故松沢さんの思い出:補記9
長谷川櫂「『奥の細道』をよむ」 | 歌枕を尋ねる旅 | 不易流行とかるみ 「古池」の句について 歌枕は想像力の産物 | |||
想像力の賜物である歌枕の事例 | 室の八島=宮中の竈から下野の歌枕に 黒羽から朽木の柳・遊行柳へ |
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歌枕の廃墟 | 無惨にも荒れ果てた歌枕の姿 歌枕は幻 幻なら掴もうとしない 壺の碑 多賀城碑を勘違いする |
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末の松山 | 墓原と成り果てる 松島では「焦点はずし」 |
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「不易流行について」 | 不易は永遠、不変のもの 流行は刻々と変化するもの しかし「其の元は一つ也」 一つの宇宙観であり人生観 流行即不易 |
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「不易流行から『かるみ』へ」 | 別れとは、人生の究極の姿 すべての出会いは別れで終わる 会うは別れの初め 別れに耐える=かるみ 悲しみに満ちた人生も不易の宇宙に包摂 遊女と同宿 大垣での句 |
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和田吉弘 「長良川のアユづくり」 |
「トラックで運ばれてきた」鮎と遡上アユの産卵場を区別せず | 板取川合流点付近の仔魚でも汽水域に到達 河口堰で止水域が延長しても流下仔魚に問題なし 東先生は松浦川での流下仔魚調査では湖産と海アユの仔魚を区別しているが 長良川の海産の産卵場は河口から四十キロ空七十キロ =ほんまかいな 主な産卵場は合渡鏡島付近 =ほんまかいな 産着卵調査から流下仔魚調査に変更 流速は毎秒40センチくらい 弁当を持たない流下仔魚 =ほんまかいな |
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困ったときの神頼み、ならぬ川那部先生頼み | 川那部先生の長良川の産卵場の記述は? 産卵場は上流へと移動 長良橋付近の大石の消滅 和田さんの仔鮎の低生存率は何故? 仔魚の流下速度は適切? 穂積大橋付近で遡上鮎は産卵する? |
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「長良川をあるく」に書かれている産卵場 | 穂積町から墨俣町附近 鵜飼いの場所では、現在は湖産放流 鵜匠の話:小瀬の鵜飼い 餌としての海魚と川魚の違い 鵜の体を変える 中国の鵜漁 昔は一晩で十貫目 萬サ少年が見た餌飼いは小瀬の鵜舟? |
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和田「長良川のアユづくり」 | 「第二部研究論文集」に書かれている産卵場、流下仔魚に関する報告書から | 「湖産」、「トラックで運ばれてきたアユ」の流下仔魚と、海からやってきた「自然児」を区別出来ない和田さんの面目躍如たる「証拠」 河口堰と産卵=河口堰の影響なし 2015年の長良川のアユ絶滅危惧種騒動を理解出来ない和田さんではないかなあ。 |
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「学者先生」とは、調査対象にかかる魚の本すら読まない事例? | 今西博士は、ご自身の「道楽のため」に和田さんに対して便宜を依頼された? | 仲間15,6人で釣りをして漁協に怒られた和田さん 和田さんは「イワナとヤマベ」すら読まず、アマゴの調査、養殖をしていた アマゴがカワマスという今西博士にびっくりする和田さん オラはその和田さんの感性 にびっくり 礼子ちゃん、「萬サと長良川」を発行してくれたりがとう |
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川那部先生と河口堰 | 川那部先生と河口堰 | 裁判での証言 天野礼子さんらの行動で河口堰問題が周知される 魚道の有効性判断のあり方 試験的運用をすべきであった 西条先生の優れた調査 |
「生態学の『大きな』話」から | ||
サツキマス、鮎の人工種苗礼賛の和田さん | アマゴの種苗生産→シラメ放流→サツキマスの大量遡上→生態系を乱すほどの大量生産も可能→河口堰でサツキマスが絶滅するなんて反対運動は笑止千万、非科学的 漁師はカワマス獲っていなかった? カワマスのトロ流し網漁の大橋さんは、萬サ翁はカワマスを獲っていたよ 礼子ちゃんのはらわたを煮え繰り返したであろう和田さんのご託宣 |
ああ、事実認識の貧弱さ、時間軸での「違い」にすら気づかない和田さん 公害真っ盛りの頃と昭和四八年以降の比較の無意味さにすら気がついていない 川漁師がカワマスを獲っていなかった、とは長良川近くに住んでいただけでは何と貧弱な観察でしょうねえ。 川那部先生もこのようは「学者」を相手にしなければならなかったとは同情します |
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人工種苗と遺伝子の多様性 「曖昧の生態学」 |
「ほんものの川」とは サツキマス個体群の世界で唯一の良好な生息地 タイワンマスの種保存の考え方 緊急避難としての人工種苗放流 「滑稽な幻想」は、礼子ちゃんではなく、和田さんの「贈る言葉」 遺伝子多様性喪失と神奈川県30ウン代目の継代人工の運命 アマゴの種苗生産、放流がカワマスの漁獲量増加要因 →ほんまかいな |
和田=アマゴの人工種苗生産、放流が、カワマスの漁獲量増加原因 「こおんな がくしゃあに だれがしたあ」 どんどんぱっ ぱ どん ぱっぱ どんどんぱっ ぱ どん ぱっぱ |
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「長良川をあるく」 | 恩田さんのインタビューから | 釣れないアマゴ 産卵床の荒廃 荒廃した産卵床は復元する? 保水力なくなった山 産卵床の条件 きれいな水 適当な温度 産卵に適した小石の吹き上げ サツキマスも何れは幻の魚に 亀尾島川にもダム建設中 |
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長良川のアユが「絶滅危惧種」騒動に | 「アユ(天然)」を「アユ(天然遡上)に修正要望 その原因は流下仔魚の餓死 魚道が「遡上不可能」故ではない 和田さんは、この騒動を、サツキマスの状況をどう考えていることやら 和田さんは、人工種苗の「親鮎」が「湖産」であるとは気がつかず 萬サ翁は天然と養殖シラメの容姿の違いに気がつく 那珂川でも「人工」アユも「天然」アユと認識 |
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佐藤惣之助 「釣魚探求」 |
釣れなくても愉しい | 戦前の京浜工業地帯にアオギスがいた 釣魚巡礼の三原、尾道 四月のハヤ釣りで地元の人はびっくり 浮き鯛は時期尚早 餌のイカナゴの新子の旨さ ホゴ(カサゴ)は70余り イカナゴの佃煮への郷愁 フルセから新子漁に変わったのはいつ? 期間限定のフルセの佃煮は幻に |
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川那部浩哉 「魚々食紀」 |
川那部先生の鮒鮨「慕情」 | 鮒は、品下がった魚? コイよりも、海の魚よりも品 下がった魚 近江の鮒 今昔物語の圓城寺再建畸 譚と鮒 本朝食鑑の琵琶湖のフナの評価 ギンブナに雄は存在しない 琵琶湖の三種の鮒 ヒワラ=ギンブナ=クローン 関東の鮒 キンブナ ギンブナ ゲンゴロウブナ=カワチブナ=移殖された鮒 腸の巻き方の違いと魚の進化 オオキンブナとナガブナ キンブナの漁の仕方 鮒鮨 熟れ鮨の環境 内海を復活させたい ニゴロブナの鮒鮨は三万円ほど 内湖の消滅がニゴロブナの激減に |
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「正月のおせち―ごまめ・たづくり・ことのばら」の中から | 寛政九年の「元日宴」 西鶴とごまめ 「イワシ」とつく魚の多さ 氏素性は多数 カタクチイワシの産卵 群れるカタクチイワシ チリメンジャコ ひしこ ごまめ 諺でも冷遇されるごまめ ごまめの調理 タンガニイカ湖のクーヘ、そして、アフリカの「ごまめ」も |
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「魚々食紀」 亀山素光「釣の話」 亀井巌夫 「釣の風土記」 |
本モロコの塩焼き | 淡水魚の美味ナンバーワン 亀山素光「釣の話」のもろこ釣りの描写 スジモロコがオラ達の対象? ドロ、サシ虫、赤虫が餌 水深三十尋で冬を過ごすホンモロコ 内湖育ちのもろこ釣り のんびりとした釣りのスヂモロコ モロコの種類 琵琶湖のホンモロコ 「湖中産物図証」のホンモロコの描写 近年の図鑑のホンモロコの描写 タモロコの味は? 本モロコが食べられなくなる 内湖の埋め立て 老人のモロコ釣り |
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佐藤惣之助 「釣魚探求」 亀井巌夫 「釣風土記」 |
闘竜灘 | 佐藤さんは、五六匹 瀧下の奇巌の上で、櫻吹雪の中で、ビール付きで 毛バリは五,六本から一〇本 稚鮎の食べかた多様 亀井さんの「釣風土記」 汚い加古川 伏流水利用の水道も汚水に 遡上鮎ゼロ 阿江家からの漁業権委譲 物好きな「騒客」も居ない闘竜灘 |
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稚鮎の跳躍力は?游泳力は? | 琵琶湖に流入する小川にも遡上アユ 雄琴川の堰・勾配のある堰と遡上アユの情景 徒労の美しさ 2015年、2016年の大量遡上の相模川と遡上障害 酒匂川の栢山の堰の魚道と小田急鉄橋下流の堰 |
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「魚々食紀」の鮎の料理 | 三群の鮎 リュウキュウアユ、湖産アユ。海アユ 湖産と、南郷堰を遡上した海アユは交雑せず 湖産は海では生存できず 琵琶湖のアユ=大アユ、中アユ、小アユ 保存食としてのアユ 延喜式での記述 火乾しアユの記述が少ないのは何故? 「煮乾し」も行われていた 「土佐日記」の「押し鮎の口を吸うばかり」とは なますの作法 骨の軟らかさ =垢石翁とは異なる「本朝食鑑」の評価の違い 川那部先生のお口に合う料理は 亀山さんの鮎釣り主要河川の選考基準は? |
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佐藤惣之助 「釣魚探求」の「気仙川のやまめ」 |
百花絢爛の北国の春 新津川ではハヤ 明るいヤマメ専門の川はいずこ? 竹駒から世田米へ ドアの外にぶら下がり青年と話す オーガイの引っ掛け アイ解禁日は一貫五百目も ザツコを盛岡に出荷 「鱒をかけにいく」とは? ヒヤザツコの季節は終わる 地元は毛鉤万能=クモツリ ねまり松附近は川中に巨巌多し |
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佐藤惣之助 興津川のドブ釣り そして南紀釣行 |
興津川のドブ釣り 炭焼きと心中淵の予定は小島に変更 アカエイが鮎を食べに 小島の漁師は富士川へ 川原に寝転び、又泳いで 「南紀釣行」 昭和15年6月1日 高野口へ 四寸以上六寸 友釣り不調、ドブ釣り好調 佐藤さんは45匹 「昆虫食時代」の亀山さん、否定する川那部先生 紀ノ國のサクラ鮎を満喫 串本への道中も愉し 潮岬の夕まずめは不漁 ボウズも又愉し |
長谷川櫂「『奥の細道』をよむ
高倉健さんが亡くなられて、一周忌とのこと。
去年のその頃は、既に、「姥ざかり花の旅笠」の下書きを始めていたが、今年はどうも気が乗らない。
というのは、去年は藤田栄吉「鮎を釣るまで」や、愉しくなる佐藤垢石「鮎の友釣」を手にしていたから、その前段ともいうべき「姥ざかり花の旅笠」を読むことも愉しかった。
しかし、今年は、和田吉弘「長良川のアユづくり」のように、「学者先生」の本など、故松沢さんに「学者先生はそう言うが」といわれる本にしかお目にかかることができず、また、今年の遡上鮎が僅少であった狩野川、ダム放流で濁りがとれず、「香」魚を、番茶も出花娘の馬力を楽しめたのは、テク2だけという大井川のように、不運の年を嘆くしかない状況ですからねえ。
とはいえ、故松沢さんの最後の弟子とうぬぼれているオラが、「不漁」に押し流されていては、へぼの沽券に関わる。
ということで、愉しくないが、長良川が死んだとき、ハンガーストライキで倒れた天野礼子ちゃん(注:故松沢さんの思い出:補記8に紹介していますが、リンクできず)の状況に寄与したと思われる「長良川のアユづくり」を素材とします。
とはいえ、「香」魚どころか、遡上鮎でさえ、「絶滅危惧種」とされる状況に立ち向かうには、嘆き悲しんでばかりいては駄目、という長谷川櫂「『奥の細道』をよむ」(ちくま新書)からとりかかります。
(原文にない改行をしています。)
「花より酒」のオラに、歌心が理解できるはずはなし。小田宅子さんの「東路日記」などから、田辺さんが紹介されている和歌も無視をしたほどの「音痴」が、俳句に心ときめくこともなし。
どうなることやら。
歌枕を尋ねる旅
長谷川さんは、みちのくの旅を歌枕を尋ねる旅であり、その結果、芭蕉が得たもの、蕉風を新たなものにしたキーワードが、「不易流行」と「かるみ」の「境涯」と書かれていると思う。
ということで、まずは、歌枕とは。
「みちのくは漢字を宛てれば『道の奥』。文字どおり道の最果ての国。そこは松島をはじめ数々の歌枕の待つ国。歌枕とは人間の想像力が作りあげた名所。古池の句で開いた心の世界を試すにはこれ以上、ふさわしい土地はないだろう。『おくのほそ道』の冒頭に《松島の月先心にかゝりて》と書いたのは、芭蕉の真情だったにちがいない。その名を知られたみちのくの松島こそは歌枕の中の歌枕なのだから。」
「古池」の句について、
「古池の句を詠んでから芭蕉の句風は一変する。広々とした心の世界が句の中に出現する。蕉風とはまさにこの現実のただ中に開かれた心の世界のことである。さらに、この古池の句が母体となって名句を次々に生み出してゆく。だからこそ、古池の句は蕉風開眼の句なのだ。」
「三つ目は、一句の中に次元の異なる言葉が入っているということ。古池の句の『蛙飛こむ水のおと』は現実の音を表しているが、『古池』は心の世界を表している。『蛙飛こむ水のおと』と『古池』は次元がまったく異なる。それが一句の中に同居している。」
「千住で舟から上り、一同別れを惜しんだ。」
そして
行く春や 鳥啼魚の 目は泪
を詠む。
想像力の賜物である歌枕の事例
「『室の八島』は歌枕。下野(しもつけ)の総社、大神神社境内にある八つの島がそれであると伝えるが、室の八島はもともと宮中の大炊寮(おおいりょう)にあった竈(かまど)のこと。だからこそ、ここで曽良もいうとおり『室の八島の煙』として和歌に詠まれてきた。それがいつの間にか下野の歌枕となった。この附近の清水から立ちのぼる水蒸気が煙のように見えるから。歌枕とはこのとおり、想像力の賜物なのである。」
長谷川さんは、「室の八島の煙」を詠んだ藤原実方の和歌も紹介されているが、省略。
芭蕉と曽良は、黒羽へ。
黒羽には、いや、那珂川に何回もいった者としては、黒羽での足跡を紹介すべきか、どうか、悩ましいなあ。
与市の神社は、湯殿大橋に近いところの神社でしょう。「玉藻の前の古墳」も、湯殿大橋に近いところにある古墳・上侍塚古墳では。
雲巌寺などの寺には、立ち寄ったこともなし。家老だったか、の門を移築した?黒羽小学校の門は見たが、一部の寺は車から見ただけのため、定かではない。
雲巌寺での俳句だけを紹介して、次に急ぎましょう。なお、俳句は、長谷川さんが「切れ」を表現されているので、その状態で表現します。
/木啄(注:きつつき)も庵はやぶらず/夏木立/
朽木の柳・遊行柳
「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ 西行(『新古今集』)
蘆野の柳は歌枕。西行は白河上皇の鳥羽離宮(鳥羽殿)の襖に柳の絵が描かれているのを見てこの歌を詠んだが、いつの間にか、那須の蘆野にあるこの柳こそが西行が歌に詠んだ柳ということになった。」
「この柳は『朽木(くちき)の柳』と呼ばれるが、それよりも『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』として世に知られているのは、のちに観世小次郎光信が謡曲『遊行柳』にとりあげたからである。諸国行脚中の遊行上人がこのあたりを通りかかると、一人の老人(実は朽木の柳の精)が現れて、先の遊行上人が通った道を教え、この朽木の柳のもとへ連れてゆく。そこで老人はこの柳こそ西行が『道のべに清水流るゝ』と歌に詠んだ柳であることを明かし、上人から十念を授かると、消え失せてしまう。十念とは南無阿弥陀仏の念仏を十回唱えること。不思議に思った上人が念仏を唱えながら夜を明かしていると、朽木の柳の精が夢に現れ、回向の礼を述べて舞を舞う。」
芭蕉は、
「/田一枚植えて立ち去る/柳かな/」を詠む。
この歌の「誰が田植えをしたか」について、説が分かれているが、長谷川さんは、
「西行であり、芭蕉でもある。」と。
その理由の一つとして
「次はみちのくの入り口、白河の関ということを思い起こせば、芭蕉は西行と一体となって白河の関を越え、みちのくへ入ろうとしているようだ。」
「歌枕の廃墟
白河の関を越えた芭蕉と曽良は、夢にまで見たみちのくを旅することになる。そもそも『おくのほそ道』の旅はみちのくの歌枕を訪ねる旅だった。みちのくこそ、このたびの目的地である。」
「しかし、みちのくの歌枕を見たいという芭蕉の夢がやすやすと叶うわけではない。そこには予想もしない事態が待っていた。芭蕉たちがみちのくで目の当たりにしたのは無惨にも荒れ果てた歌枕の姿だった。二人は行く先々で歌枕の廃墟に出会うことになるだろう。
もともと歌枕は想像力の生み出したもの。歌に詠まれたとおりの歌枕が現実の世界にあるわけではない。どこにあるかわからない歌枕もあれば、初めからどこにも存在しない歌枕もある。夢の中ではたしかに見えたのに、つかもうとすれば消えてしまう幻。歌枕もまたそんな幻に似ている。
しかし、歌枕が幻となって消えてしまうのを、芭蕉は手をこまねいて眺めていたかといえば、そうでもない。手の中から逃げ去ろうとする幻を逃さないために芭蕉はある秘策をほどこす。それは幻をつかもうとしないこと。つかもうとして逃げられるのなら、あえてつかもうとせず、そっとしておいてやること。みちのくの歌枕にゆかり深い藤原実方の墓のある笠島で、最大の歌枕である松島で、芭蕉はその秘策を使うことになるだろう。
では、みちのくの旅へ。」
遡上アユが、「香」魚が、幻であるから、「つかもうとしない」、なんて悟りきった境涯はオラには無縁です。
未練たっぷりに、いまひとたびの会うこともがな、と、みのりなき行為をします。悪あがきがオラの性にあっています。
2015年6月30日、7月1日、テク2は、大井川で、長島ダムができて以来始めて、時期限定で存在していた「香」魚の番茶も出花娘や女子高生をだっこできた。その幸運が、越後荒川か、はたまた大井川か、白神山地を流れる追良瀬川か、何処にか、何れの日にか、存在する可能性があるのでは。
壺の碑(いしぶみ)
「壺の碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有り。」
「壺の碑は古来、みちのくの何処かにあると伝えられる歌枕。どこにあるかわからない幻の碑である。
陸奥(むつのく)の奥ゆかしくぞおもほゆる壺の碑そとの浜風 西行(『山家集』)
西行の歌は、みちのく(むつのく)には壺の碑や外の浜風といういずことも知れぬ土地があるからだろう、こんなにゆかしく思われるのはというのだ。
芭蕉がここで『壺碑』と呼んでいるのは、この幻の壺の碑ではなく、多賀城(たがじょう)碑。江戸時代の初めに発掘され、これがあの壺の碑と信じられた。」
「勘違いにもとづくとはいえ、ここで芭蕉が書きとめたみちのくの歌枕についての嘆きには耳を傾けておきたい。『むかしよりよみ置る哥枕おほく語伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみ』。山は崩れ、川は流れ、道は改まり、石は土に埋もれ、老木は若木に変わり、時は移り、時代は変わって、その跡さえはっきりしないものばかり。
歌枕はことごとく荒れ果てた廃墟になっていた。もともと人間の想像力が生み出した幻。近づけば逃げ水のように消えてしまうものなのである。そのなかで芭蕉が『疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す』と歓喜した『壺碑』でさえ、ほんとうの壺の碑ではなかった。」
継代人工、「香」魚でないアユが当たり前、と感じるしかない昭和の終わり頃以降にあゆみちゃんと出会うこととなった釣り人は幸せかなあ。オラも、昭和の終わり頃の新規参入者ではあるが、亡き師匠や故松沢さんに、硅藻が優占種の川と藍藻が優占種の川の違い、遡上アユと継代人工、湖産の違いを教えて貰ったから、学者先生の説が間違っちょる、と、腹を立てる境涯になったが。
それとも、遡上アユが満ちていた狩野川、梅雨明けの時期限定であるとはいえ、「香」魚がいた大井川を知っているオラの方が幸せかなあ。
「不易」ではなかった石の詰まった川、遡上アユ、「香」魚が今や幻となったことを嘆き悲しむオラの方が、幸せかなあ。
末の松山
「 きみをおきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなん 東歌(古今集)
君のほかに好きな人ができたら、あの末の松山を海の波が超えるだろう。末の松山を波が超えるようなことがないかぎり、君以外の人に心を奪われたりしない。末の松山の波が超えるという不可能なことをあげて愛の誓いを立てる。この東歌のために、末の松山は男女の末永い契りの約束の証となった。
その末の松山も墓原と成り果てていた。『はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終はかくのごとき』とは、比翼(ひよく)の鳥、連理(れんり)の枝の誓いも末はこのとおり墓原となるというのだ。」
芭蕉は、
「松島は歌枕の中の歌枕。『おくの細道』はみちのくの歌枕を訪ねる旅。それならば、松島を訪ねる旅だったといってもよい。冒頭に『松島の月先心にかゝりて』とあったのを思い出すまでもない。
それならば『おくの細道』に芭蕉の松島の一句があって当然と誰もが思う。しかし、芭蕉は曽良の句は入れたが、自分の句を入れなかった。詠まなかったわけではない。
島々や(注:『々』は、 [く] に点々で表示されている)千々(ちぢ)にくだきて夏の海 芭蕉
芭蕉は松島で少なくともこの一句を詠んでいる。しかし、『余は口をとぢて、眠らんとしていねられず』というのである。.地の文では言葉を尽くして松島をたたえながら、これはどうしたことか。
ここに松島の一句が入っていれば、話ができすぎてしまう。それは面白くないと芭蕉は思ったにちがいない。そこで、松島の句をあえて入れなかったということだろう。
その結果、松島という歌枕は手つかずのまま残され、『おくの細道』の世界は紙幅を越えて果てしなく広がることになった。芭蕉は笠島の実方の墓の前で試みた『焦点はずし』を、、松島という『おくの細道』の檜舞台でふたたびやってのけたのだ。
絵の名人が富士山の絵を描くのに、頂上を雲で隠し、あるいは、画布の外にはみ出させて描かないのと同じ。もし、頂上を描いてしまえば、その富士は小さな画布の中の富士。ところが、頂上を描かなければ、富士山は画布をはみ出して見る人の心の中で大きくなる。
富士山の頂上に相当するのが、ここでは松島の句。もし、松島の句をここに入れていたら、『おくの細道』の世界はただそれだけのこぢんまりしたものになっていただろう。」
芭蕉は平泉から、尿前の関から、山を越えて出羽国へ。
尾花沢、立石寺、最上川の大石田などを経て、出羽三山を上る。
「不易流行について」
「不易流行の不易は永遠に変わらないもの、流行は時とともに変わるもの。芭蕉は元禄二年九月、『おくの細道』の旅を終えるが、その年の十二月、京の去来に初めて不易流行を説いた。『この年の冬、初めて不易流行の教えを説き給ふ』(『去来抄』)。
最初に伝授された去来は芭蕉の不易流行を次のように伝える。
蕉門に千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句と云有り。是を二つに分けて教へ給へる。其元(そのもと)は一つ也。不易を知らざれば基たちがたく、流行を知らざれば風新らたならず。不易は古によろしく、後に叶ふ句成故、千歳不易といふ。流行は一時一時(注:後の「一時」は、記号表示)の変にして、昨日の風今日宜(よろ)しからず、今日の風明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやる事をする也。(『去来抄』)
ここで去来は、不易、流行と分けていうけど、『其の元は一つ也』という。ところが、この不易と流行は対立する別個のものと勘違いされてきた。不易は永遠不変のもの、流行は刻々と変わるもの。ならば、流行は軽薄であるから不易の句を詠まなくてはならないとか、不易は活気に乏しいから流行の句の方がいいとか、まるで不易の句、流行の句というものがあるかのように。
このような誤解を生む原因の一つは、不易、流行という言葉自体が何やら対立し合うもの同士のような印象を与えるところにある。もう一つの原因は、去来にかぎらず、不易流行を後世に伝えた弟子たちの書き方にあるだろう。
ここに引用した『去来抄』を読むとわかるとおり、去来は芭蕉の不易流行を俳句論として書いた。もし、不易流行が俳句論であれば、不易の句、流行の句があることになる。それを『其元は一つ也』といっても、不易の句と流行の句がなぜ『其元は一つ』なのか、なかなか理解しがたい。
しかし、芭蕉が考えた不易流行はなによりもまず一つの宇宙観であり、人生観だった。人は生まれ、大きくなり、子供を生んで、やがて死ぬ。時の流れに浮かんでは消えてゆく人というものの姿を人としてとらえれば、この宇宙は変転きわまりない流行の世界である。
ところが、変転する宇宙を原子や分子のような塵の次元でとらえなおすと、人の生死は塵の集合と離散に過ぎない。あるとき、塵が集まって人が現れ、またあるとき、塵が散らばって人が消える。これは一見、流行の世界のようだが、この塵自体は減りもしなければ増えることもない。まさに流行にして不易の世界である。芭蕉のいうとおり『其元は一つ』なのだ。
人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転きわまりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行だった。
芭蕉は『おくのほそ道』の旅の間に不易流行を生み出したといわれるが、では『おくのほそ道』の旅の何が芭蕉に不易流行をもたらしたかといえば、『日月行道の雲関に入るかとあやし』んだ出羽と越後での宇宙的な体験を除いてほかにないだろう。
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声 (立石寺)
涼しさやほの三か月の羽黒山 (羽黒山)
雲の峰幾(いく)つ崩(くづれ)て月の山 (月山)
暑き日を海にいれたり最上川 (酒田)
文月(ふみづき)や六日も常の夜には似ず (直江津)
荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは) (出雲崎)
芭蕉は立石寺で宇宙の静けさに気づき、羽黒山、月山では月を、酒田では太陽を、越後の海岸ではきらめく銀河に出会った。宇宙をめぐる天体と向き合いながら、変転きわまりないと見えるこの世界も実は永遠不変であることに気づいたのだ。たえず流れ、移ろいながら何一つ変わらない。人も花鳥も天体も、みなこの不易なるものが流行する姿なのだ。
去来たちが伝える、俳句には不易の句、流行の句があって『其元は一つ』であるという俳句論はこの宇宙観、人生観の上に立って初めて納得できる。」
「不易流行」が理解不可能な世界観・境涯としか理解できない俗人には、「不易」がどこの河にも存在しない、ということの方が、現実性がありますなあ。
大井川だけを見ても、長島ダムができる前は、石が一杯詰まっていた、梅雨明けの時期限定とはいえ、シャネル5番の香りを振りまいていた「香」魚を育む水があった。
いや、水は、硅藻が優占種であることは変わっていないとしても、長島ダムでアユの体内で香り成分を生成する栄養素が、長島ダムで蕃殖するポタモプランクトン・浮遊植物プランクトンに消費されてしまい、ダム下流には流れてこなくなった。
「不易」よりも、「流行」に目がいき、日々、年々、不幸を嘆き悲しむことになっているが。
「不易流行から『かるみ』へ」
「芭蕉はこの第四部で人の世のさまざまな別れと遭遇する。別れとは何かといえば、人生の究極の姿だろう。一口に別れといっても、日常的なしばしの別れから決定的な生き別れ、死に分かれ(注:原文のまま)までいくつもの形がある。しかし、こうしたいくつもの別れはすべて人生の小さな一こまの、あるいは、大きな時代の帰結なのだ。
人生には悲しい別れの一方で喜ばしい出会いがあるが、すべての出会いは別れで終わる。どんなに仲むつまじい親子も夫婦も友人も、やがて別れの日がくる。たとえ喧嘩別れをしなくても、いつの日か、白ずくめの死が二人の間にまるで媒酌人のように腰をおろしているだろう。まさしく会うは別れの初め。それに対して、別れは出会い、つまり再会で終わるとはかぎらない。別れはしばしば永遠につづく。人生は結局、別れ、この一事に尽きるのだ。
さまざまな悲しい別れの降りかかってくる人生を人はどのようにすれば耐えることができるか。芭蕉が『おくのほそ道』の第四部で直面したのはまさにこの大問題だった。その時、芭蕉の胸に芽ばえたのが『かるみ』にほかならない。
『おくのほそ道』第三部で芭蕉は太陽が輝き、月が照り、星たちのまたたく宇宙の世界を通ってきた。そこで生まれたのが不易流行の考え方である。この宇宙は一見、変転極まりない流行の世界に見えながら、実は何一つ失われることのない不易の世界である。流行こそ不易であり、不易こそ流行。
この宇宙の姿を人の世に重ねたとき、見えてきたもの、それが『かるみ』だった。人生はたしかに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているだろう。
そう気づいたとき、芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが『かるみ』だった。
このように『かるみ』は不易流行と密接なかかわりがある。そして、不易流行がそうだったように、『かるみ』もまた俳句論である前に人生観だった。この『かるみ』という人生観が『おくのほそ道』以降、芭蕉晩年の俳句に抜き差しならぬ影響を及ぼしてゆくことになる。
では、秋の初めの市振の宿へ。芭蕉と曽良の隣の部屋から、二人の遊女と老人の声が聞こえてくる。」
/一家(ひとつや)に遊女もねたり/萩(はぎ)と月/
「親不知、子不知、犬戻り、駒返しは市振にいたるまでの渚の難所。隣の部屋から漏れてくる声を聞くともなく聞いていると、どうやらお伊勢参りにゆく新潟の遊女二人と見送りの老人らしい。遊女たちはあす新潟へ帰る老人に手紙や言づてをあれこれ託しているようだ。
『波のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因いかにつたなし』は遊女たちの嘆き。『和漢朗詠集』にある遊女の歌を踏まえる。
白浪のよするなぎさによをすぐす海人(あま)の子なればやどもさだめず
遊女(『和漢朗詠集』)
『波のよする汀に身をはふらかし』は、波の寄せる渚にわが身をうち捨て。親知らず、子知らずなど数々の難所のある越後の海岸。『あまのこの世をあさましう下りて』は、波に舟を浮かべて漂う漁師のようによりどころのないこの世に落ちぶれ果てて。『定めなき契』は、夜ごとに異なる相手に身を任せ。『日々の業因いかにつたなし』は、このような罪深い日々を送るようになった前世の因縁はどんなにひどいものだったのだろう。」
元禄の代は、戦争が途絶えて既に一世紀近くたっているとはいえ、遊女がお伊勢参りとは、ぴんとこない。
姥桜四人さんが、天保の代に、お伊勢参りを、ついでに善光寺参りができたことには、為替制度もあり、また、戦時下での法制度である法度が、太平の世には機能不全の代物になっていることは理解できる。そのため、社会の変化に法度を合わせるため、「お目こぼし」が当たり前であることも。
その状況が、元禄の世にも芽ばえていたということかなあ。
また、識字率が、天保の代、江戸期後期には、イングランド並みの水準にあったことは、世界一であったことは理解できる。
しかし、元禄の代でも遊女が文をしたためていたとは。もちろん、遊女ではなく、老人が文を書いていたかも知れないが。それでも、識字率は当時の世界から見れば、高いかも。
そもそも、「遊女とは」?
