まで魚に似てくる。
アユのなわばりを調べはじめた頃、おとりを使ってそれを追う行動を記載したことがあったが、私は水中に伏せて横からアユの動きを観察していただけ。おとりを動かすひまはなかった。食性や成長を調べるために魚を捕らえることが多いが、『たくさんとれれば良いんだろう』とうそぶいて、ほとんど網しか使わなかった。おかげでこの始末である。いや実の話は、なわばりアユ、おとりについた鉤(はり)には何度もかかってくれるのだ。それがどうしたことか、取りこむまでに必ず落ちる。名人は首をかしげて、『落とそうと思っても全部外すのは無理なはずなのに。あなたは落とすほうの天才ですなあ』と言った。」
バラシの名人、天才は、どのくらいの時間続いたのか、川那部先生や東先生に悩まされ続けたオラとしては、ウサ晴らしのかっこうの事例、と探しまわったが、見つからない。
「10年」という記述がどこかにあったはずであるが。「生物と環境」ではないか、と探しまわったが、見つからない。
それでもいいか。
「生物と環境」(丸善)の「川魚――その『魚ごころ』と『水ごころ』」に、川那部先生がアユカケの手掴みをまねして、痛い目にあったことも書かれているから。
「そのIさん、魚とりが大好きである。ただし、釣りなんぞは絶対にしないらしい。『餌だと思ってやって来たのを鉤でひっかけるなどというのは邪道だ』という。『網などを使うに至っては、魚の風(波?)上にも置けぬ』という。とにかく『素手で、動物どうしとして、一対一で格闘すべきだ』との持論である。」
Iさんに、宇川の手伝いにきてもらったとき
「石の下に隠れているアユカケという魚を、彼は数十ぴきまたたくまに手づかみした。『背中にさわると絶対にだめだが、白い腹をなぜてやれば全然動かぬから、すぐつかめる』とのこと。私もやってみたが、これこそ正に鵜の真似をするカラスで、一ぴきもつかめず、逆に、えら蓋のところにある大きい曲がった棘で手をひっかかれるばかりであった。
噂によれば、酔っぱらって池に飛びこみ、そのコイをつかまえるなどはお手のものとのことだが、とにかく『だますのはこんりんざいいかん』というのが、Iさんの『立場』である。
だが人間というのは、どうも相手をだますことに楽しみを見出す動物であるらしい。魚を釣るにも奇妙な工夫をこらし、魚を瞞着してそれを『醍醐味』などと称している。」
あゆみちゃんをたぶらかすための騙しのテクニックに乏しいオラは、結果的には、Iさんと同じく騙してはいないものの、その状態から脱出せんがために炎天下を、氷雨降る河を、あっちこっちとほっついている。
野田さんも掴み取りにすぐれていたなあ。小学生のネエちゃんを鵜の代用にして北山川で後継者の特訓もしていたなあ。
野田さんは、筑後川の「抱きゴイ」の人のことを書かれていたなあ。その人はコイだけでなく、ネエちゃんをだっこするのもうまく、七人?を囲っているということであったと思うが、抱きゴイをするときと同じように、「白い腹をなぜていた」のかなあ。
(4)ボウズハゼを囮にできる? 「生物と環境」の「種間関係と釣り―その二面」の節から(原文にない改行をしています)
囮に他の魚がかかるときがある。
「多くの場合は『すがけ』的にたまたまかかるだけのことだが、南部太平洋岸の河川にいるボウズハゼとの場合はもう少し複雑である。いささか恥を語ると、一九七〇年琉球列島へアユのなわばりを見に行って、アユがボウズハゼを追い、逆にボウズハゼがアユを追うのを初めて見かけた。この現象をどう解釈するかについては少々仮説がないわけでもないが、それはこの場の話ではない。ただ、この両種が共存している場所は琉球列島だけではないので、翌七一年七月末、沖縄島からの帰りにまず宮崎へ寄った。
大雨の直後で、大淀川・広渡瀬川などの大きい川では観察できず、日南海岸へ流れ入る小河川でしばらく調査し、その後宮崎市内にすむある釣り名人を訪(おとの)うて、両種の関係をたずねた。予想通り、おとりアユにボウズハゼのかかるのはしばしばとのこと。これはボウズハゼがアユを追おうとするためであること言うまでもない。私は重ねて、アユがボウズハゼを追うのは見かけないかと問うた。相手はその質問に頷いた後、ボウズハゼに鼻環をつけておとりにしようとしたが、吸盤で石にくっついて離れぬので、腹びれを割いて泳がし、このおとりでアユをかけたと答えたのである。この科学的な実験によって、種間に追い合いの存在することは、私の報告を待たずに、先に実証されていたこと明白である。」
吸盤ボウイがアユであれば、オラが裕福に、あるいは競争の時に一位になれることも少なくなかろうに。
今度、おじゃま虫があゆみちゃんとの恋路を邪魔したら、腹びれを割いて、おとりにしてお仕置きじゃあ。
いや、川那部先生は、オラにおじゃま虫のお仕置きの仕方を教えるためにこの節を書かれているのではないことに、くれぐれも誤解なきように。ただ、その他の事柄と、つぎの「所変われば魚ごころ変る」の節には興味ある川魚の多様性が書かれていますが、省略します。
とはいえ、「どれが『本来』でどれが『特殊』かを決めるのは大変だが、川ごとの魚の性質が少々異なり、中には矛盾するような話があっても、それを誤りと断定することはできない。」という文には留意すべきと考えている。
そして、バラシの名人の称号を与えられた川那部先生は、友釣りにのめり込むこともなく、網打ちで憂さを晴らされていたよう。いや、調査をされていたようです。
8 宇川の荒廃 「曖昧の生態学」の「アユの味」の節から(1993年7月13日:日本経済新聞)
宇川とはどんなところか。
小浜線は、昭和37,8年頃に1回乗っただけであるから、若狭湾に流れこんでいる宇川も、今西博士がヤマメ等の観察場所の1つとされていた南川も、見当がつかない。
「京都府の北端の丹後半島には、宇川という小さい川があって、ここ二三年ほど私たちの主なフィールドの一つになっているのだが、七年ばかり前までは川口近くまで石の多い、なかなか良い川だった。」
(注:この文は、一九七七年、昭和五二年に書かれているので、七年前とは昭和四五年頃のこと)
(「生物と環境」の「川魚――その『魚ごころ』と『水ごころ』」)
「京都府の北の端に、宇川という小さい川がある。人呼んで京都府の北海道だというが、それは、北の端にあって交通が不便だというだけではない。川口から三〇〇メートルも上れば、カジカガエルの声がやかましく、カワガラスは水にくぐっている。二キロも行けば、日本アルプスの上の方にいるヒダサンショウウオがかたまっている。少し山へ入れば六月にも雪が消えない。この川には、アユがのぼってくるのだが、こういう川のつねとして、毎年アユの数がちがってくる。」
「11日は、京都府丹後半島にある宇川のアユ解禁日。そこで先週はこの川に潜って、魚たちの数と個体の成長の様相、さらにアユについては、なわばりか群れかなどを観察してきた。この調査大学院一年生だった一九五五年からずっと続けている。
六〇年代までこの川、鮎の数は中々に多かった。五五年には幅一〇メートル長さ一〇キロばかりにおよそ五〇万尾、瀬の中央では一平方メートルあたり一五尾以上が群れて大きくなっていた。しかし、翌五六年は八万尾。一けた程度の変化はこのように毎年起こった。
その後、農村と川の様相が一変する。名産宇川ウシがいなくなり、岸はコンクリート堤防に、ダムは四つから一〇に増えた。アユの数は変動しながら、平均数万に落ちた。その後が、上流の風化花崗岩地帯の道路建設。道は毎年全面崩壊し、砂が川を流れた。四メートルもあった淵は埋まり、最深二〇センチという年もあった。アユは数千に減り、それまでは琵琶湖からアユとともに来てもすみつかなかった砂を好む魚が増えた。一〇年以上たってやっと砂が減り、アユは万の桁まで回復。そこに次は大型土地改良事業が来て、大量の土砂を川に流した。アユは再び数千にまで下がった。今はその回復期にある。
今年は私の行く直前に、コンサルタントの調査が入った。『アユの名産地であり、アユカケの京都府天然記念物指定地である宇川を、多自然型河川に復活させよう』との計画が進行中なのだ。」
宇川よ、お前もか、と思うだけ。
狩野川の衰退、荒廃を、中津川が宮が瀬ダム後に瀬と淵のやせ細っていく様を、そして、川原に葦が跋扈していく様を見ているものには、若狭湾でもおんなじか、と。
これじゃあ、川那部先生がアユが滅びつつある、と感じられたのも当然のことでしょう。
堰堤による生活史変更 今西博士の観察と評価
さて、若狭湾に流れる南川、北川では、今西博士が、堰で海との行き来を絶たれたヤマメが、高水温の夏にどのような生活誌の工夫をされているか、悩まれていたが、今でも、ヤマメは全滅していないのかなあ。
今西博士の疑問は、(原文にない改行をしています)
「まずマスとは類縁の近い、サケのことを考えてみよう。京都から近いところでサケの遡上する川といえば、小浜湾に注ぐ南川をあげることができるが、そこでは十月半ばごろからサケの遡上がはじまり、中流の久坂あたりまでのぼって産卵している。しかし地元で聞くと、だれもサケの子をみたり取ったりしたものはいないという。それも道理で、サケの子は卵から孵化した稚魚が、春の訪れとともに、いち早く海に下ってしまうから、だれもこれを知るものがいないのである。 南川にはサケばかりではなく、マス(サクラマス)も遡上する。南川のマスはいまでも、野鹿(のが)谷までのぼるといわれているけれども、北川のマスはいまでは、関の近くにできた堰堤にさえぎられて、そのほとんどがもはや天増川までのぼらなくなってしまった。それでもマスは、年々海から北川へのぼってくるのである。
わたしはここで、一つの問題に出くわした。この年々海からのぼってくるマスの補給源、あるいはその発生源は、いったいどこにあるのだろうか、ということである。これに対して二つの考えが浮かんだ。その一つは、マスはせっかくのぼってきても、堰堤にさえぎられるため、産卵もしないうちに死に絶え、それを補うために天増川のアマゴのある部分が、年々海へ下ってマスになっているのだ、という考えである。いま一つは、マスは堰堤にさえぎられても、堰堤以下で産卵し、何も上流にいるアマゴの助けなど借りなくても、マスはマス自身である程度まで自己完結的に、その種族維持を達成しているのだ、という考えである。どちらがはたして論理的に、筋の通る考えであろうか。」
と悩まれながら、仮説を出されているが、それはリンク先を見てください。
そして、今西博士が悩まれた頃よりも一層、川の荒廃が進んでいるであろうから、現在においても、今西博士が観察されていた頃の現象がが残っているのかどうかわからないが。
それよりも放流の人工ヤマメしかおらず、在来種は絶滅しているかもしれない。
生活環境の悪化は、鮎よりも山女魚、岩魚のほうがきびしいのではないかなあ。
9 食物連鎖と阿賀野川の第二水俣病
「生物と環境」(人文書院)の「川の生物の生産性」の章、「脚光を浴びる生態学のかげから――ある研究者の日記より」及び「『人間的自然』を回復させうるか――俗流「公害論」への一批判」から
水俣病が発生した頃の中央公論であったか、世界であったか忘れたが、チッソ廃液、排水原因説に対して、学者先生がその説はまちがっちょると書いていた。紅顔の美少年の頃の話であるから、正確性の保証は一切ありませんが、
@ 水俣病が発生している海域は、チッソの工場排水が放流されている海域と異なる。
@ チッソで使用されているのは無機水銀?であって有機水銀?(メチル水銀)ではない。魚から検出されているのは有機水銀?である。
このうち、メチル水銀含有魚の発生多発海域とチッソ排水放流海域との違いについては、チッソが排水放流先を変えていたことがばれた。
学者先生は、「語られたということは事実である」と、「語られた事実は事実である」ことが別個の事柄である、ということに何らの疑問ももたれていない。アユの産卵時期等をめぐる「学者先生」と同様の思考しかできない「形態」の型である。
チッソが「排水放流先」と語ったことが事実であるのか、どうか、ということをどうして確認することもなく、チッソ原因説がまちがっちょるという「説」を堂々と書かれるのかなあ。その学者先生は、南京虐殺の前哨戦として、本多勝一が朝日新聞に連載していた「刀」による「100人斬り競争」が事実ではない、とベンダサンが証明してしばらく後、本多の「中国の旅?」を掲載していた朝日新聞が訂正、謝罪記事を掲載しても本多勝一が謝罪せずに、言い訳を並べたように、あるいは、「100人斬り競争」の記事を書いた毎日新聞従軍記者アサカイが、一切謝罪せず、また、やらせ記事であることを隠蔽したがために、「100人斬り競争をした」二人が中国で戦犯として処刑されることとなったときのように、間違いに対して、フィクションに対して何らの謝罪をされなくて、「学者先生」での稼ぎでのうのうと、裕福に暮らしていたのではないかなあ。
川那部先生も、時には、川漁師やオラ同様、あるいはそれ以上に「学者先生」に怒りを惹起されることがあった、というのが、阿賀野川の第二水俣病における「昭和電工」や、その代弁者に対する「説」(反論)の展開です。(原文にはない改行をしています)
(1)「生物の流下と公害問題」
水俣病と阿賀野川の第二水俣病では、空間軸を海と川の違いがあるものの、食物連鎖を経て、無機水銀から有機水銀への変質?及びメチル水銀の高濃度蓄積の構図は共通している。
「阿賀野川で第二の水俣病が起こったあと、『六〇キロばかり上流の昭和電工からの排水が原因だ』という厚生労働省特別調査団の結論に対して、会社と数人の研究者から反論が出た。そのうち、『新潟地震の際の農薬の流出が原因だ』との説には、『専門馬鹿』の立場からは反批判できないし、またそれには適当な人もある。しかし、『なぜそのような下流にだけ患者が発生したのか、あるいは附近の魚に一様に水銀が蓄積しないのはなぜか』といった異見に対しては、この生物の流下と食物連鎖による濃縮過程を考えれば、むしろ当然のことと、反論でき、言葉を変えていうなら、もし一様に水銀が見つかったりしたら、いささかとまどったであろう。」
川那部先生は、
「その論拠を構成するヒントは、すでに述べたところであるから、むしろ読者が自ら考えてみて欲しいが、ただ次の事実だけをつけ加えておこう。水俣病発生直後に水銀を多量に含んだ個体の見つかった魚種は、淡水の底生生物食の魚と、それから魚食性の魚であったこと、流れが急にゆるやかになって微粒子が沈殿するのは、川の形態が中流型から下流型に移行する附近と、そして感潮域であること、とくに汽水域では、電解フロックレーションを伴う沈降が考えられること、など。」
と、オラに考えよ、と書かれていますが、ヘボには無理な相談です。
そこで、川那部先生がどっかに回答を書いてくれているであろうと探しました。
順序からすれば、苔→水生昆虫→魚と辿ることを行い、またそれらの空間的な移動を加味しながら記述するのが合格点への道でしょうが、ヘボの特権で理路整然の道はとらず、偏見と「趣味」で、川那部先生のいいたいことをちょっぴりつまみ食いをすることにします。当然、適切につまみ食いをしている保証はありません。
(2)「川の『生態学』」の節から
ア 原爆マグロと食物連鎖
「原爆マグロ事件の時、一般にも広く知られたはずだが、降下物質はまず小型生物の体内に入り、その生物がより大きい動物に食われることによって、その動物の体内に入り、それが、さらに大型の動物に食われて移るといったふうに、食物連鎖を通じて数段階上がると、いちじるしい濃縮を起こすことが多かった。こうした事実は、この例ばかりでなく、陸上でも淡水中でも海洋でも広く知られている。また当然のことながら、この蓄積は放射線物質に特有なものではなく、ただ指標として使うのに便利であっただけで、したがって一般的にいって、排出が蓄積を伴わず、食物連鎖によって濃縮の起こることは、多くの物質によって実証されている。
このような事実にもとづけば、水槽内での実験においても餌を通しての濃縮が必要である。」
その実験では、
「予想どおり水からの直接の汚染より数桁高い蓄積量を得ているという。」
イ 水から直接吸収できるか
しかし、餌からではなく、高濃度のメチル水銀が溶けた水から直接魚が吸収することはないのか。
「まず最初に考えられるのは、水中に溶けている有機水銀が直接魚類に吸収される場合であろう。じっさい、水槽へ有機水銀の溶解している水を入れ、その中で魚を飼った実験によると、一千倍程度の濃縮がおこっている。
しかし、淡水魚は海水魚とちがって、水を腸管内へはほとんどのみこまず、いくつかの特定の物質がえらやひれの基部などから吸収されるだけである。魚類の体液の浸透圧は、淡水と海水との中間の値を持っており、淡水魚は放っておくと水が体へ入ってきて水ぶくれになりかねないので、水をのまないようにすると同時に、ごくうすい尿を多量に出すことによって調節する方法をとっているためである。したがって、この経路による蓄積はつぎに述べるものにくらべて、一般に少ない。」
