狩野川のアユの大きさに異変が生じた2011年、2012年。
その原因が、東北・日本海側の沖捕り海産の稚鮎放流ではないかと、推測している。
故松沢さんに尋ねたら、どのような話をされるのかなあ。
「鮎に聞いたことがないからわからないが」という枕詞の後にどのような、話をされるのかなあ。
その話を聞くことができない今、丼大王や名人見習いの師匠らの話を参考として考えていくしかない。
まずは、川那部先生に狩野川の大鮎が「放流もの」であることの報告から始めます。
そして、ウーマンリブの典型と思っていた天野礼子さんが、かわいい、かわいいねえちゃんであることが判り、当然オスの血が騒ぎ、礼子ちゃんに懸想をすることにします。
井伏さんの最上川のサクラマスの話、太宰治の「令嬢アユ」も忘れてはいませんが。
1 | 川那部先生への報告 狩野川の大鮎の氏素性について |
「大鮎」は「放流もの」である 1 2011年の狩野川のアユ状況 |
遡上アユが釣りの対象となるほどの遡上量 | ||||
2 2012年の狩野川のアユ状況 | (1)遡上量の僅少 (2)継代人工の状況 5月3日の増水で消滅 (3)5月中旬の川の中 アユの気配なし 所々に稚アユの群れ (4)梅雨明け頃から釣れ始める 下顎側線孔数4対左右対称 |
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3 狩野川の「放流もの」の氏素性は? | (1)継代人工との違い (2)東北・日本海側の沖捕り海産? 5月中旬は櫛歯状の歯 共同生活段階の稚アユ |
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4 なぜ大鮎か | (1)遡上性が逆梁で採捕した稚アユより短い? (2)東北・日本海側の故郷よりも大鮎の比率が高い? (3)10月上旬以降の瀬でもオスが主体? |
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5 長良川の産卵時期 | 天野礼子「萬サと長良川」 素石さんが萬サの話を言い間違い、聞き間違い、であると判断して「湖産」の生活誌に変えた? 天野さんの揖斐川でのシラメ調査参加 天野礼子「あまご便り」 海に下ることのできなくなった「シラメ」の運命は? |
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6 東北・日本海側の沖捕り海産放流の問題は? | 「偶然」の貢献 萬サ翁との出会い 天野さんの萬サ1代記執筆の幸運 |
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2 | かわいい、かわいい天野礼子ちゃん | どのようにかわいい? | 「『男女釣行機会平等法』実施中」 月布川山荘の巻 コップ酒と男の陰謀 女の釣りに構い過ぎる男の魂胆は? 礼子ちゃんの失恋? 0と1の違い パラシュート・フライのプレゼント ノータリンクラブのウデ?心情? 糸を垂れるだけで満足 数多のボーイフレンド 上げ膳据え膳? |
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「釣れない」釣りが当たり前から「釣れる釣り」が当たり前へ、宗旨替え | 大西満さんは、礼子ちゃんの不漁にビックリ 飲める水の川のアマゴ釣りに傾斜する礼子ちゃん 殺生は控えめに 大西さんの指導で「釣れる釣り」に 釣れない時間は昼寝 |
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「アマゴの聖地」から | 紀伊半島のアマゴの栄枯盛衰 ダムによる変貌 生き残ったアマゴ |
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「地図から消えた渓」から | 桃源郷めっけた 釣り人の増加で山の幸拾い |
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アマゴ、シロメ(シラメ)川マスの関係は? 天野礼子 「萬サと長良川」 |
萬サ翁と今西博士の出会いまで:序章 | 素石さんとの出会いの偶然と萬サ翁の生い立ち マスとアマゴの違い アマゴ商売はいつから? 萬サ少年は? 美並村の河相 御猟場で鮎のつかみ取り 「芋振り籠」のいかし籠 1日に米10俵の稼ぎ 萬吉君の失恋 はるちゃんは北海道の「かいたく」へ |
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「岡崎政五郎にアマゴ入門」 | 昭和9年八幡に転居 政五郎に懇願 3日で免許皆伝 亀尾島川で67匹、13円 渓アマゴは100目65銭、本流アマゴは70銭 与三マと友になる 大多サらと馬瀬川上流へ出稼ぎ 萬サのアマゴの手当 |
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川マス釣りと投網と | 川マスの遡上時期と味と逃走手段 跳躍する川マス テンカラの見釣り 顔に糸を巻く 亀尾島川のマスは? 勝負の結果は? グロから釣れ 小さな当たり 太いとは見破る 尺近いメス 23本のマス 岐阜に出荷 夜網で大漁? 大漁、そして網はズタズタ |
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今西博士と萬サ会談 序章 | 素石さんと萬サ翁の話の続き | アマゴとヤマメの交換 高鷲村と蛭ヶ野が交換 庄川に赤い点のあるアマゴが アマゴとヤマメの識別法 アマゴ河川の増加 |
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萬サ翁と意気投合の今西博士 天野礼子「萬サと長良川」 |
おなごの尻を追いかけ回すのが趣味? | 女の効用 オスの面 |
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アマゴとヤマメの棲み分け | 陸封 幼魚紋:仔魚の身体のままで一生を過ごす 日本列島でアマゴとヤマメの棲み分け |
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川マスとシロメ | 川漁師=研究者の見えない視点に気がついている なぜ「シロメ」か 鱗が剥げるのは? |
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シロメはいつ頃現れるのか | 11月頃かな アマゴは産卵行動中 シロメとアマゴの容姿の違いは? シロメはマスの子? |
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川マスは海から来る | 下流から釣れるようになる シラメの鱗がはがれる=海へ下る準備? 幼魚紋はシロメ、マスにはない 大型のアマゴとマスの顔つきの違いは? マスはメスが多い ギンケやヒカリは3月終わり頃から下る ギンケやヒカリがシラメと相似型? ビワマスとサツキ サツキも4,5月に発生 |
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今西博士の川マスとの対面 | 昭和40年7月マス釣れたの電報 萬サ翁の観察の褒める博士 車中、ご機嫌の博士 シラメとアマゴの識別は一義的には無理? アマゴとシラメの交雑種も? マスとは =パーマーク、朱点の消滅が条件 70匹のマスがアユの夜網に サケに近い顔 マスもぬめりを取り保存 マスは水温の低い吉田川に多く上る マスはどれも同じか 杉錠へ。立派な冷蔵庫 アマゴは氷が効かん 博士は何をメモした? 幼魚斑のあるマスは人工種苗? 釣れやすいアマゴは人工種苗? |
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萬サ翁と意気投合の今西博士 天野礼子「萬サと長良川」 |
アマゴに戻るシラメも? | 昭和59年4月の萬サ翁と素石さんの対話 昭和40年7月の川マスの検分 川マス解明の歴史 下流ではシラメの放流も シロメ、シラメ、ハクシマと降海 シラメ調査の結果 =下らないシラメもいる 徳山村のシラメは降海できず 昭和46年で1匹1000円の川マス |
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「サツキマス」の命名 今西博士もお気に入りの命名 サツキマスは河口堰で滅亡? |
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テンカラ | 1 木曽テンカラの復活 天野礼子「あまご便り」の「幻の木曽テンカラ―杉本英樹さんを訪ねて」 |
老人の手品のような釣り 原君の亡父の釣り日記 テンカラ伝承者の原老人との出会い 大きいタナビラはテンカラで 空合わせ テンカラの仕掛け 1丈の延べ竿 長い手尻 テーパーライン 水中に20センチほど沈める スポーティなテンカラへ 馬瀬川のテンカラ 亀井巌夫「釣の風土記」の「馬瀬川の水音」 竿を振り回しての移動 餌釣りよりもテンカラの地元 夜のテンカラ |
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2 川虫が「食われる状態」になるとき 「山女魚百態」の 御所久右衛門 「川虫ウォッチング」 |
春の落ち葉の中は? | @カゲロウ 約150種スナムシ、瓶チョロほかの釣り人の呼称 Aカワゲラ 石礫底の川虫 オニチョロ等の呼称 Bトビケラ 約300種 「水中で生活する蛾」の進化段階 |
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(1)カゲロウ | カゲロウの毛バリの名称 幼虫 ニンフ 亜成虫 ダン 成虫 スピナ 群飛集団は雄ばかり 遊泳型 匍匐型 滑降型 モンローのキスマーク カゲロウの飛翔時刻の季節的変化 気温との関係 春と飛翔時間の非対称 |
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(2)カワゲラ | オニゲラ他の呼称 晩春の群飛 |
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(3)トビケラ | 造網型トビケラ クロカワムシ他 |
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(4)水中で「食われる状態」になるとき | @ヒゲナガトビケラやシマトビケラの幼虫 夕暮れから散歩に 羽化する直前 A日周変動 夜間に流下、夜明けに遡上 餌釣りの好タイム2回 |
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3 「異物感から吐出の反射行動」対「「人の反応速度」のスピード競争 石垣尚男「テンカラの科学」 |
昭和45年頃のアマゴ | 「イガ栗」毛鉤でも愛想を振りまく しかし、100打数0安打 |
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空中(水面上)1センチでの毛鉤吐出時間 | 「反応レベル」の合わせ時間と「反射行動」としての吐出時間差は? | ||||||
水中での勝負は? | 0.4秒ほどの吐出時間に 名人達の「遅合わせ」と礼子ちゃんの遅合わせは同じ? |
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4 毛バリとリアリティ 切通三郎 「紅色の蝶々毛鉤」 |
赤い毛鉤にピョコピョコ「出る」 | 赤い毛鉤の理由 @近眼 毛鉤の色まで山女魚等にあわせるのは癪 A蝶々少年の体験 釣りを知らぬ平和な日々 寒狭川の蝶々 「無念コンチクショウ」の渓が累々と ベニシジミが神隠しに 河童を信じた少年が毛鉤作りに 赤い羽根獲得奮戦記 |
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「赤毛布(ゲット)釣り師の腕は如何? | 佐渡での獲物 素石さんと同数 「出る」と「掛ける」の違い |
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山女魚などの棲み家は? | 「本宅」は「昔」という失われた時間の中に 「リカエナ号の成果は如何に? |
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5 アマゴ釣りと近藤正臣さんと恩田さん 近藤正臣「解説 なっとく出来ない!」 「萬サと長良川」から」 |
河口堰反対デモに参加 | 建設省の嘘 生涯“サツキマス10匹”の決意 |
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早春の近藤さん | 雪の吉田川 思いと現実の落差 寒中の行 |
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名人の釣り技 | かってに掛かってくる 目印の動きで合わせるのは遅い 食いつく場所で合わせる 流れでエサを流す |
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「ソラ釣り」 | 桜井銀次郎と食い波 ソラ=上流 上流に振りこむ 目印は横に動く |
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オモリを使う?使わない? 陸氓卿「壁」 |
阿部武「東北の釣り」 オモリを捨てろ、イトは太く、鉤は大きく 自然に対する謙虚な気持ちに 自然と同化する意味 川那部:共通法則重視の欧米とイギリス の違い 特殊法則と一般法則 |
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さて、近藤さんは如何に? | 腕前のほどは? サツキマスは釣れる? |
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6 剽軽な萬サ翁 | 魚の一般法則と特殊法則 | 今西博士の渓魚研究が「奇書」 その理由は? 「特殊法則」から「一般法則」を 沖縄島の滝上のヨシノボリの餌 京のヨシノボリの餌 京と沖縄の餌の違いは何故? 種の生活様式の観察は一部しかできない 他の生物との相互関係 萬サ翁のシラメ観察 =下らないシラメもいる |
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杉錠の息子さんとの釣りと夜網 | 復員兵が糸を求めて杉錠へ 生き残りの萬サ翁 萬サ翁に弟子入りした斎次郎さん |
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妻くにえさんとのコンビ | 金槌が夜網に 夜網の方法 かあちゃんの缶持ちになった萬サ翁 |
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昼下がりの余興 | 「川番」の馴染みの釣り師へ 死んだオトリでの釣り 頭と胴だけのオトリでの釣り ヘボは元気なオトリで釣れ |
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ウナギも絶滅危惧種に | 四万十川のウナギは腹子持ち 山崎さんの不愉快な想い出 =シラスウナギ漁採捕騒動 シラスウナギ大量採捕から40年で親激減 「昔」という失われた時間の中に |
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7 サクラマスは雌? 井伏鱒二「釣師・釣場」 川那部浩哉「曖昧の生態学」 |
最上川支流田沢側のヤマメ釣り | スズコで釣れぬ井伏さん ミミズで釣れた同行者 |
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山女魚の容姿と産卵 | 雌のヤマメは釣れぬ マスの卵に白子をかける山女魚 マスの子=銀子はイワシ網にも入った マスの父母はマス? |
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川に戻る銀毛もいる? | 2年以上の雌は餌で釣りがたい マスの子が海にはいるときは? ピンコヤマメは? |
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昭和の終わり頃のサクラマスの状況は? | 北海道で釣りの対象となる3類型 解禁日の釣りの対象は越年山女魚と以前の残り山女魚 |
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「こそこそ屋(スニーカー)」雄と「雌真似屋」雄 | タンガーニイカ湖の事例 カワムツにも「こそこそ屋」がいる |
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サクラマスの遡上限界 一次河川、二次河川まで 竹内始萬「遺稿 あゆ」にみる「養殖」、「人工」の言葉の今と昔の意味の違い |
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8 ヤマメの行く末は? | 「本宅は『昔』という失われた時間の中に?」 | ||||||
(1)ヤマメの生息状況の事例 | 齋藤祐也「ヤマメの『サバイバルエコロジー』」 | ||||||
@釣り人が入らない小さなN川 | 自然繁殖 100尾以下? 2,3ペアの産卵 絶滅とは |
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A人工種苗の山女魚が放流されているA川 | 稚魚放流 2年魚と3年魚が釣りの対象 採石場の濁り水の影響 15ペアが産卵:三千尾ほどの再生産 |
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BB川の場合 | 上流のイワナは絶滅 シルト層の堆積、濁り水でヤマメは絶滅 昭和55年から稚魚放流 産卵なし |
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C「3本の川の教えること」 | 「開発という名の行為」と繁殖力 林道建設と川の荒廃 放流に頼る川へ |
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D種の、遺伝子多様性の問題 | 人工種苗の起源 地域群の破壊 アマゴの山女魚領域への放流 バイオテクノロジーで産出されたヤマメの放流 |
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(2)「Fishing Cafe」 から | 木曽谷のタナビラ 本流はタナビラとアマゴの混種が 支流はタナビラの領域 秋田の大山女魚 檜木内川の大山女魚 鰓の周辺があざやかな薄紅色 側流が桃源郷に |
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(3)遺伝子多様性の減少 川那部浩哉 「曖昧の生態学」 |
相互関係 | 「食う魚」の存在とユスリカの生産量の増加 「関係してきた歴史が重要」 「相互関係」と無縁のニジマス 食い分けと棲み分けは遺伝子に |
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「全体」ではなく、「総体」が大切 | 具体的な関係の総体 関係多様性こそ生命の多様性の本質 |
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「一地域個体群の中での多様性―それを失った個体群は永続し得ない」 | 個体数が一定限度以下になると再生産不能に 魚も個体ごとに顔が違う 単一の集団ではない 環境変動に対する適応の一部と遺伝子変異の多様性 人間の管理下での種ないし個体群保護の結果は? その種苗の放流の結果は? =特定の遺伝子だけを増加させる行為 種の保護とは「各地域個体群」の保護、多様な遺伝子を持つ個体群の保護 |
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「同じ資源を要求する種間の協同的相互関係」に | 多くの種の魚が身の回りに存在することを前提としての現在の生活 多様性を持った群集の存在が正常な状態 |
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「相互関係における歴史的時間」 | 相互関係によって棲み分けが起こる。 進化の歴史が作り上げた生物間の関係 致命的事態に対処し適応し得たことと遺伝子 「説明不能な現象」と「進化の歴史」 群集の持っている多様性は、過去と未来を繋ぐ |
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「多様性を生み出す群集ないし生態系の複雑性」 | 「総体」とは 環境の多様性は重要 |
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サツキマスと人工孵化放流 | マスは一九三〇年代までは「普通」の魚 河口堰と人工孵化放流 「遺伝子資源」の消滅 遺伝子の多様性 =時間的、空間的変化に対応する大きな安全弁 少数の個体の子孫だけの大量投入の問題 |
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川那部先生への報告
狩野川の大鮎の氏素性について
2011年、狩野川に存在していた尺鮎や泣き尺の大鮎を狩野川に遡上した鮎では、と考えていましたが、2012年の狩野川のアユの状況から、「放流もの」と確信しました。
1 2011年の狩野川の鮎の状況
遡上鮎が釣りの主役であるほど、遡上量が多かった。
そのため、「大鮎」が、海産鮎の容姿、下顎側線孔数が4対左右対称であることから、遡上鮎との連続性で考えていました。
2 2012年の狩野川の鮎状況
(1)遡上量僅少
駿河湾の稚鮎は僅少、狩野川の遡上量は僅少で、遡上鮎が釣りの対象となることは一部地域以外ではありませんでした。
(2)継代人工の状況
また、5月3日の増水で、それ以前に放流されていた継代人工は消滅しました。
そのため、解禁日には、増水後に成魚放流された嵯峨沢、西平橋付近で釣れていただけで、松下の瀬等、成魚放流が行われていなかった、あるいは少なかったであろうところでは、例外的に釣れた人がいた、という状況でした。
(3)5月中旬の川の中
5月中旬にアマゴ釣りに行った人は、鮎のいる気配がない、と。そして、所々に稚鮎の群れがいた、と。
(4)梅雨明け頃からではないかと思いますが、アユが釣れるようになりました。そして、9月に入ると大アユが釣れていました。それらのアユの下顎側線孔数は、4対左右対称でした。
3 狩野川の「放流もの」の氏素性は?
(1)継代人工との違い
中津川に、阿仁川のアユを親として、3,4代目くらいの継代人工の成魚が数年前から放流されていました。
そのアユは、中津川にいる他のアユよりも大きくなる、放流すると上流に向かって泳いでいく、瀬に入る等の性質がありましたが、近年は、他の放流ものの継代人工と同様、放流地点で群れるようになったとのことです。
その違いが、継代を重ねたためか、「湖産」ブランドに海産や後には継代人工がブレンドされていたように、他の継代人工がブレンドされるようになったからか、どうかは分かりません。
その「優れもの」とされていた養魚場の継代人工とは異なる「放流もの」です。
(2)東北・日本海側の沖捕り海産?
5月中旬頃に群れていたということは、歯は櫛歯状の歯に生え替わっているものの、まだ共同生活をする成長段階の稚鮎と考えています。
そして、6月には釣れなかったということも、東北、日本海側の解禁日が7月であることとも関係しているかも、と想像しています。
ただ、沖取り海産を淡水に馴致して放流したものか、F1であるのか、わかりません。
また、F1の下顎側線孔数が乱れるのか、乱れないのかもわかりません。
4 なぜ大鮎か
狩野川の大鮎が、東北・日本海側の沖取り海産であるとしても、少し疑問があります。
(1)川に遡上した稚鮎を逆梁等で採捕したものでないことは、遡上性が遡上アユよりは小さく、氷魚から畜養した湖産と同じであるから、「沖取り海産」と考えられるのでは?
もちろん、継代人工よりは移動距離は大きいと思いますが。
(2)東北・日本海側の海産鮎と同じくらいの比率で、尺鮎や泣き尺が釣れているのであれば、本来それらが生活している川での成長と同じといえるでしょうが、大鮎の比率が本来の生活場所よりも高い比率になっているのでは?
ただ、この現象は、釣り人の釣った場所、そして、10月か、9月か、で異なるのかも。
(3)10月上旬でも、神島橋で丼大王に釣れていた泣き尺は、オスが主体でした。
釣れた場所は、強い瀬の中の芯よりは少し弱い流れとはいえ、通常の瀬釣りの場所でした。
他方、9月下旬頃から狩野川大橋上流、自動車道付近のチャラでも多くのオスが釣れていて、オスが生活圏が2極化しているのでは?「多くの」とはいっても、今年の狩野川での釣れる数での話ですが。
また、雄のほうが先に産卵場に行くとの話からすると、オスが瀬から消える方が、数が少なくなる方がメスよりは多いと思いますが、神島橋ではオスが主体とはどのような要素が作用しているのか。
メスは何処にいるのか。
漁協が、放流ものの氏素性を公表していれば、少しは適切な判断もできますが…。
それでも、神奈川県内水面試験場のように、「養魚場」の話を「事実」と判断して、それ以上の思考を停止していれば、意味はありませんが。(養魚場が「湖産」を放流しているから早川等にいる鮎は「湖産」であると判断されて、上方側線横列鱗数20枚以下、17枚くらいでしたかの鮎を「湖産」と判断しています。)
狩野川の「大鮎」が、学者先生の海産が「10月11月」に産卵するという教義の正当化に寄与することにならないことを願っています。
狩野川の大鮎は、40年来、23,4センチとのことです。もちろん、昭和の終わりには、尺鮎、泣き尺の「魚拓」が存在していますが、その氏素性は、継代人工でしょう。
顔つき、容姿の他、故松沢さんが「帆かけ舟」と表現された背鰭です。遡上鮎は、頭側の背鰭が長く尻尾側が短いが、放流ものは、頭側も背鰭側も同じ長さです。もっとも、この見方は、「放流もの」から「継代人工は帆掛け船の背鰭である」と、訂正をする必要がありそうですが。
「放流もの」の大鮎は、トラックで運ばれてきた周辺のチャラ、ザラ瀬で、産卵を始めているのではないかと想像しています。まだ産卵風景は確認されていません。
10月18日の雨で、大仁の水位計では瞬間的に1メートルの増水になりました。アカ飛びが発生したとしても非常に限定された場所でしょう。
10月21日、狩野川大橋周辺の青木の瀬では、釣れていた人は少ないと思います。
遡上鮎であれば、増水が中落ちの動機付けとなる鮎もいるでしょうが、「放流もの」の沖取り海産はどのような行動の動機付けになるのか、気になりますが、確かめることはできませんでした。産卵をしているアユも多いかも。
5 長良川の産卵時期
天野礼子「萬サと長良川」(ちくま文庫)に、古田萬吉さんが長良川の鮎の産卵時期について
「アユは、八月下旬から九月下旬にかけて、産卵のため河口にむかう。これが“落ち鮎” で、これを獲る漁法が梁(やな)である。流れのゆるやかな長い瀬の下流で落差が大きくなる場所に竹を敷きつめ、上には簀の子状になった竹を敷き、下ってきたアユを集める。秋の大雨の出水時には、一昼夜で一屯も獲れることさえある。長良川の梁は、川を斜めにせき止める揖斐川の瀬張り梁などとちがって川の流れを直角にせき止めるので、“仏梁”と呼ばれてきた。蒿田村(注:たけだむら:萬サ翁が子ども時代に育った場所)の周辺は、長良川流域の中でも、川の蛇行や勾配の調和が最も優れた部分なので、梁を造るには最適で、毎年、刈安、高原、木尾の二ケ所の計四ケ所に設置される。
秋になって友釣りができなくなると、萬吉達はおおぜいで、この梁を毎日見に行った。子供心には、産卵のアユがこうして獲られてしまう哀れさよりも、自分たちの川に、これほどのアユがいるのを目の当たりにすることが誇らしく、うれしかった。」
この萬サ翁の話が「事実」とすれば、学者先生の海産アユの「10月11月産卵説」は、「適切」であるとなりますが。
天野さんが、萬サ翁の話を聞くようになったのは、昭和58年頃からのようです。
当然、子どもの頃の思い出として話されたであろう下りの話は、同時代性、同時性をもっていません。
しかし、その現象は、その後も長良川においては普遍性をもっている、という通時性を話されているとも考えられます。
萬サ翁は、湖産が再生産され、また、交雑種が遡上アユになっていると考えられています。その点では、故松沢さん等とは異なっています。
さて、萬サ翁の子どもの頃の思い出として話されたことことすると、24節気を旧暦で表現されていたのでは、と考えています。
関西では原則旧暦で24節気を表現していたため、季節感とのズレは少なかったと思います。平塚の七夕が梅雨真っ盛りの7月7日に行われていることを知り、ビックリしました。
しかし、旧暦での表現ではなさそうということは、蒿田村の遡上時期の話から間違った推測でした。ただ、2月に川に入っているという記述は、汽水域の長い長良川でも疑問を持っていますが。山に雪を頂いている長良川の水が、流れ下るときに温められるとしても、2月の気温は冷たい水を暖めるほど高くはないと思いますが。そして、鮎の生存限界を超えるほどの水温になるとは考えられませんが。天竜川の2月の遡上状況調査のように、遡上アユは発見できないと思います。
萬サ翁が、「下り」、「産卵時期」を話されたとおりに、素石さんが表現されているのか、気になります。
天野さんが、萬サ翁の伝記を書くきっかけとなったのは、素石さんが伝記はその人が亡くなってから書くという信念の持ち主であったからのようです。
素石さんの依頼を受けて、天野さんが萬サ翁の伝記を書かれることになったとき、天野さんは、素石さんから、素石さんが整理されていた資料を託けられたのではないか、と想像しています。
そのため、同時代性をもった記述になっているのではないか、と。その例証が、「山本素石とサツキマス」の章ではないかと考えています。
素石さんは、昭和21年から一家離散するまでの短い期間鴨川?で鮎を釣り、売っていますが、その鮎は湖産と確信しています。
そのときの鮎の生活誌に基づいて、萬サ翁が話された下り、産卵時期の話が、言い間違い、聞き間違い、と判断されて訂正される作業をされていたのではないかと想像しています。
杉錠の息子さんである大坪斎次郎さんが、疎開してきているとき、アユ釣りを教えていて、種は7月を過ぎると、メスを使え、と話されているが、それは湖産の話であって、海産の話ではない。これも、素石さんが、鴨川?での釣りの経験から萬サ翁の話を訂正された箇所ではないかと想像しています。
天野さんの揖斐川でのシラメ調査参加
天野さんが、「あまご便り」(山と渓谷社:1988年:昭和63年)の「私の徳山村考」の章で、禁漁の揖斐川でのシラメ調査に始めて参加し、警官に職務質問をされた後、山本素石さんからなぜ、シラメ調査をするようになったか、話を聞かれています。素石さんは、
「『ぼくらがこの徳山へ今西錦司さんと調査を始めたのはもう十年以上も前かな。木曽三川ではアマゴが産卵する秋の終わりに、シラメと呼ばれる渓流魚が出現する。産卵後のすりぼけたアマゴとはちがって、こちらは真っ白で瀬に出て果敢にエサを捕っている。どうやらこれが、降海して五月頃になると溯上してくる長良マス、サツキマスのことやね。これやろうと近年わかったのやが、そうするとシラメがピカピカに銀毛するのは降海するための準備ということやが、下に横山ダムができて海へ下れなくなったこの揖斐川では、何のためにアマゴがシラメになるんやろうというのが最初の疑問でね。これが今西さんがボクに与えた宿題のようなもんだ。マスが溯らなくなった地域でシラメの発生が永続すると思えないというのがボクの考えやが、毎年こうしてシラメの季節にはやはり釣れるので、実は宿題が解けないままにこの徳山村に毎年通っているというわけやね。
しかしぼくはこの村の風情が大好きでね。宿題はもうほぼ解けかかってるんやが、それよりこの村がもうここ数年のうちにはいよいよダムに沈んでしまうことが気掛かりでこうしてきているんだよ。もしここに本当のダムができたら、今度は庄川の御母衣ダムでサクラマスが天然発生しているように、このシラメ達がふたたびマスになることも考えられる。それまでボクが生きているかどうかはともかく、すると宿題はまた一つ増える。そうしたらそれを確認してくれるのは河原君や礼子ちゃんということになる。実はそんな意味もあって、今回徳山行きに誘ったというわけなんだ。
今西さんとのいきさつは古い村の人なら知っているから、君に声をかけた警官は若い人だったんじゃないか。そうでしょう。今頃は了解しているよ。』
天野さんは、人工種苗のアマゴには目もくれず。人知れずひっそりと生活している在来種を探し求めていらっしゃる。
アユの生活誌についても、そのような「本物」のアユの生活誌にちょっぴりと興味を持っていてくださっていたら、「萬サ翁の話」?に疑問を投げかけることができ、そして、萬サ翁の話が適切に表現されることになったのでは、と勘ぐっています。
6 東北・日本海側の沖捕り海産放流の問題は?
東北・日本海側の沖取り海産の放流が、学者先生の海産10月11月産卵説の教義の正当化に寄与するだけであれば、それほどの問題はないでしょうが。
狩野川が東北・日本海側の沖取り海産?の放流をしたことにより、増水でも流されない、死滅しない、大鮎に育つ、瀬に着く、ということが判り、今後東北・日本海側の沖取り海産、海産畜養、F1が増えていくかも。
遺伝子上の問題はないとしても、問題が生じなければと思っています。
もし、F1なら遡上アユとの関係はどうなるのか、気になりますが。数が少なければ問題化することはないでしょうが。
相模川は大島に放流されて、尺アユフィーバーを現出した継代人工とは異なる狩野川の尺アユでることは間違いありません。
また、東北・日本海側の沖取り海産が、房総半島以西の太平洋側に放流されてどのような問題が生じるのか、気になりますが…。
「偶然」が、非常に大きな貢献をしていると感じています。
もし、今西博士が当初会うことになっていた田代さんと話をされていれば、どうなっていたのか。
萬サ翁は、田代はシロメを知らない、と話されています。
そうすると、今西博士がアマゴ、シラメ、サツキマスの関係について推理されていた事柄が、「確信」に変わるまでにはさらに多くの時間がかかっていたのではないか、と想像しています。
また、素石さんではなく、天野さんが萬サ翁の伝記を書くことになったことも。素石さんは萬サ翁よりも先になくなられていますから。
このように、幸運となる「偶然」もあります。
さらに、湖産の仔稚魚も、交雑種の仔稚魚も、海で生存できなかったことも、非常な幸運であったと思っています。
天野さんや素石さんらのノータリンクラブの人たちが、人工種苗を嫌い、アマゴ釣りをするというよりも、郷愁に浸っているようなところもあるようですが、海でも海産以外の鮎が生存できていたならば、そのような事態になっていたかも。
もっとも、昨今の釣り人は、継代人工であろうが、大きくて、数が釣れさえすればよい、という人が増えているようですが。
釣り雑誌に、四万十川でも尺上、尺アユの大アユが釣れていた、との記事が載っていた。 その「大鮎」の氏素性と狩野川の「大鮎」の氏素性が同じかどうか、わからない。 ただ、釣れていた場所が異なるのでは。狩野川は瀬の芯付近、四万十川は瀬ではないところのよう。 この違いが氏素性に基づくのかも。 こうなると、東北、日本海側のアユを親とする沖捕り海産、あるいはF1、継代人工が房総半島以西の太平洋側の川に大量に放流されるようになるかも。 それがいかなる影響をもたらすのか、「学者先生」には考えることあたわず、といえるのでは。 |
かわいい、かわいい天野礼子ちゃん
どのようにかわいい?
天野礼子さんは、長良川河口堰建設に反対し、また、川や山を破壊する事業に反対されていたから、おっかないウーマンリブさんと思っていた。
ところが、とっても、とっても、かわいいねえちゃんであることがわかった。
高校のとき、1年下に幼稚園の時に通い夫をしていたかわいい幼な妻が、1年上におっかないウーマンリブの祖型ねえちゃんがいた。
祖型ねえちゃんの恋文の下書きをかすめ取って、校内を走り回ったことも。おっかいないねえちゃんであるのに仲良く遊んでいたのは、天然ぼけというか、とっぽいというか、ぬけたところもあったから。祖型ネエが、医学部に合格した時、健康診断を忘れて大騒ぎをしたように。
祖型ネエも乙女となり、六甲山で逢い引きをしているところを悪ガキどもに見つかったとのこと。そのとき、祖型ネエは、恥ずかしそうに顔を隠していたとのこと。
そんな女っぽい、女らしいところがあると知っていたら、初恋の女メニューに加えていたのに。
恥ずかしい仕草、「女らしい」ことは、男共を関白から下男に貶める高邁な営みに障害である、とおっしゃっていたのになあ。しとやかな、男に従う「嫁」を退治すること、それが正義であり、進歩であるとおっしゃっていたのになあ。
乙女になり、恋をすると、おつむに血や肉は反逆して古からの習性に素直になるのかなあ。ああ、そんなウーマンリブねえちゃんを見たかったなあ。
「あんた、まだ、『女らしい』女を礼讃し、亭主関白が神代の昔からの秩序じゃあ、男女のセックスによる社会的役割分担は神の摂理じゃあ、とわめいているんか。はよ、天国においで、鍛え直したるから。」
天国は、優しい観音様や弁天さんがいらっしゃるから、ウーマンリブのはやる余地はないノンとちゃうの?
「なにい、寝ぼけたことをいうてんねん。男女平等は天国でも大きい課題になってんねん。あ、うっかりしとったは。あんたは天国に来られんことを忘れとったわ。地獄で楽しんで。」
なんで、天国と地獄に棲み分けるんや。それは、男女同権といいながら、亭主関白をほおむりさったウーマンリブの信条に反するやん。二重価値基準でまちがっとうわ。
親鸞さんもいうてるやろう。
善人なお往生をとぐ いわんや悪人おや しかるに世の人いわく。『悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや』
「相も変わらず、屁理屈を言うてるなあ。まあ、こっちへ来たら相手になったるわ。」
はいはい、祖型ネエにも「女っぽい」ところがあるとわかったから、初恋女メニューに加えたげたるわ。ところで、まだ皺は出てないでしょうねえ。
「セクハラまでしてるんか。あんたの性根を入れ替えたるわ。楽しみにしているでえ。」
あ、そうや。2人きりの部室で、物理的空間が10センチになったことがあったやろう。そのとき、お手々を出しとったら、ともちゃんはどんな反応をした?ウーマンリブとしての鉄拳?それとも、戸惑い、恥じらう乙女の反応?
「ジジ−になっても、女心がわかってへんなあ。乙女になるのは、星の王子様にお手々を出されたときや。あんたみたいな、「厚」顔で、図々しいだけの男には鉄拳や。それだけやないでえ。可愛い子猫ちゃんの爪が、あんたの「厚」顔にミミズ腫れの溝を何本も掘ったるわ。かいかあん。はよこっちへおいで。」
爾来、ウーマンリブのねえちゃんには、鳥肌が立ってえ…。
宮地伝三郎他編「山女魚百態」(筑摩書房 1987年・昭和62年発行)に、天野礼子「『男女釣行機会平等法』実施中」が掲載されている。
この題名を見ると、男どもをいたぶり続けるウーマンリブの典型ですが。
天野さんは、坂本竜豚(りゅうとん)という釣号という方のもっている最上川の支流、月布(つきぬの)川の山荘に行かれた。
「この御仁、本名をば坂本光由とおおせられるが、姓は同じでも雲の上の存在であるあの竜馬を尊敬していると聞いた悪友が、影で『オイ、あれが竜馬って顔かよ。ありゃ、どう見たって竜豚だぜ』と、ついつい本音を漏らしたところ、当の本人がいたくお気に召して、自分の釣号に冠したのだそうだ。」
源流狂いの「面々が、次々と紅一点の私の前にやってきては、かわるがわるお酌をして下さる。最初のうちこそ京都の女(オナコ)らしく、『いゃあ、そんなに飲めしまへんワ』などと言っていたが、いつのまにかコップ酒のご返盃。不覚にも、相手が酒処・越後の御仁たちだということをすっかり忘れていた!!
