故松沢さんの想い出:補記5 | |||||||||
海産アユの産卵時期は、「10月、11月」であるとの、学者先生の教義がなぜ形成されたのか、なぜ間違っちょるのか、まとめをしたい、と、ヘボの考え休むに似たり、とは思えど、やるしかない。 |
1 学者先生の 教典では? |
宮地伝三郎「アユの話」 1 海産アユの産卵時期11月、12月 |
前さんが「違和感を感じた」事柄を探して |
「香」魚の消滅 遡上量の減少 海産アユの産卵時期 |
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2 学者先生の教義の構図 | 「日本文化」の体現者・学者先生 前さんと日高川養魚場の木曽川の「親」の素性 「アユの話」と岩井先生の「12月」の海産アユ |
湖産「ブランド」と湖産「ブレンド」 耳石調査結果と「腕」 |
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3 「アユの話」(宮地伝三郎) | (1)学者先生の教義とその教義に対するプロテスト (2)見取り図 (3)前さんの「違和感」を手掛かりにして |
「アユの話」と松浦川での流下仔魚調査の役割 狩野川だけ「晩熟型の鮎」がいる? ヒネアユはメスだけ? 性成熟に影響する要因は? |
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(4)鈴木魚心「あゆ釣り百科」 | ア 遡上時期と櫛歯状の歯への生え替わり 川にはいるとすぐに草食に |
イ 歯が生え替わらない血鮎の川への放流 食性に適応可? |
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(5)越年鮎 | (ア)「アユの話」における越年鮎 | 狩野川は越年鮎の産地 冬の湯治客の鮎釣り |
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(イ)狩野川に係る記述への疑問 | 「冬」とはいつのことか 越年鮎にはオスもいる 中津川にも越年鮎がいた 12月に生殖行動を終えていないアユは全て越年鮎か 狩野川が越年鮎の産地? |
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C「冬の最中に湯治客が鮎釣りをするという」=狩野川の「特殊性」の根拠 | ||||||||||
D「昔日の面影がなたった」とは? 台風の影響?廃液問題? |
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2011年は大鮎の狩野川に | 9月15日泣き尺が 9月20日台風で瀬の芯は葦の要塞に 10月の増水で中落ちに |
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1 学者先生の 教典では? |
(ウ)日本文化体現者の京大先生 | 「『語られたということ』は『事実』である」 「『語られた事実』は『事実』である」 「冬の最中に湯治客がアユ釣りをする狩野川」=伝聞 釣り人に物議をかもした「アユの話」 前さんの執筆動機=「アユの話」への反発 |
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(6)下りの態様と下りをしないアユの氏素性 |
ア アユの話における下りの体勢、産卵時期、産卵場所の記述 | @「アユの話」における下りの記述 中落ち 10月22日は下りの終わりに近い 頭を下流にむける 故松沢、弥太さんは、下りは西風が吹き荒れる頃から始まる A下りの体勢 頭から下るか、尻尾から下るか 出アユの現象か、下りの現象か |
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イ 前さんの下りに係る記述 | 底を切って泳ぐ 障害物の所では尻尾から下る トロでは不規則な円を描く 下りと勧進帳の憐憫の情 底を切って泳ぐ=糸にびんびんとあたる 静岡2系の泳層 |
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ウ 魚心さんの下りの描写 | 立秋を過ぎて下りが始まる 増水に敏感 冷たい西北風で下降移動する |
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エ 性成熟は水温でなく光線の影響? |
「水温より日長効果」実験 昼の短日化実験で精巣成熟 夜長は成熟抑制 前さんが強い違和感を感じられた「アユの話」のヵ所? |
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各地方での集団ごとに性成熟に有効な臨界日照時間がきまっているのか | 岩井先生は 光だけで成熟が左右されるのか 夏は北の方が南より日照時間が長い 実験環境と「自然界」の性成熟のずれ 臨界日照時間はきまっているのか 昼の時間だけが性成熟の要因か 6月のサビアユ出現の意味は? 地域集団=東北・日本海型 房総半島以西の太平洋側 琉球鮎では? 鹿児島県では12月になっても性成熟しない 狩野川の稚鮎を砂鉄川に放流しても10月に産卵しない |
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11月でもさびないようにする「電照」利用 平成の始め頃の電照養殖の必要性とお家事情 現在の「電照」は5月の「食用鮎」生産 及び性成熟をしているのにお肌のさびを隠すため? |
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「アユの話」における性成熟に係る記述 | 海産の産卵は湖産より2度ほど低い水温? 海産と湖産の産卵は1ヵ月のずれ ? 四国の学者先生が未だに「10月、11月産卵」教義を持続している教団特性は? 目利きでなくても12月産卵は、産卵場さえ判れば学者先生でも可能 |
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(オ)下りをしないで産卵するアユの氏素性 =「トラック」で運ばれてきたアユ |
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(7)利根川の産卵場所 | (ア)「アユの話」の産卵場について | 淀川では宇治? 利根川では前橋? |
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(イ)1951年4月20日上桂川での放流風景 | 遡上不可能の放流河川 安曇川採捕の湖産放流 宇治川と桂川と木津川の澄み口の違い 差し戻しアユ |
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(エ)魚心さんの利根川の産卵場所の記述 | 「平野の川」に砂礫地帯はない? 河口から300キロ上流で産卵? |
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(オ)魚心さんの記述への疑問 | 「下り」をしないで産卵するアユは放流鮎 「平野の川」でも、川、流れの蛇行で砂礫地帯はできる 仔魚の弁当はもつ? |
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(カ)利根川とソウギョ、ハクレン | ソウギョ、ハクレンの産卵場所と流下卵の状況 産卵場と河口からの距離 増水後の産卵 佐原附近で孵化 利根大堰の完成で生じた変化 165キロ上流の産卵場が140キロ地点へ |
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(8)流下仔魚の遊泳力及び長良川河口堰 小山長雄「アユの生態」 |
a 実験の目的は? | 秒速3センチの遊泳力 流れのまにまに 取水口への吸入と仔魚の弁当消滅と、どっちが大事? 「利根川」は前橋産卵場信者? 遡上アユなくんば人工アユあり? |
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@実験環境で仔魚の遊泳力調査 | ||||||||||
b 「アユの生態」で気になったこと | 放流用湖産は遡上河川で採捕 「湖産」が遡上して「天然遡上アユへ」? 「アユの話」の「水産業のレベルを農業のレベルへ」 完全養殖に成功 種の多様性はどうなる? |
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@湖産が海で生存可能? | ||||||||||
Aトンネル魚道と照度 | 船明ダムのトンネル魚道に電灯? | |||||||||
B「冷水を好む性質」は事実か | 成長段階と水温選好 前歴低温、前歴高温選好? アユは「自然環境」で水温選考ができるの? |
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C何のための実験? | 流下仔魚、遡上稚アユ期の川と海の水温を観察すれば十分なはず | |||||||||
D前歴低温、前歴高温選考に意味があるの? | 鮎は、生活圏の水温を変更できるの? | |||||||||
E雷雨による水温変化と行動 | ||||||||||
F「アユは河口域深く入り込み、しだいに体調を整えて遡上の機会を待つ」? | 汽水域で何を食べるの? 「昆虫食」時代はないのでは 歯の生え替わりが遡上期 |
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G長良川河口堰推進者に荷担したのは岐阜大学? | 高鷲村青年の話 アマゴの稚魚は3割がシラメに |
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(9)「アユの生態」と長良川河口堰と川那部先生 (9)「アユの生態」と長良川河口堰と川那部先生 |
ア 河口堰への川那部先生の関心 | マンモス訴訟における川那部先生の証言 「ほんものの川」とは 木曽三川河口資源調査団報告書と建設省の改ざん 「アユの生態」の呼び水式魚道 サツキマス生息地への影響は? 金銭補償でよいのか? 「遺伝子資源」の視点は? 台湾マスの保護事例 「放流」と遺伝子組成の単純化 |
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イ 建設省の調査報告書の改ざん | 生物に対する影響調査が不十分 +改ざん |
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ウ 長良川河口堰に係る記述 | 記述ヵ所の紹介 | |||||||||
エ 種の多様性と長良川河口堰 | 善意が仇になることも もろい自然のバランス ニホンジカは産児制限ができない 松林とブナ林の鳥の餌量の違い 全員が最適化しない効用 遺伝子の多様性はなぜ重要か 純系では異なった条件に不適合 環境変動に合わせて生き残る術=遺伝子の多様性 養殖放流は遺伝子の多様性の減少に |
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オ なお「曖昧の生態学」には | 光周性は湖産と海産で異なる 海産の光周性はみな同じ 岩井先生は「光周性」要件と性成熟に疑問を 緯度の高い乙北ほど日照時間は長い 地域集団で考えるべき? 成熟に必要な臨界日照時間は地域集団で異なる? |
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カ 遺伝子の多様性は環境変動への対応力?適応力? | 致命的事態に対処できないと絶滅に 適応し得た性質はいまも遺伝子に残っている |
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(10)香魚のいた淀川 「香魚百態」 山本素石 「くたばれ『鮎』」 |
ア 淀川にも香魚がいた a 素石さんと川那部先生の「香り」の記述 |
当今の比でない「香り」 芳香で目をさました在所の人 川那部先生の「キュウリ」の香りの情況 タデ酢は刺身に 西瓜の香りからキュウリの香りへ、そして香りのしないアユへ、臭い鮎へ |
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b 汚れゆく淀川:昭和30年代 亀井巌夫「釣の風土記」から |
臭い桂川 宇治川と木津川合流点での釣り |
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c 汚れきった加古川:昭和40年頃 | 伏流水にも汚水? 鮎のいない闘竜灘 |
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d なんで身上つぶした? | 素石さんの鮎狂い ゼニ儲けから身を滅ぼすまでわずか3年 釣り師の発情期 平成の代のアユ、川で身上つぶす? |
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e サツキマスがいっぱいいた熊野川 | コサメ、ウミコサメ 海コサメが囮を マスを退治せよ |
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f サツキマスがいっぱいいた年もあった長良川 | 湖産大量保有、遡上鮎大量 しかし、解禁日は? マスを退治するな |
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g 麻薬と釣りと | 京の鮎は「遡上湖産」? 優しき大和撫子は今いずこ? |
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イ 辻嘉一「鮎――味の歳時記」から イ 辻嘉一「鮎――味の歳時記」から |
a 辻さんとは | 京懐石「辻留」の主人 なぜ辻さんか 京人は湖産を食べる 生臭い匂いとは 海産鮎はいつ頃食材から消えた? |
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b 辻さんのお眼鏡に適う鮎は今もいますか | 養殖鮎の登場 養殖鮎の容姿と味 人工鮎は? |
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c 氷魚、稚魚料理 | 菜種鮎、桜鮎は生臭い=木の芽味噌、赤味噌の田楽 氷魚=塩茹でを大根おろしのと二枚酢で 氷魚は畜養に 畜養鮎は異動距離が短い |
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d 焼き方 | 刺身よりも塩焼き 焦げ目をつける=生臭さを消すため ヒレ塩不用=生き鮎を使用 由良川の鮎 亀井巌夫「釣風土記」 昭和四二年和知川の鮎も放流もの? 「和知鮎」の消滅 「大きさ」による選別の疑問 解禁日の「大」とは? |
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e 食べ方 | 蓼酢の作り方:緑滴る蓼酢 生臭みを消す 骨から身をはがすやり方 頭を味わうとは |
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f 鮎の成長と料理 | 鮎が痩せる、脂肪が減ることと「二日」で回復? 七月からが本当の鮎の美味 辻さんの鮎の生活誌知識発信者の信頼性 大きさだけが鮎の価値基準?、 |
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g 煮浸し | 性成熟開始からの鮎料理 白焼きをする 白焼きをしない調理法 |
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h ウルカ | 苦ウルかは作れない? 子ウルカを作る |
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i 鮎寿し | 国栖川の鮎寿し 生き生きした色を尊重 坂倉又吉「うま酒にうまき鮎あり」 「うお、いお」と「さかな」 「うお」から「さかな」へなぜ変わった? |
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j 生き鮎と見分け方 | 保津川の鮎の運搬 「海産鮎」、「香」魚がいたのでは? ぬるぬる鮎と脂肪 |
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ウ 「放流もの」の変遷に係る話 齋藤邦明「アユ釣り大全」も参入 |
a 湖産アユの年間採捕量 | 本荘千トン 亀井11トン 「準天然アユ」の誕生 |
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b 亀井さんと本荘さんとの数量の違いは? | 畜養湖産の生産能力は? | |||||||||
c 「準天然種苗」 | 湖の水位低下、水位変動の大 人工河川の造成 人工種苗の参入 遡上湖産と準天然種苗の比率は? |
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d 齋藤さんの湖産種苗変化に係る記述 | 清滝川での放流 湖産アユ出荷量 相模湾の稚アユが徳島へ その値段は? |
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e 湖産畜養の隆盛 | 「湖産」のまがい物の放流 オオアユの減少? オオアユと追いさで漁 「完全養殖」を説くセンセイ 野洲川での「遡上湖産」釣り 本荘さんは湖産が海で生存不可能を知らない |
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f 「アユの話」と湖産:「遡上湖産」が「湖産」放流の主役であったころ | 「完全養殖」が理想思想 岐阜県で「完全養殖」を始動 自然破壊には「完全養殖」が必要 |
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(9)「鮎釣り大全」と長良川河口堰 | 「何々をしなかった」という観察の重要性 | |||||||||
a 「鮎釣り大全」の「天然アユは、いまや絶滅危惧種」の章から | 長良川の産卵場 「毎秒2センチ」の流速 動物プランクトンの繁殖 汽水域の消滅の影響は? |
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b 河口堰の影響 | 村上哲生他{河口堰」 河口堰の位置 淡水域の長さ 滞留日数とポタモプランクトンの繁殖 「リバー・レイク ハイブリッド」の生態系 ワムシ繁殖と生存限界以下の水温 |
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c トラックで運ばれてきたアユの産卵場所 | 「下り」をしない鮎の観察者たち 吉野川の平重郎さん 平重郎さんの「下りをしない鮎」の話 道順を知っている遡上アユ |
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d 齋藤さんと建設省のお役人 | 肩をいからせたお役人 釣り人の観察眼とお役人の感性 1年を謳歌できない環境 ヘドロ石のハミ跡 |
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(10) 齋藤さんは恩田さんの「奥義」を盗めた? 馬瀬川の湖産放流時期は? 亀井さん、齋藤さん、滝井さん 湖産「準天然」の放流は いつ頃から? 馬瀬川にダムがなかった頃 =ウナギは上る 長良川の湖産放流は? 亀井さん 大多サの記憶と吉田川 の大漁 齋藤さん 恩田さんの話 前さんの 万サ翁の話 いつ頃から自然児が 稀少になった? 「準天然」湖産放流は いつ頃から? 岐阜産「継代人工」生産 と助成策が始まる 井伏さんの長良川 相生の情景 地元の釣り人の親切 超初心者が釣れた 「山下」の足跡 10) 齋藤さんは恩田さんの「奥義」を盗めた? |
a 齋藤さんと「天然アユ」の容姿 | @「天然アユ」ロマン 雌ヒョウに似た風貌 ぬめりのある魚体、芳香 Aアユの口と頭 「ひだ状の舌」 櫛歯状の歯 ヘビのような目 流線型の頭 B背ビレ 帆を張ったような 大きい背ビレ |
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b 馬瀬川での放流 | @亀井さんの馬瀬川での放流 村の有志の遊び心 戦後の風流鮎釣り大会 釣りやすい 閑雅な風光 A齋藤さんの馬瀬川での放流 昭和27年放流開始 清流を保全する馬瀬川 B滝井さんの馬瀬川 昭和30年8月馬瀬川初体験 遡上した湖産鮎放流 上等の鮎を求めて 透明な水 大きい石 山川の激流 捨てられた烏山の鮎 澄み口の早い馬瀬川 滝を上るウナギ 昭和39年の解禁日 解禁前のオトリ捕り 大夕立の中の大漁 「準天然」湖産も放流? 放流量35万匹 |
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c 長良川での放流 | @沖取り海産の弊害 傷つきやすい魚体 駿河湾は産地 A亀井さんの長良川 モモノキ岩と「自然児」 青地さんの郡上竿 噴き上げられるオトリ 昭和51年の放流は450万匹 自然児の復活 完全人工養殖とその保護育成 B萬サ翁と長良川への湖産放流 天然は顔が長く、湖産は丸顔 140匁も 100匁はいくらでも 昭和9年吉田川へ湖産放流 純天然遡上鮎は脂ビレから尻ビレまでが長い C大多サと湖産 昭和12,3年頃湖産放流の吉田川で大漁 |
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d 恩田さんの奥義と齋藤さん | @恩田さんと「郡上鮎」 1キロ2万円 料理屋で2匹1万円近く 自然保護運動のシンボル的存在 魚質を求める恩田さん 天然モノ相手に通用する教え A「釣聖の背バリ兼用の棒鼻カン」への前奏曲:天然鮎の行動 天然鮎=激流の芯 横への動きが必要 丸鼻カンの限界 故松沢さんの長手尻、仕掛け B恩田さんのあゆみちゃんは 深瀬の激流にオトリを沈める 引き抜く |
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e 背バリ兼用棒鼻カン | 恩田さんにゴマする齋藤さん 意のままに動かすことのできる棒鼻カン 沖へ出て行く棒鼻カン 3年後に背バリを発見 支点は1点だけ 故松沢さんの仕掛けとの類似性 豊島のアブラメの値段 |
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f 井伏さんの長良川 「釣師。釣場」(昭和35年発行) |
@長良川の状況 郡上八幡から相生が一等地 六月二日で一五匁 素人で一〇尾 鵜飼いの場所にアユはいない? A相生の情景 二階建てほどの大岩 時速一四尾のガソリン屋さん B丸岡君の釣り 種魚二尾二百円 ポイントを譲るガソリン屋さん 道糸を長くしない頑固者 =取り込めず C丸山君の釣り 死んだ囮を生きの良いアユに替えるガソリン屋さん D腹オモリ、鰓からのオモリ挿入 Eハリスは馬素 F「山下」という男 木曽川筋への伝承者? 山下の釣り姿 G蹴られ? 岩に近すぎる? 「朝トロ、昼セ、夕ノボリ(カケアガリ) H超初心者丸岡さんの結果は? |
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2 東先生の流下仔魚量調査 | (1)松浦川での流下仔魚量調査の感想 | @対馬暖流の生活誌の海産アユがいるのでは? A交雑種の仔魚は? B相模川では |
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(2)1997年の相模川での調査 | 産着卵 12月11日、12月25日に存在 流下仔魚 12月18日、12月25日、1月9日に存在 |
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(3)側線上方横列鱗数 | a 福井県の側線上方横列鱗数とアユの由来 湖産 23枚〜27枚 人工産 13枚〜18枚 海産 18枚〜24枚 下顎側線孔数による由来区分と「純天然」、「人工」 b 神奈川県の由来識別 県産継代 14枚以下 信頼性に欠ける鱗数 c 産卵場での親の大きさ 親の大小で砂礫層の選択が異なる 2010年の狩野川=小中学生 2011年の狩野川=大アユ d 産卵時期と成長度合い 2011年泣き尺も 早熟と奥手 2010年のチビ親からなぜ大アユが? e 海の動物プランクトン生成量 2011年の駿河湾では? 増減は何が要因? f 信濃川の流下仔魚 11月末にも観察された意味は? g 石田力三さんの役割は? |
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3 長良川と恩田さん 「釣聖 恩田俊雄」 3 長良川と恩田さん 「釣聖 恩田俊雄」 |
(1)恩田さんの懺悔 | 齋藤さんの師匠・恩田さん @落葉広葉樹林の伐採 俗人の恩田さん 材木屋の腕前 原始林の伐採 スギ植林の後悔 子供のころは自然保護と無縁の生活 A水棲昆虫の減少 エサ捕りサービスの失敗 虫捕りの職業化助成 釣果至上主義の釣り人養成 自然を観察しない釣り人育成 「魚の気持ち」を判って 河川行政と死の川 机上の勉強の結果は? カブの減少 齋藤さんの思い |
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(2)「水商売」への華麗な転職 | @ 大病は福の神? 35歳で材木屋精算 芳花園開店 湯屋温泉でアマゴに目覚める 本流釣りの魅力 1960年?、65年?頃、サツキマスとの出会い |
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A サツキマスの釣果 タクシーで釣り場へ 29匹、掛けたのは40くらい 奥さんも1日に8匹のことも 大漁の年はいつ頃? |
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B サツキマスの大きさ 三河竿は3分割に ごつい仕掛けはサツキマスに失礼 最大は53センチ 週に30匹ずつ卸す |
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C 人間万事塞翁が馬 昭和12年に召集 マラリアに罹り除隊 吉田川解禁の写真の威力 |
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3 長良川と恩田さん 「釣聖 恩田俊雄」 |
(3)引き抜き | @アマゴとアユの引き抜き 昭和40年代前半、竹竿での引き抜き アマゴの引き抜きからアユの引き抜きへ? Aぶれない竿 魚を遊ばせない竿 アマゴの引き抜きはタモは腰に 鮎の引き抜きはタモは左手に Bサツキマスの取り込み 1歩も動くな 口を開けるサツキマス 1日8匹の奥さん C鮎の引き抜きと容姿 アユ足袋、タイツ? 20センチ台の容姿は大井川、狩野川の遡上アユ十個が違う? D「郡上の大アユ」の章から キュウリとスイカに似た匂いが夏を連れてくる 「頭が小さくて、肩が盛りあがったやつ」 水深のある段々瀬の流心が邸宅 激流に適う郡上竿と仕掛けとテクニック E容姿の違い 九頭竜産との違いは? 宮川との違いは? F清濁併せのむ特技のある稚鮎? 伊勢湾にも動物プランクと繁殖の海域が? 汚水の海を通る稚鮎? 「準湖産」はチャラに? |
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(4)塩焼き1万円の情景 | @大きさ計測の変化 卸し先 1入り=トビ=100匁のアユ 6ランクに変更 特大=200グラム級 150グラム級=5入り=大 A塩焼き2匹1万円ほどの年は? 例年の相場 大2千円 10入り=中の下=100グラム=1200円見当 平成5年=冷夏の夏=天候不順 =150グラム級4千円 木曽川のアユも仕入れる 平成5年=冷水病顕在化の年 長良川の不漁は「天候不順」? 「河口堰工事」の影響? |
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(5)アマゴとアユの加工 | @加工の必要性 80,100匹釣れるアマゴ 氷が効かんアマゴ さくら干しで出荷 アユのみりん干し、昆布巻きで出荷 昭和30年代後半のこと? |
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Aアマゴは氷が効かない? アマゴを傷めない郡上ビク 100匹は入るビク 鮮度を傷つけないビク |
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今西錦司 「山と自然と」 乾燥イワナの料理 |
Bみりん干し、焼きイワナの味 今西錦司 「山と自然と」 a イギリス人の「釣り」とは トラウトフィッシング」だけが「釣り」 疑似餌バリによる釣りだけが「釣り」 イワナの毛バリ釣りの技法 b イワナの料理 カチンカチンのイワナ その料理が最高 焚き火の熱で乾燥 焚き火の煙で風味 焼き枯らした尺物イワナの旨み バスの見える川のイワナは不味い |
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(6)長良川盛衰の「衰退」の情景は | @ 繁盛している郡上と衰退した郡上の情景 川魚卸問屋 問屋から大型トラックで市場へ 大多サ=昭和30年頃から天然アユ上らず A 放流河川への変身? アマゴ100匹が30くらいに 恩田さんの加工アユは放流モノ? B アマゴにも放流モノが 今西博士のマス養殖への願い 種の保存の願い 人工アマゴの成功:昭和43年頃 C 人工アマゴの釣り方 ポイントは放流地点 対象はシラメ 放流アマゴは食えん D アマゴの減少はなぜ? 吉田川=源流域の汚染大 |
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(7)いつまで続く「自然征服」思想 今西錦司 「自然と山と」 |
@ 今年も咽のトゲは抜けず :長良川の鮎の容姿 万サ翁の長良川の容姿の違いの意味は? 他の川との違い? 宮川と違う? 「変遷」なら放流河川となった長良川故 A今西博士の人工種苗生産の「夢」 経済合理性と継代人工 「夢」の実現は「青い鳥」とならず |
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今西錦司「自然と山と」 @人類史の区分 自然依存時代 自然と並存時代 自然征服時代 人工化、飼育化された自然 A展示されたチョウチョウの限界 自然のチョウチョウを知らない人間の増加 人工物のない山の「展示」 三方崩山「展示」の願望 |
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5 審議会は「公正」、「中立」か 5 審議会は「公正」、「中立」か |
(1)「公正、中立」審議会とは「事実」? | 「山本学」と養老孟司・内田樹「逆立ち日本論」とビッグコミック:佐藤さんの「憂国のラスプーチン」を素材に 「隠し撮り録音」と検事の「ストーリー作成」技の乖離 「軍隊イメージ」の日米の違い 日本人=上意下達 アメリカ人=プライバシーがない 稟議制の日本 「5時から男」はサボリーマンの見本 |
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(2)NHKは「中立、公正、公平」な報道をしている? | 「逆立ち日本論」から 「ダムのない最後の清流:四万十川」から4半世紀 「日本1の清流に淀川」 「水質日本1」とは? |
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(3)日本教徒における「証拠」の作り方の事例 | 「憂国のラスプーチン」における検事のストーリーの作り方 形式合理主義のルールで裁判官に「事実である」と信じさせる手法の一例 罠の作り方 「早い者勝ち」…嘘っぽい「供述」の作り方 「供述」の多数決 調書は被告に見せない? |
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(4)NHKの意識は正しい? ア 邪道教そして正解の数は? |
「無作為の悪意」を顕彰する 「正解は1つ」のNHK =感覚の世界を除外している 「個性」概念は必要? 「フレーム」「額縁をつける」 フレームの中は「これは嘘である」 フレームの意識を持ち鑑賞すべし 「フィクション」をやっている意識 |
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イ 状況依存の客観性 | a 「総長賭博」型ソリューション 「我慢の限界でぶち切れる」ことへの共感 忠臣蔵人気も同じ 日本人の行動美学 日本人の客観性=全共闘の客観性=状況依存の客観性 |
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b 「政治的になるということ」 「絶対的客観性」は苦手 具体的状況内での断罪 客観性が主観の問題に |
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c 「周りの情勢で決まる日本」 西洋人に日本風客観性は通じる? 日本的情念の発露と全共闘 竹槍武装出現はなぜ? 「非常時の論理」の復活 |
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d 「空気」と全共闘 全共闘=日本人の感情発露 思想的影響なし 世間全体の雰囲気 空気と時代 「空気」を読む日本人 いばりたい人の行動? 日本の「世間」の問題 |
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5 審議会は「公正」、「中立」か |
ウ 現場主義 | a ヤスデの足りなくなった足への対応 足1本がなくなると全体の動きが変わる 全体を調整するシステム 生物のシステムは融通無碍がきく、変化する システムは基本的に現場主義、人間は? 人間は死体が武器になる ヤスデは別のヤスデになる |
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b 「埋められた」杉原千畝さんの行為と外務省と掘り起こした人と 多くのユダヤ人を救ったリストニア副領事の杉原さん 杉原さんの名誉回復と鈴木宗男さん 外務省の杉原さんへの対応 鈴木宗男さんは杉原さんのご遺族に謝罪 小和田さんの「弁解」手法と官僚文章 鈴木さんへの「国策捜査」は外務省主導? 疑惑の綜合デパート潔白の鈴木さん |
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c 「亡国のイージス」と現場主義 現場と官僚主義の乖離 モノと思想の板挟みとドラマの生成 |
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d 現場主義の事例:「嘘も方便」 現場主義の日本の宗教 なにが事実かわからなくてよい =RASHOMON 「正解は1つ」の世界と異なるRASHOMON |
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e 現場主義の事例:山脇東洋の腑分け 消された荻生徂徠 =天道と人道の区別 徂徠を師事する山脇東洋 贓物はすべての人間い同じ 死罪人を弔う山脇東洋 “ゆるさ”が上手い江戸期の統治 |
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エ 成熟システム?ぶっ壊すシステム? a 折り合いをつけることが重要 |
武道の相手=原理的には「敵」 「敵」とは? 「敵」を倒すとは? 天災はやって来るもの 人間相手でも同じ=「ナカをとって」ゆく 「第3の身体」の生成 「敵」とはカテゴリでなく、具体的な事況 「個別化」の達人=ヤクザ 橋本市長の入れ墨排除 「折り合いをつける作業を不要にした公共事業 |
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5 審議会は「公正」、「中立」か | b システムの老化?成熟志向の排除?ぶっ壊す対象? | @「成熟」概念のないアメリカ 単純なストーリーの政治志向 感覚的なものの無意味化 能率、効率重視と同質化 シンプル志向、マニュアル化 |
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A「大人になれない国」、「成熟」モデルのないアメリカ 漸進的な「改良」の欠如 人間の進化、成熟への拒絶感 「理想のアメリカ人」の補完者:ユダヤ人等 「原点に還る」形のシステム再生 システムの破綻原因=「老化」と理解 |
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B「成熟」概念をなくしていく日本 「システムの未熟」から「腐って使えないシステム」への認識変化 「ガキ」の発想が主流に 「システムの手直し」は過去の遺物に 「システムの改良」は時代遅れ? 恩田木工の手法は古い? 「日暮硯」=日本風合意形成の模範 |
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C「気質」の人と「名人・達人」の人 角栄さんは「気質」の人? 「人を見る目」の重要性 「個性」の主張が「人を見る目」をなくす 「他人の気持ちをわかるようになれ」 「原理主義」対「原理主義」の対決の結果は? 「ビミョー」、「棚上げ」、「両論併記」、「継続審議」と「大人の知恵」 「他人の気持ちをわかるようになれ」の行為規範 |
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オ 「卒業」のメタファ | @ 偶像崇拝と踏み絵 「日本教徒」クリスチャンに有効な手法 「偶像崇拝」禁忌の理解不能な「日本教徒」 |
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A ユダヤ人とは そして「卒業」とは 「無知の覚知」からはじめる「ユダヤ人」論 ユダヤ人の「映画」=「卒業」 宗教的にきわどい映画 |
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B 偶像崇拝禁忌と映画産業 視覚と聴覚のズレの問題 「時間性」の宗教 「無時間モデル」と映画の許容 「視覚表象」で表現する日本人 カトリック教会入り口の二つの2つの女神像の意味 |
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カ 「神の目」で見た隠し録り録音 | a 「常識」の重要性とその認識欠如の「知識人」、裁判官 「まるで漫画みたい」以下のリアリティ b 「漫画にならない」ほどお粗末とは 社長1人が金を持ってきた ロビーで金を渡した これが何故「事実」として認定できるの? 5千万円の札束の量は? 個室、立会人付きで授受するのが常識 「裁判の結果と事実は違う」という検事 検事のお仕事は「架空のストーリー」を作ること 「被告」となった検事が「全面可視化」を要求 c 「悪魔を追い出したら、さらなる悪魔が…?!」 「7人」の悪魔とは 「推認」で罪人を作成 検察のリークに気がつかない総理大臣 |
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1 海産アユの産卵時期は、「10月、11月」であるとの教義の教典?としての「アユの話」と東先生の松浦川での流下仔魚調査結果
故松沢さんや、亡き師匠が鮎にも品格等の質の違いがある。それを知ることが、数が釣れればよい、大きいければよい、ということよりも大切なこと、と、説教ではなく、話されて20年以上になる。
不肖な弟子は、21世紀になって、大井川でさえ、時期限定で存在していた「香」魚の消滅を知り、あるいは、1995年の遡上鮎が釣りの対象から姿を消した狩野川に遭遇して、やっと、亡き師匠らが話されていた鮎の「品格」「品質」「生活誌」に関心を持つに至った。
「香」魚については、学者先生が食料に基づくとの話がフィクションである、と本(高橋勇夫他「アユの本」(築地書館)に書かれようとも、村上先生や真山先生が食料に帰因する、珪藻に存在している物質の作用による、と研究をされているから、これについては、いずれの日か、代謝経路、あるいは昨今の香り成分の原因物質の不存在となった理由等が明らかにされるものと考えています。
珪藻が優占種の大井川や「水質日本1」に何度かなった新潟県の荒川でも、「香」魚が消えたのは、ダム湖で繁殖している浮遊植物プランクトンが、珪藻に取り込まれて香り成分に変化するであろう物質が消費され、あるいは故松沢さんが腐葉土を染み出すときに一緒に川に流れ出している「ミネラル」が川に流れていない、と話されたことで満足をしていても、村上先生や真山先生が、学者先生の香りが「本然の性」に基づくものであって、「気質の性」ではない、という教義をお蔵入りにしてくれるものと確信しています。
それにしても、香りが「本然の性」と主張されている学者先生は、古には当たり前に存在していた「香」魚が、現在では稀少生物並みになった理由をどのように考えられているのかなあ、気になりますねえ。
野田さんが、長良川の御料場に潜り、タクシーに乗った時、運転手さんが「お客さん、鮎がいっぱい釣れましたね」と話されたほど、シャネル5番の香りは強いんですけどねえ。臭くないんですけどねえ。
その香りを知らない人が、海の稚魚でも香りがしているから「本然の性」である、と、主張されているとすれば、オラよりも貧弱な観察力、推理力といえるでしょうねえ。
さて、相模川以西の太平洋側、多分、サケが遡上しない太平洋側の川の海産鮎の産卵時期について、学者先生の教義である「10月、11月」説は、実害をもたらしているから、看過できる事柄ではないと考えている。
高知県は再解禁日が11月16日とのことである。
もし学者先生の教義が適切であれば、一番上り、2番上りは、孵化をして、海で動物プランクトンを食べていて、翌年の遡上量に大した影響をもたらさないこととなる。
しかし、川漁師である仁淀川の弥太さんや、狩野川の故松沢さんのように、「西風が吹き荒れる頃=木枯らし一番が吹く頃」から、下りのための集結その他の産卵行動等が始まる、とすれば、11月16日の再解禁は、翌年の一番上りとなる鮎の産着卵を踏みつぶし、2番上りとなるであろう親アユの大量殺戮をしていることになる。
山崎さんが、四万十川ではコロガシの針を多数つけないで釣っている、と書かれているのは、産卵場での大きい親アユが集結しているところを釣っているから、1,2本の針でないと、取り込みが困難となるからであろう。
もっとも、相模川は昭和橋付近でコロガシをして、周りの人の何倍も釣りあげて顰蹙を買っている雄物川さんは、遡上鮎の20センチ以上の乙女は馬力が強く、取り込むのが大変、と話しているから、もし、四万十川で、産卵期でなくても、ハリが多いコロガシの仕掛けには複数の鮎が掛かっていたとも考えられるが、1匹オオカミで生活をしているときに、1流しで複数の鮎が掛かることは、考えられませんねえ。チビアユなら、話は別であるが。
そのように、学者先生の教義は、湖産放流全盛時代と同様、回収率だけを考え、再生産を意識しない漁を正当化する教義として機能しているから、故松沢さんの最後の弟子と自惚れているオラが、なんとしても、学者先生の教義がまちがっちょる、と、疎明しなければ三途の川で、亡き師匠や故松沢さんにあわせる顔がない。
しかも、観察眼に勝れた川漁師さんらが退場していき、学者先生しか存在しなくなる昨今であるから、あゆみちゃんの生活誌がいかなるものか、ヘボなりに考えて、学者先生に対するカウンターイデオロギーの痕跡を残すことが必要と考えている。
相模川でも漁期変更の動きがあるが、学者先生の教義に基づいて漁期変更の判断がされないことを願っている。
亡き師匠が川に浸かっていた頃は、携帯電話は高価であり、ポケベル併用でわずかの人が使用されていたに過ぎない。
故松沢さんは、携帯をもたない主義であったから、三途の川に電話をすることも出来ない。
頼りにするのは、最上川は魚道があり、すべての魚が上っている、との大人の話をおかしい、と感じた三谷ちゃんとのテレパシーによる交信しかありません。
手段の貧弱を嘆いていても詮無いことであるから、ヘボの特権で学者先生の教義が適切でない、まちがっちょると疎明するしかないですね。
この章で対象とするのは、学者先生の教義を形成することに貢献しているであろう宮地伝三郎「アユの話」と東先生の松浦川における流下仔魚量調査結果である。
「アユの話」は、前さんが違和感を感じられた事柄がどこか、を、よりどころとしたいが、前さんは明確にそのヵ所を指摘されていない。カンピュータで推理をするしかない。
松浦川での流下仔魚量調査が、日本海での調査であれば、「アユの話」同様の問題として扱えるが、「九州」での調査結果であるから、気温、水温変化を見れば、房総半島以西の太平洋側と類似していて、困りましたねえ。
学者先生が、「海産アユの産卵時期」を「10,11月」とする教義を「正統」教義とされた一因に、オラ同様、九州の気温も水温も太平洋側と同じである松浦川での産卵時期と日本海側の産卵時期が一致する、という現象が大きく作用しているかも。そうすると、松浦川での産卵時期は、九州に位置するといえども、対馬暖流の影響下で生じた鮎の生活誌の賜である、と、いえればいいんですがねえ。
2 学者先生の教義の構図
日本「文化」の体現者・学者先生
学者先生は、目利きが出来ないこと、そのため、川に放流された鮎については、漁協が「湖産を放流した」といえば、「湖産」が放流されていて、川に放流されたアユを「湖産」として「評価」をしていた。
しかし、前さんは、日高川漁協が木曽川で10月始めに採捕して、人工アユの親としていたアユが「海産」アユではないことに気がつかれていた。房総以西の太平洋側の「海産」アユが、10月始めに採卵できるほどの性成熟をしていないからと、オラは推理している。
海産や継代人工が「湖産」ブランドに「ブレンド」されているとは想像もできず、目利きができず、太平洋側の海産アユの生活誌を調査することもなく、東北、日本海側の「海産」アユと同じ性成熟をしているとの教義が、2009年発行の谷口順彦他「アユ学」(築地書館)にいたるまで連綿と「正統」教義として生き続けている。
山本七平「日本教について」で書かれている日本の文化の1つの特徴である『「語られたということ」は「事実」である』と、『「語られた事実」は「事実」である』ことは異なるにも係わらず、日本人は区別していない。
唯一の「語られたことは事実である」=「湖産を放流した」と語られたこと、と、「湖産が放流されたということは事実ではない」=「湖産ブランド」で、継代人工が放流された ということを区別されたのは、足羽川での福井県の調査である。
目利きが出来ないから、上方側線鱗数で、湖産24枚くらい、海産22枚くらい、継代人工20枚以下、というアユの素性を識別する指標で、川にいる鮎を識別していても、漁協が「湖産」しか放流していない、というと、その上方側線鱗数の「基準」を変更し、海産でも20枚以下に、湖産でも20枚以下に、という変更する融通無碍なことを行って、「調査結果」が「語られた事実」に適合するように、川に存在している鮎の識別をされている神奈川県の事例もあある。
耳石調査は、孵化日からの鮎の成長日数を識別する有効な手段であろうが、調査検体を研磨する作業には熟練を有するようで、耳石調査結果から、一義的に、孵化日が適切に調査されたとはいいがたい。
高橋勇夫さんの四万十川海域の稚鮎の耳石調査における10月半ばの孵化日は、また、神奈川県の10月始めの孵化日の調査結果は信頼性に欠けるものと考えている。
高橋さんの調査では、2月孵化の調査結果も出現しているが、2月に海にまで到達できる生存限界以上の水温の水が連綿と流れているのでしょうかねえ。
さて、このレベルの学者先生の教義のおかしさ、根拠については、ヘボのオラでもなんでまちがっちょるか、の見取り図を描くことができる。
問題は、学者先生の教義を「科学的」に、「論理的」に正当化する役割をしている宮地伝三郎「アユの話」と、東先生の松浦川における流下仔魚調査です。
これらが、天動説の宗教教義を「科学的」に、正当化することに寄与したのではないかなあ、と思っているアリストテレスの役割と同じ作用をしているのではないか、と勘ぐっている。
天動説は、ガリレオやコペルニクスといった「学者先生」がカウンタイデオローグになったが、相模川以西の太平洋側の海産鮎の産卵時期については、学者先生のカウンターイデオローグであった川漁師の退場とともに、永遠に不滅です、となるでしょう。
なんで、岩井先生は、12月産卵の海産鮎の存在をご存知であるのに、学者先生の教義が適切でないことに沈黙を守られているのかなあ。
3 「アユの話」(宮地伝三郎:岩波新書)
(1) 学者先生の教義とその教義に対するプロテスト
学者先生の「海産鮎が10月、11月に産卵をしている」という教義が連綿と持続し、この教義に掛かるカウンターイデオローグの川漁師の退場と共に、不動の「事実」としての地位を確保していくであろう状況へのプロテストをどのように構成するのが適切であるか、考えてもヘボの考え休みに似たり、であるからいつものように、行き当たりばったりで書いていきます。
とはいえ、少しは見取り図を作成すべきでしょう。
(2) 見取り図
@ 宮地伝三郎「アユの話」(岩波新書:1960年・昭和35年発行)が、学者先生の教義を裏付けるアリストテレスの「天動説」の学説、「科学的根拠」の役割を果たしているのではないかと想像している。
A 東先生の松浦川での流下仔魚量調査が、日本海側の宇川での調査結果が、九州においても妥当する故に、相模川以西の太平洋側においても、「10月、11月産卵説」が普遍性をもっているとの根拠になっているのではないか、と勘ぐっている。
B この学者先生の教義とは異なる現象が生じている狩野川については、「晩熟型」のアユが生き残っている、といえる(鈴木敬二先生等)と、「狩野川」だけの「特殊、例外現象」としての評価を行い、「教義」の正当性を保持されている。
C 狩野川だけに「晩熟型のアユ」が存在するという学者先生の評価については、仁淀川の弥太さんだけでなく、満さんらが11月、12月に紀伊半島で鮎釣りをしていることが1990年代の釣り雑誌に掲載されるようになって、狩野川だけの「特殊現象」とはいえなくなったと確信している。
これらの状況を糧として、どのように学者先生の教義がまちがっっちょる、と疎明すればよいのか、最上川の魚道が100%魚が遡上できる施設である、という大人の説明がおかしい、と気がついた三谷ちゃん、教えて。
(3)前さんの「違和感」を手掛かりにして
「アユの話」をまず俎上にすることは、川那部先生がゴーストライターの役割を演じられたようで心苦しくはあるが、前さんが「違和感」を感じられているから。
前さんが、「アユの話」のどのヵ所に違和感を感じられたのか、判らないが、
@ ヒネアユが「メスだけ」との観察。
A 性成熟に影響するのは何か。
という事柄は、外せないのではないかなあ。
ちなみに、「アユの話」を読まれたが、「違和感」を感じられなかったのではないかと思う事例をまず紹介します。
(4)鈴木魚心「あゆ釣り百科」(岩崎書店:1967年・昭和42年)
(原文にない改行をしています)
ア 遡上時期と櫛歯状の歯への生え替わり
「4 アユの食性」の節」に
「こうしたアユの食性について、京大の宮地伝三郎教授は、氏の著書『アユの話』(岩波新書)の『昆虫食の時代はあるか』の項に、釣り人に興味深い調査結果を述べられている。
『川へ入る直前まで、アユは海産の動物性プランクトンを食べていた。ところが、川口を通過して数分から一〇数分後、一〇メートルほど上までくると、全部のアユが群れのままで速度を落とし、藻類をはみはじめる。
これまでの一般的な見解は、これとは少し異なっていた。幼いアユが川底の昆虫を食べているという事実がいくつか認められたこと、また解禁のころでも、小さいアユは、虫を擬した毛鈎で釣れるという事実などにもとづいて、アユの食性は、海でのプランクトン食から、川へ上ってから、しばらくは昆虫食になり、やがて藻類食に変わるのだという意見が、アユについての総説や、釣りの本の始めにある生態見聞には、たいてい書いてある。』
そして、京都府の最北端与謝(よさ)半島の宇川にのぼるアユ、琵琶湖の放流用コアユの採苗地として知られる北西岸に注ぐ石田川、知内(ちない)川の湖からのぼったアユなどの摂餌行動や消化管を調べられ、たしかに藻類食だった。と述べられ、
『それから5年の年月のたった今日まで、毎年見ているが、少なくとも宇川のアユは、川へ上るとすぐ藻類を食べる。一方、例えば淀川の下流―大阪市内にある毛馬のこう門付近では、春先にたくさんのアユが毛鈎でどんどん釣られている。このような事実と見方とのくいちがいはどういうことなのであろう。』」と。
さらに口の形態の変化に及び、
「『海にいる稚鮎では、上あごが、いくぶん下あごをおおい、櫛状歯や舌唇は形成されていない。稚鮎のこうした口器の形態から、親アユのようになるのは、東大の末広恭雄さんと水産講習所の松井魁さんとが調べたように、体長でほぼ6〜7センチのころで、これは川へのぼるアユの大きさと合致しているのである。こういうことからみると、海から川へのすみ場所の移動と、動物食から植物食への食物転換の準備とが、並行しているのが原則と考えるべきだろう。ただ、川へ上ってもしばらくは、動物食の傾向がいくぶん残っているのではないか、という考えまで否定するわけではない。
大きい川や、小さくても潮の干満の差の大きい海に流れ込んでいる川では流速がゆるくて底に石がなく、砂や泥だけで出来ている下流部がかなり長くつづいているものである。こうしたところでは、良質の藻はほとんど生えないから、そこをさかのぼるあいだ、アユはそのあたりで得られる動物―たとえばユスリカを食べるのは、当然のことであろう。』」
この成長段階:歯の生え替わりと遡上開始に係る成長段階と食物の変化とが、相関関係にある、との調査結果には同意する。
そして、このことから、相模湾で採補された稚鮎を、1週間ほどの海水から淡水への馴致を行ったあと、川に放流していることに反対する。苔をはむことができる成長段階までは、人間が育てるべきである。
苔を食べる歯に生え替わっていないから、稚鮎は昆虫、動物プランクトンを食べることになるが、止水域以外では動物プランクトンは繁殖できないはずであるし、稚鮎が食べる昆虫が大量に「食われる」状態で棲息していないと考えている。
したがって、チビアユのまま一生を終えることになると考えている。
さて、この昆虫食に係る観察における世俗評価への評価、説明の叮嚀さが、海産アユの産卵時期においても配慮されていたら、学者先生の教義の蔓延に対する抑止効果があったかも、と思っている。
「アユの話」は、産卵時期について、狩野川の「特殊」との認識があったようではあるが、その説明としては、何とも貧弱な伝聞を伝えているだけ。
このお話は前さんの「違和感を覚えた」事例で紹介します。
なお、魚心さんが、「アユの話」に違和感を覚えなかったのか、どうか、確証はない。魚心さんは、「アユの話」に違和感を覚えなかったヵ所だけを紹介されているのかも知れないから。前さんが釣り人に物議を醸し出した本として、「アユの話」を評価されていることから、もし、魚心さんが、釣りの技だけではなく、鮎の生活誌の観察をされていたとすれば、「違和感」を感じられたヵ所を紹介されなかったこともあり得るが。
(4)鈴木魚心「あゆ釣り百科」(岩崎書店:1967年・昭和42年)
(原文にない改行をしています)
ア 遡上時期と櫛歯状の歯への生え替わり
「あゆ釣り百科」の「4 アユの食性」の節」に
「こうしたアユの食性について、京大の宮地伝三郎教授は、氏の著書『アユの話』(岩波新書)の『昆虫食の時代はあるか』の項に、釣り人に興味深い調査結果を述べられている。
『川へ入る直前まで、アユは海産の動物性プランクトンを食べていた。ところが、川口を通過して数分から一〇数分後、一〇メートルほど上までくると、全部のアユが群れのままで速度を落とし、藻類をはみはじめる。』
これまでの一般的な見解は、これとは少し異なっていた。幼いアユが川底の昆虫を食べているという事実がいくつか認められたこと、また解禁のころでも、小さいアユは、虫を擬した毛鈎で釣れるという事実などにもとづいて、アユの食性は、海でのプランクトン食から、川へ上ってから、しばらくは昆虫食になり、やがて藻類食に変わるのだという意見が、アユについての総説や、釣りの本の始めにある生態見聞には、たいてい書いてある。
そして、京都府の最北端与謝(よさ)半島の宇川にのぼるアユ、琵琶湖の放流用コアユの採苗地として知られる北西岸に注ぐ石田川、知内(ちない)川の湖からのぼったアユなどの摂餌行動や消化管を調べられ、たしかに藻類食だった。と述べられ、
『それから5年の年月のたった今日まで、毎年見ているが、少なくとも宇川のアユは、川へ上るとすぐ藻類を食べる。一方、例えば淀川の下流―大阪市内にある毛馬のこう門付近では、春先にたくさんのアユが毛鈎でどんどん釣られている。このような事実と見方とのくいちがいはどういうことなのであろう。』」と。
さらに口の形態の変化に及び、
「『海にいる稚鮎では、上あごが、いくぶん下あごをおおい、櫛状歯や舌唇は形成されていない。稚鮎のこうした口器の形態から、親アユのようになるのは、東大の末広恭雄さんと水産講習所の松井魁さんとが調べたように、体長でほぼ6〜7センチのころで、これは川へのぼるアユの大きさと合致しているのである。こういうことからみると、海から川へのすみ場所の移動と、動物食から植物食への食物転換の準備とが、並行しているのが原則と考えるべきだろう。ただ、川へ上ってもしばらくは、動物食の傾向がいくぶん残っているのではないか、という考えまで否定するわけではない。
大きい川や、小さくても潮の干満の差の大きい海に流れ込んでいる川では流速がゆるくて底に石がなく、砂や泥だけで出来ている下流部がかなり長くつづいているものである。こうしたところでは、良質の藻はほとんど生えないから、そこをさかのぼるあいだ、アユはそのあたりで得られる動物―たとえばユスリカを食べるのは、当然のことであろう。』」
この成長段階:歯の生え替わりと遡上開始に係る成長段階と食物の変化とが、相関関係にある、との調査結果には同意する。
そして、このことから、相模湾で採補された稚鮎を、1週間ほどの海水から淡水への馴致を行ったあと、川に放流していることに反対する。苔をはむことができる成長段階までは、人間が育てるべきである。
苔を食べる歯に生え替わっていないから、稚鮎は昆虫、動物プランクトンを食べることになるが、止水域以外では動物プランクトンは繁殖できないはずであるし、稚鮎が食べる昆虫が大量に「食われる」状態で棲息していないと考えている。
したがって、チビアユのまま一生を終えることになると考えている。
さて、この昆虫食に係る観察における世俗評価への評価、説明の叮嚀さが、海産アユの産卵時期においても配慮されていたら、学者先生の教義の蔓延に対する抑止効果があったかも、と思っている。
産卵時期について、狩野川の「特殊」には認識があったようではあるが、その説明としては、何とも貧弱な伝聞を伝えているだけ。
このお話は前さんの「違和感を覚えた」事例で紹介します。
イ 歯が生え替わらない稚鮎の川への放流
なお、魚心さんは、動物プランクトンを食べていた発育段階の稚鮎が川に放流されると、どのような生活になるのか、に係る「アユの話」のヵ所も紹介をされている。
「『それはとにかく、アユは成長してからでも、事情によっては、昆虫を食べるのだから、藻の少ない下流部を通る幼いアユが昆虫を食べているからといって、とくに昆虫食時代などという発育段階を区別するにも及ぶまい。
これとはまた逆の事情も考えられる。放流用のアユは川へのぼってきたものを捕まえるだけでなくて、湖や海の中を泳ぎまわっているのを捕まえることもある。こうした苗アユのすべてが、川へ上る用意を完了しているとは限らない。実際、口の形が変わっていないものや、なかには体表に色素のほとんど出ていないものさえいる。こうしたものも、川へ運びこまれれば、環境への不適応で死んでしまうか、それとも何とかしのいでゆくほかない、ということになれば、この連中が動物プランクトンの代わりに昆虫食を食うこともありそうな話である。
――魚の食べ物は、もって生まれた形態と関係して、発育の段階によって決まっているが、同時にそのときそのときの餌のあり方によっても変わりうる――動物の形態が環境に応じて変化するように、その生態にも可塑性があるということを、アユの食性によって示してみたかったわけである。』」
苔をはむ能力の形態に成長していない稚鮎を川に放流したとき、その生存率及び成長の度合いはどのようになるのかなあ。
稚鮎が食することの出来る動物プランクトンは、止水域でないと繁殖していないから、相模川の磯部の堰上流やトロの一部等で生活できる幸運に恵まれた稚鮎しか生存できないのではないかなあ。
水棲昆虫は多いようにも考えることは出来るが、川那部先生がニゴロブナだったかで書かれているが、魚が食べることの出来る「状態」に昆虫が移動その他の行動をしないと、魚には捕食できないはずである。
そうすると、仮に水棲昆虫が稚鮎の胃袋を満足させ得る量として存在したとしても、その何%くらいが稚鮎の胃袋に納まるのかなあ。
魚心さんは、縄張りその他の項目でも、「アユの話」を紹介され、あるいは、その調査結果を参考として、あゆみちゃんの生活誌を書かれているヵ所がある。
魚心さんは、「アユの話」に、「違和感」を感じられることはなかったようである。オラも、亡き師匠や故松沢さんに、「アユの話」その他の学者先生の書き物をひけらかして、まちがっちょる、といわれたから、川漁師の観察による教義に改宗したのであって、かっては、魚心さんと同様であったから、魚心さんの気持ちはよくわかります。
オラは、「相手の気持ちになって考え、行動する」日本文化の典型人?ですから、学者先生のおっしゃることに間違いはない、と思っていたから。
あ、そうそう、亡き師匠や大師匠が、学者先生の教義の受け売りをするオラに辟易して改宗させるためにとった方法は、11月の狩野川で釣りをしろ、と、首に縄を付けて放り込んだ、という手荒なことはされませんでした。お二人とも温厚な方々でしたから。
亡き師匠らは、11月20日?に餌釣りの解禁になる柿田川へ12月に連れて行きました。寒くて水に浸かるのが嫌だと駄々を捏ねるから、水に入らなくても釣りのできる柿田川へ。
その後数年、12月終わりにもオラ1人で行ったことも。
それらの鮎は、「アユの話」に基づけば、「越年鮎」と分類されるのでしょうが、決して「ヒネアユ」の「卵」?ではありません。12月終わりの頃にはさすがに数が減っていました。三島湧水の1つが湧き出しているすぐ近くですから、生存限界以下の低水温で死んだのではないでしょう。両岸の鳥がたらふく食べたからでもないでしょう。
昭和の代ですから、未だ鵜の大量繁殖はなく、鵜の食害で減ったのでもないでしょう。産卵行動をしていて数が減ったと考えることが適切ではないでしょうか、「アユの話」さん。
なお、1995年、狩野川の遡上鮎の激減によって、柿田川の餌釣りも、下流域のコロガシも禁止になったから、現在も柿田川で餌釣りができるのか、どうか、分かりません。
(5)越年鮎
(ア)「アユの話」における越年鮎
魚心さんは、縄張り等の記述において、「アユの話」を咀嚼された上で、魚心さんの言葉で記述されていると思うが、越年鮎について、魚心さんは触れられていない。
しかし、前さんが「アユの話」に違和感を感じられたであろうと想像しているヒネアユ:越年鮎に係る「アユの話」における記述をつまみ食いをします。(原文にない改行をしています。)
「アユの話」には、
「アユのいない冬の川の状態を調べようと、雪でバスも通らぬ山道を、材木運びのトラックに便乗して、タイヤにまいた鎖にもかかわらず、海へ落ちる絶壁のそばまでつるつるとすべる車に何度か肝を冷やしながら、宇川についたその晩、口伝えにわたくし達の到着を知った奥の部落の人が“一昨日水車小屋の水路でアユをとった”といって持って来てくれた。この調査の期間中にわたくし達も、下流の丸山淵で、投網によってアユ三尾を採集した。年魚にも例外があることになるが、こうした越年アユ(フルセ)は全部メスで、卵巣には卵がいっぱいつまっている。むしろ再吸収の途中のようで、産卵した形跡はない。本間義治さんによると、産卵を促すホルモンを分泌する脳下垂体の組織像は、越年アユでは、成魚型から若アユ型に逆戻りしているという。
伊豆の狩野川は、こうした越年アユの産地として昔から著名で、冬の最中に湯治客がアユ釣りをするという。この川には温泉水が流れ込むために水温が下がらず、産卵しない個体が多い。温かい水はまた、越冬条件の緩和にも役立っているらしい。一九五四年(注:昭和二九年)に、森さんがこの川を見てきたが、伊豆台風の影響もあって、昔日の面影はまだなかった。」
(イ)狩野川に係る記述への疑問
@「冬」とはいつのことをいうのか。12月のことか。1月、2月のことか。
もし、「12月」のことであれば、「越年鮎」=「産卵をしない鮎」ではない。産卵をする鮎である。もちろん、「越年鮎」になるものも含まれているが、その量は少ないであろう。
Aメスだけが越年鮎ではない。オスもいる。これは、前さんの越年鮎探訪記へのリンクで間に合わせます。
B岩井先生が、水温が「原因」となって下り等の産卵行動を開始するのではなく、「性成熟」が原因となって下り等の産卵行動を開始する、と考えられているのでは。
そうすると、「水温」が下がらないことが、「産卵しない個体が多い」ことになるのか。
つまり、「水温」低下が性成熟を促すのではなく、「水温」低下は性成熟をしたときの環境条件の1つの「結果」現象であり、たまたまそのときの水温が狩野川では15度以下、12,3度くらいということになるのではないかなあ。
そのため、狩野川の鮎が砂鉄川に放流されたとき、「しばれる」なかでも美白の鮎釣りが出来たのではないかなあ。
また、砂鉄川に放流された「狩野川のアユ」の生殖腺重量体重比が東北のアユとは異なる現象、時期になったと確信している。
性成熟はしている。しかし、何らかの原因で生殖活動をしない、あるいは行っても全うしていない。
そして、生存限界以上の水温が存在している場所が多いかもしれない、ということが越年鮎生存の条件となっているのではないかなあ。
なお、前さんの越年鮎探訪記のところに書いておいたが、中津川でも宮が瀬ダムがなく、また、妻田の堰等が遡上を阻害していなかった昭和30年ころ、解禁日にそろいの法被を着てヒネアユを目的として友釣りが行われていたとのこと。とすると、狩野川が「越年鮎の産地として著名」とはいえないのではないかなあ。
「アユの話」における狩野川の「越年鮎」の定義が適切ではないということではないかなあ。
12月に生殖行動を終えていないアユをすべて、「越年鮎」と評価しているのではないかなあ。
「アユの話」は、狩野川でも12月に産卵しているアユが存在していない、12月に狩野川にいる鮎は全て「越年鮎」であると評価し、宇川や松浦川での海産アユの産卵時期と、狩野川も、相模川以西の太平洋側の産卵時期が同じである、と判断する材料として使用しているのではないかなあ。
越年鮎が、「メス」だけではないことを前さんは観察をされているが、このことだけが「アユの話」に係る記述に違和感を覚えた事柄であるのか、どうか、分からない。皆さんで考えて下さい。
C「冬の最中に湯治客がアユ釣りをするという。」=狩野川の「特殊性」評価の根拠
前さんは、フルセにオスもいることを観察されている。
なお、下世話なお話でもうしわけないことですが、「湯治客がアユ釣りをする」とは、いつのことですか。12月ですか、1,2月ですか。
12月は禁漁になっていないため、鮎釣りは出来ます。1,2月はその当時でも禁漁ではないかなあ。それよりも寒いですよ。湯治客が慰めで釣りをするような陽気ではないですよ。
また、どのような釣りですか。ドブ釣りですか。友釣りですか。コロガシですか。
友釣りであれば、オトリはどうしますか。ドブ釣りであれば可能ですが、12月に河原から釣るとしても、防寒着を着込まないと寒いですねえ。ダウンジャケットが高かったころ、ジャンパーでは11月の友釣りでも寒く、熱燗娘で体内から暖めていました。
柿田川の12月末の餌釣りでも、水に入らなくてもよいといっても、小春日和の日に当たればジャンパーでも寒さを感じないが、そうでないときは寒いですよ。
コロガシは、30年頃のことは判らないが、現在は、「温泉」の最下流に位置する伊豆長岡付近では出来ません。もっと下流域でないと出来ません。多分、昭和30年代でも、大滝付近でないとコロガシはできなかったのではないかなあ。
ということで、「狩野川」のアユが「フルセの産地」と評価することによって、「10月、11月」が海産アユの産卵時期である、という学者先生の「教義」の正当化を図っているのではないかなあ。
なお、駿河湾に注ぐ川で、狩野川以外の興津川や藁科川に「12月産卵現象がない」、ということを調査されたのかなあ。もし、興津川、藁科川でも12月に産卵をしているとすれば、「温泉水」が流れ込んでいることで、狩野川が「越年鮎の産地」になっているとはいえないと思いますが。
南紀に京大の研究所があり、海での稚魚の調査をされているが、そのとき、南紀での海産鮎の産卵時期について、話を聞かれたのかなあ。聞かれたとすれば、どのような内容であったのかなあ。12月の産卵現象は存在しない、との話であったのかなあ。日高川漁協が親アユから卵、精子を絞りだしてF1の人工を生産する理由として、日高川ではまだ性成熟が進んでいないから、木曽川で親を採捕しているとのこと。そうすると、南紀でも、10月1日頃の「海産」は、性成熟をしていない、ということではないかなあ。
また、南紀では「湖産」放流をしていなかった、海産の汲み上げ放流をしていた、ということかなあ。
あ、そうそう、「冬の最中にも湯治客がアユ釣りをする」というお話よりも、太宰治らが湯ヶ島に遊んだとき、「作家志望青年」が、ドブ釣りをするねえちゃんを「深窓の令嬢」と勘違いをして恋心を抱くことになった太宰治「令嬢アユ」(井伏鱒二他「鮎つりの記」:朔風社)の方が面白く、「具体性」、具体的な描写に富んでいる話と思いますが。このお話は、東先生の松浦川での流下仔魚調査への対応が済んでから、紹介します。どのようなねえちゃんを「深窓の令嬢」であると勘違いしたかって?それは後ほどのお楽しみに。
D「昔日の面影」がまだなかったとは?
