故松沢さんの思い出:補記8
田辺聖子「姥ざかり旅の花笠―― 小田宅子の『東路日記』 |
お伊勢詣りから善光寺さんへ | 宅子さんは、高倉健さんの5代前の人 筑前の伊藤常足門下の4人の姥桜がお伊勢詣りに 「片詣りは良くない」と善光寺さんへ 関所回避の術:「西遊草」 往来手形なしの旅をした姥桜達 |
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いざ善光寺へ | 家包(土産)と宅急便 かきつばたが花盛りの屋根:芝棟(くれぐし) 板葺きの屋根の上に丸い石 |
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木曽路から飯田へ | 馬籠泊まり 福島の番所を避ける道 櫛の生産 |
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山村の貧窮 | 破れ布の「着物」 櫛を作っての世渡り ましらに似たる面影 イザベラ・バードの観察 皮膚病の蔓延 |
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飢饉と平竹の実 | 妻籠から大平へ 天保の飢饉時の食料 枕詞の「信濃のみすゞ」 一ノ瀬の関所 市ノ瀬村の藤屋に泊まる |
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竹内さんの峠越え 竹内始萬「行雲流水記」から 「木曽路の秋」 |
心細いぞ木曽路の旅は 笠に木の葉がはらはらと 日本の秋とそこをゆく旅人の姿と、 その情景を表現 奈良井から鳥井峠へ 旧街道の衰退 イエ・荏胡麻の栽培 タナビラ バスで登り大平峠へ、飯田峠へ 立派な市ノ瀬橋 乱伐のない木曽の山々 荘厳な山姿水蓉 |
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田辺聖子「姥ざかり旅の花笠―― 小田宅子の『東路日記』 |
飯田から姨捨へ | 櫻桃梅李が一時に春になり 浅場湯で慈雨が 越後弁、信濃弁、筑前言葉の湯壺 立ち峠、猿が馬場の難所 同郷人との出会い 善光寺から下仁田越えへ |
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「秋葉みち・知らぬ山路にゆきくれて」 | ||||
田辺聖子「姥ざかり旅の花笠―― 小田宅子の『東路日記』 |
神奈川宿から小原宿へ | 静御前への思い 藤沢で箱根、新居関回避の案内を得る 年坂の関の回避 夜、勝浦(かつら)川を渡り小原村に 甲州街道へ |
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諏訪から高遠へ、、そして小川峠へ | 商人多し、旅舎に出女あり 秋葉への道中記をもらう 馬を借りられず 足つまづく小川峠 辞職峠の異名を持つ小川峠 ねごの文化 畳より暖かいねご 多用途のねご |
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乾飯を食べる、そして青崩れ峠、水窪へ | 腰掛ける家なし、茶店なし 「伊勢物語」のみやびを出す元気なし そして青崩峠へ 日が暮れても宿なし やっと三佐久保へ |
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秋葉神社へ 莢豌豆を穫り入れて そして「山潮?」 |
山蛭の多い山道 天竜川も見える眺望絶景 麦刈りで繁忙な宿 豆御飯 むささびの声、時鳥の鳴き声 「山潮」か |
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鳳来寺詣で、そして東海道へ | 鳳来寺組と新城組へ さかしき巌を上る 東海道の御油に入る 久子さんは 有松、鳴海で絞り染めを買う 着替えをする 瓢箪を買う 鳴海と更級日記、為家 宮の宿で一同合流 |
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宅子さんの予備知識? | 御油から岡崎へ 国許のお殿さまのお泊まり札を「あふぎ見つゝゆく」 矢作橋での詠 業平ゆかりの八橋へ 烏丸光広の「池鯉鮒」 古歌の風趣にひたる悦び |
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お殿さまも加勢した「最期」の寄り道 | 桑名へ行く予定を変更 お殿さまと同じ道は煩わしい 養老の滝へ 物詣でが本願=京では物詣でに忙しい 雨の宇治では 宿の主も宅子さんの無事を悦び鯛を出す |
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旅の費用は | 為替手形 | 豆板や一分銀そして銭の使用 財布の「はやみち」 預かり手形、振り手形(今日の小切手) 山本七平「危機の日本人」に記載の「信用経済」 そして、教義遵守よりも「金」 |
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旅費はいくら? | もりかけ16文、上酒1合40文くらい つまみの豆腐うなぎは48文くらい 1文は20円くらい 「銭金の面白く減る旅衣」 旅籠代2食付きは200文から150文 1人あたり総費用は金で9両2分二朱212文 =126万3600円 |
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藤田栄吉「鮎を釣るまで」 | ||||
理学博士 石川千代松博士の序文 | 無邪気に遊ぼ魚をだます釣り 釣りとは陰険な態度 魚と智慧くらべをして人間が勝つのは当然 その人間が時には負けるから愉快 魚に負けぬ人間を作るために「鮎を釣るまで」が書かれた |
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「砂礫」とは? | 現在の「砂礫」とは異なる意味では? | |||
「砂礫」の用例 | 由良川 二度の光栄に浴した山家村 「河床は概ね砂礫である」 「十分に硅藻の生育に適し」 御用命の焼き鮎の作り方 垢石翁の由良川の評価 多摩川 河床は玉石、転石及び砂礫 神通川 宮川より下流は推奨に値せず 大鮎を産する宮川 |
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発育に適する川 | 砂礫の河床で硅藻食へ 砂礫より玉石の方が小さい 産卵場の記述について 十一月に孵化 砂利層で産卵 小鮎と砂利の河床 遡上記は砂利層に 釜掘りの掛け釣り 十月下旬から始まる 産卵は硅藻の少ない洗われた砂利層を選ぶ 木戸川も洗われた石を産卵場にする習性を利用した漁 |
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遡上状況 | 相模川の遡上状況 | 白魚と同棲している仔魚 二寸の大きさ 遡上開始時期は? 与瀬では河鹿の初声を聞いてから10日目に 与瀬でも二寸の大きさ? 下限の「金掛」とはどこ? |
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現在と古の遡上開始の違いはある? | 川霧が立ちこめる頃からの遡上開始 津久井ダムの底水放流の影響は? 弥太さんの遡上風景 三月皿丈 遡上量は「川の蠅」 硅藻が優占種で「黒い石」とは何で? 硅藻が腐る=花が咲く=茶色? 富士川最期の年の垢石「若鮎観察記」 |
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小西島二郎「紀の川鮎師代々」 | 遡上時期:三月十日頃から 水温一二,三度 一番上りが大形 一寸から三寸近い大きさ 「薄白い石色」から「黒い石色」へ 秋になっても七,八センチの鮎 食糧不足で小さい? 下りをしないで産卵する鮎 |
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佐藤垢石「釣趣戯書」の中の「若鮎視察記」 | 狩野川等の解禁が5月16日に 世評は遡上量多、型大 実際は少、小 二月末の大仁の鮎の素性は? 興津川 |
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相模川・桂川その他の「若鮎視察期」 | 相模川、桂川 遡上量は多い 成長は遅い 利根川 五,六年ぶりの遡上量 ダム、悪水、白根火山の毒水 鬼怒川 渇水で遡上少 箒川も渇水 |
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鬼怒川の産卵時期はいつから? 藤田さんの助言 |
明治四〇年一一月一三日の献上鮎 献上品としての大きさの雌鮎大量 一一月一三日はまだ産卵行動開始の初期 安倍川の流下仔魚調査 |
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利根川 | 利根川水路 内山節「山里の釣り」から |
沼沢地から水田へ 内陸交通網の形成へ 赤堀川の開削事業 「流れ」の利用から「水」の利用へ 羽生の大堰の遡上障害 藤田さんの利根川の釣り場紹介 |
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藤田さんの相模川、桂川の釣り場紹介 | 「瀧津浪をあびて――相模川の御供岩の友つり――」 | 瀧津瀬はいまいずこ 藤田さんの取り込みの記述は 魚に曳かれつつ魚を曳く 初期は7,8寸、空中輸送可能 真夏や落ち鮎期は尺余、7,80匁 与瀬下車の釣り場 桂川で四箇所、相模川で五十七箇所 |
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「六 釣り場の選み方」 | 瀬の類型 硅藻の良否と鮎の良否の関係 多摩川の釣り場 羽村の堰から下流 小石の河原の写真 多摩川の垢石翁の評価 お国自慢の香魚について 鮮味の喪失とオラが河の鮎の比較 羽村の堰で多摩川の鮎は喪失 古生層地帯は良質の餌を生産 トラックで運ばれてきたアユの味の評価 多摩川から相模川へ転進した釣り人 |
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藤田さんの川見 | 転石、大小玉石、岩盤の硅藻と食み跡 「香り」が鮎の居場所を 山崎さんの漁は「香り」で |
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ドブ釣り | ドブ釣りの場所は瀞、平瀬だけではない | 瀬尻に鮎は多い 「瀬頭」に魚がつかないとは? ヒラキは最良の釣り場 深い水域のみが「釣り場」というのは誤り 瀬の中、瀧津瀬も釣る 硅藻の観察をすべし |
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垢ぐされはなぜ? | 梅雨時の釣り場は垢ぐされとともに移動する 紫陽花の7変化と同じく変化する鮎釣り 「ヌメヌメした茶褐色の硅藻」 「白っぽく汚い色」へ 残り垢の場所へ移動 雨季から真夏は主として淵の深みが釣り場 梅雨時に硅藻が枯れ死するのはなぜ? |
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下りと釣り場 | 下りの開始時期 9月末の多摩川の腹子一杯の大鮎 学者先生の教義は正統? 下りの態様 垢石翁の「子持ち鮎」の記述 藤田さんの下りの情景 食事をしながらの下り 半円を描いて下る 注意深い行動 |
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産卵場での友釣り: 「四,産卵と生殖の営み」から |
「砂利層」のイメージは? 「河口に近い」とはどのくらいの距離? 夜中の産卵 ドブ釣りの場所 「八,面白い瀬付きの夜づり」から 瀬付きの場所は河口近く? 一〇匁から十五,六匁の錘を使う 小雌の二頭立てとは 雄の大物釣り カナ掛け オトリの上下動と産卵行動の演出 |
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垢石翁の産卵場の記述 佐藤垢石「鮎の友釣」 |
一般化した下り、産卵場の記述では セルの単衣でも欲しい頃にサビが出始める 中流、河口が産卵場 夜間に産卵 一夜に十貫目、十五貫目 寒いから舟からの釣り 握れば雌雄判別できる 外道の鱸 友釣りは川によって違うが大体五月上旬から一月下旬頃 |
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安倍川の友釣り黎明期 | 狩野川の鮎は引き抜けない型 ハリは貴重 天保五年ころに安倍川の友釣り開始 興津川はその一,二年前 取り逃がしても30匹余り 藁科川の老人=大和吉野川の友釣り伝承者 藁科川の鮎の献上 藤田さんも献上鮎釣りに従事 |
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矢島バリの起こり | 幕府鉄砲鍛冶が考案 矢島氏が承継 加賀バリも武士が製作 |
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興津川 | 興津川 | 小さい川の特性 二里余りの鮎の分布域 優れた「河質」 密漁と乱獲の取り締まり 人を恐れぬ解禁前の鮎 最大八寸、小なるものにても六,七寸の解禁日の鮎 富士川の鮎が遡上 =興津の差し鮎 |
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興津川のちょん掛け | 高尚なスポーツ、趣味である釣り方の模索 ドブ釣りも友釣りも古い釣り方 ちょん掛けは「光」への反応を利用 激流でもちょん掛け |
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垢石翁の興津川の友釣りの描写 | 淵と瀞の連続 瀞での囮操作 落葉樹の古木=水量が豊富 白川にならない |
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北海道の鮎の川と漁獲量 | 「鮎」と意識されたのは明治11年 明治17年には創成川で 大正15年には増毛郡で 昭和2年には留萌郡で 全国の府県別鮎の産額 北海道は福島県並みの産額 相模川が漁獲量日本1? |
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湖産と石川博士と「湖産ブランド」の繁栄まで | 石川博士の仮説と実験 | ヒウオの漁 大鮎と小鮎の「二種」の鮎がいるという「信仰」 「小鮎」は大きくならないという信仰 大正二年羽村の堰上流へ「小鮎」を放流 青梅の郡役所は「不結果」と 藤田俊雄、栄吉さんが「小鮎」の尺鮎を釣った。 |
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環境変化で「本然の性」が目覚める事例 =アキソロートルの話 |
生物は外囲の境遇によって変わる 乾燥地のメキシコでは蝌蚪の儘 湿気のある空気の環境では鰓が退化 大鮎の子が大きくなるに適した環境がないと「小鮎」に 水温変化で狩野川の産卵場所は古奈から河口辺へ 海アユにも琵琶湖産アユにも「小鮎」がいる |
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東先生の登場 | 「小鮎」の採捕場所=天ノ川、姉川 採捕時季=春 =「大鮎」に育つ鮎で、「小鮎」ではない 「小鮎」と大鮎の選手交代 湖産を「四群」から二群へ 小鮎の親は遡上アユ=大鮎 小鮎と大鮎の選手交代現象 湖産は「一代限りの侵略者」=再生産に寄与しない |
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湖産放流の開始 | 佐倉川での実験 七寸大の「大鮎」に 「大鮎」が「小鮎」であると誤解されて放流量の増加へ 氷魚の畜養が「湖産」の主役に |
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小河川の品切れとは? | 白雪川は、120,130尾、解禁日の七月一日頃に七寸余も 興津川は一ヶ月で捕り尽くされる 六月一日最大八寸、小は6,7寸 垢石翁の昭和11年解禁日 藁科川は、釣り人と投網の人人人 大田川へ チビ鮎の大田川 吉川の解禁日はなぜ遅い? |
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大見川での解禁日 | 水量多く大石も 竹内さんは二十五,六匁 垢石翁は十四,五匁、十八尾 |
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渇水で遡上が出来ないとは? | 「蛙の小便で崩れた小田の井堰」 | 紀の川の増水は 井堰の作りは 増水の予見は 蜷貝の予知能力と行動 コンクリート井堰で消滅した雛子の瀬 |
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黄門様の印籠を手に密漁する垢石翁 | 鮎を食いたい、と、駄々っ子の課長 遡上状況等調査を目的にすれば… 「鮎溯上状況調査を嘱託ス」 久慈川は用水で渇水に 1番上りは四月中に 2番上りは五月上旬 3番上りは雨後 1番、2番は酉金より上流へ 3番上りの場所には鮎はいない そして、天狗の鼻のもげた垢石翁 那珂川では小は14,5匁。大は25,6匁総計一貫5,600匁 翌日から上流へ、上流へ移動 「快調満喫」 解禁日は「腕」は不要、針あわせは不要 事前調査、「踏査」あるのみ。 |
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藤田さんと「堰」 | 昭和5年相模川の下見 小倉橋の用水堰 蛇籠の「魚道」 懸命に上る稚鮎 磯部の堰の魚道は上れない? 酒匂川の栢山の堰の魚道は? 幼魚の遡上を助ける施設を重視せよ 石切場で目撃された鮎は海産畜養?遡上鮎? 鵜もいなくなった高田橋 2004年、2008年の大漁遡上の情景 魚との智慧くらべに負けない釣り人を造る「鮎を釣るまで」 当然「鮎」には「人工鮎」は存在していない 縄張り鮎の釣り方 藤田さんの「荒廃」とは 興津川の「束釣り」は、人工鮎? |
お伊勢詣りから善光寺さんへ
今年は、藤田栄吉「鮎を釣るまで」(昭和7年発行:株式会社博文館)を素材として古のあゆみちゃんとその生活環境に取り組む。
しかし、大変な作業となること間違いなし。
竹内さんの本は、寝転がっても読むことが出来た。
しかし、藤田さんの本は、オラが生まれる前に発行されているから、その頃の川のことがさっぱり理解できない。下手をすれば、「香」魚の香りも知らずに「香」魚のエサを藍藻が優占種とご託宣をなさっている学者先生、高橋勇夫さんと同じ穴の狢になってしまう。例えば、昭和の初めの多摩川に放流されていたと思われる「湖産」が、尺ほどの大きさで、産卵期にドブ釣りで釣れていた、なんて、オラの経験則には存在しない現象。
本は、「箱」に入っている。小判が詰め込まれているのでは、と期待する作りになっている。このような装丁の本は初めて見た。
「砂礫」といえば、砂利に小石が混ざっている状況を思い浮かべるが、さにあらずかも。
この本と格闘するには、心の支え、元気が必要である。
ということで、田辺聖子「姥ざかり花の旅笠 ――小田宅子(おだいえこ))の『東路日記(あずまじにっき)』(集英社文庫)の姨桜4人組が筑前からお伊勢参りをして、善光寺へ、そして日光:二荒山、江戸、甲州街道から秋葉道へ、と、あっちこっち寄り道をしながら旅をした姥桜4人組の元気溌剌を紹介することで、元気をもらうことにしょう。
田辺聖子「姥ざかり花の旅笠 ――小田宅子(おだいえこ))の『東路日記(あずまじにっき)』集英社文庫)
(原文にない改行をしています。ふりがなは、()書きにしています。仮名の単語の繰り返しに「く」の大きな記号が使われているが、この記号は使っていません。)
小田宅子さんは、高倉健さんの5代前の人。ひい、ひい、ひいおばあさんか、一つ「ひい」が多いかも、あるいは少ないかも。筑前の上底井野村、現在の福岡県中間市の商家のお内儀。
宅子さんは、「東路日記」を、同行の桑原久子さんは「二荒詣日記(ふたらもうでにっき)」を残されている。久子さんは、芦屋の豪富で、質・両替商の女主であった。
他に、和歌や、古典、国学を学んでいた伊藤常足門下の2人の姥桜と下男3人が天保12年(1841年)閏正月16日(旧暦)出立。
田辺さんは、名前の記録がない2人の姥桜を「筑前」から、お築さん、お前さんと、3人の下男を、年を想像されて呼称をつけられている。
なお、日付は旧暦表示であるから、現在の季節感に対応させるためには、50日を加算すると、適切とはいえなくても、ほぼ近い感覚を得ることが出来ると思う。
金比羅さんや、備前児島郡の瑜伽(ゆか)大権現に寄り道をしながら、お伊勢さんを目指す。 歌枕の地で歌を詠み、平家物語の地で歌を詠み、大坂では料亭に招待され、吉野では南朝に思いを寄せ、吉野の山櫻を愛で、、といった愉しいお伊勢参りでは、ジジーの元気の素にはならない。
元気の素は、お伊勢参りが終わる前日、善光寺さんにもお参りしょう、ということが決まったときから始まる。
善光寺さんへのお参りは木曽路で、そして、二荒山へのお参りをして、江戸から上方を目指すときは、箱根と新居の関を回避するため、諏訪から秋葉路を歩くことになる。
これがオラの元気の素になる。
関所回避の術:「西遊草」
姥桜同様、田辺さんも寄り道、道草が大好きなお方。「東路日記」を東海道膝栗毛その他多くの文献、記録を紹介されながら、当時の、江戸期の、庶民の生活等を適切に表現されている。
その寄り道には、清河八郎の「西遊草」がある。「西遊草」は何度も登場するが、その中の善光寺参りを。
理由は、「関所回避」の記述がある。姥桜達が往来手形を持たずにあっちこっち旅が出来たことの理由を表現しているから。
唯物史観・発展史観が、隆盛を極めていたときは、「封建社会」の江戸時代、と、否定されるべき存在でしかなかった「江戸時代」であるが。幸いなことに、今や唯物史観は凋落し、江戸期の生活を「事実」で見る自由を手にしたから、「関所」が人々の往来の「自由」を制約する機能が低下していることを、軍事態勢下で制定されていた戦時立法という性格を持つ「法度」が、天下太平の中で機能低下を起こしていることを、往来の自由が様々な形で実現していたことを評価出来る時代に感謝。
清河八郎は、庄内の素封家。昌平黌に入寮するために家出?をし、千葉周作に学び、蝦夷から長崎まで歩き、と、変わった生き方をしていたが、安政2年「母奉公(ほうぼこう)」をするため、母と伊勢詣りに出かけた。
田辺さんは、
「さて関所ぬけだが、八郎たちは北から来たゆえ、越後と信濃の境界(関川)の関所をまず抜けなければいけない。目ざすは第一の目的、善光寺である。
女人の旅行者は関川の宿に必ず泊る。そして早朝、かわたれどきのまぎれに忍び通るのである。こういう処(ところ)では必ず性悪(しょうわる)な宿引きや道案内がいて、女づれと見ると関所ぬけの苦を説き、脅かしたり嘘をついて金品を巻き上げようとする。『にくむべきありさまなり』と八郎はしるす。
ちょうどこの時も、同宿した越後片貝の善光寺詣りの女たちがいた。十三人ばかりの女だったという。先達(せんだつ)は男一人。
(この、善光寺詣りツアーに女性が多いというのもこの寺の一奇である。女人グループの先達か、善光寺講の講元か、男が一人加わっていることが多い。お伊勢さんへ詣って善光寺さんへ詣らぬと“片詣り”になるという民間のいい伝えは何を意味するのであろうか。お伊勢さんは女神、善光寺さんも女人済度のお寺、しかも善光寺には建立者の本田善光(よしみつ)の妻、弥生(やよい)御前も祀(まつ)られている。女人信仰の聖地なのである。解け切れぬ謎は伊勢神宮にも善光寺にも多い)」
「さて翌朝四月十四日、『きわめてはれわたりたる上天気なれば』寅(とら)の刻(こく)(午前四時ごろ)ばかりに食事をすませ、越後の女人衆を誘い、宿の案内にしたがい、『関所の下(しも)なるしのび道をいづる』。
暗いから危うげな細道であった。三丁ばかり忍んで関所の門前より柵木(さくぎ)をぬけ、橋をわたり、本道に出た。女子は上り下りともに通さぬという。それゆえ女人の旅人は上りは関川で、下りは野尻でどうしても一泊し、夜のあけきらぬうちにぬけ出さなければならぬが、ともかくも抜けられる。
『是又、天下の憐れみなり』
と八郎はしるす。ぬけ道は天道が潤滑に行われるためのおめこぼしであるというところだろう。
それは福島の関でもそうだし、飯田の市瀬(いちのせ)の関でもそうであった。八郎一人なら堂々と関所を通れるが、老母づれゆえ、女人詮議の煩(わずら)わしい関を避けるのに難渋する。しかしどこにも〈女人みち〉というものがあり、困窮して立ち往生ということはどこでもない。そしてその間の情報をもたらすのはみな旅宿である。情報料、ガイド料、それらがらみで、宿屋は関役人と四通八達(ツーツー)、疎通(いけいけ)になっていたのかもしれぬ。諸事、金の世の中だ。」
箱根関にも専業の関所ぬけ案内人がいて、その料金を十二文と記憶していたが、安すぎる、との話があったから、記憶違いでしょう。
なお、姥桜ご一行が、お伊勢詣りから善光寺へ、と足を伸ばす殺し文句は、「片詣り」になることを避けようとのことであった。
「『家包(いえづと)に買ひて帰らん伊勢志摩の いなきの里のいなきしぼりを 宅子』」
いざ、善光寺へ
家包(みやげ)は、旅の行き先で買い、
「土産物はいずれどこか、便利のいいにぎやかな町からでも、一括して飛脚便に託したのであろうが、それまで持ち歩くにもこういうかさばらず、軽くていい。このへんは丈夫な松坂木綿が有名で、一般庶民はそういう煙草入れを持っていたのであろうか。」
すでにお伊勢さんから、善光寺さんへと足は向いている。
かきつばたが花盛りの屋根
(注:三月)「十九日、朝まだきに出発。『一里半ゆきて金戸小河(かなとおがわ)を渡り木曾街道に出づ』と宅子さんは書く。克明なメモと共に、宅子さんの日記は心のはずみ、目のおどろきを洩れなく書きつけているので読んでたのしい。
びっくりしたのは土岐から中山道へ出るまで三里の間、家々のさまが珍しかったこと。
すべての屋根の棟(むね)の両側にかきつばたを咲かせていたというのだ。しかも花盛りが連なって、美しいといったらなかったと。この年の三月十九日は陽暦でいえば五月九日、かきつばたの時期にもいつかなっていたのだけれど。ささやかな賤(しず)の屋(や)でも同じようにしていた、と。
私はこのくだりを読んで、奇異な風習だと宅子さん同様、面白く思っていたが、これは私が無知だったのである。」
わら屋根に植物を植えるのは芝棟(くれぐし)。
「芝棟(くれぐし)とは、草ぶきの屋根に、
『植物を植え、根を張らせて棟の固めとする手法の総称』
のよしで、中部から関東、東北に分布した、と。芝を土ごと剥(は)いで棟に並べ、根を張ってくるのを待つ方法が多いが、また、『根茎(こんけい)で旺盛に増根する植物を植える方法もあった』とのこと。
その植えられた植物は、『ユリ、カンゾウ、ギボウシ、アマドコロやニラ、イワヒバなどだが、中でもイチハツは乾燥に強く、二年続きの日照りでも、他の同居していた草が枯れたのに、残ったという』
草ぶき屋根に植えられた植物は棟を強化するとともに、『室温の安定にも役立っていたにちがいない』」
田辺さんは、宅子さんが美濃の農家で見たのは、イチハツではないかと推理されている。
「中津川を超え、落合という宿に着く。ここが美濃と信濃の境である。」
「そこから一里五丁行って馬籠(まごめ)いよいよ信濃路である。
かきつばたの村に続いて宅子さんがびっくりしたのは、このへんの家屋、すべて板葺きの屋根の上に、丸い石を転々と据えていたことである。『いとあやふし』という印象だが、風が烈しい地方なので、板屋根が剥がされないためだろうか。
宅子さんは信濃路でこの先、さまざまなカルチャーショックを受けるのであるが、このごろごろ石の板屋根にまず異様な感じを持った。」
木曽路から飯田へ:その1
「『ふみならしひとつ超ゆればまたひとつ つきぬは木曽のみ坂なりけり 久子』
二十日。前夜は馬籠泊まりだが、山中なればすっかり明けはててから出た。一里ばかりゆくと妻籠(つまご)村、
『こゝなる橋のもとより、女の旅する人の福島の番所を避(よ)くるぬけ道あり。奥深き山にて険(さ)かしき処なり』
それは橋場という、妻後と馬籠の間(あい)の宿である(現・南木曽(なぎそ)町・橋場)。女人道とはいえども険しい。清河八郎は反対の方角からやってきたが、
『山坂を八町ばかり辛ふじてのぼり、また降りて大平(おおだいら)村にいたり、午食をなす。此処にいたる迄は坂一里ばかりして、草木老しげり、一入(ひとしお)難儀の道なり』(『西遊草』)という。
『先に峠を登る人のかしらをふむ様にしてのぼる心地す。くるしき事いはんかたなし』は宅子さん。
ただ、谷ふかく鶯の声あまた処に聞こえるのは一興でたのしい。
『木曽山の梯(はし)の危ふさ忘られて 鶯の音をきゝ渡るかな 宅子』
ゆきえどもゆけども果てしなき山路だ。ただ目を慰めるものは遠山の美しい残雪。それとても太り肉(じし)のおぜんさんが、
〈ああもういけん、ちいとひと休みば、しまっしょうや〉
とたびたびいうので、そのたびに元気づけて、
〈うしろから押してあげますばい〉
と久子さんが背をおせば、供の男たちも、
〈ご寮人(りょん)さん、手を引きましょう〉
と励まさねばならぬ。
〈こりゃ、お血脈(けちみゃく)を頂くのも、たいていのこっちゃ、なかなあ……〉
おちくさんがしみじみいい、
〈そうたいね。ばっと、ここまで来りゃ、お浄土もよほど近うござっしょうな。そんならひとつ、元気ば出して〉
と宅子さん。善光寺さんで〈お血脈〉を頂き、戒壇めぐりをした草鞋(わらじ)をお棺に入れてもらえば、
〈誰でん彼でん、極楽浄土へひとすじ道にゆけるちゃ、ほなことでござっしょうか〉
と供の男も嬉しげである。宅子さんはいった。
〈目のみえん人も目があき、土車(つちぐるま)に乗せられてきた足萎(あしなえ)も足が立ったち、いいますたい。善光寺さんのご利益はどげん大きかか〉
〈まあ、ありがたか〉
〈それを聞いちゃ、力の出て来りますたい〉
とおぜんさんも立ちあがる。
辛うじて峠に至った。ここまで五里登ったという。越し方ゆく末も見えぬような、全くの深山なのに、この峠に家があった。七,八軒ばかりだろうか。
木曽川は左に流れていた。遠くにも里が見える。村人に問えば〈広瀬村〉だという。
これは八郎の書にもある。『大平の村より母を馬に乗せ、次第次第のぼる事壱里ばかり、夫より草木の森々(しんしん)たる処をくだり、広瀬の村を過ぐ。人家いづれも櫛を作らぬはなし。いわゆる木曽の名産なり。先刻より山々霧多く、殊に雨も時々降り来(きた)り、山中の景色いろいろ変化いたし、風光奇絶なり』そして八郎は男だから、いちいち口外したりせず、『我(わが)胸中一入(ひとしお)の興をなせり』
嶮岨(けんそ)な道よりも『風光奇絶』に興を催しているのである。」
山村の貧窮
「髪は男女のわかちもないほど、みなうち乱れてぼうぼう、破れた布(着物の残骸というべきか)を辛うじて身にまとっていた。あるものはいずれどこからか拾ってきたのか、大きい紋のついた古着を身にまとっていた。袂や裾は短く、腰や肩もあからさま。彼らはやはり櫛を作って世渡りをしている人々だった。
そういえば崩れかかった家の軒に暖簾(のれん)めいたものがかかり、暗い室内には榾火(ほたび)が焚かれ、幼い子らもいるらしい。
『松風の声をともにと住むやらん あわれましらに似たるおもかげ 宅子』
ゆたかな筑前の国びとから見れば猿としか思えぬ人々のたたずまい。
またある家では――ここは少しましで、掃き清めてあったが、四十くらいの女が出てきた。宅子さんたちが腰をかけると、女は櫛を出してきて買えという。価を聞くとびっくりするほど安かった。田畑のない村なので、こんなものを作って世を渡っていますというのを聞いて、人々は哀れがってみな一つ二つずつ買った。
(信濃の櫛はいまに至るも名物で、私も当地で買った。黄楊はもう少なくなり、現代はミネバリという木だというが、この木櫛で髪を梳(す)くとつやがよくなり、頭の地肌にもいたくよろしく、少々の頭痛が癒なおってしまう位だ)
櫛作りの家では、若い女たちが数人、男も交えてたのしげに歌いつつ、作業しているところもあった。みな裾短い古衣。たしかに猿ににたさまではあるけれど、鄙歌(ひなうた)うたう声は若々しい。
それにしてもまわりを見廻せば、果てしもしらぬ深山、……
〈ああ、こげん遠かとこまで、はるばる来たことですなあ〉
誰かがいえば、それも『伊勢物語』めき、旅情が身に沁む。」
イザベラ・バードの観察
田辺さんは、明治11年、イザベラ・バードが会津街道を北進した「日本奥地紀行」(平凡社東洋文庫)を紹介されている。
「彼女の見聞記は率直で公平であることを認めなければならないだろう。描写は緻密で観察は周到である。彼女は外国人のまだ足を踏み入れていない〈日本の奥地〉を旅する間中、プライバシーの欠如、悪臭や蚤・蚊・日本馬のタチの悪さに手こずらされるのだが、それでも日本人の素質のよさをもみとめ、詳述するのにやぶさかではない。そして日本人の風俗習慣を、英国民のように何世紀にもわたってキリスト教に培われた国民の風俗習慣と比較することは、『日本人に対して大いに不当な扱いをしたことになる』という、オトナの理解や分別も持ち合わせている(第二十七信。この見聞記は故郷の妹への手紙というスタイルをとっている)」
そのイザベラに対して、「日本人の十八才少年・伊藤を通訳兼従者に雇って」の伊藤は、山村生活者・「雛の人々のたたずまい」を軽蔑し、また、恥と思った対応をしている。
宅子さんと久子さんが書かれていないことで、イザベラが書かれていることに、皮膚病がある。
「男たちは何も着ていないといってよく『女たちはほとんどが短い下スカートを腰のまわりにしっかり結びつけているか、あるいは青い木綿のズボンをはいている』
これは腰巻(おこし)ともんぺのことであろう。女たちは一応木綿の着物をまとっているものの、『腰まで肌脱ぎ』というのがふつうの姿らしい。着ているものから男・女を判断するのは難しい。顔も、『剃った眉毛とお歯黒がなければ見分けがつかない』とイザベラはいう。
『短い下スカートは本当に野蛮に見える。女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりしていて、外国人をぽかんと眺めながら立っていると、私はとても【文明化した】日本にいるとは思えない』」
「イザベラの見るところ、村民は着物を洗うことなどめったになく、保つかぎり昼も夜も同じものを着る。汚れた着物のまま布団にくるまって眠り、日中は風通しの悪い押し入れに蒲団はしまわれる。畳は塵や虫の巣窟である。髪には油や香油が塗られているが洗われるのは週に1回か、それより少ない。子どもたちには蚤やしらみがたかり、痒みのため掻かれた皮膚にはただれや腫物ができる。夜は雨戸を閉めるため、部屋の空気はよごれ放題である。」
「『大人は虫に刺されたための炎症で、子どもたちは皮膚病で、体中がただれている。』」
「人々は勤勉で、商店には商品があふれ、女たちは機織(はたお)りに精を出す。ところがこんな、いわば〈王化に浴した〉村でさえ、皮膚病は当時の日本農村ののがれがたい宿業であった。男たちのあたまのてっぺんは剃られているが、そこが滑らかで清潔であることはまずない。見るも痛々しい疥癬(かいせん)、しらくも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹など『嫌な病気が蔓延している』。してまた村人の三十パーセントは天然痘のあとをとどめていたという。」
その山村の暮らしの中でも、女馬子が落とした革帯を日暮れた道に探しに行く。茶店では、お茶を飲まず、水しか飲んでいないから、と、料金を受け取らない。この村人の行動もイザベラは、記録されている。
宅子さんらの「あわれましらに似たる面影」は、着ているものからのイメージかなあ。皮膚病によりもたらされた容姿を含めてのイメージかなあ。
飢饉と平竹の実
「さて宅子さんらの一行は妻籠(つまご)から五里の峠を越え、大平(おおだいら)に着き、桜屋という茶店で憩う。
ここまで越えてきた山に、一山を掩うばかり小竹の伏したような繁みがあった。
〈枯れとるごとあったばって、あれは何でごっしょうな〉
と宅子さんが茶店のあるじに聞くと、
〈平竹という笹でございますがな〉
とのこと。過ぎし天保七年、この笹に裸麦のような実(み)がなったという。このあたりの人々はその実を多く収穫して食料とした。この前の谷では八十一日間に百二十俵も取った人がいたそうな。『このたびの子(ね)ノ年の飢饉に是を糧(かて)として二三年を過ごしつ』と宅子さんは書くが、この『子ノ年』が何年かわからない。天保十二年は丑(うし)年なので、前年が子年に当たるが、天保の飢饉は四年から七年まで続いたといわれる。いわゆる『天四の飢饉』としてしられる天保四年(一八三三)は全国的な凶作であった。」
田辺さんは、奥州での一村全滅の状況を高山彦九郎の見聞で紹介されている。
「次いで『天保巳荒(しこう)』巳(み)年の飢饉である。これも全国的規模で、しかも長くつづいた。巳(四)年から申(さる)(七)年まで(あるいは宅子さんは『巳』を『子』と誤ったか)。
されば木曽山脈で平竹の実(み)がなり、それを糧として露命をつないだというのも、あり得る話である。村の古老は、この竹の実は百三年目に生ったという。語り伝えたものであろう。
あるじは、これご覧なされませと竹の実を出してきた。
〈まあ、珍しか〉
と宅子さんたちは頭を寄せあつめ、そのいくらかを貰い受けて土産に持ち帰ろうとする。
平竹という笹は小さかったという。これも家苞(いえづと)にと人々は手折った。一行は若者ではなく、みな五十代の人々なのに、その長い人生経験でも未知のものであった。宅子さんは、『信濃のみすゞといふは是(これ)なるか』
と書く。篠竹は信濃の産であるところから〈み篠(すず)刈る〉は信濃の枕詞となっている。
この平竹の実は、よく救荒食類としてあげられる中の一つ、『笹麦』のことであろう。
『天保年中巳荒(しこう)子孫伝 『羽州最上郡南山村の庄屋・柿崎弥左衛門の凶荒経験実録』(『日本庶民生活資料集成七』)にも出てくる。稲は育たず山中の実もならず、川魚は影もみえず小鳥も渡ってこない大凶作の日々、農民たちは草根木皮を求めてさまざま食べかたに工夫を凝らし、何がな口へ入れようとする。そういうとき『笹麦沢山に出で候て』と庄屋・柿崎弥左衛門は書く。それは文政八年の凶作の時であった。饂飩(うどん)や素麺(そうめん)に、また麦粉にまぜて『打ち候由』とある。凶作の年(日照少く冷温)土質の軽い笹叢(むら)に突如、花が咲き、実がつく。そして笹は枯れるのだが、人々は飢饉の前兆だと噂した。麦に似ているので笹麦と呼ばれるが、粉にして団子にしたり、うどん粉にまぜて飢饉食にしたものである。この笹麦のおかげで先年の飢饉も二,三年はしのげましたわい、とあるじはいうのであった。」
「この山を一里半下れば裏番所というものがある。
『ここを関守る人にこひてこころやすくすぎて』
と宅子さんの記述は放胆で、あっけらかんとしている。『五街道細見』によれば市ノ瀬関所は信州伊那群飯田藩の預かりで『上下女改め』とあるからきびしそうにみえるが、裏番所を通れば『こころやすく』通してくれたのであろう。これまた清河八郎のいう『天下の憐れみ』にちがいない。やがて市ノ瀬村の藤屋という宿に泊まった。妻籠から広瀬・大平、木曽峠越えはなかなか険しかった。宅子さんは床に身を横たえると、ほっとしたのか、思わず弱音を吐くような歌の調べとなる。
『身はやつれ日数ふるのゝ草まくら 見るもはかなきふるさとの夢 宅子』
『五街道細見』に木曽路の説明がある。宅子さんの疲れも尤(もっと)も。筑前びとにはほんとに異境であった。
『木曽路の山中は谷中せまきゆへ、田畑まれにして村里少なし。米、大豆は松本より買ひ来る。山中に茅屋なくして、みな板葺きなり。屋根には石を圧石(おもし)にして、風をふせぐ料なり。寒気烈しきゆへ土壁なし。みな板壁なり』
そういう宿で、藤屋はあったろう。」
竹内さんの峠越え
竹内始萬「行雲流水記〈紀行編〉」(つり人ノベルズ)の「旅を釣る」に収録されている「木曽路の秋」
竹内さんも大平峠を歩かれている。しかし、時は昭和、バスが走っていた。
したがって、上りはバス利用のため、姥桜ご一行の雰囲気はない。
竹内さんは、鳥井峠も歩かれているから、鳥井峠を含めて、昭和の峠越えの雰囲気を味わいましょう。
「心細いぞ木曽路の旅は
笠に木の葉がはらはらと
秋になると、ときどきなんということもなく民謡を思い出す。それはこの歌の文句が持つセンチメンタルなものに惹(ひ)かれるためだろうか。いな、私は単なる感傷だけではないと思う。この民謡はよく木曽路の秋の情景を表現していると同時に、昔ここを通った幾多の旅人の心情を遺憾なく歌っている。そして木曽路の秋は同時に日本の秋である。木曽路をもって代表させているだけで、日本の秋とそこをゆく旅人の姿と、その情景をこんなによく表現している歌はないと思う。」
鳥井峠の入り口である奈良井に降りた。旧道の入り口がわからない。
「『その道はわかりにくい。私が途中の畑まで行くから一緒においでなさい。』といって家へ入り、帯を締め直したり脚絆(きゃはん)をつけたり、小さい籠を背に、手拭を被って『さァ行きましょう』ということになった。来てみるとなるほどわからない道だ。神社の横から草の生えた、ほんの畑への道といった程度の細い道だが、これが旧街道だとのことだった。このおばあさん、七十三だというが先になって歩くところは達者なものである。
道々いろいろな話をするのだが、おばあさんの話はなかなか面白い。道ばたの畑に胡摩(ごま)のような、また紫蘇(しそ)のようなものが植えてあるので、これは何かと尋ねると、
『イエというものだ』という。そしてこれにつき、
『この土地には胡摩はできない。鎮神社の神様が胡摩で眼を突きなすったので、それから胡摩ができなくなって、イエ(荏胡麻)(えごま)を植えるのだ。胡摩の代用で、これを絞るといい油がとれる』というのである。細い道を二,三丁登ったところに少しばかりの畑があって、豆や蕎麦(そば)が植えてあったが、これはおばあさんの丹精だそうだ。おばあさんはここまで来て、これから先の道を詳しく教えてくれ、
『新道を行くと薮原まで三里八丁あるが、旧道なら一里半だから、旧道を間違わぬように行きなさい』と親切にいってくれ、その上、もぎたての唐もろこしを焼いてやるから、それを持って行けという。辞退するのも介さず、どうしても持って行けというので、それが焼けるまで待って、二,三本もらったのを手拭いに包んで持ち、厚く礼をいって別れた。
昔は旅人はもちろん運送の馬も通ったという旧道は、いつか道も狭まり、草が生い茂って今は通る人もほとんどないらしく、道がわからなくなっている。」
名勝鳥井峠から「あたりの眺望をほしいままにする。」
旧道を「少し行くと左側に細い清水が落ちていて、そのかたわらに芭蕉の句を書いた標柱があった。
木曽の栃(とち)浮世の人の土産かな
というのだ。見るとこのあたりにはなるほど栃の大木が沢山あって実が成っている。道はもう下り一方だ。しばらく下ると眼下に薮原の宿が見え、木曽川の源流も指摘される。前方の山々にちょっと頭を出しているのが木曽駒ヶ岳だ。」
宮の越で、木曽義仲の菩提寺に立ち寄られているが、オラも宮の越で下車して歩いた。巴御前の墓を見た記憶はあるが。
巴御前て、どんな女人かなあ。怪力無双、男勝りか。それとも?