囲炉裏でヤマメを焼き、窓辺にはランプと満天の星……。乙女心に一瞬ロマンチックが忍び寄るが、たちまちプッツン。この洞(注:竜豚さんの別荘には、豚が集まるということで、『豚臥洞(とんがどう:豚が寝るほこら)』)にはなぜかカラオケセットが鎮座して、一晩中蛮声が轟のであった。嗚呼。」
「『お目覚めですか。ゆうべ、僕と釣りに行く約束をしたの、おぼえていますか?』
そういえば、“釣越会渓流讃歌”なんてのを肩くんで歌いながら、誰かとそんな約束をしたっけ……。ならば、ここを引き下がっては女がすたる。外に出て、渓で頭から水をかぶって酔いざめの顔をぬぐった時、やっと気がついた。
『ヤラレタ! ゆうべのアレは、男共の陰謀だったんだ』
こうなると、どうしてもこの川のヤマメを一ぴきあげねばなるまい……。」
礼子ちゃんの月布川の結果の前に、もうひとつ、礼子ちゃんの男共の「陰謀説」を紹介しましょう。
天野礼子「あまご便り」(山と渓谷社 1988年:昭和63年発行)の「こんな男でいてほしい」
天野さんは、男40にして、釣り優先に変身、成長?することを観察されているが、そして、成長?のしるしは、
「たとえ奥方に作ってもらえなくても、そんなことはオクビにも出さず、ローソンのオニギリをおいしそうにたいらげる芸当をお持ちなのもこちらである。」と。
礼子ちゃんの名刺は、「住所と氏名の他に、アマゴが一匹、書いてある。」
それを見た男共の質問は定型化していて、「女」であることの特異性が表現されている。
たとえば、女であることから、釣り入門のきっかけを聞かれるが、
「『そういえば、親父に連れられて、よくあの川へ行ったっけ』
こんな体験があるはずだ。
だから私に、『どうせ男に連れられていったんだろう』とニヤニヤしながら質問なさるが、キッカケなんて何てことない。ようするに男と女の釣りに対する姿勢のちがいは、一方的に男の側の対応に責任がある。
たとえば、人に物を教えるとき、真剣に教えてやる気があれば、基本だけを見せてあとはつき離す。ところが、こと釣りに関して、男は、女に対してこういう態度ではない。
『はい、エサを付けてあげよう』
『魚掛かったの、はずしてあげよう』
『おお、大きい、大きい。えらいな!』
これじゃあ、女が釣りをおもしろいと思うわけがない。
『アマゴ釣りってさ。十回行っても、十回釣れないってこともあるんだぜ。君なんか始めたって、まず三年は坊主だね。』
私の場合は、この言葉に血が昇った。そして初めてのアマゴが釣れたのが二年目。次に手をつけた真珠イカダの上のチヌ釣りは、丸一日トイレのがまん。膀胱炎になること数度。三年間で一匹。
どうもこう思い起こすと私の場合、最初に『釣りってのは、釣れないもんだ』と思い込んだのがよかったらしい(いや、悪かったのか)。
ということは、男共が女のコを養殖ニジマス釣り場へ連れて行くってのは、
『ネッ。釣りってつまんないでしょう。だからね、結婚してボクがひとりで釣りに行くって言っても、うらやましがっちゃ駄目だよ』
なんてことを言うための遠大な作戦だったりして……。浅はかにも私に釣りを教えたボーイフレンドは、実は大変なお人好しで、そのために大物のアマゴ(これ、私のこと)を釣り落としたんではないだろうか。
ひょっとすると男性は、わざと釣りの本当の楽しさを女なんかに教えないのではないだろうか。」
このあと、「亭主関白」の釣り正当化のお話が続きますが省略。
礼子ちゃんがオラと釣りに行っていれば、面倒を見ることはないから、オラに釣りあげられたかも。
「なに、寝ぼけたことをおっしゃってるの?面倒見が悪い、ということだけが、私が釣りあげる選択基準ではないですよ。」
「あまご便り」の著者略歴には、
「一九五三年京都市生まれ、同志社文学部卒業。
通常の女性なら色気づく一九歳の春に、恋した相手はアマゴだった。以来、卒論は『魚拓の美術的意義』。卒業後も就職せず三日とあげずの釣り三昧でアマゴの他、アユ、チヌ、グレなど四季の釣りを修行する。」
と。
ひょっとして、セクハラじゃあ、と非難される文かも。
さて、月布川に戻りましょう。
昨夜、礼子ちゃんはおぼろげであるものの、フライフィッシングをたしなむSさんは礼子ちゃんが一緒に釣りをすると約束したことをハッキリと覚えていて、Sさんと組んで出かける。
釣れず、ミミズを餌に。
「ところが“一ぴき”が釣れたのだ。ギラリ。青緑色の深みで、黒い影がゆっくりと腹を返した。『ミミズよ。ミミズなんだから、ゆっくり合わせなきゃ』。いや、あせったなんてもんじゃない。こちとら、テンカラでは“遅合わせの礼子”なんて異名をとるが、なんてことない、ただ目が悪いだけなのだ。元来の短気に加えて、ヘタクソなもんだから、ミミズのアタリが苦手なのである。
よかった。一ぴきと〇(ゼロ)ひきの間に、こんな苦しみがあるなんて、今まで考えたこともなかった。それにしても、こんなに気負って釣るなんて、やっぱり私にも『男に負けたくない』なんて気持ちがあったのかしらん。『男もすなる釣りを、女もしてみむとするなり』なんて考えは、自分にはないと思っていただけに、意外だった。
S氏は、私が差し出した“尺たらず”を見て、そそくさと竿を仕舞い始めた。
『よかった、よかった』と満面に笑みをたたえ、自分のことのように喜んでいる。
『実は、あなたがこの川のヤマメを釣ってくれたら、記念にもらってもらおうと思っていたんです』
と、私の手のひらにそっと置いてくれた。ピンクのボディに白いハックルをつけたパラシュート・フライだった。『ドライフライの、それも見やすいので、パラシュートしか使わない』と自分がゆうべ言ったことを思い出した。ピンクは私の好きな色だ。
帰ってみると、結局、ヤマメを釣ったのは、私ともう一人。みんなであまり小さな渓におしかけたので不漁だったらしい。
『やっぱり釣るんだ』
『やるじゃない』
『お嬢さんにも一目置くよ』
たった一ぴきのヤマメのおかげで、私はこうしてなんとか面目を施した。」
ノータリンクラブのウデ?心情?
礼子ちゃんに強い影響を与えた素石さんらのノータリンクラブのことも「男女釣行機会平等法」に登場している。
礼子ちゃんは、今西博士が日本狼を求めて歩いた鈴鹿山系で、尺上のアマゴを釣り、今西博士に届けた。今西博士は、10センチくらいの大きさを好んで食べる、小さい魚を再放流するのではなく、産卵に適した魚を再放流する方がよいという考えであることを後に知ることになったが。
「しかし、そのノータリンクラブに至っては、釣れた魚は大小を問わず、それこそウグイからハエに至るまで何でもビクにお入れになる。ある人は、食べ頃のチビアマゴを釣るためにテンカラバリの号数をおとすし、ある時は、逆引きだっておやりになる。
それじゃあ、乱獲じゃないか。いや、いや、御安心召されたい。とにかく、ここだけの話だが、あの人ら、釣りがへたですねん。私のような若輩モンが申すんですから――。
ある時、このクラブの若侍・河原岳童氏に、どうしてノータリンクラブでは釣りが旧態依然としているのか、とたずねてみたことがある。
そうしたら、
『ええねん、礼子ちゃんみたいにぎょうさん釣らんでも。僕ら、川に糸をたれてるだけでええねん。そやから、他のヤツがどんな釣り方でどんな魚をビクに入れてきてもかまへんねん。僕ら、遊びで釣りしてるんやから。楽しかったらそれでええねん。木野さんなんか、ときどきエサ付けんと竿出してることあるんやで 』
と、ヌカしおった。」
釣れなくて当たり前、とは思えど、その情況を「遊び」と楽しむ解脱は永久にできませんなあ。難行苦行に耐えて、なんとか、あゆみちゃんをだっこしたい、との色欲をぎらぎらさせて、あっちこっちとほっつき歩く色欲の塊から解脱するということは不可能です。
「男女釣行機会均等法」を読んで、礼子ちゃんがおっかない、いかついウーマンリブねえちゃんでないことがわかりました。
そして、「山女魚百態」には、揖斐川の徳山村で素石さんらと一緒に写っている写真があります。その写真の礼子ちゃんのかわいいこと、かわいいこと。
色欲の塊のオラはめろめろに。当然、ナンパしたくなるものの、これが大変なよう。
「あまご便り」には、
「こちらは親のスネをかじるという女としての特権を多いに生かし、花嫁修業と称して就職もせず釣り三昧にあけくれた。」
その結果、礼子ちゃんには、
「私には、二〇〇人のボーイフレンドがいる(スゴイ!)。ところが女のコの友達は数人。これは一九の時からはじめた釣りのせいで、ここ十数年間というもの、定職を持たず、三日とあげずに釣りに行っていたからだ。
一緒に行く人たちも男、釣り場で友達になるのも男というと、私はとても幸せな女で、さぞ皆からやさしくされているとお思いだろうが、甘い!! 実際の私は、たいてい最年少であることも手伝って、茶坊主のようにこき使われているのだから……。
そんなボーイフレンドには(ボーイフレンドというには少々薹〈とう〉の立ちすぎた御仁もいらっしゃるが、そこはまぁ)、不思議と四十歳前と四十歳後にハッキリと分けられる特徴がある。」
ということで、おっかないおじさんたちを蹴散らさないと、礼子ちゃんに近づくことさえ、できません。
なお、礼子ちゃんは、「茶坊主のようにこき使われている」と書かれていますが、嘘です。欺瞞です。いや、正確には、上げ膳据え膳の時もある、ということかなあ。
月布川の一夜が明けたとき、
「いまさら、二日酔いだなんていい出せない。おそるおそる起きてみると、若手は昨夜来の酒の勢いを駆り、『夜討ち朝駆け』とばかりに源流へむかったらしい。竜豚氏を始めとする中年残留組は、トン、トン、トンとねぎをきざんだり、火を起こしたり……。」
「あまご便り」の「沈流さんの廃村・八丁」の章には、
「文学・書・山・渓・食。松岡さん(注:沈流さんの姓)の世界は広い。特に“食”は、父上が包丁一本の世界に生きた方だけに、格別に造詣が深い。ところがノータリンクラブと来たら、山本(注:素石さんの姓)さんをはじめとして、どちらかといえば無造作にパクパクと食べるだけの人が多いので、食事の時は全く松岡沈流のひとり舞台となってしまう。皆は、松岡さんのいうことに逆わらず、ただムシャムシャと口を動かしていれば、松岡さんがひとりで作り、そして一つ一つ講釈をつけて食べさせてくれる、というわけだ。」
「釣れない」釣りが当たり前から「釣れる釣り」が当たり前へ、宗旨替え
「あまご便り」の「私はアマゴ」から
「『君、今までにアマゴ、一日に最高何匹釣ったことがある? エッ、四年間で十匹。ほんまかいな。全部でそれだけ? そんなに釣れへんでようアマゴ釣り続けとるなあ。最初のアマゴを釣ったんが二年目やて。そらあかんわ。よし、今日は午前中は竿出さんとうしろから見とって。そのかわり今日一日で十匹釣らしたるから』
十匹とはいかなかったが、この日の午後だけで七匹のアマゴが釣れた。これが二人目の師匠である大西満さんとの最初の釣行だった。
「K君は、アマゴ釣り(いや釣りそのもの)が釣れないものだということを叩き込んでくれた。だから私は釣れなくても退屈しなかっし、いつか釣れてくれるだろうアマゴ様への憧憬をますます深めていった。実際彼は釣っていたのだから、私にしてみれば『やっぱり女には釣れへんのやろか』とあきらめればいいことだった。
ところが大西さんの思想は、釣りは釣れるもんやというところからどうやら発しているらしかった。というのも、この方が次に教えてくださったのが、魚の殺め方と、小さい魚を逃がすこと。魚釣りは遊びだが殺生なのだから、自分が食べられるだけの魚をいただいて、それはすぐに殺める。おいしく食べてあげることで成仏してもらうのだから無駄な殺生はせず、おチビちゃんは帰してやりなさいということだった。」
そのうち、
「『礼子ちゃんは女くささがないから』その後、うるさ方揃いの山本素石さんのグループに入れてもらえたのも、素石さんのこの一言だった。
渓流釣りが、体験したいろいろの釣りの中で一番好きだと感じ始めたのもこの頃からで、特に岐阜県・揖斐川の最上流、徳山村へのたび重なる釣行の中で、自分の好みが山里の、水が掬って飲めるくらいきれいな水域でのアマゴ釣りだとはっきりした。それがイワナでなくアマゴなのは、関西ではイワナのいる領域がせまく、まるで隠れ棲むように生きながらえてきたこの魚との勝負をさけたかったことと、実は釣りがへたなので、四.五メートルの竿が縦横無尽に振りまわせる所でしか心楽しく釣りができないというなさけない理由からだ。」
「アマゴ釣りは釣れない釣りと聞かされて入門し、私は渓を見る楽しみを知った。次にはアマゴ釣りは釣れる釣りと知らされて、乱獲の是非を教えられた。いくらかは腕が上がりつつある時だったから、それは貴重なる教授だったのだと今ではわかる。
どうやらアマゴのイクラを使った釣りが、私の性に一番あっているようだ。大西さんに徹底的にしごかれたこの釣りなら多少自信があることの他に、それが効く釣り場、そして季節が私の一等好きなアマゴ釣りなのだ。まだ冬眠から醒めないアマゴを谷の底からひきずりだしたり、渓流魚の最後の逃げ場である谷の奥へ竿を入れることは好まない。
私のよく行く釣り場は四.五メートルか五.四メートルのエサ竿、あるいは三.三メートルのテンカラ竿で十分間に合うので、フライやルアーを必要と思わない(しかし、海外へ出かけると不自由して、『ああやっぱりフライキャスティングを根性入れてやっといたらよかったなあ』なんて反省するが、それもその時だけ。ようするにズボラなのだ)。
気の合った仲間と、自分の好きな釣りだけをして……。休日はやはりそう過ごしたい。釣れても釣れなくてもいい(いや、やはり釣れるに超したことはないデス)。たまには竿を出さずに寝ててもいい(昨今の私は、車中でも河原でもしょっちゅう寝ているので有名。しかし釣れているときは寝ない。寝ているときは釣れない時だ。川で私が寝ているのを見かけたら、『釣れますか』と尋ねて起こさないでネ)。これが私の好きなアマゴ釣りだ。
ところで、私のあだ名は“アマゴ”である。これは開高健さんに指摘されて初めて気がついたのだが、私の名前は天野礼子。上と下をくっつけると“アマゴ”となるというわけ。私は生まれながらにして、アマゴ釣りが好きになる運命だったのかも知れない。せっかくこんな素敵な名前を持っているのだから、もっと釣りがうまくても良さそうなものだが。
『本当はうまいんだけど、アマゴの味方だからわざと釣らないのよ』
こんなふうにしておきますか。」
なお、大西さんは、礼子ちゃんへの教訓を忘れて、礼子ちゃんの川のアマゴを40匹も、何度も釣っていらっしゃったことがあったようです。
ということで、「放流もの」ではないアマゴがいる渓を探し、潰されては嘆き悲しみ、世の男共に釣られることもなく?、あっちこっちとほっついている礼子ちゃんの姿をちょっぴりだけ紹介します。
「アマゴの聖地」から
「釣り好きの関西のお膝元であるにもかかわらず、この半島に棲む“渓の妖精”が守られた理由は、たった一本海岸沿いに線路が走っているだけの紀伊半島の地図を見れば容易に察しがつく。
台高(たいこう)、大峰(おおみね)、果無(はてなし)。半島を縦横無尽に走るこの三大山脈が、人間の叡智を受けつけなかったからだ。この広大な山地を縦断する交通路はわずか三本。それも近年ようやく整備され、自動車の通る道となったのである。」
「その昔、十津川アマゴは、“関西一”と謳われた関西一は、とりもなおさず日本一。今のように、川に人工のアマゴやヤマメが脈略もなく放流される、そんな時代の二昔前の話。十津川には、まだダムのなかった頃のことである。」
「本流にダムができて仮死の川となってしまったとき、この川のアメノウオを“関西一”と賞賛した釣師達は、流れのあまりの変貌ぶりに落胆し、ここを訪うことをやめた。そして、アマゴ釣りもその間にずいぶん変わった。進化したとは言わない。むしろ私には堕落したと思える。ヤマメの生活圏に平気でアマゴを放流したり、箇型飼料を与えてプールで大きくした成魚放流をしたり……。漁協が悪いのではない。そういう要求(ニーズ)をする『釣らんかな』の人々が存在するのだ。これが現実。
だが、一方では少し意外ながら、喜ばしい事実もある。渓流釣師に一度は忘れ去られた十津川。その支流の懐深く、純粋で無垢なアメノウオ達が、緑の宝石箱の中でひっそりとその純潔を守っていたことだ。これは開発という名の怪物が、十津川にもたらした唯一の利点だったかも知れない。なにしろ渓奥へ入る林道は、ガードレールもない未舗装のジャリ道。車が車輪を一つふみはずせば奈落の底という、嶮しく、そして水(ながれ)までの距離の遠い、おそろしい道なのだ。人工のアマゴなど、わざわざ持って降りようなどという物好きもいない。」
「いつまでも、そっと残してあげたい渓。
そして、アメノウオ達。」
と、いうことで、礼子ちゃんがアマゴちゃんをあきらめているのではない。
「地図から消えた渓」から
T川は、上流に廃村がある。五年前に初めて訪れた当時は、古い林道の踏み跡に草がおい茂り、かつて渓を渡るために掛けられていたいくつかの道がすべて朽ち果て、釣り人からも忘れられている、そんな川だった。
関西では珍しきイワナのみの渓へ、地元の養殖業者が自らの釣りの楽しみのために、秘かにアマゴを放流したという。これは、二昔も前のことだそうだ。アマゴが渓に定着し一時はイワナを駆逐したが、その養殖の“オッチャン”が数年くり返した放流を止めたとたんに、またイワナが勢力を盛り返したらしい。
『おう、もう十年以上行ってへんで。あの川はな、フッフッフッ、アマゴも釣れるんや。そやけど、なんであんな川に目ぇつけたんや。女のくせに、鼻が効くなぁ―』
こう言って、“アマゴのオッチャン”のことを教えてくれたのは、“ノータリンクラブ” の松岡沈流さんであった。
予想に反して、いや予想以上に“いい渓”だった。落差があまりなく、水流が適当に蛇行していて、落ち込みや淵、小さな瀬が散りばめられている。それに対岸の山に手があまり入っておらず、照葉樹の多いことも気にいった。
虫が多く、エサが十分にあるからだろう、イワナもアマゴも体長に対しては体高があり、朱点も鮮やかだった。初回の獲物は魚籠に入りきらないほどの魚の他に、モミジガサ、野生のワサビ。
純粋の天然イワナやアマゴがもう少なくなった時代に釣りを始めた私には、自分が目を付けた渓がこんな“桃源郷” であったことが、何よりうれしかった。」
「沈流さんの話では、養殖場のオッチャンが入れなくなってからアマゴの勢力が落ちたのではということだったが、アマゴとイワナは、廃村までの明るく開けた渓と、廃村より上流の壺が連続する暗い渓をうまく棲み分けているようだった。」
新聞に廃村のことが書かれてから、釣り人が増えた。
「見かける釣師の数が増えるにつれ、確実に魚体は小さくなっていったが、それでも私は、訪なうことをやめなかった。このT川が好きだし、魚は釣れても釣れなくてもどうでもよくなっていた。(いや、正直に言うと、それでも私があきない程度には釣れていた)。
春にはコゴミ、タラの芽、モミジガサ、ウド、ワサビ。十月になると竿を置いて、山グリ、サルナシ、マタタビなどを拾い歩いた。『釣師山を見ず』とはよく言ったもので、それらの山の幸は、ほとんど手が着かずで私を迎えてくれた。」
「二年前、このT川で、新しい林道工事が始まった。同じ頃、Kさんが今度は渓流釣りのエッセイを出版し、それにはやはりT川のことが書かれていた。私は、この渓を自分の地図から消した。
T川が少々『ヤバイ』と感じ始めた頃から、私は次なる“桃源郷”を探し始めた。まず、人々から忘れ去られた渓であること。林道から川面までが遠いこと。できればアマゴが人工的に入れられていないこと。渓流釣りを始めた十五年も前に、先輩方が『昔はよかった』と話していた川を思い出し、地図をくった。」
「あまご便り」には、日本列島の中央構造線に沿って、イワナが北だけでなく、南でも棲息している、と。
大分県の大野川源流・メンノツラ谷のイワメ・紋様のないエノハ、四国の面河渓(おもごけい)のイワナ、紀伊半島のイワナ、江の川のゴギについて書かれているが、省略。
礼子ちゃんのテンカラ釣りも、他の人のアマゴ釣りの場面までお預け。
理由は、礼子ちゃんにどっぷり浸かりたいのは、「萬サと長良川」、そのうちでも、萬サと今西博士の出会いと今西博士がアマゴ、カワマス、シロメ(シラメ)の関係を考えるとき、学者先生とは全く異なる姿勢をされているから、ということです。
アマゴ、シロメ(シラメ)、カワマスの関係は?
萬サ翁と今西博士の出会いまで:序章
天野礼子「萬サと長良川」(ちくま文庫:1990年・平成2年に筑摩書房より刊行された「萬サと長良川」を、1994年・平成6年に文庫本で出版される。そのため、礼子ちゃんの「文庫版のためのあとがき」、近藤正臣「解説 なっとく出来ない!」が追加されている。
素石さんとの出会いの偶然と、萬サ翁の生い立ち
昭和40年、1965年、釣れないため早く上がった素石さんらは、田代さんを訪ねるが、留守。暇つぶしに入った釣具屋さんで、萬サを知らないのか、と怒られて、萬サ翁を訪ねる。
「『お疲れのところ、大勢で上がり込んで、すみません。ところで古田さん、今日釣られたアマゴについてお伺いしたいのですが、そのアマゴはまだお宅にあるのですか?』
『いや、もうないよ。釣りの帰りに『杉錠』へ持っていってしまった。杉錠かい、杉錠は川魚の問屋や。なに、すぐそこや。じゃが、魚はもうないやろう。一匹や二匹は残っとうか知れんがな。とにかくアマゴは、いくら獲っても売れるのよ。ありゃあ、うまい魚やもんでね。それと五月になるとマスが釣れる。これは身が赤いんや。知ってなさるかい。アマゴと似とるが、身の色はちがうし、顔もちいとちがう。アマゴにあるシマもないで、海からくるマスやな』
『実は、その川マスのことでくわしくおうかがいしたいのですが、私共、古田さんのことはちっとも存知ないで失礼なことなのですが、古田さんは、この八幡町の方ですか?』
『いんや、このシモの美並村の出身や。昔は蒿田村(注:たけだむら)というとった。昭和二九年に下川村と蒿田村が合併して、三並になったんや。わしは戦前は、そこにおったんや。子どもの頃から川が好きでね。アマゴをやるようになったんは戦後やね。この八幡に家を構えてからやから、おおよそ二十年になるかね。ほう、もう二十年になるんやな。かあちゃん早いもんやな』
ここで、「萬サと長良川」記述されていることから、萬サ翁の年譜を拾い出します。
生まれた年 明治四十一年 今西博士は明治三十五年
初めて鮎を売ったのは大正七年、小学三年生、十歳の時。
養子となって、吉田川沿いの奥明方村に住むが、昭和九年、二十六歳の時に、妻と子どもを連れて、養家を飛び出し、八幡町に住む。大多サ達と馬瀬川・大原に出稼ぎもいく。その頃、奥さんが出産後なくなられた。
蒿田村では、引き抜きで鮎を取りこむ人はいたが、八幡では初めての引き抜きの人であった。
昭和十六年、ミンダナオ島に出征。釣り具を形見分けし、2人目の奥さんに離縁状を預ける
さて、萬サ翁がアマゴを商売のメニューに加えたのはいつか。
戦後であろうか。赤紙が来たとき、萬サ翁は、雨が降る中、白鳥の手前、大島でアマゴをビクいっぱいに釣っていた。
ということで、昭和十年にアマゴ釣りの弟子入りをしたのではないかなあ。
「戦後」というのは、「20年」というのは、萬サ翁が全滅したと言われていたミンアダナオから引き揚げてきて、くにえさんと結婚したときからの年数ではないかなあ。
萬吉少年は?
素石さんは、
「そうですか、美並村の御出身ですか。あのあたりは、長良川の一番ええところですね。私はね、中流域のしっかりした川が好きなんです。常々、中流域を見ればその川がわかると思っているもんですから。美並村あたりの、大淵が連続するあの風景、瀬も力強いし、よろしいいなぁ。いや、中流域のええ川は、本当に立派な川ですよ。長良川は私の好きな川の代表ですな。」
「『萬サ、今日はなにする? “御猟場(ごりょうば)”へ行ってみんか。おら、きんの夕方川見とったが、魚がいっぱい跳ねとった。このあいだうちの雨で、アユがもう半滝淵(はんたきぶち)を上ったんやないか。そうや、太郎のおじうに聞いてみまいか』
太郎のおじうとは、萬吉達が遊ぶ大きな淵にある渡船場の“舟超し人”と呼ばれていた舟の番人で、川幅の広い長良川には、近代になって橋が架けられるまで、そのような渡船場が十ヶ所近くあった。下川村母野(ははの)の向う岸と、木尾(こんの)あるいは半野(はんの)とも呼ばれるこちらの岸の間に太いワイヤーがいっぱいに張ってあり、太郎という老人が専門に雇われて、船をそのワイヤーで手繰りながら艪を漕いで渡してくれた。耳が遠いので大声で話すのには閉口したが、魚や釣りのことを教えてくれたり、客のいないときにはタダで乗せてくれるので『太郎のおじう』と呼ばれ、あたりの子供達から慕われていた。萬吉は五歳で祖父を失くしていたので、自分のおじいさんはこんな人ではなかったかと時々想うのだった。老人も釣りの上手い萬吉は、特に可愛がった。
『おじう、アユが来とるやろ』
『ああ、来とる、来とるでぇ。雨でまた上がったんや。半滝は、ちいとなことでは上がれんで、アユも雨を待っとったんや。今度の一群はどえれえ大きいもんも交じっとるぞ』
『よし、一男君、見とって。おら、偵察』
言うなり、萬吉は着物を脱ぎ捨て、黒もっこと称されるふんどし一つになって、水辺へ走った。
『萬、巡査に見つからんようにな!』
『平気、平気、先にシモへ行っとって』
渡し場のシモは、天皇の御猟場で、夏には毎年三回、献上鵜飼いが催された。」
野田さんが、カヌー下りをしているとき、御猟場に潜り、タクシーの中にシャネル五番の香りをぷんぷん漂わせたが、その御猟場は、美濃付近よりも下流ではと思っていた。三並の御猟場に潜ったのかなあ。
「その後、明治二十三年に、流域の古津、立花、木尾が皇室の御猟場と指定されている。
萬吉達の遊び場の中に、一千六百二十八間もある御猟場の一つが含まれており、サーベルを下げカイザー髭を蓄えた巡査が、八幡から自転車で時々見回りに来ていた。
御猟場を泳ぎ下りながら、萬吉は時々水中へ潜った。予想どおり、第二陣のアユがシモの半滝淵から上がっており、川中の石はアユが垢(あか)を食(は)んだ跡でピカピカになっていた。」
このあとの二月くらいから遡上を始める記述は信頼性に欠けるため、省略。天竜川の二月の遡上アユ調査でも採捕されていないように、川の水温が一番低下している二月に、遡上を開始しているとは考えにくい。また、昆虫食の記述、個体数が少ないから大鮎になるとの記述も同じ。
ただ、長良川は、汽水域の流程が長かったため、2月に観察されていた現象が、汽水域における鮎の生活誌であれば、適切かも、とは思っているが。
「半滝の瀬では今年ももう五月十日の解禁以来数日たくさんの人が竿を出しているのを見かけたが、その上流のこの御猟場は禁漁になっているので、アユも思う存分垢を食むことが出来る。天敵は、上空から狙っているトンビと、そして今泳いでいる萬吉。大人がこんなところで泳いでいるとアユを獲っているにちがいないと思われるが、萬吉のようにすばしこい子供は、巡査の姿が見えたら、少しシモまで泳ぎ切り、そしらぬ顔をしてシモの瀬肩へ上がるという芸当をする。萬吉は今年の春、三つ年上の佐藤甚七と一緒に、三重の方から水中眼鏡を取り寄せてもらった。牛皮の縁にガラスをはめ込んだ上等で四十銭もしたものだが、去年自分がアユで稼いだ金を母に貯めてもらっていた分で買ってもらえた。それが自慢でいつも着物の懐に入れていて、それが早く使いたいこともあって、今年は遅れたアユが特に気に懸かっていたのだった。
メガネをかけてじっと見ていると、アユが石裏の流れの緩いところで休憩しているときの顔の表情がよくわかるようになった。そこで、手をそっと差し出してみると、アユはじっとしている。この御猟場では釣師がいないので、どうやらアユも安心しているのだろう。だから萬吉は、ここではヒッカケを使わずアユを獲ることができるのではないかと、今、思いついた。」
「『一男君、ほら』
『わ、お前手づかみで?』
『まんだあるで』
萬吉は腰につけているもっこの中から、左手にもアユを掴んで差し出した。それでも、萬吉のもっこの中には、まだ数匹のアユが入っているようだ。一男はあわてて川柳の枝の下に隠してあった玉網を取り、萬吉のアユを引き受けた。その岸辺には、萬吉専用のいかし籠がしつらえてあった。それは、母から譲り受けた“芋振り籠”で、芋を川で洗うための竹で編んだ大振りの籠の中に石を沈め、周りも石で囲って、厚めの板を蓋にして、上には安定のよい大石を乗せてある。ここに獲ったアユを生かしておいて、仲買人が川へやって来る時間に待っていて、買ってもらう仕組みになっていた。萬吉がいかし籠を考えたのは、去年の夏のことであった。」
鍛冶屋の萬吉の父は、去年の夏、不機嫌であった。
「アユ釣りに夢中になった萬吉が釣ってくる魚が一匹二十銭で売れ、学校がひけて四時間くらいの釣りで、毎日米一俵分くらいの稼ぎをはじき出していたからだ。」
「しかし、そうはいっても子だくさんの古田家では、萬吉のアユが稼いだ現金の威力は大したもので、今年の正月は初めて九人の子供たちにひと揃え晴着を買ってやることができたのだ。」
萬吉君の失恋
近所のはるちゃんが、北海道の「かいたく」に行くと、岩男君が。
「萬吉は目をつぶって、いつも見る夢を頭に描いた。それは夏の日光がキラキラ反射する半滝の瀬で、青年になった自分が段巻の立派な竹竿を持って友釣りをしている図である。そして川岸には、娘になったはるが立っているのだった。
家へもどったものの萬吉は、はるのことをどうしていいのかわからなかった。隣の席のはるを時々いじめるのは、きらいだからなのではない。それは萬吉もわかっている。しかしはるの一家が北海道へ行くのはどうやらもう決まったことのようである。萬吉の家と同じように子だくさんのはるの一家の生活が苦しいのは、萬吉達子供の間でも、周知のことであった。萬吉は他の男の子がはるをいじめるのがゆるせないので、自分がはるをいじめるふりをしていたのだ。そうすると不思議に皆んなは、はるをかばうようになった。
萬吉は、はるに“本当のこと”を話したかった。萬吉は四年生である。もう大人のことはだいたいわかる。はるの一家が北海道へ行くのは、どうやら貧しさが原因だろう。しかし、三年生のはるには、萬吉のいじわるが本気でないことがわかっているだろうか。
萬吉は、先ほど川から持って帰ってきた自慢のアユを、もう一度肩に掛けた。またあの夢を思い出しながら、はるの家へむかって歩いた。はるの家からは、煙が上っていた。はるも妹をおぶって、台所を手伝っているにちがいない。どうして餌飼(注:一〇月頃から、鵜に餌を与えるため、下流から上流へと、鵜匠が船に乗って鵜と共にやって来る行事)に誘ってやらなかったのか、萬吉は、自分に腹を立てていた。はるにとっては、あの餌飼が最後の長良川の思い出となっただろうに……。はるの家の台所の上り框(かまち)に、しばらく迷ったが、はるには何もいえない気がした。
母に言われてかまどの番をしていたはるは、裏でコトッと音がしたような気がして、明かり取りの窓から外を見た。萬吉の後ろ姿だった。
『萬君……』はるは、あわてて外へ出ようとして、そこにあったものにつまずきかけた。萬吉のアユだった。はるはそこに立ちつくしたまま、萬吉の後ろ姿が家へ入ってゆくのを見ていた。はるの胸の中にも、北海道のことがあった。」
小学生の三年生からあゆみちゃんで稼いでいたが、吉田川沿いの奥明方(おくみょうがた)村に養子に行った。ここで同じ集落の人と結婚するが、妻子を連れて飛び出し、八幡町へ。昭和九年、萬吉二六歳の夏。
「岡崎政五郎にアマゴ入門」
昭和9年、妻と赤ん坊を連れて、八幡に出てきた萬サ翁は、アユだけでは食べていけないから、多分、昭和10年の春頃であろう。岡崎政五郎に入門を頼みにいった。
「『おまんたが萬サてかい。さあアマゴ釣りは、アユのようにはいかんでな。アユのようなもんは目ぇつぶとっても掛かりよるが、アマゴはむつかしいで。習うてかい。教えることなどありゃあせん。わしは、人に教えるほど暇やないで。いかん、いかん。何べんきても同じじゃ。とにかく、教える気なぞないんだで』
政五郎はしつこく頼む萬吉に取り付く島もない返事をくりかえしたが、萬吉も負けていなかった。萬吉の持参する高価な“カステエラ”の箱が岡崎家の仏壇に十箱並んだ夜、とうとう根負けした政五郎がつぶやいた。
『萬吉さんよ。萬サと呼んでええかな。明日行くで。三時に来とくれ』
政五郎とは、三日間一緒に歩いた。午前中は師匠の釣りを見学し、午後は二手に分かれて吉田川を釣り歩いた。午後からの釣果は萬吉が師匠の半分くらいだったが、師匠が萬吉に指示する釣り場は、本人が前日に釣ったところだった。政五郎は萬吉の腕を試したのだ。
『ええじゃろう。明日からは一人で行くんやな。教えることはもう、ない。あんたはアマゴを立派にやれるじゃろう。いっぺん、亀尾島へ行ってみいよ』
四日目に、萬吉は一人で亀尾島川へ入った。亀尾島川は、八幡町のシモで西から流入してくる支流で、長良川の支流の中でも一番の名渓である。昔から、アマゴの魚影が濃いことで知られていた。
たった三日で免許皆伝を言い渡された萬吉は、雑貨屋をしていた師匠の家へ、昨晩遊びにきていた先輩達から聞いた“黒ドンボ”という淵へ行ってみることにした。『あの淵はここんとこ釣れよらんな』というのが、その先輩達の話だったのだが……。
『ほう。ええアマゴじゃ。型揃いやな。何匹ある。六十七匹? 朝から今まででこれだけ釣ったてかな? ほりゃあ、ええ腕しとるぞ。しかし、こりゃ、ええアマゴじゃが、亀尾島やろ。わしぁ魚の顔を見りゃぁわかるで。悪いが、亀尾島のアマゴは渓アマゴやで、本流よりちいと安い。百目六十五銭やが、ええかな。本流は七十銭や。これからも釣ってきとくれ。うちじゃあ、アマゴはいくらあっても売れるで。ああ、そうや。わしが錠太郎や。もう息子が取り仕っとるで、息子にいうとてくれてもええぞ』
師匠に連れられて出入りを始めた栄町の“杉錠(すぎじょう)”という屋号の川魚問屋へ持って行くと、その日の稼ぎは十三円になった。これが、萬吉のアマゴ釣りとアユのプロとしての第一歩であった。これ以来、萬吉はこの“杉錠”以外へ卸さない。」
ということで、萬サ翁がアマゴ釣りを始められたのは、戦後ではなく、戦前のことである。
そして、萬サ翁が「友」としてつきあいをする「与三マ(よさま)」と、戦後復員してからつきあいが始まる杉錠の息子というか、孫もこのアマゴの商売が機縁となっている。
それにしても、渓アマゴと本流アマゴの違いは色で見分けるようであるが、すごい目利きとしかいいようがないなあ。
馬瀬川上流への出稼ぎ
与三マと、その養父と、萬サと、大多サの四人で、馬瀬川に出稼ぎに行くこととなった。
「『飛騨の大原(おつぱら)へひと月程アマゴ釣りに入るが、行くかな。清水の大多(だいた)サが知っとう宿があるで、大多サと、わしとおまんら二人や。どうや。魚は毎日八幡から取いにこやすんやぞ』」
「大原へ行くには、吉田川を自転車で明山(あけやま)という集落まで遡り、国田酒屋で酒を仕入れ、自転車を預けて、徒歩で坂本峠を越える。この道は古くから飛騨の匠達が大和朝廷へむかうのに利用され、“郡上街道”と呼ばれている。峠ひとつ越えるだけで水系が変わり、大原を流れる渓流は、長良川より一本西、木曽川の支流・飛騨川の、そのまた支流の馬瀬川の上流部となる。」
「…急峻な木曽川の上流であるこの大原のような山また山の奥地では、川魚を獲って商売にするようなことがない。他に釣師がいないのだから、郡上の川漁師が毎日釣っても、魚はまだいくらでも釣れた。
“大多サ”こと清水駒次郎は、以前から知り合いの農家の離れを時々借り、萬吉達の先輩の川漁師を連れてはこの大原をアマゴの穴場として釣ってきた。
『ええかな。ここの支払いは、一日七十銭。夜は預けた米を炊いておかずも作ってくれるが、朝は自分らで米を炊いて、おつ(ゆ)とつけもんで食う。ここの川を八つに切って、四人で一日交替で釣る。昼の十二時には、必ずここに集合じゃ。八幡から大坪定蔵がとりにくるで、あれに手間賃を二円五十銭やってやらにゃぁいかん。ほいで、アマゴの売れた金は目方で分けるが、あれの手間賃も釣った魚の目方に応じて分けて払う。ワシが“通帳(かよい)”を付けておくで、祭りに八幡へ帰る前に精算する。それでええかな。それから酒を飲むモンはひとりで飲んでまってくれ。皆で飲むと飲みすぎるで、金がたまらん。何しとうことやわからんようになるからな。』
釣りからもどると昼飯を摂り、少し昼寝をしてから川へ行き、エサの川虫採りをする。これをやっておけばあとは夕食まで、将棋を指したり囲碁を打って遊んでいられた。夕食の後は、囲炉裏端で明日の作戦会議をしながらハリを研ぐというのが日課で、それをやっているうちに眠くなり、誰からともなく布団へ入った。
未明から出かけて約五時間の釣りで、少なくとも五百目から一貫目は誰もが平均して釣ってきた。大漁の日は二貫目以上釣ることもあった。このアマゴは百目六十銭の計算だったので、運び人の日当を払い、宿賃を払っても十分割に合う。運び人の定蔵が別に八幡の衆から注文をとってくることもあったし、八幡へ出すには小さすぎるアマゴは、宿のおかみが買い上げてくれた。これらの副収入でだいたい宿の払いがことたり、大多サが通帳につけている分け前は、そっくり八幡で待つ家族へ持って帰ることができた。
運び人は、コザと呼ぶ竹製の背負い籠を背に、徒歩でやってくる。ここへ、木箱にアマゴの腹を下にして縦に詰めたものを重ねる。ほぼ四貫目以上のアマゴを背負う飛脚である。四人はそれぞれ卸し先が違ったので、魚は別々の箱に入れた。この時、萬吉だけは一匹一匹のアマゴのぬめりを手拭いでていねいに拭き、エラブタから出る水をしぼって入れた。これは杉錠のじいさまから教えられた方法で、こうしておくとアマゴがドブドブにならず釣れたときのままで変色しないのだ。」
馬瀬川でのアマゴ釣りは、運び人がいることで成り立つことがわかった。
大多サらは、宮川の蟹寺付近まで出稼ぎに行っていたが、また、「山下」は、垢石翁と同じ巣の内付近でも釣っていたが、どのようにしてアユを運搬したのかなあ。汽車を利用するとすれば、高山線が部分開通していた頃には富山に送ることになるが、海の魚が豊富な富山で、アユの販売価格が高いとはいえないような気がするが。
それとも、大多サが宮川に出稼ぎに行っていたのは、高山線が開通して、高山方面に運べるようになってからかなあ。
「この“大原通い”は、毎年春の彼岸から八幡の春祭りまでの約ひと月余り、数年間続いたが、大原で彼らの大漁の噂が次第に広まるようになり、地元の寺の住職が発起人となって、郡上のモンには釣らすな、泊めるなとなった。そこで、後には日帰りで行くようになる。」
川マス釣りと投網と
川マスの遡上時期と味と逃走手段
「五月になると、この亀尾島川へ“川マス”がやってきた。“川マス”は、五月頃に海から溯ってきて、亀尾島川や吉田川といった水温の低い支流へ入り、夏を越す。秋になると産卵し死んでしまうのだといわれてたが、昔から正体がよくわからない魚ということになっていた。このマスは一尺から二尺近いのまでいて、身はサケのような色をしている。マグロよりもおいしいので、アユの初期の頃、まだアユに脂が乗っていない時分には、重さにするとこの川マスの方が高く売れた。
アマゴもこの時期には一年中で一番脂が乗っており、『五月アマゴにアユかなわぬ』といわれるのだが、それよりもうまい貴重品としてこの川マスがあり、それは一般の市場へは出ず、特殊な料亭などで高級魚としてとりあつかわれる。初物のご祝儀相場で一尾三〇〇〇円の値がつくこともあった。」
与三マと亀尾島川へ行った。年代は不明。与三マは、亀尾島川下流育ち。
「『萬サ、マスは掛かると三尺くらい跳ぶなあ。おれはあれがにがてや。おもしれえが、バラすと腹が立つんや。子供ん時から、あいつにはよういかれてしまっとるで、よけい腹が立つんやな。それにおれは竿が短いやろ。竿が長いと、あいつの引きにも堪えれるんやが……。しかし、テンカラに出るのはおもしれぇでぇ。水面に浮いとるやつの目の前に毛バリを落としても、パカッとくわえよる。それを見んのはほんまにおもしれえ。見える魚は釣れんといわれとるが、マスはちがうな。』
『鉤(はり)に掛かると跳びよるんわな、鉤を外そうとしとるんやで。二,三回は跳ぶで。ほいからな、ぐるぐるっと、顔に糸を巻きだすんや。糸を口んとこで巻いて、ほいでひっぱるんや。ほやで、巻かせんようにするんが上げるコツやな。それはな、マスの顔をこっちにむかしてしまうんや。むこうむいとうとこをひっぱると切れてしまうでな。そいでな、上流へ走られるのはええが、下流へ走られたら難儀やぞ。ついて下れんからな』」
亀尾島川のマスは?勝負の結果は?
