故松沢さんの思い出:補記13
2020年
瀧井孝作「山中釣遊」 「集成 日本の釣り文学 五 釣りと人生」 |
山下との出会い | 飛騨川の小坂 岩乗な竿 五十匁、七十匁の鮎が対象 五間、六間の竿が必要 古川で竿を見学 |
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古川から乗ったバスの車窓 | 多様な禁漁区・解禁日 石英岩の大石 |
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宮川での釣り | 囮を逃がす 追加の囮買う 滑稽な取り込み デカイ傷になった鮎 釣果3匹 |
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岩魚釣り | 今日は先生らが森安川で三〇尾ほど 尺二寸も ネコダの効用 みみずを半分喰い千切られる 次はぽっちゃん 先生は八尾 渓流で冷やしたビール 杉原までバス |
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垢石翁の宮川は何年? | マダムの同伴は何年? | |||
井伏鱒二「釣り人」 | 富士川での友釣り初体験 | 垢石翁から持参品の指示 鉤研ぎの重要性 仕掛け作り 垢石翁の服装等 石を抱いて瀬切り、根掛かり外し ダムのない富士川の激流 8,9寸のあゆみちゃん |
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垢石翁の北陸の釣り | 昭和13年 | |||
美味の味の室牧川とは? | ||||
越前、越中、越後の八月中旬頃の 馬力 |
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呑兵衛変じて節酒の垢石翁 ビールは1本だけ |
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釣り姿の忠告 | 笛吹川の矢崎さん 真面目に釣れ 垢石翁 山川草木説 河津川のカワセミの親爺 もそっと川に食らいつけ |
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呑兵衛の垢石翁 永井龍男「粗朶の海」 |
松島の鯊釣り =数珠子釣り 長兄に鮠、まるた等の釣りを 関東大震災で火災に 次兄が有楽町に釣具屋を開業 垢石は、日々店に,そして居酒屋へ 嫁さんは我慢ならず 垢石翁が嫁を殴る 長兄が店を引き継ぐ 空襲で店は焼失 |
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井伏さんへの垢石翁の入院中 の手紙 そして、風のたより |
いずれが事実か? 酒は呑まないー手紙 酒を呑むため病院脱出 芸者を月賦で請け出し 「風のたより」の垢石翁を願う井伏さん |
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「笛吹川の鮎」 | 甲府盆地の川の情景と 鮎自慢と漁 |
釜無川 荒川 笛吹川 |
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遡上鮎の美人は笛吹川? 釜無川? |
浅瀬の笛吹川 夜振り漁の盛況 一番の上物は鰻 |
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投網の情景 | 橋上からの投網 鮎と雑魚の動作、容姿の違い 名人は饅頭屋の親爺 「土蜘蛛」のように開く |
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石和温泉の誕生 | 夜はねえちゃんも | |||
魚屋さんと鰻と鮎 | ||||
福田蘭童「東京への郷愁」 から 夜中のネズミ釣り |
「笛吹童子」の歌を覚えている あな不思議 「鐘の鳴丘」の歌も ネズミの行動の観察 |
進駐軍の自動車が撒くキャンデー 「大楠公」の替え歌は女の子たち タマゴを盗むネズミ ウナギの穴釣りの要領で タマゴ運び=利口 作戦上手 「フライ・ラット」成功 |
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東京での釣り、 湯ノ湖とあんどん、 タコつき 福田蘭童 「東京への郷愁」 |
東京都内にコイがいた ウナギも |
七軒町の水口は子供の人気場所 コイも釣れた 大雨のあとは田端付近で四つ手網 コイもウナギもどこにでもいた 三河島駅近くの池でハヤ、フナ、コイ の子 黒っぽいドンコが主役 荒川の土手にも 隅田川でハヤやボラ 滝の下でウグイ、ハヤ 羽田の穴守稲荷の釣り堀 ボラ、黒鯛、スズキ、セイゴ コチ、カレイなど |
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湯の湖とあんどん | 釣り道具とクマ対応のナタをもって 華厳の投身自殺一号の辞世の句 を見る 湯ノ湖の湖尻でニジマス、バーレット、 ヒメマスが跳ねる 一尺のバーレット、ヒメマスの二倍、 三倍のニジマスが入れ食い マスの移殖 明治三十四年から三年間、 駐日 大使がマスの卵を取り寄せる バーレットも フナの手づかみの方法 刺し身、コイコクになるフナ ドバみみずで尺鯉、ベニマス |
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タコつき | 茨城県の川原子海岸の岩礁 トノサマガエルか、赤い布を巻き つけたオドり棒 モリを突くタイミング タコは真水に弱い |
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英美子 「水郷へ 抄『春鮒日記』 より」 |
水郷へ | 野ばらの香りを愉しむ 疎開は「国賊」でなくなる 都電も列車も喘ぎ、最後のあがき 荷造り材料は大闇値に リヤカーを母子で二日間引っ張る 屋形船のような「寮」のたたずまい 空襲を遁れ、水難よ今日わ 互酬性のネットワークとしての 隣組と農村の因習は何が違う? |
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「半ベラ論主意 (淳眞の日記 から)」 (春鮒日記) |
「半ベラ現象」は事実 か否か |
ヘラブナが真ブナと交雑 その結果を釣り新聞に発表 ヘラブナが質的に変化 当歳魚にも放卵魚が出現 魚の形体変化 生き餌を漁る 食味も変わる =ヘラブナが真ブナ系統になりつつ ある 半ベラ論第二回 変質ヘラとヘラの喰い 純ヘラは静から動へ 荒々しい上下動 ヘラは大物の出る十一時 タナが上下する半ヘラ 半ヘラ否定論 マルブナと偏平な金太郎と ヘラブナ 偏平な金太郎は一名平鮒 =ヘラブナと間違われやすい 半ベラ肯定論 金太郎の“偏平”はおかしい ヘラは流れの強い川にはいない 真ブナの習性をもつ半ヘラは 流れの強い川にもいる |
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昭和二十四年末「水之趣味社」 主催の科学的考証会 |
淳眞さんは釣り研究功労者に 賞金受領 |
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ぬかえび | 舟を造り、家を建てる資金稼ぎ の功労者 |
美子さんとぬかえび ぬかえびの調理、販売 塵を取り除き… 荒蓆で乾す 一日で真っ赤に乾し上がる えび一枡は白米一枡が交換相場 米櫃は満杯に 電灯も引けた |
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野ばらの曲 | 東京に帰りたいと美子さん 竿政を折るケンカも スパイにされた美子さん |
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舟造り(淳眞の日記から) | 生活即ち釣り、釣り即ち生活 | |||
釣り舟を造ろうと決心したおり | 土浦の舟大工 4,500円 ついでに自転車も |
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「初釣り(淳眞の日記から)」 | 舟を久賀村伊丹在の大夫池へ へら鮒は五,六百め程度 鯉がかかる 見物人多し 糸を切る能わず 小学生も逃がすなのヤジ 400めに余る手頃の野鯉 鮒用タモに入らぬ 鰓の間に左手を入れ |
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菊の花を残して新居へ | 川原代村道仙の新居へ | 東京に出るには不便なところ 日常生活にも不便なところ 淳眞の理想的な釣り場保存等のため そのために近くに居を構える 美子さんは子供たちと懇意に マスコット人形が売れる 女の子たちの人形をみる 淳眞作詞作曲のギターをきく |
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淳眞さんの恋心: 入院前の願い 淳眞さんの恋心の誕生は? |
新居での平穏な生活は1年だけ 肺結核に |
田沢きしこさんに会いたい きしこさんの気持ちは瞳でわかる 入院前に決着をつけたい 少女は転居していた |
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釣り展示会の日 | 昭和23年9月 淳眞さんはヘラ釣りの講師 帰りの車内に少女が 大物が掛かったとき、熊手を貸して くれた少女 本郷のご近所さん きしこさんも浜田村に疎開 |
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秋祭りの宵 | 素人のど自慢大会でギター演奏 きしこさんはお茶の接待に 夜、二人は小貝川の渡し場へ ギターケースから音楽の話に |
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瀧井孝作「山中釣遊」
あゆみちゃんに係る本は見つかるのかなあ。
高原古書店が閉店して、奥行きの長いマンションになった。神保町をうろつくしかないなあ。
目当ての古本屋では収穫なし。煙草の吸える喫茶店の混んでいる喫煙室で、世の行く末を偲びましょう。
信号待ちをしているときに入った古本屋に、滝井さんの作品が載っている本があった。
「日本の釣り文学 五 釣りと人生」である。
多分、高原古書店でも、この「日本の釣り文学」は、見たことはあるとは思うが、一巻にあゆみちゃんの作品が掲載されていたとしても、一点あるいは数点だけのようで、手を出さなかったのではないかなあ。
「日本の釣り文学」は、一巻から九巻までと、別巻が二巻。
ほかの巻のあゆみちゃんの作品は、図書館でコピーした。もちろん、これまでに「故松沢さんの思い出」に紹介した作品のコピーはしていないが。
「釣り文学」に掲載されているのは、これまでに紹介した本とどのような関係にあるのか、考えないと適切に本の内容を紹介したことにならないとは思えど、「覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない」の三兄弟は、一番上りのあゆみちゃんでさえ憧憬の目で眺めるほど素晴らしい成長速度であるから、高望みをしないで、「日本の釣り文学」の中でのお話の紹介にしましょう。
「日本の釣り文学」は、「執筆者紹介・出典」が記載されているが、その出典が、初出とは限られないようで、そのこともこれまでの紹介との「位置関係」を困難にしている側面のある。
「日本の釣り文学」を暇つぶしの材料にしましょう。
「集成 日本の釣り文学 五 釣りと人生」には、滝井さんの作品のほか、「猿猴川に死す/少年の日」(森下雨村)、「釣り人」(井伏鱒二)、「釣趣自叙 抄/弟子自慢」(佐藤垢石)が掲載されている。
原文のふりがなは、()書きに表現しています。
原文にない改行をしています。
瀧井孝作「山中釣遊」
滝井さんは、高山で一人暮らしをしているお父さんを近所の親戚等に世話をお願いするために8月11日晩に高山に着いた。
「山下」との出合
11日の日中は、飛騨川の小坂で竿を出した。
「ぼくの持つて来た釣竿は東京出来の上等の鮎竿だが毛針づり本位の継ぎ竿で友釣りには向かん風で、先日帰省の道中の小坂町で半日友釣をやつて、その折り伊豆の漁師といふ出稼ぎの鮎釣漁師と河原で出会つて鮎釣の話をしたが、その漁師はぼくの釣竿を見て曰(い)ふには『その竿は東京出来の上等の竿だがその竿を持つて行つて宮川の下モの山中の方で友釣をやられると竿はササラのやうに傷んでしまう、鮎が五十匁(もんめ)七十匁の大物で水嵩のある激流の釣りだからその美しい竿では竿がたまらぬ』とこんな風ことを曰(い)つた。
その伊豆の漁師の用ひ竿は長い継竿で継ぎ目は錻力(ブリキ)金具の所謂印籠(いんろう)継ぎの竿で漆塗りもなく素朴岩乗(がんじょう)にみえた。
元竿を抜いて四間四尺だと云つて素ツ裸て臍位まで立込んで友釣をして居たが、これに元竿を継ぐと六間の長竿になると云ひ、山中の方の川では五間から六間も出る長い竿の丈夫なのでなくば十分な釣が出来ないと話した。
ぼくは此の諸国の河川を股にかけた出稼ぎの鮎釣漁師に会つて釣方を見習つたが傍で共に釣すると煽られてしまつてぼくはロクにいい釣は出来なんだ。而してぼくの上等の四間竿も職業漁師の実地で見れば落第だった。」
「山下」については、滝井さんは別の記述もされている。また、垢石翁も記述されている。
瀧井:「故松沢さんの思い出:補記その2の4」の「狩野川漁師との出合」
さて、「一間」を1・8メートルで計算すると、10メートルを超える長さになるが、適切かなあ。
丼大王は、竹竿を使っていたと思うが、一間=1.8mで計算することに不具合はないのかなあ。
故松沢さんは、竿尻を腹につけて釣りをするから、竹竿は重くはない、と。そして、掛かった瞬間を察知して、手のひらを返すような操作をすると、掛かり鮎は上流にすっ飛んでいく、それを引き寄せて取りこむから、疲れない、と。
故諏合さんが、振り子抜きをして上流に鮎を飛ばし、引き寄せて、タモを使うことなく、囮を舟に入れ、掛かり鮎を外して鼻環を通す釣り方の振り子抜きの代わりに、掛かりアユが上流にすっ飛んでいく操作をしていたから、竹竿の重さを気にすることはなかった、と話されていた。
グラス竿ですら、6.3mで重いなあ、と思っていたオラでは、竹竿なんて、とんでもはっぷんであるが。
8月16日、高山からバスに乗り、古川で降り、乗り継ぎの時間待ちに釣具屋で、鮎竿を見た。
「友釣竿はどれも印籠継ぎの六尺から八九尺の長い切丈けで継ぐと五間から五間半位の長さになるもので、目方は三百匁位の仕上げで、値段は四円から六円位の正札が見えた。」
「ぼくは西山中へ行つて釣して後は富山へ出て奈良大阪の方へ廻る筈で、旅行に此の長い荷物が加わると厄介だし、友釣竿は、今日の行先で借りる都合にもしてゐたから今日必要でなかつた。この岩乗な印籠継ぎの長竿を見ていつて自宅へ戻つてから竿師に造らせる方が良いと思つた。」
古川から乗ったバスの車窓
「古川町から田圃(たんぼ)のけしきみてやがて川沿ひの野口に移つて、野口からずつと渓谷渓谷の街道に見えた。」
「此の川筋は下流の神通川(じんつうがわ)に至るまで所所(ところどころ)に禁漁区が在つて解禁日もきめてあるやうで、上(か)ミの広瀬の飛岩は八月六日から解禁で中中賑わつたさうだが、此所の野口の鳴岩の解禁日には古川の釣師が押しかける例で此の禁漁区は区域がせまいから良い場所には友釣連中が竿と竿とすれ合ふくらいに立ち並ぶといふ話。
ぼくは車の窓からこの鳴る岩の激潭も見て通つた。低い街道で川にぢき降りられるほどで、街道の上から下の川の底石の具合もよく見えて、大方の石は石英岩質の磊塊(らいかい)で白白と流れに沈んでゐて,これなら鮎の良く育つ河床だと思つて見た。白い底石だから鮎のナメ跡はよく見え難いし鮎の跳ねも見ていく中に跳ね上らなんだしわり合に魚が淡いかナと思ったが、美しい好い川だナアと惚れ惚れと車の窓から覗いて行つた。野口の簗場(やなば)はまだ梁も造つてなかつた。峡谷中で檜ケ淵は大鯉で昔から有名だがここかしらとそれらしい所を見て通つた。」