静御前のような白拍子ではないとは思うが。
田辺さんも、姥桜さんたちの旅費を気になさって試算を依頼されているが、オラも遊女のお伊勢参りの路銀がいくらぐらいであったのか、気になりますねえ。
ということにしか、関心が向かわず、このことが、「かるみ」が北陸道で詠まれた俳句からは、理解できないことに理由があるのかも。
「不易流行」は、目に見え、あるいは聞くことができる現象を伴っていることが多いようであるが、「かるみ」は、目に見える事柄ではないからかも。
ということで、おくのほそ道最後の句である
蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ
へ。
「芭蕉が大垣に集まった親しい人々との別れに臨んで詠んだ、『おくのほそ道』最後の一句。『ふたみ』は蛤の蓋と身に伊勢の二見が浦を掛ける。二見が浦は歌枕。
今ぞ知る二見の浦のはまぐりを貝合(あは)せとて覆ふなりけり
西行(『山家集』)
この西行の歌に詠まれた蛤が蓋と身に分かれるように、私はまた君たちに別れを告げて伊勢の二見が浦へと旅だってゆく。一物仕立て。
行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ) 芭蕉
芭蕉は『おくのほそ道』の旅立ちに当たって、深川から見送りの人々と舟で隅田川をさかのぼり、千住で舟から下りると、別れに臨んでこの句を詠んだ。
行春の句も蛤の句も別れの句であり、舟にかかわりがあり、背後には川が流れている。このように、『おくのほそ道』の最初と最後の句にはいくつかの共通点があるが、その詠みぶりには大変な違いがある。
行春の句は『鳥啼魚の目は泪』といい、やや大げさな芝居がかった感じがするが、蛤の句の何と安らかなこと。
蓋と身に分かれるのは蛤にとって身を裂かれることであり、蛤は耐えがたい痛みを感じているはず。私もその痛みに耐えて君たちとここで別れるというのだが、この句は蛤の蓋がおのずから開くような安らかな感じがする。ここには嘆き(鳥啼)も涙(『魚の目は泪』)もない。耐えがたい別れをさらりと詠んでいるだけだ。
さながら流れ去る水のように淡々としたこの境涯こそ、古池の句を詠んでから三年後、『おくのほそ道』の旅で見出した不易流行と『かるみ』のまぎれもない成果だった。」
かるみ、なんてさっぱり理解、共感できる事柄ではなし。
まあ、花よりも酒の凡夫には当然の成り行きであるが。
不易流行にしても、不易と流行の現象に悦び、嘆くことがあるものの、「不易流行」となると理解できているとは言い難い。
いや、それどころか、「不易」とは宇宙に存在する現象であり、この世には、地球には「流行」の現象しか存在しないという理解でよいのかなあ。
いや、そんな理解は間違っていますよねえ。
この世の「流行」と見える現象ですら、「不易」ということのようで。この世で、数十年しか存在しない人間には、星空等を眺めることだけが「不易」を実感できるだけ、となるのであれば、理解できるが…。
高山寺の明恵上人が、 あるべきようは ではなく あるがままに 生きなさい、とおっしゃっているものの、あゆみちゃんとの出会い、遡上アユとの出会いができない、シャネル5番の香りをぷんぷんさせる「香」魚と縁がなくなったから、といって、嘆くことにしましょう。
2015年の6月30日、7月1日、テク2が、大井川で、長島ダムができてから初めてと思える「香」魚に出会えたように、万一の僥倖を期待して、川に入ることにしましょう。
とはいえ、あと何回あゆみちゃんのナンパができることやら、わからないが。
和田吉弘「長良川のアユづくり」(治水社 1993年発行)
(原文にない改行をしています。)
今年は、「学者先生」の本にしか出会えず、気が重い。
しかも、長良川河口堰ができて、広大な止水域が誕生しても、流下仔魚が餓死することはない、という類いの本であるから、尚更のこと。
今西博士の自然観察をする上での心構えというか、観察力は、岐阜大学の先生には伝承されていないようで。
藤田栄吉「鮎を釣るまで」や佐藤垢石の書かれている「垢ぐされ」について、故松沢さんの思い出:補記8では後回しにしたことを何とか整理をしたかった。
しかし、そこで存在している垢は、硅藻が優占種。現在の川は藍藻が優占種。
藍藻が優占種の川は日々見ているが、硅藻が優占種の川は僅かな記憶と時折目にするだけ。村上先生や真山先生らが、素人にもわかりやすい本を発行してくれていないかなあ、と思ってはいたが、その願いが叶わず。
巌佐先生は、硅藻は2万ルクス以上になると、死ぬ、と。
しかし、藍藻ではどうなのかなあ。
藍藻がばばっちくなるのは、アユが少なく、食堂が閑散としているとき。アユが多く、食堂が繁盛しているときは、黒々とした石であると思う。
したがって、現在の川では、照度による垢ぐされはないかも。
この問題が解決しないと、学者先生の二の舞になる。
ということで、藤田さんらの古の川での垢ぐされに係る記述を紹介することはさらに後日に。
もっとも、村上先生らの「河口堰」や「ダム湖・ダム河川の生態学」を丁寧に読めば、回答が書かれているのかも知れないが。
ということで、50数年ぶりに神保町へ。
橋本から京王線で直通でいけることは便利になったが、駅を降りてから、方向感覚がつかめず。
2階建ての古本屋街は今いずこ。岩波の販売店と三省堂だけのビルしかなかった町は、すべてがビルに。方向感覚を呼び戻すために明大まで行ったが、明大も並みのビルに。
ということと、期待する愉しい本に出会えなかったことは関係ないが、学者先生の本を読まざるを得なくなった。
かってと違うことは、「アユの本」の時は、どのように間違っているのか、故松沢さんに聞かざるを得なかったが、少しは自力で間違いがわかるようになったこと。
和田さんには、
1 遡上アユの産卵場所およびトラックで運ばれてきた鮎の産卵場所の理解すらなし
2 遡上アユの産卵場を知ることなく、それよりも上流を産卵場と判断して、11月には流下仔魚が観察されていないから、産卵終期は11月中旬から11月下旬と判断している。
(しかし、11月以降、流下仔魚が観察されていない事例もある。遡上アユの産卵場よりも上流での調査故)
なお、産卵開始時期は9月初旬~9月中旬、と。
また、板取川合流点付近でも産卵しているから、「弁当」を持たない流下仔魚が、損耗率は高いにしても、汽水域、海に到達しているから、河口堰ができて止水域が長くなっても流下仔魚の生存に与える影響はなし、と判断されている。
湖産と海アユの区別すらできない人、いや行わなかった人が河口堰の生物に与える影響調査の鮎にかかる研究報告をされている。
そこ結果から、河口堰ができても、取水口への吸い込まれることが問題との小山さんの取水口での仔魚損耗防止調査につながっているよう。
「長良川のアユづくり」は、河口堰への生物にかかる影響調査に関しての1973年から1990年頃までの調査と、その結果に基づいて多くの読者が読めるように書いたものとで構成されている。
したがって、調査結果で生じている「現象の違い」が、何でかなあ、と考える素材が適切に提供されているとはいえない面もあるが、ミスリーディングをしていても、「学者先生」の観察眼の貧弱さには影響を生じることはあるまい。
ということで、読みたくない本の筆頭。
なお、和田さんは、河口堰の生物に与える調査の後、「長良川のアユづくり」の発行までの間、1973年頃から1993年まで東先生らの本、研究成果を読まれた形跡はなく、初志貫徹のよう。
東先生が、湖産を4群から2群に変更されたこととは大違い。
また、松浦川の流下仔魚調査では、「湖産」と「海産」を区別されていたこととは大違い。
したがって、読みたくない本を何とか読むしかない、と覚悟したのは、天野礼子ちゃんらが、このような方々が「正当化」した河口堰に反対して戦わざるを得なかった…という思いからだけ。
和田さんの「長良川のアユづくり」は、
建設省の役人が、「長良川の河口に治水と利水のための堰を作りたいが、長良川は大変に評価されている素晴らしい川であるから、したがって十分な調査をして影響を予測し、対応を考えて、何とか今の長良川を守りたい。今までのように川を利用するだけでなくて、自然保護の面も充分に考え、いわば理想的な形で長良川河口堰を実現したいというのです。」
「その前にKST(木曽三川河口資源調査団)のことをお話ししておきましょう。これは昭和三十五(一九六〇年)にKSTが発足して生物調査が企画されたのですが、小泉先生はその団長でした。そして小泉先生が私にいわれるには、『アユの産卵孵化から仔アユの降下生態がまるで明らかになっていない。地元の君がやったらどうだ』と。」
「これ(注:湖産)に対して降海遡上型の海産アユと申しますのは、長良川でいいますと河口から大体四十キロから七十キロの附近で産卵します。そうして孵化した仔アユは流水に押し流されながら下流に下り、汽水域を通って海へ行きます。」
各地から砂利を集めてピンセットで卵わけをする。
「結果は板取川と長良川の合流点にあたる美濃立花の地点の川砂利から鮎の卵六個を発見しました。それから先はずっと発見できなくて、合渡鏡島地先の鏡島のところで十個がみつかりました。バケツ三千六百杯の砂利からなんと卵が合計十六個です。この方法では到底駄目だということがやってみて初めて分かりまして、その後は方針を転換しました。」
産着卵の調査を、「トラックで運ばれてきたアユ」の産着卵の調査をされてご苦労様。
ということで、仔アユを調査することに。
11月の秋、成魚の雄と雌を長良川下流漁協の人にとってもらい、人工授精して、仔魚の大きさを見た。
体長四ミリから六ミリ。
これが、「湖産」であるか、海産であるか、の問題はあるが、11月に採捕されているから、海産としておきましょう。
東先生は、松浦川での仔魚調査の時は、湖産仔魚と海産仔魚を区分されているが。
「長良川のかなり上流に千疋橋があり、それから藍川橋、長良橋とありますが、国道旧二十一号線の長良川大橋まで行くと砂利層がなくなってしまいます。したがってその間でともかく捕まえようというのですが、さてつかまえるはよいが網はどうするということが問題でした。」
「~私どもの調査の結果、残念ながら長良川ではおおざっぱにいって産卵場が河口から四十キロメートル地点にはじまり、上流は板取川との合流点の美濃立花あたりの河口から七十キロメートルほどのところということが分かりました。主な産卵場は合渡鏡島地先であって、そこでほぼ八十パーセントの産卵が行われているということも分かってまいりました。
産卵場そのものの面積が広いことはまあよいとして、河口からこれだけ遡って参りますと孵化したてのメラニン色素細胞をまったく持たない仔鮎が流水によって流されて、太陽が昇ってくる朝方にはどの辺にいるのかということが問題になります。
長良川の場合、朝八時から十時ころになっても仔アユたちは東海大橋付近、つまり河口から二十二.五キロメートルも離れた水域にようやくたどりついたところなのです。そこでお昼を経過しなければならないし、紫外線にも耐え、餌も食わずに空腹をしのがなければならないのです。現在の長良川がアユたちにとっては必ずしも理想的な自然にめぐまれた河川とはいえないことを私達は調査の結果思い知らされたのでした。」
ああ、こんなレベルの「調査」が適切であることを前提として、河口堰の生物への影響調査がなされていたとは、天野礼子ちゃんはどんなに怒り心頭の「境涯」に耐えていたのか、同情します。
なお、和田さんは、流速を「毎秒四十センチメートルくらい」と想定されているよう。
また、「弁当」を持たないで流下している、と。
困ったときの神頼み、ならぬ川那部先生頼みでは、
川那部先生の7日?分の弁当、という記述を紹介した記憶はあるが、見つからない。和田さんとは異なり、孵化する前に卵黄?を消化しきっていない。
川那部先生は、遡上アユの産卵場について
川那部浩哉「曖昧の生態学」(「財」農山漁村文化協会 1996年発行)の
「『自然』の何を守るのか」の章の「長良川の状態」の節に
「岐阜市のやや下流においては、河床の低下とそれによる砂防・水制の破壊が著しい。下流漁協員の船に便乗したが、他所者の私の目にも明々白々である。アユの産卵場は従来は東海道線鉄橋のはるか下流であったが、〈年々瀬一つずつ上流に移り〉、一九七四年(注:昭和49年=亀井さんが長良川に自然児が戻ってきた、との話を聞かれたのが昭和48年)現在は忠節橋下流から菅生にかけてであると聞く。
いっぽう、やや上流長良橋付近の低質は、現在一抱えの石は殆どなく、したがってアユ棲息場として一等地ではない。帰洛後一九五八年(注:昭和33年)の野帳記録を見たところ、〈この付近アユ棲息地として良好〉とあった。これらの変化は何のせいか? 原因にはいろいろのものがあるが、それをこうまで大きく続かせた元凶が砂利採取といわゆる河川〈改修〉にあること、これはまずまず確実である。」
「〈改修〉とは立派な言葉だ。しかしその〈改修〉とは、水を可及的に早く海へ流すことのみを目的としている。曲流し蛇行しながら瀬と淵を作ってきた川を、直線化しだらだらと流れる同じ傾斜の続く川に、いや溝にせしめようとのこの最近の工事方式。水の流れをなだめるための水制なんぞという工法は、〈古い〉として捨てられ、水は流れるのではなく流されるかたちとなったのだ。長良川はこの点でも隅田川・多摩川・淀川よりはまだましに違いない。しかしこうした〈改修〉工事は方々で進行中。また二重に堤防があり、中間が洪水時の遊水地(注:池?)となっていた場所は、内側堤のかさ上げを理由にすでに宅地化され始めている。洪水時の河積増大を第一の名目にされている長良川河口堰の〈目標〉とはまったく逆に、河積はわざわざ縮小されて行く。」
川那部先生が、現在の産卵場を「忠節橋下流から菅生」と書かれているのは、「自然児」ではなく、湖産のことかなあ。自然児が長良川に戻ってくる前のことを漁師から聞かれたのかなあ。
それとも、和田さんの調査報告が影響しているのかなあ。
和田さんは、
「さて、孵化した仔アユの総数が概算二十億尾から四十億尾として、東海大橋付近に到達するまでにそのうちの六十パーセントほどが死んでしまっていることがあります。物理的な死もありましょうし、他の魚に食われると言うこともあるでしょう。それからさらに千本松原付近に達するのが一夜明けた午後二時を中心とする前後三時間以内くらいですが、これは潮位の変動がありますから幅が六時間にも及ぶわけです。ともかくこの水域に到達するのに孵化後すでに三十時間ほどかかっています。そこからさらに海へ行きますので長良川の仔アユたちは孵化後三十時間以上、四十八時間くらいもかけて海に下ることになる。そこで千本松原地点でどれくらいのしアユが生き残っているかを調べて見ますと、最もひどいときには九十パーセントもの仔アユがすでにその段階で死んでしまっているのです。
ですから実際の海への供給量は、長良川の場合、産卵場が上流にありすぎるために、まれに見る豊富な孵化量にもかかわらず非常に少ないのです。」
さて、和田さんのご託宣は湖産も遡上アユも区別されていない調査に基づく判断であるから、無視したいとは思えど、間違いを暴くことが天野礼子ちゃんらの河口堰反対行動に対するささやかな賛同になるかも、と思い、非生産的な作業をすることにしましょう。それにしても、「トラックで運ばれてきた」鮎が、くだりをしないで産卵することすら、観察されていないとは驚き桃の木山椒の木。相模川は弁天分流のヘラ釣り場横でも、10月下旬ころから1,2センチの稚鮎が観察出来ますがねえ。2015年は、何でか、その分流の護岸付近で、水深が1,2メートルあり、瀞ふうになったところで、12月に一日だけ、稚鮎が観察されたが。なお、狩野川の雲金でも相模川同様に稚鮎が観察されている。松下の瀬でも2月まで生き延びた稚鮎が観察されているようであるが、その観察者は遡上が2月から行われている、と。2月の水温で、伏流水等があるところ、温排水があるところ以外で、生存限界以上の水温のところがありますかねえ。
和田さんは、「穂積大橋直下における仔アユ降下量の推移」をKST報告書から、グラフにされている。
これによると、9月15日頃に大量の流下仔魚が観察され、10月10日頃にピークとなり、10月20日頃から僅少に、そして、12月20日頃にはほぼゼロの水準になっている。
当然、湖産の流下仔魚であり、また、遡上アユの産卵場よりも上流の穂積大橋での流下仔魚量調査であるから、このような調査結果になる。
この調査結果に基づいて、その後の調査をされているから、和田さんのご託宣には何らの価値もない、ということになる。
その無意味な調査の間違いを指摘する作業なんて、趣味に合わないが、天野礼子ちゃんらが、河口堰反対行動をされた事へのささやかなエールを送りたい、ということで無駄な作業をすることにしましょう。
長良川には、平成の初め頃、卯建のある家並み、重文の井上家がある美濃で釣り、沖に走られて丼をしたこと、翌年は増水をしていて、オラには手も足も出ずに大岩で出来た石裏に鵜が飛びこんで鮎を捕まえたのを見ていただけ。もっとも、美濃市役所付近から河原に入ったところの囮屋さんの500メートルくらい下流には増水時にも釣り場があるとの話であったが。
そんな有様であるから、長良川の位置関係が分からない。
伊東安男編・著「長良川をあるく」(中央出版 1991年発行)に、地図がついているから、その地図を参照にして産卵場とされている位置関係を見ます。
ただ、橋の名称が書かれていないので、ネットの地図で橋の名称をいれていきます。
と思ったが、ネットの橋と、「長良川をあるく」の地図の橋との数があっていないよう。橋が増えている。
ということで、岐阜県の地図か、ほかの地図を探し出さないと、JR鉄橋からの位置関係、距離感が分からないことになる。
和田さんが、川那部先生や今西博士らのウン分の一の適切な観察ができるお方であれば、こんな苦労をしなくても済むのに。うらめしやあ。
岐阜市の地図でないと、東海道本線鉄橋から橋の距離をたどることはできないようであるから、東海道本線の鉄橋から上流へと橋を溯っていくと、
河渡橋、鏡島大橋、大網場大橋、忠節橋、金華橋、長良橋(この橋のところに鵜飼い観光船の渡船場があるのでは)、鵜飼大橋、千鳥橋、藍川橋、岐関大橋(ここで関市に入るのでは)、千疋大橋(この上流付近に「小瀬」があるのでは)、鮎之瀬橋(この上流が美濃になるのでは)
となるよう。
なお、鉄橋付近から下流が穂積のよう。その下流が墨俣。
「長良川をあるく」に書かれている産卵場
手頃な地図が見つからないから、「長良川をあるく」に書かれている産卵場を紹介します。
「秋になるとアユは産卵のために下流に下る。そして穂積町から墨俣町附近で産卵する。こうして短い一生を終えるが、孵化した仔アユはやがて伊勢湾にくだり、そこで大きくなって翌年上流に向かってのぼりはじめる。しかし、海が汚れてくるにしたがって、その数も減ってきているため、現在は琵琶湖でとった稚鮎を放流している。」
ということで、生物学とは無縁の人の記述の方が適切に遡上鮎の産卵場を記載されている。
「長良川をあるく」の人たちは、どのようにして鮎の産卵行動を適切に把握出来たのか。川漁師に聞かれているから。
和田さんも川漁師に聞かれているが、設問が適切でなかったからか、話された意味を適切に理解出来なかったのか分からないが、その観察を適切には理解されていないことは間違いなし。
「長良川をあるく」には、恩田さんがアマゴについて話されたことを掲載されているが、この紹介は後日に。
鵜匠の話
「小瀬鵜飼」に、鵜匠岩佐一夫氏の談が掲載されている。
「インタビュー」 小瀬鵜飼 鵜匠 岩佐一夫氏 から
「明治維新前まではね、長良の上流で鵜飼をやっているところは十軒ぐらいあったらしいですわ。その一軒が二つに分かれて小瀬(注:関市にあるよう)と長良でやるようになってきたそうですね。
この地が鵜飼に適しているということは、ちょうど長良川の中流で、この附近から上は昔から鮎の漁場の本場ですからね。戦前はこの附近は一番魚がおったけど、今はほとんど観光になってしまったですね。」
海鵜の調教には、萬サ少年が初恋の同級生のねえちゃんの要請を断った「餌飼」の話が書かれていない。なんでかなあ。長良川が湖産放流が主体になっていたから、ということかなあ。
また、萬サ少年が見ていた餌飼は、「小瀬」の鵜飼い船かなあ。
「鵜はね、もともと北朝鮮の方の岸壁にたくさんおるらしいけど、十一月の半ばころに日本海から茨城県の太平洋岸へ飛んでくる渡り鳥なんですわ。毎年新しい鵜はそこで捕らえるんです。現在はそこでしかとれません。でも毎年数が少なくなっておってね、ちょっと困っておるんですわ。」
何で、カワウでは鵜飼いに使えないのかなあ。カワウならいっぱい増えているのになあ。
海魚と川魚の違い
「野生の鵜はもちろん魚を飲み込みますよ。自然に自由に飛びまわるときはね、勝手放題に魚をとって食べますが、食べますと栄養分になるいいとこだけを体に吸収して、そのカスになるようなものは吐きだしてしまってね、そうして体を軽うして飛びまわる性質があるんですわ。
私の方に捕らわれてきたときにはね、まあ一日に何回も食ってくれたらこっちがかなわんでね、一日に一食で体を保てるように体を作り替えていくんです。
それで、海の魚を食べておるときは体もそういうふうに出来ておりますけどね、こちらへ来ると海魚と川の魚とは体の質が違いますから、どうしてもこちらへ来た場合は、川魚に慣らしてしまうんですよね。イワシとかサンマとか、ああいう脂のあるものを食わせると、羽なんかの水気が染み込んじゃって、なかなか乾かんですから。」
脂の多い方を食べると、羽に水が染み込みにくくなる、ということではないよう。
また、何で、羽が乾きにくいのかなあ。
「長良川での鵜飼いは小瀬と長良と、それから犬山でやってますわ。九州でも四国でもやっておるところはありますよ。ただ規模ややり方がまるきり違うわね。鵜舟の形も違うし、操る鵜の量も五,六羽ぐらいでしょう。でも本格的にやっておるのはこの長良川だけじゃないですか?」
「ただこの鵜というのは、魚をとることはもうどの鳥よりもすばしこいでね。鵜飼は結局これを利用したものですが、夜まっくらの晩に、篝火を赤々照らしてね、そして水中をよく見えるようにして、そうして寝込みを襲うような漁法ですね。これはもう千何百年前から、誰が考え出したか知らんがね、よく考えたと思いますね。
鵜を使って魚をとるという漁法というものは、中国でやっております。これは糸を付けずに、首だけに輪をはめて川へ放り込んでね、で、魚が飲み込みますでしょう。そうすると鵜は陸へ上がってきます。それを吐かせて、また放り込むんです。これは昼間のやり方ですけどね。でも鵜飼を鵜舟でやるということは日本人が初めて千何百年も前に考え出したことですけどね。それはまあ他にはありませんでしょう。
一晩のそりゃ魚さえおりゃあいくらでもとれますよ。昔は一晩で目方にして十貫目ぐらいとれよったんですわ。
今は琵琶湖産の鮎を放流しております。琵琶湖のしか、あそこしか養殖の鮎はおりません。けども長良川の鮎はほとんど伊勢湾から上がってくるのがほとんどですわ。あれが途絶えたらもう駄目ですわ。まあ今度河口堰がどうなるか知らんけども、困ると思いますけどね。」
故松沢さんは、鵜飼いの対象となっている鮎は、徳島からやってきた鮎:湖産と話されていた。
その鵜飼いの場所は、「鵜飼大橋」附近と思っていた。しかし、小瀬のことかも。
小瀬であれば、遡上鮎が途中下車するかも。
故松沢さんは、狩野川河口域から海に出て行かない稚鮎を観察されていた。継代人工が大手を振っている二十一世紀ころのことで、湖産は冷水病で放流対象から転落して数年後のこと。増水で流されてきた継代人工の仔鮎が狩野川の河口域の汽水域で動物プランクトンを食べて稚鮎になっていたものを観察されていた。
もちろん、その稚鮎が2月の生存限界以下の水温の中でも、温排水や湧き水の所で生き長らえることが出来たのか、どうかは別の問題であるが。
つまり、故松沢さんは、直接観察されるか、観察眼の優れた人から聴いた話しか信用されていない。
小瀬であれば、萬サ少年が鮎を、カワマスをとっていた美並に近い。そうすると、亀井さんが海からやってきた「自然児」の鮎がもどってきた、と書かれている昭和48年ころであれば、湖産の他、遡上鮎もいたことになるが。
もちろん、長良川も、伊勢湾も富栄養状態の水になっていた昭和47年以前でも、遡上鮎がゼロではなかったと思うが。
「第二部研究論文集」に書かれている産卵場、流下仔魚に関する報告書から
この研究論文集の「全体」を、適切に紹介する意図はなし。和田さんの調査研究の部分を、不適切なカ所をあぶり出すことが目的。したがって、「報告書」の構成を単純化しています。
「幼アユの生態」(長良川におけるアユの産卵から仔アユの降下まで)から
産卵期間
産卵開始時期:9月初旬~9月中旬
産卵終了時期:11月中旬から11月下旬
産卵最盛期:9月中旬から10月中旬の約1ヶ月間に大半の産卵が終了する。
産卵場
産卵区域:上限は立花の板取川合流点付近(81.0km)、下限は穂積大橋付近(38.1km)の約43kmの区域。
主たる産卵場は、長良橋下流域、特に鏡島・合渡・穂積付近と思われる。
産卵場の環境
長良川でのアユの産卵は水温20℃前後に多い。
産卵が最も多く行われる場所は35~150㎝/secの流速、10~170cmの水深で、藻類の着生が少なく、こぶし大の石と砂利又は砂利の河床で、卵は石の下側や砂利・粗砂に埋もれるように付着しているものが多い。尚アユの産卵場は時期的に上流部から下流部への移動が見られる。
河口堰と産卵
長良川におけるアユの産卵場はその下限と堰間に40余kmの距離があり、淡水域終端よりかなり上流に位置し、現状では直接的に環境を変化させることはなく、産卵への影響は考えられない。
といことです。
「湖産」の産卵、トラックで運ばれてきた産卵とは全然気がつかれていないでしょう。
遡上アユの産卵場よりも上流で、流下仔魚を観察しているから、当然、海からやってきた「自然児」の産卵風景を見ることもなく、又、流下仔魚が観察されることもなし。