湖産、湖産交雑種が、再生産に寄与していない理由が、浸透圧調節機能不全という言葉は知っているものの、どういう現象であるかさっぱりわからない。したがって、淡水魚が何で水ぶくれになるのか、もわかりません。
海での浸透圧調節機能と、淡水での水ぶくれ防止機能が同じ現象かどうかもわかりません。
「つぎに述べるのもに比べて」とは、上記の原爆マグロでの説明、食物連鎖のことです。
ウ かわはながれる
「実際の河川の場合には、食物連鎖による濃縮の存在が、いくつかの重要な事実を解き明かしてくれる。その一つは、上流から下流への物質の移動という点である。川は基本的には流れる水である。ただし、水だけが流れるのではなくて、それとともに溶けた物質も粒子状の物質も、また生物も流れる。もしいま、食物連鎖を通じての蓄積を考えに入れず、水溶性のメチル水銀が直接魚に取りこまれる場合だけを考えるとすれば、上流から下流へのメチル水銀の移動は、水溶性のものとして流れ下るか、あるいは上流でそれを取り込んだ魚が下流へ移動する以外にない。しかも、後者は量的にも問題にならない。しかし、食物連鎖が実際には存在するから、藻類や水生昆虫、さらにはそれらの死骸といった粒状の流下物も、また対象の中へ入ってくる。
ところで水生昆虫の流下の問題は最近広く研究されるようになってきて、その量が予想外に多いものであり、また距離からいっても、かなり大規模だということがわかってきた。いっぽう藻類やデトリタスについては、平水時においても、浅くて波立って流れる瀬からはいちじるしい量の藻がはがれ、それが下手にある深くてよどんだ淵で一部沈降し、残りがさらに下手へ流れ去ってゆくことが知られている。
また酸素収支の面からみた場合、上流ではその場所での光合成速度が全生物の呼吸速度を上まわっていること、つまり太陽エネルギーによって無機物から有機物を作る速さのほうが、有機物が無機物に分解される速さよりも大きく、したがって有機物がどんどん増加するはずであり、いっぽう下流ではちょうどこの逆で、有機物はどんどん減少するはずだ、ということになっている。じっさいには、上流で蓄積がおこらず、下流で枯渇がおこらずで、だいたいバランスがとれているが、それは上流から下流への有機物の移動が存在するからなのである。言葉をかえていえば、下流における動物や微生物の中には、上流で作られた生物を食っているものがかなり多いということである。
このような粒子状の流下物は、流出しては沈降し、沈降しては流出する。沈降しやすい場所としては、先にも述べた淵があるわけだが、もう少し広い範囲でみると、どうなるだろうか。じっさいに阿賀野川を岸沿いに、あるいはゴムボートなどで下ってみると、工場の下手にまず発電用のダムがある。それから三〇キロほど下ると、川の景観が中流域の様相から下流域の様相にかわる。中流景観というのは、川がひとつ蛇行するあいだに瀬と淵とが一組ずつあるような、もっとも川らしい状態のところだが、下流景観になると、流れの速さがどこまでもあまりちがわなくなり、瀬と淵の区別もつけにくくなる。この移行域附近からは流れのゆるい場所がずっと続くわけだから、沈降のおこりやすい場所となる。
最後に、これからさらに一〇キロあまり下ったあたり(河口から一〇キロ上流)から、感潮域がはじまる。流れはいっそうゆるくなるし、淡水と海水が出会えば、微細な有機物は粘度粒子に吸着されていっそう沈下しやすくなる。この三地域のうち、ダムはしばしば下側から放流されており、中下流の移行域の下手はかなり広い地域にわたって砂利採取がはなはだしい。そして最後の地域が、問題の患者発生地域なのである。」
ということで、排出源から、遙か下流で高濃度のメチル水銀を蓄積した魚が出現した。
しかし、すべての魚が同じような水準でのメチル水銀を蓄積したのではない。魚によってばらつきがある。この現象は、チッソの時も同じではなかったかなあ。
エ 「下流の患者発生は当然」
「このことと関連して気づくもう一つ重要な事実は、水銀中毒症患者が淡水魚のうちで底成魚を食べたものから多く出ていることである。もちろんこれは、魚種組成や漁獲量、さらには単価といったものを考慮してはじめて意味のあることである。遊泳魚は高いから売りに出し、底成魚は安いから多量に自家消費する、といったことも充分考えられるし、またそれは事実のようである。しかし、厚生省研究班が魚を採取して測定した水銀量をみても、魚の種類によって含有量はいちじるしくちがい、高い含有量を示す個体の含まれているのは、ニゴイ・ウグイの底成魚とカムルチー・ウナギ・ナマズといった肉食魚、それに底生のモクズガニ、やや高い含有率を示すのはボラ・フナ・マハゼ・カジカといった底生魚にオイカワぐらいのものである。さらにこれらの種においても含有量にはいちじるしい個体差がある。
川魚の食物は条件によってかなりかわるものである。石に付着する藍藻や珪藻に固執するアユも、洪水で藻がこそげ落されると虫を食うし、ヨシノボリやシマドジョウのような小型の底生魚は、コイ科の大型底生魚がいなければ水生昆虫を食うが、大型底生魚がふえれば藻類食に移る。しかし、たとえば、ニゴイやカマツカに水面を落下する昆虫を食わせることはほとんど不可能である。口の構造などが特化してしまっているからである。
ところで、水溶性の有機水銀からの直接の蓄積だけを考えると、底生魚と肉食だけがその含有量が多いということは、不可解とまではいわなくても納得しがたい。しかし、上流で有機水銀を取り入れ、流下してその場所に沈降した有機物やそれを食った底生動物を介在させておこった食物連鎖的な蓄積を考えると、これこそが当然の事実なのである。また、流下物の沈降は河床の状態に応じて一様ではないから、摂食場所の違いなどにもとづく底生魚の水銀含有量にも個体差があって当然であり、肉食魚の場合にそれがおこるのもまた当然である。
とにかく、問題は生物群集そのものにかかわっているのである。」
という説明はオラでも少しは理解できるつもりであるが、
「研究者の反応、思ったほどなし。」
とのことです。
川那部先生の説明に対してすら、学者先生が反応しないのであるから、ヘボがごまめの歯ぎしりをして、相模川以西の海産アユの産卵時期が西風が吹き荒れた頃に開始する、とか、シャネル5番の香りが珪藻の種類構成または、同じ種類構成であるとしても、それに含まれる香り成分の多寡があり、このことが、現在におけるシャネル5番の消滅原因に関わっているのであって、決して、「生まれながらの本然の性」ではない、といちゃもんをつけても、学者先生には痛くも痒くもないか。
(3)シャネル5番の香りと食物連鎖
さて、オラが真面目に公害にかかる食物連鎖を考えるはずがないよなあ。
当然下心がある。シャネル5番にかかることです。
高橋さんが、海にいる稚魚も香りをする、香りは、コケと関係がない、生まれながらの機能である、という説がまちがっちょる、ということを川那部先生を利用して少しでも正当化したいがためです。
オラがシャネル5番の香りが「本然の性」ではなく、珪藻を食するから、そして、珪藻が優占種であっても、種類構成で香り成分の含有量に違いがあるのではないか、あるいは、種類構成は変わらなくても、香り成分の含有量に違いが生じているのではないか、ということ。
これについても、「目」にたこですが。
ア 時間軸ので変化
四万十川の山崎さんらが、「潮呑みアユ」を獲るとき、朝、上流から漂ってくるシャネル5番の香りを察知して、舟を下らせて群れを囲む。夕方、汽水域から上流に帰って行く「潮のみ鮎」は、下流から香りが漂ってきたのであろう。
相模川でも、津久井ダムがなかった頃、弁天の土手を超えて川に下ると、香りが漂ってきたということ。
おそらく、高度成長期の影響を受ける以前の川では、「シャネル5番」の漂わない川は、隅田川とか、アユがいない上流域とか、限られていたのではないかなあ。
素石さんが、長良川から峠を越えて移植された大きいアマゴがダム工事で釣れなかった九頭竜川の帰り、ダムの湖底になるところで、小学校を除く建物のガラスを壊して、憤懣を発散して?、嘆き悲しんだ九頭竜川でも、それ以前の勝山では、鮎がやってきて去っていくまで、川面から香りが立ちこめて、風に乗り漂ってきて田圃でも嗅ぐことができた、と。
いまや、人工養殖の臭いを、「香り」という人まで生じているご時世である。
イ 時期限定
長島ダムの工事期間を含めて、その影響が少なかった頃の大井川では、珪藻が優占種であるものの、いつもシャネル5番の香りがしていたのではなかった。梅雨明けの7月下旬頃の一時期であった。
宮が瀬ダムがなかった中津川は愛川橋上流、半原の生活排水が一部分しか流入していなかったところでは、6月中旬頃であった。これは、栄養塩の時期変化によるのか、「湖産」ブランドが放流されていたことによるのか、つまり、鮎の種別に起因する現象なのか、わからないが。
ウ 珪藻の成分
真山先生は、珪藻に香り成分が含まれていると教えてくださった。
村上先生も。
真山先生のホームページには、珪藻について書かれており、先生にメールで質問したところ、回答をいただいた。
@ 珪藻に含まれている成分について
「油の成分はさまざまなものより成ります。種によって,またその生育環境によって組成は異なりますが,代表的な不飽和脂肪酸はC14(炭素を含む鎖長が14という意味)のミリスチン酸,C16のパルミチン酸やパルミトレイン酸, C18のオレイン酸,C20のEPA(イコサペンタエン酸)でしょう。C18のリノール酸やリノレン酸は多く含まず,またC22のDHA
(ドコサヘキサエン酸)を含む種はほんのわずかのようです。」
「珪藻は不飽和脂肪酸でC20のEPAが豊富なのが特徴です。EPAはヒトの体内で合成できない必須脂肪酸で、外部から食品として取り込まれるとリン脂質となって細胞膜に組み込まれ、アラキドン酸カスケードの基質となって生態調節機能を担います。また,血小板凝集能や白血球誘引能を緩和する作用があることがわかっており,血栓性の疾患,動脈硬化,リュウマチなどの成人病に効果があるといわれています。
現在,EPAはイワシ油から精製されているようですが,海産珪藻のフェオダクチルム・トリコルヌーツム (Phaeodactylum tricornutum) の珪藻油には,それを上回るパーセンテージの EPA が含まれています」
A 不飽和脂肪酸の種別が、香り成分の生成、質、量に関係するといえますか。
「不飽和脂肪酸から香りの成分であるエステルが生成されることについて、想定される代謝経路が考えられていますが、そのすべてが実験的に実証されているわけではありません。したがって、不飽和脂肪酸の種別がエステルの生成量に関係することを直接的に示した学術的データもありません。」
B 珪藻の種類構成で、不飽和脂肪酸の生成、種別の量、質に違いが出ますか。
「不飽和脂肪酸の種類や量は、同じ種類であっても、生育環境が異なると違いが出ることが知られています。また、種が異なれば、違いが出ることも知られています。」
真山先生からいただいた返事を、適切に理解できないオラが、珪藻とシャネル5番の相関関係を云々できないことは、百も承知している。
しかし、高橋さんら学者先生に欠けているもの、それは、歴史のなかの現在、あるいは時間軸における変化を観察する習性が欠如している、というか、時間軸での比較を行わず、現在の状況を、実験室での一つの観察結果を普遍化しょうとする習性ではないかなあ。
高橋さんは、昭和の代にも川に潜っていたであろうから、養殖鮎にも香りがする、というレベルでの「香り」に係る誤解はないであろうが。
アユはくさい?と女子大生
あそうそう、秋道智彌「アユと日本人」(丸善)の「二 アユ料理と現代」の節に次の記述があります。
贅沢になった「グルメ」文化の中で、アユの評価を調査されている。
「こうした時代的背景で、私はかって京都にある女子大学で、人類学の講義のかたわら、現代の若い女性が古代に宮中へ献上された神饌の食品をどのようにとらえているのかといったことをアンケート調査方式でたしかめようと思った。最初の調査は一九八一年の秋、二回目が一九九一年の春、そして一九九二年の春にもう一度おこなった。
二二種類の古代における水産物を中心とした神饌の食品をもとに、食べたことがあるか、あるとしたら好きか嫌いかといった簡単な質問を集計した。」
「問題は淡水魚である。淡水魚としては、アマゴ、フナ、コイ、アユが登場する。このうち、フナやコイの人気はひくい。アマゴの場合、一九八一年には四割くらいの人が食べ、そのうちの三割程度がおいしいとおもっている。山に旅行した人だろうか。一九九一年の資料は悲惨である。ほとんどの人がアマゴをしらない。
アユはどうだろうか。食べたことのある人はいずれの場合でも八割を超している。しかし、その六割くらいがすきと答え、残りは拒否反応を示した。別に一人一人にきいたわけではないが、アユを嫌いとこたえた人は、おそらく川魚だから匂いがすきでないといった内容のこたえをしたのではないだろうか。香魚の香ばしさが、つたわらないのは残念である。こうした人たちにもっとアユの魅力をつたえていきたいとおもうのは私だけではあるまい。」
シャネル五番の香りはしない、継代人工のふとっちょ、鮫肌の容姿、これが目利きが九頭竜産のアユまで選別していた郡上八幡の現在のあゆみちゃんの姿でしょう。郡上ブランドがこのような状況になってしまってはネエ。
少しは遡上アユがいるようになったとのことですが。
川の水が良質の珪藻を育まない、継代人工の放流が増えている、養魚場で育てられた継代人工が点灯に直送されている、川で釣られても冷凍されたアユが焼かれている、これでは、くさい匂いの鮎になりますよねええ。
観光ヤナでは、お客さんがやってくると、ホースで、継代人工の養魚を流す、お客さんは、川の鮎を食べたと誤解する、長良川の鵜飼いでとられた鮎は、徳島から運ばれている、と故松沢さんが話されていた。
「ほんものの鮎」、「清流」を知らない人に、そのような鮎は、シャネル5番の香りを振りまく鮎とは違う、といっても無理な相談ですよね。
旅番組やグルメ番組のネエちゃんが、まあいい香り、おいしい、としゃべって、食べるでしょうが。
「香魚のこおばしさがつたわらない」からではなく、つたえる「こおばしさ」をまとったあゆみちゃんがいないからですよ、秋道先生。
もし、平成の代が10年ほどたってからでも、シャネル5番を経験することができた大井川での香りの経験がなければ、オラのシャネル5番の記憶もなくなっていたかも知れない。
野田さんは、長良川筋で会った人に、わしらの子供や孫の代になると、アユの香りとは、サンマを焼いたときの匂い、ということになるだろうなあといわれている。そのような時代になっても、かっては、シャネル5番の香りを振りまく鮎がいて、その鮎は、珪藻を育む川の水が、山が変貌して消滅した、ということだけは、書いておきたいと思っている。
(「故松沢さんの思い出:補記その2」の野田さんの長良川での項)
多摩川や養殖アユの匂いがどのような代謝経路で生成されるのか、そのくさい臭いの素となる物質が何か、ということの関心はない。
ただ、シャネル5番の代謝経路と、それを生成する物質の特定、あるいは条件を考えるうえでは、役に立つのかもしれないが。
多分、現象としての香り、臭いは、次のように変化があるのではないかなあ。
シャネル5番の香り→キュウリの香り→くさいと、あるいはサンマの焼く臭いと感じる臭い
そして、香り、臭いが稀薄である、という現象も存在している。
サンマを焼く臭いは、5月連休中に相模川は高田橋での内水面祭りの時に嗅ぐことができる。
なお、多摩川は調布附近のくさい臭いが、囮として運ばれてきた養殖の臭いと同質、あるいは、強弱の違いがあるのかどうかは聞きそびれた。そして、多摩川に調べに行く気も起こらないが。
エ 他の珪藻消費者の香り
四万十川の野村さんは、ボウズハゼも香りがする、と。
四万十川の田辺翁も、「ナナセ」は、香りがする、と。
しかし、鮎がやってくるまでは、瀬でコケも食べているヤマベでは香りがするのかなあ。
食物が香りと関連性がある、といっているからには、コケを食するヤマベも香りを振りまいていなければならないこととなるが。
オラの想像は、
@珪藻には香り生成成分が含まれている。
A香りを生成できる身体的?な機能は、アユ、ボウズハゼには備わっていても、ヤマベにはないか、稀薄であり、また、ボウズハゼよりも鮎の方がその身体的?機能はすぐれている、といえないかなあ。
オ 海の稚アユの香りとは?
