竹内さんと「本物の川」、「本物の鮎」 竹内始萬「遺稿 あゆ」 |
ありし日の相模川 | ドブ釣りの全盛 与瀬の盛況 大淵の状況 アユの集積場 清さんの観察 |
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「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場 海産アユの産卵時期 |
竹内さんは「アユの博物誌をめざす」? 海産アユの産卵時期:「下手の長竿」の「再解禁」の章から 禁漁期間の不徹底 「湖産」が再生産されないことの不知による混乱? 弁天へら釣り場横の稚アユ 六倉の湧き水での稚アユはジャミに 9月26日の月ヶ瀬で叩いたオスも 日照時間と性成熟は無関係 水温の低下も 高知の産卵親と産着卵の虐殺と学者先生の罪 |
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相模川の「アユの質は中の上か」およびアユの大きさ | 大アユは少なかった 密度の高さと竿圧? 解禁日のドブ釣りで100グラムも 「密度」と大きさに相関関係はある? 道志のアユは70匁 竹内さんの相模川の情景はいつ頃のこと? (「釣は愉し」) 引き揚げ後の久保沢 いま浦島の悲哀 |
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竹内さんと「本物の川」、「本物の鮎」 竹内始萬「遺稿 あゆ」 |
竹内さんの「大アユ」とは | 古の大アユとアユの量 由良川の大アユ 海アユの大小はなぜ生じる? 原田先生のカンピュータ 宮川で80匁 大アユと食糧事情の関係は希薄 雪代の2週間の遅れはチビアユに 3月下旬相模大堰遡上アユは大ア ユに 耳石で孵化日からの日齢がわかる? 10月孵化の耳石調査結果は 「絶対」におかしい 川那部「ゲンゴロウブナ」の生長と鱗 最大は雌34センチ、雄30センチ 成長と性成熟の関係 佐久間ダム建設中の天龍川 昭和30年8月 60匁、40匁の遡上アユ 天龍「川上り」で釣り場へ 50匁と身切れ 富士川に十島ダムがなかった頃 7,80匁から100匁 道志川の大鮎 昭和35年頃? 腹子一杯の湖産アユ:44匁 ダムなしの相模川でも70匁 湖産放流の道志川は昭和31年から? 「放流もの」の移動距離 |
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竹内さんと「本物の川」、「本物の鮎」 竹内始萬「遺稿 あゆ」 |
竹内さんの狩野川 | 鮫川の解禁日 数はほぼ満足、カタは小さい 香りも低い 昭和21年解禁日の狩野川 「つり人創刊号」の鼎談 狩野川の鮎釣 名人が語る友釣の奥義」 1 大きさと遡上時期はオス間関係にある? 「釣れない理由」は「水温」? 4月下旬の大量遡上 放流鮎について そして「アユ100万匹がかえってきた」の氏素性は? 小田和湾の稚アユ放流予定 小田和湾は三浦半島にある 多摩川での「海アユ」の産卵時期 =11月から 田辺さんらも「学者先生」の「海アユ」産卵時期に関わる教義に騙される 多摩川の「海アユ」のルーツは利根川?それとも? |
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「つり人」創刊号の鼎談から | 昭和21年のアユの行く末は? | 中島さんの「相当大きい」とは 30匁? 「おそく海から上がったアユ」の大きさは? 途中下車 大仁付近が一番大きくなる 竹内さんも「適地」に途中下車する、と 相模川の「天然アユの分散と定着及び遡上開始時期 上流にもチビが かっては40匁、50匁が 今は30匁くらいが最大 並は20匁になった 相模大堰副魚道を3月下旬に越えたちアユは乙女に、4月下旬以降の稚アユはチビに? |
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途中下車の適地はどこに | 良き瀬と良き淵の一体化した場所 相模大堰副魚道の遡上時期と大きさ 竹内さんの遡上量:「遺稿 あゆ」の「天然のぼりの鮎の数」の章 現在とは比べものにならない数 「ド」が持ち上がらない 釣られても大量の下り鮎 仲買人の大樽が一杯 |
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団体行動が好きなアユ:出アユ、差しアユ そして「黄色い衣装」を纏ったあゆみちゃん今昔 |
団体的行動をする性質 出アユと能率 竹内さんの出アユ初体験 黄色い衣装のアユ 出アユの黄色い鰓、腹=珪藻が優占種の頃の衣装 追い星は昭和30年代から出現? 香りと不飽和脂肪酸 高橋勇夫の「香りは食糧とは無関係」説は間違い ナナセ=ボウズハゼも「香」魚であった 「香魚を知らず香魚を語る」高橋さん? 藍藻には黄色」を発色する物質を含む 八戸川鮎の復活とダムの関係 |
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竹内「遺稿 あゆ」の「縄張りの空家(あきや)と遊びアユ」 | 釣り返しが効かなくなった | 淵の縄張り環境条件 瀬と縄張り予備軍 狩野川で「アユの帰り」が効かなくなった 故松沢さんは「金のコケ」が「鉄くずのコケ」への変化が、2番アユ、3番アユの行動を変えた 大井川でも岩盤と大石の淵があった 遡上アユのたまるところも 「団体行動の好きなアユ」の今昔 「山下」さんの小坂側での行動の意味は? 「空き家」を埋めるアユは誰? 「腕」でなく「運」での釣りに |
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竹内「釣ひとすじ」:昭和36年発行 | 遡上量と大きさの今昔 | 壮観な相模川の遡上量 7,80匁のアユも 今は30匁 放流ものが主流に 放流ものの竹内さんの評価 三月末に一番のぼりなどの話題が 奥多摩で「放流もの」=「遡上湖産アユ」の入れがかり 放流ものでは気分がでない 放流ものと天然ものの区別もなくなった 早川の1月、2月の稚鮎の氏素性 瀬あり淵あり瀞ありの流れは今いずこ |
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滅び行く「本物の川」と生物 | 水害後の狩野川 河原が広がる 埋まった淵も 底石の大きい瀬も |
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竹内「釣ひとすじ」 | 工事による影響、「セメントと腹下し」 | 育たないアユ ホンマスの状態は? |
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気田川と竹内さんとヤマメ | 約七寸の雄ヤマメ アマゴ特有の朱点 天然記念物化されようとしている魚 受難者ヤマメ |
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「ワサビ田の農薬」 | 餓死したトキ 小動物の激減 ヤマメと農薬の問題 アユもマスも河口をのぼる? 狩野川も放流河川の未来? ワサビ田の農薬とヤマメの稚魚 上流からの毒水で安住の地は? |
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竹内「釣りひとすじ」 | 「出水時の魚たち」 | 避難する魚 サデ網での濁りすくい 出水時のイワナは? 増水時は分布域拡大の好機 |
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「湖産」の馬瀬川と性成熟 | 20匁前後に30匁級 抱卵した湖産アユ |
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竹内「遺稿 あゆ」 「下手の長竿」 |
くだりの情景 | 9月末でナンパをやめる理由は? 10月10日頃の大量のくだりはなぜ? 社家、倉見の産卵場の主は? 慎重なくだり、「妊婦」と同じ慎重なくだり 「さざ波を立てて」のくだりの情景の条件は? くだり集団の雌雄の比率は? 湖産の産卵時期、産卵場所 雄の生活場所は? 「耳石」は時間概念か 12月はメスの天国? 「さざ波を立てる」くだりの条件は? |
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「香」魚の消滅 | 竹内さんは、なぜコケの変化、香魚が消滅する川の記述をされていない? 不飽和脂肪酸の種別と「香」魚の関係は 高橋さんは「香」魚を経験していない? 「香」魚を経験しているIさんまでがなぜ学者先生の教義に帰依した? 真山先生や村上先生の本が欲しい 黒尊川とアイの香り 原生林の黒尊川 ボウズハゼの香り 吉川にもダムが |
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亀山素光「釣の話」 昭和15年発行 |
亀山素光さんは | 昆虫食時代はある? 硅藻の栄養価は高い コケを食して香気を放つ 歯の変化 早く上ったものほど大きく育つ ハリの種類 川ガキの友釣り始め コロガシとアユの量 産卵時期、そして雄雌の棲み分け 鮎釣りの魅力の一つ=香気 淀川にはいつ頃まで遡上出来た? 毛馬の閘門 放流の状況 |
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天野礼子「日本の名河川を歩く」 2003年発行 |
追良瀬川には「香」魚が生き残っている? 竹内さんの俳句から |
赤石川=堰堤と貯水ダムで金アユは幻? 追良瀬川 海と川のつながりが見える 川も、イワナも、ヤマメの昔のまま 守られている 源流域の森林は健在 川沿いの林道がない “銀鮎”の追良瀬川 大アブの棲み家 真瀬川 林道はあるが清流 大釜の連続する「三十釜」 香ばしい鮎 竹内さんの俳句から |
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長良川の礼子ちゃん 1 鮎 |
ハンガーストライキの礼子ちゃん 建設省=漁獲量は減っていない ヘドロの堆積 ヤマトシジミは絶滅 サツキマスは絶滅寸前 天然アユは激減 人工鮎の大量放流 硅藻と香りのよいアユと水の関係 仔魚が死ぬ止水域 |
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2 「氷河期の名残り、サツキマス」 | 「絶滅危惧種」の指定解除の手法 長良川だけ天然産卵 シラメの大量発送 そしてサツキマスの「絶滅危惧種」指定解除 「サツキマスは減っていない」の偽装工作 |
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天野礼子 「日本の名河川を歩く」 藤田栄吉 「釣を始めるまで」 |
3 シジミ漁師の怒り | 汽水域の変化 河口堰で絶滅したヤマトシジミ 建設省は放流口かでシジミは増えた、と。 養殖アユは長良川のアユやない 産卵できぬシジミの環境に 役人のウソ 藤田栄吉「釣を始めるまで」 落ち鮎の時季の記述の読み方は? 一〇〇キロ、二〇〇キロ遡上できた頃の話? 淀川の子鮎釣り 一尺二,三寸の「山の児」鮎 丼大王の嘆き? 2024年の遡上量は少ない? されど海の幸で朝ビール、午ビール ズガニの産卵時期は? |
竹内さんと「本物の川」、「本物の鮎」
「鮎の本」の高橋さんが、2012年、奈半利川でも大鮎がいた、それは飽食の川であったから、と。
なんで、氏素性を異にする鮎が放流されていたから、と考えないのかなあ。食糧がたっぷりあることが大鮎を育てる条件であるなら、相模川の多くの年はその条件を満たしていますがねえ。そして、「大鮎」、「尺鮎」がフィーバーになる「場所」もあるが、その氏素性は、「継代人工」あって、遡上鮎ではない。その放流場所は、2013年から大島だけではなくなったようであるが。
2011年、2012年に出現した狩野川の尺鮎、泣き尺は、東北・日本海側の海産畜養か、それを親としたF1と考えて間違いはないでしょう。
それは、四万十川にも放流されていて、四万十川でも尺鮎フィーバーになったと考えている。
さて、今年の「本物」のあゆみちゃんの生活誌、「洪水」もあった頃の川を「人為」で排水路にする前の川を尋ねる素材に、竹内始萬さんの著作を利用します。
竹内始萬さんは、昭和48年に亡くなられているから、「継代人工」が我が世の春を謳歌する時代をご存じない。その意味では、川にいるあゆみちゃんは、遡上鮎、海産畜養、河口での汲み上げ放流、琵琶湖に流入する川で採捕した湖産、氷魚からの畜養湖産、そして、海産や湖産のF1を想定すればよく、少しは生活誌を考える上でのややこしさは減ると淡い期待をしていた。
しかし、そんな楽はさせてくれないようです。
松沢さあん、竹内さんの記述はどのような現象を間違えて評価しているのか、教えてえ、という場面はやはり登場してきます。
竹内さんの著作は数冊あるが、垢石翁の後を継いでつり人社の社長になられているが、本にされていない観察記録も多くあるのではないかなあ。
本にされた記録をどのように、オラにとってやりやすい方法で換骨奪胎していくか、少しは悩みました。
その結果、「遺稿 あゆ」(竹内始萬 昭和49年つり人社発行)からとなりました。
理由は、あゆみちゃんの生活誌を考える上で疑問のある記述もあるが、他の本を読む時間が稼げる章があるから。
ありし日の相模川
竹内さんは、「思い出の川」の章で、
「ダムができ、汚水が流れこんで、昔のままの川というのは、ほとんどなくなってしまった今日、自然の姿のままだった、ありし日の相模川のことを書き留めておくのは、あながちむだではないと思うのです。なんの資料もなく、ただ自然の記憶だけをたどって書くのですから、思い違いもあろうかと思いますが――。」
相模川については、滝井さん、井伏さんも釣り場の情景を書かれているが、部分のこと。それを亡きEじいさんや田名の主の話から高田橋周辺のことを聞いて、少しはどんな川だったのか、想像はしているが、竹内さんは、桂川から大島付近までのことを書かれている。
「わたしがこの川へ行き初めたのは、大正の終わりか昭和の初めで、もちろんダムもなく、砂利掘りもなく、川は昔のままの姿で流れていました。
そのころのアユ釣りは、ドブ釣り全盛で、友釣りをする人は百人中ひとりくらいのものでした。土地の人たちは、コロガシと友釣りですが、ころがしが主でした。それだけに相模川沿岸の人たちのころがしは堂に入ったものでした。」
ドブ釣りが全盛であったことは、Eじいさんから聞いていた。Eじいさんも舟をもっていて、今の小沢の堰付近上下にあった一の釜、二の釜、三の釜でドブ釣りをする人たちに貸し出していたとのこと。
与瀬から大島(原文いない改行をしています)
「アマチュアのつり人にいちばん馴染みが深かったのは与瀬(よせ)――いまの相模湖のあたりで、解禁前夜の満員の釣り列車が与瀬駅――いまの相模湖駅ですが、そこへ着くと、乗客の八割はそこで降りたものです。もっと上流の上野原や四方津方面まで行く人もありましたが、なんといっても人気の中心は与瀬でした。
いまの相模湖駅から川へ出たところが勝瀬の渡しで、その後に木橋ができましたが、もちろん相模湖ができて、いまは水没してしまいました。川の右岸に小川亭という家があり、わたしも解禁前夜に泊まったことがありますが、泊まったといっても布団を敷いて寝るなどというものではありません。座敷も廊下もつり人でいっぱいで、みんな着たままでちょっと横になるだけのことで、二時か三時、夜の短いときですが、それでもこの時間はまだまっ暗です。そのころからみんな釣り場へ出ていったものです。この附近には秋山川の出合いとかセンゲン淵、亀ノ子、一本松といったドブ釣りの有名釣り場がたくさんありました。
勝瀬から少しくだって川は左へ大きく曲がりますが、そこに――いまのダムの終わりあたりと思いますが津久井橋というものがあり、橋の袂に若松屋という宿がありました。わたしはそこへも泊まったことがありますが、その少し下にフジ淵がありました。そこからずっとくだると雀の廻り淵とか、トイシとかいう有名釣り場があり、その少し下流で、最大の支流である道志川が右岸から合流するのです。
道志川が合流して水量を増すと共に、そのへんから渓も深くなって、三カ木、名手、中野下と、ここらがいわゆる津久井渓谷の中心になるわけです。
釣りをしているとよく相模川くだりの遊船が、鵜飼いの漁師を乗せたりして、幾隻もくだってきたものです。たいてい与瀬のあたりからくだってくるのだと思いますが、途中で舟をとめて遊びながらくだって、いまの小倉橋あたりで舟をあがったようですが、中にはさらに下へ、田名から厚木あたりまで行く舟もあったようです。
深い渓谷の底を流れる川は、典型的な渓流の容相で、淵になり瀬になり、また淵になりで、蛇行していきます。道志川の合流点の下にはトビの巣淵とか天神淵とかいう大きな淵がありましたが、天神というのはとくに大淵で、ドブ釣りの舟が五隻も六隻も入りました。そしてここの淵は相模川中でいちばん深いとのことで、ドブ釣りの仕掛けで、四間竿いっぱいにしても底へとどかないようでした。
中野下からもう少しくだったところに荒川橋というのがありました。これもいまは城山ダムの水の底になりましたが、その当時このあたりでは有名なところで、右岸の橋の袂に八木屋という雑貨屋があって、盛りのころにはここが、この界隈(かいわい)のアユの集まるところで、アユの仲買人やつり人の往来は多いし、なかなか活気があったものです。
荒川橋からさらに少しくだったところ――いまはこのあたりは城山ダムになってしまいましたが、その下が小倉橋でわたしが行き初めたころは、小倉の渡しといって渡船場でした。その後に木橋ができ、さらにいまのようなりっぱな小倉橋になったのです。
この小倉橋に立って下流を見ると三百mぐらい下の突き当たりにこんもりとした森が見えます。これが諏訪の森で、森の中に神社がありますが、この突き出たところへ流れが当たって大きな淵になっていました。それから下へ三,四百mのところでまた流れが突き当たってカネカケの淵になり、流れが少し左へ曲がって鵜止まりの淵となるのですが、津久井渓谷は小倉橋で終わって、それからは次第に河原が広くなるので、淵も少なくなり、諏訪の森の淵とカネカケの淵が相模川の淵としてはまあおしまいの大淵というところでしょう。その意味でこの二つの淵は、下流での名釣り場だったわけです。」
それでは、アユの状況は?
「この森の中(注:諏訪の森)に清さんという漁師の家がありました。コロガシの盛んな相模川で、清さんは珍しく友釣りが主で、ころがしもやりましたが、たいてい友釣りをやっていました。しかも諏訪の森の淵を中心に、その前後でばかりを釣っていましたからこの附近の状況は、底石のひとつひとつまで知っていました。わたしはこの附近へ行けば、いつも清さんにオトリをわけてもらって、川のようすを聞くのです。すると清さんはカネカケの淵の肩をやってみよとか、左岸の柳の木の上下は昨日から誰もやっていないとか、そのつどポイントを指示してくれました。この清さんは、漁期中は毎日釣りをしていましたが、漁季が終わると小倉橋の渡しの船頭をしたりしていたので、アユの状況はいつも清さんに聞きました。一番のぼりが見えたとか、二番のぼりが見えたとか、いう情報も清さんから聞くことが多かったのです。
そのころは川の沿岸の部落に釣りをする人が沢山いて、みんなアユののぼる頃になると川の状況に注意しているので、ぼつぼつのぼってくるアユでも決して見落とすようなことはなかったし、ことに清さんのように渡しの船頭をしているものは、朝晩川を見ているのですから、大のぼりを見のがすようなことはありません。
相模川では河口に待機していたコアユが、三月へ入ればもうのぼり初めたと思いますが、大のぼりは四月へ入ってからで、その上旬と思いますが、一番のぼり(集団)が久保沢で見えたとか、少しおくれて中野下を通ったとか、それからまたしばらくすると、その先頭は与瀬までのぼったとか、どこからともなくそういう情報が入ってきたものです。
わたしもそういう集団ののぼりを見ましたが、それは壮観なものです。そしてそういう大集団が、二番のぼりだ、三番のぼりだといってのぼってくるのですから、それがどのくらいの数になるのか知りませんが、いまの何万とか何十万とかいう放流の数とは比べようのないほどの、たくさんの数だったと思います。」
清さんは、垢石翁にも登場している。
遡上開始を「三月へ入れば」と表現されているが、二月の水温がいちばん低いことから、三月の中旬にならないと生存限界以上の水温にならないのではないかなあ。
「川面に朝霧が立ちこめるころ」に遡上が始まる、との表現の方が、遡上開始時期を適切に表現しているのではないかなあ。
汽水域には三月に入っている稚アユはいるとは思うが。
二千四年の四月終わり、高田橋で幅一メートルほどで何層にもなった遡上アユが八時過ぎから延々と続いていた。
いや、オラが見た開始時間が「八時過ぎ」でありその前から遡上は始まっていた。そして、弁天へとくだりながら途切れることのない遡上アユを二時間ほど見ていた。
この年の相模大堰副魚道の遡上量は、三月下旬のは三百万、四月は一千四百万。
これらが、遡上達成率の低い磯部の堰下に溜まり、何らかの条件があって遡上できる環境となり、一斉に遡上したのではないのかなあ。
その情景が、かっては、一番のぼり、二番のぼり三番のぼりとして相模川で見ることができたということでしょう。
「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場
海産アユの産卵時期
小口修平さんが「本書をお読みいただく方へ」において、
竹内さんは、
「つり人社を引受けて以来、『釣は愉し』『続釣は愉し』『釣ひとすじ』『下手な長竿』『行く雲』『竹頭』と著作が続いたが、本書「あゆ」はライフワークを心掛けていたようで、何年にもわたって実験をし、資料をとり構想をねっていて、おそらく『あゆの博物誌』として、充実したものを出版したかったものと思う。従って一応まとめてはあったものの、あれも、これも書き足らぬ点があって、決して満足すべきものでなく、遺稿として出されることを、あの世で苦笑しているに違いない――。おそらくそう思って読んでいただきたい――。と、きっと故人はいうに違いないと思っている。」
「あゆの博物誌」をめざしていたことから、あゆみちゃんの生活誌が記述されている。
その「生活誌」については、他の本を読んでから考えることにします。
しかし、相模川、狩野川に係る記述については、後日、重複することを前提として紹介します。
ただ、竹内さんと学者先生で、「違い」があることがわかりました。
多分、古本屋で、竹内さんの本を立ち読みしたとき、湖産の性成熟時期、産卵時期と、海産=房総以西の太平洋側の海産鮎との性成熟、産卵時期を区別していない、と判断して、竹内さんが鮎の生活誌を適切に観察していない、と考えてあゆみちゃんを適切に語る本の対象外としていたようである。
しかし、その判断は間違っていた。
もちろん、竹内さんは、釣れた鮎について、湖産と海産の識別を意識して行われていないから、オラの誤解もやむを得んかなあ、とは思うが、。
海産アユの産卵時期
「下手の長竿」(昭和41年初版発行 つり人社)の「アユの再解禁」の章から
禁漁期間の設定、12月1日に再解禁になっている県のあることについて
「これは(注:再解禁)いうまでもなくアユの産卵期の保護を目的の下に定められたものでしょうが、それにしてもどうも不徹底なものだという気がします。ことに再解禁をめがけて、釣り人が瀬付きの場所へ押しかけ、てんでに1貫匁も釣ってくるということになると、この制度の不徹底さを一層痛感しないわけにはいきません。
アユの産卵期はかなり長いように思います。ことに琵琶湖産のアユを放流するようになって、この種のアユが海産や天然産のアユに比べて非常に早くから、上流地帯の早いところでは八月末から、しかも海産や天然産のアユのように河口近くまで降りるのではなく、昔天然アユだけしか上らなかった時代には全く見られなかった上流で産卵しているものが見られます。
そうかと思うと、下流の産卵床で、一部のアユが盛んに産卵している頃、初めからそのへんにいたアユはまだ若々しく、それからずっと後になって瀬付くものもあるようですから、幅広くいえばいまのアユは八月末からその年の終わりまで産卵するといっていいのではないかと思います。
東京や神奈川が十月十五日から十一月卅日まで禁漁とするのは、瀬付きのいちばん盛んな時期を保護することになるので、その意味では適当なものということができるでしょうが、その期間さえ保護すればあとはかまわないとはいえないでしょう。ことに十一月末で大体の産卵は終わりだとはいえない。まだまだ十二月に入っても相当大きな瀬付きが見られるものですから。」
1 ということで、海産アユのの産卵時期を十一月、十二月プラス十月の下旬と考えられているのではないかと思うが、適切である。
2 湖産が再生産に寄与していないことをまだご存じないから、湖産を含めた産卵時期を考えておられるのはやむを得ないかも。
3 鈴木魚心さん、そしてその話を引用したのではないかと思う「アユの話」で記述されている利根川では前橋が産卵場である、という現象を、竹内さんは、「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵と観察されている。
今年、狩野川では、名人が上流に大量に放流しても下りのときには松下の瀬等、下流も恩恵を受けるから公平であると語られたそうであるが、その名人であり、狩野川の放流をしきっている方と違い、適切に「トラックで運ばれてきたアユ」の産卵場所を観察されているだけでも、竹内さんの観察力はスゴイ。
「湖産」と「海産」が再生産にどのように関与しているか、東先生が松浦川の観察から、湖産が再生産に寄与していない、湖産が放流された翌年の遡上アユには湖産親由来のアユは含まれていない、と発表されたのが昭和53,4年。
鼠ヶ関川のアユについてアイソザイム分析で、湖産も交雑種の仔魚も海に入ると塩分調節機能不全で生存できないことを発表されたのが、21世紀の初頭。
いや、その前に適切な調査が行われていたかも。オラは、「アユ種苗の放流と現状の課題」(全国内水面漁業協同組合)で読んだが。なお、この調査をすでに紹介しているが、どこに記載したか、見つかりません。
故松沢さんは、海産遡上アユの顔つきも容姿も変化していないから、湖産も交雑種も再生産されていないと話されていた。
この意味からも、「湖産」と「房総以西の太平洋側」の海産の性成熟、産卵時期は峻別すべきでは。
そして、東北、日本海側:対馬暖流を生活圏とする海産畜養あるいはそれを親としたF1が狩野川や四万十川に放流されるご時世であるから、あゆみちゃんの氏素性には敏感になった方がよいのではないかなあ。
あ、ついでに、今年の狩野川で、迷人見習いが20,30匹当たり前の中、オラが数匹であったのも、遡上量が宣伝されているほど多くなかったこと、迷人見習いが大量に放流された雲金付近より上流で釣っていたからであって、「腕」の差ではないかも。
2013年11月末、相模川は弁天へら釣り場の横の湧き水の分流に稚アユがいる。高田橋左岸橋脚のところにできている湧き水の溜まりにも。
これらは、止水風の自然環境であるから植物プランクトンが生産され、それを食べる動物プランクトンがいるでしょうから、当面食糧はあるでしょう。
しかし、水深がないことから、1月、2月の外気の影響を受けて、生存限界以下の水温になるのではないかなあ。
石切場の右岸側の六倉へら釣り場に接して湧き水が豊富なところがある。水深も数メートルある。ここでは稚アユは3月でも生き延びていて、生活圏をへら釣り場に拡大してへら釣り人にジャミとして邪険に、迷惑行為として冷たく扱われている。
唯一、ジャミを大切にしているのは、山女魚キラーさん。山女魚の餌に活用している。漁期違反かなあ。その山女魚は昨日今日放流されたものではなく、何年も川で生活をしたものを、秘密の渓に棲息しているものを対象としている。なにしろ、夜明け前に大井川について、5時間ほど歩いて、イワナの棲息するところにいっていた御仁ですから。ただ、ここ数年、その釣りをしていないからお歳かなあ。
ついでに、狩野川筋の御仁で、二月に遡上している、とおっしゃる方が。二月の水温は生存限界の7度以下。そのようなときに遡上しません。「トラックで運ばれてきたアユ」が、下りをせずに産卵し、伏流水が止水状に湧いているところで、生存できた稚鮎を「遡上鮎」と判断されているのでしょう。
それから、12月12日、高田橋橋梁の湧き水のところ後鮎は消えていた。なんでかなあ。
弁天へら釣り場横の湧き水の分流では、黒い塊になり、あるいは、水面と平行にピョコピョコと跳ねている稚鮎がいっぱいいた。いつまで生存できるのかなあ。護岸沿いの水深のある止水状のところに伏流水があれば、そして、そこに移動できれば生存の可能性もあるが。
前さんであればそれらの稚鮎を採捕して、氏素性を調べられでしょうが。
山女魚キラーさんは、ドブ釣りで釣った二束、3束の氏素性を体色で区分して、白いのが海産、黒っぽいのが継代人工とされている。この識別法にどの程度の妥当性があるのか、わからないが。多分、耳石調査による孵化時期の判定よりも精度は高いのではないかなあ。
なお、2013年の高田橋でのドブ釣りの結果では、海産は3分の1以下では、と推測していた。その海産には海産畜養を含む。
「下りをしない鮎」の観察
「遺稿 あゆ」の「産卵のための下降本能」の節に
「琵琶湖産の放流アユは、海産や天然のアユに比べていろいろ異なるところがありますが、産卵もその一つです。産卵時期も非常に早くて、8月末にすでに瀬付くものがありますが、瀬付きの場所も、海産や天然のアユのようにくだっていかず、上流でもなんでも居付いた附近で、簡単に瀬付いてしまいます。
先年も誘われるままに九月二十六日に、これを今年の竿納めにしようと狩野川へ行き、比較的上流の月ヶ瀬へ入りました。あいにく雨で、五,六尾釣りましたが、そのうち雌は二尾だけで、あとは雄でしたが、その雄はあいにく瀬付いたもので、中にはもうあらかた白子を放出してしまっていると思われるものもいました。夜になって瀬付いたアユも昼間は瀬へ出ています。雌は比較的水深のある、そしてゆるやかな流れの中にいますが、雄は白泡の立つような瀬の中にいますから、そういう流れの強いところで釣れるのはたいてい雄です。そのときわたしは、琵琶湖のアユというのは、こんな上流でも瀬付くのだなと思いました。
日照時間や水温の関係で、上流のものほど早く抱卵して下ってきますが、河原の広い、明るいところにいるアユは雌雄共に若いので、その頃になると錆びたアユが釣れたり、まだ若い真っ白いアユが釣れたりします。この場合でも流心のような流れの早いところで釣れるのはたいてい雄アユで、肌の白い雌アユはトロや淵などの深いところにいます。
わたしは来る年のアユのために、少しでも多く産卵してもらいたいと思うので、秋のアユは長追いをしないように、できるだけ早い時季に竿納めをするようにと、人にもいうし自分に言いきかせていますが、禁漁期ごろになっても、まだまだ真っ白い、若々しいアユがたくさんいるので、竿納めをするのが惜しまれます。
秋はいつ頃まで瀬付くかよく知りませんが、早いものは八月末に瀬付くかと思えば、遅いものは禁漁期になっても、まだ真っ白いのですから、十一月十二月へ入ってもまだ瀬付くものがあるだろうかと思います。」
この文には学者先生並の観察力、と誤解せざるを得ない観察も含まれているように感じる。しかし、学者先生と異なる観察もある。
1 湖産だけでなく、海産畜養等、「トラックで運ばれてきたアユ」は、下りをしないで産卵する。
2 「日照時間、水温」が性成熟との直接的な関連はない。
岩井先生の「日照時間」と性成熟に相関関係がないことで十分でしょう。
なお、電照による「養魚場のアユ」で、六月でも性成熟をしていた冷水病が蔓延した頃:平成の代の始め頃に放流されていた継代人工は、前さんの「積算日照時間」が性成熟に関与しているとの推察が適切でしょう。
また、水温については、平成の始め、狩野川の稚アユを砂鉄川に放流したところ、「しばれる」中でもサビのないアユが釣れた「実験」?で十分でしょう。
3 「トラックで運ばれてきたアユ」は、湖産だけでなく、海産畜養、河口での採捕された稚アユ、継代人工でも「下りをしない」で産卵している。
もちろん、増水で流され、遡上アユの産卵場付近で産卵する「放流もの」もいるでしょうが。
4 雄と雌の食堂、住み家については、必ずしも適切な観察とはいえないのではないかなあ。
性成熟が進んだ雌アユといえども、瀬に入っているものは多いのではないかなあ。むしろ、雄のほうが流れの弱いところ、水深のあるところを好むかも。
ただ、遡上アユの話であるが。
なお、雲金釣りの家の故大竹さんが、狩野川のアユ=遡上鮎について、稲刈りの頃、再び瀬に戻る、と話されていて、故松沢さんもこの習性を活用されていた。
その点から、9月終わりでは、遡上鮎で瀬に入っているものが少なかったということかなあ。
学者先生の海産10月、11月産卵説の教義の布教者、司教がたくさんいらっしゃると思っている高知では、再解禁日が11月15日ではなかったかなあ。四万十川を含めて、遡上鮎が激減したことは、竹内さんでも自明のこと、と、思われるのではないかなあ。
なお、竹内さんは性成熟の進んだアユを釣りたくない、と9月末までに竿をたたまれているが、その頃に腹子を持っているのは湖産であって、海産ではない。もちろん、東北、日本海側=対馬暖流を生活圏としている海産は除くが。
四万十川での再解禁日の盛況は山崎さんの観察で十分でしょう。この盛況からも学者先生の産卵時期に係る教義が、いかに遡上アユの減少に大きな寄与しているか、わかると思いますが。
それに、11月15日の産卵床への立ち入りは、親の虐殺だけでなく、産着卵を踏みつぶし、流し、子をも殺戮していることになる。
ウエーダーのなかった頃ならいざ知らず、オラでさえ、平成の代になってからはウエーダーを使用していますから、11月の川に入ることがそれほどの難行苦行ではなくなっています。
それから、11月でも、産卵場に入らない限り、そして、友釣りの漁法である限り、性成熟が進んだアユの大量殺戮は発生しません。
また、一宿一飯の下りのアユで繁盛している食堂に入った人は大釣りができるが、その幸運な人は多くない。そして、故松沢さんが日替わりメニューと話されていたように、日々、同じ食堂が繁盛することも確実性に乏しい。
相模川の「アユの質は中の上か」およびアユの大きさ
「遺稿 あゆ」の「思い出の川」の章
「アユの質という上では、相模川のアユはあまり上等とはいえなかったでしょうが、決して悪いアユではありませんでしたから、まあ一般的に評価して中の上というところではなかったでしょうか。大きさの点でもあまり大きいのは少なかったようですが、これはひとつは密度が濃すぎた――数が多すぎたためあまり大きくならなかった、また、ひとつはとり方もはげしかったので、大きいものが次々と釣られてしまうということもあったでしょう。そうはいうもののドブ釣りで、解禁日にハリスを切られるということも決して珍しくはありませんでした。
当時の毛バリのハリスは本テグスですから、いまのナイロンに比べれば、はるかに弱かったわけで、ドブ釣りでは、条件さえよければ百g二十五匁くらいのアユも釣れたでしょうが、普通いいカタといっても七十五g二十匁というところでしょう。それでもハリ掛かりした瞬間の引きや、流れの中へ持ち込まれたりすれば、プツリといかれてしまったでしょう。とにかく六月一日の解禁当時にこの程度に育ったアユは少なくなかったということです。」
解禁日にどのくらいの大きさのアユが釣れていたか、と、故松沢さんに尋ねたとき、18センチとの話を聞いてびっくりしたが、それよりも大きいといえるかも。
密度の高いことが大きさに関係しないことは、川那部先生の本からも理解できる。
そうすると、小原先生同様、何が大きさに関係しているのか気になりますねえ。
かってとは比べものにならないくらい、密度が薄くなっても、大鮎、デカアユは「放流もの」で、その川で生活しているアユとは異質の継代人工等の氏素性のアユである。
もちろん、「本物の川」がなくなり、食糧生産も低下したとはいえるが。それでも、1匹あたりのアユの食糧の存在量は、アユの数が減っているから、古よりも個数あたり少ないとはいえないでしょう。
いや、「アユの本」の高橋さんは、飽食であることが、2012年の奈半利川の大アユを育てた条件、と書かれているが、このレベルの観察眼のなさにはヘボでも楽に反論できますよ。
「秋のくだりのころになれば、そうとう大きいのも見られました。さきに言ったように、道志川などでのんびりと育ったものなどがくだってくるのですから、百五十g四十匁くらいのアユは決して珍しいものではなく、いつだか諏訪の森の清さんに会ったら、先だっては七十匁(二百六十g)が釣れたよといっていました。
相模川の漁師はころがしも友釣りも舟でやっていたのですが、秋口になると大きいものをはりにかけて、こらえきれずに竿を持って川に飛び込んでしまう風景をよく見たものです。わたしも一度小倉橋の上で大きいのをかけて、ぐいぐい引かれるままにくだっていき、とうとうオトリごと持っていかれたことがありました。しかしわたしは七十匁などいう大物を釣ったことはありませんでした。」
七十匁が釣れていても大鮎が少ないとはどのように評価したらよいのかなあ。尺アユが相当数、釣れていたことを基準にすると、相模川の大鮎は数が少ない、ということかなあ。
それとも、尺アユは釣れていなかった、ということかなあ。
二十四センチくらいの遡上アユでも、百五十グラムにはなるかならないか、微妙ですから、七十匁は尺アユにちかいのではないのかなあ。
大鮎は、道志川育ちが多いといって適切かなあ。大石ごろごろ、大きい淵あり、瀬も健在、となると、本流育ちの大アユも相当いるのではないかなあ。
長島ダムがなかったころの、そして、塩郷堰堤下流では放流が行われていなかったころの大井川では、九月にはいると乙女が釣れていたが、二十五センチを釣ったことはない。いや、二十五,六センチでは、身を切り裂いてオラの毒牙から逃れられていたということで、大鮎がいなかったのではない。ただ、尺アユを釣りあげたという話は聞かなかったなあ。
狩野川でも西風が吹き荒れた後の11月、23センチくらいの乙女が釣れるが、多分24センチも釣れていると思うが、それらの乙女は竿の入らない支流育ちとの話はある。狩野川の本流で竿の入らないところがないということが影響しているのかなあ。
竹内さんの相模川の情景はいつ頃のこと?
