故松沢さんの思い出;補記11

 ごまめの歯ぎしり   寂聴さんを爆笑させるねえちゃんの本
 
 居場所のない少女たち    
 原節子さん主演の映画:「売国奴」と非難する
数多の人々の戦時中
 黒澤監督であることにもびっくり    
 「ローマの休日」は,マッカーシズムの嵐への反逆  憎悪、憎しみではなく「信頼」を
   
 丼大王の溯上アユ観察 場所は東伊豆の小川 

溯上期
 3月17日溯上アユ確認
原田先生の遡上開始時期と大きさの関係は?
5月21日溯上アユがぐちゃぐちゃ
1番上り、2番上り、3番上りと大きさの関係は?
   
 東伊豆の小川の
性成熟と水温
        
 10月7日久々の雨  ほとんどが雌
    =性成熟が進んだ?
   
 10月12日小川のアユは尽きず?      
 10月17日毛鉤で2時間60匹      
 10月18日雌が多い  ちんちん釣りの毛針の作り方    
 台風による増水後の小川  ブロックの川底の変化
射精、排卵するアユも
   
 11月10日小川にアユは居れど,ザガニも居れど  11月5日はチビ50匹
ザガニもチビ60匹
   
 11月21日性成熟の条件は?  2時間で20匹以上、腹パンが多い    
 12月7日の小川のアユ  アユのたまり場あり
腹パンの雌
   
 相模川弁天分流の「トラックで運ばれてきたアユ」
の子供の状況,変化
 鷺が消えた雪の後の分流    
 淵と瀬の一体型が最良の鮎の
生息環境
 
  
 水野信彦「魚にやさしい川のかたち」      
 瀬と淵は夫婦  瀬と淵は組になっている
瀬は魚類の餌料供給地
淵は睡眠場所、避難場所
夫婦は一心同体
淵と瀬は安定している
瀬と淵は成因的に表裏一体の関係
淵の型
   
 三面川の巨石投入事業  出水によっても石が埋まらない巨石投入事業    
 狩野川城山下の淵と瀬が鯉釣り場に
成り下がったのはなぜ?
     
瀬戸内に流れ込む源流にいるゴギは、
移入?
河川争奪の結果?
  
両洋峡的な地形と河川争奪の跡がみられる佐治川と
竹田川
 両洋峡について
河川争奪とは
   
 イワナは日本海側では連続的に、瀬戸内側では不連続
に分布している
 その現象についての大島と今西博士の違い    
 ゴギの分布  深谷川のゴギは?
アマゴとヤマメの混在はあった?
   
西中国山地のイワナ「 ゴギ」
          田中幾多郎

     開高健 山本素石編
     「渓流 魚づくし」    
            
 明治の代から交雑種の生産が      
 ゴギの容姿  生活史      
 エゾイワナ、ニッコウイワナ、ヤマトイワナ、ゴギ      
 大田川や錦川のゴギは島根から移入      
 河川争奪はサケ科類の陸封化よりも前?      
 稜線に近いところに住むゴギ  水温は一五度から一八度
梅雨時の増水で沢登りをする
   
 ゴギの容姿      
 食糧=悪食  カジカガエルも    
 竿の長さ      
 産卵行動      
 クマが捉えたゴギ      
 カイオ  今もいる?      
 ゴギ、ヤマメの絶滅は近い?      
タンポリ、コギ、オモ

手皮小四郎「因幡木地山雪おこし」   
    「渓流 魚づくし」  所収
 鳥取での岩魚の呼称      
 ミイチ谷はタンポリの宝庫であった      
 コギ初体験      
 昭和51年から渓流再開      
 介護人付きで早春の枝谷へ      
 重い魚籠、骨酒でやっと若者の笑み      
 斉藤裕也「『ヒカリ』の生涯」

「渓流 魚づくし」所収         
 岩手の小河川のヤマメ      
 春先に出現するヒカリ  前年の秋にヒカリ予備群として準備完了    
 クロコ=一年目で性成熟した雄      
 ヒカリは一週間後に海へ旅立つ      
 一年後の40~60センチで母川へ      
 川でのサクラマスの生活史  川で体重は半分に
雌の卵は3000~5000粒
   
 産卵の状景    雌主体のサクラマス    
 その周囲に雄    
 一大艦隊を連想させる構成    
 ヒカリ出現時期の地域差      
種市龍司「幻なのか 『スギノコ』
は?」




「渓流  魚づくし」所収         
 オガサ川のワラシコ釣魚迷たち  サクラマスもいた    
 秋田の綺麗な水、きれいな山女魚      
 小又川はさらに綺麗な水、綺麗な山女魚  小又川の岩魚は山女魚に負けた?    
 大畑川山地で杣夫(そまふ)として働いているアンチャの
大畑川上流の話
 スギノコはマスほどの大きさも
腹を割いて味噌に漬け込む
   
赤滝が魚止めに   赤滝上流の岩魚も消えた    
 スギノコの呼称の由来は?  1 弱い杉のためでなく、強い杉の種
   であれかし
2 体色が杉の葉のように青緑色
   
 昭和37年電灯がともり、森林鉄道が自動車道に
かわり、スギノコの衰退の歴史が始まる
     
 赤滝下流の4年ごとの大山女魚の出現      
 おばさんに怒られる      
 ゴギの保護は?  天然記念物に「成り下がる」    
 西城川と大畑川の流域の違いは?      
御勢久右衛門
「紀伊半島のイワナ『キリクチ』 
の運命」
 
     
 今西博士が前さんに会われたのはいつ頃?  今西錦司「イワナとヤマメ」の「わたしはシラメを
こう考える」にその答えが
   
 萬サ翁に会われたのは昭和40年か39年  ギンケヤマメ・シラメ相似説の確信に    
 御勢先生とキリクチ      
 キリクチに係る文書  「和州吉野郡中物産志」
      キリクチの顔つき
今西岩太郎「吉野川産魚類の研究」
      キリクチの産地
   
 昭和25年、御勢先生は始めてキリクチに会う      
キリクチ分布図       
 キリクチのひ弱さ      
 屋久島へ移殖  「卵放流」    
松岡喜作
「サケ・マス類の雑種たち」



本莊鉄夫
「『サツキマス』まで」   
               
 中禅寺湖に明治15年からビワマスと北海道産の
桜鱒を放流
 自然産卵と人為交雑種を繰り返し、
「日光ヤマメ」に
   
 日光ヤマメは大正11年から大量に琵琶湖へも放流      
 よって、ビワマスに純血種はいない      
      ほんまかいな  琵琶湖への輸送記録の数量は信用できる?
その数字は琵琶湖への放流根拠になる?
数字の信頼性は?
「豊饒の湖」の琵琶湖に「日光ヤマメ」を
放流する必要性がある?
   
 松岡さんは、大島博士同様、琵琶湖での調査をしていない      
 にもかかわらず
、ビワマスに純血種はいない、と御託宣
     
 本莊鉄夫「『サツキマス』まで  大島博士「桜鱒と琵琶鱒」昭和30年代発行
木曽川のカワマスは,ビワマスの降海型
   
 鮎種苗中のビワマスの幼魚から飼育体験  ビワマスとアマゴは「似て非なるもの」の感触    
 昭和38年、職漁師が30尾ほどのアマゴの準成魚を  1000匹ほどの稚魚を得る。
それからアマゴの種苗生産技術が軌道に
   
 ビワマスとアマゴの発眼卵から親になるまでの比較  アマゴとビワマスの性成熟年齢の差
生活行動の違い
   
 「ビワマスとアマゴは同一種にすべきでない」      
 アマゴ=カワマスの立証、カワマスはビワマスにあらず
の証明へ
 在留アマゴは雄、メスは下流へ移動
メスはハクシマ,シラメでは?
   
 アブラびれのないカワはマスの採捕      
 大島博士の誤診原因  アマゴの幼魚と河川生活期のビワマスの
幼魚を見ていない
ビワマスの成魚と溯上期のカワマスを
比べていない
「アメノウオ」はアマゴの地方名にある
→アマゴとビワマスを繋いだのでは
   
 交雑種生産が、善?進歩?  交雑種生産の事例    
 「カワアマゴ」は「交雑種」かなあ  松岡さんは、交雑種の事例とされているが    
 アマゴも放流でヤマメが消えるのはなぜ?  「ヤモメ」のヤマメの浮気?    
 本莊さんは、サツキマスの絶えた川での
サツキマスの復活は「
人手の加わったセミナチュラル
な姿での復活
」と
     
 大島博士の誤診と岩魚の分布修正      
         
         


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ごまめの歯ぎしり

「新規ページの作成」をして、リンクをしたが、リンク先を間違えてどうすればよいのか、さっぱり見当がつかない。リンクの解除をするだけで、「新規ページ」がそのままでも使わなければ他に影響をすることがないのであれば、有難いが、それすらわからない。
リモート接続によるサポートは使い切っているし、サポート期限も徒過しているし。仕方がないから、久しぶりに先生にきて頂く。

そのためにもたもたしていた、というだけでなく、丼大王の東伊豆の変則3面張りの小川でもあゆみちゃんが健気に生活をしていることから、水野信彦「魚にやさしい川のかたち」(信山社  1995年発行)を素材にするつもりではあるが、オラには難しいよ。
何か、「補助線」的な本がないと理解不能ですよ。

ということもあって、もたもたしている。
まずは、「丼大王行状記」から、東伊豆の小川での溯上時期、性成熟の観察を再録しましょう。

とはいえ、その前に気になるねえちゃんが出現。
瀬戸内晴美さんの頃、図書館の雑誌を時折めくって、「エロ」の内容と思っていたが、さにあらずかも。しかし、「小説」は、オラの周波数に合わないが。
出家するとき、晴美さんは、今東光に相談をした。
今さんは、「女はどうする?」と晴美さんに聞く。晴美さんは、捨てる、と。
こんな情景しか、おつきあいはないが、俗から聖への華麗?なる変身をされたその寂聴さんを爆笑させるねえちゃんの本が発行されたとなると、のぞいているしかない。

それも終わったから、いつものように、ミスリーディングは当たり前、で、水野先生の紹介をしましょう。
いや、その前にねえちゃんの本を寂聴さんが推賞されているのは、何でかなあ、単に寂聴さんを爆笑させるだけではないのでは。

ねえちゃん・瀬尾まなほさんの「おちゃめに百歳!寂聴さん」(光文社 2017年11月発行)の「第十章 若草プロジェクト」に、「居場所」を失った女子のことが書かれている。
「ジュンさんは今の少女や若い女性の現状を話してくれた。彼女たちはとにかく『寂しい』
『寂しすぎる』,これは現代病だと。お金はなくても命よりも大切なものという、携帯だけは絶対に持っていたい。」

「誰にも『かわいそうな子』って思われたくない,同情されたくない,だから必死に隠す
 彼女たちは自己犠牲が得意で、周りには悩んでいることやしんどい気持ちを隠し通そうと踏ん張ってしまう子ばかりだという。」

「何かあっても相手より自分のことを責めてしまう。自己否定も得意なのだ。
 常に女の子たちは『痛み』と生きている
 ある女の子がつぶやいた、『普通の子になりたかった』と。」

この文だけを紹介しても、座間で起きた9人の女子殺害事件の現象に結びつけられないことは承知している。
寂聴さんは、ねえちゃんのこの思い、そして行動に関わるようになったことを人々に知らせたいと考えられているのかも。

ついでに、丼大王以上に閑なオラであるから、寝転がってテレビを見ていた。
豊満聖女のイメージの原節子さんが、まったく異なる場面に登場していた。
戦中、スパイ?容疑、いや、敵国語の「スパイ」の単語は使えないから「売国奴」ということですなあ。その容疑?で夫が逮捕されて、獄中死。
原さんは、夫の実家へ。スパイ、いや、売国奴である、と子供たちにも非難される。田圃に苗を植えても、引き抜かれ、非難の文言の看板等が。

果たして、スパイ行為をしたのかどうかは、「誰も」気にしない。
山本七平「私の中の日本軍」であったと思うが、軍人以上に軍隊を、戦争推進の信条、行動を礼讃していた在郷軍人会の面目躍如という現象
そして、黒澤監督ということもびっくり。「7人の侍」等のイメージの黒澤監督が、戦時中の理不尽な状況を、原さんを主演に制作されていたとは。

ツイッターは、過激な言葉だけ。事実であるかどうかは、どうでもよい世界ではないかなあ
テレビで、西郷、勝、アーネスト・サトーが,大政奉還、江戸城無血開城でどのような役割を果たして、戦乱、江戸の焼け野原を回避したか、面白く、いや、オラでも理解できるように放映していた。
これは、ツイッターとは異なる世界での行動と確信している。
過激な言葉だけを発しているツイッターでは、戦乱拡大も無血開城も実現せず。

「ローマの休日」は、べっぴんさんで、かわいいヘップバーンさんを見る愉しい愉しい娯楽映画と思っていた。
しかし、マッカーシズムが吹き荒れる嵐が、ハリウッドにも及び、ある人は逮捕され、また、表現の自由を奪われている人々のいる中で、状況の中で、「正義」を,対立、憎しみではなく、「信頼」の重要性を人々に訴える映画でもあったことを知った。
「ビッグコミック オリジナル」に連載されている「赤狩り」で。
真実の脚本家の名前を隠し、別名にし、ワイラー監督も「私もその秘密に参加させてもらう…」と。
聴聞会で名をあげられたレスターは監督用意のローマへの旅券ですぐにローマに出発。
危ない連中をみんなローマに連れて行くんだよ。」
『ローマの休日』はすべてローマで撮影し、編集も仕上げもローマでやる。」

「そして彼(注:ワイラー監督)は口も手も塞がれながら……」
それでもなお『信頼』を呼びかけている…!!」

現在、人間界、あるいは日本で生じている現象にどのように対応するか、という大問題にノーてんきなオラに考えることは能わず。
丼大王行状記の東伊豆の小川の2017年観察から、溯上あゆみちゃんの溯上時期と性成熟時期を再掲して、身の丈に合ったことを考えるようにしましょう。

丼大王の溯上アユ観察   場所は東伊豆の小川  2017年

片岡さんこんにちは、暇大王です。
やる事がないので畑のそばにノビルを採りに行ってきた、そいつを綺麗に洗いそしてきざみ、塩コンブとお酒を混ぜて、一晩寝かせれば最高の酒のつまみになる。明日の晩にはいただきます。

3月17日の14時に裏の小川で鮎の溯上を確認した、
平年より5日位遅い、数は少ない100~200の群が2つ、まだまだ少ないが今年も鮎がきた。
実は午前中は川工事で濁りがあり、観察が出来なかった。
16時時点での海水温度は15度、川の水温も15度だった。
今日は一日太陽がでていたので川の温度は2~3度は高くなっていると思う。
朝は10度前後じゃないかな。
川工事が24日で終了するので桜の花が散る頃には本格的に遡上するのではないかと期待する。
但し海に鮎がいればの話。

    ノビルか、もう長いこと採ることも、食べることもないなあ。
餓鬼の頃、芹に毒芹があるとは知らずに採っていた。いつ頃から、毒芹を意識しないといけなくなったのかなあ。何で、毒芹が「芹」の育っているところに入り込んできたのかなあ。
今では、芹が育つ環境そのものが減ったようで、育っている場所を探すことすら、困難になった。田圃があっても芹のはえない畦になっている。何でかなあ。

小川の遡上鮎が多いのか、少ないのか、分からんけど、丼大王の毒牙にかかりませんように。
故松沢さんが、遡上鮎が減っていた頃ではないかと思うが、何で減った?という質問に対してではないかと思うが、狩野川河口域から海に出て行かない稚鮎がいる、と。
それが、湖産、交雑種、何らかの継代人工の子供、と今では断定出来、また、学者先生のいう汽水域で一生を過ごす「シオアユ」と断定出来、決して「海アユ」の遺伝子汚染を惹起する現象ではない、といえるが。
また、今なら、もっと、まともな質問が出来るような気はするが。

塩昆布は、昔は、出汁を取った後に利用する食糧であったが、いつから、店で買う物になったのかなあ。高いなあ。
ノビルの料理法は、丼大王とは違い、単に味噌をつけただけではなかったのかなあ。もっとも、その記憶が、ノビルなのか、エシャレットであるのかおぼつかないが。
今年、どの程度、モズクが繁殖して、丼大王の酒のつまみになるのか、も、気になりますねえ。 
   
     1番上り、2番上り、3番上りと大きさの関係は?
「アニマ」の「特集アユ」(1967年発行 10月号 No.43)掲載の「特集座談会  アユの世界」 を、久しぶりに素材として、「故松沢さんの思い出:補記」に使用した。

その時、原田先生の
「ぼくは、アユをやっているというとウソになるし、やったことがないといってもウソになるから、ちょっと遠慮していたけど……(笑い)。
 この話は昔からものすごく面白いと思っているので、海アユでも、おそく海から上ったのは大きくならないらしいけど、時間が足りないのか、早く上って大きくなったアユにおさえられるのか、それとももう、どうやっても大きくなれないのか。誰もやらんのなら、そのうちぼくが手を出そう(笑い)。」

その故原田先生の思いを,丼大王の東伊豆の小川での観察から、何か、つかめないかなあ、という妄想から、これまで丼大王の小川の見聞を紹介をせずに、オラだけが情報を独り占めにしてきた。
(「意見感想:丼大王行状記」にはできるだけ紹介しているが)
しかし、ヘボの考え休むに似たり、であるから、あきらめて、まとめて紹介します。

なお、溯上アユの1番上り、2番上り、3番上りで、大きさ、成長度合いに違いが発生する、ということは、適切な観察といえるのではないかなあ。
食糧が、どのように、大きさに作用しているのか、は、丼大王等、観察力の優れた方々にお任せしましょう。
丼大王のおうちは、「トラックで運ばれてきた」アユの影響を受けない小川が「お庭」に沿って流れており、立地条件にも恵まれていらっしゃるから。

そのうえ、1番上りは、丼大王やご近所さんが、品切れにするのでは。
ということは、小川にいるのは、堰下流と、堰上流に移殖された2番上り、3番上りということになるのでは。

そして、それぞれの食糧事情の違いが、大きさに影響するのかどうか、を観察できるかも。
さらに、先日、狩野川は松下の瀬で、丼大王が1番上りをだっこしたとはいえ、ボウズ続出の試し釣りや大会。水のあるところに辿りつくにも「藪漕ぎ」をしなければならないほどの釣り人に見捨てられた川には、ウデ達者の丼大王達と雖も、頻繁に出掛けることはないのではないかなあ。
という地の利、天の利があることから、小川のあゆみちゃんと戯れる時間がたっぷりとあるのではないかなあ。

学者先生のお一人が、「天然アユ~」とかの本を出版されたようであるが、精神衛生上悪いから、読まないことにしましょう。
四万十川のアユの産卵時期が、耳石調査で、10月、11月とおっしゃることには耐えられませんから。何でか、2月孵化のアユも耳石調査で出現しているから、耳石が、孵化日からの「日数」を表現しているのか、否か。それとも、研磨作業等の不手際から、孵化日が適切に観察できないのか、わからないが。
何で、川那部先生らの薫陶を受けられた方々の、素人でも読める本が出版されないのかなあ。「悪貨は良貨を駆逐する」現象かなあ。

4月24日  Subject: 川の中を撮影する

片岡さんこんにちは、暇大王です
4月23日は奥さんの誕生日で晩飯を食べに出かけた。
昼間に鮎の状況を見る為に水中撮影してみた、遡上は少ないがPCで見ているが楽しいネ、良いネ。
いま、家の裏ではセンチがいいとこ、でも一番上りは川の上の方にいます
6月には18センチにはなるはず、遡上量は平年の半分位かな

先週の雨は、3月に川工事が終わってから、初めての雨らしい雨で川が綺麗に、遡上には恵みの水なると思った。
ところが川工事の後の小砂利が流れてきて去年出来上がった川床の石を埋め尽くしてしまった、中途半端な雨だなあ。
毎年の工事は、コンクリートブロックと掘った土砂と砕石した小砂利で川床をつくる。
大雨で小砂利が流れてしまえばブロックの間に石が挟まり何とか釣りの出来る形になるが、今回のこの雨は去年出来上がった川床の石を埋め尽くしてしまった。
6月、7月頃の大雨に期待するしかない。
なにせ狩野川用のオトリアユだから。

囮だけでなく、かあちゃんの操縦もうまいとは羨ましいなあ。
家庭内離婚歴ウン10年のオラには考えられない光景ですなあ。

もう、狩野川の溯上アユに浮かれることはないのかなあ。
酒匂での漁協H・Pに飯泉の堰で稚鮎が見えたのが、4月以降、と。そして、魚道を上る姿ではなかった、と。
2番上りの時期に溯上が始まった、ということかなあ。
1番上りの生存率が低かったとすれば、何でかなあ。

川原で、ビールが飲めるだけでも有難いと考えましょう。
パーキンソン病にとりつかれることもなく、川に入れることに感謝しないと、罰が当たりますなあ。

5月21日       裏の小川は 溯上アユがぐじゃぐじゃ

片岡さんこんにちは、暇大王です。
今週に山さんが狩野川の年券を買って持ってきてくれた。
山さんも今年は定年を迎え、仕事を少し減らしてもらい、何とか鮎釣りが出来るかも?て言っていた。
それにしても狩野川の試釣りはひどい、9割以上がボーズ
まあ、そんなものでしょう。
自分の勘だけど狩野川も7月頃になれば釣れるかも?
それまで裏の小川で。

裏の小川も遡上確認から2カ月以上たちました
始めはかなり少ないと思ってたが、平年並みの溯上にはなったと思うが。
今年は雨が極端に少ない、此の2カ月で普通に雨が降ってくれたのは2回だけ、
それに河川工事の影響で深みが無くなった、また、少しの深みは川工事の置き土産の小砂利で沈み石を埋めてしまった。
深みにご近所さんと大き目な石を入れたが、川の泥に埋まってた石なので垢付きがわるい。
水は少ない、餌は無い。鮎がデカクならない、チビが多すぎる。
爪楊枝サイズがぐじゃぐじゃいる
近くの別な小川もチビがうじゃうじゃ、これってなんでしょう。

    オラにはショック。
狩野川の溯上アユ量ではなく、山ちゃんがオラよりも10歳以上若いということが。同じ年頃のおっさんと思っていたのに。
練馬人は、当然、オラよりも年寄りと思っていたが、これも間違っていたかも。
川見同様、年齢見も当てになりませんなあ。

相模川は、オラの予想とは違い、相模湾の動物プランクトン繁殖量が、大量の流下仔魚の、稚鮎の胃袋を満たし、生存率の激減とはならなかった。
3年連続の1千万クラスの相模大堰副魚道での遡上量調査結果に。
単純に栄養塩の多寡から、動物プランクトンの生産量を想定することが困難,適切ではない、という事例かなあ。川那部先生は、海の植物プランクトン、動物プランコトンの繁殖量が単純ではない、と指摘されているが…。
他方、駿河湾はなんで稚鮎の食糧不足が、かってよりもひどくなったのかなあ。しかも、場所ムラがあるようで。
丼大王が、お仕事をしているときにはサボり、通っていた平成の初め頃までの狩野川でも少しは遡上アユの増減はあったとは思うが、遡上アユが殆どいない、ということはなかったのではないかなあ。1995年、6年のようなことは。

酒匂川の砂止めブロックの必要性の意味が分からない。
丹沢(三保)ダムがなかった頃は、砂止めブロックの上下も、ブロックの中も石が詰まっていた。ダムができてからは、ブロックの空間だけに石があり、上下は砂利に。今では、ブロックの中も、間も砂利のところが多くなった。
重機を入れて砂利を取っているが、ダム放流量を洪水の心配をするほど、流す方が効果があるのでは、と想像しているが。
ただ、山からの土砂の流入量が増えているとのことであるから、いかほどの効果があるのか、疑問であるが。

もう、狩野川の溯上アユに浮かれることはないのかなあ。
酒匂での漁協H・Pに飯泉の堰で稚鮎が見えたのが、4月以降、と。そして、魚道を上る姿ではなかった、と。
2番上りの時期に溯上が始まった、ということかなあ。
1番上りの生存率が低かったとすれば、何でかなあ。

川原で、ビールが飲めるだけでも有難いと考えましょう。
パーキンソン病にとりつかれることもなく、川に入れることに感謝しないと、罰が当たりますなあ。  
   
    溯上アユに、小さいアユが多きことは,それなりに理解できるが。
そうはいっても、遡上開始が格別遅かったのではないが。食糧不足も、要因としては理解できるが。
とはいえ、1番上り、2番上り、3番上りとなる海で生活しているときの稚鮎の生存率が、それぞれで大きく異なったのかなあ。
その要因としては、捕食者の多寡よりも、植物プランクトン、それを食する動物プランクトンの繁殖量が影響している、と妄想しているが。