8月でも禁漁区があるとは、どのような意味かなあ。梁漁,網漁のことかなあ。
梁がまだかけられていないということは、まだ下りの時期ではないから、当然のことと思うが。
鮎が跳ねない,ということが、アユの密度と関係ないと思うが。
ナメ跡が見えないのは、総ナメでは当然のことで、鮎が少ないときで、ドロ被り、腐り垢の時はナメ跡は見えるが。
坂上村の林区に行く予定。村長さんと志田屋という旅館に寄って予約をした。そして川に案内された。
淵で擬餌針をしたが釣れず、遡り鮎が少なく大部分が放流鮎と判断して、釣り人から囮鮎を買い、瀧津瀬に囮を入れる腕はないため、上のトロ瀬に向かう。
「ぼくは支度して、囮鮎に鼻環(はなわ)を附けるをり囮がするりと手から抜け出て逃げた。最初にこんな失策で滑稽に見えたが、村長さんのお世話で、又他の釣人から囮一尾買つて戻つて,こんどは囮鮎を玉網へ入れて逃がさんやうに網ぐるみ掴んで鼻環を掛けた。
借りた竿は四間半だが川が広いから段段立ち込んで竿を出した。足元の底石に鮎のナメ跡もみえた。瀞瀬でも沖にはデカイ転石が水にかくれて流れが深かつた。
しばらくしてグイと引込んだから竿先を上げたら囮鮎が流れの上へ出てその先きに重たく引いて鮎が掛つてゐた。ぼくは竿を真直に立て引寄せかけたが、竿の穂先がヘナヘナで弓を描いて曲る向きへ釣魚は反れて行きぼくの背(うし)ろや脇の方がぐるりから手元へ来ず,一寸滑稽の所作を演じて馴れぬ竿は扱ひにくかつたが、やつと玉網へ入れた。」
少し下流で、
「四十匁余りの鮎で針は背がかりで背中に一寸位の針傷ができた。かく乱暴に引寄せたら背掛りでなかつたら肉切れでのがす所だつた。
先日小坂の川で見た伊豆の漁師は鮎が掛ると肉切れがするからと魚に引かれて十歩二十歩下流へ行つて玉網へ入れたりしたが、ぼくは未だなれず咄嗟(とつさ)の場合そんな思慮もなく只踏みこたへて引張り競(く)らをしたが此の針傷を見てからは魚に引かれて下(く)だる方がデカイ針傷もつかんでよいと分つた。いま釣れた傷のデカイ鮎も中中元気で、継ぎかへの囮になつた。此の囮で午後に一尾掛けた。傷の目立つ鮎でも追ふ事が分つた。
ぼくの傍へ村の人が一人来て加わつて共に友釣をして、村の人は二尾ほど掛けたやうだが、『今日はどつこも釣れんシコぢや』と、対岸の釣人をしばらく見てゐて『森安の先生も一向釣らさらんナア』となほぢつと向いて見てゐた。
ぼくは三尾釣つたきりであと一つも来ず、川面に鮎の跳ねも見えず、案外魚が淡い川にも見えた。
今年はどこの国の河川も鮎が不出来で飛騨だけ位が釣れる評判で、ぼくら初歩の者にも面白い釣ができるかと来てみたが、放流鮎だけで溯上鮎が淡いやうだつた。川の景色は、広さに似合はずどこにも舟がなく、大転石や岩角や激しい瀬で舟の漕ぎ難い川だが、しかし舟もいらん位に此の川を利用しないのんきな山中の村だと思つて眺めた。
夕方四じごろ空もやうが段段雲つて風が冷えて、漁師二三人が岸の枯木寄せ集めて焚火(たきび)したりした。漁師も川から上つて友釣も掛らんから、ぼくは夕釣に毛針づりが宜いから或は釣れるか試さうと,先程の淵の前の川原へ行つて、淵の開きの方で毛針づりの用意した。一人ぼつちで淵の傍に取残された形ちで。する中(うち)に夕立が降つて来てぼくは雨の中で釣り道具を片付けて旅館の方へ戻つて行つた。そして活しビクに皆で鮎四尾いれて明日の囮に使用のため旅館の裏手の池洲へビクのまま沈めたりした。池州にはたくさん鯉(こい)と鮠(はや)と游(およ)いで他の釣人の活しビクも共に浸けてあつた。」
「~夕立がやんで前の山へ夕日がさして村家の板葺に石並べた屋根など見て山中の澄んだ空気に、『仙境だナア』と独り言したりした。」
村の助役さんが話し相手にやってきて、「山中の宿に思ひのほか御馳走が多かつた」ので、一二円のつもりの宿泊料が嵩み、三四日の逗留ができないな、と思った。
「この村へ今年の秋は飛越(ひえつ)線の汽車が開通すると云はれ、ぼくの少年時分高山町で、山中ノオバノ子マタ来イザリヨと唄つた鄙の山中もいつか開けたものだ。」
岩魚釣り
助役さんは、
「今日午後から村長さんが小学校の先生と二人で森安谷で岩魚(いわな)釣して三十尾ほどの獲物があつたさうで、鮎釣りよりも岩魚釣りの方面白らしい話で、岩魚釣に未経験のぼくは近所で容易に釣れるなら明日でも連れていつて欲しい気がされて、岩魚釣は小学校の先生が上手で一緒に行かれるのがよいと云われた。」
親戚でもある林地区の小学校の校長に使いをやる。校長は、
「『岩魚釣は今日は一尺二寸のこれ位のも釣つとつたが、あの先生明日も行かつさるかしら、毎日続けてはたんと釣れんと云ふこつちやで,俺や聞いてみて、行かつさるならきつとお供致します。』とこの事を引受けた。」
「夜中にまた夕立の雨が大降りしたが翌あさは雨が上つて日が射してゐた。昨夜の雨で川は濁つて友釣はダメのやうに村人が旅館の前で話した。」
「Fさんの背中の莚(注:むしろ)造りの物入袋見てぼくは『それはネコダと云ふものですネ』と飛騨の山家の品物でなつかしかしく見たら、『ネコダです。遠足には具合がようて尻に敷いて休めますから』とFさんは云つた。
四人で渡場へ出た。川水は昨日の雨で濁つて二尺位の増水と云はれた。渡場は渡し守がなく一条の張金に繋がれた小舟を自分で操つるので、増水の折り四人も乗るとあぶないが村長さんの操作で越した。」
「此の渓流の岩魚釣は上ミへと釣り登るのが定石(じょうせき)で、『昨日釣つたあとで今日は喰ふかしら、この辺から始めますか』と、樹間の流れの流れの汀へ下りた。ドバみみず一本横ざしに釣針から両方に垂らし、石蔭の淀みや瀬脇のたるみへ糸をいれて釣糸が流れず止れば魚が喰はへたので十分呑込ませて釣上げる、岩魚釣のコツを習つてぼくもやつてみた。
渓流は増水で滾(た)ぎつて淀やたるみの釣場所が少なく、釣糸は泡立に翻弄され、徒渉(としょう)して釣り登ると両岸から樹木が被ぶさり釣竿も枝枝に障(さわ)つた。その中に若い先生は二尾釣つて簀へ入れてゐた。その岩魚見たら山女(やまめ)に似た斑点のある淡茶色の魚だつた。
或場所でぼくの糸は流れ水に流されずブルブルツと魚の当りが分つて、呑込(のみこ)んだかナと上げてみたら餌さのみみず半分喰切られてゐた。魚が居ると分つて此所で丹念にやつてみたが後は喰わなんだ。谷見物のFさんはぼくに附いて待つとつたが、釣人二人は先きへ釣り登つて、跡追つて徒渉で溯のぼると骨が折れるので、渓流を出て炭焼の通路を登つて行つた。ぼくは釣竿を持ちFさんの後ろに従つて山径(みち)づたひに大分を登つた。村長さんと若い先生とは途中の谷の底でまだ釣つとるやうで出会はなんだ。」
「二股の落合で、Fさんは景色を眺めぼくは釣糸を垂れた。大石のかげの淀でブルブルツと糸を引込んで竿先がクイクイ曲がつて撓(しな)つてゐた。魚の当りがあつたらよく呑込むまで辛抱強く待つのがコツだと習ったから、竿先を見て暫時引くままにしてゐた。モウ呑込んだらうと上げたら水の上へ魚は出たが途中でつり落した。みみずは半分喰切られた。魚は四五寸の小さいのでドバみみずの餌さが大きすぎて呑込めなんだやうだ。
する中に下流から若い先生が徒渉して釣りのぼって来た。若い先生は八尾釣つて簀の中に木の葉と共に入れてゐた。」
村長さんは役場から迎えが来て帰った。
ちょうど正午で、「Fさんはネコダに入れて持つてきたビールを渓流に浸けて冷やして三人のコップについでくれた。ぼくの弁当は、平たい竹行李(こうり)の器でけさ旅館でつめさせたが、開いたら大きなオムレツのやうに卵でハムライスを包んだものだった。ビール呑んで三人とも真赤に見えた。此の谷は大方闊葉樹林で日射しが光つた。
万波(まんなみ)には岩魚がたんとゐる日帰りはできんキャンプで行けば面白い、と若い先生は云つた。岩魚は高い滝の上流にも棲む魚だと云つた。」
午後から大又谷に入るが、えさ箱を落とし,また出立の時間が気になり見学に。
「旅館へ帰つて、若い先生から今日の獲物と昨日の岩魚の焼いたものを加へて、土産に貰つた。昨日の尺二寸といふ岩魚は胴中量断頭の方と尾の方と二個の白焼きにされて、こいつ釣上げたら手へ噛みついた、と手の指の傷痕を見せた。岩魚は鋭い歯で蛇に似た頭が平たいやうな魚だ。けふ釣つたのは魚串にさし旅館の囲炉裏(いろり)で白焼にした。」
勘定書には、一円の宿泊料と草鞋一足五銭だけ。Fさんも旅館で乗合自動車の杉原駅への九〇銭の切符を餞別にくれた。
「乗合自動車へやつと割込んで乗つて、夕立降りの凄い雨の中衝いて行きながら、やっぱり脱(の)がれてきたと云ふ気持ちがされた。ドシャ降りの打ちつける車の窓から西山中の川の下流のけしきも覗いてた。」
垢石翁が、魚野川から富山へ、そして高山本線で終点の猪谷から杉原に行ったのは何年か、マダム同伴で杉原に行ったのは何年か、気になっている。
富山から猪谷まで開通したのは、昭和5年。猪谷から杉原に延伸されたのは昭和7年。高山本線の全通は、昭和9年。
それで、昭和7年以前となる。
次に、滝井さんが杉原から乗車されているから、そして、滝井さんは、高山本線の全通する年に里帰りをされて宮川に行かれたと書かかれているが、「故松沢さんの思い出:補記その二」の「狩野川漁師との出会い」には、飛騨川での「山下」との出会いを「昭和8年」と。
ということで、垢石翁が始めて宮川の杉原に行かれたのは、昭和7年より前では。昭和5年から昭和7年の間では。
マダム同伴は、昭和7年以降では、と妄想している。
井伏鱒二「釣り人」
「釣り人」に掲載されている情景は、垢石翁に初めて友釣りを教わった富士川の十島、笛吹川、河津川の「山セミ」の弟子になった事と,宿が洪水に遭った事等。
このうち、河津川の情景は、紹介済みである。笛吹川については、定かならず。
十島での初体験は、垢石翁の「弟子自慢」では紹介しているが、井伏さんが経験した初めての友釣りは,未紹介であると確信しているが。
そして、オラがこれまで井伏さんの作品を読んだのは、この「釣り人」を分割して掲載されたものかも。
「私は昭和二年から現在まで、日記を書く手間を省くため、人から貰った印象深い手紙を選んで溜(た)めて来た。嬉しい手紙、悲しい手紙、用件の手紙、第三者の事についての手紙、旅行に出る打ちあわせの手紙、寄書(よせがき)の手紙、飲友達の書いてくれた送状など、各種各様だが、月に大体十通ぐらいの割合で手文庫に入れ、ときたまそれを纏(まと)め、紐で縛って、押入の中の大箱に蔵(しま)って置く。垢石の手紙も何通かある筈だが、毛筆で書いた書簡を垢石から貰った記憶がない。~」
富士川での友釣り初体験
「林芙美子を語る対談会」に出る準備のため、手紙ををひろげた。
「私は垢石の手紙を読んだ。これは鮎の友釣を教えてもらうため、私が送った依頼の手紙に答えてよこした返事である。友釣を全く知らない者へよこした手紙だから、微に入り細に入り、噛んで含めるように書いている。」
垢石翁は、久慈川で「快味満喫して帰ってきてから、返事を書かれている。
「さて御申越の件、仔細承知仕りました。」
富士川の十島が上々との事で、大雨がないかぎり鮎の食むヌラ、硅藻藍藻の研究をしているまだ下手である植田氏も同行する、と。
「ついては出発の日時と、持参すべき道具類を記します。予定変更の時は改めて電報で申します。友釣の仕掛の仕方は汽車のなかで見本をお目にかけます。そのとき覚えて下さい。
予定――三十日午後三時、東京駅一二等待合室に集合。但切符は三等にて行先は富士駅。富士駅から見延鉄道で十島駅下車。この駅の待合室で夜を明かし、雑貨屋で囮を譲ってもらう。すでに手紙で交渉済。
釣道具、並びに服装その他――釣道具は阿佐ヶ谷の釣道具屋で仕入れて下さい。
○鮎の友釣用の竿(三間半。初心者はすぐ駄目にするから、値段の安いもので間に合すこと。竿は竿袋に入れること)」
道糸(人造テグス、テグス、みがきテグス)の太さ、量の指示。鉤、おもりの指示。鼻環(はなわ)、タモ、やすり、通い筒、目印、赤い絹糸、脚絆、草鞋或いは足中草履、古足袋、服装、弁当二食分の指示。
握り飯に梅干し入れるな、釣り場に梅干しを持ち込むな、とはどういうことかなあ。
十島に宿屋兼業の店屋もあるが、終電で十島駅に着き、駅の待合室で仮眠する。
この手紙は、昭和五年か六年頃の六月二六日付け。
「十島へ行くときの佐藤垢石は、甚平を着て寸の短いよれよれの上張を羽織り、黒繻子(しゅす)の釣竿袋を持っていた。その中身は、漆を少しも表に出さない四間竿である。高崎竿と云って胴調子だそうだ。障害物のない河原なら胴調子のものがいいと聞かされた。植田さんの釣竿は長さも太さも私の記憶にない。
仕掛けの作り方、鉤研ぎに川に来たと思え
垢石は汽車が動き出すと、テグスの結びかたや友釣の仕掛のつくり方を教えてくれた。それを言葉のままに覚えてないが、仮に垢石の日頃の口癖を真似ながら,記憶のかけらを繋(つな)いでみる。
『おい井伏や.。本テグスは一重結びにしても大丈夫だ。人造テグスは二重むすびにしなくっちゃいけねえよ。さもないと、水の中で、すっぽ抜けっちゃって、始末が悪い。まアるで駄目だ。』
一重むすびや二重むすびのほかに、藤(ふじ)むすびという簡単な結び方も教えてくれた。山の木樵が薪を藤蔓で縛るときの結びかたである。
赤い絹糸(けんし)も、熟練した手つきで縒(よ)ってくれた。これは鮎の鼻に通す鼻鐶を、あまり窮屈でないように仕掛の附根のところに留めるための部品である。これについての垢石の説明は、さっきと同じ流儀で纏めると、こんな風なものではなかったかと思う。
『おい井伏や。鼻鐶は、こうやって囮の鼻に押し通してやる。手柔らかに、すっと鼻の穴に通す。それでなくちゃいけねえよ。鮎の鼻は右の穴と左の穴が、奥の方で軟骨でつながっているからね。無理やり捩込(ねじこ)むてえと,囮のやつ、鼻血を出して、やっこさん脳震盪(のうしんとう)を起こしちまう。まアるで駄目だ。』
私は教わった通りに糸を結び,見本を真似て仕掛けを二つ三つ拵えた。
その掛鉤の研ぎかたも垢石が教えてくれた。鑢で鉤先を鋭くするするのだが、槍の穂先のように三面から尖らすのが最良であると教えられた。
『鉤は、しょっちゅう研がなくちゃいけねえよ。拇(おや)指の爪に、,突きたつぐらい切れなくっちゃ。あのな井伏や、川に来たら鉤を研ぎに来たと思え』
鉤先は外側が二面になるように磨き、内側を平らに研ぐのが原則であるそうだ。
(私はずっと戦後までそのやりかたを守って来たが、最近の或る釣の書物に、掛鉤の先は外側を一面に、内側二面に研いだ方が効果的だと書いてあった。研ぎかたにも変遷があるようだ)
富士駅に着くと待合室で弁当を食べた。それから町見物をしたような気がするが、植田さんが酒屋で正宗の一升壜を買った以外のことは記憶にない。とにかく私たちは身延鉄道の終車で十島駅に着き、後は垢石の手紙に書いてある予定通りにした。」
丼大王は、故松沢さんが研いだ包丁?の研ぎ味は凄かった、と話していた。当然ハリの研ぎ味も凄かったと思う。それを学んだ丼大王も凄かったでしょう。
オラは、亡き師匠にアルカンサス?のハリ研ぎを買わされたが、一度も使ったことはなし。
幸い,短期間のチラシの後、錨が登場し、出来合の錨バリが、十月には半値になった釣具屋で、10月11月に使うハリと、翌年の初めに使うハリを少し買った。ハリの進化が年々生じていたから、翌年のハリは少しだけ。
そして、世の中は「使い捨て」に変化していたから、ハリ研ぎが出来なくても不便はなし。
丼大王は、「使い捨て」に抵抗して、いまも錨を巻き、また、ハリ研ぎをしているのかなあ。勝負手の時以外は、使い捨てになじんだのかなあ。
鼻環は、銅製の軟らかい大きなものの出来合を使った。もし、ハリや鼻環が、完成品ではなく、自作でないと釣りができないとなれば、あゆみちゃんのナンパで身上つぶす、なんてこともなかったでしょうなあ。「身上」のかけらもないジジーが法螺を吹くな、と、ヤジが飛んでくるが。
鼻管は、ワンタッチ鼻管になり、ありがたや。
石を抱いて瀬切り、根掛かり外しを