「釣は愉し」(昭和28年発行 つり人社)の「釣りと釣友」の章から
さて、竹内さんは、昭和14年に外地に行き、戦後に引き揚げて来られている。
「ところが私は昭和十四年に外地へ行つたので釣りも中絶し、終戦の翌年引揚げてくるまでの間懐かしいスワの森やカネカケとも疎遠になつていた。しかし私は外地にいる間も折にふれてはアユ釣りを思い出し、アユ釣りを思い出せば必ずこゝの川の様子や、あの人、この人の顔が瞼に浮かんで、ひとり思い出を懐かしんでいたものである。
そんなわけであるから引揚げてきてから、いちばん先に行つたのが久保沢である。遠く離れていて何年もの間夢に現に懐かしんでいたそこを、故郷を尋ねる気持ちでいつてみたら、山や川はほぼ昔の儘だつたが、人はすつかり変わつていた。橋の袂の桂川亭は、以前に良く泊まつた家で気合いの良い親父さんとも親しくしていたが、その親父さんはもうこの世の人ではなかつた。
スワの森の中の小さい家に住んでいた漁師の清さん――この清さんを初めて知つたのは小倉橋のところがまだ小倉の渡しだつたころ、清さんが渡しの船頭をしているときだつた。いつの頃からスワの森に住みついたのか知らないが、スワの森の上下を自分の釣り場として一生? を暮らしていただけに、この附近のことは底石の一つ一つまで知つているほどで、どの石には何尾のアユがついているとか、何時頃にどこをやれば何尾ぐらいはかゝるとか、そういうことまで知つて釣りをしていたのだから、この附近ではいつも誰よりもよく釣つていた。だから私はこゝへ来ればいつも清さんにオトリをもらい、状況を聞いてから釣りをはじめたものである。ところがその清さんももう死んでしまつていた。それからすし屋の三ちゃん、これもいゝ若い者で私はいくたびも彼の船の客になつて一緒に釣つたし、自分のところへ泊まれというので彼の家の二階へ泊めてもらつたこともあつたのだが、その三ちやんもこの世の人ではなくなつていた。
私は河原に立つて憮然としてあたりを見廻すばかりだつた。その付近に釣つている人はあるが昔知つていた顔は一つも見えなかつた。故郷へ帰る気持ちで、胸一ぱいに懐かしさをこめて来た久保沢は、知らぬ旅人をみるような眼で、自分を見ているとしか思えなかつた。
その時の私は、いゝようのない侘びしい気持ちになつたが、時は移り、人は変わつてもやはり私にとつては馴染みの深い久保沢である。その後もたびたび行くのだが、この附近へくるとほかの釣り場とは違つた気持ちになる。たゞ物足らないのは昔を語る釣友のないことだ。スワの森もカネカケも大体昔ながらの様相はしているが、細かくいえばずいぶん違つたところもある。スワの森の落ちこみのところなども変わつているが、カネカケの淵などもつと大きく変わっている。あの淵の落ちこみのこところには大きな中洲があつて流れが二つになつていたのだが、いまは全く無くなつている。また落ちこみのところの右岸にはずつと川柳があつて、そこはいゝ底石となつていたので、夕方などの出アユになるとほんの岸近くで、すばらしいアユが何尾も続いて釣れたものである。
そういういくつかの思い出を語り合う釣友がないということはさびしい。昔はどうだつた、こうだつたといつたような話を、知らない人に話してもてもはじまらない。共感のないものに古い話などするくらい馬鹿気たことはない。それは話す方の一人よがりに終わるぐらいのもので、悪くすると老人の昔自慢として、軽く聞き流されてしまうだけだ。実際誰にしても、先輩や老人の一人よがりに類する昔話など聞きたくもないものである。
お互いにそれを知り、それを経験していた同士の間には共感があるから、話がすぐ通じるし、従つて感興も湧いてくる。そういう相手と思い出を語り合うことは意義があるし、楽しいものである。その意味でいゝ釣友は持ちたいし、長くその関係を持続して行きたい。
私には幸い古くからの釣友もあるが、古い釣友で永遠に思い出だけの人になつてしまつたもの――既に故人になつた人もあるし、いつのまにか消息を断つてしまつた人も人も少なくないが、ときどきその人たちの顔を思い浮かべて懐かしんだり淋しく思つたりしているのである。」
竹内さんの著作は、編年記風に作られているよう。したがって、前後の本の発行年度でいつ頃の川、鮎の情景であるのか、想像することができる。
「釣は愉し」は、
年々歳々 川 相似たり
の情景が描かれていて、例外的に「本物の川」が消滅しているに過ぎない時代の物語である。
しかし、この情景は、昭和32年発行の「續 釣は愉し」までで、昭和36年発行の「釣ひとすじ」になると、消滅していった本物の川、生き物への弔辞になっている。
相模川については、道志川の変貌、相模湖ダムの建設が行われていたとしても、まだ津久井渓谷が存在していた頃の情景である。
そして、その情景は、昭和14年前と、昭和21年からの情景に分かれるが、昭和21年以降でもいまだ
年々歳々 川 相似たり
歳々年々 人 同じからず
で、人は変わっても、川は余り変化していないと考えてよいのでは。
竹内さんが、「人恋しや」の心境が強かったのは、満州からの引き揚げと関係しているのかなあ。
ドブさんのお父さんは、朝鮮で漆がとれる、ということで、輪島から移住して、数棟の棟を持つ工場を経営していた。ドブさんは社長様のお坊ちゃまであった。
敗戦のとき、引き揚げ港である釜山に懇意にされていた漁師のポンポン船で向かった。8才のお坊ちゃまの記憶では、10分走ると、停まるようなぼろ船であったが、それでも、陸路を釜山に向かった人たちよりもはるかに楽であった、と。
オラは昭和17年にソウルから早々と帰国した。
親父の兄がNHKに勤めていて、この戦争は負ける、と。あからさまに、帰ってこい、という理由を書くことはできないが、戸主である爺ちゃんの権威を利用して、帰国に。
釜山在住のHさんが何日も並んで乗船券を買ってくれた。
Hさんは、昭和18年に松本第二百何連隊に入隊。済州島で軍務についていたため、機銃掃射があったくらいで終戦を迎えることができた。現地解散であれば、小母さんの待っている釜山にすぐに帰ることができたが、軍司令部?のあった平壌で解散式。
小母さんは、おじさんが帰ってくるまで待っていたが、4才と2才の子供を連れて最後の引き揚げ船に乗った。
門司港は満船のため、山口県の仙崎漁港で下船。それからおじさんの故郷まで、超満員の汽車で帰ったが、食べ物は、飲み水は、便所は、子供は、どのようにされたのかなあ。
小母さんは、28個の行李を発送したが、その荷を積んだ船は機雷で沈没。行李の一部を拾ってくれた人が、送ってくれたとのこと。4才の娘は、塩水に浸かって、バリバリになった服を着ていた記憶がある。
竹内さんの「大鮎」とは
大鮎は、かって、どのくらいいたのかなあ。当然、継代人工や、東北・日本海側の海産畜養かそれを親とするF1ではなく、房総以西の太平洋側を生活圏とする遡上アユのことであるが。
川那部浩哉「アユの博物誌」(昭和57年 平凡社)の「アユさまざま 座談会)」に
「岩井 そんなにおった頃は、大きさは小さかったんですか。
桑波(注:由良川漁業協同組合)大きいなんて――。サバみたいなやつがとれよったんですね。組合の事務所にも残ってますけんな。大体四〇〇グラム。ちょうど土佐のアユみたいなもんですわ。あんなんがこの由良川にもうじゃうじゃおりよったわけです。
岩井 そんなにおって大きくなっとたんじゃ、川那部さん、何か言わないかんのじゃないですか(笑)。
川那部 どこでもそれが、ほんまらしいからね。それはまだちょっと逃げて(笑)桑波さん。友釣りいうもんはこのへんはいつ頃からあったんですか。」
湖産には、大きく育つアユと小さいままのアユの群れがある。海産ではどうか。
「原田 ぼくは、アユをやっているというとウソになるし、やったことがないといってもウソになるから、ちょっと遠慮していたけど……(笑)。
この話(注:湖産の大きくなるアユと大きくならないアユの群れがあること)は昔からすごく面白いと思っているのや。海アユでも、おそく海から上ったのは大きくならないらしいけど、時間が足りないのか、早く上がって大きくなったアユにおさえられるのか、それとももう、どうやっても大きくなれないのか。誰もやらんのなら、そのうちぼくが手を出そう(笑)。」
原田先生が、海アユの大きさが何に、どのような要因に規定されているのか、研究されていないかも。既にお亡くなりになっているし。
サバのようなアユが例外現象であるのか。それとも相当の頻度で釣れていたのか。
継代人工が、そして、2011年、12年の狩野川の東北・日本海側の海産畜養、あるいはそれを親としたアユが放流されて、狩野川が尺アユフィーバーとなった、あるいは数年前に相模川は大島で尺アユフィーバーとなっていた継代人工のような、「人為」によるデカアユではなく、遡上アユがどのくらいの大きさになったのか、よくわかりません。
狩野川ではここ40年、23,4センチが限度であった、ということのよう。
2013年、東北・日本海側の海産畜養あるいはそれを親としたF1が放流された大井川は例外として、遡上アユしかいなかった数年前までの塩郷堰堤から下流の新大井川漁協管轄地区では、井川ダムができてから25センチくらいがデカアユであったと思う。
故松沢さんが、郡上の集荷場にアユを持ちこんだとき、尺アユだ、と人だかりができたとのこと。泣き尺との故松沢さんの判断が適切であったが、長良川でも尺アユはめずらしかったということのよう。
その超優等生は除いて、普通に釣れていた大アユはどのくらいの大きさであったのか、もっと故松沢さんに聞いておけば、と悔やまれる。
垢石翁が宮川に行ったとき、同行者が釣ったのは80匁で、普通に釣れていたのは5,60匁の中サバ程度の大きさ。時は8月終わり。
「アユの本」の高橋勇夫さんが、2012年、奈半利川でにも大きい鮎がいたのは、食糧が多かったことを理由としているが(2013年「つり人」の解禁特集号)、これほど、観察眼のなさを披瀝している現象はあるまい。食糧不足なんて、ダム放流時を除けば、相模川では永遠にないかも。それほど富栄養の水が流れていますよ。そして、かっては、貧腐水水の川でも大量の遡上アユの腹を満たすほどのコケの生産があったんですよ。
もちろん、アユが川に充ち満ちていた頃と比べると、「本物の川」がなくなり、水量が減り、また、大石ごろごろでなくなったから、コケを育む空間は減っているが。他方、遡上アユも激減していますよねえ。1匹あたりのコケ生産量が古よりも減っているとはいえないでしょう。2013年3月、高橋さんが、2012年中津川、相模川に潜り、「過密」であるから、鮎が小さい、なんてご託宣をされたが、適切な診断とはいえないと確信していますが。
あ、そうそう、そのご託宣を信じて中津川の鮎の放流量が減ったからか、どうかわからないが、大会で3匹しか釣れなくても、2回戦にいけましたよ。
食糧事情は、大井川のように、ダム放流があると、2週間は飢饉になるところでは厳しいとしても、それでも飢饉が収まる頃にまたダム放流があり、1ヵ月以上の飢饉になるときを除くと、9月、10月には23,4センチの乙女が釣れることからも、大アユ誕生の必要条件ではあるかも知れないが、その寄与率は低いのではないかなあ。
なお、ダム放流時に濁りを嫌い、沢筋の支流に入ったアユは、居心地がよいため、10月のいつ頃かにならないと、本流に出てこないとのこと。そして、遡上アユは下りにはいるから、その下りのアユがたまるところでは、美白の乙女が大漁になる。テク2は、その溜まるところをねらっている。長島ダムができる前は、七曲がりから下流でもその場所があったが、砂利で埋まってしまった。
2012年、荒川の雪代がおさまるのが2週間ほど遅かったとのこと。
三面川と違い、大アユが釣れる荒川の8月、その8月でも瀬で釣れるアユは、15センチくらいの中学生だけ。
20センチ級が釣れるのは、瀬落ちと瀬尻。海産畜養とのこと。
この現象から、ある成長段階にコケをたらふく食べることができなければ、その後の大きさに大きな影響を与える、ということではないかなあ。コケを食べることができるようになる2週間の遅れに対応する「時間」だけが大きさに影響する、とはいえないよう。
戦争前、戦争後の欠食児童であったオラがチビであるのもその影響があるかも。関係ないか。
とはいえ、原田先生のカンピュータが適切かも。
相模大堰副魚道調査から見ると、3月下旬に遡上があると、解禁日に17センチが釣れ、また、23,4センチの遡上アユが釣れるようになる。
4月始めの相模大堰遡上では、その数量が下がるのでは。
そして、4月下旬、5月以降の遡上アユは、15センチほどの大きさに育つものが超優等生であり、僅少であり、多くが小学生ということがいえないかなあ。
そうすると、孵化日が11月上旬あるいは中旬のものが大きく育つアユ群になるといえないかなあ。
東先生は、湖産を従来の4グループから2グループに分けられたとき、翌年の大アユに育つ湖産は、川に遡上することなく、湖で生活していたアユの子供。湖で生活していたチビ鮎は、早々と9月1日頃には産卵する。遡上したアユよりも早く生まれたチビ鮎の子供は翌年には川で生活する「大アユ」になると。
生まれてからの時間が大アユに育つかどうかに影響するということでしょう。
もはや、故松沢さんになんで大アユが育つのか、尋ねること能わず。丼大王が聞いていてくれたらなあ。いや、覚えていてくれたらなあ。
耳石から孵化日の日齢がわかる?
生まれた時季が、大きさを規定する必要条件であるとすると、いつ生まれたのか、わからないと困ることも生じる。
高橋勇夫「アユの話」に、四万十川海域で採捕したアユの耳石調査から、10月始めと2月に孵化しているとの記述がある。
2月の孵化については、仮に柿田川が孵化できる水温であるとしても、狩野川に流下仔魚が流れてくると、生存限界の7度以下の水温になっているから生存できるはずがない。これは四万十川でも同じであろう。四万十川の野村さんは、冬は温いところに魚が集まってくると話されているように。
10月はじめに孵化するには、9月下旬には、錆びた遡上アユが釣れることになるが、そのような現象は「絶対」にない。当然、遡上アユに関してのことであるが。川那部先生に「絶対」という表現を使う観察は信用できない、といわれても「絶対」に9月に海産鮎のサビアユが釣れることはない。
そうすると、耳石調査手法が耳石の裁断、研磨等の腕の良し悪しだけでなく、耳石に孵化日からの日齢が刻まれる、ということが事実かどうか、疑問視する必要があるのかも。
まず、「日齢」の輪が形成されるのは、「24時間」という時間の体内時計で、1日ごとに輪が形成されるのか。
それとも、昼、あるいは夜を感知して輪が形成されるのか。
次に、どのようにして耳石による日齢が適切であると検証されたのか。多分、人工環境での検証作業と思うが、屋外か、室内か。
流下仔魚には耳石があるのか。あるいは、海の動物プランクトンを食べるとすぐに耳石が形成されるのか。
シシャモでも耳石による孵化日が調査可能との話もあるが。
もし、耳石が体内時計に基づいて形成されないとしたら、ある水準の照度の、明暗の変化で形成されるとしたら、耳石の輪が、必ずしも孵化日からの「日齢」と一致するとはいえなのではないかなあ。
困ったときの川那部先生であるが、東先生、岩井先生らが耳石と孵化日の関係に関して書かれたものにまだ出会わない。残念であるが。
川那部浩哉「川と湖の魚たち」(中公新書)
「ゲンゴロウブナ」の章に、鱗に着目することによって、生まれてからの時間経過とともに体長の変化がどのように生じているか、調査できるとのこと。
「ところで産卵場へやってくるこういった魚の年齢組成を鱗の年輪から調べていくと、産卵にやってくるようになってからの1年間の生存率がわかる。まず一九六三年と一九六四年との年齢組成から、この両年に各年級群の個体がどれだけ死んだかが計算できる。またもし毎年生まれる個体数や死亡率が安定であれば、ある年にとったものの年齢組成だけからでも、死亡率が求められる。」
ということが川那部先生の1つの調査目的ではあるが…。
「次にゲンゴロウブナの生長の問題だが、産卵にやってきた魚の体長分布から、年齢ごとの成長を求めることはもちろん可能である。それと同時に、鱗にある年輪というものは、割合に便利なもので、それを見るとおのおのの個体の体長が、ある程度推定できるのである。つまり鱗の中心から各年輪までの距離と、現在の鱗の周縁までの距離との比は、その魚の各年輪形成時の体長(くわしくはそれから鱗ができ始める時の体長を引いた値)と現在の体長(これもくわしくは鱗形成時の体長を引いた値)との比に一致するのである。
そこでこれを使って過去の年の体長を推定してみると、三年目ころから成長の悪くなる傾向がみられる。これをもっとはっきりさせるために、横軸にある年齢のときの体長をとり、縦軸にその次の年齢のときの体長をとってグラフを作ってみると、たしかに三年目にあたる一八センチメートル程度のときまでは、毎年の生長量そのものはほぼ一定であるのに、それからあとは体の大きさが大きくなるにつれて、生長量がだんだん小さくなってくるのがよくわかる。ただその小さくなりかたは雄雌で違い、雄の生長量がいっそう小さい。
さてこの場合、この直線と四五度線との交点のところまでくると、理論上はもはやこれ以上成長しないはずという体長がみつかる。これが最大体長で、雄ではざっと三〇センチメートル、雌では三四センチメートル程度ということになる。それにしても、体長一八センチメートル程度のところで成長の様式がはっきりかわってくるのは、性成熟に関係している可能性が大きいようである。」
残念ながら、「ゲンゴロウブナの生長の様式」と、「鱗の年輪によって過去の体長を推定する方式の模式図」が掲載されているが、それでも咀嚼できていません。
なんとなく、耳石による孵化日の推定が可能かも、とは思うが…。
高橋さんらの耳石の輪による日齢の調査、あるいは、2000年頃に行われた神奈川県内水面試験場の耳石による孵化日調査結果が、高橋さんら学者先生の「10月、11月」海産産卵説の教義に適合していても、弥太さんや故松沢さんらの「11月、12月」産卵説と相容れない。
もし、耳石の輪が、「24時間」という「時間」ではなく、明暗の変化で生じるとすれば、あるいは他の要因で生じるとすれば、耳石の輪が孵化日からの日齢を表現しているとはいえなくなるが。
「24時間」という時間が魚に認識できるのかなあ。自然環境の変化と成長および性成熟の度合いが魚の行動、体に影響するのではないかなあ。
ということで、耳石による日齢の調査で孵化日がわかる、ということに対しては大いに疑問をもっている。
前さんは、電照による性成熟が進んだ鮎について、電照状態から放流されて、あるいは実験環境で普通の日照時間の生活に変わったことによる「短日化」が原因である、との学者先生の見立てに対して、「積算日照時間」が性成熟と関係している、と。
1993年頃、冷水病が蔓延して湖産が需要をまかなえなくなったとき、6月の解禁日でも腹子をたっぷりと持ったアユ、サビの出たアユが釣れていた。「短日化」が、性成熟を促している、との学者先生のご託宣が間違っちょうといえるのは、5月中旬、下旬に放流されて、解禁日までの時間に性成熟が進行できるとは思えないから。
前さんは、耳石の輪が「日齢」を表現しているのではない、ということをどのように説明してくださるかなあ。まあ、耳石が「日齢」を表現しているとの説は、学者先生の海産が10月、11月に産卵しているという教義を「科学的」に証明したことになると、お喜びのようであるから、反学者先生の研究資料を見つけ出すしかないが、存在するかなあ。
なんで、川にいる鮎の氏素性を識別して、その性成熟状態を観察することすらされない学者先生がのさばっているのかなあ。
電照と短日化による性成熟の調査をされた学者先生が、その調査に使った鮎の耳石を調査されていたらなあ。
もし、耳石の輪が、「24時間」という時間概念で形成されているとすれば、孵化からの日数・日齢を表現しているはず。もし、明暗の変化、その他の要因で形成されるとすれば、孵化からの日数とは一致しないはずであるが。
まあ、学者先生は、房総半島以西の太平洋側の海産鮎が9月に性成熟をしているはずがない、という「異端」の説に何らの疑問も抱かれていないから、せっかくの実験の利用も限定されたものとなっているということでしょう。
ということで、放流ものではなく、遡上アユの大アユがいかなるものであったのか、竹内さんの経験から見てみましょう。
佐久間ダムが建設中の天龍川
「続・釣は愉し」(昭和32年初版発行)に、「天龍川の大鮎」の章がある。
この記述から、竹内さんの大鮎のイメージがわかるかも。
昭和30年8月14日夜、40匁が出たとの話で出発、15日は工事中の佐久間ダムを見学。そのあと、大千瀬川は振草川へ。
20匁級ばかり。
翌日は大入川へ。大きさは変わらず。
予定は二日の釣りで帰ることになっていたが、伊那が郷里の同行者に誘われて伊那に泊まるため飯田線に乗る。
「豊根口という駅で、釣竿を持った男が二三人、そのうちの一人は重そうな魚籃を下げて入つてきたのです。そこでその魚籃を見せてもらつたところ、なんとすばらしい大鮎をうんと持つているのです。あまり美事なのでそのうちの1尾大きそうなのを、持つていた秤で量つてみたら、正味六十匁ありました。比較的小さいので四十匁はあると思われるくらいのもので、この下の本流で二十九尾釣つたというのです。それからいろいろ話を聞いているうちに、このすばらしい釣りを見のがして行くつてことはない、われわれもやつてみようではないかということになつたのです。その大鮎を持っていた男はHといい、天龍のイカダ乗りが本業だそうで、あとで名刺をもらいましたが、
『あなた方がやるなら囮も用意があるから明日わたしが案内してあげます。船を豊根口に置いてあるからそれに乗れば人が釣らないところをやることができます。』と親切にいつてくれたので、わたしたちもそれと一決し、豊根口から七ツか八ツ目の平岡という駅で降りました。そこがHの住んでいるところですが、旅館もこの前後の駅にはなく、平岡に満島ホテルというのがあるというので、そこへ泊まることにしたのです。」
「さて旅館に入りましたが、それからがたいへんです。なにしろHの仕掛けは道糸もハリスもナイロンの三厘の通しだというのですが、わたしたちはそんな仕掛けは持つていないので、そこの土地に一軒あるという釣道具屋へ行つてナイロン糸を買つてくるやら、仕掛けをつくるやら、座敷中へ釣道具をひろげて女中の手まで借りて明日の準備で、夕食も風呂もそつちのけの騒ぎをやり、ようやく一段落して横になつたときは、もう十一時を過ぎていたでしよう。」
「駅(注:豊根口)からすぐ川へ降りたら、そこに天龍下りをやるような大きな船がつないでありました。ここで身支度を整えて船に乗り、これで大天龍の流れを溯つたのです。この船はわたしたちが今過ぎてきた次ぎの駅の天龍山室というところまで持つて行くのだそうですが、駅の区間は一つだが川なりに行くと三里もあるとのことで、わたしたちはその途中のいい場所を釣りながら行くのだというのです。
天龍下りというのは昔から有名ですが天龍のぼりというのは稀らしいことです。三人の逞しい若者が長い細引きを肩にして岡を行き、二人が水棹でかじをとつて、のぼつて行くのですが急瀬へかかると綱を曳くものも水棹をとるものも必死で、手をつかねて乗つているのがすまないような気がするのです。結局そんなことでこの日の釣りは、天龍のぼりと釣りが半分ずつになってしまつたのですが、それでもわたしたちは悔いるどころではなく、佐久間ダムができればもうこのへんも湖水になつてしまうのですから、こういう経験は二度とできないわけで、いい機会にめぐり合わせたと喜んでいたのです。
さて釣りの方ですが、一度船をとめてみんなが竿を出したのですがわたしだけは囮がなかつたのでしばらく見物していました。そこでF君は三四尾釣つたようでした。その次ぎの場所でわたしは、そのアユを一尾F君にもらつて竿を出しました。大きい瀬の落ちこみの肩ですが、なにしろ水量も多く水勢もはげしい大河ですから、成るべく岸寄りの緩やかなところを狙い、それでも太股まで入って、徐に囮を送つてやりました。四十匁くらいの囮で三匁の錘をつけてやつたのです。囮を送りこんでしつかり竿を構えたとたんに、竿先がぐうツと大きく持ちこまれたので、来たなツと緊張してしばらくそのまま耐えていたらパッと軽くなってしまいました。肉切れがしてバレたのでしょう。
囮を引き寄せて鈎を調べ、もう一度今のところへ送りこんで構えていたらまたぐうツときました。こんどこそと慎重にかまえ、なにしろ一歩も前へ出られないので、その位置にいて徐々に引き寄せるしかないのです。竿は大丈夫かなと気にしながら、大きく弧を描いている竿をしつかりと握つていると、それでも少しずつ寄つてくるので、これで急ぎさえしなければ大丈夫だと思つているうちに、手元の暖流の方へ出てきました。思つたよりたやすかつたので、たいした代物ではなかつたかなと思いましたが、道糸を手にとって、左手で肩にかけた手綱をとろうとしたら、ぐうッと駈け出したので、思わず三尺ばかり糸を緩めてやり、それからまた徐に寄せてきて、囮の下をみたら以外の大物です。やつたり取つたり二三度した後ようやく手網へ納めたのを見たら優に五十匁はある逸物で、わたしの囮箱の窓からはとても入らないのです。
まずこれで天龍の大鮎にもお目にかかつたと思うと、満足感で自ずから快心の微笑が浮かんできます。
囮鮎がまだ元気が良いので、これでもう一度やつてみようと思って、また流れへ送りこんだのですが、こんどはなかなか来ないのです。もう二三メートル下がったところがいいと思うのですが、そこはもう落ち込みになつているので、そこで掛けても瀬の方へ持ちこまれればとても上げられないと思って、はじめは敬遠していたのですが、あとが釣れないままに危ないながらだんだんそこへ近付いていつたらとたんにグググツと強引なすばらしいアタリが来てアツという間に急瀬の方へ持ちこまれ、策を施すすべもなく、パツといかれてしまいました。囮ごと持つていかれたかと思つたのに、囮だけ助かつてヤレヤレで、危ない危ないとそこをどいたのです。
