故松沢さんの思い出:補記12

 神奈川県内水面試験場は、なぜ、海
アユのF1生産が適切に出来ないのか
なあ
 (ラベルへのリンクが出来ません)
2018年の相模川は大量遡上であるが、
磯部の堰の魚道を上ったのは3番上りの
一部だけ   
 内水面試験場への意見書        
 今西博士はシロメの降海をどのように調査された
のかなあ
 和田さんは、今西博士が愉しむために
アマゴのフリーパスを依頼、と。
和田さんは、長良川近くで生まれ育った
だけ?
 シロメが降海しないと、山女魚→シラメ
→桜鱒と、
アマゴ→シロメ→カワマス
の相似説は完結しない
そのための調査と理解不能の和田さん
   
 「長良のアユ」を読んで
 駒田格知「長良川のアユ-40年間の
現地調査からー

   帯状に溯上したアユの描写
   しかし、三番上り
   1996年から、帯は消滅
 期待外れ
1 昭和終わり頃の記述は少しだけ
2 遡上アユの主Tル産卵場を長良橋から
  瑞穂大橋に想定
  =「トラックで運ばれてきたアユの
    産卵場の一つ
   
 「長良川のアユ」を読んで
:2
 墨俣は潮の干満の影響あり
遡上開始時期はいつ?
遡上アユの産卵場よりも上流で
  流下仔魚量を調査しても意味ないが
弁天の稚鮎の情景の続き 
   
 2月上旬に遡上を開始する?    
 「長良川のアユ」を読んで
:3
 「河口堰」における現象の検証と
駒田さんの違い





川那部先生の「偏見の生態学」から
 村上哲生先生らの「河口堰」
河口堰の川底の貧酸素化
川のポタモプランクトン繁殖
   河川棲プランクトンか
   その検証をされた村上先生ら
   渇水時は岐阜市より下流では
   4.6日かかり海へ
   滞留時間がポタモプランクトン発生量
   に

長良川の産卵場は?
砂利採取と河川「改修」の結果は?
「溝」川を作る工事方式
産卵場の上流移動
「溝」を,砂の堆積を好むオイカワ
、かまかつ等の現象はなぜ?
人工鮎の「教育し直す」必要
   
         
         

                神奈川県内水面試験場は、なぜ、海アユのF1種苗生産が適切に出来ないのかなあ。

2018年の相模川は、相模大堰が出来て、遡上量調査が始まって以来の大量祖遡上。
その量は、これまでの大量遡上の数倍。
にもかかわらず、友区では、中津川も、相模川も、遡上アユをだっこすること能わず。いや、
相模川には、3番上りの一部が磯部の堰を遡上出来たから、遡上アユの小中学生をだっこできた人もいるが。

とはいえ、相模川では、磯部の堰が、中津川では246のすぐ下流の鮎見橋の堰が遡上出来ず。
酒匂川でも、栢山の堰は、2017年同様、堰下流側に砂れきが堆積していて、どこでも遡上出来る状況にもかかわらず、遡上アユはいなかったと確信している。飯泉の堰の魚道の遡上阻害か、溯上期に河口で瀬切れが発生していたのか、原因は分からないが。

ということで、沖取り海産の直放流の幼児か、小学生か、3番上りか、何処かの養魚場から買われてきた第一漁協放流の継代人工の成魚放流か、4月終わり頃に寒川の堰で、ポンプで吸い上げられたという話のある遡上アユか、ということになる。
県産種苗の人工は、死に絶えたのではないかなあ。あるいは生存率は小さく、叉、大きく育つことがなかったのではないかなあ。

第一漁協放流ではないかと思っている継代人工は、大島、葉山、八菅に放流されたようで、釣り人を集めていた。
寒川の堰で汲み上げ放流された遡上アユは、中津川に放流されて、テク2らが、日向橋上流や橋下流の交番から入ったところで愉しんでいたこともあったが、量は少ないのでは。
ヒゲのサさんは、まともな大きさのあゆみちゃんを求めて、
小鮎川に出かけたが、駐車場が乏しいため、お気に入りの場所には出来ず。

角田大橋上流、平山橋には、静岡県の養魚場が生産したとの話のある
海アユのF1が放流されて、その成魚放流を愉しんだ人が少しいた。
オラは、囮屋さんの水槽で、そのF1を見ただけであるが。

1992年頃までは、狩野川では普通にF1を生産していたのではないかなあ。
当時は遡上アユが満ちあふれていた狩野川であるから、大見川の湖産、狩野川の遡上アユという知識だけで十分であったから、F1のことは何の関心も持っていなかった。囮として販売されていたアユは、F1ではなかったのかなあ。
1985年頃、群馬県の次に継代人工の生産に成功したといわれている相模川のアユとは元気度の違いがあるなあ、とは感じていたが。

神奈川県内水面試験場が、交雑種の継代人工の生産を止めて数年。
新たな種苗生産をしているが、海アユを親とするF1の生産をしているとの話はあるが、単純に海アユだけでの種苗生産ではない、との話があるが。
そして、交雑種の生産をした理由として、海アユだけを親とすると、弱い、小さい、大きな鮎にならないから、との話を20世紀終わり頃に内水面試験場で聞いた。
なんで、内水面試験場で海アユを親としてF1を生産すると、狩野川で生産されていたF1とは違う鮎になるのかなあ。