興津のチビアユが何でか、気になる。人為が影響しているのか、単に1番上り、2番上りが少ないのか。
その点、丼大王の小川は、溯上アユしかいないから、人為の影響を考えなくてもすむから、有難い。


6月16日
16日、相変わらず小川での釣りです。
昨日までいなかった鮎が、20匹位の群で深みにいる、魚の大きさは18センチはあるかな?
前からその場所にいる鮎と色が違う、養魚の様に薄い青て感じ、
台風などのあと、そこらじゅうの川が氾濫して海に出た鮎が上ってくるが?
そして、今、鮎が居るところは朝昼晩と一日数回覗きに行く場所だ、突然に急にわいてきた。
もしかして、河口にかなり大きい鮎が居るのは気がついてたが、それが遡ってきた?。
さっそく竿をだしてみて、何とか1匹だけ掛った、
体にかなりの傷がある、下顎側線孔数は、左右4対左右対称
今日17日に1匹釣れた、やはり下愕側線孔数は,4対左右対称。
写真は、上が昨日で下が今日の鮎、さっき締めた、写真より実物の方が青い。
今まで釣ってた鮎とまるきり違う気がする。
ちなみに鮎がたまっている所は海から200メートル、そして普段釣りしてる場所は海から500メートルだと思う。
それより上流はコンクリート底で超浅い、ちび鮎がグジャグジャ

    小川に堰がなければ、どこまで溯上するのか、中流域のアユとはいえ、渓流相まで上るのか、はたまた、河口からの距離で、1番上り、2番上り、3番上りの構成比がどのように違うのか、観察できるかも。
何で、小川にまで堰を作るのかなあ。水野先生の「魚にやさしい川のかたち」を早く紹介しなければ、と、2018年になっているのに、まだ、丼大王の2017年の小川での観察すら、整理できていない状態。「寒いから」ということにしておきましょう。 
   
     遡上時期と1番上り、2番上り、3番上りの関係は?
房総以西の太平洋側を生活圏とする海アユは、3月中旬に溯上を開始し、3月下旬までに川に入った鮎は、一番上りではないかなあ。
そして、4月上旬に川に入った鮎は、1番上りと2番上りが混じっているのではないかなあ。
4月中旬に川に入ったアユは、2番上りで、4月下旬のアユは、3番上りも混じっているのではないかなあ。
5月に川に入った鮎は、3番上りで、狩野川に溯上アユが満ちあふれていたとき、11月でも小中学生の大きさで,オラの相手をしてくれていた鮎では。
   

               東伊豆の小川の性成熟と水温

    「追記」と表示されたコメントは、今回追加したものです。既存のコメントの一部を変更したところもちょっぴりあります。
丼大王行状記のままであれば、あまりにもサボっている、と、丼大王から文句を言われそうであるから、「魚にやさしい川のかたち」の準備ができるまでの時間稼ぎも兼ねて、努力をした証です。

丼大王は、小川で、狩野川で使う囮捕りには少し苦労をしていたが、ビールのつまみには不自由をしなかった。
うなぎに囮を食い逃げされたときは、決して食い逃げ犯を野放しにはしなかった。ポアロか、シャーロックホームズか、明智小五郎なみの推理力で、後日逮捕していた。
そして、カッターナイフでさばいて、蒲焼きに。
故松沢さんが健在であれば、包丁を研いで貰っていたから、カッターナイフの使い勝手の良さを経験することはなかったかも。

そして、アユの姿が見えないところにはうなぎがいる、と。その後も蒲焼きを食するという贅沢をしていた。
そのように小川のアユとのつきあいが丼大王の胃袋を、舌を満足させてはいたが、大きさには不満のあるあゆみちゃんとの盛夏中のおつきあいは、「丼大王行状記」にお任せをして、産卵時期に移りましょう。
なお、アユカケも釣っている。相模川にはまだアユカケがいるのかなあ。アユもどきもいるのかなあ。
   


10月7日
10月7日朝5時には雨は上がったが、結構降った。特に2時~3時にかけてかなりの量だ。
前日に釣った鮎は、大雨の予想で家の横の生簀で活かしている。
あと、川の生簀はバレーボール大の石を20個くらいの山積、朝に見たらこれだけ石を積めばオトリ缶は安泰でした。

午後から水はプラス15センチくらいなので生簀の横で友をひてみた。普段は水がチョロチョロで人が立つと鮎が逃げてしまうが。
今日は鮎が逃げないで追って来る?。1時間に13匹、ただし大きさは12センチてところ
そして殆どが雌、おいおいここでも鮎は終わりに近いか

10月8日、狩野川に行かずに小川で鮎釣り、水位は昨日より5センチは低い、なんとなく水の引きが悪い。
まあ、水位が低いより高い方が掛るから。2時間で15匹くらい、最大16センチで平均14センチてとこかな。
これなら狩野川でも働ける。9匹は川の生簀に、後の使用済は放流して未使用は家の生簀へ。明日は狩野川へ行こうかな?

    大仁では1メートルほどの増水ではなかったかなあ。
さて、「トラックで運ばれてきた」鮎の神島橋の状況にはあんまり興味はないが、小川の雌が主役に,集団になったのは、何でかなあ、と、気になりますねえ。
下りのために、雄と雌が棲み分けをする時季には早すぎるし。
下りのための集結をするとき、故松沢さんは、その群れは、鮒が空気を吸うときのような動作をすると。その現象はないと思うから、それでは何で雌が群れて居たのかなあ。
気になりますねえ。

           雨の影響は?水温低下の性成熟への影響は?
10月初め頃までは、気温30度以上は当たり前、35度になった日も例年よりは多かった。
しかし、10日に近づくと、最低気温は20度以下、最高気温は25度以下に。そして、その後は11月、12月の気温が継続していた。
さて、この気温の低下の継続が、性成熟を促進することに影響を与えているのか、否か。
残念ながら、故松沢さんに、このような何十年ぶりかの異常?な気温変化におけるあゆみちゃんの性成熟への影響を聞いたことがなかった。

丼大王の小川での小学生の性成熟の進行からだけを見ると、気温の低下現象が性成熟を進行させているようにも見えるが…。
湖産は、川那部先生が、氷期遺存習性説で、海アユとの生活史の違い,ことに縄張り形成への執着を推察されているが。湖産のような、遺伝子レベル?ではなくても、気温の低下、水温の低下が、性成熟を促進することがあるのか、ないのか。

学者先生が「晩期成熟型」と、特殊化している狩野川の鮎を砂鉄川に放流したとき、縛れる中でも鮎釣りができた、との鈴木さんらの試みがある。この事例では、低水温でも性成熟に、生殖腺重量体重比に影響は生じない、ということになるが…。
残念なことに、一回だけの実験のようで。

そのような高邁な「目的」で、丼大王の小川での観察を野次馬根性で見ていたら、少しはあゆみちゃんをだっこできることの腕の格差を忘れることができるかも、と思っていたが、お天道様は、不純な動機を認めず。
10月22日から23日夜明けまでに台風がもたらした雨量は、多くの溯上アユを海に流したのでは。いや、淵のない、ヘチのない小川であるから、溯上アユは海に避難した、というべきかも。

23日朝の相模川の昭和橋の水位計で、3メートルの増水。それよりも1メートルほど水位の低下した8時頃の高田橋は、右岸の駐車場近くまで水が充たさしている。
弁天では中州の高木の一部が空中に枝を出しているだけ。
石切場では、左岸の車が走る土手道に格好の避難場所と思える程度の水が流れている。

前回の少ないダム放流で弁天の瀬を小石、砂利にした「物達」は流されて、また石が出るのでは。石切場の瀬は復活するのかなあ。
それよりも、濁りを嫌い、海に避難したであろう磯部の堰下流の溯上アユは、どこの小川で産卵できるのかなあ。金目川が一大産卵場になるのかなあ。
その量はどの位かなあ。当分は、真っ黄色の濁り水が澄むことはないでしょうに。相模川に留まったあゆみちゃんは食糧不足の中、どのようになるのかなあ。もちろん、生存への影響ではなく、性成熟、産卵への影響であるが。

狩野川の大仁の水位計では、最大3メートル50センチの増水。城山下の左岸道路が水没するほどの増水ではないとは思うが、東北、日本海側=対馬暖流を生活圏とする海産畜養か、それを親としたF1ではないかと想像している今年狩野川に放流された「トラックで運ばれてきたアユ」の主役は、消滅したのは。

これで、大仁の焼き鳥屋さんで、焼き鳥と、じっくりと時間をかけて焼いた干物を肴にして酒を呑み、稲庭うどんを食べる夢も潰えた。
ゆめはあ  むなしく  きえてえ

北帰行と北上夜曲は、昭和37,8年頃にうたわれるようになったと思っているが、その頃には、溯上アユと、湖産が、そして数少ないであろう海アユが放流されていた。現在の放流物の主役である継代人工は誕生していない
溯上アユが居れば、平成2,3年頃までのように、城山下の左岸にドブ釣りの方々が竿を出す時期では。今回の増水で、楽をしょうと下って来たあゆみちゃんが城山下の淵にいるから、ドブ釣りさん達の竿が並ぶでしょうに。

駿遠橋では最大2メートルの増水。アカがつくまで待てませんなあ。
いや、オラは、11月23日まであゆみちゃんのお尻を追っかけていたから、11月も房総以西の太平洋側の海アユは、美白もいっぱいいることは常識であるが、学者先生同様、房総以西の太平洋側の海アユの産卵時期も10月、11月と信じていなさる方にとっては、叩いた鮎しかいない、と思っていらっしゃるようで。
とはいえ、丼大王同様、閑ですからねえ。救いの神はいないかなあ。 
   

10月12日
祭りで忙しいのでオトリ獲りしても使えないが、する事がないので小川で友をひいた。
9時に何時もの所に行ったら、ご近所Bさんが友釣をしていた、
その場所をあきらめ、家のすぐ裏に戻ってきた。小さい12センチクラスが結構掛る、2時間で10匹だが9匹は雌、1匹雄は16センチはある。
どうしようかな、雌をイケスに1日入れてフンを吐き出させ甘露煮にするか???
でもお腹がまだパンパンじゃないしな、どうしよう。
あと16センチくらいのアユカケが釣れた、写真の後は放流。
昼飯も食ったし午後は何しよう???

    小川のアユは尽きず?
この時期の雨と台風は困る。
13、14、15、16日と鮎釣りは、祭りと雨と寒さで休みました。それでも川を覗くと、ご近所さんやほかの釣り人がいます。
川を見てて鮎が少ないて言うのは、そこに居る鮎のどの位が見えているのだろうか?
毛ばりや餌で結構釣れてますからね。


6月の鮎解禁から今日まで4日も竿を出さなかった事はなかった。
7月の8,9日と8月の18、19日の二日間てのが2回あるだけ。

17日、今日は昨日よりもっと寒い、それでも見ていると毛ばりで釣れている。
午後に雨が上がるようなら毛ばり釣りしてみますか。
14時に雨の中で毛ばり釣りを始めた。よくもこんなに、こまかい鮎がいるか?
2時間で60匹、オトリになりそうな2匹を残して腹を抜いた、晴れたら塩して干すよ
あとはこの雨が何時まで続くか?それに台風が、そいつの動きによっては本当に終わりかな???
海苔まで2カ月もあるし、やる事がなくなり困る。

10月18日
しかし雨がよく続くな、川を見てきたがチンチン釣りでは釣れそうな丁度良い色に濁っているが。でも誰も釣りをしていない、寒すぎる

10月18日、台所の換気扇がおかしいので、見てと言って奥さまはお仕事に行った。
午前中の仕事ができた、換気扇外側の吹き出しの羽根が動かない、油で固まって羽根を動かす線が切れている。
手を油まみれにし線を繋いで3枚ある羽根のうち2枚動くようになった。1枚は完全に駄目、でもこれで良しにした。
あとは壊れるまで使って、壊れたら電気屋さんにお願いします。

午後は裏の小川で友釣り、小川としては水はかなり高いが何時もの場所へ。
そこで雌7匹、次の場所は雌4匹と、雄4匹で大きさは12~15センチ
釣れた場所は2か所のみで、そのほかの所は釣れなかった。
そして、いつもは何処でも釣れるのにな、鮎がいる所といない所がはっきりしてきたが、今日だけか??

小川のちんちん釣りの毛針
この川の毛ばりは独特です、たぶんほかの川では御目にかかれないと思う。
つり針に赤い糸を巻くだけ、この時期は針に蛍光塗料を付けているのも使うけど、要は『ボウフラ』に見せて針を作っている
だから少し水が出て濁りが入った方が良い。鮎が濁ってコケをはめない時に虫餌(ボウフラ)に見えるかな。
完全に澄んでしまうと全く釣れない、其の時は餌釣りにする。

写真は赤い布から糸をほぐして、それを巻いた針、針の大きさはサカサ針の2号と同じ位の大きさ。
しかしこれを作るのはめんどくさい、眼が見えないし手はプルプル、そしてその後に蛍光玉を付けるとつい雑になる。
1個は蛍光の玉を付けた物です。手はプルプルでも秋には玉付きのが本当に良く釣れるで我慢して作る。

ちなみにイカリ針は、前回の狩野川で2回針が折れた。7.5号の針で、(写真は)単に大きさの比較対象です。
年に針折れなんて何回も無いのに一日で2回も、同じ出来合セットの中での2本でコツンと来て寄せてみるとこれ。

それから10センチでも12センチでも、もう腹パンの鮎が雌も雄もかなりいる、そしてたたいて細く真っ黒になった雄も掛る。
この小川でも1カ月くらい性成熟が早い、今年の雨の無い夏の天気と秋の気候のせいかな、早い。

    なんともお粗末?というような毛鉤ですなあ。
それで釣れるとは。
店で売っているちんちん釣りの毛針は、一応、まともな毛鉤。まあ、テンカラやフライで山女魚釣りをし、あるいはドブ釣りの人から見ると、貧相な毛鉤ということになるが。

ハリ折れは、継代人工の鎧のような鱗に突き刺すように、細軸になっているからかなあ。
こっちで使うときは、6.5の4本錨で間に合ってしまう。狩野川で溯上アユがいるときは、7号の時もあるが。
大井川では、7号か、7.5号。それはハリ折れ対応ではなく、身切れ対応。そして、早掛けタイプは使わない。8号の錨を買うときもあったが。

小学生でも十分に性成熟をしているとはなあ。
孵化日からの日数、前さんは、積算日照時間が性成熟に関係しているのでは、と
短日化が性成熟と無関係、とは、岩井先生。北半球では北の方が、短日化が南側よりも遅い?が、北の方が早く性成熟が進むから、と。正確には、東北、日本海側=対馬暖流を生活圏とする海アユのことであるが。

また、狩野川のアユを砂鉄川に放流したとき、縛れる中でも鮎釣りができたように、一義的には、孵化からの時間では。
ただ、それだけが要因であれば、気温変化、水温変化に対応できず、子孫が絶える危険がある、ということかなあ。

もちろん、狩野川に溯上アユが満ちていたときも、西風が吹き荒れた後、あるいはその頃、小学生でも性成熟をした者がいたが
今時の小学生は、今年のように、水温の低下が早いときは、早く性成熟をするということかなあ。いや、今時の小学生だけでなく、昔から、そういうように遺伝子が組み込まれている、とすると、砂鉄川の現象はどうなるのかなあ。
水温が、性成熟の副次的要因としても、性成熟に作用しているのかなあ。

中津で、「名人豹変す」の名人が、60匹。その場所は、小石、頭大の石が点在しているとはいえ、縄張りを形成できる状況ではない。
日々、人は入る。
その釣り方は、秋川の群れアユ崩しの釣り方ではない。
かって、永井さんが、相模川での大会の時、囮を錘のようにして使う釣り方の群れアユ崩しを二回戦では禁止された。
その釣り方は、狩野川でも行われていたとのこと。

60匹釣れていたその場所付近の一部が角田大橋から見える。
鮎なんて、全然見えない。
しかし、先日、釣り人がいないときに見ると、きらきらと、いっぱい鮎が見えた。その連中は、いったいどこに隠れているのか。隠れ場所なんてない。そんな石はない。
不思議ですねえ。ひらを打たなければ、動かなければ、オラには見えないということかなあ。

10月18日の小川のアユは、雄と雌の棲み分けが始まっているということかなあ。
もし、そうであれば、下り、産卵行動が近いということになると思うが。
ただ、番茶も出花娘や乙女であれば、性成熟が進んでいて、水温の低下を感知して、増水もしているから、性の祭典にいこか、となるとは思うが、小中学生が、そう思うのかなあ。

なんぼ、水温が低下しても、そこまではませてはいないと思うが…。故松沢さんは、何とおっしゃるかなあ。
原則としての現象ですら、適切に観察,理解できないオラが、変化球を適切に想像することはできるわきゃないよなあ。
そう、丼大王が、10数匹取り込んだのに、持ち帰ったのは数匹という偉業を達成したとき、多分、11月3日と思うが、その時も支流等でぬくぬくと育っていた大鮎が、性の祭典に急いでいたのかなあ。

ちんちん釣りは、少し濁り気味の水色の方が、好ましいんだ。
相模川でのちんちん釣りは、溯上アユがいっぱいいるときは繁盛していて、水色に関係なく釣れているように見ていたが。
溯上アユがいない時は、仕掛けをあげてきても、空振りの時が多く、大して釣れていないが。 
   

          台風による増水後の小川
台風で、シーズンは終わったか、活かしていた鮎を2匹残して昨日放流した。そして新たに何匹か釣り、川で引き舟の中にいる、これをどうするか?
もしこの川で使うとしても(注:狩野川の)川の回復まで1週間はかかるな。

小川の釣り場で、この川の底は基本的にコンクリートブロックで隙間には石が入っている。
3147.(注:小川の写真)台風前の10月21日、これでプラス10センチ位かな、家のすぐ裏で(海から200m)ブロックで隙間の石は握り拳大からそれ以下の石や小石やジャリ底
鮎は石よりコンクリートをなめている。夏の夕方は、水に入らず土手の中段からやると良く釣れる。

3170.(注:小川の写真)10月25日今朝の状態、見た目は変わらないが台風で水が出て中段もギリギリ水を被ったから1.4メートルはでたな
小石やジャリは流れ、コンクリートがむき出しになっている。ひと抱えもある大きな石も流れてきたが下流にいっちゃった。
まあ次のちょっとした雨で小石が来るだろうけど。

台風後の月曜(注:10月23日)の昼からご近所さん達はバケでかなり鮎を釣った。大きいのはせいぜ16センチくらい
台風で餌無しが続き痩せて細い、そして今年は渇水で餌が無かったせいか大きいのがいない。

自分は昨日の昼間にズガニ釣りしながらバケで鮎釣り、20匹くらい釣ったか。その中に写真サイズが3匹いる。

鮎は釣りあげて、手が触れれた瞬間にオスは射精、メス産卵するのもいた。この7センチクラスでも射精した。
それから、水が澄んで来たら上流に向かって跳ねて行く小さな鮎もかなりいる

    変則3面張りの小川でも、1.4mくらいの増水でも、海に避難していないアユがいるとは、びっくり。海に避難したあと、差してきた鮎ではないかとも思うが。
また、骨川筋エモンになっているアユがいることも。相模川では、一週間、二週間、光合成ができないほどのまっちゃ茶の濁になるが、それ程痩せ衰えた鮎はいるのかなあ。
もちろん、ダム放流で石がひっくり返っているから、水生昆虫も流れているから、昆虫を食べることはできないはず。
相模川での飢饉による痩せ方を気にしたことはないが。というよりも、アカ付き良好になるまでは、竿を出していないから、光合成ができるようになると、短期間に体型を回復しているということかなあ。

射精、産卵するアユがいるとは、何が性成熟を促進している要因かなあ
湖産放流全盛時代の酒匂川では、9月下旬頃から、タモに卵がこびりついていた記憶はあるが。
「トラックで運ばれてきたアユ」であるから、下りの行動をしないで産卵するから、湖産の産卵時期になると、タモに卵がこびりつく現象が当たり前になり、記憶に残っているのかなあ。

狩野川では、西風が吹き荒れる頃、あるいはそれ以降でも、タモに卵がこびりついていた記憶はない。千歳橋?附近が一大産卵場との話があったから、城山下が産卵場になっていないことが一因かも。
とはいえ、夜陰に紛れて、舟の中でニャンニャンをする小中学生の不届き者も時にはいたが
タモについた卵を川の中で流すのは大変。粘着力があるから。放置すると臭くなる。

水温が低下化して1週間、2週間ほどで、腹がぱんぱんになるのかなあ。
もし、腹がぱんぱんになるには,生殖腺重量体重比がピークになるには、もっと時間が必要、となると、射精し、産卵をした鮎は、溯上した海アユかなあ。
前回の増水で、近くの川に放流されて、海でも生存できて、濁りが早く消えた小川に入ってきたアユということはないのかなあ。
東先生が、湖産を四群から二群に変更された記述が掲載されている報告書が見つかれば、何か、手がかりを得ることができるかも。

ザガニに「釣る」漁法で対応するとはなあ。黒川虫や、囮に食らいつくザガニは時折お目にかかっているが、それを漁法にするとは、丼大王くらいでは。
海に下ったザガニが、一斉産卵をしているのか、どうかわからないが、海でも長い期間捕ることが出来るということにもびっくりしたが。
故松沢さんのテントに、下りザガニを獲るための大きな竹筒?が運ばれて来たのを見たことがあったが、そのような道具でザガニを獲るものと思っていた。
相模川で、雄物川さんらがザガニを獲るときは、蟹籠に餌を入れて獲っているから、下りのザガニを対象にはしていないよう。

コケを食べるためには、安山岩?が良くて、花崗岩は鮎がつく石ではない、との話があった。
しかし、湖産放流全盛時代の酒匂川の5月頃、溯上アユが多い時は、ブロックがきれいになめられていた。それにより、口を傷つけていたとは考えにくい。
そうすると、表面が滑らかでなくても、鮎の食事には影響がないということになるかも。  
   


       11月10日   小川にアユは居れど、ザガニもおれど
11月5日、今日もチビを50匹、これを干物にして冷凍庫に、そして今年の鮎は終わりにしました。

狩野川も台風が2ツ続かなければもう少し釣りができたろうけど、もう諦めた。
小川も台風後のアカ付きもまだだし、川の工事が始まり濁りが入りはじめた。

餌やバケ釣りはできるが、これも止めました。
カニ籠を沈めたが獲れるのはチビばかり60匹は入ってた。
毎日は暇でツルバラの誘引と剪定も終わってしまった、次は梅の木とイチジクの剪定。

    ザガニが、わんさかいるんですねえ。
ザガニにとって、良好な生活環境とはいえないでしょうに。産卵場所が海であることが、絶滅せずに、子孫を維持できている一要因かなあ。
それにしても、凄い量ですなあ。

雄物川さんらが、寒鯉釣りの時、弁天下流のトロに蟹籠を沈めていたが、10匹も獲れたら、大漁。相模川と小川との水域面積でザガニの棲息密度を比較すると、ウン百倍、いやウン万倍の違いがあるようで。
雄物川さんらは、蟹籠に餌を入れているから、産卵のために海に行くザガニではないでしょう。
その寒鯉釣りも、90センチ、89センチと、自慢するためにブロックに書かれている情景もなくなった。川底が、吸い込みの団子が割れる石底でなくなったということよりも、鯉が少なくなったからでは。

まだ、河川工事をするとは、どんな工事をするのかなあ。
大熊先生の「洪水と治水の河川史」や、水野信彦「魚にやさしい川のかたち」(信山社)が紹介されているのように、効率・排水溝化で、人間だけの都合で、川をいじくっているのではないことを期待するしかないが。大熊先生や水野先生が提案されているおさかなさんたちのことも考えた構造で、川をいじくっていると期待したいが。

雄物川さんらは、寒鯉釣りの時、もう1つの副業をしていた。
それは、ダム放流で、津久井湖からワカサギが流れてくるとき
ここ何年も底水放流に乗って流れてくるワカサギの量は少なかった。回遊してくる群れが小さい、といって、試し釣りの域を出ないようであった。
今年はどうかなあ。11月12日の小沢の堰上流、見知らぬ2人がワカサギ釣りをしていた。煙草を吸いながら見ていたが、そのうちの1人が、二回、竿をあげた。1匹と、2匹の幼児。二〇世紀の記憶では、弁天下流トロで、小中学生の大きさのワカサギが、何匹も掛かっていることがあったと思うが。いや、5年位よりも前には、雄物川さん達も唐揚げの食材を十分に確保していたが。
津久井湖では、ワカサギが自然繁殖しているのかなあ。放流ものかなあ。

小川のアユの生存状況が、丼大王らがわんさか釣っても、まだ子孫を絶やさぬ水準で存在しているとは、これもびっくり。
とはいえ、河川工事の濁り等の影響があっても、産着卵は、孵化できるのかなあ。気になりますねえ。
それと、ザガニは産卵の為の下りの時期ではないかと思うが、増水時に海に入ったのかなあ。 
   


