故松沢さんの思い出:補記10

             目         次
1  相模湾の動物プランクトンの繁殖量
         2016年の大量遡上と海での食糧事情
         大量遡上の翌年は遡上量激減の現象にならず
         動物プランクトンの大量繁殖は、カワハギの当歳魚、2年魚の生存率が高い?

 魚の遊泳力
           
岩井保「魚の国の驚異」ほか
    
    疲れを知らぬ赤い肉   メカジキの遊泳速度   遊泳速度の計測方法
          
持続時間   泳ぎ方と、赤身塩r見の魚の遊泳力のちがい
          「魚学概論」から:赤筋と白筋の説明
          
全力の遊泳力の持続時間   白筋は短時間の激しい運動に使われる
                     
高速遊泳者には赤筋が多い
                     
金魚とニジマスの比較 
           時速と持続時間の事例    「旬の魚はなぜうまい」から
                              急速に低下する高速の遊泳力   メカジキの遊泳速度
                            サメの泳ぎ方


3  浸透圧調節機能
           浸透圧調整ができないとどうなるのか
                   海水魚は海水より血液の浸透圧が低い  
                         生理的脱水になる危険→水分補給が必要→水分補給が必要
                         尿は少量  ナトリウム等は排出
                   淡水魚は体液の方が水よりも浸透圧が高い
                         水膨れになる危険→水分を呑まないように    排尿ポンプのフル運転
                         大量の尿の排出   ナトリウム等の再吸収

           スズキの稚魚での実験
           ボラの若魚のいた日本橋川
           ボラとスズキの生息域の変化の常識と、それと異なる現象

                   ボラの生息域の「場所替え」
                   冬でも淡水にいる鱸・「奉書焼き」
                   琵琶湖まで遡上していた鱸    相模川、利根川の古河まで遡上していた鱸 
                   垢石翁の利根川は古河の鱸釣り   
                          豪快な河の鱸釣り    羽織袴で鱸を釣る朝倉さん

           地球温暖化の影響と紅ザケ
                   北極の水温上昇は、なぜプランクトン生産力減になりのかなあ
           川から海へ産卵回遊するウナギ
                   海での生活準備としての体の変化
                   副腎皮質ホルモンの関与

           イトヨのプロラクチン分泌量の増加
                   産卵のための遡上対応にホルモンの活性化
           「シロウオ」か「シラウオ」か 
                   ともに春、産卵のために溯河する    ハゼ科のシロウオ   
                   室見川の踊り食い    死んで筑紫=つ く し   の名を書くシロウオ   「つ」の字はすべて雄
                   シラウオは、シラウオ科   本格的な海中生活はしない

           銀毛現象:サクラマス
                   「サクラマス」は雄   九州の対馬暖流側はアマゴではなく、ヤマメ

4  遡上してきたアユには交雑種も湖産由来のアユもいない
     =山形県の鼠ヶ関川でのアイソザイム分析
           鼠ヶ関川での遡上時期  産卵時期   湖産と海産アユの性成熟状況
           湾内のアユの分布状況とその親の由来
           
数少ない湖産由来の稚鮎は、遡上期までに何らかの理由で斃死する運命
           上方側線横列鱗数による由来識別    
           湾内での塩分濃度の違い    塩分濃度の安定している外洋   塩分濃度分布の変化が大きい汽水域
           「トラックで運ばれてきた」下りの行動をしないアユの子供
           尿素が浸透圧調整に役立つことも    サメ肉の食材としての効用
           汽水域の「シオクイアユ」は、継代人工由来?

                          
5   サケ・マス文化圏と、コイ・アユ文化圏
       
縄文時代の食糧調達法
            
半栽培
            サケ・マス文化圏の検証    =河川沿いのサケの加工場、解体場の遺跡

       
海アユの遺伝子汚染はあった?
             
秋道先生と川那部先生の違い
             1907年の南郷堰建設まで海アユは琵琶湖に遡上していた
             しかし、海アユの形質は淀川と他の川で異ならず
             海アユは、氷期には南下
             湖産は琵琶湖で生活→氷期遺存の習性保持 

6   「動物の資源量からみた漁撈」
                東日本のサケ・マスに対する西日本のコイ・アユ
                    越冬用の保存食の重要性
             
アユの生産量
                    宇川の事例   
1920年代の鮎の量    産卵場での捕獲法
                    
北海での年間全生産速度の数百倍以上の生産量
             漁法
                    絹糸が網漁の出発点?
                    網を用いなくても捕獲可能な生存量
                    
産卵場は一平方メートルあたり三〇尾、二キロ近い
             相模原市教育委員会「
川漁調査報告書」から
                    多様な網漁     
地引き網は「ゴロビキ」
                    網の素材は、麻、絹、木綿からナイロン、テグスへ
                    ヨセアミ、そしてヨセアミの地引き網への転用も
                    対岸の六倉の地引き網の記述があるのに、望地の記述がないのはなぜ?
                    江戸期の大島村の漁法
            保存食の製法
                    「煮乾し」が大量保存食生産に適す?


7    鮭様
               岩井先生の「旬の魚はなぜうまい」から
                         捨てるところのないサケ   塩サケはうまい
                         
「秋サケ」あるいは「秋味」の賞賛
                         あま塩や脂やけのしない新巻鮭ができる現在
                         ブナ毛の進行、ホッチャレで無価値に
                         「北越雪譜」のサケ礼讃
                         村上の「グルメ」な新巻鮭の作り方
               黒田明憲「江の川物語  川漁師聞書」のサケ
                         濁川の産卵風景
                         川漁師の語るサケの思い出
                         ヤスの工夫
                         ホッチャレを持ち帰る女の人
                         顔を洗う空間作りに苦労したサケの量
                         サクラマス、山女魚、ゴギの漁法は?
              川那部先生の  (四)サケ―その遡上量
                                北海道の河川の漁獲量の推定は?
                         (五)サケ―その漁獲
                                現在の値段の格付けと保存食としての価値の違い
                         「資源量の変動と漁獲」から
                                
常に淡水にいる魚の生息量 
                                「ギギ」もいた貝塚
                                
生活史のどの時期のいかなる条件が収容能力を決めるか
                                成魚の食物量ではなく、仔稚魚の生息場所、食物量
                                水草帯の減少はフナの仔稚魚の生息量減少に
                        (三)季節変化をめぐって
                                捕獲容易さと、保存方法と、地域特性の生成の関連性


8     (四)年変動をめぐって
             海での稚鮎の生存量変動要因は、判らない
               琵琶湖の稚鮎生産量の変動原因は、冬季には密度依存効果とイサザとの競争
               
イサザとの食べものの競合
                 
高橋さち子「イサザ」
                         イサザの誕生
                         日周的上下移動をする   産卵のため湖岸へ
                         沖合型のハゼ・イサザ
                             両側回遊型のハゼのなかに割り込むには
                                  イサザとヨシノボリとの産卵競合の回避方法
                                  4月末あるいは5月始めに集中して産卵
                                  動物プランクトンの増殖は4月以降から
              
琵琶湖に、またしても外来物質が侵入=稚鮎の激減 
                    北米産植物プランクトンが大量繁殖
                    在来の動物プランクトンには大きすぎて植物プランクトンを食べられない 
              川那部  サケの個体数ないし現存量の年変動の程度
                    現存量の水準と漁獲の難易度の関係
                    「(五)
資源の過剰開発をめぐって」から
                         産卵期の鮎を取り続けないと資源枯渇は容易でない
                         サケでは?
                         漁獲速度と生産速度の対比
                         生産速度から自然死亡速度を引いた余剰生産速度と対比
                         セタシジミの場合は?
                   
縄文草創期からの温度低下と上昇 
                         最寒期の付着藻類の生産速度
                         浮き魚の昆虫依存性と森林樹種の変更  

9 格好良くは、星の彼方にある?
              「生理生態」の「溯上アユの生態Ⅱ とくに生息密度と生活様式について」は、いずこに?
              「アニマ No.43  特集アユ」から

                   石田さんの「人為」による現象を「自然現象」と区別できない「学者先生」の事例
                   「トラックで運ばれてきた」下りをしないで産卵する鮎
                   長良川河口堰は,流下仔魚の弁当がなくなる前に海に到達できないことで、長良川溯上アユの絶滅危惧種宣言に
                   「多摩川に100万匹の鮎が帰ってきた」のルーツは、相模湾の稚鮎か、千葉県の稚鮎では
                   

                   由良川の古の遡上量   サバみたいなやつ・大体400グラム
                   網の導入時期  

                   湖産について
                        早期溯雅群と湖中生活群の脊椎骨の数、背びれ、尻びれの軟条数の違いと原則との違い
                        水温の高いときに発生するC,水温が低いときに発生するAの数的形質の違いの原則との齟齬現象

                        「琵琶湖のアユとその放流」
                            Aの低温適応性、Cの高温適応性と氷期説の関連は?
                            なぜ、Cだけにならなかった?

                  原田先生の悪夢
                      養殖アユが再生産に寄与するようになると…
                      海アユでは危惧であったかも
                      2017年春のびわ湖の稚鮎激減
                      
外来植物プランクトンの大量繁殖



1  相模湾の動物プランクトンの繁殖力

2016年、相模川の遡上量は、相模大堰副魚道の遡上量調査で1500万。
2015年は、1000万。
2008年、2004年の大量遡上の翌年は、遡上量が激減していたのに、何で2016年は遡上量の激減とならなかったのかなあ。
2015年のダム放流量は多かった。そのため、栄養塩が多く相模湾に流れ込み、植物プランクトンの繁殖量が多く、それを食する動物プランクトンの繁殖量も多かったのではないかと、想像している。

もちろん、2016年の相模湾での稚鮎の生存率は、2015年よりは低いことは当然であるが。「全滅するには忍びない」ということで形成される縄張り制や、順位制が稚鮎にとっては、存在していないから、「全滅」に近い生存率水準であったとしてもおかしくないが。
にもかかわらず、流下仔魚量の生存率が下がってはいるとはいえ、1500万の稚鮎の胃袋を満たすことが出来たのは、何でかなあ。

そして、生き残ることが出来た稚鮎は、相模湾全体に均等に分布していたのでもないかも。
酒匂川の遡上量は、相模川ほどではないのではないかと思うから、動物プランクトンの繁殖量にばらつきがあったのではないかなあ。
丼大王が、小川の鮎と戯れていた小川に近い海域に面する河津川の遡上量が少なかったとのことであるから、何らかの原因で、動物プランクトンが一つの海域でも不均等に繁殖していたのではないかなあ。

エサ捕り名人、食い逃げ名人のカワハギの面目を汚す現象
さて、動物プランクトンの繁殖量が多かったことは、カワハギの稚魚も恩恵を受けたのではないかなあ。
磯釣りしかしなかったはずのオさんが、海水温が高い、海藻が繁殖できない、磯にメジナ等が寄ってこない、ということで、舟釣りに「擬似」転向。
もっとも、この推測は、オラの独断と偏見に起因しているが。何しろ、海釣りに転向する方々が多い中、舟釣りの方が豊漁とおっしゃり、友釣りから足を洗う方々が多い中、海釣りの道具まで買わされたんじゃあ、おまんまの食い上げ、ということで、舟釣りを無視しているオラの推測であるから、「学者先生」の鮎の生態観察同様、信頼性に欠けますが。

そのオさんが、カワハギがまだ深場に集結していない10月に50匹、40匹と釣っている。それどころか、初心者コースであるはずのさちゃんまでが30匹台、と。さちゃんが色気を振りまいてカワハギを誘惑したとしても、何かおかしい。
といことで、オさんにどんな大きさか、と聞いた。
刺身に出来る大きさは数匹、ほかはチビ、と。
ということは、当歳魚、2年魚等が主役。

カワハギがいつ産卵しているかも知らんオラが、ごちゃごちゃ言うことは、学者先生の鮎の生態を適切に、観察、理解していない現象と同じ穴の狢類である、とはいえ、2014年秋以降、2015年、2016年初夏?までの相模湾の動物プランクトンの繁殖量が多かった、ということの傍証になるのではないかなあ。
そうでないと、エサ捕り名人のカワハギが、ウン10匹もカワハギ釣りのど素人、あるいは釣り初心者に大量に釣り上げられるとはカワハギの面汚しでは。

2017年の遡上量は、激減するのではないかなあ。
2016年に相模湾に流入する流下仔魚量は、「大量遡上の年」であった2015年の1.5倍くらい。
2016年の津久井ダム放流量は、ほかの地域では洪水を生じているほど大雨であったが、例年並みではないかなあ。
植物プランクトンの繁殖量に動物プランクトンの繁殖量と相関関係があるとすれば、とても大量の流下仔魚、稚鮎の胃袋を満たすことは困難ではないかなあ。

もし、2017年の稚鮎生存率が著しく低下すれば、相模川、中津川には漁連義務放流量の120万くらいの鮎しかいないことになるが。
そして、そのうちの何%かは、大きくなる能力でさえ乏しいと思える県産種苗が占めることになるのでは。
2016年は、磯部の堰を遡上した稚鮎はいないと確信している。
しかし、沖捕り海産の直放流が、漁連の義務放流量を超えて相当量あり、放流地点である昭和橋、石切場より上流の弁天の瀬でそれなりの釣りが出来ていたが、来年はその沖捕り海産が獲れないのではないかなあ。

名人見習いが、2016年の狩野川に行ったのは解禁日頃の1日だけ。遡上量が釣りの対象となるほどの量に回復するには3,4年かかるのではないかなあ。
大井川は、これまで塩郷堰堤下流の新大井川漁協管轄内では放流がされていなかったが、2016年には継代人工や、海産畜養?が放流されている。駿河湾の稚鮎生存率の著しい低下が、1995年、6年の狩野川の遡上量ゼロ水準になったが、そのときでも大井川では遡上鮎が愉しませてくれた。しかし、2016年は、大井川でも遡上量が激減していることの反映かなあ。

越後荒川の遡上量は、2015年よりは2016年が多いようではあるが、少しは遡上鮎が釣りの対象となっていたようであるが、出かけたくなるほどの状況ではなかったよう。
もう、遡上鮎と戯れることすら出来ないのかなあ。

相模川の磯部の堰の魚道が、遡上可能であれば、今年は相模川で遡上鮎を楽しめたのになあ。
ただ、磯部の堰の魚道を遡上出来た、という判断をされている人が多いようであるが。
まちゃんは、数少ない遡上出来ない、と判断している人であるが。
何で、遡上が出来なかったのか。
これまでとは違い、流れが左岸寄りになり、魚道上部の水深が深くなり、流量が増え、流速が早くなり、稚鮎の游泳力を上回ることとなったため
多くの人の稚鮎の游泳力のイメージは「若鮎」の游泳力である。
稚鮎と若鮎の游泳力では雲泥の違いがある。「鯉の滝登り」が、空想の産物に負うところが多いように。

ということで、岩井先生の魚の游泳力、持続時間を見ましょう。

       魚の游泳力
岩井保「魚の国の驚異」(朝日新聞社  昭和51年発行)

岩井先生は、人為的に日照時間を変えて、恰も「短日化」が、アユの性成熟を誘発しているかの現象が存在することを認識されながらも、短日化がアユの性成熟とは相関関係がないのでは、と疑問を持たれていた。( 補記4 )
前さんは、その人工環境での性成熟現象に対して、累積日照時間が性成熟に関係しているのでは、と書かれている。
流石、川那部先生らが、「学者先生」とは異なり、適切な観察をされていると嬉しくなった。その時以来の岩井先生の登場である。
(原文にはない改行をしています。)

「疲れを知らぬ赤い肉」の章から
「新しい学年を迎え、活気がよみがえった通学路で、小学生の一段が、にぎやかにしゃべりながら歩いて行く。
『じゃ、水の中のスピード・チャンピオンを知っているかい』
『そりゃ、もちろんイルカさ』
『違うよ。メカジキだぞ。時速一三〇キロメートルも出せるんだ
『ほんと? まるでスポーツカーみたい』
『一番のろまはウナギなんだ。たったの時速四キロだってさ』」

岩井先生の文は、このようにへぼでも気楽に読めるように平易に記述されているので、有難い。
とはいえ、どの程度適切に理解できているかは別の事柄ではあるが。

遊泳速度の計測方法
「魚の遊泳速度については、昔からよく研究されてきたが、泳いでいる魚の速さを測るのは、実験室でも、洋上でも、容易なことではない。そのため記録は、研究者によってまちまちだった。最近は、魚の泳ぎを映画に撮り、フィルムを一コマずつ解析する方法で、泳ぐ様子や速度が、かなり詳しく読み取れるようになっている。

 とはいっても、魚はいつも一定の速さで泳いでいるわけではない。種類によって、またたとえ同じ種類であっても体の大きさや気分によって動きが変わるので、遊泳速度をはっきり決めるのはとても難しい。だから、魚の遊泳速度が安定しているように思わせる『時速』を使うのは、あまり感心しない。それに代わって近ごろは、『単位時間に体長の何倍の距離を泳ぐ』という表し方をすることが多い。この場合には、大きい個体ほど、値が小さく出る傾向はあるが、魚の遊泳能力を比較するのに都合がよい。」

持続時間
「金魚やニジマスを使った実験によると、最高速度は、いわゆる流線形の魚なら、毎秒一〇体長くらい。ところが持続時間はわずかに一秒足らずで、二.五秒後には毎秒約七体長に、一〇秒後には五体長、二〇秒後には四体長というように、速度はみるみる低下してしまう。そして毎秒三~四体長の速さでやっと落ち着き、安定する。

 この安定値は、すなわち持続遊泳速度に近いはずだ。これを体長二メートルのメカジキに当てはめて計算すると、巡航時速二八.八キロメートル、最高時速七二キロということになる。高速道路を突っ走る自動車なみの速度を連想した小学生は、失望するだろうが、このあたりがメカジキの実力なのかもしれない。小魚の群れに突進して食い尽くすときなどは、瞬間的に想像以上の速度に達することもあり得るが、ふだんは速度を速めたり、遅らせたりしながら、外洋を泳ぎつづけるといわれている。」

泳ぎ方と、赤身の魚、白身の魚の遊泳力の違い
「速く泳ぐ魚は、体が流線形で、強い尾びれをそなえている。直進するときは、背びれとしりびれを折りたたみ、体の後半を左右に振って進む。泳ぎの遅い魚も、やはり体をくねらせて進むものが多い。ベラの仲間は胸びれを、フグの仲間は背びれとしりびれを動かして泳ぐが、これらはむしろ例外で、ほとんどの魚は、体形が長いものも平たいものも、体の筋肉の働きで泳ぐ。われわれが煮たり、焼いたり、刺し身にしたりして食べる肉が、彼らに推進力を与えているのである。

 魚の皮をはぐと、体側に赤みを帯びた筋肉の束があり、それを取り除くと、白みを帯びた筋肉が現れる。赤い肉と白い肉の占める割合は種類によって違う。たたきの味とともに思い出すカツオの肉は、ことに赤みが強い。なべ料理に珍重されるアンコウの肉は白くて赤みを帯びたところは見当たらない。一般に、回遊性の魚の味には重厚な赤身のものが多く、底生性の魚には味の淡泊な白身のものが多い。」

泳ぐときに、「背びれを折りたたむ」とは何となく、理解できるが、「尻ビレを折りたたむ」ことは想像すらしていなかった。
継代人工の背びれは、頭側としっぽ側が同じ高さであるが、遡上鮎では頭側が高く、あるいは長く、しっぽ側が低い、あるいは短い。沖捕り海産の直放流と海産畜養も遡上鮎と同じ背びれの形状であるから、折りたたんで泳ぐ時の「背びれの操作」に適している形状ということかなあ。

鮎は、「白身の魚」と思っていた。多分この認識でそれほど誤りはないのかなあ、とは思っているが。
2016年11月の遡上鮎がいない、僅少の狩野川で、囮がザガニに食いつかれた。やっと「根掛かり」をはずせたが、囮の鰓蓋の下からしっぽ側にかけて肉が丸見えになっていた。その肉は赤身であった。
なんでじゃあ。白身の魚であると思っていたのに。

側線に沿って、幅1センチ足らず、長さ2,3センチが食われていた。
岩井先生は、「魚学概論」(恒星社厚生閣版  昭和46年発行)の「4 魚の遊泳運動と体温」の章に、
「筋節を構成する筋繊維は体表近くのわずかの部分では赤みを帯び、その下の大部分では白味が強い。これらの筋繊維はそれぞれそれぞれ赤筋(red musucle)、白筋(white musucle)とよばれる。」

と、記述されている。この意味すらわからんものが、ザガニに食われた「赤身」がなんでか、を説明することは、アユの生態の観察力ゼロの学者先生と同じ穴の狢になるが。
何となく、「赤身」の部分が白身の魚でも存在するということかも。それとも?
岩井先生は、続いて、赤身と白味の、いや赤筋と白筋の機能の違い等を、さらに、人間が食糧の加工に利用するときの違いについても記述されている。かまぼこには白身を使用する理由のように。

「魚の国の驚異」に戻りましょう。
「魚の体側筋は骨格筋に属し、横じまのある筋繊維が集合したものである。それぞれの筋繊維は、細胞質に当たる筋形質と、その中に含まれる多数の細い筋原線維とで出来ている。 筋線維には赤い赤筋と、白い白筋がある。これは、その中に含まれる筋形質と筋原線維との割合や、色素たんぱく(ミオグロビンなど)の量が違うからである。赤筋の筋線維は、白筋の筋線維よりずっと細く、筋形質が比較的多い。ミトコンドリア、脂肪、グリーコーゲンも赤筋の方に多い。さらに赤筋には、血液で運ばれてきた酸素を受け取り、筋肉中に取り込むミオグロビンが含まれている。もちろん血液の供給も豊かである

 運動のエネルギー源は赤筋と白筋とで、まるで違う。赤筋は血液から酸素を受け、主として脂肪を酸化するのに、白筋は酸素の要らないグリコーゲンの分解に依存している。この違いは、カツオの筋肉を取り出して酸素消費量を測るとよく分かる。赤筋は白筋の五倍近く酸素を使っているのである。

 赤筋は運動が緩慢だが、疲労が少ないので長続きする。反対に白筋の運動は敏速だが、すぐくたびれてしまう。だから赤筋は、主として持続的な遊泳運動に用いられ、白筋は短時間の激しい運動に使われる。」

そして、魚による赤筋、白筋の違いとその行動の違い等を記述されている。
ということで、ザガニに食われた結果出現した「赤身」の意味を考えねばならないが、げすの勘ぐりはやめておきましょう。
ただ、相模川漁連は、相模川で使われる囮、放流される養殖アユについて、養魚場に漁連推賞の幼魚しか使用させないようである。2016年、とある種苗センターのアユが養魚場に推賞されたが、それは白斑病?持ちであった。
それが死ぬと、赤く見える鰓が、暫くすると白く変色していた。血液が関係しているのかなあ。
ということで、ザガニに食われた部分が「赤」であった理由はわかりません。