高橋さんが、海の稚鮎も香りがすることを香りは「本然の性である」との理由にされている。
2010年、3月20日の数日前、相模川は高田橋に沖取り海産が放流された。春分の日、弱った稚魚をとった。大きさは4センチ。しかし体型は針金状で、コケどころか、水生昆虫を食べる段階に成長しているとは思えない。動物性プランクトンしか食べることはできない成長段階であると思う。
この沖取り海産を、1週間ほど真水にならして交流したものの生存率は3割との話があるが、多分その程度の生存率ではないかなあ。
2010年4月10日頃、中津川に海産畜養が放流された。大きさは10センチくらい。体型はできあがっていて、下顎側線孔数4対左右対称で、容姿端麗。ヤマメ天敵さんも海産と判断されていた。漁協のホームページには、「県産人工」と記載されていたが、海産である。ただ、相模湾採捕の稚アユの「海産畜養」に、去年は漁連のプールで全滅し、あるいは奇形が多く放流に堪えられない、との話のあった県産継代人工の子孫を「ブレンド」しているのかどうかはわからないが。
それらの稚アユは香りがしなかった。
計器で計測すれば、香りを検出できるのかもしれないが。
仮に、シャネル5番の香りに遙かに及ばないとしても、香りを発散させているとしょう。
しかし、「植物連鎖」がキーワードになるのではないかなあ。
カ 川那部先生のコケ
オラが、川那部先生がもうちょっと表現に気を使ってくれていたら、とうらめしく思うことは、川漁師にさげすまれ、ヘボのオラにすらいちゃもんをつけられる学者先生のトンデモハップンの調査結果が間違っている、評価が間違っていると気がつく人が少しは増えたのでは、ということ。
もう一つは、コケについて素人にもわかるように書いてくださったものがまだ見つからないこと。
「藻類の生活」
川那部先生が、コケについて書かれている箇所を見つけることができたのは、「生物と環境」の中の「藻類の生活」の節だけである。(原文にない改行をしています)
「藍藻には核がなく、有性生殖を全くしないので、この点はバクテリアと同じだが、色素があって光合成をする点では、確かに藻類である。ただ、色素はそれぞれちがっていて、クロロフィルAやベーターカロチンが共通なほかには、藍藻は藍藻素、珪藻は珪藻素、緑藻はクロロフィルBなど、特有のものを持っているし、光合成の結果である同化物も、藍藻では藍藻でんぷん、珪藻では珪藻油、緑藻ではでんぷんとちがっている。
石のうえの藻類を顕微鏡で見ると、枝を出して固着している様子がわかる。藻が石の表面を覆ってしまうと、その下の空間へは光が来にくくなって、藻が生長しょうとしても、光合成の速さが呼吸の速さを上まわらなくなり、とまってしまう。そうして、上を覆っていたものが枯れてははがれたりすると、それまでさえぎられていた光が強くあたるようになるため、大きく生長するようになるのである。流れの速い場所では、生理的な働きが弱まると流れの速さに抵抗しきれなくて流されてしまうので、いつも元気の良い藻が増える。これに対して淀みの場所では、働きが弱まったり、極端な場合には死んだ個体までも流れ去ってしまわないので、その下にいる生きた個体は、光があたらなくて生長できないことになる。淀みの場所は、そのうえに深い所に多いため、藻の表面に達する光も弱いし、ますます藻が増えるのには良くない条件だということになるわけである。
汚水によっても、藻類の種類はいちじるしく変わる。ふつうに魚や昆虫のすんでいる場所では、羽根形の珪藻や藍藻が多く、少し汚れてくるとアオミドロなどもあらわれる。汚れがだんだん強くなると、珪藻はいちじるしく少なくなり、藍藻もユレモの仲間など少数の種だけが増え、最後には藻類は全くいなくなって、スフェロチルス・ゾオグレなどの汚水菌とツリガネムシのような原生動物だけになってしまう。」
ここで、川那部先生が書かれている川の環境は、野村さんが昔の四万十川を見たかったら、黒尊川をみよ、と。野田さんが、昔の長良川を見たかったら、亀尾島川をみよ、と。
そのようにいわれている黒尊川や、亀尾島川での水準を書かれているのではない。紀の川の小西翁が妹背の淵は6メートル?以上あっても、友釣りの見釣りができた、という水準での水質、透明度の環境でのコケの状態を書かれているのではないことに、そのような水質、透明度に生活している藻の状況を書かれているのではない、ということに留意をしておかないと、学者先生同様の誤解に気が付かないことになってしまう。
もっとも、現在、どの程度、黒尊川も亀尾島川も昭和の頃の「清流」を保持していることやら。
p181
キ 海の稚鮎の食物
「沿岸にすんで、群れでケンミジンコなどを食べていたアユの稚魚は、三月か四月になると川口へやって来て、海の水温と川の水温が同じになった頃に、川をさかのぼりはじめる。この間はまだ群れの性質が強く残っていて、井堰をとびあがる時でも、一尾がとぶとすぐ続いて他のものがとぶし、前を泳いでいくアユがいると、急いで泳いでいって合流する。こうして、石や砂泥の上の藻を食べながらさかのぼって行くが、下流域の長い川では、その場所に藻があまりないので、水生昆虫を食べてしのぐこともある。」
遡上時期の水温
この文を読んで、やったあ、と喜んだ。
それは、「海の水温と川の水温が同じになった頃」の記述です。
川那部先生でさえ、間違うことがある、と。
高橋さんも「ここまでわかった アユの本」に書かかれているように、これは事実ではない、あるいは、普遍化できる事実ではない、と思います。
相模湾では海の水温が、一五℃前後よりも低下することはまずないのではないかなあ。10℃の水温になることも稀ではないかなあ。冷水塊が接岸したときはどうなるのか、わからないが。
川の水温は、二月に最低水温となり、二〇一〇年春分の日は高田橋で九℃。四月一〇日頃でも一〇℃。
この水が10,20キロ下流の汽水域付近までにどのくらい温められるのか、わからないが、海水温と同じ水温にまで上昇するとは考えにくい。
したがって、海の水温よりも川の水温の方が低いはずである。
その水温の変化に対応するために、稚アユは、流下仔魚はどのような水温調節行動をしているのか、わからない。
流下仔魚が海にはいるときにも水温変化が生じているはず。そのときは、川の水温の方が低くて、海の水温の方が高いはず。
稚魚は、高い水温から低い水温へ、仔魚は、低い水温から高い水温へ、と生活環境をかえている。急激な水温変化は生存の危機になるはずであるが、それを回避するためにどのような行動をしているのかなあ。
日本海側の宇川では、川の水温と海の水温がどのような関係になっているのか、想像もできないが。
日本海側の冬の海の水温が生存限界の七,八℃にもなることがあるとのことであるから、春先の海の水温は低いのではないかなあ。雪代の影響が少ない川では、川の水が温められて、海の水温と同じくらいになるという現象が生じることもあるのかなあ。
「シオクイアユ」再び
あ、ついでにもうひとつ、嬉しくなった話を聞いてください。
川那部先生のお友達?師弟関係?の秋道智彌「アユと日本人」(丸善)に、
「前述の塚本克巳氏によると、川を遡上せずに、河口部にとどまるアユがいるという。和歌山県でシオクイとよばれるアユである。琵琶湖における残留群は川をのぼる群れちがって大きくならないが、河口部にいるアユは大きさが二〇〜二五センチくらいというから、川をのぼるアユとちがった生理的な機構をもっているのだろうか。」
秋道先生は小西翁の「紀ノ川の鮎師代々」(徳間書店)は読まれているが、山崎武「四万十 川漁師ものがたり」(徳間書店)は読まれていないようである。
「潮呑みアユ」については、四万十川口屋内の野村さんも話されている。「下り」現象と間違った評価をされている田辺さんも話されている。
しかし、小西翁が「潮呑みアユ」について、話されていないのはなんでかなあ。
もし、紀ノ川でも、四万十川と同じように「潮呑みアユ」の現象があったのであれば、朝、汽水域へと、夕方には上流へと、集団で移動するアユは絶好の漁期として見逃すことができない現象であると思うが。小西翁が、その現象を見逃されることはなかったのではないかなあ。もし、紀ノ川でも、「潮呑みアユ」の現象が見られたのであれば、話されなかったとは思えないが。
故松沢さんが、湖産全盛時代が終わったころから、そして、狩野川の遡上量が激減して継代人工が放流の主役になった頃から、狩野川の河口から沖に出て行かない稚魚の集団がいる、と話されていた。その親は継代人工で、塩水の海では生存できないから、塩分濃度が低い所で生活をしていたのではないかなあ。
もちろん、生存限界を超える水温低下のある冬の川で生き残るには、温排水があるか、湧き水があるか、の条件が必要であろうが。天竜川における二月の稚魚調査のように。
ということで、「シオアユ」をいかなる意味を持つ現象か、塚本さんの話を素直に信じることはできない。
@ もし、海産遡上アユとすれば、夜も汽水域に留まっているのかどうか。夜の調査をされているのかどうか。
A たんに、二月の天竜川同様、継代人工等、放流アユの子孫の生き残りであれば、たまたま汽水域で生き残っただけ、ということだけであろう。それらのアユの親は遡上性がないから、その子も遡上性はないのであろうから、生き残ることができた汽水域で一生を送っているに過ぎない。
神奈川県内水面試験場の人は、汽水域の「シオアユ」を相模川で見つけて、「海産」から「湖産」誕生のロマンを書かれているが。
ということで、塚本さんが「シオアユ」について、湖産、継代人工が放流されるようになった時代以降に生じた現象であるのか、「海産」遡上アユだけが川にいた頃にも生じていた現象であるのか、何で区別をしないのかなあ。塚本さんが、「学者先生」の教祖の一人と想像していることから、「シオアユ」の氏素性に何らの問題意識を持たれずに観察された現象であると確信している。
その尻馬に乗った感のある秋道先生の記述であるから、その親玉かもしれない川那部先生のミスを見つけた気分になって、嬉しくなりました。
なにい、とんでもない言いがかり、八つ当たりですと?
そんな細かいことはいいっこなし、おおらかな気分になって下さい。川那部先生や東先生を読むためにどんだけ、神経をすり減らし、弱いおつむを酷使したか、ちょっとは同情してくださいよ。
学者先生の「産卵時期」
「学者先生」の教祖の1人ではないかと勘ぐっている谷口順彦・池田実「アユ学 アユの遺伝的多様性の利用と保全」(築地書館)を買った。
学者先生の本は買いたくないし、それに3150円もするからなおさらのこと。とはいえ、それらの先生でも、宗旨替えをされていると困るから、ネットで購入した。ネットで購入するとき、中身を見ることができないことが困る。
そのなかの「生殖腺指数」の時系列で見た湖産、海産別の表がある。
気になることは、説明文の「この結果から、湖産系の産卵期が早く(地域差は多少あるが八月下旬に始まり、ほぼ九月下旬には終わる、海産系の産卵期は遅い(分布範囲が広いので期間は長くなるのだが、一〇月に始まり一一月下旬に終わる)というのは、それぞれの系統がそなえる特異な性質であると考えるようになった。」
それでは、「海産系」は、各地域でいつ産卵を始めて、いつ終期となるのか。
「一〇月」と一括りにしても、「一〇月一日」の相模川以西の川の最低水温は、二〇℃くらい、「一〇月三一日」の最低水温は一五℃くらい、「西風」=木枯らし一番が吹き荒れたあとであれば、一二,三℃くらいと、アユにとっては大きい変わり目、節目となる水温の変化がある。
この、きいせつーのかわりめを 意識せずに「一〇月」と表現するとは、「学者先生」らしい。学者先生の習性そのもの。
また、「11月」が終期とするのも同じ。12月も産卵してますが。谷口さんらはどんな現象を観察されたのか、どんな調査を、どこでされたのですかねえ。オラがいちゃもんをつけている神奈川県内水面試験場の流下仔魚量調査でも、産着卵調査でも、十二月に観察できますがねえ。
えっ、それは「産卵後」の現象であって、「産卵」現象ではない、と?
十二月下旬でも流下仔魚が観察されていること、あるいは、遡上鮎が多いときには、12月1日再解禁日でも、叩いていないアユが、コロガシ区間である厚木で、あるいは友釣り区間である高田橋で釣れていますが。
それは、例外現象だ? どの程度の量、あるいは構成比になっていれば、例外現象ではなくなるのですかねえ。
産卵始期とされている十月についてみれば、20日以前の産卵は、継代人工や湖産畜養では大量現象であっても、遡上鮎では、例外現象であり、しかも、極めて僅少な量しかない例外現象ではないでしょうかねえ。
川漁師がどんどん亡くなられて、「学者先生」の観察、説がまちがっちょるという人がいなくなり、海産あゆみちゃんの不幸、学者先生のわが世の春、という状況が、世の中に蔓延する日まで後わずか。いや、すでに蔓延しているが。
川那部先生らが、どの程度「学者先生」の「常識」、「習性」を修正してくださるのかなあ。
海の稚アユの香り
あそうそう、問題は「食物連鎖」であり、海での稚魚の香りでしたよね。
稚アユが食糧にしていたケインミジンコなどは、川にもいると川那部先生は別の箇所で書かれている。
もし、ケンミジンコが固着か浮遊している海の珪藻を食べていたのならば、海の稚アユにもかすかに香りがすることがあるのかも、ということです。
しかし、その香りは、先日相模湾で採捕されて真水への馴致のあと放流されたアユでも、畜養された稚アユでも、手のひらに「残り香」を残すことはありませんでした。
真山先生が、
「不飽和脂肪酸から香りの成分であるエステルが生成されることについて、想定される代謝経路が考えられていますが、そのすべてが実験的に実証されているわけではありません。したがって、不飽和脂肪酸の種別がエステルの生成量に関係することを直接的に示した学術的データもありません。」
と、教えてくださったことから、素人が、香りと珪藻の代謝経路を考えることも、何で、現在、シャネル五番の香りが消えたのか、を考えることもできないことは理解できる。
しかし、逆も真ならず、で、だからといって、アユの「本然の性」と言えるとは決して考えられない。
高橋さんは、どのような「器官?」がアユには備わっていて、どのような代謝経路で「香り」を生成していると考えられているのかなあ。
ホタルイカと同じように、何らかの特徴ある器官があり、それが食物と関係なく香り成分を生成していると、考えられているのかなあ。
あそうそう、もう一つだけ、宜しいですか。
田辺陽一「アユ百万匹がかえってきたーいま多摩川でおきている奇跡」(小学館)の、遡上アユがいる多摩川は調布か府中あたりに、右も左もわからない名人が2009年に連れて行かれた。
釣れたアユは臭かった、と。香りではなく、何でくさい臭いがするのですかねえ、高橋さん。食物と香りに関係がないのであれば、多摩川のアユも「香り」がしたはずですがねえ。
あそうそう、その名人も高橋さんでしたから、「高橋勇雄さん」と書かないと間違えますね。
「高橋勇夫さん」は、αかβ腐水水であろう、水が汚い調布附近といえども、しかもちゃきちゃきの遡上海産アユから、くさい臭いがしていたとは、口が裂けても言えないでしょうから。
(4)沈着冷静な川那部先生もびっくり仰天
(原文にない改行をしています)
1970年・昭和45年のこと、読売新聞からの電話。
「『大分県にある昭和電工を中心とするコンビナートでは、つねづね本社の方針にしたがって公害防止に全力をあげてきたが、今回災いを転じて福とする方法を開発した。コンビナートの排水は、以前から一か所に集めて、活性汚泥法で徹底的に処理し、完全に無害になったものを海に放水していたが、その排水溝附近にボラなどが多く集まるという、沿岸漁民の噂にヒントを得て実験をはじめた。すなわち、この排水を養殖池に導いて、魚を増やそうというわけである。まずキンギョで実験したところ、死亡などはもちろんおこらず、成長は排水を入れないものよりも良かった。そこで、ハマチ養殖に使ってみたところ、死亡は少なく成長は良く、また肉や内臓にも全く臭みがなかった。昭和電工では、学者や水産試験場の協力を求めて、秋から本格的に研究を進めるが、嫌われていた排水を逆に立派に活用したものとして、その成果は注目される。うんぬん』。
不謹慎のそしりを免れ得まいが、私は途中何度か、吹き出すのをこらえるのに懸命だった。そこで、答えの最初を、『少なくとも私は食べるのをお断りしたいですね』というのからはじめた。そして理由めいたものを話しているうちに、だんだん腹が立ってきた。
昭和電工といえば、まず誰もが阿賀野川の第二水俣病を思い浮かべるだろう。あの事件は、微量の有機水銀が生物体内で濃縮され、それが食物連鎖を通じて数段に増幅されることによって起こったものであり、このことはもはや常識ですらある。
大分海岸のコンビナートがどういう製造工程を持っているのか、私はほとんど知らないけれども、それから生じる物質の種類はかなりの数にのぼるだろう。排水の一括処理という方式ならば、いろいろの化学変化の結果、新しい化合物が排水中で作られることも、充分予想しなければならない。それらの中に問題となる物質のないことをどうして保証するのか。後に聞くところによると、単純な水質検査によってさえ、かなりの量の銅その他が見つかったらしい。
昭和電工は阿賀野川から何を学んだのか。かりにいま、『第二水俣病は自分の責任ではない』と本気で信じているにしても、いやそれならばなおさらのこと、濃縮問題には人一倍神経をとがらすべきではないのか。活性汚泥で何が処理され、何が処理されないのかは、自らが知っていることである。しかしもう、昭和電工にそうした『良心』を期待するのは止めよう。『無過失責任は負えない』だの、『産業発展のためには若干の公害は止むを得ない』だのいう言葉は、これにくらべればまだ良心的な部類に属する。」
工場排水を養魚に利用することの問題点を書け、と川那部先生が宿題とされていたのであれば、オラには不十分な回答しか書けず、よくてもCの評点であろう。
しかし、活性汚泥方式でどの程度の物質が除去できるのか、除去率は一〇〇%ではない、あるいは、どんな物質でも除去可能なのか、ということぐらいは、疑問を持つことができる。
臭みがない、生存している、成長がよい、ということが、「効果測定」の判断基準とは、ヘボでもおかしいなあ、と感じるが。
あゆみちゃんや「清流」に係ること以外の領域でも、「学者先生」が跋扈していることがわかり、安心すべきなのか、寒心に堪えない、というべきなのか、ヘボにはわかりません。
もちろん、川漁師の軽蔑の対象とはならない立派な学者先生もおられるが、それらの先生は、ヘボの目に触れる布教活動をされる機会に恵まれないといえるのではないかなあ。
村上先生の珪藻の文にしても、もし、阿部さんの「鮎が食して珪藻から藍藻に遷移する見事な営み」という文と一緒に鮎雑誌に掲載されいなければ、オラの興味を引くこともなかったかもしれない。
1990年代の鮎雑誌に川那部先生の文が掲載されていることがわかったが、その頃は、亡き師匠が鮎の質を、容姿を云々することを疎ましく感じていた段階で、釣れれば何でも楽しかった。
川那部先生は、読売新聞には昭和電工の画期的養殖法が掲載されずに、日本養殖新聞に載っただけであることを哀しまれています。
「いまとなって考えれば、私は昭和電工の提灯持ちをして、『実に立派な研究だ』とでも言い、大々的に誌面を飾るべきであった。だれかがきっとこっぴどく叩いてくれ、ここまできた悪辣さが、皆に明らかになったであろうから。」
10 川那部先生と川の荒廃
川那部先生が書かれている荒廃していく川の状況を少しは紹介したが、川那部先生の最後を、砂防ダムで締めくくることにします。
(1)江の川の砂防ダム