11月21日   性成熟の時期は?
PCが壊れて10日、何とか新しい機械を買った、ずっとAだったがBにした。
別に何処でもよかったが店で是非て、仕方ない買っちゃいました。
まだ全然慣れないからPCに向かうことが少ない。
鮎が終わったら何もすることがない、毎日川の工事の見学、獲れないイワシのめざし用の串作りをしてみたり。
庭にある長芋をほじってみたり、あああ退屈です。

今日は天気も良く、少しあったかい、川工事のほうもコンクリート打ちで濁りも入らない、
一度仕舞った竿を出して餌釣りをしてみた、2時間で20匹以上、今残っているのは腹パンのが多い
まだやればもっと釣れるが、もういいでしょう、写真を撮って放流。
でかいのは18センチはある、こいつは産卵済でした。
明日は何をしたらいいかな。

    「8.1」のサポートがなくなったとき、買い換えるしかないが、販売店がどの程度、初期設定や、データの引っ越し等で、面倒を見てくれるかなあ。そのための費用もXPの頃と違い、高くなっているしなあ。

丼大王が、毛鉤らしからぬ貧相?な「毛鉤」で、流し釣り・ちんちん釣りであゆみちゃんをだっこしているとわかり、何でじゃあ、と思った。
ヤマメキラーさんが、ドブ釣りやテンカラ、フライで使っている加賀毛鉤の値段は、ベンツ1台分になる、とおっしゃっていた毛鉤のイメージにほど遠い「毛鉤」であるから。
ところが、丼大王の毛鉤が恥ずかしくない毛鉤が、ワカサギ釣りに使用されていることを知りびっくり。

10月の二回の台風で、相模川は、弁天の左岸コンクリート護岸のてっぺん近くまで増水。ワカサギが津久井湖から流れてきた。底水放流の御利益で、ワカサギが釣りの対象となる。
弁天ヘラ釣り場に入ったワカサギは、貧相?な毛鉤で、1束、2束釣れている人も
大きさは5センチ位かな。唐揚げではなく、掻き揚げに手頃な食材とのこと。
これまでとは釣り場は変わっているが。小沢の堰上流の淵のところでは釣れていない。

小川に堰がなければ、どこまで溯上するのか、丼大王に観察して貰えたのになあ。
秋道先生は、「アユと日本人」に、古文書を使用して、4次河川まで溯上し、例外的に3次河川まで溯上すると書かれている。
小川の渓流相のどこまで溯上するのかなあ。水があるところはどこでも溯上するのかなあ。
   


12月7日の小川のアユ
12月7日、この年までに師走に鮎釣りをするのは初めてですが、してみた、
工事の関係で毎日小川は濁ったり澄んだりをくりかえしてる、濁りで石は泥をかぶるが鮎がいる所は、すぐに鮎が泥をどけて黒くハミがでてきます
海から20メートル位のところが真っ黒になって鮎がたまっている、自分の家の裏あたりも少しだけ黒くなる。

もうやらないと思っていたが、竿を出したくなった。餌のシラスを近所のスーパで買ってきて釣り開始、
釣れます、小さいが腹がパンパンで綺麗なメス鮎です。バケツに入れていたら早々と横になるのがいる、
写真を撮り逃がしてやろうと思い水に手を入れてビックリ、冷たい氷水です。可哀そうですぐに放流、
そしてまたバケツに水を汲み釣り開始、合計時間で40分位ですが8センチ~15センチが14匹釣れた。
それにしても鮎さんは大変ですね、産卵してもこれだけ泥が流れたら孵化は無理じゃないかな。

    オラも、12月終わり頃、柿田川で餌釣りをしたことがあるよ。
その場所には石は少なく、砂利のところでは黒く錆びたアユ、梅花藻の上を流すと、美白の女子高生
故松沢さんにこの話をすると、水草にもアカがつくよ、白川状態の後、アカが最初につくのは塩ビ管、次が水草の上、と。

水草の上にアカがつく例として、まともな石のない、鯉が泳いでいる松原橋界隈で、目利きもできない鮎の仲買を始めた人を退場させるため、故松沢さんらは「大アユ」を釣り、持ち込んだ。
仲買人が、どこのアユだ、と訊ねたから,狩野川のアユと答えた。
嘘はついていませんよねえ。松原橋も狩野川ですから。オラも、亡き師匠らに一度連れていった貰った。
残念ながら、水草の上を囮操作はできるわけはなし。いや、水草にコケがつくことも知らなかった。
愉しい釣りではなかったが。
あ、あゆみちゃんは、どのようにして、水草のコケを削ぎ取るのかなあ。聞き忘れた。
餌釣りであれば、水草の上を流すことはできるが、囮をどのように操作をしたか。故松沢さんが、水草にハリが引っ掛からないようにどんな操作をしたか、掛かり鮎が水草に潜り込まないようにどんな操作をしたか、話してくれたと思うが忘れた。

濁りが、産着卵にとって、孵化を妨げる要因になる、との話が何処かに書かれていたが、忘れた。
産着卵に泥が付着して、呼吸できなくなる、という話であったかも。

そう、アユがいると石はきれいになりますなあ。
「川  川からの贈り物」(東京書籍  1997年発行)に、大熊先生が、「川と人とのつきあい方」、天野礼子さんが「我が川は生きているか」「編集ノート」を書かれている。ほかに夢枕貘さんらも。
礼子ちゃんは、「編集ノート」に、長良川河口堰のギロチンが落ちたときの年、建設省らとの集会で、釣り人が泥で汚れた石をスライドで見せながら、アユがいれば、まずい石についたコケを食べるが、その後はきれいに磨かれて、旨いコケがつくようになる、と話されていたことを採録されている。

1991年までの狩野川城山下の石は、11月23日でもぴかぴかに磨かれていた。92年は、22日はぴかぴかであったが、23日はうっすらと曇っていた。93年は11月20日前に曇っていた。94年は、11月に入り暫くすると曇った。
この年表示は1年間違えているかも。92年までぴかぴかであったかも

迷人見習いは、今年も狩野川に行っていないかも。放流の行われていない鐘ヶ淵吊り橋や大見川の発電所で、アユが見えていたとのことであったから、溯上アユを求めて、たまにはいったのでは、と思っていたが。
お仕事が忙しい、スポーツカーを武器にねえちゃんを釣ることに忙しい、と、無駄な抵抗に励みすぎたことも影響しているでしょうが。
まあ、数年後には溯上アユがいるようになるでしょうから、安心して下さい。オラはあの世かも知れないが。

礼子ちゃんが、「編集ノート」に書かれている釣り人は、昆虫食時代を経てコケを食べる、あるいは、溯上アユがいないのは、遡上出来ないから、と考えられているかも、と思える表現もあるが、これは間違っていると思う。
昆虫食時代については、四万十川の山崎さんも書かれているが、川那部先生は、淀川の何とか閘門のところに入った鮎が、コケが少ないため、やむを得ず食べているのであって、「昆虫食時代」を設定しなくてもよい、と
まあ、戦後のある時期まで、肉食をしないから、日本人は体格が劣る等の現象が生じているとの話が隆盛になったことが影響しているかも。
長良川河口堰が出来て、岐阜県が長良川のアユを絶滅危惧種に指定しょうとしたとき、「天然アユ」絶滅危惧種は困る、との話から「溯上アユ絶滅危惧種」に変更したとのことであるが、「トラックで運ばれてきたアユ」も「天然アユ」の看板を掲げることの証明では。

河口堰による生物への影響調査のアユ担当になっていた和田さんは、板取川合流点でも流下仔魚がいるから、ということで、河口堰で誕生する長い長い止水状の水域が7日分の弁当を食べ終えるまでに動物プランクトンを食べることができる海に、あるいは最低でも汽水域に到達できないと餓死するということすら、思い及ばなかったごとく、「上り」のことを考慮しても、流下仔魚の「下り」のことは、一切考えなかった学者先生の浅はかさ、貧相な観察力には脱帽です。

凍るような水温は、記憶にないなあ。
10度プラス1,2度が最低の水温ではなかったかなあ
むしろ、外気よりも水の中の方が暖かかったという記憶がある。もっとも、これが例外現象であったから、アルツハイマ進行形のジジーでも記憶にあるということかも。
高橋さんら学者先生は、丼大王の12月に観察した鮎は、「ヒネアユ」として評価をし、産卵することはないと判断するのでしょうなあ。  
   

   

追記    「トラックで運ばれてきたアユ」の子孫
2017年12月31日の弁天分流には、3センチ位の稚鮎がぴょこぴょこ跳ねている
ダム放流が収まる前から、本流の水は分流には流れてこない。車が通るすぐ下流側で伏流水が出ている。水量は多くない。
本流と分流の中州の木のところを避難場所にした沖取り海産が産卵して、その子供が生きているということでしょう。

さて、その子供たち、100匹以上はいると思うが、動物プランクトンを食べているが、流水では植物プランクトンは繁殖できない
ヘラ釣り場から流れてきたのかなあ。あるいは、どの位の流速であれば、植物プランクトンは繁殖できるのかなあ。
いずれにしても、まだ食糧はある。

とはいえ、ヘラ釣り場に流れ込んでいる本流の水は、江戸期に作られた烏山用水から来ているが、12月のあるときから、取水をやめているため、あるいは、取水口が壊れて、11月か12月頃からヘラ釣り場から流れ出す水量は減少して、流れ出してすぐにブロックのところで、地下に潜っているから、伏流水の流れの緩いところで、植物プランクトンが繁殖している、と考えるしかないが。
村上先生らの本を読めば、植物プランクトンが繁殖できる流速のヒントがあるかも知れないが。

2018年1月6日、12月末よりも少し上流側に稚鮎がいた。その量は年末よりも減っている、ぴょこぴょ跳ねる鮎はいない。年末の稚鮎の群れと同じかなあ、違うのかなあ。
そして、上下に長く泳いでいて、塊ではない。鷺の影響かなあ。それとも?

「トラックで運ばれてきたアユ」が、ダム放流にもめげず、産卵し、孵化したものもあるとはいえ、食糧問題だけでなく、水温が生存限界以下になるとどうなるのかなあ
本流が左岸に落ち込むところで、その流量、流速が分流の水を止水状にし、トロを形成しているとはいえ、生存限界以上の水温を保つ伏流水がわき出しているのかなあ。
12月以降、最低気温が氷点下以下になる日が多いが、1月8日現在、稚鮎が生存しているから、歯が生え替わるまで生き残るのかなあ。

1月22日の2,30センチの積雪は、弁天分流の伏流水で生活をしていた稚鮎を生存限界以下の水温で死亡させたのかなあ。雪の降る前は、11,2度の水温であったが、雪が水深10,20センチほどの伏流水を、7度位以下にしたのでは。下流トロに避難した稚鮎はいるのかなあ。
1月27日、氷点下の川に行きたくはないが、弁天の歩行者しか使わない坂路が、どなたかが雪かきをされている。それで、稚鮎の状況を見に行った。前回まで見えていた稚鮎の姿はなし。
トロで生きているのかなあ。
アオサギも白鷺もいなくなった

20世紀、21世紀の初め頃、右岸を流れていた流れは、現在の弁天瀬肩付近でヘラ釣り場をかすめて左岸護岸に流れていた。そして、現在の弁天下流トロで右岸に流れを変えて、六倉のヘラ釣り場の下流側を流れていた。ヘラ釣り場に接して上流には伏流水が池を作っていた。

その状況が変わっていた。
伏流水の池とヘラ釣り場が一体化していた。そして、ヘラ釣り場からの流出はなくなり、石切場との水の接続はなくなった。
ということは、ダム放流により、その界隈に避難したアユだけが、そこで産卵でき,稚鮎がいるかも、ということかなあ。

1匹の雌は、5,6万粒の卵を持っている、ということではなかったかなあ。そして、その数は、雌の大きさに関係している、と。
仮に、弁天分流の親が、1万個の卵を持っていたとすると、100匹ほどの稚鮎しか見えなかったのは何でかなあ。
孵化率が低い?動物プランクトン不足で餓死した?トロを生活圏とする稚鮎が多い?それとも?
海に下ることのできない流下仔魚は、伊豆の小川の流下仔魚と違い、大変ですなあ。
あ、そうそう、小川の流下仔魚は、流程から考えると、どこでも産卵場所にできるが、何で、主な産卵床の場所がきまっているのかなあ。乱交パーティのために好ましいとしても、溯上期に何を考慮してその場所を記憶しているのかなあ。

相模川では、「天然アユをたくさん川に遡上させるための手引き」の調査に参加した神奈川県内水面試験場は、厚木の神川橋下流附近を一つの産卵場と考えて、流下仔魚量、産着卵を調査された。また、1995年、6年は、東名高速道路橋附近を、1995年には寒川堰下流の人工産卵場でも調査か所とされている。
当然、12月14日でも発眼卵が存在している

ただ、継代人工を含めて、「トラックで運ばれてきた」アユの影響は、意識されていないが。そのため、10月中旬と11月中旬の二嶺ピークになる、と、産卵時期を表現されている。
1995年は、冷水病蔓延で、湖産放流全盛時代は終焉を迎えているから、「トラックで運ばれてきたアユ」は、交雑種の県産の継代人工等が主役になっているが。

また、耳石調査による孵化日から、10月下旬から11月上旬がピークとされているが、耳石輪紋調査が、孵化日からの日数を表現することをどのように検証されたのか、は記載されていないと思う。そして、研磨作業等が困難であることから、調査検体は少ない。
なお、「平成10年度 相模川水系魚類生息状況調査報告書 81998年4月~1999年3月実施)」には、「2)アユ産卵場調査結果」に、
神川橋,戸沢橋では、12月22日に発眼卵が観察されているが、それより上流の調査地点では発眼卵の観察はされていない。 

なお、「天然アユをたくさん川に遡上させるための手引き」には、1966年からの沖取り海産の採補量が掲載されている。
1993年410万、94年59万、95年269万、96年246万、と。

定性分析的レベルであり、しかも今回は、「数字」について、何らの確認もせずに、ぐだぐだ書いたことに理由あり。
魚にやさしい川のかたち」が、サボMら、土木がお仕事の面々にとっては、なあんも苦労をしなくても理解できる事柄であるが、ナンパ術にうつつをぬかしていたオラには難行苦行。

しかし、有難いことに、オラの野次馬根性をかき立てる事柄が、水野先生が書かれていることが見つかった。
それは、ゴギの生息域に関すること。
水野先生は、瀬戸内海に流れる川のゴギを河川争奪の結果、と。今西博士は、人為によるもの、と。
開高健・山本素石「渓流 魚づくし」(筑摩書房 1988年発行)に、今西博士に軍配をあげる田中幾太郎「西中国山地のイワナ『ゴギ』」を見つけたから。
ということで、「魚にやさしい川のかたち」の紹介に移りましょう。

   

                淵と瀬の一体型が最良の鮎の生息環境

水野信彦「魚にやさしい川のかたち」(信山社 1955年発行)
水野先生は、写真と図を多用されているが、すべて省略します。また、その文章内での表示も(略)をして省略します。また、原文にない改行をしています。

1. 瀬と淵」の「1.1 淵と瀬は夫婦
 自然の川は多少とも蛇行している。そうして、流れの曲がり角(蛇行点)には淵があり、その間をつなぐ直線的な部分が瀬になっている(図・省略)。写真1-1(略)からもその様子がうかがえる。すなわち、自然の川では淵と瀬が交互に存在しており、別の見方をすれば淵と瀬は組になっているといえる。そうしてこの淵と瀬の組になっていることが、魚の生活にとって非常に重要な意味をもつのである。

 瀬には魚の餌になる水生昆虫や付着藻類が淵よりもずっと多く存在している。従って、瀬は魚類の餌料供給地として重要である。また、多くの魚は瀬で産卵している。
 一方、日中は瀬で活動している魚も夜になると淵で寝ている。小型の魚は瀬の岸寄りでも寝るが、大型魚の多くは淵を睡眠場所として利用している。また、深い淵は人間や動物からの絶好の避難場所にもなっている。

このことは漁業サイドから見ると、魚の補給源となることを意味している。事実、深くて大きい淵の乏しい川は、解禁後ごく短期間にアユが捕り尽くされてしまう。さらに、淵は流れが緩いので、泳ぐ力の不十分な仔稚魚のよい育ち場所にもなっている。また、淵は出水時の避難場所としても重要である。蛇行点の淵の水裏側には川原があり(略)、出水時にはそこも冠水するが、淵の部分よりは水勢が緩いので、そこには各種の魚が驚くほどの密度で避難してくる。アユ・アマゴ・ヤマメなどの放流後の歩止まりが、淵の乏しい区間でいちじるしく低下することはよく知られているが、この事実も、淵が動物や出水からの避難場所として重要であることを裏付けるものといえるであろう。

 以上で明らかのように、川魚にとっては淵と瀬の両方が大切で、両者はいわば川魚の両親(夫婦)のような存在といえる。両親のどちらが欠けても子供たちには不幸であるのと同様、あるいはそれ以上に、川魚の生活にとっては淵と瀬が交互にペアになって存在していることが大切なのである。

 1.2 夫婦は一心同体
 その上、淵と早瀬は成因的に表裏一体の関係にあり、淵が消失したり小規模化すると、下手の早瀬も消失あるいは劣化してしまう。いわば両者は一心同体といえる。」

「では、淵がなくなるとなぜ早瀬まで消失してしまうのであろうか。図1-1(略)の縦断図を見ると、淵と瀬はいわば谷と山の様な形をしている。そして、山の上流側には平瀬が、その下流側には早瀬が、それぞれ形成されている。

 ところで、平水時の淵にはその上手の瀬から流下してきた餌や砂粒が絶え間なく沈殿している。とすると淵は次第に浅くなり、文字どおり『昨日の淵は今日の瀬となる』はずである。ところが、実際にはそうはならない。川漁の盛んな川では、大きな淵には必ず名前がつけられているのをみても、淵と瀬が安定していることが分かる。

 淵が浅くならないのは、出水時のいわゆる深掘れによると思われる。そして、出水時に淵底から掘り取られた砂れきの一部は下手の山などに堆積し、その結果、淵が深いほど下手の山は相対的に高くなり、全体として凹凸(デコボコ)がいちじるしくなる。凹凸(デコボコ)がいちじるしいと山の下手側が急勾配となり、よい早瀬が形成されることになる。つまり、深くて大きい淵と良好な早瀬とは、成因的に表裏一体の関係にあるといえるだろう。」

河川工事で、淵を消失させる理由,工事の施工方法も問題点、及び淵の保全策等の節は省略します。

淵の型については、これまでの淵がM型と呼ばれている。
「流路の屈曲部にできる淵で、他の型の淵よりも面積や水深が一般的に大きく、景観的にも漁業的にも最も重要な淵なので、まずこれについて述べてきた。しかし、淵には他にも次の様ないろいろな方のものがある。

 R型:典型的には巨大な岩のまわりに形成されている。また、岩盤の大きなへこみや突出部の周囲にもみられる。
 S型:低質の固さに違いがあると、軟らかい方が深掘れされてできるもので、滝壷はその典型である。上流域では、この型の淵が連続してみられる。
 O型:古い流路が淀みとなり、流れに一部接続している型である。極めて小さい三日月湖が流れにつながった形の淵ともいえる。
 D型:小さな堰で川をせき止めた時に、堰の上手側に形成される淵のことである。反対に、堰の下手側の落ち込みにみられるのは前記のS型の淵である。 

 この中で、O型とD型の二つの淵は、瀬と無関係に存在することができる。そのために、この2つの型の淵には魚が余り住んでいない。瀬と夫婦関係にある他の三型の淵に比べて、魚類に乏しいのが普通である。ただ、出水時にはよい避難場所になり仔稚魚の姿はよく見られる。

 一方、M型・R型・S型の淵はいずれも瀬と夫婦関係にある。従って、これらを淵の基本的な型と見なして図1ー8(略)に模式的に示した。なお、これらの2つあるいは3つの型が組み合わさった複合型(すなわち、それぞれをMR型・MS型・RS型・MRS型)とも呼べる淵も数多く存在している。」

水野先生は、淵と瀬の夫婦関係を人為で復活させた事例,良き夫婦関係を形成する河川工事の方法,堰の作り方等を紹介されているが省略。

みずのようにさんは、大阪の満サが、三面川を宣伝したため、釣り人が増えて、地元のまんさじいさん?が怒っていると書かれていた。
亡き師匠達は、それ以前から、三面川は石が小さい、瀬が貧相といって、支流の高根川に行っていた
高根川の三面川に合流する上流、第三橋(第四橋であったかも)を釣り場にしていた。河相は、そこよりも上流の方が良いが、熊が出るという話があるから、と。
車を停めておける場所が非常に少ないため、そこで、ほかの釣り人にあったことはなかった。

梅雨明けの8月頃であったが、荒川と違い、乙女は釣れなかったのではないかなあ。番茶も出花娘と女子高生では。
対岸のかけ上がりで釣れたことを覚えている。普通のポイントでも釣れていたが、対岸のかけ上がりが、初体験であったから覚えているのかも。

数年前、ザボZが、三面川の岩沢で、大きいあゆみちゃんがだっこできた、と。
何でかなあ、と思っていた。

水野先生は、巨石投入事業で、三面川の岩沢を紹介されている。
「新潟県三面川の本流には礫底部が広く発達している。ただ、石の大部分がこぶし大までなのでサケの産卵には適していても、アユの餌場としては石が小さすぎるのである。事実、この川のアユの成長は良くなかった。そこで、巨石の投入によりアユの好漁場を造成しようとしたのである。

 現場を拝見できた岩沢地先の魚礁の概略は図1-9(略),写真1-6(略)のとおりである。早瀬尻の右岸に、上流側と下流側には鉄線蛇籠と木枠を、また沖側には木枠をそれぞれ設置して、その間に直径50ないし60cmの巨石を詰め込んだ。地元ではこれを魚礁と呼んでいるが、実に旨く名付けたものである。

 さて、新潟県の内水面水産試験場が、岩沢地先を含む三か所の魚礁の効果を調査した結果、アユの1人当たり漁獲尾数・平均体重・平均全長・平均肥満度とも、魚礁部ではその隣接地よりも大幅に良好な値を示している。魚礁自身がアユの素晴らしい餌場と隠れ場所になったからであるが、もう1つの理由としては、魚礁直下に大きなM型の淵が存在しており、アユの補給源(注:「補給限」と表示されていますが「補給源」で表示)となっていることも見逃せない。つまり、設置場所も素晴らしかったのである。

 一般に実施されている巨石投入事業では、前記の鳴瀬川の場合のように川底に巨石を配列しているが、この方法では出水のときに流されたり埋没してしまうことがある。ところが三面川の場合には、巨石を詰めた周囲を木枠と鉄線蛇籠で固めた上に、出水時の水あたりの激しい所に設置しているので、上記のような失敗につながる可能性は少ないと言える。ただ,この魚礁は淵や隠れ場所の造成というよりも、早瀬の改善と言う方が適切かも知れない。」

相模川でも、高田橋や弁天,石切場で石が入れられているが、単に石を置いただけであるから、2,3年で埋まってしまっている。

故松沢さんが、城山下が、良き瀬と淵の夫婦関係が良好と話されていたが、何で世紀の変わり目頃からおかしくなったのかなあ。
河原での新たな護岸工事は行われていないが、堤防の高さは数メートル高くなった
最初の現象は、石ころだらけの川原が砂利の川原となり、草木が繁茂していったこと。いまや、Kさんが鯉釣り場、と表現するほどの瀬と淵の変貌。

コマドリの瀬では中州ができ、年々成長していった。木が我が世の春を謳歌していた。そして、高く成長していった中州の上部が流されて低くはなったが、今はまた高くなっているかも。
狩野川大橋上流の青木の瀬、しょっこ、中段と呼ばれていた素晴らしき瀬が、流れも左岸と当時の川原の真ん中にかわり、今では右岸側の川原にちょろちょろと流れているだけ。

酒匂川の栢山の堰の下流側は、2017年、砂利が滞積して2,3メートルほどあった段差がなくなり、溯上アユはどこでも遡上出来るようになった。
水野先生は、溯上期の稚鮎が60センチの高さを飛び越える、と、どなたかの観察を引用されているが、溯上期の稚鮎は、せいぜい30センチ位の高さしか超えることができないのでは

中津川に、妻田の堰に魚道ができて、数年間は仙台堰まで遡上アユが上って来ていた。魚道の段差は、40センチ位。遡上出来ずに魚道横の溜まりに稚鮎がたむろしていた。
なお、1番上りは、5月下旬には若鮎になっているから、差し鮎として上ることのできるアユがいたかも。
酒匂川の小田急鉄橋下流の堰では、もし稚鮎が60センチの高さを超えることができるのであれば、左岸側堰の所で,堰からの落水の真ん中付近で落ちるアユはいないのではないか。右岸側の堰が切れたところでしか、遡上出来ない、という現象はないのではないか。

狩野川城山下の淵と瀬の良き夫婦関係が何で行き詰まったのか、栢山の堰では、S型の淵から、段差をなくすほど砂利が何で滞積したのか、水野先生の記述範囲では説明されていない現象もあるよう。

故松沢さんは、世紀の変わり目頃、あるいは、狩野川台風後の昭和の堤防を越流した水が田畑に運んできた砂は、農家の人が片付けていた、と。
その作業は今では必要なくなった。
渓流に入っていくと、いかに山が荒廃しているか、分かると、名人さん。
ということは、20世紀よりも川に流入する砂れき量が増加している、その砂れきが川の中に閉じ込められている、そのため、砂利の川原になった、淵と瀬が破綻した、ということになるのかなあ。

2017年、三面川の岩沢に行ったサボMらは、アユが少ない、小さかった、と。飲み屋での会話であるから、適切に把握できているか、どうか、自信はないが、荒川の釣果情報から、遡上量が少ない、小さい、ということは事実ではないかなあ。
荒川でも遡上量が少なかった、雪代が遅くまで残り、溯上時期が遅れて、コケを食する時期が遅れて数年前のように乙女に,番茶も出花娘の大きさに育つことはなかったのではないかなあ。
なお、海に注ぐ庄内小国川では、例年通りの大きさのあゆみちゃんを楽しめたとのこと。雪代の影響が少ない川であることが三面川と違いを生じた原因ではないかなあ。

ということで、ゴギのお話しに浮気します。

             瀬戸内に流れ込む川の源流域にいるゴギは、移入?河川争奪の結果?