「伊豆台風」は、「狩野川台風」とは別の台風のよう。狩野川台風は1958年:昭和33年。
その「伊豆台風」で、「昔日の面影はまだなかった」とはどのような意味かなあ。通常の台風による増水であれば、「昔日の面影」がなくなるとは思えないが。
もし、「1954年」が誤記であり、「1959年」だとすれば、狩野川台風の影響が翌年にも及んでいた、となるが。
しかし、その影響は「釣り人」への影響ではないかなあ。
若かりし故松沢さんは、遺体捜索作業に青年団員として参加されたが、男はからきし駄目、と。自衛隊の方に、遺体のあるヵ所を教え、自衛隊の方が遺体を掘り出される。婦人会の方がその遺体を洗浄される。
男の作業は、遺体に触れることもない作業にすぎないのに、男どもはメシが咽を通らなかった、と。そして、自衛隊と婦人会の方には今でも感謝をしている、と話されて10年以上になる。
「故松沢さんの想い出」の狩野川台風のところに、狩野川台風で流された郭のことを書いたが場所を間違えていた。
狩野川公園のところに郭があったのではないかと思っていたが、大仁橋のすぐ下流側の右岸。
その場所であれば、大仁駅の狩野川側にある囮屋さんよりも、高い位置にあるのに、と、囮屋さんにいうと、その頃はその場所は低い位置にあり、堤防も現在の堤防よりも低かった、と。
台風後、土盛りをし、また堤防を高くしたとのこと。
囮屋さんの話
囮屋さんの建物にも水が入ってきた。避難しょうかと準備をしていたら、水が引いたとのこと。そのときに吉田や神島橋下流で堤防が決壊したのではないかなあ。
少年が大きな犬の首に掴まって流されていって、翌日、沼津の海で救助された。
修善寺橋にできた流木によるダムが、橋の倒壊で決壊して狩野川台風による水害は生じたが、伊豆長岡の大門橋?か千歳橋?かはすでに存在していて、そこには家畜や流木が引っ掛かっていた。それらの障害物を犬はすり抜けたことになる。
若いお母さんが幼子を抱きしめていた御遺体もあった、と。
「昔日の面影はまだなかった」
「1954年」前年の台風がどのような影響を生じたのか、分からないが、1953年には、東洋醸造の廃液によるアユの大量死の事件が発生していたはず。その大量死で親の減少は考えうるが。
多分、東洋醸造の廃液事件は「1953年:昭和28年」発生で間違っていないと思うが、当時の組合長の文をどこで紹介したか、探すのが面倒であるから、証拠の探索はさぼります。
そのような「一過性」の現象ではなく、「昔日の面影はなかった(なくなった)」現象
それが、昭和の代が終わり、平成の始まりとともに進行していった。
2011年に旅立たれたUさんの奥さんが、1995年以降何回か、亡きUさんの車に乗って狩野川を見たが(釣りはしていない)、少ない釣り人にビックリされたとのこと。
城鮎会の大会は9月15日、平成の代になった何年かからは8月終わりの日曜日に、5匹重量で行われていた。1位の重量が300グラム、350グラムであったのが、平成の代にはいると、400グラム台、600グラム台となって、1995年に。その年は参加していないから分からないが、遡上鮎どころか、継代人工もおらず、釣れた人はわずかではなかったのではないかなあ。この重量が400グラム台になったのは、遡上鮎が減り、継代人工が釣りの主役になったから。
その鮎の大きさの変化に合わせて、11月23日も磨かれていた石がくもり、汚れていった。学者先生に「特殊」と評価されている「晩熟型の鮎」と「ヒネアユ」の「種(たね)」?と評価されている遡上鮎の減少と考えるか、どうかはさておいて、狩野川の遡上鮎が減り、狩野川も放流河川と成り下がっていった。当然、平成の代になると、温泉客が釣りをすることもなかろう。
もう1つ、著しい変化は、石ころの河原から葦等の草木が繁殖する河原となり、11月15日の狩猟解禁とともに犬に追われて石コロガシの瀬肩に飛び込んだ鹿が身を隠す草原となったこと。
山の荒廃が土砂を多量に供給していることが1つの要因ではないかと考えているが。
流れの中の石も埋まっていき、砂利が多くなった。瀬がおだやかになった。
城山下の藪下は、平成の代になると、オールドファンの郷愁の場にすぎない、といわれる状況に。
今や、城山下の1本瀬、淵、平瀬、石コロガシの瀬肩は一体化したトロに。
2011年は大鮎の狩野川に
2011年3月上旬、中旬に一番上りが遡上を開始し、その量が多く、大鮎の狩野川となったと考えている。
7月始めには湯ヶ島で22センチが。学者先生とは異なり、「目利き」のできる「迷人見習い」の師匠が人工でない、海産畜養でない、一番上りである、と。
オラも、海産畜養ではないことを、女子高生が海産畜養の「太身」ではなく、スリムであったから、感じてはいた。何年ぶりかで「一番上り」が3月上旬か中旬かは分からないが、川に入ったと考えている。
2010年は、11月でも、小中学生のチビが主役。たまに女子高生が混じるだけ。したがって、11月生まれは少なく、12月生まれが主役であろうと考えている。
その親から生まれた仔稚魚は、量的には12月生まれが多いのではないかなあ。
しかし、2011年の遡上鮎は、11月生まれが主役となっていると考えている。
その理由については、稚魚の餌となる動物プランクトンの繁殖量と関係しているのではないかなあ。
11月生まれは狩野川河口に近い海域で動物プランクトンにありつけて、生存率が高く、狩野川河口附近の海域で動物プランクトンが減少したのではないかと想像している12月には他の渚帯等に移動している。
12月の河口域の動物プランクトンが激減したため、12月に海に入った仔魚は餌にありつけるものが少なく、生存率が低下した。
その現象が、「大鮎の狩野川」となり、小中学生が少なかったのではないかなあ。
2011年9月15日頃、テク2とタマちゃんは、狩野川大橋のところの強い瀬で29センチ、28センチの泣き尺をだっこしている。当然、尺鮎をだっこした人もいたであろう。ある年の尺鮎フィーバーとなった相模川は大島のように、継代人工の成魚放流ではありませんよ。
あ、そうそう、成魚放流を含めた継代人工の放流量は分からないが、場所による放流量の違いがあるとの話はある。故松沢さんは、城山下に継代人工の放流を拒否していたが、放流を歓迎して、客寄せに使っているところがあるよう。
その継代人工は、解禁前の増水、その後の増水で、流れたり、死んだりして、まがいものを嫌うオラの釣りを煩わせることはない年となった。
テク2らは、尺鮎を現実にだっこできるものと、9月20日を夢見ていた。球磨川まで行かなくても狩野川で、と。
しかし、台風による大仁の水位計で4メートルの増水。久々の4メートルの増水。昭和の代には6メートルの増水もあったが。
河原の草むらは流れて鹿の隠れ場所はなくなった。草むらで迷い子になることもなくなりありがたや。
しかし、世の中はそんなに甘くはなし。
丼大王が松下の瀬や神島橋の瀬で釣るも、「ハイリスク ノーリターン」に。葦の茎が瀬の芯の石の間に引っ掛かっているため、根掛かりの多発に。
丼大王は、松下の瀬で乙女を取り込むと観客が拍手を、根掛かり放流をすると拍手喝采が。観客が差し入れてくれた麦酒を飲んで終了。観客は根掛かり放流をして囮のなくなった人達ではないかなあ。
神島橋では、泣き尺が掛かり、注意をしていたのに橋桁に竿を当てて竿が折れて、はいさよおなら。
橋下流側ではブロックに引っ掛かった葦に根掛かり放流をした鮎が数多ひらひらしていたとのこと。
オラにとっては、瀬の芯を釣るあんよはなく、芯でなくても根掛かりを外しにいけないため、そのリスクは軽減できたが。
低リスク 低リターンで、我慢をした。
そして、11月、下りが始まれば、一宿一飯の食堂を求めて、瀬の芯でなくても尺鮎が、泣き尺がだっこできるとわくわくしていた。
ところが、10月に入って、60センチや90センチの増水が数回あり、この増水で中落ちしていく鮎がいて、11月になっても大漁にも、泣き尺が釣りの主役にもならず。25センチくらいの乙女が最大とは、遡上鮎が釣りの主役である通常年の11月と変わりなし。
なお、瀬の芯の石の間に挟まっている葦は2012年の解禁頃になっても腐らないとのこと。
原田先生が、鮎の大きさと孵化時期に相関関係があるのか、ないのか、誰も調査をしないときはやると話されているが、どうなったのかなあ。
孵化時期と鮎の大きさの関係は、相模大堰副魚道における遡上量調査と釣れていた鮎の大きさを結びつけて考えることにします。
(ウ)日本文化体現者の京大の先生
さて、天下の京大の先生が、「冬の最中に湯治客がアユ釣りをするという。」という話・伝聞を「事実」として、何らの疑問を持たずに思考停止をされていることに、日本文化の体現者を見ることは、突飛な発想かなあ。
ベンダサンは「日本教徒について」において、日本教徒においては、「『語られた』ということは『事実』である」と、「『語られた事実』は『事実』である」ということが区別されないという「文化」をもっているが、その文化が「アユの話」に影響を及ぼしているとは考えたくはないが。
しかし、「冬の最中に湯治客がアユ釣りをするという。」という話は、「日本教徒京大先生」そのものではないかなあ。
他方、神奈川県内水面試験場等が「漁協が湖産を放流した」といっているから、早川にいる鮎は「湖産である」という前提で、調査結果を評価しているのも「日本教徒」そのままの対応といえよう。
「アユの話」が出版された昭和35年は、未だ継代人工の生産が始まっておらず、「養殖アユ」とは、海産畜養であり、湖産畜養であろう。
いや、湖産畜養も行われていたとしても、野村さんが「好かん」と話されている「トラックで運ばれたアユ」として、川に放流されていたことはなかろう。
氷魚から畜養されて「湖産」の主役になったのは、昭和35年以降、昭和40年近くからではないかなあ。
そのため、「アユの話」では、放流鮎の氏素性に係る「日本教徒」たる「間違い」は犯してはいないが。
そうすると、前さんは、継代人工も含めた「観察眼のなさ」の視点で、「アユの話」に違和感を抱かれたということにはならない。
前さんは、「釣りの実学のみならず、人の生き方についても御薫陶(くんとう)下さったのは亀山素行先生であった。ご多忙の時にも押しかけては時間を頂いてご迷惑をかけた。おそらく先生の内心は『懐(なつ)かれてはかなわん』ではなかったかとも思う。故人のご家族に最後のご迷惑をお願いして、遺品を拝借し一文と写真を載せた。
シラメの話を聞きに来られた山本素石(そせき)さん。釣り人(びと)間に物議をかもした『アユの話』の宮地伝三郎(みやじでんさぶろう)さんも亡くなられた。実は、私のメモの発端は、宮地先生への反発からであった。」
亀山さんも「アユの話」にちょっぴり登場しているが、適切に亀山さんの観察眼を役立てたのかなあ。
前さんの観察を適切に評価をされた今西博士や山本素行さんとは、立ち位置を異にしていたのではないかなあ。
(6)下りの態様と下りをしない鮎の氏素性
前さんは、下りのアユの情景について、次のように書かれている。これは、「アユの話」に書かれている下りの情景とは異なり、故松沢さんと同じく、頭を上流にむけている。
ア 「アユの話」における下りの体勢、産卵時期、産卵場所の記述
@「アユの話」における下りの記述
「定住性の衰退は、アユの産卵回遊――下りにつらなる。」
「ちょっとした増水で少し下るのを中落ちといい、さらに本落ちとなって産卵場に移るのが、それが台風の季節にあたるので、下りは出水とむすびついていることが多いから、下りの行動そのものをはっきりとつかむには、精密な観察を必要とする。
またじっさい、出水のない年には、一部分のアユではあるが、川下まで下らずに、かなり上流よりの所で産卵してしまうことがある。それでは、アユの下りは、定住性の弱まりと出水とが結びついた、単なる受動的の運動かというと、その考え方はいきすぎのようである。出水のないときでも、アユは少数ずつ下って行くからである。九月中旬から一〇月にかけてが下りの時期だから、一〇月二二日というと、もう終わりに近いわけだが、その日一日、朝から晩まで、橋脚の下を通過するアユの数を橋の上から数えてみたところ、朝夕に多い二山型の移動が認められた。通過したアユは殆どが群れで、流速と同じか、あるいはそれよりもやや早い程度で、頭を下流にむけて泳ぎ下る。上りアユがもっていた遡河本能はすでに早くから失われているが、下りアユではその上に、どの魚もがもっている向流性――流れに抗して泳ぐ性質も弱まっていることが明らかである。しかし、向流性を失うと、流される。流されるとおのずから頭が下流に向く、というようなものではなく、積極的な下降行動もするわけである。
上りの時期とすみついている時期とは、いずれも活動性が真昼に多い一山型だったのに対して、下りの頃からは朝夕の二山型になるわけである。あとでもう一度のべるつもりだが、琵琶湖へ注ぐ石田川と天野川の調査でも、成熟したアユの行動は昼間よりも朝夕に激しかった。」
さて、困ったなあ。
「橋の上からアユの数を数えていると」の、「橋」とは宇川のことかなあ。琵琶湖に流れ込む川のことかなあ。
とりあえず、宇川のこととしておきましょう。
その上での疑問は
@下りのとき、「頭を下に向けて下る」
A「かなり上流」でも産卵する例外的現象がある
B下りの時期が「一〇月二二日というと」との表現は、相模川か房総半島西側の太平洋岸の海産鮎とは明確に異なっている。相模川でも、多摩川でも、狩野川でも、一一月一日頃の「西風が吹き荒れてから」下りのための行動が始まる。
故松沢さんが、西風が吹き荒れると、鮎がそわそわする、と話されていた現象である。仁淀川の弥太さんも同じである。
A下りの体勢
「アユの話」の頭を下にして下る、とは、故松沢さんが観察されていた「尻尾で危険を探りながら妊婦が坂道を降りるように、慎重に下る」との観察と異なる。
頭を下にして下る、という現象が、「下り」の行動なのか、「出アユ」の行動なのか。
10月20日頃の大井川で、「頭を下にして下る」現象に遭遇したが、それは、「出アユ」の行動であったと確信している。
上流側のトロから10時過ぎに多くのアユが頭を下にして下ってきた。それらのアユは、オラが釣っている瀬肩を素通りして、テク3が釣っている瀬でお食事を。テク3は入れ掛かりに。当然、これらの「下り」のアユは「出アユ」であって、産卵場への「下りアユ」ではない。
「頭を下にして下る」姿勢が下りであるのか、どうか、その理由として、「アユの話」は、「向流性」が弱い、とのことであるが、腹子を一杯詰め込んだ鮎の馬力は、それ以前の性成熟の段階と比べれば弱くなっているとはいえ、人工養殖とくらべると、はるかに泳ぎは達者である。ただ、持久力に衰えは感じるが。
イ 前さんの下りに係る記述
「この時期の鮎は、大部分が縄張りに定着せず、淵(ふち)やトロで大小の群れをつくって『落ち』に備えている。流れの速い瀬、淵へ喰みに出た鮎も、抱卵した腹部を傷つけない配慮をしているのか少し底を切って、宙浮き状態でゆっくりとした泳ぎ。動きは上下流に多く、横へは少ない。縄張り意識の強かった当時の泳ぎ方とこうした差が出てくるのである。水温の低下は成熟を促(うなが)し、鮎たちは『落ち』ずにはいられなくなる。この時期、鮎たちが切望するのは『雨台風』。出水がなければ、一瀬また一瀬と落ちてゆかねばならないからだ。
終着駅の産卵場までは遠く、その道中には数多の障害物が待ち構えている。早春に生命をかけて溯り切った急瀬を下り、人間の造った最後の関所『梁』も通過しなければならない。この梁を通り抜ける鮎を見ると、心ある釣り人なら思わず涙してこの期(き)の釣りはやめよう、と思うに違いない。
古典歌舞伎で、弁慶が勧進帳(かんじんちょう)を読む『安宅(あたか)の関』の場は、主人義経を助けたい一心の弁慶が、小物に身をやつして義経を打ち、ファンの涙をさそう。歌舞伎は元々が下世話(げせわ)で、大向こう受けを狙(ねら)った演劇。下手(へた)な役者が出ると見ちゃあおれない。その大仰ぶりばかりが目について、私など全く白けてしまう。
この点、鮎の関所通過は作り物ではない。一度御覧になると『本物』の感動が得られ、『安宅の関』を凌駕(りょうが)するもののだ。
この感動的な鮎の行動を見るには、水のきれいな小さい川がよい。
トロなどで障害物のないところでは、三−五尾、ときには二〇−三〇尾の群れをつくり、不規則な円を描くかのように、流心の水面近くを少しずつ下ってくる。その鮎に、サエンの杭(くい)、縄、竹の枝などが見え、それらの音が聞こえて落ち込みの寸前まで来ると、一瞬の間、泳ぎが止まる。警戒心と恐怖から鮎たちは『ギコチナイ泳ぎ』に変わった途端、反転してトロへ戻(もど)る。この間は実に素早い。アッという間もない速さである。しかし、産卵する本能に命じられて鮎は同じ行動をする。最初は驚いて逃げはしたが、二度三度と関所に挑(いど)むのである。
意を決した鮎は、上流の我が棲み家を振り返るかのように頭を上流に向ける。そして、ここから鮎独特ともいえる泳ぎをするのだ。
障害物の近くで『バック』の体勢をとった鮎たちは、ソロソロと尾ビレで模索(もさく)しながら降りる。尾ビレの先に石以外の異物が触れるとすぐに逃避できるよう絶えず尾ビレを動かし、触角として流心を降りるのである。緊張のせいか、全身を小刻みに震わせ、バックの姿勢のまま、流れに身を任せるように関所を滑り降りる。下流を向くより、上流へ向きながら降りる方が安全なのだろうか。
丁度、『滑(すべ)り台』を腹這(ば)いで足から滑り降りる子供の姿と同じである。魚眼とはいえ、背後までは見えないのだろう。滑り降りたところが、わが身を捕らえるための『梁』や『網』である場合が多く、悲しいまでの努力が報(むく)われないことが憐(あわ)れである。
大きい川にも、『サエン』があり、ここでも同じく『バック』で降りる。大川での確認は私自身にはなかったが、六十二年(注:昭和六十二年)十一月『古田萬さ』からの手紙で、全く同様だとの証を得た。
観光目的の『簗場』では、この習性を利用して『簀(す)の子』へ鮎が落ちる部分には、垢(あか)の十分付着した石を置いて、自然の流れに近い状況をつくりだして鮎を騙(だま)すのである。
産卵に向かう抱卵鮎を獲るのはどうもいけ好かない。梁には梁の法規制があるが、天然の鮎が大幅に減少している現代では全面禁止の英断があっても良いのではないか、とも思う。
一部の悪徳観光梁業者は『梁で獲りました』といって養殖鮎をお客様に供するらしい。鮎を騙し、そしてお客様をも騙すのである。
釣り師なら天然と養殖鮎の味は、たちどころに判別できようが、素人衆の多くは疑いもなく『さすがに天然鮎は旨いナー』と味わっておられると聞けば、ずい分と腹立たしい話である。
神の命ずるままに産卵、放精(ほうせい)を終えるまで、必死の努力を惜しまぬ鮎たちの姿。これには釣り人ならずとも改めて頭の下がる思いと共に、有終の美を祈らずにはいられない筈である。
『産卵放精』が早暁(そうぎょう)、夕方に多く行われるのは何故(なぜ)なのか。水温、天敵、直射日光、と思い当たる原因もあるにはあるが、本当のところは残念ながら今の私には不明である。
錆(さ)び鮎に 心惹ひかるる 竿仕舞
」
前さんが潔く9月中旬でアユ釣りをやめられたいるのは、安宅の関を演じるアユへの憐憫の情からかなあ。
揖斐川は徳山村の草鞋を愛用されていた前さんは、20度くらいに低下していく川の水温に浸かることが座骨神経痛?にかかる危険性を熟知されていて、夏の水温から秋の水温に変化するときに水からあがられたのではないかなあ。
相模川の与瀬?塩瀬?だったかで、垢石翁が忘れていったゲートルを宿のおかみさんが井伏さんに言付けたことがあったが、草鞋とゲートルの人は、昭和の終わり頃にもいた。その人達よりもオラの方が最新、流行のファッションであるタイツに鮎足袋。一時は「原宿」族並みの最新ファッションで風を切っていた?こともあったんですよ。
しかし、11月になってもその出で立ちであったから、座骨神経痛になる、ウエーダーを使えと諭されたんですよね。
腸に札束を詰め込んだ釣具店の社長に特売、といって買わされたウエーダーは数回使うと糸が切れて分解してしまった。安もん買いの銭失いではあるが、当時、鮎足袋とタイツで3、4千円くらいであったのに、ウエーダーは万のお金が。特売でも7千円をふんだくられた思う。
雨村翁は、垢石翁と仁淀川で釣りをされたが、吉野川に同行できなかったのも、座骨神経痛?ではなかったのかなあ。
「少し底を切って」の泳層
この現象については、丼大王が、遡上鮎が満ちあふれていた昭和の代の狩野川で、11月の下りが始まった頃、糸にびんびんと鮎が触れていた、と。
もし、鮎がそれ以前の時期と同様に、底をはっていたのなら、糸に触れることはなかろう。水中糸であろうが、中ハリスであろうが、底をはっている釣り方はしないであろうから、鮎の泳層が底ではなくなったから生じる現象といえよう。もちろん、全てのアユが、一斉に産卵行動としての下りをするのではなく、縄張りを形成している鮎と混在しているが。
あ、そうそう。
底を切っている泳層の鮎がいました。静岡2系です。
鮎雑誌にも、糸にびんびんと鮎が触れている、との記述があったが、静岡2系のたまり場を釣っていた人は、囮を浮かさないと釣れない、しゃくりをするように操作をする、と。しかし、囮が替わると、元々、底を切って泳いでいる鮎であるから、そのような操作は不用で、すぐに次々と掛かった、と。
オラは静岡2系のたまり場は釣りたくないから竿を出したことはないが。
いや、そのような場所は限られていたから、走っていかないと場所取りができない。走ることが不可能であるオラには、到底、「大漁」ポイントにはいることはできない。
継代人工とは「似而非鮎」であるとの信者であるから、指をくわえて「大漁」の人を羨むこともなし。まあ、目利きのできない学者先生のなかには、静岡2系特有の行動をみて、鮎は、産卵行動としての下りの季節でなくても、中層とはいえないとしても、底を切って泳ぐものだ、とおっしゃる方がいるのかも。
なお、2011年、2010年にも同じ系統の継代人工である「静岡2系」が放流されていたか、どうかは分からない。
ウ 魚心さんの下りの描写 鈴木魚心「鮎釣り百科」(岩崎書店)
ついでに、魚心さんの下りの様子について、紹介します。
魚心さんは、「釣り人(びと)間に物議をかもした『アユの話』」の「物議を醸した」側の釣り人ではないようで、どうも、鮎の生活誌に係る観察には、適切ではない、あるいは関心が少ない、と思えるヵ所があり、どの程度信頼性のある描写か、保証の限りではない。皆さんで考えてください。
「立秋も過ぎ、朝夕の涼しい風に秋が感じられる頃ともなると成熟した親アユは、産卵放精のために下降しなければならない。
いわゆる釣り人のいう『落ちアユ』である。
早い地方では九月。遅い地方では十一月には、底石の大きい中流から、下流の砂礫地帯に産卵床を求めて集まるのである。
生育期から産卵期に移るまでに、この下降期があるわけである。」
「立秋」とは、新暦かなあ、旧暦かなあ。二千十二年の二十四節気の「立秋」は、八月七日。なんぼ季節音痴でも、この日が「立秋」とは考えないでしょうね。旧暦の「八月七日」は、新暦の九月二十二日。
9月終わりでは、狩野川でも、相模川でも、大井川でも性成熟が進んだ鮎はいませんねえ。故松沢さんが、早熟も奥手の鮎もいると話されていたが、早熟の鮎でも10月下旬以降でないと、「下り」はしないでしょうね。中落ちは別ですが。
「抱卵したアユは、卵を大切にするのであろうか、流速の強い流心をさけて、緩流を選んで、水温低下につれて淵から淵へと下る。
網打ちもいない静かなときなどには、緩やかな平瀬を大群をなして下るのが見受けられるが、石を投げたり、驚かしたりすると、一斉に淵などに下って潜んでしまう。
流れが緩やかなためか、身重の身体を秘すのに都合がいいからか、下降期のアユは、淵にはいりたがるものである。
そのゆえであろうか、再びドブ釣り(毛鈎の沈め釣り)の好機となるのである。
下降移動してゆく群れが、多く見受けられるのは夕方とそして朝方である。
この期のアユは季節感にも鋭敏で、増水は勿論だが、わずかの小雨、または冷たい西北風などが吹いても、群れをなして下降移動してゆく場合が多いのである。
しかし、このような自然に変化が認められぬような日和でも、季節がくれば、あちこちの水垢をナメながら下降してゆくものである。」
「西北西の風」とは、木枯らし一番ではないかと思うが。
その木枯らし一番という自然現象に気がつきながら、「季節がくれば」とはどういう意味かなあ。木枯らし一番が来る前の10月始めでも「水垢をナメながら下降していく」という意味かなあ。
もしそうであれば、まちがっちょる、といわざるを得ないが。もちろん、湖産と東北、日本海側の海産アユを除くが。そして、琉球アユも。
2011年9月20日台風による大雨で、相模川の神川橋水位計で、久々に4メートルの増水となった。
小沢の堰下の左岸伏流水の出ている溜まりに小学生が数10匹取り残された。
11月30日、それらの小学生は、17,8センチの女子高生に成長して、まだ10数匹がいた。
しかし、12月10日頃には消えていた。それは、産卵を終えたからではなく、水深が2,30センチと浅くなり、サギも人間も簡単に鮎を捕まえることができるようになったから。
同じように、取り残された鮎が、昭和橋上流左岸にもいるとの話。そこは、水深が50センチほどあり、ブロックもあり、鮎が鳥から隠れることもできるから、12月でも生き残っているとは思うが、寒くて往復5キロ以上歩く陽気ではないため、見に行かなかったが。
ということで、10月下旬、11月でも成長をしていた。ということは、性成熟はそれほど進んでいないということでしょう。
(エ)「性成熟は水温でなく光線の影響」?
魚心さんは、次の文を紹介されている。
「『落ちアユ期のオスは婚姻色にいろどられ、メスは卵巣が大きくなってくる。産卵季の訪れは、水温低下がもたらすものと思われていたが、近年、淡水区水産研究所の白石芳一氏たちの研究によると、水温より日長効果が影響するということがわかったようである。
アユをいろいろの長さの照光周期のもとで飼育した結果、日覆いをかけて、昼を自然のものより短くすると、精巣の成熟は促され、反対に池面に蛍光灯を照らし夜を短くすると抑制されることがわかった。アユは水温を一定にしておいても産卵するのに、天然アユの産卵期が北方で早く、南方ほど遅れるのは水温の上下ではなくて、日長の差であることがわかった。さらに一日一六時間ずつ光をあてながら飼育するとアユは元気に年を越すといわれる。』
(宮地伝三郎氏の朝日新聞『淡水の動物誌より』)」
さて、この日長時間に係る実験結果が、東先生にも引用され、また、前さんが一番強く違和感を感じられたのではないかと想像している。
もちろん、前さんは、蛍光灯による養殖が、六月でもさびアユが出現していることをご存知であるから、「実験環境」における性成熟と光周性の関係を否定されているのではない。
しかし、自然界に実験結果を適用することが適切とはいえないことも十分にご存知であるから、「孵化日からの積算日照時間」が性成熟に作用している、と考えられている。
オラも、故松沢さんも、前さんと同じ考えである。
ここで再度、岩井先生の「魚の国の驚異」(朝日新聞社)の「強く生き潔く消えるアユ」の章に登場していただくことにします。
岩井先生も、日照時間を操作して性成熟への影響を調査した実験結果を「適切」であると評価されているように思える。
しかし、岩井先生と、他の学者先生と異なるのは、
「こうした想定のもとに、アユの生活を振り返ってみると、彼らがよく食べ、よく泳ぎ、つるべ落としの秋の日が来るのを正確に察知して成熟しなければならない事情がわかるような気がする。それにしても、一生を終える準備はほんとうに光だけで左右されるのか、疑問は残る。アユの産卵期が北で早く、南で遅いのは、日照時間の短縮だけでは説明できないともいわれるからである。
夏から秋にかけて、日照時間がしだいに短くなるといっても、北半球では、春分の日から秋分の日までは、緯度の高い地方ほど、一日の日照時間は長いはずである。だから九月に産卵が始まる北方では、アユの成熟が進む時期の日照時間は南方より長いことになり、これでは早く日が短くなるほど成熟が進むという説明と食い違ってくる。
日照時間の違いによって成熟状態に差が生じることは、すでに実験的に証明されているのだから、間違いないであろう。しかし、果たして成熟を左右する要因は昼の長さの変化だけなのか、もっと別の環境条件が関係しているのか、あるいはまた、各地方の集団ごとに、成熟に有効な臨界日照時間が決まっているのか、もう少し突っ込んで調べる必要がありそうだ。」
岩井先生が、「実験的に証明されている」事柄を、なんで「昼の長さの変化」=「日照時間の変化」という現象として理解され、前さんのように「孵化日からの積算日照時間」という理解をされなかったのかなあ。
もし、「日照時間の変化」が性成熟を促しているとすると、6月の解禁日にさびた鮎が釣れた現象を「電照」によって育てられていた養殖アユが「夜の生活」がある川に放流されて「日照時間が短くなった」と認識して、性成熟が促進された、となるのでは。
しかし、「電照」鮎は、解禁直前に放流されていたものもいたはず。生存率、回収率を高めるために。
もし、そうであれば、数日で、腹子が大きく成長するのでのであろうか。そのようなことはないのではないかなあ。腹子が育つには然るべき時間が必要ではないかなあ。電照鮎の成魚放流は、腹子を持っておらず、解禁日の1か月ほど前に放流されたものが腹子を持っていたということかなあ。そして、電照で育てられて成魚放流をされた継代人工等も、川での生活が1ヵ月ほどすれば、腹子を持つようになるということかなあ。
とすれば、「実験環境」による性成熟の違いが、「日照時間の短縮」とは一概にいえないのではないかなあ。いや、仮に短日化が「性成熟」に関係しているとしても、その条件は少なくても限定的な要因で、岩井先生のように、他の要因も考慮すべき、ということになるのではないかなあ。
いずれにせよ、自然界には、実験環境で行われたような「日照時間」の変化は生じませんが。
岩井先生の「各地方の集団ごとに、成熟に有効な臨界日照時間が決まっているのか、」との認識が適切であると確信している。
そして、その集団には、海産鮎に関しては、
@東北・日本海型
A房総半島以西の太平洋沿岸域
B琉球鮎
と考えるべきではないかなあ。なんで宇川が調査対象になったのか、うらめしやあ、です。
紀伊半島が調査地点であれば、学者先生の「教義」と川漁師の常識が食い違うこともなかったであろうに。
もう一つ、海産アユは、全国一律の「性成熟」の開始、終了と判断されたことにどのような問題があったのか、気になりますねえ。
湖産においては、性成熟期間が「融通無碍?」に変化していることがあると認識されていたのであるから、日本海側と相模川、あるいは房総半島以西の太平洋側の性成熟の時期、産卵時期が異なることがありうるのでは、と想像されなかったのですかねえ。それは、「湖産」の年ごとの性成熟の時間変化とは異なる現象であると思うが。
狩野川の鮎は「晩熟型」と、例外現象として切り捨てられたのはなんでかなあ。気になりますねえ。日本文化の体現者としての学者先生の「習性」が作用しているのでしょうかねえ。
岩井先生は、
「確かに、日本各地のアユの産卵期をみる限りでは、そのように感じられる。北の北海道では、九月になると産卵が始まり、南にいくほど産卵は遅れ、鹿児島県では十二月になっても成熟しないで年を越すものさえある。」、と。
「自信に満ちた顔で答える」老人の
「『そりゃ、水が冷えるからだ。上流ほど秋の訪れは早い。アユは追われるように下流へ下り、冬が来ないうちに卵を産むのじゃ。』」
の「自信」ある説明にに対して、性成熟が水温の低下だけでは説明がつかない、と書かれている。
この「水温の変化、低下」を、長期間、その「場所」に生活していた「鮎の生活誌」を加味して考えると「十月、十一月」海産アユ産卵説が適切でない、となるのではないかなあ。鹿児島県については、学者先生の根本教義と異なる現象があることをご存知であるのに。もっとも、12月の鹿児島の鮎を「越年鮎」と見られているのかも、という懸念が表現から感じられるが。
また、東先生の松浦川での流下仔魚調査の結果が作用しているのかなあ。
岩井先生が
「鹿児島県では十二月になっても成熟しないで年を越すものさえある。」と、書かれたのはなんでかなあ。
なんで、「鹿児島県では十二月になっても産卵するアユも、成熟しないで年を越すものさえある。」と、書かれなかったのかなあ。
岩井先生が、学者先生の教義に義理立てをしたり、適切である、と判断されたとは考えにくいが。
「伝聞」発信者の「観察力」のヘボが関係しているとは思うが。
なお、産卵床に集結している産卵するアユと、ヒネアユの生息場所の重なりは少ないのではないかなあ。
中津川に妻田の堰がなく、半原の石小屋上流の堰まで自由に遡上できた頃、解禁日にそろいの法被を着て、大きい鮎を釣りたいから、半原の日向橋付近から上流を釣っていた人達がいた。石小屋のすぐ下流には牛渕があり、そのほかにも伏流水が豊富に湧いていたと思うから、水温が生存限界以下になることはなかったであろう。そして、ヒネアユが釣りの対象となるほど、棲息していた。
ヒネアユは下りの行動を原則しないアユではないかなあ。
相模川の産卵床は、厚木の三川合流点下流神川橋付近ではないかなあ。これは、東先生の流下仔魚量調査のときに書きます。
「水温の変化・低下」が、下りを、あるいは、性成熟を促進する一義的な要因ではないことは、狩野川の鮎を砂鉄川に放流してしばれる中で釣りが可能であったこと、及び、狩野川の「晩熟型」アユの性成熟調査をされた鈴木先生の生殖腺重量体重比の調査結果からも適切な表現ではなかろう。
つまり、狩野川の環境に適合するように、生活様式を築き上げている鮎は、水温が狩野川よりも早く低くなる砂鉄川に放流されても、「水温低下」で、性成熟が進行するのではない、ということを表現している現象であると考えている。
この意味からも、前さんの「孵化日からの積算日照時間」が性成熟に関与しているとの推察が適切である、と考えている。
そして、実験環境における性成熟を早く促した要因も「日照時間の短縮」要因ではなく、「孵化日からの「積算日照時間」である、との説明が適切であると考えている。
ただ、実験環境の結果で困ることは、電照で養殖しても、腹子を持つアユが誕生しない、ということ。(厳密には異なるのではないかと思うが)
もし、電照の効果ではなく、日照時間の「短縮化」が性成熟を促進していたとすれば、湖産の冷水病発生が滋賀県議会においてさえ存在していないと答弁していたにもかかわらず、1993年頃には、釣り人にも冷水病の「効果」、影響が認識されるようになり、6月においてさえ、中津川で腹子を持った鮎が釣れたことをどのように説明できるのかなあ。
川に放流されたことにより、電照効果がなくなり、相対的に「短日化」したためかなあ。そして、「短日化」してからの期間が1か月ほどあったためということかなあ。
もちろん、実験環境が適切で、観察も適切である、という条件の下ではあるが。
実験環境での「日照時間」、あるいは自然環境での「日照時間」の変化、短日化が生じると、性成熟が「季節」を無視してでも進行する、ということはいえるのではないかとも思えるが…。
しかし、実験環境というか、人為的環境の中での「短日化」が性成熟を促進するのかなあ。
事例としては、11月頃以降になると、養魚場から運ばれてきた人工が、囮箱に入れられると、半分は使い物にならないほど錆びてしまうと、故松沢さんが話されていた。
故松沢さんは、それらの鮎を処分されていたが、そのようなことをしていない囮屋さんもあるよう。
この11月1日頃、あるいは10月下旬以降における電照効果が不存在となった環境での「短日化」は、単に、「肌」が電照によって綺麗に保たれている状態を証明しているにすぎないのではないかなあ。その頃の「養殖」アユは、生殖腺体重重量比がピークになるほど性成熟は進んでいるが。
もちろん、養魚場で、メスが跳ねられることから、オスの比率が高い状態で囮屋さんに納入される事情も作用してサビアユが目立つという事情もあると思う。
もし、10月頃からの性成熟が進んだ段階での電照効果が、性成熟後の「肌」の状態=さびの強弱、発現にのみ影響を生じているということであれば、「昼を自然のものより短くすると、精巣の成熟は促され、反対に池面に蛍光灯を照らし夜を短くすると抑制される」との実験環境での評価も必ずしも適切でないのかも。
お肌の手入れのための電照の使用開始するときが、10月頃から、ということではないかと思っている。それまでは自然の日照時間で育てられていた10月1日前後に採卵されていた継代人工であるから、性成熟は10月頃には十分進んでいるはず。
とはいえ、人工環境によるアユの養殖にはあんまり興味は湧かないが。
さあて、6月にも抱卵していた継代人工の存在、10月以降、11月すぎても養魚場では「綺麗な肌」をしているのに、囮箱に入れられると真っ黒に錆びる養殖アユ、この2つの現象をどのように矛盾なく、説明できるのかなあ。
そのヒントは、6月でもサビアユ、抱卵鮎が出回っていた頃と、それらの鮎が消えて、養魚場ではさびておらず、しかし、囮として囮屋さんにやってくるとさびる養殖では、電照のされ方が異なると考えることが適切ではないかなあ。
前さんが6月に抱卵人工を経験された平成の始め頃、オラが中津川で解禁日にサビアユを釣った平成5年頃と、20世紀末では電照の使い方を異にしているということではないかなあ。
平成の始めは、すでに冷水病が湖産に発生していた。
養魚場は、「湖産」註文をさばくため、そして、「湖産」ブランドで高く売るために、継代人工でも日本海側や太平洋側の海産畜養でも「湖産」にブレンドする必要があった。
養魚場において、湖産の生存率が冷水病の蔓延で著しく低下して、その埋め合わせに急遽、「出荷」に適する「大きさ」に、短時間に育成する必要が生じていた。そのため、稚鮎から電照を行って、「目利き」でない漁協関係者を湖産並みの「大きさ」で、「湖産」と判断させる必要が生じた、ということではないかと想像している。これが解禁日にサビアユがつれたときの「湖産」ブランド生産のための「電照」利用ではないかなあ。
しかし、平成7年頃になると、漁協関係者も釣り人も「湖産」の異変に気がつく人が出て来た。
そして、「湖産」ブランドは地に落ち、「湖産」の価格が他の海産、継代人工に比し一番安くなっていった。
そうすると、稚鮎から電照で育てる必要はなくなった。稚鮎も継代人工等の使用を増やして冷水病保菌者でなくなり、養魚場での生存率の著しい低下もなくなった。もちろん、ゴールデンウイークに相模川で行われている内水面祭りのとき、臭い鮎の匂いが漂ってくるが、そのような食用に供するアユは、早く大きく育てて、味も「本物」も区別できない「食通」?の「初物」崇拝者に高く売る目的で、稚鮎からの電照も行っているとは思うが。
その臭い匂いを漂わせる鮎は、20センチくらいの大きさで、ぶくぶくと太った番茶も出花娘である。
平成も10年近くになると、電照の目的は、「さび」を目立たないようにすることに使用方法が変わったのではないかなあ。
10月頃になると、継代人工を電照なしで育てても、すでに孵化からの積算日照時間は12か月ほどになっているから、性成熟は進んでいる。その頃の状態で、電照を行うと、その間はさびを表面化しないように操作できる、ということではないかなあ。
神奈川県産継代人工の採卵日は、9月15日頃と10月1日頃との話であった。
ということで、オラは、前さんの孵化日からの積算日照時間が性成熟と関係する、との仮説信者であることがいささかも揺るぐことはありません。
さて、「アユの話」ではどのように記述されているのか、紹介だけをします。当然、継代人工はまだ誕生していません。F1・1代目?2代目?の人工産卵、孵化、畜養のアユも存在していなかった頃のお話でしょう。
「ウグイスの初音を一月一日に聞かせるためには、数ヶ月前から電灯をつけて、昼の長さをだんだん長くしてやらなければならない。その昼の長さを目で感じて、性ホルモンの働きがさかんになり、さえずりを始めるからである。秋に繁殖期を持つ動物は、逆に昼の長さが短くなることが性巣の発達する刺激になる。だがもう少しこまかいところは、温度がきめるようである。アユの産卵適期がきまることについては、水温の効果が大きく効いてくる。たとえば、八月頃から温泉水でかうと、アユは産卵しないでもおれるのである。
それはともかく、こうしたコアユの産卵適温が二度ほど高いことは注目してよい。しかもそれはびわ湖の周囲の川へ上るのはもちろん、別のどんな川へ放流しても変わらず、海からのぼってきたアユにくらべて、一ヵ月ほど早く産卵するのである。」
なあんも反論するつもりはない、といっても、やはりジジー心から一言だけ。
湖産と相模川以西の太平洋側の海産アユとの産卵時期は、「一ヵ月」のずれではないです。産卵開始も終了も「二ヵ月」あるいは、2ヵ月+αのずれです。
産卵期の水温も、海産の相模川以西では、「湖産」より「2度」低いということは事実ではありませんよ。狩野川でも、大井川でも、15度以下、12,3度ですよ。10度ほど、少なくても5,6度は湖産よりも低い水温で海産の産卵行動が始まりますよ。もちろん、海産とはいっても、東北・日本海側の海産は除外していますが。
「温泉水」が狩野川に満ちあふれていたから、「越年鮎」の宝庫ではありません。湯ヶ島左岸の有名旅館が、漁協役員でもあった人が、河原にホースを埋めて温泉排水を狩野川にこっそりと流していて、そのことに気がつかず、友舟の中の鮎をを死なせ人がいますが。オラは気がつきましたが。
その温泉水も一尺流れればただの水、いや「三尺下がれば(くだれば)」ただの水。水中に温泉が湧出しているかどうかは知りません。どっこの湯のような「水中」温泉があるのかなあ。伏流水は豊富であったとのことであるが。
越年鮎は、四万十川の野村さんが、伏流水が湧き出している温い水のあるところに冬には魚が集まると話されているように、伏流水が豊富な川であった頃には、あっちこっちの川で越年アユが観察されていたはずです。中津川でも。
あ、そうそう、2011年に新潟県の荒川に行ったとき、1週間ほど泊まっている中津川にもくわしい人が、友舟をいけるときは伏流水の場所かどうかを確かめてその場所を避けること、と。9月上旬で、まだ水温が20度を越えていて、伏流水のところとの水温差が5度以上あるから。
荒川は、水質日本1の川に何度かなっている珪藻が優占種の川です。三面川と違い、まだ大きい石が転がり、玉石が詰まっています。伏流水もシルト層によって目詰まりを起こしているという四万十川よりも豊富かも。
それでも、ダムがあるため、ダム湖で繁殖する浮遊植物プランクトン(ポタモプランクトン)が、「香」魚の素となるミネラル?を消費しているからか、、シャネル5番の香りには出会っていない。長島ダムができる前の大井川同様、ダム放流が大量で、浮遊植物プランクトンを洗い流し、ダム湖の水が入れ替わり、未だ浮遊植物プランクトンが繁殖する前の一時期だけ、「香」魚はこの世に現れるのかなあ。
なお、谷口順彦他「アユ学」(築地書店:2009年発行)が学者先生の「教義」を未だに布教されている理由は何かなあ。なんで高知大学は、弥太さんの「西風が吹く頃:11月1日頃」から、産卵行動が行われるとの現象を観察されなかったのかなあ。
同じく、高知の西日本化学研究所におられた高橋勇雄「アユの本」も。
四国にはどのような学者先生の「布教集団」を育む仕組みが連綿と持続しているのかなあ。
もし、四国の学者先生が弥太さんと同じ観察をされていれば、鹿児島ー四国ー紀伊半島ー狩野川と、海産アユが11月、12月に産卵をしている、との現象が川漁師と同じように、学者先生でも適切に観察をされていたのではないかなあ。
そうすると、狩野川だけに「晩熟型」の鮎が棲息している、とか、「越年鮎の産地」との評価もされることはなかったのではないかなあ。
さらに、高知県の「11月16日再解禁」が、海産アユの再生産に甚大な悪影響を生じていることに気がついたのではないでしょうかねえ。
高知であれば、「宇川」とは違い、「10月22日」が、「一〇月二二日というと、もう終わりに近い」という産卵現象とは異なる現象を観察できたでしょうに。
いや、「湖産」も「人工」も区別できない、「目利き」でない学者先生には、釈迦に説法ということかなあ。継代人工や湖産は、10月始めから産卵しているものもいるでしょうから。
それにしても、「目利き」でないことだけが、学者先生の教義が纏綿と持続している理由かなあ。不思議ですねえ。
つまり、「10月」産卵の主が、「海産」であるのか、湖産、継代人工、日本海側の海産畜養であるのか、識別するには「目利き」の腕が必要である。
しかし、「12月」産卵の主は、東京湾以西の太平洋側の「海産」鮎しかいないはずであるから、「目利き」の腕がなくても、産卵場所さえ解れば、産卵の現象を観察できるはず。もちろん、遡上鮎が観察に適するほど大量に存在していれば、ですが。
その作業すらされずに海産アユは、「10月、11月」に産卵していると、教義の正統性を唱えていらっしゃるのかなあ。気になりますねえ。
あ、そうそう、継代人工の種苗生産が成功したのは、1975年頃、昭和50年頃。多分昭和52,3年頃ではないかなあ。
1番目は湖産を親とする群馬県産。次いで交雑種の神奈川県産との話があった。
2010年、中津川の角田大橋右岸の小さな支流に神奈川県産継代人工が調査放流された。下流側に網を張ってあり、上流側は県道のカルバート橋が落差をつくっているから、狭い空間での調査。
放流された頃は落差のところにも、その他のところにも10センチほどのアユが一杯見えた。1週間、2週間とたつうちにどんどん数が減っていく。苦しんで?草むらに飛び跳ねるアユもいた。
1か月ほどの調査期間に5キロあまりの死骸が。冷凍されたその死骸は、内水面試験場が取りに来た。そして、調査終了後、網が外された。
生存率がどのくらいか知りたかった。巷間では乳母日傘で育てられた継代人工の生存率は3割ほどといわれていたが。
内水面試験場に結果を聞くと、種苗センターに聞いてくれ、と。同じ県なのにおかしいな、と思ったが、種苗センターは財団法人になっていた。
公文書開示請求をするのも邪魔くさいからそのままになっていたが、1ヵ月ほどの調査期間終了時に立ち会った人から、数匹しか生きていなかった、と。
調査場所が適切でなかったからか、その他の要因によるものか分からないが、非常に低い生存率にビックリした。冷水病だけでなく、川に普通に棲息しているばい菌に侵入されても生命の危険に陥ることのない「自然児」とは正反対の、増水の濁りのとき、あるいは後では大量死しているばい菌に弱い県産継代人工であるから、不思議ではないか。
股関節と膝に注射をしてもらいにいっているときに、原当麻にある種苗センターを時折見ているが、人の気配はなし。閉鎖されたのかなあ。
もし、閉鎖されたのであれば、相模川漁連の義務放流量の3分の1か4分の1か分からないが、放流されていた県産継代人工が少しはまともな他の県の種苗の継代人工に変わるかも。
もちろん、海産畜養が望ましいが、浜名湖産や南紀の稚鮎が多くないと、海産畜養は入手できないでしょう。
(オ)下りをしないで産卵するアユの氏素性
下りの行動を行わず、上流で産卵するアユは、野村さんがすかんと話されているトラックで運ばれてきた「放流もの」である。湖産、継代人工、そして、海産畜養、畜養されずに放流された海産稚鮎の川で生活できる能力をもつほどの成長段階の鮎まで、下りをしないで産卵している。
もっとも、昭和35年頃には、継代人工は、未だ存在せず、学者先生らには「希望の星」であったが。
故松沢さんが、狩野川で、10月に下りをしないで産卵する、その卵は腐る、と話されていた放流もの、それは多分、継代人工ではないかと思うが。
萬サ翁が観察された長良川で下りをしないで11月に産卵をしているアユ。これは、継代人工か、海産親のF1・人工ではないかなあ。
もし、下りをしないアユの観察が、宇川での観察であるとすると、宇川では放流をしていない、と書かれている。そうすると、「放流もの」に係る現象ではなくなるが。
まあ、世の中には例外もあるけど。その例外の部類かなあ。
「例外は原則を検証する」という重要な役割がある。
大岡忠介町奉行が、役務としての地位は高くても、老中や大名と同じ部屋にはいることはできなかった。
「御威光による統治」の江戸期においては、大岡が大名らと部屋を共にできなかった、という現象は、「身分」の高低差が、役務上の職階を破ることはなかった、ということ。
ま、電照アユが川に放流されるアユではなくなって20年近く。あんまり気にすることもないか。
さて、「アユの話」における産卵場に係る記述が、川漁師の観察とは異なり、まちがっちょる、と考える理由を疎明しなければ、故松沢さんの最後の弟子と自惚れているオラは、故松沢さんにあわす顔がありませんよねえ。
幸い、「アユの話」にはヘボでもおかしい、と判断できる恰好の、「下りをしない鮎」の現象が記述されている。
(7)利根川の産卵場所
(ア)「アユの話」の産卵場について、
「このようにして、アユは下流域にある産卵場にあつまる。下流域というと、海水の影響のあるところを想像するかもしれないが、そうではなくて、底に石の多い中流域から、砂泥の多い下流域にうつる境界の所である。わたし達がしらべた宇川では、川口からわずか五〇〇〜六〇〇メートルということになるが、たとえば淀川では川口から四五キロメートルはなれた宇治付近であり、利根川では、川口から三〇〇キロメートル以上も上流の前橋付近だという。つまり、渓谷から平野へ出た所である。」
淀川については、どこが遡上鮎の産卵場か、見当もつかないが、「宇治」附近でなんで産卵をしていたのか、は、十分に説明できる。
「アユの話」には、淀川のアユの状況について、次の記述がある。
(イ)1951年(注:昭和26年)4月20日の上桂川での放流風景について
「京都の北山の裏側にあたり、道のりにして約40キロメートル、下流には景勝嵐山をひかえるここ上桂川漁業協同組合の区域は、“アユは山国のが日本一”と古くからいわれる名所である。組合長の草木英一さんのうちに伝わる献上アユの古い記録は、勝てば官軍のシンボル山国隊――平安神宮の時代祭の鼓笛隊――と共に、ここの村人のお国じまんで、アユについての関心はとくに高い。だが、大阪湾から淀川を通ってここまでのぼっていた天然アユは、年々その数が少なくなり、そのうえ一九四八年には、下流に発電用の大きなダムができたため、放流にたよるほか、アユ漁は全く望めなくなってしまった。
したがってここでは、アユ苗の放流は百姓の田植えと同じように、漁民の大切な年中行事になっている。
“放流用アユ”と、赤字に白く抜いた旗をなびかせて、びわ湖の安曇川から徹夜運転のトラックが走ってくる。ズックの大きな水槽に酸素を送りこむボンベ。水温を測りながら氷をぶちこむ人。大きいひしゃくで休みなしに水をかきまぜ、死んだアユを小さい網で拾いあげる人。
“ここだぞ”道から声があがる。河原にトラックがつくと、さっそく、水槽からアユを手おけにくんで、川へ走る。胸まであるゴム靴をはいているが、手から肩までびしょぬれになっている。
ただいつもとちがって、今年は川の中にもズックの水槽が用意してある。手おけから川へ、直接にアユを放してやったこれまでのやり方とちがって、今日は一尾一尾数えて、その水槽に入れ、ノートに記録されている。やがて、川の中の水槽が押しひしゃげられ、黒いコアユはとび出して、元気に川を上っていく。ときどき水面の外にはねながら。」
昭和26年頃、淀川の遡上量がどの程度か、わからないが、まだ、相当量の遡上があったのではないかなあ。昭和30年代になると激減していったのではないかなあ。
もう一つ、気になったのは、昭和40年頃以降は、氷魚からの畜養が「放流用湖産」の主流になり、また、「湖産ブランド」に、日本海側、太平洋側の海産がブレンドされるようになったと思っているが、昭和26年頃は、「湖産ブランド」の「ブレンド」ではなく、「数量のごまかし」が行われていたのかなあ。
さて、上桂川がダムで遡上はできなくなったとしても、宇治川は遡上できていたはずである。
「しかし、出水が甚だしいと、もちろんアユも流されてしまう。大洪水のあと、“海の表面近くをはねている見なれぬ魚をとった”という海の漁師の話は、ほとんどこのアユのことなのである。こうしたアユは、ふたたび川をさかのぼって、中流域にもどろうとする。
びわ湖から流れ出る宇治川は、京都の南の方で、保津峡・嵐山からくる桂川と、伊賀から梅の名所月が瀬、笠置を流れてくる木津川との二つの川と合流するが、かなり大きい洪水のあと、桂川と木津川では、流域が地質的に不安定なために、濁りがながくつづき、これに対して宇治川は、びわ湖が大きい沈殿地の役目をするので、澄むのがはやい。このために、保津峡や笠置で成長し、出水で合流点よりも下まで流されたアユが、ほとんど全部宇治川へ上ってくる。出水前には、大部分がとられてしまって、アユがあまり見えなかった宇治付近でも、出水後にはかなりたくさん見つかるというのは、こうした“差しもどしアユ”のためなのである。釣り人たちも、このことを知っていて、洪水のあとには、大きな川に近くて、早く“すみ口”に向かう川をねらう。駿河湾では、赤濁りが澄みにくい富士川に近い興津川は、こうした差し戻しアユのねらい所の一つである。金をかけて放流したアユを、みすみす他へ渡すことになるので、文句をつけたいところだが、アユに目印はついていないことだし、“相手が気象台”ではあきらめるより手がない、と漁師は嘆く。」
オラの疑問は、宇治川のアユが、「放流もの」であるのか否か、ということと、淀川からの遡上鮎がいるとき、その鮎ですら、宇治で産卵していたのか、ということである。
「差し戻しアユ」の主体が、放流もののように読みうるが。
その「放流もの」は、その頃には存在していなかった継代人工ではなく、海産稚鮎か、安曇川等にびわ湖から遡上してきた稚鮎であろう。
昭和40年頃から「湖産」放流鮎の主役になったと思われる「氷魚からの畜養」湖産では、「差し戻しアユ」の行動を行うのか、どうか。移動距離が短いこと、軟弱ものであることから疑問がある。
また、昭和40年頃以前には、氷魚からの畜養は行われていなかったのではないかなあ。仮に、氷魚からの畜養が行われていたとしても、放流鮎の主役にはなっていなかったと思う。ましてや、昭和30年頃は、未だ氷魚からの畜養は行われていないと考えている。そして、湖産稚鮎の畜養が行われていたとしても、川に放流されても大きく育つ湖産稚魚を池で飼育していた段階ではないかなあ。
宇治に放流が行われていたのか、どうか、不明であるが「出水前には大部分がとられてしまって」の表現から、遡上鮎と湖産放流が宇治付近のアユの構成者の主役ではないと考える。
故松沢さんが、湖産を「線香花火」と表現されていたように、すぐに密度が低下する。遡上鮎では遡上量が少なくても、多くても生じない現象である。
湖産と海産の習性の違いについては、萬サ翁も語られている。
ということで、宇治で産卵しているアユは、湖産の放流もの、「トラックで運ばれてきたアユ」と、確信している。なお、淀川からのぼってきたアユは、枚方か、どこか、わからないが、下りの行動をして、産卵していると考えている。
なお、富士川育ちのアユが、興津川に2011年9月20日の台風による増水のあと「差し戻し」て、「鮎、山女魚、キジさんに会いたくて」のホトトギスさんらが釣られている。
雨村翁は、四万十川育ちのアユを新荘川で釣られている。亡き師匠は、狩野川育ちのアユを松崎の那賀川で釣っている。
(ウ)利根川の産卵場所
次に利根川の「前橋付近が産卵場」との観察は、その産卵アユが「放流もの」であると断言できる。川那部先生に「絶対」という事柄は信用できない、といわれても、「絶対に」放流ものの産卵である。
ヘボには珍しく、学者先生を真似て、如何にも科学的知見らしい記述の猿真似を試みてみます。
四万十川河口附近の海域や相模湾で採取した稚鮎の耳石調査結果から、海産鮎が10月17頃に孵化している、10月1日頃に孵化していること、つまり学者先生の教義は真理である、との「科学的知見」の猿真似を試みます。
鮎が珪藻を食して藍藻に遷移する、この実験環境の結果は千曲川、木曽川で検証したから「事実」である、「適切」である、とのお言葉にどれだけ悩まされたことやら。その意趣返しもこめて猿真似をしてみますが、どうなることやら。
(エ)魚心さんの利根川の産卵場所の記述
魚心さんは、
「ここで、下流の砂礫地帯を産卵床として、と書いたが、ここでいう下流という意味については、一応注釈を試みる必要がありそうである。
下流といえば、誰しもが河口近くの、文字通りの下流地帯を想像されようが、産卵場の位置づけに用いられる下流とは、いささか趣が変わってくるのである。
河相の相違により、著しく変わってくるからである。
河口まで数一〇メートルしかない至近な所に産卵に適する砂礫地帯があるかと思えば、数一〇〇キロものぼったところでないと砂礫地帯の見つからぬ河川も少なくないのである。
先述、遡上期の項で、関東の利根川を例として掲げたが、この川の下流一帯は、ご存知の関東平野で、この広大な区域は、ほとんどが砂泥底で、産卵に適するような砂礫底は、求め得られないのである。
アユは、溯るときに憶えていたのか、何により感知していたのか分からないが、平野まで下ることなく、はるか上流の群馬県下で、瀬づいてしまうのである。
このような河口から三〇〇キロも上流で、産卵する川があるかと思うと、その反対に、北陸沿線、つまり日本海側に注ぐ諸川に多く見受けられる、河口から海岸線を越えてまで、海中に川の転石が流れでて、瀬をなしているような河川では、潮の干満の影響がありはしないか、と案じられるような河口でも産卵するのである。
一九五二年のころだったろうか、糸魚川市街の姫川河口で、『サビアユ』を一〇キロほど手掴みにしたことがあるが、この附近は急傾斜をして、海に注いでいるので、季節によっては、海中に流れでている転石の水垢をナメているのか、きらめくアユの姿を見たことがあった。
河口近くまで、大きな転石地帯の河川では、アユはいったいどこで瀬づくだろうか。
このような川では、中流域でも、適当な砂礫地帯ができている分流などに瀬づいているものである。
だから、一概に下流で産卵するといえないのである。
河川が区切られた堰止湖(人工湖)の上流に放流されたアユは、海に下れないが、このような状態にあるアユは、湖を海と思うのか、湖近くの砂礫底に産卵することがある。
以上の例のほかに、水温が異常に冷たく、それで渇水が続いて、思うところに下れないアユは、ときには以外と思われるような上流でも、適当な砂礫底を探し出すと産卵していたことも、多いのである。
以上の点から、小砂利、砂泥の混じった地帯に移った附近と、いいかえたほうが適切な現し方と思っている。」
この文を読んでオラは大喜びをした。
学者先生並みの観察眼、目利きの釣り人もいらっしゃるから、と。
そして、京大の先生といえども、今西博士のように目利きであり、観察眼に優れた山本素石さんや前さんらと「交際」を結ばれる先生もあれば、宮地先生のように、観察眼に劣る魚心さんからの伝聞を「事実」であると判断される先生もいらっしゃる。
もし、今西博士が魚心さんから九頭竜川でアマゴがいる、と聞かれていたら、日本海側にも「アマゴ」が生存している、との説を唱えられたかも。
しかし、素石さんらは、そのアマゴが樵等によって、揖斐川から運ばれてきたものであることを見破られていた。魚心さんには、「放流アユ」が存在することによって生じている「現象」への視点が欠如していると確信している。
オ 魚心さんの記述への疑問
@ 利根川の前橋付近で産卵しているのは、「下り」の行動をしないで産卵する「放流アユ」である。
A 平野の川の利根川といえども、コンクリート護岸で固められた「放水路」化している川でない限り、川の蛇行、流れの蛇行によって「砂礫層」となるヵ所が生成しているはずである。
B 仔魚が弁当を食べきらないうちに動物プランクトンが繁殖している汽水域あるいは、海に到達できないことは、「種」の存亡に係わることがらであり、100、200キロ以上も上流で、しかも流速の小さい川で、産卵するような生活をするはずがない。
魚心さんへの反論に使用するのは、川那部先生らの「日本の淡水生物 侵略と攪乱の生態学」(東海大学)の「ソウギョとハクレン――長江生まれのそう食魚」(東海大学出版会)である。
ということは、@の「放流アユが下りをしないで産卵する」という現象については、萬さ翁や、野村さんや、故松沢さんらの話の中で、「目に」タコができるほど書いてきたので省略します。
「平野の川」には砂礫層はないのか
「あゆ釣り百科」には、「全国アユ釣り場案内」が掲載されている。
この釣り場案内が、いつの年代を対象としているのか、どのような基準で選択されているのか、不明なことが多々ある。そのことは後で、ちょっぴり触れることにして、まずは「平野の川」に砂礫層がないのかどうか、考える素材を紹介します。
大井川の紹介
静岡県では、狩野川が4分の1ページ、仁科川、安倍川、興津川、藁科川を含めて3ページ。
これに対して、大井川は5ページで構成されている。
「多くのダムのため寸断され、昔日の面影はないが、広大な河原を分流する下流は、やはり大河の相がある。釣り場が広大なため、釣り人が目立たぬ静かなよい釣り場として、著者の愛川となっている。
アユ釣り場としては、地勢上、アユの分布上、上流は徳山付近、中流は家山付近、下流を島田、金谷付近と分けてご案内するのが適切のようである。」
書かれた釣り場状況のときは、塩郷堰堤ができており、笹間ダムが稼働していて川口発電所から水を流している。
笹間川の案内もされているが、当然、「放流もの」ということになる。
静岡県下の1962年(注:昭和37年)放流量一覧には、狩野川、大井川1トン、興津川51キロ、藁科川640キロ(注:数字は概数で表示)との記載がされている。
今日の放流量と比較することで、どのような意味付与を理解できるのか、興味はあるもののそれもさぼります。
「島田・金谷付近=大井川下流釣り場で、両駅から相互にバスが出ており、大井川公園下車、国道一号線の大井川橋に出る。この橋の上下は友釣りの好適地であり、鉄橋下から下流のホウライ橋まで友釣り専用区域がある。
ホウライ橋の上手には一〇月半ばより梁がかけられる。オトリは自分で獲らねばならない。
ドブ釣り場は、大井川橋上流の赤松。」
さて、蓬莱橋から下流は「平野の川」そのものといえると思う。蓬莱橋上流の神座下流から、河床勾配は小さく、「平野の川」の相が始まっていると見てよかろう。
しかし、産卵場所は金谷の下流である。どのくらい下流かは、また大井川に行く機会があれば、聞いておくが。
東海道線鉄橋から見える大井川は、川は蛇行していないが、流れが屈曲していて小さな瀬もチャラも、ザラ瀬も見える。したがって、利根川でも同様の流れの屈曲による変化を生じているのではないかなあ。
東北新幹線から見える利根川は、水の流れもないトロに見える。しかし、その流れの形状が河口まで続いていないと確信しているが、見たこともないのに「見てきたような嘘をつき」と、学者先生のようにならないために、河川勾配が小さい大井川の状況証拠だけにとどめておきます。
仔魚の弁当は動物プランクトンが繁殖している汽水域若しくは海まで持つのか。
川那部浩哉ほか編「日本の淡水生物 侵略と攪乱の生態学」(東海大学出版会)の土屋 実「ソウギョとハクレン――長江生まれのそう食魚」
を素材にして考えることにします。
(カ)利根川とソウギョ、ハクレン
「日本の淡水生物」の「ソウギョとハクレン――長江生まれの草食魚」の「(3)産卵生態」に、利根川のもったりとした流れのよく分かる記述がある。この記述を読む限りでは利根川のアユの産卵場所が前橋であっても、仔魚の弁当がなくなる前に動物プランクトンの食糧にありつける可能性が大であるように思えるが…。(原文にはない改行をしています。)
a ソウギョ、ハクレンの産卵場所と流下状況=ソウギョの産卵場と河口からの距離
「利根川における両種(注:両種とは、ソウギョとハクレンのこと。利根川には、ソウギョとハクレンの種苗が移入されたときにコクレンとアオウオも混入していたとのこと。)の産卵時期は六〜八月、盛期は六月下旬〜七月中旬である。産卵期を前に両種の親魚は、平常の生息地である霞ヶ浦・北浦及び利根川下流域から、産卵場のある中流域に向けて移動を始める(図30:注・省略)。この開始は通常三月下旬〜四月中旬。産卵場までの行程一五〇〜一八〇キロを三〇〜八〇日で突破するわけである。
産卵場となる利根川中流域は、河床勾配四五〇〇分の一の平坦な流れである。平水時の流幅は四〇〇〜六〇〇メートルぐらいであるが、産卵の行われる増水時には、八〇〇〜一〇〇〇メートルの川幅いっぱいに水が流れ、そのほとんど全水面で産卵行動がみられる。上流の方に大降雨があって、水位がいったん〇.五〜二メートル増加した後に下降し始めると、産卵が開始される。そのため産卵時の透明度は二〇〜四〇センチと低いのがふつうだが、まれには一〇〇センチ近い清澄なときにも産卵した例がある。しかし、水温に対する要求はきびしく、どんなに増水しても、一八度以下では産卵行動が起こらない。
とにかく、増水のひけ際に、体重七〜二五キロもの大型魚数千尾が一斉に産卵するわけで、その雄大な光景は、我が国では他に例をみない。この時、四種が同時に産卵していることは、そこで四種の親魚が漁獲されることや、流下する卵を採集ふ化して得た稚魚に、四種が出現することからも明らかなのだが、産卵行動の観察ができるのは、主にハクレンとソウギョで、コハクレンやアオウオの産卵は目撃しにくい。後二者の親魚の数が少ないこと及び産卵行動が水中のやや下層で行われるからであろう。
ハクレンの場合は、通常数尾ないし十数尾の親魚が一群となって、表層部で、激しい水しぶきを上げながら産卵する。上流から下流へと下りながらこれを繰り返した群れは、再び上流へさかのぼった後、同様の行為を繰り返す。これが増水後のひけ際に六〜一二時間も続くのである。
こうして産出された卵は、急速に吸水して、一時間〜一時間半後には、産出後の二ミリから五〜五.五ミリの直径にふくれあがる。水よりほんのわずかに比重の大きい卵は流下しながら急速に胚を発育させ、五〇〜七〇時間後にはふ化してしまう。利根川の場合には、千葉県佐原市附近(河口より約四〇キロ上流の地点)で、ふ化直前の卵及びふ化直後の仔魚が、多数確認できる。
しかし、、中にはふ化するまでに海にでてしまって、死滅する卵もあろう(図31:注・省略)四大家魚の卵は粘着性がまったくなく、このように下流へ流されてしまう。したがって、小河川では天然繁殖は期待できないわけだ。」
「一回の天然産卵で得られるふ化仔魚は、およそ一八億尾と推定され、また例年二〜五回の産卵が観測されるから利根川で生産されるふ化仔魚は一年に数十億尾に達することになる。しかしこれらの大半は、仔稚魚期に減耗してしまうのである。」
この状況は、利根大堰の建設で変化を生じる。
「(四)近年の変化
ところで以上に述べたのは、一九五七年(注:昭和三二年)までの状態。じつは現在ではいくつかの変化が見られる。
まず、河口から一五四キロ上流に利根大ぜきが建設されると、それまでこの大堰の位置をはさんで一六五キロ地点にまで及んでいた産卵場が徐々に下降し、河口から一四〇から一二〇キロ地点の栗橋町から境町の地点間に移ってしまった(図30:省略)。利根大ぜきには魚道が設置されているが、取水によってその下流側は著しく減水するので、ソウギョもハクレンも他の魚たちと同様ほとんど利用できない。産卵場が下流へ移るというのは、それだけ下流の流程が短くなったことを意味し、流下卵にとって不利なことは確実であろう。」
そのほかにも、霞ヶ浦付近に逆塩防止目的の水門がまた、本流にも逆塩防止目的の河口ぜきが建設された。
さて、栗橋は、東北新幹線の鉄橋のある附近。その上流、25キロから45キロ上流で産卵されていた卵が、つまり、河口から165キロ地点の卵が、50〜70時間、3日ほどで、河口から40キロ上流の佐原附近に到達しているということのようである。
そうすると、アユの仔魚は、弁当を食べ尽くさないうちに、海に、海が無理であれば、汽水域に到達できることとなり、栗橋から50キロ以上上流の前橋でふ化した遡上鮎の仔魚が、餓死することはなくなる。
さらに、ソウギョ、ハクレンの卵が流下しているときが、増水時であり、流速があることが、流下速度を速くしているとしても、長良川の遡上鮎の産卵場となった岐阜付近から、流下仔魚が弁当をからにする前に河口堰を下ることも可能になるのかも。
もちろん、流速は平水の利根川よりも弱いとしても、遅いとしても、流下しなければならない距離は利根川のウン分の1の長さにすぎない。
しかし、河口堰上流の止水域は、流下仔魚が自ら泳ぎ、そして弱い流速の加護を受けても、河口堰でできた止水域で餓死してしまっている。
困ったなあ、三谷ちゃん、助けてえ。
三谷ちゃんは、テレパシーで、情けない大人ねえ、いえ、大人のなれの果てかなあ、と、憎まれ口を叩きながらも、「川の流れに身を任す卵」と「自ら泳いで下っていく仔魚」は、同じ距離を、同じ時間で下ることができるのか、考えなさい、と。
自ら泳げるのであれば、流れの加護を受けて、流れに身を任せる卵よりも早く、短い時間で下ることができるのでは?と、口答えをしたら、もうしらなあい、と。
(8) 流下仔魚の遊泳力及び長良川河口堰
小山長雄「アユの生態」(中公新書 : 昭和53年 1958年発行)
a 実験の目的は?
@ 実験環境で仔魚の遊泳力の調査
「流速毎秒三センチでは約三五パーセントの個体が流れに逆らって泳ぐが、その他は少しとどまるか押し流されてしまう。流速が七センチになれば、わずか一〇ー二〇パーセントの仔鮎が流れに逆らうだけとなる。それも五秒間くらい、すぐに疲れて流される。しかし、仔アユの一時的な泳力(流速+遊泳速度)は流速が増加するにつれて発揮されるもので(図2:省略)、孵化後の日数と泳力とはあまり関係がなさそうである。」
「日本の河川ではダムや堰などによる湛水域のないかぎり、河心部で流速が毎秒3センチ以下となる川はほとんどない。したがって、仔アユは自力で好きなところへ移動することはできない。彼らは流れに身を委ね、波のまにまに川を下り、海に注ぐのだ。」
実験環境で観察された「遊泳力」がどのような意味をもっているのかなあ。仔魚に「好流性」性向があるのかなあ。流れに身を委ねそれを少しでも補完しょうとして、「流速+遊泳速度」で動物プランクトンの居場所・海へと急ぐ仔魚が、実験環境とはいえ、流れに逆らう行動をとるのかなあ。
いや、「孵化後の日数と泳力とはあまり関係がなさそうである」と書かれているから、原則、仔魚は流速に流れ下る速度を規定されるということであろう。
前さんは「アユの生態」にプラスの評価をされているようであるが、オラは逆である。
その理由は、長良川河口堰のアユに対する影響調査であるのに、取水口への仔アユの吸い込みを防止するにはどうするか、そのために仔魚が嫌う色が何色であるか、の実験を行い、止水口にその色を採用すればよい、あるいは、照度を減少させることが生存に適するから、と、養魚場の水深を提言?しているとは、どのような意味があるのか、何か、的を外れていると感じているから。
仔魚が弁当を食べ終えないうちに動物プランクトンが繁殖している場所に行き着けるかどうかが最重要問題であると考えるが、奈何?
にもかかわらず、仔魚が弁当を食べ終わるまでに長良川河口堰を通り過ぎて海の動物プランクトンを食することができるのか、否か、については、一言も言及されていない。
もし、「アユの生態」の実験方法と結果が適切であるならば、毎秒3センチの遊泳力から仔魚は1日2,3キロしか泳げない、と、計算できるのではないかなあ。河口堰で形成される流速、距離がいかなるものか、判らないが、仔魚の弁当は海にたどり着く前になくなってしまうことは、小山さんは気がついていたのではないかなあ。
そうすると、取水口への吸入の問題は副次的な問題として考えればよい、となるが。
いや、河口堰で形成される止水域は、延長が何10キロもないため、利根川の「平野の川」でさえ、流下仔魚が海に到達しているから問題なし、と考えられたかも。
「利根川」では、百キロ以上上流、前橋付近で産卵しても海の動物プランクトンを摂取できているのであるから、河口堰で形成される10キロ、20キロの止水域は目じゃない、と判断されたのかなあ。
相模川でも、遡上量の少ない年には相模大堰の取水口への仔魚吸入がその「原因」であると語る人が漁協関係者にいるが。
しかし、大量遡上の2000年、2004年、2008年の翌年に遡上量が激減している。
この現象は、相模湾の海の動物プランクトンの発生量が仔魚の胃袋をまかなえず、また、「全滅するには忍びない」として形成される順位制や縄張り制の社会秩序?が仔稚魚の段階では形成されていないことの結果ではないかなあ。
つまり、取水口で死滅する仔魚がいても、仔魚が弁当を食べ終えるまでに海に到達できさえすれば、遡上鮎が、自然児が、川からいなくなることはない、との事例であると考えている。
養魚場の水深については、人工種苗の生産に成功したのは上田市?で、その人の名字が「小山」であったと、みずのようにさんが書かれていた。そのお国柄が出ているのかなあ。それとも、遡上鮎がいなくなるから、人工鮎の生産をたっぷりとする必要がある、とのお話かなあ。
ソウギョやハクレンが日常生活圏の上流を産卵場としているように、アユは下りをして生活圏よりも下流を産卵場としている、そのことが子孫繁栄にかなうから、ということではないかなあ。
そして、鮎は、ソウギョと違って増水の影響のあるときには産卵することはまれなはず、あるいはないはず。粘着卵が流されると、子孫繁栄にならないから。
したがって、平水のときにも仔魚の弁当が食べ尽くされない海からの距離の「場所」を産卵場に選んでいるはず。その例外が、海産畜養、汲み上げ海産稚鮎を含めたトラックで運ばれてきた放流アユと考えている。海産畜養も、沖取り海産も「下り」をしないで産卵していたとは、オラにとってはショックであったが。
海産鮎の汲み上げ放流は、矢作川で行われているよう。その作業を手助け?されている団体のH・Pには、堰でできた止水域を「海」と間違えて、その上流で産卵している、と書かれていたが、そうではあるまい。それは、遡上鮎の産卵場選択ではなく、産卵場適地の海からの距離を経験できなかったトラックで運ばれたアユであるから、と考えている。
ということで、三谷ちゃんがテレパシーでソウギョの卵と流下仔魚とは違うことから考えたら、とヒントを与えてくれたけど、結局、定量分析的、科学的記述には失敗しました。猿真似をしても、霊験あらたか、とはいえませんよね。いつものカンピュータで、利根川の産卵場所が前橋等の上流ではない、ということになりました。
なお、「アユの生態」には、照度が落ちると、そこに移動する、との実験結果が書かれているが、流下仔魚は夜はねんねするのかも。少なくとも、自発的な遊泳はしないであろう。
b 「アユの生態」で気になったこと
@湖産が海で生存可能?