「そのころ十島の近くのダムはまだ出来ていなかった。今では富士川も十島付近はみすぼらしい流れになっているが、当時は豊富な水量で右岸寄りに凄みのある荒瀬をつくり、石畳の下手に青い淵があった。橋はどこにも見えなかった。だが、石畳のところが目的のあな場だから、奮発して荒瀬を渡らなくてはならなかった。
垢石は褌ひとつになって草鞋(わらじ)の紐をしめなおし、脱いだズボンや上張を河原の丸石と共にリュックサックに入れた。丸石は二つも三つも入れた。植田さんも私もサルマタひとつになって草鞋で足ごしらえしたが、私が丸石をリュックサックに入れないので垢石が叱った。
『おい、リュックサックに石を入れること。お前、知らねえのか。洪水の時、川の鰍(かじか)は小石を腹の中に呑み込むよ。水に流されねえように,自分の体に重みをつける。やつらの習性だ』
無論、確かな記憶はないが、そういったような云いかたをした。私も植田さんも、メロンよりずっと大きな丸石を二つ三つリュックに入れた。
荒瀬を渡る辛さがよくわかった。否応もないのである。垢石が何やら云うのも川瀬の音で打ち消された。流されまいとして釣竿を突っかい棒にしようとすると、流れが竿を吹きあげる。足を踏ん張って一息つくと、足の草履で水が滾(たぎ)って足元の砂が掘れる。その穴へずるずると草履がずれて行く。川底の石に乗ったら草履ばきでも滑ってしまう。私たちは辛うじて向岸に辿り着く事が出来た。リュックサックのなかのずぶ濡れのものは、太陽で乾かすため石畳の上に取並べた。弁当の包みも濡れていた。
苦労した甲斐あって、ここは絶好の釣場であった。八,九寸の囮で八,九寸の鮎が釣れるので、植田さんは二尾同時に掛けた途端、二厘の道糸を切られた。無論、囮に逃げられた。それで細い銅線の釣り糸に取り替えた。
(注:6月30日出発とすると、7月1日。7月始めに1番上りとはいえ、乙女の大きさに成長しているのかなあ。丼大王と狩野川で遭遇した時、聞いてみましょう。)。
私も二厘の道糸を使っていた。いい道糸であったのだろう。一度も糸を切られる事はなかったが、囮が水底の何かに引っかかったときにまごついた。あまり強く引張ると糸が切れるのはわかっている。軽く引っ張った位では抜けないので、川下にいた植田さんに『植田さん、助けてくれ』と音(ね)をあげた。すると川上にいた垢石がやって来て、
『俺が竿を持っててやるから、お前、川に潜って行って囮をはずせ。流されないように、大きな石を抱いて潜れ。抱けるだけ大きな石を抱け。もうちょっと,川上から水に入って行け。草履も脱げ』
そう云って竿を持ってくれた。
私は草履を脱ぎ眼鏡を取り、サルマタ一つで大きな丸石を抱いて水に入って行った。大体の見当つけた位置で石を離す途端、道糸をさぐり当てると、水底の石と石との間に錘(おもり)が夾(はさ)まっているのがわかった。私は囮に手は触れなかったが、錘に手を触れたので囮が流れに吹きあげられた。これで囮は助かったのだ。
私は川下に流されて、石畳の下(しも)の崖の出っぱりに無事漂着したが、腕時計をはずすのを忘れていたので、硝子(ガラス)が毀(こわ)れて針も無くなっていた。(当時、腕時計は腕の内側に向けて着用するのが流行っていた)垢石は竿を私に返すとき、『なあ井伏や。お前見込みがあるよ。水というものを知ってるじゃねえか』と讃めてくれた。これは私の一生忘れられない言葉の一つである。
昼の弁当は水気のある食パンで我慢した。垢石が三人の囮箱を調べると、植田さんは三尾、私は九尾、垢石は十八尾釣れていた。
ここの釣場で、垢石は自分で釣る前に私に竿の持ちかたから教えた。たも網の使いかたも、足のくばりかたも教えてくれた。その時の感想を私は数日後に雑文を書いたので、垢石の云った釣師の心得を今でも覚えている。
『のう井伏や、釣をするときは、お前、山川草木に融けこまなくっちゃいけねえよ』
垢石自身もこのときの釣について、ずっと後に随筆に書いて雑誌に出した。私が大鮎を十二尾も釣ったと書いていた。私に代って法螺(ほら)を吹いてくれたのだ。」
前さんは、半跏の草鞋を履かれていたと思うが、半跏の草鞋と草履をどのように履き分けるのかなあ。好みだけかなあ。
草鞋の方が、石の上では滑らないと思うが、素足の方が好ましいのかなあ。流されることを想定して、草鞋を脱いだのかなあ。
垢石翁の北陸の釣り
「~昭和十三年八月二十一日、富山・八尾局の消印がある。」
「絵葉書は『室牧川瀬戸の鮎』三尾の写真版で、鉛筆で書いてある。
釣の旅へ出て八日也。越後の魚沼(うおぬま)川、加賀の国の手取(てどり)川、 富山の九頭竜川(注:九頭竜川とすれば、福井県)を廻り、昨朝、越中の室牧(むろまき)川へ来たりて釣る。近年稀れに美味なる鮎を食べました。本日は飛騨の○川(不明)へ向かい蟹寺に一泊、明日は高山を経て下呂温泉に向かう予定。山には初秋の風そよぎ居り候。
八月二十一日 下の名温泉にて 垢石
自分の好きな川をはるばる尋ねて行って存分に釣りまくり、昼弁当を食べると囮箱をさげて次のあなへすたすた歩いて行く。そういう釣人垢石の姿が偲ばれる。越前、越中、越後の川の鮎は、八月中旬頃に凄い馬力を出すそうだ。私は垢石から何度もそれを聞かされている。
垢石は身が軽くて足が早かった。ことに囮箱を持って畦道など行くときには、こちらは半ば駆足にならなくてはついて行けなかった。一刻も早く囮を流れに漬けて、新しい水を飲ましてやろうとして大事にするからだ。」
もう一通の葉書は、昭和十九年の大連から。
室牧川は、どんな川かなあ。垢石翁が味をほめるとは気になりますねえ。
飲んべえ変じて節酒の垢石翁
井伏さんは、昭和15年、三宅島噴火の年に垢石翁と笛吹川へ。
笛吹川へ行ったのは、帰りに甲府に寄って鰻を食べたいためでもあった。
「その晩、甲府の町の釣師が垢石の入峡を歓迎する意味で宿を訪ねて来た。この客人は垢石のために、この宿の部屋を予約して置いてくれたのだそうだ。すぐ近くに川が流れていて釣師が集まって来る宿だから、大事をとってくれたのだ。私は二人の話を傍(そば)で聞いていた。
垢石は客人に喋らせるように話を仕向け、笛吹川や釜無川の釣場について不自然なほど詳しく訊いた。いつかも云っていたが、報知新聞時代の垢石は、ひところ甲府支局詰になって釣ばかりしていたそうだ。この辺の川ならよく知っている筈なのに、好きなビールも一本きりにして、最後まで聞く側になっていた。東京に帰ると町の大酒飲になるのに不思議なほどであった。
翌朝は、私がまだ寝ているうちに、垢石は川の様子を見届けて来て、それから私を起してくれた。釣に対して用意周到な気組である。
笛吹川へ行く四,五年前、私と銀座の宮坂普久さんを連れて久慈(くじ)川の奥へ行ったときも、釣の前夜はビール一本きりで止(よ)した。やはりこのときも、垢石を歓迎するために、十人ちかくも土地の人が酒やビールを持って来て酒宴を開いた。釣宿の主人が前もって、釣人佐藤垢石の来泊する日を近隣へ触れまわって置いたためである。垢石は照れも気取りもせず、自分が喋るよりも訊く方を先にして,その附近の釣場のこと、流れこむ枝川のこと、この土地の釣師の仕掛などについてこまごま質問した。
私と普久さんは客人が帰るまで酒のつきあいをしたが、垢石はいつの間にか早いとこ消えていた。『土遁の術、火遁の術。釣宿へ泊ると、いつもあれだ』と普久さんが云った。翌朝は、私がまだ目をさます前に川の様子を見て来た上で、私と普久さんを起こしてくれた。それでも何となく当然のことのように思わせてくれるので、こちらは勿体ないという気もしなかった。」
釣り姿の忠告
1 疎開中の笛吹川の師匠矢崎さん
「貝殻型の大岩の上に出て釣って居るとよく釣れるので、鮎が掛かると水際まで歩いていく代わりに、ちょっと遊び半分の気で、しゃがんで滑っていってたも網を使った。二度三度そんな釣り方をしていると、川下のザラ場で釣っていた矢崎さんがやって来て、『真面目に釣らなくては駄目じゃないですか』と怖い目をで叱った。垢石の山川草木説と同じ傾向の言葉である。
ふざけてみたり投げやりにしたりしてはいけないのである。」
2 垢石
矢崎さんの叱責は、「垢石の山川草木説と同じ傾向の言葉である。ふざけてみたり投げやりにしたりしてはいけないのだ。囮を粗末にすると『囮、囮……』と垢石が凄く怒鳴るのは、私たちをただびっくりさせるためばかりのものではない。」
3 河津川のカワセミの親爺
「いま私は気がついたが、カワセミの親爺は銅鑼(どら)声であった。矢崎さんも垢石のそうであった。」
「~カワセミの親爺という老人は、私が上の空で釣っていても叱らなかった。」
「この老人は子どもの頃からの川魚専門の漁師だから、どうせこちらが保養がてらの隠居釣に来ていると思っていたようだが、一度だけ例外があった。或とき私が、面倒だから弱った囮を取り替えないで釣っていると、『なあ、お前さん』とカワセミの親爺が、そっと後ろにやって来て私の耳元で『もそっとお前さん、川に食らいついていかなくっちゃいけねえ』と云った。」
「~昭和七,八年頃から釣りの師匠と弟子の関係を保って来た。その間に私が聞いて覚えている訓戒は『お前さん、もそっと川に食らいつけ』という言葉だけである。趣旨から云って、これも塩山町の矢崎さんから聞いた小言(こごと)に似通っている。垢石の山川草木説にも通ずる所がある。」
飲んべえの垢石翁
永井龍男「粗朶の海」
この作品で、垢石翁の酒飲みだけを紹介することは不適切であることは重々承知しているが、ジジーに免じてゆるしてたもれ。
松島のハゼ釣り……松島に仕事で行った時
「ここでは珠数子釣りというのが名物だそうで、ごかいを親指の先ほどにまとめてくくり、鉤はつけず、鯊が頬張ったところをやわらかく釣り上げる。鉤を外すことも餌をつけ換える手数もいらず、膝もとに鯊を落としてすぐ竿を返すのは楽であったが、関東者(もの)にはたよりない気もした。ついそこまで釣り上げてきた鯊が、身をひるがえして水底へ逃げる。何度もそういう目に遭った。十一月中旬で、舟の上は相当北風に晒されたが、仙台発の汽車の時刻に合わせ、夕方までたのしんだ。」
「釣りは、少年時代兄に教わった。私には二人の兄があったが、寒鮒(かんぶな)やたなご、鮠(はや)、まるたの川釣りに私を連れ出したのは長兄であった。長兄は、私より十五歳年長であった。」
「その頃の隅田川の水はきれいであったし、ちょっと郊外に出さえすれば、そういう町場の釣りが出来た。満潮時の浜町河岸などは、道すれすれに水がふくらみ、とくに夏場は釣り竿がずらりと並んだものだった。」
父親は肺を病んでおり、二人の兄は小学校を中退して、あるいは卒業して働きにでていた。龍男さんは、肺結核に感染しており、神田から三田四国町に市電に乗って通い、月々十五円ほどの医療費の請求書を持ち帰っていた。
「~私はこの長兄に連れられてはじめて釣り竿を握った。医者に見放された私を、なんとかしたいという思いやりがあったと思う。連れて行かれた釣りは、ほとんどすべて川釣りばかりである。釣りというとまず浮子(うき)の形を思うのも、これから来ているようである。
鯊釣りはおもりを頼りに砂場を小突いて魚を誘うのが定石だが、私は別に浮子の竿を仕掛けてたのしむ。浮子の動きが忘れられないのである。
一番印象に残っているのは、寒が明けてからの乗込(のっこ)み鮒である。細い流れ細い流れをねらって綸(いと)を垂れ、しばらくしても玉浮子に魚信(あたり)がなければ、足まめに次ぎの小流れへ移る。一尾釣れれば、その場所で必ず二尾三尾と続けてかかる。
一日歩き詰めなので、道具を仕舞うとなると一度に疲れが出、夕暮の寒さが身に染みた。ただ、どの辺りまで遠出したものか、いまはまったく場所の記憶がない。省線から郊外電車に乗り換えて、二駅か三駅というところに違いないが、枯れた草叢を分けて流れへ出たとか、ほんの小溝ほどの水の落口に綸を垂れるとたちまち、玉浮子に当たりが来た、という断片的な記憶が浮かんでくるだけだ。」
新聞社の商況部の次兄は、羽振りがよかった。
「病弱で家にごろごろしている私の存在を除けば、この頃から二,三年間が一番一家の生活の安定した一時期で、二階は六畳二間、階下は八畳、六畳、四畳半のかなり余裕のある家に住み、長兄は妻帯して一女をもうけた。相変わらず、母と次兄と私が同居しての毎日だったから、長兄の妻の気苦労は一方(ひとかた)ではなかったろうが、私にはまだそれに同情するほどの世間知はなかったし、同情してもそれでどうするという能力もなかった。
しかし、大正十二年九月一日の関東大震災が、私ども一家を丸裸にした。もともと財と呼ぶべきものは何一つなかったが、今度は丸裸かであった。二日の朝、自分たちの町も家も跡方もないのを確認してから、まだ火気の強く残る焼け跡を大回り小回りして、神楽(かぐら)坂下までたどりつき、私は胸を突かれた。見上げる坂の両側に、手つかずの東京の町並みが残っていた。
私どもの受けた災難は、東京中の人々が、平等に受けたものと思い込んでいたのに、乳飲子(ちのみご)を抱いた嫂(あによめ)と、それを囲んだ着の身着のままの一家が、人々の哀れみの眼で見送られていた。
親戚の建てた神田の貸家の一軒へ、避難先きから戻ったのは、翌年のいつ頃だったか、二階に二室、階下は一間のバラックで、長兄夫婦と一女、それに母と私が住み、次兄はその間に結婚して中野に家庭を持った。六畳の間たった一室という、奇妙な貸家を見つけて私どもと離れた。
新宿から先きは、郊外の時代であったが、それから一年足らずで、次兄は新聞社を辞め、その退職金で阿佐ヶ谷の駅へ数百歩という所に喫茶店を開いた。阿佐ヶ谷の駅の北口を出ると、新築されたばかりの商店風の貸家が並んでいた。通りの向こう側は田圃で、寺子屋と間違えそうな古びた木造建ての小学校が、欅(けやき)の林をバックに田圃の端にあり、障子を入れた窓がいくつもつながっていた。欅の林は大きな邸の中にそびえて、その辺の大地主の家ということであった。震災で焼き出された市民が、中野から高円寺、阿佐ヶ谷辺りまで押し出された形で,にわか造りの住宅向きの貸家も、あちこちに建ちはじめていたが、雨が降れば長靴なしでは歩けない田舎であった。」
次兄は、支那料理店に模様替えをして新宿以北では店の名を知られる様になったが,その店を手放して、有楽町駅前に釣具店を開いた。
「新聞社勤めの時代に、社会部に籍を置く佐藤亀三郎という先輩があった。釣り好きが嵩じて釣り随筆を書き、佐藤垢石(こうせき)のペンネームを知られるようになったが、次兄の釣具店は、この人の後押しに因(よ)るものと想像される。駅を出て、朝日新聞から銀座方面へ向かう眼抜きの場所に店を借り、当初は景気がよさそうであった。
佐藤垢石が毎日出勤して、客との応対を引き受けていたが、垢石は鮎釣り名人のほかに、名うての酒呑みで、その方の不義理は処々に重なっていた。これが毎日店へ顔を出し、店を仕舞うと次兄を連れ出すということになり、次兄の妻がまず納まらなくなった。垢石にしてみれば、自分の知恵で出させた店だし、自分が看板だという腹があり、呑み代位は当然の報酬という顔をする。間に入って、次兄は処置に窮した。東京育ちで気が弱く、事を荒立てたがらぬ性質が出て、とやこうするうちに、垢石が次兄の妻を殴打するという、もののはずみとしてもそのままには済ませられぬ事態にいたった。
めぐり合わせというのは奇妙なもので、次兄は長兄を訪ねて、店を引き継がぬかと相談した。長兄は次兄よりもさらに気が弱く、自分の殻を小さく守る性分であったが、釣り道具を扱う商売には大きく心を惹かれて、話に乗ってきた。兄弟の間のことで、そのまま事は進み、次兄に代わって長兄が店を守る日がきた。」
「幼少の折りから苦労をし続けてきた身が、生涯唯一の道楽だった釣りで生計を立てるのだから、生き甲斐を感じたに相違ない。奇妙なめぐり合わせと私がいうのは、これを指すのである。」
「長兄はすっかり店に馴れて、客との応対も落着いたものだった。」
「ようやく長兄にも運らしいものがめぐってきたと、私は見た。次兄とは違って、長兄には釣りの経験と愛着があったから、客受けもよいようであった。」
そして、空襲で有楽町の店は焼失。
永井さんは、「東京湾の鯊釣りは舟に炬燵を置き、大晦日まで客が続いたという。海苔粗朶(のりそだ)の間をさぐる鯔(ぼら)釣りともとも、冬の名物とされた。」
井伏さんへの垢石翁の入院中の手紙、そして風のたより
いずれが「事実」?