その状況は、房総以西の海アユの性成熟、産卵時期を「学者先生」の教義にしたがって理解していることが一因では、と妄想して内水面試験場に意見書を送付した。


       
内水面試験場に送付した意見書

房総以西の太平洋側海アユを親としてF1種苗を生産して下さい。

30ウン代まで生産されていた交雑種の種苗生産が廃嫡になってからも、房総以西の海アユを親としたF1の生産ではなく、何か、他者を加味した種苗生産をされているように聞いております。
なぜ、房総以西の海アユを親としたF1の生産が出来ないのか、疑問に思っています。
その種苗生産は、弱い稚鮎、大きくならない、との話がありますが、決してそのようなことはありません。

静岡県内の養魚場で生産されたF1が、○○おとり店の水槽に泳いでいます。
背びれの形状が,頭側が長く、しっぽ側が短いことから、海アユであって、帆掛け舟の背びれ形状ではないことから、継代人工ではありません。下顎側線孔数が、4対左右対称か、どうかは見ていませんが。

なぜ、海アユを親とした種苗生産が、欠陥種苗になるのか、想像しました。
1 海アユと、「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場所、流下仔魚を区別していない。

2 房総以西の太平洋側の海アユは、西風が吹き荒れる頃=木枯らし一番が吹きなれる頃から、下りの行動を含む産卵行動が始まりますが、その川漁師の勝れた観察、認識がなく、高橋さんや「アユ学」等、学者先生の房総以西の太平洋側の海アユの性成熟、産卵時期が、10月、11月とする教義に準拠しているのでは。

「天然鮎を川にたくさん遡上させるための手引き」での、流下仔魚調査における二嶺ピークの10月のピークは、絶対「海アユ」が親ではありません。11月のピークは海アユですが。ただ、11月12月の流下仔魚量はもう少し、ゆるやかなピーク形成ではないかと、想像していますが。

3 遡上開始時期は、東伊豆の情けない小川の丼大王の観察からも、3月10日過ぎから始まります。この点も、「天然アユを川にたくさん遡上させるための手引き」の相模川での観察と大きく異なりますが。

そして、1番上り、2番上り、3番上りで、大きさに大きな差が生じます。
故原田先生が、なぜ、大きさに差が出るのか、疑問を持たれていますが。
1番上りは、解禁日でも女子高生=16センチ~18センチに。7,8月には番茶も出花娘=19センチ~21センチに。3番上りは、11月でも小学生、中学生=10センチ~15センチに。
したがって、1番上りになる親,11月以降に乙女になっている22センチ以上の鮎を親にすることが、好ましいかも。
今年は、磯部の堰よりも下流には、その大きさの鮎がいっぱいいるでしょう。アユが多量にいるから、「大きくなれない」なんてことは「絶対に」あり得ません。
川那部先生は、「絶対に」と形容される観察は信用できないと書かれていますが。

なお、親の採捕時季が、「11月以降」が好ましいのは、湖産、継代人工が産卵をすませていないからです。叉、性成熟が進んでいるからです。学者先生の教義ではなく、観察眼の優れた川漁師の観察によりますが。

1992年頃まで、狩野川大橋上流・現在の自動車道がある附近の右岸側流れに鉄筋棒を立てた「通せん棒」が設置されていました。下りの鮎は上流に向いて、ゆっくりと下って来て、隙間の空いた鉄筋棒に違和感を持ち、中州に造られた「生け簀」?に導かれていき、落ちていきます。それを親にして、F1を生産していました。

親アユが海アユである、採捕時季は房総以西の太平洋側の海アユが性成熟をしている11月以降である、ということで、F1を生産されてはいかがですか。
○○おとり店のF1を見られてはいかがですか。
F1を生産された静岡県内の養魚場を調査されてはいかがですか。
そのためにも、学者先生の教義である房総以西の海アユの産卵時期が、10月、11月である、との呪縛から逃れることが必要ですが。
川那部先生は、長良川や宮崎県の川漁師との話から、東北・日本海側の海アユと、房総以西の太平洋側の海アユの性成熟・産卵時期が異なることに気がつかれていると思います。
ただ、宇川におけるような調査をされていないから、まだ、文にされていないと思います。

ついでに、東先生が、湖産を2分類に変更された時の文があれば教えて下さい。
東先生は、
A群   3月に遡上を開始。10月頃に産卵。
B群   湖で生活し、9月初め頃川に入り産卵する。

A群の子供は、翌年は小アユになる。
B群の子供は、翌年には大アユになる。
この「選手交代」をしていることに係る報告書が見たいと思っています。

成長期間だけを見れば、小アユの子供が大アユに、大アユの子供が小アユに、ということか理解できます。
しかし、そのためには、性成熟に要する期間が、毎年変わる、という現象が必要になります。十月十日ではなく、11か月、13か月、と親と子供では性成熟に必要となる期間、時間が変更するという現象をどのように説明さているのか。
叉、群れをどのように識別する観察をされたのか。
京大関係の雑誌ではと思っている「生理生態」に、何か手がかりがあるかも、と想像していますが…。


内水面試験場には、本文のほか、
故松沢さんの思い出補記5
海産アユの産卵時期は、「10月11月」であるとの教義としての「アユの話」と東先生の松浦川での流下仔魚調査結果
性成熟は水温でなく光線の影響?