汽車を待っていると、リュックの竿を見た人が話しかけてきた。それで、このへんの川の様子を聞いた。
「『タナビラはもう子をすっているからだめです。(注:この会話は10月4日)一ヵ月ばかり前に奈良井川をやって三百匁ばかり釣った。木曽川の方にも魚は沢山いる』ということだった。タナビラというのはヤマメのことで、このへんではタナビラというが、峠を越えて伊那の方へ行くとアメノウオという。タナビラは美しい朱点のある関西系のアマゴである。」
「明けて五日。幸いなことに今日も絶好の秋日和である。朝のうちに歩こうか、午後に歩こうか、いずれにしてもここから大平峠、飯田峠を越えて飯田の町までは歩ききれないので、半分はバスに乗らねばならない。」
「バスは木曽川に沿って下り、やがて吾妻橋のところで中山道に別れて左へ曲がり、前方から流れてくる川に沿って逆に登っていく。これがアララギ川である。この川も水量の豊富な美しい流れでヤマメも多いという。
道は登り一方で、大山というあたりで二つに分かれている。まっすぐ行けば大平峠であり右へ曲がれば清内路(せいないじ)峠で、ここはその昔、水戸の武田耕雲齋(こううんさい)の一行が抜けた街道だ。
三留野から二時間、峠に近いところに木曽見の茶屋というのがあり、バスはここで十分間休憩するというので、乗客はみな降りて一休みする。
この茶屋から左の方を展望すると、遙かに木曽川の流れがみえる。そして山と山の間に御嶽山の峰も見えるのだそうだが、この時は生憎(あいにく)そのあたりに雲がかかって見えなかった。
バスは再び発車してまもなく峠となり、それから下りにかかったので、私はそこで降りてバスをやり過ごし、ひとり歩きはじめた。」
「大平峠を越えてしばらく行くと飯田峠だが、道はそれほどの登りでもなく、さしたる疲れも覚えず足取りも軽く歩いて行ける。峠を登り切ったところに、飯田へ四里七丁、吾妻村へ六里二十丁という道標が立っている。
道は九十九折(つづらおり)で、一つ一つの山の出っ張りを回っているので、道はすぐ真下に見えているのに、そこまで大回りをして下りていかねばならない。
この峠を三十分も下ると、もう右手の方角と山と山の間に伊那の平(だいら)の一部が見えたり隠れたりする。
やがて前方に瀬音が響いてきたので地図を見ると松川とある。突然この山中に素晴らしく近代的な立派な橋が現れた。市ノ瀬橋というのだ。橋の上から深い谷底を見下ろすと、美しい水が流れている。
木曽の谷々から流れ出る水はみな美しく、そして水量が豊富だが、これは水源涵養林の保護が行き届いているからであろう。
木曽の山々には見てきた限り乱伐のあとがない。あの戦時中、日光街道の杉林まで伐るとか伐らないとかいわれた間にもここだけは大切にされたらしいが、まことに幸いなことであった。
木曽は日本三美林の一つというが、本当に美しく立派だ。木があるがゆえに尊しという言葉がそのままうなずかれる。どの山を見てもそろった大木が整然として密林をなしているところは、なんとも言い難い荘厳さである。
国亡びて山河ありというが、この美林を目前にして、私は心豊かなものを感じた。そして私の愛する山が、すべての日本の山々がこうあってほしいと願わずにはいられない。
長い間大陸に住んで、あの禿山ばかり見ているとき、私はいつも日本の山河の美しさを思い出していたが、引き揚げてきてからここ五,六年の間に歩いた、関東の山々の乱伐のあとを見て、いつも嘆息ばかりしていたが、しかし、いま木曽へ来て整然たる美林を目前にし、その荘厳な山姿水蓉に接して、言い難い喜びと誇りを感じずにはいられなかった。
あとで聞いたのだが、ここの松川にもヤマメは濃いとのことであった。そのときもちょっと竿を出してみたかったのだが、何にしても渓が深くて近づき難かった。ここは本当に釣るつもりで用意し、案内を知った人に連れて来てもらうよりほかに仕方ないようだ。
私はこの深い渓を見下ろしながら、大平街道をひとすじに歩いて陽の落ちる頃、飯田の町へ入った。」
「市ノ瀬橋」の付近に、市ノ瀬関所が、また、「市ノ瀬村の藤屋という宿」があったのかなあ。
竹内さんは、バスを利用して「登り」を省略されたが、大平街道に橋がなかったら、どのように歩くことになったのかなあ。松川沿いか、遙か上の山の斜面を巻いたのかなあ。
いや、市ノ瀬橋は、大平街道の道中にどのような利便をもたらすことになったのかなあ。松川を渡る橋ではないよう。沢を山腹でまたぐ橋かなあ。
田辺さんは、姥桜ご一行の足跡を地図で、現地でたどっているが、地名変更で苦労されたよう。
なお、藤屋に泊まった翌日「また一里半ゆき、飯田に着いた」とのことであるから、市ノ瀬は、飯田の郊外付近かなあ。
飯田から姨捨へ
3月21日(注:陰暦 陽暦で5月10日頃)
「飯田は細長い町だった。やっと抜けて二,三里四方もある駒が原、むかし駒ケ岳からこの原まで駒が飛行してきたといういいつたえを土地の人に聞きつつ片桐(宅子さんは竹桐としているがこれは誤りであろう)というところに至れば、
〈まあ、美しかこと! いちどきの花盛りたい〉
女人たちに歓声をあげさせる光景が展開していた。梅、さくら、桃、まさにここもまた、『桜桃梅李一時ニ春ナリ』
『五街道細見』にいう如く、
『麦は六月に熟し、山中に桜花多し。山にも桃、紅梅あり。三月末頃、皆一時に花開く。』
宅子さんは詩魂をゆさぶられずにはいられない。
『めづらしや梅のさくらの桃の花 さかりは同じ木曽路信濃路 宅子』
佳人の匂やかな弾む吐息が感じられそうな歌である。
〈吉野の花からずうっと、信濃まで、花ば追いかけて来たごたる〉と久子さんの嘆声。
〈こげん贅沢な旅やぁー、公方さまでも、なさらんでっしょう〉とおちくさんの満足げな感懐。
〈ここで見る花ぁー、よそよか一段と色の美しかこと〉とおぜんさん。清々しい山風と空気が物の色を冴え冴えさせるのであろう。
その夜は飯島泊まり。」
塩尻を過ぎ、三月二十三日には「あさまのゆば」ー今の浅間温泉では中野屋に泊まる。
「広い宿で、その中の一間に『いで湯の壺』(浴場)がある。女人一行はやれやれとばかり、湯浴みして連日の旅の疲れを休めた。清らかな湯はこんこんとあふれ湧いて尽きず、女人たちの膚(はだ)を洗って旅の埃を落としてくれる。湯あがりは垢抜けて、
〈やれやれ、ちいた、色白美人になりまっしょうか〉
と笑いさざめくのもたのしい。宅子さんは早速に、お銚子一本を所望したにちがいない。
明日からは更に善光寺街道を北上しなければならぬ。『五街道細見』を見れば、このあと刈谷原(かりやはら)、会田(あいだ)の宿(しゅく)を経て立(たち)峠という難所を越えることになる。それでも善光寺さんがいよいよ近くなると思えば、気力も湧く。 〈この村で木綿縞バ、買うたもんでっしょうか〉
とひとりごとめいて思案するのは、おちくさん。土産の心づもりがあれこれ、あるのだろう。
〈それは善光寺さん詣りば、すませなさってからでよかでっしょう。近くの上田には上田縞ち、有名な紬(つむぎ)が名物ですたい。“帯地もあり”と道中名物案内にも載っとりますばい〉
久子さんの助言は常に判断よろしきを得て、たより甲斐のある存在だ。宅子さんはというと、食後の一服に名物の信濃煙草を心ゆくまで吸いつけている。
明ければ三月二十四日、『春雨しめやかにふり出(いで)れば』という空模様。旅人の袖をひきとめる留女(とめおんな)ならぬ、〈やらずの雨〉である。
〈よか霑(うる)いでござすねえ〉
と宅子さんは嬉しさに思わずソプラノの声を張り上げてしまったことであろう。
〈善光寺さんもはや近いき、今日はもう一日ここに逗留して、ゆるっと骨休めバ、したらよか、ちゅうお天道(てんと)さんのおはからいたい〉
〈そんならこの雨は仏さんが降らせなさると〉
〈慈雨、というものでござすな〉
そうときまれば一行も、のびのびくつろいで、朝から湯へはいりにゆく。
色気の失(う)せやらぬ姥ざくら四人(よったり)、ゆたかに福々しい肉置(ししお)き(ことにもおぜんさんのボリュームはみごとである)、白い肌を温泉で桜色に染めて、思い思いに湯船に漬かったり、円(まる)いふくよかな腕を窓枠にあずけて、山々のたたずまいを眺めたり、しどけなく腰掛に尻をあずけて、足のゆびを丹念に洗ったり。………湯気にむれ、心も軀(からだ)も放恣(ほうし)にほどかれてゆくひととき。
そこへ相客の女たちがまた数人、湯壺へはいりにくる。同じように春雨に引きとめられた旅人らしい。互いに会釈あって、
〈どこから来なさったな〉
と問うと、越後、南信濃、などさまざま、たちまち湯壺の中に、越後弁、信濃弁、筑前ことばが闊達にひびきあう。
『おもしろや信濃路越路(こしじ)こきまぜて こころづくしのひとにかたるは 宅子』
三月二十五日、下男の一人が草履に足を食われたためか、足を痛めたため、
「仕方ない。みなみな、再び旅荷を背負って出発する。上り十八丁の仇坂(あださか)峠を越えて刈谷原(かりやはら)まで一里二十八丁、更に一里をゆけば立(たち)峠。『いみじく高き坂なり』
この立峠(現・東筑摩郡の四賀村と本城村の間の峠)と猿(さる)が馬場(ばんば)は、芭蕉の『更級紀行』にも出てくる。貞享五年八月(一六八八。.元禄と改元されるのは九月)四十五歳の芭蕉は門人越人(えつじん)を供に姨捨(おばすて)山の月を見に行く。高山奇峰、崖下は千尋(じん)の谷、木曽路の旅は『あやふき煩ひのみやむ時なし。桟橋(かけはし)・寝覚(ねざめ)など過ぎて、猿が馬場・立峠などは四十八曲がりとかや。九折(つづらおり)かさなりて、雲路にたどる心地せられる』
芭蕉は『目くるめき魂しぼみて、足さだまらざりける』ありさまだった。
立峠をのぼる宅子さんたちは、荷さえ背負うている。しかし苦難に遭えばまたふるいたつ宅子さんだ。口では、
〈いや、こら、大ごとたい〉
といいつつ、胸中、按じる一首。
『せおふ荷の重きも何かいとふべき 憂きは旅ぞとかねておもへば 宅子』」
「宅子さんはこういう、えらい目に遭わされた運命を自分で興じているのである。古典の旅はみな、憂く辛いものであった。その体験を、いましているのだ、という高揚感である。
ところが『いみじく高き坂』をやっと下(くだ)れば、また峠、ここに荷物持ち兼ガイドをなりわいにしているらしき土地の人々が待ち構えていた。ここから青柳まで三里、険しい坂道ゆえ、われらを傭い給われというのだ。旅人の足元を見られたようであるが、時にとっての渡りに舟。荷持ち・案内を頼む。
『しばし休みて』とあるのは、会田の宿と青柳の宿の中間にある乱橋(みだればし)の集落だろうか。やがて青柳の宿場町である。
ここには昔の城跡もあるが、それよりも巨大な巌を切り開いて道を通してある、〈切通し〉で有名である。切通しの間の道幅は狭いが、崖をよじ登ってまた下るより、どれほど旅人の通行にとって有難い情けであろう。
『其(その)切抜きたる右の岩に、弘法大師の作り給へる観音の像有り。後にも作りそへて今は二十八躰に及べり。
法(のり)の師の開きし山路ふみ見れば これもたふときをしへなりけり 宅子』」
田辺さんは、タクシーで「青柳の切通し」を見に行かれている。
「いってみれば見上げるような岩山の、真ン中がすっぽりたち切られて道が出来ている。トンネルを掘削するのではなく、岩ごと削ぎ取り切って、道を通しているわけである。天正八年(一五八〇)にこの地の城主青柳氏が切り開き、そのあと江戸時代にたびたび工事が重ねられたらしい。
岩の上には『石像の観音百体を造立す』と、私が小林先生に頂いた『道中案内』という資料にはある。『四国西国秩父百番の観音を安置す』とある。
両方の岩には松が生い立っていた。草むらの繁みに観音様を刻んだ石塔が、あるいはかしぎ、あるいは倒れて散在していた。風雨に曝されて観音様のお顔もさだかならぬのもある。
切通しは大小二つあるそうである。絵は宅子さんのような、女二人連れの旅人が荷物持ちを従えて切通しを通っている。反対方向から二頭の黒牛に荷を積んだ男がゆく。――まことに『道中案内』にあるごとく、
『(この切通しによって)旅人並(ならび)に牛馬の往来、聊(いささか)も煩はしき事なく、野を越え山を越えつゝ、麻續宿に到る』
絵ではわからないが、実地にいってみると、切通しはすごい急坂の上にあり、下りようとした私はつんのめりそうになった。」
同郷の人との出会い
「麻続までの山道で宅子さんは思いがけぬ人にあう。国許の筑前で、わが家に近い木屋瀬(こやのせ)の人、親しい知人である。所もあろうに、こんな信濃の街道でばったり会おうとは。
世の中は広いようで狭いもの、とみな呆れてしまう。
〈まあ、こげな所で珍しい……嬉しか〉
と笑みまける宅子さん。
〈こりゃ、小松屋のご寮人(りょん)さんな、おどろきましたばい〉
男は若者ではない。おそらく宅子さんほどの年頃であろう。このあたりは信濃三十三番札所のお寺が多いが、男はこれも善光寺さん詣りにちがいない。宅子さんたちより一足早く参詣をすませたか。旅姿同士で、かたわらの茶店に誘いあい、話が弾む(そのへんも商家のお内儀の貫禄が出る。商いを仕切っている身なれば、話題も身辺の瑣事だけでなく、視野広く、男なみの情報の質と量であったろう)。
『なつかしさかぎりなく、はらからにあへらんこゝちす。かたみに旅路のものがたりなどして、おのが家人にことづてし、又、文もかきてつかはす』
幸便に託して手紙を書く。ついでに久子さんもことづけたろうか。
〈お安いこと、皆さんがつつがなく旅していられたこともたしかにお伝えしまっしょう、まかせなっせえ、おるす番のご家族もさぞご安堵なされまっしょう〉
と、同郷人(くにびと)は質朴で親身である。
『うれしさよけふはなみだも雨とのみ ふりにし親にあふこゝちして 宅子』
伊勢詣りの折にも国許の夫婦者にばったり邂逅したのを思い出す。あのときは同道してお詣りしたものであったが、全く、ふしぎなめぐりあいを重ねることではある。
〈これも善光寺さんのご利益でござっしょうの〉
ということになった。故郷の夫や身内たちが、道中つつがなかれと念じてくれている思いが届いたのかもしれぬ。
その人と別れてその夜は麻積村の大岩屋泊り。麻積は街道一の難所といわれる猿が馬場峠の麓にある村だ。」
「二十六日。案内人を頼んで一行は猿が馬場峠を越える。超えれば更級郡、姨捨まで三里十八丁。」
麻積の名の由来・坂田の金時の母である山姥の話、姨捨伝説の地、田毎の月の名所と、篠ノ井線は好きな路線であった。心残りは姨捨で下りなかったこと、「ビッグコミックオリジナル」の「テツぼん」とは違い、「テツオタ」でなかったこと。
明科?の駅を過ぎて、汽車は坂を上り、トンネルを抜けて行く。突然視界が開けて、眼下に町が、正面に山が見える。姨捨にスイッチバックがある、とは感じていたが。
しかし、三重連が走っていたか、どうか。昭和四十五年、田沢湖線に三重連が走っていたから、篠ノ井線にも三重連が走っていたと思うが。
昭和三十年代後半、飯田線、小海線、飯山線、大糸線は、汽車ではなく、気動車になっていたのではないかなあ。汽車が消えゆく事への惜別の情感が少しあれば、姨捨で下車する誘因になっていたのに。
やむを得ない。姨桜ご一行の姨捨を見ることにしましょう。
「古来から歌どころとて、歌人一行としては見過ごしがたい。中腹にある長楽寺からの眺めは甚だよろしい。宅子さんたちは寺のかたわらにある大きな岩山にものぼった。これは『五街道細見』にある、
『岩あり高さ五丈八尺』
というそれだろうか。千曲(ちくま)川が東に流れ、北に戸隠、妙高の山々。『この前わたり風景めでたき事たとふるものなし』
なるほど、これで月があれば、と思われる。芭蕉はここで、
『俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣く月の友』
『送られつ送りつ果ては木曽の秋』
などの佳句を得た。『俤や』の句は〈芭蕉翁面影塚〉の石碑に刻まれて、長楽寺の門前にある。」
「『いくたびもかへり見るかな姨捨や 名におふ山の昔しのびて 宅子』
やがて一里で篠(しの)ノ井の追分に着く。ここで北国街道に合流する。この篠ノ井追分は千曲川の川舟の港なので、人馬の往来も賑わしい。」
「この日はいかにも強行軍であった。猿(さる)が馬場(ばんば)の峠を越え、姨捨へ、篠ノ井へ、丹波島から善光寺へ、これはもう七里半を突破する旅程。善光寺へ着いたときは疲れ切っていたろう。本堂の〈お籠り〉は明夜、ということになったと思われる。それに明朝は早い。明け六ツ刻(どき)(午前六時ごろ)にはお詣りせねばならぬ。」
善光寺詣りは省略。
田辺さんが、丁寧に善光寺縁起を紹介され、姥桜ご一行が、宅子さんが、「我家の亡霊(なきたま)」のご供養をされ、戒壇めぐりなどの行事に参加されているのに、「省略」とは不謹慎、不信心の極みではあるが。
「亡き霊(たま)の眼にもみゆらんみな人の 御法の声にそへて嘆けば 宅子」
などを詠まれているのに…。
高倉健さんが、毎年善光寺詣りをされているというのに。
飯田線の元善光寺にいったが、建物の前は空き地。伽藍の裏側には庭があったかもしれないが。
かって、畑の中を歩いて行くと、修学院離宮の上離宮の門が植木の手入れのため開いていたから入った。苔寺界隈を彷徨していて、裏口から入った。正伝院の借景、法然院の紅葉には興味はあったが。
善光寺の土塀に沿って歩き、飯綱山?の山麓の果樹園の中の道から戸隠に行ったことはあるが、善光寺にお詣りをしたことはなし。
「浅間山かねてきゝつるけむりにも 見れば中々まさりがほなる 宅子」
「『上野(こうずけ)ノ国、碓氷郡碓氷峠の関所をよけんとして』」下仁田越えへ。
妙義山詣で、榛名神社、二荒山詣で、そして、花のお江戸で、芝居見物、昼吉原見物。
「秋葉みち・知らぬ山路にゆきくれて」
「四月十八日、神奈川宿を朝まだきに出発」。金沢八景から鎌倉へ。
「『鶴が岡むかしの人のかへしけん 舞の袂のおもかげにたつ 宅子』
女人たちにとっては静御前の追想のほうがたのしいが、供の男らにとっては、鶴が岡八幡宮の宝物の鎧(よろい)、兜(かぶと)などを拝観するほうが面白かったろう。」
遊行寺から藤沢へ。
「宅子さんたちは、この藤沢の里で重大な用があった。
『先(まず)此里の若松屋といふに着く。こは我国の陶(すえもの)屋の問屋なれば、江戸北新堀、油屋なにがしより、こゝをたのみて箱根のうらを超(こえ)しめんとて、みちしるべの文をものせり』
さてこそ、この計画があった。江戸北新堀の宿・宮川屋で会った油屋(屋号)とは偶然宮川屋で出会ったように書いているが、あるいは周到な手配により、宮川屋の連絡を受けて宅子さんらに会いに来たのかもしれぬ。」
「宅子さんらの計画(あるいは油屋の提案)によれば、藤沢から西北をめざし、甲州街道へ出、再び信州へ入って上諏訪まで辿りつき、更に南下して遠江(とおとうみ)の秋葉山に至る秋葉みちを取って、東海道御油(ごゆ)宿に合流せんとする壮大なルートである。箱根や新居(あらい)の関をよけようとすれば、日本のまん中を大迂回(うかい)せねばならぬ。
その日は厚木村の釜形(かまなり)屋に泊まった。」
神奈川宿から藤沢まで、金沢八景、鎌倉経由で歩くことすら、しんどいのに、更に厚木まで歩いている。石川村、用田を経て厚木へのコースでしょう。
十九日は、荻野、田代、を経て志田峠へ。このあたりはオラにとってもおなじみの地名。ただ、志田峠の茶店から富士が見えたとのことであるが、丹沢の山並みで、富士は隠れているのではないかなあ。それとも、「志田峠」が、三増の付近ではない別の場所の峠かなあ。
年坂の関の回避
『我こゝろかけつる空に雲はれて けふふじの嶺(ね)の雪を見るかな 宅子』」
「なお西へ、沼田村に着く。
『この川の向ひに年坂(ねんざか)の関とてあり。この関を超えんとてさまざま心をなやます事、我も人もかぎりなし。やゝ時うつりて日も七ツといふ時になれば、いそぎて沼田川を渡りて、そこの人を頼みて道のしるべを乞うに、かつがつうべなひたれど、ひそかにものする道なればとかくする内、日も暮(くれ)ぬ。心もうちさわぎて、畠の中、桑の林などおしわけつゝ甲斐の国へ通ふ道筋に出でむとて、勝浦(かつら)川を渡りいそぎて小原村につく。こゝにやうやうやすき思ひをなして、そこの小松屋といふにやどる』」
この関所よけの記述は、「東路日記」の写本、久子さんの「二荒詣日記」では、書かれておらず、異なる記述に変更されている。
「ここは相模国津久井郡の郡(こおり)、久子さんの戯(ざ)れ歌もたのしい。
『旅にして日数つもればいつとなく ころもの垢のつくのこほりか 久子』
宅子さんによれば、『こゝは前に小川ありていと清し。町筋もにぎやかなり。けふ道すがらのあやうさをのがれつるを嬉しみ、かたみに酒なんどくみかはす。すべて此(この)道すぢは、わづらはしきことのみなり』
胡摩の灰につきまとわれたことのように云い倣(な)しているが、真実は関所抜けの心労である。そしてその夜は宅子さんだけでなく、一行すべて『酒なんどくみかは』したであろう。下戸の人も、この夜ばかりは飲んだであろう。
折しも五月雨のころ、行く先は川も多く、気がかりである。しかしここまで来ればはや甲州街道、人気(ひとけ)多く、道をたがえることもあるまいと、藤沢から案内してくれた人を帰すことになった。」
諏訪から高遠へ、そして小川峠へ
「『ものがたり聞くもすゞしきすはの海や 氷りし時のおもひやられて 宅子』」
「『下諏訪・和田へ山路五里八丁。諏方の駅一千軒ばかりもあり。商人多し。旅舎に出女あり。夏蚊なし。少しあれどもさゝず。雪深うして寒はげし。諏方春宮・北の坂の下り口に鎮座す。毎年正月朔日に還し奉る。祭神、上諏訪と同じく、健(たけ 建)御名方命(みなかたのみこと)なり。
諏訪秋宮・駅中にあり。毎年七月朔日、こゝにうつし奉る。毎度神輿に乗せ参らせず。元日には祭礼なし。七月朔日には祭礼あり。春宮にまします時、秋宮空社なり。秋宮にまします時は、春宮空社なり。
名にしおふ下の諏方は、此の街道の駅にして、旅舎多く、紅おしろいに粧うたるうかれ女たちつどひ、とまらんせとまらんせと袖ひき袂をとりて、旅行の人の足をとゞむ。町の中に温泉ありて、此の宿の女あないして、浴屋の口をひらき、浴させける。その外よろづの商人多く、駅中の都会なり。』
宅子さんらはそこから高遠に到った。」
高遠で、
「宅子さんらはそこで昼食をとり、更に伊那を過ぎて宮田村に着く。ここの竹屋という宿に泊まって朝まだき宿を出、片桐というところで、〈遠江の国秋葉山へ詣ずる道中記〉をあげますという立札を見る。その家に寄って乞うと、小さな冊子だったが、宿舎や休みどころまで詳しく親切に記してあった。まことに便利なもので、代金を、といっても受けとらなかった。秋葉神社の信仰あつい人であろう。秋葉さまの祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火伏せの神さまで、十二月の十五,十六日の火祭で有名である。
しかし宅子さんらの一行は、ここから先、信州を出るまでの難所をまだ知らない。
『この町屋より東南のかた、秋葉山に詣る道あり。二十五里十二丁ありて、いといとさかしき道なりといふ』
信州の山坂も、どこもどこも超えた我々、何ほどのやあらんと、宅子さんらは勇んで南行したのであるが、折しも五月雨、『雨いみじくふり出でたれば、馬も駕籠もかさず』という難儀。
『巳午(みうま 南南東)のかたをさしてひたのぼりにのぼるに、道あしく苦しさ、いはんかたなし.みな人、足もつかれたれば、
いそぐとも手に手をとりてふみさぐみ 足つまづく岩むらの道 宅子』
久子さんがかえす。
『岩むらのあやふき道もつまづかず しりなる人に腰押しされて 久子』
たがいに助けあって、険路になやみつつも、一行の雰囲気は和気藹々(あいあい)らしい。みな、ひととし拾った苦労人の年代なればこそ、か。
宅子さんが、『足つまづくな岩むらの道』と詠んだ険路は、これこそ有名な難所、小川峠であった。
その前日は湯沢村につき、日が高いけれども泊めてくれるところに泊まった。明日の難所にそなえてのことであろう。」
諏訪から秋葉道をネットの地図でたどったが、これまでに出てきた地名は見当たらず。
陸軍作成の明治時代の地図を見るしかないというこことかなあ。地蔵峠は書かれているのに、小川峠は見当たらず。ただ、曲がりくねった道から、峠があるのでは、と想像出来る箇所はあるが。ネットの地図には「地蔵峠」の記載はあるが。
宅子さんたちは、湯沢村で「五木湯」に入り、田辺さんは、「五木湯」の解説をされている。
小川峠は、
「なにしろ上下五里、〈五里峠〉といわれた難路(宅子さんも『いとさかしき山路にて五里ありといふ』と書かれている)、ここは伊那谷から遠山郷への最短ルートであるけれど、『遠山郷へ赴任する教員や警察官が職をやめたくなることから辞職峠の異名をとるほどであった』と。現在は鉄道や国道が開通したので峠は不通の由。」
「釣り吉くんの釣行記」の釣り吉さんが、「神々の棲む遠山郷」というような表現をされていたと思う遠山郷。そこへの道であるから難路では、と、想像はできるが。
ねごの文化
「雨さえ降る中を宅子さんらはやっと久保という所に着く。馬を借りようとしたが、折も折、時期が悪いと貸してもらえない。このあたりは築土をひきめぐらした立派な家が多く、鄙(ひな)には稀なたたずまいであるのに畳というものを敷かず、『わらやむしろやうの物のみをしけり』と宅子さんの観察。宅子さんは不思議そうに書いているが、これは産物流通の条件や文化よりも、風土性の問題であろう。
私も以前、『ひねくれ一茶』を書いたとき、信州の人に教えられた。信濃では板敷の床いちめんにむしろを敷く。これはねごといって畳より暖かいという。普通(なみ)のむしろより厚く、しっかり織った長大なもの。よく打った藁を豊富に用いて織られている。これは寝室である奥の納戸(なんど)などに敷かれ、その上の寝床はたいてい万年床だ。またねごほど重宝なものはない、と。
秋の穫り入れどきには籾や豆を干すときの敷物にもなり、古くなると堆肥にかけて雨よけとし、かつ、砂壁を塗るときは細かく刻んですさにする。そして最後には、火葬のとき、棺にかぶせる燃料となるのである。……
ここで一行は珍しい風俗に目睹(もくと)する。
山田に柴を刈り入れて馬に踏ませているのである。少年が一人で十二,三頭の馬を引きつれ、短い鞭で馬を追いながら、柴を積んだ田面を引きめぐり踏ませる。馬を貸してもらえなかったのは、この作業のせいかもしれないが、その目的や効用は不明だった。『いといと珍し』――早速、宅子さんはメモ代わりに一首。
『童(わらわ)らが山田の小田に伏柴(ふししば)を かりそめならずふみならすかな 宅子』」
この箇所の下書きを書いているとき、高倉健さんが亡くなられた、との放映。
健さんの祖先が書いた文を現代でも読めるようにできないか、ということが、「姥ざかり花の旅笠」になった。
また、宅子さんの姓は「小田」、健さんの氏と異なるから、何でかな、と思っていたが、健さんの本名が「小田」さんであることがわかり、すっきりした。
健さんの御霊は、善光寺さんに預けられたでしょう。
「なおも険路を五十丁ばかり登ると雨も晴れてきた。かんぱた峠というそうであった。
『ゆふ立のはれ行くあとの夏山は たゞ緑のみおくふかく見ゆ 宅子』
八丁ほどいって、おそ田、ついでに上村、ここの升屋という宿に泊まった。」
乾飯を食べる、そして青崩峠、水窪へ
「明ければ四月二十七日(注:陽暦で六月二十日頃)、この日も『いみじき坂道なればからうじてこゝを越えて』辰のわたりという処で昼食をしたためようとしたが、このあたりはまことに山家で、腰をかけられそうな家さえなく、ましてや食べものを出してくれそうな茶屋もない。
〈ご寮人(りょん)さん、仕方ござっせん、乾飯(かれいい)なとあがってつかさい〉
四十(よそ)エモンがハタ吉に命じて荷の中から携帯食糧を取り出させる。かねてこういう折もあらんかと心づもりした乾飯や塩。いままでは曲がりなりにもどうなりこうなり、屋根のあるところに腰を下ろし、碗や皿に盛られた食料を口にできたわけだが、この秋葉みち、それも信濃路では、何百年も時代の歩みがとどまったままの如くである。ハタ吉はかいがいしく、一行がふところから出した手塩皿代りの懐紙に乾飯と塩を盛ってゆく。
旅のはじめは慣れぬ道中に弱っていたハタ吉であったが、さすがに若者のこととて早や旅馴れ、こんな経験もかえって面白がる風であった。
しかし、女人たちは、嶮岨な山坂に加え、木陰にそれぞれ手拭いや風呂敷を敷いて、乾飯をもぐもぐ食べようとは、
〈こりゃー、思いもかけん道中でござすなあ〉
と情けなそうなおちくさん。
〈まるで乞食(ほいと)の一座のごたる〉
とおぜんさんが無邪気に感心するのがかえって剽軽(ひょうきん)で皆をくつろがせる。
いずれも暮らしに困らぬ大家のご寮人(りょん)さんなれば、かって味わい知らぬ体験であろうが、〈若いときの苦労は買(こ)うてもせえち、いうじゃござっせんな。こげな苦労ばしてお詣りしたち、お知りなされたら、さぞ秋葉の三尺坊権現さまも、奇特なことじゃとほめてつかあされて、霊験灼熱(いやちこ)たい〉
宅子さんが声をはげましていえば、
〈そげんたいねえ。ほんなこと、みな、気が若いき……〉
と久子さん。宅子さんが引きとって、
〈みな、うろたえてみりゃ十七,八たい。おてついてゆるっと見たら五十……には見えまいき、三十七,八,ちゅうとこでござっしょうか〉
みなみな、――笑うよりほかのことぞなき、……というところ。宅子さんも、さすがに『伊勢物語』のみやびを再び持ち出す気にもなれぬらしく、
『かかる事も旅のならひとおもへば哀れになん』
と本音が出て寡黙になる。しかしこの街道の難は、ここなどまだ序の口であった。なおも巳午(みうま)(南南東)さしてゆくと、これも難所として有名な青崩(あおくずれ)峠。その名さえ、禍々(まがまが)しい(私はもちろんこの秋葉街道を辿ったことはないが、現行のごく普通の長野県地図で、小川路峠、青崩峠の地名を拾うことができる。
『いとさかしき坂路にて、崩れたるみねの傍を行間(ゆくあいだ)、いとあやうし。
山風もあらくな吹きそ青くづれ 崩れしみねを打(うち)こゆる日は 宅子』
この峠は五十丁の三里、是なん、信濃の国と遠江(とおとうみ)の国の境界である。ついに信濃は脱したが行路はまだ楽観を許さない。南行して川に至った。これは天竜川に流れるみなもとという。舟で渡り、少しゆけば水が涸(か)れて(宅子さんは古語もゆかしく『水あせて』としるす)六,七間ほどは丸太を打ち渡してあった。橋代わりであろう。この川をあなたこなたと打ちわたりながら、このたびは青峠、というところを越えた。遠江の国である。越えればまた川、日も暮れたが宿るべき家もない。さすがにこのあたりの文章、『東路日記』の中でも最も意気消沈したトーンである。
『是より三里ばかり行かざれば宿るべき家なきよしなり。みな人、いたうつかれにたればものもいはずなりぬ。なほ河を越え、山路をたどりゆくに、こしかた行末、人も見えず。日は暮れはてゝものがなしさ類(たぐ)ひなし。道さえおぼつかなき闇の夜なれば、
いかにせむ知らぬ山路に行き暮れて あはれやどらん家もなければ 宅子』
しかたない、また三里をゆき、やっと三佐久保(現・静岡県磐田郡水窪(みさくぼ)町)に着いた。ここは尋常な家居(いえい)の宿場で、『みな人よろこぶ事限りなし』――蘇生の思いをして休む。」
秋葉道は、明治になって、人馬が通りやすいように整備され、現在は車が通れるようになっているのではないかなあ。それにともなって、かっての旧道とは異なる道になっているのではないかなあ。
現在の「秋葉道」に沿うように曲がりくねった道があるが、それが姥桜ご一行が歩いた道ではないかなあ。
旧道と思える秋葉道は、青崩峠のところが途切れている。
ある本には、青崩峠では大規模な崩落があったと書かれていた。その影響で道が途切れているのかなあ。
田辺さんは、「五街道細見」の天明の頃の「旅立に用意すべき品」を紹介されている。その中に提灯、蝋燭がある。
日暮れてからは提灯を利用したのかなあ。
なお、「五街道細見」には、「旅中心得の事」も記載されている。
秋葉神社へ
莢豌豆を穫り入れて そして「山潮?」
「翌四月二十八日(注:陽暦六月十七日)。昨日の難路に足を痛めたので女人一行は駕籠に乗った。横根越、きいなまへなどという所を過ぎて延命坂、この間一里、高山の腰とおぼしき所を廻るのだが、このあたり山蛭の多いのもやりきれなかった。
ところが、茶屋に腰かけて休んでみると、山ふもとに天竜川が見え、木立、石のたたずまい、眺望絶佳で『えもいへずおもしろし』という風色(このあたり現代では〈天竜奥三河国定公園〉になっている)。
しばし道中の辛労も忘れる思い。やがて三里いって平山、このへんも木立茂る山中で侘(わび)しかった。明日はもう秋葉さまへ詣れるというので早めに宿を取る。
ここは久子さんの日記によれば『いとあやしき家に宿を乞ひたるに、米もなければとて否(いな)む。しひていさゝかの米を買ひえて爰(ここ)に宿る』と。
宅子さんのしるすところでは麦刈りの頃で農家は繁忙ゆえ、お世話はできませんというのであるらしい。ただ食事の支度はしてくれることになった。まわりの畑に莢豌豆(さやえんどう)がなっている。あれを頂けませんかというと、手が足らなくてとてもとっているひまはない、あんたたちがとってくれれば、――というではないか。それも一興と、『みな人めづらかにおぼゆ』――宅子さんたちは畑にふみこんで、思いがけず莢豌豆をとることになった。莢から武士(もののふ)の刀の鞘(さや)を連想して、
『つるぎ太刀をさめたる世のそれよりも まづめづらしきさやまめぞこれ 宅子』
泊まった家では豆御飯をたいてくれたり、それはそれで『いとねもごろにもてなす』
善意ある宿であったが、深山のかたわらとて、総体に食文化は貧しいとみえた。
宅子さんらはそれでも髪を梳(くしけず)り、湯浴(ゆあ)みすることも出来、連日の疲労に早寝することにした。久子さんの記述によると、夜具もろくにそろわず、枕を乞うと竹の切れ端を与えられた。平山というところ、山中で木はあまたあるはずなのに、木枕がないとは。
『木はあまたおひらの山に宿かりて 竹の枕に夜を明かしける 久子』
この夜、宅子さんの聞いたのは、小夜更けて物凄い杉林の風の音に添えて鳴く鼯鼠(むささび)の声であった。
『小夜更けて梢をわたる山風に さびしさ添ふるむさゝびの声 宅子』
久子さんが耳にしたのは時鳥である。
『たびなれば言問ふ人もなつ引(びき)の いと珍しきほとゝぎすかな 久子』
払暁(ふつぎょう)、おちくさんのけたたましい声に一同はめざめた。
〈波が来よる、波がくるばい〉
白いものが軒近くまで迫っているという。
〈山潮(やましお)ちゅうもんがあるげなこと聞いとるばって、これがそうやろうか〉
〈逃げにゃいかんばい〉
とみなみなあわてふためく。
宅子さんが見るに、ほんとに白くうずたかいものが谷底から迫りのぼってくる。暁闇の中、潮のようであるが、波音はしない。
宿の亭主が、あれは山霧だという。山が高いので深い谷から湧きおこる霧が山潮のように家々を埋める。まだ夜深いゆえ、ゆっくりして明け果ててから出立なされと、囲炉裏の榾火(ほたび)など焚きながらこのあたりの物語などしてくれる。
明るくなって出立したが、まあこのへんの辺鄙(へんぴ)なこと、深い山中をゆくに人影も見えぬのである。
『立(たち)のぼる雲か煙か杣人(まさびと)の 家有りとだに見えぬ山奥 宅子』
秋葉詣りの人で多いはずの街道だが、この日四月二十九日、陽暦では六月十八日で、梅雨の頃でもあり、物詣で旅の好時節とはいえぬせいもあろう。
かたわらの崖から、ざざと笹を押し分けて何かが駈けてくる音がする。
〈ご寮人(りょん)さん、猪じゃあ……〉
とハタ吉の声に、女たちはきゃっと一声、すくんで動かばこそ。〈これっ〉と四十エモンの叱声。〈つまらん悪戯(いたずら)ばするな。ご寮人さんたちゃ、たまがまっしゃるぞ〉
ハタ吉が一行を活気づけようと大きい石を転ばして脅かしたのだった。三十平(みそへい)に頭ごなしに叱られている。旅のはじめに足を草鞋に食われ、泣き泣き歩いていたハタ吉も、そんな転合(てんご)をしてふざけるまでに、旅を楽しむゆとりが出てきたらしい。
五十丁ばかり登ると観音寺があり、この石段の上が秋葉の社である。ご祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火伏せの神さまとして篤い信仰を寄せられている(関西ではもっぱら京の“愛宕土神(あたごつちのかみ)さん”が火伏せの神さまで、関東の秋葉さまは影が薄いが)。
宅子さんの詣ったころは秋葉寺が立派だった。『この寺の広き事かぎりなし』三尺坊大権現さまを祀る。宅子さんの詣でたとき台所の一間には大きな釜をあまた据え、かたわらに火箸というて柱のように大きいものがあった。珍しいのでお坊さんに聞くと、この社の祭りのときに用いるものという。秋葉の火祭として有名な十一月十日から十六日まで(現在は十二月十五,六日)のお祭ということであった。
鳳来寺詣で、そして東海道へ
宅子さんらはそこから戸倉村に下り、石打、神沢(そこで一泊)、三十日、大平を経て青山峠に到った。この間二里、これが遠江と三河の国の境である。やがて大野の宿に到れば、はや三河の国で、ここから有名な鳳来寺(ほうらいじ)は一里半という。」
秋葉神社が気田川の近くにあることは知っていたが、「秋葉路」から辿ることあたわず。現在の「秋葉街道」は、古の道と相当異なったルートを通っているのではないかなあ。
その後の道も辿れない。図書館の地図で辿る努力だけはしてみましょう。
鳳来寺に行く人と、「けわしい山路に疲れた人は、新城(しんしろ)の宿(しゅく)へすぐいきたい」ということで二手に分かれた。
「これまた山頂の寺であった。山に登ること五十丁、『さかしき巌をのぼれば道の傍らに石仏あまた立てり。人の手かた、足あとを辿りて登る道なり。ふもとを見るにおそろしく身じろぐべくもあらず。むねもつぶれるばかりにてたへがたきこゝちす』」
オラは、昭和三十年代後半、飯田線の湯谷から山道を歩いて鳳来寺山に行った。山道は整備されていて良き散歩道であった。仏法僧の鳴き声が聞こえるとのことであったが、宿坊ですぐに寝てしまったから、仏法僧が鳴いたのかどうかわからない。
翌朝、広い石段が整備されているところを見た。その下には門前町風に店があったかも。帰りも湯谷に出たから、その石段は歩かなかった。
宅子さんの頃は、その石段がまだ出来ていなかったということかなあ。
なお、現在のネットの地図には、オラが歩いた道の一部の表示はないようである。
「山を下りてみれば、『胸もつぶれるばかり』という山道の危さが今更のように思われて、茶屋で祝杯をあげずにいられない。
『こゝにて酒などたうべて、ことなく詣でつることを喜ぶ』
南へ三里いけば新城、しかし先行の久子さんらは、待ちかねて少し前にここから馬を借り、豊川稲荷の前、江戸屋何がしの宿まで行ったという。ここからは二里半である。それではわれら四人も馬で、と思ったが、宅子さんは疲れてしまった。おちくさんと共に新城宿に泊まることにし、男たちは元気なれば、一人は豊川へ、先行者を追ったらしい。
宅子さんはおちくさんと床を並べ、秋葉街道の難儀を今更のように語りあう。日本の背骨を踏破したのだから当然かもしれぬが、信濃の諏訪を出てから、ここ三河の新城へ着くまでの、まあ難所の苦しかったこと。
〈ばってまあ、おもしろか。こんとしになって、こげんことが出来(でき)るちゃ、自分でも思いもよらんことでしたばい……〉
いううちに、おちくさんの語調がゆるみ、いつか眠りに入っている。それを微笑する宅子さんの瞼も、おのずと重くなる。
――このとき宅子さんらが鳳来寺へ詣ったのは幸せであった。二十二年後の文久三年(1863)、鳳来寺は堂舎の大部分を焼失している。」
東海道の御油に入る。
有松、鳴海で絞り染めを買う。
「『いくたびもしぼりしぼりてうすくこく 鳴海ゆはたは唐錦(からにしき)とも 久子』
ゆはたは結機(ゆいはた)の約でくくり染、しぼりの古語である。そればかりではない。久子さんはそこで旅衣を着更えたらしい。
『たびごろもけさぬぎかへて珍しく なるみをとめのしぼりぞ着る 久子』
また瓢箪(ひさご)も名物だったのか、土産に買っている。わが名に通うと思えば
『ひさごをも家苞(いえづと)にせむ久しくも なりて鳴海をしのぶつまにと 久子』
つまは手がかり、思い出のかたみ、というような意味であろう。
宅子さんのほうは、
『おもふ事なるみの浦のくゝりぞめ 若くしあらばまづぞ買はまし 宅子』
とはいうものの、女人の身なればこの有松・鳴海で、さまざまな絞り染めを買わずにすまなんだであろう。」
「この鳴海、一方ではまた、古典に古歌に、親しまれたところであった。古くは『更級日記』――かの、十三歳の少女の可憐な旅日記からはじまる、〈女の一生〉物語――に、
『尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕潮、ただ満ちにみちて、こよひ宿らむも中間(ちゅうげん)に(田辺注・中途半端で)、潮満ちきなば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ』
とある。
為家に『いたづらに都は遠くなるみ潟 みちくる汐ぞちかづく』がある。宅子さんはそれら古典のみやびに音(ね)を添えるべく、
『干潟とはいまぞなるみの浜づたひ 汐満たぬ間といそぎけるかな 宅子』
――古典との美しい交響曲である。
鳴海を出れば雨が降ってきた。この日、五月二日は陽暦で六月二十日、すでに梅雨のまっ只中である。しかし宮(熱田)の宿までに有名な笠寺観音がある。社寺仏閣に崇敬の念篤き、敬虔(けいけん)な宅子さんはお詣りをせねば気がすまぬ。」
「鳴海宿から一里半で宮の宿場へ。『街道最大の繁華な町である』と、『東海道分間延絵図』の解説にある。
ここは海陸の要衝地で、旅籠も多い、ということは往路の旅で先述した。
ここでやっと宅子さんらは久子さん一行に再会する。宮の宿へ着くと、かねて待ち構えていたのであろう、
『あなたよりうちまねく人有り。ちかくよりて見れば先に別れし人々なり』
双方、無事を喜び合い、手に手をとり合って笑み交わす。供の男たちも、合流を果たしてほっとしたことであろう。別々の行動をとり、それぞれ微妙にトーンの違う旅をたのしみ、あとで話し比べて興ずるというのも、長旅を成功させたテクの一つかもしれない。しかしそれも、宅子さん久子さんらに代表される、オトナの識見と貫禄をそなえていればこそ。
『旅なれば一日(ひとひ)ばかりの別れをも 八百日(やおか)のごとく思ひしものを 宅子
かつかなしみ、かつうれしみつゝ物語にときうつりぬ』」
宅子さんの予備知識?