「釣人」から
「消印は栃木県塩原局、昭和三十年十月十七日。」「裏は、栃木県塩原温泉門前町、公立塩原病院内、佐藤垢石である。習字の稽古を重ねた人の筆蹟のように見える。
謹啓
長らくご無沙汰いたしお詫び申上げます。釣の季節になりましたが釣運は如何です。
今夏の鮎も御盛んなことと察し申上げ羨ましく存じます。
老生微恙(びよう)のため昨年来、表記のところに転地加療しております。その後次第に経過よろしく十一月末には退院いたしたいと思っております。
さて、甚だ失礼なお願いでありますが、老生、近く笑の泉社より愚著出版することになりました。ついては大兄の序文一篇(四百字一枚)給わり度く枉(ま)げてお願いいたします。近日中に社員が御宅へ参上することと思いますが、何卒よろしく御願いいたします。
塩原の箒(ほうき)川では只今、山女魚(やまめ)と鮠(はえ)が少々釣れています。(中略)次第に寒くなりました。塩原の山は紅葉盛んにて、まもなく雪が降りましょう。
ご養生のほど御願いいたします。酒の美味しくなる季節だと思うにつけ――世の中が羨ましい。
敬具
佐藤垢石
尚、人間六十過ぎたら、友釣、ごろびき、山女魚釣の如何を問わず、川へ立ち込む釣は禁物です。とっくの昔に繰返して大兄に云ってたと思いますが、水の流れが刻々に体温を持ち去ります。釣場から釣宿への帰りに、濡れたズボンをはいているのもよくありません、為念(ねんのため)。」
「垢石老は『人間、六十過ぎたら』と書いているが、以前、私は『人間五十過ぎたら』と聞いたように覚えている。何回も聞いたことだから記憶違いではない筈だ。『五十過ぎたら』と訂正してもらいたい。現に私は、五十過ぎても水に立ちこむ釣をして神経痛を拗(こじ)らせてしまった。」
その対処法は省略。
オラは、十一月にもタイツを使っていて、ドラえもんおじさんに、ウエーダを使わんと神経痛になる云われて、泣く泣くウエーダに切り替えたが、高い、すぐ水漏れをする事もあり、貧乏人泣かせを味わった。その後、何年の使えるウエーダに出会えたが、その時代になっても数回の使用で、ザアザア漏れになった有名メーカーのウエーダに出会い、腹立ちっぱなし。2015年の話。安かろう悪かろうの頃、あるいは、ウエーダが登場した頃の話ではない。高かろう、悪かろうの典型。
保証期間が過ぎて、修理に出すと、糸ほつれ2,000円、ピンホール四か所6,000円、ブーツ交換13,000円の見積もり。保証期間を使わなかったのは、何年も使えるメーカのウエーダを持っていたこと、どんな修理をするのか、野次馬根性で。
ブーツ交換とはどういう製造をしているんじゃあ。この見積書に書かれていないが、表層の布とその下の布も剥離している。フェルトは数回使用しただけであるから、摩耗していない。ブーツまで交換が必要とは、粗悪品以下のウエーダと確信した。有名メーカとはいえ、ヘボの作り手もいるということかも。
あ、そうそう、このメーカーのウエーダを使っていたSさんが、陰干しをしなければならないのに、日干しをして、表層の布とその下層の素材が分離した、と。
ウエーダで、河原に寝転がって居れば修理しなければならない製品とはとんでもはっぷんな製造と確信している。
風のたより
手紙の垢石翁であれば、オラ同様、凡人であり、聖人君子で、面白おかしくはない。
「それにしても、入院中によこしたこの手紙は、病み上がりで弱気になっている垢石の心情を伝えている。風のたよりというのとはまた別もので,そこはかとなくといった風に伝えて来る。風のたよりという向きから云えば、つまり人の噂で聞くと、垢石は塩原病院に入院中、酒が飲みたい一心で病院から逃げ出したということであった。この手紙をくれるより前だったろうか後だったろうか。
また或人の話では、垢石老は東京の芸者を月賦で請出(うけだ)したという。人間が一本気だからそんなこともするのだろう。だが、危険を冒して病院から逃げたのは,お酒の飲みたさも然(さ)りながら、その芸者に会いたいためではなかったろうか。
その結果が『まアるで駄目』でなかったら私は祝福するが、その反対であったら実に遣瀬〈やるせ〉がなかったことだろうと云わなくてはならぬ。月賦で芸者を請出したのは、たとえて云えば、嘗て酒を1升飲む実績のあった人が、飲屋で附(つけ)にして一升飲むようなもので、あとは月賦で払ってもいいわけだ。理に反することとは云われまい。」
「垢石は人の前でとぼけることも、毅然とした態度をとることも、神妙にすることも、磊落(らいらく)になることも出来た。その場の雰囲気で変化することが出来たし、それがみんな板にもついていた。だが、私は垢石がえらそうにするところだけは見たことがない。」
井伏さんは、垢石翁の文書力、垢石翁が「美味求真」等の代作をしたのでは,との噂についても触れられているが、オラには縁のない話で、これにて一件落着としておきましょう。
「笛吹川の鮎」
「日本の釣り文学四 釣りと旅と」の飯田龍太「ヤマメと手打ち蕎麦他四篇」から
井伏さん、垢石翁が、甲府の鰻を食べたいことも動機となり、笛吹川に出かけたとのことであるが、どんな鰻かなあ。
飯田さんは、その鰻についても書かれているが。
甲斐盆地の川の情景と鮎自慢と漁
「甲斐盆地には、扇開きに三つの川が流れてくる。
甲斐駒ヶ岳の西側をぐるっと廻って、盆地の西北端を釜無(かまなし)川。昇仙峡を出て、甲府市の西郊を貫くのが荒川。大菩薩山中に源を発し、盆地の東側を流れくだるのが笛吹川である。三川落ち合って富士川となり、駿河に出る。
戦争前までは、三川とも天然鮎(あゆ)がさかんに遡上(そじょう)した。わけても、釜無川上流と笛吹川はいい漁場だった。
釜無川で漁をするひとは、甲斐や八ケ岳から流れてくる水に育つ鮎の風味は日本一だという。笛吹川のひとは、なんといっても謡曲『鵜飼(うかい)』で古くから知られる由緒正しい鮎漁場。味はもとより、姿形に気品がある、といった。どちらの言い分も正しいのではないだろうか。
たとえば、越前のひとは、越前のウニが日本一美味(うま)いという。九州五島(ごとう)のひとは、五島ものが本格のウニの味だという。陸中海岸のひとは、誰がなんといっても、ここは洋々たる太平洋が相手、日本一どころか世界一おいしいウニだ、というそうだ。
味くらべはともかく、六月半ばのころ、群れをなして鮎の遡上するさまは、まことに見事なものであった。戦前、それもかれこれ半世紀ほど前、私は笛吹川でなんべんも見かけた。
山峡を出た笛吹川が、万力林(まんりきばやし)のある山梨市の差出(さしで)の磯あたりでは、まだ岩々を縫って渓流の趣(おもむき)を呈するが、約一里ほど下って盆地のただ中に入ると、川幅はぐんと広くなり、白砂の上を浅々と流れる。深(ふか)ん処(ど)は別として、水深はおおむね膝小僧のあたり。したがって真夏の夜振(よぶ)りがさかんに行われた。
ことに日照りつづきの盛夏、植田にいちばん水が欲しい季節になると、川の水量はいつもの何分の一かに減る。いたるところに白洲が浮き出て、魚は岸辺の深みに集まる。夜が更けると、銛(もり)を片手にした人影が、アセチレンガスの灯(ひ)をかざして、あちらこちらから現れる。
多分、当時も、夜振りは禁じられていたはずだが、取り締まりの警官にしても、相手は広い川の中。せいぜい土手の上から大声で注意する程度。しかも灯が消えれば真の闇。つかまえようがない。
獲物は、鯉(こい)、鮒(ふな)、鮎、鮠(はや)と多種多様だが、いちばんの上物は鰻(うなぎ)。仕留めたときの手ごたえがいい。背筋を伝わって、全身にぐんとひびくそうだ。もとより清流の産、その食味は、養殖ものなどの及ぶところではない。腰魚籠(びく)の重みをたのしみつつ、川をあがる気分は、納涼の極(きわみ)、スリルの醍醐味満点だろう。」
亡き師匠らと、まだ湖産放流全盛時代であった昭和の代の終わり頃?笛吹川にいった。瀬はなかったなあ。石がごろごろでもなかったような気がする。囮屋さんがあったから、釣り場になっていたとは思うが。
それで、御手洗川の流れを変えて、釜無川の流速を殺ぐ工事が信玄?によって行われ、また信玄堤のある釜無川に移った。オラには、そこでも釣れず、信玄堤を散歩した時間のほうが長かったのでは。釣り人はオラ達だけ。石は大きく綺麗でったと思うが。
投網の情景
「そんな一夜が明け、嶺を離れた朝日が白砂にきらめくころ、橋上からさかんに鮎の遡上する姿を見かける。
橋から下流二百メートルほどの川のただ中に、簡単な櫓(やぐら)がつくられていて,夜明けと共に見張り番が立つ。魚群を見かけると、用意の石油の空缶を乱打する。
空缶の合図があると、近くの家から投網(とあみ)を持った連中が一斉に橋上に集まる。
川砂に刻まれた無数の靨(えくぼ)から靨へと、魚影がきらめきつつ遡る。何百とも知れない数だ。朝日を受けた魚影が、くっきりと砂上に映る。
その中には鮠やウグイも交じっているにちがいないが、これらの魚と鮎では、遡上するさまがハッキリちがう。鮎は、一点から一点へ、銀線のはしるように、きびきびとのぼる。動作が俊敏で、気品がある。ところが鮠やウグイは、左右に流れ、ときに後ろへ退ったり、いかにもものぐさな感じだ。生涯一途の目的をもったものと、安易に定住するもののちがいだろうか。
それはともかく、投網打ちの、近郷での一番の名人は、村の饅頭(まんじゅう)屋の親爺さんだったようだ。」
「二,三度その実技を見たが、水面上七~八メートルの橋上から繰り出す投網は、歌舞伎の『土蜘蛛(つちぐも)』の案配(あんばい)。網が他のひとの倍ほども大きく開いて、水面にまん丸の水しぶきをあげる。しかも網を上げる前に、何匹ぐらい入ったか、見当がつくらしい。事実つぶやいた数と、実数にほとんど違いがない。したがって橋上に饅頭屋が現れると、他の網打ちは、おのずから好場所を譲る。親爺さんの方も心得たもので、漁がおわると、不首尾のひとのバケツに、自分の獲物を無造作に掴んでほうり込む。
ずっと以前、一番獲れたときは、バケツ何杯かを、リヤカーで運んだことがあったそうだ。いささか眉唾ものの話に思われるが、まあしかし、こうした話は、誰が迷惑するというものでもないだろうから、景気のいいほうがいいだろう。」
この投網の情景が想像出来ない。なんで、橋上から投網が出来るのかなあ。紐を長くしているからかなあ。
磯部の堰の下流側の堰の魚道の上り口が上流に向いている堰がなく、遡上アユが田奈にもいた頃、そして、弁天の流れが、左岸から右岸側に流れを変え、ヘラ釣り場の下流側への流れていた頃、その流れが変わる附近に、岩盤底があったとのこと。雄物川さんが、舟から投網を打っていた。二十世紀の話である。
シーズンが終わり、借りた土地に舟を揚げていて、盗まれた。それが雄物川さんの最後の舟からの投網であった。もっとも、二十一世紀には、遡上鮎が遡上出来なくなったから、舟が盗まれていなくても、舟からの投網は終了していたが。
二十一世紀のある年、現在と同じ流れになった弁天下流右岸側河原に、舟がぷかぷか浮いていた。河原に座り、膝を抱えた人がいた。
夕方になっても、戻ってこないことを心配して探しに来た人が、その人が亡くなっていることを見つけた。
それが、相模川のダム放流口附近以外では最後の舟からの投網ではないかなあ。
なお、雄物川さんは、遡上鮎がやってこなくなってからは、コロガシを中津川で行うことに。夜明け間のドブ釣りを高田橋上下の右岸側で行うことに。その回数もめっきり減っているが。ことに、去年の大雨による宮ヶ瀬ダムの放流で、どのような事態になったのか分からないが、雄物川さんらが釣り場にしている妻田の堰上流の川に重機が入り、小石のチャラにしてしまったため、その区域の上流側と下流側の狭い二か所だけが、ポイントになったから、今年はどの位出かけるのかなあ。
石和温泉の誕生
「笛吹川中流の右岸に沿って、石和(いさわ)という温泉町がある。といっても温泉町になったのは戦後のこと。さる交通会社の社員保養所のため、葡萄畑にボーリングしたら、突然四十何度の温泉が噴出した。しかもドラム缶一杯の噴出口というというから、豪勢だ。たちまちあたり一面温泉の海。しかも畑はきれいな川砂ばかりであるから濁らない。零下何度という寒風のさ中、近郷近在の老人がわっと押しかけてきて大変な賑わい。しまいにはオデン屋まで出張し、温泉につかって自家製の葡萄酒を差しつ差されつ。
そのうち、夜分になると、ひそかに近所の娘さんたちまで現れるようになった。それを目当てに、若者が蝟集(いしゅう)する。当然、風紀上の問題がおこる。結局、二カ月ほどで立ち入り禁止となったが、その後は、相次いで温泉旅館が続出。数年を経ないで、その数は大小百を超えた。芸者の数も常時数百人というから、その態様はおおよそ想像がつく。
そんな温泉町に変貌する前の石和は、狭い国道を鋏んだ一筋の家並みの、ひっそりとした宿場町であった。」
魚屋さんと鰻と鮎
「その石和に、小さな魚屋があり、数日おきぐらいにやって来た。綺麗に磨き上げた浅手の盤台を、椋(むく)の木の天秤棒でかついで来る。石和から私の家まで約一里半(六キロ)ほど。そんな長道中(ながどうちゅう)、大量にかつげるはずはないから、品を吟味し、寄る家も数軒に限っていたようだ。少々値は張るが、長年のつき合いで、値切りもならなかったろう。先方もまたそこが生き甲斐。年をとって、もうそんな振売はやめてくれ、と家族がいくら懇願しても、いかなこと聞き入れない。
ときに、笛吹川で獲った鰻(うなぎ)を蒲焼きにして、手土産にすることがあった。自分で獲って、自分で焼いた品だから、代金は貰わぬといった。漁法は主に置鉤(おきばり)だが、釣りあげて、ピンピンした、活きのいいのだけを持ってくるのだ。死んでしまったのはもちろん、鉤痛みして弱ったのはひと味もふた味も落ちるから、これは家人用に。但し、当人は、鰻は一切口にしないそうである。
麦が黄ばみ、卯の花が咲くころになると、毎年経木の折箱に青笹を敷いて、若鮎を十匹ほど持って来てくれた。無論、天然ものであるが、この方は多分知り合いの投網打ちからわけて貰うのだろう。じいさんは、鮎漁はやらないといっていた。
支那事変が始まって、しばらくたったころ、じいさんがばったり姿を見せなくなった。桜が散り、卯の花が咲いても現れない。」
「亡くなったという。八十近い年齢ではなかったか。
蒲焼きを見ても思い浮かばぬが、若鮎を見ると、いつもじいさんを思い出す。少し青くさいような鮎の香気と、美しい姿には、時を超えて思い出を蘇らせる神秘的なものがひそんでいるのだろうか。 (昭和59年6月)」
鰻も、ピンピンしたものが美味いとは。それだけでは、井伏さんたちが、笛吹川に行った動機付け、蒲焼きを食べる下心とはいえないのでは。
大見川の湯ヶ島に近いところに、天然鰻を扱うところがあったと思うが。
三島で、蒲焼きが二段に挟まった鰻重を喜んでいたものには、養殖しか縁なし。
田代の食堂の主人は、鰻大嫌い。ガキの頃、日々のおかずは鰻ばっかり、と。
游いでいる時に、かごづけをしたのか、ヒゴ釣り?穴釣り?置きバリ?をして、食材を調達していたのか、聞き忘れたか、思い出せないのか、定かならず。
宮ヶ瀬ダムが出来る前の中津川は、、大石ごろごろ、角田大橋上流には、大きな淵があったとのことであるから、漁法には不自由しなかった。
なお、釜無川は、水深に変化があり、また、大石が転がっていたから、笛吹川とは違い、多様な漁法で鰻を捕っていたのではないかなあ。
仁淀川の弥太さん、四万十川の野村さん、カヌーの野田さん。今西博士の調査にも協力されていた山釣りの素石さん,そして、萬サ翁のお話を記録し、天野礼子ちゃんが「万サと長良川」として、オラを愉しませてくれたが。
飯田さんが、釣りをされておれば、もっと笛吹川、釜無川のお魚の生活を知ることが出来たかも。いや、釜無川、笛吹川の人間が古からのお魚たちの営みを壊す前の記録がまだ残っているかも。
福田蘭童「東京への郷愁 抄 『蘭童のつり自伝』より
「集成 日本の釣り文学 五 釣りと人生」
東京に出店?した吉兆で、料理人が、鮎の背越しを料理している情景の記述した本は、大下さんでは、と。しかし、違ってた。蘭童さんでは?
これも違っていた。今年読んだから、ほかにあるとしても、見当がつかない。
覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない+ついうっかり は、日常茶飯事。
仕方がないから、蘭童さんの「東京への郷愁 抄」で、覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない、という三兄弟が、いまほど精力旺盛でなかった頃を追憶しましょう。
蘭童さん作曲の「笛吹童子」の歌は覚えている。
ひゃらありひゃらりこ ひゃりいこひゃられろ だあれがふくのか ふしぎな ふえだあ
ところが、笛吹童子の前に放送されていた「鐘の鳴丘」も覚えている。
みどりのおかのあかいやねえ とんがりぼうしのとけいだい
かあねがなりますきんこんかあん
めいめいこやぎがないてます
「鐘の鳴る丘」、「笛吹童子」の歌の一部とはいえ、一年間でよくぞ覚えたもんだ、と、自画自賛していたが、1年ではなかった。「鐘の鳴丘」は、昭和22年から昭和25年まで。「笛吹童子」は、昭和28年にラジオから流れていた。それでも、よくぞ覚えていたもんや。
ラジオから流れてくる歌というだけでは、笛吹童子同様、話の情景は忘却の彼方であるから、歌も同じと考えたほうが、オラには似つかわしい。
にもかかわらず、一部とはいえ、歌詞を未だに覚えているには、別の要因があるのでは。
舗装されている道は、一国とその近くの一部の道だけ。二つの道が、V字型で接続している道は遊び場であった。自動車なんて通らない。いや、ほんの稀に進駐軍の自動車がやってくる。そうすると、キャンデーを撒いてくれるから、がきっちょの大捕物が発生する。女とは遊ぶ空間が違うから、男どもの独壇場。
サマータイム制であったから、近所の家から、鐘の鳴る丘が聞こえてくると、飯の時間。その解散式で、歌を歌うこともあったのかなあ。
歌で、覚えていることがある。
ちびっ子ちえちゃんやちびまる子ちゃんと同じくらいの年頃の女たちが、「大なんこう」の替え歌を歌っていた。楠木正成の歌である。
あおばしげれるさくらいの さあとのわたりのゆうまぐれ このしたかあげにこまとめてえ よのゆくすええをつくづくと しいのぶよろいのそでのえに ちいるはなみだかしらつゆか
「だいなんこう」の漢字で表記出来ないのに、なんで、「だいなんこう」の歌をおぼえているのかなあ。だいなんこうを祀っている湊川神社は10キロあまりの距離とはいえ、わかりませえん。
仮に、小学校で教えてくれていたとしても、ほかの歌はなあんも覚えていない。(やっと、思い出した。「大楠公」 戦前は遠くなりにけり)
替え歌は、
~(忘れた) わたくしこんどのにちようびい とうきょうのじょがっこに まいります ~(わすれた)
男のがきっちょ集団が、べったん、ラムネの「賭博行為」や、マブナ、食用蛙、ドランマ(おにやんま)、ほんやま(ぎんやんま)等トンボ捕り、コマを手に受けて、コマが止まるまで、鬼も逃げても走ることができる遊びにうつつをぬかしている時に、女どもは、お勉強の意欲に燃えていたとは、ウーマンリブは、歴史的必然ということかなあ。
「夜中のネズミ釣り」
釣り堀での大会のとき、蘭童さんが黒焦げになったメシをサルマタに包んで放り投げて投げ捨てた物体が、鯉の寄せ餌として違反行為をした、とか、バシタ(女房)が、大会で好調の若者と浮気をしたとか、大騒ぎに。それで、蘭童さんは、その池に出入りしにくくなった。
「魚釣りができなくなると、何となく手持ちぶさたになるものだ。タバコ好きなおとなが、故あってとつぜん禁煙させられた直後の気持ちみたいなもんかも知れぬ。とにかく、病みあがりなので、遠出の釣りは禁じられていたし、学校の勉強も,どんな教科書を使うのかわからなかったので、夜は早く寝床にはいるよりほか仕方がなかった。ところが、電灯を消すなり、天井裏や勝手先でガタガタ、ゴトゴトと大きな音をたててあばれまわるネズミのわるさには眠るどころの騒ぎではなかった。
スペインかぜの流行で、ネズミ退治をする人が少なくなったために繁殖したのだろう。が、勝手元におけるメシ粒やサツマイモの皮などの不始末が、ネズミ族の集合に拍車をかけたようである。
ときには、なべのふたをひっくりかえしては煮魚を食べたり、なまのジャガイモをすみっこの壁穴の中へ引っこんでいったりしたが、どうせ残りものだという考えから大目に見ていた。しかし鶏卵を盗られてからはがまんができなくなってきた。ザルの中に入れておいたタマゴが一夜のうちに三つも四つも消えているのである。しかも鶏卵を落として割って食べた形跡がない。あの丸くて、つかみどころのないタマゴをどうして運んでいくのだろうか。
――畜生ッ。にくらしいヤツだ。ネズミとり器を買ってきて、パチンと頭をつぶしてやるぞ。しかし、待てよ。一匹や二匹はつぶしたところであとは警戒して寄りつかなくなるだろう。それならばネズミの穴釣りがいいかも知れん。ネズミが好きそうなエサをつけて、穴の中へそっとさしこみ、食らいついたならばウナギの穴釣りの要領で引き寄せればいいはずだ。こうすれば大きな音をたてずにすむし費用もいらん。とにかく、ネズミの行動と習性を研究してみなくちゃなるめえ……。
そう思ったわたしは、台所に五燭光(ごしょつこう)といううす暗い電灯をつけ、しょうじの下のほうに小さなアナをあけ、寝ころんだままそのアナに片目を押しあててネズミの出現を待った。しばらく息を殺していると、三角形の壁穴から小型のネズミがそろりと出てきて中腰になり、大きな耳をそばだててあたりの様子をうかがった。あたりに猫も人間もいないと判断すると、野生のリスがするのと同じように、前あしを胸のところに当てがい、長いしっぽを高々とふりあげてチュ、チュ、チュ、と小声で鳴いた。
すると、次ぎの瞬間、大型のネズミが同じ穴から出てきて長いヒゲを上下に振った。合点承知のスケといった格好である。そのネズミがぬきあし、さしあしでザルに近づくと、壁穴のなかから同じような顔をした仲間が五匹も次々と現れた。
さらの上には残飯、ガンモドキやアブラアゲなどを乗せておいたが、彼らはそれを横目で見て素通りし、タマゴのはいったザルに向かってのほふく前進である。ザルに近づくと、みな中腰になって聞き耳をたてたあと、ピョン、ピョンとザルの縁にとび乗った。ザルは一方に傾いて数個のタマゴがごろごろと板の間にころげ出た。
壁穴の近くにころげでたのは前あしで押して穴のなかへ落としてしまったが、穴とは反対の方へころげたタマゴは、押しても押しても円を描いてまわるだけで、なかなか穴へは近づかない。
すると、別なやりかたでタマゴを穴のなかへ運んでいった。それは、ネズミのAがタマゴを四つのあしでかかえこんで上向きになると、Bのネズミがうしろにまわり、Aのしっぽをくわえてエンサ、エンサと穴の中へ引きずった。そして最後まで残った小型のネズミは、自分のからだよりも長いアブラゲをずるずると引きずっていったのである。とても利口なネズミどもだった。
青大将は鶏卵やスズメのタマゴを飲むと、後は木にのぼって腹を幹に巻きつけてタマゴをつぶすのだが、青大将よりもネズミのほうがはるかに芸がこまかいと思った。作戦も上手である。青大将はロシアのステッセル将軍であり、小ネズミはわが乃木大将のようなもんだろうと、その時感心したのであった。
それはともかく、魚釣りのかわりにネズミ釣りをやろうと決心した。細い針金にカイズばりを結びつけ、エサにネズミの好物のアブラゲを切ってさした。これをサオ先で誘導して穴の中へ入れた。ウナギの穴釣りの要領である。
五分ほどじっと辛棒していると、グイッときて、カリカリという響きが手のうちに伝わってきた。かかった証拠だ。そこで、急いで引っぱってみるとコロコロと肥えたイエネズミがあばれながら顔を出した。手を合わせて助けを乞うているふうにも思えたが、一度逃がしたネズミは何倍かの仕返しをやると聞いていたので、残酷ながらゲタの歯でコツーン、キューとやらかして庭先に持っていき、数回ふりまわしたのち、遠くのほうへ道具ごと投げ捨ててしまった。
ハリをはずす時かまれると思ったからである。いずれにせよ、ネズミはおもしろいように釣れ、フライ・パンツのかわりにフライ・ラットの遊びができたことは、退屈しのぎのためにも、健康回復のためにも大いに役立った。」
オラは、ネズミ釣りをしたことはない。
ねずみ取りのカゴはあったが、その中にはいったのは食用蛙。すぐに一杯になった。
しかし、食用蛙を食材にしたことは数回しかないのではないのかなあ。手足の皮をひんむいて、そこだけが食材になるから、胴体はゴミ箱に捨てることになるが、ウジ虫が湧き、悪臭がするのではないかなあ。胴体を捨てた結果の記憶がないから、食用蛙は、再びため池に戻ったのでは。
蘭童さんが、がきっちょ集団に多くの思い出を提供してくれていたとは、始めて気がついた。ありがとうございます。
湯ノ湖でのおとととのつき合い、田端界隈や不忍池等でのおとととの戯れ、茨城県の河腹子(かわらご)海岸でのタコ釣りなど、愉しいお話が蘭童さんの本職?