房総以西の太平洋側の海アユが、水温20度くらいで産卵を開始しているとは、鮎釣りをしたこともない今西博士といえども、泣きたくなったのではないかなあ。
オラが学者先生の典型である「アユの本」の高橋さんや「長良川のアユづくり」の和田さんらを目の敵にする状況は、「西風が吹き荒れたころ」=木枯らし1番が吹いた後も狩野川に通っていた釣り人には理解して頂けると確信している。
もっとも、1993,4年ころから、遡上量激減の兆候が始まり、95年、96年の遡上アユがいないほどになったとき、そして2015年の遡上量激減の狩野川しか知らない釣り人には理解困難な「憤り」ですが。
何よりも、河口堰が出来ても、流下仔魚が汽水域に、海に、餓死することもなく到達できるとのご託宣はご立派ですなあ。ここまで、学者先生の観察眼の貧弱さが浮き彫りになると、故松沢さんは、どんな嘆き節をされるのかなあ。
そして、長良川の鮎が絶滅危惧種とする2015年の騒動なんて、もし、河口堰の止水域で、川那部先生が、「湖」と考えるべきと書かれている河口堰上流の水たまりで、流下仔魚が弁当を食べ尽くさなければ発生しなかった騒動に、和田さんは今でも考え及ばないんでしょうなあ。そして、高橋さんのように、遡上アユをたくさん回帰するための方策の行脚をされているのでしょうなあ。
まあ、そんな状況ですから、流下仔魚量調査数量の紹介は一切しません。湖産の流下仔魚を数えても、浸透圧調整機能不全で海に出ていかないか、生存限界以下の水温で死に、「遡上アユ」にはならないから。
汽水域で生存限界以上の水温があり、かつ植物プランクトンが蕃殖出来て、動物プランクトンを食べることの出来た稚鮎は、春まで生きているが。それでも、遡上行動は行わず、「シオアユ」と、学者先生が名付けている生活をするようで。
いや、相模川は六倉のヘラ釣り場のすぐ上流の湧き水が豊富な右岸ワンドには、春にヘラ釣り場に出て行き、ジャミと嫌われる稚鮎がいたが。
1973年(昭和48年)の報告書には、「(5)河口堰と仔アユの降下」の節に、湛水域の出現と仔アユの降下、河口堰と仔アユの降下が書かれているほか、幼アユの飼育方式の調査結果も書かれている。これがどの程度、適切かは分からないが、現在は、F1の種苗生産ではなく、継代人工の種苗生産となっている。多分、1985年ころから。又、魚道の構造も。
今西博士は、ご自身の「道楽」のために、和田さんに漁協に対して便宜を依頼した?
さて、第一部の「10 サツキマスの発見と養殖のいきさつ」の章には次の記述がある。
「私がアユの種苗生産の研究をやっておりましたころ、学長の今西錦司先生が私のところにお見えになりました。今西先生は元来が山で知られた方なのですが、京都に亀山素光さんという釣り好きの人がおられまして、今西さんに魚釣りの醍醐味を教えた。亀山さんは昭和十五年に『釣りの話』(弘文堂刊)という名著を出した方です。今西先生と亀山先生が連れ立って私のところへ来られていうには、『オレはアマゴ釣りが大好きだ。君アマゴ釣りのフリーパスを何とか世話してもらえまいか』とこういうことなのです。
天下の今西先生のお役に立てるなら嬉しいことでございますから漁業協同組合にお願いをしてフリーパスをもらってきてさしあげました。ところがその後漁協の方から『今西先生は仲間を十五,六人もつれておいでになる。そういうことは早く聞かせて貰わないと困る』とえらいお小言を頂戴してしまいました。私の方では先生ご自身が釣りがお好きだからとだけ思っていたのでしたが、今西先生は子分をぞろぞろ引き連れて長良川にお出ましになったという、まことに今にして思えばおおらかな今西先生らしいエピソードでありました。
その今西錦司先生があるとき私に、『君アマゴという魚はね、あれはカワマスだよ』とこともなげにいわれるのです。わたしはその発想にびっくりしました。もう二十何年も前の話になりますが、当時アマゴとカワマスとは、もちろん別種だと誰にも思われていたんです。ところが今西先生いわく、『アマゴ釣りが好きでアマゴをよう釣っているけど、秋口にアマゴがスモルト化して、いわゆる銀毛化して斑紋がなくなり、銀色になるやつがおる。それをシラメと呼んでいるが、あれが秋口に川を下って海でカワマスになるのではないか。春になって川を遡ってくるカワマスは、アマゴの降海遡上型であると僕は思う。
これに対して我々が普通にアマゴと呼んでいるものはいわゆる陸封型なのに違いない』とこういうのです。今西先生という方のアイデアはともかくいつもすごいんです。昆虫の複眼を使って写そうなどと奇抜なアイデアで周囲を煙に巻かれる。この今西先生の発想ですからこれはついて行けんとその時の私はあまり問題にしませんでした。」
和田さんがいかなる感性の人、長良川で生まれ育ったとはいいながら、観察力の乏しい人ということがよく現れている今西博士への感想ではないかなあ。
和田さんの「貧弱な発想」にオラもびっくり。
というオラも、素石さんが、萬サ翁への聞書を残されていなければ、そして、素石さんの遺言にしたがい、その聞書を「萬サと長良川」として出版された天野礼子ちゃんがいなければ、、和田さんの今西博士感を信用していたでしょうなあ。
素石さんと礼子ちゃんに感謝感謝、有難う。
さて、今西博士が、ヤマメ・サクラマスの関係と、アマゴ・カワマスの関係が、「相似説」と考えて間違いないと確信をもたれたのは、萬サ翁が大量にとってきたカワマスを観察されたとき。
そして、その時は、岐阜大学長になる前のこと。京大の先生のころのこと。
和田さんは、今西博士の「イワナとヤマメ」も読んでいないのでは。もちろん、この本のころは、「相似説」に確信が持てずに悩んでおられていたが。
東先生の松浦川での流下仔魚調査での海アユと湖産との区別を読んでいないことからも当然のことかも。
さて、今西博士が、十五,六人の仲間を連れてアマゴ釣りをされたのは、どのような目的があったのかなあ。
和田さんが、少しは観察力のある人であれば、その意図を考える糸口もあるが。
仕方ないから、オラの妄想を。
今西博士は、禁漁中のシラメ・アマゴの調査を、県の許可を得て萬サ翁に依頼されている。それだけでは十分には事実を、現象を把握出来ない事柄があると気づいておられて、「十五,六人の仲間」に調査を依頼されたのではないかなあ。
つまり、萬サ翁が調査をされている場所は郡上八幡付近であること、萬サ翁がアマゴ、シラメを釣る数が半端ではないとしても、一人では出来ない調査がある、と。つまり同じ時間・時期で、「場所」の違いがあるのか、ないのか。シラメの構成比に同じ時間・時期で、「場所」による影響があるかも、と考えられていたのでは。
あるいは、長良川中部漁協の管轄であるとすれば、降下している状況を調べられたのでは。もっとも、現在のように、漁協が分割されていれば、の話であるが。
萬サ翁がとってきたカワマスを観察されるまでは、アマゴとカワマスの関係に悩んでおられたのは、琵琶湖にいるアメノウオの存在から。
和田さんは、そのアメノウオを、長良川でも「アメノウオ」と称しているとの記述をされているが、ほんまかいな。
もし、そうであれば礼子ちゃんが、「萬サと長良川」に何らかの記述をされているのではないかなあ。
川那部先生と河口堰
川那部浩哉「生態学の『大きな』話」(農山漁村文化協会 2007年発行)
宮田親平さんとの対談の中から、
「『川那部さんには、固定した評価がありまして、最近の例ですと長良川河口堰の問題で、川那部さんは〈ああいうところに住んでいるからいかん〉と言った人として知られています』、」と芝浦工大の先生から座談会で紹介されているが、川那部先生のKST参加を断ったいきさつ等も含めて、とりあえずは省略します。
もし、KSTへの参加が実現していたら、学者先生の房総以西の太平洋側の海アユの産卵時期が川漁師の観察と同じになっていたかも、あるいは湖産と海アユの生活誌がごちゃ混ぜにならなかったかも、と考えているが。
そして、河口堰の生態系に及ぼす影響調査に参加されておれば、和田さんのように、遡上アユの産卵場よりも上流で、流下仔魚を観察して、11月、12月の流下仔魚が僅少、あるいは0との調査報告は阻止されているでしょうが。
「(注:川那部)しかし実際に私の行ったことは、建設側などが『この点について大丈夫である』とか、『影響が軽微である』などと言い書きした場合に、『その証拠があるのか』、『論理的に成立しないではないか』などと、相手側の論拠を突き崩し、あるいはそう言える証拠を出すように、と専門家として迫っただけです。書いたものをきっちり読んで貰えば、それはすぐに分かることですが……。」
地元の漁業組合や旅館組合の方が中心となったマンモス裁判に川那部先生は「呼び出されて」いる。途中で原告が訴訟を取り下げた後、第二次裁判と俗称されている裁判が始まる。
「宮田 いろんなスタンスがあって、反対運動というか市民運動というか、住民運動と市民運動という分け方も一つ出来るような感じもいたしますけども、後から反対運動を叫ばれてこられた方は、他の地域から来られる方が大変多いんですね、天野さんとか。」
「~宮田さんの言われたのは、大阪の天野礼子さんのことでしょうが、確かに日本列島中の人が広く知ったのには、あの人たちの力が大変大きかったですね。
地元の反対運動自体はずっとあったと聞いたように思いますが、それこそ『他の地域から来た』人々の中央、つまり東京などでの運動の華々しさによって、地元の人の動きも、外から見ているかぎりでは、改めて活発になったようですね。いや、地元の動きも、これによって日本列島あるいは世界中に、広く知られるようになったと言うべきかも知れません。」
もっと、丁寧に紹介しなければならないと思えど、いつもの通りずぼら根性が出ました。
しかし、遡上達成率にかかる川那部先生の意見は省略できない。とはいえ、流下仔魚についても堰で生じる湛水域の影響についても書いてくれていたら、和田さんの調査報告に悩むこともなかったのになあ。
「そんな態度じゃあ、礼子ちゃんに申し訳がたたんじゃろ」と怒られますね。
魚道の形式について
和田さんも魚道の形等について紹介されているが、川那部先生の文で間に合わせることにします。
中部地方建設局や水資源公団に意見を述べる機会があり、その中の不採用のものの一つは、魚道。
「~例えばアユが『魚道を溯上する』と言うのは、魚道の最下段から最上段へ上がるまでの、そのあいだだけのことではありません。まずはアユが、魚道の最下端をどうやって見つけるかの問題があります。『木曽三川河口資源調査団』の中で、信州大学の小山長雄さんなどが苦心した結果、『呼び水式魚道』を考えたりして、ある程度の成功を収めたのですが、これももちろん百%と言う訳には参りません。また、魚道を溯上した上には長い湛水域があるわけで、これは川ではなくてどちらかと言うと湖ですから、この湛水域の上端を越えることころまでが、従来の川とは変化したところになるわけです。
溯上条件の変化を問題にするのなら、そこまでのことを考えなければいけない。つまり、堰のずっと下流の魚道を見つけてそこへ入る流れのところから、湛水域の上流端までのあいだが、広い意味の『魚道』になるわけでして、そのあいだの変化に対してアユがどう反応するのかをはっきりさせなければなりません。そう言う測定のしかたをして、『変化はこの程度ある』と言えば、誰もが納得します。」
「川那部 そこで、例えば堰を閉める前には、少なくても数年間、どれくらいの比率のアユがどれくらいの時間をかけてそのあいだを通過し、どの程度に成長するかを詳しく調べる必要があります。堰を閉める『試行』ないし『試験的運用』をすると言うのなら、その後の状況と比較するために、いま言ったような事態調査が必要です。それをしないでおいて、『魚道』事態を見て、どれくらいのアユがどれくらいの時間で遡上したかを調べても、何の意味もないとまでは言いませんが、『変化がない』とか『どの程度の変化がある』とか言った、意味のあることは全く言えないわけです。
『全く変化がない』、すなわち『一〇〇%が同じ時間で溯って、成長も同じだ』などと言うことは、先ず絶対にあり得ませんから、当然『何%しか溯らない』とか、『上へ着くのが何日ぐらい遅れる』とか、さらには『成長がそのあいだにどう変わる』とか、そういう数字が出ます。そうすれば、賛成か反対かの意見の根拠になる事実の幅は、少なくとも狭くなりますから、意見調整はかなり簡単になる筈です。
しかしこれは採用されないままに、『せめてそれをするまでの数年間、時期を送らせるべきだ』とも申したのですが、閉めきりの『試験的運用』も行われてしまい、そしてすぐに本格的な閉めきりになったのです。このような調査もせずにしめきられたことにはかなり不満でして、九八年に環境省から要請されて、『第五回長良川河口堰問題ヒアリング』に応じたときも、国土交通省や水資源公団の関係者も居られた席でそう話して、質問にも答えました。いまでも、事前に調査をやられたほうが、本当は良かったと思っています。」
川那部先生が、和田さんの流下仔魚調査に言及されていないのは、「あまりにも貧弱」な調査条件設定と判断されたのでは、と勘ぐっているが。
「~西条八束さんが、他の人と一緒になって、建設省の調査を言わば補完するような、中々見事な調査をされて、水質やプランクトン植物の発生量などの変化を、非常に緻密に調べられたことがありますね。これは国際誌に論文としても出ています。」
西条先生は、村上先生らと「河口堰」(講談社)(故松沢さんの思い出:補記等に紹介)を発行されている。
オラでも和田さんの「間違っちょる」を指摘できるくらいであるから、川那部先生が鼻にも引っ掛けなかった調査報告と判断されたかも。
サツキマス、鮎の人工種苗礼賛の和田さん
和田さんは、鮎、アマゴの人工種苗生産、養殖手法に精を出されていたよう。
アマゴの種苗生産施設を郡上八幡に作る。
「サツキマスの発見と養殖のいきさつ」の章に
「今西先生のアイデア通りであるとすれば、アマゴの種苗生産により、稀な大形魚であったカワマスの人工増殖に成功する可能性が高い。そうなれば長良川沿岸住民にとって経済的恩恵ははかり知れないと思ったからです。」
今西博士が、岐阜大に移った頃はアマゴ=カワマスの関係は、アイデアの段階ではなく、確信に変わっていたのに、そのことに気がつかれずに「養殖」に精を出し、またその結果がカワマスの豊漁になると考えられていたとは、「人工養殖」崇拝者であり、養殖種苗生産は「進歩」と考えられていた和田さんの面目躍如たる思考、行動ですなあ。
「その生産過程でアマゴの斑紋がなくなって銀毛化する個体が大量に出ました。当時何パーセント出たかはよく知りませんが、今では銀毛化するアマゴは全個体数の三十パーセントにも達しています。これこそ海に下って行く未来のカワマスではないか、ともかくまともなアマゴではない、とまさにそこでカワマスとアマゴがつながって来たのです。」
アマゴの人工種苗生産施設は、郡上八幡に作られた。
そして、シラメの放流が開始された。
そのシラメに標識を付けて放流したところ、渥美半島の先端で標識「アマゴ」が採捕された。
とはいえ、人工種苗のシラメが、すべて海下っているのかなあ。
名人見習いが、狩野川で鮎釣りの外道として三匹?のカワマスを必死に下り、取り込んだ。
そのカワマスの身は白ではなく、ピンク色。しかし、幼魚紋が残っているものが一匹?いたとのこと。
その幼魚紋の残っているカワマスは、海まで下らなかった「シラメ」の可能性はないのかなあ。「萬サと長良川」に掲載されているカワマスの写真も、幼魚紋が部分的に残っている。このカワマスの写真は、河口堰が出来て以降に撮影されていると思うが。
ということで、人工種苗でシラメ化したアマゴは、海まで下らず、途中で生活する「戻りアマゴ」もいるのではないかなあ。
まあ、管理釣り場で一匹のサクラマスを釣ったことしかない者には、和田さんの「間違い」を考える材料はなし。
和田さんは、河口堰が出来ようが、出来まいが、アマゴの人工種苗を生産し、シラメを放流さえすれば、サツキマスが長良川に満ちあふれるとのご託宣。
「昔を振り返ってみますと、長良川のカワマス(現在のサツキマス)は非常に貴重な魚でして、一般の漁師さんたちは捕らないようにしていました。ということは、カワマスが川を遡上してくる時期長良川では四月下旬から五月初旬になると、川の流れの中に板を当てて棒杭でとめるんです。すると板の下流側の流れが緩やかになります。そこへ流し網を夕方にしかけておきます。そうしてあくる朝網を上げに行きますと、網に一つかかっていたり、今日は一尾もなかったり、そんな具合に時たま捕れる魚でした。捕り方そのものはとても簡単なのです。だからカワマスはお年寄りに捕らせよう、若い者は捕るなということになっていました。数は少なかったのですね。木曽三川河口資源調査団が調査した当時も、アマゴは沢山おりましたがカワマスはきわめて少ない魚でした。」
この上り落とし込み漁?的な漁法がどの程度行われていたのかなあ。
和田さんは、サツキマスのトロ流し網漁について書かれていないのは何でかなあ。
KSTは、1960年(昭和35年)から調査を行っているから、公害真っ盛り、伊勢湾は、東京湾同様、魚に棲みにくい環境になっていたから、アマゴはいっぱいいてもサツキマスは僅かしかいないことは当然の現象でしょう。
そのため、カワマスのトロ流し網漁の大橋さんが、九頭竜川に出稼ぎに行かなければならなかった頃でしょう。
「今日サツキマスが多くなりましたのは、ひとえに積極的な放流の結果であります。もともと漁業レベルで考えられる種類ではなかったのですが、現在では長良川だけで年間に十五,六トンの漁獲があります。ですから長良川のサツキマスの種が滅びるから河口堰の建設に反対であるとか、長良川にだけにだけ唯一生息しているサツキマスを守れ、などということが反対運動の合い言葉になっているとしたら、これほど滑稽な話はない。反対運動というものは、もっと科学的な根拠を以てなされなければいけませんね。
別の問題もあります。長良川のサツキマスは、放流したものがどんどん上って来ます。サケと同じように帰川本能がものすごく強いのです。しかも大きくなってから放流していますし、回帰性が強い魚ですから、本当にむらなく戻ってきて歩留まりが非常にいい。しかしこれも考えものでございまして、サツキマスが良い値段で売れるからといって、これから際限なくサツキマスを放流しては捕らえるということをもし続けたとしますと、生態系を乱さないとは断言できない。
海へ降下したときにはカタクチイワシやら小さい魚を盛んに食うでしょうし、遡上してくるとアユと一緒に来ますからアユを食う。まさに天敵でしょう。このようにサツキマスの絶滅などという滑稽な幻想は問題外であるにしても増やし過ぎてもよいのかということを考えなければならないのです。」
礼子ちゃんもこの本を読まれたと思うが、ハラワタが煮えくりかえったのではないかなあ。
1 KST調査の頃(昭和35年頃)は、降海した伊勢湾は、東京湾よりは少しましであるとしても、生物の生存を許さないほどの富栄養状態であり、また、生物の生存ができないほどの化学物質の濃度が高かった頃であるから、アマゴは生存できても、カワマスが海では生存しがたい環境であった。
2 その時のカワマスの遡上量を基準として、和田さんが上記の文を書いた平成の世のサツキマスの量を比較して、「人工種苗の放流の成果」と判断されているのは、それこそ比較対象を間違えている可能性が高い「滑稽な幻想」でしょう。
3 よって、「シラメの放流成果」といえるには他の指標との比較が必要であろう。
4 サツキマスが、生態系を攪乱するという現象が、河口堰がまだなかった頃、亀井さんが、「海からの自然児が戻ってきた」と書かれた昭和48年頃以降、どのようにサツキマスの漁獲量が変動したのでしょうかねえ。
5 大橋さんがトロ流し網漁でカワマスを獲り、萬サ翁が亀尾島川でカワマスが網に入りすぎて、与三五郎共々網を破られて大笑いをした頃と比べて、量が多くなっているのかなあ。和田さんは、何で、カワマスを職漁師が相手にしていないと判断されたのかなあ。不思議ですねえ。
当然、サツキマスにかかる和田さんの間違いを暴露するに価する経験、知識を持っていないから、川那部先生の「生態学の『大きな』話」(農産漁協文化協会 2007年発行)に頼ることにしましょう。
人工種苗と遺伝子の多様性
川那部先生は、和田さんとは違い、「人工種苗」万能主義者ではない。いや、その対極に存在されている。
「曖昧の生態学」(農山漁村文化協会 1996年発行)の「長良川河口堰のこと」から
「ところで話は突然に変わって、中部地方を流れる長良川のことである。読者の方々はすでにご存じと思うが、計画から三〇年あまり、裁判その他でもめて止まっていたこの川の河口堰が、一昨年着工になった。」
(注:この文は、「海洋と生物 六七」一九九〇年四月号に掲載された)
「~一九七八年、漁協を中心に岐阜県の多くの人が原告になったマンモス訴訟に、証人として出廷したことがあるが、川の生物群集を調べてきた一人として、ずっと気になっている。もっとも私がこの川を調べた、いや視た日数は合計三〇日程度。一番長く調査している京都府北端の宇川の一五〇〇日以上などとは比べものにならない。~」
「だから長良川については、たいしたことは知らない。その私が、日本自然保護協会の求めを断り切れずに、最近、その河川問題特別委員会なるものを引き受ける羽目に陥ったのは、第二の故郷と言っても良い宇川をはじめ日本中の川が、ここ三五年の間になんともいいようのないほど困った状態に変わってきているのは事実だし、そもそも『ほんものの川とはどのようなものか』を、各専門分野の人が別々にではなく、いろいろの立場の人々のあいだの論議――ある場合には激しく厳しい論議――によって改めて問い直す必要があり、その手始めに、長良川で判っていること判っていないことを洗い出すのも、案外に適当なのではないかと、ふと思ってしまったからである。」
「呼び水式魚道」と「閘門式魚道」に係るカ所は省略。
そして、カワマスについて
「長良川はまた、サクラマスの亜種であるサツキマス個体群の世界でのただ一つの良好な生息地だ。一九六〇年代後半までは、アマゴの降海型はビワマスと同じと思われていたが、加藤文雄・吉安克彦・本庄鉄夫さんなどによってこの二つは異なるものと判り、アマゴの降海型はサツキマスと名付けられたこと、このマスは一九三〇年代までは、瀬戸内海に流れる川で、『農林水産統計』に載るほど捕られていたのに、今では数年に一尾程度で新聞種になるということ、今年一月発表の環境庁のレッドデータブックでも、絶滅の危険のある魚として指摘されたこと、などなど、今や言うにも及ぶまい。
河口堰建設側は、サツキマスの漁獲高は多くないから、応分の補償で十分と確信していたらしい。あるいは人工孵化放流や養殖があるから、どうなっても良いと考えているかのように、時に発言する。
『遺伝子資源』の確保の面を考えるだけでも、こういう発想では議論にならぬ事は解りそうなものだが、これは、それらの人々に自分自身でものごとを新しく判断出来る能力、つまり真の意味での知識と教養がある筈だと、評価し過ぎなのだろうか。それはともかく、この魚の生態の調査は、幸か不幸か正に今後に残された問題なのである。
同じくサクラマスの亜種にタイワンマスがある。台湾島中部の大甲渓上流にのみ棲息してたものだが、今ではその一支流だけに細々と残っている。台湾政府と台湾大学とはここ数年その保護に乗り出し、一年はとりあえず人工孵化放流に頼った。しかし、遺伝子組成の単純化を危惧してこれをやめ、周辺への広葉樹の造林、ダムの除去と川の蛇行や瀬・淵の確保など、渓流の自然的状況への復元を目指している。
一昨年(注:1988年・昭和63年?)一一月札幌での『国際イワナ・サクラマス会議』でその報告に驚き、昨年五月には三人で見学に、一一月には日本からも一五人あまりが参加して現地で研究会を開き、方策をいろいろ論議した。
このマスの場合、もはや余りにも狭い範囲にごく僅かの個体数が残っているだけなので、成功するかどうかは楽観を許さないし、復元の進行状況もきわめて早いというわけにはいかない。しかしこの方向は、どこやらの国の建設関係者が慚愧するのは勿論ながら、研究者も注目し、せめていささかは反省しても良いのではあるまいか。
言葉遣いが、少々乱暴になって来たようだ。当方は顔でも洗って出直し、今も元のままの理屈と発想で長良川河口堰を推し進めようとしている人々には、エンツェンスベルガーさんの本でも買ってぜひ読んで貰い、先ずは頭と心を、そう、柔軟にして頂くことを要請しよう。」
和田さんは、「研究者・学者先生」であるにもかかわらず、また河口堰建設に係る長良川の生態への影響調査に携わっているにもかかわらず、「国際イワナ・サクラマス会議」の事にも不知、無知であり、にもかかわらず、河口堰の建設でサツキマス絶滅への危惧をされている礼子ちゃんたちを「滑稽な幻想」と揶揄されていらっしゃるとは、故松沢さんが、「学者先生はそう言っているが」と、軽蔑されていた自然観察眼貧弱の「学者先生」の典型ですなあ。
なお、和田さんが、「長良川のアユづくり」を発行されたのは1993年。「国際イワナ・サクラマス会議」の数年後である。
遺伝子の多様性喪失が、いかなる結果をもたらしたか、神奈川県が種苗生産をしていた三〇ウン代目の継代のアユ種苗の結末は、一つの事例になるかも。
5年ほど前、その継代人工が、中津川の角田大橋の左岸に流れ込む支流に放流された。下流側に網を張り逃げられないようにしていた。
草むらに飛び跳ねるアユ、狂い死にするように身をくねらせるアユ。
5キログラムほどの死骸が囮屋さんの冷凍庫に収まった頃、実験は終了。ショットガンで生きていたアユを回収したところ、数匹。
決して「冷水病」ではない。発赤も穴あきも身体にはついていない。したがって、川に棲息している雑菌で死んだはず。神奈川県内水面試験場では病理検査をしたでしょう。もうウン年も内水面試験場に行っていないから、結果は聞いていないが。
大きさは小中学生。どの位の量が放流されたか、知らないが、一匹30グラムとして、100匹とか200匹くらいでしょう。