宅子さんらは、ひたすら先行者を追いかけて鳳来寺から、御油から宮の宿まで歩いていたのではない。当然、寄り道をしながら。
御油は、
「すでに東海道である。京へ四十八里十六丁。箱根の関、新居の関を大迂回して越え、ここまで来れば、もう安心というもの、しばらくは東海道の旅を楽しめる。」
「『旅ごろも月日かさねて赤坂と いへば人目のはずかしきかな 宅子』
難所つづきの行路、洗濯もままならぬここ何日か。やがて藤川宿、ここに国許の秋月藩五万石のお殿様が参勤(さんきん)交代で泊まっていられた。福岡藩の支藩で、この秋月は陶器・紙・葛粉・木蝋などの産物があるため、宅子さんの小松屋ともかかわりがあったであろう。他郷で見る〈わしがくにさのお殿さま〉の御泊り札は何とやらなつかしく、
『あふぎ見つゝゆく』
卯の花が道のほとりに盛りだった。雨に降られて岡崎へ。『此町のすぢいといとながし』と宅子さんが書くように、このご城下は、府中宿・宮(熱田)宿とともに東海道でも繁華なところ、俗謡に『五万石でも岡崎さんは 城の下まで舟が着く』とうたわれる。繁華の地はまた色里も殷賑(いんしん)をきわめ〈岡崎女郎衆〉の名も高い。」
矢作橋では、八橋は、池鯉鮒は、
「『もののふの矢はぎの橋は長けれど いるがごとくに今日わたるかな 宅子』
むろん、この『いる』は矢作の矢にかけた『射る』であって、古典の常套語である。」
「歌よみとしてはぜひとも『水ゆく河の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける』という『伊勢物語』ゆかりの地を尋ねなくては。
道しるべの石碑があった。
『従是(これより) 四丁半北 八橋 在原作観音有(あり)』と刻まれている。『元禄九丙子(ひのえね)年六月吉祥日』と刻せられているのも嬉しい。宅子さんは思わず襟元をととのえ、ふと、美男の業平にでも会う無意識の心づもりかと、われながらおかしくなり、口もとがほころぶ。『からごろも きつつ馴れにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ』――業平の乾飯は業平の涙でほとびたであろうか。
しかしついてみればそこはただ古池をもつお寺、無量寿寺で、そばの古碑にはかたくるしい漢文で業平の故事がしるされているのみだった。池にはかきつばたの花もない。名所古蹟は得てしてこういうものであろうけれど。
『あと問へど絶えし三河の八ツはしの 蜘蛛手に物を思ひけるかな 宅子』」
「宅子さんが、いかにも歌人だなあと思わせられるのは、やがて三河の国碧海(あおみ)の郡(こおり)池鯉鮒(ちりふ)(現・知立〈ちりゅう〉市)に至ったときの歌である。」
田辺さんは、池鯉鮒について、「五街道細見」や広重の「東海道五拾三次之内 池鯉鮒」を紹介されているが、省略。
「宅子さんは馬市のことは記さず、『こゝはドジャウの名物なりとて煮売(にうり)する人多し』と。
泥鰌(どじょう)も池鯉鮒らしい気がするが、ここでの詠。
『ちりふなるまつがねかづら言の葉に かけてしばしは旅のなぐさと 宅子』
なぐさは慰め。そのかみ二条派歌人として著名な烏丸光広(からすまるみつひろ)卿が東路を旅して、池鯉鮒に到ったときに鯉が供された。」
その時の光広の狂歌
「『此(この)里の名に負ひたりとおさかなの
料理をしたる池の鯉鮒』
皆人笑いあい、光広卿ここに1泊して、
『言の葉の影とたのまむ散りうせぬ
松がねかつら 一夜なれども』」
「宅子さんは烏丸光広の紀行文も読んだのであろう。池鯉鮒での詠は光広卿への献歌である。旅立ちに際して周到な予備知識をたくわえていたことがわかる。烏丸光広(一五七九-一六三八)、人となり奔放で多芸多彩の文化人として尊ばれた。宅子さんは池鯉鮒の土地を現実に目睹(もくと)して、古歌の風趣にひたる悦びをまたも味わう。」
「周到な予備知識」は、歌に関わることだけかなあ。しかも、当初の予定では旅の「予定」にすら入っていなかった場所であるのに。
往来手形なしの旅で、どのようにすれば「関所回避」ができるか、あるいはお伊勢詣りの「地図」だけでなく、東日本の「地図」も頭に入れていたのかなあ。
その多くは「常識」として。
いずれにしても、「寄り道」を「無知識、無計画」に行っているとは、ちょっぴり信じられないが…。
お殿さまも加勢した最後の「寄り道」
さて、再び、姥桜四人での旅になるが、お殿様までが姥桜ご一行の「寄り道」に荷担していた。
「その夜はそこの美濃屋という旅館に泊まった。船に乗るつもりだったらしいので、ここから往路と同じコース、海上七里の渡しで桑名へ向かうつもりであったとおぼしい。
しかしその夜は、阿波の殿さまと宅子さんらのお国の、秋月の殿さまがこの宿に泊り合わせており、いつもより騒がしい。明けて三日、暁から出ようとすると、『殿の行(ゆき)かひし玉ふに、ことしげゝれば、しばしやすらひぬ』
大名の旅行に遭遇した一般庶民こそ迷惑である。それをやり過ごそうとて、しばし宿屋で休息、そのときにコースをかえようという案が持ちあがったにちがいない。
〈いずれこの先も秋月のお殿さまと、あとになり先になり、してゆくちゅうことになりゃ、気苦労でござす〉
と久子さんがいえば、〈道中細見〉を眺めていた宅子さんが、
〈美濃路をとって垂井(たるい)へ出て中仙道をゆくちゅう道中も面白か。先に歩いたところたあ、違(ちが)う土地をみまっしょうや〉
〈そういやあ〉
と無邪気に声をはりあげるおぜんさん。
〈養老の滝ちゃ、そんあたりやござっせんな。いま、美濃路、ちゅうとば聞いて、ひょっと思い出しましたばい。“美濃の国・養老の滝”ち、いいますたい〉
〈そりゃあ美濃路よかずっと西になりますばい。ばって養老の滝ち聞いげな、すぐその気になりますなあ〉
宅子さんも弾んだ声になる。
〈それそれ、宅子さんの嬉しそうなこと。養老の滝で思うさまお酒の味のする水をち、思うとられるとでっしょうな〉
久子さんの諧謔に、宅子さんは返す。
〈養老の滝は若返りともいいますげな。“飲む心よりいつしかに、やがて老いをも忘れ水の……〃と……〉
というのは、謡曲『養老』である。江戸期の知識階級の教養に、謡曲は欠かせない要素なので、このあたりは私の想像。多分、おちくさんまで膝をのり出し、
〈若返りの泉やち、いうことなりゃ、あたいも飲んでみたか〉
などはしゃぎ出し、いつとなくコースは養老の滝見物に。このへん、まことに悠々たる贅沢な旅である。」
さて、京、大坂での芝居見物などもして、天保山から九州へ。
もう、寄り道はありません。いや、大雨の中宇治に出掛けて、冠水した道を歩き、また、危ない橋を渡られてはいますが。
また、芝居にうつつを抜かせてただけではありませんよ。
十一,二日滞在した京では、
「もともと旅の目的は、お伊勢さん、善光寺さん参詣であったのだから、物詣でが本願にはちがいないのだが。――それにしても京では物詣でに忙しく、大坂では遊楽に忙しい。」
ということで、宇治での歌を。
「十六日、雨なお止まぬ中を、まず平等院に詣り、源三位入道の奥津城(おくつき)をおがむ。
『埋れ木の言葉の花ぞにほひける 世のもののふの名は朽ちずして 宅子』
――これは無論『平家物語』巻四『宮御最期』にある源頼政の辞世を踏まえている。七十を過ぎて平家に弓を引いた頼政は、時、利あらず、寄せくる大軍を前に自害する。
『埋れ木の花さく事なかりしに
身のなるはてぞかなしかりける』」
匂の宮が浮舟を連れ出した小島が崎では
「『鳴けや鳴け小島が崎のほととぎす 花橘も咲き匂ふなり 宅子』
宇治とくれば橘姫、となるのは古典の常識、橘姫の社に詣でていわれをきく。嫉妬のあまり生きながら鬼になったという物語が生まれたが、元来は橘姫は橋の守護神なのである。
雨をものともせず宇治橋を渡ったが、途中に、橋板が古びて危ない箇所があった。
『もののふの八十宇治川のさみだれに 下(くだ)すいかだも矢を射るがごと 宅子』」
「とて道をいそぎ、ようよう、六条醒が井通りの桑名屋へ着いた。ここは浸水もなく、
『ふたたび生きかへりしこゝちす』
おぜんさんや四十(よそ)エモンも安着を喜んでくれた。
〈こげな大水のなか、ご寮人(りょん)さんにもしものことがあったら、ち、肝もちぢむ思いでござしたが、まあご無事でようこそ〉と四十エモンがほっとすると、
〈ほんなこと、宅子さんのことやけ、ぬかりはなかと、思いよりましたばって、お顔を見るまでは心配でしたばい〉とおぜんさん。
つつがなかったことを宿の主も喜んでくれて、魚を夕膳にととのえてくた。
『おもひきや平安(たいら)の宮にはこび来る 鯛のあつもの賜(たば)るべしとは 宅子』
――大坂ならいざ知らず、京の都で鯛とは。
その夜は本願寺さんの惣会所という広いお堂へ『法(のり)の道』を聞きにゆく.桑名屋は京の名所観光には不便だが、本願寺さん詣でには近くて便利なのだった。この日は四ツ半に宿へ帰ったというから午後十一時頃だろうか。何にせよタフな婦人である。」
なお、翌日、明け七ツ(四時頃か)に、本願寺さんの時の太鼓でみな誘いあって詣でる。
「『今日はとてぬぐや信濃路東路の 花にも馴れし旅のころもを 宅子』
『東路日記』はそこで終わっている。
ただし、これが書かれたのは旅より十年のちである。」
旅の費用は?
貧乏人のオラは、すぐにオゼゼが気になる。田辺さんも同じようで。いや、田辺さんはそんな卑しい動機ではなく、知的好奇心から。
為替手形
現金を持ち歩くのは不便、危険。
「のち経済学者の高橋孝和先生(折尾女子経済短期大学)にうかがうと、やはりそうらしい。但し藩札は他藩では信用がないので役に立たず。為替であろうと示唆された。
なお、北九州市立歴史博物館(現・北九州市立自然史・歴史博物館)の永尾正剛氏は、館所蔵の為替手形の実物を見せて下さった。ちょうど万札紙幣くらいの大きさ、まるで布のようにしっとりと重量感ある紙質で、『為替手形』とある。
「一金三両也
右之金子可被相渡事
筑州群方役所
嘉永七寅年五月
大坂今橋筋 鴻池重太郎殿」
〈ははあ、これを持参すれば三両を貰えるわけですね〉
と私がいうと(私がいかに手軽に考えたのを見すかされたごとく)、
〈そういうことです。しかし三両は大きいお金ですよ〉
と永尾氏は念を押すようにいわれる。
高須先生にうかがうと、
〈道中の用はたいてい銭ですみます。銀貨をくずしながら旅をします。豆板や一部銀などでしょう。旅人の財布は“はやみち”という革製のものでして……〉
〈はやみち?〉
〈早道、すぐさま役に立つように銭は袋に、銀貨は袋の上についた筒に入れるようになっています。男は道中差の鞘に一分金や二朱金を入れたりしますね〉
先生のお話では為替手形のほかに、両替所発行の預り手形、振手形(今日の小切手)などあると。しかしそういうもので換金した現ナマを身につけるのも大変である。路銀入れとしては、大金は胴巻に、中程度の金は財布に入れて紐で首から吊し、懐にしまう。小銭は巾着、早道、煙草入れ、胴乱(どうらん)などにしまったと。」
山本七平「危機の日本人」(角川oneテーマ21)に、一八八三年に帝大教授としてやってきたルボン博士、「ルボン博士を驚嘆させた信用経済」が存在していた。ヨーロッパで例外に存在していた為替手形、小切手の制度が存在していた。
山本さんは、ルボン博士の信用経済に係る認識を修正されている。
「徳川時代の日本は司馬遼太郎(しばりょうたろう)氏の言われるように『まだら社会』であって、先進藩と後進藩の間に大きな開きがある。徳川時代に大阪・京都等のいわば『上方(かみがた)』で振手形(ふりてがた)(小切手)、為替手形が自由に流通し、また一種の倉荷証券である米切手が売買され、先物取引が行われたことは事実だが、後進藩へ行けばまだ貨幣経済も浸透していないところもあった。しかし先進藩に関する限り、当時の西洋よりもはるかに“資本主義的”であり、その意味では進歩的であったといえる面があったことは否定出来ない。」
山本さんの紹介を行うことは、好ましいと思えど、「寄り道」で先に進めなくなるため、省略します。誤解を覚悟でスローガンをあげると、絶対的な権威は存在しない、「加上の思想」、「極楽の沙汰も金しだい」などかなあ。
伊勢神宮だけは、「金」の力も通用しないから、儒者や僧侶が神前には行けない、と、確信していた神徒の萩原中将。無神論者というか、神儒仏の教えと無縁、むしろそれらの教義をあざ笑う凡人の道無齋が御師に御供領を渡すと「信心の御僧衆」として、儒者も僧侶も神前近くに行って、お祓いも祝詞もあげてもらって戻ってくる。
萩原中将は、御師に文句を言うと、御師は平然と、昔から僧は入れていない、そして、
「それは金(かね)が神前ちかく参りたるにて候え、出家は参り申さず」と笑いながら走り去ったとさ。
道無齋は、神主だけでなく、儒者も、僧侶も、教義とは異なる行為をしていることをそれぞれの教義に帰依している3人と旅をしながら実証していく。
この話「人経論」が書かれたのは江戸期の初期では、と山本さんは推察されている。
又、福沢諭吉を引用して、経済的には商工農士の序列になることを。
なお、姥桜ご一行は、「神儒仏」ではなく、「神仏」と、「国学」崇拝である。
当然、本居宣長の奥津城に詣でる気持ちは強かった。
「お伊勢さんをあとにすればすぐ松坂、宅子さんは聞くより心ゆかしく、
〈本居先生のお墓にお詣りしたか〉
といってみたが、久子さんは考え、
〈そらあ、ときの要りまっしょう〉
〈ウチは善光寺さんでゆるっとするつもりたい〉
と一行の人々に反対され、宅子さんは断念する。前述の如く、大人(うし)の奥津城は世間並みの仏式葬儀と自分独創の神式葬儀の二タ通りある。そしてゆかりのある人々のお詣りするのは後者の山室山のほうであった。」
本居宣長も、「国学」の規範にすべての行為を委ねない姿勢をっているということの表れかなあ。「世間」の仕来りを無視しない。これも日本人の文化
=the way of life の現れかなあ。
旅費はいくら?
〈いったい、旅費はどのくらい使ったのでしょうか〉
と私が聞いたので、後日先生はその旅費計算の概略を示して下さった。この時代、江戸の金貨本位、上方、西日本経済圏の銀貨本位、それに銭貨がある。この比価は一応公定されてるが現実の取引では相場の変動がある、と。
小判一両が四分で一六朱、一分は四朱というわけ、天保十三年の公定比価で、金一両は銀六十匁銭六貫五〇〇文となると。先生のお話の専門的なことを私に理解できる力があればいいのであるが、なにしろ経済の仕組みは難解だ。
〈えー、ともかく、旅をしていて空腹になってそば屋へ入るとしますね、一人前どれくらいするものでしょう〉
と卑近な質問の私。
〈もりそば、かけそば、一六文というところですかね。天保十二年あたりでお酒をとると上酒で一合四〇文ぐらいでしょう。五〇文から六〇文ぐらいで上がります。〉
と先生。
〈いえ、でも一本つけるとなると、おそばだけでなく、ほかに酒の肴がほしい気がします。そばのほかに、何かなかったでしょうか〉
と自分のことにひきつけて、口の卑しい私。
〈さあ、豆腐とか卵とじ、うなぎなんかあったかもしれませんね〉
〈あ、それそれ。どれか一品でいいです〉
と、もうすっかり、〈天保の道中〉に浸っている私。
〈豆腐で四八文ぐらいかな、うなぎもそんなもんでしょう、するとかれこれ一〇〇文につきますかねえ〉
〈あのう、一文は現代でどのくらいですか〉
と恐る恐るきく私。
〈まあ、二〇円くらいで計算するのが妥当じゃないでしょうか〉
と先生。すると、一本つけた場合、二〇〇〇円ぐらいとなり、これは私の昼の食事としては要らざる奢りである。
『銭金(ぜにかね)の面白くへる旅衣(たびごろも)』(『俳諧武玉川』一-21)……
〈やはり昼の一本はやめます〉
と悄然とする私。
〈そうですね、旅籠代、道中の舟渡し、案内料、おみやげ代、チップ、その他雑費、もろもろがかかりますから、江戸の旅は大変です。緊縮財政でいくほうがよろしいでしょう〉
先生のお話によると、団体旅行の伊勢詣りなども、あとで均等割で費用を精算するので、計理を受け持つ人は計算に明るいお堅い人でなくてはつとまらぬ、と。
そういえば文久二年の羽州・梅津猪五郎さんのグループ、伊勢神宮の団体も、ガイド料までこまかくつけていたっけ。
〈五か月の旅行はずいぶんの物入りでしたでしょうね〉
と私は感心した。先生の試算によると、天保十二年頃の旅籠の泊り賃は一泊平均二〇〇文から一五〇文となる。大体一八〇文となる。これは二食付き一人分である。宿泊日数は百四十三日であるので、丁銭(一〇〇〇文を一貫として)二五貫七四〇匁、金では三両三分三朱一四六文。その他の食費、ガイド料、みやげ代などの雑費は、大体旅籠料とほぼ同じという。
されば一人分の総費用は丁銭六三貫一八〇文、金では九両二分三朱二一二文、これを円に換算すると、
一二六万三六〇〇円
とのこと。
なるほど、でも五か月の旅の楽しさとしては、それほど無残な破格の高値でもない。ただこれは一人分の割り出しゆえ、従者の分がその上に割って積まれるであろうけれど、現代の感覚でもまあまあ、というところだろうか。何となく感じ入ってしまった。」
旅籠料200文、円に換算するとき1文20円とすると、4000円。
昭和三〇年代後半にオラが泊まっていたのは600円くらい。当然、観光地の、あるいは温泉旅館ではない。列島改造等による貨幣価値の変動があり、現在大井川等で費やしている旅籠代は朝食付き4千円。何となく姥桜ご一行の旅籠代の水準が理解できる。
姥桜さまから元気を、気力を得ようと考えたことが浅はかでした。
姥桜さまご一行の旅路を辿るだけでも疲れてしまった。以前読んだときのように、寝転がって元気な姥桜じゃなあ、と読んでいた方が疲れないですんだが。後悔先に立たず。
とはいえ、此処でへたると、昭和のジジーの名が廃る。
「鮎を釣るまで」を取り込みましょう。
藤田栄吉「鮎を釣るまで」(博文館昭和7年発行)
藤田さんは、神代の昔からの鮎と日本人のつきあいを書かれているが、これは省略。
明治、大正、昭和の初めまでの川とあゆみちゃんの生活誌ですら、戦後に物心のついたものにとっては想像できない事柄が多すぎて、ミスリーディングをしないように手探りで読むことを強いられているから、神代のことはとんでもはっぷん。
藤田さんの記述で一番気をつけなければならないことは、「湖産」が、琵琶湖で子鮎のまま一生を過ごす「子鮎」が、生活環境を変えると大鮎になる、ということから、海アユと湖産の性成熟時期を区別されることなく表現されていること、移植された「湖産」が海アユ同様、再生産に寄与していると考えられていたようであること。また、あゆみちゃんの生活環境の表現で、「砂礫」が遡上期のあゆみちゃん好みの河相であるとの表現をされているが、現在の「砂礫」は、産卵場としての場所、あるいは、巌佐先生が硅藻は二万ルクス以上の照度で枯れるとのことであるから、そのような環境下での、垢ぐされ時の生活空間と考えているが、それとは異なるようである。
ということで、「現在」の概念では、ミスリーリングをして、学者先生と同じ狢になる可能性があることを肝に銘じて読んではいきますが、松沢さんに疑問を聞くことができない状況であるから、困りましたねえ。松沢さんと長く、深くつきあっていた丼大王さん、気がついたことは教えて。
原文にない改行をしています。
旧字は当用漢字で表現しています。ふりがなが旧仮名遣いで振られている箇所が多くありますが、多くのふりがなは省略しています。
理学博士 石川千代松博士の序文
この序文には、へぼには耳の痛いことが書かれている。藤田さんへのまじめな「序」の箇所は、省略します。
「私は大の釣嫌ひである。それは殺生が嫌ひだからでもあり、あんな悠長なことが私に出来ないからであるが、殊にその最もこれを嫌ふ所以は好餌を鼻の先に見せつけて、無邪気に遊んでゐる魚をおびき寄せ、これを且つだまし且つ欺いて引つ捕へるといふが如き陰険なる態度を憎むの意に出づ。さういふ事は人の世の中にも行はれて、常に私の不快としてゐるところであるが、魚に対しても私は同じ感じを持つ。
人間が魚類と智慧くらべをするなら人間が勝つに極まつてる。智慧のすぐれた人間があゝでもない、かうでもないと、いろいろ頭を悩まして、餌を選び、針を選び、綸を選び、竿を選び、舟を選び、季節を考へ、天候を考へ、水流を考へ、凡て選ばるゝ限りのものを選び、考へらるゝだけのことを考へて、萬々違算のなきを期して、微々たる一小魚と智慧くらべをするのだから、人間の勝つに不思議はない。ところがその人間がかくまで用意してありながら、時々魚に負けることがあるから、實に愉快極まる。終日釣り暮らして一尾も釣り得ずに、あふれて帰るのが即ちそれだ。あさましなんどいふもなかなか愚かなりである。
さういふ馬鹿馬鹿しい人間を一切作らせまじとて、この書は出来た。すべての人間をして、せめて魚類ぐらゐと智慧くらべても負けぬほどの一人前の人間たらしめようといふのがこの書の趣旨である。この書一たび出でゝ後は、又空魚籠片手にぼんやりと馬鹿づらをして帰る魚類以下の人間はなくなるべし。實にたいしたもンである。
昭和六年四月某の日うなぎ、わかさぎ、こひ、ふな、ぼら、
やまべ、はらあか、なまづのさわなる手賀湖のほとりにも、
人間の体面を維持しつつ罵釣庵主人楚人冠しるす。
春昼や捨魚籠に泥がかわき居り」
石川博士は、なんと愉しい「学者先生」かなあ。
いや、故松沢さんが軽蔑されていた観察眼に劣る「学者先生」とは異なる存在のようで。その石川博士が、琵琶湖の「子鮎」を多摩川に放流した実験のことを藤田さんは収録されている。
「魚」以下の智慧しかない者が、「鮎を始るまで」を適切に読みこなすことは至難のわざであると覚悟はしているが。
その上、時代背景の違いを考慮しなければならない。
迷人見習いが、鮎釣りは、平面的な流れの筋を読めば済むが、磯釣りは、それだけではだめで、垂直方向の流れの筋も読まなければならない、と。ということは、平面上の流れの筋すら適切に読めないオラには磯釣りは、「恥の上塗り」になるということでしょう。
「鮎を釣るまで」を読んでも石川博士が書かれている「さういふ馬鹿馬鹿しい人間を一切作らせまじ」ということにはなりませんが。へぼはいつまでもへぼと自覚していますが。
「砂礫」とは
藤田さんは、パリからの岡本一平さんの「鮎を釣るまで」の発刊に寄せた絵はがきの文を掲載されている。
達筆の文字を読むこと能わず、であるが、与瀬の鮎釣りに藤田さんと行かれたのではないかなあ。
これらからでも、藤田さんが単なる「釣り人」ではなさそうと、想像できる。
このような背景も考慮しなければ適切に「鮎を釣るまで」を読むことができないということかなあ。
現在では、「砂礫」の河相が到る処に存在していて、「砂礫」の所を食堂にしなければ「食っていけない」事情もわかる。
しかし、三保ダムがなかった酒匂川では、小田厚の赤橋の下流でも頭大の石がびっしりと詰まり、その中に一抱えほどある石が転がっていた。
宮ヶ瀬ダムがなかった頃の中津川は、大石があちこちにあり、頭大の石がその間を埋めていた。角田大橋下流でもその情景は変わらず。田代の球場前で、左岸にぶち当たる流れでも同じ。愛川橋上流では、流れの幅が狭まり、そしてえぐられた流れの中に大石がごろんごろんとしていた。そして、大水の時は、大石がごろんごろんと転がる音が怖かったとのこと。
狩野川城山下を含めて、河原も石ころだらけで、「砂利」なんて、ほんの僅か、限られた場所にしかなかった。
その光景が平成の初め頃までの「見慣れた」河の状況であったから、「砂礫」の場所が食堂街とは信じがたい。
垢石翁が、「玉石が詰まった」川底」と表現されている環境を「砂礫」と表現しているのかなあ、とも思ったが、さにあらず。
藤田さんの「砂礫」に係る記述を見てみましょう。
「砂礫」の事例
由良川
「大正天皇御即位式の大嘗祭の庭積机代物(にわつみつくゑしろもの)にお用ひになつた鮎は丹波由良川産のもので、その調進方の御用命をうけたのは京都府何鹿郡山家村であつたが、更に今上陛下御即位式にも重ねて同村へ御用命が下つて山家村では二度までも得がたい光栄に浴したのである。
由良川は中国山脈の支脈中の高峰九百五十九米の三国嶽から発源して、上流を蘆生川といひ、知井村地方を西に向ひ蘆尾(あしお)を過ぎて左に佐々里川(さゝりがわ)を合わせて和知川となり、知井村字中にて小流を入れ、小浜街道に沿って西南流し、宮島村に入りて屈曲多く、大宇島にて棚野川と合し、西に流れて船井郡桝谷にて左に高屋川(たかやがわ)を合せ、更に山陰鉄道に沿つて西北に流下し何鹿郡に入り、山家村(やまがむら)を過ぎて綾部より西に転じ、左に上林川を合わせて福知山に出で、加古川の分水嶺に発する最大なる支流土師(はじ)川を入れ宮津街道を北に折れ牧川を合わせて丹後に入り、更に東北流して由良港に注ぐのであるが、山家村は恰も丹波に於ける流程の中ほどに当(あた)るのである。
その上流にあつては谷蹙(ちヾま)り両岸の山勢甚だ急であるが田歌と島との間は谷やゝ開け、流れも緩にして河床は概ね砂礫であるが、島から桝谷までは断崖の峡谷となって、河床には岩盤多く露出し、それ以下も谷開け山勢亦緩(ゆるやか)ではあるが一帯に砂礫の河床を有してゐる。水質は上流部に於ける森林状態の良いのと地質が主として秩父古生層の比較的堅い関係によつて純良ではあるが、近年発電所の設置によつて梢々悪化せる傾向あり、加ふるに高原川その他の支川より流下する土砂夥しく堆積して、出水ごとに河床に変動を見ることがある。しかし、流程約三十五里の河床は岩盤と砂礫とにて填(うづ)められ、十分硅藻の生育に適し鮎の発育頗る見事である。」
「御用命の魚は百尾であつたが体長七寸のものに限られ、しかも、抱卵期に当たつて雌魚のみを選み胎内の卵塊をその儘残して腸を口中より抜き取る、そして一夜塩漬として翌朝十分に水洗ひし秋気にさらして乾燥させるのであるが、その塩加減がなかなかむづかしいし、また水で洗つたその日の天候が心配である。天気さへよければ青白い光沢が出てくるも、その水洗ひの日が雨であつたりあるいは曇天である時、又は余りに温度が高すぎたりすると、色沢が十分に出ないので御用品にはならない。
二回目の御用命の時は十月一日で、禁漁期に近い季節で製造に適当なる日が僅か十日に過ぎなかつたから、勿論、大量のものを製造してその中から良品を選むといふことも出来ず、所期の良品を調進し得るや否やを非常に心配したが、一同の熱誠な努力によつて滞りなく優良の品を調進し得て村民斉(ひと)しく悦び合つたといふ。かふして二回までも畏(かしこ)き御用命を拝した由良川の鮎は永くその名誉を歴史の上に伝うるのである。」
川の状況を書く表現ができるということは、藤田さんは、由良川にも何度も足を運ばれているのではないかなあ。
そして「砂礫」が硅藻の生育に適するとは?。「岩盤と砂礫とにて」うめられるとは、想像できない現象。
なお、藤田さんは、「藍藻」の言葉を一切使われていない。にもかかわらず、「香」魚の香りを釣りに利用することを書かれている。このことからも、藍藻が優占種の川でも「香」魚がいる、海で生活する稚鮎でも香りがしているから、香りと食料は無関係との高橋勇夫さんら学者先生のご託宣は信用できませえん。
垢石翁は、由良川の鮎の「質」について、田んぼが発達していて田んぼの水が流れ込んでいるから「最上」とは判断されていないよう。
すでに由良川の鮎に係る垢石翁の評価は、紹介済みと思うが、どこで紹介しているのか、見つからない。索引簿を作っておくべきであると後悔している。
佐藤垢石「垢石釣游記」(二見書房 昭和五十二年発行)の「香魚の讃」の章から
「大正天皇御即位御儀の時、大嘗祭(だいじょうさい)庭積机代物に用いられた香魚は、丹波の三国岳から源を発した由良川で漁れたものである。丹波国何鹿郡山家村の村民がその調進方を命じられたのであったが、また、今上天皇の御即位式の時にも同じく御用命があった。
まことに名誉ある香魚である。しかし私等釣魚家から見ると、あまり一等の質の香魚であると言う訳には行かぬ。一体由良川は上流を芦生川と称し、山陰線の鉄橋の架かっている付近を和知川と呼び、海に近い下流を由良川と言うのであるが、昔から京都府内は稲作が発達していて、どんな山の中へも水田を拓いたので、この川へ落ちる水質はあまりよくないのである。従って香魚は円々と肥っていて甚だ見事であるけれど、肉がぶくぶくである。また腹に小石が多い。」
「香」魚が絶滅したか、絶滅危惧種になっている現在では想像もできない評価です。
そして、高橋勇夫さんら学者先生が、「香」魚を知らずして、「香」魚の食糧を語る時代であり、真山先生や村上先生が「香」魚と硅藻の関係を、硅藻に含まれている物質が鮎の体内での代謝経路を経て香り成分を発散している、なんて、「適切」な観察を目にする人はオラのようなひねくれ者だけのようで。
なお、焼き鮎の作り方が、滝井さんと異なるのは、滝井さんが長期保存をするための焼き鮎であるからでしょう。
多摩川
「水源地帯の地勢稍々緩であるが落合付近から急傾斜となり、一の瀬川を合せて渓谷いよいよ深く、断崖絶壁相次ぎ、ところどころ河床に岩盤を見る。更に日原川を合わせて後屈曲多く、青梅にて山全く尽くるも、この間河床は玉石、転石及び砂礫で充たされ、加ふるに上流部には東京市有の水道涵養林があり、又甲斐の国境に約一萬町歩といふ大密林を有する関係で水質甚だ純良であり、河床の岩盤玉石にも良好な硅藻が発生する。下流は一帯渇水と砂利の採掘とで流量少なく且つ水質も日を追うて悪化する。」
藍藻が優占種となり、もはや二度と戻ってくることのない「香」魚がいた頃の垢石翁の評価基準を知るための事例として神通川の評価を見ていましょう。
「北陸へ行くと、越中の神通川の香魚がある。この川の、飛越国境猪ノ谷から下流に棲む香魚は推賞するに足りないが、裏飛騨の巣ノ内を中心とした上流の峡谷には、素晴らしい姿の香魚が釣れるのである。先年一尺二寸、百六十五匁という鱒位もある素晴らしい香魚が大瀬の梁へ落ちたことがあった。
この川の底石は、水成岩ではないが、截り立ったような石英の巨岩が激湍の中に横臥し、激湍と深淵が相続いて凄い程の景観を持っている。飛越線の汽車の窓から数十丈下の河心を臨むと、白い石英の奇岩を水垢が茶色に彩って、いかにもそこに円々と育った大香魚が、餌を争っているであろうと首肯(うなず)ける。
大阪から東では、利根川に次いで大きな香魚が漁れるのは宮川であろうが、鱗が硬く肌の手触りに粗いところのあるのを欠点とする。」
富士川でなく、天竜川でなく、宮川が大鮎となっているのはどのようなことか、気になるが。また、上方側線横列隣数は、海産鮎であるから、他の河の鮎と同じであるのに、「手触りに粗いところがある」ということはどういう意味かなあ。
垢石翁の宮川
麦飯を食べた宮川と麦飯の追憶
発育に適する川
「その発育に適する河川といふは、遡上後数日にして第一に砂礫の河床につき得べき所でこの砂利層について始めて動物性の餌から植物性、即ち硅藻の餌に移るのであるが、一旦硅藻につくや、更にその硅藻を追ひつゝ上流に遡上する。元来が暖水を好む魚であるから水温の余りに冷却しない程度の中流部、或は河の情勢により上流部の比較的暖かいところでは、その上流にも遡上して、砂礫の河床より更に小さい玉石の硅藻につき、次ぎには大きい玉石を追ひ、今度は転石を求めて進み、遂には河床の岩盤をめぐり、峡谷の両岸に露出する岩盤にもついて、よりよき硅藻を追ひつゝ飛沫のあがる瀧津瀬にも勇躍する。かうして彼らの体はいよいよ肥大し、いよいよ引き緊つて見事なるものとなるのである。
されば何(いづ)れの河川にありても鮎の生育に適すべき水温を保有する流域内に於て(最上流部は概ね水温低くして生育し得ない)砂礫、大小玉石、或いは転石、岩盤等の河床を有するところでなければ鮎の発育には適しないのである。」
ますます「砂礫」とはいかなるものか、わからなくなる。
なお、遡上限界については、秋道先生が、文書を資料として利用し、鮎は、四次河川、五次河川を生活圏とし、宮川の高山は三次河川であるから、高山まで遡上することは稀であるとされている。
単に水温だけが遡上限界を規定するのか、どうか、気になるが、いまでは河川の横断構造物が到る処にあるから、調べようはない。
産卵場の記述について
「即ち晩秋のころ、河口に近い砂利場に産みつけられた卵が、十一月の小春日和に孵化して仔魚(しうお)となり海に下つて越年する。それが翌年の初春ぼつぼつ河上に溯(のぼ)り初め再び生まれた故郷の砂利場に立ち帰つて淡水生活に移り、こゝに体力を養つて第二段の遡上を企つるその時季の三月から五月までを『幼魚期』とし、更に、野薔薇の匂う六月の初旬ずつと上流に差して玉石や岩盤の急流に移動し盛んに活躍する真夏の全盛期を『成魚期』と称し、それから、秋立つ九月下旬から十月に掛けて下江を初め再び春に巣立つた砂利層に戻って、産卵と生殖の営みをなし次で枯稿して斃死する。この期間を『落魚期』といつてゐる。」
産卵時期、下りの時期の記述は、一見、学者先生のご託宣と一致しているように見えるが、これとは異なることは後日に。
産卵場が「砂利」層であれば、「砂礫」層は、砂利ではないということかなあ。
「砂利」といっても、指の太さくらいの大きさの小石が産卵場であるから、現在「砂礫」といっている「砂礫」と、藤田さんが使用している「砂礫」とは同じ情景ではないようである。
「謎解き」が簡単に解決するほど、楽とは思ってはいないものの、困りましたねえ。
又、垢石翁では「玉石」の表現があゆみちゃんの食堂として必要な条件とされていると思うが、その「玉石」に大小があり、それと「砂礫」がどのように関連しているのかなあ。
又、垢石翁では、「砂礫」が食堂として記述されていないこと、「玉石」と表現されていることが、いかなる事情、或いは河床の「変化」を反映しているのかなあ。
小鮎と砂利の河床
「鮎はその遡上中砂利の河床に付いてる間が最も長くて最も飽食する。始めて硅藻についたのであるから頻(しき)りにこれを喰ひとつて腹いつぱいに充す。四,五月ごろの小鮎を見ると殆ど溢れるばかりに硅藻を多食するばかりでない。恰度、この頃は昆虫類の成虫となる時季で羽化したものがしきりに水上を飛び交うし、又水にも落ちて流れる、それを狙っては喰い込み、且つ河床にある色々の幼虫をも補食する、その食慾の旺んなことは驚くばかりである。これはいふまでもない、やがて上流の急湍に突進する準備として思ふがまゝにその体力を養ふがためである。従つてその遡上の途中最も長く砂利層についてるといふことにもなる。
遡上期の小鮎がかく砂利層の水域にあつて飽食する頃はハヤまたクキといふものも同じ砂利層で産卵と生殖の営みとをなすし、河口に棲息するウグヒ、マルタ又はフヂハナといふものも産卵のため砂利場に溯上する。」
こうなると、「砂利層」に硅藻がいっぱい繁殖していることになるが。そして、マルタは河口に親近性をもつとしても、ハヤはどうかなあ。「フジハチ」はどんな魚か、わからない。
釜掘りの掛け釣り
「次の釜掘りの掛けづりに至つては實に奇抜なもので、確かに岩国の一名物といつてよろしい。この釜掘りは十月下旬から初まる、先ず瀬付きのある場所を選んで、その河寄りの水域即ち岸の方へ小石で釜形の土手を築き、釜の中を掘つて硅藻の洗はれた新しい小石ばかりにして河瀬に向かつた一方に口をあけておく。岸には雨露(うろ)を防ぐため竹骨に紙を張りこれに油を引くか、或いは防水布を張つた『ほろ』を設ける。
瀬についた鮎は先ず瀬に向つてあけられた釜の口の中の新らしい硅藻のない小石をめがけて良い産褥とばかりぞろぞろその中にはひつてくる。無論、それは日ぐれ頃から夜明にかけてである、それを幌の中に待ちうけて短い竿に例の背中合わせの掛ばりでちょいちょい掛けるのである。掛けても掛けても後から魚ははひてくる、とても面白い漁法で、夜寒の河原に白い幌のずらりと続いて闇にも光る竿の動き、岩国ならでは見られない珍風景である。
すべての河魚が産卵場所に硅藻の少ない洗はれた砂利層を選ぶといふ習性を知り、新らしい釜を掘つてその中へ魚を誘ひこむところに面白味がある。
福島県木戸川の河口でもこれに類似した方法で瀬付の鮎を捕つてゐる。これは掛けて捕るのではないが、瀬付きの場所の岸寄りに小さい流れをつくり、その流れの中ほどをやゝ深く掘り下げて新しい小石にする。すると、瀬についてゐる鮎は小流れを伝ふてふかく掘り立てられた所に群れてくる、その群れて黒くなるのを見て一人は深みの水上(みなかみ)に、一人は水下(みなしも)に走り水上のものは手に携へた巻藁で急に落口を塞ぐ、そのバサリといふ音を合図に水下のものは白い布片(きれ)で造つた四,五尺の袋網を流れの口に当(あて)る、すると、深い所の鮎は流れの止つたのに驚いて一度に袋の中へ躍り込んで一尾残らずはひつてしまふといふうまい捕り方である。これも硅藻のない新らしい石へ魚を寄せる趣向で岩国のと少しも異つてゐない。かうして、知らず知らず魚の習性が漁法に利用されてるのである。」
さて、岩国の一名物である釜堀は、産卵場が「小石」であることを観察されている。そうすると、「砂礫層」とは、砂利とかは、「小石」のことかも。いや、ちがうかも。
そして、更に大切なことは、藤田さんが、産卵時期、或いは性成熟、下りの時季について九月、十月からはじまると記述されていても、これは、高橋勇夫さんら、学者先生の太平洋側の、四万十川の十月、十一月の産卵時期のご託宣とは異なるもので、単に産卵時期、下りの行動の開始を一般化した記述に過ぎない。
岩国の釜掘りが十月下旬からはじまる、との記述はその一例である。そして、高橋さんが四万十川海域で採捕した稚鮎の耳石調査から、十月始めに孵化している、とのご託宣は、「絶対」に事実ではない、と断言します。
このように、藤田さんの文を適切に読みこなすには、他の箇所に記載されている現象の記述を見逃さないようにしなければならない。
相模川の遡上状況
「鮎はその遡上中砂利の河床に付いてる間が最も長くて最も飽食する」の記述で、「砂利についている間が最も長く」もどのような意味合いか、わからない。
その事例として、藤田さんが相模川の遡上状況について書かれている箇所を紹介します。
「鹹水中(かんすゐちう)にある仔魚の、まだ色素の発達しない透明体である頃は、シラスや白魚などの小魚と同棲し、海中に浮游するプランクトンを食して生活するが、やうやく長ずるに及び、かうした同棲者を置き去りにして、ずんずん淡水へ溯上してしまふのである。河口で白魚と同棲してゐることは昔から知られたことで、芭蕉の句に――鮎の子の白魚おくる別れかな――といふのがある。これは芭蕉がある年常陸へ句行脚を志し、深川の住ひを出で立つ時、その門出を見送つた門人等に与へた留別の句である。
門人を鮎の子――これから段々出世して大きくなる鮎の子に見たて、おのれは杜子美の所謂――天然二寸魚(すんのうを)――の行き詰まつた身の上だといふ意を示して門人らを励ましたのであらう。この頃、鮎の子と白魚とが大川口で一緒に群れてたといふ事実も、この十七字詩によつて明確に知られるのである。
その後寛政のころ、当時役人であった積翠といふこれも蕉翁の流れを汲む俳人が『芭蕉句撰考』を著述して、この芭蕉の句を評釈し――東武永代橋辺の川にてアユゴといふ小魚、白魚に交(まじ)りて網にかゝる、漁人鮎の子也といふ――とある。当時隅田川に子鮎の繁殖群棲して江戸名物の白魚と共同生活をやつてたことが知られるのである。
かくて、河口から遡上した子鮎の砂利の河床についた頃から美しい体色を水中に踊らせて、活動初期の爽やかな閃きを見せるのである。大隈言道の――流れくる花にうかびてそはへてはまた瀬をのぼる川の若あゆ――もこの時期であるし、子規の――砂川や子鮎ちらつく日の光――又、失名氏の――ちる花とともに汲るる子鮎かな――など詩人の目に映じたるはいづれもこの幼魚期の鮎である。」
遡上開始時の鮎の大きさが「二寸」は適切な表現で、現在でも同じであると思う。
又、海水中に入った時、仔魚は、まだ色素の発達していない透明体であることも、現在の表現と同じであると思う。
ただ、河口、汽水域に入ってきた子鮎が、「白魚と共同生活をやっていた」という表現は字義通りに理解してよいのかなあ。子鮎は「旅の途上」で、たまたま白魚と一緒に捕らえられたということではないのかなあ。汽水域での子鮎の滞在は長いのか、短いのか。
勿論、故松沢さんが、狩野川の稚鮎が海に出て行かない、と観察された浸透圧調節機能に不全のある交雑種や継代人工の仔魚の話とは異なる現象であるが。
淀川の稚鮎釣りが参考になるのかも。
またしても「砂利の河床にについた」とはいかなる現象かなあ。「砂利」は現在の「砂利」と同意味かなあ。いや、現在の「砂利」とは異なるのでは。
「暖地の子鮎は二月末から溯りはじめて、三月早くも中流の水域にまで達するものもある。がこれは最も水温の高い河川の例で、普通は三月に初つて、四月、五月が溯りの真盛りである。この季節に溯上するのは九州地方から中国、四国、近畿、表中部、関東及び裏中部の福井県あたりまでゞ、裏中部では石川県が稍々おくれて新潟県に及び、奥羽地方では福島、山形から順次北におくれ行き概して二,三十日間おくれる。
関東地方にあつては最も蕃殖の多い相模川は、古名を鮎川と呼んだほどの産地で、その中流部中央線与瀬付近では河鹿の初声を聞いてから十日目にはきつと溯り鮎がくるといつて漁師はその声を待つのであるが、よくこれが当つて河鹿の初声を聞く三月の末には必ず一番のぼりの大群(おおむ)れを見る。この頃の成長度は年によつて違ふが、たいていこの辺では二寸位のものが多い。この川で溯上が最も遅れたのは昭和五年であつた。同年は異常な遅れ方で与瀬では四月十三四日頃初のぼりの魚(うお)を見かけ、ずつと上流の桂川筋鳥沢では更におくれて五月十日に初めてのぼり魚を見出し、その十四日に二番目の大群れがやつてきて、悉く河床の硅藻を喰い尽くし茶褐色の玉石が一夜の中に黒い肌を見せ、それから次のが追々溯つてきた。この溯上のおくれたのはこの年の流量が非常に多く自然水温の低くかつた結果である。」
「鮎を釣るまで」には、地図が添付されている。
相模川・桂川は五万分の一、多摩川は二十万分の一,そのほか、手取川、狩野川、犀川、鏑川、興津川の地図が添付されている。
狩野川では大仁が下限、城山下も辛うじて入っているが。
相模川では大島の鵜の森が下限、いやその少し下流の「金掛」が下限。「金掛」とは、神沢かなあ。そもそも、高田橋や石切場は「下流」という判断かなあ。
与瀬が「中流域」とは、とてもイメージできない時代のお話し。
「砂利」、砂礫と概念が、現在とは異なるかも、と想像できるが、具体的にイメージできない。ただ、現在表現されている「砂利」、「砂礫」とは異なる可能性が大きいということは想像できるが。
そして、垢石翁では、「玉石」の表現になっている河相が、藤田さんでは「砂礫」、「砂利」と表現されているようであることも。そうであるとすると、藤田さんが、「大小の玉石」、「小石」も使われているから、それらが同じ大きさの石を表現しているとは考えられないが。
この問題でさえ、厄介であるのに、さらに
1 与瀬付近で三月末頃に一番上りがいること。
2 その大きさが遡上開始時と同じ二寸位であること。
3 硅藻が優占種であるのに、「黒い」石であること。
天保の代の姥桜ご一行の好奇心と行動力のお裾分けだけでは解決しがたい問題ですなあ。
松沢さん、教えてえ。
現在と古の遡上開始の違いはある?