いやいやそんなことはございません。尺八奏者としての階段も上っています。
「東京都内にコイがいた」
「団子坂から二十分ほど電車道を南へ歩いていくと池ノ端の七間町に出る。ここには小川があってかなりの水が不忍(しのばず)池に住んでいた。ハヤ、フナどころかコイもいた。不忍池は弁天さまの罰があたるとして釣り人はいなかったが、七軒町の水口だけは自由なので多勢の子供たちが集まっていた。私も仲間に加わった。動坂付近で掘ったイキのいいミミズを使ったので、ときどき大きなコイが釣れた。それを新聞紙に包んで持ちかえり、煮たり、コイコクにしたこというまでもない。
また大雨が降ったあとは、四つ手網をもって田端付近の小川にいった。水源地となっているという駒込の木戸さまの邸内の池から流れ出すコイをすくうためである。マゴイばかりかヒゴイもはいったもんだ。もっともこの川には常にコイもいたしウナギもいた。とくに動坂のヤッチャバ(野菜市場)下には大きなウナギがすんでいた。市場のクズが流れてくるので育ちがよかったのだろう。」
「三河島(みかわしま)駅寄りの方向に赤煉瓦の建物が、ぽつりと見える。」
「赤煉瓦の建物は変電所であって、,そのまわりにかない大きな池がある。」
「金網の下をくぐりぬけ、池に近づいては糸を垂れたものだ。ハヤ、フナ、コイの子などがたくさんいたが、毎日、多勢でいじめるせいか、かかってくるのは黒っぽいドンコばかりだった。だがそれでもおもしろかった。ときには、も少し足をのばして荒川の土堤(どて)にも行ってみた。水が澄んでいた。フナ、ウグイ、コイが釣れた。向こう側へは渡し舟で行くこともできた。
夏の渡し場でのナシやモモや氷水はうまかったし、冬の焼きモチと牛めしの美味は、五十年たっても忘れられぬものとなっている。
とにかく、そのころは、東京のどこでも魚が釣れた。隅田川ではハヤやボラが釣れたし、早稲田ちかくの滝の下ではウグイもアユも釣れたのだ。むろん飯田橋でもお茶の水でもコイがいた。二,三年はこうした川で楽しんだのち海に進出した。」
「羽田の穴守(あなもり)稲荷のすぐ裏に深くて大きな釣り堀があって、ボラ、黒ダイ、スズキ、セイゴ、コチ、カレイなどがはいっていた。そこは、いま羽田空港の一部になっている。また帰り道に大森海岸へ寄ってボラやセイゴ釣りをやった。釣れない時は引き潮の砂浜へ下りてアサリ、ハマグリ、シオフキなどを拾って帰ったもんだ。。」
「湯ノ湖とあんどん」
奥日光の板屋旅館の従兄弟と仲良くなっていて、夏休みに出かけた。
「釣り道具と、クマの危険からのがれるためにナタを腰にさして行った。日光駅から馬返しまでは電車があったが、あとは歩くよりほか方法がないのだ。今は舗装された『いろは坂』があるが、五十年前のあのへんは、文字どおりの『馬返し』であって、馬返しから先は、人と人とがやっとすれちがえるだけの道幅しかなかった。しかも直線コースだったので、木の根やツル草につかまり、つかまり、ときどき落下してくる岩石を気にしながら登っていたのであった。しかし山気(さんき)は清々しかった。岩間からほとばしる清水の味は忘れられぬものとなった。」
華厳の滝の五郎兵衛茶屋で休息。
中禅寺湖への道のカツラに似た大木の幹に、華厳投身自殺第一号の藤村操辞世の句が書かれていた。中禅寺湖から湯元まで12キロ。
「七月だというのに、戦場ヶ原では、春の花が一斉に咲きほこっていた。実に美しかった。八時間もの疲れも、いっぺんに消し飛ぶ感じだった。」
湯ノ湖の湖尻で、ニジマス、パーレット、ヒメマスなどが飛び跳ねていた。
「板屋旅館は二階建ての本館と、湯治客のための平屋があったが、いずれも板ぶきの屋根に、たくわん石大の扁平石が列をなしていた。風雪の害からのがれるために乗せてある。」
夕食は、湖水でとれたコイのアライやコイコク汁、ヒメマスの塩焼きとキノコの煮付け。共同風呂にはランプもあんどんもなかった。
舟から、紅差しをエサにすると、1尺ほどのヒメマスが飛びついてきた。湖尻に行って、ミミズをつけると、パーレットやヒメマスの二倍も三倍もあるニジマスが入れ食い。
「生まれて初めての大漁だった。」
マスの移殖
「釣れすぎて疲れた手を休めていると、正次郎君がこういった。
『ここのマスは明治三十四年から三年にわたって駐日大使のマクドナルドさんがアメリカのカリフォルニアからマスの卵をとりよせて中禅寺の孵化場でかえし、大きくしたのちに湯ノ湖と湯川へ放流したもんです。はん点のあるカワマスのパーレットは、マクドナルドさんの部下で参事官であったジョージ・パーレットさんの名からとったもんです。パーレットさんは放魚について力になってくれたからです』」
釣れた魚は、ほとんどが湯治客のおかずに。
「翌日も翌日もマス釣りに出た。湯滝下におりてカワマスとニジマスをねらってみた。エサはミミズと川虫と、ゴロッチョという白いチョウであった。湯滝下のカズラッコという淵では九十センチちかいニジマスが飛びついたが、テグスもサオも上等でなかったので、すぐにバラしてしまった。ナイロンもリールもなかった時代だから無理もない。
小滝下は特にサカナが濃かった。枯れ枝の下にいるのも、その陰にいるのもハッキリ見え、そこへハリをおろせば、ニジマス、カワマスが先を争ってとびついた。ずっと川下の戦場ヶ原のすそに出ると、川底が黒く見えるほど大小無数のマスが游いでいた。放魚しても釣る人が少ないからだ。日暮れどきになると、水面にサカナがはねるので音をたててあわ立った。」
フナの手つかみ
「こうして一週間ほど楽しんでいるうちに、フナつかみに興味をおぼえた。湯ノ湖のフナはどんなエサをやっても食いつかぬので、フナを手づかみにしょうというのである。湖水から出っぱった兎島の南側は浅場になっていて、そこに沈んでいる枯れ木の下には日なたぼっこに集まってきたフナの群れが黒々とかたまっている。」
小舟を静かに近づけても逃げない。
「~右手を枯れ木の下へ突っこんで手の平を上に向けていると、やがて大きなフナが腹を寄せてくる。水温よりも人間の温度の方が高いからである。フナが尾ヒレや腹ヒレの動きを中止したのを見はからい、左手をそっと水中につっこんでフナの目をかくし、両手で握るような格好で水面へ近づけ、水からはなれる瞬間、フナを舟の中へ投げこむわけである。舟を大きく動かしたり、ずぶり、ずぶりと歩かなければフナは少しもおそれずにじっとフナとフナとがからだをすりつけあっているのだ。だから、いくらでもつかむことができ、客用のフナの刺し身となった。
よそのフナとちがって、なまぐさくないので野コイよりも評判がよかった。刺し身ばかりかコイコクの代用にもなった。このフナつかみは、栃木県のいなかの川水堀やたんぼでの経験が十分に生きたわけである。いま、湯元へいってフナつかみの話をすれば、わたしの名前が出てくるだろう。後日、作家の井伏鱒二さんが、わたしのフナつかみの光景を小説にくわしく書いたので、いっそう有名になってしまったようである。」
湯ノ湖にはコイもいる。尺コイをドバミミズで釣る。ベニマスも混じる。
がきっちょのとき、溜め池でマブナを捕るのは、釣り以外では、タモが主役。四つ手網も使わなかったなあ。用水路から溜め池に水が流れ落ちる時、マブナが集まってきたから、その時の道具としてタモは有効であった。
タコつき
「たまには茨城県の河原子(かわらご)海岸へ行った。親類にあたるA家が、毎年、避暑のために貸別荘を借りていたためで、そこへ押しかけていくわけである。河原子海岸は砂浜が延々とつづいていて非常に美しい。貸し別荘のすぐ前に小さな島があり、さらに三百メートルほど沖合に、干潮のときだけ顔を出す岩礁が横たわっていた。そこへ行ったり帰ったりして、水泳の達者さを競うのであったが、わたしは泳ぎよりも岩礁へいってタコつきをするのがなによりも楽しみであった。
たんぼでつかまえてきたトノサマガエルの皮をはぎ、竹ん棒の先にそれを結びつけ、カエルがとれなかったときには、竹に赤布を巻きつけてオドり棒を作り、それと、モリを持って泳いでいく。岩礁についたならば、オドリの竹ん棒を岩の下に突っこんで前後左右に動かすと、タコは敵がきたと感じるのか、あるいはエサが近づいたと思うのか、どっちかわからぬが、ちょっかいの手を穴の中からユラユラと出す。
しかし、急いで突くと穴の中へもぐられてしまうので、彼が全身をのりだしてオドり棒にからみつくのを待ってグサリと頭を刺す。刺したモリから抜こうとすると、彼はかならず腕に巻きついたり、首にからみついたりする。そうした場合彼の鼻づらに向かってツバをひっかければイチコロとなる。タコには塩気のない水分は大禁物なのである。川の水が流れこむ海辺にはタコがすみにくい理由も、このとき知ったのである。」
満潮のときは、長い延べ竿で、サナギをエサに三十センチ級の黒鯛をたっぷりと釣っていた。
蘭童さんの世界は、戦後にフナ釣り,海でのほおりこみでの釣りをしていたオラには、異次元の世界。九十センチほどのニジマスとは、どのように考えればよいのかなあ。コイと間違えたのではないようであるが。
蘭童さんは、明治三十八年生まれ。
蘭童さんは、女性関係では、刑罰を受けたり、蘭童さんのお仕事に関係していた人が、まあるくおさめようと、四苦八苦されていたよう。
それは、セクハラよ、と、いつもねえちゃん達に怒られていたものとしては、羨ましいなあ。
秩父夜祭りの夜に、昭和三十年代の初め頃までは、オージーが行われていたと書かれていたのは、きだみのるさんの「にっぽん部落」?かなあ。
夜這いは、いつ頃まで行われていたのかなあ。
山本七平「私の中の日本軍」に、フィリッピンを占領した日本軍の兵士で、夜這いをしている者がいた、また、フィリッピン人には、バナナの木は、果実を得るだけではなく、葉っぱ等も生活の中で利用する大切な木であるのに、日本軍兵士は、枝?等を切っていたから、日本軍は憎悪,攻撃の対象となった、と、書かれていたと思う。
文化=the why o lifeの「違い」を意識していない「日本人」として記述されていたと思うが。
蘭童さんについて、「現在」あるいは戦後の状況から考えることは、やめておきましょう。
英 美子「水郷へ 抄 『春鮒日記』より」
「釣りと人生」のなかで、一番扱いに困った作品。
蘭童さんは、異次元の世界であるから、なアンも悩まなくてもよく、気楽であったが、「水郷へ」の「沼の幸 (淳眞の日記から)」は、オラよりも10年ほど年上の中学を卒業したての少年が、疎開先で鮒を釣って生活を支えていたお話であるから、全文を紹介したい、いや、抜粋による紹介はできない、と。
ということで、どの程度、淳眞さんの釣り風景を紹介出来るか、いや、不可能であるから、ことに、後期高齢者は、「集成 日本の釣り文学 五」を読まれるように。
あるいは、英美子「春鮒日記」(つり人社)を。「春鮒日記」は、「~終戦前後のドキュメントととして貴重であるばかりか、釣りの記録としても面白いものである。」との評価がある。
「水郷へ」
「野ばらが咲いたら、綿の種子を蒔(ま)けという。小川の縁などの懸崖(けんがい)に咲き乱れているこの花の上に、私は虻(あぶ)のように鼻をちかよせて、その高い薫りにほのぼのと道草をする季節となりました。麦の端境期(はざかいき)もすでに過ぎた今日この頃の水郷は、ひとしおに活発な生気をみなぎらせています。前のS川の土堤の下には、今日も夜の引き明け頃から、ずらりと釣り人が並び、乗っ込み鮒を攻めるのに余念ない様子です。」
「~この村は、闇屋さんの草分けとして鳴り響いた」久賀村の一集落に疎開してきたのは、長野の山中への疎開を予約していたが、「一人子の淳眞(あつまさ)がどうしても賛成しないので、こんな戦(いくさ)のさなかに、子供の気のすすまない土地へ無理に伴(つ)れていって、もしも良くないことがあっては、という女親の気の弱さから長野の方は断わってこの水郷へ疎開したのでした。」
淳眞君が、この方面に釣りにきて、立ち腐れかけている建物を見つけた。村の有力者は、修理一切をそちらででやる気ならば貸してよい、と。
「(ふふ、その水郷とやらに疎開すれば、毎日お前の好きな釣りができるからね)。
淳眞は、その土地の有利な点を、いろいろとあげ初めました。」
「立ち腐れ同然になっているというその建物は、土地では“寮”とか“おやま”とか呼ばれ、本来は村の集会場だったが、戦時中のことで、村に男手もなくなり、荒れ放題にしているので、屋根は飛び、壁は崩れ、雨戸はいつともなく持ち去られて、そんなにひどくなってしまったのだという。」
国賊でなくなった「疎開」
「戦はいよいよ大詰めの段階にまで追い詰められた、終戦の年の春のことでした。あと十数日で淳眞も中学校を卒業するという間際でしたが、連日連夜の猛烈な空襲によって、東京は半ば焦土と化し、人々は混迷に打ちひしがれていました。が、それは人間ばかりではありません。動物園の猛獣は射殺され、いま動いている都電も一秒先の運転は保証されない有様でした。
列車は、どのルートもまるで地平の涯(はて)に、人間を捨てにでも行くかのように、顔がへし歪(ゆが)むほどに詰め込んで、車体は、めりめりと哀れな軋(きし)みをたてて喘(あえ)ぎに喘ぎ、傷ついた獣の最後のあがきのように狂おしく警笛を鳴らし続けながら、空襲警報のサイレンの下を、のろのろと長蛇(ちょうだ)のようにくねって往くのでした。
でも、春は春でした。半焼けに焦げた桜の梢にも、ぽつりぽつりと、涙のような蕾をつけて見せはしましたが、完全に余裕を失った人の心には、霞の色も空々しく、和やかな春風さえ、そっぽを向いて生臭い埃を巻きあげて吹いていました。
つい先達(せんだ)ってまでは、首都を捨てて疎開する者をば、国賊呼ばわりしていたものが、急にくるりと手の裏をかえすように、疎開の補助金まで出して督励(とくれい)し始めたのですから、みんな慌て戸惑うのは当然でした。
もうそうなると、金力にものをいわせて、釘、縄、荒筵(あらむしろ)、その他荷造りに要する材料は、大闇値を覚悟して入手するの他はなく,辛うじてもよりの駅まで運よく荷を運び込むことができたとしても、ホームに積み上げられたままで、明日ともいわず灰となってしまわないともいえません。たよるところは、自力だけでした。」
昭和三十年頃、電車は西明石まで。その先は汽車。汽車通学をしていた同級生が、汽車から振り落とされた人を見ていた。その人は、傘をしっかりと握って振り落とされた、と。デッキにつかまっているつもりでは、と。オラは、徒歩通学であるから、そんなおっかない目に遭うことはなかった。
貯金は、底を突きかけていて、
「いったんは,疎開を断念しようとしていた私も、ようやく決心をひるがえし、淳眞の捜しあててきた茨城の寒村へ疎開して、彼にしばらくの静養の期間を与えてやりたいものと思い、苦肉の金策を講じても、という気になったのでした。
当時はすでに、まるで親身のように助け合っていた隣組の人々も四散し、焼け出されてきた人達が、一軒の家に幾組も同居するようになり、隣組のメンバーもまるっきり新しい顔振れになってしまっていました。
洋服ダンスなどは、無料で差し上げるからと頼んでも、一人の貰い手もありませんでした。
私たちは、一台のリヤカーに積めるだけの必需品を積み、あとはみな、きな臭い道路のかたえに捨て置いたまま、常磐沿線をとうとう茨城の水郷まで、母子で引っ張って来てしまいました。追いかけてくるような高射砲の響きを後にして――。
いにしえ、西国(さいこく)の方へといのち一つを落ちのびていった、平家の女房たちもかくやと、身につまされるみじめな姿でした。」
神戸大空襲の炎を、10キロほど離れたところから見ていた。じいちゃんの家は焼かれた。ばあちゃんの家作のある福井県の三国へ。しばらくして、オラ達は、三木街道の平野の農家の一間へ。歩いたとすれば、泣いた記憶等があると思うが、それがないから、自動車を利用出来たのではないかなあ。
疎開先で覚えていることは、あまり大きくない溜め池にでっかいコイが泳いでいたこと。玉音放送を大きな家に集まって聞いたこと。
「屋形舟
雲雀(ひばり)の唄に明けて、雲雀の歌に暮れる戸数三十に充たないこの川里は、あの空襲の恐怖におののく東京とは,まるで別世界の感がありました。余りの激変にぽかんとして荷解きもする気になれないほどです。
二日がかりでやっと辿り着いた寮というのは、幅五,六メートルばかりの用水S川の流れの真ん中に突き出た、三畝(せ)ほどある三角州の上に建てられていて、空地には一面に落花生(らっかせい)が作ってありました。」