キツネに騙されるかも、マムシを踏むかも、と心配をしながらも釣り場に着いた。
「そのカミの滝のところでまず試してみることにした。萬吉は右岸、与三五郎は左岸から、水に入らず、岸から滝の下の溜まりへ竿を出した。どんな時でも、萬吉はまずグロと呼ばれる手前の小さな黒い小石郡から竿を入れる。これがしろうとの釣師とちがうところで、しろうとがまず竿を入れる一番よいポイントから釣ると、後が続かないからだ。萬吉の小さな目印はオシドリの雄の羽の下の和毛(にこげ)で、二つ付いている。与三五郎は、これを三つ付けていた。目が悪いからだ。
一般に川マス釣りは、アマゴ釣りよりも難しい。アマゴでもそうだが、大物になるほど神経質で、エサを食ってもさっと持って走るということがない。少しずつつついてみて、安心と思い定めたときにやっと飲み込む。そのため、大物ほど最初のアタリは小さく、微妙である。魚の食いを見て釣人が合わせることをアタリを取るというのだが、魚にしてみると、食っていいのかどうかアタリを取っているということだろう。川マスはアマゴより目印に出るアタリがなお小さい。したがって合わせも難しいのだ。萬吉は、相手が手ごわい魚ほど釣る意欲が湧いてくる。だから五月になるとそわそわして、川マスが気になるのだ。
萬吉の手元に、小さな魚信が伝わってきた。どうやら川マスがつついているらしい。やはり想像通り、こいつが来ているのだ。この魚と対峙(たいじ)するときには、強い合わせをしてはいけなかった。あくまでもむこうの気配をうかがいながらことを進める。萬吉はいつも、アユに関しては『ありゃ、目えつぶっとっても釣れる』と言い、アマゴに関しては『だまかいて釣る』といっているが、この川マスだけは自分と対等なところへ置いておいていた。自分が相手をうかがっている時、相手も自分をうかがっているのだと思うのである。それにはこんなわけがあった。」
そのわけとは、少年萬吉が5月に半滝の瀬で見た滝を遡上しょうとしていた鮎が消えた「逢魔が刻(おうまがどき)」に、2尺近い魚が次々飛び出してくる。鮎を補食しているとのこと。また、夏潜ると、縄張り鮎を追っかけ回す川マスを見ていた。少年萬吉は、川で一番強い川マスとの勝負を決心していた。
「『でけえぞ』萬吉は胸の内でつぶやいた。小さな魚信のあと竿先をいきなり水中へ持っていったそいつは、しばらく水中で頭を左右に振っていたようだが、次にはぴくりともしなくなった。岩影で息をひそめているにちがいない。こんな時はこちらがあわててはだめだ。萬吉はこの魚が走り出した場合の足場を目で確認した。その時目の端に、与三五郎の竿が曲がっているのが見えた。竿の曲がり具合では、やはり川マスのようだ。
川マスは、掛けても三分の一捕れればいい方だといわれている。それはこの魚の引きに見合う強さの糸を仕掛けに使ったのでは全くエサを食わないからで、アマゴ釣りに使うような細仕掛けで勝負しなければならなかったからだ。誰かが三尺近いのを掛けて走られて切られた話、夜網の絹網にこの魚が大量に入り、網を破られた話などいくらでもある。そして、個体数があまり多くないこととそう釣れないことが、ますますこの魚の神秘性を高めることになっていた。萬吉にとってもこのマスは、手ごわい相手であった。
岩の下でもう一度グイと強く頭を振ったが、糸が切れないことがどうやら気に入らなかったらしい。そいつはいきなり滝の落ち口へむかって走ったかと思うと、白く泡立つ落ち込みの中から水面を割って飛び上がった。しぶきが飛び散り、銀白色の魚体が空中で二,三回身振いすると、もっと細かな水滴があたり一面に散らばった。そして落ちたときには、水面が先ほどよりももっと大きな衝撃によって割られ、幾重もの波紋が残った。
『ばれたか?』
『いんや、まだついとる。そっちは?』
『マスやった、ちいせいがな』
萬吉の魚は、空中で頭を振って鉤をはずすのに失敗した。あれだけのことをやった後だ。今は休んで息を整えようとしているにちがいない。そう、萬吉は読んだ。今度は自分がやる番だ。右腕を上げ、寄せにかかった。魚の体重が乗った竿が弓なりになる。そして次の瞬間、急に竿が軽くなった。魚が、萬吉の足元へむかって走ったのだ。手前の流れに乗って、そいつはシモへ走り出した。萬吉は竿を立てたまま岸辺伝いについて走った。先ほど目で確かめておいた足場をついて下れば、そのシモの弛(たる)みで捕れるはずだ。
魚は、瀬の強い流れを利用して素早く流れ落ち、糸を切って逃げようとしたのだが、萬吉にはその手は通じなかった。彼は魚が流れを下るよりも速く岸辺を走ることによって、魚と自分を繋いでいる仕掛けに少しの変化も与えなかった。シモの弛みで、そいつは止まった。この弛みには、この魚が逃げ込める大きな岩が水中にないのを、萬吉は知っていた。長良川の渓のことなら、どこの淵にどんな石が沈んでいるかまで萬吉の頭の内に入っている。それは魚釣りを業とする川の渡世人なら、当たり前のことであった。この魚が水面を割って飛ぶことも、多分シモへ走ることも、萬吉には予想したとおりだった。しかしそうかといって萬吉がここで気を抜くことはなかった。川マスとの勝負は、いつも最後の一瞬までわからない。もう逃げこむ岩のないこの弛みでも、油断はならないのだ。
少しずつ竿を上げて、萬吉は魚の頭をこちらに向かせてみた。思ったよりも抵抗なく、手前へ寄った。それを浮かせようと竿を煽った時である。萬吉の目の前でそいつが頭から水面を割って飛び出した。今度は先ほどよりもずっと低く飛び、勢いも弱かった。そしてやはり、そいつと萬吉を繋いでいる糸は、今回も切れることがなかった。もう今度は、萬吉は遠慮なく寄せにかかった。今の跳躍で魚はほぼ全力を使い果たしたはずである。ここは一刻の余裕も与えず、水面から頭を出させて空気を吸わせることだ。アマゴ釣りやアユ釣りなら決して抜くことのない腰の玉網を、萬吉は左手に取った。手前へ寄ってきたそいつは、水面に頭を出されて苦しそうに口を開閉しながら最後の抵抗を試みるかのように頭を左右へ振った。しかしそれはほとんど力の弱いものだった。もうこうなった時の魚に再び水に潜る力はない。水面に半分沈めた玉網の中へ魚を誘導するやいなや、萬吉は玉網を水中から引き上げた。空気を吸わせることで、こいつに観念させるためであった。魚は二尺近い川マスの立派な雌だった。銀白色の魚体が大きく玉網の中で暴れる度に、そのからだから染み出た脂が、水滴とともにあたりに飛び散った。」
さて、これはいつ頃のことかなあ。
公害真っ盛りとなった昭和三五年頃以降のことではあるまい。ナイロン糸の投網がまだ普及していなかった頃であろう。絹網の頃であろう。昭和二〇年代と考えてよいのではないかなあ。
「アマゴ釣りやアユ釣りなら決して抜くことのない腰の玉網」と書かれているが、アユ釣りの時は、タモを抜いて、左手に持っていたのではないかなあ。
井伏鱒二他「鮎釣りの記」朔風社:1984年:昭和59年発行)の亀井巌夫「長良川ノート」に、(「昭和のあゆみちゃん」に紹介しているものの、リンクができず)
モモノキ岩での取り込みの場面で、
「――その時、大多サはこの岩角に足を踏んばったろうか、まさとサは身動きもせず岩の窪みに腰を落としていたろうか、古田萬サは畏友・山本素石が語るように、受玉をラケットのように構えたろうか――
一人一人が手をつかえ、足を踏んばり、腰を降ろした岩角や窪みがその時の高鳴る鼓動をそのまま伝えるかのように思える。それはまた奔流に立ちはだかり、青筋を立てて耐えているモモノキ岩そのものの胴震いでもあるようだ。岩肌にそっと耳を当てると、どぶっ、どぶっ、脈打つような響きで、岩が鳴っていた。」
また、齋藤邦明編「釣聖恩田俊雄」(つり人社:1995年:平成7年発行)の恩田さんが引き抜きをされている写真でも、タモは左手に持っている。
礼子ちゃんは、素石さんが萬サ翁について作成されていた資料集?を使用しているのではないかと思うが…。
いや、人のことはいえません。狩野川からの流れ者「山下」が、八幡には立ち寄らなかったかも、と思っていたが、見落としていました。
「長良川ノート」に大多サが
「『伊豆のヤマシタが竿にうるしを塗って、絹糸で巻きよりました。千段巻やな。私も真似をして巻いたところが、どえらい重たいものやで。しかしつよいものやで。大川ではそんな竿を使うたが、小川(吉田川)では二百匁で五尋のものをよう使うとりました。たくさん作って持っとりましたで』」
ということで、「山下」は、八幡というか、長良川でわらじを脱いで、その後、飛騨川、宮川、馬瀬川等に移り、あるいは釣っていたのかも。
「こうして、今年も川マスとの最初の勝負は、萬吉に凱歌が上がった。萬吉はこの季節に限ってしか獲れないこの魚の漁そのものに対する気構えを、この最初の勝負で培(つちか)うために、季節の最初の一匹は必ず釣り上げることを自分に課していたのだ。
岐阜への出荷
この日、萬吉は川マスを、一人で二十三本上げた。与三五郎も、ほぼ同じくらい釣り上げていた。そこで、当初は河原で一泊する予定できていたのを変更して、八幡に戻った。
『ほう萬サ、今日はまた大漁やな。マスばっかよう釣ったな。こらええマスやで』
『杉錠さんよ、このマスをな、今日はいっぺん岐阜へ出(だ)いてまってくれんかな。八幡で売らないでな、岐阜の市場へ出いてほしいんや』」
萬吉少年が、兄と夜網でアユを捕っていた時、萬吉少年のアユを買い付けに来ていた仲買人が、夜網で捕れた川マスをええ値で買いとっていたが、料亭に出すよりもセリにかけた方が高いと話していた。それで、杉錠に市場に出すことを頼んだ。
氷を当てて、岐阜に出したところ、杉錠の予想を上回る高値が付いた。
夜網の大漁?
さて、萬サ翁の大漁は評判になり、その場所に見当をつけた人たちが、明日釣りに行くと聞いて、萬サ翁と与三五郎は、数日うちに再び坪佐越えをすることになった。夜の投網打ちに。
「『おるかな。誰ぞ釣ったんやないかな』
『網打ってみりゃわかる。おったらごっそり獲れるぞ』
先日と同じように両岸に分かれ、それぞれ足元へ投網を打った。
『入ったか?』
『入ったぞお!。そっちはどがいや』
『どえれえ、入ったぞ。なんぼおるかわからん』
そして、何分間かの沈黙があった。
『おい、こりゃあ……』
『なんや、そっちもか』
次の瞬間、闇の中に二人の笑い声が同時におこった。
実は、魚が入ったのはいいが、川マスの鋭い歯で網はズタズタに破られていたのだ。二人の大きな笑い声が闇の中でいつまでも続いた。」
この網が絹糸を使った網と思われる。仮に、ナイロン糸を使っていたとしても、まだ強度がそれほどではない頃の話ではないのかなあ。
今西博士と萬サ翁会談
やっと、大きな目的である今西博士と萬サ翁の出会いにたどり着きました。
なんで、大きな目的というかというと、学者先生と観察の姿勢がぜんぜん違うからです。
今西博士は、学者先生の観察眼のなさ、机上、実験環境から離れて「本物」を観察することなく、「学説」をひけらかす態度とは真逆の存在だからです。
川那部先生に、狩野川の2011年、2012年の狩野川の尺鮎、泣き尺の氏素性についての報告をお送りした時、 「萬サと長良川」の「第3章 山本素石とサツキマス」は、コピーして同封しました。
そのようにしたいとは思えど、著作権侵害になるし…。
本当におもろいでいんですよ。たのしいんですよ。まあ、著作権侵害と、礼子ちゃんに訴えられても仕方ないか、と覚悟をして、できうる限り、書かれているままに紹介をします。
とはいえ、まだ、今西博士の出番前。真打ち登場には時間がかかりますねえ。
素石さんと萬サ翁の話の続き
アマゴとヤマメの交換
「『ほうかね。わしはこの長良川で暮らす川漁師やで、長良川や、この近くの馬瀬川や九頭竜川のことは知っとるが、他所(よそ)のことは知らん。そうや、お前さん方、この長良川の上流に赤い点のないアマゴがいるのは知ってなさるかね。実はな、昔のことやそうだがね、カミの高鷲(たかす)村は知ってなさるか、あの高鷲の奥は峠を越えたら日本海へ注ぐ庄川の上流になるやろ。あこには赤い点のないアマゴが昔からおるのや、あのあたりは蛭ヶ野という集落やがね……。その高鷲村と蛭ヶ野の両方で、ある時、赤い点のあるアマゴとないアマゴの交換をやったそうや。昔のことやから、木の桶に水を張って魚を入れ、夜に松明(たいまつ)をともして峠を運んだんやと。わしも先輩達から聞いたんやが、高鷲で実際赤い点のないアマゴを釣ったこともあるよ。ところで、どがいして長良川が赤い点のあるアマゴで、庄川が赤い点のないアマゴやのか、知ってなさるかね。わしらはそこがわからんのやが』
『実はね、古田さん。そんなことは僕らも今西さんから教えられて知ったんですよ。どうでしょうか、先ほどの川マスの話やら、そのアマゴの話やら、いっぺん今西さんと古田さんがお話になったらいかがでしょう。僕らはいわば子供の使いのようなもんで、同じ話でも、今西さんの口から直接聞かれたほうがよろしいと思うんですよ。それに今西さんも古田さんに川マスのことをいろいろとお伺いになりたいでしょうしね。新町のね、常宿が水屋旅館さんなんですよ。』」
これでやっと、夕方、萬サ翁と今西博士の逢う瀬が実現することとなりました。
さて、アマゴもヤマメも、とんと縁のないオラが、「赤い点のある」アマゴとないアマゴといわれましても、さっぱり見当もつきかねます。
困ったときの礼子ちゃん頼みで、「あまご便り」の「熊さんのアマゴ退治」に書かれているおもろい表現で満足することにします。
「簡単に言えば、小判型のパーマークの上に小さな朱点があるかないかが違うだけだという、この同じサケ科の渓魚達はおおざっぱに分けると、………」
「そこで、よくこんな議論が起こる。
『わしは、やっぱりヤマメの方が好きやなぁ。楚々として、いかにも山女魚という感じやろ。人間でいうたら、八千草薫ていうとこやで』
『なに言うてんねん、そらアマゴやで。あの朱点がたまらんやんか。なんちゅうても“渓の宝石”と言われるくらいやからなぁ。あんなちっこいからだに、あでやかさがあるがな』
『わしはそれが嫌いやねん。なんや紅ぬりたくったおなごみたいでな。それに、アマゴは簡単に食いつきよるし、節操がないと思うねん』
『そんなことを言うてるさかいに、山女魚はアマゴに負けるんやで!』
そう、近年渓では、山女魚がアマゴに負けるという不祥事が起こっている。
昨今、河川漁業組合は、本来ならばヤマメ水域でアマゴは釣れないはずの川にも、アマゴを放流して釣人を呼ぶようになった。釣人がどんどん行けば、ヤマメも釣られアマゴも釣られるが、ヤマメは自然繁殖、アマゴは次々と放流されるので、川ではヤマメとアマゴの比率が年々変わってゆき、ヤマメの川からだんだんアマゴの川になってしまう。
ヤマメが釣れるはずの川で朱点の入ったアマゴが釣れれば、普通はおかしいと思うはずだが、釣らずもがなの釣人が多いのか、あるいはそんなことにはとんとお気使いのない御仁が多いのか……。
ところが、そんな組合の生態系を無視したアマゴの放流に、大いに腹を立てている人がいる。“熊さん”こと熊谷栄三郎さんである。」
熊さんのお話は省略します。
また、素石さんは、「山女魚百態」のあとがきに「ヤモメの不倫」(誤字ではありません。「ヤモメ」の不倫です。)を書かれている。これも、どこまでが本気なのかどうかわからないが、サクラマスとなって雌が帰ってくる前に、放流されたアマゴの雌に山女魚の雄が不倫をしているから、山女魚はどんどん減っていく、という、楽しい、悲しい、お話ですが、これも省略します。いや、後に紹介します。
萬サ翁と意気投合の今西博士
「『さあ、古田さん、こっちゃへ。いや、あんたが今日はお客様ですよ。僕はね、、おもしろい顎をしているでしょう。これで口の悪いやつらから“花王石鹸”と呼ばれているんです。そうそう、申し遅れましたな、今西錦司です。アマゴと同じくらいおなごの尻を追いかけ回すのが趣味といえば趣味です。といっても、自分で言うのはなんやが、これでも恐妻家でしてな。』
『こりゃあおもしれえ博士先生やな。わしは明治四十一年生まれやが、先生も同じくらいかな』
『いや、私は三十五年。そやから、今年六十三.古田さんは五十七ですな。お互いこの年になっても元気で川へ行けるんやから、若いもんだ。ハッハッハッ。私はこれを女の効用と思うてますよ。女はね、見ているだけでもええんですよ、女を見なくなっては男は終いですな。さわるとね、もっとええんですよ。ホルモンが生産されますから。男の生きる力の源です』
『こんな先生は、見たことも聞いたこともないぞ、山本さん。この人は本当に京都大学の博士かね。アマゴのことは聞かないで、おなごの話ばっかやな。いやあたまげた』
『そうでしょう、僕らもね、今西さんの影響で大いにその方面の研究もやっているんですよ。いや、これはじょうだんですがね。ゆかいな先生でしょ。しかしこれでなかなかのお人嫌いでね、こんなに初対面の方とお話になるのはめずらしい。今西さん、古田さんとはお気が合いましたかな』
『うん、気に入った。ええ顔しとる。動物はな、面で強いやつか弱いやつかわかる。古田さん、萬吉さんやな、こらええ顔しとる。雄の面や。立派な雄のな。まあ一杯いきましょう』」
山本さんの今西博士のゴリラ等の研究紹介は省略。
「『ほうかね、そりゃあ光栄や。ところで、わしは、サルの話よりアマゴの話の方が興味があるが、さっきうちへこの山本さんがこられたとき、赤い点のあるアマゴのおる川とそうやないアマゴのおる川があるのはなぜじゃと聞いたら、それは今西先生に聞くのがええといわれたが、そんなことを教えてくれんかね。わしら漁師はそんなこと知らんでも釣れりゃあええというもんやが、もともと川の魚が好きでこんな商売へはいったんやで、こんな先生からいつもは聞けんアマゴの話を聞けるなんて果報だでね。先生はマスの話をわしから聞きたいそうやが、どうやろ、わしが聞きたいことを話してくださらんかね』」
アマゴとヤマメの棲み分け
「『……僕がお聞きしたいマスのことを話し合う前に、どうやら萬吉さんの質問に答えたほうが、系統立ててしゃべれるようやから、そうしましょう。まず、アマゴやイワナが、あのサケの仲間ということはご存知ですかな。
彼らは大昔は、今、北海道などで獲れる鮭と同じように大きな魚体でしてな、川で生まれ、海に下って成長し、川へ溯ってきて産卵し、そして死ぬという生活様式を持ってたんです。それがね、ある時から海へ下らなくなって、内陸だけで棲(くら)すようになったんです。それが氷河期の、あ、そうそう。昔そうやなぁ一万年くらい前は日本は氷におおわれてたんですよ。それが消えて後退してゆくのが八千年くらい前です。その後退と関係があるといわれていますがね、陸封、すなわち陸に封じこめられるということですな。そういうことがおこったんです。アマゴやイワナに。しかし、仔魚のうちに海へ下っていた時と違って、大きうなって川だけで棲するのですから、大きな魚体ではとてもやってゆけません。それで、考えよったんですな、【大きくならんとこ】とね。仔魚の身体のままで一生を過ごすことになったんです。環境に順応したというか、せざるを得ない状況になると、生物は変化できるんですよ。もちろん少しずつ何世代にもわたってですがね。アマゴの横腹に小判型の紋様があるでしょう。あれは幼魚紋というてね、サケ科の魚の幼時にはあって、成魚になると消えるもんなんです。我々日本人の尻に赤ん坊の時に見られる青いアザがあるでしょう。あれ蒙古斑といって、実は蒙古系人種に多く出るために付けられた名で、日本人の九十九.五パーセントくらいに出るそうですが、白人や黒人にはほとんど出んそうです。幼魚紋はいわばこの蒙古斑のようなもので、幼魚の時には見られるが、次第に消えるものなんですよ、サケなどではね。ところが、アマゴたちはほとんどが、一生あの紋様をつけて過ごすんですよ。
今、私が【アマゴはほとんどが】といいましたが、実はここが私が伺いたい川マスとひっかかるところなんですが、それはちょっと置いといて、アマゴの話を続けます。アマゴは、サケ科の一族で、幼魚体のまま成魚になる陸封魚だ。まずここまではおわかりいただけますかな。
さて、いよいよご質問の、赤い点のあるアマゴと、ないアマゴの話へ行きます。
学問的にいうとこの二つが“種”として分かれるかどうかというのは我々の議論の的なのですが、まだ議論が尽くされていないので、これはまたこうと議論が出尽くしたところでご報告することにして。長良川には朱点のあるアマゴがいるが、日本海へそそぐ九頭竜川や庄川のは赤い点のないアマゴですわな。その話をしましょう』
『ほうや、さっきも山本さんに家で話をきいたんやが、昔、この長良川の上流の高鷲村とその奥で庄川の上流になる蛭ヶ野で、赤い点のあるアマゴとないアマゴ、この両方の交換会があったそうや。それで、この長良川にも、その赤い点のないアマゴがいるんやで』
『ほう、そういうことがあったんですか。これは覚えとかんとあきませんな。この二つはね、昨今どうやらそうらしいとわかりつつあるのですが、実は日本列島を棲み分けとるのですわ。この“棲み分け”という言葉はちょっと曲者(くせもの)でしてな。たとえば、アマゴよりも上流にイワナがいますね、あれはだいたい日本の川では必ずアマゴより上流に住んでいるようです。そこで、イワナとアマゴは【川を棲み分けている】と、こう使うのです。一本の川の利用の仕方に、魚たちのルールがあるというわけですよ。しかしまたちがう使い方をすると、赤い点のあるアマゴとないアマゴは、日本列島を棲み分けていると言えるでしょう。』
『ほう、なかなかおもしろいぞ。ちょこっと難しいには難しいが、これはどえれえ勉強や。山本さんよ。わしは果報もんや。あんたはわしが一生のうちめぐりあえるかどうかというような人に逢わせてくれたな。さあ今西先生、次を早う、聞かせてくれ』
『それではどういうふうに日本列島を棲み分けているかというと、まず赤い点のあるやつは、神奈川県の酒匂川(さかわがわ)という川より西の、太平洋にそそぐ川に住んでいる。赤い点のないやつは、酒匂川より東と、西では日本海へそそぐ川に住んでいる。これがどうやら明らかになりつつある二つのアマゴの分布地図です。これは私の世代くらいの研究者がやっと近年になって作り得た地図なんですがね、まだ謎のベールが何か所かにはかかっていますが、まあほぼこうだといえます。』
『ほうかね、太平洋にそそぐ長良川は朱点のあるアマゴ、日本海へそそぐ庄川は朱点のないアマゴというわけやね。その赤い点はなぜついとるのかわかってるのかね』
『いや、これはまだまだ遠いところにある謎ですよ。しかしこれは解明の必要がないでしょう。アマゴがどうしてこんな型をしているのかという疑問と同じレベルくらいの問題ですからね』
『では、どうして太平洋側と日本海側、あるいは東日本と西日本なのかね。それはわかっとるのかね』
『それもわからんのです。しかし二つのアマゴはもともと、海から溯(さかのぼ)ってきたわけですからね。どうも私の睨むところ、潮流とか、陸封された年代とか、そういうものがこの謎を解く鍵のように思えるんですよ。しかし、研究といっても、一代で人間が解ける謎というのはこうしてあらためてお話ししてみると、ごく限られたことなんですな。我々は小さなアリのようにコツコツした努力を、ライオンの死体にむかってしているようなものですよ』
川マスとシロメ
「『川魚のことといっても、わしは漁師としてしかしゃべれんのに、そんなもんが先生の役に立つのかね』
『我々の知らないことを、漁師さん達はいっぱい知ってはるわけですよ。なにしろ、毎日川に立ってはるんやから。研究者の見えない視点に気づいてはるはずですよ。我々は、それが欲しいんです』
『ほうかね、ほれじゃあ、たずねてくれ』
『まず、秋になると釣れるアマゴで、鱗が銀ピカのがありますよね。あれは萬吉さんは、何と呼ばれてますかな』
『シロメ、じゃ。あれは白目なんや。皆はシラメと呼んどるな、身体がアマゴより白いからじゃろう。じゃがわしは、シロメというとる。アマゴは目の縁にチョボチョボと黒い隈取りみたいなもんがついとるが、シロメにはそれがないんや。じゃから、目が二重に見えるんじゃよ。気がつきなさらんかったかね。他の人もあんまり気がついとらんようや。そして身体は真っ白で、幅がない。細いんや。釣って握ると鱗が剥(は)げて、手につくわな。これはどうしてかね』
『鱗が剥げるのは、鱗が変化しているからです。これについて、後で私の考えるところを述べるとして、白い目でシロメとは、初めて聞きました。実は我々はシラメと初めて聞いたのは、揖斐川(いびがわ)の上流の徳山村でして、あそこの人はシラメは白女やというとりましたね。なにしろあそこは、電気が付くまで夜這いがあったという土地柄ですからな、魚に付いている名前も妙に色っぽいですよ。私なんぞはそっちの話の方がおもしろくて、そんなことばっかり村の長老に話をしてもらうもんやから、あそこの人達は私が京大の教授やというのを疑ってるらしいですな。しかし、おもしろい話がいっぱいあるんでね、やめられませんのですよ。ああ、また女の話で脱線してしもた。あかんな俺は、なあ山本君、どうもあっちへ行ってしまうがな』」
シロメはいつ現れるか
「『ところで、またシラメにもどります。いったいシラメというのは、いつ頃川に現れますかな。』
『ほうやな、十一月ころかな。普通アマゴは秋のアユが終わるころには渓奥の浅瀬なんかで、子作りをやりよるわな。見ると腹ビレなんかを使って川底のジャリをならして、卵をうみつけるところを造っとるんやね、あれは。夫婦でへとへとになってやっとるよ。それで終わったあとは、身体がボロボロになる。そりゃぁ哀れなもんや。それからまだ厳しい冬を越さんならんのやから、大変なんや。ところがシロメは、どういうもんかね。同じころに本流で元気に泳いでるんや。わしは、漁協が秋から冬を禁漁にする前から、産卵後のアマゴはあんまり釣らんかった。釣ってもきたないし、まずいというんで売れんでね。秋はカガシラ釣りいうて、毛バリで白ハエを釣るんや。そのカガシラに時々掛かるんが、いまいうシロメでね。産卵後のまっ黒なアマゴとちごうて、銀色にピカピカ光っとる。今西先生、あいつはアマゴに似ているが、アマゴとはどういう関係なのかね。同じ親戚なのかね』
『それが、まだ解明できないのです。それで我々はこうして長良川へやってきているわけでして……。ところで萬吉さん、先ほどからコップ酒をいかれてますが、相当お強いようですな、どのくらい一日に飲まれますか』」
萬サ翁がアマゴの時期は二升酒を飲むお話は省略。
今西博士と登山、渓流釣りの時は、ウイスキーの水割りのため、氷を下界から運び上げるお話も省略。
「『さて、萬吉さん、シラメには他にはどんな特徴がありますかね』
『ほうやね、目の他には、顔もちがう。シロメは、顔が突き出とるんや。アマゴは顔が短くてまるい。わしは、シロメはマスの子じゃと思う。マスの顔に似とるんや。あれは。海から溯ってくるマスにな』
川マスは海から来る
『ほう、萬吉さんは、川マスを海から来てると思われているわけですか』
『ほうや。なぜなら、シモからだんだん釣れるようになってくるからや。五月頃、郡上(ぐじょう)では釣れるが、三並では、まちっと早い。もっとシモの美濃や関の衆は、もっと早うに釣れるというとる。ほやから、マスが海から来るというのは、わし一人が言うとるんやないで、昔から釣るもんがいうとることやわな。シロメが下って、海へ行って、もんでくるんやないか、とわしは思とる』
『そうですか、実は私もそうやないかと思てます。シラメの鱗がはがれるのは、シラメが海へ下る準備で、鱗が変化するからだろうと思うのです。ところでシラメや川マスですが、赤い点や小判型の紋様はどうなっていますか』
『アマゴにある赤い点々や、先生のさっきいうとった幼魚紋たらいう小判型の紋は、そういえば、シロメやマスにはないな』
『うーん。今まで頭の中にあった幾つかの疑問点がすっきりしそうで、山本君。ふむふむ、なるほど、そうかそうか。いやしかし、まだ結論を出すのは早いな。ちょっと一杯ついでくれ』
『そうだ。萬吉さん、もう一つ大事なこと。シラメとアマゴは顔がちがうといわれたが、川マスと、アマゴの大物、僕らは柳田国男という人の【遠野物語】から、海千山千のしたたかものという意味でフッタテと呼んどるんやが、それらは顔がちがっていますか』
『ここらではフッタテとは聞かんね。マスとアマゴのでけえやつの顔かね、そりゃあちがう。全然ちがう。やはりマスはシロメと同じでとがっとる。それから、アマゴの大物で下顎の出とうやつ、そう、先生の顎みたいにぐんと突き出とうやつがおるが、マスにはあまりおらんね。なぜかマスはメスが多いんや。ほいでかね、先生みたいなんをあまり見んのは。それと身の色がちがうぞ。アマゴは白いが、マスは身が赤い。ほいで海のマスみたいやから、川マスと呼んでるんやで。味も海のマスに似とる。旨いよ。五月に来てくれ、釣って食わしてやるで』
『萬吉さんは、アマゴとマスを全く別のものと考えますか』
『うん、わしは、海にいるマス、川にいるアマゴ、そして川で生まれ海で育って川へもんでくる川マスの三つがあるんやないかと思ったりしたんやが、どうかね。ほやから、アマゴと川マスは、別のもんやと思うんやが……』
『いや、お話をうかがって、永年ぼうっと考えていたものが少しずつ霧が晴れかかってきてはいるんですがね、まだ何点か、自分の考えと萬吉さんのおっしゃることの一致しないところがあるのです。というのもシラメがどうして現れるのか、がわからないからです。実はまだお話ししていませんでいたが、赤い点のないアマゴは関東を中心に分布していてヤマメと呼ばれており、その一部が海に下ることが知られています。それはギンケとかヒカリと呼ばれていて、全くこの川のシラメそっくりですが、時間が長良川とちがっていて、三月の終わりから四月にかけて上流から下流へだんだん下って行くのです。一方、同じ頃、その川に海から川マスが遡ってきます。これは桜の花びらが川に浮かぶ頃なので、サクラマスと呼ばれています。九頭竜川などにもいます。
私はこれを、長良川の川マスと相似型ではないかと思うんです。ヤマメの場合、ギンケはヤマメの一部が海へ降りるために姿を変えたものと認識しています。ヤマメの降海型といって、昔、いったん陸封されたヤマメだが、一部には昔の習慣のままに海へ下るのがいても不思議はないんです。わりとたくさんの川で、ヤマメとサクラマスのそういう関係、すなわち、ヤマメ、ギンケ、サクラマスが同じ魚であるらしいという関係は認められつつあります。あっ、そうや。何で私が今までアマゴの点のないやつをヤマメといわへんかったか、と思うでしょう。それは、アマゴとヤマメとを別のもんと考えんようにしたいからです。アマゴには赤い点のあるやつとないやつがある。こういう考えやが、関東のもんにいわせると、ヤマメには赤い点のあるやつもおる、とこうなんや。どっちゃでもええことやが、別の名前にすんのが気にくわん。こっちゃはこっちゃのアマゴで統一したいが、むこうはヤマメで統一したい、そんなことで議論が分かれるくらいやったら、どっちもが好きに呼んだらええ。こういうこっちゃ。まあ、これは余談やがね。