相模川に津久井ダムも、寒川の堰もなかった頃、川霧が立ちこめる頃から遡上が始まった、との話があった。水温よりも気温の方が高くなる三月上旬か、中旬頃の話ではないかと思うが。
当然、底水放流の津久井ダムもない。
宮ヶ瀬ダムがなかった頃の解禁日、中津川の水温の方が相模川よりも高かった。
そのことからも、津久井ダムの底水放流が低い水温を遅くまで継続させている。
そのため、相模大堰副魚道の遡上量調査では遡上の早い年では三月下旬に相模大堰に遡上アユがやってくることになっているのでは。
そして、三月下旬に遡上アユが相模大堰にやってくると、解禁日には17歳位の女子高生が釣れる。
それにしても、三月上旬に遡上を開始していたとしても、与瀬まではまだ相当の距離がある。にもかかわらず、三月下旬に与瀬に到達していたとは。
三月に遡上を開始しているとしても10日頃からではないかなあ。しかも、その頃は汽水域にいるのではないかなあ。
与瀬の一番上りの稚鮎の大きさが遡上開始頃と同じ大きさとは。
残念ながら、その理由を考えること能わず。
なお、「仁淀川川漁師秘伝 弥太さんの自慢ばなし」(小学館 語り宮崎弥太郎 聞き書きかくまつとむ)に
「昔は3月皿丈(さらだき)というてね、3月の中旬になると、小皿の直径ぐらいのもんが、このへん(越知町)に上ってきよった。ちょっとしたおかずを入れて出すような豆皿じゃき、まあ三寸ばあのもんじゃろう。それぐらいのアユが、真っ黒な…そうやね。両手を広げたほどの幅の帯になってひとつも途切れずに向こう岸を泳いで行きゆう。そら見事なもんじゃった。
今は帯になって遡るゆうようなことはまずないし、3月にもうアユの針子が見られるということもなくなったがね。温暖化やらなんやらの影響で、アユの性質自体が変わってしもうたがじゃないろうか。本来、アユという魚は、まあ、空中を飛ぶ蠅(ハエ)とまではいわんが、毎年いくらでも川から湧いたもんじゃがね。」
藤田さんとの三月下旬の稚鮎の大きさの違い、遡上開始時期の微妙な表現の違いは何でかなあ。
なお、「アユの針子」の表現は適切であり、コケを食するようになって、身長よりも体型が先に大人のようになる、針子から肉付きのよい体型になる、ということかも。
硅藻が優占種で「黒い石」とは何で?
藤田さんは、アカの種別について、「硅藻」と書かれていても「藍藻」とは書かれていない。明治、大正、昭和の初めの河は、「きれい好き」の硅藻が優先種である貧富水水が当たり前の「水」であった。
その硅藻の色は、巌佐先生らが書かれているように、「茶色」であって、「藍藻」が優占種の石の色である「黒」ではない。
アカの繁殖力の旺盛さは、川那部先生も書かれているように、凄いものである。
1992年の狩野川は城山下でのこと。それ以前とは異なり、11月22日はきれいに石は磨かれていた。しかし、23日は石が曇っていた。僅か1日でそのように石を曇らせるほど11月でもアカが蕃殖している。
勿論、硅藻ではなく、藍藻が優占種ではあるが。
藤田さんが石の地の色を観察されて「黒い石」と表現されているとは考えられない。
硅藻が「茶色」であることは、荒川の水を引き込んで、越後下関駅に通じる道のせせらぎ状の水路、重文の渡辺家のところで、屋敷を取り巻くように流れているせせらぎのように整備されている流れの中の石は茶色であって、黒ではない。
大井川の石の色も「原則」茶色。
藤田さんではなく、学者先生の観察であれば、また馬鹿な観察をしている、とさげすむだけですむが。
これにて一件落着
ということになるはずであったが、さにあらず。
佐藤垢石「釣趣戯書」(三省堂 昭和17年発行)
(旧字は当用漢字で表現しています。原文にない改行をしています。)
オラのへぼをあざ笑うネタを提示したのは、垢石翁。
「若鮎観察記」の章から
「富士川は、名にし負ふ大河である。今年は早春以来、水温が高く水量が豊富であつた上に、激しい増水がなかつたから、若鮎は夥しく海から溯つてきた。
三月上旬、静岡県駿東郡芝川村の上手の釜ヶ淵と称する難所に、五六日間続けて、幅二尺ばかり、厚さ三尺ほどの若鮎の大群が、真つ黒になつて溯つたさうである。その数は、到底想像も及ぶまい。
この若鮎が富士川四十里を次第に上流へ上流へと、溯り行つて育つのだ。さらに中流の山梨県西八代郡富里村大字波高島先では、三月中旬に四五日間続いて若鮎の大群が黒くなつて、帯のやうに毎日上流へ溯つたといふ。私は十二日(注:五月か)の朝、波高島地先の本流を覗いたところ、石についた水苔を石が黒くなるまで鮎が、食んでいるのを見た。
水中の石の数は、数へられない。その石を片つ端から真つ黒になめてゐる。流れの中心には三十匁近い大ものが遊んでゐるに違ひない。解禁は六月一日であるから、それまでに三十匁以上に育つであらう。流れが荒く淵が少ない関係上友釣専門の川であるが、毛鉤の沈み釣も、やれぬことはない。」
「富士川では、いま二箇所の発電所工事中である。この二箇所の堰堤が竣成すれば、富士川の水は海と縁を絶つから来年の天然鮎の遡上は絶望だ。僅かに身延町から上流における放流鮎を楽しむよりほかにあるまい。なににしても、富士川の鮎は今年限りで終焉を告げる予定である。」
井伏さんは、「釣趣戯書」の序文を書かれている。
井伏さんが生まれて初めて友釣りをされた時、垢石翁は殖田さんと同道していた。
「殖田さんといふ人は水産講習所の先生で、アユの食べる水垢の研究では日本の権威ださうである。この人は私に水垢について教授してくれた。専門的な話は私にはよくわからなかつたが、水垢は硅藻なのださうである。一般に水垢がくさつてゐると云うのは、その硅藻の花が散つて枯れてゐることださうである。殖田さんは水苔のついた小石を一つ拾ひとつて、水苔がこんな色をしてゐるのはもう花が散つてゐるのだと云つた。」
小西島二郎 佐藤清光「紀の川の鮎師代々」(徳間書店 昭和55年発行)
の「溯上鮎で黒くなった川の色」の節に
「小西 さて、海に行った鮎の稚魚が溯上しはじめるのは、この紀の川では早い時で三月の十日くらいです。ちょっと遅れると、二十日すぎになります。そのころの水温はだいたい十二,三度くらいのもんで、稚鮎は水温の上がるのを待っておるわけですから、水温が上がりさえすれば寄ってくる。溯上する鮎は一寸(三.・三センチ)から大きいものは三寸近くあり、肉眼でもよく見えますよ。紀の川の遡上期間は約二ヵ月あまりかかります。一番上(のぼ)り、二番上り、三番上りとあって、一番上りが大形のもので、もっとも早くやってくるわけです。
だいたい体長は一寸二,三分の稚鮎がスイスイと群れをなして。昔ではこの妹背の淵まできても一寸位のものはざらにあったわけですよ。今では井堰のために遅れて、溯上は川開き以後になってしまった。昔のことを思うと問題にならんくらいのことですけど、自然溯上の鮎はたいしたもんですよ。今でも岩出から下流は全部、自然溯上の鮎で漁期中まかなえるわけです。そのためうちの漁は、今では重点を岩出から下流においておる。一年中うちがとるだけのものは、岩出から下流です。」
「それからの鮎の生育については、棲み場、餌の多少に大いに関係がありますので、一概には言えませんわな。結局、鮎は紀の川の水アカが、ある程度あらわれるくらいの増水が出たら、成長が早いんです。いったんは痩せても新しい水ゴケができたら成長する。鮎は新しい水ゴケしか食(は)まんのですわ。古い水ゴケがいっぱいあるから大きくなるというのでもないんです。古い水ゴケだったら根元の部分しか食べません。新鮮さがなによりも大切です。ですから増水ごとにメキメキ大きゅうなる。五日くらいは痩せて、そこからグッと大きくなってくる。またそのつぎの水でちょっと痩せて、また大きゅうなる。そういう成長の仕方です。
昔の鮎にくらべると、この頃の鮎は大きいんですよ。昔は鮎が多すぎて、本当に食糧が足らんかった。自然鮎の溯上時期になったら、もう下流の水ゴケのつく場所へ鮎がよってくると、川の色はみるみるうちに変わりますよ。刻々変わっていきます。それぐらいあの広い川の水ゴケを食みつつ溯上してくる。まだ来ん間は川は薄白いんですよ。水アカのために川の底は全部、淡白い。鮎がよってきて食みだしたら、全部黒うなります。そうなってきたら、もう岩出の井堰の下あたりまで、すぐ真っ黒けになる。それが昔の状態やった。
今はそうは一気に変わらない。それだけ溯上の数も少ないわけや。けどもそれが川開き前ごろまでには、ほとんど黒くなる。昔は川の色がみるみる変わるくらいやって、鮎の数が多いために、結局、成長はできなんだ。それで下流の鮎は砂食いと言って、砂まで食わな、コケがなかったほど。だから秋になっても大きなもので十センチ、小さいものやったら七,八センチくらいの鮎も無数におったわけです。そいつは商品にならん。それがためにわしらは下へは漁に行かなんだ。
そのころの下流の鮎は小さいものが多かったんですよ。八分か九分の編目の小鷹を持っていったんでは、ほとんど網から抜けてしまうんです。ちょうど篩(ふるい)でふるい落として大きなやつをとる。とにかく昔は小さいけれど無数におったのです。それこそ恐ろしい位のことで、あの広い川の水アカを全部食い尽くすんですから。それで栄養が不良になってね。そんな時代が相当長かったです。そやけど岩出の井堰を越えた鮎は、それは大きゅうなったんですよ。成育すると、鮎は大きいものでは昔も今もあまり変わらないんですけど、紀の川での最高は三十センチ以上になりますな。今でも二十五センチというのが、だいたい最高くらいですな。けれどもお客さんに一番喜ばれるのは、中体、二十センチから二十二,三センチもものですわ。」
硅藻の花が散った時だけ、その色が茶色であるということかなあ。
硅藻が優占種の川ですら、絶滅危惧種に近づいており、さらに、鮎がその硅藻を食している川なんて、部分でしか存在をしていない状況であるから、いかにせんか。
困りましたねえ。
小西翁の「鮎が多すぎて食糧不足であるから小さい鮎が多かった」との見方に対しては、遡上鮎が昭和の代とは比べものにならないほど激減した21世紀の狩野川で難行苦行をしている者にとっては、事実ではない、といえます。
アカ腐れしている、磨かれていない石が多くある、という状況でも十四センチ位以下の大きさのの小中学生が11月になっても遡上量が多ければいっぱいいる。
また、川那部先生は、食べられるほど、コケの純同化速度が早くなり、また、生産量は多くなる、と。
夏至の頃までに消化器官が発達していないと、大きく育つことができない、との話があった。
大きく育つためにはどの程度の消化器官の発達が必要か、何で夏至の頃までに消化器官が発達をしていないと、大きく育つことができないのか、わからないが、この話の方が、食糧不足よりも適切な説明のように感じる。
テク2は、10月後半から11月20日頃、その小中学生を持ち帰り、番茶も出花娘や乙女は囮屋さんにあげている。
小さい鮎は、塩水につけてから丸干しの一夜干しにしてその味を楽しんでいる。
オラも一度、丸干しの一夜干しを作ったが、縫い針を使って糸を頭に通すのはそれほどの手間ではないが、それを吊す作業は大変で、道具の工夫が必要なよう。
大きさについては、古の方が大鮎が多かった、という問題については、なんでかな…です。
川那部先生らも説明に窮されているようであるから、オラに考えること能わず。
遡上前の「川は薄白い」という現象も現在では探すことが難しいと思う。「茶色」ではなく「薄白い」とはどういう石の色かなあ。現在は、泥かぶりの腐りアカとなっている藍藻が優占種の石はいっぱいあるが。
「古い水ゴケだったら根元の部分しか食べません」という現象も何でかな、とは思うが。故松沢さんも、石頭寄りのところが腐りアカでも、底の部分は食べられている、と話されたことがあったが。
垢石翁らと宮川で釣りをされた後、九頭竜川で釣りをされて芦原温泉に泊まったのではないかと思う野村さんが、宿の出した鮎が小さいから、勝山で釣ってきた鮎を焼いてくれ、と頼んだ。
宿の人は、このあたりではこんな立派な鮎が捕れない、と。
小西翁が小鷹網で鮎を捕っていたのは妹背の淵付近であるから、そのことが岩出の井堰より上流との大きさの違いになっていたとの観察は適切であると考えているが。
遡上開始時期の水温の表現は、また、遡上開始日の表現は、オラの感覚に合っているが。ただ、遡上開始時の水温は、少し高いのでは、という気もするが。海水温との差が小さくなってはいるが、十度位の水温でも遡上を開始しているかも。そのとき、海水温との水温差が五度ほどになると思うが、変温動物としての水温調節は汽水域で行っているのかなあ。
なお、上流で産卵している鮎を観察されているが、「やはり水温の高い間はいつまでも落ちようとしないで、集団となって上流に残っておって、増水がなければそのまま水温が下がるにしたがい、上流で産卵するいいうことがあるんです。」
と、水温が原因で「下り」の行動を行わず産卵されると。
その「下りをしないで産卵する主」が、「トラックで運ばれてきた鮎」であるとの認識はされていない。
釣趣戯書の中の「若鮎視察記」
「静岡県の狩野川、興津川、都田川の三川は五月十六日から鮎漁を解禁する。」
「解禁を繰り上げた目的は、もち論地元の漁業組合が待つていたところのもので、つまりこの三川は他の川に比較して鮎の発育が早いからといふのである。熊本県の球磨川、宮崎県の諸川、筑後川、また美濃の長良川の一区などは従前から五月十一日乃至十五日から解禁してゐるが、これらの地方は全国に先立つて鮎を東京、大阪地方へ搬出するため、独占的の相場により、漁師の利益は莫大であつた。わが静岡県においても、それを指をくわへてゐる理由はない。といふので五六年前から県当局並びに農林当局に対し、解禁繰り上げ許可の運動をなしつゝあつたが、今回許可されたのである。であるから、地元漁業組合としては大いに満足であらう。
ところが素人釣人はこれに賛成してゐないのである。それは、五月一杯は友釣のみに限り毛鉤釣を許さないといふのは、新興釣道に対し逆を行くものだ。」
「さて今年の鮎の溯上振りと発育の状況はどうであらう。去る十日から先ず静岡県伊豆の狩野川から視察に赴いたが、聊か期待外れの感を免れ得なかつた。これは繰り上げ反対者の言(注:少しでも鮎が大きくなるのを待って楽しんだ方が職業者にも遊漁者にも良い)を裏書きしたやうな結果をもたらしたのである。
狩野川は今春来(注:昭和16年)の世評によれば鮎は昨年以上の溯上振りで、発育も素敵によろしい。この分ならば、十六日の解禁から大いに利益があるといふのであつた。だが、実際はさふではないらしい。十日夜大仁町において狩野川漁業協同組合野村豊平氏外組合の幹部と会見して意見を問うたところ、天然鮎の溯上は、昨年に比較して幾分薄いと思ふ。それに発育も幾分遅れてゐる。去る八日試釣してみたところ大は一尾十七匁、小は十四匁であつたが、昨年のこの頃は比較して、まことに期待に反してゐたのであつたといふのであつた。
してみると、解禁繰り上げの第一年は、その目的とするところをつかみ得なかつたことになるのだ。殊に公定相場の川揚一円二十二銭五厘、小売一円五十五銭、東京出し一円八十銭を守らなければならないのであるから、漁師の売り上げは昨年の二分の一以下になるであらう。
しかも鮎の発育は悪く、溯上は少ない。されば目方や、数を得ることの少ないであらうことは当然である。つひに、解禁繰り上げは全く意味ないことになつた。」
「伊豆の狩野川は、昨年に比較すると鮎の溯上が余ほど早かつた。二月下旬には中流の大仁地方へ姿を現したのである。そして、三月から四月へ入つてからの陽気は暖かく、従つて水温も例年よりも高かつたから若鮎の育ちは随分促進されたが、育ち盛りの四月中旬から五月に入つてから、は、依然として水温が四月上旬の程度であつたのだ。
この頃は、一週間もたてば倍以上に育つのであるが、育ち盛りにこの有様であつたから、昨年のけふこの頃に比較して鮎はよほど小さい。去年五月中旬に試釣した時は、二十五匁以上のものがゐた。ところが今年の試釣の最大は十七匁であつたのである。
もちろん、荒瀬のなかにはそれ以上のものもいるであらうが、一体に育ちの悪いのは否まれない。
数の点において組合の常任理事が認めてゐるとおり先ず平年並といつたところで、昨年よりも一般に小さいのを誰も認めてゐる。以上は甚だ悲観的な観察である。だが、川に棲んでいる魚だ。一々勘定したわけではない。実際解禁してみて、どんな結果を現すか予想は許さないのである。放流鮎は、相州小田原湾産二十五万尾を数へたといふ。これが実数ならば、まことに盛況の話だ。
釣場の中心地は、大仁で上流は湯ヶ島あたりまで溯つて育つてゐる。青羽根から修善寺橋付近もよろしい。下流は天野の堰下から、韮山あたりまで幾つも釣場はある。支流の大見川へも大分溯り込んでゐる。こゝを狙ふのもよろしからう。」
早く遡上をしているというのに、育ちが悪いとはどういうことかなあ。垢石翁は四月中旬、五月の水温の低いことを理由とされているが、硅藻の生産力を阻害するほどの水温とは思えないが。二月末に大仁に遡上していたのかなあ。
水温は、西風が吹き荒れた頃=木枯らし一番が吹いてからの水温と同程度或いはそれよりも高い水温ではないのかなあ。
垢石翁が釣りをされていた戦前、そして戦後の昭和二十八年以前は、松原橋付近でも、或いは千歳橋より下流でも釣り場であったようで。
放流量も現在の感覚からすれば、「トラックで運ばれてきた鮎」が主役の時代から見れば、僅かな量と思うが。
城山下の左岸には山からの湧き水が竹藪のところに出ていて、21世紀にその湧き水の影響範囲が硅藻の優占種であることから、故松沢さんが最期の「香」魚の香りを楽しんだとのこと。
現在とは違い、左岸にコンクリート護岸はなく、自然法ではないかと思う戦前には湧き水が大量に城山下の淵に流れ込んでいたのではないかなあ。そうすると、生存限界以上の水温であるところがあり、「トラックで運ばれてきた」鮎の子供が生存していたのではないかなあ。
そして、城山の淵には大石がごろごろしていたから、止水状になっているところがあり、植物プランクトンが蕃殖できて、動物プランクトンを餌にして、食糧不足で稚鮎が餓死することもなかったのではないかなあ。
その幼魚を見て、「遡上鮎」と間違えて判断したのではないかなあ。
興津川
「興津川へは、十一日の午後視察に行つてみた。この川は水源から、駿河湾へ注ぐ河口まで僅かに三里強の小さい川である。水量も多いとはいへない。けれど、本年は昨年の昨今に比較すると水量が倍以上もある。それだけに、鮎の溯上には都合がよろしかつたのだ。私等が川を覗いたところでは、昨年ほどの鮎の姿は見えないが、土地の人々にいはせれば、昨年とは比較にならないほど数多くゐると喜んでゐる。
それに、清水湾産の小鮎を二十五万尾放流したから、大いに釣れる見込みだと称してゐる。数の方はそれでいゝとして、発育はどうであるかといふと、これはあまりにも悲観的だ。育ちが甚だ悪い。不揃ひである。大きいものでも十五匁を出でまい。解禁日に平均十二三匁に達すれば上乗の方であらう。
水量が多かつたから、よほど上流に遡ってゐる。小ジヲの堰も条件よく多数跳ね越えた。この堰から上流は型が揃つてゐるかもしれない。中心地は小島で、この付近に足を止めてゐれば足場もよし、数も割合に多い。」
相模川・桂川
「今年(注:昭和一六年?)の相模川は、三月上旬来夥しい若鮎の溯上振りであつた。下流の厚木から磯部方面も中流の久保沢から中野方面も、上流の与瀬付近も随分活況を伝へてきた。その大群が、甲州地内の桂川へも溯り込んできたのである。
鳥沢の町の人にいはせると、この辺へ溯つてきた鮎は昨年の十倍だと称してゐる。何の根拠を以て十倍であると数へたのか知らないが、実際川を覗いてみて、水垢の食み跡から想像すると、昨年の比ではないことはたしかだ。水底の石に印した鮎の歯跡は素晴らしい。だが、伊豆の狩野川と同様に、相模川から桂川にかけての今年の鮎の発育は随分遅れているやうである。これが何に原因するかはよく分からないが、相模川今年の狙ひ場所は磯部から久保沢方面の中下流の方がよろしいと思ふ。
堰堤で道路工事がはじまつてゐる。上中流の方は分が悪いのではあるまいか。それよりも、さらに溯つた甲州地内の四方津、鳥沢方面に意外の漁があるのではないかと思ふ。」
利根川
「耳寄りの話は、五六年この方若鮎の溯上全く不振であつた大利根川へ、今年は珍しくも大群がきたといふ報である。そのために今年の夏は、奥利根の激流で大鮎の強引に接することが出来るかもしれない。
利根川に若鮎の溯上が不振になつた原因として第一に近年白根火山からくる毒水が濃くなつたこと、第二に大正十五年以来関東水力電気の堰堤のために流水の増減が激しいこと、第三に前橋や渋川、高崎等の都会付近に各種の工場が急増して四時夥しい悪水を下流へ放下することであつた。ところが第二,第三の悪条件は依然として従前に変わりはないが、今年は白根火山の毒水が意外に少ない。
それで今年は珍しく若鮎の大群が下流から、溯つてきた。大群がよく見えるのは、埼玉県本庄町の利根川と烏川の合流点付近である。その上流新堀あたりへも、前橋、渋川方面へも、いま盛んに大群が遡上してゐる。この分で行くと、今年は幾年振りかで群馬県利根郡川田村大字岩本地先の関東水力電気の大堰堤の魚梯を、鮎が溯り込むかも知れない。なんにしても、今年の利根川は、大いに楽しみだ。」
鬼怒川
「栃木県の鬼怒川は昨年渇水して殆ど鮎の姿を見せなかつたが、今年も上流の山々に積雪が少なかつたため、水量が素敵に少ない。だから今なほ鬼怒橋から上流氏家、羽黒山方面へは溯つてはゐないのである。僅かに姿を見せるのは、中流の石橋在の上三川地先くらいまでである。今後四五尺の増水がない限り鬼怒川へは、大きな望みはかけられまいと思ふ。
同じ栃木県の那珂川は、昨年よりも見直してゐる。しかし、土地の人々が宣伝してゐるほどでもないやうだ。またその支流の箒川は、いま渇水の最中で鮎は遡上し得ないでゐる。なにしても、六月一日までに一増水ほしい。下流の茨城県内の那珂川からは、大分よろしいといふ報告があつた。」
鬼怒川が渇水で、遡上できない、という現象はどのように考えたらよいのかなあ。
瀬切れではないと思うから、チャラっぽいところを遡上することはあるとは思うが。それでも、相模川の3川合流地点でもチャラを上らないと中津川へは遡上できないという話もあるが。数は十分とはいえないようではあるが、遡上しているようであるが。そのような「数」の問題かなあ。
さて、房総以西の太平洋側の鮎の産卵時期は、11月、12月であって、学者先生の10月11月のご託宣は間違っていると自信を持っている。
しかし、利根川が、東北、日本海側:対馬暖流を生活圏とする鮎と同じ産卵時期なのか、それとも、狩野川、仁淀川の鮎の産卵時期であるのか、分からなかった。
藤田さんの次の記述から、利根川の鮎が狩野川、仁淀川の鮎と同じ生活圏であると考えた。もちろん、東北を生活圏とする産卵時期の鮎も混じっているとは思うが。
産卵時期はいつ?
「鮎を釣るまで」の「明治天皇の御嗜好」の章から
「越えて明治四十年十一月十三日を初めとし十六日の終了にて茨城県結城を中心とせる陸軍大演習が行はれ、陛下には同所小学校を大本営として御統監あそばされた。当時、房総沿岸に悪疫があつて同地の魚類一切を演習地へ入るることを厳禁されたので、大本営附き大膳職へ御用命になるものは同県下にて採捕さるる野鯉と野菜とのみであつた。
恰度、私も従軍して同所綿貫氏邸内の離れ家に宿泊した、偶ま同邸内の他の離れ家には時の侍従長徳大寺候が宿泊されてゐて、候から綿貫氏へ大膳職の方で御用品が乏しく大層困つてゐられるといふ話があつたと私へ話された。私は静岡での鮎の献上のことを綿貫氏へ伝へて、一つ鬼怒川の秋鮎を捕って献上してはどうかと話した。
ところが結城地方では十一月ごろに鮎のゐることを知らない。私はその前日結城から下館へ行く途中橋の上で落鮎の多くが群れてるのを見た話をした。それではといふので遽(には)かに土地の漁師を集めて網を引かせてみたところ五,六回の網で沢山な落鮎が捕れた。
いふまでもないが多くが抱卵している見事な雌魚である。それを金魚を運ぶ桶で町役場まで移送して来たが余りに沢山容れてきたので腹から粘液を出して大分落ちつるのもあるといふ騒ぎで私を呼びに来る、私が駆けつけて早速井戸の清水を汲ませてそれに移させ、急増ではあつたが、予て指示しておいた静岡のものと同じ容器(注:後日紹介します。)に移し、陛下の御統監を終わらせられて大本営にご帰還のその夜直ちにご覧に入れた。
冬近い夜寒の御仮泊に御嗜好の深い魚をみそなはせたまふて、ご機嫌殊に麗はしく拝されたと後に徳大寺侍従長より話されたとのことを承つた。殊に、その夜より同町へ大膳職の御用命があつて御駐輦中鬼怒川の子持鮎は日々大本営へ納められたのであつた。かくて鬼怒川の鮎は端なくも宮中の御用を勤めたのである。」
献上鮎の採補が「十一月十三日」から、ではなく、十二月であれば、学者先生のご託宣がそおれみよ、まちがっちょると一目瞭然で提示できる重要証拠になるんですが。
とはいえ、十一月十三日の出来事でも、献上できる大きさの雌鮎であるから、相模川、狩野川での十二月の鮎とは大きさ・質を異にすると考えてよく、学者先生の10月産卵開始のご託宣に一矢を報いる効果はあるのではないかなあ。産卵行動開始後、10日ほど経過後のことであるから献上に適う大きさの雌鮎が大量であったと思うが。
いや、10月11月産卵説のご託宣が適切であるとすれば、11月10日過ぎに献上できるほどの大きさの雌鮎を取りそろえることは困難でしょう。
故松沢さんや弥太さんのように、西風が吹き荒れる頃から、産卵行動としての下り等の動作が始まる時、11月13日はまだ、産卵行動の初期であるから、献上に耐える大きさの雌鮎が大量に採補できたということである。
もし、学者先生のご託宣通り、10月から海アユの、房総以西の太平洋側の海アユの産卵行動が始まっているとすれば、12月も10日を過ぎた頃の相模川、狩野川の海アユの大きさを、数を、「11月13日」の雌鮎の大きさに、数に比定しても大きな間違いではあるまい。産卵開始から1ヵ月あまり経過した相模川、狩野川に美白の雌鮎は数多おれども、乙女の数には限りがある。
なお、鬼怒川で採捕された「落ち鮎」は、産卵場での「落ち鮎」ではなく、下りの途上の「落ち鮎」であると確信している。
なお、天竜玉三郎さんのブログには、2014年12月19日の安倍川における流下仔魚量調査が書かれている。学者先生は、12月19日でも「1ミリ」の大きさではなく「1.5ミリ」の大きさの仔魚が大量に採捕されたことにどのような反論をされるのでしょうか。
学者先生の教義を流布されている高知県の方々は、一度12月、1月の流下仔魚量調査をされてはいかがでしょうかねえ。
10月の流下仔魚量調査も行われることには反対はしませんが、東先生のように、海アユ、遡上鮎の子供かどうかを意識して、あるいは流下仔魚の氏素性を判別して下さいね。くれぐれも「漁協が『湖産』を放流しているから、川に居る鮎は『湖産』である、と信じて、海アユの産卵時期を誤判定されないように。
あるいは、神奈川県内水面試験場が「鮎種苗の放流の現状と課題」に流下仔魚量、産着卵の調査結果を報告されているような「トラックで運ばれてきた鮎」、氏素性を考えない、判断できない流下仔魚量調査はくれぐれもされないように。十月の流下仔魚には「トラックで運ばれてきた鮎」の子供が多く交じりますから。そのため、流下仔魚の量が、継代人工を親とする十月中旬と、海アユを親とする十一月中旬との「二嶺ピーク」が形成されることになると考えている。
なお、鬼怒川で採捕された「落ち鮎」は、産卵場での「落ち鮎」ではなく、下りの途上の「落ち鮎」であると確信している。
鬼怒川は、湖産放流全盛時代の末期に上平橋のところの鬼怒川亭に泊まったが。
そこに同宿していた三平クラブ会員の桐生のIさんは、宇都宮まで送ってくれた。その後は、故須合さんのクラブ会員のTさんが宇都宮まで送ってくれた。
Tさんと酒匂川で会った二十世紀末、上平橋の架け替えで、鬼怒川亭はなくなった、と。そこの板長さんは、湖産を沢山釣っていが。
オラの鬼怒川の最期は、氏家の岡本の堰?、その翌年と思うが、柳田大橋で終了。もう、湖産ではなく、継代人工花盛りの時代になっていた。
柳田大橋の時は、水深があると思っていたところがチャラ。それでそのすぐ上流の間違いなく水深のあるところで一回戦通過。二回戦は大石の手前ですぐに釣れたが、大石の向こう側にも、と、囮を入れて根掛かり。そこはチャラであった。水深のある大石の手前側は、上流から下りてきた人がいて動けなくなった。
そのときのアッシー君も鬼籍に。
現在は、岡本の堰?まで遡上できるようになったとの話を聞いたことはあるが。
利根川の産卵場がどこであるのか分からないが、本流であり、鬼怒川にはないと思う。
利根川水路
内山節「山里の釣りから」(日本経済評論社 昭和五十五年発行)から
春日部に麦わら帽を買いに行った時、「古利根川」と表示された立て札のある川に沿って歩いた。川幅は、鬼怒川の上平橋付近よりも狭いと感じた。犬吠埼近くへの利根川が出来て、水量が減り、河原を埋めた、と思っていたが、利根川の生い立ちはそれほど単純ではないよう。
「香取を過ぎると利根川は近世の商都佐原に入る。街につくられた掘割の跡が、かっての物資の中継地点だったことを教える。釣りから帰ってきた子供たちのビクの中にはヘラ鮒とコハダとボラが収められ、利根川はまだ亜水帯であることを知らされる。」
「あたりは一面に稲作地帯に変わる。」
「もっともこの稲作地帯は大半が近世以降の干拓地である。かつての水郷地帯は、中央に香取の海が広がり、今の北浦・霞ヶ浦・手賀沼・牛久沼がつながって、広大な沼沢地をなしていた。その沼沢地に鬼怒川が流れ込み、その湿原は人を遠く遠ざけていたにちがいなかった。稲作文化が浸透してきたとき、沼沢地は明らかに稲作には不向きだったのである。もっとも冬の非稲作期間に田の乾田化を計るようになったのは近世以降のことであるが、それにしても湿地帯ではどうにもならない。
湿地帯に住む人々は、はじめは畑のまわりに土手を築いて小さな輪中のようなものをつくり、その中の水を排水して小規模の水田を造ったと推定される。しかしそうして築いた生産力は知れている。東国には関東平野という広大な平原があるにもかかわらず永く西国の支配下におかれてきたのは、関東平野が稲作の不適格地であったということと関連しているように思われる。関東平野は上方の大半が関東ロ-ム層におおわれた台地であり、ここには水を引く場所が少ない。反対に下方は巨大な湿原であり、ここでも生産力は低い。西国の稲作地帯とは比較にならない。
この不毛の湿原に排水路を築き、乾田化を計る、その繰り返しのなかでいまの利根川流域の稲作地帯は形成され、それにともなって現在の利根川水路がかたちづくられた。いまの利根川下流域はかつては一本の川ではなく、蜒々とつづく淡水の海であった。
近世に入って利根川水路が整備され、そのことによって一方で稲作地帯が、他方で内陸交通網がつくられたのである。商都佐原、中継地の街布川・布佐・関宿などはそこから生まれた。」
「しかし近世初期の利根川は今の埼玉県羽生市付近まで流れてくると、そこからたくさんの小河川に分流し江戸湾(東京湾)に流れ込んでいた。羽生から江戸湾にいたる広大な低地帯は利根川氾濫原をなし、いまの水郷地帯とならんで不毛の地を形成していた。現在羽生付近から中川に流れる小河川に古利根川という川があるが、一説によれば古利根川こそかつての利根川の本流であった。もっとも利根川はどれが本流か定かではなく、大水のたびに水脈を替える氾濫原を通る何本もの小河川が、その古来の姿であろうとする説が正しいように思える。
近世になってからこの氾濫原に何本もの用水を開削し、堤をかためて開田事業がすすめられた。そしてその頂点に立ったのが、利根川自体を広川につなげ、利根川の流れを江戸湾から銚子へと持って行ってしまおうという遠大な構想だったのである。それはまた旧利根川の内陸水路と、銚子から沼沢地へと入る内陸水路を結合し、長大な内陸交通網をつくりだそうとする試みであった。この計画の発案者は徳川家康と、またその任についたのは代官伊奈備前守忠次と伝えられる。
それは最終的には赤堀川という人工河川を開削することによって達成された。六〇年の歳月をかけて、利根川はとうとう香取の海へと流れる大河川に変貌するのである。旧利根川の氾濫原には、そのことと個々の小河川の整備とが重なって広大な稲作地帯が創造された。利根川には太い河川水運のルートが開けた。
もっとも利根川のほとんどの水が銚子へと流れるようになったのは明治以降のことらしい。それ以前はいまの利根川ルートと江戸川ルート、さらに小河川ルートが並用されていたと考えられる。
しかしこの瀬替工事によって、江戸へ通じる河川水運が開けたことは事実であった。とりわけ江戸川と利根川の間に人工河川が掘られつなげられてからは、利根川と江戸川―江戸を結ぶ一大流通路が開けた。上州の物資は利根川から江戸へと送られ、東北南部の物産は鬼怒川から利根川、江戸川へと運ばれた。さらに以北の商品は太平洋から銚子に入り利根川を上った。ここに関東地方の内陸交通網が整備されたのである。」
藤田さんが、鬼怒川で献上鮎を採捕をされた時から二〇年、三〇年後からは、
「かつて一大流通路であった川はいまでは用水路としての役割しか果たせなくなった。河川水運は水の流れを利用して発達した。船運以外にも材木は筏に組まれて川を流された。神流川でとれた木材もそうやって江戸へ、東京へ運ばれていた。村には水の流れを利用した水車小屋がつくられていた。ここにはまだ川の流れを利用するという発想があった。それを僕は流れの思想と呼んでいる。
だが近代以降の歴史のなかで、流れの思想は死んでいった。流れを利用することはなくなり、かわって水の利用価値だけが前面に出てきた。都市の上水、工業用水として、あるいは農業用水として、水をためてそれを使うだけが川の役割になった。その頂点に立ったのが各地のダム建設である。いわばそれは流れの思想から水の思想への転換である。こうして水の確保という一点に川の役割は集中するようになる。そのことは結局、流れをとおして川自身が再生産されていく方途を塞ぐことになったのである。
そのことは関東の最大の河川の利根川を幾重にも切断することになった。各地のダムから、堰堤から、すべての水が東京へ、東京へと流れていく。その意味ではもともと江戸湾へと流れていた利根川は近世以降銚子へと向きを変え、そして再びいま江戸湾(東京湾)に流れるようになったともいえるのである。ただしかつてのように小河川を乱流しながらではなく、上水道、工業用水道の導管をとおり、最後に下水道をとおって、である。」
「羽生の大堰はここから水を取水するためにつくられた。利根の本流に放流されるわずかの水にくらべて、横の取水口から落とされる水量は多い。一つは見沼代用水となり、また羽生領用水、葛西用水、稲子用水などの近世以降に整備されてきた農業用水路にむかい、そして大半は武蔵水路を通って荒川に落とされる。荒川に入った水は、再び荒川に造られた秋ケ瀬取水堰で朝霞水路に移され、東京の上水道、工業水道の水になる。」
「だから羽生の大堰の下は夏の鮎釣りの穴場になっているほどである。海から上ってきた天然の鮎がこの堰を上れずに、ここに滞留するからである。」
羽生の堰には魚道はついているが、遡上達成率が低い構造の魚道であるから。
鬼怒川は、羽生よりも下流で利根川に流れ込んでいるから、もし、羽生の堰よりも下流に堰がなければ、利根川を上ってきたアユが鬼怒川に障害物なしに遡上できることになるが。
内山さんは、神流川を定点観測地点のようにして、「流れの思想」が失われて、川の生物、山里の人々の生活がどのように成り立たなくなってきたか、を書かれている。
天保の姥桜ご一行のように、寄り道、道草を趣味とするとはいえ、内山さんの嘆き節は後日のこととして、藤田さんが利根川をどのように釣り場紹介をしているか、に、戻りましょう。
藤田さんの利根川の釣り場紹介
藤田さんは、各地方の川を紹介されている。現在の川の評価とは異なるところ、現在では有名であるが、藤田さんが紹介されていない川という違いがあり、その意味が重要であるとは思ってはいるが。
垢石翁が、利根川のあゆみちゃんを熱い思いで書かれているのに、藤田さんの利根川の紹介はなんと素っ気ないものでしょう。
単に、垢石翁が利根川を遊び場として育った、というだけではないと思うが。
藤田さんの時代には岩本の堰も、あっちこっちの堰も、毒水も悪水もなかったであろうに、何で利根川には相模川等の記述分量のウン分の一しか紹介されなかったのかなあ。
関東地方の紹介に、
「先づ関東地方にあつては、流域の面積二百七方里、流路延長七十五里に達するといふ素晴らしい大利根の水系に却々(なかなか)見事な鮎を産する。就中(なかんづく)、源を下野の西北隅鬼怒沼に発して、東に走り高原山麓を廻(めぐ)り、男鹿、大谷(だいや)の二急流を呑んで下野の中央部を縦走し下総に入る利根最終の大支流鬼怒川の一体は蕃殖が頗る多く、多く、魚質もよい。これに次いで上総国南西部を流域とする烏川も鏑川(かぶらがわ)、神流(かんな)川、二支流の河床甚だ良好にして転石と玉石とで成り、岩盤亦多く現(あら)はれて良質の鮎を産し、更に又下野(しもつけ)の北端那須連山に発源し、常陸(ひたち)の中部に入つて太平洋に注ぐ那珂川は、凝灰質である水源地の地層崩壊して河床に押出し、多少鮎の蕃殖を妨ぐるも上流部は両岸迫つて峡谷をつくり、稀には岩盤の露出もあり、河床悉く砂礫を有するにより、十分溯魚を抱擁し得るし、中流部の支流箒川――那須野に入つて那須川――はふかい渓谷をもち河床にも大小の玉石、岩盤ありて、ここに発育する魚体は見事である。」
というように、那珂川とセットであり、又、垢石翁ご推奨の岩本付近も、そのはるか下流も登場せず、支流のみが記述されている。
写真も、本庄付近の平瀬の友釣りが二枚、栃木県鬼怒川の竜王峡のような風景の写真だけ。
またしても、「河床悉く砂礫を有する」ところが遡上鮎を抱擁する適地との表現が。
もはや下流ではなく、那珂川の黒羽橋や寒井よりも上流ではないかと思うところでも「砂礫」が食堂として必要であるとは、どのような意味かなあ。
垢石翁と藤田さんの利根川に係る描写の違いは何でかなあ。
藤田さんの明治大正、昭和の初めには利根川に毒水も悪水も流れていなかったのに。「流れる」水をたまり水にする堰もなかったか、あったとしても貧弱でしょうに。
利根川の誕生秘話だけでなく、釣り場に係るお二人の違いが何でかなあ、と思えど、解決の糸口を探る本はないのではないかなあ。
なお、利根川の産卵時期を11月12月と想定したが、12月初旬は産卵時期に適合するとしても、12月中旬、下旬には山に降った雪の影響で水温が一〇度以下になっているのではないかなあ。もちろん、鮎の生存限界の水温が七度くらい以下のようであるから、産卵が不可能ではないかと思うが。又、下流では降雪による水温低下の影響も少ないと思うが。
「多摩川に100万匹の鮎が戻ってきた」では、その多摩川の鮎のルーツを深谷付近にある産卵場で孵化した流下仔魚が荒川を経て東京湾に流れてきた、と想定されているが、深谷付近が産卵場かなあ。もっと下流ではないかなあ。
そして、藤田さんが千葉県内の東京湾に流れ込む河の鮎も多摩川の鮎も往き来しているのではないかと推定されているように、千葉県の養老川等の川を生活の場としていた鮎の子孫ではないかなあ。それに、相模湾の稚鮎が三浦半島を廻って東京湾に入り、三浦半島の小川で育ち、そこで産卵し生まれた稚鮎が多摩川に辿りついたのではないかなあ。
とはいえ、利根川を電車や車で 横切ることはあっても、水郷付近から土浦への船旅をしただけの者には利根川の産卵場がいずこであるか、語る資格はなし。
なお、藤田さんは、相模川、桂川の釣り場については、5万分1くらいの地図に落とし込まれているが、利根川については、鏑川だけを地図に紹介されている。なんでかなあ。
「瀧津浪をあびて――相模川御供岩の友つり――」
藤田さんは、激流を嫌っているのではない。むしろ丼大王やテク2のように、激流派と考えてよいのでは。
御供岩の友つりには、四枚の写真が掲載されていて、それぞれの写真に説明文がつけられている。その説明文だけを紹介します。理由は簡単。写真をビルダにコピーする腕がないから。
(一)釣の支度は整つた。 先づ大きい転石の水をかぶつた所を狙つてヲトリを入れる。
(二)ぐいと重い感じ、 つづいて来る強い引、 堪らない。 引かれて一足、 二足―それからザンブザンブ。
(三)もう、 大分参つたらしい、 竿に引かれて岸に寄つて来る。 ああ見える、 美しい光り――ぞつとするほど魅力のある光、 ヲトリと縺れ合つて。
(四)この時だ。 うんと腰に力を入れて、 一気に抜きあげる。 息つまるほどの呼吸。 獲物は首尾よくタモの中へ。」
いまや、相模川に「瀧津浪」を見ること能わず。何年か前には、石切場や葉山にプチ「瀧津浪」が、宮ヶ瀬ダムがなかった頃の愛川橋上流にも同じ情景はあったが。