「土堤に立てば、北には青い筑波、西南には遠富士の姿が眺められ、水門を背にして立てば前には、長い美しい文巻橋が見渡されます。」
「長塚節(ながつかたかし)の生活と作品、という書物の中だったかに、結城郡(ゆうきぐん)の産である節が、ある夜、友人と酔って道端の神社の鳥居に奉納してあった、藁造(わらづく)りの小さな酒樽(さかだる)をひきちぎり、興にまかせてわっしょ、わっしょと担(かつ)いでいったと記されているのも、この辺りのことかと思い合わされました。
私たちが寮に来て、初めてランプを灯(とも)した夕べ、土堤の上から見た里人がいいました。
『ちょうど、屋形船のようだよ。』
まことに、真菰(まこも)の中に屯(たむろ)する一艘の屋形船とも見まごうであろうこの浮き洲の上の茅屋(ぼうおく)に、風に吹き寄せられた二枚の木の葉のような私たち母と子が、小鳩のようにやさしく肩を寄せ合い、たとえかぼそくとも、清く正しく、しばしの間はここで竈(かまど)の煙を立ててゆきたい。」
床に畳が敷かれてないから、藁を敷いて、その上にリヤカーの荷を覆ってきた古いエジプト模様の絨毯を敷き詰めた。
「寮は、十畳に、通し二間の押入れ、東と南に高窓を切らせたので、光線だけは申し分なく、壁で仕切って三坪の土間があり、ここが炊事場、風呂場、出入り口を兼ねていました。」
「この地方は、遠巻きに大括弧(だいかっこ)を描いて流れる利根川、近く小貝川を控えて、“蛙が小便をしても半鐘(はんしょう)がジャンとなる”といわれる水難地域です。昭和十六年、小貝川鉄橋付近が決壊したときは、この付近一体は流失家屋さえもあったそうです。そう聞けば、いまだに寮の柱や鴨居の上部などにも、塗りつけたような泥の跡(あと)が残っていました。
高射砲下の東京をやっと遁(のが)れてきたのはいいが、今度は、またありがたくない水難が待っていようとは! まるで、虎の牙を遁れて狼の穴の前に移ったような気持ちです。里人は、毎年毎年きまって水がくるという訳ではないから、といってくれるけれども……。」
寮を借りる時、村の有力者たちへの斡旋の労をとってくれた尾張屋さん(屋号)の隠居さんと、20数軒の集落へ名刺代わりの端書(はがき)十枚をもって挨拶に回った。端書は、一日一人五枚限定。よって、入手には馬鹿げた苦労をした。
「考えてみると、儀礼や因習(いんしゅう)のために貴重な時間をさくことが、従来の農村にあっては決して時間の空費ではなく、最も実際的なビジネスなのである、ということを私はまず学んだわけです。私も、今日から集落民の一人としてここに住まおうとする限り、そしてまた、集落の人達と歩調を併(あわ)せてゆこうとするならば、私が都会人として昨日まで抱いていた、時間に対する観念を白紙にかえし、なお、時間に対してばかりでなく、万事に石のような忍耐を必要とするのでありましょう。」
「親身のように助け合っていた隣組」と、「儀礼と因習」の農村は、何がちがうのかなあ。
京都人の、間接話法で表現し、付き合う習俗にも違和感を感じていたものには、さっぱり見当がつかない。
いや、「旧習」として、地縁的おつきあい,儀礼を無視することが、「近代化」その他諸々の素晴らしい社会であると思っていた戦後少年には当然理解不能ということですが。
「互酬性のネットワーク」としては、田舎も、隣組も京も同じであると思うが、何が「異質性」と意識されるのかなあ。
地縁、血縁の関係を時代遅れ、と、感じることが、「進歩」である、と。そのような風潮にあったのは、「互酬性のネットワーク」を構築、維持するには、異質他者を排除すること、いや、「教育すること」、そのためには村八分の手段が許されること。
忘却とは 忘れ去ることなり
忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ
菊田一雄さんの「君の名は」は、どのように感じれば良いのかなあ。
覚えられない、すぐ忘れる、思い出せない、+ ついうっかり の状況を「忘却」と一緒くたにするな、と「君の名は」に、心ときめかされた方々から叱られますなあ。
「沼の幸(淳眞の日記から)」
「半ベラ」現象は事実か、否か
「春鮒日記 英美子」(釣り人ノベルズ)に、「半ベラ論主意」=中林淳眞さんが、ヘラ鮒が、地付きの真鮒と交配して、交雑種が誕生している、と。これに対して、老大家D氏は否定。その間のやりとりは、故松沢さんの「学者先生はそういうが」と、川漁師として、あゆみちゃんを観察されていた故松沢さんらの観察の違いを思い出させてくれた。
ということで、淳眞さんの観察と、老大家Dの「違い」を愉しみましょう。
「半ベラ論主意(淳眞の日記から)」
「昭和十六年、野池でヘラブナを釣り始めてから、二十一年頃まではヘラブナが交配せず、純粋なものであったが、その後逐次、地付きの真鮒と交配して、その混血児なるものが出現し始め、いろいろの中間型が純ヘラに混じって釣れたり、または漁師の網にも入るようになり始めたので、自分は、このことに関心を持ち続け、科学的な根拠に基づいて系統を立て、その結果を昭和二十三年十月一日発行の、釣り新聞紙上に発表させてもらった。
この記事に端(たん)を発して、はからずも、関東のヘラブナ釣りの老大家であるD氏との間に、三年間にわたり論争が展開された。このことは、おそらくヘラブナに関心を有する多くの釣り人の記憶に新しい事実であろう。
月刊である同紙上に掲載された記事の逸散(いっさん)することを懸念し、ここに一括する。」
釣り新聞の発行日、号数は省略します。
「質的に変化――小貝流域のヘラブナ――
関東にヘラブナが繁殖せる初期には、ヘラブナの二年魚(六,七寸)以下のものには、抱卵したものはなく、したがって産卵もなかった。
それが、昭和二十一年の春季頃から、当歳魚にも抱卵したものが見受けられるようになった。今春(注:昭和二十三年),牛久沼(うしくぬま)付近におけるヘラブナの三,四寸ものはすべて抱卵しており、生き餌を盛んに漁(あさ)り、その魚の食味も以前のそれと比べてずっと良くなり、肉も引きしまり脂も乗ってきた。魚の形体も初期に比較すると、やや細目となり、背の高さは低くなって体色もやや青黝(くろ)ずんできた。
私の考えでは、真ブナ系統になりつつあると思う。浮子(うき)に出るアタリもケシ込みが多く、三,四寸の小物でも真ブナ並みの引きを示し、また、オダによくカラムよりになり、その他アタリの出る時間や、タナの問題などにヘラブナの原則が崩れかけている。」
藤田操氏は、「『野生化から生き餌へ』と題し、」述べられている。「~全くヘラブナの品質は変化しつつある。私も同感であって近年殊にこの傾向が多い。ウドン餌でも、ネリ餌でも盛んに喰い立っていたヘラであったが、秋季とてもキヂを用意することを忘れてはならぬ。」
「<タナの問題・ヘラの原則崩れゆく・新たな宿題・変質に対応する釣り方>
私は、いままでウドンやネリ餌釣りを説いてきたが、『ヘラブナの質の変化』によって、釣法も当然変化すべきで、これから関東ヘラブナ釣りは、従来のそれと異なって、おもしろい釣りが現れよう。
ヘラブナのシーズンを控え、ヘラブナの新たな宿題『変化せるヘラブナの釣法』が関東独特のネバリ強さで研究されんことを欲する。以上新たなヘラブナ釣りに寄せて。」
「半ベラ論 第二回」
「変質ヘラと純ヘラの喰い――牛久沼のヘラブナ――」
「先月号に、私がお知らせした“変質ヘラ”と“純粋のヘラ”とが同一の場所にて、同時に喰いがたつと、“釣りの面”に微妙な結果が現れて面白い。」
「原則が崩れてウドンや、ネリを喰わぬかとの質疑が頻(しき)りなので、そのお答えに代えて、ここには今秋九月十五日、牛久新地ににおける一例を示したい。」
大きなオダを鋏んで、小島さんと対所した。
「水深は、竿先で三尺、浮子(うき)の立つ位置で五尺、水は、牛久沼特有――鏡のように澄んで秋晴れの空を映(うつ)し、筑波山が冷気に清々しい。風は、そよと西から吹いてくる。大気を一杯に吸い込んで大きめのバラケ餌を二間竿につけ、第一発をオダの三尺右へ振り込む。
時は九時。
<純ヘラは静から動へ――>
「タナを地底から一尺切りとし、二十分くらいでヘラの寄りを認める。立て続けに五,六発寄せをくれて、硬めのネリにする。アタリはあるが力が足りない。西風がやや強くなって、水面に小波が立ってくると、ヘラに似て非なるアタリに変わり、前触れもなくスウーッとケシ込む。ひたすらの強引――。アワセた刹那(せつな)、半ベラ(変質したヘラブナの種類)だな、と感じた。
顔を出したのを見ると、七寸級の半ベラだった。純粋のヘラブナはごく浅っぱか、産卵期のほかは、アワセた瞬間から決して駆け出さない。七寸には七寸の、尺には尺の重量を手首に感じ、のっそりと、一,二尺手許に近寄り(実は水中で上方に飛び上がるのだ)、それから、上層より水面スレスレを全力で駈ける。
少し馴れると、アワセだけで八寸と九寸というような魚の型の相違は、手応えで判断がつく。純ヘラと半ベラの竿にくる手応えの相違は、ヘラブナは、静から動へ、半ベラは、最初からグングンと真ブナに似通った手応えを示すから、前記のヘラブナの型を感知するよりも容易にわかる。
半ベラの同形が三,四枚連続に喰って、風が吹き止まるとひと休みである。気がつくと秋晴れの空は、雲を呼んで高曇りとなってしまった。ヘラの気配はあってもアタリとはならずに、九寸の羽浮子が妙に落ちつかない。
〈荒々しい上下動!〉
風は静かに水面を撫で始めた。今度はヘラの本喰いになるな、と、幾分空(から)打ちをひかえる。そして小島氏に『喰いが立ちますよ』と注意してウキを見る。
荒々しい上下動のうちにコンと力強いアタリ。一寸五分出してあるウキ先がツイとケシ込む。六寸級の元気のよい純ヘラである。水が澄んでいるので急いで足止めをくれてアタリを待つ。
同形が四,五枚あがった頃に、風は真北(まきた)に回ってやや強く吹きつけてきた。小島氏は、と見ればアタリはあるが、アワヌという。純ヘラが足遠いとみるや、半ベラがわずかの隙(すき)を狙って襲いかかる。四寸、五寸の半ベラが幾枚が続いて、十一時頃タナを少し下げる。これは大物への期待であって、ヘラブナ釣りの面白味はここにある。
ウキが大幅に動いては止まり、動いては止まり、タナに無理があるのか本喰いとはならない。タナの無理ではなく、半ベラが邪魔をしているのかと思ったりする。」
大物出る十一時、
「第一発を入れるが早いが、ツンときてケシ込む。鈍重(どんじゅう)な手応えだ。大物と直感する。オダに駆け込まれてはこわい。オダとは正反対に竿をしぼる。
沢秀の二間半が満月のようになって、厘半柄の本テグスがキュンと鳴く。のっそりとした黒い巨体が現れて一気に突っ走る。ガッチリと受けとめて一気にグンと寄せた。――尺一寸級。続いて尺級。九寸、八寸と、六枚たて続けに出る。」
「〈タナが下回る半ベラ〉
半ベラと真ブナが同時に喰い気が出ると、半ベラは、純ヘラに圧倒されているが、風が変わってヘラの喰いが緩慢になると、ヒッタクルように半ベラがくる。半ベラは、純ベラよりもタナが下回っていて、中層以上には全く動いてこない。
同形が四,五枚連続して釣れてくる。このあたりはヘラに似通っているが、西風やヘラの僅かな喰い止みを狙っては喰うところは、真ブナの気配が多分にある。
時間的にいって,ヘラが牛久沼で活動する十一時頃前後と、三時回りは半ベラは喰わず、ヘラの喰い始めと、喰い止まりに喰うことが多い。
一時、秋頃から牛久沼にも、また小貝川筋にもめっきり多くなった半ベラではあるが、ネリもウドンも暖季には立派に喰うので、これを外道として無視することはできない。
但し、純ヘラよりもおそく釣季に入り、早秋のうちに喰い止んで、晩秋、寒期は頻(しき)りに生き餌を喰う。純ヘラも最近は、生き餌を盛んに喰うようになったので、美しいヘラブナの容姿に一般が接する機会が多くなったのだ。」
(「半ベラ論第二回」から)
半ベラ否定論
「~変質らしいヘラブナがなく、マルブナと偏平な従来の金太郎と純然たるヘラブナでした。これを水郷のDさんにお目にかけたところ、この偏平な金太郎は、一名平鮒(ひらぶな)といわれ、とかくヘラブナと間違われやすいといわれました。
近年、暖季の真ブナは、キジなどよりも、むしろネリやウドンに歩があり、ヘラのように寄りを見せ、底近くのタナで釣れ盛ることは、ヘラ釣りに行ってよく経験することで、成田線の沿線の池沼やその他、飼い付けられた沼の浅っパに見られる特徴です。
S氏(注:投稿者金子さんの釣友)の一回の試釣では、変質ヘラは釣れなかったかも知れませんが、私同様に読者は変質ヘラに疑問をもつと思います。
変質、つまり合いの子なるものがあるとすれば、ついにはヘラブナと真ブナを混同し、釣り方、釣り具、エサも混同して、釣り師を迷わせることになると思います。~」
「肯定論 存在する半ベラ――金太郎の“偏平”はおかしい――」 一之江鮒夫
「いまままで金太郎ブナといえば、『藻の多い池に棲んでいる。胴のまるい黄色な鱗(うろこ)のフナ』のことを釣り人は、一般的にそう呼んでいた。この文中にあるように、魚体が偏平なのは、すでに金太郎とは呼ばない。」
「一体フナは、殊に真ブナは、棲息地帯によって習性も変化するし、魚体も保護色する。ヘラは生白い色をしているが、近頃真ブナにあらずヘラにあらず、しかも、そのいずれにも似ている、すなわち、真ブナ色をもっていて魚体がヘラのように偏平なのが、東京近郊の池や川で釣れるようになった。
ところで、私のいままでの貧しい経験では、ヘラは流れの強い川には現れていない。潮入の川にしても、きっと川の彎曲部かトロッパだ。
このどっちつかずの奴は、流れの強い川にもいる。多分真ブナの習性に近い。これは、私どもは、ヘラブナと真ブナの雑種(変質ヘラ)ではないか、と、自分勝手に考えている。あるいはヘラが棲むところを変えるにつれて魚体に変化を見せつつあるのかも知れない。
文中の偏平な金太郎というのは、実はこの雑種氏であって、池の水色影響を受けて特別に魚体が、黄色味を帯びているのではあるまいか。
D氏は、それを『一名平鮒』と呼ぶらしい。
そうなれば、この変質フナとはどう違うのか、同じものか。こうややこしくなってくると、釣り師用語も統一せぬと、何かと不便であり、うるさくなる。
エサの点は、ヘラにせよ真ブナにせよ野生であれば、緩流や止水ではとにかく植物性のエサが好まれ、流速のあるところでは、生き餌が好かれる。そして、ネリ餌のよさは魚を寄せることができるところにあるようだ。」
真ブナでも、植物性のエサが好まれる、とはびっくり。
がきっちょの頃、真ブナの溜め池、ヘラと真ブナのいる溜め池、ヘラの溜め池に分かれていた。
寒梅粉であれ、ウドンであれ、白玉粉であれ、人様が口にするものをエサにするとは、とんでもはっぷん。それに、真ブナの溜め池は目の前。ヘラの池は、甲子園球場並み?の大きさで…。
ミミズは、シマミミズのゴミためとババミミズのゴミための違いがあれど、すぐに手に入る。赤虫は、「爆弾池」と呼んでいた小さなくぼみの泥底の所でとれた。ただ、五月頃以降にほっていたように思うが、それが、赤虫の成長度によるのか、水が冷たいから敬遠していたのか、定かならず。
鮒の交雑種が誕生したのは、なんでかなあ。いまは、ヘラが放流されているようであるが、戦前も同じで、真ブナのところにヘラが放流されたから、と、考えてよいようで。
また、今は、交雑種が意識されているのかなあ。ヘラよりも性成熟が早い「変質ヘラ」が、「ヘラブナ」として生産されているのかなあ。
交雑種の論争は、なおも続く。
「半ベラ論 第八回 昭和二十五年二月一日発行 釣り新聞四十九号
輝く半ベラ研究の中林淳眞氏に」
「が、昭和二十四年末に、水産学の二権威である中村守純、稲葉伝三郎両氏が科学的考証に基づく“半ベラ存在”を明示するにいたった。ここに否定論は潰え去り、中林氏の論が正しかったことが立証されるに至った。
釣り新聞に展開された中林ヘラ論は、釣り人としての観点に立脚し、牛久沼およびその周辺の水域を対象とする、多年の真摯研究の結果によるもので、つとに水郷フナ釣りの二権威小林隆夫、故木村鉄両氏が着目したフナ変種存在の文献と背馳(はいち)する事なき、その発展的な釣りの研究であった。 (編集局)」
美子さんは、「三つの愉しい物語」の「春鮒抄」に、考証会が行われた情景が書かれている。
「釣りというものに、わが子が、それほどまで真摯な気持ちで立ち向かっているのであれば、半ベラ論争にあえなく破れるようなことがあっても、青年の意気や愛すべしとして、淳眞自身もまた謙虚な心で自説を潔くひるがえし、大先輩の前に非礼を謝して、親しく教導を乞えばよいのではないか。」