富士川に十島のダムがまだできていない頃、よくこんなことがありました。土地の漁師はそんな大鮎に出られて囮ぐるみ持つていかれたりしたのでは商売にならないので、大鮎の来るところは避けていたものです。そのころの富士川の鮎も大きく、秋口になると七八十匁から百匁に近い大物が出たものです。けれども二三十匁くらいの釣りごろの魚も多かつたのですが、ここ(天龍)では来るもの来るものみな四十匁以上の大物ばかりなのです。放流はしていないので、ことごとく下からのぼって来たものばかりなのです。もう佐久間ダムの工事で本流は堰きとめられ、本流の水は隧道の仮水路を通つているので、これらの鮎はすべてこの隧道を抜けてきたのですが、普通ではとてもここへはのぼれないと思われます。聞いてみるとこの上のダムの関係で、流量が減ったことがあるので、そのとき下に待期していた鮎の群れが一気にのぼつたものだそうで、それが全川に散つてこの大河のどこでも釣れるのですから、鮎の遡上力もさることながら天然鮎ののぼる数もたいしたものです。
佐久間ダムが完成すると約八里上流まで湖水になるとか聞きましたが、このへんの鮎も今年が最後だというので、案内してくれたHなども『惜しいことです。惜しいことです』とほんとうに惜しそうにそれを繰りかえしていました。
場所をかえてから、みんな五六尾ずつ釣りましたが、これも五十匁級ばかりです。土地の人たちは逆鈎は使わないのですが、なにしろ囮が八寸もあるので、掛鈎は鼻環から鈎先まで一尺もあつて、そのままでは下へ垂れそうな気がするので、わたしたちは逆鈎使い、尻鰭のところへ刺して置くのですが、かかる魚が大きいので逆鈎が折れてばかりいるのです。
そんなわけで、釣つた数は少なかつたが面白い釣りでした。この日は釣る時間も少なかつたのですが、水の条件もあまり良くなかつたようで、案内のHもわたしたちと同じ程度で、こんなことはないのですが、といつていました。
船を岸へつけて、その真上の天龍山室という駅へ入つたのは、もう日の暮れ方でした。しばらく待つて来た電車へ乗り、帰途についてのですが、別れるときHが
『この鮎は大水さえ出なければ九月中頃まで釣れますから、ぜひもう一度来てください。囮などいつでも用意して置きますから』と親切にいつてくれました。ほんの行きずりの縁でしかないこの男のどこかに誠実さが感じられてうれしく、都合がついたらもう一度来てみようと思いながら、礼を述べて別れてきました。」
さて、この天龍川での釣りは、わからないことが多々あります。
竹内さんもHさんも疑問をもたれているが、何でトンネルを上ることができたのか、ということも。船明ダムのトンネル状の魚道を遡上しなかったといわれていたが、電灯をつけてから遡上できるようになったという話があったと思うが。トンネルの長さが短い、ということが関係しているのかなあ。
8月のお盆の頃での大きさであるから、9月、あるいは10月上旬頃まではまだ大きく育っているから、天龍川には相当の大鮎がいたでしょう。
しかし、海からの距離は、佐久間ダムまででも相当の距離になるとは思うものの、船明ダムができる前、大鮎が天龍川にいて、天龍玉三郎さんが格闘していたようで、と、考えると、遡上できる距離だけが大鮎を育む条件とはいえないと思うが、わかりません。
それでは相模川は大鮎が少ない、とはどのような理由によるのかなあ。過密とか、高橋さんのように食糧不足ということでは説明がつかないと思うが。
川那部先生が、鮎がコケを食するほど、コケの純同化速度、生産量は多くなる、ということから考えても、相模川の大鮎の少なさはどのように考えたらよいのかなあ。小原先生が大鮎の育つ条件を研究していてくれていたなら、少しはヘボにも想像可能になるが。
故松沢さんが、長手尻であるのに、手返しを早くできたのは、目印でアタリを察知して、その瞬間、手の甲を返すような操作をすると、掛かり鮎は上流にすっ飛んでいく、と。
その技があれば、「アツという間に急瀬の方へ持ちこまれ、策を施すすべもなく」という事態にならず、大鮎を取り込める。
長良川で泣き尺を集荷場に持ちこんで周りの人々を「尺鮎」と驚かせた大鮎も楽に?取り込む操作ができることになるが。
高遠を流れる三峯川で島村さんが見ていた友釣りで釣れていた鮎は、天龍川の遡上鮎かなあ。湖産の放流ものかなあ。
もし、遡上鮎とすれば、そして、上流へのぼるほど大鮎になるとすれば、大鮎の宝庫となるが。
ただ、竹内さんは、上流ほど大鮎が多いとは考えられていない。途中下車をする鮎もいると。このことは狩野川での描写で考えてみましょう。
道志川の大鮎
竹内始万「釣ひとすじ(昭和36年4月発行 つり人社)
「待望の大アユ」の章に、道志川での大アユが登場している。
昭和35年のことかなあ。それ以前かなあ。そして、その頃、まだ道志川に遡上できていたのかなあ。津久井湖、奥相模湖はまだなかったか、建設に着手した頃であろうが、青山の浄水場の堰はできていたのかなあ。道志川に遡上できたのかなあ。
「今年も6月の解禁以来、土曜日曜にかけて良く釣りに出ました。久慈川、那珂川、鬼怒川、越後の魚野川など、近廻りでは奥多摩、秋川、相模川などへいつも三,四人から五,六人で行きました。今年は六,七月はどこの川も渇水で魚の育ちが良くなかったし、釣りにくかったが、八月へ入ってからは反対に雨が多くてどこも濁っていたり水位が高すぎたりして、思わしい釣りができませんでした。しかし平均して一五,六尾は釣っているし、良いときには二十尾を超えることもあって、まあほど良く楽しんだわけですが、ただ物足りないのは大アユに出会わないことで、昨年は八月始めに神流川で四十匁(一五〇グラム)を釣ったのに、今年はそういう機会にずっと恵まれませんでした。九月へ入ってから再度那珂川へ行ったのも、大アユが出るという予想からでしたが、行ってみると水が多くて思うところが釣れず、数はけっこう釣れましたが、ついに待望の大アユに会わずにしまいました。ところがそれから一週間目、九月十七日に相模川の支流の道志川へ行って、ようやく思いを遂げることができました。
この日は同行四人、奥道志の両国橋へ着いたのはもう夕方でしたが、橋の袂の湯川の家で支度をしてすぐ川へ出てみました。そして一時間ばかりやってみましたが、みんなカタを見た程度に終わったので、その場へオトリを活かして引き揚げました。宿へ帰ってみたら、釣友のI君やM君の一行も来ていたので、その夜は賑やかに枕を並べて寝ました。」
翌日、竹内さんは、釣れず、うろうろ。
「その場所はやや緩やかな流れと、続いてそれが落ち込んで強い瀬になり、瀬が終わるとすぐ淵になるといったところで、狙い場所としては上のやや緩やかなところと下の瀬だけで、それも長い釣り場ではありませんから、上へ一人、下へ一人はいれるだけです。そしてH君は上でやっているので、わたしは十メートルばかり離れて下の瀬へはいりました。
その瀬が終わろうとするところに、水をかぶった大きい石があるので、わたしはその石の蔭をねらってオトリを送りこんでやりました。そしてしばらく待っていたらク、ク、クと大きくはないが力のあるアタリを感じ、とっさにわたしは『来たッ』と思って糸を張ってみましたがほとんど動かないのです。大きい! と思って、竿先をその位置にしたまますぐ五,六メートル下も手へさがり、それからじりじりと、引き寄せにかかりました。
動き出した魚が中心の流れを越えて手元へ寄って来てから、竿の撓みに注意しながら道糸へ手をかけようとすると、魚は斜め下の流心へかけこむので、わたしはまた竿をとり直して三,四メートル下手へ下がる。そんなことを二,三度繰りかえしている間に、わたしは初めの位置から二十メートルも下ってしまいました。そしてようやく竿を肩にして道糸をつまみ、徐々に取りこみにかかりましたが、魚の引きの強さを感じると共に『大きいゾ』と二度も三度も自分に言いました。そして最後に手網を出して、半ば下からすくうように、その中へ釣りこみました。首尾よく手網へ取りこんでホッとしたときの安心感――これは友釣りの経験者でないとわからないところです。
この時のオトリも二十匁を越えるものですが、手網に納めたアユに比べると親子ほどの違いです。大きい! とわたしはしばらくの間手網の中の魚に見入りました。雌アユで、もう大きい腹子を抱いているのがわかりますが、まだ少しも錆びたところはなく、魚体は美しい銀色に輝き、肌も滑らかです。わたしはそのとき、五十匁か、いや五十匁はないかも知れないがそれに近いかと思いましたが、これは欲目というものでしょう。帰ってから量ってみたら四十四匁(一六五グラム)でした。そしてこの日に釣った一四,五尾の中に四〇匁(一五〇グラム)前後のものが五,六尾いましたが、その中で一番はじめに釣ったこれが最大でした。他の三君もこの日それぞれいいカタのアユを釣りましたが、わたしの四十四匁が大将でした。」
「アユも二十匁(七五グラム)となれば一人前で、三十匁(一一二グラム)といえばりっぱなもので、一見して魚に貫禄があります。それが四十匁(一五〇グラム)となればもう師団長格で、顔つきにも犯し難い威厳があります。
もちろんもっと大きいものもあります。関東地方で大アユといえば、釣り仲間では利根川か富士川かといったものですが、利根川は岩本ダムで、富士川は十島ダムでいまはその大アユも昔語りになってしまいました。東都のアユファンにとって、相模川はいちばんなじみが深いところですが、この川のアユはあまり大きくならないのか、大きくなるまでに捕らえられてしまうのか、相模ダムができる前から川に比較してアユは小さかったように思います。
それでも秋口などになると、七十匁というのが釣れたなど、ときどき聞きました。そしてこういうものを奥道志のアユだといったものです。奥道志は川も良いが、昔は交通の便が悪くて釣りに入る人もほとんどなかったので、これへ入ったアユはのびのびと大きく育ったのでしょう。それが秋口になると相模の本流へ下ってきたのだと思います。近年は川らしい川にはことごとくダムができたので、本当にアユが育つ川がなくなってしまったし、その上放流のアユは放流時季の関係もあって、どうしても育ちが悪いように思います。
関東でいま大きいアユが出るといえば鬼怒川でしょうか。ここへは天然アユも上るので、数は望めませんが、いまでもときどき七,八十匁のアユが出るようですが、わたしはまだそんなのを釣ったことはありません。大アユでは数年前、たしか天龍川で佐久間ダムのできる前の夏に、五、六十匁のアユを釣りましたが、ダムができた今日ではもうああいう釣りも望めなくなりました。そんなわけで今日では四十匁から五十匁といえば、最大に近いものといっていいでしょう。そしてその程度のアユならば、昨年は神流川で釣り、今年は道志川で釣りましたが、その他の川でも望めないことはありません。」
さて、竹内さんが釣った大アユは、湖産です。竹内さんも異議を唱えないと思います。九月に腹子を持つのは湖産であっても、相模湾育ちではない。「絶対に」。「絶対」という説は信用できないと、川那部先生に言われても、その見立てを変えることはできません。
そして、次の問題は、昭和のいつ頃から、道志川に遡上できなくなったか、ということです。
滝井さんも道志川は青野原に行き、アユが釣れず、瀬付きのハヤを捕って持ち帰っているので、滝井さんの記述を紹介します。すでに紹介をしていますが、視点を変えて、道志川に遡上可能であるのか、だけをみてみます。
瀧井孝作「釣の楽しみ」(二見書房 昭和五十年発行)の「道志川」の章
この文は、昭和三十二年に書かれていて、
「昨年の六月一日のアユ解禁には、道志川の青野原といふところに行つた。」
とのことであるから、昭和三十一年に道志川に行かれている。
「私は昨年はこの川筋の上流に行つて、茲には来なかったが、今年は青根の方にダムが完成して、ダムの上の水はトンネルで相模湖に送られてこの川の水量は半減して、道志の鼻曲がりアユといわれた例年の上等のアユも、茲らは望みが淡いと考えられた。」
「釣ひとすじ」の発行が昭和三十六年。「続釣は愉し」の発行が昭和三十二年。
「釣ひとすじ」は、「続釣は愉し」発行後の文をまとめたものとのことであるから、両国橋にはアユは遡上できなくなっている頃に、竹内さんらは両国橋で釣りをされたということではないかなあ。
そして、放流されていたアユは湖産。
道志川漁協は、ダム補償(津久井ダムではないかと思っていたが、それ以前の遡上阻害を生じたダム補償かも)で、湖産の現物補償協定を県と結んでいたから、湖産「ブランド」に、海産や継代人工が「ブレンド」されていない等級の高い「湖産」、価格の高い湖産が放流されていた。
湖産は、故松沢さんが、「線香花火」と表現されていたように、品切れも早かったが、道志川の釣り人がまだ少なく、大アユに育つ時間を与えられた湖産がいたということかなあ。
そして、昭和三十年代前半であれば、氷魚から畜養された湖産はまだ「湖産」ブランドとして生産、販売されていなかったと思う。川へ遡上してきた「ほっといても大アユになる」湖産稚アユを採捕して放流されていたことから、遡上性もあり、両国橋で放流された湖産が、上流の崖で保護されたところで大アユに育ち、放流地点付近に下ってきたということかなあ。
それでは、川に遡上した湖産は、放流後、どのくらいの距離をのぼるのか。
川那部浩哉「アユの博物誌」(昭和57年 平凡社)の中の「X章 アユさまざま(座談会)で、東先生が
「桑波(注:由良川漁業協同組合) 湖産のアユは、放流場所から移動する区間いうもんが、非常に狭隘ですね。あれは何のせいですか
東 ぼくが岡山の川でやったのでも、せいぜいが二〇キロメートルですね。そういう定着性とか、縄張りの強さが強いとかいうのは、氷期に琵琶湖に閉じこめられっておったときの性質やというのが川那部説やけど、移動距離のほうはどうなるのやろ。
川那部 それはよう説明せん。今のところは、やっぱり琵琶湖へ入っている川が短いからや、とかなんとかいって逃げなしようがない(笑)。わからんです。」
と、話されているが、「二〇キロメートル」の移動距離が観察されたのは、氷魚からの畜養湖産ではなく、川に上ってきた湖産のことでしょう。
そして、両国橋から放流された湖産が、少しのぼっていくと、山道をテクテクと下っていかなければならない崖に守られた空間を生活圏とするできる。しかも、せっかく山道を下っても、相当の距離を上下して釣り場とすること能わず。行く手を淵や崖で阻まれることとなる。
それらのアユが、性成熟をして放流地点の一つである両国橋付近に下ってきたということではないかなあ。
1992年頃から、冷水病の蔓延で、いまや道志川の解禁日に釣れる「湖産」は、解禁日直前に放流された成魚放流が主役。群れに当たれば大漁になるようであるが。
更に、砂利の流入が多く、神社前でも、数年前に砂利の中に大きい石があるという状況になっていた。両国橋でも大きい石や玉石がつまった、という状況は消滅していた。
竹内さんは、「遺稿 あゆ」の「放流のアユと遡上性」の節に
「琵琶湖産の小アユは移動性が少ないといわれますが、そういう本能がないわけではなく、放流用の小アユは湖へ注ぐ安曇川その他の川へのぼろうとするところをとるのだそうですから、そのまま置けば川へのぼっていくわけです。もっとも琵琶湖産の小アユにもふたとおりあるような気がします。それはここでは問題にせず、とにかく湖産アユは移動性が少ないというのが定説だと、わたしもそう思いますが、放流のアユの場合は、海でとれたものも移動が少ないと思います。というのは移動する必要のない場所へ放流するからです。
アユののぼり本能は生活の適地を求めるためですが、放流の場合は、その適地までの道中は、人間が肩代わりをしているわけです。放流の場合は、のぼり本能のことなど考えていませんが、アユにしてみれば自分の求める適地を人間が選択してくれ、そこまで連れていって放してくれるのですから、運ばれる間少し狭くてきゅうくつでも、それをしんぼうしさえすれば、あとはらくなもので、放流されたらすぐその場で散開、適当に定着すればいいわけですから、万事世話なしというわけです。」
人間が遡上の苦労をなくしたり、孵化事業がありがた迷惑である、と、嘆かれている竹内さん。もちろん、その孵化事業には、まだ継代人工は登場していないが、F1の生産は行われているのでしょう。
「放流されたらすぐその場へ定着すればいいとはいうものの、もちろん多少は移動します。昨年(四十六年)これは人工採卵して育てた小アユですが、狩野川の支流の大見川へ標識放流したものが、放流地点から本流へ出て、上流へ約二km、下流へ約一km移動していたものがあることがわかりました。そんなわけですから、適地へ放流されても、そこが気に入らず、もっと上流へ行くものもあるでしょうし、反対にくだるものもあるでしょうが、またそれで適当に分布するわけでしょうが、それにしても放流地点を中心にその前後に定着するものが多いことは事実であり、とくに琵琶湖の小アユの場合にこの傾向が多いのですから、経験の深い釣人が、解禁前にどの地点に放流したかを知ろうとするのは、理由があることといわねばなりません。」
ということで、湖産アユといっても、川に遡上してきたアユを採捕して放流した場合、氷魚から畜養して放流した場合、F1を放流した場合で、移動距離に差が出るということでは。そして、竹内さんは経験されていないが、継代人工になると、放流地点上流の瀬を越えることはないよう。また、瀬に入る優等生も少ないよう。
なお、ここでの「湖産」は、昭和40年代以降の情景であることから、氷魚からの畜養でしょう。
竹内さんの狩野川
「遺稿 あゆ」の写真に、3列ほどになっている狩野川のアユ釣りの写真が掲載されている。
岸は、コンクリート護岸ではない。川のすぐ傍まで山が、雑木林が迫っている。これはどこの写真かなあ。
昭和28年発行の「釣は愉し」に登場する狩野川は、「伊豆のヤマメ」だけで、鮎は登場していない。
この「ヤマメ」は、関西風の「ヤマメ」=アマゴのこと。
「續・釣は愉し」の「鮎 山女 岩魚」の章に
「体側に朱点のある、アマゴ系――関西系の山女も、朱点のない東北系の山女も共に美しい。」
長良川は「アマゴ」であるが、どこで「ヤマメ」ではなく「アマゴ」の呼称に変わっているのかなあ。天龍川かなあ。木曽川の上流ではタナビラ。
竹内さんも、土地によって、ハヤ、オイカワを例にして、呼称の違いに気をつけよ、と書かれているが。
ということで、昭和20年代のあゆみちゃんの状況は、相模川のほかは、くわしく記述されていない。
そこで、昭和20年代の雰囲気を感じるために、「釣は愉し」に掲載されている鮫川の7月1日解禁日を見てお茶を濁しましょう。
鮫川の解禁日
「七月一日の、福島県鮫川の鮎の解禁日、今年の鮫川の鮎の出来は素晴らしいとの情報で日本友釣同好会の有志四十名、大挙して前日上野を発つた。この行、地元の日立釣友会の肝入りで、同会からも参加四十名、賑やかな遠征である。
まだ陽のあるうちに釣場へ著(注:原文のまま)いて、それぞれ(注:「ぞれ」は記号表示)旅館や民家へ分宿、私たち二十名は上遠野村根岸の坂本屋へ泊まることになつた。荷物を宿へ預けるとすぐ三々五々川を見に出かけた。
雨のあとで川水はまだ一尺ばかり高いとのことであつたが、絶好の水色で、早くも釣意をそゝる。岩盤の川で石も大きいし、いゝ滝もあれば瀬もある。その流れを見下ろすと、尺鮎の姿が眼に浮かび、明日の釣りへの期待の夢が大きく拡がる。
その夜の賑やかさ、前祝いか、ビールのコップを大きく傾けている者もあれば、盃でチビリ、チビリやつている人もあり、またほの暗い電燈の下で二,三人仕掛けを作つているのもある。
釣糸に鮎宿の灯ほの暗く
鮎宿の明日を気負いて姦しき」
蚤にいじめられて夜明け前。
「 鮎の宿蚤に明けたる一夜かな 」
「 露を踏み鮎の河原に降り立ちぬ 」
早々と場所替えを余儀なくされて
「『ようやく囮が替わつた』と一安心して振り返るとA君の竿にも来て、いま手網へ納めるところであつた。
こゝでボツボツ(注:「ボツ」は記号表示)どうにか十五,六尾、だがカタは良くない。その中に二十匁と思えるものは一尾もいない。鮎の香りも低く、上質のものとはいへない。午頃になつてアタリが遠のき、直射日光の暑さが身にこたへる。
続いて釣れゝば竿の重さも感じないが、アタリがなくてもジツと長竿を支えているとその重さが腕にこたえ、身にこたえて来る。
長竿の重きに堪えて陽は真午
鮎釣れず竿徒に長くして」
七,八尾を加えて、宿へ。
「ほかの連中の釣果はどうだつたろうと尋ねてみるといずれも不漁、
『ひどい目に遇つたよ』と異口同音、
『Y君はウンと釣るつもりで魔法瓶を二つも持って来た』
『囮箱を二つ持つて来た欲張りもいるよ』
そういつてみんな大笑いをした。大きい期待はいつも大きく外ずれ勝ちのものだ。釣りは天運しかも恵まれないことが多いものだ。
『明日は久慈川へ廻ろう』という人もいる。悪いと思つた私たちは案外にもいい方だつたのだ。」
「昨夜は月が美しかつたが、今夜は曇つて空が暗い。宿の二階から流れの瀬音を聞いていると、カジカが美しい声で鳴いている。
『ホ、ホ、ホタル来い』二,三人の村の子供の声が聞こえる。古風なホタル追いの声を久しぶりで聞いて、少年の日を思い出す。
スーツとホタルが一つ流れ行く。いまごろのホタル、このへんは季節がだいぶおくれているなと思う。
翌朝早く見切りをつけて帰路についた人もあつたが、私はA、O、Sの三君と午まで釣るつもりで、手近なところから川へ下つた。昨日と同様あまり思わしい釣果ではったが、それでもきのうの場所よりカタは良く、揃つている。十一時ころまでに六尾。
囮鮎ひたに泳げばいとほしく」
なお、垢石翁も鮫川で釣りをされている。
昭和三十年代の宇川でも、鮎が食べれるものと期待して調査にやってくる学生らをがっかりさせる年もあったとのことであるから、そして、竹内さんも遡上鮎に豊凶のあることを十分ご存知であるから凶の年かも。
凶の年としても、今日の凶の年よりは遡上量が多いかも。
そして、前評判は昔もあてにならないのかも。
ホタルを追っかけたのは、昭和二十五年頃までかなあ。ヘビの目をホタルと間違えてびっくらこいたこともあったなあ。田んぼでも、池でもホタルはいたなあ。「清流」の概念には入らないかも知れない池から流れ出す溝にもいたなあ。いや、「溝」ではなく、立派な名前を持った川であり、平の忠度?さんが戦死したところでもあるが。
さて、川見同様、目論見が外れてしまった。
昭和20年代、30年代、あるいは昭和14年前の狩野川の川とあゆみちゃんの生活を垣間見ることができると思っていたのに、竹内さんの本には「釣ひとすじ」に、「水害後の狩野川」の章で水害の被害、川の生物の行く末、コンクリート護岸工事の影響が書かれているだけで、「遺稿 あゆ」のあゆみちゃんの生活誌に狩野川が素材として登場しているに過ぎない。
竹内さんは、何で狩野川のあゆみちゃん、川の情景を本にしてくれなかったのかなあ。狩野川はみなさんが釣りに行っているから、あえて紹介しなくても良い、と考えられたのかなあ。あるいは、雑誌に掲載されていても、本にするときは選択されなかったのかなあ。
昭和21年解禁日の狩野川
ということで、困った、困った。
そこで、「2013年 つり人800号記念」に掲載されているつり人創刊号の「鼎談 狩野川の鮎釣 名人が語る友釣の奥義」で、昭和21年の狩野川の情景を想像するしかなし。
垢石翁の本に狩野川の情景が掲載されていれば、それも紹介することにしますが。とはいえ、垢石翁も、「狩野川衆」については書かれていても、狩野川のあゆみちゃんについてはちょっぴりしか書かれていないのでは。
宮川でマダムが釣り上げた28センチのような大アユが、戦前に、あるいは戦前の川が存在していた昭和20年代に釣れていたのかどうか、それすら、調べられないのではないかなあ。
「狩野川の鮎釣 名人が語る友釣の奥義」(旧字は当用漢字で表現しています。)
出席者は、 野田重衛 修善寺町長
中島伍作 名人
佐藤垢石
対談場所 修善寺温泉
1 大きさと遡上時期は相関関係にある?
昭和21年5月16日解禁日の状況
中島 「解禁日に釣れなかつたのは、天候が悪かったので川のぬく(垢)がなく、鮎は一年生のもので育ちがよいのですがこの條件では育たず、小さいので、友釣にかゝらなかったのでせう。
佐藤 さうしますと初めて狩野川に姿をみせたのは……。
中島 こゝで初めてみたのは四月の中頃です。その前に見た話は聞きましたが続々と多数見えたのは二十日後の方が多く、それ以前ではモヂリに入つた話を聞きました。
佐藤 今日は多数釣つた人があるでせうか。
野田 何処でも不漁の様でした。
佐藤 上流の様子はどうでした。
野田 一里強上流迄いつたものが、不漁で十時頃帰ってきましたから矢張り駄目でしたでせう。中島さんの御話の通り水が冷たかつたのが理由でせう。
佐藤 水が冷たくて囮を追はない……。
野田 小さい……。
中島 育たなかつたからで、今日のやうな天気が一週間も続けば大変よいのですが。
佐藤 大見川、年川合流点で三匹とつた人があつたが大漁ですか。
中島、野田 それは大漁でせう。」
五月十六日頃が解禁日であったとは知らなかった。
そして、「釣れない理由」を水温、アカ付きの悪さと考えてよいのかなあ。
現在、といっても、昭和の終わり頃以降のことしか知らないが、五月二十何日の解禁日に釣れないと、「水温が低い」ことを「理由」とされて、「鮎がいるのかどうか」を看過されていらっしゃる狩野川筋の方もいらっしゃるようですが。
故松沢さんは「西風が吹き荒れること」からそわそわしたあゆみちゃんが下りに入る頃、産卵行動に入る頃、一日で三,四度の水温低下になるが、すぐにその水温にあゆみちゃんは慣れる、と。したがって、急激な水温低下でない限り、「水温が低い」ことが不漁の原因ではなかろう。
さて、昭和二十一年の遡上鮎は、四月下旬前にも小規模な遡上はあったようであるが、修善寺付近で大量遡上が観察されたのは、四月下旬のよう。
とすると、故松沢さんが試し釣りで「十八センチ」級を釣り、こっそりと見物人にやっていた大きさに育つ鮎はいないのでは。
その大きさに育つには三月中旬、あるいは下旬に遡上を開始していないと困難ではないかなあ。
つまり、その頃に櫛歯状の歯に生え替わっているには、十一月孵化でないと無理ではないかなあ。
これが、相模大堰副魚道での遡上量調査における遡上時期による大きさ、育ち具合予測のオラのカンピュータの判断基準です。
城山下附近に四月下旬にやってきても、五月ではチビ鮎のままではないかなあ。そして十月、十一月でも中高生の大きさに育つあゆみちゃんが健康優良児ではないかなあ。
対談者も「育ち」具合が「釣れない理由」と考えられているが。コケの生産量の問題ではないと思うが。
大見川にも遡上を妨げる堰等はなかったということのよう。なお、現在と違って、解禁日を焦点とする放流は行われていないよう。
放流アユについて そして、「アユ百万匹がかえってきた」そのアユの氏素性について
「佐藤 今年の放流はどんな具合ですか?
野田 近日中にすると言つてゐます。
佐藤 何処のものですか?