「琵琶湖のアユは一般にコアユまたは湖産アユと呼ばれる。もちろん、川ー海ー川という回遊コースをとらず、一生を淡水で過ごす。日本のカワマスなどもこのたぐいの陸封魚である。
コアユは遡上前に湖に残る個体と川へのぼる個体とに分かれるようで、残る個体は湖中のプランクトンを食べて細ぼそと生き延びる本当の『コアユ』である。
琵琶湖に注ぐ河川のうち、安曇川と姉川、愛知(えち)川、日野川、野洲(やす)川などは鮎の遡上河川として著名で、それらで採捕される稚アユは、全国の放流量の七〇%、三五〇トンをまかなっているという。
本章で扱っている稚鮎の生態実験で、特に野外ではできかねる項目の多くは、安曇川を上るコアユが用いられた。コアユは天然アユにくらべて早熟で、なわばり性が強く、鱗の形も違うなどいくつかの相違があげられている、その点で河口堰魚道の実験用には多少適正を欠くようにも思える。だが、放流されたコアユから生まれた仔魚は海へ出るまでに死滅するわけではない。天然アユの仔魚と同じように川を下り、海をさまよい、ふたたび川へのぼってくる。そのときは『天然遡上アユ』なのだ。本質的に両者に相違があるとは考えられない。」
東先生が、「日本の淡水魚 侵略と攪乱の生態学」(東海大出版会)の「コアユ――一代限りの侵略者」を書かれているが、その出版が一九八〇年:昭和五五年。
「アユの生態学」が出版は一九七八年:昭和五三年。
したがって、「アユの生態学」が、湖産仔稚魚も海で生存、成長していると信じられていても不思議はないのかなあ。
小山さんは、千曲川や信濃川にはなじみではあっても、海からの遡上アユとはなじみがないから、故松沢さんのように、容姿が湖産でもなく、湖産との交雑種でもない、よって湖産を放流していても、「海産」アユに影響を与えていない、懸念するまでもない、昔のままの海産アユの顔つきをしている、との評価ができなくて当然か。
なお、萬サ翁は、長良川の鮎の容姿が変わった、と話されているが、伊勢湾が、長良川が、自然児の生存を許さないほどの水になった頃の放流鮎、F1:1代目?2代目?のアユ種苗の生産が行われていた頃の話ではないかなあ。前さんが、日高川養魚場に見学に行かれたのは、昭和62年、上田市?人工種苗の生産に成功したのは、昭和20年代。
「アユの話」の「水産業のレベルを農業のレベルへ」の章には
「最近になってアユの全生活誌を通じての完全人工飼育に成功し、それも五〇%ほどの歩留まり率だという。まだ採算のとれるところまではいっていないが、これも時間の問題だろう。
アユ苗を作る人工孵化の技術は早くから解決済みである。メスの頭をにぎって、腹部を圧すると卵が出るので、これをいもの葉か皿にうけ、次にオスの精をしぼって卵に注ぎ、羽ねばけでよくまぜて、シュロ皮張りの孵化枠に水中で受けると、卵が付着するから、これを流れの良く通るところにおけば、約二週間でかえる。一尾のメスの卵数は約五万で、メス五尾分の卵がオス一尾でまかなえる。」
何とも凄い章の名称ですねえ。
前さんが反発されたヵ所の一つではないかなあ。
故松沢さんも大いに憤っていた人工種苗の生産です。種の多様性の喪失を直感的に感じられていた。ただ、再生産がされていない現象に気がつかれて安心もされていたが。
「アユの博物誌」にも、牛の野生が旨いか、人が牛の誕生から墓場まで管理した牛が旨いか、との話が書かれているから、鮎の「農業レベル」での生産は当然の「進歩」「発展」である、ということでしょう。
なお、この後、川那部先生を紹介するとき、忘れなければ、人工種苗生産が「種の多様性」の喪失につながることを紹介するかも。
あ、そうそう、東先生は松浦川での流下仔魚量調査のとき、湖産との交雑種は区分されていないが、海産仔魚に含めたのかなあ、湖産に含めたのかなあ。交雑種は湖産よりも大きいとの話もあるから、海産仔魚に含めたのかなあ。
湖産流下仔魚の数が湖産放流量から想像できる流下仔魚量よりも少ないように感じているが、交雑種が「海産流下仔魚」に含まれているからかなあ。
もし、「アユの生態」出版頃には、湖産アユが海でも生存できていた、と信じられていたとすれば、その説が間違いである、と専門家に認識されたのは、一九八〇年頃ということになるのかなあ。それにしても一般に湖産アユが海では生存しない、放流しても、ダム湖以外では再生産されない、との認識が流布する20世紀終わり頃までに凄い時間がかかっているように感じるが。
Aトンネル魚道と照度
「要するに、稚アユが感知できるほどの照度差があれば、アユはより照度の低い部分を選択し、いったんそこに入ったら出たがらないということになる。この場合、照度格差が大きいほど陰影固執性は強いように思える。
一般にトンネル式魚道で、アユの通過率がすこぶる悪いのも、この性質の現れである。トンネル内の暗所にアユがたまって容易に退出しないからだ。こんなときはトンネルの上部に電灯をつけ、影を払ってやるのが常識というものであろう。」
天竜川の船明ダムに、トンネル式の魚道があって、そこに電灯をつけたから遡上するようになった、という話があったが、もし、事実とすれば、この暗部をなくす効果ということかなあ。
B「冷水を好む性質」は、事実か
この実験環境での記述は、何ともおかしいし、自然界との関連はあり得ないから無視する。
とはいっても、「本物」の生活誌を知らぬ学者先生の「習性」が際だって表現されていて、ヘボでも「らくううに」反論できそうであるから、無益な作業とは思いながら少し紹介します。
「体長3―4センチのアユの選好温度帯は一四ー一七度のところにあり、ここを七二パーセントのアユが選好した。」
というように、「実験環境」での選好温度帯が、体長によって異なっているとのようである。
そして
「仔アユの選好温度は前歴温度よりもむしろ高めのところに存在した。だが、シラスアユでは一様に前歴温度よりも低い水温が選好されている。それも体長が一センチ増大するごとに一度の割合で低下するといったふうである。」
「実験装置や前歴温度などに相違があるので決定的なことはいえないが、仔鮎では前歴温度より高めの水温を選び、シラスアユではむしろ低温を選び、稚アユではふたたび高温寄りの水温を選ぶといった傾向は認めることができる。
このことはアユの生活環境とは切っても切れない適応である。
早春の水は冷たい。しかもアユは遺伝的に川(淡水)にのぼることを余儀なくされる。暖かい海中にいるアユがもし前歴水温より高い水温を好むとすれば、アユの遡上期は大幅に遅れ、爾後の生活に支障をきたす。だが幸いなことに、遡上前のアユは前歴水温より二―四度も低い水温を選ぶように備わっている。アユは河口深く入り込み、しだいに体調を整えて遡上の機会を待つ。やがて河水温が前歴温度に近くなると、遡上を開始する。その意味で『海水温が河水温とほぼ等しくなると遡上を開始する』というのは正しい。ただし、海水温というより汽水温といった方がもっと当たっている。
川にのぼったアユの選好温度は少しずつ高くなり、前歴温度より数度高いところを選ぶが、その上限は二一ー二二度くらいかと思われる。川の水温がまだ一七ー一八度のとき、上流で雨が降り、水温が下がることがある。こんなときは魚影が急にまばらになる。濁水や流速変化の影響もあろうが、水温の変化も見逃せない。アユは選好温度を求めて河心を去り、川べりや留水部などの水温の高いところへ移動するからではないだろうか。」
C 何のための実験?
実験するまでもなく、房総半島以西の太平洋側で、11月、12月に産卵をして、流下仔魚が川を下っている頃の川の水温と海の水温を観察すれば、十分では?
流下仔魚が旅をしている頃の河の水温は、12,3度くらい、海の水温は15度以上17,8度くらい。12月ふ化の仔魚は、もう少し低い川の水温のときに海への旅をしているとは思うが。
稚アユが遡上する頃の3月中旬、20日頃以降の水温は、海で15度くらい以上、河で12度くらい。
実験するまでもなく、「観察」をすれば済むことではないかなあ。
なお、「アユの生態」には、3月上旬に実験用として長良川の稚魚を採捕しょうとしたが目的を果たせなかった事が記述されている。
どのような人の「助言」?に基づく「3月上旬」の稚魚採捕行動であるのか、解らないが、三月上旬に遡上を開始しているのですかねえ。早すぎると思いますが。
これは「水温」の問題ではなく、「成長段階」の問題と思いますが。「櫛歯状の歯への生え替わり」の時期の問題ですよねえ。
海水温と川の水温が同じになる頃に遡上を開始する?
そんなことはないですよ。遡上開始時期は、川の水温の方が低いですよ。このことは高橋さんの「アユの本」でもまちがっちょる、と書かれているが、その間違った「情報」の発信源が「アユの生態」かなあ。
もちろん、東北、日本海側のことは判りませえーん。いや、海水温と川の水温が同じになるときが「遡上時期」とは、小山さんも適切な「格言」とは書かれてはいませんよね。
D 前歴低温、前歴高温選好に意味があるの?
アユは、実験環境の結果にしたがって、生活の場の水温のを変えることはできませんよ。
海でも、河でも、水温は「与件」として与えられるにすぎませんよ。その中で、「本物」の河と、成長段階を異にするアユの生活誌を観察しないで、「実験環境」による知見がどのような意味を持つのかなあ。
河川、海の環境を与件として、その生活圏に適応できるように、頑張っているから、東北・日本海側と、房総半島以西の太平洋側で、「海産アユ」とはいえ、異なった生活誌を形成しているのではないかなあ。
「前歴低温選好説」、「前歴高温選好説」も流布していたなあ。この説を故松沢さんに披露したとき、どのような反応を示されたか、記憶になし。そんなことは遡上期の川の水温と海の水温を見れば自明のことと、フン、と笑っただけかなあ。
E 雷雨等による川の水温変化と行動。
これに係る記述がいつの成長段階のことは不明であるが、川の水温が「一七ー一八度」とのことであるから、房総半島以西の太平洋側では、六月のことであろう。一〇月中旬、下旬でもこの水温になるが、その時期のことではなかろう。その時期であれば、増水は中落ちの問題になるが。
さて、六月の水温低下は、釣りにくくなる。
しかし、二五度くらいの真夏の水温のときは、雷雨による水温低下は絶好の釣り時になる。
それだけのことではないのかなあ。実験で何を得ようとされたのか、判りませんねえ。
F 「アユは河口深く入り込み、しだいに体調を整えて遡上の機会を待つ」?
河での観察をすることなく、どのような根拠にもとづいて、このような「説」を書かれているのかなあ。
「昆虫食時代」の成長段階の区分が必要ない、という考えからすれば、苔をはむことのできる歯に生まれ変わった稚アユは、苔の生息している場所へ、ひたすらのぼっていくでしょうねえ。
仮に、汽水域で「体調を整えているとき」があるとして、何を食べていますか。動物プランクトンですか、昆虫ですか。
また、どのように、観察された結果ですか。実験環境ではないでしょうが。
なお、歯の生え替わりについては「アユを育てる水あかの驚異」のなかに、、駒田核知さんを紹介しています。
湖産アユの子孫が海では生存できない、ということについては、「アユの生態」が発行されて後に「日本の淡水生物」が発行されているから、見る機会はなかった、といえるかも知れない。
しかし、「昆虫食時代」を設定するまでもない、との話は、「アユの話」に書かれていることであるから、読む機会がない、とはいえないはず。単になあんも両則回遊性の鮎の生活誌の知識を得ようとされなかった、というだけではないのかなあ。
湖産が海では生存できない、との東先生の観察も、「日本の淡水生物」が発行される前に研究誌には掲載されていたのではないかなあ。
このような状況の先生が、
「河口堰の影響を最小限に食い止めて、河口堰と自然保護ないし水産資源の確保を科学的な研究を透して両立させる方途はないものか。」
という調査団の構成員であったとはオラにはビックリ仰天です。
ついでに、小山さんのスタンスは
「また、アユの遡上期以外の季節には仔アユやシラスアユの生態も調べ、降河アユの河口堰通過に対する対応策を練ったり、アユの人工養殖場の環境管理の指針をうるように努めたりした。」
とのことですが、「実験環境」以外の調査はどの程度されたのかなあ。
「河口堰通過に対する対応策」とは、流下仔魚の弁当がなくならないうちに動物プランクトンを食することのできる環境に到達できるか否か、ということは、眼中になかったという事ではないかなあ。
いや、「人工養殖場の管理指針」作成を研究対象とされているということは、河口堰ができると、遡上アユは絶滅する、ということを認識されていたとも考え得るが。
もちろん、木曽川や揖斐川生まれの遡上アユが長良川にのぼってくることはあろうが。
G 長良川河口堰の推進者に荷担したのは岐阜大学?
2011年の相模川に、高鷲村のナンバーをつけた原付バイクがあった。その若者の話
・同じ親から生まれたアマゴを育てたことがあったが、3割はシラメになった。
・長良川に遡上しているアユはいるが、それらは長良川でふ化したアユではなく、木曽川、揖斐川で孵化したアユである。
・河口堰建設の元凶、提灯持ちは岐阜大学である。
高鷲村は現在は、郡上市になっている。
その若者とお話をしたかったが、オラと違って麦酒を飲んで、サボりサボりの釣りをしておらず、遅い昼飯を掻き込んでいたから、また会える日まで我慢するしかない。
「アユの生態」を読んで、岐阜大学が河口堰建設事業の「正当化」に一役買っていたのではないか、と勘ぐっている。
そして、遡上アユがいなくなれば、人工養殖を放流すれば問題なかろう、と考えていたのではないか、とも。
今西博士の思いは岐阜大学に伝達されることはなかったのかも。
高鷲村ナンバーの青年が読まれたのは、建設省が加工し、改ざんし、河口堰建設に好ましくない、と判断したヵ所を無視した概要版であろうと想像している。
その限りでは、岐阜大学を主とする調査チームの汚名は軽減できるとは思うが、「アユの生態」を読む限りでは、高鷲村青年の誤解ともいえないのではないかなあ。
シラメの話も、野田さんが惚れこんだ亀尾島川のことも、川那部先生が現在の雨が降ると濁る川が当たり前、という「濁らされた」目を醒まされた粥川のことも聞きたかったが。どの程度、「清流」が健在かなあ。
(9) 「アユの生態」と長良川河口堰と川那部先生
「ヘボ」の勘ぐりで、「アユの生態」を評価することは、学者先生と同じ穴の狢ですよね。
幸い、川那部先生が、「アユの生態」に言及されているので、「公平、公正」を装うため、紹介します。
ア 河口堰への川那部先生の関心
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会:人間選書191 1996年・平成8年発行)
(注:一九九〇年執筆?)
(原文にない改行をしています)
「長良川河口堰のこと」の章から
「ところで話は突然変わって、中部地方を流れる長良川のことである。読者の方々はすでにご存じと思うが、計画から三〇年あまり、裁判その他でもめて止まっていたこの川の河口堰が、一昨年着工になった。
私は例えば一九七八年(注:昭和五三年)、漁協を中心に岐阜県の多くの人々が原告となったマンモス訴訟に、証人として出廷したことがあるが、川の生物群集を調べてきた一人として、ずっとここは気になっている。もっとも私がこの川を調べた、いや視た日数は合計三〇日程度、一番長く調査している京都府北端の宇川の一五〇〇日以上などとは比べものにならない。タンガニイカ湖にしても、その畔にいて、視ていた日数を数えれば三六五日以上に達するし、鳥取・島根両県にまたがる宍道湖・中海だって、数えたことはないが二〇〇日程度にはなるだろう。だから長良川については大したこと知らない。、その私が、日本自然保護協会の求めを断り切れずに、最近、その河川問題特別委員会なるものを引き受ける羽目に陥ったのは、第二の故郷と言っても良い宇川を始め日本中の川が、ここ三五年の間に何とも言い様のないほど困った状態に変わってきているのは事実だし、そもそも『ほんものの川とはどういうものなのか』を、各専門分野の人々が別々にではなく、いろいろの立場の人々の間の論議――ある場合には激しい厳しい論議――によって改めて問い直す必要があり、その手始めに、長良川で判っていること判っていないことを洗い出すのも、案外適当なのではないかと、ふと思ってしまったからである。
この河口堰について、その影響に関する生物的評価の基礎として公表されているのは、若干の例外を除いて、故小泉清明さん(岐阜大学→信州大学)を中心とする研究者達が、一九六三年(注:昭和三八年)から行った『木曽三川河口資源調査団』の報告書集であろう。実は私はこの調査団に小泉さんからお誘いを受けたのだが、ちょうど他の調査団の事務局めいたものを引き受けた直後だったので、お断りしたものだ。それはともかく、この報告集は、各研究者が年度ごとに書いた報告をすべて集めた膨大なものなので、要約版が幾通りか作られ、同じく公表されている。残念なことにこの要約なるもの、纏められるごとに少しずつ内容ないし結論がずれて行って、中には殆ど逆になっているのではないかと訝られるものさえある。途中で取り下げになった先のマンモス裁判での私の証言は、実はこの要約が、元の報告集にどの程度に忠実なるものかを例示することに、殆ど限られたと言って良い。
またこの調査のなかでは、例えば、信州大学で昆虫生理の研究をやっておられた小山長雄さんが、今までの仕事を殆ど止めて魚道の開発研究に乗り出し、生理実験の結果、『呼び水式魚道』と『閘門式魚道』とを考えられた。後者はともかく前者は、従来の魚道に比べるとかなり有効なものと理屈のうえでも思われ、私自身その仕事に大いに敬意を表している。
しかし建設省側は、この優れた研究をいささかならずねじ曲げて、間違った宣伝に使っているようだ。すなわち、『この魚道を作れば魚の遡上は万全であり、何の問題もない』と発言するだけで、それ以降の資料(調査を続けていると好意的に解釈しているのだが)を正式には公表していない。小山さんは病気になられて、ご自分でのくわしい論文ないし報告書は出ていない。その著『アユの生態』にも、呼び水のある場合とない場合との比較がただ一つ載っているのみ。またこの本には、佐賀県松浦川・熊本県菊池川・新潟県信濃川には呼び水式魚道を備えたダムが存在するとあるが、その後も、それらの場所での遡上率ないし遡上速度を明白に示した詳しい資料は、管見の限りどこからも公表されていないらしい。
長良川はまた、サクラマスの亜種であるサツキマス個体群の、世界でただ一つの良好な生息地だ。一九六〇年(注:昭和三五年)代後半までは、アマゴの降海型はビワマスと同じと思われていたが、加藤文雄・吉安克彦・本荘鉄夫さんなどによってこの二つは異なるものと判り、アマゴの降海型はサツキマスと名付けられたこと、このマスは一九三〇年代までは、瀬戸内海に流れる川で、『農林水産統計』に載るほど捕らえられていたのに、今では数年に一尾程度で新聞種になるということ、今年発表の環境庁のレッドデータブックでも、絶滅の危険のある魚として指摘されたこと、などなど、今や言うにも及ぶまい。
河口堰の建設側は、サツキマスの漁獲高は多くないから、応分の補償で十分と確信しているらしい。あるいは、人工孵化放流や養殖があるから、どうなっても良いと考えているかのように、ときに発言する。『遺伝子資源』の確保の面を考えるだけでも、こういう発想では議論にならぬ事は解りそうなものだが、これは、それらの人々に自分自身でものごとを新しく判断できる能力、つまり真の意味での知識と教養がある筈だと、評価し過ぎなのだろうか。それはともかく、この魚の生態の調査は、幸か不幸か正に今後に残された問題なのである。
同じくサクラマスの亜種にタイワンマスがある。台湾島中部の大甲渓上流のみに棲息していたものだが、いまではその一支流だけ細々と残っている。台湾政府と台湾大学とはここ数年その保護に乗り出し、一年はとりあえず人工孵化放流に頼った。しかし、遺伝子組成の単純化を危惧してこれを止め、周辺への広葉樹の造林、ダムの除去と川の蛇行や瀬・淵の確保など、渓流の自然的状況への復元のを目指している。一昨年一一月札幌での『国際イワナ・サクラマス会議』でその報告に驚き、昨年五月には三人で見学に、一一月には日本からも一五人あまりが参加して現地で研究会を開き、方策をいろいろ論議した。このマスの場合、もはや余りにも狭い範囲にごく僅かの個体数が残っているだけなので、成功するかどうかは楽観を許さないし、復元の進捗状況も極めて早いというわけにはいかない。しかしこの方向は、どこやらの国の建設関係者が慚愧するのは勿論ながら、研究者も注目し、せめていささかは反省して良いのではあるまいか。
言葉遣いが、少々乱暴になってきたようだ。当方は顔でも洗って出直し、今も元のままも理屈と発想で長良川河口堰を推し進めようとしている人々には、エンツェンスベルガーさんの本でも買ってぜひ読んで貰い、まずは頭と心を、そう、柔軟にして頂くことを要請しよう。」
イ 建設省の調査報告書改ざん
「ほんものの川を求めて」の章から(一九九〇年:平成二年執筆)
「長良川の状態
一昨年秋、計画以来三〇年以上停まっていた長良川河口堰が着工になった。私は極端な地方分権主義者だから、これ自体に賛成とか反対とか強く言う気はないが、生物に対する影響の調査が不十分なままで(いや、ひょっとするとあるかもしれないと好意的に見ても、その調査資料が公表されないままで、驚くべき過小評価、いやただ一つのまとまった調査報告である『木曽三川生物資源調査団中間報告』(小泉清明編)の内容を著しく歪曲した結果をもととして、着工になったことだけには、とにかく納得しかねている。
だがそれは、また別の機会に書くこともあろう。ここでは一九五八年から一九九〇年までの間に、合計僅か三〇日ほどこの川を見た(調査をしたのではない、念のため)感想を、一九七五年に書いた雑文二つを引用しながら、少々連ねる事にしたい。」
この後に続く文の一部は、リンクで間に合わせをします。
そして、川那部先生が「曖昧の生態学」と「生態学の『大きな』話」に書かれている次の長良川に係る文の紹介も、すでに一部は紹介済みであるとして、省略します。
当初は、それらの文を何らかのキーワードで纏めようと壮大な妄想を抱いたものの、いつものようにヘボの考え休むに似たり、であきらめました。
まあ、将来、長良川河口堰に係る専門家集団と公共事業施工者と目利きである川漁師との関係を考える機会があれば、参考にしたいとはもっていますが。
ウ 長良川河口堰に係る記述
@「曖昧の生態学」(農山漁村文化協会)
「『自然』の何を守るのか」の章のなかの「遺伝子多様性はなぜ重要か」ほか
「ほんものの川を求めて」
A「生態学の『大きな』話」(農山漁村文化協会)
「生態学に関する『大きな』話――地球環境問題が変える生態学と哲学――」
「応用生態学とは何か、
それは今後どのように進めていくべきか」
「長良川、琵琶湖、そして生態学者(聞き手・宮田親平)
エ 種の多様性と長良川河口堰
とはいっても、この問題に係る記述を紹介しないと、「約束違反」になりますよね。
「曖昧の生態学」の「『自然』の何を守るのか」の章の「善意が仇になることも」から
「自然のバランスは、極めて強固かつ安定なものではありません。手を加えて動かせば、必ず少しは変動し、そしてそれがある限度を超えれば、いや、最初はそれが小さくてもその変動が内部で波及して大きいものになれば、そのバランスは完全に壊れてしまいます。しかもそのありかたには生物間相互の、また生物と被生物的環境との間の歴史性が、幸か不幸か介在しているのです。
善意であってもしかし軽はずみな行為が、相手の人間や人間社会に悪い影響を与えることは、残念ながら皆無ではありませんが、自然に対する場合は、こういう危険はいかにも大きい。自然の心情とでもいったものを忖度することは、なかなか困難だからです。しかし自然に対して何かを起こすときに、こうした大きい問題の起こる可能性を自覚、それなりの覚悟を本当にしてからやっているのかどうか。
単純な例を出しましょう。小さい島にいるニホンジカは、多くのところで増えすぎて問題になっています。これは当然のことで、彼らは進化のなかで、例えば自分たち、とくにそのこどもを食う動物の存在を前提にしてきた。つまり食われる数、あるいは他の要因で死ぬ数を勘定に入れてこどもを出産するように、遺伝的に決めて来たのです。それがなくなり、あるいは少なくなって、こどもはほとんど育つ。その結果、植物をほとんど食いつくしてしまった。こうして今ではいわば飢えの状態になり、このままではその集団は絶滅の危機にあるところが多いのです。産児制限をする意識はシカにはないし、出産率の低い個体を選択する自然淘汰が起こったとしても、数十年、いや数百年ではとても眼に見えた変化は生まれないでしょう。
こういう問題を早くから論じた一人に、イギリスのラックさんという人がいます。育てて元気に巣立ちをする雛の数が一番多くなるように、鳥の卵数は進化のなかで決まってきたのだということを実証した人ですが、こういうことを言っています。ある鳥は、マツ林になった近年もむかしのブナ林のときと、平均値でいうと同じ数だけ産卵する。雛の餌の量はマツ林ではうんと少なくて、それだけの雛は育てられににもかかわらずです。ここでも進化の歴史のなかで決めてきた性質は、数百年程度の短い時間では変わらないことがわかる。ただこの鳥が絶滅しないのは、かわりものがいて、昔も今も少ない数の卵を産む。全部が最適にならずに、いわば多様性を保ちつづけてきたからなのです。
道のかどで出会いがしらにあった人の顔が自分とそっくりだったので、卒倒するという小説を昔どこかで読んだ気がしますが、人間の顔がみな同じだと不気味でしょうね。幸いにも自然では一つの種が同じ性質をもつことはありませんし、同じところに住む集団の構成員も一個体ずつ異なっています。
こういう生物の多様性が大切だということは、近年よく知られ、また議論されるようになって来ました。〜」
「遺伝子の多様性はなぜ重要か
わかりやすいように、産業に関係した問題を例に挙げましょう。例えばイネです。これは世界各地でさまざまに品種改良されて来ました。とくに日本での改良は目覚ましく、この気候風土に合うようにいろいろのものが作られ、純系が選抜されて来ました。しかし、近年の需要の偏りから、実はそのごく一部しか残っていないのだそうです。いやそもそも、日本で改良された品種は他の地域ではむしろ適合しません。そして純系が選抜されて、ある条件に合致したものができればできるほど、それの交雑だけからは、異なった条件に適合するものは生まれて来ないのです。そこで表現型、すなわち見たところの質や量は悪くても、いろいろな遺伝子をもったさまざまなイネを、原産地を中心にあらゆるところから大急ぎで集め、遺伝子資源としてこの多様性を保持しておかなければならない。失った多様性を改めて作り上げることは、地質学的な時間をかけないかぎり、まず不可能なことですから。このように、ほとんど人間の管理下においているイネについてすら、品種改良と同時に、新しいものを作り上げられる多様な、もとのものを残しておかなければ、食糧問題としても困ってしまうのです。
だいたい生物が、なぜ雄と雌という性なるものを持つようになったのか、なぜ二つの配偶子が合一して、それから新しい個体を作るというような、面倒なことをするに至ったのか。これについては、いくつかの議論があります。しかし生物は、さまざまな生物的・非生物的環境変動の中に生きていかねばならないので、いろいろに起こった突然変異を含む遺伝質ないし遺伝子を、これによって新しく組み合わせ、そのことによってさまざまな変動に対処するための、適応であるとする解釈が有力です。
それはともかく、遺伝子の多様性は時間的空間的変化に対応する、大きい安全弁でもあることは確かなのです。
そういう点では、例えば長良川のサツキマスなどについての河口堰建設側の意見は、やはり問題がありますね。養殖して放流するから大丈夫などと、今でもまだ言っているのは困りものです。増殖放流というのはそもそも、極めて少数の個体の子孫だけを大量に入れることなのだから、遺伝子多様性が著しく減少するのは、理屈からも当然なのです。この問題についての重要性の認識があるのかないのか、私は、長良川の河口堰建設に、頭から反対するものではありませんが、例えば『サツキマスの遺伝子多様性はこれだけ下がるし、その影響は世界的に見てこの程度大きいけれども、それを覚悟しても、河口堰はこういう理由で必要だ』と、生物多様性の保護に関する評価をも提示して、その上で論議を始めるべきでしょう。」
この後、台湾でのサラオマス増殖、保護に係る上記に紹介をした文とは別の文が続いているが、その紹介はさぼります。
オ なお、「曖昧の生態学」には、
「アユの縄張り形成」のヵ所に、
「この考えは、別のこともうまく説明してくれます。琵琶湖のアユは、なわばりをもつ性質がとくに強い。それから産卵期が、どこへ放流してもその川に海から上ってくるものに比べて一ヵ月早い。光の長さに対する反応すなわち光周性が、海からのアユは北海道から九州の南まで同じなのに、琵琶湖のものだけは違うのです。
この二つはともに、氷河期に重要であった性質がいまも残っているものだとするとよく分かる。その頃には、海と川を往復するアユはもっと南に分布していて、琵琶湖のアユがとびはねて寒い条件に棲んでいたのです。なわばりは、したがって最も強く守られなければいけない。また、秋遅くに産卵したのでは、冬までに孵化して海へ下れない。海からのアユに比べてうんと早く産卵する必要があるわけで、さてこそ、その刺激になる光周性は異なったに違いない。」
川那部先生の性成熟に係る「光周性」要件は、岩井先生が緯度の高い地方ほど、一日の日照時間は長いから、
「こうした想定のもとに、アユの生活を振り返ってみると、彼らがよく食べ、よく泳ぎ、つるべ落としの秋の日が来るのを正確に察知して、成熟しなければならない事情がわかるような気がする。それにしても一生を終える準備は本当に光だけで左右されるのか、疑問は残る。アユの産卵期が北で早く、南で遅いのは、日照時間の短縮だけでは説明できないともいわれるからだ。
夏から秋にかけて、日照時間が次第に短くなるといっても、北半球では、春分の日から秋分の日までは、緯度の高い地方ほど、一日の日照時間は長いはずである。だから、九月に産卵が始まる北方では、アユの成熟が進む時期の日照時間は南方よりも長いことになり、これでは早く日が短くなるほど成熟が進むという説明と食い違ってくる。
日照時間の違いによって成熟状態に差が生じることは、すでに実験的に証明されているのだから、間違いないだろう。しかし、果たして性成熟を左右する要因は昼の長さの変化だけなのか、もっと別の環境条件が関係しているのか、あるいはまた、各地方の集団ごとに、成熟に有効な臨界日照時間が決まっているのか、もう少し突っ込んで調べる必要がありそうだ。」
と、書かれている岩井先生の「魚の国の驚異」に出会うまでは「光周性要件」と性成熟の関係に悩んだんですよ。
それと、川那部先生の
「光の長さに対する反応すなわち光周性が、海からのアユは北海道から九州の南まで同じなのに、琵琶湖のものだけは違うのです。」
このヵ所については、川漁師の観察と異なるとは判れど、狩野川での釣れるアユとは異なれど、定量分析が不可能な川漁師の観察だけを、故松沢さんの観察だけをよりどころにして、如何にまちがっちょると説明できるか、苦心惨憺しているんですよ。
その点からも「アユの生態」が、アユの生活誌を実験環境だけでアユを云々し、しかも適切な問題意識、設定で行われていないのではないか、と感じて、恨み骨髄に徹しているような状態で。
前さんが、「積算日照時間」が性成熟作用しているのではないか、と考えられたことは、すでに何度も紹介していますよね。これで、電照による養魚場での養殖方法から、アユの性成熟が6月始めでも生じていたこと、そのため、冷水病が蔓延し始めていた1990年代初め頃の6月から川にいた抱卵アユ、サビアユの説明は可能では、と思っている。
カ 遺伝子の多様性は環境変動への対応力?適応力?
「これ(注:湖産と海産の産卵期の違い)は、非生物的環境との関係だけの極めて単純な例ですが、一般的な理屈として、次のことは明らかではないでしょうか。過去のある時期に、非生物的な環境との関係においてにせよ生物相互の関係においてにせよ、何か致命的な事態が起こった場合、これに対処できなかったものは、そのときに絶滅した。逆に言えば、現在生存している生物は、過去に起こったさまざまな事態に対処し適応できたものの子孫だから、そのときからの時間が極めて長い場合を除けば、それに適応し得た性質を今も遺伝的に残している。そして、このような事態が何度か起こった場合には、その性質は一層強くまた確実に、今も遺伝子の中に組み込まれている、というわけです。
この過去の関係を調べ上げるのは大変難しいことです。少なくともいくつかの場所での長期間の継続調査からしか、真の姿はなかなか見えてこないでしょう。しかし、例えば、通常状態における各生物や各生物群集の性質を、一層深くかつ論理的に解釈して、そこに起こっている一見説明不能な現象を見つけることは、一つの手掛かりになると思っています。アユについての先のささやかな議論は、こういう考えに基づいたものでした。最近は、熱帯地方の生物の性質や生物群集の様相全体に見られるいわば奇妙な現象が、数十年あるいは数百年に一度起こるさまざまなかたちの妨害ないし動乱に関係しているものであるらしいことが、少しずつ、まさに少しずつ明らかになっています。一見説明不可能とも思えるこうした現象にこそ、進化の歴史を示し、かつ現在の生物群集を本当に成り立たせているものが、隠されているに違いないのです。」
アユのF1:一代目?二代目?人工を生産している山形県、島根県が好ましいとは思っていてが、そのF1人工が、川の産卵床で産卵行動を行ったとき、「自然児」との関係はどうなるのかなあ。交雑種ではないし、産卵時期を異にすることもなかろうし。
トラックで運ばれてきた鮎とはいえ、増水の時に流されて「自然児」の産卵場所付近で生活をしているものもいるでしょう。
かっては、F1による人工種苗は、「本物」の補完になうと思っていたが。数が少なければ問題はないということですむのかなあ。
湖産も、交雑種の神の手により、海産「自然児」の容姿を含む形質に影響を及ぼすことはなかった、といえるようであるが。もちろん、津久井湖、宮が瀬ダム等ダム湖での再生産は行われているようであるが。
山女魚、イワナは生活圏が砂防堰堤等で寸断されていること、増水時に避難できる大淵が埋まっていること等によって、すでに「自然児」は消滅しているようであるから、人工養殖の放流親と在来種との関係、遺伝子の多様性、在来種への影響云々を問題にするには遅すぎるのかも。
道志川水系の山女魚の在来種は幻となったとのこと。
なお、長良川のサツキマスの減少はどのような理由によるのかなあ。
河口堰で出現した止水域で死滅する流下仔魚ほど単純ではないのかも。
三面川でも、海で捕れたサクラマスを出している料亭もあり、また、高額な料金ということであるから、ニゴロブナのフナ鮨同様、幻の食材となっているようである。
まあ、サクラマス、サツキマス減少の原因に係る議論は、高見の見物をしましょう。
(10)「香魚」のいた淀川 「香魚百態」から
(
「アユの話」とその調査結果の評価について、背景について、気になったことはあれど、ヘボの考え休むに似たり、であるから、「アユの話」からはなれようと思っていました。
そして、最後は、齋藤邦明「鮎釣り大全」の長良川河口堰に係るヵ所を再度紹介して締めるつもりでした。
ところが、好事家多し。
宮地伝三郎・開高健・山本素石編「香魚百態」(筑摩書房:1987年・昭和62年発行)に出会ってしまった。
今西博士が中流域の釣りである鮎釣りに手を出されなかったのは、登山家としての心情にそぐわない、ということは理解できるとしても、素石さんがあゆみちゃんとの逢い引きをされなかったのはなぜか、気になっていた。その理由まで書かれているから、オラとしては、あゆみちゃんの産卵時期に係る学者先生の教義批判よりも、興味津々。
とはいえ、欲望のまま突っ走る時代に属する者といえども、必ずしも適切な行動ともいえず。泣き泣き、「アユの話」に関連する部分だけを紹介して、後は、来年に回します。
「香魚百態」から、紹介する部分は、
ア 淀川の遡上の情景、
イ 前さんが「わが家をきれいにして、観光客で賑(ひぎ)わうところは何とか片付けて古都・京都の体面を保ち、こそっと下流へ汚物を垂れ流しているのが底意地の悪い京都の行政マンで、その他大勢の京都人に違いない。」
京人の糞尿処理水まで飲まされている前さんの、大阪人の、京人への恨み辛みはつきぬようであるが、その京文化を代表する1人である辻嘉吉さんの京料理。
ウ 「放流もの」の変遷に係る話
です。
ア 淀川にも「香」魚がいた。
a 素石さんと川那部先生の「香り」の記述
「くたばれ『鮎』 山本素石」 から
「川っぷちに立つと、若鮎の香気が鼻をついてくる。その香りの高さは、当今の比ではなかった。水質も、珪藻の質もよかったのである。うるか(注:漢字で表現されているが、その漢字が手書きで表示されません)が高値を呼んだのも、その頃から十年ほどの間であった。
古い話でわるいけど、当世の鮎しか知らない人に、鮎とはこんなものだと思われては、憎ったらしい鮎のためにもならないし、日本の川の名誉にも拘わるので、癪だけども言っておかねばならない。
昭和初期の頃、大阪の枚方市では、淀川流心の川の水を川舟で汲み取って、炊事用に使っていたのである。京都の南郊に羽束師(はづかし)という田園地帯があって、五月の中頃になると、在所の人達は毎朝、鮎の芳香で目をさましたそうだ。大阪湾から大挙して淀川をのぼってくる鮎が、水の色が変わるほど層をなしてせり合うと、朝風がその香りをのせて、雨戸の隙間から屋内に送り込む。時ならぬ西瓜を割ったようなみずみずしい香気が鼻をついて、暁の夢を破ったという。それほど昔の『香魚』は高く匂ったのである。」
相模川でも、津久井ダムがなかった、工業団地の排水が葉山島の左岸に流されていなかった昭和三十年頃には、弁天の土手に上がると、西瓜の香りがしたとのこと。
川那部先生は、「魚々食紀 古来、日本人は魚をどう食べてきたのか」(新潮社新書:2000年発行)の「アユ」の章には、近世の鮎料理の資料を紹介されて、
「私には判らないところがあるので、訳さずに原文のまま引いたが、あるいは、小型で骨の軟らかい遡上中の若アユは骨ごと頭から食い、盛夏のアユは最も美味しいはらわたのところから食い、下りないし産卵場のアユは、消化管に砂を持つことが多いので、肉のみを食うために尾のほうから食うのが良い、との意か。果たしてしからば、中々理にかなった話である。
すなわち、アユの刺身や塩焼きは、中世(注:「近世の」鮎料理と表現したが、この表現は、「近世の食膳には」との小見出しの表現にしたがったもので、「大草伝より相伝之聞書」が中世の書か、近世の書か、を考えたうえでの表現ではありません。)にもすでに知られていた。そして、今は塩焼きに欠かせぬタデ酢は、刺身に用いられたのである。魚くさいと言うより、むしろ植物それもキュウリの匂いのするアユには、何によらずタデ酢が合うと、これも古くから気づいていたわけだ。」
川那部先生が、「西瓜」の香りをご存じなければ、「キュウリ」の香りの表現でも気にすることはない。
しかし、素石さんと同様、西瓜の香りをする、残り香が手に染みついているアユがいたことを熟知されているはず。
にもかかわらず、「キュウリ」の匂いという表現をされているのはなんでかなあ。
オラは昭和の代の終わりに「西瓜」の香りを、「キュウリ」の香りを経験することのできた最後の新規参入者である。
宮が瀬ダムのなかった中津川の愛川橋より上流の半原地区で西瓜の香りを、相模川で時折キュウリの香りを。中津川でも、いつも西瓜の香りを楽しむことができたのではない。愛川橋のところの囮屋の小母さんは、昔は、夕方橋の上に立つと、西瓜の香りがぷーんと漂ってきた、と話されていたが。
狩野川でも時折西瓜の香りを経験できただけ。道志川での記憶はない。
平成の代になると、梅雨明けの大井川で西瓜の香りを経験できただけ。21世紀になり、2004年に長島ダムができると、その時期限定の西瓜の香りも幻となった。ダム湖で、香り成分となっている物質が、故松沢さんが腐葉土をとおして沁みだしていた「ミネラル」と表現されていた物質が、ダム湖で繁殖する浮遊植物プランクトンに食されて、珪藻に蓄積されなくなったから、と想像しているが。
その僅かに経験できた「西瓜」の香りが、素石さんが淀川で存在していたという「その香りの高さは、当今の比ではなかった」とどのように違っているのかなあ。
質の問題かなあ、量の問題かなあ。
香りについては、学者先生の中には、「本然の性」であって、食料とは関係がない、とおっしゃる方もいらっしゃるが、村上先生や真山先生が、香り成分となる物質と代謝経路をそのうち明らかにしてくださるかも。
しかし、その成果が、「臭い」匂いを発している養殖に利用されることはあっても、川のアユは幻の「香」魚のままでしょうなあ。「ほんものの川」が、再生できないかぎりは。
さて、川那部先生の「キュウリ」の香りの表現は、時代状況、川の状況変化を反映した表現かなあ。
「西瓜の香り」から、「キュウリ」の香りへ、そして現在の香りのしないアユへ。いや多摩川は調布附近のように臭いアユが。2009年には中津川の田代で盛夏の時に一時的に「臭い」鮎が釣れたが。
同じ川のアユが、西瓜の香りからキュウリの香りへ、そして、昨今の香りのなくなった鮎へ、さらにひどい事例では、多摩川の調布附近の遡上アユのように臭い鮎まで、その移ろいを川筋の人が記録に残しておいてくれれば、「ほんものの川」から病んでいく川への変化が判る一つの指標になるのではないかなあ。
二度と「西瓜」の香りを、囮を取り替えたときの手の「残り香」を嗅いでうっとりすることはないでしょうね。いや、米代川の支流比立内川には、幻の「香」魚がいるとの話が。高津川の支流にも。宝くじが当たったら、素石さん主宰の「ツチノコ」探検隊」を模倣しして、「幻の『香』魚」探検隊を提唱しょうかなあ。
b 汚れゆく淀川:昭和30年代
さて、その淀川がどのようになったのか、亀井巌夫「釣の風土記」(浪速社:昭和45年発行)の「釣の山河」の「山崎」の節で見てみましょう。
「そのころ日向町に住んでいたので、阪急で大山崎へは十分くらいしかかからない。最初に出かけたのは三十六年頃(注:昭和三十六年頃)の初冬。山崎の町はずれから堤防に出て、葦枯れの原を桂川川岸に降りて行く。桂川もここまでくると、下水のたまり場だ。川全体が汚息に包まれて、どじょうもいなければ、昆虫も棲めない。鼻をつまみ乍ら、来合わせた客と二人
『おおい、おおい』と対岸に叫んだ。」
渡し船を呼ぶために。
「谷崎潤一郎描く『葦刈』の渡し船は、やはり残っていた。やがて生い茂った葦原の中の小径の中に人影が現れ、葦の高さに見え隠れし乍ら、汀にもやった船のそばに降りてきた。手拭いでほうかむりした老船頭であった。
艪(ろ)を使わず、棹(さお)をさして渡る。『京都市長にこんな桂川一辺見せたりたいわ』も一人の客はぶつぶついう。桂川を渡りおえると、臭気から逃げ出すように葦原にとび込んだ。そんな私の格構をみて、老船頭が笑う。橋本へ渡る客は、今度は中洲の向こう側から、同じ船頭が漕ぐ艪にまかせて、宇治川と木津川が一っになったばかりの大川を、いったん上手に大きく漕ぎ出したあと、急流に押されて斜めに滑るように対岸へ消えて行った。
いま船が漕ぎ出したあとの船だまりをはじめとして、桂川が大川に合流する剣先までの三百メートルばかりの大川岸に、いくつかのケレップが続いて、ハエやケタバスがよく釣れた。」
桂川の状況は、昭和三十年代の東横線鉄橋附近の多摩川と同じでしょう。宇治川のほうの流れは鮎が棲めるかも。
昭和三十年近くになると、農家にとって「権利」となっていた特定の家の汲み取りを農家が行わなくなり、肥えたんごはどんどんなくなっていった。糞尿は、瀬戸内海や大阪湾におわい船で捨てられていたのでは。明石鯛がうんちを食べている、との話も、食物連鎖を考慮すると、適切なお話であったかも。
そうすると、宇治川筋の水が臭くなくても、大阪湾が、東京湾同様、稚鮎の棲息に適さない環境になっていたのではないかなあ。遡上アユも消えていたのではないかなあ。
c 汚れきった加古川:昭和40年頃
亀井さんは、「釣りバリの町」の章で、加古川の状況を書かれている。
「できあがった毛針を持って、生産者たちは手近な加古川で自分で竿を振ったり、職漁者に使わして試された。天候、水色、水量、それに合わせた角の色や水はけの良しあし。新しい製品はこうして、改良が加えられていったのだという。然し、現在の加古川には鮎は遡上しない。遠く円山川や矢田川に出かけて、性能を試すのだという。」
「京都・鴨川の水の汚さはしょっちゅう見ているが、この加古川の水はとにかくひどい。その上に臭いのだ。」
「昭和四十三年三月に、西脇市内でも水道の蛇口から黒い水が出て、大騒ぎしたと新聞は伝えている。西脇市の水道は加古川と杉原川の伏流水を利用して、三ヵ所から取水しているが、汚水は伏流水にも混入したものらしい。」
「下流の高砂でも似たような事件が起きている。四十二年九月に加古川に水質保全法が適用されているが、この汚濁ぶりではとても鮎など遡ってこられないだろう。四十三年などはこの斗竜灘(注:「闘竜灘」?)の天然遡上はゼロであったという。
闘竜灘は、
「岩石が両岸から突き出し、にわかに川幅を狭め、渦を巻き、飛沫をあげて、約一丁ばかり激しく流れ下っているほとりに、滝野町観光協会の立札が立っている。播磨名所図に述べる『弥生の頃より年魚多くのぼり急流に打たれて岩上に散飛事、吉野の落花に似たり。漁者是を採るに暫時数万を得、春日遠近の騒客爰(注:ここ)に聚(注:あつま)りて美観遊宴の境となれり』の一節をあげたのち、立札は『北は多可郡境より南は松ヶ瀬(下滝野)に至る間の漁業権はさきに滝野川開発の功により世々阿江家の専有となり、現主阿江勲之を上滝野に譲る。上滝野は明治四十二年三月九日漁業組合を組織して汲鮎(飛鮎―筧とり)漁場として漁業権を確立した。現在漁業権は加古川漁業協同組合連合会にある』と記している。それにしても、組合はいま、この川で何を獲ろうというのだろう。」
「斗竜灘には鮎はおらず、物好きな“観客”も見当たらない。
『あの岩の下や、このたまりのところで、私も自分で巻いた毛バリを試したものですが』
と、竹中さんは濁流を指さしていう。
『この汚れきった加古川のほとりで、あんなに繊細で優美な毛バリが生まれているというのは、なんだか突飛な取り合わせですね』
と私はいった。竹中さんは片頬に苦笑を浮かべ乍ら、黙ってこっくりうなづいた。彼もまた、この川が汚れてしまったのが、言葉にならぬ程、つらいのである。」
d なんで身上つぶした?
素石さんが、中流域での釣り、鮎釣りをされなかった、「山釣り」に専念されたのは、中流域の川が汚れきっていたからではない。
朝寝 朝酒 朝湯が 大好きで そいで身上つぶした
というのであれば、世の中の人々の共感を得ることのできる「俗人」のお話ですが。
女道楽?
そのとおりです。
コケティッシュで小悪魔で性悪女で処女の残忍さも秘めて、シャネル五番の香りを振りまいて有能な男を誑かすあゆみちゃんに入り浸りになりました。
浮き世の義理も生業も忘れてあゆみちゃんに入れあげた結果は、一家離散。
「鮎の魔性は幾通りもあるが、私がその害を被った一つは、たくさん釣って売ると、ゼニが儲かるということであった。組合は入漁鑑札を売りつけて儲かるし、釣って売れば釣人も儲かるし、それを食わせる料亭も儲かる、という仕組みになっている。高いゼニを払ってそれを食わされる馬鹿な客も、鮎は美味しくて高い魚だと信じ込んでいるから、損をしたと思う人は誰もいない。そういうはずなのに、私は大損害を被ったのである。」
うらやましいなあ。
オラも、あゆみちゃんを売ってねえちゃんを買う、という高邁な理想に燃えて、あゆみちゃんのお尻を追っかけ回しているというのに未だ実現せず。逆に、一人のあゆみちゃんの原価が千円以上になる日にちが何日ある事やら。
とはいえ、素石さんが「銭勘定」だけで、あゆみちゃんとのつきあいを一切断ち切ったとは思えないんですが。
「もっとも、私が鮎釣りに凝ったのは足かけ三年で、戦後間もない頃の、川の水が今よりずっときれいな時代であった。鮎釣りをする人はまだ少なかったし、竹竿で七メートル位が限度であった。カーボン竿になってからは、十二メートルもの化学兵器のような業物(わざもの)が登場して、向こう岸の河原の石まで釣れる時勢になったが、ここでは論外としておく。」
「京都の保津川は六月一日が解禁で、一週間程前に、漁業組合のおっさんたちが、“試し釣り”をする。鮎の成長振りを確かめる行事である。組合員の特権だ。まず、その情況を見に行って、それから毎日、午前中に自転車を走らせて、喰み痕の偵察に通い続けた。解禁前から興奮するような“のぞき”はやらない方がいいのだが、釣り師の発情期というものは、相手がこの世に生存する限り自制がきかないのである。」
「さて、私が鮎の川立ちをした頃の解禁日は、昼頃になると、祇園木屋町あたりの料亭から、板前さんが若い衆をつれて買付けにやって来た。水槽を積んだそのリヤカーが何台も堤防に並んで、初物のお祝儀相場で買ってくれたから、家で仕事をしているよりも好い収入になった。趣味と実益を兼ねるというこの上もない口実が通用して、仕事を投げ出した私は、毎日川立ちに明け暮れた。」
高収入の「命」は短し、でした。
「鮎の収入が減りだす時分には、もうビョウキになっていて、雨の日でもあきらめがつかず、竿を担いで川へ走らずにはいられない。仕事は停滞するばかりで、得意先の番頭は苦情を持ち込むし、女房はボヤきくさる。そんなところへ帰っても落ち着かぬから、文句をいう人のおらぬ川へ立ち続ける。釣れない日は川に向かって自分がボヤき続ける。
土用隠れで絶望的な日でも、とにかく日に一度は川端に立たねば心気が治まらず、その間に得意先は半分以下に減っていた。」
まあ、この情景は説明不用ですね。
大和撫子はサッカーチームには存在していても、ねえちゃんの大和撫子は遙か昔に絶滅危惧種になっている時代の、女がナイロンの強さどころか、カーボン竿よりも強く頑丈になっている代に生きている憐れな男の中に、素石さんの心情、苦しみの判らない亭主がいたら、国宝ものですよね。
その上、通い詰めさせているあゆみちゃんは商売上手ですよね。キャバレーのねえちゃんが、明日も通ってくれるように、と、囁く甘い言葉をその気になって、サラ金通いは序の口で、とか、あっちの川のあゆみちゃんは親切で優しいわよ、といわれて、万札がどのくらい飛んでいった事やら。
あしいいたがあるさ、と、その気にさせて、せっせと通わせている手練は、やり手婆さん以上の技量ではないかなあ。
でも、素石さん、安心してください。もう、素石さんのように女道楽で身上をつぶす人は出現しませんから。
なぜなら、あゆみちゃんは「ふつうの女の子(魚)」に成り下がりましたから。
素石さんが亡くなられた1988年:昭和63年の数年後、平成の代が始まって2,3年後には、放流鮎のブランドであった「湖産」は「ブランド」力を喪失ししていき、似而非「あゆみちゃん」の継代人工が主役に。
遡上鮎も、狩野川においても減少していき、1995年には、食する鮎のいない苔が相模川並にばばっちく腐っていきました。
あゆみちゃんの変質だけでなく、「ほんものの川」も夢、幻に。いや、それ以上の変身を。
狩野川の石ころだらけの河原に砂が堆積し始めたのは、平成3年くらいから。そして次が土砂の堆積となり、河原が葦とススキの草原になりました。
その葦原は、平成23年9月20日台風による大仁の水位計で、久々の4メートルの増水によって流されたものの、瀬の芯の石に挟まり、ハイリスク ノーリターンの瀬釣りとなりました。
河原への土砂の堆積は、流れの中でも同じ現象が生じているということで、砂利の中に大石が浮かんでいて、玉石が大石の周りを埋め尽くしているという場所は、ほんの少しになりました。
ゲキタンの瀬、なんて言葉は、垢石翁の本に存在するだけ。
こんな川とあゆみちゃんの変貌している中で、身上つぶす人はよほどの変わり者でしょう。
ということで、安心して三途の川での鮎釣りを楽しんで下さい。
e サツキマスがいっぱいいた頃の熊野川
素石さんは、熊野川でも鮎釣りをされている。山釣りは当然でしょうが鮎釣りも。
「鮎釣りに凝った当時は、南紀の山村とのつきあいがまだ濃厚に続いていた。熊野灘からマスが盛んにのぼっていたから、川も原始の姿をとどめていたのである。南紀ではアマゴを『コサメ』といういなせな名で呼んでいるが、太平洋を回游して川へのぼってくるマスを『海コサメ』といって、この二つが親子の関係にあることを昔から知っていたようである。
熊野川西岸の孫支流に大塔川というのがあって、その奥は手つかずの、コサメの宝庫だといわれていた。私は途中までしか入っていないが、奥は滝とゴルジュの嶮難地帯である。それよりも、五月になると、熊野川から大量の天然鮎が遡上するので、そちらとつき合う方が面白かった。友釣りをする人は僅かしかいなかったが、道具を借りて、囮も網で捕ったものをもらってやってみたところ、さほど大きくもないのに野鮎の強引に魅せられ、泊まり込んで、あくる日にも一日中川立ちしたことがある。そのとき、石で叩くような衝撃と共に、仕掛けごと囮を食いちぎって逃げる怪物がいた。アッ! という間もない、凄い早業であった。泊めてもらった家の年寄りが、それは海コサメの仕業だと言った。背っ張りマスのように幅の広い、猛々しい熊野灘のマスである。
鮎がのぼり始めると、海コサメはその後を追って、若鮎を食いあさりながら熊野川をのぼり、この大塔川にもせり上がって来る。そして、静川という在所の堰堤下までやって来て、その辺の鮎を食い減らすのだという。だから静川はマスだらけで、鮎がいなくなると聞いた。鮎の贔屓(ひいき)に傾いていた私は、大層腹立たしい思いでその話を聞いたものだ。マスは川のギャングである。一刻も早く退治しなければならぬ……と思った。実際に退治しに行ったわけではない。そう思っただけである。それほど、当時の私は鮎贔屓であった。」
f サツキマスがいっぱいいた年もあった長良川
「それから三十余年、年は覚えていないが(注:「香魚百態」の発行は、1987年・昭和62年であるから、昭和50年代の終わり頃では?)、比較的近年のことである。岐阜県は長良川の鮎の予想はきわめて好評であった。湖産鮎の大量放流と天然遡上もまじえて、近来稀れな豊漁が期待できる、という地元組合の前宣伝が新聞や雑誌で伝えられ、異常な人気を呼んでいた。年券の前売りも、近来稀れな好成績だったらしい。人気を呼んでいた。
ところがフタを開けてみると、解禁日は不漁、翌日も不漁――ということで、漁業組合へ苦情が殺到した。うろたえた組合では、さっそく役員が総がかりで調査したところ、伊勢湾から大挙して溯って来たサツキマスが、片っ端から鮎を食いちらしている事実が判明したという。それも近来稀れなマスの大遡上で、鮎の漁場は、人間より先にマスが荒らしていたのである。
伝え聞いた私は、『ざまぁみろ!』というとても好い気分であった。この時の『ざまぁみろ!』は、マスに食われた憎っくき鮎と、堕落した行儀知らずの鮎釣師と、両方に対する心底からの罵声であった。その理由はこれまでに書いた通りである。
聞くところによると、長良川の漁協では、鮎を食いちらした憎っくきマスの退治に大騒ぎしたあげく、鮎の再放流を実施したそうである。余計なことをするものだ。マスは放っておけば、何百倍ものアマゴを川にのこしてくれるのに、この年限りで尽きてしまう鮎なんかに、なんで高いゼニをかけて血眼になるのか。女狂いよりましだというのは女の言い種(ぐさ)で、やはりあんなやつはいなくなる方がましだというのが私の言い種である。」
素石さんが「堕落した行儀知らずの鮎釣師」とは、どのような行為、心情のことかなあ。
g 麻薬と釣りと
素石さんは、あゆみちゃんに未練たっぷりではなかったのかなあ。
「大文字の送り火があがる頃になると、釣れ残った鮎は肥大化して、腹まで黄色を帯びてくる。そんなのが鉤にかかると、ちょっとには取り込めず、竿を半分立てたままついて走らねばならない。越中褌に麦わら帽、素足に草履といういでたちである。その季節には、ニグロのように陽焼けして、目だけいやに白く際立った者だけが川へやって来る。もうすっかり顔馴染みになり、譲り合ったり助け合ったりして、一つ木陰に集まって一緒に弁当を開いた。仲間では私が一番若造であった。
釣りに狂うという症候は、その最中よりも、家にあって釣場の情景や、魚が鉤掛りした時の豪快さを思い浮かべて、生理的な昂奮と衝動をこらえる時の、一種の禁断症状に現れるのではないかという気がする。その症状は、釣場に立ち臨むとウソのように解消するからである。釣れるか釣れないかは時の運で、竿を手にしている間は少しも狂っていないのである。むしろそれができないときの生理不順が頭にのぼって、まともな人間をおかしくする。釣りにも麻薬に似た性質があると思うのはそのためである。
とくに、釣り場通いに理解も同情も示そうともせぬ女房がいると、隠し女のもとへ通うような、疚(注:やま)しい気分にさせられる。家庭には何の益ももたらさないから無理もないのだが、そういう不経済なあそびが人生にもたらす絶大な効用について、貧乏所帯のやりくりに神経を酷使する女は目を向けようとしないものである。
『まあ、女狂いさせられるよりはましやと思うとりますねん』
――という、どこかの細君のようなしおらしいことを陰で言ってくれるのらまだしも救いになるが、そういう比較計算は、よほど家計にゆとりのある奥方が考えることらしい。
とかくして秋になり、ひと夏の鮎の宴(うたげ)は、殺伐な雲行きのうちに終わりを告げた。」
この「大文字焼き」の頃の釣り場がどこか、判らないが、対象となっている鮎は湖産の遡上鮎であると推測している。
「腹まで黄色を帯びてくる」との表現は、等級の高い、価格の高い「湖産」ブランドが放流されていた酒匂川に八月下旬頃から観察された「湖産」の容姿である。そして、九月二〇日頃には、土手の囮屋さんが店じまいをして、九月二五日以降では、富士道橋に近い雑貨店で囮を販売しているところだけになった。
なんで、海産が遡上しているところに、保津川、鴨川ではないところに行かれなかったのかなあ。いや、保津川でも、その上流?の大堰川は日吉?でも、遡上鮎がいたのではなかったのかなあ。それとも、「堰」が、遡上鮎の行く手を遮っていて、大堰川でも「遡上してきた湖産」放流のアユしかいなかったのかなあ。
なお、「湖産」であるから、「品切れ」も早かったのではないかなあ。故松沢さんは、湖産を「線香花火」と表現されていた。海産遡上鮎であれば、「品切れ」なんて現象はないはず。遡上量が少なければ、解禁日から釣れる量は少なし。
素石さんは、まがい物の鮎が放流鮎の主役となり、遡上鮎が釣りの主役となっている川を鵜の目鷹の目で探し回り、一人のあゆみちゃんの単価がウン千円にもつく苦しみを、わびしさ、悲しみを味わい事なく、旅立たれてよかったですね。
現在、長良川のサツキマスが何匹生存しているのか判らないが、また、河口堰のない三面川でもどのくらいのさくらちゃんが生きているのか判らないが、あゆみちゃんを食いちらした長良川のさつきちゃんは、最後の、最後の華、残照かも。
オラも、『まあ、女狂いさせられるよりはましやと思うとりますねん』というよめはんと結婚したかったのになあ。
亡き師匠らは、伊南川や益田川や、その他の「清流」の、「湖産」放流か、遡上鮎の川に出かけても、かあちゃんがにこやかに、ナンパ費用を出してくれていたとのことであるから、うらやましかったなあ。
素石さん、天国では「くたばれ『鮎』」と題名にされるほど、恋いこがれていたあゆみちゃんと、浮き世の義理に、しのぎに邪魔されることなく、逢い引きを楽しまれていますか。
それとも、天国はそんなに甘いもんじゃあおまへんでえ、と、神様に追放されないように、節度を弁えて楽しまれていますか。
素石さんが、「送り人」の役割をされていたダムで生活圏を分断されていった山女魚ちゃんやアマゴちゃん、さつきちゃんたちも元気に生活をしていますか。
イ 辻嘉一「鮎―味の歳時記」から
a 辻さんとは
辻さんは、昭和40年代にテレビに出演し、京料理をわかりやすく紹介されていた。昭和30年代にもテレビ出演をされていたかどうかは、その頃はテレビを見ていなかったから判らない。
辻さんは、「一九〇七年京都に生まれ、茶懐石『辻留』主人。」
「大正八年より包丁をとり、茶懐石を業とし、以来六〇余年日本料理・茶懐石の研究の研究につとめる。」
「『辻留』を経営するかたわら、テレビ、雑誌、講演と多方面に活躍。『茶懐石』『味覚三昧』『料理歳時記・旬を盛る』『五味六味』等々八〇余点にのぼる著書がある。」
味音痴のオラが、辻さんを紹介するのは次の意図にある。
@ 京の鮎料理は、「湖産」の生活誌をもとに組み立てられているのではないか。そして、京が発信源となる「文化」の影響力から、湖産を中心とした生活誌に類似している「海産鮎」の10月、11月産卵教義に学者先生は違和感を感じられなかったのではないか。
A 「生魚特有の匂い」とは、西瓜の香りとか、キュウリの香りとは別個の匂いを表現されているのか、それとも、「西瓜」の香りのことか。もし、西瓜の香りのこととすれば、垢石翁らと、あるいは関東と、京では「香り」「匂い」についても感じ方が異なるのか。
B 京料理において、「鮎料理」の食材として海産鮎が消滅したのは、上桂川に淀川から遡上鮎がのぼれなくなってからのことか、あるいはそれ以前の「湖産放流」が行われるようになってしばらくたってからのことか。
まあ、このようなヘボの勘ぐりはさておいて、辻さんがどのように料理をすれば、美味しく食する鮎ができると書かれているかをみましょう。
ただ、その鮎料理に適する鮎が、今も川に泳いでいるかどうか、は別の問題ですが。多分、「香り」をなくして、「生臭い」匂いでも「鮎」と認められているから、「湖産」が冷水病で生存できない、という状況が発生していなければ、「食材」には不自由されることはなたったとは思うが。
b 辻さんのお眼鏡にかなう鮎は今もいますか:養殖鮎の登場
「しかし、時代というのでしょうか、養殖技術が高度に発達し、餌を求める苦労を知らぬ鮎が多くなってしまいした。
餌を求める争いの激しさで顔つきに鋭さが生まれ、時には鼻先にキズがあるほどで、そんな闘争の中で成長すれば、全体が引き締まり、精悍な鮎となります。
一方、いわゆる温室育ちといえる養魚場のものは、餌の心配がなく、のんびりと成長しますため、おだやかな顔つきで、飽食のため必要以上に脂肪ぶとりとなり、そのわりには肉はしまっておらず、腹部肥大であります。
天然鮎の真味を知る人にはその違いは歴然としたもので、自然に逆らったものはそれだけの差異が生じ、天の理と申せましょう。」
すでに、F1とか継代人工も京の料理屋さんに出回り始めているということかなあ。もし、そうであれば、「養殖」鮎は、湖産の氷魚からの畜養ではないかも。
ただ、昭和58年頃以前は、まだ冷水病が蔓延していなかったから、氷魚からの養魚場での畜養が「京人」の胃袋におさまる「養殖」鮎ではないかなあ。
「精悍な鮎」の表現は、萬サ翁にも通じる表現ではないかなあ。
ただ、萬サ翁は「湖産」と「海産」との顔つき、容姿の違いを表現されていることから、必ずしも同じ現象、容姿を表現されているものではない。とはいえ、辻さんの養殖鮎の容姿は、「養殖」と、あるいは成魚放流と稚鮎から川で育った鮎、あるいは稚魚放流鮎との容姿の違いの表現としては、十分ではないかなあ。