全力の遊泳力の持続時間
(一部再掲です)
「運動のエネルギー源は赤筋と白筋とで、まるで違う。赤筋は血液から酸素を受け、主として脂肪を酸化するのに、白筋は酸素の要らないグリコーゲンの分解に依存している。この違いは、カツオの筋肉を取り出して酸素消費量を測るとよく分かる。赤筋は白筋の五倍近く酸素を使っているのである。

 赤筋は運動が緩慢だが、疲労が少ないので長続きする。反対に白筋は運動は敏速だが、すぐくたびれてしまう。だから赤筋は、主として持続的な遊泳運動に用いられ、白筋は短時間の激しい運動に使われる。」

カツオやクロマグロは、高速遊泳者で、赤筋が多く、
「口を半ば開けたまま泳ぎ、口からえらへ水を流しながら呼吸している。だから前進をやめると、たちまち窒息してしまう。こんな魚では、赤筋が多く、体の中に血管に富む赤い血合い肉がよく発達している。

 逆に、カワカマスなど、ふだんは水草の蔭にかくれ、えさになる動物が近づくのを待っていて、ぱっと飛びついて捕食する魚では、体側筋に白筋が多い。“赤身の魚”と“白身の魚”の違いは、赤筋と白筋のどちらが多いかによるようである。」
さらに、体の部分によって赤筋と白筋の配列状態が異なり、フナを事例にあげられている。
また、カツオは、赤身ではあるが、白筋が全くないわけではない、と。

ということは、ザガニに食われたところが赤くても、アユが「白身」の魚である、と考えてよいかも。そして、その部分が、暫く時間が経過して、「白く」なったとしても、不自然ではないのかも。
これからは、腹掛かりや、えら掛かりをして、「血」が出たときの時間の経過による変化を観察することにしましょう。

さて、稚鮎の遊泳力がどの位か、あるいは、どの位の流速でも遡上出来るか、という問題が主題ですよねえ。
故松沢さんに聞くことが出来れば、「鮎に聞いたことはないが」の枕詞の後に、あの瀬では、ヘチしか上れないよ、とか、あの段差と流速では、ヘチでも上るのが困難だよ、と教えてくれるでしょうが。

岩井先生の「魚学概論」に、「4.魚の遊泳運動と体温」に、体形と遊泳、鰭と遊泳、筋肉と遊泳、遊泳速度等が記述されている。
ザガニが発生させた「赤身」の現象でさえ、何でかなあ、と、四苦八苦して、適切な理解が出来ないへぼが、流速Xm/秒 なんて、お話しが理解できるとは思えないが。

「4.4  遊泳速度」から
ここに、遡上期の稚鮎の遊泳速度が記載されていれば、ありがたや、となるが。
それでも、流速に逆らって遡上するときの「遊泳力」と、水面に平行に泳ぐ時の「遊泳力」が同じと考えられるのか、という問題はあるかも。
しかし、運の悪いことには、「魚類の遊泳速度」の一覧には、鮎も稚鮎も対象となっていない。
その上、金魚といえども同じ大きさでも時速換算に少し差が出ている。

仕方がないから、12センチくらいの金魚を基準にして、最高遊泳速度を比較するしかない。金魚と同じくらいの大きさのコイは金魚と同じくらい、カワカマスも。
金魚の倍くらいの大きさのニジマスでも、金魚と同じくらいの時速換算になっている。
何でかなあ。金魚如きと同じとは。金魚が和金であるということだけの現象かなあ。和金であっても、ニジマスの遊泳力と同じくらいということは気になるが。

調査対象の金魚の体長は、12.5センチと13.0センチメートル。
ニジマスの体長は、20.0センチメートル。
幼魚のニジマスと青年の金魚であれば、ニジマスといえども、金魚並の遊泳力でも納得できたのになあ。
ともに、幼魚ではないから、成長段階の差はないことになるから、ニジマスが金魚よりも遊泳力が劣るとは、不思議ですねえ。

神保町の古本屋に、遡上鮎は、Am/秒の流速の瀬を遡上出来る、と記述された本があったが、買わなかった。
理由
1 学者先生の匂いがぷんぷんとしたから
実験環境での調査と思うが、そうであれば、その稚鮎の氏素性を書くべし。もし、稚鮎であるから、氏素性は関係ないというのであれば、その実験結果を書くべきと思うがそれらの記述はなし。

2 岩井先生は、瞬発力というか、最高遊泳力の持続時間を問題とされているが、その記述がない
魚道の構造についての記述で、稚鮎等の休み場所を設けること、と記述された本があったと思うが、最高速度での遊泳力には持続時間が遡上出来るかどうかに大きく作用していると思うが。

20世紀末の5月連休の大井川は笹間渡鉄橋でのこと。
横断方向のブロックが切れた左岸寄りの河原で、上流からの流れの下流側に稚鮎が溜まっていた。
餓鬼の頃に追っかけまわしたフナやもろこよりも容易にタモに入った。もちろん、餓鬼の頃に追い回したのは稚魚ではないが。

まとめに代えて
どの位の流速で、何秒間その流速に逆らって遡上出来るのか、見当がつかない。
20世紀の狩野川支流の大見川にはそのような遡上鮎の遊泳力の限界、流速の場所を見ることが出来る場所があったのではないかなあ
大見川は、湖産放流が主役で、故松沢さんが湖産を「線香花火」と表現されていたように、8月を過ぎると釣り人が激減していたのでは。9月にはさらに少なくなっていたのではないのかなあ。
それは、岩でできた絞り込まれた流れ、あるいは段差が大きくなる岩の配置があったからではないかなあ。現在は、遡上阻害カ所はなくなっているようで、発電所まで遡上出来るが。

とはいえ、そのことを知るよすがもないから、岩井保「旬の魚はなぜうまい」(岩波新書  2002年発行)で誤魔化すことにしましょう。
川那部先生の「魚々食紀」が、食べもののお話しなら、楽に読めると誤った予見で、おつむを酷使したにもかかわらず、そして、「食い物の話」であっても、判らん、という事態のあることも忘れて。

時速と持続時間の事例
岩井保「旬の魚はなぜうまい」(岩波新書 2002年発行)
「1 マグロのトロ ヒラメのエンガワ」の章から
「実験用のトンネル水槽中で水流の速さを変えて、魚の最高速度を測定すると、流線形の魚では毎秒約一〇体長になるが、その持続時間はわずか一秒余りで、一〇秒後には五体長/秒、二〇秒後四体長/秒というように、遊泳速度は急に低下し、三~四体長/秒の速度に低下すると安定する。この安定値は魚の持続遊泳速度に近いと考えてよい。

 この結果を体長2メートルのメカジキに当てはめて計算すると、持続遊泳速度は時速二一.六キロ、最高速度は七二キロということになる。だが、大西洋を泳ぐメカジキの体に超音波発信器をつけて追跡した研究によると、遊泳速度は時速一.五~五.五キロで、最高でも八.一キロであったというから、メカジキの巡航速度の記録は期待されるほど速くないようだ。もちろん、小魚の群れを襲う時には瞬間的に猛スピードで突進するが、ふだんは速度を上げたり下げたりしながら、泳ぎつづけているに違いない。」

さて、メカジキと同様の泳ぎ方をする、つまり、高速で泳ぐ時は、鰭を畳んで泳ぐことが同じような体形の魚では当たり前、と思っていたが、さにあらず。

「軟骨魚類に属するサメ・エイの仲間には、いろいろの体形があり、泳ぎの上手なものをいるし、不得手なものもいる。真骨魚類とサメ・エイの仲間とでは、体形はもちろん、構造にも相違点が多い。大きなちがいの一つに鰭の構造がある。真骨魚類では鰭は、軟条と膜、あるいは棘と軟条と膜とからなり、鰭を広げたり、たたんだりすることができる。カツオが高速で泳ぐ時には、背鰭やしり鰭をたたんで水の抵抗を小さくすることができる

これに対して、サメ・エイの仲間の鰭は全体を皮膚で覆われ、内部はコラーゲン繊維のすじに支えられていて、広げたり倒したりすることができず、高速遊泳時でも背鰭は立てたままである。そのため、サメが海面すれすれに泳ぐ時には、背鰭だけが海面に出て不気味に水を切る。ヘミングウェイさんは名作『老人と海』(福田恒存訳)で、この情景を的確に描写している。

    この魚にかなうものは一匹もいない。そいつが、いま、より新鮮な匂いを求めて追いかけて来たのだ。青い背びれが水を切っている。
    老人はその影を認めるや、すぐそれが鮫であることを知った。

 また、尾鰭は上葉(じょうよう)と下葉(かよう)が非対称で、ふつう上葉が大きい。サメの仲間は体をしなやかにくねらせ、尾鰭を左右に振りながら前進する。彼らは上葉が細く後方へ延びる尾鰭を、舟の櫓(ろ)を漕ぐように振って推進力を得ている。この鰭を乾燥させたものが中国料理で珍重される『ふかひれ』で、なかでもヨシキリザメやネズミザメなどの尾鰭などの製品は高級な食材となる。

 また、遊泳中のサメの胸鰭に注目すると、胸部の下縁近くに、あたかも飛行機の水平翼のように突き出たままになっている。サメの仲間には鰾(うきぶくろ)がないので、ともすると体は沈みがちになる。水平に広げた胸鰭は高速遊泳時には体を安定させると同時に、ここで揚力が生じて体を軽くする利点がある。」

この後もサメの高速遊泳者としての熱交換器機能等が記述されているが省略。
なお、「魚学概論」の「魚類遊泳速度」の表には、
「メジロザメの類」に、体長152.4センチ、速度は、体長/秒で、3.4、マイル/時で、11.8と記述されている。
マイル/時では、カマスの27.6マイル/時よりも遅く、鯖やコイよりもはるかに速い。

ということで、同じような体形であってもすべて皆同じとはいえない違いがあるということのようです。

       3  浸透圧調節機能
鮎などの魚がどのように泳いでいるか、は、見ることが出来る。それでも遊泳力を理解できないヘボが、目に見えない浸透圧調節機能を理解することは一層困難なこと。
鼠ヶ関川での山形県のアイソザイム分析調査で、「海アユ」しか、遡上鮎にはいない、という現象から、継代人工も、交雑種も、湖産も海では生存できない、というレベルに満足すべきである、ということは百も承知しているが。
その上、浸透圧調節とはいっても、そのやり方、仕組みは多様なようで。
さらに、岩井先生は、鮎の浸透圧調節の仕組みについては記述してくれていない。
ということで、適切な紹介ができないことは、当然予測可能なこと。

浸透圧調節ができないとどうなるのか
「旬の魚はなぜうまい」から
岩井先生は、「旬の魚はなぜうまい」の「3 意外に美味なフカの刺身」の「海水魚と淡水魚のちがい」に書かれていることを引用します。

海の魚は、
「真骨魚類は海水魚であっても淡水魚であっても、体液の浸透圧はほぼ一定に調節されている。マサバやメバルなどの海水魚では海水より血液の浸透圧が低く、調節しないと、水分は鰓などをとおして体内から周囲の海水中へ流出するので、彼らはつねに生理的脱水の危険にさらされている

そこで、海水魚は海水をどしどし飲み込んで腸で吸収し、失われる水分を補給する。そして尿の量はごく少量におさえて体内の水分を失わないようにつとめる。また飲み込む海水とともに体内に入って過剰になりがちなナトリウムなどの一価のイオンを、鰓の鰓弁(さいべん)やその周辺の表皮中にならぶ塩類細胞とよばれる特殊な細胞のはたらきによって排出し、排出し、体内の浸透圧をほぼ一定に維持する。

 鰓は魚の呼吸器で、弓状の骨に支えられて無数の鰓弁が二列の櫛(くし)の歯のようにならぶ。それぞれの鰓弁の両側には微細な葉状の二次鰓弁がならび、この中を循環する静脈血と飲み込んだ呼吸水との間でガス交換がおこなわれる。

海水魚では鰓弁に多数の塩類細胞があり、塩類細胞の膜はナトリウムーカリウムATPアーゼ(Na、KーATPアーゼ)という酵素の活性が高く、その作用によって、ナトリウムイオンはこの細胞の外へ排出される。だからNa、KーATPアーゼの活性を調べると、海水魚のナトリウムイオン排出能力を知ることができる。

 海産のサメ・エイの仲間も食物や海水とともに体内に入る過剰なナトリウムなど、一価のイオンは排出しなければならない。彼らは過剰の塩類を鰓から排出するばかりでなく、腸管の後端に開口する直腸腺という指状の盲嚢(もうのう)から排出し、万全の浸透圧調節をしている。

 ところが、淡水中では状況はまったく逆になる。川や湖に生息するコイやナマズなどの淡水魚の体液は周囲の水より塩分が多く、浸透圧は周囲の水より高く調節されている。この浸透圧の差によって水は絶えず、鰓、消化器官、時には体の表皮の薄い部分をとおして体内へ侵入するおそれがある。うっかりすると水膨れになって死んでしまうので、淡水魚はできるだけ水を飲まないようにすると同時に、排水ポンプとして腎臓をフル運転して、侵入してくる水を大量の薄い尿にして排出し、体内の水分の量を調節する

また、排水などによって失われがちなナトリウムなどの一価のイオンは、腎臓や、輸尿管の後部にある膀胱のような組織の上皮で尿から再吸収したり、食物中に含まれる塩類を腸の上皮から吸収して補充する。そればかりでなく、鰓の二次鰓弁には海水魚にはない淡水型の塩類細胞が多数ならび、塩類を体内に取り入れる。淡水型の塩類細胞では液胞性プロトンATPアーゼという酵素の働きによってナトリウムイオンを取り込むといわれている。

 淡水域へ入る前のスズキの稚魚を海水中から淡水中へ移した実験によると、七~十五日後に鰓弁の海水型の塩類細胞は減少し、二次鰓弁の淡水型の塩類細胞は急増するという。

 熱帯地方では淡水域にもサメやエイが生息するが、淡水に生息するエイの仲間では腎臓で尿素の再吸収がおこなわれず、筋肉中の尿素は少なく、体液の浸透圧はほぼ淡水魚なみであるという。」

オラに理解できることは、ほんのわずか。ただ、何となく、浸透圧調節がおこなわれているなあ、というだけのこと。
スズキの幼魚にしても、海水から淡水へ、ではなく、淡水から海水へ、での対応であれば、流下仔魚の浸透圧調整をちょっぴりイメージできるかも。いや、仔魚と幼魚では状況が違いすぎるかなあ。

川と海を行き来する魚
 永井竜男さんは『魚河岸春夏秋冬』と題する魚河岸(うおがし)の小史に、

    夏の夕方なぞ、日本橋のすぐ袂(たもと)まで、上総(かずさ)あたりの舟が上ってきたもので、船頭はどれも、ふんどし一つの丸裸、
    赤か黄の向こう鉢巻をして、夕河岸の魚を運んできたもんです。日本橋の下では、オボコがいくらでも釣れましたし、秋になって水が
    澄んでくると、鮒や金魚の泳いでいるのが、橋の上から見えたもんです。

と、ある故老の思い出話を紹介している。オボコというのはボラの若魚の呼び名である。これは興味深い話で、昔は隅田川の支流の日本橋川までボラの若魚が上って、淡水魚と同居していたことがわかる。オボコが釣れたのは暖かい季節ということもわかる。

 川の魚は海では生存できないし、海の魚は淡水中では生存できないが、淡水魚でもウグイのように海に入っても死なない魚もいる。また、ボラやスズキのように、生活史の一部を淡水中で過ごす海水魚もいる。なかにはウナギやサケのように、産卵場と成育場が海と淡水に分かれている魚もいる。」

ボラとスズキの生息域の変化の常識と、それとは異なる現象
「ボラやスズキの若魚が暖かい季節に汽水域から河口域まで入ってくることはよく知られている。しかし、冬になると川や内湾の水は外洋水に比べて冷たくなるので、寒さを苦手とする彼らは海へ降る。このようにボラやスズキは暖かい季節に人里に近い水域に出現するので、古くから人目についたと思われ、その生態や料理に関する詩歌や文書はたくさん残っている。

 ボラについては、古くは『出雲風土記』に、ナヨシ(ボラの若魚)がスズキなどとともに宍道湖(しんじこ)や出雲平野の西部の神西湖(じんざいこ)に産すると記されている。また、平瀬徹斎さんは『日本山海名物図絵』(千葉徳爾注解)に、

    河ぼらあり。海ぼらあり。ちいさき時をすべて江鮒(えぶな)と云也。……すべて江鮒は海と川との潮ざかいに
    多くある也。泥川に生ずるはあぶらすくなし。

と、引き網の図をつけて説明している。
 体長数センチの若魚は春に河口域へ上り、秋には深みへ移動する。利根川あたりでは内水面漁業の対象にもなる。満一歳で20センチに成長する。二、三年の間、内湾や浅海で過ごすが、秋から冬に身はしまってくる。

 塩焼き、刺身、味噌汁などが一般的な料理であるが、名古屋には『イナまんじゅう』といって、内臓をぬいて具を詰めて焼く料理がある。ボラはデトリタス(生物体の分解産物)を多く食べるので、底泥が汚染されると、魚体に悪臭や油臭がのりうつり、とても食用にはならない。

 約四年で四〇センチ以上になって成熟すると、秋に産卵のために外海へ去る。珍味カラスミの原料になる卵巣は親魚に比べると段違いの値打ち物で、名産地の長崎では『カラスミ親子』というたとえがあると聞く。

 スズキは多くの地方で春から夏に内湾あるいは川の下流に入り、秋には海へ去るという生活を繰り返し、雄は二五センチ前後、雌は約三〇センチで成熟し、冬に外海に面した沿岸海域で産卵する。

 スズキは活発に摂食する夏が旬といわれ、白身の脂質含量は少なく約四%で、洗いや、塩焼きの淡泊な味には定評がある。山陰の宍道湖七珍とよばれる郷土料理を代表する『奉書(ほうしょ)焼き』のスズキは冬が旬だ、と地元の人はいう。
 昔、寒風が吹きぬける湖畔を訪れた松江の城主、不昧公(ふまいこう)に、網にかかったスズキを食べさせたいと所望され、思わぬ注文にとまどいながらも、漁夫は機転をきかせてスズキを奉書に巻き、蒸し焼きにして差し出したのがはじまりという話を聞いた時、冬の季節に宍道湖にスズキがいるのだろうか、と驚いたものだ。

しかし、中海(なかうみ)干拓計画にかかわる最初の総合調査によって、スズキは宍道湖東部から中海にかけて、一年中、生息することが明らかにされている。
 また、生態学者の川那部浩哉さんは、『群書類従』の記述から、少なくとも戦国時代までは、スズキは大阪湾から琵琶湖までさかのぼっていたことを解きあかし、自らの魚食記録『魚々食紀(ぎょぎょしょくき)』に紹介している。

 幸田露伴さんも一九三六年に、随筆『鱸(すずき)』で、

      隅田川も美であったさうだが、今は水質全く変じて、鱸どころか鮒さへ亡びてしまった。利根川は銚子へ
      落ちる大利根と東京湾へ落ちる新利根とで、魚の質が異なって居て、褒貶(ほうへん)も人によって異な
      って居たが、今は双方とも多くを産せざるに至った。河川工事と酷漁との結果である。

と、現在の川の実態を予言するするように指摘し、昔はスズキが淀川、宇治川、相模川など、各地の川に居たことを記している。」

戦前でも東京湾へ流入する川どころか、銚子へ流れる利根川にも富栄養化の兆候が現れていたとは、想定外のこと。
また、銚子に流れる利根川が「新利根川」ではなく、東京湾に落ちる利根川が、「新利根川」とは、何でかなあ。

「ところで、海と川を行き来する魚は、海から川へさかのぼる時、あるいは逆に川から海へ下る時には、体内の浸透圧調節の作業を淡水適応型に、あるいは海水適応型に切り替えなければならず、これは決して生やさしい作業ではない。彼らはその秘術を身につけ、このむずかしい作業を可能にしている。」

スズキが、川を上っていたとは。ボラが汽水域付近を生活圏としていることもあるとは思っていてが。

佐藤垢石「釣の本」(アテネ書房  昭和13年改造社から出版され、昭和52年限定復刻、それを1989年に普及版として出版されたもの)の「山の湖と野川と」の「新古河の鱸」から   (旧字は当用漢字にしています。)

新古河駅前を流れる渡良瀬川へは初夏の八十八夜を過ぎると鱸がおびたゞしく上って来る。利根の河口銚子は既に五月中旬に鱸が入って来るが、渡良瀬川で鱸が姿を見るのは六月になる。であるから六月から鱸釣りが始まる。けれども六七の両月はボツボツといふ処で八月に入ると俄然食ひが立つて来る

 新古河駅前に関といふ船宿があつてそこで舟も道具の貸して呉れるが道具は自分で作る方が気持ちがいゝ。脈釣を用ひた釣であるから竿はいらない。道糸は秋田の百本撚り四十尋、錘は八匁、十匁、十二匁、二十匁のところを幾つも用意する。錘の下は五尋でこれは一分三厘柄のテグスかそれと同じ程度の人造テグスでもよろしい。人造テグスの方がかへつて丈夫である。

 鈎素は四厘柄のテグス三本撚りを五寸つけるが、これに鱸が鈎を呑んだら魚を傷めぬやうに鈎素を切つて鈎を棄てる用意のためである。であるから鈎素をつけた鈎の予備を幾つも用意するのである。道糸は二掛は必要であらう。餌はイトメと袋イソメの二種を東京から持つて行く。
イトメは古河にもあるが高価である。一寸くらいの大きさの川エビが餌として理想的であるが、これは手に入れにくい。

 夜でも昼でも釣れる。殊に午後四時頃から九時頃迄が食い盛り、明け方は三時頃から八時頃までがよく釣れる。この時間を狙ふには舟中で徹夜の必要があるが日中でも盛んに食ふ。昼の釣場と夜の釣場とは異ふから親切な船頭に案内させれば、日中でも十分楽しめる。八月は一日やれば二歳、三歳取りまぜ十本内外になるが当歳の景物もある。そして時々一貫目前後の大物がかかるから油断はならない。

 九月へ入ると上流へ上つてゐた鱸が下つて来て鈎にかゝる。これを落ち鱸といつてこの季節には素晴らしい大物が出るので川は賑はふ。」

糸にしろ、仕掛けにしろ、鱸の釣り方にしろ、さっぱりイメージできない。餓鬼の頃に使っていた糸は、人造糸でしょう。テングスといっていたが、人造糸でなければ高かったのではないかなあ。ナイロンは昭和三十年代になるまでなかったのでは。テトロンの糸はあったのかなあ。
オラも垢石翁から見れば、「新人類」の仲間になれるのかなあ。