野田 浜名湖の産です。最初は琵琶湖産であつたらしいですが、小田和湾付近のものです。」
小田和湾と稚アユ
「小田和湾」は三浦半島にあるが。浜名湖にもあるのかなあ。それとも、浜名湖に稚鮎の養魚場があるということかなあ。
「小田和湾」は、神奈川県が海の稚アユを放流用に使用するための調査を行ったところであり、淡水に馴致してから輸送した方が遠くまで輸送できることを検証したところである。
この小田和湾について、竹内さんは、「下手の長竿」(つり人社 昭和四十一年発行)の「名魚アユのために」の章で、
「東京湾では冬季に小アユは小田和湾に集まるそうですが、ここに集まる小アユはどこで孵化したものでしょうか。相模川、酒匂川、早川といったところで生まれたものが相当多くいるだろうということは予想されますが、もっと小さい川で、アユの川としてはほとんど知られていないようなところで生まれるアユも少なくないだろうと思います。どの川でどのくらい生まれ、どのくらいの割合で小田和湾に集まってくるのか、そういうことも調べられれば、調べておく必要があるのではないでしょうか。千葉県内の内湾に面した川、養老川をはじめ小櫃川、小糸川、湊川などアユののぼる川がいくつもあります。千葉県の川はどれもアユの川としてはよい条件を備えていないので、本格のアユ釣りファンはほとんど省みませんが、それだけに小アユも産地としては相当重要な役目を果たしているのではないかと思うのですが、それらの川の小アユと小田和湾に集まる小アユとの間に関係があるのかどうか。そういうこともまだ専門的に調査されていないだろうと思いますが、今後の放流の問題を考えるとき、これらの調査は当然行われなければならないことのように思われます。」
多摩川の産卵時期とそのルーツ
田辺陽一「アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館 二千六年 平成十八年発行)
の「第七章 汚濁の海 東京湾の謎」の「姿をくらましたアユの群れ」の節に「海アユ」の産卵を撮影したときのことが書かれている。
これぞ、学者先生の海アユの「十月、十一月産卵説」の教義を間違っちょる、と定量分析的レベルともいえる観察がされている。当然、高橋さんも、田辺さんの本が出版された後に出版されたと思っている学者先生らの教祖的な役割をされている谷口さんの「アユ学」でも一考だにされていない。
ということで、既に紹介済みであるが、再度、さわりの部分だけを紹介します。
「一般に関東平野の川でのアユの産卵時期は、9月末から11月初旬頃だ。2002年の9月末、私と賢さんと私との(注:原文のまま)アユ探しの日々が始まった。」
「賢さんの見立てでは、多摩川でアユが産卵しそうなのは、二子玉川駅付近から調布市の染地付近まで、7キロの範囲にある瀬だという。
賢さんは、漁協の許可を得て、産卵場の調査のために投網を打って歩いた。網に入ったアユの中には体が黒く変色しているものが見つかった。軽く腹を押さえると、白い精液も出てくる。繁殖期に入ったオスの特徴だ。ここまで調べがつけば、さあいよいよ撮影にチャレンジだ。
ところが実際に潜ってみると、産卵の様子はおろか、アユの姿を見ることすらできない。網にはかかるのだから、アユがいないわけではない。ただ、見えないのだ。それは透明度が悪いせいでもあり、アユの密度が低いせいでもあるだろう。秋が深まって、もっとたくさんのアユが集まってくるまで、待つとしよう。
1週間経ち、10月も中旬になると、だんだん心配になってきた。状況に大きな変化はない。投網を打てばアユは入るが、潜ると見つからない。川底の石を調べてみたが、卵が産み付けられた痕跡は見つからない。まだ産卵は行われていないのだろうか。
困ったときには、職場の同僚に相談してみる。NHKの良いところは、自然番組の撮影経験豊かなスタッフがいるところだ。かって長良川でアユの産卵を撮影した経験があるというカメラマンに、撮影のノウハウを聞いてみた。答えを聞いて、私は少し落ち込んだ。
『とにかくすごい数のアユが集まってたから、難しくはなかったよ。人が入っていっても、全然逃げなかったし』と言うのだ。長良川は、多摩川に比べてはるかに多くのアユが産卵する川だ。その川のノウハウは、多摩川に応用できるものではないようだ。
賢さんが心配していたのは、『産卵群が小さいと、アユも繊細になり、人が入ると簡単に群れが散ってしまうのではないか』ということだった。その心配が的中しているのだろうか。日を変え、潜る場所を変えて潜ってみても、一向に手応えがない。
それならばと、人が近づかないで撮影する方法を試した。アユが産卵しそうな場所のあちこちにカメラを沈め、無人で収録する。使ったカメラは、アユの産卵を撮影するためにと小遣いをはたいて買った。」
「とうとうそのまま11月の声を聞いた。その日は、賢さんが名古屋で仕事だったため、私は一人で産卵場を探していた。ずいぶん気温が下がり、水も冷たくなっていた。あまりに失敗が続き、半ば嫌気がさしながら、私はカメラをセッティングを始めた。
そこは、川崎市の中野島住宅という団地群のすぐ脇にある瀬。前の日に潜った場所で、あまり望みがあるようにも思えなかった。ただ、他にそれ以上望みのある場所がないのだから仕方がない。
撮影中は、カメラをしかけた場所に近づくわけにいかないので、何もすることがない。河原にぼおっとしていてもしょうがないので、カメラから少し離れた場所で潜ってみることにする。
『今日もダメなんだろうな』。そんな気持ちがよぎる。少なくとも水上から見る限りでは、いつもどおりの川で、昨日から特に変わった様子はない。水温の低さを恨めしく思いながらも、あきらめをつけて、ざぶんと頭まで水につかる。
と、目の前に拡がったのは、信じられない光景だった。
アユ、アユ、アユ、アユ……!!!!!!!! 見渡す限り、辺り一面がアユだらけだったのだ。いったい昨日までどこにいたというのか。黒く染まった体が水中に入り乱れ、うごめいている。間違いなくアユの産卵群だ。
瀬の中一面に広がる群れは、ほとんどがオス。そこに、銀色の体をしたメスが入ってくると、産卵が始まる。頭を川底に突っ込むようにして、腹を砂利に押しつけ、雌雄ぐちゃぐちゃになって体を震わせる。こうなると動きが速すぎてどれがオスだかメスだか肉眼で追うことはできなくなる。
川底には、無数の卵と粘膜とがからみついた砂利の塊ができている。その砂利の塊が巻き上げられて、上流からザラザラと流れてくる。
アユたちは、明らかに異常な興奮状態に入っている。その動きは細かく、激しく、一時も落ちついていない。もうそこに人間がいようがお構いなし。ブルブル、ブルブル。中には私の体の下に潜り込んで産卵するやつまでいる。『うおお、すげえ』。私は水の中で何度も声を上げた。」
高橋さんら、学者先生は、「11月以降」に産卵行動がはじまったことにどのような説明をされるのかなあ。いや、無視するだけでしょう。
川漁師や「素人」の観察は一文の価値もない、と。
長良川での産卵を撮影された同僚は、「遡上アユ」を撮影されたのではなく、「放流もの」の産卵風景を撮影されたのではないかなあ。
田辺さんに幸運が宿ったのは、
1 調布附近で放流がされていなかったこと。
2 河内や秋川に放流されているが、「トラックで運ばれてきたアユ」は、下りをしないで産卵するから、「海鮎」だけが産卵場所にいた。
3 放流ものも増水やダム放流で流されて「海鮎」の産卵場所で生活をするものもいるであろうが、仮にいたとしてもその数が僅少であったということでしょう。
「放流もの」がのさばっていれば、1995年頃、神奈川県内水面試験場が相模川の神川橋付近他で、流下仔魚量、産着卵の調査を行い、「天然鮎を川にたくさん遡上させるための手引き」(内水面漁業協同組合)に調査報告が掲載されているように、「放流もの」と「海鮎」の区分を意識することなく、また、流下仔魚が観察されたことで、厚木よりも上流にも産卵場がある、と推定されていること、10月から産卵が始まっている、との調査結果、評価と同様の結果になっていたかも。
さて、「アユ100万匹が帰ってきた」を今回引用した本音は、産卵時期にかかる学者先生へのカウンタイデオロギー(いや、「イデオロギー」ではなく「事実」)としてではなく、多摩川のアユのルーツ探しに関してです。
三浦半島の東京湾側は、稚アユ採捕が行われていないから、相模湾の稚アユが多摩川には来ない、との説を田辺さんは紹介されている。
しかし、稚アユ採捕は、1回の出漁で15万匹ほどの群れでないと採算が合わないとの話がある。
そうすると、稚アユ採捕が行われていないから、相模湾のアユが三浦半島を廻って東京湾にやってこない、とはいえないのでは。少なくとも、十分条件ではない。
そこで、
「今回アユの稚魚調査を担当した千野さんは、利根川のアユが先祖ではないか、という。」
利根川の河口の銚子から房総半島を廻ってくることは困難としても、
「利根川のアユが東京湾に至るには、もう一つ別のルートがあるのだ。」
「位置関係を整理してみる。まず、利根川のアユが生まれる場所。産卵場として知られているのは、埼玉県深谷市付近だ。ここで生まれたアユは、流れのままに海へ向かう。この流れは、埼玉県と茨城県の県境で、二つに分流している。一方は、東へ流れ銚子で太平洋に注ぐ本流。もう一方は南へ流れる江戸川。千葉県浦安市、ディズニーランドの脇で東京湾に注ぐ。」
この江戸川ルートを多摩川の遡上アユのルーツとされているが、小田和湾ルート、あるいは竹内さんの千葉県産も捨てがたいんですがねえ。
なお、垢石翁が利根川の稚アユ(利根川の遡上時期のもうひとつの記述)が前橋にやってくるのはマスと共に4月下旬と書かれているが、雪代で水温が低く、5月以降ではないのかなあ。
したがって、利根川のアユは、東北、日本海側・対馬暖流を生活圏とするアユ群ではないと思うが。
昭和21年のアユの行く末は?
「佐藤 本年度の予想について……。
中島 昨年のことをいふと天候が良かつたけれども、やはり掛からず、これは居ないのではないかと思つたのですが、6月末、7月になつて相当大きいのが釣れたのです。溯つてきた、増へたとも考えられないのです。それに較べると、本年は小さいのが頗る多いから六月中旬から、七八月には、相当面白い釣が出来ると思ひます。」
さて、「相当大きいもの」とは、どのくらいの大きさをさしているのかなあ。「七月には30匁」との表現もあるが、19センチ、20センチの番茶も出花娘に育つのかなあ。
原田先生が、「海鮎」でも大きくなれない原因について、「おそく海から上ったのは大きくならないらしいけど、時間が足りないのか、」、それとも?と数個の要因を提示されているが、4月下旬に修善寺辺りに遡上してきたアユは、「おそく海から上った」鮎ではないかなあ。
もし、それでも、30匁に育つとすれば、「おそく海から上った」鮎が大きくならないのは、絶対条件とはいえないとなるが。もっとも、「30匁」が大きいアユであるとしての話ではあるが。
松沢さん、教えてえ。「鮎に聞いたことはないが」の枕詞のあとにどんな話をしてくれるの?
途中下車
「佐藤 一番大きくなる場所は?
野田 大仁橋の上下流です。この附近では長さを言わず目方ですが、七月には卅匁くらいになるでせう。」
竹内さんは、「遺稿 あゆ」の「天然のぼりはいつも過密」の章に、
「アユが川へのぼるのは生活の適地を求めるためですから、その適地を得て、そこへ定着すれば、一応のぼりの本能は休止します。その場合、昔は初めにのぼるものは最上流まで行ってそこに定着し、次ぎにのぼっていくものは、その下に居付くというように考えられていたのですが、わたしはその反対に、適地があればすぐそこへ定着し、あとから来たものはその上へ行って定着する――つまり下から上へと積み上げるように分布していくのではないかと思うのです。もちろん実際にはそうはっきりしたものではなく、おくれてのぼってきた集団は、上へ行けば上は詰まっているし、くだってくれば下も詰まっているし、そこへさらにあとからのぼってくるものもあって、途中でそれと衝突して、そこらでちょっとした混乱が起こったり、いろいろなことになるでしょう。
のぼっていく集団について、それがどう分散されるか、どこまでも後を追って行くような調査をしたら、いくらか分散の仕方がわかるでしょうが、そういう調査はされていません。だから実際のところはよくわからず、ただ推測するだけのことですが、こういうことはいえるでしょう。
のぼりの数は、その年によって豊凶はあるにしても、大体は非常に多かったということで、今日放流の数が五十万尾とか百万尾とかいうが、その程度の数とは比較にならないものだということ――ではどのくらいの数かというと、これはものすごく多いのだという以外に、いいようもありません。」
秋道先生は、遡上限界を「4次河川と5次河川の分岐点」と古の鮎の漁獲調査資料を用いて検証されている。神通川から宮川へ遡上してきたアユは、蟹寺、巣之内には毎年遡上してくるが、3次河川である高山に遡上してくることは稀である、と。
ということで、「過密」であっても、遡上限界は存在している。
その中で、どのように途中下車をし、また、「過密」と生活の適地を調整するための行動をしていたのか、もはや、調査できる機会はないのかも。
高橋勇夫さんのように、2012年の中津、相模に潜って、いや、流れに身を任せて、1平方メートルに3匹、5匹だったかの鮎がいるから「過密」であるなんてご託宣をなさる方が出てくることもやむを得ないということかなあ。
そして、そのご託宣を実行されたからか、どうかわからないが、中津での大会で3匹釣っただけでも二回戦に行けたことは、高橋さんのご託宣の御利益を享受できた、と、感謝しないといけないでしょうねえ。
アユの数が少ない、その上、質の悪いアユが放流されたようで。まともなアユが、まともな数量が存在していたら、中津での釣り日数が10,20日は当たり前のはっちゃんでさえ、4日しか中津で竿を出さなかったとのことであるから、ひどい2013年の中津でした。
ついでに高橋さんの「過密である」、よってアユが小さいとのご託宣が適切でない、との話はあゆみちゃん遍歴賦で行っているから省略するが、調査場所は、平瀬とかトロでしょう。川那部先生らが四国は吉野川で、流されないように縄でからだをくくりつけて、瀬の調査をされたが、高橋さんは単にぷかぷか浮いていることの出来る場所でしょうから。
そんな場所に1平方メートルに3匹か5匹か、が見えたから「過密」とは、学者先生丸出しの「観察眼」と、アユの生活誌のイロハも知らないご託宣と「断言」できます。平瀬、トロに「3匹、5匹」のアユが見えても「絶対」に過密ではありません。川那部先生、ごめんなさい。また「絶対に」と表現をしてしまいました。
そんな学者先生とは異なり、竹内さんの観察は総論としては適切では。
そうなると、どのようにして、「大仁橋」附近のように、遡上鮎が居付きたくなる「適地」を見つけ出すことが出来るのか、という問題になるが。
もちろん、「放流もの」の適地ではなく、遡上鮎の「適地」であるが。
その適地がわかれば、大状況としての川見は適切に行えるかも。
相模川の「天然アユの分散と定着」および遡上開始時期
途中下車が行われているのでは、との竹内さんの推測は、「遺稿 あゆ」の「天然アユの分散と定着」の章に、
「こんなふうに考えるようになった理由のひとつは、大きく育ったものが上流にばかりいるとは限らない、相模川としては下流の部の、久保沢から田名あたりで、友釣りに掛かるアユに、上流に劣らない大きいアユが、六,七月頃にも少なくないという事実です。これは早くのぼってきて、早くいい石に定着して育ったものであり、反対に上流の与瀬や上野原方面で、解禁後しばらくたってからでも、柳ッ葉(やなぎっぱ)と呼ばれる、メスのような小さいものが、たくさんいるということです。」
昭和の代の終わり頃の狩野川は湯ヶ島でも、チビアユが釣れる場所があった。
「さきにもいったように、三月の声を聞けばもうのぼり初めるのですが、おそいものは五月、六月になってものぼるのです。ドブ釣りをやっていると、六月七月になって一雨あって、一mも増水したあとで、アユが一変してしまうことがよくありました。それまでいいカタのアユが釣れていたのに、増水のあとで、ほんとに小さいアユばかり釣れるということがよくありましたが、これはそれまで河口か、あるいはその近くの下流にいたものが増水に促されて、いっせいにのぼってきたものと思います。そしてこういうアユは、いちばん大切な成長期を逸したもので、もう本当のアユに成長しきれないように思います。その川の包容力を越えた過剰密度で、川の本筋から外れてしまった遊びアユもそうですが、相模川でも秋になって十cmぐらいのアユがたくさんいたものです。」
竹内さんは、「釣ひとすじ」(昭和36年発行)の「渓流魚のために」の章に、
「現在ではもう関東地方で昔――といってもほんの二三十年前のことですが、その頃に見たような天然アユののぼりはどこにも見られなくなってしまいました。もっとも手近な相模川でも四月へはいると幾日にどこそこで一番のぼりが見えたとか、二番のぼりがあったとかいう報告があったものです。帯のようにつながった小アユの大群ののぼり――あの壮観はもう昔の夢になってしまいました。そして相模川はアユのあまり育たない川でしたが、それでも秋口になりますと四十匁、五十匁、稀には七八十匁というのが友釣りにかかったものですが、今日では三十匁ぐらいが最大で、普通に釣れるのは盛季になっても二十匁程度のものばかりです。」
狩野川でも昭和の代の終わり頃、チビアユが六月、七月に遡上したアユとの話があったけど、事実かなあ。
そもそも、櫛歯状の歯に生え替わると、動物プランクトンは食べにくいのではないかなあ。川で生活をしているが、増水で生活場所が一時的に変化したということはないのかなあ。
故松沢さん、聞き忘れたよ・教えて。
利根川の途中下車については、垢石翁が「存在しない」との記述をされているが。一番のぼりはどんどん上流をめざす、と。
九頭竜川でも芦原温泉付近では途中下車がないようである。
「途中下車」をしたくなる生活空間は、川の住環境によって違いがあるとすると、どのような条件が必要かなあ。
良き瀬と良き淵が一体となっている場所が最小限の必要条件と思うが。
相模川の遡上時期は、川面に朝霧が立ちこめる頃、との話があったが、相模大堰副魚道の遡上調査から、三月中旬には遡上が開始されているのではないかなあ。
但し、相模大堰副魚道を三月下旬に上る年は四年周期くらいで、多くの年は四月上旬からぼちぼち副魚道を越える稚鮎がいるという状況。盛期は、四月下旬、五月上旬の年が多いように思うが。
そして、4月下旬、5月上旬に大量のアユが相模大堰副魚道を上ったとしても、それらが、18センチ、20センチ級の大きさに育つことはないと思う。そして、「チビアユ」であることが食糧不足の問題ではないと思う。
「時間がたりないのか」。といっても、数週間から1ヵ月の「時間がたりない」ことが、大きさへの影響が大きすぎると思うが。
2012年荒川のように、遡上時期が雪代の影響で二週間遅れたことが、大きさに著しい影響を生じたこととは、同じに考えることが出来ないのかも。
途中下車の適地はどこに
遡上鮎が川に充ち満ちていた頃、そして、貧腐水水の水が川に流れ、珪藻が優占種であった頃、あゆみちゃんがどのような生活をしていたのか、その一端を垣間見ることができたらなあ、と思う。
遡上量、途中下車、出鮎、差し鮎の現在とは異なる現象がいかなるものであったのか。
狩野川でも昭和の代の終わり頃、いや、平成2,3年頃まで、チビアユが六月、七月に遡上したアユとの話があったけど、事実かなあ。
そもそも、櫛歯状の歯に生え替わると、動物プランクトンは食べにくいのではないかなあ。川で生活をしているが、増水でチビ鮎の生活場所が一時的に変化したということはないのかなあ。
故松沢さん、聞き忘れたよ・教えて。
なお、昭和21年の遡上鮎が、故松沢さんが試し釣りで18センチ級を釣られていた年とは異なり、仮に故松沢さんが昭和21年の鮎を釣っていたとしても、チビしか釣れなかったのではないかなあ。
大きさに係る成長は、性成熟が始まるまでの「時間」、「期間」ではなく、夏至の頃までの消化器気管の発達度合いによる、との話があったが、そのように、単なる「時間」の長短が要素ではないのかも。
利根川ついては、垢石翁が利根川の上流にしか、大鮎がいない、との記述をされているが。
九頭竜川でも芦原温泉付近では途中下車がないようである。
「途中下車」をしたくなる生活空間は、川の住環境によって違いがあるとすると、どのような条件が必要かなあ。
良き瀬と良き淵が一体となっている場所が最小限の必要条件と思うが。
相模川の遡上時期は、川面に朝霧が立ちこめる頃、との話があったが、相模大堰副魚道の遡上調査から、三月中旬には遡上が開始されているのではないかなあ。
但し、相模大堰副魚道を三月下旬に上る年は四年周期くらいで、多くの年は四月上旬からぼちぼち副魚道を越える稚鮎がいるという状況。盛期は、四月下旬、五月上旬の年が多いように思うが。
そして、4月下旬、5月上旬に大量のアユが相模大堰副魚道を上ったとしても、それらが、18センチ、20センチ級の大きさに育つことはないと思う。さらに、「チビアユ」であることが食糧不足の問題ではないと思う。
「時間がたりないのか」。といっても、数週間から1ヵ月の「時間がたりない」ことが、大きさへの影響が大きすぎると思うが。だからこそ、原田先生が、単に「時間が足りないこと」を大きさへの唯一の影響要因とは断定されなかったのではないかなあ。他の要因との相互作用を考慮しなければ説明がつかない、と考えられていたのではないかなあ。
2012年荒川のように、遡上時期が雪代の影響で二週間ほど遅れたことが、大きさに著しい影響を生じたこととは、同じに考えることが出来ないのかも、とは思うが、雪代の影響をあんまり考慮する必要のない房総以西の太平洋側を生活圏とする海鮎の「大きさ」への影響が何によって生じるのかなあ。
竹内さんの遡上量:「遺稿 あゆ」の「天然のぼりのアユの数」の章
「その当時の相模川へのぼったアユの数がどのくらいのものか、もちろんその年によって豊凶はあったでしょうが、推定しようもなく、ただたいへんな数だったろうというだけのものですが、そう思わせるような事実はいくつも挙げることができます。たとえばドブ釣りですが、日曜日や祭日など、上流から下流へかけて、大きい淵ではひと場所に二,三十人くらいの釣り人がいたでしょう。その人達の釣る数ですが、六月中など大小合わせて百尾くらいは普通で、少し条件のいいときには二百〜三百と釣ったものです。
土地の人たちはのぼりの頃には、のぼり ド(手書きで表示されません)を、下りの頃にはくだり ドをかけましたが、少し水の増したあとで、朝早く ドをあげに行ったら、あの直径一mもある大きい ドの中はアユがいっぱいで、 ドがあがらなかったなどという話をよく聞きました。
またさきにしるした荒川橋の八木屋ですが、あの界隈で仲買人の集めたアユが、夕方には店先の大樽にいつもいっぱいになっていたものです。
その当時はアユは現金収入になっていたので、沿岸各部落の人たちは、漁季中ずっと、川へ出ていたもので、その釣った数はそうとうなものでしょうが、それでもくだりのころになると物すごい集団がくだってきたものです。これは、ひとつは道志川のような大きな支流で、しかもほとんどつり人の入らなかった川からくだってきたものであったからでしょう。この川は当時は交通が不便だったため、一般のつり人はほとんど入らなかったし、沿岸の部落も少ないし、そこの人たちがが釣っても、出荷が困難で商品になりにくかったというような関係で、のぼったアユはほとんど手つかずで育っていたのではないかと思います。わたしもそのころ、八月へ入って奥道志へ行けば、尺アユがおもしろいように釣れるといわれましたが、今でこそ東京から最上流まで日帰りもできますが、そのころは幾日かを予定しなければ奥道志まで行ってこられなかったのですから、ついに奥道志の尺アユは話しに聞くばかりで、釣る機会がありませんでした。」
奥道志の「釣り圧」が低いとしても、それがくだりの量に大きく影響しているのかなあ。
尺アユが「釣り圧」の影響で多寡に影響をしているとしても、それが尺アユの育つ条件かなあ。
どのような条件が尺アユを、デカ鮎を生み出していたのかなあ。当然、昨今の東北日本海側のアユや、継代人工で大きく育った子孫の放流ではなく、遡上アユの話ですが。
故小原先生が、どのような条件で大鮎が育つのか、研究していてくださったらなあ。
荒川と三面川の遡上鮎の大きさの違いは、石の大きさ、食糧提供空間の大きさの違いでは、と思うが。なお、雪代が遅くまで残っていた2012年の荒川は、海産畜養だけは番茶も出花娘の大きさになっていたが、瀬に着いていた遡上鮎は小中学生の大きさであった。三面川の方が大きいとの話が、2013年にはあったから、海産畜養の放流量は、三面川の方が荒川よりも多いのではないかなあ。
団体行動が好きな鮎:出アユ、差しアユ、そして「黄色い衣装」を纏ったあゆみちゃん今昔
「中島 私の話は的中してゐるか、どうかですが……先ず友釣をてみようと、せんとするには鮎はどんな性質をもつてゐる か、研究する必要があります。
総じて団体的活動する性質がある。個々別々にゐるものもあるが、団体的活動をしている。淵にゐて、渕頭にでる時、渕尻に出る時にも、例へば大淵のやうなところでも、その時には何十、何百と出ようとする、ザラ場でかゝるのは淵からでてきたもので、鮎は総じて団体的活動をしてゐるものです。
川底に変化のある処とないところでは小ザラで平らに流れるところより、変化のある川底の鮎の方が掛り易い。浅いところの魚が掛り易い、深味に人が入つてくると、浅場にすぐ鮎がでゝてくる。また出鮎が掛りがよい。
五六間先へ囮を入れようとすると、一間もいかぬ間に、ビューととんできて掛る。さういふことがよくあるが、これが出鮎であるから、後方に身をひいて何匹かを釣るわけであります。この出鮎はゐる範囲があるから、何処の部分から何処の部分までゐるかを釣りながら判断して、それを知る事が友釣の極意ではないかと思ひます。
それは初心者には甚だ無理であるけれども、能率をあげる秘法で……。」
竹内さんは、「遺稿 あゆ」の「出アユのこと」の章の「初めて経験した出アユ」の節に、はじめて出アユに遭遇したこと、あるいは意識した時のことが書かれている。
「それは昭和五,六年ころのことと思いますが、わたしはそのとき、相模川の小倉橋の下も手にあるカネカケの淵の、落ち込みの瀬でひとりで釣っていたのです。一五,六尾釣って、夕方になったので、もう一尾か二尾釣ったらおしまいにしようと思って、オトリを沖へ出そうとしたら、うまく出ていかないのでおかしいなと思うと同時に、なんだもう釣れたのかと気がつてそれを取り込み、もう一度オトリを出そうとしたら、また同じようにその場で釣れてしまったのです。そこで初めてわたしは出アユということに気がつき、出アユは岸へ岸へと寄ってくるから出アユのときはずっとうしろへさがって釣れといわれたことを思い出し、そのとおりにうしろへさがって、ヘチを釣るようにして何尾釣ったか、もう昔のことでくわしいことは記憶していませんが、一時間ばかりの間、入れ掛かりに釣りました。まだ釣れていたのですが、そのころは友釣りをやる人も少なかったので、あたりにひとりも人はいないし、日は暮れてくるし、少し心細いような気持ちで、竿をたたんでしまいました。
話に聞いたかなんかで読んだか、出アユのことは知ってはいたのですが、それまで深く気もとめずにいたのです。だから後になって、あれも出アユだったのだなと思うことがいくつもあったのです。落ち込みの瀬頭でころがしていた漁師のハリへ、ころがすたびに一尾二尾、ときには一度に三尾も掛かるのを眺めていたこともあったのですが、しっかりした認識がないときというものは、しょうがないもので、ぼんやりと出アユかなあという程度で見すごしてしまっていたのです。」
「相模川ではそのころ、休日には午前と午後に発電所が放水するので、そのとき十センチぐらい増水します。この増水が出アユを誘うので、増水し初めてしばらくたつと、コロガシにも掛かるし、友釣りにもよく掛かるようになるのです。」
黄色い衣装の鮎
「野田 〜
それから中島さんの出鮎の話がありましたが、深みにゐる出鮎は釣つてみると鰭、腹が黄色ですからすぐわかるけれども、囮として使用すると、すぐ同じ色になつて終ひます。
中島 そして体が扁平気味で丸味が少ない。そして出鮎は浅い方へ方へ(注:あとの「方へ」は記号表示)と寄ってくるから1ヶ所で数釣れることになる。」
珪藻が優占種であった頃の昭和21年、いや、まだ珪藻が優占種の川が多く残っていた昭和20年代のあゆみちゃんの容姿である。
現在、「二重追い星、3重追い星」の「追い気満々の鮎」との表現が広く使われているが、この「表現」が存在しなかった頃の話である。
なお、竹内さんは、「釣ひとすじ」(昭和36年発行)の「再びアユの縄張り」の章に、
「〜縄張りについているアユは特殊な精神状態にあるらしい。わたしはよくこのアユのことを気狂いアユだというのです。気狂いアユというのも少し極端ないい方ですが、信仰に凝り固まった狂信者の精神状態に何か共通するものがあるような気がするのです。縄張りアユが体色まで変わっていることはご承知の通りで、はっきりしているのは胸のところの小判型の黄色で、あれが一ときわ鮮やかになっていますから、他のアユとすぐ区別がつきますが、わたしは気のせいか眼の色まで変わっているのではないかと思うくらいです。」
ということであるから、昭和30年代になると、藍藻が優占種になり、あるいは、珪藻が優占種でも藍藻の比率が高まり、鮎は黄色に発色する物質を多くたべるようになり、追い星が体色としてはっきりと見えるようになったのではないかなあ。
村上先生と真山先生は、珪藻に豊富に含まれている不飽和脂肪酸が、何らかの代謝経路を経て、スイカの香り、シャネル5番の香りになると教えてくださった。
「不飽和脂肪酸」は、包括的な表現のようで、個々の物質名をメールに書いていただいているが、現在でもその個々の物質名を省略することがなんの生物学上の知識も持ち合わせていない者には好ましい態度では、と思っている。
「アユの本」の高橋さんのように、海にいる稚アユも香りがするから、「香」魚の「香り」は、珪藻を食するから発するのではなく、アユの体内に「香り」を発する仕組みがある、食糧が原因とするのは間違っている、との「間違い」を犯さないためにも。
なお、再度、あるいは再再度のことになるが、高橋さんの「食糧」が「香り」に影響しないとおっしゃるからには、
1 藍藻が優占種となった現在、なんで「香」魚は滅び去ったのか、どのような説明をするのかなあ。
2 アユと同じ食料を食しているナナセ=ボウズハゼが、珪藻を食していた頃、なんでナナセも「香」魚であったのかなあ。現在、おじゃま虫としてよく釣れるボウズハゼも「香り」はしませんが。
そもそも、高橋さんは、シャネル5番の香りを振りまいている「香」魚をご存じないのではないかなあ。
継代人工の囮も「香り」がする、との方同様、高橋さんも「香」魚を知らずして「香」魚を語っているということでしょう。「清流」を知らずしてケイ藻を語る阿部さんのように。
なお、真山先生と村上先生からいただいた珪藻と香りに掛かるメールを紹介することが高橋さんや、高橋さん信奉者への間違いを指摘する上で、簡便なことはわかっているが。真山先生と村上先生が珪藻と香りについて書かれた研究報告が見つからないかなあ。
村上先生は、「アユの皮膚にある酵素が脂肪酸を分解して、揮発性のあるアルコール類を作り出すことにより生じる」と、シャネル5番の生成を考えられている。そして、その「原料」は、珪素に含まれていはいても、藍藻には含まれていない、と。
藍藻にはアユの体内での代謝経路を経て、黄色い色素となる物質が含まれている。
したがって、珪藻が優占種であった貧腐水水の水が川に流れていた頃は、「黄色」の衣装を纏ったあゆみちゃんは限定的な存在であった。
故松沢さんは、出鮎、差し鮎が黄色みを帯びていたのは、保護色ではないかと話されていた。淵が生活の場として大きな意味を持っていたであろうから、淵では黄色味が保護色の役割をしていたということかなあ。
そして、故松沢さんは出鮎、差し鮎を釣るときは、尻尾よりも内側にハリがくるようにセットして、「活き締め」になるようにして手返しを早くしていた。その時の鮎は、死んだ鮎を使って囮操作するだけで釣れるから、元気な囮にこだわらなくても良い、と。
そうはいっても、死んだ囮の操作はどのようにされていたのかなあ。
衣装では、珪藻が優占種であった長島ダムが出来る前の大井川での話を追加しておきましょう。
明るい、明度の高い蛍光色のオレンジ、青色の放射線が腹ビレ等に走っているあゆみちゃんもいた。この色彩の鮎は藁科川の特徴でもあったとのこと。
この色彩を生み出す物質も珪藻が優占種でないと鮎の体内に取りこまれることはないのでは。もし、この色彩を鮎の体色として発現する物質が藍藻に含まれているのであれば、藍藻が優占種となっている現在、頻繁にこの衣装を纏った鮎を見ることができると思うが。
藍藻が優占種の処で、たまに、脂ビレが明度の低い橙色になった鮎を見ることはあるが。
2013年の大井川は、藍藻が優占種に変わっていた。いつも藍藻が優占種であるのか、どうかはわからないが。
長島ダムがなかった頃、大井川は珪藻が優占種で、梅雨明けのダム放流が終わり、濁り水でなくなった頃、「香」魚がいた。
長島ダムが出来てから、石がどんどん埋まっていき、また、「香」魚が消えた。
井川ダムは、ダムの堆砂が進み、有効貯水量の半分以下の貯水率になっていた。そして、ダム湖に発生するポタモプランクトンに不飽和脂肪酸が消化される前に下流に「清流」が流れ出していたのではないかなあ。
なお、江の川支流の八戸川で、渇水の年にダムの貯水を中止したとき、古の八戸川のアユが戻ってきたと、天野さんは書かれている。
長島ダムは、上水放流にしたという話もあるが、ダム下流に流れ込む支流も水量が多いのは寸股川だけになり、ダム湖の水の比重が増えて、富栄養水になったのかなあ。
狩野川では、いつ頃まで「香」魚がいたのかなあ。昭和の終わり頃には既に幻になっていたと思う。いや、田毎等、一部の場所には「香」魚がいるという話はあるが。
お仕事をかねてあっちこっちいっているマちゃんが、2012年、日本海側の漁業権があるかないか判然としない川に「香」魚はいた、と。
能生川、海川、姫川であればマちゃんはよくご存知であるが、その付近の流程が短く、また、人間に見捨てられている川に「香」魚が細々と命を紡いでいるということかなあ。
「体が扁平気味で丸味が少ない」との事柄はどういう体型であるか、わからない。というか、気をつけてみていたことがない。
もし、出鮎、差し鮎に巡り会えたら、体型にも注意を払うことにするから、あゆみちゃん、竹内さん同様、入れ掛かりを経験させてえ。当然、遡上鮎が対象ですよ。