なお、鼻先の傷とはどのようなものかなあ。攻撃の時は肛門付近を目標にしているようであるから、鼻先にキズはつかないと思うが。
「実は、大阪人は京都人のウンコとオシッコを飲料水として飲まされ続けてきた恨みがある」前さんが、京人がどのような鮎を食材とされていたのか、を少しでも書かれていれば、それを指針にできるが。残念ながら、「堺の旧家では『京のブブ漬け』『軒しのぶにややトト混ぜて』などといっては京都人の暮らし向きに皮肉をいう」事柄しか書かれていないので、困りました。
c 氷魚、稚魚料理
「生臭い鮎」について、成長段階での話から始めましょう。
「鮎は四月頃までは雑食だそうで、ミミズまで食べるほど貪欲だといわれておりますが、その証拠に、菜種(なたね)鮎と呼ばれる頃から桜鮎といわれる六センチほどの鮎は、その名に似合わず生臭みがあって美味しくありません。そのため、春の若い鮎は、木の芽味噌や赤味噌を塗りつけた魚田として、味噌の添え味によってその生臭みを消すように調理いたします。」
ミミズまで食するとは、考えられないが。イトミミズは食べるのかなあ。
遡上量の多い年には、江ノ島や大磯の岸壁で、サビキ?釣りで、稚鮎が大漁とのことであるからその中に参加をすれば、稚鮎がどんな匂いか判るが。「鮎の本」の高橋さんは、稚鮎でも「香り」がしているから「アユの香り」は生まれながらのものであって、食物によるのではないとの説であるが。
「鮎の稚魚を、江州では氷の魚と書いてヒウオと呼び、昔は年末の寒い頃には錦(錦小路)の市場に塩茹でしたものが売られておりまして、よく買ってきてはおろし大根に二杯酢でいただきました。
小指の長さになるやならずで美しく、塩加減だけの素朴なおいしさで、どんなに高くても、もう一度食べたいと思うことがあります。
近年は、酸素を補給する設備がととのい、全国の河川へ江州の鮎の稚アユがトラックで運ばれ、放流されると聞きました。
つまり、氷魚を手数をかけて売る必要がなくなったことと、乱獲が許されないことから、おいしい氷魚はわれわれの口には入らなくなりました。」
辻さんが、氷魚を食べることができなくなった、ということは、氷魚からの畜養が始まり、あるいは、最盛期を迎えていた時期ということであろう。放流鮎としての氷魚の畜養が始まったのは、昭和四〇年の少し前頃、昭和三五年以降からではないかなあ。
氷魚からの畜養が始まると、大宮人のお父さんが、雪代のおさまった飛騨川に水合わせだけをした「湖産」が放流されると、瀬の中に入っていったという「湖産」:川で採補された湖産稚魚が放流の主役から降りることになったということであろう。
氷魚からの「畜養湖産」は、東先生が「アユの博物誌」の座談会で、「ぼくが岡山の川でやったのでも、せいぜいが二〇キロメートルですね。」という移動距離は、遙かに短くなり放流地点から八〇〇メートル?とかになっていったと思っている。
d 焼き方
「大半の魚は生で刺身が第一とされていますが、鮎ばかりは刺身よりも塩焼きの味がはるかにすぐれております。
鮎の生きたものを串に刺すには、速度が速くなければ鮮度が落ちますので、まず五,六匹くらいを手早く串に刺して、露を拭き取り、すぐ両面に塩をふりかけ、火にかけます。
焼き方の理想は、鮎も川魚であり、一種の匂いを持っておりますので、それを消すためにもほどよい焦げ目が必要で、ほんのりと焦げ目をつけます。
焦げ目をつけないで白く焼くことが肝心だと思われている人がありますが、焼くことは生身に熱を通すだけでなく、焼くことによって焦げ味をつけるのであり、鮎の塩焼きも焦げ味を適当につけないとおいしくありません。
また、ヒレ塩が必要だとして、たくさんにじりつけて焼く方がありますが、生きている鮎にヒレ塩をする必要はなく、火の上にのせると鮎が熱さによってピューッとヒレを立ててくれまして、いかにも今まで生きていたことを証明するかのように、立派な良い姿になってくれるのですから不思議です。
もちろん、塩は旧式の製法の塩を使わなければなりません。食卓塩や食塩というきれいな細かい塩では、アユはおいしく焼けません。並塩か粗塩を焙烙(ほうろく)で少し煎ると、結晶がほどよい細かさになります。この塩をできるだけ高いところから全体にパラパラとふりかけます。
焼くには炭火に限りますが、備長という堅い炭で、叩き合わすと金属音に近い音のする炭がよい炭です。
金串に刺した五匹に木箸を通し、尾のところは焦げないように割り竹を使って尾先をのせて焼くのですが、最初は表面を火にあてるようにし、鮎が反り返るようになったら裏に返し、火力によって、また反り返るようになったら表面を焼きます。
鮎は上品な味で、くせ味がないように思われますが、やはり川魚の生臭みがあるので、火は充分に通すべきであります。」
こんな手の込んだ焼き方をしていらっしゃる方は、よほどの「味の違い」が判り、そして、料理をすることに楽しみを感じられる方々だけではないかなあ。当然、味音痴とは無縁の焼き方です。
故松沢さんは、焼き方によって、人工鮎でも、成魚放流でも味をある程度誤魔化すことができる、と、話されていた。狩野川といえども、遡上鮎だけが釣りの対象ではなく、継代人工がのさばって来始めた平成の代の始めの頃の話である。
「川魚の生臭み」の意味はどういう事かなあ。
時は昭和三〇年代後半か、昭和四〇年代となり、シャネル五番の香りを振りまく環境で生活をしているアユが京の附近の川ではいなくなったときのことではないかなあ。
京の川は、大阪人に糞尿を飲ませるだけでなく、珪藻が優占種の川もなくなったということではないかなあ。上桂川も湖産放流河川になっただけではなく、「香」魚っを育む水が流れていない川になったということではないかなあ。保津川はそれ以上に汚い水の川になっていたのではないかなあ。
由良川の鮎が京に送られていたことは、亀井巌夫「釣の風土記」(浪速社)の「鮎の帳場 (京都) 由良川」に、昭和四二年の情景で書かれている。
「翌朝、今年の一番鮎が出荷された。」
「前夜選り別けた鮎は四〇匹から五〇匹づつ水桶に入れられた。園部、八木、亀岡を経て、二時間足らずで京都の鮮魚商や旅館に直接送られる。野間さんの子供の頃は、汽車がまだ園部までしか通じていなかったので、『一荷(いっか)におうて』わらじがけで須知までまず運び、須知で中継したあと園部に出した。水を何度も替えたり、手桶でかきまぜて、空中の酸素を補給したり、手桶でかきまぜて、ずいぶん手間がかかった。しかし、それだけ“和知鮎”の名は高かった、上方よりも、中京や関東でむしろ有名であった程、東京方面への出荷量は多かった。それが狩野川とか長良川とかの鮎が関東に出るようになって、“和知鮎”の名は消えた。京都辺でも、昔ほどの需要はなくなった。放流した鮎なら、上桂川も保津峡も大したかわりはないのだ。和知の上流にあった鮎の帳場、乙見屋も近ごろではあまり商売はしなくなった。ダムができて、独特の鮎をもう産出しなくなったのだ。
『何時まで続く事やら』
トラックが出て行くのを見送って、角屋の主人はそうつぶやいた。」
昭和四〇年頃、京で食されていた鮎は、湖産の放流ものであり、由良川の鮎といえども、ダムがあることから、珪藻が優占種といえども、「香」魚とはいえない、今風の鮎ということであろう。
したがって、「川魚特有の生臭い臭み」の鮎になっていたというとではないかなあ。
素石さんが鮎の名誉のために弁解されていた西瓜の香りをぷんぷんさせていた鮎は、すでに辻さんでも入手できなくなっていたということでしょう。
さて、亀井さんの由良川の記述できになったことが。
@ 鮎を選別するとき、「ええと、トビが三っ、大が五っ、中が四っ、小が七っ、それから、アガリが一っ丁や。
トビというのはとび切り大きいやつ。フルと呼んでいた二十四,五センチのものすごく肥えたフルセ(居残り鮎)もそうだった。アガリは死んだ鮎のこと。」
鮎の大きさに係る呼称が、どの程度、川、地域ごとで共通性をもち、あるいは異なっていたのかなあ。「トビ」の表現は、どの地域でも使用されていたのかなあ。
「大きさ」の基準は、どの程度、川、地域で共通性をもっていたのかなあ。
また、「季節」、「成長段階」で、基準または呼称を異にしたのかなあ。長良川では、「入れ物」が基準となり、その入れ物に何匹の鮎が入るか、で大きさが測られていたから、成長段階での「呼称」変更の問題は生じないが。
亀井さんの「長良川ノート」における大多サの話 「二入りというのは百匁の鮎が二匹入るコウリのこと、三入りは同じ大きさのコウリに鮎が三匹入るもの、四入り以下同じで、七入り九入りはない。ビリは小型の鮎のことである。」 |
もし、成長段階で呼称を異にしていなかったとしたら、解禁日に「大」とはどういうことかなあ。狩野川の解禁日に18センチが釣れていた、との故松沢さんの話が信じられなかったが、大きくてもそのくらいの大きさの筈。季節が移れば、17,8才の女子高生の大きさは当たり前の大きさになるが。
故松沢さんの解禁日に「18センチ」が釣れていた、との話が信じられなかった。
しかし、2008年相模川で相模大堰を3月下旬に大量に遡上したとき、及び、2011年狩野川で11月生まれの生存率が高く、9月15日頃には泣き尺も釣れていた時の解禁日の大きさから、11月生まれが釣りの対象になるほどの量があれば、あり得ることと確信できた。
もちろん、遡上鮎の話であるから、由良川の解禁日の「大」の鮎が放流ものであるとしても気になりますねえ。まだ、継代人工は生産されていないから。
A なんで、京へは、生きたまま輸送したのかなあ。郡上八幡から東京に出荷するときは、氷詰め。その氷の手当を誤り、当初は出荷に失敗したことがあったとのことであるが。
京は、身欠きニシンの料理法を含めて、生ものをそのまま食材とするよりも、保存食をいかにおいしく料理をするか、に、長けていたのではないかなあ。
和知鮎が東京方面に出荷されていた時は、氷詰めではないのかなあ。相模川の鮎が東京に運ばれるときも氷詰めであった。
e 食べ方
「そして、添え味として、蓼(たで)の葉をむしり、包丁で細かく刻んで摺鉢にとり、塩とごはん粒を加え、純良の酢を入れてよく摺ってから茶漉(ちゃこし)や水嚢(すいのう)で濾した緑したたる――といった色の濃い蓼酢に浸して味わうに限ります。
蓼は川岸に密生している草で、たくさん生えていますが、よく似た草もあり、その良し悪しを知るためには、葉を噛んでみて舌をさすような感じのものがいいのです。
『蓼食う虫も好き好き』の言葉もあるように、この舌をさすようなところが、蓼酢になってからも、鮎の持っている川魚の生臭みを消してくれ、鮎のうまさを引き立ててくれることになるわけで、酢に蓼の葉を刻んだのが浮いているといった、味を忘れた申しわけのようなものでは最高のうまさは得られません。」
蓼酢とは、話には聞いているものの、作ることが不可能であることをが判りました。擂り鉢がありません。大和撫子にとっては、生活必需品であるのに。
いや、あったんですよ。1度も使われることなく、鰹削り器とともに捨てられました。
蓼の葉は同類のものがあるから、かじって苦いものが本物、との話は分かるが。
またしても、「川魚の生臭み」がでてきます。京近辺の川では、今風の鮎しか育たなくなった、そしてそのような鮎しか育たなくなった年代が早かったということではないかなあ。垢石翁が辻さんの文を読まれたら、どのような評価をされるのかなあ。
「食べ方は方式はありませんが、理想は焼きたての鮎の熱を早く味わうことで、上品ぶって食べる必要はなく、できるだけ早く食べていただきたい――と、料理するものはこの気持ちで一杯です。
宴会などで、お給仕の人に『鮎の骨を抜いてほしい』と言って悠然と待っている大人(たいじん)がありますが、これは鮎の一番最低の食べ方であります。
まず、ヒレを手で取り、尾の付け根を折り曲げ、頭を持って肩先のところの皮を箸で放し、そのまま箸で身をおさえて引き抜くようにしますと、見事に身と骨とが離れてくれます。鮎が新鮮であれば、美しく骨は抜き取れるのです。
緑滴る蓼酢に浸しながら、頭に近い方からガブリと口に入れて味わうと、キモが出てきますが、このところが鮎独特の味がしておいしいという方もいらっしゃいます。全部召し上がったら、残っている頭をそのまま蓼酢に浸して味わって下さい。少し噛むようにして、吸うようになさると、別趣のうまさが会得できましょう。頭を食べる人は通人だといわれるごとく、おいしいところがあるものです。
河岸で石を積み上げて焼いた鮎は、手づかみで、まず尾を折り取り、その尾のところを口に入れて味わい、だんだんと頭の方へと食べてゆくというのが、野蛮な食べ方のようでありますが一番おいしい食べ方です。
鮎は身だけがおいしいのではなく、骨と身の間に生まれている液体のようなうまさを見逃してはなりません。身ぶり、格好を気にしていては、おいしい味を食べることはできません。」
なんで、尾を折って、骨を抜くのかなあ。
鮎に姿の煮たキスでも、それよりも大きいアジの塩焼きでも、箸で簡単に骨から身を離すことができるから、「骨を抜く」動作をしなくてもよいが。京でも、鮎の磯焼きだけ、尾を折るのかなあ。
瀬戸内でとれたての魚を食べていたものと「鮮魚」とはいっても、獲れたてではないものを食していた場所との違いかなあ。
安かったから買って帰ると、昨日の昼網であがったものをつかまされて、と怒られたことがあったなあ。それからは、動き回っているタコしか買わんようにしたが。いや、昭和40年代中頃、目利きでないオラがみても「新鮮」と思うサバが、800円くらいで売られていた。サバが800円とは高いなあ、どうしょうかなあ、と、魚ん棚を1周して戻ってくるとなくなっていた。ちょっとは「良品」を見る目があるということかなあ。
骨をしゃぶることは塩焼きの魚ではしなかったと思う。煮魚では当然、行っていた。魚の大きさ、種類の違いかなあ。
頭を食するとは、18センチくらい以下の女子高生の大きさの鮎ではないかなあ。20センチ以上の乙女では、塩焼きでは骨が硬くて頭を食べることはできないのではないかなあ。いや、「頭」を「食べる」とは、骨をムシャムシャと噛むことではなく、しゃぶることかも。煮た海の魚では、頭もしゃぶっていたが。
なお、井伏さんは、頭のところだけをしゃぶって、20匹ほどの焼き鮎を食べている「大人」?のお話を書かれている。ただ、場所は東京の料亭のようで。
2010年の狩野川では、11月以降でも15センチ以下の小中学生の大きさの鮎が釣れる鮎の主役であった。それを塩水につけたあと、目刺しのように吊して一夜干しにすると、美味になった。頭を食べるのに適する鮎は、そのような鮎と、それよりも少し大きい鮎ではないかなあ。
なお、垢石翁は、水の冷たいところの魚は骨が軟らかい、と書かれていたと思うが。
あ、そうそう、大和撫子と共に消え去ったものに、包丁が。出刃包丁と刺身包丁、菜切り包丁はセットであったにも拘わらず、出刃包丁と刺身包丁は、いずこのゴミ置き場か、に。
f 鮎の成長と料理
「五月頃からは水苔の中に含まれている植物性プランクトンを餌とし、他のものは食べないと聞きました。
石垢に なほ食ひ入るや 淵の鮎 去来
一番大切な餌の問題が鮎の脂肪の多い少ないに関係しますため、水苔の多い河川に育つ鮎はおいしいわけで、このことから考えますと、大きな川よりも渓流の曲がりくねった川の鮎がおいしいといことになります。
梅雨になって雨が多いと、岩苔が流れてしまうため、鮎はやせ、脂肪も少なくなります。
ところが、晴天が二日も続くと、みちがえるほど鮎は肥え、釣りの名人はこの岩肌のアユの食べ跡を見ただけで、鮎の成長ぶりも、数までもわかるそうです。
この頃から川魚の女王といわれるおいしい鮎に日一日と近づいていき、天のなせるお指図というか、神秘的な変身をとげ、色艶もよく、急成長いたします。」
「六月から賞味できる鮎の味でありますが、六月中はまだ成長期であるといえ、七月近くからが本当の美味といえるでしょう。」
「植物プランクトン」の表現は、どのような情報発信源によるものかなあ。
六月の鮎が、海産鮎でも「水鮎」と表現されているが、この表現に係る現象が、京でも、湖産でも変わりはない、ということかなあ。
「岩苔が流れてしまう」という表現と、「晴天が二日も続くと」の表現は、適切な観察を表現しているとは思えない。
そして、「鮎はやせ、脂肪も少なくなる」という状況に至るときは、白川状態になるときであろう。白川状態になれば、「二日」では、アカが付くまい。残り垢が豊富であれば、そのような河川環境であれば、可能ではあろうが。仮に、そのような河川環境であれば、「鮎はやせ、脂肪も少なくなる」という姿にはならないと思うが。垢石翁が、大石が転石している宮川の鮎で表現されているように「痩せる暇もない」という状況になるのではないかなあ。
辻さんの料理人としての知識を補完する鮎の生活誌に係る現象については、どのような情報源から得たものか、気になりますねえ。
その意味からも、京人たる釣り人のお行儀の悪さにも文句たらたらの前さんが「京人」の鮎の観察と川の状況を少しでも書いてくださっておれば、オラの悩みもちょっぴりは軽減されるでしょうに。
いや、辻さんが、本間さんのように鮎釣りをされる料理人であれば、「京人」の食材となっているアユの観察も適切になっていたのでは。
「アユの話」に記述されている利根川の産卵場所は、前橋付近、河口から一〇〇キロ以上上流、というお話は、魚心さん発信の「伝聞」に依拠するのではないかと思っているが、辻さんの鮎の、川の知識も、「料亭」を利用できる釣り人からの「伝聞」ではないかなあ。
そうであれば、故松沢さんら、観察力が優れた川漁師は料亭を利用されることはないから、観察眼に優れた川漁師から得た知識とはいえないのではないかなあ。前さんも料亭は、ことに京の料亭は利用されていなかったのではないかなあ。今西博士のご自宅には訪問されているが。何よりも下戸の方のようで。
ということであれば、辻さんのアユ、川に係る記述は適切な観察に基づく知識とはいえないのではないかなあ。
白川のあと、最初のアカはどこに付くか。
一二月終わりの柿田川で餌釣りをしたとき、バイカモの上を流すと美白が釣れた。
故松沢さんにその話をしたとき、白川のあと最初にアカが付くのは、塩ビ管と川藻であると。
狩野川が白川になって、普段は釣り場所にすることのない松原橋に故松沢さん一統は釣りに行った。水草の上で囮を操作して、大鮎をそろえて、目利きでないのに仲買人になったところへ持ち込んだ。
仲買人は、「素晴らしい鮎だ、どこの鮎か」と訊ねたから、「狩野川の鮎だ」と答えた。
翌日、集金に行くと、料亭等から引き取りを断られたから持って帰れ、と。故松沢さんら一統は、代金をむしり取った。
@故松沢さんら一統は、目利きでないのに、仲買をされることは迷惑この上なし、退場せよ、との意思があった。
A当時の狩野川筋の料理人には、「大きさ」だけではない基準で「品質」を判断できる「目利き」がいた。
その「品質」にこだわることはなく、大きければよい、と考えていたのがオラである。
神島橋下流の東洋醸造からの工場処理水が流れ込む水路より下流の釣り人はオラくらい。釣れる鮎の大きさは、そこよりも上流では、中高生クラスであるのに、番茶も出花娘や乙女が。
藍藻が優占種であり、釣り人がいないから、大きく育つ時間が与えられている。珪藻が優占種のところの鮎と比べて「品質、品格」が劣るから、釣り人も手を出さなかっただけ。
B水草の上で、どのように囮操作をされたのか、聞き忘れた。取り込むときは、ヘボでも腕力で、水草に潜りこまれないようにすることは可能でも、掛け針が水草に引っ掛からないように囮を操作するには、どのような操作をすれば可能かなあ。
C京人が食べていたアユのいる川は、すでに砂利が流れの中に多く、少しの増水でも、垢流れが生じていたのかなあ。その中に、残り垢を残せるほどの大きい石のところもあったということかなあ。
g 煮浸し
「八月の中頃からは、鮎の腹部に薄紅色の斑点が表れ、子をはらみ始めますと同時に、防御のためにか皮肌が徐々に硬くなり、味わうときに皮肌が歯にあたりますため、八月中旬で食べ頃は終わりと思ってよいでしょう。
しかし、九月にはいると無数の子を持ち、この鮎の子の味わいはまた格別のうまさがあり、白焼きにして煮るに限ります。
鍋の底に蓼の葉をたくさん敷き、白焼きの鮎を並べて濃い口醤油、清酒、味醂を調合した汁で十五分ほど煮込み、煮汁のまま冷えるのを待って煮汁を添えて味わいます。
煮詰めないところに『鮎の煮びたし』の名があり、子が多いために煮汁を必要とするのでして、もし、蓼の葉が入手できないときは、土生姜の薄切りをたくさん鍋底に敷いても代用となります。」
性成熟の状況から、京人が食していた鮎は、「湖産」の遡上鮎か、氷魚からの畜養鮎と考えて間違いはないと思っている。
ただ、「薄紅色の斑点」とはどういうことかなあ。
十月中旬の大井川で、二十センチ以上のメスの乙女には、下腹部に薄い紅色の筋ができる。「筋」であって、「斑点」ではない。
なお、その頃、藁科川の遡上鮎には、その筋はまだ出ていなかった。大井川の鮎が十一月生まれが川根温泉付近に中落ちしてきたのか、他方、藁科川では十二月生まれであるためにまだ性成熟が進んでいないのか、不明。藁科川の大きさは中高生クラスであったが。
@煮びたしの誤解
オラは、煮びたしは、頭、骨まで食べることができるようにすることと思っていた。「昆布巻き」として、卵入り一千八百円、白子入り一千四百円とかで売られている江州製造の昆布巻きと同じイメージで考えていた。そのアユは当然、養殖物。店の人は食材について「湖産」と話されていたが、冷水病が蔓延している中で、湖産を養殖に使うと生存率が著しく低くなるのではないかなあ。現在は継代人工ではないのかなあ。
乙女の大きさの鮎を、骨まで食べることができるほど軟らかくするには、練炭などガス以外の燃料を使わないと不可能であるから、圧力釜を使っている人もいた。
A底に敷くもの
辻さんは、白焼きをしてから煮びたしにされているが、那珂川の湯津上村の宿の人は、白焼きにすると焦げ目がつくから、白焼きをしないで煮びたしにしている、と。
それを真似て作っているが、焦げ付かないように、昆布を敷いている。
蓼の葉や土生姜は、「生臭い匂い」消しのために使用するのかなあ。焦げ付かないように、という目的でないことは確実であると思うが。
なお、とろ火で煮ることが肝要。火が強いと、身が弾ける。五右衛門汁のように。白焼きにすれば、身が弾けることを防げるとの話があった。
B皮が硬くなること
性成熟が進むと、皮が硬くなる。そのため、七.五号のハリを使いたい。しかし、大井川の二十四,五才の乙女は、身を切り裂いてオラの腕から逃げ出す。もちろん、素早く取り込みができれば、身切れを気にしなくてもよいが、細腕、いや、ジジーの腕力では9メートルの硬調の竿で、竿を撓めて、一瞬浮き気味になるときに、一気に引き抜くなんて、芸当はできない。七.五メートルの竿を買ったが、この竿で、有無を言わさずに乙女をだっこできる大井川が戻ってくることを願っているが。
七.五号では、ハリ折れが多発する。せっかく掛かった乙女のあゆみちゃんを逃がしたくはないから八号のハリも使用することになるが、鋭さは少し落ちることになる。
ヤナギを使えば、八.五号とか九号のハリを使えるとは判っているが、錨になれてしまった。
h ウルカ
「鮎の内臓の塩辛を『アユウルカ』といい、昔は腹薬であったと聞きました。
子は白子(精巣)と真子(卵巣)を水洗いをして、塩をまぶして漬けておくと三週間で食べ頃となります。塩を多くしておけば、保存にたえます。塩を少なくしておき、塩なれを待ちかまえて清酒を少し入れて洗うようにし、布巾に包んで軽くしぼっても、おいしくいただけます。
真子と白子と一緒にしてそれぞれの味を補ってもよく、別々で楽しんで味わうことができ、この滋味を『子ウルカ』と呼んでおります。」
ウルカの作り方には、江の川のように身も一緒に入れる方法等、川筋等で異なる手法があるよう。
川那部先生は、内臓だけの苦ウルカを好まれていたようであるが、京では、塩焼きを保存食として食材に使えるほどの鮎が釣れなかったということかなあ。
そして、大文字焼きで鮎の塩焼きのシーズンが終わるという、湖産の生活誌が戦後のいつ頃かに定着した食文化になってしまったというこかなあ。その食文化の影響と、腸のウルカを作るほど、鮎の漁獲量が多くなかった、ということから、腹子を持つ成長段階になったアユだけがウルカの食材として利用されることもある、ということかなあ。
それに、苦ウルカは京で製造しなくても、「地方」から運んでくればよい、ということもあって「自前」のウルカは、子ウルカだけになったのかなあ。
i 鮎寿し
「能楽の『国栖(くず)』は奈良県の吉野川の上流にあたる国栖川での南北朝の逸話を主題にしており、鮎を国栖魚(くずいお)と申し、前段は鮎の物語になっております。
吉野地方で有名な鮎寿しは、鮎の生き生きした色を尊重して楽しむといえましょう。腹部から切り開いて内臓を取り出し、よく水洗いしてから中骨を切り取り、塩をふりかけ、背を上にして冷蔵庫へ三時間納め、米酢に五分間漬けて、ヒレを切り取って棒状の寿司を作ります。」
鮎寿しが売られていることをみることはあっても、買う気は起こらず。
理由は、まだ番茶も出花娘の大きさに育っている鮎がいない時期でさえ、売られているから。
「いお」が、魚の呼称であることは、広い範囲での共通語かなあ。三面川の「イヨボヤ」は、魚の王様:鮭の意味とのことであるが。
「香魚百態」の 坂倉又吉「うまき酒にうまき鮎あり」には、
「『魚』とは、元来は『いお』あるいは『うお』であって、この『魚(うお・いお』を『さかな』と読み習わすようになったのは、『魚(うお)』こそが酒の肴(さかな)としてもっともふさわしく、『肴(さかな)』の代名詞として用いられるようになったからである。
したがって、『さかな釣り』が、魚(うお)を釣って持ち帰り、それを料理し、酒の肴にして楽しむ、ということなら話もわかるが、たとえば『魚が泳いでいる』といったのでは、徹夜麻雀の折に『かしわの鳴くまでやろう!』というのと同じことで、一種の洒落(しゃれ)言葉とでも思うべきなのである。
要するに、『さかな(肴)』とは、酒席に添えられるものすべてを言い、狂言の『棒しばり』において、太郎冠者(かじゃ)・次郎冠者が盗み酒で酔っぱらって『肴舞(さかなまい)』を舞っているところへ主人が帰り、大騒動になるように、酒席で踊るのも『肴(さかな)』ならば、『肴謡(さかなうたい)』『肴浄瑠璃(さかなじょうるり)』、これすべて同じことである。早い話が、勤め帰りのサラリーマンが一パイ飲み屋で上司の陰口を酒の『肴』にすることを思い出していただけばよいであろうか。
ところで、『魚(うお)』こそが『肴』の代表選手だと先に述べたが、もちろん『肴』は『魚(うお)』に限ったわけではなく、こと食べ物だけに限定した場合でも、酒席において酒の味を引き立てる役割をする食べ物は、すべてこれ肴となる。」
坂倉さんは、
「一九一九年岐阜県羽島生まれ。元文三年(一七三八)創業の銘酒『千代菊』一五代当主。」
坂倉さんのおはなしは、おもろうておもろうて、肝臓の薬を飲んでいるものには悪いですなあ。いや、それよりも何よりも、「アユの話」に反発した前さんの反発ヵ所を探す作業ができなくなります。今年のノルマの最後に、鮎料理のヵ所を紹介するかも。
今や、「かしわ」といっても何人の高度経済成長頃以降に生まれた人に判るかなあ。「さかな釣り」は正しい日本語に。
「うお」「いお」「いよ」がどのように地方ごとで異なっているのかなあ。
あそうそう、肝臓の薬の処方箋を書いてくれていたかわいい女医さんが、オラのセクハラに耐えかねて異動された。そのかわいい女医さんは、「阿江」という名字。親とか、先祖が加古川の闘竜灘出身か確かめたかったのに。その女医さんには、アルコールを肝臓ではなく、胃袋で分解してくれる薬の処方箋を、お願いしたのに、ついに書いてくれなかった。その処方箋さえあれば、坂倉さんのお話にもっとつき合っても、肝臓に負担をかけることもなかろうに。
j 生き鮎と見分け方
「昔、京都の保津川で獲れた鮎は天秤棒で担がれてきましたが、自動車便になってからは鮎桶という独特の手つき桶に二十匹くらいを入れて並べ、木柄杓で水を掬い上げ、高いところから元へ戻しを繰り返して、つまり絶えず水を動かして鮎の問屋に届けるのでした。
縄手通りや木屋町筋には生け鮎専門の問屋があり、大きな水槽を三つも四つも用意しておき、井戸水を汲み上げて待ちかまえて、ピチピチ跳ねる鮎を、大小とか、脂肪のあるなしに仕分けをするのでした。
必要なだけ鮎を取りに行きましたが、私が十五,六才の頃、鮎を選り分ける名人といわれたおじさんが、『よく働くなあ』とほめてくれ、『おいしい鮎の見分け方、教(お)せたろか』といい、鮎をつかんで、よく肥えているかどうかを握り具合で感じとり、脂肪の多い鮎はぬるぬるしていると、親切に鮎を握らせてくれました。教えてもらったとおりの鮎を持って帰れば、間違いなくおいしいので、親父にほめられたものでした。」
当然、継代人工は論外。「脂肪の多さ」だけを指標にすると、継代人工の方が多いのではないかなあ。紀の川の小西さんは、二ヵ月ほどで、放流された川の水に馴染むと話されているが、その放流ものには、継代人工は含まれていないと思う。
辻さんが鮎の選別で教わられた指標は、京に運ばれてくる鮎が対象である、との限定条件がつくのではないかなあ。
肥えていることが指標であれば、放流鮎であれば瀬でなく、トロで生活をしている鮎も対象となるが。
もっとも、辻さんが鮎の見分けからを教わった頃には、湖産放流が行われていたかどうかも判らない年代であるが。淀川から遡上してきた「香」魚であると想像しているが。
弥太さんは、「昭八」と呼ばれていたやまべが仁淀川に住んだのは、湖産が初めてに淀川に放流された昭和八年のことと話されている。
京ではそれよりも前に湖産が放流されていたかどうかは判らないが、辻さんの二十才くらいの時は昭和の初め頃。
もし、辻さんが若かりし頃、鮎の品質について教えて貰っていたアユが、湖産ではなく、淀川を遡上してきた海産であるとすれば、辻さんの意識から「海産」鮎が、「香」魚が消え去ったのはどのように考えればよいのかなあ。
漁協発行の釣り場案内パンフレットでも、堰の記載のないことが常道。酒匂川でも堰の記載がない。そのような状況で、淀川水系に堰ができて、遡上達成率がゼロに近づいていたのかどうか、余所者が知ることは困難ですなあ。
ということで、辻さんが、「鮎―味の歳時記」に書かれている生臭い鮎の主人公は湖産鮎であり、また、湖産鮎が生活をしていた川は、仮に珪藻が優占種であるとしても「香」魚を育む環境にはなかった、といえるのではないかなあ。
「渓流の曲がりくねった川の鮎がおいしい」と書かれているということは、すでに中流域では、良質の鮎が、「香」魚が幻となっているということではないかなあ。
上等の鮎に近い鮎は、アマゴと同居しているような場所だけで、細々と育っていたのではないかなあ。
ウ 「放流もの」の変遷に係る話
「香魚百態」の中の本荘鉄夫「『天然鮎』と『養殖鮎』」
本荘さんは、その後の東京水産大学出身で、岐阜県水産試験場長をされていたから、水産統計を見ることもできたから、年代による湖産採捕量と出荷量の変遷について書かれているものと期待したが、残念ながら、オラのカンピュータと同じレベルでの記述。そのため、紹介することをやめたくなった。
しかし、ちょっぴり紹介して義務を果たします。
a 湖産鮎の年間採捕量
平均して1000トン。そのうちで種苗用として約半分が利用されている。
「種苗用の鮎は、以前は主として春川へ遡上してくるものに依存していたが、最近では、遡上鮎よりはるかに小型のシラスアユを湖中で捕りあげ、養魚池に移して、そこで育て上げて種苗とする、いわば『準天然種苗』が出廻るようになった。河川放流用の需要増に加え、盛んになった鮎養殖業が、シラスアユの種苗化を促進したのである。」
「最近」とは?
「香魚百態」が発行された1987年:昭和62年頃ではあるまい。昭和40年に近づいた頃であろう。
「1000トン」とは、どのような湖産鮎のことを表現しているのかなあ。
「採捕量」と書かれているから、「出荷量」ではないと思うが。
しかし、「その内で種苗用として約半分が利用されている。」とは、「出荷量」から逆算したのかなあ。「採捕量」で、どのようにして「半分」の量を算定しているのかなあ。
千トンがどのくらいの量であるのか、見当がつかないが、「遡上鮎」と、「氷魚からの畜養」の比率をどのように設定されているのかなあ。「出荷量」であれば、同じくらいの大きさであろうから、「遡上湖産」と「氷魚からの畜養湖産」の比率は算定できるかも、とは思うが、「採捕量」の時は、匹数換算はどのようにしているのかなあ。そのような換算は不用ということかなあ。上桂川での放流の情景でも、匹数が数えられていたが。その湖産アユは、「遡上アユ」であるが。
亀井さんの「釣の風土記」の「びわこノート」の章には、「昭和四一年度には、琵琶湖全体で一万一千二百六十キロがとれた。」
と記述されている。
ということは、「一千トン」は、「採捕量」の可能性が高いとは思うが。そうすると、氷魚と遡上鮎との構成比が問題になるのではないかなあ。
採捕匹数の点からも、放流匹数の点からも、そして「出荷重量、匹数」換算の点からも区分が必要ではないかなあ。そうしないと、「湖産」ブランドに「ブレンド」された海産稚鮎量、昭和五十年代のいつ頃か以降に行われていた継代人工の「ブレンド状況」も解明できないのではないかなあ。
b 亀井さんと本荘さんとの数量の違いは?
千トンと10トン、どっちの数字が誤記かなあ。それとも、誤記ではないのかなあ。
氷魚の重量が1グラムと仮定すると、
本荘さんでは、10億匹が採補されたことになる。
亀井さんでは一千万匹に。
仮に、本荘さんの数値の5割が遡上湖産が占めているとしても、氷魚からの畜養湖産を収容できるだけの養魚場があったのかなあ。徳島の養魚場がどの程度の規模で、どのくらいの畜養が可能だったのかなあ。
亀井さんの一千万匹とすると、少し少ないかなあ、という気はするが。ただ、養魚場の全国の規模からすれば、妥当ということかなあ。
c 「準天然種苗」
「種苗用のアユは、以前は主として春に川へ遡上してくるものに依存していたが、最近では、遡上アユよりはるかに小形のシラスアユを湖中で捕り上げ、養魚池に移して、そこで育て上げて種苗とする、いわば『準天然種苗』が出廻るようになった。河川放流用の需要増に加え、盛んになったアユ養殖業が、シラスアユの種苗化を促進したのである。」
この点では異論はないが、なんで、遡上湖産と氷魚からの畜養の経年変化の数量を書いてくれていないのかなあ。研究者であれば、それらの数値、経年変化を知りうる資料を簡単に入手できるのでひゃないかなあ。ぶつぶつ。
「今、琵琶湖の利水開発――琵琶湖を関西の水ガメにして、湖水利用の徹底化がはかられているが、当然ながら、これによって水位変動も大きくなり、生態系への大きな影響が及ぼされることは明白である。
水産側では、アユ資源への被害は必然と受けとめ、繁殖保護策として産卵用の人工河川を造成、産卵孵化の補強をはかっており、既に安曇(あど)川と姉川の河口近くに設けられた人工河川では好成績を上げている。
昭和五十九年秋の異常渇水時は、天然産卵が激減したが、これらの人工河川で天然産卵の減少分を上廻る産卵成果をあげ、人工河川の効能が再認識されている。」
このあと、本荘さんは、
「最近は、これ等の他に、採卵孵化後水槽内で育てられた人工種苗放流が参入するようになった。」
と、現在、放流鮎の主流になった継代人工に言及されている。
さて、亀井さんと本荘さんの湖産数値の違いが気になりますねえ。右京さんはどのように推理をされるのかなあ。
あんまり気乗りのしない内容しか書かれていないため、がっかりしている本荘さんの文ではあるが、何らかの折り合いをつけるしかないですよねえ。谷口順彦他「アユ学」(築地書館)同様、適切な観察を行わずに学者先生が教義を布教されている本を購入してしまったときと同様、なんで、本荘さんの文を紹介すると書いたのか、後悔しっぱなし。
d 齋藤さんの湖産種苗変化に係る記述
仕方がないから、真打ちの登場です。
とはいえ、前さんではありません。前さんは、湖産アユの採捕量、出荷量の統計数値が信頼性に欠けると判断されていたのではないかなあ。したがって、四万十川海域で採補された稚鮎が徳島に送られて、湖産ブランドで出荷されていることもあり得る、と書かれているのではないかなあ。
真打ちとは、齋藤邦明「鮎釣り大全」(文芸春秋社:一九九八年発行)です。
この第5章「天然アユと養殖アユ」の章に、湖産畜養と湖産遡上アユの状況が書かれている。
「本格的に他の河川に放流されるまで、石川千代松博士の多摩川での実験からさらに十一年を要したのである。
まず、河川放流試験が必要だった。河川によって水源、瀬幅、河床の状態、水量、河床勾配などが異なるために、放流時のアユの数と成長して釣りの対象となるまでの目減り具合、つまり“歩留り”を計算しなければならなかった。
一方で、今のように活魚運搬トラックなどのない時代だ、孵化したばかりの稚魚(氷魚・ヒウオ)を他県の河川に無事運ぶことができるかなどの長距離輸送試験も試行錯誤された。さらに、年によって稚鮎の漁獲量に差があることから安定供給するための成熟調査もくりかえされ、ようやく京都の清滝川に湖産アユ一万二千匹余りが放流されたのは大正十三年四月。これが、湖産アユが県外の河川に始めて出荷された第一号である。
以後、湖産アユの出荷量は一九八〇年(注:昭和五十五年)に三百トン、一九八三年には五百トン、一九九〇年(注:平成二年)には七百トンを越える勢いで伸び続ける。全国の河川放流アユの七割近くを占めたこともあった。琵琶湖のアユのおかげでわたしたちは毎年アユ釣りを楽しませてもらっている、といっても過言ではない。」
清滝川に放流されたのは、「四月」ということであるから、川に遡上した湖産であろう。そうすると、「氷魚」の輸送試験等はどのような目的で行われたのかなあ。酸素ボンベ等の輸送に必要な手段がなかったことから、大量に輸送するには、氷魚での輸送が適うのでは、ということからかなあ。
一九八〇年の「湖産」出荷量の三百トンには、「海産」がブレンドされているでしょう。
相模湾の稚魚が遠路遙々徳島に送られたのが、一九七七年(昭和五二年)と一九七八年。
相模湾の稚魚の販売価格は、昭和51年県内放流用は8.3円、県外放流用10.5円、そして湖産?の「購入価格」は15.21円。
昭和57年になると、稚鮎の県内放流用は10.2円、県外放流用は12.3円、湖産?の「購入価格」は21.52円と書かれている。
「湖産」の購入価格は、湖産に等級があり、酒匂川は高い等級の「湖産」が、相模川は低い等級の「湖産」が放流されていたとのことであるから、相模川漁連の「購入価格」が「湖産の購入価格」としても、海産がブレンドされ、そして、氷魚からの畜養が構成比の多くを占めている「湖産」の価格ではないかなあ。
e 湖産畜養の隆盛
齋藤さんは、「湖産」とはいっても、氷魚からの畜養湖産が主流となっていったことによって生じた現象を、
「岡山県・高梁川の川岸で長い間オトリ店を開業している主人は『湖産アユといっても、最近は名ばかりのまがいモノだよ。以前は安曇川あたりの河口部で取った稚アユを数日間生け簀で畜養したものを三月ごろに運んできたが、このごろのアユは沖で早取りして長い間畜養された特殊なアユだ。魚病をもつものが多く、売れ残りかなんか知らんが六月ごろ買ってくるヤツは小型の安モノだ』」
この時期が、昭和五十五年以降の情景であれば、群馬県産や神奈川県産等継代人工の「ブレンド」も考え得るが、まだ、他県へ売るほど、各県の継代人工の生産は軌道に乗っていないから、「湖産畜養」と考えてよいのではないかなあ。
「どうも、周辺の話を総合すると、その原因は琵琶湖の環境悪化と、鮎苗の供給が急増する釣り人の需要に追いつかないことにあるようだ。
大量取水による水位低下、汚染水流入、ブラックバスやブルーギルなどの肉食魚の不法放流など、出荷量の増加と反比例するように琵琶湖をとりまく環境は年を追うごとに悪くなっているという。
水位低下は、琵琶湖総合開発事業にかかるところが大きい。」
「湖水位が下がれば安曇川や、姉川といった流入河川の河口部は水なし川となる。アユの産卵床は河口部の瀬。その河口部が干上がってしまったのである。そうなれば、需要に追いつこうと、おのずから出荷アユに人の手が加わる。
河口部がふさがれては先のオオアユたちは降河・産卵・遡河ができないわけで、稚アユの漁獲はめっきり減った。しかし、『湖産アユ』ブランド人気はおとろえず、需要は増すばかり。やむなく、琵琶湖名産『あめ煮』の原料だったコアユの幼魚、ヒウオが鮎苗用としてまわされるようになったのではないか。体長四センチ(二〜五グラム)ほどのヒウオは、沖でのエリ漁や沖曳き漁で採補される。漁は十二月ごろから始まり最盛期は二月、各地に放流されるのは三月から六月にかけてである。
ちなみに、二月から三月初めに出荷される鮎苗の値段は五月下旬から六月初めの出荷値の約四倍で、キロあたりにすると一万円近い差があるといわれる。一匹の重さを四グラムとすると一キログラムでおよそ三百匹だが、出荷時期が早いとそれだけ匹数が多くなることも高値の理由の一つとなっている。
一方、湖の北に位置する葛籠尾崎あたりで行われる『追いさで漁』は琵琶湖の春の風物詩だが、流入河川に遡上しようとして接岸してきたアユをカラスの羽で追い、さで網ですくい取るこの漁期はエリ漁などの沖取り漁より一ヵ月以上も遅れる。当然、稚アユも大きく成長して六センチほどに育っている。
全国に出荷される時期が同じなら、ヒウオは一ヵ月以上も人工池でエサを与えられ、畜養されていることになる。いうところの『長期畜養アユ』である。そのあたりに『不評』の原因があるのだろうか。
ヒウオは水のように透きとおっているのでこう呼ばれるのだが、見た目にも弱々しく傷つきやすい。」
「しかし、先のヒウオのように一ヵ月以上も人の手で畜養されたとなると、どうも人工養殖というイメージがつきまとう。
さらに、琵琶湖のオオアユは湖水位低下いらい自然界で産卵・孵化できないのだから、すでに『絶滅した』たという悲観論者もいるくらいだ。
いま琵琶湖では、水無し川になった安曇川や姉川の河口部を完全管理の人工河川にして産卵床を確保し、孵化後の仔アユを湖に再放流している。しかしそれとて、湖水位低下以前の産卵・孵化の量をカバーするものではないだろう。」
「研究者たちは、釣り人に褒めてもらいこそすれ非難される筋合いじゃないと怒るかもしれない。しかし、魚の増殖に関して最近のセンセイ方の多くが妙な方向に走っているような気がしてならない。アユの増殖イコール『完全養殖』だと勘違いしているように映ってしかたがないのだ。
『いくらでも人工養殖が可能なのだから、自然増殖ができなくなってもぜーんぜん支障ないじゃない』などと、ブルドーザーに乗った開発推進派に免罪符を与えかねない。たかが二十センチの魚じゃないかなどといって、安易に『天然』をつくってもらっては困るのである。」
いつもであれば、何とか論理的に矛盾が減るように細工をするが、その作業を省いて、その都度、感じたことをそのまま書いておきます。理由は、あんまりにもよく分からんからです。
亀井さんは、「準天然」湖産アユを「湖産アユ」とは認められていないかも。それが本荘さんとの「湖産」数値の違いかも。
右京さんは、なんといわれるかなあ。「神戸君、まだ見落としがいっぱいありますよ」
とはいわれてもですねえ、「本物」の、遡上湖産とのつきあいは、1回だけしかないからなあ。
それにですよ、「湖産」ほど「「ブレンド」がおおっぴらに行われているにも拘わらず、その実態を書いた記事は、1997年ころのアユ雑誌しか読んでいませんから。しかも、その雑誌が見当たりませんから。
1998年、すでに冷水病の蔓延で湖産のブランドは数年前に地に落ち、継代人工よりも安くなっているころのこと。
遡上期に雨量が多く、遡上アユが多い、との釣り新聞の記事を見て野洲川の三雲に盆に行った。中津川の水量の半分くらいであるのに、網が入っている。網から逃れることもできる強い瀬もない状況では、いくら遡上湖産が多いといえども、数を減らすでしょう。6匹しか釣れなかった。
なお、齋藤さんは、瀬切れを琵琶湖の水位低下を理由とされているが、新幹線から見える愛知川、野洲川は瀬切れをしていることが多かったなあ。ということは、堰による取水も瀬切れを起こす原因になっているのかなあ。
なお、氷魚からの畜養が放流「湖産」の主流となったのは、昭和40年代の初めかも。
さて、長良川でも遡上アユが主体ではなく、川にいた鮎が放流モノ主体との話がどこに書かれていたのか、探していて、亀井さんの「釣の風土記」が二つあることに気がついた。
一つは、長良川の大多サを紹介した二見書房発行のもの。
一つは、今回紹介した浪速社発行のもの。
そのことに今まで気がつかなかったとは、アルツハイマー症候群が進行しているということかなあ。
本荘さんにはもう一つ不満がある。
多摩川の遡上鮎が上流に放流された湖産の子孫であるとされていること。これは、東先生の湖産は再生産されない、とのアニマの文を研究者であるにもかかわらず、読まれていないということ。
田辺陽一郎「百万匹のアユがかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館)では、「利根川の産卵場として知られているのは、埼玉県深谷市付近だ。ここで産まれたアユは、流れのまま海へ向かう。この流れは、埼玉県と茨城県の県境で、二つに分流している。一方は、東へ流れ銚子で太平洋に注ぐ本流。もう一方は、南へ流れる江戸川。千葉県の浦安市、ディズニーランドの脇で東京湾に注ぐ。」
ということで、利根川のアユが多摩川のアユの先祖とされている。
相模川の稚魚は三浦半島を廻って東京湾には入っていない、と。少し疑問はあるが。理由は東京湾側では稚魚が網にかかったという話を聞かないから、とのことであるが、網にかからないから、相模湾の稚アユが東京湾に入っていないといえるのかなあ。
これまで、「遡上湖産」の採捕の仕方を「川での逆梁」と表現していたが、追いさで漁も行われていた。いずれにしても、東先生が放っておいても「オオアユ」になる「湖産」が放流ものとして、出荷されていた。
それが、昭和40年プラスあるいはマイナスX年には東先生が「コアユ」のままでその年を過ごすと考えられていたアユを含めてヒウオから畜養されて「準天然」あるいは「湖産」として出荷されている主役になったのではないかなあ。
f 「アユの話」と湖産:遡上「湖産」が「湖産」放流の主役であった頃
「アユの話」には、
「現在行われているアユの養殖は、このように、全生活誌を通じて人間の管理の下におくものではなく、その後半、すなわち海から川へ上ってきてから後の部分を取り扱っているにすぎない。この点では、海から上ってくるハリウナギをつかまえて池に放つウナギの養殖に似て、完全養殖ではない。」
「鮎は琵琶湖に陸封されているものがあるから、これをもとにして養殖するものであるが、同じ陸封型の魚でも、マス類では卵から親まで完全な人工管理ができている。マスでやれるものなら、アユでもやれないことはあるまい。こう考えたのが、宝塚の近くに住んでいた大阪ガス株式会社の社長の片岡直方さんで、屋敷内にプールを作って、稚魚の飼育にのり出した。」
「最近になって岐阜県の水産指導所が、ふたたびゆりかごから墓場まで、アユの全生活誌を通じての完全人工飼育に成功し、それも五〇%程の歩留まり率だという。まだ採算のとれるところまではいっていないが、これも時間の問題だろう。」
「進んでいく国土開発事業と、これまであった産業との調和を図る努力は今後ますます必要であるが、一方、破られた調和に対処して魚の繁殖を助けたり、川の包容力に応じた生産力を発揮させる工夫もなくてはならない。
どうすればよいのか。
水産業を農業的に変えていく以外によい方法がないのではあるまいか。」
齋藤さんが目をむいて怒り心頭に。齋藤教信者であり、また故松沢さんの最後の弟子と自惚れているオラも、「アユの話」は、建設省の「公共工事・事業」推進のためのマニュアルかあ、といいたいです。
齋藤さんは、「神々しき川漁師 その奥義」に、恩田さんをアマゴ釣りで登場されているが、アユについても恩田さんに触れられている。オラの関心はその方にあれど、禁欲生活も必要であるから、長良川河口堰に係る齋藤さんの記述の紹介に移ります。
(9)「アユ釣り大全」と長良川河口堰
齋藤邦明「鮎釣り大全」(文芸春秋社:1998年・平成10年発行)
狩野川から遡上鮎が消え、酒匂川も奥道志川からも等級の高い「湖産」が消え、継代人工あふれる川に成り下がっていったのをみれば、亡き師匠らが一生懸命、「ほんものの川・清流」と「ほんものの鮎」を教育されているのに、「大きければよい」と、麦酒を飲んで亡き師匠らの教えを馬耳東風と決め込んでいたオラでも、変身するしかない。その頃に出合い、齋藤教に変身した本が「鮎釣り大全」である。
したがって、この本からは多くのことを紹介しなければとは思うが、サボリーマンは手抜きが本道。
動物学者のマートンは、プロとアマチュアの観察、記録の違いについて、プロは「なになにをした」ということだけでなく、「なになにをしなかった」ということも観察し、記録すると。
アマチュアは、ゴリラがあくびをした、ということを観察し、記録するが、「あくびをしなかった」ということは観察し、記録をしない、と。
この論理を換骨奪胎すると、「アユの生態」が、調査しなかったことが何か、を、考えることも意義があるのではないか。
その「アユの生態」が意図的にか、知らずしてか、不明であるが無視していること、書かれなかったことが長良川河口堰によって生じる止水域おける流下仔魚の運命である。
したがって、「鮎釣り大全」では、流下仔魚の運命の視点に係るヵ所だけを紹介します。
a 「鮎釣り大全」の「天然アユは、いまや絶滅危惧種」の章から
「アユの産卵は、海水が洗うような河口からわずか数十メートルの場所で見られることもあるし、長良川のように河床勾配のゆるやかな川では河口からはるか数十キロメートルも上流ということもある。産卵場には底石に泥がかぶらない程度の流れがあり、酸素を十分に含んだ水通しのよい広い浅瀬が選ばれる。
ところで、孵化したばかりの仔アユは泳げない。
自ら泳げない。まるでイトミミズのような仔アユは流れに乗って海に下るわけだが、海で動物性プランクトンにありつくまで腹部につけた卵黄に依存して命をつなぐ。その猶予期間は5日、長くても1週間といわれている。
しかも、海にたどり着くまでに相当数が流れに巻き込まれて傷ついたり、泥水で窒息死したり、コイやハヤ、ブラックバスなどに食べられて命を落とす。無事海まで命を永らえるのはじつに、一〜二パーセント足らずだという。
たとえば長良川では、特殊な例を除けば河口からおよそ三十五キロメートル上流、つまり東海道新幹線がまたぐ岐阜羽島あたりから五十五キロメートル付近の鵜飼いが行われる岐阜市長良までの間がアユの産卵場となっている。」
「建設省は『毎秒二センチの流速があるから大丈夫』というが、秒速二センチなら五日間で流れ下ることのできる距離は約九キロメートル。一週間でも十二キロメートル。とても三十八キロメートルなんてクリアできるものではない。ぜんぜん、『大丈夫』じゃないのだ。地元の魚類研究者によれば堰上流にも動物性プランクトンがいることはいるが、それも仔アユが生き残れるほどの数ではないという。」
次の齋藤さんの指摘は、海産仔魚の浸透圧調節機能が、非常に優れている、高いかも知れず、懸念すべき事柄ではないかも。そして、北陸の能生川等では汽水域がないと考えてもよいから。
「うまく流心の流れに乗って運良く堰までたどり着いたとしても、今度は水質の急激な変化で生命の危機にさらされることになる。それというのも、これまで河口から三十キロメートル近くまで潮が入り込み、広い汽水域をつくっていた。しかし、河口堰の上流は完全な淡水であり、下流はほぼ完全な塩水である。淡水から塩水への急激な浸透圧の変化でショック死してしまう仔アユも当然でてくるはず。」
もちろん、能生川の仔魚がもっている浸透圧調整機能は、能生川での生活圏に適応できたアユが子孫を残しているから、ということも考え得るから、長良川でも同じであるとは、必ずしもいえないであろうが。
河口堰ができてからの長良川の遡上アユは、木曽川や揖斐川で産卵された子孫が主であろうから、遡上量の激減となったことは、齋藤さんの記述の通りと考えている。
なお、鵜飼いが行われている岐阜市長良付近で産卵しているのは、「トラックで運ばれてきた」徳島育ちのアユではないかなあ。故松沢さんは、いつから始まったのか、時期までは話されなかったが、鵜飼いが行われている水域には頻繁に徳島の養魚場から運ばれてきた鮎が放流されていると。
b 河口堰の影響
村上哲生他「河口堰」(講談社:2000年発行)から
@河口堰の建設場所 河口から約6キロメートル上流
A止水域 「河口堰の上流は長さが15キロメートル以上にもわたる淡水域となり、下流の汽水域とは、はっきりと2分されてしまった。」
B仔魚への影響 「これは(注:遡上量の激減)堰ができて上流の流れが遅くなったため、アユの仔魚が自力で長い淡水域を泳ぎ切って海に下ることがむずかしくなったためかもしれない。」
C傾斜 「岐阜市を通り抜けた長良川は、河口から40キロメートル上流付近から傾斜は急にゆるくなり、河口との高度差は数メートルとなる。」
D滞留日数(ポタモプランクトン発生との関連での記述ヵ所) 「滞留日数に関係する要因としては、流量も重要である。平水時毎秒80立方メートルの流量のとき、長良川の下流では約30キロメートルの距離を河川水は1.9日かけて流れるが、渇水時毎秒30立方メートルの流量では4.6日もかかる。」
E「リバー・レイク ハイブリッド」 「貯水池のような川と湖の性格を併せ持つ水域(注:「の」?)ことを『リバー・レイク ハイブリッド(river‐lake hybrid、川と湖の雑種)』と呼ぶ。日本でも細長い形をした滞留日数の比較的短いダム湖を『流れダム湖』と呼ぶことがある。河口堰もこの一種と考えるといろいろなことが整理されて理解できる。わたしたちは、河口堰により引きおこされた環境の変化を、堰が造られた位置から河口域の問題として扱ってきた。しかし、リバー・レイク ハイブリッドとして考えれば、堰湛水もダム貯水池も、共に川を湖化する施設である。少なくとも、堰上流の湛水の問題はダム湖においても共通するものである。」
「河口堰」には、流下仔魚の運命を考える上で、必要な要件、条件が書かれているであろうが、咀嚼できそうもないから、省略します。
ただ、次の点は気になります。
仮に、流下仔魚が餓死をしないで河口堰を下ることができたとき、
@河口堰下流の底層の無酸素状態が流下仔魚に影響するのかどうか。
A塩分躍層が流下仔魚に影響するのかどうか。
B河口堰上流の止水域で、ポタモプランクトンが発生しているということは、動物プランクトンのワムシも繁殖しているから、仔魚はそれを食べることができるから、生きながらえる?
11月12月は、生きているであろう。しかし1月のある時点からは、堰上流の水温が生存水温以下になるであろうから、伏流水や岐阜市内から流入している温排水のあるところ以外の稚魚は生存できない。
C2月の川で稚魚が生存できない可能性が高い事例は、2月に稚魚調査の行われた天竜川に見ることができる。
天竜川での調査では、河口域から離れた町中で鮎が採捕されただけ、との調査結果。鮎の氏素性は調査をされていないから判らないが、遡上アユではない。なぜなら、その場所より下流域では鮎は採捕されていないから。また、生存限界付近の水温であるから遡上は開始されていないと断言できる。
また、川那部先生に「断言」する観察、説は信用できない、とお叱りを受けそうなことになりますが。
D2009年、駿河湾の稚アユが多く、浜名湖産が相模川に放流された。海産畜養であろう。あるいは畜養をせずに放流されたものもあるかも。
「トラックで運ばれてきた」アユであるから、下りをしないで産卵する。磯部の堰上流には、11月のある時期から鵜が100羽、200羽の鵜山をつくっていた。鵜山の始期は判らない。終期は12月1日+数日。
遡上アユも、放流アユもいない翌年の3月、湧き水が出ている六倉のへら釣り場では、稚アユがへら釣りの邪魔をしていた。
その稚アユが、磯部の堰上流のトロの湧き水のところで生存できたものであるのか、それとも弁天や高田橋付近の産着卵が孵化して、仔魚が本流から六倉へ流れ込んだものかどうかは判らない。
いずれにしても、もし生存限界以上の水温があれば、百万以上の稚アユが相模川にはいたはず。
しかし、2010年に釣れていた鮎は海産親由来のアユはいなかったのでは。あるいは僅少では。この年は、遡上アユは少なかった。(「あゆみちゃん遍歴賦」の2010年に相模大堰での遡上量調査結果を掲載しています。
海産畜養は、下りをして産卵するのでは、と期待していたが、残念ながら、下りをせずに産卵をしているよう。もちろん、トラックで運ばれてきた放流アユが、増水で流されて、遡上アユの産卵場付近で産卵行動をするものはいるはずであるが。
c トラックで運ばれてきたアユの産卵場所
トラックで運ばれてきたアユの産卵場所は、放流地点付近の砂礫層である、と語られたのは、故松沢さんと四万十川の野村さんだけが「記録」あるいはオラが直接聞くことができたと思っていた。
なお、萬サ翁も下りをしないで産卵している鮎を観察されているが、それは、岐阜県産の初期の人工種苗ではないかなあ。「ぺしゃんこアユ」とのことであるが、神奈川県産の継代人工種苗も初期は、オタマジャクシのような姿をしていた、との話があったから。
オラの健忘症の激しさを確認する事柄が発覚した。
それは、亀井巌夫「釣の風土記」に係る「浪速社」発行と、「二見書房」発行に重複している部分があるのか、気になって、「二見書房」発行の「釣の風土記」をめくっていて気がついたというお粗末。
吉野川の「ジャンボさん」と「平重郎さん」については、故松沢さんの想い出補記4に、井伏さんの吉野川と共に、亀井さんの吉野川にも紹介をしているのに、その二つを結びつけて考えることができなかった。いや、書いたときは結びつける意図があったのに、一年ですっかり忘却の彼方となって、井伏さんの吉野川だけが記憶に残っていた。
したがって、亀井さんが平重郎さんの話として、下りをしないトラックで運ばれてきたアユの産卵場についての話は、忘却とは忘れ去るものなり、に。
ということで、平重郎さんの話されたことを「故松沢さんの想い出補記4」からコピーをします。
「吉野の人」の章から
平重郎さんの「下りをしないアユ」
「ある晩秋、樫尾の高岩の崖で休んでいて、足下の浅瀬をよろめくように遡っている鮎に遭った。背に大きな傷痕を負った鮎で、懸命に浅瀬を超えようとしていた。浅くて緩い流れなのだが、力弱った鮎には相当な負担らしく、左右に揺れて、時には一尺ほども後ずさりしながら、また気力を振り起こすように全身のひれを動かして少しずつ、少しずつ上手へ遡っていった。
下手の淵では部落の子供たちが集まって岩の上から大きな錘を付けた掛鉤を、どぼん、どぼんと放り込んで底をかき回している。」
亀井さんは、辛うじて泳ぐことの出来る鮎と共にゆっくりと歩いて、終の棲家と思われる淵までついていった。
「平重郎さんにこの鮎の話をしたら、近頃は正月でも鮎を見掛けることがあると言った。数年前には十一月の狩猟解禁の日に橋の下の瀬でたくさんの鮎を見つけたので、面白半分に散乱銃をぶっ放したこともある、もっとも鮎は一つも浮いてこなかったがねと、笑ったりした。
天然鮎は時期が来ると一斉に、しかも確実に下流にくだる。吉野川も紀ノ川と名を改めた岩出(いわで)や田井(たい)ノ瀬あたりからぐっと河口に近いあたりまでくだってそこで産卵する。しかし放流鮎は吉野川も川上地区の大滝付近で産卵をしたりする。どういうつもりか判らないが、こんな所に生み落とされた卵は、せいぜいアマゴやウグイやカジカたちの餌になるのがいいところだろう。
『天然鮎ちゅうもんは、自分でぐっと苦労して遡ってきよるから、その道順なんかもちゃんと憶えてて、秋の雨で去(い)ぬのやが、放流の鮎はよう去(い)ねしませんなあ。これは不思議やなあ。自動車できたとこはよう去(い)なんらしいな。そいで、いつまでも川でうろうろしとんねやなあ。』
平重郎さんの言葉であった。」
健忘症の激しさを
こおんな おとこに だあれがしたあ、と嘆いてみても、経年劣化が激しいだけですよね。
d 齋藤さんと建設省のお役人
齋藤さんの終わりは、建設省お役人との場面で。
「あまり長良川河口堰の弊害をあちらこちらに書くものだから、建設省の職員が猛烈に抗議してきたことがあった。部下をしたがえ、肩をいからせてやってきた男は部下に抗議の内容をしゃべらせている間、ずっと腕組みをしたまま椅子にふんぞりかえっている。じつにえらそうで、こういう立場はそんなに気持ちがいいのか。
だが、お上に楯突くと打ち首だぞといわんばかりの横柄な態度では、とても国民のコンセンサスを得られまい。
『あなたはアユ釣りをしますか。』と聞いたら、『フン!』といったきり椅子を蹴って帰っていった。『釣り人が、なんぼのもんじゃい』などと建設省や堰建設推進派の学者たちは思っているらしいが、漁師や釣り人だって『建設反対』の一言くらいはいえる。
生活の利便より豊かな自然のなかに身をおいていたいのだ。英語や算数はちょっと苦手かもしれないが、釣り人は川相を読める。アユの習性にも精通している。水温・水質の変化にも敏感だ、そして、多くの経験から自然とうまくつき合っていく知識と手段をもちあわせている。そうでなければ、アユは釣れない。少なくともあるべき自然の摂理、その価値を知っている。
もしかすると、役人たちも知っていたか。ただ、机上のお勉強ばかりで他の生物に対して血のかよった心を持ち合わせていないため、河口堰という金属とコンクリートでできた巨大人工物がこれほど自然界に大きなダメージを与えるとは予想できなかった、それだけのことかもしれない。
そして、恥じるどころか、かれらは『自然との共存、環境に優しい』開発などあり得ないことを知りながら、なおも諫早湾干拓、揖斐川上流の徳山ダム、岡山県・吉井川の苫田ダム、球磨川支流の川辺川ダムなどなど、社会構造が変化したいまでも数十年前の計画を押しとおそうとする。事業継続による補助金獲得策としか思えない大規模公共事業は目白押し。その現場の多くが河川にある。全国各地で河川破壊が進めば、あたりまえのようにアユたちは行き場を失う。
孵化した仔魚は降河できず、海からの稚アユはまた堰やダムで遡河を妨げられる。たとえ、行く手をはばまれて右往左往している稚アユを堰下流でくみあげ上流に運んでみたところで、一年の命を謳歌させてやるほどの環境はごくごく狭い。
そのうえ、工場排水、生活雑排水や農業、家畜糞尿の垂れ流し、水源涵養林の伐採、支流・源流部での大規模リゾート開発などによる土砂流入や水量減と河川を取り巻く環境はますます厳しく、エサとなる石アカ(珪藻、らん藻などの付着藻類)の状態は悪化するばかりだ。ヘドロがおおった石の表面についたハミ跡を見るにつけ、アユたちが気の毒でならない。ならば、『釣るな』といわれても、困るのだが。
釣り人としてのエゴも含んだうえで言うのだが、一刻も早い河川の自然保全を世論に訴えたい。もしも天然アユが国の天然記念物などに指定されてしまったら、もうアユ釣り師は生きる望みを失って闇の世界を彷徨うしかない。」
汲み上げ放流をされた鮎も、下りをしないで産卵することになるから、その点でも「一年の命を謳歌」することにはならない。
珪藻が優占種の大井川でも、越後荒川でも、ダム湖で香り成分となっている物質が、ポタモプランクトンに消費されているためか、「香」魚は幻となった。
(10)齋藤さんは、恩田さんの「奥義」を盗めた?