これこそ、故松沢さんが、継代人工が乳母日傘で生活出来ても、遺伝子の多様性喪失による自然界での適応性の喪失、あるいは希薄化でしょう。
和田さんへの恨み辛みを和田さんの次の文で締めくくることにします。
「魚道実物大形実験による遡上特性」から
「(財)ダム水源地環境整備センター主催『魚道の設計シンポジウム』講演より」(講演年は記載なし)
「実は、サツキマスは、先程、田代先生(岐阜県水産試験場名誉場長)からもお話しがありましたように、降海遡上型のアマゴです。かつては絶滅の危機に瀕していたものが、水資源開発公団や建設省の河口堰絡みの魚苗生産の研究過程で、銀毛アマゴが出て参りました。この銀毛アマゴを大量に長良川に放流するようになりました。かつては水産レベルでは考えられなかった魚が、今や年間一五~一六tの漁獲量が得られるようになりました。まさにこれは建設省と水資源開発公団の功績によって長良川にサツキマスが大量に棲息するようになったわけであります。」
と、河口堰建設側も持ちあげて、魚道の構造を云々している。
しかし、この意図せずして発した「おべんちゃら」自体、和田さんの「滑稽な幻想」の証拠でしょう。
1 公害三法が出来たのが昭和46年(多分間違っていないと思うが)。
昭和三〇年代のいつ頃か、わからないが、魚が海での生存ができない環境になっていた状態が、その後、少しづつ改善していくことになった。そして、亀井さんは、昭和48年にやっと海から自然児のアユが戻ってきたと、聞かれ、そして書かれた。
当然、郡上八幡等、亀尾島川等で、アマゴは生存できていたが、銀毛して海に下ったアマゴはカワマスに成長できない。死が待っていただけ。
2 決して、アマゴの種苗生産、銀毛したアマゴの放流によって川マスが遡上してくるようになったのではない。
自然界においても、銀毛して降海して、川マスになっていた。川那部先生の観察が適切であって、和田さんは意図せずして?、無知から、河口堰建設側の提灯持ちをしている。
3 「自然児」のアマゴで銀毛する比率はどの位かなあ。和田さんは、無視しているのか、はたまた知らんぷりをしているのか、解らないが、人工種苗だけが銀毛することはあるまいに。
人工種苗が、F1と想定すると、自然児も3割くらいが銀毛していたかも。
とはいえ、どうして、瀬戸内海等のカワマスが新聞沙汰になるほど、僅少な存在となったのか解らない。堰が作用しているかも、それが一つの要因かも、とは思えど、見たこともないのに現象の相関関係、原因を想像すると、和田さんと同じ穴の狢になるから、やめておきましょう。
あ、そうそう、昭和四十年頃、久里浜から金谷へのフェリーに乗ると、東京湾のある地点で、汚い茶色の水、透明度0の水が、碧い、きれいな水の色に変わった。川の水でも、津久井ダムから増水に伴うダム放流のないとき、右岸に流入する串川の水は濁っていても、左岸側を流れる水は濁らない。それと同様、海でも大きな撹拌要因のないときは、汚い水ときれいな水が撹拌されないということかも。
当然、その頃は多摩川には遡上アユはいなかったはず。多摩川の東急鉄橋では、魚道?に、石鹸の泡が風に吹かれて飛んでいた。長良川では、郡上八幡ではアマゴの生存が可能な環境であったが。
恩田さんのインタビューから
「長良川をあるく」に、恩田さんとのインタビューが掲載されている。
「日本渓流釣り協会 吉田川クラブ 恩田俊雄氏」
このインタビューが1991年の何年前に行われたのか、気になるが、昭和の終わり頃では。
したがって、アマゴの人工種苗が放流されて10年以上経過しているときのことでしょう。
「今日、三月一日はアマゴの第二次の解禁日なんですが、全然釣れんもんで、今日でも釣り人はほとんど出とらんですな。例年だったら釣り人が川にいっぱいおってもいいんですよ。去年はかなりの人が見えたでの。今年は二月一日の第一次解禁日から今日までの1ヶ月の間に全然釣れんという定評が出て終って…。ここはアマゴ釣りのメッカなんです。それで今まで誇りに思っとったけど、今年は惨たんたるものですよ。
去年は台風が続きましたから、その影響で魚の産床なんかにも大きな被害が出たと思うんですよ。伊勢湾台風の時もこういう結果は出たですけど、でも、これ程ひどうはなかったですよ。なぜなら自然が直してくれたでな。昔は、と言っても十年ぐらい前まではの、台風なんかで水が二~三メートル出ても産床にはそんなに変化はなかったんです。
本来水というものは、山がなかったらほとんどないですよ。しかもその山っていうのがの、保水力のある山でなければ駄目なんです。広葉樹林のね。広葉樹はいくらでも根を張っていくんで、保水能力がうんと大きいんです。それで少々水が出たって大きな変化は起こらないですよ。ところが戦後、杉が金になるということで、広葉樹がどんどん切られてまって、杉林ばっかりになったんです。杉は保水能力はないでね。
それで現在はちょっと日照りが続くと、川はものすごく減水する。逆に大雨が降るといっぺんに水が増える。このために河床の変化も常に大きいんです。それで今は山から土石流が流れ込むという関係で、産床ができてもすぐ消えてしまうとか…。」
それに河川「改修」工事で、自然の石や岩を取り、川を排水路にしている。
「アマゴの産床の条件としては、まず第一に水がきれいなこと、適当な温度。それから産卵に適した小石が吹き上げていること。そういうところが自然に出来ていなければならないんです。
彼らはよう知っとるでね。産床に適さんような条件のところでは産卵せんのです。だから彼らはできる限りそういう場所を選んで集合してくるわけです。でも、今ではその産床も限られたとこしか見られんようになって、年ごとに個体数が減ってますね。」
恩田さんの登場は、斉藤邦明さんの「釣聖 恩田俊雄」以来ではないかなあ。
恩田さんは、伏流水の存在等、産卵床に適する環境の話をされているが、人工種苗が再生産に及ぼす影響はないのかなあ。
萬サ翁は、「人工種苗」のシラメと「天然」のシラメの容姿の違いを話されているが。補記6
「今の世の中というものは、何というか、文明のためには自然を破壊しても、それによって犠牲になっているものには全然関心を持たんようになってきとるようですね。そういうことが重なって、サツキマスもいずれは幻の魚になるんじゃないかと思うんです。
でも、そういう結果になってからじゃ遅いんです。我々はそういう結果を恐れるわけです。それでこの長良川をきれいな川という意味合いはそこにあるんです。」
「それで去年あたりから行政の方もちょっと方針を見直さにゃいかんということで、川に対する考え方を変えてきているようですけど、もう遅いですね。川を半分コンクリート化してから、あとで土を入れてみたって、魚のことを考慮した作り方がされとらんもんでの。
一般の人は、川が整備されてきれいになったぐらいにしか思っとらんかもしれんけど、結果はそういうことなので、魚に全部影響しておる。それでいつも犠牲になっておるわけです。そういうことはまことに残念やと思うんです。」
「それで、昔の川の良さ、自然の良さを思う時に、もう過去を取り戻すことは無理かもしれん。でも、今まだ長良川はきれいだといわれているうちに、何とかこのままの状態を孫子の代まで残したいんです。だから長良川というのはこういう川である、そういうふうに守ってもらいたいと、今の人たちへ呼び掛けをしとるわけです。」
恩田さんの願いも通ぜず、数年後には河口堰のギロチンを落として、長良川も死んでしまった。
それどころか、昔の長良川を知りたければ、亀尾島川を見よ、と言われた亀尾島川にもダムが建設中とのこと。
萬サ翁が、亀尾島川で夜網を打ってカワマスに網を破られるほどいたカワマスはどうなったのかなあ。
和田さんのご託宣によれば、人工種苗のアマゴ、シラメを大量に放流しているから、サツキマスは永遠に不滅です、それどころか、漁獲量統計に登場するほど大量に獲れます、となるが。
ほんまかいな。
野田さんを大喜びさせた亀尾島川も相模川のような川に成り下がるのでしょうなあ。
「不易流行」の、不易とは、流行とは川、魚の移ろいでどのように考えれば良いのかなあ。
川が雨水排水施設化していくことが「不易」ということかなあ。
ダムは、堰は、いつまでも構造物としての命脈を保てないとしても、原発とは違い、取り壊すことも簡単とはいわないまでも、金で片付く問題であることが救いということかなあ。
恩田さんが、人工種苗のアマゴ、シラメがいかなる影響を生じているのか、語られているのではないかと思うが、それにぶち当たることが出来るかなあ。
二十世紀末、神奈川県内水面試験場に、在来のヤマメを丹沢水系で釣ったときは、知らせて欲しい、というパンフが置いてあった。
まだ、人工種苗ではないヤマメの残っている渓が丹沢山系に残っているところがあるのかなあ。
中津川にあんよの練習にいくことになるから、ヤマメキラーさんに聞いてみよう。
長良川の鮎が絶滅危惧種騒動に
2015年10月号の「つり人」に、岐阜市が、天然アユを準絶滅危惧種に指定した事による経緯が掲載されている。
(原文にない改行をしています。)
「アユの場合、天然魚が秋にペアリング・産卵をして仔魚が生まれたとしても、その仔魚は一定の期間内に海に降りられなければ死滅する。つまり堰が、川をふさいでいる限り、たとえ親魚を人の手で上流に汲み上げたとしても天然魚はやがていなくなる。
そのため、現に地元の岐阜市では今年の四月に公表した市独自のレッドリストにおいて、長良川の天然アユ(表記は『アユ(天然)』となされた)を準絶滅危惧種に指定した。だが、この指定に対して驚くべき反応をしたのが地元の流域漁協だった。放流アユ(養殖アユ)であっても、川で育ったものは『天然アユ』として出荷していたため、市のレッドリストの表記は都合が悪いとして『アユ(天然)』を『アユ(天然遡上)』に改めるように要望し、七月に市が受け入れたのだ。
天然アユが絶滅するという事実に目を向けるのではなく、むしろ一般の人が解らなければそれでも良いともいえる対応が、川の一番の担い手によってなされる。これが『環境の世紀』における日本の現実の一つであることからは、目をそむけられない。」
この記事を書いた人は、「天然アユ」の絶滅に関与していることは、その一大要因は、流下仔魚が動物プランクトンを食べることが、河口堰で出来た「湖」によって、時間がかかり、困難となったこと、仔魚がもっている「弁当」が、食い尽くされて、餓死してしまうから、と考えられているのではないかなあ。
そうであれば、和田さんの調査、研究成果とは真逆の観察眼である。
遡上が、堰によって妨げられている、と考えられているのはないと確信している。
もし、河口堰が出来ても、湖が出来ても、流下仔魚が餓死しない、と考えられているのであれば、和田さんと同類であるが、その懸念はないと考えている。
万一、「天然」アユの絶滅危惧種の原因が、堰で遡上が出来ない、遡上達成率の著しい低下と考えられているのであれば、間違いではないかなあ。
河口堰附近の状況は、松山に行く安いセット料金の飛行機から1回見ただけであるが、相模川の磯部の堰の状況から考えて、遡上が「不可能」ということは「あり得ない」のではないかなあ。
勿論、遡上達成率が低い、等はあり得ることでしょうが。
磯部の堰の魚道は、二段になっており、上流側の魚道は、上り口が上流側に向いている。
したがって、非常に上り口が見つけにくい構造になっている。しかも左岸側にしか魚道はない。
2015年の相模大堰副魚道の遡上量調査で、1千万匹の水準の遡上量があった。
1番上り、2番上りの遡上性向がある四月、五月上旬には、磯部の堰の上流側の魚道の上流に砂礫が堆積していて、魚道に水が流れていなかったから遡上出来なかったが。
五月下旬にはその砂礫が除去され、魚道に水が流れて、3番上りは遡上出来た。
そのため、弁天の瀬で、兄弟の名人が講習会の時に、30分のバトルを行い、じゃんけんに勝った兄さんは、瀬に入り、女子高生を7匹ほど。弟さんは、やむなく、瀬肩付近に入り、数は兄さんと同等であるが、大きさは小学生。
ということから、段差が低ければ、アユにとっては歓迎すべからざる魚道でも、遡上が不可能ではない。
なお、中津川では、八反田橋か最戸橋付近まで遡上出来たようであるが、その上流は、魚道の修繕をしなければ遡上不可能。
また、246号のところに堰があり、魚道がついていない、とのことであるが、その堰が直壁でなく、傾斜のある堰であれば、遡上が出来る。坂本の堰にも魚道はないが、傾斜のある堰であるから遡上が出来る。
勿論、遡上達成率は高くはないとは思うが。
ということからも、河口堰の魚道構造には意味のある研究が行われたと思うから、磯部の堰のような遡上出来ない、遡上達成率が低い、といった「遡上障害」の事態は発生しないのでは。
「絶滅危惧種」の原因は、流下仔魚が動物プランクトンを食べることが出来る汽水域、海に到達するまでに時間がかかり、餓死している、と考えた方が適切ではないかと思う。
和田さんは、河口堰が作動してからの遡上アユ、サツキマスの状況に対して、どのような判断をされているのか、げすの勘ぐりをしたくなるが…。
和田さんは、人工のアユ種苗生産において、親とするアユについて、
「さて長良川には合渡七人衆と申しまして、禁漁区でアユを釣る漁業権を与えられているアユ釣りのプロが七人おられます。長良川下流漁業組合の組合員でもよりすぐりの名人達なのでありますけれども、この七人衆といわれる漁師さんたちは、アユの人工授精放流という役割を義務として受け持っておられるのです。」
「この掛け針漁をする漁師さんたちは、昼間はみんな寝ているのです。そうして日の落ちる頃に起き出し、夕方六時頃に舟を出して、掛け針漁を十時迄やります。」
「七人衆の方々は、まさに六時と十時(注:「午後」)のアユの産卵行動のピークを狙って漁をするわけです。そこで自分達が予定した漁獲量が得られないと、時間を延長して午前二時まで頑張る。二時の山を狙うのです。」
「合渡」七人衆が親アユを釣っていたが、それが、「湖産」であると確信している。
もし、海アユを掛けていたのであれば、海アユの産卵時期が、十一月以降、西風が吹き荒れる頃以降(もっとも、長良川では、木枯らし1番が「北風」かも)と気がつき、また、和田さんの海アユの産卵場所の上流で流下仔魚を調査することもなかったでしょう。
前さんが、日高川の種苗センターを訪ねたとき、日高川の鮎は性成熟が遅いため、十月初め頃木曽川下流に親鮎を調達しに行っていたとの話を紹介されているが、それと同様、「湖産」を親としていたのでは。しかも、その親の素性に気がつかずに。
現在、長良川にどの位の海アユがいるのかなあ。釣れる鮎の7割?だったか、という方もいらっしゃったようであるが。
カワマスはどの位いるのかなあ。「良好なカワマスの生息地」といえる状態かなあ。
恩田さんは、アマゴの人工種苗放流の影響に言及されていないのは何でかなあ。もう、在来種はいないということかなあ。
萬サ翁は、
「『ほうや。白目なんや。シモでは今はシラメを放流しとるで、天然や養殖がまぜこぜになってまっとるが、本物の白目は、目が二重(ふたえ)になって、すっきりしとる』」
「『アマゴは黒目の外にビューティスポットといって、チョボチョボッと黒いのがあるんですが、シロメにはそれがないといわれた。今西さんは、あれを非常に感心しておられました。ぼおっと見とったら、何十年でも気がつかんことやと』」
アマゴの人工種苗放流は、下流域であると萬サ翁は話されているが、萬サ翁のシラメ観察の時から幾星霜、もう十年はたっている昭和の終わり頃に恩田さんにインタビューに応じられているから、すでに郡上八幡付近から上流もアマゴの人工種苗が放流されているのではないかなあ。そして、人工種苗のアマゴが主役になっているということかなあ。
人工種苗と「ほんものの」のアマゴとの「ごちゃ混ぜ」の状態は、子孫繁栄に、習性にどのような影響を生じているのかなあ。アユの「交雑種」は、海では浸透圧調整機能不全で生存できないから、子孫を大規模に残すことにはなっていないが。汽水域で、生き残った交雑種や継代人工が、「シオアユ」として、生涯を過ごす者がいるとの調査もあるが。
さて、岐阜市の「天然アユ」に、F1、あるいは継代人工を含めるか、どうかについて、礼子ちゃんは、河口堰が稼働してから、人工種苗が放流され、それを見た漁師が、こんなアユは長良川のアユではない、と会議の席で話されたことを紹介されているが、そのカ所が見つからない。
同様の話は、須合さんが亡くなられる2,3年前の那珂川でもあった。
二十世紀末近くまで、那珂川には遡上アユが充ち満ちていた。
須合さんの囮販売のテントがあった湯殿大橋下流側の土手とぽっぽ農園の間に水路がある。
その水路に、地元の人達が入り、八つ手網?で、上下から鮎を追い、獲っていた。その鮎をぽっぽ農園にやってきた人たちに振る舞っていた。
その頃の話であるが、湯殿大橋に近い丘の上の雑木林の中に宿があった。現在もあるか、どうか、もう10年は行っていないからわからないが。
その宿の主人は、かって料理屋さんをしていた縁で、東京の料亭から、アユの仕入れ先の紹介を頼まれた。
宿の主人は、黒羽のアユの販売をしているところを紹介し、その魚屋さんには、目利きの出来る人であるから、決して人工鮎を入れるな、と注意をしていた。
にもかかわらず、人工鮎を混入させたことがあり、その料亭はそことの取引をやめたとのこと。
すでに、那珂川では、人工鮎も、那珂川の水を吸ったからには、「天然」アユという意識が発生していたということではないかなあ。
そして、須合さんが亡くなられた年あたりから、遡上アユは激減して、那珂川の水を吸った人工鮎が黒羽で売られている「天然」アユの主役となった。
人工鮎が主役となった21世紀にも数回は那珂川に行ったが、まだ、「準組合員」として年券の割引が有効かなあ。年券を買わなくなって10年以上はたっているのではないかなあ。
「アユの本」同様、「長良川のアユづくり」で、精神状態を悪化させることになったが、礼子ちゃんたちの苦しみに比べれば、嘆きに比べれば、贅沢な心身状態です。
とはいえ、少しは愉しくなる本で心を癒やさないと。
ということで、佐藤惣之助「釣魚探求」(三省堂 皇紀2601年。昭和16年発行 1円70銭)の、ほんの一部を紹介し、あとはシーズンが終わってから紹介することにします。
釣れなくても、愉しい
佐藤さんが、「旬」の魚を求めて釣りに行かれても、釣れないこと、あるいは釣り場に辿りつくまで大変な道程を歩き、また、不便な乗り物に乗っていることにびっくり。
その心意気を少しでも真似をしたいと勇気凜々、とはいかないが。
とはいえ、佐藤さんの本の、ほんの一部の紹介に、何を選ぶか、困った。
戦前の京浜工業地帯は、すでに、生物の生息環境を著しく低下させていたと思っていたが、さにあらずのよう。
アオギスが棲息していて、佐藤さんも釣られている。もっとも、佐藤さんはアオギスよりもシロギスの方が好みですが。
そして、川崎、横浜でのアオギス釣りは、脚立からの釣りではないとのこと。
これ程、皇紀2600年頃の海は生物の生息環境を破壊していなかった。つまり、オラが生まれた年は、まだお魚さんと愉しく遊ぶことが出来た時代であった。
ということで、加古川の闘竜灘に佐藤さんが行かれたときのことを、亀井さんの闘竜灘に行かれたときと比較することに。
そして、闘竜灘を選んだ目的は、その環境変化への関心ではなく、可愛い女医さんに逃げられたお話しのために。少しは艶っぽいお話をしたいから。
ということで、亀井さんの闘竜灘の報告を探していて、困った。物覚えは悪い、すぐに忘れる、記憶も思い出せない、というぼけ老人、恍惚の人に片足どころか、両足を突っ込んでいることを認識せざるを得ない状態に。
亀井さんは、闘竜灘について、「釣の風土記」(浪速社 昭和45年発行)の他、二見書房の「釣魚名著シリーズ」にも収録されていると思っていた。そして、「釣魚名著シリーズ」には、闘竜灘でちょっぴり釣れたということが書かれていたと思っていた。
しかし「釣魚名著シリーズ」の釣り風土記には、闘竜灘の記事がない。
とすると、闘竜灘での釣り風景はいずこに、あるいは他の人の記述?「香魚百態」にも、「鮎つりの記」にも掲載されていないし、困ったなあ。
ということで、亀井さんの闘竜灘については、浪速社発行の「釣風土記」の記載で紹介します。
佐藤惣之助「釣魚探求」(三省堂 昭和16年発行)の「紀行」の章の「釣魚巡礼」の節から
「釣魚探求」は、「紀行」と、「随想」で構成されている。
「紀行」は、昭和14,5年の釣り紀行である。「随想」は、昭和11年発行の「釣魚随筆」の一部のようであるが、まだ照合していない。
「釣魚随筆」は、アテネ書房から、「名著復刻『日本の釣』集成」として昭和54年に復刻刊行されている。
「釣魚巡礼」
(原文にない改行をしています。旧字は当用漢字を使用しています)
三原、尾道
「市井生活最後の道楽として、釣りに凝つてゐる人間にとつて、なじみの場所で年々好きな魚を釣るほどうれしいことはないのであるが、この頃は多摩川も江東も東京湾も、すっかり荒らされてしまつて、なかなか思ふやうにな釣りが出来なくなつた。そこで最近私は他郷の釣り研究のつもりで、自然旅行するたびに、どこか往つた先々で釣つてくといふ、いはヾ釣りの巡礼になつてしまつた。
今度も広島の三原へちよつと用があつたので、早速釣竿をかついで往つて見たが、待望の浮き鯛はまだ初まつてゐず、偶然案内された山陽本線の河内駅の奥、栗梨川といふのでハヤをふんだんに釣つた。
土地の人は六月にならなければ釣れないとしてゐたものを、この関東のあばれ者は、容赦もなく竿を入れてみると、子を持つてまるまると太った四寸ほどのハヤがいくらでも釣れた。尤もそれには東京式の繊細(デリケート)な仕掛ケを用ひ、更に餌はタナゴの残りの玉虫を使つて見た故もあるが、とにかく土地の人々は、不思議な釣り方をするものと、唖然として眺めてゐたので、私のやうな下手な者でも、いつぱしの名人のやうに思われたらしかつた。
その代り、見当をつけて行つた鯛がまだ時期尚早で、呉線の須波といふところから船を出し、忠海の沖で釣って見たが、昨日二三枚の浮き鯛を見たといふのみで、やつと三寸ばかりの小鯛、カスゴといふ奴を二つ釣つたのみであつた。」
その後、カスゴ、メバルは釣れず、ホゴ(関東のカサゴ)は70余り釣ったが。イカナゴを食べに内海に来た海の怪物ジョゴンドウ、関東でいうスナメリも見たが。
イカナゴの郷愁
「イカナゴと云へば、鯛の好餌で、これを撒いて釣るといふが、そのイカナゴもまだ小楊枝のゆに小さく、餌として買つて見たが、まるで絹糸のやうで、最後に船頭が醤油で煮てくれて、春風駘蕩たる海の上で、昼のお茶漬をかつこんだが、恐らく天下の美味であつた。
それと、餌としての小エビの豊富さに驚いた、然しこゝも年々釣る漁夫は多し、魚は少なしで、関東と同様に、船頭もアガツタリらしかつた。
そしてやつと夜のメバルを一五,六釣つてどうやら一日の生活費に換へているらしく、早くタモリ(石鯛)や、ギザミ(ベラ)や、大鯛が始まらないことには、あきまへんといふことであつた。」
阪神淡路大震災の野島断層が保存されている豊島の仮設店舗の飲み屋さんでのこと。
居合わせた漁師に、イカナゴの漁期が昭和の何年頃から12月、1月頃から、3月になったのか、と聞いたら、フルセの子持ちを獲っていたこと何てあり得ない、と。
飲み屋の女将さんは、オラと同じ年頃であるから、冬にイカナゴ漁が行われていたことはご存じでしょうが。
昭和三〇年代のいつ頃かまでは、早朝に、魚ん棚に行き、子持ちのフルセを買っていた。その日は、軽く炙って、あるいは唐揚げにして食べていた。残りは、佃煮にして日々の食卓に。
昭和四〇年代の正月に、フルセの佃煮を買おうとしたら、売っていない。
そして、佃煮は、「くぎ煮」という名前で、新子を素材にして3月から販売する、と。
もう、フルセの佃煮は食べること能わずか、とあきらめていたが、三月にフルセの佃煮を作っているところのあることを知った。
その佃煮屋さんは、三月の遅くても一五日頃までのフルセを佃煮にしているとのこと。それ以降のフルセは、ハマチなどの餌にしかならない、と。
その佃煮屋さんを知ってから、三月一日になると電話をしてフルセの漁の状況を聞き、注文していた。
然し、去年、駅ビルの建て替え?を契機として廃業する、と。やむを得ず、信頼できるところを教えてもらったが、そこは、年中フルセの佃煮がある、とのこと。佃煮にして冷凍しているのか、冷凍したフルセをその都度解凍して佃煮にしているのか、解らないが、とりあえず注文した。
残念なことに堅い。醤油を多く使っているよう。塩を主体とした、塩の旨味を利用した佃煮ではない。
ということで、昔のフルセの佃煮にはもう出会えないかも。
その飲み屋さんで、アブラメの焼き魚、唐揚げ、煮魚を食べた。
餓鬼の頃、ほおりこみで、テンコチやキスを釣っていたとき、たまに尺くらいの大きさのアブラメが釣れた。突堤で竿で釣ると一五㎝くらい。
その経験があるから、尺ぐらいの大きさにびっくりし、一匹、二千円くらいかなあ、と心配になったが、五百円。
アブラメは、日陰者の魚ということかなあ。
そんな大きいアブラメとは想定外で、腹に収めるのに四苦八苦した。
川那部先生は、鮒鮨が超高級品になって嘆かれていたが、オラは、子持ちではないにしても、イカナゴのフルセの佃煮が食べることが出来て、幸せと思っていたが。
なお、今西博士は、小さいヤマメを好んで食べられていたとのことである。大きいヤマメは、子孫を増やしてくれる貴重な存在であるから、と素石さんだったか、礼子ちゃんが書かれていたと思うが。
イカナゴの漁期の変更も、今西博士と同じ発想で行われたのかなあ。
川那部先生の鮒鮨「慕情」
川那部浩哉「魚ゝ食紀 古来、日本人は魚をどう食べてきたか」(平凡社新書 2000年発行)(原文にない改行をしています。)
「第1章 フナのいろいろ」
フナずし(鮒鮨)の写真に、
「すしの原型に近いとされる『馴れ鮨』のうち、最も洗練されている現存のものは、琵琶湖特産のにゴロブナを材料にした『鮒鮨』である。内湖の干拓をはじめ、沿岸帯の破壊などによって、この種は激減し、今では他の種で代用されることが多い。」
「品下がった魚?