古河よりも上流に上っているとか、古河に上って来る、上流から下って来る時期に関しての行動の動機はなにかなあ。
そして、現在は何で川に上ることを忘れているのかなあ。落ちアユの季節に狩野川河口等で、産卵を終えて死にゆく鮎を求めてやってくる鱸を求めてルアーを振る人はいるが。
古河では何でモエビが獲れないのかなあ。「川エビ」とはモエビのことではないということかなあ。

「豪快な河の鱸釣」
「鱸釣りは豪快無比である。殊に河の鱸釣りは面白い。八十八夜頃からそろそろ鱸は海から河へ乗つ込んで来るが、何しても七月へ入つてからが、ほんたうの季節である。元来貪欲な魚で、水温が高くなると一層餌に乱暴に食ひ付く。

 鱸釣りには、専門家が多い。幸田露伴博士の、河の鱸釣りはあまりにも有名である。近年、老境に入つたので若い時程河へ出ないが、もう彼これ四十年は釣つて居るであらう。彫刻家の朝倉文夫先生も、名うての鱸釣りである。茨城県取手の利根川に、モーター付の屋形船を持つて居て、羽織袴で鱸釣りをやるさうである。日本広しと雖も、羽織袴で魚釣りをやるのは朝倉さんを措いて他に見ないであらう。

 で、朝倉さんの、羽織袴の弁を聞くと『鱸は河の王者である。釣者も王侯の気分を以てこれに対するにあらざれば、真の釣興をやる事が出来ない。』といふのである。まことに珍風景であるに違ひない。

 俳人の寒川鼠骨氏、故高橋是福氏、水戸家の家老長谷川氏等も何十年となくやつて来て居る。その他三十年やつた、四十年凝つたといふ人が沢山ある。それ程、一度味を覚えればやめられない鱸釣りである。

 東京付近の釣り場所は、中川、江戸川、荒川、本利根などなかなか豊富だが、江戸川と本利根が本場所で魚が大きい八十八夜頃から乗つ込む鱸は四年、五年、年無しといつた大ものが多く、七月末の土用前から二年子、三年子、それを過ぎると出来もやつて来る。」

またまた、困った。萬サ翁は、カワマス=サツキマスを河魚の王者と評価されている。
長良川では、鱸が遡上していなかったのかなあ。美並、郡上付近まで遡上していなかったのかなあ。
サツキマスのトロ流し網漁では鱸がかかることはなかったのかなあ。
仁淀川の弥太さんは、四万十川の山崎さんは、野村さんは、「川」鱸」を食糧にしていたのかなあ。山崎さんは、汽水域に近いところが漁場でったが。
もし、その人達が、川鱸を相手にしていなかったとすれば、何でかなあ。

息抜きをしょうと思った垢石翁が、川鱸について、難題を提示されるとは、毎度の事ながら、困りましたねえ。故松沢さんはどのような現象を話してくれるかなあ。まあ、無い物ねだりをしていてもしゃあないから、「旬の魚はなぜうまい」に戻りましょう。

地球温暖化の影響と紅ザケ
「冷水域を好むサケの仲間は川を下って、成育場となる北洋へ回遊する。折しも、大気中の二酸化炭素が現在の二倍になった時の北洋の水温を想定して、紅ザケの分布域の変化を予測した研究が注目されている。その結論は、水温上昇の影響で、夏には北太平洋には生息できなくなり、ベーリング海とオホーツク海のごく限られた海域に追いやられて、彼らが成長する場所は極端に狭められてしまうおそれがあるという。北洋の水温が上昇すれば、表層の栄養塩類の量が変化し、プランクトンの生産力は少なくなる可能性も否定できない。仮にそうなるとサケ・マスの仲間には陸封型が増え、また、スズキやボラは低塩分水域に長く滞在することが可能になるのだろうか。

 北アメリカ太平洋沿岸域に生息するニシンに近縁のシャッドは、春に淡水域で産卵し、成長した若魚は秋に海へ下る。地球温暖化が進んで川や湖の水温が上昇すると、シャッドの若魚は淡水域に止まって成長する期間が長くなり、降海時期が遅れるばかりでなく、淡水域での分布範囲は北へ拡大し、この水域の生態系へ影響を及ぼしかねないと懸念する報告もある。」

海水温上昇で、動物プランクトンの生産力が少なくなる、とは何でかなあ。
海水温上昇は植物プランクトンの減少にはならないとは思うが…。
表層の栄養塩類の減少は何でかなあ。垂直方向での栄養塩の移動、循環が影響するのかなあ。

「川から海へ産卵回遊するウナギ
 川や湖で大きく成長したウナギは、成熟すると産卵のために産卵場のある海へ下るが、この時期になると、回遊にそなえてさまざまの準備がはじまる。海へ下る旅が近づくと、まず体の色が変わり、褐色の背側は黒ずみ、黄白色の腹側は銀色がかってくる。体側筋に持続的遊泳に使われる赤色筋が増加することは既に述べた(注:まだ紹介していません)。眼は大きくなり、網膜の桿体に含まれる視物質にも変化が生じ、長波長の光をよく吸収するポルフィロプシンから短波長の光をよく吸収するロドプシンにおき替わる。これは海中の青緑色の光環境への適応と思われる。そして体内では、鰾(うきぶくろ)の中へガスを分泌する毛細血管の網が一段と発達し、高水圧下で鰾が正常に機能するように準備が進む

 さて、いよいよ海に入る時には、浸透圧調節の作業を淡水型から海水型へ切り替えなければならない。一歩まちがえると死につながるむずかしい作業だが、この時期のウナギはそれを心得ている。

 ウナギはもともと塩分の変化に強い魚だが、降海の準備が整っていないウナギを淡水からいきなり海水へ入れると、一時的に脱水症状になり、体重が減少する。その後、体重はしだいに回復して一週間後には海水中でうまく浸透圧の調節ができるようになる。しかし、旅支度ができたウナギは、浸透圧調節作業を海水型に転換する準備が完了していて、直接、海水へ移しても体重の変化はほとんどなく、大量に海水を飲み込み、尿の量を減らして体内の水分をうまく調節する。~」
塩類への対応は省略。

尿の量は、海水中へ移されて一日以内に淡水生活時の六分の一に減少する。このような切り替えはごく自然におこなわれるので、体重はほとんど変化しない。」
副腎皮質ホルモンの一種が関与しているとのこと。
「同じウナギでも、体が銀色になり、産卵のために海へ向かって回遊をはじめるころになると、赤色筋が増加し、体側筋の横断面での赤色筋が占める面積はそれまでの八.六%から一四.四%に増加し、尾端より少し前方の尾部で目だって増加する。赤色筋の太さも増して、出力は約三倍になっている。マグロの仲間と比べると不器用な泳ぎではあっても、長旅にそなえて持続的な遊泳に必要な赤色筋が増強されることを示している。」

下りの時期の鮎が、増水を好むということは、性成熟が進んでも、赤色筋が増加しないことと関係があるのかなあ。

イトヨの産卵のための遡上と浸透圧調節
「淡水中の魚の浸透圧調整とホルモン」について、一部だけを。
イトヨが両側回遊の魚とは思ってもいなかった。ただ、陸封型のイトヨも居るようで、少しは安心したが。埼玉県あたりの湧水の流れる小川にいるという、限られた生息域で、細々と生存している魚としか思っていなかった。
一年魚として成熟するから、、海アユと共通する現象があるかも、ということで、一部だけ紹介します。

イトヨも、生殖腺の成熟が日長変化が引き金となって生じて、脳下垂体からプロラクチンが多量に分泌されて、薄い尿の排出量が増加して、淡水での浸透圧の調整ができるとのことのよう。

「春になって海から川へさかのぼり、川底に巣を作って産卵するイトヨは、海から川へ回遊をはじめる時期になると、直接、淡水中へ移しても死ぬようなことはないが、冬に直接、淡水中へ移すと、一〇日もたつと死んでしまう。春に川へさかのぼるイトヨを淡水中へ移すと、体液の浸透圧は水分の侵入によって一時的に一〇%近く低下するが、間もなくもとの値に回復する

ところが冬にイトヨを淡水中に移すと、体液の浸透圧は急激に二〇%程低下し、一日たってももとの値に戻らない。一方、真冬でも淡水中へ移す二四時間前にイトヨにプロラクチンを注射しておくと、淡水中へ入っても、春のイトヨと同じようにうまく浸透圧を調節することが出来る。こうしてイトヨは春の訪れを感じると、プロラクチンの活性が高くなって、浸透圧調整作業を海水型から淡水型へ切り替えるようになる。

 イトヨは北半球の温帯から寒帯にかけて分布するが、温帯地方では、春が近づくと日照時間はしだいに長くなる。この日長変化が引き金となって、イトヨの体内では生殖腺の成熟がはじまると同時に、脳下垂体からプロラクチンが多量に分泌されるといわれる。

冬に暗室内で点灯して人工的に日照時間を長くすると、イトヨは春になったと勘ちがいして、薄い尿を大量に排出するようになり、淡水中へ移しても死ぬようなことはない。反対に、暗室内で日照時間を短いままにしておくと、外は春の季節になってもイトヨは薄い尿を排出することが出来ず、淡水中へ移すと浸透圧の調節がうまくできない。厳しい冬を海で過ごしたイトヨは、日照時間が長くなり、水温が上昇しはじめると、脳下垂体のプロラクチンの産出が活発になり、淡水型の浸透圧調節ができるようになる。

 しかし、プロラクチンはあくまでも淡水中の浸透圧調節に一役かっているだけで、海から川へさかのぼる回遊の直接の引き金とはならないといわれる。イトヨの場合も、川へ上りはじめる時、甲状腺ホルモンの活性が高くなると、川へ向かって行動するようになることが報告されている。魚が産卵のために川へさかのぼるときには、いろいろのホルモンの活性が高まるが、種によって事情がちがうので、一概に決めつけることはできない。」

海アユの浸透圧調節は、イトヨと同じ動機付けでも、ホルモンのはたらきでもないと思う。
① 海アユは、産卵行動のために遡上するのではなく、コイ科の魚が食べることができないコケにありつくためである。

② 沖捕り海産は、海水から淡水に直接移しても死なない。

③ 大磯の池に入れて、海水から淡水への馴致をおこなっているのは、活魚車での移動時間が長いと、生存率が低くなるためであり、淡水中に、即移すことによる生存率低下を防ぐことを目的とするものではない。なお、昭和一桁の時代に三浦半島の長井沖で採捕していた頃の経験に基づく対応であるから、現在の活魚運搬車では不要な手段かも。

④ 数年前、相模川に養殖した鮎を放流し、また、囮として販売のできる三養魚場が、大磯で、稚鮎を捕ってきた舟から、直接、沖捕り海産を活魚運搬車に入れた。その沖捕り海産は、ほとんどが海の魚であり、漁連から請求書が来ることはなかった、との話があった。

⑤ 故松沢さん達が、狩野川河口付近の海域で採捕した「稚鮎」を、遡上ができない川に運んだことがあった。その川の漁協の人たちは、跳ね回る「魚」をみて、海アユは元気がよい、と大喜び。しかし、故松沢さん達は、その「元気者」が、稚鮎ではなく、海の魚と気がついていた。漁協の人たちが、食事をどうぞ、と誘うが、断って、一目散にとんずらしたとのこと。


という現象からも、海アユの稚鮎は、イトヨのように、浸透圧調整ホルモンの分泌がなくても、即座に、海水から淡水への切り替えができる「魔法の技」をそなえているのではないかなあ。
東先生はどのように考えられているのかなあ。
そして、
その魔法の技は、湖産、交雑種、継代人工には備わっていないと確信しているが。学者先生が、相模川の汽水域で一生を過ごす鮎がいる、それを「シオアユ」とされているが、それらは、湖産、交雑種、継代人工を親として生まれた子供の生き残りでしょう。

「春を告げるシロウオ漁」から
流下仔魚は、どのようにして浸透圧調節をしているのか。
稚鮎でさえ、答えを探し出すことができないヘボに、さらにちっぽけな流下仔魚の「魔法の技」を理解することは不可能。

とはいえ、ドンキホーテはヘボの特権。

「シロウオかシラウオか
 同じく「白魚」と書いても、「シロウオ」と読むか「シラウオ」と読むかによって、まったく異なる二種の魚を意味する。どちらも体は半透明で、晩冬から春に産卵のために河口域に現れる小型の魚である。古くから伝わる漁法といえば、普通前者は川に築いた梁(やな)、後者は四つ手網であるが、シロウオを四つ手網ですくい上げる地方もあるので、江戸時代の俳句に詠まれた「白魚」の判断に苦しむことがある。

 九州、博多の春は、室見川(むろみがわ)にさかのぼるシロウオとともに訪れるシロウオはハゼ科に属し、体長は五センチほどで、やや飴色がかり、腹鰭(はらびれ)は胸鰭(むなびれ)の下方にあって吸盤に変型し、体の中央に小豆粒のような鰾(うきぶくろ)が透けて見えるのが大きな特徴になる。

 この魚は生きた状態で料亭の席に出され、踊り食いという残酷な食べかたが有名である。鉢の中を泳ぐシロウオをすくって酢醤油につけて丸のみすると、のどを刺激する感触がたまらないと食通はいう。料亭には躍り食い、吸い物、卵とじ、てんぷら、などとコース料理がある。

 この魚を吸い物にすると、透きとおった体は真っ白になってねじれ、『つ』、『く』、『し』、の形になり、『死んで筑紫の名を描く』とはかたのひとはいう。

 シロウオの生活史を知りつくした内田恵太郎さんは歌文集『流れ藻』に、

      吸物のしろうをがかくつくし文字室見の川に春まだ浅き

という短歌をのせ、体の構造に基づいて『つ』の字になるのはすべて雄で、『く』と『し』の字になるのは雌であると解説している。そのわけは、熱によって体側筋が収縮するが、雌の体の中軸にある卵巣に卵が充満しているので、体の後半部が曲がって『く』または『し』の形になる。一方雄の精巣は成熟してもあまり目立たず、軟らかいので、体は丸く曲がって『つ』の形になりやすいというのである。しかし、この魚はどのように曲がっても『はかた』の字を描くことはできない。

産卵時期産卵方法、イクメンの雄等の記述は省略。
そして、高知県では絶滅危惧種に、環境相評価では準絶滅危惧種になっているとのこと。

シラウオは、「~シラウオ科に属し、アユに近縁の魚である。体長九センチたらずで、腹鰭は胸鰭よりはるか後方にある、背鰭と尾鰭の間に脂鰭(あぶらびれ)がある。頭の先端が平たくて、細くとがるのもシロウオとの相違点になる。雄は雌と比べてしり鰭が大きく、その基部に鱗状板(りんじょうばん)が一列に並ぶ。」

「シラウオも一年で成熟し、早春に川の下流域、あるいは汽水湖の岸近くで産卵して生涯を閉じる。ふ化した子魚は海へ下って成長し、翌年の春に産卵のために川へ上るというのがシラウオの生活史の定説になっていた。しかし、各地の調査で、汽水湖の子魚群は湖のなかで、河川で生まれた子魚群は河口域または沿岸の汽水域で発育し、本格的な海中生活をすることなく、一年後には成熟することが明らかにされている。」

シラス干し、ドロメは省略。
残念ながら、流下仔魚としてのシロウオの浸透圧調節の記述はない。
ということで、稚鮎の浸透圧調節と同様、「魔法の技」を生まれながらに持っているということにしておきましょう。
そして、その「魔法の技」は、仔魚の時も、稚鮎になっても、「永遠に不滅です」という優れものかも。そのため、湖産も、交雑種も真似ができない、あるいは、海アユ以外では遺伝出来ないということかも。
また、シロウオには、海アユと同様の浸透圧調節機能があるということかも。

銀毛現象:サクラマス
「サクラマスには降海する集団と、しない集団とがあり、海へ下ることなく、川の上流域に残留して一生を終える集団が、釣り人になじみ深いヤマメである。北海道、東北、北陸地方の川では、サクラマスはほとんどが海へ下り、残留群は少ないが、北陸地方より西の日本海側と九州の河川の上流では、残留群すなわちヤマメが多く生息する。そして、北方の河川では成熟したヤマメはほとんどが雄で、しばしば海から帰ってきたサクラマスの雌を相手にして生殖行動をするが、南方の河川の上流ではヤマメは雌雄ともに成熟して抱卵と放精をする。

 サクラマスの産卵期は秋で、翌春には孵化するが、サケと違って稚魚はすぐに降海することなく、少なくとも一年余り川で過ごした後、一〇~二〇センチになって海へ下る。川で生活する一部のものは生まれた年に成熟するが、これらは雄で、海へ下ることはない。海へ下るものは大半が雌である。海洋で一年を過ごした後、春に、完全に成熟しない状態で、川へ上りはじめる。川へ入ってから成熟が進み、秋には上流の産卵場で産卵する。このサクラマスの降海を抑制したり、海から川への回遊をうながす引き金になるのは性ホルモンの作用であると考えられている。」

萬サ翁、今西博士のサツキマスの観察と同じなのか、異なるのか、わからない。
ただ、降海するアマゴは、銀毛するとのこと、そして、遡上時期はサツキマスと余り異ならないかも。
また、サクラマスが雌である、との釣り人の観察をすでに紹介しているが、その観察は適切では。

さて、鱸にすら、うつつをぬかしているということは、浸透圧調節機能が、鮎とその他の魚では異なるのではないか、そして、そのことを記述されている本に出会えない、ということの裏返しかも。
湖産を四群から二群に変更され、石川博士が多摩川に移植した湖産が、ほっておいても「大鮎」に成長する春に遡上してきた「稚鮎」であること、湖産は、遡上してきた鮎の子供は翌年には琵琶湖で一生を過ごす「子鮎」となり、子アユの子供は、翌年には遡上して大鮎になる、と、大鮎と子鮎が選手交代をすることも観察されている東先生。
松浦川での流下仔魚調査のとき、湖産の影響を認識されていた東先生が、浸透圧調節についても調査をされているのでは、と考えている。

しかし、「日本の古本屋」等で、「東幹夫」で検索しても、書名が出てこない。
研究報告書ではオラの手に負えないことは、川那部先生の研究報告書を、偶然、神保町の古本屋で見つけて、読もうとは試みたが、ちんぷんかんぷんであることを経験済み。
アニマ等の本なら、何とか読めるが。
神保町の古本屋さんに、アニマ等の素人でも読める雑誌の目次は出来ないかなあ、と無い物ねだりをしたが。

ということで、鮎の浸透圧調節が、いかようにおこなわれているか、わからないまま、あきらめるしかなし。

浸透圧調整に準備作業、切り替え時間を必要としない海アユの驚異?
切り替え作業を必要としないスーパー魚が居てもおかしくはないかも。


4  遡上してきたアユには交雑種も湖産もいない
   =山形県の鼠ヶ関川でのアイソザイム分析


全国内水面漁業協同組合連合会「アユ種苗の放流の現状と課題」(平成14年発行)
このアイソザイム分析については、一昔ほど前に紹介しているから、リンクでも十分。
にもかかわらず、敢えて書くことにしたのは、どの程度、あゆみちゃんの生活誌への理解が進んだか、を見るため。
しかし、結論から言えば、一向に理解が進んでいない。
その理由は、東先生や亡くなられた原田先生らの本に出会えないことと、故松沢さんに聞くことができないから。

鼠ヶ関川は、流程が10キロほどであるが、河口から4キロに魚道のない堰堤がある日向川は流程25キロほどで、遡上を阻害する堰堤はない
既に、湖産に冷水病が蔓延しているときであるから、調査のために湖産、発眼卵を放流した
そして、「~海産と湖産アユの間で対立遺伝子頻度に有意な差が認められている2酵素GPI-1、MPIを水平式デンプンゲル電気遊泳法により検出した。~」

この後、日向川、鼠ヶ関川で分析した日向川の1997年の246尾、1998年の421尾、1999年の189尾、鼠ヶ関川で分析した1999年の366尾、2000年の101尾、2001年の261尾の調査結果が記載されている。
「アユの本」の高橋さんのように、3匹?の耳石調査の結果から、四万十川を含めて、海アユの産卵時期が10月11月、と御託宣されている「へま」をされていない。3尾?の耳石調査で、10月はご愛敬としても、2月のふ化があり得るとしても、海に到達するまでの低水温を生きて下ることが困難と、何でお気づきにならなかったのかなあ。

鼠ヶ崎川、日向川の採捕日ごとの採捕量と試供数、体長、体重の表と、「遡上アユのアイソザイム対立遺伝子頻度」が表で記載されている。残念ながら、その表の意味が理解不可能であるから、省略。
当然、「対立遺伝子情報」とか、「2酵素GPIー1、MPIの対立遺伝子頻度」等の記述、調査結果も省略。

次に、鼠ヶ崎川の1997年から2001年の間の稚アユの遡上状況、仔アユの降下状況調査表がある。
鼠ヶ崎川では早い年で4月の中旬から、遅い年でも4月の末には稚鮎の遡上が確認される。調査定点には、そのまま定着する固体と群アユのまま上流域への遡上ができない固体もあり、6月上旬から11月頃まで遡上稚魚サイズのアユが採捕されるため、正確な遡上収束時期は不明である。しかし、遡上の後期には体サイズが小さくなるが、ある時期を経過すると体サイズが大きくなってくることから六月末にはほぼ収束しているものと思われる。以上のことから遡上のピークは、CPUE(注:投網回数から努力量あたりの採捕数?)から判断して5月中旬であることが分かった。」
また、1997年から2000年度までの遡上水準は安定しており、漁獲水準が比較的良好であった。

さて、鼠ヶ崎川は、雪代の影響は受けないと思うから、遡上開始時期が、一番上りの遡上時期が4月下旬頃と考えてよいのかなあ。
そして、越後荒川でも雪代の収束が遅れない限り、4月下旬、5月初め頃には遡上がはじまっていると考えてよいのかなあ。

仔魚の降下については、「9月末から降下が確認され、12月の半ばに降下が完了していた。降下についてはいくつかのピークがあり、10月中旬に最大のピークを迎えることが多かった。また、産卵の最盛期は仔魚の降下状況からの逆算で9月下旬から10月中旬と考えられた。」

海産系一代人工鮎25000尾を標識放流して、産卵場における人工産アユの混獲割合も調査されている。
湖産アユも標識放流をされている。そして、9月に入ってから、産卵場での夜間採捕を中心として行って、由来判別、魚体測定、「生殖腺を計測し成熟度指数(生殖腺重量/(体重ー生殖腺重量)×100、以後(GSIと称する)を求め、産卵期を推定する指標とした


「GSIは両者とも(注:湖産、海産アユ)8月の末では1%未満と低いが、それ以降急速に増加した。1998年はGSIの伸びは湖産産アユの方が明らかに早い時期に大きくなり、9月18日の雌で比較すると、湖産11.71±5.66、海産5.11±3.03と湖産アユのGSIは海産の約2倍に達していた。また、1999年の場合も1998年の事例ほど顕著ではないが、同様な傾向が見られたことから湖産アユの成熟が海産アユよりも早く進み、産卵期が早いことが明らかになった。」