ええっと、どこまでいったか。そう、ヤマメとサクラマスは別のものでないうとこやったな。そいでね、ギンケやヒカリがシラメと相似型と仮定すると、ヤマメ→ギンケあるいはヒカリ→サクラマスという図式が、アマゴ→シラメ→川マスとあてはまるわけやけど、ちょっとシラメの発生時期が気になる。シラメは秋、ギンケは春なんやな、ここがちがう。それともう一つ、大きな問題が残っとる。これも萬吉さんには話していなかったが、滋賀県の琵琶湖にビワマスというのがおるんやね。これは、アマゴの一部が琵琶湖に降りて成長したものといわれ、これには赤い点も小判型のマークもないし、明らかにマスであるとわかる。そしてサツキと呼ばれるものがいて、これは五月に琵琶湖に下るアマゴで、これがビワマスになるものだろうと推測されている。この場合の図式は、アマゴ→サツキ→ビワマスで、ヤマメの場合のギンケの発生する時期と、ここでのサツキの発生する時期は、川の水温にもよるが、ほぼ一致している。するとだ、ヤマメの降海型がサクラマスというなら、アマゴの降海型はビワマスで、琵琶湖の場合は、あの大きな湖を海と見立てたのやろうという仮説が立てられる。仮にそうして、今度はその図式を長良川に持ってきて、シラメはアマゴの一部が変身したものと仮定する。アマゴ→シラメ→川マスとするんだ。するとたちまちひとつの疑問にぶち当たる。シラメの発生時期だ。これが、ヤマメの変身したギンケ、琵琶湖のアマゴの変身したサツキの発生時期と四月から五月とちがって、秋だというじゃないか。そこなんだ問題は。そこなんやなあ』
『ほうか、先生はアマゴとシロメが元は同じというんやな。どうもまだわしは、よく理解できんがね。わしはやはり、アマゴと川マスはちがうもんやと思うが』
『まだ、わからんですよ。しかし今日はおかげさんで、よう勉強させてもうた。いや、やはり漁師さんには聞いてみるもんですなあ。いろいろわかりかけてきたことは確かです。今晩一晩でもね』
『役に立ったかね、わしの話が』
『立った、立った。大いに立ちました』
『ほりゃあ良かった。どうだね、明日の朝、わしの釣りを見ていかんかね。今晩はもうだいぶ遅うなってしまっとるし、わしは眠(ねむ)うなってきた。むずかしいがおもしろい珍しい話をずいぶん聞かせてもらって、楽しかった。もっと話をしたいが、長年の習慣で、もう身体が寝る気になっとるようじゃ』」
萬サ翁は、最後にウイスキーの水割りを飲んで帰っていった。
今西博士の川マスとの対面
昭和四〇年、今西博士が萬サ翁と話し合ったのが三月。
七月に「『マストレタ、スグコラレタシ、ナガラガワ・マンキチ』」の電報が素石さん届いた。
昭和四〇年といえば、公害真っ盛り。長良川のトロ流し網漁の大橋さんが、サツキマスが獲れなくなって数年、いや、川マスだけでなく、長良川で川漁の生活ができなくなり、九頭竜川に出稼ぎに行かれていた頃である。
それでも、川マスが伊勢湾で生存しているものもいたということ。
「木野の運転する車の中で、今西が誰に語るともなく、三月のあの日のことを話しだした。
『そやけど、やっぱりあの萬吉というのは、たいしたヤツやで。前の晩の話でもわしは感心したんやけど、アマゴやマスのことをよう観察してて、はっきり覚えてるんやな。シラメのことをシロメというてるわけかて、アマゴの目の縁には黒い隈取りがあるけど、シロメにはそれがないといいよった。なに気なく見てたら、何十年見てても気いつかへんこっちゃ。それに次の日はもっとびっくりしたんやが、わしらが日の上った頃に河原へ降りて行ったやろ、あの男が川むこうで釣ってて、こっちゃへ渡ってくるのを見てたら、まっすぐに渡ってきて、一メートルもシモへ下ってへんかった。あの白泡の瀬を渡ってきよった時はびっくりしたで。川馬て綽名(あだな)がついてるゆうてたけど、ほんまに川の馬みたいや。
それはそうと、次の日釣れた魚を見たら、いちがいにシラメとアマゴは分けられへんかった。あの男は前の晩、シロメはマスの子でアマゴとははっきりちがうといいよった。そしてマスは、パーマークも朱点のない、背鰭の先は黒い、顔がアマゴより尖ってるというたけど、実際釣れたマスの子であるはずのシラメを見ていると、いろいろなんがおったな。顔が突き出して、背中が青黒いというシラメの特徴があるのにまだパーマークや朱点のあるものもあったもんな。あれはシラメやないかと思うけど、ああいう中間的なものをアマゴとマスの交配種であるという見方をすることもできるやろう。しかし、交配種でもなんでも、ともかくマスというからには、パーマークや朱点が消えとらんと困る。そやから、シラメを見ただけでは判断できん。そいで、ぎょうさんマスがとれたら見せてくれいうといたんや。明日は楽しみや』
素石と木野が下鴨の今西の自宅へ迎えに行った時、今西はもう相当飲んでいたのか、いつもの不機嫌がやけに機嫌が良かったが、それはまだこの車の中でも続いていた。どうやら今西錦司ほどの人物でも、初めて川マスに対面することで興奮しているらしい。
大声でしゃべり続けていた後ろの座席の今西が急に静かになったかと思うと大いびきをたて始め、素石と木野は、闇に馴れた目で笑いあった。
『今日は、今西さんえらいええ機嫌ですな。家にいったときから、いつもとちごうてニコニコしてはったし。子供みたいなとこありますな。自分の好きなもん見たり食べたりしはる時はえらい楽しそうや。いつもこうやったら楽なんやけど』
『いや、木野君。今西さんは萬吉さんがえらい気に入ってはんにゃ。三月に初めて顔合わした時から、一発で気が合うてしもて。年は今西さんがちょっと上やけど、天才とか名人というのは、根が同質なんやないかな。今日は久しぶりに恋人に逢うみたいな気分なんやで。それにしても、わがままというか気楽なもんや。こっちゃにちっともしゃべらせんと一人で大声でしゃべって、さっさと白川夜船や。この遠慮のない稚気が今西さんの愛すべきとこなんやろな。我々もコロッとまいってしまう……。僕は横では寝えへんさかい、運転は気いつけて、眠とうなったら、いつでも道のはたに止めて寝てしもうたら、よろし。どうせ萬吉さんも寝て待ってはるやろし、夜道に日は暮れんというから』
ところが、八幡に着き、車に眠っている今西を残した二人が古田家のある路地を入ってゆくと、闇の中に耿々(こうこう)と灯りがついているではないか。足音を忍ばせて家の軒下に立った二人の目に入ったのは、簾のむこうで手枕をして、服を着たまま横になっている萬吉だった。
『うむ、来たか』
眠っていると思った萬吉が、むっくり起き上がって、声を掛けた。
『さあ、上がってここで寝とくれ。今西先生は一緒やないか、ほうか、来とるか。じゃが車で寝とるんなら、わざわざ起こすにはおよばんな。朝起きたら、来るやろ。わしは奥で寝るが、ここに酒が一升ある。好きなだけ飲んで、ゆっくり寝とくれ。……』」
「『それにしても、今まんだ三時やろ。わしが電報打ったんは、まだ夜網をやっとる最中に、魚を取りにきとった杉錠のもんを走らせたんやから、何時や、せいぜい十時頃やないか。わしが家にもんできたんが一時前やでね。あれからこんな時間で走ってくるとは、どえれえ走りしてきたんやないか。……』」
「『いや、あんたらさえ眠とうないんやったら、奥にマスがとってあるで見せようか。十匹ばかもあるかな。全部でゆんべは七十匹もマスが夜網に入ったんや』
『ふえぇ、七十匹も。それはマス用の網ですか』
『いや、木野さんというたかのぅ。それがアユ用の網やもんで、往生したよ』
『アユの夜網に入ったんですな』
『夜網を知っとるかね、山本さんは』
『ええ、郡上踊りと火振り漁は、これでまでにも何回か見せてもらってますよ。火振り漁はこの川だけでなく全国いろんな川で見ていますが、この川では、三月にアマゴ釣りを見せてもろた本流と吉田川の合流点のを、道路の上から見たことがあります』
『そりゃあ、わしや。わしは毎年あそこと決まっとるでの。郡上の漁業会、今は組合と変わっとるが、その漁区の中の一当地や』
『ほう、萬吉さんの御猟場というわけですな、毎年とは、そりゃすごい』
『古田さん、なんでアユの網やったらあかんのですか』
『マスはでかくて、力が強い。それにな、歯がすごいんや。ほいで、網がぐちゃぐちゃにされてしまうのよ。今晩のように七十匹も入ってそいつらが暴れまわったり、顔つっこんで歯で網を食い散らしたら、あとが大変なんじゃ。かかあが網を直すんに、たいへんやよ。どれ、マスを持てこうか』
奥の台所から萬吉が運んできた川マスは、電球の下で、小さな鱗一つ一つが銀白色に光っていた。
『まんだあったけど、あとは杉錠の冷蔵庫に持っていっちまって、この十匹だけあんたらのために置いておいたんや。もっとでけえのもあったぞ。』
『いやあ、これは壮観ですな。これなんかは五十センチくらいあんのとちがいますか。木野君は川マスは初めて見るんか』
『そうです。アマゴのでかいのとは、ほんまに全然違う感じですね。やはりサケに近い顔をしとる』
『そうです。アマゴのでかいのとは、ほんまに全然ちがう感じですね。やはり、サケに近い顔しとる』
『ほうじゃろ。そやからわしは、川マスやというとんや。アマゴとはちがう』
『僕が前に揖斐川の下流で人に見せてもろたんは、もっと小さい型でしたが、やはりこのくらいになると、マスと呼ぶべきですな。今西さんにも早よ見せてあげたいけど、萬吉さん、これは明日になっても、色やらはそう変らへんのですかね』
『ふん、そう変らんね。わしはアマゴの時でも手ぬぐいでていねいにぬめりを取っちまうんでそう色が変わらんが、このマスも、手がかかるがそうしてあるので、だいじょうぶや。冷蔵庫の氷の上に乗せとくで、明日でもええじゃろう』
『そうですか、ほな、もうしもてもろて、僕らはお言葉に甘えて、一杯いただきますかな。いやしかし、こら酒でも飲まんと、あのマスが瞼に焼き付いて、寝られんで、木野君』
『僕は、あれを竿に掛ける夢を見たい』」
素石さんらが朝飯を食べ終えた八時過ぎに起きてきた今西博士。素石さん達が先に朝飯を食べたというと、
「『いや、それはかめへん。さあ、俺も飯よばれさせてもろて、さっそくマスを見せてもらいたいな』
『ゆうべ着いた時、我々は拝ましてもろうたんですけど、あんまり冷蔵庫を開けると中の氷が融けてしまうんで、今日はまだ見てません。いや見事なもんでしたで。それにこの近くやそうですけど、杉錠さんという魚の卸問屋さんには、ゆうべアユの夜網に掛かった七十匹の残りが全部あるそうです。この家には十匹置いてあんのですが』
『へえ、七十匹も獲れたんかいな。そらすごいな。萬さん、その七十匹ゆうんは一群ですかな』
『うんや、一群やない。ゆうべあの合流点あたりに数え切れないほどおったんの一部やな。ごっついことおった。じゃが今日はもうおらんやろ。火振りをしたで、おおかたは上ったやろう』
『本流へですか』
『いや、吉田川の方が多いと思うな。マスは夏を越すのに、吉田川へ入るんや。こっちの方が水温が低いでね。それにおもしれえことに、マスはいっぺんに上るんやで。シモからきたんがしばらく合流点の淵で遊んでおって、かたまったところで一気に溯るんや。それはたいてい梅雨の雨の頃で、アユの網を掛ける今頃に、こんなにごついことおるのは珍しい。今年はよほど数が多いんじゃろう』
『いやそれにしても七十匹とは』
『今西さん、飯を食べはったら、杉錠さんへ行きましょか』
『おう、そうしょう』
『ほれ今西さん、これが川マスや。見てくれ。あんたがマスはどれも同じかとこの前聞いてたんで、ゆうべ獲れたうち、ちょっと変わったのばか、置いといた。あとで杉錠へこれを持っていって、くらべたらええやろ』
『山本君、そのマスの皿をここへ置いてんか。俺はこれを目のおかずにして飯食うわ。ほんまはもう飯よりもこっちゃが気になんのやけど、そんなにぎょうさんのマスを見せてもらうんやったら、今日の調査は長丁場やさかい、飯食うとくわ』
食事を終えた一行は、萬吉を先頭に杉錠の暖簾(のれん)をくぐった。」
杉錠の旦那は、萬サ翁との付き合いを語り、さらに、
「『……今、扉を開けるでね、冷蔵庫の。うちは、この冷蔵庫だけが自慢やで、魚は傷んどらんと思うよ』
『ほお、こりゃ立派なもんや。背中を曲げんでも入ってゆけるやないか。この冷蔵庫を見ただけでも、この川がいかに豊かな川かということがわかりますよ。今はアユですか』
『たいてい夜網のあと氷を当てて岐阜の市場へ出すんやが、八幡の旅館の注文もあるでね。踊りの間は、ひっきりなしやで、いくら萬サに獲ってもらっても捌けるんや。川まで氷を持って、萬サの魚を取りに行くんや。萬サは目があるんやか、一度もこけたことがない。そこがこの人のすごいとこやわな』
『この棚は、全部アユですな』
『マスは、こっちです。根尾川の方では、マスは川で生かいといて、市場へ出すそうやが、八幡は昔出さんかったんです。萬サが岐阜へ出いてくれというで、うちが出したんや。八幡ではうちだけよ、マスを出すんは。結局、萬サしか毎日上げてくるモンはないんやな。こん人は、マスがおる時は、毎日獲ってくるでね。この箱一枚にマスなら、さあ、二匹入るかな、うちは一枚でも二枚でも、毎日アユと一緒に岐阜へ出すんや。六月アマゴにアユかなわぬというて、アマゴも五月六月は値がええが、あれは氷が当てられんで、岐阜へは送れんのよ。その点マスは、氷が効くでね』
『こんなけのマスが獲れるとはね。電報を打ってもろて来たかいがありましたよ』
『ここは冷えるで外へ持って出て、明るいところで見てもろてええよ』
夜網に掛けたマスを全部並べると、壮観な眺めだった。今西錦司は無言で、一匹一匹について丹念にメモを取り続け、時には嘆息してみせるのだが、誰にも話しかけず、また他人が話しかけることすらはばかられるほど、鬼気迫る勢いで仕事を進めていた。
素石も萬吉も木野も、そんな今西を無言で見つめ、ただ立っていた。仕出しの注文のアユを焼き始めた活気ある杉錠の店の中で、マスを前にした男達のまわりだけが、まるで別世界のように存在していた。」
今西博士は、川マスの容姿に表現されている現象について、何を、どのように、観察され、メモをとられていたのかなあ。その資料を素石さんは持っておられないのかなあ。もし、もっておられたら、礼子ちゃんに託けられているかも、と希望が…。
個体差と、群れ、集団としての特性を何を指標として、何を観察されていたのかなあ。
さて、ヘボながらも、さらにアマゴもヤマメも管理釣り場や中津川の人工種苗を数匹しか見たことのないオラが、なんでかなあ、と思われる事柄をメモしておきます。
@ 川マス・サツキマス、サクラマスにはオスがいるのか。産卵行動の時のオスは、ヤマメであり、アマゴか。
天野礼子他文・伊藤孝司他写真「長良川の一日」(山と渓谷社:一九八九年発行)の「サツキマスのペアと産卵行動」の写真では、雄は雌よりも小さく、幼魚紋がくっきりと判別できる。
メスである「サツキマス」の方にも、幼魚紋の痕跡が胴体の尻尾側半分に鮮明に残っている。
これが、産卵行動であるとすると、サツキマスとアマゴのペアとなるが…。
また、サツキマスは、紋様を含めて個体差、容姿の違いが大きいのかなあ。いや、そうではなく、マスでは、「幼魚紋は消えてもらわなくては困る」のに、体長の半分ほどの長さで幼魚紋が残っているということは、「マス」ではない?それとも、人工種苗のため?
狩野川でも「戻りアマゴ」の言葉があるようであるが、シラメになっていても海まで下らないで生活するものがいるようであるが、その現象は人工種苗であることによって生じているのかなあ。
もし、今西博士が萬サ翁と出会わずに、当初の予定どおり田代さんと会っていたら、アマゴ→シラメ→川マスの関係に確信が持てるようになるにはさらに時間を要したのではないかなあ。
そして、人工種苗が放流されるようになっている時であれば、幼魚紋の消えていない川マスにまたまた困惑して、悩むことになったのではないかなあ。
A 「サツキマス」なる言葉は昔から存在していたと思っていたが、新語であることを知った。
既成概念で、物事とを考え、判断してはいけない、という典型でした。
同様に、石川博士の「湖産」を他の川に放流すれば、大きく育つという実験も、すんなりと「成功」評価を受けたのではなかったとのこと。
石川博士は、滋賀県から冷たくあしらわれ、また、どこで生活しても「小さいアユ」という説が否定されることを隠蔽するためか、地元から嘘の「調査結果」情報が流されたようです。湖産放流全盛時代から、あゆみちゃんのお尻を追っかけていたオラは、石川博士の調査結果に対する妨害なんて、想像もしていなかった。それほど湖産稚アユを食糧不足とはならない環境下におけば、普通の川に放流すれば大きく育つということが、「常識」化していた事柄でしたから。この話はまたあとで。
そして、東先生は、「湖産アユ」を「1代限りの侵略者」と判断されて、再生産がされていないことを証明された。その時に着目されたのが、海での塩分に対する浸透圧調整機能の有無。
シラメに変身することが、塩分調整機能を育成?している現象との今西博士の説明で、さすが、すごい着目と、学者先生との違いを一層強く感じました。
なお、東北・日本海側の沖捕り海産、あるいは海産畜養、あるいはF1を房総以西の太平洋側の川に放流すれば、いかなるあゆみ界への攪乱要因になるのか、気になりますねえ。
B アマゴがヤマメよりも釣りやすい、アマゴには節操がない、との表現は、人工種苗放流のアマゴと「天然」ヤマメとの比較のことではないのかなあ。
まあ、今も、「本物」のヤマメを追っかけている人にそのうち聞こうっと。そうはいっても、もはや、「本物」のアマゴを釣る人は少なく、また、大井川の支流の特定の場所などにしか「本物」が存在していないとのことであるから、年寄りに聞くことになるなあ。
C アマゴには氷が効かないとは、どういう意味かなあ。氷を使うと、どのような変色等の影響が生じるのかなあ。
馬瀬川から八幡にアマゴを運んでいたときは、3月、4月であったから、氷を使わなくても変質を生じなかったということかなあ。
ついでに、大多サが、吉田川にはなぜか、遡上アユが上らず、湖産が放流されて大漁となったことを話されているが、吉田川が本流よりも水温の低いことが関係しているのかなあ。
三面川よりも水温が高い高根川には、早い時期に遡上するから、高根川のアユが大きくなるとの話があったが…。
そのような問題は、後回しにしておいて、20年後の昭和59年、素石さんと萬サ翁の話から、その後にシラメについて判明したことを紹介します。
アマゴに戻るシラメも?
「萬サと長良川」の「最後のアマゴ釣り」の章から
「昭和五十九年、四月。吉田川の中流域、畑佐。ここはかって萬吉が青年時代を、おじの養子として過ごした集落である。
七十六歳の古田萬吉と六十五歳の山本素石が、おだやかな春の日ざしの中、河の大石に腰かけ、話をしている。
萬吉は釣り姿。素石は竿でなくカメラを首に掛け、手には手帳とペンを持っている。」
昭和四十年七月、七十匹の川マスを見た時のことについて
「『あの時あれだけまとまって見せてもろたんが、ずいぶん参考になったんです。あれからだいぶこちらへ通わせてもろて、マスを獲ってもろたり、萬さんのアマゴやアユ釣りをみせてもろたり、勉強させてもらいましたな。いろんなとこへ書かせてもろて。僕は、長良川からは二つのことを学んだと思うてます。一つは、日本中で川の漁がだんだん衰退してゆく中で、この川にはまだアユやアマゴの漁があるし、それを売ったり買ったりする生活が残ってます。今、日本の川でそんなことがまだ行われてるのは、この川と四国の四万十川だけですやろ。いや厳密にいうと、四万十川には下流域の漁しかないようですから、アマゴではこの川だけ。萬さんのように腕一本で一家を支えた清流の職漁師が、現代においてもまだ現役というのは、本当にこの川一本になってしもうて』」
「『この川が、萬さんをこうして生きさせた背景というのが、やはり本来の川の姿を教えてくれていると思うんです。川とは何か、僕は萬さんを見て、ずっとそんなことを考えてきたような気がするんです。それと、もうひとつは、サツキマスのことです。思えば、萬さんと僕とのつきあいは、サツキマスで始まり、いつもサツキマスを釣ってもろうたり獲ってもろうたりしてきたんですが、サツキマスの解明の歴史でもあったと思うんです。おおげさですかね。僕らが萬さんに出逢った頃、サツキマスは、まだ霧の中に輪郭だけがボオッと見えていた程度でした。まだサツキマスと呼ばず、僕らはマスとか長良マスとかいうてましたし、萬さん達は川マスと呼んではりましたな』
『ほうや、海のマスとはちがう川のマスやという意味でな』
『その川マスは、海から遡ってくると教えてくれはった。そして、シラメはマスの子ではないかとも。萬さんは、シラメをシロメと呼んではりましたな。たしか今西さんと初めて逢うてもろうた時、そうおっしゃった』
『ほうや。白目なんや。シモでは今はシラメを放流しとるで、天然や養殖がまぜこぜになってまっとるが、本物の白目は、目が二重(ふたえ)になって、すっきりしとる』
『アマゴは黒目の外にビューティスポットといって、チョボチョボッと黒いのがあるんですが、シロメにはそれがないといわれた。今西さんは、あれを非常に感心しておられました。ぼおっと見とったら、何十年でも気がつかんことやと』
『そういや、ワシの他には誰もシロメと呼んどらんかったな』
『そうです。確か杉錠さんに聞いたと思うんですが、アマゴはシマ、すなわち小判型の幼魚紋があるのでシマと呼んどられて、シラメにはそのシマがなく銀白色なんでハクシマとおっしゃったんです。ああそれに、ハクシマは不味(まず)いともおっしゃっていた』
『あいつは不味い。商品にならん』
『そうですね。僕らがシラメを釣ってもろうても、萬さんはアマゴや川マスを釣ってくれるときほど熱心には釣ってくれはらへんかったもんな。ところで、川マスは五月に郡上八幡にやってくる。それは海から遡ったもんである。シラメは十一月に郡上八幡で出現する。それはどうやらマスの子らしい。そして二月くらいまでに郡上にいるがある時姿を消す。海へ降りているんやないか。その海へ降りる準備がシラメになること、すなわち鱗が変化して銀ピカになるんやないか。と、ここらあたりまでは初めてお逢いしてからしばらくで見当がついたんですが、シラメになるのは、最初はアマゴと同じようなんが変化するのかとか、シラメは全部海へ降りんのかとか、当初私たちはヤマメの降海型であるサクラマスとこの長良のマスを対比させようとしたんですが、琵琶湖のビワマスという曲者がいたばっかりにずいぶん悩んだり、遠回りしたんですわ。一時期は長良のマスをビワマスと同じと考えないかんのかとまよったりしてね。さすがの今西さんも何べんも意見を訂正されて。しかし今西さんのええとこは、前に出した自分の論文にこだわらずに、間違いをすぐパッと直されることですわ。いっぺんまちごうて、それを訂正して、やっぱし元へもどしはったこともあるし』
『わしは前にもいうとったように、海のマス、川のマス、アマゴとあるだけと思うとった。じゃが、あんたらが調べるのを手伝うとるうちに、細かいことに気をつけて見るくせがついたんやな。それに今西さんが岐阜大の総長になって県から禁漁になっても釣れる許可をとってくれたで、シラメは不味いが見本に釣っといてやろと思うて冬でも竿を出すようになった。それで、シラメはいっぺんに下るんやのうて、集団で何回かに分けて下ることや、中には下らんシラメもおるということに気がついた』
『僕は、下らんシラメは、知らん顔してアマゴにもどっとるんやないかと思うてます。そうでないと説明できひん事を、実はもう何年も揖斐川の上流で見てきてるんですわ』
『ほう揖斐川か。徳山は雪が深いらしいな。素石さんはよう行っとるようやな。あれはシラメに行っとるのかね』
『そうです。徳山村にシラメが発生するということは、揖斐川の河口までそれが降りてマスになるということですわな。ところが徳山村のシモの藤橋村にダムがあって、もうシラメは海へ降りられへんのです。そやのに今でもシラメが発生するんのは何でやろうというのが、最初今西さんから僕に出された宿題でね。実は僕はここで、昔むかしのように、陸封されたマスがアマゴになってゆく過程が見られるんやないかと内心思てたんです。頭の中では、だんだんはっきりとしかけているシラメの謎ですが。僕が徳山村に通うてたんはそれともうひとつ、あの村のたたずまいというか風情が好きでね。あそこは、僕ら“日本のチベット”ていうてたんやけど、オリンピックの前の年に電気がついたんですね。そやから日本で一番最後まで夜這いがあったそうで、これがまた女好きの今西さん好みですやろ。まあ、それはさておき、ここに電気がついたとたん、ダムができることになった。……
(注:ダム工事が始まらないため)ガラスが割れてもダムに沈むからそのままでしたのや。それで、二十五年も昔の村がそのまま残っていて、それが僕をひきつけたんです。それに言語学的にいうても、あのへんは特有な方言があって、僕には宝石箱みたいなとこなんです。あっ、話がそれてしもて済みません』
『いや、わしはほとんどこの長良川か山を越えた馬瀬川と九頭竜川くらいしか行っとらんで、いろんなとこの話を聞くんが好きなんや。わしは漁師をしとらんかったら、素石さんみたいにいろんな川のアマゴやイワナを釣っとったと思うよ。それもまたええ人生やったんやないかな』
『いやしかし、この流れ一本で生活が成り立って、どこへも行かんでええというのが、やはり長良川の底力ですわな』
『いや長良も、伊勢湾台風までは、もっとええ川やったんやで。あんたらが来はじめたころは、台風でだいぶ埋まったあとや、あれで川がだいぶ変わったんや。それと水がやっぱ悪うなっとる。それから雨のあと水がいっぺんで出てまうようになったんは、源流にスキー場ができてからやな。マスもだんだん数が減っとるで』
『僕のメモでゆうべ調べたら、昭和四十六年で、郡上八幡漁協は二千匹と書いてました。組合の台帳に二百万円の水揚げがあったとあるんですが、四十六年で年平均一匹一千円とは、ええ値ですな。我々は萬さんのおかげで何回かおいしい想いをさせてもろうたけど、普通はこのあたりへ来る御大尽か、赤坂の料亭へでも行かな食えんそうですかな。国会議員の口へでも入ってるんですかな』
『近ごろはもうマスはあまり釣らんようになったが、夜網にときどき掛かるんや。うちで食べたり使いもんにやったりして、もう杉錠には持てかん。もったいないで。昔のように七十匹も網に掛かるようなことは、もうないやろと思う』
『そうですね。それにあの河口堰なんてもんができた日には、絶滅するんやないかと思うてます』」
このあと、素石さんは利根川河口堰の罪について話されている。
「サツキマス」の命名
オラは、「サツキマス」の名称は古くから使われていたと思っていたが、間違っていた。
「『実はね。河口堰ができると、サツキマスがこの世から消えることになるんですよ。萬吉さんや今西さんが知り合われたころ、まだサツキマスという名もついてへんかったし、川マスが、アマゴの降海型ということもわかってへんでしたわね。サツキマスが、ヤマメにおけるサクラマス、すなわち降海型というのが、ご一緒に調べているうちに、だんだんわかってきましたね。それで岐阜の水産試験場の本荘さんが、ヤマメがサクラマスなら、アマゴはサツキマスがええというんで、サツキとつけられたんですな。なんでも新聞記者と話してられて考えついたというてはりました。今西さんも、なるほどサツキが咲いている、五月(さつき)かいなと気に入らはって。ええ名前ですがな。サクラとサツキ、ね。兄弟のように似ているヤマメとアマゴに似つかわしい。
ところが河口堰を造るために、昭和三十九年からたった三年間、KTS調査すなわち木曽三川河口資源調査団の調査というのをやってるんですが、この時六千百ページもの報告書の中で、川マスについてはわずか十九ページ書かれているわけですわ。そしてもちろん当時は、サツキマスなんて名前もなかったんですよ。そやから今西さんや僕らは、それから二十年も経っている間に、サツキマスだけについてみてもいろいろ新しい知見が出てきているんやから、調べ直す必要があると思うてます。昔は木曽川にも揖斐川にも天然でいっぱい遡って自然産卵してたサツキマスですがそれもいない。今ではアマゴ圏の他の、たとえば和歌山や徳島の川でも一匹でも見つかったらえらい話題になります。この長良川を守らんとあとがないという時、やはり時代にあわへん河口堰は造ったらあかんのです。それに、治水上必要だと建設省がいうもんが、治水上かえって危険やとは、何事ですか。そして、この二十年の間に変わったのは水需要だけではないんですわ。長良川以外で、大きい川でダムのない川は、もう北海道の釧路川くらいになってしもうたんですよ。いうて見たらこの長良川は、日本の最後の川なんです』
『ほうかね、もうよその川にはみなダムができてまってんのかね。ほんならなおさら、この川には造らしちゃいかん。わしの友達が木曽川に昔住んどったんやが、あの川は急流でダムが造りやすかったもんで、ほうや明治時代からダムが次々と造られとるやろ。ダムで川がもう死んでまって、そいつは木曽川やのうてクソ川やいうて怒ってまってな、八幡へ越してきたんやで。川はな、自然のままがええんや。なぶるとあかん。なぶればなぶるほどダメになるし、また危のうなるんや。それにどんなダムを造っても見てみいや。何年かしたら、川は自分の好きなように流れよるよ。そんなときに洪水が起こるんや』
『ダムのことについて考えると、僕なんかハラが立ってハラが立って。日本中歩いてきて、ダムができて良うなった川なんか一本もないんやから』
『川を知らんもんが造るからじゃろう。川を知っとうもんの話を、もっと聞けばええんや。素石さんもいろんなところで怒ってたら、命が短うなるな。ま、今日はわしが久しぶりに竿を出すで、のんびり見とってくれ』」
礼子ちゃんは、「文庫本のためのあとがき」に、環境庁長官北川氏が、河口堰の見直しを主張され、行動されたが、金丸サンに見事に潰された、と。
金丸さんの一番弟子?ではないかと想像している小沢さんは、「『公共』の『工事』『第一』」の旗を降ろしたとは言えないとは思うが、「『国民』の『生活』『第一』」に看板替えをされている。「国民」とは、いかなる「集団」を考えられているのかなあ。
「生活」とはどのような内容を考えられているのかなあ。
その上、「公共」工事、事業の中心に位置していた一つの大事業である「原発」を廃止するともおっしゃっているようである。いや、ご本人がそのように発言されたのかどうかは不明であるが。
第二次大戦においてすら、戦争責任を追求することなく、「責任の上奏」をする「文化」であるから、「原発廃止」のスローガンをかかげておけば、「空気」はまた変わり、「公共」事業として原発が建設される時機到来となるから、暫しの我慢ということかなあ。
小沢さんら、「『公共』の『工事』第一」の心情の方々にとっては、河口堰反対側の証人となられた川那部先生を罷免しろ、とおっしゃっていたことからも、「大臣」でありながら、あからさまに河口堰工事の見直しを主張し、行動された北川氏には腸が煮えくりかえったことでしょう。
さて、サクラマスにはオスはいないとかの問題、そして、今西錦司「イワナとヤマメ」(平凡社ライブラリー)を読み直せば、今西博士が、アマゴとシラメと川マスの関係について、なんでいろいろと考え、悩まれていたのか、少しは理解が深まると思えど、この問題はあゆみちゃんのお尻しか追っかけた経験しかないものには厳しい課題です。
ということで、とりあえず、さつきちゃん、さくらちゃんとは離れます。
とはいえ、「サツキマス」という名称が、古くから存在していたのではないことがわかっただけでも、ヘボには大きな収穫でした。
テンカラ
なんで、テンカラに興味を持ったかといいますとですね、
@ 毛バリを使用した釣り方は、ドブ釣りのように、広く一般に行われていたと思っていたが、どうもローカルな釣り方がテンカラであるようであること
A 切通さんが、テンカラ釣りに転向して以来、釣果の方はてんでからばかりだ。“テンから釣れない”のが“テンカラ”とは、まさにこのことであるようである、と書かれているのにですよ、礼子ちゃんのテンカラによる打率は8割とのこと。こりゃあ、お色気で勝負をしているからか、それとも?