鎌倉御殿の長廊下で、悪態がつかれる。
鮒(ふな)じゃ、鮒じゃ、鮒侍じゃ。
この言葉にかっとなった塩冶判官(えんやはんがん)高貞さんが、真っ向に切り付ける。皆さん、ご存じのところだ。式亭三馬さんの『忠臣蔵偏癡気論』にあるとおり、
是はなはだ剣法に暗し。このとき師直(もろなお)に飛びかかり、
只一刀に指貫(とお)さば、本蔵にいだき留められ一端取迯(にが)
すとも
ということになるが、それはここではどうでも良い。もっともこの高(こうの)武蔵の守師直さんのせりふは、私の記憶違いかも知れず、浄瑠璃本『仮名手本忠臣蔵』では、かほよさんの顔を眺めて、
内に計(ばかり)居る者を、井戸の鮒じゃといふ譬(たとえ)がある。
貴様も丁度鮒と同じ事ハゝハゝハゝと
となっている。
いずれにせよ、フナは、何故か品(しな)下がった魚と思われ続けてきたものらしい。古く『土佐日記』には、
いけ(池)とな(名)あるところより、こひ(鯉)はなくて、
ふな(鮒)よりはじめて
(池という名のついている所から贈物が届いたが、池にはつきもの
の鯉ではなくて、鮒を初めとして 鈴木知太郎訳)
とあるし、ずっと時代が下って『蜀山人先生狂歌百人一首』には、
わ(侘)びぬれば鯉のかはり(代)によ(良)き鮒の
み(身)をつくり(作)てもの(呑)まんとぞ思ふ
ともある。中国でも『神農経』以来、コイは魚の王様とされ、竜門の滝を昇り越えて竜に化ける話は、この国でも良く知られている。さらに料理書の中では鎌倉時代以来、コイはまさにすべての魚の筆頭とされているのに対して、フナの方は逆に、海産魚より遙かに下のものとして、位置づけられているのだ。」
「近江の鮒
日本列島の中でのフナの名産地と言えば、是は断然琵琶湖だ。十一世紀に藤原明衡さんが書いた戯作『新猿楽記』には、受領郎等が諸国の土産を集めて貯えるものの中に、信濃のナシ、丹波のクリ、越後のサケ、備前のアミなどと並んで、『近江の鮒』とある。」
また、今昔物語の「三井寺の名で知られる圓城寺を智証さんが再建した畸譚だが、遅くとも十二世紀前半には、琵琶湖ではフナが多く利用されていたことを、これも示すものであろう。」
今昔物語には、老僧が「魚の鱗や骨が食い散らかされ、くさい臭いが満ち満ちていた」部屋にいた、そして、琵琶湖のフナを食べることだけを仕事にして、後継者がやってくる日を待っていた、その後継者がやってきたことを悦び、去って行った。
生臭いい匂いは「馥郁(注:ふくいく)と変じ、鮒の鱗や骨と見たのは、蓮の花のしおれたのや鮮やかなものを鍋で煮たものだった。」
江戸期に作られた本朝食鑑、大和本草、和漢三才図会などの博物誌だけではなく、幕末の本草綱目啓蒙においても
「琵琶湖のものは、鰭や骨が軟らかで、味がたいへん良く、なますに作っても、炙り焼きにしても、鮨(すし)にしても、はなはだ旨い。」
鮒のなますは食べたことはない。海の魚では当たり前の調理ではあるが。
鮒は、煮魚か、唐揚げ。唐揚げが種ではなかったかなあ。それも、戦後は昭和25年を過ぎると、歓迎されなくなったのではないかなあ。
「ギンブナに雄は存在しない
ところでこの琵琶湖には、何種のフナが棲んでいるのだろうか。十九世紀初頭すなわち文化年間に書かれた『湖魚考』や『湖中産物図証』では、それぞれ三つあるいは五つの種が論じられている。このうち小林義兄さんの書いた前者は、
マブナ・タリハラ(雌魚)・ハチョウ(雄魚)・ヘラ(幼魚)
ニゴロ(雌魚)・ナマガネ(排卵後の雌)・チョウコ(雄魚)・モウス(幼魚)
ヒワラ
の三種と判別できる。そしてこれは、ゲンゴロウブナ・ニゴロブナ・ギンブナという、現在の知見とぴったり合致するのだ。そのうえヒワラに関しては、他の二種の場合と違って、雌雄については何も書かれていない。そうなのだ、私にはこれが、ギンブナに雄の存在しないという事実を、この人は知っていた証拠ではないかと、思えて仕方がないのである。
実は、他のフナの染色体数が百個であるのに対して、日本列島各地から朝鮮半島・中国大陸に広く分布する、このギンブナの場合、それは百五十なのだ。すなわち三倍体である。そしてこの卵は、他の種の魚の精子が卵の表面に入ると、発生が始まる。だが、この精子は表面に留まり、ギンブナの卵核とは合体せず、そのうちに排除される。いや、そもそも卵を作るときに染色体自体が、ふつう必ず起こす減数分裂をしないのだ。だから、突然変異が起こらないかぎり、遺伝子は母から子へとそのまま、まるごと伝わることになり、同じ母から生まれた子供は、まさに遺伝的に同じになる。すなわち、いわゆるクローンだ。雌の魚は、他の種の魚が雌雄で産卵しているところへ、ひとり飛びこんで卵を生み付け、その雄の精子を自分の卵の発生のための、単なる刺激剤として受けとるのである。」
「キンブナ・ギンブナ・ゲンゴロウブナ
関東平野に分布しているフナは、現在これもまた三種だ。しかし、そのうちの一種、すなわち俗にヘラブナの名で知られているものは、琵琶湖特産のゲンゴロウブナを大阪で溜め池用に改良したカワチ(河内)ブナ、これを移殖放流したものである。本来このあたりにすんでいたのは、雄のいないギンブナと、もう一つは関東よりも北の太平洋側にすむキンブナとの二種だけなのだ。」
餓鬼の頃、赤虫とミミズで釣れるフナは、「フナ」、寒梅粉と白玉粉で釣れるフナは「ヘラブナ」とよんでいた。
その「フナ」は、川那部先生が表現されている「マブナ」と同じとは思うが。
キンブナは、まだ生存しているのかなあ。
「関東のフナと言えば、水産庁におられた加福竹一郎さんを思い出す。腸の巻きかたから魚の進化を論じた業績は世界的に有名だが、その最初のきっかけはフナであった。子どもが大きくなる途中で、最初は口から肛門まで直線的だった腸が、ある規則にしたがって屈折し、コイの成魚のような巻きかたを経て、フナ特有のかたちになる。
その中では、キンブナが一番単純で、ギンブナがそれに次ぎ、ゲンゴロウブナはもっとも複雑で、それが底に棲んで動物を主に食うものから、表層に棲んでプランクトン植物を食うものへの変化と、見事に対応していることを、見つけたのがそれだ。」
「ところで、琵琶湖周辺と関東以外の日本列島各地における、フナの種の区別については、いまだに意見が完全には一致していない。広く西日本太平洋側にはオオキンブナが、そして諏訪湖と北陸・山陰にはナガブナの分布するのが、比較的一致して認められているところだろう。」
「江戸のフナ料理」は、紹介することをサボる部分の方が多くなるが…。
ゲンゴロウブナの移植される前に書かれたフナ料理は、「料理物語」に、
「汁は味噌仕立てで、酒しおをさし、山椒の粉を入れる。なます(膾)は、薄作りにしてその卵を混ぜ、からし酢で和える。刺身には、煎り酒(古酒・鰹節・梅干しに溜りを入れて煮詰め、濾した調味料。後には梅干しの代わりに酢を用いた)を加える。白焼きにして出汁(だし)溜りに漬ける、煮浸し(白焼きを出汁で煮ふくめる)も良い。」
この素材は、ゲンゴロウブナが関東に移植される前に書かれているから、キンブナ、ギンブナでしょう、とのこと。
キンブナについては
「赤松宗旦さんの『利根川図志』」は、ゲンゴロウブナが移植された後に、
「印旛沼畔に近い箇所において、『吉高鮒』なる項目をわざわざ挙げ、
名物。金色で骨が堅く、肉がしまっていて美味(なますにするのがとくによい)
この鮒を捕るのには特別の漁法がある。(冬に限る)。まず一人が小舟に乗って、水の浅いところを棹をさしながら、舷
(ふなばた)を踏んで舟を左右に揺り動かす。この波音に驚いて、鮒は藻の根に隠れる。その動きで水中が濁るから、
それを見て手で掴みとる。そこで『手取り鮒』と呼ばれるが、これは『万葉集』にある『もぶしつかみぶな』のことであると書く。
これは明らかにキンブナのことだ。」
キンブナ、ギンブナ、という区分は現在では、どのような状況、場所等で行われているのかなあ。
そもそも、まだ棲息しているのかなあ。餓鬼の頃に釣った鮒の中に、マブナ、ヘラブナ以外の鮒がいたのかなあ。
やっと、鮒鮨を食べても失礼には当たらない、と思える鮒の知識、歴史に「触れた」ようで。当然、「理解」出来た、という意味ではなし。
「鮒鮨
さて、琵琶湖のフナについては『本草綱目啓蒙』に、
ゲンゴロウブナはさしみ・なますに良く、ヒワラ(ギンブナ)は味が悪い
などとある。
だが、そんなことはどうでも良いのだ。何故かと言うと、ゲンゴロウブナは昔から、まぶなのほかに『なますぶな』の名で呼ばれていたし、ニゴロブナは古くから『すしぶな』と、また漁師さんは、『すしいを』とも、呼んで来たからである。
そして鮒鮨となれば…….これは十世紀前半の法令である『延喜(えんぎ)式』の項からの、いや、私は調べたことがないのだが、八世紀前半、すなわち奈良朝の法律たる『賦役令(ふえきりょう)』にもあると聞く、古くからの重要な食品である。『東ないし東南アジアで、雨期に水田が冠水し、魚が集まってそこで産卵するとき、魚と米とのセットから熟(な)れ鮨が生まれた』との石毛直道さん達の説があるが、琵琶湖の周囲で最後まで残り、いや、最も発達してきたのは、琵琶湖と周辺の水田との結合が、ずっとあったためだろう。」
蕪村は、「どうも食い意地の張っていた人と見えて、鮒鮨の句も数多い。」
明和八年(一七七一年)五月壱拾六日には、五首があり、六年後の安永六年には十首が並ぶ。
川那部先生は、これらをすべて紹介されているが、花より酒のオラには、歌心なき故、二首だけを。
酢(すし)つけてやがて去(い)ニたる魚屋(うおや)かな
鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
「彦根の城は白の勝った美しい城で、そこにかかる雲は、やや暗い層雲だろう。つまり、城に雲のかかったありさまが、すし飯を僅かにかぶった鮒鮨の姿と、対比されているわけだ。
この鮒鮨は今も琵琶湖の周辺では、神饌や直会(なおらい)膳に用いられており、またこの鮨切りを神事とするところも、私どもの博物館周辺にはいくつか存在する。」
「内海を復活させたい
京都に生まれ京都に育った私は、鮒鮨は子どもの頃には、毎年幾桶も購入して、よく食べていた。それが今は、ニゴロブナの鮒鮨は、一尾あたり三万円ほどもすると聞く。先年までいた京大生態学研究センターや、今の博物館で漬ける鮒鮨も、その材料はニゴロブナからゲンゴロウブナに変わり、味は、格段に落ちた。
理由は単純明快だ。今は亡き平井賢一さんが詳しく調べたとおり、孵ったばかりの仔魚の餌となる、水草にくっついたり離れたりする小型のマルミジンコの多い場所、そう、海で言えば内湾にあたる内湖、それも湾口の極めて狭い内湖が、ここ五十年ばかりの間に、埋め立てられあるいは干拓されて、ほとんどなくなってしまったからである。一九六二~六五年の琵琶湖総合調査のとき、北東部にある面積百ヘクタールに満たない早崎内湖で漁獲されるフナの量は、琵琶湖全体の一割以上に達していた。他の内湖がなくなり、産卵場は殆どここだけと言う状態だったからだ。そしてこの内湖もまた、六四年から干陸化が開始されたのである。
蕪村さんの句の彦根城の周りにも、私の生まれた一九三二年の地図には、松原内湖その他が厳然と記されている。十六世紀後半の織田信長さんの安土城も、内湖のあいだに突き出た半島に作られたものだ。一九二八年の地図には、まだその俤が残っているが、五〇年の地図では城址に近い部分は田圃の記号に変わっており、その北にあった大中の湖の干拓化が完成するのは六四年のことである。
内湖を復活させたい。この頃、真剣にそう思っている。ニゴロブナの鮒鮨を、子どものときのように、そして蕪村さんのように、たくさん食べるためにも。
ささ波やしがからし酢でくふ時は だれが口にもあふみ鮒哉 正継
眺めやる魞(えり)押す舟とわかるまで たけし」
川那部先生の思いはどうなるのかなあ。
テレビで、休耕田を掘って、池にして、ニゴロブナの養殖が行われていること、鮒鮨のコンテストが行われたことが放映されていた。
佐藤惣之助さんが、闘竜灘に行く道すがらから少し外れてはいるが、加古川の河口域にあった高砂の潮干狩りは、昭和三〇年代のいつ頃まで行われていたのかなあ。その場所は昭和四〇年頃には埋め立てられて、工場が建ったのではないかなあ。
佐藤さんが釣り場にされていた本牧の埋め立てが始まったのも昭和四〇年頃。
さて、寄り道ついでに、「正月のおせち――ごまめ・たづくり・ことのばら」を覗いて見ます。
理由は、京女はイカナゴを無視していたのではないかなあ、という疑念があるため。
「正月のおせち――ごまめ・たづくり・ことのばら」の中から
「かって正月に何を食べていたか
わが家の正月の床飾りは、子の日の掛け軸に奈良彫りの万歳楽、これに陶製の『阮秋成像』が加わる。すなわち上田秋成さんの座像だ。洛東西福寺にある土師方観さん作のものの模造品で、一九一七年(大正六年)に作られた五十個のうちの一つである。その前に座って、二百年あまり前の寛政九年『元日宴』にこの人、次の歌に合わせて何を食べていたのかと、ふと思う。
けふよりぞ事たつ春の位山 次々たまふ千代のさかづき」
秋成が食べていたのは「日本永代蔵」にあるような、
「 伊勢海老代々(橙)、春の物とて是非調(ととのへ)て蓬萊
(ほうらい)を餝(かざ)りける
ではなかったに違いない。だが、カタクチイワシの干物から作った御節(おせち)の一つたる、『ごまめ』ぐらいはあったのではないか。」
ということで、文化年間の『諸国風俗問状』の記載へ。
「 組重の事。数の子・田作(ごまめ)・たたき牛蒡・煮豆等通例、
其外何用の品候哉
との質問があった由、これらを『当時すでに基本的な祝肴とする風習が全国的であったことをうかがわせる』と、松本仲子さんが書いている。いや井原西鶴さん自身が、百年ばかり前の同じく元禄年間に、ごまめの話を書いているのだ。」
何で、ごまめは祝肴であるのに、イカナゴのフルセは、ハレの食卓にのらなかったのかなあ。
イカナゴの佃煮は、瀬戸内の郷土料理ということかなあ。ごまめよりも遙かに旨いのになあ。
「マイワシはニシン科、カタクチイワシはカタクチイワシ科
イワシと言う名のつく魚は、タイとは比べものにならないものの、いろいろにある。標準和名だけに限っても、マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ・オキイワシ・それにカライワシ・ソトイワシ・ソコイワシ・セキトリイワシ・オニイワシ・ハナイワシ・イトヒキイワシ・ソトオリイワシ・ハダカイワシ・トウゴロウイワシ・リボンイワシ、などなどがそれだ。
その殆どが、比較的小型で細長く、銀色に光っているのが特徴である。あとの十一は、実は類縁的には全く違ったものだが、先の四つのうちでも、背鰭がずっと後のほうにあるオキイワシはすぐに判るとして、マイワシ・ウルメイワシはニシン科に属し、カタクチイワシは別の科に属していることをご存じだろうか。物の本によると、カタクチイワシ科の魚は、頭に角骨がなく、中篩(注:し?)骨が鋤(注:ジョ?ショ?)骨よりも前へ突出するとあるが、最も分かり易いのは、口裂が眼よりもずっと後ろまで伸びていることだろう。要するにこの魚は、とてつもなく大口なのである。」
カタクチイワシの産卵は、
「春と秋に多いが、暖かい水域では周年産卵する。もっとも、同じ個体は一年に一度産卵するだけで、寿命は三年ぐらいらしい。八ないし十センチで成熟し、最大で十五センチほどになるから、いずれにせよマイワシよりは、かなり小型だ。群れを作って表層を泳ぎまわり、日中は十メートル程度とやや深いところにいるが、朝夕は水面近くに現れ、さざ波を立てたり、水面を跳躍したりする。
これを『せりイワシ』あるいは『はねイワシ』と呼ぶことも多い。その大きい口を開けて、プランクトン動物を鰓で濾(こ)して食い、ときには小魚を食うこともある。大きな魚の餌として、自然界では食物連鎖の主要部分を占めているようで、カツオ釣の餌としても重要だった。
またイワシの仲間の稚魚は、一般にシラスと呼ばれ、チリメンジャコすなわちシラス干しに加工されるが、これはカタクチイワシのものが格段に美味しい。体の腹面に現れる黒い色素胞が、比較的大きくて粗い点列を形成するので、他のイワシ類と区別ができるのだと聞く。」
昭和三〇年代初め頃迄は、朝網?で捕れた魚を自転車に積んで、「アジでっせえ 鯖でっせえ」と、魚屋さんが売りに来ていた。当然、イワシはいつも自転車に積まれていたのではないかなあ。
その自転車は、昭和三〇年代のいつ頃にやってこなくなったのかなあ。
丼大王は、「イワシ」の識別がどの位出来るのかなあ。
「ひしこ
イワシの名は、『賤しい』から来たとの説もある。また、鰯なる字は日本で作ったいわゆる国字だが、すぐに死ぬ弱々しい魚だと言うにあるらしい。小さいイワシのことを『ひしこ』と呼ぶが、これは専ら、カタクチイワシを指すのに用いられてきた。だがその寄って来る意味を穿鑿するよりは、いずれも『本朝食鑑』などに倣って、『本朝古よりこれを称す』としておくのが、むしろ無難だろう。」
「カタクチイワシは、主として干物として用いられる。」
「日葡辞書」や「倭名類聚鈔」などに食事の記録や料理として出てくるが、その後は、16,7世紀の伝書である小笠原政清「食物服用之巻」の雑煮の説明の中に、いりこが出てくるとのこと。
「それはともかく、『臭いが強い』『脂が多い』などと言って、上つかたに差し上げることは、あるいは少なかったのだろうか。だがその反面、下々のわれわれには、大いに役立つものだった。」
乾燥した鰯は、こまかくきざんで灰と、あるいは糞尿とまぜて、肥料にもなっていた。
また、
「魚としての品格は極賤であるが、利用価値はますます貴(たか)い。現今世間では歳賀婚礼の供膳に必ず乾鯷(注:ほしひしこ)大豆、あるいは塩乾しの鰯、塩乾しの小鯛を瓮器(かわらけ)に盛りつけ、規祝(おいわい)の供としているが、これもまた田作の義を取ったものであろうか。あるいは小殿腹(ことのはら)とも称し、子孫繁栄の義を祝うもである。凡そ乾鯷は平生の佳肴であって、人々朝夕用いてもあきず、また、その一寸に足らぬものを連ね乾して帖をつくりこれを畳鰯(たたみいわし)という。これも盃をやりとりする際のよい酒肴であり茗酒(ちゃ・さけ)小会の具となる。」
と、川那部先生は、島田勇雄訳の本朝食鑑を紹介されている。
鰯を肥料としていたのは、昭和三〇年代のいつごろまで続いたのかなあ。いや、昭和三〇年には化学肥料の使用に変わっていたのかなあ。
近所の農家が、くみ取りをしてくれていたが、市が肥たんごに屎尿を入れるようになったから、くみ取りに来なくなったのが、昭和二五年から何年後のことかなあ。
そして、屎尿は、瀬戸内海に捨てられて、明石鯛は、うんちを食べている、と話されるようになったのは昭和30年ごろでは。
いや、鰯は、食糧としての重要な役割を持っているとのお話しですよね。
「大和本草」の記述は省略しましょう。この紹介では、鰯が肥料として重要であることがよく分かりますが。
「ごまめ
ごまめは、諺のうえでも冷遇されているようだ。『ごまめの魚交(ととま)じり』や、『ごまめの歯ぎしり』がそれだ。『小物が大物の中にまじって一人前のつもりでいること。つまらない者がふさわしくない地位にいることのたとえ』、あるいは『力量の足りないものがいたずらにいきりたつことのたとえ』などと辞書にもあり、鶴屋南北さんなどによる歌舞伎『紋尽五人男』には、
『田作(ごまめ)の歯ぎしり、家鴨(あひる)の木登り』
なるせりふもあると、物の本にあった。」
川那部先生は、鶴屋南北の諺をあえて曲解しょうとされるほど、ごまめの不当な扱いを好ましくないことと考えられているよう。
「ことのばら」もついでに省略して、ごまめの作り方へ。
「お節の三種の一品にするには、ごまめを焙烙(ほうろく)で煎るところから始まる。節分に壬生(みぶ)狂言を見に行き、そこで買う焙烙が一番佳いなどとの言い伝えも、少なくとも第二次大戦までの京都にはあったように記憶する。しかし、失敗しないという点では、電子レンジを使うのが良く、味も中々いけるのが奇妙だ。そのあと、醤油・酒・味醂・砂糖を入れて再び鍋で煎り、『照りごまめ』とするわけだが、わが家は甘いのを好まぬので、砂糖は控えめにして、正月以外にも賞味している。」
京女とおつきあいをする機会があったならば、少しは、ごまめに愛着を持つこともあったかも。しかし、ごまめを食べてはいても、その味を再び…何て、郷愁にはいたらない。普通の食べものに過ぎなかった。
川那部先生は、タンガニイカ湖の魚にも「鰯」を連想されている。
タンガニイカ湖の
「一番のお目当ては、沿岸に棲んで、二百種近くにまでこの湖で分化してきた、カワスズメ科に属する魚たちで、その中には、八十ないし九十センチに達するクーヘと言うものもいて、これの刺身は『ヒラメの味で、コチの歯触り』だが、それはここの話ではあるまい。
沖合表層の食物連鎖関係は、沿岸に比べて単純である。プランクトン動物を直接食う魚が二種、そしてそれらを食う魚食性の魚が、アカメに近縁の四種だ。ところでこのうち、プランクトン食の二種はニシン科に属し、ともにダガーあるいはカペンタと呼ばれるもの。この湖の漁業生産物の大部分を占めていて、これの天日干しが沿岸地域に留まらず、アフリカ大陸内陸部のかなり広い範囲に運ばれ、そこでの重要なタンパク源になっている。そうなのだ、これはまさに『アフリカのごまめ』なのである。
一日でしっかりと干しあげられたこれを、持ち帰ってごまめにしてみたが、カタクチイワシのそれに匹敵する、素晴らしい味だった。」
イカナゴの新子の佃煮と、「コウナゴ」の佃煮が同じもののよう。そうすると、「コウナゴの佃煮」を食べているところには、イカナゴのフルセの佃煮もあるかも。
何処かに、古のフルセの佃煮が、「旬」の味わいが伝承されているところがあるかも。
佐藤さんは、すでに闘竜灘に着いているでしょうが、川那部先生のモロコを見てから、闘竜灘に向かうことにしましょう。もう桜も散る頃であるから、佐藤さんは若鮎、稚鮎を釣り終えてはいるが。
「ホンモロコの塩焼き」
戦後の食糧難のときでも、泥鰌とモロコは食材としてはあんまり歓迎されなかったように思う。その理由は忘却の彼方であるが。
近所の溜め池には、容姿等を異にするモロコが二種がいたように思うが、「モロコ」の種類はもっと多様とのこと。そして、「ホンモロコ」が旨い、タモロコの味は落ちるとのこと。