ダムのない狩野川は城山下の一本瀬や石切場の瀬も。昭和の代には青木の瀬も。
藤田さんは、引き抜きをされている。とはいえ、オラが大井川で乙女をだっこする時のように、両手で竿を持ち、河原に立って抜いている写真である。竹竿で、片手で抜くことが出来るのは万サ翁ら怪力無双の方々だけではないかなあ。
藤田さんは、使用されていた竹竿の長さを「2間半」の四本継ぎ、60匁と書かれている箇所がある。いつもこの長さの竿を使われていたのか、どうか分からないが。そして、初心者の道具立てかも。
オラが鮎釣りを始めた時は、4.5メートルか5..3メートルの鮒竿か万能竿であった。当然竹竿よりは軽い。次ぎが、「カーボン」として売られていた.6.3メートルの「鯉竿」。グラスファイバーに少しカーボンが使われていたのではないかなあ。それでも一萬円という生まれて初めての「高級竿」。
藤田さんの取り込みの記述は
「竿先にグッといふ感じ―重苦しい感じ、もう掛つたのである。尋(つい)でグングン下流へ引いて行く、恐ろしいほどの力だ、中には逆にヲトリを引つ張つて上流へ伸して行くといふ素敵なものもあつて更に一気に下流へ走る、その力といふものは所詮なんとも形容のできないほどである。もし、釣者がこの刹那周章の余りその竿を立つることをなさず、且つ魚に曳かれて行くといふ友づりの定法を乱したとすれば道糸を直ぐ千切られても元も子も失ふという惨敗を演じなければならない。即ち、魚に曳れつゝ魚を曳くといふことが友づりの秘訣である。
竿の手はいかなる魚の強引に遭つても決して緩めることなく、然も魚に引かれる。その緩急宜しきを得ることが先づ第一の面白味、つヾいて引かれながら岸近くへ魚を寄せヲトリと掛つた魚とか白くもつれるのを突(つ)と一気にぬいて戃網(たも)の中へ掬ひ込む、その掬ひこみにはヲトリを戃網(たも)の外へ出して、掛つたのだけを掬ふのである。一気に抜いて空中輸送から戃網(たも)にうけ込むまでの技巧に更にまたいひ知れぬ面白味がある。かうした友づりの壮快味を知らないものは鮎釣を語る資格はないのである。
その掛つた魚を一気にぬいて戃網(たも)の中へ受け込むことは普通の場合、即ち普通の魚でいふまでもない水切れのできるほどの大きさのものに限るのである。友づり初期のものは大きくても七,八寸であるからこの抜き捕りも空中輸送も出来るのであるがこれが真夏や秋の落鮎期に入りて尺余の大ものとなり、しかも七,八十匁以上ではどうにも水切れが出来ない。かういふ場合は竿を左の肩に寄せ竿尻を右足でさゝへ、左の手に道糸を引いて足許に魚を寄せ右の手に持つた戃網(たも)の中へ掛つた魚(うお)だけをぬいていれる。この際戃網(たも)で掬ひあげやうとしては失敗する。成るべくぬいて戃網(たも)の中へ入れるのである。この手さばきにも亦面白味がある。勿論、平静にしつとりと落付た気分でやる、無闇に興奮して胸をドキつかせるやうでは大抵の場合外(はづ)してしまふ。魚を手に捕るまでは出来るだけ平静でなくてはならないのである。」
藤田さんが「空中輸送での取り込み」をされているということは、萬サ翁ら職業漁師だけが引き抜きをされていたのではないということでしょう。
にもかかわらず、満さんが一位の成績でありながら、優勝者から外されたということは何でかなあ。引き抜きが品がない、等の理由とのことを説明した大会主催者のメーカーの方々は、どのような知識を持っていたのかなあ。藤田さんたちの本を読むこともなかったということかなあ。そのメーカーの社長さんは鮎釣りをされていたとのことであるが。
さて、藤田さんは、相模川、桂川については、五萬分の一の地図に釣り場を記載されている。
その相模川の釣り場案内には、御供岩は、与瀬で電車を降りて後、勝瀬の自動車停留所で降りることになっている。
なお、与瀬は「桂川」の下流側の釣り場の下車駅にもなっている。桂川の最上流部の釣り場は猿橋が下車駅。
与瀬で下車する釣り場は、桂川で四箇所、相模川で五十七箇所もある。勿論、自動車停留所で下車することになっているが。
中央線にどのくらいの汽車の本数があったのか、見当もつかないが、二時間に一本くらいではないかなあ。米坂線と違い、ローカル線ではないとはいえ、一時間に一本はなかったのでは。そして、乗り換えの自動車(定期乗合自動車)は、もっと運行本数は少なかったかも。
いずれにしても、現在では想像も出来ないほどの釣り場があった相模川。桂川。
なお、御供岩は、天保の代に姥桜ご一行が関所よけで相模川を渡った時に泊まった小原宿の一,二里上流。但し、直線で見た時の距離であるが。
御供岩もそうであるが、平べったい岩に乗って釣りをしている写真は多い。流れの中に大石が転がっていると判断できる写真も。
「六、釣場の選み方」
「友づりの場所はある特殊の場合を除いては急流を選んで、その急流にある魚を掛けるのである。河身には必ず多くの屈曲あり、屈曲のあるところ必らず深淵(しんえん)を見るし、深淵はやがて開いて急瀬をつくる、かくて幾屈曲、淵となりまた瀬となる。その淵に潜む魚は常に静的で勢ひもよくないが、急湍に走るものは飽くまで動的で勢力甚だ旺盛である。友づりは即ちこの奔流に活躍する最も形体の大きくて、しかも勢力の強大なのを引つ掛けるのあるから、自然その釣味も豪快素敵なものがある。その釣場の選定は勿論、釣の時季、時刻及び気温、水温等の関係もあつて一定しないのであるが先ずこれを左の如く大別して見る。
一,淵の開きより瀬おちとなるまでの緩流およびその瀬落の急な流れ込み。
一,瀬尻のやうやく迫りて淵とならんとする急流と、その淵頭の緩やかな流れ込み。
一,長くつゞく急湍、流れの石に激しいくつもの転石が水を冠(かぶ)る、所謂かぶりと称するところ、その転石もしくは玉石の間の流れ、石と石との間をこんもりと盛り上がつた流れ込み。
一,河床に岩盤の露出するその岩盤の廻り、或は沈みたる岩盤の上の流れ込み。
一 俗に岩畳といふ広い岩盤と岩盤との間を流るゝ水域、その岩盤の尽くるところの流れ込み。
一 堰止めの一端の口の流れ落ちんとする水域、その堰下の急に瀬となる流れ込み。
一 淵となるべき水流の淵とならずして山の端に沿うて岩盤にぶつ付てる流れ、およびその淵頭と瀬尻の流れ込み。
一 一帯の砂利の中にところどころ大きい転石の散在する、その転石の前後や左右、大きい石がないにしてもその砂利層への流れ込み。
かく、釣場を挙げて行くと殆ど際限がないが、要するに瀬といふ瀬は悉く、友つりの場所といつてよい。しかし、どんなよい場所であつても鮎の食餌となる水垢即ち硅藻の発育しないところでは絶対魚はゐないし、よし、硅藻があるにしてもそれが腐蝕し或は甚しく悪化せるところには決して付(つ)かないのであるから、硅藻の見方について相当の知識を有(う)たねばならないのである。
硅藻は俗に水垢と称しまた単にアカ或はノコとも称する。至つて劣等な植物であるが、成魚期における鮎は専らこれを摂取してその体力を養成する。この硅藻の良否によつて鮎の良否の判別のできるほど鮎の生育上至大の関係を有するものである。」
釣り場の選び方についての記述が適切にイメージできない。
一部は分からないではないが、そもそも現在、ここに記述されているほどの変化を持った川がどのくらいあるのかなあ。転石が一杯転がっているところはどのくらいあるのかなあ。
砂利の中の転石は、藁科川などに見かけることができるでしょうが。転石は砂利の中に孤立していて、勝負は早い、とのことであるが。
ことに、継代人工が、かっては氷魚から畜養された湖産ブランドが、わが世の春を謳歌しているご時世には、「要するに瀬といふ瀬は悉く友つりの場所といつてよい」、なんていっておられない。遡上鮎がいない川では、トロが、平瀬が主役では。
相模川の釣り場案内の82箇所、諏訪ノ森の下流の金掛が最下流であるが、そのうち、「岩」と付く釣り場が10箇所、「淵」と付く釣り場が18箇所ある。
桂川の47箇所のうち、「岩」と付く釣り場が6箇所、「淵」と付く釣り場が5箇所ある。
その外、「瀬」や「瀞」の表示もある。
故松沢さんもよき淵とよき瀬が一体となっているところが、最良の釣り場と話されていたが、そのような場所が数多存在していたということでしょう。
多摩川の釣り場
藤田さんは、上記のような「釣場の選み方」を基準として、地図に詳細な釣り場を落とし込まれているが、多摩川ではどのなっているのか、見てみましょう。
多摩川は二〇万分の一の縮尺の地図に、釣り場が落とし込まれているが、羽村の堰から下流で、最下流は、東急の鉄橋の下流に2つの釣り場が記載されている。
羽村の堰は、玉川上水に取水していた頃は、魚の移動を阻止するほどの堰堤ではなかったが、東京市民への水道水をまかなうようになってから、上下の魚の移動を不可能とする堰になったよう。したがって、石川博士が、小鮎のままで一生を終える湖産が「食糧さえあれば」大きく育つと実験放流をしたのが羽村の堰の上流である。
秋川の釣り場は4箇所。現在、秋川の堰はどうなっているのかなあ。遡上できるようになったのかなあ。
湖産放流全盛時代に行ったことがあるのは、拝島の渡し付近かなあ。
調布の堰が遡上できるようになったとのことであるが、どこまで遡上できるのかなあ。
多摩川での釣りの情景の写真もあるが、現在のように、小石の河原で、相模川の写真の大石、岩はない。そして、ドブ釣りである。立川の「福島の渡し」付近から下流の情景かなあ。
湖産放流全川時代の平成の初め頃、多摩川の水が相模川よりはきれい、石もきれい、とは思ったが、三保ダムがなかった酒匂川、宮ヶ瀬ダムのなかった中津川よりもきれいであったか、どうか。野田さんは多摩川でのカヌー下りを「3k」のお仕事と嫌がっておられたが。
亡き師匠らは、酒匂川といっても、オラのように小田急沿いの小田原地区ではなく、谷峨方面に行っていたから、小田原地区の水は「きれい」とはいえなかったのかも。
多摩川の垢石翁の評価
佐藤垢石「垢石游友記」(二見書房)の「香魚の讃」から
お国自慢の香魚について
「殊に鮮味を尊ぶ香魚などの魚は、昔交通機関のない時代、旅から取り寄せて味わうと言う贅沢は思いも寄らなかった。そこで独りきめに、己の家の傍を流れる川の魚を無上の味としていたのである。仮に、旅から香魚を取り寄せ得たにしたところが、その香魚は既に鮮味を失っている。何で、ピチピチと釣れたばかりの村の香魚の味を凌ぐべき、と言う訳であろう。
代表的のお国自慢の鮎が棲んでいるのは、我が多摩川である。昔から、武州の多摩川で漁れる香魚が絶品なりとして、信ぜしめられて来た江戸から東京へ、であった。これは人情でもあり、ほんとうでもあった。と言うのは、多摩川は、優れた水質と岩質を持っていたからである。甲州の北都留の花崗岩の割れ目から滴り落ちた多摩川の源は、軈(やが)て下って香魚の餌として最も上質な水垢を発生する武州の古生層地帯へ入る。早春、六郷村の河口から溯って二子、調布、拝島、青梅を過ぎて御岳あたりでこの上等の餌を飽食した香魚は、味品の絶頂に達したのである。
ところが近年多摩川の鮎は亡びてしまった。それと言うのは、東京上水道が完成したからである。東京市民六百万の渇を医するために多摩川の水は羽村の堰(せき)で悉く堰(せ)き上げられてしまった。であるから、現在多摩川の下流にせせらぐ水は、奥多摩川の清麗な水とは全く縁を絶った田圃の落水や、泥垢の多い枝川の集まりである。何で上質の香魚が得られよう。それでもまだ東京人は、多摩川の鮎が六合(りくごう)に冠たりと思っている。
また、奥多摩川も共に亡びた。それは、羽村の堰で上流と下流との水が全く縁を絶ったので、海から来た天然の若香魚は堰を越えて上流の棲みいい場所へ行くことができなくなったからである。今では琵琶湖や江戸川から稚い香魚を掬って来て放流しているが、これは天然の香魚の味にくらべれば極端に劣る。香気薄く、徒らに脂肪ばかり豊富に乗って、串にさして火に炙れば鰯を焼くに異ならぬ。
そこで、東京の釣人は十数年前から相模川の鮎を求めて遊んだ。けれど元来相模川の鮎は上質ではないのである。多摩川と同じように、甲州の南都留に源を持つが、水源地方一帯が火山礫の堆積であるし、相模国へ入って下流馬入村へ至るまで、上等の水垢の発生には甚だ不向きな火成岩の層に掩われているから、香魚の腹に小砂が溜まって味が落ちる。それに水温の関係であろう、死後硬直ということがない。釣り上げて直ぐ野締めにしてもぐんにゃりとして、体がぴんとしないのである。
東京に近い多摩川と、相模川の香魚が上等でないのに比べ、上州の奥利根川の香魚は姿といい、味と言いまことに異数の趣があった。」
野田さんが三kのカヌー下りをする前に垢石翁に死に体と評価された多摩川。
まあ、「香」魚が今や絶滅種になり、垢石翁の評価に適う川は存在せず。
また、湖産が冷水病で退場しなかったら、「湖産ブランド」に継代人工が「ブレンド」されていない川は、酒匂川や道志川のように、伊奈川のように、馬瀬川のように、益田川のように、釣り人が押しかけたでしょうに。
いや、「釣り人」が高齢化して、新規参入が希有となったから、酒匂川でも釣り人が川を埋め尽くすという情景にはならないか。
死後硬直ということはどういうことか、見当が付かない。
垢石翁は、骨の硬さ、柔らかさと水温の関係を書かれてはいるが。
利根川のことは既に紹介していることで済まします。「故松沢さんの思い出:補記二」以外にも紹介しているのではと思うが。
藤田さんの川見
「鮎の成育するところの河川にはその転石や大小の玉石、或は河床及び両岸に露出する岩盤に発育する硅藻の綺麗に喰ひ取られたる痕跡を認め得るのである。この硅藻の喰ひ取られたる跡を食跡(はみあと)或は口跡と称してゐる、その食み取つた口あとは笹の葉形に残るのである。これを矢の羽形と称するもあれば柳の葉または百合の葉形などといふものもある。」
この描写には、「砂礫」が登場しない。とすると、遡上期の食堂として重要な役割を果たしている「砂礫」とは何かなあ。何でかなあ。硅藻が発育するのに、或いは、食むためにも「最適」と機能する「砂礫」が、稚鮎に適しているとはどうして?
なお、藤田さんは、「笹の葉形」の食み跡の話はされているが、「総ナメ」の説明をされていない。これも「何でかな」
香りがあゆみちゃんの居場所を教えてくれる、いや、教えてくれた
「釣り場の選定にこの口跡を認めることは勿論大切であるが、それよりも早いのは先づ河瀬の近い土手或は河原に立つて静かに鮎の香を嗅(か)ぎ知ることである。鮎の香を嗅ぎ知るといふ――そんなことが出来るものかと一笑に付すものもあらうが、それは鮎つりに体験をもたないもののいふことで、長い経験をつむ中にはそれが自然と分つてくる。静かに明ける朝もやの岸や紅い火のおつる夕べの汀に立つ時、えならぬ匂ひが――なんともいへないやはらかな匂ひがぷんと、われらの嗅官を襲ふのである。この香気こそ河中に群れる鮎の香の放散である、この香を放散するところ、即ち鮎の群棲を見るのである。故に釣場の選定には先づその香を追ふのである、その香を追つてその香を放つ主を掛けるのである。」
補記二,鮎の香り
四万十川の山崎さんは、「潮飲み鮎」の漁をされるとき、香りが漂ってくると、仲間と共に船を出して、鮎の行く手を遮って、網を入れていた。
「八月頃から降雨増水のたびにくだってきたアユは、そのまま産卵場にとどまるのではなく、そこから汽水域の中間くらいまでを往復し、」
その鮎の香りが朝、夕の漁の合図になっていた。
もはや、四万十川でも「香」魚は絶滅したか、一部の場所で生存できているかどうかという状況のよう。
川那部先生は、四万十川の水質を「まだら模様」と表現されている。
汽水域の中村では赤潮も発生していることがある。
「香り」に食糧は関係ないとおっしゃる学者先生は、香りを経験したことのない方々と考えている。その方々が、藍藻でも「香り」がするとおっしゃっているようであるが。
昭和三十年代の初め頃までではないかと思うが、雄物川さんは、相模川の弁天下流の土手に上がると、香りが漂っていた、と。
中津川の愛川橋で囮屋さんをされていたおばちゃんは、愛川橋を渡るとき、香りが漂っていた、と。当然、妻田の堰がない頃の話であるから、遡上鮎がいた頃のこと。
オラは、二十世紀の大井川、長島ダムが出来る前の大井川で、梅雨明けの7月下旬頃に、「香」魚に、シャネル五番の香りに酔いしれていたが、狩野川でシャネル五番の香りを経験した、という記憶はない。経験がなかったのか、意識をしていなかったからなのか、どっちかなあ。
ダム補償で、県が買い付けた質の高い「湖産ブレンド」に、継代人工等がブレンドされていなかった道志川でも同じ。
ドブ釣りの場所は瀞、平瀬だけではない
藤田さんは「毛鉤釣り」についても書かれている。
その中の毛鉤釣りの「四、釣場の選定」に描写されている石色から、黄色い石色が硅藻の花が咲いた状態、とはいえないかも、と思った。
また、ドブ釣りの場所が、トロ、淵、平瀬だけではなく、瀧津浪の所も対象になっている。
川の情勢で一概には断定できないが
「先ず原則としては、水の深い溜り、つまり、淵を形成して、しかも、流れのあるところを選(えら)むのである。その淵にしても水流の状況によつて、淵頭を選む場合もあれば、淵の真中を狙ふこともあるし、更に渕尻の瀬に移らんとするところを釣ることもある、されば或一,二の河川の情勢によつて直ちにこれを指定し得るものではない。が、しかし、大体において瀬頭や淵の真ん中には魚のつかないのが常例で、或る特殊の状況のない限り、魚は大抵瀬尻に集まる。わくわくと幾つもの渦紋をつくつた瀬尻――やがては急瀬に移らうとする広いわくわくの中に群れているのである。」
最初の描写は理解できる。
しかし、瀬頭に魚がつかない、瀬尻に魚が集まる、ということになると、なんで?となる。瀬頭が現在と異なる場所の表現ということはないと思うが。
「が、しかし、大体において瀬頭や淵の真中には魚の付かないのが常例で、或る特殊の状況のない限り、魚は大抵瀬尻に集まる。わくわくと幾つもの渦紋をつくつた瀬尻――やがては急瀬に移らうとする広いわくわくの中に群れているのである。」
の描写における「瀬頭」は、「瀬肩」と同じことか、異なるのか。
瀬尻の方が、あゆみちゃんの食堂に適しているとは。
「そのいくつもの渦紋の生じるところをヒラキといふ、よく――ヒラキを釣るといふのはこの渦紋の中をつることである。殊に正午(ひる)さがりから夕方にかけて淵寄りの魚は悉くこのヒラキに出でゝ跳躍する。故にいずれの淵でも先づヒラキを狙ふことを得策とするのである。、
更に又このヒラキの床が岩盤であり玉石であれば最上の釣場といつてよい。その他、淵といふほどの深みをもたないにしてもやや水深のあるところで岩盤のぶつつけなどもやつて見る、岸寄りの緩やかな流れや、沈床の裾、牛枠の中、古い蛇籠のへりなども拾つて釣る、大場所をのみ狙ふものもあるが、大きい場所は何人も注目して大方は荒らされてゐる、人の思ひつかない小さい場所を探つて大当たりを見ることがある。
且つまた、毛鉤づりは深い水域をのみ釣るものとおもふは大なる誤りであつて、瀬の中をも釣ることを忘れてはならない、友づりをやるほどの急湍にも立つのである。奔流の石に砕くるところ、岩盤と岩盤の間、大きい転石の廻りなど、水の高く盛りあがつているところをも釣るし更に瀬脇のふくらみをも見おとさずに一々丁寧に釣るのである。
かういふ場所のは淵の魚とは全然違って、がつしり喰い込んで引きも甚だ強いし、形も概して大きい、その大きい力づよいのがぐいぐいと奔流の中へ引き込んで行くところにいひ知れない興趣を覚ゆる。
毛鉤づりは友つりの人の立つ瀧津瀬もその領分であることをよくよく会得しておくべきである。それに、も一つ場所選定に当たつて注意すべきは硅藻の有無を調べ、次に鮎の硅藻を食ひ取つた口あとを見、その口あとの鮮明なところを選むことで、これは友づり場所の条件と少しも変わらない。」
多摩川の釣り風景は、11,2枚の写真がある。
いずれもドブ釣りである。そして、平瀬、或いは瀞で、船からの釣り人もいる。一枚には、太鼓帯?と普通の帯の着物姿のねえちゃんが釣っている。
この釣り場の写真であれば、何ら、悩まない。
しかし、瀧津瀬も釣り場である、となると、さっぱり見当がつかない。ドブさんやヤマメキラーさんが瀬で釣っている姿を見たことはない。
更に、困ったのは、「硅藻の有無を調べ」ということである。動物食は、硅藻が乏しいとき、或いはたまにはお肉も食べよう、というくらいの位置づけに思っているから、アカ付きが何で釣り場選択に影響するのか、分からない。勿論、食堂に、三つ星レストランとはいわないまでも、よき硅藻が蕃殖する場に鮎が集まることは理解できるが。
しかし、ドブ釣りがその場所でないと、よき釣り場といえないとは。友釣りと釣り場の選び方は同じとは。
淀川の毛馬閘門がドブ釣りのよき釣り場になっていたのは、硅藻が蕃殖できず、虫を食べることに適していた環境であったからではなかったのかなあ。
姥桜ご一行も、木曽の山村や秋葉道でカルチャーショックを受けられたが、オラも同じ。
ドブさんがでっかい図体を丸めてヘラ釣りの出来る軀であれば、尋ねることも出来るが…。
いや、カルチャーショックなんて、のんきなことをいっておられない。
藤田さんは、明治、大正、昭和初期の川と遡上あゆみちゃんを主役とされているのに、理解不可能な記述が数多。
田辺さんが、天保の代の姥桜ご一行の花の旅笠を現代人が理解できるように表現されたその腕前の一部でも備わっていれば、少しは藤田さんの記述を理解できるとは思えど…。
垢ぐされはなぜ?
ドブ釣りの釣り場について、更につづく。
「更にまた、釣場所はその時季においても多少の変更を要するのである。若鮎の時季、即ち六月の解禁――場所によりては七月からであるが、その当初は河水の冷却せる深水部には余り寄り付かない、大抵は日光の直射をうける浅い水域に集まるから、概して初期の釣りは深水部を避くるを利とする。殊に本流の水温の低いときは小さい支流の注ぐところに群るゝが故にその落合をつるのである。それより梅雨季に入りても大抵は深水部を避けるのであるが、この雨季の釣りは非常に面白いこともあるが、また、非常に困難なことにも遭遇する。
恐らく鮎の釣期を通じてこれほど毛鉤づりの困難な時期はあるまいとおもふ。梅雨期となつてじめじめした天気が毎日つゞくと、先ず硅藻が腐つてくる、腐らないまでも甚だしく悪化する、その上水量は多いし濁りがつゞくから喰込みはばつたり止まつてしまふのである。
雨季に咲く紫陽花――あの花の白くほの見える頃から鮎の喰ひが遠くなる。それが淡碧色に変ると更に釣れない。次で淡紅色を呈すると、いよいよ釣れなくなるが、やうやく色が褪(あ)せ尽して、全く花の残骸を濶(ひろ)い葉末に止むる頃からぽつぽつ喰ひが立つてくる。かうして七度び化けて咲く紫陽花と同じにこの頃の鮎釣りも甚だ変化が多い。或は釣れ或はつれなくなる、バカに大当たりに当たるかとおもふと、忽ち当らなくなる、その花のうつらふて行くのを釣方の心得として見るのも面白い。雨季の釣りには、かういふ困難が伴ふのである。
何故、雨季の鮎は釣れないか。いふまでもない硅藻の枯死によつて魚は常に移動をつゞけるからである。もし、梅雨が早く来て雨脚の繁き年柄は硅藻の腐敗も亦早い、いく日もいく日も小雨や曇り日がつゞいてたまに一日か二日赫(か)つとした日射をうけると底石に発生した硅藻が腐りかける、あの、ヌメヌメした茶褐色のよく出来た硅藻がだんだん白つぽく汚ない色に変わつて行く。その腐蝕の伝播力は非常に早く、僅か一日か二日で忽ち一帯に広がつてしまふ。
最初に腐敗し始めるのは大抵は岸から五,六間を隔てた粗い石の散在しているところからだ、この粗い石の部面の急流でもなければ、さりとて緩流といふほどでもない、とろんとした流れに鮎はよくつく。河の真統――つまり、真中の激しい流れを避けて、かういうところの硅藻につくのである。然るに、この硅藻に変化を生じて、先ず第一のよい食場(はみば)から食餌を奪われてしまふのである。
そこで、どうしても他に食場(はみば)を求めて移動しなければならない、まづこれまでの食場に近い河の真中へ移る、河の中心のふかい水域には猶生き残つた硅藻があるからである、ところが、腐敗作用は更にこの河の中心点にも及んで、これも亦程なく悉く枯死(こし)してしまふ、今度はいよいよ困つて深い淵の岩畳、即ち岩盤のあることろ、また屈曲の多い岩壁の深みに移動して、その岩畳のヒダや岩壁のヒダに存在する硅藻につく。これを俗に『フチワキ』といふ。淵に湧(わ)き立つほど群れるといふのである。
雨季の鮎はいづれの河川のも、大抵かうした一定の移動をやる、これこそ真に水草を追ふて移るのである。この移動によつて、釣手もまた移動しなければならない、先づ岸の近い部面の喰込みが遠くなつた時硅藻の腐敗に注意する、果たしてその変色を認めたなら、更に河の中心点を釣つて見る。それでも釣れないとすれば、既にその部面のも枯死したのであるから、今度は更に転じて淵の中を狙ふ、かういふ注意が梅雨の釣りには必要である。
次に真夏に入つては専ら淵の深みを狙ふことである、真夏のは土用隠れと称し大抵深い水域の流れの淀みについている、故に雨季から真夏に掛けての釣りは、主として淵の深みに釣場を求め、また、魚の移動期中は専ら浅い水域を釣るのである。」
「ヌメヌメした茶褐色のよく出来た硅藻がだんだん白つぽく汚ない色に変わつて行く」
この表現の「茶褐色」はよく分かる。
しかし、「白つぽく汚い色」はわからない。
藍藻が優占種の川では、茶褐色も「白っぽく汚い色」も存在しないのではないかなあ。
「茶褐色」は、硅藻が腐る前の花を開いた状態の色の表現かなあ。藤田さんの硅藻が優占種の川の石色で、初めて「茶褐色」の表現に出会い、ほっとしたが。
とはいえ、硅藻が花開く前に、川に充ち満ちていた遡上鮎が、「花開く前」に硅藻を食するから、「茶褐色」の石色が「花開いた」時の石色ともいえないのではないかなあ。花開かなくても茶褐色の石色ではないのかなあ。
藍藻が優占種の現在の川では、コケを食する鮎がいないと、浮游微粒子が藍藻にこびりついて、泥の色ではないかと思う汚い色になるが。
梅雨時の垢ぐされは何でかなあ。光合成が出来ないということかなあ。
巌佐先生は、照度が2萬ルクスを超えると、硅藻は垢ぐされをすると書かれているが、梅雨時の垢ぐされについては書かれていなかったのではないかなあ。
さて、コケのお話しは、硅藻が優占種の川が希少になったことから、近場で観察することは出来ない。
それで、寄り道をします。
ドブ釣りが瀧津浪のところでも出来るのか、とヤマメキラーさんに聞いた。
出来るとのこと。錘は重くするが。
そして、ヤマメキラーさんのドブ釣りのハリスは、他の場所も含めて皆さんのハリスの長さよりも長いとのこと。当然、一本鉤。
それから、ベンツ1台買えるほどの加賀鉤のコレクションを持っていて、ドブさんをびっくりさせたとのこと。
ドブさんと仲良しになったのは、2人とも1束2束は当たり前、ということで、皆さんからの嫌われ者同士であったということだけでなく、加賀鉤の生産者が、同じ師匠の流れを汲むお弟子さん?ということも作用していたとのこと。
ドブ釣りの鉤の大きさを小さい方から並べると、土佐バリ、播州バリ、加賀バリとなるとのこと。
下りと釣り場
硅藻のついた石色で、おらの経験と合致する記述を見つけた、と安心しても、他の石色の記述と何で異なるのかわからいないが、まずはめでたし、めでたし。
しかし、悦びも束の間。またしても性成熟の記述から、房総以西の太平洋側のあゆみちゃんの産卵時期を読み解くことで悩む記述に遭遇。明治、大正は遠くなりにけり。
「次に、秋口の釣場も同じところに固着していてはよい成績を挙げ得ない。秋鮎の下江を始むのはもっとも早いのが九月の中旬、普通はその下旬に始つて十月に及ぶのであるが、大抵九月の半ばには雄の腹部に美しい淡紅色を見せる。学者のいふ婚姻色――即ち生殖素の発達である。この色の現るゝ頃からぼつぼつ下りかけるのであるから、釣手も亦それを追つて次第に峡谷をはなれて展開せる広い水域に釣場を求めなければならない、即ち鮎の下河を追つて釣り下るのである。
その下江の魚はその途中深い淵の硅藻にもつくし、瀬にも止まる、殊に、渕尻のわくわくと渦紋の起こるところには幾つもの半円を描いて群れてる、その群れの輪を狙つて鉤を投ずるのである(注:ドブ釣りのことです)。かくて、次第に河口に近づいていよいよ産卵時季の瀬付きとなつて、更に大いに毛鉤づりの興を湧すのである。」
この下りの記述は、個別具体的な川の話ではないから、例えば、天竜川の支流で高遠を流れる三峯川では、下りに日数を要するため、9月中旬、下旬頃から下りの行動をするかも。
大井川でも、井川ダムはあったとは思うが、家山の八幡さまの祭りの頃、10月15日頃、急にいかいアユが釣れるようになったとのことであるから、下りの鮎ではないかなあ。
それにしても、藤田さんの下りの時季に関する記述は少し早いように感じるが。
という既知の経験則で説明可能では、と、安心していたら、とんでもない記述が。
藤田さんは、ドブ釣りの仕掛けで、毛鉤の上に蝶針を2段に結ぶ新規仕掛けを考案された。
その仕掛けで多摩川の稲田付近、小田急鉄橋のすぐ下流で、9寸8分、腹いっぱいに抱卵した鮎を釣った。
蝶針は、魚が色に反応する性質を有することから、青、金色のハリを用いている。
多摩川での9月末の抱卵鮎とはびっくり仰天、このお話は、新作の仕掛けの話とセットでないと、説明不足になるから、来年回しにしましょう。というのは産卵時季の「学者先生」正統説への荷担現象の説明に困ったから、という口実に過ぎないが。
なお、「垢石釣游記」には、
「八月下旬から、九月上旬へかけて、腹に子を抱いた鮎の味もまた棄て難い。腹の卵にこまやかな脂が薄くついて、清淡な快味を珍重される。白子も子ウルカの添え物としてなくてはならぬ材料であろう。」
「秋になると、飛騨の宮川や利根川のような大きな急流でも、四間も五間もある長い竿は入らないのである。三間半か、四間もあれば十分である。五間、六間という長竿でなければ届かないような荒瀬の真ん中には、子持ち鮎は棲んでいないからだ。」
初秋には
「奥利根川の綾戸から岩本、鷺石橋へかけて、越後国北魚沼郡小出町地先の魚野川、裏飛騨の宮川大瀬村あたりの大鮎は、円々と肥ってもうそろそろ腹子を抱える季節となろう。曽て釣遊した数々の大河の姿を想うと、そぞろに釣意と食趣の動くを禁じ得ない。」
垢石翁の初秋の抱卵鮎は、対馬暖流或いは、東北の鮎の性成熟の話であるから、違和感はないが。
まあ、多摩川の9月末、10月はじめの抱卵鮎の「原因」については、来年回しとしましょう。
なお、急流が釣り場でない、という記述は気になるが。
藤田さんの下りの情景:「三,落鮎の状態」から
「~冷たい雨の夜など粛(しめ)やかに落ちてくる。春の溯上の勇ましく活動的なるに比してこれは又何といふ静寂さであらうか――秋の哀れはこの魚の状態にも窺はれる。その落鮎の様を見るに、
(一)早く身持となりしものより、上流の分布水域をはなれ、緩(ゆる)やかな流れに身をまかせつゝ下る。
(二)下りつつも硅藻の豊富な淵や瀬を求めて、数日間一つ所に俺留する、硅藻の発達した所には荒い瀬にもつく。
(三)下江の時刻は、多く夜中なるも、風なく静かな日には昼間も落ちる。
(四)秋雨の夜などしきりに下る。程よい雨にやや増水してうつすり濁りのついたときは昼も夜も大群(おおむ)れにむれて下る。一度にどつと下ることもある。
(五)円陣をつくつて下るといふ人もあるが、そんなことはない。私は嘗て春の鮎は帯の如く長くなつて溯るといふに対し、秋の鮎は襷(たすき)の如くなつて下ると形容したことがあつたが、この襷の如くといつたのは結んだ環の襷ではなかったのである。帯の対句として襷といつたのであつたが、これは私の書きやうよくなかつた。決して円陣ではないのである。
(六)然らば、どういう風になつて下るか、實は半円を描いて下る、円い輪ではないのである。一群れづゝ半円をつくることは鮎の有(も)つ習性の一つで、初夏や盛夏には淵のひらきにはいつもこの半円の輪をつくつて廻る。
(七)梁におつる時も、半円を描いたまゝ落ちてくる。その輪の真ん中なのが先導役を勤めて一番先へ尾の方からおちると、その左右のから段々おちて遂には輪の両端のが最後に落ちる。
この落鮎はそのしめやかな中にも習性の機敏さは決して失はない。一斉に頭部を上流に向けつゝ下りながらも、その列の中の一つが何ものかに怖じてパッと動くとその一列は一度にパッと散る。ちつては又すぐ前と同じ列をつくる。かうして周密なる偵察を行ひつゝいよいよ障害のないのを見とめてから下るのである。梁におちるのを見ても幾たびかこれを繰り返した末つひにおちる。秋の瀬下に静かに立つた漁師が、上手から落ちてくるのに網を投げかけるのもその半円と輪を狙ふのである。」
オラは、下りの情景を見たことがない。
故松沢さんから聞いた限りの、そして、そのうちの一部しか覚えていない。
下りの途上で硅藻を食べる、数日間滞在する、ということは西風が吹き荒れてから、鮎がそわそわするようになり、下りが始まると、釣れ方=量、場所が日替わりメニューになる、と。
そして、荒い瀬にもつくから、丼大王が城山下の一本瀬で、一〇数匹かけたのに、持ち帰ったのは数匹という見事な成績を打ち立てたのは11月3日のこと。
多分、大きい鮎の下りがまだ城山下にやってきていない、と、その前日か数日前と同じ太さの糸を使ったのではないかなあ。
頭を上流に向けて、慎重に下る姿について、故松沢さんは、妊婦が坂道を下るようだ、と。そして、大仁に自動車道が建設されるとき、11月に鉄筋棒を水面から10センチほど出して「通せん棒」を造り、中州に造った採捕場(どんな名称か忘れた)に誘導していたのが狩野川大橋下流に移った。その流れに対する角度が、間違っていて、決して採捕場には鮎が落ちない、と。
そのとき、鉄筋棒にびっくりした下り鮎は、修善寺まですっ飛んでいった、と。
又、21世紀に神島橋架け替えで、ヒューム管で水を下流に流していたとき、そのヒューム管を中々通過せず、石コロガシの瀬尻から神島橋上流までが最良の漁場になったこともあった。
半円形での隊列についても話されていたと思うが、定かではない。
産卵場での友釣り:「四,産卵と生殖の営み」から
「かうして下江した鮎は、河口に近い砂利層について産卵する。産卵の場所は大抵小さい砂利で、余り硅藻のできてゐないところを選むのである。前の出水で新しい瀬ができたばかりで、石の面の綺麗に洗はれ、履んで見るとザクザク足のめり込むやうな場所へ多くついて産卵する、尤も、今の河では何処でも浅いから色々荒らすし、殊に、砂利採掘の行はるゝ河川では常に砂利掻き舟が入り乱れて荒らすからどうしても深い流れの真ン中につくことが多い。。この産卵の場所へ大集団をつくるのを『瀬付』と称してゐる。
ハヤやマルタは石の新しい硅藻のないところでなくては産卵しない。鮎はそれほどでもないが矢張石の新らしいところを選むのである。岩国錦帯橋の下流に行はるる釜掘りといふ漁法も掘り立ての釜の中の新らしい石へ鮎を誘ふのである。
その産卵は大抵夜中で、夕方深みからだんだん出て来て瀬一ぱいに広がる。この時は何ものをも恐れず、さかんに狂躍する。ゴロ引、コロガシ、縦ゴロ、横ゴロ、コロコロ、三段引、五段引、タツコロなどといふ空鉤で夜中掛づりをやるのも此時であるし、ドブづり、沈みづりと称する擬餌鉤へさかんに喰ひこむのもこの時であるが、擬餌ばりの使用は『引魚(ひきを)』と云つて昼間深い所へ引いてハネを見せるのを喰ひ込せるのである、これは後に詳説する。かうした産卵、生殖ををはつた後の鮎はいよいよ見る影のないまでに痩せ衰へ、体の暗褐色は益々ふかく腹部にのみ僅かに紅色をのこして恰かも井守の如き形体と変る。殊に、雄魚に於てその衰弱の甚だしきを見る。――是魚の老労なり――と、本朝食鑑に書かれたが、全く魚の老労である。かくて、雄は勿論、雌もヒョロヒョロした衰体を流れにまかせ、或は河岸に打ち寄せられて鳥の餌食となり、或は海におち鹹水魚族に食はれてその生涯を終るのである。」
この記述は産卵場を見たことのないオラではあるが、適切ではないかなあ。
ただ、「砂利」については、多摩川の産着卵を持った子供の映像から、指先ほどの「小石」も含まれるのはないか、と想像しているが。
コロガシについても、引き方等の釣り方で、何種類もあるとのこと。
「八,面白い瀬付の夜づり」から
「先づ釣場の選定にしても極めて容易で、河口に近く局限された水域において産卵の集団、即ち瀬付の場所を求め、そこで釣るのである。夏鮎の釣方は移動的であるが、秋鮎は固定的で一,二の瀬付場所を狙つてつる、それでよいのである。
鮎の瀬付く場所は小砂利のところ、それも硅藻の少ない柔らかい河床を選ぶのであるから、自然友づりの場所も夏のそれと大に異なつて、大きい玉石のところや、硅藻の発達した場所は駄目である。釣る時刻も夕方から一つ所を限つて夜におよび或は暁に達することもある。」
「河口に近い」とは、河口からどのくらいの距離を想定されているのかなあ。流下仔魚の立場では、七日分くらいの弁当が食い切られることなく、動物プランクトンを食べることのできる距離ということになるが。
狩野川の大門橋とか千歳橋付近が、狩野川の一大産卵場といわれていると思うが、「河口近く」のイメージに合わないと思うが。
「小砂利」の表現であれば、「砂利」とは違って、小石の小さいものを含む表現であるから、産卵場としてはなじめるが、藤田さんはあえて「砂利」と「小砂利」を区別する必要がなかったということかなあ。「小砂利」の方が、「砂利」よりも「小さい」ということではないとは思うが。
そして、「大きい玉石」の表現がやっと出て来た。何で、遡上期には食堂、硅藻が繁茂しているであろう「玉石」の表現がないのかなあ。
仕掛けは丈夫であれば、粗雑でもよい。錘は大体一〇匁から一五,六匁を、夏とは違い、鼻環に近づけて鼻先から三,四寸の所につける。
またしても、困りました。何で、産卵場で釣るにもかかわらず、瀬で釣るときと同じ或いはそれよりも大きい錘をつけるのかなあ。
「又何故かうした重い錘をヲトリ魚の鼻先近くへつけるかといふに、これは一つところにヲトリを安定させるためであつて、このヲトリを同じ所に安定させるといふことが實に瀬付仕掛けの第一要件なのである。
真夏の鮎はその食餌とする硅藻の食み場を争はせて掛けるのであるが、瀬付の鮎は産卵と生殖の営みを利用して掛けるのであるからその釣方においても全然やり方を変へねばならない。オトリ魚は雄にても余り錆び切っていないもの、即ち体色のやゝ白味を帯びてるものは使つてもよいが、真黒になつたものは甚(はなは)だ効果が薄い、どうしても白い雌にかぎる、もし、雌魚の手に入らない時は已むを得ず雄を使用する場合もあるが、できるだけ雌を求めて使用するを有利とする。
また、適当の大きさの魚の手に入らない時は小雌と称する二,三寸のものでもよい、それを二つぐらゐ連繋して使用するのである。いかに小さいものでも十匁以上の錘を使用すればどうにか河床に安定させることが出来る、重い錘でオトリを河床に安定させることは雌の卵を砂利面に産みつける自然の状態をその儘演出させるのであつて、静かに河床につけては静かにあげる、恰度、毛鉤を用ひるドブづり――沈めづり――のやり方と同じに、そのヲトリをそつと持ちあげる、そのヲトリの浮いた途端ぐつと掛つてくる、それが悉く雄の大物ばかりである。奥羽地方では雄のことをカナと呼んで、この掛づりをカナ掛けといつている。
産卵期における雄の努力は實に驚くばかりで、先ず産卵に適する砂利層を選んで河床の硅藻を尾や鰭で磨(す)り流して、そこへ雌を誘ふ。雌はさそわれてその産褥ともいふべきところへ安定して卵を産む。沈性の卵はすぐねばねばした膜によつて砂利にくつつく、それが一通りすむとふわりと体を浮かせる、その体の浮くのを待つて、付近に群れてる雄は一斉に雌の腹の下にくヾりこんで、今、産みつけられたばかりの卵に精を注ぐのである。
即ち友掛けの操作にヲトリ魚を浮かせるのは雌の卵を産んだ形に見せかけて雄をその腹部に突入させて掛鉤に引つ掛けるのであるからいつまでも一つ所に固定して釣り得る。この瀬付の友づりは産卵期の漁獲を禁止されてゐない奥羽地方で専ら行はれてゐる。殊に、岩手県北上川の下流、次で宮城、福島の太平洋岸にも盛に行われ、福島では仙台寄りの相馬地方で真野川、新田(にいた)川、双葉郡に入つては木戸川、更に石城郡では夏井川、鮫川等いづれも愉快な釣が出来る。就中、龍田木戸両村の中間を流るゝ木戸川天神山付近の夜の友掛けは頗る壮観である。」
小雌の二頭立ても分かりません。産卵場でなく、西風が吹き荒れてあゆみちゃんがそわそわする時季の大仁や城山下で、チビ鮎を囮にすることは常識であり、錘を使うが。
そもそも、流れが強くない、瀬ではないところ、チャラ、ザラ瀬で、重い錘を使わなくても、オトリが流されることはないのでは。
上下の操作のための錘であれば、一つ所に固定するための錘であれば、他の方法があるのでは?