湖産アユについては、氷魚からの畜養で、愛知川等に遡上してきたアユを逆梁で採捕したものではないと思うから、「その年」は、湖で一生を過ごし、産卵の時だけ溯河する「子鮎」を含んでいるかも。そうすると、「大アユ」よりも産卵時期が早いといえることに留意しなければならないかも。とはいえ、釣り人から見ていた湖産放流全盛時代の酒匂川の湖産の性成熟と合致していると思っている。
産卵場での採捕では、「湖産アユも海産アユと同じ場所を産卵場として選び、産卵時期も重なっていることが確認された。なお、1998年の場合、採捕日数の推移から、湖産アユの産卵のピークは海産アユより早いことが確認された。」

「トラックで運ばれてきた」下りの行動をしない湖産と、海産の産卵場が重なっているのは、河口から4キロほど上流に堰があることが関係しているのではないかなあ。放流地点は、その堰よりも下流で、分散放流をしているからではないかなあ。

「鼠ヶ関川の産卵場において採捕された湖産アユ」の表から

    ホームペ-ジビルダーの「表の挿入」が、削除することも、枠の間隔を広げることもできないため、放置します。
    また、一太郎で作成の表も、線が乱れたため、線なしで表現しました。
  1998年      9月30日    10月3日     10月7日   10月20日
  海産アユ(尾)   72(8)      79(3)       94(5)     66(9)
  琵琶湖産アユ   5(0)        7(3)        1(0)     1(0)

  1999年     9月30日   10月4日  10月8日  10月12日  10月15日  10月27日
  海産アユ(尾)   40(3)    32(2)    90(9)    56(3)    136(9)   60(12)
  琵琶湖産アユ   2(0)      0       3(0)     2(0)     4(0)     1(1)

┌──────┬───────┬──────┬───────┬──────┐
│ 1998年 │ 9月30日 │ 10月3日 │ 10月7日 │ 10月20日 │
├──────┼───────┼──────┼───────┼──────┤
│ 海産アユ │ 72(8) │ 79(13) │ 94(5) │ 66(9) │
├──────┼───────┼──────┼───────┼──────┤
│琵琶湖産アユ │ 5(0) │ 7(3) │ 1(0) │ 1(0) │
├──────┼───────┼──────┼───────┼──────┤
┌────┬─────┬────┬─────┬────┬─────┬────┐
│ 1999年 │ 9月30日 │10月4日 │ 10月8日 │10月12日 │10月15日 │10月27日 │
├────┼─────┼────┼─────┼────┼─────┼────┤
│ 海産アユ│ 40(3)│ 32(2) │ 90(9)│ 56(3) │ 136(9)│ 60(12)│
├────┼─────┼────┼─────┼────┼─────┼────┤
│ 湖産アユ│ 2(0) │ 0 │ 3(0) │ 2(0) │ 4(9)│1(1) │
├────┼─────┼────┼─────┼────┼─────┼────┤
注1   ()内は採捕尾数のうち雌の尾数を示す
注2    1999年は、9月19日、9月23日にも調査が行われているが、両日とも、採捕されたアユは0だった。

湖産の流入河川の梁で春に採捕されたアユと、最上川水系で採捕した鮎を親とした発眼卵を2000年及び2001年の10月に河口から400メートル上流に設置した箱に沈めた。
「~湖産発眼卵に対してはアリザリンコンプレクソン(以後、ALC)、海産アユ発眼卵にはテトラサイクリン塩酸塩(以後、TC)を用い浸漬法により標識した。」
2000年の卵数は、湖産が約340万粒、人工産が40万粒で10月25日に設置。海産アユ標識発眼卵は296万粒で、11月13日に設置。2001年も数と設置日は異なるが、標識発眼卵を設置した。

標識発眼卵のふ化仔魚の降下状況
「設置された発眼卵はその日からふ化が始まり、4~5日間位で順調にふ化は終了した。」
調査期間中に採捕された仔魚は、2000年度は13249尾、2001年は111431尾。水温は、14度から9度位、あるいは12度位で推移していた。

「湾内・外のアユの分布状況」  調査結果は省略。
「以上の結果から産卵場に設置した湖産アユ発眼卵よりふ化した仔魚は、確実に降下し、海域まで達していることが明らかになった。そしてこれまで放流種苗として用いられてきた湖産アユは海産アユと同じ産卵場で採捕され、その個体は雄・雌ともに成熟していることを考えあわせると、鼠ヶ関川において湖産アユ種苗を放流した場合、湖産アユ親由来の仔魚は少なくとも海域までは到達していたと考えられる。」

鼠ヶ関湾での仔魚調査は、主に表層の舟曳きと渚曳きで行われた。湖産標識魚も、海産標識魚の30匹よりも少ないが、5匹?が採捕されている塩分躍層は水深1メートルほどのところで形成されているとのこと。
これらの調査結果を語る資格のないことは、重々承知している。もし語れば、湖産と海産、「トラックで運ばれてきたアユ」の生活史も知らずに「アユは皆兄弟」として観察、調査をした和田さん達学者先生と同類になるからやめておきましょう。

「1997~1999年の我々のデータからも湖産アユ由来の親魚は確実に産卵に加わっていること、その仔魚が降下して海域に達していることが明らかになった。日本海側の各河川に放流され続けてきた湖産アユは莫大な数量に及び、それらの産卵時期が海産アユのそれと重複し、しかも同じ産卵場において産卵することから、日本海に降海した湖産アユ親魚由来の仔魚も莫大な数量になることが容易に想像される。

しかし遡上稚魚によるアイソザイム分析の結果からは、湖産アユの遺伝子頻度とは異なり、海産アユの遺伝子頻度から逸脱しない結果が得られている。このことは遡上稚魚個体群には湖産アユ親魚由来の稚魚殆どいないことを示している。そして、その理由は海域までに到達した湖産アユ由来の仔魚は遡上期までに何らかの理由で斃死していく運命にあることが考えられる。

また、毎年遺伝子頻度に変化が認められないことは、湖産アユ雌雄の交配による仔魚のみならず、湖産アユと海産アユの正逆交雑による仔魚も翌年の遡上稚魚の中に含まれる可能性が非常に低いことも示している。

これは海産アユ雌親魚卵が無駄になることになり、湖産アユ由来の仔魚が翌年の資源添加に結びつかないどころか、その河川の海産アユ資源の消耗要因にもなりかねないことが推測される。

室内実験においては湖産アユ仔魚及び海産アユと湖産アユとの正逆交雑魚ともに海水と同じ条件下での生存が観察されている。しかし、海域における湖産アユの血を受け継ぐ仔魚だけでなく、海産アユの降下仔魚そのものの生態に関する知見も少なく、未知の領域が多い。」

鼠ヶ関川での調査報告は、最後もはしょることに。
産卵床の共同利用は、河口から4キロのところにある堰で、遡上アユが遡上出来ないこと、「トラックで運ばれてきたアユ」も4キロよりも下流で産卵せざるを得ないことが影響しているのでは。
したがって、房総以西の太平洋側の河、堰による遡上阻害が4キロよりも上流で発生している河では、湖産と海産の産卵場の競合、、産卵時期の重なりは例外的な現象と考えている。

「アユ種苗の放流の現状と課題」には、新潟県の調査報告も掲載されていて、これには、塩分濃度、水温を変えて、湖産、交雑種、県産人工、海アユ由来の稚魚の実験を来ない、その生存状況が掲載されている。
残念なことに、塩分濃度の違いが、海の塩分濃度の状況とどのように関連づければよいのか、分からないため、省略。

「湖産系種苗は高温時において塩分耐性能力が低下している傾向を示した。」との記述が意味することも分からない。
海産由来の仔魚が生き残っている塩分濃度でも、湖産の生存は0ではあるが、交雑種では生き残る塩分濃度も存在している。
また、海アユ由来の仔魚でも生存出来ない塩分濃度もある。
ということで、調査方法との関連で、あるいは、海での環境変化で、どのように考えれば適切であるのか、見当がつかない。

なお、新潟県は、海川でのフィールド調査を行っているが、海川も河口から8.1キロ上流に遡上不可能な堰が存在している。

福井県は、上方側線横列鱗数の出現率の違いが、湖産、交雑種、海アユで異なることを調査している。
しかし、遡上アユが「18枚」の出現率が96.9%とされているが、これは、人工種苗が放流された後の足羽川で採捕されたアユを「遡上アユ」と誤解された結果であり、「学者先生」と同様の間違いをされている
また、湖産の上方側線横列鱗数が、「21枚」とされているのも、冷水病が蔓延している20世紀末、21世紀初頭頃の「湖産」であるから、購入、試供されたアユが、「湖産」とはいえないと考えている。
現在、ヘボ並に単純化すると、湖産は24枚、または、これよりも多い27枚位。海アユは22枚、継代人工は17枚位と考えて間違いないと思う。これは、鱗の荒い、細かい、で、判断している氏素性の違いと合致している。

なお、湖産放流全盛時代には、湖産採捕量よりも、「湖産」として販売された量がウン倍になっていたとのことであるが、平成の代になって暫くして、湖産に冷水病が蔓延していることが顕在化してからは、「湖産」に継代人工や海アユがブレンドされて、生存率を高める「ブレンド」も行われていたよう。湖産放流全盛時代と、冷水病が蔓延してからの湖産に「ブレンド」される意味が変化していると考えている。

山形県は、標識湖産アユ及び人工産アユ発眼卵によるふ化仔魚放流魚調査を行い、
「2000年度の海域調査(船曳調査)の結果からは十分なサンプル結果が得られなかったが、湖産アユ仔魚は河口域まで降下していること、また、湾内にも分散していることが明らかにされ、このことは少なくとも数日間は海域において湖産アユ仔魚が生存していることが証明された。

「なお、湾内で採集された仔魚の殆どは5~7mmの体サイズが中心で1m以浅の水温・塩分躍層以浅に集中しており、2~3m層付近では殆ど採捕されることはなかった。この傾向については2001年度の調査においても同様で、1m以浅での採捕が殆どで、2m以深での採捕は殆どなかった。2000年度の調査と異なるのは10mm以下の個体が中心になるものの、それ以外の様々なサイズ(10~20mmを越える大型サイズなど)の個体も比較的多く採捕されていたことである。~」
 
「山形県では冷水病の問題もさることながら、海産アユ資源の減少を食い止め、遡上量を高い水準へシフトさせる方策がもっとも望まれている中で、全国的には早い段階での湖産アユ放流(注:を)取り止め、海産アユを親魚にした県産人工産アユ放流への転換を図った。」

神奈川県では、30ウン代まで生産していた乳母日傘の養魚場では生存出来ていても、河の雑菌での免疫力もなく、中津川の角田大橋支流での実験では5キロほどの死骸を残し、殆どが死んでしまった継代人工を廃嫡にした後、海アユを親としたF1の種苗生産ではなく、F1とF11?のへんてこな継代人工を生産しているよう。その稚鮎、それを継代化した稚鮎が高田橋での内水面祭りのときの体験放流に使われており、また、漁連の義務放流量を担っているが、大きくなる習性もないように思っている。

「トラックで運ばれてきたアユ」が、下りの行動をしないで産卵した結果は、高田橋下流、右岸六倉・千代田のヘラ釣り場上流に隣接する湧き水の池で、植物プランクトンが繁殖出来、そしてそれを食べる動物プランクトンが繁殖して、稚鮎の胃袋を満たし、湧き水であるから、生存限界以上の水温の中、3月を過ぎると、ヘラ釣り場にも出現して、ジャミとしてヘラ釣り師に嫌われていた。現在は、弁天下流トロから右岸への流れではなくなり、また分流もなくなったから、どの程度、石切場のトロで生活していた稚鮎がぬくい水を感知して上っているのか分からないが。
なお、狩野川の松ヶ瀬界隈でも、遡上アユが上ってくる前に稚鮎が見えるとのこと。その場所に真夏に入れば、伏流水があるから、名人見習いにヘボといわれなくても…。

2016年の12月、2017年1月、2月10日頃は、経が岳等の山だけでなく、平地でも白くなることあり、気温は低い。
2月15日頃に春一番が吹き、温かくなったから河に下りた。
高田橋左岸の溜まりは、11月には稚鮎が見えていたが、姿なし。川の水が入り込むから、少ない伏流水だけでは水温低下を防げないのでは。
弁天のヘラ釣り場横の分流は、本流からの水が入らず、湧き水だけ。11月には稚鮎は見えなかったが、2月中旬には、数10匹の2,3センチの稚鮎が跳ねている。稚鮎と雖も、水面に対して、平行に跳ねようと試みているから、他の稚魚ではない。
ここは、11月には稚鮎は見えなかった。分流護岸付近に入った仔魚が、動物プランクトンを食べることができて、生存していたが、わずかなぬくい水を感知して上ってきたのかなあ。

尿素が浸透圧調整に役立つことも
「旬の魚はなぜうまい」に戻って、口直しをしましょう。
「サメ肉は尿素を含む」に、
「サメ、エイの仲間は新鮮なうちは、湯引きにしたり、煮付けにすると美味で、煮ごこりにも人気があるが、死後、鮮度が落ちると、悪臭が強くなるので食材としては敬遠される。

 悪臭の本体はアンモニアとトリメチルアミン(TMA)で、そのもとは、といえば、筋肉や血液に多量に含まれる尿素とトリメチルアミンオキシド(TMAO)にある。尿素はバクテリアの作用によって分解してアンモニアになる。同様にTMAOも分解してTMAになって悪臭を放つようになる

ただ、尿素には防腐作用もあるから、サメ肉はマイワシやマサバに比べて腐敗するのに時間がかかり、食材として比較的長もちする。だから低温保蔵と迅速な運搬の手段がなかった時代に、サメは海岸から遠く山間部まで運ばれ、『フカの刺身』は山里の人の味覚をそそることができたのだろう。

 食材としてはとかく問題になりがちなサメの肉に含まれる尿素は、彼らにとっては海中で体内の浸透圧の恒常性を保のにきわめて有力な成分である。

 改めていうまでもなく、海水と川の水では塩分濃度がちがう。~。また海水ならどこでも塩分は一定というわけではなく、海域によって、また水深によっちがうが、外洋の表層水の塩分は約三.五%で大きく変動することはない。しかし、陸地に近い内湾では好天がつづくと塩分は濃くなり、大雨が降ると河川から流入する水に薄められて真水に近くなる。汽水域の塩分は〇.〇五~三%の範囲で大きく変動する

 水中の塩分濃度は魚の生活に大きな影響をおよぼす。水はとおすが、溶けている溶質はとおさない半透明膜を境界にして、濃度のちがう溶液が接すると、濃度の低い溶液から高い溶液へ水が移動する。このような現象を浸透という。半透明の両側に溶液と純水をおいた時、膜にかかる圧力の差を浸透圧という。

水中で、体液の濃度をほぼ一定に保つようにして生活する魚は、このような状況に直面している。真骨魚類では、種によって多少のちがいはあるが、海水魚も淡水魚も体液の浸透圧はおおよそ海水の三分の一で、海水魚では海水より低く、淡水魚では淡水よりも高く保つように日夜、懸命に調節作業が続けられている。(現在では浸透濃度という単位を使うのが一般的であるが、ここでは便宜上、旧来の浸透圧を使うことにする。)」

ブナ化したサケが川を上るには、ホルモンの作用による浸透圧調整機能の変化が生じるとのこと。
よく理解出来ないが、海アユの遺伝子汚染が、人知の浅はかさで生じなかったということは事実であると確信している。
前さんと萬サ翁が、湖産アユと海アユの顔つきのちがいを話され、故松沢さんが、海アユの容姿が変化していない、と話されたことは海アユの遺伝子汚染が浸透圧調整機能の不全によって、湖産も交雑種も再生産されなかったことを「目利き」として観察されている表現であると確信している。
山村で、フカが、ハレの時の食材として尊重されていたのは、何に書かれていたのかなあ。

「アユと日本人」に、
「前述の塚本克巳氏によると、川を遡上せずに、河口部にとどまるアユがいるという。和歌山県でシオクイとよばれるアユである。琵琶湖における残留群は川を上るアユとちがって大きくならないが、河口部にいるアユは大きさが二〇~二五センチくらいというから、川を上るアユとちがった生理的な機構をもっているのだろうか。」

これを見つけたときは、秋道先生でも、「学者先生」の毒牙から逃れられない、と大喜びをした。
そして、「旬の魚はなぜうまい」が愉しく読める「期待」が裏切られて、悪戦苦闘の連続の憂さ晴らしをしたが…。
秋道先生にとっては、とんでもない言いがかり、八つ当たりのとばっちりということでしょうが。
同様の汽水域で一生を過ごすアユは、相模川でも観察されている。こちらはシオアユと表現されていたのではないかなあ。
そして、この親は下りをしない鮎、 しかも、継代人工由来のアユの子供であると確信している。
海アユ由来のアユ、湖産由来のアユであれば、櫛歯状の歯に生え替わってからは川をさかのぼっていくと思うが。津久井湖産が、横浜市の青山浄水場の堰に魚道ができてからは、堰下流どころか、青野原にも上っているという話がある如し。

「湖産の放流量、発眼卵の量が少ないから、湖産由来の遡上アユがいなくても当然のこと」との異論も出よう。しかし、「氷期遺存習性」ならぬ湖産放流全盛時代の湖産由来の遺伝子が「遺存」していないことの証明でもあるから、アイソザイム分析により海アユの遺伝子汚染が発生していなかったことは確認されたと確信している。
とはいえ、「下手な考え休みに似たり」で、時間がかかったが、出来のよい紹介にはなっていません。

さて、困ったときの神頼みとして、川那部先生に登場して頂きましょう。
狩猟と漁労  日本文化の源流をさぐる」(小山修三偏  雄山閣 1992年発行であるが、執筆は1988年以前)

         4   サケ・マス文化圏と、コイ・アユ文化圏
秋道先生は、「アユと日本人」の「アユの資源論」の節に、
「列島の縄文時代には、さまざまなローカル色の強い狩猟採集文化がうみだされた。季節や場所に応じて、対象とされる資源が次々と利用できるといったカレンダリング方式の経済がいとなまれたのであろうと最近では指摘されるようになった。いわゆる多様な種、マルティプル・スピーシズ(Murutiple-Species)の利用がおこなわれたのである。
 また、狩猟採集というと、資源をもとめて常に移動をくりかえす、遊動生活がいとなまれていたと考えがちである。ところが、縄文時代には、きわめて定住性の高い生活がいとなまれていた。~」

「食糧資源の供給という点からすると、縄文時代には野生の動植物がたくさんあった。しかしだからといって人びとは、自然のものを必要に応じて採捕したというだけではなかった。有用な植物を居住地の近くに植え、ときどき人為的に手を加える半栽培とよばれる植物とのかかわりあいがすでに開始されていたようだ。クリ、トチノキ、ドングリなど、いわゆる堅果(けんか)類の高度利用が、採集経済下にあって、安定的な食生活を保証する根拠とされるようになった。

一九九二年、琵琶湖の粟津晴嵐(あわづせいらん)湖底遺跡から、縄文時代前期、および中期の層から大量のトチノキやクリ、クルミの殻の堆積層が発見された。こうした堅果類とともにシジミやトリの骨などが同時にみつかった。当時の湖岸に住む縄文人の食生活をきわめて明瞭に示す注目すべき発見であった。」

「山内清男氏は、縄文時代の東北日本では、サケやマスの水産資源がきわめて重要な食糧であったことを指摘した。当初、一方で支持されたかに見えた山内説も、証拠となるサケの骨が出土しなかったことから、サケの重要性を正面から議論することがわりと最近までなかった。

 たしかに遺跡発掘のさいに、サケの骨が検出されなかったこともあった。ところが、河川ぞいの遺跡がサケの加工場、解体場であり、サケの消費場ではなかったという松井章氏の指摘や、別の場所から大量のサケの骨が見つかるにおよび、サケ・マス論は再評価されるようになった。

 ところがその一方、東北日本でサケが重要であったのとおなじくらい、西日本でもアユやコイなどの資源が重要であったとする説が西田正規氏により提起された。そして、縄文時代における東西日本の遺跡数の差は、堆積層のふかい西日本とその厚さのない東日本の差であろうと指摘された。」

海アユの遺伝子汚染はあった?
「アユと日本人」を使わなくても、秋道先生の説は、「狩猟と漁労」に「水産資源のバイオマスとその変動」として掲載されている。
しかし、秋道先生に再度登場して頂いたのは、八つ当たりで鬱憤ばらしが出来るの素材を見つけたから。
それは、「アユの生態と漁法」の節に
「第二は、アユをとるさまざまな漁法にみられる地域差である。現代では、河川とその周辺環境の劣悪化により天然アユの溯上はたいへんすくなくなってきた。一方、琵琶湖産を中心とした稚鮎が全国の河川に放流されることによって、アユの遺伝的な構成はまったくわけのわからない状態になってしまっている。」

この秋道先生の海アユの遺伝子汚染論は、萬サ翁、前さん、故松沢さんの観察とは相容れるものではない
「アユと日本人」は、平成四年発行であるから、まだ、山形県のアイソザイム分析が行なわれていない時の文章ではあるが。
それでは、川那部先生はいかに?