水野先生は、両洋峡と河川争奪について、
佐治川と竹田川について、興味深いのは、なんといっても、両河川の上流付近に両洋峡的な地形と河川争奪の跡がみられることだろう。」

両洋峡について
「① 地形面から  両洋峡とは、北米ワイオミング州のロッキー山脈中にある地名 Two Ocean Pass に類似した地形を指すのに用いる。」

「それは、海抜約2,400mの高所にある準平原で、その中をイエロウストーン川とスネーク川が流れている。前者は大西洋に流入するミシシッピー川の1支流であり、後者は太平洋に流れ込むコロンビア川の1支流である。ところが、この準平原内では、両河川の間に分水界はなく、増水時はおろか平水時でも多数の細流で連絡されている。その上、所々には湿地も形成されているので、両河川の魚族が混交しやすいわけで、北米の魚類学者の興味を引いたのである。~」
と、大島博士の説明を紹介されている。

「また河川争奪とは、ある水系Aに属していた川が、その水系から切り離されて、他の水系Bにつながってしまう現象を指す。したがって、その川の魚はいやおうなしに、A水系からB水系にいわば所属換えしてしまうことになる。」

準平原的なところに生じやすい河川争奪の地形が、中国山地に存在している。
「中でも,佐治川と竹田川の上流にある氷上盆地には明瞭な分水界もなく、その上、かっては湖沼か湿原であったことが確認されているという。現在、両河川間に連絡はなくとも、かってはTou Ocean Passと同様の状態にあったことは明らかで、まさに両洋峡の名にふさわしい。また、竹田川の1支流杉ヶ谷と加古川水系の1支流篠山川との間に河川争奪があったことが、地質の専門家によって指摘されているという。

日本海側に流れる由良川水系の1支流竹田川と、瀬戸内海に流入する加古川水系の佐治・篠山両川の間に、両洋峡や河川争奪の存在したことが、両水系の魚族のあり方に反映しているだろうか。」

「② イワナの分布に関連して  大島(1960)は、中国地方のイワナが日本海側ではほぼ連続的に分布しているのに、瀬戸内側では不連続に分布している事実に注目した。そして、後者の不連続分布を、両洋峡あるいは河川争奪による日本海側からの移動によって生じたと推定したのである。
 ところが、今西(1968)によれば、上のような考えをとる必要はまったくないという。」

関西の太平洋側にいるのは赤い斑点のあるヤマトイワナであり、日本海側にいるのは黄色い斑点のあるニッコウイワナとの大島仮説に忠実であろうとして、「中国地方の山陽側に黄色い斑点のあるイワナがいたのでは、はなはだつごうが悪い」ので、山陰側から山陽側へこしてきた、と、せざるをえないと、今西博士
なお、前さんが大台ヶ原水系にイワナがいることに気がつかれたこと、あるいは赤い斑点のイワナがいることにも触れられている。

イワナの問題は大幅にはしょって、ゴギの問題へ。
「大島説に対する批判、それに不連続分布の由来、いずれをとっても今西の説くところは明快そのものといってよい。しかし筆者には気になることがひとつある。それはゴギに関してなのである。
 
 今西(1968)は、上の文章に続いてゴギの問題を扱い、この魚はイワナと別種ではなく、同種内の亜種と見なすのが適当であるとした。その点に関しては賛成なのだが、問題はゴギの分布である。

日本海側では鳥取県甲川から島根県西端の高津川までほぼ連続的に分布しているのに、瀬戸内側では広島県の大田川と山口県の錦川にしかおらないのである。兵庫県や岡山県吉井川をゴギの分布域に含めた報告もあるが、これは誤りである(今西、1968)。また、山口県佐波川のゴギは、1957年頃に高津川より移入されたものである(片山・藤岡、1966)。

 従って、大島(1960)が江川水系より太田川水系に移動したと推定した魚は、現在の眼で見ると、イワナではなくてゴギである。また、錦川水系の深谷川と宇佐川のゴギに関しては、現在より70年以上も前に高津川より移入されたとの言いつたえがあるらしい(片山・藤岡,1966)。

しかし、深谷川自体がもともとは高津川の本流に属していたことは、地形的にひじょうにはっきりしているから、河川争奪による移動の結果とも、十分に考えられる(同上)。深谷川・宇佐川の広範囲なゴギの分布は、後の方の考え方を支持させるし、そのばあい、高津川からの移入魚が含まれていても、さしつかえない。」

「しかし、上の考えを更におし進めるならば、少なくとも太田川と高津川のゴギは、両洋峡あるいは河川争奪によって日本海側より移動したとみなすべきではなかろうか。その方が一層首尾一貫しているように思う。」

「~。この辺で、佐治川と竹田川に目をもどして、イワナ以外の魚について考えてみたい。
③ アマゴその他  足立(1967)によると、瀬戸内側の佐治川上流にはヤマメが棲息しているとのことである。今回の調査ではアマゴしかみられなかったが、事実とすれば、アマゴとヤマメが混成していることになる。~」

アマゴとヤマメは、西日本では分布域を異にしているから、
佐治川のヤマメが天然分布とすれば、両洋峡を通じての移動説に有力な根拠を与えることになる。もしも、竹田川の方に逆にアマゴがおるとなれば、一層強力な証拠になろう残念ながら、今回の調査では、竹田川にアマゴはおろかヤマメさえみることができなかった。

 ここで先の大田川と錦川についてふりかえると、両水系ともにアマゴは広く分布しているけれども、ヤマメの存在は報告されていない。この点は、河川争奪によるゴギの移動説にとって不利である。このように、1種あるいは2種の魚だけをとりあげて、両洋峡や河川争奪を結びつけても、納得できる結論は得にくいといえよう。

 青柳(1958)は、日本産淡水魚の分布をまとめた労作中で、中国地方の日本海側と瀬戸内側を別の分布(地理)区に分けている。前者は支那系魚類の比較的少ない東北地方区に含まれるのに対して、後者の西南地方区には支那系魚類とくにコイ科とドジョウ科魚類が圧倒的に多いと結論したのである。

このことは、海水面低下によって瀬戸内海が淡水湖と化した時期には、瀬戸内の各河川は朝鮮半島東側の河川と共に、(古)黄河水系に属していたとするみかた(西村,1974)と一致する。とすると、コイ科やドジョウ科魚類の分布を、佐治川・竹田川とその近隣水系の間で比較することによって、両洋峡や河川争奪による移動を裏付けることができないだろうか。そのような意図のもとにまとめたのが、表Ⅲ-4(略)である。
 表Ⅲ-4には、コイ科とドジョウ科だけでなく、淡水で一生をすごす、いわゆる“純淡水魚”をすべてあげてみた。資料は十分でない。とくに、佐治川に属する加古川水系の魚相が不明なのは痛い。~」

表には、41種の魚の生息状況が、瀬戸内側では佐治川、旭川上流、吉井川で、日本海側は竹田川、由良川、円山川で、表現されている
純粋の淡水魚が、川に41種も生息していることにまずびっくり。吉井川には、38種がまだ生息していることにびっくり。佐治川と旭川上流が31種、竹田川が28種、由良川が18種、円山川が27種。

水野先生は、「標微種」などの概念も用いて竹田川・佐治川間での移動の痕跡を見つけようとされているが、成功されなかったよう。
「つまり、魚の有無だけでは、竹田川・佐治川間の移動を検証するのは無理であろう。」

そこで、「地理的変異から」ということで、遺伝的タイプの電気泳動?から魚の移動を佐治川・竹田川、その近隣水系で実施できないか、とのこと。
そのとき、人為的な移動の対象になりやすい魚を調査対象から外す等の注意が必要、と。

ということで、「近現代」に、瀬戸内側のゴギが、移入されたのであるか、地質時代から、生息していたのもであるか、水野先生でも「証明」できなかったと勘ぐっているが。
少なくとも近現代における瀬戸内側のゴギが,移入による者がいる、ということを紹介します。

やっと、オラでも何とか理解できそうな
開高健  山本素石編「渓流魚づくし」(筑摩書房 1988年発行)にたどりつけた。
なお、この中には、アメノウオ:ビワマスとサクラマスは同種という見解から、交雑種が明治以来生産され、各地に放流されただけではなく、アマゴ、イワナ、ヤマメの多様な交雑種がせっせと生産されていたという、くらあい、くらあいお話しも掲載されている。
まずは、ゴギの移入から。 

          ゴギの話
やっと、オラでも何とか理解できそうな,いや、いつもの通りの世間知らずに悪戦苦闘することになりますが。

開高健  山本素石編「渓流魚づくし」(筑摩書房 1988年発行)にたどりつけた。
なお、この中には、アメノウオ:ビワマスとサクラマスは同種という見解から、交雑種が明治以来生産され、各地に放流されただけではなく、アマゴ、イワナ、ヤマメの多様な交雑種がせっせと生産されていたという、くらあい、くらあいお話しも掲載されている。
まずは、ゴギの移入から。 

    ゴキが「普通のウオ」であったことも
「渓流魚づくし」には、
皮(てび)小四郎「因幡木地山雪おこし」と、田中幾太郎「西中国山地のイワナ『ゴギ』」が掲載されている。
そして、八木禧昌「忘れ得ぬ人々、そしてアマゴ、ヤマメたち」には、四国那賀川の源流の一つ、南川のますばえ、紀伊半島の北山川支流の大又川のこさめ、鳥取県千代川支流曳田川(ひけたがわ)のひらべ、兵庫県後川(しつかわ)のあめのいおが登場しているが、オラには、いずれがアマゴ、岩魚、ゴギか,はたまたカキツバタか、も分からない渓流魚が登場している。
そのほかの筆者には、スギノコ、エノハ等も登場している。

         ゴギの容姿、生活史
といことで、ゴギであると間違えようのない田中幾太郎「西中国山地のイワナ『ゴギ』」から。
田中さんは、1939年生まれ。

「私には日本産イワナ族魚類の分類について、論じる資格はないが、この三十年間というもの、今西錦司博士の『すみわけ理論』に傾倒しながら西中国山地の『ゴギ』に付き合ってきた自分なりの実感は持っている。~」

「近年、イワナの地方による変異については、亜種以上には区別しないで、北海道から東北の北部にかけてのエゾイワナ型、東北から北陸や山陰東部のニッコウイワナ型、中部太平洋から紀伊半島にすむヤマトイワナ型、それに中国山地の西部に見られるゴギ型の四つのタイプに扱われていることもよく知られている。

しかし、私はニッコウイワナ分布域のはっきりした境界線をもつ島根県斐伊川以西の『ゴギ』だけは、単なる型ではなく、イワナ属の中の一つの亜種としてどうしても考えたい。西中国山地のゴギだけに付き合ってきた世間知らずの身びいきな偏見なのであろうか……。

 ゴギは、北方の寒冷な地方に密度の高いイワナ属魚類の中では最も西南の位置に分布している。それは、中国山地でも西部の島根・広島・山口の三県に連なる莦梁山地であるが、中でも中国山地の西端にあたる西中国山地にゴギの生息密度が最も高く、この西中国山地に水源をもつ島根県高津川水系がゴギの自然分布の西限になっている

 ゴギは、ヤマメと同じようにもともと日本海に注ぐ水系だけの魚であり、自然分布域が中国山地の島根側に限られ、言ってみれば“島根のゴギ”なのである。もっとも、今では広島県大田川や山口県錦川の水系にも島根県側から移入され、自然繁殖するようになっている。

このゴギ移入の一例を挙げてみると、山口県の瀬戸内海に注ぐ錦川水系の宇佐川には、もともとゴギはいなかったのであるが、大正十四年に島根県鹿足郡六日市町金山谷の山本春市という人が島根県側の高津川水系の吉賀川から移したという記録や、昭和二十年にも同じ町内の山田貞吉という人が宇佐川の枝谷である深谷川に高津川水系の匹見川から移入したという確かな話が残っている。

 錦川水系である深谷川のゴギの経緯は、深谷川の地史との関係においてたいへん興味深い。もともと日本海に注ぐ高津川水系の吉賀川の水源であった深谷川の一帯は、瀬戸内海に注ぐ錦川水系の宇佐川との“河川争奪”に敗れ、宇佐川の軍門に降ったとされている。

もともとこの深谷川にはゴギがいなかったことや、サケ属もヤマメではなくアマゴが生息していた事実から、この河川争奪のおこなわれた時点が、氷河期にサケ科魚類の陸封化が起こった時よりも前であったようにうかがい知ることができる。

 現在、西中国山地の瀬戸内海側にすんでいるゴギは、そのすべての谷で、まちがいなく島根県側からの人為的な移入の経過をたどってきたことを,土地の古老たちは証言している。ゴギのすむ谷の数や魚影は、今でも島根県側が遙かにすぐれている。」

「イワナ属魚類のうち、本州にすむ河川型(陸封型)のイワナのなかまは、その生息域が日本産淡水魚類の中で最も標高の高いところである。西中国山地では最低で三五〇メートル、最高地点は一一〇〇メートルに達し、ゴギ域の標準としては五〇〇から九〇〇メートルの間である。西中国山地の標高が一〇〇〇メートルから一三〇〇メートルであることからして、ほとんどの谷のゴギ域は稜線にきわめて近いところまで及び、山馴れした私でも『こんな山のてっぺんに近ぁ沢の頭の水たまりにまで、ようも生きとれるもんじゃのう』と驚かされることがよくある。

 西中国山地のゴギは、ヤマメやアマゴ域との接点で混生することがあるものの、やはり日本産サケ科の“イワナとヤマメのすみわけ”どおりに谷の最上流域を占拠している。そこでは、最も大切な水温が夏でも摂氏十五度から十八度と低く、二〇度を超えることはない。

 ゴギは、梅雨時季の増水にタイミングを合わせながら、より冷水の避暑地を求めて勇猛果敢に沢登りをする。入道雲の沸き立つ盛夏の頃、ツキノワグマの生活痕を探して稜線に近い沢の頭をヤブこぎしながら悪戦苦闘していると、ヤブがかさぶり流れの見えなくなった涸沢の小さな水たまりの中を、一瞬、黒い影が岩の割れ目に走る。熊の生態を調べて山歩きをする私にとって、いつも楽しみにしているもう一つの出合であり、疲れも汗も忘れさせてくれる瞬間である。

 そんなとき私は、ゴギの隠れた岩の肌をそっと手で撫でてやる。
おぬしゃあ、よう、こがぁな辻んこぅまでのしたのう。このえき(谷)の大将じゃけえ、ちょっとつらあ見せてみい
 穴に手を入れ、優しく触り、からだの向きを確かめてやると、私の心根を感じ取ったごとく、暴れることのなく素直に頭をつかまれ、木もれ日に光るたくましい姿態を岩の下から現してくる。あらかじめ水の中に置いたメジャーで素速く計測して、再びそっと離してやる。そして、
『おぬしゃ、たちの悪い釣り師に用心して長生きせえやのう』
 と、隠れ家の岩を撫でるのである。」

「~東日本の高山では稜線よりもはるかに下に位置する渓流の魚である。しかし、準平原化して標高の低い中国山地のゴギが、渓流というよりも、より稜線に使い沢すじにすみ、夏場に沢登りすることも理にかなった生態といえよう。」

   ゴギの容姿
「中国地方のゴギは、東日本のニッコウイワナと比べて、黒褐色を帯びた緑青色の背面や淡黄赤色を帯びた白っぽい腹面、それに体側の橙色斑点などは同じであるが、背部の白色斑点が大きくてはっきりしていること、その白点が頭の吻端にまで及んでいることでいることでニッコウイワナと区別される。」

大きさについては決定的な違いではなく、生息環境、竿圧によるとのこと。
昭和57年の夏、島根県美濃郡匹見町の安蔵寺山(一二六三メートル)にある加冷谷の奥で手づかみにしたのは全長37センチ

    食糧
「~水生昆虫や水面に落ちた陸生昆虫はもちろん、混生する小魚やカエル、ヤマミミズ、はては流れ渡る小さなヘビまでも引っ張り込んでしまう荒っぽい“悪食家”である。昭和四十一年の夏、島根県鹿足郡六日市町鹿足河内川の谷で在所の子供がイナゴで釣り上げた尺物は、大きなカジカガエルを二匹も呑み込んでいた。」

    竿の長さ
「~私の最も信頼する土地の猟師がいつも持ち歩いているゴギ釣りの竿は、長さがたった一.五メートルの何んの細工もない細い竹の先ん棒であることだけは言っておこう。彼はそれを持って山に登り、尺物だけを魚籠に入れて帰ってくる。」

     産卵活動
「西中国山地のゴギは、冷たい時雨がやってくる十一月上旬頃産卵活動に入る。この時期の雄は腹部が濃い橙色になり、全体に黄色っぽく変わってくる。腹びれも白っぽくなり横に張り出す。カップルのできた彼らは、瀬脇などの浅く緩やかな流れの砂礫底をみつけて直径一五センチぐらいの床を掘り、そこに卵を産みつける。」

     熊が捉まえたゴギ
「秋の終わった静かな山を、クマの残したとや(クマがナラやクリの木に登って実を食べ、折った枝を木の叉に掛けて作った棚)を探して、赤や黄色の落葉を山靴で踏みしめながらゴギのすむ沢を登っていくと、ふだんあれほど敏感な彼らが、人の気配にも恐れず、ものに取りつかれたように夢中になっている神秘な営みを見かけることがある。そんなとき、澄んだ水音だけの冷えびえした静寂の中で不思議な山の精を感じる。」

太田川水系の三段峡の上に、堰堤で仕切った樽床貯水池があり、降海型ではなく、「降湖型」の巨大化したゴギが住んでいて、尺物釣りのフライマンが多い。
「昭和五十八年の秋、クマのとやの調査でこの樽床貯水池の西側にあるノジイ谷のミズナラ林を探索している時のことであるが、突然、前方の沢の上手五〇メートルのところでヤブがガサガサと大きな音を立て、次の瞬間、まっ黒いかたまりが山のひら(斜面)のササヤブをザアザア押し分けながら逃げ登っていく姿に出遭ったことがある。

 私はしばらくの間、このツキノワグマの迫力あるアブこぎに見とれていたが、続いて思いもかけない大発見をすることになった。念のためにクマが飛び出した地点にきてみると、流れのそばの少し開けた草むらの中に、一匹の尺物が口をあくりあくりさせながら転がっているではないか。それは全長四十一センチの婚姻色の美しいゴギであった。樽床貯水池から産卵のために溯上し、床について夢中になっているところを熊につかまえられたのに違いない。

晩秋の奥山では、昼間でもクマが出歩いて、沢でゴギ捕りをする』という古老の話をたしかめられて嬉しかったが、しかし、せっかくの獲物を置いて慌てて逃げ出していったクマには少々申し訳ないことをしてしまったらしい。」

     カイオ
「カイオ」とは、「回魚」のこと。容姿も、ゴギとの類似点、違いを書かれている。
「~吉賀川の枝谷である横道川に、今から二十年ぐらい前までは、夏の増水時期にたくさんの『カイオ』が溯上していたのは確かである。彼らはヤマメ域で止まり、それより上のゴギ域にはけっしてのぼらず、大水で濁った時はヤマメ域の下流でミミズでよく釣れたものだ。しかし、今では『カイオ』の数も激減し、里人の『カイオ』の話も影が薄くなってしまった

 昭和三十年代から進んできた高度経済成長の人間社会は、西中国山地から貴重な渓流魚を滅ぼそうとしている。自然林は皆伐されてスギやヒノキの人工林に変わり、虫の少ない、浅い、すみにくい谷になってしまった

また、自然の生態系を無視した無謀なアマゴの放流は、西中国山地に営々として築かれてきた聖なるヤマメ域を一つ残らず消して『アマゴ域』の標札に替え、魚道のない砂防堰堤はゴギの生殖活動に必要な移動を妨げている
加えて林道の開設によってマナーの悪い釣り師の乱獲に拍車をかけている。

本当に何とかしなくてはゴギの絶滅も間違いなく近い。」

           タンポリ、コギ、オモ
手皮(てび)小四郎「因幡木地山雪おこし」から。

手皮さんは、1942年の鳥取県生まれ。
「因みに、鳥取では、岩魚に三種の呼称があるが、その一事を以てしても、狭い鳥取県に棲息するイワナの豊饒さとその微妙な風姿、岩魚と村人との永く深い関りが、容易に想起されるものと思う。

 岩魚は、東部の千代川水系では『タンポリ』と呼ばれ、中部の天神川では『オモ』と名付けられている。西部では一部『オモ』と重複するが、主として『コギ(ゴギ)』と呼ぶ。」

「いずれにしろ、釣りキチ少年の私を育てたのは、この安蔵(あぞう)川と岡の谷である。隣の智頭(ちず)町とこの境にある籠山(一九〇五メートル)を源とする岡の谷は、ミイチ谷と呼び、二十余軒の岡部落の住人のほかは誰も入山しない。タンポリの宝庫であった。ミイチ谷のタンポリを通し、少年の私はさまざまな漁法を覚え、同時にその谷のタンポリに翻弄されて、私の存在の基底部が着色されてきた。」

昭和四十四年の春、地下(じげ)の同僚が、コギ釣りに行くということで、日野川の支流、印賀川の最深部、船通山の中腹で釣りを開始。

「むせ返る樹林の息吹の中で釣り上げた二十余センチの『コギ』を、同僚の鼻先にかざして、
『なんだいこりゃあ。タンポリだがないや』
 と言った。彼もタンポリの名を知らなかった

 白土色の斑点が頭頂部に及ぶものがコギであることを知ったのは、ずっと後の話である。もし、私がその時、コギとタンポリのその差異に気づいていたなら、おそらくコギ釣りに血道を上げていただろうと思う。」
が、魚影の薄さから、程なく、コギ釣りから離れた。
「しかし、その後もずっと、コギという哀切極まりない名称が、氷雨に烟る麓の風情と相俟って、私の最深部をかそけく濡らしている。」

「五十一年、鳥取へ帰った私は、暫く離れていたタンポリやヒラメ(山女魚)の呼び声に促されるように、再び因幡の山々を渉猟するようになった。釣り場は無論千代川で、上流の智頭町を初め、支流の佐治川、八東(はっとう)川,私都(きさいち)川、国府川、曳田(ひけた)川,そして懐かしい安蔵川と、東部の河川を隈なく釣り歩いた。

ただ、残念なことには、私の釣りの原点であったミイチ谷は、毒流しに遭って、魚影は消え、炭を焼く煙も消えて、見捨てられた瀬音が空しく谺(こだま)していた。」

闘病生活中ではあるが、「早春のある朝、五臓を抉るような山への渇仰に貫かれ、身を起こした。それは憧憬と言っても、渇仰と表しても、到底なぞり得ない、末期の一投に賭ける幽鬼のような姿でもあった。」

倒れた時の救助人を無理矢理確保して、八東川の支流糸白見川の枝谷へ
若者は、始めてカンジキをはく。深い雪の谷間を2時間余り歩く。さらに、堰堤を渡り1時間歩くというと、若者の釣り意欲は消滅。

「脳裏に刻印されている水上の淵や釜が私を急かせ、雪上を転げまろびつ走り回り、傾斜面は歩くのももどかしくて、全身を雪に委ねて滑り落ち、修羅のように東山(とうせん)の最深部に分け入った

 ポイントに近づくと、狙撃兵のように雪に没して匍匐前進し、竿を伸べていった。獲物を取りこむと、また猿(ましら)となって駈けた。隙間なく降りこめる雪の中に、それは、命の饗宴に繚乱するひとつの獣の姿であった。」