もうひとつ、中島さんがなんで「集団行動をする」鮎に着目されているのかなあ。
縄張りを形成している1国1城の主は、当然釣りの主役ではあるが、出鮎、差し鮎のいることを認識しろ、という意味かなあ。
なお、高橋さんらの香りと食料は無関係、との教義を「まちがっちょる」というためにも、珪藻とシャネル5番の関係を整理しなければ、と思いながらも、その腕はなし。ということで、リンクが適切なヶ所に行われているかどうか、また、関係するヶ所を適切に選択しているとはいえないかも。すんません。
釣り返しがきかなくなった
竹内さんは、「遺稿 あゆ」の「縄張りの空家(あきや)と遊びアユ」節に、
「淵や大トロはアユの憩いの場でありまた逃避の場であるといいましたが、淵の底に適当な大石があったりすると、そこへ縄張りを持つアユもいます。そういうアユにとっては生活の場でもあるわけで、ことに淵の片側がずっと岩盤になっていて、それにいい垢があると、そこにある距離を置いて、いくつものアユが縄張りを持っていることが珍しくありません。
こういうアユがかりに釣られて、縄張りが空家になると、遊びアユの中から間もなく、そこへ入るのがあります。その意味で遊びアユは縄張りアユの予備軍のようなもので、空家ができても塞がるのが早い。だからいい淵では、そこの縄張りアユを全部釣ってしまっても、しばらく休ませておくとまた釣りになります。こういう淵ならゆっくり釣っていれば終日そこにねばっていても釣りになるわけです。
瀬でも同じことがいえます。こんなことを狩野川のある漁師とアユの話をしていたら、近年のアユは帰りがきかないといったのでどういう意味かと尋ねたら、昔は朝、釣った石を帰りに釣るとまた釣れたものだが、近年は帰りに同じところを釣っても釣れないといいました。これは昔はアユが多かったから、縄張りが空き家になると間もなく塞がったが、近年はアユが少ないので、空き家がなかなか塞がらないというわけです。
瀬では大釣りはないものです。誰も竿を入れない場所で、しかもいい石がたくさん並んでいるところだと、縄張りがいくつも隣り合ってできていて、同じ場所でいい釣りができることもありますが、瀬ではそこにいる縄張りアユを釣ってしまえば、それでその場は終わりになってしまうわけです。
しかしそれは瀬にもよることです。大淵や大トロに続く瀬――そこへの落ちこみの瀬とか流れ出しの瀬だと、その近くの淵やトロに縄張りの予備軍としての集団がいるし、その集団の中から、ときどき瀬へ出ていくものもあるので、縄張りの空き家が塞がるのも早いわけですから、大場所を控えた瀬では、淵の場合と同じように、釣ってしまっても、しばらく川を休ませておけば、また釣りになるわけです。」
竹内さんが、狩野川漁師から釣り返しが利かなくなった、との話を聞かれたのは、昭和47年以前の何年頃かなあ。
故松沢さんが、縄張り形成をするアユが少なくなった、というか、すぐに空き家が埋まらないことについて、
「かってのコケは金のコケであった。しかし、現在のコケは鉄屑である。欲しかったらかってに持って行け、というくらいの価値しかなくなったから」と。
また、かっては、縄張りアユのすぐ傍に、2番アユ、3番アユがいて、一番アユの動静を観察していて、虎視眈々とその場所をねらっていた。そのため、空き家になるとすぐにその場所は埋まった、と。
長島ダムができる前の大井川は、砂利まみれではなく、笹間渡鉄橋上流や駿遠橋下流左岸前山のように、岩盤の崖のところに大石が転がり、その周りは頭大の玉石がびっしりと詰まっていた。
そのような釣り場は消滅した。
なお、その頃でも遡上量が多いとはいえない状況の年は、釣り返しは効かなかったと思う。もちろん、遡上量が多い年もあったから、釣り返しが効く年もあったが。
ただ、広い大井川のどこでも同じような密度で生活をしているのではないようである。
2013年、竹藪の瀬で、くぼちゃんは15匹ほど取りこんだが、バラした数は取りこんだ数と同じくらいあった。継代人工の放流ものではないから、保持力重視の大きい針を使え、といっておいたが、守らなかった。くぼちゃんが釣っていた附近の瀬は何でか棲み心地がよかったようで、多くのアユが生活をしていたと考えている。くぼちゃんの上下では、同じ瀬といいながらも拾い釣りをするしかなかった。
20世紀末の大井川でも、くぼちゃんが大漁の可能性があったように、あゆみちゃんが「溜まっている」場所はあったが、「空き家」がすぐに埋まるという感覚ではなかったと思うが。
「団体行動が好きなアユ」との表現は、継代人工の放流ものが「アユ」と思っている人々には、誤解を与えることになるなあ。
「放流もの」の多くは団体行動が大好き、というよりも、団体行動が行動の型であると思う。それに対して、遡上アユが多かった頃の「団体行動」は、生活の場所と、食糧を得る手段としての「団体行動」であって、「習い性」となっている継代人工の「団体行動」と同じはない。
相模川は大島の尺アユフィーバーの年、その釣りを見に行った人が、回遊してくるアユを待っている釣りであった、と。多分、その表現は適切であると思っている。大きく育つアユを「継代人工」としたアユであるから当然のことでしょう。
滝井さんは、狩野川からの流れ者の「山下」さんの釣りを飛騨小坂で見たとき、山下さんが釣れたところの目印に石を置いていた、と。そして、釣り返しが効いていたことを書かれている。
山下さんがあゆみちゃんが好む邸宅のあるところを「川見」だけではなく、「石」を目印にしていたのはなんでかなあ。「邸宅」の場所は川見でわかっても、その中でもすぐに空き家が埋まるところと少し時間がかかるところがあるということかなあ。
狩野川は城山下の藪下は、大石ごろごろ、流れは良好で、良き釣り場であったが、平成の始めには砂が入り、オールドファンの郷愁の場に過ぎない、といわれた。しかし、左岸にはお墓のある山からの伏流水の流れ込んでいるところがあり、21世紀の猛暑の時、シャネル5番の香りを振りまくアユが、故松沢さんのテント小屋に持ちこまれて、故松沢さんは、最後の「香」魚を楽しむことができたとのこと。
その下流、淵への落ちこみの一本瀬では、丼大王がいつも大漁になっていた。故松沢さんは、丼大王が、一本瀬の石を熟知しているから、と話されていたが、ここでは、すぐに空き家が埋まっていたのではないかなあ。
その空き家を埋めていたのは、2番アユ、3番アユかなあ。それとも淵からの出アユ、差しアユが居付いたものかなあ。
石コロガシの瀬に囮を入れることができた人たちも大漁でしたなあ。
大井川でも、狩野川でも、「溜まっている」場所とはいえ、決して継代人工ではありませんよ。ちゃきちゃきの遡上アユですよ。とはいえ、遡上量が多いときの話ですが。
大井川で、「溜まっている」場所に幸運にも当たれば、ウハウハになりましたが。
ということで、オラには「釣り返しが効く」という現象に出会ったことはなし。いや、気がつかなかったこともあったのかなあ。
竹内さんは、2番アユ、3番アユが空き家を埋めるよりも、「新参者」が空き家を埋めると考えられているようであるが…。
丼大王はどのように考えているのかなあ。
もし、出アユ、差しアユ等の新参者が空き家を埋めるのであれば、「時合い」の後でしか釣り返しが効かない、ということになるのではないかなあ。したがって、釣り返しが効くまでに要する時間は長くなることになるが。
いずれにしても、邸宅が並んでいる高級住宅街が城山下の一本瀬や石コロガシの瀬のように消滅し、また、遡上アユも激減している昨今では、空き家を埋める状況がいかなるものか、検証することは困難かも。
そして、「山下」さんが釣り返しが効くと予想されたところに石を目印に置いていたとすれば、高級邸宅地でも、2番アユ、3番アユが、一番アユの動静を虎視眈々とねらうほど、魅力ある邸宅は少ないということかなあ。しかも、そこは三つ星レストラン並の食事どころでもあるところでしょう。そして、攻めるに難く守るに易し、の空間かも。
さて、当然、あゆみちゃんの住む1等地を見つけることが「川見」の大きな目的でしょう。
ハエ釣り名人の村田さんが、あゆみちゃんに宗旨替えをした理由について、ハエ釣りは法則通りのことをしていれば釣れるが、あゆみちゃんは気ままというか、気分屋というか、どこが釣れるか、不定なところがあるからおもろい、というようなことを書かれていた。
村田さんでさえ、「川見」がいつでも「適切」に行えないとなると、へぼが「腕」ではなく、「運」で軟派稼業を行うのも有効な選択でしょう。
ことに、放流もの、それも、竹内さんがあゆみちゃんと戯れていた頃と違い、「継代人工」が放流ものの主役となった昭和の終わり頃以降はことに「運」任せが有効になるでしょう。
村田さんが、囮屋さんの近くを釣れ、と吠えていたのもその頃のことです。
XPのもっている機能の9割以上も活用できないのに、「8.1」を買わざるを得ないとは、「余計なことをしやがって」と、不平不満にもだえ苦しんでいます。いや、操作、使い方についてですが。 しかも、パソコン代に引っ越しや初期設定作業代、「8.1」対応のATOKとホームページビルダを買うことになって、鮎竿を買えるお金がすっ飛んだ。幸いなことに、ATOKとビルダは、ぎりぎりバージョンアップ版を使用できて、ちょっぴり節約できた。 |
遡上量と大きさの今昔
このことはすでに紹介済みですが、ジジー心から、「本物の川」や遡上アユが川に満ちていた時代があったことを知っていてほしいから再度紹介します。ことに、継代人工が放流の主体であり、また、「香」魚が幻となった現在、また、竹内さんが経験することもなかった現在に生じている「変化」を知ってもらいたいために。
竹内さんは、「釣ひとすじ」(昭和36年初版発行 つり人社)に、
「現在ではもう関東地方で昔――といってもほんの二三十年前のことですが、その頃に見たような天然鮎ののぼりをどこにも見られなくなってしまいました。もっとも手近な相模川でも四月へ入ると幾日にどこそこで一番のぼりが見えたとか、二番のぼりがあったとかいう報告があったものです。帯のようにつながった子アユの大群の上り――あの壮観はもう昔の夢になってしまいました。そして相模川はアユのあまり大きく育たない川でしたが、それでも秋口になりますと四十匁、五十匁、稀には七八十匁というのが友釣りにかかったものですが、今日では三十匁ぐらいが最大で、普通に釣れるのは盛季になっても二十匁程度のものばかりです。
そしてこれはひとり相模川だけに限りません。大アユで有名だった利根川がまずだめになり、ついで富士川もだめになってしまいました。全国の有名河川が相次いでこうした運命を余儀なくされていく現状を見ていると、わたしの好きな友釣りの将来も心細い限りといわねばなりません。
いまでもアユは解禁の初めから秋の禁漁近くまで楽しんでいますが、釣っているアユの過半数は放流アユです。そして更に将来の友釣りは一層放流アユに頼るようになるでしょう。
全国に何本か無傷の川を残したい。アユもマスもウナギも、自由にのぼり、自由に下ることができるような川を残して置きたいと、釣りを楽しむものはみなそう思っているのですが、この切なる願いも空だのみに終わることでしょう。 こうしてアユやヤマメ、イワナなどの在来魚が天然記念物になってしまわないように、わたしたちはなんとか、手を尽くしたいと思うのです。」
放流ものの竹内さんの評価
竹内さんは、「下手の長竿」(昭和41年発行)の「名魚アユのために」の章に
「昔はアユといえば天然アユのことで、放流アユは問題ではありませんでした。昔といってもほんの二三十年前、昭和の初めころのことですが、その頃のアユ情報は、相模川などでもそうでしたが、三月末に一番のぼりが見えたとか、四月何日にどこそこで二番のぼりが見えたとか、一番のぼりの先頭はもう上流のどこそこまで行っているとか、そういううわさで解禁前のアユムードが盛り上がっていったものでした。
もちろんその頃でも多少放流も行われていましたが。昭和七八年頃でしたか、わたしは奥多摩へ行って、友釣りで入れがかりといっていいほど、よく釣れたことがありましたが、どうも放流アユというのでは何となく気分が出ないので、一度いったばかりで、その後行かずにしまいました。多摩川は羽村の堰から上へアユが上らないので、堰上では早くから放流をしていましたが、その頃多摩川へも相当アユが上ったので、堰から下で結構いい釣りができたものです。いまでもその頃の多摩川のアユ釣りを経験している人はすくなくないでしょうし、四ツ谷だの青柳だの松原下だのという当時の名場所の名を懐かしむ人もまだたくさんいることでしょう。
その後次第に放流が盛んに行われるようになると共にわたしたちの釣るアユもいまでは七,八十パーセントまで放流ものになりましたが、それでもいつとは知らず、釣る上で天然ものだ放流ものだと区別することもなくなりました。」
竹内さんは、昭和四八年になくなられているから、継代人工が放流ものの主役を張る時代なんて、想像もされていない。いや、生産技術としては、継代人工ではなくF1が実用化される段階にはなっていたようであるが。
また、「湖産」も、昭和三十年代の後半頃から始まったと考えている氷魚からの畜養ではなく、安曇川などに遡上してきた「湖産」である。
なお、竹内さんは、湖産に氷魚から畜養した「湖産」と、遡上してきたアユを逆梁等で採捕した「湖産」のあることをご存じであった。
遡上してきた「湖産」放流でも違和感を感じられていた竹内さんであるから、氷魚を畜養した「湖産」ではなおさら触手は動かなかったのではないかなあ。
また、遡上時期」に係る記述も適切であると考えている。
昨今、放流ものが下りをせずに産卵をし、また、仔魚が食する動物プランクトンが生産される止水状のところで、「ぬるい」水が湧いていて、生存限界以下の水温にならないところに入った仔魚が「稚魚」に育つことも観察されていたのではないかなあ。
何しろ、放流ものが「下り」をしないで産卵することを的確に観察されていますから。
なお、「千釣休の一魚一餌」には、早川に放流ものの子孫が掲載されている。管理人さんは、一月二月に早川で観察された稚鮎を「遡上アユ」と判断されていない。狩野川筋等の「二月に遡上している」とおっしゃっている方々と違い、適切な観察である。
早川には、平成の一桁の年代までに存在していた県内共通年券が使えたときにはいっていた。
ダム放流で濁りのために酒匂、相模川が釣りにならないとき、狩野川が白川の時に早川に行っていた。増水後のアカ付きが早く、また、通常はアオノロ等が多く繁殖していて、「きれいなコケ」が少ないと感じる状態が、「きれいなコケ」に見えるように感じていたから。
したがって、「千釣休の一魚一餌」さんが観察された稚鮎の場所が止水風の環境で、「ぬくい水」の場所であることは推測できるが、その場所がどこであるか、見当がつかない。
「昔の相模川だったら」
「ところでまた相模川のことですが、あの相模川のことですが、あの相模川がダムもなく砂利の濫掘もせず、汚水も入らないという昔のままの相模川であってくれたらと思うのは、死児の歳を数えるに等しい愚かなことかも知れませんが、ときどきわたしはそれを思わずにいられないのです。瀬あり淵あり瀞ありといったあの変化に富んだ流れ、しかもあれだけの流域を持っている川ですから――。いま友釣りの川といえばすぐ伊豆の狩野川といわれますが、狩野川に出漁するアユのファンの十倍二十倍の人を入れてもなお余りあることだと思います。支流の道志川一本にしても優に狩野川に匹敵するでしょう。
相模川が昔の姿のままでいるとしたら、アユのファンにとってだけではなく、風景鑑賞の上からも、東京都民をはじめ周辺都市の人たちの憩いの場として、どんなに有意義だか知れません。
今日のように荒廃させてしまった相模川に対して、いまさらどんなに悔やんでも及ばないことですが、それでもわたしは自然愛護の上から、諦めきれない物があるのです。」
その相模川は、いっそう石が埋まり、平坦化している。
高田橋上の瀬は、渡ることができないほどの流れがあったのは平成の始め頃のこと。
いまや、オラでもすたすた、とは歩けないが右岸側を釣ることができる。
田名の主は、瀬のなくなった、貧弱な瀬になった高田橋上流で、立て竿で暇を潰すことがあっても、振り子抜きで「さすが」と思わせる取り込みをしたくてもできなくなっている。
滅び行く「本物の川」と生物
さて、竹内さんの「釣ひとすじ」は、昭和三十六年に初版が発行されている。公害真っ盛りの頃である。そして、「自然征服」教が、世の中を席捲し、公共工事が我が世の春を謳歌している。
「本物の川」がなくなっていく悲しみ、川で生活をして「いた」生き物が滅びていく様が書かれている。すでに川那部先生や大熊先生の本からその一部を紹介しているから、それらの「大問題」は避けて、竹内さんの嘆き節の一端を紹介します。。
当然、まだ継代人工は登場していません。湖産は、湖産「ブランド」の「高度成長」により、また、「湖産」の採捕量が「湖産需要」に追いつかなくなり、氷魚からの畜養が始まっているのでは。
「水害後の狩野川」
「釣ひとすじ」の「出水時の魚たち」の章の後に、「水害後の狩野川」が書かれている。
「狩野川台風の大荒れに関連してわたしは、さきに大出水の場合に魚族がどうなるかということを、多少の経験に想像をまじえて書きましたが、その結果をもう少し確かめてみたいと思って、正月の休みを利用して伊豆へ行ってきました。湯ヶ島と大仁でそれぞれ一泊して知人を見舞ったり、土地の人たちから話を聞いたりして、大体魚族の現状も推定がついたのですが、まだあの大災害の後、三ヵ月しか経っていないし、土地の人たちも釣りどころではないので、ほとんど実際釣ってみたりしていないため、確実なところはわかりません。しかし災害直後の魚族の動向について興味ある話をいくつも聞きました。
まずわたしの見た狩野川全般の状況からお話ししますと、上流湯ヶ島から下流大仁あたりへかけて、河相が非常に変わってしまいました。流路は大体元の通りですが、ものすごい勢いの水で両岸を洗ったので、全体に河原が非常に広くなっています。そして上流地帯では河床が高くなり、淵という淵はみな砂で埋まってしまいました。
流路は大体元の通りといいましたが、局部的に見れば相当変わっています。温泉の中で一番被害が大きかった嵯峨沢館へ立ち寄ってみました。ここは建物の七八割を流されてしまったのですが、その後復旧を急ぎ、小さいながらも新築して新年から営業を始めているのですが、あの出水のとき流れに沿った方の敷地を建物と一緒に削りとられてしまい、水は現在は旧館の玄関のあったあたりを流れているのです。
嵯峨沢館から上流へかけて、元は堤防でそこに竹藪が百メートル以上、オツケの淵の方まで続いていたので、わたしたちは川へ出るにはこの竹藪をくぐって河原へ降りたのですが、その竹藪が見渡す限り跡形もなくなっているのです。あの竹藪の中には伊豆名物の乙女椿がたくさんあったのですが、もちろんそれなど一本だって残っていないのです。対岸の橋の上手は大きな岩場で、その下は淵になっていましたが、その岩場も淵もほとんどなくなっていました。全般的にいって、流れは瀬の連続で、しかも底石は大きいので、アユには前よりいい川になったといえるでしょう。途中の流れは自動車から見ただけですが、全般にやはりそういった変化のように思われました。」
狩野川台風は昭和33年。そのときの様子は故松沢さんや、囮屋のおばさんから少し聞いただけであったが、それは大仁の、修善寺橋に引っかかった流木等でせき止められてできた「ダム」が決壊したことによって生じた災害についてであって、湯ヶ島地区での状況は知らなかった。
「ひどく降ったのは右岸の山地だったそうです。支流の大見川は見ませんでしたが、あの上流で特に大きい災害を見たのはこのためです。左岸から本流へ入る川の中で、吉奈川は少し荒れたそうですが、柿木や船原の川はそうひどい出水もなくずっと下流、大仁の大沢川なども比較的穏やかだったため、運よく左岸に沿って下った魚たち--アユもヤマメ、ハヤもこれらの支流へ逃げ込んで難を避けたらしいということです。」
「全川を通じて川底は一変してしまったので、川虫は全然いません。しかしあの出水が九月末のことで、まだ陸には成虫がたくさんいたのですからそれからの産卵もあったでしょうから、これから川虫はできるでしょう。」
竹内さんは、復旧工事による濁り、崖崩れによる雨のときの濁りのほか、セメントのアクの流れも懸念されている。
工事による影響、「セメントと腹下し」
竹内さんは、コンクリート護岸になることよる復旧工事の影響も懸念されている。
「それともう一つの心配なのは工事のためにセメントを使うことです。上流でセメントを使用するために、それから下流のアユが育たず、秋口になっても痩せ細っているということを、ほかでも経験しましたが、数年前に相模川でも経験しました。そのときのアユについて相模川の漁師が、どういうわけか今年のアユは腹下しをしているといいましたが、まことに言い得た表現だと思いました。科学的に調べたわけではありませんが、わたしはこの時の相模川のアユは支流道志川のダム工事のセメントの影響だと信じています。ヤマメについても関心が深いのですが、これは本流のヤマメがどれだけ被害を受けたかというよりも、今年――さらに今後河口から上ってくるホンマスの状態がどうかということが決定的な問題になると思います。それは今度の出水で河口付近がどうなったかということと、マスが上がって来た場合、復旧工事の影響をどれだけ受けるかということではないかと思います。」
さて、竹内さん及び狩野川の川漁師は、アマゴとホンマスの関係を適切に理解されていたということではないかなあ。
そうすると、ビワマスの存在が今西博士をヤマメとサクラマスの関係が、アマゴとカワマスとの関係でも存在しているのではないか、という考えに自信を持つことができなかったが、その悩まれていたのは何でかなあ。今西博士が、ヤマメとサクラマスの関係と同様の関係が、アマゴとカワマス:ホンマスとの間にも存在すると自信を持たれたのは、萬サ翁と会うことができ、また、萬サ翁が捕ってきたカワマスを見てからのことのようである。
「アユの話」でもそうであるが、狩野川の川漁師、あるいは観察眼に優れた釣り人と京大の川那部先生を含めて出会いがなかったということと考えてよいということかなあ。
なお、竹内さんは、「アマゴ」の表現は使われていない。「ヤマメ」の呼称を普通には使われていたようである。そして、テク2も、大井川の「ヤマメ」と表現されていて、「アマゴ」とは表現されていなかった。
気田川と竹内さんとやまめ
「下手の長竿」(昭和41年発行)の「山女魚の初釣り」の章では、3月6日に気田川で釣れた山女魚について
「初ヤマメだと思いながら、これはうまく釣り上げて手にとりました。二〇センチ余り、約七寸のりっぱな雄ヤマメで、もうサビはとれていますが、盛季のヤマメからみると、なんといっても早春のヤマメには体力の充実がありません。白い肌にはアマゴ系特有の朱点がちりばめられています。これが今年の初ヤマメかと、すぐ腰ビクヘ入れるのが惜しまれて、しばらくわたしはその美しい姿態に見入りました。こんな上流の谷川に、こんな美しい魚が‥‥いや谷が深く水も清く、それなればこそこんな美しい魚がいるのです。
ヤマメはもう貴重品です。天然記念物化されようとしている魚です。どこの川もその最上流まで道路ができて、誰でも自由に出入りができるようになる。ダムができて水が枯れる。人家が増えて水が汚れる。長い年月の間、ヤマメにとって安住の地だったところが、こうして住みにくい所になりつつあります。人間臭味の全然なかった深い渓谷へ、娑婆の風が吹きこむ。ヤマメにとって現代は大変な環境変異の時代です。
ここの川にしても渓谷を包む周囲の山々は、かつては昼も暗いほどの密林だったに違いありませんが、すっかり木は伐られて、山々は裸になっています。そこへ新しい道路ができたので、その工事で切り崩したあとや、渓の斜面へ、生の土がまる出しになっています。昔は少しぐらいの雨では濁りもしなかった川が、これではちょっと降ってもたちまち赤濁りになってしまうでしょう。
その土の上に木や草が生え、苔がつくようになるまでには、おそらく十年はかかるでしょう。このへんの川だけではありません.川という川はみな、日本中の川がみな同じような状態にあるといったら、言い過ぎでしょうか。いや、わたしは言い過ぎだとは思いません。幸いにまだ昔のままの状態を保っている川だって、同じ運命の下に立たされているのだし、ヤマメのことなど誰も考えてくれないのですから、いま安住のところを得ているヤマメも、いつ降りかかるかわからない受難の日を前に、何の防衛力も持たずに立たされているのです。
そう思うと本当にヤマメは貴重品です。それほどヤマメを愛惜しながら釣りをするのは矛盾かも知れませんが、一面ではこうして美魚を釣る機会を持っていることを幸いだとも思うのです。それと同時に、この美魚を絶やさないようにして、いつまでも渓流の釣りが楽しめるようでありたいと、切実に願われるのです。
ともかくわたしは今、気田川の初ヤマメを釣り得たことに満足し、ぼつぼつそこから釣り上がり、しばらくいったところで、また一尾、同じくらいの大きさのりっぱなヤマメを釣りました。そしてそこでは続いてもう一尾小さいのが釣れました。
午頃にみんな申し合わせてい置いた場所へ集まって、焚火をかこんで弁当を開きました。みんな二,三尾ずつもっていましたし、その中にはわたしが釣ったよりもはるかに大きく、幅も広いりっぱなヤマメを持っているものもおりました。」
新幹線で行かれているから、昭和三十八年か三十九年、三十九年は間違いなく新幹線は走っていたが、三十八年は走っていなかったのでは。「下手の長竿」の発行が、昭和四十一年四月であるから、昭和四十年のことと考えるべきかも。
「アマゴ」の表現は長良川付近から西の太平洋側に流れている川筋の呼称かなあ。竹内さんは、朱点のある「関西系ヤマメ」との表現もされている。
そして、「ホンマス」と「ヤマメ」・アマゴの関係は自明のことと考えられている。
「ワサビ田の農薬」
アマゴへの影響については、ワサビ田での殺虫剤の使用が行われていたことの影響が大きいかも、との話があったが…。
カニ等が棲めないワサビ田の「きれいな水」は、他の生物の生存にも影響が生じている、あるいは生じていたのではないかなあ。
コマドリの瀬にはアカがついているのに、城山下が白川状態のまま、という時があった。循環型温泉の温泉排水に塩素が大量に残留していて、山田川?から城山下に流れてきた影響ではなかったかと、想像していた。
竹内さんは、「下手の長竿」(昭和41年発行)に農薬による小動物への影響を懸念されている。
「特別天然記念物に指定され、国際的な保護鳥になっているトキという鳥は、この広い世界に十羽ぐらいしか生存していないそうですが、この冬二羽が新潟県下で死んだということを新聞で知りました。そのうちの一羽は心ない狩猟家の鉄砲の犠牲になり、もう一羽は死んでいたのが発見されたそうですが、この死因を調べてみたら、胃の中は空ツぽで、餓死したことがわかったというのです。空腹をかかえ、食べ物を探しながら飛び廻って、ついに何も食べ物を発見することができなかったのかと思うと、ひときわ痛ましい気がすると同時に、すぐわたしはそのことを魚たちの上に移して、考え込まずにはいられなかったのです。
トキが好んで食べるのはドジョオ、カエル、沢ガニ、タニシ、ゲンゴロウなどの小動物だそうですが、こういうものはたしかに近年激減しています。」
「用水や小溝は魚の産卵場でもあるし、小魚の育つところでもありますが、そこへ薬剤の溶けた水が流されるのですから、卵も稚魚も一網打尽どころではない。本当に一尾も余さず死滅してしまいますし、カエルもタニシも、その他の小動物も一蓮托生です。その結果がトキを餓死させることになったに違いありません。わたしはいつも魚のことを主にして考えるのですが、その魚の中でも、最もわたしの関心の深いヤマメと農薬の問題について、意外なことを聞いて心を痛めているのです。」
狩野川台風で本流のヤマメがいなくなったのでは、との話もあったが、少しは残っていることがわかった。
それから3年、
「河川工事もほぼ終わって、流れも安定したので、今年あたりから、釣りができるのではないかと思って様子を見に行ったわけです。
実は狩野川のヤマメについて、素人考えですがわたしはわたしなりに、その復活のいかんを左右するものは海からのぼるマスだと思っていたのです。申し上げるまでもなく、ヤマメはホンマスの子です。海からのぼったマスの子が、あるものは降海性のいわゆる銀毛となって海へ降り、あるものは川へ残ってヤマメとなるのです。だからマスが海からのぼりさえすれば――いうまでもなく狩野川へも台風前には毎年のぼっていたことは明らかですから、これが引き続いてのぼりさえすれば、狩野川のヤマメは元のように復活すると思っていたので、これを第一に確かめてみたかったのです。」
今西博士が、「カワマス」と「アマゴ」の関係に悩まれることとなったのは、「ビワマス」の存在だけではなかったかも。竹内さんは、ヤマメとサクラマスの関係が、アマゴとカワマスとの間にも存在するという「相似形」説に何らの疑問も抱かれていないと思う。
「わたしは湯ヶ島へ一泊したのですが、翌朝尋ねてきてくれた大川春男君に会うとすぐ、このことを尋ねてみました。大川君はこの土地の人で、この川の魚については、アユにもせよヤマメにもせよ常に深い関心と温かい目をもって、見守っている人です。その大川君は
『わたしもマスのことに注意しているのですが、まだよくわかりません』といい、さらに『河口が年々悪くなるので……近くまた河口へ大規模な精油工場ができるそうですが、河口が悪くなりますから、アユでもマスでも遡河魚の将来は心細いことです』というのです。
どうも止むを得ないことだ、狩野川のアユも遠からず放流を頼みにするより仕方がなくなるであろうし、ヤマメはヤマメ同士の産卵に待つより仕方がなくなるであろう。だがそれでもみんながヤマメを大事にしていけば、ある程度の数を持続していけるであろうなど、わたしはそんなことを思っていたのですが、ここでわたしは大川君から思いもよらないことを聞いたのです。それは上流にあるワサビ田で、近ごろは田んぼと同じように農薬を使うようになったというのです。
『まだ詳しく調べてみたわけではありませんが、せっかく生まれたヤマメの稚魚も、これにあたったらたまらないと思うのです。どうもそのためにヤマメが被害を受けているように思うのですが……』と大川君は憂い気な顔をしていましたが、わたしは迂闊にも、そんなことはこれまで思いもしなかっただけに、大川君の話にひどい衝撃を受けたのです。
御承知のようにワサビ田はどこの川でも最上流にあります。近年ワサビの栽培が盛んで、渓流の奥へ行くと到る処にそれがありますが、ことにワサビは伊豆の名物で、狩野川は本支流ともに水源近くにたくさんワサビ田があります。
ワサビ田の水が本流へ落ちるその落ち口は、ヤマメ釣りにとって、見のがせない一つのポイントでした。ヤマメは上から流れてくる餌を待って、落ち口の白泡のたつとこや、その下の水のよれて流れるあたりに必ずいたものでした。ところが今は、その上から毒水が流れ落ちるとあっては、ヤマメも居たたまれないでしょう。そしてまた上流のそのあたりは秋の産卵場であり、稚魚の生まれ育つところなのです。そこへ毒水が流れてくるのでは、産卵もできないでしょうし、たまたま生まれた稚魚も、たちまちあえない最後を遂げてしまうことになるでしょう。
これはヤマメにとって生存上の一大事です。河口は悪くなって海からの魚はのぼれなくなる、上流からは毒水が襲ってくるというのでは、そしてこれは狩野川だけのことではなく、先にも申し上げたようにワサビ田は到る処の渓流にあるのですから、それによる被害を考えると、これは大変なことだと思います。」
中流域の汚水や、ダムによる河の遮断だけでなく、
「そしてわたしは最悪の事態の中でも、人家の少ないダムから上流、また水利関係などにねらわれない小さい支流だけは残る、極めて狭い範囲ではありますが、そこだけヤマメやイワナの安住のところがあるとわずかに慰めていたのですが、ワサビ田から毒水が流れ出すとなると、もう救いがなくなります。川虫もいなくなる、沢ガニもサンショウウオも――そうすればカゲロオ類などの昆虫も影をひそめるでしょう。特別天然記念物のトキが飢え死にするのも無理はありません。
都市が大きくなれば自然の動植物は次第に遠くへ追いやられるといわれますが、反対に山奥から攻撃の手が延びてきたら、自然の動植物はどこへも逃げるところがなくなります。」
竹内さんが、この文を書かれたのは、昭和36年頃のこと。その頃と比べれば、農薬の毒性が低くなり、また使用量も少なくなっているとは思うが、それでも沢ガニが棲めない水であるのでは、と思っている。
カーソンが「沈黙の春」を出版、あるいは日本で出版される前に、竹内さんは農薬の生物への影響に気がつかれたということではないかなあ。
狩野川が放流河川になり下がったのは1995年からであるが、その前から遡上量の激減の予兆はあった。
11月23日でも城山下の石はきれいに磨かれていた。それが、11月22日にはきれいに磨かれていた石が23日には曇り、その翌年:1994年には、11月中旬頃から磨かれていない石になった。
この遡上量の激減はいかなる要因で生じたのかなあ。
21世紀のある年、城山下で、「外道」が釣れて、それがいかなる魚か、故松沢さんに尋ねた人がいた。サツキマスであった。故松沢さんは、その魚と囮箱に入っている全部の囮と交換するよ、と冗談を言われた。釣り人は大喜びで、貴重な魚を持ち帰ったとのこと。
現在、サツキマスがどの程度海からのぼってくるのかなあ。銀毛したアマゴが海には降ることなく、途中で下りをやめて戻っているのかなあ。
「出水時の魚たち」
竹内さんは、「釣ひとすじ」(昭和36年発行)に、増水したとき、魚たちがどのように行動するか、について書かれている。
「山岳地帯でも低地地帯でも同じですが、川が増水すれば魚たちは両岸の浅いところへ避難します。御承知のように増水で本流は一本の滝のようになったり、低地帯なら濁流とうとうというときでも、両岸の浅いところには静止に近いところや、逆流のかたちになっているところもありますから、そこへ避難していれば、押し流される心配はありませんし、また濁りも薄くなっていますから、ひどい濁りを避けることにもなります。魚たちはみなそこで上流へ向いて、増水が止むのを待っていて、そのうち減水しはじめれば、時を逸せずにのぼり始めます。
山岳地帯の人たちはこういう魚の動態をよく知っているので、減水しはじめると大きい手網などをもって川へ行き、岸の草の中を上から下へ救って魚を捕ります。」
長良川はどの付近から、「山岳地帯」かわからないが、山岳地帯でなくても、手網で魚を捕っている。
野田さんは、「サデ網で濁りすくい」をする漁法をテレビが危険なことをしている無謀な行為と非難していることを「非難」されている。補記2
出水時のイワナは?