川と湖の生態学」(講談社学術文庫  昭和六〇年発行)
「Ⅴ 進化について」の「氷期遺存習性説による考察」から
大阪湾から琵琶湖へのアユの溯上は、一九〇七年瀬田川に南郷洗堰が建設されるまで続いていた。しかし、この海アユと琵琶湖アユとが当時まで交雑していたと考えることは、至当ではない。

 さきに述べたように、日本付近の海アユが若干の地理的変異を持つとはいえ、一定の形質を示し、いっぽう生活様式のことなる型をふくめた琵琶湖アユ全体が、これに対立する形質を示すことは、その分化がかなり早い時期に起こっていることを推測させるものだからである。それと同時にこの事実は、琵琶湖と海とが現在と同じ程度のかなり長い川でつながっている状況のもとでは、そこを通って入った海アユから陸封型のアユが成立する可能性のすくなくないことを、物語っているのではないだろうか。

 琵琶湖へのアユの侵入と陸封(りくふう)がいつ成立したかについては、近い将来に仮説をまとめたいと考えているが、おそらく更新世の中期ではないかと、いまのところ見当をたてている。だがそれはともかく、さきに述べたことから、侵入の時期が後氷期でないことは確実であろう。また、それを最終氷期の最中であると考えることも、海面低下の状態や藻類生産性の低下などからみて、まず不可能であろう。すなわち、琵琶湖アユの個体群は、少なくとも最終氷期を琵琶湖の中で過ごしたということ、これは確かなこととみてよい。

 さて私はさきに、氷期遺存習性説を提出するにあたって、ウルム氷期における水温低下を摂氏七~八度と見て、その時期の藻類生産速度を推測し、それから考えて、アユのなわばりは氷期には重要な役割を持っていたと述べた。

 しかし、こと海アユに関しては、この数字いや理論は若干訂正する必要がある。なぜならば、アユが氷期にも現在の分布域にとどまっていたとする必然性はなにもないからである。朝鮮海峡の開閉がいつどのように起こったかについてはさまざまな議論があるが、かりにウルム氷期にはそれが閉じていたとしても、北海道西南部の河川に現在生息している個体群は、日本海沿いにその西部にまで南下しうるし、津軽海峡を経由して太平洋岸へ出ることもまた可能である。太平洋岸三陸地方に現在分布する個体群も、海岸沿いにトカラ列島近辺までは、すくなくとも南下可能であったはずである。

 アユについてのこうした証拠はもちろんまったくないが、キュウリウオ科(アユ科は独立の科とするに値せず、せいぜいキュウリウオ科の亜科であるとの説に、私も賛成である)全体の現在の分布は、氷期、・間氷期に南北移動を行ったことを示すものであるし、また日本付近の海産動物の多くのものも、氷期に南方へ移動したことが知られている。

つまり、海アユは氷期には南方へ移動していたと見るほうがむしろ自然であり、したがって、摂氏七~八度の水温低下を個体群として受けていたとみるのは、やや過大であったと考えられるのである。

 しかし琵琶湖アユにとっては、このような移動は不可能であったに違いない。もし可能であって海アユと交雑していたとすれば、さきにあげた形質上の諸変異は生じなかったか、あるいは隔離・固定されなかったはずだからである。したがって、生息河川の水温低下は実際に摂氏七~八度に達したと考えられる。すなわち、琵琶湖アユの氷期の生息環境は、その時期の海アユの北限の生息環境よりも、いっそう低温すなわち北方的な条件となっていたと見てよい。

果たしてしからば、現在の北海道島あるいは朝鮮半島の個体群に見られるよりも、いっそう強固ななわばりを琵琶湖アユが持っている事実は、それが氷期遺存の習性と考えうることを示しているように思われる。

 海アユにおいては、各地域の個体群は均一化の方向に向かいうるが、琵琶湖アユと海アユとはその交流がなかったことも、強固ななわばりをそのままいまに伝えている一因かもしれない。沖縄島あるいは奄美大島の不安定ななわばりの残存も、屋久島との間で島嶼沿いの分布が切れ、すくなくとも九州側から琉球側への個体の移動は現在ではほとんど不可能であることと関連しているかもしれないのである。

 とにかくこのようにして、分布南限の沖縄県・奄美大島でのアユのなわばりは不安定であり、逆に、氷期における分布北限(低温という意味での)と目される琵琶湖でのそれは、いちじるしく強固であることがたしかになった。この事実の説明には、アユのなわばりの氷期遺存習性説が、現段階ではもっとも適当であることも、また明らかであろう。」

秋道先生が、湖産と海アユの交雑の発生を大量現象として評価されたのは、「自然」現象ではなく、人為が、すなわち、「放流」という手段を使ったためであって、その点で、川那部先生の記述とは矛盾しない、とおっしゃるかも。
しかし、オラには、故松沢さんや萬サ翁、前さんの遡上鮎の顔つき、容姿に変化が生じていない、という観察に絶大な信頼を置いている。

南郷堰が出来る前に交雑種が生産されなかったことについては、
1 産卵場所を異にする
湖産は、琵琶湖に流入する川を産卵場としている。淀川を遡上してきた海アユは、下りの行動をして、枚方付近かどうかは知らないが、下流域で産卵している。

2 産卵時期を異にする
  瀬戸内海での産卵時期も、房総以西の太平洋側と同じと想像しているが、そうすると、湖産と海アユの産卵時期はほとんど重なっていない。

ということで、川那部先生が、「交雑種」が、海アユと琵琶湖鮎が一緒に生活をする時間、空間の条件のあったときでも生成していないとの観察に大いに同意出来る。
次に、秋道先生の湖産大量放流が、交雑種、海アユの遺伝子汚染が発生しているのではないか、という点、そして、その兆候が一生を汽水域で過ごすという「シオアユ」の存在が証明している、との学者先生の観察を支持されているのではないかと思っている。

この説への反論は、故松沢さんらの観察眼で対抗するには、「信仰の世界、神学論争」の世界に入り込む危険もあった。
それで、困っていたから、山形県のアイソザイム分析を使用した調査を見た時は嬉しくなった
学者先生は、この調査をどのように評価をしているのかなあ。秋道先生は?

秋道先生を使用して、憂さ晴らしをしているときではないですよねえ。
「コイ、アユ文化圏」にとりつかないと、あゆみちゃんとの逢い引きに支障が出ますよ。
とはいってもなあ、狩野川の遡上量は回復しないであろうし、相模川は、2016年は、相模大堰副魚道での溯上量観察が始まって以来の最大水準に近い1500万匹ほどとのことであるから、この親の仔魚、稚魚の胃袋をまかなうほどの動物プランクトンが、相模湾で繁殖出来るのかどうか、気になりますねえ。2002年、2004年、2008年、2012年の大量遡上の翌年は、必ずしも大量遡上になっていないから、何らかの生存率を激減、あるいは低下させる要因が、海での生活に生じていると想像している。もちろん、2015年の大量遡上の翌年である2016年に大量遡上があったから、稚鮎の食糧である動物プランクトン、動物プランクトンの餌である植物プランクトンの生産量がいかなる要因で増減しているのか、に、左右されているであろうが。

その現象には、解明出来ない要因も存在するかも。
1992年から始まった狩野川の遡上量の減少は、1995年、96年にはゼロの水準に。
遡上鮎が釣りの対象となるほどの量に回復したのは、2000年頃。それでも継代人工の放流ものが主役、あるいは準主役を張っている年が多い。
駿河湾になにが生じているのかなあ。
こんな複雑な現象にオラがついていけないことは承知しているから、「「動物の資源量からみた漁撈」に移りましょう。

              「動物の資源量からみた漁撈」
川那部先生は、[]に、典拠を記載されているが、省略します。また、いつものように、原文にはない改行をしています。

東日本のサケ・マス論に対して、
「これに対して疑義を挿んだのは西田正規さん[一九八五]で、東日本のサケ・マスに対して西日本にはコイ科とアユがあり、生産量は引けをとらぬのではないかと論じた。もっともこれに対しては、生産量そのものについては西田説を必ずしも否定しないが、重要なのは越冬用の保存食糧としてのサケ・マスだとして、山内説に荷担している人もある[]。

 そこで私は、現世生物の生態を扱っているものとして淡水魚の生産量を考え、いささかならず想像をたくましくしながら、昔の漁撈について考えてみたいと思うのだ。」

アユの生産量
「世界中におけるアユの生息量として記録に残っている最高の値は、京都府北端の丹後半島にある小河川宇川での一九五五年の数字で、水面一平方メートルあたり平均五・四尾というものである[]。川には深く淀んだ淵もあれば浅くて砂底の『とろ』と呼ばれる部分もあって、そこには原則としてアユは棲まない。先の値はこうした所も含めた平均だから、流れがはやく石の大きい第一級の瀬では、アユの数は一〇尾にも一五尾にもなる。また夏の平均体重を五〇グラムとすれば、現存量は平均で一平方あたり二七〇グラム程度だ。

 残念ながら今日まで、他の川でもこれに近い値は見られたことがない。宇川での第二位は一九六八年の平均三・二尾、第三位は一九五六年の同じく〇・九尾なのだ。先の値は異常現象なのだろうか。

 当時宇川の壮年老年の人達は、川那部はアユが少なくなり始めてから調査に来たと言った。そして昔はどのように多かったかを話してくれた。

一九二〇年代の小学校に和服で通っていた頃、帰校の折には尻まくりをして浅瀬に座り、下流側に足をやや開いて投げ出すと、アユが股の下へ突っ込んで来る。それを毎日捉えて持って帰ったというのである。

また若者達は、解禁の日は学校も午前中は休みになって、大人が網を打っている横で棒で叩いてアユをつかまえたと語る。事実一九五五年には、網に驚いて河原へ跳び上がったアユを数尾私自身拾ったし、小学校へ行くかいかずかの子が竹竿で水面を叩いて、長さ二〇センチ近くのアユを午前中に数十尾も捉まえるのを実見した。

 また由良川漁業協同組合の桑波吉太郎さんは、御尊父の話として二〇世紀初頭、産卵場のアユをとるには養蚕用の枠かふつうの箒で、『ざーっと河原へ引きあげてとりよった。』と述べ、また『大きいなんて、サバみたいなやつ(中略)組合事務所にも残していますけん、大体四〇〇グラム』と語る[]。

 これからみれば、いくら少な目に見積っても数年に一度は、一九五五年の宇川程度のアユは棲んでいたと見てよいのではないか。

 ついでに述べておくと、一九五五年に宇川の中でアユの体の作られた量、すなわち、春に海から溯上して以来三か月間の生産速度は、一平方メートルあたり平均三八〇グラム程度だ。そしてこの値は、北アメリカの五大湖やヨーロッパの北海での魚の年間の全生産速度の数百倍から千倍、テームズ川やヨーロッパ渓流の全魚類の十倍ないし百倍に達し、いや、粗放的な養魚池の値を超えて、直接に餌を与える集約的養魚場での値に近いのである。流れのある所で藻を食うというその生活のありかたによってこそ、こうした高い生産性が挙げ得るのである[]。」

漁法
友釣り、蚊鉤は、江戸期以降の漁法のようであるから、省略。
「釣りに続くアユ漁法となれば、これは網を使うはなしになる。一般に網のための錘は縄文早期からすでに出土するらしく、前期からは確実だとある〔〕。ところで現在アユを捕る網として広く用いられるのは、円錐形の打網(とあみ)と刺網の下に袋のついた捲網とであり、また一部の地域では投げて用いる刺網もある。

この場合決め手の一つになるのは流れに対する抵抗性であり、合成繊維の普及する以前は、極めて細い絹糸で作った網を柿しぶに漬けたものを使った。太い糸で作った網は、アユがかかり難いばかりでなく、流れで錘が浮いてしまったその下からすべてのアユが逃げたり、逆に錘が重ければ網が底に寝てしまって、物の用には立たないのである。例えば凧糸で作った網でアユを捉えるのは、まずは僥倖をたのむに等しい。

 このように考えると、アユの真夏の棲み場所である川の中流域では、絹糸の利用できるようになるまで網は使えなかったのではないか。そして絹の使用が明白になるのはどうも三世紀、すなわち弥生時代に入ってからのことであるらしい〔〕。」

相模川でも、戦後においても、行われていた鵜飼いも省略。
「~漁業と言えるかたちのものは、春の汲み鮎と秋の梁漁とが中心だったのではあるまいか。そしてこの類いは、縄文後期には遺跡があり、いや縄文初期から存在していた可能性があるというのだ[]。

 だが、先に述べた宇川での私の見聞からみれば、やすで突き、棒で叩き、籠や箒で掬い取るというやりかたでも、けっこう沢山とれたのではあるまいか。流れのはやい所でとくに大きく成長した個体を捉えるのは無理としてもである。こうなると気になってくるのは『万葉集』巻一三にある『隠口の長谷の川の』に始まる長歌なのだ。すなわちその中には、『鮎を取らむと 投ぐる箭の 遠離り居て』という箇所があり、これはひょっとすると事実アユを矢で捕ったことを示すものかも知れないのである。別解もあるが、それは先に書いたことがあるので[]、省略に及ぼう。

 汲み鮎は小型だが、下り梁の漁獲物は大型である。さらに産卵場では、秋に大量の漁獲があり得た筈だ。夏の平均生息数が一平方メートルあたり〇.九尾であった一九五六年の宇川の例をとれば、夏の解禁から二日間に約四分の一を捉えたという極めて高い漁獲があったにもかかわらず、最盛期をかなり過ぎたある日の夕方に産卵場に集まった数は、一平方メートルあたり三〇尾に達した〔〕。重さにすれば二キロに近い。そしてこの年、産卵は二〇日間に及んだと言う。」

ここで、気になることは、房総以西の太平洋側での産卵期間が、二ヶ月ほど続いているが、それよりも対馬暖流を生活圏とするアユの産卵期間が短いということ。

さて、漁獲法で気になることは、相模川は弁天から石切場にかけてを漁場としていた「網」漁のこと。
この区間の左岸に堤防が作られて、田圃となったのは、その田圃への水が清水頭首口から引かれたのは、望地開墾記念碑によれば、昭和四四年。したがって、昭和三〇年代には、現在存在している左岸堤防はなかったと考えている。
左岸は、河岸段丘に沿って流れがあったのでは。そして、そこで、地引き網が行われていたとのこと。
その語り手は、河岸段丘上に住む人。残念ながら、その人に会うには、石切場に釣りに行くしかないから、地引き網の様子を聞くことがいつできることやら。
雄物川さんは、地引き網が、袋に魚が集まる仕様であることを知っていたから、そのうち、何かを聞くことが出来るかも。

相模原市教育委員会発行の「川漁調査報告書」の冊子に、望地の地引き網が記述されていれば、それで一件落着、となるが、残念なことに「地引き網」の記述がない。
網漁には、
「~トアミ・ウナワ・ヨセアイ・ゴロビキ・ハリキリアミ・マチビキ・ヨドスクイ・ヨツデアミなどが報告されている。後にも述べる鵜飼いのうち、昼間に行われていたものもアユを脅かすための網を使用していた。これらの中でもっとも一般的なのがトアミであり、これは現在でも使う人がいる。また、縄にカラスの羽をとりつけたウナワでアユを追い、そこにトアミなどをうつことなどもあった。最近はいろいろな網が入ってきており、たとえばオダカアミなどという網は刺し網の一種で、長良川から来たものだという。船で川上に向かい、3反同時に投げる。」

これだけ多くの網漁法が記載されているのに、「地引き網」の文字がない。何でかなあ。
「ゴロビキ」とはどんな網漁かなあ。通常は、コロガシと同様の釣り方で使われているが。
「トアミにはフナウチ・フナブチとオカウチ・コシブチ・カチブチといわれるものがあり、フナウチは船の上から網を打つものである。」

と、休むに似たり、の考え、いや、読むふりをしていたが、「ゴロビキ」が、地引き網のこと
何で、今とは異なる表現をしていて、また、何で、「コロガシ」と同義、あるいは、コロガシの変型の釣り方が「ゴロビキ」の呼称になったのかなあ。

投網の作り方、柿渋の使い方、取り込み方、船からの投網のやり方等、また、磯部や田名等、地区によって、細かい操作等の呼称の違いのあることも記述されている。
なお、網の素材
「もっとも古くは麻や絹でナイロン、テグスと変わってきているといい、六倉では木綿の網が古いという。テグスの網は少し重めであるが、沈みがよくて流れにくく、水切れもいいので網うちをした後でもそのままおいておける。」

そして、「ゴロビキ」である。
ゴロビキは地引網で、大島の常磐集落で持っていた網である。この網は対岸の愛川町小沢にもあったといわれる。トロンボウでドブになっているところで行うもので、石があるところでは魚に逃げられてしまうので駄目である。網は上部にウカシとして桐の木がつき、下側には太いシュロ縄に錘がついている。長さは200mくらいあり、真ん中の袋の部分は4~6間、一人が岡からひっぱり、他の人が船からジワジワ網を巻いていく。網は魚が飛び出すので持ちあげるようにする。最低6~7人の人数と船が必要なもので、これらの人がいくらか金を出し合って網を作った。これは『相模原市大島の民俗』にはハヤ漁の網として述べられている。」

この説明では、何で、望地(もうち)で、行われていたと話す人が居る地引き網についての記述がないのかなあ。
現在の左岸側堤防がない頃の漁であるから、小沢よりもやりやすい環境ではないかなあ。あるいは、小沢も、現在の堤防がなく、右岸側の運送会社の通勤用の車の駐車場となっているところも川で、水が流れていて、道路まで川幅があったということかなあ。
また、望地では船を使っていたのか、どうか。ハヤだけでなく、アユも大量に獲れていたのかどうか。
ただ、堤防を作りさえすれば、水が調達出来さえすれば、田圃として利用出来るという、大石が転がっていない、あるいは少なく、砂礫が主体の川底であることは田圃に適していた河相を想像は出来るが。

ヨセアミ
地引き網にも転用可能な網とのこと
ウナワの代わりにヨセアミで魚を寄せてトアミをうつこともあり、これは昭和30年頃は盛んであったという。下溝より下流と対岸の六倉からの報告があるが、ヨセアミは下溝から新戸にかけて一地区に一網だけ組合で許可したとか、磯部では出来なかったともいわれる。

 磯部では4~5人で何枚かの網をつなぎ、魚を集めてトアミで取った。ウキは桐材、錘はイワ(鉛)で、8月頃に魚全般を狙って行った。この網を地引き網としても使う

新戸では漁師が使うほかに客に掴み取りをさせるのにも用いていた。これは、夜に川の真ん中に出て来た魚をヨセアミで囲って集め、川の上下に網やゴザ・スダレを張ってイケスを作り、魚が逃げられないようにしておく。そして朝になって客が来たら、水を脇に流して水量を減らして掴み取りをする。また、高さ1m、長さ5mほどで、目は4分、上には杉板のウキ、下に鉛の錘をつけ、裾には袋のあるヨセアミを横に繋いで川下から川上に向かって魚を追い込み、イケスの下手には竹簾を張った。この網は刺し網のように魚も刺さる。六倉でも1枚10~15間で深さが4~6尺、5分目くらいのヨセアミを2~3枚繋いで魚を集め、その中でトアミをうった。」

ヨセアミがいかなる物か、イメージ出来ない。ただ、2,3枚繋げば、地引き網に転用出来るということは、何となく判るが。とはいえ、何で、トアミを打つのかなあ。裾に袋があるとのことであるから、袋に魚を追い込めば十分ではないのかなあ。

六倉は、望地の対面、右岸側である。
ということは、この附近は川幅いっぱいに流れが広がり、地引き網の使用が行いやすい河相であったということかなあ。
なお、夜に川の真ん中に魚が集まるとは、事実かなあ。何かを間違えたのではないかなあ。

H・P「おやじと地引き網」に、米子の賀露の浜で、地引き網を復活しょうとした親父さんの話が紹介されている。その、海の地引き網と、望地で使われていた地引き網の構造は同じものかなあ。
また、何で、六倉のヨセアミは、記述されているのに、望地の地引き網の報告はなかったのかなあ。

江戸期には、地引き網の使用はなかったかも。
「川漁調査報告書」には、江戸期から明治の漁撈許可書、許可の内容、年貢代金等記載の資料が掲載されている。
現代の事情すらわからんもんが、江戸期の文を読み解くなんて、身の程をわきまえない行為になる。
和田さんが、海アユの生活史すら知らず、たまたま長良川沿いに住んでいるだけ?、という理由で、長良川河口堰の生物影響調査を行い、ハンスト中の天野礼子ちゃんが河口堰にギロチンが下りたときに倒れることとなった「原因者」、「加害者」と同じ役割を演じることになるから、はしょりはしょり、雰囲気だけを表現したいと思います。

コピーした中に、田名村の漁撈が分かるものがあるものの、漁法の記載が何でかが少ないから、寛文年間の大島村の漁法だけを紹介します。
相模川通運上左之通〈寅八月〉
   相模川運上左之通」から
ここに出てくる大島村の漁法は、
唐網船打 2件、唐網船三人乗二帖打 1件、岡打網 2件、鵜縄網 2件、淀網 4件、刎網 1件、鵜 4件、   
といったところ。それぞれに年貢代が書かれているから、その料金の比較から、漁獲量の多寡が考えられるかも。いや、同じ漁法でも、価格の違いがあるから、それ程単純ではないかも。
鵜は、一羽を操るものであるが、3倍の格差がついているよう。
一番高いのは、3人乗りの唐網船打ちであるが。

保存食の製法
滝井さんが、長期保存が出来るように作られていた焼き枯しや、紀ノ川の小高さんが短期保存用に作られていた焼き鮎は、手間に間がかかりすぎて、大量に生産出来ないのでは、と思っていた。
望地での地引き網漁をされていた人が、ハヤも鮎も含めて、捕れた魚を茹でた、そして、天日干しにしていた、と話された。
この方法は、いりこ・煮干しと同じ作り方であるから、大量に保存食を生産出来る。
ただ、世の中に食糧が満ち足りてきた、そして、電気冷蔵庫が増えていた、氷が比較的手に入りやすくなった昭和三〇年代後半でも行われていたのか、確かめたいが。
なお、長良川から伝わったと記述されているオダカアミは、紀ノ川の小高さんと関係があるのかなあ。ただ、刺し網の一種と記述されているから、投網ではないから、小高さんとは関係ないとは思うが。

保存食について、川那部先生は
「『延喜式』に載るアユは多くが保存用で、火乾・煮乾・煮塩・塩塗・押・鮨などである。そして製塩技術は縄文後期に関東に現れるのが最初と聞く[]。火乾しはそれより遙かに以前から行われたに違いなく、特に産卵期のアユによるそれは今もなお盛んに作られ、正月料理には必ずこれを使う地方も現存する。」

煮て、干して、の、保存食の作り方が、あった、と分かり一安心。
狩野川は上島橋の所の宿、囮屋さんは、焼いて、弁慶に差して干し鮎を作っていた。その干し鮎を正月に雑煮に使うと、旨い出汁が出る、と。
産卵期のアユの火乾しは、どのように調理しているのかなあ。

ついでに、ちょこっと、サケを覗いて見ましょう。

      7  鮭様
川那部先生は、「動物の資源量からみた漁撈」に、「サケ――その遡上量」、「~その漁獲」を記述されている。
この紹介の前に、岩井先生の「旬の魚はなぜうまい」と、黒田明憲「江の川物語  川漁師聞書」(みずのわ出版)」に久々に登場して頂き、「江の川のサケ」の章で、「人為」で、溯上が阻害されることのなかった時代の雰囲気をみましょう。

岩井先生は、
「   サケはだんだん切って食うから終わりには頭だけになった。その頭も描いたのち
    三平汁(さんぺいじる)にして食ってしまった。子供の頃は信州で暮らしたから、
    塩鮭をよく食わされた。塩鮭で飯を食うというのは、貧乏暮らしの形容になった
    ものであるが、塩鮭はうまいものだ。安いといって馬鹿にする必要などない。

 余技の画題に好んで魚を選んだ小林勇さんは、随筆『鮭』で、塩鮭の味をこのように回顧している。冷凍・冷蔵設備が整っていなかった時代には、塩鮭は塩昆布とともに数少ない日持ちする食品だった。脂やけして塩をふいていても、サケの切り身はつねに弁当のおかずランキングの上位に君臨していた。

「産卵のために日本の河川へ帰ってくるサケは、近海を回遊するほかの魚とちがって、漁獲の対象となる季節は限られている。産卵間近のサケが北海道の沿岸海域に現れるのは九~一二月で、これを北海道の人は親しみをこめて『秋サケ』あるいは『秋味(あきあじ)』とよんで賞賛する。