魚籠が重くなり、予定より遅れて若者のもとへ。
「夕餉の卓で、私が作った岩魚酒(骨酒)を啜る青年の顔が、始めて緩んだ。しかし、これから先、彼は二度とカンジキを履くことはないだろう。

 深夜に至り、更に大きな雪おこしが、何度も間近に響き渡った。私は重いギブスの右足を蒲団の中に差し入れ、目を閉じた。
 神韻のような溪の瀬音が、内部に深く、昂まっていく。
 来春の渓流魚の解禁の頃には、足は癒えていよう。私も非時(ときじく)の冬ごもりに入る。」

ゴギの容姿が、地元の釣り人でも定かならず、いや、意識されていないこともあるようで。
川那部浩哉・水野信彦共著「検索入門  川と湖の魚 ②」のゴギの写真、岩魚の写真を見た。違いがあることは何となく判るが、岩魚、ことに地域差による斑点等の容姿に違いのある何枚かの写真にゴギをまぜてみせられた時、適切に見分けることができるか、自信はない。

それよりも、もっと、たいへんな問題に気がついた。「川と湖の魚」の写真に、サクラマスに雄も雌もいること
庄内の釣り人が、サクラマスは雌だけで、雄は残留山女魚になると、書かれていたと思う。これについては、斉藤裕也「『ヒカリ』の生涯」の紹介で満足します。

なお、「川と湖の魚②」には、アユの産卵時期について、「~近畿地方では10月ごろに産卵が始まる」との記述がある。
川那部先生に、「故松沢さんの思い出」の中の房総以西の太平洋側の海アユの産卵時期が11月、12月にかかる写しを送付した。
川那部先生は、そのことに対する直接のご返事はされなかったが、長良川に何回か、出掛けられ、11月、12月が房総以西の太平洋側の海アユの産卵時期の可能性を認識されているのでは、と感じた。
 宇川や、東先生が松浦川で行われた調査手法での調査を、川那部先生らが房総以西の太平洋側で行われたことがなかったためでは、と推測している。
「アユ学」のように、何で10月11月に産卵しているのか、調査に基づく根拠を語らず、あるいは、天然アユ増加の手法を語る学者先生の1人のように、数匹の海で採取した稚鮎の耳石調査で、10月11月産卵時期を語り、何でか「2月」孵化の稚鮎についてはその現象の意味を語らず、という手法,相関関係の把握の仕方は、川那部先生らの調査手法,あゆみちゃんの生活誌の理解の仕方とはと相容れないということではないかなあ。そのため、それらの方々の孫引きもされない、ということではないかなあ。

                斉藤裕也「『ヒカリ』の生涯」
斉藤さんは、1953年生まれ。
「私がサケ科魚類の生活史に興味を持ち、フィールドワークを始めた岩手県のさる渓流は、とてものどかな風景の中を流れている。

 山々は丸く、穏やかで、頂きまで木に被われ、そこから滑らかに曲線を描きながら降る稜線は、やがて小さな谷を形作り、そこからはいつの間にか流れが生じている。藪の中から這うように出て来るその小さな流れには、もうすでに小型ながらもイワナの魚影が見られることもある。 

 やがて、人がひと跨ぎ出来てしまうような流れが何本か集まり、川としての形が整う頃になると、谷の開けたところには家が現われ、その周囲にはいくらかの田や畑がみられるようになる。

 この辺りまでは野生動物が豊富で、シカ、サル、クマ、カモシカ、キツネ、タヌキ、テン、イタチ、リス、ウサギなどにしばしば出会う。~。」

「田畑が川の両側に数枚展け、人家が散在するようになると、河畔には決まったように胡桃の木が点在するようになる。」

「このような川がもう一本落ち合うようになると、川沿いの道は二車線となり、定期バスが走るようになる。この辺りの中流域になると、川はザラ瀬と随所の曲流箇所に作られた淵とで構成され、河原も開けている。まるで関東でハヤ(ウグイ)やヤマベ(オイカワ)を釣るような川相であるが、ここらがヤマメの生息地の中心である。
 やがて鉄道が川に沿って姿を見せる始めると、次第に瀬と淵とのめりはりを失いながら数キロを走って海に注ぐ。全流程十五キロほどの小河川で、河口付近にはウグイが多く、秋にはハゼがよく釣れ、ボラが跳ねる。」

この川の「ヒカリ」というヤマメは、
「~春のきざしがほんのわずか表われ、北国の、長く、寒い、暗い冬から解放される時が迫った、何にもまして嬉しい時期に、ほんの十日ほどの短い期間姿を見せるのが『ヒカリ』なのである。

 体長十二~十五センチ位のこのヤマメたちは、体側が銀白色になってパーマークが見えなくなるとともに、背部も緑色から青緑色へと変わっていく。この頃になると、体高も低く、鱗も剥げやすくなり、淵の中で群れをなして泳ぐようになる。

 ヒカリのこのような変化は、春先になって突然起きるのではなく、実はもう前の年の秋にはヒカリ予備群としての準備が完了しているのである。

 その年の春に生まれたヤマメの仔たちは、秋には八~十五センチ位に育ち、この内の三分の一位が『クロコ』と呼ばれるように黒くなり、体高も幾分高くなってくる。この『クロコ』は、一年目で成熟した雄であり、すでに精巣はパンパンに大きくなっている。

一方、この年生まれのヤマメの仔の半分は、通常よりも白っぽい体色となり、そのまま冬を越すが、この一群が翌年の春まだ浅い頃に『ヒカリ』へと姿を変えていくのである
 ヒカリは、各鰭の色が白色となり、背鰭上半分と尾鰭の後端が黒くなるために『ツマグロ』とも呼ばれるが、一般的には『ギンケヤマメ』と称した方がわかりやすい。

 このヒカリたちは、一個体ごとの縄張りを作らずに群れを成すこと、川の流れに逆わらずに流れのゆるい所に集まるようになるから,必然的に淵に群れを作るようになっていく。淵中での群れは、日増しに大きくなっていくが、一週間ほどたつと忽然と姿を消してしまうのである。それは、海へ降りて『サクラマス』となるための旅を始めたのである。」

この「ヒカリ」の情景と、今西博士らにアマゴの「シロメ」について,あるいはカワマスが海からやってくること等を話された萬サ翁の「シロメ」と、シロメの行動で何が共通し、あるいは、どこが相違しているか、なんて、オラが考えるだけ無駄なこと。
今西博士や素石さんらが、偶然萬サ翁と盃を酌み交わすことになったのはいつか、気になっていたが、昭和40年のよう。

淡水魚にとって、海水での生活に対応するための浸透圧調整作業は大変。
「つまり、この衣装替えが『ギンケ』ということになる。」
海に降りたギンケヤマメは、
「~二ヵ月後には二十センチ以上になって、この頃には『マスゴ』(マスの仔の意味)と呼ばれるようになる。

 そして,さらに一年後には、四〇~六〇センチ、一~四キロ程度になって生まれた河川近くへと洄游して来るが、この頃は口の中が黒いために『クチグロ』とか『オハグロマス』と呼ばれるほか、特に体高の高い個体は、『イタマス』『ロシアマス』『タイコマス』などとも称される。

 これらは北国の沿岸漁業にとっては無くてはならぬ魚であり、漁業者は『ママス』とか、『ホンマス』と呼んで、一キロあたり三〇〇〇~四〇〇〇円で取引される高級魚である。
 海へ洄游している時期のサケ・マス類を外見的に見分けるのは少し難しいが、身の色がサケのサーモンピンクに対して朱色がかかった色をしており、食べてはヤマメなどよりもはるかに香りがあって美味しい。~。」
食材のすばらしさ,調理法,旨さは省略。

サクラマスの生活史
「サクラマスは、三年目の春から秋に、産卵のために生まれた川へと回帰して来るが、このときには四〇~六〇センチ、一~四キロであり、サケの五〇~七〇センチ、二~七キロよりはひとまわり小型である。

 海での生活期間は一~一.五年で、サケの三~五年と較べると半分以下でしかないから、その生長はサケよりもずっと速いことになる。」

川に入ってから、密漁者,釣り人にも狙われる。

「海にいた時は六十センチ、四キロもあったものが、川に入って夏を越す間には、体長は変わらないものの、体重は約半分の二キロにもなってしまい、名称も『カワマス』『ホンマス』と呼ばれ、背部は青緑色から緑褐色に、体側は銀白色から精彩を失って、うっすらと紅色の雲状紋が現れるようになる。

雄ではさらに吻が曲がり、体側には紅色の雲状紋が鮮明になり、腹部は黒く、体高が少し高くなる

 雌がもつ卵は三〇〇〇~五〇〇〇粒で、サケの三〇〇〇粒と比較しても多く、またヤマメは二十センチの個体で二〇〇~三〇〇粒程度であるから、ヤマメの十~二十五倍もの卵を持っていることになる。したがって、サクラマスが数尾、無事に産卵してくれれば、翌年の渓流は『ピンコヤマメ』で満ち、さらにその次の年は釣り物にこと欠かない状況となる。つまり、釣り人に対する恩恵も、河川の組合が稚魚放流をするのと同等か、それ以上のものがあるわけだ。」

産卵の状景
「産卵間近になると、それまで隠れていた淵から瀬尻に出るようになる。雌雄のペアで居れば、当然ペアで現れるが、サクラマスの場合は圧倒的に雌の方が多いので、一尾の雌サクラマスに数十尾のヤマメが一群となって瀬尻へと出現する。その状景は、中心にサクラマスが、その近くに三十センチ位のヤマメが五~六尾チョロチョロとし、その外側に二十センチ位のものが十尾ばかり、さらにその外側に十~十五センチ位の、その年に生まれたクロコが二十~三十に群れるという、さながら一大艦隊を連想させる構成である。

 この大艦隊が、旗艦ともいうべきサクラマスの動きに合わせて一斉に動く様は、まさに息を呑む壮観な光景で,私もフィールドワークの最中であったにもかかわらず、ノートをとるのも忘れて河畔の繁みの脇でただ見入ってしまったことがあった。

 無事に産卵をすませた彼女らは、痛々しい姿になって数日後に淵の溜りに姿を見せ、そして一週間もすれば水底に屍を横たえる運命にある。

 このヒカリ、すなわちギンケヤマメが出現する地域は、太平洋側では福島県、日本海側では福井県から鳥取県あたりまでで、数が多いのは岩手、秋田県以北である。もっとも記録としては、栃木の鬼怒川や東京の多摩川、また九州の有明海で採れたこともあり、サクラマスも高知の室戸岬近くで最近採れた例もある。

 出現する時期は、総じて南方ほど早くて十二月頃からの冬期、東北から北海道南部で三~四月、それ以北ではさらに遅れて六月頃になることが知られている。また、河川ごとに出現する率も違うようで、やはり毎年のようにサクラマスが遡る川の方がギンケヤマメの発生する率が高い。」

なお、「擬似ギンケ」のことも書かれているが、高知のサクラマスを含めて、放流ものと確信している。
擬似ギンケは、研究者が大好きな交雑種、高知のサクラマスは、ヤマメの生活圏にアマゴを放流することと同様の行為ではないかと,妄想している。
なお、北海道のサクラマスについて、梶さんが紹介されているが、オショロコマやアメマスまで登場するようで、オラの手には負えません。また、岩手の生活史と違う事柄もあるかも分からないが、オラの手には負えません。

さらに、萬サ翁が獲った70匹の長良川のカワマスの首実検をされた今西博士のアマゴ、カワマスと、山女魚とサクラマスとの生活史の違いと、共通する事柄はもっとわからないので、省略。

さて、次はスギノコヤマメのお話しへ。

           種市龍司「幻なのか『スギノコ』は?」
種市さんは、1932年生まれ

ヤマメねえちゃんは、相棒のねえちゃんが椎間板ヘルニアか脊柱管狭窄症の術後、斜面を歩けなくなり、下北半島一周の山釣りに行けなくなったとのこと。
当然、スギノコヤマメのことを知っているが。

種市さんは、
「奥入瀬川の中流部から下流を、地元ではオサガ川(相坂川)と呼ぶ。十和田市生まれの私は、物心がついて以来、日課のようにこのオガサ川に通った。往復八キロの道のりを、仲間を誘って行くのである。

 合い言葉は、
『イグカ?!』
『ン、イグベァ』
 これでたちまち意志が通じ合って、身支度を調えて集合する。支度とはいっても、餌のミミズと、たいていは破れた麦藁帽子に、曲がり癖のついた一本竿と腰魚籠。足元は夏でも長靴だ。中にはヤシと水鏡に、すり切れた草履、といった出立の者もいる。こうしてワラシコ釣魚迷たちは颯爽と川に向かって出発する。ゴム長の者はガフタラガフタラと音を立てて、草履の者はバサラバサラと土埃を上げて……。

 そう、往時のオサガ川は、子供でも相当な獲物があるほど魚が多かったのである。もちろん山女魚も群れていたし、田植えの頃にはオンギャ(マルタウグイ)が遡上して瀬に黒くなるほどクギる。人影に怯えたサクラマスが数尾、大砲の弾のように走る。夏の雨後、濁りの流れで泳いでいれば、鱒か何か、大型の魚が体にゴツ、ゴツ当たることもあった。

 いつも真っ黒く日灼けして、家に帰り着く頃は日も暮れているが、誰も心配などしない。七人きょうだいのそれぞれが育ち盛りで、一人くらい足りなくなっても、親は気にかける暇などなかったのかも知れない。」

きれいな水、きれいな山女魚
阿仁川水系等、「秋田県の河川は特に水が綺麗で、そこに棲息する山女魚も魚体の色彩が美しく、小又川の山女魚はとりわけ美麗だ。全体に青緑色が強く、背の部分は青銀緑の中に金粉をちりばめた配色で輝いている。」

「~小又川は、中流部は山女魚、岩魚の混棲だが、岩魚域であるはずの上流域が山女魚一色なのである。それ故か、毎年『尺山女魚』が出て,秋田の釣り人の話題を賑わす『魚が育つ』豊饒の川だ。」
種市さんは、岩魚の棲息流域までヤマメの生息地になっていることについて、その理由の推測を書かれているが、省略。

大畑山地で杣夫(そまふ)として働いているアンチャの大畑川上流の話
「大畑川の上流には『スギノコ』という魚がいて、大きいものは鱒ほどもある。だからこんな仕掛けでないと釣り上げられないよ、と、取り出して見せてくれたそれは、少年の私がまだ見たこともない太いテグスと鉤であった。

『なァに、イド(糸)と鉤があれば、そごらがら木の枝ッコをめっけで来て、ナンボでも取れるじゃ
『大キのは尺三寸もあって、ナンボがいるもんだだがハ、真っ黒くなるぐれ、ウジャウジャいるじゃ』」

「餌はミミズでもよかったが、柳虫の方が魚の食いがいいのだそうだ。柳虫は、今では少なくなってしまったが、その当時は川の岸に生い繁っている柳の木を割れば、いくらでも獲れたものだった。

 飯場で暮らす杣夫達にとっては、釣りは数少ない楽しみのひとつであり、たちまち数十尾も釣り上げた魚は、腹を割いて味噌に漬け込んでおいて、たまにやる飲み会の、何よりの肴にしたのだそうだ。」

「『スギノコ』の棲息する大畑川は、その棲息域を遮断する高さ十一メートルの赤滝があって、下流から溯上する魚類の魚止めになっている。こうした環境の水域で、山女魚と岩魚が同時に陸封されて混棲していたとして、岩魚よりも就餌動作が素早い山女魚が生存力で岩魚に優り、岩魚の数が減少していった――。

 と、大畑川の『スギノコ』の場合は推測されているであるが、この小又川は、上流部を遮断する滝もなく、岩魚との混棲区域があるけれど、なぜか溯るにつれていつの間にか山女魚一色になってしまうのである。」

種市さんは、湧水の水温が高く、岩魚が棲息するのに適さないことが影響しているのでは、と推測されているが。

種市さんが、大畑川に辿りついたのは、昭和49年。六ヶ所村で、塩作りに携わり、姉妹の「メラシコ」に風呂場で裸体を見せつけられ、「子供」扱いにされた時から、また、アンチャの太いテグスの仕掛けを見せられた時から、26年後のこと。

古畑旅館の主が中学生の頃、、マタギの父親と二人で「スギノコ」を釣っていたのは昭和34年頃で、赤滝上流に「スギノコ」が溢れていたらしい。
古畑一雄さんは、
「~当時は柳虫を餌にして、二号半位のテグスを使い、戻りの森林鉄道の発車時間までの数時間にリュックに背負った一斗罐に余るほどの釣果があったものだという。二号半といえば、現在のナイロン糸ほどの強さではないにしても、かなりの強度があり、その太いテグスでも鱒のように大きい『スギノコ』にしばしば切られることがあったそうだから、おそらく四十センチをオーバーするデカブツがいたものと思われる。数にすれば二百尾以上の獲物があったはずだ。」

スギノコの呼称の由来は?
1 「~まだ赤滝上流へはマタギの通う道しかなかった時代のこと、ヒバの原生林のそこここに,それまでは下流域にしかなかった杉の幼木が見られるようになったのだそうだ。杉の種子が下流から十数キロを遡って飛翔して根付いたものである。
~飛翔して根付いた幼木は直ぐに枯れるか、育っても良木にならないものである。つまり、土地人にとって、『杉の子』とは、飛翔してきて根付いた『弱い幼木』でなく、あくまで『強い種子』の象徴を意味し、同じころ、本来は中流域の深く広い場所に棲むはずの魚を赤滝上流の細流に見つけ、この魚が永久に繁殖して欲しいとの願いを込めて、これに『杉の子のように強い種子であれかし』と、『スギノコ』の名でよんだというのである。」

2 「~その魚が通常の山女魚と比べて、体色が青く、杉の葉のように青緑色をしているからだということであった。事実彼らは、産卵期になっても婚姻色にならず、青緑色のままである、と一雄氏は語っている。」

昭和37年に、薬研地区の電灯がともり、森林鉄道から自動車道にかわり、その時から「文明の波」が、「スギノコ」の世界に押し寄せ、「スギノコ」の衰亡の歴史が始まった
赤滝上流は保護区となった。
もはや、杉の子ヤマメには遭うことが出来ない。遅かりし由良之助。

しかし、一雄氏は、
「~大畑川の本流で四年を周期にして突然大型の山女魚が釣れるというものであった。氏によれば、放流山女魚なら前年釣れたサイズから推計して『今年はこの位の大きさ』と判るのだが、それとは違った大型の山女魚なのだという。

『へえ、そんなこともあるものかいナ?』と、その時は聞き流したが、翌年の六月になって、いつもの魚の付き場で、『ここではこれ位のサイズのやつが必ず釣れるはずだ』と竿を入れた時のことであった。ひと流しすれば食うはずなのに、あたりがこない。が、筆で刷くかのような、微かな“コツ”という感じがした。再度流してみると、やはりさっきと同じである。

ならば、と鉤を五号の小鉤に代えてもう一度流し、今度はこれ以上の早合わせは出来ないという位の早さで合わせた。ズン。
 今度は合った。だが、まるで石でも釣ったような手応えで、魚が一向に底から離れてこない
 『そんな魚が、この付き場にいるはずがない』……そう考えながら、腰を落として両膝を揃えてバネにする。竿を持つ腕を脇腹につけるように構える。これでさすがの大物も底を離れが、今度は一気に下流に走った。

そうはさせじと、腕を押し出すようにして手首を返して上流に頭をむける。と、魚の抵抗もここまでで、取りこんだ山女魚は二十九センチあった。次も、またその次の付き場でも、これと同じように今までとはまるで違う型の魚が釣れ続いた。ひょっとすると、これが一雄氏の話していた『四年周期で釣れる大物』なのかもしれない。」

移動のため林道に上った時、急停車する車。
太ったおばさんが、
「『オメェ,何釣ってるド!!』
 三角の恐い目をして、まるで密漁者扱いだ。
『釣り券なら持っていますが……』
 そういう私の答えには耳も貸さず、
『駄目だ。今釣るのア“スギノコ”だ
 という。
『“スギノコ”は、赤滝上流にしかいないんでしょう?』
『違う。滝の下さ降りてきているんだ』
『そうですか、それじゃ今日は止めにしましょう』

 恐い目のオバさんの権幕に恐れをなして、私は納竿することにした。
 大畑町の広報で、『貴重な資源“スギノコ”を、町民一人一人がPRマンになって護ってやろう』と呼びかけていたのである。」

「それはさておき、ならば私は、計らずも待ちこがれた想い人に、そうとは知らずに逢っていたことになる。どうやら『スギノコ』は、赤滝下流に流下していたらしい。ある周期があって、一定の大きさに成長するとかなりの数の群れをつくり,水量の状態のよい時に流下する……。そんな自然の営みであるのかも知れない。

 地元の釣り人たちに言わせると、『スギノコ』と赤滝下流にいる山女魚とを比べても全く区別がつかないから、赤滝上流で釣ったものは『スギノコ』、下流で釣ったものは『山女魚』と呼ぶしかない、ということになるらしい。
 実際、『スギノコ』の生態については、いまだ解明されていない未知の部分があると、研究書は報告しているが、それにしても,流下した『スギノコ』は、いったいどこに行ってしまうのであろうか?」

ヤマメねえちゃんは、赤滝下流の「山女魚」をだっこしたことがあるのかなあ。
姉妹のメラシコに裸体を見せつけられ、はたまたおっかないおばさんに声をかけられ、と、種市さんは下北近辺ではモテモテですなあ。

ゴギの保護はどうなったのかなあ。
山釣り  遙かなる憧憬の谿から」に素石さんが「消えゆくゴギの故郷《江川源流》」に、「営林省が管轄しているので、入山には許可が必要だが、営林省は樹木の管理には熱心でも、ゴギの保護まではやってくれない。山と川とは関係がないと思っているらしい。仮に尾数制限を取り決めての監視しても、立入りの許可さえもらえば誰でも入れるのだから、減らすなというほうが無理である。手ぶらで逍遙するだけでもこころゆく念いがするこの溪へ、私は両三度足を運んだことがある。三回とも竿を出したが、ゴギは申し合わさせたように十八センチ以下の小型で、いつも数尾しか釣れたことがない。

 この木地山川は、昔はヤマメの宝庫であったという。江川から上ってくる日本海のマスがこの辺りを産卵場にして、型の好いヤマメがひしめいていたそうだ。林道から流れに目を移すと、大淵やゆるやかな瀬に群游するさまが手にとるように見えるほど、『それはそれはたくさんいた』そうだが、戦後食糧が極度に欠乏したとき、大規模な毒流しをする者がいて、全滅した。見わたす限り、川底はヤマメの亡骸で真っ白になったという。」
  
ゴギの保護に、恐ろしい目のおばさんはいないかも。
「比婆山を流れる西城川源流のゴギは、二十年ほど前まで三五センチ級が姿を見せたけれど、ご多分に洩れず、ここも減少の一途をたどって、ついに天然記念物の指定を受けるようになった。むろん、永年禁漁である。」

素石さんは、ゴギの減少について
「~ゴギの減少は捕りすぎよりも、むしろ環境破壊が強い拍車をかけてきたということである。具体例をあげれば際限なく問題がひろがってしまうが、上流にダムや砂防堰堤を乱造する一方、中流域沿岸の竹薮や雑木林を皆伐して、セメントで堤防を固め、川を貯水タンクと排水路に見立てるようなことを平気でやっている。そんなところに魚は増えるどころか、生き残ることさえ危うくなっている。ゴギやヤマメはおろか、淡水魚族全般の死活問題である。」

種市さんは、大畑川の沿岸について、
「その流域はブナ、トチ、ハンノキなどの広葉樹林、ヒバを主とする常緑樹の原生林に覆われて、仙境にも似た落ち着いた美しさがある。かつてここを訪れた詩人は、『すがすがし万緑の外花もなし』と、その景観を讃えている。流域の岩石は、火山爆発による溶岩と緑色凝灰岩で、岩肌が緑色に輝いて見えるのはそのためである。」


            御㔟久右衛門「紀伊半島のイワナ『キリクチ』の運命」

御勢先生は、1926年生まれ

花嫁修業をするから、と親をだまくらかして、就職をせず、開高さんや素石さんら、おじさま達と山釣りにいそしんでいた天野礼子ちゃんも、キリクチの種の保存に携わっていたと思う。

今西博士が、前さんから大台ヶ原山系に岩魚が棲息されている話を聞かれたのはいつ頃か、気になっていた。
今西錦司「イワナとヤマメ」(平凡社ライブラリー 1996年発行)に、その答えが書かれているとは、驚き桃の木山椒の木。
「イワナとヤマメ」には、線が引かれている等の読んだ形跡が明瞭にきざまれているのに、なあんも覚えていないとは、覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない、のアルツハイマ進行形の証拠ですなあ。そして、順調にその症状は成長していますなあ。