そのような縁で、川那部先生のモロコに係る紹介をすることになるが、川那部先生が「魚々食紀」で重視されている故事来歴?は、省略をして、入力の手間を省くことにします。
「淡水魚の美味ナンバー1
生粋の淡水魚の中で、『これは美味い』と太鼓判を押す人の最も多いのは、おそらくホンモロコだろう。三十年ほど前、こう書いたことがある。
春三月、湖の水がぬるむと、京阪神の各地から釣り人が駆けつける。関西にいる間に味を覚えて、東京にいる今も新幹線でやってくるという御仁もある。こうして釣り場には、ずらっと竿が並ぶ。まだ雪の残っている北の山を遠くに眺め、黄色い菜の花を後に控えて、ヒバリの鳴きながら舞い上がるあぜ道を、釣り場から釣り場へ歩くといった情緒はもう少ないが、〈うきがチビチビと動き、つぎにスウと引き込んだときに合わせると、グリグリとくる感触があって、いつまでも忘れられない醍醐味である〉。もっともこれは、関西の釣りの大家亀山素光さんの言で、いまだに一度も釣ったことのない私には、いえる道理がない。ただその塩焼きの味のすばらしさは、誰にも負けないぐらい知っているつもりだ。」
川那部先生は、この文の後に、九首の俳句を紹介されているが、それは省略して、亀山さんが登場したからには、前さんの師匠が書かれた本を紹介することに。
亀山素光「釣の話」(弘文堂 昭和15年発行)(原文にない改行をしています。旧字は、原則当用漢字で表現しています。)
「八 モロコ(? 諸子 注・?の字は、手書き入力で表示されない。魚篇に巴ですが)
モロコは我国至所に棲息してゐるが、琵琶湖付近ほど饒産(注:じょうさん?)しこれを賞美する所はない様である。琵琶湖のものは本モロコ、タモロコ、スゴモロコ、イシモロコ等数種あるがその中の本モロコは型も大きく最も美味である。本モロコは若狭三方湖にも繁殖して、本場の琵琶湖に劣らぬ程発育してゐる。又琵琶湖水系の所々にもゐる。京阪の洫(注:キョク?溝)川や池などに居るのは大抵スヂモロコである。」
オラが、餓鬼の頃釣っていたのは、スヂモロコということかなあ。そして、あと一種かなあ。
「餌 モロコ釣りの餌はドロ(蚯蚓)(注:きょういん? 小さなミミズのよう)、サシ虫、赤虫である。ドロは牛糞の捨場の糸蚯蚓がよい。近年赤虫はモロコ釣りには無くてはならぬ餌となつて、これを使用する人は益々増えてきた様である。釣場と水色によつてはサシ虫を非常に喰うこともある。又生きた川海老の生身でもよく釣れる。本モロコは撒餌の必要はない。」
オラ達は、赤虫を使っていたが、赤虫が簡単に掘れるようになるのは、四月、五月では。二月中旬、三,四月の「最も良い時期:産卵時期」は、餓鬼にとっては、ミミズで鮒を釣るか、寒梅粉を練ってヘラブナを釣るか、の時期。春分の前では、寒くて。ジャンパなんて無い故。走り回るか、押しくら饅頭で暖まるしかない時期であったと思うが。 走り回るのは、鉄の輪が巻かれた独楽を手のひらに受けて、独楽が回っているときは、追い駈けても、逃げてもよい遊びが主であったが。つまり、手のひらに独楽を受けて、その独楽が動いている間だけ、鬼ごっこのゲームが進行するということ。
「本モロコは冬季は水深三十余尋の底に来る春を待つてゐるが、内湖に居残るモロコも随分沢山居る。型は本モロコに比べて小さく細長く、色も茶飴色をしてゐる。若いので低温に堪へるので居残るとされているが、その居残りも相当居るであらうが、居残りよりは内湖で孵化して内湖で育つた生粋の内湖育ちの方が多いのではなからうか。」
仕掛け、釣り方も当然、書かれているが、錘を一番下につけて、そのうえに枝針をつける、いわば、ドブ釣りのような仕掛けの「トントン釣り」が有効な場所があるということだけにしておきましょう。
「スヂモロコ釣
小川や田圃の脇の洫(注:みぞ?)川や野池で、或は腰をおろし或は畦を探り釣するモロコ釣ものんびりと興が深い。本モロコ釣で狭い釣り場に窮屈な目をして隣と竿当りしたり、向ふ側とアンテナを張つたりするよりずつと気楽に釣つて楽しめる。」
好季は、春四,五月で、秋季は九月ないし十一月であるとのことであるから、オラ達の釣っていたのは、時期から見て、スヂモロコであったかも。もっとも、川那部先生の八種のモロコの呼称には「スジモロコ」の表現が記載されていない思うから、どの呼称に相当するのか、わからないが。
亀山さんには、もう一度登場して頂く。それは、鮎の産卵時期について、学者先生とそっくりの記述があるから。
ということで、川那部先生の本モロコ礼讃に戻りましょう。
「モロコの種類
モロコという語が標準和名に入っている日本の淡水魚には、タモロコ・ホンモロコ・スゴモロコ・コウライモロコ・デメモロコ・イトモロコ、それにヒナモロコ・カワバタモロコの、合計八つがある。このうち最後の二者は、形もやや扁平で、ダニオ亜科に属する全く別のものであることが、以前から判っていた。だが、前の二者はモロコ亜科に、中の四者はカマツカ亜科に属し、これも類縁的にはかなり異なっていることが明確になったのは、二十年程前の話にすぎない。肛門の位置が、臀鰭基部の前端の直前にあるのが前の二つ、少し離れているのが中の四つだから、比較的簡単に見分けられる。
タモロコは、中部地方太平洋側から中国・四国地方の自然分布は確かだが、関東地方のものは移殖によるものかどうかまだはっきりしない。対してホンモロコは、琵琶湖の中でタモロコから分化したもの。いっぽう、スゴモロコとコウライモロコは同一種の亜科だが、前者は琵琶湖だけに棲み、後者は濃尾平野と、和歌山県紀ノ川から広島県芦田川までの瀬戸内側と四国の吉野川、それに朝鮮半島西岸域に分布する。そして、デメモロコは琵琶湖と濃尾平野だけに、イトモロコは濃尾平野から九州北部に分布し、ともに同種の亜種が、これまた朝鮮半島西海岸域にいる。」
川那部先生は、文化年間の藤居重啓「湖中産物図証」に描かれている本モロコ、田モロコ、スゴシモロコの図を転載されているが、オラには違いを理解不能。みんな同じように見えるが。当然、言葉による容姿の説明での違いも理解できない。
クチボソと、モロコはどういう関係にあるのかなあ。大きさだけを見れば、小さいモロコのようであるが。
「琵琶湖のホンモロコ
素晴らしいのはなんと言っても、最初に書いたとおり、琵琶湖固有種のホンモロコだ。タモロコに似ているが、体が細長く、吻が尖り、口が上を向き、口髭が短くてほとんど痕跡的になる点で、区別できる。これらの特徴からも明らかのように、底魚ではなく、水深五メートル以深の沖合の中層を遊泳し、専らプランクトン動物を食う。プランクトンを水から濾し分ける役割の、鰓の前側にある骨質の突起物、すなわち鰓耙(さいは)は、タモロコの六から十二に対して、十四~二十と数多く、かつ細長い。早春、深みから湖岸へとやってきて、四・五月に水草に産卵、孵化した子どもは比較的早く、沖合に移動する。
『湖中産物図証』のホンモロコの項には、次のようにある。
その形は平べったくて長く、鱗は真っ直ぐに並び、背側は白く
見えるが苔色で、頭の色もまた同じである。眼は大きく、口は
先端にあって円い。背と腹の中間に青黒褐色の筋が一本豎(縦)
に通っており、腮(あざと)の下から下腹部までは銀色である。
背鰭をはじめ諸々の鰭はみな褐色で、尾鰭は分岐していて褐色で
ある。
晩冬以後春まで鮞(はららご)をもつが、それ以外のときは雌
雄の分別は難しい。小さいものは一寸ないし二三寸、大きいも
のは頭から尾まで六寸(十八センチ)ほどである。春二三月が
いちばん美味い時期である。京都では春の雛祭りの宴には、必
ずこの魚がなくてはならないもので、祭りの祝魚となっている。
この魚は我藩の方言では、本モロコと呼ぶ。漢名は判らない。
○また一種、頭が細く眼が大きく、肩がいかっていて、体全体が
灰色で、鱗があらく?(注:左辺が鹿で、右辺が以の漢字であるが、
手書き入力で出てこない)瀬腹の際(きわ)に豎(注:たて)
に苔色の一条があって、腹は灰白色で、背鱗をはじめ鰭は皆灰色
のものがある。これも本モロコと呼んでいて、先のモロコとは雌
雄の違いだとの説もあるが、本当かどうか判らない。この二品は、
モロコの中でもっとも上等であって、美味であることはもちろん、
かたちも良く、貴い客にも供する魚である。漢名はまだ判らない。」
この描写が少しでも理解できると、モロコにも親近感がわくが。
それにしても、十八センチのモロコとは、想像も出来ない。せいぜい十センチ足らず、多くは六センチくらいの大きさではなかったかなあ。
「湖中産物図証」には、ほかのモロコの味も書かれているが、省略。
近年の図鑑には、ホンモロコについて、
「日本産コイ科魚類中で、もっとも美味である。特に冬のものは良い。あまがらく煮ることが多いが、ほんとうのところは塩焼きに限る。
日本産コイ科魚類の中ではもっとも美味で、とくに塩焼きが旨い。
味が淡泊で肉質がよいうえ骨がやわらかく、日本産コイ科魚類のなかで最も美味である。旬は一~三月とされ、特に〈子持ちモロコ〉がうまい。代表的な料理としては塩焼きや甘露煮がある。関西では高級魚
と絶賛されている。対してタモロコは、
ホンモロコの代用にされることが多いが、味はかなり落ちる。
かなり旨いが、本モロコに比べると味は落ちる。
関西ではホンモロコの代用魚として粗放的に養殖されている。
味は本モロコに比べて劣る。
とある。そしてスゴモロコ・コウライモロコ・デメモロコ・イトモロコは、
ホンモロコの代用とされる。塩焼きにした時には、味の差は歴
然としているが、つくだ煮では一般の人には味の違いは気にな
るまい。
味はかなり良く、ホンモロコの代用にされる。
ホンモロコの代用にされるが、味はかなりおちる。塩焼き、
つくだ煮、飴だきに利用される。
などとなっている。いずれにせよ、ホンモロコの群を抜くことは、すべての認めるところだ。」
ということで、オラが溜め池で釣っていたモロコの中には本モロコはいないということでは。水深も一,二メートル、明中池や平池も三,四メートルの深さではないかなあ。
「本モロコが食べられなくなる?
近年本モロコは不漁である。特に一九九八年以後はひどいととのうわさで、今後の状態が思いやられる。二倍ぐらいの数の変動は昔からあって、今は大阪教育大学にいる牧岩男さんが、一九六〇年代後半に調査したところでは、夏秋に餌があまり食えなくて、初冬までに一定の大きさにまで成長できなかった個体は、絶食中の冬のあいだに死んでしまい、それが数の年変動を起こす主な原因であることを、明らかにしている。しかし、ここしばらくの不漁は、どうもこのような説明の限界を超えているようだ。」
亀山さんは、「釣の話」に、琵琶湖のモロコ釣り場を書かれている。
その地図には、余呉湖方面が書かれておらず、虎姫の先までの地図になっているが、何らかの意味があるのかなあ。
米原から彦根にかけて内湖がある。安土にも大きく、そして半島がその中に突き出している内湖が。近江八幡から野洲までにも豊富な内湖が。
石山から虎姫までにモロコ釣り場は、四一箇所。西江州では、一五箇所程であるから、川那部先生が指摘されているように、内湖の存在がホンモロコの生活環境と密接な関係にあるといえるのでは。
川那部先生が本モロコを食べることが出来なくなったことは、琵琶湖の埋め立てが大きな要因とのいう指摘が適切ということの証明でしょう。
和田さんの長良川の鮎の調査が不適切であることの対極に位置する川那部先生のモロコに係る調査、知見でしょう。
ハモも気になるが。京では、祇園囃子とハモが結びついているようであるが、瀬戸内海に面する京阪では、ハモはどの程度の季節感を伴う食糧であったのかなあ。ハモの骨切りは、母親でも出来ない、と。魚ん棚の魚やさんで骨切りをしてもらっていたが、特別な記憶はなし。
むしろ、ベラの三枚酢につけ込んだ食材の方が記憶にあるが。
もっとも、砂糖の代わりにサッカリンやズルチンが使われていて、砂糖が使われるようになったのは、昭和三〇年近くではないのかなあ。
ということで、「魚々食紀」をはなれて、佐藤さんの闘竜灘に向かいましょう。
亀井さんの「釣の風土記」(浪速社 昭和四五年発行)に、亀山さんが序文を書かれ、また、もろこの章には、
「釣りの会では四十年の歴史がある京都の水曜会員で、絵をよくした和田冬花さんは先年八十四歳で亡くなったが、晩年はもろこだけを楽しんでいた。老衰がひどく、足腰が不自由になってからも、心易い仲間の井上満寿太郎さんと二人、膳所に舟を浮かべて、もろこ釣りを楽しんだ。京都からタクシーで膳所に出、井上さんがおんぶして舟に乗せ、胴の間にちんと座らせ、老人は手あぶりなどを引き寄せて、静かに竿を振った。そよ風に顔をなぶらせながら、老人は無心にもろこと遊んだ。うらうらとかげろうの立つ日などは、うつむいたまま、こっくりこっくり居眠りをしているときもあったという。
どんな釣りにも心ひかれるものはあるが、もろこ釣りには、格別人の心を優しく誘うものがあるようだ。」
と、オラもそうありたいなあ、という情景の描写もあるが。
相模川の葉山で、オラよりもあんよが下手な人がいて、優越感に浸っていたが、御年八十七歳と聞いてがっくりとなってもう十年程になるのかなあ。
それが、鮎釣りの最高齢と思っていたら、中津川では、九十歳の人が、八十歳の人をおつきにして、引き抜きを決めていた、と。もう、その人達も、川に入ることのできないお歳では、と思うが、羨ましい。
亀井さんは、さらに、琵琶湖の埋め立ての状況も書かれているが。
闘竜灘
佐藤惣之助さんが、「釣魚巡礼」の旅をされたのは、昭和十四年の四月か、十五年の四月。
「次いで、鞆から福山、岡山、姫路と帰りを急いで、加古川駅から播丹鉄道といふのに乗り換へ、頼山陽や梁川星巌で有名な、瀧の闘竜灘へやつて来た。
こゝの飛ビ鮎は天下に有名であり、また四月十五日といふ日本一早い解禁で、どうかなと危んで行つた私も、四月、櫻の花吹雪の下で、約五寸、一尾四匁五分もある溯上の自然鮎を、五十六尾釣つた。
これは先づ今年の自慢の一つで、阪神の釣客連が、さぞ腕を揮つて釣争つてゐるだらうと思ひのほか、その日は土地の者が四五人、大阪の客が四五人、それと私だけで、瀧下の奇巌の上で、釣りながら、啖(た)べながら、ビールを飲み、瀧の飛沫にぬれ、村の花吹雪をあびながら、悠々として、匂ひの良い初鮎をせしめることが出来た。」
人丸山(柿本人麻呂神社)の桜祭りは、四月十日頃であったと思う。関東の桜の開花日と満開よりも一週間あるいは十日程遅い。ソメイヨシノと、山桜の違いかなあ。
そのため、四月十五日頃の桜吹雪の情景に違和感はない。
「闘竜灘とは星巌の命名ださうであるが、漢詩人の悪い癖で、単に(飛ビ鮎ノ瀧)といった方がよささうだ。灘なんて字を使ふと、今日では誰も海の荒磯を思ふ。それは兎も角この環境は、むかしから実によく出来てゐるところで、丹波から出て来た加古川が、こゝで初めて急激に一丈余りの瀧となり、村は高原になつてゐるのに、 瀧のみがたうたうとして、三軒ばかりある旅館の下を流れてゐるのだ。
そこで宿の丹前を着たまゝ二間半の竿で楽に釣れ、女中が獲物を焼いたり背越しにしたり、ビールまで運んで来てくれるのだ。
入釣料は六十銭、おまけに鉤を六本呉れる、初めは青系統のものが良く、エイラク、青お染、こゝで出来る鴫ノ木といつた鉤がよい、赤ボカシへも二三来たが、多くは萠黃のはいつた鉤がよかつた。それに関東のやうに瀬を狙つて、二三本の鉤でやるのでなく、二尋三尋の淵を狙ふので、勢ひ鉤は六七本から十本もつける、初めの日は上鉤へ来たが、次の日は北風で冷えたので、下鉤へ鮎が多くやつて来た。
夜は瀧の音に松風、旅行中であるから持つて帰ることもならず、私は釣つた鮎を殆ど一人で啖べてしまつた。近江風の壺漬けにする、背越しにする、フライ、魚でん、恐らく今年初めて私の全身は鮎の匂ひに浸った。
然も生きながらおどり啖ひにして、遅い山里の櫻の下で、東京の釣友に電報を打たうかと思案したほどであつた。
夏の強い鮎とは違つて、アタリも柔らかく、やゝ細身ではあるが、透き通るほど背が青く、しかも銀に輝いて、処女性のある若鮎は、まるで小さな水中の三日月であつた。
三寸の柳ツ葉は三つほど一緒にくることがある。その内の一つ二つは必ず落ちる。次いでやゝ大物がくると、流石に深いから、白い激流の飛沫の中に竿を突込む、その味は全く関東の七月初旬の力がある。
静かに巌頭に坐つて、竿を上下させてゐると、遅櫻の落下がひらひらと飛んで来て、白い瀧の渦に消えてゆく、ボーンと村の夕暮の鐘が鳴る、村の人はもう引上げて行くが、遙々やつて来た私はあくまでねばる、そして北にはるか丹波の方の山を見、南に下流の播州平野の空を見、自分の丹前の襟に又散つてくる落花をはらひながら、最後の一尾を釣る。
ちる花にとぶ鮎に旅の春哀れ
である。
次の日、神戸から淡路の由良へ渡つて、鳴門の鯛を狙ふつもりであつたが、これも尚早なので、一と思ひに夜行で引返し、熱海下車、すぐ網代へ行つて、最後の一釣をやるべく沖へ乗出した。」
鮎の躍り食いとは、近江風の壺漬けとは、見当がつかない。ごぎの、シラスの躍り食いなら、現在でも行われているから、イメージは出来るが。
四月十五日頃に落下する櫻も見慣れていたから、違和感はないが。
現在のドブ釣りは、ハリを数本つけて、瀞でのドブ釣りが一般的な釣り方と思うが、かっては違ったのかなあ。一本バリの釣り方は、一部の人しか行っていないように思うが。
さて、佐藤さんが楽しまれた闘竜灘は、高度経済成長の中で、どのように変貌したのか、亀井さんの「釣の風土記」で見てみましょう。
亀井巌夫「釣の風土記」(昭和四十五年浪速社発行版 なお、昭和五十三年二見書房発行の釣魚名著シリーズの亀井巌夫「釣の風土記」には、闘竜灘が記載されている「釣りバリの町」は、掲載されていない)
亀井さんは、「播州バリ」がどのような経路、人によって、西脇に根付いたのか、そして、毛鉤がどのようにして西脇で新たな毛鉤が作られ、又、生産量を増やし、産地となっていったのか、について、書かれている。
しかし、オラの関心は、可愛い女医さんを釣り上げることが出来なかった「怨念」で、闘竜灘に関心を持っているという「不純」な動機に基づくから、省略します。
西脇で巻かれた毛鉤は、
「でき上がった毛バリを持って、生産者たちは手近な加古川で自分で竿を振ったり、職漁者に使わして試された。天候、水色、水量、それに合わせた角の色や水はけの良しあし。新しい製品はこうして、改良が加えられていったのだという。然し、現在の加古川には鮎は遡上しない。遠く円山川や矢田川に出かけて、性能を試すのだという。
『まあ、一度、加古川の水を見て下さい』
と、竹中さんの車で滝野町の斗竜灘を見に行った。京都・鴨川の水の汚なさはしょっ中見ているが、この加古川の水はとにかくひどい。その上に臭いのだ。水の色は鉄サビのように濁り、薬液の臭いがぷんぷんする。西脇付近とその上流の染もの工場が流す汚水である。これでは上水道も大変なことになる。
四十三年三月に、西脇市内でも水道の蛇口から黒い水が出て、大騒ぎしたと新聞は伝えている。西脇市の水道は加古川と杉原川の伏流水を利用して、三カ所から取水しているが、汚水は伏流水にも混入したものらしい。」
染色工場の排水から、井戸水も飲めなくなったとのこと。
「下流の高砂でも似たような事件が起きている。四十二年九月に加古川に水質保全法が適用されるのも当然で、現在は水質基準が設けられているが、この汚濁ぶりではとても鮎など遡ってこられないだろう。四十三年などはこの斗竜灘の天然遡上はゼロであったという。」
平成の初め頃に、杉原川を見に行った。
水は当時の中津川並みにきれいであったと思う。然し、釣り人の姿なし。遡上鮎は杉原川には上れず、湖産放流だけではないのかなあ。そのため、盆の頃には品切れ状態では。
「岩石が両岸から突き出し、にわかに川巾の幅をせばめ、渦を巻き、飛沫をあげて、約一丁ばかり激しく流れ下っているほとりに、滝野町観光協会の立札がたっている。播磨名所図会に述べる『弥生の頃より年魚多くのぼり急流に打たれて岩上に散飛事、吉野の落花に似たり。漁者是を採るに暫時数万を得、春日遠近の騒客爰に聚りて美観遊宴の境となれり』の一節をあげたのち、立札は『北は多可郡境より南は松ヶ瀬(下滝野)に至る間の漁業権はさきに滝野川開発の功により世々阿江家の専有となり、現主阿江勲之を上滝野に譲る。上滝野は明治四十二年三月九日漁業組合を組織して汲鮎(飛鮎ー筧とり)漁場として漁業権を確立した。現在漁業権は加古川水系漁業協同組合連合会にある』と記している。」
飛び鮎の漁業権を「上滝野」に譲渡されたときが、明治十七年?と、まだ見つからない「闘竜灘」での釣りに書かれていたと思うが。
オラが、亀井さんの「釣の風土記」から、闘竜灘を選んだ理由は、可愛い女医さんの名字が「阿江」さんであったから。浜っこであるかわいこちゃんのじいちゃんか、ひいひいじいちゃんが、滝野町出身であるか、どうか、聞き損ねた。
かわいこちゃんが、休肝日を作れ、と仰るから、肝臓を余分に働かせる薬ではなく、胃袋でアルコールを分解する薬をくれえ、と逆らい、嫌らしい眼でじろじろ眺められる事に堪えきれずに去っていかれた。
それからは男先生ばかりで、お医者さんに行こう、の楽しみもなくなってしまった。
あな、かなし。
亀井さんの悲しみは、そのような色っぽい悲しみではなし。
「それにしても、組合はいま、この川で何を獲ろうというのだろう。厄神(やくじん)や市場付近ではまだコイもフナもハスも居るには居るが、生業とするに足る川魚はもう獲れないだろう。斗竜灘には鮎もおらず、物好きな“騒客”も見当らない。
『あの岩の下や、このたまりのところで、私も自分で巻いた毛鉤を試したものですが』
と、竹中さんは濁流を指さしていう。
『この汚れきった加古川のほとりで、あんなに繊細で優美な毛バリが生まれているというのは、なんだか突飛な取り合わせですね』
と私はいった。竹中さんは片頬に苦笑を浮かべ乍ら、黙ってこっくりうなづいた。彼もまた、この川が汚れてしまったのが、言葉にならぬほど、辛いのである。
(四三・五・二一)」
現在の加古川の遡上量は多摩川並みにあるのかなあ。あるいは、それよりも多いのかなあ。
宝くじが当たったら、「騒客」の一人になりましょう。そして、かわいこちゃんのご先祖様かも知れないお墓を探しましょう。
稚鮎の跳躍力は?游泳力は?