 接岸初期には産卵群の体色は銀白色で銀毛(ぎんけ)とよばれ、身は赤みをおびて味も良い。アキアジは捨てるところがなく、鮮魚は和洋各種の料理に使われるほか、スモーク・サーモンや缶詰に加工されるし、卵は筋子やいくらになり、頭は氷頭(ひず)なますや三平汁などにして珍重される。また、冷凍・冷蔵設備が完備した現在では、あま塩や脂やけのしない『新巻(あらま)き』ができる

 秋サケはひとたび川へ入ると、飲まず食わずで川の流れにさからって泳ぎつづけるだけでなく、生殖巣の成熟に多大のエネルギーを消費するので、いちじるしく体力を消耗し、体のあちこちに大きな変化が起こる。まず体表に婚姻色が現れ、色模様が変わりはじめる。赤色と黒褐色が混じったぶち模様が現れ、ブナの木肌に似ているところからブナ毛とよばれる。遅れて接岸する産卵群は、海中ですでにブナ毛になっている
 
ブナ毛の成熟が進むにしたがって婚姻色は濃くなるが、色の度合いによってAブナ、Bブナ、Cブナと分けてよばれることがある。ブナ化した雄のあごは先端が鋭く曲がり、いわゆる鼻曲りザケになる。

 初期のブナ毛は鮮魚としても塩蔵用としても食用になるが、婚姻色が強くなるにしたがって肉質が劣化して商品としての価値は下がる産卵後のブナ毛が精も根も尽き果てて死ぬと、ホッチャレとよばれ、もはや食用にはならない。」

「ブナ化現象は古くから知られていて、越後のサケについて、すでに鈴木牧之(ぼくし)さんは『北越雪譜』に、

     初鮏(はつさけ)の貴(たつと)き事、江戸の初鰹魚(はつかつお)にをさをさをとらず。
     初鮏は光り銀のごとくにして微(すこし)青みあり。肉の色紅(べに)をぬりたるが如し。仲冬の頃にいたれば身に斑(まだら)の錆(さび)いで、
     肉も紅(くれな)ゐ薄し。味もやゝ劣れり。此の国にて川口長岡のあたりを流るゝ川にて捕りたるを上品とす、味(あじわ)ひ他に比すれば十倍也。

と、記している。」

岩井先生は、ブナ毛になって生じる体の組織の成分変化、浸透圧調節作業と性成熟に伴う内分泌系の活動も書かれているが、新巻鮭の食い気だけを考えることにして、省略。
北越雪譜の長岡の「鮭」は、「秋サケ」と呼ぶのかなあ。ホッチャレではないが。

さて、村上のイヨボヤ会館では、新巻鮭をつくるイベントがあったと思っていたが、見当たらない。かってはやっていたが、現在は行われていないのか、どうかは分からない。
そこで、H・P「(株)又上」に、塩引鮭の作り方が書かれているので、それをはしょって紹介します。

鮮度のよい雄鮭を使い、塩蔵作業をして10度以下に保存する。その後、塩抜き、洗い、乾燥をする。
乾燥は寒風下で7~10日ほど乾かす
気温が高い、雨が降って湿度が高い、風がないとすぐに傷がつく、とのこと。

ということから、新巻鮭をつくる作業は、11月頃以降となるのかなあ。そうすると、岩井先生が、冷凍、冷蔵設備が出来たことにより、新巻鮭をつくる時期が、溯河する前でも可能となり、「秋サケ」を荒巻用の食材として使用出来るようになった、と書かれているのかなあ。

H・P「新潟県・村上市・荒川サケ(鮭)釣りの宿」の「いずみやブログ」に、毎年行われている完全エントリー制の荒川の鮭釣りを、安全が保証出来ない天候の時以外、つまり、釣り人が天候が悪くても鮭様を軟派せざるを得ない時は、休むことなく、河を駆け回っている女将さんが、鮭様の料理を書かれたこともあると思うが。ことに、旦那さんが8千円?の会費を払って鮭様のナンパに成功したときは、その料理について書かれていたと思うが。
数年前、8歳?の子供が、ルアーで鮭をかけて、「そんなにひっぱらないでえ」と、可愛い声で叫び、取り込んだことは覚えているが。

村上は、亡き師匠らと三面川の支流高根川であゆみちゃんを堪能したときに駅前の宿に泊まったこと、サボMらと21世紀になってからビジネスホテルに泊まり、皆様と数種類の〆張り鶴を呑んだこと位しかない。
いや、それよりも相当前、1月1日乗り放題の切符を使い、冬の村上に行ったことがある。夜汽車利用であるから、31日の午後12時までの切符を別に買う必要はあったが。
朝、秋田について、稲庭うどんを食べるつもりは、元日に働いている店がなく、惨めに。次に村上で、鮭を食べようと降りたもののの以下同文。
駅付近をうろついているとき、軒先にいっぱい鮭がぶら下がっている風景を見た。それが寒風さらしということは、いつ頃捕れた鮭なあ。ブナ毛になっているとは思うが

こんな経験しかないのに、無謀にも鮭様に挑戦する気になったのは、川那部先生が、ホッチャレにもその価値を書かれているから。いや、「グルメ」が荒巻鮭の意味でのみ、あるいは上位の位置づけが与えられる前の食材としての鮭についても書かれているから。
川那部先生の前に、江の川での鮭状況を見てみましょう。

黒田明憲「江の川物語  川漁師聞書」(みずのわ出版  2002年出版)
この中の「江の川のサケ」の章を紹介します。

「江の川にも浜原ダムの下までは毎年サケが遡上して産卵する支流の濁川(にごりがわ)(島根県川本町)は鮭の産卵が目の当たりに出来るというので、十一月三日の前後になると、道路脇に車が止まる。~」

「川原に腰を下ろして三時間、やっとのことでペアが出来た。やがて、メスが身体を横にして大きな尾びれを動かしては小石を払いのけ川底を掘り始めた。カマを掘るというのだそうだ。長さがほぼ一メ-トル、幅も深さも三十センチぐらい。この間、オスはメスを守るように周囲をぐるぐる回り続ける。時折、他のオスがちょっかいを出して侵入しょうとすると、敢然と立ち向かう。一時間ばかり経ったとき、寄り添っていたオスが口を大きく開いて体を揮わせながら白い液体をふりだした。休むまもなく、メスが痛んだ尾びれで砂礫をかぶせだした。

 全精力を傾けて産卵を終えたサケの夫婦は、カマの周囲を回りつづけていた。時計を見たら午後四時半を少しまわっていた。随分と弱っていたので、明日の朝は岸辺に横たわっているのだろう。まもなく七十になる私であるが、すっかり興奮して会う人々に話したところ、みんな、しっかりとサケの思い出を持っておられた。

『わしらの若い頃までは、サケはえっと(沢山)上って来とった。ここの地先のとこだけでも百や二百じゃあない、ぐらぐらするほど上って来とった。この周りの川は小砂利でしょうが、じゃけえサケが産卵するのに都合がよかったんじゃろう。浅瀬のあちこちにホリ(カマ)を作っとたよ。

 おお。そうじゃ、若い頃サケを獲った道具がまだあったはずじゃ。持ってくるけえ、ちょっと待っとりんさい。

 ほれ、これこれ。このヤスでサケを突いて獲ったんよ膝ぐらいまで川に入っての。じーっと待っとってサケ上って来たらぱっと突くわけ
 ヤスの歯が大きいじゃろ。やっぱり他の魚とちごうてサケぐらい大きゅうなったらこのぐらいないと逃げられるんよ。それとこのヤスはサケを突いた後、ヤスと棒がとれるようになっとる。ほいで、ヤスについとる紐を持っときゃあ、サケがいくら暴れても、紐がぐにゃんぐにゃんするから逃げられん。で、最後に弱ったところを獲るというわけ

 女の人も獲りょたよ.それ言うんが、サケが上ってくる時期が、ちょうど、川岸で漬物にする白菜や大根を洗う時期と一緒なんよね。そこへ卵を生んで弱ったサケが、ゆらゆらゆらゆら流れてくるんで、手でひょいっと獲って、たらいの中に入れて、洗い終わった白菜やら大根やらと一緒に持って帰るわけ。中にゃあ、二匹も三匹も獲って帰る人がおったよ』 
 と中山辰巳さん。

『三次のサケどころじゃあない。わしらあ子どもの頃にゃあ、学校へ行きしなに(行く途中で)川で顔を洗ようったが、サケがウジャウジャ寄っとるんで、両手でサケをかき分けて洗いようった。弁当のおかずは毎日イクラじゃった。』
 作木の﨑川功さんも負けてはいないが、彼はまだ五十代。親からの口伝かも知れない。

『サケという魚は四年経ちゃあ、必ず生まれた川へ帰ってくるそうじゃが、なんぼ汚れた川でも、故郷の川がええんかのう。なんでも水の匂いを覚えて帰るということじゃが。考えてみりゃあ、おまえもまちへ出てぶらぶらしとったのを、親を見るいうて帰ってみたんじゃけえ、サケみたいなもんよ。まあ、サケと違うところは、水の匂いだけじゃあのうて、親の匂いで帰ったところがええ

 珍しくしんみりと中山さんはつぶやく。
『会長、子どもらにもサケのことをよう勉強させんさい。そがあすりゃ、若いもんがまちから帰ってきますで。これが一番の過疎対策よ
 と私に話の矛先が向けられた。そのとおりである。Uターンをした川漁師たちは、みんな川に惹かれ、親の匂いに惹かれて帰ってきたのである

 昭和のはじめ、江の川最初の発電用ダムが出来た鳴瀬堰堤のサケの思い出を語る川漁師は、
『堰堤の下には、よう遡上せんサケで、川底が見えんほどじゃった。寄贈したヤス・ヒッカケ・サケアミはみんなその頃ももんですで。よけい獲った時は、ハラを抜いて、漬物桶に塩漬けにしたり、囲炉裏の上の火床やホテで乾かして、冬に食べたりしよった。これが証拠じゃけえ』
 といって古い新聞の切り抜きを出した。
 見れば一九二四年十月の新聞記事で『作木で鮭豊漁』の見出しがあった。
 江の川が暮らしと結びついていた、よき時代のサケの思い出話は尽きない。」

黒田さんは、
「私も十三の歳まで海を見たことはなく、もっぱら山が遊びの舞台だった。小学校の一,二年生の頃までは、祖母に連れられて、ふき・わらび・ぜんまい・きのこを採りに行き、それを過ぎると、友達とあけび・くり・山ぶどうなどを宝捜しのように探し歩いた。

 教職に就き、二十代後半に神野瀬川で友釣りを知った。アユの味覚もさることながら、川魚のなかでも最も素早いといわれるアユを獲ることのほうが、動かない山の幸を採るより私の性分に合ったのだろう。清流にかかる橋の上から、岩に残る食(は)みあとを見てはアユの大きさを想像し、岩しぶきのなかで腹をかえすたびにきらりと光るアユの姿に心をおどらせた。すっかり川に魅せられた私は夏休みになると、生徒たちと一緒になって川遊びに夢中になっていた。」

「こうした川との縁で、学校を退職後、広島県立歴史民俗資料館から、
『江の川流域の漁撈用具を収集して、国の重要有形民俗文化財指定を受けたいので調査協力を』
 という依頼を受けた。

 やがて、川漁関係者を中心にした江の川水系漁撈文化研究会がつくられ、資料館の学芸員や研究会の会員と一緒に、ひたすら漁具を求めて流域を歩いた。
 漁具を自分でつくり、使った人達の多くは七十歳以上である。十年ひと昔というのなら、三昔も四昔も前の時代の漁具であるが、漁具を前に川漁にまつわる苦労話や川への郷愁が語られた。ほぼ同じ年代を生きてきた私には、『ほんのひと昔まえ』のことのように聞くことが出来た。漁具と一緒に生きざまもいただいたのであるが、語りが昔に向かえば向かいほど心に響いた。」

黒田さんは、一九三四年生まれ。オラよりも少し年上。
前回、「江の川物語」を紹介したときには気がつかず、抜け落ちていた、と、気になったことがある。
それは、
1 サクラマスは、どのような漁であったのか。 
  キギュウ=ギギ漁や、炭鉱で望まれるようになるまでは、商品との認識がなかったザガニ漁の話も聴かれているのに、サクラマス、ゴギ、ヤマメ漁の話を聞かれなかったとは、想像しがたいが。

2 素石さんが、保護魚となった西條川流域等のゴギの調査をされている。江の川に、横断構造物がなく、海との往き来が出来ていたとき、ゴギは下河していたのかどうか。
素石さんは、下河していたと判断されているように思えるが。(故松沢さんの思い出:補記3「毒流し」


昭和30年代半ば頃、三江線には松江から乗ったのではないかなあ。江津からかなあ。
夕暮れ迫る三次駅の眼下に江の川と町並みを見て、さらに先の終点で降りた。夜汽車まで、一,二時間あるから、散歩。駅前でも食堂はなく、街灯もない。幼児の孫とおじいさんが走ってきて、そっちに行くと山だ、と、注意してくれた。駅前から10分、20分歩くと山へと入っていく場所にある駅。
新見から姫新線に入り、大阪に行く汽車が着くと、10人、20人が降りてきた。乗るのはオラだけでは。その人達にとっては、夜汽車ではなく、通勤の汽車。
なお、庄原よりも三次寄りで終点になったのは、気動車ではないかなあ。

その三江線が、廃線対象とのこと。早く、宝くじよ、当たってくれ。
サケだけでなく、人も戻ってこないようで。
三次にある歴史民俗資料館は、季報や図録等も発行しているとのことであるから、それらを読めば、河に横断構造物がなかった頃のお魚のことが、何か分かるかも。
新見には、黄昏時に降りた記憶がある。どこからどこに行く途中かの記憶はなし。
にもかかわらず、新見で降りた記憶だけがあるのは、駅前の食堂に、猪がつり下げられていたから
アルツハイマー症候群に、部分的な記憶が残る、との現象もあったのではないかなあ。それだけではなく、覚えられない、すぐに忘れる、と、正常にジージー化している。
太宰「御伽草子」は、世の中の解釈と真逆の見方をするから大好き。
「浦島太郎」は、乙姫様は、太郎が見知らぬ人々のなかに戻っても、生活出来ない、追憶に浸るしかない、ということで、玉手箱を持たせたのであって、約束をたがえたためにジジーにしたのではない、と。
そろそろ、川那部先生に戻らないと、そのことすら、忘れそう。

(四) サケ――その遡上量」から
「サケの産卵魚の数については、日本には意外に資料ががない。殆どが人工孵化用に捕らえられてしまうからである。そこで今、一九五〇年代後半の北海道の河川での漁獲量を推定産卵場の大まかな面積で割るという極めて大雑把な計算をしてみると〔〕、知床半島とその周辺の川で一平方メートルあたりの尾数は〇.一桁、常呂・釧路・十勝川あたりで〇.〇一桁石狩・天塩川や道南の川へ来ると〇・〇〇一桁台となる。

 別の推計もやってみよう。サケは産卵にあたって産卵床を掘る。その大きさは直径約一メートル、深さ約五〇センチで、一対の雌雄は二~三個の産卵床に卵を埋め込む

そして、すでに卵の埋設されている場所を掘り返せば、その卵は死滅することになる。ところでこの産卵に当たってはまた、水深の浅い、泥土や細砂の少ない、湧き水のある場所が選ばれる〔〕。こういう産卵可能なところが川の中にどの程度あるかは必ずしも明らかではないが、水面面積で五分の一程度とすれば、一平方メートルあたり平均〇.一尾くらいが最大数となり、重さにすれば二〇〇グラム程度だ

 サケの背を踏まずには川が渡れないとか、群れの中に立てた旗竿が倒れぬとかの話は多いが、本流を溯るときはともかく、産卵場あたりの密度をとってみると、サケの遡上数はおよそ以上のような値になる。なお、最近の海中での稚魚飼育などと関連して、例えば岩手県の漁獲量は三〇倍に達したというが〔〕、これは産卵場問題を考慮したものではないこともあって、残念ながらここでの計算には加える頃が出来ない。」

「(五) サケ――その漁獲」

「サケの価格は現在、時期によってかなり変わるもののようだ。沖取りのものよりは沿岸に接近したものが高値であり、川を溯るにつれて徐々に下落し、産卵に入ったものは著しく安価で、産卵後のものは値段がないに等しいという。脂の乗りに関連した味の変化に対応するものである。

 しかしこれは、現在の調理・保存法とも関連することに違いない。第二次大戦前の比較的塩度の高い新巻鮭においては、もう少し脂の抜けたものが珍重されていたように記憶する。塩蔵でなく火乾しや燻製にするとなると、多量の脂肪の存在は加工にあたってむしろ妨げになる筈だ。そうだとすれば、産卵中あるいは産卵後のもののほうが保存用として遙かに適当だったのではあるまいか。

 それはともかく、上り梁を用い、いや、やすやもりを使えば、多量の漁獲の可能であったことは間違いない。時代はずっと後になるが、北大構内から堰状構造物とその近辺からサケを中心とする魚の歯骨が大量に見つかったのも[]、今後の解明に役立つだろう。産卵後の個体ならば、手づかみにしあるいは拾うこともできたこと、疑いない。
 サケはやはり、縄文時代でも重要な漁獲物だったに違いないのである。」

現在、村上でつくられている新巻鮭の食材としての評価とは異なる保存食としての「評価」が、存在していたことに言及されるとは、流石、川那部先生。
サボZにいわせると、現在は、脂っこい食材が好まれるようになったのでは。そのため、アユの継代人工でも違和感を感じないのでは、と。

「資源量の変動と漁撈」から
この章には、ゲンゴロウブナ、シジミ等、人が利用していた魚介類の生息量、季節変化、年変動等に係るお話しが記述されているが、恣意的に選択して一部を紹介します。

常に淡水にいる魚の生息
「縄文時代の貝塚からは、少なくともコイ・ウグイ・ギギが見つかっているという〔〕。また時代は極端に下がるが、その中に縄文型と弥生型が見られる[]との『斐太後風土記』には、イワナ・ヤマメ・アマゴ・ウグイ・オイカワ・カワムツ・アジメドジョウその他と、海へ下らぬ魚の漁獲が記録されている[]。」

ギギュウ=ギギが江の川で特産である、ということにびっくりしたが、縄文人も食べていたとは。
ギギと出会ったのは、湖産放流全盛時代に黄昏がやってきた平成の初め頃の千種川の上郡。ゴンズイのような魚が釣れた。子供さんと川原にやってきた人が、ギギである、背鰭等に毒がある、と教えてくれた。
分布はどこまでかなあ。関東にもいるのかなあ。

「こうした常に淡水にいる魚についても、先のような推定は出来ないものだろうか。アユの場合の一平方メートルあたり五.四尾という最高の実測値は、じつは収容能力の限界にかなり近いものであることが、アユの餌である藻の生産速度やアユ自身の摂食や成長の速度から判っている[]。またサケの場合には、川では餌問題はないので、産卵場から有効収容能力を計算してみた。しかし、川の中で一生を送る魚の場合は、生活史のどの時期のいかなる条件が収容能力を決めるのかが、すでに難しい問題である。いや、収容能力はおろか、現存量を調べた資料も数少ない。

 琵琶湖における一九六〇年代前半のゲンゴロウブナの産卵魚の総数は、ざっと三五〇万尾程度である[]。これを成魚の餌であるプランクトン植物の生産速度と比較すると、成長や死亡を考慮に入れて、そのおよそ一桁多い数でもやって行ける。すなわち、成魚の食物量だけから考えた収容能力は、水面一平方メートルあたり平均〇.〇五尾、数百グラムという程度だ[]。

しかし仔稚魚の生息場所から考えてみると十分に成長可能なのはプランクトン動物の量が一リットルあたり五〇個体以上もある水草地帯に限られ、そこでの仔稚魚の密度は一平方メートルあたり三〇尾が限度だという〔〕。実はこの仔稚魚は同じフナの仲間でも種が違うのだが今はそこは目をつぶるとすると、同じ水草地帯を交代で年三回使い、かつ生存率を一パーセントとして、先の成魚〇.〇五尾を維持するには、琵琶湖全体の五パーセント以上の立派な水草帯が必要ということになる。

ちなみに水草帯は一九六〇年代前半でたかだか一.二パーセントであり〔〕、現在はこれよりも遙かに減少している筈だ。」

駿河湾、相模湾での植物プランクトンの繁殖量、そして、それを食べて繁殖している動物プランクトンの繁殖量は、どのようなメカニズムになっているのかなあ。光合成、栄養塩で、植物プランクトンの繁殖量が一義的に規定されるのかなあ。植物プランクトンが潤沢であれば、動物プランクトンも潤沢になるのかなあ。それとも、他に何らかの条件が存在するのかなあ。
そして、その繁殖量は、なんで、嘗てよりも低下したのかなあ。

宍道湖での水面一平方メートルあたりの平均漁獲量、そして、その意味合いは省略。
宇川でのアユを除いたイワナ、ヤマメの現存量も省略。

省略した部分の現存量が、限界とすると、
「ゲンゴロウブナについての先の一つの計算結果が数百グラムに達したのは、アユと同じくそれが植物を直接に食うためだ

 そして、ここで一つの重要なことは、こうした淡水魚は多くの場合、一か所に集中して存在するのではなくて、機会的(ランダム)かあるいはむしろ分散的に存在していることだ。

少なくともサケやアユの溯上や産卵場に見られるような集中は、比較的少ないのである。このことは明らかに、漁獲法に違いをもたらす筈だし、またそのたやすさも異なってくるに違いないものなのだ。」

セタシジミや、ヤマトシジミの現存量およびその意味合いも省略。

「(三) 季節変化をめぐって
 サケが川にいるのは秋だけだ。アユは春から秋にかけてで、その現存量は成長と死亡の様式から見て、春から夏へと著しく増加し、その後はやや減少する。淡水魚は多くが多年生で何回も産卵するから、いつの季節にも存在し、現存量は一般に春から秋に増加し、秋から春に減少する。

 漁獲自体にも季節的な変動がある。サケについては言わずもがな。アユは古い時代には春と秋、特に秋に偏って捉えられたのではないか、とは、先に述べた通りだ。琵琶湖のような大型の湖の魚で、しかも通常は沖合で生活するゲンゴロウブナの場合、網を使うにせよ、もんどりや筌を使うにせよ、容易に捉え得るのは明らかに産卵期である

 これに対して小さい湖や池や川では、漁獲のたやすさに先のものほどの季節変動はないのではあるまいか――淡水魚の場合の話である。もちろん、イワナやヤマメは初春に最も釣りやすいと聞くし、『斐太後風土記』で漁獲量の最も多いウグイは、千曲川あたりでは今も有名なように、初夏の産卵期に捉え易い。柴漬漁業は冬に最も盛んだし、筑後川の『鯉とりまあちゃん』のする抱きすくめ法も冬のものだ。しかし一般的には、海と川を往復する魚などに比べて、季節変動は少ないとみてよかろう。