「イワナとヤマメ」の「私はシラメをこう考える」の章に、
「去る一月二十七日に、亀山素光氏が私の家へ、大阪の前実氏を案内してこられた。かねて珍客が現れると知らせておいたので、山本素石氏も同席されて、話は大いにはずんだのであったが、驚いたことに、前氏はご商売の薬種を集めるため、じつによく方々を歩いておられ、とくにお国元の大峯山脈については、そのくわしいこと、まったく掌(たなごころ)をさすがごとしである。そのうえ、ご商売のかたわら、つねにいたるところで釣りを試みられてこられたので、そのほうにかけても、じつに豊富な知識の持ち主なのである。

 たとえば、白川又谷のどの小谷の奥と、旭ノ川のどの谷とには、まちがいなしにイワナがいますよ、といわれてギョッとし、私と素石氏とは顔を見合わせたまま、あいた口がふさがらなかったのである。このことを知らせてやったら、紀伊半島におけるイワナの分布を調査した、五条の御㔟久右衛門氏はどんな顔をするであろうか。

しかし、イワナのことはしばらくおき、前氏はまた、揖斐(いび)川のシロについてもよくご存じで、徳山村あたりでは、やはり十一月ごろが盛期である、とのお話しであった。」

「私はシラメをこう考える」は、「釣の友」の1968年4月号・昭和43年に掲載されたのが初出であるから、前さんとは昭和43年頃にお会いになったのでは

なお、萬サ翁と偶然酒を飲み交わすことになったのは、「アマゴとマスのあいだ」に、
「たまたま『釣の友』三月号の座談会で、今年の長良川は、例年になくシラメが多い、ということが報ぜられた。

われわれ山党は、中・下流の大川で釣ることはめったになく、したがってシラメなどというものには、あまり縁がなかったのであるが、去る三月十四日に、山本素石・松岡沈流・土倉九三の三氏をお誘いして,調査かたがた、長良川へ出かけた。けっきょくその日は、肝心のシラメにお眼にかかれずじまいであったが、われわれは幸い八幡町の有名な職漁者古田万吉氏にお会いできたので、私の仮説を検証するに役立つ同氏のお話しを、ここに紹介しておきたい。

 まず、同氏は、シラメはマスの子であって、アマゴとはっきりちがうといった。そして、パーマークや紅点のないこと、背鰭のさきの黒いことなどのほかに、もう一つ重要な両者の区別点として、シラメは顔が突きだしているけれども、アマゴの顔は短くてまるい、といった。

シラメが大きくなったマスと、アマゴのフッタテとの区別点も、この顔のちがいをまずとりあげ、それからアマゴの大きいもののほうが、マスよりも体高の大きいことを注意した。
 しかしその日、本流で釣れていた魚をみると、話に聞いていたように、顔が突きだし、背が青黒く、背鰭のさきも黒いのに、一方ではまだパーマークや、紅点の認められるようなものがいた。わたしはこれを、シラメでないと判定したが、岐阜市の一ノ瀬早太郎氏は、シラメにパーマークや紅点があるばかりか、溯上してくるマスにまで、これらが認められるといわれるから、そうなるとどこでアマゴと、シラメ及びマスの区別をつけておられるのか、判断に苦しむ。

 こうした中間的なものを、アマゴとマスの交配種である、とみるのも一説で、それでもよいが、問題は交配種でもなんでも、マスというからには、とにかくパーマークや紅点が消失してしまっていないと、困るのである

そもそも小谷にすむ魚と大川にすむ魚とでは、環境上のいろいろな差異から、形態のうえにもちがいが生じていることは、よく知られた事実である。すると、パーマークや、紅点のあるシラメというのは、単なる大川型のアマゴにすぎず、また三〇センチ以上になっても、なおパーマークや紅点の消えないマスというのは、中・下流にくらしている、こうした大川型のアマゴの一種のフッタテにすぎないのではなかろうか。わたしはこうした中間的なもののほかに、ちゃんとしたシラメになって、海へ下るものも、またちゃんとマスになって、海から上ってくるものも、やはり昔から、長良川にはいるのではないか、と考えている。」

萬サ翁と話され、また、萬サ翁が投網で獲ったカワマスを見聞してやっと、大島博士の間違いを打破し、ギンケヤマメ・シラメ相似説に確信を持つことができた事柄を再度紹介したのは、御勢先生のように,キリクチの種保存に邁進される方がいる一方、交雑種を生産することが、「進歩」?と、励む方がいらっしゃるから、そのちがいを際立たしたい、という,不遜な動機から。
なお、「アマゴとマスのあいだ」は、1965年5月号の「釣の友」に掲載されているから、萬サ翁と出会う幸運は、昭和40年,あるいは昭和39年ということでしょう。

     御勢先生とキリクチ
キリクチに係る文書
紀州藩の医官になり、「和州吉野郡中物産志」を1847年に撰述したと推定される源伴存(みなもとのともなり)が、「廻川(こうせい)山嘉魚(注:イワナのこと)斫(き)り口之図」と描いているキリクチの図を御勢先生は、模写されている
その容姿は、現在の新幹線の先頭車両のように、頭から口にかけて斜線のようになっており、新幹線の初期の先頭車両のような丸みはない。

「奥吉野では、イワナのことを『キリクチ』と呼んでいる。頭の角度がアマゴに比べてきつく、刃物で切ったような形をしているため、この呼び名がつけられたのであろう。」
なお、「キリクチ」の呼称には他の説明もあることも紹介されている。

御勢先生は、昭和25年に始めてキリクチに会われている
契機は、昭和7年に、今西岩太郎さんの作成した「吉野川産魚類の研究」という謄写版刷りの小冊子を見つけたから。
それには、イワナの産地について
「『吉野川(紀の川)の上流では川上村の奥地に産する。また、十津川の上流である天川村の奥地および野迫川村の奥地弓手原は有名な産地である。また、同じ奥地である野迫川村北股にはキリクチ谷と呼ぶ地があるが、そこでは今は産せぬ。その原因は伐採の結果で、要するに伐採の結果、山が浅くなり、水温の変化をきたしためかと思われる。~』という記事に強く心がひかれた。」

五條から歩いて、「立里の荒神社に一泊し、翌日、峠越しの細い道をたどってようやく弓手原にたどり着いた。弓手原部落は標高六〇〇~七〇〇メートル、川原樋川(注:こうせい)源流域にもかかわらず、比較的平坦で、水田もかなりひらけた地形である。天川村のキリクチ生息地・川迫川源流のごとき深山幽谷の様相を呈してはいなかった。

 弓手原部落の上流、川沿いの水田地帯をすぎると、ミズナラ、コナラ、カシワなどの雑木林の間をぬって右岸から川幅一メートル程度の菜(な)谷が流入しており、まずこの谷を選ぶことになった。漁法はすべて手掴みという妙技で、岩の下でヌルヌルした尺余のキリクチに接した触覚を今でも忘れることができない。」

そして昭和36年、紀伊半島のキリクチ分布図を整理された。
分布図は、在来種、移殖、絶滅の区分で表現されている。
北山川、十津川水系以外では、吉野川、日高川に移殖された箇所があるだけで、また、十津川、北山川でも絶滅したところがある。

キリクチのひ弱さ
「これに先立って(注:財団法人「淡水魚保護協会」から昭和61年に「野迫川村弓手原産のキリクチの卵を空輸作戦で屋久島に放流する。参加されよ」との命令書)、イワナ増殖の大家・元北大水産学部教授の久保達郎さんが退官後自宅を改造して大和から運んだキリクチから採卵して稚魚を飼育している。

その結果は意外で、川迫川系のキリクチは幼期の死亡率と成熟前の死亡率が他府県産のイワナに比べて目立って高く、弓手原系のもは更に劣弱であるという。

 理由は、同一水系でありながら、両産地の生息地がかなり遠隔で、そのうえ、下流に設置されたダム湖によってまったく移動ができないこと、キリクチの棲息流域の林道の建設や砂防堰堤工事等によって川に土石砂が堆積し、夏秋に雨が少ない年には流路が寸断され、涸れ川が連続して魚群の内に近親交配が起こっている可能性がきわめて高いということである。また、森林の伐採により水温が上昇し、季節的な移動が妨げられて沢ごとの魚群が孤立し、更に近親交配に拍車がかかるのではあるまいか。

 大和のキリクチ生息地には、平家の落人伝説が残っているが、この地のイワナもまた下界の汚れを知らぬ自然児であるため、恐らく多くの病害にも免疫性が無く、ストレスにも弱いのかも知れない。このままではキリクチの生活力の低下が心配である。

 このような自然改造による環境の悪化で絶滅の恐れがある紀伊半島のキリクチ保護戦略としては、思いきって生息に適した場所へ放流し、保存を図ることも一つの方法である。そこで、航空機を使った北海道から九州までの日本列島縦断の空輸作戦が展開されることになったわけである。

屋久島へ
 昭和六十年十月中旬,弓手原川で捕獲したキリクチ五十匹を飛行機で函館の久保さん宅に空輸して採卵。採卵はこれが二度目であるが、前年の失敗に懲りて慎重を期した。十一月、ついに二〇〇〇粒の採卵に成功し、このうちの約一三〇〇粒が新天地を求めてて屋久島に飛ぶこととなった。

 通常、放流といえば稚魚を放つのが普通であるが、しかし、環境変化に敏感なキリクチでは成功率が低いため、採卵後一か月の発眼状態の卵を川底に埋め込む『卵放流』をとることにした。」

飛行機から、キリクチの故郷の弓手原源流沿いの「山肌は破壊され、赤茶けた地肌が各所でのぞいている。」を眺める。

「屋久島での放流地点は安房川の支流・荒川の上流で、標高一四〇〇メートルの地点であるが、すでに雪に包まれた屋久杉の原生林を二時間歩いて、ようやく目的地にたどりつく。さすがに澄み切った冷たい水が流れている。あたりはすでに暮れなずんできた。いそがねばならない。

 運搬の途中で死亡した卵をピンセットで取り除く。水温は摂氏四度で手がかじかむ。プラスチックのカゴに砂利と卵を入れて、流れの中の川底を掘ってカゴごと埋める。カゴは水深二十センチ余りの三か所に分散して埋められた。屋久島は雨が多い。増水でカゴが流されないように周囲に大きな石をそっと並べて囲いをする。

 うまくいけば二月中旬ごろに約一三〇〇粒の卵が孵化し、三月頃には稚魚がカゴの目から川に泳ぎ出す。はたしてキリクチの卵は無事に孵(かえ)り、稚魚となって泳ぎ出してくれるだろうか。祈るような気持ちで真暗になった屋久杉の原生林を、つまずき、転びながら下山した。」

御勢先生らは、キリクチの遺伝子の多様性を保持されるため、その後も「卵放流」を続けられていたのではないかなあ。そして、「種の保存」作戦はどの程度成功されたのかなあ。
偶然、そのことの書かれた本に出会えることを期待しましょう。


         松岡喜作「サケ・マス類の雑種たち」
「中禅寺湖へのビワマスの放流は、明治十五年の農商務省水産局管轄のころから明治四十四年にかけて、琵琶湖より二十一回にわたり、合計六一〇万粒の卵を購入し、孵化放流されている。一方、サクラマスの放流は、明治十七年から同三十七年にかけて主に北海道西別川から四五五万粒を移入している。なぜ別種のものを同じ湖へ放流したのだろうと、疑問に思われようが、この時代は、サクラマスとビワマスが同種という説が多かったことによると推察される。」

「当然自然交雑と人為交雑が繰り返される結果になってしまった。特に人為交雑の方が影響が大である。」
「大正十一年から昭和三十七年にかけて、この交雑卵八六四万五〇〇〇粒が全国の河川に『日光ヤマメ』という名で分譲されているのである。」

             ほんまかいな
「学者が琵琶湖のビワマスが純粋だといくら言っても、『雑種』であることは否定できないであろう。」

サクラマス・ホンマスの琵琶湖への移殖記録」として記述されている表には、滋賀水試に大正十一年から十四年に、百万粒ほどの卵と五十五万尾の稚魚が、昭和四年から七年に百六十九万の卵、百二十六万の稚魚、昭和三十九年に六万の卵、三千匹余りの稚魚が送られているとのこと。また、「大島」へも。大島が琵琶湖のどこか、見当がつかないが。
これが、松岡さんのビワマスに純血種がいない、との根拠。
これらの数値には、「伝聞」も含まれている。「伝聞」の証拠能力が低いことは、日本人の文化:the way of laife  では意識されていないが。

1 アメノウオ、ビワマスの自然繁殖が、大量に行われた時代に、なんで、「日光ヤマメ」を琵琶湖が必要としていたのか
2 活魚運搬車はなく,トラックの数も少なかった時代に、高い運搬費を,数日をかけて、また、少ない輸送資源を「日光ヤマメ」の運搬に使えたのか疑問。
3 松岡さんは、琵琶湖で、ビワマスの実物を調査して、「交雑種」であるか、否かを判断されていないのでは。大島博士同様、「実物」の調査をせずしての御託宣ではないのかなあ。
4 交雑種の「日光ヤマメ」が、在来種のアメノウオ、ビワマスの産卵行動に参加する数に対して、何%と考えられているのかなあ。「日光ヤマメ」の地理的偏位がない状態で、放流されたとしても、在来種の一%にも届かず、一千分の一とか、万分の一の水準ではないのかなあ。特定の川に放流されたとしても、昭和三十年代以前であれば、一%の構成者になることもなかったのではないかなあ。
5 松岡さんの「琵琶湖のビワマスには純血種がいない」との御託宣は、ビワマスを標本でしか見ることはなく、また、伝聞での情報により、地方地方の「呼称」からビワマスと「カワマス」の同一性を判断された大島博士の御託宣よりも一層「根拠薄弱」と確信している。

松岡さんは、交雑種礼讃とはいえ、川那部先生ら、「種の保存」,生態系を重視されている方々の批判を懸念して、「ビワマス」に純血種はいない,と、「泥棒の論理」としての御託宣をされたのかなあ。
鮒鮨が樽で買うことができたほど、大量のニゴロブナが琵琶湖で生活をしていた昭和三十年代以前、「豊饒の湖」の琵琶湖に、何で、「放流もの」を買い、琵琶湖に放流する必要があったのですかなあ。不思議ですねえ。

素石さんや、前さんは、松岡さんの琵琶湖のビワマスに純血種がいない、との御託宣にどのように反論されるのか、興味ありますねえ。
松岡さんの御託宣が、適切に「事実」を書かれていないと確信している。
もちろん、琵琶湖の北部の一部の川には、サクラマス・ヤマメの移植も行われている現象が見られているようであるが。

    ビワマスは桜鱒と同種ではないが……
大島博士が、ビワマスとサクラマスが同種と判断された理由,根拠が、本荘鉄夫「『サツキマス』まで」に書かれている。
本庄さんは、1920年生まれ。

大島博士は、「桜鱒と琵琶鱒」を昭和三十年代に発行されている。
「この中で同博士は、『木曽川でとれるカワマスと呼ばれているマスはビワマスの降海型の唯一のものである』と述べ、『木曽川河口水域の冬の水温が異常に低いので、降海型のギンケヤマベ(注:原文のまま)の如く鹹水中に移行して滞りなく成育するものが現れるのではあるまいか。このカワマスの生態は今後よく探査すべき興味ある問題である』と述べている。」

本庄さんは、「~琵琶湖産のアユ種苗中に相当数のビワマスの幼魚が混入していたことがあった。」
それで、中禅寺湖産ではなく、純粋のビワマスを使用。単なる飼育体験ではあったが、「『ビワマスとアマゴは似て非なるもの』との感触を一層深めたのであった。」

昭和38年、職漁者が採卵孵化の試みをしてほしい、と、「その秋には成熟するはずの立派な準成魚」30尾ほどを持ち込んできた。

「~案の定、人が近付けば狂奔してパニック状況となり,給餌もままならぬありさまで、やせ細って死んでゆくものが次第に増え、飼育を危ぶんだほどであった。やがて、隠れ場を造ったり、餌もミミズに替えて、気付かれぬように投げ入れたりしてゆくうちに、次第に水槽環境にも慣れ、成長も進んで、秋に入るとともに成熟も進み、約二〇〇〇粒の卵をしぼって翌春には一〇〇〇余尾の稚魚を得ることができたのであった。」
翌年、その翌年合わせて3000尾の天然アマゴを集めた。

アマゴ種苗生産技術が軌道にのると、
「再び例のビワマスのことが気になり出し、今度は比較対照用のアマゴも十分にあるので、ビワマスとアマゴを発眼期の卵から親になるまでの間、同条件下で比較飼育することにした。ビワマスの種卵は、醒ヶ井養鱒試験場が保証する天然魚からとったもので、これに対し、アマゴ卵は飛騨川水系原産由来の養殖魚からとったものである。

 飼育期間中は、十分なサンプルを抽出しながら比較計測を行い、成熟採卵まで追ったところ、アマゴの大半は満二年目で成熟したが、ビワマスは二年では雄の一部が成熟したのみで、明らかに成熟年齢に差があることがはっきりした。

同時に生活行動にも明らかな違いが見られ『ビワマスとアマゴは同一種とすべきではない』と確信を深め、かりに一歩譲るとしても『亜種として区分すべきだ』と考えるに至ったのである。」

「これでアマゴはビワマスでないことがはっきりとしたのだから、今度は『アマゴ=カワマス』を立証して『カワマスはビワマスにあらず』を証明しなければならないわけであるが、この立証への決意は、それから遅れて四十五年頃であったと記憶する。」

昭和四十四年から放流効果試験に着手。
一年後に放流地点を中心に採捕調査をすると、雄の採捕率が雌の採捕率を圧倒的に上回る。「雌の下流への移動の推測(上流には魚止め堰があるので)となり、、『ひょっとすると、この雌たちは飛騨川本流に出現するハクシマ(長良川ではシラメ)に変態したのではないか』との想像を得るところとなったのである。というのは、養殖池では晩秋ともなると体色が銀白化した、いわゆる銀毛型が出現するのだが、その大半が雌であることを知っていたからである。」

昭和四十六年五月、長良川下流の刺し網にかかった五尾のカワマスの中に、あぶらびれのないカワマスがいた
「私自身は、長年の体験から、背びれや胸びれの欠如はあっても、あぶらびれの欠如はまずは見られないこと、切断部の傷跡は人為的であること等から確信があったが、読者の言い分(注:たまたま新聞に標識カワマス発見が報じられ、一匹だけの発見にすぎないのに、いきすぎた宣伝と批判された)もごもっともであり、さらに動かすことのできいない証拠固めを得る要があると、自らに言い聞かせたのであった。」

「生産性を第一義とする増殖的見地からは、成否は五分五分であり、内部にも成功を危ぶむ空気があった(注:池育ちの銀毛型アマゴを放流することによるカワマス増産)。私自身も銀毛型の降海と母川回帰には自信があったものの、果たしてどれほどが戻ってくるか、放流魚の回収データは十分に集められるか、への危惧感があったことも事実である。」

昭和四十七年十二月、あぶらびれを切り取った8000余尾の銀毛型を長良川下流部に放流した。翌年?、定置網で三十五尾を、長良川で四四二尾を回収した。

「~先に『ビワマスはアマゴに等しからず』を明らかにし、今度は『カワマスはアマゴに等しい』ことを実証したのだから、『カワマスはビワマスではない』ことが明らかになったわけである。」

大島博士の誤診
「それにしても大島さんは、どういうわけで『アマゴ=ビワマス=カワマス』と割り切ったのであろうか。もしアマゴの幼魚と河川生活期のビワマスの幼魚を数多く見たならば、また、ビワマスの成魚と溯上期のカワマス標本をくらべたならば、このような診断はしなかったであろう。」

「大島さんは、数多く現地を視察した方だが、ビワマスとカワマスについては、現地からの通信と、送られてきた標本査定から結論したように推測される。その著書の中で『琵琶湖の沿岸ではビワマスの幼魚をアマゴといい』と述べられているが、どうもそれが誤りのようで、山本素石さんの安曇川域の朽木村での調査によると、安曇川ではビワマスの子を『サツキ』と呼んでおり、同じ川に生息しているアマゴとは形態や習性の違いからはっきりと区別しているとのことである。

また、サケ科魚類の研究家の吉安克彦さんも、『ビワマスの仔をアマゴと呼んでいる事実はない』ことを指摘しておられる。」

本莊さんは、ほかの研究者が、アマゴ、カワマス、ビワマスとの形態の違い、あるいは、アマゴとビワマスのヘモグロビンの電気泳動像の違いの事例も紹介されている。
本莊さんは、
「私の勘ぐりかも知れないが、ビワマス(大島博士の命名)の琵琶湖での呼び名が『アメノウオ』であり、同時に『アメノウオ』はアマゴの地方名として各地で使われているところから、ビワマスをアマゴと繋いでしまったのではあるまいか

カワマスの標本も氏の著書を見る限りは、当時の岐阜県水産試験場に保存されていたフォルマリン漬の標本を査定したもので、形態的形質査定のみの判断からと思われる。」

      交雑種生産が善?進歩?
さて、本題は、松岡さんの交雑種づくりのお話しであるが、嫌々読まざるを得ないのは、苦痛ですなあ。
交雑種の名前は、先に雌の魚名、次に雄の魚名で表現するとのこと。
そのことだけを紹介すると、
イワカワ=イワナとカワマス  タイガートラウト=ブラウントラウトとカワマス  ブラアマゴ=ブラウンとアマゴ  イワヤマ=イワナとヤマメ  ゴギヤマ=ゴギの生息地にヤマメやアマゴを放流したことによる。   ブラゴギ=ブラウントラウトとゴギ
  ギンコ=ギンザケとアマゴ   ゴギグリーン=ゴギとグリーンイワナ  カワアマゴ=カワマスとアマゴ   ニジカ=ニジマスとカワマス

「カワアマゴ」は、「交雑種」かなあ。
「カワマス」が、桜鱒と区別された意味で使われているとすれば、アマゴの降海型で、雌が多い,ということになるが。
容姿も、大きさも、「アマゴ」とは似ても似つかないとはいえ、「アマゴ」の降海型、メスが「カワマス」であり、自然界では「別種」ではないけどなあ。

素石さんは、「ヤマメ」が「やもめ」に通じるかも、とからかわれているが、サツキマスでも「やもめ」現象を見ることになり、川で自然に産卵行動をしている現象ですがねえ。まあ、「カワアマゴ」が桜鱒ではなく、サツキマスを使っていると、悪意の想定をして愉しみますよ。
川での自然の営みと、「交雑種」の生産と区別がつかないとは、困った現象ですなあ。
もっとも、「カワマス」に、人工の手が加えられていない「純血」の「カワマス」=サツキマスでなければ、「交雑種」にはなるが。

素石さんは、複数の場所で、「やもめ」現象を書かれていると思うが、「山女魚百態」(宮地伝三郎・開高健・山本素石編 筑摩書房 1987年発行)の素石さんのあとがき「ヤモメの不倫」が、交雑種生産に長けていはいても、自然界の現象を観察されていない,にもかかわらず、「純血のビワマス」が琵琶湖にいない、と御託宣なさる松岡さんには似つかわしい、と、憂さ晴らしをしましょう。

「昭和のひとけたの時代、釣ったアマゴを水桶に泳がせながら、担いで山を越え、ヤマメの川に仲間入りさせておいたところ、代々交配を重ねて、全域アマゴに変じた川もある。その時代、ヤマメはメスの大部分が海へ下っていたから、留守宅のヤモメがメスの帰宅を待ちあぐねて、他郷から転入して来たアマゴのメスと不倫をはたらいた嫌疑がある。

顔も忘れた頃、幾年振りかで帰ってきた同族のメスは、留守居していたオスの十倍ほども大きいグロテスクな図体になっていて、圧倒されそうなのに対して、片やアマゴは自分と似た大きさで、エキゾチックな朱点をちりばめた愛くるしい乙女に見えたとしても無理はない。」

素石さんは、その後、降海が不可能になり、また、海のかわりをするダム湖のないとき、シロメは、知らん顔をして、アマゴに戻っているのではないか、と、別の本に書かれている。
また、アマゴのメスも降海するから、不倫の説明では、アマゴの川に変身する説明としては不十分ではないかと思うが。
とないえ、アマゴの川への変身が、「ヤモメの不倫」によるかも、との説明は、愉しいが。
昭和の終わり頃、サボMは、アマゴの生殖能力?がヤマメよりも高いことを話していたと思うが。
 
松岡さんは、旨いと評判になる交雑種、そのほか、「特性」の記述もされているが、研究者は、何で、交雑種の生産に励むのかなあ。
「種の保存」を顧みないのかなあ
1995年頃、神奈川県内水面試験場は、三倍体のアユの生産をしていた。こんなアユの生産をするよりも、その頃3年間行っていた、相模川の遡上アユの産卵場所付近での産着卵や流下仔魚の調査をしてくれた方が、遡上アユの生活史を知る上で、意味があると思いますがねえ。