くらあい、くらあいお話は、性に合わないこともあり、齋藤さんがしつこく?恩田さんにどのようにしたら、あゆみちゃんを心行くまで軟派できるのか、と、奥義の開示をせがまれたお話を紹介します。
a 齋藤さんと「天然アユ」の容姿
「釣り人を魅了する天然アユ」の章から
@「天然アユ」ロマン
「けなげで、端正で、すがすがしく、わずか一年で一生を終えるそのはかなさが日本人の自然観や美学にマッチして、わたしたち日本人の心をとらえてはなさない。
姿形の美しさ、生き方のいさぎよさゆえの天然アユ。釣り人も、そのアユを求めて寝食を忘れてアユの川をさまようのである。
岩盤底の流心から引きずり出した野アユは、鼻っ柱の強い雌ヒョウに似た風貌だ。ほんの少しの時間だが、しかし大きく強烈な手応えが全身を包む。オトリを交換しようと掛けたばかりの野アユをつかめば、ぬめりのある魚体から、あの馥郁とした芳香が漂う。夏の一日、山里の流れで孤高を持す釣り人の心拍数は一気に上昇するのである。
釣り人は、この一瞬を手に入れるためには労を惜しまない。会社には葬式だ、やれ結婚式だと出任せをいい、飲み友達の誘いをかわし、女房の冷たい視線をかいくぐり、何日も前から釣行をくわだてるのである。そして、真夜中、泥棒のように寝床を抜けだし、ご近所に『また、となりのバカが釣りに出かけるぞ』などといわれながら、ソッと車のエンジン・キーを回すのだ。」
「大きく張った背ビレと“耳まで裂けた”ような口、そんな天然遡上アユの姿が、フロントガラスの向こうに映る。」
齋藤さんは、いつ頃まで、どこの川で、そしてどの付近で、またどのような条件の川の状態のときに芳香を嗅ぐことができたのかなあ。
Aアユの口と頭
「アユの学名(Plecoglossus Altivelis)のプレコグロッススはラテン語で『ひだ状の舌』という意味だが、上あごと下あごにそれぞれ十三個のざらざらした歯が、櫛状に並んでいる。この歯で石アカをこそげとって食った後にできるのが、底石の表面にくっきり残る笹の葉状のハミ跡だ。
また、アユの口はマムシかハブかと見間違えそうな形態をしている。あごの裏側などは本当によく似ている。ヘビがその口より大きな食物をそっくり飲みこめるのは、あごをはずすことができるからだが、あごをはずすまでではないが、アユもアカを食(は)むときにはかなり大きな口を開ける。
口を開け、猛然と石に向かって突進する。水中に潜ってアユの食餌行動を観察してみると、あれでよく脳震盪(のうしんとう)をおこさないものだと感心してしまうほど思い切り石の表面に体当たりするのだ。体当たりする瞬間のアユの口は、大写しにすればヘビが獲物に飛びかかる様とそっくりで、小さいながら獰猛(どうもう)でさえある。
口が大きく、急流でエサを食うために頭は流線型で一見とがって見える。これが天然アユの特徴だ。」
丸顔の継代人工と異なる容姿。ただ、継代人工によっては、一見しただけでは、「流線型」の頭にある程度似たものがいることもあるが。
B背ビレ
「一方、アルティベリスは同じく『帆を張ったような』という意味で、大きな背ビレを帆船の帆にみたてたようだ。なわ張り争いの時、アカを食(は)むとき、かれらはいっそう背ビレを大きく広げる。体を大きく見せて力を誇示しようというのだろう。帆をいっぱいに張った水中でのアユの姿はじつに美しい。なわ張りをもった、大型の強いアユほどそれは顕著である。
海産でも琵琶湖産でも稚アユの時に放流され、自然のなかで成長したものは一様に背ビレが大きい。背ビレは激流で方向転換したり、急ブレーキをかけるときに不可欠だから天然アユのそれは必然的に大きく発達するのである。
しかし、人工的に養殖されたアユはヒレが小さく貧相だ。流れのない養殖池や畜養プールで育てられるためか、闘争本能がなく威嚇の必要がないためか、背ビレが発達しないのだ。塩焼きの場合、小さな背ビレではどんなに上手に化粧塩を打っても見栄えが悪い。」
継代人工にも、背ビレの長いものがいる。
故松沢さんが、容姿が遡上アユと変わらないアユに出会ったとき、背ビレをもって「帆掛け船」であることに気がついて、遡上アユではないと判断されたことがあった。
継代人工の背ビレが長い、というものがいても、その長い背ビレは、頭側も、尻尾側も同じ長さである。それに対して、遡上アユは、頭側が長く、尻尾側の方が短くなっている。
なお、継代人工の鱗が鮫肌、鱗が荒い、ということは、すぐに気がつくが、これについても、それほど鮫肌でない継代人工もたまにいるよう。もちろん、上方側線鱗数を数えれば、湖産24枚、海産22枚という「標準」と同等であるのかどうか判らないが。
「静岡2系」は、継代人工丸出しの容姿であったが、2010年の雲金で、迷人見習いが釣った鮎は、遡上アユではないのに、それほどの鮫肌ではなかった。色も青っぽいものもあった。ホトトギスさんが、「きれいな静岡2系」と表現されていたから、静岡2系が新しい種苗になったのかなあ。ただ、釣れていた場所は放流地点に近く、水深が1メートルはあり、石で出来たたるみであったが。
b 馬瀬川での放流
@ 亀井さんの馬瀬川での放流
亀井さんは、長良川と馬瀬川の放流鮎に係る記述をされている。
「釣の風土記」(二見書房)の「馬瀬の水音」の章から
「馬瀬川に鮎の放流がはじまったのは昭和五年頃のことで、県の鑑札をもらって、村の有志が遊び半分にやってみたのだそうだ。
それまで、天然アユは、いまはダム湖に沈んだが、下山の在所あたりまでは上っていて、下山辺では友釣りをする人もいた。ところが放流ははじめてなので、稚魚をぐんと上流の黒石や数河に入れた。魚というものは、川を下るものだとばかり考えていたからで、いざ釣り竿を出してみると、せっかく放流したのに、皆目鮎の姿が見えない。鮎は育つにつれて、もっと上流へ遡上してしまったのだ。
その次の年からは、連中も合点して、下流の西村とか惣島(そうじま)付近に放流するようになったという。
組合ができたのは二十四,五年頃で、以来鮎の名川として、天下に名を売り出した。きっかけは、地元の新聞社が風流鮎釣大会と銘うって、東京や名古屋方面の名人・達人を招いてからだ。足場がよくて、水量は申し分なく、長良川や益田川のように、川が大きくてポイントが判りにくいといった欠点もなく、随所に淵と瀬が断続して、鮎は大きく肥える。加えて、閑雅な風光は、釣人を魅了せずにはおかない。ここを釣り場として公開した人達の眼力は本当に立派なものだったと思わないではいられない。おかげで、あまり取りえもなかった寒村に、シーズンともなれば人があふれ、街道筋を賑やかに車が走り回るようになった。」
その馬瀬川であるが、解禁日であるのにさっぱり釣れず、岩魚に転向しろと宿の人に言われミミズで大岩魚を。
この頃は、「湖産」であるとしても「準天然」=湖産畜養が放流されていたのではないかなあ。さらに、それから数年後には、「湖産」ブランドに海産だけでなく、F1?人工もブレンドされていたのではないかなあ。「遡上湖産」の放流が「湖産畜養」の「準天然」にかわり、増水があると流される放流モノの時代となり、解禁日に岩魚釣りをすることになったのは昭和五十年ではないかなあ。
A 齋藤さんの馬瀬川での放流
「アユの川紀行」の章の「岐阜県馬瀬川」から
「しかし、馬瀬川には昭和二十七年まで、アユは一匹もいなかった。飛騨川にあったダムのためで、それまではアマゴ釣り場として職漁師が活躍していたにすぎなかったのである。
馬瀬川に稚アユが放流されて四十五年、いまではアユの川として馬瀬川の名を知らぬ釣り人は少ない。それは、何はさておき流域住民の努力に負うところが非常に大きい。生活排水を川に流さず、清流の保全に努めた結果、多くの釣り人が夏の一日を存分に楽しめるというわけだ。
アユの名川を前面に押し出し、村おこしの一助とする地域は多いが、ほとんどが本末転倒をしているのが実情だ。河川の管理、保全をおろそかにし、放流量ばかりに腐心する短絡的で表面的な町や村ばかりが、やけに目につく今日この頃である。飲み食いするばかりの視察旅行や稚アユ確保に血道を上げる漁協の役員諸氏にはぜひ馬瀬川への研修旅行を勧めたい。」
齋藤さんは、馬瀬川の清流が存続されていると書かれているが、冷水病が蔓延してからはどのようなアユになっているのかなあ。伊南川同様、湖産が釣れない川となり、その後は、どのような放流が行われているのか、判らないが、継代人工が放流されているのではないかなあ。
さて、馬瀬川にアユがいるようになった年、放流が行われるようになった年について、亀井さんと齋藤さんの記述が異なっている。
亀井さんの記述の方が適切ではないかなあ。
B 滝井さんの馬瀬川
「釣の楽しみ」(二見書房)の「上質の鮎――飛騨の馬瀬川の鮎――」の章及び「今年の馬瀬川」(昭和三十九年)の章から
滝井さんの馬瀬川の鮎はすでに紹介済みであるが、齋藤さんと亀井さんの湖産放流が開始された年に違いがあることから、そのことを直接記述されてはいないものの、馬瀬川の情景と鮎について、考えるうえでヒントになるのでは、ということで一部を再掲します。もっとも、オラの川見と同様、役に立つことはないでしょうが。
滝井さんがはじめて馬瀬川に行かれたのは、昭和三十年八月。当然、遡上した湖産鮎が放流されていて、「準天然」湖産ではない。追いさで漁で採捕された稚鮎の可能性もあるが、雪解けがおさまってからの放流であろうから、5月中旬以降に川で採捕された鮎ではないかなあ。
なお、馬瀬川の解禁日は、昭和39年は7月12日、昭和38年は7月21日。
「永年鮎つりをしてゐますと、鮎の質の良し悪しも吟味するやうになって、やはり質のよいうまい、上等の鮎をほしくなります。鮎と云へばどこの鮎も同じかと云ふと、それは大ちがひで、その各各の川によつて、質のよいのと、わるいのとが出来るのです。よい鮎は、水の透明な、川底の石の大きい、山川の激流に育つのです。良い鮎のたくさん群れてゐる川は、水底の石も拭いて磨いたやうに美しいのです。大きい川の上流の山国の鮎が一番良いので、平野を流れるやうな川の鮎は、大体よくないのです。」
ということで、昭和32年8月の那珂川は烏山の鮎は、家族が一口食べてまずいと、捨てられたとのこと。現在では考えられない贅沢な味の評価です。なんと優れた舌。その舌を養う鮎が満ちていた時代があったということでしょう。それに、相模川でも滝井さん家族のお眼鏡に適う鮎がいた時代があったということ。昭和32年の那珂川では、その舌を満足させる鮎が少なくても烏山ではいなくなる水であったということ。今時の学者先生が「清流」と評価し、あるいは昭和60年頃の四万十川を「ダムのない最後の清流」と表現したNHKの方々には想像すら出来ない川の水でしょう。
あそうそう、「最後の清流四万十川」と放映したNHKが、平成23年3月には「日本一の清流仁淀川」を放映します。
「最後の清流」と「日本一の清流」との表現の違いはあるが、NHKにいかなる心変わり、変身が生じたのかなあ。
四万十川が、NHKの宣伝の結果?、野田さんが二度と行きたくない俗っぽい、「観光立地」の川、空間に成り下がったが、仁淀川はどうなるのかなあ。四万十川放映から30年ほど、視聴者に少しは映像、テレビに対する免疫、事実かフィクションか、の「目利き」能力ができたのかなあ。
滝井さんの記述から、馬瀬川には滝があって、鮎は遡上できなかった、村岡老人が鮎をエサにした沖バリでウナギを釣っていたから、ウナギは滝を上ることが出来た。ただ、ダムが出来てからは、ウナギも上れなくなったのでは。いやその前に木曽川、飛騨川に河川横断構造物がいっぱい出来て、ウナギも上れなくなった昭和40年代かも。
昭和39年の解禁日
「今年も例年のやうに飛騨の馬瀬川の解禁にいつた。七月十日の午后天気は晴れて暑くなつた。途中の汽車の窓にうつる飛騨の益田川はすごい濁流だが、萩原駅からバスやタクシーで日和田峠を越えて、馬瀬村にはいると、馬瀬川は笹の葉色に青く、さすがに澄み口の早い名川と見えた。この澄み口の川でオトリ採りをして、明日は川を一日休ませて、解禁は七月十二日ときまった。」
解禁日のオトリを確保するため、
「私共の同行の元気な三人は、この日、村の青年の案内で、馬瀬川下流地区の西村のダムの下の方に行ったが、朝の七時から午后の二時までに、二十匁平均の型ぞろひを、尾崎裕三氏は三十尾、佐藤菊三郎と谷田昌平氏は十六,七尾も釣れて、ダムの下手の川は水かさも少なく、ほかの釣人も見えず、どこにでも竿が出せるので面白かったと、三人は喜んで居た。
この三人は、また十二日の解禁には、大夕立の濁り水の最中にも休まずに釣つて大釣りをした。尾崎氏は六十尾、佐藤氏と谷田氏も三十尾。三十匁の大型まぢりで、場所にも当たつたわけだ。それは、惣島の宮ノ前という放流場所で、宮ノ前に住む友づりの上手な青年が案内して、夜明かしして居て、此の場所を釣らせたのだ。――この宮ノ前の青年は、前の日オトリを採ったとき、石油カンのオトリカンに余るほど一杯になつて、四十尾も斃(お)ちたと言つて、私共の宿に持ってきたので、私共はそれで解禁の前の日からうまいアユを沢山たべたが。これでみても此所の魚の濃いことがわかる。――」
昭和三十九年には、未だ「人工アユ」も、海産、湖産の「準天然鮎」も、馬瀬川の囮屋さんに運ばれていなかったということ。
そもそも、車が少なかった。乗用車は社長のお坊ちゃまなど、一部の人の乗り物であり、目黒から品川の青物横丁や、御殿山への道を自転車で気持ちよく走ることが出来るほど、道路は空いていた。ましてや、鮮魚運搬車を使う鮎の輸送は一大イベントで、とてもオトリ鮎の運搬に利用出来る状態ではなかったということであろう。
もちろん、町に近い川では、「準天然」が囮屋さんに配送されていたかもしれないが。
「準天然」は、戦前から存在していて、垢石翁が「養殖」と軽蔑されているが。
そして、解禁日が遅いなあ。いまなら、継代人工の成魚放流をしてでも、解禁日を早める選択をしていると思うが。
また、昭和三十九年には馬瀬川にダムが出来ていたこと。
もう一つ、気になる記述は、放流地点付近が大漁の場所になっているということ。すでに、湖産の氷魚からの畜養が放流ものの主役になっていた、あるいは準主役になっていたのではないかと、想像している根拠である。「準天然」が放流ものの主役になったのが昭和四十年代のいつ頃か、との記述が別の本にあるため、戸惑ってはいるが。
「湖産」の「準天然」も、継代人工同様、アユの移動距離は少ないから、「遡上湖産」とは違い、放流地点付近が大漁ポイントになる、と思っている。
夕立が降る解禁日も二十尾位づつ釣れた。滝井さんら、老人組の釣り場所には小屋があり、そこで雨宿りをしながらの楽な釣りを。
「二日目は、私共はその宮ノ前(注:前日、非老人組が大釣りをしたところ)に行かうかとも考えて居たが、昨日の案内者が朝の五時に迎へにきて、昨日と同じ場所に行つた。二日目は天気もよく、澄み口の減水で、長竿ならば流心も釣れた。伊藤老は四間半の竿で、激流の大アユにオトリぐるみ道糸を切られたりした。高崎氏は一番かみ手の瀬の肩の流心に巧みにオトリを入れて、昼食のあとにも大アユを連続十尾釣つた。私は昨日と同じ所の水ぎはの石に休みながら、対岸の石垣の上の田んぼの土手に、白い綿のやうに咲いたアカショウマの花盛りも又ながめながら、午后一時半に引き上げるまでには、二十何尾か釣つた。
引上げて山坂を登る時、案内者は私共の荷物を肩に、オトリカンは天ビン棒で担ひながら『大漁でビクが重たい』と云って居た。
宿では、つり客達はみんな豊漁で満悦に見えた。
今年の馬瀬川は、三十五万の稚魚を放流して、そのあと一度も大水がなく、小アユが流されて死ぬことがなく、みんな育つて魚が濃い。川床も、伊勢湾台風以来の泥砂を洗ひ流して、砂に埋もれていた底石もまた大方出たやうだ。川が回復したので、これからまた上質の尺アユの大物がつれるのだ。」
もし、放流された湖産が「遡上アユ」であれば、仮に増水で流されても、差し返してくるのではないかなあ。ダムがいつ頃出来たのか、判らないが、ダム湖で止まるのではないかなあ。
また、馬瀬川は蛇行している川であるから、増水をしても、流れのインとアウトが出来るから避難場所があるはず。そのうえ、大石が転がっているから、「遡上湖産アユ」であれば、流されることなく、避難する鮎が多いのではないかなあ。大きな淵があればなおさら、流される湖産遡上アユは少ないと思う。
ということで、昭和39年の何年か前から、馬瀬川に放流されていた「湖産」は、「準天然」が相当量「天然湖産」にブレンドされていたのではないかなあ。
それでも、滝井さんが、1990年代初めに顕在化した冷水病による湖産の運命を、いや、その前に「湖産」ブランドにブレンドされた継代人工の存在もご存じなかったと云うことは、幸いかも。
平水の三倍の増水でもアカが飛ばないとは、大石のおかげということでしょう。又、砂利がグラインダーの役割をしてアカをそぎ取る水が流れていなかった、少なかった、山が荒れている程度が低かった、と云うことでしょう。
c 長良川での放流
短い区間での馬瀬川での放流においてさえ、何が事実か、よく判らない情況で、長良川の放流をみることはヘボの川見同様、当たるも八卦当たらぬも八卦、と自覚しているから手抜きをしたいところではあるが、ドンキホーテの勇気を糧に頑張りましょう。
@ 沖取り海産の弊害
齋藤さんは、海産の沖捕りによる弊害を述べられている。
「沖捕り、汲み上げされた体長四,五センチの稚アユはそのまま上流に移送されることもあるが、いったん人工池に運びこまれて畜養・選別されてから改めて上流に放流されることが多い。
沖捕りは二月から三月にかけ、海面近くを回遊する稚アユの群れを二,三艘の小舟を使って目の細かい網で囲み、すくい捕る方法が一般的だ。
この漁は『捕るのは簡単だが、運ぶのが大変』なのだそうだ。採捕した稚アユを傷つけないようにキャンバス地などでできた生け簀に移すが、稚アユは皮膚がやわらかく、傷つきやすい。傷があると河川放流した後に魚病にかかりやすくなるため、取り扱いは慎重のうえに慎重を重ねなくてはならない。そのため、生け簀をこしらえた舟が一艘用意され、採捕役と生け簀管理役の分業制となっていることが多い。
狩野川、興津川、富士川、安倍川などが注ぐ駿河湾での沖捕りはよく知られている。しかし、アユには母川回帰本能がないことから、沖捕りには賛否両論があるようだ。
その年アユの多かった河川は秋、大量の仔アユを海に供給するのだが、アユはサケと異なりすべて同じ川に戻ってくるとはかぎらない。春になると、湾内に流れ込む他の川にもアユは遡上する。アユを供給した河川にしてみれば、自分のところで生まれたアユは自分のものと思っているところにもってきて、こともあろうに余所者によって遡上前に海で捕獲され、他の河川に売られるのはどうも納得がいかない、というのだ。
沖捕り漁が盛んになって以来、狩野川では天然アユの遡上が激減している。もともと駿河湾からの遡上が多かった狩野川だが、河川管理の不備もさることながら、この沖捕りも原因ではないかと大枚をはらって入川する釣り人の間ではもっぱらの噂だ。」
相模湾の沖取り海産は、三月から。かっては三浦半島の長井沖であったが、現在は小坪湾付近との話がある。一回の出漁で二〇万匹?ほどの漁獲量がないと、漁に出ないとの話があるから、相模湾の稚魚がどの程度いるのか、遡上アユが釣りの対象になるのか、沖取り海産の漁獲量の有無、量が一つの目安になる。
まだ、櫛歯状の歯に生え替わっていないため、畜養しないと、小学生くらいの大きさににしか成長できないと考えている。動物プランクトンを食べていた稚アユを川にそのまま放流しても、どの程度の生存率かなあ。
遡上稚アユが、相模大堰魚道を越えるのは三月下旬からであるから、三月二〇日頃に川にはいるのではないかなあ。もちろん、その稚アユは11月生まれであろうから。12月生まれが多いときは4月以降に相模大堰の魚道を越えていると考えている。
なお、遡上の準備が出来た稚アユは、大磯の岸壁や江ノ島で釣られている。
A 亀井さんの長良川
「釣の風土記」(二見書房)の「長良川ノート」から
モモノキ岩と「自然児」
まずは亀井さんの文の再掲と新規で。
「とりわけモモノキは、これまでどうしても歯が立たない。柔らかい竹竿を捨て、堅めの穂先をつけたグラス竿で挑んでみても、この水勢ではとても抜きあげられない。二度耐え切れなくてバラしたことがある。―私の竿を使ってみたら―と青地さんは自家製の郡上竿をすすめてくれるのだが、とても重いし、名品であるから傷つけるのが恐ろしくて手にしたことはない。」
名人級、竿師等が
「幾度かモモノキに上がり、ある時は秘術を尽くして会心の戦果をあげ、ある時は切磋扼腕不漁をかこったことだろう。」
「彼らは一様に、白泡立ち、噴き上げ、巻き返すこの淵の底へ叱咤激励のオトリを送り込んだ。そのたびに、満悦や焦立ちや放心が、この岩の周りの渦のように湧き、あふれたはずである。」
「―その時、大多サはこの岩角に足を踏ん張ったろうか、まさとサは身動きもせず岩の窪に腰を落としていたろうか。古田萬サは畏友・山本素石が語るように、受玉をラケットのように構えたろうか―
一人一人が手をつかえ、足を踏んばり、腰を降ろした岩角や窪みがその時の高鳴る鼓動をそのまま伝えているかのように思える。それはまた奔流に立ちはだかり、青筋たてて耐えているモモノキ岩そのものの胴震いでもあるようだ。岩肌にそっと耳を当てると、どぶっ、どぶっと脈打つような響きで、岩がなっていた。」
「そんなモモノキだが、八幡に来るたびに一度は竿を出さずにはいられぬ魅力を覚える。それは決して難関に挑もうというような気負いからではなくて、この岩に立つとき、たちまち長良川そのもの、八幡の釣りそのものにふれたような想いに駆られるからなのだろうと思う。」
このような激湍での釣りは、亀井さんには手に負えないようで、
「オトリがまた噴き上げられて、遠い渕尻でのたうっている。少し休ませてやろう。後衛の島影に誘導して錘を外し、竿を岩の壁に立てかける。青地さんの話では、今日のような水嵩のある日には、錘を五,六号はかまさねばならぬだろうと言う。そのためには極めて頑丈な竿と水勢に耐えて抜き上げられる強い穂先が必要である。重い錘に引き込まれて、オトリはキリモミ状になって淵の底に落ちる。オトリはちりちりと細工トンボのように舞うだろう。そのとき岩盤に巣喰う大鮎は歯を剥き、背鰭を逆立てて襲いかかってくる。次の瞬間ぎゅんと糸鳴りを残して、大鮎は怒り狂うに違いない。そして取り込みへ……。先人達がモモノキに印した得意と絶望の絵巻が、また新たに刻み込まれていく。
この四メートル余の荒瀬に居を構える大ものは、きっと猛々しい天然鮎に違いない。四月上旬から始まった五十一年(注:昭和51年:1976年)の放流は六月下旬で一〇〇パーセント完了した。約一万キロ、数にして凡そ四百五十万尾という。一方、天然鮎は五月中旬美並村の下田橋に姿を現し、六月上旬には大和村に達したといわれる。、もはや途絶えたとさえ噂されていた海からの自然児たちである。彼らは池や湖育ちの放流鮎を追い払い、荒瀬に、深淵に傲岸の鰭を逆立てる。遙かな海上から六十キロ、八十キロと奔流を溯り、激湍(げきたん)を越えてきた荒くれたちは、すでに体力において放流鮎をしのぎ、勇猛心においても抜きんでているだろう。モモノキの底でも、彼らは雄叫びをあげ、歯を剥き出して壮大な肉弾戦をくりひろげる。激流の底の岩盤には勇者たちのVサインのように、記念のハミ跡が翻々と刻み込まれていることだろう。」
「オトリも少しは元気を取り戻したろう。島影から曳き出して、ゆるゆると沖に向かわせる。尾鰭を震わせてオトリは必死に渦の中へ進もうとする。道糸を不意にゆるめてみた。すると錘に引かれてオトリは逆さまに急降下した。しめた、良い案配だ、と思ったのも束の間で、オトリはまた噴き上げられて、底にも届かず、ぐんと下手に浮き上がってしまった。二度、三度と試みたが駄目であった。水を切って、渦巻いている反流点めがけて放りこんでも、同じことであった。三号以上の重い錘の用意もない。」
結局、亀井さんは下流の流れの緩やかなところで一匹。
『どうかね、やっぱり駄目やったかね』
青地さんは私の早い戻りに、勘を働かせてそういった。
『うん、それでも一つ釣った』
私はオトリ罐を見せた。
『そうかね、やっぱりモモノキでえ、そうかね、ほう、一つ釣ったかね』
いやモモノキで釣れたんじゃない、ずっと下手で掛かったのだ、と私は答えようとしてつい口ごもってしまった。
しかし彼はこの痩せ鮎を見て、すぐに見破ったに違いない、これはモモノキの鮎じゃない、こんな貧弱な鮎がモモノキにいるはずがない、と。
断りを言う間合いを失って渋いものが胸に残った。私にとってもこれがモモノキの鮎では困るのである。」
さて、F1?人工、あるいは継代人工が放流鮎に仲間入りをし始めたのが、昭和五〇年代半ばごろから。ということで、亀井さんが何度目かのモモノキに挑戦された頃の放流鮎は、湖産畜養:「準天然」と湖産ブランドにブレンドされていたであろう沖取り海産等の海産であり、「アユの話」が「最近になって岐阜県の水産試験所が、ふたたびゆりかごから墓場まで、アユの全生活誌を通じての完全人工飼育の成功し」、と絶賛?している「水産業を農業的に変えていく」結果たる継代人工は未だ放流されていないはず。
しかし、あと数年後には次のような状況になっていく。
「香魚百態」(筑摩書店)に、益田川(ましたがわ)の大坪史朗「囮商い」が掲載されている。
「この稚アユにも、『琵琶湖産稚アユ』『海産アユ』それに『人工アユ』とがあって、『人工アユ』とは、採卵から一〇センチほどの稚アユになるまですべて人工養殖によったものをいう。
そのための養魚場がわが岐阜県にもあり、各漁協はそれぞれに全放流量のうちの一定割合を人工アユであてなければならない規則になっている。つまり人工アユの保護育成のためである。」
昭和五五年頃以降は、ヒウオから畜養された「準天然」湖産は、「湖産」ブランドの主役に格上げされ、もはや「遡上」湖産アユは「湖産」ブランドの主役ではなくなった、区分されることもなくなったということであろう。
したがって、大宮人のお父さんが、水合わせをしただけで雪代のおさまった飛騨川の激流に入っていった「湖産」を吹き流しの仕掛けで釣れるアユ:「遡上」湖産アユは、飛騨川にも放流されていない時代になったと言うことであろう。
「アユの話」の高邁な理念を体現した「完全養殖」のアユは岐阜県の養魚場だけでなく、神奈川県でも実現されている。その人工アユの八〇万?匹程を相模川漁連が購入していた。安定販売先を持つことで、神奈川県の継代人工は三〇うん代目まで生きながらえている。現在は判らない。原当麻にある県の養魚場は、「県」の施設から財団法人の施設になっているが、三月までは人気がなかった。閉鎖されたのかと、喜んでいたが、三月を過ぎると、車が、バイクが入り、人がやってきている。
大坪さんは、「人工アユ」の状況も記述されているが、いやなお話は紹介するまでもなし。
なお、益田川にはダムが出来ていた。
「この益田(ました)川の源流部、木曽御岳の足元には大きなダムが三つある。また萩原から一〇キロ上流の小坂にもダムがある。」
B 萬サ翁と長良川への湖産放流
前さんは、湖産放流について、萬サ翁が話されたことを次のように書かれている。
「――天然は顔が長く、湖産は丸顔――
昔、といっても終戦までは天然溯上(そじょう)の鮎は放流も含めて現在の五〇倍くらいも八幡まで来たものだ。大きいものは一四〇匁(五二五グラム)、一〇〇匁(三七五グラム)クラスは幾らでも釣れた。その頃の鮎はどういうわけか、各支流へはあまり溯(のぼ)らず本流に居ついた。そこで忘れもしない昭和九年、支流の吉田川へ琵琶(びわ)湖産を試験放流したところ好成績であった。以後、各支流へも湖産を放流するようになった。そのとき『萬さ』は鮎の顔を見て、こんな表現を用いたのである。」
もちろん、その放流鮎は「遡上」湖産鮎である。
その後の氷魚からの畜養である「準天然」、人工鮎についてもそのひ弱さ、容姿、習性等の話をされているが、いまや常識でしょうから省略します。
「『純天然遡上の鮎は脂ビレから尾ビレまでが細長い』
戦前の昭和一六年頃迄、放流鮎がいなかった当時の記憶を『萬さ』に質したところ、
『その通り。郡上へ初めて放流してから何十年、交配に交配を重ねていまは滅多には見られんが、脂ビレから下が細長くなって尾ビレが大きかった。これからはますます見られんようになるじゃろう。寂しいことじゃが仕方あるまい』」
この話は、萬サ翁が昭和48年に話されたことであろう。
もし、「純天然鮎」が、交配によって容姿を変身させていたのであれば、湖産との交雑種が海でも一杯生存し、再生産に寄与していたと言うことになる。
しかし、「昭和四八年」は、やっと、長良川に「自然児」が戻り始めた頃である。
したがって、昭和30年代半ば頃以降に長良川にいたアユは、「遡上」湖産稚鮎が、その後の昭和30年代後半頃からは「準天然」の湖産と遡上湖産が、主役ではないかなあ。
もちろん、萬サ翁は、湖産と海産の容姿を見分けることの出来る「目利き」であるから、なんで「交雑種」を「純天然」鮎に係る現象の理由とされたのか判らないが。「湖産」の「準天然」の容姿の話ではないかなあ。
なお、故松沢さんは、「純天然鮎」の容姿に変化が生じていないから、「交雑種」も、湖産も再生産されていない、と。
狩野川は、長良川とは異なり「純天然」、「自然児」が一杯いたから放流ものは限られた存在であった。そのため、「天然」アユ以外の容姿を「変わったヤツがいる」という認識ですますことができたのかなあ。
C 大多サと湖産
亀井さんは、大多サと湖産について
「鮎の二匹も釣れば日当が出た頃だから、米の二俵や三俵は一日で稼ぐ漁師がたんといたという話もうなずける。その漁師仲間でも、大多サは今や一,二を争うほどになっていた。その評価を決定づけたのは、昭和十二,三年頃のことだそうだ。記憶は定かではないが八月の釣り難い時期で、大川でねばっても、一人前の漁師でさえ、二,三匹しか上がらないという条件の悪い時であった。
〈ハラケンが来て、大多サいっぺん明方(みょうがた)の方へ行こまいか。ぞんがい鮎がたんといるそうな、と言うで。その年は吉田川の市島(いちじま)へ試験的に鮎を放流した時だったと思う。そのあくる日、タネ持って出かけよりました。市島の橋から見るに、鮎がさっぱり見えんで、帰ろうか言うたら、ハラケンが、せっかくここまで来たんじゃから、一日遊んだつもりでやるだけやってみようと言うで、それもそうじゃと、橋下へ入ったら、すぐ来た。大川の天然鮎ほどではないがなかなかよう肥えた鮎でした。次にまたすっと来た。続いてまた来た。どうやら二十ばかりタテ続けに来たで。その後ぴたっと来んようになってしもた。大川のように釣りかえしが効かんのですで。それから下へ行って、あっちへ渡って三つ、こっちへ渡って二つと、どんどん釣っていったんですわ〉
その鮎を組合へ持って行った。計算してくれたのが、二入りが二枚、三入りが二枚、四入り、五入り、八入り各二枚にビリが幾つかという釣果だった。
二入りというのは百匁の鮎が二ひき入るコウリのこと。三入りは同じ大きさのコウリに鮎が三匹入るもの、四入り以下同じで、七入り九入りはない。ビリは小形鮎のことである。十入りまで数えると、この日大多サが釣った鮎は七十六匹、ビリを入れると八十か九十になっていたはずである。
『組合へ伝票を持って行きましたらな、大多サござったでと、皆集まってきて、どでらい評判になってしまいましたで。憶えとりますが、これで貰ったのが四十九円といくらかで、その前の伝票と合わせると百円になりました』という。当時の相場から見ると一日で月給に近い稼ぎをやってのけた話になる。」
「遡上」湖産鮎は、九頭竜産「純天然」鮎でも刎ねていた郡上八幡の目利きのお眼鏡にも適う鮎ということでしょう。
単に、大川での鮎の入荷量が少ないから、「純天然鮎」としての評価を得たということではないのでは。
d 恩田さんの奥義と齋藤さん
@ 恩田さんと「郡上アユ」
「そのアユの値は、長良川産のアユのなかでも特級品で、市販価格で一キログラム(二〇センチ前後のアユで十匹ていど)当たり二万円、品薄の場合だと三〜四万円もするというから、郡上八幡の男衆にとってはいい副収入となっている。なかでも高価なのは友釣りによって一匹ずつ釣りあげた活魚アユ(死んだものは半額以下となる)。郡上八幡の町中の料理屋でアユ料理を注文すれば、メインの塩焼きなどアユ二匹分で一万円近くは請求される。」
アユの塩焼きがそんなに高いのかなあ。いつ頃の値段かなあ。昭和三十年代後半から昭和四十七,八年のことかなあ。
恩田さんは、
「一時は周囲の人々に『アカ』と揶揄されもしたが、いまでは全国の良識者に支持されて自然保護運動の一種シンボル的存在となっている。現在のおかしな河川行政、放流事業に少しでも疑問を抱く釣り人もまた、健全な自然環境での『釣り』を学びに恩田翁の許(もと)を訪ねるのである。
しかし、釣技の“講義”はあまりにそっけない。代わりに、釣りそのものの話を横にして、蜿々と川を取りまく地層がどうの、川底の石質がどうの、水量の変化がどうのと、くどいほどたたき込まれるのだ。たまに、釣りの心構えやら釣り場での態度など一応アユ釣りの範疇に話は入り込むこともあるが、すぐに“横道”にはずれて、その日の講義は時間切れ。どうやら免許皆伝までには五年、十年では足りなさそうだ。
恩田さんの釣りは数を競うのではなく魚質を求めるもので、山川草木の観察なしには理解が難しい。というのが新参者のわたしの実感だ。しかも、天然モノを釣りたい人だけに通用する名人の教えはまことに回りくどい。三日も講義を聞くと早く川に下りて竿をだしたい気持ちが重なり、発行して臭うほどの欲求不満になってしまう。
もともと数が少ない天然モノ相手だけに、わたしなど何年教えを請うても貧果の日がずっと続いている。
後に登場する藤之氏などベテランの生徒が水深三メートル、三角波の立つ激流で二十五センチ越えの二百グラム級をたった一匹でも釣ると『ほう、大クラス(郡上のアユには等級がある)やな』と自分のことのように目を細めて喜んでくれる。だが、浅瀬で遊ぶ放流モノのチビアユなどをたとえ一束(百匹)釣ったとしても、にやにや笑うだけで口もきいてくれない。むかしのプロ意識が、『そんなもん、一文にもならんわ』といっているようなのだ。
さて、初心者には少々理解しがたい点もあるかもしれないが、友釣りにそうとう自信のある人なら『目からウロコ』だと思うので、ここで恩田流の『大型の天然アユ』の釣り方を一つだけ紹介しておこう。」
長良川のアユ状況についての記述は、「もともと数が少ない天然モノ」との齋藤さんの記述から、昭和三十年代半ば頃から、昭和四七,八年頃までのことを書かれているのではないかなあ。
平成の始めには、オラでも何とか「天然アユ」が釣れたから、その頃は「自然児」は相当増えていて、放流モノよりも数は多くなっていたのではないかなあ。亀井さんが長良川の放流量を「四百五十万」と表現されているが、相模川での三,四年周期での大量遡上の年では、一千万以上の遡上量になっているよう。長良川でも、大量遡上の年の相模川並以上の遡上量が例年見られたのではないかな。もし、そうであれば、昭和五十年近くになると放流モノよりも遡上量の方が多くなっていたのではないかなあ。
平成の始め頃、オラでも腕があれば、もう少しは釣れていたはず。沖に走るアユなんて、長良川ではじめて経験した丼。
A 「釣聖の背バリ兼用の棒鼻カン」への前奏曲:天然アユの行動
「天然の大アユはたいてい激流の芯になわ張りをもつ。
流速に押されてオトリが沈まないような水深のある急流での友釣りの場合、ふつうオトリのうえにオモリをかませたり背バリを付けたりするものだ。しかし、仕掛けが複雑になればなるほどイトやオモリに水圧がかかり、オトリに負荷がかかる。
しかも、やっとのことでオモリや背バリでオトリを川底に沈めても、オトリの動きはせいぜい流れの上下を行ったり来たりで、横への動きは少ない。
野アユはたとえばオトリが逃げをうつ瞬間、衝動的に追うことが多い。なわ張り内であってもオトリが鼻を引かれて上流に頭を向け、ユラユラと泳いでいるときなどは見て見ぬふりで、積極的に追うことはない。
つまり、縦の動きだけでは野アユの追い気を誘うインパクトが小さいのである。
しかし、浅瀬や流速の遅いチャラ瀬やトロ場のアユに比べて、激流になわ張りをもつ野アユの闘争心は非常に強い。野アユは無関心をよそおいながら外敵を常に視野に入れ、いったんコトが起これば口を大きく開いて後下方から襲いかかろうと虎視眈々と狙いをつけている。
野アユの衝動を誘発させるのが、オトリが反転したり川を横切ろうとするときに見せる尻や白い腹だ。
しかし、オトリだって泳ぐのに必死。水圧をできるだけ軽減すべく頭を下に、流れに負けまいと懸命に頑張っているのだ。ときには石の裏や流れの弱いヨレなどの場所にもぐり込んでしまい、押しても引いても全く動こうとしない。だから、野アユを掛けるには絶えず竿先にテンションを与えてオトリをポイントとなりそうな石から石へと無理なく移動させる必要がある。
そこにもってきて、オトリに腹を見せるような横の動きを加えるのだから、ちょっとやそっとの経験でなせる業ではない。オトリを入れることですら困難な激流でのこと、水圧に負けて流されてしまうのを嫌がってオトリは体を横にしたがらない。
とくに、使い勝手がよい丸鼻カン全盛のいまでは、水圧がかからずオトリへの負担が少ないチャラ瀬などの浅場ならともかく、イトとオモリをつなぎ止める接点がオトリの目と目の中央にあるから、オトリを対岸に泳がすのは至難だろう。というのも、丸鼻カンは、水中イトとオトリをつなぎ止める接点がオトリの目と目の中央にあるから、オトリを引く方向は下流から上流に向けての縦の動きだけになる。
常に上流を向いている野アユから見て、オトリの体を流れと直角、つまり腹を見せるような動きを演出するには丸鼻カンでは無理がある、と考えたのが恩田さんだった。自信をもって選択した仕掛けを駆使する恩田釣法は、まさに驚愕ものである。」
齋藤さんが、恩田さんから、あるいは雲金釣りの家の故大竹さんから聞かれたと思われる野アユの攻撃衝動解発に係る釣り人側の観察は、放流モノはいざ知らず、「天然アユ」に対してはいまも変わらぬ適切な観察ではないかなあ。
放流モノは、全く別の行動原理かも。
故松沢さんは、長良川のアユは激流でも沖へと泳ぐ、とオラには話されていた。しかし、実際はおばせの作り方、角度、量などの「操作」をされていたが、そのことをヘボに話してもちんぷんかんぷんであると判断されて、長良川の「鮎の馬力」で沖へオトリが出て行くと説明されたのではないかなあ。
故松沢さんは郡上八幡でも1尋程の手尻の長い仕掛けを使っていた。非力で、激流に立ちこめないから沖を釣るために手尻を長くしている、とも話されていたが、このことも言葉どおりに受けとめてはいけないのかも。手尻の長い仕掛けでないと、「操作」が適切に行えないからかも。
その長手尻で、アユが掛かると掛かりアユは上流にすっ飛んでいく。それを引き戻して引き寄せでホイホイと取り込んでいく。
掛かりアユを上流にすっ飛ばす操作は故松沢さんの想い出に紹介したが、そのやり方では、手尻が長くても、引き抜きができなくても、大アユの取り込みに時間はかからない。
萬サ翁がモモノキ岩で引き抜きをされていたとの亀井さん、素石さんの話がある状況で、恩田さんも引き抜きをされていたと思われる状況のなかで、何とも異様な、とも思える釣り方でせっせと稼いでいる姿を見れば、郡上八幡の漁師といえども、1升瓶を下げて故松沢さんを訪ねたくなるでしょうね。
ところが、馬素を使った錨の郡上八幡衆に対して、子供が使うようななよなよのハリスのヤナギ。鼻カン上の中ハリスに数個の瘤玉があって、その瘤にチチワで結んだヒゲがだされている。オトリの大きさに合わせて、ヒゲを移動して適切なところの瘤を使う。瘤に結びつけられたヒゲにはハリスが結わえてある、という「時代遅れ」とも思える仕掛けをみて、郡上八幡の職漁師はどのような感想を抱いたのかなあ。
針は研ぐモノ、という故松沢さんにとっては、ハリスの交換も、針の交換も原則不用。
なお、故松沢さんが大アユを持ち込んだとき、尺だ、と、人だかりのしたことが。故松沢さんは泣き尺と判断されていたが、その判断が正解であった。すでに、泣き尺でも珍しくて、人だかりができるほどになっていた長良川。長良川といえども、天然モノを尺に育てる住環境、食糧ではなくなっているということかなあ。
B 恩田さんのあゆみちゃんは
「釣りあげるアユはすべて二十五センチ以上、ときにはオトリ交換のときなど片手ではもてないような幅広で三百グラムを超す尺アユも混じる。小モノが釣れてくるようなポイントには竿を入れない。うらやましいという気持ちなどどこかに吹き飛んでしまって、信じられない光景が目の前で演じられているのを、ただ呆然とながめているだけであった。
深瀬の激流にこともなげにオトリを沈め、またたくまに良型のアユを引き抜く(郡上釣りの極意)恩田さんの釣りはまるで神業同然で、とても真似できそうには思えなかった。が、当方も右往左往ながらアユ釣り歴四十年多少の意地もある。『ぜったい、習得してやるぞ』の欲がふつふつと湧いてくる。
ところがだ、なんども『どうして、教えて、ねぇ、爺ちゃん』と食いさがってはみたものの、釣技の教えは前述のとおりで、ほとんど無にひとしかったのである。仕掛けを見せてくれないのは、この手の名人にはよくあることだ。」
齋藤さんは、1948年生まれ。アユ釣りを始められたのが20才とすると、1948+20+40=2008年になってしまう。おかしい。10才でアユ釣りを始められたとしても1998年のことになる。
計算があわんよお。
齋藤さん編の「釣聖恩田俊雄」を見るしかなさそう。齋藤さんの「川漁師 神々しき奥義」(講談社α文庫)には、残念ながら恩田さんとの出合いの頃のことが書かれていない。
e 背バリ兼用棒鼻カン
「そこで、川に下りる名人の後に銀バエのようにまとわりついて、『はい、オトリ缶をおもちしましょ』『ジュースはいかが』、根掛かりすればチャンスとばかりに『ボク、潜ってとってきます』。
で、とうとう見てしまったのである。棒鼻カンを。
たかが棒鼻カンを見たくらいで、なぜこんなにも鬼の首をとったかのように大はしゃぎするかといえば、それもこれもわたしの想像を超えた工夫が施されてあったのだ。それまで放流養殖アユばかりに悩まされていたのだが、以後、天然の大アユが多少とも釣れるようになったのだから大の大人もはしゃぎもしよう。」
この記述から、齋藤さんが恩田さんに出会われたのは、あるいは塩焼きなどアユ2匹で1万近くの値段がしていた時期は、河口堰ができてからの遡上アユ激減、継代人工等の放流モノ主役の時代ではないのでは。そして、「自然児」が長良川に戻って来る昭和48年頃以前のことではないかなあ。もし、「自然児」、「天然アユ」が戻ってきてからの長良川のことであれば、「天然アユ」の漁獲量も昭和30年代前半以前並ではないとしても増えているから、塩焼きの値段は高すぎるなあ。
「棒鼻カンはオトリを釣り人の意のままに動かすことができる。オトリは引かれる方向とは逆方向に泳ぐので、たとえば右岸側(上流から下流に向かって右側)に立ち、オトリの右の鼻孔に鼻カンをだせば水中イトを引くとオトリは対岸に頭を向け、川を横切る泳ぎをするわけだ。」
故松沢さんが、オトリを沖に泳がせているのを見ていた郡上八幡衆が、どんな仕掛けを使っているのか、1升瓶を下げてやってきた理由の1つは仕掛けの秘密探訪にあったのではないかなあ。ところが、何の変哲もない仕掛けであり、ビックリされたのではないかなあ。
「丸鼻カンとはちがい、オトリの鼻を引くほど強いテンションを与えなくとも、水中イトにかかる水圧を利用すれば、わずかな竿の煽(あお)りだけで十分。また、空中イトに風が当たったていどでもオトリは面白いようにスイスイ沖に向かって泳ぎだす。
棒鼻カンは江戸時代からあるのだが、デザインや簡便さに走る現代のアユ釣り師のなかには見たこともない人もいるだろう。しかし、古い道具をバカにしてはいけない。釣り具メーカーの広告などない江戸時代だ、釣り人おのおのが自分で工夫した道具を使っていたに違いない。そのなかで後世まで残ったのが棒鼻カンなのである。粗末だが、野アユをとことん観察し、試行錯誤を繰り返した先人の道具には、見栄えは悪いが理に適ったものが多い。
だが、いかに先人の知恵とはいえ、棒鼻カンだけではオトリはスイスイ潜らない。何か秘訣があるはずだ。この秘訣を探り出すのに、さらに三年。
釣り歴六十余年といってもただの釣り人ではない。鼻カン仕掛けに職漁師としての技が集約されていた。背バリが打ってあったのである。背バリを打つと、オトリは鼻を引かれているときよりも背中を支点に引かれるために頭を下げる。急流でもよく潜るというわけだ。
ところで、恩田さんの背バリ仕掛けは一般の釣り人が使うような枝バリ使用のそれでは決してない。ふつうの背バリ仕掛けは、支点が二ヵ所ある。ひとつは鼻カン、もうひとつは背中に打った背バリである。しかし、恩田さんの背バリ仕掛けは背中の一点だけ。しかも、ハリではなくオトリの背に棒鼻カンからのびるイトが通してあるだけなのだ。背の皮一枚をわずかに縫ってあるといったほうが適切か。
名人の棒鼻カンを見ると、一方をヤスリで鋭く削って針のように尖らせてある。この針でオトリの背の薄皮を縫うのである。流速、水深にあわせて首、肩、背と位置を変え、適切な場所に“背バリ”を打つのである。背バリ代わりのイトは大ものの場合、オトリの皮を破って、背からはずれるようになっている。
これならば、枝バリを付けることによって余計な水圧を受けることもない。しかも、仕掛けはシンプルで、トラブルも少ないはずだ。さすがである。だてに名人、聖人と呼ばれていない。
ただし、問題がある。使用する人が少なく、売れない棒鼻カンを扱っている釣具店があまりにも少ない。根気よく探すか、自作するしかないだろう。」
背バリ式棒鼻カンと、一般の背バリ仕掛けの図が掲載されているが、作図の腕がないから省略します。
棒鼻カンをまず支点とする場所の皮に通して、その後で鼻に棒鼻カンを通している。
オラがその仕掛けで気になったのは、ハリスが鼻カンよりも上の中ハリス?から出ていること。これぞ、故松沢さんがなよなよのハリスでも大アユに鉤素を切られることがない理屈と同じではないかと思うから。
つまり、ハリスが長い、中ハリスにハリスを結びつけるということは、かかったときの馬力を中ハリスが柔軟に吸収できる、ということではないかと思っている。
もっとも、齋藤さんの図では、中ハリスから出たハリス?の先に自動ハリス止めが書かれているから、現在の、今様の自動ハリス止めを使う仕掛けと同じである。そうすると、掛かりアユの馬力を、中ハリスで吸収することはできないが。
多分、自動ハリス止めが使われていなかった頃は、故松沢さんと同様、鼻カンよりも空中糸側にハリスを結びつけていたのではないかなあ。
さて、仕掛けを工夫してもあゆみちゃんをだっこできる数が増えるとのうぬぼれとも決別しているヘボには、仕掛けよりも塩焼き一万円の方が気になります。こんな値段では、継代人工がますますのさぼり、秋道先生の女学生さんたちが「アユは生臭い匂いがする」から嫌い、という現象が学者先生たちの産卵時期の教義同様、普遍教義、根本教義となってしまう。
「香」魚を知る機会があった最後の新規参入者としては悲しい限りです。
阪神淡路大震災の野島断層が保存されている豊島の仮設店舗でのこと。
アブラメのメニューがあったから、刺身と煮物と唐揚げを注文した。オラと同年配と思われる元ネエが、近くの魚屋さんにアブラメを註文した。昼網で捕ったアブラメを見てびっくり。せいぜい二十センチくらいの大きさを想像していたが、尺上の大きさ。
魚ん棚で売られているベラでも、昭和三十年代までは十五センチくらいの大きさであったのに、昭和四十年代半ば以降は十センチあるかなしかの大きさに。ガシラも、出汁にしかならないようなチビが売られている。
そのような「チビ」まで売られているから、餓鬼の頃にホオリコミや突堤での竿釣りで釣れていた尺モノはもはや庶民の口にはいることはないものと思っていた。
こらあ、一匹ウン千円コース、と覚悟をしていたが、五百円。
ほかで飲んできた人達がやってきた。その一人が洲本の飲み屋さんの魚料理を盛んに自慢していた。連れが困り近くの料亭に行こうと、連れ出した。
元ネエが、その料亭に行くと座るだけでウン千円とられる、と。
郡上の料亭であるから、塩焼き二匹一万円近くということかなあ。それであれば、あんまり気にすることもないが。
せいぜい二十センチ級のアブラメと思っていたから、尺上のアブラメを食べきるのに苦労しました。いや、アブラメだけであれば、腹も持ちこたえられたが、食事も注文していたため、大変。食い物を残すことは犯罪である、との時代の申し子は、残すことはできない。
いま、福島の食材に対して、放射能汚染による健康被害が云々されているが、神戸大学の先生のように、自然界に存在しない放射性物質の存在だけで、健康被害云々することが適切かなあ。量の問題を忘れているのではないかなあ。量の問題は一時的な量と、蓄積していく量とがあろうが、神戸大学の先生は、いずれにおいても、自然界に存在している以外の放射能は、即健康被害を生じると考えられているよう。発症までには時間がかかるということのようであるが。
サッカリンやズルチン、昭和三十年頃にはチクロが唯一とはいわないが、主要な甘味料で、たらふく食べたものとしては、自然界に存在していない放射能が、量の問題を考慮しなくても健康被害が生じる、との発想はおかしいと思いますが。
何時になったら、大文字焼きの薪に放射性物質が含まれているから使うな、という主張がまちがっちょる、となるのかなあ。
f 井伏さんの長良川
井伏さんは、「釣師・釣場」(新潮社:昭和35年・1960年発行)に、長良川に行かれたときのことを書かれている。
@ 長良川の状況
鵜飼いが行われている付近の岐阜で、長良川の状況を聞かれている。
「岐阜市には水野後八さんといふ釣の達人と、伊藤貞一さんといふ釣の先生がゐる。」
「『この川の上流、郡上(ぐじょう)八幡から、その少し川下の相生あたりは絶對です。』後八さんが云つた。『六月二日現在、十五匁、二十センチの大きさですから、相生あたりならば、ハリスは六毛、または四毛で宜しいでせう。一日、四十尾は保證します。初めて釣る素人でも、ねばれば十尾は釣れますね。』」
「(注:鵜飼いの)遊船客の料金三百圓のうち、五十圓が鵜匠の手に渡ることになってゐる。鵜匠は世襲になつてゐて五軒ある。それを増やしも減らしもしないのが方針で、市役所から助成金が出てゐるさうだ。」
鵜飼いの場所で、鵜縄といわれている漁法が行われていた。その漁法は、鵜綱引(うつなひき)とのこと。
「『やつぱりさうか、ちゃうど、鵜飼船の行動圏を荒らしてゐるね。』
『でも、どうせこの邊にはアユはをりませんですから。』」
さて、初心者でも十尾は釣れるという程、アユが多い時代はいつ頃かなあ。
遊船漁が三百円であるから戦後のこと。「釣師・釣場」の発行が昭和三十五年であるからそれ以前のこと。そして、「山下」が紀伊半島に逃げ出していない頃であるから、遡上アユが多かった長良川。昭和二十年代後半から昭和三十年代の初めではないかなあ。
なお、その頃でも、鵜飼いのアユは徳島の養魚場から運ばれていたのかなあ。いや、まだ、鵜飼いのために海産か、湖産の「準天然」を運んでくるほどの経済的な余裕はなかったであろう。
そうすると、宿のお女中の「でも、どうせこの邊にはアユはをりませんですから。」と、の発言はどのような現象を表現しているのかなあ。
鵜飼いのために頻繁に、「徳島」の養魚場から運ばれてきた「準天然」、あるいは後には継代人工が鵜飼いで鵜が捕まえるアユの主役になってから、鵜が「活け締め」にしたアユが「上等」「高級」アユと、「味音痴」の「観光客」のが騙されるようになったのかなあ。
A 相生の情景
「十時過ぎに宿を出て、私たちは岐阜から十里あまり上流の相生といふところに着いた。後八さんに教へられた釣場である。川幅が廣く、架つてゐる橋も大きい。橋の川下に、二階屋ほどの大きさの岩がころがり出て、眞つ青な淵をつくってゐる。」
野田さんは、激流の相生での出来事を書かれている。そして、ヘボを説教されている。ヘボといってもカヌーイストのことであるが。補記二長良川の洗礼
「丸岡君は晝飯を大急ぎで食べると草鞋に履きかへて、鑑札と囮のアユを二尾買つて橋を渡って川に降りて行つた。私はゆつくりと御飯を食べながら、土間の窓から川の様子を見た。窓のすぐ下が川だから、川向うと川上が一望である。川下に橋がある。十人ちかくの釣師がゐて、川向うの崖にへばりついて釣つている男が一番たくさん釣りあげてゐた。崖に岩ツツジが花を咲かせ、崖の上には樫の木が茂ってゐる。川の水はその崖の手前で白く泡立つS字状の瀬をつくってゐる。
崖にへばりついている男は動作が輕快であつた。アユがかかると、竿の手元を抜いて木の切株を傅ひながら水際に降りて行き、釣れたのを掬ひとつたタモ網を岸に殘して崖に這ひつくばひのぼつて行く。釣れても、一尾や二尾は囮箱に入れる手數を省き、囮を附けかへる手數も省くといつたやりかたである。私はその釣師の釣る數を勘定してゐたが、十二時四十分から一時四十分までに十四尾も釣りあげた。後で聞くと、この釣師は土地のガソリン屋で渡邊年男さんといふ名前であつた。」
崖の上り下りをしても時速十匹以上。もちろん、釣れる時間帯ということも考慮しなければならないようであるが。
B 丸岡君の釣り
「丸岡君は大きな淵のほとりで囮を附けてゐるところであつた。」
二人とも、近眼に老眼が出ていてオトリの鼻が見えづらくなって、メガネを外したり掛けたりして、井伏さんは囮を附けるのを手伝った。井伏さんは、鼻の穴があいて色も悪くなった囮を見て、
「この種魚、二尾二百円は高すぎるね。もう半分のびているぢやないか。
私がいふと、
『なあに、大丈夫さ。』
と丸岡君は囮を引いて橋の上手に出たが、崖のところまで行つたときには囮はもう弱り切つてゐた。
丸山君も橋の下に降りて来て、釣師のガソリン屋さんとなにやら話してゐた。後で聞くと、私のことをアユの研究家だと法螺を吹いたさうだ。ガソリン屋さんは丸岡君が何も云はないのに場所を空けてくれ、囮箱はそのままにして何気ない風で川下の方に移つていつた。普通、ちよつとできない真似である。
実際、そこはいい釣場であつた。丸岡君が囮を瀬のなかに入れたと思ふとすぐに來た。私はタモ網を持つて待受けた。ところが、道絲を竿と同じ長さにしてゐるので魚が宙に吊されて、肉切れがした感じで釣り落としてしまつた。
『道絲が短いんだよ。もっと長くしないか。それとも、釣れたら手元を抜くことだね。道絲は竿より六尺ぐらゐ長くしてもいいよ。』
私がさう云ふと、
『それぢや囮が出ないよ。』
と丸岡君が云つた。
囮が弱って用をなさないので、丸岡君は別の囮に附けかへた。暫くするとまた來たが、手元を抜いてゐる間に落ちてしまつた。
『丸岡君、道絲が短いんだよ。短いから宙釣りになるんだよ。』
くどいやうだが、そう云ふと、
『そんなに怒るな。』
と丸岡君は、カケ鉤が縺れたのをなほしながら云った。
『頑固だね、実際。どうして、あんなに落着はらへるのかね。』
と私は丸山君に云った。川瀬の音でそれは丸岡君には聞こえなかつたらう。」
丸岡君の頑固さは、オラにも覚えがある。亡き師匠らがせっせとほんものの鮎と川を教えようとしているのに逆らったオラ。いや、逆らっていたというよりも、馬耳東風。釣りが終わった後は、竿の手入れも、仕掛けの点検もせずに、さっさと麦酒を飲んでいたオラ。
「附けかへた囮も初めから弱つていた。もしこれが役に立たなかつたら、長い橋を渡つて雑貨屋まで種魚を買ひ出しに行かなくてはならぬ。私は見かねて丸岡君から竿を借り、神經痛が出てもかまはない氣でズボンをたくし上げて水に立ちこんだ。竿をかまへると間もなく手應へがあつたが外れたので、ここが岐阜の貞一さんの云つたところだと、囮を少し川上に引つぱつた。次に、少し川下に流してみると、うまい工合にごつんと來た。竿の手元を抜くと、道絲の長さが漸く足りて、タモ網に掬ひとることが出來た。
今度は生きのいい囮が出來たので、私は竿を丸岡君に返した。」
C 丸山君の釣り
「霧雨が降りだした。時刻も四時すぎになつてゐた。そこへ、ガソリン屋さんの釣師が囮箱を取りに來て丸山君(注:「丸岡君」?)に云つた。
『今日のやうな天氣なら、この場所はお晝すぎの二時間がよく釣れます。今日は水温が低いです。』『お晝すぎから二時間がね。』と丸山君が云つた。『なかなか難しいもんですなあ。すみませんが、囮を賈つてもらへないでせうか。』
『賈らないこともないけど。ともかく賈つてもいいけど。』
ガソリン屋さんは丸岡君の囮箱をのぞいて見て、二尾の死んだアユを取出すと、それを自分の大きな囮箱に入れた。さうして、自分の囮箱から生きのいい二尾のアユを取出して、無言のまま丸岡君の囮箱に入れた。ちゃうど種魚として恰好な大きさのアユであつた。この土地では、たぶん漁業組合で種魚の相場をきめてゐて、旅の者に安く賣ることを禁じてゐるに違ひない。ガソリン屋さんは組合の協定に違反したくなかつたのだらう。
丸岡君はガソリン屋さんの見ている前で、一尾うまく釣つた。私はそれをタモ網で掬つてそれを囮として附けた。私は丸岡君がもう一尾釣るのを待つて、囮を附けかへてから橋の下に行つて雨やどりをした。雨が小降りになつてから橋の上に出て行くと、崖の下で三角傘をかぶつた丸岡君が囮を附けかへてゐた。」
ガソリン屋さんの所作、行為は、雨村翁が仁淀川の鎌井田の瀬に、村に愛着を持たれた人情、川漁師の親切と気配りに通じるものがあるのではないかなあ。
D 腹オモリ、鰓からのオモリ挿入
「生きのいい囮を附けるときの氣分は格別である筈だ。しかし、囮が弱つて掛替がない場合はどうするか。以前、私は友釣に行くたんびにそればかり氣に病んでゐた。ところが去年、熊本県の人吉市の永井己好さんから耳寄りな話を聞いた。友釣で種魚が弱つた場合には、思ひ切つてアユの腹をナイフで割いて、腸を取出してオモリの三匁から四匁を入れて細いテグスで縫ひ合せる。するとアユは水底に浮かんでも寝ないので、生きのいいやつが襲つて來てかかる。これは己好さんがたびたび經驗したことださうだ。
私が岐阜でその話をすると、後八さんがかう云った。
『われわれもそれをやつてゐます。私はアユの腹を割かないで、鰓からオモリを腹に押し込みます。』
しかし、四匁のオモリを鰓から押し込むのは難しくはないだらうか。もつと小さなオモリを二つか三つ押し込んではどんなものだらう。もつとも、球磨川の人吉あたりでは、一尾四十匁平均の大きなアユが釣れるといふ。人吉市の己好さんは四間半の腰の弱い竿を使ひ、オモリは十匁、オモリから上は鋼鐵線、オモリから下は四厘のテグスを使つてゐるといふ。激流が目に浮かぶ。鉤はキツネ型の一寸二分、または一寸三分を錨型に組合せ、尻テグスは四厘半を使つてゐるさうだ。
いつか私は、球磨川筋出身の映畫監督助手と伊豆の河津川へ行つて友釣の競技をした。その人は太い木綿針をアユの背鰭の附根に差してカケ鉤をそれに垂らし、アユが釣れると囮ごと空中に跳ね上げて、落ちて來るところを木綿のタモ網で受けとめてゐた。何のためにそんな漁法が生まれたのか不思議である。激流だからタモ網が使へないためだらうか。」
萬サ翁など、郡上八幡の釣り人以外にも、球磨川でも引き抜きをしていたということかなあ。そうすると、全国大会1位の成績にになったのに、品がない、鮎釣りに貢献しない、という理由で、1位にされなかった満さんへの仕置きはどのような方々の発想かなあ。お行儀が悪いから川漁師の真似をするな、ということかなあ。
E ハリスは馬素
「私は貞一さんの友釣の仕掛の見本を見せてもらつた。カケ鉤を結ぶのはテグスではなくてKい馬尾である。私は笛吹川でも相模川でも馬尾を使つてゐる釣師がゐるのを見た。馬の尻尾だから弾力性と浮力があつて都合がいいわけだ。
『なるべき馬尾は太いやつがいいです。』と貞一さんが云つた。『二本よりなら、大きいのが來ても切れません。カケ鉤を取替へるときも、ぴんとしているので馬尾の方が便利です。』」
F 「山下」という男
「『それから、初め鉤を附けるとき、絲にたるみをつけないやうにするべきです。馬瀬川の山下といふ男なんか、箪笥の抽斗に絲をかけて、ぎりぎりに張って鉤を附けてゐます。これは私も感心したことでした。こいつは、神業のやうにうまい男です。』
山下といふ釣師は伊豆の狩野川筋で生まれた男だが、二十年前に木曽川水系の間瀬川(注:原文のまま:馬瀬川?)筋に流れて來て、貧乏後家のところに入りこんで現在に至つてゐるさうである。年は六十幾つ、六尺豊かな大男で、五間半の不細工な自製の釣竿を使ひ、人の前でも素裸で釣つているさうだ。
『普通の人間では持てぬ重い竿です。』と後八さんが云つた。『しなつて、重くて、私なんかに調子がわかりません。大きな淵に胸まで入つて、フリダマで釣つてゐるのです。荒瀬で釣るのですから、パンツ一つだけでも水の抵抗を少なくするためですね。』
『あの山下といふ人が釣に來ると、あたしたちは川に行つてゐても逃げて來ます。』
と傍らにゐた女中さんが云つた。」
「山下」は、飛騨川の小坂で、馬瀬川で滝井さんと、宮川では垢石翁と会っている。
昭和三十年代の初め頃までは、長良川や飛騨川付近を稼ぎの場所としていたということかも。
「この山下といふ伊豆の流浪人が、二十年前に岐阜縣に來て馬瀬川上流に定住し、初めて友釣をこの川筋の人にヘえたさうである。だから木曽川筋の友釣の歴史はまだ新しい。
『ドブ釣は、四十年前に初めて長良川に移入されました。当時は丸玉に絲を通して、根本に鉤をつけて一本鉤でしたが、子供のときの私たちにも相當に釣れたものでした。友釣の方は、だから長良川では、ドブ釣よりも二十年おくれて移入されたわけですね。』
『山下といふ裸の釣師は、冬は何をしてゐるのです。』
『冬は山稼ぎです。炭を焼いたりしてゐます。』
『五間半の竿で、仕掛けは普通のものと違ひますか。』
『やはり馬尾です。さうして一本鉤です。この仕掛けでは、ヘソ鉤は使ひません。竿は、初めのうち手元に出して、釣つては出し、釣つては出し、だんだん沖に出て、胸まで水につかるといつた按配です。』
五間半の竿で強引に釣つている姿が偲ばれた。」
「山下」と、郡上八幡に竿革命をもたらした狩野川衆とはどのように関係しているのかなあ。「山下」は一匹狼で、郡上八幡には出入りをしていなかったのかなあ。
故松沢さんも一本バリではなかったかなあ。
井伏さんが「長良川の鮎」に書かれている年が、昭和三十年頃とすると木曽川筋に友釣りが伝播したのは、昭和十年頃ということかなあ。いずれにしても、昭和の代になってからのことかなあ。
「山下」が、初めから馬瀬川に居ついていたとは考えられない。馬瀬川の放流が試験的に行われたときでも、昭和十年頃。その頃は、放流に頼らないでも、飛騨川にも、宮川にも、遡上鮎が満ちていたはず。この点、滝井さんが書かれている「山下」遍歴のほうが適切ではないかなあ。
なお、相模川のドブ釣りの憎まれっ子であるドブさんや、ドブさんに弟子入りをしたような、親分になってしまったような、山女魚キラーさんはドブ釣りでも一本バリ。
補記2,狩野川漁師との出合い
2011年、相模大堰の遡上は、3月下旬の遡上はなく、初出は4月3日かな。4月10日までの遡上量はそれほどでもなく、その後に増えて、1千万ほどになったのでは。したがって、成長しても中高生の大きさで、乙女はわずか。ドブ釣りにはうってつけの遡上状況で、山女魚キラーさんは解禁2日目には朝から働いて4束。
G 蹴られ?
「以前、私は友釣をしてゐた當時、囮が他のアユに襲はれても、外れることがあるのを一つの疑問に思つてゐた。その疑問を貞一さんが解いてくれた。アユは囮を襲ふとき、囮の頭から下に潜りぬけて尻尾に廻つて上に掠め去る。または尻尾の方から背中を掠め、頭の下を潜りぬけて行く。それも稲妻のやうに速い動作だから、囮が岩のそばに寄りすぎてゐるとアユの行動が歪曲させられることになる。だから、囮が襲はれる手應へだけで外れたら、囮を少し川上に曳いて岩を外すと釣れるわけである。
『そのときには、川上に曳くのですね。』
『さうです。廣く囮を游がすことです。夏、三時ごろから四時ごろなら、アユは淺場に出てゐますからね。川幅いつぱいに囮を引張るんです。竿を起こして、川底をすつて。』
と貞一さんが云つた。
『眞晝ごろなら、なるべく陽かげです。』と後八さんが云つた。『朝トロ、晝セ、夕(ゆふ)ノボリ、といふならはしのある通りです。ノボリといふのは、カケアガリです。』」
囮を少し岩から外して、丸岡君の竿で釣れたから、井伏さんは満足をされたのでは。
浅瀬、昼トロ、夕のぼり、とは異なる習わしはどのような意味を持っているのかなあ。いまでは存在しない河川環境による変化かなあ。「ノボリ」が、「カケアガリ」である、との表現も現在とは異なるのでは。どうしてかなあ。地域性かなあ。川の変化かなあ、アユの着き場の変化かなあ。
井伏さんも神経痛に。雨村翁も。
そうすると、前さんが、九月中旬できっぱりとアユ釣りをやめられている理由について、産卵場へと下るアユを、人生最大のイベントを行うために下るアユを、安宅の関になぞらえて悲哀の物語を理由とされているが、そうかなあ。神経痛にならないようにすることが、理由ではないかなあ。
ただ、六月の水温は10月中旬よりも低いから、6月のアユ釣りもしない、といわないと辻褄が合わないが。もっとも、6月は、低い水温、気温から、上昇している季節であり、身体が15度くらいの水温でも順応していて、他方、10月頃になると、20度以上の水温から20度以下の水温になり、水温低下の方が身体には応えるということかなあ。
ウエーダー、その前のタイツが存在していてありがたいなあ。
なお、故松沢さんは、神経痛にはならなかったようであるが、目は悪くなった、と。偏光グラスがなく、また、故松沢さんは、目印のかすかな変化で掛かりを察知して竿操作を行い、掛かりアユを上流にすっ飛んで行かせる竿操作をされていたから、目への負担は大きかったということではないかなあ。
H超初心者丸岡君の結果は?
「相生といふところには宿屋が一軒しかなかつた。私が丸岡君を崖の下に殘し、丸山君と一緒に宿に行つて待つてゐると、丸岡君がガソリン屋さんの自轉車の尻に乗せられて歸つて來た。もう日暮れになつてゐた。
『あれから囮がみんな死んぢやつてね、ガソリン屋さんにまた囮をわけてもらつたよ。あれから二尾釣つたから、今日の漁獲は合計四尾だ。ぼくとしては、生まれて初めてアユを釣つたのだから大出來だよ。』
ずぶ濡れになっている丸岡君はさう云った。」
多分、昭和三〇年頃、遅くても、三二,三年頃の長良川には、超初心者でも「自然児」が釣れるほどの遡上アユがいたということでしょう。もちろん、「純天然」の湖産は、吉田川などの支流に放流されていたでしょうが。
2 東先生の流下仔魚量調査
東先生が松浦川で行われた流下仔魚量調査結果が、学者先生の海産アユの産卵時期が10月、11月であり、狩野川に棲息している12月のアユは、越年アユである、との、「アユの話」を正当化する役割を果たしている教説であるからには、この調査結果に対する反論を定量分析的に推理しなければならない、とは思えど、出来ませんでした。
(1)松浦川での流下仔魚量調査について、感想だけを書くしかなし。
@ 対馬暖流の生活誌の海産アユがいるのでは。
太平洋側の海産アユと、対馬暖流=日本海側の生活誌が分かれるのが球磨川か、あるいはそれより南の川か、あるいは九州西岸の川には対馬暖流の生活誌を営む海産鮎と太平洋側の生活誌を営む海産鮎の両者が生活しているところがあるのか、ないのか。
A 10月に産卵している鮎は、交雑種がいるとは思うが、東先生は区別されていない。流下仔魚の親が海産に由来するのか、湖産に由来するのか、その区分を仔魚の大きさで行っているとすれば、海産親由来の仔魚には交雑種も含まれている可能性もあるのではないかなあ。
B 「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」(全国内水面漁業組合連合会:平成9年3月)の相模川における流下仔魚量調査と産着卵調査においては、12月の調査においても、その存在が認められる。
この調査報告は、数値を追っていく上で、どうもしんどい作りになっているため、調査が行われた1995年等の年報から、12月に存在した痕跡だけを紹介します。なお、調査は、1994年、1995年、1996年に行われているが、一部なくなっているため、不完全な紹介になります。
(2)1997年の相模川での調査
産着卵
12月11日、12月25日の調査日で、調査ヵ所ではともに発見されている。
流下仔魚
12月18日、12月25日の調査日で、調査ヵ所ではともに発見されている。
なお、1996年調査では12月25日の後、平成9年1月9日においても一部の調査地点で調査が行われ、流下仔魚が観察されている。
したがって、12月下旬においても、調査が行われたときは必ず流下仔魚が発見されているといえよう。
この調査においては、学者先生の海産アユの産卵時期が10月、11月である、との教義に忠実であり、相模湾の耳石調査結果からも、10月1日頃から海産鮎が産卵、孵化している、とのメールも見つかった。
しかし、幸いにも、12月にも、そして、1月にも1日だけであるが、また、1年だけではあるが、調査が行われている。
12月における産着卵と流下仔魚量調査は、2日、あるいは3日だけしか行われておらず、そして、5ヵ所ほど行われていたそれまでの調査箇所数とは異なり、1ヵ所だけで行われたものである。
その点でも、オラにとっては調査結果の数値を追っていく意欲がそがれている。
神奈川県内水面試験場が、この調査において、何が欠如していたか、に、ついては、そして、「鮎種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会:平成14年:2002年発行)の調査結果も含めて、なんで信頼性に欠けるか、については、「目にタコ」が出来るほど書いてきたが、いま暫く我慢してください。
神奈川県内水面試験場の人たちは、恩田さんが「むかしの子供は、川の生態系を無意識のうちに知っていたってことやな。それにひきかえいまの子供は、そんなことようできんやろうな。ファミコンだとか塾通いで川に下りんから、生きた『川』を知らんもの。」(齋藤邦明「釣聖 恩田俊雄」 つり人社:1995年・平成7年発行)
もちろん、1995年頃、2000年頃の流下仔魚等の調査をされた県の方々は、ファミコンはいじっていなかったであろうが。
(3)側線上方横列鱗数
外形状から、湖産、海産、継代人工の違いがわかりやすい事例だけは再度書かせて頂戴。もちろん、継代を重ねていないとき等の例外はあるが、継代人工は鮫肌人工です。
a 福井県の側線上方横列鱗数とアユの由来
漁協が「湖産」として購入した放流用アユが、「湖産」ではないとの疑問をいだいていたことから、福井県が再度調査をした側線上方横列鱗数は次の通り。
湖産の河川遡上群 23〜27枚
湖産の短期養成群 23〜27枚
湖産の長期養成・人工群 16〜26枚
海産 18〜24枚
人工産 13〜18枚
福井県は、下顎側線孔数により由来の区分を行っているが、当然、この手法による識別に誤差は生じる。下顎側線孔数が4対でも左右対称になっていないもの、左右対称であるとしても、「人工」もあり得る。
下顎側線孔数4対であることと、左右対称であることを海産、湖産の「純天然」鮎とし、それらが乱れているモノを「人工」鮎と区分していることが、簡易に由来を識別できる有効な手法である。しかし、「乱れている」とは、「乱れていない」モノも包含しているから、「人工」であっても乱れていないモノが生じる確率は0ではない。0に近い水準であるが。
「側線上方横列鱗数と下顎側線孔数を指標に用いた由来判別では、側線上方横列鱗数が、18枚以下は人工産種苗、23枚以上は湖産種苗とし、19〜22枚で下顎側線孔が4個以外は、湖産種苗と判別できると考えられた。しかし、側線上方横列鱗数が、19〜22枚で下顎側線孔数が4個の個体は、海産種苗あるいは湖産種苗のどちらであるか明確に判別できないと考えられた。」
福井県は、由来識別の指標に下顎側線孔数を用いているが「左右対称」の有無は指標にされていない。もっとも、この指標を用いたとしても、精度がそれほど上がるとは考えられないが、21枚以下の「海産」、23枚以下の湖産の出現率は小さくなるのではないかなあ。
「湖産」については、漁協が購入された「アユ」を対象としただけではなく、琵琶湖でも調査をされたのではないかと思うが、海産はどうされたのかなあ。
湖産(河川遡上)と湖産(短期養成)の側線上方横列鱗数はともに23枚〜27枚である。
ところが、海産になると、18枚〜24枚の分布になる。海産は、どのように調査をされたのかなあ。放流が行われた後の川の鮎で調査をされたのではないかなあ。
そのため、海産の側線上方横列鱗数「22枚」とは異なる10枚台の「海産」が出現したのではないかなあ。
とはいえ、神奈川県が漁協が「湖産」を放流したといっているから、川には湖産しかおらず、湖産が11月に産卵していることに何らの疑問を持たない「感性」とはえらい違いですよね。
その「アユ」の基本的な知識も、川で魚たちと戯れることもなかったであろう方々が調査を行うと、どうなるか、反面教師として、役に立つのではないかなあ。釣り人でも魚心さんのように「観察眼」の劣る方もいらっしゃるようですから。
b 神奈川県の由来識別
側線上方横列鱗数について
神奈川県継代 14枚以下
オラが鮫肌人工の典型事例としていることが理解していただけますよね。亡き師匠らが、水がきれかった半原上流の中津川でさえ、敬遠した理由が分かりますよね。1990年頃の継代は、まだ10代くらいしか代数を重ねていなかったから、2010年の20代くらいよりは、肌の粗さは少なかったと思いますが。
湖産の区分が行われて、鱗数が表示さているが、一切信頼されように。ジジー心から念のため。
湖産 姉川遡上 20枚
湖産 4月採捕 16枚から20枚
湖産 2月採捕 14枚から16枚
湖産 11月採捕 13枚から19枚
湖産 早川放流魚 20枚、21枚
「参考 天然遡上」 18枚、19枚
よい子でないオラでも、この由来区分が「絶対」におかしい、と。川那部先生に「絶対」という判断は信用できない、といわれてもですよ、「絶対」に「湖産」も「海産」由来とされている側線上方横列鱗数はまちがっちょるといわざるを得ないんですけど。
福井県と違い、琵琶湖での調査をされておらず、養魚場からのサンプルを使用し、養魚場のいう「由来」を「事実」と信じて疑わなかったということでしょうかねえ。
違いますか、調査結果のいちゃもんに、メールでの返事を下さった研究員さん。
あそうそう、21世紀頃では、冷水病が蔓延して10年ほど。「湖産」はどのくらいの生存率ですかねえ。放流したのにアユのいない川、というのでは、養魚場さんも翌年の商売に支障が出るから、「生存率」を高めるために、また未だ「湖産」信仰の購入者を満足させるために、「継代人工」をブレンドして「生存率」を何とか高めようとされている「努力」の産物に神奈川県が無頓着とは、鈍感力の代表者であるオラでもビックリ仰天です。
ということで、松浦川とは異なる産卵時期、流下仔魚調査が、相模川でも存在しているから、東先生の調査結果が、太平洋側では通用しない、といいたかった目論見も不完全は調査で潰えました。
しかし、12月にも産卵し、孵化していることは、「事実」である、ということはいえると考えています。
c 産卵場での親の大きさ
研究員さんは、調査のとき、大きい親と、小さい親では、砂礫層とはいっても、砂礫の大きさの選択が異なると話されていた。
小さい親は小さい砂礫のところを選択すると。
このような観察を報告書に記載していてくれたら、オラには非常に役立つのになあ。定量分析でなくても差し支えありません。カンピュータで大小親の構成比を書いていてくれたらそれで十分なんです。
2010年、狩野川は遡上アユが釣りの対象となるほど、遡上量は多かった。しかし、大きさは11月でも、大きくて女子高生、小中学生が主体であった。
2011年の7月2日、湯ヶ島で22センチが釣れたとのこと。オラは、当然、継代人工を、そして、海産であるとしても、海産畜養を想像した。
しかし、故松沢さんが川見も、アユの観察も優れていると話されていた名人見習いの師匠が、人工ではない、海産畜養でもない、遡上アユの一番上り、と、判断されたという。
それで信用をした。
d 産卵時期と成長度合い
2010年と2011年の狩野川の遡上アユの大きさの違いは?
2011年9月20日の久々の大仁で4メートルの増水になる前、狩野川大橋の瀬でテク2とタマちゃんが、29センチ、28センチの泣き尺を。丼大王が久々に丼はしなかったようであるが、大アユの馬力に負けて橋桁に竿をぶっつけてしまう事態も。
その後、4メートルの増水で河原の葦が流されて瀬の芯の石の間に挟まってからの丼大王は、ハイリスク ノーリターンに。松下の瀬では、囮をなくしてしまった観客が、丼大王が取り込むと拍手。根掛かり放流をすると拍手喝采。最後は、観客からの麦酒の差し入れで終わり、とのこと。
当然、オラも、下りが始まる11月には、泣き尺どころか、尺アユをだっこできるものと、るんるん気分に。
なぜなら、西風が吹き荒れて=木枯らし一番が吹いて下りが始まると、一宿一飯の宿を求めた大アユが、瀬の芯だけでないところの食堂も利用するから。
しかしですよ、10月に何回50センチ、90センチの増水があったことやら。その増水で中落ちしていった鮎が多く、例年の11月並の24才くらいの乙女止まり。
もはや、この世では「香」魚も、尺アユもだっこできないのでは、と嘆き悲しんでいます。
故松沢さんは、鮎にも早熟と奥手がいる、と。
しかし、「純天然湖産」のように、10ヵ月で性成熟をして、翌年には14ヵ月で性成熟をする、という循環をしているはずはない。
したがって、12ヵ月±1ヵ月ほどの期間の範囲内で早熟と奥手の性成熟の違いではないかと思っている。
そして、大アユほど、早い時期に産卵するのではないかと。したがって、11月の産卵の主役は大アユではないかと。
もし、1995年頃、2000年頃の相模川での流下仔魚量調査のときに、産卵の情景で、時期ごとに親がどのような大きさの構成であったか、少しでも資料に書いていてくれていたらと思う。
さて、2010年の狩野川で産卵した親は、12月生まれの小中学生が主体の筈であるが、なんで2011年には大アユの狩野川になったのかなあ。
そして、小中学生の親は一杯いたにも拘わらず、なんで、2011年には小中学生は少なかったのかなあ。
相模川でも、相模大堰副魚道における遡上量調査で、2000年、2004年、2008年の大量遡上:1千万、2千万の遡上量の翌年に遡上量が激減している。
e 海の動物プランクトン生成量
相模湾の動物プランクトンは生成量の限界があるのかなあ。その限界値を超えたとき、「全員が死ぬのは忍びない」ということで、順位制や縄張り制の社会制度が形成されるものの、稚魚では未だそのような社会制度がないため、稚魚の激減になるのかなあ。
それでは、2011年の駿河湾では?
狩野川海域では、11月には動物プランクトンが正常に繁殖していたが、その稚魚が他の海域に去ってから、狩野川海域での動物プランクトンの繁殖が激減したのかなあ。
動物プランクトンの繁殖量には、海水温が影響しているのかなあ。それとも、増水による栄養塩の川からの流れ込み量が影響しているのかなあ。
丼大王は、1012年冬の東伊豆の海水温が2,3度高く、ハバノリの生育が悪かった、と。
東伊豆の小さな川で、川の水温10度で、3月22日に遡上が確認できた、と。その前から遡上が開始していたかどうかは、増水による濁りで確認できなかった、と。
東伊豆の稚魚は、駿河湾の生活圏かなあ、相模湾の生活圏かなあ。
もし、その観察された遡上稚鮎が相模湾の生活圏と同じとすれば、相模川では3月下旬に相模大堰の魚道を上る可能性も出てきて、2008年の6月のように16,7センチの遡上アユが、その後は乙女が釣れるようになると思うが。
なお、遡上量が多かった2011年の相模大堰遡上時期は、3月下旬はなし。初出は4月3日かな。4月上旬の遡上量はそれほどでもない。釣りの主体は小中学生に女子高生混じり。乙女をだっこできた人は僅少。
原田先生は、遡上アユの大きさにどのような要因が関与しているのか、調査されたとがあるのではないかなあ。
f 信濃川の流下仔魚
不十分ながら、相模川での流下仔魚量、産着卵調査結果から、房総以西の太平洋側で12月に生存しているアユが、「越年アユ」だけではない、といえる、と喜んでいたら、信濃川の流下仔魚量調査を見て、困った。
耳石調査による推定孵化日は、相模湾の稚アユが10月1日頃に孵化していたり、四万十川海域の稚魚が2月に孵化していたり、と、信頼性に欠けるから使用しないことにしているが、信濃川でも耳石調査だけでなく、流下仔魚量調査も行われている。
その調査結果で、12月1日の数日前に流下仔魚が観察されている。
この現象をどのように考えればよいのかなあ。困りましたね。
g 石田力三さんの役割は?