B テンカラは究極の騙しのテクニックの釣り方のよう。騙して釣り上げた時の快感がたまんなあい ということかなあ。
1 木曽テンカラの復活
ということで、礼子ちゃんの「あまご便り」(山と渓谷社)の「幻の木曽テンカラ――杉本英樹さんを訪ねて」を紹介します。
木曽福島の
「“崖屋造り”と呼ばれる、木曽川べりにせり出したこの地方独特の家並み」から、小学生の杉本さんは、背の曲がった老人が木曽川に竿を振っているのを見た。
「ところが、老人は少年が思ったよりもずっと達者だった。上流へ足早に石から石を伝いながら、竿を振っては上げ振っては上げの動作をくり返すだけで、ほとんど一投ごとに川から魚を抜き上げ、左手に持ったタモで受け止めては腰につけたカゴへ入れていた。まるで手品のようだった。
目をこらして、老人が川へ向かって竿を振り、次に上げるまでを数えてみた。
『一,二』と前に倒し、『三』で上げる、そんな感じだった。
しかし、老人はみるみる遠ざかってしまい、少年が窓から身を乗り出してももう辺りにはいなかった。夕陽が、はるか西の空に見える御岳を染め始めていた。
『あれは何だろう』
それ以来、少年は気をつけて川を見ていることにした。あんなふうに竿を振るだけであんなに魚が釣れるなら、自分もやってみたい、そう思ったからだ。」
治療にやってきた患者さんが、「テンカラ」であること、また、
「『タナビラ(アマゴ)を毛バリで釣っとるんです。この辺りに昔からあったという人もおりますが、東北の木こり達がこの木曽谷へ出かせぎに来て、伝えたという話もあります。この爺は釣りはしませんが、近所でやるもんがおりますので、こんど坊(ぼう)のためによく聞いておきましょう』
そのじいさんからは返事がないまま月日がたち、いつか少年もそのテンカラとやらのことは忘れてしまった。」
「『次にテンカラという言葉に出会ったのは、それから二十数年も後でね。ボクは大学と病院勤務を東京でやったから、ここへ帰ってきたのは昭和三十二年。もう三十八歳になっていた。小学校からの同級生であった原誠基君が先に東京から戻っていて、保健所に勤めていたんだ。』」
「『ある朝原君が【オイ杉本、凄いものをゆうべ見つけた】っていうんだね。聞いてみると父君の釣日記が蔵の中から出てきて、テンカラという毛バリで釣ると、タナビラの大きいのが釣れると書いてあるとか。ヤツは釣りが好きでアマゴもやっていたんだがエサ釣りで、父君からはテンカラの“テ”の字も聞いたことがない。これはひょっとすると、テンカラというのは息子にも教えない秘密の釣法なんじゃないか。となると研究してみる価値があるってことになったんだ』
二人でその日記をよく読んでみたが、『今日も切れた』『大物をバラした』などという記載ばかりで、具体的な仕掛けや肝腎の毛バリの作り方などは少しも書かれていない。そこで周辺の古老などに尋ね歩き、やっと一人の人物を見つけ出した。原さんという七十歳前の農家の人だった。
『先生らのいうとおりでな。テンカラはどうした具合か昔からエサ釣りよりも大きなタナビラが釣れるんで、それを知っとるもんはあんまり人に教えんかった。山仕事の衆らがよくやっとったが、魚を町の料理屋なんぞへ買ってもらっていたから、釣方や釣場を教えると自分で自分の首をしめることになる。ワシはお蚕さんを飼っとったんでな、糸と交換に昔、山の衆に教わったんじゃ。それでもワシの教わった頃で、木曽谷でテンカラができるもんは五,六人と聞いたから、ひょっとするとたいていの衆は死んでしもうて、今ではワシぐらいなもんかも知れん。ワシももう年だし、先生らが教わりたいと言うんなら教えてやる。ただしワシの知っとることだけじゃが』
そこでまず第一日目は振り方をというわけで近くの木曽川の河原へ行き、水に向かって原老人が竿を振ると、なんと一投目から、八寸余りのアマゴが掛かり、二人の医師は目を白黒。老人は、空を見上げて『まあ、こんな具合じゃ』と相成った。
老人の釣方は、杉本さんがかって少年の頃窓から見た老釣師と同じ、空合わせだった。しかしそれは、アマゴが毛バリを追ってきてくわえ、反転するまでの時間を計算しての上だと教えられ、またその反転する時のキラメキで合わせているのだとも聞かされた。」
テンカラの仕掛け
「竿は、原老人が竹藪から切り出してきて軒の下において枯らし、曲りぐせを直すために庭の大樹に先をしばり手尻になるほうに河原から拾ってきた大石をくくりつけて作った一丈あまりの竹の延べ竿。
仕掛けは竿いっぱいより一ヒロほど長く、ラインは馬素を撚り、その本数を減らすことにより次第に細くしてゆくテーパーライン、ハリスは蚕から作った天然テグスで、馬も蚕も飼(注:原文は「買」)っている農家だからすべてが自給だった。
ハリは大型のキツネバリ。それに黒の木綿糸でボディを巻き、ハックルはキジの胸毛。これをうまく流れのヨレに乗せ、ハリの重みだけで二十センチほど沈ませる。このまま流し、水中で毛バリをアマゴに食わせ、水中で合わせて掛ける。
この釣りは勘だけでアマゴの当たりをとらえ、合わせるというものだった。それにはよほどの熟練を要するようで、そこが秘技とされたわけのように思われたが、天然テグスしかなかった昔は糸の張力にムラができたので、大物を掛けた時によく切れることがあって、この“合わせ切れ”をふせぐために、水中で掛けるというワザが生まれたのだろう。すなわち、水を媒体とすることによってショックをやわらげたとわかった。
そこで、日記にあった『今日も切れた』『今日もバラした』という記載の要因も、どうやら天然テグスゆえの弱さにあったのだろうと、初めて推測できた。それからの二人はすっかりテンカラの虜になり、保健所でも毛バリを巻いては川へ持っていって試し、アマゴの毛バリに出る生態なども観察した。
アマゴが水中から飛び出してきて空中のカゲロウを食うことがあるから、あれをなんとか水面で掛けられないか。そのショックに堪えさせるためには、天然テグスをやめてナイロンテグスを使えばよいのでは……。テンカラを猟の釣りでなくもっとスポーティなものにするには、秘密主義にせず多くの人に知ってもらいたい、平等になったところで競技をしようじゃないかなどと話し合った。」
空中、水面で飛び出してきたアマゴを掛けるのは至難の業であると、石垣尚男さんが「テンカラの科学」に書かれているが…。
「古来の木曽テンカラを改良した“毛バリの水面釣り”」を紹介したところ素石さんが弟子入りをして、数年で杉本式テンカラをマスターして「西日本の山釣」などの渓流の名著を発行してテンカラブームになったとのこと。
「木曽のテンカラは、山と川の仕事に従事したこれら仕事師達が、手すさびに始めたものではなかったろうか。東北から流れてきた木こりが伝えたという説も、地元の木こりとそれらの人々が共に仕事をするうち、川の流れに棲むアマゴやイワナを食糧とするために教えあった枝の一つであったと考えれば納得できる。
木曽は、人が集まり、木が集まり、情報が集まる、当時の日本の中心ともいえる土地だったのだ。テンカラはその中から生まれ育ったもので、長い間木曽川流域の杣人あるいは筏師達の秘技として秘かに伝えられていたのが、杉本さんらアマチュア釣り師の手を得て、今日の趣味としての釣りに進化したといえよう。」
「たった一粒の種から出た小さな芽が、一代にしてこんな大樹に育つとは、お医者様でも診断できなかった?」
さて、東北から伝わったテンカラであるとすると、東北ではどうなったのかなあ。文書として記録されることもなく、伝承者がいなくなったということかなあ。
水面上や水面でアマゴを釣り上げるには、
「アマゴが毛鉤をくわえている時間が〇.二秒、合わせに要する時間が〇.三秒――。これでは永遠にアマゴは釣れないことになる。
しかし、実際にはそれでもアマゴが掛かるのは、『パシッ』と飛沫が上がってから初めてアタリに気づくだけでなく、しばしば毛鉤に突進・接近してくるアマゴの姿が見えることがあって、こんな時は、早めに合わせをくれるとちょうどぴったりタイミングが合いやすい。」(山女魚百態」の石垣尚男「テンカラの科学」)という。水面上、あるいは水面のアマゴを釣ることが、「スポーディ」ということかなあ。
馬瀬川のテンカラ
亀井さんが、馬瀬川のテンカラ事情を書かれているので、それを紹介します。
亀井巌夫「釣の風土記」(二見書房)の「馬瀬の水音」から
「土地の人が“てんから”を振るのも四月の声を聞いてからで、私が初めてその釣法に出あったのもここだった。
対岸を、頭上で竿をくるくる回しながら、急ぎ足でたどっていく老人を見かけた。ちょっと猫背で、服装から見て土地の人らしかった。円を描くように、ゆっくり頭上に差し上げた手首を動かして、竿は水平に回すのだ。時々立ち止まっては、川面めがけて、竿を振る。長い糸の先の毛鉤はすうっと流れの中央にまで延びて、ぽとりと落ちる。二,三度打ち下ろしては、また竿を回して歩を運び、いつしか上流へ見えなくなってしまった。
ずいぶん変わった釣り方だと、その時思ったが、後に木曽福島の杉本博士から『木曽流てんから』を習って、あの老人の仕草を納得した。杉本博士は頭上で竿を回すことは教えてくれなかったが、竿よりも二倍近くも長い道糸を、移動する際に糸巻きに巻いて納めるよりも、周囲に木立や障害物のない時には、糸を巻かずに、そのまま頭上で振り回しながら歩を運ぶ方が、より簡便、じゃまくさくないのである。
土地の釣り好きは、餌釣りよりも毛鉤釣り、それも木曽辺のてんから釣りと同じ方法で遊んでいることは、ずっと後に知ったことだった。
『アマゴ釣りは土地の者より、他所の人の方がたくさん釣るぜな。メメズとかブドー虫でぇ、そりゃあ、うまいもんだ。土地の者でぇ、うまいのは、虫釣りでなしに、てんからぜな。それでなあ、二村(ふたむら)イサブロなんて人は、うまかったな。うん、手品みてえだったぜな』
その二村イサブロという人は、今は養老院に入っているそうで、現役では、これといった名手はおらんな、と二村礼一さんが教えてくれた。イサブロさんと礼一さんは別段姻戚関係はない。この馬瀬村では、二村姓がやたらに多いのである。」
「ところでここ数年、馬瀬川でアマゴのいい釣りをしたことがない。てんから毛鉤はいつも手製の黄色、クリーム色、薄茶色の三色を使い分けているが、本流筋は皆目駄目で、支流の小原(おはら)川とか、サツ谷とか、黒石谷などで型を見た程度。アマゴでなく、ニジマスがかかって驚いたりしたこともある。アマゴはいないのか、というとそうではなくて、鮎の時分など、たわむれに淵へ潜ってみると、びっくりするような『三年ばえ』の大親分がロンパリの瞳を光らせていて、その尻に、番頭だか、若頭だか、ジャリッ子まで引きつれて、ゆうゆうと泳いでいるのを見かけたりする。この『ばえ』というのは、このあたりの方言で、でっかい奴のこと。『何年ばえ』とは『何年生え』とでもとれば良いようだ。とにかく、そんな大親分がいたりすると、鮎などは貫禄に押されて、隅の方でうろちょろするばかり。
アマゴは比較的遅くまで本流筋に居残っているのに対して、岩魚の方は春祭り(注:四月二〇日から、下流から上流へ、そして中流へと移動して、八十八夜に終了する)が済む頃にはさっさと、また谷へ戻ってしまうようだ。梅雨期ともなれば、小さな谷の壺々に、一号のハリスでも他愛なく引きちぎってしまう大将が、うつ然とくぐもり棲んでいたりする。」
二村さんは、
「てんから釣りは夜がいいのだ、と彼は変わったことを教えてくれた。昼の間に足場をちゃんと覚えておいて夜、淵へ出かけてゆく。ここと思うあたりへ毛鉤を打つ。何度も繰り返して同じ所を打つ。するうち、どしんと手応えがくる。きっと大きい奴だ。月夜の夜などは特にいい。試してみろ、と彼は太鼓判を押したものだが、まだ実行していない。夜の暗がりでも、魚が跳ねていることもあるから、彼のいうように、毛鉤を振ったら食いつくこともあるのかも知れない。」
馬瀬川での餌釣りは、大多サや萬サ翁は川虫を使っていたのに、ブドー虫を使うようになったのはいつ頃からかなあ。
御勢久右衛門「川虫ウォッチング」に、カゲロウの飛翔が、時期によって時間を異にし、モンローのキスマークの形状になる、と。
モンローのキスマークによると、夜の七時頃から十時過ぎまでカゲロウが飛翔しているのは、六月から九月。となれば、この時期に夜、毛バリを振ると、アマゴの食事タイムと一致することになる。
2 川虫が「食われる状態」になるとき
宮地伝三郎他編「山女魚百態」の御勢久右衛門「川虫ウォッチング」から
「二月も半ばをすぎ、フキのとうが頭をもたげ、サンシュユの黄色い花が咲きはじめると、太陽の陽ざしが急に明るさを増してくる。雪どけ水も日増しにぬるみ、カゲロウのスワームは早春のいぶきを告げる。」
川の上流域から源流域にかけては、
「水は白波をたてて勢いよく流れ、あたかも小さな滝と淵とが連続したかのような様相を呈し、岩や石の間にはたくさんの落葉や枯枝が溜まっている。
この落葉や枯枝の溜まりを求めて私は渓を彷徨(さまよ)い歩く。それは、このような場所にこそ、カゲロウ類、カワゲラ類、トビゲラ類、そしてトンボ類、甲虫類、ユスリカやガガンボ類といった水棲昆虫や蛹がたくさん見られるからである。」
渓魚の生活と関わりの深い水棲昆虫には
@ カゲロウ
「幼虫から蛹の時代を経ることなく、羽化して亜成虫となり、もう一度脱皮して本当の成虫になる。つまり、きわめて異例な発育をする昆虫というわけだ。」
「日本産のカゲロウ類は約一五〇種であるが、これらの幼虫は渓流釣りの餌としてよく利用されるため、釣り人特有の名で呼ばれることが多い。たとえば、砂や泥の中に潜っているモンテカゲロウを『スナムシ』、川底の石から石へと遊泳するフタオカゲロウやチカラカゲロウの幼虫が『ピンチョロ』『ピンピン』『ヒョロヒョロ』『チョロ』『ダマシ』、早瀬の石面にしがみつき、石面をすべるように移動するヒラタカゲロウの仲間を『チョロムシ』『ヒラタ』『セムシ』……といった具合である。」
A カワゲラ
「英名でStone−fly(ストーンフライ)と呼ばれるごとく、石礫底に棲息する川虫である。」
「日本産カワゲラには約二〇〇種があり、釣り人の間で『ケラ』『アカゲラ』『オニゲラ』などの名で呼ばれている。」
B トビケラ
「この虫はカゲロウやカワゲラ類のように原始的な形態をした昆虫ではなく、系統的には鱗翅目にちかく、進化の段階のかなり進んだ昆虫で、寸言すれば『水中に生活する蛾(が)』とでもいったらよいだろうか。日本産トビケラ類は約三〇〇種を数え、そのすべてが水中生活を送る。」
(1) カゲロウ
「羽化してから成虫になるまでの『亜成虫』とよばれる状態(数時間から一〜二日程度のごく短期間)は、見かけは成虫とほぼ同じ形であるが、性的には未成熟で、翅は不透明である。
釣り宿での朝、川沿いのガラス窓に、昨夜灯火に飛んできた亜成虫が脱皮して飛び去ったあとのぬけがらが残されている光景を目にした人も少なくないだろう。因みに、釣り人、とりわけフライフィッシングの世界では、カゲロウの幼虫を『ニンフ』、亜成虫を『ダン』、成虫を『スピナ』とよぶ。
成虫は、水辺付近の樹木の葉や草むらなどに静止していることが多く、飛翔は単独の場合もあるが、たいていの種は静穏な日の日中や夕方、集団となって下流から上流に向かって水平方向に群飛する。
この群飛は、交尾と関係があるというのが定説とされ、群飛集団は雄ばかりで、雌は横合いから無造作に群れの中に飛びこんでくる。すると、一匹の雄がこの雌をつかまえる。そして、両者相伴ってほとんど垂直に落下するような運動を示して群れから脱出する。こうして交尾を終えた雌は、産卵場所をもとめて川の上を往ったりきたり、あわただしげにとびまわる。」
カゲロウの三つのタイプの産卵様式及び孵化日数は省略します。
また、「幼虫が生息する場所や生活様式、運動方法などを目安として」四つのタイプに分けることででき、「遊泳型」、「匍匐型」、「掘潜型」、「滑降型」に係る説明、及び羽化の様式の三タイプについても省略します。
モンローのキスマーク
「カゲロウの飛翔時刻の季節的な変化については、『モンローのキスマーク』と名付けられた加藤須賀夫氏の興味深い観察があるが、これによっても、気温が低い早春や晩秋には日中に、気温の高い夏には朝と夕方に飛翔することがよくわかる。そして、この観察結果は、アマゴ釣りにおける“毛鉤”タイムとピッタリ一致しているのである。」
モンローちゃんといっても、ご存知の方はすでに少数。シャネル5番の香りを振りまいていたあゆみちゃん=「香」魚を知る人も少数。人工種苗でないアマゴを知る人はさらに少数かも。
ジジー心ながら、モンロー−のキスマークとは、とりあえず、かわいいねえちゃんが目を閉じて、うっとりとして、唇を半開きにしている状態を想像してください。
「飛翔」しているカゲロウが、その唇の形状と一致していると、とりあえず考えてください。
縦軸に朝の3時から、夜の10時半頃まで。座標値の中心:0は、昼の12時。
横軸に3月から11月中旬まで。座標値の0は、7月頃を想定してください。
3月中旬から4月終わりまでは、上唇と下唇が合わさっています。5月始めから、上唇と下唇が離れていきます。
そして、10月からまた上唇と下唇が合わさってきます。
3月下旬は10時から12時過ぎまでが飛翔時間で、5月にはいると、7時から12時が上唇、12時から4時が下唇となり、その唇は季節の移ろいとともに開いていきます。
6月下旬から8月中旬までの上唇は、朝の3時前から7時ころまで、下唇は、夕方の6時頃から夜の11時ころまでの幅となり、これが飛翔時間になります。
8月下旬になると、開いた唇は凋んでいき、10月始めには、上唇と下唇は合わさります。10月始めの飛翔時間は、9時頃から夕方の5時頃で一定の幅で変化しています。11月中旬に飛翔は終わるが、11月始めは、夕方の4時から6時頃です。
作図できたり、H・Pのソフトにコピーできれば、わかりやすいとは思えど、我慢してください。
さて、かわいい乙女のキスマークとどこが違うの?
残念ながら、加藤さんは書いてくれていませんから、想像します。
それは、横軸の12時を中心としてみたとき、春と秋では左右対称にはなっていないことです。
春は12時付近に唇があるものの、秋は、唇の位置が、12時よりも下、飛翔時間が遅いんです。
いびつなキスマークなんです。それがモンローちゃんのセクシーなキスマークを表現しているでは?
「モンローウォーク」なんて言葉も知る人ぞ少数。
お尻をぷりぷり振り、すべてのオスを悩殺していました。
お尻ぷりぷりの囮操作ができれば、オラもヘボを卒業できるんですがねえ。
遡上アユの奇形に「金魚」と故松沢さんがよんでいたアユがいた。このアユを囮にすると、お尻、尻尾を懸命に振るため、あゆみちゃんの雄も雌も悩殺されてすぐに釣れたとのこと。この「金魚」の効能は、前さんも書かれている。
故松沢さんは、囮の役割を終えた「金魚」を神棚に祀られていたとのこと。
それほど、お尻ぷりぷりは霊験あらたかなんです。同様にキスマークが左右対称ではなく、いびつとでも言って良いかもしれない形状であるから、「モンローのキスマーク」では?
かわいいねえちゃんでモンローのキスマークができるのか試してみたいなあ。
さて、お尻ぷりぷりを演出するため、ハイヒールの片方の足を短くしていた、なんて話もあったが。
また、モンローちゃんは、シャネル5番の香りに包まれて亡くなられていたという話もあったが。
本物のシャネル5番の香りを経験したことはないが、今でも存在するのかなあ。
「香」魚たらしめていたシャネル5番の香りを振りまくあゆみちゃんはすでに滅びたが。いや、今ひとたびの逢う瀬もがな、と願っているが。
(2)カワゲラ
「日本産カワゲラは約二〇〇種があり、釣り人の間で『ケラ』『アカゲラ』『オニゲラ』などの名で呼ばれている。
幼虫は山間の渓流や川底の石の間にたまった落葉の中などで生活し、大型のカワゲラはトビケラやカゲロウなどの幼若幼虫を捕食するが、小型のカワゲラは川底の石面に付着した藻類や堆積した落葉などの植物遺体を食べている。こうして、一年間水中で何回も脱皮をくりかえし成長し、やがて羽化して成虫となる。」
「晩春の頃、日が沈む夕刻に、どこからともなく現れたバッタの大群を思わせるカワゲラの群飛を見ることがあるが、この群飛に加わっているものは、産卵直前の雌と雄である。カワゲラは、あまり飛ぶことが上手な昆虫ではなく、川の上空を四枚の翅をバタバタさせ、竹トンボのように飛ぶ姿はユーモラスだ。
ほとんどのカワゲラが年一世代で、交尾は、夜間、水面すれすれに低く飛びながら行い、川岸近くで腹部末端を水面に接触させて卵塊を水中に生み落とす。」
(3)トビケラ
「〜寸言すれば『水中生活をする蛾(が)』とでもいったらよいだろうか。日本産トビゲラ類は約三〇〇種を数え、そのすべてが水中生活を送る。
幼虫の体型はどの種類も円筒形で、カイコやイモムシのような体つきをしているが、トビケラの英名でCaddisーflies(カディスフライズ)と呼ぶのは、この幼虫の筒巣Caddisに因んでつけられているにちがいない。変態は前二者(注:カゲロウとカワゲラ)と異なり、『幼虫』→『蛹』→『成虫』と完全変態を行う。」
幼虫の生活様式には三つのタイプがある。造網型トビケラ、携帯性の筒巣をもったトビケラ、流水に棲み、巣をもたず、よく発達した足で川底の石の間を歩きまわる流れトビケラがある。
その中の造網型トビケラの
「この仲間のうち、特にヒゲナガカワトビケラ類は『クロカワムシ』『ゴムシ』『スズリムシ』『カワムシ』などと呼ばれて釣り人に親しまれているが、アブになやまされる盛夏〜晩夏の頃、この虫の蛹がアブになる、と信じている釣り人がかなり多くいることはおもしろい。」
(4)水中で「食われる状態」になるとき
@ヒゲナガトビケラやシマトビケラの幼虫
「ヒゲナガトビケラやシマトビケラ幼虫のように、ネットを張って、その奥の巣の中で生活している仲間では、隠蔽度が高いために魚の眼にはつきにくく、比較的利用され難い。ところが、これらの幼虫も、夕暮れから夜にかけては巣からネットの位置に這い出して、口から出した絹糸をネットの端に固定させ、それを命綱として巣の付近を散歩する。その際、糸が切れて下流に流されることがある。
また、蛹は砂粒でつくった固い巣を羽化直前に大顎で切り開き、水中を泳いで水面に出るが、この時、幼虫の流下時と同様にストリップの状態となる。いずれも遊泳動作は活発なため、魚の眼につきやすく、この時こそ魚にとってきわめて利用容易な状態であるということになる。」
A 日周変動
「アマゴの釣り人が好んで釣り餌として用いるヒラタカゲロウは、平素、早瀬の石礫面に付着し、魚の眼にはつきにくい。しかし、彼らが流下する折には木の葉のようにヒラヒラし、その形状ゆえにかえって形が大きく見え、魚の眼にはつきやすくなる。
従来、川虫の流下移動は、洪水時や増水時に行われると考えられていた。ところが、洪水時や増水時以外の平水時においても認められる一般的な現象であることが次第に明らかになってきた。
この川虫の流下は、昼間に比べて夜間にいちじるしく増加する。増加は日没後より始まって、一時間ほど経過した時点で最大流下数に達し、その後、流下数は次第に減少し、日中はほとんど流下することはない。
川虫の流下の日周変動は、照度の強弱に関係しており、薄暮の照度、つまり五ルックスあたりから流下が活発となり、〇.〇一ルックス付近で流下活動が最大となる。こうして流下した川虫は、夜明け前、再び盛んに遡上をはじめる。
夏の夕刻薄暮の頃と夜明け前に、渕頭の落ち込み付近にアマゴが一列横隊に並び、盛んに摂餌行動をしている様を観察したことがある。これは、いみじくも先の川虫の動向と合致して、『夕暮れ時と夜明け前の二回は餌釣りの好タイム』だと、古くから釣り人の間で言われ続けたことを裏付けているのである。」
亀井さんが、馬瀬川で、夜に釣りをしろと言われたことも、この日周変動と関係しているのでは。
また、萬サ翁らが夜が明けきらないうちに川に立っていたことも。
人工種苗のアマゴは、日周変動に適合した摂餌行動を行っているのかなあ。また、人工種苗のシラメは、海に下っているのかなあ。
3 「異物感から吐出の反射行動」対「人の反応」のスピード競争
宮地伝三郎他編「山女魚百態」(筑摩書房)の中の石垣尚男「テンカラの科学」から
石垣さんが、テンカラを初めて目にされ、
「NHK・TV『ウルトラアイ』において、テンカラの科学的計測を公表し、以来『テンカラ先生』の名で呼ばれる。」
ということになったとのこと。
「山女魚百態」は、1987年発行。その15年ほど前のこととのことであるから、1970年頃、昭和45年頃の奥三河・神越川での5月も終わり近くの出来事が物事の始まり。
放流サイズすれすれのアマゴとマス釣り場から遁走したニジマス各1匹。最後の場所と考えていたところに、林道からさっさと入り込んだ失礼な奴が。
「その淵は、右岸から岩が突き出しており、流れはゆるく左にカーブしている。彼は岩の先端にそろそろにじり寄ったかと思うと、左手で先端をつまんだハリスをサッと流れに振り込んだ。と、ほとんど同時に川面にはパシッという飛沫が上がり、次の瞬間にはアマゴが空中をすっ飛んで釣り人の身体に隠れていた。彼はその獲物をおもむろに左腰の魚籠に落とすと、腰をかがめ、立て膝のまま、やや上手にふたたび川に向かって竿を振った。やはり飛沫と同時に釣り人に向かって空中を飛ぶアマゴの姿があった。
この間、ほんの三分くらいのものであったろうか。目の前の光景に呆然としている私のかたわらを、彼は竿もたたまず、何事もなかったかのごとく足早に林道にもどっていった。目はあわなかった。すれちがいざま、バタバタとアマゴの跳ねる音だけが私の耳に残った。」
本を見て毛バリを製作。
「訓れぬ手つきで図解と首っぴきの末にやっとの思いで巻き上げたわが初物の毛鉤は、われながら見るからに太めで大きく、しかも接着剤のつけすぎで、ミノ毛はイガ栗のごとく鋭く、かたい。これがあの麗しきアマゴの口腔に突き刺さるのかと思うと、少々残酷な気分にはなったが、これも成就険しき釣魚道の一里塚だと、自らの不作を棚に上げて納得した。」
このような毛鉤ではあったが、
「頭上を賑々しく跳びまわるのが贋物の虫であることを、なかんずく、素人が初めて巻いたイガ栗毛鉤であることをつゆ知らぬアマゴたちが、『パシッ』『パシャ』と、精一杯愛想を振りまいてくれるのだが、やんぬるかな、私の手はまるで金しばりにあったように動かない。」
「アッ」と、その度に声が発せられるが、100打数0安打。
修行を重ねていた先生の前に現れた学生さん。これは見事に釣れました。しばらくしてから、
「『どうだいM君、ひとつ、今シーズンのアタリに対して掛かった率を計算してみないか』
と、けしかけた。こうしてM君は、釣行のたびに綿密なメモを残し、最終的に集計した確率が5分5厘とでた。
『M君よ、私はもう少し高いかも知れないが、まあ五十歩百歩だ。テンカラはおもしろいけれど釣れない、という理由でファンが少ないようだが、どうせなら大学の研究室ならではのテンカラ研究を始めてみないか。フィッシング部にも協力をを頼むよ』」
石垣先生は、アマゴが毛バリをくわえてから贋物と知って吐き出すまでの時間計測装置を作られた。また、くわえる瞬間を二百コマ/秒のハイスピードカメラで撮影した。
空中(水面上一センチ)の結果
「この結果、アマゴは、くわえてから離すまでの時間は全体の八十パーセントが0.一秒台という抜群の俊敏さを示し、0.三〜0.四秒台のまばたきに相当するものはごくわずかである。アマゴがなかなか掛からないのは、この速さにあることはわかるだろう。
これに較べ、同じ渓流魚でもイワナやニジマスはアマゴに比較するとやや鈍感であるらしい。イワナも、ニジマスも、〇.五秒以上くわえているのは、毛鉤を水中に引き込んで離す、というもので、アマゴにはまず見られないくわえ方である。そして、イワナ、ニジマスのうち、どちらかといえばイワナの方がさらに鈍性が高い。」
この実験に使用したのは養殖魚である。
とすると、人工種苗のアマゴでも、空中の餌を捕食するときの習性は、変化していないということかなあ。
にもかかわらず、ヤマメよりもアマゴの方がとろくて釣りやすいとヤマメねえちゃんがおっしゃるのはどのような理由によるのかなあ。人工種苗のアマゴと、本物のヤマメとの鈍性の違いが表れているということかなあ。ヤマメねえちゃんが、アマゴを釣り始めた頃は、すでに人工種苗のアマゴが主流になっているはず。他方、ヤマメは本物が主流のはず。
「〇.一秒台と聴くと驚かれるかもしれないが、因みに、人間でも脚気の検査でよくやられる『膝の下を軽くたたくと足が上がる』という膝蓋腱反射テストは〇.一秒ほどなのである。つまり、魚類には知能がないから、毛鉤をくわえたとき、『しまった、偽物だ!』などとは判断していない。毛鉤をくわえるのも、毛鉤の動き、形態、色などが捕食反射の引き金となって飛びつき、口の中に入れれば、異物感から吐出反射がおこって口を開けているにすぎないわけなのだから、〇.一秒台は当然の速さなのである。
ところが、『合わせ』というやつは反射ではできない。脳の中で『出た、合わせろ』という回路を通るわけで、反応レベルになるのである。しかも、竿があり、ラインがついているために、どうしても〇.三秒はかかってしまうことになる。つまり、テンカラは、『魚の反射』と『釣り人の反応』の競争なのである。」
「ところで、アマゴが毛鉤をくわえている時間が〇.二秒、合わせに要する時間が〇.三秒――。これでは永遠にアマゴは釣れないことになる。
しかし、実際にはそれでもアマゴが掛かるのは、『パシッ』と飛沫が上がってから初めてアタリに気づくだけではなく、しばしば毛鉤に突進・接近してくるアマゴの姿が見えることがあって、こんな時は、早めに合わせをくれるのがちょうどぴったりタイミングが合いやすい。アマゴにとっては『出合い頭』とでもいうべき掛かり方になるためである。」
この「出合い頭」の合わせが成功するときとしないとき、つまり、アマゴの姿が見えて早合わせをしたときの結果が成功するときと空振りになるときの実験もされているが省略。
水中での勝負は?
水の中での毛鉤をくわえている時間は、
「その結果、アマゴの、空中では全体の八〇パーセントを占めていた〇.一秒台という速さがなくなって、最も早くて〇.二秒、長いものになると一.一秒もくわえているものもいた。なるほど、名人・元職漁師が言うように、水中では確かにくわえている時間が長くなるようである。ただ、長くなるとはいっても、全体の七〇パーセントは〇.二〜〇.四秒台である。〇.三秒という合わせの速さからいっても、掛かるかどうか、ギリギリの勝負であろう。
では、ニジマスではどうか。ニジマスは元来がアマゴに較べて敏捷性に劣り、先に見た水中での〇.二〜〇.三秒台という速いのがほとんど見られず、平均では〇.八秒くらいくわえているようである。またイワナについてもニジマスとほぼ同じと考えてよいであろう。水中でも魚種間の違いは歴然としているのである。
水中でくわえている時間が長くなるのは、水中では空気の三十二倍の粘性をもつ液体の中で吐出しなければならない上、しかも水流があり、この状況では空中のようにはいかないからであろう。ただ、アマゴの場合、水の流れに乗って流れてくる毛鉤を流れの下手で待っていて、反転したりせずに素直にくわえた場合には、もごもごと口の中に長く入っている様子が観察された。長くくわえるかどうかは、毛鉤の流し方次第であるようである。」
さて、実験室を離れて、川での釣りではどのような操作になっているのか。
「名人は、日光毛鉤で有名な栃木県の瀬畑雄三氏、元職漁師はわが地元でもある愛知県足助町の川島和志夫さんだ。この川島さんは、父君、叔父君ともプロの漁師で、かってアマゴ漁が生業であった頃は、四キロ入りの魚籠からアマゴがこぼれ落ちるほど釣ったという御仁である。
この名人、元職漁師に共通しているのは、毛鉤を水中に沈め、水中で掛けるということである。両者に聞けば、『沈めた方が、毛鉤をゆっくりと、長い間くわえている』のだという。
そのためには、『できる限りポイントの下手に立って、毛鉤を自然に流れに乗せること、それが無理なら、せめて横からまでとすること。上手に立ったときには、すでにアマゴは感付いて警戒しているから、出方は鋭く、速くなる』ともいう。」
両人の合わせは、すかさず合わせた場合は、間髪を入れずに合わせた場合は、0.三秒くらい。
「ところが、彼らは、アタリがあっても寸時の間(ま)をとって合わせるのである。瀬畑氏は、会釈をするように頭を下げて、川島さんは、一瞬竿先を下げてから合わせをするのである。『遅合わせ』とでもいうべき合わせであった。」
その合わせのタイミングは平均0.七秒くらい。
「こうしたタイミングを、瀬畑氏は自分の経験から、川島さんはプロの技として教えられたのだという。毛鉤を水面上に浮かせると、アマゴの出方は速く、すぐ毛鉤を離すため、素早い合わせをしなければならなくなり、これでは掛ける率を下げるという。ゆっくり出させ、長い間くわえさせれば結果は自ずと上がる、と、名人・元職漁師は口を合わせた。」
ということですが、ヤマメねえちゃんの評価であるヤマメに比して鈍くさいアマゴが、人工種苗である、ともいえないのかも。それどころか、ヤマメもアマゴも俊敏さで違いがない、ということになるのかも。
また、「遅合わせの礼子ちゃん」の五割以上の打率の意味を「ご両人の遅合わせ」と同じと考えてよいのかどうか、アマゴを釣ったことのないものには見当がつきませえーん。
「清流を知らずしてケイ藻を語り」、側線上方横列鱗数が二十枚以下でも「湖産」と判断し、また、同じ調査報告書には琵琶湖に出かけて調査をしたと思われる福井県の報告が湖産の側線上方横列鱗数が二十四枚、二十五枚とされているのに、「湖産」の鱗数の異なる調査報告にすら、何らの疑問を持たずに報酬だけをもらっていたのではないかと想像している学者先生らと同じ穴も狢になることを覚悟して石垣先生の調査と付き合ってきましたが、あんまり恥をさらしたくもないから、もうやめておきます。
なお、ヤマメねえちゃんのアマゴとヤマメの俊敏さの違いがあるのか、どうか、のほか、テンカラが木曽テンカラだけ伝承が継承されていたのではないのかも、と。
日光テンカラ、足助町・巴川筋でもテンカラの伝承がされていたのかも、と。
4 毛バリとリアリティ
切通三郎「紅色の蝶々毛鉤」
石垣先生の接着剤をつけすぎた「イガ栗毛鉤」にも「精一杯の愛想を振りまいてはくれる」アマゴであるから、如何様な毛鉤であろうが、カラスのかってでしょうということかなあ。毛鉤の容姿も、色も、アマゴにとっては無頓着、ということかなあ。
管理釣り場で、サボTが使っていたルアーは、エポキシ樹脂?を用いてつくったものであるが、ニジマスを次から次へと釣っていた。ルアーの王道ではないかと思う赤金の色とは真逆の色であるが。ルアーの形状、色には一切の効果はなく、ルアーの操作と適切な流れの筋を泳がせればよい、ということかなあ。
餌釣りでは、黄色い汁が滴り出ているミミズを使え、つまみにできるようなイクラを使え、といわれていることと較べると、毛鉤ではどんなものであっても、流し方さえ適切であれば、アマゴが釣れるということかなあ。アマゴやヤマメは匂いだけに生きるにあらず、ということかなあ。
ということは、興味の対象ではない。いや、アマゴを釣ったことのないもの、管理釣り場のヤマメや中津川に放流された人工種苗のヤマメを数匹しか釣ったことのないものには考えようがないから、当然のことですよねえ。
「紅色の蝶々毛鉤」を紹介する本音は、切通さんの文がおもろいから。
昭和60年頃、素石さんらと佐渡へ出かけたとき、由緒正しき木曽テンカラを継承する素石嫡流のテンカラ師のI君は、
「『この鉤で出ますか?!……』
ボクの毛鉤箱に目をやったI君が、そう言って訝(いぶか)しげに僕の顔を覗き込んだ。
『うん。結構ピョコピョコと出るもんでっせ……』
と答えはしたが、もとより山女魚が毛鉤に『出る』ことと、その出たヤツを己の鉤にしっかりと『掛ける』こととは全く別の問題だから、僕は自分の腕に正直に、『掛かるもんですぜ……』とは言わなかったのである。」
I君がいぶかしがる毛鉤は、
「正直な話、I君が覗き込んだ毛鉤箱には、赤と黄色以外の色はなに一つとして無いのである。胴も蓑毛も『まっ赤っか』か『真っ黄っ黄』といったやつばかりで、たまに胴と蓑毛の色が違っていても、黄色の胴に赤の蓑毛といった按配で、とにかく他の色は使わない。」
この「赤毛布(ゲット)釣り師」丸出しの毛鉤を使用する理由は、
@ 近眼
「テンカラを始めた頭初には、雉子(きじ)だの雀だのゼンマイだのと、僕も律儀に正統派を真似てはみたが、実際問題として、近目をかかえた不惑のオジンにとって、数メートル先に飛ばした、あの茶ずくめ・黒ずくめのぼやけた『点』を見失うことなく追うことは、口で言うほど容易な所業ではない。」
メガネをかけることは鬱陶しいだけではなく、
「それに、近目の今のままですら『まっ赤っか』や『まっ黄っ黄』でチョボチョボとは釣れている僕が、この上眼鏡を掛けて千里眼になってしまったのでは、ただでさえ山女魚や岩魚の数が少なくなっているわが渓流の何本かは、たちまち滅びることになりかねないし、だいいち、毛鉤の色についてまで向こう様のご都合に合わせるなんて、少々癪なことでもあるだろう。」
A 蝶々少年の体験
「ところで、僕がこの赤い毛鉤を巻いてみる気になったのは、三十年も前に遭遇した一匹の蝶々が原因だった。
今はもう止めたけれど、僕は小学生の時分から蝶の蒐集をやっていたこともあって、今もなお蝶が翔んでいる姿を見かけると、思わず心の騒ぎを覚えることがある。そして、それが額に汗をして蝶を追いかけた少年の日の思い出とか郷愁とかいったものよりも、むしろもっとマニアックな感が強いことに気が付いて、心の中で密やかにニヤリと笑ってみたりする……。」
今でも、「経験視力」で、「遠くに蠢くそれらしき飛行物体の体型・色彩・飛型などを綜合し、大雑把なイメエジでそれらを見分けること」ができる。
「三十年の昔と言えば、奥三河の山裾には豊鉄・田口線というローカル鉄道があって、飯田線の本長篠駅で乗り継いで木曽山脈の南端に続く段戸山麓の三河田口までの野々瀬川に沿ったおよそ二十キロをトロリトロリト走っていた。」
鉄道マニアではない切通さんにはいつ廃線になったかはわからないが。
「ちょうど中学生になったばかりの年に、その頃はまだエビフライなど大変なご馳走であった名古屋の街から、当時『愛知県のチベット』とよばれていたこの僻地に蝶を求めてやってきたのである。
田口の駅から段戸山(一一五二メートル)の山裾に入り込むまでの道程は、もはや僕の記憶に定かではないけれど、途中から山深い渓流に沿ってかなりの急登が続いていたことだけははっきりと覚えている。
その折は、この流れの名前すら知らぬまま、ひたすらにまだ見ぬ蝶を探し求めていたということで、釣りを初めて後に知ったその渓は寒狭(かんさ)川という。いま気が付けば『三河アマゴ』の名川であった。
もちろん当時の僕には『アマゴ』などという言葉はなく、かくいう存在があること自体、思いも及ばぬ世界に居た。いま思うだに『惜しかったなァ』の一語に尽きるが、なに、そんな思いはこの川に限ったことではなく、後年、蝶々採りから山登りに移っても、なお永らくの間『釣り』などという狂気の世界を覗き知らぬ平和な日々を過ごしたため、おなじように『残念無念コンチクショウ!!』という渓々が今になって増えて増えて、歯ぎしり・地団駄すること止めどがない。
加えて、素石老などの供をすれば、行く先々で『この川にも昔はギョウサンおりましたでェ〜』などと聞かされることになるのだから、年甲斐もなくまだまだ釣りたい盛りである僕は、その度毎に確実に、血圧の一〇メモリばかりを上げさせられることになる。
ただ不幸中の幸いは、どちらかと言えば元来は僕は低血圧気味であったことで、それが、つい半年前に久々に生命保険医で測ってみると、『理想的な数値です!!』とお褒めの言葉を頂戴した。この分ではわが健康のために素石老には謝辞を呈さねばならないことになるのだろうか。」
切通さんは、昭和一八年生まれ。オラよりも三歳若い。
エビの天麩羅が大変なご馳走とはどういう意味かなあ。食堂で食べるエビのことかなあ。
オラの中学生の時は、中学のそばにあったうどん屋で、腹減ったあ、と欠食中学生達が騒ぐのに辟易した先生がおごってくれていたのが唯一の外食。
エビの天麩羅は家では食べていたのではないかなあ。
なにしろ、マッタケを食べたのは昭和二〇年代だけ。ナマコのコノワタを食べたのも昭和二〇年代だけ。
コノワタを食べることができたのは、早朝の魚ん棚に行った親が、棄てられているナマコの腸をもらってきたから。昭和三〇年に近づくと、その腸が棄てられるというありがあたい状況は消滅した。昭和の終わり頃、飲み屋でコノワタを食べたが、盃ほどの量で千円札が消えたなあ。
エビ天よりも、卵の方が貴重ではなかったのかなあ。白色レグホンはまだおらず、「鶏舎」もなく、いや、人間でさえ、掘っ立て小屋住まいがいるというのに、鶏が「高層」住宅・鶏舎に住むなんて頭が高い、ということになるはず。
コノワタはうまかったが、マッタケはうまかったのかなあ。牛肉やかしわと一緒に食べてはいなかったであろうから、子供にはうまい食材とはいえなかったのではないかなあ。
「エビ天」を家で食べていたとしても、今風の大きなエビではなかったのではないかなあ。
「右に左に渓沿いの山道を登りながら、僕の気分は大いに満足であった。ここに来るまでに既に幾つかの初見参の獲物をせしめていたし、まだまだ珍品奇種が獲れそうな気配もあった。
そんな軽やかな足取りの僕の前を、一匹のシジミチョウが地を這うように横切って川の流れの只中に出ると、川下から微かに吹き上げる渓風に乗るがごとく、流れの真上を上流に向かって小刻みに翔び遡っていく。
なんだ、ベニシジミか……。
こいつは全国どこでもいるやつだから、わざわざこんな所にまでやってきて捕まえるほどの値打ちはない。僕は一旦伸ばしかけた捕虫網を引っ込めると、流れ出る額の汗を拳(こぶし)で拭った。
と、その時である。川面すれすれに翔ぶベニシジミが、川中に突き出た岩を避けて右手に回り込んだ刹那岩陰の向こうで小さな水しぶきが上がり、それとともにベニシジミの姿が忽然と僕の視界から姿を消してしまったのである。」
純情可憐な蝶々少年は、神隠しにあったベニシジミ、奇怪な消え方をしたベニシジミは、
「恥ずかしながらありていに白状すれば、僕は間違いなく河童の仕業だと、しばらくは本気で思い込んでいたのである。」
「かくも純真であった蝶取り少年も、やがてベニシジミに似せた毛鉤を作りだし、たとえそれが河童であろうとも、この毛鉤に踊ることごとくを釣り上げてやろうというほどに逞しく成長した。」
「アマゴ(らしきもの)がベニシジミという紅い蝶に喰らいついたくらいだから、カゲロウが蝶の形に変わっても、また『赤い色』という点に関しても、さしたる問題はないらしい。まさか近ごろの新人類でもあるまいし、彼らの食性や色の好みが三十年やそこいらで変わってしまうこともないであろう。」
ということで、ベニシジミから受けた啓示を思い出して、赤い毛鉤を作ろうとされた。その前に立ちはだかったのが、赤い羽根を獲得すること。
「胴に巻く赤い毛糸ならどこででも手にはいるし、それを咥えてもらう山女魚にはいささか失礼ながら、安上がりに済ませようと思うなら、わが奥方が穿き古した毛糸の赤いパンツを失敬する手だてだってある。もっとも、釣りという魔性の世界に首を突っ込んで以来、奥方が穿くパンツの色などとんと興味を失くしてしまったから、もしかすると毛糸の赤パンツなんて貴重品は我が家にはないのかも知れないが、まあ、そんなことはさしたる問題ではない。
肝腎なのは赤い羽毛で、これが手に入らねばわが苦心の蝶々毛鉤は画餅のままに終わってしまうのである。『神サマ、お恵みを……』と言いかけて、僕はニタリとほくそ笑んだ。」
赤い羽毛をいかにして手にいれることができるのか、と悩んでいたときに新たな啓示が……。
「そう、『オネガイシマース!!』という例のやつだ。共同募金の赤い羽根である。」
赤十字社に電話をして冷たくあしらわれ、一〇月一日の「解禁」を待った。
「僕はあいにくロリコン趣味というものを持ち合わせてはいないから、駅頭で黄色い声を張り上げる女子高生の群れに突入し、ニタニタしながら胸に羽を挿してもらうという快感をまだ一度も味わったことはない。」
そんな切通さんは、
「『あのネ、胸には着けてくれなくていいからサ、むしろ針が付いていないやつはないの?』
『コレ、全部おんなじ色? できればもうちょっとオレンジっぽいのが欲しいんだけどネ……』」
この結果は、女子高生の侮蔑の眼に囲まれることとなって、千円札を箱に入れて一本の赤い羽根を獲得できただけ。純真な方が黄色い声に囲まれると、逃げ出されるんですねえ。
何とも純情な切通さん。オラなら、アドレスを聞き、また、逢い引きの約束を取り付けるのになあ。結局一千九百円を費やして、また拾った一本を含めて三日間で十一本の赤い羽根を得ることができたとさ。
「赤毛布(ゲット)釣り師」の腕は如何?