故松沢さんの思い出補記7
「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場  海産アユの産卵時期
  竹内始萬さんの「下りをしないアユの観察」

故松沢さんの思い出補記8
本物の鮎と偽物の鮎の偽造ー前さん、萬サ翁の見方

丼大王行状記
2018年の遡上開始、4月4日、4月23日、4月30日、小川の解禁-1番上りの女子高生にうはうは  6月2日  7月9日  7月10日

なお、内水面試験場には、「多摩川に100万匹の鮎が戻ってきた」の送付を忘れた。


「トラックで運ばれてきたアユ」が下りの行動をしないで産卵している情景
2018年の11月1日頃から
、相模川の弁天左岸分流に二センチ位の稚鮎が見えるようになった。
この分流は、上流側は、本流からの流れ込みがなく、ヘラ釣り場の横から伏流水が出ている。そして、ヘラ釣り場からの水と合流して、チャラを形成し、本流の流れが壁になっているトロに流れ込む。

この状況で、
植物プランクトンが繁殖できるのか、どうか、疑問を持っているが

11月中旬には、ヘラ釣り場横の稚鮎は消えて、護岸に沿う流れのところしか見えなくなった。
12月1日頃は、チャラ状のところはどこでもいっぱい2,3センチの稚鮎がひらを打ち、叉、水面に平行に跳ねている。その量は半端でない
12月10日、寒い中、見に行くと、稚鮎が流れの方向で数メートルの範囲で見えるだけ。12月11日、そのわずかな稚鮎も消えた
トロに移動したのか、動物プランクトン不足で餓死したのか、水温低下で死んだのか。

高田橋下流側河原のところにあった上流とはつながっているが、伏流水が主で、下流側は本流とはつながっていない場所は、ダム放流で消えた。
昭和橋上流の左岸の伏流水の場所は、去年よりも小さくなり、また、上流の伏流水の溜まりへの移動ができなくなったから、今年は稚鮎の姿を見ることがないかも。
9月10月のダム放流の最後は、台風24号?によるダム放流で、ヘラ釣り場も、中州も水没。ただ、中州の木々は水没していなかったから、沖取り海産の直放流は、弁天でも避難できたものがいたのでは。

日々、分流にカワセミの撮影に来ている人も、稚鮎が消えたから、今年の撮影も終えるのではないかなあ。

H・Pのリンクがうまくいかず、叉、学者先生の本は発行されども川那部先生らの本が発行されず、いや、研究報告書は発表されているとは思うが。
と、故松沢さんの思い出のサボりの言い訳は多々あれど、ジジーに免じて許してちょんまげ。


               今西博士は、シロメの降海をどのように調査をされたのかなあ
今西博士は、萬サ翁から、シロメの発生時期、消える時期を聞くことは出来ても、降海をしているか、どうかは、自ら確認するしかないのでは。
和田吉弘「長良川のアユづくり」にそのヒントがあるのでは。もちろん、
反面教師として、の話であるが

和田さんは、「長良川のアユづくり」に、
今西先生と亀山先生が連れ立って私のところへ来られていうには、『オレはアマゴ釣りが大好きだ。君アマゴ釣りのフリーパスを何とか世話してもらえまいか』とこういうことなのです。天下の今西先生のお役に立てるなら嬉しいことでございますから漁業協同組合にお願いしてフリーパスをもらってきてさしあげました。ところがその後漁協の方から、『今西先生は仲間を一五,六人も連れしておいでになる。そういうことは早く聞かせてもらわねば困る』とえらいお小言を頂戴してしまいました。私の方では先生ご自身が釣りがお好きだからとだけ思っていたのですが、今西先生は子分をぞろぞろ引き連れて長良川にお出ましになったという、まことに今にして思えばおおらかな今西先生らしいエピソードでありました。」

「トラックで運ばれてきた」アユの産卵場所も、性成熟の時期も、遡上アユとは異なることに区別が出来ず、長良川河口堰の生物影響調査のアユを担当した和田さんらしい「エピソード」ですなあ。いや、エピソードというには余りにも悲惨な結果を生じたから、「戦犯」ですなあ。

萬サ翁でも、シロメが降海をしているか、どうかを観察するには、手段がないと想像できる。
残念なことに、今西博士の「イワナとヤマメ」、あるいは素石さんの本、カワマスを「サツキマス」と名付けてはどうかと、今西博士に相談された本莊さんの本にも調査の仕方の記述をいまだ見つけられない。
したがって、妄想することにします。

アマゴが夏の水温でも快適に生活出来るところは除外したのでは。そうすると、郡上八幡、美並は対象外になったのでは。
美濃よりも下流が調査の対象区域では
汽水域は、対象外にされたのでは。そして、1日だけの調査かなあ。数回行われたのではないかなあ。

亀山素光さんは、前さんの師匠であるが、オラが読んでいない記録が残されているかも。いや、前さんの「鮎に憑かれて六十年」を読み返しても、新しい発見が見つかるでしょうが。
それと比べて、
長良川に近い岐阜で生まれ育ったという和田さんの本は読みたくない。がきっちょの頃、川遊びをした、釣りをした、と書かれているが、ほんの数回の出来事ではないかなあ。
「~長良川でいいますと
河口から大体四十キロから、七十キロの範囲で産卵します。」
川那部先生は、長良川の産卵場所が上流へと変化している、と書かれているが、
それでもJR鉄橋、忠節橋?附近ではなかったかなあ。
流下仔魚が、七日分の弁当を食べ尽くすまでに四十キロを下ることが出来ますかねえ。