「島根県の中央部、広島県よりの所に、市木郷というのがある。中国地方第一の河川、江川(ごうがわ)の支流八戸(やと)川の上流が貫通する。それに入る猪子(いのこ)谷に数年前洪水があった。そのあとの災害『復旧』工事がなされているのである。イワナの仲間のゴギを見に出かけた私どもだが、しばらくは魚そっちのけでその『勇姿』に見とれた。市木川に直角に入るこの谷は、合流点から山の上まで、直線的な溝になりかけている。両側はコンクリート護岸。高さ二~三メートルのダムが、下の方では五〇〇メートルおき、上の方では一〇〇メートルおきにつづく。ダムとダムとの間では河床はほとんど水平である。何のことはない、水は直線階段を流れているのだ。
だいぶ上の方に高さ一〇メートルあまりのやや大型のダムがあった。『昭和四三年完成』の金板も美しい。ところでこのダム、おそらくは砂防ダムだろうが、ダムの上面すれすれまで、すでに頭大からひとかかえ以上もある石がつまっていて、水は伏流している。その上流には、大きいのは小屋程度のものに至るまで、今にも転げ落ちそうな岩や石が見渡す限り存在する。
地元の漁業組合の話では、『こんな川にしてもらっては困る』と陳情に行ったのだそうだ。国か県か知らないがその施行者は、『そういう厄介な話をするなら災害復旧を止める』と宣言して追い帰したという。魚の話は今は止めよう。生物なんぞ全滅したってよいことにしょう。しかし、これは土木工事として正しいのか。『災害』はこれで起こりがたくなるのだろうか。
私は土木のことは知らない。土木工『学』などという高尚なものは、なおのこと勉強したことがない。だがこの『見事なあまりにも見事な』『川』を見ると、恐怖を感じる。この階段に一時に流れ込んだ岩石は、『砂防ダム』を直ちに超えて落下し、コンクリート側壁を、『階段』の底面を、橋を破壊して、水とともに合流点に向かって突っ走るであろう。そこに何がおこるか。少なくとも、計画を施行し、『うるさいことを言うなら』と恐かつしたお偉方の生命・財産には、別状はないであろう。これだけは保証してもよい。」
長良川河口堰では、世間の耳目を集めることはあっても、砂防堰では、知るは山女魚や岩魚だけ、という状況であろう。
統治は「必要悪」の側面で運用されていれば、優れた治世になるが、「不必要悪」の側面で運用されていれば、悪い治世になる。砂防ダムはどっちの統治の産物かなあ。問うまでもなく、愚かな選択肢か。
それとも、「善」、「公共の福祉」の類に属する施策であると、考えられていたのかなあ。
完全な統治を求めて、あるいはユートピアを求めると、人口の制御、人の移動の自由や職業選択の自由を「悪」として、規制しないと「計画」が実現不可能であるとのこと。
砂防ダムは、そのような「理想」を実現する手段として、何らの影響、効果を考慮することもなく、全知全能の施策として邁進されたのかなあ。
大熊孝先生のように、砂防ダム、コンクリート護岸に異議を唱える河川工学者もいらっしゃるが、そのような異端は排除される構図が現在も続いていると確信しているが。
「コンクリートから人へ」が、スローガン、宣伝文句ではなく、これまでの土木工学のカウンタイデオロギーとなるには、川那部先生が書かれている「哲学」次元での人間の変身が必要ではないのかなあ。
脱ダム宣言の田中知事が、夏の夜の夢のようにはかなく消えたように、「コンクリートから人へ」もうたかたの如し、かなあ。
「公共事業」とは、「土木工事である」という神話が消え去らないとしても、「不必要悪」次元での土木工事がなくなることはないのかなあ。
もっとも、それまで現在の日本の統治システムが持つかどうか、の問題があるようですが。
江戸期の統治システムを支えていた「御威光による統治」は、享保改革前後から統治能力を欠いていた、あるいはほころびかけていた。300年の平和を維持し、生活水準を向上するすばらしい統治をしたが。
税金だけをみても、年貢は「五公五民」よりも低い実効税率二割くらい。そのために、明治維新後の地租改正による大幅増税を嫌う層の指導で民権運動等騒動が引き起こされた側面もある。
武士の給料は百姓、町人よりも相対的、実質的に低くなっていった。それを統治層の威厳、エリート意識の覚醒で埋め合わせようとした側面もあるが。
あるいは、「商売」、「生産」を農民、町民の手から取りあげて藩営の「殖産事業」化しょうとして、南部一揆等東北地方での騒動が勃発することとなったようであるが。
所得収入に課税する税務調査能力上も知識も充分でなく、田畑への年貢、町家の間口税等、不動産課税しかできなかった江戸期の租税制度のもとでは、大名貸しを踏み倒すことが1つの有効な藩財政を維持する手段であり、ましてや、藩を超えて資源の集中が必要となる国防費を賄う機構はなし。
「公共事業」とは、「土木工事」である、との神話が、教義が改まる前に、オラは三途の川にいるから一抜けた、と言えるが、今の若者はたいへんですね。
とはいえ、現在の若者の苦労も、明治維新後、第二次大戦前夜、そして、戦後も若者が大きな犠牲を払っていたのであるから、新しい秩序、価値観創造への犠牲と考えるべきなんかなあ。
多くの若者らが犠牲を払って築き上げた「現在」が、「土木工事『依存』習性」であることが1つの側面でしょう。
そして、「土木工事『依存』習性」を推進した根本教義は、「自然」の制圧ではないかなあ。
若い衆よ、「自然制圧」ではなく、自然と「つき合う」教義に変えてください。
サッカリンやズルチン、昭和30年頃にはチクロ?といった現在では「有害」とされている物質が砂糖の代用品としてオラ達の甘味欲望を充たしてくれていた。
その頃は、まだ「自然制圧」に充分な資源を投入できなかったから、結果として自然と「つき合って」いた。
オウガスタスの神話のように、人間は、統治者は、巨大建造物をモニュメントとして造る習性を持っているよう。
ナポレオン3世は、オスマンにパリ大改造をさせたように。
「小天皇」は、「小天皇」なりに、その「権力」に見合うモニュメントを構築し、そのために土木技術と経営資源を集中させたのが現在の状況ではないのかなあ。
その土木構築物には、「必要性」、「必要悪」の側面もあるが、「不必要悪」の側面もあるのではないかなあ。川那部先生の「江川の砂防ダム」、「白山国立公園の砂防ダム」は、その「不必要悪」の「公共」事業であることを端的に表現されているのではないかなあ。
(2)白山国立公園の砂防ダム
川那部先生は、建設局の『人間と自然の交流を復活させるための自然公園計画』によって淀川が溝川と化していく様を書かれているが、その様子は淀川でなくても至るところで見ることができるから省略します。
「止めよう。ただ一言。『生産の向上のためには、利潤の追求のためには、いくらかの公害は止むを得ないし、自然破壊も驚くことではない。環境ノイローゼだ』――こういう、ある意味で正直な発言に、どうかせめてとどめて貰いたい。『自然公園』という名まえは、最近ほうぼうで見かけるけども、『自然を守る』という名目で、他所にすむお偉方がおやり下さることは、自然破壊=人間破壊以外の何ものでもない。こういうのは、泣くに泣けない。」
との、川那部先生の悲嘆だけに留めます。
「昨一九七一年八月、白山国立公園に砂防ダム工事を見る。崩壊地に一つダムを作ると、直ちに上方に石礫が埋積し、下方はいっそうえぐり取られる。その程度が進行すれば、先のダムの上方と下方に、それぞれ一個ずつのダムを作らねばならぬ。しからばその上下にまたまた必要が生じる。かくてダムは数十メートル、あるときには数十メートル置きに並び、崩壊はいっそうとどまるところを知らぬ。結局先のダムをかさ上げし、足場を補強するダムを重ねざるを得ない。昨年は、いわば三層目ないし四層目のダムの建設中であった。私の同僚Mさんは、この砂防ダム建設は、何の意味があるかと、石川県当局に問うた。答えは、もちろんはっきりとは返ってこなかったが、推察するところ、その意義は以下の二つに尽きるという。
一つは、県の土木事業費は、これで永久に減少しないですむこと。
他の一つは、山津波などによる被害が出た場合、何かを行っておれば、それが逆効果を及ぼすものであろうと、人事を尽くしたとして、責任を回避しうる可能性の高いこと、以上である。」
「『公害はいわゆる高度成長の結果ではなく前提である』――宇井純氏が例えば『公害原論』(亜紀書房刊)で指摘している点は、ここにおいても事実である。フィルダム建設の場合には、寿命のあるものをないもののように処理し、その後の対策を自己の責任から切り離すことによって、建設そのものを成立させているのである。耐用年数後に、それを撤去し、さらに植林その他を行って復元することまでを、電力会社自身の責任にすれば、少なくとも今のようには、建設を進めることはできない。」
「錦川の分水ダムは、同じ瀬戸内側の、岩国へ流れる水を徳山へ流すものであった。山陰側から山陽側へ、本格的な流域変更は、阿武川・江川を皮切りに、続々と計画されている。水の行く先は、大型工業基地、大コンビナートである(第二図参照)。」
川那部先生は、さらに「無公害コンビナート」の公言が事実であるならば
「少なくとも二つのことが確実に保証されなければならない。その一つは、各工場の経営者が、公害を前提として高利潤を得ていたことを認めて反省し、空気も水も、ありとあらゆるものにおいて、使用前と同質のものを同量返すように技術の最善を尽くして努力することである。」
球磨川荒瀬ダム撤去が、撤去費用を理由として(事実かどうかは知りませんが)、存続されようとしたように、「撤去」のことは費用計算に入ることなく建設が進められているようで。
長島ダムは利水をしていても、その利潤の一部を削ってでも、少しでも、もとのきれいな水を大井川に流してくれる気配りにすら思い及ばないようで。石が埋まり、淵が埋まり砂利底になり増水時の生物の避難場所の機能がなくなっても、「水力発電」でありさえすれば、「環境に優しい」「善」を実行しているとのことですから、川那部先生の悲痛な願いが受け入れられることはないのではないかなあ。
ついでに、長良川河口堰に反対されていた斎藤邦明さんらが、いかに、建設省ら施行者側から、必要とする情報を得ることができなかったか、ということのプチプチ体験をしたので、斎藤さんら河口堰建設反対側の無念さを追憶します。
川那部先生も、反対者が情報を得ることができないために、反対者が適切な反対理由を述べることができない側面のあることに言及されている。
相模川大堰左岸と右岸の副魚道で、4月1日から5月31日まで、神奈川県内広域水道企業団が、相模川漁連に目視による遡上量調査を委託している。
その結果を、これまでは、調査委託を発注している事務所から、任意開示をしていただいていた。
しかし、漁連?から、遡上量の公開は入漁券の売り上げが落ちる、とかの申し出により、公文書開示請求をしなければならなくなった。
それでも、資料は入手できるものの、迅速な入手は困難となった。
公文書開示請求は、請求の日から15日以内に開示すればよいのであるから、これまでは4月20日までの調査結果を4月22日には入手できたが、いつになることやら。
遡上量調査結果の公表が、入漁券の、年券の売り上げに影響するとの理由が適切な判断かどうかは別にして、漁連?等、取り仕切りをしている団体にいちゃもんをつける者には、意地悪をする、という構図は情報公開制度ができた今でも、健在なようです。
斎藤さんらが、長良川河口堰反対をされていた頃は、情報公開制度がなかったから、建設省等の施行者と施行者の意に沿う人たちが情報を独占し、不都合な情報は秘匿し、あるいは加工して、あたかもすばらしい事業であり、何らのマイナスの側面もない、という情報だけが「公開」されていたのでしょう。
海津町の住民は全員賛成している、との町長の発言もこのような情報管理でのねつ造で可能となることであり、そして、建設省の代弁者以外の団体による世論調査の結果でしか、「全員賛成」が事実ではない、と、あきらかにできなかった。その世論調査の結果に対しても、1つの事実を提示できただけ、ということでその意識調査結果の価値を過小にしょうとの宣伝が行われたのではないかなあ。
川那部先生は、漁協に「川守」の機能に期待されていますが、オラはその機能を有する団体は限定的であり、観察眼のある川漁師の消滅とともに、「川守」は極めて少なくなった、と思っています。
故松沢さんが、狩野川の城山下の淵を埋める、と漁協からいわれて、反対されましたが、「漁協」も、川の平坦化をされようとした、あるいは、河川管理者の「溝」化に反対をされなかった、と思っています。
その反対者・「川守」がいなかったのか、雲金では未だにブルで「平坦化」された川に、「瀬」は回復していません。すでに二昔近く経過したが、「変化」のある流れが回復するまでに、どのくらいの年月がかかるのかなあ。
1970年代、「コンピュータと社会主義」(岩波新書)が発行された。
著者は、ゴスプランのお偉方であったと思う。
当時は、色あせていたとはいえ、「計画経済」を実現している社会主義は、人類希望の星、ユートピアへの一里塚、との評価の残照があった頃のこと。
「計画経済」において、ノルマの超過達成を目論むことが、業績評価の基準、行動規範であった。超過達成を行うには、「計画」数値を低く設定することが世の習い。
しかし、その数値で資源配分が行われると、「超過達成」の実現は不可能となる。そこで、生産資源を隠匿することが、必須の手段となる。
こうなると、誰にも、何処に、どれほどの資源が隠匿されているのか、存在しているのか、わからなくなり、「計画」経済を「計画」に基づいて運営することが不可能となる。
数字がフィクションであり、「量」が不明の状態での「計画経済」はいずれ破綻するしかない。
相模大堰での遡上量調査が、入漁券の売り上げへの懸念に細心の注意を払っている漁連が業務受託者であることが、「コンピュータと社会主義」の世界にならないことをお祈りしたい。
大井川の塩郷ダムに掲げられている「環境に優しい水力発電」の横断幕が取り外されて、「ある生物を絶滅させ、生物を虐げる、物質循環を遮断する水力発電」の横断幕に張り替えられるまでは、中電が生物に配慮した、あるいは物質循環をも視野に入れたダム管理を行うことはあるまい。
ダムが通れば、「環境に優しい水力発電」が通れば、生物も石も引っ込む。
野田さんの嘆き節、江の川の川漁師中山辰巳さんや、聞き書きをされた黒田さんの嘆き節が川に流れることはあっても、生物が生き生きと生活をし、人間が、子供が、川で遊ぶこともなくなる。いや亡くなった。
三途の川もコンクリート護岸になったのかなあ。オラは故松沢さんや、亡き師匠らとあゆみちゃんのお尻を追っかけることができる桃源郷と想像しているが。
(3)越後平野における「人間的自然」と土木工事
大熊孝「洪水と治水の河川史」(平凡社自然選書:1988年発行)
「第三章 自然の制約と技術の限界のもとで」の「新川放水路の開削」、「一 信濃川大河津分水」の節で、土木技術が「必要性」「善」「必要悪」の側面で貢献した事例をみて、「不必要悪」としての土木工事の反面教師としたい。
(原文にない改行をしています)
(ア)「新川放水路の開削」
「新川放水路は、信濃川と日本海沿いの弥彦・角田山塊及び砂丘に挟まれた、西浦地域の約二八〇平方キロメートルの低湿地帯を受け持つ水路である(図3.10参照)。鎧潟、田潟、大潟などの流末にある早通川の砂丘を掘り割って直接日本海に排出するものであり、文政元年(一八一八年)着工、同三年に完成した。この排水路は、比較的高い位置を流れている西川(信濃川の分派川で弥彦・角田山塊の南側に沿って流れ、再び信濃川に合流している)の底を逆サイフォン(底樋という)で渡っている。もともと早通川は、この立体交差点よりかなり下流で西川に合流しており、非常に排水が悪く、流域には多くの潟が存在していた。この工事は、長岡藩と村上藩の協力のもとに行われたが、工費の大半は地元農民の負担であった。
鎧潟、田潟、大潟の全面干拓までは行えなかったとはいえ、この新川放水路によって潟周辺などの約六三〇ヘクタールが干上がり、開墾された。」
新川放水路の構想
「この御封印野の干拓計画があらわれるのは、新川放水路開削以前の享保一一年(一七二六)で、町人請負によるものであった。新川放水路を開削して、三潟周辺とも干拓しょうとする計画は元文二年(一七三七)である。これは、松ヶ崎放水路の阿賀野川本流化の影響が明らかとなった後のことであり、それに刺激されたものであった。」
開削請願に対しては、北前船で繁盛していた新潟港への影響の懸念から、新潟港関係者の反対が強かった。
反対の理由は、信濃川への土砂堆積の虞があったから。
新川の開削以前に行われた松ヶ崎浜山の開削で、阿賀野川の水が信濃川を経ずに直接日本海に流れるようになってしまい、新潟港が浅くなった。
「松ヶ崎放水路は、加治川の放水路として開削されたものであり、徳川吉宗の新田開発政策の一環として行われた紫雲寺潟干拓に対する補償工事であった。」
松ヶ崎浜山の開削工事の翌年・享保一六年(一七三一年)の春、
「融雪洪水が定杭を破壊して新水路になだれ込み、水路幅は一挙に一五〇間(約二七〇メートル)に拡大し、阿賀野川の本流と化してしまったのである。」
松ヶ崎放水路の開削工事とは
「掘り幅は約三〇間(約五四メートル)、長さは約三八五間(約七〇〇メートル)であった。条件を守るために(注:新潟港の商権を侵さないための条件で、「普段の水はこれまでどおり阿賀野川から信濃川に流し、平常水を超えた洪水のみ日本海に直接流すこと」等)、新水路の落ち口には高さを定めた定杭という杭を打ち込んで土砂で固め、平時は水が新水路に流れ込まないようにし、洪水時に杭を越流する水量のみが直接日本海に流れ込む仕組みとした。」
しかし、「融雪洪水が定杭を破壊して新水路になだれ込み」、日本化へ直接水を流すこととなったため、
「こうした流路の分離は、それぞれの洪水が影響し合うことがなくなるので、洪水対策の観点からは結構なことだが、舟運にとってはさまざまな問題を残すこととなった。すなわち、河口の新潟港へ流下する水量が半減したため、土砂が掃流されず水深が減少し、大型の船が入港できないという、まさに新潟港の関係者が危惧していた事態が生じたのである。」
という事態が生じていた。
このような背景があって、新川放水路の着工が遅れたが、もう一つの遅延理由は
「砂丘からの飛砂によって水路が埋まるという技術上の問題もあったと考えられる。」
「新川放水路周辺の砂丘の松も江戸時代後期に植林されたものであり、新掘川の経験が生かされたのであろう。」
新川放水路で施行された底樋について
「明治六年(一八七三)大河津分水開削の是非を調査にきたオランダ人御雇い工師リンドウが、日本人の巧みな技術の顕著な例として高く評価している。ただし、この底樋が可能だったのは、早通川や西川が阿賀野川ほど大きな河川でなく、流量が少なく、流速も遅く、江戸時代の技術でも対応できる規模であったためである。」
イ 「一 信濃川大河津分水」
江戸期の構想から明治初めの施行まで
「大河津分水の構想は、元をただせば、享保一六年(1731)松ヶ崎放水路が阿賀野川本流と化した直後に、寺泊の商家本間数右衛門と川井某によって幕府に開削が請願されたことに端を発しており、完成までに実に約二〇〇年という長い年月を要したことになる。」
「〜越後平野各地からの開削要望のもとに、天保一三年(一八四二)の幕府による分水路線の測量や、明治三年(一八七〇)からの工事着手など、実現へ向けての具体的動きがあった。明治三年の着工に際しての地元から政府への開削請願書には、おそらく新潟港関係者の反対をかわすためであろう、大河津分水路線の地質には岩(第三紀層)のところがあり、松ヶ崎放水路とは異なって水勢では簡単に突き抜けないことが強調されている。」
「しかしながら、妖怪丁場(ばけものちょうば)とよばれる地滑りや分水工事反対の一揆などのために継続困難となり、さらに新潟港水深維持を理由とするリンドウの分水反対意見によって、明治八年正式に工事廃止命令が出された。