「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」、「アユ種苗の放流の現状と課題」の検討委員会のメンバーには石田力三さんが入っている。
石田さんは、12月の産着卵、流下仔魚が存在していることにどのような評価をされたのかなあ。
もっとも、石田さんは、海産アユ(湖産を含むかどうか忘れた)の産卵時期について、学者先生の表現とは少し異なっていて、9月中旬から12月上旬とされていたのではないかなあ。
そうであれば、12月下旬の産着卵や流下仔魚が観察されても、「想定内」ということになるのかなあ。
側線上方横列鱗数に係る神奈川県の由来区分にも沈黙を守ったということは、石田さんは、単なる権威付け、補助事業に必要な「名前」、名義貸しということかなあ。
対馬暖流における鮎の生活誌が、九州のどのあたりまでか、が判れば、少しはやる気も出ますが。
それに、2012年3月22日、東伊豆の小さな川に遡上アユがみられた、と、丼大王のメールが来れば、楽しくない作業はやめたくなりますしい…。
丼大王がみた遡上稚アユが、相模湾の稚鮎であれば、2011年の狩野川と同じく、乙女が釣りの主役になるが。
東伊豆の稚鮎が、駿河湾の稚鮎であれば、その期待もしぼんでしまうが。
3 長良川と恩田さん
齋藤邦明「釣聖 恩田俊雄」(つり人社:1995年 平成7年)
長良川と齋藤さんの関わりで、気になっていたことの一部が、「釣聖 恩田俊雄」で解決したことがあるので、それを紹介します。
ただ、「釣聖 恩田俊雄」は、アユよりもアマゴ、サツキマスが主役で、例によって、シラメとサツキマス、あるいは……といった、素石さんらを悩ませた事柄にも触れているため、山女魚、アマゴが対象の人には楽しいとは思いますが。
しかし、神奈川県の調査に対する「口直し」程度の紹介にとどめます。紹介したい多くのヵ所は、あゆみちゃんのお尻を追っかけが終わってからにします。
いえ、あゆみちゃんと違って、七変化しているかもしれない山女魚、サクラマス、アマゴ、サツ7キマス。それらに係る亀井さんの下北半島の「杉の子山女魚」、井伏さんが紹介されている最上川釣り人の山女魚とサクラマスとの雌雄の話、そして恩田さんの話。素石さんなら、この3題話をどのように折り合いを付けられるのか興味津々ですが。
(1)恩田さんの懺悔
齋藤さんは、恩田さんについて
「山間の小さな町に住むこの老人が、全国の釣り人に“釣聖”と呼ばれるようになったのは、釣り人であることもさることながら、『長いものには巻かれろ』の山峡の閉鎖地域にあって、一部権力者たちが旗を振り、税金の無駄遣い、自然破壊が必ずついてまわる土建行政に敢然と立ち向かう董狐(とうこ)のごとき人だからである。」
@ 落葉広葉樹林の伐採
恩田さんは、生涯「水商売」をされていたのではない。
昭和14年に除隊となり戻ってきてから、ボロボロの身体が回復するに従い、材木屋を繁盛させていった。
「扱っていたのはヒノキの建築材、そして主力商品は国鉄や私鉄の枕木やった。枕木の注文取りに、建設省やら運輸省の地方局なんかに納入のお願いによくでかけたな。鉄道の担当課長の前で最敬礼さ。なにせ、相手は怖いものなしのお役人やからな。
そのときや、五十本入りのピース缶がえらい効果を発揮したもんよ。
まず自分が一本吸ってから、ここが大事なんやが、間髪をいれずに『どうぞ』って相手に缶ごと勧めるんや。それをそのまま置いてくるわけだが、まぁ、いまでいう賄賂やな。当時、賄賂なんてとんでもない時代で、ものすごく厳しかったんやが、タバコは配給品で不足していた時代だし、なによりピースは高級品やったでな。
そんなこんなで商売はトントン拍子やった。ところが、そこにわしの生涯に汚点を残してしまう。」
恩田さんに何とも人間くさい、俗人っぽい一面があった。嬉しくなってしまう。
「枕木はおもに栗材だったんやが、それが戦中、戦後の物資不足の世の中になって、栗からブナ、ナラの木になっていっての、ついには郡上周辺の原始林にまで手をつけてしまった。それが、わしが今日までずっと引きずってきた一生の悔いや。悔やんでも悔やみきれん失敗や。
広大な原始林を買いとって、太い大きな木から切っていった。切っても切っても木材需要は高まるばかり。ついにはあっちの山、こっちの山に十円ハゲやら五十円ハゲができてしまった。『まずい』と思って、今度はハゲのところにスギを植林したんだが、逆効果やった。
杉は根を深く張らんので、地表が落ち着かんし、よく土砂崩れが起きた。日本のあちこちの山腹から岩が露出している光景をよく見かけるが、これは皆伐とスギ植林のためにできたものと思っている。
皆伐に加えて昭和三十年代、国はスギやヒノキの植林を奨励したんや。
高度経済成長とともに建築ブームがまきおこっての、慢性的な木材不足になったからや。そこで雑木林、いわゆるブナやナラなどの広葉樹をつぶして成長が早く、建築材などに利用しやすいスギ、ヒノキを植林したんやが、これがいかんかった。
落葉広葉樹林と違い、これらは根が弱いから雨が降るたびに表土を下に流してしまうの。さらに、弱い根のために台風などの強風にたえられず、すぐに倒れてしまう。風倒木というやつだな。山が荒れた結果、川(淵など)が埋まってしまったり、大規模な土石流や山崩れをひきおこす原因になってしまっているのは、周知のことや。
郡上の山を見るたびに、わしはほんとうに申しわけないことをしたって、どえりゃー反省しとるの。そして、その反省のうえに、いまのわしの自然にたいする考え方と『釣り』があるんや。
子供のころから青年期までの釣りは、自然も環境保護もへったくれもなかった。そんなことはぜんぜん気にしていなかったし、魚は放っておいても湧いてくるもんやと思っていた。ところが最近の河川破壊を目の当たりにすると、無関心ではおられんのよ。
まぁ、そのへんのことはおいおい書くことにして、まずはわしの“魚捕り”からひもとくことにしよう。」
A 水棲昆虫の減少
「遠くからわざわざ訪ねてきてくれるんだし、うちにくる人には何とか釣ってもらえるように瀬虫を渡してやりたいと思ってな、前日の夕方に川にでて瀬虫を捕っておくことにしたんや。
初めはわしひとりで虫捕りしとったが、なにしろ訪ねてくる釣り人が多すぎてな、足りんのよ。それで二,三人の人にたのんで虫を採集してもらったの。一匹、二円で仕入れてよ、うちにくる釣り人に二円でわけてあげたんや。儲からんでもいいんや。その人たちが楽しく釣りをしていってくれれば、それでよかったの。
でも、その虫を保存しておくのが難しかった。瀬虫は生きとらんとエサにならんから、どうすれば生かしておけるかいろいろやってみた。試行錯誤した結果、湿らせた砂にまぶしたんや。そうして冷蔵庫に入れておけば三,四日はもっとった。
三年ほど続けたかな、ところがそのうちにまわりの釣り具屋が瀬虫捕りに目をつけたんやな、『ヒラタ、キンパクあります』って店先に看板をぶら下げるようになったんや。
虫捕りが職業化してしまって、思わぬ方向にいってもうた。いま、虫捕りは日当二万円はとるそうや。捕っても捕っても注文がさばききれんくらいで、なんでも虫捕りで家建てたっていう人もおるくらいや。わしがそのヒントを与えてしまったんだが、いまでは少し反省しておるわ。
虫売りは、釣果ばかり気にする、下品な釣り人を多く作ってしまったといえるんや。
ええかな、釣りという一連の動作を思いおこしてみればようわかることや。釣り人はまず、何をする?。
対象魚、場所を決めるな。それから釣具店にいって、竿や道具を買う。そして、魚や使うエサに応じて仕掛けをつくる。で、出発や。
釣り場についたら、次は何をする?。
魚のいそうな場所を捜すやろ。どこをポイントに見る? 水色、水量、水深、底石の有無などによって流れの変化を知ろうとするな。それから魚の居つきそうな場所、捕食位置を読む。
さて、それからどうする?
エサや。そこの場所にいる魚が何を食っているか知らなくてはいかん。魚の常食するエサを知るには、川の中に入って虫を捜さにゃならんやろ。あっちこっち捜して、やっとエサの種類を決めることができるんや。
自然をよーく観察せんことには自然の恵みは手に入らんの。そのための労を惜しんではいかん。そこまでの一連の動作はすべて自分の体を動かす。それが自然にたいする最低の義務やと思うんや。自然への思いやりなんや。
自然への思いやりがのうて、どうして自然の中で遊べる。これは釣り人にとって大切なことやで。
だが、自分でエサを捕ることで川を理解せにゃならんというのに、多くの釣り人はその大切な労を釣り道具屋で買ってきてしまう。冷とうても川の中に手ぇつっこんで、底石に触れ、水の汚れや水中の生態系の変化を観察する。その基本的な動作を端折ってしまうんやな。
早く釣りを始めたい、早くアマゴに出会いたい。それで、川虫を釣り具屋で買ってくるんやね。でもな、大事なことを省いている人は、釣りの技量も、釣っている姿もようないんやわ。どこかそわそわしていて、自然界に溶けこんでおらんのやわ。
釣果一辺倒の釣り人は、おしなべて下手や。川の生態系、ことに『魚の気持ち』というものを知らんからな。」
「現場で虫はいくらでも捕れるのに、冷たいから、面倒だからとカネで楽するような釣り人を増やしてしまって、わしはなんて罪なことをしてしまったんだって、またまた反省の日々よ。
そんなこともあって、いまでは瀬虫がほんま少のうなった。むかしはひとつの石をヘチマでひと撫ですりゃ百や二百匹の虫が捕れたもんやが、いまじゃ三つか四つぐらいしか捕れん。瀬虫だけやない、ほかの虫も一様におらんようになっとる。
これは虫捕りの商売人に依存する釣り人にも責任があるが、杜撰な河川行政が引き起こした川の汚染によるところが大きいと思うんやで。
川ん中にはゲンゴロウや水カマキリ、タガメから目に見えない小さな虫まで棲んどるわけで、なにも瀬虫やトンボ、ホタルばかりとはかぎらん。川の中にはあらゆる虫が棲息してこそ、何万年、何十万年と正常な生態系を保ってきたわけで、人間が必要としたり、愛でたりするばかりが虫やないでな。
河川工事をやるにしても行政はもっと川の生態系、虫のいる水の自然を勉強してもらわな困るんや。
そうせんと日本の川はやがて死の川になってしまうで。たくさんの種類の虫がおらなければ魚もおらんわけでな。口では自然のと共存とかなんとかいっとるようやが、机上の勉強じゃわからんことがいっぱいあるの。
行政やデベロッパー側にたった御用学者というのは、ありゃなんや。自然を征服することしか考えておらんやないか。もし公立大学の学者やったら税金の無駄遣いやで。
人工養殖した魚だけ、ホタルだけ、トンボだけ、こんなんは自然の川、生きた川とはいえんのよ。
川の自然科学を学ぶのやったら、子供のころから自然の中に出て虫の種類や数がどんだけおるか、もっと観察してもらいたい。でないと水の中の世界は知られることなく看過されてしまう。
教科書だけの勉強で自然と付き合ってもらいとうない。そんなかれらに自然の川をいじくられたら、日本中の川が死の川と化してしまうで。そうなったらもう遅いんや。自然は修復不可能やからな。
最後に、もうひとつ。最近、長良川、吉田川からカブ(注:カジカ 「カブ玉」はカジカのの卵)が消えつつあるんや。
二十年ほど前、アマゴのエサとしてカブ玉捕りも金になった。釣り具屋に持っていけばいい金になったから、郡上では商売人のためにカブ玉捕りの専用道具を鍛冶屋が作っていたくらいや。
二月十五日を過ぎるとよ、カブが産卵を始めるの。アマゴの良型にはカブ玉が有効なエサやったから、カブが産卵を始めると商売人が一斉に川の石をひっくり返してカブ玉を捕っちまったんやな。それが原因でカブが消えてしまったんやないかと思うんや。
しかし、『カブ玉がいい』いうて多くの釣り人に教えたのは、ほかならぬわしや。訪ねてくる客にアマゴを釣らせたいばかりにカブの消えた原因を作ってしもうた。瀬虫にしろカブにしろ、ほんまに後悔しとるんや。 一生の悔いや。」
この紹介部分だけで、齋藤さんが、恩田さんを「師匠」とされ、師事された理由が十分に表現されていると思います。
齋藤さんは、「プロローグ」に、
「樹齢千年の大木を切り倒すのは一日だが、千年の歴史が消え、またそれからの先年は長い。取り返しがつかなければ切るべきではなく、地域の活性化、経済効果という名のもとでのゴルフ場やスキー場、リゾートマンション建設といった金儲け一辺倒の開発はそろそろ中止したらどうか。」
「便利で整頓された生活を営むのにうっとうしい雑木林やボサ、ヘビやヤブ蚊のいる山は何の必要があるのだろう。海抜した山はスキー場、ゴルフ場に利用すればよい。それが文化のバロメーターだと考えるなら、それはそれでいいだろう。
ところが何を思ったのか、ゴルフ場などというあらゆる生物を根絶させた場所に人工林や人工河川をほどこしてみたりするから不思議だ。そして、パンフレットには必ず『豊かな自然の中でプレーをお楽しみ下さい』とある。」
この齋藤さんが「プロローグ」に書かれている文は、齋藤さんが恩田さんの思いを十分に表現されている文といえるのではないかなあ。
当然、齋藤さんも恩田さん同様、雑木林も、ボサも、ヘビも、ヤブ蚊も排除、根絶しょうとされる考えではない。持続する自然の構成者として必要不可欠であるとの考えに立たれている。
川虫の減少は、相模川でも生じている。昭和の代には簡単にビンチョロ、カメ虫、オニチョロ、黒川虫が捕れたのに、現在では多くの労力を要する。
また、湧き水のヵ所が駐車場等になって河原から消えていき、ミズスマシ、ゲンゴロウ、水カマキリはめっきり減り、タガメは絶滅したのではないかなあ。
水が富栄養水になったから、という理由では説明できない。むしろ、相模川ではBODとかCODとかいった指標での「水質」でははるかに改善しているはず。中津川は宮が瀬ダムが出来て、珪藻が優占種の場所もなくなったが。
長良川でも、「捕りすぎ」だけが瀬虫の減少の原因ではないかも。
カブについては、吉野川でもめっきり減ったこと。石の間の空隙が減ったから、という説明であったのではないかなあ。
中津川でも相模川でも、カジカの声が聞こえることはほとんどなくなった。
大井川や狩野川で聞いたことがあったのかなあ。狩野川に行ったとき、カジカが鳴いているのかどうか、注意しておこう。
恩田さんの学者先生への疑問はよくわかる。神奈川県内水面試験場の研究員が、アユの生活誌も、容姿の違いも知らないまま、調査を行うとどのような結果になるか。「アユの生態」のように、アユをつかんだこともないのではないかと思う人が河口堰の調査に携わると、もっとも重要な視点に思い及ばない、ということではないかなあ。
高鷲ナンバーの原付の若者が、長良川河口堰の「公共事業」推進の提灯持ちをしたのは岐阜大学、と話していたことにも適切な評価が含まれているのではないかなあ。恩田さんもその思いを表現されているのではないかなあ。
相模川で漁期変更の動きがあるが、その評価を行う内水面試験場の人たちは、四万十川のように、高知県のように、11月16日再解禁が遡上アユの激減をもたらしている、ということを考慮したうえで、漁期変更の判断が出来るのかなあ。
いま、相模川で漁期変更が云々されているのは、10月31日まで延長する、ということのようであるが、それでも、四万十川の野村さんが、人間の暦で魚の生活誌を見てはならない、と話されているように、産卵行動は西風が吹き荒れるころから始まるから、10月末でも産卵行動が、集結が始まっている年もあろう。産卵行動への影響を回避するには、禁漁区の設定、漁法の制限が不可欠ではないかなあ。
それにしても、全国内水面漁業組合連合会が行った調査において、石田力三さんが調査結果に何らの発言もされていないとすれば、なんでかなあ。気になりますねえ。
(2)「水商売」への華麗な転職
@ 大病は福の神?
恩田さんは、
「絶頂期だった三十五才のときわしは人生を左右する大病を患い、財産をゼロにしてしまうんや。」
「医者に『命をとるか商売をとるか、どちらかを選んでくれ』といわれるまで悪化してしもうた。 特別不健康な生活をしておったわけやないんや。タバコはピースの五十本入り缶を一日一缶吸っておったが、酒は下戸で宴会の席ではお姉さんがオレンジジュースなんかを持ってきてくれるほどだったから、てんで駄目だった。」
「とうとう医者に『よくもってあと数年の命、四十二歳まで生きられればおんの字だ』なんていわれてよ、突然のことやで目の前が真っ暗になったわ。
悩んだ末、命あるうちはたとえ一年でも二年でも生きたいと思ってな、事業をぜーんぶ精算してしまったんや。もちろん他社の役員も木材組合の業務部長の職もすべて辞して、文字どおりスッカンピンになってしもうた。
昭和二十六,七年のころやから、いい薬もなく、病院の設備もあまり整ってなかったからなかなか治らなんだ。金もないので入院もせんと、紹介されてはあっちの病院、こっちの病院と渡り歩いたんだが、かんばしくなかった。ずいぶん長い間、病んどったよ。
芳花園(食堂)を始めたのは、そのころだった。」
昭和二十六,七年ころといえば、その数年前、オラが肺炎、次の年には満州熱になり、二回一ヵ月ほど寝込んでいたが、ペニシリンが使えるようになっていたから閻魔様が逃げ出した。その頃は疫痢で小さい子が亡くなっていたが。昭和三十年代のいつ頃かわからなが、疫痢も赤痢も聞かなくなったなあ。
恩田さんの「胃潰瘍やら何やら併発」とは、いまではどのような病名になるのかなあ。
「芳香園」は、「初めは喫茶店だったが昭和30年ごろからアマゴ定食もだすようになる」とのこと。「アマゴ一品料理」の張り紙が張られている。
「何か仕事をせんと食べていけんので、とにかく店を出して家内にまかせておったんや。その間、湯治に出かけたんが益田郡小坂(おさか)の湯屋温泉やった。病がいつまでたっても好転せんので、自己診断だが湯治がいいと思い、最初、一ヵ月ほどいて、次には十日ほど、あるときは一週間とな、湯治宿におったの。
あそこは、とってもよかったんや。湯治にでかけるとな、一年間まったくカゼをひかなんだ。 その湯治がきっかけや、釣りにのめりこむようになったのは。それからやな、それからがわしのアマゴ釣りの本舞台じゃ。
温泉療養というやつは、風呂に入っては飯食って、また風呂に入ってはゴロ寝してって具合の生活じゃ。そんな生活はたまにはいいけど、飽きるで。一日中、ボーとしとってもしかたないんで、散歩にでたんよ。
温泉は飛騨川支流の小坂川沿いにあるでよ。川沿いを歩いていると大石の頭でヒラヒラしているのよ、いい型のアマゴが。で、ちょこちょこっと行ってはパッパッと尺アマゴを何本か釣ってくるの。温泉客がそれを見ていて、よう釣ってくるなと感心しておったけどな。褒められると悪い気がしないもんや、それでついつい調子にのってな、本格的にアマゴ釣りに懲りだしたんや。 アマゴの魅力にとりつかれたんやな。
『寿命は四十二歳』なんていわれておったけどな、ノー天気に釣りなんぞやってはしゃいどる死に損ないに閻魔様は愛想を尽かしたんか、とうとうお迎えにこんかった。
四十二歳の厄年をこえたあたりになると逆に身体の調子がだんだんよくなってきての、そうするとわしは多趣味やから園芸にまで手をだした。五年ほど生花や薬草にのめりこんでよ、地元じゃ薬草博士なんて呼ばれておった。」
「その後や、『本流釣り』というやつを始めたのは。いま全国で流行しているようやが、郡上では商売人も含めて早くからアマゴの本流釣りをやっておった。枝川や上流の谷での渓流釣りいうのは、アマゴも痩せとるからようないし、だいいち釣れすぎるで面白うなかったんや。長良川本流の美並村にまで遠征するようになって、おたがい数釣りを自慢しあうようになったの。本流で何本釣るか、それが自慢だったでな。
それも短時間での釣果を競った。」
なんで短時間の釣果か、その理由はそのうちに。
「このサツキマスに出会って、残り人生を釣りに生きようと思った。かれこれ三十年ほど前になるがや。」
いかなるサツキマスとの出合いであったかも、そのうちに。
いっつも、また来てね、今度はサービスするわよ、と、誘われて その気になって
通い詰め はいご苦労さんと、あゆみちゃんに冷たくされている意趣返しに、ちょっぴり、その気にさせて じらすことにします。ということもありますし、「釣聖 恩田俊雄」にのめり込むと、あゆみちゃんとの逢い引きに支障を生じる季節となりましたから。
恩田さんが入院されなかった、出来なかった、ということはよく分かる。赤痢の人は、入院できたが、肺炎や満州熱では家でねんねしていて、往診のお医者さんがやってきて、注射をしていく。
炭と薪と氷を売っている店から何貫目かの氷が数日ごとに運ばれてきて、木と銅板?で出来た冷蔵庫に入れられ、砕かれて氷嚢に詰められる。
氷嚢が額にのっかているころは寝ていることが退屈とは感じないが、いや、その元気もないが、氷嚢がとれると、寝たっきりは退屈で。妹や弟が食べることの出来ない菓子やおかずを食べることが出来ても。
ということで、恩田さんが湯治のときに、アマゴを見て、その気になって の気持ちは、よおくわかります。
氷嚢は昭和の何年ころになくなったのかなあ。
A サツキマスの釣果
とはいっても、「華麗な転職」との看板に偽りあり、ということになるので、さつきちゃんがどのくらい釣れていたのか、だけは紹介します。
「わしは、今日この年まで生きているとは思ってはおらなんだ。だけどわしが死んだら困るんでな、食堂だけは続けていた。四十二歳で死ぬもんやと思っておったから、それ以上は、まぁおまけの人生やな。
温泉療法がよかったかどうかわからんが、本調子でないにしろ身体に力がでるようになってきたんや。商売にもだんだん慣れてきたがよ、もともとおまけの人生やから店は家内にまかせっきりやった。
店が営業中でも『はい、魚釣り』って、タクシー呼んでパーっと行ってしまったんや。そいでタクシー待たせておってな、魚釣りや。タクシー代、どんくらい使ったかわからんよ。」
「けど、やっぱりオートバイには乗らんなかった。(注:ハーレダビットソン、自家用車としてフォードのT型を持っていた。いつまでか、わからないが)店をパッと閉めて、パッと釣りに行ってしまうときはいつもタクシー。
ときには家内も連れて行った。だから、だいぶ上手やぞ。アユ釣りもアマゴ釣りもな。そのへんの人よりずっと上手い。サツキマスも、一日に八匹も釣ったことがある。マスを釣った人はそうおらんよ。その頃や、わしがサツキマスを二十九匹釣ったんは。
そのときは弟の車でいったにゃが、場所は吉田川や。明宝村の手前にある神谷の堰堤やった。
日の出から、十時ころまでやったな。ようけ釣れたんや、その日は。夢中で釣った。ところが途中で腹へってしもうてな。朝飯までには川から上がろうと思っとったから、弁当なんかもってこなかったんや。渋がる弟に頼んでな、弁当取りにいってもらったことを覚えている。
弁当食って、また釣った。全部で、四十匹くらい掛けただろうか。
サツキマスは掛けても、なかなか捕れんのよ。四十センチからあるんやから、イトを切られたり、ハリをはずされたりでな。当時、ハリもイトも品質がようなかったから、なおさら海の水を飲んで力をつけてもどってきたサツキマスを捕るのは難しかったんや。
それでも二十九匹。それがわしの記録や。
天然のサツキマスはこの長良川水系にしかおらんのやから、貴重な魚や。いま、それをねらっての釣りは究極の本流釣りいうて大ブームになってるけどな、そうそう釣れるもんやないで。
このサツキマスに出会って、残りの人生を釣りに生きようと思った。かれこれ三十年ほど前になるがや。」
タクシー代に不自由することもないほど、稼げたとは。そのウン10分の1でもあゆみちゃんが愛想よく付き合ってくれたら、幸せいっぱい、るんるん気分になれるのになあ。奥さんほどの腕にあやかりたいなあ。
明宝村もゴルフ場等で開発されてしまったとのこと。
さて、これはいつ頃のことかなあ。昭和30年代前半?
「これは三十年ほど前になるが」ということから計算すると、1995年ころ−30年、となり、1960年・昭和35年ころ以前ではないかなあ。昭和40年ころではないと思うが。
長良川にはまだ漁の対象となるほど、生存していたサツキマスも昭和35年ころから減少していると思うから、もし、昭和35年ころとすると、最後の大漁ということになるのではないかなあ。
そして、河口堰の影響を受けるようになってから、絶滅危惧種の仲間入り、瀬戸内海に注ぐ川並になったということではないかなあ。
恩田さんは、1915年、大正4年生まれ。40歳の時は、1955年。昭和30年。ということで、サツキマスが大漁であったのは、昭和30年ころではないかと思うが。
B サツキマスの大きさ
「わしもしばらくサツキマス釣りにのめり込んだ時期があった。
最初は軟らかい三河竿を持っていって挑戦したんやが、手に負えなかった。ゴツンときてから、ものの数秒で三河竿は三ヵ所から折られてバラバラになってしまったのう。試行錯誤した結果、わしの仕掛けは道糸〇.六号、ハリス〇.四号、ハリは五か六号のアゴなしの海釣り用、竿は五.四メートルの郡上竿、バカを長めにとって竿の弾力と合わせて魚とのやりとりをしやすくしたんや。
太イトも駄目、長竿もあかん。
相手は遠い伊勢湾から長い旅をしてきた貴重な魚や、強盗のような仕掛けで簡単に捕ってしまったら、申し訳ないわな。サツキマスという魚を尊重するなら、わしぐらいの仕掛けでやりとりするのが釣り人の良識やないかの。わしの仕掛けの基本は、いまでもちっとも変わっとらん。
その仕掛けで釣り上げたサツキマスの最大は五三センチ。十八年ほど前、長良川本流の梁瀬という場所だった。
それからだんだん面白くなってきてな、研究を始めたんや。他にも『買いたい』という人もおったし、『ぜひ、釣ってみたい』と訪ねてくる人も増えてきてな、サツキマスを専門に釣った。
名古屋の女子大学小路で料理屋をやっとった友人がおってな、彼が当時の金で八十万円もかけて活け魚用の水槽をつくったんや。で、なんとかサツキマスを店に出したいいうので、週に三十匹ずつ卸したんよ。毎週生かしたまま名古屋まで運んだっけ。
一週間に三十匹はつらいで。しかし、商売やでな、どんなことがあっても釣らなあかんから、必死だったわ。条件が悪くて釣れんときは、他の商売人から仕入れてよ、苦労しながらなんとか数を揃えたもんや。そんなことを七,八年前まで、そうやなァかれこれ十年ほど続けたかのう。」
1970年代の中頃から1980年代後半ということかなあ。昭和45年頃から昭和50年代終わり頃まで、ということかなあ。
サツキマスのトロ流し網漁の大橋さんが、ふたたび漁を始められた昭和47,8年頃からかなあ。
「女子大小路」とは、村上先生が教えておられる大学のことかなあ。
恩田さんは、サツキマスの取り込み方も書かれているが。アマゴ共々今回の禁句事項とします。
なお、萬サ翁の仕掛けは、恩田さんとは正反対です。
C 人間万事塞翁が馬
太平洋戦争が始まったとき、この戦争は負ける、と、親父の兄が爺ちゃんに話した。爺ちゃんからすぐ帰れ、とソウルの親父に直接的な表現ではない便りが届いて、釜山で商売をされていた親父の同級生に連絡船の切符購入を依頼した。何日も並んで購入して貰った乗船券で昭和17年の早い時期に神戸の爺ちゃんの家に。
神戸大空襲のときは、明石に移っていたから、大空襲の炎を見ていた。当時では「郊外」にあたる爺ちゃんの家も焼夷弾で焼けた。防空壕に入っていたから命は助かった。
乗船券を買ってくださったおじさんは昭和18年に召集、松本ウン百連隊に入隊し済州島へ。
終戦になり、小母さんはおじさんが戻ってくるのを待っていた。現地で軍隊が解散されたら、すぐに戻れたが、軍司令部?のあった平壌へ。小母さんは、最後の引き揚げ船に2人の幼児と小母さんの妹さんと乗った。2人の幼児は4歳、2歳になっていたかなあ。門司は満船のため、山口県の仙崎漁港で下船。そこから、超満員であろう汽車を乗り継いで、おじさんの故郷の愛知県へ。
行李を28個?送ったが、機雷で沈没。その中の行李を拾われた方が、送って下さったとのこと。当時、4歳になっていたであろう、そして、去年名実ともに古稀のおバアちゃまになったであろう「幼児」は、塩水に浸かり、バリバリになった服を着ていた、と。
そのおバアちゃまが、2011年、数年ぶりにヒマラヤに行くと。晩秋におばあちゃまに会いに行くと、ヒマラヤではなく、南米のテーブルマウンテンに行ったとのこと。
飛行機(ヘリコプター?)で台地に行ったから楽やろう?
「とんでもない。地球が出来た20億年前?の地層がそのままのゴツゴツつしたところ。ポーターを連れているが、糞尿を含めてすべて持ち帰り。深い洞窟にはあんよの問題があるから入らなかったが、洞窟には月で見つかったカビ(微生物)と同じ種類があり、研究者の注目を集めている。跳べないカエルがいた。」
このお話は信頼性に乏しいですから念のため。いや、おバアちゃまは適切に話されたが、オラがほとんど忘れてしまっているから。
下界に降りてから川へ。舟で行ったから楽やろう?
「とんでもない。転ばないよう、流されないよう、ロープに掴まって大変。」
そのツアーで一緒になったおバアちゃまと顔なじみの定年さんが、蓄えとツアーでの消費をどのように折り合いをつけるか、悩んでいたと。オラも去年、オラにとっては「高級」な竿を買うかどうか、悩みましたよ。年5千円でリースにしろ、と、釣具店と交渉したんですがねえ。いや、何ともみみっちいお話で。
またもや、菓子でおバアちゃまからナポレオンなどの高級な洋酒を釣りあげてしまいました。おバアちゃまは、おじさんが亡くなられて飲む人がいなくなった、と話されているが、旦那も、息子たちも飲めるでしょう。気を遣ってくれてありがとう。
おバアちゃまが未だに年金代を支払って下さっているため、オラの年金が減ることも、不支給になることもなく、感謝していますよ。
恩田さんは昭和12年に召集。
「けど、漢江でついにダウンや。漢江であったある作戦の直前だったがの、ひもじい野戦でマラリアなんかに罹ってしもうて、野戦病院でふせってしまった。そのとき外地での心細さ、寂しさを癒してくれたんが一枚の写真や。
内地からの慰問袋に入っていた写真での、故郷を流れる吉田川の河原に別れて久しい懐かしい人たちが並んで写っとった。毎日毎日、穴があくほど見とったもんや。それは、他のどんな薬よりよく効いた特効薬やったな。
その後、恩給のつく少し前やったと思う、十四年十二月に除隊になったんや。二十四歳の時や。それから大東亜戦争や。まぁ、そのまま漢江におったら、今頃あの世だったかもしれんがな。
そんなことで、戦争前には頑丈だった身体がボロボロになってしもうたんや。除隊した翌年やったかな、縁あって(登美子夫人と)結婚したんやが、それからも一,二年はマラリアに悩まされてよ、材木屋の仕事もようやれなんだ。身体が弱ってるもんで、商売はせいぜい岐阜市あたりまでが限界やった。」
野球チームを作り
「仕事じゃあ、立っとるのがやっとやったが、試合になると元気になってな、高山あたりまで遠征しよった。また仕事になると、病気や。」
写真には、
「昭和十四年七月十六日鮎解禁 何ト水ノ少ナイコト」と、右から左に書かれている。また「八幡」とも。
(3) 引き抜き
@ アマゴとアユの引き抜き
「郡上釣りの取り込み」の章に、恩田さんが鮎の引き抜きをされている写真が掲載されている。
ただ、アマゴの取り込みと、それに適する郡上竿の特性が書かれていて、鮎の引き抜きについては、写真の説明に
「剛竿ならではの技。激流で大アユを飛ばして引き抜く恩田。昭和40年代前半」
と書かれているだけ。
仕方がないから、アマゴの引き抜きを紹介します。
アマゴの引き抜きが、鮎の引き抜きのルーツではないかなあ。
ただ、竹竿では、引き抜きよりも、振り子抜きの方が両手を使えるから、行いやすいのではなかなあ。故松沢さんは、振り子抜きは、着水させるときの加減、操作が大切なよう、と話されていたから、振り子抜きを試みたことがあったのではないかなあ。
鮎の引き抜きが郡上で行われて、なんで振り子抜きではなかったのか、気になりますねえ。
A ぶれのない竿
「竿には胴調子、先調子、軟らかいの硬いのいろいろあるが、ブレのひどい竿は使わんほうがいいな。竿がブレるとや、取りこみがあんばいようないの。魚が水の中で遊ぶんやな。とくに大型のアマゴやサツキマスはハリ掛かりしたあと遊ばせると体にイトを巻きつけて切ろうとするんや。
郡上竿は魚を遊ばせず、強引に引き抜くためにブレを極端におさえてあるのや。
郡上釣りの取り込みは水面から魚を抜いた瞬間にタモに飛ばすので、腰の弱い竿ではモタモタするばかりで具合が悪いの。
抜いたアマゴは腰に刺したままのタモに直接飛びこんできて、さらにタモの中ではハリが外れているんや。たまに、飛んでくる途中でハリがはずれ、仕掛けが風になびいているといった場合もあるな。でも、魚はちゃんとタモに入ってる。
尺モノまでは引き抜くで、バカを長くしとかんとうまく腰のタモに入らん。バカが短いと、どこに飛んでいくかわからんでな。
郡上のアマゴの引き抜きは、あくまでタモを腰から抜かんの。テレビの釣り番組に出てくる“名人”の中には肩先あたりにタモをかまえて、『引き抜き!』なんていっとるのがいるが、ありゃ、不格好やで。アユ釣りやないんやから。」
タモを腰に刺したままに引き抜く。すごいコントロールですな。しかも、タモの口はそれほど広くない。
この腕があれば、鮎の引き抜きへの連想は簡単ということかなあ。
B サツキマスの取り込み
「二十センチ程度のアマゴならポンポン抜けるがよ、尺を越えたサツキマスとなるとそうもいかんな。
掛けたら百数えるんや。
掛けた場所から一歩も動いてはいかん。動けば竿のタメがきかんで、下流や対岸に走られる。下流に走られたらもうあかん。
竿先は必ず背のうしろにおいて、川上に向けて寝かせとらなならんのや。とくに水の高いときは下流に走られたらどうにもならん。サツキマスは口を開けるもんで、口に水があたって水圧が何倍もかかる。重うて、どんな太いイトも簡単に切れてしまうで。
竿を立てるとな、必ず対岸に走られるで。
五十メートルも百メートルも引っ張られる人がおるが、魚についていく途中で石につまずいてよろけたり、転んだりしてイトを切られる危険性が大やで。動かずにグッと堪えるんや。
落ちつくことや。だから百数えるんや。
十分に弱らせてから、ゆっくり引き寄せてきて慎重に取りこまなならん。それから、取りこむときに水の中に入ってもいかん。
サツキマスは弱ったふりをするんじゃよ。あきらめたふりをしてスゥと寄ってくるんだが、タモの直前にくると最後の力をふりしぼってな、もう一回逃亡をくわだてるんや。水の中に入っているとな、人間の姿に驚くのか、尾ビレを強く振って猛烈な勢いで流心めがけて逃げるんや。その場合、イトをつまんではいかんよ。指が切れるでな。
また、水の中に立ちこんでいるとマスのほうは足にからみついてくる。足のまわりをぐるぐる回ってよ、釣り人が『ア、ア、ア』なんていっているうちに簡単にイトを切られてしまうで。
早くタモに入れようと焦れば、必ずバラすよってな。」
緒方さんのトロ流し網漁でも、サツキマスが単純な行動をしない、想定外の行動をすると観察されているが、釣りにおいても、騙しのテクニックに長けてるということかなあ。
その生活の知恵がつきすぎていると思われるサツキマスを1日に八匹も釣ったことがあるとは、恩田さんの奥さんの腕は相当なものではないかなあ。
C アユの引き抜きと容姿
さて、齋藤さんが「釣聖 恩田俊雄」に書かれている数少ないあゆみちゃんであるが、「剛竿ならではの技。激流で大アユを飛ばして引き抜く恩田。昭和四十年代前半」の写真は、竹竿でどのように引き抜きをされていたか、アユの容姿は?等が、理解できる写真であると思っている。
まず、河原の石は、昭和の代の狩野川同様、一抱えもあるような石がごろごろしている。当然、水の中でもこのような石がごろごろしているのであろう。
服装は、草鞋ではない。アユ足袋のようなものを履いている。フェルトがついているのかどうかはわからない。ゲートルではなく、タイツのように見えるものを履いている。タイツではないかなあ。
片手で抜いている。左手はタモを持っているが、そのタモの口は二十センチ台の大きさで、三十センチの広さはないのではないかなあ。網は深い。囮は網の底にいるが、掛かりアユは口に近いところで宙づりになっている。
そのアユを見ると、ブルドックのようにひしゃげた頭、顔といった容姿とは見えない。口から頭が尖り、普通に見ることのできる遡上アユの乙女の容姿に見える。
これがどうして、長良川特有の容姿の表現になったのかなあ。「純湖産」あるいは「準湖産」との比較かなあ。
故松沢さんに尋ねることが出来れば、答え一発であるが。
齋藤さんは、素石さんのように二足の草鞋を履くことが出来ず、「くたばれアユ」と愛憎織り交ぜた言葉を吐くこともなく、器用に?二足の草鞋を履きこなされたにも拘わらず、なんで、恩田さんのアユの話をたくさん書いてくださらなかったのかなあ。
恩田さんは、すでに「キュウリの香り」を経験されている。いつ頃から、どのような条件のときに、「西瓜の香り」ではなく「キュウリの香り」がするようになったのか、それだけでも書いてくださっていればなあ。
いや、齋藤さんは、恩田さんが話されたアユのことについて、何かに書かれているかも。
ということで、竹竿でも郡上八幡では、振り子抜きではなく、引き抜きが行われていた。もちろん、振り子抜きの人もいたかも。
にもかかわらず、満さんが、一番多く釣ったのに、引き抜きは品がない、といわれて一位になれなかったのはなんでかなあ。その大会の主催者は、道具を作ること、売ることには熱心でも郡上八幡での釣り姿すら見ることすらなかったのかなあ。それとも、職漁師の真似をすることは、「下品」であると考えの持ち主だったのかなあ。「素人」衆の大会ということかなあ。
D 「郡上の大アユ」から
「『どや、今年のアユの遡り具合は?』
『ええで、今年はたんと楽しめそうや』
『ほれ、見てみぃ。あそこの石に、いいのがついとるや』
『どれどれ、おっ、本当だ。いいあゆやな』
そんな会話があちこちの橋のうえでかわされる。それがこの時期の郡上の挨拶でもあるんやね。
釣り好きの多い土地だけに、郡上の街中を流れる用水溝にはたくさんオトリ缶が沈められている。勤めに出る前にひと釣り、夕方帰ってきてまたひと釣りと、人々の川にでる回数がぐんと増えるな。
あのキュウリやスイカに似た匂いが、郡上八幡一帯を包むの。いい匂いや、アユの香りが夏を連れてくるんや。」
「スイカの香り」から「キュウリの香り」に変わって、幾星霜、1990年頃には、すでに香りがしなくなっていたのではないかなあ。香りがしているとしても、場所限定、時期限定ではないのかなあ。
「解禁当初からいい型のアユが釣れる。色鮮やかな黄色い追い星をもった幅広のやつや。頭が小そうて、肩が盛りあがったやつや。二二,三センチ、一〇〇グラムといったところかな。
長良川のアユは引きが強いことで有名じゃ。それは川の構造が荒々しくて急流が多いからなんや。」
多くの支流からの流れ込みがあり、さらに、
「名前もないような沢が合流して豊富な水量を維持しているんやな。しかも、湧き水が多くて水量、水質もいい。それも香りのいいうまいアユを育てるのに欠かせない条件や。
いいアユは水深のある段々瀬の流心についとる。
チャラチャラ瀬には細っこくて小さいアユしかおらんんで、他の川で流行っとる軟いへにゃへにゃ竿の泳がせ釣りなんていう釣り方じゃ、まず釣れん。郡上の連中はチャラ瀬にいるようなアユには見向きもせんでな、そんなもん食ってもうまくないでよ。食わんアユを釣っても意味がないのや。
いいアユを釣るには激流にオトリを入れなあかん。だから、郡上のアユ竿は外来の釣り人が驚くほど穂先が太くて、重くて、頑丈なんや。華奢なへなへな竿やとすぐに折れてしまうからな。
郡上には、郡上のアユを釣る竿と仕掛けとテクニックが必要じゃ。」
「盛夏から初秋にかけて、激流の中でいいアカ(珪藻)を食んだ郡上アユは二七,八センチ、二〇〇グラムにまで成長する。しかも引きが強いときているから、ますます剛竿やないと取りこめんのや。
二〇〇グラムにもなると片手ではよう持てんな。両手の中のそれは、鋭い水に洗われ、身の締まった極上のアユや。郡上自慢の、名産や。」
E 容姿の違い
「頭が小そうて、肩が盛りあがった」アユが郡上八幡のアユの容姿であり、それは激流に育まれた容姿である、と話されているのではないかなあ。
萬サ翁や恩田さんらが、長良川、郡上八幡特有の容姿と表現されているアユが、いかなるものか、わからない。河口堰が出来る前、美濃で少し釣れただけであり、容姿の違いがわかる「目」も持ち合わせていないから。
故松沢さんが、長良川のアユに紛れ込まされていた九頭竜川産を刎ねていた、と話されていた。目利きの仲買人が、九頭竜産と長良川産を区別していた識別基準はなにかなあ。聞いておけばよかった、と悔やまれる。
ただ、恩田さんが昭和40年代前半に引き抜かれたアユは、背掛かりであるから、尖った口から頭、その先には、きれいな曲線を描いている盛りあがった肩、という容姿がであることがわかる。しかし、この容姿は、大井川、狩野川のアユの遡上アユの容姿と違いがないように見えるが。
また、激流が郡上八幡のアユの容姿を作り上げているとすれば、「平野」の川の九頭竜川産との容姿に違いがあるとしても、宮川との容姿の違いはないことになるのではないかなあ。
恩田さんは、宮川に出稼ぎに行かれていないが、大多サら銀輪部隊は、宮川の蟹寺まで行かれているから、垢石翁が釣られた巣の内にもいかれているはず。切り込まれたところを流れる激湍の河相は、郡上八幡から相生、刈安等への河相と似ているのではないかなあ。
ということで、郡上八幡の鮎の容姿がどのように、他の川の鮎の容姿と、異なるのか判らない。
F 清濁合わせ飲む特技のある稚鮎?
昭和40年代前半といえば、公害真っ盛りの頃。
久里浜から金谷に行くフェリーに乗ると、黄色い色の、透明度ゼロの海の水が、突然青い色の水に変わる。それは見事に色の違いが表れる。
伊勢湾においても、名古屋、四日市の汚水をたっぷりと呑み込んだ海と、それとは異なる海の色の海域があったということではないかなあ。
長良川が富栄養水になっているとはいえ、相模川でも産卵し、孵化できていたから、仔魚が誕生していたであろう。
仔魚が海の動物プランクトンを食べることに苦労していたとしても全滅していたのではないのかも。そして、稚魚となり、少しは海の色らしいところに移動して、生存できていた稚アユがいるのかも。
その稚鮎が、ふたたび汚水の海を通って、長良川に遡上していたのかも。
当然、遡上量は古に比べると激減しているであろうが。
長良川に入った稚鮎は、岐阜をすぎて上流に行くと、珪藻が優占種である場所で生活を営むことが出来た、ということではないかなあ。
昭和30年代に入り、長良川の遡上量が減少していき、それまでは遡上アユが入っていかなかった吉田川などの支流に放流されていた「湖産」が、本流にも放流されるようになったのではないかなあ。
しかも、昭和30年代後半からは強い瀬にも入っていった「純湖産」ではなく、氷魚から畜養された「準湖産」が放流鮎の主役となり、チャラにも多数存在し、攻撃衝動が解発されやすい習性を持つ「湖産」であるから釣りの対象となっていた、という現象についても、恩田さんは話されているのではないかなあ。
ということで、萬サ翁や、恩田さんらが郡上八幡の鮎の容姿について、何と異なるのか、湖産との違いか、他の川で育った遡上海産鮎と異なるのか、仮に異なるとして、それは激湍に育っていた宮川の鮎と同じ容姿であるのか、異なっているのか、不明のままです。
亀井さんが、大多サが宮川の鮎の容姿について、どのように話されていたのか、書かれていれば、ヘボにも容姿の違いを考える糸口になるかもしれないが。
なお、垢石翁は、容姿の違いには言及されたことはないのではないかなあ。鮎の質の違いについては、水、そこに育まれるアカとの関係で、あるいは石の質との違いで書かれているが。利根川に発電所が出来いる前の鮎の大きさ、馬力の強さは書かれているが。
(4)塩焼き1万円の情景
大多サも郡上における鮎の仕分け基準を話されているが、恩田さんも話されている。そして、その情景から、長良川に生じていた鮎事情の一端をかいま見ることが出来る。
@大きさの計測
「郡上の魚の大小、いい魚というのは長さやのうて重さや。いくら長くても痩せておったら、いくらにもならん。
商売人が魚を卸すのは漁業組合と杉錠やということは前にも書いたが、万サは杉錠専門やったな。万サ専用の引出があったというで。漁協に卸した商売人は、大きさと数が書き込まれた紙をもらってな、岐阜市の市場での競り値にしたがって、翌日金をもらったんや。
漁協や杉錠にいくと一入りから十二入りまでの杉材の箱があったの。
一入りはトビともいわれとったが、トビきり大きくて一匹しか入らんという意味や。それに入るのはだいたい百匁(三七五グラム)以上のアユやった。片手ではよう持てん大きさや。
昔はな、百五十匁なんていうサバのような巨大アユがおったが、いまはまったく見られんようになった。
二〇〇〜二五〇グラム級で三入り箱やが、そんなんでさえ秋の落ちアユ時期にしか入荷せんし、だいたい数がそろわんで売る方も難しいんや。
いまではそれほど大きくなくても数がそろわんで、一入りだの五入りだのといってられんから、特大、大、中、小、ビリ、格外の六ランクにわけているようじゃ。
特大というのは、だいたい二〇〇グラムぐらいかな。ビリは天麩羅か唐揚げにしかならんもの。格外は大きくても腹掛かりして腹わたがでてしまったり、ハリ傷の大きいものや黄色く変色してしまっているものや。
川の条件のいいときにやっとそろうのが、一五〇グラム級の五入りやな。それが、いまでいう大や。」
「杉材の箱にに納まった丸々と太った本流アマゴ」の写真には、「コウリ」に、上下二段に、頭を互い違いにして納められている。アマゴとアユでは、コウリへの入れ方が違うのかなあ。
もし、このアマゴ用の杉材で作られた箱がアユ用のコウリと同じであるとすれば、「三入り箱」に納まっているであろうアユの寸法が、「コウリ」に入る限界ではないかなあ。
そうすると、「アマゴの箱」とアユの「コウリ」は異なる大きさかも。
A 塩焼き二匹一万円ほどの年は?
「アユの仕入れ値は、その日によって異なる。大水や渇水などで釣れる日と釣れない日があるから当たり前やけど、大一匹でだいたい2千円、十入りといわれた中の下クラスの百グラムで千二百円てとこやないかな。
ところが、平成五年は冷夏と長雨、日照不足でアユが不漁やったから、一五〇グラムが一匹四千円もした。店で塩焼きにしてだすと、一匹五,六千円になってしまった。
それが東京の銀座や赤坂の料亭に行けば、一万円じゃすまんじゃったろうな。もっとも、アユを食い馴れている人ならの話は別やが、養殖アユ食ってなんとも思わん味音痴の客はそんな高いもんは注文せんわな。
不漁のときはどうしょうもないんや。客にいいアユをだしてやりたいのはやまやまなんやが、なにしろ天からの恵みなもんで自然には逆らえんのよ。一匹四千円でもアユがなくて、そのときは木曽川のアユを仕入れて急場をしのいだもんや。木曽川のアユは味がいくぶん落ちるが、仕方なかった。」
ということで、二匹塩焼き一万円は、一九九三年のことのよう。
さて、「1993年」という年は、「湖産」ブランドが凋落していく事件の生じた年、顕在化した年である。
故松沢さんに、冷水病の病原菌は水温16度から22度で繁殖するのに、なんで、「冷水病」というの?、と、尋ねたことがあった。冷水病の発生は1980年代末には存在していて、1990年代にはいると、放流アユの減少に気が付き始めていた。放流すれど、消えてしまったアユ。「湖産」ブランドの等級が高いものを購入していた川ほど、金持ちの漁協の川ほど、深刻な状況になっていた。
故松沢さんは、冷夏の年に、放流アユの大量死が顕在化したから、水温との関係で病気が発生した、と、誤解したため、と。
さて、長良川が「準湖産」の放流量が、また、継代人工の放流量が増えているにしても、恩田さんのお眼鏡に適う遡上アユもいたはず。
しかし、1993年は遡上アユが不漁であった。
いや、それだけではない。すでに、亀井さんが書かれているように「絶滅したのではないかと思っていた自然児」の状態となり、「準湖産」放流河川に成り下がっていたのではないかなあ。そのうえ、岐阜県産継代人工も放流されていたはず。
ということで、長良川での不漁の原因は、決して「天候不順」ではなかろう。
木曽川ではアユが捕れていた。当然、木曽川でも「準湖産」は、壊滅状態であろう。そうすると、木曽川で捕れていたアユは、遡上アユであろう。継代人工が、恩田さんのお眼鏡に適うのであれば、継代人工も仕入れていたであろうが。
長良川河口堰の竣工は1994年。運用開始はその後であるが、河口堰建設工事の影響が遡上アユの激減をもたらしたのではないかなあ。
大井川でも、長島ダムの影響は竣工前の21世紀に入ってから、砂利の増加等で生じていた。時期限定で存在していたシャネル5番の香りを振りまく「香」魚も、竣工前に消えていった。もちろん、大井川の長島ダムは、河口からウン10キロ上流で建設されていたから、河口から6キロ地点に建設されていた長良川とは異なり、遡上への影響はなかったが。
また、木曽川では、「天候不順の影響」を受けることなく、遡上アユが捕れていたようであるから、河口堰建設工事の影響から、遡上アユが長良川を敬遠したということではないかなあ。
恩田さんは、木曽川では遡上アユが捕れているのに、長良川では不漁であり、その原因が、「天候不順」ではないことを百も承知されていたのではないかなあ。
にもかかわらず、「天候不順」を長良川での不漁の原因と話されたのは、なんでかなあ。
放流モノの「準湖産」の冷水病の蔓延による生存率の著しい低下は、木曽川でも、長良川でも、狩野川でも共通している問題であるし。
建設省の河口堰建設事業施行に配慮しなければならない「微妙」な問題があったのではないかなあ。
(5)アマゴと鮎の加工
@ 加工の必要性
「毎日のように川にでた。そして、アマゴやアユを八十匹、百匹も釣ってきたんや。
ところがだ、魚をようけ釣ってくるんやが保存の方法がなかった。アマゴはよ、知ってのとおり氷がきかんの。そのころの冷蔵庫は氷で冷やしておったやろ、アマゴはすぐに傷んでしまって日持ちがせんかった。 天然アマゴは出荷不能やったから、都会には一匹もでなんだ。松坂屋だって高島屋だって、たとえ一万円積んでも買えんかった時代や。
そこで、考えたんや。『さくら干し』、東京じゃ『みりん干し』いうかな。鰊(にしん)や秋刀魚のさくら干しにヒントをえて、アマゴを開いて、みりんに漬けこんで、ゴマをふってな、さくら干しを作った。それが、大好評。作る先から売れたんや。百匹釣ったって、ひとつも心配することはなかった。ひとつ残らず売れたんや。
あちこちから引きあいがきた。都会の店からどんどん注文がまいこんで、発送作業が間にあわなんだ。
おみやげ用にと名古屋、大阪あたりの珍味屋が買っていったり、卸問屋が大量に買っていったり、直接、うちの店にきて買っていく個人客もいた。甘くて川魚の臭みもないよってに、とくに女、子供、そして病人に受けがよかったようだ。
それが大好評やったもんで、気をよくしてな、こんどはアユのみりん干し、昆布巻きを作って売るようになったんよ。いまじゃ、どこかの観光地で土産品として売っとるようやが、アマゴのみりん干し、アユのみりん干しは、わしが元祖や。そんなこと誰もやっとらんかったしの、昭和三十年代の終わりの頃やったと思う。」
さて、この文での問題は、
@ 「アマゴは氷が効かん」
A アユについて、なんで焼きアユでなくみりん干しかなあ。
B 「昭和三十年代の終わり頃」は公害真っ盛りで、恩田さんといえども大漁には程遠い漁ではないのかなあ。
ということで、「昭和三十年代終わり頃」とは、「昭和三十五年頃」以前のことではないかなあ。
C昆布巻きは、腸をとらないで加工するが、みりん干しは腸を取るのではないかなあ。そうすると、ウルカを作って売っていたのかなあ。ウルカのほうが高く売れたのではないかなあ。
ということで、疑問の一部を推理します。
Aアマゴは氷が効かない?
「郡上ビクのこと」の章に次のように書かれている。
「郡上ビクは、たくさん釣って初めて効果を発揮するビクや。
数を釣らなきゃ商売にならん職漁師などはアマゴを傷めたら売り物にならんから、郡上ビクは必需品なんやね。
郡上ビクの歴史は郡上釣りの発祥よりやや遅れると思う。なぜなら、わしが子供のころは持っている人と持っていない人が半々やった。いまじゃ、川に立つ子供たちまでが全員郡上ビクをぶら下げてることを考えると、ずいぶん普及したもんやで。」
「厚手の竹ひごを使っているために頑丈で、しかも風通しがいいんや。
大きさは六寸や八寸ビクといろいろだが、郡上の連中はふつう八寸ものをぶら下げているな。八寸ビクというのは、横幅が八寸あるということで、五〇から七〇グラムのアマゴならゆうに百匹は入る。全国各地にそれぞれ形に特徴あるビクがあると思うが、郡上ビクは何はさておき実用一本槍、魚がたくさん入るのが特徴や。もっとも、背負い篭を使うところは別やがの。
安来節で使われるドジョウすくいのザルを二つ合わせたような独特な形をしている郡上ビクは底が逆三角形になっていて、中ほどでふくらみ、入口あたりでふたたびすばまっている形をしている。
入口のところにはたくさん釣っても魚が飛びださんよう、巾着式に閉じられる網がついているのも特徴のひとつやな。
こういう構造だと底ばかりか左右からの重さも平均して加わるから、一番下にあるアマゴが固定され、魚が中で遊ばんの。アマゴは傷みやすい魚やから、ビクの中でゴロンゴロン遊ぶとすぐに色が変わってしもうて、腸がでてしまうんや。
また、釣った先からアマゴを腹を下にして縦に重ねていくわけやが、半分くらい魚が入っても重みが上下左右に均等分されるもんやから、下敷きになって潰れてしまうこともないのや。」
「どんなに数を釣っても、形を崩さず、鮮度を保てるように作られた郡上ビクは、いまでは立派な郡上伝統の釣り具のひとつや。」
ビクにも工夫を凝らさないと、傷むアマゴ、とのこと。そうはいっても、郡上ビクの効用を理解できてはいませんが。
別の章に
「当時はいまとちがって、釣る時間は日の出前から朝八時までやったな。商売人(職漁師)もみんなそうやった。八時すぎると、陽射しがかかってくるんで釣ったアマゴが腐ってしまうんや。クーラーボックスなどのない時代だし、魚のいい保存法がなかったから、その時間までが限界やった。
しかし、そんな心配は不要やった。たいてい八時までにはビクはいっぱいになっていたでな。
条件がようなくて釣れなんでも最低五十,よければ百三十,平均で百匹ってのが、そのころの釣果やった。いちど、欲をして十一時まで釣ったことがあるんやが、その日の釣果はビク三つ分、二百三十匹やった。」
郡上ビクにも、体温がビクに伝わりにくい工夫がされているから、アマゴが熱に弱いのかも。しかし、氷があれば、保存に気を遣わなくても良い、との文に読むことも出来るが。
「氷が効かない」とはどのような意味かなあ。
Bみりん干し:焼き岩魚の味
焼き鮎でなく、なんでみりん干しなのかなあ。アマゴのみりん干しについて、人工成魚放流の山女魚を数匹釣っただけのオラがどうこう語ることは、清流を知らずして珪藻を語り、鮎の生活誌を十分に観察することなくアユの産卵時期の教義を打ち立てた学者先生と同類になるから、やめておくが。
今西博士が、焼き岩魚の味について書かれているので、アマゴでも干したり焼いたりすることで、味が損なわれることがないのかも。
今西錦司「自然と山と」(筑摩書房 1971年:昭和46年発行)
「原始生活への誘い」の章から(1966年:昭和41年執筆)
a イギリス人の「釣り」とは
「イギリス人には、心にくいまで頑固なところがある。たとえば、
―――トラウト・フィッシング以外の釣りは釣りではない
というようなことを、平気でいう。かれらは本当に、そう考えているらしいのである。そして、どんな場合でも、疑似餌鉤しか使用しない。ほんもののエサをつけ、それを魚が食ったというのなら、それは当り前のことで、そんなのは、彼らのいう釣りのなかには、いれてもらえない。
イワナは、イギリスではチャーといって、本格的なトラウトとしては取り扱われていない。これはしかし、イギリスのイワナが湖に住むからであって、イワナも日本のように渓流に住めば、けっこうトラウト・フィッシングの対象となりうるのである。
愉快なことには、わが国にもむかしから、イワナの毛鉤釣りという技法が、西洋とはまったく無関係に発明され、伝承されてきた。
だが、イワナという魚は、フナやアユと違って、なにぶんにも人里遠くはなれた山のなかを本拠としているものだから、都会人との縁が薄く、したがって、この技法も、一部の職漁者のあいだに、つたわっているにすぎない。
近ごろようやく盛んになりだしたアマチュアのイワナ釣りは、もっぱらエサ釣りである。このほうが結局よく釣れるにちがいないけれど、イギリス人がこれを知ったら、どんなに軽蔑することだろうか。」
b イワナの料理
「今でこそ、ちょっと気の利いた山の宿では、食膳にイワナの刺身や塩焼きを出すようになったが、もとは信州あたりで食わすイワナといえばカチンカチンになったイワナの干物を、たいてもどし、これに味つけしたもので、その点では調理法として身かきニシンに似ているが、とにかく一種独特の風味があって、わたしなどはまだ中学生のころ、上高地ではじめてこれを食って以来、いまでもこれ以上にうまいイワナ料理はない、と思っている。
なお、この干しイワナを土産に持ちかえり、出し昆布と一緒に煮たてて、湯豆腐をつくろうものなら、それこそ、おのずから盃を重ねざるをえない、というものである。
だいたい、専門のイワナ釣りというものは、人跡たえた渓流のほとりに小屋掛けして、何日も釣りくらしていることが多い。だから、釣れた魚の貯蔵ということが問題で、塩蔵という方法もないわけではないが、一般には、焚き火の熱で乾燥さす。このほうが軽くなって持ち運びにも便利である。
じか火が当たらぬよう、焚き火からかなり高いところに、何段も棚をつくって、そのうえに魚をならべ、何日もかけて干すのである。家のなかなら、さしずめ囲炉裏のうえの棚にならべて乾燥さす。一種独特の風味というものはこうして干すあいだに、たき火の煙のにおいがうつるのである。」
またまた困りました。
氷が保存剤として使えないときの保存方法であるから、やむを得ず、干す作業を行う、というのであれば、理解できても、干したイワナがうまいとは。それも、生よりも旨いとは。
テク2が、大井川でアマゴを釣っていたころ、昼に腸を取り、杉の葉でいぶす作業をされていたとのこと。これは保存作業であろうとは思う。ところが、現在、テク2がもらってくる大井川のアマゴは、燻製されたアマゴである。
単に、保存食ではないうま味が、生のアマゴでは味わうことが出来ない旨みが、干したアマゴ、いぶしたアマゴにもあるということかなあ。
滝井さんや、小西翁らが焼き鮎にされていたのも、単に保存食という以上の旨みがあるということかも。
「われわれのような、せいぜい一泊か二泊の釣りでは、とうていこのような干しイワナは作れない。魚はいくらか釣れても、まずまちがいなくその夜の酒のさかなになってしまう。
もちろん、旅館で食わす生簀(いけす)にかこわれた、消耗した魚にくらべれば、数等うまいが、それでもほんとうにイワナをうまく食おうと思うならば、せめてひと晩たき火のへりに立てかけて、じっくり焼きがらした尺物を、翌日の昼食の菜にするぐらいのしんぼうは必要である。」
身欠きニシンなど、保存食食材の調理法に長けた京人である今西博士の舌の問題かなあ。それとも、普遍性のある舌の問題かなあ。
郡上八幡では、京と同じく鮎は生きたままの状態から調理することが尊ばれていたようであるが。アマゴも生身の調理が本筋のようであるが。観光客が買い、あるいは土産品であるから、みりん干しでも需要があっただけということかなあ。
なお、今西博士は、平野、バスが通るようなところのイワナは釣趣がそがれ、そして、まずい、と。
「ただし、味という点になると、そのへんの低い山の小谷にすむイワナは、残念ながら黒部川の本流の、激流のなかで育ったものには、とうてい及ぶべくもない。
それにもかかわらず、山が低ければ低いなりに、この魚はその最上流部にしか住んでいない、というところが気に入って、わたしは、またもイワナ釣りに出かける。」
「釣りが目的なら、これでは少しおかしいではないか(注:岩手県以北のバスの見える中流域でのイワナ釣りが面白くないということ)。
わたしのほんとうの目的は、どうやら山のなかへ入って、そこでできるかぎり文明から遠のいた、原始生活が味わいたいのであるらしい。
釣りは、たき火と同じように、そのためには欠くべからざる生活設計でなければならぬ。毛鉤釣りかエサ釣りかは、その場合、あえて問うところではない。たまたまそうした環境で釣れる魚が、わが国ではイワナであった、ということにすぎないかもしれない。」
最後のフレーズの意味は理解できていません。齋藤さんが、素石さんが、前さんが、恩田さんが考えられていた人と自然の関係にかかわっているようには思えるが。
さて、今西博士の「この魚はその最上流部にしか住んでいない」という現象と異なるのが、下北半島の「杉ノ子山女魚」。そして、山女魚に係る三題話の安直な素材として使用できるのではないかなあ、と、目星をつけたのが今西博士の「自然と山と」の中の「アマゴとマスのあいだ」の章及び「わたしはシラメをこう考える」の章です。
世の中そんな甘いもんやおまへんでえ、となることは予見できていますが、来年は挑戦するしかありません。
ヤマメねえちゃんのアドレスが、「イワナ」で始まっているので、振られ、振られてあゆみちゃんのお尻を追いかける元気もなくなったとき、ヤマメねえちゃんを口説くことにしましょう。乾燥イワナの味その他、今西博士のお話を理解するうえで、参考となることが聞き出せるかも。
ヤマメねえちゃんは、山女魚を釣りに行くときは数日の旅になる。傷みの早いこともあるが、車に乗せた網で天日干しにするか、宿の火で乾かすかの作業が必要。
ということで、氷をあてにした保存がもともと想定外、不可能ということのよう。郡上八幡のように、傷む前に仲買人に持ち込むことができるという立地条件にはないよう。ましてや、クーラーをもって歩きまわるなんて不可能。
そのような立地条件から、天日干し、火であぶる、遠火で乾かす等の保存作業が必要不可欠であるとのこと。なお、テク2は杉の葉でいぶしているとのことであったが、ヤマメねえちゃんは燻製用のチップを使っているとのこと。
生身と干したりした山女魚の味の優劣についてはわからないとのこと。
また、杉ノ子山女魚は禁漁では、と。さすが、年季の入ったオフロ−ド車のご主人は、下北半島のご事情にも通じていらっしゃる。
(6)長良川の盛衰の「衰退」の情景は
長良川の衰退は、
@昭和35年頃から昭和50年近くまでの公害花盛りの時期。
Aもうひとつは、河口堰建設工事の影響が出てから、そして河口堰運用が開始されてから。
このうち、河口堰建設工事の影響が出てから、及び運用後の衰退については、対象とはしません。定性分析的なレベルでの話はあれど、定量分析的話を聞く機会に恵まれていないため。そして、定性レベル的な話がどのように適切か否かは、長良川で釣りをしないとわからないが、河口堰運用後の長良川には、吉田川出合い上流と吉田川の下流で釣ったものの釣れず、という状況のため。
@繁盛していた郡上と衰退した郡上の情景
恩田さんは、加工したアマゴ、アユの販売を行う。
「家内にはな、釣りにでかける大義名分というやつができたんやけど、いくら釣ってきても足りんのや。どんどん売れるもんで、アユやアマゴがどうしても足りなくなってな、しばらくして商売人(職漁師)に声をかけ、仕入れるようになったんや。
商売人か、そのころはようけおったな。桜井銀次郎、大多サと呼ばれた清水駒次郎や万サの古田万吉、数えたらきりがない。
ま、わしもそのうちのひとりかも知れん。自分の店でさばいておったがよ、自らも魚を釣って売っていたんやから、そういう意味では職漁師やったんやろうな。
当時の商売人は、川魚卸問屋の『杉錠』と漁協組合の二ヵ所に卸しておったが、内緒でわしんところはそこより一割がた高こう買っとった。
杉錠や漁業協同組合に卸された魚は、おもに岐阜の魚市場に出荷されるか地元での宴会用や旅館用だった。一方、わしんところは旅人のおみやげ用だったから販路がちがっとったんやが、商売人は前出の二ヵ所には古くからの義理があっての、高く買わんと持ってきてくれんのや。
アユは一日、百も二百も釣れた時代やから、漁業組合の前には大型トラックが待機しとって、夕方、岐阜の魚市場に運んだもんだ。いま、そんなことはできん。せいぜい軽トラックに、ちょぴっと運ぶくらいや。
昔みたいに、魚が捕れんでな。」
さて、軽トラになったのはいつ頃のことか。
大多サは、
「(昭和)三十年頃からここ四,五年前までは、天然鮎が遡ったということはわしは言えんと思う、と彼は言う。」とのことであるから、昭和三十年代前半か、遅くても昭和三十五年ころには、長良川から「自然児」が激減していたのではないかなあ。
そして、公害三法が制定された後の昭和四十八年ころから自然児が回復してきたが、河口堰の工事の影響、運用開始で、長良川は「ご臨終よ」と、サツキマスのトロ流し漁をされていた緒方さんが話されていた情況になったのではないかなあ。
白滝さんだったか、近年、郡上八幡で釣れているアユは、七割が海産鮎(遡上アユと限定していたかどうか忘れた)と書かれていたと思う。
しかし、継代人工が三割とはちょっぴり疑問。白滝さんの釣り場が、継代人工では超エリートしか住めない瀬の芯であることが影響しているのではないかなあ。
そして、構成比で、七割が海産とはいえ、その量は激減していると確信している。
A放流河川への変身?
「ところで、わしが商売人から仕入れるようになったとたん、どういうわけか魚が釣れなくなったんや。
みんなが一斉に川にでるようになったんかどうかわからんが、商売人たちが、よう釣ってこんのよ。いままで百匹釣れておったアマゴが三十ぐらいしか釣れんのよ。わしのみりん干しはヒット商品やったから片っ端から売れるんやが、材料がだんだん不足するようになってきてしもうたんや。
そこで、知りあいの有名な釣り集団にたのんでアユやアマゴを一年をとおして卸してもらうようになった。上手な連中やったから、中には百五十もアユを釣ってくるのがおったがよ、平均して、八十,百匹とコンスタントに釣ってきてくれたな。その後、ずいぶん長い間彼らから魚を買っておった。」
さて、大多サの観察のほうが、公害花盛りの長良川の遡上アユの状況は理解しやすい。
恩田さんは、みりん干しに加工されていたから、アユが放流モノに変化しても、気にされていないというお話ではないかなあ。
狩野川が、昭和三十年代以降、素人衆が押しかけるアユ釣りのメッカへと変身していったが、遡上アユが潤沢であったから、故松沢さんら職漁師は稼ぎに困ることはなかった。故松沢さんの伊豆長岡のねえちゃん通いに何らの支障もなし。
ということからも、恩田さんが仕入れていたアユが、遡上アユから放流モノに変身していたと考えている。
1992,3年ころから生じていた狩野川の遡上量の減少、そして、1995年の「自然児」の消滅、そして、21世紀になって少し回復してきた狩野川。そして、2010年ころから、釣りの対象となる大きさは変化があるものの遡上アユが釣りの主役となった変化。
狩野川の情景からも、大多サが話されている遡上アユの変化が適切で、恩田さんの仕入れは放流モノに変身したと考えている。
なお、名人見習いの師匠は、狩野川の遡上アユが激減しているときでも、放流モノ:継代人工を求められた数だけ、どんなに条件が悪くても揃えていた、とのこと。
B アマゴにも放流モノが
人工のアマゴ、イワナの種苗がいつ頃から生産され、放流されるようになったのかわからない。鮎に関しては、昭和50年代の初めに群馬県が、ついで神奈川県が継代人工種苗の生産を始め、その後、岐阜県産が、生産され、漁協の義務放流量の一部を占めていたようである。
なお、今西博士は、「私はシラメをこう考える」の章(1968年:昭和43年)に、
「遡上してきたマスを捕まえて、飼育し、秋になったらその卵をとって、人工孵化させる。そしたら、あれやこれやといいながら、いまだにまだだれも確かめたことのない、正真正銘のマスの子が、現れてくるにちがいないのだ。そしてあとは、彼らの翌春における行動を観察することによって、一年魚で降海するのかどうかも、ある程度までは確かめることが出来るはずである。
もしなんとかうまく操作することによって、マスの子が海へくだらなくても、われわれのもとでマスにまで育ちうるものだとしたら、この秘密の発見は何とすばらしい未来をもたらすであろうか。われわれはこれによって、たとえ伊勢湾が汚染し、長良川の河口に堰堤が築かれようとも、あえておそれることなく、いつまでもマスの生命を守りつづけてゆくことができるようになる。
まあこのような夢物語はともかくとして、アマゴの人工孵化に見事に成功された郡上刈安の渡部正二郎氏に、つぎにはひとつ、マスの人工孵化をお願いしてみたらいかがなものであろうか。」
このことから、昭和43年頃に、アマゴの人工孵化が行われているが、サツキマスの人工孵化というか、サツキマスの養殖というか、は、まだ日の目を見ていなかったのかも。
さて、今西博士の夢物語が結実した一つの結果である人工種苗の生産は、「天然」ものとは否ものを生み出したことは神奈川県産継代人工アユ等の放流ものの習性、容姿を見れば、十分であろう。
ただ、いまでは、遺伝子の保存という手法で、絶滅危惧種の絶滅を回避することも出来るであろうが、昭和四三年ころは、人工種苗生産による「養殖」が種の保存方法として考えられていたということであろう。
昭和四三年とは公害の絶頂期。サツキマスのトロ流し網漁の緒方さんが、九頭竜川のナマズ捕りに出稼ぎに行かれて一〇年ほど。
「生産者の論理」ではなく、消費者、生活者の視点で経済活動を考えるべし、との風潮が少しは勢いをもってきた頃。サツキマスの絶滅対策は緊急の課題であったのではないかなあ。公害三法が制定されたのは、昭和四六年ではないかと記憶しているが。
今西博士は、アマゴの、サツキマスの養殖に「夢」を求められた背景には、サツキマスの親はだれか、ということと、サツキマスが全滅するには忍びない、という状況があったのではないかなあ。
それが今や、いや10年あまり前でも、ヘボでもサクラマスが管理釣り場で釣れた、という程、継代人工種苗の生産、養殖が山女魚、サクラマスでも当たり前になっていることは、今西博士でも予想できなかった出来事ではないかなあ。
C 人工放流アマゴの釣り方
恩田さんは、「雪中のアマゴ釣り」の章のなかで、人工放流アマゴと天然アマゴの釣り方等の違いを話されている。
「二月一日は郡上地区の長良川、吉田川の川あきや。」
「八幡町は河口から百キロも上流やから、まわりの山はまだ雪で真っ白や。岸辺のネコヤナギの芽も小そうて固くとじている。でもな、日当たりのいい土手にはもうフキノトウが顔をのぞかせているぞ。」
「釣り人の人気ポイントは、まず長良川に吉田川が合流するあたりやな。
死んだ万サ(古田万吉)がいつも舟をだしとったところや。その場所は、腰まで立ちこまな、いいポイントに振りこめん深トロやが、大場所やから毎年、四,五十人がそこで竿をだしとる。
お目当ては放流もののシラメや。一般的にサツキマスの幼魚といわれとる。こいつは川の表層を群れをなして泳いでいるから、最近の釣り人はいくらをエサに、脈釣りやのうてウキ釣りをしているようや。
解禁日は、ねらう場所っていうのがあってな、その場所さえ間違わなんだらそこそこ釣れるんや。
気温も水温も低いその時期というのは、釣れてくるアマゴはほとんど前年の十二月に放流した養殖ものや。放流アマゴはな、放流場所からぜんぜん動かんの。だから、放流場所さえおさえておけばボウズはないわけや。たとえば、橋の下の弛みや。成魚アマゴの放流は、たいてい橋のところが放流場所やでな。」
「シラメ」の泳層、放流ものと天然モノで何が異なり、何が共通するのか、萬サ翁が今西博士の依頼で釣りあげたシラメと、解禁日のシラメの違いと共通点が何か、には、興味はあれど、来年の課題に。
「わしか、わしは解禁当初は竿をださん。寒いうてかなわんし、だいたい放流アマゴなんて食えんもの。
上流にいけば天然ものがいくらか釣れるんやが、こいつも食える代物やない。サビてて痩せとるから見るからにあわれや。食うとバサバサしとる。
わしが上流というのは八幡町と明宝村の境あたりから上のことで、吉田川をさかのぼると下津原という集落がある。まだ八幡町やが、このあたりから上流は八幡町の中心より気温が三,四度は低い。解禁日には、一面の雪景色なんていうこともあって、川原の石も雪ぼうしをかぶっとる。」
ということで、恩田さんが人工放流アマゴを相手にされていないことはわかったが、では、「天然モノ」は、どのようにして釣っていたのか、は、来年のことですね。
D アマゴの減少はなぜ?