観察眼に劣る学者先生の本を読むことは苦痛であるから、止めましょう。
もっとも、故松沢さんと出会っていなければ、「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵行動も、遡上あゆみちゃんの生活誌を考えることはなく、和田さんら、学者先生と同じ狢になっていたが。
川那部先生は、長良川を見ただけ、と書かれているが、観察眼に優れた川漁師の話を聞かれて、和田さんとは異なる産卵場所を適切に理解なさっている。
トラックで運ばれてきたアユの子供を遡上アユの産卵と理解した和田さんが、もし、適切に溯上あゆみちゃんの産卵場を、流下仔魚の下りの行動を理解していたとしても、河口堰の建設が行われなかった、といえなくても、長良川の遡上アユが絶滅危惧種と位置づけられることは、少しは軽減されたなのでは。
かわいそうな溯上あゆみちゃん。

継続した観察が必要、ということは、相模川の弁天分流での沖取り海産の直放流の子供である稚鮎の変動からも観察できる。
12月10日頃、ほとんどの稚鮎が姿を消した。日々、カワセミの撮影に来ていた人も。
しかし、
12月20日、叉、護岸沿いのチャラに、二,三センチ位の大きさの稚鮎が、12月1日頃とよりは、少ないとしても、相当量が見える。

カワセミ撮影者も姿を消したから、「トラックで運ばれてきた」アユの子供が姿を消したと見てよかろう。
12月20日の稚鮎は、新たに孵化した者?
産卵場所は?親はどこにいる?
この稚鮎がいつ姿を消すのかなあ。寒いからあんまり見に行く元気はないが、たまには見に行きましょう。

               
「長良川のアユ」を読んで:1

駒田格知「長良川のアユ-40年間の現地調査からー」(2016年発行 岐阜新聞社)


一応、期待したが、またも外れ
1 昭和の終わり頃の長良川の溯上あゆみちゃんの生活誌が記述されていると期待したが、その記述は少しだけ。

2 
遡上アユの主たる産卵場は、JR鉄橋付近よりも下流ではなく、「岐阜市長良橋から瑞穂市穂積大橋の間にあると思われる。」
「(河口から40~50キロ上流)」


そして、
穂積大橋を主たる流下仔魚採集地点とされているが、そこでは七日分の弁当を食べ尽くして餓死した流下仔魚が多数採集されているにもかかわらず、「トラックで運ばれてきたアユ」の子供ではあるとは気がつかれていない。
定量分析的手法で、いかにも、「科学的」調査であるかの体裁をとっていても、
JR鉄橋あたりから下流を溯上あゆみちゃんが産卵場としていることに、なんで気がつかないのかなあ
「長良川の場合、産卵・孵化場はかなり上流で」と、産卵場を想定されているが、なんで、それが妥当か、適切か、その判断、観察となった根拠には、嫌みとしての興味はあるが。

川那部先生は、時折、長良川に行かれただけとはいえ、長良川の川漁師のお話を聞かれて、
JR鉄橋付近から下流を遡上アユの産卵場と考えられている
和田さん同様、駒田さんも、溯上あゆみちゃんの生活誌を観察する能力に乏しいと考えている。
ということで、外れの観察に付き合うのは、愉しくはないが、故松沢さんの溯上あゆみちゃんの生活誌を少しは聞いたものとしては、学者先生の観察に異議を唱える義務はありますなあ。

とはいえ、昭和の終わり頃の記述がちょっぴりとあるから、 それを紹介しましょう。

(4)長良川を遡上するアユ
 
1980~1990年代には、毎年5月上旬以後になると、長良川墨俣から穂積の区間の岸側を、アユが群れて遡上する、いわゆる“帯”が観察された。この帯は幅1.0から1.5mで、その長さは500mを越える場合もあった。アユが隊列をなして遡上していくのである。アリの行列もよく知られているが、アリの場合は一列であるのに対して、アユの場合は帯の幅一面にアユ、アユである。この帯は岸辺から約1m、水深30センチの、河床が小石のところに見られる。少し失礼とは思ったが、この帯(隊列)の中にタモ網を入れてみた。アユは一瞬、サッと分散するが、すぐに元の隊列に戻った。整然としたものであった。」

「しかし、
1996年ごろからは約20年近く、このような帯は見られなくなった。ほぼ忘れかけていたところ、2014年5月に、アユの帯(隊列)が観察された。隊を構成するアユの数が少なく、まばらで、しかも昔のように長くはなかった。」

下流域の墨俣付近で、5月上旬から遡上アユが観察されるのかなあ。それは
3番上りではないのかなあ。
美並や郡上八幡には、すでに1番上りと、2番上りの一部がすでに定住生活をしているのではないかなあ。美濃でも、途中下車した一番上り、二番上りが定住生活をしているのではないかなあ
その証拠をすでに紹介しているが、誰の本か、忘却の彼方。
仕方がないから、最適な紹介とはいえないが、
亀井巌夫「釣の風土記」の引用で誤魔化します。

「一方、
天然鮎は五月中旬美並村の下田橋に姿を現わし、六月上旬には大和村に達したといわれる。」

一番上り、二番上り、三番上りの違い、遡上時期の違いに気がつかないだけ、というレベルではまだ、あゆみちゃんの生活誌の認識にさほど影響がないかも。
しかし、流下仔魚の調査に関しての音痴は、河口堰で生じる止水域が、七日分の弁当を食べ尽くしても、動物プランクトンが豊富な海に到着できず、餓死することになるし、叉、遡上鮎ではなく、「トラックで運ばれてきたアユ」の流下仔魚を調査していて何の意味があるのかなあ。

故松沢さんや、萬サ翁、恩田さんらは、溯上あゆみちゃんを3月上旬から、日々観察されていたのではないかなあ。いや、萬サ翁と恩田さんは、4月のいつ頃か、からでは。
丼大王行状記の2018年、丼大王は、3月12日の一番上りの遡上を観察した。それが例年よりも早いとはいえないとのこと。
丼大王の情けない小川の遡上開始の年ごとの整理をしないといけないなあ。ぐうたらジジーにはしんどいなあ。