数年前、まちゃんが、子ウルカの食材を調達するため、12月の興津川の産卵場付近、承元寺付近かなあ、に行って、コロガシの人たちに断って友釣りで必要とする食材の量を確保したとのこと。
昼間であるから、産卵場から少し離れた所であるが、また、産卵時の釣りではないが、普通の友釣りであったが。
故松沢さんは、11月に近づくと、養魚場から運ばれてきた養殖の半分は真っ黒に変色して、使い物にならない、と。
城山下の淵に入れた囮箱に、養魚場から運ばれてきた養魚をビニール袋に入れたまましばらく入れていた。
そして、使い物にならないほど変色したものを刎ねてから、オトリ箱に入れたのではないかなあ。
その「使える」状態の鮎の中から、少ない雌を選んでオラの舟に入れてくれた。丼大王ら、「腕自慢」の方々には雄を入れていたのでは。
オトリがしっぽを挙げる動作をすると、攻撃衝動が解発される、なんて、文が雑誌に載ることはあるが、藤田さんは、その動作は、産卵場でのみ有効と考えられているのではないかなあ。
垢石翁の産卵場の記述
藤田さんの下りの時季、産卵時季の記述が、海アユ、或いは湖産も含めて一般化した記述であるから、狩野川の、或いは仁淀川の「西風が吹き荒れた頃」からの下りの情景と異なるのではないかなあ、と思えど……、その「証拠」がどこかに見当たらないかなあ、と。
佐藤垢石「鮎の友釣」(昭和九年発行 萬有社)に、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、と手を出した。
しかし、世の中はそんな甘いもんじゃおまへんでえ。
「落鮎期の友釣」の章から (旧字は、当用漢字で表現しています。)
「日盛りはまだ暑いが、朝夕は北方の方から涼風が吹いてきて、セルの単衣でも欲しいと思ふ頃になると、鮎の横腹に鰓蓋から尾端へかけて、薄紅の色が泛き出して来る。これを鮎が錆びはじめたといふ。腹の片子は次第に発育して、真子と白子との区別も判然と判り雄の体色は黒味を帯び、雌の腹は一日毎に膨れて来ると、鮎は一団の大群となつて、一雨降つて水温が低くなるに連れ、下流へ下流へと向ふ。それは、川口に近い(川の条件によつて違ふが)砂礫の間に、産卵場を探しに行く旅である。」
「~そして産卵場として求める場所は、川の中流乃至河口に近い浅場で、流れがあまり急でなく、と言つて余り緩やかでもなく冬蜜柑から夏蜜柑位の大きさの玉石が平らに敷いてある川床に落ちつくのである。」
藤田さんは「中流域」を産卵場として記述されていないのはどのような理由があるのかなあ。狩野川の大産卵場の一つとされている大門橋か千歳橋付近は、中流域であると思うから。又、相模大堰と小田急鉄橋の間にある相模川の産卵場も「中流域」であるかどうか、藤田さんの区分では問題があるが、「河口」域ではないと思うが。
産卵場の石の大きさは、蜜柑の大きさでは大きすぎると思うが。藤田さんの砂利では小さすぎると思うが。もっとも、神奈川県内水面試験場の流下仔魚量、産着卵調査では、大きい鮎は大きめの石を、小さい鮎は小さめの石を産卵床として選択するとのことであるが。
二人の間の観察の違いは何によるのかなあ。
「川床の小石に垢がついて居てはいけないのである。といふのは、石に垢がついて居ると、放卵がうまく石の肌に粘着しないからである。而かも、その場所の水は生きて居らねばならない。死に水の石へは決して産卵しないのである。
性の使命の営みは、多くは夜間である。昼間はやらないといふ訳では無いが、稀である。産卵場の付近が余程静寂でないと、鮎の群れは集まって来ない。」
垢石翁も記述されているが、瀬付き鮎の釣り方は省略する。
「その乱舞の中へ雌の囮鮎を引き込むのであるから、雄鮎は直ぐ引つ掛つて終ふ。一夜に十貫目釣つた、十五貫目釣つたといふのはこの時である。實によく、引つ掛るものである」
道具立ては省略。
「以上の道具を持つて、夜間舟の上から釣るのである。岡釣りもやれないことはないが、秋の夜は寒い、なかなか長くは水中へ立ち込んでは居られない。燈火は禁物である。万事手さぐりである。鮎の瀬付く場所は、見当がついて居る。そこへ舟を纏(注:多分この漢字では)つて、囮鮎を放り込み、深さ二尺から五尺くらいのところを、竿先で十五匁の錘を煽りながら、恰もゴロ引きの竪引のやうな気持で上流へグイグイと引き上げる。すると、グイといふ強引が来る。もう掛つて居るのである。掛け鈎を二本つければ二尾、三本つければ三尾掛つて来る事がある。
産卵期の鮎は、握つて見れば雌か雄か直ぐ判る。鱗肌にヌメリが多く、肉づきのいゝのが雌であつて、肌がざらつき、痩せて居るのが雄である。だから、真つ闇の舟中であつても間ごつく事はない。鮎が掛つたならば、舟中へ用意した水桶の中へ吊し込んで鈎を外すのであるが、余り頻繁に掛る時はそんな面倒はやつて居ない。直接、舟床の上へ放り上げて終ふ。。こんな時は、囮鮎は死んで居ても、鮎は盛んに掛つて来る。数多く群れて居るのであるから、掛かる鮎は雄ばかりではない。雌も交つて鈎に掛る。頗る忙しい釣りである。
だが寒い。十月に入って夜、舟上の川風は身に沁みる。厚い布子を着け、上から冬外套を着て行かねば身体を損ねるのである。楽しみが化して、苦しみとなる場合がある。」
冬外套を着なければならない気温には、狩野川の十月になることはない。
10月でも、西風が吹き荒れた後は別であるが。勿論、昼と夜の違いがあるから、昼間は冬外套を着なくても大丈夫といえても、夜は異なる、ということもあろうが。いや、夜でも、ダウンを着るほどの気温にはならない。少なくても、上旬、中旬では。
産卵場での釣りが出来る東北の情景ではあっても、10月の狩野川ではまだ下りすら始まっていないということですが……。
垢石翁に記述から、藤田さんの多摩川で釣った9月末のラージぽんぽんの鮎の正体を考える糸口はないかなあ、と思えど、逆に、産卵場にやってきた大スズキが、外道として登場して、オトリを持っていくお話しが。
スズキは汽水域でなくても居るのかなあ。もし、スズキが淡水にも居るとすれば、問題はないが、淡水にやってこないとすれば、汽水域が産卵場になるのか、という新たな問題を抱え込むことになる。
四万十川の山崎さんは、汽水域に移動してくる「シオ呑み鮎」(汽水域で一生を過ごす浸透圧調整機能不全の継代人工や交雑種の「シオ鮎」ではない)を漁の対象とされていたが、汽水域が産卵場となっていたとの記述はあったかなあ。
垢石翁の外道の記述は、
「グイグイと囮鮎を操縦して居る時、突然意外な大物が鈎に来て、咄嗟の間に仕掛ぐるみ持つて行かれる事がある。それは、産卵場へ鮎の群れを食ひに来た大鱸である。上流へ溯つた鱸は、鮎の群れと共に、下流へ下つて来る。そして飽く事なき貪食を発揮させ、終夜産卵場に活躍して居る。それが、偶然鮎掛鈎にかゝるのであるが、友釣りの仕掛けでは全部切られて終ふのが常である。こんな余興もあるが、産卵期の友釣りは余り感心したものでは無い。」
とのことであるが、鱸が淡水域にも溯ってくるということかなあ。下り鮎と共に鱸が移動するとなると、鱸は淡水域も生活空間にしていることになるが。そして、産卵場だけでなく、下りの途中の鮎も食糧にしていることになるが。
なお、藤田さんも、垢石翁も、産卵場での漁を山崎さん同様批判されている。
藤田さんも垢石翁も、鮎の性成熟の時季、産卵時季を一般化して記述されていると考え得る記述が見つかった。
垢石翁は、
「川に依つて異ふ」の章に、
「よつて食物の点から見ると、友釣は川によつて違ふにしても、大体五月上旬から一月下旬頃迄は楽しめるものである。」
この記述をよりどころにして、来年、房総以西の太平洋側の産卵時季を考えることにしましょう。
安倍川の友釣り黎明期
産卵時季、下りの時季について、混乱が深まる状態であるから、明治、大正の代の川の状態と釣り人の状況に話題を変えましょう。
藤田さんは、明治23年発行の「日本釣魚全書」について、
「書中誤れりとおもふ節も見ゆるが、友つりの記述は大体においてよく尽くしてゐる。殊に狩野川の鮎は形の大きいので有名なだけに友釣で釣つた魚をぬいて空中輸送によつて攩網(たも)の中へ掬ひ込むといふことの出来ない場合が多い。竿を背負ひ糸を引いて掬ひ込む云々はその実際をうつしたものである。著者が――伊豆国狩野川にてこの法を成す――と特に狩野川の釣法を紹介したことは何か古い記録にでも據りしものか、私は、相模川で早く方言ゴロビキの行はれていたことや、酒匂で虫づり、友づりの発達したことは或は北條氏時代ではなかつたかと思ふ。果して相模に於ける鮎つりが北條氏の時に発達したものとすれば北條氏の出た伊豆を連想しなければならない。伊豆の北條氏によつて伊豆の鮎の漁法が早くも酒匂や相模川に発達し更に全国に拡がつて行つたのではあるまいかとも思われるのである。」
鮎に係る漁法、友釣りの発祥については、川那部先生も文献に基づいて考察をされているが。
「また、静岡藁科川の友つりも早くから盛んでその釣手の多くは静岡から出掛け沿岸のものは至つて少なかつた。仕掛にしても静岡では播州鉤の丸型や袖型を使ひ又静岡出来の矢島型をも使用してゐたが、土地のものは木綿の縫針をまげて使つてゐた。そこで、静岡のものゝ出漁するを見掛けると、彼所(かしこ)こゝの農家から子供が飛び出して――友づりさんハリおくれ、くれぬと川へごみ流す――といつたものだ。これは鉤をくれろ、くれないと塵芥(ごみ)を流して邪魔をしてやるぞといふ一つの脅迫であつて、友づりの鉤が欲しさに親達が子供の口を藉(か)りて鉤を強請(ねだ)るのである。
無心な子供、殊に舌も廻らぬ幼い子らが語尾をながく引いて――友づりさあん――と呼びかけると鉤をやらずにはゐられない。ツイ一本やると俺にも俺にもとあとから大勢やつてきて逃げ出さなくてはならなくなる。
この静岡の友づりについて、同市鮎釣の先輩で友釣の名手であつた香川忠京氏の語るところによると、静岡で友づりの始つたのは天保五年ごろのことだといふ、遊郭二丁町、今の安倍川町の生まれで丸常事佐藤常吉といふ人があつた。香川氏がこの丸常と交際した頃同人は安西四丁目大林寺小路に住居して隠居仕事に曲物を造りその傍ら果物や菓子を売つてたが、生来小器用の人で町祭のときなどは花車(だし)の装飾や考案をもよくやつた、壮年の頃は当時静岡の名物男であつた安西の鶴さん事安鶴(あんづる)の弟分となつて安鶴を兄き兄きと呼んでゐた。
この丸常は文政三年の生れで二十歳まで二丁町に居住し同遊郭の大店徳和屋に出入してゐた、その頃、興津在和田島の侠客某が時々徳和屋へ遊びにきて懇意になりその侠客から興津川では一,二年前から友づりといふ鮎の釣方が始まつている、安倍川でも一つやつて見よといはれ、その次に遊びにきた時仕掛をもつてきてくれた、丸常はいよいよそれをやつて見る気になつた。
恰度(ちゃうど)、それが一番茶の終りごろであつたが徳和屋の隠居と二人でビクやヲトリ箱の用意もなく手洗水を入れる小さな手桶をもつて東海道安倍川の川越場――今の弥勒の地先へ行つて川越(かわごし)人夫の川浚ひをやつた棄石(すていし)の多い処で興津の侠客から口伝された通りやつて見たところ、釣れるつれる面白いほどつれたが、二人とも全くの素人で魚の始末が付かず、大抵は取逃したがそれでも三十余を獲た。その時の愉快さはどうしても忘れられず、その後は両人して毎日昼ごろより出掛けて同じ場所で十日余も釣つたが、その中梅雨季になつて安倍川は常に濁り勝ちであつた。
藁科川
「そこで、今度は古歌に有名な藁科川木枯(こがらし)の杜(もり)付近に出かけ村の子供らが瀬を干して捕つた小鮎を乞ひうけてそれをヲトリとして牧ヶ谷村から流れ出す谷川(やがわ)の尻でやつて大物ばかり四十余を掛けた、そこを通り縋(すが)つた静岡本通町丸五呉服店の番頭が一尾天保銭一枚即ち一銭づゝて売つてくれといはれたが惜しくて売らず持つて帰つた。それが十五歳の時であつた。」
木枯らしの杜は、安倍川との合流点からさほど上流ではない。カインズホーム?から入った付近の下流かなあ。
その付近でも大物が釣れていた。狩野川が「形が大きい」鮎の川と同様、想像が出来ないが。
「その翌年のこと藁科川筋大原村へ出て見ると、そこに友づりをやつてる老人がゐるではないか、それまでは唯我独尊、この釣は自分の外誰もやれないと思つてた少年の驚き方は一通りではなかつた。段々見てゐると老人のヲトリの操縦法は手に入つたものでなかなかうまい、とても自分の及ぶところでないのに降参して老人によくよく聴いて見ると、この老人は大原村のもので若いころから大和吉野川近くに居住しそこで友づりを知つて帰郷後やつてゐるがこれで三,四回目だといふ話であつた。
今度は釣友達が出来たのに勇み立つて、この少年と老人とは二年ほど一緒になつて釣つた、その中追々友づりを始めるものができたが矢張り二丁目付近のものが最も多かつたのである。すると、静岡の友づりの嚆矢は先ず丸常といふ人であるといつてよい。興津川は静岡より一,二年早くから始まつたものらしいが、興津の釣が何処から伝来したかそれは判明しない。
丸常の初めたのと同時藁科川大原の老人が大和吉野から習つてきたやつといふことであると、静岡の友づりは東西両方より移入されたといふことになる。
かく静岡の友づりが興津から伝はり興津のは富士川或いは伊豆の狩野川から伝わつたことが事実らしいのであるが、その伊豆における沿革について、今日古老の伝ふる所によると狩野川での友づりの始まったのは今から百五十年ほど前のことで下狩野村字大平の旭瀧の下に普家僧(ふけそう)の寺があつた、そこへ流れてきた何れかの旅人が木綿針をまげた鉤を木綿糸に結んで釣つたのが始りで、それを土地のものが見ならつてだんだん盛んなつたのだと伝へられてゐる。」
その外、福島県の木戸川、播磨の友釣りの起源については、伝聞を紹介されているが、詳細は分からないとのこと。
藁科川の鮎の献上
「明治十三年、天皇京都外二県御巡幸の際、美濃国土岐郡多治見に御駐輦(ごちゅうれん)あり、この時鵜飼いの鮎を召させられ、その後年々献上することを例としたが同二十三年長良川筋稲葉郡長良郡右沢、武技郡洲原村立花、郡上郡嵩田村の三箇所に、延長約一千四百七十一間を御料場に定められた。その他伊豆の狩野川、越中の神通川等にも御料場を設けられて、年々是ら名産地の鮎は宮中に進められたのである。」
子供の萬サ翁が鮎をかすめ取った御料場は、郡上郡高田村かなあ。野田さんがシャネル五番の香りを全身にしみこませてタクシーに乗ったのは、どの御料場かなあ。調べれば判明するが。
「天皇、御嗜好のことを拝承せる臣民よりも屡々(しばしば)鮎の献上を出願するものがあつた。明治三十年八月十二日、天皇、静岡県々会議事堂に御駐輦(ごちゅうれん)の節には静岡市民は藁科川産の活ける鮎を献上してご嘉納を得た。更に同三十六年五月九日、天皇神戸観艦式行幸の御帰途静岡御用邸に御一泊あらせられた節、静岡市内の鮎つりに趣味を持つもの、当時漁獲禁止期中なりしも特に知事の許可を得藁科川にて友釣りにて掛けたる最も長大なものを選み活けるまま知事を経て伝献を出願しご嘉納を得た。この際の鮎の容器は渋汁(あく)をぬいた椹(さはら)白木造り小判型の長さ三尺、幅二尺一寸のもの一対に、極細い絹網を張りて魚の跳躍を防ぎ、献上者の中より世話方五人を選定し御用邸のお許しを得て展覧に供したのである。
献上者は廿六人で、偶然にも前の三十年の時と同人数であつた。天皇、御興ふかく活ける鮎を御覧ぜられ宮中にも送れとの畏(かしこ)い沙汰があつたので予備として採捕したものを直ちに発進し、且つその夜大膳職よりも御用命があつて一同有りがたい光栄に浴した。その当時私も献上者の一人として、友釣りに従事したのである。」
「一〇,矢島鉤の起り」
藤田さんは、静岡原産の矢島型のハリについても記述されている。
「鮎の掛鉤の中、最も評判の高くなつたのは矢島型である。私はこの鉤を初めて使用したのは静岡の藁科川で今から四十年も前であつた。それ以来伊豆型や安倍型といつたものを使ふこともあつたが、大抵は矢島型の使用をつゞけてゐた。そしてこの鉤の偉力は次第に世間に知られて友つりの行はるゝ地方へ追々伝つて今では殆ど全国的の流行鉤となつた。
製作も初めは静岡のみであつたものが今は釣鉤製造の本場播州に移つて盛んに売出されてる。東京への移入は極めて最近で五,六年前からであるが、友つり用の外、私の考案の毛鉤付の掛鉤にも使用されているし、更にキス釣の掛けや、ヒガヒづりの掛けにも使用されてゐるが今後更に色々の掛釣に用ひらるゝこととおもふ。」
平成の世の初め頃迄は「矢島」鉤の呼称は一般的であったが、その後は矢島型の呼称をつけたハリは姿を消して、さまざまな呼称のハリに変わった。形状は矢島型であっても、その変型、或いは素材の違いを表現するためにさまざまな呼称のハリになっていると思う。
それに、鱗が荒く村田さんが鎧を着た鮎と表現されていた継代人工対応のハリが増えて、早掛けタイプが増えて、原初形態の「矢島」型の比重が低下したのではないかなあ。
「この矢島型を初めて考案したのは、幕府のお鉄砲鍛冶を勤めた松井氏(名を逸す)であつた。松井氏は初め静岡水落町に居住し、後ち清水の折戸に移り内職に色々の釣鉤を製造してゐた。元が鉄砲鍛冶だけに鉄質の選み方もよいし、鍛錬もお手のもので、品質のよいところから忽ち評判となつた、掛鉤の外鮎の虫釣の小鉤もこの人の手で創作された。その後(の)ち松井氏はその株を矢島叡といふこれも旧幕府の藩士に譲つた、矢島氏はその後を承けて新たに工人を入れ盛んに製造し鉤の名称も矢島型と称して売出したのである。
矢島氏は旧名を鉄之進と呼び、有名な剣客今堀氏の高弟で幕府講武所の教授方を勤めてゐたが維新の際静岡東鷹匠町に移住し明治初年今の静岡の三五銀行――当時の第三十五国立銀行に勤務し、東京へ現金を逓送する護衛係をやつてゐた。この人剣を執る一方なかなか多趣味で長唄もやれば歌沢もうまい、神楽ばやし、横笛、何でもこいといふ器用な人で鮎鉤の製作に掛けても凄い腕前をもつてゐたから鉤の製作にも自分の創意を多分に加へて今日の矢島型だ出来たのである。
この人明治二十九年五十七歳でその後の移住地清水本町にて病没した。その矢島鉤の盛んに製出されたころであつた、藁科川や興津川で友掛けをやる連中に丸常、伊勢菊、小林、香川、矢部、伊藤などいふ名人があり、それに矢島氏を加へて常磐連と称し一様に朱塗の竿を使つて幅を利かせたことは有名な話で今も静岡の釣師に朱塗の竿の伝つてるのはこれが起りである。」
加賀バリも「世は徳川の泰平で無事に苦しんだ百万石の藩士が閑にまかせて小鳥の羽を集めてはおのがしゞ好みの鉤を巻いて鮎つりをやつた。釣の秘密は昔も今も変らず、互ひに隠しては色々の工夫を凝らして新しい鉤をつくつて自慢の釣をやる、藩主のお鷹狩りの邪魔だとあつて百姓や町人の河の中に立つことは八釜しく取締つたから鮎つりも藩中のもの――それも士分以上のものでないとできなかつた。かくて一つ階級の人々によつてのみ鮎つりが許されたのであるから、自然鮎の乱獲といふこともなく犀川や手取川も年々素晴らしい蕃殖を見たといふことは想像される。そこで、愈よ藩士の間には鮎つりが精進され、毛鉤製作の技も進んだのである。」
ということで、加賀バリも武士が関与しているよう。
ただ、鮎の「釣り」は藩士が主役であるとしても、百姓や町人が鮎の捕獲が出来なかった、していなかったとは考えにくいが。百姓は釣りではない方法で、町人は「釣り」を含めて鮎を捕っていたのではないかなあ。
興津川
藤田さんは、「一〇.急流と小河川の生産」の章に興津川を紹介されている。
土佐の新荘川、境川の餌釣りのように「小さい川」の特性があると記述されているが、新荘川については、雨村翁が友釣りを始めて、周りの人々を感化したように、必ずしも「小さい川」であるから、餌釣りであるとはならないのではないかなあ。
「更に又、駿河の興津川は源を甲駿国境に発し、中河内、小河内の小流を入れて、東南走して清見潟に注ぐ一小流であるが、鮎の分布水域はわずか二里余に過ぎざるも、両岸蹙(注:せま?)りて峡谷をなし、河床は一面大小の玉石なるのみならず、到るところ岩盤を露出し、淵をなす所には必ず巨岩を見るといふ鮎の発育に好適なる河質を有するため毎年おびただしい蕃殖であるが、珍しいことには、沿岸の漁業組合が密漁と乱獲とを厳重に取締り沿岸の漁民相戒めて反則者を出さざるに努め例年解禁前に当たり懸賞金を支出して犯行者の取押へをやつてる、それほどにしても時には東京の問屋筋と結託して密漁を行ふものもあるが、兎に角、沿岸の取締がこれほどに励行されてる地方は少い。
この保護により解禁直前の5月末などは二里の間に充満せる魚群は瀬にも淵にも群れて、何ものにも恐れない、人もし水際(みぎわ)の石に起つて足許(あしもと)の魚群を指呼するも人馴れた鮎は平気で游泳してゐる。恰度泉水に飼つた鯉その儘である、かうしたことは他の河川に於いては決して見ることが出来ないのである。しかも、これほど多い鮎も六月一日の解禁後僅か一ケ月も経(たた)ない中に大抵は捕り尽くされてしまふ。これは余りに川の小さくして且つ分布水域の短少なるためであるが、たとへ水域は狭小であつても、川の質がよければ大に蕃殖もし、品質も亦優れるといふことは此の川の状況を見てよく分るのである。
猶(なお)、この川の鮎はその発育がよく揃つて大小の懸隔が少ない、六月一日既に最大八寸に達し、小なるものにても六,七寸を下らず、その以下のものは殆ど皆無なることも他の河川に余り見ざるところである。」
「小なるもの」の七,八寸が、狩野川の解禁日の最大であった。とはいってもオラが釣ったのはもっと小さい小中学生であったが。故松沢さんが試し釣りなどで釣っていたものでも18センチ位の大きさ。
現在では「トラックで運ばれてきた」さまざまな氏素性の鮎の中には二〇センチ級もいるようであるが。
それでも、「八寸」、二五センチ級の乙女なんて、遡上鮎では考えられない。一〇月中旬ころからの大井川の遡上鮎ではその大きさの姿を見ることがあるが。
この問題は、川那部先生らでも原因究明に困られているようですから、へぼの考え及ぶところではないが。
高橋勇夫さんが、四万十川だけでなく、奈半利川?でも「デカアユ」・尺鮎が釣れた、そしてその原因は食糧が潤沢、と釣り雑誌に書かれていたが、そんなことは「絶対」にあり得ない。「潤沢」な食糧事情は毎度おなじみの光景。学者先生の特性の一つは、川に居る鮎の氏素性の「違い」に鈍感なこと、というか、区分の必要性を考えられない、「出来ない」ということでしょう。これは藤田さんの「湖産」への評価にも関係しているのではないかなあ。
藤田さんは「湖産」放流の有効性、「小鮎」が環境変化により、食糧事情が好転すると「大鮎」に成長できる、と考えられたが、そのことを引きずっているのかなあ。
なお、東先生らは、トラックで運ばれて、他の川に放流されて「小鮎」ではなく、「大鮎」に成長できた、との石川博士の観察は間違っていて、琵琶湖に注ぐ川で育っていても「その年」は「大鮎」になる鮎が各地に放流されていたとのこと。
「かやうに興津の鮎は蕃殖多くして、その発育も素晴らしいのであるが、漁獲の期間が甚だ短い。然るにこの川に成育したものは、前記の如く短期間に捕り尽くされてしまふのであるが、同時に又他の河川のが続いて溯つてくるから鮎の期間はいつでも釣ることが出来る、
これも恐らく此の川の外余り他の河川には少ないこととおもふ、これは清見潟に注ぐ河川は伊豆の狩野川、駿河の富士川とであるが、狩野川の方は上流の地質が主として火山岩である関係から降水を保有して流出量を調整するのと大仁以下の流路概して緩やかなため鮎の海中に押流さるゝこと少なきも、富士川は前記の如く上流の地質脆(もろ)くして河床荒廃せるにより一朝出水に遭(あ)へば土砂を混じたる激湍清見潟に直下して全川の鮎一時に海中におし出されその水量の減ずるまで鹹水の生活を続けなければならない、これが若鮎なれば格別、既に真夏の成魚期に入りしもの又は秋の抱卵したものは久しきに亙(わた)る海中の生活に堪へ得ずしてその悉くが興津川の清流を目掛けて溯上を初める、
富士の急流に十分発育を遂(と)げた大鮎が場ちがひの興津へくるのである。八月末から九月中、東海道筋に大降雨のあつた直後数日間は、興津河口に黒く群れつゝ打ち寄する波に乗つて浅い川瀬に躍進又躍進する、漁師はこれを狙つて押し寄せゴロ引きで掛ける、網を投げる、数百人が入り乱れつ獲物を争う様頗る壮観である。かうして鮎はその溯上の途中漁師の邀撃(えうげき)に遭ふのであるが、只一筋に淡水を慕ふ魚も亦必死である。ゴロタの鉤を避け投網の目を逃れ漁師の足元をくゞりぬけ背鰭を立てつゝ突進し、更に興津特有の河質にはぐくまれて、良質のものとなる。東海の名物――興津の差鮎――と称するものこれである。」
興津川のちょん掛け
藤田さんは、新しい釣り方を模索されていた。
職業ではなく、高尚なスポーツであり、趣味としての釣り方は
「出来るほど品の高い、そして豊かな趣味を有(も)つものでなくてはならない。」
ということで
「その二つの釣の一つは毛鉤を使用する喰(くわ)せづりと、今ひとつはヲトリを用ひる友つりとである。」
「しかし、私はこの二つの釣がいかに面白いにしてもそれで満足ができなかつた。といふのは毛鉤づりの初つたのは比較的新しいが、それにしても既に百余年を過ぎてゐるし、友掛けはそれよりも更に古い漁法で全く古人の遺物といふべきものである。かういふ歴史の遠い釣を科学の進歩した現代において、猶、依然踏襲するだけで、新しい釣方の一つも創められないといふことは、いかにも残念だからである。殊に、四十年来同じ釣に親しんだ私としては特にその感が強いのであつた。」
この気分は、明治、大正に共通し、昭和の世にも通じる感慨ということかなあ。
ということで、毛鉤と友釣りの間を行く新しい釣り方を考案する作業が始まった。
餌釣りと、その餌に小エビ、大黒虫、サシ、シラス、魚肉と、地方、河での違いはあるが、「その生息地の環境によつて生じた特殊の場合で」、餌の種別の一般化は出来ない、と。
湖産の「小鮎」が、食糧不足ではない環境に変えると「大鮎」になるという環境決定論の発想がここにおいても色濃いということは、時代背景を反映しているということかなあ。
「かうして、私は色々に思ひ煩つてゐたところ、昭和二年六月二日、駿河の興津川へ出掛けて、不図、小島村梨の木淵で土地のもの二,三人がちよん掛けといふ釣をやつているのを見た。その釣方は至つて簡単な仕掛けで、八,九尺の短い延竿に三,四厘柄のテグスを道糸とし、その最下部に四,五匁の円形の錘をつけ、錘の上部三,四寸のところと、更にその上部三,四寸のところへ友づりの掛鉤を背中合せに結び、岩べりに投げこんではちょんちょんと急に合わせて七,八寸の鮎を大に掛けてゐた、いかにも面白い掛づりである。
私は、この原始的の掛づりを見て大に感心した、といふのは、まことに些細の用意ではあるが、その錘を道糸の最下部につけたといふことである。この最下部につけられた錘のため、上部二段につけた背中合せの掛鉤は、竿の引かるゝ毎に急回転をやる、即ち、ぐるりと廻つては又ぐるりと戻る、竿のあげ方が急であれば急なほどぐるりぐるりと急に廻つて、水中では随分強い光が絶間なしに円形を描いて閃(ひらめ)くのである。この水中の光が魚を誘ふて、こゝに掛鉤の偉力を示すこととなつたといふことを発見したのである。
これは是まで私の、鮎の毛鉤につくことは鉤を昆虫と見てつくばかりではなくて、色とりどりに美しく巻かれた鉤の光をも慕つてくるのであるといふ主張に一致してゐるのあつた。この事実は毛鉤ばかりではない、テンカラ、引つ掛け、サクリ、ゴロビキ等の掛づりも自然に鉤の光が利用されてゐる、これを引くものは偶然魚の掛るものと単純に考えてゐるが決してさうではない。
サナぐくりといふ漁法は、四つ手の小網を水底に沈めて、その上に鮎の乗つたところを引いて括(くく)るのであるが、渋引きの黒味よりも、渋を引かない光るのが著しい効果を挙げてゐる、これも鮎の光に集まる一例である。また、友づりの仕掛けについて考えても、光の利用といふことが閑却されてないのである、~」
ということで、銀鉤、青焼きの鉤が効果を上げる、と。
平成の初め頃迄は金色、青焼きの掛けハリもあったなあ。その色つきの友釣り用のハリは、藤田さんの説に依拠していたのかなあ。そして、今では見かけなくなったが。その理由として、ハヤやヤマベ等の外道も光に反応する、との説もあったような気がするが。
オラの使っているミノーは金色のハリがついているが。
毛鉤の上部に矢島型のハリで蝶針を二段つけた仕掛けが多摩川で効果を上げた。
それが、9月末の抱卵した大鮎。これを「湖産」と片付けることは簡単であるが、まだ、湖産の放流量は昭和三〇年代後半頃以降のように多くはなし。
まあ、一年、寝て暮らせば故松沢さんや仁淀川の弥太さんの「西風が吹き荒れるころ」から、下り等の産卵行動が始まる、の観察が適切である、とのよき考えが浮かぶかも。
いや、現在の状況が変わらないとしても、「果報は寝て待て」は、有りがたい教えですから。
「引ツ掛け」と称する釣りの竿と仕掛けの説明もされているが、仕掛けのイメージが出来ないので省略。非常に簡単な作りであり、また、竹竿のように「高価」な道具立てではない。
「この引ツ掛けも随分広い範囲に亙つて行われてゐるが、上手なのになると急流の中に板を浮かべて腹ばい流れにまかせつゝ激流の中を掛けるもあるし、大きい石を河中に投げ込んで深い淵に追ひ込み、石の間に集つたところを狙つてもぐり掛けをやるのもある。」
興津川でも禁止漁法であるが、
「~二,三年前であつた私が同河筋の牛渕といふ所で毛鉤づりをやつてると、その七,八間下流の大きな岩の淵へ山の上からボカンと大きな石が投げられた、つづいて二つ三つとやつてくる、すると、岩の陰から真つ裸の男が飛び出して逃げる、逃げるところへ又ボカンボカンと大石が降つてくる、やがて河原へ逃げ出した男を見ると、片手に竿、片手に覗き眼鏡を持つて一目散に走り去つた。岩の陰で密かにやつていた所を上から見出されたのである。かういふ工合に八釜しいのでこの河ではとてもやりきれない、乱暴なやうだがかうまでしなければ所詮この河童みたやうな漁業者の取締はできないのである。」
透明度が一メートル足らずでも「清流」と評価される現在では有効な漁法ではない。
前さんが、川の水が飲めることは当然のことで、その水がうまいか、まずいかということが、問題である、と書かれていた貧富水水の河で成り立つ漁法でしょう。
藤田さんは、五万分の地図に興津川の釣り場を記載されている。
中河内川には釣り場の記載なし。その合流点の直ぐ上流には、白鬚淵と出合淵が記載されている。
梨の木淵は、承元寺の直ぐ上流、牛渕は小島集落の上流で、急な蛇行をしている。
「牛渕」は、中津川の宮ヶ瀬ダムサイトになった付近にもあったがどういう意味かなあ。
藤田さんも垢石翁も賞賛されていた興津川であるが、今や、砂利が多く、昔の面影を探すのに苦労するのではないかなあ。
興津川には一回行っただけ。駐車場が広いところで降りて、砂利、小石ではなく、そして人の少ないところを探し回ったが、釣れたのどうか、記憶になし。乙女が釣れなかったことだけは間違いなし。
垢石翁の興津川の友釣りの描写
「香気が高く、姿が立派であります」と評価している垢石翁は、「鮎の友釣」(萬有社 昭和九年発行)の「諸国友釣風景」の章に、興津川での釣りの情景を書かれている。
「興津川は地質が、川瀬の反動を複雑にしたため、屈曲が多く淵が豊富である。玉石底の瀬棚が割合に少なく、淵と瀞が連続して居て友釣は勢ひ、その底に蟠踞する岩の廻りを釣らねばならない。そこに大した技量を要したのであつた。竿に穂先一尺五寸か二尺ばかりがヘナヘナと曲り、矢張り胴に調子も持つた三間前後の女竹の一本竿。馬鹿糸は僅かに一尺ばかりで囮を宙で握つた儘鼻環を通し囮を握つた左手を放すと、囮が道糸の尖端にブラ下つた途端、竿先へ一寸と調子を呉れると、囮は宙を飛んで釣者の好きな水面へ尻尾の方から落ち込ませるのである。
そして囮の操従には最もむづかしい瀞の底に、かすかに姿を見せる先の廻りを自由自在に囮を泳がせるのが、興津川の釣師の特徴とする処である。だからあらゆる場合に錘なしで逆鉤リを用ひて居る。
竿先を微妙に活用して意のやうに囮鮎を操縦する技術は、まことに興津川ならでは見られない友釣風景である。近年此の川の漁師も伊豆の人々を駆逐して終つた程、上達した。
だが、たゞあれだけの水量と流程の川である。利根川、宮川、長良川のやうに六間竿を必要とする友釣とは、おのづから比較する尺度が違ふ。
そして興津川の釣士は、興津川の友釣が日本一なりと固く信じ、それを誇りとして居るのである。」
藤田さんが、相模川、狩野川等の写真を掲載されているが、その中には平たい岩、大石からの釣り姿もある。今では、それらの岩は砂利の下でしょう。
それにしても、瀞以外の釣り場も多いとは思うが、垢石翁には「瀞」での釣りが興味の対象ということかなあ。いや、河相によるかも。
「興津川は第一」の節に、石の質を説明された後に、
「水源地方の林相を見ますと、針葉樹が割合少になく、多くは落葉樹の古木で、水源涵養が理想的に行つて居ります。故に小さい川の割合に水量が豊富で、平水期と渇水期との差が、他川に比較して少ないのであります。
良質の硅藻が豊富に発生して而かも水温の関係から、腐敗が割合に遅いのであります。そして水源迄の流程が短かい事と、洪積土の露出が少ないこと、及び田用水の流入が少ないため、出水がありましても非常に澄みが早い。又水源地方の林相が立派でありますから、出水がありましても馬鹿水が出ない上、出水時に際して、全く硅藻を流し去る事がありません。
上流から東海道鉄橋から一里計り上流迄は、底石が非常に大きく、磧といふものが無いといつていゝ位ですから、出水がありましても、石の肩の硅藻は洗ひ流すが、石陰や石淀の硅藻は残ります。又水流の状態が、出水に際会すると平時の瀞と化し、トロが瀬になるのを常として居りますので、大洪水といつた様な出水がなければ、全川の垢を洗ひ去る場合が無いのであります。
他の大きな川では出水がありまして、垢を洗ひ去ると、新垢がつく一週間か十日間といふものは、鮎が痩せ細るのを常とするのでありますが、興津川は硅藻が絶える時がありませんから、常に鮎は餌に不自由する時がありません。
ですから興津川の鮎は、水が澄みさへすれば何時でも釣れるのです。中流及び上流の沿岸地方に耕地、主として稲田が発達して居る川は水温が非常に高くなる上に、硅藻に泥垢が混入するのであります。硅藻に泥垢の混入した川の鮎(栃木県の那珂川及び富士川が適例)は肉が軟かく、骨が硬いのでありますが、興津川の硅藻中へは泥垢は全く混入して居ないといつても宜しい位です。これが為めに興津川の鮎は、香気が高く、姿が立派であります。」
水温が低く保たれる渓流相的な環境もあり、骨は非常に柔らかいとの事。
残り垢が出来やすい事は何となく判るような気はするが。
垢石翁が大好きと思われる「瀧津瀬」での釣りが出来ないという事ではないと思うが。
又、川が小さいために、品切れになる、との記述も、現在の「釣果」を基準にして判断しては誤りと思うが、具体的に何匹位になるのかなあ。匁で表示されている川漁師の数値から推察しなければならないのでしょうが。田辺さんと違い、天保の代の姥桜の旅費を平成の世の者にも推測できるように表現されている腕は無いからなあ。貫目で表現されている重量をグラムに換算する事ぐらいは出来るが、1匹の重量がいくらであるのか、そこが問題だ。百グラムなのか、二百グラムなのか。現在の遡上鮎の大きさとは異なるようであるから。
北海道の鮎の川と漁獲量
すでに遡上も始まり、追憶から足を洗わないと困る季節に。
藤田さんが書かれた事柄で、
1 多摩川での越年鮎の調査については、前さんのヒネ鮎探訪記とどこが同じで、どこが異なるのか。
2 「冬の川」の石が、遡上鮎に磨かれない、との観察は、硅藻が優占種の川での現象で、藍藻が優占種の川とは異なる、ということなのか、それとも、硅藻が優占種の川でも遡上鮎が腐りアカの石を磨く、あるいは腐り垢につく新アカを食べ、徐々に石を磨いていくのか。
という問題は気になるが、来年に回しましょう。
藤田さんは、各地方の鮎の川の紹介をされているが、現在の「鮎の川」と異なる事例が多い。
そのことは主題にはせずに、北海道の川と鮎だけを紹介します。
当然、現在の釣り人が通い、又、評価の高い川と、藤田さんが各地方に紹介されている川との違いは、来年に先送りです。
そして、「湖産」放流に係る石川博士の実験の紹介をして、今年の追憶を終えることにします。
石川博士が、琵琶湖の「小鮎」は食糧不足、飢饉が解消すると、「大鮎」になると考えられていたことが、東先生の調査、観察で間違っていたと判明しても=他の川に放流しなくても、その年は「大鮎」になる稚鮎を採捕、放流していたから。また、平成の初め頃の冷水病の発生までは、「湖産ブランド」で一世を風靡したこともあるから、というだけでなく、藤田さんと石川博士が多摩川は羽村堰上流に湖産放流をした実験とつながっているから。
「北海道の鮎は内地より移して初めて蕃殖したものと聞いてゐたが、事実はさうでなく、古くから棲息したものである。札幌の人で七十八歳の高齢で同地の釣界にその名を知られる梁田政輔翁の談によると、明治十一年渡島国檜山郡の石崎川および同国爾志(にし)郡見市川に鮎を見たのがその初めで本道にも鮎の棲息するといふことが知れた。
次いで明治十七年の夏札幌の創成川に開拓使庁当時百馬力の水車を据付けて作業中農務部の官吏の妻女がその流れで洗ひものをしてゐて、どういふはずみであつたか名の知れない五寸位の綺麗な魚二尾を生捕りして宅に戻り夫君に示したが何魚か分らず、早速開拓使庁に持参してその魚名を問うたが多数の官吏もこれを知らなかつた、当時官吏として在庁中の梁田氏がこれは鮎なりと説明したといふ。
その後、日清戦争の明治二十七年頃、渡島国厚沢部川の下流安野呂川に盛んに蕃殖し引つ掛け鉤にて捕獲し販売したるものあり、大正十年には石狩国厚田川にて捕獲されて漸く鮎の名著はれ、同年北畠地方課長の時代において初めて蕃殖奨励、漁獲取締等のことが発表された。大正十五年には天塩国増毛郡の暑寒別川にて、昭和二年には同国留萌郡初山別川にも棲息することが知れて一般に鮎の発生を認められたが、現在に於いても未だ本道に鮎のゐることを知らないものが多い。
大正八年には余市町役場の助役国井末、収入役鈴木八十八氏等に前記梁田翁が鮎の増殖を勧めたことあり、その後同町では人工孵化をやつて、今日では小樽、札幌の両市へ生鮎を出すまでに蕃殖し、余市の一名物となつたのである。」
鮎が蕃殖していたのは、稚鮎の生存限界以上の水温が存在していた対馬暖流が流れていた日本海側でしょう。
次の問題は、北限は何処までか、ということになるが、天塩郡、留萌郡ということにしておきましょう。
ただ、余市川は小樽、そして札幌を流れる川、その北の留萌を流れる暑寒別川には鮎が蕃殖していたとのことであるから、留萌が北限かなあ。
なお、尻別川が見当たらなかったが、別の名前で地図に載っているのかなあ。
「人工孵化」の意味はどういうことかなあ。継代人工の種苗生産が始まったのは、1985年頃の群馬県、そして神奈川県とされているから、F1の生産ということかなあ。
しかし、もし、遡上量が多ければ、人工種苗の生産は必要ないと思うが。
「生鮎」の出荷が、さなぎ臭い、なんて、評判は立たなかったのかなあ。サンマのように、焼いている時に油が滴り落ちなかったのかなあ。
そのような鮎でも、人工種苗の生産と養殖アユが成り立っていたのかなあ。
平成の初め頃、尻別川で全国大会が行われていたが、既に堰が存在している等何らかの原因で、遡上鮎ではなく、「トラックで運ばれてきた鮎」が、大会の主役ではなかったのかなあ。
北海道には一回だけしか行っていないし、そのとき、ルアーを持っていて北海道でも「釣りをした」との実績をつくったが。三十分程であるが。函館の川には魚の生体反応が期待できない状況であったから、海まで歩いたが。
藤田さんは、
「全国鮎の産額について昭和五年十二月農務省発表の同四年の統計によれば」
と、府県別の数量と産額を書かれている。
「~最も産額の多きは滋賀県の数量十八萬六千四百九十五貫、価格二十七萬四十四円であつて、その大部分は琵琶湖小鮎の産額であることはいふまでもない。第二位は高知県の五萬四千四百七十七貫、十二萬六千二百八十二円、第三位は岐阜県の五萬二千六十七貫、四十八萬八千九百八十八円であるが、高知が産額に於いて二千四百十貫を超過しながらその価格が岐阜に比し三十六萬二千七百六円を減じてゐることは一寸不審に思はるゝがこれは交通の便否による販路先の関係からであらう。
これに次では島根、熊本、宮崎、栃木、岡山、徳島、福井等の順位となり、産額の著しく少なき地方は、秋田、長崎、佐賀等で千葉県の四百十二貫、二千九百十九円、沖縄の十四貫、二十六円が最少額であるが全然(ぜんぜん)産額の表示していないのは香川県のみである。猶酷寒の地北海道の産額が二千六十六貫、価格が七千六百七十二円に達してゐることは特に注意したい。」
北海道の産額は、東京の二千九百十貫よりも少ないものの、秋田の九百三十六貫よりも多く、福島の二千二百九十五貫と左程大きな差はない。
この点からも、「人工」生産の意味はどういうことか、気になりますねえ。あえて、人工種苗生産か、養殖か、を行わなくても十分の遡上鮎が川に居たのではないかなあ。
「農林省の発表は右の通りであるが(注:大正八年から昭和四年までの全国の産額と価格を記載)、官庁の調査はそのすべてにおいて実際よりも減少を示すことが例である。殊に、漁業調査の如きは当事者間にその実際を明かさゞること多きを以て、恐らく産額も又その価格に於いても本表の倍額以上に達していると見て誤りがないと信ずる。されば全国に於ける鮎の産額は少なくとも百六十萬貫以上、価格亦六百七十萬円を超過するものと見てよい。」
平成の初め頃、相模川の漁獲量が、全国有数の量であるからびっくりしたことがある。漁連の義務放流量×再捕率×何とかを乗算して算出していて、「実態」とかけ離れた数量になっていたのではないかなあ。継代人工の死亡率は当然考慮されていないのでは。三十ウン代まで継代を続けていた県産種苗は、中津川での区間を区切った、下流側を網で仕切った小さな支流の調査結果で、生存率が数匹という結果に、五キロ程が死んだ結果で、やっと、生産が中止された。薬漬けの種苗センターでは生存できていても、川の雑菌に対してさえ、耐性がなかったのでは、と想像しているが。平成の初め頃は、まだ継代が十代位であったから、それほど低い生存率ではないが。
相模大堰はまだ存在していなかったから、相模大堰での遡上量調査は行われていない。その中で、遡上量をいかなる手法で算定したのかなあ。
統計数値よりも実態の方が、数字が大きいとは、明治、大正と平成の違いですなあ。
ということで、一件落着、と思っていたら、「鮎師天竜玉三郎」に、二千十四年、三百四十トンで、相模川の漁獲量が日本一と。
漁連の義務放流量は、二十世紀の230万匹から120万匹に減少しているが、2014年の相模大堰副魚道の遡上量調査では500万匹程。その数になんじゃらかんじゃらの係数を掛けての数値とは思うが。
磯部の堰を遡上した鮎はいないものの、その下流には遡上鮎がいるから、相模川が日本一の漁獲量といえるかも。
しかし、五百万の遡上量で「日本一」とは、いかに全国の遡上量が減少しているということを表現していても、その意味だけかも。
また、玉三郎さんは、相模川日本一のからくり、あるいは実態を適切に表現されていないことに気がついているのではないかなあ。
ということもあり、藤田さんが紹介されている漁獲量、価格について、いかなる水準なのか、全くイメージできません。
ましてや、「相模川日本一」の数値との比較なんて雲の上のお話しです。
なお、漁連の義務放流量には、神奈川県内水面試験場が生産したF1かF2とF11を掛け合わせて、大きく育つ能力ですら欠如していると思われる種苗も、数量は分からないが含まれている。その放流鮎でも、立派に、一人前の、一定の重量、数の構成要因になっているのでは。
石川博士の仮説と実験
「そのヒウヲは今でも毎年十一月から三月ごろまで夜間盛んに漁獲される。その火光を慕ふ習性が利用されて、夕方から夜の明け方まで松火(たいまつ)を燃しつつ地引網やうの網を曳いて捕るのであるが、その漁火(いさりび)が湖面に揺曳するさまなかなかの美観で琵琶湖の名物となつてゐる。