天然アマゴはなぜ減少したのか。
両則回遊性のアユが、伊勢湾の汚濁で、稚アユ時代に生活困難となり、また、岐阜付近下流の産卵場に汚水が流れこんでいて、孵化率が低下した、ということが遡上アユの激減になった、と想像できるが、アマゴの生活場所は、そのような水質悪化の影響は少ないのではないのかなあ。
吉田川上流に別荘が建った、とのことであるが。
恩田さんは、
「二つの川(注:長良川と吉田川)の源流部にはたくさんのゴルフ、スキー場がある。それらの開発に伴って林道が山を削って縦横に走り回り、ドライブインや別荘が次々建設されとうわ。
いいかな、川というものはたいてい源流にいけばいくほど水はきれいになるもんやが、長良川、吉田川は逆なんじゃよ。源流域の汚染がひどくて、中流域のほうが水質がいいんや。こんな川は珍しいで。」
という事情、あるいは、淵が埋まっていき、増水時の避難場所、食糧保存庫が少なくなっていった、という事情が天然アマゴ減少の原因かなあ。
(7)いつまで続く「自然征服」思想
恩田さんの山、川、魚に対する願いで、長良川に生じていた鮎の生活誌の変遷を締めくくるつもりでしたが、これまでの視点とは異なる表現が「自然と山と」に書かれているので、今西博士の「自然と人間」(1967年:昭和42年執筆)の章の紹介にします。
@ 今年も咽のトゲは抜けず:長良川のアユの容姿
なお、萬サ翁が長良川のアユの容姿の変貌について、湖産と海産の交雑種が原因と話されていることが事実ではない、と、現在の知見からは判断できる。
湖産も交雑種も再生産されていないから。交雑種も湖産の仔稚魚も海では死滅する、ということは東先生が1980年頃に(東先生が、「『交雑種』の仔稚魚も海で死滅する」と判断されていたのかどうか、確証はないが。)、また、21世紀には「アユ種苗の放流の現状と課題」(全国内水面漁業組合連合会)の鼠ヶ関川におけるアイソザイム分析による調査の結果から確信している。
しかし、萬サ翁が観察され、前さんが書かれている事柄であるから、そんじょそこいらの学者先生や、目利きでない「釣り名人」の話とは異なり、発言の重みが違う。
長良川の自然児の容姿が他の川とどのように異なるのか、異ならないのか、また、異なるとしても、宮川やダム、堰が遡上を妨げていなかった頃の飛騨川とは同じ容姿であったのか、異なっていたのか、課題は解決されず。
萬サ翁が話されていた長良川のアユの容姿の「違い」については、「故松沢さんの想い出」において主題と考えている古の川、あゆみちゃんの生活誌がどのようなものであったのか、を考える上で避けては通れない事柄と自覚している。
しかし、その課題は今年も解決できなかった。
迷人見習いを初めて大井川に連れて行った2008年だったかな、糸鳴りをさせる大井川のアユの馬力にビックリしていた。狩野川と馬力の違いが存在するアユがいることはわかる。しかし、萬サ翁は容姿の違いを。
大井川と狩野川の遡上アユの馬力の違いは、水量の多寡では説明できない。大井川の水量は5トンほどの義務放流量で、狩野川よりも少ない水量。迷人見習いの師匠は、遡上距離の違いではないか、と推理されたとのこと。
萬サ翁が話されていた長良川のアユの容姿の「違い」については、なぜか、どのように違うのか、等、不明ではあるが、「違い」ではなく、「変貌」であるとすれば、説明可能と考えている。
長良川が昭和30年代初め頃から「放流河川」に成り下がり、湖産の「純天然」、そして、その後は湖産の「準天然」が、漁獲の主役になったことが「容姿の変貌」の原因ではないかと、想像している。亀井さんや齋藤さん、前さんがこの問題に係る記述をされていて、その文が見つかれば、すっきりするが。
銀輪部隊の一員として、宮川に遠征されていた大多サらが長良川のアユの容姿、あるいは宮川のアユの容姿に係る記録を残されていて、その記録が見つかれば、すっきりするが。
ということで、「香」魚の消滅も含めて、故松沢さんが、ヘボになんとか、「ほんもの」のあゆみちゃんとはいかなるものか、教えようとされていた努力に報いることができなかったまま、来年に期待するしかなくなりました。
今年の積み残した課題を書く場所がないため、今西博士の「自然征服」への問題の指摘の箇所に書きました。
A 今西博士の人工種苗生産の「夢」
ついでに、今西博士が「種の保存」あるいはシラメの氏素性を明らかにする人工種苗生産は、「夢」と書かれていたが、今や、人工種苗の生産真っ盛り。
「本然の性」の多くの素質、要素を喪失した人工アユ、山女魚が川に満ちている。
「遺伝子の多様性保持」とは真逆の人工の魚が、川に、水のあるところに満ちあふれている。
今西博士でも、「夢」が実現すると、どのような事態になるのか、また、失われていく事柄にどのようなことが、ものが、生じるようになるのか、未知の世界への洞察が不足していたのかなあ、と、ヘボとしてはちょっぴり嬉しくなりました。
人工種苗の生産という「夢」が実現したとき、「経済合理性」だけが価値基準、行為規範であるとき、「質」を問わない人工種苗の生産、養殖が行われることは自明の理かも。
川那部先生の「アユの博物誌」にも、「養殖」の牛と野生の牛のどっちの牛が旨いか、との話がされているが、人工種苗の生産がいまだ「夢」の頃の思考上の限界が、今西博士にも存在していたということかなあ。
ということで、「夢」の人工種苗実現は、青い鳥が待っていたのではなく、ババッチイ紛い物の継代人工がいましたとさ。
「アユ種苗の放流と現状の課題」に、500匹?以上のメスを親アユとして使用する人工種苗の生産方法が提言されていたと思うが、島根県や山形県が行っていると思われる継代人工ではなく、F1:1代目?2代目?方式の人工種苗生産が、ほんのちょっぴり青い鳥に近づいているにすぎない、ということかなあ。
今西錦司「自然と山と」(筑摩書房 1971年:昭和46年発行)から
@ 人類史の区分
「人類史における自然と人間との関係は、これをおよそ三つの時代に区分して、考えることができる。その第一は、人類がまだ完全に自然の中に埋もれていた時代であり、これを人類の自然依存時代といってよい。
第二の時代は、人類が自分で食糧の生産をはじめられるようになってからのちのことであり、自然の一部を占拠し、これを開墾し、そこにほそぼそながらも自分自身の生活の拠点を、もつようになったところから始まるのである。まだその生活をなりたたせるために、いろいろな点で自然に依存してはいても、ここにはじめて自然の一角に、自然とはある程度まで独立した人間の生活の場が、築かれたのである。
ここで注意したいことは、この場合における自然と人間との関係は、どこまでも自然と、それから派生した人間という関係であった、ということである。いいかえるならば、人間とその生活をとりまく自然とのあいだには、両者のコミュニケーションを妨げるようなものは、なにも介在していない。人間は自然をみずからの母体と考え、自然に反抗しないで、自然と調和し共存することを、生活のモットーにしていた。
これをもう一度別な言葉でいいあらわすならば、いままで自然一色の世界であったところへ、人間の世界があらたに分化し、成立するようになったけれども、この二つの世界は地域的な棲みわけをとおして、お互いに併存していた。二つの世界のあいだの往き来は可能であったけれども、どこかで一つの世界がおわり、そこから先へゆけば、もう一方の世界へはいりこむといったようなものであった。もっとも、この二つの世界をへだてる境界は必ずしも線状をなしていないで、むしろ普通には相当な幅を持った推移帯を介して接続しているものと考えた方がよいのだけれども、例外もないわけではない。
たとえば東北地方の猟人マタギの村には、村はずれの、これからいよいよ山にかかるというところに、山の神が祀られていた。マタギは山へ猟に出かけるとき、この山の神をさかいにして、そこからさきではもはや村の中で日常使っている言葉を避け、そのかわりに山言葉を用いたといわれているが、これなどは人間の世界と自然の世界とのあいだの境界を、意識的に設定していたともいえるであろう。
第三の時代というのは、長い人類史からみれば、まだようやくはじまったばかりともいえるが、いわゆる技術革命の波にのって、人間の自然破壊の、破壊といって悪ければ、自然改造の装備がととのったので、今までの併存共存というルールを冒し、自然を侵略してこれを人間一色の世界にしてしまおうとする、自然征服時代を指すのである。そして残念ながら、自然はこの人間の計画的侵略に対して、まったく無抵抗であるようにみえる。国中どこを歩いても、至るところでブルドーザーが山を削っており、どの山へ登っても、千古の美林をまたたく間に薙(な)ぎはらってしまうチェーンソーの音を耳にしないことはない。
しかし、これは天下の趨勢(すうせい)である。この恐るべき破壊あるいは改造の加速度的暴走を、いまさらチェックする術(すべ)はない。いくら口を酸っぱくして自然保護を唱えても、それは戦争のさ中に、博愛を説くようなものであろう。
さて、以上にのべたごとく、人類は自然に対して、依存時代、並存時代、征服時代の三時代を経験してきたのであるが、この時代の相違に応じて、人間の抱く自然観というものもまたそれぞれに異なっているだろう、と考えなければならない。わたしなどは、マタギのような山の民ではなく、町育ちの人間であるが、それでもまだ私の若い頃は、並存時代だったから、山へ出かけるときには家のものが、火打ち石をカチカチ打って、身を潔めてくれたりしたものだった。
わたしはかくして、人間の世界から遠くへだたったところへゆき、自然なる母の懐に抱かれて、なにか広大無辺なるものを感得した。わたしは自然をとおして人間を知り、自然を愛するがゆえに人間を愛するようになった。しかし、これからの人間はどうなることだろう。人工化され、飼育された自然を、おおぜいの観光客たちと共有しながら、それではたして無限の寂蓼を味わうことができるだろうか。自然を愛することができなくなった時代の人間でも、人間を愛することだけは間ちがいなくできるか、この辺で一度だめを押してみたい気がする。」
今西博士は、自然の人工化が人間の人工化をもたらすのではないか、と別の章に書かれている。自然の産物である人間が人工化した自然の中で、自らも人工化していくとどうなるのか、というお話と思う。
ただ、今西博士も川那部先生も、AはBである、とは考えられないで、AはBであるかも、あるいはCであるかも、さらに時には甲であるかもと考えられる「習性」をお持ちのため、「人間の人工化」に係る部分だけを紹介すると、ミスリーディングに誘導する虞が高いため、紹介しないことにします。
A 展示されたチョウチョウの限界
今西博士は、「博物館と自然」(1970年:昭和45年執筆)に、清流を知らずして珪藻を語る類の学者先生を減らしてくれるのではないかなあ、と、期待できるお話を書いてくださっている。
岐阜県の県政100年記念事業について、今西博士は、
「しかし、この記念事業の一つとして、わたしが提案したのは、綜合博物館ではなかった。博物館も結構だが、それはけっきょく人工物にすぎない。博物館にはなんでも集めてある。たとえば美しいチョウチョウの標本が並べてある。小学生のころにはこれを見て、ああきれいだな、自分もあんなチョウチョウを集めてみたい、と思ったことがある。たしかにこれらのチョウチョウは人工物ではなくて、自然物である。しかし、ほんとうの自然のチョウチョウは、こんなにきれいに展示されたり、ガラスの箱にはいったりはしていない。
私はさいわい、自分でもチョウチョウの標本をこしらえようと思って、自然にわけ入り、自然のチョウチョウとはどんなものかということを、知ることができてよかったが、博物館に展示されたチョウチョウだけをみて、自然のチョウチョウを知らない人間が、これからだんだんふえてゆくのではなかろうか。博物館に、自然を紹介するという意味での教育的価値を認めるとしても、肝腎の自然そのものが、もはやどこにも見当たらないというようなことでは、なにを教育しているのかわからなくなってしまう。
そこで私の提案というのは、ゴッソリひと山山麓から頂上まで買いこんで、いっさい人工的施設をほどこさない、つまり、はいこれが自然でございます、というところをいまのうちにつくっておきなさなさい、というものであった。こういうものが片方にあってこそ、博物館の陳列標本にも意義が生じてくるのだ、というわけである。もちろん博物館といっても、綜合博物館の一部分である自然博物館を指して、いっているのである。
しかし、そこまで考えてくれる人は、ほとんどいなかったし、そんならそういう適当な場所があるかと聞かれたら、私は困るところであった。ところがその後私は白山裏の三方崩山という山に登って、ああ適地がこんなにも近いところにあったのかと、おどろき、私の提案はやっぱり早く、どこかで取りあげてもらわねばならない、と思うようになった。
どこへいってもチェーンソーがうなり、山はまる裸にされつつあるのに、この山は山麓から山頂まで、見事な原始林でつつまれていた。とくにこの山のブナの原始林の見事なこと。私は、これは何かの間ちがいではなかろうかと思ったほどである。自然が破壊されてから自然保護を叫んでもおそい。いまのうちにこの山をゴッソリ買って、博物館へ寄附してくれるような人がどこかにいないものだろうか。」
5 「審議会」は「公正」、「中立」か
(1)「公正、中立」審議会とは「事実」?
原発事故後、審議会、調査委員会が公正、中立であるとの神話は揺らいでいるとは思うが、日本教徒にとっては、この神話に基づく筋書き、論理の作り方は「公共事業」を推進し、あるいは、裁判における「罪人」の判定に必要不可欠な道具であろう。
これまでは、日本教徒が「事実である」、適正な事業であると信じる仕組みが、必ずしも「事実」ではない、フィクションを「事実」であると信じさせるからくりは、ベンダサン「日本教について」、山本七平「私の中の日本軍」、「日本はなぜ敗れるのか 敗因二十一か条」等、「山本学」に依拠するしかなかった。
「山本学」の舞台は、戦争であり、軍隊であり、裁判であり、この舞台での日本教徒の習性から、審議会、調査委員会の構成、「中立 公正」を装った「報告書」について、フィクション、あるいは事業の「正当化」の筋書きを云々することはヘボには不可能と思っていた。
しかし、養老孟司・内田樹「逆立ち日本論」と、ビッグコミックの佐藤優さんと小沢裁判の関連被告の池田さんの「隠し取り録音」を素材にすれば、なんとかなるかも、と淡い希望を抱くことになりました。
「逆立ち日本論」の本に係る注釈はいらないが、佐藤優さんと池田さんについては、どのような人たちか、の注釈をしておきます。
佐藤優さんは、「国策捜査」のターゲットにされた鈴木宗男さんとの共謀者とされた外交官で、ビッグコミックに原作・佐藤優「憂国のラスプーチン」を書かれている。
鈴木宗男さんの「犯罪」がいかなるものか、国策捜査を担当していた検事からリークされたであろう「罪」が、テレビや新聞、週刊誌を賑わしていた内容と、裁判の結果による「罪」との比較においてさえ、乖離が大きい。
佐藤優さんについても同様である。
池田さんは、小沢さんの「国策捜査」において、裁判官に小沢さんんの「大罪」を証明するために必要不可欠な道具立てとして登場している。佐藤さんの助言?に基づいて、「隠し取り録音」を行い、検事が作成し、日本教徒である裁判官が池田さんの「罪」を事実であると判断する手法で作成した検面調書?検事報告書?記載内容が、「証言」を「証言」通りに記述していないことことを「証明」しました。
もし、「隠し取り録音」がなければ、検事作成の「調書」?、「報告書」?が「事実」ではない、と裁判官に認識させることはいくら優秀な弁護士を揃えた小沢さんら被告においても困難、不可能であったのではないかなあ。
「日本教について」は、ちゃきちゃきの日本教徒である広津和郎が、「作家の目」で、松川事件で作成された「供述調書」が事実ではないことを証明し、日本教徒であることの自覚が欠如していて、自らは、西洋合理主義、形式合理主義に基づいて、「事実」の判断が適切に行える能力を備えていると自信満々のカトリック教徒でもある田中最高裁判所長官に反旗を翻した作家のお話をベンダサンが、日本教徒の習性とはいかなるものか、分析したものである。
このような資料で、日本教徒が、「公正、中立」である、と信頼し、「公共事業」が、反対者がいてもねじ伏せるための、いや、ねじ伏せる人を存在させないほどの「威力」を持って、「公共事業」の正統性を演出する、あるいは道具立てとしての審議会、調査委員会の「報告書」をどのように作成すれば、適切に「公共事業」が円滑に行うことができるのか、いかなる「技」、「腕」を有するお役人が、検事が有能であるのか、考えたいとは思えど……。
佐藤さんにしろ、松川事件の裁判にしろ、舞台は、裁判である。その裁判の舞台で繰り広げられる「日本教徒である裁判官」に「事実である」と罪を認識させる手法が、公共事業の「公正、中立」を演出する審議会とは、縁もゆかりもないのでは、という感想が出てくると思う。
水谷先生の講義を聴講していたある年、日本人とアメリカ人の「軍隊イメージ」の違いについて話された。
「軍隊イメージ」について
日本人は「軍隊イメージ」について、「上意下達である」と、アメリカ人は「プライバシーがない」と。
日本人が仕事をするとき、下から意見、企画を作製して上へと送っていく「稟議制度」に依拠している。そのため、「上意下達」により運営されている軍隊のやり方に違和感をもっているから。
アメリカ人は、仕事をする上での上意下達は当たり前のことであるから、そのやり方に対する違和感はない。
丸山真男が、「責任の上奏」?と表現していた現象が、日本教徒の規範である。すめらみことも、下からの上奏に対して、「聞こし召す?」だけであり、「しろしめす」、「命令」を下すのではない。すめらみことも神に上奏するだけである。
日本システムの中ではこれが有効に機能していたが、現在は少し変更されているのではないかなあ。
小沢裁判で、小沢さんが聞いていない、とかの話をして、マスコミに嘘つき呼ばわりをされているが、必ずしも嘘をついているとはいえないのではないかなあ。もちろん、小沢さんは、見ず知らずの人にお仕事をさせているのではない。あうんの呼吸で、小沢さんの意を介して、適切にお仕事のできる人を配している。小沢さんのお仕事はその任に堪えうる人を選任するだけではないかなあ。
他方、「プライバシー」の違和感が日本人にないことは、「5時から男」は、とんでもないサボリーマン、そんなやつは首だあ、と、非難される日本人・あぶれものの行動様式と理解されているから、軍隊がプライバシーのない空間であっても、違和感を感じない。それどころか、「5時から男」の行動を表面的にはとっていていも、その相手はお仕事に関係する人間。
このことは、アメリカ人には「想定外」の事柄。
ということで、裁判における「日本教徒」を「事実である」と裁判官に信じさせる手法も、「審議会、調査委員会の報告書が「公共事業の正当性」を「事実である」と日本教徒である国民に信じさせる手法も共通性をもっていると考えている。
(2)NHKは、「中立、公正、公平」な報道をしている?
養老孟司・内田樹「逆立ち日本論」(新潮選書 2007年:平成19年発行)
「逆立ち日本論」を最初に紹介する意図は、考えあぐねた結果ではないんですよ。単に、NHKが4半世紀前に「ダムのない最後の清流 四万十川」を、そして2012年に「日本一の清流 仁淀川」を放映されたから。
この2つの題名に矛盾はないですよねえ。
しかし、「最後の清流 四万十川」については、前さんもお友達も仁淀川よりもババッチイ水、と。川那部先生もモザイク模様の水質と書かれておられた。、
その「最後の清流」が消滅したから、仁淀川が「日本1の清流」になっても、何らの問題はない、矛盾はない、ということでしょうが。
そこで、意地悪ジジーの疑問
@ 「最後の清流四万十川」は存在していたのか。存在していたとすれば、前さんのお友達の仁淀川との比較は「事実」ではない、ということか。前さんのお友達は、水も四万十川よりも仁淀川のほうがきれい、と。
川那部先生の「斑模様」の水質についてはNHKはどのように見ていたのかなあ。
NHKは、そのような下衆の勘ぐりに答えることはなく、日本教徒らしく、無視されるだけでしょうねえ。
過去は水に流そう、昔のことを忘れよう、ということが、日本教徒の教義の1つですから、意地悪ジジーに付き合うことはないですからねえ。
A 仁淀川の川漁師・弥太さんは、ダムからのいわば死に水が、越知あたりまで流れてきて、やっと少しはきれいにな水になった、と話されている。
「日本1の清流」とはどのような基準で、どこを対象とし、どのような川を比較対象とされているのでしょうかねえ。
ダム上流の「清流」? 一定の流域、流域距離をもった川? それらの基準、対象のうち、部分的に仁淀川が「清流日本一」ということ? それとも、NHKが、それらを総合的に評価して、「清流日本一」に? 単に「水質日本一」になったから?
ごちゃごちゃいううな、「空気」、雰囲気に従えばいいんじゃ、というのも日本教徒の教義の1つですよね。ましてや、マスコミに逆らうとは、さらに選りに選って天下のNHKにいちゃもんをつけるとは「極悪人」じゃあ、となるのかなあ。
なんて、どのような条件設定で、「日本1の泳流」を選定したのか、考えることはありませんでした。
単に、「水質日本1」になったから。
この「水質」がどの程度、「清流」を意味するのか、あるいは、「清流」の概念に合致しているのかわかりませんが。
また、荒川も「水質日本1」となっていることから、年々対象が変化する性質の評価基準のようです。
B まあ、NHKがいかなる評価基準で評価されたのか、問題にすること自体が、不遜な行為でしょうが。
「逆立ち日本論」は、NHKに反逆するとんでもない下衆じゃ、「国策捜査」をするぞ、といわれたとき、オラの正当性を主張する根拠になるのでは、と。
いや、小沢さんや鈴木さんが「国策捜査」の対象とはなりえても、オラがそのような「名誉」に浴することは天地がひっくり返ってもありませんが。
(3) 日本教における「証拠」の作り方の事例
とはいえ、日本教徒の「正当化」手法が、佐藤さんの「憂国のラスプーチン」(「ビッグコミック」小学館 の第三六話:2012年3月25日号)に書かれています。
日本教徒である裁判官に対して「事実」であるとの「心証」をもたせるための検察側の手法が書かれています。
ちょっと長いですが、吹き出し部分?をコマごとに行を変えて紹介します。()内は、オラの注釈です。発言者等を表現しています。
「高村さん(特捜部検事)、今日僕が供述した部分、見せてくれるかな。」
「ああ、かまわないよ。」
「どうせあなたは反発するだろうから、君の同僚の後藤の供述とは合わせなかった。」
「当然だ。僕は背任なんかした覚えがないんだからね。」
「ただし、三つ葉商事の今田氏(商事会社の人から、鈴木さんへのリベートが存在していたことを証拠とするために検事の取り調べを受けた商社マン)とは噛み合うようにしておいたから。」
「そりゃおかしい!」
「国後島のディーゼル発電機の談合なんて、僕は本当に知らなかったんだから!」
「以前のあなたの供述……」
「供述?」
「都築先生(鈴木議員のこと)の『ディーゼル事業は、三つ葉に任せたらいいじゃないか』という言葉……」(検事)
「それがどうした?」(佐藤さん:漫画では、「憂木」さん)
「そりゃおかしい!」(佐藤さん)
「国後島のディーゼル発電機の談合なんて、僕は本当に知らなかったんだから!」
「それを君が今田に伝えたという話、あれを偽計業務妨害に結びつけていきたい。」(検事)
「その無理矢理のこじつけで、僕を有罪にしょうってわけか。」
「それだけじゃ有罪にできないがね。」 「だが今田のほうを固めて、がんじがらめにすれば可能だと思うんだ」
「断る!」
「ふう」(検事)
「あなたのためにならないよ。」(検事)
「また脅すつもりか。」(佐藤)
「ちがう ちがう」 「君に脅しが通じないくらい、もうわかっている。」(検事)
「じゃあ、なんで僕のいうとおり書いてくれない?!」(佐藤)
「……逆に、検察官が被疑者のいうことをそのまんま調書にとるときは、」 「罠があるんだぜ!」(検事)
「罠……?」(佐藤)
「ま、疑問に思うのも当然だが……」 「一度、弁護士に聞いてみるといい。」(検事)
ここでかわいい弁護士との接見の画面に変わります。
しかし、下衆の勘ぐりで、佐藤さんといい、弁護士さんといい、検察官といい、ええ男、女に書かれていますなあ。佐藤さんについては、実物と異なる風貌に見えますが。あ、これはセクハラ?対象が男であればセクハラにはならいんでしょう?
ここまでの佐藤さんとのやりとりでも、検事が作成する文書が、資料が、被告のいうとおりには作成されていないことが「常識」、日本教徒「裁判官」の有罪の心証をえるために「加工」されている可能性が大であることがご理解していただけるのでは。
そして、その「加工」が必要となるのは、法治国家の要と日本人が頭では理解している「形式合理主義」に合わせようとした結果かも。形式合理主義と大岡裁きは相容れないですからね。神の目でみて、白黒を判断し、印籠を見せて決着させる黄門様の心情とも相容れませんからねえ。
戒能通孝の「小繋裁判」?に、入会権の当事者に対して裁判官が「それで間違いないですね」と尋ねると、当事者は黙っている。さらに念を押すといっそう黙っている、との描写があったと思うが。裁判官は、「黙っている」ことは異議のない証拠と解した。しかし、日本教にとっては、「黙っている」ことは、異議の表示である。だからこそ、相手にいうことにいちいち反論をすることもない現象を生じる。形式合理主義の教育の結果がよく表現されている事案と考えている。
「高村検事のいうことは本当です。」(弁護士)
「えっ?」(佐藤)
「特捜の調書は、“早い者勝ち” なんですよ。」(弁護士)
「早い者勝ち?!」
「つまり、一番最初に都合よく自白した者に合わせてストーリーを展開する。」 「そしてそこに、ほかの被疑者の供述を当て嵌(は)めていくんです。」
「じゃあ、否認している僕の場合は?」
「罠を張られます。」
「どういう罠ですか?」
「検事は、否認し続ける被疑者は、憎たらしいと思います。」 「だからわざと、他の供述調書からかけ離れた調書を作製するんです。」
「え、そうすると……?」
「裁判官は供述を多数決で見ます。」(弁護士)
「多数決って?」(佐藤)
「同じ供述が多ければ多いほど、それが正しいと判断するんです。」
「あ、じゃあ……」
「一人だけ違う供述をすれば、嘘をついている……」 「イコール 反省をしていない、と自動的に認定してしまいます。」
「その人だけ、罪が重くなるんですね。」
「そうです。 特捜の嫌らしい高等戦術ですよ。」
「そのテクニックを、なんで高村氏はわざわざ僕に教えたんでしょうか。」
「裏があるかもしれませんね。」
「罠をあえて教えて……また別の罠も仕掛けるってことですか。」
「ええ……」
「では、こうしますよ。」(佐藤)
「少しでも疑念があったら、僕の調書を見せてもらうか読み上げてもらう。」 「どこに罠があるかわからないから、十分注意します。」(佐藤さん)
「そんな! 敵に塩を送るような親切な検事、絶対にいませんよ。」(弁護士)
「え?」 「高村さんは少なくとも、僕の調書は見せてくれましたよ。」
「……」(弁護士)
「本当に変わった検事さんですねえ。 まさか、いい人なわけはないし……」(弁護士)
「……」(佐藤さん)
「よりいっそう罠に気をつけてください。」
「わかりました。」
佐藤さんが、自らのお話を「憂木」と表現されているのは、「事実」を正確に記憶できていない可能性がある、という配慮ではないかなあ。
裁判はゲームである。プレイヤーが、佐藤さんのように意思堅固、判断力に卓越している被告であれば、検事と対等に渡り合える可能性はあるが、その佐藤さんでさえ、めげそうになっています。ましてや、凡人においておや……。
小沢さんのように、優秀な弁護士を揃えて、検事に対抗できる人は、被告側のゲームの不利をも克服できるかもしれないが。だって、検事がストーリーに都合の悪い、ストーリーに齟齬を来す証拠は現在の刑法犯においても開示していないようですしい。なによりも生活費を気にしなくてもお仕事に熱中できるということは弁護士よりも有利ですよね。
検面調書でさえ、必ずしも取調中には、見せてもらえないとを初めて知りました。
さて、「逆立ち日本論」を最初に紹介するといいながら、約束違反じゃあ。
いえ、佐藤さんの本領はあとで。
しかし、養老先生も、内田先生も、川那部先生も、今西博士も、橋本大阪市長とは異なり、「二項対立」での思考、論理構成を好ましく思われているのではないか、と想像しています。どのように折り合いをつけて世の中を旨く回していくのが「最善」ではないが、「好ましい」かを考えられているのでは。
ということで、まずは佐藤さんの経験を一部紹介することが、「逆立ち日本論」の理解にも役立つのでは、と……。
とはいえ、困りました。「憂国のラスプーチン」にどんどん考えなければならないことが出てくるし、そのうえ、佐藤さんと鈴木さんとプロセスの猪木さんとの鼎談まで登場してきて、ますます考えなければならない事柄がふえてくるし……。
「神の目」で見た隠し撮り録音と、検事が検察審査会で提出した「報告書」の比較をすることが、日本教徒の形式合理主義の「正当性」誘導手法の検証に不可欠であるし……。
とごちゃごちゃ言っていますが、本音はあゆみちゃんのお尻を追っかける季節到来にすぎませんが。
さらに、言い訳をするなら、大人になってから漫画の単行本を買ったのは、つげ義治だけであったが、佐藤さんの「憂国のラスプーチン」も買って、まとめて読んだ方がよいのでは、と……。
言い訳と鳥もちはどこにでも付く、よって、本格的には来年回しにします。
(4) NHKの意識は正しい?
裁判において、「なにが事実か」を裁判官が判定するとき、「裁判官は供述を多数決で見ます。」(弁護士)と。長良川河口堰等の公共事業が適正である、必要である、ということを日本教徒に「事実」であると思わせる手法・論理を「逆立ち日本論」から、簡単に引き出せると浅はかな考えから、苦労三昧。
ア 邪道教そして正解の数は?
内田先生が、
「『邪道』というのは先年私が勝手に創設した宗教法人で(もちろん申請も認可もされていない)、『無作為の悪意』を顕彰することを本務としている。
『無作為の』というのがむずかしいところである。
あいつをいつか非道い目に遭わせてやろうとあれこれ下準備してなされるような種類の作為された悪意は『邪道』では外道とされる。当方に何らかの現世的利益をもたらすことをめざす悪意もまた『邪道』においては許されるものでない。
『邪道』的悪意は、無垢で、無作為で、非利己的で、即興的で、かつ骨太の笑い(『くすくす』ではなく『がっはっは』)と伴うものでなくてはならない」
オラが「逆立ち日本論」を紹介する意図は、無垢でも非利己的でもなく、現世利益丸出しの「多数決」の手段における1票にしたいから。これじゃあ、「公正」「中立」に「逆立ち日本論」を読むことすらできませんよねえ。
「正解は1つじゃない」
「養老 いろいろなところで書いてきましたが、『正解がひとつ』でバカだと思うのがNHKです。『公正・客観・中立な報道をします』とかいうけど、そんなものあるわけがない。
ぼくは最近、この『公正・客観・中立』に対する反論を考えました。講演でよく言うのですが、学生が百人いたとしたら百人百様にぼくの顔を見ているわけです。単純に見る位置が違ったら違う顔を見ていますよね。舞台だってだからこそ値段が違うわけでしょう? そこにNHKのテレビカメラがあったとしましょう。ほかの百人に比べてきわめて特権的な位置にいるわけです。そのカメラで撮影した映像を毎日毎日流しておいて、どこが『公平・客観・中立』なのだと思うわけです。しかもその映像はひとつの視点でしかないはずです。
内田 ほんとにそうですね。
養老 だけど、だれもそれを言いません。紅白歌合戦で『裸』が見えたくらいで抗議をするくせに、『特権的な映像しか流していないじゃないか。三六〇度の広角で撮影したのか? 公平か?』とはだれも言いません。
それがなにを表しているかというと、感覚の世界を落としている、感覚を考えから外しているということなんです。感覚的にとらえる限り、だれ一人として同じ体験は絶対にできない。にもかかわらずにその感覚的な部分を消してしまって、あたかも公平中立な視点があるかのように語る。これこそが戦後日本の加工です。この奇妙な加工をずっと続けてきたおかげで、変なことをいうようだけど、自殺が増えるようになった。だれもが同じ体験をしているのだとなったら、『おれが生きていてなんの意味がある?』となるでしょう。
内田 自殺って、『オレが死んでも構わないだろう』ということですからね。
養老 自分が生きているということは、ほかの誰が生きていることとも違う。一瞬、一瞬が違ってここまで来ているのです。それを『個性』とか変なことを言い出して価値観をつけているけれど、どういうつもりでいっているのか、おかしい。
単純に『オレはオレだ』というだけのことなのです。放っておいたって、顔が違うのだから誰だって生まれてきた時点で個性的なのです。ことさらにいう必要もない。それが『公平・客観・中立』な視点がひとつあるなら『オレはいなくてもいいや』となってしまう。見ているものはそれぞれに絶対に違うはずなのです。『公平・客観・中立』があるとすると、『一般市民A』がいるから『一般市民B』『一般市民C』はいなくてもいいんじゃないかという話になってしまい、おかしいんです。
内田 『みんな英語ができるから私もできないと』とか『みんなが家を建てるから私も建てないと』って、やればやるほど自分がいなくてもよくなることにどうしてみんな努力するんでしょうね。自分と同じことをしている人の数が増えるだけ、単純計算でその人の固有性が減じていくのに。
みんなが英語ができるなら、『じゃあ、オレはインドネシア語をやるよ』となった方が、社会全体にとってははるかに利益が多いはずなんですけど、どうしてそういう方向に行かないのでしょう。
養老 強迫観念に取りつかれている人が日本人には多いですね。」
のっけから、オラの「現世利益」が実現可能性の低いことが露呈しましたね。
とはいえ、ヘボの特権は、意に関せず、我が道を行き、換骨奪胎をしてでも、初心を実現する…?。
「対偶という考え方」から
「内田 ぼくは『病歴を持つ』という言い方をしますが、養老先生の言われる『対偶』に近いのかもしれないですね。『病歴を持つ』というのは、喩えて言うと、絵のまわりに額縁をつけるということです。『これは絵です』という風に決めてあげると絵は芸術作品として鑑賞できるし、絵を現実と錯覚することもない。
『総長賭博』(注:お二人は、三島由紀夫同様、鶴田浩二演じるやくざに共感?されているかも)という映画があれば、その外側に『われわれ日本人は【総長賭博】的なソリューションが好きですね』という『顎』を作って、はめ込んでみる。『これは日本人の性にあっているから、パセティックな心情を動員するときは効果的だけど、取り扱い注意です』というキャプション付きの『顎』で囲む。
養老 劇場と同じですね。
内田 フレームをつけるということです。
養老 フレームをつけてもいいし、劇場や教会ということにしてもいい。
ぼくはずっとわからなかったのです、なぜ劇場と教会はあんなに立派なのか。とくに共産主義国家では立派なものを建てます。わかったのは、そのフレームの中では『これは嘘ですよ』ということを無意識に叩き込み、きちんと教えておくということなのです。
内田 なるほどへ、そうだったのか。いくら嘘をやっても、いくらあざといことをやっても、フレームが機能している限り、そのなかでは嘘をいくらでも楽しめるから。
養老 外に出て振り返ったときに『こんな立派なところはオレの家じゃない』とはっきり認識できる(笑)。
内田 そう、それでいいんだ。言っている言葉にフレームをつけてあげればいい。舞台でお芝居をしている役者に向かって『そんなこと現実にあるはずがないだろ。それはただのベニヤの書き割りじゃないか!』と怒る人はいませんからね。そのフレームをきちんと意識していれば、楽しく鑑賞できる。
養老 それをあまりに安直にしちゃったのがテレビですよ。テレビの値段が高いうちはよかったけれど、あまりにも身近すぎるフレームになってしまった。
内田 なるほどね。テレビは安くなったのがいけなかったんだ。
養老 錯覚してしまうんですよ。錯覚するどころじゃなくて、NHKみたいにテレビを作る側の人間が『オレは公平・客観・中立、神さまだ』と思い込むようになっている。神さまのように自分が正しいと思い込んで前提を考え、客観的に見ることをしなくなってしまった。
内田 テレビの画面の中にいる人は、基本的に『これはお芝居です』ということを意識してないといけないんですね。
養老 ところが『私は正しいことを報道しています』となっている。
内田 おおまじめにフィクションをやっているのだという認識がないとダメなんだ。
養老 それをいまさら『メディアは嘘をつく』とか『メディアはいい加減だ』とかいってもしょうがない。
内田 嘘をつくのが仕事なのにね。
養老 『メディアは嘘をつく』というのは、『芝居は芝居だ』といっているのと同じですよ。メディア側も『私は給料をもらって報道をしています』といえばいいことなのに。」
まあ、ご両人のように、メディアを批判的に観察される方には問題は生じないでしょうが…。
「日本1の清流 仁淀川」の放送に合わせた形?で、「最後の清流 四万十川」も放送されていた。
最後の方しか見なかったが。
「最後の清流 四万十川」には、「四万十 川漁師ものがたり」の山崎武さんが登場されていることを知った。
今回の放送では、四万十川の変貌を目的とされているようで、ゴリ漁の今と四半世紀前の比較をされていた。多分、それ以外の情景の比較もされていたのであろうが、最後しか見ていないから何ともいえないが。
そして、野田祐介さんが、その変貌を話されている構成になっていたよう。
イ 状況依存の客観性
a 「総長賭博」型ソリューション
「内田 〜
今の日本の語学教育は英語のオーラル中心にシフトしたでしょう。小学校からの英語教育の導入まで検討されている。国民の伝統や文化を進んで放棄してアメリカにすり寄ろうとしている。これは日本人にとって屈辱的なことのはずなんです。屈辱的なことであるはずにもかかわらず、おおかたの日本人がその政策に同意している。これは理解し難いことなんですけれど、ぼくはこれを我慢に我慢を重ねて、ついにある日、我慢の限界に達してぶち切れる……というシナリオ通りにことが進んでいるんじゃないかと思っている。ぼくはこれを『総長賭博型ソリューション』と呼んでいます。
養老 やくざ映画の筋書きですね(笑)。
内田 『総長賭博』ってやくざ映画ご存知ですか。鶴田浩二がさまざまな理不尽な目に耐えて耐えて、ついに最後に皆殺しにしてしまうというたいへん爽快な(笑)映画なんですけど、どう考えても、そんなに追い詰められるより前に、『それは筋が通りませんよ、やめてください』と言って、相手を制しておけばすんだあ話なんです。でも、主人公はありとあらゆる理不尽に耐えてしまうんですね。ほとんど自分のほうから理不尽で屈辱的な状況を進んで選択しているようにさえ見える。そして、最後に『もう我慢できねえ』といって金子信夫をブスリと刺して……。」このソリューションを日本人は大好きなんですよ。『忠臣蔵』しかり。
養老 早く文句をいえばよかったのに(笑)。
でも、『忠臣蔵』がなぜあれほど繰り返しやられるのかわからなかったのですが、今の説明で納得がいきました。なるほど、あれは『総長賭博』だったのかと。
内田 『総長賭博』は本当にいい映画ですよ。あれを見ると日本人の行動を貫く美学がよくわかります。東映やくざ映画は『総長賭博』を三島が絶賛したことで、一気に文化的カルトになったのですけど、さすが三島由紀夫、見ているところは見ている。
養老 東映のやくざ映画を作っていた男のインタビュー集はすごかったですね。
内田 笠原和夫の『昭和の劇』ですね。ぼくも読みました。面白かった。
養老 あれを読むと、普通の日本人がいかに能天気かわかりますね。本当か嘘かはともかく、自分の社会を率直な目で見ることができないですね。およそ客観性もないですね。全共闘いうところの“客観性”しかありません(笑)。状況依存の客観性のみです。状況を『これしかない』と勝手に決めつけて、それを基に相手の行動を論じる。
内田 ぼくはみんなが好きな物語だったら、客観性なんかなくても、それでいいんじゃないのと思っていますけど。どういう物語が好きなのかだけきちんと押さえておけば。
養老 ぼくは、そこが内田さんと違いますね。ぼくはみんなの嫌いな物語しか作れないのだよ(笑)。」
b 「政治的になるということ」
「養老 客観性で思い出しましたが、反ユダヤ主義者を研究する人は、支持するか断罪するかのどちらかの立場だそうですね。これは、主観と客観は簡単にそのまま逆転するという例です。
全共闘の場合は、政治状況の中での客観性であって、徹底的な絶対的客観性ではないんです。日本人は、どちら側に有利かという具体的な状況で行動を断罪するところがあります。抽象概念を徹底的に詰めることを嫌いますから。よく、小便の例を出すんです。おしっこをするのは生理現象ですが、北朝鮮では、そこにたまたま金正日の写真があってその上におしっこをかけてそれを見ている人がいたら、それは政治的行動になってしまう。政治状況が緊迫するとそうなるわけです。切迫した状況が今はそうそうないからわかりにくいかも知れませんが、ぼくのように戦争のころの状況を知っている年配の人は、それをわかっていると思います。
わかりにくいかもしれませんが、その論法をぼくが覚えたのは実は全共闘の時代なのですね。まったく政治的ではない中立の行為を私はしていたのですが、『お前のやっていることは政治的だ』と言われてしまう。なぜかというと、ふたつのグループに理解が徹底的に対立してどちらともいえない微妙な局面にあるとき、だれかがある行動をとるということはどちらかに加担することになってしまうからです。
どちらにも軸足をおいていないはずが、いつのまにか加担していることになってしまう。客観的でいたつもりが、いつのまにか主観的な問題になっている。そういう経験をすると内田さんみたいな考え方がわかるんですよ。たしか全共闘世代ですよね?
内田 世代的にはそうです。
養老 本能的にそこで覚えたのだと思います。
むしろ、ぼくなんぞはそういう連中に出会ったことで初めて『政治的であるとはどういうことか』ということに気づいた。本人の主観には一切関係がなくて、全体の状況の中でお前のやっていることはこういう効果を持つのだ、ということ。その視点を全共闘はよく主張していたものです。
内田 申しわけございません。大声で主張していました(笑)。
養老 ぼくはそのときに主観と客観の逆転を学びました。
内田 ぼくはそれを最初に武器として覚えました。なにしろ一八,一九の子どもでしたからね。力もないし、思想的な拠点もないし、使える語彙もない。でも、子どもは自分の非力な腕力でも使える武器をすぐに察知できるのです。『これは使えるぞ』とすぐに見つけてくる。
養老 どんなふうにその武器を使えたんですか?
内田 『君が主観的に何を考えているのか、何をめざしているのかは刻下の政治的状況にはなんのかかわりもない。にもかかわらず君の外形的な一挙手一投足が階級情勢の変化におおきく関与する。俺が代議員になるかならないかで日本の階級情勢は一変するのだから、俺に一票入れろ』と(笑)。
養老 わかりますよ、ぼくは散々いびられたほうだから(笑)。ぼくはあの時代には東京大学で医学部の助手の立場にいましたからね。同僚はいつのまにかみんなどっかに行っちゃって、ぼくだけが学生の相手をする羽目になっていました。
内田 『オレひとりくらいデモに行っても行かなくてもなんにも変わらないだろう』というニヒリズムに対して、『いや、お前が一人加わることによって、世界の革命的状況が変わってゆくということがあるのだよ』というかたちで圧力をかけたんですけど、これはそれほど悪いロジックじゃないと思うんですよ。歴史の滔々たる流れは個人の決断などでは変わらないという考え方がぼくは嫌いで。一人の人間のささやかな決断が後から見たら歴史の転轍(てんてつ)点だった、ということがほんとうにあると思うんです。」
c 「周りの情勢で決まる日本」
「養老 主観と客観を逆転させるその論法っていうのは、世界中にありますか。
内田 日本だけですかね。
養老 意外にない気がしませんか? 日本人は状況論理で動くとか、場の雰囲気に飲まれるとか言います。それと同じじゃないでしょうか?
内田 あら、そっちだったのか。ロジックじゃなくて。
養老 今の全共闘の話を論理化すると、主観と客観の逆転になります。そういう意味での客観性。ぼくはそれを『客観性』と呼びますが、西洋人がそれを『objectivity』というかどうかはあやしいですね。
内田 日本独自のものなんでしょうか。
養老 日本的な論理という気がします。だから、全共闘世代は日本人の中の日本人。日本らしい日本人。ぼくのほうが日本から外れたのですよ。終戦をきっかけににして。
内田 ぼくが日本人の中の日本人かどうかは別として、養老先生は間違いなく外れています(笑)。
養老 戦後に教育を受けている人たちが、戦前にあったそんな日本的論理を宿しているわけがないと思っていました。しかし、そうではなかった。一世代越えて、生きていたのです。それが全共闘に対する違和感だったのです。同時にそれは外れている自分に対する違和感です。日本のメインストリームからいうと、ぼくはむしろ典型的な西洋型なのです。オールド・リベラリストとでも呼んでください(笑)。逆にリベラルであるという点で、珍しい世代かもしれませんね。」
「内田 〜
でも、父親だけではなく、あの時代全体が過剰に科学主義的だったと思います。『鉄腕アトムの時代』でしたから。その中で押し殺されていた『日本的情念』が、六〇年代の終わりごろに亡霊のように息を吹き返してきた。
だから、ぼくが最初に剣道をやりたいといったときに、親はあまりいい顔をしませんでしたね。一九五〇年代まで武道はGHQに禁じられていたわけですけど、それをして『日本文化が滅びる』といって嘆いている文化人なんかいなかったですもの。
養老 そのころは、マルクス主義全盛でしたからね。すべてが『封建的』だと言われました。古いものはなんでも封建的。」
内田先生の小学生のころは、戦争経験者である先生たちに、「手を汚している」意識があり、生徒に多くの権限を与えていた。
「養老 戦後の状況はぼくの頃も同じでしたよ。そこは同じだったけど、まだ軍隊帰りが腕力を持っていましたね。予科練なんて十代ですからね。だから、内田さんが学校に行っていた時代よりは、もうちょっと激しく過去が残っていました。
そうして世間がずれて日本的情念のようなものが戻ってきましたね。世間全体が、ずーっとずれていくのだ。それはしみじみ感じました。それが内田さんの世代にきて、あたり前になって、今度は表面に出ないで、無意識下に世間に復活していった。
逆に、団塊の世代からは日本化していくのです。だから反米運動も激しくなってくる。ぼくらの頃も、たしかに反米でしたけど、そこまでには至りませんでした。
内田 ぼくらの世代は間違いなく、伝統回帰で日本志向なのですよ。戦後民主主義の無菌室みたいな教育を受けてきたせいで、ナショナリズムに対する免疫がない。だから極左だったやつが三十すぎると靖国神社に詣でたりするわけです。
養老 全共闘の時代の人たちは竹やりを持ってわめいていましたからね。
内田 竹やり?
養老 本物も本物ですよ。ゲバ棒どころじゃありません。東大の御殿下グランドという広場を、竹やりも持った人が埋め尽くしていました。戦時中に見たのと同じ光景です。共産党の都学連の人たちは、戦時中に竹やりを持っていた大人を見た経験があるわけないのに、まったく同じことをしているのです。あの時ぐらい驚いたことはないですよ。三千人が竹やりを持ってグラウンドを埋めつくしていたのです。
もうひとつ驚いたのは『封鎖』です。『この非常時に研究室でのんびり研究なんかしてなんだ』と非難されるのです。『俺たちが一生懸命にやっているのに、お前らはこんなところで研究なんかしてなんだ』という。この論理は、典型的な『非常時の論理』というやつで、戦争中と同じ論理です。女の人がスカートをはいているだけで『非国民』といわれる論理です。でも、ぼくの世代から見ると『戦争を体験していないのに、なんでこいつらは戦争のことを知っているのだろう』と不思議でしょうがなかった。
内田 隔世遺伝なんですね。教えてもらわなくても、見たことがなくても、ひとつ上の親の世代から『こういうことをしてはならない、思ってはならない』という欠性的なしかたで情報は受け取っている。逆から言えば、先行世代が何を一番嫌がっているかわかるんです。養老先生の世代からすると、自分で絞め殺したはずの死体を隠して埋めておいたらそれが出てきた感覚じゃないでしょうか?」
忠臣蔵が日本教徒の琴線に触れるというか、心情にぴったり、という現象について、山本七平は、日本教徒の教義である「けんか両成敗」に反する措置を行ったから、と書かれていたと思う。
内田先生は、「そして、最後に『もう我慢できねえ』といって金子信夫をブスリと刺して……。」というソリューションが日本人が好きだから、と。
山本七平は「行為」の後の統治者の対応が、内田先生は「行為」に至る過程が日本人のソリューションにぴったり、と見られているのかも。
さて、長々と「状況依存の客観性」を紹介してきたのは、またもやヘボの換骨奪胎の「手段」としてです。
つまり、阿部さんの「鮎が食して珪藻かららん藻に遷移する」すばらしい営みが、「貧弱な」観察に基づく「学説」、営みであることを「数」で勝負したいから。
「清流を知らずして珪藻を語る」行為そのものが、「現在」という「状況依存」である。「清流」が存在しなくなった「状況」を何ら疑うこともなく、その中で生じているかもしれない「現象」が、「客観性」を有すると判断されていることではないかなあ。
阿部さんの論文は、村上先生の本から見て、英文の研究誌にも掲載されているかも。
なんべん書いたことかなあ。千曲川が清流?、木曽川が清流? まあ、支流等には「清流」が存在するでしょうが。木曽川の上流には「清流」が今もあるかもしれないが。
NHKが、四半世紀前に「清流」と宣伝した四万十川、二千十二年に「清流」と放映した仁淀川、そこには珪藻が優占種のところもあると思う。その珪藻が優占種のところが、藍藻が優占種に変わる?
阿部さんの答え=変わるわけないよ、鮎がいないから、量が少ないから。
いやあ、おそれいりました。そうですよねえ、阿部さんの前提は「鮎が食する」から、らん藻に遷移するのでしたね。鮎がいなければ「珪藻が優占種」のままですよね。
ほんまかいな。
阿部さんら学者先生に、川那部先生が、「現在」の増水による濁りがすぐにはとれない長良川、吉田川を見たあと、濁りのない粥川を見られて、「曇らされていた目」と認識されたことを期待しても無駄なことでしょうねえ。増水後、1日、2日で、「清流」に戻る川が当たり前だったときがあったんですよねえ。
「状況依存」の「客観性」を、時間軸での「状況」とまでは、養老先生も内田先生も意識されていないかも。そうであるとしても、ヘボの特権は時空を越えて換骨奪胎することができるんです。
d 「空気」と全共闘
「養老 ぼくは体勢外全共闘ですから(笑)。
内田 はあ?
養老 全共闘もある意味では日本の体制です。北一輝からずっと続いている連綿とした日本人の感情ですよ。戦争中だって徹底的にそれが出ていましたからね。
内田 養老先生みたいな方が怨念とともにでも語り継いでくださらないと、全共闘運動というものが政治史的になんだったかは伝えられませんね。
養老 いろんな人がいろんなふうにつるし上げを食らいましたけど、ほんとうに全共闘というものに思想的影響を受けた人間は、周りを見ていて思うけど少ないのではないでしょうか。
内田 そうですね。養老先生ぐらいしかぼくは知りません。
養老 はい。
内田 加害者は事件のことを忘れても、被害者は忘れない。
養老 ちょこちょこと関係ないところで、ぼくの全共闘へのこだわりが出てくるのですよ、これがまた。日中問題と同じです(笑)。忘れたころにその話が出てくるわけです。
『丸山眞男の本を読んでいたらその時代のことが出てきて、彼も壇上で殴ったりされていたそうですよ』って三十代の知り合いが驚いていたけど、そんなの当たり前に見ましたよ。やられた方は忘れません。はじめは正面切って殴ることはしませんでしたけど、蹴っていましたね。医学部なんか見えないところで教授の足を蹴ったりして、ひどかった。
あれは、なにか事情があったということではなく、雰囲気だったと思います。それが戦争中の雰囲気に似ていた。戦争中にそのおかしさがわからなかったのは、それが世間全体の雰囲気だったからです。山本七平さんが『【空気】の研究』という本でうまく説明していますが、日本人はみんな空気を読むのですよ。でも、後になるとどういう状況だったかわからないのです。その空気は時代のものだから。
内田 ものが『空気』ですからね。標本にして取っておくわけにいかない。後の時代になると、机の下で養老先生を蹴った足は歴史の闇にもう消えていますからね。
養老 状況依存というのは、いわくいいがたい、一緒に行動せざるをえない空気を作り出すからとても危ないのです。
結局全共闘には言いたいことなんて何もなかったのですよ。
内田 たしかに何が言いたかったかというと、言葉に窮しますね。
養老 世代の上下を見ても同じようなことをやっています。全共闘が政権を取ったら、また同じ社会になっているでしょう(笑)。
内田 実際に全共闘というのは、横で見ていたからわかりますけど、思想運動というわけじゃないんです。ある世代の人たちが世代単位で『俺たちの言うことを聞け』と声高に権利要求をしたというだけで。だから、高校のときにガリ勉で、こっちが楽しく不良高校生をして遊んでいるときには、『ウチダ、勉強の邪魔をするな』といって苦々しい顔ををしていた優等生が、大学に入ったらあっという間に全共闘に衣替えして、その連中が今度はぼくをつかまえて、『ウチダ、革命の邪魔をするな』と叱りとばす。なんかいつも怒られるばかりだなと思っているうちに、みなさん髪を七三に分けて、中央官庁とか一流企業にどんどん入ってしまって、またまたぼくは取り残されてしまった。
あの方たちはガリ勉高校生であったときと、全共闘学生だったときと、出生主義のサラリーマンであったときの基本的な構えは別に変わっていないんです。要するに、いばって、人をこづき回すのが好きなんですよ。だから、集団をつくって、衆を恃んでいばる。われわれの世代はとにかく頭数が多いので、世代単位で行動するといくらでも威張れるんです(笑)。
養老 いま、内田さんが漫画みたいにカリカチュアライズして言ってくださいましたが、まさにそれが、日本の世間の悪いところなのです。戦争中がそうでした。戦争中に威張っていたやつが、まったく同じでした。あそこまで状況が変になると、ほとんど精神に異常を来たしているんじゃないかというやつの声がいちばん大きくなる。だいたいが声を大にして言うことは極端なことに決まっているのですよ。
内田 そうですね、声の大きいやつの言うことは信じるな。
養老 ボソボソ言わないよ、極端ことは(笑)。
内田 極端なことって大きな声になじみますからね。だいたい、声の大きさは中身の空疎さと相関するんです。」
「空気」と状況依存の客観性、原発事故以後には原発建設の正当性を演出する手法がマスコミでも報道されるようになったが、原発事故が起こる前に、さらには、自然征服思想に基づく「公共事業」の正当性演出作業のときにも、現在のウン分の1でも、注意を払い、「公共事業」推進手法を報道していてくれたらなあ。
いや、そのころ、そのような報道をすることは「空気」に逆らうことになり、統治者に、読者に逆らうことになりますね。
ニュースキャスターとか、コメンテーターとかは、「空気」に従った演出、お話しか行わないようで。いや、「できない」ようで。
小沢さんが、検察審査会の起訴決定を受けて無罪になっても、裁判とは異なる、国民に「罪」のないことを説明する責任がある、と。
いったい、キャスターさんたちは小沢さんにどのような「説明」を求められているのかなあ。どのような「説明」を行えば、「説明責任を果たした」とおっしゃるのかなあ。
さらに、その「説明」は、どのような手段で可能かなあ。何々をしていない、というアリバイ証明は非常に困難、不可能ではないかなあ。「時間」とか、「場所」への接近可能性に係るアリバイ証明はまだ証明可能性があれど、秘書に口頭で指示した、しないとかはどのように「証明」できるのかなあ。小沢さんが、秘書に指示しました、「罪」を冒しました、というまで「説明責任」を果たしたことにならないのでは。
なぜなら、キャスターさんたちは「空気」でしか物事の良し悪しの判断ができない、それに基づかない判断能力、思考能力、事理弁識能力がないようですから。
あ、そうそう、山本七平は、全共闘を持ち上げていたマスコミが一転して弾劾するようになった「変身」理由について、「初心を忘れた」から、とマスコミが書いていたことについて、その意味も、どの本に書かれていたかも忘れた。「初心を忘れた」から「原点に復れ」ということがマスコミ、日本教徒の教義とどのようにかかわっていたか、という視点であったとは思うが。
ウ 現場主義
a ヤスデの足りなくなった足への対応
「養老 おもしろいことがあるんです。節足動物のヤスデには、足がたくさんあるでしょう。体節ひとつに二対の足がありますが、足を一本とられると、ヤスデの全体の動きが変わるのです。二本とられたらまた変わる。全体を調整するよくできたシステムをもっているのです。
あれだけの足を混乱なく動かしているわけだから、足をとられたら、全体のシステムがくるってしまう。だから調整するというわけです。
内田 とられた足の現場で調整しているのでしょうか? それとも、中枢でコントロールしているのでしょうか?
養老 もちろん、部分と全体の双方が絡んでいます。システムの特徴です。生き物のシステムは、融通がきく、つまりどんどん変化していくものです。
内田 システムというのは、基本的に現場処理ですね。
養老 一本取られたら、取られたなりに全体が影響を受けるわけです。それがいま小指一本の話になります。
(注:養老先生はやくざの弱点がわかっている、やくざが乗りこんでくれば人体標本の手を一本ゴロンと放りだせばよい、と。「世間の文脈というのは、生きた人間にあるのです。そこに死んだ人が出てきたら、文脈ががらりと変わって違うものになるのです。だから、死体というのは武器になります。」
「『この手はおいといて』なんて言えたらデキるやつですね。死体はどうしたって最優先事項になります。あれで錯乱しない人はほとんどいないのです。」)
百本も足があるのだから、一本くらいなくたって今まで通りで大丈夫でしょうと思うのだけど、それをちゃんと変えていく。別のヤスデになってしまうのです。
内田 人間の場合は、自己同一性を維持しようとするから混乱するんでしょうね。たとえば片手になったら別の生き物になったと思って、片手の人間というシステムを作ってしまえば混乱しない。
養老 そうなんです。『俺は片手のない自分だよ』と思えば便利なのだけど、脳はそうは思わない。
内田 自己同一性とはそういうものなのですね。ヤスデになれればいいのか……。」
b 「埋められた」杉原千畝さんの行為と外務省と掘り起こした人と
ビッグコミック2012年6月10日号(小学館)の「憂国のラスプーチン 第40話」に、
「その2ヵ月後、私(都築外務政務官=鈴木宗男さん)は憂木氏(=佐藤優さん)と再会した。
ヴィリニュス・リトアニア―」
「(憂木)ランズベルギス議長との会談、お見事でした。」
「(都築外務政務官)ありがとう」
「(憂木)これで多くのユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはらちうね)氏の名誉も、回復されると思います。」
杉原さんが、多くのビザを発給してユダヤ人を救った、という話はマスコミで知ってはいたが、「名誉回復」の意味がわからない。
そこで、ウイキペディアの「杉原千畝」で検索すると、数十ページにわたり、記載されていた。
杉原さんは、外務省の訓令に逆らい、また、そのことによる処分が早急に伝達されることがないように、策を講じられていたとのこと。
外務省の杉原さんへの反発は大変なもので、シベリア抑留?から引き上げてくると、すぐ岡崎政務次官(後に外務大臣になったと思う)が首切りを。
命を永らえることのできたユダヤ人からの外務省への杉原さんへの問い合わせにも「杉原という外交官は存在しない」と回答。
杉原さんの名誉回復に反対した人間とされた報道された小和田さんは、「『組織の人間として訓令に従うか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題』」と回答したとのこと。
さて、この小和田さんの回答は、「現状依存の客観性」に依拠し、かつ、かって自らも杉原さん抹殺に関与したことを隠蔽し、誤魔化す「言葉」ではないかなあ。
少なくとも、「名誉回復賛成」の行動をとってはいないのではないかなあ。もし、「賛成」の行動を取っていれば、華々しい外交官としての道も閉ざされていたと思うが。それほど、外務省の杉原さんへの反発はすごかったよう。
ウイキペディアには、
「1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪した。しかし、当時まだ外務省に在職していた佐藤優は、『国家の罠』(2005年)において、その名誉回復すら『当時の外務省幹部の反対を押し切』ってなされたものであったとし、千畝の不服従に対する外務省関係者の執拗な敵意の存在を証言している。(注:脚注表示は省略します)
杉原さんの行為も「現場主義」の見事な発露ではないかなあ。
そして、その結果はエリート外務官僚軍団の「執拗な敵意」が、鈴木さんの行為によって、やっと、収束したということではないのかなあ。従って、超エリート官僚である小和田さんが、「執拗な敵意」を発揮されていたと考える方が常識に適うのではないかなあ。もし、外務省の「常識」に逆らっていたのであれば、マスコミが喜んで書き立てたのでは。小和田さんの発言は、「現状依存の客観性」に依拠し、さらに、個別具体的な杉原さんへの小和田さんの行動を問うているにもかかわらず、「一般論」で答えていると言えるのではないのかなあ。
杉原さんの行為が、土の下から掘り出された後の、勝負がついてからの、自らへの火の粉をはらうために、「例文」で回答しているのではないかなあ。
内田先生は、
「でも、官僚的な文章の中にもまれに『入ってくる文章』があるんですよ、これが。行間に『この官僚的文章の行間を読んでくれ』というメッセージが込められていることがある。そういうのがだんだんわかるようになってきたのは、ぼく自身が官僚的文章が得意だからです。これは自ら『天才』と誇れる唯一の才能なんですけど(笑)。官僚的作文を書かせると、自分でもほれぼれするぐらいうまいんです。問題の核心には触れないで、ひたすら蟹歩きで横に歩く。言葉だけは美辞麗句が並んでいくのだけれども、肝腎の問題には一歩も触れないという文書を書かせると、ぼくは達人。
養老 内田さんらしい。」
この後にも官僚的文章の特徴(着脱可能なモビルスーツ)、作成手法が語られているがさぼります。
内田先生は、小和田さんの原文を読まれたとき、『この官僚的文章の行間を読んでくれ』という感情を抱かれるのかなあ。もし、そうであれば、小和田さんの「美辞麗句」も、「肝腎の問題には一歩も触れないという文書」ではなくなるのですが…。とても、その類の小和田さんの文章ではないと思う。杉原さんへの敵意丸出しの行動をとった一員としての「行為」を隠蔽するための文章ではないのかなあ。
小和田さんに対する問題は、弾圧から逃れようとして領事館にやってきたユダヤ人の生存に対して行われた杉原さんのユダヤ人へのビザ発給と、その行為に対して反応していた外務省の組織犯罪?見せしめの行為?に対しての小和田さんの具体的な対応であると思いまですがねえ。そのことについて書かれているのでしょうかねえ。
単に、「状況依存の客観性」、「空気」にしたがった「一般論」への問題のすり替えによる弁解にすぎないんではないでしょうかねえ。
もちろん、根拠は、鈴木宗男さんのように、外務省から「敵」と見なされることなく、「道」から外されることもなかった経歴からですが。そして、「すり替え」の文で解答していると考えているからですが。
ビッグコミック2012年6月10月号「憂国のラスプーチン」には、
「(検事)世論に押されました。」「そして外務省にしてやられました。」
「(検事)マスコミに出たものでは、実は何一つ……」
「(検事)事件にすることはできませんでした。」
「(都築)じゃあ、こういうことかね?」
「(都築)ミネオハウスも、ソンドゥ・ミリウ発電所も、」
「アフリカ人秘書の偽造パスポートも、足寄(あしよろ)のミネオ道路も……」
「疑惑の綜合デパートに出ていた疑惑商品は、全部潔白だったということか?!」
「(検事)そうです。」
「(検事)しかしね都築(つづき)先生、」
「それが国策捜査ってもんですよ。」
「(都築)な、何が国策捜査だ!!」
「(都築)ふざけるんじゃない!最初から思い込みで逮捕したということじゃないか!!」
「これが国策捜査の実態か?!」
「(検事)はいはい。」
「私たちは、権力を背景に捜査をしてますんで、ときにはこういうこともね。」
「(都築)な、なんだと?!」
「(検事)ま、先生がそう受け止められるなら、その通りなんでしょうよ。」
「(検事)だから先生、」
「収賄(しゅうわい)のほうは、きっと有罪にできるよう頑張りますから。」
ということで、検事さんたちは、「有利となる証言集め」に精を出していらっしゃる姿、そのやり方の描写もされています。
その事柄については、今は対象外で、「国策捜査」に協力されたのが外務省ではないかなあ、という疑惑を持っています。しかも、積極的に情報を提供して、また、マスコミを操作していたのでは。
「そして外務省にしてやられました。」の検事に係る吹き出しは、事実かどうかは知るよしもないが、「疑惑」のデパートの出品品目には、外務省がらみのものが多くないでしょうかねえ。
怒鳴り散らしていた?田中真紀子さんが外務大臣でも、秘書が何人変えられても外務省は痛くも痒くもないが、鈴木さんのように、外交分野のお仕事のできる議員さんは厄介な存在だったのでは?。
あ、あそうそう、田中さん更迭に外務省は鈴木さんをご利用なさってたかも。
また、杉原さんのような外務省に逆らった人が「英雄」にされる「発掘」をされると困ることでしょうね。
「政策」について、現在の課題への対応でも外務省のいうとおりには行動しない、また、「自分で絞め殺したはずの死体を隠して埋めておいたらそれが出てきた感覚」を二度と味わいたくない、となれば、組織防衛上、鈴木さんを「国策捜査」で、葬りたくなるでしょうねえ。
それに小和田さんもその行為の一端、鈴木さんへの国策捜査の前哨戦とも言える杉原さんの名誉回復の動きに反対することに加担されていたとは、考えすぎでしょうかねえ。
「相棒」では、現場主義で動き回る杉下さんを葬ろうとする組織の役割を演じていらっしゃる方が。官房長は後始末のことを考えて、杉下さんが掘り起こした「死体」を隠そうとされているが、なぜかいつも、隠し切れていませんよね。まあ、テレビですから、「死体」を掘り起こさずにすめば、黄門様の「印籠提示」が、神通力を失ったことと同様の視聴者の反応が生じ、そのドラマの終焉となるでしょうねえ。
c 「亡国イージス」と現場主義
ドラマが登場したついでに、「亡国のイージス」を。
「養老 (注:未知の情報がすべて数えきれると決めつける人がいることについて)もちろん数え切れる場合もあります。論理的に考えられるケースがあって、すべてを数え上げることができる場合もあります。それは法学でもそういう前提に立っていますよね。法律をつくるときは、それ以外の解釈ができないように縛っていくのです。ぼくはそれを『官僚的』と呼んでいます。でも、現場は官僚的には動かない。それはもう嫌というほど東大で学びました。
だけど、いちばんそれをわかっているのは軍人さんじゃないでしょうか? 軍隊というのは完全な官僚組織なのだけど、現場では命がけで戦わなくてはいけない。その官僚主義対現場主義の狭間で、命がかかっているから軋轢も命がけになる。だからいざというときにドラマがいっぱいできる。とくに官僚機構と現場の間にいる中間管理職がいちばんドラマの主人公になりやすいのではないですか。
内田 そういえば、『亡国のイージス』という映画もそうでしたね。主役の真田広之が下士官役なんです。『日本はこうあらねば……』と上の連中が言って、『現場ではこんな不合理が……』と下の連中が言う。一方にはイージス艦という具体的なモノがあって、とにかくそれを沈めちゃいけないという現場のリアルな問題があり、それと同時に日本人の精神を入れ替えねばならぬというイデオロギー的な問題がある。モノと思想の板挟みになりながら、中間管理職の真田さんが結果的に日本を救う。あれは中間管理職の理想を描いたドラマでしたね。
養老 最後にどちらを信用するかといったら、現場なのですよね。どの映画でもそういう解答になります。
内田 現場を棄てて、思想を信用したおかげでみんながハッピーになったという物語はないですね。
養老 宗教者の多くが独身なのは、そういうことじゃないでしょうか。しがらみが一切ないから思想で死ぬことができる。」
杉原さんが直面された状況は、「訓令」に基づいて事務処理を行えば、「違法」とされ、「葬り去られること」もなかったでしょう。そして杉原さん以外のすべての外交官は、ビザを求めるユダヤ人に対してそのように行動をされたのであろう。したがって、1人だけを葬り去れば、永遠に外務省に楯突いた人は存在しなかったことになっていたが。
杉原さんも、小和田さんのように「個人の心情、信念」に基づく行為であると、後付で語ることはあっても、自己がその信念に基づいていかなる行為をされたのか、適切に語ることをしない対応=「訓令に逆らわない行為」もできた、にもかかわらず……。杉原さんが名誉回復をされようとしたとき、その措置の反対者であることを誤魔化すことすらできたであろうに。
むしろ、軍人よりも貴重な、強い信念に基づく自由意思による意思決定をされたのではないかなあ。選択肢が限られている軍人の行為ではなかったがゆえに、「自由意思」の発露の側面が強いがゆえに小和田さんら外務省が土中深く埋め込む必要性が高く、さらに、その埋め込まれた死体を発掘してしまった鈴木宗男さんを「国策捜査」で検察の権力を利用して、職務を利用して葬りさらねば、との行為がつながっている、と想像するのはヘボの勘ぐりがすぎますかなあ。
杉原さんが、シベリアからの帰国が遅かったことについて、ウイキペディアの著者は、外務省の策略を推理されている。満州からいち早くトンズラしたのは将校と高級官僚であった、という話もあることから、ウイキペディアの著者の推理は適切かも。
その外務省の杉原さんへの一連の対応を象徴的に表しているとして選ばれた人が、「時の人」でった小和田さんではないかなあ。
d 現場主義の事例:「嘘も方便」
「内田 麻雀仲間に浄土真宗のお坊さんがいるのです。ある時『ちょっと今日は早めにご無礼しなくちゃいけないのです』というのでどうしたのかと思ったら、『檀家の方が亡くなられて急に通夜に呼ばれましたもので』とおっしゃる。通夜に呼ばれたから『今日はいけません』じゃなくて『早めに失礼します』。それで『七時からだというのを八時からにしてもらったので、七時まで打てます』って。いやあ、この緩急のつけかたがすばらしいなあと思いました。
浄土真宗ってけっこう現場主義なんですよね。思想より人間の生の日常に深く関わろうとする。そのお坊さんて、『いきなりはじめる浄土真宗』の共著者の釈轍宗老師なんですけど、ほんとうに具体的な生活に立脚している宗教者なのです。認知症の老人のための施設を作ったり、具体的な活動をされている。
養老 具体的なことをしていると嘘も方便になりますね。
世界の宗教で、嘘も方便を許すところはあるのですか? 仏教はもともとそういうのを許すところがありますね。
内田 日本の宗教は、思想性だけでごりごりと凝り固まっているというのはあまり聞かないですね。
養老 日本は、嘘というものに対して奥深いと思います。なにが嘘かは簡単にわからないととらえる。それがあの黒澤明の『羅生門』になっている。当事者の言い分が三人三様で、真実がわからない。
内田 あれは英語でも『RASHOMON』というそうです。事件があって複数の証言があって真相がわからないことを『RASHOMON』という。
養老 なるほど、一般名詞になるのですか。
内田 なにかに『RASHOMON』と出てきたので、なんだよと思って調べたら黒澤の映画からとられた言葉だとありました。
養老 日本じゃ『藪の中』と言っていますよね。
三人三様のことをいった場合に、アメリカの小説だと『だれが真犯人か』というところに持っていくのに、日本は逆でそこで話が終わる。それが西洋人にはインパクトがあったのでしょう。
内田 そうですよね。そういえば、誰が真犯人かわからないミステリーってアメリカ人は読まないだろうな。そうか、その点で『羅生門』は世界に衝撃を与えたのか。いま初めて知りました。
養老 『ほんとうのことはわからないのではないか?』というのを西洋ではあまり考えないのでしょう。『正解はひとつ』の世界だから。」
「嘘も方便」の世界で、証言が事実か否か、を識別するには、形式合理主義の知識だけでは不可能でしょうねえ。
松川事件のように、広津和郎が、「作家の目」で、「証言」の中から、「事実」である証言を拾い出した作業が必要でしょうねえ。
「ムネオハウス」が、「事実」である、鈴木さんの利益誘導を証明しするものである、と検事が判断していたことについて、佐藤さんは、ロシアで記念的な、顕彰的な意味合いで建物等に「個人名」をつけるときは、「名前」ではなく、「姓」である、と。マスコミがそのようなロシアの習慣も知らずに「ミネオハウス」と名付けた。検事がその意味を知らず、マスコミ命名の建物が、鈴木さんの「犯罪」を示すものと判断していたことが書かれていたが、まあ、嘘も方便の世界での証言の中から「事実」を見つけ出すのは大変でしょう。多分、その能力は、机の上だけのお勉強では見つけられないのはないかなあ。松川事件における田中最高裁長官のように。
すでにどこかに書いたと思うが、遠藤周作「沈黙」で、日本人クリスチャンの兄ちゃんが、イギリス人の姉ちゃんと殉教について話した。
兄ちゃんは、長屋のくまさんがしょっぴかれて、お前が転んだら、長屋のクリスチャンを助けてやる、と。そのとき、くまさんはどうするか、と。
兄ちゃんは嘘も方便、転べばよい、と。
ねえちゃんはくまさんは殉教です。長屋の人も殉教です、と。
それで、兄ちゃんは棄教することになったが。
なお、踏み絵は、日本教徒クリスチャンに対しては有効な手法ではあっても普遍性はなし。
ユダヤ教と同じく、キリスト教でも、偶像崇拝をしてはならない、と。なお、「卒業」のときに、その教義の一端を紹介するつもり。
e 現場主義の事例:山脇東洋の腑分け
ミッシェル・フーコーが、断層の哲学?で、それまでは宗教儀礼の対象でしかなかった死者を「死者から生者を見る」ことにした解剖学の成立を歴史上の重要な事柄と評価されていたと思う。
「養老 時代というものは面白いです。常に前の時代の人を『消す』のですが、どういうふうに消されたかというのも面白いですよ。当時は人気があったのに、次の時代に残らない人っているでしょう?