一番上りが番茶も出花娘は当たり前、二番上りの女子高生は当たり前、番茶も出花娘も当たり前、三番上りは小中学生が当たり前、という成長の大きさの例外がどのように生じるのか、生じないのか、気になりますねえ。

              「長良川のアユ」を読んで:2
とりあえず、墨俣の遡上情景を「事実」と判断して「理解」をし、コメントを書いたが、このコメントが適切でない。

まず、遡上の情景を観察された墨俣の川相を見る。
墨俣の川相は、二枚の写真からイメージが出来る。
潮の干満の影響を受けて、満潮の時はトロに、干潮の時は中州的な砂州、貧相な瀬のところも出現する。海に近付けば、相模川や狩野川の河口のようなトロの汽水域になるかも。その墨俣で、なんで、「小石のところ」と,遡上場所の記述が必要かなあ。流速が相対的にゆるいところは、底が石があろうが遡上していくと思うが。稚鮎の遡上を妨げるのは段差ではないかなあ。
デレーケが、日本の川は滝である、と、表現した常願寺川に、帰省した時に竿を出していた若者がいた。その若者が、どのような話をしていたか、忘却の彼方。とはいえ、遡上アユを愉しんでいたのではないかなあ


という、些細なことはどうでよいが、「五月以降」に遡上アユが観察される、と書きながら、これと矛盾する記述が出現している。

遡上時期はいつ?
「(3)稚魚(アユ)の海洋生活と遡上開始」の節に
「秋季に長良川を降下し、伊勢湾で数カ月間を豊富な動物プランクトンを食べて成長し、
2~3月ごろには一部のアユの長良川への遡上が開始される。毎年2月上旬~下旬に開始されるが、そのきっかけは川の水温と伊勢湾の水温が同じになったころだといわれている。2月中旬に長良川河口堰の魚道を溯上していくアユを窓越しに見る限り、体長は7~8cmであり、かなり大型のように思われる。その後、しばらくの間は、1日に数尾から数十尾が観察されるのみである。しかし、4月に入ると、その数は急激に増加して、いわゆる春本番、アユの遡上最盛期を迎えるのである。」

丼大王さまあ、2月上旬に遡上が始まっている?
海水温と川の水温が同じ位になるときに遡上が始まっている?

前歴よりも低い水温を好む,選好するという説があったように思うが。溯上期の水温は、原則、
海の方が高いのではないかなあ。もちろん、東伊豆の情けない小川は、流程が短く、水量が少ないようであるから、気温が高ければ、2月上旬でも「海水温と川の水温が同じになる」現象が発生するかもとは思うが。いや、2月上旬では無理か。2月下旬であれば、その現象が発生する年はあるかも

櫛歯状の歯に生え替わっていることが、遡上のための稚鮎の成長段階の前提であり、そして、雪代による川の水温が生存限界附近ほど低くなければ遡上を開始するとは思うが。
まあ、和田さんも、駒田さんも、観察眼の優れた川漁師に出会っていない、ということは事実ではないかと思っているが。

2月中旬に、河口堰の魚道の窓から観察された稚鮎は、いかなる氏素性ですかねえ。
墨俣が汽水域であるようで。河口堰が墨俣に近いことが影響しているのかなあ。

「4月の早い時期に、伊勢湾を離れて長良川を遡上する体長の大きいアユは、
5月には郡上八幡市にまで遡上し、夏季に向かってナワバリを形成し、急激に成長する。}

この郡上八幡への到達時期は適切かも知れないが、「トラックで運ばれてきたアユ」と、遡上アユの識別の必要性すら認識されていない駒田さんでは信頼性に欠けるなあ。
とはいえ、亀井さんの記述とも適合しているから、とりあえずは不問に付しますか。
とはいえ、なんで、ここでは、「4月の早い時期」に遡上が始まったとの記述になっているのかなあ。益々、駒田さんの観察の信頼度が低下しますなあ。

稚鮎は、観察眼に優れた川漁師に観察可能。しかし、流下仔魚については、プランクトンネットで採捕しないと観察は出来ない。
神奈川県内水面試験場が,1994年、5年、6年に行った相模川での流下仔魚量調査、産着卵調査では、遡上アユの産卵場を適切に選択していたため、
10月~12月の間に生じた二嶺ピークを観察できたが、駒田さんは、遡上アユの産卵場であるJR鉄橋付近よりも下流ではなく、その上流が主たる産卵場と設定したため、「トラックで運ばれてきたアユ」を親とする流下仔魚の、餓死した流下仔魚の調査をしているから、無視したいところではあるが、何か、得るところがあるかも、と、嫌々見ることにしましょう。

なお、「トラックで運ばれてきたアユ」=沖取り海産の直放流と推測しているアユの子供は、
12月24日、叉弁天分流の二つの生活圏に分かれて見えた。新規参入か、それとも、前回見えた時の生き残りが再度姿を見せたのか。
もし生き残りであるとすれば、どこにいたのか。新規参入とすれば、どこが産卵場かなあ。
チャラが終わり、トロになる浅場に
50センチ位の鯉が10匹近く。それ以前に見えた鯉は、1匹であったから、増えている。
2,3センチの稚鮎が弱って、あるいは死んで流れてきたものが鯉の餌かなあ。