昭和二十四年末、「水之趣味社」主催で、科学的考証会が、開催されることになった。
「その日の実証用にするために、水之趣味社から淳眞のもとへ、問題の変質ヘラの実物を釣って、実証当日までに持参してくれ、との速達便がきました。
その指定日までに、一日しか余裕がなかった上に、その日は折悪しく暴風(しけ)模様でありましたが、幸いに、実証に供する適当な資料の半ベラを、淳眞は釣ることができたのでした。」
考証会には、「当日の興味ある実証に来会しようと、東京都内はもちろん、関東近県からも釣り人が多数来場して、会場は盛況をきわめました。
会場には、すでに、水産学者の持参された従来の純粋のヘラ鮒が用意されていました。」
解剖で、交雑新種の存在が、科学的に根拠あると実証されたが、解剖で何が三種で異なっていることが判明したのかなあ。遺伝子レベルの話ではないと思うが。
D氏は「水産学者が持参された鮒は、それは実は源五郎鮒であって、純粋のヘラ鮒ではない。中林氏の提供した変質ヘラ鮒なるものが、すなわち純粋のヘラ鮒である」。
水郷の釣り人・植村秀一氏は、
「D氏は、今日は少し興奮されていませんか。水産講師のここに持参されたこの鮒が、従来の純粋なヘラ鮒に見えなかったら、あなたの頭はどうかしていますね」
淳眞さんは、釣り研究功労賞及び賞金を受領された。
ぬ か え び
ぬかえびは、舟を作り、家を建てた資金を稼ぎ出した功労者である。
美子さんとぬかえび
ぬかえびの調理,販売
「毎日、小雪や霙(みぞれ)がちらつく冷えこみの強い日が続いていました。
淳眞が、先がけてぬかえびの仕掛けをし、好調なのを見た,その附近の人々は、先にわれとあわてて杉っ葉や篠笹の束を、八間川の両岸に仕掛け、朝早く行ってみると川辺は、ぬかえび採りの人や、岡や橋の上から見物する人たちで奇観を呈していました。
(ぬかえびは、桜えびよりも小さく、味はそれほどコクはないが,まぜご飯にも、かきあげにも、野菜と煮ても重宝なものです)
ぬかえびのたかるのは夜の間が多いので、狡い人は、未明にいって他人の杉っ葉まで振ってしまう。淳眞もその厄にあう様子でありました。
淳眞がぬかえび採りを始めてから、私は毎日、えびの始末に追い立てられて暮らさねばならなくなりました。えびの中から丹念に塵(ちり)を取り除き、さっと清水で洗って荒蓆の上に平均に拡げて乾すのです。晴れた日には、一日で十分真っ赤に乾し上がってしまうので始末がよかった。乾すと生えびは倍の量になります。
採り立ては、水色に透き徹っていますが、一度陽に照らされると、しだいに飴色に変色し、真っ赤な美しい色にあがるのですが、荒天の日などに採ってこられると、いそいで処置しないと直に頭が黝くなり、一等品の価値を失うことになります。
後日になって聞いたことですが、商売人は生えびにさっと熱湯を潜らせて色を出してしまい、それから乾すといいます。なるほど、そうすれば多少お天気が悪くっても、心配はないのですが、生えびのまま丹精(たんせい)して乾し上げた方がずっと美味なのです。
庭いっぱいに、えびの荒蓆が拡げてあるので、通行人はみな寮の門前で一度は足を停め、それから、そろそろと入ってきて交渉を始めるのでした。
『おっかさんよ。あのえびこしてくれっかい?』
『はい、売りますよ』『では 一舛(ます)もこして貰うべえ。なんぼだえ?』
『一舛一舛が相場です』
『すぐ入れ物持ってくるからな。とっといてくれや』
生でも乾したのでも、えび一舛には白米一舛と交換相場はきまっていました。他の川でも採れるし、諸方に売る家もあるのだそうですが、おやまのはゴミもないし、量(はか)りがよいと評判が立ち、遠い人も他のえびを売る家を通り越して買いにくるという有様でした。
染めたように赤い乾しえびを枡で量って、風呂敷やザルに入れて渡し、白いお米を米櫃(こめびつ)にざらっとあけて一日を暮らすことが、夢のようでなりませんでした。」
美子さんは,「即興」と題する詩を詠む。
もちろん、濡れ手に粟、というほど楽で話でもないが。
「野ばらの曲
思いもかけぬ、ぬかえびなどというものが不意に採れ出し、それがまた面白いように売れて、昨日までのまずしい食膳が賑やかになって、米櫃には、白いお米が盛りあがり、食べても食べても減らなかった。まるで童話の福の神さまでもこのあばら屋の、どこかに隠れていて、農婦や老爺や老婆などに変装して、息子の採ってくるぬかえびを買いにきてくれるのではないかと思うのでした。
ぬかえびで、やっと生活にゆとりもできると、彼は、日頃から欲しがっていた欅(けやき)八寸の箱魚籃(はこびく)を設計して誂(あつら)えました。そして茅屋にも待望の電灯を引くことができたのです。
毎日、私は淳眞が採(と)ってくるえびを待って処理し、買い手もまた待っていて買ってゆきます。川里の自然の環境に順応した、平和な生活です。
日々を分に応じて働いて食べてゆく生活――これこそ素朴ではあるけれど正しい生き方でありましょう。それだのに……なぜ、私は、こうも寂しいのでしょう。荒蓆(あらむしろ)から、ぴんぴん跳ね出して泥まみれになる、目に入らぬほどの小さなえびも、生まれながらに腰が曲がり、乾せば、一升が二升にふえるえびの世話も楽しい業ではあります。だのに、なぜか私の心の裡(うち)には、どこかに太陽の光の射さない陰のような、真底から笑えない部分があるようでした。」
東京に戻りたい美子さん、現在の生業を続けたい淳眞さん、それが愛用の竿政をおるけんかにも。
女土方をしたことも、また、
「ラジオは、ついに沖縄の陥落を伝えた。
ああ、ついに……沖縄が落ちるようでは……,思わずつぶやいた。それを、ちょうどそのとき一緒に渋茶を啜っていた近所の農婦が,耳聰(さと)く聞き咎(とが)めてきっと私へ向き直りました。
『なんて東京の女(あま),意気地なしっぺ! 戦争はな、これからだわ……お前(めえ)スパイじゃあんめえな。すぱいは、このむらにはいられねえど……』
農婦の言葉は、もっともと思われます。沖縄の最後へ洩らした私の嘆息を、彼女に聞きとがめられ、詰じられたのは,まさしく私の口禍でした。
針ほどの寸語にも、十分の後には村中を駆けめぐる翅(はね)が生えます。彼女が私へ与えた誹謗(ひぼう)の一言は、スパイじゃないか、スパイらしい、と、いつか訂正されて、寮には礫が飛んでくる始末となりました。」
「遊びほうけている」と、淳眞さんへの中傷も。
この現象は、東京でも発生するとは思うが、「余所者」への「差別」意識には防波堤がないということかなあ。
「舟造り(淳眞の日記から)
昭和二十二年三月十七日
すべての家具などを放擲(ほうてき)しても、断然、東京の生活へ帰ろう、といった母の態度は相当強硬であった。
そのとき母に一番大切な竿政を折られて夢中で家をとび出し、沼辺に来てしゃがみ込み、自分としての今後の行動を決すべく熟考した。疎開後のわが家の経済を背負って立つべく,竿政一本をひっさげて鮒だヤマベだと激しい釣りはするが、これが決して釣りの本道を離れた所行とは考えたくない。生活即ち釣り、釣り即ち生活で、自分としては悔いのないつもりである。
また、今後、本格的にヘラ鮒について抱いている疑問を、科学的に確認させてみなくてはならないと思っている矢先に、母が何といっても、東京へは今帰ることはできないのだ。」
釣り舟をつくろうと決心した折り、
「寒鮒釣りに行って、よく舟を借りる牛久沼の奥の登(のぼり)集落の、一農家の主人が不意と言った。
『釣り舟を一艘造らないか。今、家で土浦から舟大工が来て、農舟を一艘ぶっているからな』
価をきくと、序(ついで)だから四千五百円で、思うような設計で造ってくれるというので、早速、頼むことにした。
すると、またその主人は言った。
『今度、家で、新しい自転車を買ったから、今乗っているやつが不用になるから、おめえついでに買えよ。値段は安くしておくから』
まだ暫くは、ぬかえびも採れるシーズンだしするので、その程度の金なら即時支払ってもよいと思い、舟も自転車も買う契約をした。金はこの次でいいから、この自転車に乗って帰れというから、いつも歩いて帰る牛久沼二千間土堤の一里余の道を、今日は、自転車で一気に突っ走って帰った。
夜、母に舟造りのことを打ち明けようか、どうしょうかと迷ったが、必ず反対されるであろうし、もう舟を頼んでしまったことでもあるし、事後承諾として何も言わなかった。
舟の設計を種々考案した結果、全長を三間三尺とし、櫓ぎわ四尺に生簀(いけす)を切り、その上に腰かけて釣れるように設計した。生簀の内部は、金網で外部から新鮮な川水が流通するようにして、捕った魚が弱らぬように工夫した。舟脚がなるべく軽いように吃水(きっすい)を浅くして、やや細目に打ち上げて貰うことにした。」
「初釣り(淳眞の日記から)」
舟の仕上げの最後に、「丸の中に“中”と入れ㊥として貰い、「舟を、登(のぼり)集落から三キロばかり離れた久賀村伊丹在の大夫池(だいぼいけ)に,牛車で引いて貰った。」
四月X日 五分咲きの桜と見物人の前で、6.7寸のヘラブナを七,八枚立て続きに釣った。
「鯉(淳眞の日記から)
昭和二十二年九月二十一日
特別の用件のない限り,降っても照っても、また八月猛暑の頃は、じりじりと焦げんばかりの日射しを背に受けて、何百貫、何千貫いるかもしれないこの池のへら鮒と対峙したが、平均して初秋までは五,六百め程度の釣りで、図抜けた大釣りはなかった。
今日は、大夫池(おおぼいけ)の近くの集落浜田で、町村対抗の野球大会が行なわれているので、観音下と浜田とを結ぶ村道である池の端の桜並木は、ちょうど多勢の野球見物の村民たちが通行中であった。正午を過ぎてからは、鮒の喰いが丸切り止まってしまったので、舟の胴ノ間に腰かけて、釣り竿を膝小僧の間に挟んで浮木(うき)を睨みみながら、弁当をつかっていると、いきなり浮木が力強く水中に引き込まれた。何の前触れもなく、突然、浮子が引き込まれるということは珍しいことで、いささか周章(しゅうしょう)して合わせをくれた。
コクンと異常な手応えと共に、猛烈な底力で沖へのさずに、逆に舟の留めてある舟底の力(注:「方」?)へ向かって、手前へ手前と強引に動き始めた。
こりゃあ鯉だな! そう直感した。かなりの大物らしく、竿も折れよとばかりためてはいるが到底しとらたれる程度の小物ではないらしい。
諦めて、自分で糸を切ってしまおうと舟の上に立ち上がったとき、ふと後ろの方で多勢の人が立ち停まって見物しているのに気がついた。」
土堤を下りてきた小学生の一団も、
「『わけえ衆。いかいぞ! 逃すんじゃねえぞ――』と、声援した。
『ありゃあ、あがるめえよ』と、聞こえよがしに大声で話しているのが耳に入った。
これは、どうしても釣り上げてしまわねばならぬぞ!と、腹をきめた。
腹がきまると、動揺していた自分の気持ちもしっくりと落ちついてきた。舟を留めるために水中に差してある舟竿に、回りこまれて絡まれぬために、一本の舟竿を片手で抜き上げた。それから抜き上げた方の、舟の舳の先端へ行ってしゃがんだ。水深は一丈三,四尺あるし、かかりは何もない。舳(へさき)に立っているので、櫓の方に舟留めしてある舟竿を中心として、魚が移動する方向に舟はゆるやかにブンマワシの如く左右に静かに引き回されている。
竿をためた片腕に充分力をこめた。今日は人通りが激しいだけに、背後の桜土堤の上は黒山の人垣で、中には自転車、馬車、牛車、大八車などを停めて見物をはじめているらしい。
五分、十分、魚は一向に弱る気配を見せない。見物人の中から、
『早く釣り上げてくれ――野球がはじまっちゃうよ』
などと弥次が飛ぶ。こうなると、たとえ何時間かけても釣りあげねば面(めん)つにかかわるし、逃がしたなどとなると……、いい笑いものにされたくなかった。じわじわと、少しずつ小力を入れて魚を引き寄せる心準備をした。
強引さでは川の王者といわれる野鯉も、さすがにやや疲れを覚えてきたらしく、今では、ひと力に四,五寸ほどしか寄らなかったのが、一尺ぐらい、ずっと近寄ってくるようになった。
かれこれ、二十分ほど経った頃、魚は急に弱り出して、ぱくっと大きな横腹を見せてまた一つ大きく息をのんだ。
ところがどうだろう。魚は、頭からあがってこずに、淡紅色(たんこうしょく)の大きな尻尾(しっぽ)を水面に浮かべて逆に手許へ寄ってきた。
舟の舳に立ち上がってよく見ると、四百めに余る手頃の野鯉であった。鉤(はり)は、口にかかったのではなく、肛門の穴にささってスレとなっていた。手網を差し出すと俄然大きな水音を立てて水中深く遁走を試みたが、何回か同じことが繰り返されると、手網の届く範囲に魚は引き寄せられてきた。
しかしながら、いかんせん手網が鮒用のもので、差し渡し一尺ほどの上に非常に浅く編んであるので四百めに余るこの獲物を受けるには、どうにも小さくて大分無理であるように思われる。
何とかして取り込んでしまわなければ、納まりがつかない。種々思案のあげく、手編みは全然使わないことにきめた。
鯉は、全く疲れ切って、水面に荒い呼吸をしながら横たわり、再び水中に駆け込む気力もないらしい。
鯉は、非常に諦めのよい魚であるから、悪あがきしないことも経験していたので、鉤が十分ささっていて容易に抜けぬことを確かめた上、釣り竿を舟の上へ横に置き、もしも鯉がまたひとあばれした時には、いつでも釣り糸を指の間から滑らかに繰り出せるように注意しながら、自分の姿をなるべく水に映さぬように気をつけながら、五分、一寸と、手前へ道糸(みちいと)を静かに手繰(たぐ)り始めた。
充分手許へ寄ったところで、鯉の鰓(えら)の間へ左手を突っ込み、一気に舟の上へつかみ上げた。
わあっ! という喊声(かんせい)が岡の上にあがって見物人たちはガヤガヤいいながら散っていった。」
「ぬかえび」は、モエビと同じかなあ。
もし、モエビとすれば、明石界隈では食材にする習慣はなかったと思う。ドジョウや、幼いフナ、モロコを掬った時にもえびが入っていても、捨てるだけ。
唯一の使い道は、冬、突堤からアイゴを釣るときのエサに使っただけ。
アイゴは、丼大王の東伊豆では、ション便魚?と。潜ったとき臭い臭いがして、その魚がいると判明しやすいと。
瀬戸内と東伊豆での違いは、エサかなあ、それ以外の要因かなあ。
アイゴの背中の棘に刺さらないように、どのようにして針を外したか、覚えていないから、寒さに負けて数回突堤に行っただけでは。
「菊の花を殘して(新居へ)」
昭和二十四年の晩秋に近い日、川原代村道仙田の新居に移る。
今までは、寮から藤代まで十七分歩いて行くと常磐線に乗れた。今度は、「家から一田圃(二十分)として龍ケ崎線の入地駅から(五,六分)佐貫駅(藤代から水戸寄りの方へ一駅)まで出て、やっと本線に乗れるという順序ですから。東京へ出るのには前よりも一層遠くなり、時間も余計にかかるという次第です。」
その上日常生活の不便さもある。
「こんな時代離れのした悪条件の土地へ、何で、また私たちが新居を定めたかといえば、また、それにはそれだけの理由があったのです。
近頃、関東一帯の釣り場が投網やかいぼり、あるいは毒流しなどによって荒らされました。このまま放置しておけば、よい釣り場は皆滅するわけです。淳眞は、むかしから有名な釣り場である旧小貝川(道仙田)も、また同じ道を辿りつつある。その現状をみて、せめてここだけでも、理想的な釣り場として保存し、でき得ればここを足溜まりとして、鮒についても、もう一層科学的に研究を進めてみたいという意向を抱くに至ったのでした。
――季節の関係、天候、水温、気温、湿度、風向、風速、水量の増減、水質、清濁、流向、川底の地質、水深等々によって変化する鮒の回泳面と、魚の就餌との関係などをグラフに表したり、統計で示したりするのが目的でした。
それには、旧小貝川こそ、その夢を育み実現させるのに、もっとも適当な釣り場と思われるのでしたが、自分一個人の資力では及びません。そこでこの川が有望であることを、在京の同好の士にはかり、賛同を得たのでした。彼は川の持ち主である土地の農家数軒の人々を説得しました。こうして現在廃川となっている旧小貝川の道仙田の部分を、共同出資により、ついに買い取ることができたのでした。
そんな訳で彼は、自身この釣り場の管理をする必要から川辺に居を構えるべく、採草地約五畝(せ)ばかりの権利を人より譲り受け、早速基礎工事を急ぎ、ささやかなながら三間だけの新しい住居を建てなのでした。」
美子さんは、新居では、子供たちと懇意に。
美子さんは、「~焼け残りや、盗まれ残りの衣類を解いて、マスコット向きの人形造りを始めたのでした。それが百ばかり貯まったとき、私は淳眞に、