そういう人物でぼくがしみじみ思うのは、明治時代になって荻生徂徠(おぎゆうそらい)が消されたことなのです。当代では大変な思想家だったわけです。杉田玄白を読むと、山脇東洋と並べて、彼のことを『豪傑』と書いています。それが明治にはまったく評価されなくなる。否定されるどころか、問題にされなくなってしまった。芥川龍之介は『荻生徂徠は煎り豆を噛んで古人を罵るのを快としていた』って書いています。そんなふうにしか扱われていない。
内田 徂徠のことはよく知りませんが、よい趣味ですね。豆を噛みながら人の悪口を言うというのは(笑)。
養老 山脇東洋に荻生徂徠が与えた影響は大きいですよ。
荻生徂徠が『天道と人道を区別』、つまり自然法則である天道と社会法則である人道はまったく違うということを根本に立てました。そこに山脇東洋は感激します。将軍様のいうことが絶対であった封建時代です。たとえば将軍が米を豆だといったら豆になってしまう。それを徂徠は『米は米、豆は豆……』と書いているのですが、それを使って、山脇東洋は『松は松、柏は柏で松柏』と、続けて『尭(ぎょう)の蔵(臟)、紂(ちゅう)の蔵(臟)、蛮貊(ばんぱく)の蔵(臟)』と並べているのです。悪人も偉い人も、蛮人も贓物は同じである。つまり内臓はだれのものも同じだと書いているのです。これは革命思想ですよ。
内田 皇帝、尭舜(ぎょうしゅん)の贓物も、悪党、桀紂(けっちゅう)の贓物も……。
養老 完全な革命思想ですよ。日本で最初に山脇東洋が人体を解剖したのが一七五四年です。一八世紀の半ばには、もうインテリでそういうことを考えている人がいた。最初に解剖した遺体を、菩提寺で供養していて、祭文を書いていまして、その祭文が残っています。
しかも、それは明らかに違法行為なのです。つまり、当時の解剖遺体は死罪に処せられた罪人のもので、死罪に処せられるということは、お上に反抗したからということ。お上の決めたことに逆らったということ自体が反逆で、謀反人だから弔うことは許されないはずです。それを堂々とやっているのですから驚きます。
だから、江戸時代の人間は封建的だという人がいますが、まったくそんなことはないのです。調べれば調べるほど、そういう気がします。江戸のほうが、そのへんの“ゆるさ”が上手いのでしょうか。ある程度決めてはおくけど、あとは勝手に現場主義、うまくできています。」
マルキシズムが我が世を謳歌していたころには、養老先生の江戸期の説明が妥当するが、現在はどの程度の妥当性を持っているのかなあ。
徂徠が、なぜ明治の統治者から、そして、学会からも排除されたのか、明治の時代の統治原理を考える上で有効とはわかるが…。政治思想史の上で興味はあるが…。ATOKでも手書きでないと徂徠が表示できないことから、パソコンでも冷遇されている?
徂徠は、なにしろ、「異質他者」の存在を認識した日本教徒では珍しい存在ですから。山本七平は、異質他者の存在を初めて認識した人として、夏目漱石をあげているが、徂徠は、外国に行くことなく、頭で考えての認識。
その日本教徒の「異端者」とも評価をされるべき徂徠が、忠臣蔵における切腹主張者の立役者のようであるから、養老先生でなくても、江戸期のほうが明治よりも「異端者」に寛容、あるいは「現場主義」が社会の基調であったと考えてもよいのでは。
アングロサクソンの「所有権」概念では、「使用、収益、処分」をする権利がない限り、「所有権」概念はない、となる。
しかし、江戸期の百姓には「所有権」はなかったのであろうか。田畑売買永久禁令は機能していたのであろうか
百姓は、田畑を使用、収益する権利を有していた。しかし「処分」権限は持っていなかった。これは事実といえよう。
しかし、村役五人?の加判があると、流質契約が認められていた。百姓は、現在のサラリーマンがお金を借りるとき同様、生活が苦しい、年貢が納められない、親が病気で物入りで、とかの理由で、村役の加判をもらい流質契約を締結する。
本音は商売の資金にしたい、ばくちの借金を返したい、女遊びのつけを払わないと、ということもあり得る。
この形で、田畑の「処分」が実行されていた。天保の改革だったかなあ、百姓に土地を戻そうと試みられたのは。密貿易、タックスヘイブンの地であり、大名貸しの五氏の一人もいた天草では、江戸期の始めの一、二万人口が、江戸期末には八万?程に増えていたが、その人達を百姓に戻そうとしても無理でしょうね。すでに田畑での収入ではなく、密貿易・商売で稼いでいたのですから。
江戸期の百姓には、アングロサクソン流の「所有権」概念は存在していなかったが、田畑を「所持」していて、流質契約を使用して、売買と同じ効果を「所持、保有」していた。
ということは、アングロサクソン流の所有権概念が「普遍性」を欠いていたにもかかわらず、「公理」としての位置づけとなったため、小繋村の入会権訴訟が生じたと言えるかも。
橋本市長が、二項対立でものごとを処理する姿勢で、高い評価を得ているようですが、「この道はいつか来た道」となるのではないでしょうかねえ。
入れ墨の人を大阪市職員から排除しょうとされているけど、入れ墨をすることが反社会的な評価を受けるとしても、個人の評価の問題ではなく、「法律上」の問題にすることが適切でしょうかねえ。
仮に、法律上の問題であっても、山脇東洋が腑分けを行い、死者を弔うことが出来た方が、好ましい「統治」のあり方ではないでしょうかねえ。
スカートをはいていることが国賊、という社会にはなってほしくないですよねえ。どうも、世の中は「喫煙者」は、反社会的行為者、となっていく風潮にあるようですが、幸いにして、養老先生も内田先生も喫煙者であり、少しは安心していますが。それに、オラが就職活動をすることもないから、「喫煙者」は入社に及ばない、という仕打ちを受けることもないから、ありがたいなあ。
エ 成熟システム?ぶっ壊すシステム?
a 「折り合いをつける」ことが重要
「内田 世間に対する、養老先生とぼくの対応の違いがどこから来るのかといえば、養老先生は死体を相手にする解剖学のご専門であるのに対して、ぼくが生きている人間を『活殺(かつさつ)自在』に操作する技術である武道を稽古してきたこととと少し関係があるような気がします。武道というのはいわば人はどういう場合に死んで、どういう場合に生きるかということだけを研究するものですから。
武道の相手は原理的には『敵』ということになります。でも、この『敵』という概念は因習的な敵とは違います。『敵』には心身のパフォーマンスを標準値以下に下げるすべてのファクターを算え入れることができる。風邪を引いても、友だちに批判されても、恋人に裏切られても、親が死んでも、雷に打たれても、会社が倒産しても人間の心身の安定は、乱されます。心身のパフォーマンスを下げるファクターって、そういうふうに考えると無限にあるわけです。原理的にはウイルスから妻まで、こちらの心身をかき乱すものはぜんぶ『敵』にカウントできる。
現に、世界的なアスリートたちは、医者やセラピストやトレーナーや弁護士やPRマンをぞろぞろ引き連れてワールドツアーをしていますよね。それは風邪のウイルスも契約関係のトラブルも芸能スキャンダルもすべて『敵』だと考えているからです。当然ながら、そういうサポートチームを引き連れているアスリートの方が一人で全部仕事を片付けながらツアーを回っている選手よりも高いパフォーマンスを達成する。百メートル競走で十メートルのアドバンテージをもらって走り始めるようなものですから。
そういうふうに考えると、『敵を倒す』というのはいうほど簡単な話じゃないことがわかる。『風邪のウイルスと戦う』とか『幼年期の心的外傷を倒す』とか『津波の虚(きょ)を衝(つ)く』とか、そういうことはできませんから。こういうものはもう『来ることは仕方ないとして、あとはどうやって折り合いをつけるか』と考えるしかない。
だから武道的に考えると、『そういうことがあっても平気』なシステムを構築したらどうしたらよいか、というふうに考え方を切り換えるしかない。ウイルスと対抗するためには、ウイルスが健全で無垢な身体に侵入するというスキームを採らない。それよりは、人間というのはいろいろな常在菌の巣窟で、菌の構成比率がちょっと変わっただけなんだから、こっちの菌を少しこっちへ回して……というふうに計量的に考える。考えてみたら自分がこの世に存在すること自体天変地異のようなものなんだから――ぼくの場合なんか、『ウチダの存在自体が災厄である』という言い方をされることがありますし――、雷撃に打たれたり、地震で家が潰れたりするくらいのことは『ありがちのこと』だと思っていた方がいい。そうやってどんどん『折り合ってゆく』ようにする。
ですから、相手が人間の場合でも、なんとか折り合うようにする。こちらも折れるから、そちらも折れてね、というふうに『ナカとって』ゆく。
体術の場合なら、ぼくの身体があって、相手の身体がある。それが触れ合う。相手が手を押さえるとか、肩をとらえるとか、突くとか、そういうふうにぼくの可動域を制限してくる。そのときに『ぼくの身体の自由が制限された』というふうに考えない。逆に、新しいファクターが参加したことによって、ぼくの身体と相手の身体と二つながら含む『第三の身体』がここにできた、というふうに考え方を変える。これが武道的な意味での『ナカをとって』だと思っているんです。この『第三の身体』はもちろんぼくが単独で動いているときの『第一の身体』ではないし、ぼくに攻撃を加えている『第二の身体』とも別ものです。でも身体の一部が接触して、そこを支点にして絡み合っている以上、だいぶ造りは複雑ですけど、法則がある限りは、第三の身体を自在に動かすことも可能である、と。武道的な『活殺自在』というのはそういうことだと思うんです。
ぼくが相手を好き勝手に動かすわけじゃない。ぼくと相手をともに含む身体の『主体』だけが、おのれの手足を――八本あるわけですけど――好き勝手に動かすことができる。その第三の身体の『主体の座』をどのように略取するか、武道の技法的課題はそういうふうに書き換えることができると考えているんです。
養老 よくわかります。ぼくは相手がずっと死体でしたから。死体というのは、記号論的存在で、相手から働きかけてくることは絶対にないわけです。声をかけられたことだって一度もありませんよ(笑)。常に自分がしたことに対して自分で受けるしかない。受身専門の柔道みたいなものです。
内田 相手が生きているか死んでいるか、これがぼくと養老先生の職業的な違い――ぼくの場合は職業ではないのですが、それに近いもの――だと思います。主体に対してあちらからうるさく干渉してくるファクターとどうやって折り合い、そこで生成した複合体をどうやって操作するかを考えるということと、動かないものを精密に考察していくことの違いですね。
養老 そうです。だから、ぼくは敵対的なものが向かってくるのがいちばん苦手なのです。職業的に扱ったことがないから、対処する術がない。
内田 『敵』のリストを際限なく長くしていくと、何が敵だかよくわからなくなってしまいます。とりあえず風邪を治すとか、家庭争議を収めるというのと同じで、『敵』というのはカテゴリーではなく、具体的な事況なわけです。個別的なんです。だから、対敵動作の基本は『来たものはすべて個別化する』ということです。
やくざの喧嘩作法と同じです。やくざって賢いですよ。少数対多数のときに、やくざは絶対に『お前ら』というふうに包括的な名称では相手を扱わない。相手がいくら大勢でも、その中のただ一人を凝視して、『お前、オレに何か文句があるのか』と凄むのです。相手が十人いても、ただ一人だけに焦点を合わせる。ほかは眼中に入れないんです。具体的で個別的な敵には対処できるけれど、『敵というもの』という総称的存在には打つ手がないのですから。」
「認識」においては、「状況依存の客観性」は好ましくなく、「行為」においては、他者との相互作用の側面があるから、「敵味方複合体」、「複合体の操作」という概念になるということかなあ。
しかし、「認識」における「状況依存の客観性」と、「敵味方複合体」、「複合体の操作」が適切に区分できるのかなあ。
山本七平が、「日本はなぜ敗れるのか 敗因二十一か条」に、日米の戦力、工業生産レベルの比較作業で、日本については最大限のプラス要因をカウントし、アメリカに関してはストによる損失までカウントしている、との話が書かれていたと思うが、この現象は「状況依存の客観性」ということで割り切れるのかなあ。「認識」の問題と「行為」と表裏一体の側面もあるのではないかなあ。
橋本市長が、入れ墨の人を大阪市の職員から排除するとのことであるが、その手法は「包括的名称で相手を扱わない」事例の典型ではないかなあ。
「堅気」の気分、価値観に適合する事案を個別具体的に提示して、その「政策」が適切である、と「市民」を誘導する能力に長けた人ということではないかなあ。
「堅気」と「気質」、この違いについて、水谷先生の講義を聴講していたある年、次のように説明されたと思う。
→ 気質の人→名人、達人
気質の人 ― → 堅気の人
→ ヤクザな人
始めはみんなお仕事をやる気もあり、お仕事をする。しかし、「できない」ことがわかる。
お仕事も、浮気もしない=できない これが行為規範となる。悪いことをしないが、お仕事もできない。「堅気の人」になる。
「気質の人」のまま進むと、名人、達人になる。角栄さんは、お仕事も、浮気というか一夫多妻もできる。しかし、名人、達人の域に達していないから、ご自分でお仕事をされていたということのよう。
お仕事は、きれい事だけでは行うことができない。世の中が回らない。汚い仕事、やばい仕事をする人が必要である。総会屋、地上げ屋等の仕事はヤクザな人が行い、「堅気」の人ができないことを補完する。
という話であったと思うが。
橋本市長の入れ墨の人を排除しょうとする「政策」は、「堅気」の人の倫理観、気分、感情に合致しているから、多くの賛同を得ることができる。
それでよいのかなあ。法律上の問題にする事柄かなあ。弱いものいじめではないのかなあ。入れ墨の人たちはどのように橋本市長の政策に対して、有効なプロテストができるのかなあ。
橋本市長の学力向上に係る「政策」については、プロテストを行うことのできる組織があるようで、対等当事者の争いになりうるが、入れ墨職員排除は、橋本市長の一方的な勝利で終わる、対等当事者の争いにはなりえない、弱いもの苛め、排除の論理だけの正当性根拠しかないのではないかなあ。
「ゆとり教育」なんて、教育上の手法の問題とされたが、先生が週休二日を実現したかっただけのこと、と、内田先生か、養老先生が書かれていたと思う。
「本音」で話さず、何か大義名分を取り付ける習性、直接的な表現を使わない表現方法を採用する習性は、先生の、学校の「週休二日」の要求にも存在していたということのようである。その結果が、橋本市長に「学力低下」の教育をしている、と批判され、「市民」の賛同を得て先生方は困っているのではないかなあ。
とはいえ、これは、入れ墨の人排除とは異なり、カウンターイデオロギー、プロテストの担い手、組織が存在するから、いずれ、「折り合い」がつくでしょうが。
ということで、「認識」としての「現状依存の客観性」と、行為としての「対敵動作の基本は『来たものはすべて個別化する』」作業とは峻別できるのかなあ、との感想を持っています。いや、できる人もいれば、できない人もいる、、そしてできない人の方が圧倒的に多い、ということではないかなあ。
内田先生は、全共闘のデモのあと、みんなで渡れば怖くない、と信号無視をして横断し、ヤクザの車を蹴ったときの情景を経験されている。衆を恃んで車を蹴ったものがいて、ヤクザの「具体的で個別的な敵」としての対処法をたっぷりと観察されている。その効果、威力も。
まあ、「折り合いをつける」ということは難しく、相当のお仕事のできる方でないとそのための作業は困難ではないかなあ。
原発にしろ、河口堰にしろ、「折り合いをつける」必要性が発生しないように、審議会、調査委員会を組織して、「公共事業」反対者を蚊帳の外に置いて事業推進をされていらっしゃったようであるから、「折り合いをつける」能力がなくても、「公共事業」が滞ることはなかったようであるが、その代償は大きいのではないかなあ。
そして、鮎やサツキマス、イワナ、山女魚が被害者であるときは、素石さんや野田さんや川漁師など、限られた人々がカウンターイデオロギー、プロテストの担い手にすぎなかったが、人間が「被害者」の位置に立つ危険性が生じてやっと、「折り合いをつける」作業を回避した公共事業推進の「代償」を認識するようになったということではないかなあ。
そして、やっと、「賛成派」、あるいは、「公正・中立」の装いを偽装した審議会、調査委員会の実態がマスコミで報道されるようになったということではないかなあ。
したがって、「人間」が被害者になる可能性の事態が発生しなかったら、マスコミ沙汰にもならず、再度編成された審議会の委員構成について、プロテスト側の「不公正」な委員構成・原発推進派が多数を占めるように委員が選定されているとの指摘を報道するということもなかったのではないかなあ。
ということは、公共事業推進のための「公正・中立」を装う審議会、調査委員会が「成熟」を契機として、「折り合いをつける」作業を不可欠にするようになるかも、という期待はうたかたとなるかも。
b システムの老化?成熟志向の排除?ぶっ壊す対象?
@「成熟」概念のないアメリカ
「内田 映画にしても間違いなくストーリーがどんどんシンプルになってきている。アメリカは政治に関する言語構造があまりに単純ですよね。自分たちは『グッドガイ』で、自分たちに反対するのは『バッドガイ』だという、単純なストーリーラインの中に、全部を落とし込んでしまう。政治家も、難しいことを言う人には票が集まらない。ある程度の政治力を持ちたいと思ったら、嫌でもシンプルな政治的立場に立って発言しなきゃいけない。その単純化圧力がアメリカ人の知性を深く損なっているような気がします。
養老 日本も、それを追っている部分がありますよ。アメリカで起こったことは十年後に日本で起こると言います。単純だけどけっこう当たっていることが多い。
感覚的にものを捉えなくなってくると、誰が何をしようと変わらないことになり、最終的に『同じ』になります。生活そのものを同じにしているから。
内田 そうですね。
養老 能率や効率を考えると、人間はみんな同じにしたほうが明らかにいいのです。ファーストフードがそうですが、同じものを食べさせておけば、効率がいいに決まっています。『オレはこんなもん、食いたくねぇ』という輩がいると厄介になります。ヨーロッパではそれが少しはわかっているから、そこがヨーロッパとアメリカの対立点になっている。
内田 アメリカは、そういうヨーロッパのややこしさが嫌なんですよ。もともとそういうヨーロッパのぐちゃぐちゃしたところが嫌いで、すっきりした物語の中で生きたいという人たちが移民して作った国ですからね。老いて、腐ったヨーロッパに後ろ足で砂をかけて出て行った人たちの国だから、建国の原理そのものがシンプル志向なのですよ。ねじくれた話をすると、理路がひねくれているというだけの理由で『アメリカ的でない』という否定的評価を呼び込んでしまう。
養老 マニュアル化ですね。
内田 学術論文だってそうじゃないですか。アメリカの人が書く論文は序論のところに結論まで全部書いてある。だから最初の一ページを読めば、何が書いてあるかわかる。自分のいいたいことを自分が全部わかっているという態度がとれない論文には学術性が認められない。
養老 読んだらアメリカのものかどうかわかります。面白くない(笑)。ひねりがない。」
A「大人になれない国」、「成熟」モデルのないアメリカ
「内田 日本にはもう『成熟』概念がなくなりつつあるような気がします。日本がモデルにしているアメリカが、『成熟』という概念を持たない国だから。成熟するということにさしたる価値を認めない。おそらくそれはアメリカという国の成り立ちから来るものだと思うんです。『独立宣言』にすべて大事なことが書いてある。アメリカ合衆国のあるべき理想がすでに最初に書かれている。達成すべき完成系がヴァーチャルではあれ、最初から示されているわけですから、アメリカ政治では漸進的な改良ということがない。政治制度に改善の余地があるということは、そもそも最初の建国理念が不備だったと認めることになってしまうから。プリミティブな政治体制が次第に洗練されていくとか、手際の悪かった統治者が次第に賢明になるという過程が構想されていないのです。
養老 それであの人たちはなかなか進化論を認めないのかもしれません。
内田 『進化』ということについて心理的な抵抗があるんでしょうね。科学技術の進歩は認めるけど、人間が進化するとか成熟するとということは考えない。むしろ、あらゆる政治的文化的なトラブルを『本来のアメリカらしさが失われた』というふうに解釈する。あの国の人たちが老いてなおパワフルとかヤングアットハートとかいうありようを好むのは『老成』ということに対するほとんど本能的な嫌悪があるからでしょう。
もしかすると、アメリカにおける大人や成熟した人間の複雑さや深みをユダヤ人たちが代表していたのかもしれないですね。だからこそユダヤ人たちが政治経済の実権やメディアを握っていたり、作家やフィルムメーカーに際だっているのかもしれない。どんな社会だって成熟した複雑な部分が必要だけれど、デイビー・クロケットやダニエル・ブーンといった『理想のアメリカ人』にはそういうものがぜんぜんない。とりあえず社会としての体面を保つためにはユダヤ人的な要素が必要なんだけど、それはアメリカに内在するものであってはならない。あくまで外からやってきた異分子である、と。そういうことが無意識的に要請されているんでしょうね。
ユダヤ教はキリスト教の母体となった宗教で、当然アメリカ人が生み出したものよりも歴史的に先行しているし、はるかに成熟している。自分たちは聖史的にはその子どもに当たるわけですから、長幼の関係にある。だからアメリカ社会の『成熟』パートをユダヤ人に割り振って、自分たちは無垢で単純な『子ども』役に徹するという棲み分けがなされているんでしょう。
養老 ある意味で、アメリカの建国の理念ははっきりしている。」
「内田 成熟というのは変化するということです。でも、成熟モデルがアメリカには社会心理学的に存立できない。アメリカの場合は社会システムが破綻すると、必ず『原点に還る』という形になる。これは一〇〇パーセントそうですね。新しい制度を作り出して問題を解決するのではなくて、『建国の原点に還る』。実際に新しい制度を作る場合でも、そういう『原点回帰』という話型を通過しない限り、国民的合意が得られないようになっている。システムが『未熟』なせいで破綻したのだから、より『成熟』したシステムを構築しようという話ではなく、むしろ『老化』によってシステムが破綻を来したのだから生成の原点に戻ればすべては解決するという話に持ち込もうとする。自分の出生の瞬間に立ち戻って、そのつど再生するという物語でしかシステムトラブルを修正することができない。
たぶん、その物語がグローバリゼーションと一緒に日本にも入ってきたんじゃないでしょうか。成熟を価値として認めない。システムの破綻の原因を『未熟』ではなく『老化』として理解する。このチープでシンプルな物語が今の若手の政治家のほとんどに浸透しているんじゃないでしょうか。」
アメリカにおける宗教上の「ファンダメンタル」な現象:集団自決等と併せて、「原点回帰」の心情はよくわかりません。内田先生の説明で情景はなんとなくわかったが。
B 「成熟」概念をなくしていく日本
内田先生は、上記の文につなげて、日本の「変身」について話されている。
「内田 だから、日本のメディアもそういう考え方になじんできていますよ。システムが未熟だからもっとこれを練っていって、融通無碍なものにしていこうというのではなく、『もう腐っていて使えない』とか、『老害のせいだから、全部一回棄てて、心機一転で一から新しいものを作り出そう』とか、そういうふうなワーディングが無批判にメディアに垂れ流されていますけれど、どうしてシステムが不全であるのは、管理者が『老人』であるからではなく、あまりに『幼児』だからではないかという可能性は吟味されないんでしょう。ぼくは日本の政治をみる限り、システムを乱している連中は年齢的にはいくら爺さんでも、基本的に世の中の仕組みがよくわかっていない『ガキ』だと思いますよ。何かというと、『システムを若返らせよう』とみんな呪文のように唱えていますけれど、どうして『システムをもっと成熟させよう』とはいわないのか。その理由を吟味する知恵が働かないという一点をとってみても、日本の政治家やメディア知識人のほとんどが、外見は老人でも、中身は『見聞の狭い子ども』でしかないことの証拠として十分だと思いますけどね。
すべての制度というのはつねに生成過程にあるわけですから、うまくいかないところはマイナーチェンジで、手直ししていけばいいというふうにぼくは思います。でも、ほとんどの人は制度がうまくゆかなくなると、『やめろ』『壊せ』『ゼロからやり直せ』と言い立てる。とりあえず今ある制度でなんとかやってきているわけですから、具合の悪いところを手直しして、使えるところは使い延ばして、やりくりしていきませんかと言うことをぼくはいうのですけどこのタイプの言論はほんとに人気がないですね。年上にも年下にも、ぜんぜん受けません。
養老 単純な因果関係で説明すると、日本の場合には西洋の論理が入ってきたからそうなったのではないかと思う。
『システムを改良するにはどうするか』という話でいえば、システムというのは、初めは単純な構造なのだけど、だんだん複雑になって、逆に安定してくる。だから、システムを全体で捉えるようなシステム的な見方をしていないアメリカ人は単純だと感じます。
ところが行動原理としては、個人に落とすと単純にするしかないのです。やるかやらないかのどちらかで単純化する、日本だと、それで“間を取る”とかいろいろあるのだけれど、どうしたって単純化した方が強いから、いってみればその“綱引き”ですよね。
だからヨーロッパだって、社会をシステムとして完成させていこうとしてさんざんやって、その中でまたフランス革命じゃないけど壊してみて、つくり直して、ともかく人間が努力してなんとかするシステムをつくっていった。でも、アメリカの場合には、モノに余裕があったのですよ。土地は広いし、石油は出るし、豊かだったのです。だから、システムがいい加減でも、国として機能していたのでしょう。アメリカの将来を考えると、旧世界のようにアメリカがシステム型に変換できるかという問題がありますね。」
内田先生は、アメリカ型が機能していることについて、州制度:江戸期の幕藩体制と似た統治システムの補完があることを指摘されている。
岡義達が、政治について、状況化→制度化→伝統化の変化で説明されていた。状況化は信長のころの状況を、制度化は家康のころの状況を、伝統化は江戸期の享保改革頃以降の状況をイメージすればある程度適切ではないかなあ。
今、システムをぶっ壊せ、といわれている状況は、「状況化」の状況のように外見上は見えるが、そうではない、と、内田先生らはみられているということではないかなあ。
明治維新は、江戸期のシステムをぶっ壊したのかなあ。現在はどのような評価が行われているのかなあ。旧統治層の退場に少しは武力行使があったものの、日本全体が戦場化したのではない。西洋風の統治システムが導入されたものの、亭主関白と大和撫子がセックスの違いによる役割分担を行って、家庭を、社会を持続させていた文化は、江戸期のまま。その亭主関白が下男の地位に引きずり下ろされたのは、高度経済成長期の頃から。大和撫子変じてかかあ天下を通り越して、女帝となり、権力を擅に行使できるとは、嘆かわしい世の中と変身しましたなあ。
橋本市長が人気をえているが、はたして「ゼロからやり直す」システムが構築できるのかなあ。入れ墨の職員を排除する、との「政策」は実現可能性が高くても、「脱原発」はどうなるのでしょうかねえ。
「脱原発」華やかなりし今日この頃であるが、それに異を唱える本が発行されていた。そう、この賛成、反対双方が、「対等当事者」として、議論を進めることが、「システム」の改良に必要なことではないかなあ。
ということで、橋本市長のぶっ壊せ方式でのシステム改良は、政治的コストを含めて高くなるのではないかなあ。
支持率20,30%というのは、低い支持率とはいえないのではないかなあ。正常な支持率ではないかなあ。韓国の朴大統領を声高に非難していた朝鮮総連のお話におかしい、といった。どんな話かは忘れたが、朴大統領が独裁者で、金日成が国民全員から敬愛されている指導者という話ではなかったかなあ。国民全員から敬愛、支持されているということはあり得ない、フィクションだ、といったと思う。周りの人たちが、取り繕うことに苦労されていたと思う。今では、北朝鮮の指導者に対する「全員支持」がフィクションであると、マスコミでも報道されるご時世になったようであるが。
つまり、全員賛成の「システム」も、「政策」も存在し得ないということ。もちろん、汚職をすれば厳罰に処すという「政策」であれば、「全員賛成」的にはなると思うが、実現可能性は?
なお、江戸期を含めて、賄賂の横行は日本では少ないと言えるのでは。その点「清廉潔白」に近い統治層の規範が存在していたのではないかなあ。
恩田木工が年貢の定免制を導入するときの「日本風」統治手法は、「日暮硯」に書かれていて、「政治」を行う人には、「経営」を行う人には非常に参考になると思うが。
「木工」は「もっく」と読むが、ATOKでも「もっく」への変換が無視されているから、「日暮硯」を読む人もいないということかなあ。橋本市長には読んでほしいが。
山本七平は、「日暮硯」における恩田木工の統治手法について、アングロサクソンの「法治」主義による統治の考え方、手法では想像すらできない「日本風」統治手法、非常に有効な統治手法と何かに書かれていたと思う。
山本七平が、どの本に恩田木工の統治手法を書かれていたか、忘れたため、うろ覚えの範囲で書いてみます。
橋本市長とは対極の「統治」を行い、検見を行って、収穫の出来で課税額を決定していたシステムから定免制に切り換えた。決して橋本市長のように逆らうものは切るぞ、というやり方を取っていない。
村役あるいは弁の立つものを一堂に集め、検見における役人への接待、供応の不平を村役らに書かせ、それは殿だけが見るから正直にかけ、と。
年貢を滞っている村役には厳しく、怖い顔つきで叱り(滞納年貢米をチャラにしたかどうか、忘れた)、他方、年貢米を先取り、つまり藩が借りている村に対しては、その借金をチャラにする心からの同意を取り付けている。脅してはいませんよ。
それらの演出のあと、百姓の希望という形で、定免制にシステムを替えている。決して、お上が上から押しつけたものではない。「日暮硯」に書かれている百姓との合意形成の情景が、どの程度事実を伝えているのか、わからないが、お見事というしかない。橋本市長なら、いうことを聞かんとぶった切るぞ、とおっしゃるかも。
あそうそう、定免制への移行とともに増税もお百姓の賛同を得て実現したのではなかったかなあ。
さて、残るはお役人の処罰。橋本市長なら懲戒免職とされるであろうが、木工は、殿に最大限にこやかな顔で接するように、と、注文をつける。
やましいところのあるお役人は、その殿の態度に感謝して、以後お仕事に励むこととなった、ということであったと思う。
C 気質の人と「名人、達人」の人
角栄さんが、立花さんが書いていた「罪」を、あるいは判決記載の「罪」を行っていたのか、どうかは分からない。
しかし、角栄さんは、「自ら」お仕事をされる「気質」の人であったのではないかと思う。
もし、「名人、達人」であれば、自らお仕事をしない。「堅気」の人とは違い、お仕事ができるにも関わらず、自らお仕事をすることはない。外形上は、「堅気」の人と同じようにお仕事ができないような人に見える。
そして、日本の官庁も、会社も、その他の組織も、堅気、気質、名人達人、ヤクザな人の構成で動いている。
「『個性』とは『人を見る目』の章に、「名人、達人」に通じる風貌、役割が書かれている。
「養老 『個性』というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは『人を見る目』なんです。
内田 『人を見る目』が個性とは……。どういうことですか?
養老 だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、『個性』が主張され始めてなにが起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで『お前はあっち、お前はこっち』って示してやるのが本来の役目だったのです。それを『個性』という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に『自分の個性』とか書かせるでしょう?本来、『個性』というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。
そうやって年寄りが人を見ることをサボるから、同時に年寄りの意味がなくなりました。長く付き合ってみる目があるからこそ、『お前はああいうことをやれよ』っていって新聞読んでいればよかったのですよ。
言葉についてはもう少し話を深めますが、言葉自身が同じものはふたつとしてない。発した言葉だって、声が違うし、高さだって、違う。字だって、同じ字は二度とかけない。でもそれをすべて同じ言葉としてしまう。むしろ内在しているものは違いのはずなのです。でも、それをすべて同じ言葉だとみなしているでしょう。
個性なんて違って当たり前だからこそ、『お前はこういうふうに』『お前にはこれは向かない』と違いを見る目が大事なのに、それが『個性』ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが『個性』はありうるものだということになってしまいました。『見る目』がないと『個性』なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるのでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。『個性を持て』というよりも『他人の気持ちをわかるようになれ』というほうがよいはずです。ぼくが今までで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。
内田 今よく行われている企業の人事考課というものは自己申告制なのです。自分の能力を自己評価しておき、『今年の目標』という達成目標を自分で設定して、それをクリアできたらよしとする。ひとりひとりの能力も適正も違うんだから、各自で達成目標を決めましょう、と。国立大学の独立行政法人の中期目標も同じですね。
養老 自分のことを自分で評価しても意味がないですね。
内田 自己評価とか自己点検というのは外部評価との『ズレ』を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。『世間のやつらはオレの真価を知らない』と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その『ずれ』をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
だいたい、自分の個性って、ほとんど他人に言われてはじめて気がつくものじゃないですか。『ウチダって要領がいいな』と言われて『え! そうなんだ』と驚き、『ウチダって以外にいいやつ……ということは一見するといやなやつなんだ』ということに気づくというものであって、(笑)。『私はこれこれこういう人です』自己申告するものじゃないのですよ。
養老 『あたしってこんな人なの』が普通になりましたからね(笑)。
内田 『私的(わたしてき)には』とか言われると、思わず『やめて!』(笑)。寒気がします。
養老 『それ、自分で言うことじゃないだろう』と言いたい。」
さて、この文の中で、気質の人と「名人、達人」に関係するヵ所は、「人を見る目」であり、「『お前はこういうことをやれよ』っていって新聞を読んでいればよかったのですよ」というヵ所です。
新聞を読んで暇をつぶしているにすぎない人は、外見上は「堅気」の人と区別はつかない。
しかし、「気質」の人であるからお仕事はできる。にもかかわらず、自らはお仕事をされず、「人を見る目」にしたがって、「『お前はこういうことをやれよ』」と指図をする人です。
角栄さんのように、よっしゃわかった、と言って、自らお仕事をすることはしません。
その当時、大平さんが総理大臣でしたが、あ、うう、と言うくらいの発言しかしていませんでした。いや、それほど単純ではなかったでしょうが。
大平さんの意図するところは、「人を見る目」で選定された人々が適切に仕事をこなしているから、自らはお仕事をしなくてもよかった、ということ。その人々は「気質」の人々です。「堅気」の人々ではありません。
この文脈が、日本の統治、経営システムの根幹をなしているのではないかなあ。現在、どの程度このシステムにほころびが生じていて、橋本市長のように、「気質」の市長がもてはやされるようになったのかわからないが。
ただ、橋本市長推奨の統治システムは、
「養老 そうなんです。『イスラム原理主義は悪い!』と怒ることは、嫌っている対象のものと同列になってしまう。反イスラム原理主義者という名の同じ原理主義者ですよ。そういう原理主義者と原理主義者が出会ったら、振り出しに戻って、最後は殺し合いになってしまう。
内田 『原理主義は間違っている』というと原理主義になっちゃうから、『原理主義も悪くはないけど、あまり原理主義的なものはどうかね』くらいで収めておく方がいいですね。
養老 ぼくは本音を言うときに必ず『ケースバイケース』という言葉が出てきます。
内田 どういうふうに使うんですか。
養老 『脳死問題をどう思いますか?』『ケースバイケース』。『安楽死をどう思いますか?』『ケースバイケース』。
内田 当今の高校生が『ビミョー』というのに似ていますね。ぼくもそれ、好きですよ。ケ小平が領土問題のときに『こういう面倒な問題は未来の叡智に委ねよう』といったのも好きですね。面倒なことは決めないで、先送りする。きちんと決めてしまうと原理と原理がぶつかってしまうから、棚上げ、両論併記、継続審議。これは大人の知恵ですよ。
養老 状況がどうなるかわからないときにあらかじめ結論を出すと、身動きがとれなくなります。」
まあ、この議論にはいろんな状況での対処は異なる、という視点にまで踏みこまれていないようであるから、限定的な理解にとどめることがよいのかも。
しかし、「原理と原理」の争いになることを回避する手法は非常に必要性の高い、有効なシステム、優れたシステムではないかなあ。
お二人は、落語の蒟蒻問答のおもしろさだけでなく、そこに含まれている寓意にも注目されている。
江戸城の無血開城、このような叡智が発揮されないと、公共事業の是非を検討する審議会、調査委員会にこれまでは蚊帳の外に置かれていたカウンターイデオロ−グ、反対者が構成員となり、賛成者と対等の人数になっても、「原理と原理」の争いになる可能性があるかも。
山本七平は、『他人の気持ちをわかるようになれ』との行為規範としての「文化」が、子どもへの躾として、一番重要な項目になっていたと指摘されている。
「他人の気持ちになって考えなはれ」、「他人の気持ちになって行動しなはれ」という躾がどの程度現在でも機能しているのかなあ。オラには希薄であったが。
今や、その躾は消滅しているのではないかなあ。少なくても、モンスターペアレンツには。
両論併記、棚上げ、継続審議が「大人の知恵」ではなく、なあんも決めることができない、と否定的評価しかされないご時世になっているようであるが。その代償は、社会的、政治的コストが高くつくのではないかなあ。なあんも決められない、というシステムに親近感をおぼえるようになったのは、「成熟」をしたのかなあ、「老化」をしたのかなあ。
オ 「卒業」のメタファ
@ 偶像崇拝と踏み絵
「踏み絵」が、クリスチャンの識別や転びクリスチャンへの有効な手法であったのは、「日本教徒クリスチャン」に対してだけであった。いや、キリスト教の世界で、「日本教徒」にだけ有効な手法といえるかどうか、世界宗教となったキリスト教であるから、「事実ではない」かも。ただ中世までにキリスト教に改宗したところでは、「事実である」といえるかも。
ユダヤ教キリスト派を普遍宗教、世界宗教へと替えるために、ユダヤ教の教義の変更を試みていたパウロでも、「偶像崇拝」の禁止は教義から外されていない。
「踏み絵」が有効に機能できたのは、日本教徒クリスチャンには、「偶像崇拝禁止」が教義として理解不能であったから。
さて、「卒業」は名画座で見たが、単なる母娘をだっこしたという親子丼のお話にすぎない、と思っていた。
しかし、偶像崇拝の教義とも、また、ユダヤ教とキリスト教との宗教上の確執とも関係しているお話とは知らなかった、気づかなかった。
Aユダヤ人とは そして「卒業」とは
「内田 ユダヤ人問題に関しては、『ユダヤ人についてはよくわかりません』という無知の覚知からはじめないといけないと思います。ユダヤ人に関しては、定義もそうですけど、彼らがそれぞれの社会でどんなふうに見られているのかも日本人には実はよくわからない。
例えば、『卒業』という映画がありますね。あれはユダヤ人のブルジョワ家庭の話なのです。主演のダスティン・ホフマンはユダヤ人だし、監督のマイク・ニコルズもユダヤ人だし、主題歌を歌っているサイモン&ガーファンクルもユダヤ人。あれはユダヤ人の映画なんです。でも、日本で見ている限り、『卒業』はあくまでアメリカの映画であって、アメリカにおけるユダヤ人のあいまいな立場が複線になっていることは理解できない。そういう人種的な記号を日本人は解読する習慣がありませんから。『卒業』のラストシーンはキリスト教の教会からユダヤ人青年が花嫁をさらってゆくわけで、これは宗教的にはかなりきわどいストーリーなのです。そういうニュアンスは日本人観客にはまず伝わりませんよね。」
養老先生は、「日本人」とは誰かについてもフジモリ大統領の国籍問題で一義的に決められないように、カンボジアの「ベトナム人」とは誰か、混血が進めばいっそう選別が困難となるように、「ユダヤ人」とは誰か、何者かについても、単純に識別できないことを内田先生の「対偶」の考え方を中心に話をされている。
そのお話はいつものように省略します。
B 偶像崇拝禁忌と映画産業
「内田 視覚と聴覚のズレの問題こそ、まさにユダヤ教思想の確信なんですよ。ご存知のとおり、ユダヤ教では偶像を作ることが禁じられています。造形芸術は禁止なんです。神を空間的な表象形式に回収することは絶対の禁忌(きんき)なんです。というのは、ユダヤ教の宗教性の本質は時間性だから。ユダヤ教の場合、神と被造物のあいだの『時間差』、神の時間先行性こそが神性を構築しているというわけですから、神を空間的表象にすると神性の本質的なところが消えてしまう。だから『神を見てはならない』と言われるのです。
視覚的神像を持つと言うことは、神と人間が同一空間に同時的に存在するということになります。族長や予言者たちの場合は例外的にその人々の前に神が現前しますけれど、彼らも神を見ていない。現前するのはあくまでも主のことばであって、視覚像ではない。見えるのは雲の柱や炎のように代理表象だけであって、神は見えない。
でも、神の名は知られており、それを発音することは例外的なケースでは許されています。ただし、ヘブライ語の神の名(YHVH)の読み方を知っているのは最高祭司一人で、それも年に一度神殿の中で、誰も聴いていないときにしか口にされない。第二神殿の破壊とディアスボラ(ユダヤ人の離散)以後はその呼び方も逸伝しています。
ユダヤ人の場合はそんなふうに造形芸術が原理的に禁圧されていますから、いきおい信仰の表現が音楽に向かうことになります。音楽は聴覚の芸術、言い換えると、時間の芸術ということになりますね。
空間的表象形式を使えば、対象は無時間的に、一望俯瞰的に表象されうる。『無時間モデル』ということは、そこに『遅れ』という概念が成り立つ余地がないということです。『遅れ』というのは絶対に画像では表象できない。主体がそこにあるのは誰かに場所を譲られたからであるという事況は、視覚的には示すことができないんです。すでに始まっているゲームにプレイヤーとして、ルールがわからないまま参加させられているという『被投性(ひとうせい)』という概念も絵には描けない。神に対する有責性という概念もやはり視覚的には表象できない。一言で言えば、時間のないところには、真の宗教性が生まれてこない、ということです。
『偶像を作ってはならない』『神を見てはならない』という禁忌があるのは、空間的、無時間的に神と人間との関係を考想してしまうと、神と被造物を隔てている絶対的な時間差が解消されてしまうからでしょう。ユダヤ教の視覚的なふるまいに対する執拗(しつよう)な禁忌は、宗教の本質をなす時間性を温存するためだというふうにぼくは解釈しています。
でも、ユダヤ教の信仰が徹底的に聴覚中心に体系化され、神を空間的に表象することをきびしく禁圧したことは、その一方で、非ユダヤ人にとっては耐え難いストレスでもあったのではないかとも思うんです。
人間はやはり空間的な表象形式の中で、世界を経験したい。世界が一望俯瞰される無時間モデルだと、人間はすごく安心できますから。安定した静止的な世界像を持ちたい人にとっては、ユダヤ教はその根源的な欲求を絶対に満たしてくれない宗教なわけです。
養老 音楽家でシャガールを好きな人が多いのはそういうことでしょうか。
内田 シャガールというのはユダヤ人でほとんど唯一の例外じゃないんでしょうか。『ユダヤ人画家』というのは本来、形容矛盾なんです。ユダヤ人には伝統的に音楽や舞踏のような時間性を含んだ芸術表現以外は許されていないはずですから。シャガールがそれでもユダヤ人世界で許容されたのは、それが聴覚的な、あるいは時間性をどこかにとどめた絵画だからではないでしょうか。たぶん、シャガールの絵からは音楽が聞こえるのです。
養老 そうでなかったら、時間が流れるのですね。
例えば『彫刻は凍った時間だ』ともいいます。視覚のほうから時間を構成していくことはでいる。彫刻というのは、確かに一目では見えないものです。
内田 ユダヤ人彫刻家というのがいるのかどうか、寡聞にして知りませんけど、映画はオーケーなんですよね。ユダヤ的基準からは。映画とか演劇とかダンスとかは視覚芸術だけれど、時間性があるから大丈夫なんです。二十世紀になってユダヤ人が映画産業に雪崩を打つように参入してくるのは、伝統的な産業には人種障壁があってユダヤ人が参入できなかったということもあるんですけど、映画の発明のおかげで二千年ぶりに大手を振って空間的な表象形式で芸術作品を作ることができるようになった開放感も関係しているかも知れません。何しろハリウッドのメジャ八社のうち七社までがユダヤ人が作った会社なんですから。
養老 ある意味では日本と対照的ですね。日本人は視覚表象で表現することが多い。
内田 どうしてなんでしょう。中近東の風土は四季の変化がはっきりしないから、時間性を視覚的に表象するのが難しいからですかね。日本は四季の変化が視覚的に記号化していますから、桜が散る場面を描けば『春』が、緑の葉を描けば『初夏』がというふうに季節のうつろいが図像的に示せる。青空の下の砂漠とオリーブの木を見ても、時のうつろいとか諸行無常とかあまり感じられませんからね。
養老 あれ? そうしたら、ユダヤ教徒の中で、目が見えない人はどういう位置づけになるのでしょうか。視覚表象が初めからないのですよ。視覚を最初から持たない人は、視覚表象の禁圧なんてできないから、ユダヤ人で言うとあまりに当たり前になってしまいますよ。
内田 あら、本当にそうですね。どうなるのでしょう? 逆に耳が聞こえない人の話もレヴィナス(注:内田先生が師事されていて、「『ユダヤ人とは他の諸国民よりも多くの責任を負うために神に選ばれた人間だ』と定義されています。」。また、レヴィナスの本を翻訳されている。)には出てこないなあ。ユダヤ教的に言えば、耳が聞こえない人は神性へのアクセス回路が構造的にないことになりますからね。うーん、これは困った。
それと関係あるかどうか分かりませんけれど、カトリック教会の入り口のところには必ず女性像が二つありますね。ひとつはキリストの教会を意味するエクレーシア、もうひとつはユダヤ教会堂を意味するシナゴーガ。シナゴーガは目を布で覆われた若い女の像なんです。『目が見えないもの』というのがキリスト教徒から見たユダヤ教徒の記号的表象になっている。これはかなり徴候的ですね。
旧約聖書には主が来臨すると目が見えなくなるという記述がしばしばありますし、逆にキリストは盲人の目を開くという奇跡を行っています。もしかすると、あの奇跡はユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させたということのメタファーだったのかも知れませんね。
養老 ユダヤ教自身がそういう人をどう扱うのかは興味深いですね。いま言ったように禁圧がかからないのか、それともユダヤ的に純粋なものとして象徴となる可能性もありますし。
これは死ぬまでとても片付かない問題ですね。」
「偶像崇拝禁忌」という言葉だけであれば、あ、そうかいなあ、と納得できた気分になることができる。
しかし、「空間的、無時間的に神と人間との関係を考想してしまうと、神と被造物を隔てている絶対的な時間差が解消されてしまうからでしょう。」という文になると、さっぱり分かりません。
分からないことを覚悟の上で、紹介したのは、何が「事実」であるのか、また、どのように「作文」をすれば、あるいは手続きを行えば、「適正手続き」に基づいて、公共事業の正当性、必要性、適切性を演出することができるか、日本教徒には日本教徒なりの手法があり、その手法は、踏み絵と同様、日本教徒には有効な手法ではあっても、他の文化圏では意味を有しないことがある、ということをいいたいからです。
とはいっても、その素材として紹介しなければならないベンダサンの「日本教について」に書かれている松川事件における広津和郎が「作家の目」で見て、「事実」とフィクションを識別され、田中最高裁裁判長ら「日本教徒」であることの自覚がなく、「西洋の形式合理主義」に基づいて「事実」とフィクションを識別している、と、自信満々の裁判官が、「事実」がなんであるか、を識別できなかった理由は、原因は、来年回しとなりそうです。
今、広津和郎がなぜ「事実」である証言と、フィクションである証言を識別することができたのか、紹介しても「40年前」と何ら変わっていない理解ですなあ、「成熟」がみられませんなあ、ということになるから。
当初の目論見では、「隠し撮り録音」にかかる佐藤さんと池田さんの対話を素材にすれば、少しは「成熟」していると証拠を突きつけることができると思っていましたが、世の中、そんな甘いもんやおまへんなあ。
佐藤さんか、誰かが、「隠し撮り録音」と検事作成の調査報告書の比較を行い、何を書き、何を書かず、また、どのように「証言」を「改ざん」することで、世間の人を納得させる「犯罪者」を仕立て上げることができるのか、その作業の成果が見つからないことには…、ということにやっと気がつきました。
ということで、公共事業にかかる審議会、調査委員会の公正、中立がフィクションであるという当初の目標も来年以降になります。
まあ、川見ができないこと、あゆみちゃんを騙すテクニックを持ち合わせていないことから、予見可能な現象ですが。
ということで、ビッグコミックの佐藤さんと池田さんと対談を紹介することで、「故松沢さんの思い出:補記5」の〆とします。もっとも、川に行けないお天道様の采配があることから、太宰の「令嬢アユ」等の紹介等をするかも。
カ 「神の目」で見た隠し撮り録音
a 「常識」の重要性とその認識欠如の「知識人」、裁判官
ビッグコミックの2011年11月25日号(小学館)に、鈴木宗男さんとともに、「国策捜査」で被告にされた佐藤優さんと石川被告との対談が掲載されている。(原文にない改行をしています。また、解説、証明・「事実」の典拠に係る記述ヵ所は省略しています。)
佐藤優さんは、数冊の本を出版されている。それらの本を読めば、広津和郎が松川事件の証拠として検事が提出した当事者、あるいは伝聞、飲み屋での会話藤の「証言」の中から、「作家の目」で事実とフィクションを選り分けられた作業と同様の日本教徒の「形式合理主義」に基づく「習性」のあぶり出しが可能となるはず。
しかし、ヘボは手抜きが本領。いや、そのような作業を適切に行うことが「できない」ということ。「できない」というと、体面に傷つくことになるから「しない」と表現して、「堅気」の「浮気をしない」という行為規範同様、精神上の安定を求めることにしましょう。
ということで、隠し撮り録音の後に書かれた本は出てこないかなあ、と待っていたが、まだ見つからず。
ということで、ビッグコミック掲載の対談のお話だけを紹介します。
「佐藤 よくリアリティに欠けるバカげた話を『まるで漫画みたいだ』と表現しますが、それは漫画に対して失礼ですね。この裁判はあまりにもデタラメ過ぎて、『漫画にならない』ほどツマラナイことのオンパレードです。石川さんの五千万円の賄賂を都内某ホテルで受け取ったと裁判官は認定したのですが、まずリアリティがあるかどうか、考えてみるべきです。」
b 「漫画にならない」ほどお粗末とは
「石川 登石郁朗裁判長が判決で
@平成16年10月15日に、
A水谷建設の川村社長(当時)が一人でホテルに5千万円持ってきて、
Bロビーで私と二人っきりで会って、お金を渡した……ことを事実として認定しました。
しかし川村さんは私とほとんど面識がないんですよ。一度名刺交換したかな?というくらい。しかも何も物的証拠が無い。もちろん言うまでもありませんが、当日私は会ってもいないし、お金をもらってもいない。東京地検特捜部の捏造(ねつぞう)です。
佐藤 知っているかあやふやな人に5千万渡すってことだけでも相当奇妙ですよ。しかしこの裁判長はスゴイ。
『川村は、被告人石川の顔と名前は一致しなかったが、これまでに名刺交換をしたり、何度か会っていたので、行けば確認できるし、その場で名刺を受け取ってもらえば確認できると考えていた旨述べており、その供述に特段不自然、不合理な点は認められない。』(判決文)と認定しました。
――かなり不自然不合理ですね。特に後半部分が取って付けたよう。社の命運がかかっている大金なんだから、万一間違うと怖い、普通なら石川さんをよく知る関係者を連れて行きますけどね。
佐藤 5千万もの紙幣は両手で持てないぐらいの大きさ重さですよ。それを、不特定多数の人々が行き交うロビーなんかで受け渡しするなんて漫画で書いたら、どうしますか?編集者に『これはちょっと無理だ』と言われて即、書き直しですよ(笑)
石川 銀行強盗映画やギャング映画を観るまでもなく、大金の受け渡しは必ず個室で、立会人のもとでお札を1枚1枚数えて確認するもんでしょう。怪しいカネであればなおさら、本当に5千万あるか分からないですもん。
佐藤 しかもですよ、後で石川さんが『金は受け取ってないよ』としらばっくれたらどなるんです?川村社長が『そんなバカな…』なんて言ったって、後の祭り。金を石川さんに騙し取られる危険を避けるためにも立会人を付けて、ちゃんと受け渡しをしたことの証人になってもらうんですよ。そんなの贈収賄の常識です(爆笑)
――それが分からない検事も裁判官も、かなり社会経験や常識が不足しているんじゃないでしょうか。映画や文学、漫画などに接することなく受験勉強ばっかりしていたせいでしょうか?こんな安いストーリーしか作れないんじゃ、漫画家になるのは到底無理だな(笑)
石川 拘置所で田代政弘検事から『裁判の結果と事実は違うんだよ』って言われたのが忘れられません。それって事実を違う事実に改ざんする、すなわち架空のストーリーを作っていることを検察が認めている訳ですよ。しかも裁判官が追認するからかないません。
佐藤 僕は、検察は石川さんに5千万の裏金が渡ったことを事件化する可能性を、本気で探ったと思う。しかしどうしても当日に『水谷建設が個室を取った』という記録が無い。それで立証をあきらめた。検察は、この戦いに負ける覚悟をしたと思うんです。現にこの事件を担当した特捜検事は異動させられている。ところがご親切にも、裁判官がこんな嘘臭くてリアリティの無いストーリーを、証拠が無いのに真実だろうと推認して有罪にした。鳥越さんもビックリ、世界の法曹関係者もビックリのスゴさです。」
鳥越さんは、毎日新聞等マスコミが、小沢さんの責任は明白だ、と、石川さんの判決に対して、「堅気」の読者?の心情に迎合する社説や記事を書いている中で、数少ない判決批判者です。
まあ、お受験優等生であるから、だけではなく、「日本教徒」であることに無自覚の、教義に忠実な「日本教徒」であるから、と思っていますが。多分、「清流を知らずしてケイ藻を語る」、あるいは、相模湾以西の海産アユの生態を観察することなく、いや観察しても、産卵アユの氏素性の違いを目利きすることが出来ずに、あるいは「釣り名人」であっても、観察力に劣る方々のお話を「事実」と判断された学者先生に通じる現象でしょう。
この対談には、録音機に「隠し録り」をされたことの顛末と、検察側が「リーク」しているにもかかわらず、鳩山総理大臣が「検察はリークしていない」と、パソコンの中身について回答している。隠し録りは、外交で言うところの「相互主義」としての必要があった、と。
そして、
「佐藤 漫画みたいだけど説得力のある話もあります。村木さん冤罪(えんざい)事件の主犯・前田恒彦検事の上司で逮捕された大阪地検特捜部長の大坪弘道さん、副部長の佐賀元明さんが、検察の取り調べに抗議しています。佐賀さんの弁護団は『冤罪の温床となっている密室の取調べはけしからん。全面可視化すべきだ。』と主張しています。それって『今までやってた自分たちが言うんだから間違いない』ってことだよね(笑)
――でもお気の毒ですが、大坪さんも佐賀さんも、証拠が無くても有罪食らいますよ、このままでは」
江田法相の要求で作成された「検察の理念」は、「日本教徒」に有効な手法を排除するおつむで作成されたものではなく、「有能な日本教徒」の作文とのことのようであるから、「証言」で罪に問われることを覚悟しておく必要があるようです。「証言」をした日本教徒は何らの責任も負いません。「証言」、ときには「良心の自由」を売ったという自覚もないようで。「100人切り競争」の特派員報告をした毎日新聞のジャーナリスト:朝海特派員のように。
江田さんは、大管法反対闘争のとき、デモの先頭ですぐに拘束され、翌日国会議員の父親が、あるいは秘書がもらい下げにいっていたとのこと。したがって、ほかの拘束された人たちとは違い、下りのアユのように、一宿一飯の経験しかしていないのでは。
退学処分になって、当時、ソ連に逆らっていた?と評価されていたユーゴに行ったのではないかなあ。二年後に復学していると思う。
その江田さんが、関わったとされる「検察の理念」が日本教徒らしい作文で満足していたのはどのような理由によるのかなあ。外国を歩いても「日本教徒」の自覚に目覚めることはなかった、あるいは、「日本教徒」であることの自覚から発想する対応策を立案するにはリスクが大きすぎる、と考えられたのかなあ。
いや、「自由意思」に基づく「証言」であるから、「証言を売る」という現象が生じることすら気がつかない。日本教徒の端くれであるオラも同じであるが。
というよりも、日本教徒には、「証言を売る」ことによって、「事実」ではない「証言」が生成するのではない、ということを、つま「自然に」、相手に迎合して「証言」する習性があることをベンダサンが、山本七平が「日本教徒」の教義を繰り返し、認識すべきだ、と何冊もの本の中でのべられている。
しかし、「文化 the way of life」に属する事柄が、それらの本が出版されて40年以上たっても変化しない、ということを、佐藤さんと石川さんの事例は示しているのではないかなあ。
もちろん、このことは、佐藤さんや石川さんの「罪」の存在の有無を云々するものではない。西洋の裁判制度を導入して、自白調書、検面調書に記載されて、「署名」されている事柄は、「事実」であるとする裁判制度と、「署名」に係る日本教徒が「責任」を取らないこと=「100人切り競争」を朝日新聞に書き、朝日新聞がフィクションである、と1面に謝罪記事を書いていても、本多勝一が「責任」を認めず、「謝罪」をしなかったように。
本多同様、裁判官も「日本教徒」であり、検面調書、検事報告書が「事実」を表明していない、とは夢想だにしていない。
石川さんの場合は、隠し録りをしていたために、多くの「証言」に係る「証拠」価値が否定されたにすぎない。
日本教徒であるという自覚のない裁判官の「公正」な裁きに期待するのではなく、隠し録りをしましょう。
もっとも、石川さんの場合は、「神の目」で、検事報告書がフィクションである、と確認可能であるにもかかわらず、裁判官は五千万円を受け取ったことが「事実」であると、『まるで漫画みたいだ』以下の「常識」で、判断されているが。
なお、ジジー心から検事さんのご苦労にも触れておくと、日本教徒は論理よりも、明確な、客観的にすぐに判別可能な「証拠作成」を行わなくても、「あうんの呼吸」、「以心伝心」の手法があるから、西洋風の「証拠主義」で裁判を行うことに限界があるのでは、とも思っていますが。
そして、「署名」、「証言」が、「嘘も方便」の文化があることから、有効に機能しにくい側面はありますが。小沢さんが、土地購入について指示した事実はない、ということは、日本では通常発生しうる現象でしょう。
だからこそ、「証言」の中で、何が「事実」であり、何が「フィクション」であるのか、識別する能力が必要であるにもかかわらず、裁判官も、マスコミもその能力の必要性を認識すらされていない。
戒能通孝先生の入会権を巡る小繋?裁判に係る本は、日本教徒の「証言」あるいは「沈黙」の意味を裁判官が理解できない事例では。
西洋風形式合理主義で「証拠」を評価しているから、適正な裁判を行っていると自負していらっしゃる裁判官。その裁判官が、「日本教徒」として、思考し、また何が事実か否かの判断をどのようにされているか、についてよおく表現している事例ではないでしょうかねえ。
入会権主張者が、「沈黙」をすると、裁判官は自らの質問に対して、入り会い権者が「同意した」と解釈して裁判を進めている。しかし、「沈黙」は不同意の意思表示です。アングロサクソン流の、「権利は主張して守られる」とは正反対の意思表示、表現形態ですよねえ。
さて、いつものように、「日本教徒」であることを認識されていない「毎日新聞(一九七一年一〇月一三日)のコラム『余録』に次のように載りました。」
とのことで、余録を引用されているが、今回の「日本教徒について」を紹介する目的は「自白」「証言」に係る事柄ではないので省略します。
いや、「証言」は関係するかな。狩野川では、冬でも温泉客がアユを釣っている、という「伝聞」を根拠として、「狩野川だけに晩熟のアユ大量にいる」、あるいはヒネアユが多いとの話につながり、「海産アユは一〇月、一一月に産卵している」とい学者先生の教義となる「重要な」「事実」を構成しているようであるから。
c 「悪魔を追い出したら、さらなる悪魔が…?!」
「―以前、佐藤さんから日本の刑事裁判は99.9%有罪になると。それは裁判官と検察が癒着しているからだといわれました。それが厚労省村木厚子局長の無罪判決で、少しは日本の司法も変わったかなと期待したのですが。
石川 村木さん同様、私の供述調書も裁判所が大量に却下しました。検察の取り調べが無効ってことですから、普通は私に有利になるはずなんですが……まさか、裁判所が私をぬか喜びさせようとしたんじゃないでしょうか?
佐藤 聖書にこういう話があります。家に悪魔が1匹いたから追い出した。部屋がきれいになったと喜んでいたら、しばらくして悪魔が7匹の仲間を連れてきたっていうんです。7は完全数だから無限大ってこと。脅したり改ざんしたりして調書をとったことが露見したので、この任意性のない調書を外すという形で、悪魔を追い出したわけ。ところがその隙間に、『推認』で何でも有罪にできるというとんでもない無限大の悪魔が入ってきた。証拠が無くても『〜と推認される』で有罪可能!恐ろしいことが起きるんですよ。悪魔が来たりして『推認する』!
石川 私がこっそり取り調べを隠し録りしたのは、佐藤さんの助言なんです。それで検察官の供述維持を求める脅迫めいた発言を録音して発表したら、裁判所は『これは検察官が脅してとった供述調書だから、有効ではない。証拠にしない』と言いました。さすが裁判官は冷静に見ていてくれると思ったんですが……
佐藤 石川さんは卑怯なことが嫌いなので隠し録りに躊躇(ちゅうちょ)したんですが、検察が先にルール違反をした。陸山会事務所にあった石川さんのパソコンの中から、こういうデータがあったとマスコミが報道した。検察が押収したんだから、検察以外に情報を出せるはずないんですよ。また弁護士に説明していない案件で、検察官と話した内容が新聞に出たりした。
石川 ところが以前、鈴木宗男先生の質問趣意書に対し『検察は情報をリークしていない』と総理大臣時代の鳩山さんが回答しているんですよ。でもリークしていないなんて、完全に嘘でした。先にルールを破ったのは検察だから、こちらも身を守る当然の防御策として録音機を持って行くべきだと説得されて。でも半年以上も言い出せなかったんですよ。弁護団に。検察からもっと嫌なことをされるんじゃないかと怖ろしくなって。
佐藤 外交では『相互主義』というルールがある。これは相手が違反したら、その範囲内でこちらも違反していいというもの。あと、本当に狙われているのは小沢一郎さんで、こういう噂の話で潰されっちゃったら日本の歴史に禍根を残すから、検察が何をやったか動かざる証拠を記録すべきだと石川さんに話しました。」
隠し録り録音の説明ヵ所に、検事の話した事柄の一部が紹介されている。
「E検察官の供述維持を求める脅迫めいた発言を録音
供述の変更を希望する石川氏に、
『従前の供述を維持するのが無難だって。うちの幹部の精神安定剤としても』と田代政弘検事が発言した。強制起訴された小沢一郎氏の第2回後半(10月14日)で音声が再生された。」
供述調書を作るとき、拷問はないにしても、自白の誘導は検事の日常のお仕事。その誘導は、検事が「罪」へ、「罪」へと裁判官がなびくように考えたストーリーにしたがって形成されていくということでしょうねえ。
そのストーリーの「当事者」に祭り上げられた人たちは大変ですね。
「石川 そんな“7匹の悪魔”状態と断固戦うために控訴しました。読者の皆様も、『これは他人事ではない』という危機感を持っていただければ幸いです。」
松川事件においても、日常生活をしていた国鉄職員らが、ある日突然、列車転覆事件の「被告」として、検事作成のストーリーの駒にされたから、検察に「目をつけられた」ら、その後の「自由」はなくなるということでしょうねえ。
さて、何もかも、来年回しにして終えることには、いささか後ろめたくもあるため、太宰治の「令嬢アユ」における勘違いで、色っぽく締めくくることにしましょうか。
とはいっても、荒川から帰ってきてからのことですが。
「令嬢アユ」の勘違いであれば、「事実」認定の間違いであっても、誰にも被害は及びませんから。退学になりそうな、お勉強に熱の入らない青年が、「作家志望」に志を変えようとしている青年が、フィクションの夢から覚めるだけですから。
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