2019年1月1日には、二つの生活圏は変化してないが、稚鮎の数は減ったのではないかなあ。合計しても100匹位の量ではないかなあ。
鯉は消えた
1月8日、年末寒波で寒いため、弁天の稚鮎を見に行かなかったが、多分凍死しているのでは、と出かけた。凍死していた。トロに避難しているかも、ということは判らないが。

20世紀、本流が弁天護岸沿いに流れ、トロになり、右岸六倉のヘラ釣り場の下流側に接して流れていたとき、
ヘラ釣り場上流側の伏流水の池に表層でつながっていたため、春になっても「トラックで運ばれてきたアユ」の子供は生きていた。
そして、春になると、ヘラ釣り場に出現し、ヘラ釣り師から、ジャミとして煙たがられていた。
その稚鮎を歓迎していたのが、ヤマメキラーさん。山女魚の餌として活用していた。
もちろん、ヤマメキラーさんの本職は、加賀鉤等でのフライやテンカラ釣りではあるが。いや、毛鉤は自作といっていたかなあ。とはいえ、餌釣りの方が効果が大きい時がある、と。

            
「長良川のアユ」を読んで:その3

              「河口堰」における現象の「検証」と、駒田さんの違い


村上哲生先生らの共著「河口堰」(講談社 2000年発行)
に,気になる記述があった。
いや、覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない の3兄弟が素晴らしい速度で成長をしているから、そのことが原因で,おつむに残っていない原因ではあるが。
その忘れてしまっていたことは、
河口堰の川底が、貧酸素になっているということである。
単に、河口堰が出来て、その上流が止水状になるから、JR鉄橋よりも下流で産卵した流下仔魚が、餓死する唯一の原因ではないのではない、といういことかも。

流下仔魚は、どの層を下って行くのかなあ。
シロメは、低層を下って来るのか、中層を下って来るのかなあ。
「山釣り」の湯川豊さんは、河口堰が出来てからの長良川のカワマスの変化を観察されているかも、とは思うが、「本」に記載されているのがあるのかなあ。雑誌での記載であれば、調べようがないしなあ。

    
「河口堰」の「5・1 河川水質監視に関する法律」から
オラの関心は、駒田さんが、
JR鉄橋下流を産卵場と考えなかったこと。その理由である。
とはいえ、「長良川のアユ」には、主たる産卵場が、何で遡上アユの産卵場であると判断して、措定したのか、の記載がないから、意味のない作業ではあるが。瑞穂大橋を流下仔魚の観察点として、なんで適切であるのか、わからんが。
それでも村上先生らの調査とは違い、現象が例外であるか、間違った観察であるか、を、多面的に検証されている調査とは真逆であることだけは、堰が出来る前の遡上アユの下り、産卵に係る記述を期待して,二千円も支出した者としては、憂さ晴らしをしないと、故松沢さんに申し訳がないからなあ。
とはいえ、駒田さんのような、「ヘボ」の観察者に対応できても、
村上先生らの観察はレベルが高すぎて、適切な引用が出来ませんから、あしからず

1 川のポタモプランクトン
河口に近い伊勢大橋で、植物プランクトンが見つかった

長良川の下流域でプランクトンが見つかったといっても、これをただちに河川棲プランクトンであると断定することはできない。」

「河川棲プランクトンではない可能性を並べ立て、さらにそれを新たな調査や先人の経験に基づき否定する作業が必要にになる。
次のような疑いを晴らすことが必要であると考えた
(1)見つかった種類は、浮遊生活をする種類ではなく、付着生活をしていた藻類が剥がれて流れてきたものではないか
(2)川の上流から増殖しながら流れてきたのではなく、海から潮に乗って遡上してきた のではないか。
(3)川の上流から流れてきたとしても、どこかの湖や貯水池で増殖したものが、流れ込んだのではないか
(4)川の中で増えたのではなく、
水の動きの少ない両岸のヨシ帯で発生し、それが川の真ん中に流れ出したのではないか」

上記の疑いをプランクトンの氏素性等の検査?等で、村上先生らはその仮定をつぶしていく作業をされた。

「このように検討の結果、
長良川で見つけたプランクトンは、やはり川の中で流れながら増えていくポタモプランクトンであるとの確信を強めていった。」

これまで川でポタモプランクトンが見つからなかったのは、
(表現は、箇条書き風に変更しています。)
① 
川のプランクトンの大きさが、湖や溜め池のプランクトンよりも小さい。そのため、プランクトンネットの網目の細かいものが必要であった。

② ポタモプランクトンが長良川下流域で発生する条件に、
地形と気象条件が作用していた
「長良川の平均傾斜は,1キロメートルあたり10メートルを超える。」
しかし、「
岐阜市を通り抜けた長良川は、河口から40キロメートル上流付近から傾斜は急に緩くなり、河口との高度差は数メートルとなる。~」 
③「
滞留日数に関係する要因としては、流量も重要である。平水時毎秒80立方メートルの流量のとき、長良川の下流では約30キロメートルの距離を河川水は1.9日かけて流れるが、渇水時毎秒30立方メートルの流量では4.6日もかかる。

 ポタモプランクトンを見つけることができたのは、梅雨と台風の季節の間の夏の渇水期であった。この時期、傾斜のゆるい長良川は他の季節以上に、ゆっくりと流れる。一方。好天と高水温は、藻類の増殖を速める。岐阜などの
都市を通過した河川水には、使い切れないほどのリンや窒素が含まれている。このような条件の下でポタモプランクトンは発生したのであった。」