素石さんらと佐渡に行った時、
「〜この翌日、僕の赤い毛鉤にはかなりの山女魚がピョコリ、ピョコリと顔を出した。
頻繁に毛鉤に踊ってくれたにしては、山女魚が三つ、岩魚が一つという当日の釣果はいささかもの寂しくはあるけど、これこそが『出る』ことと『掛ける』こととの相違であって、間違いなく僕の腕前の所為ではあっても、少なくとも赤い毛鉤自身の責任ではない。後で聞けば、隣の川へ入った素石老も僕と変わらぬ獲物であったから、やはりどんな色を使っても、釣れるときは釣れ、釣れないときは釣れないとしかいいようがない。
もっとも素石老は、その大半の時間を道端に寝そべっていた青大将をからかって遊んでいたらしく、あまりこちらがまともに考えると、馬鹿を見ることになりかねないので気を付けなければいけない。
もともとこのご老体は、自分でテンカラを世に広めておきながら、『テンから釣れない』のが『テンカラ』だと大言してはばからぬ御仁だから、こういう師匠と遊びながら行を供にしていると、僕のごとく腕前はテンから上達しないことになる。」
「釣れるときは釣れ、釣れないときは釣れない」ということが、すべての人に平等に作用していれば、世に憂いなし、となるが…。
山女魚などの棲み家は?
「それにつけても、山女魚だの岩魚だのというやつは、岩のエゴとかエグレとかを好んで棲み家にするものとばかり思っていたが、ひょっとすると、それは彼らの『別荘』にすぎず、本宅ともいうべき隠れ家は『昔』という失われた時間の中にこそあるのかもしれない。」
「本宅」には、俗人、下界の人間は足を踏み入れることができないから、素石さんは青大将とたわむれ、また、礼子ちゃんがノータリンクラブの面々はヘボといい、あるいは、ノータリンクラブの人には餌をつけないで糸を垂れる人がいること、これらは「失われた時間」の世界を追憶しているということかなあ。
切通さんも、「本宅」を訪ねようと思われているが……。
「その着眼・発想から半年を経て、ここに目出度く巻き上げられた赤い毛鉤は、I君の例のごとく不審な思いを洩らされることも多いけど、僕自身はなかなかに気に入って、ベニシジミの学名に因み『リカエナ号』と命名した。
今年は一度、『リカエナ号』を持って三十年ぶりにあの寒狭川源流を訪ねてみたいと思っている。」
寒狭川は昔の寒狭川にあらず。
昭和三十七,八年頃の飯田線湯谷の駅前を流れていた寒狭川(と思っているが)は、水中に数多の大石が転がっていた。今はちょろちょろ水しか流れておらず、アマゴの放流も止めたとのこと。
宇蓮ダム上流では今でも水があり、アマゴがピョコピョコとリカエナ号に飛びついてくれるのかなあ。
ダム上流であっても、砂防ダムがアマゴの生活圏を破壊しているかも。今から二十五年ほど前の寒狭川源流域に出かけたかも知れない切通さんの血圧は如何に?
そもそも、「寒狭川」という名前から「宇蓮川」に改名しているのかなあ。それとも、「寒狭川」と「宇蓮川」は別々の川、豊川の支流かなあ。
飯田線に沿って流れている豊川は、宇蓮川、それよりも西に寒狭川が流れているよう。 野々瀬川は見つかったが、寒狭川は大千瀬川まで遡ったが見当たらない。 |
5 アマゴ釣りの近藤正臣さんと恩田さん
天野礼子「萬サと長良川」
「萬サと長良川」は、1990年筑摩書房から刊行され、1994年には文庫本で発行された。
その文庫本に、近藤正臣さんが「解説 なっとく出来ない!」を書かれている。
書かれたのは、「平成六年 二月一五日 五十二回目の誕生日に」
近藤さんは、三年前に礼子ちゃんと連絡をとり、初めてデモに参加し、また、堰のピアがどんどん増えていく姿を眺められ、
「今からでもいい『もう一度見直します』と言わないのか、建設大臣は!
三年近く反対運動に参加してきたのだ、私も少しは勉強した。建設省が言っている利水も、治水も、塩害問題も全部嘘だと知っている。現在(いま)だに堰の建設をストップしない理由(わけ)は、政治家や官僚が、川と共に生きる人の生命や、願いや希望(のぞみ)より、自分のメンツと利権を後生大事に守っているから、唯それだけ。
もうわかった、それならそれで私にも覚悟がある。長良川だけでは収まらない。悲鳴を上げている川の声が聞こえたら、そこへ私は飛んでゆく。なにほどのことが出来なくてもそこで一緒に泣いてやる。
生涯“サツキマス”十匹! この決意も取り下げない。」
近藤さんが硬派の方とは想像もしていなかった。
その近藤さんに非常に申し訳ないが、近藤さんの文から換骨奪胎をするヵ所は、恩田さんとの釣り姿です。すみません。
早春の近藤さん
「郡上八幡・吉田川の上流水沢上(みぞれ)のあたり。三月の雪がまだたっぷり残っている渓の岸辺には猫柳(ねこやなぎ)の芽がポッポッと開いて、早鳴きのウグイスがケキョケキョと下手くそにさえずり、雪汁(ゆきしろ)を入れて淡いミルク色をした渓水(たにみず)の流れは、もうすっかり春を気取っている。
それでも空気はきりきりと張りつめて水晶の欠片(かけら)あびたように痛い。
本当にもう春か!」
「朝の四時には宿を出て、しらじら明けから竿を振っている。それはいい。魚釣りはどだい朝の早いものだ。
だがびくの中わはどうだ。錆(注:旧字で書かれています)びたアマゴの一匹でも入っているのか。
昨夜、釣り仕掛けをつくっているときに描いたイメージではルビーの飾りも彩やかな、ずっしりと重いアマゴが五,六匹、びくの中でゴトゴト跳ねていました。」
切通さんといい、近藤さんといい、心優しいヘボの味方では。
ヘボに勇気と希望を与えてくれる希望の星では。
近藤さんは、釣れないにもかかわらず、雪にあんよを邪魔されて同じ場所を流している。
「これでは釣れない、絶対に釣れない! 分かっている。
竿を置いて煙草を一服。
煙が咽に暖かい。
仕事だったらイヤだ、断る、こんな時間にこんな処で。
きれいな女優さんがそばに居てもテレビのロケなら絶対請けない。私が請けても女優さんが断る。スタッフが嫌がる。
これは修行だ。寒中の行だ。
好きでやってるアマゴ釣りだ!」
さすがは俳優さんですなあ。オラのあゆみちゃんを軟派しているときの難行苦行の気分、思いを適切に表現されている。一度も近藤さんにあったことはないのに、以心伝心、すべてを見通されている。
煙草を吸っている間に糸が氷っている。目印も餌も。
「私のアマゴ釣りのほんの一コマ、まあ、季節は変わってもほとんどこんな繰り返し。それでも惚れて通ってもう十年です。」
近藤さんが、この文を書かれたのが、平成6年。その10年前ということは昭和55年頃からアマゴ釣りを始められたということかなあ。
オラがあゆみちゃんのナンパを始めたのもその頃。
アマゴでも人工種苗が主役になっているのかも。しかし、まだ、在来種が再生産されているところもあるのかも。八幡は、どのような氏素性の状況になっていたのかなあ。
名人の釣り技
「この辺り、釣りの名人・上手は山ほど居る。そんなキラ星の中で抜きんでて光っている一等星が古田萬吉氏だったそうだ。残念ながら『萬サ』の渓釣(たにづ)り姿を観る機会が私には無かった。もっともそれを観ていたとしても、それで私の釣りの腕が上がったとは思えん。
名人の釣りなんてものは、観ていてスゴイ! と思えるようなものではないのです。
まるで何気ないものです。
アマゴが勝手に掛かってくるのだもの。
目印が流れに乗って這うように水面をゆきます。魚が食った気配も無し、目印も動かない。それでもピシッと竿が立ちます。水中でギラッと光ったアマゴが次の瞬間にはもう腰に差した郡上だもの中におさまっています。まるで上手なトランプ手品を覧ているようなもの。七十歳をとうに過ぎた『芳花園のおじさん』恩田俊雄氏の釣りを見せてもらったときのことです。
『近藤さんええか、目印が動いてからでは、もう遅いんやで。その時はアマゴが餌を吐き出したときや。くわえた瞬間に合わせるんや』
『でも恩田さん、目印に変化が出ないといつアマゴが餌に食いついたか分かりませんが……』
『イヤ、それが分かるんや。川を観てるとアマゴが遊んどる場所も、餌を喰むポイントもちゃんと分かる。ほいでアマゴが餌に食いつく場所を仕掛けが通った時竿を立てたええんや、ホレ、こうして掛かってきよる』
『ハー? 釣れましたね。でも魚のあたりを見るのでないなら、目印はなんのために付けるのですか』
『糸が細いやろ。光の中に入ると仕掛けがどこに流れとるかよう見えん。それで見印を見るんや。ホレ今目印が白泡から出よった。ちょっと流れが早うなっとるやろ、ここで合わせるんや、あかん。型がだいぶ小そうになったな、ここはこれで終わりや、さあ今度はその上の深瀬(ドンボ)を釣ろう。あそこには大きい奴が居るで、そこは近藤さんあんたが釣ったらええ』
『恩田さん、どうもこの深瀬(ドンボ)にはアマゴはおりませんねェ、もう七回も流しているのに一度もあたりもありません』
『イヤ、アマゴは居る、あんたの流し方では食わんだけや、餌をもっと自然に流してやるんや』『ハイ、自然に流しているつもりですが』
『あかんのやそれでは。アマゴが餌を食おうと待ち構えとる、その鼻先を通るように餌を流すんや、自分で流すんやない、流れが勝手に餌を引き込んでアマゴの鼻先まで持っていってくれる、その流れを“食い波”というのやが、その食い波に仕掛けが入るように竿を振るんや』
『なんだか難しいですね』
『なんの、簡単なもんや。ちょっと竿貸して、ホレここに仕掛けを落とす、スーと波が仕掛けを引き込んでいくやろ、これで食い波に入った。アッあかん……。どうしよう近藤さん、あんたのアマゴ釣ってしもうた。』
恩田さんの教えの対象となったアマゴは、ヤマメねえちゃんが鈍くさい、山女魚よりも簡単に釣れる、というアマゴと同じかなあ。それとも、人工種苗のアマゴは鈍くさく、簡単に釣れるが、本物のアマゴは簡単には釣れないということかなあ。
また、石垣先生の「テンカラの科学」での異物を吐出するスピード競争と較べて、目印でアタリを取る、合わせるのでは遅すぎるということとどのような関係になるのかなあ。
「ソラ釣り」
礼子ちゃんは、萬サ翁と与三五郎さんの「ソラ釣り」の会話も掲載されている。素石さんのメモに基づくのでは、と想像しているが。
「萬サと長良川」の「第2章 職漁師となる」の章の「“宴会石”や“喰い波”」から
「『そいじゃあ、な。こう、エサを流しとうとアマゴが食いつくええ波があるじゃろ。あれは萬サはどういうとるんや』
『わしか、わしは“食い波”やな。桜井銀次郎サが確か言いはじめたんや。あれが食い波やと口では説明できんがな、うまくその波に乗ってエサが沈むと、必ずアマゴが食いつくな。与三マはどういうんや』
『わしはな、子供の頃亀尾島の荒倉で育っちょるやろ。子供の頃は、カガシラ釣りでよ、シラハエを釣っとったら、アマゴがよう掛かりよった。目が悪いでよ、なんとなく勘で釣っとったから、その、なんちゅうか、口では説明できんし、理くつはにが手じゃ。近頃はしろうとの若いやつがくっついてくるでいろいろ教えてやるが、口で説明せえいうもんやから、どやしつけてやる。わしらは先輩の釣りを見よう見まねで勉強してきて、その技を盗めといわれたもんや。三日も教えてくれたら、ええほうやった。萬サもそうやろ』
『ほうや。それによ、食い波は口ではいえん。誰でも身体で覚えるんや。それができるやつだけが漁をできるんや。わしはよ、アマゴ釣りの始めは、三日習うただけや、師匠もな、きびしかったでえ』
『桜井銀サはどうや。あん人は“神様”やといわれとうお人やが、萬サだけに特別に“ソラ釣り”を教えたと聞いとるが……』
『ソラ釣りか。ソラ(上流)へ振りこんでソラで掛けるんや。コツはな、アマゴの後ろにエサを落とすんや。アマゴはよ、後ろでも気がつくじゃろ。エサが沈んで流れ始めるとよ、見とってよ、それがうまく流れとったら、クルッと反転してエサに追いつき、また頭を上流にクルッと向けながら食いつくんや。ほやから目印が横に動くやろ。そいつを合わせんのよ。これがコツやな。大きいアマゴが釣れるんやでぇ』
『わしゃぁ、ソラ釣りはできそうやないな。目が悪いで、な』
『ほうか。ソラ釣りは本流の釣りやで。与三マは、できんでもええぞ』」
さて、萬サ翁が、目印を見て合わせると。恩田さんの合わせと異なるのかなあ、同じかなあ。
オモリを使う?使わない?
食い波にエサを流すことについて、宮地伝三郎他編「岩魚百態」(筑摩書房)の中の陸氓卿「壁」に、オモリを棄てろ、と。
「以後しばらくの私の岩魚釣りは、自己の存在を主張することだけで成り立っており、自然は単なる付属品であった。不遜に竿を振り、鉤にのる岩魚しか見えない馬車馬で、『より多く釣ること』のみを追いつづけた。
ところがある日、岩魚釣りの本と名が付けば買い漁り、次々と読み捨てている中に、これまでの私の釣りを大変換させることになる一冊の本に遭遇したのである。
阿部武著の『東北の釣り』がそれで、この半職漁師の釣りキチは、オモリを捨てろ、糸は短く太く、鉤は大きく、と、私のこれまでの釣りにとっては戸惑うことばかりを書き連ね、挙句の果てには『今まで得た釣りの知識で役に立つのはテグスの結び方だけ』と極論されるに至っては、大変なカルチャーショックを覚えさせられることになったのである。
早速、書かれた通りの仕掛けで、近くの浦野川の上流でアブラハヤの群れに竿を出し、流れと糸の関連する動き方や餌を置くポイントなどを実地に試し、錘はなくとも鉤が底掛かりすることが判ったまでは良いのだが、肝腎の水面での釣りの見当が皆目つかない。
たまたまそんな折り、現在のパートナーであるSさんに出合ったのだが、このSさんの釣りは、東信州の山里に細々と伝承されてきた職漁師の技法に裏打ちされたものであり、先の阿部武さんの説く岩魚釣りに奇しくも酷似していたのである。
この頃Sさんは、既に水面の釣りを実践しており、流れに乗せた餌を送るコツ、逆引きの速さ、水面すれすれに上流に向かってなめるように走らせるスピードなどを解明し、そのことごとくを教えられる幸運に恵まれた。
いや、この釣りの一番の要諦は、実はこうしたテクニックにあるのではなく、自然と自分の位相の認め方と価値の基準とが、今までの自分の釣りとまるで逆であることをどう納得するかにかかっていて、それ故にこそ先にカルチャーショックと表現したわけである。
おそらくこの釣りの鍵というものは、流れを読み、流れに餌を任せられるか否かにあって、つまり、錘があれば流れに関係なく餌を目的地まで容易に運べるが、その頼るべき錘がなくなれば『餌を運ぶ』という意識は消えざるを得ないことになり、『流れに餌を運んでもらう』という自然に対する謙虚な気持ちが重要になってくる。
それを理解してからは、水の流れというものが能弁なものであり、聞く耳をさえこちらが持てば自然を踏みつけにして歩いた従来の釣りから、自然の中に包まれた安楽な釣りに変わり得ることを知ったのである。こうして流れとの会話が多少とも出来るようになり、また山吹の鮮やかさや山桜の花ひとつが岩魚の魚信(あたり)と思えるほどに自然に同化する意味を理解したとき、私の岩魚釣りにおける最大の壁が音もなく消え去ったのであった。」
ということで、おもりよさようなら、といえば、食い波にエサを流すことがいとやさし、になりるかも、と思った。
ところが、最新の「つり人」には、錘の軽い、重いを使い分けて、食い波にエサを流すべし、と。ま、近藤さんが食い波にエサを流すことが出来るようになったのか、否か、と同様、考えないことにしましょう。
理由は、
川那部浩哉「偏見の生態学」(農産漁村文化協会:1987年発行 昭和62年 )に、
「それで、そのエルトンさんに会ったときに、彼は、『アメリカとヨーロッパ大陸の生態学は同じだ』というんです。それで『イギリスの生態学だけは違う』というようないい方をするんですね。『アメリカやヨーロッパ大陸の生態学者は共通法則が大好きだ、どこにでも当てはまる、どんな種類についてでも当てはまるそういう法則をつかむことが大好きである』と。『ところがイギリスの生態学者は』、といって、『ひょっとすると私だけかも知れないけれども』というんですけどね、『私は正反対だ。この種類ではこうで、他の種類ではこうだという違いはなぜ出てくるのか。ここではこうで、あそこではああだというのはなぜかといったことに興味がある』というわけですね。
ですから、『特殊法則というのか、そういうものの背後にある一般法則は大好きなんだけども、とにかく全部に通用する共通法則を一番はじめに考えるのはあまり好きじゃない』というんですね。それから、『応用的に使えるか使えないかで、すべてのものの価値をうんぬんするつもりはないけれども、ヨーロッパ大陸やアメリカの生態学者の扱い方というのは、あまり役に立たない』というわけですよ。」
このあとも続けたい気分ですが、生半可な知識もなくして文をもてあそぶことは気が咎めますから、他の機会に回しましょう。
川那部先生の文を換骨奪胎をしていいたいことは、食い波にエサを流すとは、どのような条件の時には、どのように仕掛けを、操作をするのが適切ということか、アマゴ釣りをしたことのないものには判りませええん、というだけのことです。
さて、近藤さんは如何に?
「私、郡上釣りのキャリアはずい分と積んだけど、腕前は一向にあがらん。よっぽど鈍なんやろかそれでもアマゴだけならもう百匹は釣った、いや二百匹も釣ったかもしれん、この十年間にだ。 この数字は悲しい、自慢にならん。
八幡に住む先輩たちならもっと釣る。私が今まで釣った分の倍は釣る。いや五倍は釣る。それもワンシーズンで。
切ないが、この事実は認めてしまう。認めた上で納得もしている。
納得ゆかないのが『さつきマス』だ。
深緑の五月、長良川の本流・新淵(しんぶち)あたりにマス釣りの竿が何本も出る。
『マス百遍』と言う。マスを釣るには同じ波に百回流せということだ。一流し二十秒かかるなら、一分で三回、十分で三十回、一時間百八十回。煙草も喫わずあくびもせず唯ひたすら打ち込む。真面目に打ち込む。今度こそはと打ち込む。それでもあたらん、三日通っても釣れん。毎日通う。それでもやっぱり釣れん。東京から連れていった友人は竿を出したその日に一匹釣った。これが口惜しい、納得いかん。
『マス釣りは運もあるんやって』と八幡の釣先輩。
『何遍も流していたらそのうち餌がマスの開いた口に入りよる。その時は釣れる。ほんまやて。それまでがんばればええんや』
これでは慰めにはならん、励ましにもならん。」
その頃から幾星霜。
近藤さんは、さつきちゃんをだっこできたのかなあ。アマゴは大漁になったのかなあ。
河口堰はどのような要因が作用して、サツキマスを減らしているのかなあ。それとも減らしていないのかなあ。
人工種苗のシラメ・シロメは、海に下り、川マスに育つのかなあ。それとも戻りマスとなり、図体だけは大きくなるが、幼魚紋が消えないのかなあ。
近藤さんが川マスを釣る機会が現在でも存在するのかなあ。川マスがまだ長良川に釣りの対象となるほど棲息しているのかなあ。
かわいい礼子ちゃんに懸想をしたがため、釣ったこともないあまごちゃんに四苦八苦。
それにも懲りずに、サクラマスは雌か、に進みます。
とはいえ、さくらちゃんも管理釣り場で1匹釣っただけであるから、難行苦行になる。少し骨休めをしないと。
ということで、礼子ちゃんが剽軽な萬サ翁の釣り姿を書かれているので、それを紹介します。
6 剽軽な萬サ翁
魚の一般法則と特殊法則
個体差、群衆の生活誌の多様性?、そして共通性?
アマゴよりも山女魚の方がその生活誌はわかりやすいのでは、とは思えど、ミスリーディングをしないで紹介できるとは、思えない。
川那部先生の「偏見の生態学」には、今西博士がアマゴ、ヤマメ、岩魚の地域差、生活誌の違い等について悩まれた状況を次のように書かれている。(「偏見の生態学」の「イワナとヤマメのシンポ」の章)
「今西錦司さんの『うろくず集』が大阪の淡水魚保護協会から出版された。イワナとヤマメの棲(す)み分けを記し、岩魚類の分布と分類を論じた既発表の論文二遍に、雑録一〇遍をくわえたものである。前著は『根拠薄弱、理屈に隙間多し』と評されたものだが、結論自体はその後の研究成果を見事に先取りして余すところがない。こういうものをこそ奇書と言うのだろう。」
今西博士が、素石さんらの協力も得て、イワナやヤマメ、アマゴの容姿、群集の個体差と共通性を調査され、また関係性を考えられていた。学者先生とは異なり、ちょこっとフィールド調査をしたり、実験環境で得られた知見を普遍化する手法はとられていない。
そのため、「根拠薄弱、理屈に隙間多し」と評されることになったのではないかなあ。
「共通法則」からイワナ等渓魚の容姿、生活誌を理解するのではなく、「特殊法則」からその背後にある「一般法則」を求めようとされた研究者の「姿勢」が、川那部先生の「奇書」としての「評価」ではないのかなあ。
そのような状況に土足で立ち入りたくない、と、かわいい礼子ちゃんに懸想しながらも悩んでいたんですよ。
「偏見の生態学」の「川の『上』と『下』――琉球列島の河川群集瞥見」には、沖縄島の地形、川の状況から、底生性の魚であるヨシノボリ等が川底の餌ではなく、
「これに対して滝よりも上流部では、ボウズハゼは下流部同様に珪藻・藍藻を専食するが、ヨシノボリは藻類と水棲昆虫のほかに、いやそれよりもむしろ、陸生ないし水面昆虫を著しく多量に摂食している。また水棲昆虫の中でも、カワゲラやカゲロウなどの自由生活者がやや多く摂取される傾向にある。」
沖縄島では、川と海を往き来している魚が、下流部でも形成されている段差のある「滝」のため、ヨシノボリ等の一部の魚しか上流に移動し、生活圏とすることが出来ない。そのため、京の川では底生魚であるヨシノボリ等が沖縄の川では異なった生活をしている。
「生活の変異を捉え直そう――あらためて知る生物の複雑さ」の章には、
鮎とボウズハゼの種間での縄張り現象を見つけてしまい、その説明を考えている時、
「アユのいない場所でのボウズハゼの摂食行動が、沖縄島各河川にある滝の上下でかなり異なっていることに気づいたのだ。この方は早判り的に答えだけをいうと、底生性のこの魚、浮き魚のいない場所ではそれに『気兼ねせず』に水面上の昆虫にまでとびついて食う。浮き魚がおらずただ底魚のみといった場所の存在しない京都付近で仕事を続けてきた私にとっては、沖縄島の滝上のヨシノボリは特異な行動をすると見えるが、ヨシノボリ自身にとってはどちらが特異なのか。これはにわかに断定できない。
だが、説明の可能不可能はともかく、こんなことにいまさら驚くのがそもそもおかしいのだ。生物の種なるものは、分布範囲全体にだらだらと生息しているのではなく、もちろん相互に深く関連しながらも、多少ともまとまったいくつかの集団として、実際には生活しているのである。この集団のことを『ごく最近の』生態学では個体群と呼ぶのだが、種の生活様式はじつは、個体群ごとに多少ともちがったやりかたで発現しているのである。」
「種の生活様式は個体群ごとに多少ともちがったやりかたで発現する――私は今このようにいった。その理由はなんであろうか。一つは個体群ごとに、遺伝的性質の変異が多少とも違うことであろう。それと同時に、動物はつねに他の生物と共存して生活している。多くの種は、自分のすみたいところだけにしかもその全部にすんでいるわけではなく、食いたいものだけをしかも全部食っているわけでもない。他の生物との相互関係によって、その要求を曲げて生活しているのである。そうしてこの二つの理由は、相互に関係しあっており、ある個体群が示している生活様式というのは、こうした過程の結果なのだ。」
「アユが生息密度によって社会構造を変え、それに伴って成長の様式の変化することも、先ほど述べた川魚の食いわけも、あるいはまた、海から溯上するアユと琵琶湖からの放流アユとに見られる性質のちがいいも、知悉していたといってよい。それにもかかわらず、琉球列島と京都付近を比較してみて、川魚の行動の違いにいまさらのように驚くのは何故か。遺伝的なものとそうでないものとを過度に判然と区別しようとしたことにも一半の理由があり、また、個々の事実よりもそれらの平均とその偏差だけに重点を置く考えに、知らず知らず陥っていたことも、その一半であろう。京都付近で認められた変異を単純に延長していくだけでも、遺伝的にも相互関係の上でも互いに離れた琉球列島と京都付近とでは、行動の大きく違うことが予想されるはずだからである。」
そして、エルトンさんの「侵略の生態学」の訳者あとがきに書かれたご自身の文を解説されて、
「要約すると、種は決して一様ではない。ある時期ある場所でとらえた種の生活様式なるものは、真のもののごく一部でしかない。生活の変異とその法則を知るには、比較をおいて方法はあるまい。そうして、多かれ少なかれそこにすむ生物の相互関係の総体――群衆を考慮に入れねばならない。ところで私たちは、ものごとをありのままに受け取る能力をあまり持っていない。したがって、後で訂正するはめになることを覚悟の上で、仮説つまり『偏見』を持って、個体群ごとの、さらにいえば一つ一つの個体の示す生活様式を、見つめなければならないのである。」
この人間が観察できた「生活様式」が、「部分」でしか過ぎないことを礼子ちゃんの「萬サと長良川」の「最後のアマゴ釣り」に紹介されている素石さんとの会話の中で一つの事例として紹介します。
「『わしは前にもいうとったように、海のマス、川のマス、アマゴとあるとだけ思うとった。じゃが、あんたらが調べるのを手伝どうとるうちに、細かいことに気をつけてみるくせができたんやな。それに今西さんが岐阜大の総長になって県から禁漁になっても釣れる許可をとってくれたで、シラメは不味いが見本に釣っといてやろうと思て冬でも竿を出すようになった。それで、シラメがいっぺんに下るんやのうて、集団で何回かに分けて下ることや、中には下らんシラメもおるということに気がついた。』
『僕は、下らんシラメは、知らん顔してアマゴにもどっとるんやないかと思うてます。そうでないと説明できひんことを、実はもう何年も揖斐川(いびがわ)の上流で見てきてるんですわ』
ダムで海との往き来が出来なくなった徳山村では、今も発生している。」
この環境と魚の生活行動の違いの意味が渓魚では多いのではないかなあ。近縁、類縁、あるいは遠縁の、さらには異質他者の存在が、地域によるイワナやヤマメの生活の違いをもたらしていることが多いのではないかなあ。
「イワナ」と、紀伊半島の「キリクチ」と、江の川等の「ゴギ」の容姿がどのように異なりあるいは同質で、また、生活誌に違いがあるのか、ないのか、今西博士が観察された現象、事実から悩まれた結果が、川那部先生に「奇書」と評価されたのかも。
川那部先生の沖縄島における現象の意味付与とその一般原則の探訪は、紹介はしたいものの、腕が伴わず。
現象の一端だけを見て、あるいは「違い」が判らず、一般化しているであろう学者先生と同じ狢にならないためにも、また、「思索」の「苦悩」から逃れるため、剽軽な萬サ翁の姿を観ることで、息抜きをします。
杉錠の息子さんとの釣りと夜網
「『ごめん。ここに糸があるそうやな』
『あんた誰や?』
『わしか、わしは萬吉や』
『萬吉? まてよ、俺の親父が何かいうとったな。そうや、今日は川で川馬にじゃまされたというとったが、あれが萬サやと聞いたことがある。ほんなら、あんたが古田さんかい。俺はな、大坪錠吉の息子や。斎次郎といってな。まあ、あがってまってくれ。戦争へ行っとると聞いとったが、いつ帰ったんや?』
『ほう、あの仁の息子かい。川馬か、なつかしいのう。川で馬みたいに走るというて誰ぞがつけたあだなや。そういや、あの親父が昼寝しとう間にあのへんのアユを皆釣ってまったもんで、えろうおこられてな。誰ぞがバカ親切に、大坪さん、あんたこれからやっても釣れんで。川馬が来て釣ってまったといいつけたんや。親父さん、元気かい。そうかい。あんたは神戸のなんや貿易商に勤めとると聞いとったが、疎開して来とったんか。まあ、仲良うしてくれ。わしか? わしは今帰ってきたばかりや。ミンダナオに行っとって、わしの部隊はほとんどやられて、こっちから出た中隊長も死んだ。浦賀へアメリカの船で帰ったんや。春になったら釣りをやるで、網を作ろうと思うてな。ここの親父が糸を持ってたと聞いたが、あんた預かってなかったか。あぁ、糸がありゃわしが作るで、あんたの分もこさえてやってもええぞ。そんなもんはちょろいもんや』
『親父が言うとったが、あんたが川を渡んのを見て、対岸で皆がいつも賭けとったそうや。あの川馬のやつ渡ってくるが、ここよりカミに着くか、シモに着くか、いうてな。あの白い牙をむいとる本流の一番きついとこを渡るそうやな。うちの親父は、いつもカミに着くほうに酒1升賭けて、連戦連勝やというとった。わしはあんたより六つ年上じゃが、若い時に八幡を出とるもんで、釣りがヘタなんや。おしえてくれまいか。弟子にしてくれ』」
「若い頃八幡を出ていた斎次郎は自分でもいうように上手くなかったが、萬吉に教えられたとおりに教えられた場所を釣ると、必ずよく釣れた。斎次郎が釣っていると、あとから釣り上がってくる萬吉の目が彼を見てくれている。先に釣らせ、目を光らせていてくれていても、萬吉の釣果は普段と変わることはなかった。」
妻くにえさんとのコンビ
五年後、斎次郎は神戸へ戻った。
「斎次郎が八幡を後にした日から約ひと月の間。萬吉は一日も川へ立たず、むっつり顔で放心したように仏壇の前に坐っていた。」
「『とうちゃん、大坪さんが神戸へいんでまってから、元気がないなあ。おらが大坪さんの代わりに夜網(よあみ)を手伝うちゃろうか。勲はもう乳がいらんで、寝かいときゃええで』
『あほ、いえ。お前泳げんやないか。泳げもせんもんが、夜、船に乗って、夜網焼くのを手伝うやてか。わしが気がつかん間にはまり込んだら、どがいするんや。わしは、もう四人目をもらう気はねえぞ。子供も小せえのが五人もいるのに』
『その五人もいる子に、まま食わせにゃならんやないか。あんなに仲良うしてくれた大坪さんがいんでまってがっかりしとるのは、おらもわかる。じゃが、もう、ひと月川へ出とらん。おとうに元気出(注:原文のまま)いてもらわんと困るんや』」
夜網とは
「流れのゆるやかな淵に張り網を入れ、船のうしろに篝火を焚きながら、眠っているアユを驚かして追い立て、あわてたアユが網につっこんだところを引き上げるという漁法で、火を焚くことから『夜網を焼く』といい習わしていた。」
「『ええか。網は、シモから順に入れるんや。魚の鱗が立っているような状態で川へ網が立たんといかん。わしが船を漕ぎながら教えるで、いうとおりに網を順に入れてまってくれ。一番カミまでいったら篝火をたいて、いっぺんシモまでいって、またもいてくる。カミの網から順に上げるんや。網はだいたい十束くらいや。ほいで、それを二回くりかえす。もし何かまちごうて舟から落ちそうになったら大声を上げるんや。まあ最初は上手く行かんでもええ。そのうち慣れるで』
朝はくにえが五時に起きて子供たちの弁当を作り、萬吉が友釣りに出掛けると、前夜の網が完全に乾かないうちにほどく。これが大仕事だ。昼の弁当はくにえが河原へ届けるというのが常だったが、くにえが夜網を手伝うということは、これにもうひと仕事が増えるということだ。
『ほい。今日は船に乗せたるで、夜、舟に乗る練習しとけ。今夜から、やらせるぞ。わしが弁当を食ってる間、この竿を持ってみろ。どうせ掛からん。さっきからオトリが弱りかけとるでな』
『とおちゃん、竿が重うなった。なんやひっぱられよる』
『ほう、掛かったやないか。弁当も食われん。どれ竿を貸せ。見とれよ、オトリはな、こうして替える。ほれ、こうして川のまん中へアユを泳がすんや。今度はすぐ掛かるかもしれんで、しっかり見とけ。わかるようになるで』
『とおちゃん、掛かった』
『どういうこつだ。おれんたが釣ってまったとこやぞ。ここは。困ったもんじゃな』
『あれ、とおちゃん。また掛かったぞ』
『やっとられんなぁ、かあちゃん』
『おーい、萬吉さんよぉ。おまんたいいつからかあちゃんの缶持ちしようんよ。わしら一匹も釣らん間に、おまんのかあちゃん一人で釣りよって、どうもならんな』
『わしら、あほらしうてやっとられんで。夫婦してやられたら、こっちゃ形なしよ』
『ほうよ。わしもかあちゃんに釣られて形なしよ』」
くにえさんは、初めての友釣りで大漁だったようで。
昭和25年頃は、遡上アユが満ちあふれていたとしても、周りの人達にとっても、萬サ翁にとっても、くにえさんの大漁が不思議であるとは。
近藤さんが生涯10匹のサツキマスを釣る壮大な目標を立てられていたが、くにえさんは、後2匹だったかな、で、その目標を達成できたそうで。
ということは、くにえさんは天性の腕前を持っておられたのかなあ。
初めてのその夜の夜網は、雨だけでなく風も。それでも舟を出したとのこと。
昼下がりの余興
「長良川が吉田川と出合う合流点は、いつのまにか“萬サの御猟場(ごりょうば)”と呼ばれるようになっていた。」
「真夏の昼下がりのひと時は、誰の竿も曲がらない。舟を浅瀬に寄せて弁当を食べていた萬吉は、食べ終えると立ち上がり、舟を荒瀬の中程へ漕ぎ出しながら、岸から竿を出している馴染みの釣師達に声を掛けた。
『おまんら、さっきからそこで何してござる。ちいとも竿が立たんが、川番しとるのか』
“川番” とは、竿を持って川へ立っているものの少しも釣れない人をからかうこのあたりの言葉で、川の番人というわけだ。
『今はな、昼刻(ひるどき)で追いが悪いんじゃ。今日はアユがおらん。おまんがゆうべ夜網で獲ってしもうたんやろ』
『なぁにが。夜網をやった次の日はな、淵のアユがおびえてまって、瀬に出るんで、今日はよう掛からなあかんのや。大の男が大勢並んで、何いうとる。追うか追わぬか、今やってみせたるで、よう見ちょれ』
萬吉の段巻の竹竿が、いきなり立った。胴のあたりからゆっくりと弓なりに曲がる。スポッと水面に二匹のアユが抜き上げられ、萬吉の胸のあたりに構えた玉網へ、一直線に飛んできた。
『どうやな。今度は死んだオトリで釣ってみせよか』
さきほど使ったオトリの頭を舟のふちで叩き、それをそのまま空中輸送で沖へ飛ばし、水中へ沈めた。すぐにまた竿が曲がった。
岡からの釣師達は物も言えず、互いに上下の釣師と顔を見合わせるばかりである。
『今度はな、もっとおもろいことやって釣ってみせるで。ほれ』
言うなり萬吉は、先ほどの死んだオトリの下半身を口に頬張り、ムシャムシャ食べてしまった。
『これをな、オトリにするんや』
皆は竿を持ったまま、目を白黒させて萬吉を凝視した。
頭と胴だけになったオトリアユは、また先程の沖合に沈められた。まもなく竿が曲がった。
『今度は大きいでぇ。ちょっとおもろいアユやで、よう見ちょくれよ』
どうやら大物らしく、すぐには抜けない。
『いくでぇ―』
かたずを飲んで見つめる釣師達が見たのは、くねくねと身を曲げながら上がってきた大ウナギであった。
『へっへっへぇ―。どうじゃな』
『かなわんなぁ萬サには』
『わしらをからこうてござる』
『わしはな、どんなオトリでも釣れるが、おまんらのようなしろうと衆は、オトリ次第じゃ。わしは、それが言いたかったんや。その、おまんらの足元に、わしの生かし缶があるやろ。どれでも好きなん取ってオトリを替えてやれ。そうすっとまたよう釣れるで』
一斗缶を切って直したオトリ缶が岸辺に沈めてあり、萬吉はしろうと衆には誰にでもただで与えた。長良川流域では、川でオトリを借りるとそれより強いオトリを返すだけでいいという風習があったが、さすが萬吉に強いオトリを返せる人間はいなかった。さきほど萬吉が頭と胴だけのアユでウナギを釣ってみせたのは、ウナギの大好物がアユのハラワタの香りであるからだ。ぶっきらぼうだが萬吉は、時々こんなユーモラスなことをして遊ぶのだ。」
故松沢さんは、出アユ、差しアユが食事をするため、瀬に入ってくると、手返しを早くするため、掛け針を尻尾よりも内側に設定されていた。そして、脳天に針ガカリするため、生き締めと同じ効果を得ていた。
その時、オトリが泳いでなくても良し。死んだオトリを操作していたとのこと。
萬サ翁が死んだオトリを使ったのは、その時合いの時かなあ。いや、違うのでは。それに、淵であって、出アユ、差しアユがやってくる瀬ではない。
故松沢さんがウナギを釣った話を聞き忘れたが、ウナギも売れていたであろうから、何らかの方法で釣っていたのではないかなあ。
「オトリ次第」で釣れるか、釣れないかが、決まるということはよおく判ります。テク二らにオトリ頂戴、といっている身ですから。
そして、川番も。川守ご苦労さん、といわれている身ですから。
くにえさんが初めて釣ったのは昭和二五年頃のこと。サツキマスを釣り上げたのも、昭和二五年頃から、昭和三〇年代の初めのことでしょう。
ウナギも絶滅危惧種に
今やウナギまでも絶滅危惧種のお仲間入り入り。
長良川の遡上アユも夢か幻か、の状況に。
川那部先生は「偏見の生態学」の「四万十川の清流と魚 ――四万十川中流十和村公民館での講演――」で、斑模様の水質になってしまった四万十川に生息しているウナギについて
「中村の下流竹島に山崎武さんという五〇年以上漁師をしていらっしゃる方がおられますが、その方の調べられたところでは、ウナギには卵が見つからないというのがたとえば近畿に住んでいる人間にとっては原則のようになっておりますが、肉眼で十分に見られるくらい大きい卵を持ったウナギがここの川下ではかなりたくさん採れております。お断りしておかねばいけないのは、日本のウナギが本当に産卵場所に戻ることができるかどうかはまだわかっていないんです。日本へ来たウナギはもう戻れないんだという説もあります。しかしもしも戻ることができるとすると、日本のウナギの、戻るウナギの主要な産地はこの四万十川です。ウナギが次々と次の子供をふやしていくことに対してこの四万十川の下りウナギが非常に大きな役割を果たしている可能性があります。その意味でもここは重要な場所であると思います。」
ウナギの産卵場所が何処か、は、現在の知見は進んでいるようであるが、オラの関心はそのことではなく、「親ウナギ」の減少である。
山崎さんが、漁協がシラスウナギの乱獲を決定したことに懸念されたのが、昭和四六年のこと。四昔前になる。
山崎武「四万十 川漁師 ものがたり」(同時代社:一九九三年 平成五年)
「その中でも『シラスウナギ』騒動はもっと不愉快な想い出の一つである。
太平洋戦争で中断していたウナギの養殖が再び活発になりだした昭和四十年代になって、『シラスウナギ』を種苗とする技術が開発せられ、各地でその採捕が盛んになりだした。」
「『シラスウナギ』の採捕には県知事の特別採捕許可がいる。それには漁業権者の同意が必要である。」
その同意を行うため、
「帰ってみて驚いたことには、その日のうちに中央、下流の二単協の合同役員会が市内で開催せられ、席上私が『シラスウナギ』採捕に反対なので特別採捕の許可が出なかったと宣伝し、私の辞任により大同団結して許可獲得に邁進しようと決議したとのことであった。当時『シラスウナギ』は白いダイヤと呼ばれるほどの高値であったから、地元の心ない人々は咽喉(のど)から手の出るほどに許可を待ち望んでいた。一部野心的な役員にとっては大衆に迎合するためには絶好の機会であった。」
特別採補実施へと進み、また、特別採捕許可書の偽造も発覚し、あるいは一千件を超す許可書の発行、さらに夜間操業許可による密漁の横行。
「以来川の秩序は乱れに乱れた。
密漁の横行はもとより各種の盗難も相次いだ。活けてあるエビやウナギがビクごとなくなることは珍しいことではなくなり、はなはだしいときには自動車のバッテリーさえ取り外して持ち去られた。
川に秩序が戻り、無法地帯から立ち直る日はいつになるのだろうか。古き良き時代への思慕ひとしおのものがある今日この頃である。」
山崎さんの願いである川に秩序が戻る日がやってくる前に、あゆみちゃんもウナギも川から消えていく。
あゆみちゃんの著しい減少、放流ものに頼らざるを得ない状況については、海産アユの産卵時期が十月十一月という学者先生の教義に基づいて設定されたと考えている高知県の十一月再解禁が多大な貢献をしている。せめて、相模川のように十二月再解禁であれば、一番上り、二番上りの稚魚となる親の大量虐殺も、産着卵の抹殺もなかろうに。
「それにつけても、山女魚だの岩魚だのというやつは、岩のエゴとかエグレとかを好んで棲み家にするものとばかり思っていたが、ひょっとすると、それは彼らの『別荘』にすぎず、本宅ともいうべき隠れ家は『昔』という失われた時間の中にこそあるのかもしれない。」という切通さんの「本宅」の世界から無縁の川はどこに、どのくらい存在するのかなあ。
7 サクラマスは雌?