もっとも、たとえこのときに掘り切っていたとしても、当時の技術では、信濃川を横断して水を自由に制御する堰・水門の築造はできず、第三紀層といえども松ヶ崎の場合と同じように、分水路の本流化は必死だったであろう。その場合、信濃川の水は洪水時のみならず平常時もすべて直接日本海へ流失してしまい、越後平野は枯渇してしまったに違いない。松ヶ崎放水路の阿賀野川本流化の場合は、地形勾配が比較的急なため新江用水の開削で枯渇を免れたが、大河津分水本流化の場合は、低平な越後平野に用水を均等に配水することは、ポンプがなければ不可能であった。おそらく越後平野の主要部分は、水害より日常的で被害の大きい干害に苦しめられるとともに、舟運の維持も困難となり、生産は停滞し、分水路は逆の効果をもたらしたのではないかと思われる。」
大熊先生は、低湿地帯の越後平野の干拓と、利水・用水の便、そして、洪水への対応、それらの関係を説明してくださっているのであろうが、適切につまみ食いができてないと確信しています。
是非、一度、大熊先生の本を読んでください。ほかの本も含めて。
ほんのちょっぴりでも、潟を農地にするための分水工事の困難性と、その工事が当初の目論見とは違った結果を生じた側面のあることを感じてもらえれば、幸いです。
「分水工事に対する賛成・反対の紆余曲折は、越後平野内の地域間対立を反映したものであると同時に、技術手段の未発達が呼び起こしたものでもあった。近代的土木技術手段を手中にして、はじめて自信を持って開削に着手できたのである。それは、掘削機、浚渫船、トロッコ、土運船などの大型機械力と、大河を横断する鉄筋コンクリート製と鋼鉄製の水門、堰であり、そしてその大構造物を支える基礎を施工するための止水矢板と排水ポンプ(蒸気機関及び電動)等であった(図4・2参照)。」
二度目の着工へ
大河津分水に対する新潟港関係者は、浚渫による大型船の利用が可能になること、信濃川の水量を減らすことで、信濃川の川幅を900メートルから300メートルにせばめうることで、約200ヘクタールの市街地を生み出せる等の利点があったことから、明治初期ほどの反対はされなかったようである。
「大河津分水は、近代的土木技術手段を駆使して、大正一一年(1922)八月通水、昭和2年(1927)付帯工事を含めて完成した。」
「なお、分水路工事中に、明治初期の工事において妖怪丁場とよばれたところに隣接して、三回の地すべりが発生し、工事の進捗が著しく妨げられた。」
「この三回の地すべりに対する処理土量は、約三五八万立方メートルに達した。この土量も、江戸時代や明治初期では到底処理する量ではない。
このように、大河津分水は、近代土木技術手段によって、平水時と洪水時における合流・分流を自由にコントロールできる体系を確立し、松ヶ崎放水路に次いで、信濃川、阿賀野川の分離の第二段階を完成させたのである。
ところが、この完成の喜びの束の間、昭和二年六月二四日、自在堰の第六号から第八号にかけての基礎が陥没し、水量調節機能を全く失って、信濃川の全水量が分水路を流下し、洗堰から下流の信濃川への通水が途絶するという事態が発生した。農業用水、水道用水は枯渇し、船も通行できなくなってしまったのである。」
自在堰陥没の原因はわかっていたから、床固工の応急修理と本格的補修工事が行われた。
そして、「大河津分水が完成したとしても、越後平野はまだ阿賀野川の洪水の脅威にさらされていた。」
分水工事の効果
越後平野の水稲収穫高の変化をみると、
「明治中ごろに一〇アール当たり二〇〇キログラム程度であったものが、一〇〇年後の今日五〇〇キログラムを凌駕する収穫量へと飛躍的な増加をとげている。品種改良や肥料・耕作方法の進歩等を無視することはできないが、大河津分水による水害の軽減・排水改良なしにはありえなかったことである。」
「信濃川、阿賀野川に挟まれた亀田郷の最低位部・湛水地帯である石山村西山二ツ(現新潟市内)における水稲収穫高(一〇アール当たり)も、明治元年〜同三八年(1868〜1905)にわたって示しておいた。局所的とはいえ、ここの収穫高の変化は、越後平野の湿地帯の実情を示す一典型である。一〇アール当たり一〇〇キログラム程度以下の収穫しかなかった年を数えてみると、明治元年と明治二九年(1896)の収穫皆無を含め、三八年間に一二回にも達している。すべて水害発生による収穫減であり、まさに三年に一作は望めなかったことがわかる。一方、水害のない年は、一〇アール当たり三〇〇キログラムを超える高い生産力を示している。この格差が、越後平野の住民をして、水害克服をもっとも重要な課題だと認識させたにちがいない。なお、稲の品種であるが、かっては湿田向きの根腐れに強いものが作付けされており、食味は劣悪であった。第二次大戦前には、新潟米は『とりまたぎ米』と称され、こぼれていても鶏がまたいで食べない米として、全国最下位にランクされていたほどであった。それが今日では、大河津分水を前提とした排水改良が進み、越後平野は高品質を誇る乾田地帯に変貌しているのである。
技術手段の有効性
「越後平野のように自然力の強いところでは、平野開発の構想そのものがいかに優れたものであっても、それを可能にする技術手段が伴わない間はいかんともしがたかった。そして、越後平野の場合、さまざまな自然と人為の要因が絡み合い、まさに機が熟した段階でその構想が結実したという、希な幸運に恵まれたのである。大河津分水通水後早くも六六年が過ぎた。この間越後平野では、加治川の昭和四一年、四二年の二年連続破堤氾濫をはじめとして、加茂川、刈谷田川などの信濃川支川の氾濫はあるが、信濃川、阿賀野川の破堤氾濫は、一度もなく、三年に一度水害に見舞われていた時代からみると隔世の感がある。
だが、発展の基礎となった大河津分水という大工事は、一方で自然にさまざまな影響を与えている。大河津分水河口の寺泊海岸は、信濃川洪水が運搬してくる土砂が堆積し、陸地が三〇〇ヘクタール近くも増大しており、逆に新潟西海岸では、信濃川からの土砂供給の不足によって海岸欠壊が大きく進行した。自然に手を加えたことの反作用である。」
土木工事が、他の生物の絶滅、影響等を部分的に押しとどめることができ、そして、人間の生活向上、「公共の福祉」に寄与していたたよき時代の、一コマです。
「不必要悪」に、資源を投入する余裕もなく、「必要悪」で、工事が選択されていた時代のことです。
北京原人が「道具」を手にいれたとき、兄弟殺しが多発したとの話があったと思う。
道具を使用しても、すぐには手加減する知恵、使い方がまだ身についていなかったから、との話であったと思うが。
自然制圧、克服が可能であるとの信仰を実現可能とする全知全能の土木技術を手にしたからには、大河津分水や新川分水の失敗はなくなるはず。
しかし、そうであろうか。
たしかに、「土木技術上」の制約はなくなり、「人間的自然」が、実現しやすくなるといえよう。
しかし、その土木技術上の制約がなくなったことが、人間が、公共事業=土木工事と考えている信者が、「自然制圧」は善であると考えている信者が、あたかも道具を手にした北京原人のように、見境もなく、マイナス面を考慮することもなく、腕をふるうことになり、生物を、物質循環を、破壊していることには気がつかない状況に手を貸していると断言できる。
川那部先生も、ここでの「断言」は、まあ、仕方ないか、と思われるのではないかなあ。
川那部先生が
「一つは、県の土木事業費は、これで永久に減少しないですむこと。
他の一つは、山津波などによる被害が出た場合、何かを行っておれば、それが逆効果を及ぼすものであろうと、人事を尽くしたとして、責任を回避しうる可能性の高いこと、以上である。」
と、有害ではありこそすれ、効果がないにもかかわらず、砂防ダム建設にうつつを抜かしている状況について、その動機付けをされているが、「不必要悪」につける薬はありません。
統治が、「不必要悪」の持続を維持できなくなるまで、永遠に(「永遠」とはいっても、限定的ですが。言葉をかえれば、その統治体制が行き詰まるまで)、土木工事でありさえすれば、砂防ダムが新たな砂防ダムを、あるいは砂防ダムのかさ上げを必要とすることがわかっていても、効果がないとわかっていても、不滅です。
「人間的自然」を作り出す重要な手段であった土木工事が、今や、北京原人が手にした道具と同じく、その使い道、使い方に細心の注意を払わなくてはならないにもかかわらず、そこのけそこのけ、土木工事が通る、という状態でしょう。
大熊先生が「越後平野のように自然力の強いところでは、平野開発の構想そのものがいかに優れたものであっても、それを可能にする技術手段が伴わない間はいかんともしがたかった。」と書かれた頃の土木技術は夢と消え去り、今や、「不必要悪」であろうが、どんな困難な工事であろうが、お金が使える以上、何でも引きうけます、と。
技術の進歩、発達は、さいわいだったのですかなあ。いや、「人間的自然」を構築する上で、「幸福」に貢献していた頃もありました。
しかし、それは、たまたま土木技術水準が「自然制圧」を満足できる段階に達していなかったこと、あるいは、制約の多い過少資源の配分上、「不必要悪」の、お役人らの自己満足、自己顕示欲のための土木工事にお金を、資源を配分するゆとりがなかっただけ、ということでしょうかねえ。
11 アユはどこまで遡上するのか
秋道智彌「アユと日本人」(丸善ライブラリー:平成四年・一九九二年発行)に、アユがどこまで遡上していたのか、文献から推測されている。
天竜川のアユが、諏訪湖を越えて諏訪湖に流れこむ川に上っていた、神通川上流の宮川の蟹寺、巣之内に郡上八幡の大多サら銀輪部隊が出稼ぎに行き、あるいは、垢石翁が、巣之内で食あたりをしなくてもすんだであろう高山で釣りをされなかったのは、遡上アユの遡上に係る行動と関係があるのでは、と考えている。
その遡上行動は、今では調査できる川はどこにもなし。いや、長良川や、四万十川、米代川では、少しは古の遡上状況を想像できるかなあ。
(原文にない改行をしています)
(1)河川の分類
秋道先生は、
「そこで、川そのものが、一つのシステムをつくっているという点に着目した。川は最上流部からいくつかの支流や谷が集まってより大きな支流をつくる。こうした支流があつまり、やがて本流となって海や湖にそそぐ。このように一つの水系は、支流と本流とのあいだにヒエラルキー(階層構造)をもつことになる。そこで一つの水系にふくまれるすべての支流を次数によってあらわしてみよう。
次数を計算するための原則は簡単だ。最上流部の河川を一次河川、別の一次河川が合流して二次河川をつくるとする。さらに二次河川と二次河川が合流して三次河川をつくる。ただし、二次河川に一次河川が合流してもその合流点より下流部は依然として二次河川であるものとする。一プラス一は二,二プラス二は三だが、一プラス二は二,三プラス四は四というわけである。これを簡単な模式図で示しておこう(図9)。」
この模式図を見れば、イメージを掴みやすいが、残念なことに、ホームページビルダーでの表現の仕方がわからないため、我慢してください。
「一次河川は、もちろん川の最上流部である。沢登りをしたり、大きな岩の間を流れる渓流やうっそうと茂った緑が目につく。こうした小さな二つの一次河川が合流して二次河川となるわけだ。その合流点から見ると、二次河川が大きな谷、一次河川が小さな谷ということになる。
これにたいして、山国の明るい河谷が開けている場所をゆったりと流れているのが典型的な五次河川ということになる。河岸の段丘上にある道路も広く、車や列車が川の横を走っている。こうした景観の違いからしても、一次河川と五次河川でとでは、棲息する魚の種類やその数も違うことが予想される。
飛騨地方の五万分の一の地形図をもとに、すべての河川についての次数をしらみつぶしにしらべてみた。そして、それぞれの次数に対応する村の位置をもとにして、これまで取りあげたアユを産する村の河川次数を集計してみた。」
そして、庄川水系、宮川水系、高原川水系、益田川水系における、一次河川から五次河川ごとの魚の種類数もまとめられている。
それを見ると、宮川は他の川に比して、各次数における魚の種類が多く登場している。一次河川、二次河川が七種、三次河川が一二種、四次河川が一一種、五次河川が一二種である。
(2)使用した史料
「〜明治初期に書かれた飛騨地方(岐阜県)の地誌『斐太後風土記(ひだのちのふどき)』である。
この書は明治六(一八七四)年、富田礼彦によって編纂された。飛騨の国には大野郡(九郷一三七村)、吉城郡(九郷一七八村)、益田(ました)郡(九郷一〇〇村)の計四一五村がある(図5)。『斐太後風土記』には、村ごとにさまざまな産物が記載されている。私はその中から淡水魚の種類をしらべ、その分布の特徴をあきらかにしたいと考えた。」
とはいえ、
「文献の記載から、魚の種類を同定することは時として難しい。しかし、いったんわかると、次から次といろいろなことが見えてきて愉快である。」
同じ魚であっても、場所によって表現が違っている。その表現の違いを、特定の魚である、という同定の作業をされることが「愉快」とのことです。オラには考え及ばないこと。素石さんのアメノウオ、ビワマスとの川等による表現の違いでさえ、煩わしかったのに。
「益田川」を「ましたがわ」と発音する、と亡き師匠が教えてくれた。その頃は、亡き師匠の奥さんとは違い、鬼ばばーのオラのかあちゃんを説得できるはずもないから、湖産放流全盛時代で、石が大きく、砂利の流れ込みも少なく、水が「清流」であった益田川に行くことができず、残念至極です。後悔をしています。
(3)高度による分布
「〜それぞれの魚の垂直分布を種類ごとに検討した。海抜高度の値は、村の集落の位置を代表した。」
その結果は、
「アユの場合でみてみよう。飛騨国の四河川で比較すると、アユの分布する上限は少なくとも四つの川でたいへん違うことがわかった。すなわち、庄川では、海抜八〇〇メートル附近まで分布するのに、高原川では、四〇〇メートルまでである。いっぽう宮川では、六五〇メートル、益田川ではせいぜい三〇〇メートルまでである(図7)。アユ以外の魚について、やはりその垂直分布をしらべたところ、飛騨の国の四つの川ごとに魚のすみわけに関する全般的な状況がわかった(図8)。」
垢石翁が大鮎に翻弄された巣之内(「アユの垂直分布図」では、「巣納谷」と記載されている附近とすれば)海抜300メートルほどである。
その上流の「古川町方」では500メートル。「古川町方」は、高山線の古川、飛騨古川ではないかなあ。「高山」の表示は記載されていないが、「町方」附近かなあ。標高は600メートル。
「巣之谷」は、杉原駅付近。「巣之内」は「巣之谷」よりも上流。 |
(4)アユの遡上に係る記述
(「史料」の記述は省略します。)
白川郷
「つまり、アユは豊年でないと、上白川まで遡上しないが、下白川では豊凶にかかわらず、簗漁(やなりょう)によってアユが漁獲されるということが記述されている。ここでいう、上白川は四次河川で、下白川は五次河川であることが地形図でわかった。」
「図7 アユの垂直分布図」には、庄川の上流に、「荻町」の表示がある。「荻町」は白川郷に属しているようであるから、小牧ダムの船の終点であった下梨村?平村?から相当上流のよう。その海抜は五〇〇メートル。「荻町」の下流にある「小白川」でも、海抜四〇〇メートルで、下梨村?の上流になるようであるが。
標高七〇〇メートルの「御母衣」にもアユが遡上していたから、白川郷あるいは五箇山を通り越して、遡上アユがいることがあったということのようであるが。
高山
「宮川では、高山までアユが遡上するのはまれで、下切村や上広瀬村などがアユの遡上限界であるとみなされている。ここでも、四次河川と五次河川の分岐点がアユの遡上限界となっている。ちなみに高山は三次河川に属する。」
飛騨古川の標高が五〇〇メートル、「町方」の標高が七〇〇メートル近いが、地図でみると、飛騨古川と飛騨高山の間にそれほどの激流があるようにはみえないが。
野田さんなら、三級四級の瀬がなく、あるいは少なくて、酔っぱらい漕行をされて愉しむのではないかなあ。それとも、地図での見た目よりも激流が多いのかなあ。
アユは、三次河川と四次河川、5次河川の違いをどのようにして識別しているのかなあ。
ということで、大多サら郡上八幡衆が、新品の自転車に乗って、郡上八幡から近くにあり、宮川の上流にあたる高山ではなく、高山よりも遙か下流の蟹寺付近までを出稼ぎの場所とされていた理由はわかりました。
垢石翁がぼろくそにいう食事しか出ない巣之内で釣っていたことも、狩野川からの流れ者の山下さんも巣之内で釣っていた理由も少しはわかりました。
しかし、見た目には平野を流れている川のように見える飛騨高山と飛騨古川の間にあまりアユが遡上してこなかったというのはなんでかなあ。
1番のぼり、2番のぼりが、ある条件の処まで、一目散に、とはいっても食事をしながらであるが、上流へと上っていく。
しかし、宮川でいえば、郡上八幡衆のお眼鏡にかなうアユが釣れていた蟹寺、巣之口で途中下車していた鮎はどういう心境の変化で、そこを青春真っ盛りの住処としたのかなあ。
九頭竜川では、宮川で垢石翁と別れた人が、勝山で大鮎を釣られているが、下流の芦原温泉?では小さい鮎しかいなかったとのこと。
そうすると、1番のぼり、2番上りが居付かない居住環境があることはわかる。
いっぽう、狩野川では、城山下で故松沢さんが、試し釣りで釣れた18センチ級を見物人にこっそりと渡されていた。故松沢さんは、試し釣りの結果を見てやって来た素人衆が、そのような大きさのアユが釣れる場所に囮を入れることができない、よって、素人衆を騙すことになるのは忍びない、ということを意識しての行動であったと思う。
ということで、1番上り、2番上りが、途中下車することもあるのではないかなあ。
それでは高山まで上る年とはどういう条件の時かなあ。
遡上量が多いことは1つの条件かもしれない。
その条件の時、1番上り、2番上りの中で、エリ−トと大衆に、中産階級に階層化しているのかなあ。
そうであるとして、後からやってくる?群れの圧力を感じて、
かわのあなたのそらとおく さいわいすむと あゆのいう、
ということで、さらに上るとして、エリートが上るのかなあ、中産階級が上るのかなあ。
1等地に棲みついたものが、個体間距離が狭くなったなあ、と感じて、上ることがわかりやすいように思えるが。そうすると、途中下車をしていく若かりし頃の、末は大鮎が、説明しにくいが。
故松沢さんはどんな現象を話してくれるかなあ。
垢石翁が、昭和八年、魚野川から宮川へ、と移動した話は、「垢石釣り紀行」(釣り人ノベルズ)の「諸国友釣り自慢」の章から、「宮川の垢石翁」として紹介したが、佐藤垢石「垢石釣游記」(二見書房:昭和五二年発行)にもその昭和8年の宮川での情景が掲載されていることがわかった。しかも、その文では妙齢のネエちゃん?同伴であることが。
川那部先生らの高尚なお話におつきあいいただいた釣り人もウンザリされているでしょうから、口直しをすることとします。
(5)佐藤垢石「垢石釣游記」(二見書房:昭和五二年発行)
の「裏飛騨の鍋飯」から
(原文にない改行をしています)
魚野川
「ツツガムシの巣窟の磧として知られている浦佐の下流一里半、北魚沼郡小出町地先と、その上流を釣った。ここで後から私を追ってきた釣友三人と合した。一行の中に一人の女性がいる。釣友Kの夫人である。この若きマダムは、脛深く急流に立ち込んで夫君を尻目にかけつつ四間半を縦横に操作する勇敢さを持って居る。都で派手なしょうばいをして居る女、とは誰が想像し得よう。身長五尺二寸、体重一六貫、焦茶色に日焼けした二の腕をあらわに、釣技もなかなか堪能であった。
魚野川では各々が、亦マダムも満足に近い成績を挙げた。平均三〇匁のアユを一七,八尾ずつ、それは放流アユであるが。」
「放流鮎」とは、湖産放流が仁淀川ではじまった年(昭和八年)であるから、「湖産」かなあ。それとも?