「もう何年か前にキティ台風という大荒れの台風がありましたが、そのあとで奥鬼怒へ入った友人が、あの荒れでイワナやヤマメが流されたらしく、ほとんど釣りにならなかったといっていましたが、そういう被害を受けることもあるでしょう。けれどもわたしは、渓流の魚は一般にはかなりひどい増水でも被害はわりあいに少ないと思っています。もっともこれは魚にもよることで、ヤマメなどに比べてニジマスは流される率が多いようですが――。」
魚は増水で被害を受けることにもなるが、
「その意味で天然の状態の下では暴風雨など、それによって魚たちは被害を被るがまた広く分布する機会を与えられることにもなるわけです。
これは渓流――水源地方面でも見られることです。傾斜の強い渓流には一メートル、二メートルの断崖のようなところが到る処にあります。こういうところでは、どんな魚でも平水時にはのぼれませんが、増水すればそういう断崖はなくなります。こういうところでも一年に一度や二度は、一,二メートル増水するときがあるし、何年かに一度は今度のような大雨で平常予想もしない増水をみますが、こういうとき、下にいた魚は好機至れりとばかり、のぼってしまうのです。山岳地帯へ入ると支流の落ち込み口は小さい滝になっているところが少なくありません。いうまでもなくこれは本流と支流との水位の差によるもので、流れによる岩石などの削磨作用は水量の多いほど強く働く関係で、本流の水位は低く、支流の水位は高くなるのが当然です。
そしてこういう支流へは、平水時では本流の魚が入ることはできませんが、かりにその水位の差が三メートルあっても、本流の水がそれだけ増えれば、支流の落ち口いっぱいに水が来るのですから、これを魚がのぼるのはなんでもないわけです。魚たちはその好機を逸しないために、水が減りはじめれば、時を移さずのぼりはじめます。そしてイワナなどは水をたどってどこまででも、のぼりうる限りはのぼっていくので、平水時には途中で水路が切れてしまう小さい支流の、ずっと奥の水たまりのようなところに思いもよらない大イワナがいるのです。山地の釣り人は、本流の増水したあと、まだ誰も入らないうちにこういう支流へ入って大釣りをしてくるのです。またこういうところに取り残された魚は、秋の下降期に雨が来るのを待っていて、水路がつながった時に、細流から支流へ、支流から本流へと下ってくるのです。
こういったわけで、上流の魚も今度のような大増水(注:狩野川台風による増水)のときには、逃げ損なって押し流されたり、水たまりであえない最期を遂げるようなこともあるでしょうが、その反面では分布を広くすることにもなります。」
ルアーの師匠であるサボMが、イワナは山を登っていく、と話していたことがあるが、細流の水たまりにいたイワナの話かも。
砂防堰堤があっちこっちに作られている現在では、イワナの分布域拡大に寄与していた大水もマイナスの効果しかないのではないかなあ。砂防堰堤から落ちたイワナはどのくらい助かるのかなあ。道志川のこの間沢上流の堰堤下は深いようであったが。
「湖産」の馬瀬川と性成熟
竹内さんは、「續釣の楽しみ」(昭和三二年発行」)に、8月22日から「日本友釣同好会が名古屋の同行者と懇親の釣会」に参加されたときの情景が、「馬瀬川の友釣り」」に書かれている。
「釣りはひとりで静かに楽しむのもいいが、こうして大勢で賑やかに楽しむのもまたいいものだ。昔の釣りの観念からは考えも及ばない近代的の釣風景である。釣場も遠くなつた。昔は下駄穿きのままで、手近かな釣場へ気安く行けるところに釣りの楽しみがあつたのだが、いまではそう遠いとも思わずに関東から中京方面まで出掛けて行く。日本中を釣場として、北は北海道から南は九州の果てまで釣り歩くときも、そう遠くないであろう。そして釣りの楽しみは、その道中にあり、また前夜にある。全然釣れなくては興味も薄いが、必ずしも多くを釣らなくても、釣る前にすでに十分釣りを楽しんでいるわけである。」
竹内さんは、8月21日(注:22日?)早朝、川の様子を見に行かれている。
「去年この川へ来て釣つた二三の釣友から、川の様子は聞いていたが、それよりもわたしは、その昔この方面から乗鞍岳へ登つたウオルター・ウエストンの紀行文の中に、益田川や馬瀬川の名があつたのを思い出して、それを懐かしんで来たのである。ウエストンがどんなコースをとつたのか知らないが、六十年も前のことでもちろん高山線などあろうはずもなく、彼は、岐阜から歩き出したのだ。そのウエストンがどこで馬瀬川を見たのか知らないが、とにかくその川へいまこうして自分が釣りに来ているということに、なんだか知らない興味を覚えているのである。
上流に向かつて右の方、ここから東北のあたりに乗鞍岳があり、その少し北に穂高があり、さらに槍があるはずだが、近くの山々が視野を遮つているので、名のある山はここからは一つも見えない。」
「ポツポツかかる。流心は水垢がなく、岸寄りの浅いところでくる。去年来た釣友の話では魚はすばらしく大きいとのことだつたが、いまかかるのは二十匁前後というところで、時々三十匁級がまじる程度である。岸寄りにずつと川柳が茂っているので、かかつてから寄せにくい場所だが、それでも午後二時頃までにその前後で一七八尾の獲物があつたので満足した。」
「ところで、明日も今日ぐらい釣れるとすると、魔法壜へアユが入り切れなくなるので、今日釣ったうちの一五六尾を宿の流し元で頭から開いて薄く塩をふり、明日釣りながら河原の焼け石の上で干物を作ることにした。
ここの川は水も良く、水垢も良いのでアユもいい形に太つている上に香りも高い。それを開いてみたら驚いたことに、もうみんな腹子を持つていた。琵琶湖産の放流アユは天然遡上のものに比べるとずっと早く産卵をはじめるが、ここのアユはもうまもなく瀬付くかと思われるほど腹子が育っていたので、いまさらのように、もう今年のアユの終季も近ずいたなと思つた。」
竹内さんは、学者先生とは異なり、海アユが12月も産卵されることをご存じであるから、「湖産」の性成熟を基準として「終季」とされていたのは、神経痛への対応からであると思っている。もし、ウエーダーがある現在に釣りをされていたら、「海アユ」、「天然遡上もの」の性成熟に合わせて「終季」を考えられたのではないかなあ。
なお、馬瀬川は、飛騨川との合流点上流に滝があり、「天然遡上もの」は遡上できなかった、と滝井さんは書かれている。
なお、竹内さんが馬瀬川で釣った「湖産」は、昭和30年頃であるから、氷魚からの畜養ではなく、安曇川等に遡上してきた「湖産」である。この「湖産」に、エリで採捕されていた「湖産」が含まれていたのか、どうか気になるが。
くだりの情景
竹内さんは、湖産アユの産卵時期も、「放流もの」が下りをしないで産卵することも、海産アユが12月にも産卵していることを十分に理解されている。
そのことを前提とした上で、竹内さんの作品を読まないと、上方側線横列隣数が17枚くらいであっても、「漁協が『湖産を放流したといっているから、早川、酒匂川にいるアユは湖産だ』」というたぐいの神奈川県内水面試験場、学者先生並みの観察眼しかない、と、誤解することになる。
しかも、産卵時期になったアユを釣りたくないから、9月できっぱりとアユ釣りをやめる、との記述を読めば、竹内さんは「学者先生の産卵時期」を釣り人の立場で「正当化」している、と、誤解される「学者先生」やその信者が発生するかも。
前さんも9月末でアユ釣りを終えられていたと思うが、竹内さん同様、神経痛にならないためではないかなあ。
井伏さんも、雨村翁も神経痛になっている。半跏のわらじにゲートル巻きでは神経痛の心配をせざるを得ない出で立ちです。
「遺稿 あゆ」の「思い出の川」の「天然のぼりのアユの数」の節に、
「ところでくだりのアユですが、もう漁季も末のあるとき、清さんに付き合ったら彼が“せんだってオボトの瀬でもの凄いくだりの集団に行き会った”といっていました。オボトというのは小倉橋の少し上手で、ややゆるやかな流れで、そうとうながい距離深くなっているところですが、くだりの集団がちょっとそこで足をとめているのを清さんが見つけたのです。そして二,三日の間、コロガシでひとり占めですばらしい釣りをしたのだそうですが、二,三日後にこの集団はいなくなってしまったのです。くだりのアユはこのように次第に大きい集団になって、オボトの瀬のような深いところや、いい淵でちょっと止まり、二,三日かあるいは一週間ぐらいそこにいて、また次ぎへくだっていくのです。こうして瀬付きの場所へいくのですが厚木の少し下流の左岸に、社家(しゃけ)とか倉見(くらみ)というところがあります。河口から十kmくらい上流と思いますが、そのへんがそのころ毎年瀬付きの大場所になっていたのです。わたしも一度そこへ行ってみましたが、岸は葭(よし)の生えたところで、そこに何十隻という舟がずっと並んでいました。瀬付きは夕方から始まるので、そのころから舟へ乗って、暗くなってからコロガシをやるのだそうで、ひと晩にみんな十kgも十五kgも、しかも瀬付きの期間中釣るのだそうですから、そこでとられるアユの数量も莫大な物だったでしょう。」
さて、このくだり、瀬付きの時期がいつかなあ。学者先生の話であれば、観察力、推理力の欠如で片付けることができますが。
竹内さんは九月末にはアユ釣りを止められている。しかし、九月の話ではあるまい。十月のいつ頃からの話かなあ。
「漁季」は、現在と同じかなあ。昭和14年以前でも現在と同じ漁期だとすると、10月10日前後のこととなるが。
なお、竹内さんは、湖産と海産の生活誌の違い、区別をご存知であるが、「釣ったあゆ」については、その区分を必ずしも、いつもされているとはいえない。まだ、湖産が再生産には寄与していないことが、認識されていなかったからと、考えているが。
「オボトの瀬」での清さんの大漁は、小倉橋上流、現在の津久井ダムの放流口付近のことのようであるから、その上流の渓谷風の河相、あるいはそれよりも上流の道志川や桂川を生活圏としていたアユが、何らかの要因で降りを開始していると思うが。
しかし、清さんでも毎年の出来事ではなく、たまたまある年にそのような現象に出会ったということではないかなあ。
したがって、その直近で道志川や桂川に増水があったとか、何かの要因があったと考えているが。少なくとも、その時期に、毎年観察される現象とはいえないと考えているが。
さて、困るのが、現在と同様、昭和14年以前でも10月14日までが漁期であるとすると、社家や倉見でのコロガシの現象をどのように考えるか、困りました。
また、社家や倉見でのコロガシの情景が戦後のことであるとすれば、放流ものの存在も考えざるを得なくなるが。ことに昭和30年代の話であるとすれば、放流ものの影響が関係しているかも、と思われるが。そして、その放流ものの主役は、湖産であるが。
神奈川県内水面試験場が1995年頃に産着卵、流下仔魚の調査を行った頃のように、「放流もの」の影響が大きいことも考慮せざるを得ない、となるが。そして、放流ものには「湖産」と「継代人工」との違いはあるが。
「遺稿 あゆ」の「産卵のための下降本能」の節から
「のぼりのアユは無謀に近いほど勇敢にのぼって行きますが、下りのアユは非常に慎重で、くだって行く先に、何か障害物を感じたりするとなかなかくだって行かないことは、簗場(やなば)の人たちがよく知っています。梁の上まできた集団がそこに足を止めて、なかなかくだらない。そこへちょっと増水するような雨でもあって、先頭が梁へ落ちると、大集団が一挙に落ち、一度に何百kgというアユが落ちて、梁の底が抜けるようなこともあるといいます。そうかと思うと、ちょっとした梁の底の破れめなど発見すると、そこから続いて一挙に集団が抜けて行ってしまうといいます。落ちアユの季節になると、いまでも狩野川で瀬張りというごく旧式の網を張ります。この網は比較的浅いところへ、流れいっぱいに張るのですが、その場合もちょっとした破れ穴でもあると、降りてきた集団がたちまちそこから抜けて行ってしまうのです。
わたしも、そういう下りの集団を何度も見ているし、また話も聞いています。先年天竜川の支流の気田川のくだりの大集団の話を、網打ちに行った土地の人から詳しく聞いたことがあります。水際に立って流れを見ていたら、大きい集団がくだってきたのでだそうです。ところがその集団のうしろに、まだアユが続いているので、その方をよく見ると、初めに見つけた集団は大集団の先ぶれで、その後に本隊と見える大集団が、さざ波を立ててくだってくるのだそうです。その数は何千か何万かわからないが、そこだけ流れの色が変わって見えたといっていました。
こういう大集団は、一気に産卵場までくだるわけではなく、大トロや大淵があると、そこで五日〜十日くらい足を止めています。そのときは朝や晩にもの凄いはねがありますからすぐわかります。そのはねが、ある日に、ばったりいなくなってしまいますが、それはいっせいに次の場所へくだって行ったのです。
大集団はこうしてひと瀬、またひと瀬とくだって行くのですが、この場合よくわからないのは、集団の中の雌雄がどのくらいの比率になっているのかということです。
近年狩野川では、この産卵期になると漁業組合が、産卵場所の田京から長岡の間で、人工採卵のため親魚をとっているのですが、十月初めに採卵をはじめる頃には、雄アユばかりとれて、雌アユが少なくて困る。
それが終季に近づくと反対にとれるのは雌アユばかりで、雄アユが少なくて困るようになるといっていました。これがどういう理由に基づくかわかりませんが、わたしの勝手な推定では、次のようなことではないかと思うのです。
雄は早くから産卵場へ来て、雌の来るのを待っている。そしてくだってきた雌と交配するのだが、この場合に雌は比較的短い時日に産卵を終わってしまうのに反し、雄は長期に亘って産卵行動に参加するのではないか。それを早期に雄をとってしまうために、終季になると雄が足らなくなるのではないか、とこんなように考えるのです。
琵琶湖産の放流アユは、海産や天然のアユに比べていろいろ異なるところがありますが、産卵もそのひとつです。産卵時季も非常に早くて、八月末にすでに瀬付くものがありますが、瀬付きの場所も、海産や天然アユのようにくだっていかず、上流でも何でも居付いた付近で、簡単に瀬付いてしまいます。
先年も誘われるままに九月二十六日に、これを今年の竿納めにしようと狩野川へ行き、比較的上流の月ヶ瀬の下へ入りました。あいにくの雨で、五,六尾釣りましたが、そのうち雌は二尾だけで、あとは雄でしたが、その雄は明らかに瀬付いたもので、中にはもうあらかた白子を放出してしまっていると思われるものもいました。夜になって瀬付いたアユも昼間は瀬へ出ています。雌は比較的水深のある、そしてゆるやかな流れの中にいますが、雄は白泡の立つような瀬の中にいますから、そういう流れの強いところで釣れるのはたいてい雄です。そのときもわたしは、琵琶湖のアユというのは、こんな上流でも瀬付くのだと思いました。
日照時間や水温の関係で、上流のものほど早く抱卵してくだって来ますが、河原の広い、明るいところにいるアユは雌雄共に若いので、その頃になると錆びたアユが釣れたり、まだ若い真っ白いアユが釣れたりします。この場合でも流心のような流れの強いところで釣れるのはたいてい雄で、肌の白い雌アユは瀞や淵などの深いところにいます。
わたしは来る年のアユのために、少しでも多く産卵してもらいたいと思うので、秋のアユは長追いをしないように、できるだけ早い時季に竿納めをするようにと、人にも言うし自分に言いきかせていますが、禁漁期ごろになっても、まだまだ真っ白い、若々しいアユがたくさんいるので、竿納めをするのが惜しまれます。
秋はいつごろまで瀬付くかよく知りませんが、早いものは八月末に瀬付くかと思えば、遅いものは禁漁期になっても、まだ真っ白ですから、十一,十二月へ入ってもまだ瀬付くものがあるだろうかと思います。」
竹内さんは、学者先生達と違い、「湖産」の産卵時期と房総以西の「海アユ」の産卵時期の違いを認識されている。また、トラックで運ばれてきた「放流もの」が、降りの行動をしないこと、放流地点付近に産卵場を求めていることも観察されている。
竹内さんは、「下手の長竿」(昭和四十一年発行)の「アユの再解禁」の章に、
「アユの産卵期はかなり長いように思います。ことに琵琶湖産のアユを放流するようになって、この種のアユが海産や天然アユに比べて非常に早くから、上流地帯の早いところでは八月末から、しかも海産アユや天然アユのように河口近くまで降るのではなく、昔天然アユだけしか上らなかった時代には全く見られなかった上流で産卵しているものが見られます。
そうかと思うと、下流の産卵床で、一部のアユが盛んに産卵している頃、初めからそのへんにいたアユはまだ若々しく、それからずっと後になって瀬付くものもあるようですから、巾広くいえばいまのアユは八月末からその年の終わりまで産卵するといっていいのではないかと思います。
東京や神奈川が十月十五日から十一月卅日まで禁漁にするのは、瀬付きのいちばん盛んな時期を保護することになるので、その意味では適当なものということができるでしょうが、その期間さえ保護すればあとはかまわないとはいえないでしょう。ことに十一月末で大体の産卵は終わりだとはいえない。まだまだ十二月に入っても相当大きい瀬付きが見られるのですから。」
「〜来年のために一と腹でも多く産卵させ、一尾でも多く孵化するようにしたいものです。
そういう意味でわたしは再解禁という制度に疑問を持つのですが、もう一つ、わたしはこんなことも考えるのです。
再解禁の釣りはコロガシでしょう。わたしは再解禁後の状況を視察したわけではありませんが、恐らく産卵床に立ちこんでコロガシをやっているものと思いますし、そうだとすると、せっかく産卵したものを無残に踏み荒らされてしまうことは想像に難くありません。今日ではゴムやビニールでいい長靴ができているので、十二月の水も冷たしとせず平気で立ちこむことができますが、昔わたしは素足で立ちこんで瀬付きを釣った漁師が、産卵したところは足で踏むと温かいよ、といったのを思い出して、孵化するときは温度が昇るものかどうか知りませんが、産卵してあるところを素足で踏んだら、それとわかるに違いないと思います。」
ということで、「目」にたこができるほど繰り返し書いてきたことを再度「学者先生の教義」打破のために書かざるを得ません。
故松沢さんや、仁淀川の弥太さんが話されたように、遡上アユが産卵を開始するのは、あるいは、産卵行動としての降りを開始するのは、「西風が吹き荒れる頃」=木枯らし一番が吹く頃、との観察が適正である。
高橋さんが、「アユの本」に、四万十川海域で採取した稚鮎の耳石調査の結果、海産アユが10月初めに孵化している、と書かれているが、そんなことは「絶対」にない。川那部先生に「絶対」という表現の説は信頼性に欠ける、とおしかりを受けようが、「9月下旬」に海アユが産卵することはない。もちろん、東北及び日本海側=対馬暖流を生活圏とするアユを除くが。
「定量分析」らしく、いかにも「科学的」知見に見える耳石調査結果が適切とはいえない理由に悩んだが。
「アユの本」には、2月にも孵化している、との記述があり、研磨作業等のウデの未熟が、10月初めに孵化したり、年間で一番水温が下がり、生存限界の7度位よりも低い水温になる2月に、海まで仔魚が降ることは「絶対」に不可能な現象が「耳石調査」結果で「事実」とされているのかも、と思っていた。
しかし、そもそも、耳石は何を表現しているのか、ということも問題ではないのかなあ。
体内時計があり、「24時間」の時間概念を表現しているのかなあ。あるいは、一定の照度変化を感知して耳石が形成されているのかなあ。
実験環境で電照によって自然界よりも「日照時間」を長くしたり、短くしたとき、耳石の形成はどのような変化が生じていたのかなあ。あるいは変化がなかったのかなあ。
2012年12月上旬、まっちゃんは、子ウルカの食材を調達するため興津川にいった。産卵場に近い承元寺?付近にコロガシの人に断って入り、友釣りをして必要とする食材を調達した。
2013年12月上旬、はっちゃんご一行は、狩野川の主要な産卵場といわれている大門橋、千歳橋付近に入った。束釣りになった。すべてメス。そんなにねえちゃんに愛されているウデをお持ちであるから、12月末まで通ってえ。
はっちゃんは「いやじゃ」と。メスとはいえ、最大で15センチ、小中学生相手では、気分が乗らない、と。
そんな贅沢を言わないでえ。あゆみちゃんの生活誌を適切に観察するためですよ。
2013年は、遡上量も多くなく、また、11月生まれが少なく12月生まれが主体で遡上開始時期が4月中旬、下旬からのようで、11月でも女子高生が最大であった。もちろん、11月初めに名人見習いが納竿会で一位になった場所は、松下の瀬で、番茶も出花娘が遊んでくれた、と。問題は、その番茶も出花娘ですが、湯ヶ島やその下流に大量放流された「放流もの」が増水でながされてきたものでしょう。
その頃、松下の瀬の右岸側の石はきれいに磨かれていたが、次に入ったときは曇っていた。
組合長が替わったとの話があるが、今年は上流域への大量放流、上流域への放流偏重はなくなるかも。そうすると、名人見習いとのあゆみちゃん軟派量の格差がなくなるかも。
さて、10月中旬頃、大井川は七曲がりから駿遠橋付近でもメスの比率が雄よりも高いと感じていた。もちろん、長島ダムができる前の、水の中には頭大の玉石がびっしりと詰まっていた時代のことであるが。
11月の狩野川は城山下でも、メスの比率が高いと感じていた。
とはいえ、丼大王と違って、両手に花、というほどのもてようを経験したことがないから、適切な観察とはいえないかも。
まっちゃんや、はっちゃんが12月上旬に入った場所は、産卵場付近。
そこで、メスが主役ということはどういうことかなあ。
雄は雌とは違う場所にたむろしているのかなあ。昼間は、男女席を同じくせず、ということかなあ。
竹内さんが、産卵場での雄と雌の場所による棲み分けを書かれているが、その雄の生活圏の「場所」は適切な観察といえるのかどうか。石ころがしの瀬も、丼大王が入りびたっていたかっての一本瀬でも、雄ではなく、メスが11月23日まで主役であったが。
故松沢さん、教えて。丼大王さん、教えて。
なお、故松沢さん達は、湯ヶ島を釣り場にしていた川漁師達が、降ってアユがいない、少なくなったといって松下の瀬や城山下に「降って」来ると、いそいそと湯ヶ島周辺に出掛けていた。
故松沢さんは、「サラバ」効果が大きいからと話されていたが、そのほかに、メスの比率が高いこともお出かけの理由であったのかも。
なお、9月下旬の月ヶ瀬に、何で、「湖産」しかいなかったのかなあ。海アユはまだ降りをすることなく、盛期と同様の生活をしているはずであるが。
また、気田川での降りの情景が、頭を上流にしてのゆっくりとした降り、故松沢さんが、妊婦が斜面を降りるときのように、慎重な降りでなく、さざ波を立てるような降りの情景になっているのは何でかなあ。どのような条件のときの話かなあ。
学者先生の海アユが「10月、11月」に産卵するとの教義により、一番ひどい目に遭っているのは、学者先生の大司教座が存在していると考えている高知県ではないかなあ。
何しろ、11月15日?が再解禁日ですから、翌年の1番のぼりになるアユの産着卵を踏みつけ、踏み荒らし、2番アユ、3番アユになる子を産む親を虐殺していますから。
山崎さん達の嘆きが伝わってきます。
「香」魚の消滅
竹内さんは、昭和30年代に、けい藻が優占種の川から藍藻が優占種の川へと変化し、また、ダムができてダム湖に繁殖するポタモプランクトンがけい藻に取り込まれ、アユが食してアユの体内での代謝経路を経てシャネル5番の香りを振りまく物質を消化し、「香」魚が消えていくことを経験されている。
ところが、なぜか、「香」魚の消滅には触れられていないようである。
ヤマメやイワナ、海アユの存亡の危機の方に関心が高く、アユの「質」は贅沢な悩みと考えられていたのかなあ。
したがって、竹内さんが話題にされていない「香」魚の消滅には触れないつもりであったが、Iさんが、アユの香りが消えたのはアユの量が減ったから、と、また、藍藻が「不飽和脂肪酸」になる物質を多く含んでいる、あるいは食料は「香」魚に関係のないこと、などの記述をされていることから、高橋さんら学者先生の教義が、真山先生や村上先生の説をはるかに凌駕しているゆゆしき現象に対応するため、以前の文の一部を再掲することにします。
Iさんの「香」魚消滅が、アユの量に起因する、との観察はまちがっちょる、というためには、ポアロさんやコロンボ警部のお出ましを待つまでもないでしょう。
もし、アユの量が少ないことが、「香」魚消滅の原因とすると、個々のあゆみちゃんは、シャネル5番の香りを手に残しているはずである。
しかし、時期限定で「香」魚がいた大井川でも、長島ダムができてからは消滅した。
川面からシャネル5番の香りが消えたことは、アユの量に関係しているとしても、現在の状況は、個々のアユが「香」魚ではなくなって、「普通の」お魚になっていることである。
高橋さんは、「香」魚の香りを経験したことがないのではないかなあ。「香魚」が存在していた頃からあゆみちゃんになじまれていたIさんまでが学者先生の教義に改心させられるとは、困った現象ですねえ。
高橋勇夫「ここまでわかった アユの本」(築地書館)の
「一般には釣りたてのアユが持つスイカのような独特の香りは、アユが食べた藻類(コケ)に由来すると信じられている。『この川はコケがいいからアユの香りが違う』といった自慢話もよく耳にする。
残念ながらこれは誤解で、海で動物プランクトンを食べているアユの稚魚もやはりアユの香りがする。アユの香りというのは、じつは食物とは直接的には関係なく、そのもとになっているのは不飽和脂肪酸が酵素によって分解された後にできる化合物であることも確かめられている。」
高橋さんの見立てに対しては、次の現象の記述を再掲しましょう。
@ 時間軸 なぜ、古は川面にも香りが立ちこめていたのに、現在はそのような現象がなくなったのか。単に鮎の量が減少したからか。
A 個体の香り もし、鮎の量であるとすれば、個体を握ったときに手に残る香りがなくなったのはなぜか。
B 川による香りの違い 宮が瀬ダムがなかった頃の中津川の愛川橋よりも上流、半原の生活排水が流れこむことがなかったところではスイカの香りがしていた。相模川では、胡瓜の香りであった。もっとも、ともに、昭和の世の終わり頃には時期限定であったが。
その香りの期間は、古の話とは異なり時期限定的であったのは、ダムがなかった中津川についてはどのように説明することが適切であるのか、思案中であるが。もちろん、「下手の考え休むに似たり」で、永遠に進化をすることはないが。真山先生や村上先生の記述を見つけることができれば話は変わるが。
C 大井川に長島ダムがなかった頃はスイカの香りがしていたが、長島ダムができてから、その香りを嗅ぐことはなくなった。香りは、時期限定であった。その時期は、梅雨明けの、新アカが、けい藻がついた頃だけであったが。
D 藁科川上流の赤沢では、6月に強い香りがしたが、何か不純物を含む香りであった。
鮎の素性は継代人工の放流ものが主役。なお、大井川は、原則、放流ものはダム上流、支流に限られていることから、遡上アユ。現在は塩郷堰堤下流でも放流が行われているようであるが。
H・P「真山研究室」の真山先生への質問に対するご返事の一端は、
けい藻について
「油の成分はさまざまなものより成ります。種によって,またその生育環境によって組成は異なりますが,」
「C18のリノール酸やリノレン酸は多く含まず,またC22のDHA (ドコサヘキサエン酸)を含む種はほんのわずかのようです。」
との記述は、時間軸、空間軸での香りの質、量の違いを考える上で、示唆に富んでいるものと考えています。
そこで、次の事柄について、素人にも読める資料があれば、お教えいただければ幸いですが。
@ 不飽和脂肪酸の種別によって、香りの質、量を異にするとき、その種別と香りの違いの関連性
A 各不飽和脂肪酸の種別を生成する珪藻の種別との関連性
B 珪藻の種別あるいは、各不飽和脂肪酸の生成量に影響するを規定する水質、水に含まれる栄養素との関連性、環境条件
C その他
Bについては、単なる水質ではなく、山が荒廃したから腐葉土をとおしてしみ出してくるミネラル等を含んだ栄養素が流れてこなくなったから、との故松沢さんらの話がありました。
野村春松「四万十 川がたり」(山と渓谷社)にも、
「高知と愛媛の話が長(なご)なったけんど、とにかく、炭焼きするような広葉樹がようけあって、黒尊には針葉樹だけやなかったというんが、黒尊川をきれいにしちょる理由なんよねえ。」
伐採が盛んで「そのにぎわいが去るころ、国がスギの苗ばっかり安値で分けたんね。苅られた山はみなスギばっかり植えられることのなったんじゃろ。国が経済だけを優先することに走った結果よ。天然林はほとんどスギの人工林に変わったわけよ。」
「そんでも、黒尊川流域は四万十川やほかの川より、いまでも原生林が多い。山が深いいうことが幸いしたんじゃろ。黒尊大黒山にもええブナの原生林が残っちょるわ。
上流にはアメゴ(アマゴ)の養魚場があるけんど、本流よりええアメゴがようけおる。スイカを切ったときのような匂いのするアイが獲りたかったら、黒尊川よね。」
また、弥太さんだったか、野村さんにコケを食するボウズハゼが、香りがする、と書かれていたと記憶していますが。(野村さんの話でした。)
もし、この現象が事実であれば、アユの香りが本然の性に基づくものではなく、気質の性に基づくことの例証になると思いましたが。
もっと、きちんと整理をしなければ、とは思えど、そのウデはなし、へぼでも適切に理解可能な素材もなし。
竹内さんは、何で「香」魚の変遷を書いてくれなかったのかなあ。いや、「本」になっていないが雑誌には書かれているのかも。
Iさんまでが、学者先生の教義に染まっているとは、驚き桃の木山椒の木です。
今生、今一度のシャネル5番の香りを楽しみたいなあ。
まっちゃんは、日本海側の漁業権があるかないかわからんような小さな川に「香」魚がいた、とはなされていたが。
三面川の支流、門前川?に「香」魚がいるとお話しはあったが、水量が少ないため、ウンキロも歩く釣りになるとのこと。
もし、門前川に「香」魚が存在するのであれば、荒川の支流の女川にも「香」魚がいるのかなあ。
月光川では?