④これらの
プランクトン発生が他の川でも観測されているか
勾配がゆるく流路の長い川、雄物川、最上川、信濃川の下流部で夏の渇水期にプランクトンが増殖していることを確かめられている。
 
⑤「止水域、つまり、水の流れが止まった水域ができるからプランクトンが発生するわけではない。
問題は、流速そのものではない。河川水がどれだけの時間、川にとどまっているいるかによって河川水中でプランクトンが増殖できる時間が決まり、プランクトンの発生量が支配されるのである。~」

他の条件が同じであれば、滞留時間が長いほど、プランクトン発生による水質障害の危険性は大きくなる。」

ということで、村上先生らの調査の手法を少しでも駒田さんが意識されていれば、「遡上アユ」が、餓死する所に産卵場を選択することはないのでは。そのことに気がつかれておれば、遡上アユの産卵場の想定が適切であるか、どうかを考えることができたのではないかなあ。
いや、遡上アユの産卵場の想定が適切であるとしても、
流下仔魚の死亡率が高いことが、「トラックで運ばれて来アユ」の子供である、と、なんで考えられなかったのかなあ。
 なお、「河口堰」では、すでに河口堰が存在している川での川底の土質、酸素状況の調査もされている。その結果は、ヘドロの堆積と表層と底水との攪乱が生じないことによる貧酸素状態が川底に発生していること。
これに関わる調査は省略します。

なお、村上先生らの予見と異なっていた現象は、
動物プランクトンが繁殖し、植物プランクトンを食していたこと。そのため、植物プランクトンの繁殖量が無限に?増殖しなかったこと。
また、建設省の河口堰上流の水質検査が、ヘドロの発生も、シジミが生存できなくなる現象も、腐富水水でなく水質基準に適合する良質な検査結果となる検査手法で行われていることついて、書かれているが省略(おつむがついていけないため)。
なお、
村上先生と谷田一三先生の「ダム湖・ダム河川の生態系と管理  日本における特性・動態・評価」は、大井川における長島ダムの影響を考える上で,不可欠の本ではあれど、目を通すことすら能わず。  

オラの関心は、河口堰が出来て、流下仔魚がなんで七日分の弁当を食べ終える前に、海の動物プランクトンを食べることができず、餓死するのか、ということ。
その前に、駒田さんの遡上アユの産卵場の想定が適切ではない、ということであるが、その回答を一義的に得ようとするずぼら根性は、「チコちゃん」に叱られますなあ。

2  川那部浩哉「偏見の生態学」(農山漁村文化協会  昭和62年発行)
困ったときの川那部先生頼り。
川那部先生は、
「『長良川は病んでますな』」(「川吠え」一九七五年三月号)に、

「岐阜市域のやや下流においては、河床の低下とそれによる砂防・水制の破壊が著しい。下流漁協員の船に同乗したが、余所者の私の眼にも明々白々である。
アユの産卵場所は従来は東海道線鉄橋のはるか下流であったが、『年々瀬一つずつ上流に移り』、現在は忠節橋下流から菅生にかけてであると聞く。一方やや上流長良橋付近の底質は、現在一抱えの石殆どなく、したがってアユの生息場としては一等地ではない。話を聞いて一九五八年の野帳記録を帰洛後見たところ、この付近アユの生息地として良好とあった。これらの変化は何のせいか?原因にはいろいろのものがあるが、それをこうまで大きく続かせた元凶の砂利採取といわゆる河川『改修』にあること、これはまず確実である。

 『改修』とは立派な言葉だ。しかしその
『改修』とは、水を可及的に早く海へ流すことのみを目的としている。曲流し蛇行しながら瀬と淵を作ってきた川を、直線化しだらだらと流れる同傾斜の続く川に、いや溝にせしめようとのこの最近の工事方式。水の流れをなだめるための水制なんぞという工法は『古い』として捨てられ、水は流れるのではなく流されるかたちとなったのだ。長良川はこの点でも隅田川、多摩川、淀川よりはまだましに違いない。しかしこうした『改修』工事は方々で進行中。また二重に堤防があり、中間が洪水時の遊水池となっていた場所は、内側堤のかさ上げを理由にすでに宅地化されはじめている。洪水時の河積増大を第一の名目にされている『長良川河口堰』の『目標』とは全く逆に、河積はわざわざ縮小されて行く。しかもその下流に、前回の大洪水時の最大の越流点のある場所においてさえもなのだ。」

なお、川那部先生は
「『
昔は支流のアユがまず降河し、それが本流のアユとともにしばらく生活、そのあとともに降河した。最近は本流のアユが先に降河し、その後支流のアユが本流に滞在することなく直接に降河する』と。吉田川より本流の、増水時の濁り甚だしく、また増水流量に比して淵の容量の著しく小さくなったこと、以上二つからくる現象を的確に表現するものである。砂の堆積はカマツカなどの数の増加においても明白。これらすべては、開発等による土砂の流入と、河川『改修』工事が原因なのである。このまま事態が進行すれば、アユを仮に放流しても、それの棲めぬあるいは成長せぬ川となりゆくこと必然である。」

さて、困った。
川那部先生が、オラの妄想を正当化してくれる文を書いているとは期待はすれど、実現性に乏しいとは、感じてはいたが。
とはいえ、ヘボなりに妄想を支離滅裂でも整理をしておかないとなあ。

1 支流のアユが先に下って来る、とは、大井川の長島ダムがなく、塩郷堰堤がなく、
井川ダム下流の支流が遡上アユを歓迎していた頃、村社の家山八幡宮の祭りの頃:10月15日頃、これまでとは違ういかいアユが、久野脇等で釣れた、と。
この現象も、産卵場への「下り」ではなく、遡上時に途中下車をしたアユとの歩調を揃えるための行動ではないのかなあ。