「新秋釣旅」の章にはには、魚野川について
「信濃川の下流に、分水の堰堤ができる前までは随分数多い鮎が、直接日本海から遡ってきたのだけれど、近年は天然鮎の群はまことに少なくなった。そこで昭和八年以来、新潟県の水産試験場では、初夏信濃川の堰堤の下に集まった若鮎を掬いあげ、これを魚野川へ放流してきた。今年は、浦佐町を中心として上下流へ五十万尾ほど放流したところ、水温が適当であったために随分立派に生育しているというのである。」
垢石翁が初めて宮川で釣りをされたのが、昭和八年(注:「昭和8年」と確定できていない。昭和9年かも)。そして、翌年は、九頭竜川と宮川で釣りをされているはず。昭和8年の情景ではないかと思うものが「新秋釣旅」である。
そうすると、魚野川の「放流鮎」は、昭和8年のことではないかなあ。したがって、海産の汲み上げ放流ではないかなあ。
昭和8年、4人組が、宮川からの電報で、魚野川から宮川へすっ飛んでいく様は「宮川の垢石翁」と同じ。
宮川
「北アルプスの乗鞍の西裏から流れ出す渓水を集めた一本と、白山の裏山の雪の滴りを集めて下る一本とが高山町の北方でで合流して飛騨高原を北方に向かい、林町から大峡谷に入って国境蟹寺まで数十里、急勾配の川床を、樋を伝う水のように飛沫をあげていく宮川である。蟹寺で立山の北方から出る高原川を合わせて越中へ入り神通川となる。
水量約三千個、水源が深いだけに増減の差が至って尠ない。川の水量の増減には、まことに気むずかしやの鮎が、この川を選んで盛んに遡上するのは当然である。
宮川を挟んだ谿は截り立ったように深くそうして高い。ちょうど人が、着の儘流れの中へ立ったように千米突(メートル)余もあろう。岨(けわ)しい峻峰は山肌に何の曲線も描かないで直接裾を流れに洗わせて居る。その腰のあたりの磐の割目を鑿(うが)って僅かに自動車の通う高山街道が帯のように廻って居る。
地質は地殻の奥から絞り出した岩漿である。石英が不純物を交えないで、その儘結晶した山骨であるから、崖も、磧も、川床も、真っ白に光って、岩は甃道の裏面をみるように稜々と組み立って居る。その上を清冽な水が、峡の空間に谺をあげて奔走して居る。鮎は大きく育たないでは居ない。
裏飛騨岐阜県吉城郡坂上村大字巣ノ内のささやかな旅館の前へ降ろされた。高山まで七,八里の寒村である。村は往古宮川の洪水の反動で、山裾を僅かに拓いた土地へ木組みのしっかりした大きな家が十数戸建って居た。北も南も、右も左も、眉を圧する高い峰ばかり。眺めは何もない。稗は稔り、とうもろこしは房をつけ、葛の葉は蔓って居たが、稲の田は何処にも見えなかった。好きな途とはいい乍ら女性アングラーも諸共に、中部日本を大きく一廻りして、斯くも奥山へ鮎を追うて来た道楽ではあった。釣りする人に旅の疲れはない。昼食を済ますと直ぐ川着に着替えて竿を舁いだ。待って居た釣友を先導に宿から五,六丁下流の曲がりッ滝へ陣取ったのである。五十匁の囮鮎に十匁の錘、本ミガキ一厘五毛柄総テグスの道綸、一厘柄のテグスに、伊豆形八分の鈎を蛙股に結んで、四間四尺の竿を曲がりッ滝の落ち込みへ引きこんだ。馬鹿糸を六尺出してあるので、元気のいい囮鮎は渦巻く水を潜って底石になずんだらしい。
直ぐである。グッと来た。引く引く、強い力、対岸めがけて斜に逸走しょうとする力、竿も折れよとばかりである。次第に下流へ導いて、石淀へ引き込み、道綸を手取って、一掴み二掴み、遂に手網へ抜き取った。八十匁近い大物、飽食した腹は膨れて腕ほどもあろう雌鮎である。
流石に宮川だと思う。それから五,六十匁の鮎を七,八尾かけた。最後に、落ち込みと滝頭の中間に吠え狂って居る冠岩へ、錘を十五匁にして引き込んだ。囮が底へなずまないうちにもう来た。一直線に下流へ綸を引いて行く。迂闊に動けば、石英の角石で向う脛を割き破る虞がある。しばしためらったが、遂に出足が伴わず、竿と綸が伸びた。最後の強引が来たと思うと、掛かり鮎は囮鮎と縺れながら、白泡の中でチラッと姿を見せた途端、綸は錘上一尺の処から切れてダランとしてしまった。一尺近くはあったろう。がっかりして汀の石に腰を下ろし、疲れた脚をさすったのである。三時半頃、峡谷の雷は白雨を降らせて鳴った。宿へ引き揚げて渓流を樋で導いた箱簀の前で互いに囮箱を覗き合って驚いた。
何れもが掛けた鮎の余りに大きいので。中にもマダムの掛けた一尾は、中鯖程もあった。マダムは囮箱の傍に、腕を叩いてほこらかに立って居た。八月とはいえ山峡の夕には秋の気が忍び寄って居る。夕立に濡れた人々の肌に、冷涼が迫って中には歯の根の合わない者さえあった。一同は勝手の板の間の真ン中へ、大きく切った炉を囲んで流木の燃える火に暖を取ったのである。天井から下った煤けた自在鍵の大鍋に飯がぶすぶすと煮たって居た。不思議な思い出に邂り逅う(めぐりあう)もの哉と思ったのである。」
自在鍵の大鍋と追憶
そして、垢石翁は、自在鍵の大鍋で炊く飯をみて、学生の頃、榛名山に山鳥を撃ちに行ったときのこと、「林中の掘立てにささやかに住まう猟師の家に泊めて貰った。」こと。
そして、猟師の家で、翌朝食べる稗を鍋で煮ていたことを回想された。
「『何煮てるんです』と試みに聞いてみた。『稗でがんすよ』火吹竹で、根っ子榾の尻を吹きながら老婆はこう答えた。続いて倅の猟師が稗は前の晩に鍋で柔らかく湯煮をしておいて、翌朝米に入れて飯に炊くのだと説明した後で、『おめえさまにもあしたの朝食って貰うんでがんす』とつけ加えたのである。その鍋と同じ鍋が、今ここの自在鍵に掛かって居る。何十年振りかで鍋飯を味わう廻り合わせを思ってこの山里の質実を瞶めたのであった。」
鍋飯がはじめてではなかった垢石翁が、何で宮川では下痢をしたのかなあ。年かなあ。
それにしても、同じ宮川での一日が、ことに宿での情景が、釣行記の書かれた日にちの違いで大きく違っているのはどういう心境の変化をあらわしているのかなあ。
まあ、回想はオラの専売特許ではないことがわかり、少しは安心したが。
「垢石釣游紀」は、初出が記載されている瀧井孝作「釣りは楽しみ」(二見書房)とは違って、いつの事柄か、が書かれていない。
非常に残念である。
狩野川の釣り場
「秋の鮎」の章には、
「箱根から西では、伊豆の狩野川の鮎がよろしい。味も良く香りも高いのである。そして、毎年十月まで艶のいい鮎が釣れて、秋の味を堪能したものであったが、今年は七月中旬に、上流の鉱山から毒水を流したために、鮎がだいぶん斃された。だから、今年の夏は、大漁がなかったのである。
でも、鮎はどこから集まってきたものか、八月中旬から、長岡温泉や稚児ヶ淵地先で大分釣れはじめた。この分で行くと例年のように十月中旬まで狩野川のおいしい鮎が食べられるかもしれない。」
持ち越し鉱山?の毒水、鉱石が流れたのは昭和五十年頃にもある。しかし、そのときは垢石翁は、亡くなられて二十年は経っているから、それ以前のこと。
また、東洋醸造の工場排水が鮎を殺したのが昭和二十八年。そのときも垢石翁は亡くなられる頃。
東洋醸造の工場処理水が流れ込む神島橋下流では、大きいあゆみちゃんが釣れさえすれば満足していたオラしか釣り人はいなかった。丼大王も下流で釣っていて、それをみた近所の人に何をしているの、といわれたほど。
垢石翁は、塩原温泉に治療に行かれた頃になくならていると思っていたが、間違っていました。 「垢石釣游記」に、「島村利生」さんが、 「戦後の昭和二七年七月、高血圧症のため、東大物理療内科入院。同二九年四月、塩原温泉へ転地療養。同三一年七月、浦和市の自宅に於いて脳溢血のため死去(六十九才)。前橋市上新田町、福徳時に葬られる。」 とのことです。 |
ということで、あゆみちゃんの容姿、味、うまさに人一倍うるさい垢石翁が、「長岡温泉」「稚児ヶ淵」で釣りをされる気になったのは、戦前のことではないかなあ。
なお、「十月中旬」まで、と書かれているが、これは、海産鮎の産卵時期を表現しているのではなく、ウェーダーがなかった頃の、「釣り人」側の制約を表現されていると確信している。
平成の初め頃まで、城山下の淵から、石コロガシの瀬にかけてのオラにとって釣りやすい場所は、石がびっしりと詰まっていた。その附近は、磧からの釣りができるから、タイツのオラには十月下旬以降、ありがたい場所であった。
どらえもんおじさんにウェーダーをはかないと座骨神経痛になる、といわれて、超特売のウェーダーを買ったが、数回で糸がほとんど切れてしまった。やすもん買いの銭失いであったが、ウェーダーは高かったからなあ。
野田さんが、黒尊川の淵に、ウェットスーツを借りて潜られたとき、その文明の利器を使用するときは、道具を使わないで、素手でお魚と勝負すべし、と書かれているが、ウェーダーを使用するようになってからは、西風が吹き荒れて後でも、川の水に入れるようになった。ということで、四万十川の十一月十五日の再解禁日には、川面から湯気が立つほど多数の遊漁者が産卵場に入り、産着卵を、親アユを根絶やしにするほどになったということが、四万十川の遡上鮎激減の一因であろう。
再解禁日を遅らせて以降、どのくらい、あゆみちゃんと産着卵の生存率、孵化率が上がったのかなあ。
(6)秋道先生が伝えたい「鮎文化」から
「アユと日本人」には、川那部先生が「アユの博物誌」(平凡社)や「魚々食記」(平凡社新書)に書かれているアユの料理法、鮎をめぐる日本人の関わり方よりも詳しく、記述されている。
しかし、あゆみちゃんのナンパ術を追い求めるという不純な動機から、アユとの文化史を読むにはしんどすぎる。
しかも、渋沢敬三や網野善彦、宮本常一といった大御所から、井上悦夫「山の民 川の民」といった先人の研究にまで、資料を渡渉されているから、適切に読むには、しんどいことです。
秋道先生が「アユと日本人」で、何を伝えたいのか、それらを含めてていねいに紹介しなければとは思えど、秋道先生の伝えたいことを無視し、誤解されたままでは、忍びないので、ちょっぴりだけ、気になったところをつまみ食いすることとします。
ア 毒流し
「毒流し」という言葉は、素石さんが江の川の支流、西城川、神野瀬川へゴギの標本を捕りにいかれたとき、すでに毒流しによって、滅亡に近い状態であるとの地元の人の話を書かれているので、その効果が大きい漁法であるとは、わかったが、どのような毒を用いるのか、見当がつかなかった。
山本素石編著「山釣り 遙かなる憧憬の谿から」(立風書房:一九八四年発行)の山本素石「消えゆくゴギの故郷《江川源流》」から
「バスが最後の峠を越えると、神野瀬川の上流がすこしやせた姿で再び眼下に現れる。山道を降りきった対岸に上里原(あがりはら)という集落があって、ここで神野瀬川の右岸に木地山川が流れ込んでいる。」
「これは神野瀬川きっての名渓である。大万木(おおよろぎ)山(一二八一メートル)南面の国有林を流れる日本の典型的な渓流で、雅趣に富んだ自然庭園のような格調を備えている。惜しむらくはヤマメがいないことだが、ゴギはいくらか残っているだろう。」
「この木地山川は、昔はヤマメの宝庫であったという。江川からのぼってくる日本海のマスがこの辺りを産卵場にして、型の好いヤマメがひしめいていたそうだ。林道から流れに目を移すと、大淵やゆるやかな瀬に群游するさまが手にとるように見えるほど、『それはそれはたくさんいた』そうだが、戦後、食糧が極度に欠乏したとき大規模な毒流しをする者がいて、全滅した。見渡す限り、川底はヤマメの亡骸で真っ白になったという。
これに追い撃ちをかけるように、昭和二四年、下流の高暮(三次との中間)にダムができて、マスの回帰も途絶え、この川のヤマメは復活できないままである。」
「比婆山を流れる西城川源流のゴギは、二〇年ほど前まで三五センチ級が姿を見せたけれど、ご多分に洩れず、ここも減少の一途をたどって、ついに天然記念物の指定を受けるようになった。むろん、永年禁漁である。
ここで書き添えておかねばならないのは、ゴギの減少は捕りすぎよりも、むしろ環境破壊が強い拍車をかけてきたということである。具体例をあげれば際限なく問題がひろがってしまうが、上流にダムや砂防堰堤を乱造する一方、中流域沿岸の竹藪や雑木林を皆伐して、セメントで堤防を固め、川を貯水タンクと排水路に見立てるようなことを平気でやっている。そんなところに魚は増えるどころか、生き残ることさえ危うくなっている。ゴギやヤマメはおろか、淡水魚族全般の死活問題である。
比婆山まで強行した老朽車は、行き着いた地点で廃車になったが、以来二〇余年、私もそろそろ渓流師としてはポンコツに近づいてきたと思っている。」
素石さんの嘆きすら、もはや江の川に響くこともないのではないかなあ。
「魚毒漁」とは
秋道先生は、
「植物にふくまれる有毒成分を水中に流して魚を麻痺させてとるのが魚毒漁である。日本では、山椒の木の皮や実、クルミの根、ヤマノイモの根、タデ、木灰などを用いた魚毒漁がおこなわれる。こうした植物を大量に用意して石のうえでくだき、それを水中にながす。」
「奈良県の吉野川流域では、魚毒漁のための植物をカラウスでつきくだく。」
「これにたいして日本では、盆の季節におこなわれる魚毒漁は、ムラナガシ、あるいはアマゴイという名前でよばれ、雨乞い儀礼と関連している。魚毒漁をすると、雨がふるといった民間信仰があるし、雨乞いの儀礼の一環としておこなわれる沖縄の綱引き行事は、魚毒植物にもなるシイノキカズラが綱に用いいられる。」
「これにたいして」とは、台湾の魚毒漁が集団で行われ、祝祭的な色彩、通過儀礼等の意味を持っていることをいう。
アユ漁の目的
「アユは、自給用、進貢用、農業用、商業用、遊漁用という五つの類型についてみられる漁業である。」
淀川水系の中流、桂川をさらにさかのぼった大堰川(おおいがわ)」の園部藩では、
「流域の村むらは小物成(こものなり)とよばれる雑税を藩におさめる必要があった。とくにアユ漁に関して、アユやウルカがその対象とされ、現物納のかわりに銀でおさめることもおこなわれた。」
「園部藩は、村人がおこなうアユ漁に対して、ウルカ役、網役、川役などの区別をして課税していたところ、藩はさらに村人が共同でおこなう毒流し漁(魚毒漁)にたいしても課税しょうとした。これを不服として、仏主(ほどす)村(現在の和知町)の猪兵衛という人が訴訟を起こしている。」
「〜村人は毒流しによるアユ漁が、『自家消費のための習俗的なもの』であり、そうしたものにまであくどい課税をするのは納得がいかなかったのであろうと指摘している。
もしそうだとすると、アユの毒流し漁は一方で禁止漁法でありながら、共同体の成員によるきわめて自給的な性格の漁撈であると位置づけることができる。藩は毒流し漁をあくまで納税の対象とするため、つまり進貢漁撈としての意義を認めさせようとしたのである。
アユ漁の目的によって、自給用、進貢用(朝廷や藩)、商業用といったちがいがおなじ村でも漁法や季節によってあったこと、村によってもアユ漁の目的とおもな用途が異なっていたことがはっきりとわかるのである。したがって、同じ川の流域にあっても村によってアユのとれる量的なちがいは、生産する村人にとっても、それをおさめさせあるいは購入する側からしてもたいへん重要な問題であったとおもわれる。」
イ 漁猟複合
弥生時代に農耕がはじまると、アユが生息する中流域では農業と漁業の兼業がおこなわれていた。もちろん、淡水漁撈であっても、
「〜奈良・平安朝、天皇家に貢進するアユの漁撈に従事したのは、江人、鵜飼戸、あるいは供御人とよばれる人びとであり、かれらは特権的な漁業権を行使した専業の漁民集団であった。朝廷だけでなく、神社や寺院の所領でも特権をもつ供祭人がアユ漁をささえた。中世には、川漁とともに、商業や廻船業に従事する多面的な顔をもつ人びとが輩出した。」
「鵜飼い漁者のように、他の川漁師からも区別され、一方では天皇家や藩、あるいは幕府の加護を受けた専業のアユ漁者もいた。」
他方、
「淡水漁撈、とりわけアユ漁の行われた河川の下流から中流域のおおくは、水稲耕作や畑作がおこなわれる農業地帯であった。さらにこうした地域におけるアユ漁は農業との兼業として行われる場合と、川漁を専業とする人びとによって行われる場合とがあった。また人びとは農業だけでなく、狩猟や林業など背後の山とのかかわりをもつ活動にも従事した。一方、下流域から河口では、アユ漁やその他の川漁とともに、海での漁撈・採集や水鳥の狩猟も重要な活動であった。
このように、アユ漁をふくめた淡水漁撈を生業複合の問題として考える視点は重要である。日本のような中緯度地帯にあって、季節的に生起するさまざまな食糧資源を利用する生活様式は縄文時代以来からあった伝統といってよい。しかし稲作の導入以降、こうした伝統は稲作中心のサイクルにおきかわることによって、まったくきえてしまったかの錯覚を人びとにあたえた。しかしそれが幻想であることは、これまで歴史学の分野で非農業民、すなわち山や河海においてさまざまな活動をおこなってきた人びとの生活や文化をほりおこす作業を通じて実証されてきた。」
ウ 漁法の伝播
「弥生人の移動性について二つの点を強調してみたい。一つは弥生人が、きわめて移動性にすぐれた技術と行動様式をかねそなえていたという高谷弘一氏の説である。もう一つは、稲作の東漸と淡水魚の分布拡大に関する西村三郎氏の説である。」
「〜稲作文化の急速な東漸はアユ漁法の急速な拡大につながったとかんがえてみたい。たとえば日本海を例にとると、アユは九州だけでなく、山口、島根、鳥取、兵庫、京都、福井、富山、新潟、そして秋田と日本海ぞいにたどってゆくと、どこにでも偏在した魚であった。九州の技術やイメージを持続したまま、一気に漁法がつたわった可能性はまさにアユの分布の特徴とも関連していたとかんがえるのである。
すべて証拠があっての話ではないが、京都府舞鶴市の由良川下流部にある桑飼下(くわかいしも)遺跡から、縄文時代後期におけるアユの骨が検出されている。すでに縄文時代からアユの利用があったとすれば、縄文人と弥生人とがアユをめぐってなんらかの集団的な接触をもちえたのは、こうしたアユののぼる河口部ではなかっただろうか。」
「アユが海から川を溯上したように、海辺を基地とした人びとが川をさかのぼるようになったわけはさだかではない。しかし、海から陸にあがってすすむよりも、川にそって人びとが移動したことは当然予測できた。内陸部にのこる安曇族伝説、安曇の名称が如実にそのことをかたっている。中国の鵜飼漁に従事する人びとがほとんど漢族の水上生活者であることはすでにふれた。水上生活者にとり、その移動域が沿岸域だけでなく、河川におよんだことはさして異常なこととはおもわれない。