亡き大師匠が静岡県の数本の川を素通りして、太田川の支流の吉川へ出掛けていた。そこにはまだ「香」魚が生存しているかもと思っていたが、ホトトギスさんが、吉川にもダムがある、と。そして、ダムがなかった頃の吉川のあゆみちゃんがすばらしいアユであった、と。
となると、今生で「香」魚に出会えることは無理かなあ。
「水乃趣味」や、関西の釣りの雑誌には、「香」魚がいた頃のお話しが掲載されていると思うが、図書館にはないであろう。
前さんの師匠である亀山素光さんについて、竹内さんは、琵琶湖でのホンモロコ釣りでしか登場させていないし、困ったなあ。
せめて、古の記述から「香」魚を追憶しようと思ったが、無理なようで。
亀山素光さんは
竹内さんの書物で対象外とせざるを得なかったのは、昭和43年発行の「竹頭」とその前に「大病全快のあとで”行く雲”を作ったが」の「行く雲」です。
ともに俳句と詩です。「音痴」には雅の世界に縁遠いものですから。
なお、「”竹頭”はいうまでもなく竹頭木屑の意、竹の切れっ端や木の屑はなんの役にもたたないものだが、それでも読んでやろうといってくれそうな親戚や知友へ贈るつもりで、少部数を印刷に付した。」
とのこと。
昭和28年発行の「釣は愉し」は、愉しい釣りの情景はあれど、お魚の行く末も、その生活の場である川の荒廃も考えなくてもよく、仮に例外現象として気にしなければならないにしても、まだよき時代。相模川にダムができたが、清さんや、竹竿を制作してくれていた利根川の都丸義朗さんらが亡くなられたことに寂しさを感じることが大きな比重を占めていた。
昭和32年発行の「續・釣は愉し」も天候にいじめられることはあっても、お魚や水棲昆虫が消え去る事態に憂いをいだき、悲しみに浸らなくてもよき時代。
昭和36年発行の「釣りひとすじ」、昭和41年発行の「下手の長竿」では、お魚たちの滅亡を嘆かざるを得ない状況になっていた。
その川の、水の、生き物の変遷はよくわかる。
さて、「本物の川」、「水」を知るため、前さんの師匠である亀山素光「釣の話」(弘文堂:教養文庫 昭和15年発行)を手がかりにできるならば、亀山さんでひとつのテーマにできるが、その思惑の内容になっていない。
したがって、アユ釣りの箇所から、わずかに書かれている川とあゆみちゃんの生活誌を拾い出すことにします。
(旧字は当用漢字にしています.また原文にない改行をしています。)
昆虫食時代がある?
「のぼり鮎にも早く溯るのと遅いのとでは時日にかなりの差がある様で、最も遅いのに至つては七月に及ぶものもある。この頃の鮎は歯が生え、主に動物性の食餌、かげろふの幼虫などその川の石裏等に棲むものまたは水中に浮游する虫類を食べて成長する。四月中旬には河口より十里もそれ以上にも銀鱗の閃くのを見受け、ハエの毛鉤流しに釣れるのでも知られている。早く溯つたもの程早く発育し五月中旬頃には石に付く鮎を見掛ける。即ち歯が漸次退化して僅か上顎に残すのみとなり、この頃から硅藻を食べる。石に付くとは硅藻を食べる動作を言ふので、先ず鮎が青年期なつた時である。
此の石に付かない中は友釣即ち争闘性を利用する釣りは成り立たない。鮎の殊に好む硅藻は新鮮な硅藻である。硅藻は天候と水温の関係から腐敗し易いもので、粗面の岩の硅藻は増水により洗ひ流されても尚残るもので、滑らかな面のそれは全く洗ひ落され、更に新鮮な硅藻が生じる。故に面の滑らかな岩の多い川を好む。硅藻を食べるのは其の中に居る微生物を食べるので硅藻を食べる割合は少ないものであらう。
硅藻の中に居る虫や卵を食べると同様に他の動物性のもの(蜉蝣・かげろうの幼虫等)も食べるので、この食餌性を利用して釣るのが沈み釣(ドブ釣、クハセ釣等とも言ふ)である。硅藻を食べる様になると鮎特有の香気を放つ様になる。」
もし、この説を学者先生が書かれていたら、無視するだけであるが、観察眼に優れた亀山さんが書かれているから、その理由を考えねばならない。
なお、「アカ」には藍藻が優占種の川は存在していないと考えて良かろう。「全国鮎釣主要河川」の関東には鶴見川も入っている。現在では、いや昭和20年代後半でも想像すらできないことであるが。
中部では、大聖寺川は入っているのに、手取川、荒川、三面川は入っていない。大井川も太田川の支流である吉川も。
近畿では千種川は入っていない。
1 昆虫食時代は存在しない
川那部先生は、あえて昆虫食時代を設定する必要はない、と書かれているが、適切な観察であると考えている。
にもかかわらず、亀山さんが「昆虫」あるいは動物性タンパク質を重視されたのか、考える。
四万十川の山崎さんも、昆虫を食べて、体力を蓄えて、遡上をしていく、と書かれている。
多分、「硅藻」よりも、肉の方が栄養価が高く急激に大きく育つ要因である、と考える時代背景があったのではないかなあ。
巌佐先生は、硅藻の栄養価が非常に高いこと、また、栄養には寄与しない硅藻の殻であるが、この殻も消化液を潤滑に食物に分布する機能を担っているから、決して無駄な存在ではない、と書かれていたと思うが。
川那部先生は淀川の毛馬の閘門の存在でコケを食する環境にない等、川に入ってもコケが存在しない環境の時は昆虫を主食にすることはあるが、と書かれていたと思う。
ドブ釣りで稚鮎が釣れていることも、昆虫食時代を想定する根拠になったのではないかなあ。
2 「香」魚と食料
高橋さんは、香りが食料と関係ないと書かれているが、そんなことはない、とだけ書いておきましょう。
当然、高橋さんは、藍藻が優占種であっても、「香」魚が存在すると一点の曇りもなく、信じられているが。
(故松沢さんの思い出の10,故松沢さんの思い出補記の28,29,補記4の渡辺さんの「アユを育てる水垢の驚異」など)
3 「早く溯ったものほど」大きく成長する
相模大堰副魚道の遡上量調査結果から、3月下旬に相模大堰副魚道に大量遡上があった2004年、2008年は、解禁日に17センチ級が釣れ、10月には22センチくらいの乙女も釣れた。
しかし、4月上旬から遡上が観察され、また、その数が少ないときは、大きくても18センチくらいが9月、10月に釣れている状況から、早く遡上したものしか大きくなれないのではないか、と想像している。
そして、その遡上開始時期は、雪代による水温の影響を考慮しなくてもよい相模川であるから、成長段階、いつ孵化したかに依存しているのではないかなあ。
なお、2012年の荒川は2週間ほど遅くまで雪代の影響が残っていたとのこと。
8月に荒川に行ったときも、例年であれば瀬で乙女や番茶も出花娘が相手をしてくれるのに、大きくても女子高生の1、2年生くらいまで。多くは15歳くらいまでの小中学生。
番茶も出花娘も瀬尻でかかったが、高瀬温泉の旅館山路の「おやじ」さんの見立てもオラの見立ても海産畜養。
僅か、2週間といえども、一定の成長段階に達しているのに、コケを食べることができないと、その後の成長に大きな影響が生じるのではないかなあ。
なお、山路さんは、三面川の方が大きいという例年では見ることのできない現象が生じていた、とのことであるが、三面の方が海産畜養が多いからか、雪代の影響が早く消滅したのか、どっちかなあ。
4 歯の形状変化
歯に係る記述も気にはなるが、動物プランクトンを食べるのに適した歯から、コケをそぎ取るのに適した櫛歯状の歯に変わる、ということにとどめましょう。亀山さんの歯に係る記述はどのような意味を持っているのかなあ。
5 「釣の話」には、いかりバリは「3本鈎」と
いかりバリは、「3本バリ」、チョウチョウは「2本バリ」と表現されている。
「鈎の括り方も一本括り、二本括り、三本碇など種々あるが、一本より二本、二本よりは三本の方が鮎の掛かりは良い道理だが、底石や障害物にもよく引っ掛かる厄介も生じる。水量の多い川で急流だと三本碇も差し支えないが、瀞や浅場、水量の少ない川では三本碇は鈎の重みが加わり底に掛かる率が多くなる。」
ハリが重くなる、という記述も、寸バリは盛季の鮎では当たり前、という時代のハリの大きさが基準となった話で、平成の世が始まって数年後に蔓延するようになった小鉤ができる前の話。
小鉤は鎧を着たような継代人工の荒い鱗に対応するために、また、追いが弱いために「ふれ掛かり」をするように、との意図で開発されたものでしょう。
6 川ガキと友釣り
鼻環は、ワンタッチの登場する前の鼻環が書かれている。
ヤマメキラーさんは、ガキの頃、今日はどこで遊ぶか、遊び場所を求めて中津川を走り回っていた。釣り人は少ない。
滝井さんも竹内さんも中津川での釣りを書かれていない。何でかなあ。ダムサイト付近にあった石小屋のでっかい石、その下流にあった深く、そして巨岩が転がっていた牛渕、そのような河相は、到る処にあったのではないかなあ。角田大橋のところにも深い淵があったとのこと。
ヤマメキラーさんは川崎ナンバーの人に友釣りの仕掛けを教えてもらい、竹藪から切り出してきた竹に仕掛けをつけていた。そのときの鼻環は、橦木。母ちゃんに木綿針をもらい、折って使っていた。
囮を誘導する方向を変えて操作しょうとすると、木綿針を鼻に差し込む方向を変えなければならなかった。
そのうち、川崎ナンバーの人に鼻環をもらった。
妻田の堰もなく、遡上アユがシャネル5番の香りを振りまいていた昭和30年頃の話である。「川ガキ」が絶滅危惧種、絶滅種になっていなかった頃の話である。
当然、硅藻が優占種であり、遡上アユが満ちていたから、川面にはシャネル5番の香りが立ちこめていた。
ヤマメキラーさんは、いつ頃まで堰で遡上が妨げられず、シャネル5番の香りが川面に漂っていたか、の記憶がはっきりしない。そのうち思い出してくれるのでは、と思っているが。
7 コロガシと鮎の量
「素掛けは所によりシャクリ、チヨン掛、ヤマ掛、縦引等ともいふ。」
「鮎の移動」の節に、
「底玉(注:コロガシの仕掛けの一種で、玉をハリよりも下につける)ではその場所に数百以上の鮎が群がつてゐないと釣果は揚らない。一淵に二十尾や三十尾の鮎では駄目である。底玉で何匹かの鮎を釣ると終ひに釣れなくなる。一部は懼れて上手の瀬に逃れ、一部は下手に降りるが大部分は其の淵の中の鈎の届かぬ所に避難する。注意してゐると其所に『はね』を見る。鮎が移動したときは、釣人も位置を共に移動して釣れば数匹続きに釣れるが又鈎の届かぬ所へ移動し始める。少し大きな淵だと釣友二,三と共に向ひ合つたり、上手、下手と同時に釣れば共によく釣れる訳である。」
瀬で、どのくらいの鮎が、どのようにして縄張りを形成し、又2番鮎、3番鮎がどのように存在していたのか、行動していたのか、群れ鮎がどのような場所に居たのか、を書いていてくれたらなあ、と思うが。
2014年から昭和橋上流が友区になる。雄物川さんが、昭和橋上流左岸でウン十匹を釣っていた所が、どんなすばらしい石が入っているのか、流れを変えるため、左岸が干上がったときに見に行ったが、小石。その場所で、なんで雄物川さんが大漁になったのかなあ。下流の瀞から差してくる鮎が対象であったのかなあ。
8 産卵時期、そして雄雌
亀山さんは、「瀬付鮎を掛ける」の節に、
「瀬付き鮎を掛けるのには増水後昼間に数尾の雄鮎が掛れば大抵夕方より夜中にかけて瀬付きするもので、それを前期の様な仕掛けで釣ると(注:素掛け)時に数十、数百も漁することが出来るが、孵化した子鮎が翌年又遡上する川ではこの瀬付き鮎は保護して漁らない様にしたいものである。」
この「時期」を書いていてくれれば、学者先生の房総以西の太平洋側を生活圏とする海鮎の産卵時期が10月、11月ではなく、11月、12月であることの証拠のひとつになるのになあ。ただ、亀山さんは産卵時期を学者先生並みに理解されている可能性もあるが。
昼間、なんで雄が釣れて、メスは釣れないのかなあ。
昼間、メスはどこに居るのかなあ。雄は産卵場付近であろうが。
亀山さんは、「発育と習性(鮎の一生)」の節に、
「八月になると孕卵し始める。雄は白子を、雌はマコを孕む。腹の卵が成熟し、秋風が立つ九月になつて水温二十度に降れば、そろそろ下降し始める。落ち鮎または降り鮎である。雄は脂鰭に紅色を呈し、体に斑点を現してくる。どう言ふ鮎の心理状態か、増水しないと降らない。種族保存の大任のために大事を踏むのであらう。降り始めると可成りな障礙箇所でも水の流れる限り万難を排してひたむきに降り、下流の産卵に適当な場所にたどり着くのである。昼間は付近の深み等にゐて日没と共に産卵場所に集まり夜中にかけて産卵する。これを鮎の瀬付きと言ふ。
瀬付きの時季は、早くは九月上旬より遅きは十一月下旬に及ぶものがある。産卵場所は小石交じりの砂礫の底で瀬になつて居り、どの川でも瀬付き場は毎年定まつてゐる。一尾の産卵数は五萬から十萬粒くらいで、産みつけられた卵は適当の水温十五度くらいならば十日から十五日許りで孵化し孵化した稚魚は漸次川を降つて河口付近の海で年を迎へるのである。
産卵の役目を終わつた鮎をカッパと言ひ、黒色に錆び、体色衰えて斃れてしまふ。稀に降り損ねた鮎で上流で産卵し、その付近の深みで越年するものもある。これをとまり鮎またはフルセと呼んでゐる。翌年また体色も戻り元気を回復して若鮎と同棲し、釣士の竿にもかかる。一見して鱗が粗く、体は細長く痩せ形で脂鰭の色は不鮮明なので識別出来る。」
九月、十月の産卵親は湖産であるが、なんで亀山さんが十二月の海鮎の産卵を観察されていなかったのかなあ。
前さんは、越年鮎・ひね鮎・フルセを三年観察されている。その結果に基づいてフルセの特徴・生活誌を記述されている。
十二月は外気も冷たい、寒い、水も冷たい、ウエーダは存在しない、となると、十二月の産卵情景はよほど恵まれた場所でないと観察しがたいのではないかなあ。
その結果、十二月産卵の裏付けが得がたいことから竹内さんも十二月産卵に言及されているが、「可能性」にとどめているのではないかなあ。
はっちゃんでも、十二月上旬に束釣りをしても、その後に行きたいとは思わないからなあ。11月23日でも小春日和の日はよいが、そのような温かい条件に巡り会うのは幸運でしかないからなあ。
ガキの頃、冬に突堤からアイゴ釣りをしたが、釣れたものの二度と行かなかった。寒かったから。
遡上アユが多い年の再解禁日である12月1日、相模川は高田橋上流で、田名の主等が竿を出すが、一日か二日で竿をしまう。釣れていますよ。寒いからさすがにいやじゃあ、と。
亀山さんも竹内さんも、事実であることが確認出来ないと、12月産卵、と記述されないということでは。
学者先生は、12月産卵を観察出来る「装備」を持っているのに、観察することを行わず、「十月、十一月」産卵との教義を後生大事に布教しているから、亀山さんとは観察態度を異にするのではないかなあ。
「アユ百万匹がかえってきた いま多摩川でおきている奇跡」(小学館)の田辺陽一さんは、海鮎の産卵の「始期」が十一月であることを観察されている。十二月も産卵場での観察を継続してくれていたらなあ。いや、観察されているかも。
神奈川県内水面試験場も1995年頃、12月の流下仔魚、産着卵の調査を行っている。その結果を学者先生が一考だにされないのは不思議ですねえ。
もちろん、神奈川県内水面試験場は、「川にいるアユ」の氏素性には無頓着?ですから、産卵「始期」の産着卵、流下仔魚の親が「放流もの」との意識には思い及ばないが。
また、12月に海鮎が産卵をしているとは想定外のようで、それ以前の調査密度とは異なり、調査日、範囲を縮小されているから、調査結果の数字の推移が持つ意味を詮索するには限界があるが。
2013年の12月上旬、はっちゃん達が束釣りをしたのはメスの小中学生。昼間、メスがたむろしていた場所には雄は居ないということでしょう。そのメスは何で釣れたのかなあ。どのような契機で攻撃衝動が解発されたのかなあ。食糧の問題ではないと思うが。仮に、「縄張り」であるとしても、「食料」を契機とする「縄張り」ではないと思うが。
個体間距離にうるさいと思われるあゆみちゃんが、群居している瞬間でも友釣りで釣れるということは何でかなあ。
亀山さんは、「友釣り」の節に、
「又秋に産卵期が近づいて雌雄互いに相追うことも利用される」と書かれているが、この現象でもない。
いずれにしても、産卵場付近では、あるいは、降りの行動に入った時期からは、雄と雌が異なる生活圏を形成している可能性もあるのではないかなあ。
そして、攻撃衝動が解発される要因も食料問題とは別の要因である可能性があるのではないかなあ。
はっちゃん、また、12月の釣りをしてえ。雄がどこで釣れるのか、雄がどの程度腹子を出しているのか、その数、あるいは射精を終えていない腹子の比率も調べてえ。
「自分で12月の釣りをしろ」
そんなことをいわれても、生足の女子高生のウン十分の1の発熱量しかない者には、11月23日でも厳しいんですよ。
9 アユ釣りの魅力
亀山さんは、「鮎釣りの魅力」の章に、
釣り場の環境の魅力のあとに、
「次に鮎そのものに魅力を感じる。溌剌として勇敢、しかも優雅の気品を備えた女王の様な姿や香気が魅力を持つてゐるのであらう。」
そして、釣り方の特徴を書かれている。
「香気」が現在の鮎にも存在する、とは、高橋さんら学者先生の専売特許ではなくなってきた。鮎釣り名人でも高橋さんらに帰依している人がいらっしゃるから。
亀山さんも竹内さんも、硅藻が優占種である川が消えていくこと、そして、同時に「香気」が消えていくことを経験されていると思う。
しかし、「香気」を振りまく鮎が「絶滅危惧種」ではなく、「絶滅種」になるとは想像もされていなかったのかなあ。それとも絶滅することを確信されていたのかなあ。
多摩川は調布付近の鮎のように、あるいはある年の限られた期間の中津川は田代のように、くさい鮎も出現するご時世である。
高橋さんら学者先生のように、食料と「香気」は無関係とおっしゃる教義が適切であれば、古のあゆみちゃんを訪ねなくても「香気」漂うあゆみちゃんと邂逅でるんですがねえ。
10 淀川にはいつ頃まで遡上できた?
素石さんが、淀川筋では雨戸を開けると「香気」が淀川から漂ってきた、と書かれていた。その情景は昭和20年頃までは当たり前に存在していた情景かと思っていた。
にもかかわらず、京の川では湖産しか居なかったのは、京の川に堰があり、海アユがのぼれなかったからでは、と考えていた。
しかし、淀川に香気が漂っていたのは、昭和の初め頃とか、大正の代の頃までかも。
「天然鮎と放流鮎」の節に、
「最近河川や湖沼の淡水魚特に鮎の年々減つてゆくのは統計で明らかである。これは漁具や漁法の発達のみでなく、水力電気の堰堤が出来て溯上を妨げたり、沿岸に種々の工場や
瞻礬(注:多分、このような字です)注入所などの化学工場が出来て、流出物の為めに水質が悪くなり、繁殖溯上を妨げる為めである。例へば保津川(大堰川)の様に上流は鮎の棲息場として絶好の条件を具備してゐても、下流特に京都市より南は汚水満々として到底子鮎の溯上は不可能である。
同じ淀川水系の木津川は水も清澄で鮎の溯上に適するも、肝腎の子鮎が大阪市毛馬の閘門で溯上を喰ひ止められてゐる始末でどうにもならない。全国にこれと似た条件の川は相当あることと思ふ。」
ガアン.参った。この亀山さんの情景は、昭和30年代からの高度経済成長期には、全国津々浦々に生じていることで当たり前の情景、されど戦前にも淀川が遡上できない状態であったとは、想像もしていなかった。
したがって、昭和21年から京の川で鮎釣りを初めて、身上つぶして一家離散した素石さんの釣っていた鮎が「湖産」であると確信していたが、京の川には堰があり、淀川からの遡上が妨げられているからで、本家の淀川に遡上が出来ない状況があったとは想像もしていなかった。
閘門がどのように遡上を阻害しているのか見当もつかない。完全に遡上できない状況なのか、どうか、遡上達成率の問題かどうか、気にはなるが。
まあ、京の汚水の問題は、戦後のお話しではあるが、亀山さんのお弟子さんの前さんが京のお公家さん文化?の影響で大阪人は京の汚水を飲まされている、と。
相模川では竹内さんや滝井さんが遡上アユを当たり前に釣っているときに淀川が遡上できない川であったとは。多摩川や鶴見川が硅藻が優占種で「香」魚がいたというが。
放流の状況について
「近時滋賀県より他府県へ移出する子鮎は年約千五百萬尾に上つてゐる。近接の京都府では昭和十四年には琵琶湖産百十萬尾、海産四十五萬尾を放流してゐる。その他岐阜県では三百萬尾、三重県では百萬尾程放流してゐる。」
追良瀬川には「香」魚が生き残っている?