その頃、丹沢水系で、在来種の山女魚を釣ったときは、知らせて欲しい、との張り紙が、試験場にされていた。ということは、交雑種が多量に放流されていた、ということかなあ。同じころ、酒匂川の新栄倉庫上流の瀬落ちで、成魚放流の山女魚が釣れた。
オラは、「ヤマメ」と思っていたが、交雑種かも。

本莊さんは、サツキマスの絶えていたアマゴ生息域でもわずかではあるが出現したり、桜鱒地帯にも、あるいは降湖型アマゴの見られなかった琵琶湖にもサツキマスが出現している、と。
「~これらはアマゴ放流の副産物として再び姿を現したものであり、自然復活ではなく、再生産力をもたないたまゆらの人為的復活で、開発の落とし子とでもいうべき存在である。

 昨秋、天龍川漁協では、天竜川下流部にサツキマスの釣魚場を出現させる目的で多数の銀毛型アマゴを放流した。昔は多数のサツキマスの遡上のあった川であるが、相次ぐダム建設で姿を消してしまったのである。

 純粋のサツキマスは、日本列島からほとんど消えてしまったが、人手の加わったセミナチュラルな姿で復活しつつあるのは確かなようである。」

この文からも、本莊さんと、多様な交雑種を造り、また、「純血のビワマスはいない」と御託宣される松岡さんとの違いは明白と思うが。

オラは、松岡さんのように交雑種、あるいは、あゆみちゃんに関してであるが、継代人工を生産することは大嫌いである。
なお、本莊さんは、石川博士の「『琵琶湖の小アユは海から遡上するアユと同じもの』と判断したのがもとで、琵琶湖産小アユの放流が事業化したのはその成功例の一つである。」
と、書かれているが、何を「成功例」と評価するのか、判らないが、石川博士の前提には間違いがある

1 東先生らは、石川博士が多摩川に放流した「湖産」は、「小アユ」ではなく、川に遡上してきた「アユ」を採捕しているから、琵琶湖に流入する川にそのままおいていても、「大アユ」になる。

2 湖産は、浸透圧調整機能不全から、稚鮎は、海では生活できない。したがって、海アユの「純血」は保たれている。海と行き来のできる川に放流された湖産鮎は、一代限りの侵略者である。

3 「湖産」アユは、大アユになるものと、小アユのまま湖で生活し、産卵期のみ川に上って来るアユがいる。
問題は、この二つの群れが、毎年「選手交代」をすること。
今年、川に遡上したアユは、「大アユ」に。溯上しなかった鮎は、小アユに。
しかし、来年は、小アユの方が9月初め頃に産卵するから、その子供は先に大きくなり、三月以降川に遡上する。そうすると、「大アユ」になる。
他方、「大アユ」の産卵は、10月頃であるから、その子供は「小アユ」の子供より成長が遅く、湖で生活する。

4 性成熟に要する時間が、毎年変化する現象に、おつむがついていかないが、したがって、東先生がどのような現象を調査の中で観察されたのか、知りたいが。「学者先生」の本は、発行されても、東先生らの本はいまだに発行されない。多分、「アユの博物誌」が、最後ではないかと思うが。

その湖産も、2017年、外来種の植物プランクトンが大量繁殖→在来種の植物プランクトンを駆逐→在来種の動物プランクトンは、外来種の植物プランクトンが大きすぎて食糧にすることが出来ない→稚鮎の餓死

となり、昭和の終わり頃には、腹子をもった煮浸しが、1匹、雌で1700円、雄で1300円であったが、平成30年1月には甘露煮にかわり、雌雄の区分なく、300円に。
継代人工等、人工種苗の養殖鮎を使っているのでは。
築地の仲卸さんが、テレビで、4月上旬であるのに、和歌山産のアユを、今が旬である、「香魚」というように香りがする、と、話しているのを聞いて、世も末ですなあ、と憤慨するのはジジ-故か、「本物」を、「香」魚をちょっぴり経験したものの幸せか。

なお、村上先生か、「真山研究室」の真山先生か、忘れたが、アユの体内での代謝経路は判らないが、「香り」を生成する物質名をメールで教えて下さった。
そうすると、その物質を餌にまぜれば、「香り」を生成できるから、養殖アユの方が「香」魚になるかも。

故松沢さんは、ガキの頃、種市さんのように、狩野川で釣りを、ヤスを使ってアマゴやカワマスを遊び相手にしていたのでは。
アマゴはどの位釣れていたのかなあ。カワマスは?
残念ながら、あゆみちゃんの生活誌を聞くことに精一杯で、アマゴのことを聞いたことはなかった。
丼大王さまあ,故松沢さんは、がきっちょの頃の遊び相手であったと思うアマゴやカワマスについて、どんな話をしていた? ついでに、狩野川筋では、アマゴ、カワマスをどのように呼んでいた?

最後に、松岡さん以上に溪魚の容姿がわからないオラが、適切に「渓流 魚づくし」を読みこなしていないことは事実です。
ことに、尾藤石朋「まっこと、おんしゃ―“アメ”にかーらん」や、麻那古主税「『エノハ』釣りとは、難しい」に登場する変化球をもったアマゴ、山女魚?等には、手を出さないことが礼儀と確信して省略します。  

あ、そうそう、今西博士の「イワナとヤマメの「イワナ属――その日本における分布」に、次のような記述がありました。
大島博士が、師であるジョルダンに基づいてイワナの容姿の違いによる分類をしていたが、プルヴィウスの原記載には、「そのどこにも赤色斑点があるなどということが、出てこないばかりではなく、そこにはかえって、プルヴィウスに橙黄色の斑点があるなどということが、くりかえし述べられていたからである。私はジョルダンほどの大家が、この原記載をよんでいなかったはずはないと思うのだが、ことここにいたっては、やはり大島がとったように、原記載にしたがって、今までリュウコメニスとして取り扱ってきたものでも、橙黄色の斑点のあるものはこれをプルヴィウスにあらためるのが、分類学の正道であろう。その結果、正真正銘のリュウコメスとして残るものには、大島もいっているように、もはや朱もしくは鮮麗な淡黄色の斑点のないことが、他の種のイワナとの区別点になってこなければならない。」

ここまででも釈迦の説法に「ちんぷんかんぷん」であるのに、これに続くイワナの分布にかかる文なんて……。
桑原さんは、大島博士の修正版の出ていないときに、大島博士の二種類のイワナの分布図が事実であるか小塚を調査するために、鬼怒川源流に行き、朱点のない箒川水系と同一のものを雨の中、難行苦行の末、釣り上げ、「鬼怒川水系にはプルヴィウスがいる」ということをたしかめることとなった人も。
大島博士は、赤い斑点のあるイワナにヤマトイワナと、また,黄色い斑点のあるイワナ・プルビウスをニッコウイワナと名付けた。
今西博士も、二つのイワナの分布域の調査に精を出される。
事実をねじ曲げる昨今と同様のことを行った研究者も出現。
ヤマメよりもイワナの方が、虚偽とは気づかず、あるいは意識的に、「分布」をねつ造している事例が多いのかなあ。
まあ、あゆみちゃんの方が、単純ということで、こころ安らかになりましょう。

          故松沢さんの思い出:補記12

 神奈川県内水面試験場は、なぜ、海
アユのF1生産が適切に出来ないのか
なあ
 (ラベルへのリンクが出来ません)
2018年の相模川は大量遡上であるが、
磯部の堰の魚道を上ったのは3番上りの
一部だけ   
 内水面試験場への意見書        
 今西博士はシロメの降海をどのように調査された
のかなあ
 和田さんは、今西博士が愉しむために
アマゴのフリーパスを依頼、と。
和田さんは、長良川近くで生まれ育った
だけ?
 シロメが降海しないと、山女魚→シラメ
→桜鱒と、
アマゴ→シロメ→カワマス
の相似説は完結しない
そのための調査と理解不能の和田さん
   
 「長良のアユ」を読んで
 駒田格知「長良川のアユ-40年間の
現地調査からー

   帯状に溯上したアユの描写
   しかし、三番上り
   1996年から、帯は消滅
 期待外れ
1 昭和終わり頃の記述は少しだけ
2 遡上アユの主Tル産卵場を長良橋から
  瑞穂大橋に想定
  =「トラックで運ばれてきたアユの
    産卵場の一つ
   
 「長良川のアユ」を読んで
:2
 墨俣は潮の干満の影響あり
遡上開始時期はいつ?
遡上アユの産卵場よりも上流で
  流下仔魚量を調査しても意味ないが
弁天の稚鮎の情景の続き 
   
 2月上旬に遡上を開始する?    
 「長良川のアユ」を読んで
:3
 「河口堰」における現象の検証と
駒田さんの違い





川那部先生の「偏見の生態学」から
 村上哲生先生らの「河口堰」
河口堰の川底の貧酸素化
川のポタモプランクトン繁殖
   河川棲プランクトンか
   その検証をされた村上先生ら
   渇水時は岐阜市より下流では
   4.6日かかり海へ
   滞留時間がポタモプランクトン発生量
   に

長良川の産卵場は?
砂利採取と河川「改修」の結果は?
「溝」川を作る工事方式
産卵場の上流移動
「溝」を,砂の堆積を好むオイカワ
、かまかつ等の現象はなぜ?
人工鮎の「教育し直す」必要
   
         
         

                神奈川県内水面試験場は、なぜ、海アユのF1種苗生産が適切に出来ないのかなあ。

2018年の相模川は、相模大堰が出来て、遡上量調査が始まって以来の大量祖遡上。
その量は、これまでの大量遡上の数倍。
にもかかわらず、友区では、中津川も、相模川も、遡上アユをだっこすること能わず。いや、
相模川には、3番上りの一部が磯部の堰を遡上出来たから、遡上アユの小中学生をだっこできた人もいるが。

とはいえ、相模川では、磯部の堰が、中津川では246のすぐ下流の鮎見橋の堰が遡上出来ず。
酒匂川でも、栢山の堰は、2017年同様、堰下流側に砂れきが堆積していて、どこでも遡上出来る状況にもかかわらず、遡上アユはいなかったと確信している。飯泉の堰の魚道の遡上阻害か、溯上期に河口で瀬切れが発生していたのか、原因は分からないが。

ということで、沖取り海産の直放流の幼児か、小学生か、3番上りか、何処かの養魚場から買われてきた第一漁協放流の継代人工の成魚放流か、4月終わり頃に寒川の堰で、ポンプで吸い上げられたという話のある遡上アユか、ということになる。
県産種苗の人工は、死に絶えたのではないかなあ。あるいは生存率は小さく、叉、大きく育つことがなかったのではないかなあ。

第一漁協放流ではないかと思っている継代人工は、大島、葉山、八菅に放流されたようで、釣り人を集めていた。
寒川の堰で汲み上げ放流された遡上アユは、中津川に放流されて、テク2らが、日向橋上流や橋下流の交番から入ったところで愉しんでいたこともあったが、量は少ないのでは。
ヒゲのサさんは、まともな大きさのあゆみちゃんを求めて、
小鮎川に出かけたが、駐車場が乏しいため、お気に入りの場所には出来ず。

角田大橋上流、平山橋には、静岡県の養魚場が生産したとの話のある
海アユのF1が放流されて、その成魚放流を愉しんだ人が少しいた。
オラは、囮屋さんの水槽で、そのF1を見ただけであるが。

1992年頃までは、狩野川では普通にF1を生産していたのではないかなあ。
当時は遡上アユが満ちあふれていた狩野川であるから、大見川の湖産、狩野川の遡上アユという知識だけで十分であったから、F1のことは何の関心も持っていなかった。囮として販売されていたアユは、F1ではなかったのかなあ。
1985年頃、群馬県の次に継代人工の生産に成功したといわれている相模川のアユとは元気度の違いがあるなあ、とは感じていたが。

神奈川県内水面試験場が、交雑種の継代人工の生産を止めて数年。
新たな種苗生産をしているが、海アユを親とするF1の生産をしているとの話はあるが、単純に海アユだけでの種苗生産ではない、との話があるが。
そして、交雑種の生産をした理由として、海アユだけを親とすると、弱い、小さい、大きな鮎にならないから、との話を20世紀終わり頃に内水面試験場で聞いた。
なんで、内水面試験場で海アユを親としてF1を生産すると、狩野川で生産されていたF1とは違う鮎になるのかなあ。

その状況は、房総以西の海アユの性成熟、産卵時期を「学者先生」の教義にしたがって理解していることが一因では、と妄想して内水面試験場に意見書を送付した。


       
内水面試験場に送付した意見書

房総以西の太平洋側海アユを親としてF1種苗を生産して下さい。

30ウン代まで生産されていた交雑種の種苗生産が廃嫡になってからも、房総以西の海アユを親としたF1の生産ではなく、何か、他者を加味した種苗生産をされているように聞いております。
なぜ、房総以西の海アユを親としたF1の生産が出来ないのか、疑問に思っています。
その種苗生産は、弱い稚鮎、大きくならない、との話がありますが、決してそのようなことはありません。

静岡県内の養魚場で生産されたF1が、○○おとり店の水槽に泳いでいます。
背びれの形状が,頭側が長く、しっぽ側が短いことから、海アユであって、帆掛け舟の背びれ形状ではないことから、継代人工ではありません。下顎側線孔数が、4対左右対称か、どうかは見ていませんが。

なぜ、海アユを親とした種苗生産が、欠陥種苗になるのか、想像しました。
1 海アユと、「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場所、流下仔魚を区別していない。

2 房総以西の太平洋側の海アユは、西風が吹き荒れる頃=木枯らし一番が吹きなれる頃から、下りの行動を含む産卵行動が始まりますが、その川漁師の勝れた観察、認識がなく、高橋さんや「アユ学」等、学者先生の房総以西の太平洋側の海アユの性成熟、産卵時期が、10月、11月とする教義に準拠しているのでは。

「天然鮎を川にたくさん遡上させるための手引き」での、流下仔魚調査における二嶺ピークの10月のピークは、絶対「海アユ」が親ではありません。11月のピークは海アユですが。ただ、11月12月の流下仔魚量はもう少し、ゆるやかなピーク形成ではないかと、想像していますが。

3 遡上開始時期は、東伊豆の情けない小川の丼大王の観察からも、3月10日過ぎから始まります。この点も、「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」の相模川での観察と大きく異なりますが。

そして、1番上り、2番上り、3番上りで、大きさに大きな差が生じます。
故原田先生が、なぜ、大きさに差が出るのか、疑問を持たれていますが。
1番上りは、解禁日でも女子高生=16センチ~18センチに。7,8月には番茶も出花娘=19センチ~21センチに。3番上りは、11月でも小学生、中学生=10センチ~15センチに。
したがって、1番上りになる親,11月以降に乙女になっている22センチ以上の鮎を親にすることが、好ましいかも。
今年は、磯部の堰よりも下流には、その大きさの鮎がいっぱいいるでしょう。アユが多量にいるから、「大きくなれない」なんてことは「絶対に」あり得ません。
川那部先生は、「絶対に」と形容される観察は信用できないと書かれていますが。

なお、親の採捕時季が、「11月以降」が好ましいのは、湖産、継代人工が産卵をすませていないからです。叉、性成熟が進んでいるからです。学者先生の教義ではなく、観察眼の優れた川漁師の観察によりますが。

1992年頃まで、狩野川大橋上流・現在の自動車道がある附近の右岸側流れに鉄筋棒を立てた「通せん棒」が設置されていました。下りの鮎は上流に向いて、ゆっくりと下って来て、隙間の空いた鉄筋棒に違和感を持ち、中州に造られた「生け簀」?に導かれていき、落ちていきます。それを親にして、F1を生産していました。

親アユが海アユである、採捕時季は房総以西の太平洋側の海アユが性成熟をしている11月以降である、ということで、F1を生産されてはいかがですか。
○○おとり店のF1を見られてはいかがですか。
F1を生産された静岡県内の養魚場を調査されてはいかがですか。
そのためにも、学者先生の教義である房総以西の海アユの産卵時期が、10月、11月である、との呪縛から逃れることが必要ですが。
川那部先生は、長良川や宮崎県の川漁師との話から、東北・日本海側の海アユと、房総以西の太平洋側の海アユの性成熟・産卵時期が異なることに気がつかれていると思います。
ただ、宇川におけるような調査をされていないから、まだ、文にされていないと思います。

ついでに、東先生が、湖産を2分類に変更された時の文があれば教えて下さい。
東先生は、
A群   3月に遡上を開始。10月頃に産卵。
B群   湖で生活し、9月初め頃川に入り産卵する。

A群の子供は、翌年は小アユになる。
B群の子供は、翌年には大アユになる。
この「選手交代」をしていることに係る報告書が見たいと思っています。

成長期間だけを見れば、小アユの子供が大アユに、大アユの子供が小アユに、ということか理解できます。
しかし、そのためには、性成熟に要する期間が、毎年変わる、という現象が必要になります。十月十日ではなく、11か月、13か月、と親と子供では性成熟に必要となる期間、時間が変更するという現象をどのように説明さているのか。
叉、群れをどのように識別する観察をされたのか。
京大関係の雑誌ではと思っている「生理生態」に、何か手がかりがあるかも、と想像していますが…。


内水面試験場には、本文のほか、
故松沢さんの思い出補記5
海産アユの産卵時期は、「10月11月」であるとの教義としての「アユの話」と東先生の松浦川での流下仔魚調査結果
性成熟は水温でなく光線の影響?

故松沢さんの思い出補記7
「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場  海産アユの産卵時期
  竹内始萬さんの「下りをしないアユの観察」

故松沢さんの思い出補記8
本物の鮎と偽物の鮎の偽造ー前さん、萬サ翁の見方

丼大王行状記
2018年の遡上開始、4月4日、4月23日、4月30日、小川の解禁-1番上りの女子高生にうはうは  6月2日  7月9日  7月10日

なお、内水面試験場には、「多摩川に100万匹の鮎が戻ってきた」の送付を忘れた。


「トラックで運ばれてきたアユ」が下りの行動をしないで産卵している情景
2018年の11月1日頃から
、相模川の弁天左岸分流に二センチ位の稚鮎が見えるようになった。
この分流は、上流側は、本流からの流れ込みがなく、ヘラ釣り場の横から伏流水が出ている。そして、ヘラ釣り場からの水と合流して、チャラを形成し、本流の流れが壁になっているトロに流れ込む。

この状況で、
植物プランクトンが繁殖できるのか、どうか、疑問を持っているが

11月中旬には、ヘラ釣り場横の稚鮎は消えて、護岸に沿う流れのところしか見えなくなった。
12月1日頃は、チャラ状のところはどこでもいっぱい2,3センチの稚鮎がひらを打ち、叉、水面に平行に跳ねている。その量は半端でない
12月10日、寒い中、見に行くと、稚鮎が流れの方向で数メートルの範囲で見えるだけ。12月11日、そのわずかな稚鮎も消えた
トロに移動したのか、動物プランクトン不足で餓死したのか、水温低下で死んだのか。

高田橋下流側河原のところにあった上流とはつながっているが、伏流水が主で、下流側は本流とはつながっていない場所は、ダム放流で消えた。
昭和橋上流の左岸の伏流水の場所は、去年よりも小さくなり、また、上流の伏流水の溜まりへの移動ができなくなったから、今年は稚鮎の姿を見ることがないかも。
9月10月のダム放流の最後は、台風24号?によるダム放流で、ヘラ釣り場も、中州も水没。ただ、中州の木々は水没していなかったから、沖取り海産の直放流は、弁天でも避難できたものがいたのでは。

日々、分流にカワセミの撮影に来ている人も、稚鮎が消えたから、今年の撮影も終えるのではないかなあ。

H・Pのリンクがうまくいかず、叉、学者先生の本は発行されども川那部先生らの本が発行されず、いや、研究報告書は発表されているとは思うが。
と、故松沢さんの思い出のサボりの言い訳は多々あれど、ジジーに免じて許してちょんまげ。


               今西博士は、シロメの降海をどのように調査をされたのかなあ
今西博士は、萬サ翁から、シロメの発生時期、消える時期を聞くことは出来ても、降海をしているか、どうかは、自ら確認するしかないのでは。
和田吉弘「長良川のアユづくり」にそのヒントがあるのでは。もちろん、
反面教師として、の話であるが

和田さんは、「長良川のアユづくり」に、
今西先生と亀山先生が連れ立って私のところへ来られていうには、『オレはアマゴ釣りが大好きだ。君アマゴ釣りのフリーパスを何とか世話してもらえまいか』とこういうことなのです。天下の今西先生のお役に立てるなら嬉しいことでございますから漁業協同組合にお願いしてフリーパスをもらってきてさしあげました。ところがその後漁協の方から、『今西先生は仲間を一五,六人も連れしておいでになる。そういうことは早く聞かせてもらわねば困る』とえらいお小言を頂戴してしまいました。私の方では先生ご自身が釣りがお好きだからとだけ思っていたのですが、今西先生は子分をぞろぞろ引き連れて長良川にお出ましになったという、まことに今にして思えばおおらかな今西先生らしいエピソードでありました。」

「トラックで運ばれてきた」アユの産卵場所も、性成熟の時期も、遡上アユとは異なることに区別が出来ず、長良川河口堰の生物影響調査のアユを担当した和田さんらしい「エピソード」ですなあ。いや、エピソードというには余りにも悲惨な結果を生じたから、「戦犯」ですなあ。

萬サ翁でも、シロメが降海をしているか、どうかを観察するには、手段がないと想像できる。
残念なことに、今西博士の「イワナとヤマメ」、あるいは素石さんの本、カワマスを「サツキマス」と名付けてはどうかと、今西博士に相談された本莊さんの本にも調査の仕方の記述をいまだ見つけられない。
したがって、妄想することにします。

アマゴが夏の水温でも快適に生活出来るところは除外したのでは。そうすると、郡上八幡、美並は対象外になったのでは。
美濃よりも下流が調査の対象区域では
汽水域は、対象外にされたのでは。そして、1日だけの調査かなあ。数回行われたのではないかなあ。

亀山素光さんは、前さんの師匠であるが、オラが読んでいない記録が残されているかも。いや、前さんの「鮎に憑かれて六十年」を読み返しても、新しい発見が見つかるでしょうが。
それと比べて、
長良川に近い岐阜で生まれ育ったという和田さんの本は読みたくない。がきっちょの頃、川遊びをした、釣りをした、と書かれているが、ほんの数回の出来事ではないかなあ。
「~長良川でいいますと
河口から大体四十キロから、七十キロの範囲で産卵します。」
川那部先生は、長良川の産卵場所が上流へと変化している、と書かれているが、
それでもJR鉄橋、忠節橋?附近ではなかったかなあ。
流下仔魚が、七日分の弁当を食べ尽くすまでに四十キロを下ることが出来ますかねえ。

観察眼に劣る学者先生の本を読むことは苦痛であるから、止めましょう。
もっとも、故松沢さんと出会っていなければ、「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵行動も、遡上あゆみちゃんの生活誌を考えることはなく、和田さんら、学者先生と同じ狢になっていたが。
川那部先生は、長良川を見ただけ、と書かれているが、観察眼に優れた川漁師の話を聞かれて、和田さんとは異なる産卵場所を適切に理解なさっている。
トラックで運ばれてきたアユの子供を遡上アユの産卵と理解した和田さんが、もし、適切に溯上あゆみちゃんの産卵場を、流下仔魚の下りの行動を理解していたとしても、河口堰の建設が行われなかった、といえなくても、長良川の遡上アユが絶滅危惧種と位置づけられることは、少しは軽減されたなのでは。
かわいそうな溯上あゆみちゃん。

継続した観察が必要、ということは、相模川の弁天分流での沖取り海産の直放流の子供である稚鮎の変動からも観察できる。
12月10日頃、ほとんどの稚鮎が姿を消した。日々、カワセミの撮影に来ていた人も。
しかし、
12月20日、叉、護岸沿いのチャラに、二,三センチ位の大きさの稚鮎が、12月1日頃とよりは、少ないとしても、相当量が見える。

カワセミ撮影者も姿を消したから、「トラックで運ばれてきた」アユの子供が姿を消したと見てよかろう。
12月20日の稚鮎は、新たに孵化した者?
産卵場所は?親はどこにいる?
この稚鮎がいつ姿を消すのかなあ。寒いからあんまり見に行く元気はないが、たまには見に行きましょう。

               
「長良川のアユ」を読んで:1

駒田格知「長良川のアユ-40年間の現地調査からー」(2016年発行 岐阜新聞社)


一応、期待したが、またも外れ
1 昭和の終わり頃の長良川の溯上あゆみちゃんの生活誌が記述されていると期待したが、その記述は少しだけ。

2 
遡上アユの主たる産卵場は、JR鉄橋付近よりも下流ではなく、「岐阜市長良橋から瑞穂市穂積大橋の間にあると思われる。」
「(河口から40~50キロ上流)」


そして、
穂積大橋を主たる流下仔魚採集地点とされているが、そこでは七日分の弁当を食べ尽くして餓死した流下仔魚が多数採集されているにもかかわらず、「トラックで運ばれてきたアユ」の子供ではあるとは気がつかれていない。
定量分析的手法で、いかにも、「科学的」調査であるかの体裁をとっていても、
JR鉄橋あたりから下流を溯上あゆみちゃんが産卵場としていることに、なんで気がつかないのかなあ
「長良川の場合、産卵・孵化場はかなり上流で」と、産卵場を想定されているが、なんで、それが妥当か、適切か、その判断、観察となった根拠には、嫌みとしての興味はあるが。