逆に、いったん川をさかのぼった海の民が山と海という二つの世界をつなぐ重要な役割をになったとしても不思議ではない。川自体が、山と海を媒介する存在であるという竹内利美氏の指摘にあるとおりである。
アユ漁や他の淡水漁撈をめぐり、海域と淡水域の両方にみられる技術上の類似性はすでに先学により指摘されている。櫻田勝徳氏は、昭和一二(一九三七)年に『鵜網資料』という論文を発表し、そのなかで振木、ウラジロの葉、ウの葉などをもちいて魚群をおどしてとる漁法が、海での漁だけでなく淡水漁撈においてもみられる点に注目している。とくに河川では、アユをとるためにガラ、ヘタ、ペラなどとよばれる木の板や裏側の白い葉を縄につけてとる漁法がおこなわれることはすでに述べたとおりである。またウの羽根をつかってとる漁法の鵜縄、おいさで漁も、ともにアユ用のものである。興味があるのは、山の民であるマタギもまた、カモシカやイヌの皮、鳥の羽などを竿のさきにつけ、これをおどし具として魚を網に追い込んでとる川漁を行っている点である。」
エ 専業猟師の兆し
「『高知県史』には、川漁に従事するための免許が必要になった明治以降、川漁の免許を発行してもらえないので、四万十川流域の河川漁業者が免許の発行を請願したことが記載されている。その部分を引用すると、『冬期ハ山ニ登リテ木ノ実ヲ採取シ以テ生活費ニ、夏ハ漁夫トシテ河川漁業ニ其ノ過半歳ヲ費シ、(中略)萬一不許可ノ時ハ忽チニシテ一家ノ収獲激減シ一家一同ノ飢餓ニ入リ悲惨ノ極ニ到達スルヲ以』とある。想像するに、こうしたことが全国各地にあったのでははいだろうか。逆に、河川からそれだけ豊かな水産資源がもたらされたと考えることもできるわけで、その場合に川漁一般というのではなく、そこにアユ漁が中心的にあったとかんがえることはできないだろうか。」
江戸期のある頃からは、紀の川の小西翁のように、「代々川漁師」として、網をふくめた経営資源を生産、調達できる集団が形成されつつあったのではないかなあ。それらの人が、かっての供御人、江人にかわり、専業川漁師の地位に立ちつつあり、鵜飼いのみが、かっての系譜を持続できたのではないかなあ。
他方、兼業者も多数存在していたということであろう。
その兼業者の集団が、遊漁者に取って代わられたのは、昭和は三〇年頃以降のことではないかなあ。
その時期以前に垢石翁や、滝井さんらが遊漁者として魚を釣っていたとしても、少数の例外で、唯一の遊漁者は、余所者ではなくその地の人ではないかなあ。
いや、すでに、昭和10年代に、垢石翁が、遊漁者の増加を書かれている書かれているから、戦争がなければ、遊漁者が魚に及ぼす影響はもう少し早くから生じていたのではないかなあ。
とはいえ、垢石翁が書かれている遊漁者の増加とはいっても、小田原にはまだ遊漁船がなかったという状況でのこと。
その地の者でも、農作業の妨げになる魚釣りは禁忌であったのでは。雄物川さんは、昭和三〇年頃、百姓が釣り惚けていたら、嫁のきてがない、といわれていた。そこで、村の行事のために若衆らが、20メートルほどの網で雄物川の支流を囲み、さくらちゃんの掴み取りをされていた。掴んだまま水面にさくらちゃんを出すと、暴れて逃げられるから、岩、石の間に隠れたさくらちゃんのえらと口に指をつっこんで、頭に噛みついたとのこと。活け締めと同じ効果を狙ったもの。
筑後川の「抱きゴイ」は、職漁師が行っていたから、人間のネエちゃんをだっこするときも、騒がないように勘所を押さえればよい、鯉も同じで、腹をやさしく愛撫すると暴れない、という技術を持ち合わせているが、雄物川さんらはその技術を持たないにわか漁師でした。
そして、さくらちゃんでさえ、いっぱい川にいたということです。ゼロ釣法も、何とか釣法も必要としないほどのお魚が川にいた頃のお話です。
いえ、アマゴがいっぱいいても、釣聖恩田さんのように、腕がないと食っていけないと、斎藤さんに話されていますよねえ。逆にアマゴで、さくらちゃんで食っていくためでなければ、素人衆でもさくらちゃんと遊べましたとさ。
遊漁者が川の主役になって、魚の受難の大きな要因に「釣り人」「網打ち」その他が加わることになったのではないかなあ。
山崎さんが嘆かれていた四万十川のシラスウナギ漁における他の職業を持つ者らの大量参入。それに、一一月一五日のアユの再解禁の四万十川もその例ではないかなあ。
ブラックバスの放流もその流れのなかでの現象でしょう。
山崎さんの暗いいやな思い出
山崎武「四万十 川漁師ものがたり」(同時代社:1993年発行)
原文にない改行をしています。
「太平洋戦争で中断されていたウナギの養殖が再び活発になりだした昭和四十年代になって、『シラスウナギ』を種苗とする技術が開発させられ、各地でその採捕が盛んになりだした。
四万十川もご多分に洩れなかった。昭和四十五年暮れから翌四十六年の春にかけてのことである。『シラスウナギ』の採捕には県知事の特別許可がいる。それには漁業権者の同意が必要である。
当時漁業権者たる四万十川漁業協同組合連合会長であった私は、これに対応するために何回となく総会や役員会を開いたが、高値の『シラスウナギ』を獲りたい下流、中央の両漁協と資源枯渇を理由に特別採捕の許可を抑えるべきだという上流二単協の意見は常に対立した。窮余の策として歩み寄った同意料徴収の件でも、その料金の幅にあまりにも差がありすぎて調整は難航をきわめた。
ことここに至って、私は連合会長辞任の腹を決めた。いろいろ慰留もせられたが決意は固かったので、大正町田野々での会合を最後に辞表は受理せられた。
ところがそれがいけなかった。その夜、田野々で開いたささやかな懇親会の後、私は大井川の竹内義記理事のたってのお招きを受けて同氏宅に一泊させて頂いた。連合会長として想い出の多い北幡の最後の夜を楽しく過ごしたいという下心もあった。一年前に下流の組合長は辞めていたので、身も心も軽くなった思いで、その夜は夜更に至るまで竹内氏のご懇情に甘え、自宅に帰り着いたのは翌日の夕方になっていた。
帰ってみて驚いたことは、その日のうちに中央、下流の二単協の合同役員会が市内で開催せられ、席上私が『シラスウナギ』採捕に反対なので特別採捕の許可が出なかったと宣伝し、私の辞任により大同団結して許可獲得に邁進しようと決議したとのことであった。当時『シラスウナギ』は白いダイヤとよばれるほどの高値であったから、地元の心ない人々は咽喉(のど)から手が出るほどに許可を待ち望んでいた。一部野心的な役員にとっては大衆に迎合するための絶好の機会であった。
弟の六四三と義弟の宮村重良も下流から出席していたので情報は手にとるように伝えられた。私は腹も立たなかった。青海苔の販売機構の改正以来、根も葉もない讒誣(ざんぶ)や中傷にはなれていたからだ。
事態はこれで特別採捕実施へと大きく踏み出すことになったわけだ。
大勢がそうなればそれでもよかったが、特別採捕許可証の偽造が露見した。許可証はあくまで知事が発行するものであるが、出所不明のものが乱発されていることを、テレビや新聞まで報道するようになり一時は大問題となったが、結果はウヤムヤに終わったようだ。それのみではなかった。一千件を超す許可書が出され、ことごとく夜間操業であることが取り締まりの不徹底に拍車をかけた。
以来、川の秩序は乱れに乱れた。」
「川に秩序が戻り、無法地帯から立ち直る日はいつになるのだろうか。古きよき時代への思慕ひとしおのものがある今日この頃である。」
オ 山住の人、非農業民のアユ
秋道先生は、
「アユ漁に従事した集団のなかには、定住農民以外に、非農業民である鵜飼漁者のほか、マタギやサンカとよばれる山ずみの人びとがいた。宮本常一氏によると、秋田県仙北(せんぼく)郡西木(にしき)村檜木内(ひのきない)のマタギは、冬期、クマの狩猟をおこなうとともに、夏から秋にかけては川でウをもちいてアユをとったという。また同氏によると、奈良県の十津(とつ)川流域の北山でも、毎年五月頃になると、河原でテントを張ってハエナワ漁に従事する移動集団があおり、その集団の女性がとれたアユやウグイを村に売りにきたという。岡山県の旭川、高梁川、吉井川上流域のサンカの人びともアユやヤマメをとり、女性たちが周辺の農民に売っていた。
アユ以外の魚では、マスやイワナなどの上流域でとれる魚が農民とのあいだにおいて小規模な交換の対象になっていたとおもわれる。」
アユは、ハエナワ漁では捕れないのではないかなあ。
江の川の中山さんが、ハエナワ漁の情景を話されているが。
カ 漁猟複合における技術の共通性
「簗や筌が狩猟における落とし穴、網漁などと原理的につながっているとしても、ただちにその系譜や起源につながらないと思うし、たしかに技術の起源や系譜を確定することは一般論からしてもきわめてむつかしい点がある。しかし、類似の技法の転用や応用といったことがらは、生活の上でまったく異なった脈略であっても実現されることがあるのではないか。私は、世界各地にひろく分布する魚毒漁の系譜について、食物の水さらし、樹皮布の製作、とりもちの製作、染料・薬などの利用方法を検討することによって、食物をくだいて水にさらすという身体動作が、慣習化された行動として他の技術に転用されたのではないかといった問題提起をしたことがある。
その点で鵜飼い漁が人間の潜水漁と類似しているという渋沢敬三氏の指摘は、すでにのべたことであるが傾聴に値するとおもわれる。」
キ 移動と伝播
「さらに素潜り漁による魚のつかみどりをサンカの人びとがおこなうことと、沿岸域における潜水漁との関係は、その関連性がいまだ解明されてないとはいえ、重要な問題である。
こうした一連の事実については、漁撈技術の同時並行現象、伝播、借用など、さまざまな説明が可能でる。しかし、海人、海民が広域移動するという特質をもっているように、河川域においても、そこを活動の場とする人びとにとってみれば、広域にわたって移動することは当然のことであった。海と川は意外とちかいのである。」
山崎さんや小西翁、江の川の中山さんらは、集団で行う漁もされていること、他方、弥太さんのように個人での漁が主であることもある。この違いにはどのような背景、歴史があるのかなあ。
雨村翁が、「エンコウ」こと、横畠義信さんらの金突き漁を紹介されているが、カナツキ漁以外にはどのような漁法をされていたのかなあ。網打ちはされているが。また、ウェットスーツがない時代、水の冷たい季節はどのような生活をされていたのかなあ。
また、郡上八幡や故松沢さんのように、釣りが主流であることと、他方で、網漁が主流であることの違いにはどのような背景があり、それらは、川の違いと共通する面と異なる面が、どのように交錯しているのかなあ。
まあ、そのような詮索は、秋道先生らにまかせることにして、ややこしいお話から退散します。
佐藤垢石「垢石釣游記」(二見書房)から
原文にない改行をしています。
1 マダムキラー:垢石翁
川那部先生の真面目なお話で、オラの弱いおつむは困憊させられたから、ここは艶っぽいお話で、おつむのご機嫌を取ることとしょう。
垢石翁が、弁天さまでさえ、たぶらかせて、マダムに宮川の大鮎を献上するという、あの世にも影響力を行使できる腕であることにびっくりした。
しかし、神の世界にまで影響力を及ぼし、マダムを釣り上げんとする腕は、ほかでも発揮されていた。
「葵原夫人の鯛釣り」から
(1)マダム釣りの準備段階
「と言うのは、私が昨日の夕方東京湾口で釣った大鯛を、葵原君の晩酌の肴に持参したからである。鯛は、海神の寵姫であるかもしれない。淡紅の肌に泛んだ紫紺色の小さな斑点は、夜宴のドレスを飾る無数の宝玉のようにも見える。虹の光沢に似て光る二つの腹鰭、円い大きな澄んだ眼、豊満な鱗の下の肉。威あって而も優しい体から受ける形容は、ただ一つの言葉に尽きる。しかもそれが、一貫三〇〇匁の大物であった。
『立派ですなア』
葵原夫妻は、笹を敷いて籠の上にある贈物に、眼を訝った。
『私も釣ってみたい……』
心の表現を補足しょうとするのであだろうか、夫人は葵原君の肩を双手で揺すった。
『駄目だ――それは、泥亀が月を望むのと同じようなものだ』
『私、きっと釣ってみせるわ。きっと――』
三人は卓子の上に置いた籠を囲んで、暫く立ち去り得なかった。」
「葵原夫人の美貌は、端麗な容姿に調和してまことに上品である。そして素敵に健康だ。籠球(ろうきゅう)も、水泳も、庭球もやった学生時代、颯爽たるお嬢さんの、女離れした気性を喜んで葵原君が迎えた。嫁してからは、スキーも穿(は)き、ゴルフもはじめた。殊に、葵原君とお揃いでこしらえた狩猟のレザーコートはよく似合うのである。」
そのような魅力たっぷりのマダムを垢石翁が、放っておくわけがない。着々と釣り上げるための準備をされていた。
(2)ヤマメ釣りで釣楽・籠絡
「昨年の春、夫婦打ち連れて私の邸へ遊びに来た時に、夫人は私の娘から釣りのことについていろいろ聞かされた。
『婦人でも、釣りがやれますか?』
『やれますとも、婦人だって別段男と変わったところはありませんわ』
『私、やって見たいと思うわ』
『あなたも、運動家なんですもの――足に自信がおありでしょう。私、いくらでもお供してあげますわ』
『私に釣れるかしら?』
私の娘は、二,三年前から父のあとへついて釣竿を舁ぎ廻った。殊に、一昨年女学校を出てからと言うものは、偉大な身に釣服を着け、足に草鞋を結んで、奥深い渓流を盛んに探釣した。冷寂の鬼気迫るような密林も意に留めず、清冽肌を刺すような渓水をも、恬然(てんぜん)として揺渉する女らしくない娘である。」
娘さんを囮にして、マダムをヤマメ釣りに誘い出すことに成功。
「私ら父娘は、葵原夫人に渓流魚釣の指導をすることになった。
三人は、平野の青草に徂(ゆ)く春の懶(ものう)い風が渡っている一日、会津と上州の国境に近い奥利根支流片品川の源へ分け入った。里は、晩春であるが、ここは早春が訪れたばかりであった。山の襞に去年からの根雪が、砂ほこりを載せて残っている。渓流に、すくすくと伸びた芹の茎も茶色に出た小さな芦の若芽も冷たい風情である。
はじめての釣遊であったが、葵原夫人の出来はたいしたものであった。四,五寸から、六,七寸もあろうかという形のいい山女魚を、四,五尾釣ったのである。青銀色に光る鱗の底から、小判形した一三個の斑点が、薄紫を刷いたように泛び出ている。山女魚はなんと美しい魚であろう。そして鈎に掛かると、強引に竿先を引っ張り込む。道糸の細いテグスが、水面にキューキュー鳴った。
婦人は驚喜した。山女魚が鈎掛るたびに、竿ぐるみ磧の若草の上へ抛り上げる仕草が、ほんとうに無邪気なので、私の娘は幾度も微笑んだ。
私も十尾近く釣った。娘も三,四尾釣ったのである。
それから後というもの、葵原夫人と私の娘とは、初夏から晩秋へかけて上越の諸渓流、浅間山麓の叢林中を流れる小渓、遠くは裏飛驛の方まで相携えて釣り廻った。まことに勇ましき、二人の女性である。」
(3)鯛と上方、江戸
「鯛と言えば、瀬戸内海で漁れたものが、全国に冠たり、と世の人は思う。しかし、関東の鯛も、瀬戸内海で漁れたものに勝るとも、劣っていないのである。ただ、これを広く世人が知らないだけのことである。
昔、交通の不便の時代には、関東から東北地方の海で漁とれる紅い肉の魚が、関西方面へは移入されなかった。そこで、上方の人には紅い肉の刺身には親しみを持たなかった代わりに、鳴門と音戸の峡が咽をなす瀬戸内海や紀州と土佐、伊予と豊後が抱く大灘で釣れる淡泊な肉の鯛を喜んだ。
又、鮪や鮭は関東から取り寄せる必要のないほどに瀬戸内海から漁れる魚は豊富であったのである。鯛もその通りであった。旧の三月、桜時となれば生きのいい鯛が、浪速から尾道、広島、下関、別府の浜々へ山と積まれた。そして、料理も発達していた。清新な鯛の肉を舌に載せては、鮪や鮭は下肴と言うより外はない。それは、上流の家庭ばかりではない。昔から農家でさえも春になれば鯛の味に親しんだ。
(原文に改行あり)
たまたま、関東の人が上方へ旅してその鮮味と、割烹の妙に魅せられたのも当然であった。鯛は、瀬戸内海のものに限る、と絶賛の言葉を惜しまなかったのも、因はそこから出て来ている。だが、関東の海にも立派な鯛が棲んでいる。だがそれを、一部の通人以外に知る者が少なかったからだ。謂わば、認識不足と言うものであったのである。
遠州御前崎の灘にも、駿州美保の松原の外に波打つ荒い海、内側のなだらかな浦にも、沼津の静浦、伊豆の網代、伊東、下田の外洋にも、また外房州の洋底にも大きな鯛が棲んでいるのであるが、東京湾口で釣れる鯛に匹敵する程の姿と味をもっているのは、少ないのである。関西人の誇る瀬戸鯛もこれには過ぎまい。」
「だが。江戸時代から最近に至るまで交通は不便であったし、漁法も拙劣であったので、東京湾口の鯛は大衆の口を贅する程、市井の巷へ現れなかった。
ところが、いまでも東京湾口の鯛は昔と同じように沢山棲んでいる。舟航も便になった。漁法も巧みになった。いまでは生きているままの鯛が船の魚槽に泳ぎながら、築地の河岸へ運ばれてきて来る。」
東京湾口の説明、岩礁の説明、漁の対象とされる鯛の土地柄による違い、乗っ込み鯛と居付の鯛の違い、と、垢石翁の「目利き」に係る蘊蓄が続く。
よほど、瀬戸内の鯛に比して、東京湾口の鯛の評価が貶められていた歴史に我慢ができない、ということかなあ。
(4)鯛の産卵
「花も終えて半島の山々が、青葉に包まれる四月下旬から五月上旬になると、太平洋の荒波に育った鯛が、東京湾口へ産卵のために乗っ込んで来る。この鯛も素晴らしく大きい。稀には、三貫目近いものさえある。この鯛は、最初州崎の沖に在る岩礁に、四、五日旅の疲れを休める慣らしがあるので、三浦半島の松輪や、房総半島の那古船形、房州の南端布良の漁師などが、これを狙って、夜の釣りを試みる。だが、この鯛は三,四夜にして州崎を離れ、鎖のように繋がった岩礁から松輪の鼻に出て次第に、鴨居や竹岡前、観音の沖を越えて横須賀から見える海堡の方まで旅して来て、性の使命を果たすのである。」
性の営みを果たす外洋の鯛の行動ルートと終着点は、現在でも変わらないのかなあ。それとも、東京湾の汚い水の影響を受けるところを嫌って、産卵場も変えているのかなあ。
(5)居付の鯛との違い
外洋の鯛は、