亀井さんの琵琶湖に注ぐ小川での遡上鮎と堰堤の話は、中津川の堰堤と遡上鮎の関係、あるいは、酒匂川の栢山の堰の魚道の有効性、小田急鉄橋下流の魚道のない堰での遡上の可能性を知りたいから、雄琴川での観察を紹介します。
亀井さんは、「琵琶湖ノート」の中の「小鮎」の節で、
「季節がくると、小鮎はどんな川にも群れになって上ってくる。大きな湖西の安曇川や湖東の野洲川はもちろん、小さな天野川とか和彌川といった川にも、群れて上ってくる。とにかく湖水に流れ込んでくる水さえあれば、それに乗って、前後の見さかいもなく上ってくる。
雄琴の町を流れる溝のような雄琴川、流程はわずか二キロくらいしかないこの川にも小鮎は毎年上ってくる。この川には小さいが幾つかの堰堤がある。川口からものの百メートルばかりで最初の堰にぶつかる。この堰の下は深さ七十センチばかり、広さは一坪ばかりの溜まりになっている。
若葉の頃、私は子供をつれてしばしば出掛けていく。堰のそばに陣どって、お染や五郎と云った毛バリを結び、子供に持たせてやると、五センチくらいの可愛らしいのを、退屈せずに釣り上げて喜んでいる。
コンクリートの堰は一メートルあるかなしの高さで、少し傾斜がついている。流れはこの堰をちょろちょろと超して、小さな渦を巻いた淵に落ち込んでいる。見ていると、この白い小さな渦の中から、流れの中をくぐって小鮎が一匹また一匹と水滴を飛ばして駆け上がって行く。水の勢いに押されて、堰の途中から滑り落ちるものもある。しかし、ピ、ピ、ピッと水脈を作ってまた後から後から上がってくる。
『あ、また上がった』
『あっ、あーあ、おちちゃった』
タバコをふかし乍ら、私達は小鮎の動作をあきもせず眺める。
同じ堰でも、中央の流れを避けて、端っこの方から登るやっは、やはり成功する。堰を登り切ったやっは、一寸その場に佇んで、やれやれと一息入れているように見える。が、すぐにすいすいと上手へ泳いで見えなくなってしまう。上手のまた百メートルばかり行ったところにも同じような堰がある。あの堰を超すまでまたかなりの努力が要る筈だ。
柳の枝に飛びつく蛙のように、最初は失敗しても二度三度目には成功するのもいるだろうし、何度やっても駄目なやっもいるはずだ。若葉が終わってしまう頃にも、この堰の下に、いく匹かの姿を見ることがあるのを思うと、きっと落伍組もかなりあるのだろう。」
大きく成長できる環境にはないのに、いつもこの川には鮎がいる。
「しかし、そんなことを思い乍ら、あまい初夏の風になぶられながら、たそがれの湖畔に遊んでいる私には、徒労の美しさ、と云ったようなロマンチックな感懐がいつも湧いてくるのだ。」
20015年の相模川の遡上量は、一千万ほどの大量遡上。2004年、2008年の大量遡上の翌年は、遡上量が激減していた。
ということで、2016年の遡上量が激減することもあり得る。しかし、相模大堰副魚道での遡上量調査では、1千万ほどの大量遡上。
「全員が死ぬには忍びない。」ということで、形成される順位制や縄張り制が、稚鮎には形成されないから、稚鮎の胃袋をまかなうほどの動物プランクトンが相模湾には繁殖していないために、2004年、2008年は、流下仔魚量は大量であったが故に、大量の稚鮎が餓死したと想像している。
しかし、2015年のダム放流量は多かった→栄養塩が大量に海に流れ込んだ→植物プランクトンが大量に繁殖できる→動物プランクトンが大量に繁殖した→稚鮎の食糧は潤沢で、通常の稚鮎生存率よりは低いとしても稚鮎の大量死にはならないのでは、と、夢想していたが。
大量遡上があっても、相模川では、磯部の堰の魚道が遡上出来る状態か、中津川の何カ所かの堰の魚道が修繕されて遡上出来る状態になったのか、それが問題だ。
2015年の磯部の堰は、魚道上部に堆積していた砂礫のため、一番上り、二番上りが遡上性向を持っている4月、5月上旬には魚道に水が流れていなかった。5月下旬頃、魚道に水が流れるようになり、三番上りは、昭和橋、弁天等で釣りの主役になった。
中津川では、八反田橋か、最戸橋付近迄は遡上出来たが、それより上流は、魚道の修繕がなされていないため、遡上鮎はいなかった。
2016年は、磯部の堰魚道上部は、これまでとは違って、流れが左岸に寄り、水深が深く、そして、水量が多くなっている。
そうすると、流速と稚鮎の游泳力が問題になる。
昭和橋下流左岸に流れ込む八瀬川の塩田桜橋には4月20日でも鮎の姿なし。「冬の川」の石の状態が継続しているから、磯部の堰の魚道を稚鮎が遡上出来ないと考えてよいのでは。
酒匂川の栢山の堰の魚道は、足柄大橋と報徳橋の間に出来た橋からよく見えた。魚道下段の段差は、2015年には4,50センチほどあるように見えた。これでは、跳躍できるか否か、の限界か、限界を超えているのではないかなあ。
2016年、小田急鉄橋下流の堰を飛び跳ねている映像があった。したがって、2016年は、栢山の堰の魚道を遡上出来ている。もちろん、遡上達成率が低いのか、高いのか、判らないが。
その小田急下流の堰には魚道はなかったと思う。ただ、右岸側で堰が切れたところがあり、そこに水が流れていたかも。久しく酒匂川に行っていないから、適切な判断が出来ないが。
いずれにしても、小田急鉄橋下流の堰までは遡上アユがいるから、今年は足柄大橋付近の瀬に行くこともあるのでは。
稚鮎の跳躍力はどの位かなあ。体長7,8センチの稚鮎が、体長の5倍の跳躍力があるとしても、40センチの段差が限界。3,40センチの段差が跳躍力の限界ではないかなあ。
中津川の仙台堰の魚道の下段の段差は、40センチくらいでは。そこを遡上出来ない稚鮎が、魚道と右岸護岸とのあいだに出来ている溜まりにたむろする。もっとも、ここ数年、魚道の修繕が行われていないから、そこまで遡上出来る環境にないが。
ということで、藤田栄吉さんが、今は小倉橋が出来ている付近に設置されていた蛇籠風の「堰」が、遡上を妨げている、困難にしている情景を書かれているが、その状況が今年の磯部の堰の魚道で生じている。
流速と游泳力がどのような関係にあるのか、学者先生が定量分析的手法で、記述されてはいるが、残念ながら、その調査に使われた稚鮎の氏素性には無頓着であるから、紹介するまでもなし。二昔ほど前、神奈川県内水面試験場が継代人工の「飛び跳ね回数」なるようさをしていたが、回数ではなく、何センチの段差なら、飛び越えることが出来るか、の方が有意義な調査目標の設定ではないかと思うが。
「徒労の美しさ、と云ったようなロマンチックな感懐がいつも湧いてくるのだ。」とは、稚鮎だけのこと。
オラのあゆみちゃんのナンパ稼業も、何度も落っこちる稚鮎と同様の情景になっている。ただ、「徒労」の日々ではあっても、「徒労の美しさ」も、「ロマンチックな感慨」とも無縁で、ビールが、酒が、辛うじて憤懣を押さえてくれているだけであるが。
2016年に、「徒労」を味わうことのなくてもよい川、場所があるのかなあ。
なお、堰が直壁ではなく、勾配があるとき、そして、水量が少ないとき、稚鮎はその堰の斜面をを泳いで上ることができる。中津川の坂本の堰は、そのような堰で、坂本の堰の下流にある何カ所かの堰の魚道が有効に機能しておれば、坂本の堰の落水の所まで遡上出来る。そのような環境であれば、消防グランド、壊れ橋付近でも遡上アユがいるが。
こあゆちゃあん、さっちゃあん、中津川の最戸橋か八反田橋付近の遡上アユがいるところには、アッシ-君がいないといけないよお。余命幾ばくもないジジーにごほうしゃ、いや優しくしてえ。敬老精神をおわすれなく、宜しくたのんまっせえ。
「魚々食紀」の鮎の料理
「魚々食紀」には当然、鮎が食材になっている。
神代の昔から、また、「万葉の鮎」、「『延喜式の年魚』」、そして江戸期までの料理の紹介をされているが。
川那部先生は、「あとがきにかえて」に、「原文」の引用ではなく、「現代文に換えて」オラでも読めるようにして下さっているが、されど手に負えず。
ということで、川那部先生の思いやりに応えることは出来ず。したがって、理解できる範囲での「盗用」に精を出すことにします。
「日本列島近辺には、少し性質の違った三つの集団のあることが知られている。琉球列島のものは、例えばなわばりを持つ性質が弱い。九州から北海道に広く棲む集団から百万年ほど前に分かれたようで、一九八八年に西田睦さんがリュウキュウアユ別亜種として記載した。
いっぽう琵琶湖のアユは、なわばりを持つ性質が強く、またどこへ放流しても早く産卵し、すなわち光周期性が異なっている。これも少なくとも十万年以前に海と川を往復する集団から分かれたようで、早く誰かが別亜種として記載すべきものだ。
琵琶湖から流れ出る瀬田川に南郷洗堰が作られる以前は、大阪湾から淀川を溯ってくるものもいたことを、滋賀県水産試験場の柳本斗夫さんが一九一一年の論文に書いている。
当時それは中アユと呼ばれ、対して琵琶湖のアユで周囲の川に溯って大型になるものは大アユ、夏のあいだ琵琶湖に留まって大きくならないものは小鮎と呼ばれて、三つのものが区別されていた。
しかし海からの中アユと琵琶湖の大アユ・小アユとは、その間ずっと交雑せずに来たのである。また、琵琶湖のアユは全国各地へ年々放流されているが、それと海からのアユとの子どもは僅少で、しかも琵琶湖アユの子孫は海では殆ど死んでしまうことも、近年明らかになって来ている。」
オラにとっては、この文だけで十分であるが。
東先生が松浦川での流下仔魚調査で、湖産が再生産に寄与していないのではないかと気がつかれたのが1970年代の終わり頃。
21世紀初頭には、鼠ヶ関川での山形県のアイソザイム分析で、湖産も、交雑種も、海では浸透圧調節機能不全で生存できないと。
故松沢さんや、萬サ翁、前さんは、海アユの容姿に変化がないことから、海アユの遺伝子汚染が生じていないことに気がつかれていたが。遡上アユに「湖産」の子孫がいないことに気がつかれていたが。
もう、学者先生でも、湖産も、交雑種も、再生産に寄与していないことは常識になっているとは思うが。にもかかわらず、アユの氏素性の違いを意識して調査をされない方がいらっしゃるかも。和田さんは、1990年頃でもそのお仲間であるが。
さて、琵琶湖では、何で、海アユが「中アユ」だったのかなあ。
湖産が先になわばりを形成していて、海アユの稚鮎は、よき食糧にありつけなかったからかなあ。しかし、アユの密度が高ければ、群れアユとなり、全体としては縄張りが形成されているときよりも大きく育つと川那部先生らは調査されているが。
交雑種が琵琶湖では生産されなかったのは、海アユの産卵場所は、「下り」の行動をして、淀川で産卵していたこと、海アユを琵琶湖に流入する川に放流することがなかったから、「トラックで運ばれて来た」海アユがいなかったから、万が一にも産卵場所を共通にすることがなく、池田湖のように交雑種が生産されることがなかった、と「断言」しても間違いではないのでは。
もちろん、産卵時期のずれもあるが。ただ、産卵時期のずれだけであれば、重なる期間もあるから、東北、日本海側の海アユの遡上量激減という現象を生じることもあるようであるが。とはいえ、「トラックで運ばれてきた」アユと、遡上アユでは量の違いが大きいから、海アユの子孫減少への影響は限定的であったと思うが。
川那部先生が、「あとがきにかえて」で、「家も勤め先も本の山になっており、連れ合いなどには『家が傾く』と驚かされている。」とのことであるのに、湖産の海での行く末だけで、「魚々食紀」終えることは「忍びない」。ということで、少しは故事来歴からアユと日本人の付き合いを紹介します。
ただ、「現代文」での表現の紹介に限定し、また、詩歌は歌心がないために理解できないことから、省略します。
保存食としてのアユ
「十世紀の『延喜式』になると、東は静岡県から西は大分・熊本県に至る二十七の国からの日乾・煮乾・煮(かき)塩・塩塗・塩漬(しおつけ)・押・鮨(すし)・内子(こごもりの)鮨の各年魚(アユ)と、氷魚(ひお)の計九種の記録がある。このうち生のものはアユの幼魚たる氷魚だけで、残りはみな保存食だ。煮塩と鮨は各地からもたらされ、塩漬けと押は主として西日本から来ている。
これに対して氷魚の産地は、近江・山城の両国のみで、網代(あじろ)によって九月から十二月末日までに獲ったもの。そして塩塗りが伊賀と丹波の比較的近い両国だけから来ているのは、あるいはこれは、言わば一塩の、比較的生に近いものを指すのかも知れない。
しかし判らぬのは、火乾が僅か五か国からしか来ていないこと。この火乾しのアユは今も作られており、特に脂の強い落ちアユを製したものは、かえって枯れた味となる。改めて煮直すのが普通のやりかたながら、うまく焼き乾したものをそのまま食べるのが私は好きだから、この少なさは特に気がかりである。」
アユの保存食は、滝井さんが行われていた焼き鮎を乾かす方法だけと思っていた。
しかし、相模川の望地の河岸段丘の上に棲む人が、望地で地引き網で獲った鮎やハヤなどを煮て、そして乾して保存食にしていた、と。それで「煮乾し」を知った。
その地引き網をしていた場所は、現在は望地河原開墾事業で地引き網をしていた沖に堤防が作られて、水田になっている。その水田も耕作されないところが増えているが。
そして、小沢の堰で取水して、弁天のトンネルを通って望地の用水路に流れている水を田水に使っている。その水路に、昭和五〇年頃迄は、シマドジョウなどの魚が捕れていたが。
焼き枯しは、一匹ずつ焼くから手間暇がかかるが、煮てから乾すのであれば、大量に乾し鮎、ハヤを作ることが出来る。
地引き網が出来たのは、つまり、現在は水田になっているところは、石がごろごろという河床ではなく、砂礫層の川であったからではないかなあ。増水したときは、左岸崖に沿って流れる川の轟音が恐ろしかった、とのことであるが。
落ちアユを焼き枯しにした鮎から、うまい出汁が出るから、正月に雑煮に使っている、という話を狩野川筋で聞いたことがあるが。
焼き枯しをそのままたべるとは、川那部先生で初めて知った。かっては、狩野川の食堂に、弁慶に焼きアユが差してあるところもあったが、今では保存食にしなければならないほど、大漁の人は少なくなったと思うから、もう見ることのない風景かも。しかも、氷だけでなく、亡き師匠のように車に瞬間冷凍?できる冷蔵庫まで積んでいる人もいらっしゃるから、生のまま食することが容易になっているし。
氷魚の漁期は、新暦表示かなあ、旧暦表示かなあ。旧暦の「九月」のような気がするが。
「また押年魚と言えば、紀貫之さんの『土佐日記』を思い出す人も多かろう。九三五年元旦に、港の舟の中に留められて、正月の料理もなく、」
この後に続く原文は省略して鈴木友太郎訳を
「 ただ押鮎の口を吸うばかり。この吸う人々の口のことを、押鮎は
もしかしたら、何とか感じるところがあるかしら
と嘆き感ずるところである。」
この意味も判らないオラのような人のために、川那部先生は、
「この訳でも意味の判らぬ人が、あるいはいるかも知れない。野暮天の限りながら敢えて解説を加えれば、『人前で接吻(キス)をされて、アユはひょっとして恥ずかしく思っているのではないか』と戯れて話をしているのだ。」
とのことで、優しい川那部先生の「野暮天」の解説で貫之さんの歌の意味が判りました。この押鮎については、「未だ詳らかならず」の「本朝食鑑」の説に、川那部先生は軍配をあげられているよう。「押鮎」ですら、いかなるものか、川那部先生が諸説の考察をしなければならないとは、「野暮天」の、そして、味音痴のオラには想像もつかないことであるが。
鮒鮨ほど、確立した製法がなく、郷土色豊かな作り方、保存食であった、ということかなあ。
オラには判らない食べ方というか、料理法に膾(なます)がある。現在では、寄生虫を気にすることなく、生で鮎を食べることが出来なくなったことも影響しているのかも知れないが。いや、鮎に寄生虫がつくことが事実であるか、どうかも判らないが。
十六世紀以前?に書かれたと推測されている「包丁聞書」に、
「 鮎のいかだ鱠(なます)と言うのは、鮎をおろして細作りにし、
柳葉をいかだのように揃えて皿に並べ、その上に作った鮎の
細作りを盛って出すものである。このとき柳の葉の葉先が、
客人の左または向こうへ来るように敷くべきである。
と始まる。また、
鮎の皮引き鱠と言うのは、皮を引いたあとふくさ盛にして、
たで(蓼)酢をかけるものである。
ともある。そして、その下に敷く植物は、魚ごとに決まっていて、アワビには海藻、スズキにはエノキ、生カツオにはニワトコ、そしてアユにはフジだったのだ。」
こんなに食べる上での約束事があるのでは、ものぐさもんには付き合いきれませんなあ。
塩焼きでも、季節によって、串の刺し方を異にするとは、食べるまでの煩わしさから、いやじゃのお、となるオラです。テーブルマナーが嫌で、そのようなところに出入りしないからなあ。
「かっこつけるな」.。高いからレストランに食べにいけんだけじゃろう。まあ、そういう見方もありますなあ。
さて、宮地伝三郎「アユの生活史――擬態文」から、二九首を紹介されているが、そして、その中の数首は、ほかの釣り人がこれまでに引用されているが。
ついでに、「四条流包丁書」などの料理に係る記載も省略。
ただ、垢石翁が読んだら、異議申し立てをされるから、「本朝食鑑」の記述だけは、紹介します。
島田勇雄訳の本朝食鑑から
「当今では西京(きょうと)の賀茂川・桂川・梅津・市原・高野川に、汲(くみ)鮎・梁(やな)落がある。これは昔から賞美され、歌に詠まれている。肥前の玉嶋川(注:松浦川と同じと思う)にも鮎が多く、歌人に最も賞詠されている。当今濃・尾二州の鮎が上品とされる。紀州の産もこれに次ぐ。以上の四・五州および関西の鮎は、関東のそれに比べて甚遠(はるかに)まさったものである。」
鮓(すし)の質についても
「近世(ちかごろ)では尾張・美濃の鮨が上品とされる。就中(とりわけ)尾州の鮓は絶勝である。(中略)紀州には釣瓶(つるべ)酢というものがある。これは鮎の微少(わか)い時期のもので、その年の最初の珍である。凡そ上都(じょうと)・関西・尾張・美濃の鮓は、魚の鰭骨(注:ひれぼね)は軟脆(やわらか)で、肉脂は厚膩(注:あつあぶら?)なので味は勝れている。東国の鮎は鰭骨が堅硬で、味はよくない。それで遠州の大井川、相州の根府川、野州の宇都宮、武州の築井(つくい)の鮎は、魚の肥大なのを誇りとするけれども、骨の硬堅(かた)いところが惜しいところである。」
垢石翁は、川の水の冷たいところの魚の方が、骨が柔らかいと書かれていたと思うが。
根府川とは、どこの川かなあ。酒匂川のことかなあ。現在の「根府川」という小川ではあるまい。
藤田さんだったかなあ、酒匂川の山北で、鮎鮨が駅弁として販売されていたと書かれていたと思うが。
宇都宮は、鬼怒川かなあ。「築井」は、どの川かなあ。
川那部先生の好みの鮎は
「アユの料理はさまざまあるが、私にとっては、川から取り上げたばかりのものを、塩焼きにして片端からタデ酢でむさぼり食うのがいちばんである。保存用としたものでは、焼き乾しのアユ、さらに絶品は消化管だけを塩からとした『苦うるか』だが、川が悪くなったせいか、見事な味のものには、最近中々お目にかかれない。」
なお、香りについて、
「すなわち、アユの刺身や塩焼きは、中世にもすでに知られていた。そして、今は塩焼きに欠かせぬタデ酢は、刺身に用いられていたのである。魚臭いと言うより、むしろ植物それもキュウリの匂いのするアユには、何によらずタデ酢が合うと、これも古くから気付いていたわけだ。」
亡き師匠らは、竹に腸を詰めて、苦ウルカを作っていたが、それに使うアユには狩野川のアユは入っていなかったのではないかなあ。益田川や、ゴルフ場やスキー場の開発で、今は強者共が夢の後の川と成り下がったという話のあった伊南川等のアユ、それに道志川のアユが使われていたのでは、と想像しているが。
オラは、平成の初め頃か昭和の終わり頃に中津川のアユから作られた、十年ほど寝かしたと話されていた苦るかを食べたことがあるだけ。
川那部先生が、「キュウリの香り」と書かれているが、スイカの香りが消えてキュウリの香りがするだけでも「よき川」となった現在では、恵まれた方である、といえるが。
中津川で、平成の初め頃迄は時折、キュウリの香りのするアユに出会えたことがあったが、今は昔。それよりも前、昭和四〇年頃迄は、愛川橋にスイカの香り・シャネル五番の香りが立ちこめていたとのことであるが。
亀山さんは、「釣の話」に、「全国鮎釣主要河川」を紹介されている。
川が、鮎の質が悪くなって、現在では想像もつかない変化が生じているとは思うが、それでも、何でかなあ、と思う川があるので、今昔の川の評価の変化で気がついたことを。
近畿、中部では、古座川や日置川は、まだ登場していない。そのような辺鄙なところに行くまでもなく、「香」魚がいっぱい遡上しているということかも。いや、熊野川が紹介されているから、別の選考基準があったかも。
北陸、上信越では、阿賀川、信濃川は記載されているが、荒川、三面川は記載なし。
また、狩野川、富士川の記載もない。狩野川は何で記載されていないのかなあ。
関東では、鈴木魚心さん同様、鶴見川が記載されている。
そのような川の変化が気になるが、四国では雨村翁が行かれた八畳の滝のある吉野川、折角出掛けて行ったのに、あゆみちゃんと楽しめなかった四万十川=渡川、弥太さんの仁淀川は記載されている。
さて、佐藤さんが、あゆみちゃんとの逢い引きをされていれば、その記述で締めくくるが、残念ながら、興津川でのドブ釣り、しかも清水に出かけたほんの一部として「興津と清水」に記述されているだけ。
それで、佐藤さんらしい釣り旅行ではないかと思う「気仙川のやまめ(岩手県)」を紹介します。
佐藤惣之助「釣魚探求」の「気仙川のやまめ」
「五月四日、北国の春は方に酣(注:たけなわ?)で、梅と桜はやゝ散りがてに、桃・梨・李が百花絢爛と大気を咲き綵(かが)つてゐた。殊に青く白い清純な李の花が、人家の垣に、丘の畑に、薄萠黃の木の芽に交じつて、寂しい谿間なぞに白光の花笠を開いてゐるところは、いかにも北方へ来たといふ旅愁を感ぜしめる。私は東北線一ノ関の一つ手前の駅、花泉といふところで下車して、ハイヤーで更に東方へ五里、北上川を渡つて藤沢といふ山の町へ来た。」
「~五日の日は、藤沢付近を流れる小さい新津川といふのを探つたが、玆には殆どハヤのみで、遂に待望のヤマメの姿を見ることは出来なかつた。尤も五毛のハリスで、渦巻く小さい淵から尺ハヤをあげる快味はあつたが、七尾ばかり釣つてゐるうちに雨になつて来たので、遂に竿をたゝんでしまつた。
翌六日は、去年の十月子持の大鮎をせしめた砂鉄川へもと思つたが、あの指定名勝となつてゐる猊鼻渓も、何となく陰鬱なので、もつと明るいヤマメ専門の川はないかといふと、気仙(けせん)川の上流、世田米附近なら、必ず満足されるでせうといふ土地の人の話なので、藤沢から北へ三里、千厩といふ大船渡線の駅までバス、それから二時間、新月、気仙沼、鹿折(ししをり)などといふ駅をすぎ、竹駒といふ駅へ下車、こゝから西方へ五里近く、世田米といふ所まで又バスである。東北も玆は岩手県の東端、それに支線で列車の遅いこと、土地の人々の訛りの酷いこと、例によつて山の櫻の寂しさ、李の花の白さが、旅行者を妙に寂しくさせるところだ。」
大船渡線には現在は廃駅があるかも。又、東日本大震災で、電車がなくなるかも知れないところも。
竹駒までの道中は、乗り換えが順調にはいかず、旅愁を楽しむ時間がたっぷりあったのではないかなあ。