『これを東京に持っていって、どこか一文菓子屋のような店へでも売ってきておくれ』
と、頼みました。
『……凄い顔したのがいる。こんな人形、買い手があるかしら……』
心細い批評をしつつも、むすこは、くれぐれも潰さぬように、と注意する私の声をあとに上京しました。
それが、思いがけなくきれいに売れて、しかも望外の値に買ってくれた雑貨屋さんがあったのでした。それほど東京の街に玩具がなかった時があったのです。
空襲の大被害をまぬがれたこの地方の子たちが、どんなお人形遊びをしているのか、私は知りたいと思い、ある日子供たちにお人形ごっこのそれを持ってきて見せておくれと頼みました。
喜んで駈けだしていった女の子たちが、やがて抱えてきたのをみれば、新聞紙や、ちり紙をまるめた坊主首に、手織りの布の黒っぽい縞のきれっ端を、ただ、ぐるぐると巻きつけて結えてありました。私は、一つ一つ手にとり、
『いいお人形さんね』
と、ほめてやりました。真実、女の子たちは、そのてるてる坊主式の人形が、かわゆくて大切にしているようだったし、マッチの空箱を積んだり並べたりして、荒い風を避けてやるような心遣いを見せながら、切れっ端を重ねて寝かせ、
『野郎、寝小便をたれたな! よし、よし、泣くな』
などといって、その切れっ端の布団を川で洗って、垣根に乾したりするのでした。」
「こんな風に、子供たちと私の心とが親しく自然に触れ合っていると、村の主婦たちの気風や教養の程度や、生活面も窺い知られて、多くのことを考えさせられる点も少なくないようです。」
美子さんは、村人だけでなく、クイナやカイツブリ、鴨,菱等にも親しみ、詩を書かれている。
松林ですごし、美子さんは舟の棹を取る。舟の上で淳眞さんは、ギターを出して、
『この曲は、おかあさんに献呈の、僕の作詞作曲です。弾いてみるから、聞いて下さい。題は“水郷のうた”です』
彼は、いささか照れながら奏(かな)で、かつ、歌い始めました。」
毒流しは、渓流で行われるものと思っていたが、池に近い流れ、平野でも行われていたとは。
淳眞さんの恋心:入院前の願い
『新居に移ってからの、私たちの、水場の楽しい平和な生活が、僅か、一年にも満たない夢であろうとは、まことに思いもかけないことでした。その間、彼は、学校にも通い、帰途は、ギターの個人教授にも回ったりするので、帰りが終車になることもあり、日並みのよいときは、生計のたしにと、網師をつれて本流にも出ていったりしていた。いろいろの無理が、淳眞の生活にあったことは否めない事実でした。あんなに働いて倒れなければ、あのの子は怪物だわ! 私は、いたいたしさを通りこして、あきれて溜息をつくばかりでした。思えば、そうした間にも、形なき悪魔は、彼の身辺を間断なく窺っていたのです。
あるときは、春鮒のそよかなヒレのかげに隠れ、ある日は、ギターケースの底に身を潜め、また、ある夜には、彼をこよなきものといとおしむ母の、映像に似た面影を装ってきたのかもしれないのです。
ほんとうに淳眞が、早く悪魔の正体を、それと見破り、それと判ってくれたならば……ああ人生は、人間は、かくも一寸先の闇がわからないものであろうとは! ~』」
熱が出るなどの体調異変から、東京の国立病院へ。途中、喀血。お医者さんは、絶対安静、と。
「彼が生まれて二十二年間、ああ、私は、そのときの彼のあんな哀(かな)しげな、深刻な悲痛の表情をみTことがあるでしょうか。」
帰宅後のその夜にも大喀血。
その後、来診の医師に支払いができないと話すと、村役場の民生部で相談せよ、と。
結核に限る医療費の援助を受けることができた。稲妻の中、氷を買い自転車で帰る途中、
「(私は、死ぬ。この草の上で――今、私は、心臓麻痺で死ぬ。――氷、氷、氷を,淳眞が待っているのに――)。」
「淳眞の病名は、狭い集落をおののかせました。肺結核! それは全く、現世の悪魔の別名でありましょう。
遊びにきてはいけない、と、いわれて、里の子供たちが、つまらなそうに帰って行った後に、犬蓼(いぬたで)の赤い花がしおれていました。」
国立東京第二病院が、新病棟が落成したばかりで、即時入院が許可された。
田沢きし子さんに会いたい
「『おかあさん……』
呼ばれて、私は、なぜかびくっとしました。
『なあに? 淳ちゃん、何でもしてあげるからお言いなさい』
『僕ねえ……おかあさん、入院する前に会ってゆきたい人があるんです。』
『会ってゆきたい人?』
おもわず、鸚鵡(おうむ)返しにたずねました。
淳眞は、手短に、田沢きし子さんという少女とのいきさつを、私に、初めて告げたのでした。そのことについては、私は、このときまで何も知りませんでした。
月明の秋祭りの前の宵に、小貝川の渡し場で別れて後は、淳眞は、例の“へら鮒論”のことや希望の音楽学校にも入学したり、住宅も現在のところに移ったりで会う機会もなかった。たまに二,三度は手紙を貰ってもいたが、そのうち、と思っている間に、病床につく身となってしまった、と、淳眞はいうのでした。
『何か、その方と、お約束でもしたことはないの?』
『そうした話には触れていない』
まるで雲をつかむような、初恋ではないか?
そう思う一方に、何かしら、まあよかったという安堵(あんど)を感じるのでした。
『何のお約束もしていないとすると、お前の方でばかりどう思っているにしても……』
『何も言わないでも、瞳(ひとみ)でわかりますよ。あの人はつつましい人だから、僕の方で誘わない限り待っていると思います。どうしても会ってゆきたいんです。』
『だって……もう入院まで日もないのだし、それでは……ねえ、病院に行ってからお見舞いに来ていただいたら……』
『家で、ここで、会っていきたいんですよ』
『……』
『白黒をつけてしまいたいのです。あやふやな気持ちでは困るんです。おかあさん、会わせて下さい』
彼は真剣だった。彼は、泣いてはいない。だのに、私は、胸がいっぱいになり、ほろほろ、ほろほろ涙が止め度なく流れるのでした。この場合でもあり、病める一人子の願いでもあるから、どんな策をこうじても叶えてやりたい、とは思う。そんな気持ちの中でも私は、いま、淳眞が白黒という言葉をつかったのが、あわれにおかしさを誘った。まるで法廷用語だ! 私は考える。
私は考える。もしも幸いに田沢きし子さんという少女が、まだ、結婚もせず、淳眞に会いにきてくださるということになれば、淳眞は、その歓(よろこ)びの感情を自制して、はたして現在のような理想的な安静が保てるであろうか、それからまた、もしも、淳眞の期待と違うことでもあったならば……何もかも、今日までの母と子の辛抱もみんな水泡に帰すような結果となりはしないだろうか。
しかも、このことは、単にわが子だけの問題ではない。自分の子がいとしければ、他の家のお子さんだって傷つけてよいというわけにはゆかないでしょう。これは、先方の少女にとって重大なことだと思うと、私は、どうしていいのか迷うばかりでした。
しかし、その一夜が明けると、私の考えもきまりました。田沢きし子さんを訪ねて意向を率直にうかがってみようと。
けれども、それはついに不可能に終わったのです。少女は、もう半年ばかり前に彼女のいたH集落から身を隠してしまっていました。それをきし子さんの親友という少女から聞きました。きし子さんは、なかなかの佳人でもあり、気立ても美しく、これまでに数多くの縁談があり、その上、集落で一,二といわれる素封家の子息に言いよられ、それをひどく嫌っていた様子でしたが、……私の想像では、多分、東京のある洋裁所で働いていらっしゃるのではないか、とおもいます――。きし子さんの消息が、そこまで判ったので、私は、調べたまま病床の子に伝えることにしました。
淳眞は、仮面のように表情を強ばらせ、瞳を見開いたまま、身動きもしません。いつまでもいつまでも、じっとそうしているのでした。
夜は、どんどん更(ふ)けてゆくばかりです。
明日は入院です。」
「『淳眞さん、愛とか、恋とかいうことは、いったい、誰のものでしょう?』
はらはら、と一筋、淳眞の眼尻(まなじり)を伝わって落ちる涙――初恋は、余りにも美しいので、この世では、なかなか成果を納められないのが殆ど原則であることなど、心をこめて話しました。」
初恋が、「成果を納められない」どころか、どのねえちゃんにも、片思いであったジジーには気になることがある。
1 淳眞さんが結核にかかったのは、何歳かなあ。「彼が生まれて二十二年間」の表現は、年齢を表していないのではないかなあ。ネットで安直に淳眞さんを検索しても、淳眞さんの年譜が見つからない。世界的ギター奏者であるのに。
淳眞さんが生まれたのは、1927年。
2 初恋は成就したのではないかなあ。「田沢きし子」さんと、符号でなく、姓名で表示されているから。
まあ、ヘボの考え休むに似たりであるから、淳眞さんの淡い恋?のいきさつをたどりましょう。
淳眞さんの恋心の誕生は?
「釣り展覧会の日(淳眞の日記から)
昭和二十三年九月X日
新宿の伊勢丹に、釣り展示会が開催され、釣りの機関紙“水之趣味”から派遣されて会場の相談部に、ヘラ鮒に関する質疑を応答する席に座ることになった。
こんな席に座っているまだ二十才を出たか出ないかと見える、学生服を着た自分の前に、人々足をとめて、『あなたがNさんですか?』
奇異の瞳をみはって、念を押してから質問する人々に、種々ヘラ鮒に関する問題や現地状況などを回答したり、仕掛けのことや、竿についての応答にいつか受け持ちの時間が過ぎ、当日集まった役員たちと、お茶を飲んで帰途についた。」
「ブザーが鳴り、ようやく発車しようとしたとき、何気なく顔を上げると、いつ来ていたのか自分の前の席には、明るい朱金色の帯をした美しい少女が掛けていた。少女は自分の視線を感じたらしく、こちらを視(み)た。と同時に“おや?”という言葉がお互いに口をついて出た。いつかの夕、牛久沼端のたそがれに鮒の大物を釣りなやんでいたとき、ちょうど通りかかって熊手を貸してくれた少女だ! あのときは洋服だったし、今自分の目の前にいるのはあでやかな和服の装(よそお)いをした少女であるが、紛(まぎ)れもないあの少女である。何という偶然の再会であろう。
『どうもいつぞやは!』
何を話していいのか当惑していると、
『もと、あなたは、本郷におられた方じゃあありませんですか?違いますかしら……』
そういわれて自分は、はてな?と、改めて彼女をよく見直すと、どこからか遠い記憶が蘇(よみがえ)ってくるように思われた。
『……僕は、千駄木町の専修商業の附近に居って、あの学校を卒業したんですが……』
『ああ、やっぱり……そうでしたの! 私が、汐見高等小学校に行っている頃に、よく道でお逢いいたしましたわ』
だんだん話し合ってみると、通学の朝な夕なに閑静な山手町の裏通りでいつも行き会った少女があったが……この人だったな,という記憶が次第にはっきりと呼び戻ってきた。
いつもは長く退屈な藤代(ふじしろ)までの一時間も、今日は短く経ってしまった。一緒に藤代駅で下車した。自分は、自転車を預けた家に寄るので、少女に名刺を渡して前で別れた。
車内での話によって、彼女は田沢きし子といい、日暮里で戦災に遇い、浜田村(はまだむら)の親族を頼って疎開したのだということを知った。」
秋祭りの宵(淳眞の日記から)
昭和二十三年×月×日
明日のK村の八幡神社の祭礼で、素人のど自慢演芸大会が催されるについて、自分にギターの伴奏をと、たって依頼されたので承諾した。その打ち合わせのために、集落のある地主の家へ夕刻から出かけた。」
「踊りの寄付も取られた。『釣り竿一本をひっさげて働く二日分に該当(がいとう)するが。』村八分に遇わないように支払う。
「その人たちにお茶の接待をするために来ている女子青年部の若い女性たちの中に、図らずも田沢きし子さんがまじっていた。
二人は、人々の肩越しに黙礼を交わした。
二時間ばかりで、明晩の打ち合わせはすんだ。
小貝川の渡し場に向かって、長い国道を一人帰ってくると、
『Nさん……Nさん……』
後ろの方から叫びながら、彼女が追いかけてきた。先達は、偶然に汽車で同席し、今夜はまた予期しないで同じ家に居合わせた。この間、車中でいろいろ話したので、気持ちが楽であった。互いに、大同小異ではあれ、疎開者としての生活体験に無言の理解もあり、都落ちする前は家も案外近くであったという親しみも加わって、十年の知己のように,交際は急進していった感じだ。
自分がギターケースを提(さ)げていたので、話は自然音楽のことになっていった。
『私、洋楽が好きですの!』
『そうですか! ご自分でも何かおやりですか?』
『いいえ、私は、何もしていませんけど……ただ、本当に聞くのが好きだというばかりなんです――けれどお琴だけは生田流(いくたりゅう)を習いましたが、焼いてしまって……』
後ろの方で、宵祭りの太鼓や、かすかなざわめきも聞こえていた。
いつか月が中天(ちゅうてん)にかかって、見はるかす関東平野は海原のように、青い月光の下に澄み静まって、道端の小草にはもう露が光っていた。
ゆくてに、小貝の渡し場が見えてきた。
水のようにきらめく月光を、ゆっくり踏んでいった。
『僕は、スペインの民謡音楽が非常に好きなので、少しばかりやっているんです。来春は音楽学校に入るつもりです』
『作曲の方に進むつもりですが……私は、ちょっと変わった方面の研究がしたいのですよ』
『それは?』
『スペインの民俗楽器であるギターで、ベートーヴェンやショパン、あるいは近代作曲家のドビッシーなどの、ピアノ曲を演奏面に再現してゆきたいのです――――それには、ピアノ曲をギターに編曲するためには,どうしても理論を学ばなければならないのです。――しかし、私の家は母と二人きりで、なかなか学資や時間にも余裕がないのです。けれども僕は、どうしても初心を貫徹するように、懸命に全力を尽くすつもりでいます』
『あなたも、やっぱり、おかあさまとお二人ですの! 私もね、父と、たった二人きりですの』
もう直ぐで渡し場の堤防の前まで来ていた。
渡し守の爺やは、すでに寝てしまったのか、小屋の戸は閉まり、汀(なぎさ)に舟が一艘、人待ち顔にもやっていた。
『じゃあ、また……帰りが一人で大丈夫ですか?』
『ええ、宵祭りで人通りがありますから』
僕が、河原に降りかけると、たたと、追いすがるように彼女が駆け寄ってきた。
『あの……』
『……』
『もしも、何か、私にできることがありましたら……』
全く予期しなかった彼女のそうした言葉だった。それは、何か大変に自分をあわてさせ、適当な返事が咄嗟(とっさ)には出てこなかった。が、その短いセンテンスの中には、まだ、二人が語り合わない多くの夢が含まれているように思われたし、彼女の瞳は、その言葉の根源をはっきりと表明しているように思われた。
何か、急に見えないものに強く引き寄せられるような気持ちで、そのまま別れがたい気がしたが、自分は、感謝をこめた微笑を返しただけで足早に水際に降り、杭に結んであるともづなを解いて、舟に乗り移った。
舟が対岸に着くまで、彼女は堤防の上に立ち、月光を浴びて見送っていた。
自分が、彼女へ対して、いつともなく抱くようになった憧れやほのかな希(ねが)い――それと同じようなものを彼女の方でも、胸に包んでいてくれるのではないだろうか?そんな考えは、自分の独断であり、彼女はただ、ゆきずりに結ばれた異性の友、それ以外の何の特別な感情も抱いていないのだ、と、考えるべきであろうか? 自分の心の奥の声が、
“否(いな)”と、はっきり言うのを自分は聞く。
月光の堤防に立って見送っていた彼女の姿が、瞳の底にパステルの白いジンジャーの花のように香り高く灼(や)き付いている。」
片思いと、「それ、セクハラよ」と、しょっちゅうねえちゃん達に怒られていた者としては、恋路は異次元の世界。
淳眞さんの文への締めくくりは、冴えないお話で。
「いかい」アユという表現を初めて聞いたのは、大井川の家山の寿司屋さんで飲んでいるとき。
村社である家山八幡宮の祭りの頃、10月15日頃、それまでとは違ういかい鮎が釣れていた、と。長島ダムも塩郷堰堤・笹間ダムのなかった頃の話。渓流相の笹間川や、川根本町の支流に入った鮎が、日照時間の短縮に早く気がついて、本流に出てきたのかなあ。
その「いかい」という言葉が淳眞さんが生活の場としていた牛久沼界隈でも使われていた。駿河国と下野?の国が同じ表現。言葉をつかっていたとはびっくり。
故松沢さんの思い出へ
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