 こう考えてくると気になるのは、季節変動の地理的分布である。淡水魚に限らず海産魚を視野に入れてみても、東北日本の漁業には著しい季節性があり、西南日本ではそれが少ないのではなかろうか。果たしてしからば、前者では一網打尽の漁獲法と長期保存技術が発達し、逆に後者の地域では比較的低密度で一様に分布する魚の漁獲法と短期保存の技術とが発達する必要があったとも言え、それに伴って社会のあり方も異なったかも知れない。しかし真面目に言えばこれは、ハマグリで行われたような〔〕縄文期の採集物の季節変化の資料が提出されてから、改めて論じるべきことであろう。」

「鯉とりまあちゃん」の親戚?は、雄物川にもいた。
雄物川さんは、農業青年が、釣りなんかしていたら、ぐうたら息子には嫁をヤレン、といわれていた最後の世代のよう。
ヤマメの釣り人は秋田などの都会人のやること。
しかし、農業青年も年に一回?だけ、さくらちゃんをだっこして、宴会の食材とすることができた。田植えが一段落した頃ではないかなあ。

20メートルほどの囲い込み網を、雄物川の支流に張り巡らせて、サクラちゃんが逃げられないようにして、いざ出陣。
さくらちゃんをだっこして自慢するが、なかには、だっこしてすぐに延髄にかみつき、さくらちゃんを口にくわえた状態で浮かび上がるものもいたとのこと。

現在は、雄物川が平野に入る附近に堰があり、鮭もサクラマスも、ヤズメも遡上出来ないとのこと。
それでも、雄物川さんは、田圃のほうが大切じゃあ、と。
ヤズメを堰下で捕ることは出来るが、臭いとのこと。港の水が悪いのでは、と。
それで判った。雄物川さんが、相模川、中津川のアユを故郷に送っていることが。
最上川のほうが、魚道があるだけ、まだましか。

雄物川さんは、昭和30年代後半頃の相模川を知っている。
まだ津久井ダムも、磯部の堰もない。小沢の堰も。
夜網は禁止であるが、高田橋付近で、芸者を乗せた屋形船の酔客を喜ばせるために、網打ちをして喝采を得た、と。
その芸の披露は、雄物川さんが懇ろにしていた芸者さんから頼まれたのでは、と妄想しているが。
望地の「地引き網」については、対岸の右岸側で行われていた「囲い込み網漁」と同じではないか、と。その場所は、右岸道路沿いにあった工場の明かりが川面を照らしていたから、アユが集まってきて、夜明け前のドブ釣りには最適でもあった、と。投網も大漁だったかも。

        8 「(四) 年変動をめぐって」
「宇川におけるアユの生産量は、過去三〇年間にほぼ二桁変動している。明白な環境の変化に伴っている分を除いても一桁は明らかに変動しており、その原因も海で生活する期間にあるはずというだけで、それ以上は今のところはっきりしない〔〕。

琵琶湖のアユについては一九五〇年代前後のものが解析されており、産卵魚の数と産卵期の洪水の状態のほか、冬季には密度依存効果とイサザとの競争とが変動原因となっている〔〕。また溯上期の川と海との水温差が働くらしいとの資料もある〔〕。それはともかく、アユの溯上数の年変動がかなり大きく、それが川での生息数にそのまま効いてくることにはあまり疑いがない。」

オラは、海の植物プランクトンの繁殖量は、光合成が大きく変動するはずはないから、栄養塩の多寡が作用して、それを食する動物プランクトンの繁殖量が一定の量が上限となっているのでは。そのことが、、相模川での大量遡上の翌年の遡上量激減になっていると、妄想していた。しかし、それ程単純な話ではないよう。ましてや、「アユの本」の海水温が高いときは、捕食者が多く、その翌年?の遡上量は少なくなる、という捕食者数が原因でもあるまい。イサザとの競争類似の現象が、海でも捕食者との間で生じているというのであれば、その説明がいるでしょうなあ。いや、イサザと稚鮎の競争は餌資源に基づくもののようであるから、「捕食者」が登場することはなかろう。

イサザとの食べものの競合
そもそも、イサザとは何か。イサザとの競争とは、食べものに起因するのか。
初めての図書館の開架室に水野信彦ほか編集「日本の淡水魚類」(東海大学出版会 1987年発行)があった。
川那部先生と同じ釜の飯を食べられたと思っている水野先生は信頼出来ると確信している。それで、水野先生関連の本を注文した。それらは来年に。
そして、「イサザ」をコピーした。
「イサザ」は、高橋さち子先生執筆
また、原文にない改行をしています。また、脚注があることを示す番号の記載も省略します。

イサザは、琵琶湖のなかにだけ棲む琵琶湖固有種で、ウキゴリやビリンゴと同じウキゴリ科に属するが、イサザだけは純粋の淡水魚とのこと。
「この魚は琵琶湖の漁業において重要な種であり、イサザ漁は、沖曳きと呼ばれる底曳き漁法である。漁場はふつう水深四〇~五〇m、深いときには九〇mに達するが、この底曳き漁法でとれるのは昼間に限られる。

しかし日没とともにイサザは一斉に浮上し、夜間は動物プランクトンが濃密に分布する表水層下部から水温躍層上部を遊泳する。このように昼は湖底、夜は表層近くにと日周的上下移動を繰り返しながら生活している

 ところが春三月になると、成熟したイサザがエリと呼ばれる沿岸の定置網に入るようになる。産卵のため岸への回遊を始めたのである。石の多い湖岸では、イサザは波打ち際まで接岸し、四月末~五月初めになって石の裏側に産卵する。孵化した仔魚はただちに沖に流され浮遊生活を始め、七月から底生生活をするようになる。」

稚鮎とは、動物プランクトンの取り合いがあるということのよう。
このハゼとしては特異な生活史をもつイサザの起源について二説があるとこのと。

(1) 沖合型のハゼ・イサザ
 琵琶湖は五百万年の歴史をもつといわれ、位置と湖盆の大きさは、さまざまの変遷をへている。現在の位置に深い大きな湖として成立したのは比較的新しい時代だが少なくとも三〇万年以上前からと考えられている。琵琶湖成立によってできた沖合の広くて深い水域には、魚などの大きな動物は初めのうちはいなかったはずだ。競争相手や捕食者のいない、広大な淡水域ができたのである

 現在、琵琶湖の沿岸や流入河川には二種のハゼが生息している。おびただしい数のヨシノボリ(橙色型)と少数のウキゴリ(淡水型)とである。両者はともに日本全域はもちろん、東アジアに広く分布する両側回遊魚である。深くて大きさ琵琶湖が誕生したとき、すでにこの二種は湖の河川に生息していただろう。

琵琶湖の歴史のいずれかの時点で、これらのハゼは湖沼陸封型へと変化したはずだが、それは彼らの生活史を大きくかえる必要のないものだっただろう。湖の沿岸がヨシノボリとウキゴリで占められれば、さらに第三のハゼが割り込む余地はなかったのではなかろうか。しかし、新生琵琶湖の沖合の広大な水域は、第三のハゼつまりイサザが成立する新しい生活の場を提供することができたに違いない

 現在のイサザは、夜には餌プランクトンが豊富で水温の高い上層で活発に摂食し、昼には低水温の湖底にいて、エネルギーの経済の点からも効率的に琵琶湖沖合の空間と資源を活用して生活している。

ところがイサザにとって問題なのは、沖合には産卵する所がないということである。イサザの卵は沈性付着卵で石の裏面に産みつけられるが、沖合には泥底で石がない。湖底の水温が周年一〇℃以下であることも産卵条件としては具合が悪いだろう。湖岸での産卵は、ふつう水温が一三℃前後に上昇するのをまって行われる。湖底は水温が低すぎるのだ。

 仮に沖合の湖底に産卵できても、孵化した仔魚が困る。仔魚は孵化後直ちに水面に泳ぎあがり、空気を鰾(注;ひょう?ふえ?)に取り込む習性がある。あまり深い所で生まれてしまっては、水面まで泳ぎ上がるのが困難になる。したがってイサザは産卵だけは、おそらく先祖の産卵様式をそのままに湖岸の石の裏に生むために回遊するのだろう。

 せっかく生活の場を琵琶湖沖合に求めることによって在来のハゼとの競合を回避しえても、産卵を沿岸で行えば、生活史の重要な時点でヨシノボリとの競合にさらされるのではないだろうか? 実際に琵琶湖岸の産卵場で観察してみると、イサザとヨシノボリとの競合は、極めて巧妙に回避されていることが明らかにされた。

 イサザは三月には湖岸に回遊し、三月下旬にはつがいで石の下にひそんでいるものもあるが、まだ産卵にはいたらない。産着卵は四月下旬から六月上旬まで約一か月半にわたってみつけることができる。ただし、大部分の産卵は四月末あるいは五月始めに集中して行われるようだ。

雌を採集出来たのは四月中だけで、産着卵とそれを守る雄も、五月半ばをすぎると激減してしまう。産卵最盛期と思われる日には五〇cm×五〇cmの方形中に二六尾のイサザと、それにみあうおびただしい数の卵塊が数えられたこともあり、空間的にも時間的にも高密度に、一斉に産卵している様子である。

 この産卵最盛期の日中の水温は、一三℃ほどに達するが、この水温ではヨシノボリはまだ活発に泳ぎまわることはできない。ところが、イサザの産卵が終了した五月末頃、水温が二〇℃ほどになると様相は一変する。観察のために水にはいっていくと、ヨシノボリが非常に多く感じる。実際には方形枠をおいて数えてみると、生息密度は冬の間と変わらず五〇cm×五〇cmあたり一~二尾しかいない。

しかしこの頃になると非常に活発になってきて、次々と観察者の足元に寄り集まってくる。また、数尾ずつの一時的な群れをなして石の下をのぞきながら泳ぎまわったりもする。このような行動のために、一見数が多くみえたものらしい。六月には産卵のための巣づくりをする雄も観察される。」

「イザザが早期に産卵を済ませることには、ヨシノボリとの競合を回避する意味あいがあるに違いない。イサザがもし活発なヨシノボリとであったらどうなるだろう。

実験的に水槽のなかでイサザとヨシノボリを同居させてみると、四月末~五月始めの水温に相当する一三℃ではイサザががヨシノボリに妨害されることなく繁殖活動ができる。しかし六月頃に相当する二〇℃にすると、ヨシノボリが活発に動きまわり、イサザは繁殖行動を途中で放棄してしまう。何とか産卵までいたったものでも、二~三日でその卵をヨシノボリに食べられてしまった。

あたかもイサザは活発になったヨシノボリに対する効果的な防衛・攻撃の行動を進化させていないかのようにみうけられた。たとえ二〇℃をこえる高温にしても、ヨシノボリがいなければイサザは順調に繁殖行動を行い、高い繁殖成功を示した。イサザ自身の生理的能力としては六月頃の高温条件下でも十分産卵ができる。

イサザは水温の低いうちに産卵することでヨシノボリとの競合を避け、また高水温になると多数現れる仔魚の捕食者を避けているのだろう。

 だがイサザの産卵は早ければ早いほど良いのかというと、そうはいかない。早いものはすでに三月末に湖岸に来て、つがいをつくって石の下にひそんでいるが、産卵は始まらない。水温が低すぎるのだ。水槽内で観察しようとするとする場合に、水温一〇℃以下ではなかなか産卵しないものを、一五℃くらいにあげてやると、たちまち産卵する。こうした生理的性質は、実はイサザの生活にとって非常に合理的な意味をもつ。
 
仔魚の餌となる動物プランクトンの増殖が始まるのは四月以降だからである。五から六月になると卵から成体にいたるまでのあらゆる段階のいろいろは大きさの動物プランクトンが、いろいろな大きさの仔魚の餌として豊富に供給されうる。

 イサザの産卵期は、仔魚の餌条件とヨシノボリや捕食者の活動のために前後から板ばさみにされ、短期間に集中していると考えられる。生活の場から離れたところに回遊して、餌も食べずに行う繁殖様式からも、産卵期は短い方が合理的であろう。」

水温と性成熟・卵成熟が、イサザとヨシノボリでは異なる説明は省略。
イサザの起源・祖先についても省略。
なお、イサザの塩分濃度に対する耐性が弱く、「八〇%以上の海水ではほとんど死亡する」、ウキゴリ(淡水型)の仔魚は塩分濃度に耐性が強いとのこと。

という不思議なイサザと稚鮎が動物プランクトンをめぐって競合していることは何となく判る。
しかし、時間での競合はないのでは。稚鮎は夜はねんねしているのでは。
そうすると、稚鮎よりも成長段階が進んでいるイサザがまだ孵化してからあんまり時間を経過していない稚鮎の方が動物プランクトンにありつけにくい、ということかなあ。とはいえ、動物プランクトンの大きさは一様ではないと思うから、大きさに関しての完全競合がないといえるのかなあ。
まあ、妄想はやめて、イサザというへんてこな魚が琵琶湖にはいて、稚鮎と同様、動物プランクトンを食べているということにしておきましょう。

水温差が溯上に影響するということは、房総以西の太平洋側では顕著ではないと思うが、東北、日本海側では雪代の収まる時期が遅れると、海アユの成長に著しい影響を生じるよう。
数年前のこと。越後荒川に行った。二週間?ほど雪解けが例年よりも遅れて収まった、と。二週間位の遅れでは、成長に影響することはない、あるいは僅少と思っていた。
しかし、大石川合流点付近の瀬で釣れるのは八月というのに、15センチ以下の小学生、中学生。その瀬尻では放流ものの20センチ位のものが釣れた。
成長段階のある時点での食糧不足がその後の成長に大きく作用するとは、戦前、戦後の食糧不足を経験したものにとっては、何となく理解出るように思えるが。

またも外来物質が琵琶湖に侵入
2017年春の琵琶湖では、稚鮎の採捕量が著しい不漁とのこと。
イサザとの動物プランクトンの競合とは違った原因に起因するとのこと。
それは、北米産の植物プランクトンが大量繁殖して、在来の植物プランクトンの繁殖が僅少であったから、とのこと。

北米の植物プランクトンは、在来の植物プランクトンよりも大きく、在来の動物プランクトンは食べることができない
そのため、動物プランクトンの繁殖量が激減したとのこと。
当然、稚鮎は餓死する。

冷水病がニジマスの養殖によってもたらされ、「湖産」放流全盛時代の終焉をもたらしてまだ20年足らず。
今回の外来植物プランクトンはどのような事態をもたらすのかなあ。
桂川に放流されている「湖産」は、温水療法?等の、キャリアであるが、冷水病原菌の増殖を抑える、等の効果ある措置が施されて、今や、桂川詣でが繁盛している。
放流ものは、氷魚からの畜養であろうから、外来植物プランクトンの繁殖の影響は受けないであろうが。
とはいえ、今秋の氷魚は激減するのでは。

また、川那部先生に戻りましょう。
「サケについては、沿岸全体の漁獲量変動ぐらいしか資料がないのだが、第二次大戦前四五年間の値は二~三倍程度、戦中戦後を含めると八倍というのが、東北四県での数字だ〔〕。河川ごとの値はもっと振れる筈だが、周知の通りサケには母川回帰の習性があるので、この値から著しく外れることは通常ではあるまい。

 これに対して生粋の淡水魚の現存数の年変動は、大洪水のあとはともかくとして、どうもあまり大きくないようである。」
その魚ごとの事例とその理由を記述されているが、省略。

海の魚の漁獲量変動は北で大きく南で小さいようだ。環境変化の様式からみて一般的な見方にもかなっている。ところでこの環境変化は淡水にもあてはまるそうだし、そのうえに西南日本の方は淡水魚の種類構成が(さらにおそらくは食物連鎖関係も)うんと複雑だから、個体数ないし現存量の年変動の程度は、各種を別々にみても全体を一括しても、東北日本では大きく西南日本では小さいのではあるまいか。なんの資料も出さずに言うのだから、信用されなくてもいたしかたはないが、生態学の常識からみれば、そうなっていても不思議ではないので、敢えて言い過ぎさせて貰う。

 現存量の年変動は、もちろん漁獲量の変動に結びつく。一般的に言って、現存量が一定限度以下に下がると捉え難さは著しく増加するから、そこでは漁獲量の変動幅のほうが大きくなる。逆にある限度以上に漁獲量が増えれば漁獲の必要性が小さくなって、そこでは漁獲量の変動幅のほうが小さくなる。すなわち、横軸に現存量を縦軸に漁獲量をとってグラフを作ってみれば、立ち上がりは急で右へ行くに従って傾斜が緩やかになる。上に凸の曲線が得られることになる。

 それはともかく、変動する資源に対しては、人間も動物と同様、その平均ではなくその下限を基準にして対処しなければならない。そして動物の場合は一般に、資源の変動のあまり大きくない状態では、定住し、特定の資源を利用することが、逆に変動の大きい状況の下では、移動しあるいは多くの種類の資源を利用することが有利と考えられている。

人間の社会についても、こういう論議が成り立つのかどうか、多くの方々の意見をお聞きしたいものだ。」

「現存量が一定限度以下になると捉え難さは著しく増加する~」ということはようく判る。
もちろん現存量が多くても釣れないから、単にヘボだけじゃあ、と、いじめっ子がおっしゃるでしょうが。
2016年、相模大堰副魚道の遡上量調査では15百万、しかし、磯部の堰の魚道上部の水量が増え、魚道の流速が稚鮎の遊泳力、持続力を上回り、遡上出来ず
県産継代人工だけであれば、釣れなくて当たり前、ではあるが、沖取り海産の直放流がウデ達者には釣れていたが、オラには釣れず。もちろん、ウデ達者も、磯部の堰を遡上出来ていたら、50匹は当たり前、となっていたでしょうが、10匹、20匹が上限。

中津川では、第二漁協下流の魚道に水が流れるようになったのは、2番上りの頃では。それでも、遡上出来る才戸橋魚道下流までは2015年の1千万の相模大堰副魚道の遡上量のときと同様、溯上不可能な才戸橋魚道上部とは違い、漁獲量が桁違いに。
いや、単に川那部先生が書かれている漁獲の困難さの問題のミスリーディーリングですね。

「(五) 資源の過剰開発をめぐって」 から
「狩猟圧あるいは漁撈圧が資源を枯渇させるにいたったかどうか、それを避けるための手段が技術的にあるいは『宗教』的に存在したかどうかどうかは、なかなか議論の多い問題だと聞く。」

秋道先生の「海・山・川の資源と民俗社会  なわばりの文化史」(小学館ライブラリー)を登場させたくてもできないほど、オラのおつむの容量を超える故に、「無視」している分野。
にもかかわらず、「厚顔」を発揮して、川那部先生のアユとサケだけを紹介します。というよりも、「なわばりの文化史」の領域を主題としていないため。

「アユの個体数の年変動はかなり大きいものであった。また親の数が子の数に影響を与える傾向の認められた琵琶湖の場合にも、冬季には密度依存的効果の現れることが知られている[]。また一腹卵数は数千から数万に達するから、一般的に言って、相当多数の人々が数年以上にわたって産卵期のアユを獲る場合を除けば、資源枯渇をもたらすのはそれ程容易ではあるまい

 サケの場合、その一腹卵数は数千程度だから、親魚の体重あたりにすればアユのおよそ百分の一である。従ってこれを産卵以前に捉えれば、資源に影響を及ぼす可能性なしとしない。また母川回帰性はかなり高いから、一旦枯渇すると隣の川からやってくる可能性が著しく小さい

このような点はアユと異なるところだ。だが先に述べたように、保存用としては産卵後のものが良いとか、せめて第一回産卵後のものを選んで捉えるようにすれば、資源への影響はかなり、あるいは著しく小さくなる筈である

 そういう点で問題の生じるのは、いつの季節にも漁獲可能な淡水魚にあるのではないか。そしてこの場合には、サケやアユのように漁獲量を現存量で対比する方法では済まない。過剰開発かどうかを論じるためには、漁獲速度と生産速度とを対比しなければならないし、もっと正しく言えば生産速度から自然死亡速度を引いた余剰生産速度と対比しなければならぬのである

 例えば琵琶湖のセタシジミの場合、年間漁獲量一三グラムは現存量の二五グラムはもちろん、年間生産量の一七グラムよりも小さい値だ。しかし実は年間の推定自然死亡量が七グラムあまりあって、従って全死亡量は二〇グラムあまりとなり、年間生産量を二〇パーセント近くも超えてしまうのだ。すなわち、いわゆる最大持続生産量[]以下になっているのである。」

学者先生の海アユの産卵時期が「10月、11月」説に基づく?11月15日再解禁は、「資源の過剰開発」を引き起こしていると確信している
先日、四万十川には釣り人がいない、との話があった。
高知県は、11月15日から、今も再解禁をしているのでは。「アユの本」や「アユ学」の学者先生の海アユの産卵時期を10月、11月が「適切な観察」であるとすれば、再解禁で影響を受けるのは、翌年の3番上りだけ、となるはず。
しかし、故松沢さんや仁淀川の弥太さんのように、「西風が吹き荒れる頃」・木枯らし1番が吹き荒れる頃から産卵のための下りの行動とを含めて、「そわそわする」とするとの観察が適切であるから、1番上りとなるはずの産着卵を踏みつぶし、2番上り、3番上りとなる卵を生む親の大量殺戮となる。
学者先生が、「正しい」と確信している海アユの産卵時期が、「資源の過剰開発」を意図せずして実行していることに気がつくことがあるのかなあ。
「天然アユの本」まで出版されていらっしゃる方ですから、気がつくことはないのでしょうなあ。
数匹の耳石調査の結果で、海アユの産卵時期を確定するとは、ヘボのオラでもびっくり。しかも、耳石調査が適切に行われているか、どうかも大いに疑問ですが。

コイ科の魚の年間漁獲量は現存量の四~五分の一程度に止めなければならぬ勘定になる。」
勘定の仕方は省略。
にもかかわらず、不完全な紹介行ったのは、
「ただ、例えば天竜川上流部における『珍味ざざむし』(水生昆虫・幼虫)の利用などは、魚がかなり減少している状態で成立したものではあるまいか。これは私の単なる想像である。」
を、紹介したかったから。

伊那の出身の同じ職場の者が、食いもんがなかったからざざむしだけでなく、蝉やなんとかも食べた、と話していた。まだ、この説明に納得はしていないが。
昭和40年代の初め頃、新宿にザザ虫、蝉の幼虫、蚕のサナギ、蜂の子、それから、なんとかを食べることのできる居酒屋があった。その時しか、ザザ虫を食べたことはないが。
相模川のザザ虫をつくだ煮にして食べたいという気にならないが。

川那部先生の最後は、大きな、というか、長い時間軸のお話しで。
「縄文時代から弥生時代へ」の章の「(一)温度変化と魚たち」から

「縄文草創期はいわゆるウルム氷期を含み、同前期には縄文海進期が存在する。それらの時期に温度がどれほど低下しあるいは上昇したかには種々の説があるようだが、ウルムの最寒期には七~一二度、縄文時代の始まりの頃には三~七度低く、海進期には二~五度高いといった所らしい[]。