亀山さんが、竹内さんが、「香気」のなくなった鮎の存在をご存じであるとは思うが、それは人生の終わり頃の話で、それまでは「香気」あふれるあゆみちゃんをだっこできていた。
どこかに「香」魚が絶滅しないで生き残っていないかなあ。往生際悪く、「香」魚を探すため、礼子ちゃんに手を出すことにしましょう。
天野礼子「日本の名河川を歩く」(講談社+α新書:2003年発行)(原文にはない改行をしています)
礼子ちゃんにお手々を出すと大やけどをすることは、物忘れの激しいジジーでも学習効果が残っている。しかし、「香気」ある鮎がひょっとするとこの地球上に存在するかも、と思っていた赤石川の惨状を紹介して、「香」魚が絶滅種であることを確認し、そして、「香」魚は、香魚の香りを経験したことのない高橋さんら学者先生のおつむの中にしか存在しないことを確認して、「香」魚への弔辞としましょう。
「赤石川【青森県】」に、「“金アユ”の川よ、よみがえれ!」
「ただしその“金アユ”も昨今は堰堤(えんてい)からの排砂により川が埋まって、アユの遡上が激減している。その原因といわれているのが、下流から上流部にかけて七基建設されている砂防堰堤と最上流部の赤石堰堤(貯水ダム)である。」
オラは、赤石川が古の川でなくなった、林道が建設され、又、堰堤がある、との話は聞いていたが、七基も砂防堰堤があるのではなあ。堰堤上流に古の赤石川が残っているのでは、との淡い期待も無残に消滅。
追良瀬川については「海と川のつながりが見える」とのこと。
「白神山地からは、日本海へ向けて四本の大きな川が流れているが、そのうち三本は、有名なアユの河川だった。
一本目の赤石川は、弘西(こうさい)林道と奥赤石川林道建設に伴う森林伐採と、八つの堰堤建設によって、“金アユ”と呼ばれた香り高い鮎を失いつつある。二本目の笹内川(ささないがわ)は、白神山地の世界自然遺産指定によって、川沿いについていた弘西林道が県道に昇格して舗装二車線化され、その工事の土砂が川にすべて落とされて川が埋まったことと川の人工化によって、自慢の魚たちを失いつつある。」
追良瀬川には
「砂防堰堤が二つあるがいずれも魚道がしっかりしているので、海との往き来がとだえていない。それに、河口から八キロ上流の車止めから、白神ライン(毎年五月末頃に開通する旧・弘西林道)に架かる追良瀬大橋までのおよそ二十キロ間は、昔ブナの伐採のためにつけられていたトロッコ道もとぎれがちで川を溯上するしかないので、川も、イワナ・ヤマメも昔のままに守られている。
すると、アユが健全なのである。日本人の多くがもう知らなくなってしまったことだが、川に棲む、アユも、ヤマメ(アマゴ)も、ヤマメ(アマゴ)の降海型であるサクラマス(アマゴの場合はサツキマス)も、イワナも、サケと同じように海と川を往き来する先祖を持つ魚類である。
それらの魚は、源流域の森林が健康であるならば、健全に命をのばすことができるし、また河口部から沿岸一帯の海岸が健康であることも生存の重要な要素である。源流の森が森林伐採で荒らされると、雨の度に森の地表が洗われて川へ土砂が流入し、岩や石が埋まってしまう。河口部から沿岸一帯が開発されると小魚が生まれたり育ったりする“ゆりかご”も消滅してしまうのだ。
弘前(ひろさき)から車で海辺の鰺ヶ沢町(あじがさわまち)を出て、赤石川河口、追良瀬川河口、笹内川河口へと海岸線を順に南下してゆくと、日本海に面した浜辺は、遠浅で岩礁の多い、いかにも魚たちの“ゆりかご”となってくれそうなやさしい海岸である。この“ゆりかご”が、かっては、赤石川・追良瀬川・笹内川を、アユもヤマメもイワナも豊富な『西海岸三名川』と呼ばせていたと思う。
そのうちの二川がかつての名声を今は失いつつある中で追良瀬川だけが生き残っているのは、先に書いたようにこの川の中核部の二十キロに、川沿いの林道がつけられなかったからだ。我が国のこの規模の川では稀なことである。
追良瀬川のアユは、“銀アユ”と呼ばれている。赤石川の“金アユ”に対応する名だったが、川底の石が青白いために、アユの肌が白く、青みがかっていたからついたものだ。金アユは最近評判が落ちてきたが、銀アユは健全。上切沢砂防堰堤を越えて濁水砂防堰堤までの大岩のあるポイントでは、背中が盛り上がったアユを“せむしアユ”と呼ぶ。濁沢砂防堰堤を超えてそこより上流へくる猛者(もさ)は、湯ノ沢や、通らず(水中を通して歩けないところ)の箱淵まで溯り、“幻の大王アユ”になるといわれている。ここいらは刺されると猛烈に痛い大アブの棲み家でもあり、あまり釣行をすすめられないが……。」
「銀アユ」は、何でその容姿をしているのかなあ。
故松沢さんが、淵のアユが黄色っぽい色している、保護色ではないか、と話されていた。
藍藻が優占種となり、二重追い星、三重追い星のある現在の「黄色」の話ではない。硅藻が優占種の頃の淵のアユの衣装のことである。
礼子ちゃんは「銀アユ」を川底の石との関係があると書かれているが、保護色のなせる技ではないのかなあ。
礼子ちゃんは、海までが土砂の堆積より、ハタハタが産卵するゴモ=海藻がなくなる状況になっていることも青秋林道中止の理由になったとのこと。
礼子ちゃんは、仁淀川の弥太さんのことも紹介されている。
礼子ちゃんお願い、弥太さんに古の川とそこでまっとうな生活を、暮らしを営んでいたあゆみちゃんのことを聞いてえ。記録してえ。そして、かくまさんの「仁淀川川漁師 弥太さんの自慢話」に対抗して本を出版してえ。
黒尊川に古の環境があるとしても、房総以西の太平洋側を生活圏とする海アユが、10月、11月に産卵するという学者先生の教義を忠実に実践して、11月15日から再解禁をしている高知県ですから、遡上アユは激減していて、前さんのお友達のように飛行機に乗って四万十川の水を見に行っただけ、という結果になりたくないなあ。
とすると、追良瀬川となるのかなあ。宝くじは当たらないかなあ。
礼子ちゃんは、「秘川 真瀬川(ませがわ)【秋田県】を「秋田県一の自然河川」として紹介されている。
「秋田県内で最も自然の状態が保たれているという真瀬川。訪れてみると、誰もが納得できる流れがそこにはある。源流は世界自然遺産にも指定されている白神山地(しらかみさんち)。標高九八七.七メートルの真瀬岳に端を発し、ブナ林が湛えた清水を日本海へと運んでいる。
しかしながら川沿いには車道が走り、それは白神山地の稜線近くまで続いている。一九八〇年代に建設が進んだ青秋林道だ。同林道は青森県西目屋村(にしめやむら)まで貫かれる計画だったものの、流域の人々の尽力によって一九八七年末には中止が決定した(正式には一九九〇年)。これが白神山地を世界自然遺産地域指定へと導くことにつながった。
ところがその時点ですでに、秋田県側の林道工事はほぼ終了していたため、稜線までブナ原生林が伐採されている。真瀬川にも影響が出ていることは間違いないと思うが、大規模林道工事の他に目立った開発はないので、現在も真瀬川は清流のままである。」
真瀬川は赤石川、追良瀬川と違い、ブナ林の面では劣るものの、
「そう、真瀬川には大量に水をとられる貯水堰堤(ダム)が存在しないのだ。そのことが真瀬川が清流の名をほしいままにしている要因であり、天然アユを始め多様な生き物を育んでいるわけである。」
「また河口からほどなく、激流の大釜が連続する『三十釜』が見所になっているが、この難所を乗り越えたアユたちは、東北の小河川ではあまり見られない見事な魚体に成長するのだ。
味も格別。一般に、アユの味は川の水質に左右され、河床の岩や石に付着する良質な硅藻(けいそう)を食(は)むアユだけが、ハラワタまで旨い香ばしいアユへと成長できる。真瀬川のアユは無論、文句のつけようがない。“ブナ林の贈り物”、そんな形容が相応しい美味なるアユが世代交代をくりかえしているのだ。
心配事もある。三十釜上流の赤岩砂防堰堤がアユやサケサクラマス、アメマスなどの溯上を阻害しているほか、今後、県の単独河川環境事業と称する河川改修工事の計画があるからだ。
しかし真瀬川は今のまま残した方がよい。余計な手を加えることは、川から、川を愛する人人を遠ざける結末を生むだけだからだ。
果たして今後の真瀬川は、“清流”のままにあるのか。
この流れが秋田県の最後の貴重な遺産だということを、知事さん以下の多くの県民の皆さんにも認識してもらいたいものだ。」
高橋さんは、赤石川に潜って「金アユ」がいるかどうかを調べたようであるが、礼子ちゃんとは異なり、「金アユ」を育んでいた水が、川が、ブナ林が健在であるか、の発想は念頭になかったのではないかなあ。
当然ですよねえ。藍藻が優占種になろうが、「食べ物」が「香気」の原因ではないから、昔と変わらず、「香魚」が存在しているとお考えですから、川や水や山がいかように変貌しようが、あゆみちゃんは昔のままのあゆみちゃんでないと、理屈が合いませんよねえ。
亀山さんにとっては、そして、竹内さんにとっても硅藻が優占種である川は当然のこと。そして「香」魚も当然のこと。
そんな贅沢はもうしません。今ひと度の会うこともがな、というささやかな願いです。
「香」魚ちゃん、恋い焦がれるこの気持ちを察してえ。
そのためには宝くじが当たりますように。
竹内さんを終えるにあたり、竹内さんが詠まれた俳句で締めくくりたいとは思えど、歌心のないものには適切な俳句を選択できない。したがって、竹内さんが詠まれたということだけでその一部を紹介します。
鮎宿の明日を気負いて姦しき
(「釣は愉し」)
尺鮎の夢は中半に明け易き
(「釣は愉し」)
鮎釣れず竿徒らに長くして
(「釣は愉し」)
糸鳴りて荒瀬を走る土曜鮎
(「下手の長竿」)
囮鮎せんかたなくも泳ぎけり
(「下手の長竿」)
この年の鮎の別れや鰯雲
(「續・釣は愉し」)
「釣友佐藤垢石のこと」(「釣ひとすじ」)
われ死なば三途の河に釣りせむと
言いて垢石ついにみまかる
若鮎の肌滑らかに匂うなり
(「竹頭」の昭和四十二年)
たぎつ瀬に若鮎の影走りけり
(「遺稿 あゆ」)
ななかまど咲きて早瀬のアユ育つ
(「遺稿 あゆ :昭和四十年作)
大鮎に曳かれて早瀬かけ降りる
(「遺稿 あゆ :昭和四十一年作)
若鮎の残り香の手に握り飯
(「遺稿 あゆ :昭和四十七年作)
「昭和四十二年」に「香」魚が棲息していた川はどのくらい残っていたのかなあ。
相模川も酒匂川も香魚は絶滅していると思う。中津川は香魚が棲息していたであろうが、堰が海アユの遡上を妨げていたかも。
狩野川は、「香」魚が満ちあふれていたのかなあ。それとも、場所限定、時期限定になっていたのかなあ。
吉川、藁科川、興津川には「香」魚がいたのかも。吉川には亡き大師匠が通っていたから海アユの香魚がいたと思うが。まだダムは出来ていなかったと思うが。
大井川は昭和三十六年に塩郷堰堤が出来て、水はすべて笹間ダムに送られていたから、水無川になっていた。笹間ダムの水は川口発電所から大井川に戻るが、硅藻が優占種になる水ではなし。
湖産や海産が放流されていた川で、海アユが遡上できない川の上流には「香」魚を育てる川が房総以西の太平洋側の川にも存在していたであろうが。大千瀬川等のように。
竹内さんの著作で見落としている事柄が多々あるとは思うが、毎度のことであるから、そのうち気がついたときに紹介します。
亀山さんの本が見つかるように。
今年の相模川の遡上量は、相模大堰副魚道の調査結果から見ると、遡上アユが釣りの主役になる可能性もあるが、磯部の堰の遡上達成率を低下させる状況が発生しているのか、していないのか、気になる。
中津川については、去年要望されていた二カ所の魚道の修繕が行われて、遡上できる状況になったのかなあ。
ということで、今年もあゆみちゃんのお尻を追っかける季節がもうすぐやってきます。竹内さんが亡くなられた年と同じになり、まだ、軟派ができることに感謝、感謝。
長良川の礼子ちゃん
天野礼子「日本の名河川を歩く」(講談社+α新書:2003年発行)
に、
「第3章 なぜ、長良川は選ばれなかったのか」が掲載されている。
礼子ちゃんが、長良川河口堰反対運動の先頭に立っていたのは、
「長良川のような大河で、ダムのない川は、もう、釧路川と長良川の二本しかなかったのである。
それゆえ私は、『唯一の天然河川・長良川を守れ』と声を挙げたのだ。それが、川を歩き、川を知っている人間の義務だと思ったからである。」
「しかし、一九九五(平成七)年五月二二日長良川河口堰運用宣言がなされ、私が二三日間のハンガーストライキの後に倒れると、翌七月六日に河口堰のゲートがおろされた。」
このすばらしい行動力と信念の持ち主の「ご臨終」になった長良川の「その後」の記述を紹介することは恐れ多くて、どうしょうかなあ、と躊躇っていた。
建設省が、「ご臨終」になった長良川について、漁獲量は減っていない、との数字を示して河口堰建設工事、事業の「正当性」を証明されている。この手法は、学者先生の川にいる生物の氏素性に頓着しない、「違いがわからない」ままでの「調査・研究」姿勢が、建設省の長良川に対する事業の「正当性」根拠に貢献しているのでは、と感じて、少しでも、建設省が行っていた「正当性」手法の欺瞞を見抜いた礼子ちゃんの考えが紹介できれば、と思った。
ゲートがおろされて「それから八年。長良川河口堰の上下流には数メートルのヘドロがたまり、長良川特産のヤマトシジミは絶滅。環境庁の『絶滅危惧種』であったサツキマスは絶滅寸前。天然アユも激減している。」
1 鮎
「天然遡上アユは河口堰に阻まれて溯上・降海が激変していても、『アユは減っていない』と主張するために河川局(国土交通省)が人工鮎を大量に放流しているからだ。」
「長良川を代表する魚は、天然アユとサツキマスであったが、古くから全国に名が通っていたのはアユであった。」
「川中の岩につく珪藻(けいそう)(コケと呼ばれる)を食するため香りのよいアユ。香魚(こうぎょ)と呼ばれ日本中でサケと並んで人気の高い魚で、大和朝廷の頃よりサケと共に税の一種となっていた。
さて。実はよいコケができるには次の二つの条件がある。まず、アユは夏の間コケだけを食べるわけだから、よいコケができる川でないといけないので、第一条件は、水がきれいで冷たい川であること。二つめは、アユは溯(のぼ)ってくるもので、より上流まで溯上してきたものほど、猛者であり、大物であり、したがって背肉も盛り上がる、食って旨い魚である。長い距離を海から時間をかけて溯ることにより、身がしまり、味が良くなるのだ。」
味については、必ずしも礼子ちゃんのお話と一致しないかも。
また、「途中下車」があるようで、狩野川でも大仁あたりに大きいアユがいたようで。
「長良川のアユには昔から、東京で日本一の値段がつき、お国自慢などではなく、正真正銘『日本一』のアユ。それは“郡上鮎”と呼ばれる、河口から上流の郡上八幡町まで一〇〇キロ以上をはるばる溯上してくる天然アユのことであった。
しかも長良川は、先に書いたように、川全体が名水百選に入っている。流域に多くの湧水があり、川の中にも水の湧いている箇所がたくさんあるからだ。
したがって、長良川の、しかも郡上鮎は、アユ自慢の厳しい条件を二つもかなえてしまう“特上アユ”だったのだ。“天皇様の川”のブランドでもある。
高度成長期にはこの川にも病魔が忍び寄ったが、復活できたのは、日本一の川に住んでいるという流域の人々の高い良識と、ダムのなかったおかげであった。
しかし今は、郡上八幡へ“天然アユ”を釣りに来る釣り人はいない。
河口堰には両岸に一〇メートルずつの魚道がありアユが溯れるが、昔は川幅六六一メートルの長良川全体がいわば魚道であったので、昔の溯上数とは比べるべくもないからだ。
今でもアユは河口堰の淡水域の上端で産卵するが、生まれた仔魚は流れのない淡水域を泳ぎきれないため、天然魚は激減しているのだ。天然ではないアユは、『長良川のアユ』とは呼ばれない。」
「香」魚が、また、「オラの国のアユ」が一番との話は間違っていて、食料に基づかない、とおっしゃる高橋さんには、まだ寝ぼけたことをいうねえちゃん、としか評価されないでしょうねえ。
ただ、礼子ちゃんの「天然ではないアユは、『長良川のアユ』とは呼ばれない。」との記述は気になる。
郡上八幡の集荷場に持ち込まていたアユは、故松沢さんが九頭竜川産等、他の川の鮎が紛れ込んでいると、はじいていたと話されていたが、そのようにして九頭竜産の「天然アユ」どころか、「放流もの」の人工をはじいていたら、集荷場が成り立たないのではないかなあ。
いや、「アユらしい」形をしていれば、「長良川のアユ」として、「ブランド」アユにしないと、数を確保できないのではないかなあ。
小山長男さんは、河口堰の取水口に吸い込まれる仔魚を減らすための手法を研究されているが、流下仔魚が、5日、あるいは7日の「弁当」が食い尽くされる前に、動物プランクトンが豊富な汽水域や海に到達できるか、否かには何らの関心も持たれていない。
礼子ちゃんは、「のぼり」だけでなく、河口堰で生じる止水域が仔魚の命を奪うことに気がつかれている。
「香りと食物連鎖」については、村上先生や真山先生等を紹介しています。
なお、「香りと食物連鎖」は、岩井先生の文の紹介であり、高橋さんと同種に属します。
村上先生と真山先生の紹介は、数カ所に分散していて、まとめる必要があるとは思えど、その腕がなし。
2 「氷河期の名残り、サツキマス」
「絶滅危惧種」の指定解除の手法
「いずれも(注:アマゴとヤマメの日本列島での棲み分け)、氷河期まではサケのような大きさで川と海を往き来していたが、およそ一万年前の氷河の後退時に日本列島に陸封され、せまい川で生きてゆくために『大きうならんとこ』と決めたようである。サケの幼魚体のまま成魚になる。
しかし現代でもその一部は昔のDNAの指示のままに海に降って大きくなるのがいて、ヤマメの場合はサクラマス、アマゴの場合はサツキマスと名がついているが、日本中の川でダム建設が進んだあと、冷水魚ゆえにヤマメの場合はまだ幾つかの北の川でサクラマスが見られるが、サツキマスは南にいるので、一九八八年時点では、長良川だけで大量に天然産卵が繰り返されているという状況であった。それは『サツキマスが地球上で唯一、天然状態で生息している』ということであった。それゆえ環境庁(当時)は、この魚を『絶滅危惧種』に指定していた。」
この文で気になることは、素石さんが、揖斐川のシラメは、降りができないために、翌年には知らん顔をしてアマゴに戻っているのではないか、と推理されていること。
つまり、DNAは、等しくアマゴは保有しているが、環境によって、「大きうならんとこ」という奇特?な習性を持っているのでは、との疑問。
つまり、天然産卵を繰り返していても、海に降るべしというDNAの指示が、発動しない仕掛けになっている、ということはないのかなあ。
アマゴが雄であるのか、さつきちゃんが雌であるのか、についてすら、わからん者が、管理釣り場でサクラちゃんを一匹釣っただけの者が、さつきちゃんの習性を云々することは、清流を知らずして硅藻を語る阿部さんや、シャネル5番の香りを知らずして「香」魚を語る高橋さんと同じ穴の狢になるので、やめておきましょう。
「一九九〇年に、北川石松環境庁長官が長良川河口堰に反対を表明すると、国土交通省河川局は西日本の太平洋側の全河川の漁協に連絡して、かってその川にサツキマスが溯上していたかをたずね、『イエス』と答えた河川に、長良川流域で養殖したサツキマスへの準備体・シラメ(アマゴが銀毛化して降海にそなえたもの)を大量に送った。
そして環境庁(当時)が、北川長官が自民党の実力者金丸信によってクビを切られたあとに行ったのは、サツキマスの『絶滅危惧種』指定をはずすという行為だった。
サツキマスは長良川河口堰工事が始まるまでは、絶滅危惧種といっても、九〇人以上の漁師がこの魚の溯上時の五月には、岐阜羽島(はしま)あたりの長良川で“トロ流し網”で大量に獲れるほどの漁があった魚だった。
川の専業漁師である大橋亮一さんと弟さんは、仲間うちで最下流を自分たちの漁場としていた。そのため河川局はこの水域を淡水域の上端として、大橋さんの漁場を残した。その上で大橋さんに運用後も漁を続けてもらい、その漁獲数を毎日カウントしてもらうと共に、養殖サツキマスも大量に放流した。
大橋兄弟の捕獲数は、少しずつ減っていったがゼロにはならなかった。河川局はそれを理由に『サツキマスは減っていない』と言い続けてきた。大橋さんは初め、カウントするのに日当をもらっていることで遠慮していたのだが、数年してようやく自分たちが何をさせられていたかに気づき、今はこう言っている。
『わしら以外の九十数人のこのあたりのプロやセミプロが廃業させられた。そやからわしらは昔の九〇倍とれなんだら、減っていないとはいえんわね。しかしこれだけ養殖サツキマスを大量に放流しとっても、わしらの漁は年々減っていっている。そのうえ、型も小さくなり、遡上期も遅れている。サツキマスは絶滅にむこうとるんや。」
養殖サツキマスが、シラメが他の河川を含めて大量に放流されたことで、「サツキマス」が絶滅危惧種ではないとの条件を作り出していたとは、おつむの良い建設省が考えそうなからくりということかなあ。
そして、「本物」を知らずして遡上アユの回帰策を提言されている学者先生では、そのからくりを見抜くウデの持ち合わせはないでしょうなあ。
「わしらを使ってあんなことさせてまで、河口堰運用を続けるほどの“利水”はどこにあるのかね。治水上は、河口堰はかえって危険よ。運用されたときはまだわしらの漁場は流れがあったが、今はほれこの前の河原は、昔はなかった中州ができとるやろ。土砂がたまり始めているのよ。洪水が流れにくくなっているということやわね。これのどこが“治水”なんや。
塩害? そんなもんは長良川ではないよ。隣の河口堰のない揖斐川(いびがわ)では河口から三五キロ上流まで潮(しお)がのぼっとるが塩害はないよ。むこうでない塩害が、どうしたらこっちにだけあるかね。バカも休み休み言えちゅうてやりたいわ」
3 「シジミ漁師の怒り」
「長良川に河口堰ができてこの川では絶滅した野生種の一つに、ヤマトシジミがある。
河口堰は、河口から五.四キロ上流にある。このあたりは汽水域と呼ばれる。海の水と川の水が交じり合う水域で、海の生きものにとっても川の生きものにとっても“ゆりかご”のようなところである。産卵・養育・成長の舞台で、魚だけでなく、微生物や、それをエサとする渡り鳥たちの小動物にも必要な生息域で、近年は世界的にもこの『汽水域』の重要性が見直されている。イタリアでは、汽水域を開発してはいけないという法律もある。
ヤマトシジミは、この汽水域がないと生息できない。ゆえに長良川河口域は、このヤマトシジミにとって、日本で残された数少ない大生息地の一つであった。長良川河口堰は、川幅六六一メートルの長良川を横断する巨大な人工物で海水と淡水を遮断してしまうために造られた構造物だから、ヤマトシジミにとってみれば、その生命を殺すために出現した“怪物”であろう。」
礼子ちゃんは、非公開で行われていた「モニタリング」の公開を要求して、実現した時、「『漁協の皆さんは、どうおっしゃっているの』
亀井大臣がたずねると、河川課長が答えた。
『シジミの赤須賀漁協の皆さんは、私たちの補償金でシジミを放流していますので、シジミが増えたと喜ばれています。アユの漁協の皆さんは、アユの漁獲量が減っていないので困っておられません。』
これを聞き、美濃市からこの大臣との会見に駆けつけていた長良川中央漁協総代の、庄司幸彦さんが、亀井大臣に署名簿を突きつけて大声で怒鳴った。
『これ、見てくれ。わしら組合の総代一〇〇人のうち八〇人が署名して【アユには影響がない】と言った建設省の言葉はウソやったからゲートを上げてくれと訴えてる。その課長は漁獲高は変わらんとほざいていたがその大部分は養殖アユや。そんなもんは長良川のアユやない。その証拠はこれや。漁協の年券の売り上げが、漁協開闢(かいびゃく)以来、始めてここ二年間、赤字に転落しとる。天然アユがおらんと釣り人はこん。天然アユのおらん川は長良川とは違うんや。』彼は、怒鳴りながら大粒の涙を流していた。」
亡き師匠と、故松沢さんがオラに何とか理解させようと努力をされていたことが、「本物」のアユと「本物の川」で生活をしていたあゆみちゃんの生活誌、容姿であった。
ただ、二人の「本物」は少し違っていたが。
亡き師匠は湖産も「本物」のアユであったが、故松沢さんでは「海アユ」だけであったが。学者先生では、継代人工であろうが、「川」にいる限り「アユ」であって、質の、氏素性の違いを区別する必要性を感じられていらっしゃらないようで。
建設省にとっては、ありがたあい学者先生ですなあ。
「後日、この対談時の建設省の言葉を赤須賀もシジミ漁協の青年部長・水谷隆之さんに伝えると、彼も怒り出した。
『おれらが喜んでいるやてえ。うちの組合の二五〇人のうち、そんなもんは一人もおらん。八八年に着工に同意した時かて、三重県がそれまでは(建設の)負担金が払えんので反対しとってくれというんで反対してたら、急に今度は同意しろというてきて、おれらはハラ立ったけど、孤立してたんで、しょうなしに同意させられたんや。
運用後は、おれらが自分で揖斐川(いびがわ)のシジミを長良川に持ってきて、それを育てて冬獲ってるだけ。汽水域がないとシジミは産卵できひんのやし、長良川では絶滅しかないんや。漁獲高かて、木曽川や揖斐川で獲ってきたもんも赤須賀の漁港で水揚げするさかい、それを長良川の漁獲高やていうてる。インチキやんか。なんでそこまでして役人はウソつくのか。運用に、なんの理屈もつけられへんからやろ』
村上先生が、河口堰の下流側が、シジミの住むことができないシルト層に替わり、また、底が貧酸素状態になっていると書かれていたと思うが、見つかりません。索引を作っておくべきでした。ということで、リンク先は村上先生の一部分の紹介です。
河口堰下流が、シジミの産卵できない環境になっているとして、どのくらい下流では生活できる環境になっているのかなあ。
今年も疑問が増えました。
藤田栄吉「釣を始めるまで」(博文館 昭和七年発行)に、
「越年魚の研究」の章がある。前さんは、この記述のどこに違和感を感じ、あるいは、適切な調査結果ではない、と感じられて、越年アユ探訪をされたのかなあ。
藤田さんは、落ち鮎の時期について、(旧字は、当用漢字で表記しています)
「土用後(どようご)に出水でもあれば更にまた活動に移り再び激流(げきりう)に投じてさかんに活躍しつヽ早きは九月半ば、おそきも其月(そのつき)の末よりぼつぼつ下江を初める、〜」
この記述が適切とすれば非常に困る現象となる。もちろん、東北、日本海側の話ではなく、房総以西の太平洋側の話であるが。
昭和七年発行であるから、まだ湖産の現象とはいえない。弥太さんが、ヤマベのことを「昭八」と表現されているように、仁淀川では昭和八年から湖産が放流されているし、長良川でも昭和八年頃からではないかと思っている。
従って、湖産に係る現象ではなく、「海アユ」に関わる現象である。
天竜川が佐久間ダム等で遡上を妨げられていなかった頃、高遠の三峯川での友釣りを島村さんが書かれている。松沢思い出
そして、天竜川を遡上した鮎は、諏訪湖に流入する川にも遡上していた、との話があったと思う。
そうすると、現在のダム、堰で分断された川での「下り」の距離ではなく、一〇〇キロ、二〇〇キロ近くの「距離」を考えねばならないということではないかなあ。
なお、諏訪湖付近が、秋道先生が遡上限界とされている四次河川であるのか、たまに遡上する三次河川に該当するのか、わからないが。
井川ダムがなかった頃、あるいは井川ダムができてからでも、当然,、塩郷堰堤は存在しない頃、家山八幡宮の村祭りの頃=一〇月一五日頃、久野脇から家山付近のアユが急に大きくなる、と。
これは、川根本町、中川根町や寸股川で生活していたアユが、下ってきたから、といえるかも。
上流に頭を向けて、ゆっくりと下ってくるから、下りの途上で性成熟を進行させている、ということかも。
さて、淀川の遡上に影響をもたらしたと思える「毛馬の閘門」がどこにあり、いつごろ建設されたのか、気になっている。
藤田さんは、
「大阪名物淀川の子鮎(こあゆ)づりは、毎年櫻の頃が盛りである。花ちる川淀に若く美しいのを百,二百と釣りあげて大層な賑ひである。こゝは又昭和五年の溯上が素敵(すてき)に早く二月二十二日といふに早くも十三橋にて形を最初とし引つヾいて釣(つ)れた。ところが、昭和六年は大いに遅(おく)れ三月に入りても魚影が認められず、漸(やうや)く四月三日朝の満潮時にずつと下流で三時間に四十余りを釣ったのが初漁(はつれふ)であったが発育も前年より不良でその後も例年のやうな面白(おもしろ)い釣ができないでしまつた。」
十三も汽水域であることはわかるが、毛馬閘門については不明。漁協発行の地図でも、堰の記載がされていることは希有のことであるから、普通の地図に閘門が記載されていることを期待できない。
なお、藤田さんは、奥羽地方のアユの遡上が暖地に比べて一ヵ月ほど遅れ、又、産卵時期が暖地よりも早いにもかかわらず、暖地に劣らぬ大きさに成長することも記述されている。
大きさについて、
「〜その大(だい)なるものは一尺二,三寸にも達する。漁師(れふし)の『山(やま)の児(こ)』と称しているのがこれであつて、この時が鮎の生涯を通じて最も全盛の時季であるからその活動も素晴(すばら)しいものである。」
藤田さんを素材にして、あゆみちゃんの生活誌を考えなければ、と思っている。
ただ、藤田さんの本は、竹内さんの本よりも一桁高いから、買うことあたわず。図書館で読むことになるなあ。
ということで、今年も疑問が増えても解決できた疑問は少なし、ということで終わります。
丼大王の嘆き?
丼大王が、東伊豆の川の遡上量が僅少であり、狩野川の遡上量も少ないかも、と思いながらも、気乗りがしないと思いながらも、
「こんばんは、なんか鮎で燃えないね、寂しいよ。
家の横の小さな川でも5月になれば石の色が変わるのに、今年は河川工事で石がなくなった、石が有る無し関係なく、川に遡ってこない。
毎日が休みの自分の日課は、一日数回の川見。
本当に数える程しか見えない。
相模湾も駿河湾も同じでしょう。
狩野川も去年の川の終わりの状況から判断していい訳がない。
すべてが期待ができない。
5月と言えば心ウキウキ、ワクワク、それが無い、本当に悲しいいよ。
今年も海遊びがメインになるかな。
昨日はズガニ獲りをしてきた。オスもメスもムチャクチャに美味い。
そして今日から潜水漁が解禁だが潜る気がなかったので磯遊び程度で。
サザエとアワビを少し。晩酌のツマミにはたくさんです。」
それからしばらく後のメールでは、
「午前中に日が出てきたので鮎タイツを乾した。
タビのフエルトも張り替えた。
とりあえず準備は少しずつ進めてる。
雑誌も2014年版を3冊買って見てる。
だから鮎は諦めている気持ちと、まだ、もしかしてというすこし期待の気持ちもある。
前にも話したけどズガニは季節は無い、それぞれの個体で自分が成熟したら降って来る。
それしか考えられない。
あと、まだ海には潜って無い、5月2日に磯遊びで20個くらい拾ってきたけどね。
それから昨日は昼頃からハマグリを見に行ってきた。
すこしだけ採ってきた。今夜は酒蒸しだな。
庭の海水タンクで砂を吐かしている。写真のためにエアーは止めた。
手前の大きいのは10センチ以上ある、7年以上はたっている。
後ろのが5センチてとこかな、4,5年物だと思う。」
との丼大王の「気持ち」に対抗しましょう。
なお、丼大王の海に下ってきたザガニが、いつでも産卵をしている、との観察は、非常に困る現象。
いつでも、どこでもニャンニャンができるのは、「人間」の特権であっても、いかなる生物も真似のできないことではないのかなあ。
それをザガニが「人類」並みの「いつでも」ニャンニャンできる生活をしているとは、困った現象ですなあ。
アカテガニのように、産卵のために海に下ってきたからには、七月から九月の新月か満月の時に、ニャンニャンをする、というのがカニ君の生活誌でしょう。
それが、いつまでも子持ちザガニが朝ビール、午ビールのつまみとなって丼大王に幸せな時を提供しているとは、なんでじゃあ。
またもや、大問題が、疑問が増えました。
いや、それよりも、丼大王が、海の幸を肴にして、朝ビール、午ビールを飲んでいることが、オラのしゃくの種です。
なんちゅう優しい母ちゃんですこと。しかも、時には飲んだくれた亭主を狩野川まで迎えに来ているのですから。
オラも、そんな優しいねえちゃんと結婚したかったなあ。そして、頑丈な肝臓を持ちたかったなあ。
老婆心ながら、丼大王は海の漁業権を持っています。
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