2 
吉田川は、なんでか、遡上せず、湖産を放流してその恩恵を享受した話が、萬サ翁か、恩田さんが話されていたと思うが

3 
砂れきの堆積による食糧調達場所の減少とはいえ、産卵場も一瀬ずつ上流に移るのかなあ
「トラックで運ばれてきたアユ」は、「下り」の行動をしないため、
2018年に狩野川大橋界隈に砂礫層ができると、神島まで移動せず、狩野川大橋界隈で産卵している放流者が多いのでは、と想像しているが。神島での「きたいない鮎・叩いたり、叩く直前のアユ」が丼大王でも数匹であった現象は、その表れでは、と想像しているが。とはいえ、1年だけの現象であるのかどうか、今後の推移を見るしかないが。

狩野川の最大の産卵場と話されていた
千歳橋界隈は、釣りをするのに愉しくなる川相ではなかった
今は、11月にそこに入る人もいるようであるが。
したがって、瀬、石が勝れていなくても産卵場の適地ではないかなあ。
海からの距離と砂礫層等の条件の場所が産卵場として選択されるのではないかなあ。

4 忠節橋付近でも、「河口堰」によると、渇水時でも、約30キロを4.6日で流れるとのことであるから、10キロほど上流で産卵しても、弁当を食い尽くす前までに海に到達できるかも、とは思うが
ただ、流下仔魚が、流れに乗って何の支障もなく、流速と同じ時間で海に到達できるのか、わからないが。
流下仔魚は、寝ることがあるのかなあ。淀みに入ったとき、再び流れに戻るために泳ぐのかなあ。駒田さんは、遊泳力と、瞬発力を書かれているが。

5 
なんで、オイカワも減ったのかなあ
「かくのごとき河川のかたちの変化によって、生物は失われて行く。アユやアジメドジョウなど、本来流れの早い瀬に棲み石の上の藻を食う連中は、早瀬の減少とともにその生息場所を奪われて行く。
だらだらの溝川をむしろ好むのはオイカワばかりだが、この魚も工場排水、特に製紙工場排水には弱い。条件が重なれば残る魚は皆無に近い。」

昭和46年制定の公害3法以来、水質は改善されているはずであるが、20世紀の終わりに近付くと、
寒バエ釣りも寒バヤ釣りも相模川から消えた
川相は、「溝川」形態にどんどん進んでいるのになあ。
鵜?  まあ、鵜の増加が激しいから、ハヤ、ハエ減少の原因者の主役かも知れないが。2018年から19年の「トラックで運ばれてきたアユ」の子供が生きている弁天分流にも鵜が2羽、1羽やって来たのは、1月下旬頃から。二,三センチの稚鮎を食べなければならないとは、どんな事情があるのかなあ。鷺やカワセミ並の鵜の食糧事情はなんでかなあ。

弁天分流の稚鮎は、2月5日でも、数は少なくなっているものの、全滅はしていない。中州側は、水深10センチ位であるが、跳ねたり、ひらを打たないと、稚鮎が見えない。そのため、水温低下でじっと寒さをしのいでいる稚鮎がいるかも。跳ねがあるのは、気温15度位で、水温が少し上がったときのよう。
東伊豆の情けない小川で、丼大王が何回、番茶も出花娘や乙女が、品切れ、と評価したことでしょう。
溯上あゆみちゃんの忍法「雲隠れの術」が、丼大王の目を欺くことが出来たが、丼大王の騙しのテクニックが優れているため、「雲隠れの術」が破られていますが。釣り人がオラであれば、天寿を全うできたでしょうに。
弁天の稚鮎は、鵜の餌食にならないものもいるのかなあ。いや、なんで鵜が稚鮎を頭を水に突っ込んで食べる動作をしているのかなあ。餌を獲っているのではないかも。ヘラブナは餌になっているが。

最近、河口堰の魚道を遡上している調査資料が、何かに書かれていたように思うが、夢幻かなあ。
もし、魚道を溯上している鮎が観察されたとすれば、伊勢湾の仔魚・稚鮎はどこからやってくるのかなあ。

川那部先生は、
人工ふ化アユについても、現状では河川生活に適さないもののはなはだしく多いことは明白のようで、池で飼育したアユを川に入って遜色なきよう『教育し直す』試みは、まだ実際には緒についてもいない。AではなくBなる条件下で、BではなくAに適合する教育を行うことが如何に困難なものかは、人間について考えても明らかであるが、この場合のアユの教育の『し直し』とは、まさにこのようなものである。」

駒田さんが、流下仔魚の死亡率が高いこともある観察の原因を,「トラックで運ばれてきたアユ」の子供の「餓死」とオラは判断したが、その判断が適切とはいえないかも。
それは、鵜飼い用に徳島から運ばれて来たアユの場所と、駒田さんが流下仔魚の観察場とされた場所との距離が、「七日分」の弁当を食べ尽くすには流下距離が短いかも。
さらに上流から流れてきたとしても、
餓死以外の要因も考える必要があるかも

駒田さんが、JR鉄橋より下流で、河口堰が出来る前に産着卵の調査をされていたら、少しは何かわかるかも、と妄想しておきましょう。
川那部先生らは、同質の他者:同じ科に属する他者だけでなく、異質他者:異なる科との関係も絶えず意識されて調査・観察されている。「教育し直す」は、その一面ではないかなあ。



ホームへ