井伏鱒二「釣師・釣場」(新潮社 昭和35年発行)
漢字は、旧字表記ですが、当用漢字で表記します。
井伏さんは、最上川で、山女魚、コイ、スズキを1,2日で釣りたいと出掛けた。
酒田市山椒小路の三郎さんは、田沢川を案内するとのこと。
酒田の菊水という旅館の主人らも加わり賑やかに田沢川に出掛けた。東南風の強い風の日で、「春が一度に来て、さつと駈け去らうとしてゐるところであつた。」
「『かういふ東南の風は、ここではクダリの風と云ひます。ここからずつと川上に行くとイハナがゐます。』
と吾郎さんが云った。
いい淵が次から次に出てくるので、私はみんなを遣りすごして釣の支度をした。餌は東京から持つて行つたスズコである。風が強くて竿を持つと糸が木の枝に懸かつた。目ぶかにかぶつたハンチングも吹きとばされさうな強い風である。それで私はナマリを少し大きくして、汽車の中で丸岡君から貰つた玉浮子も付けた。淵をのぞいてみるとヤマメの姿が見えてゐたが、一時間ばかりねばつてみても浮子がちつとも反応を見せなかつた。
こんな場合は餌を変へるがいいと釣の書物に書いてある。また、そこらでイタドリの虫かエビズルの虫を見つけて取り替へるがいいと書いてある。しかしイタドリもエビヅルも見えないので、丸山君や丸岡君の釣りはじめているところを追ひ越して川上に行つた。元村長の御隠居(注:石黒順太さん)は平たい岩に腰をかけ、川上を背にして淵に糸を垂れてゐた。ひつそりとして鮒でも釣つてゐるやうな恰好だが、思ひなしかその釣姿が板についているやうであつた。浮子はつけてゐなかつた。餌はミミズを使つてゐた。」
「私は御隠居さんの釣方を暫く見物して川下の方に引返していつた。すると丸岡君が菊水の主人と並んで釣つてゐるのが見えた。もう日が翳つて風が落ちてゐたが、二人とも玉浮子をつけ、淵に対して姿を露出させてゐた。ところが丸岡君が釣りあげた。菊水の主人も釣りあげた。ミミズで釣つてゐるのである。
『よつぽどヤマメのゐる川なんだな。』
私が山道に立つて見てゐると、吾郎さんがやつて来て、
『これで釣つてごらんなさい』
と云つてミミズをくれた。
丸山君は川上に場所を変へて行つたので、私は川に降りて行つて丸山君の釣つたあとの淵にミミズの餌を振り込んだ。すると殆ど同時にぐつと来た。揚げてみるとヤマメである。
こんな川は珍しい。丸山君のさんざん釣つたあとで、しかも傍に菊水の主人が立つてゐるのに苦もなく釣れる。いい川である。私は気負つて二度目の竿を振込んだが、ミミズが木の下枝に懸かつた。」
井伏さんは何回枝を釣ったことやら。
川虫を捕るには水が冷たすぎるということかなあ。
井伏さんは、山梨の川での釣りのヤマメの「釣れ状況」と比較して、うぶな最上川支流のヤマメとの比較をされているのでは。
浮子を使う釣り方は淵だけの釣り方かなあ。
萬サ翁や恩田さんの「高等」技術がなくても、最上川支流の山女魚は釣れるということかなあ。昭和35年以前の状況であるから、人工種苗の放流は行われていない。まだ人工種苗の生産も行われていないはず。
ヤマメの容姿と産卵
山女魚は雄?
田沢の山元というところで、石黒純太さん(御隠居さん)を紹介された。
石黒さんは68歳、4,50年の山女魚釣り歴。
「山女魚のことは当地ではヤマベと云ひ、雌のヤマメは絶対にと云つていいくらゐ釣れないさうだ。」
菊水ホテルの番頭さんは、丸岡君の魚籃の中のヤマメを見て、説明をされた。
「私たちの釣つてきたヤマメは、側面に小判型の黒い斑点が八つあるのと九つあるのと二種類で、その斑点と互ひ違ひに背中に薄黒い隈取りが出来てゐた。朱の斑点は無くて、その代わりに小さな黒い斑点が下腹部にある。背中にも砂粒のやうな黒い斑点がある。
動物学者の説によると、朱の斑点のないヤマメは寒流の海から遡上したマスの子の陸封(りくふう)になつたものである。ところが菊水ホテルの番頭の説によると、マスは土砂降りのとき海からのぼつて来て、八月九月ごろ谷川の水深五寸から一尺くらゐのところに穴ぼこを掘つて産卵する。それを谷川のヤマメが傍で待受けてゐて、マスが穴ぼこから出るとマスの卵に白子をかける。マスのなかには一度に卵を産まないで、少しづつ産むやつもあるが、ヤマメは間違いなくそれに白子をかけてやる。さうして生まれた稚魚は雌の方が川を下つてマスになり、雄のほうは川に残つてヤマメになる。
『では、ヤマメには絶対に雌はゐないんだらうか。』
と丸山君が云ふと、
『殆んど例外ないくらゐ、みんな雄ばかりです。北海道のヤマメも同じです。私は北海道の生まれです。』
と番頭が云つた。
『今日、田沢川へ案内してくれた石黒さんも、それと同じやうなことを云つてゐます。』と釣師の吾郎さんが云つた。『石黒さんは、ヤマメが穴ぼこのところで待つてゐるのを、たびたび見たさうです。マスの産んだ卵は、スズコのやうにばらばらになつてゐます。』
数年前に、私は下北半島の大湊の町長さんからも同じやうなことを聞かされた。恐山のウスリー湖へ行くときのことであつた。その町長さんは、ウスリー湖から流れ出る川の薬研(やげん)といふところがヤマメの宝庫だと教へてくれ、薬研のヤマメはマスの卵に白子をかけるのだと云つた。すると、かういふ仮説が成立しないだらうか。庄内のヤマメが事実マスの卵に白子をかける習性なら、私が田沢川へ小粒のスズコを釣餌に持つていつたことは間違ってゐたかも知れぬ。もし九月十月のマスの産卵期なら、スズコの餌にはヤマメが白子をかけたらう。一方、こんなことも云えないだらうか。八月九月の侯に庄内や津軽の川にマスの卵をどつさり沈め、ヤマメに白子をかけさせて繁殖させてやる。するとヤマメ釣の宝庫となるのは勿論のこと、マスの稚魚を繁殖させてやることにもなる。」
井伏さんの「増殖」アイデアが池で、人間の手を使い行われるようになってはいるが、「マス」は使っていないのではないかなあ。
マスは雄と雌がいる?山女魚はなんのために集結?
「マスの遡る川のヤマメとマスの関係について、北海道稚内の釣師である山田恵三さんは次のやうに云つてゐる。恵三さんはタローといふ南極に行つた犬の元の飼い主である。
恵三さんが今までに釣つたヤマメは数万尾に及んでゐるが、まだ一尾も雌を釣つたことはない。マスの子とヤマメの子は確実に違つてゐて、マスの子は北海道では銀子と云つて四月五月ごろよく釣れる。これは殆ど海に下つて六月ごろ海のイワシ網にたくさん入る。
一方、ヤマメの子はマスの子と違ひ赤い斑点がある。九月初旬、中流から上流の奥地に遡つたマスの親は、浅瀬で雌雄二尾(必ず二尾ゐて)卵を産み白子をかけ、交互にかけて一週間から十日くらいで産卵を終る。恵三さんたちはこの時をねらつてヤスでマスを突きに行くのだが、マスの産卵してゐるそばにはヤマメが真黒になるほど群がってゐる。この時季を限つてヤマメの白子が無くなるのだ。稚内方面や根室方面では、マスの遡らない川には絶対にヤマメがゐないのだ。それで結論は、マスのスズコがヤマメの白子を受精されて生まれたのがヤマメであり、マスの子である銀子は、マスの雌雄の間で産卵受精されて生まれたものである。
『私の考へでは、マスの子が海に下らないで陸封になつた場合、おそらく幼年時代は、雌とも雄ともはつきりせず、次第に成長するに従つて周囲の環境で全部が雄になつてしまふのではないかと思ふのです。それでなければ、朱の斑点のある小ささ一寸たらずのヤマメの子がゐるのに、一尾も雌もいないといふのは理屈にあはぬと思います。また、あの小さなメダカ同然のものが、何十里も川を下つて雌だけが海へ下るのはをかしいと思ひます。』
恵三さんはさう云つている。」
困りましたねえ。
山女魚はマスが産卵したときに白子をかけるのか、それとも、マスが白子をかけるのか、あるいは、一夫一婦制で産卵行動を行うのか、群婚、乱交パーティなのか。
恵三さんが観察された現象は今でも存在するのかなあ。山女魚が真っ黒になるほどマスの産卵場に群がっていることは、「今は昔」でしょう。平成の代になってから、ハヤでさえ、真っ黒になる瀬付きの風景は消滅したから、山女魚では見ることができないのでは。
川に戻るギンケもいる?
恵三さんが観察された情景に対する評価が何故生じたのか、は、云々するること能わず。
そこで、中島さんの話を紹介しましょう。
「一方、函館の中島渓風さんといふ釣師は次のやうに云つてゐる。この人は生物の栄養素、活力素の研究家だが釣魚に関する著書も数冊ある。
雌のヤマメは雄よりも顔つきが優しい。雌は、生後満二年以上のものはなかなか生餌では釣れないが、極めて稀に六月か七月ごろの山奥の川で餌で釣れることがある。たいていの人は生後満一年以下の雌のヤマメを釣つて、それが雌であることに気がつかないでゐる。雌は悧巧なのか臆病なのか、三年子になるとなかなか餌に食ひつかない。
本来、ヤマメとマスは同じ種類の魚でありながら、人間がマスといふ名称にこだはるから話が面倒くさくなる。マスからヤマメになるのではなくて、ヤマメはもともと川魚だが成長するために川の終点である海に行き、その成育に必要なための塩分と餌と活動を得ようとするものだ。海は川の終着点であり、その帰納である。人間が大きなヤマメを勝手にマスといふ名で呼んでゐるにすぎないのだ。しかし、ヤマメも海にゐれば鱗が必要だ。丈夫な歯も必要であり、銀色の保護色はマスの游行圏内のそれである。アユなども海にゐる稚魚のときと、川に遡上して石のヌラを食ふやうになつてからでは歯の形に大きな相違がある。ヤマメも川にゐれば鱗の必要はないが粘膜質の皮膚が必要で、いろいろ複雑な保護色が必要になつて来る。従つて海の生活では先ず体長が伸び、川の生活では体長はそれほど伸びないが幅が厚くなる。歯は虫を銜へて逃がさないやうな組織のものが必要になつて来る。小さなヤマメの子も海に出れば大きなマスになり、大きなマスの子も川にゐれば小さなヤマメである。海の生活の長さが体長を決定する大きな要因の一つである。生まれた翌年春に海に下れば立派なマスと呼ばれ、満一年以後に下つたものはサクラマスと呼ばれてゐる。鱗や歯は海の生活の長さに正比例して変化する。
春、川下の水が適温になると、ヤマメは(主に雌は)出水の混濁を利用して海に下り、自分の生まれた付近に遡って来て再び海に出ることがある。また、春や夏の出水のとき海に下ることが出来なくて、秋の出水で海に出てから一度川に遡り、自分の古巣の付近を見て海に下ることがある。また、ヤマメと呼ばれ二年間を川で暮らして秋の出水で海に下り、あるひは三年目の春に海に出て、一度古巣を見に来てから海に下ることがある。また、海に出てから川に遡り、そのまま居残つてヤマメになるものと、遡つて海に下り、再び遡つてヤマメになるものがある。
ヤマメはせつかく海に下っても、水温が高ければすぐ川に遡る。これはピンコヤマメと云はれ、大きくなれないままに鱗をすでにつけてゐる。水温のほかに何かの条件で海の生活に耐へられなければ川に残り、海の生活に自信があれば海に出る。産卵といふ一大目的のためには本能的に川に遡る。但、海で急速に大きくなつたものは、水分と灰分が多くて食べての味がよくないのだ。この水分と灰分を味覚から分離すればよいのだが、それはフライにすることによつて目的を達することが出来る。またよく水洗ひして(小さく切つて)水分を圧搾し、塩と麹を加へて攪拌し塩カラもしくはキリコミにすれば美味である。この場合、塩のナレルまで密封して暗所におけばよい。
これが渓風さんの説である。」
渓風さんの観察された現象が存在していたとすれば、ヤマメの生活誌は変化に富すぎていて、今西博士といえども適切な関係性の構築は困難であったのでは?
渓風さんの観察された現象を、現在追体験しょうとしても困難ではないのかなあ。シャネル五番を振りまくあゆみちゃんを追体験できないごとく。
「マス」と「サクラマス」の容姿、生活誌の違いによる区分が行われていたとして、北海道だけの話かなあ。東北でも存在していた現象かなあ。渓風さんの話の生活誌とすれば、ヤマメにもメスがいるとなるのかなあ。三年子の雌ヤマメが釣れないのは、海で生活してサクラマスになるものが多いから、川にいる雌「ヤマメ」が少ないから、とは云えないのかなあ。
昭和の終わり頃のサクラマスの状況は?
宮地伝三郎他編「山女魚百態」(筑摩書房 1987年:昭和62年)
鍛冶英介「北の春」
「北海道で最も早いヤマメ釣りの解禁は六月一日。」
「北海道のヤマメは、サクラマスによって生産される。オンコリンカス・マソウの学名を持つこのサクラマスは、北太平洋のアジア側だけに生息するサケの一種。ホンマス、ママス、イタマス、イチャニマス、クログチ、ラシャマス、ショマ等々、多くの別名で呼ばれる。
冬期間、オホーツク海の沿岸を埋めつくしていた流氷群がはるか沖合へ去り、北国にも遅い春が訪れて、サクラの花が満開になる。ちょうどその頃、サクラマスは海洋生活に別れを告げて、北海道の母なる河川を遡上し始める。
それから半年後、性成熟したサクラマスは、落葉降り敷く渓の上流部で産卵。この直後に感動的な生涯を終えるが、その生命を受け継ぐ卵は、厚い氷雪の下で長い冬を静かに眠る。翌春春早く、小砂利の下で新しい生命が誕生。水ぬるむ四月、五月ごろ、その稚魚の群れが河川の浅いよどみに姿を見せる。
その後は、豊富な餌を飽食して急速に成長し、この年の秋九月ごろには体長一三〜四センチまでに大きくなる。
これが新子ヤマメで、遊漁の対象にもされるが、この大半は、翌年春に銀毛現象を起こして降海するサクラマス(スモルト)であり、その資源保護の面から、今後この釣りの是非が一考されるべきであろう。
すなわち、この新子ヤマメは、明らかにタイプの異なる次の三グループに分けられる。
第一が、前述の銀毛ヤマメ(サクラマスのスモルト)。翌年の四月から六月にかけて降海し、一年間の海洋生活を送った後、次年の春たけなわのころ、最大六〇センチを超す大型のサクラマスとなって生まれた河川へ回帰する。これには、大部分のメスと、一部成熟の遅いオスが含まれる。」
「北海道では、この銀毛ヤマメ(サクラマスのスモルト)の降海を保護するため、」地区ごとに「四月、五月」、「五月、六月」、「それぞれ二ヶ月間のがヤマメ釣りの禁漁期間と定められている。」
「第二が、越年ヤマメと呼ばれる成熟の早いオスのグループだ。これらは、孵化した年の秋には早くも産卵行動に参加し、そのまま残留して最大三〇センチ前後のヤマメとなり、全生涯を生まれた河川で生活する。
このグループには、メスがいないことから、ヤマメの名の由来が『ヤモメ』だとする説の根拠をなしている。
第三は、特に成長の遅いものたちが、さらにもう一年間河川生活を送り、次年の春に銀毛ヤマメ(サクラマスのスモルト)となって降海するか、または河川に残留して越年ヤマメになるか
のグループである。
したがって、北海道のヤマメ釣りの解禁当初は、第一グループの銀毛ヤマメはすでに海へ下った後であり、第三の、特に成長の遅いグループや、この春に誕生した新子は、まりに小型で釣りの対象にはならず、わずかに第二グループの越年ヤマメと、それ以前の残りヤマメだけが釣りのターゲットとされるわけだ。つまり、この釣りは、釣果の多くを望まず、数少ない尾数で如何により大きな楽しみを得るか、を主張せざるを得ない。」
もし、鍛冶さんが「釣りのターゲット」とされている生活誌のヤマメだけが、「解禁当初」のヤマメとすれば、「初物」の楽しみを求めて「解禁日」に出掛けているということになるのかなあ。
「あわてる乞食はもらいが少ない」ということかなあ。
サクラマスに「オス」もいるよう。
荒川のおかみさんは、「サクラマスの『オス』は私でも聞いたことがあります、もしやニューハーフ?(笑)」
とのことですから、例外現象として「オス」のサクラマスがいるということかなあ。
「こそこそ屋(スニーカー)」オスと「雌まね屋」オス
サクラマスの「オス」が、例外現象としての存在と仮定して、そのような雌雄に掛かる例外現象が他にもあるとのこと。その産卵行動について、
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会 一九九六年発行)の 「地球共生系と生物多様性」の「生物多様性を促進することの重要さ」における「個体レベルの多様性」にタンガニイカ湖における「奇妙な魚」が紹介されている。
「もう一つ、奇妙な魚のことをお話ししましょう。巻き貝の殻を一〇〇個足らずも雄が口を使って運び、ひとところに集めて、そのまわりをなわばりにして、そこへ多い場合には一五尾ほどの雌を呼び込んで、貝殻の中に産卵させる魚がいます。この雌の体長は平均およそ三七ミリ、雄のほうは平均九〇ミリですから、長さで二倍を超え、重さでいえば一五倍程度になるでしょう。この雄の背鰭と尾鰭に、黄と黒の派手な婚姻色を示しています。雌はこの貝殻の中へ入りこみますが、体の大きい雄はもちろん貝の中へは入れません。
ところがここに、『こそこそ屋(スニーカー)』と呼ばれる雄がいます。体の大きさは平均五九ミリ、先の雄よりはかなり小さく、婚姻色も派手ではありません。貝殻の集団に近づくと、もちろん、なわばりを持っている雄に攻撃されて追い出されますが、雌がいよいよ産卵するという時に、横から飛びこんできて精子を放出します。実はこういう『こそこそ屋』は、サケ科でもコイ科でもよく知られていて、すでに多くの研究もあり、また、この湖に棲むカワスズメ科の他の種にも例があって、これだけならばわざわざここでお話しするほどのことでもありません。
この種には、実は、もう一つの型の雄があるのでして、それは全く婚姻色を示さず、さらにその大きさは平均三二ミリばかり、つまり雌とほぼ同じなのです。これを最初に観察した私どもの仲間は、これをてっきり雌だと思ったのだそうでして、貝殻の中に入りこんだりする行動のしかたも、産卵前の雌とそっくりなのです。しかし、この『雌まね屋』とでも呼ぶ擬態雄も、なわばり雄の目を騙しおおせることは困難で、多くの場合追い出されますが、やはり放精する個体も観察されています。
この種では、『こそこそ屋』が後になわばり雄になれるかどうか、『雌まね屋』が他のものになりうるのかどうかは、まだはっきりとは判っていません。しかし日本のコイ科の魚の一種であるカワムツでは、いったん『こそこそ屋』になった個体は、雌と最初から番(つがい)になる雄には翌年もなれないことが明らかになっています。
そしてこの例でも、全面的かどうかはともかく、遺伝的な差異がこれに関連している可能性も、また、十分にあるのです。」
サクラマスが雌雄で番になるとすれば、山女魚が「こそこそ屋」ということかなあ。かってはそのような情景が存在していたということかなあ。
恵三さんが観察された情景が事実であったのか、どうか、現在では検証不能でしょうね。サクラマスが川に満ちていることも、山女魚が川に満ちていることもないようですから。
鍛冶さんが、昭和六〇年ころの六月一日の解禁日、道南の落部(おとしべ)川中流で、エゾイワナ四尾、そして、やっと体長二七,八センチの山女魚一尾、という状況ですから。
鍛冶さんは、
「ヤマメ釣りは、言うまでもなく、ヤマメを釣ることが目的だ。しかし、決してそれだけではない。緑濃い樹林の中を歩み、清澄な渓流に足をぬらし、岸辺に咲く草花をめで、小鳥たちのさえずりに耳をかたむけ、テンやリス、キツネなどの動物たちと予期せぬ出会いに心躍らせる……。これらもまたヤマメ釣りに不可分な喜びである。
そして私は、ヤマメとともに、清冽な渓水を釣り、爽やかな風を釣り、恵み豊かな太陽を釣るのだ。」
「釣り堀でどんなにたくさんヤマメが釣れようとも、絶対に釣ろうとは思わない。どうしても釣り堀でしかヤマメを釣ることが出来なくなったら、私はいさぎよく竿を折り、この釣りをやめようと思う。
大自然の懐に抱かれて竿を振ることが、あらゆる釣りの基本であり、ヤマメは自然の渓流に生息してこそ価値がある。」
鍛冶さんがこのように書かれたということは、北海道の川でも、恵三さんが観察されていた真っ黒にかたまった産卵場でのヤマメを見ることもできなくなっているのではないのかなあ。
まあ、恵三さんが観察された情景が、サクラマス同士が番になる?情景が別の意味合いかも知れない、と、現在の知見から想像できそうではあるが。
ただ、現在の情景から判断して、恵三さんが話された事柄を切り捨ててもよいのか、どうかは判りません。
サクラマスとサツキマスの遡上限界 (故松沢さんの想い出:補記三の秋道先生のアユの遡上限界参照)
秋道智彌「アユと日本人」(丸善ライブラリー)
秋道先生は、鮎の遡上限界を「斐太風土記」等の資料を使用されて書かれているが、この中で少しだけ、サケ、マスの遡上限界についてふれられている。
「サケの場合、宮川だけで遡上が記述されている。そして『且角川迄は、毎秋鮭も上りて収獲多し』とある。この角川村は、宮川のちょうど四次河川と五次河川の分岐点に位置する。
マスの場合は川によってやや状況がちがう。庄川と宮川の場合、マスは一次河川まで遡上する。高原川でも二次河川まで遡上する。このマスは、日本海から遡上するサクラマスである。
一方、益田川水系では、五次河川まで、益田川の支流である馬瀬(ませ)川では、三次河川まで遡上する。この場合のマスはサクラマスではなく、伊勢湾より遡上するサツキマスである。マスについては、どこまで川をさかのぼるのかといったことに関する記載がない。
野本寛一氏は、従来、日本の考古学や民俗学の研究では、サケとマスをあたかも当然であるかのようにサケ・マスとして一緒に論じる従来の議論に疑問をもち、サケが河口部から下流域に溯上してそこで漁獲されるのに対して、マスはサケよりも随分と上流にまで溯上し、山国において重要なタンパク資源とされてきたこと、ハレの日のゴチソウとしてもちいいられてきたことを指摘した。特に夏緑広葉樹林帯の山村には、マス(サクラマス)をめぐって民俗学的に興味ある習俗が方々に残っているという。
飛騨の国でとれるマスのうち、日本海側に下るサクラマスはたしかに一次河川、二次河川まで溯上し、そこで山の人々によって利用されていることは明らかである(図11 :省略)。ところがその他方、益田川のサツキマスは、海抜二〇〇メートル付近のやや開けた中流域で漁獲されている。益田川はさらに下ると飛騨川となり、そして木曽川となって伊勢湾にそそぐ。飛騨国より下流部では、さらに多くのサツキマスが利用されてきた。木曽川のとなりを流れる長良川でも、サツキマスの利用が報告されている。
このように、マスといっても、サクラマスとサツキマスとでは、やや様相を異にしている。東北、北海道にゆくと、サツキマスではなく、カラフトマスがあらわれる。このマスも産卵のために川を溯上する。このように一口にマスといっても、種類ごとに分布の状況がちがう。」
四次河川、五次河川までマスが遡上しても、イワナとの「棲み分け」が出来るが、一次河川、二次河川までマスが上ると、イワナとの「棲み分け」は不可能であり、「食い分け」の生活になるが…。
北海道ではサクラマスはどこまで遡上していたのかなあ。
まあ、恵三さんの話を含めて、オラの手に負える事柄でないことははっきりしています。
「今」から「昔」を見ないように
恵三さんの観察を切り捨ててよいのか、どうか、判断ができない、つまり「今」から「昔」の評価を行うときは、非常に注意を払うべきだとの事例を一つ。
竹内始萬「遺稿 あゆ」(つり人社 :昭和四九年発行)
竹内さんは、垢石翁の後を継いでつり人社の社長さんになられ、また、日本友釣同好会の創設に関わられている。
この本の中に、「養殖」、「人工」なる言葉が出現するが、これらの言葉を、「現在」の言葉で理解しては間違いになる、ということだけを紹介します。
「近年はアユの養殖が盛んになったので、わたしたちは養殖アユをオトリに使うことが多くなりました。初めのうちは、どうも養殖アユだと気乗りがしませんでしたが、近ごろはだんだんなれてきたためか、あまり気にならなくなりました。」
この「養殖」は、継代人工種苗の「養殖」ではなく、湖産の氷魚からの畜養、あるいは海産稚アユの畜養アユのことである。
「近年狩野川では、この産卵期になると漁業組合が、産卵場所の田京から長岡の間で、人工採卵のため親魚を捕っているのですが、十月始めに採卵を始める頃には、雄ばかりとれて、雌アユが少なくて困る。
それが終期に近づくと反対にとれるのは雌アユばかりで、雄アユが少なくて困るようになるといっていました。」
ということで、昭和四十八年ころに人工種苗の生産が始まっていたよう。しかし、継代人工の「効率的」人工種苗の生産と養殖が放流ものの主役になるほど生産されるようになるのは、五,六年ほど後から。一代目?F1の人工種苗生産で、素石さんらがアマゴの人工種苗の生産をされていたことと同じ「人工の採卵受精」で孵化した稚魚を育てていたのであろう。
さて、竹内さんは、「放流もの」の湖産畜養等が、遡上性を欠いていることに気がつかれている。産卵行動としての「下り」が希薄なことも。
他方、「湖産」も「海産」もひとしく再生産に寄与しているとの前提に立たれているよう。
竹内さんに付き合うと、ヤマメちゃんからトンズラしたいがために、真面目になること間違いなし。そうすると、山女魚、サクラマスの章を終えることが出来なくなるので…。
またの機会に。
今西博士の「イワナとヤマメ」を読めば、さくらちゃんの雄雌の混乱が少しは解決するかも知れないが、逆にいっそう混乱することになるかも。
ヤマメには「こそこそ屋」はいない、雌のサクラマス、雄のヤマメが基本形ということかなあ。
そして、ヤマメはギンケしても、海に下らない限りマスにはならない。そして、海に下らずに川で過ごした銀毛は、翌春知らん顔をして「ヤマメ」に戻っている。その「ヤマメ」は、「雌」として産卵行動に参加する。
シラメが海に下らないとき、翌春には知らん顔をしてアマゴに戻っているように。
とりあえずこのようにしておきましょう。例外現象にしろ、雌のヤマメがいない、サクラマスに雄はいないということに反する現象は、素人は考えないことにしましょう。
8 ヤマメの行く末は?