 海と川を往復するアユやサケ・マスは、この気候変化に伴って溯上する河川が変わったに違いない。アユの分布北限は、最寒期には九州・四国からせいぜい紀伊半島までだったろうし、海進期にはオホーツク沿岸にも広く分布していた可能性がある。これに対してサケの分布南限は、最寒期には九州南端よりも南に達していた筈で、海進期には逆に本州北部には達せず、北海道に限られたかも知れない。

サクラマスに至っては、最寒期には台湾沿岸に達したことが確実であって、その証拠に今も大甲渓の上流にはサラオマス(タイワンマス)が生き延びている。そして最寒期の北海道では、サケよりはもう一つ寒冷地に適応したイワナの仲間、すなわちアメマスやオショロコマの勢力の方が強かっただろう。

 私は以前に、川の石に付着する藻類の生産速度が、最寒期には現在の四~六分の一になったのではないかと推定してみた[]。これが正しいとすると、例えば琵琶湖周辺の川のアユの生産速度は、現在のそれの四~六分の一,いやそれ以下に落ちてしまう。水生昆虫の量などを試算したことはないが、一般の淡水魚の生産性も川や浅い池では、小さかった可能性が高い。
 また魚は、けものや鳥と違って変温性の動物である。従って体を維持するだけのために必要な摂食速度は、温度が低ければ少なくて済む。しかし食欲とでもいうもののほうは、各種ごとにある限度内では温度の高いときが太く、従って成長も温かいほうが良い。アユは二〇度を超えると急に成長するし、大西洋側に棲むブラウンマスでも、成長は一六~一九度といった比較的高温のときに大きい。」

「縄文後期からスギが増加し、弥生時代に入ってマツが優勢になることは、花粉分析から知られている事実であって、人間による森林利用によるものであることも周知の通りだ。ところで森林における昆虫の現存量は、一般に広葉樹林で多く針葉樹林で小さい。川魚のうち、浮き魚と称せられるイワナ・ヤマメ・ウグイ・オイカワ・カワムツなどは、水面上から落ちる昆虫への依存性が高く、イワナやヤマメではこの餌の供給の良い場所から順に個体が占拠し、その順に大きくなって行く[]。量的な試算は極めて困難ながら、こういう影響もあったではあろう。また、土砂の流出量が増大し、自然堤防が作られるのも弥生時代とされる。このような状況もまた、少なくとも渓流域の魚にとっては悪い方向への動きであって、良好な条件の出現とは言えまい。」

       9 格好良く は、星の彼方にある?
故松沢さんの思い出を閉じる晩春になった。
「格好良く」に、少しでも近づきたいとの心意気を示すことになるのでは、と思って当てにした本が、雑誌が見つからない。そのため、例年のごとく、締まらない終わり方になる、と、例年通り、言い訳だけは達者ですが。

その手に入れることができない本とは、川那部先生が、「狩猟と漁労」の中の「動物資源量からみた漁撈」の、[]に記述して下さっている典拠の文献を整理して下さっているところに記載されている本・雑誌です。
「川那部浩哉・水野信彦・宮地伝三郎・森圭一・大串竜一・西村登  一九五七『溯上アユの生態Ⅱとくに生息密度と生活様式について』【生理生態】七,一四五 ― 一六七頁。」です。

古本に2件ほど存在しているが、高い。
近辺の図書館の蔵書検索をしたが、見つからない。都立多摩図書館は、雑誌の蔵書に特化しているが、「アニマ」同様、検索しても出てこない。
いや、見つからないから良かったかも。オラのおつむでは理解不能の現象が記述されているかも。

ということで、「アニマ No.43  特集アユ」(平凡社 1976年発行)で、追憶に浸ることにしましょう。
太宰「御伽草子」の浦島太郎は、約束を違えた故に、乙姫様の怒りに触れて、老人になった、という通常の理解とは異なり、見ず知らずの人々のところで生活することはできない、老人の特権である追憶に浸るしか、生きていけない、という、太郎の不幸を回避するための玉手箱、乙姫様の恩寵の玉手箱、と。
そう、オラも「アニマ」にかこつけて、追憶に浸ることにしましょう。
原文にない改行をしています。

石田力三「瀬付き  アユの産卵行動をさぐる」は、「学者先生はそう言うが」の枕詞で始まる故松沢さんの話の原点かも。
もちろん、その頃は、「アニマ」ではなく、石田さんの本しか読んでなかったが。
故松沢さんは、もう一つの枕詞「鮎に聞いたことはないが」、を、枕詞に使われていた。今から思えば、この二つの枕詞は使い分けられていたのではないかなあ。
「学者先生はそう言うが」は、「人為」が関与している現象を、「自然」現象と混同している事例であり、「鮎に聞いたことはないが」は、観察を適切にしておれば、オラでも気がつく現象であったかも。

石田さんは、全国内水面漁業組合連合会の「アユ種苗の放流と現状と課題」に、上方側線横列鱗数で、湖産、海アユ、継代人工を識別する調査報告で、福井県が、17枚ぐらいで、「海アユ」と識別していることに、何らコメントをされていない。その会の責任者であるにもかかわらず。ちなみに海アユの側線横列側線鱗数は22枚。湖産は、24枚から27枚?

その片鱗が「瀬付き  アユの産卵行動」にも色濃く出ているから、その問題だけを見ましょう。
利根川の産卵区域は、河口から「175.4~233.8」キロの記載だけで十分でしょう。
鈴木魚心さんも、前橋付近で産卵している、と観察されている。
ほんまかいな、といいたくなる。

流下仔魚が「7日分」?の弁当を食べ尽くす前に、動物プランクトンが繁殖する海まで、あるいは汽水域まで到達出来るんでしょうかねえ。
長良川河口堰が出来て、長良川の溯上アユが激減し,岐阜県が長良川のアユを「絶滅危惧種」に指定した時のすったもんだは、河口堰によって生じた止水域が、「弁当」を食べ終わる前に動物プランクトンを食べることのできる海に到達できないことに、和田さんら、学者先生が気がつかなかったことが寄与しているのでは、と、げすの勘ぐりをしているが。 
利根川は、デレーケが滝のような川と表現した常願寺川とは違い、ソウギョの卵が流れながら孵化出来る流速の川ですから、とても弁当を食べ尽くすまでに、海に、汽水域に到達出来るとは思えませんが。

なお、産卵場について、相模川は、河口から4.3~19.0, 狩野川は、3.4~20.8kmとのことです。
相模川でいえば、昭和橋付近かなあ。狩野川ではどのあたりかなあ。大仁には、河口からの距離が表示されているが、忘れた。

釣り自慢の鈴木さんを含めて、「トラックで運ばれてきたアユ」と、溯上アユの産卵場の違いを意識していない「学者先生」丸出しの観察ですなあ
ちなみに、相模川の溯上アユの産卵場は、小田急鉄橋下流のウンキロ付近、狩野川では、千歳橋?附近。

なお、東京湾に注ぐ荒川の産卵場は、「76.3~106.6」キロと記載されている。利根川と荒川の関係が判らないが、「アユ100万匹が(注:「多摩川に」)かえってきた」で、東京湾にアユが生存出来るようになった時からのアユのルーツが、利根川→荒川に親が、あるいは流下仔魚が、移動したことによる、との見たてをされているが、相模湾の稚鮎が、三浦半島を周り、東京湾に入り、1年、2年、あるいは3年かけて多摩川にも溯上したのではないかと思っている。母川回帰本能のないアユであるから、徐々に相模湾の稚鮎が、東京湾に広がったと考えている。

あるいは、千葉県側の養老川等の流下仔魚が、東京湾で稚魚期を生き残り、東京湾の水質改善で、多摩川付近にもやって来るようになったのでは、と、想像している。

なお、川那部先生は、「アニマ」に、「氷期の繰返しのなかで  アユの形成と進化―なわばり構造を中心に」を書かれている。
その中に、「図1―A  キュウリウオ科の系統」が記載されている。
この図が理解出来れば、アユの誕生までの系譜がより愉しくなるが…。
当然、「図1-B  現代における各種の分布」も理解できるおつむがあれば、いっそう愉しく読むことができるが…。

アニマの「特集座談会  アユの世界」は、「アユの博物誌」に掲載されていて、すでに紹介済みではあるが、少しは、あゆみちゃんの生活誌に係る理解が「進化」しているかも、と思い、再度挑戦します。
原文にない改行をしています。

古の遡上量
「桑波 ~戦前に比べるとやはり魚種は減って、六〇種以上もいたのが今は二五~六種よりおらないですね。それでも、公害問題もずいぶん取り組んだし、農薬も制限されて来て、川が少しずつきれいになって来て、数は大分増えてきました。

アユで言えば戦前、巻網をもって支流へでも一ぺん行くちゅうと、四キロぐらいは一網でとれたもんですが、四~五年前はせいぜい四〇〇~五〇〇グラムの間でした。ところが去年あたりから、天然溯上が非常にたくさんになりましてね。一回行くと2キロぐらいとれるようになりましたわ。

桑波さんは、由良川漁業協同組合の組合長。「組合員が二四〇〇人、遊漁者がおよそ五〇〇〇人という程度です。」
組合員が、関東と比べて多いのか、少ないのか、判らない。何となく、多いような気がするが。そのことと、関西の川の日釣り券の高さが関係しているのかなあ。
このアニマの座談会は、昭和51年に行われている。公害3法ができて5年ほど後のこと。

「桑波  ~おやじが一七年生まれで(注:明治)、言うておったのは、網というようなものはなかった。それで小川あたりでは、水の道を変えては、いかけ(ざる)や何かを持って行ってとりよったそうですがな。それから瀬付(産卵のために浅い瀬に群がること)時分になると、こう盛り上がっておりますんで、カイコはんの網ですな。あれとかほうきとかで、ざあーっと河原へ引きあげて取りよった。それに一本ヤスで突いとったんです。

網がでけたのは六〇年ほど前で、おそらくうちのおやじが一番早う買うたんじゃないかと思います。ところが、もう、そらごついこと魚がおりよって、川原へ跳んで上がりよったちゅうぐらいらしいです。

 こないだの戦争中でも、一時間も行ったら大きなびくに一杯になって、そいで近所ではその魚はもらい手がなかったぐらいですわ(笑)。『こんなくさいもん、食えるか』ちゅうんですから。香魚というくらいやさかい、確かに匂いありますわな(笑).それがだんだんこういう珍重されるかたちになりまして。『あれ食わなんだら、夏が過ぎん』ちゅうのが祇園あたりで出て来まして、妙なことになったもんですね。」

今や、「香」魚は夢幻に
村上先生の女子大生は生臭い匂いがするから嫌い、と。
さて、由良川のアユは、戦前までどのように販売させていたのかなあ。焼き鮎?、焼き枯し?いりこのように、煮て天日干し?
アユが商品として販売されていなかったとは、考えにくいが。

網の使用開始は、遅いのではないかなあ。海で使用されていた網の転用かなあ。萬サ翁のように、糸から編んでいたのかなあ。
もし、川魚用の網ができていたとすれば、その製造法の伝播は早いのかなあ、遅いのかなあ。

大量に溯上していた鮎は、
「 桑波  大きいなんて――.サバみたいなやつがとれよったんですね。組合の事務所にも残してますけんな。大体四〇〇グラム。ちょうど土佐のアユみたいなもんですわ。あんなのがこの由良川にもウジャウジャおりよったわけです。」

溯上アユがいっぱいいるのに、大きい。川那部先生もこの現象の説明ができず。故松沢さんは、腐葉土をとおして沁みだしてくるミネラル一杯のコケがあった。それが、おからのように栄養分のないすかすかのコケになってしまった、と。
おからの名誉のためにいうと、昔のおからは十分にうまかった、機械絞り?で、豚の餌にしかならんおからになったのではないのかなあ。

さて、人工鮎の逃げる能力すら乏しい、ということは、鵜が大量繁殖している現象と関係しているのかなあ。
アユという名前を食べているという人工産アユのお味はその後変化したのか、あるいは、「天然」アユがそもそも一部の人しか食べることができなくなり、人工鮎の味しか流布しなくなり、無意味と化したのか、このような問題はおいておいて、湖産の東先生の二群への変化の兆しが記述されているかも、と、げすの勘ぐりをしてみましょう。

湖産について
「 東  いちおう四つにしたんですけどね。春早くに周りの川へ上がって大きくなるグループー私はAと呼んだものです。それから川へおそく上るBグループ夏中ずっと湖にすんでいて大きくならんで、産卵期にはじめて川へ上るCグループ。それから、湖の中にいるが岩礁地帯にすんで、かなり大きくなるやつ。ちょっと素性のわからんやつですがこれがDグループ。BとDはまだわからんところがあるけど、AとCははっきりしてますね。」

「 東  びわ湖だと、Aの早いやつは二月末から上りますね。Bと呼んだやつは七月八月にも上る。九月になるとCが上る。上る時期だけ見ても、非常に多様なんですね。

 岩井  何でそんなにたくさんに分かれなあかんのですか。
 東   それがわかったら苦労しません(笑)いろいろの形質とか体形とか消化酵素の強さとか調べたんですけど、数的な形質でいうと、脊椎骨ではAが数が多くてCが少ない。これは最近、西田睦君が有意の差を出しました。それから背びれや尻びれの軟条数で行くと、Aは両方とも多く、Bは両方とも少ない。ところがCは背びれは多いが尻びれは少ない。

 川那部 ちょっと待て待て。夏のあいだ湖におるCが、一番早く産卵するんやったな。
 東   そうそう。
 川那部 つまり水温の高いときにCが発生して、それからB,さらにAになると、水温が低くなってから発生する。『水温の低いところで発生するものほど数的形質においては、数が増える』というのが一般原則やった筈やから、脊椎骨数はいちおう話に合うとる。ひれの軟条数はどう説明したの

 東  もう論文書いてから間が経って忘れてしもうた。ちょうど持って来ているから拾い読みしますとね(笑い)。

『集団Aの早期溯河群において、ともに多くの条数を持つ傾向は、最もおくれて産卵する群に由来する……。集団Bの晩期溯河群における逆の傾向は、それらが比較的暖かい時期に産卵期を持つ……。』

 原田  そこまでは理くつに合うとる。
 東   『集団Cの溯河産卵群は最も早く産卵し、発生初期の子魚はいっそう高温下で過ごす。そのため一般的傾向からすると、背びれ尻びれ条数とも、数が少ないという傾向が期待される。』

ここで皆森寿美夫さんの『大きさの法則』を出して、『高温適応型の集団Cにとっては、水温の低下は、低温適応型の集団Aが受ける以上にきびしい条件であろう。初期段階での発育の遅滞と冬期における成長の低下が、とくに集団Cで顕著なのはその裏づけであろう』。

そこでターニングのヨーロッパのマスの資料を引用して、『ところで、背びれは尻びれよりも遅れて水温の影響を受けはじめ、しかもかなり長時間持続するという事実が、アユにもあてはまると仮定すれば、集団Cの尻びれ条数は、高温条件下の発育初期にきまり、背びれ条数は、それよりおくれて水温の影響を受け始めて、成長速度の低下』。

これは相対的には発育の促進になるわけだけど、『に伴って、条数の増加が生じたとは考えられないだろうか』。まあ、ここでごまかしとるわけだけど(笑)。」

「びわ湖アユとその放流」
「 東  今のAが低温適応性、Cが高温適応性というのを、川那部さんの氷期説と関連させるとどうなりますかね。
  川那部  なるほどね。氷期にできたCのほうが高温適応か。高温適応そのものは良いけど、それが低温の影響を無茶苦茶に強く受けるというのは……。ちょっと困るかな。

 岩井  それに、びわ湖でどうして全部Cにならなかったのか
 川那部  そうそれ。前にも岩井さんに言われたけど、お手あげ(笑)。そんなことになっていたら、日本のアユ産業は全滅していたから、ならなかったのが幸いやということに、今日の所はしといて下さい(笑)。」

この中での背びれ、尻びれ条数の発現の違いが、東先生の湖産を二群に分類することへの変更への動機付けになったのかなあ。
そして、早期溯河のA群が大アユに、さらに、産卵時期が早い、ことにC群が子鮎になること。という説明では、早春までの、溯河期までの成長期間の長いC群が、そのまま子鮎で湖にとどまる、ということに矛盾はないのか、ということに疑問を抱かれていたのかなあ。
さらに、A群は、産卵時期が遅いため、翌年には、C群となり、逆に産卵時期の早いC群が翌年にはA群になるという、「選手交代」、性成熟に要する期間が不変ではなく、変動するという観察につながるかも、と勘ぐってはいるが…。

「アユの本」の著者が「天然アユの本?」を発行されたようであるが、海アユの、房総以西太平洋側の海アユの産卵時期を10月、11月と信じている方々の本は、出版されても、東先生らの本が出版されることは稀であるのは何でかなあ。

「原田  ほんまに親魚が不足しているのならね、例えば漁期を一日か二日短縮するほうがよいのとちがうかな。産卵期の禁漁期間を、少し早めからはじめるとか。

 桑波  産卵期の禁漁の最初の日あたりは、もう下って来ていますし、年によっては瀬付いているときもあります。親魚を入れるよりも、先生のいわはるほうが、ええかも知れませんなあ。」

原田先生らの悪夢
「 原田  親アユを放流するちゅうのは、妙な話ですけど、養殖アユを通って子供ができて、その子供が次の年に上って来て、とられて、また養殖君が入って……。なんか、家系がものすごく乱れてくるような感じがする。

 川那部  そらまさにそうや。それに人工産アユが入ってきたら、目もあてられん(笑)。

 原田  天然アユというのは、確かに溯上する段階では天然のところで溯上しとるけど、もとをたどると、全部養殖アユだったということになる。それも親魚放流するのは小型の鮎だとすると、積み重なると、メンデル流に考えるにしろ、何流で考えるにしろ、どういうことになるのかね。

 東  結局養殖アユの場合は、いわば保護されて育つわけでしょ。天然の場合やったら淘汰されるはずのものが、残って次の代に寄与する。そういうことになってくると、確かに原田さんのような問題が起こりますね。

 原田  今んところは、パーセンテージは大したことはない。だから純生物学的にはちょっとの間安心しておられるとしても、それじゃ何のためにやっとるかという話が、裏返しにでてくる。

 岩井  やはり、天然河川のアユをどうしていくかという話になりますね。」

故原田先生の心配は、海アユに関する限り、神の見えざる手により、危惧になったと考えて良いのでは。
1 湖産も、交雑種、継代人工は、浸透圧調整機能不全により、海の動物プランクトンを食べる機会を得ることができない。
もちろん、汽水域で生存する「シオアユ」と学者先生が呼んでいるアユもどきもいるが、海アユの生態系を乱すほどの量にはなっていないと思う。

2 海産親とするF1が、どの程度生産されているのか、わからないが、「トラックで運ばれてきたアユ」は、下りの行動を行わないで、産卵するから、七日分の弁当を食べ終わるまでに海の動物プランクトンを食する幸運に出会える稚鮎は少なかろう。
もちろん、川の止水状のところで、植物プランクトンが繁殖でき、それを食べる動物プランクトンがいて、しかも、生存限界以上の「ぬくい」水に恵まれる少しは、春に姿を見ることがあるが

2016年に12月には、相模川の弁天分流の湧き水の所に稚鮎が見えたが、年明けには見えなくなった。4月、その分流の下流のトロで、1匹、跳ねる稚鮎が見えていた。全滅はしていなかった。
2017年5月、昭和橋上流左岸の鯉が産卵する附近の瀬脇の流れに3,4センチ位の稚鮎が見えた。大きさから見て、「放流もの」ではない。トラックで運ばれてきた下りをしないアユの子供でしょう。例年よりも止水状のところが減ったこと、2月の気温が低かったことが、数10匹と数が少なく、また小さいことと関係しているのかなあ。
なお、例年「トラックで運ばれてきた」アユの子供の見える高田橋下流左岸の溜まりは、稚鮎が見えず。橋梁工事の影響とか、橋下流にブルが入り、河床をいじくったことが影響しているかも。

3 しかし、津久井湖産はどうなっているかなあ
始まりは、湖産を親とする子供であったが、上流に継代人工、交雑種、海アユの稚鮎の直放流、海アユの畜養アユが放流されて、青野原よりも下流で産卵することになったものはどうなるのかなあ。他の川に放流されないことを望むが。

4 故原田先生の危惧が現実化するかも。
2017年の春、びわ湖の稚鮎漁獲量が激減。
イサザとの動物プランクトンをめぐる争いとは異なる激減。
その原因について、A、B説とも、外来の植物プランクトンがびわ湖では大量繁殖して、在来の植物プランクトンの繁殖量が激減したことにある、と。
びわ湖の動物プランクトンは、外来の植物プランクトンが大きすぎて、それを食糧とすることができない
そのため、動物プランクトンが激減して、稚鮎が、餓死した。当然、イサザにも被害が及んでいるでしょう。

さて、Aは、外来の植物プランクトンは、北米の湖で生息しているもの。その植物プランクトンがどのようにびわ湖にやってきたか、については書かれていない。

Bは、オーストラリアに生息している植物プランクトンが、水鳥に運ばれてびわ湖にやってきた、と。
オーストラリアから、びわ湖に直行する水鳥はいないと思うから、赤道付近の湖、池で途中下車し、そこから、別の水鳥に運ばれて来た、ということになるのかなあ。
それでも、そのような水鳥がいるのかなあ。もし、いるとすれば、何で急に大量繁殖の現象になったのかなあ。

オラは、ブラックバスやブルーギルと同様、あるいは冷水病原菌と同様、人為によるものと妄想しているが。
そして、湖産の人工増殖が、現在以上に大規模に行われるようになるのではないかなあ。その結果、故原田先生の危惧が現実化する可能性があるのでは。

そのような大それた問題は、川那部先生らの薫陶を受けられた方々にお任せして、オラは「生理生態」や、東先生の湖産の二群にされたときの文を何とか探し出すことにしましょう。
ということで、酒匂川では、栢山の堰の下流側に砂礫が堆積して、堰との段差がなくなり、堰の所でも遡上ができるようになったから、松田地区でも溯上アユにお目にかかれるかも。その恩恵にあずかれるように、酒匂川に行きましょう。
大井川も、去年とは違い、溯上アユがいるかも。

東海大学出版会からでている「日本の淡水生物  侵略と攪乱の生態学」や、今年紹介したイサザについての「日本の淡水魚類」には、川那部先生らが登場している。
といことは、東海大学には「生理生態」があるかも
ありました。しかし、残念なことに相模原市民は利用できない。
サボSは、もうお仕事をしていないのでは。サボSをたぶらかして、各号の目次を入手しましょう。
ついでに、東先生の研究報告のやさしいものがないかどうかも、調べて貰いましょう。
これで安心して、溯上あゆみちゃんを求めて、うろちょろできます。

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