ところで、この子鮎は久しい間問題になつてゐた、といふのは小さい儘(まま)で大きくならないことと、更に又、湖中には大鮎も棲息して湖中に注ぐ河川に溯上するものゝ中には大いに発育して立派なものが出来る。それで、琵琶湖の鮎は大きくなるものと、大きくならずに子鮎で終るものと二色に分れて全く別種のものであると、かう信じられてゐた。これは長い間のことで、土地の漁師は固より専門の水産家も一致した見解であつた。
然るに、理学博士石川千代松氏は、明治四十三年九月に滋賀県水産試験場に行かれ、子鮎の卵の発生について色々調べられた結果、普通の鮎と子鮎とはその発生学上より見て何ら異つたところがない、全く身体に働く外囲の影響――即ちその食餌や棲息する所の環境から大きくならないもので、その生殖質は一向変つてゐない、もし、この子鮎を他の良い河川に移殖して見たら必ず立派な鮎になるに違ひない。又琵琶湖に大鮎を見ることは湖中に注ぐ川の上流へ溯上して大きくなつたので、これも別種のものでないから子鮎と大鮎が湖中にゐたとしても少しも不思議でない。」
藤田さんは、湖産の「子鮎」が全国に移植されるまでの消息について、大原試験場での石川博士の講演資料から紹介されている。
降海しないで、一生川に居て産卵するランド・ロックされた鮎が、「子鮎」という7センチ位の小さい鮎であると認識されていた。
「所が、玆(ここ)に面白いことにはこの子鮎の構造や発生であつて、私は明治二十五,六年ごろ今では亡くなられた浪江元吉氏が多摩川二子の渡し辺で鮎の発生を調査して居(お)られた頃にその発生を調べてみたが、その当時はまだ子鮎と大鮎の関係について何も深く考へなかつた。」
「~明治三十三,四年頃から三,四年間彦根試験場の内山亀五郎氏と共に琵琶湖の各所で子鮎の形態を調査してその大鮎と相違のないことを知つたのである。」
地中養殖をして一番大きいのは一尺になった。
醒ヶ井の料理店の流れ川に飼われている鮎は、琵琶湖から運んできた鮎で、大きくなっていた。
料理屋の主人は、湖水の大鮎の方を捕ってきたから大きくなった、大鮎と子鮎は違うと。
「しかし、これは一種の迷信で、子鮎と大鮎とは全然違ったものであるとは、その当時からついこの間大正十二年ごろまでは誰れもさう思つてゐたのである。誰れもが知るやうに琵琶湖は瀬多川で大阪の海と通じてゐるからこれを溯つて来るものが大鮎で、琵琶湖にばかりゐるものが子鮎である。であるから湖水又は大鮎と子鮎とがゐるのであると、でこの子鮎はランド・ロックされた鮎であると思はれてゐたのである。」
海アユが、琵琶湖に遡上できなくなったのはいつ頃かなあ。
大正十二年ごろよりも後のようであるが。
海アユが琵琶湖に遡上できていても、「湖産」と海アユの交雑種は生産されない。海アユは下りをして産卵する、また、産卵時季が学者先生のご託宣を信用するならいざ知らず、故松沢さんや仁淀川の弥太さんらの「西風が吹き荒れる頃」から海アユの下りを含めた産卵行動が始まるゆえ、産卵時季の重なりもない。いや、ほんのちょっぴりは産卵時季の重なりが存在するが。
産卵時季の重なりが存在するとしても、湖産は琵琶湖に流入する川で、海アユは淀川のどこかで産卵するから、産卵場所の重なりはない。
「湖水に注ぐ川上に大きな鮎がいるのは愛知川(えちがわ)の上ばかりでなく、他の川でも同じことである。西江州の方でも私は二,三の川を調べたが、川上へ行くと何(いづ)れも皆大鮎がいる。しかし、これらの鮎は皆大鮎の子が川上に溯つたもので子鮎が大きくなつたのではないと思はれてゐた。天ノ川の河口に近い所に住んでゐる川守幸四郎といふ男は今では子鮎で大きな商売をしてゐるが、古い時から子鮎の飴煮などをしていて、子鮎の習性に関しては色々のことを知つているといふのでその頃内山君と数回尋ねて行つた。
この男も子鮎と大鮎の違ふことを頻りに主唱して、ヤレ此処が違ふとか、アソコが違ふとかいふたが、では標本でその相違を見せろといふと、標本を沢山並べて見たところそれが到底判然しないので、『先生子鮎と大鮎の確な違ひは、四月十五日前にこの川に溯るものは大鮎の子で、それから後に来るのは子鮎であります』といふた。或はさうかも知れない。強いもので早く来るのは川上に溯ることが出来て大きくなるし、さうでないものは川へ溯ることが出来ないで、終生子鮎でゐるのだと私はいふた。
この子鮎が大鮎と違ふといふことは今もいふやうに誰れでも信じてゐたので、水産局の徳久君なども、大鮎には頸の所に二つの黄色の斑点があるが、子鮎にはそれが一つしかないといふて居られた。このことは多くの人が信じてゐたことで、方々の川で子鮎を放流してからも、この点で子鮎が大きくなつたものであるか、大鮎だかゞ判るといふことはその後も方々で聴いた話であるが。しかし、これは事実でなくて信仰である。
で、斯様なことが解つたから、私は琵琶湖の子鮎を鮎が生長するのに適当な河川へ放つて見たいと思つて彦根試験場の川端君に話したが、中々やれない。といふのは内山君はそれが確かに大きくなることは承知いて居られたが、川端君は、でも、若しそれが出来そこなふと、八釜敷いことになるから、といはれてそれをなかなか実行されなかつた。これは一応尤もな話で、川端君が悪いのではなく、日本人が全体に悪いのである。」
「~私は大正二年と四年とに青梅まで子鮎を運んでみた。この試験は一つには活魚の遠距離運搬と子鮎を大きくするためであつた。大正二年の時はドイツ式の極めて簡単な器具で三百尾を運んで見たが、それが二十六時間もかゝつたけれども青梅まで殆ど完全に着いた。
次に大正四年の時には酸素を入れて運んだが、この時のは真暗の箱で運んだので、青梅で箱から出した時、明るいのに驚いたのか小鮎は沢山死んでしまつた。それから二年の時に夏になつて青梅より上の方で大きな鮎が捕れたことを時々聞いたが、標本を持つて来ないから、確かなことはいへないと郡長の安藤君が私に話された。
所が、今から四,五年前に文藝春秋に鮎のことを書いた。この時青梅の郡役所に私が放流した時の記録があるかと問うた所不結果と書いてあるとのことで、それを文藝春秋に書いておいた。ところが藤田俊雄といふ方から手紙が来て、文藝春秋に大正二年に多摩川へ入れた小鮎が失敗に終つたと書いてあつたが、自分は父と共にその秋二子の渡し辺で羽村の堰が出来て以来決して捕れたことのない九寸から一尺二寸までの大鮎を釣つた。
年寄りの漁夫に見せた所九寸位のは羽村の堰の出来た前には鉤にかゝつたものだが、尺以上ものもが捕れたことはないといふて驚いた。それで自分達は当時新聞に琵琶湖の小鮎を私が移殖したといふことが出てゐたから、それに相違ないと思つてゐた。その外にはそんな大きい鮎が捕れる筈がないとのことを細々書いて呉れられ、それから暫くして尊父栄吉君が私を訪はれ委細話されて、当時捕へた魚は琵琶湖の小鮎に相違ないと申された。
で、あるから何故に青梅の郡役所も不結果と書いたと書いたかといふと、それは当時大学の水産の先生も、農林省の水産局の方々も小鮎が大きくなるなどとは夢にも思つて得られないで私の試験は實に愚の骨頂であると笑つて居られたからである。
それから後、大正十二年に滋賀県の試験場から水産局へ正式に申し出された時本省から来られた方々が、いくら石川さんが進化論者でも二,三寸の小鮎がイキナリ八,九寸の大鮎になつて堪るものか、動物の進化といふものは決してそんなものではないと申されたとのことである。」
ということで、石川博士は「小鮎」を放流されたとの「確信」の下に、学者先生の教義と「常識」に格闘されることになった。
東先生が、「小鮎」ではなく、「その年」は大鮎になる「鮎」を放流していたから、琵琶湖に注ぐ川から食糧潤沢な多摩川等に移植しなくても「大鮎」に育つと、観察されるまで、半世紀程は石川博士の説が「公理」とされるようになったとは、歴史の皮肉かなあ。
環境変化で「本然の性」が目覚める事例=アキソロートルの話
藤田さんは、「三,変異と遺伝性」の節で、石川博士が、「小鮎」が他の川に移植されたら、「大鮎」に育つ理由を紹介されている。
「すべて生物が外囲の境遇によつて変わることは、今日誰しも知る事実である。桜島の大根の大きいのも、その実まだ完全には研究されてゐないかと思ふが、境遇によるものではなからうか。孟母三遷の教は昔時(せきじ)から有名である。けれども斯様(かよう)にして良くなり又は悪くなつたものが子孫に遺伝するや否や。
この問題を八釜しくいふたのはワイズマン先生であつた。一千八百七十二,三年頃ダーウヰンがまだ若いころは生物体が外囲のために変化した事柄は遺伝するものであると考へられてゐた。或は動植物は境遇を変へると変はることが出来るものと思はれてゐた。であるから人工的にも境遇を変へると自由に動植物を変へることが出来るものだと思はれてゐた。
このことで当時有名であつたのは、メキシコ高原の湖水に産するアキソロートルといふもので、この動物は終生鰓を有する両生類の一種で、恰度、蛙の蝌蚪(注:おたまじゃくし)のやうに子供の有様でゐるものである。
所が、このアキソロートルは始終水中に棲み決して離れない。その理由はメキシコ高原は空気が大層乾燥しているので、それが水を出ることが出来ないからである。ところが適当なテラリウムを造りその内の空気に湿気を含ませてアキソロ-トルをこれに入れ静かに水から出ることの出来るやうにし注意して食物を与へて見た所驚くべきことにはアキソロートルが鰓を失ひ、その体形も変つてきて遂に北米アレガニース辺の山間に産するアンブリストマンといふ陸サンセウウヲと同じものとなつた。
当時、それは大変なことで、動物は斯様(かよう)にして進化させることも出来るとまでいはれたので、或人の如きはこれは正しく進化の何よりの証拠であるとまでいふた。ところが、ワイズマン先生はアカマダラ蝶に春夏二形のものがあることを調べた後、このアキソロートルがアンブリストマに変ずることも調べて、アキソロートルは元来アンブリストマで、それが湿つた土地では陸に上つて親の形になるのだが、メキシコではそれが出来ない。であるから終生あの有様でゐるのである。
故にアキソロートルが彼の形でゐるのは、それはアンブリストマになるべき境遇がないからである。であるからアキソロートルにその境遇を与へればアンブリストマになるのである。詰る所アキソロートルはアンブリストマの子供であるが、それが完全に発達してアンブリストマになることが出来ないのである。であるから、これはリバーションでも何でもないので、又無論、アキソロートルがアンブリストマに進化したのでもない。
かやうな考へは先生には前からあつたが、その後生物の生殖細胞ので出来方を調べた後この考へが一層確になり、生物の根本的の変化は生殖質の変化からくるもので、外囲の影響はいくら長く続いてもこれを変へるものでないといふことを主唱せられ生殖質連継説もこれから出たものである。」
「~琵琶湖の小鮎が境遇を変えると大きくなるのはこれと全くアキソロ-トルがアンブリストマになるのと同様で、小鮎は前にああいふ種類があるのでなく、全く大鮎の子供が大きくなるのに適した境遇がないからあの通りでゐるので、あれが春大きくなる頃に適当な境遇に遭はすれば大鮎になるのである。」
ということで、「小鮎」が「大鮎」に変身するには境遇を変えれば良いことになる、と。
そして、
「であると、小鮎は他の湖水でもその棲息することが出来る所ならば、大鮎から直ぐに出来るものであるだらうといふ考へから私は他に琵琶湖のやうな湖水を探(たづ)ねていた。」
そして、池田湖に辿りついたが、その観察と前さんの観察との異同は、来年にしましょう。
石川博士の観察で気になる所は、狩野川に係る産卵場の時季による変化である。
「所が、茲(ここ)に鮎の習性で一寸面白いことがある。それは河川に棲む鮎は秋が来て水温が大概二十度を下ると川を下つて来て適当な場所で産卵するのである。鮎のこの産卵場所は何れの川でも定まつたものであるが、それが初めには比較的に上の方で時が遅くなると段々と河口へ近くなつて来てつひには河口の直き側で産卵する。
駿河の狩野川では初めは古奈辺で産卵するが、十二月の初頃にはそれが沼津町の極く近い所だとのことである。これは多分水温に関係するものであらうが委しいことはまだ解つてゐないと思ふ。」
このくらいの間違いであれば、故松沢さんを煩わすことなく、オラでもわかる。
1 水温二十度位で産卵行動が始まるのは、東北・日本海側=対馬暖流を生活圏とする海アユと湖産であろう。房総以西の太平洋側を生活圏とする川の海アユは、水温十二度位で産卵のための下りを含めて、「そわそわ」する。
2 12月になっても、古奈付近で海アユが産卵している。勿論、大滝付近でも産卵をしている。
古奈付近よりも下流の松原橋やそれよりも下流までしか遡上しなかったアユが産卵を始めるのは、12月生まれが多いと思うから、古奈付近よりも産卵開始時期が遅いことは想像出来る。
従って、12月になると、或いは時季が遅くなると、下流だけが産卵場ということ間違っている。
石川博士は、この現象を水温に関係すると考えられているが、どういうことかなあ。下流の方が水温が高いとしても、狩野川では湯ヶ島地区などを除けば、城山下でも松下の瀬でも、大滝付近と水温差はそれほどないと思うが。
勿論、大滝付近には三島の工場の排水処理水が流れ込んでいたから、その上流よりは水温が高いとは思うが、それは昭和四六年の公害三法が成立して以降の話で、大正の代には存在しない事柄です。
なお、狩野川に遡上鮎が満ちあふれていた平成の初め頃、鮎雑誌に12月に伊豆長岡で友釣りをして大漁だったこと、雄は叩いている途中のものも釣れた、との記事があった。その頃は12月に囮を手に入れるには、特別な事態であったが。11月23日には囮屋さんは店じまいをしていたから。
石川博士は、遡上鮎で満ちあふれていた頃の狩野川の「小鮎」と、琵琶湖の「小鮎」を同じ存在と考えられていたようである。
「~大正十三年だと思ふが、村山貯水池に小鮎を作らうといふ目的で態々琵琶湖の小鮎を移殖したことがある。これは實に馬鹿げたことで、村山貯水池がもし小鮎の生存に適してゐるならば態々小鮎を遠い琵琶湖から運んでこないでも多摩川辺の大鮎が産んだ卵を入れゝば宜しいのである。私はそのとき或人に、困つたものだ本当のことが解らないのかといつたことがある。
しかし、小鮎は斯様なものであるから、必ずしも琵琶湖に限つたものではない。普通の河川にもよく秋の末になつて小さな魚で卵を腹に有(も)つものがある。」
「~金沢の犀川でかやうな雌をコメスといふと私に話された。又私も子供の時、駿河の狩野川の大瀧といふ所の下で秋になつてよく卵をもつた小形の鮎を捕つたことがあつたが、今になつて考えるとこれも琵琶湖の小鮎と同一なものであることは確かである。又琵琶湖は大阪湾に通じてゐるから、湖水にゐる大形の魚は海から溯つて来たものだと思はれているが、よく調べて見ると湖水の魚も大小と定つたものでなく、色々の大きさのものがある。
して、これらが湖水で出来たものであるとか、海から溯つたものであるとかでないことは池田湖や殊に鰻池でよく分るのである。即ち鰻池には秋に行つて見ても小鮎は池の南岸で小砂利が沢山あつて、日陰になつてゐる所に沢山居り、北岸で日当りがよく大きな岩があつてそれに硅藻が沢山ついてゐる所には大きな鮎がゐる。であるから琵琶湖でも食物その他の関係で、色々の大きさの鮎が出来るものであると思はれてゐるのである。たゞ、それ等の内で小鮎が一番多いのである。」
村山貯水池は水深が十メートル以上ではなく、又湧き水が豊富ではないでしょうから、冬には生存限界以下の水温なり、鮎が育つことなく、死んでしまうのでは。
石川博士の海アユも湖産も「小鮎」が存在し、それは「共通する」現象で、異なる所はない、との考えを打破されたのが東先生ということになるが。
萬サ翁も前さんも故松沢さんも、湖産と海アユの容姿の違いを観察されていた。その海アユが「丸顔」という表現は、継代人工花盛りの現在に於いては「誤解」を生じる表現であると危惧しているが。
東先生の登場
さて、東先生や川那部先生が、石川博士が「食糧」が潤沢な所に「小鮎」を移植すれば「大鮎」に変身するとの説がまちがっちょうると判断された観察の一端は、「小鮎」の採捕場所、時季によるのではないかなあ。
藤田さんは、採捕場所について
「この移植用の琵琶湖の小鮎は天ノ川と姉川の二カ所にて採捕する。天ノ川のは竹の簀で川を遮断し、岸の一部に壺と称する約四坪位の魚捕部を設ける、小鮎は簀のため溯りを妨げられ遂に壺の中へ集る、その集つた頃を見て魚捕部の入り口に簀を建てゝ下降を妨ぎ四ツ手網で朝と晩の二回に掬ひとつて網生洲(あみいけす)に畜養するのであるが、姉川は水量の多いのと川幅の広い関係で天ノ川の如く簀立(すだて)を行はず壺をも設けないで、魚捕部に集つたのを絶えず掬ひとつて網生洲に移してゐるが、氷魚時期のものは絶対輸送に適しない。
又畜養期間は普通三日間にて五日以上になると魚体に損傷を生じ又、一,二日過ぎないものは輸送中多く斃死することからその採捕畜養と輸送とは極めて短時日の間に行わなければならないのである。」
ということで、3月か4月に遡上してきた稚鮎を採捕して放流しているから、その年には「小鮎」として一生を終える「小鮎」を他の河川に放流して、食糧が潤沢になって、「大鮎」に育つのではない。琵琶湖に流入する川にほっておいても「大鮎」に育つ稚鮎を採捕して、他の川に、多摩川に移植していた。
もともと、その年には「大鮎」として生涯を終える「大鮎」の稚鮎を採捕していることになる。
東先生と異なり、何で、「春」の遡上稚鮎を「小鮎」と判断したのかなあ。同じ現象を観察されていてもその評価が異なるのは何でかなあ。
石川博士は
「~鮎の産卵には水温が一の刺戟になつて水流に従ふトロビズムがあるやうに見える。所が、玆に一寸不思議に思はれることは琵琶湖の小鮎で、それが産卵期に近づいてくると、大鮎と反対で湖水へ注ぐ河川を溯るのである。その時の水温はまだ委しく調べていないかと思ふが、何んにせよ産卵せんとする小鮎は川へ溯るのである。これで見ると流水に対するトロビズムは反対のやうである。」
そうなんですよ、東先生が着目されたのは、川を遡上した「大鮎」よりも先に「小鮎」が産卵すること、8,9月に湖水を離れて産卵のために遡上し、産卵する現象ではないかなあ。石川博士は、その「小鮎」の産卵現象を観察されているのに、春に遡上した鮎を「小鮎」と判断されている。石川博士に、いかなる「予断」が存在していたのかなあ。
春に遡上した稚鮎は、その年は「大鮎になる」宿命を持った稚鮎であって、「小鮎」ではない。
小鮎は秋に遡上する。それも、産卵のために。
秋道先生は、「アユと日本人」(丸善ライブラリ 平成四年発行)に、
「東幹夫氏の研究によると、湖に残留したコアユの産卵時期は春に川を遡上した群れの場合(九~一一月)よりもはやく、だいたい八~九月である。そして早生まれのものは、翌春にそれだけはやく川を溯上する。一方、河川を溯上したアユのほうの産卵時期はおそいので、つぎに生まれた子は湖に残留するという。」
東先生は、「鮎の博物誌」の座談会では四群とされていた湖産を二群に変更されている。その二群の分類が、産卵時季に着目し、且つ、性成熟をするまでの生活空間の違いに着目されていることは、何となく判る。
しかし、性成熟に要する期間が、毎年変化する、との事柄は、単細胞のオラには理解出来かねる現象。
石川博士も産卵時季を異にする湖産がいること、産卵のためにだけ遡上する湖産がいることを観察されているのに、春に遡上した鮎を「小鮎」と評価されたのは何でかなあ。
西風が吹き荒れた後にもオラの相手をしてくれていた海産のチビ鮎も湖産の「小鮎」と同一視されたのは何でかなあ。
石川博士は、川に居るアユの氏素性に無頓着で、「目利き」が出来ず、川に居るアユは皆兄弟、ということを前提にしてアユの生活誌を語る学者先生の習性の端緒、開祖ということかなあ。
なお、秋道先生は、各章の文献を紹介されているが、その中に東先生が湖産を「二群」とされた文献が記載されていない。研究論文レベルでの発表しか行われておらず、「学者先生」の「アユ学」や、「ここまで解ったアユ」の「アユの本」のように、出版されることがない、ということかなあ。悪貨は良貨を駆逐する現象が、あゆみちゃんの適切な観察の流布を妨げているというオラのひがみが表現されているということかなあ。
湖産が、「一代限りの侵略者」であり、再生産に寄与していないこと、そして、海アユの遺伝子汚染も行われなかったことを、故松沢さんら「目利き」の出来る川漁師以外では初めて観察されたのが一九八〇年の少し前の松浦川での観察に於ける東先生。二一世紀になって、鼠ヶ関川でのアイソザイム分析で湖産も交雑種も海から遡上していないことを観察されたのが山形県。
なお、秋道先生は、汽水域だけで生活する「シオアユ」の話に言及されているが、その氏素性についてはコメントをされていないのは何でかなあ。
故松沢さんは、狩野川の汽水域から海に出て行かない稚鮎の存在を観察されていて、それを継代人工等の「人間」が生産したアユの子孫と推察されていたが。
そのような、「湖産」に係る石川博士と学者先生の誤った観察があり、それが流布していたが、「湖産」はどんどん移出されていった。
湖産放流の開始
滋賀県水産試験場も、「~大正十二年から十四年まで琵琶湖の下流勢多川の支流佐倉川に放流を試みた。この佐倉川は流程僅かに五里の河川であるが、勢多川との合流点から十余町のところに高さ二丈に達する瀑(たき)があつてそれより上流には鮎が遡り得ないが、其所(そこ)はよい渓流で十分鮎の発育に適するので放流試験には頗るよい所であつた。
初めの大正十二年には体長三寸一分位のを千九百五十尾を放つたところそれが体長七寸三分、三十匁に生長して一千五百尾を漁獲し得た。その次の十三年には体長三寸一分のもの八千二百尾を放つたがこれ亦七寸一分二十六匁余りの大鮎になつて六千五十二尾が捕れ、更に同十四年には数量を増やして九千尾の放流を試みた、この年の体長三寸二分のものであつたが、それが七寸五分三百二十匁となつて五千九百十三尾を漁獲して三ケ年とも見事なる成績を収め得た。」
体長七寸、三十匁、という大きさであれば、びっくりしないで、ああ、そうか、と納得できる大きさ。
なお、大正十四年の「三百二十匁」は、一桁違いの誤植でしょう。
その年には「大鮎」に育つ鮎が「小鮎」の稚鮎として放流された事の結果がよく、
「この佐倉川における小鮎放流の成績がよかつたことが発表されたのを京都府下の漁業者と川魚商とが聴いて、同十三年四月に共同事業として琵琶湖岸天ノ川産の小鮎一萬二千三百尾を買入れて京都清瀧川の堰堤の上流に放流したところ、此所(ここ)にても好結果を得て同地方のものを驚かした。これが琵琶湖小鮎の他府県への移殖された最初であつて段々世間の評判となり、同十四年には東京、石川、兵庫へも移殖され何れの地方も好成績を示して昭和三年には三府十六県に亘り一躍二百十六万余を輸出するに至り僅か五年間に百七十八倍に達したがその後の需要は益々増加し、同五年には實にその倍額以上の五百萬尾の輸出を見るに至つた。」
藤田さんが、多摩川で九月に抱卵した大鮎を釣ったその氏素性が「湖産」と想像しているが、昭和二年の東京=多摩川への放流は、六十九万余、五年が二十三万余、六年が三十万余とのことであるから、湖産放流全盛時代とは比べようもない少ない数字。
この数字で、偶然、九月末まで釣られることなく、生き残った「湖産」を藤田さんが釣り上げた、とは、宝くじに当たる確率よりは低いとしても、「一般」現象とはいえないから困ったなあ。
湖産については、昭和三十年代のいつごろかから、ヒウオからの畜養が始まった。当然、その年は「小鮎」で生涯を送るヒウオも他の川に移殖されることになる。
昭和の終わり頃の酒匂川は、等級の高い「湖産」が放流されていたが、その類いの「湖産」もいた。当然、釣り人が消えた十月一日前後でも小中学生の大きさ。番茶も出花娘の大きさの湖産すら釣れることはなかった。
故松沢さんが、湖産を「線香花火」と形容されていたから、「大鮎」に成長できたものは九月を待つことなく釣り切られていたことも想像できるが。
九月十五日頃に土手の囮屋さんが店じまいをしたのち、釣れる鮎も、釣り人も激減していたが、富士道橋に近いところの店だけは囮を置いてくれていた。小中学生の大きさの錆びたアユ、半分叩いた鮎と戯れていた。囮屋さんと二人っきりの酒匂川で。
冷水病が蔓延し、湖産が原因であることが、一般に認識されるようになった頃の十月には大きい鮎が釣れた。継代人工の登場である。
なお、前さんは、湖産の生産量を上げるために、人工の川を作り産卵を促すようになった琵琶湖で、その親が湖産であるのか、海産であるのか、識別しないで人工河川に入れられている可能性のある事を懸念されていたが。
さて、そろそろ解禁日が近くなったので、垢石翁が解禁日にお疲れさん、となった年の解禁日のことを紹介して、「故松沢さんの思いで:補記八」を終えることにしましょう。
またもや、繰り返すことになるが、田辺さんが天保の代の姥桜四人組の旅を現在のオラでも適切に理解できるように表現されたことに感謝。
それに比べて、大正、昭和のあゆみちゃんのことですら、川のことですら、適切に理解することが困難であることにがっくりとしたオラです。
小河川の品切れとは?
藤田さんは、最上川、支流の寒河江川を紹介された後、
「かく、急流に多く良質の鮎を産すると共に小河川に於ても、その川の質が鮎の発育に適する場合は非常なる豊産を見るし魚の質も亦よい。一,二の例を挙げると、羽後の鳥海山に源を発し秋田県由利郡の院内、上郷、小出の三ケ村に跨つて、南東から北西に延び赤川外二支流を合し、寺田、百目木を過ぎ金浦(このうら)付近の芹田にて日本海に注ぐ白雪川は僅か延長五里の小河川であるが、水源地域が古い噴火口である関係により、懸崖屏立し、所々浸蝕によつて深い峡谷を構成し、河床は一帯大小の玉石にて充(みた)され、その間に巨石転在するといふ、鮎の発育条件の悉くを備へ硅藻の発生宜しく、毎年七月一五,六日ごろより漁獲を初め九月一五,六日頃に終るのであるが、大正五年の如きは大いに蕃殖し友釣にて一日百二三十尾を掛け得たるものあり、その後最も不出来の年柄にあつても日々六,七十尾をつることは容易であり、その発育もなかなか早く、毎年七月一日の解禁ごろには最大七寸余に達するといふ。奥羽地方の寒冷なる水域にあつて、かくも発育の早きことは全く河川の質の良好なるに因るのである。」
白雪川が何処の川か、探した。
赤川か、日光川、月光川か、と思っていたが、それらの川よりも更に北を流れていた。現在では鮎雑誌に登場することはないのではないかなあ。
藤田さんは、新荘川等餌釣りをしている高知の川を紹介した後、
「更に又、駿河の興津川は源を甲駿国境に発し、中河内、小河内の二小流を入れて、東南走し清見潟に注ぐ一小流であるが、鮎の分布水域は僅か二里余に過ぎざるも、両岸蹙て峡谷をなし、河床は一面大小の玉石なるのみならず、到るところ岩盤を露出し、淵をなす所には必ず巨岩を見るといふ鮎の発育に好適なる河質(かしつ)を有するため毎年おびたゞしい蕃殖であるが、珍らしいことには、沿岸の漁業協同組合が密漁と濫獲とを厳重に取締り沿岸の漁民相戒めて犯則者を出さざるに努め例年解禁前に当り懸賞金を支出して犯行者の取押へをやつている、それほどにしても時には東京の問屋筋と結託して密漁を行ふものもあるが、兎に角、沿岸の取締がこれほどに励行されてる地方は少ない。
この保護により解禁期直前の五月末などは二里の間に充満せる魚群は瀬にも淵にも群れて、何ものにも恐れない、人もし水際(みぎは)の石に起つて足許(あしもと)の魚群を指呼するも人馴れた鮎は平気で游泳してゐる。恰度泉水に飼つた鯉その儘である、かうしたことは他の河川に於ては決して見ることが出来ないのである。
しかも、これほど多い鮎も六月一日の解禁後僅か一ヶ月も経(たた)ない中に大抵は捕り尽くされてしまふ。これは余りに川の小さくして且つ分布水域の短少なるためであるが、たとへ水域は狭小であつても、川の質がよければ大いに蕃殖もし、品質も亦優れるといふことは此の川の状況を見てよく分るのである。
猶、この川の鮎はその発育がよく揃つて大小の懸隔が少い、六月一日既に最大八寸に達し、小なるものにても六,七寸を下らず、その以下のものは殆ど皆無なることも他の河川に余り見ざるところである。」
短期間に捕り尽くされ、その後は富士川等、他の川の増水で海に流されてきた差し鮎が漁獲の対象になる。
先ず、解禁日に八寸の大きさが想像を超える大きさ。小さくとも、六,七寸。故松沢さんが試し釣りをしていた時の大が18センチであったが、昭和の初めではその大きさが小となっていた。
そして、一ヶ月で捕り尽くされる程とは、これも想像できない現象。
そこで、垢石翁らが藁科川に行った時の解禁日を見てみよう。
佐藤垢石「釣の本」(アテネ書房復刻版・平成元年発行)の「太田川遠征」から
旧字は、当用漢字で表現しています。原文にない改行をしています。
昭和11年のことと思われる。
「釣ることに専念にならうか、それとも見聞を広めようかと、考へて来た。
月末に近い頃、水之趣味社の竹内氏と、行を共にする約束をした。竹内氏は、兎に角相模川の久保沢へ、行つて見るつもりになつて居るらしい。それは、今年の相模川は、下流に分があるといふ情報と、多年の経験による見込みがあつたばかりではない、布津、荒井両氏にドブ釣入門指導をやらねばならない約束もあつたからであらう。
そこで、私も大体、竹内氏と久保沢へ行くつもりで居たのである。
ところが、もう二三日で六月一日が来ようといふころ、岡部丹虹氏や新橋東作氏も、今年はどこでもいゝから一緒に釣らうぢやないかといふのである。友達の多い事は面白い。竹内氏もこれには賛成である。
で、また場所選定の協議がはじまつた。酒匂川が面白いかも知れない、といふので私が再視察に出掛けたところ、見込みが立たないのでこれは駄目。相模にしようか、それとも利根川に。狩野はどうだらう。興津川へも、毎年の事だが行つて見たい。いろいろの意見が出る。
私の考へでは、相模川は膝下だ、いつでも行きたい時に行ける。それよりも、何処か遠征して経験を豊富にしたい、といふ希望が誰にもあるのぢやないかと見た。
そして、最も条件のいゝところへ行かう。こんな申合せをした。諸君からいろいろの案が出たが三十一日の夕方になるまで場所が決定しなかつた。
私は、狩野川へ行く決心をした。そのことを諸君に話したのである。諸君の頭へ、ピンと来なかつた。もつと、面白いところはなからうか、といふ腹である。
結局、見聞を広めるといふ意味から、藁科川の上流を探り、更に遠州の太田川へ、といふ案が出たのである。」
「太田川は郷里に近いし、今年の情報は素晴らしい。また藁科川へは、長い間行つて見ない。ほんとうに、なつかしい気がする。何としても行つて見たいと竹内氏はいふ。岡部氏も東作氏も太田川の情報は聞いて居た。藁科川は見ておく必要があると、思つたのである。私も、藁科の上流と、太田川とへなら、狩野川は思ひ止つてもいゝと考へた。」
竹内さんは、弟子への指導を優先して、せっかくの故郷への思いを断ち切った。竹内さんは、昭和14年から外地に行かれているから、故郷の匂いのする場所で釣りをする数少ない機会を逸していたのかも。
「岡部、東作両氏と私の三人は、三十一日夜十一時半の下の関直行で東京を出発したのである。その夜、東作氏の店は、道具を買ふ人で一杯であつた。混雑の中で、こまこまと店員を指揮して居る夫人から、東作氏は暇を貰つた。私と、岡部氏は目を見合せて微笑した。おのおのの家庭の事を思ふたからである。何と羨しき夫人を持つた東作氏であらう。」
夜、十一時半東京発の夜汽車は、昭和三十年代には、姫路行きに、そして、神戸行きに、最後は大阪行きになっていた。
夜汽車が電車に替って、大垣行きに、現在はムーンライト長良になっていると思う。昭和の終わりか、平成の初めに、大垣行きに乗り、岐阜からバスで美濃へ。下流にではなく、沖に走る鮎を初体験して、丼。沖に走られては、鮎について行けないよなあ。
「(静岡の)駅前から、藁科川上流、八幡へ臨時バスが出た。乗客は皆、静岡市の釣人ばかりである。」
「兎も角条件はいゝらしいが、大した混雑であらう、と想像された。それは今年から静岡県では遊漁税を徴収するが、鑑札を受けた人が静岡市中だけでも、千六七百人はあるであらう、といふ話を聞いたからである。
安倍川の安西橋をわたる時、安倍と藁科の水量を見た。汽車の窓から見た興津の水程枯れては居ないが、豊富でもなかつた。でも、失望する程でもなかつたのである。空は曇つては居たが、降りさうでもなかつた。誰やらが車中で『今日は、ひどく暑くなるかも知れない。』といふ。川の両岸の山々に、霧に似た白い雲が去来するのである。もう、陽は出ているのであらう。
八幡へ着いて、橋の上から川を覗いた。居る居る。釣人と投網が黒くなつて居る。予想の通りである。何しろ、小さい川である。その上、水は少い。それだのに、二千人にも近い釣人が、橋の上下から鵜の淵かけて僅か十町ばかりの間を埋めて居るのである。どの釣場も、身動きが取れない有様である。川筋第一のドブ釣場といはれる鵜の淵は全く立錐の余地がない。友釣りも同じである。どの瀬も、一間おき位に竿が出て居る。
これではどうしようもなかつた。それでも三人は竿を継いで割り込んだ。岡部、東作両氏は長竿のドブ釣りである。私は、四間五尺の竿を、二間半だけ継いで友釣である。
三人とも二三尾であつた。それでも形だけはよかつた。たしかに魚は居る。しかし、この人間の数が、川の面に掩ひ立つて居たのでは、興趣も気分もあつたものではない。三人は引き上げる相談をした。午前十一時頃である。」
垢石翁は宿の上がり框(かまち)で寝る。三時頃に起こされて太田川へ。静岡から掛川へ。大井川も夕立で濁っていた。
森町の橋から見える太田川は、
「水は少ない。石は小さい。夢に描いた太田川とは、全然俤が違ふ。これでは鮎が大きくなれる訳はない。」
バス停で、老人が今年の太田川の鮎が駄目で、気田川に行け、と。森町から僅かに七里、と。
「暮れかゝつて居るが、まだ明るい。宿を取つて置いてから、釣場だけは見て置かうといふ事になる。若い番頭が案内して、三人を川へ連れて行つた。太田川と、吉川の合流点である。
深さは五六尺はあらう、そして広い釣場である。土地の人が二三人と、東京の人が四五人釣つて居た。長竿で、しかも膝下まで立ち込んでふるへて居た。魚籠を覗いて見た。誰もが、五六十尾から百尾位は持つて居たが、それは煙草のバツトの丈程もない憐れな姿の小鮎であつた。
馬鹿々々しき事だ。幾分、腹立気分にもなつて来たのである。
宿の番頭は、吉川の鮎なら大きいのだが、こゝは二十一日からが解禁である。その時分また来れば、大きいのが釣れよう、といふのである。飛んでもない話だ。
来て居る筈の今西氏の姿は、勿論見へない。何処かへ、踵をめぐらしたに違ひない。これも忙しい旅をやつて居るだらう、と思ふとおかしくもある。
一風呂浴びて、晩酌を一献奉りながら、徐ろに作戦を立てた。しかし、悲しき作戦である。それでも、前夜から、食事らしい食事、弁当らしい弁当にお目にかゝつて居ないので宿の膳を前にするといくらかはくつろいだ。
直ぐ宿を立つて、十一時の袋井発で三島へ向ひ、二日目を狩野川でやる事に意見が一致したのである。太田川は見棄てた。興津川もあの水量では、といふ見当である。、
東作氏が、眼を覚したのは山北だつたさうである。岡部氏は大船で揺り起され、私は横浜までグツスリ寝込んで運ばれて来た。
『シマツタ。』と、いつたが遅かつた。あわてゝ、横浜で下車して作戦の練り直しである。 二日附の、二三の新聞を買つて覗き合つた。各地とも不況を伝へる記事で埋つて居る。暗然としてしまふ
相模へ行かうか、狩野川へ引き返さうか、それとも利根川へ行かうか、自信がない。兎に角再び車中で議を練る事にして電車に乗り替へたがもう三人はボンヤリして居るのである。何のまとまるところもない、フラリと新橋駅へ下車した。
その時、はじめて、私は自分の姿を顧みた。前日の朝、藁科川の河原へ降り立つ時、こしらえた釣の身支度のまゝである。色褪せて汚れた短い合羽に、素足の草履。どう見ても案山子か、乞食の姿である。
『こゝは、東京のマン中だ.その格好ではひど過ぎる。』と、東作氏がいふのである。
三人は、寝不足の眼、疲れた身体をしほしほとしながらかなしい別れをした。プラットホームの冷たい、甃の上で――。」
小河川の品切れの意味がよく分からなかったが、網打ちを含めていろんな漁法が行われている事が、原因という事かなあ。大井川の夜陰に紛れて行われていた刺し網は禁止されていたと思うが。
それでも、鮎が避難できる場所はないという事かも。
既に冷水病が蔓延していた平成の初め頃、野洲川の三雲に行った。春、水量が多く、瀬切れがなかったため、遡上量が多いとの記事が出ていたから。
網打ちが居た。盆の頃で、水量が少ない中での網打ちでは、大きな石が転石していないため、捕り放題ではなかったかなあ。囮屋さんが、その網打ちに遠慮して、と頼んでいたが。
吉川の解禁日が何で遅かったのかなあ。
十一月生まれの一番上り、二番上りの構成者であった稚鮎は、吉川に上っているから、その下流の太田川には、小さい鮎しかいないという事では。
九頭竜川の芦原温泉付近にはチビ鮎しかいなかったように、一番上り、二番上りが途中下車をせずに、上流の瀬を求めて遡上していくから、上流の方が大きく育った鮎が多いと思うが。
大田川の石が小さいといっても、現在の川を参考にしていては誤った認識になるのではないかなあ。頭大の石が詰まっていても一抱えもある石が転石しておらず、岩盤が露出しておらず、という状態を「石が小さい」と表現されているのではないかなあ。
そうすると、石が小さいから育たない、ということではなく、十一月生まれは一番上り、二番上りとなって上流へ。そのため、大田川には十二月生まれしか居ないから、小さい鮎、ということになるのではないかなあ。
夜汽車が、興津川の水量が観察できる程の明るさになっているということは、ゆっくりと走っていたということかなあ。昭和三十年代の夜汽車は、夜明けの頃には石山に着いていた。石山寺の土塀を巡ったことがあった。東京の発車時間は、夜十一時頃で、昭和11年と大差はないと思う。
東作さんが、山北で目を覚ましたということは、まだ、丹那トンネルが出来ていなかったのかなあ。テツオタの「テツぼん」であれば、丹那トンネルの出来た年は常識でしょうが。
亡き大師匠が吉川に通っていた頃、東名は存在していたのかなあ。東名の出来る前かなあ。現在は吉川にもダムが出来ているとのことであるが。
垢石翁が吉川で釣りが出来ていれば、大田川の評価も変わっていたのでは。
まあ、垢石翁でも、汽車に乗っていただけ、という解禁日があったから、現在のトラックで運ばれてきた鮎が主役を張っているご時世では、さらに放流量ですらかっての半分とかになっている現在では、河原を散歩するだけの貧果も恥ずかしくないか。
大見川での解禁日
くたびれもうけの何とかとなった昭和11年であったが、昭和12年の解禁日は、愉しかったのでは。
垢石翁は「友釣回顧」の章の中に、昭和12年の大見川での解禁日を書かれている。
「暁は、濃い雲を通して薄く白い色を流れに映してゐる。汀に灰色の影が、かすかに見へるのは岩だらうか。人間だらうか。
近づいて見ると、それはやはり人間であつた。村の釣人であつた。
朝四時前であつたであらう。私と、竹内君と二人は、修善寺橋から一里ばかり上つた、伊東街道を畑の中へ下りた。そして、崖の篠笹の露を分けて磧の石を踏んだのである。
いまにも降りさうである。足許は暗い。囮箱の中で囮鮎がコトツと跳ねる。
半ば、手探りで仕掛を竿先に結んだ。次第に河原の草や、石が明るくなつて来ると、村の釣人が四人も五人もやつて来た。
私は五月の下旬、狩野川を視察した時に、この大見川へも足を入れた。水底の石に、大きな食み跡のあるのを発見して、鮎は豊富であると思つた。けれど、こんな川では、多寡が知れてゐると考へた。ところが、今朝来て見ると、村の釣人でなかなか賑やかではないか。して見ると、甘く見るのは間違ひかも知れない。」
二人は、31日、修善寺橋傍らの鈴木宅に泊まった。鈴木老は、若い頃、奥利根、相模、富士川、飛騨の奥にも遠征していた。鈴木老も解禁日の釣り場として大見川を推賞していた。それで一里を歩いてやってきた。
一里も歩いて、囮が大丈夫ということは、大きな囮箱を使っていたのかなあ。当然、ブクはなかったと思うが。
垢石翁の予見は外れて、大見川の水量は多く、川幅も広く、また、三抱えもあるような巨岩が連なった荒瀬もある。
垢石翁は医者から水浸しを止められているため、瀬尻の瀞に入る。
荒瀬に立ち込んだ竹内さんが、
「『来たツ!』
底力のある一声である。
見ると、竿先が絞り込まれるやうに、白泡の中へ引き込まれてゆく。竹内君は、足許を踏み締め、踏み締めて下つていつた。心が空ろになれば、辷つて倒れる程、底石に水垢が濃くついてゐる。
竹内君は、たうとう手網へ入れた。引つ張り具合から見るとなかなかの大物らしい。続いて間もなく、竹内君は再び鮎と引き合つて闘ってゐる。
私の竿にも来た。引きは強くない。でも、丁寧に引き寄せて手網へ抜き入れた。十四五匁の魚である。最初の一尾だ。囮が替つて、先づ安心である。一服つけた。
竹内君は、と見ると荒瀬のひどい中へ引き込まれて続けて二三尾逃げられてゐる。だが、大骨折で捕つた一尾がある。あまりの奮闘に、私も傍へ駆け寄つて行つて見ると、二十五六匁もあらう、幅の広い肥つたものであつた。解禁初日に二十四五匁に育つてゐれば大物である。腰から下をびつしよりと濡らした竹内君は、緊張した顔で岩の上へ立つた。
村の人々にもよく掛る。私にもぽつぽつと掛つて来る。だが、何しろ身体の調子が悪いので、それが憾みだつた。
日一杯釣つた。幸に大きな雨の来なかつたのが何よりであつた。囮箱から、手網へ釣つた全部移して見た。ガシヤガシヤと数多い鮎の躍動。去年の秋から待つてゐたのは、この鮎の躍動であつた。私は満足を感じた。
私は十八尾。竹内君も相当釣つた。
夕暗が来た。いろいろのものを詰めた竹内君のリユツクサツクは五六貫目もあつたらう。それに病人の私を助けるために、双方の手に水の一杯入つた囮箱を提げた小瀬の円石を渉る時、たうとう辷つて、膝頭の皿をしたゝか打つた。
『痛ツ!!』
しばし竹内君は、呼吸も絶へて磧に跪つた。
翌日は、修善寺橋の下流の落ち込みで釣つて見た。二人は、申合せたやうに二尾づゝ持つてゐた囮鮎を川底の芥に引つ掛けて、取られてしまつた。遂に川鮎の姿を見ずと言ふ訳である。
午前中、早く東京へ帰つた。酒を禁じられてゐるのが残念である。」
昭和の終わり頃のいつ頃か、忘れたが、大見川は、石或いは岩で出来た段差で上れなくなっているから、湖産しか釣れない、と亡き師匠らから聞いていた。
迷人見習いが、大見川が遡上できる、ということで、発電所に連れていってもらっている。発電所の堰堤下流にいる鮎は、一番上り、二番上りであろうが、「大鮎」とはいえないなあ。孵化時季が十二月の鮎ということかなあ。
勿論、大石にぶつかっている瀬ではそれなりの大きさの鮎が着いているかも知れないが。Iさんから貰った鮎も、中学生に女子高生が混じるというくらいで、「二十四五匁」にはほど遠い大きさ。時は真夏というのに。
「修善寺橋下流」の落ち込みは、岩盤のところかなあ。それとも、その下流かなあ。
現在と、昭和12年では、狩野川台風の影響で、河相は大きく変わっているかも。
藤田さんは、狩野川の写真を数枚掲載されているが、大仁でさえ、コンクリート護岸ではなさそう。土手に木が茂っている。そのほかの場所の写真も、土手であるのか、それに続く平地、斜面であるのか、解らないが、川に接して林のように木が茂っている。
「コンクリート護岸」が隆盛を極めたのは、狩野川台風の後かなあ。松下の瀬には「新堤」と呼称されているところがある。平成の世になって、コンクリート護岸がさらに高くなったという事では。そのため、大仁橋右岸から松下の瀬に行く時、土手沿いを歩けなくなった。
藤田さんは、相模川を含めて、大石に乗って釣りをしている写真を掲載されている。それほど、大石というか、岩が数多川に転がっていたということでしょう。それに、縦岩盤のところも多いように思う。それらが硅藻の生産を育み、又、増水時の残り垢を存在させていたのではないかなあ。
中津川の岩盤に立っての釣り姿は、半原かなあ、それとも?。現在の中津川からは場所の特定も困難。
二人が解禁日に釣れた数は、平成4年頃以前の遡上鮎が満ちていた狩野川であれば、丼大王や大宮人、練馬人らの方が多いとは思うが、大きさは、城山下の一本瀬や石転がしの瀬に入っていた皆さんでも遠く及ばない。
それどころか、数であれば、垢石翁と同様の場所が釣り場のオラでも太刀打ちできることもあったが。
渇水で遡上が出来ないとは?