「然し竹駒――世田米間のバスは、古いハイヤー一台のみで、既に荷物を持つた乗客が八九人も詰まつてゐる。時計を見るともう二時過ぎで、次の五時半のバスを待つては、世田米へ行つて夕方の試釣が出来ない、泣くやうにして運転手君に頼んでも、いくら東京から遙々来たのだと訴へても、馴染の乗客を先へ乗せて、私のことは取合つてくれない。では外部へブラ下つて行くからといふと、それはやかましいからといふが、途中咎められたら下車するといふ約束で、私も必死になつてしがみつくと、向ふ側にも平然としがみついてゐる青年がある、私も勇気を出して、五里の山路をドアの外側に立つて、滅多矢鱈に揺られてゆく覚悟をした。
ガタ自動車は飛ぶ飛ぶ、幸い道路は県道なのと、目的の気仙川の流域について登つてゆくので、川の変化を観察するに上々である。昨日から恐ろしく風が寒く、涙も身ぶるひも出るが、然し車の外部にぶら下がつてゐるスリルは、私を子どものやうに愉しませる。」
「~私は北風に涙をためて、向ふ側の青年に話しかけた。
車の屋根越しの会話で、大声を出さないと風で聞こえない、私は川のこと、釣りのこと、世田米といふ未知の土地のことを訊く、青年は親切に教へてくれる。道路は山を巡り、村を過ぎ、あく迄風光のよい気仙川についてゆくので、淵や瀬をよく見ることが出来る、川が彎曲してゐるところに、大きい淵があつて二三人で三間半竿をふり立てゝゐるのが見える。
『オーガイの引掛けです』と青年が説明してくれる、オーガイとはマルタのことだ。この川は海マスが盛に溯上する、釣れるのは七月一日解禁のアイを第一に、次がザツコ(ヤマメのこと)ツグラ(ハヤのこと)などで、去年のアイの解禁日には一貫五百目も釣つた人があるといふ、尤もドブ釣はやらず、すべて友釣りらしい、従つてザツコ(ヤマメ)は世田米よりも更に三里も上流の有住(あすみ)の方が、専門の川漁師がゐて、いつも盛岡方面へヤマメを出荷してゐるといふ。二里三里と走つているうちに、車の屋根越しに、青年から私はそれだけの知識を得た。」
佐藤さんは、「多摩川の下流」の章に、清らかな水が流れていた多摩川下流で育ち、メゴチ、鯉、鮒、タナゴ、テナガエビ、マルタの夜釣り、イナの引っ掛け、などとお魚さんと戯れていた。
「然し、ハヤにも凝ったが、ほんとうに熱をあげたのはマルタである。これは私の『釣心魚心』の中の『マルタ百夜』『マルタ文章』などを読んで下さればお解りのことゝ思ふが、昭和の初めから、八九年まで、秋十月の初めに試釣して、翌年三月までは、年々百日以上をマルタで費やした。私の釣りは『マルタ修行』から、やゝ本格的になつたといつても過言ではない。」
そして、川崎のマルタ名人を紹介されている。
佐藤さんにとって、思い出深いマルタの話に気仙川で出会うことが出来たが。
「その内に私は、ますますこの川の良さに惚れこんだ。昨日は雨だつたが水は少しも濁りがない、そして両側の山は狭いところで四五丁、広いところで一五六丁もあらうか、広くなれば村があり、狭くなれば峠で、川幅も三四十間、あるいは一丁近いところもあり、急潭あり、淵あり、荒瀬ありで好条件。道中咎められもせず、やがて世田米へ四十分ほどで着く。」
青年は、時計屋さんで、宿に案内してくれ、又、釣り支度でやってきてくれた。
「そして笑つていふには、この地では釣にゆくことを(鱒かけにゆく)といふ、アユの友釣りにマスがかゝると否でも竿を放棄せねばならない、そしてマスは上らない、即ちマスにかけられて困るほど下手だといふ卑下した言葉だ。で、私が釣りに来たので自分も急に探つてみたくなつて見たくなつたらしい。
今は四月初めのヒヤザツコ(雪代ヤマメのこと)の季節も終わつたので、こんどはよく虫のとぶ六月でなくては本格ではない、今は丁度釣れない季節だといふ、然し三つや四つは釣れませうといつて、コンクリートの長橋を西側へ渡り、川柳の生えてゐる上流へ向つて案内してくれる。見ると彼氏の仕掛ケは、先端へ白木の浮木をつけ、毛鉤を四五本つけた流シ釣りの仕掛ケで、長靴ではいり込んで、水深一尺ばかりの荒瀬を流すのだ。
私のは淵や瀬脇を狙ふ喰ハセの仕掛ケで、カマエビ、玉虫、キジ、イクラと持参して来てゐる。然しこの町裏は川幅が広く、相当深いところもあるが淵とか巌の陰といふものはない、これはハヤぐらゐで終りかと覚悟を定め、ともかくも水深五六尺以上の急流の淀ミ、川底に荒石の見えるところを流すと、グツととまつて一尾あげたが、青く光るやうな立派なヤマメで、裕に六寸はあつた。強ひて譬へれば狩野川の青羽根付近のやうで、然ももつと広く平らで、山の町の白壁が見え、広い川原で、赤朱の夕陽のあたつてゐるのんびりとしたところだ。
続いてキジで流し、イクラで試みたが、やつぱりカマエビが勝利で、私は又三つ深い急流からヤマメを引きぬくスリルを味ひ、鉤が鮎掛ケなので一つバラした。千田君は今日は寒いのでハネがないから釣れぬといひつゝも、浅い荒瀬を流してゐるが、まだ虫がとぶやうな季節でなく、どう考へても毛鉤釣りに早いやうに思われたが、この土地では毛鉤釣り万能であるから、季節が来たら嘸ぞ(注:さぞ)面白からうと思われた。」
佐藤さんは、町長と、町長が連れて来た河北新報の記者と1杯やって寝た。朝、宿に頼んでおいた案内人がおらず、又、千田さんと握り飯とリンゴを魚籠に入れ、町尻から川に降り、釣り下ることに。
「時に午前八時、天気は晴朗、気温は昨日より温い、今日は釣れますねえといつてゐるうちに、九時になると南風が強くなり、同時に気温がぐつと騰つて、太陽が鼻の頭に熱いくらゐ汗ばんで来た。両側の山のうすい木の芽、若葉、それに山桜、山梨、山吹の花が咲き乱れ、川原には菫、きんぽうげ、殊に満州の松花江で見るやうな川柳が、白い柳絮(注:しょ?)の綿をとばし、鶯、ひがら、眼白なぞが原始的な感情そのまゝで啼いてゐる。忽ちに私は足を蚋(ぶよ)に食はれるなど、いかにも五月の山境になつて来た。
千田君は頑固にクモヅリ(毛鉤仕掛ケのこと)で例の荒瀬を狙つてゐるが、私は尠(注:すくな)くとも水深三尺以上、或いは一尋以上もタツところを六毛のハリスで、浮木を上下させ、まるでハヤの調子で試み、三つ四つと形を見てゆくので、千田君はいろいろと仕掛ケを変へ、時には私のやうに喰ハセでやるが、又手馴れた毛鉤釣りにかへるなど、相応に苦心してゐる。
カマエビで三尾、玉虫を三つばかりとられてから、私は断然川虫に変わつて見た。而も大きな一疋ヅケの奴には八寸あまりのヤマメが来る、ハヤも二つ釣つたが、十一時までには一五六尾あげた。それを魚籠の中へスカンポの葉と共に包みこんで入れる、山の魚の自然な青い匂ひがする。
七八丁降つて来てから私達は握飯と林檎で昼めし、茶がないので川の水を飲み、顔を洗つて、巨大な石の蔭で足を延す、うつらうつらと眠たい山境の春だ。向ふ側に砂金採りらしい男が三四人、ぼんやりこつちを見てゐる、昔は一日五円にもなり、一貫目ほどの純金の塊も珍しくなかつたといふところだ。川には樹が参差してゐるやうな、辷り込むやうな危ない場所は一つもない。鮎のドブに好適な所がいくらもあり、荒瀬があると、急潭があり、殆ど七八間歩けば一つづつよい場所がある。
私はこんな環境をもつているヤマメ場所は初めてなので、すつかりこの気仙川に惚れこんだ。それに水の条件はよし、流れの強さが竿の弱さと一致して魚を水からぬく時のスリルのよさ、初め尺近い奴をどうしても危くて抜くことが出来ず、瀬脇の瀞まで曳いて来たが、鉤にアゴがないのでバラしたときは、溜息を十もついた。といつて普通の鉤では川虫が刺しにくいし、キジは全然駄目、カマエビも玉虫もあと七つ八つしかないので、とうとう最後まで川虫で通してしまつたが、三時までに二十四の収穫は最近の私にはレコードであつた。こんな時に鈴木魚心君でもゐたら、恐らく四五十もあげたであらう。七月初めの鮎になつたら再遊したいと思つたほどだ。
それに環境が明るく、川は清く大きく、然も自然のだらだら下りで、二三人がかりで、マスの引掛ケを試みるといふ淵があり、ヤマメのハネも二三度見た。更に川と県道とは常に平行してゐるし、下在、笹淵、瀞、ねまり松、田ノ上といふ場所を釣り降る、殊にねまり松附近は川中に巨巌が多く、その淵が変化を極め、一丁ほどのところに、釣場が二十ケ所もある。昔、玆は千畳敷と謂はれて、川中に石の船を浮かべたやうなよい場所で、北日本の偉傑伊達政宗もこゝから竿を突出して、鮎を釣られたといふ伝説があるが、恐らく嘘ではあるまい――ともかく、ねまり松附近は世田米での第一の場所であつた。
私はやゝ堪能して、三時に切上げ、田ノ上の鉱山下で断崖の涼しいところへ寄りかゝつて少し昼寝して、田谷の茶店で、迎へのハイヤーを待つた。何にしても気仙川は下流の横田村付近から、上流の有住まで、約七八里も好釣場がつヾいてゐる、時日が許すなら、こゝから有住まで三日がかりで釣り上つたらおもしろからうと思ったが、何しろ今日午後五時発の列車に、竹駒から乗込まないと、八日中には東京へ帰れないので、残念乍ら千田君に再遊を約し、厚く礼を述べて、私はハイヤーで竹駒駅まで帰つた。」
「――さらば気仙川よ、又の日まで――」。
うらやましいなあ。もうこのような愉しい釣りが、景色に浸ることが出来るとは思えないが。
サボMやヤマメねえちゃんは、佐藤さんの足跡をたどったことがあるのかなあ。
まだ、巨巌は残っているのかなあ。ヤマメは自然繁殖できる環境かなあ。川の水は飲めないでしょうが。
春たけなわというのに、ヤマメねえちゃんが舟釣りをしていたとは。
気仙川も北上夜曲の
おもいだすのは おもいだすのは
きみのおもかげ むねにひめ
に。
気仙川も歌枕になるのかなあ。山女魚、鮎、桜鱒、それとも川の景観で。
長谷川さんは、
「 もともと歌枕は想像力の生み出したもの。歌に詠まれたとおりの歌枕が現実の世界にあるわけではない。どこにあるかわからない歌枕もあれば、初めからどこにも存在しない歌枕もある。夢の中ではたしかに見えたのに、つかもうとすれば消えてしまう幻。歌枕もまたそんな幻に似ている。」
そして
「歌枕はことごとく荒れ果てた廃墟になっていた。もともと人間の想像力が生み出した幻。近づけば逃げ水のように消えてしまうものなのである。そのなかで芭蕉が『疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す』と歓喜した『壺碑』でさえ、ほんとうの壺の碑ではなかった。」
「みちのくは漢字を宛てれば『道の奥』。文字どおり道の最果ての国。そこは松島をはじめ数々の歌枕の待つ国。歌枕とは人間の想像力が作りあげた名所。古池の句で開いた心の世界を試すにはこれ以上、ふさわしい土地はないだろう。『おくのほそ道』の冒頭に《松島の月先心にかゝりて》と書いたのは、芭蕉の真情だったにちがいない。その名を知られたみちのくの松島こそは歌枕の中の歌枕なのだから。」
それでは、気仙川は、どのような歌枕になるのかなあ。
それは想像すら出来ないが、佐藤さんが愛でた気仙川が、「廃墟」となっていることは容易に想像できる。
あと一週間ほどで、興津川の解禁。興津川には行くことはないが、そろそろ「浮き世帰り」をしましょう。
舞台は、興津川と「南紀釣行」で。
興津川のドブ釣り そして南紀釣行
「興津と清水」から
「~この頃やつと釣りの味をしめた家内が、妾も連れて行けといふのでやむなく同行、~」昭和15年8月2日、興津で下車。
「何年ぶりかで水口屋の裏屋敷へ納まる。こゝでカイズの夕釣(ゆふづ)りを試み、明日は玉川鮎の助さんから教へられた興津川の上流、炭焼きと心中淵のアユを狙つて見ようといふのだ。」
浴衣着に竿を持って、餌を求めて玩具屋へ。生きが悪く、川崎か鶴見で買ってくれば、と思う。カイヅの魚拓が張ってあり、二厘柄で三百目から四百目の大物を釣り上げたとの添え書き。
二軒目でサナギを手に入れる。ここのお婆さんは、釣りの状況に詳しい。7月には川尻へアカエヒが鮎を食べに来て、町の集がボラの仕掛けで、四五百目のアカエヒをよく釣ったが、今はイナ(方言、エビナ)が沢山入っているだけ。やっと、二才もの1枚。
翌日、
「上流の炭焼き方面へは一日一回のバスしかなく、中流の小島あたりなら旅館もあるといふので、先ず小島の梨ノ木、大ドブ、急転(灸点)柳、あたりの見物するつもりで、のんびりとバスに乗つた。十五分ほどで小島の村へ着く、そこの甲州屋で支度をして、老人と若い細君に訊いて見ると、解禁当時はよく釣れたが、この頃では一日やつて十尾も出来ますかどうかといふ、主人は二三日前から村の鮎漁師と共に富士川へ行つて、友釣りで一日に二十円ほども稼いでゐるとの話、もちろん私はドブで、ほんの試食分ぐらゐ釣ればよいのであるからと、軽装して川へ出掛けた。
コンクリートの橋の下から川へ降り、三間の竿を長くしたり短くしたり、鉤は『新魁』や『暗がらす』で大ドブを釣つたが魚は見えず、少し下流の六番、五番には八九寸もあらうかといふ奴が、悠々と泳いでゐるが、水が澄んで少しも活躍せず、それから梨ノ木淵へ下つて、浅場から崖下の深ンドへ向つて、股から臍まで浸して竿を振つたがアタリなし、既に魚は釣り尽され、水は渇れて溯上もならず、その少数が淵のトロで遊んでゐる始末。
尤もそこへ友釣りの村の老人が来たが、これも囮だけ大事にしてゐるばかりで、遂に一尾も物にしない。私は竿を投げ出して砂利の上に寝そべり、青空を仰ぎ、自分の健康を感謝しつゝ、そこへ泳ぎに来た村の子供達と共に泳いで遊んだ。」
アユの密度が低いとしても、なんでかなあ。
8月であれば、もう遡上性向はなくなっているのに、溯上が出来ないから、アユが少ないとは、どのような意味があるのかなあ。
琵琶湖に注ぐ野洲川の三雲で、盆の頃にチャキチャキの湖産を相手にしたことがあった。その年の春の水量が多く、瀬切れも堰の溯上阻害も小さく、遡上出来たということで行った。既に網打ちが行われていたが、少しは釣れた。囮屋さんが、網打ちの人にオラの邪魔にならないように、他でやって、と頼んでくれていた。
釣れず、川原に寝そべり、健康を感謝する、という情景は凄く共感できる情景。
今年も何回その所作をすることになるのかなあ。2016年の相模大堰での遡上量調査では、2015年と同様、一千万の水準。然し、磯部の堰の魚道上部で、これまでとは違って、流れが左岸側に寄っている。そのため、魚道上部の水深が深くなり、又、流量が増えている。魚道の流速も当然早くなっている。稚鮎の游泳力が流速を上回る状況ではないようで、昭和橋や弁天での遡上アユは期待できない。中津川の最戸橋下流の何とかまでなら、去年も遡上達成率は判らないが、遡上出来ていたから、今年も遡上出来ているのではないかなあ。
「~午後は急転(灸点)へ陣取つて、あの水道取入口の下の、三四流ばかり水の衝いてくる東側の岩の上に二時間も辛棒し、やつと柳ツ葉を三つほど見て、鉤を換へること十何回、煙草を十本ほど、欠伸を七つ八つして引上げた。
この分では『柳』へ行つても、『雨乞ひ』に行つても、更に上流へ行つても見込みはない――と見て四時に道具を収め、バスで又興津へ戻り、それから直行するバスで清水へ来た。」
桟橋や、牡蠣棚で、又、奥さん同伴で、小アジやカイズや、と、奥さん孝行に精を出した数日。
そして、東京では手に入らなくなったメンソーレタム、懐中電灯。木綿糸、ハンカチ、ノートその他の生活用品を買いました。
「南紀釣行」
昭和15年6月の解禁日前日、佐藤さんは、垢石翁らと「燕」に乗り込み、大阪で関西の大立て者らと落ち合って、南海電鉄で橋本駅へ。
「内報によれば、今年は稀なる渇水で、どこもかしこも面白くない。にも係はらず、人気のある狩野川、興津川なぞは、各々東京から千人以上も押しかけるといふ。附近の旅館は二十四日で予約満員、多摩川は望みなし、相模川もどうか、東北の諸川はやゝ有望であらうといふ予測。そこで関西遠征となつた訳であるが、同地も同じ渇水状態、上田尚氏からは、もう少し延期されたらといふのであるが、行風が立つたら誰もぢつとしてゐる者はない。川を見るだけでもよいではないかといふので、『燕』の三等車に頑張つた訳である。」
「馬入川をのぞく、富士川を見る、又興津川をのぞく、天龍川の満々たる水を見て喜び、木曽川を渡る頃には、こんな良場を越えて紀州までとは、かなり酔狂なプランであるやうに悔まれもする。然し驀進する『燕』はいかんとも仕様がない。」
橋本は見込み薄ということで、高野口へ。
「先着者の五六人が他の舟でもう盛んにやつてゐる。対岸の巌の上には二十人ほどゐる。なる程水は乏しく深夜から網で荒したので、川は笹濁り、それでも青い渦が深々と巻いてゐる。水深約一丈、ひらひらと最初に来たのが、やつと三寸になつた若鮎だ。
遠く近く、紀ノ國の山々の青さ、川原の静けさ、月見草に燕の声、畑の麦秋のいろ、日は薄暑で少し汗ばむくらゐ、二,三分おきに、ひりゝと来て十尾ほどの内に、五寸級は一二尾、あとは悉く柳ツ葉。その内に友釣党の一同がやつて来て、囮にと草人君苦心の大鮎を持つて、舟で下流へ降つてゆく。小生等の隣の舟では、上田、田井氏の両氏が、静かに竿を上下してゐる。明鏡止水は少し大袈裟だが、典雅流麗な、いかにも子鮎にふさはしい心理状態が三四時間つゞく。
釣り乍ら弁当の幕の内を頬張つて、午後は一五六町下流、妙寺のキリツケといふ場所へ移動した。こゝは大阪人の狙ヒ場所と見えて岸から竿を出してゐるのが約百人、長竿がもつれあつてゐるところは和泉多摩川風景に似てゐる。
流レ出シがあつて、四五丁もある深いゆるい瀬である。そして鮎は大きく、四寸以上六寸といふところ。午前中は『飛びつき』『楽翁』なぞがよく、午後は『お染』『鞍馬』なぞがよかつた。
トンと来て、キュウキュウとためて、颯と引きぬき、手にとると溌剌として、あの板歯の顎から金鉤をはづすと、ぷんといふ鮎の匂ひ、この匂ひを求めて、はるばる四百粁もやつて来たと思へば、昔ながらの紀ノ國の鮎のなつかしさ、草人君大物をせしめて独り莞爾としてゐるのも無理はない。その内に五六尾づつ揚げ、釣果思はしからぬ友釣党が降りて来て、皆ドブ釣りに変る。今日はドブ党にやられたわい、と垢石翁が大いに笑ふ。
夕マヅメを見捨てゝ、一同四時に切りあげた。数では小生の四十五が竿頭、大物では青山君、草人君、小生は上田老の静かな悠々迫らざる竿捌きに、ぞっこん感心し、垢石老の矍鑠(注:かくしゃく?)たる元気にも敬服した。」
何で、毛鉤党が有利であったのかなあ。解禁日に遡上鮎で女子高生が友釣りで釣れることは、一番上りの遡上量が多い時に、相模川でも観察できる現象であるが。そして、瀬で遡上鮎の女子高生が釣れるが。
狩野川でも平成の代の初め頃迄は、当たり前の現象であったが。
亀山さんは、「二 鮎」の「発育と習性(鮎の一生)の節に
「前年の晩秋孵化した稚魚は、微生物を食べ発育して、一旦海に降り、越年して早いのは雪解け水のぬるむ頃より又河に溯り始める。」
遡上期の鮎・稚鮎について
「この頃の鮎は歯が生え、主に動物性の食餌、かげろふの幼虫などのその川の石裏等に棲むもの又は水中に浮游する虫類を食べて成長する。」
そして五月中旬頃には石に付く鮎を見掛ける、石に付くとは硅藻を食べる動作をいう、硅藻の中にいる微生物を食べるので、硅藻を食べる割合は少ない、、と。
川那部先生は、「昆虫食時代」があるとの説を否定されているが、それは亀山さんら、釣り人、漁師を念頭に置かれて書かれたのではないかなあ。
四万十川の山崎さんも、昆虫を食べて、精力をつけて遡上していくと書かれている。
川那部先生は、淀川の毛馬閘門附近は、硅藻が繁殖できない特殊の条件があるから、動物食が主になるに過ぎない、と、亀山さんの観察を普遍化するのは不適切であるとも。
現在では、硅藻が食べやすい櫛歯状の歯に生え替わってから、溯上を開始することも常識では。
亀山さんは、九月には抱卵し、産卵を開始すると、書かれているが、これは湖産の話であり、房総以西の太平洋側の海アユの話ではない。
前さんが、熊野灘や伊勢湾或いは瀬戸内海で稚鮎時代を生活する稚鮎の産卵時期について、記載されていないのは、師とされている亀山さんへの配慮からかなあ。
なお、亀山さんは、石川博士同様、琵琶湖に棲む「子鮎」を他の川に移植すると「大鮎」になるとの説を紹介されているが、石川博士が、多摩川に移植した「湖産」は、放っておいても「大鮎」になると、批判されたのは東先生。
まあ、これらの話は、「目にたこができる」ほど書いたから、先に進みましょう。
「夜は橋本の旅館で、南海電車主催の座談会、東の垢石、西の上田、両翁の鮎と河川に対する造詣の深さに打たれ、内儀の心づくしで、獲物の背越しに、塩焼きに、田楽に、雑炊にして、紀ノ國名物、紀ノ川のサクラ鮎を満喫した。この思ひ出も忘れられぬ。」
「翌二日。大阪方と殖田君は妙寺の昨日と同じ場所をもう一日攻めるため、垢石老、益田君は十津川を下つて、名にし負ふ熊野川の大鮎を試みるといふし、草人君と小生は、紀州の海を一釣すべく、早朝橋本を出発した。」
然し、垢石翁らも、十津川下りの道中の信頼性が十分でないことから、串本コースに変更して、佐藤さんらと同じく、和歌山から紀伊西線に乗る。
「沿道蜜柑あり、麦秋に交じつて、六月の雪のやうな除虫菊畑あり、初夏の南紀は紺碧の海に、巒翆(注:らんすい?山は緑?)の風色、紀州漁師の本場、湯浅も見送り、道成寺を車窓から拝んで、女縁ならぬ釣運を祈るなど、同じ日高川を見ても、我々の眼は只鮎だ、鮎だ。
白浜のインフレ景気を敬遠し、江住からもの凄いバスに乗り換へて、串本へ着いたのはもう三時過ぎ、せめて夕マヅメに一釣せざるべからずと、又別なバスで潮ノ岬へゆく。海中へ碁盤を出したやうな半島だ、風物荒く南方めいて、八重山の石垣島に似てゐる。本夕六時、全国天気概況、潮ノ岬では十メートル南風、うすい煙霧といふところ、黒潮旅館に着いて、すぐのべの三間半を借り、一同シャツ一枚になつて、無電柱の下から海岸に下り、峨々たる巌石を渉つて、日本の最南端から、怒濤に向つて四本の長竿をつん出した。
餌は船虫、鉤は伊勢尼の寸、ハリスは鋼鐵線、二貫目のイガミ(ブダヒ)三貫目のハゲ、五六百目のグレやイズスミが出るところだと、旅館の主人に教へられて辛抱したが、風で浪荒く、やつと草人君が百目級の黒ハゲを一尾せしめたのみ、天下の垢石老も、精鋭益田君も、遂にカタを見ず、《月は東に、日は西に》偉大なる景観をもつこの岬で、赤朱の夕陽を浴びながら、あつは、あつはと大笑ひした。」
夜は、二人の女人を招いて串本節を聞き、その歌の特徴から来歴を考える佐藤さんでした。
翌日、垢石翁と草人さんは熊野へ、佐藤さんと益田さんは、切られたり、バラしたりのボウズ。ボウズも又愉し。
その「釣り心」を少しは見習いましょう。相模大堰では大量遡上であるのに、磯部の堰の魚道の流速が強すぎて、稚鮎の游泳力を上回っているようで、「夏燃えぬ」2016年。狩野川も1995年、6年並みの遡上量僅少では。その時は、大井川に遡上鮎がいたが、何処かに救世主の川はあるのかなあ。
気が進まない「浮き世帰り」ではあるが、溯上鮎のいない川も「浮き世」ですよねえ。
「魚々食紀」には、琵琶湖の固有種であるイワトコナマズ、近縁のものが中国四川省にいるビワコオオナマズ、そのお味の違いも興味はあるが、食べたことがないからそのうちに、としましょう。嘘も方便、理屈と鳥もちはどこにでもつく。本当は、理解できないから、であるが。アメノウオも紹介されているが、これはもっと理解不能。今西博士も四苦八苦されたアメノウオがオラに理解できなくて当然です。
ビワマスのお味も後日に回しましょう。
当然、「後回し」は、忘却の彼方になるでしょうが。
唯一、相模川水系で、遡上鮎が期待できる最戸橋の下流方面をアッシー君を釣り上げて見に行き、又、一つは仕掛けを準備しておきましょう。冴えない「浮き世帰り」であり、燃えぬ夏になりそうですが。
今年はこれまで。
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