サクラマスが雌だけ、ヤマメは雄だけ、という構図が、固定していたならば、サクラマスの減少は、山女魚の滅亡となるかも。
しかし、銀毛ヤマメが、海に下らないとき、その年か、翌年春かに知らんぷりをして「山女魚」に戻り、しかも、「雌」のままであれば、山女魚同士が番になり、産卵できることになる。
あたかも、下北半島の杉ノ子山女魚のように、サクラマスがいなくても、イワナよりも上流に棲んでいても、子々孫々「山女魚」が生きていけるはず。
とはいっても、ヤマメを釣っている方々が、たとえば、切通さんが
「本宅ともいうべき隠れ家は『昔』という失われた時間の中にこそあるのかもしれない」
とか、鍛冶さんが、
「どうしても釣り堀でしかヤマメを釣ることが出来なくなったら、私はいさぎよく竿を折り、この釣りをやめようと思う。」
とか、いわざるを得ないほど、本物の「山女魚」が稀少「魚」になっているのではないかなあ。
(1)ヤマメの生息状況の事例
宮地伝三郎他編「山女魚百態」(筑摩書房)の齋藤祐也「ヤマメのサバイバル・エコロジー」でその情況を見てみましょう。
齋藤さんは、渓流の貧困化に対して、「ヤマメそのものの生活誌と、その数の増減を左右する要因を洗い出し、それを合致させた形で解決を図る以外にないだろう。」との問題意識から、3本の川での山女魚の生活誌を調査された。
「私が勤める会社の近くには、N川、A川、B川という、ヤマメの姿が見られる三本の川がある。
この三本の川は、現在ヤマメが置かれている状況を知る上で、きわめて特徴的な様相をもち、渓流のあるべき姿を模索するためには、恰好の事例といえるだろう。」
@ 釣り人が入らない小さなN川
「水源となる山は、標高六〇〇メートルほどの、いずれも杉林とクヌギ、ナラ等の二次林に被われた山で、約五キロの流程は、本来ならばそこで利根川の二次支川であるK川に注ぐはずなのだが、下流半分は伏流して、水がない。
水のあるところの最下流の、もっとも川が大きいところで、通常の川幅は私の歩幅で二歩、逆にもっとも狭まったところでは三〇センチもない。
こんな小さな川にも、少しは魚がいて、下から中程まではアブラハヤとヨシノボリが、それより上の一キロ強の区間には、ヤマメとカジカが棲息する。
N川のヤマメは小型ばかりで、今まで七年ほどの観察結果では、最大のもので二〇センチ弱、一般的には一〇〜一五センチ程度であり、棲息個体数も、多く見積もっても一〇〇尾以下、おそらく五〇尾を欠く現状であろうと察せられる。
産卵期に見かけるペアも、二から三ペアのことが多く、一度だけ五ペア産卵した年があった。」
「藪が多く、満足な釣りが出来ないこともあって、一般の釣り人の対象とはならず、せいぜい近在の子供たちが休みの日に遊び釣る程度の川で、漁業権の設定が無く、ヤマメは全て昔から自然繁殖しているものばかりである。
自然の繁殖力だけで現在までこの個体群が維持されていることにおいて、わずかな個体数しかもたぬN川のヤマメは、非常に貴重な存在といううことになろう。」
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会)の「『自然』の何を守るのか」の章に、
「誰の目にも明白な事例をいくつか挙げれば、たとえば現時点において『トキを守れ』という運動は、生態的にはもはやほとんど無意味です。絶滅というのは、最後の一羽が死んだときに起こるのではなく、子孫を継続して残しうる状態を失ったときに起こる。おそらく数十羽を切ったときに、もう起こってしまうのです。感情的には、私もなんとかしたい一心だけれど、残念ながらもう完全に手遅れ。盛大にお葬式をして、『トキに悪いことをしました』、いや京都流にいえば、『お天道(てんと)様に申しわけないことをした』と心から反省して、こういう過ちを繰り返さないようにするよりしかたがない。」
N川のヤマメは、「絶滅」寸前で辛うじて子孫の存続を維持しているという状態ではないのかなあ。
ヤマメにはこのような状態のところが多々あり、あるいはこのような状態のところすらなくなり{絶滅」した川が多いということではないのかなあ。
切通さんらと佐渡にヤマメ釣りに行った時、素石さんが数匹のヤマメを釣った後は青大将とたわむれていたとのことであるが、素石さんは、ヤマメの危うい状況を十分認識されていたから、数匹の山女魚で満足されたのではないのかなあ。
A 人工種苗の山女魚の放流されているA川
「A川の流程は二〇キロほどで、水源の山の標高は一四〇〇メートル余り。その他にも一二〇〇メートル前後の山がいくつかあって、流域には二次林が多いが山林の保存状態は良い。
源流といくつかの支流にはイワナの棲息する沢も見られる渓流で、ヤマメの生息する区間は約八キロあり、近くの都市からも釣り人が訪れる。
川幅は細いところで一メートルあまり、大きなもので二〇畳敷きくらいの淵がいくつかあり、水深もそこでは三メートルあまりある。
釣りをするには三.九〜四.五メートルくらいの竿でほぼ足りるが、バカ長はなくても何とか釣りになるような、さほど大きいとは言いかねる規模の川である。
ここには当然、漁業組合も組織され、春には二〜三グラムほどのヤマメの稚魚が数千尾、毎年のように放流され、それより下流側では毎年アユを放流し、アユの川としては小河川ながらも、そこそこの漁獲があって、組合はそれで何とか収益を得ている状態である。
ヤマメを対象とした一日あたりの釣り人数は、解禁当初では四〇〜五〇人程度のこともあり、日曜日には三,四〇〇メートルおきに釣り人の車が停車することもある。
しかし、五月を過ぎれば訪れる釣り人も極端に減り、日曜日でも他の釣り人に会うことは少ない。
この川で解禁当初に釣れるヤマメは、一三〜一八センチと、二〇〜二四センチ位の二つがあり、小型のものは二年魚で、大型のものは三年魚の、産卵後越冬をしたものである。
一人あたりの釣果は、人によって差はあるものの、日曜釣り師の多くは二〜三尾から五〜六尾のヤマメを魚籃に収め、時には一〇尾程度釣る人もいる。
このA川の問題点は、時おり濁ることで、これは、川の源流近くにある採石場からの濁り水がしばしば川に流れ込むためである。
その濁りは、ささ濁り程度なので、ヤマメの成魚には直接に被害はないが、礫中に産み落とされた卵にとっては、シルトが礫間に堆積することによって酸素を含んだ水が卵まで届かなくなり、致命的なことになる。
したがって、卵やふ化間もない礫間にいる稚魚は、一日程度の濁り水でもかなりの数が死亡する。
また、ヤマメが餌とする水生昆虫の成育にも被害を与え、砂による底生成物への物理的なダメージと、底生生物の餌である付着藻類も、砂による流失とシルト堆積による成育障害とを受けることになる。
このA川で例年の産卵期に産卵する親魚の数は一五ペア前後であり、最近は比較的安定している。
親魚からの産卵数は維持されているものの、卵のふ化率が悪く、濁水さえなくなればふ化率が向上して稚魚数も増加することが見込まれる。また、そうなれば餌の生産量も増すわけで、より成長の良いヤマメも釣れることになるだろう。
この濁水は、アユの季節には流さないようにしているが、秋から春にかけては時おり行われ、これがヤマメの稚魚の発生数を低くしているのである。」
齋藤さんは、漁獲量を釣り人の数と一日の釣果を想定して、期間ごとに算定されている。
そして、五千尾の稚魚放流と、産卵ペア「二五組」の産卵数、孵化率、生存率から、三千匹ほどの再生産量を推計されている。
この推計がどの程度適切であるか、さっぱり見当がつかない。ただ、産卵ペア数が、「一五ペア」でなく、「二五ペア」であるとしても、「絶滅」する水準ではないかなあ。
もちろん、「放流」ものが親となっているのではなく、「在来種」が親となっている場合の話であるが。
多分、「放流もの」が再生産を担っているのではないかなあ。
そうすると、孵化率や生残率について、「人工種苗」であることの影響は考慮しなくても良いのかなあ。
いや、人工種苗でも、産卵し、孵化していると考えてよいということかなあ。
B B川の場合
「B川は流程一〇キロあまり、水源の標高は一二〇〇メートルほどである。かつてはその源流部分にイワナが生息していたといわれるが、今ではその姿を見ることはない。
流域は二次林と杉林であり、川幅は五〇センチから一メートル、最も広い淵でも六畳間程度で、水深も、もっとも深いところで一メートルくらいの川だ。釣り竿も三.九メートルで足り、川としては小さい部類であろう。
流域が庭石の産地ということもあって、昭和四〇年代から渓辺周辺の石が持ち去られ、今ではほとんど採掘され尽くして、川の中に人の頭大より大きい石はほとんど見られないまでになっている。
そして支流の全ての沢に林道が取り付けられ、今では川での採石が禁止されているものの、採石場がいくつもできて、林道工事と採石場からの濁水が流れ込む期間が一〇年ほど続いた。その結果、流域のヤマメは絶滅し、現在は昭和五五年より放流されたヤマメの稚魚が成育している。
川底に堆積したシルト分は厚く、濁水が出なくなって五年以上経つのに、いまだ流れ去ることなく、渕尻や瀞(とろ)の礫間に堆積していて、三年間の産卵調査の結果一例も産卵していないことが確かめられた。
魚の成長も、春先の二年魚で一三~一六センチ三年魚で一九~二〇センチ程度であり、成育もあまりよいものではない。」
「釣り人は、町内の者が解禁当初から一日に数人はいる程度で、魚籃の中身も二〜三尾から一〇尾までの間である。」
放流数二〇〇〇尾のうち、釣り残り、生き残りは九〇尾と推計されている。
C 「三本の川の教えること」
「さて、今のべたN川、A川、B川の三本の川が教えてくれたことを、もう少しトータルな形で考えてみようと思う。
まず第一に、ヤマメが次世代を残す力(繁殖力)を弱めているのは、全て人間が行った開発という名の行為であるという点である。
先例では少々記述が足りなかったかもしれないが、まず、林道の建設による土砂の落とし込みによる濁水と川の埋没、堰堤の構築による濁水と悪水、山林伐採による周辺植生の消滅による餌量の減少と夏期水温の上昇などが一次的な要因となる。
そして二次的なものとしては、林道を使って入り込む釣り人の増加、堰堤による上下のヤマメ個体群の隔離、伐採による河川の渇水が続き、さらには川の埋没による川相の単純化へと繋がって、ひいてはザラ瀬と堰堤だけの川へと変わり、ヤマメの生活の場である淵と落ち込みが交互に表れる川の姿をなくしてしまう。
また、一度破壊された自然は、B川の例で示したように、一年や二年ではとうてい回復せず、人の手を加えて回復を計っても数年は要し、多くの労力と費用を必要とする。
かって、二〇〜三〇年前の各地の渓流では、ヤマメの放流は行われなくとも、彼らは立派に釣りの好敵手として存在していた。そして、その頃と現在とのヤマメを取り巻く環境は、川周辺への開発行為の異常なほどの拡大と、釣り人の増加という二つの点で大きな相違点がある。
ただ、逆にいえば、この二点を上手に解決さえすれば、渓流に棲み暮らすヤマメたちは、あの昔と同様の生活を送ることが出来るのではないか。」
齋藤さんは、処方箋についても書かれているが、釣り人の姿勢に限って紹介します。
「もうひとつの問題は、釣り人自身にある。つまり、数が釣れれば良い、という発想である。五尾釣った、一〇尾釣った、と自慢する数の時代から、やはり姿の美しい魚をいかにして釣るか、といった質の時代へと転換しなければならない時代を余儀なくされている、ということだ。」
D 種の、遺伝子多様性の問題
「現在の放流用のヤマメ、アマゴの種苗の起源は一~二ヵ所に限定されていて、これらのものが河川放流用として全国に供給されたものだから各地域に昔からそこにいた、少しずつ異なった性質を示す地域群の、北海道から鹿児島県まで、その本来の姿を分からなくしてしまった、ということだ。
また、アマゴの地域にヤマメを、ヤマメの地域にアマゴを放流する例も少なくなく、今では北海道や鳥取、島根などでアマゴが捕れたりすることもめずらしくなくなり、京都府では日本海側の北流水域に県がアマゴを放流している、といったことさえある。
そしてさらに、人間の利用価値を高めるため、全て雌ばかりのヤマメや、雌の染色体しか持たない雄ヤマメ、雄親の染色体しかもたないアマゴなどが、今でいうバイオテクノロジーの技術によって作り出され、もうすでに彼らの自然性は著しい変化を受けている。
日本の河川漁業政策は、外来種の導入と河川への放流、強性雑種の導入でことごとく失敗しており、バイオテクノロジーによるヤマメも、これと同様の例にならぬことを祈りたい。」
齋藤さんの文は、ていねいに紹介すべきとは思えど、ヤマメちゃんが相手では、カンピュータが一切作動しないため、ごめんなさい。
そのかわりというか、齋藤さんが提示された事柄に関連があるかも、と思える事例を紹介します。
Fishing Cafe (シマノ)の二〇一二年Spring 号[Story of Mysterious Fish Yamame Amago Topics」
に、橘勇「木曽谷に生息するアマゴ優良種“タナビラ”が掲載されています。
橘さんは、木曽福島出身。
「世間で毛鉤がブームになる遙か以前から、ここでは毛鉤を使い、アマゴやイワナを釣っていました。戦後の食糧難の時代には、ここのアマゴやイワナが貴重なタンパク源だったからです。地元の人はアマゴのことを“タナビラ”と言います。その語源は定かではないのですが、漢字では『掌平魚』と書いて、一度海へ出て行って、戻ってくることでよく肥えているという意味です。伊勢湾から上がってきた連中はタナビラになっている、という言い方もある。それはサツキマスを指しているのでしょうね。
発電所や堰堤などでサツキマスは遡上できなくなりましたが、その血をくんだアマゴは、まるでアジのように身体が膨らんで幅が広い。しかも、尻尾のところできゅっと締まっている。伊勢湾からここまで距離にしてざっと一九〇キロメートル。このあたりの標高は一〇〇〇メートル近くあります。その長い距離を半年以上かけて遡上する力のある魚なのですから、きっと陸封化されたアマゴであるタナビラにも、強靱な力を持つ優良な遺伝子が残っているのではないでしょうか」
「日常の食卓によく出るタンパク源としては、イワナよりもタナビラが主でした。イワナを狙うときは本当に上流域に行くという感じですが、タナビラは町の中の川で釣れる。
普通に釣れるので、保存食にするという発想も少なかった。味噌漬け程度の加工ですね。むしろ、『ちょっと弁当のおかず釣ってくるわ』と言って、朝ちょこちょこっと2,3匹釣ってきて、自分で焼いて、たまり醤油につけて弁当の飯の上に載せる。そういう感じでした」
橘さんは、人為的タナビラ生産について
「体はとても大きくなるのですが、卵巣も精巣も持たない“シマメ”と呼ばれるものがこの辺にはまだいます。4年前に木曽川本流で釣った40センチのシマメは、ヤマメの降海型のサクラマスみたいな感じでした。あれはオスだったと思います。メスはもっとウエストがくびれていて、平べったい胴体から急に尻尾のところが細くなるんです。昔はそういう魚が結構釣れましたが、最近は本当に見なくなった。
タナビラも水質が悪くなり、自然交配が減少しています。それを補うための放流によって、本流筋では純粋なタナビラとそうでないアマゴの混種が増えていますね」
降海型アマゴと木曽谷の陸封アマゴの交配が大正13年に行われた、という記述と合わせて、人為的タナビラの生産に係る「タナビラ」と「アマゴ」の関係についてはさっぱりわかりません。ついでに、分からない記述をもう1つ。
「また、本流ではタナビラは少なくなったが、支流の奥にはアマゴの放流を行っていないので、まだまだタナビラの領域がある。木曽川漁協の福島支部長も務める立場としては、そういった場所から純粋なタナビラの原種を持ち帰り、本流でも増殖したいと語る。」
「ミステリアスなアマゴ」との表題のとおり、門外漢にはさっぱり理解できない「タナビラ」です。
Fishing Cafe には、湯川豊「秋田の深山に潜む、大ヤマメを訪ねる理由。」も掲載されている。
「檜木内川上流の谷、深々としたトロ場が20メートルつづいている。魚がいるには違いないのだが、出たためしがない。きょうは出るのではないかという予感がした。新しい14番エルクヘアー・カディス(ボディとハックルは黒)につけかえ、緑色の流れに投じた。両岸のミズナラやコナラの若葉の浅い緑が、流れを緑色に包んでいた。その緑がそよぐのに一瞬目をやり、美しさに息を呑んだ瞬間、遠いフライに大きなヤマメの頭が出て、水紋をはでに残して消えた。ただ、それっきり。
檜木内川水系の別の谷で、やはり新緑の頃。小さな沢では一番大きな淵で、どうせ出ないだろうと投じた16番のブルーダンに、大物が出た。上の斜面で見ていた岩手の高橋啓司は、あれは軽く40センチと越えていたといい、その頬のあたりの紅色の美しさまで描写してみせる。かけられなかった魚の、美しい姿なんか、知るものか!
真木渓谷の下流、真木集落の裏で、夏の朝に大ヤマメが現れた。フライをくわえて水面に跳躍、ロッドの先を下に向けたときは、サバみたいな姿は消えていて、ディペットが切れる衝撃が残った。後で聞いた話だが、偶然のことながら高橋啓ちゃんと宇田清さんが、十日ほど後に同じポイントへ行き、二人で尺モノを2匹ずつかけた、と楽しげに語ってくれた。あの宙に跳んだヤマメは、その四匹の中に入っていなかったのを祈る。」
「ヤマメは、秋田の山中の渓流では多くの場合そうであるように、鰓(えら)の周辺があざやかな薄紅色で、大きいもののほうがその色がくっきりしていた。ついでにいうと、なぜそうなのかはっきりわからないのだけれど、東北地方のヤマメの中でもそれはきわだって美しい。
秘密の川は、少なくとも僕がしげしげと通っていた時期は、いつも人の気配が少なく静かだった。静かな森のなかの、秘めやかな流れ。そういう風景と、まるい顔をしたヤマメが一体になっている。あそこへ行けば、必ずいい一日がある。そう思わせてくれる小さな谷が、秋田のずっと北のほうにあった。」
「フライ・フィッシングを始めて2年ほどのKは、本流に沿うように流れる幅2メートルの側流を覗いて、そこに入ってみたいという。本流から大声で叫べば声が届きそうな側流なので、それもいいだろう、と思った。
この日は高曇りで雨は降っていなかったが、前日の雨で川は増水していた。本流は遡行にひと汗かきそうなので、側流なら歩きやすいし、増水によってちょうどいい流れができているかもしれない。
僕は本流を300メートルほど釣って、階段状の流れからポイントごとに型のいいヤマメが出たので満足した。大急ぎで側流が始まる分岐点に戻り、Kの後を追った。Kは100メートルも進んでいなかった。
近寄って『どう?』と声をかける前に、Kがチャラチャラの流れから魚をひきあげるのを見た。ひきあげるというのがぴったりの大きいヤマメだった。Kは近づいていく僕に向かって、
『桃源郷、桃源郷!』
と叫び、晴れやかに笑った。水の流れがあるところすべてに魚がいて、キャスティングするというよりポンと前にフライを落とすだけで、ヤマメはためらいもせずそれを襲った。
側流が本流に合する400メートル上の地点まで、時ならぬ桃源郷がつづいた。本流よりもずっと大きなヤマメが細い流れの側流にいて、人の気配をおそれない。こんなことを経験してみると、秋田の山深い谷にはいつからかヤマメが優位に立つようになって、イワナの領域を侵しているといわれるのが、本当だと思われてくる。
そして桃源郷という言葉のひびきには、イワナよりも頬の紅いヤマメのほうがふさわしいような気がする。」
さて、湯川さんの描写に登場するヤマメには人工種苗はいるのかなあ、いないのかなあ。
ヤマメの容姿の違いは何を意味するのかなあ。さくらちゃんの面影を残しているということかなあ。
遺伝子多様性の減少
ヤマメ、アマゴが人工種苗育ちとなっているとなると、遺伝子の多様性を阻害する問題が。
となると、川那部先生に登場していただくしかない。
川那部浩哉「曖昧の生態学」(農産漁村文化協会)
川那部先生は、遺伝子の多様性の減少について、そのことだけを、単体で問題にされているのではないよう。
「ユスリカを主に食う魚種の存在する場所のほうがユスリカの棲息数はかえって多いようで、彼(注:大阪府立大学の竹門康弘さん)はそれを実験的にも確かめています。すなわち、摂食行動によって砂泥底が掻きまわされると、それによって酸素が十分に砂泥の中に入り込み、したがってユスリカは、かなり深いところまで棲める。逆にこの魚がいなくて、底が掻きまわされないと、酸素のない還元層が表面近くまで上がってくるために、ユスリカは多くは棲めないというわけなのです。」
「別の言い方だと、未来の生物多様性の発展のためには、現在の生物種の、さらにはその地方的変異群の遺伝子を、ただ残しておくだけではだめで、それぞれの生物自身がたがいに、さらに新しい複雑な関係を作り上げ、そして遺伝子の段階でも、その多様性を増加させていくようにしむけることが不可欠なのです。」
「関係してきた歴史が重要」
「『棲みわければ食いわけず、棲みわけなければ食いわける』」という関係のアマゴ、山女魚、イワナの中に、ニジマスやブラウンマスを入れると、
「ところで問題はそこに外来魚、たとえばニジマスやブラウンマスなどが入ってきたときの相互の関係です。事実は簡単で、ニジマスとアマゴ・ヤマメ、ブラウンマスとイワナ・オショロコマなどの間には、食いわけや棲みわけがまずまずいっさい起こらないということなのです。」
これは、学習ではなく
「しかし、それぞれの種の養殖が盛んになって、卵から別々に飼われるようになっても、イワナとアマゴ・ヤマメのあいだでは、卵のとき以来いっさい出合ったことがないのに、川や池にいっしょに入れると、例えば食いわけが簡単に起こる。しかしそれらと外来種とのあいだでは、それは起こらないのです。付け加えると、例えばニジマスは、元来そういう能力をもっていないのはなくて、原産地のロッキー山脈地帯ならその地帯で、そこに棲む在来種とのあいだでは、棲みわけあるいは食いわけをしているのです。
同じところで長く共存してきた魚は、このように互いに分ける、調整する能力を、遺伝子の中に組み込んでいるのではないか。これに対して、今まで出合ったことのない魚どうしのあいだでは、当然ながらそういう能力は組み込まれていないはず。」
「全体ではなく総体が大切」
「全体」の意味するところは、省略して、「総体」だけを紹介します。
「これに対して具体的な関係の総体をその構造に即して捉えようとする立場は、関係のみが実態であるとすることにほかならない。そして、この『曖昧』かつ多義的な関係の総体、この関係多様性とでもよんでよい『こと』こそが、生命の多様性の本質であり、かつその他の生命多様性を作り上げ、維持してきたものであるとするのが、今もまだ私の作業仮説である。」
このほか、「生物多様性を促進する生態複合」、「個体レベルの多様性」等、いっぱい概念があります。
それらの概念との関係で、「遺伝子多様性」の喪失を考えなければならないようですが、オラのおつむでは理解不可能。
ということで、川那部先生の「遺伝子多様性」の喪失に係る問題を適切に紹介することは不可能。
単に「遺伝子喪失」に係る記述ヵ所の紹介しかできません。
「一地域個体群の中での多様性――それを失った個体群は永続し得ない」
獣や鳥の個体も、互いにいくらか違っているように、
「魚を含めて多くの動物の個体のあいだには、行動や生態にさまざまの差のあることが知られるようになって来ました。そして今例を挙げましたように、タンガニイカ湖の魚だけを例にとっても、いろいろなものがあるのです。動物はどれも同じ顔をしており、同様の行動をするいわば単一の集団だというのは、明らかに事実ではないことが、すでに明らかになっているわけです。
ある種の、ある個体群に属する生物の個体数が、ある一定限度以下に減ってしまったとき、ご承知のとおり、その生物は絶滅に瀕している。あるいはもはや絶滅状態にあると申します。そういう理由の一つは、個体数が一定限度以下になると、その個体群の遺伝子の変異はすでに著しく狭くなってしまっていて、劣性遺伝子の悪影響が顕在化し、次の世代がもはやまともに育たないことにあること、皆様には申し上げるまでもありますまい。こうなれば、人間がいかに手をかしてももはやどうにもならぬことも、ご承知のとおりでございます。
また、環境は、決して一定ではなく、ある範囲でいろいろに変動してきました。この環境変動に対する適応の一部は、これまた遺伝子変異の多様性にあるのです。いやそもそも雄と雌という性なるものがあって、わざわざ減数分裂をやって配偶子を作り、その二つが合一してそれから新しい個体を作るなどという面倒のことをなぜするに至ったのか。いろいろな説はあるものの、突然変異を含む遺伝子物質ないし遺伝子を、これによって新しく組み合わせ、そのことによってさまざまな環境変動に対処するための適応であるとする解釈が、今のところ有力のようです。
したがって、生物の種あるいは個体群の一部を人間の管理の下におき、そのことによってその種ないし個体群を保護しようとするのは、実は遺伝子の多様性を失うという点で大きい問題なのです。さらにいえば、こうした人間の管理下に作られた子孫を大量に自然界に戻してやるということも、特定の遺伝子だけを増加させる結果になるわけでありまして、緊急避難的に行う場合はともかく、これまた一般的にいって問題のあること、直ちに理解して頂けると思います。
すなわち種の保護とは、一般的の種の保護やどれかの地域個体群の保護ではなくて、その一つ一つの地域個体群の保護なのであり、さらに、地域個体群の保護とは、特定の個体の子孫すなわち特定の遺伝子の保護ではなくて、その中のさまざまな遺伝子を含んだ、その個体群全体の保護なのです。」
「同じ資源を要求する種間の協同的相互関係」に、
「タンガニカ湖の鱗食いが二種、同時に一個体に攻撃をかけようとしますと、成功率はそれぞれほとんど倍になります。鱗を食われる側からいえば、四倍になるわけです。これに対して、同種が同時に攻撃をかけたときは、成功率はあまり変わりません。」
そして、藻を梳き取って食う種と、切り取って食う種が同居している方が、食べ物の競争関係にあるように見えるが、双方にとって役に立っているとのこと、好ましい状況であることが紹介されている。
また、繁殖に関してもさまざまな協同関係が見つかっているとのこと。
「すなわち、互いに相互関係を持ちながら進化を続けてきたタンガニイカ湖の魚たちは、それぞれ多くの種の魚が身の周りに存在することを前提として、現在の生活を行っているということです。彼らにとって、それが得になることであれ損になることであれ、多様性を持った群集の存在が彼らにとっての通常の、いや、正常な状態なのです。
そして、こうした事実は、決してタンガニイカ湖の魚に限られているのではないこと、もちろんであります。」
「相互関係における歴史的時間」
「日本列島の淡水魚は、どの種も、棲み場所においても餌やその摂取方法においても、かなり幅広い性質をもっています。しかし、そうした魚が共存しますと、相互関係によって棲みわけが起こり、実際には互いに要求を分けあって生活します。
例えば、川では藻類のみを殆ど専食するアユが初夏になって溯ってきますと、それまでは藻を食っていたオイカワは、陸生の昆虫を主に食うようになり、さらにアユの個体数が増えますと瀬から淵に移ります。水生昆虫を好む小型の底魚は、大型の底魚のいるところでは、むしろ藻を主に食うように変わります。イワナとヤマメは、ともにかなり広い範囲の水温の場所に棲めますが、同じ川では上流と下流に棲み分けるのが普通であり、同じ淵にいる場合には下層と上層に分かれて生息し、餌も別のものを食います。」
「すなわち、過去にずっと共存してきた種の間では、一緒になれば棲み場や食物を変える性質が、遺伝的に成立している。それに対して、過去に共存したことのない種間では、当然ながら、棲み分けたり食い分けたりする性質は互いに持ち合わせていない、というわけです。
繰り返して申せば、生物間の関係は長い進化の歴史の中で作り上げられてきたものであり、各種の性質は、その関係の中で決まって来たものであることが、これからも明らかであります。」
「過去のある時期に何か致命的な事態が起こったとき、それに対処し適応し得なかった個体あるいは種は、その時に絶滅しました。逆に言えば、現在存続している生物は、過去に起こったさまざまな致命的な事態に対処し適応し得たものの子孫であって、したがって、そのときからの時間が極めて長い場合を除けば、その対処し適応し得た性質を遺伝的に残している可能性が大きい、と考えられます。そして、このような致命的な事態が、不規則にもせよ、何度か繰り返し起こった場合には、その性質はいっそう強くまた確実に、いまも遺伝子の中に組み込まれている筈です。
そして、それが仮に現在の、言わば『通常』状態におけるその種の生活にいくらか不都合な面を持っていても、それが致命的ではなくて『いくらか』という程度である限り、淘汰されて消えてしまっている可能性は少ないと考えられます。すなわち、一〇〇〇時間に一回あるいは一生に一度はおろか、数世代、数十世代、あるいは数百世代に一度でも、すでに起こったことのあるいろいろな致命的事態に対処し適応する機構は、全面的ではないにせよ、いまもそれぞれ生物の中に情報として存在している筈なのです。」
このような性質は、継続調査のなかから少しずつ明らかになっている。
また、「説明不能な現象」こそ「進化の歴史を示し、かつ現在の生物群集を本当に成り立たせているものに違いないのですから。」
「生物の示す性質は、現在という時点だけのためにあるのではなく、過去の歴史に基づいているものであり、また、だからこそ、未来に向かって発展する契機となっていることは、いくら強調しても強調し足りない気がしています。そして、群集の持っている多様性は、そのような性質をもつ生物の現在だけの関係で成立しているのではなく、過去の関係にも一部分は依存し、したがって逆に、現在の群集自体が未来の生物群集に大きい影響を及ぼすのです。」
「多様性を生み出す群集ないし生態系の複雑性」
「突然変異は機械的に起こったとしても、どの遺伝子が残りどの遺伝子が滅びるかは、かなりの程度過去の条件の中で決まってきたものです。したがって、今存在する遺伝子多様性を作りかつ支えてきたもの、すなわち、過去の、地質学的な時間における近過去の、生物間の関係および生物と非生物的環境との関係の総体が、何より重要なのです。
ご承知のように、生物間の関係は互いに入り組んでおり、二種だけを取りだして考えてみれば例えば敵対的・競争的なものでも、第三者が入ればそれが協調的に変わると言ったことも、最近あらためて大きい問題になっております。こういうものを含めた過去の総体が、現在の多様性を招いているのです。
先程の繰り返しになりますが、未来の多様性を保ち、いやむしろ発展させるためにこんどは、現在の生物間の関係および生物と非生物的環境との関係の総体を、どのようにして行くべきかを、考えかつ調査する必要があるわけでございます。」
非生物的環境の多様性については、エルトン「侵略の生態学」、「動物群集の様式」を読んでください、とのこと。
「ただ一つ、どのような小さい動物であっても、各一個体はそれなりにいくつかの異なった環境をいつも使い分けているものであること、一様な環境が続くところでは一日たりとも生きて行けないほど環境多様性は重要であることを、ここで付け加えておきたいと思います。
簡単な例を一つ挙げるといたしますと、渓流魚のアマゴは水中を流れる昆虫などに跳びつきなすが、その場所は流れの早い流心の表層部です。しかし餌を待っているときもそれでは、エネルギー消費がたまりませんから、当然ながら流れの緩い、先よりは深くて石のかげなどが好都合です。こういう二つの場所が近接して存在しなければ、アマゴは食うに困るわけでありす。一様な環境に川を変えれば、他の条件は仮に同じでも、彼らがいなくなるのも当然です。」
サツキマスと人工孵化放流
「長良川はまた、サクラマスの亜種であるサツキマス個体群の、世界でのただ一つの良好な生息地だ。一九六〇年代後半までは、アマゴの降海型はビワマスと同じと思われていたが、加藤文雄・吉安克彦・本荘鉄夫さんなどによってこの二つは異なるものと判り、アマゴの降海型はサツキマスと名付けられたこと、このマスは一九三〇年代までは、瀬戸内海に流れる川で、『農林水産統計』に載るほど捕らえられていたのに、今では数年に一尾程度で新聞種になるということ、今年一月発表の環境庁のレッドデータブックでも、絶滅の危険のある魚として指摘されたこと、などなど、今や言うにも及ぶまい。
河口堰の建設側は、サツキマスの漁獲高は多くないから、応分の補償で十分と確信しているらしい。あるいは、人工孵化放流や養殖があるから、どうなってもよいと考えているかのように、ときに発言する。『遺伝子資源』の確保の面を考えるだけでも、こういう発想では議論にならぬ事は解りそうなものだが、これは、それらの人々に自分自身でものごとを新しく判断できる能力、つまり真の意味での知識と教養がある筈だと、評価し過ぎなのだろうか。それはともかく、この魚の生態の調査は、幸か不幸か今後に残された問題なのである。
同じくサクラマスの亜種にタイワンマスがある。台湾島中部の大甲渓上流にのみ棲息しているものだが、今ではその一支流だけに細々と残っている。台湾政府と台湾大学とはここ数年その保護に乗り出し、一年はとりあえず人工孵化放流に頼った。しかし、遺伝子組成の単純化を危惧してこれを止め、周辺への広葉樹の造林、ダムの除去と川の蛇行や瀬・淵の確保など、渓流の自然的状況への復元をめざしている。」
「このマスの場合、もはや余りにも狭い範囲にごくわずかの個体数が残っているだけなので、成功するかどうかは楽観を許さないし、復元の進行状況も極めて速いというわけにはいかない。しかしこの方向は、どこやらの建設関係者が慚愧するのは勿論ながら、研究者も注目し、せめていささかは反省してもよいのではあるまいか。
言葉遣いが、少々乱暴になってきたようだ。当方は顔でも洗って出直し、今も元のままの理屈や発想で長良川河口堰推し進めようとしている人々には、エンツェンスベルガーさんの本でも買ってぜひ読んで貰い、まずは頭の心を、そう、柔軟にしていただくことを要請しよう。」
「それはともかく、遺伝子の多様性は時間的空間的変化に対応する、大きな安全弁でもあることは確かなのです。
そういう点では、例えば長良川のサツキマスなどについての河口堰建設側の意見は、やはり問題がありますね。養殖して放流するから大丈夫などと、今でもまだ言っているのは困りものです。増殖放流というのはそもそも、極めて少数の個体の子孫だけを大量に入れることなのだから、遺伝子多様性が著しく減少するのは、理屈からも当然です。この問題についての重要性の認識があるのかないのか。私は、長良川の河口堰建設に、頭から反対するものではありませんが、例えば『サツキマスの遺伝子多様性はこれだけ下がるし、その影響は世界的に見てこの程度大きいけれども、それを覚悟しても河口堰はこういう理由で必要だ』と、生物多様性の保護に関する評価をも提示して、その上で論議を始めるべきでしょう。」
人工種苗のアマゴが放流され、長良川に棲息しているアマゴの主役になっているのかなあ。
人工種苗のアマゴがシラメになって、海に下っているのかなあ。
近藤正臣さんは、「生涯一〇匹」のさつきちゃんナンパに励まれているのかなあ。
「幼魚紋」が残っている「サツキマス」の写真は何を表現しているのかなあ。海に下らず、途中から戻ってきた人工種苗のシラメかなあ。
荒川のさくらちゃんに会いに行くことを妄想ではなく、真面目に考えようかなあ。何しろさくらちゃんにも手を出した、と、あの世で自慢したいからなあ。
山女魚、アマゴの生活誌、容姿、マス化とマス化しない現象、長良川のマスの状況、気になることは多々あれど、ひょっとすると、ここで打ち止めかも。
かわいいかわいい礼子ちゃんに懸想したのが運の尽き、かわいいバラに、こんなに多くのトゲが隠されていたとは。
今西博士や素石さんの文から少しは複雑な相関関係を想像はしていましたが。
今日・三月一六日は荒川のマス解禁日。いづみ屋旅館のおかみさんのさくらちゃん奮戦記如何によっては、荒川にすっ飛んでいくかも。
2013年3月16日、荒川のさくらちゃんの解禁日。いづみ屋旅館のH・Pにさくらちゃんの写真が掲載されている。 想像していたよりも大きい。 60センチ台のコイを念頭において糸を、針を考えればよいと思っていたが、コイよりも馬力は強いのでは、と考えると、 もし、出掛けるときは再検討が必要かも。5ポンドの糸で間に合うのかなあ。 |