「蛙の小便で崩れた小田の井堰」
現在の漁協発行の釣り場案内でも、堰の記載がされていないものが殆どではないかなあ。コンクリートの堰でなかった藤田さんの時代では、なおさら、堰の影響は現地を見ないと不明であったよう。 小西=補記6
紀の川の小西翁は、「蛙の小便で崩れた小田の井堰」と話されている。
小西島二郎・佐藤清光「紀の川の鮎師代々」(1980年・昭和55年 徳間書店発行)
「佐藤 小西さんのお宅は窓を開けると、直ぐ眼のまえに妹背の淵が広がっていて、文字どおり紀の川の主といった感がします。こうやって川を眺めていますと、万葉の昔から紀の川は少しも変わらぬ姿で流れているように思えるのですが、いかがですか。
小西 いや、変わりましたよ。昔の水量は、多いおりは極端に多くて、少ないおりは極端に少ないという状態でした。今はダムなんかの調整がゆきとどいていて、昔よりようなったわけです。
昔の紀の川といったら相当の暴れ川で、昭和三十二年に井堰ができるまえまでは、どの井堰も土嚢と石と岩なんかで積み上げて作ったものですが、ちょっと増水すると崩れたんです。それで、『小田の井堰は蛙の小便で崩れる』といわれるくらいのことでしたな。上流の大台ヶ原という、日本で有数の多雨地帯があるわけでね。」
「上流でいつ大雨があって、いつ増水してくるかわからなかった。ここらに一滴も降らんおりでも、急な増水があるというようなことがあったわけです。これは、『まくれ水』ってこっちでは言うたけどもね。もう、天候なんかちょっとどうもないにもかかわらず、一気に際立って一間もあるかしらと思うくらい、土塀のようになって増水したわけですよ、そういうこともままあって、それがいつかわからんのやよってに危険で、そいつの勘定も川行きには頭に入れとかないかなんだ。」
風向きの急変、雲の動きを見て、大台ヶ原の豪雨で増水するを予知していたとのこと。
鮎やハヤは、「むちゃくちゃな食み方をする。餌を食いだめするわけですよ。」
「それから、蜷貝(にながい)です。増水のとき、この貝はどういうものか貝でありながら、船とか、岩場では岩とかにみな上がる。高いところへ高いところへと寄っていくんです。全部上がってしまいますよ。それは。押し寄せるごとく真っ黒に並ぶんです。それで、これは増水ということが間違いなしに解ります。」
蜷貝に増水の予知能力があるとのことであるが、相模川に蜷貝を見ることはあるのかなあ。シジミも見かけることは殆どなくなったなあ。
昭和三十二年に井堰が出来て、流れが変わった。
「変わっていますよ。結局、井堰の内側は土砂で全部埋まるわけですから。増水ごとに高うなるわけです。そうしたら、土砂が堰の表にたまるよってに、だんだん落差がなくなってくる。紀の川一といわれた雛子の瀬なんかも、今と昔とえらい違いですよ。あそこでちょっとの落差があるだけで、わずかです。昔はあれで百五十メートルぐらいの長さの瀬で、その瀬肩と瀬尻とでは、高さにして三間以上違うたわけですから。雛子の瀬では友釣りなんか一年中かかったもんですよ。川開きから秋の子持ち鮎までかかったものが、今では友釣りで一尾もかからんようになりました。」
渇水の話を書く予定であるのに、突然の増水や、井堰の話とはこれいかに。
垢石翁だったと思っているが、鬼怒川が渇水で遡上が出来ない、と書かれていた。瀬切れでなく、渇水で遡上できないとは、これいかに、ということが出発点であったが、そのカ所が見つからない。
やむを得ず、「渇水」で遡上できない、という現象の「意味」を考えるために、コンクリート製の現在の堰と蛙の小便でも流される堰との違いを前提に認識する必要がある、とごまかしました。
旧盆の頃、新幹線から見える琵琶湖に流入する野洲川は、瀬切れをしていることが多かった。遡上期にその状態であれば、遡上は不可能。しかし、鬼怒川に「渇水」で遡上がないとは考えにくい。
したがって、現在の状況から、昭和の初めの「渇水」を理解してはまちがっちょる、と思ったことが出発点ですが。
その渇水で遡上できない、と記載されているカ所が見つからないから、それに代わるカ所として考えたカ所をやっと見つけることが出来た。物忘れが早い、物覚えが遅い、これ日々進化している。
黄門様の印籠を手に、密漁する垢石翁
佐藤垢石「鮎の友釣」(萬有社 昭和九年発行)の「快釣満喫」の章から
茨城県の課長さんがモーターボートで土浦、霞ヶ浦の水産事業視察に行く。その道中の呑み相手に垢石翁が誘われる。
そして、呑んでいる時に、アユが食べたい、と。時は五月。
「『君、僕に鮎を食はせろ。』
『何いつてるんだ。未だ禁漁中ぢやないか。』
『さうか。五月から釣れるのぢやないかの。』
『水産の親分てえ者、呑気だね。』
『ぢや食へないね。食ひ度いんだがね。僕は桑の芽が開くと鮎を思ふんだよ』
『君が釣つてよろしいといへば、僕が釣つて食はせるさ。密漁を取締る大御所の君が許せばいゝのだらう。』
『役目柄さうもいかんナ。食ひ度いなあ……君、一つ名案は無いか』とこの駄々つ児は部下の水産技手を顧る。
『さうでうなア―。』若い技手は苦笑する。日本酒が始つた。技手は余り呑まない。
『溯上調査して頂いたらどうです。佐藤さんは鮎と川の研究の大家ですから―』
『溯上調査つて、どうするのだい。』
『鮎が川へ溯る状況を調査して貰ふのです。茨城県にある各川に鮎がいつ頃から溯上をはじめて、何月にはどの位大きくなるといふ事を。』
『フン。』
『そして、久慈川でしたら久慈川の鮎の発育状態はどうであるとか、味はどうであるといふ事を精しく調査して貰ふのです。』
『成程。』
『無論、試食もして見ねばならないのです。』
『さうすれば、僕にも食へるナ。』
『これは大層必要なことで、まだ茨城県では適当な人がなかつたため、鮎で有名な那珂や、久慈川の鮎に就いて詳細な報告が出来て居りません。丁度よい機会ですから、明日水戸へ帰つたら直ぐ準備して見ませう。本当に必要な事なのです。』技手はよく喋つて来た。
『君はうまい事を考へるね。それを食つても差し支へないか。』
『当然試食して頂くのです。』
『うまいな…佐藤君、どうだらうもう鮎は溯つて居るだらうね。やつて呉れ』
『それなら大義名分が立つ。やつて見やう帰つたら直ぐ手続をして呉れ給へ』
前祝として、洋杯になみなみと日本酒をついだ。」
お仕事に長けているサボリーマン諸君を彷彿とさせるやりとりですなあ。下心を隠して、「正当業務」を偽装するなんて、オラのように純情可憐な、いやお仕事の出来ない人間には思いもつかぬ「悪智慧」ですなあ。
かくて、垢石翁は、黄門様の印籠を手に入れる事が出来た。
「密漁は天下のはつとである。しかし、やつて見たいのが人情、魚がウヨウヨ居る川へ行つて、我一人綸を乗れる愉快さは實に格別である。鮎の大群が瀬際を溯るのを見た時『ウーン!!』と唸りを発しない者は、無感覚な人間といへやうが、…(注:以下省略)。」
五月十七日、「鮎溯上状況調査ヲ嘱託ス」を受けとる。
「『シメ、これさへあれば大願成就、ウンと釣つてやらう―Dにウンと食せてやらう』」
当然、うきうき、快調満喫のはず。
五月二十日、大郡線の那珂郡大宮駅下車。久慈川まで約七八町。
「この地方では五月下旬過ぎると、用水へ水を揚げる。これをシメシ水といふ。一体久慈川の奥には深山や、高山に属する山嶺が無いので例年雪解水は四月下旬までに出て終ふ。五月中旬には渇水がはじまる。その上に用水へ水を揚げたのであるから、河身が陽に露されて、僅かの水が磧の間を潜つて居る。認識不足とはこの事だ。よく聞き合せて来ればよかつたが間に合はない。
止むを得ず、二里上流の山方宿まで歩いた。玆まで来ると水量はかなりある。村に知り合ひの高村君といふ県会議員があつたので、そこへ立ち寄り附近の漁師を招集して、県から貰つた巻物を披見させた上『さて、鮎の溯上状況は如何であるナ。』と出た。こうなるともう立派な調査員である。質問振りが微に入り細を求めるので、我ながら嘱託の資格充分なりと感服して草靴のまゝ炉端に横へる。
漁師の説明する処によると一番上りは四月中に、二番は五月上旬に、三番は下流が渇水になつたから一雨見なければ来ないだらう。例年山方宿附近へ居付く鮎は三番だからこの辺には今の処居ないだらう。一番二番は既に酉金から上、下小川村袋田付近迄溯つて行つて居るだらうが上流はまだ水が冷いから友を追ふまい。だから五里も七里も上流へ追ひ駈けて行つても無駄だらうといふのである。
大部知識を得た。これも報告書を埋める二三行にはなる。だが、今夜の肴に四五尾欲しいが、駄目だと思つて那珂郡から久慈郡へ越へる県道の下流で友釣を試みる事をにした。漁士三四名が空手でお供をする。先ず囮を取るために、一丈余りもあらうと思ふ淵で、ドブ釣をはじめ、利根川で錬へた腕を盛んに揮ふ。漁師共は黙つて見て居る。先刻多少漁師の前で法螺を吹いて置いたのだから、焦せらざるを得ない。焦燥の色を顔に出すまいとして、上げ下げするが釣にかゝるのは三四寸のウグイばかり。そこで一人の漁士から声あり(尻上りの茨城特有の口調で。)
『この川の鮎は、そんな釣は食はねえ。』何と情けないではないか。全く器量を下げて終つた。漁師もはじめて加賀釣、土佐釣にお目にかゝるのださうである。
こゝで怯るむだのではいけない。県嘱託の沽眷にかゝはる。私は徐にゴロ引の仕掛を取り出した。漁師共は石に腰うち掛けて今度は甚だ気楽さうに見て居る。淵に続く上流の瀬を試みたが、稍(注:やや)石が高いので横引は駄目。立引に、スイスイと鈎先が悉く磨滅する迄引いたが、四寸ばかりの小鮎が僅かに一尾掛つたのみ『まだ居ねえんだんべ……。』今度は慰め顔である。
私は竿と道具を舁いで、這々の体で逃げた。」
昭和の前半に於ける「渇水」とは、いかなる現象を表現しているのか、何で遡上を阻害する事になるのか、を、考える情景としては、垢石翁が這々の体で逃げ出した事で用は足りるが。
それじゃあ、垢石翁も浮かばれませんねえ。せっかく手に入れた黄門様の印籠が泣きますよねえ。
ということで、黄門様の印籠がどのようにご威光を発したか、ついでに見ましょう。
大宮町に泊まり、那珂川へ行く事に。
「那珂川で失敗すれば天狗の鼻がもげる訳である。鮎釣の祖神功皇后様に祈りを上げたのである。」
「まだ明けやらぬ若葉の道は、朝霧で見透しがつかない。少し心細い気持ちで歩いて居ると、突然道端の叢の中から野犬が二三匹飛び出して吠へついて来た。私の釣姿は極端に汚いのである。素足に草履、柿色の雨着は地が褪せて灰色となり、それに泥のシミが沁み込んで居るかも知れない。野犬が吠へつくのも無理は無い。竿で打つ払つた。」
東茨城郡沢山村大字阿波山地内へ。
「那珂川は久慈川と異つて水量が豊富であつた。水へ足を入れてみると温度も適当、石について居る硅藻も新しかつた。崖の下から大きな巌が急瀬の中へ突き出して居て、その蔭が巻き返しになつて居た。深さに(注:原文のまま・「は」?)三四尺、今日は幸先頗るよろしいと思つた。すぐドブ釣の仕掛を出し、穂持と、穂先だけを継いで、静かに上げ下げをして見ると、ブルブルと続いてヤマベが二尾。次に来たのがキュー水中で輪を描く、正に四寸五分ばかりの鮎である。それから掛る掛る、続けて三寸から五寸ばかりのものを十尾ばかり揚げた。八時になつてその中から五寸以上の体力のいゝ奴を撰んで、手網に入れた。
巌から下流は平場になつて居て、底は一面の岩盤流速は急でもなければ瀞でもない。小手馴しには好適な場所である。竿は三間半、先ず極ヘチからヂワヂワと囮を引き上げると直ぐである。クツクツと最初の一尾が引つ掛つた。六寸以上。これをすぐ付け替へて、続いて極ヘチを引くと、三歩四歩移動したばかりで、無闇に掛る。次に流心に近い処へ囮を導くと本式の強い引き方をやる。利根川では七月上旬でなければ見られない、七寸前後のものばかりである。僅か四十間ばかりの間を上下して、午後三時迄に八十余尾を引つ掛けた。囮箱も、引き筒も一杯、である。小は十四五匁から、大は二十五六匁くらいはあつた。総計一貫五六百目もある鮎を、その夕方D君の官舎へ持ち込んで関係者一同を召集した。
『密漁満喫』の話をしながら、試食した。勿論、ビール、酒……。」
またしても、六月前に二十五六匁とは。
何でこんなに大きく育っているんじゃあ。今では、東北・日本海=対馬暖流を生活圏とする海産畜養か、それを親としたF1でないと、そんなに成長せんぞお。まあ、そのデカアユを「食糧が潤沢だったから」と、ご託宣なさる高橋勇夫さんのように、「トラックで運ばれてきた」鮎とは考えられない学者先生もいらっしゃるが。
川那部先生らのように、何で、古の鮎の方が現在の鮎よりも大きく育ったのか、解らない、と書かれている方が、観察眼が優れている証明になると思いますが。
「翌日もその場所へ行つた。だが、前日の十分の一も掛からなかつた。一番溯りに居付いた鮎を悉く釣つて終つたものらしい。三日目にはそれから五六丁上流の、矢張り底が岩盤で出来て小瀬を引いた処が、第一日より、更に大きな奴が出た。四日目には、さらに三四町上流の崖下、玆は玉石底の荒瀬を攻めたが、一日五十尾を下らない。五日目にはさらに上流の小瀬の合流点の下になつて居る一枚岩を左右前後から攻めて、又々豊富。」
ということで、垢石翁のご託宣は、解禁当初は
「技の巧拙、鈎の適不適を問はず、誰にでも盛んに掛る事である。就中友釣は、そこに居るだけの鮎の殆んど全部が掛つて終ふ。だから解禁前にから、充分踏査を重ねて置いて、解禁当日には第一着に其処を占有して終はねばならない。殊に他人の全く気付かない場所を発見して置けば、尚更『快調満喫』といふ事になる。」
とさ。
藤田さんも、「充分踏査」されていて、蛙の小便でも崩れる「堰」が遡上を妨げている事を見つけられている。つまり、「渇水」であれば、瀬切れをしない限り、遡上の妨げにはならないでは、と思う「証拠」で、今年の「故松沢さんの思いで」を締めくくり、心置きなく、「不調満喫」にもめげずにあゆみちゃんの軟派稼業に励みましょう。
なお、2014年、相模大堰副魚道の神奈川県内広域水道企業団の遡上量調査では、500万匹が観察された。
しかし、磯部の堰上流で遡上鮎に会えた人は皆無でしょう。堰の魚道の維持管理をしないと、遡上できる環境にはならないという事。中津川は、2カ所の魚道修繕が必要との話はあるが、当然坂本の堰までやってきた遡上鮎はいない。
2015年も四月に700万程の遡上鮎が相模大堰副魚道で観察されているが、五月中旬になっても磯部の堰を遡上できた、という兆候はなし。
長良川河口堰同様、堰が諸悪の根源であるが、魚道の維持管理が行われないと、遡上達成率が貧弱である魚道は、一層遡上阻害構造物と化すのではないかなあ。
久慈川の水温が低いから、友釣りに不適、との漁師の観察は適切かなあ。
故松沢さんは、下りの季節ではあるが、水温低下をしても、一時、低下した水温で釣れなくなる、しかし、暫くすると、その水温に馴れるから釣れるようになる、と。それと同様の事が、五月でも生じていないのかなあ。
なお、翌日でも「釣り返し」が効かない事に係る垢石翁の説明は適切かなあ。1番上り、2番上りの途中下車をした鮎が少ないとか、その他の事柄は考えられないのかなあ。
藤田さんと「堰」
「昭和五年の五月二十日であつた。私は釣友二人と二日に亘つて、桂川鳥津より相模川筋を厚木まで下つて、蕃殖の状況や釣場の視察をやつた。その時小仏の峡谷をはなれて相模平野にはひらうとする小倉橋の上手に造られた用水堰の一方にあけられた水路が急流によつて段々掘り下げられ、恰かも瀑壷(たきつぼ)のやうになつて鮎の溯上が出来ない、そこで、堰下の浅瀬に黒くなつて停滞してるといふので漁業者側より警察署へ陳情中だときいた。
よつて其所(そこ)へ舟を停めて実況を視たが、私達の着いた時は既にその水路の約六七間の所へ縦に蛇籠数個を入れて水勢を緩和してあつた。これは警察の注意によつたのであらう、然るに、その蛇籠の上を流るゝ水勢は随分急である、これに段階でもつけてやる事か、流下一射少しも魚の休養すべき何ものもない、かよわい小鮎――殊に放流されたばかりの琵琶湖の小鮎も交じるのである、どうしてこの長い蛇籠の急流を一気に押し切つて溯るといふことが出来よう、よくよく見ると、その蛇籠の目の石と石の間には一ぱい小鮎がくつ付き合つてゐる。
その中から二,三びきづゝ飛び出しては、頭から尾まで殆どその全身を目にも止まらぬ早さでヒラヒラ動かしながら延(の)して一つ上の石の蔭にはひる、かくして蛇籠の石を一つづゝ越えて、最後の石一つを超え堰の上の淀に身を躍らせ疲れて赤くなつた弱々しい体で游泳するのをつくづく目撃した私はその溯上の努力と辛苦とをおもふて、まことに気の毒の感に打たれたのである。」
「若鮎の溯上をなやました小倉の堰」の写真には、右岸側に蛇籠を入れて造られた瀬状の流れがある。その流れの左岸へと連なっているところでは、数段の段差になっているが、高田橋上流の小沢の堰の魚道よりも段差が小さいように見えるが、実際はもう少し高さのある段差がついてるのかも。
瀬状になっている流れが、それほど強い流れには見えないが、稚鮎にとっては游泳力の限界ということかなあ。五月末であるから、1番上り、2番上りの体力のある稚鮎は既に上流へ。その後に川に入った稚鮎の情景でしょう。
2014年、相模大堰副魚道で500万程の稚鮎が計測されたが、磯部の堰上流で遡上鮎を釣った人は皆無ではないかなあ。
2015年、相模大堰副魚道を4月に700万余りの遡上を計測されているが、磯部の堰を遡上した鮎がいる兆候は見られない。
昭和橋下流左岸に流入する八瀬川の塩田桜橋に稚鮎は見えず、5月10日、高田橋、新昭和橋から見る川は「冬の川」の石で、増水で腐り垢が流されているところもあるが、遡上鮎の通り道のヘチ寄りは腐り垢のまま。
磯部の堰の遡上を阻害しているのは、いかなる要因かなあ。
酒匂川の栢山の堰を5月13日に見に行った。
相模湾の稚鮎が多いから、酒匂川にも遡上しているはず。しかし、2014年の新十文字橋付近に入った迷人見習いもよねさんも均質な大きさの継代人工は釣ったものの、遡上鮎とは無縁であった。
それで、栢山の堰の魚道は遡上できないのでは、と思い、湖産放流全盛時代終焉後初めて酒匂川の堰を見に行った。
栢山の堰は、報徳橋から見るものと思っていたが、かってと違って、近くにくっきりと見える。開成の所に立派な橋が出来ていた。
そこから見える魚道の段差はそれほど高いとは思えなかった。増水している事が関係しているのかも知れないが、30センチ前後ではないかなあ。
稚鮎は、体長の何倍を跳ねる事が出来るのかなあ。どの位の流速の瀬を上る事ができるのかなあ。遡上の妨げにならない段差、流速は、どうも、オラがイメージしていたよりも小さい数字かも。
「水産当局の方や漁業者側で、小鮎の放流をやり又、人工孵化をも行ふて蕃殖を計ることは、まことに結構ではあるが、只、それだけで幼魚の溯上を助けてやるといふ施設については、懇(ねんご)ろな注意を払はないやうである。私は前記溯上の有様を見て、この仕事の甚だ大切であるといふ事を痛感した。例へば堰止工事の場所或は砂利掘船のある所にはそれぞれ魚道をあけてやるとか、渇水時の瀬切れには、開鑿の作業をやるとか、或は又、急湍激流の場所には、段階を有する魚道を造つて溯上を助けてやるといつた施設をぜひやりたいと思ふ。」
その放流量も、相模川漁連のかっての230万の義務放流量が、160万に、そして2年程前から120万位に減少している。その放流ものの氏素性も、再び県産種苗が生産されるようになり、2014年には大きく育つ能力すら有さないものも放流されていた、と考えている。
2015年の県産種苗のF2は、養魚場で育てられたものは、体形ができあがり、背鰭は頭側が長く、背鰭側が短くなっていて、12,3センチの大きさであった。
しかし、ゴールデンウイーク中に行われていた内水面祭りでの県内水面試験場の水槽のF2の稚鮎は、5,6センチの大きさ。この養魚場と内水面試験場の大きさの違いは、育て方に起因するのか、孵化時季の違い?それとも?
内水面試験場の稚鮎は、体験放流として高田橋に放流されているようで、鵜や白鷺や鯉の食糧になっているものも多いのでは。
魚道を造っても、その遡上達成率は低い。川那部先生は遡上達成率を高める堰の川に対する角度、魚道の設置場所等、作り方を提案されているが、実現する事はないのでは。
又、魚道の維持管理、修繕をしないと、ここ2年の磯部の堰の魚道のように、遡上できない状態になるのでは。酒匂川の栢山の堰の魚道が遡上可能かどうか、微妙な下流側の段差と思っているが。
この下書きをしている時、電話。
相模川の石切場で大量遡上に遭遇した、と。
5月16日の事。
何で、磯部の堰の魚道を上る事ができたのか、どのような変化が磯部の堰の魚道に生じたのか、解らないが、去年と違い、「トラックで運ばれてきた」数少ない、又、大きく育つ能力すらない県産種苗の鮎を相手にする必要がなくなったかも。水量は、4月の降雨の後は、魚道に水が流れている程潤沢であるから、魚道に水が流れていない、ということが遡上阻害ではないでしょう。
石切場で観察された「遡上鮎」には、16,7センチの女子高生も跳ねているとの事。
5月17日、よねさんらと、遡上したという相模川の石切場を見に行った。
ヘチの石の色は15日以前と変わりなし。「大量」遡上といえないのでは。
よねさんが、おもろい表現をしてくれた。
魚道は、段差、流速をいかに緩和した構造にするか、が問題であるが、それの十分条件を求めると、非常に長い魚道になり、又、流速を緩和するための仕掛けが魚道に必要になるから、現実には遡上が困難な魚道が多い。
磯部の堰は、現在は、建設された時よりも遡上阻害が高くなっているかも。
人間でも、100メートルを10秒で走る人も、1分の人もいる。オラのように100メートルどころか、5メートルも走ることが困難な者も居る。
したがって、体力に優れた鮎だけが磯部の堰を遡上できたのではないか、と。
18日、高田橋から川を見たが、15日以前と石の色に変わりなし。鵜もゴールデンウイークに体験放流された県産種苗のF2?を食べ尽くしたからか、姿なし。鷺も。幼児が少し見えるが、この大きさと数では鵜の腹の足しにならない。
とても、遡上鮎がやってきたとは思えないが。
2004年、2008年の4月終わりの高田橋、弁天では、1メートルくらいの幅で、何層にもなった帯が、何時間も続いた。その時の遡上鮎の「大量遡上」とは異なるよう。
体力のある優等生だけが、磯部の堰を上る事ができたという事かも。したがって、高田橋でちんちん釣りをしても、体験放流の時の幼児の生き残りが釣れるだけで、何束も釣れることはないのでは。
優等生だけが磯部の堰を越える事が出来たという事であれば、何処に途中下車するのかなあ。
もう、興津の解禁日になるから、藤田さんが経験されたであろう愉しい解禁日で締めくくりたいところであるが、「鮎を釣るまで」には、そのような浮いたお話しは掲載されていない。
藤田さんは、あゆみちゃんをいかにすれば、だっこできるか、について、あゆみちゃんの生活誌から書かれている。
石川博士は、藤田さんのこの本を読めば、
「本統に鬼に金棒」、「人間が魚類と智慧くらべをするなら人間が勝つに極つている。」、
「ところがその人間がかくまでに用意してありながら、時々魚に負ける事があるから、實に愉快極まる。終日釣り暮らして一尾も釣り得ずにあふれて帰るのが即ちそれだ。あさましなんどいふもなかなか愚かなりである。
さういふ馬鹿馬鹿しい人間を一切作らせまじとて、この書は出来た。すべての人間をして、せめて魚類ぐらゐと智慧をくらべても負けぬ程の一人前の人間たらしめようといふのがこの書の趣旨である。この書一たび出でゝ後は、又空魚籠(からびく)片手にぼんやりと馬鹿づらをして帰る魚類以下の人間はなくなるべし。實にたいしたもンである。」
この石川博士のご託宣が、空手形であれば、石川博士を「詐欺師」と訴えるぞお。
その時、石川博士は、「鮎がいない川で釣れるなんて、無から有が生じる事がない事も知らん愚か者め」とおっしゃるのでは。
相模川は磯部の堰を遡上した鮎がいるのか、それとも、放流ものの海産畜養に過ぎないのか。磯部の堰の魚道を遡上した鮎はいないと判断しているが。
藤田さんは、また、石川博士は、当然、「トラックに運ばれて来た」鮎は、眼中にあれど、海アユと区別しなければならない「存在」とはなっていないように思う。
その「トラックで運ばれてきた鮎」は、現在のように、「人工」、「継代人工」ではない。「湖産」である。
しかも、「湖産」放流といっても、ヒウオから畜養された軟弱もん、移動距離が少ない、など、人間に育てられた事によって生じる「気質の性」が、充ち満ちている「湖産」ではない。
東先生らが、他の川に、食糧が豊富な環境に移植しなくても、その年は「大鮎」に育つことの出来る「湖産」と、海アユしか川には居なかった時代に適合する石川博士の「魚に負けない智慧」を提供した藤田さんであるから、「現在」の川、鮎の環境で釣れないから、詐欺師と非難されても、わしゃ知らん、言いがかりもええかげんにせええ、と、にこやかにおっしゃるのでは。
大宮人のお父さんが釣っていた「湖産」は、飛騨川に放流されると勢いよく瀬に入っていった「湖産」であった。そして、吹き流しの仕掛けでも釣れていた「湖産」である。
その「湖産」と海鮎しかいなかった川ではなく、「継代人工」のように出産から人間が関与している鮎なんて、「鮎」の看板が偽りじゃあ、と、藤田さんとともに笑っているのかなあ。
故松沢さんは、「湖産」も線香花火として、海アユとは質を異にする種類と考えられていた。ましてや、継代人工なんて「鮎もどき」は、城山下にいれんでもいいよ、と放流させないようにしていた。
1994年、1995年から、狩野川は「トラックで運ばれてきた鮎」、それも湖産は冷水病の蔓延で川で生存できず、継代人工がのさばるようになって、オラですら、1995年は、解禁日と夏に石を見ただけ、1996年は解禁日にいっただけ、という有様。年券代の元を取るという意欲も湧かず。
それでも、故松沢さんは囮を置いて、たまにやってきていたであろう顔なじみの方々が不自由されないようにされていた。21世紀になって、少しは遡上鮎が釣りの対象となって、オラも出掛けるようになったが、かっての賑わいはなし。
「まがい物」の継代人工を釣るには、平成の初め頃、満さんが「囮屋の前を釣れ」と吠えていたように、それだけで、多くの場合、「魚との智慧くらべ」は完結。あなさびし。
いや、今時分、あなさみし、なんて、感度が鈍いなあ、と藤田さんはおっしゃるでしょう。
その一例を紹介して、今年の藤田さんを終えて、あゆみちゃんの軟派稼業へ。とはいえ、狩野川の遡上量は去年よりも少ないとか、相模川の磯部の堰を遡上した兆候が見えないとか、世も末のお話しが花盛りのようで。
「~、魚の掛りの遠くして河瀬を通ふものゝみ狙ふ場合はそれでもよいが、一定の場所に居付た魚、即ち河床の岩盤か転石もしくは玉石に割拠しておのがしゞその水域の硅藻を固守する魚に対してはその河床に存在する石といふ石の悉くへヲトリを持つて行くのである。
實に友づりの巧拙は一にこれによつて定るといつてもよいほどで、河床をすかしては黒く見ゆる石、赤く見ゆる石、青い石、白い石と丹念に釣つて見るのである。殊に、大きい転石のさつと水を冠つて飛沫をあぐるあたりは大物の着場である、その石の前面、高く流れの盛りあがつたところ、及び左右二つに岐(わか)れた急な流れ込みなど丁寧につり、最後に石の下手のブツブツ泡の立つ所へもヲトリを突込んで見る、時に息休みしているのがぐつとくる、かうして次から次へと石をつるのである。私が嘗(かつ)て――鮎をつるには石を釣れ――といつたのはこゝのことである、それが今では一つの標語となつて頻(しき)りにいひ伝へられ、また書き伝へられてゐるが、私はこの石を丁寧につることを以て友づりの奥義であると堅く信じてゐるのである。
その石を釣つて行くことが友づりの奥義だとしても、さて、今日の河川を見るに余りに甚だしい荒廃で所詮は定石通りの釣が出来ないのである。大抵の釣場には一日中それからそれと心ない釣手が入り交つて立ち込む、それも尋常の釣でもやることか、多くはゴロ引といふやつで盛んに河床を蹂躙する。石と石の間には彼らの千切られた棄(すて)ばりが一ぱいで、とても危険でヲトリを持つて行けない、のみならず玉石の水域にまで遠慮なく立ち込んで折角発育した硅藻を踏み流し、魚の多くを瀬の中心に移動させてしまふ。
そこで、今日では全くの処女川を見出さない限り、岸近い玉石を拾つて釣るといふ面白い友づりは絶対出来なくなつたのである。」
これが藤田さんの「河川の荒廃」の一つの現象である。
コロガシの棄てバリが一杯、という状況は、友区がなかった相模川の高田橋で経験しているが。滝井さんも神沢でコロガシの棄てバリに引っ掛けて「根掛かり」放流をされている。
それどころか、コロガシの雄物川さんが、前回まで、コロガシが支障なく出来ていたのに、盛んにコロガシの針が引っ掛かる。へぼが石に針を引っ掛けて仕掛けを切ったな、と。
その後、どんどん棄てバリの塊は成長して、ドッジボールくらいの大きさになったとさ。
いや、問題はそんなことではありません。
藤田さんの川の「甚だしい荒廃」といっても、現在のオラが感じている石が埋まってしまった、瀬が減少し川が平坦化している、貧富水水の水ではなく、富栄養の水であるから硅藻が優占種の川が絶滅寸前、当然「香」魚も絶滅した、それで、
そおおんなかわにだあれがしたあ
なんて、嘆いているお話しではないということ。
昭和の初めと現在では、同じ言葉、表現が使われていても、その意味付与、内容が異なることに気をつけろ、ということです。
気をつけたつもりではあるが、遡上期の鮎が砂利層を食堂にしている、という時の「砂利層」の意味がわかりません。
三保ダムがなかった頃の酒匂川は、小田厚木道路の赤橋付近でも石がびっしりと詰まっていた。垢石翁が初めて友釣りをされたのはその下流の一国の橋付近ではなかったかなあ。
つまり、「砂利層」が、海から1日も遡上しないで消滅していたのではないかなあ。そうすると、硅藻を食糧としていたのではないかなあ。とはいえ、この問題は、来年また考えましょう。手ごろな本が見つかるとは思えないが。
まあ、興津川が解禁したことであるから、遡上鮎が相手をしてくれるのか、遡上鮎がいなくて雑多な人工を相手に、瀞、平瀬、チャラでひねもすのたりのたり、と過ごすのか、ほぼ予想はついたが、今年も川に入ることができて感謝することにしましょう。
なお、大混雑の興津川の解禁日、束釣りの人もいたとのことであるが、「遡上鮎」ではなく、継代人工でしょう。
垢石翁が、黄門様の印籠を手にして解禁前に那珂川で釣っても「束釣り」はされていない。また、広い磧を歩いてあゆみちゃんのお尻を追っかけての大漁ですから、狭い空間での束釣りは、藤田さんの見知らぬ「鮎」が対象となっている今様のお話しで、その鮎が釣れない、と藤田さんに文句を言っても筋違いですよねえ。藤田さんが関知するところではなし。
戦後に、特に高度経済成長期に生じたあゆみちゃんの生活空間とあゆみちゃんの氏素性の変化は、「香」魚の絶滅だけではないが、「香」魚を経験し、遡上鮎が満ちあふれていた狩野川を経験した最後の新規参入者であることに感謝しましょう。
いや、そんな「贅沢」を経験していない方が、継代人工が「鮎」である、と、疑問を持つことがなく、幸せかなあ。
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