川那部先生は、時折、長良川に行かれただけとはいえ、長良川の川漁師のお話を聞かれて、
JR鉄橋付近から下流を遡上アユの産卵場と考えられている
和田さん同様、駒田さんも、溯上あゆみちゃんの生活誌を観察する能力に乏しいと考えている。
ということで、外れの観察に付き合うのは、愉しくはないが、故松沢さんの溯上あゆみちゃんの生活誌を少しは聞いたものとしては、学者先生の観察に異議を唱える義務はありますなあ。

とはいえ、昭和の終わり頃の記述がちょっぴりとあるから、 それを紹介しましょう。

(4)長良川を遡上するアユ
 
1980~1990年代には、毎年5月上旬以後になると、長良川墨俣から穂積の区間の岸側を、アユが群れて遡上する、いわゆる“帯”が観察された。この帯は幅1.0から1.5mで、その長さは500mを越える場合もあった。アユが隊列をなして遡上していくのである。アリの行列もよく知られているが、アリの場合は一列であるのに対して、アユの場合は帯の幅一面にアユ、アユである。この帯は岸辺から約1m、水深30センチの、河床が小石のところに見られる。少し失礼とは思ったが、この帯(隊列)の中にタモ網を入れてみた。アユは一瞬、サッと分散するが、すぐに元の隊列に戻った。整然としたものであった。」

「しかし、
1996年ごろからは約20年近く、このような帯は見られなくなった。ほぼ忘れかけていたところ、2014年5月に、アユの帯(隊列)が観察された。隊を構成するアユの数が少なく、まばらで、しかも昔のように長くはなかった。」

下流域の墨俣付近で、5月上旬から遡上アユが観察されるのかなあ。それは
3番上りではないのかなあ。
美並や郡上八幡には、すでに1番上りと、2番上りの一部がすでに定住生活をしているのではないかなあ。美濃でも、途中下車した一番上り、二番上りが定住生活をしているのではないかなあ
その証拠をすでに紹介しているが、誰の本か、忘却の彼方。
仕方がないから、最適な紹介とはいえないが、
亀井巌夫「釣の風土記」の引用で誤魔化します。

「一方、
天然鮎は五月中旬美並村の下田橋に姿を現わし、六月上旬には大和村に達したといわれる。」

一番上り、二番上り、三番上りの違い、遡上時期の違いに気がつかないだけ、というレベルではまだ、あゆみちゃんの生活誌の認識にさほど影響がないかも。
しかし、流下仔魚の調査に関しての音痴は、河口堰で生じる止水域が、七日分の弁当を食べ尽くしても、動物プランクトンが豊富な海に到着できず、餓死することになるし、叉、遡上鮎ではなく、「トラックで運ばれてきたアユ」の流下仔魚を調査していて何の意味があるのかなあ。

故松沢さんや、萬サ翁、恩田さんらは、溯上あゆみちゃんを3月上旬から、日々観察されていたのではないかなあ。いや、萬サ翁と恩田さんは、4月のいつ頃か、からでは。
丼大王行状記の2018年、丼大王は、3月12日の一番上りの遡上を観察した。それが例年よりも早いとはいえないとのこと。
丼大王の情けない小川の遡上開始の年ごとの整理をしないといけないなあ。ぐうたらジジーにはしんどいなあ。

一番上りが番茶も出花娘は当たり前、二番上りの女子高生は当たり前、番茶も出花娘も当たり前、三番上りは小中学生が当たり前、という成長の大きさの例外がどのように生じるのか、生じないのか、気になりますねえ。

              「長良川のアユ」を読んで:2
とりあえず、墨俣の遡上情景を「事実」と判断して「理解」をし、コメントを書いたが、このコメントが適切でない。

まず、遡上の情景を観察された墨俣の川相を見る。
墨俣の川相は、二枚の写真からイメージが出来る。
潮の干満の影響を受けて、満潮の時はトロに、干潮の時は中州的な砂州、貧相な瀬のところも出現する。海に近付けば、相模川や狩野川の河口のようなトロの汽水域になるかも。その墨俣で、なんで、「小石のところ」と,遡上場所の記述が必要かなあ。流速が相対的にゆるいところは、底が石があろうが遡上していくと思うが。稚鮎の遡上を妨げるのは段差ではないかなあ。
デレーケが、日本の川は滝である、と、表現した常願寺川に、帰省した時に竿を出していた若者がいた。その若者が、どのような話をしていたか、忘却の彼方。とはいえ、遡上アユを愉しんでいたのではないかなあ


という、些細なことはどうでよいが、「五月以降」に遡上アユが観察される、と書きながら、これと矛盾する記述が出現している。

遡上時期はいつ?
「(3)稚魚(アユ)の海洋生活と遡上開始」の節に
「秋季に長良川を降下し、伊勢湾で数カ月間を豊富な動物プランクトンを食べて成長し、
2~3月ごろには一部のアユの長良川への遡上が開始される。毎年2月上旬~下旬に開始されるが、そのきっかけは川の水温と伊勢湾の水温が同じになったころだといわれている。2月中旬に長良川河口堰の魚道を溯上していくアユを窓越しに見る限り、体長は7~8cmであり、かなり大型のように思われる。その後、しばらくの間は、1日に数尾から数十尾が観察されるのみである。しかし、4月に入ると、その数は急激に増加して、いわゆる春本番、アユの遡上最盛期を迎えるのである。」

丼大王さまあ、2月上旬に遡上が始まっている?
海水温と川の水温が同じ位になるときに遡上が始まっている?

前歴よりも低い水温を好む,選好するという説があったように思うが。溯上期の水温は、原則、
海の方が高いのではないかなあ。もちろん、東伊豆の情けない小川は、流程が短く、水量が少ないようであるから、気温が高ければ、2月上旬でも「海水温と川の水温が同じになる」現象が発生するかもとは思うが。いや、2月上旬では無理か。2月下旬であれば、その現象が発生する年はあるかも

櫛歯状の歯に生え替わっていることが、遡上のための稚鮎の成長段階の前提であり、そして、雪代による川の水温が生存限界附近ほど低くなければ遡上を開始するとは思うが。
まあ、和田さんも、駒田さんも、観察眼の優れた川漁師に出会っていない、ということは事実ではないかと思っているが。

2月中旬に、河口堰の魚道の窓から観察された稚鮎は、いかなる氏素性ですかねえ。
墨俣が汽水域であるようで。河口堰が墨俣に近いことが影響しているのかなあ。

「4月の早い時期に、伊勢湾を離れて長良川を遡上する体長の大きいアユは、
5月には郡上八幡市にまで遡上し、夏季に向かってナワバリを形成し、急激に成長する。}

この郡上八幡への到達時期は適切かも知れないが、「トラックで運ばれてきたアユ」と、遡上アユの識別の必要性すら認識されていない駒田さんでは信頼性に欠けるなあ。
とはいえ、亀井さんの記述とも適合しているから、とりあえずは不問に付しますか。
とはいえ、なんで、ここでは、「4月の早い時期」に遡上が始まったとの記述になっているのかなあ。益々、駒田さんの観察の信頼度が低下しますなあ。

稚鮎は、観察眼に優れた川漁師に観察可能。しかし、流下仔魚については、プランクトンネットで採捕しないと観察は出来ない。
神奈川県内水面試験場が,1994年、5年、6年に行った相模川での流下仔魚量調査、産着卵調査では、遡上アユの産卵場を適切に選択していたため、
10月~12月の間に生じた二嶺ピークを観察できたが、駒田さんは、遡上アユの産卵場であるJR鉄橋付近よりも下流ではなく、その上流が主たる産卵場と設定したため、「トラックで運ばれてきたアユ」を親とする流下仔魚の、餓死した流下仔魚の調査をしているから、無視したいところではあるが、何か、得るところがあるかも、と、嫌々見ることにしましょう。

なお、「トラックで運ばれてきたアユ」=沖取り海産の直放流と推測しているアユの子供は、
12月24日、叉弁天分流の二つの生活圏に分かれて見えた。新規参入か、それとも、前回見えた時の生き残りが再度姿を見せたのか。
もし生き残りであるとすれば、どこにいたのか。新規参入とすれば、どこが産卵場かなあ。
チャラが終わり、トロになる浅場に
50センチ位の鯉が10匹近く。それ以前に見えた鯉は、1匹であったから、増えている。
2,3センチの稚鮎が弱って、あるいは死んで流れてきたものが鯉の餌かなあ。

2019年1月1日には、二つの生活圏は変化してないが、稚鮎の数は減ったのではないかなあ。合計しても100匹位の量ではないかなあ。
鯉は消えた
1月8日、年末寒波で寒いため、弁天の稚鮎を見に行かなかったが、多分凍死しているのでは、と出かけた。凍死していた。トロに避難しているかも、ということは判らないが。

20世紀、本流が弁天護岸沿いに流れ、トロになり、右岸六倉のヘラ釣り場の下流側に接して流れていたとき、
ヘラ釣り場上流側の伏流水の池に表層でつながっていたため、春になっても「トラックで運ばれてきたアユ」の子供は生きていた。
そして、春になると、ヘラ釣り場に出現し、ヘラ釣り師から、ジャミとして煙たがられていた。
その稚鮎を歓迎していたのが、ヤマメキラーさん。山女魚の餌として活用していた。
もちろん、ヤマメキラーさんの本職は、加賀鉤等でのフライやテンカラ釣りではあるが。いや、毛鉤は自作といっていたかなあ。とはいえ、餌釣りの方が効果が大きい時がある、と。

            
「長良川のアユ」を読んで:その3

              「河口堰」における現象の「検証」と、駒田さんの違い


村上哲生先生らの共著「河口堰」(講談社 2000年発行)
に,気になる記述があった。
いや、覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない の3兄弟が素晴らしい速度で成長をしているから、そのことが原因で,おつむに残っていない原因ではあるが。
その忘れてしまっていたことは、
河口堰の川底が、貧酸素になっているということである。
単に、河口堰が出来て、その上流が止水状になるから、JR鉄橋よりも下流で産卵した流下仔魚が、餓死する唯一の原因ではないのではない、といういことかも。

流下仔魚は、どの層を下って行くのかなあ。
シロメは、低層を下って来るのか、中層を下って来るのかなあ。
「山釣り」の湯川豊さんは、河口堰が出来てからの長良川のカワマスの変化を観察されているかも、とは思うが、「本」に記載されているのがあるのかなあ。雑誌での記載であれば、調べようがないしなあ。

    
「河口堰」の「5・1 河川水質監視に関する法律」から
オラの関心は、駒田さんが、
JR鉄橋下流を産卵場と考えなかったこと。その理由である。
とはいえ、「長良川のアユ」には、主たる産卵場が、何で遡上アユの産卵場であると判断して、措定したのか、の記載がないから、意味のない作業ではあるが。瑞穂大橋を流下仔魚の観察点として、なんで適切であるのか、わからんが。
それでも村上先生らの調査とは違い、現象が例外であるか、間違った観察であるか、を、多面的に検証されている調査とは真逆であることだけは、堰が出来る前の遡上アユの下り、産卵に係る記述を期待して,二千円も支出した者としては、憂さ晴らしをしないと、故松沢さんに申し訳がないからなあ。
とはいえ、駒田さんのような、「ヘボ」の観察者に対応できても、
村上先生らの観察はレベルが高すぎて、適切な引用が出来ませんから、あしからず

1 川のポタモプランクトン
河口に近い伊勢大橋で、植物プランクトンが見つかった

長良川の下流域でプランクトンが見つかったといっても、これをただちに河川棲プランクトンであると断定することはできない。」

「河川棲プランクトンではない可能性を並べ立て、さらにそれを新たな調査や先人の経験に基づき否定する作業が必要にになる。
次のような疑いを晴らすことが必要であると考えた
(1)見つかった種類は、浮遊生活をする種類ではなく、付着生活をしていた藻類が剥がれて流れてきたものではないか
(2)川の上流から増殖しながら流れてきたのではなく、海から潮に乗って遡上してきた のではないか。
(3)川の上流から流れてきたとしても、どこかの湖や貯水池で増殖したものが、流れ込んだのではないか
(4)川の中で増えたのではなく、
水の動きの少ない両岸のヨシ帯で発生し、それが川の真ん中に流れ出したのではないか」

上記の疑いをプランクトンの氏素性等の検査?等で、村上先生らはその仮定をつぶしていく作業をされた。

「このように検討の結果、
長良川で見つけたプランクトンは、やはり川の中で流れながら増えていくポタモプランクトンであるとの確信を強めていった。」

これまで川でポタモプランクトンが見つからなかったのは、
(表現は、箇条書き風に変更しています。)
① 
川のプランクトンの大きさが、湖や溜め池のプランクトンよりも小さい。そのため、プランクトンネットの網目の細かいものが必要であった。

② ポタモプランクトンが長良川下流域で発生する条件に、
地形と気象条件が作用していた
「長良川の平均傾斜は,1キロメートルあたり10メートルを超える。」
しかし、「
岐阜市を通り抜けた長良川は、河口から40キロメートル上流付近から傾斜は急に緩くなり、河口との高度差は数メートルとなる。~」 
③「
滞留日数に関係する要因としては、流量も重要である。平水時毎秒80立方メートルの流量のとき、長良川の下流では約30キロメートルの距離を河川水は1.9日かけて流れるが、渇水時毎秒30立方メートルの流量では4.6日もかかる。

 ポタモプランクトンを見つけることができたのは、梅雨と台風の季節の間の夏の渇水期であった。この時期、傾斜のゆるい長良川は他の季節以上に、ゆっくりと流れる。一方。好天と高水温は、藻類の増殖を速める。岐阜などの
都市を通過した河川水には、使い切れないほどのリンや窒素が含まれている。このような条件の下でポタモプランクトンは発生したのであった。」

④これらの
プランクトン発生が他の川でも観測されているか
勾配がゆるく流路の長い川、雄物川、最上川、信濃川の下流部で夏の渇水期にプランクトンが増殖していることを確かめられている。
 
⑤「止水域、つまり、水の流れが止まった水域ができるからプランクトンが発生するわけではない。
問題は、流速そのものではない。河川水がどれだけの時間、川にとどまっているいるかによって河川水中でプランクトンが増殖できる時間が決まり、プランクトンの発生量が支配されるのである。~」

他の条件が同じであれば、滞留時間が長いほど、プランクトン発生による水質障害の危険性は大きくなる。」

ということで、村上先生らの調査の手法を少しでも駒田さんが意識されていれば、「遡上アユ」が、餓死する所に産卵場を選択することはないのでは。そのことに気がつかれておれば、遡上アユの産卵場の想定が適切であるか、どうかを考えることができたのではないかなあ。
いや、遡上アユの産卵場の想定が適切であるとしても、
流下仔魚の死亡率が高いことが、「トラックで運ばれて来アユ」の子供である、と、なんで考えられなかったのかなあ。
 なお、「河口堰」では、すでに河口堰が存在している川での川底の土質、酸素状況の調査もされている。その結果は、ヘドロの堆積と表層と底水との攪乱が生じないことによる貧酸素状態が川底に発生していること。
これに関わる調査は省略します。

なお、村上先生らの予見と異なっていた現象は、
動物プランクトンが繁殖し、植物プランクトンを食していたこと。そのため、植物プランクトンの繁殖量が無限に?増殖しなかったこと。
また、建設省の河口堰上流の水質検査が、ヘドロの発生も、シジミが生存できなくなる現象も、腐富水水でなく水質基準に適合する良質な検査結果となる検査手法で行われていることついて、書かれているが省略(おつむがついていけないため)。
なお、
村上先生と谷田一三先生の「ダム湖・ダム河川の生態系と管理  日本における特性・動態・評価」は、大井川における長島ダムの影響を考える上で,不可欠の本ではあれど、目を通すことすら能わず。  

オラの関心は、河口堰が出来て、流下仔魚がなんで七日分の弁当を食べ終える前に、海の動物プランクトンを食べることができず、餓死するのか、ということ。
その前に、駒田さんの遡上アユの産卵場の想定が適切ではない、ということであるが、その回答を一義的に得ようとするずぼら根性は、「チコちゃん」に叱られますなあ。

2  川那部浩哉「偏見の生態学」(農山漁村文化協会  昭和62年発行)
困ったときの川那部先生頼り。
川那部先生は、
「『長良川は病んでますな』」(「川吠え」一九七五年三月号)に、

「岐阜市域のやや下流においては、河床の低下とそれによる砂防・水制の破壊が著しい。下流漁協員の船に同乗したが、余所者の私の眼にも明々白々である。
アユの産卵場所は従来は東海道線鉄橋のはるか下流であったが、『年々瀬一つずつ上流に移り』、現在は忠節橋下流から菅生にかけてであると聞く。一方やや上流長良橋付近の底質は、現在一抱えの石殆どなく、したがってアユの生息場としては一等地ではない。話を聞いて一九五八年の野帳記録を帰洛後見たところ、この付近アユの生息地として良好とあった。これらの変化は何のせいか?原因にはいろいろのものがあるが、それをこうまで大きく続かせた元凶の砂利採取といわゆる河川『改修』にあること、これはまず確実である。

 『改修』とは立派な言葉だ。しかしその
『改修』とは、水を可及的に早く海へ流すことのみを目的としている。曲流し蛇行しながら瀬と淵を作ってきた川を、直線化しだらだらと流れる同傾斜の続く川に、いや溝にせしめようとのこの最近の工事方式。水の流れをなだめるための水制なんぞという工法は『古い』として捨てられ、水は流れるのではなく流されるかたちとなったのだ。長良川はこの点でも隅田川、多摩川、淀川よりはまだましに違いない。しかしこうした『改修』工事は方々で進行中。また二重に堤防があり、中間が洪水時の遊水池となっていた場所は、内側堤のかさ上げを理由にすでに宅地化されはじめている。洪水時の河積増大を第一の名目にされている『長良川河口堰』の『目標』とは全く逆に、河積はわざわざ縮小されて行く。しかもその下流に、前回の大洪水時の最大の越流点のある場所においてさえもなのだ。」

なお、川那部先生は
「『
昔は支流のアユがまず降河し、それが本流のアユとともにしばらく生活、そのあとともに降河した。最近は本流のアユが先に降河し、その後支流のアユが本流に滞在することなく直接に降河する』と。吉田川より本流の、増水時の濁り甚だしく、また増水流量に比して淵の容量の著しく小さくなったこと、以上二つからくる現象を的確に表現するものである。砂の堆積はカマツカなどの数の増加においても明白。これらすべては、開発等による土砂の流入と、河川『改修』工事が原因なのである。このまま事態が進行すれば、アユを仮に放流しても、それの棲めぬあるいは成長せぬ川となりゆくこと必然である。」

さて、困った。
川那部先生が、オラの妄想を正当化してくれる文を書いているとは期待はすれど、実現性に乏しいとは、感じてはいたが。
とはいえ、ヘボなりに妄想を支離滅裂でも整理をしておかないとなあ。

1 支流のアユが先に下って来る、とは、大井川の長島ダムがなく、塩郷堰堤がなく、
井川ダム下流の支流が遡上アユを歓迎していた頃、村社の家山八幡宮の祭りの頃:10月15日頃、これまでとは違ういかいアユが、久野脇等で釣れた、と。
この現象も、産卵場への「下り」ではなく、遡上時に途中下車をしたアユとの歩調を揃えるための行動ではないのかなあ。

2 
吉田川は、なんでか、遡上せず、湖産を放流してその恩恵を享受した話が、萬サ翁か、恩田さんが話されていたと思うが

3 
砂れきの堆積による食糧調達場所の減少とはいえ、産卵場も一瀬ずつ上流に移るのかなあ
「トラックで運ばれてきたアユ」は、「下り」の行動をしないため、
2018年に狩野川大橋界隈に砂礫層ができると、神島まで移動せず、狩野川大橋界隈で産卵している放流者が多いのでは、と想像しているが。神島での「きたいない鮎・叩いたり、叩く直前のアユ」が丼大王でも数匹であった現象は、その表れでは、と想像しているが。とはいえ、1年だけの現象であるのかどうか、今後の推移を見るしかないが。

狩野川の最大の産卵場と話されていた
千歳橋界隈は、釣りをするのに愉しくなる川相ではなかった
今は、11月にそこに入る人もいるようであるが。
したがって、瀬、石が勝れていなくても産卵場の適地ではないかなあ。
海からの距離と砂礫層等の条件の場所が産卵場として選択されるのではないかなあ。

4 忠節橋付近でも、「河口堰」によると、渇水時でも、約30キロを4.6日で流れるとのことであるから、10キロほど上流で産卵しても、弁当を食い尽くす前までに海に到達できるかも、とは思うが
ただ、流下仔魚が、流れに乗って何の支障もなく、流速と同じ時間で海に到達できるのか、わからないが。
流下仔魚は、寝ることがあるのかなあ。淀みに入ったとき、再び流れに戻るために泳ぐのかなあ。駒田さんは、遊泳力と、瞬発力を書かれているが。

5 
なんで、オイカワも減ったのかなあ
「かくのごとき河川のかたちの変化によって、生物は失われて行く。アユやアジメドジョウなど、本来流れの早い瀬に棲み石の上の藻を食う連中は、早瀬の減少とともにその生息場所を奪われて行く。
だらだらの溝川をむしろ好むのはオイカワばかりだが、この魚も工場排水、特に製紙工場排水には弱い。条件が重なれば残る魚は皆無に近い。」

昭和46年制定の公害3法以来、水質は改善されているはずであるが、20世紀の終わりに近付くと、
寒バエ釣りも寒バヤ釣りも相模川から消えた
川相は、「溝川」形態にどんどん進んでいるのになあ。
鵜?  まあ、鵜の増加が激しいから、ハヤ、ハエ減少の原因者の主役かも知れないが。2018年から19年の「トラックで運ばれてきたアユ」の子供が生きている弁天分流にも鵜が2羽、1羽やって来たのは、1月下旬頃から。二,三センチの稚鮎を食べなければならないとは、どんな事情があるのかなあ。鷺やカワセミ並の鵜の食糧事情はなんでかなあ。

弁天分流の稚鮎は、2月5日でも、数は少なくなっているものの、全滅はしていない。中州側は、水深10センチ位であるが、跳ねたり、ひらを打たないと、稚鮎が見えない。そのため、水温低下でじっと寒さをしのいでいる稚鮎がいるかも。跳ねがあるのは、気温15度位で、水温が少し上がったときのよう。
東伊豆の情けない小川で、丼大王が何回、番茶も出花娘や乙女が、品切れ、と評価したことでしょう。
溯上あゆみちゃんの忍法「雲隠れの術」が、丼大王の目を欺くことが出来たが、丼大王の騙しのテクニックが優れているため、「雲隠れの術」が破られていますが。釣り人がオラであれば、天寿を全うできたでしょうに。
弁天の稚鮎は、鵜の餌食にならないものもいるのかなあ。いや、なんで鵜が稚鮎を頭を水に突っ込んで食べる動作をしているのかなあ。餌を獲っているのではないかも。ヘラブナは餌になっているが。

最近、河口堰の魚道を遡上している調査資料が、何かに書かれていたように思うが、夢幻かなあ。
もし、魚道を溯上している鮎が観察されたとすれば、伊勢湾の仔魚・稚鮎はどこからやってくるのかなあ。

川那部先生は、
人工ふ化アユについても、現状では河川生活に適さないもののはなはだしく多いことは明白のようで、池で飼育したアユを川に入って遜色なきよう『教育し直す』試みは、まだ実際には緒についてもいない。AではなくBなる条件下で、BではなくAに適合する教育を行うことが如何に困難なものかは、人間について考えても明らかであるが、この場合のアユの教育の『し直し』とは、まさにこのようなものである。」

駒田さんが、流下仔魚の死亡率が高いこともある観察の原因を,「トラックで運ばれてきたアユ」の子供の「餓死」とオラは判断したが、その判断が適切とはいえないかも。
それは、鵜飼い用に徳島から運ばれて来たアユの場所と、駒田さんが流下仔魚の観察場とされた場所との距離が、「七日分」の弁当を食べ尽くすには流下距離が短いかも。
さらに上流から流れてきたとしても、
餓死以外の要因も考える必要があるかも

駒田さんが、JR鉄橋より下流で、河口堰が出来る前に産着卵の調査をされていたら、少しは何かわかるかも、と妄想しておきましょう。
川那部先生らは、同質の他者:同じ科に属する他者だけでなく、異質他者:異なる科との関係も絶えず意識されて調査・観察されている。「教育し直す」は、その一面ではないかなあ。



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