「ここと言って指すわけには行かないが、風貌(注:この字は、ほかの字で書かれているが、何度手書きをしても出て来てくれない)がどことなくいかつい。また、腹の両側に開いた双の鰭の間に、臍に似た瘤が隆起しているのを特徴とする。色は、真紅ではない。背の鱗の色に、薄墨を刷いたように錆(注:旧字で書かれている)が出ていて、いかにも荒波と苦闘したかと思わせる。そして、痩せて、体の厚みが薄いのである。これは、荒波に身を粉と砕いている上に、外洋は餌となるべき蝦や烏賊が少ないためであろうが、居付の鯛に比べて肉の組織に細かいところがなく、舌触りが粗荒で、味が大味である。居付の鯛の、練絹のような豊満な肉の質に比べれば、翫味(がんみ)の舌に区別が湧く。
そこで、漁師は居付の鯛を撰んで釣り、江戸の料亭もこれには莫大な償いを払ったものである。
上方では、額に瘤が出る程荒海と闘い、而も身を粉にして瀬戸の渦中を潜り抜けて来た鯛の肉に、美味の真なるものがあると古人も伝え、いまもこれを信じているのに比べ、関東では、湾口に穏やかに肥り育った肌の細かい肉の鯛を絶品と称している。いずれが、味聖の意を迎えるかしれないけど、関西人と関東人との舌の感覚には、こんな異(ちが)いのあるのを興味深く思う。」
この垢石翁の外洋には蝦、烏賊が少ない、餌の多寡が、鯛の味と、容姿とに関係がある、との評価が適切であるのか、とか、そのことが居付の鯛との違いを生じているといえるのか、とかはさっぱり見当がつかない。
ただ、あゆみちゃんの品位、品格が、コケと、流れの強弱と関係があるのではとは思っているが。
(6)鯛釣りの四季
「こんな風で、東京湾口の鯛は三月に入れば海の面に寒風が吹くというのに、釣れはじまる。霞立つ四月には、浜の漁師総出の有様となり、釣客を案内し五月へかけて居付の鯛を狙う。またこの月には、外洋から大鯛が来て海は賑わう。湾口の人々は、この鯛を大灘鯛と言っている。
六,七,八月の三ケ月間の鯛は、磯に近い七,八尋から一五,六尋の浅い岩礁まで遊びに出て来るのである。この季節には、誰の鈎にも貪りついて、楽々と釣れる。九月からは、秋鯛である。秋鯛は再び味が蘇り、釣りは十一月まで続く。早春から初夏までは、主に生きた烏賊を餌に使うが、夏から秋は生きた蝦を鈎に差す。
されば、東京から僅かに十五,六浬(カイリ)離れた海で、春浅い頃から晩秋へかけ、鱗の鮮紅に錦彩を放つ大鯛がいつでも釣れる訳である。釣を休むのは手に霙(みぞれ)が冷たい十二月、一月の二カ月だけだ。」
(7)マダムと鯛
仕上げは隆々、偶然も重なり、垢石翁は、マダムと二人っきりで鯛釣りへ。いや船頭もいるが。
「葵原夫人と私は、鴨居港の黎明の浜に立ったのである。砂の上に、船頭栄太郎父子が漁船を艤して待っていた。」
「磯を侵す初夏の濤は、緩やかに流れて空は薄く高く曇っているが、西北の微風が昼の凪を物語って絶好の鯛日和である。那古船形と思われる遠い岬は、淡い靄に包まれて朝の海にぼうと泛び上り、夢の島のようである。まだ日の出には間があろう。
船には、富津から持って来た餌の赤蝦も、栄太郎が前日の夕、沖で釣って置いたと言う生き烏賊の餌も充分用意してあった。
まず、鴨居から松崎の灯台へ向かって二里、下浦の沖合四十尋のところにある岩礁で、中鯛釣を試みることになった。」
かって、押しかけ弟子の元横綱が、狭い舟の中で尿意を催し、大騒ぎとなったことから、その後はオマルを持ち込むことになった。
「私はこの故知を知っているので、葵原夫人のために勝手用の新しい亜鉛板製の洗い桶を求めさせて、舟中に用意したのだ。」
「『締めて!締めて!』
船頭英太郎が、うしろから声援である。夫人の鈎に、大鯛が食いついたらしい。夫人の顔は、俄に紅潮を呈して来た。道綸を持った指先が戦いている。水を瞶る眼が光る。固唾を呑む。四十尋の海底で、素晴らしい大物が鈎を銜えたまま、逸走の姿勢に移った動作が見えるようだ。夫人の全身は緊張の固まりとなった。
引く、引く、怺えきれない強引だ。鯛は、懸命の狂躍らしい。夫人の手から、するすると綸は伸びて行く。
『その辺で、締めて!』
舟の者悉く夫人の傍へ集まった。鯛釣ははじめてでありながら、夫人は巧みに道綸を捌(さば)く。
次第に鯛は水の上層へあがって来た。中錘が見えようとする迄手繰り上げた時、鯛は腹中にある気嚢(きのう)の膨張に泛されて、突然三,四間先の水上へぽっかりと紅い美しい姿を現した。
『しめた!』
と、私は叫んだ。それを夫人は除々と手ぐり寄せて舷まで持って来たところを、横から狙っていた船頭、隼のような速さで手網で掬いとった。
一貫目はあるだろう、金華燦然として海の王者は、舟の魚槽の中を悠々と泳いでいる。思わず見惚れた。
『やりましたなア』
私も船頭も、夫人の腕を讃賞した。
『よほど不運な鯛なんでしょう…』
と、夫人は謙遜してはにかんだが、全身の武者振るいがいつまでも止まらぬ風であった。
この鯛は烏賊餌に来たのであった。そこで、いま迄蝦を餌につけて置いた英太郎は、烏賊につけ替えると、道綸を下ろすが早いか、ガッチリと手応えがあった。
素敵な大物らしい。道綸を引き込んで行く勢いは、指先も切れんばかりである。流石(さすが)に手練の英太郎も、持て余した。遂に、尻ツ手縄を呉れた。だが百戦を経た漁師である。引くをあやし、寄るを締めて最後に手網で掬いあげたのである。そばで見ていた私も夫人も(ホッ)とした。
大鯛は、傲然として魚槽の両縁に頭と、尻尾一杯になった。たしかに、二貫目近くはあると思う。
午後は潮たるみとなったので黒鯛、イサギ、イナダなどの小物釣に移ったが、それも三貫目余り釣れた。しかし、私の鈎は大鯛が見はなしたらしい、道具を仕舞うまでついに一度も当たりを見せなかった。」
「港の家々から立ち昇る夕餉の烟を、波を蹴る沖の小舟から望みながら、
『この大鯛を、葵原が見たらさぞ驚くことでしょうね』
夫人の想いは、遠く夫君の胸に走(は)せているのであった。」
ブダイ、イズスミ釣り
伊豆南端の長津呂で、毛利夫人がかけた。
「かって夫人は私と一しょに利根川で野鯉を引っかけたこともある。また、網代の海で鰤(ぶり)と力比べしたことさえある。これくらいの強引で、たじろぐものではない。次第次第に魚をあやして、崖近くへ引きつけた。手早く、橋本屋が手網で掬ったのである。
やはり、四,五百匁に育ったブダイである。でも、夫人は太郎でも生み落としたように軽く呼吸を弾ませている。
ブダイの肉は、おいしい。真鯛の鮮味にも喩うほどである。肌の下に赤身が乗って、肉は透明に近いといえるまで清らかだ。刺身がいい。チリもよろしい。アラも結構だ。私は、人の釣った魚に今夜の食卓の贅を考えた。」
翌日は、神子元島で、毛利君がイズスミにフランスワイヤーを切られたとさ。 その後、一貫五,六百匁のイズスミを釣り上げたとさ。
若者をオトリに、むちむちぷりんぷりんちゃんを大井川に連れだして、一緒にねんねしたのは一昔以上前のこと。
そのむちむちぷりんぷりんちゃんも、子持ち鮎に。むちむちプリンちゃんの護衛役でついてきたネエちゃんも子持ち鮎に。
もう、あゆみちゃんとネエちゃんの二兎を追うことができる機会もないなあ。
垢石翁のように、マダムに大鮎を、鯛を、ブダイを釣り上げさせる腕があれば、ネエちゃんも少しは釣れたのになあ。
2 鮎のナンパ場所は変わる
竹下通りに行けば、女子高生をナンパできると信じていたのに、いつの間にやら、陳腐化していた。そして、また復活したとの話もあるが。
あゆみちゃんのナンパ場所も、高級住宅街であれば、いつでも令嬢が釣れるということではないようで。垢石翁もオトリを過労死させるヘボの経験をされたこともあるようで。
(1)相模川の主
石が悪い、悪い石にはよいコケはつかない、したがって、絶品の鮎は育たない相模川、と書かれている垢石翁ではあるが、何回か、相模川でも釣りをされている。そのときに出会った人たちが記録を残されている。
しかし、友釣りの技術の未発達、その他の悪口を書かれている垢石翁が、「悪口」ではない事柄を書かれているのは、「釣人図譜」の章の「相模川の主」だけではないのかなあ。
「相模川の久保沢に、清公という鮎釣の名人がいる。年は三十五,六。痩形であるが頑丈なからだの出来。川が突き当たって淵をなす崖の上に、こんもりと茂った諏訪の森という森の中の古い一軒家に、四、五人の幼い子供と女房と共に住んでいる。」
「この男が、素敵に鮎釣が上手なのである。友釣、ゴロ引を得意としてドブ釣もやる。まず近村界隈で、清公の右に出る者がない。
彼は朝早い。いつも二,三十尾の鮎を舟のカメに入れて置かないことはない。東京から出掛ける素人釣師は、よくあぶれるのを常とするが夕方帰る時に家への土産として清公から鮎を買って行く者が多い。大抵の漁師は鮎を売る時に明日の囮用として一,二尾の鮎を残して置くのであるが清公は舟底を叩いて売ってしまう。そして翌朝早く起きて川へ行き、ゴロ引で囮鮎をとっては、セッセと友釣をやって居る。どんな不漁の時でも、ここで二尾、アノ瀬で三尾と結局夕方、竿をしまう頃までには、、三,四十尾の鮎がカメにたまるのである。
他の漁師が、終日腰も曲がらぬ程活動しても二尾か三尾、終には囮鮎を引き殺して竿を放り出し、磧で大鼾をかくというのに、何故清公にばかりかかるのであろう。」
この文を読んでびっくりした。
@ 相模川に友釣りをする職漁師がいたということ
相模川に友釣り区を設定された昭和の終わり頃、「コロガシ」は、「相模川の伝統文化」だ、との反対意見が強く、実現が大変であったとのこと。その後の友釣り区の拡大の動きに対しても、同じ理由で反対が多かった。
そのような経緯があったから、相模川では、滝井さんらが友釣りをされていたが、職漁師はコロガシ、投網、ドブ釣りをされていたと思っていた。
A 釣れる数について
「三,四〇尾」とは、どのような意味を持っているのかなあ。条件が悪いときの釣果ということかなあ。
そうすると、条件のよいときは、どんな鮎が、どのくらい釣れていたのかなあ。滝井さんは、神沢に鮎を買いに来る人のことを書かれているが。
B コロガシと友釣りの選択要因は何?
「清公」は、コロガシをされて囮をとる、ということは、コロガシも友釣りも出来る。
滝井さんが、瀬ザクリをされるのは、オトリ捕りのためだけである。
滝井さんの場合は、コロガシの方が効率がよいとしても、友釣りのおもしろさ、つまり、強姦よりも甘いささやきで騙すことが面白い、ということですむが、職漁師としては、稼ぎが問題であろう。
友釣りの方が釣れたのかなあ。満さんが、コロガシよりも友釣りの方が釣れる、と九〇年代の鮎雑誌に書かれていたと思うが。
友釣りの方が釣れるのであれば、何で「コロガシ」が、相模川の「伝統漁法」と言われるようになったのかなあ。
「友釣り」後進国の技倆だけの話かなあ。
なお、滝井さんは、「瀬ザクリ」でオトリ捕りをされている。
「名人の覘い所」
「清公」は、自宅の上下半里ずつの区間しか釣らないことが信条。
「だが、上下一里ばかりの間の川の詳しいことは実に驚くばかりである。洪水の後に、底石一つ動いても、チャンとそれを知っている。いつ鮎が遡って来て、いつどの底石の水垢につくかも。初夏にはどの瀬、土用にどの淵、初秋はどこのザラと、まるで自分が飼ってでもいるようである。だから平凡の釣師が、鮎の留守の瀬を狙って、一日を徒歩に費やす間に清公は、確実にポイントを抑えて成績を挙げているのである。」
「大切な川の研究」
「清公にいわせると、魚を多く釣るか釣らないかは、技の巧拙によってわかれるものではない。魚がいるか、いないかを知る頭にある。
よく釣師のうちには、あっちこっちと歩き廻って、偶然をたのみに大漁を志す人があるが、それでは満足の成績を挙げ得られないのである。殊に偶然、場所当たりをして釣れた魚には親しみが少ないが自分の研究した場所へ確信を持って竿を入れた場合、掛かる魚に対しては頬ずりでもしてやり度いようである。充分な満足を覚える。
こんな訳で、一里ばかりの範囲の場所を、あらゆる条件について知っておれば、如何に不漁な年であっても他人に負けるものではないと、清公は説くのである。」
弥太さんも、「大事なのは仕掛ける場所、田圃に店を開いても客はこんじゃろう」、と。
しかしですよ、弥太さんが言われる「川漁師の資質」を持ち合わせていない者としては、「偶然」は、幸運の女神なんですよ。
去年(二〇〇九年)、那珂川でのチーム対抗。初期放流が失敗して、その後に放流されたのではないかと思う海産畜養が釣りの主役。当然、川にいる鮎の数は少ない。
湯殿大橋下流、故須合さんがホッホ、と鮎を上流にほおり投げるたびに声を出されていた場所のすぐ下流、右岸には地元の参加者が並んでいる。その人たちのトイ面でですよ、一〇匹も釣ったんですよ。勝手知ったる地元の人達はニゴイを釣ることはあっても、鮎は釣れず。
而もですよ、各チーム一位の者と特別参加の名人も入った個人戦でのこと。名人の一〇分の一もしないであろう値段の竿を使ったオラが、名人の「倍」も釣れたんですよ。
放流物しかいない、あるいは、どこかの継代人工しかいない、と言うときは、「川漁師の資質」を持ち合わせていないヘボの天国ですよ。
「魚がいるかいないか」の川見ができなくても釣れる現在、いや、「川見能力」不要の放流鮎の現在、「清公」さんは困るやろうなあ。
今年の相模湾、駿河湾の鮎は少ないから、遡上量僅少、継代人工が釣りの主役であるから、ヘボ天国になるのか、ヘボも地獄になるのか。
(2)「奥利根の名人」
「奥利根川に、これとよく似た釣師がある。岩本の茂市という。利根は相模と違って川が大きいので釣方が荒っぽい。奔湍がぶちまけたように岩を噛み、淵に凄い渦が巻くから舟釣は出来ないのである。」
茂市の歩く距離、範囲は、
「上越線岩本駅を中心とした上流は沼田在の鷺石橋付近まで、下流は越後街道の綾戸のトンネル付近までの一里か一里半の間である。
その間のことならば、どの岩盤の水垢につく鮎は午前の何時頃に活動をはじめる。どの底石をめぐる鮎は、午後の何時に囮鮎を追う。彼の冠石には七月の何日頃から鮎が水垢をなめに来る。このザラ瀬は、どの程度の増水後に鮎が乗って来る。といった具合に鮎の一挙一動を悉く知りぬいている。
だから他の釣師が、他の場所で大釣りをしたという話を聞いたところで、決して妬まない。自若として亡父伝来の場所と、自分が研究して呑み込み抜いた場所に、固い確信を持って執着している。一年間の水揚げの総平均を見ると、結局茂市の右に出る者がないのを例とする。」
「綾戸の友釣」
二,三年前の七月末である。釣友と二人で綾戸の簗上で、鮎の友釣を試みた。深い河心に在る大きな転石を覘って五間竿を突き出し二人は熱心に釣ったが、どうしても掛からない。川鮎が一度も囮鮎を追う気配が見えない。囮はヘトヘトになる。私等は、この転石のまわりに確かに大きな鮎がいると鑑定をつけたが、それは眼違いでほんとうはいないのだろう、と諦めて煙草をすいながら次の場所の選定について相談して居ると、そこへ茂市が飄然と現れた。
茂市は四二,三。額は円く黒く、からだは頑丈である。茂市の小さな家は、私等の泊る釣宿の前にあるので、家庭の様子がよく判る。幼い子供が三,四人あって、いつも髪を艶々した丸髪に結った女房は、色は黒いが上背があり、相模川の清公とそんなところまで似て居る。」
「茂市の怪腕」
「私等に会釈した茂市は、何処を釣るのかと見ていると、矢張り私等が先程まで熱心に囮鮎を引き廻した底石を覘って竿を出したのである。茂市の竿は四間一,二尺で、私等の竿より短い。激流へ腰の辺まで浸って、囮鮎を目的のところへ導いて、握竿を少し許(ばか)りひねったかと思うと、もう竿先に猛烈な引き込みが来ている。巧みに辺地へ引き寄せて、手網で掬ったのを見ると四〇匁に余る大鮎である。それから続いて、同じ場所で一二,三尾を釣ってしまった。
まことに不思議に堪えない。私等二人が熱心に小半日も攻めた竿には、一尾も来ないで茂市が来れば物の五分もたたぬうちに、続いて大鮎が来る、いまいましさを超えて、呆然としてしまったのである。」
「釣れる条件」
「茂市が一服つけて、磧に腰を下ろした時、
『茂市さん、君にはどうしてそう掛かるのだろうね』
と、聞いて見た。
茂市は、しばらく黙っていたが煙管を石に叩きながら、やがて、
『鮎が居るから、掛かるんだんべい』
と、言うのである。余りにもそっけない挨拶である。だが、茂市は私等を小馬鹿にした訳ではあるまい。説明の言葉を持っていなかったのである。多年の事で、月が来、時が来たれば茂市の足は自然に、条件に適った釣場へ運ばれて行くのである。
その日の釣場は子持山の裾が東へ延びて利根川へ尽きるところの崖に、七月末の午後三時の陽が遮られて、川水へ陰影を落とせば鮎が活動をはじめる条件を持っていたと後で知ったのである。ちょうどその定刻を私等二人が、雑談に耽っている間に茂市が竿を入れたという事になったのである。
茂市が去った後で、二人は砲丸程の玉石を、その底石目掛けて幾つも拾っては投げ込んだ。」
「神通川の上流、裏飛騨の宮川へ伊豆の国から毎年で稼ぎに来る山下という友釣の名人がある。偉大な体躯を赫色の皮膚が包んで岩と衝突しても痛くないという不死身の持主である。これも短い距離の間を、徘徊反転して熱心に釣って居る。釣る鮎の量は、日に一貫目を下らない。
こうした釣師の態度にも、われわれの人生に、何ものかを教えるものがあるような気がするのである。」
垢石翁も、オラがしょっちゅう味わっている何でじゃあ、世の中はまちがっちょる、神は不公平じゃあ、という憤懣を経験されていたとは、嬉しくなる。
オラが釣れずに動くと、そこに入ったしあわせ男や、テクニシャンが、場所守ご苦労さん、と、セッセと釣り上げる。
腕か、時間か、何が違うのか、と、悩む事が多すぎて、下手の考え休むに似たり、ということまで自覚しているから、考えるのは止めて、自棄ビールを味わう事、幾星霜。
今年(二〇一〇年)は、駿河湾も、相模湾持ち鮎が少なく、したがって遡上量も少ないから、ヘボとテクニシャンらとの差は僅少の筈。継代人工を釣る事には興味がないから、まあ、心安らかな年を過ごせるのではないかなあ。
山下さんは、2番鮎、3番鮎が縄張りを作り、ポアするようになる(萬サ翁)までの30分なりの間をあけるために動いているのであろう。
茂市さんが釣れた時間が、川面に崖の陰がさすということは、照度が落ちて、珪藻が繁殖しやすい時間帯になったから、その新鮮な垢を食べるために活性が上がった、ということかなあ。もしそうであれば、判りやすいが、陰になって照度が下がったからといって、すぐに珪藻が生産し出すとは考えにくいが。
3 利根川の遡上時期
(2010年11月予定)
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